☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
あのとき僕は何から逃げたか
い雷雨の夢を見た/暗雲に濡れそぼつコンクリートの壁/九龍城のような警察署の高い窓から、追い詰められたニシマチくんは身を投げて自殺した。
僕は逃亡した/そのことは僕が二十代の後半に「逃げた」こととつながって感じられるが……
あのとき僕は何から逃げた? そのことがもう何年も気に掛かっていた。
あのとき僕は、「闇」から逃げたのだ、「闇」などというと大げさだが/弱きニシマチくんは身を投げて自死し、なお見捨てられるしかなかった。

闇の中で安定するぐらいなら、光の中で行き倒れるほうがましだ。
あのときの僕は、まだそこまでわかっていなかったな、「闇」なんてものが他者にはあるという感性がなかった。
やっぱりこの世界は、一般に思われているような世界ではないなあ/フィラメントに電気を通すと光るが、それは「もとが光っていないから電気を通すしかない」ということでもある。
人は600カラットのダイヤモンドの輝きを「えげつねえな」と賛嘆するが、なぜか太陽の光りっぷりを「えげつねえな」とは感じない、どう考えても太陽の方がえげつないのだが。

闇から逃げるのは唯一正しい。

万事、逃げるのはよくないことで、立ち向かうことが原則正しいものだが、闇はダメだ、おそろしいことに闇の中で勝ったとしてもそれは「勝利」にはつながらない、闇から逃げることは唯一正しい。
あのとき僕は、「闇」から逃げたのだ、そういうことは割と身近にある、ホワイト企業も創業期のホンダのように輝いているわけではないので、ホワイト企業に依存したって人間はけっきょく闇に落ちる/ブラックの反対は「光」だろ、ホワイトってのも闇だよ。
正しく見ないとな | comments(0) |
ボエーム主義者は永遠性を志向する
れないうちにメモしておきたい、「永遠性を実体で証せよ」。
なんのこっちゃわからないが、説明には時間が掛かるのでいいのだ、僕は昨日、自宅のwi-fi環境の再構築に成功してたいへんゴキゲンでいる。
これで毎月の4G回線通信量制限にビクビクせずに済むぜ! やはりNECのルーターにはNECの中継器がベストマッチだった。
「永遠」の反対は「解決主義」だと思うが、このあたりも説明には時間が掛かるのでまあいいだろう、人間にとって三十年は一万日しかなくて短いが、この一万日を旅する者にとっては意味が違うわけだ、永遠を志向する上では時間が長いとか短いとかいうことは関係なくなる。

いいじゃないか、誰にだって十八歳の時間があり、二十歳の時間があった。
この十八歳の時間を「何に使うか」という考え方は、わかりやすいが、何に使ったって無駄だ、どうせジジイとババアになって棺桶に入れられてガスバーナーで焼かれることに変わりはない。
人間にとってもっとも厭なことは、そもそも間違っていることを議論させられたり、そもそも間違っていることに決定を持たされたりすることだ/そんなことしたって間違っているものは変わりゃせんのだって。
人間にとって、永遠だけが唯一恋しいのは当たり前で、もしカミサマが五年後までに制限時間を設けていたら侘しすぎるだろう、「永遠」と言われると一時的に興奮するが、その一時的というすべてがとても厭なのだ。

今日はまた、永遠へのチャンス。

そりゃそうで、十八歳が十八歳たるチャンスは、翌年にはない、永遠の雨を得られる幸運な日は、翌日の快晴の中にはない。
多くの人には、すべての知識と機会が与えられているように見えるが、唯一、永遠というideaが否定されている、これだけが恋しいものだというのになかなか残酷なことだと思う。
正しく見ないとな | comments(0) |
会話とは、こころの内の声からなるもの

「自分の思っていることを言う」のは、決して"会話"ではない。
まして自分の身の上のこと、プライバシーのことを言うのが、"会話"であるはずがない。
それよりはむしろ「あいさつ」のほうが"会話"だ。
"会話"というのはもっと反応的なものだ(習慣的なものじゃないぞ)、対象ありき、相手ありき、相手に向けて反応を起こして"会話"が始まるものだ。

「どこから来たの」「何やってる人なの」、このあたりはぜんぶ「野暮」であって"会話"ではない。
隠し立てせずに言えば、今はアプリ経由のチャットのほうがやりとりが弾む、という人がいるだろ、というか、今はそっちの人のほうが多いだろ。
"会話"をするのに、「話題」なんか探すのは典型的にだめだ、何かしらのオタクトークにしかならない、どうしてもそれだけがしたいというなら別だけれども。
問題は「声」なのだ、発声とか音声のことじゃないよ、あなたのこころの内に「声」が起こらないのか、起こらないならそりゃ問題だぞということなのだった。

