☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
第85回Quali's Party[10月20日(土)]参加者募集!

Recent entry: マナセ(新)、ひろみ、ゆか、あきら、りさ、ともこ、かなみ、かず、ゆうさく、トム、くおり
10/19 Quali tweet> ふひひ誰がどう参加するのか情報を見失ったぜ、まあ合っているだろ pls entry



(ポスター制作中、待ってろ)



キラキラ加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


日時2018年10月20日(土)19時〜23時
場所原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB待ち合わせ:原宿竹下通り商店街突き当たり竹下口交差点ムラサキスポーツ前
費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
ワークショップ業務連絡(21時からはスタジオ
とりあえず公園でしたが
雨が降ってきました
21時からはスタジオ三軒茶屋マイレッスンの予定です
よろしくおねがいします

→三軒茶屋マイレッスンに移動しております!
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「偶像崇拝」という盲点

ぜか、クリスチャンやムスリムでなくても、われわれは漠然と、「偶像崇拝はいけない」ということを知っている/本当にいけないのかどうかは知らないが、「たしか、いけないんですよね」と漠然とどこかで教えられている。
どこかのお寺や、あるいは自宅にも、阿弥陀如来等の尊像が掲げられているところがあれば、その尊像の脇や裏には、ちゃんと「方便法身」と但し書きがあったりする、方便法身(ほうべんほっしん)とは、「本来、真如とは、わかりやすーい形を具えているものではないが」「それではわれわれのようなアホには理解不能なので」「やむをえず方便としてわかりやすい形を表してくださっている」「この形をそのまま崇めるのでは、本当はない、らしいぜ」という意味だ。
このようにして、いわゆる世界三大宗教が、偶像崇拝を警戒しているのだが、一方でわれわれはというと、「金メダル」とか「オスカー像」とかを、何の躊躇もなく崇拝しまくっている/力とライトアップの果てにある頂点のそれを、偶像に結集して崇拝しているのだが、なぜかこれを偶像崇拝とは誰も気づかないようにできている。
誰かが何か、巨大なピアノコンクールで優勝したとする、その優勝者には女神像のついたトロフィーでも贈られるかもしれないが、当然ながらそのトロフィーからは何の音楽も聞こえない、そしてわれわれの悟性には、何の音楽も聞こえないのに、トロフィーのパワーだけは燦然と輝いてわかるのだ、これではむしろ全力で偶像崇拝の道を突っ走ってきたかごとくだ、それが偶像崇拝だということはなぜか誰も気づかないし、誰にも教えてもらえない。

そして、金メダルもそうだが、そういうトロフィーは、たいていゴールドが一番偉く、造りも主張的で、「力」を顕示する趣となっている/そのあたりわれわれの性根は、豊臣秀吉とあまり変わらないのかもしれない。
そりゃ誰が考えても、アカデミー賞を受けた者に、木彫りの民芸品を与えようとは思わないわな/このように、われわれは日常、あっさり「力」に帰依しており、その周辺は何の躊躇もなく偶像崇拝に包囲されている、オスカー像をさすがに「方便」と言い張る人はいないだろう。
偶像崇拝という観点から考えると、あまり家に、不明な人形を連れて帰らないほうがいい、自分で連れて帰ったものはどうにも防ぎようがないからな/かといって、帰宅途中にトロフィーを大黒屋に売っぱらってしまえというのは、それこそボブディランぐらいでないとできようがない荒行だ、まあそういう偶像モンにはなるべく地位を与えないほうがいい。
偶像的なモンは、捨てちまえとはさすがに言えないのだが、せっかく獲得したトロフィーを捨てられないというのは、それこそ崇拝している証拠なのでもある、だからほどほどにして、あまり地位を与えないように、「何かくっついてきやがった」という程度にして、家族の一員にはせず、「おう、なんやお前」というぐらいで気長に扱うのがちょうどいい按配だろう。

偶像の反対は「理性」だ。

偶像崇拝を警戒するために、理性を崇拝すればいい、トルストイも言っているように、理性はステキなものだ、そして理性的に何かを信じられないなら、それは正しくわかっていないのだ、偶像崇拝というのは理性のない妄信者にうってつけのアイテムになる、しばしば偶像は<<理性を失わせる恣意的なアイテム>>として用いられている。
よくよく考えると、すっきりとした理性を保ち続けているステキな人、というのは世の中に数少ないものだが、この「すっきりとした理性」の中にいられない人は、意外に偶像の呪縛にかかっているというパターンが多いものだ、追及してみると当人の自室がお人形さんで一杯だったとか、そういう例は思いがけず多い(人形に限らず、部屋にモノが多い人は注意)。

正しく見ないとな | comments(0) |
「ライトアップ」という盲点

ーニバルを例外として、神像・仏像は、みだりにライトアップしないものだ/言われてみれば「そういえば」と、誰でもわかるはずだ。
神像・仏像は、みだりにライトアップしない……なぜかというと、光をもたらすものに、光を当てるというのは、もともと誤解のある構造だからだ、「太陽をライトアップはしないだろ」という話/ただしカーニバルは例外なのだが、なぜカーニバルは例外かとまで言い出すと、話が長くなってしまう、カーニバルは「仮に」神の国が降りてきたらという話なので、そのときはタブーやNGがなくなるのだ(それ以上はもう民俗学の専門書でも調べてくれ)。
神像・仏像が、「ありがたいもの」なら、ガンガンライトアップすればいいじゃない、と思えるのだが、ご存じのとおり控えめだ、東京タワーがライトアップされていても、街のお地蔵様のほこらは、ひっそりとしたものだ/ライトアップされるものは、基本的に「地上のもの」に限られる、たとえば夜桜や夜の庭園などは、ライトアップされていておかしくない、比べて神像や仏像はモチーフとして「地上のもの」ではないのでライトアップは理に適わないのだ。
この「ライトアップ」というのが、存外くせもので、正しい知識なしにライトアップを見たり浴びたりすると、人はあっさり気が狂ってしまう、「恍惚」という字を見てもわかるが、りっしんべんに「こころがぼける」と書いてある/「地上のものだからライトアップされる」という頑健な知識があればいいのだが、それがないと、人はライトアップされたものを「天上のもの」と誤解するものだ、特に天上のものを見られない(見神の事実が得られない)人は、このライトアップ誤解にすっぽりハマるので気をつけよう。

構造上、一番まずいのは、「力のある人をライトアップする」ということだ、考えてみれば誰だってわかると思うが、力は光の反対なのだから、力のある人を「光の権化」のように見立てるのは構造がおかしい、このしょーもない誤解がわれわれをいくらでも迷妄の中に引き込んでしまう。
正しくは、このように見えなくてはならない、「力」が悪いというわけではまったくないのだ、ただ力のある人に光を当てるとき、「この人は力がなければ認めてもらえなかった」という見方を忘れてはならない、言われてみれば当たり前なのだが、なぜかこのことはすっかり忘れられてしまう/百億円を稼いだ人は、百億円という力(財力・権力)を持っているから、われわれが注目するのであって、その力を失えば、われわれは彼に注目しないし、彼の存在をまったく認めない、だからこそ力の持ち主は己の力に呪縛されるのでもある(筋力ムキムキの人も同じ、われわれは彼を「力」においてのみ認めて注目している)。
「力」そのものが悪いわけでは決してない、けれども、おなじ「力」といっても、「力を尽くした者」と「力を溜め込んだ者」とでは、性質がまったく異なるのだ、「力を溜め込んだ者」をライトアップし、それを光の権化のように誤認するのは、たいへんよくない、誤解している当人に何の自覚もなくても、身の内にはそれに応じた現象がきっちり起こり始めてしまう。
先に、「魅力」という話をしたが、「魅力」も魔力のひとつであり、言ってみれば「力」というのはすべて魔のものだ、百億円を貯め込んだ人の「財力」は、それ自体「魅力」となって、魅力を追う人を惹きつけるだろう、芸能人の女性が財界人やスポーツのパワープレイヤーと結婚するのは、単にカネ目当てということではなく、あらゆる力を「魅力」と認めて交換する世界に住んでいるということだ、あくまでそれが悪いということではなく、そうした「力」の世界では、背後にまったく知られざる代償が支払われているということ。

