☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 6/18更新
「ちゃんとできるよーになりましょーよー教室」
【第三十一回】6月22日(金)19時〜@世田谷公園
【第三十二回】
6月23日(土)19時〜@世田谷公園

(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。青空教室です)
(基本的には雨天延期です、随時ご連絡いたします)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)

→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「ちゃんとするのやめましょーよー集会」
【第82回】7月21日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


思いつきレベルで再開。すぐやめるかもしれんがそのときはそのとき。
雨天延期なのに梅雨の時期にやるのはどーなのとは思う。

まあコソコソやりましょう。

みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

(ワークショップの各カリキュラムは以下続きをご参照ください)

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パーティ報告81(6)

と、何だっけ、そうそう、「不安」じゃなくて「賭け」なんだ、という記事が、割とウケていたようだ。
それにしても、つくづく思うが、よくまあみんなこんなわけのわからんブログを、熱心に読んでくれているものだな……しかも割とちゃんと理解しているのだからスゴいと思う(ただしちゃんと「出来ている」とは言わんぞオイ)。
まあだから、こんなわけのわからんブログを読んでくれているプリプリのプリティーちゃんは、またぜひパーティにいらっしゃいねと思うのだった/身近な友人といくらでもこういう話ができるなら、まあこんなパーティは必要ないのかもしれないけれど。
ヴェジ青年はなぜかゴキを見るとコンマ五秒で踏み潰す男らしいし、朴訥そうな趣で急に致命的な地雷発言を同僚女性にブチ込むらしいので(「意外にシワがありますね」等←致命傷もいいとこ)、まあ脳にブラックメタルでも流れ込んでしまったのだろうか/そんなわけで、われわれごときが物事に「有意義」など期待してはいけないのだった。

ガイル青年はどーも、このところ逆に「童貞マインドに覚醒する」というイカレポンチな方向へ出航している気配があるが、それもまた出航かもしれんな、まあしかし彼はとても能力の高い男だ(ただしマインドは童貞)。
ニセハーバード青年は、忍者の術にあこがれを燃やしており、意欲は高く意識は明瞭だが、キャラと忍者志向がえらい真逆でそれはいいのかと思うが、まあいいのだろう、何か毎回幸せそうだし。
餃子カルマ女子大生も、ひとまずキツいアルバイトが千秋楽を迎えたので、これからは遊びに来やすくなるかな、ただし就職活動が無事に満了したらだけどな、しかしこいつもよくよく考えたらせっかくのブランド女子大と真逆のライフスタイルを採ったナゾの奴ではある。
こうして考えると、ウチのパーティには、「お上品型」と「なんやこいつ型」の二つの参加者があるということなのだろうか、確かに表面的にはそう見える/だがけっきょく本質的には全員が「なんやこいつ型」なのだろうな、うーんまったく正常なのはおれだけじゃないか、いっそ転向してギャグ集団になってもいいんじゃないのかと思わされる今日このごろなのだった。

自分で言うのもアホみたいだが、このパーティは案外おもしろいのかもしれない。

なんとなくそんな気がしてきた、まあ気の迷いかもしれないが/しかし少なくとも、一般的なホームパーティや異業種交流会等だったら、19時から朝の5時までやっていられないものな、第一もし退屈なものだったとしたら、僕自身がソッコーで辞めていただろうから、何かしらおもしろさはあるのだ(多分)。
乾杯前、僕は、「今日はおれ、乾杯の音頭で、ヘンな声出すからな」と宣言し、まったく無意味に自分でハードルを上げてみたのだった、その中でハイボールのグラスは運ばれてきて、時は迫る……!/どういう理由でそのようなことをしたかというと、理由はびっっっくりするぐらい何もないのだ、それでも乾杯の音頭でスベらなかったのだから、どうだ!!! と自慢したいのではある、こんなアホなことを報告しているのがアホなのじゃないかという気が改めてしてくるが、ありのままそう報告するしかしゃーない、こんなパーティに来月は、あなたもぜひいらっしゃいね〜(←来づらい)。

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パーティ報告81(5)
五時になるとCLIMBが閉店になるので、その後はいつも渋谷のファミレスに行く(みんな腹が減っているのだ)。
そして僕はいつも、そこで朝五時半からステーキ肉を食うのだが、肉食によってパーティで使い切った霊力を恢復すると、たいてい新しい身体状態が得られる、それは成長というより何かが「進んでいる」という現象だ。
肉の霊化が前進して、また何か新しい奴になるということだ、結果的に毎回そうなっている、今回は「横隔膜から直接音が出る」というナゾの現象が獲得された/本当に、胴体がオーディオスピーカーみたいになり、それがあまりに奇異なので、みんなで腹を抱えて笑った。
忘れないようにメモしておくと、解剖学的に正確な位置の横隔膜が、「声帯と接続している」ということが得られたのだ、僕は自分自身がスピーカーになり、その音を自分でさえ「聴いている」という、聴く側の感覚になった、声にせよ音にせよ音楽にせよ、それは僕の内側から出るものではない、横隔膜の周辺外部から僕の内側に入力されるものだ、わけのわからん話だがこのようにメモしておくしか実際ない。

