☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ワークショップ業務連絡(19時世田谷公園 21時スタジオ)

掲題のとおり
本日のワークショップは19時〜世田谷公園 21時〜スタジオ(マイレッスン三軒茶屋スタジオ)となりました
よろしくお願いします 九折

そのほか | comments(0) |
推定売春価値2

性はつまり、自分のオマンコが、無作為に多数のオスを惹きつけることについて、一種の全能感を覚えている。
のべつまくなしにオスが寄ってくるのは、うっとうしいのだが、同時にそのことに安心しているのでもある、自分が多数に対して権力を行使する立場だと考えられるからだ/確かに、一発やらせてくれるとなれば、ひざまずいて足をお揉みするぐらいは、初対面の男だってやってくれるだろう。
多くの女性は、本当に、そんなアホみたいな端っこの、力の原理しかわかっていないので、最も平易に言えば、女性は生涯をオマンコパワーで暮らすつもりでいる、だってそれ以上の力は生涯に一度も与えてもらえないからだ。
多くの女性は、この世界のことが何もわからないまま生きていて、ただ漠然と「負けたくない」というわけのわからない強い情念だけで生きている/ともすれば女性は「いそがしい」ということさえ一度も経験しないかもしれない、まるきりオマンコパワー(鮮度依存)が歩いているだけという様相では、女性は常にいそがしさの代わりに「不満」をもって生きているだろう、こんなメチャクチャなことが実際にあるのだ。

女性は、学校の先生が話すことなんか、実はまるで聞いていなくて、自分のオマンコパワーがどれだけ自分に万物をもたらしてくれるか、そのことを夢想しかしていない。
土台がそれなので……たとえば少年に、「この空の、上空100kmまでが、この地球というか、大気圏だな、カーマン・ラインっていうんだ」と話すと、まともな少年は「へええええ」という反応だが、女性に同じことを話しても、「……?」となるのだ、それは大気圏と自分のオマンコパワーは関係がないからだ/とんでもない失礼な話、「キミなら一晩で五万は余裕じゃない?」という話なら、「?」とはならず、ただちに「あー」と納得する、少年は逆にその話には「?」となるだろう。
もちろん女性だって、アホでありたいわけではないのだが、しょうがないのだ、オマンコパワーがそれを許さないという実情がある/たとえば教壇に教師が立ったとき、生徒として起立して礼をするだけでも、女性は少なからず気分を害するのだ、なぜなら女性は自分の方が本質的には高給取りという自負があるからだ(実際、女子学生が売春にいそしめば、教師の月給など遥かに超えるだろう)。
若い女性の推定売春価値が、それなりの金額になることは事実だ、だがその推定金額をもって、自分が「今日も生きた」ということにはならないし、何より学門が一ミリも入らないのは本当にまずい、推定売春価値はオマンコの価値であってあなたの価値ではない。

「美少年のケツ穴と同じ値段だ」と言われると、女性は怒りを覚えるが、この怒りに正当性の筋道はない。

女性がオマンコパワーで生きているというのは、美少年がケツの穴パワーで生きているというのと同じだ、昨今はLGBTのこともよく言われるのだから、ここに性差別は持ち込めないだろう/美少年がケツ穴パワーで生きているというと、とてつもなく救いのないアホというふうに聞こえるが、実はまったく同質のことじゃないか、オマンコを庇護して美少年のケツ穴を誹謗するのではそれこそ性尊厳の侵害だ。
宇宙飛行士の講演に、育ちのよい少年たちが瞳を輝かして聞き入っているとして、それは「鮮度のよい高級ケツ穴が居並んでいる」という光景なのだろうか?/男女に関わらず、学門が入らないのはそれが理由だ、ずっと大前提に、「だって、わたしって、○万円で売れるし……」という文言が掛かっている、そしてその推定売春価値がゼロになったころには、もうすべてのことが間に合わないのだ。

視点変えてこ | comments(0) |
推定売春価値

六歳の、確かに美少年ではある少年が、ホモの金持ちに買われていたとして、「ボクを一晩買うには十万円かかるのさ、それでも予約でいっぱいなんだよ」と言ったとする。
そして、この少年の横を、「国境なき医師団」の方々が、忙しそうに「どいてどいて」と歩きぬけていったら、この少年はまるでアホのクズに見える。
少年の場合なら、こうして冷静に、「それはつまり、ただ変態オジサンたちのツボで、ドハマリしているだけだよね」ということがわかる。
しかしどうも、女性の場合、自分が一晩いくらかということで、大マジに自分の価値を量っているところがある、この売春価値が女性の脳を支配しているせいで、女性はまともに学門に触れることができない。

女性は誰でも、自分が娼婦になることを夢想したことがあり、なんというか、ホステスでも何でもいいので、おじさんから万札を出させたら「自分の勝ち」で、それで立派な上位の「仕事」をしている、と感じるところがあるようだ。
実際にはその稼ぎを得ていなくても、「いざとなれば……」と、身体を売って稼ぎうる金額を皮算用して、推定売春価値、それを自分の値打ちと評価して、自尊心を保っているところがあるらしい。
これがあるから、女性は、アホ扱いされると猛烈な怒りを覚えるのだ、特に若い女性はすべて未然の「上位職」で「高給取り」として存在している、だからアホ扱いされるとまず感情的に堪えがたい火を噴いてしまう。
多くの女性は、実はこの世界のことが何もわからないまま生きていて、だからこそ自分の推定売春価値だけが自尊心と精神安定の支えになっている、ホモの少年なら「きっしょ」の一言で済むところが、女性たちにとっては切実な自分を支えるよすがなのだ。

売春価値は、存在しているが、あくまで一種のジョークだ。

六本木でそういう美人クラブに入れば、女優やアイドルと、十数万から数百万で一発やれるようになるが、そういうのを「すごい!」と感じて憧れる女性は、本当に価値観が何もなく、本格的な意味でバカなのだと思う、「カネを動かすことが価値なのだ」ということしかけっきょくわからない人はたくさんいるのだ、百万円のファーストクラスに乗れば百万円の価値があると思っているとんでもないアホさんが世の中には多数実在する。
変態おじさんが美少年に一発十万円を払ったとして、おじさんは美少年に十万円を払ったのではない、自分と自分の快楽が大好きだから十万円を投げてよこしただけだ/別に売春が悪いわけではないが、さすがに「金銭媒介式オマンコ」を自分の時価総額の主体にするのは救いがなさすぎる、まだ中学校のときの成績が自分の価値だと思い込んでいたほうがマシなぐらいだ。

視点変えてこ | comments(0) |
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 11/15更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第三十五回】11月16日(金)19時〜@寒くなければ世田谷公園
【第三十六回】
11月17日(土)19時〜@寒くなければ世田谷公園
【第三十七回】
11月23日(金)19時〜@世田谷公……いや多分スタジオ
【第三十八回】
11月24日(土)19時〜@世田谷公……いや多分スタジオ
【第三十九回】
11月30日(金)19時〜@世田谷公……いや多分スタジオ
【第四十回】
12月1日(土)19時〜@世田谷公……いや多分スタジオ
【第四十一回】
12月7日(金)19時〜@世田谷公……いや多分スタジオ

【パーティ日】12月8日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)
(雨天時・寒冷期はスタジオを使用します、随時ブログ記事でご連絡いたします)

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第87回】12月8日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第88回】
1月19日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


カッコよくないと
誰も話なんか聞いてくれませんぜ



みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

(ワークショップの各カリキュラムは以下続きをご参照ください)