夏に向かう今日の新緑を見たら、「お前、えらい勢いで育つな、昨日は薄かったのに」と言え。

そういうこころの内の「声」がないのがおかしい、それがなけりゃ"会話"が起こりようがない、新緑を見て「きれーい」とか「きもちいーい」とか、あなたの感想を聞いているのじゃない(感想だけは絶対にやめよう)。
原宿でクレープ屋のショーケースを見たら「これもう射幸心あおりすぎやろ」と言え、正午にゴロゴロ雷が鳴り始めたら「夕立はまだやろ、気ィ早すぎや、頻尿ちゃうか」と言え。

できるオンナだね | comments(0) |
途方に暮れて in 2017
直、このところ途方に暮れているところがある。
なぜなら、「あなたといるときがわたしのすべてなの」「あなたがいることがわたしのすべてなの」と言ってくれるケースが、あまりにも増大しすぎているからだ。
僕が思い上がれば、いろいろ噛み合うのかもしれないが、正直なところ、僕はもうフルパワーで思い上がっているので、これで精一杯なのだ、これ以上はもう生来的な気質において無理だ。
「あなたごときが、そんなわけないでしょ」と嘲弄してもらえたら、僕も「そりゃな」と笑っていられ……たのだが、このところはもうだめだ、このことはもう真剣に考えなくてはならないテーマになってしまった。

これは何も、僕がモテているとか、僕が魅力に満ちあふれているとか、そういうことではなくて、他の一切の体験が希薄になっているということにすぎない。
誰だって、それぞれに、勉強があり仕事があり、人付き合いがあり恋愛があるのだが、すべてが希薄化しているのだ、すべてのものがストレスだけ残して「実はよくわからない」という状態に成り果てている/どう努力してもいまいち「世界」がないのだ。
人間にとって、「よくわからないこと」をさせられるのは大きな負担と不快なので、それよりは、「おれはプレステをやりたいのでお前モスバーガーでも買ってきてくれ」と言われるほうが「はるかにマシ」と言われる/「何をしているか、何をしたらいいかが、自分でわかるから」とキラキラして言われる。
やる気のない人というのはたぶん誰一人いないのだが、やる気はあっても「やること」が見えないのだろう、こんな中でモテても何の自慢にもならないし、何を思い上がることもできない。

よーく聞いてくれ、おれが楽しいのじゃなくて、世界が楽しいの。

僕を通して、何かの「世界」につながれるから、楽しい、すべてになる、というだけで、そのことは本来僕に依存して得なくてもいいものだ/自慢じゃないが、今僕を通して得られる「世界」なんて、もともとは成人男性なら誰だって持っていて当たり前の基本所有物だった。
さらに言うなら、僕を通してあなたが見る「世界」なんて、ほんの序の口というか……僕は思いっきり手加減しているのだ、あなたがあまりにも不慣れなものだから、僕の見ているものがまるごと見えたらあなたはめちゃくちゃになってしまうじゃないか、これでも手加減しまくっているんだ、あーあ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「流れるもの」と「流されるもの」

されるのはつまらないことだ。
「流れをつかむ」ということと、「流される」ということ、これらは何が違う?
単純なことだ、「流れ」は底を流れる。
「流されるもの」は浮いているから流されている。

この、底を流れている、太くたくましい、妖しくさえあるストリームがわからないか?
流れをつかんでいる「つもり」で、実はまったくセンスがないタイプの人は、たいてい浮いている、浮いているから流されている。
音楽を聴いて「アガる」と感じている人は、たいてい誤解をしているが……なぜなら音楽は本質的に人間を沈降させるからだ、音楽は人を沈降させて底の流れに接続させるものだ。
釣りで使う「浮き」は、本当に浮かんでいるだけだ、そうではなく水面下深くに垂らされていった釣り針が、底の流れにヒットしないといけない/それは明らかに「アガる」ではない、どう見ても沈降せよ。

万事、「アガる」は近所迷惑になる。

「アガる」と、本人は一時的にごきげんになるのだが、それは単に傍若無人になっただけで、周囲からすれば迷惑になる/ひとりイヤホンでアガっている満員電車の奴みたいに。
世界中のどこを探しても「アガっている」と見える神像はない、残念ながら集中力のない奴が何かになったためしは古今にひとつもない。

