☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
恋あいほど差別的なものは他になく

を落ち着けて……恋あいはずいぶんと下火になり、人々はよりよきように暮らしているふうに見える。
にも関わず僕はなお、恋あいを主題として語り始めたこのやり口を未だ変えようとしない。
恋あいほど差別的なものは他になく、人々はその差別の下位に押しやられて、なお笑顔でいることを強要されている。
まるで笑顔でいることさえも形を変えた一種の納税であるかのように、それは全体主義のにおいがする。

「恋あいは無し」という契約書にいつの間に判子を押したのだろう? 生涯に亘る契約期間のそれ。
誰しもその契約書に押印するときに悲しみの叫喚を上げたはずなのだ。
けれども恋あいほど差別的なものは他になく、どこからともなくやってくるはずの救済を待ち焦がれた人はそのままみじめに置き去りにされた。
僕ははっきりと思うし、はっきりと知っている、夏の夜空の下で熱気にひっそり包まれながら、おとことおんなの肩肘がもつれあうときほど、この世界を完全に肯定していられる時間は他にないということを。

差別なのです/あなたは勝ってもよいのです

何事でも、負けるよりは勝つ方がよりよいわけで、ただしこの物事は、勝とうとばかりする野暮天を排除する差別に満ちていることをお忘れなく。
僕は女運にだけは恵まれて、思い出のすべてが爽快さと痛快さに満ちている、ときおり「この世界に拍手してやりたい!」とさえ思わされる、肩肘のもつれあった想い出。

恋女のマインドね | comments(0) |
或る教室

妙に感じられるという物事、それ自体が帯びている誘引力によって、僕はこの新しい遊び方を慎重に受け入れている。
こういう立場の成り立たせ方は、もともと決してしたくなかったものだけれども……僕は今このとき、「教える」ということを始めている。
やむをえずということも確かにあったのだ、「きちんと自己の才能を開花させたい」というまっとうな申し出を無下にできるほど僕は未だ老いさらばえていなかった。
料金を取るような職業的なものではないけれども、これはれっきとした教室であり、講義であり、講習であり、レクチュアだ、とはいえ教室などというものは、誰にとっても便宜のもので、教室は誰の住むところでもない。

わたしたちの胸と腕はどうつながっているのか?
わたしたちが椅子から立ち上がり、また椅子に座るというとき、全身はよくよく見るとどう挙動しているのか?
賢明な女生徒は、ただちにモノクロ映画を観て、その中で古い女優が確かに教わったとおりの挙動をしていましたと報告した。
僕などは本来、教えるような人間ではないし、こういったことは本来、教室で教わることではないけれども……「奇妙に感じられる」という誘引力によって、これらの遊び方はあたらしく肯定されうると思うのだ。

今夕、世田谷公園で、肌に虫よけを塗りながら。

こうしていざ教え始めるということならば、僕のような、ひたすら遊び続けてきた人間から、教えうることが無尽蔵にあると感じている。
誰もが胸の内に想い描いたことがあるように、凡人と歴然とした差を持って生きることには、どうしようもない爽快感があるものだ、どうせやるからには、その差を歴然とつけてゆこうではないか。
(定期開講していく予定です。もし興味のあられる方がいらっしゃればお手数ですが本サイトよりメールにてご連絡ください。要するに身体操作の無責任ワークショップです。料金は一切頂いておりません。無責任だから)

バカをやろうかあ | comments(0) |
性愛のなぶりごろし
まり説明したくないが、性愛はなぶりごろしに似ている。
なぶりごろしとはどういうものかというと……最近はひどいことに、動画で検索できるようになってしまった(検索しなくていい)。
とにかく、男は女を抱くわけだし、サッと終わってくれるものでもないので、なぶりごろしにたいへん似通う。
もちろんそれは、「そこまでやれば」の話に過ぎないから、ふつうはそこまでしなくていい、そこまでしないと女性は満足しないが、別にそのことに万人が満足しなくてはならないわけではない。

性愛については、せいぜい、わかったふりをしないことだと思う。
よく言われる、「愛を確かめ合う」というようなことは、単にその場しのぎのうまい言い方にすぎない、真に受けるようなことではない。
人々は"一般的"に、性愛に強いこだわりを持っているのだが、強いこだわりを持っているわりに、その行為が「何なの?」と訊かれると、まともに答えることができない。
今も世界中で、敵をサッと殺すのではなく、なぶりごろすということが行われていると思うが、なぜそんなことをするのかというわけのわからなさと、性愛は似ている。

