☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
WS報告022(3)/ベシベシベシベシベシ

言通り、釣り合い法と表示法と呼応法をやった、表示法は幾人かにオーマイガッをもたらした(フハハハハ)。
物品Aと物品Bが小道具としてあったとき、小道具はアクセサリーにすぎないわけだ、「アクセサリーだけあって本体はナシかよ」と、非常にまっとうなことを言うのだった。
「すべての営みのメインコンテンツは "人" だ(当たり前)」「表示がないってことは、PC本体だけあってモニタがないってことだぜ、そしてアクセスランプがガリガリガリ……そんなの、『内部で何かなっているんだろうな』としか思えねーじゃねーか、そんな表示のないものが内部でアップデートとかしていたら失笑エクストリームだろ」
呼応法は、より意識をクリアにして、試行錯誤を重ねなくてはならない、ソウルが返らなきゃならんということ、そしてマスター側がズバッと励まされるということ、このことに向かわずに熱心にやっても行方不明にしかならないからな/呼応法もやはり、初めてやられた人は「なんだこれ!!」となる、ナゾの励ましパワーはまずゲラゲラ笑ってしまうな。

「自分で思っているものと違うものが表示されていることがあるってことですよね」「そりゃそーだ、それどころか、自分の思っているものなんかまったく表示はされていないぞ」「それってやばいじゃないですかああああウワアアアア」
「スタバでマックブック開いてカッコいいオレ、みたいに自分で思っているやつは、自分で思っているだけで "表示" はまったくされていないぞ」「うわあああああ言わないでくださいいいいい」「自分で思っているハードボイルドなおれとかも表z(ry」「うわあああああ」
今回、最も報告すべきことは、やれ表示だの何だのといって、一番有効な方法は、僕が胴体をベシベシ叩いてやることだったということだ、「お前ら全員壊れたテレビかよ、どーしてベシベシ叩くと表示されんだよ」。
僕が胴体をベシベシ叩くと、「表示」はグッとマシになるので、それはつまり、「お前ら根本的に鍛え方が足りなさすぎるわあああああ」「うへへへすいません」ということだった、もう中国拳法ののように具体的に内臓を鍛えるべきじゃねーのかと思うが、もちろんそんなノウハウは誰も持ち合わせていないのだった。

「こころは胴体にある、と言ってきたとおりだろ」

「 "こころ" といって、内心でどうこう、と思っているかもしれないけれど、内心なんて存在しないんだよ、みんなが内心って言っているのはただの思念だよ、内部的に思念ボンバーになったところで外部的には表示はなくて、モニタなしPCのように、『内部で何かなっているんだろうなあ』としか見えていないよ」「うわあああああ」
「みんな、魂が無いわけじゃないんで、何というか、大前提がおかしいんだよ、フツーに考えて、われわれの魂が現代のコンテンツ量を体験しきれるわけがないんだよ」「みんなが思うレベルの、 "一応なんでも一通りできます" ということを実現しようとすると、最低限おれのレベルになるよ、だっておれは自分なりに最低限の人間ではあろうとしてこうなったんだもの、でもこんな奴実際にはオカシイだろ?/われわれの魂って、ふつうそんな何でもかんでもできねーんだよ、そのメチャクチャな前提をやめて、今ある魂を当たり前に誇ったらいいじゃん、おれがみんなの魂が小さいと言っているのじゃなくて、みんなの大前提がそもそもメチャクチャなんだよ」

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WS報告022(2)/物語は物理である
リスマスだから言うわけじゃないけど、何か基本的に、やさしい気持ちになっている。
こんだけメチャクチャやっておいて、やさしい気持ちというのもアレだと思うが、きっとみんな僕のことをやさしい人だと思ってくれているだろう。
表示上は、そうは見えないので、心配になるが、きっと大丈夫なはずだ、僕は教師じゃない、僕は僕だ。
何か特別なことをしてあげようとすると、こんなことになるのは、しょうがない、僕の選択は常に馬鹿げている。

僕も馬鹿だが、改めて考えると、集まっている人もなかなかに馬鹿だ、よくまあこんなことになったものだ、みんな必死に馬鹿だな!!
僕だってそれなりに年数は生きているはずなのだが、なぜだろう、僕は自分の生きてきたすべてのことを、そういえばわずかも自慢する気になれない/僕は自慢できること自体が好きじゃないのかもしれない。
誰も馬鹿をやろうとしているわけではないのだが、大真面目にやると結果的に馬鹿の極致に行き着いているのだ、じゃあ根底が馬鹿なのに違いない、われわれの現場ほどNHKの取材から遠い現場はこの世にない。
10時間スタジオでやりつづけて、その後12時間ファミレスで研究を続けるというのは、ドリンクバーの霊にでも取り憑かれているのか、あえて言うまでもないことだが、2018年はこれからだぜ〜☆

街はクリスマスに向かっている。

街はクリスマスに向かっている、ということは、雲も星空もクリスマスに向かっているだろう、これ以上重要なことがあるだろうか、どう考えてもワークよりクリスマスのほうが、いや何でもない。
街をあげて、おれのためにクリスマスをしてくれるなんて、いやあ照れるぜ、これではワークショップ報告になっていないという声も聞こえてくるが、そうはいってもクリスマスのソウルが入ったらクリスマスにならざるをえない、十二月の大気に観測不能物がひしめいている。
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WS報告022(1)/年内は大表示塾じゃワレェ
SONICMOVEは「全細胞が間違って動け」、それでないと自由を得られないからだ、このあたりは岡本太郎氏を参照するといい、岡本太郎氏の著書はたいへん読みやすいしな。
ただ君は本来きっとアーティスティックというよりは物語屋なので、きっとたどり着いて真にしっくりくるのは、「我動かばただちに世界なり」のほうだろう、これはやがて「我語らばただちに世界になり」にもなるが、これはとてもむつかしい、[空間を広くとって全身に集中をかける→全身と空間が関係する→じゃあ全身が動いたら空間も動くじゃん→世界キター]/まあむつかしいからといって出来ないとは限らん、ズバーンと出来てしまえばそれでイイっちゃあイイ。
色鉛筆ちゃんは、ソウルのほとばしりがキてるぞ〜イイぞ〜(これは本当にスゴイ)、ぜひそのままいけ、お世辞抜きにスゲーよ/Hちゃんはまさかのまさか、世界大会まで行った競技ダンスの蓄積がこの先に捲土重来の救世主になるかもな、そしてゆかさんは演劇方面に惚れているなら基本的にそれを本分としなさい、そうでないとブレて余計に面倒くせえ。
長いこと「釣り合い法」をやっているが、これは全身を賢くするし、特に打ち合いにまで発展させると、健全な魂魄をグイグイ養う効果があるようだ、これはどんどんやっていこう、本当ならもう打ち合い釣り合いだけで一週間の合宿を組みたいぐらいだ/実は釣り合い法は先々にまでつながっているのでさっさと基本動作というか常識にしてしまうようによろしく。

