☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
アリオスに語られた彼の苦しみのこと
あアリオス? おれたちにはこうした形式が必要だ、おれたちはしばしば小説家という存在を必要とした、それはおれたちが「いかがわしいもの」に成り果てないためにだった。
アリオス、割と冗談ではなくて、この世界には秘密がある、それも理屈でビッシリと正しく整合した秘密がだ、その秘密は別に隠されているわけじゃなく、おれたちがアホすぎるから到達できないんだ、こんな機械仕掛けの工場で油まみれの仕事をしているようじゃ、無理が知れているよな。
アリオスよ……これまでにお前は何をした? そして特に、これまでに何を「言った」? 驚いたことだが、これまでにおれたちがそれぞれにしたこと、特に「言ったこと」は、どこかに記録されているらしい、もちろんインターネットや盗聴のことじゃない、この世界には何かあるんだ、おれたちがバカだからそのことに気づけないだけなんだ。
アリオス、あるときおれの女が、これはどうでもいい女だったんだが、急に朝、目覚めて嘆いて言ったんだ、「これまでに言ってきたすべてのことがわたしを苛(さいな)む」って、それを聴いて、おれはヤバいと思った、その女がヤバいんじゃない、その女の言ったことはたぶんマジで、そのことに気づかずに生きてきたおれたちがどれだけ不利だったかってことに気づいて、ヤバイと思ったんだ。

なあアリオス、すべてのことは記録されている、おれたちは忘れるが、記録は残っているんだ、それでわけのわからない苦しみが生じる……この理屈わかるかい? おれたちはデタラメに何かをdisったりする、そのことをおれたちは二分後には忘れるんだが、「記録」には残っているんだ、それで罰されているんだよ、このことが進むたび、おれたちの寝起きは息苦しく、身体は痛くなるんだ。
おれたちは、ICカードを持っていれば、電鉄の改札口を通ることができる、ただしプリペイドが不足のときはキンコンキンコン! とベルが鳴って、改札の扉は閉ざされる、これは目に見えるからわかりやすいんだ。
けれどもおれたちが、たとえば真剣に愛について考えたり、何かに感謝したり、芸術とか、もっとまっとうに、本当にこの世界に感動できるように生きようとするだろう、そのときになって、おれたちの目には見えない何かが、キンコンキンコン! とベルを鳴らして、その扉を閉ざすんだ、入れてもらえないんだよ、<<これまでのことがすべて記録されているから!>>
なあアリオス、おれたちはこれまで好き勝手にやってきたし、ときに正論をいい、平等とか、権利とか、そのときに正しいと思うところを主張してきたんだ、だが思い返してみれば、そのたびに「イヤな予感」がゼロではなかったんだよ、きっとおれたちは迂闊だった、おれたちのICカードの残高はすでにひどいマイナスで、もうまともな扉は全部閉ざされて、ひどい世界への扉しか、おれたちを招き入れないんじゃないかって思っている、でも引き返すとしたら今しかないとも思うんだ。

身も心もずっしり重いのは、体調や食いもんなんかのせいじゃない。

まして年齢のせいでもないし、このしんどいのを何とかしようとして、ハイになるようにこころがけたり、運動したりしても、そんなことでは解決しないんだ、おれたちは目に見えないから平然としているというだけで、きっと何かが本質的にヤバいんだ、きっとあのときの「イヤな予感」のすべては記録されているんだ、おれたちはイイ気分になって過ごしてきたが、それはありていに言うと悪魔のささやきだったんだよ、おれたちは自己表現なんかするべきじゃなかった。
あの女は、「朝起きたときから、何かが終わっているの、苦しいの」と言ってたぜ、「何もないのに苦しいの!」ってアイツは叫んだんだ、今おれにはそのことが他人事じゃないように感じられる、あるときふと、なぜおれはステキなことが捏造でしかやれないのか、考えたら不気味に思えてきたんだ、なあアリオス、こんなおれでも今から勉強してすべてをやりなおすことはできるんだろうか、誰もおれに控えめであるようにとは教えてくれなかったんだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
知性は知識を最小限化する

識の多い女なんて、うっとうしいに決まっているし、同様に、知識の多い男だってうっとうしい。
じゃあ、知識ゼロで、知性がない女がカワイイかというと、そういうことではない、「知識が多いほど、知性のなさが目立つ」ということなのだ、それならまだ過剰な知識がないほうが品性としてマシだ、ということがある。
純正の知性はむしろ、知識を最小限化するほうにはたらくだろう、知識を最小限化するのが知性であって、知性のない人ほど決まって検索エンジンのように知識の羅列を吐き出してくる、たぶん本当に何もわかっていないのだろう、それで知識の羅列をひたすら吐き出してくる。
少なくとも僕は、モルトバーにスコッチを飲みに行ったとき、ウンチクを垂れたりはしない、それは別にかっこうをつけているからではなくて、単に知識なんてシンドイものをわざわざ取り出してくる動機がよくわからないのだ、本当に何もわからないレベルにまで知性を失うと、人は自動的に知識の羅列をやりはじめるのかもしれない。

「知識」はすでに、人々がスマートホンを手にした時点で、だいたいのケリがついている、どんなものでも調べればほとんど一発で出てくるので、もはや人が「知識」をありがたがる時代は過ぎた。
一方、「知性」はというと、これは機械ではゴマカシが利かないし、もちろん一夜漬けで伸びるものでもない、むしろスマートホンによる知識の万有化は、われわれが実はどれほど知性を欠いているかということを浮き彫りにしたようにさえ思える。
台所に立った女性が、手際よくおいしい料理を作ってくれると、男がホッとするのは、何も古めかしい価値観からではなくて、台所に立つ女性の姿に知性の現れが見られるからなのだ、レシピを検索してそれをなぞることしかできない女を見ると、「こいつは本当に知性がゼロなのだろうか」と思えて、不安でおっかないのだ。
知性は知識を最小限化する、よって知性のある日本人女性は、「和食って、日本料理ってわけじゃないのよ、酒と醤油とみりんを同量にして煮たら、ひとまずヘンな味にはならないわよ」ということを感覚的に知っているはずだ。