正しく見ないとな | comments(0) |
エリ・オジルビア、これは暴力ではない

一人、何一つ、間違っていないが、もし何かの「世界」を体験したいということなら、すべて間違っているかもしれない。
ダンスが得意で、笑顔の商材写真が印象的な、実はアニメオタクでもあるエリ・オジルビアさん(36)の、ダンスとトークと酒をたくさん共にしても、そこに何かの「世界」が体験されてくるということはきっとないからだ。
もし、それを間違っていると言ってしまえば、それはもう、眼差しから表情から、声も考え方も言葉遣いも発想も、胴体から全身の使い方も全部間違っていると言わざるをえなくなってしまう。
あなたは僕よりエリ・オジルビアさん(36)のほうが好きだろうが、問題は、僕よりエリ・オジルビアさん(36)のほうが本当に「やさしい」と感じられるかどうかだ、あなたの「好き」にはいつの間にか、本質的にはやさしくない人が紛れ込んでいる。

うーむ、何もかもが間違っている(か、もしくは僕の何もかもが間違っている)。
それにしても、あなたが「友好」を得られるのはエリ・オジルビアさん(36)のほうだ、何しろエリ・オジルビアさん(36)には、あなたを蹴っ飛ばしてでもあなたに伝えようとする何かはない。
僕はつい、あなたを蹴っ飛ばしてでも、あなたに伝えようとする何かを持ってしまう、「何もかも間違ってんだよ」と蹴っ飛ばされたら、さすがにそんなもん「友好」とはいかない。
「何もかも間違ってんだよ」と蹴っ飛ばされて、何か正しいものが得られりゃまだしも、それで得られるというわけでもないのだ、だからエリ・オジルビアさん(36)のほうが「はるかにいい」と一般的にはなる、あげくに僕はそれを「まあそれでいいか」と思っているのだから救いがない。

僕は自分を「ろくでもない」と思っており、僕自身を蹴っ飛ばされることに違和感がないので。

単に僕の育ちが悪いからなのか? 僕は「おもんない」とか「気ィ悪い」とか「できてへん」とかいうときには、蹴っ飛ばされるのが当たり前だと思ってきたし、今もその感覚でいる。
僕が後輩やガールフレンドを蹴っ飛ばすところを見たら、エリ・オジルビアさん(36)はびっくりして眉をひそめるだろうな、でも蹴っ飛ばされて笑い合えるぐらいの度量を持ってほしい、エリ・オジルビア、こんなもん戦争の何億分の一だよ。

視点変えてこ | comments(0) |
妖怪ウォッチ以降の子供
隣の子供が公園で「奇声」を発しているように聞こえるが、あれは「子供が元気」ということなのだろうか。
正直なところ、僕にはあれが「奇声」にしか聞こえていなくて、率直に申し上げれば僕はいつもあの奇声に閉口している。
僕自身も子供のころはああして奇声を発して育ったのだろうか? その記憶はないが、実際にどうだったのかはわからない。
あれは単に子供が元気ということで、僕の聞き取りと受け取りの感性がおかしいのか? それならいいのだが、そのあたりのことはけっきょくよくわからない。

子供のころ、友人の名前を「まっちゃん」「うっちゃん」「つっちゃん」「こったん」等、呼びやすいように呼んでいた記憶がある。
「あさひな」だったり「まきの」だったり、大声で友人の名前を呼んでいた記憶が当然ある/昔はインターホンさえなかったので、家の外から友人をナマ声で呼ぶものだった、「○○くーん、あーそーぼー」というやつ。
が、どうも、このところ耳にする子供たちの奇声の中に、そうして誰か人の名前を呼んでいる音声が見当たらない/犬の名前を呼んでいる音声もあまり耳にしない。
もしも本当に、名が呼ばれることも与えられず、奇声を発しているだけだったら、それは「獣」だ、あくまで「もしも」の話だが。

白黒映像の中の子供らは、奇声を発しているようには見えない。

youtubeで、1970年の万博に子供らが遊んでいる映像を見つけることができたが、やはり奇声は見当たらない、そして子供らがそろって「はーい!」と答えるときの声が強烈だ。→動画が残っていたらこちら
何かが違うということだけ明らかで、どうしたらいい、ということはないと思うが、さしあたり奇声を発するのをやめればよいのではなかろうか/ただし「奇声を発しちゃいけません!」ってママや教師が奇声を発したら本末転倒だ。
視点変えてこ | comments(1) |
人は「当然」のことしかしてはならない
とえば、ふつう日本人なら、「いただきます」「ごちそうさま」の動作に"こころ当たり"がある。
この、"こころ当たり"があることで、「いただきます」「ごちそうさま」の動作は"当然"のものになる。
この、"こころ当たり"がないままに、たとえば男性が「レディーファースト」をやってみたところで、その動作はぎこちない、いんちきのものになる。
今、男性が女性を口説くことや、女性が男性に抱かれることは、それぞれにとって実は"こころ当たりがない"のではないだろうか、こころ当たりがないままそれを無理やりにやっているのではないだろうか。

