☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作ワークショップ 7/25更新
「ちゃんとできるよーになりましょーよー教室」
【第九回】7月29日(金)19時〜@世田谷公園噴水付近 参加費無料

【第十回】7月30日(土)19時〜@世田谷公園噴水付近 参加費無料
(服装は自由です、仕事上がりも可。ただなるべく平たい靴でどうぞ)
(雨天時は基本的に延期です)

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酒Quali's Party
「ちゃんとするのやめましょーよー集会」
【第59回】8月20日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

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どうしてこうなった……まあいいや。
「ちゃんとする」と「ちゃんとできる」はまったくの別物だ。
ちゃんとできていれば、ちゃんとする必要はない。

(だからおれはちゃんとしないのだと強弁)

みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

(ワークショップの各カリキュラムは以下続きをご参照ください)

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そのほか | comments(0) |
心理的な負担と体験量増大の法則2
「胴体がまとまって動く(向き合う)ほど、得られる体験量が増大する」という、単純な法則があるのだが、このことには重大な続きがある。
それは、まあ当たり前ではあるが、「胴体がまとまって動く(向き合う)ほど、与える体験量も増大する」ということだ。
これによって、同じ事柄を説明するのに、AさんとBさんでは大違い、ということが出てくる。
胴体のまとまったAさんの説明は、聞いていてよくわかる(体験的に知識が得られる)のだが、胴体がバラバラのBさんの説明は、聞いていてさっぱりわからない(体験的に知識が得られない)となるのだ。

「右を向け」と言われたら、ふつう「顔だけ」で右を向いてしまう。
それと同じで、たとえば「○○交差点を右に曲がって……」と説明するとき、「顔だけ」で説明してしまう人があるのだ。
「顔だけ」というのは感覚的なもので、実際にやってみせないとわかりにくいが、とにかく胴体の感覚がつながっていないので、聞いている側は知識がまったく体験的に得られてこない。
「顔だけ」で説明しているBさんも、伝わっていないことが漠然とわかるので、次第に腕を振り回して説明を誇張し始める、すると乱暴な(暴力的な)感触がつきまとい始め、Bさんの話はますます聞いていられない不快さのものになっていってしまう。

現代人は、本当に、「何を言っているのかわからない」という状態にある。

たとえばまもなく都知事選の投票日だが、ほとんどの場合、立候補者の演説を聞いていても、本質的に「何を言っているのかわからない」はずだ、内容はすり抜けてただがなり立てているようにしか聞こえない。
胴体がバラバラなので、与える体験量が極小化しており、そのぶん当人は心理的負担を免れるが、聞いている側は本当にわけがわからないのだ、そしてただキツい「顔」の印象だけが残ってしまう。
正しく見ないとな | comments(0) |
心理的な負担と体験量増大の法則
とえば「右を向け」と言われたら、ほとんどの人は顔だけを右に向けるだろう(やってみてね)。
次に、「右を向く」と言われたときに、"胸ごと"右を向くようにしてみる、するとどうなる?
続いて、次は腰ごと、さらには膝から上を丸ごと、さらにはつま先から頭のてっぺんまで丸ごと、全身で「右を向く」というふうにしてみる。
そうしてやってみると、不思議なことに、全身を大きく向けるほどに、なぜか"心理的な負担"が発生するはずだ、これが人間の「こころ」の性質なのであった(やってみれば自室で一人でも確認できます)。

ほとんどの人は、相当な訓練をしていない限り、全身を前後左右、上下、大小、とただ「丸ごと動かす」というだけで、その心理的な負担に耐えられないものだ。
これは単純に言って、「胴体がまとまって動く(向き合う)ほど、体験量が増大する」からだと言ってよい(そりゃ「体」「験」なのだから当たり前ではある)。
体験量が増大するので、心理的な負担は大きくなるのだが、当然そのぶん、発揮される力も増え、また学習する量、感じ取る量、親しみ関わる量も増える。
簡単に言うと、「何かよくわからないが現実的にスゲー優秀だよな」と感じられる人は、ただこの体験量増大の法則を使っているだけなのだ、当人がその心理的負担を受け止めきれているというだけのことで、性格や才能がどうこうという話ではない。

