☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ポイズンで痛みを消す原理、そして魂がなくなる原理
れまで繰り返されてきたパターンが、「痛み」というキーワードですっきり説明されるので、いっそのことおれは気分がよくなっている。
これまでに繰り返されてきたパターンというと、まず誰かが九折さんに会うと、何かよくわからないが「やさしい」という感触を受けるようだ、それは今になって「九折さんが痛みを肩代わりしてくれているからだ」と説明できる。
それで、肩代わりによって痛みの負荷がなくなった人は、ふと自分の魂が得られてくるような(統合されてくるような)現象を体験する、なぜかというと<<痛みの負荷がなくなることによってポイズン漬けから脱却できるから>>だ/ここでいうポイズンとはオピオイド的な麻薬・鎮痛剤であって、今多くの人は脳内麻薬的にこの鎮痛剤を分泌することで痛みを抑えている、この鎮痛剤のせいで魂の解離・全身のポイズン状態が起こっている、このことが一時的にせよ緩和されるということだ。
これらの現象が急激に起こるので、多くの人はわけのわからないまま希望と安らぎを取り戻すのだが、これはおれが目の前で痛みの肩代わりを続けているときに限られるのであり、それぞれ各自が「さあがんばろう」と取り掛かろうとすると、痛みは再び自分で引き受けねばならないことになるので、ここで急激なショック症状が起こる、感情が激化したり気分が暗転したり、パニックと呼ばれる症状、あるいは強度の失錯が起こったり、場合によっては一時的に恐慌・錯乱に陥ることもある、これは魂が統合と解離で逆方向に同時に引っ張られるからだ、けっきょく自分で痛みを引き受けられるわけではないので当人は何もわからないまま何かが「しっちゃかめっちゃか」になる。

「ポイズン」、毒というとマイナスのイメージしかないが、ポイズンは痛みを消してくれるので、多くの人にとっては「癒し」に感じられているのだ、もちろん医療行為としては鎮痛剤は正当に使われていいし、今どき「麻酔なしでやれ」みたいな思想は少なくともおれにはない。
ただ魂に関わることにおいては、痛みはそれじたいが魂であって、ポイズンで痛みを消すということは、つまり魂と人格を解離させるということなのだ、魂と人格が解離するから「痛みが魂に届かない」、だから痛みが消えて「癒し」に感じられるという仕組みだ、そうすればもちろん痛みは消えるというか非接続状態になるから助かるかもしれないが、そのぶん、自分の人格がどうやっても魂につながらないという状態になる、つまり人格が「キャラ」になってしまう。
人格が「キャラ」というのはたいへん虚しいことであって、誰だって自分の人格が魂と統合されたなら、何の意味もない「キャラ」なんてやりたくないと思うものだが、魂と統合された人格を、「さあ自分でやってみよう」としたとたん、何か壮絶な、自覚の及ばない膨大な痛みが降り注いでくるわけだから、これはたまらない、もう反射的にこれまでの習慣として「ポイズン」を自分に発生させるわけだ、そうすると降り注いできた痛みは消える、その代わりもう統合された魂はなくなって再び元の「キャラ」に戻っている。
この二律背反(こちらを立てればあちらが立たず)は、なかなか強烈なストレスで、しかも原因が「痛みを引き受けられないという自分の弱さにある」とはまったく想像もしないので、たいていの場合は巡り巡って九折さんに八つ当たりをすることになる、おれはこの八つ当たりのせいでそれなりの暴力を受けたり土下座させられたりをけっこう繰り返してきたが、そうなるともう相手はどのようにしても魂は戻ってこなくなった、本当の構図としては「魂を取り戻させるために痛みを肩代わりしてくれた人を打擲して土下座させた」ということそれ自体が猛烈な毒となってその人を縛り付けてしまうからだ、おれ自身は正直どうでもいいことなのだがとにかくおれがズタズタになってもけっきょくそれはよい方法にはならないということが残念ながらわかってきた。

まず「なぜ自分に魂がないか」について合理的な理解を得よ。

痛みを引き受けられないのだ、それぐらい弱い者として生きてきたはずだ、弱い者はどうするかというと、痛みから逃れるためにポイズンを使う、ポイズンを投与すると魂と人格は解離するので、魂に痛みは届かなくなる、そうすると表面上「強い人格」という欺瞞が得られる、いったんこのようにしてしまうと欺瞞された人格の上に痛みの負債が蓄積するので、もう二度と魂との統合はできない、ということに進んでいく、そうして人は老人になってゆく。
ポイズンには貪瞋痴という三種があり、それぞれ貪り老人・憤怒老人・痴愚老人と進んでいくのだが、この現象を認めることじたいに痛みがあるので、この現象が認められずさらにポイズンが投与される、という当然の悪循環に向かってしまう、だから解決法にはまったくなっていないが、とにかく現象としてすっきり解明されたので、おれは気に入っている、誰だって魂といのちを得て存在したいと望んでいるが、その願望は「痛み」の存在を除外して空想しているから夢のように思えるだけだ、おれの見る世界は確かにぶっとびでうつくしくてそれだけでもう絶対の価値があるけれど、このことのために引き受けねばならない痛みというと、「今さら急にそんな方向転換は無理だろ」と常識的に思いもするのだった、とりあえず仕組みが解明されたのですっきりして気分がいい。
正しく見ないとな | comments(0) |
未来を打開せよ
ークショップ後は、われながらビビるぐらいクタクタになっている(なのでこの後グダグダ休養する)。
ワークショップといってもオンラインでは限界があるので、どうするかというと、おれの能力を上げるのだ、これ以上おれの能力を上げることには何の意味もないような気がするが、しゃーない、他にすることがないのでとりあえずおれだけ無意味にガンガンレベルアップする。
よくよく考えたら、おれが数年や数十年かけて到達した知識や技術を、そうでない誰かが三十分でフンフーンと獲得できるかというと、そもそもその発想や前提がおかしいのかもしれない、なぜか謙虚な人ほど膨大な知識と能力を三十分で獲得できるという発想を持っている気がする。
今どき謙虚な人というのは、「自分みたいなものは、ちょこちょこっとやって、ささやかに最高の誉れと幸福を獲得できたらそれでいいっス」という、控え目な発想を持っているような気がする、それのどこが控え目で謙虚なのだという疑問はあるのだが、なぜか全体的にはそれが謙虚マンというムードなのだ、世の中全体で「七転八倒する人を見かけない」という事実があると思う/おれは嫌味で言っているのではなく誰もが目を覚ませばいいと思って老人みたいな説教をしているのだ。

おれはけっきょく、誰に対しても未来を打開することしか発想にない、根暗な経世家になるつもりはないし、かといってウフフ的なごまかしに寄与することは終生ない。
おれは割と異常な奴かもしれないが、求めているのはフツーのことだ、一方できょうびフツーの人というのは、異常なマンガを読んでいて、人格が異常な「キャラ」になっているのではないだろうか。
この先自分の周囲の友人が、すべて異常なマンガを読んでいる異常なキャラ人間になっていいかというと、そんな友人はゴメンだしそんな同僚と家族はゴメンだと誰もが思う、にもかかわらず、けっこう平気で自分はそういう趣味とそういうキャラ人格に日々ハマっていたりする、やっていることのつじつまが合わない。
おれは痛みの只中に立ち続けるべきだと思うし、「キャラ」なんてバカみたいな解離をやっている場合ではないと思っている、今どきこんなことを言っている奴は異常だというのは理解しているが、おれは「フツー友人というのはそういうもんだろ」と思っているのだ、未来を打開するといってもおれはただ輝かしいフツーのことを求めているにすぎない。

人がジョークを具えるのはうつくしいが、キャラがジョークを言うのはオタクマンガだ。

多くの人が現在、アニメやマンガや、その他何でも「キャラ」に "癒される" のはわかっているが、それが誰も感動させないということは誰だってわかっていることだ、そして誰も感動させない人たちを集めて自分の友人たちと言い張るのにはどう考えても無理がある。
とまあ、相変わらずそんなことを考えているが、とにかくおれは今日は休養するのだった、よーしダラダラするぜ。
 
バカをやろうかあ | comments(0) |
現実は催眠術と呪術で成り立っている2
実は催眠術で成り立っているので、あなたに掛かっている催眠は基本的に、「現実的に」という単語で引き出されてくる。
思い返してみればわかると思うが、あなたにとって「現実的なもの」といえば、ひとつには血縁者のことであり、ひとつにはあなたを「閉じ込め・括り付けている環境」のことのはずだ、それがダブルに重なって「家庭」になっていることも多々ある。
現実的にはいろいろあって、たとえばどんな仕事をしても、現実的にはいろいろあってそう簡単にはいかないものだが、そこを「催眠術的に」と言い換えると、現象の本性が知られてくる、つまり現実的にはいろいろとんでもないオッサンやオバサンが絡んでくるので万事は簡単にいかないのだが、それは「催眠術的にいろいろあるからそう簡単にいかない」というのが真相だ、しかもその被催眠者たちは呪術で固められているのでまず生涯剥がれないものだ(それどころか年々強化されていくものだ)。
真の現実としては、たとえば親子であっても、何か物理的な関係があるのかというと、関係はないのだ、憲法には身体の自由が保障されているので、たとえお盆であろうが正月であろうが、「帰ってきなさい」と親が言うのに「知るかボケ、誰だお前」と言い切ることは可能だ、そちらが本当の現実なのだが、催眠としての「現実的」にはそうはいかないという感覚がある(これが「思い込み」だ)。

ところがその「現実的」というのも、親が「帰ってきなさい」と言うのに対し、たとえば弁護士が入って「強要罪になります」と言えば親もスゴスゴ引っ込むのだから奇妙なものだ、それは犯罪をやると刑務所というよりキツい「閉じ込め」が待っていることや、罰金や慰謝料という「出血・吸血」があることを知っているからでもある。
もともと江戸時代には幕藩体制の中でそれぞれの武家が「代々」、親孝行するのがエライのだとインチキ朱子学を思い込まされたので、そのことがずっと続いて現代の「親子」が成り立っている、本当は親孝行の何がエライのかについては根拠もないし理由もないのだ、そしてしょせんはお上が強要した朱子学でしかないので、同じお上に権威を保障されている弁護士が「強要罪になります」というと、まあ素直にお上の仰せに従うものだ、こうして現実とは異なる「現実的に」という思い込みの現象は成り立っている。
本来、何か「祝福」があって、それこそお盆や正月には親にも会うし地元の旧友にも会うということならステキだったはずなのだが、そうした祝福というのはほとんどの人には与えられないものなので、祝福が与えられない人は人為的にイミテーションの祝福を偽造する、つまり祝福なき親子は催眠と呪術で思い込みの親子をやるのだ、しょうがない/誰がトクするんだと首をかしげたくなる話だが、まあいったん思い込まれてしまったものはもうどうしようもないので、せめて自分かぎりはそうした思い込みには無縁であり続けるしかない、首を傾げ続けているのが真の現実としては正しい。
わかりやすく親子を例にしたが、上司と部下だって、閉じ込めの環境の中でやはり同じように、祝福なき人々として催眠と呪術で思い込んだ同僚と社会人をやっているのだ、祝福が得られないだけでこんな目に遭うのかというところだが、むしろそのことまで含めて「真の現実」なのだと思う、真の現実を引き受けて生きることが真の勇気だとおれは思う/多くの人がまだ呪われていない若い人を、「世間の荒波」で揉もうとするのだが、荒波で揉まれてきた当人たちは、なぜか知らないがとてもしんどそうだ、結婚でまるで幸福にならなかった母親も娘に結婚を促すし、荒波で死に体になったおじさんやおばさんも、なぜか次の世代を荒波で揉もうとするのだった、祝福がないところはこうしてすべて勇気なき催眠と呪術の思い込みで代替されている。