勉強とは、知識を最小限化させていく過程のことで、これが「楽しい」と感じる人に、知性がある。

知性のない人にとって、勉強は苦痛なのだ、なぜならその人にとっては勉強とは知識の最大化を意味するからだ/確かに最も単純な意味での受験勉強ならそれで突破できるかもしれない、ただし「学門」ではそれはまったく逆に作用する、膨張する知識はその人の知性をますます行方不明にするだろう。
学門としての「勉強」とは、知識を最小化していく過程なのだが、この過程が「楽しい」と感じる人には知性がある、勉強が「しんどい」と感じる人は必ず逆をやっているはずだ/そういう人はたいてい料理をすると台所がぐちゃぐちゃになり、しかも料理の完成にえらく時間がかかる、最小化していないので五分で済む料理に三十分も一時間もかかってしまうのだ。

できるオンナだね | comments(0) |
「遊ぶ」というのは特権階級の営為だ
抜きせず遊ぶ性格、また手抜きせず創作もする性格なので、毎日のように目がチカチカ、頭がフラフラしている。
なんだかんだ、あさってに突発でする「フィクション講習会」も、あと一名で満員ということになってしまった、まあ小さな会議室でやるだけだからな……
あ、講習会の、資料を作らないとな(どうせギリギリに作るのだが、頭の中には全部収まっているので慌てなくていいのだ)。
こころおきなく遊ぶ、しかも消費せずに遊ぶ、ということは、相当優秀でないとやれない、ということが最近いよいよわかってくるのだった、「本当に楽しい」というのはそれだけで高級品なのだ。

もともと、「遊べる男」というのは、それだけで小さな、特権階級だった。
現代では、なぜか誰も彼もが、特権階級のふりをしてよい、という平等論が強行されており、ウイスキーとブランデーの区別がつかないようなおばちゃんでも、一本二万円するワインを飲んで、その論評をしてよい、ということになっている。
別にそういったことが、悪いことではないのだろうが、さすがにそういう光景に「友人」を認める気にはならない、それは同時に、何も友人だけが偉いというわけではないということでもあるのだが。
別に何の批判もするつもりはないのだが、僕は本当には楽しくないことに楽しいふりをするということができないし、経験上、本当には楽しくないことを楽しいふりをし、しかもそこに時間とお金を消費するということは、運気を下げる感触がするのだ/遊ぶというのは特権階級のすることだから、その階級を欺瞞した分には、きっと運気の低下で代償を支払わされるだろう。

無意味に微笑んでいる人は、きっと遊び方がわからないのだと思う。

たとえば「真冬の海でも見に行くか」と車を走らせるとき、それは遊びなので、何ということでもないのだが、それがどういう遊びなのかピンとこない人は、わからないままその場しのぎをするために、無意味に微笑んだり、無意味に「テンションを上げたり」するのだと思う。
「遊ぶ」ためには、男と女というのを知らねばならないし、オトナとコドモや、都会と田舎、などを知らねばならない、そして意見と称賛の違いも知らねばならないので、「遊ぶ」ということができない人は「称賛」を知らず、見当違いのところで「意見」ばっかり言っているだろう、「遊ぶ」ということはけっこう高級なことなのだった。
正しく見ないとな | comments(0) |
グッドラックの習慣
まざまな問題に囲まれて暮らしている。
少子化、ミサンドリー、北朝鮮、進学、婚活……どれをとっても、どうすればいいのか一概には言えない。
一概には言えないなら、「よいように」言っておくことだ、わざわざ自分の口から不幸の予言を吐くことはない。
内容がどれだけ正論でも、不幸や陰鬱を告げた唇は、その艶を失い、幸福や光輝を告げた唇は、その艶を増していくものだ、どうせ「一概に言えない」のなら、「よいように言う」という習慣を持っているほうがずいぶんトクだ。

いかなる状況でも、「グッドラック」とは言いうる。
「運」というのは、いかなる状況にもついてまわるものだから、最低限「幸運を」とは言いうるわけだ、これを第一の発想にしていたらいい。
婚活中の人には、「いいじゃん、(グッドラック)、いい人が見つかるといいね」、就職活動や転職活動をしている人には、「いいじゃん、(グッドラック)、未来を切り拓かないとね」、そのことを力強く言えるはずだ、だって「幸運」という最強の力があったらどんなことでもサイコーの結末に向かえるのだから。
さまざまな問題に囲まれて暮らしている、どれも一概に言えないが、どれも「幸運」に恵まれねばどうにもならないのは明らかだ、あなたの唇はおみくじのように、グッドラックを言うほうがよろこばれ大切に扱われるだろう。

「グッドラック」を、まず言ってから考えろ。

われわれはしばしば「考えすぎ」で、同時に、「思考放棄」してもいけない、じゃあどうしたらいいかというと、まず「グッドラック」、そのことを言ってから考える、幸運を祈念せずに考える人間は弱いぞ、強い人間とはまず幸運を祈念する人間のことだ。
グッドラック、僕とあなたは、赤の他人だが、われわれは赤の他人同士でさえ、お互いの幸運を祈念しあえる、その逆もできるが、その逆というのは悪趣味すぎるだろう。
恋女のマインドね | comments(0) |
「吸収」すること!
っ込むな、そして出しゃばるな。
矛盾しているようだが、これが正しい、「引っ込むな」、そして「出しゃばるな」。
あなたが集音マイクを持っていたとする、それで野鳥のさえずりを録音するとしよう、あなたはどういう挙動になるだろうか。
むろん、集音マイクを野鳥に向けて突き出す、集音しやすいようになるべく近くへ突き出す/そして、あなた自身は「静か」にする、余計な音が混じり込まないように、ジャマせず慎重にそーっとする、「吸収」のコツはこれだ、実は誰でも知っているやり方なのだ。

あなたが経験を吸収する主体なので、あなた自身を、どこかへ突き出すということ、あなたは引っ込んでいてはいけない。
次に、あなたは「吸収」するのだから、あなたが「発散」してはならない、あなたは集音マイクのように、ひたすら周りに迷惑をかけないように静かにするのだ、とにかくジャマにならなければいい。
逆に考えるとわかりやすいかもしれない、「引っ込んでいて、かつ出しゃばる」ということはどういうことか/それはたとえば、部屋に引きこもっていろんなことのレビューをツイートしたりするようなことだ、これは「発散」であって、これをしているうち自分は何も「吸収」しない。
「引っ込むな」、必ず自分から「機会」を得に出て行くこと、それでいて「でしゃばるな」、「あなた」がそこで出しゃばってしまうなら、わざわざ新しい機会に踏み出す値打ちがないのだ、あなたはあなたに会いにいったわけじゃない。

