☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
あなたが彼と連携すること
じめに言うと、僕のワークは「ヒサンさを求める」ことに尽きている。
ここでいうヒサンさというのは、いわゆる「癒やし」ということの対極だ。
僕はどこかおしゃれなところでベーグルサンドを食べる(われながら貧しい発想だな!)、そしてほっこり本日の感想を述べる、というようなことに、いたたまれないのだ。
僕が女にモテないのは、僕の世界がサイテーにヒサンだからということで、まったく理に適っているのだった、誰か特別な慈愛に秀でた女性を求む。

いわゆる連携とか、チームワークとか、人間関係というのは、一番ヒサンなワークをしている奴を基準に構築されるべきだ。
そりゃだって、余裕のない奴が、余裕のある奴をどうやってサポートするんだ、キリキリ舞いしている奴を基準にするのが当たり前のことだ。
たとえば僕は今日、人間ドックの内視鏡検査だから、三〇分後には大量の下剤を飲むのだが、なぜかブログ記事を書くのがやめられないでいる、こんな奴が誰のことをサポートできる? 僕は自分が誰かをサポートするのが苦手なので、常に僕自身がキリキリ舞いすることに決めている。
まじめな話になってしまったが、僕は常にキリキリ舞いが好きなので、いわばもっともサポートしやすい奴として自己表示している、そこにチームワークの構築が見えたとき、あなたの世界はズバッと拓けるだろう、それは僕に直接関係がなくてもだ。

あなたが彼をサポートするということは、あなたが彼から指示を受けないということ。

そりゃそうだろ、管制塔が飛行機に指示を出すのだ、飛行機が管制塔に指示を出すかよ、飛んでいる飛行機に指示を出すから管制塔は飛行機を「サポートしている」と言える。
「癒やし」のクセはとてもよくない、「癒やし」のクセは、余裕を持ちながらさらに他人からの指示を待つという状態だからだ、キリキリ舞いを目撃していながら指示を待つなんておかしい話になる、誰か特別な慈愛に秀でた女性を求む。
視点変えてこ | comments(0) |
わがままはいけない
は天才だ。
なぜ僕が天才だと言い張れるかというと、別に僕が何を言い張ろうが、誰も興味なんか持っていないからだ。
言い張るほうが面白いからいいだろ、というだけで、それ以上の理由は特にない、自らを天才と言い張ることで一層のヒサンさを吸収していきたい。
天才ならほれやってみろと言われるので、うまくいかないときは「うーん今日は調子が悪い」と、無責任な逃げを打つ、これも天才を言い張るからこその特権だ、毎日そうしてヒサンなものだ。

どんどん他人のせいにしよう。
他人のせいにすることは、何の説得力もないので、説得力のないのがコツだ、説得力にこだわらなければ舌は適当に回転する。
他人のせいにするといって、そこに説得力を持たせようとすることはもちろんサイテーだ、この世に他人のせいなんてことは1ナノグラムも存在しない、他人はいつだって自分より偉いに決まっている。
僕が毎日幸福で、同時にヒサンでもあるのは、別に僕のせいではなく他人のせいなのだが、それがウソだったとしても、別にそのウソのとおりにしたってかまわないだろう、みんな救われたらいいじゃないか、どうしたらいいかはもう見えている。

僕は天才だが、なかなかヒサンなので助けるように。

凡才が天才を助けてはいけないという法はどこにもないのだ、僕は天才なので今日が何曜日かをすぐ忘れる、これを助けないというのは社会正義に反することだ、僕は社会正義がとても大好き。
あなたが僕に、「あのさあ」と言いたくなるのはよくわかるが、けっきょくあなたが僕の奴隷になってくれないと誰も救われないので、ドライヤーで髪をきれいにしたあなたが、ぜひ僕の奴隷になってください、ああなんて正しいことだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
ヒサンになるために求めている
ルーになったら調子が出てきたな。
やはり僕はストレスあっての僕だ、高みの見物は僕を老化しかさせない。
僕が誰かを助けることでは何も解決しない、誰かが僕を助けることでしか解決しない。
アドバイスなんて世界一ヒマな奴がやるもんだよ、人に好かれるそういうたぐいはけっきょく僕が取り扱うところではない。

