☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
第75回Quali's Party[12月16日(土)]参加者募集!

Recent entry: ひろみ、あきら、こりん、ゆか、かなみ、まなみ、つかごん、くおり
12/16 Quali tweet> 時間の感覚が……どうも今日が当日だという感覚が…… pls entry



キラキラ加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


日時2017年12月16日(土)19時〜23時
場所原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB待ち合わせ:原宿竹下通り商店街突き当たり竹下口交差点ムラサキスポーツ前
費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
No.372 「女は男を尊ぶべき」という説

掲題のコラムを本サイトにアップロードしました(クリックで当該ページに飛びます)。

No.372 「女は男を尊ぶべき」という説

よろしくお願いします。九折

そのほか | comments(0) |
「激しさ」というパラメーター2
「激しさ」というのは、「ガンバる」ということとは違うのだ、単にビッグウェーブが「激しい」ということなのだから、それは端的には「かめはめ波」だと思えばいい、「かめはめ波」は典型的に激しいし、悟空はイライラした結果かめはめ波を発射するのではない。
そうだな、わかりやすくいえば、「ゆとり教育」という印象の反対に、「激しい学門」が存在すると捉えればいい/過去の科学者たちを見ればわかるが、学門は激しいものだ、われわれは彼らの著書を読むだけで死にそうになるのに、彼らはそれを著した側なので、その「激しさ」の格差たるや、われわれにとって絶望的なものがある。
「激しさ」と「痛々しさ」は何が違うのかというと、「激しさ」の側は、その膨大なエネルギー量に飛び込んで燃えさかりながら、当人は「幸せそう」というところだ、必死で痛々しく「ガンバります!」とやっている人のほうは、その「幸せそう」という感触がまったくない。
必死で痛々しくガンバっている人を見ると、つい同情と励ましと、肯定の気持ちが起こってしまうが、その実は自分も含めた姑息な逃避でしかないことを、どうせうすうすは自覚しているので、そういう都合のいい甘さは、どこかで見切りをつけることだ、必死で痛々しくガンバっている人には何の罪もない/いや、罪があるね、今さら何を言い逃れするか。

一番アカンのはこれだ、マイケルジャクソンが「カッコいい」とか「センスある」とか「知性がある」とか「たぶんすごくいい人」とか、そんなことは誰だってわかっているのだ、そういうところに評価ボンバーをかまして「わたしもがんばろう」とかしているタイプ、これは本当によくない、巨大な罪がアリアリだ。
何の罪があるかというと、本来は「激しさ」の格差に直面しているのに、それに「圧倒される」ということをキャンセルしているからだ、「激しさ」に圧倒されるということは、同時に自分のチンケに直面するということでもあるが、そのことに直面するのがイヤなので、人はこっそり欺瞞して「センスある〜」というような評価ボンバーに逃げる、そしていざとなれば「わたしガンバってるんです!!」という痛々しさボンバーで切り返そうと予定しているのだ。
「激しさ」というパラメーターは、容赦がないのだ、「激しさ」というのはつまりそれ自体が「幸せそう、しかもカッコいい」となり、そのビッグウェーブが人に直撃しなければならないのだが、そういったことは本当にむつかしいので、その本当のむつかしさからはどうしても目をそらしたくなる/が、そこにガンバる自分の自負をこすりつけてエセ自尊心をなんとかしようと作為するのはさすがに罪だ、あきらめよう。
「はい、じゃあ激しくどうぞ」と言われただけで、何かごちゃごちゃっと破綻アンドごまかしモードが立ち上がってくるだろう、こんなもの逃げ隠れできないんだよ、宇治川で茶道に耽るのもいいし僕は宇治川が好きだが、そういった「○道」というものは、あくまで「激しさを内に納める」ための行法であって、その完成から得られる静けさと、単にたたずんでいるだけのインチキ静けさはまったく別物だ、それが「できない」のは何の罪でもないが、それを「曲げる」のは罪になるのでやめておこう。

「激しく」すると、途端に自我エネルギーで動いているのがバレてしまう。

「激しく」することでなお、「幸せそう、しかもカッコいい」ということが出てくる場合、それは当人が自我エネルギーではなく、何か別のエネルギーで動いているということだ、それは愛であったり「世界」であったりする/これを、自我エネルギー隠蔽キャンペーンで生きている人が評価ボンバーでごまかし消費エッヘンするのは、たいへんよくないことだ、いつだって「じゃあ激しくどうぞ」と言われたら木っ端微塵になることを忘れてはいけない。
「激しさ」の反対が、いわゆる現代の「癒やし系」だが、こんなものにいつまでもムフフしていると、再起不能のビョーキになってしまう、ボディは豆腐のように脆弱なのに、自我が要求するムフフリクエストは極大、という十年前のプリン状態になってしまうのだ、そうなったらもう生涯で「激しさ」にトライできる可能性はゼロになってしまうので、そうなる前に「圧倒される」というストレスの中で頓死することを繰り返そう、いつか「敬う」「尊ぶ」ということがわかるときまで。
できるオンナだね | comments(0) |
「激しさ」というパラメーター

ちいちトランスしているのでぜんぜん間に合わないわけだが、まあ何だ、「激しさ」というのは重要なファクターだ。
「激しさ」というのは、決定的に人を教えるパラメーターなので、超ラブにもなるし、超ガッカリにもなる、ある意味容赦のないパラメーターだ。
どれだけイケメンふうを飾り立てることに成功しても、100人の前で「じゃあ、全力で叫んで」とやらせてみると、正視にたえない酸鼻なものがでてきて、「ダッサwwww」となってしまう/「激しさ」というものは、その人がニセモノかホンモノかをただちに暴いてしまう容赦のないものだ。
誰でも撮影してみるとわかるが、「うつ病で神経が切れた女」というような芝居は誰だってできるのだ、それはエネルギー準位を落とせばいいだけだからだ/しかしその逆、タイタニック号に乗り込んで未知の大陸に向かって叫ぶ、という演技はできないのだ、非常に痛々しいものになってしまう、それは「激しさ」というパラメーターがいかに容赦のないものかを如実に物語っているだろう。

宮崎駿はその作品の中で、航空機のエンジンがどれほど激しいものか、また本来の男たちの食事がどれほど激しいものか、また崇高さに及んだ女の裂帛の気合いがどれほど激しいものかを、よく描いている、むしろただそれだけを描きたいというような側面さえあるはずだ。
故マイケルジャクソンは、人柄としてはすさまじく穏やかだが、その全身からみなぎっているエネルギーはとてつもないものだ、われわれは彼の舞台の客席で金切り声をあげて倒れることはできても、彼のように舞台上で光を放つことはできない。
男女がそれぞれに、愛しているか、誠実か、向き合っているか、ウンタラカンタラというとき、すべてのことは一定の「激しさ」で営まれ、「激しさ」で確かめられねばならない、それは言うなれば、「アクセルを全開で踏み込んで試験しなければ、その自動車が本当に安全で高性能かを保証できない」ということに似ている。
たたずんでいる人は何も偉くなく、すべては「さあ激しくどうぞ」と言われただけで破綻し、馬脚を現すだろう/人柄としては穏やかでなければアホなのだ、しかし発揮されているエネルギーが膨大なものなら、その穏やかな人は直面するだけで人を倒してしまいかねない力を持っている。

自負はいいから、テイクオフしてみて。

美女と美少女のすべては、ボクの胸に飛び込んできてくれてかまわないのだが、「飛び込む」というならまずテイクオフしないと飛び込みもできんわな、そしてテイクオフできるかどうかにおいて、その機体が本当に良デザインで鍛えられて強いのか、そのエンジンが爆発力を持っているのかどうかがわかる。
たまに、「壊れそう」ということで自分が激しいものと勘違いしている人もあるし、中にはそういうミュージシャンまでいるような気がするが、「壊れそう」というのはボディが弱いから壊れそうなだけで、爆発力というのはそういう破裂脆弱性のことを言うのではない、戦闘機なんか涼しい顔で超音速で飛ぶじゃないか。