年を取ってもコドモのままの人は、何も「吸収」してこなかったのだ。

明らかに、オトナになってかっこよくなった人と、コドモのままで厄介者になった人がいる、その理由は単純で、同じ時間を生きたからといって、同じだけ「吸収」して生きたというわけじゃないからだ、「吸収」せずに生きていったらいくら時間が経ってもコドモのままになる。
断じて出しゃばらなかった人、断じて自分から機会を得に行った人、そういう人が結果的に勝利する、これはもう年齢が大人になるとなかなか挽回は利かないのだ。
できるオンナだね | comments(0) |
触らぬ神に祟りなし
「触らぬ神に祟(たた)りなし」という言葉がある。
文字通り、「ちょっかいを出したら厄災があるかも……だから何であれちょっかいを出さないでおこう」という意味だ。
触らぬ神に祟りなし。
……というふうに、見えてしまうし扱われてしまう、そういう女性になってはいけない。

若いうちは大丈夫なのだけれど、いつのまにか、女性はガンバっているうちに、キリキリ……そして「触らぬ神に祟りなし」という状態になってしまうことが多い。
われわれは、ガンバっているうちに、見失うのだ、自分の怒りや感情が絶対のものになり、まるで審判者、烈火の怒りをもたらす神である、というような状態になってしまう。
女性なのだから、基本的にはやさしくやわらかいのがいい、かといって流されるわけでもない、そういうオトナにならないといけない。
女性はよく、オトナになって「強く」なろうとして、その結果、「触らぬ神に祟りなし」というあらぬ方向へ進んでしまうことがある、誰も元々は、「おっかない女になってやろう」としたわけではなかったのに、いつのまにか。

優秀になろう/タタリ神になってはいけない。

いったん、タタリ神状態になってしまうと、もう自分ではコントロールがつかなくなってしまうのだ、全身からニョキニョキとタタリが出てきてしまう状態になる、すると何も悪くない人にまで呪いをぶつけてしまうことになる/そんなのは本人が一番悲しいのだ。
「わたしはタタリ神じゃないし」と、自分で言えば少し落ち着く、そして「そもそもわたし、神じゃないし」と言えばさらに落ち着く、そのほうが幸運がやってくるだろう。
恋女のマインドね | comments(0) |
宝物
ーた余談。
僕はもともと、「やりたいこと」をやってきたわけではなかった。
別にセンスもないし、モテるというわけでもないし、人付き合いがいいわけでもないから。
ただ、人に何かを見せるとか、連れて行くとか、聴かせるとか、こうして文章を書いて晒すこともそうだけれど、何がしたいというわけじゃなく、人に何かを見せるなら「宝物」になりえるようにと、そのことだけをしてきたのだった、けれどもそのことは誰にもよく了解されずにここまで来たように思う。

親しい手書きの手紙が、いつまでも机の奥に眠って、ずっと宝物でありつづけるように。
そんなことは、もう現代では起こらないのかもしれないが、そうは言われてもな、僕は他に何をしたらいいのか知らない。
僕が試みた「宝物」への取り組みは、そのほとんどがうまく受け取られはせず、何者かに破壊され続けることで、とにかく興に乗らせるということの用途のために消費されてきたような気がするが、そのことにこれという不満が起こったわけではなかった/僕はそもそも、「消費」ということを視認する能力さえないらしい。
ただ、僕が創ろうとした「宝物」を、サッカーボールのように蹴って消費した人々は、興が乗る一方で、その後何かメチャクチャになり、そのメチャクチャに虫食まれていくことから引き返せないようになった、こうしてすべては、僕の識らないところで勝手にあらぬ方向へ進んでいったのだった。

「宝物」をキックすることで、とりかえしのつかないカルマを背負う。

どうやらそういうことらしいと、経験に則って推定しうる、もちろん断定はできないけれど……
まあ僕は識らない、ただ僕自身、もし人が創ろうとし、また与えようとした「宝物」を、僕がキックするようなことがあったら、そのときは僕なんか地獄に落ちればいいと思う/われわれは多くのことを忘れてきたけれども、忘れたということは仕組みが消えてくれたということではないらしい、それは当然といえば当然のことだ。
視点変えてこ | comments(1) |
パッケージング問題

談/もう数年来、この問題に困らされている。
「恋愛エンターテインメント」「いい女でいこう」というサイトタイトルなのだが、どう見てもコンテンツの実質が、タイトルから逸脱してしまっている。
なぜそうなったかというと、おそらく七年ぐらい前にはすでに、「恋愛」や「いい女」というテーマそのものが、訴求力を失っていってしまったからだ、それで内容が変質せざるをえなかった。
もうずっと昔に、「恋愛」とか「いい女」とかいう言い方は、時代遅れになってしまっていた、それでもタイトルを変えないままやってきたので、こんなちぐはぐになってしまっているのだった、その点でいつもご愛顧のみなさまにはご不便とご迷惑をおかけしております、まったく申し訳ない。

われわれが未来を切り拓いていくのに、「恋愛」とか「いい女」とかいうテーマでは、もうとっくに追いつかなくなっている。
十年ぐらい前なら、「恋愛」と「いい女」というだけで、まだパアッと未来が明るく切り拓かれていく感覚があったのだが、現代においてはさすがに無理があるだろう、そんなことで現代の闇が晴れたりはしないことぐらい誰だってわかっている。
旧来のように、「恋愛エンターテインメント」「いい女でいこう」というサイトタイトルからのコンテンツを生産することは、今でも何の問題もなく可能なのだ、そりゃ僕は文学者だから、タイトル文言の示すところに準じて生産することには何の混乱も生じない/ただものすごい時代錯誤と世間知らずのような世界ができあがってしまうだろうな……
だから構造上は、もう新タイトルのサイトかブログを立ち上げるのが正道なのだ、それはわかっているのだが、それはさすがに面倒くさすぎる/それにそこまで言うならそもそも今時「サイト」とか「ブログ」とか「テキストコンテンツ」ということ自体が時代錯誤なわけで、さっさとyoutuberにでもなれよという話なのだが、何もそこまでしてウェブコンテンツを運営したいわけでもないし、もうこの問題には長いこと困らされているのだった。

ずーーっと昔、僕のサイトは、恋愛相談系では割と最新鋭だった。

何か、思い出すと笑える感じがしてくるが、かつてそういった時代があって、BSのテレビで紹介されたこととかもあるんだぜ、僕はその後、形式に固執したわけではないが、あえて変えたくなかったので形式を変えずにこのまま来た、変えてしまったら結果的にこの「現代」の巻き添えをくらうと判断したからだ。
逆に、ものすごい昔のやつに、戻してやろうかなあ? そのほうが単純に「面白い」のは間違いない、しかしそうなると、スマートフォン閲覧という、インターフェイスの問題になってくるのだった/どうしたものか困り続けているわけだが、テレビにせよインターネットにせよ、現代のほうが成熟しているのは明らかであると同時に、昔のほうが「わくわくした」のも明らかなのだ、何かいい方法はないかなあと、ぼんやり考え続けている。