クソほど研究して、クソほど機能して、クソほど発達して、クソほど飲もう。
あとになって思い返し、「なんてクソな時間なんだ」と高笑いできるとき、僕は最も何かを手づかみにしていると感じる。
それはけっきょく僕の趣味の問題であって、僕などはおおよそ多数の人に蔑視されているのが適切なんだな、ともう何万回も繰り返して思っている。
僕には「やりたいこと」がひとつもなく、しかし「やらなくてはならないこと」が僕を虐げにやってくる、そのとき僕は宇宙一憐れな奴になれるので、そのことが性に合うのだ。

ヒサンでなければ僕ではない。

ああこれでいいな、僕はラクになるために求めているのではなく、ヒサンになるために求めている、そりゃ求めれば求めるほどヒサンになるのは理の必然だ、さあもっとヒサンにいこう。
計算不能というか、計算の意欲を失って、努力ゼロと全身全霊が合一するところまで、僕は虐げられることでしか僕自身に到達できない、そりゃ誰だってそうか。
バカをやろうかあ | comments(0) |
わたしの愛するブルー
分の「やらなくてはならないこと」を考えて、青ざめるのが好きだ。
いいねえ、「やらなくてはならないこと」、その直接の感じ。
その直接の感じに、青ざめるのだが、この青色はつまりストレスだろう、僕はこのストレスを愛している。
僕は、自分が「やらなくていいこと」をやらされるストレスは苦手だが、自分の「やらなくてはならないこと」のストレスは大好きだ、これのために生きているといっても過言ではない。

人は、未来のない人とは一緒にゆけないし、未来があるということは、追い立てられているということだしな……
本当は、あれこれ難しいことを考えるより、その青ざめることに取っ組み合いをしているほうが得意だし大好きなのだ。
これは言うなれば、あのブルーストレスが人を未来につないでいると言えるだろう、それは実感として「まさにそのとおり」と思えるものだ。
「やらなくてはならないこと」、いいねえ、ブルーだ、生々しいぐらいブルーだ。

自分のことで精一杯になるとき、それは自分が精一杯生きているってことだ。

多方面に、小言や協力を振りまいているとき、僕はどうしても気乗りがしない、そんなことどうしても精一杯はやれない。
世界一ブルーになりたい、そのとき僕は最も痛快に笑えるだろう。
恋女のマインドね | comments(0) |
イグアナ女とバレリーナ

なたはお金をもらうとバリバリ動く。
実は、[識]を得ても、あなたはバリバリ動くことができる。
なんで? という話じゃない、あなたは自動販売機じゃない、あなたはお金だけで動く物体ではない。
[識]、つまり、「自分が何を行うのか識っている」という状態が得られれば、あなたはバリバリ動く、それがないとあなたはイグアナのようにろくすっぽ動かない。

あなたはイグアナ女になるよりはバレリーナのようでありたいはずだ。
あなたが急に舞台の上に立たされても「えっ? えっ?」と動けなくなるのは、バレリーナのようにはその舞台上で何を行えばいいのか「識って」はいないからだ。
単純な話、あなたが男性にあいさつするとか、自己紹介するとかでも、あなたがその行いを「識って」いたら、あなたはバレリーナのようにいきいきとそれができる。
「あいさつをちゃんとしよう」というような、「念」は誰だって持っているのだが、念は識ではないので動けない、それで念に満ちたイグアナ女のようになってしまうという、これはわかりやすい話なのだった。

あなたが動けるのは、「識」の範囲内だけ。

だから「識」を広げ、明確化し、自分がバリバリ動けるようになろうね(そのためには識が不可欠だもんね)、ということなのだった。
誰だって、「分かる」のは簡単、「記憶する」のも簡単だ、でも根こそぎ「識る」のはそんなに簡単じゃない、めちゃくそ勉強した奴しか「識る」ことはないわけだが、さっさと「識」にたどり着けよバレリーナ。

できるオンナだね | comments(0) |
「何を正常とするか」という範囲内で……

ンガ「ジョジョの奇妙な冒険」の第三部で、空条承太郎は高校生なのにタバコを吸っている、こんなマンガは発禁にすべきだろうか。
あるいはアニメ映画「耳をすませば」でも、天沢と雫は公道を自転車で二人乗りしている、やはりこんなアニメ映画も放映禁止にすべきだろうか。
映画「タイタニック」においては、ローズは流浪の青年とイチャついている、これも婚約者あっての不倫だから、こんな映画は焚書でフィルムごと焼き払うべきだろうか。
「けものフレンズ」や「君の名は」などには、そんな不埒なシーンは出てこないのかもしれない/街中で少女は連日の自撮りをアップロードし、北朝鮮は相変わらずミサイルをぶっ放している。

