☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 10/24更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第百十二回】10月25日(金)19時〜19:00~世田谷公園、21:00~マイレッスンスタジオ
【第百十三回】10月26日(土)19時〜19:00~世田谷公園、22:00~マイレッスンスタジオ
【第百十四回】11月1日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第百十五回】11月2日(土)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第百十六回】11月8日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第百十七回】11月9日(土)19時〜@公園とスタジオ検討中


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第98回】11月16日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第99回】
12月21日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第100回】
1月18日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


グローバル化ですよグローバル化(今さら)


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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ひがみ、うぬぼれ、オピオイド/エネルギーを得るのはそんなに簡単じゃない3
去に比べて、優秀な人はものすごく増えた。
ウーマンリブの思想もあって、特に女性など、男性を寄せ付けず優秀な人がいくらでも出現してきた。
ところが、優秀でかつ、見た目までうつくしいと思える人が増える一方で、同性であれ異性であれ、その人を抱きしめたいだとか、その人と共に生きたいとか、その人といるとこころ安らいで幸せとか、魂の出会いに涙が出るとか、そういったことはなくなってしまった。
優秀な人は、大量に増えたに違いないが、一方で、やさしい人はぐっと少なくなった、どれだけやさしくしようと意識的に考えても、やさしくするということは小芝居になり、こころの底からは不可能になったはずだ、それは挙動の源、生きる力が、呪術によって得られているからに他ならない、今優秀な人のすさまじいエネルギー源は、大地でも何でもなく血のきしみ・呪術であって、エネルギーの仕入れ先として非正規であり、当人はそのことを教えられていない。

非正規品であれ、すさまじいエネルギーが得られるには違いないが、それにしても、非正規のエネルギーでは、営めないいくつかのことがあるし、現せないいくつかの徳性がある。
つまるところ、愛はやれないのだ、魂もやれない、言葉や物語、フィクションはやれない、血はノンフィクションのエネルギーだから、業(カルマ)から離脱する方向のことはやれない。
非正規のエネルギー、血のきしみ・呪術をエネルギー源にしているので、何もかもが次第にドギツく、腥(なまぐさ)いものになっていかざるをえないのだ、だから現代の優秀な人は、表面を頑強に糊塗する必要に駆られている、そして表面を頑強に糊塗するということについて、積極的に「アイドル」という方法が提示されてきたし、意識高い系やオラつき系、また現代の切羽詰まった「老人」が発生してきた。
誰も彼も、内部は非正規のエネルギー、「ひがみとうぬぼれ」という血のきしみをエネルギー源にして動いてきたから、内部の真相は開示できない状態なのだ、きしむ血のノンフィクションでギトギト、壮絶な生々しさが内部を支配している、しかもそれは呪術によって得られたものだから、解呪されないかぎり生涯その術から逃れられない、そして解呪といってもそんな方法が具体的にあるわけではないのだ。

優秀な人、見た目にきれいな人、媚びて惹かれる挙動、興味深げに見えるテーマ、すべて内部は血の呪術で作られたバケモノだ。

たとえば或る女性が、十代のころからファッションモデルで、経歴を見ると海外の優れた大学を出ていて、ツンツンしているかと思えば自撮りした動画では愛玩物のような振る舞いで、芸術に向けた演劇に挑戦中で「みなさん応援してください!」と言っていたとすると、その当人は表面を頑強に糊塗してあるだけで、中身は呪術が作り上げたバケモノだ、すさまじいひがみとすさまじいうぬぼれが循環するだけの激烈な血のきしみ、そのシステムだけで動いている、だからこそ当人は決して本当の声と言葉と表情を、人前に明かそうとはしない。
本人が、それを呪術と知って自分にほどこしたわけではないだろうけれど、誰が悪いかといえば自分が悪い、なんでもかんでも他人のせいに、また環境のせいにするのもいいかげんにしろよ、優秀さのカケラもないやつめ、誰が悪いかといえば自分が悪いのだ、天地のあいだにいて、大地からエネルギーを胴体の底に受けるという正規の手続きなく、つまりは己が傲りたかったから、知らず識らず呪術の誘いに乗ったのだろう、そんな甘っちょろいこと、何歳だろうが当人の責任に決まっている、血の呪術がなければ何のエネルギーもない身体が重いだけのでくの坊じゃないか。
正しく見ないとな | comments(0) |
ひがみ、うぬぼれ、オピオイド/エネルギーを得るのはそんなに簡単じゃない2
れはけっきょく、やりたくないことは一ミリもやらないので、この面倒くささを突破するには、やることを変えるしかない。
やることを変えるとなると、さしあたり、まあおれが威張っていればいいのじゃないかと思う/おれが誰か人のために話すというような、気色悪い世界は一ミリも許してはならない、おれは威張るだけ、てめーらは這いつくばるだけだ、それ以外の世界におれは一ミリも存在を許さないだろう。
エネルギーを得るのはそんなに簡単じゃないというのは、本来エネルギーを得るというのは、天地の中にあり、大地のエネルギーを胴体の底に受けて、それを生きるエネルギーにするということだからだ、このことは正しく生命と歴史を教わっていないと成り立たないし、教わった上で心身をそのように帰順させていないとそんなエネルギーの得られ方はしない。
じゃあどんなエネルギーの得方をしているかというと、呪術なのだ、呪術というとたとえばスズメバチの汁でも飲んでいそうな気がするが、実際に今もスズメバチドリンクは大人気で売っている、長距離ランナーなら知らない人はいないという有名ドリンクだ、何しろドーピングの項目には引っかからない/ドーピングの項目には引っかからないのに、バチンと効くのだから、そりゃ何の術だといって呪術なのだ、古代の人も長距離ランに向くような生きものの術を知っていたということで、呪術というのは何もかもがオカルティックなものではない。

呪術の基本は「閉じ込める・縛りつける」にあり、そこで「競わせる・共食いさせる」ことにある、だから同種・同族の生きものをひとつの箱に閉じ込めて共食い競争させるのが呪術の基本だ、つまり学校の教室などがそれにあたる。
あまり詳しく知るべきではないと思うが(詳しく知りすぎるとそれだけで呪われるので)、生きものを閉じ込めて競わせ、共食い等させると、勝てない側はその血に強烈な「ひがみ」の苦しみを起こすのだ、そしてその苦しみと対照して、勝った側は同じくその血に強烈な「うぬぼれ」の愉悦を起こす/「ひがみ」が何によって起こるかは生きもののタイプ(というよりは所属する六道の因果)によるが、まあ手法はどうでも基本は同じだ、血に強烈な「ひがみ」を起こし、対照に「うぬぼれ」を起こす、ときには「ひがみ」は「うらみ」という形態にもなり、たとえば関ヶ原の合戦以降、毛利家や豊臣家が徳川家を怨み続けるというような現象が起こる、この血のひがみは儀式を経て血族の子孫へと継承される。
何の話かというと、たとえば一昔前は、「ふつうの人」というと、「読み書きなんかできません」というのがふつうの人だったのだ、誰だって勉強すれば読み書きはできたはずだが、ふつうの人はそんなエネルギーを持てなかった、人が読み書きを学んで習得するというのはものすごいエネルギーの要ることなのだ。
現代人は、読み書きは当たり前に出来て、何であれば十八歳の少女の半分ぐらいは大学に行くし、難関トップの国立大学にもガンガン入るような状況だが、どこからそんなエネルギーを得ているかというと、天地にのあいだにいて地の力を……得ているわけではもちろんなく、呪術によって得ているのだ、「ひがみとうぬぼれ」という強烈な血のきしみによって、ふつうでない人のエネルギーを得ている、もちろんそれだけで済めば利益しかないようなことだが、そうはいかないのだ、それは呪術によって得られているのだから、目的を達した後も、当人はその呪術のはたらきから逃れられない、生涯をずっとその「ひがみとうぬぼれ」という血のきしみに駆り立てられながら生きねばならない、そうした人は実はエネルギッシュなのではなく、掛けられた呪術から脱けられないのだ。