で、そのあとまたファミレスで詰めていったのだが、年内はもう「大表示塾」です、点検してみると、テメーらが根本的に「表示」について経験ゼロできているのがよくわかった/年内にこれをやるというか、これはもうクリスマスまでに掴んでしまえ、どれだけヘッポコでもいいから「表示」の基本を掴むのだ、これは目の前でやられりゃイッパツでわかる(だからもうイッパツで出来てしまえ)。
「表示」については、聞いて驚くなよ、みんな二十年から三十年、ほうったらかしのゼロ状態で進んできているのだ、これは明らかにメール等のテキストチャットの影響だ/われわれは「○○をする」を見ているのではない、「○○をする人」を見ているのだ、あたりめーだこんなもん、これはもう夢でうなされるぐらい脳みそに叩きこんでやる必要がある。
ジョークの原理を、座学とペーパーで示した、あれは非常に遠巻きな手段だが、具体的なブツが目の前にあるせいで、具体的な効果が蓄積しよう、ヒマつぶしに脳みそがそういうはたらきをするように訓練しろ、意識がゆるんで脳みそが統合的に捉えるということだ、まあこれは実物を手にした奴は二度と忘れないだろう、ドライヤーで歯を磨くぐらいは脳みそに常にちらついていろ。
あと全然カンケーないが、ワークショップのせいで流星群が見られなかったな、うーむ残念、まあでもおれの代わりに流れ星を見てくれた奴がいるのでかまわないだろう、それはおれが流れ星を見たのと同等のことだ、魂というのはそういうものだ、あいつが流れ星を見たなら、おれが流れ星を見たということだ、それこそが本当の話。

大表示塾にこぞって参戦しろ。

「表示」だ、表示表示表示表示表示、これに関してはなぜか、テキトーなことをやられると「オイふざけんな」と九折さんが急に怒るパターンのやつだ、なぜか知らないが特定のパターンがあるよな、急にはっきりと九折さんが怒りだすやつ、あれはなぜ急に怒りだすのかはおれ自身にもわからない、だが何かの反応があってこれは「ふざけんな」となるのだ、たぶんこれは出来る出来ないではなく人と邪悪の分岐点なのだ/出来なくてもいいから曲げんな、ということでたいていカミナリが落ちる(もう慣れろ面倒くせえ)。
年末の打ち上げに向かって進んでいくけれど、ウーン、こんなもん、もう年末も年始もないぞ! 逆にステキな年末と年始を用意してやる、つまりやるべきことがあるというイグジスタンスの只中で年越しをさせてやるよ、忘れようのない平成最後の年越しにはもってこいだろ。
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春、僕たちは死を忘れたわけではなかった3

 
全身から汗を噴く
ポルチオの女
季節の問題ではなかったのだ

求めて乞い
唇と舌を恭順させ
腰を震わせる
「正しい知識を得られるか否か」

(誤った知識を入れられている)

春に知らねばならないのは死のこと
死の中に死なないものを探り当てること

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春、僕たちは死を忘れたわけではなかった2
から逃れているのみ
だからいつのまにか疲れている
生きることが苦しみであった
その苦しみから逃れたくて女のポルチオは思い出したように慟哭する

まるで健全なふりをしている
まるで生きる命を得た後のような演技を偽装している
春は罰を明らかにする
われわれは罰の只中にある そのことを暴き立てる 春の力

死後に罰されるのではなく死そのものが罰

死の罰を思い出し恐れて生殖が慟哭する 春 逃れんとして
純潔を問い ほんのわずかな偽装さえ死に転落する春
正しく見ないとな | comments(0) |
春、僕たちは死を忘れたわけではなかった

年に亘り僕を不思議がらせていた春の力
その謎が唐突に解かれた
それは死と性の力であった
救済があるかないか 身をもった問いかけであった

女は欲する 男を ペニスを Samenを アクメを
われわれは能動的に生きることはできず
ただ死の掌から逃れ続けるのみ 死の悪と恐怖から
春 わたしは死の恐怖に抗することができませんという それは荘厳な告白であった

何をして生きるのか 春の出会い 問いかけ

死なない誰かと出会うため
あるいは また一歩 死に近づいてしまう

正しく見ないとな | comments(0) |
説得は終わりぬ2

たしの教えることは、「わからない」、決してわからないことを教える。
なぜわからないことを教えるか、それは、理解ではなく導きをもたらすためだ、それぐらい直観的に感じないか? 「理解」したことは、自分のパワーで獲得してゆけるだろう、だがその獲得に進む道は、道じたいが空虚だ、ではそれを歩まされることは愚かではないか。
わからないことを教えている、それが「わからない」ので、あなたは焦るだろう、不満を覚える心地もするだろう、にもかかわらず、わたしの「わからない」話を聞こうと、ただちに駆け寄ってくる、目を輝かせた人たちが後を絶たないのはなぜだ? 自分自身でもそれを体験するだろう/なぜあなたがわかるように書いたメモよりも、わたしのわからない話のほうがずっと豊かに「聞きたい」と惹きつけられるのか。
わからないものを、丸呑みするしかないのだ、外道者よ、それを分割・分解して「わかる(分かる)」ようにするということが、きわめて甘ったれた邪道で空虚だということに気づかないか、わかるように分割はしてもらえないのだ、なぜなら分割した時点でそのものの命は奪われてしまうから/まさかのまさか、目の前に示されているすべてのものを、その命のまま丸呑みするしかないのだ、そのことにどれだけの器量と覚悟がいるか、ゾッとしないほうがおかしいだろう。

いわずもがな、本当はおかしいと感じているほうが、やはり最後までおかしいのだ、女が偉大な男に出会ったときに特別の態度を開かないことや、底の抜けた愛を告白しないこと、気づけばまともな青春がなかったかもしれないということや、ここ十年で思い出といえる思い出も得ずに生きていること、酒宴といえば奇声や怒号が飛び交って会話をなしていないこと、あるいは自らの仕事に唾を吐いて働き続けることは、前もって「おかしい」と知られているので、そのとおりおかしいのだ/そしてやがては、自分の積み重ねてきたおかしなことについて、すべてのツケを精算させられることになる。
まともなことをするべきだったのだ、まともなことというのは、わからないことをわからないまま、丸呑みするように生きるということだった、まさにそれが生きるということだったのだから/なぜ偉大な者、やさしい者、あなたを導き助けようとこころを砕かんばかりの者に、雑巾がけをやらせ続けたのだ、なぜ最低限のYesを示して与えられたものを丸呑みしようとしてこなかった。
なぜすべての偉大なものを、「あなた好み」に分割することを要請し、自分の有利さを蓄えることにばかりに、悦に入ってきた、なぜあなた以上に大きな命のある者を一度たりとも認めずに生きてきたのだ、なぜ生まれ持って王冠を具えてきた神獣から王冠を取り去って肉牛として解体して食してきた、ずっとそのようなことをしてきたのだ。
海水を持ち帰ることは、表面上可能だが、それによって海を持ち帰ることはできない、海とは何か、海の偉大さを丸呑みできる者は聖者を除いてはほとんど存在しない、海に散骨する者は海水に散骨しているのか? 海のそばを平然と歩くな、太陽の下を平然と歩くな。

解と説は逆なり。

「解説」という熟語があるが、解と説は逆なり、説かれたものを解せばそれは解であり、説かれたものを丸呑みにできねば説を得ることは叶わず/解されたものはすでに説ではない、よって人々がついに解を求むるならば、説を得さすは諦めらるなり。
解を求めるは、分解、力、有利さ、生存本能の為せる業、実はありふれてまともでないこと/百万の解は一説を得させず、解は説の解体に見つかる断片にすぎない、だがこの解体の力と流血を生存本能はよろこぶのだ、それだけ時代が進んできたということだ、誰か自分を引き留めた者以外は。