"こころ当たり"がないままに、何かをしようとすると、それは不当な「イメージ」や「パターン」、および「願望」をなぞるものになる。
たぶん大学生が「うぇーい」「それな」「ワンチャン」と言っているのも、あるいはリクルートスーツを来て就職活動しているのも、実は何の"こころ当たり"もないのだ、ただやけくそのようにイメージ情報をなぞっている。
リア充という「イメージ」、うぇーいという「パターン」、勝ち組という「願望」だけがあって、何の"こころ当たり"もないまま、ぎこちないやけくそを力業で押し通している。
今、多くの女性は、自分のヴァギナに"こころ当たり"がなく、男性に口説かれるたびにそれを「イメージ」「パターン」「願望」で処理しているが、その処理に慣れていくだけで、実は自分が抱かれることをいつまでも「女として当然」とは感じられないままだ。

あなたは彼の靴を磨いてあげることはできるが、問題は、それを「当然」とは感じられないことだ。

「女らしくする」「女らしいことをする」という、イメージはあるのだが、こころ当たりはないのだ、だからそのイメージをなぞってもぎこちなくなるし、わざとらしくなるし、しかも自分には"不当さ"のストレスが蓄積していく。
人は、「当然」のことしかしてはならないし、「不当」なことをするべきではないのだが、その当然さと不当さは実は文化に与えられる"こころ当たり"に由来している、だから文化を与えられていない人は何一つ「当然」なことができない/唯一できる「当然」は、今ぶっちゃけ「支払い」だけだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
事情に力はない
それぞれに事情があるが、事情には何の力もない。
たとえば、蕎麦アレルギーの人は蕎麦を食べられないが、それを元にして何かエネルギーやideaが出る、ということはない。
蕎麦アレルギーであろうがなかろうが、エネルギーやideaが出るのはただ「何を食うか」のほうだ、事情のほうには何の力もない。
自己事情に詳しくて、熱烈な思いを持つ、自己事情オタクというような人もあるが、そういう人は何かというと、何の力もない自分が大好きなので、それはそれでしょうがないのだ。

誰でも学業があったり生業があったり、ワークやセックスや恋あいがあったりする。
が、思いがけず、学業と生業の「事情」、ワークとセックスと恋あいの「事情」という、自己事情のことしか頭にない人が少なからずある。
事情には力がないのだ、そんな力のないもの、および公益性もないものを、人前に放り出さないこと、そのことを一般的に「マナー」という。
単に恋人がほしい人と、「事情があって」恋人がほしい人は、まったく別だ、事情があって○○がほしいという人は基本的に不気味で恐怖でしかない。

事情を増やしたら未来が減る。

たとえばこの季節、就職活動中の人がいると思うが、事情から就職活動していたなら、実に未来がないという実感が自分自身にあるはずだ、そんなことをしていると人はたちまち荒廃する。
事情というのは、基本的に自分限りのことなので、自分が「まあいいか」と思えたら事情は雲散霧消する、この宇宙で「あなたの事情」を気にかけているのは、疑いなくあなた一人だけなのであった/あなたがしんどいというのはあなたの事情だ。
視点変えてこ | comments(0) |
「わからない」ということにパニックにならないこと
ろそろ、家族の絆を深めようとすることを「ファミ活」と呼び出すだろうか。
付き合わされる子供はたまったもんじゃないだろうな、「ファミ活」……
友活して就活して愛活して婚活して家活してファミ活して終活する、というような冗談を、いいかげんやめないといけない。
世の中にはそういう冗談を真に受けるしかやりかたを知らない人もいるんだぞ! そりゃ他人事ならつい笑ってしまうけどもね。

どうしよう? といつも悩まされている。
どうしよう? といって、何も方策はないのだが、さしあたり落ち着くことだ、慌ててカルチャーセンターに行って得られる文化などない/そもそも「カルチャーセンターで何かを得る」なんて文化じたいがない。
ともかく落ち着くことだ、そして、「わからない」ということにパニックにならないことだ、パニックは人を無能化する上に人を追い詰めて疲弊させる。
もし大学生と大学生が、互いに落ち着いて「何を話せばいいかわかんないよね」「いろいろウソをねじこまれているよね」と話し合えたら、それだけでずいぶんまともになれると思う、ただしあくまでも落ち着いていられたらだ。

「文化感覚」が要る(説明はまたいずれ)。

「文化感覚」が要るのだが、それを説明するのは、今なんとなくダルいというか気分じゃないというか……(投げやりですまんな)。
たとえば、誰だって本ぐらい読むのだが、読書という文化は失われている、だから読書会イベントや「読活」みたいなことが生じてくる、ええと何にしても、なんか今ダルーいので説明する気にはならない、すまんがまたいずれ。
正しく見ないとな | comments(0) |
白濁する夏の正午