わけがわからないのに、「なぶりころされたい?」という口説き方だけ通用する。

なぜかわからないが、女性もそのとき、「うん、せっかくなら」と答える、性愛は夜のあちこちで密かに不穏だ。
性愛はなぶりごろしで、女性は悲鳴をあげたい、だからこそ女性は、男性をよく選んでね。
えっちはいいよな | comments(0) |
純情
りたいことがあるなら、始めるべきだ、ただし自分が何をやりたいかは難しいことなので、どこまでも慎重でいなくてはならない。
やりたいことを始めるというのは、ほとんど義務のものであって、ひいてはそのことに勇み立つふうになるのはどこまでも間違っているし、見た目にも愚かしさが浮き彫りに見えるものだ。
やりたいことをそのままに始めるということが、なぜ義務的かというと、やりたいことがあるのに始めない人間というのは、わけがわからなくて薄気味悪いからだ。
やりたいことがあるのに始めないということは、まるで何か世の中を恨んで、あてつけに丸まって屈みこんでいるように見える、そうした妖怪じみたことをしていてよい権利は、誰の身にもないのだ。

たとえば陶芸をやりたい人は、ただその思いのまま、粘土をこねればよい、そしてそれが後日焼成されて見栄えのする姿になって戻ってくるのをよろこべばいい。
われわれが攻撃しなくてはならないのは、陶芸そのものではなくて、陶芸をしたくもないのにしてみようとする自尊心の過剰な人たちだ。
こじらせた自尊心は、何かをやたらとやってみようとする非建設的な出しゃばりになって現れてくるし、それが逆転して、丸まって屈みこんでいる妖怪のような、マイナスへの出しゃばりになっても現れてくる。
だからわれわれが、やりたいことをただやりたいままに静かにするというのは、義務なのだ、やりたいことを自然に持ち始めてしまう生きものとして、それ以上の不自然さを加えてはならない。

やりたいことをただ静かにすることを、純情と呼んでいい。

われわれの誰も、純情ならざる動機から発せられたがなり声や怒鳴り声を、終日聞いていたいわけではないのだから、われわれは自分がそう正当に感じる程度に、純情でいなくてはならない義務がある。
誰だって純情な人が好きで、純情ということにはかけがえのない気持ちよさがある、誰だってなるべく気持ちのよい人間として生きていく義務がある、この世からなるべく不要な大声を消し去るために。
視点変えてこ | comments(0) |
夏に謝れ
して忘れてはならないことがある。
それは今が夏だということ。
緑がこのときに繁茂しているということ。
夕刻はしつこく暮れなずみ陽が落ちても大気はなお蒸しつづけるということ。

ケヤキの根元に巣食う名のわからない虫たちの声がジージー鳴き続ける。
水辺にゆけば夜にはカエルたちが道路を挟んでサラウンド大合唱しているだろう。
公園外灯を周回するカクイドリどものしつこさ……大げさに言うなら「この」世界とひとつになれ。
世界からはみだしているから苦しいんだろう。

自意識過剰は、夏だけはやめて。

いいかげん、夏を何だと思っているんだ、夏に謝れ。
夏の熱気は、喉にも吸い込まれて、声帯に染みているだろ、なら出せる言葉なんて限られているはずだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
続き

レンダ、人々は愚かしいことに、自分の生きてきたことの"続き"を見失っています。
アレンダ、あなたが最も嫌った、人々がその場の気分でどう思ったかをほざき続ける、そのようなことが繰り返されています。
アレンダ、あなたは手書きの手紙をやめて、メールを使うようになったのは、それが手紙の"続き"だからだと云いました。
アレンダ、けれどもまもなくです、かなりの悪寒を伴ってでしょうが、このような状況はもう長くは続かないと思われます、あなたの言うように、「それは人間にとってとても苦しいこと」だったようですから。

思いついたことを、その場ぎりの気分でほざく、ほざく……それは自分が生きてきた"続き"から剥離されたむごたらしい人間の有様でした。
なつかしい声で云います、"どれだけ愚かな人間でも、絵画の右半分と左半分を比較したりはしない"、それは絵画が一枚としてつながっているからでした。
いくつかの物事を考えさせられるとき、どのように考えねばならないか? それは生きてきた時間が確かなら、その続きにおいて明らかなのでした、ミス・アレンダ。
有用でない日を一日も持たないアレンダ、あなたが歩き回った世界の一周は、すべてが地続きで比較されないでしょう、昨日まで歩いてきた今日なのですから。

「小説もかけないの?」とあなたは最も嘆きました。

輝かしい星空の下で、朝ぼらけがやってきて、やがて青々とした夏の日差しが降り注ぐ……ミス・アレンダ、人はどこまでも"続き"の中にあります。
アレンダ、これは"続き"です、誰も彼もそうであるように! 人々はいいかげん一日しか生きないような苦しいそぶりはやめはじめるものだとこのところ感じられています。

正しく見ないとな | comments(0) |
トモダチレベルをやめること
なたがさっさと覚醒すれば済むことだ。
覚醒とは、トモダチレベルをやめることだ。
真の友人はトモダチレベルの中には存在しない。
友人をトモダチレベルに押し込めるなど友人の風上にも置けないやり口だ。