「魅力」を、ライトアップする――光を、力に従わせる――のが、術の基本だ。

術の基本、それがつまり、「演出」の基本ということになるが、UGLYなものをライトアップすれば、それだけで人は動転し、道を踏み外すのだ、「魔力」に光を当てて、天上のものと錯覚させればいい/最も単純なやり方としては、カネの匂いをライトアップすればいい、そうした「アーティスト」の映像が、いくつもわれわれの脳裏には刻まれているはずだ、一方でボブディランにはカネの匂いはないし、「ライトアップ」という印象もない。
<<「力」に人為の光を当てる>>という、ただそれだけ……われわれは路上で半裸の男たちが殴り合っていても拍手はしないだろうが、ライトアップされると拍手してしまう、人為的に光のあて方を偏らせることで、われわれは「光とは何か」をいくらでも誤解させられるのだ/そうしていつの間にか、「力」(魅力、財力、魔力)に帰依すると、ふだんから「力」がギラついて見えるようになり、目が自動的に「力の暗闇」を追い求めるようになってしまう。

正しく見ないとな | comments(0) |
「魅力」という盲点

い女性は特に、自分の「魅力」について、こころを砕いていると思う。
が、およそ気づきようのないことに、「魅」力というと、「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」の一字なのだ、魑魅と魍魎があり、魑・魅・魍・魎はそれぞれ別の霊的存在を意味している、そして基本的にどれも、語源的には悪霊の扱いだ。
こんなもん、誰が気づくねんという話だが、「魅力というと、魑魅の力ですよね、つまり "すだま" の力ですよね」ということになる、われわれが平易に使っている「魅力」という語、また漠然と求め続けている「魅力」というのは、そういう意味だ、それはまあ国語的にそういう意味なのだからしゃーない。
このごろの僕はよく、「魂魄(こんぱく)」という言い方をするが、そうして漢字の中に「鬼」が入っているのは、すべて霊的なウンヌンのことを意味している、「魔」もよくよく見ると鬼が入っているしな、「小悪魔・美魔女の魅力」とかヘーキで言うじゃないか、字を見ると鬼だらけであり、字が鬼だらけということは、霊的なことにこだわりますよねえということなのだった、それはまあ国語的にそういう意味なn(ry。

魅の力は、「力」なので、「重さ」となり、基本的に人を束縛し、人に取り憑くように作用する、そりゃ元が悪霊なのだからそのままだと呪術的に作用するだろう/魅力は霊力のひとつなので、それが元からスッカラカンでは人は何の面白みもないが……
だがここで重要なのは知識だ、何も知らないで自分が「魅力」を希求していると、知らず識らず「力」を求めていることになり、知らず識らず「力」を貸し与えてくれるように、何者かに祈りや儀式をしてしまうことになる、そうすると知らないうちに契約が結ばれてしまい、その契約は後に代償を取られるのだった/一時的に強烈な魅力を放って、その後何か「虫食まれていった」人のことを、知人にも著名人にも思い当たることができるだろう。
知っておくべきことは、光る海や春の光、吹き抜けていく東風には、何の「魅力」もないということだ、<<心洗われるようなやつは「魅力」が含まれていない>>と暗記しておけ、<<光には魅力がない>>のだ、だから<<「魅力」に帰依している者は光モノから目を背ける>>という法則が成り立つ、このあたりのことも暗記しておけばいつかの未来に役に立つ(かもしれない)。
トルストイに魅力はないし、ウィリアムブレイクにも魅力はない、西田幾多郎や澤木興道にも魅力はないのだ、「魅力」は大前提としてUGLYなものだからだ、だから現代ではUGLYなコンテンツとUGLYな芸風が流行する、グロマンガオタクがトルストイを読むわけがない/知らず識らず「魅力」を上位に掲げていると必ずこの悪い方のトリニティに吸い込まれるのだ、魅の力を「光」の側へ引っ張ってこられるかどうかが大勝負なのであって、あっさり魅の力のほうへ引き込まれるのは、どこが勝負所かの知識がなく、なしくずしにバッドゲームに引き込まれているのだ。

魅力を追った人よ、内面は "なぜか" ボロッボロだろ。

銀座や六本木のホステスさんで、特に売り上げ姉さんや各店のナンバーワンになる人は、やはり異様な魅力を放っているのだが、この魅力はどうしても背後に大きな代償を支払っているのだ、それが悪いということではないが、仕組みを知らなければなぜ自分がボロボロになっていくのか、まったくわからなくて制御が利かないはずだ/自傷行為や、内臓が出血するようなこと、血の滲むような努力や、大出血というような出費、そのようにして代償はたいてい「血の沙汰」で支払うことになる、あまり言うとグロテスクになるのでぼんやり申し上げておくが……
われわれは、誰かと愛し合う必要があり、この世界そのものを愛する必要があるが、ここで言う「愛」とは「光」のことであって、「魅力」という力ではないのだ/魅力を追ってきた人は、「魅力」をやめると、「自分に光がない」という事実が露出してきて、状況が進行すれば、「自分に闇がある」という事実が噴出してくるだろう、だからますます「魅力」をやることがやめられなくなる……「魅力」を追ってパワーチャージすると仕組み上必ずそうなるのだ、それはあなただけではないのでその点はある意味安心していい。

正しく見ないとな | comments(0) |
恋じゃなくても

憩しないといけない、とわざわざ書いたのに、休憩しにいかないのは不誠実だと思い、日帰りで温泉旅行にいってきた。
温泉宿をはしごして、公衆浴場にも寄って、帰り道にふと、もう夜だが、西湘バイパスを走り、窓を全開し、そのまま江ノ島にいってきた/ところで、夜の江ノ島って、爆走バイクが集まってくるのはなぜなんだ、まあおれは迷惑していないからぜんぜんかまわんが……
岸壁から岸壁へ、ふらふら歩いていると、駐車場に迷いこんだ/駐車場はすでに閉場していた。
ふと、管理所に立っていたおじさんがふらふらと寄ってきて、「ん? 車出す?」と訊いてきた、「いえ、すいません、そのへんを歩いていたら、道がわからなくなって、ちょっと通らせてもらおうかと」「あ、どうぞどうぞ。どなたでも」。

この季節に箱根なんか行くと、どうしても人が多いので、今回はあちこち、主要地からずれた温泉を漁った/今はインターネットで、掛け流しがいくらでも検索できるからすごく便利だ。
温泉行楽というより、ハイキングやツーリングの途中で、温泉に寄るという人が多いようだった、そして、どうしても年々、汚い声で話し続ける老人が増えてきていると感じざるをえない/と思っていると、若い少年のような三人組が脱衣所に入ってきて、この三人もひどく汚い声で話していた、逆に今回の旅で「汚い声のルール」に気づかされた気がする。
汚い声を出し、かつ、汚い声を出し続ける人は、本当にこころの底から、自分だけがこの世界だと思っているのだ、だから自分の話をずーっとこの世界にぶちまけている、自分の焼ける臓物の声をずーっとずーっと……/きっと一秒たりともこの世界を生きたことがなく、徹頭徹尾、自分の中だけを生きているのだ、だから自分にしか関係のない話を、自分の熱量に合わせてずーっと話している、当人はそれで「世界を生きている」つもりなのだろう、当人は自分が何をぶち壊しているのかずーっとわからないまま、わけのわからない目覚めをし、わけのわからないまま眠ることを繰り返している。
今回、別に何を考えて小旅行に出たでもないが、結果的に、江ノ島の駐車場のおっちゃんとだけ出会うことになった、そういうときは、なんだろうなあの感じ、恋じゃなくても照れくさいのだ、おっちゃんは一目で僕が好きだったからフラフラ〜と寄ってきたんだろ?