続きを読む >>
そのほか | comments(0) |
「カッコイイ」ってわかりまーすか
ログの更新が滞っていて申し訳ない。
何にモタついているかというと、「月刊ワーQ」第三号の、編集に手こずっているのだ。
それで、何に手こずっているかというと、それがわからないから手こずっていたのだが、先ほどナゾは解けたので、もう大丈夫だ。
テーマは「軽薄」だったのだけれど、なんというか、だれかれ構わず、みんな「カッコイイ」ということを、ドエライ誤解しているのではないかという気がしてきた、気がしてきたというか、ほとんど確信を得てきたぞオイ、こんなことになってしまって一体どーするつもりなんだ。

なんというか、アレかね、本当にマンガの読みすぎなのかもしれない。
われわれが「カッコイイ」を目指すとして、やってはならないことが五つある、それは、1.おばちゃん、2.中二病、3.お花畑、4.陶酔、5.身内びいき、この五つだ。
今回、思い至ったのだが、おそらくほとんどの人は、「自分自身」について正当な批評を受けたことがないのだ/自分がフワッフワしていることは、他人からはまったくカッコよくは見えないんだぜ、このあたり本当にいいかげんにしないといけない。
うーむ、その意味で、今回のテーマ「軽薄」は、ど真ん中を射抜いていたということかもしれないが、それにしてもこれはどうしたものか/実際的なこととして、人ってマジで「カッコイイ」と思ってもらえないと、まともなことは何一つできんぜ、それって自分が自分をカッコイイと思うこととは正反対だからね。

ダサさを買いに行くとカッコイイが、カッコよさを買いに行くとダサい。

どーもキミらの頭の中には、おしゃれカフェとトレンディドラマを足したような、とてつもないダサいメルヘンワールドが広がっているのじゃないのかね、そういうアホは本当にダメだぞ/カッコイイということは、農作業をしていてもカッコイイということだからな、どうして脳みそが農作業に向かわない、難しい本にゲロを吐いて笑っている無精ヒゲがカッコイイのであって、おしゃれグッズで整えた空間でシュッとしているのがカッコイイのじゃないぞ。
どうも、多くの人が、自分を隠蔽しているか視えづらいのだが、はっきり出力させてみれば、とんでもないカッコ悪さがにじみ出てくるのではないのか、そんなことではダメだ、酸鼻をきわめるぞ/どうも青春をしくじったという心当たりのある人は、きっとカッコよさを誤解して学習しているので、正規にカッコよさを学びなおすように。
正しく見ないとな | comments(0) |
客はバカスカ喰うのが仕事だ2

近は、出世欲を持たない人が多いらしいが、それは無欲になったということではなく、己の生が「闇」である予感(ないしは確信)に、絶望しているからだ。
客はバカスカ飲む・喰う・買うのが「仕事」ということを知らないので、ただ消費気分なのだ、だからその消費というのも「もういいです」と思っている、もちろんそんな誤認のままではどんな暮らしをしていても光輝はわずかも得られないのだ。
まともな経営者は、自分が喰うために経営しているのではなく、雇っている従業員たちを「喰わせなきゃ」と思って経営をしている、それと同様に、まともな客は、自分が喰うために飲食店に来ているのではなく、その店の連中を「喰わせなきゃ」と思って食事に来ている/若い人々へ、これは何も突飛な発想ではなく、割と当たり前の発想だから、そのように知っておいてくれ、自分が飲食店に食事に行くということは、自分が喰いに行っているのではなく、そこの従業員たちを「喰わせに行っている」のだ、そうでなきゃ街には何の値打ちもない。
出世欲がわからない人へ、もしくは誤解している人へ、わかってもらいたいが、正しい出世欲というのは、自分がいいものを喰うために出世したいということではなく、「自分が出世したら、もっと多くの人たちを喰わせられるのに」ということで、出世欲が湧くのだ、自分が喰うことしか考えていない出世欲はサイテーであって、それは自分が喰うことしか考えていない無欲も同様にサイテーということなのだ。

たとえば、当サイトでは、長いあいだ原宿の某店でパーティ企画を継続しており、さすがに原宿で朝までどんちゃん騒ぎをすると、そこそこの金額にはなってしまうのだが、ここで幸福なことに(パーティの連中はよく知っておいてくれ)、われわれの払ったお金は他でもないコバヤシアニキの元に落ちている、自分の知らない誰かのところへ落ちているのではないのだ、このことはきょうびなかなか得られない幸福なのだ。
少々高くついても、コバヤシアニキのところに落ちているなら、「まあいいか」と思えるじゃないか、コバヤシアニキだってたまには旅行ぐらい行くだろう、そのときのホテルのグレードがちょいと上がるだけだ、「街」というのは本来そういう機能のものであって、われわれにとってそうした「街」との接続はとても重要なものなのだ、われわれは自分たちが気分良く酒を飲んでいるのみならず、コバヤシアニキを喰わせているのでもあるのだ、それだからこそわざわざ街に出て飲む酒は旨いんじゃないか。
現代、われわれは、バカスカ稼ぐことが「仕事」だと思わされているが、そうではない、そのような誤解をするように、われわれは誘導され操作されているだけだ、バカスカ稼ぐことはそのまま「稼ぎ」であって、それ自体は「仕事」ではない、バカスカ稼いだ者の「仕事」は、然るべきところにバカスカ使うのが「仕事」だ、このことがわからない人は、怨恨のせいで学門(経済学)がわからなくなっているといえる、よって不思議に「何もかもから嫌われていく」ということが起こっているだろう。
「稼ぎ」を「仕事」と誤認しているから、客としてカネを使うときに、態度がおかしくなるのだ、カネを使う客は店側の仕事ぶりを審査するのではなく、第一に自分の食いっぷり・飲みっぷりという、自分の仕事を審査するのだ、それでこそ「(あなたという)お客さまはカミサマです」という街の思想が現成する/僕がどこでもバカスカ喰ってバカスカ飲むのは、単なる食い意地からではない、ついどこでも仕事熱心だからだ。

自分を生きさせるのが稼ぎであり、誰かを生きさせるのが仕事だ。

だから経営者は従業員を喰わせるのが仕事だし、客は店主を喰わせるのが仕事だ、教師は生徒を生きられるようにしてやるのが仕事だし、医者は患者を生きられるようにしてやるのが仕事だ、生きるのには力がいるのだから、人に力を突っ込んでやるのが「仕事」だ/誰だって寿司を喰えば生きていられるが、それは寿司そのものが為している仕事であって、寿司職人が為している仕事ではない、寿司職人は寿司そのものに生を与えるのが仕事だ、その仕事に長けた寿司職人がいなければ、もちろん寿司はこの世から死に絶えてしまうだろう。
業突く張りにでもならないかぎり、この世に楽しい稼ぎなんて存在しないが、同時にこの世に虚しい仕事なんてない/どんな大富豪が寿司屋を開業したって、それなりのお代を取るだろうが、それは大富豪が小銭を稼ぎたいからではなく、少しはお代を取らないと客の側が「仕事」できないからだ、「仕事」できずにただメシだけ喰って帰ってしまっては、客の内臓はどんどん真っ黒に澱んでいくだろう、その場で職業をやるのは職業人だけだが、仕事というのはどこでも万人がしているものだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
客はバカスカ喰うのが仕事だ
のことを知らないと、本当に追い詰められてしまうので、ぜひどうぞ勉強してくれ。
寿司屋は寿司を握るのが仕事であって、客からカネを取るのが仕事ではない。
客から二倍のカネを取れば、利益は二倍以上になるかもしれないが、それで寿司屋は二倍の仕事をしたことにはなっていない。
繰り返す、客からカネを取るのが寿司屋の仕事ではない、なぜなら、<<カネを払うのは客の仕事>>だからだ、客はバカスカ喰うのが仕事で、それによってバカスカ払うのが仕事だ/この感覚がわかっていない人は、本当に追い詰められてやがて滅んでしまうので、ぜひどうぞこのことを勉強してくれ、少し考えればわかることだ。