視点変えてこ | comments(0) |
【単発】◆日常に使えるフィクション講習会 〜フィクションクライシスに対抗する〜【突発】

ども、九折空也です。
日曜日、ちょっと板橋方面に出かける用事があるので、それに合わせて掲題以下、突発企画です。
参加ご希望の方は、こちらのフォームからエントリくださいませ。(エントリフォームのタイトルがビミョーに違っていますが転用なのでお気になさらず……)
小さな会議室で、どうせ僕のことなので、レクチャーは非常にルーズなムードで展開すると思います。
そのかわりガチでエグいマジのワザを見せてやるからな!! 面白けりゃ何でもい(ry
まあ日常に使えるフィクション技術というと、代表的には会話にこっそり入れる落語のような技術です。それ以外にも勿論あるけれど。
よろしくお願いします。
九折空也より


◆◆◆日常に使えるフィクション講習会! 〜フィクションクライシスに対抗する〜◆◆◆
日時:2018年1月21日(日)17:00-19:00
場所:東京都板橋区南常盤台1-11-6(レンタル会議室)
持参:筆記用具
費用:500円(会議室レンタル実費)

▼実用的! コミュニケーションの円滑と楽しさは、実は随所の「フィクション」の機能で成り立っている!
1.そもそも「話す」「伝える」とは? 何が重要で、本当は何が楽しいのか
2.「ウソ」と「フィクション」の違いは? なぜコミュニケーションに「フィクション」が必要になるのか
3.オドロキ実演! 実際に使われる「フィクション」の絶大な効果
4.「フィクション」を実用するコツ、これさえわかればあなたは一生「退屈じゃない人」になる
5.わざとらしい人にならないために/人は「キモチ」ではなく「見える」ことをよろこぶということ
6.「言葉」と「フィクション」、なぜあなたの会話は「ダベる」ばかりで「言葉」にならないのか

以上

そのほか | comments(0) |
フェルガナと女神

イトルは意味不明なのでお気になさらず……といっても本文も意味不明なのでお気になさらず。
僕は、カミサマになることはありえない(当たり前だ)、人間なのだが、人間にとってカミサマとの合一とは……?
人間にとっては、カミサマと出会うと、カミサマのためのしもべとなるのだが、それがつまり人間としての、カミサマとの合一なのかもしれない。
人間がカミサマぶるのは、単に理屈として合わないし、人間がカミサマを言い張る必要そのものがないな、カミサマがおるんやったら人間はカミサマじゃなくてええやん……もちろん天皇陛下やブッダやキリストにおいては識らない、そんなもんおれが識りようがあるか。

僕は異様にドスケベなのだが、ドスケベも度を超すと性欲とかではなくなってしまうもので、そもそも性欲をあれこれ言うのはフレンチで食欲をどうこう言うぐらい意味がねーよ、とにかく僕はドスケベすぎて、いつからか女神のしもべなのかもしれない。
カミサマと合一すると、自分の人格が変質するというか、何か別の名前にならない? 何か髪の色や目の色、年齢や国籍も変わってしまう気がするのだが……あのとき僕はきっとフェルガナにいたのだが、そこに残っている僕は現在の僕という人格ではない、自意識としては「僕」なのだが、髪の色も目の色も国籍も違うやん、という形で記憶に残っている。
女神というのも、見たのかどうかというと、そもそも「見る」とかいうものではないし、カミサマと出会うというとイコール「合一する」しかないのじゃないか? そしてその姿は、光量は違うにせよ、姿そのものは人間と変わらんというか(あまり間近に近づけるものでもない)。
とにかく、カミサマに出会うということは、合一するということらしく、何か名前も国籍も髪の色も目の色も違って、それでもそれは「僕」なのだが、自分の真ん中にビタッと「認識以前の目的」が入り込み、ただただすばらしい気分とファンファーレが聞こえる、フェルガナで僕は武器を取って戦っているのだが、その戦いは人間の戦いではない、じゃあ何と何が戦っているのかというと、識らないのだ、次々に悪魔が出てきやがるのはわかる、でもそれが何の戦いなのやら/僕にはただ戦い進む方向だけが与えられている。

たぶん、「本当の目的」は、ぶっ飛びすぎていて、誰にもわかるはずがない。

僕が生きる本当の目的、というようなものがあったとしてだよ、それがオメエ、名前も違うし国籍も違うし髪の色も目の色も違う、しかも人間の戦いではない戦いで武器を取っているし、何か識らんが光量だけがわかる女神に属して戦っているとか、そんなもん人間の知恵でわかりようがあるかよ、しかもこのぶっ飛びの目的って、たぶんひとつじゃないぞ、出会うカミサマごとにこんなんいくらでもあることになるぞ、じゃあますます理解なんて不可能じゃないか。
なぜこんな意味不明の話をしているかというと、僕が自分の浅知恵で「自分の本当の目的」みたいなものを、誤解したくないなあ、忘れたくないなあ、と思ったので、書き残しているのだった/たぶん僕が「僕」であることはずっと変わらないのだが、僕が「誰」であるかは無数のパターンがあるのだ、こりゃやべえぞ、こんなもん全容の識りようがあるか、無理に決まっているが、「僕が『誰』であるかは無数のパターンがある」というのは、しっくりくるし、何かこう正しい納得と、あのときの可能性を恢復するよなあ、これでよかったわけかと、もう何十年ぶりに腑に落ちるというか、発見する心地だ。

正しく見ないとな | comments(0) |
傲慢の反対は一所懸命10
いうわけで、単に「一所懸命いきましょう」という、ただそれだけの話。
なぜ一所懸命いくか? それは、そうしないとつまらないからだし、そうしないと、けっきょく救われないからだ。
「一所懸命」じゃないということは、傲慢ですよということ、謙虚ではありえないですよということ、そんなこと、よくよく考えれば言われなくても誰でも識っている。
「一所懸命」の人は、それだけで輝いているし、その人がいるだけで「わあっ」とよろこばれ、何か丁寧に扱われるものだよ、そのとき酒もメシも旨いものだし、旅行も遊びもすさまじく楽しい、そして愛なんてめずらしくもなく満ち満ちているものだ。