「好き」は「魅力」の反対だ。

は? と訝るしかないような話だが、こっちが真相だ、「魅力」というのは人に高圧をかける発想だが、実はそこに生じる「好き」はニセモノなのだ、正しく生じる「好き」は気圧ゼロ、真空だから「吸い込まれる」という形で「好き」が生じる。
そういえばサービスエリアのフードコートで、五十過ぎぐらいのきれいなおばさんが、きっと割と幸せな不倫旅行か何かの様子だったが、僕が斜め前に座るとそのきれいなおばさんは、目を丸くして口をポカーンと開け、ずっと僕のことを見ていた、今にも話しかけられそうで、ありゃりゃと焦りながら僕はラーメンを喰っていた/もちろん僕から向こうの、せっかくのご旅行に水を差すわけにはいかないので、僕はそそくさと去ったが、人と人とのあいだに起こっている本当のことはそっちのほう、出会うというのはもうどうしようもない、初めから「好き」の状態で出会っているのだ、それは恋じゃなくても常に照れくさいものだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
飲みましょう!!

うはいっても、今週の土曜日は、パーティで酔っ払ってラッタッタなのだった、それはそれ、これはこれだ、マジメぶってもしゃあない、マジメぶる奴は単に精神力がないのだ。
酔っ払ってラッタッタということは、この期に及んで、アホライブをやるのかということになり、それはそれでゾッとするが、そんなもんしゃあない、ゾッとすることぐらいやらないと何の足しにもならないだろう。
寛(くつろ)ぐ、という発想があって、僕も寛ぐのはいやじゃないが、寛いでいる中で、人が何かイケている気分に浸るのが好きじゃないのだ、そんなに自己肯定感に飢えているものかね、自己肯定感も自己否定感も当人のヒマさの現れでしかないと僕は思うが……
パーティで何をするのかといって、有意義なことはしない、さらにいえば、パーティをしない!! なんじゃそれ!! いやパーティはやるのだが、何かまともなことをやるということは、それが何だったのかよくわからんまま過ぎ去るほどでなければ、何かをやったことにはならないのだ、当たり前だが認識に引っかかるようなものはすべてハズレでしかない、夜空を飛んでいく速い雲のようにすべては夜景の中をサーッと滞りなく流れ去らねばならない。

われわれは、命の中を生きているのであって、その中から何か切り離した一つを取りだして、「これをします」なんて、しょうもないことはやっていられないのだ。
雨が降ると、われわれは傘を差すが、「傘を差す」ということ自体をチマチマやっているわけではない、雨の中を駆けていくために、そういえば傘を差していますねというだけだ、パーティも似たようなものであって……いちいちイベントに捉えるようなことではない、雨中で傘を差すのはイベントではない。
別にパーティに限ったことではないが、飲むと決めた日に「飲みましょう!!」と言われて、コンマ001秒でも電気抵抗が生じたら、そいつはもう世界から脱落しているのだ、見失っている人が多いのがいけない、「飲みましょう!!」というのは、焼肉屋で炭火を前にして「焼きましょう!!」と言っているのと同じだ、ただの「鬨(とき)の声」でしかない、世界はとっくに始まっている。
土曜の夜は、飲みましょう!! それはどういうことかというと、日曜の昼には酒が抜けているということだ、酒を飲むことの何が重要なのだ、重要なことは何もない、酒を飲むということに限らず、われわれが生きる中で重要なことなど何一つ存在しない。

口腹をハイボールでビシャッと濡らす、そんなことに意味があったら僕はやらない。

アホにはアホといい、ナイスにはナイスという、そのことにいちいち引っかかると、人は気色悪いのだ/よもやこれまで生きてきて、自分をアホだと思っていないような奴はいないよな? アホというのはわれわれの揺りかごから墓場までの定義であって、そのことにいちいち反応する誰かがいたら、そいつは大変うっとうしい、世界ダサイ奴連合の中にフルネームで登録して脳天に「ダサイ」という旗でも立ててやるべきだ、そうしたらインスタ映えもするだろうし、好きでもないジャスティンビーバーのCDを買って帰ったら購入したぶんのCD代が嵩むだろう。
引っかかるべきところは何もないのに、いちいち意識を引っかけるのが好きな人が少なからずいる、断固として許しがたい、そのような許されざる民は、二年間におよんでシュウマイの温度についてだけを考え続ける刑に処されるのがいい、シュウマイの温度はたぶん何℃かなのだろうが、別に適温なら何℃でもかまわない、そんなことに注目するのがおかしい、地を這うムカデにさえ「きみはアホか」と憐れまれるだろう(というわけで、土曜日は飲みます!!)。

バカをやろうかあ | comments(0) |
目指すのは、「ギンギン」ではなく「スカスカ」

憩を取りたい、というより、休憩を「取らねばならない」と感じているのだが、「あとこれだけ済ませてから……」とやり始めると、けっきょく休憩なんか取れなくて、ふと気づくと昏睡している/そして目が覚めると、「休憩を取らねばならない」とマジメに考えさせられる。
ううーむ、いつも、鼻歌まじりにやっているつもりなのだが、何か目に見えない部分で、デカいことにはデカい負担があるようだ、光と力のトリニティのあたり、フンフーンと考えながら書き話していても、それは表面的なことであって、内部的にはもっと別のことがあるらしい、あっというまに何かを使い果たしてしまう。
確かに、学門として取り扱う以上、本当の仕組みへさっさと到達せねばならないのだが、その到達へ切り込むときの、一種の精神的なエネルギーだろうか、このエネルギーが、僕の自覚のないところで桁外れに使い果たされているのかもしれない、外見上は僕など、ヒマそうの余裕そうに見えているはずだが……
「愛」といって、そのストリームは、上下方向によって異なる形態(光・力)を取るというのは、きっとフンフーンと言いながら、何かとんでもない発見であり、到達なのだろう、何しろこれですべてのことの説明がつくからな/ひょっとすると、あなたから僕を見たとき、僕から光を感じるかもしれないが、僕自身の感覚はそうではないのだ、僕は光についていくために、力を尽くしている、僕はいつも力を使い果たしてフラフラであり、フラフラにならずに眠る日なんて一日もない。

「力」といって、もちろん筋力を単純に振り回すわけではないが、じゃあ「力を尽くす」いえばどういうことかというと、「命がけ」ということになる、「命がけ」とは何かというと、スプーンぐらい念力で曲げたるわという、ムチャクチャなことこそが「命がけ」であって……もしこれを「祈り」というのならば、<<祈りとは実にパワフルなものだ>>、メルヘンチックな気分に浸ったり脱力して縋ることは祈りでも何でもない。
スプーンぐらい念力で曲げたるわというアホの気概と、クソ重たい神輿をセイヤセイヤと「奉納したるわ」という力の使い尽くし、それが祈りなのであって、祈りとはパワフルなものだ、祈り自体が聖なるものではない、おそらくこの「祈り」=「聖なるもの」というイメージがよくないのだ/祈りを捧げるということは、己の(精神)力を捧げるということであって、パワフルなものだ、これを逆に捉えているから、祈る先が自動的に切り替わってしまい、よろしくないものに帰依したナゾの結果が現れてしまうことになる。
祈りが聖なるものというのは、天皇陛下や神父さんがわれわれ愚民のために祈ってくれたとか、あるいは神そのものが地の民を祈ってくれているとか、そういう「上から下へ」の場合が「聖なる祈り with 光」なのであって、われわれの側はそんなご身分にない、われわれの祈りは下から上へ、「合金スプーンもおれっちの念力で曲げるぜ」というようなアホナイスの精神力だ、気力と体力と精神力の奉納が祈りだ。
僕は休憩を必要としているのだが、一息つくと、つい「ンンンンそれどころじゃないンンンン」というエネルギーが湧いてきてしまう/実際毎日のことだが、目の前に白紙の原稿用紙がどっさりあったらどうするの、聖なる光とか祈りとか、そんなフワフワした幻想は何のアテにもならない、「うおおおお〜」と命がけだ、それ以外に方法はないし、しかもその命がけの精神力が何かに奉納されないとハズレだという、構造がシビアなのだ。

