☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
第71回Quali's Party[8月19日(土)]参加者募集!

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8/19 Quali tweet> パーティ前、先に酒を飲みたくなる問題。耐えろ。 pls entry



キラキラ加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


日時2017年8月19日(土)19時〜23時
場所原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB待ち合わせ:原宿竹下通り商店街突き当たり竹下口交差点ムラサキスポーツ前
費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
分割(わか)らない
「分からない」ということが思いがけず極意となる。
「分かる」というのは、「分割する」ということで、「tell A from B」と同じ、「分かる」ということは「分割しました」ということに他ならない。
「分かる」というのは、「身に入らないように、肉の身から分割しました」ということであって、「わかる」ものは決して身に入らない、身につかない。
このごろは、誰しも「分かる」という能ばかり鍛えられておって、「分かる」ということが賢いことだと思い込まされている、それは賢いには違いないが、それではただ賢い風情のまま死んでゆくしかない、それはあまりありがたいことではない。

情念の染みた人間は、よう分かりよる、「勝ち組・負け組」だの「肉食系・草食系」だの、何もかも分割しようとする、そうすると分かる分かるのオンパレードになる。
そうなれば、数学だって分かるし試験だって分かるのだが、それは肉の身から分割された宙空の何かをやっておるのであって、その宙空のものをいくら足してやっても、自分の肉身の足しにはならない、宙空のものが膨らむだけだ。
人はみな、分からないで頭を下げておる、分からないというのはこの肉の身から切っても切れない、切り離せないことだということで、情念なしにそれをしておる、夢の中ででも頭を下げておる。
胃袋がなんでも入れられたタンパク質を分からんまま一所懸命に溶かしよるように、われわれ人間も分からんまま一所懸命に頭を下げておる、分かる分かるというのはどの面が申したか/人間は風邪をひくのがとうの昔に分かっておるが、分かっておるからといって肉の身が風邪を引くのはやまんし止まらん、分けとうてもよう分けられん。

「分かり」たいのか、身になりたいのか。

風邪などは、願わくば分かってもらえればありがたい、しかし風邪をひくときはひくのでよう分からん、一方で数学は分かるばかりで身にならん、つい咳をしてしまうようにはわれわれの内から数式や理知は出てこん、必死に内緒で記憶した参考書を思い出さねばならん、それではまるで学を修めたということにならん。
われわれ日本人は、なんで箸でメシを食うとるのかわからん、小さいシャベルでメシを食うてもよさそうなもんだ、しかし分からんが茶碗に箸でメシを食うとる、それを文化という、メシを食う時に「ええと、箸で食うのだった」と分かったことを思い出さねばならんかったら、それは外人である、それではもう彼の身が何者なのかまるでわからん。
できるオンナだね | comments(0) |
誰だってハードトレーニングならできる
並み以上の悪をやり
分からない分割しないで
ソフトソフトの無為を積む
分別の別を弁えて軽し

人並み以上の善に執し
分かる納得理解する
ハードハードのトレーニング
分別の別を弁えず重し

喉元を緩め膨らまし遊べ

分割妙霊を失し、不別所有に執念す/不分妙霊に従し、別個敬天に喜悦す
誰だってハードトレーニングならできる/そうではない、そうはできないそれ
できるオンナだね | comments(0) |
思い出は爆発だ
「あのときはねえ」と、ゲラゲラ笑えるようでありたい。
「あのときはねえ」「最高でしたねえ」「サイテーでしたけど」「あーもう二度とやりたくない」「わはは」と笑えるようでありたい。
あるいは一生を通して、「あのときは本当にありがとうございました」と、いつ思い出しても永遠に頭が下がるようでありたい、また頭を下げられるようでありたい。
また、どこの誰だかは知らないが、いつか会ったときには「お前、あのときのアイツだろ?」と、ニカッと、永遠に知人にならない、永遠の旧友のようでありたい(ダセー話をして悪かったな!!)。

思い出は爆発だ/そうして思い出したとき、爆発的に何かがよみがえるということ、それならばその当時のときは、そこに何か確かなものがあったのだ。
僕はひどく強欲なのだと思うが、そうして「確かなものがある」ということを欲してやまないのだ、もう生涯で得るべき「確かなもの」の総量はとっくにオーバーフローしていると思うが、まだまだ、いけるだけいきたい、僕はひどく強欲なのだと思う。
僕は一時的にイイ気分になるのがニガテなのだ、それはなぜかというと、一時的にイイ気分になっている他人を見るのもニガテだからだ、それ以上の理由なんか持ちたくない。
八月ですねみなさん!! 僕はまたこの夏も改めて狂おうと思っております、まだまだ秋までは時間があらぁな、残暑見舞い申し上げます!!

