☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
本来「恋あい」なんてものは一般に存在しない3
類は未だ「恋あい」がどのようなものかわからず、にもかかわらず、それをさもわかっているふりをするという知ったかぶりを続けてきている。
そうして、実はわかってもいないことを、わかっているふりをするために、われわれは「恋あい」を、自分の知っている習慣・伝統・様式に結びつけようとする、そうしてさもそれを「わかっている」ふうに錯覚する。
「恋あい」という、実はまったくわかっていないものを、既知の習慣に結びつけるとき……たとえば古来日本の都市部習慣に結びつけるとき、その人はフーゾクタイプになるし、古来日本の村落習慣に結びつけるとき、その人はヤリサータイプになる、そして輸入した西洋の伴侶習慣に結びつけるとき、その人は婚活タイプになる。
そうすると、あたかも恋あいが「わかった」ような気になるのだ、大日如来を拝む習慣にいる人がヤハウェの話を聞いたら必ずそれを「大日如来のことね」と変型するように(遠藤周作)、われわれは「恋あい」を何十年も未知のままには決してしておかず、必ず既知の習慣と結びつけて変型する、その結果としてわれわれの周囲の、フーゾク・ヤリサー・婚活という事実が建築されている。

むろん、フーゾクもヤリサーも婚活も、「恋あい」ではないということ、そのことは薄々わかっている。
それで、その三種とも「恋あいではないのだ」として、突っぱねたとき人は恋あいへ飛翔するかというと、そうではない、飛翔ではなく谷底へ落ちていってしまう、そこでオナニーを実態とする「オタク」や、マンガ・アニメ・アイドル文化、あるいは逸脱した性的嗜好、また性同一性の混乱が形成されるのだ/つまりフーゾク・ヤリサー・婚活の三タイプともを否定すると、セックス観が「性交でなくなる」ということだ、オーガズムが性交に無関係なものとなり、オーガズムを担うのは「自慰」だという定義になり、また性交を模してみてもその内実は他人を使った自慰だという状態になる。
平面上に三角形を描き、その上空に点を置けば、三角錐が成り立って三角錐の山頂が「恋あい」ということになるが、このとき同時に三角形の地底にも点を置かねばならず、この三角錐の谷底が「自慰愛」になる、フーゾク・ヤリサー・婚活の三タイプを拒絶した者はその勇敢さを称されて恋あいに飛翔するかというとそうはならず、三タイプを拒絶した時点で一種の審判に晒され、その審判の結果ほとんどは恋あいに飛翔するどころか自慰愛の谷底に引き落とされる。
こうして自慰愛の谷底に落ちた者は、それでも自分は陳腐な三タイプを拒絶した者だと信じているから、自分を高尚なものとみなしている、その実際は審判の結果として正統に谷底に落とされた烙印の者だ、この谷底の自慰愛者は、実際の自慰行為に加えて、自分が特別な恋あいの者だという空想と自己陶酔が、その自慰行為を二重の自慰にしているのだ、だから谷底の自慰愛者は、自分の自慰行為とそれに関連するオカズをどこかで「尊い」と感じている/だからこうした自慰愛者は、自分の変態ぶりと矛盾なく、自分の周囲を「見下している」という状態にある、これもまたわれわれが現代のわれわれ自身を観察して理解するのにそのまま適用できる構造だろう。

フーゾク・ヤリサー・婚活という「三国志平面」があり、その上空に「恋あい」、その地底に「自慰愛」がある。

特徴として、フーゾクタイプはフーゾクを尊いと思っているわけではないし、ヤリサータイプもヤリサーを尊いと思っているわけではない、婚活タイプも婚活そのものを尊いと思っているわけではないが、自慰愛者は自慰愛の周辺を「尊い」と思っているのだ、恋あい者が恋あいの周辺を「尊い」と感じているように。
このように、セックス観の平面に「尊さ」という高さ軸を導入しなければ、セックス観はそれぞれフーゾク・ヤリサー・婚活という伝統習慣に分割されるのみとなる、そこに「尊さ」という高さ軸を導入した場合、セックス観の定義は三国志平面上のものではなくなってくる/今、自慰愛者が何かしらのアイドルを押し立ててその偶像のもとにオナニーを積み重ねているのは、そのアイドルを「尊い」と感じてのことなのだ、彼らはフーゾクでイクことやヤリサーでイクことや婚姻関係でイクことを「尊さのない平面的オーガズム」と感じ、偶像をあがめてオナニーしてイクことのほうを「尊さを主題とした立体的オーガズム」と感じている、このようにしてわれわれは実際、周囲に「恋あいでないもの」ばかりを目撃しているというのが現実だ。
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本来「恋あい」なんてものは一般に存在しない2
「実際に残っているのはフーゾクとヤリサーと婚活」と述べた/そのそれぞれは以下のように対応している。
フーゾク古来日本の都市部・宿場タイプ
ヤリサー古来日本の集落タイプ
婚活輸入された西洋タイプ

実際には「恋あい」なんてものは、なかなか存在せず、めったなことで体験は得られないものだ、にもかかわらず、われわれはそれが自分にも平等に「ある」と思っているので、根拠のない恋あいへの希求がそれぞれを伝統的慣習に立ち返らせていく。
たとえばAさんは、「これが恋あいじゃないの」と追いかけているうち、いわゆるメンタルヘルスを病み、「お金くれたらやる気でるw なんでか」という言い方をするようになり、「フーゾクやろっかなw」と、冗談口のうちにもフーゾクタイプになる。
たとえばBさんは、「これが恋あいじゃないの」と追いかけているうち、年長者から「いいじゃん、みんなでパーッとやろうよ」という呼び声が掛かり、リア充グループに属することになり、このグループは「祭り」「フェス」「酒宴」を村のイベントとし、酩酊の中でそれぞれに夜這いをする・夜這いを受けるような形でヤリサータイプになる。
たとえばCさんは、「これが恋あいじゃないの」と追いかけているうち、セックスが後ろ暗いものと感じ続け、「こんなことは続けていたくないの」と考えるようになり、「セックスはあくまで子供を作るためのものだし、結婚するつもりがない相手とはしたくないの」と、万事を「結婚前提」で考えるようになり、それ以外のことは「セクハラ」と疎み、「怒りますよ」と目くじらを立てるような形で婚活タイプになる。

三脚をぐるぐる回ってもそこにカメラはないように、三タイプをぐるぐる回ってもそこに恋あいはない。

この話にはまだ続きがあるのだが、ひとまずカメラを立てる「三脚」だけイメージしてもらうとして、それは数学でいうといわゆる「三角錐」になる、平面上に三角形があり、その上空に点を設定すると、四点を結んで三角錐ができあがる。
さしあたり、「これが恋あいじゃないの」と追いかけるうち、最もありふれた、ある意味最も健全な形で、それぞれの三タイプが生成されるということ、そのことだけを知っておけばいい、自分自身のことを考える場合のみならず、われわれの周囲に起こっていることを判断するときにもこの構造が役立つはずだ。
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本来「恋あい」なんてものは一般に存在しない

本の場合、そもそも明治より前は封建制(=万事を親が決める)なので、当人が見たことも会ったこともない相手と結婚が決定するということがいくらでもあった/たとえば幕末の桂小五郎や西郷隆盛が江戸の屋敷にいると、地元の親から手紙が来て「お前の嫁さん来たよ〜帰ってきて祝言を挙げましょう」といきなり決定済みの連絡を受けるのだ(それが当たり前であり「忠孝」とされた)。
じゃあ親が決めるまでセックスはなかったのかというと、むろんそんなことはなくて、遊郭は存在していたし、宿場ではたらく飯盛女(めしもりおんな)だって娼婦も兼業していた、今でいうと旅館の仲居さんが夜伽の相手もしていたということだ、都市部や旅籠や城下町ではだいたいそんな感じだった、あるいは女性がお伊勢参りに行くのに道中各地で夜鷹して一宿一飯と路銀を得ながら行くということも常套手段だったらしい/ちなみに「千と千尋の神隠し」で「湯女(ゆな)」になった十歳のチヒロも、湯女といえばつまり娼婦になることを示している、宮崎駿は明確にそのモチーフを狙って本作を描いたわけで当人もそのことを隠してはいない。
一方、街道に面していない村落も無数にあるわけで、そういう村落はどうなっているかというと、ご存じのとおり「夜這い」がメインだった、男子は一定の年齢になったら青年組に所属し、青年組に所属すると村の女性に夜這いしていい権利を取得する、むろん女性の側はそのときイヤな相手なら断っていい、このシステムは昭和ぐらいまで地域によっては残っていたふしがある。
そもそも、夜這いシステムの中で女性は複数の男と寝ているので、産まれた子供は誰の子供かよくわからず、誰もそんなことは気にしなかった、産まれた子供は「村の子」だった、このことがあるから、かつて昭和生まれの郊外の子供たちは、近所の家にノックもなしに勝手にあがりこんだりする風土があったのだ、その地域の子・村の子という感覚と風土が残存していたと言える、現在はむろんそんなものは残っていない(極端に隔離された地域なら残っているかもしれない)。