いじめや人種差別がなくならないのは、呪術の構成上、「ひがむ」側、「かわいそう」な側がどうしても不可欠だからだ。

ここ最近、学校の教師が、同僚の教師をリンチするという事件が暴露され、そのリンチの具合が低劣で目も当てられないということが明らかになったのだが、そうしたリンチやいじめが何のために為されていたかというと、血の儀式なのだ、強烈に血が「ひがむ」という者を作りだし、それに対照して血が「うぬぼれる」という者を作り出すということ、この手続きなしに当人らはエネルギーを得られないのだ、別にそうした事件に限らず、スキャンダルに向けて必ず大量の「炎上」が起こるのも、この呪術のはたらきであり、呪術に補給をほどこす儀式として生じているものだ。
僕の能力はたかが知れたものだし、尺度によって僕より優秀な人など、この日本に一億人ぐらいいると思えるが、僕のようなていどの能力でさえ、「正規の」エネルギーで得てそれを為せるかというと、それができる人は極端に少ないのだ、ひがみ・うぬぼれの血のきしみから得たエネルギーではなく、天地のあいだにあって地から胴体の底がつながって得られた生きるエネルギーだ、この正規のエネルギーのみでどれだけやれるかというと、多くの人が事実上「ゼロ」だということを、僕はここ数ヶ月ずっと目撃してきた。
正しく見ないとな | comments(0) |
ひがみ、うぬぼれ、オピオイド/エネルギーを得るのはそんなに簡単じゃない
定的な知見が得られたので、それをレポートしなくてはいけないのだが、面倒くさがっている。
なぜ面倒くさいかというと、もう世の中に、読まなくていいもの・見なくていいものがあふれかえっているからだ。
今、おしゃれな感じのものを作るのが、実は一番カンタンで、そのことが一般に知られていないのは、一般の人はジェネレーターなんか考えないからにすぎない。
今はウェブ上に、いくらでも無料のジェネレーターがあるので、それと著作権フリーの素材画像を組みあわせれば、三十分ぐらいで何でもない無意味な「おしゃれ」な感じが作れる、こういった "ジェネレーターもの" ですでに情報網は飽和しているので、もう新しい情報はそもそも読み取られることがないのだった、それであまりにも無意味が予感されるので、少々面倒くさがっているのだった。

ジェネレーターというのは、必ずしも画像に限らず、ありとあらゆる企画が、ジェネレーターを通せば「それっぽいもの」として形になる。
実際、YouTuberのやるべき企画なんて、最もイージーなジェネレーターで作り出せると思う、おそらくわれわれの知らないところで、テレビ番組やら映画やらも、そういう無形のジェネレーターを通して出力されるだけのブツになっているのだ、だからそれらのものは見るに値しない/見なくてもすでにジェネレーターが把握済みのものだからだ、そこに創り出された新しいものは何一つないと言える。
それでいて、ジェネレーターを通せば、すべてのものが一瞬でカンタンに創れるため、ジェネレーターものは大量に世の中にあふれかえることになる、このジェネレーターものがあふれかえることで、新しいものは発見されないという、人々の未来を閉ざすのにこんな方法が成り立つとは思わなかった、まったく人の予想範囲なんてたかが知れているものだ。
というわけで、タイトルとは何の関係もない話になってしまったが、しょうがない、タイトルに関連して決定的な知見をすでに得ている、だが面倒くさいのだった、これはそもそもおれの話すべきことでさえないので、そのことまで含めるとたっぷり面倒くさいのだった。

2016年に、すでに、AIが書いた小説が文学賞の一次選考を通過している。

それはどういうことかというと、すでに小説が読まれるということに、こころも魂も介在していないということだ、これはAIが進化したのではなく人間のアホがバレ始めたにすぎない、「何の値打ちもないものが流行る」ということの向こうに、ジェネレーターに踊らされているアホの姿がいやがおうにも見えてしまうじゃないか。
ジェネレーターで出力したものは、すべて「それっぽい感じ」のもので、見た目にわかりやすいが、値打ちは何もないものだ、この値打ちのないものが世の中を埋め尽くしてゆき、われわれは値打ちのない時間を生き続けるということになるが、そんなこんなで、タイトルとまったく関係ない話になってしまうのだった、それぐらい面倒くさがっているということだ、うーむやりたくねえなあ。
正しく見ないとな | comments(0) |
パーティ報告97(2)/「正しくてベストの結果 "ふつう" になっちゃうんだよ」
ーティうんぬんで、途中に話したことの一部。
「なんつーか……誰か好きな人が見つかってね、付き合うじゃない、そして結婚するじゃない。そうしたらお子さんも産まれて、マイホームも頑張って買って、順風満帆、会社でもそこそこ出世して、まさに順風満帆だよ、でもそうやって "ふつう" になっていくんだ、何か間違ったわけじゃなく、正しくてベストの結果 "ふつう" になっちゃうんだよ」
「おれなんか高齢者だからね、お前らよりよくわかるんだけど、国立大学を出てさ、上場企業に入って、いいところに住んで結婚してお子さんが産まれて……で、 "ふつう" になっちゃう、理想通りの展開を得てだよ、理想通りなのに "ふつう" なんだ、それで当人も、『なんなんでしょうね』と首をかしげているんだ、生きているってホントよくわからねーんだよ」
「おれぐらいの年齢になるとね、いよいよわかるんだ、自分がどうやって死んでいくかということが、経験から予測できるようになるの、つまり……十代のころなんて、右も左もわかっていないでしょ、そんで二十代になると、とにかくがんばらなきゃで、三十代ぐらいになってようやく安定して生きられるようになる、そして四十代になると、これまでの生きてきた経験から、この先のことについて、『これってこうなりますよね』ということが予測ついちゃうんだよ、これって絶対、このままよくわからないまま死んでいくんだろうなって、経験から確信をもって予測できちゃう」

「ベストを尽くして、何ならベストを得たとしても、その結果として "ふつう" になるんだ、そしてその "ふつう" というのは、よくわからないまま、次第に消えていってしまうんだよ、ふつうに幼なじみがいて、ふつうに若い時代があって、ふつうに苦労した時代があって、ふつうに家族があって、すべていつのまにか "ふつう" で、いつからか加齢のせいで記憶があいまいになってきて、よく思い出せなくなってくるの、そうなるとまさに泡沫(うたかた)の夢だよ、本当にそうなるように出来てんだ」
「だからおれは、そうした "ふつう" の記憶を一切見ないことにして、そうした "ふつう" から逸脱した、『なんだったんだろうな』というナゾのほうにだけ着目したんだ、すべてのことは "ふつう" の中へ消えていくものだけれど、そうではないナゾの出来事の断片、それだけを蒐集して分析することにした、その結果として現在があるんだよ」
「だから、こうしてパーティやらワークショップやら、やっているけれど、これらは人の生きることに援助しようとしているのではなくて、もっと順風満帆で、けれどもいつのまにかすべてが "ふつう" の中へ消え去ってしまうという、そのことを予感した人たちに、そうではないものを提供しているんだ、だからどの段階に来たから終わりということはないんだよ」
「お前はまだ若いから、わからないだろうし、わからなくていいんだが、それでもどこかで覚えておいたらいい、何もかもバッチリで、理想どおりで、何もかも獲得したし、何なら派手に暮らした時期もあるのに、それってすべて "ふつう" になって、消えていくんだよ、それで『なぜこうなった』と思っても、けっきょく『わからない』んだ、だからそうではないものを目指す、だいいちお前らがこの竹下口の交差点に来るまでの道も、世田谷公園に来るまでの道も、スタジオの地下に降りる階段を歩くときも、自分が『生きる』という記憶の中から逸脱しているはずだ、おれはそういうことだけを追究している奴なんだよ」

「どういう勤め先で、どういう人間関係で、どういう家族構成で、という、 "ふつう" のことは、すべてノー・トラブルならそれだけでいい」

そんなこんなを、パーティで話した、いつも話しているようなことで、その他にも色々話したが、そんなにいちいちは覚えていられない、ずーっと話しっぱなしだからな/ただまあ、ふつうのことはノー・トラブルで、その他のことだけに注目するというのは、これまでもこれからも変わらない。
「おれの古い友人は、ここ最近になって、おれにこう聞くようになったよ、『ずっと昔から、こうなることを見越していたんですか?』って、おれはもちろん『そりゃそうだよ』と答えたよ、別におれが正しかったとは思わないし、今も正しいなんて思わないが、おれはこうすることでしか満足できなかったし、おれ自身はこうしなければきっと悔いただろうな、おれは今なぜ自分が無事に生きていられるのかまったく不思議でしょうがないんだが、こうした追究には本当に何か祝福や庇護があるのかもしれない、その説もいよいよ無視できないと感じるよ」
パーティ | comments(0) |
上陛下が即位礼の儀において改めて即位を内外に宣明された、この儀に先立って叢雲を帯びていた天は祝福のごとき虹を現し始めたそうな、かくなる偶然を呼び込むのは日本の天運の啓示であると信じ度いところ、今上陛下がおおせられるところ憲法に記されたる象徴の地位をまっとうしたいとの御意なので、ささやかに一国民のわたしとしても安直に国粋に寄った神秘主義のごときに耽るわけにはいかない、御意に背くことなく国際平和に与する日本は大儀に虹ぐらい呼び込むぐらいラッキーな者どもでなければならないだろう。
なんの話かというと、なんの話でもないのだが、天皇陛下が改めて即位の儀を執り行われ、祝福のような虹がそれを庇護したというのだから、それはまさしく祝福でありますようにと……それを疑うような奴は即刻祝日を取り消されていますぐ出勤してこいと、思うわけだった、テメー祝日だけ受け取っておいて目の前の祝福をディスってんじゃねえよという話で。
なにやら、どうでもいいニューストピックとして、芸能人が天皇陛下に向けて「お疲れ様でした」というのは失礼にあたるというような、どうでもいいような話があるのだが、かといって芸能人が「今上陛下におかれましてはこのたびの大儀まことに民草どもへのお心砕きを賜り一同恐懼の極みにございます」というのもおかしいだろう。
虹の差した祝日に、こころまっとうにして考えるかぎり、われわれから天皇陛下に何かを差し向けて申すということじたいがおかしいし、庶民が芸能人のいちいちに口出しするというのもおかしい、マナー講師といって manner という外国語を冠しているのもおかしい、そしてマナーの代わりに作法というなら流派や宗家が必要なのであって、まあこれらのことを考えると万事について「関わらないでおこう」と発想するしかないのだった、まったくネガティブな話なのだが「関わらない」以外にベストの方法が見当たらないのだ。