われわれは、或るコントロールを受けることによって、簡単に「気が狂う」ことができるものだ。
われわれは、「異常になって気が狂う」のではない、あくまで「何を正常とするか」という範囲内で、そのことは起こっていく。
われわれは、喫煙と放置車両と不倫とに、やたら否定的にヒートアップするようにコントロールを受けている、それらを「カス」呼ばわりして金銭懲罰にかけることが「正常」だという風潮の中に追い込まれている。
あなたはコントロールを受けていて、そのコントロールの善悪なんて誰にもわからないが、ただそれらはあなたに向けて「大事なことを教えている」とは言えないのじゃないか、その軽薄な感触を見るかぎりは。

恋人を自転車の後ろに乗せて走ることは、「大事なこと」なのか、それとも「不法行為」なのだろうか?

僕は、その不法行為を取り締まるのは、おまわりさんだけでいいと思っている、ただしくれぐれも事故のないように、なぜ事故があってはいけないかというと、不法だからじゃなく/恋人を後ろに乗せているんだろ?
「何を正常とするか」という範囲内で、われわれはすっかり殺されている可能性がある。

正しく見ないとな | comments(0) |
「行い」をあきらかにせよ

うかこの与太話が、表面をすり抜けて、あなたに突然の直覚を与えますように、なぜならこれは本当のことであるから。
あるいは、長らく忘れていたこのことがあなたに急に思い出されますように、もしくは、このことを常に確かめたいあなたが、今日もまたそのことをはっきりと確かめられますように。
われわれには、ただする[行う]、ということをもって、すべての肯定と、すべての解決を得る能力が具わっている。
なぜなら、われわれは、自ら何を「行う」かを「識る」ことができ、その「行う」をもって、自己の存在(イグジスタンス)とすることができるから。

これは認知とか充足感とか、そんな甘ったれたものじゃない。
あなたの知らない、清浄で無辺の、痛快できりがない、よろこばしい燃えさかりがある。
僕はそれを、ずっと識ったままでいる、けれども時は流れ、僕の言葉は通じなくなった、工夫を重ねているが、その工夫は困難だ。
目の前の人間を、遺伝子物体として見ることは果てしなくむなしく、また突き詰めるところおぞましいものだ、僕が何をしているか[行っているか]が見えない限り、あなたは僕に向けて不気味に微笑み続けるしかないだろう/だがそれは違う、間違っている。

僕は東京にいます、いま目黒です。

[識る]というただそれだけのことをもって、そこから僕がどう[行う]べきなのかはすでにあきらかだ、百万の語彙が百万の道筋をひとつとなって矛盾なく示すだろう、こんなわかりやすいものをどうして使わない?
あなたの、なるべく若き日に、清浄に燃えさかる一つの時代を、ただそれを行ったのだという、動機に蝕まれることのなかった光の時代を、どうかあなたが無自覚のうちにも得ますように。

できるオンナだね | comments(0) |
人間は「識る」ことができる
体の構造が見え始めてきた、あるいはもうはっきりと見えた。
全体の構造が見え始めてきて、逆に、それがいかに難業かが見えて、途方に暮れているところだ。
信じてついてきてもらうしかない。
仏教が唱えるところの六道輪廻説はびっくりするぐらい正しい、これはもう途方に暮れてしまう、単純な自己啓発のセオリーとして正鵠を射すぎている。

「無意味だけど行う」というのが人間だ。
「無意味だからしない」というのでは老いてしまう。
「有意義だからする」というのもハズレだが、これはまだマシなハズレだ。
「飢えているからする」はマズい状態で、「メラメラくるからする」も同様にマズい状態だ、そして「もう蝕まれているからやらざるをえない」というのは最悪の状態だ、六道輪廻説(および十二因縁説)はこんな身近にありふれたことを解き明かしている。

識(し)れ。

人間は「識(し)る」ことができる、識るからこそ行うことができ、また人が何を行っているかも識ることができる。
識ることができたら、行うということは勝手に見えてくる、これは人間の不思議な能力であり、人間特有の「可能性」だ。
できるオンナだね | comments(0) |
「趣味が合う」の6パターン