トリニティ、三角形の循環で考えろ、まず客はバカスカ喰って、バカスカ払うのが「仕事」だ、そのお代金によって、寿司屋はバカスカ仕入れ、バカスカ寿司を握るのが仕事になる。
そして、握られた寿司そのものは、バカスカ艶めき、バカスカ客の口に飛び込むのが仕事だ、それを客がバカスカ喰う、すると客はバカスカ払い、寿司屋はバカスカ仕入れるようになり、またバカスカ握る、握られた寿司はバカスカ艶めいて、バカスカ客の口に飛び込んでいく/こうして「仕事」というのは、トリニティの三者が「力の無駄遣い」をすることに本質がある。
力の無駄遣いをするので、このトリニティに属する者は、力(重さ)を減らしてゆき、身を軽くしていくという循環を得る、それが本来の「仕事」だ/「仕事」は「稼ぎ」ではないのだ、仕事は力の無駄遣いによって生じ、稼ぎは力の出し惜しみによって生じている、三者が稼ぎに向かって力を出し惜しみすると、客は少なめに食べ、寿司屋は少なめに握り、寿司そのものは少なめに艶めくことになる、稼ぎを仕事と誤認するとこのように闇のトリニティに落ちていってしまう。
バカスカ喰ってくれる客は、寿司屋から見て「なんて愛おしいお客さんだ」と光って見える、バカスカ握ってくれる職人は、寿司そのものから見て「なんて愛おしい職人だ」と光って見える、バカスカ口に飛び込んでくる寿司は、客から見て「なんて愛おしい寿司だ」と光って見える/客は喰って払うことに力を尽くし、寿司屋は仕入れて握ることに力を尽くし、寿司そのものは艶めいて客の口に飛び込むことに力を尽くしている、力(重さ)が尽きてゆくので、そこには悟性と愛と光が宿る、ここに属する三者は光によって励ましを得つづけるし、そうでないものに属する三者は闇によって憎悪を得つづけるだろう。

腹一杯喰うのが客の「仕事」と知っていないと、胃腸はまともにはたらかない。

もちろん健康被害が出るほど喰ってはいけないが、とにかく大満足まで喰うのが客の仕事なのだ、それが「仕事」だというのがわからないと、仕事をして生きることは行方不明になり、とてつもなく苦しい生き方をすることになる/バカスカ喰うのが客の「仕事」だとわかっていないと、自分が寿司屋になったときも、自分が何の「仕事」をするのかがわからないのだ、そうすると何の仕事も為さない寿司を握ってしまうことになる、そうすると仕事は虚しいので、「二倍のカネを取れないかな」ということばかり考えるようになり、そうなるともう胃腸どころじゃない全身と五臓六腑が黒く落ち込み澱んでいく。
食い逃げした客は、稼ぎという面では最大の利益を得るが、「仕事」の面ではドマイナスなので、身はどんどん重たくなっていく、倍のカネを取ろうとした寿司屋も同じだ、仕事でなく「稼ぎ」を主義とするぶんにはそれでかまわないのだが、それを「仕事」と誤認してはならない、誤認すると稼ぎ面の有利さの中で身が重くなっていくことに了解不能になってしまう、仕事を縮小して稼ぎを倍にした人に清澄のまなざしをした人はいない、それは金銭的には(力的には)有利だが決してラクということにはならない。
正しく見ないとな | comments(0) |
強さのフェーズ来たれり

ろいろあって、「強さ」というテーマが必要なフェーズに来たと思う。
もともと僕は、「強さ」ということを推したかったのだが、ここまで「感受性」の理論が突き詰められないと、「強さ」説を推すことができなかったのだ/多くの人が、「強さ」を「感受性」にすり替えて錯覚するので、ここまで長いあいだ、「強さ」説は隠匿してきたことを確認する。
感受性を引き下げて、悟性の照見を得ようとするアプローチを、「リデュース」と呼んでいる/感受性が盛(さか)っていると、物事は「目につく」ばかりで、実は「見えなくなる」からだ、だから感受性を下げるという意味でリデュースと呼んでいる、まあ呼んでいるだけで、誰もまともにできないんだけどね(けれども、できないからこそ、理を先に学ぶ必要があるのだ、できているなら学ぶ必要はねーよ)。
このリデュースが為されるのは、ひとえに「強さ」によってであると断じてよい、もう僕に親しんでくれている人は、誤解しないだろう、「強さ」というのは感受性が盛(さか)って妄信的・やけくそになっている状態を指すのではない、ヤバさや虚しさから目をそらすのは強さではなくて弱さだ、感受性は「見えなくする(目をそらす)」のに機能しているので、感受性のヒートアップは人を弱さに引き込んでいるだけだ。

すべてにおいて、改めて考えろ/ただし、「もし自分が、メチャ強かったらどうか」という視点で考え直せ。
「強い」ということは、デカいことを軽々と為すということだ、すさまじい集中力とエネルギーを、軽々と発揮しつづけるということだ/逆に弱いということは、小さなことに重々しく潰されるということだ、わずかな集中力もエネルギーも、自己陶酔なしには引き出せないということだ。
特にワークショップの連中は、リデュース法を実践してみて、まったくうまくいかないとき、それだけ自分が「弱い」のだと思い知らねばならない、これは公式化してよい、「リデュースができない、わたしはこんなに弱い」ということだ、またいちいち自分の弱さにショゲるぐらい、根こそぎ弱いのを自分に甘やかしてきたということでもある。
今世の中には、ギャーギャーわめく人がいて、「絶対に許さない」とか「絶対にやりたい」とか言っていたりするのだが、これは善悪のどちらということはさしあたり無視して、強いか弱いかでいえば確実に「弱い」ほうだ、強い人というのは鼻歌を唄いながら、けっきょく「なんとかしてしまう」人なのだから/弱い人は必ず、1.ギャーギャーわめくか、2.ギャーギャーわめくのを抑圧して、そのぶん作り物の人格になるかのどちらかだ、何にせよリデュースという実践を前にして、これまで蓄積してきた弱さの決算が明るみに出ようとしているのだった。

強さにシフトしろ。

まったく、どこの誰が何をどうたくらんだのか知らないが、どこかの誰かが、人を弱くする術に長けている、それにしてもその術にあっさりやられてんじゃねーよ、弱いってのは疲れるってことだぜ、疲れやすくなっているのを内心でごまかしている人は、その疲れやすさが弱さから生じていることを己に見切らなくてはならない。
強さは力じゃない、当たり前だ、強さと力を区別しろ、「強いなら力は要らないでしょ」が正だ、「力を手放せるのが強さ」だ、どれだけ大きな力を手放せるかが、その人がどれだけ強いかの実際的な値だ、逆に力の溜め込みが、その人の弱さの実際的な値になっている/闇雲に強くなれと言っているのじゃない、人はそんなに強くなれないだろう、けれども、強さと力を混同してはならない、よりにもよって自分の弱さと強さを逆転したまま生きることになってしまうからだ、たとえ己があまり強くなれなかったとしても、強さと弱さの何たるかを正しく理解だけはしておこう。

正しく見ないとな | comments(0) |
パーティ報告86(4)/基礎教育のコーナー「仁」

「それでは、ヴェジ青年をターゲットに、基礎教育のコーナーを始めまーす、みんなヴェジ青年を当て馬に、勉強するよろし」
「こんなことね、本来は、理屈で伝えるようなことじゃないんだけどね、ジンギレイチシンって知っているか、なんとなく聞いたことはあるかね、モッカドコンスイと同じような記憶で」
「儒教の基本、五徳ってやつだな、仁義礼智信、さてじゃあ一つ目の『仁』はわかりますか、『仁』ってなんじゃらほい」
「わからんか、そうだな、そういうもんだと思う、『仁義なき戦い』とかのタイトルは有名だけどな、じゃあ仁義ってなんぞやと言われると、実は誰もよくわかっとらんもんだな」