現実的なことをやりくりしてよいが、それはあくまで催眠術的なのだと知っておくこと。

集団ヒステリーがしばしば心身に作用まで及ぼして事件になるように、強固な催眠で思い込み状態になっている人のことを真に受けていると、自分まで催眠状態になっていくことがよくある、ましてそこに血と閉じ込めの呪術が加わるのだから一入だ/それでもすべてのことは、NHKがあなたを実名で取り上げて「独立した一個の個人です」と報道すれば、上司も両親もあなたのことを手放すのだ、なぜNHKに報道されたらすべてが霧消するかというと、「お上」に刷り込まれてきた思い込みのほうが強力だからだ、より強い催眠術のほうだけが残ると先の記事に述べたとおり、あなたを支配している「現実的」なんてそんなものでしかない(ついでに、現在のあなたは、「現実的に」という呪術によって、ここに述べられている仮定について「現実的に考えられない」と感じがちだ)。
これら、世の中・現実を形成している催眠と呪術に対抗しようとして、より強烈な、すべてを打ち払う呪術と思い込みを得んと、これまでにいくらかのテロリストも出現してきた、テロリストは自他の血を直接大量に流すことで、自分に掛けられた催眠と呪術を振り払おうとしたのだ、そうまでして思い込まされた「現実的に」を振り払おうとした、祝福なしに催眠と呪術に頼った以上、あなたの持っている「現実的な」を本当に超えようと思うと、流血現場のテロリストになるしか方法がないのだ、そこで「両親をこそその手で殺せ」とした革命もかつてあった、現実的以上の思い込みを革命に持たせるためだった、重ね重ねこう言いたくなる、「祝福がないだけでこんな目に遭うのか」。
正しく見ないとな | comments(0) |
現実は催眠術と呪術で成り立っている
ともと呪い・呪術は、人為を超えた「祝福」が得られない人が、人為的にそのパワーを得ようとして施す術だ。
そして呪いというのは、単純には一種の「思い込み」の作用を用いるもので、ただし単なる思い込みではなく、それに生きものの「血」の性質を括り付けようという発想で為される、それぞれの生きものによって血(業・カルマ)の性質が違うので、それぞれの血によって、虫を使えば蟲毒になるし、犬を使えばイヌガミになる。
生きものの血は、いくつかの状況や刺激を与えると暴走するという性質があるので、「閉じ込める・拘束する」「共食いさせる」などの環境を課して、その血を暴走させる、その血を摂取すると共に「思い込み」を刷り込むことで、その思い込みは心身を変化させるほど強力になるということだが、これは「思い込み」なので一種の催眠術でもある。
催眠術というと、ふつう「テレビで何度か見たことがある」というやつだが、あれがインチキなのかマジなのかはさておき(別にインチキではない、前もって入念に暗示をかければ掛かりやすい人はああなる)、催眠術がインチキとかマジとかいうより、実際には人の世は「催眠術だけで成り立っている」といっても過言ではない、そしてその強化したバージョンが呪い・呪術になっていると捉えるとすっきりしてわかりやすい。

たとえばあなたの母親は、常にナゾの深刻なネタとして、娘であるあなたに「そろそろあなたも結婚を考えなきゃね」と言い続けるわけだが、実はこのことには何の根拠もない、「結婚して子供を持たなきゃ」ともいわれるが、それがなぜなのかという理由はまったくないのだ。
根拠も理由もまったくないのだが、もう長いこと催眠術と呪術に掛かっているので、およそそれが根本的に取り外されることはないだろう、そして母親と娘は血縁の第一親等なので、血の関係から呪いがよく聞く、これが典型的な「催眠術と呪いの合成パターン」だ、こんなもん「あなたも二十歳になったのだから鼻毛の標本を作らなくちゃ」という内容でも同様に成り立ってしまう、何しろどちらとも根拠も理由もないのだから。
ブラック企業やかつてのモーレツ社員なども、外部から眺めているとまるでアホみたいで宗教じみていると見えるのだが、あれは「閉じ込める」「同期と競わせる(共食いさせる)」ということで呪術が成立している状態なのだ、目の血走った営業マンが機械のように業者をやって他人からカネを吸い上げることだけに働くのだが、そういう「思い込み」を呪術で強化してあるということだ/かつてのモーレツ社員が悪いわけではない、祝福を受けられなかった憐れなハズレモーレツ社員が呪術に頼ったのがハズレというだけだ、アタリの人々もかつてはいてアツい時代を過ごしただろう、そもそも彼らは従業員であって社員ではない。
あるいは、たとえば法律では「人を殺してはいけない」ということになっている、と思い込まれているが、人を殺してはいけないとはどこにも書かれていない、「殺人はこれを罰する」と書かれているだけなので、ちゃんと罰を受けるのなら勝手に殺人してOKよとも読み取れる、かといって全員がそう正しく解釈したらけっこう世の中はムチャクチャになってしまうだろう、このように人の世というのは催眠術の思い込みを呪術で強化したもので成り立っている/もちろん、まったく別の意味で「そういう殺しをしてはいけない」と何かから教わることがあったなら、それはラッキーだが、それはその人に祝福が注がれたということなのだ、ほとんどの人はそんなイイことにならないので、やむをえず催眠術と呪術をほどこしている、祝福の与えられない者に人為的な呪術をほどこすのだと先に説明したとおりだ。

先により強固な催眠を掛けられている人は、催眠術には掛からない。

たとえばブラック企業に閉じ込められて邪悪営業の訓練呪術を施されている人は、そちらの催眠術のほうが強力なので、その他のお遊びのような催眠術にはもう掛からないのだ、だからたとえば強烈な催眠と呪いに掛かっている教育ママには今さらチャチな催眠術は効かないし、教育ママをやめさせようとするとカルト宗教か何かの施設に閉じ込めてより強力な催眠と呪術で上書きするしかない、そうしたらママは教育ママをやめてくれるだろう(そのかわりこんどはカルト宗教に激烈に入信させられることになるが)。
このことから何を発見すればいいか/それはつまり、「祝福を得られないだけでこんな目に遭うのかよ」ということだ、すべては祝福が得られない人がその代替に催眠術と呪術に頼るということから始まっている、ここで「祝福なんかなくても生きていけるさ」というのは事実ではあるが、その代わりに大量の催眠と呪術をブチこまれなくてはならないと考えると、どう見ても第一には祝福があるほうがステキでナイスなのだった、祝福がある人は思い込みを持つ必要がないので、催眠にも呪術にも用事がなくなる(作用も受けなくなる)。
正しく見ないとな | comments(0) |
あいまいな祈りとはっきりとした祝福
んのこっちゃわからない話が続く/それはまあ、お前らみたいなモンに理解できるよーな話は元から値打ちが低いのである、お前らの知性が捉えられる限界は「シーチキンはウマい」程度だと心得よ。
人はカミサマではないので、カミサマと同じことはできない、つまりどういったことができないかというと、「砂浜と山頂に同時に立つ」というようなことができない、そんな量子的であいまいなことはできないので、われわれはそれが可能なカミサマに対して「祈る」ということになる、よって「祈る」という行為は常に量子的であいまいになる。
祈るというのはそうしてカミサマに向けるものなので量子的であいまいなのだが、カミサマから人に向けられるもの、つまり「祝福」は違う、祝福はあいまいの反対なので、「はっきり」した形で現れる、このことは説明がしづらいが、つまり砂浜に行くのと山頂に行くのなら、砂浜に行くのが絶対的に正しく肯定され、また山頂に行くのも絶対的に正しく肯定される。
この、人の「限界」と呼ぶべきもの、つまり人は限定的でしかあれないということ、および「限定されたそれぞれを比較して、相対的に正しいことしか為しえない」ということに対し、それを絶対的なものに作り替えてくれるのが人ならざる偉大なものによる「祝福」だ、それは古代から人々が「なんなんだこれは」と首をかしげてきたその現象のことを今もなお祝福と呼んでいるにすぎない/ふつうの人は、「カレーを食うかラーメンを食うか」で迷ったとき、そのときの気分に合わせて相対的に正しいほうを食うしかないのだが、おれの場合なぜかどちらを選んで食ってもそれが絶対的に正しく肯定されて何か完璧にすばらしいことになるのだ、こんなことはおれとメシを食いに行ったことがある奴なら全員知っているだろう、それについてずっと「なんなんだこれは」と首をかしげてきたはずだ。

ふつう、最善の旅行先を選ぶとすれば、さまざまな情報や自分の好みによって、入念に検討し、自分の旅行先ベスト100をランキングし、その一位に行くのが最善の旅行先になる、ただしそれは相対的に肯定される旅行先であって絶対的な肯定があるわけではない。
ところがおれの場合、あえてそのランキングから99位を選んでも、その旅行が絶対的に正しく肯定されるのだ、ナゾの輝かしさに満ちると言っていいだろう、そんなことはもう何人もが「なんなんだこれは」と首をかしげてきた、多くの人は間近で「祝福があるのだからしゃーない」と絶望的にそれを視認してきたはず/旅行先なんぞは、相対的な一位ベストを為してきたってあまり意味はないのだ、一千万円かけてヨーロッパを周遊してシャトーブリアンを食いまくるよりおれがレンタカーで箱根に日帰りする旅行してドライブスルーでマックナゲットをバカ食いするほうが輝かしい値打ちがある、これは凡人は旅行するなと言っているのではなく、もっと別のことがあるのに気づけと言っているだけだ。
祈りはあいまいで量子的だが、祝福ははっきりとしてナゾの絶対性がある、ここでカルト宗教であれ一般的な宗教であれ、祈りと信仰を「はっきりさせる」というのは、原理的に誤っているので、マッドでヤバい人々アンド空間になっていくのだ、ネタが宗教なのだから原理的に誤ればがっつり呪われるに決まっている/人はアホで「限界」があるので、人としてはたとえばカミサマのことも「存在する・しない」という限界・相対的にしか捉えられないのだ、それをはっきり「存在するッ」と言い切ろうとするアホの発想により、コテコテに呪われたマッド集団と空間が生成されていく、ここでは冗談みたいに言っているがその実物は割とマジであってすげえシャレにならないブツに仕上がるものだ。
マッドな人々とその空間は、カミサマを「はっきり」させようとし、祈ることを「はっきり」させようとして、ゴリゴリに呪いを受け、そして肝腎の祝福については「あいまい」でごまかそうとする、当然ながらまるきり逆転しているのだ、まあきょうび宗教施設に深入りしようなんて人はそうそういないと思うので宗教うんぬんなんて考えなくていいと思うが/それより多くの人に実際的なこと、「センス」というのをあいまいでごまかしにしないほうがいい、自分の信じるものはあいまいでも、実際に現れてくるセンスははっきりしていないといけないのだ、逆転していると呪われるのでよくない。

芸術家が芸術を「はっきり」言い張りつつ、作品のセンスは「あいまい」にごまかす、それで呪われていくというのが定番のパターンだ。

その点おれなんか、センスははっきりしている、「お前らの知性の限界は "シーチキンはウマい" だ」とはっきり示している、それでおれが芸術家なのか何なのかについては、まあおれ自身でもよくわからない、おれはただ常におれを掴んで放さない面白さとうつくしさのことを話し続けているだけであって、それが何なのかはおれも知らんという具合だ、実際おれの書き話しだけははっきりしているのだからいいじゃないか、おれはおれに懐いてくる献身的な美女があるかぎりはこの世界を肯定してやろうと思っている(はっきりしている)。
祈りはあいまいで量子的だが、祝福ははっきりしている、ちゃんとお前らの知性の限界でも足しになるように偉大なるおれさまがナイスな書き話しをしてやっているのだ、「シーチキンはウマい」でいいだろう、あなたが一言「シーチキンはウマい」と言うより、おれが一言「シーチキンはウマい」と言うほうが、「なんなんだこれは」が起こってしまうだろうという、ただそれだけの話をしている/祝福はそれを相対的でなくし絶対的に肯定する、相対的でなくはっきりと「シーチキンはウマい」が現成する。
正しく見ないとな | comments(0) |
痛みと魂と三毒解離
れは今も完全解決の道筋を探っている。
それでいよいよタイトルからしてわけのわからない話が続くのだが、しゃーないのだ、状況のヤバさがコアになるほど、その解決方法もコアにならざるをえない/状況がどのようになろうとも、帰参する道筋を作っておいてやろうというのだ、さすが偉大なるおれさまはスケールが違うぜ。
キーワードは[痛みとポイズン]、[三毒解離と三毒呪縛]、「クリティカルとは "王手" のこと」、これぐらいで済む、まあ近々そういうコラムを書こうかと思っている、そんなにむつかしい話ではない(実現はむつかしい)。
まあこの期に及んでも、ますます偉大なるおれさまだけがまともだという状況が続き、よくわからんがおれの話を聞いてなんとなく救われた心地になるということを追跡するしかフツーないわけだが、そのことは一応[痛みの神秘]ということで説明がつかなくもない、痛みというとタンスの角に足の小指をぶつけると超イタいわけだが、そのときは宇宙で自分ひとりだけが痛いわけで、それがこの宇宙に自分が存在しているということなのだった、このことはモルヒネ鎮痛剤を投与するとわからなくなる。