時間を実数単位に取ったとき、距離は虚数単位ということを前提にして、僕は音楽を聴いたとき、「ゼロ距離」で聴いているということが判明した、ゼロ距離(正しくは虚距離で、距離自体が観測しえない)で聴いたとき、それは肉に直接干渉していて、肉に宿った霊となる/もはや説明する気もないが、正しく表記するならこう書いておくしかない。
ここに詳しくは書けないが、僕はこのところ、「みんな『記憶』はするのに、肉に(霊的に)宿らない」という現象に、ナゾを見て問題視している、人はけっきょく記憶したものなんか使えないし、表面上使えたとしてもそれは「自分のものではない」のだ/このナゾを解く手かがりに、僕自身がゼロ距離(虚距離)で体験しているという発見が得られたのは有益だ。
ある人が、肉に霊が宿らないということについて、「気づきました。上からエラソーに取捨選択しています。いいものがあったら宿らせようなどと考えていて、それは意識で選別しているものですから、ワンクッションあって、そのワンクッションに阻害され、もう肉には宿らないのです」とレポートしてくれた、このレポートは正確でいいところを突いていると思う。
つまり、そのレベルでの「吸収」、肉に霊が宿るというレベルの吸収と獲得は、「いいものであれ悪いものであれ」という次元でしか吸収できないということだ、好き嫌いで食べ分けることが許されない世界で、毒にさえ打ち克つことが必要な世界だが、これはちょっとシリアスな次元になるな、まあしかしこういうときこそ単純な明るさが必要なのだった、なんであれ上手くいきゃあ勝ちなのよ。

物語があるということは、距離がないということ。

「物語があるということは、距離がないということ」、この一文は、金言と呼んでよいだけの叡智に満ちている、この点に関してだけは、僕は誰よりも上手くやれているようだ/距離世界は時間だけが流れてゆき、物語世界は永遠にみたされているが、これは割と当たり前のことであって、別に感動的なことではない、僕がよく言う「世界」が得られるとき、「わたし」と「世界」のあいだに距離はない。
「蓋(ふた)」がされるので、そんなに簡単に霊は宿らないな/煩悩の炎、因果の業火で焼かれているから入らない/距離(空間)は世界の実在ではなくて「認識」だ/われわれが「識」の業に盛(さか)る前、つまり五歳未満ぐらいまで、誰しも「世界」と「わたし」に距離はなかった、だから霊的な存在性を持ち得た/「わたし」の「それ」は「わたしの一部」でなくてはならない、一ページでも抜けてよい小説はない。
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パーティ報告81(4)

も近くなり、ふと僕はこのごろの疑問を言ってみた。
「なぜだろうな? おれは気づくと、毎日何か、ずーっと『限界に挑戦』しているような気がする、最近になってようやくわかったんだが、このこと自体が珍しい奴なんだよな? おれは」
今ごろ気づいたのか、と慨嘆される気配もあったが、「まさにそこなんですよ」と応える声もあった。
「誰かについていくために、とか、チームについていくために、とかなら、まだわかる気がするんです。でもそれと違って、何もないところから、自分で自分を追い込むというようなことは、ちょっと見当がつかないんです。ここにいる誰も、あなたのようにそれはできません」

さすがに僕も、最近は賢くなったので、メシを食うのも限界に挑戦、酒を飲むのも限界に挑戦、というのは控えるようになった。
「おれも最近は、賢くなったからさ、今このときもかなり手加減していて……でもやっぱり、今このときからでも全部ひっくり返してやりたいっていう衝動があるな、おれ正直、まだまだフル出力できるもの」、僕がフハハハと笑うと、「この時間になると、あなたらしくなりますね」と誰かが言った。
「おれは毎日、自分を使い切りたい。もうピクリとも動けませんってなって、そのあと、新しいエネルギーが補充されていくのが好きだ。またどこかで、そうしないと新しい力なんか得られないって、どこかで知っているのもある」
「八百屋のおっちゃんや、魚屋のおっちゃんは、強い声をしているだろう? それは毎日、声を使いまくったからだ。ハートも同じだ。毎日、使えるだけ使いまくってやらないと、強くなんかならない」/僕は「おれは、何にもならない日々を過ごすのが怖いんだろうな」と話した。

「エネルギーを使い切る。使い切って、なお動こうとするから、この世界の何でもから、エネルギーを引っ張ってこようとする」

「スラムダンクとか読んだら感動するじゃない? 三井寿は、『赤木がスクリーンかけてくれる』『外しても桜木がリバウンド取ってくれる』と信じて、チカチカの目で全身全霊のシュートを打つんだよ。そういう極限状態で為し遂げたことしか、自分の魂にまでは入ってこない」
「そこまでやらないのは、本能的に、自分の身を守ろうとしているんですかね」と誰かが言った、それはそうかもしれなかった、ただ僕にはよくわからなかった、僕はたぶん努力も本能もよくわかっていない。

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パーティ報告81(3)
「根こそぎふざける」ということが話題に上った。
僕にとっては簡単なこのことが、他のすべての人にとっては至難というか、それ以前に「不能」であるらしい。
ある男性が「同時代に生きているというのがいいですよね」と言ったので、僕は「同時代ね」と言った。
彼が「その、同時代というのはですね」と続けたので、僕は「同時代、ドウジダーイ」と続けた、それは次第にドゥージ・ダイになってゆき、Do-thee-Die! Do-thee-Die! となっていってしまったので、彼が話そうとした何かは原宿の藻屑となり消えていったのだった。

「根こそぎふざける」というのは、どういうことかというと、たとえば僕の場合、根こそぎふざけるなんてしたことないし、そんなことは僕には不可能です、ということだ。
何しろ僕は、謹厳実直の権化であって、隙あらば女の子の服に手を突っ込むとか、そういうことはしたことがないのだ、もはや僕などは岩波文庫の本棚が歩いているようなものだと思ってもらえればいい。
短いスカートで僕に会いに来る女性などに対しては、まったくけしからんと感じ、そうした女性にはお仕置きをすることしか考えていないほど、僕は清廉潔白のダイナマイトだが、それはさておき、すべての人が根本的に「根こそぎふざける」ということを不能にしているという実態が改めてわかった。
「根こそぎふざける」ということが不能化しているということは、けっきょくフィクションとノンフィクションの境目を正しく把握していないということだ/「マジメぶる」という安全圏内に居座ったまま、他人と世界の関わりを見物しようと決め込んでいる、それは実は相当に悪辣な態度なのだった、少なくともその身分はシャウエッセンより下だ(ただし美人は除く)。