「仁というのは、単純には『思いやりのこころ』だ、自分の損得や感情とは関係なく、誰かのことを『かわいそうやん』と思うようなこころだ」
「義というのは、正義うんぬんでわかりやすいように、自分の損得や感情とは関係なく、人として『やらなあかんことがあるやろ』と見つけるこころのことだ」
「たとえば、電車で優先席というのがあるよな、ご老人や身体のお悪い人に席を譲るというやつ、あんなもんな、アホの話だぞ、優先席であろうがなかろうが、電車の座席なんか全部優先席じゃ、目の前にしんどそうなババアが立っていたら、『かわいそうやん』と感じ、『人としてやらなあかんことがあるやろ』と見つけないといけない、そうでなきゃ頭がパーだよ、これ基礎教育ね、とにかく理屈だけでも頭に叩きこんでおけ、仁と義だ」
「電車では、高齢者に席を譲るのが『マナー』とか言われているけれどね、こんなもんアホの発想であって、地獄行きの発想なの、何がマナーなものか、マナーって『方法』ってことだぞ、そんなもん、マナーであろうがなかろうが、目の前にババアがしんどそうに立っていたら、かわいそうだから『どうぞどうぞ』って席に座らせるだろ、マナーなんか要らんのじゃ、人々に思いやりの機能が失せたことを、マナー強制で補ったフリをしても無駄だ、諦めて地獄に落ちろ、いいかヴェジ青年、思いやりがない奴はクソだ、どれだけマナーがある善人のふりをしても、内部で思いやりのこころが機能していないものならクソなんだ、クソなものはクソと断じろ、自分がクソになる可能性も引き受けてクソはクソだと堂々と断じろ/いいか、おれは少なくともそう『教えた』ぞ」

「仁のこころを、言われてみると、持っていないだろ? それを持っていないってことは、自分が仁のこころを向けられたときにも、向けられたそれをすべて見落としているってことなんだ、それが一番まずいんだよ、見落としてきた分だけ、帳簿は真っ赤っかになっているぞ」

「ここしばらくで、己の仁のこころが発揮されたのはいつだ、どのときだ、思い出してみろ/って、こうして具体的に言われてみると、特に『ない』だろ、それがないってことは、仁のこころがないってことなんだ、こんなもの自然発生はしないんだよ、どこかでしつこく教育されないと、仁のこころなんて学べないんだ、そしてそれを教わってきていないってことは、思いやりのない世界を生き続けるってことなんだよ」
「半年かかった商談が、ようやくまとまって、金曜日におめでとーってなって、酔っ払って帰ってくるおっさんが、歩き煙草もできないのはカワイソーだろ、ガム噛んで帰れってのか? それが『カワイソーだけれども、どうかここは……』と、痛ましく思いやりながら、なおも言い渡すというのであれば、まだ歩行喫煙禁止区域というのもわからんではない、けれども、それを『正論』と思って言い放っている奴は、もう気が狂っているんだ、おれが狂っているか向こうが狂っているかのどちらかだよ/善悪と仁、善悪と思いやりは、まったく関係ないからね、おれは一ミリも善人ではないが、仁のこころがないのは単に性能の低いアホだと思っている、お前らも、別に悪い奴になってもいいから、仁のこころを学んで持てよ、いいか覚えておけ、いくら善人ぶったって、それで仁の代用はできないからな、今世の中には、仁義礼智信をことごとく持っていないポンコツが、己の低性能をごまかすために、必死で善人ぶっているというパターンがあふれかえっているんだ、そういう奴になってごまかしで生きるのはやめろよ」

そのほか | comments(0) |
パーティ報告86(3)/都(みやこ)にはすべてがある
の他いろいろ……「お前は、やさしさに目をつけていたよな、やさしさというのは堂々としたひとつのジャンルで、それだけですべてを解決するぐらいの光を含んでいる、やさしさに目をつけるのはいいセンスだと思うよ」
「力が掛かると、物事はバラバラになる、今目の前で見たとおりだ、よく知っておかないとね/感受性は、必ず『力』に帰依して生じている、だからバラバラになる」
「そういえば、わたしは、初めて来たときから、不思議だったんです、 "ふつうこれぐらいの人数になると、各所のグループに分かれてそれぞれが好き勝手に話すものなのに" って/ずっとこの、一体感が続いているのは本当に不思議です」
「なぜだろうな? おれの中には、なぜかずっと、一つの街のヴィジョンがあるんだ、今になってわかるけれど、これは『都(みやこ)』なんだ、さまざまなものが死に絶えてきたけれど、都には何もかもがあるんだよ、青春戦士説も自己の超完成説も、都には残っているんだ」

「おれは、人口の流動があるというか、文化の流路がある街が好きなんだ、港町なんか典型的だね、そして、ご神体というか本尊というか、そういう山や、おっかない大きさのものを、背後に抱えている街で、人はやさしく、うつくしくなると思う、おれはそういう街が好きなんだ、ずっとそういう街を探しているような気がするよ」
「わけのわからないものを、わけのわからないままブッ込むんだ、認識(観測)したら、もう間に合っていないからね、おれがおれの認識の内から、『見上げてごらん、夜の星を』とか言い出したら、そんなのキモチワルイだけでしかないだろ」
「わけのわからないものを、わけのわからないままブッ込んでいるはずなのに、なぜか成り立ってしまう、なぜか支離滅裂の荒唐無稽にならないということ、それが本当に "何かとつながっている" ってことだね、おそらくはそれが時間軸上の『現在』とつながっているってことなんだ、そのレベルで(認識未然の自分で)何かが成り立っていないと、けっきょく何もモノにはなっていないんだよ、キビシーけれどしょうがないわな、どうせやるならそうしてホントのところに向かっていかないと」
「ガンガンガンガンガン」「どっ、どうした!?」「いや、あの」「なんや急に、こんなん乱射事件やないか」←これが今回最大の笑いだったかな。

都にはすべてがある/よっておそらく、パーティの最中は、われわれはその都につながっている。

「横隔膜を代筆するというかね、正しい言葉遣いをブッ込んでみると、こういう……ドエライ空気になってしまうわけだけれどね。でもいっそ、この神妙の気配にまみえるをもって当夜会の醍醐味の本とするは如何? おい誰か何か言えや、オメーらはそもそも当代一流の文学者をだなあ(以下略」「ワイはその気になれば、なんJ語と淫夢語録だけで小説を書くことも可能やで〜お前らはbiimシステムも知らんのか、まあ戻ってこれなくなるのはやめてクレメンス、おれは流行っているものには一通り手をつけてみるからね」
今回のパーティは、僕自身にとって、客観的な収穫がたくさんあった、やはり「言葉の獲得」を大目標に進んでいるのは、大前提としてナイスだったようだ、とってもよくなってきたんだろうね、これからもどーぞよろしくお願いします。
そのほか | comments(0) |
パーティ報告86(2)/「のめり込めないようにデザインされている」
の大戦の中で、日本は「君が代戦士説」という思想で戦った、けれどもこれは物理的には敗北したので、矛を収めねばならなかった。
その後、「革命戦士説」という思想が出現したのだが、これは連合赤軍の同士討ちリンチや、親玉であるソビエトのアフガン侵攻やソビエト連邦そのものの解体によってポシャり、「革命戦士説」も引き下がらねばならなかった。
一方、そうした世俗から離脱して、解脱に至るのだという「自己の超完成説」を元に、カルト宗教が流行したのだが、これはオウム真理教の暴走とクラッシュによって、「危険だ、論外だ」という烙印を押されることになった。
あるいは、高度経済成長からバブル景気の中、「24時間戦えますか」のCMに象徴されるように、「モーレツ社員説」「ジャパニーズビジネスマン説」が掲げられた、これはバブルの破綻でダメージを負いつつも、しばらくはモノづくり日本の中で生き続けた、けれども今日になって、製造業が中国・台湾・韓国に対して競争力を失っていくと、この説では戦えないということになり、戦旗は引き下ろされた。