目上の人に「ご苦労様」と言うのはマナー違反で、このごろは「お疲れ様でした」と言うのもマナー違反らしいから、「じゃあ代わりにどう言えばいいんだよ」という話になる。
そして、代わりにどう言えばいいかを検索すると、「ご苦労様とお疲れ様」についての、時代における変遷や、アンケート結果などが出てくるのだ、つまり誰一人「こうだ」と答える者がいない。
実際、課長が出張から帰ってきたら、なんて挨拶すればいいのかね、課長が「あー疲れた、戻ったよ」と言うのに、「お世話様でした」というのも何かヘンだし、まさか「課長が無事にお戻りになられたことを、謹んでよろこび申し上げます」というわけにもいくまい、ふつーに「お疲れ様でした」ないしは「お疲れ様でございました」でいいのじゃないのか、自慢じゃないが僕がどれだけ頭をひねっても代用になるまともな言いようは見つからない、だとするとすべての新入社員は僕よりも言葉の感覚にすぐれていないと職場が成り立たないということになるが、実際新入社員は課長が出張から戻ってきたらどう挨拶しているんだ、「うにゅルオワぃえいーっす」とか何かマントラでも唱えているのか。
この話は何の話かというと、何の話でもなくて、ただ天皇陛下が即位礼を示されたので、バンザーイという気持ちで書いているのだった、即位礼を見ていて思ったが、天皇陛下に比べれば総理大臣なんて気楽な役儀だと思った、天皇陛下にくらべれば、総理大臣なんて替えの効くアベちゃんでしかないのだ、おれなんかは庶民でいて本当によかったと思うよ。

即位礼、アベちゃんには「お疲れ様でした」。

天皇陛下には、ひれ伏すまでもないというか、あんなもん高御座(たかみくら、というらしい)を見ただけでも、「こりゃ凡人は近づけんわ」という意味で、僕などはひれ伏すだろう、なんつー出来映えだ、こんなものには凡人は関心さえ向けてはならないのである、ところで各国の首脳格がずらっと参列してくれたのだが、なんというか人類オールスターズみたいな光景で、それだけでも圧巻だった、 We are (also) the world あたりのタイトルをつけてルノアールが絵画にしそうだった。
テレビ中継で即位礼を拝していたのだが、不思議なことに、注目しているテレビ画面ではなく、玄関の外の空に呼ばれた気がした、呼ばれたといって僕が呼ばれたわけではないが、これはしばしば僕が感じる、「どこかで誰かが何かをしている」というときの空の気配だ、それは僕の思い込みかもしれないが、思い込みでかまわないとそのままにしている感覚で/テレビ中継を見ながら、玄関の外の空も呼んでいるということで、やきもきしていたのだった、目黒区に住んでいると、祝砲がタイムラグをもって、遠雷のようにゴゴと鳴った。
いいオンナはいい言葉を | comments(0) |
パーティ報告97(1)/ひがみ、うぬぼれ、オピオイド!
っきょく二十四時間コースなので、もうそのことは報告しない、長々と話しこんで追究する先、「ひがみ、うぬぼれ、オピオイド!」ということがわかった(なんじゃそりゃ)。
オピオイドというのは麻薬の一分類で、麻酔・鎮痛剤、いわゆるアヘン→モルヒネ→ヘロインのたぐいだ、アメリカ人が心身の苦しさからこのオピオイド系麻薬に頼らざるをえず、蔓延し、トランプ大統領がブチギレて公衆衛生に対する非常事態宣言を出したのがこのオピオイド系麻薬についてだ/もちろん当パーティは麻薬とは何の関係もないし、そんなものに手を出している者の参加はお断りさせていただく。
じゃあ何についての話かというと、「生きる力」についての話なのだ、どうやら「生きる」ということそのものが、捉え方・感じ方・得方として、僕のそれと一般のそれはまるで違うらしい/今や世の中に優秀な人は老若男女問わずびっくりするほど多いが、そうして優秀になるために必要とした「生きる力」はどこから得たかという話なのだ、そしてほとんどの人は呪術の力を借りている、もちろん当人にその自覚はないままにだ。
正しくは――といっても、僕がそれを正しいと捉えているだけだが――「生きる」ということは、大地より成り立っていて、この大地からの生きる力を、いかにして上位、なるべく天の方へ、持ち上げて昇華し、天への寄与とするかということなのだ、もちろん天から食べ物が降ってくるわけではないから、地からのエネルギーで生かされているというのは自明のことなのだが、それでも多くの人にとって「生きる」というのは、そんなにはっきり「地」につながったものではない。

では多くの人が現在、どのようにして「生きる」という力を得ているかというと、「ひがみ」と「うぬぼれ」なのだ、これは血に刻み込まれて抜けなくなるもので、詳しく言う気にはなれないが(詳しくなるだけでふつう呪われてしまうので)、「ひがみ」こそ呪術の基本中の基本なのだ、血に起こる「ひがみ」というすさまじい苦しみこそ呪術の基本であり、そのすさまじい苦しみに恐怖して反発的に生じる、これもやはりすさまじい愉悦なのが「うぬぼれ」だ、現代の人はこの「ひがみとうぬぼれ」という基本的な呪術によって力を得て優秀になった、単に生きるという力を高みへ持ち上げるだけでは、これだけたくさんの人がこんなに優秀にはなれないものだ。
そして、ここからは勝手な仮説だが、この呪術の力で人が(苦しみながら)優秀になったとして、その呪術の作用はその後抜けてくれるわけではないから、ずっと苦しいままなのだ、呪術で得た力というのはそのように、自分で制御できず自分に強制的にはたらくので、当人はその後ずっと呪術の強制力から逃れることができない/そして、その生涯つづく苦しさ――血の騒ぎ、「ひがみ」の恐怖と「うぬぼれ」の愉悦の苦しさ――から、一時的であれ逃避を与えてくれるのが、オピオイド系麻薬なのだ、アメリカを席巻するオピオイド麻薬は、人々が優秀になるための力として自分に掛けた呪術の、然るべき代償として今人々に降りかかっていると僕は考えている。
わかりやすい例でいうと、僕は高校卒業時、偏差値が40を切っていた、その後一年間で詰め込んで勉強し、国立大学には問題なく入れたのだが、この一年間の勉強の日々を、僕はわずかも苦しいと思ったことはなかった、それは僕が呪術によらず、自身の生きる力を高く昇華することのみで勉強したからだ/僕などより学業成績が高いものは現代の若い人にいくらでもいるだろうが、その過程としての勉強が、暗く苦しいどころか、明るく栄光ある歓喜の時間だったという人は極めて少ないはずだ、その暗さは呪術の力を掛けていることによる。
多くの人は、いや現在のほとんどの人は、生きるといって、「大地の歴史と力を胴体の底に受けて」などいない、では何によって生きているかというと、血に刻んだ「ひがみの恐怖」と「うぬぼれの愉悦」だ、大地と共に天を目指す者として胴体に力を得て生きている者と、仕込まれた呪いによる「血の狂瀾」から力を得て生きている者を、同種に扱ってはいけない、現在すべての学校教育とスポーツ教育はただの「共食い競争」という呪術の閉じ込め箱であり、その点でいえば僕はあえて学校教育も受けてきていないしスポーツ教育も受けてきていないと言えるだろう/今回のパーティを含めて、すべての周辺が今、僕にそのことを教えてくれた。

