☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
男女平等と天地陰陽2
とえば木の葉の一枚を見ても、その片面は陽に照らされ、反対の面は蔭に閉ざされている。
ここで僕が、「あいつはアホだな」と言ったとする、あなたも同調して「あの人はアホですね」と言ったとしよう、しかしそのとき、僕はその「アホ」という木の葉を日照側から見ているのに対し、あなたは日蔭側から見ている、だからあなたの「あの人はアホですね」は、陽が指していない。
僕とあなたで、同じことを言っているはずなのに、陰陽はまったく逆を帯びているのだ、僕は彼のおでこに「アホ」と書いているのに対し、あなたは彼の尻の穴に「アホ」と書いている。
ここに男尊女卑の、おそらく本来の定義を示そう、「天地」といえば天が上にあるのは物理的に当たり前だが、つまり上から順に「天男女地」と捉えればいい、[天|男|木の葉|女|地]と並べたとき、[光の方向:天→地]だから、男女それぞれが木の葉一枚について陰陽の逆を見ていることがわかると思う。

[光の方向:天→地][天|男|X|女|地]、この構造図でワイルドカードXにさまざまなものを代入するとき、これまで視認しづらかったさまざまな諍い、いざこざ、すれ違いの理由が説明されうると思う。
たとえば、[天|男|夜遊び|女|地]と代入したとき、男はとっさに「夜遊び」に陽気な力を覚える一方、女は「夜遊び」に蔭のある不穏な力を覚える、ということが示される/これにより「夜遊び」について、男は「へ?」、女は「……なによ」とすれ違うことが起こる。
天地のあいだにある万物について、女性は「蔭のある不穏な力」のほうを見てしまうものだから、女性は大前提として、この世界の万物から不穏なものを吸収してまわるという性質がある/「男尊女卑」というのは単に「女は卑しいもの」という意味ではなく、「女は卑しい側面を吸収してしまいがち」ということだ、もしそれが「身分」だと言われてしまうなら、それは甘んじて引き受けるしかきっとない。
たとえば最近は、芸能界などは不倫ネタが流行しているが、蔭サイドからものを見ることしかできなくなった人は、何をどう工夫しても、そのネタから「卑しい側面」しか吸収できなくなる、たとえば映画「タイタニック」でさえ、「あれは婚約者のある女が行きずりの男と不倫するふしだらなクソ話」「しかもけっきょく自分だけ生き残ってやがるし、ゲスの極み」としか見えなくなるのだ。

[光の方向:天→地][天|男|あなた|女|地]

こうして図式にあなた自身を代入した場合、もしあなたが女あるいは女化した男であれば、どう前向きに捉えようとしても、あなたは自分の「卑しい側面」「蔭のある不穏な力」しか受け取れないはずだ/何が起こっているかわかるだろうか。
僕があなたに、「輝く肌をしているね」と言ったとする、あなたは「ありがとう」と言うだろうが、そこであなたがほんのりと男女平等主義に育ってきているとき、あなたの見え方と僕の見え方が陰陽において異なるという前提があなたにはないので、あなたにはわけのわからないパニックや不快や叫びの感情が起こる/僕がときにあなたを見下ろしたふうに言うことをあなたが許し認めてくれないかぎり、この苦しみの感情はあなたから消えず、あなたがあなた自身に輝きを確信することはいつまでもやってこない。
視点変えてこ | comments(0) |
男女平等と天地陰陽
会的に男女平等を押し進めることは、確かに一面の正義であるには違いないが、社会的な理念を無視する具合で、男女にはそれぞれ「陰陽」の気が伴ってしまう。
たとえば北島三郎と石川さゆりをならべたとき、北島三郎を陰と言うのはムリがあるし、石川さゆりを陽と言うのにもムリがある/最近は陰に傾く男も増えたが、それにしても基本的に男が陽で女が陰という性質はなかなか覆しがたい(相当な力業を仕掛ければ一時的な転覆も不可能ではないとは思うけれども)。
北島三郎(陽)は、「は〜るばる来たぜ函館へ」と歌うのだが、石川さゆり(陰)は「わたしは帰ります」と歌うのだ、両者とも同様に津軽海峡を越えるのだが、北島三郎にとっては北は「行く」ところであり、石川さゆりにとっては「帰る」ところなのだ。
北半球に住むわれわれにとっては、北(極方向)が陰であり、南(赤道方向)が陽なのではなかろうか、だから女性にとっては「南の島」のほうが「行く」に当たり、男どもにとっては南国こそ「帰る」ところに当たるのかもしれない。

まさか、相当な強弁を言い張るのでなければ、「津軽三味線」を習うのと「フラダンス」を習うのが、陰陽において「同列!!」ということはあるまい、陰陽というのはどうしても存在する。
もし、男がもともと陽の国の出身で、陽を地元とするならば、陰の国では旅人のごとく振る舞うべきだし、女性も同じだ、女性がもともと陰の国の出身であるならば、陽の国では旅人のごとく振る舞い、勝手に出しゃばりな振る舞いをするべきではない。
陰陽の気というものがどうしてもあり、たとえば一枚の写真を見たとしても、「光の当たり方がきれい」と見える者もあれば、「陰影がきれい」と見える者もあるのだ、同じものを見ていても同質の見方をしてるとは限らない、陽の側から見る者もあれば、陰の側から見る者もある。
極端な話、たとえば「軍艦マーチ」を聴いていると、戦争さえ当時の男どもにとっては、少なくとも陰気なものではなかったのだと信じられてならない、たぶんどれだけ男女平等を強化しても女性の半数が「軍艦マーチ」に到達することは不可能だと僕は感じる。

天頂から眺めた森林は、陽を受けて青々と光っているが、地から眺めた森林は、陽を閉ざして鬱蒼としている。

上から目線でものを言うふうになることを、どうか許されたい、僕は上位を気取りたいのではなく、上から見てあなたの森林にどれほどの陽が降り注いでいるかを伝えたいのだ。
あなたから見上げた光は逆光で「まぶしい」でなくてはならず、僕から見下ろしたあなたは照らされて「輝いている」でなくてはならない/もしそれを男尊女卑だというならば、「そのとおり、あなたの輝きはあなたにはわからない」と僕は申し上げよう。
視点変えてこ | comments(0) |
「かっこいい」と「かっこよくない」の理由
のところ、人の視認性を操作する、という、意味不明すぎて草不可避な技術に取り組んでいる。
なぜそのような技術を持っているかというと、このところそのことへの用事があったからだが、なぜできるのかというと、よくわからん、たぶん用事があったからできるようになっていたのだ(説明する気が無い)。
もともと人の視線や感覚的に「見える」ということを操作することは、できていたし、やっていたのだが、僕は自分が目立ちたいタチではないため(目立つのは苦手だ)、自分自身の視認性を上昇させるということはまったくやらず、僕は人目にはほとんど「消える」ということばかりやってきたのだが、ここにきて急に逆のことをやっているので、毎日フラフラに困憊している。
「視認性上げますか」「こんな感じで……上げすぎかな」「ん? もうちょっと下に位置ずらす?」といい、そのとおりのことをやってのけるので、友人は「なんだこのワザは!!」とゲラゲラ笑いっぱなしだ、自分でもわけのわからん能力で笑えてくるが、とりあえず「映画は小説より手品に近い」というあたりのことを、僕自身のためにメモしておかないといけない。