正しく見ないとな | comments(0) |
説得は終わりぬ

得する気をなくしたということではなく、時代状況として、限界を迎えようとしているということ。
このことは、説明がむつかしい。
アツい世界へ、豊かな世界へ、接続する方法は「ある」のだが、それを否定的な者に、説得して差し上げるということは、もう状況的に不可能になる。
おれの状況じゃねえよ、全体の状況がだ、臨界点を迎えようとしているのだ、状況はまずくなる一方で、いよいよ終電が発車してしまうというタイミングに来ている。

けっきょく、わかるものを大切にするか、わからないものを大切にするか、二通りしかなかったわけだ。
わかるものを大切にするという人に向けて、説得を試みると、豊かな世界を「分割」して、「わかる(分かる)」ように伝えるしかない、でもそのことは限界を迎えようとしている/もうこれ以上、バラバラに分割することはできないのだ、「あなたに必要だったものは、本当に "断片" だったのか?」、わからないものを大切にするということに、鞍替えするタイミングはこれまで無数にあったのに。
しょうもない、できそこないの「自然体」など、選ぶべきでなかったのにと、僕は思う、それは自然体ではなくただの「なしくずし」でしかなかったのに/まだわずかなチャンスは残されている、「わからないもの」に帰順するという、ただそれだけのことに、何のむつかしさがあるだろう?
なぜ僕が、銅鑼を打ち鳴らし、大騒ぎして、注目を集めようとしてきたか/あなたに「わかる」ように、物事を分割する、けれども八つに裁断された切符では、もう切符として使えなくなるのだ、こんな当たり前のことを、十年前のあなたはわからないような莫迦ではなかった。

わからないものが目の前にあるのに、どうしてそれが「わかる」と思ったのだ?

わからないものが目の前にあり、もしそれが「わかる」ものになったとしたら、それはもう変質・変形されて、別のものになっているのだ、そりゃあ当たり前じゃないか? どうしてそんなことを繰り返したのだ、解体したカエルをつなぎ合わせてあなたは再びそれを生きて跳ねるカエルにすることができるのか、なぜそんなことを繰り返してきた。
<<目の前のものが「わかる」となったとき、あなたは「有利」になるだろう>>、それが「力」の作用であり、生存本能はこの有利さのみを追求する、あなたの理解力が血なまぐささの故だと一度も気づかなかったか? あなたは「理解」のために毎回、不穏な血を体内に駆け巡らせていたのに、そのことに本当に一度も気づかなかったのか、あなたが穏便な「理解」などしたことがこれまでに一度でもあったか。

正しく見ないとな | comments(0) |
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 12/12更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第四十二回】12月14日(金)19時〜@もう真冬でしょスタジオっすわ
【第四十三回】
12月15日(土)19時〜@もう真冬でしょスタジオっすわ
【第四十四回】
12月21日(金)19時〜@もう真冬でしょスタジオっすわ
【第四十五回】
12月22日(土)19時〜@もう真冬でしょスタジオっすわ
【打ち上げ】
12月28日(金)20時〜@鳥貴族三軒茶屋店(246号沿い)
【第四十六回】1月11日(金)19時〜@マイレッスン三軒茶屋スタジオ
【第四十七回】
1月12日(土)19時〜@マイレッスン三軒茶屋スタジオ


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)
(雨天時・寒冷期はスタジオを使用します、随時ブログ記事でご連絡いたします)

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第88回】1月26日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第89回】
2月16日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


あわてるな
まだ2018年は続く



みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

(ワークショップの各カリキュラムは以下続きをご参照ください)

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あなたは何を表示しているか3

ういうわけで、当たり前だが、自分の本心を「わかってもらう」なんて、厚かましいことを考えてはだめだ、甘えにもほどがある。
そして、表面だけ取り繕って、そのことを「表示」と受け取ってもらおうという、そういう不徳の考えをしてもだめだ、人をバカにするにもほどがある。
じゃあどうすればいいかといって、単純だ、自分の本心から、全身に至るまで、ウソ偽りなくつながって、あるがまま「表示」されていなくてはならない、内心にウソがあってもいけないし、表示にウソがあってもいけない、エネルギーがそのまま表れていなければいけないし、力尽くでエネルギーの「ふり」なんかすることは決して許されない。
表面は「ちゃんとしている」とか、内心は「そんなつもりはない」とか、チャチなことをぬかしていてはいけない、内心が表面までズバッと透き通って、貫いて表れていなければいけない、そうじゃなきゃテメーは何なんだよ、内心の引きこもりに表面の糊塗をプラスして、それを「高値で認めろ」という話か、そんな発想はただちにドブに捨ててしまえ。

実際、内心の魂まで、ラヴでファンクで、仁(思いやり)と、美と光と夢に笑わされているか/内心の魂までそれじゃなきゃ、けっきょく「ただのウソ」じゃねーか、粉飾決算の企業みたいなもので、こんなものさっさと監査で暴露されるしかない。
で、その内心の魂を、本当に曲げずにあるがまま、人に見せ、この世界に示し、己がただ一人この世界に存在しているという不可思議の中に、堂々と立ち続けられるのか、それができないのなら、けっきょく「単に逃げている」んじゃねーか、面倒くさいハズレ思春期の女みたいで、こんなものは老衰で死ぬまで放置しておくしかない。
あなたは何を表示しているか……じゃあわかりやすく、おれは何を表示しているか? 今、目の前にあるとおり、こんなものおれの「表示」しているものしか認められないわけだし、表示しているものが、恣意的に加工された表面的なウソだったとしたら、誰だって「あほくさ」としか思わないだろう/おれはろくでもない人間だが、ウソ発見器にかけたところで、こういう話にウソはない、こんなことにウソを凝らすほどおれはヒマ人ではないし意味不明でもない。
おれは、内心の魂まで、ラヴでファンクなのか? それは知らん、ただおれは、内心の魂を隠すつもりはないし(隠すならこんなもの書かなきゃいいんだから)、表面から内心の魂まで透明化して、そこに見えるのがラヴとファンクならすばらしいことだが、もしそうでなかったとしても、それはしゃーない、そのときはただおれが嫌われるだけだ/おれはおれを表示しているのであって、おれが嫌われるのなら、おれが嫌われるのだろう、おれはおれを表示することしかできず、おれが何を表示するかはおれが決められるわけではない。

躊躇しているのじゃなく、それは「計算」しているのだ。

自分をどう見せるかとか、何を隠さねばならないとか、まあ粉飾だな、人はそういう浅ましい計算を平気でする/ナイスな何かを表示できるのは、当たり前だが内心の魂からナイスな奴だけだ、そこをどう捻って計算しているのか知らないが、内心の魂からナイスじゃない奴から、ナイスな何かが表示されることはありえない、ありえるとしたらそりゃただのウソの表示だ、そのあたり、いいかげんスーパー言い訳システムで脳みそのリソースをパンパンにするのは誰でもやめたほうがいい。
どうも最近になって、自分が何をどう「表示」しているか、まったくわかっていない人が少なくないように思う、「ラヴでファンクで仁と光と夢とジョークが表示されまくっています」なんて人はほとんどいないぜ、そのあたり誰だって自分の「表示」と向き合わねばならないのだ/人に訊いて、まっすぐ向き合えば、自分の「内心」なんて幻想は五分もあれば砕かれるだろう、こころに内も外も無ぇよ、外心なんて言わないだろ。