時代はいい、お前が悪い。

どうよこの、真正面から正当性を否定していくスタイルは、このコピイは間違っているが、この間違ったコピイを履行していくことはとてつもなく正しい。
愛があり、夢があり、理知があり、かつまともでないことが重要だ、われわれはまともなことで笑うことはひとつもないし、理知がないことで笑うこともひとつもない。
恋女のマインドね | comments(0) |
ひとつのことに向けて走り抜けて
近、「精神」とか「霊」とかいう話をしてきたが、これはこれらの語を見ているだけだとアホみたいだ、いいかげんやめてえなと思う(思うのだがしょうがないのだ)。
僕は何もややこしい話をしたいのではなく、決定的な話をしたいのだ、正直べつに「霊」なんて話はしなくていい、僕はただ「情念」のやり方を否定したいだけだ。
そういえば、ちょうど先日、テレビ番組で超能力とか霊能力とかでの「リーディング」の特集をやっていたが、ああいうのはせいぜいシャレにしておいたほうがよいと思う、どう考えても心身にプラスにはたらくわけがない。
ああいう「リーディング」の能力は、僕にもあるし、その実績もこれまでに無数にあるが、そのたびに僕は言っているはずだ、「こんなもん何の役にも立たん」と/それより脳みそと胴体の基本性能アップ、クソ頭のいい脳の同時多層処理ができなきゃけっきょく何も解決はしない、僕はそんなことを主張しているのだ。

アホみたいな主張だが、改めて、何かひとつのことに向けて、走り抜けてみないかね、全身全霊で生きてみないかね、僕はそのことについてもう何年間もブーイングしている、「こんなことオレが言うべきことじゃねえ」と。
で、ひとつのことに向けて走り抜けるというとき、それが「情念」だとダメなのだ、硬直してノッペラボーになり、妙味なし、脳が同時多層処理の能力を獲得しない、それでけっきょく人間が進まん、だから今になって「情念」がどうこうという話をしている。
なぜこんなフツーの話をするだけで、四方八方から抵抗されるんだ……ただの愚痴として言わせてもらうが、こんなフツーの話がやたらに抵抗されるようになったのは、せいぜいここ五年ぐらいのことなのだ、わけがわからん、何か後頭部にブラックカートリッジでも差し込まれたのか?
同時多層処理だから、愛も含むし、悪も含む、友人も恋人も、学門も文化も芸術も、場所も街も天地自然も含むだろう、それらすべてを受け止めて「走り抜けよう」という話をしているだけなんだ、各人の事情の話をしているのじゃない、「走り抜けよう」という一般論について話しているんだ。

ノー・トラブルの中、七転八倒せよ。

僕の言っていることは、たぶん十年前から何一つ変わっていない、ノー・トラブルだ、それでいて若い人間は七転八倒しているのが自然だ、この場合の七転八倒というのは、七方向に転び八次元に倒れるということだ、それぐらい同時多層処理をこなすことにもがこうということ。
もう一度言うが、「情念」をリーディングしても意味なし、肉が衰えるだけだ、流血を啜ったって肉は恢復しない、もう一度ひとつのことに向けて全身全霊で生きてみないかね、僕の主張はこの先も変わらん。
恋女のマインドね | comments(0) |
まともな悪と善良な獣
代の世の中は、油断大敵という感じがする。
あまり詳しくは言えないが、「悪さ」を持たないと、まともに生きることは難しいのじゃないか、という気がする。
「悪さ」、つまり「まともな悪になったほうがマシじゃないか」ということなのだが、ここでまともな悪とは、悪行にも最低限の仁義があって、悪い人であっても愛する誰か・愛する何かを持っているということだ。
一方、善良な獣というのは、「善良さを守っているか」というルールで<<自他を監視している>>のだが、これは自分であれ他人であれ、善良さのルールからはみ出した者は許さないという物騒な考え方であって、しかもその実、愛している何か・誰かというものを持っていないのだ、これはひたすらおっかないと、僕などは感じるのだった。

まあ、人間が生きているのだから、完全に善良とはいかない、誰でも悪人の部分があらざるを得ないが、それでいて何かを愛しているかということと、悪人というのもどこか笑えるところに収まっていることが必要だ。
一方、善良な獣というのは、行くところまで行くという怖さを持っている、それについての対処法はもう、「おれは善人じゃないから知らん」と突っぱねるしかない。
最近は、不倫で揉め事になる芸能人が多いけれども、僕は不倫で揉めた芸能人の当人とは友人になりえても、それについて炎上攻撃をしている誰かとは友人になりえないだろう、なぜ友人になりえないかというと「おれは善人じゃないから」だ。
考えてみれば、善人と悪人の、どちらが「恐怖」なのかはわかったものではないし、善人と悪人とで、どちらの気が狂うのかも定かではない、現代の世の中は油断大敵で、その世の中から距離を取るとそれはすなわち「悪人」になる。

なんでもやって生きていこう、ただし笑えなくなるのはダメだ。

なんでもやって生きていこう、それより先のことは言えない、誰でも自分で考えるしかないことがある。
なんでもやって生きていこう、ただしどこかで愛をもって、走り続けることを忘れずに、なぜなら愛をもって走り続けることがけっきょく一番安全だからだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
「痛み」が人の肉を育てるものだったらどうしよう