「男だから、女の子を笑わせてきたよ」、これ人間が、物語を捉えて行為するということ。
「男だから、女より鍛えるべきだよね」、これ修羅が、有意義を捉えて生きるということ。
「男だから、とは何のことであろうか」、これ天人が、空虚を捉えて老いるということ。
よく見てね、それぞれこういう人って実際にいるよね/これらはどちらかというと善寄りのほう。

「男だから、女に認められたいんだ!」、これ畜生が、渇愛に駆られて獲得に執着するということ。
「男だから、目立つ女は食うでしょ!」、これ餓鬼が、メラメラに駆られて勝ち組に焦がれるということ。
「男だから、女にワーッってなるの!」、これ獄人が、享受に駆られて腐蝕していくということ。
よく見てね、それぞれこういう人って実際にいるよね/これらはどちらかというと悪寄りのほう。

六タイプの趣味。

これら六つを「趣味」と言って、この「趣味が合わない」と、人は基本的にはどうしようもない/ちなみにどの趣味も本当には正しくないが、われわれはなるべく人間であるべき、善の趣味も正しくはなくて、ただせめて悪いほうの三つの悪趣味は避けるべき。
人間だけが「行為」をしている、<<「行為」のあるなしによって人間かどうかが決定される>>、思ったり悩んだり、騒いだり暴れたりするのは「行為」じゃない/われわれはなるべく人間であるべき。

正しく見ないとな | comments(0) |
臨死体験を引き起こす物質

は、臨死体験を引き起こす物質が、すでに特定されているようなのだ。
ジ・メチル・トリプタミン(DMT)という、いかにもありふれた、簡単な構造式のものがそれだ(C12H16N2)、こいつが脳の松果体に作用する。
こいつをキメると、「いきなり」最深部にトリップするということで、世界中のドラッグ中毒者が注目しているらしい、ストラスマン博士はこの物質を「精神の分子」と呼んだ。
これはもちろん、遊びでは済まない、最悪の状況をもたらすだろう、最悪の状況とは死ぬということを指してはいない、こんなもので遊ぼうとする奴の気が知れない。

いろんなことが明らかになってきている、と感じるが、何一つ明言はできないので、やっかいなことだ。
問題は、なぜ薬物で人間が臨死体験(宗教的体験)を得るのかというところだ、もちろん本質はDMTとやらの物質にあるのではない。
DMTうんぬんは、ただの物質であって、それ自体が臨死体験を生じているのではない、臨死体験を生じているのは脳のほうだ、脳の松果体あたりに「何か」をすると脳は隠し持っていた臨死体験(宗教的体験)を解放するということだろう。
僕は精製薬物なんかキメたことないし、ホントかどうか知らないけどね、ただ僕が感じているところ、この世界の宗教的側面は実はすごくシンプルで身近にあり、これで遊んではいけない。

トリップする? それが永遠のトリップでもか。

インドで、麻薬でバッドトリップし、地獄の悲鳴を上げていた女性を見たことがある、数時間後には収まったが、あの悲鳴がやがて彼女のいく世界だったとしたら/わざわざ地獄への行き方を鍛えてどうする。
古く、われわれはいずれ永久(とわ)の旅に出ると言われているけれど、その旅(trip)がバッドトリップだったらいやだな、あの悲鳴の中を幾星霜というのは。

正しく見ないとな | comments(0) |
パーティ報告72(2)

「自信、というけれど、そもそも『信』という字はシグナルの意味を指している、信号とか通信とかいうでしょ」
「だから『自信』というのも、本来は"own signal"の意味にすぎない、『自信がある』というのは、自己の信号、own signalに基づいて行動するってだけだよ」
「仮にここで、英才教育を受け、成績優秀スポーツ万能、いいところに勤めて家族を持ち財を為したという人がいたとして、でもよくよく見ると、その人は『周囲に言われるがままにしてきただけ』ということがよくある、own signalで行動したことが一度も無い、ってことがよくあるんだ」
「そういう人を目の前にすると、『あれ? この人立派な人のはずなのに、なぜこんな自信がないんだ?』って不思議に感じるものだよ。自信というのはもともとそういう性質のものだ」