精神力を高めるのではなく、精神力をスッカラカンに使い果たせ。

最近はあちこちで「瞑想」が流行っているそうだが、その方法は何も悪くないにしても、瞑想に「ハマる」というような発想は、僕としてはおすすめできない、自分を高みに押し上げるというようなウサンクサイ発想はやめろ、<<他人から見て光が見えることが重要であって、自分からフワフワ光が見えているのは確実にハズレだ>>、当人は「うおおおお〜」と命がけで、当人にはそれしか見えていないが、他人から見ると光が見えているということ、天上の光に到達するためには、時速十万キロに到達するロケットエンジンが必要なのだ、その燃料がスッカラカンに使い果たされたとき、ようやくロケットは重力圏を離れている、ロケットの一心は「命がけ」に尽きるだろう。
具体的に、「コイツの精神力は何なんだ」と、周囲をドン引きさせるぐらいでないとダメなのだが、ここで多くの人が、エセパワフルで自分を取り繕うために、ヨソからそういう力を借りてきたりする、それがとてもよくないことだ/自分が力を借りてくるのではなく、自分が力を使い果たすということだ、<<自分がギンギンになるのはインチキさん、自分がスカスカになるまでやれないのだろう?>>、現代人は自分がギンギンになることが「パワフル」だと思っているが、その発想は構造上必ず闇のほうに落ちていってしまう、目指すのはギンギンではなくスカスカです。

正しく見ないとな | comments(0) |
力と光の等価性2

粋に、面白い仕組みだなあと思うし、同時に、近年のわれわれにとって、最も危険な仕組みがこれなのだと思う。
「愛」というと、神聖な何かで、光めいたものだと思っているのだ、これがよくない、どう善良なつもりでいても知らぬ間に自分が悪魔との契約者にバッチリ仕上がってしまう。
もしあなたのそばに、ガチで、神秘的というほど全身が愛に満ちた人がいたとすると、その人はまったく、あなたも含めた多くの人たちに、光をもたらすばかりの存在に見えるはずだ、そしてそれを見て「これが愛か」と学ぶということ、これが実は一番危なっかしい。
それは、そんな全身に愛が満ちている人は、相当身分が高いはずであって、身分が高いからこそ、その愛は「光」の形態で降り注いでくるのだ、その愛に応えようとしても、身分の低いわれわれはそういう形態の「愛」は発揮できない、下から上へは「力を捧げる」という形でしか愛を発揮できないのだ、そこを取り違えて学習するから、知らぬ間に自分が地の底の悪魔とバッチリ契約した者に仕上がっていってしまう。

仮に、カミサマが存在するとして、カミサマがもし自分を愛してくれるのだとしたら、その愛に応えるということは、光ではないのだ、力なのだ、注がれた光のぶん、己は力を使い尽くそうとすること/何かの信徒さんが山の上まで登って、貧乏なくせにご神体に金箔を貼り付けて祈ろうとするのは、己のささやかな力をそこに使い尽くそうとしているのだ、神秘的に信仰しているのではなく力尽くで信仰しているというのが、この場合は正しい。
このあたり、たぶんわれわれは、もう致命的に修正が利かないと思うが、愛というのは己が神秘的な光に満ちてドドーンとなる、ということではないのだ/甲本ヒロトがパンクロックを愛しているというのは、精一杯デカい声で歌ってそこに力を使い尽くすから、パンクロックを愛しているということになるのだ、神秘的な気分でドドーンではない、このあたりはもう致命的に修正が利かない。
われわれは誰だって、生きているうちに、聖なるものに触れたくて、聖なるものに近づきたいと望んでいるのだが、聖なるものに近づくということは、聖なる者の側の気分に近づくということではないのだ、向こうが光を使い尽くすのに負けず、こちらも力を使い尽くすということが、わずかでも聖なるものに近づき、それに触れるということになるのだ。
「愛」といって、愛が光の形を取るのは、上から下にだから、われわれが光に満ちたふうの気分でドドーンと自己感情に浸ると、その愛はやはり上から下に向かっていて、つまり自分より下位の、地の底に落ちた何かに「契り」を向けていることになるのだ、そうして自覚のないままに地の底の何かとバッチリ契りあっているものだから、もうある意味出来上がってしまっている人が多い/悪魔があなたに力を捧げてくれることになるから、あなたは力を得ることになるが、もちろんその契約はあなたの光を根こそぎ提供するという取り決めだ、それであなたの四肢は強い力をムラムラ起こし、そのたびになぜか人智を越えた「闇」みたいなものに取り込まれていく。

頭上の電灯に、電力を供給しなさい、電灯に照らされたら、あなたは勝手に輝いています。

誰でも自分の部屋でそうしているはずだ、自分が光るから電力をよこせといって、自分をコンセントにつなぐアホがいるか? 自分が明るく暮らすためには、電力会社に財力を供して、電灯に電力を供給すればいいだけのはずだ、その財力を得るにもまた、どこかで労働力を供しているだろう、それがごくまっとうなことじゃないか/あなたが光を愛しているということは、電灯を点けるのに力を捧げてしまうということだ、その神聖なことを蔑視する悪い風潮がこのごろは蔓延している。
一番まずいタイプは、「自分が光だと思うと、力が湧いてくるんです」というタイプだ、このタイプは傍目にはゴリゴリの闇タイプなのに、本人はそのことをなかなか自覚しようとしない/一般に、自分の力を使い尽くさずに生きているタイプは非常にまずいと捉えていい、そういうタイプがまた活動的には「活発」だったりするのだが、それはトリニティが逆回転して「力」が流入しているのだ、正しくは力が流出して光が流入してくるべきであり、光が流出して力が流入してくるパターンは大変よくない、そういうタイプは<<誰も自分に力を貸してくれない>>はずだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
力と光の等価性

「力」というのは、基本的に「重さ」だ、格闘技の話ではなく物理の話/力の単位は「kg重」「kgw」なのだから、力と重さ(実感的な「重さ」)が同質なのは明らかなことだ。
質量のある物体を、下から上へ持ち上げるとき、「力」が必要になる、上から下に下ろすときには「力」は必要ない/ご存じのとおり、物体が上から下に移動したとき、「エネルギー」が生じる、位置エネルギーが運動エネルギーになる、また原子核を取り巻く電子が下の殻に遷移するとエネルギーとして電磁波が生じたりもする。
われわれは一般に、上下関係というものを誤解しており、上下関係があると、上のほうが「力が強い」と捉えている、むろん社会的な上下関係だと上位側が「権力」を持っているのだが、これは本来の身分関係ではない/本来の身分関係として上下がある場合、上位側は「光をもたらす者」であり、下位側は「力を捧げる者」だ、力の行使をするのは下位側であって上位側ではないのだ。
何が起こっているかというと、われわれは、地に落ちて動物的なアホ発想に囚われており、つまり「弱肉強食」の原理において「強いほうがエライ」と誤解しているのだ、さすが地に落とされるだけのことはある、われわれはれっきとしたアホ軍団だ。