できるオンナだね | comments(0) |
僕たちの希望のあかし

て、このニュース記事など見てもらえばわかるように、世の中は意外にムチャクチャなものである。
そして、この当代最高峰の(中のたぶん52448位ぐらいの)大天才である九折猊下の小説がなかなか出版されない理由もだな、似たようなところにあり、つまり世の中が悪く社会が悪いのであって、おれが悪いのではない、世の中と社会は反省するように。
一部、僕の小説を読んだことのある人は、その超ド級の面白さとうつくしさに悶絶卒倒したはずだが、なぜそういったものが評価されないのか……サン=サーンスでもフル出力の斧スイングで脳天をカチ割りにくるレベルの不始末である。
今日は双子座の流星群が見頃らしいが、こちら東京だし、夜空がねえし、外に出てみたらクッソ寒いので引き返してきた、まあ流星などは美女と美少女が見られたらいいし、美女は見たらしいのでまあ僕はロールケーキを買ってきてむさぼって満足することにした。

まっっっったく関係ない話だが、最近、「あかし(明石)」という日本のウイスキーが新たに生産されている、一本800円ぐらいという大衆ウイスキーだ。
しかしこれ、なんというか、線はきわめて細いけれども、びっくりするぐらい雑味のない、実は「めっちゃ細いけどグレードは高いスコッチ」の味をしている、僕はこれを飲んで「なにこれ、日本のやつなの!?」と驚き、その後値段を知ってさらに驚いたのだ、800円/500mlというのは格安に思える。
ただし、好みは分かれるというか、よく知られているサントリーの「角」「山崎」「響」あたりをウイスキーのスタンダードに捉え、それを水割りやソーダ割りにして飲む感覚だと、この「あかし(明石)」は何の味も香りもないように感じられるかもしれない、だがそうではないのだと僕は言いたい、ストレートでちびっと飲んでみろ、「オーク樽の37年もののクライヌリッシュだから枯れて線が細いのは当然で〜」と自己洗脳して飲め/こうして新しい生産が正しい魅力のあるものとして出現してくるというのはいつの時代だって希望であり光だ。
何が言いたいのかというと、九折さんの小説はやはり当代最高のものであって、九折さんマジ天才ということで間違っていないので、評価されるまでちょっと待っててねということだった、それまで美女および美少女は先行投資でラブをこの鬼天才に奉仕するように、そうしたらやがていいことになるかもしれないし、そうならなかったとしてもそのときにはあなたも忘れているから大丈夫である。

正しく評価しなかった奴ぁ全員丸坊主の刑である。

ウィリアムブレイクが死んでずいぶん経ってから、「あれ? これ実はめっちゃよくね?」と言い出すのが、吾らアホ人類であるし、「めっちゃいい」と言われると追随して「知ってた!!」と言い出すのが吾らビッグアホ人類である、どうしてもわれわれは目の前に四千円のおっぱいがバインバインしていることに「おっ」と反応する知能しか持っておらず、おいテメエら「ダメよ〜、ダメダメ」と言っていた芸人の名前を思い出せるか、思い出すのに二秒以上掛かったら丸坊主の刑な。
「ももクロはガチ」と言い張ってライブに行っていた人は、僕がこうして文章を書いているのを、やめるときまで、そのライブに通い続けることをやめてはならない、やめたら丸坊主の刑だ、僕の側は永遠にやめないのでまあそちらも永遠にやめられないということだが/正しく評価するということは、むつかしいことなので、ときに誤った評価をしてしまうこともある、けれども信賞必罰、そこには丸坊主の刑が待っている、そのときにはもはや僕にワイロを贈ることでしか、この刑罰を逃れられない、つまり謹んでワイロ方お待ち申し上げております。

続きを読む >>
恋女のマインドね | comments(0) |
ホロコーストおしゃれについて

かりやすさのために大げさな呼称を採用する由、どうかあしからずご寛恕のほどを/この「ホロコーストおしゃれ」の可能性については、説明がそんなにむつかしくない。
まず現代の女性にとって、日本の男性というのはことごとくキモいのだ、それは本当にキモいからしょうがない、いくらスキンケアをして眉毛を整えてリア充路線やモテ路線を狙ったとしても、絡みやすくはなるだけで内実的にはキモいのだ、このキモさに毎日耐えている女性たちの健気さを、誰か褒めてよ、というのが現代の女性たちの偽らざる心情だと思う/僕は男性の一人としてこの現況を常に申し訳なく感じている、このキモさに物も言わず耐えていることが、日本の女性たちの栄光だと、少なくとも僕は称えたく思っている、称えるしかできないのがまったく申し訳ないところだが。
一方、たとえば女性専用車両がどうこうというのではなく、何かもっと根本的な、昔でいうアパルトヘイト的な、「女性専用の道路や電鉄を通して、男女で生活の空間を区分けしてよ〜」という隔離生活への希求があるのだが(これはホントに同情する、本当に申し訳ない)、そうして生活上の男性存在のすべてに×印をつけていくと、今度は自分が女性という機能性を具有していることも無意味になってくるわけだ/この具有の無為化強制は非常に屈辱的に感じられ、「男性たちがキモいせいで、わたしが女性であることまで無駄にされた」という怒りが生じ、「これ以上の侮辱はない」という正当な観念から、「わたしが男性を根本的に許すことはこの先も永遠にないだろう」という女性たちの立場を作っている(ただしそれは歩み寄りを否定するものではなく、ただ歩み寄りの「限度」を先に形成する)。
性機能を否定されるという、これ以上ない「許しがたさ」、この最大の侮辱空間において、しかしその苦杯を毎日飲み干しつつ生きていくしかないという中で、唯一その女性性の具有を受け止めてくれるパートナーが「おしゃれ」だった/現代の女性は、それこそ本当に死に物狂いで、「○○がいてくれるからわたしは女性でいられるの」という叫びと完全に同一の崇高さにおいて、「おしゃれがあるから女でいられるの」という中を生きているのだ、おしゃれを否定されるということは、女として最愛の男を殺害されるのと同じことなので、これは論を俟たず「ありえない」と否定されるしかない。