もちろん医療行為としては鎮痛麻酔をフツーに使えばいいと思うし、いわゆる無痛治療や無痛分娩などは「フツーにそれでいいだろ」としか思わない、そういうところにおれの思想はない。
問題はそういう外傷や炎症に関わる痛みではなく、なんというか魂の痛みだ、この痛みに対してポイズンを投与すること、つまりオピオイド系麻薬を投与することが、魂の行く末を決定してしまう/2017年、アメリカはオピオイド系麻薬の蔓延について、大統領が公衆衛生の緊急事態を宣言した、毎日オピオイド系麻薬で100人以上が死んでいるそうだ。
麻薬・ドラッグでわかりやすいように、ポイズンというのは実は「痛みを打ち消すため」に選択的に用いられるのだ、オピオイドポイズンをぶっこむと痛みは消えてくれるのだが、そのぶんポイズンの作用が蓄積されてしまう、このポイズンの作用はどのようにはたらくかといって、おれはそれを「実際の三角形」と呼んでいわゆる仏教説の煩悩三毒に引き当てて捉えている/三角形の重心から離れて魂がそれぞれ毒の作用によって "解離" してしまうのだ、だから何をやっても自分の魂の足しにならず全てが何かウソくさいウソになってしまう。
こうしておれの書き話すことだけが、なぜかこの時代にも影響されずまともであり続けるのだが、なぜコイツだけずっとまともで、なぜこいつのやることだけずっと無意味化しないのだということについて、「痛みを引き受けてポイズンを拒否しているので解離が起こらず魂と行いが合一している」と説明することができる/そして多くの人がおれの存在とやっていることを肯定できず反射的に攻撃・迫害しようとする気分になるのは、おれのやっていることがつまり「痛み主義」であって、卑屈的ポイズン主義に逃避した人々に積もり積もった痛みを返済させようとするからだ、そんなものぶっこまれたらフツー耐えられるわけがないので、痛みの債務が降りかかってこないようにおれのことは潰したくなってしまうのだ、それは生理的な反応でもあるし呪縛による拘束でもある。

痛みは友人を与える、ポイズンは人間関係を与える。

たとえば極端な話、ボブディランとアイドル声優を比べてみるとわかりやすい、別にどちらが善いとか悪いとかの話ではなく、「痛み」ということに魂の親和性がありそうなのは、どう考えてもボブディランであってアイドル声優の側ではない、だから予想されるところボブディランの「友人」とアイドル声優の「友人」はまったく性質が異なると予感される。
善し悪しの話をしているのではなく、「痛み主義」と「卑屈的ポイズン主義」の話をしているのだ、魂と人格・行為が "合一" しているのはどちらの側か、 "解離" しているのはどちらの側か、そしてどちらが偉いとかいう話ではなく、今多くの人々はアイドル声優の側をこころの癒しとせざるをえないだろうという状況を指摘している、なぜそちらを癒しにするしかないかというと、前者ボプディランのほうは痛みの債務を思い出させるからだ、だからアメリカがオピオイドにむしばまれるように、今多くの人は痛みを打ち消してくれるポイズンのほうを癒しと言い張って摂取し続けるしかなくなっているのだ、これは時代の文化ではなく症状でしかない。
 
正しく見ないとな | comments(0) |
上下関係の神秘と、アホのする制度
本の竹を植え、それぞれに生育を競わせたとする、そして竹Aは3m伸び、竹Bは1mしか伸びなかった、すると竹Aのほうが「上」だということになる。
とはいえ、これは競争関係であって上下関係ではない、二本の竹は並列して生えているのであり、竹Aと竹Bには相互に関係がない、まったく無関係の存在だ/関係があるように錯覚されるのは、比較・競争という架空のパラメーターを持ち込んでいるからに過ぎない、竹Aが一日で1億メートル伸びたとしても竹Bには何の関係もないことだ。
二本の竹ではなく、二枚の皿を考える、この二枚の皿がたまたま上下にピタッと並んだとき、皿Aのこぼしたものはすべて皿Bに注がれる、注ごうとしなくても勝手に注がれる、この現象を上下関係という。
上下関係とはこうした位置関係のことであって、比較・競争の上で優劣を言うのではない、上から下へ「何もしていないのに勝手に注がれる」という魂の神秘、その現象のことを上下関係というのだ、これが得られないアホが、定番としてそれを疑似した「制度」を作る、そして男尊女卑とか士農工商とか年功序列とかカスみたいな百年間を送って人々に迷惑をかける/このアホ制度を作った大家の一人が、たとえばインチキ朱子学の開祖・林羅山であって、こうして上下関係に到達できないアホが上下制度を作るのだ、上下関係に到達したことがある人がわざわざ上下制度を作る必要はまったくない。

林羅山は士農工商を「天地の法則ゥ! 法則ゥゥ! これが朱子学ッ」とがなり立てて徳川家の初代から四代までを洗脳した、それをすっかり真に受けた徳川家も生粋のアホだったのだと思う(当時ならもちろんこの発言だけでおれは獄門首だったろう)/誰とも関係を結べなかった徳川おじさんたちはしょうがないので制度権力で関係を捏造した、こんなことがその後250年間も続くのだった。
おれはいくつもの神技を、 Youtube でちょろっと「見ただけ」で習得するというナゾの特技を持っているが、これは実は才能でもなければ能力でもないのだ、ただおれが「素直」で、学ぶべきもの・得るべきものの「真下」にさっさと入るということだけで成り立っている/そこからあるていど器量の差というのはあるかもしれないが、器量の大小はあるとしても、基本は "誰でもできること" なのだ、誰もおれみたいには素直じゃないというだけでしかなく、だからこそ本当の差を知ると学べない人は自分が恥ずかしいということに気がつくのだった。
ペコペコ頭を下げたって何にもならないし、そんなものは上下関係ではなくてただの権威主義と政治工作でしかない、上下関係といえば自分が得るべきものの「真下」に入ればいいだけであって、真下に入っておけば上の果実は勝手におれのところに落ちてくるのだ、「その100%が落ちてくる」ということでなくてはならない、そうでなければ真下には入れていない。
レベルの高いとか低いとかがあって、レベルの低いものが高いものに学べるかというと、そんなことは不可能だ、レベルが高いとか低いとか言っているのは並列に生えている竹の高さを比較・競争させているだけなので、二本の竹には関係性がなく、何かを学ぶとか言っているのはただの空想とイメージでしかない、互いに何の関係もないのだから何も届かない/ただ並列に生えている二本の竹、何の真下に入ることもないなら自分の真上には「何もない」わけで、頭上には真っ黒な空洞しかない、自分の真上にも真下にも何もないし誰もいない、そうして「誰とも関係なく生きている」という徳川家みたいな人が大多数としているはずだ、そして弾圧と恐怖政治の中だけを生きているだろう。

アホが上下関係の制度を作り、まったく意味がないということで、続くアホが平等関係の制度を作った。

竹Aと竹Bを、「上下ッ!」と言っているのは勝手に比較競争を持ち込んでいるアホでしかないし、それを転じて「平等ッ!」と言っているのも、比較競争の中で脳みそが粥になっただけのアホでしかない、なぜこのアホが続くかというと、彼らの誰もが「誰とも関係がない孤独の闇へ吸い込まれていくだけ」ということを引き受けないからだ、引き受けないといってもけっきょくそこにしか行かないわけだから悪あがきがすぎる/そんなところに上下関係もないし平等関係もないのだ、誰とも関係ないのだから「孤独の闇へいけ」と言っているのにそれをどうしても受け入れられないのか(まあそりゃそうだな)。
誰かの何かがあなたに降り注ぐということはないし、あなたの何かが誰かに降り注ぐということもないので、つまりあなたの真上にも真下にも誰もいないし何もないということだ、だから孤独の闇へゴーゴーということになるが、これはもちろんおれとしては他人事だから気楽に言っているのであり、もし自分のことだったらキャアアアと悲鳴モンだ/比較競争の中でマウント合戦をしてきた人にとっては、今さら誰かの真下に入るなんてことは意味がわからないだろうし、いつまでもアホにとっては上下というと「優越と屈従」でしかないものだ、平等だの対等だのも好きに言っていればいいと思うが、天地が互いに横並びになっていた試しはないぞ、つまり魂は横向き・水平方向には連絡していない、真下に入りゃいいだけなので真下に入ったモンがペコペコする必要は皆無なのに、さあおれの言うことが気に入らない奴は今すぐ林羅山とディープキスしてこい。
正しく見ないとな | comments(0) |
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 7/30更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第百八十六回】7月31日(金)19時〜オンラインにて開催
【第百八十七回】8月1日(土)19時〜オンラインにて開催
【第百八十八回】8月7日(金)19時〜オンラインにて開催
【第百八十九回】8月8日(土)19時〜オンラインにて開催
【第百八二十回】8月14日(金)19時〜オンラインにて開催
【第百八二十一回】8月15日(土)19時〜オンラインにて開催

(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。夏場世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第102回】8月15日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第103回】9月19日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

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基本フツーの風邪でさえ罹りたくないのでみんなおれのために自粛と防疫をしろ


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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痛みの嵐に立てない現実
う説明したらいいのだろうか、「自分」から離れた何かを上手にやっても何の意味もない。
「自分」という、「わたし」の現象、これから離れて何かをやっても、何の意味もないし何のよろこびもない、その代わり何の痛みにも触れなくて済む。
誰でもわかっていそうなものだが、青年ビリージョエルが唄うことと、歌ウマ声優が唄うことは、意味も性質も異なるのだ、この「誰でもわかっていそうなもの」が、実はここ近年、本当に誰にもわからなくなっているフシがある/痛みを避けたがる人々によって、何もかもが本当にわからなくなっているみたいだ。
青年ビリージョエルが「唄っている」ということ、つまり青年ビリージョエルの「やっていること」と「存在」は完全にぴったり重なっていて、やっていることがイコール存在なのだが、近年のすべてのものはまったくそれではない、存在のないものが存在と無関係な趣味や技術で何かを上手にやっているだけ、「ネタ」でそれをやっているだけだ、別にそれが悪いわけではないが、よいとか悪いとかではなくただ「意味がない」と指摘している、本来「ネタ」というのは本編に添えられるオマケであって、本編のない者がオマケだけ派手に積み重ねても本編のある者にはならない、こんな当たり前のことが近年は本当に誰もわからなくなっているフシがあるのだった。