僕は友人に期待しない。
僕の友人なら、期待なんかしなくても自分でなんとかするに決まっているからだ。
友人には、話すべきとんでもないことがたくさんある。
「とんでもないこと」、それはトモダチレベルを越えている話だから、とんでもないことに決まっている。

胸の内と、外の世界、トモダチでないものがつながっている。

今ちょうどそんな状態だ、壮絶な、つまり「この世界は友人だらけ」と言っている。
トモダチレベルをやめないと、風の中に足音を立てて歩く、その足音さえ自分の友人にならないぞ。
正しく見ないとな | comments(0) |
情熱の彼方
なたを創り上げた一つの歌はどれだ。
あなたを決定した一つの映画はどれだ。
あなたを支えた言葉は何だった、あなたの背後には何の小説があり、どんな音楽が流れてあった?
これを情熱というのだろう、情熱は何をしたいというものでもない、ただの情熱だ。

僕はそのように生きてきたしこれからもそのように生きていくだろう。
どれだけ笑われても平気というか、僕はそこで嘲笑に逃避した人間が近々発狂することを知っている。
僕があなたのようではないということ、および、あなたが僕のようではないということの、どこに笑いが起こるのか僕にはまったく意味不明だ。
僕がただただ言えるのは、僕はそうして生きてきたし、これからもそうして生きていくだろうということ、なるべく人に笑われるような生き方をだ。

自分に笑われないためには、人に笑われるしかない。

何もかもを真に受けていく、僕自身にふさわしいようにだ。
大切な音楽があって、大切な映画、大切な小説と、大切な物語がある、それらは大切な人にしか話さない、僕は大切な人の世界しか生きない、その他のすべては無関係なことだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
まず「わたしの認識はメチャクチャで間違いだらけのサイテー」と思え

ょっと義務的に話しておくべきことがある。
この時代、「胴体(こころ)」と「認識(意識)」が無茶苦茶のバラバラだ。
いっそ胴体(こころ)が完全に消え去り、完璧な認識オンリーマンになるのならそれもよいかもしれない。
だがそうはいかない場合がほとんどで、自分は「認識」のことしか知らないのに、胴体(こころ)があるものだから、わけもわからず震えている、泣いている、そんなことをもう何十回も見てきた。

このことはけっきょく、自分で解決するしかない。
教えられることは教えたいが、教えるといっても限度があるのだ。
まず「わたしの認識はメチャクチャで間違いだらけのサイテー」と思え、これが大前提だ。
そして自分の認識のポンコツサイテーぶりに、やけくそになるな、感情的になるな、そしていつまでもわかったふりをするな、たくさんの人があなたに泣いて拍手するまでは何一つわかった気になるな。

発表しろ、拍手でケリをつけろ。

それ以外に感想や思い入れは要らない、何の拍手ももらえないものに自分だけ思い入れをたっぷりつぎ込んでどうするんだ、時間の無駄じゃないか。
あなたが話せばいい、そしてあなたが笑ってみせればいい、それで拍手がワッと湧くのかね、湧かないなら、そりゃ「わたしの認識はメチャクチャで間違いだらけのサイテー」ってことだろ、そこから「胴体(こころ)」と「認識(意識)」をつなぐ手探りをしろ、自他共に拍手の起こらないものに感想や考察を持つな

正しく見ないとな | comments(0) |
僕と関係のあった人々、あるいは場所、物

在の僕が成り立つためにはこれまでいくつかのものに関係があった。
現在の僕が成り立つためには、神戸が関係あり、丸の内や銀座が関係あり、大江健三郎やヘヴィメタルの金切声に関係があった。
人は誰しも関係の中で何かを得、関係のない中では一切の何物をも獲得しない。
だからゴシップ・ニュースの中で声高に言われるくさぐさのスキャンダルは僕に何も与えないと思うのだ、それらはすべて無関係のことであるから。

一切の貴重なこと、あるいは重要なことは、関係によって得られ、努力によって得られはしない。
自分がこの世界の何事かに関係せず、努力だけで何かを得られるとしたら……そんな甘い夢想はそもそも一考にも値しない。
誰しもそうであるべきように、現在の僕が成り立つに至ったすべての関係を書きだすことはどれほどの紙面があっても不可能なことだ。
誰しもそうであるべきように、現在の僕はこれまでの僕が選び、また引き受けてきた、すべての関係の末端として成立している、ここに示す一言一句の端々まで。

破綻とは、無関係に興味を持つことをいう。

なぜ無関係な物事に興味を向け、ときには加熱したり、ときには消沈したりして時を過ごすのか、僕にはそのような人たちの成立の仕方がよくわからない。
僕は何が得たかったわけでもないし、これからも何が得たいわけでもない、ただ自ら選び引き受けた関係だけが僕に何かを得させるだろう、それは僕が休まずに生きるということに過ぎない。

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