「ひがみの恐怖とうぬぼれの愉悦」に、血が狂瀾することだけで生きているので、現代人は内心にも「マウント」をやめられない。

僕はこれまで、グラビアアイドルの写真を見たとき、何のために若い女性が、水着姿で乳を揺らしているのかわからなかった、明らかに何も愛したことがない目を白日に晒して、偽りとさえいえない無意味な笑顔の顔面で、いったい何をしているのだろうと、いったい誰がこれをよろこんでいるのだろうと、不可解だったのだが、その理由が今はわかる、それらはすべてひがみに苦しんでいる者へ偽りのうぬぼれを与えるために作られているのだ、現代に流行するエログロ風味のマンガ本もすべてそうだ。
「ひがみの恐怖とうぬぼれの愉悦」という、血の狂瀾だけが今、人々の生きる力なのだが、これが生きる力に直結しているからこそ、今さら取り外せないという構造的問題もある、これだけが生きる力なので、何かに取り組むというとき、あるいは朝起きて会社に行くというだけでも、この「生きる力」を――うぬぼれであれひがみであれ――使わないでは一ミリも動けないのだ、これをどうしたらいいという話は今のところまったく視えてこない、ただ今はこの現代の根本的な呪いが視認できたのみだ、今見せかけに優秀な人はすべて呪いの力にブーストされてきただけというのが真相だ、これは本当にどのようにも包み隠せない。
パーティ | comments(0) |
WS報告060(1)/全乗っかりの法則
ーティを挟むと、金曜のワークショップの内容を忘れる、ええと何をやったんだっけ……
ところで、まったく関係ないが、おれがいつも吸っているシャグたばこ「PePe」がこのところ全国的に品薄らしい、理由は知らない/なので各員はもし出来たら代行で購入しておいてくれ、おれは困っているのだ、リッチグリーンを希望だがなければイージーグリーン(色の薄いほう)でもかまわない、そんなわけでしばらくはマニトウで過ごそうか、おれはバージニア葉しか吸えないのだ。
さて、動画を確認して思い出したのだが、金曜日は「I said のコーナー」をやったのだった、これはどういうワークかというと、自分の「意志」を見せるというワークだ、自分の意志を見せるというと「当たり前じゃん」と思えるがなかなかそうはいかない。
正しく自分の「意志」を見せるというと、ルートチャクラから第二のチャクラへ、エネルギーが上昇して解放されなくてはだめだ、へんちくりんな説明だがチャクラ的な説明が胴体については一番わかりやすいので採用している、そしてどうせ出来る奴は「九折さんがそう言っているからマジなんでしょ」と真に受けて取り組み、そのまま出来るようになるだけだからいいのだ、このことを最近は「全乗っかりの法則」と呼んでいる。

全乗っかりの法則、つまり人を信じ、人の話を信じるといって、その人の言うことに「ぜんぶ乗っかる」という方法があるのだ、これはオススメでもなければ強制でもなく、ただ「そういう方法がある」という、改めての提示にすぎない。
全乗っかりといって、何もかも全乗っかりする必要はないし、そんな方法を使わなくてもいいのだが、実際にそういうことにびっくりするぐらい勇敢というか、びっくりするぐらい素直な人がいて、たとえばそういう人に、僕が無意味に「ショートヘアにしたら」と言ったとしたら、その人は何の躊躇もなく(というか何のテンションもなく)、「はい」といってそのままショートヘアにしてしまうだろう、こういう人は怖いのだ、何が怖いといって、僕の言ったことをたちまち身につけてモノにしてしまうから怖いのだ/それは僕が言ったことを身につけるのに当人が抵抗を持たないという、超伝導のような仕組みで伝達が起こってしまうということだ、この方法をバカスカやられると、僕としてはいいかげん教えることがなくなってしまうほど、人の進歩や成長は急速に起こってしまう。
この「全乗っかり」という方法、よくよく考えると、確かに有為な方法で、この方法を持っている人は、おおよそ己の愚かさを知っているのだ、己の愚かさを根本的に知っているので、自分のことを自分で決めるということが、必ずしも正しいわけではないということを、骨の髄から知っているところがある、それで自分のことを決めるのに、「自分で決めることよりもこの人が決めたことのほうが正しい」と判断していて、まるで自分でショートヘアにしようと決めることよりも、躊躇無く僕の言うことを聞いてしまうのだった。
そこで、僕自身も思い出すと、やはり僕自身もすべての進歩の際に、必ず「全乗っかり」をどこかで採用しているということが思い出される/そもそも僕は、愛のある人・光のある人が、愛をもって話してくれていることに、あるいはその話そのものが愛を帯びているときに、それを「疑う」ということのやり方がよくわからないタイプなのだ、疑うという機能がまともにはたらいていないという状態でもある、つまり僕は「全乗っかり」か「全聞き流し」のどちらかしか機能を持っていなくて、現在の僕のすべては何一つ努力ではなく全乗っかりのみで得られてきたということがわかる、それ以外のことはすべて聞き流してきたのだ、我ながらなかなか厚かましい奴で恥じ入るよりない。

僕には「信じる」というプロセスがない。

「疑う」というプロセスがないので、それを書き換える「信じる」というプロセスもない、ブッダが阿弥陀如来を説いたなら「そうなのだろう」という気しかしないし、キリストが死後によみがえったというなら「そうなのだろう」という気しかしない、単にアホなのかもしれないが、僕はそもそも全乗っかりする話しか耳に入らない体質なのだ、その他のことは長距離トラックのエンジン音のような何かの騒音にしか聞こえていない、このふたつを聞き分けるプロセスや、このふたつを審査するプロセスさえ僕は持っておらず、まるですべては勝手に僕の耳から魂にすべりこんでいるように思える。
ワークショップでは、努力や積み重ねで得られるものは何一つ提示していないので、言い換えれば「全乗っかりで得られるものしか提示していない」という状態だ、そりゃ僕自身がすべてそれのみで現象を獲得してきたのだからしょうがないだろう/じゃあ何に時間が掛かるかといえば、全乗っかりしてもしばらくは生身の側が完成に向かってゆくのに時間が掛かるということだ、あまりに高次元な現象あるいは激しい現象は、全乗っかりしても「身体がついてゆかない」ということがある、そこで全身のタフさと全身の体質の盤石を鍛えるのに時間が掛かるということはある、でもそれらはすべて全乗っかりの「後」に進められることだ、全乗っかりする前にゴソゴソトレーニングすることは何の足しにもならない、じゃあそのときは何をしたらいいかというと、「全乗っかりしない自分」を確認するという作業をすればいいのだ、これこそ真に値打ちのある自己追究の時間と言えるだろう。
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第97回Quali's Party[10月19日(土)]無事盛会!

10/21 Quali tweet> 毎日がパーティでね pls entry

joined: ひろみ、あきら、りさ、ゆか、りえ、こりん、ゆうさく、くおり
date:2019年10月19日(土)19時〜23時
place:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB


おかげさまで無事盛会でした! ありがとうございます。
次回もよろしくお願い致します。九折

キラキラ次回[11月16日(土)]加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
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皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

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パーティ | comments(0) |
余裕がない
だの愚痴でしかないが、余裕がない。
まるで暴風雨の中でライターを点けているような気分になる。
風の流れを読み、雨滴を弾きとばしながら、「理論上は可能なはず」といってライターを点火しているような、曲芸をしているような気分だ。
集中力の極限を用いれば、確かにそれは可能だが、それを通常営業とするのは不自然すぎるだろう、もうおれが不自然だからといって、おれ自身も注目しなくなってしまったけれども。

草津に行って骨休めしてきたのだが、帰宅して一晩経つと、起床後、もう自分を追い込んでいることに気づいた。
目が覚めると、もうその時点で、異様なほど自分を追い込んでいるのだ、そうでなければ書くものなんて見つからないからだ。
だがこれは不自然な状態で、不自然といってもそれしかもう方法はないにせよ、不自然ということも見落とすわけにはいかない、これではもう親族が全員急死しても一ミリも動揺しないような状態だ、そんなことは僕にとってはへっちゃらだったとしても、そんなやり方を元に誰か何かをおすすめするわけにはいかない、非人間的すぎる。
余裕がないのだ、「うぬぼれ」を題材にまとめた話を書こうとしているのだが、それ以前に余裕がなさすぎ、一秒も隙間なく自分を追い込んでいるのが病的だと、ひとまず自己確認するしかなかった、これはただそれだけの話で他意は無い。