そうした日本の村落のセックス事情を見て、かつて日本に来た宣教師が、「この国には貞操観念がなくて結婚の制度もメチャクチャです」という焦ったレポートを教会本部に送っている。
だからどういうことがあったかというと、古くから日本にあったのは「恋あい」ではなくてむしろ現代の「ヤリサー」なのだ、ヤリサーに所属している男は、合宿にいけば合宿先で女性に夜這いしてもいいし乱交してもいいというノリだろう、むしろ現代の「ヤリサー」のありようが、古代からの日本の村落の遺伝子が発現していると捉えていい。
日本の伝統的なセックス観は西洋のそれとはまったく異なり、なにしろ創世神話の時代から、アメノウズメという女神が、「陰毛を丸出しにして踊ったので周囲はオオウケした」と描写されている/事典を調べれば出てくることだが、伝統的に日本の集落では、妙齢になった女性の処女をその村の長老が破瓜するのがスタンダードだったし、同じころ少年は、村の年増女たちのグループに連れて行かれて「筆おろし」されるのがスタンダードだった、このスタンダード初夜を済ませた男女がその後は村の「ヤリサー」に所属したことになるというシステムだ。
そもそも日本には、武家などを除いては明確な「婚姻」のシステムがなかったし、武家の婚姻といってもたとえば将軍家の跡継ぎなどはむしろ側室がメインで輩出しているような向きもあってメチャクチャだ、そもそも結婚というと男性側から女性の実家への「通い婚」がメインであって、通い婚のまま子供を出産し(女性側の実家で出産するのであり、旦那さんは出番なし)、子供も育って時間が経ち、男性側の母親が年を取って身体が動かなくなったら、家事をする人がいなくなるので改めて「嫁入り」してもらうというシステムだった/あまりにも現代人の感覚と違うこうしたことが、百年前は常識的スタンダードだったのだ、明治になってから日本は一夫一婦制の婚姻制度を敷いたが、それも富国強兵のためであって、こんな中に「恋あい」が何たるかはまったく捉えられていない、つまり人類は今もずっと「恋あい」を知ったかぶりし続けている。

日本はヤリサー思想で、西洋は伴侶思想だった、そのどちらとも「恋あい」とは無関係だ。

戦後の日本は特に西洋化され、男女の仲は「ロマンチック」であるべきという風習が起こるが、そもそも「ロマンチック」という語も、われわれが思っている意味の語ではない、ロマンチックというのはロマン派チックという意味であり、ロマン派というのは日本で言えばつまり言文一致運動後の明治文学のことだ、そのロマン派のスタイルが過ぎて消えていった後の変容のことを「大正ロマン」と呼んだのであり/わたしが文語体を使わず中世のことにわれわれをつなごうとして書き話していることじたいがロマン派の手法に近いが、これをどう見て誰が「ロマンチック」と言うわけがあるか。
日本は古来から男女といえばヤリサーと遊郭(後の赤線)なのであり、西洋はというと、マグダラのマリアに見られるように、聖書に書かれた「姦淫するなかれ」が厳しい法としてあるので、苦し紛れに「うーん、伴侶ならヤッてOK!」としてきたという歴史だ、カーマ・スートラだって本当に読んだことがある人は少ないだろうが、それにだって「外国人と結婚するのはムリっす、やめとき」ぐらいのことしか書かれていない/このようにして、本当は人類まるごと、「恋あい」なんてものはよくわからないし、一般には存在していないのだ、本当には存在していないからこそ、交際は半年も経つと「冷めた」となり、その後は時間をかけてトラブルの源泉になっていったりする、その面倒くささを避ける人たちがいて結果、実際に残っているのはフーゾクとヤリサーと婚活でしょという事実になるのだ、今われわれが目撃しているとおりのことだ。

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市民生活と「しっくりくる」宗教

いてい、宗教に入れ込んでいるのはオバサンないしはババアだから、あなたもオバサンかババアになれば、宗教に入れ込むようになる。
宗教に入れ込むといっても、当然、自分にしっくりこない宗教には入れ込まない、われわれは自分にしっくりこないものはすべて「誤っている」と判断せざるを得ない生きものだから、何かが聞こえるという徳性を得るまではひたすら「しっくりくる」という基準だけですべての正誤を判断せざるをえない。
そして、「何かが聞こえる」といって、そんな徳性はふつう "無い" ので、妄想で「聞こえる……」みたいな感じになり、エセスピリチュアル&特別なワタシを決め込んで、現実逃避するしかなくなるのが定番だ、そのころにはたとえ何歳でもきっちり「イタいおばさんwww」になっているので、もう誰も何も言わなくなるだろう/そういう「イタいおばさん」のパターンにならなかった場合は、何かが聞こえるうんぬんではなく、ただ「しっくりくる」ということで宗教を選択する。
これは何の話をしているかというと、もちろんヤバめの話をしているのだ、ヤバめなので途中からは入り込まない、こんなことはあくまで一般論で留めておくものだ、ただそれでもいつかの未来に何かあなたの役に立つことがあるかもしれない、こんなヤバめのことはまず誰も言わないし、そもそもこんなこと誰も気づきようがない。

多く、日本で誰かが亡くなると仏教様式の葬儀になるが、それは多くの人にとってその様式が「しっくりくる」からだ。
そして「命日」というとしっくりくるし、「一回忌」「喪中」と言われると、そのあたりもしっくりくる、その「しっくりくる」というのは、「お正月だから初詣に行こう」ということの「しっくりくる」とまったく変わらない。
もし、何かの先生が亡くなったら、その弟子はお葬式に参列するものだが、そこでもし「葬式になんか首を突っ込むな」「お前はお前のやるべきことをやれ」と言うと、それは市民生活の感覚としてしっくりこない、「世話になった先生が亡くなったのに葬儀に来ないなんて」という感情に当然なる/けれども、この「葬式になんか首を突っ込むな」の発言は、他ならぬお釈迦様から弟子アナンダへの発言なのだ、当の仏教のボスがそのように教えているのだが、そのことよりむろんわれわれは自分たちの「しっくりこない」を優先する。
あるいは結婚式は、キリスト教式でやる人が多いが、神父さんか牧師さんかが「○○〜、誓いますか」と問うと、新郎新婦が「はい、誓います」と答える、よもやここで「いいえ、誓いません」「誓いませんが、はい、そのようにします」とは言わないだろう、そこで誓わないというのは実にしっくりこない/が、聖書に詳しい人はご存じだと思うが、「誓ってはいけません」「はい、そうします、か、いいえ、そうしません、のどちらかにしなさい」とは、他ならぬ当のイエスキリストが言っているのだ、「誓いを立てることで信用度を増すというインチキをするな」という教えだ、けれどもそんなものはわれわれにとって「しっくりこない」ので、われわれはしっくりくるほうを優先する、このようにしてあなたは、オバサンかババアになったとき、いかに自分に「しっくりくるか」という基準で、神仏のありようを定義する(必ずそうなる、とこのことは断言しておいてよい)。

サービス業は、消費者にとって「しっくりくる」ことが一番大事。

このように、あくまで一般論に留めておくことが肝要だ、何も破壊する必要はないし、何も闘争する必要はない、ただそれでもいつかのために、この一般論を知っておくことだ、誰でも知っているとおり、サービス業は消費者にとっての「しっくりくる」が一番大事だ、一時期流行った言い方でいえばCS(カスタマーサティスファイド、顧客満足)というやつ。
あなたは加齢していくと共に、人の生というものの、 "ガチの恐怖" を知るのだ、知人の不慮の死、内科のほとんどがそれである不治の病、加齢による両親の精神的・人格の変容、何もかもを忘れて失う認知症の双眸、自分の年齢が減ることはないという事実、自分に与えられる「機会」はもうこの先ないという日々の連なり、そのガチの恐怖があなたの魂を脅かしたとき、あなたの魂は知らず識らず宗教に頼る、そのときあなたは「しっくりくる」様式をなぞりだし、その途端、これまで自分を脅かしていた恐怖がスッと消えたように思う、それを「カミサマって本当にいるんだね」と思うのだ、でもそれはあなたが「しっくりくる」という様式をなぞったものにすぎない……ではなぜ恐怖がスッと消えるという現象が起こったのか? それは、それほどまでに、その "ガチの恐怖" はおそろしく、なんとしてでも逃避したかったからだ、いくらでも催眠術に掛かりたいという下地がすでに強烈にあった、だから「しっくりくる」というその様式は、ヒプノティックに作用し、その後単なる強迫神経症としてあなたを支配しつづける、「手を洗わないと落ち着かないの!」と苦しむ強迫神経症と同じ現象として/あなたが見かけたことのある宗教おばさんはこういう仕組みで出来上がったのだ。

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カミサマに見捨てられぽんち
リスマスはただのイベントになったし、「青春」はSNSに写真をあげる演出ごっこになった、セックスはナゾの陰部遊びになったし、「好きな人」はただの自分の「萌え推し」になっただろう。
かつて、クリスマスは前後を含めて特別な日々だったし、元日の昼に届く年賀状には特別な風情があった、青春は確かに胸に刻まれて、照れくさくて誰にも言えず抱え続けるものだった、好きな人は自分の生きた時代を定義するような存在だったし、セックスはときに「これでもういつ死んでもいいや」と痛快に空まで笑えるような何かだった。
すべての歌曲は、ただの気分操作BGMになっただろう? 刺激的なワードセンスや打ち込み系のドラムンベースで「まじキてる」と言いながら二ヶ月後にはまるで飽きたゴミになっただろう、なぜこんなことになったかというと、ずばりカミサマに見捨てられたからだ、「見放された」でも同じ意味だ。
かつて、クリスマスにはクリスマスのとんでもない夜が覆い被さり、元日には元日の強烈な晴れやかさが光り、青春の切なさは永遠であってよい何かをそれぞれに教えていった、が、これらはすべて、人の感情ではなく、人為的なものではなかったということ、「世界」から与えられた何かだったということだ、今はそれがまったく与えられなくなったので、人が人為的にイベントや演出をこしらえまくっているのだが、それらがけっきょく何にもならないということは、実に人為とカミサマのものとの違いをはっきりわれわれに教えている。