視点変えてこ | comments(0) |
あなたは何を表示しているか2

酒屋に入ると、店員が、「帰れ」という表示をする/それはまあ、アルバイトだし、仕事なんか無いほうがいいのだろうから、あるがままのこころにおいて、「帰れ」という表示が出るのだろう。
注文のために店員を呼ぶと、店員は、「死ね」「殺すぞ」「謝罪しろ」「不幸になれ」という表示を明らかにする、それだってやはり、彼のあるがままのこころの表示なのだから致し方ない/彼は、本当に単純に、ピュアに、自分の生活費のためだけにそこにおり、生活費が降ってくるならば、他の全員なんか死滅してまったくかまわないというか、むしろ恨みが晴らせると感じているのだろう。
それが、どこまで彼の本音なのかはわからない、わからないし、わかる必要は誰にもない、ただ彼の顔面と全身からくっきりと現れる「表示」は、ひたすらそのようにしか現れていないということ/当然だが、当人が本心と思いたがっている本心と、実際に身に現れてくる「表示」はまったく別だ、どちらが真の本心かなんて誰にもわからない。
あるいは、僕が女の子とデートしたとして、女の子の側から「歓迎」の表示がされることはごくまれだ、だいたいはムッとして、「わたしは何なのか」「わたしはもっとよい目にあっていいはずなんだけどな」「誰かわたしをケアしなさい」「とにかく、不満です、いろいろ」という表示がしきりに為される/本人にそんなつもりはないのだろうが、そりゃそうだ、反論するのにもポイントがズレている、誰がそんなネガティブなことを意図的に表示するものか、意図的でなくてもこちらはその表示にまず従うしかないというのが本来の主眼だ。

マニュアル接客というのが当たり前になり、その中では笑顔練習や、元気な声を出すと点数アップというような仕組みもあるようだが、そういうフェイクで、本質的な「表示」はごまかせない、いやもちろん、表面的なことしか何も見えませんという人なら別だろうが、少しでもまともに人が見える人なら、「んなアホな」ということはミエミエだろう/お店で立ち働いてお客さんが来るのが「うれしい」と思えないのに、何をどうやって「笑顔」になるのか、それはゴキブリを見たときに笑顔をやらされているのと同じで、徒労以上に滑稽劇だ。
この、「ゴキブリにスマイルしなさい」的なマニュアル発想が、個人的にも根づく人はあるようで、こういう人は接客業でなくても、人と接するときにそういう笑顔のふりや、元気のふり、歓迎のふりをする/だが当然ながら、そんなフェイクの表示に、まともな人は引っかからない、せいぜい「フェイクながら歓迎のふりをしようとはしてくれている」と前向きに捉える程度だ。
そもそも僕なんか、このご時世に、男性として女性に「歓迎」されるというようなことは、もう十数年も前に諦めきっている、何かよくわからないが、当人の意志は関係なしに、前もって男女は敵対関係にあるだろう、社会的にそういう状況だから致し方ない/僕はとにかく僕のことを睨んで唾棄したがる女性のことを、別にへんな人だとは思わない、むしろウソがつけないタイプなんだなと思う。
公園を散歩しているレトリバー犬に、「おっ!」と気魄を向けてやると、ワンちゃんは「!」と反応して、「遊べぇぇりゅぅぅうおおおお〜」と跳ねて走ってくる、リードをご主人ごと引っ張ってくる、そこには何の偽りもない「遊ぼう」「好き〜」が表示されている、僕は表示についてはいつも、「これでいいじゃん」と思うのだ/僕にはレトリバー犬のする「表示」が十分かつ最高であって、それ以上のさまざまな事情については正直あまり興味がない。

「ウマいものを喰っている」という内心と、「ウマいものを喰っている」という表示は別だ。

神戸牛のシャトーブリアンを喰えば、誰だっておおよそウマいのは同じだろうが、それが「ウマいぃぅぅりゃぁおおお〜」と表示されるかは別だ、多くはレトリバー犬がささみジャーキーを食べるときのほうが「ウマい」の表示がはっきりと為されるだろう。
こんにち、自己主張とPRの強い人は、本当に増えたと思うが、その主張とPRの向こうに、いつも違う「表示」が為されているので、僕はその表示に従うしかないのだ/どれだけ強いキモチを持っていても、マニュアル方式では「表示」は得られない、真のレトリバー方式でしか「表示」は得られない、そりゃそうでなきゃ虫が好すぎるだろう。

視点変えてこ | comments(0) |
あなたは何を表示しているか

まに、「○○高校のダンス部」みたいな映像を見る、すると女子高生の女の子たちが、肢体をアピールする服装でよく踊っている。
踊りは、上手なのかヘタなのか、僕には造詣もないし目利きもないのでわからないが、どうも娼婦っぽく見える/もちろん娼婦っぽく見えるのが悪いわけではない。
男子高校生が踊ると、今度はやはり、いわゆるDQNっぽく見えるのだろうか? それだって別に悪いわけではないだろうが、しかし往年のフレッド・アステアのダンスは、まったくDQNっぽくはないし、一緒に踊っているリタ・ヘイワースだって、娼婦用のダンスを踊っているようには見えない。
アイドル文化というか、本職のそういうアイドルは、堂々と娼婦っぽくてよいと思うのだ、もともと女衒のノウハウだって組み込まれた業界だろう、だがそれを部活動で模倣することには違和感を覚える/倫理的に問題を感じるわけではなく、当人らの意志が本当に「それをやりたい」のかが気になる(まったくの余計なお世話ではある)。

歌にせよ踊りにせよ、それ自体が「上手い」ということには、本来何の値打ちもないはずだ、歌や踊りはそもそも、何かしらの愛やよろこび、切なさや怒りなどを表すためのものであって、それが表されないのであれば、「上手い」ということはまったく無意味になる。
こんなもの、門外漢の妄誕でしかないが、ダンスで愛を示そうとするとき、第一に必要な勉強は、ダンスの勉強ではなく愛の勉強ではないのか? 愛のお勉強/このところ、どこでも「カッコいいダンス」を見かける気がするが、それらの「カッコいいダンス」が、愛やよろこびを表現しているところをまず見かけない。
僕は、当たり前だが、愛を表示していない女性、かつ愛以外のものを自ら表示している女性に対して、愛を向けるというような野暮はやらない、僕はコールガールを軽蔑する者ではないし、当人が自ら選んで表示しているものを尊重するたちだ/ただ実際には、僕が向ける愛をゼロにすると、当人がズタズタになっていくというのを事実として目撃する、これでいつも「???」となるのだ、「愛は要りません」という当人の表示に従うと、当人がズタズタになっていく(それでもなお、表示のほうは変化しない)。
だからひょっとすると、一部の若い人、特に未成年の女の子は、自分が何を表示しているのか、実はまったくわかっていないのかもしれない、という可能性に思い当たるようになった、その可能性は大いにある/にしても、やはり人の節度として、当人の表示しているものを最優先にするしか、さしあたりしょうがないのだけれども。