視認性というと、つまりダイレクトに視力なのだが、視力に流れ系としてアプローチするためには、要するに蝶形骨のあたりをゆるめないといけない、という感じだ/「たぶんこうだろ」という感じでやってみると、そのままそのとおりになるので、たぶんこれで合っているのだと思う。
その視認性を通してフィクション上の「世界」を生じさせようとすると、もちろんイメージなんかもうとっくに使い道がなくて、フィクション世界と合一したフィクション上の真我(アートマン)が直接見ている世界が直接演者に見えていないといけない、そうでないと客体はそれを想像力上に描き出すことができない(なんのこっちゃ)。
これまで僕は、「言葉」はわかる、「音」もわかる、「音楽」もわかる、「物語」もわかる、という状態で来たのだが、「映像」とか「音響」はまるでわからずに来たのだ、完全にシロウトで、これがどうなるものやら、これがわかるようになると「ダンス」も本当にわかったりするのかもしれない。
これらのメモ書きは、僕にしか意味がわからず、僕にしか値打ちのないものだが、さしあたり「表現やコミュニケーションは深入りすればマジでそういう事象に突き当たってくる」「人間のやるべきこと、面白いことは、まだまだいくらでもある」ということだけお伝えしておきたい/たとえ何千年生きても「やることがない」ということにはまったくならず、最後の最後までクソ忙しいだろう。

かっこよくないのは、わかっていないからだ。

誰だって、学校に行ったりし、部活で活動したりし、異性とイチャついたりし、就職したり、勉強したり、趣味を見つけたりする、その当たり前のことが、なぜか「かっこいい」人があり、なぜか「かっこよくない」人がある/それが「かっこよくない」ということは、「やっているけれど実はわかっていない」という状態だ、これはとても損なことだ。
刺激的あるいは蠱惑的に演出をベタ塗りすると、表面上は「かっこいい……かも」とだませるのだが、そのダマシは二週間もすれば完全に消えてしまう、そこで「かっこいい」「かっこよくない」は個人の好みではまったくなくて/正しくわかっていれば五〇〇年前の建築物は今でも「かっこいい」ままだし、だまされていれば五年前の流行物は今ではたいへん「かっこよくない」になってしまうわけだ。
できるオンナだね | comments(0) |
パーティ報告77(2)
ういえば、バレンタインデーの関連もあって、このところすさまじい量の贈り物をいただいている。
フランスに旅行してきた方からみやげ物を、どっさり(なんでもかんでもカートに突っ込んだなこりゃ)もらったのだが、フランスのお菓子やらバターやらは、実際美味すぎて腹が立つレベルだ、日本はフランスに文化レベルで負けているのではないだろうか。
よくよく考えたら、手作りのチョコレートも、アソートでコーティングされた(説明になってねえ)高級チョコレートも、望外のものだし、ウマいし、ロブションのジャムとかよくよく考えたらサイコーのものだし、そのとき飲むのにとてもナイスなレア物のスコッチも頂いているし、なんかもうとってもいいじゃないか、とにかくウマくてステキなものをありったけ僕のところに持ってくるように。
帰り道に、トップバリュのマスカットグミを食って「うめえ」と満悦していたときに、ハッと気づいたのだ、「もっとええもんを大量にもらっとるやないか!!」と/世の中のものにはすべてピンキリの格差があるわけだが、ピンであれキリであれウマいのには違いないのだった、ただしピンキリというのはあり、今日はとりあえずフランスの菓子が美味すぎて腹が立つのだった。

報告がバラバラになるが、いわゆる男女平等問題について、あっさりとして的確なヒントというか、解答が見つかった。
それは「男女平等で構わんが、それをゴリ押ししても、陰陽の性質は変わらんから破綻しまっせ」ということだった、これは僕としてはとてもすっきりするので、僕の結論はしばらくこれでいいかなと思っているのだった。
陰陽の性質、それはたとえば酸性とアルカリ性のような性質だが、その性質によって「まぜるな危険」ということが発生するのだ、つまり男性の毒舌は毒ガスを発生しないが女性の毒舌は毒ガスを発生するというようなこと/これはいくら平等でも「異性(性質が異なる)」のだからどうしようもない。
人間に殺虫剤をかけても、人間には抗体があるから死なないが、虫さんはケイレンして中毒死してしまうのだった、そのことのように「このことは男はへっちゃらだが、女がやるとえげつない中毒をしてしまう」ということがある/まあだから平等のゴリ押しをやめようということではなくて、僕はこれですっきり合点がいくなという話なのだった。

男は足し算(+)、女は引き算(-)。

もちろん足し算と引き算のどちらがエライなんてことはない、ただ性質が違う、ゼロ点に男をおくと、基本的に男はそこからプラスを生じようとするが、女はマイナスを生じようとする/たとえば川縁にいくと女の子は花を摘もうとし、男の子は川にダムを作ろうとする。
男がプラスだけなら何も足しにはならず、女がマイナスだけというのもやはり足しにならない、男のプラスを女のマイナスが消費する、ということで目に見えない何かが営まれている、インビジブルなカルマ償却が起こっているのだ/だから何の善性もない僕に女性があれこれステキなおみやげを持ってきてくれているのだった、何か足しになっているのである。
そのほか | comments(0) |
パーティ報告77

「報告」といっても、情報量が多くてまともに報告しきれない。
さしあたり申し上げるべきは、「当方のパーティでは激論は交わしてないぞ」というあたりか、どうもブログやコラムの論調がイケイケなので、パーティでもそのような激論が……と想像されてしまうらしい、まあそれはしょうがないが、実際そういうのはナイのでよろしく。
おれが一番飲んでいるし、おれが一番ヘラヘラしているのだ、それでやることは何かといえば、「底上げ」だワッショイワッショイ、てなものである、盛り上がる声を発揮できてりゃそれでいいだろうという、まあホントにそんなことしかしていないからそのように報告するしかない(すっごく楽しいヨー、とテキトーに勧誘)。
「今日の九折さんは春が見えていてヤバい日のパターンだぜ」みたいなことを話して……あとは何だっけ、そうそう「夢だよ夢、夢はあんのか」「ひええ、怖いこと言わんでください〜」みたいなことを話した、「夢、つまりマイドリームなのだが、それがたぶん誤解されている、夢というのは達成したい目標というのではなく、『なぜかわからんが自分はこれをしなくてはならんのです』というようなヴィジョンのことなんだ」と、確かそんなことを話したはずだった(えんえんハイボールを飲み続けている)。