は専用の墨汁のように青く/瓦屋根は黒く照り返し/燕はなお黒く弧を描く数学記号
視界白濁する/光の粒子が路上に飽和する
カラーの花はユリの花に負けず劣らずよい香りがするそう/目下、気になるね
時間は流れていない/ただ見失う方法があるだけ

人とは何か、街とは何か、仕事とは何か、生とは何か/愛とは、恋人とは、家族とは何か
みなよく知っている、思っている、自信満々/しかし知っているからには見えていない
知っているということは見えていないということ
希望が見えているとき、人はそれを希望とは知らないのだ

夏の白光、平穏が沸騰する

怯え切る者は、この与えられてある物が見えていない
テレビ、ラジオ、インターネット、あなたが知るものの中にあなたが必要とする真の知識はない

恋女のマインドね | comments(0) |
永遠の形式(フォームズ)に力を得る(ホントかよおい)

とえばヴィデオゲームでもいいし、ゼンダ城の虜でもいいが、「姫が敵にさらわれた」としよう。
姫が敵にさらわれたら、救出にいかなくてはならないが、この「救出にいかなくてはならない」という"強い思い"がどこから出てくるのかはわからないし、人によってその思いがどのていど"強い"のかもわからない。
僕が「スーパーマリオ」をクリアしたとき、僕は「ゲームをクリアした」とは感じていない、「ピーチ姫を敵城から救出した、やれやれ」と感じている。
そして、「なぜ」ピーチ姫を救出しにいかなくてはならないか、その理由はよくわからない、理由はわからないが、少なくともそれは価値観の上で生じていることでは"ない"とわかる/しかし僕の場合、姫を救出にいかなくてはならない動力は"強い"、価値観ではない何かの動力が"強い"。

同じく、僕は誰か困っている人がいても、それを助けたいとは思わないし、助けるべきだとも思わない/助けるべきだという価値観や倫理観はわかるが、それはよりによって僕でなくてもいいだろうと感じている、そんなことはもっとまともな人がやればいい。
あるいは、僕は今こうしてブログ記事を書いているのだが、これだって、人に面白いものを届けたいなんてわずかも思っていないし、世の中を面白くしようなんてわずかも思っていない。
じゃあなぜこんなことをしているかというと、「わからない」のだ、わからないが、少なくとも意味があるとは感じていないし、意味がないとも感じていない、つまり意味があるとかないとかいうことが動力の構造になっていない。
「あなたに救われたんです」と礼を言われることはよくあるが、なぜかそのたび、尻を突然蹴って台無しにしたくなる衝動が強くある、感謝が発生すること自体は正しいと思うが、それを僕に向けるのは見当違いに感じる/僕は感謝されるのがきらいだ、ただ美に突入してほしくてやきもきする。

汝の永遠の相貌を探索せよ/(中略)すべてつくりだされうるものは絶滅させられるけれども、形式(フォームズ)はさにあらず/樫は斧によって伐り倒され、仔羊はナイフによって屠られるけれども、/それらの形式(フォームズ)は、永遠に存在する。アーメン。ハレルーヤ! [ウィリアムブレイク]

さしあたりブレイクの詩文から引用しておくしかない/僕が困っている人を助けたりそれによって礼を言われたりすることを好まないのは、きっとそれが永遠の形式(フォームズ)ではないからだ、そして姫を救出に行くことのほうは永遠の形式(フォームズ)なのだろう(ホントかよおい)。
こんな永遠の形式(フォームズ)から動力を得るのだとしたら、どこに「やる気」やら「モチベーション」やらが入り込む余地があるか/きっと正統な文化のすべては、この永遠の形式(フォームズ)をそれぞれが探索してゆけるための蓄積的叡智なのだ――汝の永遠の相貌を探索せよ。

正しく見ないとな | comments(0) |
四月覚醒

けるような寝苦しさがあって、眠ってもいないのに寝汗を掻いた、いくつかの夢のうちに、はらわたから何かが流れ落ちていった、まったく自分の管理外の体験がある。
もし何者かが存在して、察しの悪い僕に直接的な答えを与えてくれたのだとしたら恐縮だ、起床するとなぜか僕は、自分以外の誰かの胴体のことを知っている状態になっていた。
朝起きたときからいつも爆発している僕のほうが特殊なのだ(すまないが、こんなことにも気づかなかったのだ)。
みんな、本音や感情といったものが「ない」、自分の内から本音や感情が「出てこない」から、焦り、困っているのだ、自分の中から強いものが出てこないのだ。