代は「痛み」を否定し、「情念」を肯定している。
しかし、もし「痛み」が人の肉を育てるものだったらどうしよう。
教育ママは、公園のジャングルジムを「子供が落ちたら危ない」「ケガしたら誰が責任取るの」と心配するだろう、その心配する気持ちは誰も否定できない。
けれどもなお、「痛み」が人の肉を育てるものだったらどうしよう、母御さんが子供の身を案じてやまない、その「情念」はわかるのだ/現代は「痛み」を否定し、「情念」を肯定している、そのデメリットは未だ言及されていない。

熱血教師が生徒をビンタする、いわゆる体罰というやつ、これは絶対にやめたほうがいい、現代に合わない。
なぜなら、われわれはアントニオ猪木のようにビンタはできないからだ、熱血教師はきっと「情念」で子供にビンタしてしまうだろう、するとその情念が子供の肉に染みてしまう、これは傷つき遺恨になる。
われわれが忌む「暴力」の本質は、痛みやダメージそのものにあるのではなく、相手を打とうという猛烈な「情念」にある/われわれは転んでヒザを擦りむいたというときに「こころが傷ついた」とは言わない、けれども誰かに情念でヒザを蹴飛ばされたら「こころが傷つく」。
走って転んでヒザをすりむいたり、木登りから落ちてどこかを打撲したり、そのときには強い「痛み」があるが、その痛みに「情念」は伴っていない/アントニオ猪木のビンタも「情念」ではない、あれは「闘魂」だが、われわれはそんな情念抜きに闘魂のみを発揮できるほど人間が洗練されていない、プロレスラーなんか痛みに育てられた人間の代表じゃないか。

片頭痛がなかったら、僕は成長できなかった。

最近はほとんどなくなったのだけれど、数年前までは持病が典型的な片頭痛だった、今は特効薬があるから医者に行こうね、しかし長年の片頭痛がなければ僕は今のところまで成長できていなかった、きっと「痛み」には未だわれわれの知らない秘密がある。
かといって、リストカットするようなことはダメだ、リストカットには「情念」が伴う、また品質の低い格闘技で殴られるのもダメだろう、「情念」抜きで痛みの中に立てる機会はそんなに多くないのだった、だいいち痛みって基本的にはイヤだからな(血の痛みはダメだ、血の痛みにはだいたい情念が伴う)。

視点変えてこ | comments(0) |
僕のことは守ってもらうしかない(厚かましい)

近、自分がものすごいレベルのアホなのだということがわかってきた。
わかってきたというか、いよいよ、不可逆的に認めざるをえなくなってきたというか……
僕はどうやら、いわゆる「大事なこと」のことごとくを、本当に「分かっていない」ようなのだ、自分で認めるのもヘンな話だが。
油断すると、すぐ「分かっていない」ところに吸い込まれていってしまう、僕は文化とか芸術とか学門とか、そういったものの「大事なこと」がよく分からなくなり、吸い込まれていってしまう、僕は吸い込まれていって「この世界に寝そべっていれば十分」というところに行ってしまう、油断するとすぐにそうなる。

だから究極、なんというか、かばってもらうというか、守ってもらうしかない、正直なところを言えば本当はそうだ。
いろいろ書き話したりはしているが、究極のところ、僕があなたに何かを「教える」ということは本質的に不可能だ、なにしろ僕は本当に「分かっていない」側なのだから/それに比べればあなたが僕に「教える」ということは実になめらかに成り立つ。
分かっていない、分かっていないのだ……この数年間は、無理して分かっているふうにしてきたが、そのときの僕は正直半分がたは僕じゃない、何か僕ではないナゾのおじさんがそこにいるようにしか思えない。
何か、わずかでもむつかしい話になると、正直「よく分からん」のだ、僕はどうやってこの世界にひび割れを認知してよいのかわからん、僕は人が何かを「やっている」という、その「やっている」ということがよく分からんので、これはもう守ってもらうしかないのだ、非常にあつかましいが本当のところはそうだ。

なぜ分かりやすくせねばならないのかが分からん。

分かりやすくするなら、分かるモードに切り替えればそうなるのは知っているが、それで分かるようになったとして、「分かるようになる」のが目的だったとは到底思えないのだが……僕はけっきょく、僕を守ってくれる人としか付き合えん、ひどく厚かましいのはわかるが、これはもうどうしようもないのだ。
「分かる」モードになったとたん、僕は「なんのこっちゃ」となる、たとえば秋口にお茶を飲むのが「分かった」として、そのとたん僕は何もかもが「なんのこっちゃ」にしか感じられなくなる/「分かる」って「失くす」と同義じゃない? 僕はいつもおびやかされて困っている。

恋女のマインドね | comments(0) |
反復すると強化される
節、夏と梅雨寒が入れ替わっているな……
「反復すると強化される」という当たり前の話。
反復によってえられるのは強化であって上達じゃない。
ゴルフのへたくそなおじさんが、ゴルフスウィングを反復したら、「ヘタクソが強化される」だけだ、見たことあるでしょう、反復というのはそういうものだ。