「喉が渇けばジュースを飲みたいし、腹が減ればメシを食いたいじゃない。お金が欲しいし、女ならいいオスを捕まえたいし……でもこれらはすべて遺伝子(gene)のなせるわざで、何もown signalじゃない、遺伝子に乗っかって生きてりゃ誰だってそうだっつーのという話でしかない。遺伝子が興奮するというアホの話を聴きたくはないのは、それが不当だからじゃなくて陳腐だからだ」
「own signalには『性質』がある、この性質に基づいたメソッドを持たないと努力なんて不毛だ、この『性質』に基づいたとき、正当なメソッドは『自信をもって、未来に向かわないといけない』となる/(切り離された未来ではなく、現在とつながった未来に)」。
たとえば豆を掴むべく箸を動かすとき、狙うのは箸の先だろ? でも実際に動いているのは手であり指だ、箸先を見失って自分の手や指にこだわったら、逆に手も指も力んで、動かし方が行方不明になってしまうだろう。
実際にあるのは「今」で、しかし狙っているのは箸先、「未来」なんだ、この未来に向けて現在が動くんだよ、この箸先=未来が見えたとき、自身から自分を動かすsignalが発される、そのとき初めてown signalに基づいて行動することができるんだ、これが「性質」だよ。

検出結果:No own signal.

どれだけ遺伝子に駆り立てられていても、またどれだけ表面上を取り繕っていても、もしそういう検査装置にかければNo own signalで、それではもう誰が生きているのかわからない、自身の信号に頼らずヨソの信号に操作されているだけならロボットだ。
我の強い人はたいてい、本当の自信がないだろ? それは「我の強さ」が「利己的遺伝子」から生じているからだ、塩基配列が沸騰しているだけで、本人のsignalなんてどこにもないんだよ/自信をもって、未来に向かわないといけない。

そのほか | comments(0) |
パーティ報告72
んというか、まじめに生きましょう。
まじめに生きるといって、それは、とことんふざけて生き抜いてやるという気概が必要なわけだが……
投げやりに生きるのはよくない、なぜかといって、「地獄」は割とフツーにあるからだ、投げやりに生きられるつもりでも、そうは問屋が卸さないように出来ているのだ、おっかねえなあ。
一度きりの人生なんだから(この人生は一回しかねーじゃん)、本当に正しいと思えるように生きること、すくなくともそういう「部分」が必要になるのだ、妥当さの中を生きているだけではやがてとんでもない窮状にぶつかったりしてしまうぜと、こういう脅かし方はあまり好きじゃないのだが、実際そうなのだからしょうがないのだった。

「求めること、求め続けて生きることで、手に入れることじゃない、求めるってことは欲しているということとは違うから」と僕は言った。
すると揃って、「かっこいい」と言われた、「へ?」と僕が答えたのは別に芝居ではなく、本当に意外だったからだ、「これってかっこいいのか、ふーん」と僕は大急ぎでこころのメモを取った(草)。
「求めるってのは、異常なことだよ、でも『異常』でなかったら、その人は自分の『常』から離脱できないじゃないか」と、このあたりは誰でも理解できることで、しかし誰でも実行できることではない。
「人は求めるというとき、他のことが耳に入らなくなる、それでおれなんか、正直これまで他人の話なんか一度もまともに聞いたことがないんだ」(この言い方はどうせ発狂志向のアホに誤解されるが、その誤解はもうしょうがないのだ)。

バスケットプレイヤーは、運動をしているのじゃない、点を取っているんだ。

点を求めるということ、それは0点の状況から2点を取るということで、いわば0点の現状を否定するということ、この「現状を否定して未来を求める」ということが、案外だれでもできそうで出来ない。
0点からシュートを決めたら2点で、100点からシュートを決めたら102点だ、そこに「現在の点数」なんて関係があるか? 他のことが耳に入らなくなるというのはその状態だ。
そのほか | comments(0) |
第72回Quali's Party[9月16日(土)]無事正解!

9/18 Quali tweet>やっと落ち着いた。プレステやりた〜い。 pls entry

joined: ひろみ、りさ、かなみ、ゆか、しおん、くおり 
2017年9月16日(土)原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB


おかげさまで無事盛会でした! 次回もよろしくお願いします!
九折

キラキラ次回[10月21日(土)]加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ

費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
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そのほか | comments(0) |
他者の無事を乞うもの
る女性が、飼っているネコに湿疹ができて「かわいそう」と泣いていた、身を切られるようにつらそうだった。
そのとき、彼女自身がやけに咳き込んでいるので、「病院行ったら」というと、しぶしぶ耳鼻咽喉科に行き、「炎症してた、熱があったみたい」と報告してきた。
自分のことは放ったらかしなのに、飼っているネコちゃんに対しては、もう胸が張り裂けんばかりに心配している、まあたしかに、飼っている動物が少しでも病気をするとすさまじく心配ではある。
張り裂けそうな胸で愛されているネコちゃんは、すでにネコという顔つきを離れて、愛し愛されて存在する何者か、という顔つきをしている、愛し合う者たちはもう哺乳類レベルで顔つきと眼差しが違うものだ。