現代の女性は自分を誇示するためにおしゃれをしているのではなく、女として生き、この世で女として生きた時間を得ていくために、「おしゃれ」を追いかけているのだ、自分が「女」という生を享けたことを認めて肯定してくれるものが、唯一その「おしゃれ」なのだから、女性にとってこれは神聖な存在に他ならない/女性が真夜中に自室で一人でも、その胸の内で篤く信仰しているものがこの絶え間ない「おしゃれ」なのだから、この信仰はすでに血が通っており、否定されるわけにはいかない、「これだけは絶対に取らないで」と両腕の中に抱え込んでいるのがこれであって、これについて庇護されることはさしあたり無期限に保障されるしかない、「女性におしゃれを否定することは、性機能を去勢することと同じ、グロテスクな流血と汚辱の行為」と、このことは尊厳をもって重く捉えられねばならない。
この観点から正しく見直せば、女性は自ら「おしゃれ」をすることで自分の女性性を肯定することができ、この肯定があるからこそ、世にうろつく現代の男性を完全否定せずにいられるのだと言える/現代の男性はキモいので物理的に害とリスクのある「敵」だが、それを上回る「味方」が自分を支えてくれているので、女性はこの世界を否定せず生きていけるわけだ、だからもしこの世でおしゃれが衰退すれば、女性にとってこの世界は害とリスクしかない阿鼻叫喚の世界でしかなくなる……そこで戦っていくことも不可能ではないにせよ、そんなところで戦って生きることに何の意味もないという結論が先に見えている、これらすべてを踏まえれば、「おしゃれ」は偽りなく女性たちにとっての「救世主」だと定義されて明らかになる。
しかしここに来て、もう一段階裏側にありうる仮説が疑われ始めた、つまりこの「救世主が必要なほどの世の中」を創りあげたのが、他ならぬ女性たち自身ではなかったか? という仮説だ/いつのことからかは明らかではないが、女性たち自身の選択や行為によって、本来は誇りと光輝のありえた男性たちが、陰茎の生えてうごめく魑魅魍魎どもの地位にまで貶められた――そうしたホロコーストがあった――もしこのことの罪業が女性たち自身にあることが忘却され、女性たちがこの世の陰茎ども、その百鬼夜行を嘆き、自らは救世主の元にあることを誇示するふうは、その座の栄光に浴すること能わず、その見えざる欺瞞が、女性たちを奥底から暗い直観の気分に引きずりこんでいるのではないか? という可能性だ、この可能性まで含めると確かに、一部極点まで上昇した事象に出現する不穏の感触について説明が整合するというのでもある。
現代の女性たちにとって、「おしゃれ」が救世主なのは間違いなく、これを否定されることは許されない、これを剥ぎ取ったところでますますひどいことになることは確実なので、あくまで合目的的にも「おしゃれ」の権利と義務は庇護されるのが不可欠の善だろう/ただしその救世主の元において、この救世主に縋るしかないだけの陰茎百鬼夜行の世界を作り出したのが、他ならぬ自分たちであったという捉え方も、女性たちにおいて保持されてゆかねばならないわけだ、あくまでホントかどうかはわからないのだが、この「おしゃれ」の背後にはそうしたホロコーストがあったという可能性が、珍説としてでもその書庫に保存されている必要がある。

現代の女性が取り得る選択肢は二つ、1.おしゃれをして男性たちに温情を向けるか、2.おしゃれをしてなおも男性たちを惨殺するか、この二つだけだ。

冗談でなく、現代の男性はキモいので、女性たちは防犯と防御を励行しなくてはならない、防御なしに現代の男性と寝たら女性は本当にビョーキになってしまう、ここはリアルに現実的に考えることだ/たとえば西洋諸国がアフリカを植民地化し、プランテーション搾取によってその土地を荒廃させ風土病を蔓延させたというようなことがあったとしても、その恢復に歩み出す西洋人がいたとしたら、ワクチンや防護服をまとって現地に踏み入るしかないのだ、そこで原罪風味を気取って無防備に飛び込んでもあっさりビョーキに喰われるだけだ、そんなことは誰のトクにもならないし、そのような捨て鉢はけっきょく不誠実な逃避でしかないし、むしろ現地の禍々しさにさらなる一滴を追加することにしかならない。
現実的なところとしては、選択肢は「なるべく1」という努力目標で、さすがに「2は禁止」という、さしあたり罰則はない条例を定めるぐらいしかないだろう/とはいっても実際に、キモい男性をディスらずにいることや、キモい男性に温情の余地を向けることは、それがわずかなことでも現代女性にとってすさまじいストレスを与えるものなので、とてもじゃないが無理をするべきじゃない、何億円のおしゃれをしていたとしてもそのストレスは生身に強烈に負荷をもたらし、自らの精神衛生がいかに重要なものかを病床で痛感するだけになるだろう、よって僕が路上に煙草をポイ捨てする程度には、おしゃれしながらキモい男性をディスってかまわない。

正しく見ないとな | comments(0) |
或る法則(最大限の警報と共に)10

つもの僕のファンキーなブログネタより、「女性たちの罪〜」ネタのほうが人気があるようで困る。
キリがないので、いいかげんひとまとめにコラムに書こうかなと思うのだが、いつもそんなことを言いながら、時間が足りなくてエッサッサになるパターンを、なんとかやめにしなくてはならない。
女性が男性を、本来は「尊び愛する」のだという説は、説としてまったく盲点だったし、追究されてみれば「たしかに」と、現代にある多くの不穏な事象の源泉メカニズムがこの本来性の汚損から生じているという線で追っていくと、いくつものことが有為な整合性を見せるのだった。
現代において、女性が男性を尊び愛するなど、事実上は不可能であって、そんなことを要求しうる存在はこの世のどこにもすでにないが、一方でそうした男女関係のありようを「本来そうだということを、忘れたくない」と感じる女性が実は潜在的に少なくないということは、光に属することだと思う/われわれはこの光を見ていかなくてはならない。

一方でもちろん、女性が男性を尊び愛するなどというのは、現状では完璧な戯論であり、現実的にはただの逃避的おとぎ話でしかないということも、肝に据えておかねばならない。
たとえばわかりやすく、このブログを例に取ると、このブログがもし「シャネルを着た四〇歳の女性が書いている」ということだったならば、そのかっこよさはただちに尊崇の対象になるはずだ、「頭いい」「こんな形で頑張れるなんて」と/これを僕のようなオッサンが書いているというだけで、どこからともなく「草」という感触がやってくる、これは僕自身にもやってくる感触で、決して僕のきらいな感触ではない。
もし渋谷の女性100人に、「僕と手をつないで歩いてほしい」と申し出たら、慈善の病気に罹っている老婆以外のすべてからは、「キモすぎてホント死んでほしい」という反応が返ってくるはず、これは生理的な反応だし、かつどこからどう見ても正当の反応だから、ここで100人の女性には何の咎もない/そこで「光栄です」なんて反応が返ってくる可能性は、完全な盲点で、数十年前にはごくまれにありえた反応ではあったが、今となっては悪霊に取り憑かれた人の反応でしかないので、冗談でなくそういった発想はやめなくてはならない。
続いて、渋谷の女性100人に、「このシャネルの服を試着して歩いてほしい」と申し出る真摯な業者があったら、こちらは100人が100人とも「光栄です」という反応になるだろう、何の偽りもなく「超アガるんだけど」と内心にときめくはずだ、「男性を侮辱し」「自分たちはおしゃれをする」という営為は、こうして何の咎もない、肌身にある実直の感触に沿って起こっている/これが「本来」ではないという話は、「そうかもしれない」と思わされるが、ただしその距離は現代と古代エジプトぐらい遠いので(冗談でなく)、そのことも冷静に理解されなくてはならない。

復興は光だが、復興は感情では為されない。

一時に起こったクラッシュに比較して、復興というのは何万倍もの時間と労力が掛かってしまう、そして実際に復興を進めていくのは市民の熱情ではなく行政の政策、つまり「ポリシー」だ(policy/政策)、「責任を取れ!」とデモ行進が騒がしくなるのは基本的に破壊行為でしかなく/人はときに破壊に破壊を上書きすれば何かが解決するのではないかという逃避に呑み込まれるが、そんな虫の好い話はなく、復興というのはひたすらダルいのだ、植林した挿し木がなかなか育たないのを見ると、どうしても腹が立ってくる、たとえ野山に火をつけて豊かな森を焼き払った当人であっても、その復興には「腹が立つ」というのが人間の偽らざる心情の仕組みだ。
僕は今さら、女性に「男を尊び愛するように」と求めることは一切しない、なぜならそんな短絡で急激な発想は、虫が好すぎてトラブルの温床にしかならないからだ、よって道義的な意味からではなく単にノー・トラブルの精神において、僕は今さら「女は男を尊び愛すること」と主張するつもりはない、むしろここに「言うことが面倒くさすぎ、とりあえず死ねw」という反応があることのほうが、僕はノー・トラブルの気配があって好ましく感じる、そうして現実的に笑いながら進むしかないのだ/女性が自らの身体に本来の香気を取り戻す道は果てしなく遠いだろう、そういった道のりは、長く笑いながらしかも見失わずに歩いて行くことでしか踏破できないものだ。