何か解決策があるわけではなく、そもそもこの段階において解決策なんて馬鹿げた話だ、そうではなくおれは「とびっきりヤバい状況がもうずーっと放置され続けて行き着くところまで進行しきった」と指摘しているのだ、まるでそのことを視認しようとせず「解決策」みたいなことを妄想・期待しはじめる人の神経は本当に根こそぎやられているとしか言えない。
状況のヤバさを理解するためにも何か手がかりがいるだろうと考えている局面だが、過去、「やっていること」と「存在」がピタッと合っていた人というのは、つまりは「痛みを引き受けてきた英雄」だったと言える、現代はそれが「オピオイド麻薬で痛みを避け、自分が引き受けなくて済むよう痛みは人に投げつける」というのがメインの勢力になった、つまり自分だけはネタやキャラで痛みを避け続け、必要とされる痛みは他人に投げつけて、自分は痛みなしに何かエキスだけ吸い取ろうとしているのだ、そんな厚かましい奴がいてたまるかと思うだろうが、残念ながら本当にそうなのだからしょうがない、こうした人々の多くは自分が何をやっているのか自覚がないので、むしろ自分のことをマジメで献身的で自己犠牲的で被害者側と思っているものだ。
今さらこの壮絶な痛みの嵐となった状況の中に、誰が立てるというのか、よほどの勇気と実績および強大な庇護でも受けていないかぎりは、神経が秒でダウンするだろう、もちろんここで言っている痛みというのは長時間正座したからといって得られる痛みではないので、そういう勘違いした苦行やガマン大会や自傷で補填できるものではない/ここで言っている痛みというのは、あなた自身とあなたの知人のすべてがたとえばおれに吐きかける唾の痛みだ、そんな場所に誰が平然と立ち続けられるか、どうしても自分の側を「まとも」だと言い張らないと神経がやられてしまうだろう。
おれは別に自分が痛みを引き受けて立つことや、誰かのぶんまで痛みを肩代わりしてやるようなことを、自慢したいわけではない、おれはただ自分のやっていることと自分の存在がズレて「意味がない」ということが耐えられないので、おれ自身のために痛みの中に立ち続けるだけだ、それは別にどうでもいいのだが、問題はポイズンその他のことだ/痛みを避けるために毒を自家生産するということ、および痛みを避けるために痛みは他人に投げつけるということが自動的に起こっていくのだが、これがヤバいじゃないかと指摘している、このポイズンは最近「痴愚」のパターンを創り出していると前に述べたし、この痴愚が無条件で「痛みは他人に投げつける」ということをやり続けるのだからおっかない話だ。

あなたが「やさしい人」と言われないのは、「痛みは他人に投げつける派」だからだ。

このことに、同情の余地はなく、また同情なんかしても何の意味もないのだが、あくまで現実的に、現在の状況で「この痛みの中に立てるわけがない」という冷静な理解もおれは持っている、だからどちらがキチガイかというとおれがキチガイに違いないのだが、かといってキチガイではない「ふつうの人」について、「痛みは他人に投げつける派」だからふつうでOKとも言っていられないのだ、そんな意味のないネタだけのごまかしで生きている者が痛みを他人に投げつけているのをふつうでOKと言い張るのにも早晩限界が来てしまうだろう、そうなると本当にその先はもう薬物依存しか残っていない。
このように、おれはまったくひどいことばかりを書き話しているが、これによっておれは痛みを誰か他人に投げつけているだろうか、もしそんなクソみたいなものだったらあなたはおれの話なんか聞く気にならないだろう、おれは痴愚であったりネタであったりするだろうか、おれの書き話すことはおれの存在から離れていて意味がないと感じられるだろうか、おれは自分が一種のキチガイであることは認めるが、あなたが「どうしたらいいかわからない」というのはウソだ、どうしたらいいかは今おれが見せているとおり単に痛みの嵐を引き受ければ済むというただそれだけであって、問題はどう考えてもあなたがそれを数秒でも引き受けられるわけがないということだ、だからこそあなたは引き受けられないそれをおれに投げつけるしかないわけだが、せめてこのことがはっきり視えれば自分の魂と自分のいる場所ぐらいは知ることができる、そのときどうか反省と謝罪と感謝だけは二度と取り出すことがないように。
正しく見ないとな | comments(0) |
痛みと卑屈とオピオイド
代は痛みに満ちている。
それは、自分の痛みをPRせよという意味ではなく、「お前が人に痛みを与えてんだよ」という意味だ、そういわれると99%の人がスゴスゴと退いて距離を取ろうとする、何しろ痛みといえば自分が被害者だと思っているものだ。
痛みに対抗するのは何かというと、オピオイドだ、オピオイドとは麻薬系の鎮痛剤で、モルヒネであり、モルヒネということはアヘンだ、もう長いことアメリカはこのオピオイド麻薬が蔓延しており、アメリカ人の精神はもうこの麻薬なしでは崩壊しちゃううう、というような状態だ、もうずっと前にトランプ大統領はオピオイド麻薬について公衆衛生の緊急事態宣言を出している。
オピオイドが麻薬ということは、つまり毒だ、ポイズンだ、もちろんそれは適正な医療投与で用いられるぶんには問題ないし、正しい薬なのだが、それでも本質的にそれは微弱であれポイズンには違いない、そして麻薬ポイズンというのはすでによく知られているように、使えば使うほど「前の量じゃ効かない」という耐性がついてくるので、次第に大量に摂取しなくてはならなくなり、心身を荒廃させてしまうのだった。

今から二百年前、アヘンは法律で禁じられていなかったので、アヘンは一種の「たしなみ」となり、当然だが人々はたちまちアヘン中毒に陥って、何かよくわからない苦しんで震えるクズみたいになっていった、つまり現代のアメリカの公衆衛生と同じだった/挙句の果てには、それを外国に流し込んで利益を得るという、つまり「売人」の行為をイギリスが国家ぐるみでやって、しかもそのことにケチをつけられると敵国を焼き払うというアヘン戦争をやった、こうしたまるきり暴力団のやり口を国家がやるのも驚きだが、その後も第二次アヘン戦争(アロー戦争)と続いているので、いろいろ想像を超えてくるのだった、やっぱり当人もアヘンが脳に効いていたのだろうか。
痛みが常時続いている現代においては、対抗して常時オピオイドを利かせているのがナイス対策ということになるが(否)、わたしはこのことについて、痛みに耐えられなくなった人ほど「卑屈」という主義を取るということを、経験的に看取している、世の中には卑屈主義およびそれが裏返った高慢主義者が多いものだが、これはどちらともけっきょく「卑屈」の一言で表せるものであり、このことには「痛み」が統括的に支配を及ぼしていることがわかった/「痛み」に対しては「卑屈」がオピオイド的バリアとしてはたらくのだ。
どういうことかというと、つまり最大まで単純化して考えれば、選択肢は「痛み or ポイズン」ということになるわけだ、要は痛みとオピオイドのバランスなのだから、そして痛みそのものは毒ではないので「ダメージ」にはならないのだが、痛みに抗するのにオピオイドを投与し続けていると、それは毒なのでダメージが蓄積してしまう、そういった薬というのは基本的に毒でなければ効果がないのだからしょうがない。
だから、現代人はこの構造下で、それぞれが自家製で毒生産・ダメージ生産をしているということなのだ、何のためかというと「痛み」を緩和するためだ、人々が卑屈主義においてわざわざダメージを自家生産しているのは、痛みを緩和するためだ、そこで痛みとは何かというと、およそ「自分が軽んじられること」だ、自分が軽んじられることがクリティカルな痛みになるので、前もって卑屈主義を導入して、<<自家製ポイズンを服用することで「痛み」を避けている>>というのが真相だ、落ち込んだり反省したり謝罪したり感謝したりすることで「痛み」を避けるという卑屈主義・オピオイド依存症が蔓延しているということになる。

英雄の痛み or 卑屈主義のポイズン。

常時、「今日もポイズン入れとくかぁ」で、痛みを避けられるのだ、オピオイド漬けのアメリカ人のように、「痛みを忌避してポイズンダメージを愛好する」という状態にある、そういうふうにしていれば趣味とコンテンツに満ちた楽しい毎日がやってくるように感じられて精神が安定するのだが、先に述べたように次第に必要なオピオイド投与量は増大していくのでやがてキツさが増していって破綻してしまう。
ここにきてどうも、「痛み」という現象に、何か深いメッセージ性があるように感じる、痛みについての学門を展開する必要があるようだ/おれの書き話すことは、どれだけひどい内容であっても、またどれだけ歯に衣を着せず赤裸々にナタを振り下ろすように語るものであっても、人に「痛み」を与えることはない、痛みを与えるようでは誰もこんなもの読めないだろう、そしておれがあなたに痛みを与えないのは、よもや作文のテクニックなどではない、単におれが痛みを引き受けているからだ、だから誰にも真似できないし、理解といえばほとんど誤解しかしようがないのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
女性当人が言う、「女の下ネタはエグいよ〜」について
時期、「女の下ネタはエグいよ〜」みたいなことを、女性当人が言うことが流行った。
それでいうと、下ネタがどうこうというより、男女でいえば女性のほうが具体的な「シモ」そのもの、つまり性器におけるエグさが勝っているように思う/たとえば卒業アルパムにクラスメートのチンコ一覧が並んでいたらジョークみたいで笑えるが、マンコ一覧が並んでいたらそのページはえげつないだろう、さすがに当の女性もマンコ写真がずらっと並んだページなんか見たくないはずだ。
だから、「女の下ネタはエグいよ〜」ではなくて、先立って言われるべきは「わたしのマンコはエグいよ〜」であるべきだと思うが、なかなかこのことは女性当人からは言われない、それぐらいガチでエグいからしょうがないのだろう、その点で男性はチンコが「エグい」とまでは器質的にならない。
男性の性器呼称に「魔羅」なんて当て字をすることがあるが、どう考えても外見上でモンスター・デーモンの威容に近いのは女性器のほうであって、母親でさえ自分の娘に向けて自分の性器をおっぴろげて性教育はしないはずだ、まあこのあたりアダムとエヴァ以来「身も蓋もないこと」になってしまったのだなあとテキトーに理解しておこう。

不思議なことに、男女の交合においては、具体的には男が清で女が穢だ。
大きな才能を有する女性が、すぐれた男性に愛されて、しかも彼女はその男性のことを信じて身を捧げている、という状態でなら、例外的に女性器は穢という感触から大きく離れていくのだが、そんな例外をアテにしないかぎり女性器の実体は感触として穢だ、その実体はあの苛烈な思春期の少年の性欲さえ一撃で減退させてしまうことがあるほどだ。
これは女性の悪口を言っているのではなく、あくまで一種のレポートとして、「すぐれた男性に愛してもらう」「その男性のことを信じて身を捧げている」ということが成り立たないかぎり、「女のシモはエグいよ〜」は解決しないということを報告しているだけだ、なぜそんな具体的な部分の性質が行為や精神によって変化するのかはナゾだが、実際にわれわれは万事を見て「汚い人」と「清らかな人」という直観を受けるのだからしょうがない。
ここ十数年、特に男性はアニメを根拠に、女性にマンガチックな「清楚」を投影することが基本になり、一方で女性はというと、男性というと常に女性に対する汚らわしい犯罪者、汚物、ゴミ、という扱いがフェミニズムの方面から一般化した、その結果、誰でも知っていることだが男女両方ともが単純に「破壊」された/もともと男性は女性自身の言う「エグいよ〜」からは無縁のものだったのに、このごろは男性も股間のエグさを持つようになった、そして女性が男性と出会ってきれいになるとかそういうこともなくなったので、もうセックスというとこのごろはエグみの交換でしかなくなり、じゃあ同性愛でもいいかという人が増えているのだ、ここは趣味によると思うが、おれはもともと女がエグみから離れてきれいになる瞬間が好きで、女のシモのエグみが好きなわけではまったくなかった、だからエグみ趣味セックス派の人とはおれは話が合わないだろう。