毛並みがふわっふわなネコは、かわいらしいし、華もあると思うが、「癒やされる〜」とかそういうことではない、そういう癒やしものには切実な眼差しはない。
愛は、当たり前だが、その自己の生命存在を定義している、何のために・何をもって・何によって「存在」しているかということを、説明的にではなく直接的に愛という事象が定義する。
この直接的定義が起こったとき、「華」というのも、わかるし焦がれるし存在するのだが、「別にどうでもいい」ということになるのだ、ダサいのはイヤだが、ダサいうんぬんが中枢的には何の意味も無いということが強制的にわかってしまう。
「あなたがいてくれないとダメなの」と泣くのではなく、「あなたが無事でいてくれないとダメなの」と涙が出てくるもの、それが愛だ、それは自分の無事を乞うものではなく、他者の無事を乞うものだ、この現象は利己的遺伝子においては不明のものであって、存在はするが説明はできない。

やさしい人だ、愛があった。

愛にもいろんな程度とカタチがあると思うが、本質は同じだ、自分ではなく誰かの無事と行く道を祈っている、その人の明日を案じて胸を苦しめている。
現代、愛は笑いものにされていて、なんでもかんでも「すてき!」と、それぞれ当人の華願望に供されなくてはならない悪魔の運びだが、今さらそんなことを咎めていてもキリがないのであって、必要なことは愛の情報を漏出させないことなのだった、僕は必ずその秘密を厳守する。
正しく見ないとな | comments(0) |
華に惹かれるこころ、愛に赴くこころ
人のおしゃれは「華」がある。
愛嬌のある表情やめざましい動きやプロポーションにも「華」があるだろう。
「あの人と、きれいな景色の丘へ、そしてホテルのスイートルームで、夜景の上で抱き合って、そのときはそれぞれの栄光と名誉を持ち寄って」という空想にも「華」がある。
人はこの「華」に強く惹かれ、「華やか」なことに強くあこがれ、駆り立てられては、そこに恋もするのだが、それらはすべて「華」であって「愛」ではない、単純に事象を指す言葉としての充当が間違っている。

「華」に強く惹かれることが愛ではない(んなもん当たり前だ)。
「華」を否定するのはセンス的にバカだが、「華」を「愛」と誤解するのは学門的にバカだ。
「華」に惹かれるこころは誰にだってある、だから誰だって、「同じ値段ならなるべくきれいな服を買おう」とする。
「華」に惹かれるこころは誰にだってあるが、「愛」のこころは誰にでもはない、だから「同じ値段ならなるべくあいつに服を買おう」と考える人はとても少ない。

華のない人はダサい、愛のない人は寒い。

ダサい人は一目瞭然だし、寒い人も一目瞭然だ、それは見えるようになったら、ミエミエに見えてしまうものだ。
人はしばしば、「よし、おいしいものを食べに行こう!」とは思い立つのに、「よし、あいつをうまいもん食わせに行こう!」とは思い立たない/愛のない人はそもそも心中に「あいつ」という単語が存在しないはずだ、心中に「自分」と「惹かれる華」しか存在しないはずだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
確信なしに生きている人
「愛」という現象を知っている人はあまり多くない。
が、「愛」という現象を「知らないんですよ」と自覚的に言う人はとても少ない。
つまり、事実と認識に大きなズレがあるということだ、よってトラブルが生じやすい。
プライドの高い現代人にとっては、よりによって「愛」を知らないなどということは、耐えがたいことだし、大ピンチだし、なんとかして取り繕おうとするだろう、けれどもそれらは、時間をかけた入念なトラブルの仕込みにしかならない。