正しく見ないとな | comments(2) |
或る法則(最大限の警報と共に)9

斉に、いろんな方から賛同のメールを頂いているので、僕が驚いている/まさか女性の中に、こんなに「男を尊ぶ」ということへの残滓があるとは、まったく想像していなかった、とっくに枯渇しきってレアメタル程度にしか残っていないと思っていた。
誰が見てもぶっとびにうつくしい、或るファッションモデルの方からも、本旨に賛同するメールをいただいているので、どうやらこれはマジっぽいと、僕自身も改めて思い知らされている、そしてこれがマジだというのなら、単に事象の大きさと罪深さとして、男の僕としても青ざめるところがある。
つまり、端的にいえば、現代において「女性による、男性の尊厳のホロコースト」があったか否か? ということが主題だ、もしそのホロコースト(虐殺)があったとするならば、その上に成り立っている「おしゃれ」へのマニア(熱)は、「ホロコーストおしゃれ」と呼んで差し支えないことになる/そういうカルマの現れはいかにもパターンとしてありそうな感じだ。
つまり、感覚の深いところで、女性として男性たちに、「取り返しのつかないひどいことをした」「それはしかも、女から男に向けて、最もしてはならない重大な禁忌だった」という罪の感触が、あるか否かということだ、もしその罪がいくぶんかでもあったとするなら、その割合にかかわらずその罪は巨大なものになるだろう、何しろ実際に現代の男性たちはもう「再起不能」で、尊厳も誇りも生きる意味も奪われたまま、この先を何十年と生きていかねばならないのだから。

僕自身、ごくわずかな古い付き合いを除いては、女性から「ごめんね」と言われたことがない、ここ十年ぐらいはまったく聞いたことがない。
僕のほうは、ここ数年間は特に、複雑化した理由から、男性として年下の女性に土下座するということを何度もしてきたし、そのたびに「土下座ってされると以外に気分いいですね」とテンションが上がって言う女性がけっこう多いことを確認してきたのだが、逆に女性から「ごめんね」と言われることがあるかというと、実質ゼロだ、女性から男性への「ごめんね」がすでにありえないことは、感覚的に確認済みなので今さらやりとりの候補にカウントしていない。
現代の女性にも、「悪いことをした」という感覚や、「罪の意識」などは当然あるだろうし、何であれば反省の気持ちは大きな強度であるかもしれないが、そこから男性に「ごめんね」と詫びるというような選択肢は絶対に存在しない、なぜなら女性としては「それだけは絶対にできない」という感覚があるはずだからだ、あるいは「それだけは絶対に許せない」という感覚かもしれない/罪は認めるが男性に「詫びる」ということは許されない、そんな屈辱をさせられたらとてつもない激怒が起こり末代までの怨みが残るだろう。
男女の関係というとそれが土台だし、僕はそれでかまわないと思っていた、僕は何か完全男性側の不徳によって、男たちは再起不能にさせられたのだと思っていた/しかし僕はそれでかまわないとノンキであっても、女性たちの側にとってはそうではなかったようだ……「ホロコーストおしゃれ」の詳細は次に回すとして、ひとまず僕は、少なからぬ女性が「男を尊び愛する」ということが正しくありえたはずだったという感覚を未だ残していたことに、ひたすら驚いている。

今もなお僕を慕ってくれる奇特な方へ、命令です、防犯の万全化を励行してください。

なぜという理由はなしです、これは命令です、僕はトラブルの一切を好みません、必ず防犯意識を強化してください、少なくともここから一ヶ月間は(特に年末だし)。
幸いなこととしては、僕は「世界」の記憶が消えない特殊なタイプの人間なので、「女が男を尊び愛する」ということが、どういう状態のものなのか、今もまったく見失わず覚えている、まあ神話世界に接続すればイチコロだしな……というわけで、「女が男を尊び愛する」ということは、消えてなくなったわけじゃない、おれはまだキッチリ覚えている、それは現代人の胴体にはヒジョーに難しいレベルのことになると思うが、まあ慌てる必要はない、ナメてかからない賢明さがあれば前進はできるだろう。

正しく見ないとな | comments(0) |
或る法則(最大限の警報と共に)8
は基本的に「おしゃれ」そのものは好きだし、僕自身はこれというおしゃれなんてしないが、おしゃれな女の子自体は好きだ、またTPOによってはおしゃれをしないわけにもいかないだろうので、つまり女性は今さらおしゃれベースを捨てられないだろう、世捨て人みたいになるのも現実味のない捨て鉢の話だし、このあたりを現実的にうまく整えていかないといけない。
また、何よりタチの悪いのは、「おしゃれ」というのは、ガマンしたところでカルマ度数はあまり変わらないというところだ、内心にはコンプレックスのあるおばちゃんが自分の娘に「また派手なカッコして!!」と叱ったとしても、内心では自分もあこがれてガマンしているので、増大するカルマ度数はあまり変わらないことになる、おばちゃんもしっかり同じ程度のカルマワッショイを育てることになるのだ。
だからそういうおばちゃんが、「人間は見た目じゃないのよ」と申し立てても、あまり説得力がなく、むしろ多くの人々に「正直、こういうおばちゃんにはなりたくないなあ」と思わせてしまうのだ、これは典型的な逆効果になる/それよりは、もっと精密な学門として、おしゃれということのリスクを説明したほうがいい。
「おしゃれ」というのは本来、どれだけ飾っても蠱惑的に「ならない」ということをよろこぶ文化だ、ヒマな人は語源まで調べてみてもいい/現代ではここが誤解されていて、おしゃれイコール蠱惑的、つまりおしゃれイコール「即ハボ」に近づくものだと思っている、おしゃれのリスクというのはここだ、正しい学門がないと人を陳腐な虫のエサにしてしまうということだ、「虫が騒ぐ」ような飾り立ては本当にはおしゃれじゃないということだ。

ここに、240年の歴史がある聖堂があったとして、この聖堂にはこれまでにのべ一億人が礼拝を、渾身で捧げてきたとする/この聖堂に純金のイコンを据え付けたところで、その黄金は蠱惑的にはならないだろう、それは由緒正しき正統の黄金に見える、このことは語源的に正規の「おされ」と言える。
一方、まだ建てられて何の歴史も過ごしていない、また誰も真剣に礼拝などしない形だけの聖堂があったとして、ここに純金のイコンを据え付けたりすると、それはたいへんいかがわしい、「うお、二十四金だってよ」という蠱惑的なものにしかならないだろう、そういったものはインスタ映えの「虫が騒ぐ」という人々によってターゲットにされるばかりだ。
一人の女性が、これまで240ヶ月の歴史を生きてきたとして、彼女はのべ一万回は男を尊び、愛し、おじぎをしてきただろうか、もしそうであったら、その胸元に純金のブローチが飾られても、その純金は蠱惑的にならず、正規の「おされ」になるだろう。
現実的には、現代の女性は、おしゃれをブン投げて生活していくことはできないだろう、だがこれ以上ヘンなことにならないために、そのおしゃれは「前借り」で「ツケ」だと捉えてかかるしかない/「これはこの先、女として男を尊び、愛し、奉仕することを、引き受ける覚悟を持っていますという意思表示なの」という誓いの上で、おしゃれを許容する論理的な枠を自分の中にこさえるしかない、もちろんその誓いを自らないがしろにした場合は、もうどうなっても誰も知ったこっちゃない。