「きれいだよ」のつもりで女性器を抱くと、女はよろこぶが、女は破滅に向かってしまう。

これまでおれが女を落としてきた瞬間というと、つまり女が内心で「この人の清潔さには及ばない」と屈したときだったし、なぜか交合というと、女のそれを「清らかではないもの」として抱いてやらねば、何かが崩れていく・破綻していくということが繰り返されてきた、それがなぜなのかはよくわからないが、女性のほうを女性の願望のまま「清らかなもの」と扱うことは、女性を高揚させつつ、ほとんどのケースで女性を滅びの道へ追いやっていった。
とはいえこのことは、現在ではほぼ本来の形には成り立たないのだ、だから絵空事と言っていい、われわれは社会的に全男性を Kill してきたのだし、また男性自身もそのようにされるべき失墜がすでにあった、そしてかつて女性はこぞって自分では及ばない清潔さの男を見つけてはその下に自らもぐりこもうとしていたが、今はそんなことはありえず、基本的には絶対平等か、そうでなければ膝下にねじ伏せるのを基本関係にしているはずだ、こんな状況に至ってはすでに、つまり戊辰戦争後に江戸幕府に戻そうという話ぐらいに無理がある、おれは今なにを手に入れろという話をしているのではなく、何を失ったのかについてレポートしている、女性自身が言う「女のシモはエグいよ〜」について、「かつては解決される方法もあったんだよ〜」と報告しているといえよう。
正しく見ないとな | comments(0) |
コロナ騒ぎは承認欲求チャンスじゃねえだろ41/ワクチン試験は好結果らしい

療薬状況は特に変化なし、相変わらずアビガンは「うーんまだよくわからない」、イベルメクチンは「研究中、しばらくお待ちください」、レムデシビルはすでに正式治療薬でありギリアド社いわく「死亡率を六割下げる」と言われるが、死亡率は下げてもコロナに対する特効薬ではない、だからやはり治癒そのものは自力でやれという具合。
そして最近になってデキサメタゾンというステロイド剤が治療薬に入る見込みだ(もう入ったのかな?)、これはすでにステロイド剤として他に使われてきた実績があるので、特に問題はない、そしてステロイド剤ということはもちろん炎症を抑えるものだからコロナ感染そのものに対抗するものではない、症状を抑えるだけだ(といって症状を抑えることこそ最大に重要なわけだが)。
治療薬はそんな感じだが、何やらワクチン関係はいちおうグッドニュースが続いている様子、各メーカーのワクチンは実験の結果、抗体の獲得を成功させているし、モデルナは「年内に実用化」といよいよ言い出している、そしてオックスフォード大・アストラゼネカのチームによるワクチン試験の結果においては、抗体だけでなくT細胞の応答も得たということだ、それはつまりどういうことかというと、一時的に生成されて数か月で消えてしまう抗体だけでなく、数十年にわたる免疫も獲得可能かもしれないということ、そんなもんが九月やら年内やらに実現したら来年の東京オリンピックは本当にイケるかもしれない。
とはいえ、まだ一か月と少しは待たないと九月にはならないので、それまでは今までどおりに防疫しているしかない、といっていいかげんみんなも防疫には慣れたよなあ、おれも自分のアルコール消毒の手早さを見ると自分で失笑してしまう/まあとにかく感染しなきゃ勝ちなんだからこのまま逃げ切らないとな。

世界の感染状況は、相変わらず、のみならずプラスアルファが利いている具合で、ヨーロッパはさすがにコントロールしているらしいけれども、アメリカはどうしようもない様子だ、一日に7万人というようなぶっとびの数値をたたき出している/アメリカとブラジルとインドが相変わらずフルスロットルで、このあたりはもう本当にまともに検査しているのかどうかもわかったもんじゃないなと個人的に思う。
日本は東京を中心に、デイリー100人だったものが200になり300になりギャーという不安があるが、数そのものはやはり爆発的ではないし、増加の具合・再生産数もなんとか踏みとどまっている状態だ、これは甘く見ているわけではなくて、合理的に言うと「ビビるとしたらまだ先だ」ということになる/仮に再生産数を1.5と仮定して、これから二週間後にきっちり新規感染者数が2.25倍になっていたとしたら、そのときはじめて「順調すぎてビビるわ」とビビり始めるといい、この再生産がきっちり為されてはダメなのだ、仮にデイリーが+1000人になったとしても、それが900・800と減っていくならいい、それがきっちり1500になっていくのは本当にダメということ、つまり「来週がどうなるか不安」なのはいいが「来週がどうなるか約束されている」のはダメだ。
というわけで、われわれの為すべきことは何かといえば、まあけっきょくは偉大なるおれさまが、コロナよさっさと滅べと命令することなのだった、ここしばらく命令していなかったからなあ/困ったことに、世の中にはコロナ信者のほうが多いので、放っておくとコロナは増えていくのだった、なぜこんな具合の悪いものを信じて奉るのか、よくわからん人が世の中にはたくさんいるものだ。
すでにコロナ関連の情報は成熟してきて、今さらこのネタで承認欲求を満たすことはできないはずだが、それでもあちらこちらにはやはり、とにかくコロナで不安を煽って自分の発言を目立たせようとする人が引き続き存在している、彼らとしてはやはり再生産数が大爆発してほしいし、ワクチンが失敗してほしいし、突然変異によってコロナが強毒化するという願望が叶ってほしいわけだが、おれとしては誰もそんな奴になってはいけないと思うし、そんな奴の話が一ミリでも耳朶に染みることがあってはならないと思っている。

「Go to トラベル」は、文法が気色悪くてモゾモゾする。

とまあ、特に新しいニュースがあるわけではないので、こういうどうでもいいことを書くしかないのだった、まるで旅行代理店に「トラベルに行きたいんですけど」と申し込むような気色悪さだ(ああ、モゾモゾする)。
ロックダウンとかオーバーシュートとかソーシャルディスタンスとか、われわれは肝腎なことは英語で言わないと理解できなくなっているのだが、その理由はここ数十年間続いてきたポップス音楽のせいではないかとおれは思っている、まあそれもどうでもいいことであって、とにかくそれぐらい特に新しいニュースはないのだった/さっさとコロナは滅べ、そのあとワクチンをグッと飲み干して終わりにしようぜ。

コロナ騒ぎ(臨時) | comments(0) |
祈りはおれの意思、祝福は天の意思
眠時間を確保したいのでササッとテキトーに書く。
おれぐらい偉大なモンになると、祈ると祝福があるわけだが、「祈ると祝福があるなんてホントですか」という疑問については、「おれにおいてはホントだけどお前の場合はダメだろうなあ」と投げやりに言っておこう/多くの人にとって「祈っても祝福なんてないのさ」というほうが都合がいいというのは奇妙なことだ、まあ当人がそれでいいならそれでいいとしか言いようがないけれども。
おれの場合は祈るとただちに祝福があるのだが、もっとはっきり言えば祈らなくても祝福があるのだ、実際にはおれが捉えているところの祈りというのは一般的にイメージされているものとはまったく違う、おれは平気でどこの境内でもタバコをスパスパ吸ってやるだろう/おれは実際には祈るという行為やその自覚はあまりなく、たいていの場合「これけっきょく祝福そのものでしか無理なやつですやん」というものに向き合うときに自動的に祈っている "らしい" だけだ。
おれが何を言いたいかというと、「なぜ祈ると祝福があるのか」ということについて、まずは「お前が祈ってもムリだと思うがな」と超絶念押しした上で、なぜ祈ると祝福があるのかについては「そりゃ天の意思があるんだから当たり前っつーかしゃーないだろ」と答えたい/ついでになぜ天の意思がそのようであるかは天に訊いてくれ、天の意思をおれに訊くというようなわけのわからんことを発想しないように。

祈るのは人の意思というかおれの意思だが、祝福を注ぐのは天の意思だ、天の意思はアホの民草どもに憐れみや慈悲を常に向けてくださって愛してくださっているそうだから、その憐れみや慈悲が愛が結果的に「祝福」という形で注がれるのだろう/なので超厳密には、必ずしもおれの祈りだけに呼応して祝福が注がれるわけではないだろう、中には一方的に祝福が注がれる場合もあるはすだ、そのケースバイケースはどういう理由なのか、もちろんおれに訊かれてもおれは知らない。
おれの知っていることは、先ほどから言っているように「天の意思があるからなあ」ということだけだ、これは天に意思があるという思考実験をしているのではなくて、それが「ある」しそれを「使っている」ということをおれは話している、まあこのあたりはおれの睡眠時間確保のためにテキトーにぼやかして話しておこう。
天の意思は基本的に「祝福」であって、人がやったらダメなことでも、天がやったら祝福がくっついてくるのでOKというか感動ということがよくある、けっきょくのところ「なぜかこの人が唄うと感動する」「こいつが唄ってもイマイチ何も起こらん」という差があるのはこのせいだ、本当に起こっているのは感動ではなく祝福であって、祝福が人を助けるというよりは、祝福という現象があるということそのものが栄光であり人の魂を満たすものだ、人はけっきょく人自身をムッチムチに肥やしたところで何らの栄光も満足も覚えないものだ。
肝腎なことはけっきょく祝福なしではどうしようもないし、もっと言うなら祝福それじたいが肝腎なことなので、あまり人の事情や用事は本質ではないのだ、人がやったらダメなものでも天がやったら祝福それじたいがOK/で、おれは「祈る」なんてことは実際にはわざとらしくやったりすることはゼロなので、じゃあ何をやっているかというと、ぶっちゃけ天の意思を直接行使しているのだ、天の意思を直接行使するとそれはたいてい祝福なので(ごくまれに邪悪を打ち倒す怒りの雷が向こうに刺さる場合もあるが)、天の意思をダイレクト行使するほうがそりゃ手っ取り早い、そしてそれをダイレクト行使しているということは、おれの知らないところでおれは祈っているのだろう、そうして「天の意思があるんだから、それをダイレクト行使すりゃいいでしょ」と視えて使っていることじたいが祈りになっているのかもしれない。

天の意思をおれが使って何が悪い。

天の意思はおれの意思ではなくて、天の意思は天の意思だ、天の意思は天のものだが、その天のものをおれが使ってはいけないという理由はまったくない、公共施設に置かれている消火器はいざというときの防災用具であって、それはおれのものではないが、必要なときにはおれが使ってもいいのだろう、防災用具が用意されているのはおれの意思ではなく誰かの意思だが、その意思をおれが行使することには何の問題もない、役所の補助金制度は行政の意思だが行政の意思を市民たるおれが行使して何の問題もない、おれが行使すりゃ行政の意思がそこに現れて補助金がズドーンよ、そりゃシステム上当たり前じゃないか。
最近おれが知ったことは、なぜか「祈り」というのは輪郭があいまいになるのに対し、「祝福」というのは輪郭がハッキリ・クッキリしているということだ、これがなぜなのかはさっぱりわからない(わかる必要もあるめえ)/祈りは下から上へ人の意思だが、祝福は上から下へ天の意思だ、そしておれが祈るなんてことは誰がどう見ても「どうでもいいこと」なので、要は上から下へ天の意思・祝福がズドーンと降り注げばいいのだ、上から下へ天の祝福意思がズドーンと下りてくれば、その意思はたいていわれわれ「アホ民草」のアホっぷり限界をそれでも愛してくれるという憐れみと慈悲に満ちているものだ、それはいつもつくづく「人には無理だよなあ」と思わされる性質のものだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「キラキラしている」とマジで思っているらしい2
れはフィクションの信奉者なので、マンガという表現手段をバカにしたり否定したりしているのではない。
たとえばおれの精神上の兄はジョセフ・ジョースターであって、おれの具体的な訓練も、言ってみれば基本的には波紋の戦士と変わらない、そしておれの実家はコンスタンチノープルであり、おれはかつても今もアサシン教団のアサシンであり、エツィオ・アウディトーレの友人であり同期だった、エツィオとは共にテンプル騎士団と戦ったものだ。
おれにとってわからないのは、たとえばアサシンのコスプレをするというようなことだ、おれはアサシン教団のアサシンなのだから、それが「コスプレ」をするというのは意味がわからない/警察官が警察官の「コスプレ」はしないだろう、それと同じように、アサシンのおれがアサシンのコスプレをすることは発想からして意味不明だ。
ジョセフ・ジョースターがおれの精神上の兄だとして、精神上の兄ということは、本当の兄ということだ、戸籍にも血縁にもおれは実兄はいないし、戸籍や血縁で実兄といってもそんなもん死んでしまったら灰になるだけだから意味がないだろう、精神上の兄はつまり魂が認めるところの兄であって、それ以外に本当の兄など存在しない/そしてジョセフ・ジョースターがおれの兄だということは、おれにとっては当たり前のことなので、おれにとっては何らはしゃぐような要素ではない、なぜおれがおれの本当の兄について「はしゃぐ」ことがあるのか、はしゃぐという反応はまったく意味不明だ。