上達の道は、むしろ反復の逆だ、そりゃそうで、昨日と同じことをしていたら、今日も昨日と同じレベルに決まっているのだ、それでは元のレベルでカッチリ固定が強化されるだけにしかならない。
上達の道というのは違う/「反復」というのは「同じことをして、毎回同じ結果を得る」ということ、「上達」というのは「同じことをしつこくやって、毎回違うレベルの結果を得る」ということだ。
こう考えればわかりやすい、たとえば毎日、自宅の庭に穴を掘るとする、初日は1mまで掘り、翌日は2mまで掘り……とやっていけば、十年後には「お前どこまで掘ってるねん!?」というえげつない深さに到達するだろう、それが「掘り進める」ということ。
こうして毎日「穴を掘り進める」としたら、毎日「掘る」という作業は同じだ、けれども毎日、昨日とは違うところまで到達している、同じ深さの日は一日もない/この形で「同じことをしつこくやる」なら上達は起こっていく、ここをたがえると「継続は力なり」は大ウソになる。

反復は努力ではなく逃避だ。

自分を進ませるということ、上達していくということは、それなりにしんどいのだ、何しろ今日も新しいところまでいかないといけない/それがしんどいので、人は逃げたがる、かといって逃げるのも癪なので、反復して努力しているフリで今日をごまかす。
よって、上達に必要なのは努力家の精神ではなく、開拓者の精神だと言える、習い事が好きな人は開拓者の精神がないので、あまり物事の上達に向かない/「開拓」はリアルにしんどい、そのかわりリアルに面白くもある。
視点変えてこ | comments(0) |
「何もしちゃダメなんだよ」

「情念主義」と「霊験主義」というアホな二派分類を採用するとすればだ。
それらは、かたや「肉に情念を染ませる主義」と、かたや「肉に光たる霊が宿る主義」だと説明される/肉に情念が染みたら、そのぶん霊が宿る余地は肉から失われていく。
ここにおいて、たとえば密室のトレーニングマシンに人間を乗っけて走らせ、「必ず成功する! 必ず成功する!」という情念を、エモーショナルな音楽と共に繰り返し染み込ませることは、実に危険だ、その人間の肉は情念が染みて真っ黒になっていってしまう。
基本的に、「トレーニング」の発想と「修行」の発想は真逆だ、「トレーニング」は肉に情念を染ませて強化すること、「修行」は肉から情念を抜いて霊を宿らせることだ/アホみたいだが実際「ジム」と「道場」は別の場所なのだからしょうがない、BGMの流れている道場なんてあるかよ。

「何もしちゃダメなんだよ」と僕は言った。
「何かを『する』、何かを『やる』となったらね、それはもうそれ自体が情念だ、情念でトレーニングすると必ず肉に情念が染み込んでしまう」
「だから何もしてはいけない、唄って踊って剣を振る、しかし『何もしてない』という、この『何もしてない』ということが大事だ、肉に何も染ませないこと、そうでないと肉に宿るべき本来のものが宿らない」
「お相撲さんの身体は福々しいだろ? プロレスラーの身体は華やかじゃないか。それは彼らが、格闘者でありながら『肉を守らない』からなんだ、相撲やプロレスに『防御』はないだろ、彼らは肉を『守らないことで鍛えた』、だから肉に霊が宿るんだ」

「情念の酒樽」と「霊験の酒樽」、あなたはどちらの樽から酒を飲むか。

そんな、得体のしれない「情念」なんてものを、グビグビ飲みたいかね……? 体中「情念」まみれになるが、決まってオバケというのは「うらめしや〜」という情念から出現するものだぞ。
茅ヶ崎の霊が肉声に宿った桑田佳祐と、密室で「絶対! 絶対!」とボイストレーニングした誰かとでは、必ず得られる声が異なってくる/誰も自分が情念主義だなんて自覚しているものではないが、「情念主義」というのは確実にあるのだ、それはみんな大好きな方法なのだが、あまりオススメの方法ではないのだった。

正しく見ないとな | comments(0) |
φῶς
白い説を聞かせてもらった、「わたしはこれまで、黒い玉の重さを数えていたの。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつと。そしてそれを『存在』だと思っていたわ」。
「だけどあなたは、空っぽのビーカーを見て、とてもうれしそうにしているの。わたしには、そのビーカーは空っぽにしか見えないのだけれど、あなたには、そこに光が乱反射しているのが見えるみたいなのね」
「たとえばmol(モル)という単位が、数えきれないアボガドロ数を含んでいるように、あなたの見ている乱反射は、とても細かく複雑に構造化されて、キラキラらしいの。あなたはそのキラキラ光を感じ取って、それを『存在』だと捉えているのね」
「わたしには、その乱反射が見えないの、だからわたしは黒い玉の『重さ』を数えていた、あなたは乱反射する『光』の量を見ていたのね、そもそも測定していたものが違うんだわ、でもわたしにも、そのときのあなたがとてもうれしそうということだけはわかるのよ」