「根こそぎふざける」ができない人は、裏返った世界を生きている。

これはマジな話、キミの生きている世界はビミョーに世界じゃないよ、ということがあるのだった、何しろ僕はモテモテであるが、そのことはただ言いたかっただけで、この文脈はまったくつながっていない。
裏返った先に、本当の世界があるらしいということを、ホエホエ感じておらずに、さっさと学門を修めるのがよろしい、ただし美人は除く(ただしおれに懐かない美人は何なんだ、何をしに生まれてきたか)。
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パーティ報告81(2)

前、軸足と浮き足がリーダーシップとパートナーシップどうたらという、難解すぎて誰の役に立つんだよという話をしたのだが(→これ)、以外にこの話がウケがよくて、ひとしきり盛り上がった。
まじめにいうと、たとえばバレエや社交ダンスのようなものは、基本的に貴族のするものであって、貴族のするものであるから、そのモチーフは愛であったり恋であったり、神話的なものであったりする。
一方で、ストリート系のダンスというのは、貴族のするそれとは違い、もっと「フラストレーション」があるのだ、むしろフラストレーションが根源だと言ってもいい、ストリートで踊るからストリートダンスなのではなくて、「おれたちにゃダンスフロアなんて立派なものは与えられない」というフラストレーションがストリートダンスだ。
僕はこのところ、「満足」ということについて話している、よって貴族のダンスは、貴族の憂鬱と倦怠がダンスの中でどう満足に昇華されるかという問題になり、ストリートのダンスは、フラストレーションの不平と炎がダンスの中でどう満足に昇華されるかという問題になる。

「シャウトの中に満足が現出するなら、それはロック音楽になりうるが、不満で叫んでいるだけなら、そりゃモーレツな夫婦喧嘩と同じになってしまうな」と僕は話した。
「意味のあることをしないといけない」と僕は話した、「ダンサーが、あるいはラッパーが、空間をキックし、何かを言い立てることの中に、フラストレーションの昇華を見る、この瞬間だけ『おれっちは満足なんだ』というふうにさ、だから、それは若い人たちにとって、『おれたちの代弁をしてくれている』と感じるのさ、だからそれを見に行く・聴きに行くというのは意味のあることになる」。
その先は、こまごま話さなかったが、われわれは「満足」している瞬間のみ、そこを「魂の還る場所」とすることができる、なぜなら「満足」の中にだけ、われわれは永遠に住めるからだ。
われわれは、別にダンサーではなかろうが、それぞれに貴族の憂鬱と倦怠か、もしくはストリートのフラストレーションを抱えている、この中でどのようにして「魂の還る場所」を作れるだろうか? われわれが「そこに永遠に住んでもかまわない」と思えるような場所をだ。

満足がないなら、反省会はしないほうがいい。

満足なしに反省をすると、その反省は必ず「否定」にしかならないからだ、そして否定というのはダメなことのダメさを反芻するだけになるので、ダメージを負うだけであまり意味が無い。
物事のレベルでいうと、たとえば「ハンバーガー屋」はレベルが低いだろう、だがビッグマックで満足するか反省するかは人の選択であって、反省しながらビッグマックを食う奴は、消化にも悪いだろうし、次第に闇に落ちていくことになる。

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パーティ報告81
ーティは楽しかった。
今回のパーティは、特に「楽しさ」が純粋に高かったように感じる。
そして、楽しければ、「また来月も〜」と誰だって浮かれて思うので、そうして「また来月も」と思ってもらえたら、パーティは成功となる。
今回は、やたら音楽と踊りと、あとはお笑いの話がウケたな、音楽と踊りと笑いと忍者が当パーティのメインコンテンツかもしれない、忍者については説明が面倒くさいので説明しない。

われわれに(別にパーティに限らないわれわれに)必要なことは、さしあたり「消費せず楽しい」ということだ。
消費せず、といっても、メシや酒ぐらいはガンガンやらせてほしいが、そういうことではなく、動画やまとめ記事をえんえんクリックしたり、マンガ本やスケベアニメや芸能人のスキャンダルを追いかけてばかりで「楽しい」というのでは、もはやただの消費マシーンだし、それはやがて消費できるコンテンツを食い潰し、あとは極めて無能な己という肉塊が残るだけだろうということ。
消費せず楽しいということは、本気で考えるとむつかしいものだ、よく深夜にガラの悪い車が重低音をドゥンドゥン鳴らして走っているが、あれはドゥンドゥン鳴らさないと楽しくない(もしくはさびしさが紛れない)のであって、そうした人たちが深夜にドン・キホーテに行くのは、何がなんでも消費に触れていないと退屈でしょうがないということなのだ、「消費せず楽しい」というのは真剣に考えるととてもむつかしい。
「楽しい」というのは、大騒ぎするから楽しいというのではなく、楽しくてつい大騒ぎになってしまう、というのがよいと思う、そりゃ誰だってそう思うだろう、そして「消費せず楽しい」というのは、音楽や踊りや笑いや忍者、あるいは男と女や、言葉や、歴史や物語といったすべてのものが、「思っていたのとは違う真実の姿を現してくる」というのが楽しいのだと思う、この世界に本当にあるものがrevealされていくことが楽しいのだ。

オンザビートを「表示」すると、「うわスゲェ!」という声が上がった。

われわれはテレヴィや街角のあちこちで「ダンス」を見ることがあるが、そのダンスがオンザビートの「表示」をくっきり実現していることはごく少ない(事実僕は見たことがない)、そしてそうしたものを追究することは「消費」ではないので、そうした楽しみに没頭しているうちは、われわれは不毛な散財をしない。
消費とは異なる楽しみを得てゆけるという確信は、生きていく上で思いがけない自信になるものだ、「消費しないと楽しめない」というのはひとつの地獄みたいなものだから/本当には楽しくないことを、「楽しい」と偽ることは、いくつかの場面でやむなきことではあるけれども、後になって大きな負債になってしまう、だから本当に楽しいことのほうをしたたかに追究していくべきだ。
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第81回Quali's Party[6月16日(土)]無事盛会!