今回は、新しい人が来てくれて、しかも或ることの専門家(かつイケメン)だったので、フレッシュに盛り上がった(なお常駐のメンバーどもは己のノンフレッシュぶりに深く慚愧を覚えるように)。
やっぱりイケメンがいてくれると盛り上がっていいな、としょーもない感慨を覚えながら、僕みたいなアホなのところに誠実な専門家の人が話を聴きに来てくれるようになるとはなあ、と不思議で信じられないような心地がしていた。
いくつかの実演をヘラヘラやりながら、内心で割とマジメに「どう話せばヒントに持ち帰りやすいかな」と考えていたのだが、とりあえず「顔面にスイッチを入れないことです」「失敗に寛容になることです、成功と失敗を区分したがるのは意識であって、遊びやフィクションには成功も失敗もないのですから」というあたりを話した。
テキトーに歌ってみたりもしたが、ああいうことでよかったかね、まあ一度実物を観てみるとその後ずっと取り組んでいく何かのきっかけになりうるわけで、とにかくこんな僕みたいなアホでもできることなのだから、遊ぶということは誰にでもできることなのだった、ちなみに今回のおれの飲み代はナターシャの後援によってタダですヒャッホウ(情報量が多くてまともに報告しきれない)。

「遊ぶ」というのは確かに、到達しづらい秘奥義ではある。

たとえばトランプでババ抜き遊びをしているとき、ババを引いたら「ぎゃあああ」となるわけだが、それは遊んでいることの「失敗」ではない、本当に「遊ぶ」ということに到達できたら、すべての失敗は消え去る/そのときまで真の自由は得られないだろう、何しろ人は成功に一番縛られるのだから。
どこまで遊べるかな? とりあえず今回は、二十四時間遊んで二十四時間休んだ(マジ困憊)、この四十八時間の後の僕が現在あるわけだが、この現在の僕は、四十八時間前の僕と明らかに同レベルではない、同レベルでない感覚と流れが胴体に宿っているのが正直わかってしまうので、まあごまかしてもしょうがないのだ、きっとそういうことなのだろう、来月もよろしく。

そのほか | comments(0) |
第77回Quali's Party[2月17日(土)]無事盛会!

2/19 Quali tweet> 楽しかったぜいえぇぇぇーい。 pls entry

Recent entry: (新)やじま、ひろみ、ゆか、まなみ、つかごん、くおり
日時:2018年2月17日(土)19時〜23時 場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB


おかげさまで無事盛会でした! 次回もまたよろしくお願いします!
遊び続けて幸運を引き込んで勝ち逃げっつーのが最高だな!!

九折



キラキラ次回[3月17日]加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
カミサマに自信を送れ
ーたわけのわからん話だよ。
しかし、なあ、それっぽい訳知り顔を雰囲気で醸し出していたとしても、そんなのでは実際には何もやれないからね。
圧倒的なものが要るのだ/「お客様はカミサマです」と古くからいい、また舞台の上にも神業は出現する、つまりフィクションとノンフィクションの境目は互いにカミサマにゴニョゴニョ(説明放棄)。
フィクションとノンフィクションの境目、その皮膜に流通する仕組みを実践レベルで知りたいのだ、知りたいというか、知らないと話にならえねって具合なのだった、コンチクショウめ。

一方で、僕は出力を押さえないといかんというところもある。
所詮、人間のコミュニケーションは、相手の受容能力を引き出すことで成立しているので、それを利用する以上、表現には「弱い」ことも必要なのだった/うーんこの説明は誰にも意味不明だし、それどころか誰にも説明の必要さえないぜ。
僕は大柄なのだが、単なる体躯のデカさだけでなく、デカいというのは舞台にあまり有利ではないな、人間は基本的に等身大を超える人形で劇をしないものだ/等身大を超えてしまうとあまり「人形」とは扱われず、あまりおいしくない「像」になってしまう。
精密に小さくなれるか? ということなのだが、うーん、そういう訓練はまったくしたことがなかったし、発想もなかったな、そういえば「三人の小びと」という題名のとき、小びとがたぶん主人公だが、「三人の巨人」というとき、たぶん巨人は主人公ではないのだ、デカイというのはそれだけでけっこうやっかいな要素なのだった。

小説は小説を信じる者の、映画は映画を信じる者の、剣は剣を信じる者の、通過するもの。

男を信じない女が男と寝るのは無意味だし、女を信じない男が女と寝るのも無意味だ、フィクションとノンフィクションの皮膜通過点はそこにある、なんのこっちゃという話だが今僕にとっては「なるほど、そうか」の話なのだ(すいません)。
そこで「信じる」ということは、祈りをこめてウッフーンすることではなく、自信を皮膜の向こうへ送るということだ、向こうにはそれを受容する機能があるのだから(カミサマと接続する能力)、そこを利用しないでは何も為せない上に疲れてしまうだろう。
できるオンナだね | comments(0) |
ママコン(造語)の話

本人男性はマザコン気質で世界的に有名だが、このところはむしろ、母娘のあいだに起こる「ママコンプレックス」(ママコン)がひどいように思う/もちろん「ママコン」などというのは造語だ。
だいたい、どこの血族でも母と娘の関係は強度の依存状態かつ深刻なストレスのおよぶ破綻状態にあり、これについてはコワ〜いのであまり口出しはしない。
ママコンにおいて、娘は母の支配下で、およそ四十年ぐらいを生きる、四十年経つとだいたい母が老化するか、死ぬわけだが、その四十年間、娘は自分の人生をカラッポに生きるので、何かもう目も当てられないことになる/イライラしながら母のすごろくの駒になっていただけだ。
自分の人生を生きるべきなのだが、娘は、自分から「母」の成分をブッコ抜くと、自分がカラッポだということに気づくので、それが恥で厭で、それを隠しきるために母製の駒であることを続ける/男性のマザコン人生は冗談みたいで笑えるが、女性のママコン人生は特に女性の気質において笑えないのだった(あまり深く突っ込んでは話せない)。

母と娘が水面下でつながったままの、つまり自立未達成の女性は、とにかく母がきらいで、その支配から逃れたいのだが、かといって母を取り去ったあとのカラッポの自分を見るのもイヤなのだ、それでどうしたらよいかというと、どうしようもないので、まあ健康に留意しようぜというあたりが、マジで重要なことになるのだった。
まあ、根の深いことなので、慌ててどうこうしようとしないことだ、ヒサンなことだとは思うが、僕のほうが年長者なので、もっとヒサンなことになった例を知っている/「母亡きあとカラッポの中年娘が部屋に座っていた」とか、考えただけでなかなかホラーなものがあるだろう。
いわゆる「毒親」とか「アダルトチルドレン」とかの類型で、専門家の分析と対処は完璧だろう、だから僕がいちいち言う必要はないが、僕がおすすめしたいのはこの視点だ、「カラッポの自分を見るのはすげーイヤなものだ」「そしてカラッポの自分から新しい自分を構築していくというのはさらにイヤなものだ」ということ、つまり「ママコンのほうがマシ」で「ママコンに庇護されている」という側面が実はあるということ。
オバケがどうこうとか、霊がどうこうとか、そんなことより母親が人格のど真ん中に取り憑いていることのほうが一万倍多いので、もうちょっとリアルに努力したら? ということになるのだった、しかし自立した「わたし」が努力するということは、やはりキツいもので、大暴れしてそのことから逃げようとする、そしてその「大暴れ」の声と姿が実に母親ゆずりだということに誰しも気づくだろう。