逆にいうと、自分が登場しても、「わあっ」とよろこばれないということは、つまり「傲慢がバレています」ということだ。
謙虚キャラ、頑張り屋さんキャラ、マジメキャラ、控えめキャラ……とやって、世渡り上はうまくいくかもしれないが、けっきょくバレている、「一所懸命イコール謙虚!!」という、その一撃がないのでどうしようもない。
「一所懸命」という、これはどうしようもないものなので、ゴネたところで無駄だ、ゴネたらすぐ「じゃあ、どうぞ」と言われてしまう、その場で一所懸命の光輝を発してもいいし、一所懸命に生きてきたならしゃべってウケる思い出のネタなんていくらでもあるはずだ。
「一所懸命いきましょう」なんて、僕みたいなジジイが言うことではないと思うけれどな、本来はこういうのは若い奴か、何であれば思春期の少年少女が言うものじゃないのか/もし僕が一週間のうち三日もヘトヘトにならずに生きているようなことがあったら、そのときはもう僕のことは生ゴミの日に捨ててくれ。

「一所」、それを探す必要はない、なぜならいつも目の前にある。

一所懸命になれない瞬間なんて、理論上存在しない、光なんか探しに行かなくても、誰だって目の前にある、さあ持ち前の「むつかしく思案納得してみせる」という得意技が済んだら、どうしようか、ひとまず言えるのは、転倒するならその言い訳は「なんて自分は傲慢なんだ」と言え、そうでなきゃ前方に転倒できない。
涙ウルウル、あるいは黙り込んでみるか、さらには声を高めてみたり、久しぶりの「前向きキャラ」を出してみるか……何をしてもいい、ただどうしたって「一所懸命イコール謙虚!!」という一撃には、誰だって一度は到達するしかない、「一所懸命」/もう一度申し上げるが、あなたの目の前にその「一所」がなかった瞬間はない、今あなたの目の前のにも、命を懸けるべき「一所」はゴリゴリに横たわっている。
正しく見ないとな | comments(0) |
傲慢の反対は一所懸命9
の前に与えられたものは、何でも「一所懸命」にする、それが当たり前、それが大前提の「ルール」だ。
ただしこのルールは、状況の側があまりにもルールを逸脱している場合には、こちらもルールを放棄して逃走せねばならなくなる、つまり極端なブラック企業からは誰だって逃げるしかない、そんなことは冷静に対処するものだ。
そして、そのことに加えて覚えておこう、「これは付き合ってられん」と判断して逃げ出すとき、そのあとに決して<<ラクなところへ行かないこと>>、必ず<<これまでの倍ほどもキツいと感じられるところに行くこと>>、このことを肝に銘じておかないと、必ず逃げたことの罪によって相は大きく凶相に転じてしまう/これを「一所懸命のセカンドルール」という。
ブラック企業からホワイト企業に転職できたら、それ自体はすばらしいことだが、そのときは必ず<<自らで自分の暮らしにデカい負担を課すこと>>、たとえば残業時間以上に長くてしんどい勉強時間を自分に課すとかだ/不毛さから逃げるのはかまわないのだが、ラクなほうに逃げたら必ず大きな罪になる、ブラック企業を辞するときは内心で「もっとキツい生き方をしたいのでね」と定めておくことだ、これぐらい誰だって直観的に「確かに」とわかるだろう。

まともに生きていくには、ズルさが必要だし、ズルさがあったほうがいい、いくら「一所懸命」だといって、何もかも公明正大に生きようとしたら逆に破綻してしまう、そんなド真っ直ぐにこの世間はできていない。
ただ、このズルさにもルールがあり、やはり同じく「一所懸命のセカンドルール」だ、ズルをするときは、「やがて自分がそのズルをされる側になってもかまわない」と認めうること、それが認められないならそのズルはやってはいけない。
たとえばあなたが営業マンで、どうしても気乗りがしないという日、一日中カフェで過ごして仕事をサボったとする、それはかまわないのだが、そのことはやがて自分が課長になったとき、部下が同じようにサボって業務が遅滞しても「かまわない、そのときは自分が残業して仕事を片付ける」と覚悟できているかどうかだ、そのときに自分は腹を立てるというようでは、そういうズルはしてはいけない。
若い女性なんて、常に母親にウソをついていないとまともに暮らしていけないわけだが、そうして母親をだますときも同じ、自分が母親になったときそうして娘にコロッとだまされてもいいかどうか/「それでかまわない」と思えることでしか、そういうズルはしてはいけない。

逃避は、よりキツい山に登る場合にのみ許される。

これは常識的な判断だ、20時間かかる不毛山より、30時間かかる芳醇山に登りたい、同じ一所懸命ならそちらに一所懸命になりたいし、そちらのほうがよりキツくても受けて立てるという場合だけ、さっさと切り替えよう/ここで5時間で済む楽々山に切り替えてはいけない、その逃避で増幅されたカルマは必ず厄介さを増して自分のところに戻ってきてしまうから。
ズルをする場合も同じ、自分が借金を踏み倒すなら、ずっと先に自分が倍額を踏み倒されても「かまわない」ということ、人の家に居候するなら、ずっと先に倍の期間居候されても「かまわない」ということ、こうしてどこまでも、「切り替えはするが、一所懸命からは逃げない、一所懸命はもっと増やす!」ということが、「一所懸命のセカンドルール」だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
傲慢の反対は一所懸命8

「一所懸命」だけが謙虚で、「一所懸命」だけが成長する。
「謙虚キャラ」の人はただのムッツリ傲慢だし、傲慢な人はどう強化しても「成長」はしない。
これ、少しだけマジメに言うと、仕組みがあるのだ、「一所懸命」な人はなぜ成長するのか、のみならず、なぜ「救われる」のか。
それは、「好きとか、やりたいとか、関係なしに一所懸命する」ということの中に、<<カルマの償却>>が混ざってくるからだ、その中で本人は知らず識らずカルマを償却し、何かが救われ、なぜか識らないが徳性が身に現れてくる、これによって「一所懸命」は人智を超えて人を成長させ、救済するのだ。