たとえばおれがまだ二十歳前後だったころ、おれは里村茜と恋仲だったことがある/また、その恋仲が消えてなくなるわけでは決してない。
里村茜と恋仲だったので、おれがいわゆる現実に、「里村茜みたいな女の子」を探す必要はない、すでに里村茜と恋仲にあるのになぜ里村茜を探す必要があるのか、おれの脳みそは常に理路整然としていて変な種類の取り違えはしない。
こうして、おれ自身の歴史の中にマンガ的なものも大いに入り込んでいるのだから、おれがマンガ周辺の表現手段をバカにしているわけでは決してない、むしろおれはフィクションの信奉者として、十分にふさわしい言いようを今ここに述べているだろう、おれはアサシン教団の者でトプカプ宮の夕刻を警邏しており、ジョセフ・ジョースターを兄に持ち、里村茜と恋仲だった、そんなただの事実にはしゃぐような気分は一ミリも湧いてこない。
つまり、マンガをしょせん「マンガチック」なものとして、バカにして消費しているのは現代の "マンガ好き" のほうだろう、マンガをあくまで作り話のイメージ・コンテンツとし、自分の生身がある現実の権威には敵わないものだと、見下げて軽蔑している/おれは違う、おれは波紋の戦士の一人であって "マンガ好き" の一人ではないし、アサシン教団の一人であって "ゲーム好き" の一人ではない。

マンガやアニメが隆盛したが、一方、マンガやアニメは誰にとっても「大切なもの」ではなくなった。

自分がはしゃぐために一時的に消費して使い捨てるものだし、自分をなぐさめるために一時的にハマって飽きたら使い捨てるものだろう? あなたがどう言い訳しても、消費されたマンガアニメの側が、あなたのことを「大切にしてくれた人」とは認めてくれない、それぐらいの心当たりはあるはずだ/おれにとって秘密の先輩はルパン三世であり、おれにとって宇宙の構図は銀河帝国と自由惑星同盟(と、かつては存在したフェザーン)だが、おれはそうしていわゆる現実においては数十年前のものを今も変わらず自分の魂の所属にしている、おれはまさか自分の現実にあてがって補うために大切なものを消費して使い捨てるなんて発想はしない。
今や誰も彼もが、生身をもって「マンガチックイメージ」をなぞることしか許されなくなったわけだが、それはいわば、大切にしてこなかったマンガやアニメの世界から報復を受けているのではないだろうか、自分がこれまで大量にそうしてきたように、これから生身の自分もマンガチックイメージを大変なコストでなぞらされた上に、そのことは消費されて使い捨てにされるのだ、大変なコストをかけて「キラキラしている」みたいなイメージをなぞったものの、それが数か月もすれはオワコンとしてゴミ扱いされていくことになる、だから商品としてのマンガが次々に粗雑化していっているように、これからのあなた自身も粗雑化していくしかしょうがなくない。
正しく見ないとな | comments(0) |
「キラキラしている」とマジで思っているらしい
とえば女子高校生の四人組が家に集まって、父親のお酒をこっそり持ってきて、部屋で宴会をして、女の子同士でちょっとキスしちゃったりして、はしゃいで笑って、その写真をSNSでアップロードしたりすると、一部の人はそういうものを本当に「キラキラしている」と捉えるらしい。
一部の人がそう捉える、とは言ったものの、すでに構図は逆転しきっているというか、もともと構図はおれの思っているのと逆だったっぽいので、つまりおれが逆側の「一部」でしかないのだろう、だから言いなおすと「おれのようなごく一部の人はそういうものをキラキラしているとはまったく捉えない」ということになる。
なんというか、現代の若年層は、本当に頭の中にマンガとアニメとアイドルしかないので、そういうマンガチックなものを本当に「キラキラしている」と思うのだろう、そして高年層はどうかというと、高年層は何かよくわからんが老人を中心として常にブチギレ寸前の発狂寸前という印象しか受けない、老人といっても老人はほぼすべての時間をテレビに費やしているのだから、テレビ業界をアイドルグループが席巻するようになってから以降は、脳みその具合がやはりドルオタになったのかもしれない/といって、老人に若い子のキャピキャピ集団を見せられても自分は老人なのだからどうしようもなくブチギレが蓄積していくのは何となくわかる気がする(いやウソだ、そんなのさっぱりわかんねーよ)。
おれの感覚ではどうしても、マンガチックなイメージ、その「キラキラしている」だとか、陽キャだの陰キャだの言っているようなこと、若い人同士のキャラでしかない会話や関係など、ずっと「一種のジョーク」に見えているのだが、よくよく考えたらこんなに多数の人が一斉にそんなジョークだけを長期間続けるわけがないのだ、だからガチのマジでやっているのだろう、マンガのカッコいいセリフをネタでなく本当にカッコいいと思っていて、ボブディランが唄うのもキング牧師が演説したのも全部マンガの一種にしか聞こえていないのだと思う、それはもう本人の趣味の問題ではなく脳みそのフォーマットがそれなのだろう/すべての情報が「マンガチックイメージ」に変換されて脳みそに届くようになっているので、それはもう文化の差というより、生きものとしての種の差みたいなものになってきている。

おれのようなごく一部の極小数派から言わせれば、「キラキラしている」というそれは、「マンガ的なイメージをなぞっているだけ」でしかないし、多くの人がこころと思っているものも「マンガ的なイメージをなぞっているだけ」でしかないし、魂と思っているものも「マンガ的なイメージをなぞっているだけ」、友人と思っているものも「マンガ的なイメージをなぞっているだけ」、結婚式やお葬式でさえ「マンガ的なイメージをなぞっているだけ」だ、先ほど述べたようにマンガが脳みその母国語になっていてすべてがマンガチックイメージに変換されるのだからどうしようもない/どうしようもないというか、どうする必要もない、あくまでそれを現在の標準的事実だとするなら、万事をマンガチックイメージに置き換えるのが「正常」なのだから、それをどうにかする必要はまったくない。
ただおれは、気づけば毎日それをしか周囲に目撃しなくなった、マンガチックイメージの当事者たる若い人たちのやりとりと、年齢的・造形的に当事者にはなりえなくてブチギレている老人たちのありようを見ていて、「ううーむ」と、いわば「おれの知らない何かの世の中になりつくしてしまった」ということに、もはや慨嘆を覚えるでもなく、憮然としているだけだ、こんな話をしていても「慨嘆」も「憮然」もマンガチックイメージに置き換えられるのだから、「まあおれの知らない、違う何かになるよな」と理解されて、何かがますます遠くなっていくだけなのだった。
ご存じのとおり、おれは江戸時代のすべてを否定しているので、おれはこういう言い方をする、「将軍様が偉くて、ご威光に満ちており、鎖国していて、将軍家に歯向かったり外国に色気を出したら即刻処刑なのだから、要するに今の北朝鮮と同じだ、北朝鮮の役人がサムライで市民が平民だ」、そして鎖国をやめたわれわれにとって「切腹」とやらが今やまったく現実的なものには思われないように、おれにとっては「マンガチックイメージ」というのもまったく現実的なものには思われない、つまりおれが日々周囲に目撃しているマンガチックイメージのやりとりは、毎日目の前でサムライの切腹が繰り広げられているぐらい「わ、わけがわからん」という感覚だ/けれども切腹がそうであるように、当人たちにとってはそれはリアルガチであり生のすべてを賭するだけの価値があるのだ。
おれはおじいさんではないので、マンガについて理解がないわけではない、それどころかマンガといえばむしろおれの世代がドンピシャの世代ではないのかという気がする、ドラゴンボールやらジョジョやらスラムダンクやらはおれの世代のマンガだし、テレビでは毎週「ドラえもん」や「ルパン三世」がやっていたし、ドラクエやファイナルファンタジーもおれの世代にドンピシャのものだ、「ときメモ」のようなギャルゲーの隆盛もおれが十代のころに起こっている、何であればおれは中学のときに知人がやっていた「コミケ」に駆り出されたこともあるのだ、おれは現場を見て「おれには趣味がキツすぎて無理っす」と一回限りで遠慮申し上げたのだが/このとおりおれはマンガそのものに対しては世代として当然の理解がある、ただおれの感覚としては、マンガに深入りするということと、自分のふるまいが「マンガチックイメージのトレース」になるということは、まったくつながりがないように思う、つまりおれにとってはマンガは "激アツなマンガ" だが、現代の人にとってはそうではなく、マンガが "現実" なのだと思う、なぜなかなか誰も「マンガが現実っすよ」とは言い出さないのだろう。

確かに現代人のやりとりは、マンガに置き換えてもピッタリ価値が変わらない。

そりゃ全員がマンガチックイメージをなぞっているだけなのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、このことは改めて視認すると、なかなか鮮やかにショッキングな事実だと思う、たとえば大学生のグループが、現代的青春の感じで街中を歩いていたとして、彼ら各人の体験および彼らの視ている光景というのは、数ページのマンガ絵と変わらないのだ、だとするとわざわざ自分の生身で体験するのは単純にコストパフォーマンスとして不利すぎるだろう。
現代人は、たとえばギャルアニメやイケメンソシャゲで恋愛を満たしているわけではなくて、生身で恋愛に触れたとしても、「けっきょくマンガじゃん」としかならないのだ、だからいいかげん馬鹿馬鹿しくて、合理的・正常な感覚として、マンガで万事を済ませていると言える、キラキラ系のマンガを生身体験しにいっている人は背後ですさまじいコストを消費しているだろう/今さらマンガを捨てたとして、リアルなんてどこにもなく、実際に生身に体験されるのも就職と借金の「リアル系マンガ」でしかないのだ、だとしたら確かにわざわざそんな疲れてダメージを受けるようなことをする理由がない、<<生身でもマンガしか体験できない>>というのは改めて真新しく、よくよく見ればすでにわれわれの行く先を完全にふさぎ切っている。
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音楽と世界の子3
が蝶々を見続けていたとしても、人が蝶々になるわけではない。
サナギがやがて破れて中から羽を伸ばした蝶々が出てくるのを、じっと見ていたとしても、それはただの「観察」であって、人が蝶々になれるわけではない。
たとえそこにどれだけウットリし、何か自己陶酔や妄想、あるいは空想的甘露に浸ってみたとしても、蝶々になった気分になれるのは中学二年生の当人だけで、傍から見れば「何やってんの」と正体不明の、単なる気分的自失でしかない。
音楽を聞くとか演奏するとかも同じことで、音楽を聞いてウットリすることは、大半の人において愉しまれる行為だが、別に意味はなくて傍から見れば「何やってんの」だ、そこはわれわれが文化的・芸術的なるものの風聞に対して価値観を欺瞞されているだけだ、つまり何か上等なことだと思い込まされているだけであって、大半の人にとってそんなことは何の意味も値打ちもないのだ。