あなたの「手料理」は、コンビニのレトルトハンバーグより美味しくないだろうし、あなたの唄う「歌」は、ひどくひねくった自己陶酔の性根を露見させるだけのものだろう、あなたがする勉強はまるでWikipediaの丸暗記合戦でしかなく、あなたにとっての「街」はただウィンドウショッピングであなたのカネを巻き上げる装置でしかない、あなたの街には何の風も吹いていない。
あのときの自分と共にある「この道路」とか「この坂道」というようなものはなく、あるのはただの記憶だ、あのときの「場所」や今の「場所」はない、思いついて手書きで手紙を書いてみようと思うが、手書きのものにもアイコンや絵文字をてんこもりにしないと文章が書けないことに気づく。
その点、おれがクリスマスに街中を歩けば、おれの上には確かに特別な夜が覆い被さっていて、街には街の特別な風が吹き抜け、お酒は商品ではなくなり一種の宝になる、そこにBGMではなく「音楽」が流れているのがわかる。
なぜこんな差が出るかというと、おれはカミサマに見放されていないからだ、はっきり言っておく、おれはカミサマに見放されていないが、今、十四歳の処女中学生はカミサマに見放されている/みんなカミサマに見放されているからこそ、人為的に自分の「イメージ」を演出しているんだろう? そんなことをいくらしたって、神聖な夜や特別な風は戻ってこない、むしろこれまでに一度もそんなものは与えられたことがない人のほうが多いのだろう。

おれは立っているだけですべてのものに出会えるが、あなたはどう演出しても生涯なにひとつにも出会えない。

カミサマに見放されるというのはそういうことなのだ、「ぽんち」は正式な日本語だからこのときは「見放されぽんち」としておこう、このことの解決に焦っているのはあなたではない、解決に焦っているのはおれだ、だからカミサマはおれを見放さない。
解決の糸口、およびその早道は、ここに書かれていることを「そのとおりです」と肯うこと、そのときにザワッと起こるグラつきを体験せよ、それが体内にひしめいている悪霊みたいなやつだ、そこで得られためまいのような特別の感触を、ためしに今度は「わたし(の力)かな」と言って見ろ、そうしたらグラつきは止まり、またいつもどおり何にも出会わない世界に戻る(つまり見捨てられぽんち状態に戻る)/このとき何が起こっているかなど、到底あなたにはわからない、わたしが宗教洗脳をしているのではない、あなたがやがて年を取るとありふれた宗教洗脳に引っかかるよということを警告、ないしは予言しているのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
生きものという機械の、機械的射精について4

性の身体は物体ではない。
これまでに、何のロマンも感じず、何も自ら主体的にならず生きてきた男だって、突然「女の穴に指を入れたい」とは思いやがる。
それで「女の穴に指を入れてみたんです」ということで、フワワワ〜となるのだが、冷静に考えろ、これまで何一つ世界と主体の体験がない者が、穴に指を入れただけで何かの体験ができるわけがないだろ/はっきり言っておく、何一つ世界と主体の体験に向き合わなかった者がゾクッと体験できるのは自身の "病気" だけだ、それ以外に体験があるなんて虫の好い妄想はただちに捨てろ。
何の感動もなしに生きてきた消費者人間が、「穴に指を入れてみました、フワワワ〜」と言いだし、また女の側も、「穴に指を入れられてみました、フワワワ〜」と言いだすのだから、そりゃどんなカミサマだって見放すだろう、冷静に考えろ、君たちは何もしてこなかったじゃないか、消費生活だけをしてきた者がロマンチックな何かに触れられる可能性はゼロだ、どうして自分のことだけは例外に考えるのだ、消費だけしてきた者は納税だけしてやがて病気になって死ぬだけだ、自分の人生に「何か」があるなんてありもしない空想にすがるのはよせ。

女性の身体は物体ではないのだが、本当に何の青春も友人も感動も魂もなく生きてきた男は、堂々とまるで自己の権利のように、女性の身体を物体だと思っている、そして「女性の身体に興味があるんです」という痴愚そのものの発想をホームルームの言い方をするのだ。
そして愚かしいことに、女性の側も痴愚になっているから、女も女の身体に興味を持ってしまって、「(わたしの)女性の身体に興味があるんです」という痴愚の思考になってしまっている、彼らの両親は自分の子に「あなたは致命的なバカだから一般人のふりをしないように」と言いつけねばならなかった、だが両親もすでにそんなことは面倒くさいとしか感じなくなったのだろう、両親はただ自分が観たいテレビ番組といい気分になれる外出先だけを漁っている。
女性の身体は物体ではないし、男の身体だって物体ではないのだが、人生が空っぽの人は見かけの高級品でマウントを取ることと、それぞれの陰部で「ドッキング!!!」をしてみたいということにだけやにわに興味を持つ、全身に何の気魄も霊魂も行き届いておらず、むしろ確信をもって身体を物体と信じているのだろうが、それは自分が最も憐れな者だということを誰にも教わっていないだけだ、「ダンボール箱の穴に指を入れてみたら何かネチョネチョでした、興奮」というような次元で人類がセックスを捉えてきたわけがない。
「空っぽの人生」というのは実在するのだ、そしてそんなことは、誰も憐れんでくれない、なぜ憐れんでくれないかというと、空っぽの奴に対して憐れみを向けるということが不可能だからだ、空っぽの人生を生きている人はどこかで自分の人生に「何か」があると勝手に思っているものだが、まず無いのだ、そのことを知らないからまるで一般人みたいな顔をして「女の穴に指を入れてみたいです」と堂々とまるで権利みたいに主張・請求しはじめる/女の穴に指を入れても、空っぽは埋まらないし、指を入れられる側になっても、空っぽは埋まらない、まるで手持ちの砂で「ヒマラヤ山脈を作りたいんです」と言っているような痴愚ぶりだ、それでも当人は自分の権利があると信じて彼はいつまでも請求を続ける、「わたしを満たしてよ」とむしろ周囲に義務の履行を請求しつづける。

おれにとってさえ、性愛の現成というのは最高難度のものだったが、それを「指を入れてみたいです」という痴愚の思いつきと同列に並べるのか。

現代には、何かとんでもないデカさの、痴愚のデーモンみたいなものが降臨していて、車の運転もできないような奴が「バレエをやりたい」とか言い出すのだ、どうしてそのように、一般のおじさんでもできることができないのに、人類の中でも特級の者しかこなせないものをやりたいとかできるとか思い込むのだ、漬けものの塩梅(塩加減)さえわからない者がパティシエになりたいとか平気で言い出す、二十人の前で話して地声が全員に届かないような奴が二千人の前で唄う歌手になりたいとか言い出す、「桃太郎」のサル役さえ務まらない者が女優・俳優になってセレブ生活がしたいと平気で思っている、複式簿記の理解を二秒で投げ出す奴が「世界を股にかけるビジネスマンになりたい」とマンガのイメージを自分に当てはめて妄想している。
なぜこんな馬鹿げたことが起こるかというと、ウマシカの目には、本当に人のことが「物体」に見えているのだ、だから華やかな物体があると「うらやましい」と感じ、それと同等の権利が、同じ物体である自分にもあるはずだという前提に立つ/おれが女を抱きしめたとき、その女はおれに抱きしめられたことを生涯の宝にすることがあるが、それを脇で見ていたウマシカは、「自分も同じように抱きしめたいな」と平気でエントリーを申し出るのだ、本当にそのように、人のすべてが物体に見えており、自分も同じ物体としてヘコヘコピュッピュがしたい、そしてその権利が自分にもあるはずだと信じているのだ、だから彼(彼女)の内には何の悪意もなく引け目さえない、彼(彼女)の内にあるのは同等の権利が認められるべきというむしろキラキラの「正義」なのだ。

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生きものという機械の、機械的射精について3
こに、陽キャのA君と、アイドル風味のB子さんがいたとする、両者は同じサークルに所属している。
陽キャのA君は、おっちょこちょいなところがあり、それが見ていて「かわいい☆」とB子には思える、そしてB子のアイドル的な振る舞いが、陽キャA君にとっては「正直、そそるわ」という感触だ。
この陽キャのA君とアイドル風味B子さんは、たまたま帰り道が一緒になり、「おれんち寄っていく?」という感じになり、そのままワンルームマンションに入り込み、発泡酒を飲みながらA君はB子のオープンした股間を下着の上から撫でる、ウフフン、という感じになるのだが、このときに注目すべきことがある。
現代における、「セックスならざるウマシカ」の性質として、陽キャAとアイドルB子は、互いに語り合うところを持たないという特徴があるのだ、彼らは身内話をやりあうだけで、未来や世界について語り合うところを一ミリも持たない、だからこそ独特の「ウマシカ」の交尾が成り立つ、お互いのわけのわからない棒と穴を接合してみるというような具合だ、彼らは語り合うということそのものを持たないので、おしゃれと陰部だけがロマンチックだと思っている。

よくよく観察してみよう、観察といってもかねてからわたしが主張しているようなことだが、現代人は「言葉」を失い、未来や世界について語り考えるということを失ったのだ、そしてこの「語り考えることを失った者」から順に、むしろウマシカ行為に有利化しているという特徴がある。
本来、「ふつうの人間」という言い方をするならば、「ふつうの人間」は語り合うこともない人相手に、ウマシカ行為なんかやる気になれないものだし、また「ふつうの人間」は、明らかに演出でしかないアイドルやアニメに対してファナティクに「焦がれる」なんてことはできないのだ、そんなことふつうの人間の感覚としてできるわけがない。
ウマシカは、強者においてはウマシカ交尾をし、弱者においてはウマシカ自慰をすることになるのだが、そのどちらにせよ、未来や世界について「語り考える」ということを失っているというのが特徴だ、語り考えることを失った者から順にウマシカになると捉えてもよいし、ウマシカ行為をやれば途端に「語り考える」という機能を失うと捉えてもいい、どちらも同じように起こっていることだ。
プロが作成したセックスビデオでもいいし、シロウトが流出させたセックスビデオでもいいが、両者がどれだけ見つめ合っても、その両者が互いに未来や世界について「語り考える」というシーンや気配が入り込んだセックスビデオはない、だからわれわれがメディアで目撃できるセックスはセックスではなくウマシカでしかないし、何なら実体験できるのも今はほとんどセックスではなくウマシカでしかないのだ、その「語り考える」ということなしに「ウフフン」だけをやるからウマシカになる、それはもう自動的になるのだ、自動的にそうなるから現代はここまでこのように進んできてしまった、本来セックスというのは互いに語り考えることの果てに交わりきりたくて生じる営為だったのに。