たとえばあなたが、高級スーパーの制服が「かわいいな」と思い、アルバイトの面接を受け、アルバイトに入ったとする。
しかしあなたは、調理場に回され、来る日も来る日も長靴を履き、とにかく青魚のウロコを取り、ハラワタを抜き、三枚におろす、という仕事をやらされることになった、慣れない臭いにうえっぷと吐きそうになる。
このときに、元の志望動機がどうであったにせよ、目の前に与えられたことを「一所懸命」やる人は、何であれ魚の捌きを一所懸命にやるだろう、それをやりつづけていく、やがてその血の臭いやハワラタのえぐさにも慣れるし、手つきもよくなる、刃物の使い方もわかってくる、徐々に捌かれた青魚に「清潔感」が宿ってくる/するとなぜか、あなたは持病が消えたり、悪夢を見なくなったり、不眠症や生理不順が治ったり、声がよく出るようになったり、表情が明るくなったり、よく笑うようになったり、これまでに理解できなかった学門やユーモアや芸術がわかるようになったりするのだ、そういうことが本当にある。
何の縁なのか識る由もないが、それはそうして調理場で青魚を捌くということが、当人の(前世か何かしらん)カルマ償却の営為だったということだ、こうして「一所懸命」の人は自分の識らないところで救われてゆき、徳性を身に現していく、本人はまったく識る由もないが、これは健康法を試したり習い事に通ったりすることでは解決しなかったことなのだ。

一所懸命に生きている人がたまたま手に取る本と、一所懸命に生きていない人がたまたま手に取る本は、正反対に異なる。

不思議なことだが、これは経験則として十分ご報告しうる、自分が好きとかやりたいとかいうことは関係なしに、ただ「一所懸命」に生きている人が、たまたま本屋で手に取る本は、識らなくても歴史的な良著だったりし、その人の一生を背後から支えるナゾの本だったりする/あるいはたまたま立ち聞きする話、たまたま出会う誰か、たまたま立ち寄る店、たまたま観るテレビ番組さえ、「一所懸命」の人はカルマ償却が進んでいる証として佳いもの・芳しいもの・必要なものが与えられるようにできている。
一所懸命に生きていない人は、たまに前向きになってあれこれアクティブになろうとしてみても、うまくいかない、必ずしょうもないものを引き当てたり、マガイモノを掴まされたりする、こうした運・不運が生じるのだが、これは単なる運勢じゃないのだ、カルマ償却が泥んでいることに対する警告として、罰のようなマイナスが与えられるようにできている/このことは実におそろしいので、一所懸命生きるほうが安全なのだ、「傲慢になるとカミサマは大切なものをすべて奪っていってしまう」と、故マイケルジャクソンも言っていた。

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傲慢の反対は一所懸命7

コンの盛り上げ役を頼まれたとき、僕は「盛り上げ役? 任せとけ、おれがメチャクチャにしてやらあ」と引き受ける。
この傲慢な物言いが、「あなたは本当に謙虚な人ですね」と、ある人によっては感心される。
さすがに僕は、年の功においてわかっている、真に謙虚であれる唯一の道は「一所懸命」であることだ、盛り上げ役を任されたらそのことに「一所懸命」を尽くす、自分の持っているものすべてをその一所に投げ込むしかないのだ。
そこで「盛り上げ役ですか……自信はないですが、精一杯、やろうと思います、頑張ります」というのは、謙虚でも何でもないのだ、初めから一所懸命はやりませんと宣言しているような、言い訳の準備に抜かりが無いヤツ、これはただの「ムッツリ傲慢」だ。

自分に得意分野なんかないし、準備万端という状態もありえない、ベストコンディションというものも存在しないのだ、いつだってわれわれは「きわめて不利」な状況しか与えられない。
そこでいつまでも、「苦手なので」「準備が……」「コンディションが」「無理です」と、寝言をいっていてはいけない、こうしていつまでも一所懸命に踏み出さず立ち回りをしている人を傲慢という。
入口でつまづくと、すぐムッと黙り込んだり、わけのわからない暴れ方をして自分のブザマを押し通したり、とにもかくにもすぐ「一所懸命」ということからズレて卑怯なことをする、けっきょくそうしてすぐ居直るということは根性が傲慢なのだ、傲慢な人は自分の言い訳にだけはこれ以上ない「一所懸命」になる。
苦手とか準備不足とかコンディションとか無理とか、そんなことはぐちゃぐちゃ言わない、一所懸命やって、自分が恥をかいて周りが笑ってくれりゃそれで十分だろ、それを「本懐」とするということ、「一所懸命やらせてもらえた、ありがたい」と笑うということ、それが謙虚ということだ/自分が守られることの一切を謙虚とは言わないし、周囲に泥をかける一切を謙虚とは言わない。

「一所懸命」だけは負けるな。

そのへんの、町工場のオッサンにだって、「一所懸命」な人はいる、このオッサンを美術教室に連れてきてデッサンさせてみろ、絵はヘッタクソだが必ず「一所懸命」に描くだろう/それに比べて、そのへんのこじゃれた姉ちゃんを連れてきてみろ、この姉ちゃんはそもそも「一所懸命」に描かないだろう、何か言い訳にうわずった声を出しやがって、それが傲慢ということなのだ。
「一所懸命」という、誰でもわかるようなことに、尻尾を巻いて逃げ出したら、自分はごまかせても人はだませないものだ、「一所懸命」にやらない人は「傲慢」だと、本質的に見抜いているものだ/あなたは「一所懸命でない人」「一所懸命でなく、実は一皮むけばムッツリ傲慢」という人と、付き合っていきたいのか、そんなのはごめんこうむるということなら、まずあなたからその根性をやめなくてはならない。

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傲慢の反対は一所懸命6
虚ということは、一所懸命ということだ。
目の前に与えられたものは、何でも一所懸命やる、それが「謙虚だね」ということ、そりゃ当たり前だ。
そして同時に、与えられたものは何でも一所懸命にするといって、「流されない」こと、「言われたことをちゃんとやります!」というようなテクニカルな逃げを打たないこと、自分でもうすうす識っている言い訳のカタマリにならないこと。
なんだって、虫の好い話はないものだ、自分で考えて、自分でつかみ取れ、「目の前のことを一所懸命やる」なんて、そんな単純なことがわからない人はいない、わからないふりをしているのは、都合が悪いから逃げ回っているだけだ。