母親が自分の人生に関係あると思うのは、ただの思い込みの妄想なのだが、この妄想が取り除けない以上、この妄想を「事実」にするしかない。

頭がアレになってしまった人は、「すれちがうナンバープレートが僕を監視して支配してりゅううう」となってしまうのと同じように、ママコンに縛られている人は、自分の着る服、すること、遊ぶ趣味、ジャンケンで出すグーチョキパーまで、母親に支配されているのだ、それはもちろん妄想なのだが、妄想が取り除けない以上、そこをヤッサモッサしていても意味がない/妄想を否定するのは臨床心理学的にも悪手だとされている。
まあ悪手でもかまわんけどな……さしあたり僕は、いつまでも変わらず「親は一ミリも関係なくね?」と言い続けるだろう、なぜなら僕がここに書いている文章は僕の母親に一ミリも関係ないからだ/しかし「親は一ミリも関係ない」「ちゃんとできるようになりましょーよー」と言われることのほうがキツくてキビシイのだった。

正しく見ないとな | comments(0) |
伸びるアホと苦しむマジメ
間はアホなことで伸びる。
マジメなことでは成長しない。
アホなことに労役し、アホなことを研究し、アホなことに覚醒し、アホなことに出資しろ。
マジメな受験勉強と、マジメな部活と、マジメな仕事では人間は伸びない、マジメ世界の中では人はマジメと破滅を往復して悩みと怯えを増幅させるだけだ。

悩んでいる人は必ずマジメだし、苦しんでいる人も必ずマジメだ。
そしてわれわれは、マジメな人が覚醒と解放に至ることはない、ということを経験的に知っている(目撃している)。
マジメな人は常にマジメに自分のデキや将来のデキを考えており、間違っても「あの超絶うまいカードシャッフルはどうやっているんだろう?」みたいなことを全力で考えたりはしない。
アホなことに労役し、アホなことを研究し、アホなことに出資しろ、そうしたら人間は夢の中に入るので、人は夢の中でだけ伸びる可能性を持っているのだ。

アホなことに無尽の集中力を発揮できるということ、それが才能だ。

誰だって、パチンコで負けがこめば必死になるし、キツい危機感や不快感や劣等感などに曝されれば、そのことしか考えなくなる、しかしそれはマジメな話であって、「このドラムスティックはどう動いているんだ?」というようなアホなことへの集中力とは性質を真逆にする。
アホなことに自己を投資できない人は、自分がこの世に生まれ落ちたことがアホなことだとは思っていないのだろう、マジメな人は発表会やコンクールで泣くだろうが、アホな人はリストやサン=サーンスそのものに泣くのだ。
正しく見ないとな | comments(1) |
別のことをしよう
は僕になりきらねば。
もともとゴーマンに生きてきたつもりだが、ここで改めて、さらにゴーマンにならねば。
僕が間に合うしか他に方法がないのだ、これまでの経験からいよいよわかる。
僕の善意は、僕自身を堕落させ、僕が堕落すると周りまで可能性を失っていく、ゴーマンにならねばならないという義務を負うのもなかなかキツいものだ。

誰だって自分に還るしかないのだろう。
だいたい、誰でも自分の家族や出身はぐちゃぐちゃなもので、それが自分の帰る場所ではない、自分は自分に還るしかないのだ。
誰にとっても「自分」がこの世に生まれ落ちているのは不思議なことだ/だが不思議なまま事実だけが与えられている。
ぐずぐずして、自他の可能性を減殺していくのがそんなに好きかな? ふざけて自らそうしているとしか見えない。

全員を裏切っても僕はこっちをやる。

思えば、これが昔からの僕の判断ということか、僕は大きな不和のある家庭に生まれたが、正直僕は別のことをしていた。
別のことをしよう/自分が自分に還るからには。
恋女のマインドね | comments(0) |
救済願望にご用心
だって、ヤバいバーサンになりたくはないし、オワッテルジジイにはなりたくない。
われわれは、日常では余裕をコイているつもりだが、どこか心の奥で「自分のこころのうちがこんなありさまでは、この先ヤバいことになる予感がヒシヒシするぜ」とも感じているものだ/まあおれはまったくそんなことはないのだが、それはどうやら僕が特殊なタイプだからということで、このところよく友人に諫められるのだった。
内心でどこか「ヤバイヤバイ、このままではヤバイ」と感じているものだから、救済願望が切迫しており、その切迫のせいでささいな出来事を大仰に取り過ぎるということがある/つまりちょっとした好い変化を「これって救いですかね? ですかね?」と取り縋るところがあるのだ、これは明らかにバランスが崩れているので冷静にならなくてはならない。
土台われわれのようなアホの身に、「救済」などという偉大なことは、そうカンタンに与えられないし、仮に与えられていても「気づかない」のだ、われわれはそういうアホなのだということをよく自覚して、いちいち取り乱すことのないように冷静でいなくてはならない。

救済願望はつまり、「いつもこの、自分が薄々感じている『ヤバイ』という感触を、忘れたいんです、気楽なほうに逃避したいんです」ということだ。
それはまあ、わからんではないというか、そりゃそういうものだろうなという気がするのだが、それで「大丈夫な人々」の参列に顔を出されてもな……それよりは堂々と「ヤバくてもいいじゃない、これまでずっとヤバかったんだし」「そんなもともとヤバい人が、いきなり大丈夫な人のコースに切り替わったりしないですって」と、引き受けているほうがいい、そのほうが運気が上がるだろう。
それで、コースとしてはまだまだヤバイ人コースのままでも、それでも「好いこと」「吉相」が現れたなら、それは好いことだし吉相なのだ、それはそれとしてよろこべばいい/たとえば合否判定がEからDになったとしたら、やはり入試には落ちるのだろうが、それにしても向上は間違いないのだからよろこべばいい、でも合格気分になったら余計マイナスだ。
われわれはそれぞれ、どーなるのだろうか? 誰だってヤバイものにはなりたくないし、誰だってそりゃ不安なのだが、僕だって「安心」なんかまるでしていない/ただ僕は、いいかげん「不安」などというヒマなことをやるヒマはなくなっている、不安か安心かなんてどうでもよく、ただ常に最善を見極めることに忙しいのだった、いつも「これ以上はムリだ」とヘトヘトになっているときが一番マシだと経験的に知っているばかりだ。