互いに語り合いたいと求める、その衝迫が性欲を凌駕するときのみ「セックス」になる。

だから、具体的な性行為は中心にないのだ、性行為というのは高齢や身体的不具があったら不能になるが、そのことは本質ではない、互いに語り合うところを極限にまで求めるということに、場合によってはセックスが伴うというだけで、それは特に若い人の肉体において、肉体の昂ぶりが「もどかしい」という形で生じるだけだ、肉体に対してあれやこれやしたとか、ピュッピュしたとかいうことは、正しいセックスにおいては記憶に残らない/事実わたしは、たとえば学生のころのセックスについて、その最中の記憶がまったくない。
われわれは本来、獣ではなく人なのだから、正しくは「際限なく語りあった」という記憶だけが残るものだ、そのことは現代の状態しか知らない人にとってはまるで想像も空想もできない状態に違いない/あなたは未来や世界について語り考える小説は書けないだろうが、チンコやマンコをいじくりたおす性描写のシーンを連ねる小説なら書けるのだ、それは品性がオゲレツとかそういうことではない、「語り考える」という能力を失ったウマシカだからだ、まったくその小説の能力のままあなたは機械的射精に向かおうとするだろう。
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生きものという機械の、機械的射精について2/ウマシカ
とはセックスの問題ではない、むしろ "セックスでないもの" の問題だ/セックスでないものをセックスだと捉えていることの問題、ヘコヘコピュッピュで恋愛やらセックスが得られると思っている、愛のカミサマへの冒涜の問題だ。
現代の若い人はアイドルが好きで、清純派アイドルというのもたいてい派手な露出的衣裳を着て、オスの「チンコに来る」ような動きや表情を示しているのだが、若いオスはそれを天使や女神のように奉り称える。
それはつまり、「チンコに来るやつがカミサマ」と思っているのだろう、実際、それしか実感に及ぶものがないのだからしょうがない、たぶんそんなことを若い男たとは分かっていないし、一方の若い女性たちも分かっていないのだ、本当にホルモン分泌に訴えかけて機械的射精を誘引するという一点しか見えなくなっている。
機械的射精というのは、陰部を擦り付けてピュッピュすることであり、これはウマやシカといった哺乳類がいくらでもやることだから、この機械的射精しか視えなくなっている者のことを、便宜上「ウマシカ」と呼ぼう、つまり何が言いたいかというと、「あなたはウマシカピュッピュを "セックス" だと思っていますよね?」という問いかけを定義したいのだ、背後にウマシカピュッピュがはたらいている場合、何をどうしたって主体やら霊魂やらの話はその人に入らないのだ。

見た目にはアイドルのような可憐な少女が、向き合ってみると、その空虚な瞳の背後には、ウマシカピュッピュしか置かれていないというケースが多々あり、わたしはそのことにいい加減うんざりしている。
逆に、頑なに "下ネタ" を排除する自己美化オバサンも、その背後にあるのはウマシカピュッピュだけということがあり、このケースにもいい加減うんざりしている。
主体やら霊魂やらの話をするとき、まず「あなたはウマシカピュッピュをセックスだと思っていますよね?」という問いかけを第一とし、問われた者が「はい、わたしはウマシカピュッピュをセックスだと思っており、ウマシカピュッピュにただならぬ強さの情動を起こします」と答えるのを第一にしてもらわねば、話の土台が成り立たないのだ、なぜウマシカの鼻息荒い話に付き合わねばならないのかという精神的負担がケタ違いに大きすぎる。
男女とも、存分にウマシカピュッピュを得たり、あるいは定期的にウマシカピュッピュを補充したりすると、ウマシカの人々は安定し、満足するのだが、そうして何の出来事もない時間だけが過ぎてゆき、後になって「何の出来事もないんです」と言い始める、そりゃ当たり前だっつーのという話を、もう何度も繰り返したくないのだ/ウマシカピュッピュを肯定したり、それを愛だと言ってウットリした人から順に、魂やら世界やらとはサヨナラなのだ、ウマシカピュッピュ度が1あがるたびに、魂やら世界やらとは100サヨナラが進むと思っていい、こんなレーティングでまともに話ができるか、機械的射精をセックスと思い込んでいるウマシカが、男女そろってウフフしていても魂は致命的に落下するのみだ。

あなたがしたがっているのはセックスではなくてウマシカだ。

だから、そのウマシカを "処理" するのはいいが、セックスだと言い張るのはやめるべきだ、そしてそのような家畜の処理風景を、人文的な場所に持ち込むべきではない/わたしはこれまで、このしょーもないウマシカ炸裂で、貴重なことの端緒がことごとく破壊されていくのを数限りなく見た、当人は自分がウマシカだと思っていなくて、ロマンチックだと思っているのだからタチが悪い。
現代においては、少年マンガもまったく少年マンガではなくなり、ウマシカマンガになり、アニメもウマシカアニメになり、小説も映画もドラマもすべてウマシカコンテンツになったが、そのことに違和感がないのは消費者が他ならぬウマシカだからだ、機械的射精を「セックス!」と思い込む人々が主流になってしまったということ/女性を女体と見てヘコヘコピュッピュしたいとしか考えない男性がいるのが驚きで、しかもそれを「恋愛」「セックス!」と思っているのも驚きだが、輪を掛けて驚くべきは、女性の側もそれを「セックス!」と思って、むしろウェルカムで求めているという面があることだ、よくもまあそんなに明らかに違うものを恋愛だのセックスだの思い込めるな、女性のウマシカ化を引き留める方法はないが、それは思っているていどの百倍ぐらいであなたを戻ってこられない谷に突き落とすということを、せめて情報として提供しておきたい。
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生きものという機械の、機械的射精について
ぜこんな話をしているかというと、どうも耳にする情報から類推するかぎり、現代の男性は機械的に射精しているようなのだ。
もちろん「生きものは機械」だから、霊魂を与えられず生きものとして射精すれば機械的な射精になる、たとえば代表的に知られているように、馬の精子を搾るときは種馬をメス馬に見立てた模型にまたがらせる、そして挿入用の穴が用意されているので、そこに馬のペニスを差し込めば種馬は自動的に腰を振って射精するという仕組みだ、家畜というのはそういうものだし「生きもの」というのはそういうものだ、たとえば小型犬のオスなどでも発情期になるとあちこちにペニスを擦り付けて射精し、当人(当犬?)は何も知らずにごきげんでいる。
どうもこのところ、現代の若い男性は、何ら主体たる霊魂を与えられていないから、自分の機械的射精をセックスの土台にしているようなのだ、そして女性の側も主体やら霊魂やらのことはまったく視えないので、機械的射精を受けたらウッフンなのかなと思っている、それはそれで純粋な生きもの・家畜あるいはただの哺乳類というなら間違ってはいない、でもきっと当人たちは自分たちで家畜プレイをしているという自覚はないのだろうと思う。
そしてわれわれは、自分の身口意によって「行った」ことが、己のカルマとなり因業となるので、裏側でこの家畜的セックス・機械的射精をしていると、その後の主体・霊魂の進みゆきが悪くなるのだ、悪くなるというより契約上、主体と祝福の恩恵は入らなくなってしまう/それは自らの行いによって「自分は家畜であり、獣です」という業(カルマ)を作ってしまったからだ、人は人であるうちは人であることが正しいと感じるが、獣になると獣であることが正しいとなるので、その後はもう主体やら霊魂やら祝福の恩恵やらは入らなくなってしまう、これはある段階から「もう無理だね」と取り返しのつかないことになってしまう。

機械的射精というのは、つまりマウント状態でオスがメスに腰をヘコヘコ・ピュッピュすることを言うのだが、少なくともこれを肯定してはならない、肯定するともう自分が獣として定義され(畜生道に陥り)、ほとんどの場合は戻ってこられなくなる。
生きものは機械であって、機械的射精とはホモサピエンスにおいてどのようであるかというと、オスがメスに褒め言葉と金銀財宝をもって求愛し、それを受け容れたメスにオスがマウントして腰をヘコヘコ・ピュッピュするというものだ、このことを肯定すると人は獣になって戻ってこられなくなるが、おそらく現代の若い人は何もわかっていない、何もわからないまま堂々と、この機械的射精を「セックスだ!」「セックスした!」と捉えているように思う。
多くの人は「愛のないセックス」を否定的に捉えていると思うが、そうではないのだ、「愛」というのは二種類あり、仏教説で言われている貪愛というのは、人間道のものではなく畜生道のものなのだ、だから機械的射精・ヘコヘコピュッピュをすると、畜生道としての貪愛が因果として発生する、それはキリスト教で言われている愛とは別のものだ。
機械的射精・ヘコヘコピュッピュに前後して、生きものの体内には「ホルモン物質」が分泌される、よもやそれがキリスト教で言われているところの愛であるはずがない、おそらく現代の若い人は、1.刺激を受ける 2.ホルモン分泌 3.駆り立てられる 4.求愛する 5.ヘコヘコピュッピュ、という生きものの本能、生理機械的なセックスだけをセックスだと思っている、これをやると相当悔い改めないと戻ってこられないので、少なくとも機械的射精をセックスだと肯定しないことだ/生理機械的なメカニズムによって、ヘコヘコピュッピュとその周辺は「気持ちイイ」のだが、獣はその「気持ちイイ」しかわからないのだ、人が同じように「それしかわからない」となってはいけないのだが、おそらく現代の若い人は本当にそれしかわからなくなっている、だから本当に乳を揺らした若いメスに駆り立てられたオスが求愛するという動物園の繁殖事業のようなことを恋愛だとかセックスだとか思っている。