ハンバーガーを売っているように見えたり、ケンカを売っているように見えたり、セックスを売っているように見えたり、「表示」がある。

マクドナルドやモスバーガーは、ハンバーガーを売っているように見える、そりゃ当たり前だ、だからわれわれはハンバーガーを買いに行くのだ、それと同じように、ケンカを売っているようにしか見えない人もあるし、セックスを売っているようにしか見えない女子高生もいる/ケンカを売っている人はヒマつぶしに叩きのめしてもいいのだろうし、セックスを売っている人はヒマつぶしに革靴の値段で買ってもいいのだろう(世界各国、娼婦の値段は革靴の値段と同じだ)、常識的に考えて、そういうふうに「見える」。
あくまで「表示」ということに従うなら、現代女性の中に、僕みたいな奴に「愛してほしい」と表示している女はまずいないし、何かを「教えてほしい」と表示している人もまずいない、さすがに女子高生のダンス部を見て「愛とよろこびを」という表示を見つけるのは不可能だろう(あくまで表示の問題であって、何かが悪いということではまったくない)。

視点変えてこ | comments(0) |
力任せの時代
ういえば、タチの悪い風邪をひいて、そのまま病み上がりでワークショップとパーティに突入したので、まだ体力が回復したわけではなかった、「なーんか調子でねえな」と思っていたら、そりゃ当たり前だったわという話。
最近は、女性の活躍が目覚ましいが、活躍していようがいまいが、少なからぬ女性が、とにもかくにも「力任せ」で掛かってくる、ということを痛感している、力任せが悪いというわけではないが、僕はニガテだ/どちらかというと、男性のほうが、明らかな「力任せ」という人は少ない。
女性は力任せでガンガンくるので、即座に、「うう、頭痛になってしまう」と感じるのだが、まあしょうがないのかもしれない、具体的にどう対処するかというと、素直に頭痛になるしかないのだ(対処なし)。
時代は、女性の時代であり、また、力任せの時代なのだろう、誰もふざけているわけではないし、すべての女性は努力している、女性は遠慮もするし、積極的にもなるし、ケアもしてくれるし、意欲的だし意識も高いのだが、それらの基本は力任せだ、きっと大前提に「力以外の何があるのよ?」という感覚があるのだと思う。

一般に、女性のほうが、感受性と生存本能に優れているので、性質としては、女性のほうが「力」に頼りがちなのは当たり前だ、女性が非力なのは単に筋力の問題であって、女性が性質的に腕力的でないということではない。
これは何の話をしているかというと、さしあたり、腕力のない僕が、イジメられて苦しんでいるという、しょーもない報告なのだった/だらしないかぎりの話なのだが、どう考えても僕は女性に腕力で勝てる気がしない。
力任せに生きると、当人が荒れていくので、僕はあちこちでそのケアを振る舞っているような気がするが、それはかまわないにしても、ケアをほどこそうとする僕も第一に直撃されるのは「力任せ」で、そのたびに頭痛で倒れそうになるのだが、このことは体調がバツグンによくないとこなせないということがわかってきた/体調がいいというか、体調がキチガイのようによくないとこなせないのだ、一ナノでも僕に休みたい心地があるともう何もかもが破綻してしまう。
力任せというのは、つまり、五、六発ぐらいは誰かをバッチーンとやってやらないと、気が済まないというのが本質なので、とりあえず僕あたりがそれをバッチーンとやられているのがよいのだ/力任せ同士でバッチーンとやりあうと、ケンカになり、戦争になってしまう、その点僕をバッチーンとやっても、僕には腕力がないので、戦争にならない、僕がグエエと頭痛になればそれだけで解決なのだが、そうすると僕の生産力が落ちてしまうのだった、だからさっさと、風邪を完治させましょうねという話なのだった。

女性は基本的に「力任せ」だ。

もちろんすべての女性がそうではないが、そうではない女性でも、「女性は基本的に力任せ」という話については、「確かにそうかもしれない」と、心当たりを得ることができるだろう、「力以外の何があるのよ?」という感覚が女性にはある。
LGBTの隆盛と合わせて考えると、典型的に、ホモのネコ役よりは遥かに、女性のほうが力任せだ、ホモのネコ役には力任せ感がないので、腐女子の人も萌えるのだろう、どちらが「子猫ちゃん」かというと、そりゃホモのネコ役のほうが「子猫ちゃん」のイメージだ/そのあたりもはや「男女」という括りで考えるような時代ではないのだろうが、それにしても来年には、もうLGBTうんぬんにもみんな飽きていそうな予感もあるので、ウーン何がどうなるのかもうよくわからんのだった、とにかく僕は力任せがニガテだ。
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何がナイスなのか? 最も大きな法則

の半年間で発見したことは、実に膨大で、実に精髄に及んでいると思う。
これらの発見について、すでに理論は統合済みで、それを報告できる準備は整っているのだが、なにぶん情報量が大きすぎ、やっかいな仕事になる。
われわれは、矛盾を抱えているのだ、それはわれわれが生物でありながら、本質的には生物ではないということ、この単純な矛盾に苦しめられている。
当たり前だが、生物のうち、言葉や音楽や物語を、理解するというか、それらを悟性に「視る」のはわれわれ人間だけだ、こんな不自然なことがあってたまるか/言葉や音楽や物語を「視て」いるのは、やはり生物としてのわれわれではなく、存在としてのわれわれなのだ、この「存在としてのわれわれ」が、生物の「生存本能」と相克関係にあるので、われわれはいつまでたっても自分および自分たちのことを知ることができない、言葉も音楽も物語も生存本能には何ら関係がない。

最も大きな法則は、光と重さだ、重さは「力」と同じで、光には重さがない(よって力もない)、そしてわれわれは「存在」としては光を希求するのに、生物としての「生存本能」は、力と重さを希求するのだ。
なぜ生存本能が力を希求するかというと、生物(利己的遺伝子)のルールは単純に「弱肉強食」だからだ、力の強い者の遺伝子が保存・繁栄されてゆくのがルールだ/これは業(カルマ)なので、このルール界を「業界」と呼ぶ、「業界」における上位者は権力・武力・財力・魅力に富み、これを「重鎮」「重役」「重要人物」と捉える、このように「業界」では力と重さが上位に格付けられる。
生存本能に光はないというか、生存本能はそもそも光など必要としていない、遺伝子はひたすら自分の生存本能にとって有利になることだけを望み、自己遺伝子の保存と繁栄だけをきらめかしく感じる、そのために力、力、力……/遺伝子がこの本能でわれわれの血肉を支配する、その具体的なインターフェイスを「感受性」という、「感受性」は永遠に「自分だけがかわいい」のであって、力と重さにグッとくる、これは感受性として正規のはたらきをしているにすぎない。
生存本能は、力の果て・重さの果てを希求している、そして重さの果てはブラックホールだ、光さえ吸い込まれ、そのブラックホールが終わる(ブラックホール蒸発)ためには劫というべき時間が掛かる(計算上、10000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000年掛かる、このことはホーキング輻射の式から計算される)、なおこの蒸発は三次元的でなく、超弦理論の示す異次元(11次元空間)で起こっていると見られる/異次元での "蒸発" だって? このわけのわからない話は、まるで仏教説の無間地獄の描写を思わせる[一辺15kmの巨大な岩に、百年に一度天女が降りてきて、その羽衣が岩をふわりと撫でる、それによって岩がやがて擦り切れてなくなる(蒸発する)までの時間が過ぎないと、無間地獄は終わらない]。