6/18 Quali tweet> マスター「サッカー? 今日は、どこかとどこかの試合です」 pls entry

joined: ひろみ、ゆか、かなみ、あきら、しおん、ともこ、やじま、ゆうさく、トム、かず、くおり
日時:2018年6月16日(土)19時〜23時
場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB


おかげさまで無事盛会でした! 次回もよろしくお願いします!
今回はいつも以上にウケたし〜おれは生まれてこの方スベったことないから〜
九折


キラキラ次回(7月21日[土])加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから



宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

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主体性の秘密2

「主」はやさしいのが当たり前なので、「主体性のある人」も、やさしさが生じていなければならない、やさしさのない主体性はニセモノだと定義してかまわない。
そして、いわずもがなだが、この「やさしさ」は「我」のやさしさではなく「主」のやさしさなので、このやさしさは「人為的でない・人為的なレベルではない」ということが指標になる。
加えて、これも特徴的なことだが、人為的(なレベル)でないやさしさには、独特の「熱気」がある、この指標はとてもわかりやすいものだ/「我」から人為的にこさえられるやさしさにはこの「熱気」がない、だから簡単に見分けがつく。
さらに、これはプラスアルファというかボーナスだが、この「主体性」から能力が発揮されるとき、その能力もどこか「人為的(なレベル)ではない」という形で発揮される、これも「我」の能力ではなく「主」の能力なのだから当たり前のことではある。

つまり、「人為的(なレベル)でない、やさしさがあり、熱気があり、ときに人為的なレベルでない能力が発揮される」ということ。
これが「主体性」の本質であり、原理は「主」であって「我」ではないということだ。
人為的なレベルを逸脱している、そのやさしさと熱気と能力に「共鳴」して、人の内なる「主」が点火されることがあるということ、そのとき人は「人の話を聴いている」ということ。
ただしこれは、「我」と対立する「主」の現象なので、「我慢派」はこの「主体派」の現象と対立し、身体的に「キツい」「凍える」「固まる」という症状を起こす、我慢派は当然ながら、人為的なレベルのやさしさ、人為的なレベルの熱気、人為的なレベルの能力を愛好し、そのわざとらしい人為の中でこそ息を吹き返すのだ/実際、「息ができない」状態だったものが、「呼吸できるようになった」と恢復する、そうした「我」の世界が事実あるので、理屈だけで主体派に転向することはできない。

意図的なやさしさ、意図的な熱気、意図的な能力が、主体性を奪う。

「意図的にそうする」ということが、主体性とスリカエられるからだ、だからわれわれは2018年現在、やさしさに涙したり、熱気に飛び込んだり、能力に震えたりする機会が無い/そうした主体的な誰かに出会うことがない。
僕は意図的には冷血漢であり、意図的にはサイエンティストであり、意図的には努力ギライの爺さんだ、しかし主体的にどうであるのかは知らない/主体的にどうであるかは、主の定めたもうところであって、僕の知る由ではない、主のことを我では定められない。

正しく見ないとな | comments(0) |
主体性の秘密

れわれの左腕や肋骨が、勝手に動いたりはしない、勝手に生存してくれてはいるが、勝手に動いたりはしない/勝手に動くとしたら、それは医学的に「ヒステリー」という、それはただの神経の病気だ。
われわれは、「主体性のある人」と、「我の強い人」を区分することができるが、なぜこの区分が生じうるかというと、この話は単純で/われわれには元来「主」とつながる機能と、「我」につながる機能があるというだけだ、どちらにつながるかによって「主体性のある人」と「我の強い人」に区分される。
主体性のない人は、それだけで自動的に、我の強い人になる、この仕組みから逃れる方法はない、だから主体性のない人は、空気を読みつつ「おとなしく」しているしかない、目立って動けば必ず「我」だけが露出するからだ、だから主体性のない人は指示された用事やルーチンワークだけをこなして生きていこうとする。

現代人は、人の話を聴かない/聴かないというより、「聴く」という機能が無い。
本来、人の話を「聴く」といって、そんなに意識的にならなくても、もともと人の話は「聴いてしまう」ものだ、意図的に聴こうとしているようではそもそも聴く機能が失われているのだと言える。
主体性のない人は、そもそも「我」の中に主体性があるものだと誤解している、「主」と「我」は別の機能なのに/だからいざというとき、やっぱり我を通す機能しか出てこない。
我のなかに主はないし、また他の中にカミサマはない、主の中にカミサマがあるのであって、だから一部の宗教者は「主よ」という、主とつながらずに勝手に動いている人は、ずっとヒステリーで動いている。

他にカミサマがあると思いたがるから、ファナティクな偶像崇拝が流行っている。

人の話を「聴く」といって、それは本来、人の「主体性」を聴くということ/その人の「主」の響きに、こちらの「主」が共鳴するということだ、だから主体性のない人が「聴く」という機能を持つことはありえない。
おれが人にやさしいということはない、おれのことを「やさしい」という人はいるけれども、それはおれの主体性の中にやさしさを見つけているのであって、おれがやさしいのではなく「主」がやさしいにすぎない、そして「主」がやさしいのは当たり前だ/このことは、我の中に主体性があると誤解している人には永遠に理解されない。

正しく見ないとな | comments(0) |
Enfance finie2

っと簡単にいくと思っていたが、まったく簡単にはいかなかった。
それどころか、根本的には動かないのだ、ということが確認されるばかりになった。
「半導体」とは、A→Bには電気が流れるが、逆方向、B→Aには電気が流れない、という性質の物質のことをいう。
それと同じように、われわれの内→外には正しいものが流れうるが、外→内には正しいものは流れない、外部から正しいことを得るとか教わるとかいうことはけっきょくないのだ、正しいものを点火するかどうかは当人だけが決めているのだ。