男を尊ばず洋服だけを着るとしたら、ココ・シャネルにもクズ女呼ばわりされるだろう。

ココ・シャネルは、服だけ目立つ女を「下品」とみなして憎悪し、自らの仕事を「下品さと戦う仕事」と定義していた、そして明らかにファッションを男への愛や出会いと切り離さず捉えていたのだから、少なくとも現代の「男を小馬鹿にして、女たちはおしゃれ」という文化には、もし生きていたら激怒されたに違いない/「どうしてあなたは男を小馬鹿にすることしか知らず、男を尊びもしなければ愛したこともない下品女なのに、バケモノのようにおしゃれにこだわるんです?」と、ココ・シャネルに問い質されたときに破綻しない回答を用意しろ。
本旨上、これでもなお「せめてそうしよう」という範囲だ、本質は女から男に向けての尊厳のホロコーストがあったか否かだから、そのことを抜きにして女性がボロ布を着ても意味が無い、単純におしゃれより男のほうが明らかに大切ということになればそれだけで「まとも」になりうるのだが、ここで「そのつもりですよ」と言い張る女は本当にヤバいので、ひとまず話を聞いてもらいたい、服装は変えなくていいが考え方や捉え方は本当に変えなくてはならないところがある。
正しく見ないとな | comments(0) |
或る法則(最大限の警報と共に)7

ーっと、もう暴論でいいよね? 聞き流してね、たぶん暴論で話したほうが「わかりやすさ」だけは増すから。
女が高価な服を着るということは、男を激しく尊び、愛し、奉仕するということと、釣り合っていないとダメだ、この釣り合いが取れていないとカルマ違反になる。
カルマ違反になるとどうなるか、わかりやすい不幸やダメージ、汚らしさやしんどさがテンコモリでやってくる、これメチャメチャ暴論の言い方だけど、もう「わかりやすく」というとこの言い方しかないのだ。
むかし、赤の他人が僕の文章を読んで、「うなぎをオゴりたい!!」と唐突にやってきたことがある/本当にうなぎをオゴってくれただけだったのだが、その後「持病だった不整脈が、あれ以来ケロッと治った」と報告がきている、僕は何もしていないが、本当にそういうことはあるし、けっこういくらでも続発していると、正直なところ申し上げるしかない、僕はわざわざ自前でやっているブログ記事に調整されたウソなんか書きたくないのだ。

こんなアヤシイ宗教みたいな話はしたくないのだが、さすがにここまで露骨に同系統の現象が起こると、もう見て見ぬフリをしているわけにはいかない。
うなぎをオゴってくれた人の逆、何か知らんが僕を罵っていった人には、もちろん逆のことが起こって、個別のことは話せないが、人によっては本当にひどいことになっているケースもある、聞いたら誰だって「えっ……」と血の気が引くような話がいくつもある。
とはいえ、そんなことを急に言われても、今ある暮らしや、やり方や考え方、スタイルを急に変えることは誰にとってもムリだから、いきなり真に受けて混乱しなくていい、ただ積み重なることとして「男を小馬鹿にして、自分たちはおしゃれをする」という女性のパターンは、典型的にマズいらしいから、徐々に切り替えをしていくべきだ、もちろんベストにはさっさと激しく尊んで激しく愛して激しく奉仕できる男を見つけておしゃれの資格「あり」になるのがいい、そうしたら何の問題もないのだから。
男を激しく尊び、激しく愛し、激しく奉仕するということは、そんなにヘンなことだろうか、まあ実情としてむつかしいのはわかるけれど/でも僕自身はきっと、平均より激しく女性を尊び、激しく女性を愛し、笑いながら激しく奉仕してきた、文化や芸術に対してもそうしてきた、それがヘンなことと言われたら「確かにな」と思うが、僕はもともとずっとヘンな奴だったから、人に笑われずに生きてきた時間がそもそもない。

もし、「A子さんはブランド服を着て僕に激しく石を投げる」「B子さんは単純な服を着て僕の足を激しくマッサージする」という一時間の実験をしたら、本当にA子さんとB子さんの人相には「取り返しのつかない差」がつく。

これ、本当にそうなる、僕だって認めたくないが本当にそうなるので、実験結果を曲げないという科学の精神において、このことは曲げずに報告するしかない、「こんなに人の顔って変わるの!?」と、驚くというよりは恐怖するだろう/なんだったら、実際に実験して見せてもいいのだが、これは石を投げる側を誰も引き受けたがらないので(当たり前か)平和に実験というのはなかなか実現しない。
実際に僕に石を投げ続けたA子さんはどうなるか……途中で「もうやめたい」という表情になりつつも、なおやらされるので何かがガタガタになり、目の色がおかしくなり、アゴまわりと歯茎の色がおかしくなってくる、「こんな顔してたっけ?」、声は引きつって、表情は猛烈な「おびえ」に虫食まれ、恐慌に向かっていく/取り返しのつかないカルマ蓄積が急激に起こっていることをどこかで感じているのだ、こんな「A子さん的行為」をマイルドにごまかしたものをわれわれは自分の毎日に推奨して習慣化しているわけだが、これはさすがにどこかで切り替えていかないとまずい。

正しく見ないとな | comments(2) |
或る法則(最大限の警報と共に)6

とえば、東芝が凋落し、シャープが身売りに出され、日産がやらかし、神戸製鋼がお白洲に座らされているわけだが、これらは全部「男の責任」とみなされている。
福島の原発が吹っ飛んだのもそうだし、過去の戦争で大敗したのもそうで、この国で起こったすべてのマイナス・チョンボは、何の前提もなく無条件に「男の責任」とみなされている。
それは典型的に「男社会」だったのだから、やむをえないというか正当なところだろうが、ただし一歩引き下がって全体を眺めたとき、その「男社会」の男たちを支えている背後に「女」の影響はまったくゼロだったのか、ということは一切考慮されていない。
成長中の企業があれば、その中からえぐり出したように「女性の社会進出と活躍」ということがわざわざ言われるが、その企業がコケたときには、「女のせい」は一言もいわれないだろう/オリンピック競技などでは女性選手が特に活躍をクロースアップされるが、一方でたとえばトヨタがなおも世界企業でありつづけることに、「男のおかげ」という見方は一切されない。

女性選手に、男のコーチがついていて、もし女性選手が試合中にメンタルを保てなければ、その点は男コーチの責任にされそうだ/当人たちはそうでなくても、世情とメディアの側においては。
そういえば、何かにつけ「どう責任を取るのよ」「責任取ってよ」というのは漠然と女性の決めゼリフという感触があるが、確かに女性の声が「わたしの責任です」と責任を引き受けて立つところを、あまり聞いたことがない気がする。
僕は桑田佳祐がGパンにTシャツという姿で、アホみたいな顔を(わざと)して、「君こそスターだ」「裸のヴィーナス」を歌って賛嘆するということは、実に正しいと思うし、もしできることなら僕もああやってアホみたいにして死んでいきたいと思っている。
一方で、考えてみれば確かに、女性がGパンとTシャツで出てきて「わたしのヒーロー」を歌い、アホみたいな顔で男を賛嘆するという光景はあまり見ない気がする、女性はむしろ着飾って「わたしが女神」「ディーバ」と主張する形が多いように見える/それがいいのか悪いのか、正しいのか偏っているのかは、どうしても男の僕にはわからないのだ。