現代人は、前後左右、上下、大小に、胴体を動かすのがものすごく遅い。

それによって、能力がガタ落ちになっているのだ、そのぶん確かに心理的な負担は極小化してごまかせるのかもしれないが、そこをごまかしてもやがて本人が疲れ果てるだけでしかない。
右向いて、左向いて、下向いて、上向いて……と、それだけの挙動でさえ、胴体が耐えきれずぐにゃぐにゃのバラバラになってしまう、「こころ」が体験を得ることに異様に虚弱化しているのだ、このことはもう破局レベル寸前に来ているのでそうはっきりと申し上げるしかない。
正しく見ないとな | comments(0) |
恋人は社会人2
んとなく、僕自身のことも考えるが、むろん僕自身のやることは、これまでもこれからも変更はない。
ただあくまで整理をしておきたかった、現代において重要なのは社会性とその肯定であって、インスピレーションとその肯定などではない。
現代において、芸術やインスピレーションは何ら重要でないという見方に、僕も大いに与するが、もともと僕は「重要でないことを好き勝手にする」という立場なのだから、僕自身に変更はない。
ただ僕から人へ話すことや、伝えようとすることは変更される、重要でないことをもはや話し伝えるわけにはいかない。

たとえば「ジャニーズの○○君が好き!」という場合、よく見ると「ジャニーズ」は事務所名だ、アイドルに恋慕するのに事務所名(もしくは所属団体名)が付き添うのは現代における「社会性」の重要さを示していると思う。
たとえばお笑い芸人なら、「吉本興業、若手のホープ!」というような言い方が為される、こうして現代の賞賛にはその社会性の定義が華として添えられていることが多い。
また「ポケモンGo」の大ブームにも見られるとおり、今はヴィデオゲームも個人的にするものではなく、一種の社会性の中で遊ばれるものになった。
僕はそういった、ソーシャル・プレイの万事に感覚が鈍い者なので、それについて何も言うことはできないが、ただ僕が言えるのは僕自身のやりようは変わらないということおよび、今最重要なのは「社会性」ですということだけだ。

個人的な話をしない。

思いがけないことだが、これが今こそ決定的な突破口になると思う、「個人的な話を決してしない」、それによってこそ社会的なアカウントが説得力をもって形成されていく。
もちろん僕自身は、今さら変えようがない、インスピレーションと接続していくのみだが、それによって僕は"最も重要でない者"の地位に帰ろうと思う、もともとそこが僕の居場所だったから。
恋女のマインドね | comments(0) |
恋人は社会人

ろいろやりすぎで夏風邪をひいてしまった。
今現代の若い女性にとって本当に必要なものはなんだろう、と考えている。
現代の若い女性に必要なもの、それは経験上、1.自身の誇れる仕事 2.社会人として剛健な夫、この二つに限られると思う。
リアルに冷静に考えていくと、今芸術やインスピレーションを必要としている女性なんて、ほぼゼロだろう、今必要なもののテーマは「社会性」もしくは「社会人性」だ、これさえ獲得されればほぼすべての女性は外を出歩く必要がなくなる。

今、「社会」「日本社会」というと、それだけで大変な胡乱さを伺わせる予感に満ちている。
だから人々が、「社会」に見切りをつけるかというと……逆だ、今こそ人々が完全に肯定し、関わりたがっているものは他ならぬ「社会」だと言っていい。
今女性にとってのスターは、「社会」を肯定する方法および、その肯定を体現している人だ、その体現者の奥方に迎え入れられるのが今女性にとって最大(級)の栄誉ということになる。
なぜそうなったのかの議論はもとより、とにかくそれが栄誉であると感じられるなら、そのことに愧じず真っ直ぐ向かえばいい、つまり「わたしのダーリンは超社会的なの」というノロケ話に向かっていく、それだけでいい。

現代は、社会人がアーティスト。

つまり、「これがおれの仕事だから」という泰然さに、人は今「芸術的だ」「励まされる」と感じるようになっている、それはまさにアーティストの役割だと言える。
というわけで、僕などの自前のワークショップでも、芸術やインスピレーションにつながるものを教えるのはやめにした、今は何もかも「社会性にどう還元されるか」が第一の要点だと考えている、そうでしか健全であれない。