愛とは何のことを指すかというと、上位が光をもたらし、下位が力を捧げるという、物理に近い構造のことを指す/注目すべきは、同じ「愛」といっても、「下→上」と「上→下」で、異なる形態を持つということだ、もちろん物理的にもそういうもので、相対性理論によって質量とエネルギーは形が違うだけの等価物だということが確かめられている。
われわれは、うかつな平等思想に染まっているから見失いがちだが、同じ「愛する」といっても、上位が下位を愛するのと、下位が上位を愛するのとでは、同じ形態は取れないのだ/上位が下位を愛するときは、光が注がれるのであり、下位が上位を愛するときは、力を捧げるしかないのだ。
力は重さであって、重さの反対が光だから、この構造はけっきょく、「上下関係といっても、力と光のどっちがエライのよ?」ということに行き着く、地に落とされた側の思想だと力のほうがエライのであり、地に落とされていない側の思想だと光のほうがエライということになる/重さの果てには光は消失するし、光の果てに重さは存在しない。
一般に「愛する」というと、何か自分が誰かに「神聖な光をパーッと照らす」かのごときに捉えている人が多い感触がするのだが、これは危険なことだ、われわれがカミサマを愛したとして、われわれがカミサマを光で照らしたりはできない、自分が光の側を気取っていると、知らぬ間に地の底のものを愛していたりするぞ、そして地の底の者があなたに力を貸してくれたりするが、そのときあなたの向かっている先は地の底であって天上ではない。

重たい神輿を人力で担いで奉納するのは、「力を使い尽くす」ためだ。

「愛」というストリームは、下から上に向かうとき「力」であって、上から下に降り注ぐとき「光」なのだ/あなたが神社の賽銭箱に百円を入れると、神社に力を捧げたことになる、そして御神職はカミサマに力を捧げているので、今度はカミサマがあなたに力を……ではなく、光を注いでくれるだろう、上に力を捧げるとリターンは光になって降り注いでくるのだ。
もし逆に、あなたが神社の賽銭箱から、百円を盗ったとしよう、あなたは百円という財の「力」を得たことになるが、力を得たということは、必ず下位から得ているはずなので、あなたは<<カミサマのお金を盗ったのではない>>のだ、<<悪魔の箱から百円を借りた>>のだ、だからそのぶんの代償に、光をごっそり持っていかれることになる、それはカミサマに嫌われたのではなく悪魔と契りを結んだということなのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
合理的に見たキリスト教の必要性2

道は主に、「浄穢」をテーマにしている、これはわれわれ日本人にはわかりやすい、大晦日までに大掃除をするのはこれが理由だ、そしてその先の奥義は、逆にむつかしすぎてわれわれには到底わからない。
キリスト教はきっと、「聖俗」をテーマにしている、これはわれわれ日本人には縁遠い、だからわれわれは意図的に学ぶ必要がある、特に暮らしの卑俗化に対抗する知識として今急速に必要性を増してきている。
仏教は究極、「有無」をテーマにしている、有も空であり無も空であるというような、「色即是空」の、理解ではなく会得を、仏教は "入口" にしている、これはわれわれ日本人にとってとりあえず「すげえ」というのがわかるが、自分がどうしたらいいかは「さっぱりわからん」となる。
ハラキリや突撃や武士道に顕れているように、東洋の宗教観は、死生観がハードなのだ、神仏に比べたら小さなものだから「サッと死ね」と言っているようなところがあり、われわれのうちにある「聖なるものに出会わせてください」という願いを突き放しているところがある、そのぶん東洋の宗教は宗教戦争を大規模に起こさずに来たのだが(サッと死ぬという発想の奴が戦争なんか仕掛けない)、それにしても生と自己実現という思想を植え込まれたわれわれにとっては突き放しが悲しいのだった、現代のわれわれにはソフト路線としてキリスト教への基礎知識と理知的尊崇が求められている。

われわれは、「穢れ」という感覚で、具合が悪くなるときがある、そういうときは神社でお祓いでもしてもらってこいということになる。
またわれわれは、人生が無意味だとか、絶対に取り去れない憎しみが有るとかで、具合が悪くなるときがある、そういうときは禅寺で座禅でもしてこいということになる。
そして、特に現代のわれわれは、生活環境において「俗悪」にまみれ、俗悪およびそれ以上の何かに毒され、それによって具合が悪くなるときがある、そしてそういうときは「教会で……」という手続きが、われわれの内にない/もちろんこんなテキトーな発想で、教会の世話になるべきではないと思うが、僕は教会の実態は知らないのでよくわからない、とりあえずいちいち施設のやっかいになる必要はない。
僕の感じているところ、産業に取り囲まれたわれわれに降り注いでいる俗悪、および俗悪以上のものが、われわれの身にキツすぎるのだ、何の対抗手段もなくガンガンその毒を放り込まれている/俗悪の技術を、外国から輸入したのに、その拮抗阻害になる「聖」は輸入していないというのでは、バランスが壊れるに決まっている、仮にオンラインゲームなら調整アップデートが至急に必要な状態だ、「俗悪系で攻められたら勝ち目ねーじゃんこれ」というクソゲー状態だ。

パワースポットは流行したが、ホーリープレイスは流行していない。

流行しようがないのだ、そもそも「ホーリー(聖)」という概念が輸入されていないのだから/汚穢には浄化のパワーで対抗できるが、そのパワースポット的発想では「俗悪」には対抗できない、いかなる神宮も「清浄」なのであって、俗悪に対抗するパワーではないのだ、かといって仏教を持ち出すと、仏教は基本的に「解脱」のことしか言ってくれない。
われわれ日本人には、もともと「トレーニング」という発想がなかった(たとえば相撲取りは稽古で身体を作るのであって筋トレで身体を作るのではない)、だから「聖」という概念も必要なかったのだが、己の身に力を蓄えるという発想を持ち始めると……力の原理は、愛の原理の反対なのだ、力の原理だけ与えられて「聖」の概念を与えられないと、俗と力だけが肥大化し、「愛」の原理にまったく触れられなくなる、よって今こそ汚穢でもなければ善悪でもない「聖」の学習が必要なのだった/「聖」のバリアがないと俗悪の「力」に入り込まれるのだ。

視点変えてこ | comments(0) |
合理的に見たキリスト教の必要性

はゴリゴリの仏教徒だし、ちゃんとしたクリスチャンに知己がいないので、「キリスト教」というものがどういうものなのか、直接の体験として知らない。
ただ、聖書というのは一般にあるものだし、イエス・キリストのストーリィを、漠然と知ってはいる、逆にクリスチャンでも、日本人なら「ナムアミダブツ」ぐらいは知っているのではないだろうか。
宗教および帰依の問題ではなく、宗教「的」な暮らしにおいて、キリスト教の必要性はとても高いと感じる、仏教徒の僕だってイエス・キリストという人が偉大な聖人だったことぐらいは当然にわかるわけだし……
なぜわざわざ「必要性」なんて、不遜な言い方をするかというと、リアルに考えたいからだ、仏教は真理に富んでいるが、仏教はすべての "産業" からあっさり切り離される前提ですべてを教えている、それは究極的に真理なのだろうが、まだまだ産業と共に暮らしそうなわれわれについて、基本的にケアがないので、われわれは見放されているようでトホホと感じさせられてしまうのだ(もちろんちゃんと勉強したら大乗仏教の現世利益もちゃんと定義されているのではある、仏教では愛ではなく慈悲と捉える)。

あまり上手に言えないが、 "産業対抗力" としてはキリスト教に偉大な力があるように感じる、むしろ産業と共に暮らすのであれば、聖書およびイエス・キリストとその教えは偉大だったという情報が、不可欠なのじゃないかという気がする。
僕はどうしても、帰依の問題は別として、イエス・キリストへの尊崇と、仏教の真理性を認めることとに、衝突があるようには感じられないのだ、そして産業的な暮らしをする中で、イエス・キリストの情報ゼロというのは、危険というか無謀という感じがしている、どういう理由でという説明はうまくできないのだが、まあそんなもん説明で伝わるようなことではないだろう。
かといって、キリスト像に礼拝したり、ちゃちにアーメンと唱えたり、教会に通ったりして何がどうなるというわけでもないし、そういう安易な救済のつまみぐい発想はたいていロクなことにならんものだが、なんというか、言うなれば、われわれは産業においてホラー映画をいくらでも見せられるのに、ホーリー映画を見せられることはまったくないということなのだ、それはバランスが悪いのであって、これが割と冗談ですまないところがあるのだ(フツー気づかれないレベルで)。
われわれの国には神道があるから、浄穢については対抗できる、けれども「俗」に忍び込む「邪」に向けて対抗する手段がない、俗の反対は「聖」だから、聖というとキリスト教が代表なのだ/われわれが産業と共に暮らすというのは基本的に「俗」なことだから、「聖」の教えがないと産業の俗悪に対抗できない、特に最近の産業は俗悪を越えて邪というほどのパワーがある。