力は「分割」する/善と悪およびすべてのものを[分割]する。

正確にいうと、「分割」の性質それ自体が、力を欲しているのだということになる、われわれは「分割ドーピング」を受けているので……われわれは「命」が取り扱えないのに、生と死だけは「分割」するようになったのだ/われわれにとって生と死は性質が異なり、生は善であり、死は悪だ、そして悪たる死から逃れて善なる生を確保し続けるのに必要なものは「力」だということだ、それがわれわれにとって最も「分かる(わかる)」ことの源泉で、この「分かる」ということが「分割ドーピング」の結果として生じている。
「分かる」ということは、やがて力の果て・重さの果てを希求するのみ、ではその逆を希求するということは? そちらは光の希求だ、果てではなく本(もと)の希求、ブラックホールではなく宇宙開闢前の希求、最新の物理学はすでに宇宙開闢前にあったものが「イマジナリー」だと考え始めている/「分かる」ということの反対、「分からない」「観測不能」「未観測」ということ、これが最も大きな法則だが、われわれはしょうもないドーピングの罪業によって、こんな目の前の――ナイスな――ことにも踏み出せないのだ。

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ギリシャ肉、エジプト世界、キリスト映画、仏教育

んなチャンネルで、色んな番組がやっている/たとえばあるチャンネルではバレエをやっていて、あるチャンネルでは「世界の車窓から」が放映されている、あるチャンネルでは映画が放映されていて、あるチャンネルではずっと教育番組が続いている。
どのチャンネルも、ウソというわけではない、ただ別チャンネルということで、まぜこぜにするものではないというだけだ、ディスカバリーチャンネルとアニマルプラネットとナショナルジオグラフィックとヒストリーチャンネルとWOWOWを混ぜるわけにはいかない、内容がメチャクチャになってしまう。
それと同じように、それぞれの古代からある神話は、それぞれ別のチャンネルであって、それぞれ別の視点から番組を構築している/それで、僕の経験上、ギリシャ神話はまるで「身体の神秘」という番組のようであり、エジプト神話はまるで「世界の車窓から」という番組のようであり、キリスト教(聖書神話)はまるで各種の映画のようであり、仏教神話はまるで教育番組のようなのだ。
とにかくもう、そのように認めて取り扱っていかないと、実際的な問題として、間に合わないのだ、いろいろ忙しくて/もうどのチャンネルがどの要素なのだと割り切って認めていかないと、自分のやることと自分のつなぐチャンネルがズレるというようなタイムロスをしていられないのだった。

何しろ僕は、超絶面白い小説を書かねばならないし、超絶イケているワークショップをやらねばならないし、超絶スゴいワザを見せないといけないし、トークは超絶達者でなければならないし、歌は超絶上手くなければいけないし、判断力は超絶冴えていなきゃいけないしで、もうメチャクチャなのだ/七つか八つぐらいのチャンネルを複数モニターで同時に接続していないと、間に合いっこないという状況だ、本来は分業するところをぜんぶ自分でやろうとするから、完全にセルフブラック企業というような状態になってしまった。
ギリシャ神話は、「肉の身」について教えていて……そりゃ、ギリシャ彫刻を見ればわかるじゃないか、ギリシャ彫刻はたいへん肉体的だ、エジプトのものとはまったく違う、エジプトはどちらかというと壁画やシンボル建築であって、神々と共にある「世界」を教えようとしているのは明らかだろう/だから特段、穿った見方をしているというわけではない。
同じ神話といっても、新約聖書ほど人々の出会いと争いと愛の「物語」を描いている神話は他にない、たとえば仏教の神話は「法蔵菩薩が世自在王仏のもとで修行して五劫思惟して阿弥陀如来になった」というような話で、話がデカすぎてもはや感動する余地がない、これらのどれが正しいかを議論できるような立派な人は僕の周辺ごときにあるわけはなく、とにかく別チャンネルであるのは当たり前のことなのだ、どのチャンネルも別にウソを言っているわけではないのだろう。
僕は、ワークショップを進めるのにギリシャ神話を必要としていて、小説を書くのにエジプト神話を必要としていて、人と話して遊ぶのにキリスト教を必要としていて、歌って言葉を用いるのに仏教を必要としている/実際に必要としているのだからしゃーないだろ!! もうそういうものを使っていくしか、方法がないというか、間に合わねーんだよ、僕は芸術にインド神話を使うしかないし、さらに最近になって、日本神話を何に使っているのかが「わからない」のだった、こんなメチャクチャな悩み相談があってたまるか!!

各チャンネル、神話はつながれば実用的だ。

いちいちの神話について、僕は詳しい知識を持っていない、そんなもんいちいち勉強しているヒマがあるかよ、ただ詳しくなくても縁があればつながることはできる/そして、つながることができたら、神話というのは実用的で、いわばこの世で唯一実用的なものかもしれない、そりゃもう実用的でない知識なんか溜め込んでいたって何をどうすることもできないからな。
寓話というのは、教訓的なもので、演出によっては心理的にもなる、という程度のものでしかないが、神話はもっと具体的なものだ、「肉の身」とは具体的にどうなのか、「世界」とは具体的にどうなのか、「争いと愛」とは具体的にどうなのか、「言葉」とは具体的にどうなのか、それらのチャンネルにつながると具体的にどうなのよということが、古代からの神話に語り継がれている/だから神話というのは、寓話とは違い、知っていても意味がないのだ、つながらないと意味がなく、つながったときにはとても実用的だ。

正しく見ないとな | comments(0) |
主←私→我

ばらしいことが発見されている。
「わたし」という言い方をするし、「自我」という言い方もする、「主語」「主格」「主体」という言い方もするので、「主」というのも似たような意味だ、「わたし」「我」「主」、少なくとも、似たような意味のものに見える。
この、「わたし」に関連するさまざまな表現は、何がどういうことなのかというと、「『わたし』は、『主』になることもできるし、『我』になることもできる」ということだと捉えればよい、この場合「主」とは、シュとも読むしスとも読む(辞書に「ス」と読み方が書かれている)。
そういえば、もう十二月でクリスマスムードだし、そろそろ「主は来ませり〜♪」が聞こえてくるな/♪joy to the world the "lord" is come...ところで、日本にある「言霊(ことだま)」という学門によると、すべての大モト、すべての始まりの言霊は「ス」なのらしい、「ス」から始まって「ウ」に進んだとか、もちろんそんなこと凡人のわれわれにはナンノコッチャとしか思えないが、合気道の開祖、植芝盛平がそう言い伝えている。

いわゆる、「無我の境地」ということのイメージが、われわれ東洋人の脳裏にはある/が、無我の境地って何なんだ、寝ているときは意識がないのだから、寝ているときは「無我の境地」か、んなワケないわな、弓道などでも「無我」は憧れの到達点とされるらしいけれど、具体的にどういう状態なのかは、わかるようでよくわかっていない。
無我の境地というのは、「わたし」の中に、「我」が無いということだ、だから無我の境地なのだが、それで単にわたしがカラッポでよいかというと、そういうことではない、「わたし」の中から「我」が失せたとき、「わたし」の中に「主」が満ちなくてはならない、「無我の境地」とは同時に「主に満たされた状態」を指す/だから鉄パイプで頭をどついて気絶させたとしてもその失神状態を無我とは言わない。
さてそれでは、「主」とは何なのだろうか/「我」のほうは、なんとなく経験的にわかる、一般に言う「我が強い」「吾我」「エゴ」と言われているときのそれが「我」だ、では「主」とは何かというと、これは「言葉」の世界であり、「物語世界」であり、フィクションであり、古くから愛や光と呼ばれてきた、天上につながる何かだということになる。
このことは、まず「人より以前に言葉があった」という前提に立たねば、構造的に理解不能だ、人が言葉を発明したという前提では、「我」に先んじる「主」の存在を認めることはできないだろう/もちろん常識的には、言葉は人・ホモサピエンスが発明したものと思われているし、その常識を覆す方法はないから、僕が今話していることのほうが間違っているのかもしれない、だがそれが間違っていたとしても、その間違っているものを僕が採用することには何の問題もない。