救いを求めているということは、苦しんでいるということだ。

じゃあ人に尋ねるまでもない、「救われてますかね?」と訊くような「苦しんでるんだろ」ということだ、それよりは何か多方面で忙しくなってしかし何か明るくなってしまって「うぬうおほおおおおりぃああああぶすおーでぃゃあああ」となっている人のほうが「救われているのかもな」という可能性がある。
僕はこのところ友人に、「1分1秒たりとも休まないんですね……」と呆れられることが多いのだが、それは別に僕がガンバっているのではなく、単にビビっているのだ、自分に余力を残しているという状態がよくない感じがし、いつも使い果たしているときが「ややマシだろ」と感じている、それならややマシのほうがいいなあという、ただそれだけのことなのだった。
できるオンナだね | comments(0) |
裏帳簿の赤字と黒字2
なたは海辺の畑に花の種を蒔いた、しかし花は咲かず、隣町の海辺には花が咲いていることをねたみ、そねんだ。
あなたは翌年、倍の種を巻き、倍の水をやり、倍の肥料を与えた、誰よりも花が咲くよう祈った、しかし花は咲かなかった、隣町の畑では何の努力もなく「当たり前」に花が咲くそうで、あなたは納得がいかず焼けるようにキリキリした。
あなたはわけのわからない男から命令を受けて、山の上にある廃屋を片付けるように言われた、あなたは「えー」と不満に思い、「どうしてわたしがそんなことしなくてはいけないの」「そんなことしたくないし、するつもりもないし、そんなことをしているヒマもないのに」と感じた、しかしあなたはふとそのことをやってみる気になった/これまでどうしても、畑の花が咲かなかったから。
あなたはヘトヘトになるまで、山の上にある廃屋を解体し、片付けた、そして海辺の畑に戻ってくると、なぜか花が咲いていた、そしてその年から何もしなくても勝手に花は咲くようになった。

あなたの知る由もないところ、その廃屋は以前、罪深い化学者の住居で、地下に保管されていた物質が漏れ出していた、その物質自体は毒性のものではなかったが、川縁の石灰岩と反応し、川の水を毒性のものにした、その水が畑の土を犯し、花を咲かせないようにしていた。
そのような仕組みが、前もってわかるならいいのだが、<<われわれは自分の身に何が起こっているのか、仕組みがわからない>>のだ、だから自分がわかる単純な発想だけで自分の身を救うことはできない。
われわれが持つべきセンスおよび可能性は、「山の上にある廃屋を片付けなさい」「あなたが片付けなさい」と言われたとき、その荒唐無稽と理不尽の向こうに、「ん?」と何かを感じ取ることだ、表面上は自分にまったく無関係に見えるが、それでもどこか「自分はこのことをしなくてはならない」というナゾの直観がある。
山の上の廃屋を片付けるということを、荒唐無稽で理不尽であるにも関わらず「わたしがやります」と引き受けたとき、なぜか「何かがすっごくラクになった」「ぜひやらせてください」「具体的に、この身が救われるという感触がある」「呼吸がラクになった、声が出るようになった」等の現象が起こる、この現象を見落とさないこと、逆らわないこと、そして誤解しないことだ。

玄関掃除とボイストレーニングで、どちらが「声が出る」ようになるかはわからない。

ボイストレーニングに半年間通った人と、世話になった人の玄関を半年間掃除した人とで、「何か声がよくなったね」という結果に至るのはどちらか、わかったものではない。
「なぜこの人は、こんなに佳い声が出るのだろう」と思える人に、「どうすれば佳い声が出ますか」と訊ねたら、「お前は山の上の廃屋を片付けてこい」とわけのわからないことを言われるかもしれない、一方で「こういうボイストレーニングがあるんですよ」と別のことを勧めてくれる人もあるかもしれない/そのときにあなたは思い出すこと、<<われわれは自分の身に何が起こっているのか、仕組みがわからない>>わけだが、あなたの目の前の人は、その「仕組み」をあなたより高いレベルで看破しているのかもしれない、もしくは本当にただの荒唐無稽を言っているだけのバカなのかもしれない。
視点変えてこ | comments(0) |
裏帳簿の赤字と黒字

とえばまったく色気のない女子高生に、「別に大学受験がエライのじゃない、ただ人生の拡大からオリてはいけない」ということを熱弁しているとする、そのとき「なんでおれがこんなことせなあかんねん〜」という声が内側に起こる、この声は明るい。
これに比べると、たとえば「念願だったフィジーの旅行に行ってきました〜」という声は、なぜかそんなに明るくない/比較して「なんでおれがこんなことせなあかんねん〜」という声は、何か笑えるほど明るいのだ。
「なんでおれがこんなことせなあかんねん〜」という、納得のいかなさより上位に、「まあふざけんな、おれがオリてたまるか」というわけのわからない力強い声がある、それで「なーんでこんなことしているんだろうな、わけわからんぜはっはっは」という明るさが生じる。
その明るさの声は、「裏帳簿で黒字が出ている」ということを示している、「なんでこんなことせなあかんねん」というヤレヤレ感の背後で、真の利益が得られていることを、人はどこかで知っている、だからそのときの声は明るい/またその逆のときの声は暗い。

「はっはっは、なんでこんなことに必死こくハメになったんだ」と明るい声を発している奴は確かにいる、しかし声が明るいということは、裏帳簿では黒字、真の利益が得られているということだ、つまりカルマ的なものを償却しているので、身には光や徳性が啓かれていっている、つまり本当の意味ではトクをしている。
一方、表面上は自分の希望どおり、納得のとおりに満たされていくとき、声はなぜか暗くなっていくものだ/「給料も上がってきたし、前から考えていたとおり、広い部屋に引っ越したんです。すっごくいい部屋で。あとクルマも買おうかと思って」と、そのときの声はなぜか明るくない。
僕の後輩は就職面接のとき、「先輩にシゴかれました」という話の中で、その先輩の特徴について「そりゃもう、理不尽の専門家みたいな方で」と説明して面接官に大ウケし、無事内定を勝ち取ったが、その理不尽イコール納得がいかないという中にこそ、真の利益とむやみに明るい声がある/比べて希望通り・納得どおりの声はどうしても暗くて弱く、荒みやすい。
「なんでわたしがこんなことせなあかんねん〜」という嘆きの中で、嘆きの感情に取り込まれず、「はっはっは、やったろうやないか」と巻き返していること、それが正しく成り立ったとき、はじめてむやみに明るい声が生じる、それは裏帳簿に黒字が出ているということだ、この黒字が一部の負債を返済しきると、人間の身はポンと徳性を開放する、これまで見えていなかったものが見えるようになり、できなかったことができるようになるのだ。

実例、「部活のクソ環境をやり抜いたとき、なぜかアルバイトがすぽーんとラクになることが起こった」。

割と3K環境の激務アルバイトをしている人なのだが、なぜかそのアルバイトをこなそうという直接の目標と努力ではなく、部活側のクソ環境を乗り切ったときに、「あれ?」と、状況判断の能力が格上げされることが起こった/激務環境でなお、目の前に起こっていることが「見える」という徳性が一段階開放されたのだ、これは一般に知られる「トレーニング」という発想では到達できない境地になる。
人間には、視認しづらい「裏帳簿」があって、この帳簿が黒字に向かうまで、徳性は閉じたまま、どうしても明るくはなれない、自分が何をやるべきで、またやめるべきか/「裏帳簿」の出納を直観して、「なんでわたしがこんなことしなくちゃいけないの」と思えることに、「これをやるのが当然」「これだけはやらないと」ということを見いだしていく、そのことが掴めたとき人は初めて本当に明るい自分に近づくことができる。