仏教は目的地を与え、キリスト教は目的地までのバリアを与える。

仏教は、特に根本仏教においては、「ん? 仏道を行くなら産業には用事ゼロじゃない?」と平気で言ってくるところがあり、しかも「産業に肩入れしてたらそりゃカルマ道に行きますよ」「目的地が与えられたら寄り道の必要なくない? だからバリアとか要らなくない?」と容赦のないところがある、それは真理としてはそうなのだろうが、われわれは筋金入りの「迷い」を行く人なので、いきなりナマの真理だけというのは辛すぎるのだ、「迷える仔羊」という実態へのケアはキリスト教のほうが充実している。
産業に仕込まれた俗悪が、血と霊にまで入り込まないように、合理的にキリスト教は必要だと感じている、神道のお祓いやお札は穢れたものを祓う力があるかもしれないが、あまり悪魔や呪いに対抗するものという感じはしないので……/それぞれ洗い物に対しても洗剤や漂白剤や消毒液が用いられるように、われわれはこの産業の中に生きるのならばキリスト教への基礎知識と尊崇が必要なようだ(ただしそれ用のヘンなアイテムなんか買ってこないように、ただ「勉強しろ」というだけの話だ)。

視点変えてこ | comments(0) |
「受け身」は怖い

うーむ、ナゾは解けてきた。
ナゾは解けてきて、ますます困る、ということも出てきた。
困るといっても、本質的にうれしい困惑なのだが、何のことかというと、僕は何かについていったり、何かを説明したりということが、機能的に許されていないらしい。
本質的に、あるいは霊的にというレベルで、僕は野暮を禁じられているのだ、その方向には数秒も進めないようになっている、よって方法は、おれが愛されるしかなく、おれが何かをしてやるということは不可能なのだ、そりゃ身分構造的にそれでアタリマエといえばアタリマエのことではある。

もう、しょうがないのだ、僕があなたから奪い、あなたが僕に捧げるしかないのだ。
何を捧げるかといって、まあ単純には、読む時間とか、読む労力とかだな/僕の側から説明の労を費やすということは、構造的にできない、もしそれをやると、とてつもないマイナスがあなたの未来にセットされてしまう。
労を費やされる側……いわゆる「受け身」というやつだが、「受け身」というのは怖いんだな、スマートフォンそのものが悪いのじゃない、スマートフォンがもたらした「受け身体質」が怖い、スーパー消費者の行く先は想像しているよりも遥かに真っ黒で重油のように粘り着きあなたを取り込んで離さないだろう。
またよりによって、僕自身、最低ランクの身分たる自分を、いつでも起動できるし、それを使い慣れているから危ないのだ、みなさんにご愛顧いただけるサービス・マンたる能力が、むしろ僕の出自だというのが危ない、多くの人は逆にサービスを受けるのが本分で出自ですという感じだから、相互にピタッと嵌まりうるのが危ない/僕が野暮側をやるのは全然かまわんのだが、前もってシャレにならん闇になるとわかっていてわざわざそれをやるのは、さすがにどーなのと最近は冷静に考えるようになった。

高みから風を受けるということは、あなたが落下させられるということだ。

誰だって、冷静に考えればわかることだ、高みに向かっている人は、低みから追い風を受けていないと構造的におかしい、高みから追い風を受けているのだとしたら、そりゃ自分は低みに向かっているんだ、だから「受け身」は怖い。
受け身の人は、もちろん高みにあるものを選び、そこからわざわざ「受け身」に風を捉えるのだから、自分を低みに追い落としていることになる、だから「受け身」というのは怖い/よくよく考えりゃ僕自身は、自分より高みにある人に対して、受け身になんかなったことはないな、そのときに受け身になるという感覚が、僕には正直よくわからないのだった。

視点変えてこ | comments(0) |
WS報告016(4)/わたしと人と、それ以外のものの使い方
とえば天高くピースサインを掲げてみる。
「乾杯」という行為もわれわれはよくする。
「わたし」と、わたし以外の「人」がいて、もうひとつ、この「掲げているモノ」は何だあ?
われわれは、すでに知っているし、やっているのだ、「おう」と言って、手のひらを高くあげて挨拶する、このハンドサインは何なのか、そして言葉とは何なのか。

ただ、われわれはそういったことを、どこかで知っているし、実際にやっているのだが、実はよくよく点検すると、ちゃんと出来ている人は少ないのだ。
そして、ピースサインでも「乾杯」でも「おう」でも、本当にちゃんと出来ると、まったく別次元で「人間らしく」見える。
もちろん、現代のわれわれには、そうしたことをさせないように呪いが掛かっているのだが、そんなもん正しく教わって命がけでやりゃあカンタンに突破できるわけで……
わたしと人と、「おう」と天に掲げているモノ、それは何だあ? こんな具体的アンドささやかなことで、その人の行き先と命のありようは決定されてしまうのだった、うーんこんなことフツー気づかねえよ。

旅行のガイドさんでさえ、旗を立てており、人はガイドさんについていく。

実際、ついていくわな、そして逆はない、旅行客にガイドさんがついていく形はない、あたりめーだ、風向きは旅行客→ガイドさんであって、ガイドさん→旗だ、そして旗→旅行客という風が吹いている、われわれが「トリニティ」と呼んでいるわかりやすいもの/そしてせっかく旅行にいくなら夢のような旅行にいきたいものだ、愛と夢と命があるトリニティのほうがいいに決まっている。
逆方向のトリニティもある、つまり、「この紋所が目に入らぬか」といって、人々をひれ伏させる「力」のトリニティもある、これは紋所→権力者→被支配者→紋所という循環のトリニティだ、紋所を借りることによって権力者はパワーアップし、それにひれ伏すことで人々は生を長らえ、そうした人々によって紋所の権威力はさらにパワーアップする/力を捧げれば自動的に神様トリニティであり、力を借りれば自動的に悪魔トリニティなのだった、人は愛を増すべきであり、パワーアップしてはいけないのだ、うーんこんなことフツー気づかねえよ。
そのほか | comments(0) |
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 10/16更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第三十一回】10月19日(金)19時〜@世田谷公園
【パーティ日】10月20日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【お休み週】10月26日(金)@野暮用があるでござる
【お休み週】10月27日(土)@野暮用があるでござる
【第三十二回】11月2日(金)19時〜@寒くなければ世田谷公園
【第三十三回】11月3日(土)19時〜@寒くなければ世田谷公園
【第三十四回】11月9日(金)19時〜@寒くなければ世田谷公園
【パーティ日】11月10日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第三十五回】11月16日(金)19時〜@寒くなければ世田谷公園
【第三十六回】
11月17日(土)19時〜@寒くなければ世田谷公園


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)
(雨天時はスタジオを使用します、随時ブログ記事でご連絡いたします)

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第85回】10月20日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第84回】
11月10日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第84回】
12月8日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


野暮用が一部なくなったので開催日増加
あと会場側の都合があってパーティ日を第二週にシフト
ウーンとにかく気力と霊力で突っ切るしかないじゃん


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

(ワークショップの各カリキュラムは以下続きをご参照ください)

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そのほか | comments(0) |
WS報告016(3)/スケール基準の改定