我が「わたし」だったり、主が「わたし」だったりする。

「わたし」でない「主」を、崇め奉っていても、何の意味もないというか……そりゃ崇め奉っているときの「わたし」の中身は「我」でギチギチということだろう、そういうことじゃない、「わたし」の中身を「我」ではない「主」にすることができる/「我」がわたしでなく「主」がわたしであるという状態が、実際に成り立ち得るということだ。
誰にでも「我」「吾我」「エゴ」はあるので、「我」はあるか(存在するか)と言われると、「あります」と答えることができる、そりゃ「我が無い人」なんてまず生涯お目に掛からないだろう、だがそれは同時に、少なくとも理論上は、「主」はあるか(存在するか)という問いに対して、「あります」と答えることができるということだ/腹の底や血の奥に、我が「あるなあ」と確かめられるように、天上というか頭上に、主が「あるなあ」と確かめることができる、「我」も「主」も、どちらも珍しいものではなく、どちらも当たり前に作用し、われわれを支配するものだ。

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パーティ報告87(2)/ソウルの委譲
譲というのはヘンな言い方だが、いいのだ、ソウル(魂)は減るものじゃないので、委譲されたものはどんどん行使してよろしい。
今回も、毎回のとおり、夕方から始まってそのままワイワイやり、朝までやって、メシくってウダウダして、昼になって夕方になって……と、えんえん遊び続けてしまったのだが、朝になって、ひとつ偉大なことが確かめられた、これは大げさだが「偉大」と言ってしまっていいだろう。
今になってやはり、僕の言い方、「努力なんてしてもしゃーない、成長なんていらねー、技術じゃねーし〜」という言い方に、ふたたびの確信を得る、本当にまともでナイスなことは、ソウルの委譲で起こるからだ、そりゃ何のソウルにもつながらず、誰のソウルも引き継がずに、自前のガンバリでナイスなことなんて出来ねーよ。
正確に言うと、努力は「必要」で、成長も「必要」、技術も「必要」なのだが、その必要品を揃えたところで、「ナイス」なことにはならないということだ、そりゃ当たり前だわな、必要品なしに跳躍は起こらないが、必要品を集めたところで跳躍は起こんねーよ。

ある女性に、ソウルの委譲が起こって、跳躍、急にカッコよくなったのだ、それはもう、同じ女性から見ても「惚れるわ」というぐらいに、急にきれいに、カッコよくなるのだ。
そりゃまだまだ未熟なものかもしれないが、未熟どうこうはカンケーない、ソウルの委譲が起こったのだから/ソウルが委譲されると、彼女はパッタリと、「オタオタする」ということがなくなった、眼の奥に光が灯った、モノを「言う」のではなく、「話」につながるようになった、「そりゃ大きさは違うにしても、もう引き下がらなくて済むようになったろ?」「あ、本当だ、引き下がらなくてよくなった」。
「妙なことを言うようだけど、オマエの目の前にいるコイツね、これが、オマエの "わたし" なの、人間にはそういう能力がある、これをさっさと、当たり前のことにしないとな/オマエの目の前にいるコイツが "わたし" で、その逆をしてはならない、オマエをこの人の "わたし" にしてはならない、人間にはこの、逆方向への能力もあってしまうから」
なぜソウルの委譲が起こったのか? それは端的に、彼女が社会的にも大変ナイスな、すげー活躍をしたからだ、彼女は教わったことを使い、教わったことのみならず、目の前のことをなんとかしようと、与えられたものを行使したのだ、まあぶっちゃけて言えば彼女は「九折さんを使った」と言える、使えるものを全部使おうとすると必然そうなる/だから彼女は思いがけない活躍の後、内心でそれを与えてくれた人の名を呼んで称えた、それでソウルの委譲が起こった、彼女が自前のガンバリで活躍したのじゃない、人ってそんなにケチくさく出来てねーよ。

努力と成長と技術で跳躍するものなら、僕は一ミリも跳躍していないはずだ。

何しろ僕は、努力なんか一ミリもしないし、成長もしないし、技術なんて重いものは持てないので、いつも手ぶらだ、すべてのことをその場しのぎだけでなんとかしていこうとする、サイテーの不誠実な人物だ/ただ僕は、何でもかんでも、偉大な人のことを「すげえ」といい、偉大な人のソウルを使うからな、それは何といっても、おれ自身はまるで使い物にならねーから、偉大な人のソウルを "わたし" と認めて使うしかないのだ。
「おれはアサシン教団の者だと、いつも言っているが、それはエツィオ・アウディトーレがアサシン教団の者だからであって、エツィオがアサシンならおれもアサシンだ、おれはずーっとそれだね……ところで目の前のテメーにおれのソウルが委譲されているのを見ると、なんか、率直に言ってズルいな!! こんなのテメー、一気にトクをしすぎじゃねーか!!」
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パーティ報告87(1)/慾望の解放
「 "もしお金がいくらでも貰えるとしたらいくら欲しい?" そういう質問に、おれはいつもこう答える、 "おれだけすべてのものを無料にしてくれ" 、そうしたら支払いそのものから逃れられるだろ? 購入という行為そのものから離脱できるんだ、そこまで視えてなきゃ、慾望への向き合い方が甘いよ」
「近所に大キライなババアがいたとする、このババアの脳天を、拳銃でぶち抜きたいか? いや違う、本当の慾望をいえば、このババアが急に佳いババアになるか、いっそのこと最高の美少女に変化してほしい、そこまで視えてなきゃ慾望への向き合い方が甘いよ」
「街中にいる可憐な少女や抜群の美女を、次々にレイプしたいか? いやそうじゃない、本当は、向こうから抱かれに走り寄ってきて欲しい、すべての美女と美少女がおれのことを愛しまくって、そしておれにヤラれることで幸福になってほしい、彼女だけでなくその他すべての人がだ、そこまで視えてなきゃ慾望への向き合い方が甘いよ」
「本当の慾望を考えたとき、しょーもない、何もかもをメチャクチャにして、己の小さな願望を埋めたいということではなく、何もかもが大きなYes、無条件のYesに包まれるようでなくちゃダメなんだ、そうでなきゃ本当に満たされはしない、実際どんなお金持ちが美女を好き放題に連れ回していても、彼らが "満たされている" ということは決してないじゃないか」