外→内に、何かが流れ込むのをずっと待っている人たちがいる。
半導体の性質がそうであるように、その方向に流入は起こり得ない、だから待っていても時間の無駄だ、じっさい何十年経ってもそれが流れ込んできたりはしなかっただろう?
名前をつけられたら名前になるか? 名前はその呼びかけに応えて初めて名前になる、半導体のように流れは内→外にしかありえない、そのとき初めて名が生じる。
「何もない」のだ、この数十年に亘って浴びてきた外部からのシャワーは、何も成らず、外装表面を焼いて荒ませただけだ、そうした硫酸のシャワーがワイドショーやネットニュースで日々豪雨のように吹き付けている。

本当のことが出たら教えよう。

それまで僕は無反応だ、僕は人に反応しないことは決してないが、外装の騒動には反応しない、自分がどれだけ厭なものをぶちまけるしか能が無いか、直面したくもない事実が待っている。
外→内へ、正しいことが流入する可能性はない、だからその幻想は希望ではない。

正しく見ないとな | comments(0) |
Enfance finie
とは何なのか、恋あいとは何なのか、異性愛とは、同性愛とは、仕事とは、情熱とは?
すべてのものがヨソから定義されると思っている者に青春はやってこないだろう。
すべての輿論と喧噪はわれわれに何も齎(もたら)しはしない。
外側から恋あいや情熱がやってくることがあろうか? 外側からペンキを塗られたようなその顔よ。

或る人はいった、「わたしには人生がない」と。
そのとおり、外側から日々押しつけられる情報に当人の人生はない。
人生のない者は日々の情報を顔面の皮膚に刷り込む、だから表面の印象は強固でありながらその奥に表情はない。
あなたはどう生きるか? その問いに答えられるのは、外側から貼り付けられた情報を人生だと思っているからだ、内側から外側へは、引き続き謎が続いている、謎と確信が続いている/外側からは情報と疑惑が。

おれの見た街。

ああ、どこまでも厭なものだ、外側から吸収したものを自分のものにできるという誤解をむさぼりつづける者は。
正しいものはいくらでもある、だがそれが外側から吸収され、あなたのものになるということは決してない、あなたの内側に元からある正しいものに点火されないかぎり、あなたには何の日々もないのだ/ああ貼り付けられた日々の為す喧噪は厭だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
杞人の博打と強迫障害2

えば、僕などは、女の子にメールの一通を送るときでさえ、真剣に祈っている/賭けがあるのだから真剣に祈らざるを得ない。
それは何の祈りかといえば、「どうか、向こうにとっていいタイミングで届きますように」「タイミング的に、うまく笑ってくれるように届きますように」、また内容によっては、「タイミング的に、あたかかみが起こりますように」と祈っている。
そりゃ何しろ、メールなんて、相手の状況がわからないところに電子テキストで届くのだから、タイミングによってはため息をつかれるかもしれないし、大ヘイトになるかもしれないし、またタイミングによっては、あははははと笑ってもらえるかもしれない。
いつでもそういう賭けがあって、僕は漠然と祈るのではない、いつも「奇跡的にうまくいけ!」と意図的に狙って送信している/もしそれで、タイミングが悪いときに届いたとしたら、それはタイミングが悪かったのじゃない、おれが悪かったのだ、タイミングのせいにするというような邪法をしたらその後ずっと呪われるだろう。

そんな必死に祈ってまで、メールなんかしなきゃいいだろという考え方もあるが、もしそこに祈りが必要ないなら、それこそ僕はメールなんか送らないだろう/送るメールに祈りが必要なかったとしたら、そりゃそこに何も書かれていないからだ、さすがにそんなものを送りつけるわけにはいかないだろう、向こうだって読む手間があるんだから。
思えば僕は、一事が万事、ぜんぶそれだな、「空気を読む」ということを完全放棄して、「奇跡を読む」ということにフォオオオと吠えているのだ、まったくアホの極みだが、見えもしねータイミングを最上で掴もうとしたら、そりゃもうフォオオオぐらいしか方法がないのだ/だいたい、その身のアホ度と叡智度が両方同時にピークを得ていないとタイミングなんか外れるアンド外れるのだ。
そう考えると、そもそも「不安」というのは、確認なんかできようがないことを、確認したがっていることから生じているのではないだろうか/もちろん相手にカードの開示を求めてもいいが、お互いに手の内を開示しながら進めるポーカーには、安心だけがあって何のゲーム性もない、そのオープン・ポーカーを続けているプレイヤーはもはやただの死人だ。
どれだけ確認したつもりでも、「あれ? 家の鍵って閉めたっけ?」と、不安になることはあるものだ、そのとき「戻って確かめる」か、「いいや、いける」と判断するかは、やっぱり賭けでしかない、その場で確かめることはできない以上しょうがない/それと同じで、けっきょくすべてのことは「確認できようがない」のだ、だから賭けになる、イチかバチかの賭けじゃなく、理を尽くして「こっちだ」と賭けることになる、だから必要な矜持はやはり、「わたしが賭けに負けるようなヘボであってたまるか」だ。

賭けの結果だけは厳正に。

「賭け」ということになると、ゴネる人が出てくるのだ、賭けには常に「裏目」というリスクがあるのだが、この裏目が出たときにゴネてごまかそうとする人がいる、これは厳正なる「賭け」を侮辱して穢す行為であって許されない/そりゃ「そんなつもりじゃなかったんだよ」と女の子に言いたくなる機会はこれまで二千万回ぐらいあった、だがしょうがないのだ、裏目というのはそういうものだ、裏目リスクを回避できる賭けは存在しない。
「絶対○○って思われているよ〜」と、それでよろしい、本当にその目にBETしたんだな、そうBETしたからには、引き返せない、裏目が出たときはしょうがない、自分がナイスかヘボかのどちらかになるが、ナイスにだけなりたくてヘボが出たらごまかそうとするようでは、そりゃ次第に病気じみてきて当たり前となる/まともな大人が傲ったり自己卑下したりしないのは、そんなことしたら次の賭けの運気が下がるのを知っているからだよ、アガったりサガったりしていられる悠長な余地は賭けにはないのだ。