視点変えてこ | comments(1) |
あなたの今日はあと七時間
まった、また時間がないぜ!
ええと、土曜日はパーティをやるのでよろしくね、今週で合っているよな、合っていた(今調べた)、というわけでエントリーよろしく、場所はいつもの原宿だ。
池上彰さんがやるテレビの特番はとても面白く、気分がよく、勉強になるし、その中で天皇陛下がよく特集されているので(平成の終わりに向けてだ)、しみじみこの時代の今上陛下は実に聡明な方であられてなんともわれわれにはありがたいことだったと思った。
話にまとまりがないのは、ただいま僕が幸福だからだ、友人が連絡をくれて、難曲をなんとか最後まで弾き切れたそうだ、「まあおれのおかげだな」とデタラメを吹き込んでおいた、今日はまたちょっとイベントがあるので外出せねばならない(間に合うのか)。

われわれは日本人だし、天皇陛下は日本の象徴なので、われわれはたがいに老人になったとき、なるべく天皇陛下のようなお姿と聡明さに近づきたいものだと、それをモデルにしてよい/イギリスの女王の振るまいがその後のテーブルマナーのモデルになることのようにだ。
そうやって考えると僕なんかまるでダメじゃねーかという気がするのだが、気がするだけでなくまるでダメで、そりゃあ脳内のモデルが基本的にヘヴィメタルなんだからダメに決まっているよなあと、このごろになって痛感するのだった、このごろベタな意味で自分の内にあるソウルというものがわかってきた、ソウルがどうこうなんてふつうに生きていくぶんにはまったく要らない知識だが……
ソウルがどうこうなんて言い出すと、誰もが「わたしのソウルはどうなんでしょうか」と訊きたがり、それについて「まあソウル的なものはまったく育ってないからソウルなしという感じでいいんじゃない」とでも答えようものなら、すべての人はしょんぼりしてしまうだろう/しかし日本にいる日本人でありながら天皇陛下さえもスルーして生きているのならソウルなんか育ってなくて当たり前だと、これは割とマジで言わなくてはならない。
毎日が爆裂的に楽しく冬や春もしくは夏や秋は幸福に満ちているわけだが、すべての富と女はおれのものだぜなんて話をすると、女性は「はあ?」という殺意の眼差しを向けられるとして、しかしそうして「はあ?」と正しいことを述べんとする人はたいていのところ幸せではなさそうなのだった、なぜ幸せではなさそうかというと、さっさと僕の女にならないからだ、うーんこれはもはや現代流行の男尊女卑の揉め事を超えて、男ヘヴィメタル女ノラジョーンズという、まあいいや、とにかく黄金の富と女の美肌が降り注ぐのがだいたい週に五日ぐらいでないと楽しくない。

冷静に考えろ、あなたは今日、何のトクもしない。

何のトクもしないのなら、好き勝手にやればいいのではなかろうか、僕は冷静に考えたところ「やったね」という気がするので、このようにゴキゲンでいる、日本の少子高齢化についてどう考えるかという問題があるが、それは正式には「投票に行ったでしょーが」と答えられる。
僕のソウルはこのような感じで、まとまりがないのだが、まとまりがあるかわりにソウルがないぜというのはキツいので、このようにしているのだった、どうせ今日は何のトクもしないのであればソウルがのびのびしているほうがよいのではなかろうか、人生はいろいろあるのだろうがソウルはひとつしかないので人生は本当はいろいろはないのだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
干渉しない僕の獲物
ーティションがない、つまり、「干渉」に踏み入ってしまう。
フランソワーズ・サガンが攻撃しつづけたアレだ、あの「干渉」だ。
前の記事で、キチガイジーサンの話をしてしまったが、あれだってパーティションの内部で個人的に発狂しているぶんにはかまわないのだ、ただパーティションがないので干渉してきて迷惑以上の破壊・侵食をもたらしてしまう。
土居健郎が大昔から「甘えの構造」で「自他の峻別をしろ」と口酸っぱく言っているのに、時代はその真逆に向かったのだった、この時代のエンターテインメントがことごとく汚損されているのはそのせいだ。

代表的に、母が娘に「干渉」を持ち、娘の人格と未来を破壊・侵食してしまうという例が、いかにありふれているだろう/むしろそれが「主流」なのでは、という気さえする。
ジャニーズアイドルは、客席から「○○クン」と愛好されて、舞台をやりにくくないだろうか? 子供の発表会ではないのだから、ほうぼうから身内めいて干渉されると真の技芸には決して到達できないだろう。
人から人へ、「作用」を持つことができないとき、人は当然のごとく孤独だ、それに耐えられないから外道と成り果ててでも「干渉」へ踏み出す、するとそれまで無関係だった間柄が、人間関係になる……といわけではなく、ただの「足の引っ張り合い」になる/これは人を大変憂鬱にし、ときには殺人まで引き起こす。
最近、いろいろ実験と研究をしているのだが、「干渉」がもたらす効果の大きさ、また「干渉」を封じて立ち上がるところの世界の鮮やかさは、想像していた以上だった、これまでそれをレコードしたことはなかったのだが、レコードしてみると「こんなに違うのか」と我ながら驚いたのだった。

世界中の、すべての富とオンナはおれのものだ。

なんのこっちゃわからんと思うが、わからなくて結構、そもそもわかって何をしようというのか、何の干渉を企んでいるんだ。
僕は揉め事はきらいだ、ノートラブルが最高にいい、そしてすべての富とオンナがおれのものならトラブルは起こりようがないだろう、つまり僕は干渉と正反対の世界を生きているのだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
キチガイジーサンの話
心にいると、三日に一回はキチガイジーサンを見かける気がする。
知り合いの塾講師さんは、「三日に一回どころか、老人の八割から九割はそういうものだと思うので、めっちゃ警戒しているよ」と言っていた、まあそれもリアルなところだと思う。
キチガイジーサンは、自分を正義だと思っており、どうでもいいようなところに正義の使途として現れて、どうでもいいようなクレームを、気の狂った顔と声でぶちまけていく、しかも自信が無いので不快さとあわれみと不潔感がハンパではないのだ/ネット上ではよく「老害」と一括されている。
薬局で順番待ちをしていたキチガイジーサンが、何かどうでもいいようなクレームを受付に言っていた、クレームの内容より声がキチガイだった、そして驚いたことに、このキチガイジーサンはその後、待合にあるテレビに映し出された乃木坂か欅坂かのアイドル映像にグッと食い入っていたのだ、おそらく七十年ぐらい生きて行き着いた先がこの姿だという/このジーサンは自分が「醜態」の寄せ集めであることを自覚できなくなっていた。