「そうして考えると、本当に己の慾望を満たすということを考えたとき、いっそもう、誰も決して死ぬことのない、不死の国、Yesの国、つまり "永遠の国" にでも到達するしかないんだよ、何もかもが愛し合って、絶え間ない歓喜に一切のほころびが生じえない、何も失われることのない、そして時間の流れない永遠の国だ、それに比べたら、資産を一兆円持って十万人の女をレイプしたところで、何がどう "満たされる" わけがあるんだ、慾望への向き合い方が甘いよ、そんな一兆円やら十万人やらで満たされるほど、おれの慾望は甘くないわ」
「おれだって、電車で腰の曲がったババアが立っていたら、座席を譲るぐらいはする、でもそれは善意でもなければ道徳でもない、おれが席を譲るとしたら、おれ自身の慾望によってだ、おれはおれ自身の慾望以外のことは一ミリもやらない」
「そもそもおれは、自分の慾望をガマンしたことが一度もない、 "世界一慾望に忠実な男" と言われていたとおりだ、もちろん慾望をそのままいつも "実行" するというのでは、ただのトラブルを起こすバカだが、そういうことじゃない、おれはこれまでに自分の慾望をガマンしたことが一ミリもない/おれがババアのこめかみを、ひまつぶしに拳銃でぶち抜かないのは、ガマンしているからじゃない、それによってババアが死ぬということが気にくわないからだ、こめかみをぶち抜かれたぐらいで死ぬなよクソがと思っている、そうしたら好き放題にこめかみを銃弾でぶち抜いてやれるのに、もちろんババアのこめかみを銃弾でぶち抜くこと自体は慾望として面白いだろ?」
「この、慾望の解放については、バカに誤解されるのがイヤだったので、このごろ話さなかったのだが、おれはもともとそういう路線だったよ、だが今になっては、逆のほうに誤解されないように、説明する義務が出てきたな、おれは今、両サイドを裸のオッパイに挟まれても、何ら静寂を乱されるものではないが、それは慾望をガマンしているからじゃない、慾望を解放したことの結果として静寂が変わらんということだ、それはおれの慾望が、感受性などというふざけたものでは一切満たされないからだ/おれは己の慾望について一切のガマンをしない、ただおれが静かでいるのは、女のオッパイをいじったところで不穏や不幸が発生するのが大キライだからだ、そのへんはまったくモノが違うのだから、きみなんかはそこを誤解しないように注意だ!!」

「グラビアやアダルトビデオで、オッパイをゆさゆさしている派手な女の子がいても、おれは興奮しない、ただ "このうつくしい子は、こんなことをするために生まれてきたのじゃない" と視えて、やりきれなくなるだけだ」

「けっきょくおれは、 "まともなこと" しか愛せないんだ、不穏なことなんて根こそぎノーサンキューなんだよ、ただな、当たり前のことだが、慾望を隠していたって、抑圧していたって、同じだ、隠していたって、慾望は "ある" のだから/慾望を隠したまま表面上の平穏を作ったところで、本質的には不穏じゃねーか、そこのところを勘違いすんな、おれの場合は、掛け値なしに慾望を全オープンして "この状態" だ、こっそりガマンして取り繕っているのと同じに扱うと単に事実を誤認するぞ」
「南部陽一郎というドエライ先生が、宇宙開闢の秘密の一端を解き明かしたが、この先生が言っていたよ、そこまで研究するのは、知りたいという "慾望" があるからだって、慾望の解放の果てに、宇宙の開闢まで手を突っ込んだわけだ、そりゃそうまでしないと人の慾望なんて本当には満たされはしないよ、スカートに手を突っ込むだけで慾望が満たされるなんてこと、冷静に考えたらあるわけがないだろ?」
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第87回Quali's Party[12月8日(土)]無事盛会!

12/10 Quali tweet> いやあ本当にイイ回でしたわ pls entry

join: ひろみ、ゆか、あきら、ともこ、かなみ、しおん、かず、くおり
日時:2018年12月8日(土)19時〜23時
場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB


おかげさまで無事盛会でした! 次回もよろしくお願いいたします!
うーん今回もナイスだった、今回は特にナイスだったかもしれんなあ〜

九折

キラキラ次回[1月26日(土)]参加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ
(会場側の都合で第四土曜日になります)



→その他詳細はこちらから


宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

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WS報告021(1)/「本当のことあるやなしや」「魂の大きさ」

み上がりだから体力ないかと思ったら全然イケたな!! もっと手抜きするつもりだったのに結局フルでやってしまった。
一つ、身体操作のワークは、思い込みやウソを暴くために学んでいる、一つ、余韻・エコー・フィクションのワークは、 "本当のことあるやなしや" の領域に及ぶ。
「別スタジオでは、別の人々がダンスをしている、演劇をしている人たちもあるだろう、さっき通り道でおばちゃんが自転車で通り過ぎていったけどね、あのおばちゃんも同じ……そうしてすべての人々が、 "本当のことあるやなしや" を探し求めて生きている、そりゃ誰だってそうだ、それは誰だって同じだ」
「これだけ身体操作と、 "こころ" の具体をやってきたら、さすがにふだんの心理や情緒は、以前よりはるかに安定しただろう? それはさまざまな思い込みやウソの呪縛から逃れたからだ、でも本質はそれじゃない、呪縛から逃れた上で、じゃあ "本当のことあるやなしや" になるんだ、ここからは領域がガラッと変わるんだよ」

「共産主義活動が、連合赤軍の流血に至ったり、オウム真理教が、重大な事件を起こしてしまったり、あるいは過去に、ピラミッドを建てた人たちも同じで、また、いい大学を出て大企業に勤めて家族を持って……という人も同じだ、みんな "本当のことあるやなしや" を探し求めて、それぞれ自分の道に賭けている」
「誰でも同じなんだ、だから、本来こんなにバラバラに生きる必要はないんだ、みんな同じなのだから、本来は力を合わせないといけない、さっき自転車で通り過ぎていったおばちゃんだって、 "本当のことあるやなしや" について、力を合わせて話を聞いたりして本当はおかしくないんだ」
「口座に10万円しかない人もいるし、同じ口座でも、10億円もある人もいる、同じ口座なのにだ、それと似たようなスケール差で、魂にも大きさの差がある、所有している魂がということではなく、どれだけのものとつながっているかで、魂の大きさは変わってくる、その魂の大きさに触れたとき、ウオッと感応できるようになること、そりゃ誰だって偉大なものに囲まれて生きるというのに不満なんか持ちようがないんだから、魂の大きさに感応しろ/魂のデカさに、圧倒され、ビビるぐらいがいいんだ」
「魂が小さいというのは、悪いことじゃない、自己が適性サイズに戻ったとき、カギは鍵穴に吸い込まれて適合するだろう、そうして扉は開かれていくわけだ、大きすぎるカギは鍵穴に入らないから/清らかな大河があったとして、自分が飲み干せないほどの水量を引き込んでもしょうがない、自分が飲む水量だけ引き込めばいい、それが "恵みを得ている" ということだ、それが大きな魂とつながっているということだ、大きな魂と小さなつながりを持つだけで十分ということだよ」

「さっき、 "聞く" ように訓練したろ? だからこうやると、ほら、この瞬間、もう力を手放している、こういう訓練をわれわれは積んでいるんだ」

最近は、「呼応法」が大人気で、やりだすとみんなえんえんやりだし、その中で確かに、何かを掴む――掴みそうになる――ようだ、少なくとも "聞く" ということの、端緒はパッと掴める様子で、これはとてもいいワークだ、ただこれを「言葉」でやらせようとすると、まだ各人がシッチャカメッチャカになるが……
そういえば、ブッ壊れた靴の新品と靴下のセットを贈り物にもらったぞ、さんきゅー!! そして今夜はパーティだああああ〜

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