恋女のマインドね | comments(0) |
大事なのは他人の話を聞かないこと
いかげん、僕もいい大人なので、いろんな技術や方法を持っている。
持っている、が、僕は僕なので、持っているそれを使わない、持っているからといって使ってやる義理はない。
技術および方法の中で、最も貧しく陳腐なのは、「世界観を持つこと」だと思う。
人は、世界観を持つことで、ただちに自殺したくなり、すべてのことに興醒めする、そして猛烈に運気を下げて、救いようのないストーリーに巻き込まれていってしまう(というのは言い過ぎかなあ)。

大事なのは他人の話を聞かないことだ。
および、他人の知恵や技術を盗まないことだ。
そして世の中のうつくしい人や物や事柄に向けて、「大切」というキモチワルイ捉え方を勝手に向けないことだ。
必要なことは、自分にとっての他人を、最小限にまで削減することだ、自分が自分として生きるということは、なるべく他人の少ない中を生きていくということなのだから、よりによってSNSなんかで他人の侵攻を呼び込むべきではない。

他人が見た流れ星には唾を吐け。

ところで僕は女の子が大好きだが、それがいちいちどういう女の子であるかは問わない、そんなことを言いだしたらすべて面倒くさくてしんどいだけだ。
僕は女の子が好きで、それで話は済むのだから、どういう女の子であるかをいちいち知る必要はない、それだからこそ女の子の側も安心して遊べるんじゃないか、いちいち世界観を糾されなくて。
視点変えてこ | comments(0) |
最も都合の良いように考える
まり現実や予想といったことをアテにしない。
現実や予想といったものは、恫喝で有頂天になっている占い師と同等程度に、醜く不快な存在だ。
何もかもを、最も都合の良いように考える、正当性など気にしたことはない。
どれだけ不当なことでも、おれが本気で掛かればどうなるものか……とにかくただでは済まさないし、基本的に何もかも押し通して知らんぷりをするつもりだ。

たとえば男性として、女性に対してどうしうるかというと、僕はせいぜい、僕を恋人に選ばなかった女性に対し、あとになって致命的な後悔を与えてやることではないだろうか。
それが一番善良で前向きというか、それ以外のことを考えるのはどうも嘘くさいのだ。
僕の判断力も、そりゃ完璧ではもちろんありえないが、それを言えば他の誰だって判断力なんてアヤシイものだ、そのアヤシイ同士で他人の意見なんかアテにしてどうする。
僕は悪びれることなく、最大限、悪逆に手を尽くして、自分の生きたいように生きようとする、その最終的な成功は、他人に致命的な後悔を与えてやることだと思うのだ、「自分もああすればよかった」と、そのとき絶望感に空の割れる音が鳴り響けばよいのだと夢見ている。

最大に不公平な百年へ。

不公平、実にいい言葉だと思う、僕は科学的に世界を捉えたいのだ、科学的に見てこの世界は公平なのか不公平なのか。
僕はこれまで、何の努力もなし、何の苦労もなしにきた、それでいて最大の力を出したいと思う、ああきっとこの世界が公平だったら生きるのはとてもつまらなかったろう。
恋女のマインドね | comments(0) |
「こころ」について
睡様の眠りから目覚めて点け放しの読書灯に足元が照らされているのをうすぼんやり見ながら、はっきりとした覚醒がやってくる前に"すでに気づかれていること"を自らのうちに確かめ直した。
人々が胸の内に持つその現象を「こころ」と呼ぶしかない野暮ったさを厭いながらも、さしあたりそれはこころと呼ぶしかなく、ついては自分のみならず目の前の人間にも「こころ」があるということが誰しもわかってはいらっしゃらない。
「こころ」というと自己の胸の内の話になり……つまり目前にある僕の側には「こころ」がないという捉え方で自己の胸の内を抱きしめていらっしゃる。
"僕はこころのないものとみなされて付き合われている"、このことはここ数年に亘って与えられる体験および環境のことによく適合して、改めて冷静たらしめる落ち着いた心地を読書灯のひかりの中へもたらすふうだった。

「それはそれで、よいかもしれない。すっきりとしているからね」、僕はどこか遠くなった"あのときの世界"と呼びうる中へ一抹の報告をする。
つまり僕は、泣いたり笑ったり、よろこんだりはしない、活発な何かだから、却って人に「こころ」の何かを教えんとするには好都合とも言いうるわけだ。
とはいえ、能率主義者の僕としては、"こころのない者から教わったものなど本当には与えられない"という当然の無念さについて、早々のアナウンスが能率のために要されるだろうという事務への発想も起こる。
見慣れた回覧板のように、「からきし無意味なことをしているのでは?」とわざとらしい問いかけがくるが、そのことはむしろ僕を僕の日常に向けて深く落ち着かせる、これは僕がいつもどおりのところへ棲んでいることの証拠品として。

(※注、「こころ」は他の人にもあります!)