80年代あたりは、「青春」に生の肯定たる光を見いだす「青春戦士説」が台頭し、その青春は、多く「スポーツ戦士説」と「アムール戦士説」に二分された、スポーツの戦いの中で、越えられない壁を越えるのが青春だとされ、また、少年は少女への恋の中で、越えられない壁を越えるのだ、それが青春だとされた。
けれどもこの説も、現在すでに絶滅したとみなされてよい、このアムールとスポーツの青春戦士説は、「ねるとん紅鯨団」あたりから顕著になり、マンガ「スラムダンク」あたりをピークとし、その後もB'zやミスチルやユーミンやサザンや槇原敬之に支えられながらも、東日本大震災あたりでバッサリと死に絶えている、なぜ震災と青春が関係あるのかはわからないが、原発の安全神話が虚構だったと思い知らされることの中で、重大な人間不信・世の中不信を負ったということは有為にありうる。
青春戦士説には、「ちっちゃなころから悪ガキで」「盗んだバイクで走り出す」「ビー・バップ・ハイスクール」のように、「不良青春説」の戦士(カウンターカルチャーの戦士)もあったが、これもすでにDQN産業に食い込まれて死滅した、一方でファミコン文化やアニメ文化に代表されるサブカルチャー戦士も、ユーモラスな存在としてありえたが、これはオタク文化に変質し、オタク文化がオタク産業になって収益を狙われる段になって、戦士としての力は失われ、ただ搾取される対象になった。
「こうやって、さまざまなものが否定され、ある意味、殺されてきたんだな、こうしてすべてのことに対して、"のめり込めない自分" が作られてきたんだよ、国粋もダメ、宇宙船地球号もダメ、個の解脱もダメ、仕事人間もダメ、青春もダメ、スポ根もダメ、恋あいもダメ、不良もダメ、オタクもダメ、何にも "のめり込めない自分" が、時代の趨勢を経てデザインされてきたんだ、だからそんなものを自分の自然体と思い込まされちゃいけない、ある意味、オウム真理教なんかに対しても、 "のめり込んでいた" という一点については見習うべきなんだ、あとはのめり込んだ自分自身に対して、どれだけ軽薄で居続けられるかなんだよ」

「前のめりで生きないと、逆に危険だ」と、僕は何度も言った。

「ついこのあいだまで、イチロー・ナカタ説と、ジョブズ説が力を持っていたけれども、それもすでに力を失ったね、じゃああとには何が残っているかというと、本当に残っていないんだ、もう自分の部屋でずーっと好きなものだけつまんで暮らしていたいってことしか残っていないんだ、いわば『健康と快適説』だけれど、こんなのもう戦士じゃないし、もはや説でさえないよ」
「前のめりで生きないと、逆に危険だ」と、僕は何度も言った、その後もずっと話し続け、本当の意味が伝わったのは二十四時間後だった、本当の意味が理解されると、理解した人は顔色を失って、「こんなのめっちゃ危険じゃないですか!」と戦慄した、ある女性は「そんなの本当に死んだほうがマシよ」と言った/「ある種の死は、突然やってくるんだ、なぜかその日の夜から、これまで大切だったものが、急に『大切に見えない、大切に感じられない』ってなるんだよ、そうなるともう大半は戻ってこられない、だからわれわれは相当な覚悟をして、戦わないといけないんだよ、まったく厄介なことになってしまったわけだ」。
そのほか | comments(0) |
パーティ報告86(1)/恋あいと女の子のフェイク
回の特徴は、フハハハもちろん、このおれの聖誕祭であった。
と、吹聴するつもりだったのだが、本当に大量にプレゼント群をブッこまれてしまい、逆にビビらされてしまった。
ふつう、みんなからプレゼントというと、こういう場合、一人あたり500円ずつ出し合って……という感じになるじゃないか、それがオメー、本当に一人ずつからブッこまれると、本当に抱えきれない量になるじゃん、まさかこんなことになるとはな、ちょっとスターの気分がわかった気がするぜ。
そういうので、いちいち感動感激するとかいうのは、おれの立場上ダサいと思うので、いちいち感動感激はしないが、とにかく何かがスゴかったぜ、こんなフルスロットルで誕生日を祝われる奴っているのかね、これなら毎月聖誕祭でいいやと思ったのだが、それだと人の十二倍年齢が進んでしまうのでやめておこうということにした。

恋あいのことについて、少し話した、男性陣がググッと寄ってきて笑、まあでも割とまじめに話した/「女性は、チヤホヤされることに弱く、チヤホヤしてやると、女性はそれなりに浮かれる、それによって男性は好感度をゲットすることができる、けれどもこれは負け筋なんだ」。
「というのは、なぜかというと、女性はチヤホヤされると浮かれてしまうのだが、そうして浮かれる自分のことを――自分を含めたそういう女のことを――、あまりよく思っていないんだ、特に賢明な女性ほど、そうした "アホ女" である自分をやめたいとこころのどこかで思っている」
「この矛盾が、恋あいを背後から支配しているんだ、女性はチヤホヤしていやるとアガるのだが、そうしてアガることを自分で軽蔑もしているんだよ、それでいてたいてい、チヤホヤされるとアガることを、女性はやめられないのでもある、だからこちらの戦法を採ると負け筋なんだ、チヤホヤでアゲる戦法は、急速に好感度をゲットしていくけれど、そうして盛り上がっていった先、最後は断絶の谷で『ゴメンナサイ』となってしまう、あるいはそのまま付き合っても、半年とまたずクラッシュしてしまうだろうな、もう二ヶ月ぐらいで盛り下がってしまって、『なんか超めんどくさい』ってなってしまうんだよ」
「男性は、何かに打ち込んでいたほうがいいということですかね」「そうだな、それはもちろんそうで、しかしより本質的には、男性は感受性から離脱して何かに驀進しているべきなんだよ、<<女性は多く感受性の支配から逃れられないから>>、自分を感受性から引きちぎって別のところへ連れて行ってくれる人を探しているんだ/感受性で昂ぶる男性は、女性からみて "共感しやすい" 存在なんだけれど、女性はそういう男性を "付き合いやすい" "絡みやすい" とは感じたとして、特別に尊ぶ存在には感じられないんだ、女性は男性に共感したいのではなく、呆然としたいんだよ」

女の子の夢見る恋愛を、蹴っ飛ばしてくれる男が恋あい対象だ。

女性は多く、感受性の支配から独力で脱せないし、またそれが感受性による支配なのだという仕組みも知らない、そんなことを知っているわけがない。
女性は、自分が感受性に支配されているなんてことは知らないのだが、そのくせ、自分が感受性の中で見る理想の夢を、「何か違う」「たぶんこうじゃない」とも思っているのだ、男性から見ればひどいフェイクということでもある、それはしょうがない、女の子は男をだましたくてだましているわけじゃない、そもそも女の子が男をだまさないなんて、前提に希望する男がアホなのだ。
そのほか | comments(0) |
WS報告018(1)/
ずお詫びとして、先に言っておくが、「月刊ワーQ第三号」の編集、間に合わなかったよ! パーティに持っていけないや、ついさっきまでガンバっていたんだが、ムリムリ、今回はすまんがフツーに飲ませてくれやあああ(すいません……)。
後半のスタジオでは「余韻手渡し法」をやった、ここまでの集大成の感じはある(誰もできねーがおれは超できる)。
金魚法は、なんかところどころ上手なのがあったな。
うーんワークショップ報告といっても、眠いのだよ!! また後日でいいかな!!