現代人の主体のなさの背後には、「機械的射精」という実態がひしめいている。

誰も本当のことは話さないだろうが、多くの人が裏側で機械的射精・ヘコヘコピュッピュをしているから、それが業(カルマ)による自己決定になってしまって、主体・ソウルの享受に対する決定的な不能要因になってしまっているのだ/決してオナニーをしてはいけないということではないし、機械的射精が病気だと言っているのでもない、ただそれば恋愛でもなければセックスでもないということ、処理するのはいいが肯定してはいけないということだ。
少年少女は、現代においては発育もよいし、端末から情報が得られるので、中学生ぐらいになればヘコヘコピュッピュに必要な、身体と環境の要件は整うだろう、だが彼らが相互に合意してヘコヘコピュッピュをして「気持ちイイ」となったところで、彼らはそれでセックスをしたと思い込むから、それ以降はもう機械的射精の周辺にたむろする獣にしかなれない/機械的射精をするなら、柔軟な筒を用意して電動器具でブーンとやっても同じなのだ、それでいわゆる「性癖」がこじれて、こじれた性癖に支配される、こじれた性癖を自分の愛のカミサマだと思っているからだ、何度も言うように「生きものは機械」なのだから、電動器具と同じだ、基本的にヘコヘコピュッピュを愛のカミサマ扱いした人は土下座しても戻ってこられない、そりゃ愛のカミサマを電動器具と同列に並べた者がどんな許しを得て戻ってこられるものか、このパターンはたいてい致命的にアウトになる。
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まったくわからない方法、よろこびを下さるもの
分のスコア "だけ" を信じるという方法、およびそれが報われる瞬間が、特殊な意味においてサイコーだということ、つまり「完璧」にサイコーだということを、わたしも少しは知っている。
自分のスコア "だけ" を信じ、最優秀スコアの者として、そこにいる一番いい女をブッコ抜いて、好き放題にヤッてしまうということが、どういう意味で格別にイイのかも、わたしはよく知っている。
わたしがその宗派を辞めてしまったのも、つまるところ、そのサイコーの味が、サイコーなのに「好きじゃなかった」ということに尽きるだろう、これ以上サイコーなものはありえないとわかっているのに、そのサイコーの味が「好きじゃない」のだ、アホみたいなプリミティブな話だが、けっきょくそれが事実だったと思う。
自分のスコア "だけ" を信じるという方法は、実にわかりやすく、いずれ報われたときに得られる歓喜も、その完璧さも、その無敵さも、よくわかるのだ、紛れもなく自分で信じ、自分で獲得したよろこびがそこにある、自分で獲得したものだからこそ、誰にも後ろ指をさされることがない、それはもう自慢する必要もなければマウントを取りに行く必要もない内なる誇りの達成感だ/この、よくわかる、自分で獲得するよろこびを、わたしは否定する側に立った、ただその味が「サイコーに分かる」ということが、味として好きじゃないという一点において。

自分のスコア "だけ" を信じ、自分のスコアを最上位にならしめ、その証をもって自ら獲得したよろこびにまみえるということは、誰にとってもよく分かる話だ。
一方、何のスコアもなく、スコアを並べるということにも参画せず、何か知らんが「うようよ、へぷんつるぎ〜」と言っている、そんなことによろこびがあるわけがない/少なくとも、そのよろこびは「分からない」、そんなことによろこひがある「わけがない」。
にもかかわらず、なぜか世界が、わたしによろこびをくれるということ、下さるということがある、つまり理屈に合わないということ、自ら獲得するよろこびをすべて放棄しているのに、このよろこぴゼロであるべきはずの者が、何かによってこの世界からよろこびを下賜されるということ/普通なら薬物を使わないと、錯覚さえさせてもらえないよろこびの下賜だ、わたしの生はほとんど、本当にそんなことがあるのかないのかを、己が身で試したような生だと言える。
結果的にわたしの知ったことは、「求める」ということについて、A.自分で獲得しにいく、という誤解があって、B.誰かがくれるまでピクリとも動かない、という正しい「求める」を、ほとんど誰も採れないということだ、何かを求めるというとき、自分でそれを獲得しにいくということは、それを自分にくれるようなものは存在しないと判断しているということになる/だからわたしは常々言っているのだ、偉大なるおれさまのところに、さっさと残高600億円と、献身的な美女と美少女会わせて7万2000人が "降ってこい" と、わたしはそのように求めているのであって、それをわたしから獲得しにいこうとは一切しない、それがわたしの知る「求める」ということだ。

わたしが獲得したものはゼロだし、これから獲得しにいくものもゼロだ。

わたしが言うのは常々、ただひとつのこと、「はよ降ってこいや」だけだ、とはいえ望めば何だって降ってくるのだが、実際に降ってきたらそれはそれで「忙しくなるからちょっと……」と怯んでいるところもある、だからその件については未だ降ってこないのだ、おれが自分でせき止めているだけだな、まあ今のペースがちょうどいいので……(怠慢)。
わたしが何かを獲得しにいくということはない、そもそも獲得しにいくという発想はザコのする発想なのだ、わかるだろ? といって、誰もがこの言いぶりに笑ってくれることをわたしは望む、おれには必ず降ってくるのだ、それは獲得しにいくなんてインチキをわたしが一切やらないからに尽きる。
正しく見ないとな | comments(0) |
自分のスコア "だけ" を信じるという方法
から十六年前、アテネオリンピックで北島康介が勝ちきり、まだプールに浸かったままの直後のコメントで「チョー気持ちいい!」とはっきり発言し、それがその年の流行語になった。
わたしは当時のことを憶えているが、わたしは当の発言に強い違和感を覚えた、むろん金メダルを獲った選手に悪口を言う意図ではないが、わたしはスポーツ選手ではないため、「チョー気持ちいい!」という発言が為されることは発想になかった/今になって、その選手と発言の心理・精神・現象にわたしは仮想としてアプローチできる。
一心に、自分のスコアを信じてやってきた、そりゃ当たり前だ、トップランカーの選手なのだから/そして水中から顔を出し、ゴーグルを外して見上げるところ、やはり自分のスコアが一位だった、「一位だ」、そのとき当然、「ほらな」と選手としての夢がそこに現成したに違いない。
一心に、自分のスコアを信じてやってきた、そりゃそうだろう、信じるものがそこにあり、しかもその信じたものは彼に報いたのだ、チョー気持ちいいというその瞬間もうなずける/もしスポーツ選手が自分のスコアを信じなかったら、途端にすべてはむなしいものになってしまうだろう、自分が信じたものが報われるというのはサイコーの瞬間だ、自分のスコアが最上位で、それを上回るものは誰もいないという瞬間は、当人に無上の満足を与える。

わたし自身、そういったことを知らないわけではない、わたしは何も劣等な生きものとして生きてきたわけではなかったから/たとえば小学校のときに腕相撲で学年のチャンピオンになったことがある、けれどもわたしはそのとき、照れ隠しに笑ってみせたが、なぜかわたしは歓喜を覚えなかった、別に何の誘惑も覚えなかったし、何かとにかく「やりすごそう」とする振る舞いばかりがわたしにあった。
わたしは丸の内で総合商社に勤めていたとき、もう一度そのような、自分のスコアを信じるという方法をやってみたことがある、自分のスコア「だけ」を信じるのだ、それは一般に競争と言われるが、本当の意味では競争なんかしていない、信じているのは自分のスコア「だけ」だから……それでけっきょく一位になれば、どのような状態がおとずれるかを、わたしは知らないではない、どのような状態になるかというと「迷いがなくなる」という状態だ、何しろ自分の信じたものが報われたのだから、もう誰かの何かと比較する必要がない。
自分が正しいということの「証」がもう出ているのだから、もう誰の言うことも真に受ける必要はなく、また誰のことを真から気に掛ける必要もない、他の誰かが正しい必要がなくなるのだ、だから自分は自分限りで満足できるような気になる、まさにそのとおりで、他の誰かから――他人から――干渉を受けることがなくなる、そのときはきっとサルトルもひとつの完成・完璧さをそこに見いだすだろう。
もし自分のスコア「だけ」を信じるということを、やめてしまったら、すべてのことがむなしくなり、何もしないし何にも燃えない、端的に言うと「人間のクズ」のようになってしまうだろう、燃えさかった者は必ずその後も、次の形態として「わたしのスコアだけを信じる」という状態を模索しにいくだろう、他のすべてのものは一切見えなくなる「純粋」な状態だ、それはまた報われたときに「チョー気持ちいい」になる、なるほどこの状態は完璧無比であるため、わたし自身、なぜその方法を辞したのかが今もって自分でもわからない。

完璧なのだ、それは誰もよろこびを下さらないほどに。

困ったことに、「自分のスコアだけを信じる」という方法は、完璧すぎてほころびがない、理論上は本当に完璧無比の方法だ、だからこの方法は "崩せない" という性質がある。
完璧なのにそれが誤りだとしたら、どうやってそれを崩せようか? 方法はきっと「ない」のだ、「脱出できない完璧な誤り」というのが理論上存在する/だからむしろ「迷い」が生じることがあれば、そのほうが幸福なのだ、迷いが生じるということは、まだ完璧な誤りに吸い込まれてはいないということだから。
視点変えてこ | comments(0) |
オカズのある男はけっこう幸福

少年向けに、次々に乳デカ尻見せ女の記号が、アニメ等で大量生産されているのを見ると、やはり「こうまでして男は女を必要としている」という感を受ける。
そして同時に、男というのは、ついにシンボル的に女を得られたら、それでなんとかやっていけるのだと思う/逆に女のほうは、けっきょく生身の男の存在が必要で、シンボル的に男をあがめてもそれだけでは満たされないようだ、それがなぜなのかはわたしにはわからない。
男はけっきょく、おっさんになっても、アニメ化・記号化した女をシンボルにしてオナニーしていれば割とやっていけそうなのだが、女はどうもそうではないらしい、女がオバサンになってアニメ化・記号化した男をシンボルにしてオナニーというのは厳しいようだ、だからおばさん向けの生身アイドル男は存在しても、おばさん向けのアニメ記号男は存在しない。
男には、自らセックスを仕掛ける主体性がある(つまりペニスがある)ので、記号化した女をシンボルにして空想上でセックスできるが、女には自らセックスを仕掛ける主体性が具有されていないので、記号化した男をシンボルにして立てているだけでは、空想上でセックスできないのだ、女がセックスを空想するには「男」という記号描写だけではなく「セックス」という行為そのものの描写が必要になる。