存在は「光」なのか「重さ」なのか? 物理的に、光子は重さを持たないから、いっそ「光の反対は重さ」と言っても差し支えない/人の「存在」は光なのか重さなのか。
まあいいや、とりあえず「肉染み」つまり「情念が肉に染みる」という考え方はわかりやすい、「絶対に出世する」も「絶対に許さない」も情念だ、情念は肉に染みて「にくしみ」となる、情念の染みた肉は「重さ」を生じるだろう直観的に。
人間が情念を持つのはおかしなことではないが、それが「肉に染みる」のはどうか……イマイチの気がする、肉には光たる霊が宿ってほしいと思うので/これらは「情念主義」と「霊験主義」の二つに大別できそうだ。
僕は海を見たとき、山を見たとき、湧き水を飲んだとき、街のネオンライトを駆け抜けたとき、そこに「情念」を探すというのがよく分からんのだ/たとえば「女の情念が女の肉に染みている」というのがヘヴィなのはわかるが、それをして女の「存在」をよく証しているとは僕には感じられない。

面倒くさがりの極北が、ついに重さ自体を否定申し上げる。

たとえば僕が、「あの女を絶対オトす」「あいつだけは絶対に許さない」と、情念を肉に染ませたとして、そのとき僕は存在感ズッシリ、それが僕の「イグジスタンス」なのか? とてもじゃないが僕はそんなしんどい競争にはキャッチアップできない、海辺のネオンライトを見たらすべてをスコーンと忘れてしまう。
だって、光っているんだもんね、何かが/「そもそも測定していたものが違うんだわ、でもわたしにも、そのときのあなたがとてもうれしそうということだけはわかるのよ」
視点変えてこ | comments(0) |
肉を洒脱する

かしら言葉を当てはめておかないと、掴んでいられないので、さしあたり「洒脱(しゃだつ)」するという/「洒」とは洗い流すという意味だ、「洒脱」は本来は形容動詞。
「にくしみ(肉染み)」派と「にくぬき」派があって、要するに染み抜きをしないといけない、つまり肉を洒脱する、情念の染み入った肉なんてイヤだろ、そんな身動きもとれない肉体。
肉を洒脱しないと、中に霊が入らない、霊が入らないなら祭りにもならないし、精神も実現されない、何よりそんな肉にはあまり触れたくならないし、肉声も聞きたいものになってくれない。
肉を洒脱する/まあそんなことしても何にもならないとは思うが(えっ)、少なくともビョーキにはならないで済むだろうし、何より本当のことへの手がかりが得られる可能性もゼロではないので、肉を洒脱するのはまっとうな発想だと思えるのだった。

どうだろうね、たとえばジューダスプリーストの「ヘリオン」でも聴きながら、戦闘機が低空飛行しているところを見たりすれば、肉が洒脱されてこないか、まあ洒脱されてこないのかもしれない。
肉を洒脱するのはエネルギーだね、それにしても、どうして多くの人がそうも「我」が好きなのか、僕には根本的にわからない、ヘリオンと戦闘機がブッ飛んでいるところに「我」なんて関係あるか?
まあそれは、ヘリオンの霊と戦闘機の霊が肉に入るから、「我」なんてものが消し飛ぶわけだが、肉に情念が染みていたら、肉にはもう何も入らないのだろう、なんとかしてそのイタチゴッコの中で、肉が洒脱されることを祈るしかない。
すべての悩み事には意味が無い、時計には「時間がわかるよ」という機能しかないように、悩みには「悩むよ」という機能しかない、悩み事からヘリオンや戦闘機の低空飛行は生まれてこない。

「にくしみ」派は、「にくしみ」に行き着く(当たり前)。

すべての心理学は無駄であり、すべての自己啓発は無駄だ、肉染みに別色の肉染みを足してもなあ、肉が黒くなっていくばかりじゃないか。
芥川龍之介は、知能は高くてもその肉は真っ黒だっただろう(なぜこんなカンタンなことに気づかんかね)、神殿の中ではみんなお肉が透き通って白光だが、あなたは「肉」というとその真っ黒なのが「肉」だと思い込んでやしないかね。

正しく見ないとな | comments(0) |
Living under blue sky, Living after midnight

春は甘い匂いがする、季節の風には空の果実の匂いがする。
思えばあれは神殿だった、僕は神殿の中に住んでいた。
すさまじいエネルギーの中にあった、なあ聞けよ、何一つあなたの納得するところじゃない。
あなたはまったく別のものに納得している、そのずっと先に本当の神殿があったのに、そのずっと手前で。

僕は音楽を愛してなどいなかった、僕はただ神殿が好きだった。
すべての講堂は神殿であり、すべての街は神殿だった、ネオンライトが焚かれ生贄の麗女と酒が飲み下されるのも/神殿の中でのことだった。
どうして手前で納得する……といっても、僕にもよくわからないのだった、僕は何かを信じようとはしなかった、ただ神殿はすでに過去ほどに出現していた(過去ほど否定のしようがないものがあるか?)。
パワーじゃなくてエネルギーだが、エネルギーとして納得されているものは、それじゃない、僕には想像力さえ要らない、すべての事実さえあればよかった、神殿が最大の事実だったのだから。