愛のない人はいるのだ、愛のない人のほうが有為に多いと言っていいだろう、それは何も珍しいことではないし、目くじらを立てることでもない。
愛とは自分の飢えでもなければ渇えでもないと、何度でも言うのに、どうしても「これが愛なんです!!」と強引に押し切ろうとする勢力は後を絶たない/何をもってそこまでガンバって言い張るのか、正直なところ意味不明だ。
愛というのは、「好きなんです、ウルウル」とは違うよ、と何度でも言うのだが、どうしてもそれが伝わらない、これが伝わらないのはもう単純に学門の問題で、学門のわからない人は、学門が真実で人を追い詰めるのが「いつものこと」だということがわかっていない。
愛とは何かを知っていたら、そんなもん、人を一目見ただけで「愛があるな」「ないな」というのはわかってしまうのだ、このハッキリ明瞭な違いを強引にごまかそうとする勢力のせいで、世の中はいつもトラブルに満ちている。

「愛のない自分」は、当然であって絶望ではない。

「愛」なんて特殊な現象が、自分にないというのは、むしろ当たり前のことであって、これを「ある」と言い張るからおかしなことになる/愛なんていわゆる霊感と同じで「わたしそういうの無いな」で済ませていれば十分だ。
少なくとも、確信なしに生きている人は確実に愛を知らないので、のんぴりコーンスープでも飲んでだな、慌てず騒がず、「どうやら愛という現象はあるところにはマジにあるらしいな」と韜晦しているぐらいがまっとうなところだ。
視点変えてこ | comments(0) |
自分の足しにはならなくていいナゾの行為
「橋本環奈ちゃんとデートできる券」と「志村けんが生涯を健康に生きられる券」があったとしたら、僕は志村けんの生涯健康券を選ぶ。
別にファンというわけではないが、あのおじさんが病気になることなどは考えたくない。
愛の前には好きとか性欲とかが無力だというのがよくわかる。
デート券の橋本環奈ちゃんを、エマワトソンやクロエモレッツや石原さとみに変えたって同じだし、セックス券に変えられたって同じだ、僕は志村けんの生涯健康券を選ぶ。

もし僕の後輩が、同じ選択肢の前に立たされて、橋本環奈ちゃんデート券を選ぶようなら、ブン殴って「お前はアホか」と、強制的に志村けん券を選ばせるだろう、恨まれたってかまやしない。
人として曲げてはいけないことが当然ある、愛なしに生きていくことはおそろしく退屈で、それどころか苦痛きわまるものだ。
愛というのは飢えではないし渇(かつ)えでもない、愛を知らない人は自分の飢えと渇えを自分の愛だと曲解する(恣意的に曲解する)。
橋本環奈ちゃんデート券と、志村けん生涯健康券があったとして、もし橋本環奈ちゃんが「もう、どうしてわたしとのデートを選んでくれないの?」とかわいく頬を膨らませたとしたら、僕は「お前はアホか、地獄におちろ邪悪な獣め」と容赦なく弾劾するだろう/かわいい女の子とデートしてセックスしたいというのは何の愛でもない、単にヒマなだけだ。

愛とは努力を要せず損をすること。

志村けんが健康でテレビに出ていたとして、それで僕がうれしいわけではないが、「別におれがうれしい必要はないだろ」という限りのことであって、これだけで話は済んでいる。
愛は履行されればよいのであって、それについて議論したり感想をもったりするのは「めんどくせえな」ということにしかならない、愛は履行されればいいだけだ、それは自分の足しにはならなくていいナゾの行為だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
身口意(しん・く・い)

「人が人間とは限らん」と、仏教は面白いことを言う。
仏教の輪廻によれば、目の前の人は、1.人間かもしれないし、2.天人かもしれないし、3.修羅かもしれないし、あるいは4.餓鬼か、5.畜生か、6.地獄の者かもしれないというのだ(六道輪廻)。
輪廻と因縁において、人間は「行為」をするものだが、それだって「あくまで人間道の存在ならね」と仏教はクギを刺している(人間道以外の因縁に「行」はないのだ)。
人間のする、「行為」とは何かというと、仏教では身・口・意にそれを分類するらしい、身をもってそれを為すこと、口をもって述べること、自発的な意志においてそれをすること、のようだ。

確かに言われてみると、身がトロい人、口がトロい人、意志がトロい人は実際にいる。
一般的に、これは「やる気がない」とか「怠慢」とかいうように捉えられているのだが、仏教的にはそうではないらしい、「彼の身口意(しんくい)がトロいのは、餓鬼か畜生か、あるいは地獄道の者だからでっせ」と考える、これはこれでいっそうえげつない気もするが……
人は誰でも、自分はいざというときには、闖入してきたテロリストどもを排除できるほど大活躍できると思い込んでいるが、案外そうでもないのだ、実生活のレベルで、身口意がトロいということはとことんその人の足を引っ張る。
人間は「行為」をするものらしいから、身が達者、口が達者、意が達者、という実践を日々続けているのが健全だろう、じっさい身口意が達者な者に誰も文句はつけない。