ただし、ごくまれに、たとえばXという音楽を演奏するなり聞くなりすると、その人そのものがXになってしまうということがある。
その現象は、いわば「刑事コロンボ」と同じだ、どんな俳優でも、あるいはシロウトでも、刑事役なんて誰でもこなして演じられるものだが、ピーターフォークのように本当に刑事コロンボに「なってしまう」例はきわめてまれだ。
役者は誰でもその役に「なりきろう」として自己洗脳と陶酔をほどこしていくのだが、それでも傍目にみればやはり「何やってんの」のたぐいでしかなく、まあ誰がどう見ても「役者が芝居してるんじゃん」としか見えないのだ、ところが例外的に刑事コロンボのような場合、どう見ても「役者が芝居をしているという認識ができない」「その認識が数秒で吹っ飛んでしまう」ということが起こる。
音大生が発表会でピアノを弾いていると、特別な訓練を受けているので技術的には厳しく上手なのだが、何をやっているかというと「音大生が発表会でビアノを弾いている」としか見えない、そりゃ当たり前だ、発表会でそれが吹っ飛ぶということはシステム上まずない。
そして音大を卒業しても、ピアニストがピアノを弾いているという発表会やコンサートはいくらでもあるのだが、それら発表会やコンサートが吹っ飛んで「ベートーヴェンをやっている」というふうに見えることがあるかというと、このことはきわめて少ない、いろんな演奏家がいろんな解釈といろんなテンションでいろんな演奏会をするが、それが吹っ飛んで演奏会というイベントでなくなるということはめったに起こらない/たとえばおれの場合、「エリーゼのために」さえ挫折するピアノ未経験者なので(そもそもヘ音記号が読めないので)、おれがもしピアノを弾くとなったらデタラメに鍵盤を叩くしかないが、それでも少なくともおれの場合、「デタラメに鍵盤を叩いている人」には見えなくなるだろう、だからこれは技術ではなくてタイプ・性質・人種なのだ。

あなたがテーブルをリズミカルに叩けば、あなたは「テーブルをリズミカルに叩いている人」になってしまう。

そうではないのだ、そうではないものがあるのだ、そしてそうではないものがいきなり出てきてしまうのが「世界の子」であって、このことは技量とはまったく無関係なのだ/おれの直接の知人はよく知っているように、おれの場合、菜箸で台所の什器をテキトーに叩いていても、その聴力がある人はただちに聞きつけて「うお、すげえ!」と反応する。
おれには音楽の素養なんて何もないし、それで言えば文学の素養もないのだ、おれがここに書いているものも、菜箸で台所の什器を叩いている具合と変わらない、おれの場合は菜箸で醤油ビンの蓋を叩いた音も、窓から吹き付けてくる風も、夏の空の青色も、すべて魂の中に流れて魂の中に映し出されているのであり、人の認識機構が見ているものとは性質が違うのだ、コンビニで売っている食パンと銀座のパン屋で売っている食パンは味のレベルが違うと思うが、その両方ともおれが手でちぎってあなたに与えれば、まったく違う次元の食事とパンが出現するのだ、おれが手でちぎってあなたに食わせたコンビニの食パンであなたが食事に満足しないということは決してない。
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音楽と世界の子2

の中まで音楽が流れている人と、そうでない人とはまったく別の人種だ。
魂の中まで音楽が流れている人にとって、音楽というのは音ではない、どこからともなく姿を現してくる何かの「世界」だ/譜面を追いかけている技術者と世界を追いかけている音楽家ではやっていることがまったく違う。
面倒くさいのでテキトーに断言するが、おれは確実に魂の中に音楽が流れるタイプで、このタイプは数的割合としてごく少数派だ、このタイプは音楽に「何かを感じる」という次元にない。
音楽に「何かを感じる」という次元ではなく、音楽に「もともとあった世界を思い出す」という次元にいる、魂の中にまで音楽が流れている人とはそういうタイプで、流れている音楽を聴いているのではなく、音楽の中に流れている何かを聞いてしまっている、これはタイプ・人種の違いであって技量や才能がどうこうという話ではない。

単に耳のいい人は、「音色」が主として聞こえるだろうが、世界の子にとって音色は副産物、つまり主ではなく副に聞こえる。
ある種の画家が、技術的にきわめて正確に、視界の寸法を測れるのと同じように、音だって実は「イメージ」で、映像ではない音響のイメージというものがあるのだ、耳のいい音楽経験者・あるいはその訓練を受けた人は、やはり訓練された画家が寸法を測るように、音階や和音を聞き取る。
そして、そうした技術感覚に優れた人は、よりよい「イメージ」を産み出すことができるが、そのよりよいイメージが「何なのか」を産み出すことはできない、「よりよい」ものを産み出せるのだが、このことはけっきょく品評会でウケるというだけで、普遍的に人に必要とはされない。
おれのようなタイプには、二種類の感動があって、ひとつには同じ「世界の子」が何かを世界を描きだして、そのままそれに感動しているケース、もうひとつには、そこには何ら世界が描き出されてはいないのだけれど、退屈に感じたおれが勝手に世界を読み取ってしまって感動してしまうというケースだ、つまり「世界の子」が聞き取っているものと「人」が聴き取っているものはまったく違う。

「世界の子」の背景に音楽を流すと、なぜか「この人の音楽かな?」というふうに見える。

音楽だけに限ったことではなく、たとえば何でもないひとつの場所、何かだだっ広い公園や明晰、あるいは夜景の広がる街があったとして、なぜかそこに「世界の子」が立つと、そこが「この人の場所かな?」と見えるのだ、どこかの場所に人が立っているというのではなく、「その人の場所にその人が立っている」というように見える/同じように、音楽が流れている中に人がいるというようには見えず、「その人の音楽がその人と周囲に流れている」というように見える。
おれが目撃した、エレクトーンが抜群に上手な女の子は、おれの目の前で「エクレトーンが抜群に上手な女の子」でありつづけ、そこに流れているはずの音楽とはまったく無関係な存在だったのだ、だからいくら上手に演奏されても、何に出会うわけでもなければ誰に出会うわけでもないので、意味がない、ということになる/まあ冷静に考えることだ、いくら手足で楽器を操作したとして、それだけで人が芸術的な存在になるわけがない、そんなこと本当は誰だってわかっていることなのだから、つまりは誰もが目を背けているというだけでしかない。

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音楽と世界の子
、エレクトーンがめちゃくちゃ上手な、中学生の女の子を見たことがある。
鍵盤の上を運指が駆け巡るようで、足許は器用に見えないところの鍵盤をやはり正確にリズミカルに踏んでいるのだから、率直に「すげえ!」と思った、詳しくは知らないが何かその筋での特待生になっていた女の子だったらしい。
一方で、今でも記憶に確認できるところ、そのめちゃくちゃ上手な演奏に、一種の違和感を覚えもしたのだった、そして当時は違和感でしかなかったものが今ならそれが何の違和感だったかを説明できる。
その女の子は、技量としてはめちゃくちゃ上手でハイレベルだったのだが、その女の子の中に音楽が流れているわけではなかったのだ、無機質な全身のまま懸命に演奏をつづげている/それはいわば両手両足で「譜面をさばいている」というような状態で、おれが目の前で目撃したのは技術ではあったが音楽ではなかった。

今になっておれは、おれ自身と、あとはごくわずかな人だけが、「身体の中にまで音楽が流れる」タイプだということを断言できる。
身体の中にまで音楽が流れる、それはキャッチーな言い方にすぎず、本当は魂の中にまで音楽が流れるということだが、魂の中にまで音楽が流れるということは、魂の中ではそれはすでに「音波」ではないということだ、魂というのはイイカゲンなものなので(「魂」という字がもともとそういう字義だ)、魂の中に流れる音楽はすでに音波ではなくなっており、ひとつの「世界」になっている、そこで先に述べたハイレベルな演奏少女は、何の世界もなく鍵盤を弾きこなしていたということだ、それは人を含めた生きものすべての「業(カルマ)」の表れということになる、それは業のすさまじさが技量となって表れたということだ。
現代と過去を比較すると、現代はありとあらゆることについての単純技量が破格にレベルアップしていると思うが、このレベルアップの背景に、「異様に割り切った人たち」を目撃してきたということが、事実としてあったはずだ、イチローなどのヒーローを別にしてということになるが/一部の人は、自分の挙動が「魂と無関係になる」ということを割り切ってしまい、魂を捨てて単純な技量だけを向上させて、承認欲求と自己顕示欲を満たし、また生業を得ていくということを選んだ、現代における技量の破格向上はこのように起こってきている。
魂と一緒に挙動しながら、ハイレベルの技量を見せるということが困難なのだ、魂を放棄してハイレベルな演奏をすれば、それはつまり人体から魂を抜いて、機械化、シンセサイザー化したにすぎない、だからいわばそうした「ハイレベル化した抜け殻」は、その高度な技量を見せつけて承認欲求を満たしながらも、そのことに何ら魂のよろこびを見出していない、だからそういう人はたいていアニメオタクやアイドルオタクで自分を慰めているという側面を持つ/魂のよろこびが得られない人は、必ずそうしてテンションや甘みで自分をなぐさめるしかないのだ。

冷静に考えろ、上手であることじたいに意味はない。

ここで仮に、異性の性器を揉みこするのが極端に上手な男女がいたとする、この男女が何ら魂のよろこびを得ないまま、互いに性器を揉みこすりあうことには何か意味があるだろうか? それは技量としてハイレベルだから、技術的には余人の追随できるところではないかもしれない、だが「なんで性器を揉みこすりあってんの?」と言われたら真相がすべてを粉々に砕いてしまうだろう、よく見ろ、上手だからだまされているだけで、エレクトーンからピコピコ音が出てもそのことには何の意味もないのだ、われわれはまったく別のものに気圧されている。
人から魂を完全に抜いて人体を機械化し、この人体がたとえ空中で五回転しようが、200km/hの玉を投げようが、500BPMのドラムを叩こうが、そのことに何の意味があるのか/現代においては、むしろ自分の生きていることに「何の意味もない」と感じ続けた人が、「それならいっそのこと」と魂を完全に売却し、そのかわりに割り切ったハイレベルの技量を得ているということが多い、それはいかにも現代の時勢ではあるが、おれはそれを眺めながらもまったく合意はしていない。
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搾ると奉るの性質2
折さんを「砕いて搾る」のはよくない、そのエキスを吸い取ると「なるほどトクをしたぜ」という感じにはなるのだが、表面上はそうでも水面下ではがっつり呪われるので、結果的にプラスにならない/いいかげん、そのあたりのコツというかパターンを覚えろ、九折さんを砕いて搾ってそのエキスを吸収するなんてまともな結果になるわけがないだろ。
この問題について、いつも同じようなことを言っているような気がするが、問題の本質はおれ自身が「九折さんを砕いて搾る派」だということにある、これがいつも問題の中心にある、だからほとんどおれのせいなのだが、おれのせいとは言ってもおれにもそれなりに苦手分野があるものだから、そのへんは誰かというか、全員でカバーしていこうよと言いたいのだった/おれは自分を奉るとかいうことがどうしてもアホの権化のように思えて、そうとう気合を入れないとそういう発想を忘れてしまうのだった、それで巨大な呪いが湧きおこってきても、けっきょく「おれだけは平気」というサイテーなシナリオになることがよくある、まあこのあたりは九折さんの取扱説明書として「厳重注意」と書いておかねばならないどうしようもないポイントなのだ。
世の中には当然、おれという一人の個人に対しても、「九折さんを砕いて搾り、その丹精を自分が吸ってあげる派」と、「自分自身を砕いて搾り、その丹精を九折さんに吸ってもらう派」という二種類が存在する、もちろん大多数は前者であり、おれという一人の個人に対しては、砕いて搾ってその丹精を吸い上げ、死ぬまで搾りとっても「チッ、このていどかよ」と不満タラタラというのが事実だろう、それは残酷なことではなく当たり前のことであって、人は何かに極端に目覚めていないかぎり、制度の強制力から外れると自分と身内以外のことは全員死ぬまで搾るしか使い道のない奴隷と思っているものだ、「自分にとって他人なんか何の値打ちもない」、このえげつない真相を覆い隠すために人類は互いに制度で自分たちを抑圧しあってきた。
それで、衆寡はともあれ、分類としては「九折さんを砕いて搾る派」と「自分自身を砕いて搾る派」があるのだが、問題の中心は、おれ自身が「九折さんを砕いて搾る派」だということだ、これは構造上やむをえない/なぜ構造上やむをえないか? 十秒与えるので考えてみよう、……、頭のいい人はすぐにわかったように、おれは自分自身が九折さんなので、おれが「自分自身を砕いて搾る派」である以上、おれは「九折さんを砕いて搾る派」になってしまわざるを得ないということだ、この構造がきっちり明視された人にとっては「なるほどそりゃそうか」ということで、すべての話はすでに済んでいよう。