「女子会」の給仕を、アルバイトの男子大学生がしている。

そりゃ飲み屋やレストランで「女子会」をすれば、そういう形になるわけだが、本当にそれで「いい」のだろうか、それで男子大学生(21)が優秀な国立大の学生だと知って、女子会のメンバー(32)が「えー、超いいじゃん」「ひゅーひゅー」「ねーこっち来て一緒に飲まなーい?」「ぎゃはは、超ユニクロ着てる」というのがあったとして、よくわからないがそこから婚活まがいのセックスがあったりしたとして、それで「いい」のだろうか、そこからわれわれは急に「気持ちの持ちよう」ひとつで神話世界に接続したりできるのだろうか、それは単に技術と学門のレベルとして困難なことに思える。
まあ、こうなってしまったものは、今さらしょーがないのだが、日本の凋落は、しょせん自業自得、ただし「男の自業自得」であって、女の自業自得は勘案されていないだろう/別にそれでまったくかまわないと僕は思っているが、問題は今になって女性の側から、「イヤな予感がする」という悲鳴が上がっているということなのだ、日本の凋落に責任のない「女子会」の給仕を、日本の凋落に責任がある男子大学生が務めているという見方に、「イヤな予感がする」ということは僕にもなんとなくわかってしまう。

正しく見ないとな | comments(1) |
或る法則(最大限の警報と共に)5
ういちど話をまとめておきたい/ある女性は「どう責任を取るの?」と突きつけられている感触がするという。
「どう解決するの?」ではなく「どう責任を取るの?」だ、つまり状況は分岐点をとうに過ぎ、resultの局面、報いがどのようにもたらされるかという局面に至っている/もう解決を考えるのはとっくに手遅れだといえよう。
当の女性の直観によると、「女性たちはこの国の男性たちを侮辱してメチャクチャにしてしまった」のであり、しかも「それで女性たちは自分たちだけおしゃれしていればいいと思っている」、そのことまで含めると女性たちはすでに「巨大な罪」を犯してきてしまったというのだ、よってもし来世というものがあるならば、女性たちはすさまじく罪業(カルマ)の深い世界に落ちなくてはならないことになる/もちろんこんなことは、ウソかホントかは誰にも証明できない、せいぜい誰しも「予感」ぐらいしかない。
僕は自分自身を含めて、現代男性はみな品質の低いチンカスで当然、「恋あいなんて高度な用途に堪えるわけがないだろ」と笑っていたし、ことあるごとに「男性の一人としてお詫びします」と低頭謝罪することを繰り返してきたのだが、その背後に女性の側の罪業がありうるという可能性についてはわずかも考えたことがなかった/女性の側の罪業なんて、男性の僕がわずかでも考えることではまったくないが、それでもこの新しい説を取り入れると、これまでに起こった不可解な現象がすべてビタッと整合して解き明かされるとも言えるのだ、それで僕はいささかビビりながらこの説を重く見ている。

単純にいうと、ごくわずかなパーセンテージだが、僕のことを「尊んで」くれている女性もいて、率直なところ彼女たちはまだ「生き残って」いる、つまり彼女らには心身や生活の荒廃が起こっていない/中には「何か少しでもあなたの身の回りの世話をさせて」とまで言う女性がいて、その女性はなぜかその一言ごとに心身を恢復するという不思議な現象がある、その現象は「目の当たりにする」というレベルではっきりと起こる。
逆に、先の記事で述べたように、[男性不信→軟化→慕情→攻撃→「対等」→妄想→修正→クラッシュ]という手続きで、僕を一方的に利用して自己を恢復し、慕ってきたくせに気分の調整に僕を攻撃し、「対等」を申しつけることを思いついて上機嫌になった後は、「相思相愛」を妄想して僕の人格をないがしろに悦に入り、それをなだめられ修正されると何かが瓦解してクラッシュする、それが急激であれば「クラッシュ」だし継続的であれば「荒廃」になる……という現象もある、これはつまり、こちらをやった女性は「生き残らない」と端的に言いうる、まともな生活とまともな健康状態に復帰するにはずいぶんな苦労をさせられることになる。
このことを、件の女性の直観に準じて、「女が男を尊ぶこと」によるカルマ償却と、「女が男を侮辱すること」によるカルマ増大との比較ということで引き当てれば、つじつまが合うのだ/こんな男尊女卑のキワミみたいなことを主張したくはまったくないが、この十数年(あるいはそれ以上)で目撃してきたいくつもの現象が、この構図にことごとく符合することを、今さら報告しないわけにはいかない。
またこれまでに、「男性を侮辱して愉しみ、自分はおしゃれして愉しむ」という女性のカルマがすでに蓄積している場合、この女性にはカルマの証として「人の話が聞けない」「学門の一切が身に入らない」「常に感情が奔騰して理性が役立たない」「心身が常にだるい」「刺激物の誘惑に勝てない」「声、顔つき、瞳、口もとが汚い」「身体に香気がない」「声や口調に抑えがきかない」「顔がいかつくなり、老いの印象が急速に進む」「日々ヒステリー気質が進行する」「気分屋、急に不機嫌になることを制御できない」「露出癖や自己承認欲求が病的衝迫力をもつようになる」「性的嗜好の変態化が止められない」等の懲罰的特徴が現れるようになる、いったんそうなってしまうともう説諭も入らなくなるので、荒廃の進行を止めることは非常に困難になる。

女性が「男性を侮辱し、おしゃれを尊ぶ」のは、気分爽快で「正義」だが、カルマは致命的に上昇する。

こんな男尊女卑のトンデモ理論などわずかも唱えたくないが、これまで目の当たりにしてきたことごとくの事象を整合して解き明かせる説を、報告しないわけにはいかない/そういえばかつて、「もう男性が、要らないってなったの」と泣きながら報告しにきた女性もあった、その涙がどういう意味のものなのか僕にはわからなかったが、今になって思えばそれは、大きな流れとしてのカルマ増大の道へ引きずりこまれたということの絶望の涙だったのかもしれない。
むろんここにおいて、男女平等やレディーファーストが「間違っている」ということではない、ただ男女平等とレディーファーストを実現するということには、「思ってもみなかった致命的なコストと犠牲を要するのかもしれない」という説が見つかっただけだ、つまり男性において生は無意味になり、女性おいて生活と心身は荒廃なりクラッシュなりするが、そのことを引き受けた上でなお追求しなくてはならないのかもしれない/とはいえ、こんな説を男の僕がいくら唱えても無駄だ、エマ・ワトソンあたりが言ってくれたらまだ効果があるかもしれない。
正しく見ないとな | comments(0) |
或る法則(最大限の警報と共に)4
は、女にバカにされると、それだけで九割方死ぬというか、リアルにペニスが勃たなくなり、ペニスを勃たせるには性癖を変態化させるか狂気を脳内に導入するしかなくなる、割と繊細なもので、「勃たなかったw」と言われたらそれだけで引っ越しして何もおかしくないし、引っ越し代をいくらかカンパしてやりたいというのが、男という生きものだ。
とはいえ、現代において、女性の眼差しと声とその胴体は、常に男性を軽く侮辱するスタンバイ状態にあるので(悪意はない、ただの習慣だ)、男性は半笑いキャラにならないと女性の眼差しや声の前に立つことができない/もし今どき「男を尊ぶ」なんて眼差しや声を持っていたら、年間に二桁の勢いで男からプロポーズされるはずだ、実際そういう女性のレポートも受けている(さすがおれの教育した女はすばらしいぜ)。
さて、とはいっても、男はヤワでいてはならないので、ありとあらゆるタイプの女性の二十名に囲まれて自分のダサさはただちにツイッターでリツイートされうるという状況があったとしても、わずかも怯んではならない、半笑いキャラに逃げず、かといってオラつく野卑もせず、かつどんな視線や声や揶揄を受けても一ミリも傷ついてはならない、傷ついたら隣の県に引っ越しで費用が掛かるしどうせそのまま再起不能になる。
男にとって、女にバカにされるというのはとんでもないダメージだ、しかも女に詰め寄って襟首を掴んだりしたらただちに通報されて停学か懲戒処分になるので、まあ男は女の前で常に頓死するしかない、女に頓死させられるのがいやなら媚びて助命を乞うておくしかないのだが、そうなればやはり男はつらいので裏側では二次元のアニメキャラクターに「僕をバカにしない子」を見つけて救われるか、あるいは母親を頼るか、もしくは自分は暴力に長けた裏世界のオスであるというような空想に耽って自分を慰めるしかないのだった。