視点変えてこ | comments(0) |
杞人の博打と強迫障害
ょっと珍しい話をするが、誰にでも「不安」や「強迫」がある、誰にでもあるていどはある。
たとえば普段は陽気な人でも、人間ドックを受けたりすると、ふと「悪い結果が出たらどうしよう」と、なぜか不安になって、しばらくブルーになって過ごしてしまうことがある。
それは、合理的に考えると、「検査してもしなくても、あなたの身体は同じでしょ」ということだし、「ブルーになったって検査結果は変わらないじゃん、そんなのよけい身体に悪いよ」ということなのだが、そうはいっても「不安になってしまうのだからしょーがないじゃん」ということが実際に起こる/当たり前だが、あるていど誰だってこのことはあるのだ。
誰にでもあるこのことが、なぜか強烈化してゆき、ダメージやトラブルをもたらすようになったとき、これはあらためて「強迫性障害」とか「不安障害(不安神経症)」と呼ばれるようになる、もちろんそれは心療内科の領分だが、僕はしばしばこのことを、「不思議だなあ」と思うのだった。

不思議というのは、つまり人間は、催眠術や催眠暗示に掛かりうる以上、「根拠ゼロでも、無限に不安・強迫を覚えられる」ということだ、われわれが万全と信じている「現実味」みたいなものは、根っこでたいへん危ういものだと改めて考えさせられる。
「杞憂」「杞人の憂い」という言葉がある/これは古代の、杞の国の人が、「空が落ちてくるううう、そんな気がするううう、うわああああ」と不安になり、何がどうなったかというと、空は落ちてきませんでした、おつかれさまでした、でもしょうがないよね、という話から成り立っている、
こうした強迫障害や不安障害に対しては、○○療法というのがいくつか確立されているそうだが、それはちゃんとしたものであるはずだから、ここで僕から提案できる療法なんかもちろんない/こんなことに革命的なideaなんか出せるシロウトはいないだろう、まして僕の領分なんてオモシロ話というジャンルなのだから門外漢もいいところだ。
ただ僕は、80%の確率にも100%賭けるし、0.1%の確率にも100%賭けるようにしている、ということを言いたい、100%にしないと「賭け」にならないからだ/そして「賭け」ということは、ハズれるかもしれんということでもある、もちろん賭けにはハズれたくないのが人情だが、さすがに賭けにハズれたときの己のヘボさぐらい自分で引き受けろよと、僕のような者でも思うのだった。

杞人は、間違っていたのではなく、賭けに負けた。

彼が心配したようには、空は落ちてこなかったのだが、「わたしが間違っていました」とか甘いことヌカすんじゃなく、「賭けに負けたんだろ?」と僕は思う/なぜなら、空が落ちてくる確率が0%とは誰も言えないからだ、やはり空は落ちてくるのかも知れないじゃないか、それをお前、「間違っていました」なんて、まるで「なかったことにする」みたいな口ぶりはやめろよと思う、お前は病人だったのじゃないし、気の迷いがあったのでもなかった、ただハズレに賭けてしまった「ヘボ」だったんだろ、と僕は言いたい。
僕はここにこんな話を書き示しているが、これがスベるかウケるか、僕は賭けるしかないのだ、もしこれがスベったとしたら、そのとき僕は「間違っていた」わけでもないし、「気の迷い」があったのでもない、ただこれがウケると信じて賭けたことが「ヘボ」だったんだよ/このことについて、僕には何の不安もない、安心もない、じゃあ何があるかといえば、スリルがある、そりゃ賭けているんだからスリルはある、スリルがなきゃ眠たくてしょうがないだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
異性愛氷河期にて2

は男なので、女の子ちゃんは全員好きだ。
それは、僕が異常なのかもしれないが、僕が正常になんかなったら、世界が異常だ、異常な九折さんが正常なのは周知のとおりだ。
「自由で、かっこよくて、満足で」と申し上げているように、女の子ちゃんの全員が僕のことを嫌ったとしても、そんなことで僕の満足は消せない、女ごときが男の満足を傷つけられるわけがないだろ、そのへんはいいかげん弁えたらどうだ。
僕は男なので、女の子ちゃんは全員好きで、だからこそ女の子ちゃんの全員が、こころの底から笑っていないと許せないのだ、そのためには叡智だろうが霊力だろうがフル稼働してやる/男の僕がそう振り切っているのだから、女のあなたに止められるわけがないだろう。

女に感謝されるほどクソなことはない。
感謝の言葉なんて、ヨソのヘナヘナ男に贈ってやれ、よろこぶ奴もいるかもしんねーから、おれは要らない、おれ向けにはヘイトかエロ自撮りのどちらかを送れ、お前が幸せになるどちらかを送れ。
女に嫌われる頻度なんて、パンくずをテーブルにこぼす頻度より高いよ、そんなにチンタラ食っていられないだろ? そしてパンくずをテーブルにこぼして「ショックを受ける」なんて男があってたまるか。
おれにダメージを与える、唯一の方法を教えてやろうか、それはあなたが元気をなくすことだよ、それだけはさすがの僕も抵抗のしようがない/あなたが元気をなくすことだけは絶対にやめてくれ、その方法はさすがに卑怯すぎる。

あなたの愛なんかどうでもいい、大切なのはおれの愛だ。

マフィアが銃口を突きつけるのと同じやり方で、僕もつい突きつけるのをやめられないのだ、おれはおれの判断で引き金をひくよ、あなたの言い分なんか初めから聞いていない、引き金をひくのにあなたの同意なんか必要としていない。
おれにとって大切なのは、おれの愛だけだからね、あなたが笑っているか、元気でいるか、幸福でいるか、それがあなたのためかどうかなんて知らなくて、おれはおれのためにしか動かない/僕は女の子ちゃんが全員好きだ、女と同意なんかしたくない。