ただし困ったことには、これは過去から言われる哲学的な陳腐問題であって、本当に他の人に「こころ」があるのかどうかは、確かめられない、それこそ手の内に抱えた草亀がその感触から本当に「亀」であるのかどうかを確かめることは不可能である具合に。
その不可能さを根拠にして、僕自身も同様に、僕自身について「こころ」の存在を疑いもする、"僕はこころのないものとみなされて付き合われている"というやり方を、僕から自分自身へ向けることへもいよいよ確からしさが出てきているのだ。
視点変えてこ | comments(0) |
「社会」について
すがに首がカックンカックンするぐらい眠い、ワークショップから帰ってきた。
二日連続でこの密度はキツい、と受講者の方から笑って言われ、言われてみてなるほど新しい視点だなあ、などと思った。
僕は何かひとつやるとなると、何事でも限界まで絞り出すというクセがあるが、そういえばこれは僕のクセであって一般的なことではなかった。
「自分が何をやっているか」「何をやらなくてはいけないか」ということの明確な認識はいつでも最重要だと改めて思い知らされた今回のワークショップであった。

突然だが、この「社会」は大の大人が寄ってたかって総力で作り上げたものなので、これをクソ呼ばわりすることは許されない(クソ呼ばわりしてもどうせ乗り換える船がない)。
僕のような人間は本来「社会」について一言も発さないのが筋だが、この場合はしょうがない、「社会」はちゃんとしてもらうしかないのだ、われわれが総力をささげた結集なのだから。
僕などは胴体に流れる「夢」「体験」「流れ」などをちゃんとするしかなく、社会は社会そのものをちゃんとするしかない、どちらが欠けても人はまともに生きていけない。
企業は企業として、明るい社会未来を示していくしかない、そうでないとこれから社会的に生きようとする若い人たちが頓挫して苦しんでしまう。

社会は人生ではないが、うつくしいものだ。

そのうつくしさに、末端として参画するということは、それだけで芸術的と呼びうるものだ、それこそヘタな芸術風情なんかよりよっぽど。
仕事を愛する人はそれだけで尊敬に足るし、生きる動機にもなる、かといって仕事に人生を探す人はそれはそれで違和感がある。
できるオンナだね | comments(0) |
八〇〇年の本棚
きるのがヒマなら、この世界にあるうつくしい本のすべてを読めばいい。
そういうことは、実にしてみたいもので、人生が最低八〇〇年は無いと足りない、といつも僕は感じている。
重要なことは、その八〇〇年のあいだに読んだすべてのうつくしい本のことについて、一言も云わないことだと思う。
ちょろっと読んだ本や、ちょろっと見た映画、ちょろっとやったゲームについて、あれこれ云うのは、最もだらしない形ですべてを台無しにしてしまうだろう。

うつくしい本を見つけて、読み込み、それについて黙りつづけることは、自分が生きることより何倍かの価値がある。
中には単純に、話が抜群に上手、という本もあって、それについて重要なことは、「この本の話がすごく上手なんだよ」と喧伝することではない。
そんなことはどうでもよくて、どうせなら自分自身真に受けて、しれっと話上手になってしまうことだ。
類まれなる、フィクションとノンフィクションの境目、一見するとくだらないふうに見せかけた風景や人物の決め方、そうして読み手を引きずりこんでいく、そこには当然何年もかかる特別な体験が大口をあんぐり開けて待ち構えている。

どんな大きな部屋も本棚にすぎない。

部屋の大小なんて錯覚にすぎず、どうせ本を読んでいる間は、人は畳の半畳か一畳かをしか占拠できない、立って半畳寝て一畳だ。
本を読んだって、現実生活に関係はない、でもそうではなくて、本当は"現実に生活したって本を読むのに関係はない"という、そちらのことが見えてきておかしくなるってことなんだ。
いいオンナはいい言葉を | comments(0) |
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