命令法における「命」、「Yes」というのは、究極的には「わからない」ものだ、わからないものをブチこんで初めて本当に面白くなる。
ああああ、ワークショップと関係ないが、両極の座標ではなくて、原点Oが……(意味不明)、とにかく本当の到達点はまだ先だ、もうはっきり見えているから安心しろ、見せることはできるがまず誰もできないであろう。
もっと基礎的なレベルでは、「一緒にモノを運ぶ」ということさえ、きちんとできていなかった、相手のズッシリ感をちゃんと見ようね。
最後になって、生まれて初めての「言葉」の獲得に至った人がいた、そりゃポロポロ泣くのもわかるぜ、そして言葉を正しく得て使うと、やはり何か悪霊的なものがスカッと軽減されるな、すんげえ威力だと改めて思った。

横隔膜の代筆をしてやる。

自分の得ている体験、空間、世界、慈愛、学門、感謝、感動、等々、言葉に出来ると思ったら大間違い、ものすごい量の勉強をしないと、言葉って獲得されないのだ、さしあたりおれが代筆代弁をしてやるが、まあこの先は勉強につぐ勉強だな。
命令法は本質的に、人に触れているのではなく空間に触れている、わからないものをわからないものにわからないままブチこんでいるのだ、うーんもう今日は酔っ払って全部忘れてしまおう、みんな今夜はよろしくね。
そのほか | comments(0) |
第86回Quali's Party[11月10日(土)]無事盛会!

11/12 Quali tweet> 洪水のように祝福されて草 pls entry



(またポスター作れんかった、しゃーない切り替えていけ)



joined: ひろみ、りさ、あきら、ゆか、ともこ、かなみ、やじー、かず、ゆうさく、マナセ、つかごん、くおり
日時:2018年11月10日(土)19時〜23時
場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB


今回も無事盛会でした、ありがとうございます!
めちゃくちゃ祝福されて恐懼のきわみでした、うーん、恐懼とかいうのはウソだけどな、お前らよかったな!! この偉大なるおれを祝f(ry
次回もよろしくお願いいたします! 九折


キラキラ次回(12月8日[土])加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
「現在」を認識することはむろんできない
生日だということで、お祝いされて、箱根に一泊してきた、箱根はもういつものところに投宿し続けている。
今回は、飲めや歌えではなく、とにかく湯に浸かりたおしてきた、僕は恢復に快楽ではなくネイチャーが必要なタイプだ、繰り返し湯に浸かって山の麓を歩かせてもらうと一気に恢復した。
帰りに、新幹線を使わせてもらったのもよかった、小田原から新横浜なら16分で着くんだな、ワープしたみたいでびっくりだ、新宿からロマンスカーで行くのはいつもステキなのだが、新宿の雑踏を抜けるのがやや疲れるのだ、温泉帰りに巨大な広告群の中を歩きたくない。
それでまあ、帰ってきたが、この気温でも汗が出る出る、ふつうこんなに入湯すると湯あたりをするものだが、こんなことにも慣れがあるのだろうか、オッサンがもはやアルコールに悪酔いなんかしないように、いつのまにか湯あたりというのも深刻にはしなくなった。

これから月刊ワーQの編集をして、僕自身も寄稿して、明日はワークショップで、明後日はパーティか、しかしもう体調は万全だ、身体は動く動く、こりゃいくらでも遊べるだろう/ということで、たくさんの人の祝福とバックアップに、まとめて御礼申し上げます、まとめてというところがひでえ横着だが、まあいいだろう、僕が横着でなかったためしはこれまでに一度もない。
明日はワークショップで、基礎から確認し直して、あとそろそろ、慣れてきた人には次のステップに進んでもらおうかな、テメーらが接触しているのはまだまだ奥義なんかじゃねーよということを、また目撃してもらってため息でもついてもらおう。
忘れないようにメモしておこうかな(ひどい記事だ)、命令法は空間そのものに触れているというのが本質だし、金魚法は「何もしない」がイコール「止まらない」ということでもある、釣り合い法はある意味、「相手を掴んでいないから接触している」ということでもある/「止まらない」ということは「未来に進んでいる」ということでもあり、未来というのはつまり、永遠にやって来はしないものだ、やって来たらそれはもう現在だからな。
われわれは、現在そのものを認識する能力を持たない、なぜなら「認識」という機能そのものが、時間を消費するからだ、云わずもがなゼロ秒で認識はできないのだから、「現在」のつもりで認識している瞬間は、それが認識である以上すでにコンマ何秒か「過去」だ、だから「現在」の中を活動しようとすると、認識が発生する以前の中で活動するしかない、これを未来法と呼ぶ……べきだが、まあどう呼ぶかはまだやってみないとわからないな。

ピッチャーが球を投げる前に、一塁に走ってよい。

人間は、しょうもないルールにあっさりと縛られるもので、ピッチャーの投げた球をヒットしてからしか、一塁に走ってはならないと思っているのだ、そんなアホなルールはこの世界のどこにもないぞ、ピッチャーがまだ球を投げていなくても、おれはとっくに打ったのだ、それをお前らが認識できていないだけで、そのお前らの認識に都合して物事を決めようとするから、物事のすべてはガッカリ残念の虚しいカスみたいになってしまうのだ/まあヒットを打ってからしか一塁に走ってはならないというのは、百歩譲ってわかるとしても、ヒットを打つのにわざわざピッチャーが球を投げるのを待つのかね、そんなヒマなことをしている時間がどこにあるんだ。
もし、ピッチャーが投げる前にバッターが走ったら、「野球にならない」ということであれば、それはもう出来合いの、誰かがやった「野球」を二番煎じでなぞっているのだろう、もうちょっと自ら能発的に物事をやったらどうだ、辞書に載っている野球は過去の野球であって「現在」に営まれている野球ではない、そうして一度たりとも「現在」に踏み入らずに最期まで過ごすつもりか。
視点変えてこ | comments(0) |
ささやかに見えて決定的な「みんな視点」
生日ということで、メールをもらって、「みんな九折さんのことが大好きです!!」と言われると、とても安心するということに気づいた。
別に僕でなくてもいいのだ、肝心なのは「みんな◯◯のことが大好きです!!」という、「みんな」のことのほうだ、みんな出川哲郎さんが好きで、みんな今上陛下が好きで、みんなこの街が好きというような、「みんな視点」が愛であり平和なのだと気づいた。
いつも思わされることだが、大きな違いは、一見ささやかに思えるところに現れるものだ、「みんな◯◯のことが大好きです!!」という発想は、それ自体に祝福があり、この発想は誰もが持てるものではない。
自分は◯◯が好き、という、自分視点しか持てない人は、数多くいるはずだ、この人は生涯「みんな」という体験を得ないまま生きることになる、そりゃ他人の好きなものに視点がゼロで、自分が好きなものだけに視点100パーセントなのだから、自分以外の誰かと共にあるということは生涯一度も得られないし、そもそもそれはそういうことを得る必要がないタイプの人だろう。