目覚めると、すでに自分を追い込んでいて、一方で「自分の部屋か」と、目覚めの場所に驚いている。

つまり、自分がどこで眠っていて、どこで目覚めているかも、すでに見失っているのだ、こんな余裕のない状態を常にするというのは、僕には可能でも、他の誰かに勧められたものじゃない、何かもうちょっとまともな状況が訪れてほしいものだ、ただの願望にすぎないにしても。
この先に何かあるのだろうか、もう何かあってほしいというような希望さえ、不必要なものだとして消去してしまったが、そういったことも含めて余裕がなさすぎるだろう、脳みそも全身の霊も、常に何か大量の演算をしている、そうすれば確かに暴風雨の中でもライターの火は点くのかもしれないが、これを「まとも」とは言えないなと、あてもなく認めているのだった、だからどうしたらいいという方法にはまったくあてがない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
「うぬぼれ」再考5
に立たない話はしない。
何十年も生きていくのに、すべては「うぬぼれ」に吸い込まれて、すべてが無為になるというパターンを、もう見たくない、単純に飽きたという事情もある。
チヤホヤされただけで、情緒がジワッとゆるむ奴は、どうしようもないアホで、何ひとつ徳性が解放されていないという、シンプルな話をしている。
チヤホヤされない人は問題ないかというと、そうではない、チヤホヤされないのはただの気の毒な話で、チヤホヤされたいうぬぼれ欲求が、常時「不満」の状態を作りだしているだけだ、年寄りが機嫌の悪い顔で歩いている理由はそれだ、チヤホヤされないからブチギレという老人がいくらでも街中を歩いている。

生きるために頑張る人ばかりになり、何かのために生を燃やす人がいなくなってしまった。
別にそれはかまわないのだが、その方向に徳性は皆無だし、何百年生きたとしてもすべてが無駄になる、何かのために生を燃やさないのだとすると、すべての原理は「うぬぼれ」でしかないということで、このことに飽きたと申し上げているところだ/YouTuberを何万人検索したとしても、「何かのために生を燃やしている人」はいない、YouTuberはすべて「うぬぼれ」の原理でしか駆動していないし、だからこそ広告料をアテにして食い扶持にしようと必ず考えているのでもある。
誰も「何かのために生を燃やす」とは考えていなくて、そのことをまさか罪とは考えないし、誰だって「自分なりに頑張っている」と思っていて当然だが、その発想は根底を「うぬぼれ」に支配されているので、後に必ずブチギレ顔の老人になってしまう、自分をチヤホヤしてくれるセールスマンの営業トークにしか乗っからない老人になるのだ。

「チヤホヤされつつ、そのことを食い扶持にする」という願望だけが蔓延している。

YouTuberもそうだし、アイドルもそうだ、若い人の大半がアイドルとYouTuberになる願望を抱えているのは、はっきりいって異常であり、異常であるのみならず猟奇的だ、ケツの穴をいじくりまわすと人はそういう生きものになる、とんでもない話だが本当にそうなので致し方ない。
自身に巣くっている「うぬぼれ」に対抗しなくてはならないのだが、「うぬぼれ」に対抗しようとした途端、いきなり「死にそう」な体感になるだろう、それで合っている、これまで不潔な「うぬぼれ」パワーで生きるエネルギーを得てきたのだから、それをいきなり断てば急に「死にそう」な感じになるのは当たり前だ、その中で自分は何かとつながっているかを考えなくてはならない、まあろくな結果しか出てこないだろうから、理屈はそうでもさしあたり気軽に取り組むしかない。
正しく見ないとな | comments(0) |
「うぬぼれ」再考4/「うぬぼれ」と「天使」
(深い哀しみの中からは常に戦士が立ち上がる)
「うぬぼれ」の感情は、生の情緒であり、生まれ落ちた身の、生来的、生理的なもの、では「そうではないもの」にどうして接続するか。
もし「そうではないもの」に全身を支配されたとき、初めはその未知の歓喜に、あなたの全身はびっくりし、混乱と思わず拒絶反応を示すかもしれない。
われわれは神ではないが、生まれ落ちた身の、生来・生理から切り離されるとき、天使のようになる、それは天使のようというよりは、天から使わされているのだから天使なのだ、天使という事実であってそれは不遜なことではない、天に使わされた者の位はそこまで高くない。

生後六ヶ月までの赤子が、明らかに大人と異なる霊性を具えているのは、まだ頭蓋骨(頭頂)が塞がっていないからで、また身の業(カルマ)が立ち上がっていないからだ/生後六ヶ月までの赤子は、無力だが天使の状態にある、「天使のよう」ではなくて「天使」だ、だから逆に生後六ヶ月までの赤子は大人びている。
生後六ヶ月までの赤子には、「うぬぼれ」は存在しえない、なぜならまだ「生」のメカニズムが立ち上がっていないからだ、だから天使の状態で、大人を使役する資格を持っている、母親をはじめとして大人たちが甲斐甲斐しく世話するのは「かわいいから」ではなくて、直接赤子が「偉い」からだ。
すべての営みを、うぬぼれと無縁のものとすること、レベルの高低は問題ではない、レベルが低くてもうぬぼれから無縁であれば、それは命であり魂そのものだ。
周囲をよく見て、また歴史的な芸術をよく見て、自分が真に愛しうるもの・真に尊崇しうるもの性質をよく見ろ、ただ「うぬぼれ」がないという一点、それだけで営為は命そのものになり、魂そのものになる。

二つのジャンルに区切られる、そのジャンルは「うぬぼれ」と「天使」だ。

慾望を我慢したとして、その者の位が上昇することはない、我慢しているのは「都合によって隠しているだけ」だ、生後六ヶ月までの赤子は何も我慢していない/何らの隠蔽・細工・我慢なしに、すべてを解放した上で「天使」でなくてはならない。
レベルの高低に関係なく、ただ偽りのない解放状態で、エネルギーを下層から上層へ引き上げている者は、「天」に使役されている、そうでない者、上層エネルギーを下層へ引き落として「うぬぼれ」に消費している者は、「生」に使役されている、よってあなたが女なら、あなたは生きもののメスではなく天女にならねばならない、レベルの高低は関係ない。
正しく見ないとな | comments(0) |
「うぬぼれ」再考3
り分かりやすいように、簡単な話をしよう。
胴体の最下部に、ルートチャクラ、「生きる力」というチャクラがあるとし、たとえば心臓付近に第四のチャクラ、友愛や親愛、兄弟愛のチャクラがあったとする。
このとき、「生きる力」から得られたエネルギーが、体内を上昇して、友愛のエネルギーとして解放されるなら、それはエネルギーの方向として「上昇」しているのがわかる、胴体の最下部から心臓まで上ってきているのだから当たり前だ。
逆に、誰かから友愛・親愛・兄弟愛を受けたとしても、そのエネルギーが胴体の最下部にまで落ちて解放されるのなら、それはエネルギーの方向として「下降」「落下」しているのがわかる、今話しているのはただそれだけのことだ、エネルギーがチャクラ間を「上下」どちらに行っているかというだけの話だ。

分かりやすく、アホに感動の名作映画を見せたらどうなるか、と考えよう。
アホに感動の名作を見せると、その作品の示している世界や愛、すべての徳性が、アホの体内を落下してゆき、すべては彼の「うぬぼれ」に消費されることになる。
極端な話、天才バレリーナの踊る姿を、アホのキモオタに見せたらどうなるかというと、アホは「ぶひひ、この僕にそんな身体のラインを見せつけて、けしからんですね、お仕置きものですね、ぶひひぃ」と、すべてを己のうぬぼれにしか転換しない、彼はそうすることで自分の生きる力を補充しないと死んでしまうような行状なのだ/ざっくりした言い方になるが、実際キモオタやそういうたぐいの性癖者は、そのことで「生きる力」を補充しているのだ、それがないと死に向かっていってしまう。
まさか、映画やバレエを観たところで、そんなブヒヒとかならないですよと、大半の人は思うだろうが、そこは甘く考えないほうがいい、あなたが天然で生きる力を大地から直接爆発的に得ているような人でないかぎりは、決して甘く考えないほうがいい/僕がきれいな花園を見つけて、「すごくいい香りがするから」といって花束を作ってあなたに差し上げたとしたら、あなたはそれを受け取って、一ミリも「うぬぼれ」に転換しないかというと大変アヤシイものだ、エネルギーの行き先をどうしたらいいかわからない――まだ高度な精神を解発していない――なら、困ったあげくそのエネルギーは落下して「うぬぼれ」として味わわれるしかない仕組みだ。