僕はこれまで、人が「願望」に振り回されることを忌み、否定してきた/「願望」はこころのものではないから。
けれども、今朝になって急にわかったことは、みんな願望に振り回されているのではなく、それしか自分を動かすものがないだけなのだ、だから願望に「頼って」いる、あるいは「コンプレックスをバネにする」というような、たいしてアテにならないことを頼っている。
本音や感情が「ない」というのは、けっこうなピンチのはずだが、そのピンチから覚えるはずの「危機感」、これもまた本音では「ない」のだ、だからどうしようもなくて自分の願望を念じようとする。
きっと本心では、何もかも停止してしまいたいという思いがあり、けれども何もかもを停止させると恐怖と不安しかなくなるから、パニックになる、そうならないために、自分の意識を刺激してくれる想念で自分の意識を炙っている、そういったその場しのぎのことをもう何年も続けているのだ。

方法はないが、断言だけできる、人は自分の「やる気」なんかで動くものじゃない。

方法はないが、断言だけできる、少なくとも僕は一ミリたりとも自分の「やる気」なんか使っていない/じゃあ何でやる気になっているのかというと「わからない」、朝起きたら初めから火が点いているのでどういう仕組みなのか僕自身にもわからない。
何かに興味があるとか、前向きとか向上心とか、将来のためとか、そんなものは全部ウソだ、そういう善人のこころがけを使ったことは一度たりともない、何が燃焼しているのかは僕自身にもわからない。

正しく見ないとな | comments(0) |
STRAIGHT OUT OF HELL
学の類にはまったく詳しくないのだが、いわゆる「地獄(hell)」も神の創ったものなのだろうか。
「地獄」を創ったのは悪魔? 神? そのあたり、単純な知識がない、誰か詳しい人がいたら教えてください。
聖書世界の捉え方では、全知全能の神が創造主なのだから、地獄もその創造主によって創られたものなんじゃないのと、僕はテキトーに思っているのだが……
自分で勉強しろよという話だが、面倒くさいのだ、まあとりあえず僕は勝手に、地獄もカミサマの創ったものだと思い込んでいる。

地獄もカミサマの創ったものだったとしたらだ。
カミサマの世界を体験しようというときに、天国だけ体験しようとするのは虫が好すぎると思うのだ。
カミサマを肯定しようとするとき、カミサマの創った天国および地獄の両方を肯定しないと筋道が成り立たなくなる。
そして思想はいかにも、ヘヴィ・メタルの局面へ流れ込んでゆくのだった……なんだこのまったく役に立たない話は、つまりヘヴィ・メタルってやっぱり何かあるよねと言いたい。

芸術は、天国もしくは地獄からの、「産地直送」。

人間ごときに芸術が創れるわけがないので、そこは天国や地獄の生産性を借りるしかないのだ、そりゃ土や水を借りずに農作ができる人間はいないのと同じだ。
僕はカミサマになんか会ったことはないし、見たこともないが、天国や地獄の生産性を認めないわけにはいかないので、そこに生産性があるということは、カミサマ的なものはあるのだろうと、やはり認めざるを得ないのだった。
視点変えてこ | comments(1) |
明るい声を出す方法
るい声が出てなきゃなんない。
そして明るい声のためには胴体が要るのだ。
そして胴体のためには文化が要るのだ。
そして文化のためにはカミサマが要るのだ、思えばそれだけの仕組みでしかない。

カミサマがあるからお参りがあるわけで、お参りがあるから参道がある、参道があるから「表参道」があり、表参道があるから渋谷と原宿の文化がある。
簡単な話で、1.カミサマがあるせいで文化ができ 2.文化の中で人の胴体は育ち 3.人の胴体から声が出るのだ、そうして出てくる人の声を「こころ」という。
いまどき、カミサマがどうこうという暮らしをしている人はなかろうし、日々が文化に接続しているという人もなかろうし、胴体なんて定期的に医者か検診するだけのもののはずだ、そういう暮らしをわれわれはしている。
アタマの中でぐるぐると、思念とディスカッションがあるかもしれないが、そういう頭の中のものはびっくりするぐらい役に立たない、ディベートするためにこの世に生まれてきた赤子なんて一人も存在しないからだ。

あなたが天を否定するせいで、僕はあなたを天使と呼べない。

残念なことだなあ、と思うし、そうして天を否定していると逆に晩年にカルト宗教に取り込まれる予感がとてもする/ちなみにかつての共産主義活動も宗教的な側面をはらんでいたので、あれもカルト宗教に取り込まれたひとつと言いうる。
カミサマのない人は、文化がないので、どこにも連れてゆけないし、胴体がない人とは、そもそも出会うことさえできない、だからデートなんてできない/そして出会うことさえできないということは、現代を生きる上では「好都合」という、困った利益的側面もあるのだった、なんと嘆かわしいことだろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
ハイハイ返事すな