神殿は陽気だ、ただしあなたの納得する陽気ではなく。

古いアメリカ映画でもごらんよ、神殿の陽気がフィルムに写りまくっているだろ、ああでも……「陽気」を別のことにして納得するのだった、これはもう困ったことだな。
僕はずっと神殿に生きたままなのか、これは話が噛み合わないわけだ、あの「陽気」を知る人こそパーティ来てね(誘いかけになっていないけど)。

正しく見ないとな | comments(0) |
「肉そのものが速い」
果的にいうと、肉から情念を抜くと(にくぬき派)、肉は「ごっつ速くなる」のだ、極めると何かもうテレポートしているみたいに動くようになる(フィクションの早さ、つまり挙動の機序から違う)。
きっとこの現象自体を、にくしみ派(肉染み派)の人はまったくご存じないのじゃないか、「自分が生きるということは肉に情念を染ませることだ」と、頭から信じ切っているのかもしれない。
にくしみ派の人は、たとえばジェームスブラウンがえけづないシャウトボイスを発揮したとき、それだって「強い情念」から発生しているものだと思ってしまう、何しろそれしか原理を知らないから。
しかしお察しのとおり、肉に情念が染みた人間などいくらでもいて、にくしみを極大にした人があんなシャウトを発揮できるかというと、できないものだ/これはどちらの派閥が偉いというわけでもないが、そもそもにくぬき派の存在がまったく知られていないところに問題があると思う。

「肉そのものが速い」ということが、まったく見えていないのかもしれない。
僕などからすると、立川志の輔や桑田佳祐、黒田鉄山やバーンスタイン、ジェームスブラウンやスキャットマンクロザースも、第一に「速いな!」と見えるのだ、肉の速さが抜群に見える、おそらくこの目利きがにくしみ派の人には皆無なのじゃないか(→黒田鉄山の速さは目を疑うほどだ)。
「脱力、脱力」と、それっぽいことはよく言われるけれども、それは「脱力したいという情念が肉に染みる」だけであって、本当の脱力に向かうことにはならない、しかしおそらく多くの人が、そうして「自分が頑張るということは、より強い情念を肉に染ませることだ」という取り組みを実際にしているのじゃないか。
僕は「営為の三相」として学門・文化・芸術を推奨する立場を採っているが、この営為の三相だって「そういう情念を肉に染ませる」ということを勧めているのじゃない、その逆だ、肉そのものが速くなるまでそれをやろうという話をしているのだ。

情念は加速する、霊はテレポートする。

デタラメな言い方だけど、まあかまわないだろう、情念はメラメラッと加速炎上するものだが、霊はパッと移り結果的に到達してしまう、それに肉がくっついてくるものだから、肉そのものが「速い!」となる。
情念は「重い」のが定番で、一方「霊」なんてものには重さがあったら不自然だ/現在の宇宙で質量を持たないのは光子と重力子だが、ヒッグス粒子が発見されればそうした理論が証明されていきうるように、いつかの未来には情念と霊の重さの違いも証明されるのかもしれない。
できるオンナだね | comments(0) |
【霊?】至急、大訂正【肉?】

日、「肉に霊が蓄積的に宿る」という話をした。
これは、別に間違っていないのだが、誤解を生みそうなので訂正することにした(しかも訂正案のほうがスッキリしていてわかりやすい)。
人間には、二つの派閥がある、つまり「にくしみ」派と「にくぬき」派だ。
「にくしみ(肉染み)」派は、「肉に情念を染ませてがんばる」という発想をする、「にくぬき(肉抜き)」派は、「肉から情念を抜いて肉に霊を宿らせる」という発想をする。

洋服についた染み(シミ)を抜く、「染み抜き」というのがあるだろう、あれと同じだ。
洋服に染みがつくのは一回で簡単だが、染み抜きをするのは何回もしつこく叩かねばならない、繰り返しの時間が掛かる/人間の肉も同じ性質で出来ている。
肉に情念を染ませる、という方法は、インスタントで簡単、即効性のものだ、けれどもそれによって肉は根本的に動かなくなる、肉は情念によってメラメラと炎上するが、それによって動けるようにはならない、だから情念の肉は動くのに「力」が必要になる。
一方、肉から情念の染みを抜いて、霊が宿るというのは都合のよい話に聞こえる、が、これだって「精神」を得ていないと霊は宿ってくれない、「精力」で生きている人が「脱力」をすると自分の真ん中がボカーンと抜けるということにしかならない、だからそんなに都合のいい話でもない。

前向きな情念も、後ろ向きな情念も、それは肉に染みる「にくしみ」だ。

「にくしみ(肉染み)」というのは、何も憎悪だけに限定されないのである、これがミソだ、前向きな情念だって肉に染みついて取れなくなる、肉染みが起こると肉は動かなくなり、学門・文化・芸術といった「営為」が霊的に得られなくなる。
あなたはあなたの肉を、インクで叩くか、洗剤で叩くか、そう考えるとシンプルな話/おそらく「肉染み」派の人は、タトゥーを入れたい願望があると思う、それが「肉に情念を染ませる」派だ。

正しく見ないとな | comments(0) |
四周年!