かといって、「男」が別の女とセックスしている描写を元にオナニーはできないので(それでは自分がアホらしすぎる)、「男」が別の「男」とセックスしている描写を求めることになる、それで昔から腐女子と呼ばれる女性たちが大勢力として生じる。
わかりにくいだろうか? まあこんな話、わからなくていいのだが……わかりやすく言うと、男には「女」という記号だけで足りるが、女には「セックス行為」の記号が必要だということだ、だから男どもが女記号に拠ってオナニーしている絵面には一種の気楽な笑いがあるが、女たちがセックス記号に拠ってオナニーしている絵面には一種の不具めいたシリアスさが伴う。
男にも女にもいわゆる性欲はあるだろうが、その形態が異なっているのだ、男は「女」という記号に向けて性欲を覚えるのに対し、女は「セックス行為」という記号に向けて性欲を覚えている/男の前には女を置いておけばそれだけでムラムラするのだが、女の前には男ではなく「セックス行為」を置いておかないとムラムラしない、それで自然に、女は男記号と男記号のセックス行為を空想するようになる。
ヘンな例え話にすると、われわれが釣りキチではなかったとして、目の前に大きなマダイの写真をおかれても、それは食材として「おいしそう」と見えるだけで、釣りを「ヤリたい!!」とはならない、ところが釣りキチというのは釣り竿を具有しているものだから、大きなマダイという記号を見ると釣りを「ヤリたい!!」となるのだ、そして釣りキチでないわれわれがふと釣りを「やってみたい」と発想するのは、「魚」を見たときではなく「釣り」という現場を見たときだ、目の前で釣りをやっていたら「わたしもやってみたい」とムラムラする、このように同じように見える衝動でも実は機構や形態が異なっているということがある。

男はオカズだけで幸福になれるが、女はオカズだけでは幸福になれない。

なんというか、ここに日本刀と鞘を空想するとして、「日本刀だけ実物があって鞘を空想して納刀する」ということと、「鞘だけ実物があって日本刀を空想して抜刀する」ということとでは、どうしても後者、鞘しか実物がないというのは空虚だ。
というわけで、こんな話を理解しても何の足しにもならないのだが(すまん)、あくまで青少年は、そうまでして女を求めていて、実は女の記号を得られているだけで、それなりに幸福になれるのだった/こんなことはあくまで若いうちの話であって、大人になってから考えるようなことではない、つまりそのまま二十年ほど放置しておけば解決も必要なく消えていくので、もともとどうでもいい話なのであった。

視点変えてこ | comments(0) |
生きものは機械であり、これから取って代わられる機械だ3
もむつかしい話ではなく、単純な話。
経営者は、人が生きものとして「機械」だということをよく知っているのだ。
経営者が、これまでその「機械」をアナログで操作していたところ、これからはAIでデジタルに操作するというだけ。
より単純化すると、たとえばカブトムシの飼育と繁殖をするのに、気温やら湿度やらエサのタイミングやらは、AIが判断して差し支えないじゃないか、今のところ予算が合わないから人力でやっているだけで/それと同じように、人も扱われるということで、何も珍しいことはない、ただこれまで隠されていたことが堂々と明るみに出るだけだ。

何も新しく危機的なフェーズがやってくるわけではない。
これまで隠されていたことが、堂々と明るみに出るだけだ、つまりこれまでわれわれはまるで社会に「人」として扱ってもらっているように錯覚していたが、実はそうではなかったということが明るみに出るだけだ/カブトムシの飼育と一緒じゃん!! ということが、これから「まあいいでしょ、今さら」と明るみに出るだけだ、確かに今さらそんな尊厳問題に立ち向かうような気力も知力もわれわれには残されていない。
経営者は、「機械的生きもの」としてのあなたをよく見ており、「霊的な命あるもの」としてのあなたは見ていない、見ていないというか、そんなものを否定しているのが経営者だ、もちろんそうではない経営者も一部にはあるだろうけれど、ここでは捨象して分かりやすくする/どういうカタにハメたらどういう挙動をするか、その機械的生きものとしての性質をよく知っているだけで、命がどうこうなんてことは「けっきょく、そんなもの "無い" よね」というのが経営者の持論だ。
経営者が知っているのは、高めのエサ(給与)を置くと、生きものがワラワラ寄ってくるという事実だ、この生きもので再生産を営み、また高めのエサを仕入れるということ、それで「結果的に生きものが繁栄するのだからいいだろ」と考え、それが自分の役目だと経営者は自負している、むろんそのことは間違っていない/ただ実際に、高めのエサを置いたらどれぐらい生きものがワラワラ寄ってくるかということを、肌身で知っている人は少ない、これらの経験的データと肌身の感触は、すべてAIに代入して合理的な演算の代行をさせることができる。

生きものは機械だが、機械として唯一の不明点は、ときどき「悲鳴」を上げるということだ。

生きものは機械であり、本能というメカニズムで駆動している、そして本能要件を満たして駆動していれば何の問題もありえないはずなのだが、にも関わらずときどきエラーのような「悲鳴」をあげる、これが何なのかわからないのだ、経営者は「???」となるし、悲鳴を上げた当人も「???」となっている。
「閉じ込めて」「生殺与奪を握り」「共食い競争させる」ということでプロになる、その中で誰かが頂点を獲ったり土に還ったりするが、そのことに誰も不平不満はないのだ、当たり前のことだから、ところがこのすべて納得ずくのシステムの中で、不明の「悲鳴」がしばしばあがる、「君は機械ではないのか」と恫喝されると一言も返せないのだが、納得ずくのはずが「悲鳴」があがる。
正しく見ないとな | comments(0) |
生きものは機械であり、これから取って代わられる機械だ2
きものは機械なのだ、そのことは各業界の経営者がよく分かっていると思う。
生きものは有機的であり、つまりタンパク質から成って生存本能によって駆動する機械体ということだが、これがいかに機械的なものかは、各業界の経営者がよく分かっている/第一に一定「閉じ込める」こと、第二に一定「生を支配する(生殺与奪を握る)」こと、第三に一定「マウントのルールを与えて競争させる」こと、こうすることで一定の「業界」が出現し、この業界を作った者は業界を支配する ruler になる。
このことが分かっていれば、何も難しい顔をして、厳しい指導をしたり、叱咤激励する必要はないのだ、ニコニコして閉じ込め、ニコニコして生殺与奪を握り、ニコニコしてマウントのルールと競争を与えらればいい、そうしたら本当にガラスケースの中の昆虫たちのように、機械的に生態系を運営しはじめる、誰かがその生態系の頂点に登りつめ、破れた者は土に還るのだ、そのことはガラスケースの外側には漏れない。
そもそも「機械」というものが概ね、金属と歯車でガチャコン動いているというイメージで定義されているのが誤りだ、タンパク質でだって機会は作れる、むしろ生きものの業が作り出す機械のほうが精密で未だ人智の及ぶところにない/たとえば動物細胞は電荷交換を得るのにプロトンポンプのメカを持っているのだ、分子細胞生物学で知られる「生きものの機械性」は驚嘆に値する、未だに生きものの免疫システムがどのように「異物」を検出して選択的に攻撃しているのか、現在の人類の知識では分からないのだ。

何をもって「私」かというと、一般的な意味での「私」は、そうしてガラスケースの中で生態系を運営しはじめること、その性質をもって「私」だ/仏典にはそのように堂々と書いてある、「カルマが私である」と書いてあって実にそっけない。
生まれたての子が母親を愛することや、いじめられた者がときに烈火のごとき反撃に出ることは、機械的なことであって、タンパク質のメカに組み込まれているのだ、だからカルガモの子はひたむきに親についていくし、いじめられた犬はときに無制御に人に噛みつくことがある。
もしここに、カミサマが存在するという仮説を採るならば、カミサマはあくまでそうしたあわれな生きものたちに「慈悲」「愛」「あわれみ」を掛けているという説なのであって、生きものの機械性そのものが神なのではない/よく「本能」というが、ダンゴムシには左折と右折を必ず交互に繰り返すという本能があるし、カワハギはアミノ酸の匂いを嗅ぎつけるという本能がある、漁師はこの本能を利用してカワハギを獲るのだし、似たように経営者は生きものの本能を眺めながらそのガラスケース内の生態系を管理している。
新宿歌舞伎町で若い愚連隊がケンカをしていたとしても、それより山林でイノシシを狩る猟師を武装させて乗り込ませたほうが、よっぽど怖いだろう、猟師たちは生きもののどこを殴れば気絶するかをよく知っており、生きものを手際よく絶命させるにはどこを突けばいいかをよく知っている、「プロ」というのはそういうことなのだ、プロの経営者であれプロの猟師であれ、生きものの機械性をよく知っていて、その操作と停止の仕方をよく分かっている、つまり自他の本能の機械性を操作するのがプロだ、逆にプロになりきった人は、生きものが何ら神ではないということをよく知っているだろう、彼らは神を誤解した生きものたちを操る仕方だけがまざまざと視えてしまっている。