校教育の悪いところだ。
ハイハイ返事すりゃ得点がもらえると刷り込まれている。
「返事していますよ」と得点を取りにくるものだから、それは返事どころか自己アピールになっている。
クソ甘えた顔をすりゃ点数がもらえると思っている、学校教育の悪いところだ。

自己アピールはやめられないものなのか。
そりゃ初めからそう教えられてりゃ、もうやめられないものなのかもしれない。
まるで「わたしは純潔ですよ」「清潔で誠実ですよ」と大声で咆えたがっているような自己アピール。
自分の目がキラキラしている「つもり」になるのは、そんなにうれしいことか。

いいかげん、何の点数がほしいんだ。

学校教育の悪いところ、本当に「点数」というわけのわからない概念を人間に埋め込んでしまう、そして点数に向けてしか挙動しない人間を創り出してしまう。
燃えてもいいし、真剣になってもいいし、恋に落ちてもいいけれど、それで何の点数をもらおうとしているんだ、点数がほしけりゃ100億点やるよ、それで本当にハッピーになるのか。

正しく見ないとな | comments(0) |
マリコの持論
だ子供だった僕は、十六歳のマリコが、バイク乗りのカワサキさんに惚れる瞬間を見た。
ゲームセンターにいたのだが、何かの有線が流れてきて、今思えばあれは尾崎豊だったのだと思う。
尾崎の声を受けて、カワサキさんはひどくきれいな目になった、ただでさえ二枚目なのに、それはとてつもない破壊力だった。
それを見上げていたマリコは、その瞬間に、目の前の男のことが「わかった」のだろう、マリコはもうカワサキさんに何をされてもいい女になった。

惚れるというのはそういうことだと思う、つまり直観的であって感情的でない。
マリコにとっては、カワサキさんのきれいなこころのことがわかったので、そのとたん、それ以上先は知る必要がなくなった。
それがいかに当然のことであるかは、僕にもわかったのだ、それぐらいカワサキさんはきれいな目をしていたから。
マリコから見てカワサキさんのことは、「好き」とかそういうものではなくて、ただ「探していたものが見つかった」ということだった、不良くずれだったカワサキさんはマリコを非行に走らせないよう、きちんと学校に行かせた。

魚がきれいな水に棲むのは、自分で決めたことではない。

カワサキさんの目がひどくきれいに澄むのを見て、そのときすべては決まっていたのだと思う、そしてそれはまったく当然のことだと、今でも僕は思っている。
たぶんマリコは賢くて、あのときすべての決定を受け入れたのだと思う、好意も憧れも生じないまま、あのときのマリコには何の感情も持論もなかった。
恋女のマインドね | comments(0) |
パーティ報告67(2)

ーティにて、ある人は僕のことを、「きわめて強靭な、まともな人」と評した、「実はまともな人で、ただ異様に強靭なだけなのだ」ということで。
その評はたぶん当たっていると思うし、僕もそのようでありたいとしか思っていないし、またその評者が自身のことについて「まともになりたいんです」と自己評価したのも、当たってはいると思う。
僕は、僕の評されたことの逆、「ひどく軟弱で、実はまともでさえない人」という存在を第一に忌む。
では「まとも」とはどういうことなのか? ということになるが、僕は「まとも」ということはすなわち「文化」を所有しているということだと思う、「まとも」ということは単に精神性に根差されはしない、文化がなく自己精神しか持たないものは「まともじゃない」と僕は考える。

「文化」=「まとも」、それはつまり、あいさつや言葉遣い、他人への配慮や思いやり、敬いのこころ、年長者と年少者、男女が互いに向け合う節度を持つ、といったようなことへ結び付く。
落ち着いた声で、わかりやすいように話し、適切な話題を選ぶこと、またそこにジョークやユーモアを挟みこんで和合の足しにすることなど、それらは当然「文化」に属する振る舞いだろう。
この「文化」を、情報として知っているだけで、実はまったく身についていないという人が少なくない、そういう人は「まともじゃない」と僕は感じる。
作り笑顔でウソの声を出している類は、「文化」とはまったく感じないし、かといって思いつめて沈黙したり吐き出したりしているのも、「文化」とはまったく感じない、そうして文化を所有しない者がいくら精神的に加熱しても、それはただ「まともじゃない」という印象しか僕は受けない。