あ、後でまた告知を出すけどね。
今月もパーティやりますよ、8/19(土)19時、原宿でよろしく。→参加エントリはこちらから
なんと今回で、四周年なのだ、四年前の八月から始まったんだな、今回で第71回となるはずだが、まあしつこく続いている。
四周年ということで、節目なので、また新しい人がわさわさ来てくれたらいいなと思っております、どうぞよろしく(なんか久しぶりだなこういうノリは)。

毎月×四年間もやっていると、いいかげん「やっている」という意識はなくなる、まるで誰も誕生日は辞めようがないように、毎月の第三土曜にはこれがあるのが当たり前になっている。
この四年間で、いろいろあったのだ……と言おうと思ったが、あまり覚えていないな、まあ今回はみんなから思い出話でも引っ張り出してみるか、どうせ重要なのは過去ではなくて未来なのだし。
僕は経験的に、あるいは直感的にか、自分の生きている時間に「何をしていたかわからない時間」があるのはマズいと思っている、それはたぶんどんなに若くてもすでに認知症の始まりなのだ。
僕のやっていることは、引き続きわけがわからないが、僕はこのわけのわからないことを「確かに」やっている、この四年間、僕と同じことをしていたという人はこの地球に存在しないだろう、あまり自慢になるようなことでもないが。

またこの先の四年間に。

だいたい人は、中学・高校の各三年間をはっきりさせており、その後の大学四年間をはっきりさせているのだが、そのあとにつづく四年間がはっきりしないものになる、はっきりしないまま三十歳が見えてくる/すると焦って人生を考え始めるのだが、それはすでに見失ったから考えているのであり、状況に間に合っていない。
月に一回のQuali's Partyというのは、割といいシステムだと思うのだが、どうだろうね、よくよく考えればすごく不思議な集まりになってしまったが、今回はそんなことを再確認するというヒマなことでもしてみようかと思っている(ただし泥酔して忘れる可能性大)。

バカをやろうかあ | comments(0) |
永遠のライブ

年前もこんなことをしていた、何かを書いていた。
そのさらに十年前も、何か似たようなことをしていたし、そのさらに十年前も……「書く」ということにこだわらず、僕はずっと夜の中をうろうろしている。
もし前世があったとしたら、きっと同じことをしていただろうし、来世があったとしても、ずっと同じことをしているだろう。
どう考えたって永遠に同じひとつのことをしている、それがたかだか西暦何年とかいうことで変化はしない。

つまり、僕は初めから何一つしないので、何かをやめるということもありえないのだ、われながらひどい面倒くさがりで呆れる。
話が噛み合わないことが多くあるのはそのせいだ、僕は「何をしますか」と訊かれていつも「何のことだろう?」と混乱している、「何をしたらいいでしょう」って、僕にはそもそも何かを「する」ということがわからない。
僕はまるで、墓標みたいな人間だな、でもそれは死んでいるということじゃない、存在しているということは、わざわざ生きないということだ。
すべてのものを、永遠にもっていく、永遠にもっていくのだから、何が重要で何が大事かなど、価値観の話は永遠のあとで決めればいいのじゃないか、永遠のあとなんて永遠にこないだろうけど。

永遠のライブ、「生きる」ってそれじゃないの。

八千八百万のサウンドが、四億ヘクタールのキャニオンに響くんじゃないの、谷間に十七色の虹風が吹いて、夕焼けが四〇〇日間続く、そんなのはもういくらでも見てきたよ。
東京って無限に土地があるんだぜ、だから街が終わらない、永遠なんて言うとバカにされそうだけれど、でも永遠でない恋人を検索しているのもいいかげん言い訳が立たんと思うぜ。

恋女のマインドね | comments(0) |
グレートハッピー、「結果」は過去に生じるもの
は、なんというか、自由でなくてはならないね。
自己表現なんてしなくていいが、自己存在はしていないといけない。
言っておくが、あなたの自己存在は、この宇宙より大事なものだ。
今日もどこかで、うつくしい女が、花火を見上げて酔っ払っているのだ。

過去とは何か、現在とは何か。
たった今、結論が出た、それは僕の大切なところに金色の尺玉が届いたから。
われわれの、肉のうちに、霊が蓄積していく、そのことを「現在」という。
われわれは、いかなる記憶を掘り起こしてみたところで、過去の肉を生きることはできない、生きるってことは現在の肉に霊が蓄積していくことなのだから。