逆に考えると、たとえば「しょせんカネじゃね?」「女なんてヤレたら何でもいいっしょ」と考えるタイプの人は、その人にとっての「みんな」がそういう存在だということなのだと思う。
「みんなカネが欲しいんスよ」と言われると、「なるほどなあ」という気がして、こちらにもやはり一種の安心感がある、僕と向かう先は違うのだろうが、不安定ではなく、本当に純粋にカネだけをすべてにして進んでいくのだなあということがよくわかる/これは単純に、信仰が違うというようなことであって、僕は他人の信仰に口出しする気にはなれない。
本当に、「男なら誰だって(みんな)、おっぱいの大きな女の子が好きでしょ」「むしろ女を選ぶ理由の半分くらいがそれじゃね」と、「みんな」のことを確信している人も世の中にはいて、そういう人を見ると、「この人はそういう人を "みんな" にして生きていくんだな」と、逆に目覚ましい思いがする/それぐらい、「みんな◯◯が好き」という「みんな視点」は人によって違っており、それぞれが住む世界を隔てている。
「みんな視点」が持てない人は、生涯「みんな」という体験は得ないだろうし、「みんな視点」がギトギトしている人は、そういう「みんな」の中を生きていくのだろう/僕は勝手に「みんな愛と学門が好き」と捉えていて、僕が言うときの「みんな」はそれだ、その埒外なある人のことを、僕は「みんな」の中に取り入れられない、僕が娯楽とストレスのパチンコ屋で「みんな」の中には入れてもらえないことのように、「みんな」という現象は仕組みで括られている。

「みんな◯◯が好き」という視点が持てない人は、どこに行っても「みんな」の中には入れない。

「みんな」の中に入れないというより、そういう人はそもそも誰かのところへ行く必要がないのだ、自分の好きなものしか見えないと定義されているなら、誰かのところへ行ったって、けっきょく自分の好きなものしか見えていないのだから同じだ。
「みんな◯◯が好きなんですよ」というのは、よかれあしかれ平和だ、ただし愛があるかどうかは別で、「みんな学門が好きなんですよ」ならば愛の世界に住んでいるだろうが、「みんなカネが好きなんですよ」ならば力の世界に住んでいるだろう、ずっと愛の世界を行く人もあれば、ずっと憎悪の世界を行く人もあるわけだ/あなたの世界は、みんな何が好きだろうか、あるいは「みんな」はなく、あなた一人だけが何かを好きなのだろうか。
正しく見ないとな | comments(0) |
まともなことを当たり前にやっていこう
、いつのまにか、もう誕生日の前日が終わってしまうじゃないか。
何かもっとこう、大晦日的な気分に浸ろうと思っていたのに。
今、「月刊ワーQ第三号」の、編集作業をしている、その作業をしながら、「まともなことを当たり前にやっていこう」と思った、同じようなことをこれまでに何百回も思ってきた気はするが……
まともなことを、当たり前に、かつ手抜きせず、軽々と、しかも膨大に、他人から見たら「まじかよ」と言われるぐらいの量を、やっていこうと思った、つまり何もかも「今までどおり」だな/おれが自分自身、一番頼りにできるのは、超能力のたぐいではなくて、「まとも」というところからいつまでも剥離しないところだからな。

せっかく東京に住んでいるのだし、身体も健康なのだから、楽しいパーティは、あったほうがいい、そりゃ当たり前だ。
ワークショップみたいなものも、役に立つなら、あったほうがいい、やりがいがあって希望があるなら、希望が実現されるまでやったほうがいい、そりゃ当たり前だ、この当たり前のことから目を背ける尤もらしいだけの不毛に、僕は最期まで唾を吐き続けたい。
よくない趣味にえんえん耽ったり、足しにならない中途半端な努力をしたり、人とのつながりを閉鎖的にしていったり、していていいわけがない、まともなことをまともにやるべきに決まっている、そのことも含めて「当たり前のこと」だ、当たり前のことから当たり前の果実を得る当たり前の奴で僕はありたい。
僕はきっと、人より好き勝手に生きてきて、今も好き勝手に生きていると思うが、せいぜい年長者として教訓を垂れるとすれば、「まともなこと」をやるというのは「他人にやれと言われたこと」をやるということではないということだ、他人にやれと言われたことだけをやっているのは、とても危険というか、とても不毛なことだと思う/他人にやれと言われてやったことを、自分の「やったこと」にカウントしてはならない。

当たり前のことを、何億でもやろう、そして当たり前だからといって、「やらされる」のは一ミリだってごめんだ。

この一年間を振り返ると、うーん、「もう二度とやれねーよ」と思えるような、タフさと巨大な飛躍がてんこもりなのだが、これでいいと思う、内容の問題ではなく、充実の問題だと思っているから/内容を立派にしようったって、僕が立派な奴ではないのだから、無理に決まっている、僕に立派なことはできないが、僕自身をフル回転させるかどうかは、常に僕自身に懸かっているだろう、そこでインチキができるほどの厚かましさの根性は、やはり僕にはないのだ。
当たり前のことを、当たり前にやること、ただし他人にやらされることなく、すべて自らに由ってやること、そしてなるべく、他人にそうそう追いつかれないぐらいには大量にやること、ここまでそのようにしてきたのだから、これからもそのようにするだろうな、どれだけ内容がヘッポコでも、それが僕のベストなのだから僕はそれを堂々と誇ろう/一年間、たくさんの人のお世話になって参りました、いつもありがとう、これからもよろしく。
バカをやろうかあ | comments(1) |
十一月の風

が吹いている。
物理的に十一月の風が吹いている、当たり前だ。
何かに真剣に取り組んでいると、いつもこうして、唐突に「世界」がやってくる。
パニックにもエコーにも興味はない、それはただの原理であって、いちいち考えなくてもエコーは勝手に鳴り響いている。

「わたし」なんてものはこの世界のどこにもない。
世界があった試しはあるが、わたしがあった試しはない。
それが間違いであったとしても、ほうっておいてくれ、僕はこの世界より他のことはわからないのだ、わかる必要もさっぱりわからないし。
悟性って、僕に悟性があるわけじゃないからね、この世界にあるんだろう、暴れている人はいったい何なんだ。

成否はなく、正誤もない。

自分の家で自分がドロボーにはなれないようにだ。
世界があるなら、自分がある必要はないのだろう、十一月の風に「わたし」とか言い出すと、気色悪い、まるでウンコ作家みたいじゃないか。

正しく見ないとな | comments(0) |
感受性とパン祭りと、バラバラと光のなさの仕組みについて2

単にいうと、Aさんがラクになるためには、僕に「力・重さ」をかければいい、「力・重さ」をかけるのは感受性でもいいし呪いでもいいが、とにかく僕の創出する「つながり」「世界」をバラバラに「解体」すること、そのことに力をかければ、Aさんはラクになる、ラクになるということはつまり、パニック障害の予兆がスーッと引いていくということだ。
とはいえ、Aさんは別に、僕のことをバラバラに解体したいわけではないので、その点については、「九折さんは不死身だから」という前提で仕掛ければいい、実際に不死身なのかどうかはよくわからないのだが、今のところ死んでいないので、そう簡単に死ぬ奴ではどうやらないらしい/とにかく不死身の統合者に解体力を仕掛ければ、Aさんはパニック障害の脅迫から逃れることができる。
パニック障害の苦しみというのは、まったくハンパじゃないので、いったんそれが始まってしまえば、もう愛もヘッタクレもないことになる、そんなことになるぐらいなら、正直僕に石を投げているほうがはるかにマシだし合理的だ、そんなところで意地をはって頑張ったって、本当に精神が壊れるだけなのだ、この点はやはり旧来のように僕がゲジゲジ虫として活動していたほうが人心に向けて穏やかだった、ゲジゲジ虫に石を投げるのはむしろ善行だからだ。
今回の発見は、「力・重さ」のトリニティに帰依する者が、パニック障害という切実な脅迫で拘束されているということだ、この作用はまったくナゾで、単に今の僕自身、四方八方から掛かってくるナゾの「力・重さ」について「何だこれ?」と感得することから発見された/僕に向けて、僕を慕う人からの「八つ裂きの力」が掛かるのは、僕が彼らのパニック障害を肩代わりしているからだ、おそらくふつうの人ならこれでブッ壊れてしまうのだと思う。