もちろんそんなふうに、「逃げてはいけない」、すべては自分が女ごときに傷つかなければいいだけだ。
女に傷つけられないようになるためには……胴体に流れているものを感得し、おおよそルートチャクラからサハスラーラチャクラまでが開通していて、時間軸上フィクションの速さで動くことができ、基本的に「流れ系」かつ真っ直ぐ一調子でしか動かず、ジョークとユーモアと、愛と学門のなんたるかを掴んでいて、おおよその色即是空と梵我一如にバメンで入ることができて、自己が永遠の相貌へ絶え間なく接近しており、それを他者にも感応共有できるよう「届ける」ということができていて、それらが努力でなく徳性として身に現れていれば大丈夫だ、あとはまともな青春とまともな学歴、まとも以上の就職と明らかな未来、わかりやすく目立つ才能の二つか三つ、加えて五人ぐらいは本当に愛し合った恋人の経験があればいい、十年ぐらいは何か一つのことを続けてきていて、あとさりげないファッションセンスとテーブルマナーとレディーファーストと気配りが滲み出ているのは必須なと、このあたりはいつも勧めているとおりになる。
しかし今になって冷静に考えれば、これらを「入口」の前提条件にするのはあまりにムリがある/ムリがあるのだが、実際僕はこの時代で殺されないためにこういったものを大慌てで身につけてきたのだし、これらの技芸と徳性がなければ僕だってただちに頓死するだろう、僕を見て侮辱の眼差しや声向けない女の子が現れるなんて一ミリも期待していないので、正直僕は朝起きたときからこのレベルでないと生きていけない感じがしている。
僕は今もなお、「若い女の子が、おれみたいな老人にやさしくするなよ気色悪い、もっとクズを見るような目でおれを見ろ、それでも笑わせてやるから楽しみにしておけ」と、この状況を利用してヒマな自己研鑽の材料にして平気でいるが、これは僕が気が狂っているから成り立つことであって、おそらく健全な男性についてはこんなことは成り立たない、やり方はわからないがやさしくしてあげたらいいし、やり方はわからないが侮辱以外の眼差しと声も向けてあげたらいい。

二次元の女の子は、男を侮辱しないし、二次元の男の子を、女は侮辱しない。

女性が、二次元の女の子になるのはムリだし、そんなことを求めるのは女性蔑視になるので許されない/だからあとは、男性が現代マンガの主人公のようになればいいのだ、そうしたら女性も男性を侮辱しなくなる、むしろ女性は「こういう人だったら尊敬できるの」とこぞって言うのではないだろうか。
実際、「そういうことは習ったこともないのに」、後ろから斬りかかってきたものを見ずによけて「無刀取り」とかするんだぜ、「youtubeで見たからできる」と言い放つ、それぐらいできなきゃ九折さんじゃない……と僕自身もふざけてやってきたが、これは確かに「マンガじゃねえんだから」というような話だ、どこの誰に罪があるのかよくわからんが/ところで僕は、女の子が非人格的に「かわいい」と描かれている二次元のマンガが大キライだ、あんなもん女性を侮辱する悪意にしか感じられない、僕は正直もうペニスは勃たなくなってもいいしそのときはリツイートされてかまわない。
正しく見ないとな | comments(0) |
或る法則(最大限の警報と共に)3

に今、目の前に6歳の女の子がいたとして、僕はその女の子がこの先に「おしゃれ」に熱意を燃やすだろうことには、あるていど確信がある。
一方、その女の子が、生涯のうち誰か一人でも男をこころの底から愛するかというと、「それはまずない」と感じている。
感じているというよりは、すでに「断じている」と言ったほうがいいかもしれない、僕は心情による欺瞞はなるべくしたくないので、合理的な判断に重きを置きたい/現在6歳の女の子が、その先の二十年にわたり、「おしゃれ」に身をやつすことはほとんど規定路線だが、「尊ぶべき男性への愛」に身をやつすという説は、すでに男女両側の実情において現実味がない。
別に僕でなくても、人工知能でも同様の回答を選ぶだろう/6歳の女の子に限らず、すべての女性は同様のはずだ、この先に「男を愛する」なんてことはまずないだろうと、それは既定路線だしすでにわれわれにとって合意済みのことのはずだ。

むろん、誰だって男女交際はするだろうし、イケメンも含めて「好き」にはなるだろうし、セックスもするだろうし、結婚もするだろう、けれどもそれは「女が男を尊び愛する」というようなこととは別だ、女が男を「尊ぶ」などという時点ですべての説は失笑ものにしかならない(男の側としても「尊ばれる」とかいうのは草不可避のジョークにしか聞こえない)。
6歳の少女が育つ先、もし男性への侮辱遊びと自分へのおしゃれ遊びに強く耽った場合は、侮辱すべき男性に「抱かれる」などというのはもはやキモチワルイ失笑にしかならないので、彼女は侮辱をハメ合う「男性同士のセックス像」を作り出してリビドーの対象にするだろう/実際、現代における「腐女子」のブームは巨大すぎ、それはブームではなく性的マイノリティを為す大きな一角だと認めねばならない。
今6歳の少女は、「男性イコール侮辱するもの」という習慣的定義に何の違和感もないだろうので、たとえば過去の戦争で散っていった特攻隊の兵士たちなど、あれらをネタにして「腐女子」「BL」の創作をするだろう/冗談じゃなく「侮辱」というのはそういうものだ、「侮辱」の度合いが高いほどネタとして興奮するのだからしょうがない、正直このあたりで「そんな侮辱は許せない」と感じるのはすでに相当な年寄りだけではなかろうか。
過去の日本を守った男たち、これまでの日本を創った男たち、今の日本を支えようとする男たちがいたとして、それを「女としてどう受け止めるか」なんてことは、誰も一ミリも考えないだろう、まして「どう愛するか」など確実に「何それw」だ、女性はさしあたり「男を侮辱して」「自分たちはおしゃれをする」というシンプルな原理で生きているだけであって、僕が驚いているのは、この合意にまさか一部の女性の側が疑義を抱き始めているということだ。

「尊ぶべき男性」は、おそらく女性の手によってことごとく駆除されたが、それが何か女性にとってまずかったか。

ご存じ、毛沢東が雀を駆除したので、害虫が増えて農作はパアになったが、もう駆除してしまったものはどうしようもなかったし、ポルポトが自国の知識人を全部駆除してしまったので、ポルポト自身が医者に掛かりたいときは、もうどうしようもなかった、それと似たような形で、たぶん今になって「男を愛したい」と言われても、すっかり駆除されてしまっているのでどうしようもない/たぶん男の側も、「尊ばれる」などという感覚機能は死滅しているので、今さら言われてもどうしようもないのだ(半笑いor破裂ぐらいしかできない)。
この先、タフな中国人を輸入したりする以外には、「男たちが帰ってきた」というようなマンガ的状況は起こりえないと思うが、やはり問題はこの駆除が「罪」だったかどうかだ、僕は男性なのでそっち側の罪がありうるという説は完全に想定外だった/ちなみに僕は、男の友人が女の悪口を言った場合には、容赦なくゲスの罪があると感じてきたので、ソッコーで襟首を掴んで「口が曲がるぞ、取り消せや」と恫喝してきたのだった、その逆の女バージョンがありうるという可能性は、なぜか僕は一度も考えたことがなかった。