「生きる」ということは、すべての命を食い殺し、胴体の最下部から大便として排出するという営為だ。

「生きる」ということは、そういう「落下」の方向だということを見よ、生きるというのはそういうことだとして、では「命」とは? ということになるのだ、命というのは逆、生きるエネルギーを上位の高さに持ち上げて解放することを言う/なんでもかんでも消費するのみの人は、本当にただ「生」のシステムにしか属しておらず、案の定カルマ(業)を溜め込む営為しか重ねていない、生きていて異様な苦しさを感じるのはそれが理由だ、そんなものヴィーガンになったとて解消されない。
生きるエネルギーを、自らの意志および怒りとし、意志はガッツ(はらわた)となり、はらわたは胸(ハート)となり、ハートはジョークとユーモアを創作し、ユーモアは叡智を見いだし、叡智は世界を与える、やがて世界はわたしになる、という仕組みだ、下層エネルギーを上層エネルギーに持ち上げて解放するのがナイスであり、その逆が「うぬぼれ」というだけだ、仕組みとしては簡単だが、受け取った花束を一ミリもうぬぼれにしないというのは実際にはとても困難なことだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「うぬぼれ」再考2

れわれは、地上に「生み落とされた」のであって、「生み上げられた」わけではないので、「生」というのは本質的に「落下」だ、この性質を冷静に見る必要がある。
たとえばここに、二人の料理人がいるとする、この料理人は、表面上は同じような料理人に見えながら、一方は「生きるために料理をやっている」と感じられており、他方は「料理をやるために生まれてきた」と感じられている。
「生」は方向として「落下」だから、「生きるために○○する」というのは、方向として落下にあたる、このことを「業」といい、だから「生業(なりわい)」というし、職業といい営業という/われわれが生まれ落ちたことは業(カルマ)であり、生きねばならないというのもまた業(カルマ)だ、この業(カルマ)が償却されるまで輪廻が続くと仏教説はいう。
「生きるために料理をする」という料理人は、料理という徳を、生きるために落下させているということ、だからこそ彼はいかにも職業人(プロフェッショナル)に見える、他方「料理をやるために生まれてきた」という料理人は、生きるという業を、料理という徳のために昇華させているということ、だからこそ彼はいかにも明るい求道者に見える。

女性は生まれつき、即座に「プロ」になる方法を所有している、つまり売春をすればただちに「プロの女性」になる/プロというのは「食い扶持を稼ぐ」(それによって「生きる」)ということだから、女性は生まれつき、潜在的にプロの売春婦たりえるということ、そのことはすべての女性に一度ならずそう考えたという心当たりがあるはずだ。
そして女性が、売春婦あるいは、そうでなくても「生きるために」セックスをし、ヴァギナの力を使ったとき、自分は何か「転落」したという印象を、自分自身に受けるはずだ、それは「生きる」ということの方向がそもそも落下の方向であることを意味している。
なるべくその「落下」を防ぐために、たとえばお医者さんは、直接お金を受け取らないシステムになっている、誰だって医者に掛かったとき、その治療費は「病院・医院」の「会計受付」に払ったはずだ、医者当人にカネを渡すシステムは基本的にない、それは習い事の「先生」に対してもそうで、なるべく剥き身でカネを渡さないようにして、「プロ」=「生きるための落下」を起こさないように配慮している。
誰だって胴体があって生きており、まず知るべきは一点、落下と昇華という矢印の方向について、「生きるために徳性を落下させている」のか、「徳性のために生きることを燃やしている」のかを知る必要がある、前者はいわゆる「プロ」であり、だからこそ、たとえばオリンピックには原則としてプロは参加できない/それは、プロには「うぬぼれ」が許されるが、オリンピックには「うぬぼれ」が許されないということでもある。

「生の情緒」が、「うぬぼれ」だ。

反証に、幽霊をイメージすると、幽霊というのはさすがに「うぬぼれ」は持っていなさそうだ、仮に幽霊が出現したとして、それをチヤホヤおだてようという発想は誰も持たない/つまり「うぬぼれ」という情緒は「生理的」だということ、生きるということが情緒としてはうぬぼれであって、「生まれ落ちた」ということは「うぬぼれを宿された」ということに等しい。
かといって、じゃあ即死しろというわけでもない、生の情緒がうぬぼれだったとして、即死してそれを解決しようという話ではない、「うぬぼれ」という情緒がそういうものだとネタバレすれば、それに対抗することが十分に可能だというだけのことだ/うぬぼれを元として何かを営むこと(落下の方向)と、己の燃焼を元として何かを営むこと(昇華の方向)は、まったく別のジャンルだということ、さらには正反対のジャンルだということ、プロスポーツとオリンピックは別ジャンルであり正反対のジャンルでもありうるのだが、このところはオリンピックも実質的にプロ化してしまったので、かつてのようなオリンピックの神聖さはありえなくなった(メダリストはそれを食い扶持にするのが通例になった)。

正しく見ないとな | comments(0) |
「うぬぼれ」再考

前にも「うぬぼれ」の話はしたけれど、ここにきて再考、再考しても同じような話だが……
どれだけ金持ちでも、どれだけ有能でも、どれだけ歌と踊りが上手に見えても、どれだけ美貌にすぐれ身体能力に秀でていても、一ミリでも「うぬぼれ」が混入するなら、それは別ジャンルになる。
うぬぼれが混入するものは、すべてうぬぼれから始まっており、どう取り繕ってもうぬぼれに終始することになる/このことを教わっていない女性はとても不利だ、教わっていれば対抗することじたいはさして困難ではないので。
うぬぼれは、利己的遺伝子に由来した、まったく霊的ではない生身のものであって、つまり生きものの「生きる力」を支えている、生きものの性質とは、突き詰めるところ「自己の遺伝子が繁栄したら他のことはどうでもいい」ということだ、まるでかつての徳川家の発想そのもののような具合だ、これは善悪ではなく、ただその「うぬぼれ」が混入するかぎり、それは別ジャンルのものになり、すべてのことはただうぬぼれを満たすためだけに存在することになる、このことを教わっていないのは非常に不利だ。

「生きる力」というのは、チャクラ的にいえば、ルートチャクラ、胴体の底にあるチャクラで、つまり女性でいえば穴が空いている部分だ、よって女性は生来的にこのチャクラの常時開放があり、だからこそ女性は「おだてられる」「ちやほやされる」ということにとても弱い/もちろん男性でも同じところをいじくって活性化すると、穴が空いて制御が利かないぐらいうぬぼれ屋になる。
トレパネーションという発想があって、正気の発想ではないが、チャクラうんぬんというのは物理的に穴を空けることでも効果があるのだ、女性はその点、生来的に穴が空いているので、このルートチャクラの制御に多大な苦労をする/だからこそ、女性は生きものとして「生む」という機能を持っているのでもある、<<われわれのうちでヴァギナを通過せずに生まれてきた者はいない>>ということをお忘れなく、「生」の本質とはそういうものだ、脇の下から生まれてきたブッダ以外はこの例外たりえない。
「うぬぼれ」が一ミリでも混入すると、それは別ジャンルになるということなのだが、それについては次の記事でもうちょっとマジメに書き話したほうがよいだろうか、ともかくこれは面白いもので、人によっては追究するところ、「わたしはけっきょくうぬぼれ派」というような人が少なからずあって、そういう人は「うぬぼれ」を除去すると、実は一ミリも動けないのだ、多く活発で活動的な人はただの偽装されたうぬぼれ派ということが実に多い。
人はどう取り繕っても、けっきょくは自分が心底から信じているほうへ強制的に流れていくしかないのだが、つまり堰を切って――解放されてみて――自分がどちらに流れるかというと、けっきょく「うぬぼれ」のほうじゃんということはすごく多いのだ、それは自分がどちらのジャンルに属している者かということを示している、表面上がどれだけ立派な、立場と権威のあるご老人でも同じだ、本質は生身と霊の胴体だから。

チヤホヤされると、女性はヴァギナがごきげんになる、男性はケツの穴がごきげんになる。

おじさんたちが、キャバクラに行って、セックスもできないのに高いお金を払うのは、若い女の子たちにチヤホヤされて、ケツの穴をごきげんにしているのだ、それでキャバクラでの遊びがしわいと(ケチだと)、「ケツの穴が小さいわね」となる/「うぬぼれ」は生きる力なので、おじさんたちはそれで生きる力をゲットしているのだ、このことが積み重なっていくと、やがて男性も自身のアナルで性交するようになる、一般にオカマさんがふっきれたナルシシズムを持っているのはそのせいだ、だからオカマさんは自分にとんでもない派手な名前をつける(また、キラキラネームが流行るのも、同じ「うぬぼれ」からの現象だ)。
実験してみるとわかるのだが、女性と性交するとき、その女性と性交するのに目の前でお金を段階的に積んでいくと、その積まれたお金に比例して、女性のヴァギナは活性化し、濡れて、ごきげんになっていくのだ、本人の意志とはまったく関係なしにだ、この実験の事実をもし目の当たりにすることがあったとしたら、ほとんどの人は恐怖すると思う、ヴァギナという器官そのものがマネー(血、生きる力)の供与によって変動していくのだ、「生」というシステムはそういうすさまじいシステムであって、このことは隠蔽していても各人の内部ではたらき、当人を支配している、その支配に属するかぎり、いかなる表面の事象もすべて「別ジャンル」になるということだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
或る少年の告発