よって、現在に疑問はない。

疑問あるいは疑いは必ず過去より生じている。
現在には肉と霊だけがあり、「結果」は未来ではなく過去に生じるのだ、おおなんというグレートハッピー、この話はまたいずれ。
正しく見ないとな | comments(0) |
創作力
日は一日で二万字ばかりの章を書き上げたのだが、今になって読み返して、この部分は全部ボツにする、まあだいたい文章を書こうとする変人はこういうことばかりをしているものだ、人は二万字を書くことはできても二万字を「書き直す」ということがなかなかできない(そりゃもちろんおれだってイヤだ)。
こうしてそれなりの量の書き直しをすると、そのたびに教訓を見つけようとするが、教訓なんてものは存在しないに決まっている、いつだってそのとき限りに偶然・マグレで・うまくいくしかないのだ。
ありとあらゆる方法論は何の役にも立たず、足をひっぱるばっかりで、その中でも最も役に立たないのは「ダメもと」の精神だ、だいたいそういう、追い詰められた人が納得しやすいロジックというのは、追い詰められた人専用の香料がまぶされているものである。
じゃあどうやって取り組むかということになるのだが、それは「力ずくで取り組んだらいいだろゴルァ」なのであって、ここにきて急にデタラメになるが、けっきょく勝負なのである、勝負に勝ち方など存在しないのだった……

文章を書くとき、いつも「どうやって書いたらええねん」という不能感、および「なんか、もう前もってわかる、何かムリ」という消沈がある。
もちろん、くっだらない文学風味の何かを書くことはできるのだ、それは99%文学の文章に見えるだろう、けれども僕は自分でそれを詠んだとき、「うわ、要らねえ」と感じる、だからその「書ける能力」は何の役にも立たないのだ。
仮に、うまくいく場合にパターンがあるとすると、それは書き出しの時点から「うわなんだこりゃ」「こんなん成立せえへんやろ」という、むしろ「間違ってるだろ」という半笑いの感覚があるということになる、何かがまともに創られるときはたいていそうだ。
つまり、僕は間違わねばならず、間違っているものをどこか天のカミサマがしゃしゃり出て、勝手に別構造化してくれなくてはならないのだ、そういえばこれまでのすべてにおいて、書こうと狙っていたものがそのまま文面になったことはないな、だからもう誰が書いているのやら意味がわからん。

「創作力」ほどの完全なゴミはない。

まあどうせ、僕は何も悪くないので、他の誰かが悪いことにしておこう、非情な話、文章を書くときだけは誰ひとり友人なんてチャラいものがあってはならない、創作のときにあってはならないものは愛と友情と真実だ、除菌もできるジョイで顔を洗って出直せ。
もし僕に「センス」なんてものがあったら、僕は早いうちに自殺してカタコンベ行きだっただろう、まあなんと言えばいいのか、僕は一般に大切と思われているもののほとんどが苦手である、僕に唯一の自慢の能力があるとしたら、それは僕が躊躇なく無能になれることだ、有能などということは苦手だ。
恋女のマインドね | comments(0) |
大きな愛、そのサイズ差

と恋の違いは何? という、よく知られた問いかけがあるが、これはもともとが間違っていて、愛はそもそも恋と比較考究されるたぐいの事象ではない。
人間にとって、「愛」という事象は、「光」という事象と対のパートナーだ、人は光に引かれ、同時に愛に押し出されもして、進んでゆく、というだけだ。
だからよく知られているように、人間にとってのカミサマは二種に描かれている、ひとつには威光を示す「父」として描かれるカミサマで、もうひとつには慈愛を示す「母」として描かれるカミサマだ。
人間は、愛されなければ踏み出せないし、光がなければ踏み出す理由がない、光がなければ愛されたってしょうがないし、愛されなければ光に向かえるわけもないのだった。

自然愛好家は世の中に多いだろうが、その逆、「天地自然がわたしを愛してくれている」と捉える人は少ない。
加山雄三が唄う「海、その愛」というのがあるが、これは「海よ、おれの海よ/大きな、その愛よ」と唄っている、こうして「わたしが海を愛している」ではなく「海が(わたしを)愛してくれている」と捉える詩文は現代には見当たらない発想だ。
だいたい、家にカルト宗教の勧誘がきた場合など、困るのは勧誘者がいかにも「わたしは誰にも愛されていません」という気配を明らかにしてくるからだ、愛されていないなら泣くべきだが、宗教勧誘者はなぜか強引に笑顔で迫ろうとする(ムリかあるだろそれは)。
この、一般化して「何にも愛されていない者が、何かへの愛をしきりに言う」という悪いパターンが、あまりにもわれわれの世に多すぎる/僕は大きな海が加山雄三を愛したということにムリがあるとは思わない、小さなわれわれが光に踏み出すには、大きな愛に愛されることがそりゃあどうしても必要だ。

愛されていることを見落としている。

いやもちろん、「わたしは天地自然に愛されているの」と言い出すと、それは単なるヤベー奴だが、何しろサイズが違うのだ、僕は加山雄三の歌が正しいと思う、何しろ海と僕とではサイズが違いすぎる、こんなサイズ差に対抗できるやつが人間にいるのだろうか。
もし山が単なる土塁にすぎず、海が単なる食塩水にすぎないのだったら、愛されようがないから、われわれは光に向かって進めないだろう、けれどもそれらを土塁とか食塩水とか呼ぶことこそ、逆にムリがあると僕などは思うのだった。

視点変えてこ | comments(0) |
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