家でおとなしくしていればいいものを、社交性が皆無のキチガイジーサンは、街中に出て必ず周囲にキチガイeyeとキチガイvoiceを振りまいてこの世界を暗鬱にするのだが、どう考えてもこういったキチガイジーサンは、現在の暮らしとこれまでの人生が幸福でなかったことから発生している/幸福な人間があんなキチガイvoiceを発するのは不可能だ、不幸が全身に染みていないとあんな声にならない。
そして、当たり前のことだが、ふつう自分が幸福に到れなかった場合、「何が間違っていたのだろう」「どこで道を誤ったのだろう」と、悔い改める方向へ考えるものだ、しかし何がどうなったのか、キチガイジーサンは自覚的には「正義のカタマリ」でいる/この矛盾を根本的な形質にするキチガイジーサンは、三十年前にはこんなに数多くなかった(ごくまれにはいた)。
キチガイジーサンは、もう「止まれない」ので、その点を責める気にはさすがになれない、なぜなら焼け付いた神経が常にオーバーヒートしており、神経のレスポンスがとっくに理性を置き去りにしているのだ/信号を見落として赤信号で飛び出し、クラクションを鳴らされると「ブチギレ」になるのがキチガイジーサンだ、これはもう神経が壊れているので投薬なしには制御不可能だろう、ジーサンにとっては常に自分が正義で、その自分にクラクションを鳴らした者が絶対反射的に「悪」になる。
このキチガイジーサンに、ニセの正義を与えてさらなる不幸に追い込んではならない、たとえば駅前の放置自転車とかポイ捨てとか、捕鯨とか戦争犯罪とか差別とかエコロジーとかポリコレとかハラスメントとか、そういうニセの正義を与えると、キチガイジーサンはますます正義の使途になってしまい、「何が間違っていたのだろう」と自分を振り返る機会を失ってしまう/ひどい話だ、「あなたは正義ですよ」とささやかれたときに、「いや自分は間違ってきたんです」と謝絶できるほど、すべての人は強くないぞ、明らかに日々近づく死におびえている者をもてあそぶな。

たとえ平等院鳳凰堂に住んだとしても、キチガイジーサンは朝から猛烈に不機嫌だろう。

なぜ猛烈に不機嫌かというと、朝起きたときから自分が「幸福を得られなかった老人」だからだ、この事実が常に彼を責めるので、彼は決して安楽になれない、また生のみが人間の存在ではないというような宗教的な救いも、老人は聞く耳を持たないだろう。
キチガイジーサンの問題は、シリアスだが解決は不能だし、そもそもわれわれは文化的に、年長者に対して差出口を禁止されている、解決は不能だしそもそもすべての問題が解決可能というわけでは決してないので/少なくともわれわれ自身は、なんとかキチガイジーサンおよびキチガイオバサンにならないよう、なるべく早い内に自分を悔い改めるこころを持つようでありたい、少なくとも自分が「正義」などというアホにならないかぎりはわれわれはキチガイにはならずに済むだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
映画の世界にカメラはない
んな話、誰の役にも立たないが、僕にとって必要なので、メモ書き。
カメラというのはノンフィクションの道具で、映画の中にカメラとかカメラマンとかいう存在はない、映画はフィクションの世界だから。
これが、ドキュメンタリーとかレポート映像なら、カメラおよびカメラマンは存在していい、レポート映像はノンフィクションだからだ。
映画のカメラは、映画の中に入ってはいけない、映画のカメラは映画世界の出現を「目撃」しているだけだ、カメラが映画を撮るということはありえないのだった。

僕は自分でフィルムの一眼レフを持っているくせに、他人にカメラ趣味を勧めることはない、自分の感触として「カメラは良い趣味じゃない」「たいてい品性を下げるぞ」とネガティブに伝えることにしている、実際カメラ趣味の人がブシツケで気分が悪い人というのはとてもよくあるパターンだから。
まあそれはいいとして、カメラで何かフィクションを撮影するという場合、カメラおよびカメラマンは「その世界に入らない」「その場所から消える」という感覚および識別の能力を持たないといけない、だがこの能力は現代において失われて久しく、今さら手に入れるのはむつかしい能力だ。
グラビアアイドルがグラビアを撮影するぶんには、そんなカメラマンの能力は必要ないだろう、グラビアの世界にカメラマンがいるのはおかしいことではないからだ。
しかし「タイタニック」が沈没するとき、カメラを回しているカメラマンがいたらおかしい、やはり映画の世界にカメラは存在していない、カメラは映画世界を目撃しているだけだ、このフィクションとノンフィクションの境目、「パーティション」の感覚がない人は、今重大なトラブルの根源を抱えているのだった(うーむ説明になっていないな、まあいい)。

ノンフィクションを完全把握することが、フィクションを完全把握すること。

いわゆる虚実皮膜と誰もが言いたがり、面倒くさく感じられるところだが、ノンフィクションの把握が鈍い人は、フィクションの把握も鈍いのだ、こういう人は何の悪意もなしに他人の作ったフィクション世界を侵害し、破壊してしまう、「マイケルジャクソンには独特のセンスがある」と発言して何もかもをメチャクチャにしてしまうような人だ、これは思いがけず罪業が残るのでやめておいたほうがいい。
ノンフィクションという、「事象」は存在する、だがノンフィクションという「世界」は存在していない、だから新宿駅の定点カメラには何の「世界」も映り込まない、ノンフィクションの事象はリアリズムを追求できるが、リアリズムはやがて「空虚のおそろしさ」という正体しか現さないだろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
人間、ニンゲン、ジンカンを観たいわれわれとして2
「人格」と「人間格」を数学的に分離しよう。
いやまあ、これはまた、僕が新しいことに取り組んでいるので、僕自身として必要な定義だから言っているんだけどね。
単に「わたし」として出現する格と、「この人とわたし」として出現する格は違うということ、また「人々とわたし」として出現する格も違うということ。
格が違うのだ、数学的に別次元の事象だということ、たとえば「あ」には何の意味もないし「い」にも何の意味もないが、「あい」なら一つの意味を持ちうるということ、それは意味を持ちうるという別次元に遷移できるということだ、「あ」には「あい」の性質はひとつもなく、「い」にも「あい」の性質はひとつもない、それぞれの性質の足し算で「あい」という意味が成り立つわけではないのだ、またこれを「いあ」にするとやはり意味次元に遷移できない。

単なる「ひらがな」と、正しく接合した「ひらがな間」とでは、所属する次元が違うというのはわかりやすい、だが人はそれぞれひらがなほど単純ではないからな……
あくまで仮想的にだが、僕が「あ」であなたが「い」だった場合、「あ・い」では何の意味も為さないし、「あ/い」でも何の意味も為さない、「いあ」でもダメだし、それよりはまだ「あーーーーーーーーーい」のほうがマシだ、あるいは「ああああい」「あいいいいい」のほうがまだ少しだけ意味を持ちうる、大変低級な意味ではあるが。
重要なことは、どれだけ「」をデカくしても、そのインパクトは何の意味も為さず、インパクトがデカいだけで、実は「見るに堪えない」ということだ、だから現代のいろんなものは見るに堪えないままインパクトだけで押し通っている(悪口)。
「わたしは『あい』をやりました」「『あ』を担当されていたんですよね」「はい、そりゃそうですが」「『あ』をやるにあたって、苦労はありましたか」「? いや、僕は『あい』をやったので、『あ』については特に……」「はい、その中で『あ』を担当されたんですよね。『い』に向けて『あ』をやるのに、コツといったものはあるのでしょうか」「いや僕は『あい』をやったので、そのとき『あ』は使っていませんよ」「でもあなたは『あ』だったんですよね」と、こういう話の噛み合わなさが起こるわけだが、これは格が異なり、上位格と接触できない人がえんえんと低級事象の理屈で上級事象の説明を請うている状態なのだ、このことは数学的に分離することで混乱を防げる。