十四時間耐久、を越えて、気づけば二十七時間もやっていた、十時間あばれて、十七時間言語ワークをしていたことになるが、こいつら正気かね、首謀者の僕が言うのもアレだが/まあ鍛えられていいかもしれない、基礎のスタミナがないと何もできないからな。
胴体の連動(胸と腰、「呂」の字)をやった、人を押すというのをやった、ミリ秒もやった(これはムズいんだよな)、ちょっと踵なども使いながら、時間をかけて「キュー出し」をやった、「命がけ」だと何が起こるかというのもやった、「命がけ」というのはまだ僕にしかキッチリやれないが……
「人を押す」というのが、ここまでの身体操作の成果として、ばっちり結果が出たから、よかったと思う、「動くタイミングが早すぎる」「力が自分の体内で使われてしまって、相手の身体に伝わっていない」「力が伝わってから動け」と、あとは「モノを "掴む" と、それだけで身体はバカになりまっせ」と/細い女性でも全身の接続を正しく使うと非反発の十分な力が出せるものだ。
あと他にもいろいろやったはずだが、ちょっと思い出すのに時間が掛かる、そして思い出したころにはまた次のワークショップが始まるのでね……メール等、あちこち返信できていないのはごめんなさい、さすがにちょっと恢復というかチャージ時間が必要です、回数を経るごとに毎回の使い果たし感がえぐい、まあそうでないと成長しないからしゃーないのだけれども。

最近、ちょっとだけ、僕自身本当に人の身体が掴めてきたというか、そして教えるということに自信が出てきたというか……一部には、ほとんど力尽くで教えているものな、胸郭と骨盤を抱えて「こうやで〜」とぐりんぐりんすると、強制的にわかるというか、強制的に感覚を掴ませることができる、これはちょっと不自然なぐらいの能力だ、ふつうそういうのって何年やってもけっきょく掴めないのが定番だからね、こんなことが数ヶ月で実現してしまったことのほうが実はコワイ。
そうして考えると、何かを教えるとか教わるとかいうのは、土台の信頼関係がモノを言うというか、信じるということのセンスがいい奴ほど、さっさと身につけていくのだなというのがよくわかる/数ヶ月前までは、何もかもがチンプンカンプンだったはずが、今はもうハイレベルなことでも「とりあえずやってみるか」となっているし、人前に立って「はい集中」というようなことは、いちおう当たり前というように出来るようになってしまった。
まあ、ある意味「慣れた」ということだろうが、それ以上に、何かに「取り組む」ということが、脳みそのレベルでわかり始めたのだと思う、取り組むということがそんなにチマチマしたもんじゃないということが、強制的に理解されたのだろう、まあ何もかも強制的でカワイソーではあるが笑、もういいかげんワーク中にグスグズと感情モードになる人はいなくなってきた。
ワークの内容はもとより、取り組むとか指導されるとか、学習するとか人の話を聞くとかが、根底から変わったのだと思う、スケールの変化だな、ゴムボートではしゃいでいた海水浴客が、コンテナ船の乗組員になったようなものだ、海とか船とか航路とかのスケール基準が改定されることになる、そういう改定を経なければ人はオトナになれないからな/おそらくプレイヤーたちは、日常生活のほうでも、スケール基準が改定され、感情的にどうこうということがなくなっていっていると思う。

言葉、知性のほうも、今後スケール基準の改定です。

おそらくわれわれは、本当の訓練を受けないと、ツイッターの10ツイートぐらいで、言葉の処理や知性の生産が限界を迎えるのだと思う、だが当然ながら、そんなレベルのものを知性扱いしていては話にならないのだ、せめて書籍の十冊や、十年間の体験の情報を同時並行処理して構造化するぐらいの生産を基本にしないと、オトナの知性とは言えない/戦闘機のプラモデルを組み立てるのはコドモのすることであって、元の戦闘機を設計するのがオトナのすることだ、当たり前のことだがこの基準を改定しないでは能力以前に所有する基準が「アホ」ということになってしまう。
チマチマやっていると、当然、チマチマした変化や技術しか得られないわけで、そんなものは逆にやる気がしないものだと、僕は思っている/気負い込む必要はなく、リラックスして取り組むべきだが、オトナがリラックスするべきであって、コドモのままリラックスしていたら、それは似て非なるアホだ、どうせやるならドカンとやってしまうべきで、そこでドカンと変化と技術を得たら、その新しい姿と能力でこの先の数十年を行くのだから、結果的にはこっちのほうがラクになるのだった。

そのほか | comments(0) |
WS報告016(2)/リデュース!!

分を「見せる」をやった、四肢の突端がまさかそんな使い方とは、まず師匠なしには気づくめえ。
ミリ秒法をやった、キュー出しをやった。
あと何をやったっけ? うーんもう眠いので思い出せない。
覚えているのは、朝五時を回って、「ペースあげてください、時間押してまーす」と言ったことだ、朝五時までやって時間が押すってどういう状況だよと、自分でいいながら呆れていた。

あ、「つながる寸前」もやったし、集中法もやったな、コップの中身はなんじゃらほい形式で(雑な言い方……)。
そしてあれだ、重要な「風向き」をやり、何より「リデュース」をやったのだ、リデュース法はみんなして困り果てていたな、うーんざまーみろ笑。
味噌汁は日本の湯気だ〜とうもろこしの御前に、人々は「歯に詰まるがよい」と決意する、世界を支えてきたデンプン←これはテキトーじゃない、リデュース法のことだ。
深夜、冷え込んだので、ちょっとAKBのダンスも教えた、なんだこのむちゃくちゃは、しかしなんでもかんでも勉強であり学門なのであった。

仕組みを知らなきゃやれないし、命をかけなきゃやる意味がない。

何はともあれ、ね、寝ていいですか、このあと寝て起きたらまたワークショップなんで……うーんいいかげん万民はおれを愛せよ。
詳細は思い出せないが、昨夜はきっと、大成功だったのだと思う、大成功の詳細なんていちいち直後に思い出してらんねーよ、よっぱらいのおっちゃんが通りすがりに「ものすごい気を感じた!!」と言い残していったよ、おっちゃんもうシンナーはやめてね。

そのほか | comments(0) |
WS報告016(1)/スプーン曲げなんかできるわけがなく、スプーン曲げができないでは話にならない

ーた通りすがりの人にグル扱いされた、しかも一晩に二人もだ。
いつも不思議に思うのだが、どうしてみんな、そういう直感だけはあるのだ? 僕はそういう直感がなくて理詰めのタイプだから、直感でアプローチされるといつも不思議でかなわん/そういう直感があるなら、これまでいくらでも、自分の行くべきところは見つけてきただろうに。
そうやって、赤の他人からでも言い寄られるということは、この世に救済を必要としている人は相当多いのだろうが、救済が必要な人はヨソへ行ってくれ、申し訳ないが救済的なモンは当方では扱っていない、救済っつーのはもっと立派なところで立派な人が導いてくれるモンだ。
例外的に、若くてキレーな女の子が下着姿で縋ってくるなら、バリバリ救済するぜ! と思うのだが、よくよく考えれば、そういう女の子は何ら救済なんて必要としていないのだった、うーんそういう女の子が寄ってこないかなあ、美女はただちにおれを救済すること。

朝まで詰めて、昼までメシを喰って、最後の最後で次のものが見えた、見えたというか届いたのだが、こりゃ決定的だ、三十年来の突破がついに為されたといっても過言ではない。
フィクションの向こう側へ、「命がけ」なら到達できる、なぜならフィクションの向こう側には、命の世界があるからだ、これでついに、フィクションはノンフィクションの補集合ではなくなる。
僕が子供の時代は、スプーン曲げ等、超能力がブームだった、超能力の訓練等も流行ったな、そしてもちろん、超能力でクローム鉄のスプーンが曲がったりはしない/何しろ僕は元手品師なのだから、手品が超能力でないのはすぐ見分けられる。
ただ思いがけないことに、「命がけ」とは何かということに、スプーン曲げの訓練は有為なのだった、なぜなら超能力は、命がけでないと発現されないからだ、超能力は命がけが前提だ/そしてけっきょくスプーンが曲がる超能力なんてないのだが、超能力は存在しなくても、「命がけ」というのは存在するのだ、命がけは「真剣」とは意味が異なり、真剣は必死ということ、命がけとは不死ということだ。