AIが自我を持つことはないが、AIが経営判断だけを下すだろう。

このことを、経営者たちはすでに読み取っているはずだ、経営者は人体の機械性をよく知っているので、いつもその機械の操作方法を演算している、その操作方法はまさに機械的なものだから、わざわざ頭を捻らなくてもAIが妙案を出力してくれるはずだ/つまりAIが「このように閉じ込めなさい」「このように生殺与奪を握りなさい」「このように共食いさせ、競わせなさい」ということを判断し、結果的に人々はAIの案に基づいて「恫喝」されて支配を受けつづけることになる。
よくSF映画のノリで、AIが自我をもって人類を滅ぼしに来るというモチーフがあるが、これは大いなる誤解に基づいている、AIはただの機械なのだから主体を持つことはありえない、そうではないのだ、AIが主体を持つのではなく人が主体を放棄しているのが真相であって、AIが人格化するのではなく人が機械化しているというのが実態だ、AIが何かをやり始めるということではなく、あなたが何もやり始めないということ/他ならぬあなた自身、機械的なこと以外は何もしないという事実があるだろう、あなたはただ機械的な生きものとしてすべての日々を過ごそうとしており、そのあなたがAIに勝りようがないという事実に直面するときが近づいている。
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生きものは機械であり、これから取って代わられる機械だ
とえば「音楽の演奏」を考えたとして、音楽の演奏じたいは誰でも出来るのだ、それじたいは機械的なことだから。
その機械的なことを、どのようにして学ぶかというと、人を機械にしてしまえばいい、つまり閉じ込めて肉体に「この作業をせねば生を奪う」と通告すればいい、そうすると思いがけず、人体は機械化して機械的作業を驚くべき精度で学習する。
要点は「閉じ込める」ということ、そして「生を人質に取ること」だ、この二点に加えて「共食いさせる」「同業者で競争させる」という三点目が加わると、学習は加速して次の段階まで「発達」するということが得られる。
これがいわゆる、業者でありプロフェッションであり、また単純な「職人」だ、肝腎なことは「閉じ込めて外に出さない」ということ、大昔でいえば遊郭と同じ仕組みだ、それで女だって苦界のプロになる(むかし遊郭の女性は遊郭の塀の外に出られなかった)/子供をピアノ部屋に閉じ込めて、決して外に出さないこと、そして「弾かないならそこで飢え死にしなさい」と通告すること、この通告がマジだとわかったとき、生きるというシステムは勝手に学習する、それ以外に熱血やら厳しい指導とやらは無用だ、これらはすべて生きものの持つ「生きる」というシステムを凄絶化して運用しているにすぎないので、精神的なものは関係ない。

だから世の中の「職業」すべてを見ればわかるが、職業のすべては、1.「毎日そこに一定時間閉じ込められている」 2.「その職業を失えば生きていくことが困難になる」 3.「同業他社がおり、競争に負ければマウントされ生きていけなくなる」、という性質で形成されている。
それが「プロ」ということなのだ、プロフェッションというのはこのように機械的に形成されるもので、生身が健常であれば当人の意志や資質に関係なく、何かしらのプロになれる、ただ「閉じ込めて生を人質に取る、および同業と競争させる」という手続きで人体の生を機械化すればいいだけだ。
学業だってそうだし部活動だってそうだ、部活動だって「閉じ込め」「将来の生計や繁殖の有利さに関わる」「共食い、レギュラー争い、ライバルチームと競争させる」ということで成り立っている、こうして生のシステムにあやかれば、精神的なものは必要ないし、当人の意志も必要ないのだ。
問題はその逆、「解放されて」「生には無関係で」「競争相手もマウント対象もない」となると、こちらのほうは精神的なものが要る、本人の意志も資質も要るのだ、師も必要になるし指導も必要になる/閉じ込め教室もなければ試験もコンクールもない、ましてプロでもないのにという状態でピアノを弾こうと思えば、もう音楽の世界そのものが聞こえている必要がある、そうした原理から音楽を演奏している人はごくまれだ、つまり機械的に演奏している人が99.9%以上で、音楽的に演奏している人が0.01%未満というのが事実だ、それはつまり99.9%の人が「精神」などというものとは何の関係もなく、ただ生のシステムによって生きてそのまま死んでいくだけという事実の反映に他ならない。

そして今後、一切の機械的プロは、「AI」というより優れた機械に取って代わられる。

AIで動くセックスアンドロイドが出来れば、遊郭のプロ女性は必要なくなるし、職業的な「妻」も必要なくなるだろう、役所の手続き受付も、兵隊さえも要らなくなる、養殖した魚を捌くのはAIロボットがやってくれるだろう、そうしてやがてはすべての「職業」そのものがなくなるのだ/事実、音楽の演奏を例にしたとき、器楽もヴォーカルも、AIに「調教」を与えれば、機械的な演奏は優れて得られる、あとはその「調教」をAIじたいがやるようになればいいのだ、AIによるAI調教、このことはすでに数年後には一般に具現化しているだろう。
ことの本質は、「AIに取って代わられる」ということではなく、「なぜ人が機械のふりをしてきたの」「機械ではないクセに」ということだ、今後は機械的に優秀な演奏は何の用事もなくなるということ、それより「愉快なお前を聞かせてくれよ」ということになるのだが、そう言われると機械的な99.9%以上の人は沈黙して逃亡するのだった、マウントで育った彼らには何の精神もないからだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
手入れと装飾
「手入れ」と「装飾」は別だ。
どんな庭でも手入れをしていないと、落ち葉だらけの雑草だらけになる。
一方、庭に金ぴかの灯籠を置きまくるというのは、装飾であって手入れではない。
女性が髪を切って爪を整えて化粧するのだって、手入れという側面があり、また装飾という側面もある。

基本的に、人は己の身ひとつで勝負するつもりでいなくてはならないから、装飾に頼るのは誤りだ、装飾してはいけないということではなく、装飾に "頼る" のが誤りということ。
単純に言って、化粧して十万円のドレスを着ていて「魅力的!」という女が、化粧を落としてジャージを着た途端に「魅力減!」というのでは、話としてバカバカしすぎる/舞台でライティングとズンドコ音響を受けているときは「かっこいい!」となって、化粧を落として路上で見たら「凡人!」というのでは、要するに単なるフェイクになってしまう。
マイケルジャクソンのプライベート映像を観ても、やはりそれはマイケルジャクソンにしか見えないし、桑田佳祐のプライベート映像だってやはり桑田佳祐にしか見えないのだから、すべての人はそうあるべきだ/装飾に頼った途端「○○!」に見えて、装飾を除去したら「○○に見えない」というのでは、フェイクだということ、それは装飾を使っているのではなく、装飾で人をダマしているだけだ。
一方、そうした装飾を否定するとして、一切の「手入れ」までしなくなる人がいるが、それは傲慢だ、手入れなしで様式を保てるものといえば大自然しかないのだ、ただの一個人が大自然ぶるのは不遜というもの/おれも人のことはいえないが、手入れはちゃんとするべきものであって、一方で装飾を加えるにしても、よりその人が「○○」であることが見えるようにするべきであり、ありもしない人物をフェイクで作り出すのは正しい装飾ではない。

誰でもない者が、装飾でごまかすことはできないし、また「手入れなし」でごまかすこともできない。

装飾でフェイク人物を作り出すのはごまかしだし、「手入れなし」で無頓着ぶるのもまたごまかしなのだ、それは「ありのまま」という思想を資格無しにイージーに標榜しているにすぎない。
装飾しないと「恥ずかしい」「負ける」と感じる人もいるだろうし、「手入れなし」と言い張るしか恥ずかしくない方法がないという人も多いだろうが、それらはすべて偽装であって、つまり「なぜわたしは恥ずかしい本体なのだろう」と考えねばならない、それを取り繕う方法は "無い" のだ/「どうすればいい」というのではなく「どうにもできない」ということ、己の恥ずかしさに耐えるしかないのだ、そこにフェイクやごまかしを取り除いてはじめて自分に向き合うことができ、そこから何年でも生きる値打ちが出てくる。
できるオンナだね | comments(0) |
私がアガって世界がサガる
でもしんどいときがあり、エネルギーが足りずに苦しむ、そんなときどうしても「私」をアゲないといけない。
「私」をアゲるにはどうするか、たとえば電動マッサージ器を股間に当ててオーガズムを得るときたいてい「私」がアガるのだが、その他にも色々、筋トレとその成果を確認したり、SNSで「いいね」をもらったり、内心でいろんな妄想や空想、何かありもしない差別やマウント意識を奮い立たせると「私」がアガる/今多くの人が、そうして「私」をアゲることで毎日を食いつないでいる。
しかし結果的に、「私」をアゲることで、当人はしんどくなるのだ、この現象を「罪」という、一般に知られている社会的・法的な罪とは別の、魂の罪だ/「私」をアゲることで、一時的にパワーが得られるのだが、そのぶん世界は汚らしく淀み、結果的にしんどくなる、この仕組みはほとんど誰にも知られていない。
しんどいときは「私」をアゲる、無意識に誰もがそうしているのだが、そうして「私」をアゲるときには、「世界」をサゲているのだ、「最近の男ってさあ」と言うとき、「私」はアガるのだが、「世界」はサゲているだろう、そうして彼女は今日からまたワンランク下がった世界を生きねばならないのだ、自分をワンランク下等な世界に生きるものにしている、そのことを無意識に何十万回と繰り返して現在に到っている/だから今朝も明日も明後日もよろこばしくはなく、明日もまた同じように「私」をアゲて「世界」をサゲるのだ。

表面上、「罪」をやれば元気になるのだ、元気になって強くなる、自信も得られる、そして今日を生きていけるようになる。
でもそれは、「罪」というのがつまり、「私」をアゲて「世界」をサゲるということだからだ/主たる「世界」をサゲて、激情のサタンと傲慢のルシファーに供物を捧げることで、褒美として「私」がアガり、力を得て元気になり自信も得られる、当人は何も悪いことはしていないつもりだが、当人がどんな「つもり」でもそれは魂の「罪」を構成する、こんなこと誰も気づくわけがねー。
おれは常々、自分のことを「偉大なるおれさま」と言い、まあ天才だからな〜と嘯いているが、このことでわたしが罪を帯びないのは、わたしが言うところの「おれ」というのは、天のもの・天才であって、一般的な私心を指す「私」ではないからだ/わたしはあなたのことをバカにしているのではなく、「私」をサゲて「世界」をアゲているのだ、そうするとサタンルシファーから褒美はもらえないのだが、そのぶん反対のものから祝福がもらえる。
「私」をアゲるということは、同時に「世界」をサゲるということであり、それは自動的に「罪」になる、この場合の「罪」とはいわゆる「悪いこと」ではないというのがポイントだ、誰も悪いことなんかしていない、ただ「罪」とは「悪いこと」と思い込まされたことによって、だまされ続けてきたにすぎない/「罪」というのは「悪いこと」ではなく「正しくないこと」だ、「正でなく逆のこと」およびそれによってもたらされる現象のことを「罪」と呼ぶのだ、だから何も悪いことをしていないあなたがすさまじい罪にまみれているのは何の不思議もない。