バカをやろうかあ | comments(0) |
異性愛氷河期にて
性愛が攻撃に晒されている。
同性愛のことは、僕はよくわからないので、ここでは申し訳ないが捨象する/異性愛が攻撃に晒されている。
つまり、男が、「女の子ちゃんたち、みんな大好きだよ!」と清潔に言うことを不可能にさせられ、女の子たちが、「男の方たち、どうかわたしなども愛してくださるように!」と清潔に言うことを不可能にさせられている。
もちろん男性は、「キミのことが好きだよ」とは女性に向けて言うだろうが、「女の子が好き」とは言わせてもらえない、「女の子が好き」とは言えないのに「キミのことが好きだよ」とは言わされるよう義務づけられているのは、非常にいびつで苦しい状態だ。

僕は今でも、「女の子ちゃんたちが好き」「女の子は基本全員好き」と言い続けているが、もし僕がこの言をやめたら、さすがに僕はオシマイだろう。
もし僕が、「女の子ちゃんが全員好き」と言わなくなったら、そのときは一切の書き物をやめるだろう、なぜなら僕自身、「女の子が全員好き」と言えない奴の書き話すことなんか、聞きたくないからだ、世の中の害毒にしかならんから引っ込めと自分で思う。
僕は男なので、女の子ちゃんは基本的に全員好きだ、「なんてカワイイんだ!!」としか基本的に思わない、それによって、もしすべての女の子が僕のことを「超キモイ」とキライになったとしても、僕の側は「女の子は全員好き」と言うのをやめないだろう、その点については、女の言うことなんか聞いてられっかよ。
かつて、「あなたはどういう女の子が好きなの?」と訊かれたとき、「女の子なら誰でも好き」と答えたことがある、怒られるかと思ったが、思いがけず「あはは、あなたってすごくやさしいのね」と笑われたことがあった/やさしいのかどうかは知らんし、そんなことに興味はないが、僕は「女の子なら誰でも全員好き」だ、女がおれのことをキライなのは慣れている。

僕はすべての女の子にハートを投げ、すべての女の子は僕に石を投げる、それが「平和」だ。

このことに何の問題がある? 石を投げる女の子が悪いのじゃない、女の子だから石しか投げられないのだ、女の子がハートなんか投げられるわけがないだろ、石しか投げられないから女の子なんだよ/地球上の石より僕のハートのほうが多ければ僕の勝ちになるという、ただそれだけのゲームだ。
「女の子は全員好き」という、サイテーなハートを、もうここに四千件も書いているわけだが、どんなミサンドリーでも一人で四千件も記事を書いて男を罵っているバカはいないよ、それはけっきょく向こうの弾数が負けるってことじゃないか、このゲームで降伏するのはおれの側じゃねえよ、物量作戦でおれに勝てるわけがあるか。
バカをやろうかあ | comments(0) |
0%の努力
いことに気づいた、僕にはそもそも「不満」がない。
不満がないということは、満足しているということなのだが、100%の「満足」というのは、特別な力を持つのだ。
よく、「満足してしまったら終わり」などと言われるけれども、僕は逆だと思う、「満足してようやく始まり」だ。
「満足してしまったら終わり」と捉えている人は、「不満」という感情と焦燥をエネルギーにして努力しているだろう、僕にはそれは不純な努力に思える、悪いことではないが、努力に不純物が混じるので、得られる結果が変わってくる。

前に、「自由で、かっこよくて、××××」という話をしたけれど、そのワイルドカードには「満足で」を入れればいいな。
不満をバネにして努力している場合は、努力が満足方向に固定されざるをえないので、自由を失う、そして「不満だから頑張っています」というのは根本的にかっこよくない。
僕は常々、努力がニガテだと公言し、生まれてこのかた努力したことがないと嘯(うそぶ)いてきたが、それはマジであって、不満のあてがいに努力させられるという時間の無駄がニガテなのだ、遊ぶこと以外にエネルギーを割きたくない。
うーん、つまり、不満を充足させるのに努力するというやつはアホだ、不満を持っているという時点でアホだ、不満なんか持つ人は極左団体にでも入っちまえよ。

100%の天才と、0%の努力。

つまり僕は、努力で動くと即死する体質で、天才で動くとやれやれでありのびのびなのだ、最近このことの足を引っ張る奴が多すぎるぞ、努力の傷痕を押し付けてくることは法令で禁じられています。
「血の滲むような努力」というけれど、誰も彼も血にばかり反応しすぎだ、ほんとカルマにしか反応しねーんだから/ただし「0%の努力と、100%の天才」は、100%の「満足」の上でのみ成立します。
できるオンナだね | comments(0) |
何が「出会って」いるか2
高くに、何か風船が浮かんでいたとする/「なんだろあれ、フシギだな」と見上げている。
そういうときに、「なんだろうね、あれ」と誰かが/もしくは「何を見上げてるの?」と誰かが、そういう形で人は「出会って」いる。
「耳を澄ませば」というアニメ映画観た? 作中にはムーンと呼ばれる猫が出てくるが、あれはあの街のトトロであって、子供たちと一部の大人たちにしか「視えない」のだ(作中をよくご確認ください)、そして月島雫と天沢聖司はこの霊的存在の「目撃者同士」として出会っている。
スマートホンをずっと覗き込んでいると、このトトロ(霊的事象)を視認する能力を失うのだ、そうすると、立場やアカウントは接続するのに、お互いは霊的に接続しないままになる、それでお互いの存在が次第にストレスになってしまう。