文士道と云ふは不死の事と見つけたり。

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と、聞いたことがあるが、僕は武士ではないので、その逆の道をゆこう、文武両道なのに文士の道は言われないな、よって僕かテキトーに申し上げる、「文士道と云ふは不死の事と見つけたり」。
生は有限だが、いくつかの聖典によると、命は永遠らしい、フィクションの向こう側に命がある、命がけならフィクションの向こう側まで行けるわけだ、そして命がけとは何かといったら、スプーンぐらいは曲げろよという話/スプーンなんか曲がるはずないが、それでもスプーンごとき曲げられないようでは使えねー奴だ、スプーンぐらい命がけで曲げろよ。

そのほか | comments(0) |
地球の歩き方

が敬愛し、また私淑する、ムツゴロウこと畑正憲氏が、ひさしぶりに特集としてテレビ番組に出演された。
昨年末から今年はじめに、心筋梗塞で入院されて、死線を彷徨われていたそうだ、今はすっかり恢復されて、いつもどおりのように煙草を吸っていらっしゃった様子だったので、僕は安堵した、そしてムツゴロウさんの眼にこれまでに見たことのない色の光を見たように思う。
ムツゴロウさんは、万人が認めるところ、この時代に現存する怪物の代表みたいな方だが、これまでのムツゴロウさんに、あのような目の色は見たことがなかったように思う。
あの目の色が、何を示しているのかは、僕にはわからない、死線をくぐられてなお新しい何かを発見されたのか、新たな地平に到達されたのか、それとも凡人の情愛にも満ち始めたのか、僕にはわからないが、そこにはこれまでより一層豊かな何かがあるように僕には見えたし、またそのように信じたいとも僕は思った。

ふと、昔のことを思い出して、僕がインドを旅していたとき、到着初日の夜中にタクシーの運転手を、後部座席から蹴りつけていたことを思い出した。
当時僕は、大学生で、フロイトの全集とムツゴロウさんの全集を読み、「いつどこで死んでもかまうもんか」というのを当然にして生きていたので、初の外国の地でボッタクリ業者をいきなり蹴るという乱行に出ていたのだが、そうした僕の行動の背景には、命を引き下がらせないという、ムツゴロウさんからの影響づけがあった。
ムツゴロウさんが、ゾウに乗っている古い映像などを見て、僕は今になって、ハッと理解した/僕は地球の歩き方を、この人から習ったのだ、僕がどこかを歩くのは、観光のためではなく、いついかなるときも、出会う命のことごとくに正面から重なるためだった。
僕は当時、理学部のくせに、なぜか執拗にフロイトを読んでいたわけだが、僕はフロイトの解き明かす精神病理よりも、ムツゴロウさんの生きてきた「命」という直接の力を信じたのだった、そのことは今もなお変わっていない、時代が変わって隠してはいるが、僕は今も信じていることを一ミリも曲げていない。

すべての無意味は、命が通って変質する。

あのとき、毎日がどこか無我夢中で、毎日が光り輝いていて、すべてが無意味で、何もかもが、かけがえがなかった、その秘密を、僕は今も隠し持っていて、ただ周りと話が合わないから、表に出さないようにしている/命のすれ違いは危険だ、本当の危険が生じてしまう、僕はこの危険が処理不能レベルに至ったことを鑑み、命から学門へと旗印を換えたのだ、それでもなお、本質的な危険はいつも皮の下一枚に揺蕩っているが……
危険だ、本当に危険だ、あのときタクシーの運転手は、わけのわからないジャパニーの圧力に押しつぶされて降伏したが、もしそこで運転手がポカーンとしていようものなら、僕は本当に運転手をくびり殺してしまっていただろう、現代は本当に、そうした虚ろの穴がぽっかり空いてしまっている/けれどもなお、「地球の歩き方」は、あのとき習ったあれが正しいのだ、あれ以外に地球の歩き方は存在しない。

バカをやろうかあ | comments(0) |
アレについて、先払いと後払い

んなものは、マンガみたいな話だと捉えてもらえればけっこうだが、人に霊力というようなものがあったとして、聖霊と悪霊とでは、霊力の得られる手続きが違うのだ。
聖霊の力のほうは、先払いでしか手に入らず、悪霊の力のほうは、後払いで手に入るのだ、だから手持ちがないときに「それでも力が要る」という場合、人は悪霊の力を借りることになる、いわゆる「悪魔と契約した」的なことで、契約したからには必ず後で支払いが待っているのだ、それでもとっさにすぐ力が手に入るのは、街中のキャッシングローンと変わらない。
比べると、聖霊の力のほうは、先に支払わねばならないのに、商品はなかなか手元に来ないのだ、それ自体が高価だということもあるが……つまり聖霊の力というのは、何のトクにもならないと思えることに、純粋無垢に打ち込んで、報酬をもらうことなんか忘れていたわ、というようなころに、ふっと手元に届くようになっている/ここで少しでも、「あの、報酬を……」と請求すると、聖霊の力は届かない、サッと手元に届くのは決まって悪霊商品なのだった。
筋トレなんかはわかりやすい、十年前にした筋トレの成果が今になって現われてくるなんてことはないはずだ、比べると十年前に先輩にシバかれたことが今になって「あれ?」と、自分を支えていることがある、霊力といって聖霊の側はそれぐらいまだるっこしいのであった、こりゃご時世的には悪霊パワーのほうが流行するのは当たり前だ。

手に入った霊力も、商品として性質がことなって、聖霊の力は不動産的に手に入るのに、悪霊の力は消耗品的に手に入るのだ/聖霊の霊力が得られたとき、それは一生使えるのだが、悪霊の霊力が得られたときは、それは数回も使えばなくなる、だから悪霊の霊力はずっと仕入れを続けねばならなくなる。
それは、聖霊の力が「(永遠の)世界」の力であって、悪霊の力が「滅ぶもの」の力だから、わかってしまえば当たり前のことなのだが、気の短い消費者には、悪霊パワーのカタログしか届かないのだった/そして消費したぶんは後になって支払いが待っているので、加齢すると身体がガタガタになっていくのだった、「最近疲れやすくなった」のではなく、今になって支払いが立て込んできたということなのだ、うーんおっかねえなあ。
悪魔のカタログしか手元に届かない人は、気をつけて、あなたはこれまでに、何のトクにもならないことに全身全霊で尽くした、打ち込んだということが、一度もないかもしれない/それは、十年後の仕入れのことなんか教わっていないのだから、そんな無駄な投資はしなかっただろう、十年前にあなたに盛り上がったもの・流行したものは、消費されてあなたの財には残っていない(支払いは残っている)。
霊力の仕入れについて、年長者としてノウハウをお伝えしている、今日純粋に損をするということは、数年後の聖霊を仕入れているということで、今日それなりのトクをするということは、今日の悪霊を仕入れて支払いを後に残しているということだ/どちらも何か不当性があるわけじゃない、ただ前者は消耗品ではなく、後者は消耗品の仕入れだというだけだ、そして仕入れ先の問題もあって、聖霊の仕入れ先はごく少なく、悪霊の仕入れ先はいくらでも乱立している。

今日、必ず損をしなくてはならない。

正直な話、そういう感覚のない人を見ると、僕は不思議で、「怖くないのかね?」と、首をかしげてしまう、僕はどの一日でも、自分が損をしているようでないと不安でならないのだが……/計算ずくで損を納得する人は、いまいち的外れだと思う、それはけっきょく損を拒否しているからな、正しくは<<センスで損をしなさい>>、筋のいいヤツってたいていそうだ、損の仕方が小粋で上手だ。
人はトクをすることに弱く、損をするという発想がわからないので、せいぜい「善」というところに逃げ口を探す、たとえばチャリティー的な発想がそれだが、「善」なら損をしてもいいかと捉えるのだが、これはセンスが悪い、悪に損をしないと聖霊の力は仕入れられない、だからこそ "聖霊の仕入れ先はごく少ない" のだった。

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