わたしは王の世界におけるゴミだが、誰かはゴミの世界における王だ。

「王の世界におけるゴミ」と、「ゴミの世界における王」は、どちらが勝るのか? という問いだ、まあその問いの答えにわたしは興味がないが、わたしは王の世界におけるゴミという立場であって、他方の事情がどんな具合かは知らないし、わたしが知っても意味が無いことだ。
それにしても、わたしは「偉大なるおれさま」と言うわけだが、それはわたしが王の従僕であって、王の命令から逸脱した「私」なんか持ち合わせていないからだ、わたしを支配している王の命令をもって「偉大なるおれさま」と言っている/つまりおれのようなゴミでも、王の命令があれば偉大になるということだ、「控えおろう」というやつ、ゴミのような町人でも三つ葉葵や「御用」のマークを持っていたら人々が「へへー」とひれ伏すように、王の命令を受けている以上は偉大なるおれさまだ、これがゴミの世界の王とどう対立するのかは知らないが、その二つはどうしたって戦(いくさ)になるしかないのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 1/20更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第百三十四回】1月24日(金)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百三十五回】1月25日(土)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百三十六回】1月31日(金)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百三十七回】2月1日(土)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百三十八回】2月7日(金)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百三十九回】2月8日(土)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ



(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。夏場世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第101回】2月15日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第102回】3月21日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第103回】4月18日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


秘密にやっていることがあなたの主人になるわけですし


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

ワークショップ | comments(0) |
パーティ報告100(2)/爆裂的祝祭
100回は、いつもどおりのパーティのはずだったが、異様な盛り上がりがあった、単におれが飲み過ぎたというのもあるかもしれないが、ちょっと異常なぐらい全員が笑ったように思う。
誰か、気づいたかどうかわからないが、あの夜はちょっと特殊な夜だった、それはわれわれの占めている個室だけではなく、フロアの全体において/別に誰も気づかなくてよいし、気づいたとしても夢の一種みたいなもので、ノンフィクション的には把握不可能なことだが、とにかくスケールの違う夜だった、いつか誰かがこの夜にあったことをずっと先に思い出すかもしれない。
いつもどおりのはずだったのだが、何かが幾度か、爆裂して起こったような……そしてまたおれは、膨大な祝いの品を受け取ってしまった、ちょっと恐縮すぎてここに書く気にはなれないが、とにかく存分に遊ばせてもらう/すさまじい夜だった、またアニバーサリーもののスコッチを持ち込んだのも、プラスシャンパンが持ち込まれたのも、酒が旨すぎて、爆裂的に酔っ払うのに拍車が掛かった、ところであのケーキも何か異様に威風が漂っていたな、われわれ一般人が見るようなシロモノではないような感じだったが……
爆裂、何かが何度も響き渡っていた、まだ多くを聞き取れている人はいないと思うが、もし全部聞き取れたらお前らみたいなモンはまだ気絶してしまうだろう、何かとんでもない爆裂が響いていたのだ、それは単にわれわれがはしゃいでいたのではない、過剰な祝祭が明らかにフロアの全体をおかしくしていた。

ずっと後になって、誰かが思い出すだろうか? その機会を得た者がもしいたら幸いだ。
祝祭しかない夜、カーニバルの文学、この世界のほとんどの人はああした夜を一度でも体験することはない/そのことに、ずっと後になって誰かが気づくだろうか。
わたしは100回やりましたよ、あのとき考えたときは気が遠くなりましたが、そのとおり気が遠くなりながらここまでやってまいりました、わたしはなるべく気が遠くなるように生きているのですから、実際にこうしたことが起こるのです。
このとおり、100回までやったので、次は規模を100倍にしようかな、なんにせよ楽しくやりましょう/ここまでやってくるのに、面白くない回は一度もなかったろう、そりゃおれがやるかぎり面白くないなんてことはありえない、第100回は特に面白かったが、あの夜はいささかおれの力量じゃないね、あんな空が割れるような笑いが爆裂することはさすがに人為的には無理だ。

無数のうつくしい夜のうち、この夜のことも殿堂入りにしておきます。

というわけで、第100回の夜は、まったくおめでとうという、爆裂的祝祭に満ちたのであった、そして各員も、たまたまそこに紛れ込めたことはラッキーだった、賢い人は決して出しゃばらないだろう、この夜は我の夜ではなく彼の夜なのだから、そしてそのことへつながりを得た者のみ、今度は出しゃばってゆかねばならない(彼のために)。
今度は何をしようかな、すべてのことは過去にならず、ただますます遊ぶという案が出ている、実はわたしが遊ぶことがすべてへの抜け道、すべてへの近道なのではないかと、予兆が出ているのだ、この夜が何だったのかはずっと「わからない」のまま残って、わたしはこれからもまたそうして「わからない」のまま残る夜をたくらみに歩いてゆこうと思う、わたしの秘密といえばそうした秘密ばかりなのだ。
パーティ | comments(0) |
パーティ報告100(1)/おれが遊んだという事実は消えない
ーティが第100回に到達した。
第一回は2004年のことだ、2004年といえばもう大昔のことで、何しろニンテンドーDSとプレイステーションポータブル(PSP)が "発売" された年だ、映画は「ラストサムライ」とかのころで、サザンが「君こそスターだ」を出して、世間はアテネオリンピックで「チョー気持ちいい」、「ヨン様」が流行して「マツケンサンバ」が流行って邦画は「半落ち」でドラマは「セカチュー」だ、古代も古代、もう白亜紀より昔に感じる。
2004年というと、つまり若い世代はもう記憶にないというか、まだまともに物心もついていないほどの昔ということになるが、我ながら執念深い話、わたしはそのときから現在までずっとひとつのことを追いかけてきたということだ/よもや今の時代、ヨン様のころから何かひとつのものを途絶えず追いかけ続けてきたという人はあるまい。
わたしにとっては、誰にも知られなくていい話、 "あのとき" の自分から今日の自分までが、途切れずに続いているということになる、わたしが何のために100回および次の101回にも続いて遊ぼうとするかというと、 "あのとき" の自分を裏切りたくないからだ、あのときの自分に対して現在も、「はあ? 今もこのとおりやってますけど?」と悪辣な態度を向けたい、わたしはタチの悪い奴でいたいのだ、目を細めて昔のことを遠く見遣るなんてことをわたしは決してやりたくない。

わたしはタチの悪い奴なので、たとえば「継続は力なり」というと、わたしはただちに「いや、力なんか要らんので」と答える/継続が力になるのだったら、じゃあ継続はやめようね〜と悪態をつきたおすのがわたしだ、わたしは邪悪がしたいのではない、ただわたしは自分の人気を落としたいだけだ。
パーティは第100回まで継続したように見えるが、そうではない、第100回は一回目なのだ、そりゃそうだ、二回目の第100回ということはない/第一回は一回きりだし、第100回も一回きりだ、2020年の1月20日も一回きりだ、どうねじくってももう一度この日がやってくるということはない、すべてのカレンダーは必ず使い捨てでしかありえない。
次は第101回になるのだが、おれにとって第101回は初めてのことだ、つまり初回ということであって、わたしは初回を積み重ねているのだ、つまりあのときのアホがおっ始めたことを、今も続けているというのではなく、今もそのおっ始めるアホが変わっていないということだ、わたしは何かを二回目まで繰り返したことが一度もない。
「継続は力なり」というと、つまり「力に依存してるんすね!!」と言いたくなるのがわたしの性分、わたしは力なんか持たずに他人をやすやす踏みにじるのが好きだ、力ある人はむろんわたしをつぶせると思うが、それはけっきょく「力に依存しているんすね!!」という指摘を自分で上塗りすることにしかならない/ニンテンドーDSが発売されたころから、あるいはさらにその以前から、わたしは商業や共同体に自分の所属を決められるのがきらいで、そうではないわたし自身の声で自分の遊ぶ人を決めたかった、そして現在確かに、何の商業にも共同体にも関わりのない、ただおれの声とそれを聞いた人が遊びに来てくれている、理由は特にない、理由は特になくて、ただあるのは一般に人は生きているうち一度たりとも自分限りで人に出会うなんてことなんてないという事実だ、わたしにはどうしてもそのことが耐えられなかった。

「過ぎ去りし過去」は世界で一番ダサい。

「過去」というのはそのとおり「過ぎ去ったもの」ということだが、過ぎ去ったということはつまり消えて失敗したということだ、それはダサいということだろう、人はわたしに「なぜ過ぎ去らないのだ」と訝しめばいい、わたしは過ぎて去るようなものは初めから出会わないし認めもしないのだ/わたしは何も保存する必要がない、なにひとつ過ぎ去らないのなら保存する必要がない。
この世はすべて泡沫の夢というが、それはただの失敗野郎の自己防御の捨て台詞にすぎず、この世界には永遠のフィクションが輝き続けている、それがわからん奴は二度と口出しするなよ☆、わたしがこのように遊んだということは永遠に消えない、銀河系が吹っ飛んでもおれが遊んだという事実は永遠に消えない、おれには万感の思いというような性質はないが、ただこのようにどうつついても変わりようのない事実が欲しかった、わたしはこのように本当に遊びやがったのだ。
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