自分の夢、自分の未来、自分のやることを、自分でつかみ取らないといけない、そんなこと本当はもともとわかっているはずだ。
指示待ち人間になり、状況に流されていて、いいわけがない、そんなこと誰だってわかっている、そんなことで誰をごまかせる? そこをわからないふりをして誰もトクをしない時間稼ぎをするな。
自分の夢、自分の未来を、自分でつかみ取り、易きに流されない、それでいて「どんなことだって一所懸命やる」、そこまで含めて「一所懸命」だ、誰だって他人事なら「なんて一所懸命な人だ」って、説明されなくたってわかるだろう。
誰でも知っているその「一所懸命」から、あれやこれやで、逃げ回ろうとする人が少なからずある、なぜ逃げ回るか/その理由は明白だ、自分が傲慢だということを認めたくないからだ、すべてのことに謙虚に向き合って一所懸命やるということが、本当はどれだけフェアでキツいか識っているから目を背けているのだ。

「一所懸命」、その一言で凍りつく人の、どこが謙虚なんだ。

勉強でも部活でも、仕事でも恋あいでもいい、あるいは遊ぶことや芸術や、旅でもいい、「一所」、その瞬間に「一所懸命だった」ということがあるか、何にだっていつも「一所懸命」が当然でなきゃ「傲慢」と定義されて当たり前だ。
僕は「熱血」みたいなのは苦手だ、そして前向きとかマジメとかいうのも好きじゃない、「がんばれ」「がんばろうぜ」は僕の台詞じゃないよ、ただプレステのゲームをやるのだってその一所に自分の持っているものは全部投げ込もうじゃないか、それでしか成り立たない「遊び」というのはいくらでもあるんだし、平成三十年の一月十六日はもう二度と帰ってこないんだからさ。
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傲慢の反対は一所懸命5

所懸命の「一所」に対照して、「継続的」というものがある。
物事には、一所懸命によって成り立つものと、継続によって成り立つものがあるのだ(プラス、消費的に成り立つものもあるが割愛)。
たとえば、「血縁」などが代表的にそうだ、続柄「母」は、何もガンバるから今日も母ということではなく、居眠りしていても母は母だ/「血縁」はどう手抜きしても強制的に継続されて成り立つし、大学は入学してしまえば大学生、夫婦は入籍したら夫婦だし、課長は昇進してしまえば明日からずっと課長でいられる。
あるいはジョギングであったり、盆栽であったり、何かのコレクション、筋トレ、貯蓄や積み立てといったものがそうだ、これらは「一所」で成り立つものではなく「継続」によって成り立っている。

「継続は力なり」という言い方があるが、「継続は成長なり」とは言わない、たとえばカラオケ好きのおばさんが何十年とカラオケで遊んでいてもその歌声が神韻を具えるということは決して起こらない、せいぜい「強化」が起こるだけだ。
人が謙虚さをもたず、「一所懸命」を捨てるということは、血縁と役職につながったまま、ジョギングして筋トレして、盆栽でもやり、貯蓄していくか、という「継続」の方面を選ぶということに自動的になる。
一方、「一所懸命」によって成り立つことと言えば何か? それは代表的には恋あいであったり、音楽や、芸術、旅、あるいは遊ぶこと全般だったりする/一所懸命じゃないならその「交際」は恋あいじゃないのだろうし、この文章だって僕が一所懸命じゃなかったら誰も読む気はしないだろう。
僕は、人が謙虚さを失い、「継続的」な方面に知らず識らず引き込まれてゆき、無自覚の傲慢さを強化していくことに、とてもよくない不穏を覚える、僕は一所懸命な蕎麦屋が打った今日の蕎麦を食べたいのだ。

あなたが一所懸命さを捨てたら、いつか重篤なときに、一所懸命でない医者に当たるだろう。

お医者さまだって一人の人間だ、そして医者というのは、少々の誤診をしたり、少々の手抜き診療をしたところで、明日から医者でなくなるというわけではないのだ、生活や名誉には影響ない/そこでもしお医者さまが今日の患者に全身全霊を注いでくれることがあるとすれば、それはただそのお医者さまが「一所懸命」な方なのだと思うのだ、僕はそうして熱烈に謙虚な方を無条件で尊崇していたいし、尊崇申し上げるより他ないと感じる。
今日もがんばった、明日もがんばろう……という「継続」で、われわれは何の罪もなく日々を生きていけるような気がする、けれどもやがて死ぬわれわれが、その「継続」にのみ逃避するやり方で、次第に救いがたい傲慢に陥っていくことを、僕は数限りなく見てきた、これは年長者からの警告だ。

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傲慢の反対は一所懸命4
るで成長しない人や、まったく成長しなくなった人がいる。
それは、「もう年だから……」ということではなくて、一所懸命になれなくなったからだ。
人間関係が閉じている人や、まったく拡大しなくなった人がいる。
それは、「もう年だから……」ということではなくて、一所懸命になれなくなったからだ。

傲慢な人は、「成長」はできない、<<そこは説明不要だよなあ?>>、傲慢な人は「強化」しかできない。
成長する人は、謙虚さイコール一所懸命さ、によって成長するのだ、つまり本人は一所懸命なだけで、成長しようとは特に思っていない。
自分の成長になんか用事はなく、自分の成長なんて考えたことはなかったのだが、ただ一所懸命に尽くそうとしているうち努力が生じ、それによっていつの間にか成長していたということ、これは「成長」の鉄則だ。
人が「努力によって成長する」というのは、表面上正しいが、「一所懸命さゆえの努力」によってのみ人は成長するのであって、初めから「成長目当ての努力」では人は成長しない、なぜ成長しないか? といえば、傲慢な人は成長できないからだ、そのことは説明不要なのだった。

×「がんばったから成長した」 ○「あそこで投げ込んだから成長した」

一所懸命というのは、「一所」に懸けるということなのだから、そこで生じた成長は必ず「あそこで」というwhereが入る、人は「わたし」のためにがんばっても一ミリも成長しない、必ず「ここ」のため・「あそこ」のためだけに投げ込んだときのみ成長する。
「あのとき」、敵ゴール前ですべてを投げ込んだフォワードと、自ゴール前ですべてを投げ込んだディフェンスだけが成長した、練習場では「強化」はできるが、人は練習によって「成長」できるわけじゃない/ムッツリ傲慢が卑しい「努力」で成長できるというほど、「成長」というのはケチくささを許さない。
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傲慢の反対は一所懸命3

「一所懸命」というのは、その字義のとおり、「一所」に「命を懸ける」ということだ。
たとえば、単に「受験勉強をがんばりました」というのは、「一所懸命」じゃない、それは未来を豊かにするためにがんばったのであって、「一所」に命を懸けたわけじゃない。
競争させられて必死になりましたということや、獲得のために必死になりました、というのも違う、それは目の前にニンジンをぶら下げられたロバが必死に走るというのと同じだ、そうして利益を追うために必死になったのは「一所」に命を懸けたことにはならない。
「一所懸命」というのは、まさに「一所」、つまり過去も持ち込まず、未来につなぐのでもない、「今ここ」「この場所、この瞬間」、「この一所」にすべてを投げ出すということ、「ゆくゆく自分の足しになるから」と考えるのは打算であって、悪いことではないが「一所懸命」とは異なる。