「わたし」はどれだけ優秀でも落下だ。

もう何のこっちゃわからんと思うが、これは今の僕に必要な知識なので、放置するように/おそらくこれは「カミサマ」と「わたし」と「わたしたちに通う高次元のもの」という事象で、いわゆる三位一体の「父と子と精霊の御名において……」というのはこれのことを指しているのだと思われる(放置するように)。
別にたいそうなことを申し立てたいわけではないのだが、今新しく取り組んでいることについては、これがわかっていないと(できていないと)遊べないのだ、まったくうかつに新しいことになんか取り組むものじゃねえなあ(困憊)。
正しく見ないとな | comments(0) |
人間、ニンゲン、ジンカンを観たいわれわれとして
「人間」とはニンゲンまたはジンカンと読み、もともとは「人と人とのあいだ」にあるものを指す。
「人間」はよいものだ、われわれはどんなに優れた個人たろうとしても、人と人との「あいだ」にあるものを為さないかぎり、優れた「人間」であることはできない。
「人間」というと、いわゆる人間関係が想起されたり、あの人は善人だとか、あの人は性格がいいだとかいったことを考えるけれども、本当に厳密な意味で「人間」というとそういうことではない。
「人間」の本質がわからないから、われわれはそれを逸脱するたびに、個人主義に陥ったり、反転して全体主義に陥ったりした、「人間」というのはもっと厳密なものだ、つまり「人間」とは逆に「人ならざるもの」「人ならざる格」であり、その「人ならざる格」を人は愛し、またそこへ我が身を投じることができるということなのだ。

たとえばテーブルの脚を四本、テーブルの天板から分離したとする、するとこの四本はそれぞれに無関係な棒きれでしかない、こうして分離されるともう何をどうやっても「すぐれた脚」たりうることは不可能だ、たとえそれが純金で作られていたとしても。
四本の脚が正しく接合されていたとする、そのうち一本が純金で作られていたとしよう、けれども別の一本の脚が欠けたとしたら、テーブルは加重によって転倒してしまうだろう、そのとき純金で作られたテーブル脚は己の身の高級性を何ら誇ることができない、テーブルとしては「ポンコツめ」と言われるしかないのだから。
四本の脚が天板に正しく接合されているところ、五本目の脚を継ぎ足したら? この五本目の脚は機能しない、この五本目は出しゃばりな上に本人としても居心地が悪いだろう。
五本目の棒きれは脚とならず、脚と脚とを横につなぐ貫(ぬき)となってつながればいい、そうすればテーブルの強度は向上し、何十年とガタつかないテーブルになる。

「脚」は、すでに「棒きれ」の格ではない。

「人間」は、すでに「人」の格ではないのだ、われわれはそれを観たがっているし、それを作りたがっている。
脚が己を棒きれとして誇るとき、テーブルは解体されるだろう、そこには棒きれなるものはわずかも残っていてはならない/そこに棒きれが残るとき、ただちにそれは「人間でない」と見えてしまうから。
正しく見ないとな | comments(0) |
フィクションゴーゴーと恐怖のサイコロ

の話をするんだったか、忘れてしまうな……(春のせい)
あ、そうそう、「フィクション」の話をするんだった、「実用的フィクション」に関わって新しいことが発見されたぞ、それは「人によって接触できる自家フィクションは六通りに分かれてしまう」ということだった。
仏教説というか古代インドで唱えられたところの輪廻(六道輪廻)という説は、わかりやすく、いつも「的を射ているなあ」と感心してしまうので、僕は気に入ってよく判断のアテにしている、六道とは「天道→人間道→餓鬼道→地獄道→畜生道→修羅道→天道」のことで、われわれは人間の道に居続けるべきでしょうねということ、ざっくり言って「学門と行い」の道が人間道だ。
さあそれで、人それぞれその「所属」が6パターンに分かれているということなのだが、フィクションの技法によってノンフィクションの束縛を突破し、想像力の世界へ飛び出すことができたとしても、その「想像力の世界」というのが、6パターンに分かれてしまうということなのだ、人は「突破」しても自分の所属している○○道の向こうにしか飛び出せないということが新しくわかった。

あまり細かくは説明できないので、わかりやすいように言うと、「6パターンのフィクション」は、「わたしが死ぬときどうなる?」というヴィジョンとなってもたらされる/なぜなら「死」とは、己のノンフィクションの身が滅ぶ瞬間のことだからだ。
たとえば人間道にいる人は、「自分が死ぬとき、『この世界とわたしはこうなっているのか』という識の極限に至ると思う」という確信的予感をヴィジョンとして得るのだ、しかしたとえば地獄道にいる人は、「自分が死ぬとき、際限なく地の底に落下していく、そしてその極限に永劫のごとき長いあいだ閉じ込められて焼かれ続ける」という確信的予感をヴィジョンとして得る。
天道にいる人は、天道は死と無明の世界なので(十二因縁)、おそらくクトゥルフ神話のような、わけのわからん巨大なものに食い尽くされる、というヴィジョンを得るだろう。
餓鬼道や畜生道や修羅道は、どういうヴィジョンを得るのだろう、それはまだ考えていないのでわからないが、とにかく現時点でわかっているのは、フィクションの機能による「突破」で想像力の世界を見たとしても、その先に「見える」「得られる」ものは、必ずしもよいものとは限らないということだ、「ハッハッハッハ!」と歓喜の高笑いを起こす人もあれば、「ギャアアアアア」とすさまじい悲鳴を上げる人もいる、それぞれ見えたもの・得られたヴィジョンが異なっているのだ。

想像力だ、フィクションだ、ただしそのとき人それぞれに、「何が出るかな」の六面サイコロだ。

僕は、「見える」ということが大事だ、という一点張りを唱えてきたのだが、まさか「見える」というのが人によって何が見えるか異なっていたとは……(すまんな)、そういえばたしか河合隼雄も、「この世界の、たとえば机が机であるということが、はっきり見えてしまった場合、そのことによって精神病のトリガーが引かれてしまう」というようなことを指摘していた、つまりその人にとっては「見えた!」ではなく「見えちゃったああああ」が得られたということだろう。
高度なフィクション作品を好む人は、数として実は少ないし、たとえばマイケルジャクソンのライブDVDを観ていると、「最後まで観ていられなくて途中で消しちゃうんです」という人が実はけっこういる、そういう人はフィクションを観る能力がないのではなくて、「何が出るかな」のサイコロの目がヤバいのだ、サイコロの目がヤバい人にとって「見えてきた」というのはよろこびではなく恐怖となる/それでフィクションとの接触を断って、「パンダの赤ちゃんが……」というニュースでも観ようというほうに切り替え、こころを紛らわそうとする、もちろんそれはそのほうが正しい(トラブることには何の意味もない)。

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