感受性との契約を深くしてきたわれわれは、今すでに、「つながりを否定しないでは生きられない」という状態なのだ、これはまったく瞠目すべき価値がある発見だと思う。
たとえば、パーティ企画が再開してからもう五年以上が経つが、未だに、自分から「今月参加させてくださ〜い」と連絡してくる人は少ないのだ、「いいかげん自分から連絡しろよ」と言いつけはするのに、その言いつけは必ず消えてしまう/これについて僕は「そんなことありえるのか?」と長いあいだ不思議でしょうがなかったのだが、ようやくそのナゾが解けた、「つながりを否定しないでは生きられない」のだ、もしフッと少しでもつながりのほうへ可能性を覚えれば、そのとたん猛烈な苦しみたるパニック障害の予兆が感じられてきてしまう。
ここ十年ぐらいで、たとえば定期的にメール等をシカトするのは一般的に見て当たり前になったし、いつのまにかウェブサイトからのアンケート等も一切送られてこなくなった、どうしてそんなことが当たり前になりうるのかナゾだったが、すべてはこれだ、「つながりを否定しないでは生きられない」のだ、感受性と深く契約を結んでしまった以上、つながりに身を寄せようとすると激烈なパニック障害が待ち受けている。
感受性と契約するというのは、ずっと先にまで及んで、そういうことなのだ、「つながりを否定しないでは生きられない」、だからヨソのつながりについても力・重さをかけてバラバラにするという積極的な行為を、やめるにやめられないのだ、つながりを否定することでしかホッとできないし、エネルギーも得られないから/自分が誰かのつながりを否定することで(その力・重さ・呪詛をかけることで)、対象の誰かもまたパニック障害への予兆を覚えるから、やはり「バラバラ」ということに帰依するしかなくなる、こうして「つながりを否定しないでは生きられない」はパンデミックを起こしたのだった。

「つながり」を肯定することは、パニック障害を誘発する。

まさにこれだ、これがあるから、すべてのつながりを否定することでしか、われわれは生きられないのだ/逆に「バラバラ」はこころに安寧を与える最良の処方だと言える、もちろんそれで完全に孤独化することにも耐えられないので、ネットやアニメに依存したり、他人に依存したり血族に依存したり、権力や財力や魅力うんぬんの「力」に隷属したりするのだ、それはもはや自分の選択というより、パニック障害の苦しみと恐怖に脅迫されて、言いなりになるのが唯一の選択肢として機能している。
しかし現実的には、パニック障害というのはえげつない苦しみなので、さしあたり言いなりになるしかないのだ、それはほとんど生理機能を支配した者たちによる暴政とみなしてよい、暴政にはさしあたり従うしかない、逆らったって無駄死にして激烈な見せしめにされるだけだ/「自分は必ずつながりを解体します」という文言を、どこかで覚えておいたらよいかもしれない、そうしたらそのときになって「あ、これか」と気づくことがあるかもしれない、僕は不死身だからかまわないが、他の人は不死身ではないので好き放題に解体して自分がホッとする材料にしてはならない。

正しく見ないとな | comments(0) |
感受性とパン祭りと、バラバラと光のなさの仕組みについて

ゾが解けて、仕組みが見えたぞ。
幼いころから、人を感受性漬けにして、感受性をブーストさせておく、するとこの子は、感受性を支配する「力・重さ」に帰依する子になる/ほとんどネイティブで「バラバラ」を嗜む子になるのだ。
この子が、やがて成長し、バラバラということの危機、虚しさとヤバさを知ることがあると、この子は無自覚にも感受性とバラバラの世界を脱出しようとするのだが、脱出しようとしたとき、すでに集合的な環境から、この子はパニック障害ないしはそれに準じる猛烈な苦しさによって引き留められる/自己も周囲も感受性と契約しまくっているので、今さらになって離脱はさせてもらえないのだ、抵抗しえない猛烈な苦しさによって、「もう出られないんだ」ということをいやがおうにも思い知らされることになる。
脱出をあきらめ、改めて元の「バラバラ」に帰参すると、ホッとして、豊かなエネルギーを感受性から分け与えてもらえる、それで「こちらが正しい」というふうに、身をもって学習させられるわけだ/こういう仕組みがあり、おそらくは誰か、この仕組みを知っていて操作している者もいるのかもしれない、まあそんなことを疑っていても何の足しにもならないが、とにかく仕組みはここに明らかになったのだった。

ワークショップ等を通じて、あまりにも多くの人がパニック状態を経験し、それが頻発するゆえ「パン祭り」と笑い飛ばすようになったのだが、これはなおも重大な仕組みだったのだ。
そもそも、なぜ法則じみて「パニック」が出現するかの、明確な理由が示されていなかった、漠然とパニックが出現するのではないのだ、横隔膜を媒介として霊魂がひとつながりの世界へつながろうとするとき、これまでの感受性との契約によって、つながろうとした横隔膜が「八つ裂き」にされる(ギリシャ神話の妖精エコーのエピソードに象徴される)のだ、それだけの力・重さが掛かるだけ、これまでの業(カルマ)が積もっている。
パニックが出現する強度は、これまで感受性と結んできた契約の総量に比例しているのだ、「横隔膜が八つ裂きにされる」という意味のギリシャ語をスキゾフレニア(Schizophrenia)といい、これは現在でも「統合失調症」の正式名称だ、妖精エコーは「力」の神であるパン神(パニックの語源)に嫉妬から八つ裂きにされるのだが、これらのことは「力・重さは物事をバラバラにする」という当方の唱える説に合致している。
どういうことかというと、<<八つ裂きにされないためにはパン神(力・重さのトリニティ)の言いなりになるしかない>>ということなのだ、これに逆らおうとしたとき、契約済みのパン神はその力をもって横隔膜(エコー)を八つ裂きにくる、八つ裂きの実体験は「パニック障害」として現れるのだ、このことは抵抗不能の激烈な苦しさを伴うため、人はパン神の言いなりになり、ふたたびつながりを捨てた自分自身に戻るしかないのだ/むろんこのことに、学門も訓練も得ていないシロウトが抵抗しても無意味だ、本当に回復不能の精神障害になってしまう。

現代人が「バラバラ」なのは、パニック障害から逃れるための "やむなきこと" だ。

僕は現代人のそうした様相を、「孤立した力みマン」と呼んで笑い、「そのとおりですやん」と周りの人も笑っていたが、そうではないのだ、「孤立した力みマン」で居続けないと、抵抗不能の激烈な苦しさ、パニック障害に陥るのだ/ワークショップ等で実演すると、セオリーともども、「孤立した力みマン」には何のメリットもなく不合理な状態に思えるが、そうではないのだ、唯一「パニック障害にならずに済む」という切実なメリットにおいて、その様相は合理なのだ。
よって、僕がつながりを創ろうとし、Aさんがそのつながりを体験しながら、自室に引き取るとそのつながりを無自覚に「解体」してホッとするのは、パニック障害という生理的脅迫から逃れるための、やむなきことなのだ、僕が死んだら終わってしまうが、僕が死なないあいだはAさんはパニック障害なしに希望を見ていられるだろう/これまで僕のことを頼って来、慕ってきて、それでも必ず具体的な攻撃の態度を仕掛けてくる人も、このことに由来している、僕の創り出すつながりを「解体」することで、当人はパニック障害を逃れることができるし、状況の強度によっては僕を攻撃しないとパニック障害の苦しさから逃れられないのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
| 1/228PAGES | >>