(この声の主はフィクションです)「僕たちの邪魔をしないでほしいな」
「見てごらんよ、このあたりの建物は古いだろう、歴史があるんだ」
「確かに僕たちの暮らしは、スラム同然さ、でも生活が貧しいということは、生きることが貧しいことを意味しない」
「僕たちは、この町から出たことはないけれどね、でも世界中に色んな人たちが色んなように暮らしているのは知っている、見たことはないけれど知っているさ、見ていなくてもつながっているからさ」

「何のために生まれたのかなんて知らないし、何のために生きるかなんて知らないよ」
「でも、同じ場所に生まれて、こうして仲間たちがいる、同じ場所に生まれたってことは、仲間なんだろう」
「そして他の場所でも、同じように、生まれた者同士が仲間になって、僕たちのように暮らしているのを知っているよ」
「それがどういうことなのか、僕たちにはわからない、でも見たこともない彼らがそうやって生きているんだから、僕たちも生きていくんだよ、そうやってロックを感じる、同じ魂が僕たちにもあるんだ、僕たちが子供だとしてもね」

「僕たちは子供だけど、バカじゃないよ、僕たちの使命は、バカな大人たちにならないことさ」

「僕たちの邪魔をしないで欲しいな、もうすぐ日が暮れる、これからがいいところなんだ」
「僕たちは満足している、その満足している僕たちに、満足していないあなたが説教することはないよ、あなたはいつからか、このつながりから切れてしまったんだろう、僕たちはそうならないことに必死なんだ」

正しく見ないとな | comments(0) |
WS報告059(2)/オンラインワークショップ感想
ンラインワークショップを、実際にやってみた、初めは「空手の通信教育」みたいにバカにしていたのだが、実際にやってみるとそうでもない、たいへん知的にタフなワークであって、参加者たちからも好評だった。
まあもともと、おれは文学の徒であって、テキストを組むのが本分だから、こちらのほうが圧倒的なものをお見せできたというところはあるのかもしれない。
もちろん僕のことだから、前もって何の準備もせず、つまりこの形式でいうと何の書き溜めもなく、始まったらその場ですべてを提出していくわけだが、こちらが書斎に専用のキーボード(東プレ)を構えているといっても、そもそも単位時間あたりに提出されるテキスト量とその組み立ての速さじたいに、格差を見せることができたと思う、参加者はついてくるだけでも精一杯だったろうし、ましてスマートホン端末からではテキスト入力なんか追いつかなかっただろう/あれでもおれはのんびりやっている感覚で、そのあたりもう一般的なペースというのはおれにはわからないのだ、どうせ同じように生きていくなら誰でも、そうしたケタ違いの部分を持てれば何よりだと思う。
オンラインの、テキストオンリーで、けっきょく20時から朝の5時までやったのだから、そのあいだずっとテキストの生産を続けるだけでも、訓練のない人にとっては至難のはずだ、そして内容的に面白くなければ、そんな長時間絶対にやっていられないので、ある意味「本当に面白いか」ということがダイレクトに試される形式だったと思う/ライブに耐えうる生産量を出力するのはなかなか本当の力が問われるところだ、誰か同じように朝の5時までやってみたら、本当に必要なものは何かというのが直接わかると思う、まあ誰もそんなアホなことにトライするとは思わないが……

金曜日の夜中には、「おすすめを訊かれたとき、おすすめを答えてはならない」というワークをやった、土曜日は20時から、「五行詩から考える言葉の性質」をやり、その後は「ミニミニ物語と理論のコーナー」をやった。
これらが何のワークだったかというと、つまるところ、意識と言葉を切り離したいと思って取り組んだことだ、われわれには「思う」という機能とその習性があって、「思う」と「言葉」はまったく別モノなんだよ、ということを直接知ってほしかった/われわれにとって「思う」ということは弱みであって、能動的な機能ではない、思うことをやめられないのがわれわれだ、これを振り回して創作と言い張るようではとんだ取り違えになる。
一人の青年は、ワークの作用で「自宅がスタジオマイレッスンになった」という恐怖の悲鳴をあげていたが、そのせいか、後半には突如、「なんだこいつ」と周囲の度肝を抜くような高次元のテキストを出力するようになった、いきなりそこまで跳躍されることを予想していなかったので、もう彼に示す次のステップというと、しょうがないのでゴリゴリの文学の手法を提示するしかなかった、そうなるとおれも別のスイッチが入ってしまうので、そこからは全員何か別のムードに吸い込まれていってしまった(しゃーない)。
ミニミニ物語のコーナーといって、「物語はA→A’である」ということ、および「動力たる "→" は思念でなく "出来事" である」ということを示した、まあこれは面白かったのじゃないか、魂と出来事の関係がよくわかるし、出来事を直接ディールするほうが結果的に魂は濃密に得られる/これは何をやらせようとしているのかといって、先に言ったように、「思う」と「言葉」は別モノなので、切り離そうとしているのだ、それを切り離さないでいることは、知られざるにしても実はシッチャカメッチャカな状況なのだ。

「思う」と「言葉」を直結しているのは、「テメーどの線をスピーカーにつないでんだよ、アホか」というような状態だ。

また僕はこうも言った、「自由闊達に話せるとしたら、それだけでひとつの成功者じゃないか」/仮にこのブログ記事を、当該ライングループにそのまま貼り付けたら、こうしたささやかなブログ記事でさえ、どれだけのテキスト量があるかはっきりわかるだろう、われわれはポカーンとしているから色んなことを見落としているのであって、もし物事のすべてが視えるようになれば、この世界は手に入れたいものであふれかえっているのがわかるだろう。
ワークショップではいつも言っていることだ、「誰だって、この全身を、生涯ずっと使うしかないのであって、また自分の言葉を、生涯ずっと使うしかないのだから、今のうちに正しい使い方をまとめて知っておけば、この先ずっと有利じゃないか」、ただそれだけのことであって、何か出来合いのものを足そうとしているのではない、もともと与えられてあるものを正しく使い切るように誘導しているだけだ/身体にせよ言葉にせよ、呪縛されていたら使えないし、わざわざ呪縛されているところから動かそうとしてはだめなのだ、呪縛されていないところから順に動かすということ、このわけのわからない話も、オンラインワークショップ経験者は何を言っているか少しだけわかるだろう。
ワークショップ | comments(0) |
WS報告059(1)/シンプル、外側と内側
風の接近もあり、金曜の20−23時だけ平常ワークショップをやった、その後はまさかのオンラインワークショップというナゾの試みをしてみたが、これも案外評判はよかった。
とはいえ、いよいよ風雨が荒れてきて、こんなアホなワークショップうんぬんの話をするのは気が引けるな、とりあえず金曜の20−23時は、身体の外側のことと、内側である内臓のことをやった。
外側は外側で、正しく使えていないともったいないし、身体を使うといって、その内側の内臓パワーが使えていないと、そこに「こころ」はないよということをわかりやすくやった。
時間が短いので、あっというまに終わる反面、濃密で、短いがゆえに内容が捉えやすかったという向きもあった、色鉛筆ちゃんが武術系の事象について「見ていて面白いとわかった、視えるようになった」と、大きな躍進を示した。

身体の外側というか、物理的な機構として、いつも関節の話をする。
「一番大きなパーツは胸郭と骨盤」「それが背骨で接合されている」「それが真ん中のパーツだとしたら、次の関節は肩と股関節」「肩と股関節の構造はよく似ている、どちらとも、自動車に当てはめれば、本体にタイヤが嵌まるところだよな」「で、肩の先といえば肘で、股関節の先といえば膝だろ」「その先は手首と足首で、言ってみればそれで全部じゃん、実はそんなにたくさんないでしょ」「この先、一生この身体を使っていくのだから、今のうち正しい使い方をまとめて知ってしまえばスゲー有利じゃん?」、と僕はよく話す。
身体というのは、末端にいくほどわかりやすく、見えやすく、認識しやすい、だから手指でグーチョキパーを作るのは割と簡単だ、ところがこれが肩や股関節の構造となるとまったくわからなくなって、さらに中心の胸郭やら骨盤やらというと、そもそも「ここって動くの?」というのがスタートラインだ、こんなデタラメな知識と感覚のまま一生を過ごそうということのほうが無理がある。
そうして身体の外側を正しく使うこと、これを正しく使うということは、「パワー!」をやらないということだ、「身体ってもともと "動く" ものなの、それが固まっているから "動かす" のに力が要ると思い込んでいるのね」/そうして、身体の外側は「パワー!」をやらない、いわゆる身体操作というとそれだけだが、当ワークショップでは「こころ」にこだわるので、心臓を中心として内臓パワーを響かせてみろということに取り組む、「これがごまかし利かねえんだよ、ガツガツ飲み食いして腹の底から笑ってオウと明るい声が響くかというと、そういうのってインチキで出来ないでしょ」。