まあ、出会いの背後に、何かを「見ている」ことが作用しているのだが、これが悪い場合は、背後に「魔」を見ているというケースもある/「魔」を見てしまった二人も、急速に「出会って」しまうということがやはりある。
女性は、単独では、やはり「魔」めいたものを目撃してしまうことのほうが多い/高校球児らが甲子園球場という場所にナゾの英霊を視ることはまったくおかしくないが、女性がそういう英霊を視るケースは少なく、高校球児の裏側で、思春期の少女は森や湖にわけのわからん魔物を見ていることがよくある。
うーん、だから、最大に短絡していうと、おれの見ているものをさっさとテメーも見ろよ、ということになる、もともと背後にその作用があるから、あなたはこんなわけのわからんやつの話をえんえんと聞いているのだろう。
ただ、けっきょくは逆に行くパターンもあって、つまり、女の見る「魔」を、同じように見てしまう男と出会って、それと付き合っていくというパターンもあるな、それが悪いということではないが、ただ不穏なことではあって、そちらの道の先がどうなるのかについては、僕には知識がないのだった/ただそういう分岐があるということぐらい、年長者はアナウンスしていていいと思う。

僕の見ているものを見ろ。

別に僕に限ったことではなくて、何でもそうだ、あなたが岡本太郎の絵画を見物していても何も起こらないので、あなたは「岡本太郎の見ていたもの」を見るのだ、それが視えたとき初めて出会いが起こる。
ヘンなオカルトに傾倒しても意味が無い、場所や街や世界が視えていれば、ヘンなオカルトには用事はないんだよ、彼が「なんだこれは」と何かを見ているとき、その「なんだこれは」が視えていないのではあなたは彼に出会えないよ。
正しく見ないとな | comments(0) |
何が「出会って」いるか

じているものがないと話が成り立たないのがよくわかった。
信じているものの先には、カミサマがあったりなかったりするが、たとえばカネを信じている人がいたとして、その先にたぶんカミサマというのはないと思うが、それでもひとまず彼ら同士で話は成り立つだろう。
人によって、恋あいを信じていたり、冒険を信じていたり、さまざまだ。
そして、インターネットというのは便利だが、この便利を通信遊興に用いると、人はエネルギーを失うのがよくわかった、それはつまりニュースサイトや「まとめサイト」なんか見ないほうがいいということだ/リアルにエネルギーを失うから。

このブログはいいのだ、このブログには僕とあなたしかいないからな、ただの「便利」ということでしかない。
まずいのは、不特定多数からのコメントが乗っかっているようなサイトだ、といってもウェブサイトのほとんどはそれだが/そういったサイトは、ただ「信じているものを失わせ」、「何かを信じるという能力を失わせる」ということにしかはたらかない、だからはっきりいってマイナスにしかならない。
そしておそらく、そのことはウェブサイトやSNSに限ったことではないのだ、「信じているものが明らかでない誰か」の多数と話すことは、マイナスにしかならないのだ、その多数と話せば話すほど、残念ながらエネルギーがマイナスになる。
「信じているもの」がなく、さらには「何かを信じるという能力」そのものをなくすと、もう人とは出会えなくなるし、どう出会ったフリをしても、何の話も物語も成り立たなくなる/「信じるものがない人」は、びっくりするほど、もうどこへも行き先がない、インターネットごときでそんなマイナスを背負うのは馬鹿馬鹿しいな。

人が出会うのではなく、信じるもの(何か)が出会っている。

われわれは漠然と、自分たちを「人」と思っているし、そう思っていることは間違いではなかろうが、その「人」が「出会う」というのは、よくよく考えれば不明瞭な話だ、何をもって「出会う」というのか/「人」という現象を見たとき、それが「出会う」というのは、まったく思いがけないところで「出会う」が発生しているのだ、だから、「信じるものがない」というのは人それぞれの勝手だとしても、それは原理的に「誰かと出会う機能の一切を放棄している」ということになる、このことのアナウンスはこれまで為されてきていない。
ウェブで通信遊興をすることは容易だし、楽しいし、表面上「さまざまな人の意見が聞ける」「情報が得られる」ように見えるが、ぜんぶ大嘘だ、なぜならウェブに接続する代わり、「運命の赤い糸」の機能を全部破却しているのだから、むしろ「ネットワーク」から切断されてしまうことだと認識すべきだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
正しい知識はいくらでも矛盾する

しい知識はいくらでも矛盾する。
それはわれわれの知性がしょせん表面的なロジック(識)に執着するからだ。
男の愛は女に許されることでしか成り立たない。
男の夢は女に許されることでしか成り立たない。

もちろん「お願い」で許してもらえるわけはない/「お願い」は最もクソッタレだ。
僕の夢を叶えておくれ/その夢はいつのまにか、僕の願望や希望ではない、僕に突き込まれた何かだ、僕はそれに素直であろうとした。
僕が素直になりきれたとき、一部の女性が確かに、一も二もなく「そりゃ許すわよ」といって、常識はずれな夜が始まった、あのときそういうことをしていたし、これからもそういうことをしていかねばならない。
男と女で、明らかに僕のほうが身分は上なのにな、それでもなぜか僕が女に夢を見て、女がそれを「許す」のだ、愛のカミサマはわれわれの認識する愛とはまったく違う仕組みを持っている、女はただ困った男を許すだけで、それなのになぜか男のほうが身分は上だ/正しい知識はいくらでも矛盾する。

おれのほうが偉いのだが、おれのほうがはるかにバカで、女はこれを許さねばならない。

そういう構図なのだ/おれのほうが明らかに偉いのだが、おれのほうがはるかにバカなのだ、だから、おれのほうが偉いにもかかわらず、生殺与奪の全権は女の側にある、だから表面上は理屈が矛盾しているように見える。
おそらく、この表面上の矛盾に引っかかった愚者が、一方では権威的な男尊女卑になり、一方では倫理的なフェミニズムになったのだと思われる、そして男は賢明に「お願い」をするようになってしまい、女は男の最もステキなところを見られなくなってしまったのだ。

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