たとえば、旅先でいろんな人に出会ってきた。
その出会った人と、僕の過去は関係がなかろうし、一期一会で二度と会うこともないだろうから、未来にも関係ない、ただその瞬間の「一所」にしか関係がない。
そこで僕が、つまんない奴だったらどうする? その後はもうどうやったって挽回は利かない、だってもう二度と会わないのだもの、他の機会でどうがんばっても、その一所の一期一会の機会はもう戻ってこない、すべてがそのとき限り、その場限りの勝負だ。
あなたがこの文章を読んでいることもそう、この文章を読んでいるあなたに、僕の過去は関係がないし、あなたの存在が僕の未来につながってどうこうなるわけじゃない、だからこの「一所」だ、この一所で僕がつまんない文章を書く奴だったら、僕は未来永劫あなたにとって「つまんない奴」になる、だから「今ここ」「この場所、この瞬間」「この一所」にすべてを投げ出すしかない、この場限りの勝負しかないじゃないか。

「一所懸命」とは、昨日の栄光も明日の希望も切断するということ。

もし昨日の僕がカッコよかったとして、また明日の僕がカッコいいかもしれないとして、そんなことは今日の僕には関係ないし、今ここの僕には関係ないじゃないか/人は昨日を生きることはできないし、明日を生きることもできない、そして二カ所に同時に存在もできないのだから、いつだって今ここを生きるしかない、今ここ以外を生きるのは理論的に不可能だ。
持ち込み不可、持ち出し不可で、せいぜい「思い出」だけだが……それさえも捨ててしまえ! 人が傲慢じゃなくなるということは、われわれが思っているような生やさしいことではないよ、いつだって「今ここ」をクソみたいな「人生」から切り離すことなのだから。

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傲慢の反対は一所懸命2

「一所懸命」は、ルールだ。
目の前に与えられたものは、何だって一所懸命やる、一所懸命やったあとで「なーんでこんなことやらされなきゃいけねえんだ」とブーブー言う、でもその声は明るい。
自分が何かをするというとき、一所懸命やるか否か、という選択肢は存在しない、一所懸命は「ルール」なのだから/もし一所懸命やらないなら、それは「やった」ということにカウントされない、それは「やらなかった」にカウントされるものだ。
「自分の頑張れることを探しているんです」という人は、もう長いことルール違反を続けている、どんなことでも目の前に与えられたなら、一所懸命やるのが当たり前、「自分のやりたいことなら頑張れると思うんです」なんて、そんなの致命的な傲慢だ。

一冊の本を与えたところで、傲慢な人は、そもそも一所懸命読まない、「面白いと感じたら途中から夢中になると思います」と、とんでもない審判者レベルの傲慢さを持っている。
どんなものでも、目の前に与えられたら「一所懸命」、それがルールだ、このルールに違反して堂々とのさばっている人が、自分で自分のことを「謙虚」だと思っている、だからすさまじい罪を背負って、表情も声も肌の色も暗く濁っていく。
一所懸命になれない人は、趣味や娯楽やギャンブルに耽り始める、それらは一所懸命やらなくても楽しめるものだからだ、そして「ぜいたくは言わないから、こうして暮らしていけたら十分なんだけどな」と、とんでもない傲慢の極みを言い出す、しかもそれを「謙虚な望み」だと自分では思っているものだ。
「一所懸命」はルールだ、このルールに違反して、「都合がよければ一所懸命になれると思う」といつも内心で打算している人、これが「傲慢」だ、そういう人はめぐりめぐって、やがて最悪の都合の中を生かされることになり、因果応報が成立してしまう。

ビクビクしているのは、謙虚じゃない、「傲慢」だ。

「一所懸命」がルールなのだから、ビクビクする権利なんて誰にもないのだ、笑われようが叩かれようが、「一所懸命」をやめる権利はない、また居直って近所迷惑を押し通す権利もない/われわれは「一所懸命」だけをルールにして、その違反者を擁護する文脈を持たない。
何をするにしても、目の前に与えられたら「一所懸命」が当たり前、そんなこと、誰に教わらなくても識っているじゃないか、そして「一所懸命」を怠ると、「あとあと恐いよ」ということも、言われなくてもなんとなく識っているじゃないか、この大前提から逃げ切る方法なんてどこにもないよ。

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傲慢の反対は一所懸命
でも謙虚なふりをする。
性格的にはマジメだし、キモチ的には必死だ、手抜きをするタイプじゃない。
しかし「一所懸命」かというとそうじゃない、「頑張っているつもりです!」と必死さのアピールは切実なだけで一所懸命じゃない。
真の謙虚さは、「一所懸命」ということでしかない、だから一所懸命になれない人は、どうごまかしても根っこの本質は「傲慢」だ。

それどころか、一生に一度も、「一所懸命」になったことがない、という人のほうが多い。
「競争に並ばされて、必死になりましたし、意地になりました」というのは、一所懸命じゃない、単に闘争心をあおられただけだ、それは家畜や野良犬の集団でもやるようなことだ。
一生に一度でも、どの時どの場所で、「一所懸命」になりましたか? と訊かれると、誰だって無理やり答えようとする、しかし自信の無い答えをプライドから押し通そうとする。
謙虚で罪の無い、ふりをしている、だけど「傲慢だ」という指摘さえ聞き入れられないほど傲慢で、こんな短い話さえ一所懸命に聴けない、根の深い傲慢はけっきょく自分を美化することしか選ばないものだ。

「頑張り屋さん」は、一所懸命になれない人の常套句だ。

「自分なりに頑張っています」と「一所懸命」は、まるで違うものだ、そんなもの他人事なら一目で判るものだ、だが自分のことになると、人は見方を甘くしてしまう、なんとか自分の美点を捏造してとりすがり、自分は謙虚にしていると自分を自己洗脳してしまう。
一所懸命になったことがある人、一所懸命に生きている人は、身の気配、眼差し、声、笑い方ですぐわかるよ、そういう人は朝起きた瞬間から一所懸命で、いつだって「自分は傲慢じゃないか」と厳しく自分を疑って監視しているものだ。
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