つまり「外側のパワー外してみろよ、内側のパワー明らかにしてみろよ」ということ。

ただそれだけのことだが、ただそれだけのことが、いちばんごまかしが利かず、一番真の弱虫を暴き立てるのだ、人に向き合ってリラックスできるのは本当に強い人だけだし、そこから内臓の輝きを響かせられるのも本当に強い人だけだ、弱い人はどう細工をしてもこの真似事はできない。
このようにして、当ワークショップは、真に必要なことを教え伝える……つもりでいるのだが、その実際はというと、つまり「テメーがどれだけ弱くてごまかしに満ちたインチキ野郎かを、まず暴露しますね〜」という手続きになるので、現場はなかなかの黒歴史会場になるのだった、まあでもしゃーない、外側のパワーに内側の芝居を潜ませて実際にインチキしてきたのだからしゃーない、それを超えられる奴はけっきょくとても例外的な奴だと思うので、その例外的な奴になる手続きを勧めているのだった。
ワークショップ | comments(0) |
あらゆるものとつながりをもって
白い話は何よりのごちそうだ、ということにしておこうか。
 物事を分割すると、構造は失われてしまうので、およそ「分かりやすいもの」および「分かりやすくしたもの」には何の値打ちもなく、「分析」した者は何も顕わすことができない。
 個々人の思いや思いつきは、何の用も為さず無意味だ、分割は人の力(ないしは罪業)であり、構造は神の力だ。
 神の力を、畏れることはないし、また誇ることもない、なぜならそれは人の力ではないのだから/僕はもう長いこと、分割された人々を内心に見捨て、僕自身のみ今もすべてのつながりの中に佇み続けている、この裏切りは、しかしいつか人々が戻ってくるときの標として僕自身を残らせ続けておきたいということなのだ、僕までが分割に与することはきっと誰のことも益さないだろう。

 神の力は、神によってしか視えないのだから、人がそれを誇ることはない、筋が違う/人は神性によってしか、神の力をまざまざと視ることはない、それは神が神を視ているだけなので、人が威張ることはない。
 構造が神の力であり、神が神の力を視るということを知れば、確かに神という事象は、憐れな人々を愛し、あわれみ慈しんでいることがわかる、神は確かに憐れな人々に胸を痛めている/それは人が人を憐れむこととは現象そのものが異なるので、人が人を憐れんだとしても、その分割的な作用は誰のことも救済しない。
 構造、という神の力の許(もと)にある憐れな人々は、それだけですでに救われていると言える、よって神のあわれみによってのみ無上無類の救済が得られるというのは、現象についての指摘として正しい/それは一般に人がイメージする「神」とはまったく異なっており、なまじ真の神は思いがけずわれわれの身近――というよりは己の身の内、魂の中枢――にあるので、いっそう誤解しやすい、われわれが外部にイメージする「神」は本当にただの空想でしかない。
 僕は一人の「人」であり、この「人」という機能のうちに神なるものはまったくない、ただ神性が降りてきているユニットというのは確かにあるらしく、それは「偉い人」ではなく「現象が降りてきている」だけなのだ、僕という人が偉いということは一ミリもない、きっとこの話がみんなの目撃している実際の現象に最も近い。

「偉い人」は存在しない、「人」は一ミリも偉くなれない。

 分割が人の力であって、構造が神の力だ、そこでどれだけ「偉い人」を設定しようとしても、人は「分割する力」しか持てないのだから、そこには何の構造も生じない、だから人為的に「偉い人」になった人は、孤立して思いつきのわがままをしようとする、それは実に「人」の頂点であって、人の偉さは神と何の関係もない/つまり、きわめて身近な現象でありながら、「人」と「神」は別の現象なので誤解を生じるのだ。
 「構造」という神の力においては、「人」はあまり関係なくて、場所というか地にまずその力がある、天地の関係が「場所」という現象を作り出していて、「人」というのはその「場所」にうごめくあわれなユニットたちにすぎない、そのことを概念にイメージしていてもむろん何の意味もなく、神が神の力を視ていること、その偉大さと慈愛にあずかることをよろこぶしかない/おれという人が実にただの一人の「人」でしかないことがよくわかる、これを「構造」――別名を「物語」――の力に取り込んで救済しているのは人の力でなく神の力だ、それは信仰の問題ではなく現象の区分の問題でしかない。
正しく見ないとな | comments(0) |
センスを誤解した消費者
りから覚めるとき、夢うつつに、ふとすんなりした明視が滑り込んでくる、このことはもう数年も、毎日のように続いている。
 つまるところ、センスと態度が合っていないのだ、当人は自分にセンスがあると思っているのだが、実力としてはセンスがないので、態度と実力がちぐはぐになっている。
 センスがあるかないかは、すぐにわかる、何の味付けもない白紙の状態で、監督・脚本・指揮者・一人舞台等の場所に立たせればいいのだ、何をしたらいいという外圧を加えずに、ただその人だけをその場所に立たせればいいのだ、そうしたら実は「何のセンスもない」ということがわかる。
 センスがないということは、別に悪いことではなくて、ごくふつうの当たり前のことなのだが、これを自分はセンスがあるものだと、もう十数年も誤解して生きてきたのだろう、むしろその自負だけが知らぬうち自分の生きる支えであり励ましだったかもしれない、今さらそれが「まるでありません」とは急に切り替えが利かないに違いない。

 ほとんどの人に、センスなんかないのだ、何度も言うように、そのことはただの平場の、マスターの地位に立たせればわかる、自分では何一つ創出できない、センスなんか空っぽのデク人形だ/当人はいつのまにか、それを当たり前だとは思わず、勝手に「屈辱だ」と感じるようになっている、この仮想の屈辱感がどこから湧いてくるかというと、むろん当人の妄念からでしかありえない。
 現代、多くの人は、ただの労働者かつ消費者であって、消費者が今、大量の商品およびコンテンツをつまみぐいしているから、消費者としての性癖への執着が「センス」だと誤解し始めたのだ。
 繰り返すが、現代人は、本当の本当に、一切の掛け値無しに、ただ消費物を大量につまみぐいして、そこからこじれた性癖を「センス」と思い込んだだけだ、つまり思ったよりもひどいというか、思ったよりも醜い状況にある。
 どうしても納得のいかない人は、僕の隣に並んでみればわかる、別に意地悪で言っているのじゃない、誰にとっても時間の無駄をするべきではないから、あくまで利益追求的に申し上げている、僕の隣に並び立ってみて、ただの小話のひとつでもしてみればわかる、センスなんか何一つないのだということが事実としてわかる/そしてそのことに気づくのは現在、早くても中年以後となっているのだから残酷な話だ。

本当にセンスの断片すらないので、扇情的な映像や振る舞いだけをまき散らしている。

 本当にただそれだけの構図なのだ、いざ平場に一人で立たされると、本当に「センス」と呼ぶべきものの断片すらないので、よくわからないから股を開いて乳を揺らしているのだ、アニメ声を出したり色鮮やかにしてみたり、とにかく媚びに媚びて、扇情してその場をごまかして切り抜けているだけだ/そもそも、なぜ消費者として過ごしてきただけの十数年の中で、自分に「センス」などというものが磨かれたと誤解したのか、それはしょうもない手口の甘い誘いに乗ったからだろう、よくそんな安易な自尊心のくすぐりに乗っかったものだと、自らを恥じねばならない、それはキャバクラでおだてられて未払いが嵩むおじさんよりレベルが低い。
 僕の隣に並び立ってみればわかる、そこには何も消費するものがないから、消費者としての自分の「センス(誤)」は、何一つ役に立たないのだということがわかるだろう、それであなたは自動的に、自分の防御のシステムとして、その場を取り繕ってやりすごそうとする、そのときに自分が「扇情」という方法を選択することにも気づくだろう、よくわからないから股開いておけというのが女の発想だし、よくわからないからカワイコぶっておこうというのが男の発想だ、媚びて扇情するか居直って恫喝するかの二者択一しか持っていない、これは意地悪で言っているのではなく万人の利益のために是正の方針を提案しているのだ。
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