もちろん、人は生来のものとしては、他人を砕いて搾り取るのが正常なのであって、おれが自分自身を砕いて搾るのは生来からは「異常」だ、この生来からはたどり着けない異常性に到達しようとしてボランティア等の制度があるが、制度に依るということはけっきょく制度の強制力に支配されているのであって、自分でそのことを決定したことにはならない、ふつう人は自分自身の側を砕いて搾るという決定は生きているうちに一度もできない/だから、いわゆる「善人」で「正常」な人ほど、その性質は生来から「他人を砕いて搾る」ということに素直に従っている、それが包み隠されているにせよ生来としては「正常」なのだ。
どのような仕組みによって、人はその生来からの正常さ、善人にぶりによって、けっきょくは「九折さんを砕いて搾る」派であることを自らに決定し、その態度をあきらかにしていくのか、この仕組みをよく知ることが必要だ/人は、卑屈主義の苦しみによって、また「不安」という際限のない恐怖の苦しみによって、それから逃れるために、自らではなく他人を砕いて搾ることを発想する、これは自動的にそうなるのであって当人がそのように自覚しているのではない、本当に完全に自動的にそうなる。
いわば、「それどころじゃない」という言い方をあてはめるのがわかりやすくていい、卑屈主義の苦しさによって、また「不安」という際限のない恐怖の苦しみによって、人は基本的にいつも「それどころじゃない」のだ、「それどころじゃない」ということはつまり、第一に優先して得なくてはならないものがあるということだ、自分の卑屈主義が癒されるために、また不安が少しでも安心にすりかわるように/そのためには、他人を砕いて搾り、その丹精を効率よく吸い上げることになる、それによって「ふう、少し落ち着いた」「少し安心が得られた」「ちょっと前向きになれた」という心地になる、いつも善人および正常な人が追いかけているのがこれだ、このことのためにはいくらでも他人を砕いて搾ることをする、当人はそのときまったく善なる行為の中いるという心地でいっぱいになる(不思議だが本当にそういうものだ)。
なぜ圧倒的多数の、善人で正常な人が、つまりは「九折さんを砕いて搾る」派になるかというと、魂の奥底ではいつも「それどころじゃない」、卑屈主義と「不安」に苦しめられているからだ、それから少しでも楽になりたい、その衝動がいつも切迫しており、そこで目の前のおれのことも第一に「砕いて搾ろう」「その丹精を吸い取ろう」とする、それによってのみ自分が救われるのだからしょうがない、こうして当人は、善なる心地の最たる際において、九折さんを砕いて搾ろうとする、その自動的な発想は、自分の不安を安心に切り替えてくれ、自分の卑屈を解放に切り替えてくれるように感じられるのだ、そして自分で砕いて搾ったその先に「感謝」をして満了となる、これによって善なるここちは完成する。

善人で正常な人は、卑屈主義で、いつも「不安」の中にあり、けっきょくは他人を砕いて搾ることを唯一の発想とせざるを得ず、自分のために砕いて搾ったそれを吸い取って「感謝」をして満了する。

だから善人というのはいつも「いろんなものに感謝」みたいなことを言っている、いつも控え目なつもりで卑屈主義を振り回しており、いつも自分が生きていくことの「不安」の中にいる、周りの誰から見てもこの人のことは「異常」には見えない、この中で当人がどうやって「悪」に気づけようか?/その逆を考えてみればいかにも明らかになる、いつも「感謝なんかしたことねえよ」と言い、いつも解放的で卑屈性がまったくなく、どんな環境でも「不安」とはまったく無縁だ、周りの誰から見ても何かしら「特殊」「異常」と見えるこの人は、一般的には確実に「悪」のたぐいに見える。
すべての善人に告ぐ、またすべての「正常」と扱われている人に告ぐ、誰だってそれなりに必死に生きているし、それなりに真面目に、懸命に生きている、では "何のため" にそのように必死に懸命になってきたのか? それは自分の卑屈主義のためであり、また自分の不安のためだろう、解放の中、また不安とまったく無縁の中で、なお自分を砕いて搾ってきたということをれっきとして言い張ることができるだろうか、そんな人はきわめて少ない/ほとんどすべての人が奉っているのはその卑屈主義の苦しみと不安の苦しみであって、そのことのために九折さんを砕いて搾るということへ自動的に動かされているはずだ、そのことが悪いとおれは言っているわけではない、それで本当に解決するのか、呪いが次々に打ち払われていく場所に立っているのか、ということを訊いているだけだ。
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人の世と天の国はそっくりで正反対だ2

「男尊女卑」なんかが典型的だが、たとえばおれの場合、「靴が汚れたからテキトーに拭いておいてくれ」と頼んだとしても、どの女性もイヤな顔はしない/イヤな顔はしないどころか、まあ、お察しだ、女性が複数したらにぎやかに仕事の取り合いをしてくれる。
それはいわゆる男尊女卑に見えるかもしれないが、おれは男尊女卑をやろうなんて一ミリも思っていないし、女性の側も男尊女卑をされたなんて一ミリも思わないだろう、そもそもそんな余計な思念が発生する隙間なんかなくて、いつも誰もがにぎやかにやっているだけだ/そもそも、ここが大事なところだと思うが、本当はおれは「靴を拭いておいてくれ」と頼んだりはしないし、そうするようにお願いもしないのだ、「靴が汚れたァ」と言うと誰かが「はいィィ」と応えて動くだけで、何があるかというと「にぎやか」がある、にぎやかがあるのであって男尊女卑など存在していない。
で、このことは何も問題ではないのだが、問題はアホの存在だ、ここでアホはどういう挙動をするかというと、目の前で「男の靴が汚れたのを女性が拭いている」ということだけを見て、「ははーん」と理解するのだ、そして理解したことを整理してシステム化し、制度化しようとする/それで、「チンコの生えているほうを偉くして、チンコの生えていないほうを卑しくすると何かイイらしいぞ!」というルールを強制する共同体を形成していく、それで男女ともいちおうその制度をアテにしてしばらくやってみるのだが、すぐに男女とも内心で「これ意味なくね」「むなしいし、それ以上に恥ずかしいし」「いったん制度化した以上、今さらメンツとして辞められなくて草」となっていく、それでこのクソみたいな制度の中で一生をすりつぶすことを考えると、互いに「向こう側が全員死んでくれないかなあ」という夢を持つようになる。
すべてのことはこのパターンなのだ、たとえばこの世界に何かしら、大なり小なり、輝かしい権威を帯びた「王」が立つことがある、そのナゾの輝かしさと神がかりの力に、思わず戦士たちも平伏して、王を仰ぎ見たのだが、それをまた傍観していたアホが「ははーん」と理解する、「何かこう、土下座して仰ぎみて、ハハーッと言うといいらしいぞ!」と、システム化して制度化し、ねっちりとした共同体を形成していく、そして内心で「むなしいし、恥ずかしいし」「おれを除く全員が絶滅してくれ〜」と夢を持つようになる、このことはメンツで呪縛されているので本当に全員が絶滅するまで強制され続けてしまう。

ライブステージで、天才シンガーが客席を「盛り上がってますかーっ」と煽る、するとドカーンと聴衆が応えるので、それを「ははーん」と理解したアホが、「客席を煽ったら、聴衆はドカーンと応えるように」というお約束制度共同体を形成していく、これもまたむなしくて恥ずかしいのにメンツに呪縛されて滅亡まで続けなくてはならない。
教師が教壇に立ったら、生徒たちは「起立して、一礼してから、そろって着席するとイイらしいぞ!」、聖職者とその共同体関係者は、「モニュメントに向かって拝み倒し、何かむつかしい感じの文言を言い、しめやかにウルウル拝むとイイらしいぞ!」、ずっとそんなことを続けている/続けているというより、今さらやめるわけにはいかないという呪縛なのだ、もし今さらやめたとしたら、「じゃあ今までのは何だったんですかwww」とクソほど大草原不可避にされてしまう、そんなことは到底メンツが許さないだろう。
これらはすべて、典型的な「形骸無実」の制度と儀式だ、この機会にこの四字熟語を覚えよう、これ以上にこの四字熟語にぴったりな事実はないからだ、「形骸無実」、<<偉そうな場所を作って偉そうな服を着せて偉そうなムードにして儀式で人を圧迫する>>、ただそれだけのことで形骸無実の制度が人々に強制されている、これらはすべて、アホがアホ特有の浅い理解で作った天の国のイミテーションだ、イミテーションならイミテーションなりにもうちょっとマシに作れよと言いたくなるのだが、何しろアホはアホだ、アホ当人はそれをイミテーションとは思わず「ガチ」のものだと思っているのだからしょうがない(うーん、アホだ)。
おれだって、まあワークショップの先生をやっているという側面はあるのだが、その中で偉い場所とか偉い服装とかいうのはない、おれはいつもチノパンにTシャツだし、ワークの出だしはいつも小ボケで始まるので、おれはその小ボケネタの絶え間ない奔騰をもって「さすが先生だ」と崇められているのだった/おれは制度や儀式で人を脅迫して何かをさせるということは決してしない、けれどもそれは単純にフレンドリーというわけでもなく、いくらフレンドリーにしていても、実際には人はもっと恐ろしいものをもっとナゾの領域から体験するので、「ひえええ」と勝手にひれ伏すようになるだけだ、誰もそんなことを粛々とやっているわけではない、だから本当に言えるのはやはり「にぎやか」があるということだけだ。

「身分」はどうやら本当にあるっぽいが、それを模擬した「身分制度」はイミテーションにも満たないゴミだ。

たとえば日光東照宮に行くと、故・徳川家康が祀られており、それは「東照大権現」というカミサマと扱われているのだが、今でもこれをカミだと信じている人はあるのだろうか、ほぼ確実に全員が「東照大権現()」と捉えていると思うのだが、当時の幕府マンたちはこれをガチだとする制度や儀式をやらされ続け、そのことは先に述べたように本当に滅ぶまで続けざるをえなかったのだ、その結果、幕府マンたちは「猿・猿・猿」という猿になってしまった、見ない・言わない・聞かないという「すべてを無かったことにする事なかれ主義モンキー」を作って徳川家は当時の人々を制度によって支配した/これは誰かをバカにして言っているのではない、見ないモンキー・言わないモンキー・聞かないモンキー、そうして怯え続けるモンキーたちのみが被支配階級としてふさわしいと捉えた徳川家の率直なところをそのまま述べているだけだ、東照大権現をカミと崇めるということはこの猿たちこそ天の国の住人と認めるということだろう(明治維新後に日光東照宮が破壊されなかったのは不思議だ、おれはその理由を知らない)。
まともな人は誰でもうすうす気づいていると思うが、男尊女卑などというのは草も生えないゴミ制度であって、同時に、男女平等というのも基本的には草の生える制度だ、試みに「人犬平等」みたいな制度を作ってみればどうか、そうなるとハスキー犬がフレンチレストランのテーブル席について食事する権利を持つことになり、そのコント劇の光景は正当に草不可避になるわけだが、じゃあわれわれはふだんは犬を劣等階級として「差別」しているのだろうか? どうみても各家庭でワンちゃんは愛されてご主人ラブでゴキゲンな散歩に連れて行ってもらっているように思うが、じゃあこれを「人犬主従」という制度に定めることにしようか、制度()/このように、つまり何の才能もなく何も視えていないアホが「ははーん」と浅薄な理解でイミテーションでしかない「制度」を作って自ら呪縛死していくから草が生えてしょうがないというのが真相だ、けれどもこれが多くの人の生涯すべてを巻き込んで支配するからいいかげん草も生えないよなあと、憂鬱な歴史も大小積みあがっていくのだった。

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