「まとも」であることが、最大かつ最低限の魅力だ。

四年前の八月に、僕は「まとも」なものが保持されることに寄与したくて、パーティ企画を再開した、以来43回にわたって、ひたすら「まとも」ということのありようを、実物として示し続けてきたつもりだ。
「キモチが大事なのよ!」と、誰が言い出したのだろう、人は文化なしにまともにはなれないのに/僕はそういう不毛なキモチ合戦に加担するつもりは一切ない。

そのほか | comments(0) |
パーティ報告67
ーティの前日あたりから、やや気管支炎の症状があって、パーティ後、体力を恢復するのに時間が掛かってしまった。
現代、日本人はおおよそ無神論の感覚で生きていると思うが、ここ数年は、無神論に加えて「無性論(むせいろん)」の感覚があるのだと思う/「カミサマ」を馬鹿くさいと感じるように、「オトコ」「オンナ」を馬鹿くさいと感じる状態のことだ。
男女という性別が、ノンフィクション上にあるのはやむをえないことだが、それぞれが「男だから」とか「女だから」とかいう性的なストーリーを生きてはいない、これは無神論になぞらえて無性論と呼ぶことができる。
無性論の感覚で生きる人間は、何も悪くないが、どうやら「自己を追求する」という動機そのものも消失してしまうようだ、今回は「無性論者は自己の追求を放棄する」という発見が得られた。

かといって、もちろんこのご時世に「オトコ!」「オンナ!」「セックス!」なんて求めている奴は、気色悪いに決まっている、たいていそこに思い描かれているのは性愛ではなく性癖のセックスだからだ。
とはいえ、自分が生きるのに、カミサマもなければセックスもないとなれば、あとは娯楽と労役と納税しか残らないのだが、娯楽と労役と納税だけであと四十年生きろと言われたら誰だって生きる気をなくすだろう。
「神業にいたる必要はないけれど、神業に至っていないものを"評価"するべきじゃない、"評価"なんかもらわなくても生きていけるだろ? 要りもしないものを求めるのは厚かましいよ」ということを話した。
生きるための業を「生業(なりわい)」といい、それにとどまらない神がかりの業を「神業」というのだが、出来ることなら生業の料理人より神業の料理人に、メシを作ってもらいたい、そういうメシが食いたいんだよな? そこをフェアに行こうぜということを話した。

僕が翌朝まで話し続けるのをやめないのは、そういう強さを自分に追求しているからだ。

たかだか酒の十杯と、十二時間ぐらいで、脳みそがヘバっていてどうする、最初から最後までおれは完全に面白くないといけない、と、僕は自分を追求している、人に勧めるようなことではないが僕自身はそうしている。
十二時間どころか、けっきょくほぼ二十四時間話し込んだわけだが(翌日の18時まで話していた)、ちょっと気管支炎のせいで最後はヘバったところがある、こんなんじゃ弱いなと僕は納得できずにいるのだった。
そのほか | comments(0) |
文化を持たざる民5
代の日本人は、「無宗教」というより「無神論的感覚」で生きている。
そして、無神論的感覚では、どうしても文化の根幹が得られず、「文化」の成り立ちようがないのだ。
初詣も夏祭りも除夜の鐘も結婚式も、すべて何かしらのカミサマを前提にして営まれるものだが、カミサマが否定されているので、すべては「イベント」にならざるをえない。
「イベント」というと、フリーマーケットや○○フェス、あるいは講演会や勉強会などが代表的だが、これらのイベントはカミサマに何の関係もないので、まったく問題なく営まれて栄えている。

どこの国のどの人でも肯定すると思うが、何かしらのカミサマを否定するということは、文化を破却することと同じだ。
たとえば食事のときに「いただきます」と合掌することさえ、カミサマを否定してしまったら無意味な「いただきますキャラ」になってしまう。
カミサマが否定されると、この世には「わたし!」しかいないことになるので、「わたしのキモチが大事なの!」という文脈に必ずなる、それで「いただきます、というわたしのキモチ! これが大事なの」ということになっていってしまう。
文化というのは何かしらの「神聖さ」を前提にしている、カミサマが否定されるとこの「神聖さ」の前提が破却されてしまうので、「わたしのキモチ」の偉大さ、崇高さ、ということだけが残ってしまう。

無神論的感覚で、文化的になろうと努力するのは、完全に不毛だ。

かといって、文化的になりたいという都合から、カミサマを捏造するのはさらにサイアクなことなので、諦めて自分は「わたしのキモチのアニマルなの」ということを引き受けていくしかない/それでもカミサマを冒涜するよりはマシだ。
どう考えても、「わたし」と「カミサマ」のあいだを取り持つものがあり、そしてそれが共有されているということが「文化」なので、カミサマなしで文化的ということは決してありえない、この問題は根が深いので安易に取り扱えるものじゃない。
正しく見ないとな | comments(0) |
| 1/146PAGES | >>