酒場でも職場でもベッドでも、身口意。

確かによくよく考えれば、ありとあらゆるところで、人はその身口意で何かをしているに違いない、身口意が際やかであればそれだけでいいわけだし、身口意がトロいというのは、まずいという以上に「危険」だ。
せっかく人間に生まれているのに、人間道から外れるということが、案外フツーにあるわけだ、そうしたらもう身口意は不全して動かなくなる、それは危険な状態だから修正するしかない。

できるオンナだね | comments(0) |
あなたがここに「可能性」を見つけること
口にはならない。
偉大なバカになるのはむつかしいので、バカになろうという試みもしない。
だが利口にはならない、僕は小利口を拒絶している。
僕が利口になることでこの世を益することはまったくない。

投げつけられる石と花束を区別しない、そんな区別などしているようなヒマはどこにもない。
軽蔑されても尊敬されても、そんなものを聞き遂げているヒマはない、まったく別のものに追いつかないといけない。
すべての人が、僕の年上ならいいのにな、そうしたら僕はあれこれむつかしいことを考える義務を負わずに済むのに。
たくさん軽蔑されてきた、僕はそのことはまったく平気だ、僕が困り果てて舌打ちしたくなるのは、あなたがあなた自身を軽蔑しているときだ、あなたはそれでは飛翔できまい。

僕をバカにしろ、そうしたら僕に同調せず済む。

僕のようなわけのわからんやつに、同調できるわけがないのだから、バカにしろ、バカにしたってあるていどの滋養分は輸出されているのだから。
自分に疑問を持つな、僕に疑問を持て、「こんな人間のクズは生まれて初めて見た」と感じられるとき、あなたは僕から何かを正しく読み取れているだろう、それは大きな「可能性」だ。
できるオンナだね | comments(0) |
本当の意味でうらやましい恋あい
ういえばこのブログは、恋あい系のブログなのだった、もう長いことそんなこと忘れている。
恋あいというのは、うーん今考えると暗くなるが、本来はそうではなく、今でも明るく輝かしいものであることは変わりない。
恋あいとは、求めてするものではなくて、人間が何もかもを求めて生きる中で、不可避的に発生するものだ。
女から見て、「そんな、あなたに求められたら、断れるわけないじゃない」と驚いて言ってしまうような男が、たくさんいるという状況がベストだ/逆に恋愛そのものに注目するというときは、かぎって恋あいの本質が失われているときで、このときは話が暗くなるのだった。

人間の「エネルギー」は、四方八方に向けて発揮されるものであり、特定のこれという方向に発揮されるものではない、そのエネルギーの一片が女性に流れ込んで、恋あいが発生するにすぎない。
それは、雄々しく育つ樹が、東西南北の一方向にだけ枝葉を茂らせるわけがないように、放っておけば自然発生するものだ、女性のハートを射止めるつもりがなくても、まき散らしているエネルギーが勝手に周囲の女性に突き刺さるのだ。
このとき、正しい恋あいにおいては、大事なのは輝きであって自尊心ではない、女性は「この人の輝きの足しになれるのなら」と、光栄さに慌てて身繕いを整える、「自分を捨ててもいいとあっさり思えたから、これは恋あいなのね」。
一方、ゆがんでしまった恋愛は、恋愛を自尊心の足しにして、自己実現の一材料にするというような発想だが、こんな発想はそもそも「絶対違うでしょ」と、思春期のうちに見切りをつけていなくてはならないのだった/そこで見切りをつけていないと、たいてい四十過ぎまで持ち越してしまう、それは明るくない話だ。

恋あいなら、「いいね」ではなく「すごいね」をもらうべき。

「いいな〜うらやましい〜わたしもそうなりたい〜」と高揚させるのが恋あいの本質ではなく、「すごいねあなた、わたしにはマネできないわ……」と失意させるのが恋あいの本質だ。
本質はエネルギー量の問題なので、恋あいでも仕事でも同じ、ホンモノのそれは聞いていて「マネできんわ……」とむしろ失意を覚えるもの、だからこそ本当の意味でうらやましいものだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
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