正しく見ないとな | comments(1) |
或る法則(最大限の警報と共に)2

る女性が直観で言うには、「この状況を、女はどう責任取るの?」と、巨大な危機を突きつけられている状況がある、ということだ。
時間がないのであまり説明はできない、ただ僕はその女性の言いように何か捨て置けないものを感じた。
最短距離で言うと、現代の女性は今、「大半の男性を侮辱し」「自分たちはおしゃれをする」ということを当然の日常にしている/そのことが彼女の直観においては、女性たちの「巨大な罪」になっているそうなのだ。
いかにも聞き捨てならないような感触がした/何しろ僕は、口が裂けても「男を愛さない女は罪を背負う」なんて言えない、僕自身が男なのだから、だがもし彼女が直観するように現代の女性が日常的に「巨大な罪」を最大レバレッジでやっているとしたら……逆にいろんなことが整合して怖いのだ、このことは報告しないわけにはいかない。

現代、男性は明らかに劣化して、とてもじゃないが恋愛の対象ではなくなってしまったという、どうしようもない実情があるが、或る見方によっては、「そのとおりだけど、まず女性たちが男性たちをそこまで貶めたの」ということだそうだ、そう言われてみたら確かにそういうことはあるのかもしれない。
もし彼女の言うように、現代の女性たちが、自分たちの手で男性たちを侮辱し、その品質と尊厳を低劣なるまでに貶め、男たちの人生を完璧に無駄なものにさせ、さらにはその苦しむふうを侮辱して悦に入り、一方で自分たちはおしゃれ遊びにフフンと鼻息を荒くするばかりというのが真相だったとしたら、確かにそのことはすでに「巨大な罪」として償却不可能な大きさにまで膨れ上がっているかもしれない/もしそのとおりのことをカミサマが見ていたら、だが。
しかし今さらになって、われわれは金科玉条たる「男女平等」と「レディーファースト」を、もはやわずかも捨てることはできない、たとえ祖母が遺言をもってそれをなだめても、「男女平等」と「レディーファースト」は遺言を踏みにじって優先されるだろう、このことはもはや誰も捨てられないし、僕も捨てるつもりはもちろんない、今さら誰もそこに疑義を抱く権利は残されていない。
正直、僕は女性ではないのでわからないのだ、女性はハッピーではなかったのか?/女性が男性を尊ばず、愛さず、男といえば侮辱するものとして、あとは自分たちでおしゃれを愉しんでいたらいいというのは、女性にとってハッピーなことではなかったのか、それは何かまずいことになるのか? 僕は男性なので、すでに女性にチンカス呼ばわりされることには何の異存も違和感もないのだが、それは当の女性側にとって何かまずいことなのか、そんな話はこれまでに聞いたこともなかった。

僕自身、女に尊ばれようなどということは、とうに99.9%諦めている。

100%にしないのは、単に数学的に否定できないから可能性を残しているだけだし、まれに奇特な人が1000人に1人ぐらいいるかもしれないというだけで、まったくアテにしていない/今さら女性が男性を尊ぶなんて「ムリ」だと、諦めきっているというか、そもそも僕自身はすでにそんなものは「要らない」と決定済みだ、僕はもう十分な中を生きてきたし、僕は男として女の考え方に「干渉」するような悪趣味は持ちたくない、尊ばれているかどうかなんて関心が向くことがそもそもない。
今さら「女は男を尊ぶべし」なんて、問答無用で「サイテー」になるに決まっているだろう、そしてそれ以上に、すでに女性の心身や血肉のレベルで「男性を尊ぶ」なんて機能は死滅しているはずだ、男性を尊ぶ声や眼差しがその身から出てくるわけがない、その声と眼差しは侮辱遊びとおしゃれ遊びにはしゃぐためのものに仕上がっているはずだ/僕はそうして生きる意味がなくなる男同士で「ははは」と笑い合うことはしてきたが、まさかそれが女性側にとってまずいことになる可能性があるとは一ミリも考えてこなかった。

正しく見ないとな | comments(0) |
或る法則(最大限の警報と共に)

大限の警報および慎重さの感覚と共に、僕は以下のことを報告せねばならない/このことを僕のみの知識に隠蔽することは、すでに節度というよりは不誠実さのあらわれとみなされるべきだ。
1.ワイルドカードで示される女性Xは、男性不信あるいは男性に対して侮蔑的である。
2.僕はXに接触し、陽気に積極的にXを構う(なるべく男性不信あるいは人間不信が軟化するようはたらきかける)。
3.Xは僕に親しい情を見せるようになる、同時に、僕に対して「攻撃的」にもなる(理由は不明)。

4.Xは僕に対して「対等」を主張することを思いつき、その主張を声高に示す(理由は不明)。
5.同時に、Xが僕を慕う程度と、同程度に僕もXを慕っているはずだという(精神医学的な意味での)妄想が生じる(理由は不明)。
6.僕はXに対して妄想をなだめ、その修正を求める、Xは状況を理解する。
7.Xの生活がクラッシュする(退学、失業、入院、劇症の頭痛や肌荒れなど)(理由は不明)。

この法則には何かある。

こんなことをレポート風味で言うべきではないという慚愧の念もあるが、これはもう言わないわけにはいかない、統計的に明らかな確実さでこの「法則」があることを報告する/理由はまったくわからないが、この「法則」があるということだけ、さしあたり報告しないわけにはいかない。
僕の知るかぎり、臨床心理学ではこの法則はまったく説明できない/不信→軟化→慕情、ここまでは何の問題もないように見える、しかしなぜかその先に、慕情は攻撃性を伴って、慕情→攻撃→対等→妄想→修正→クラッシュに行き着く、特に「対等」というあたりに非常にシリアスな危険因子の破裂を感じる、何の根拠もないがこのルートで「対等を主張することを思いつき、その主張を声高に示す」まで踏み入ってはならない、ここには何かわけのわからない仕組みがあることを報告しておく。

正しく見ないとな | comments(0) |
我欲支配を認める二派について2
ーニンに、「おいそこのハゲたおっちゃん」と呼びかけたら、レーニンは「なんや」と笑ってくれるだろうか、それともムッとするだろうか。
ムッとするどころか、殺されるんじゃないかという気がする、アホの坂田師匠とは違うのだ。
そうして、自分が「ハゲたおっちゃん」と呼ばれることに激怒するということは、我欲があるということだ、いくら根性で質素な暮らしを貫いてみせても、それで「我欲がない」と言い張ることはできない/ガマンしきったということはそれが「なかった」ということにはならない、単に「スーパーウソをつらぬいた」だけだ。
共産主義的な人々に、「似合いますので、これはあなたのような方に」と純金の腕時計をつけて差し上げて、ほほえみのある若く眉目秀麗な異性を横につけてやったら、必ず心拍数や体内のホルモン分泌量は変わるだろう、それは我欲が「ある」ということだ、我欲を否定して禁じて封印して表面的な露出を断絶したとしても、我欲が「ない」ということにはならない、「ある」からこそ禁じていると言えるだろう、各種状況で血液中のホルモン濃度でも測ってやればいいのだ。

「我欲」があるのだ、さあこれをどうする!!!!! というだけの話にすぎない。
「あるからには、僕はぶんまわす、勝ち組になる!!」「栄光作戦か!! でもどうせ我欲は満たされないけどな!!」「じゃあわたしは、埋め尽くす、ユートピアになる!!」「禁欲作戦か!! でもどうせ我欲は消えないけどな!!」という、ただそれだけのことをわれわれは人類史規模で続けている。
我欲が満たされることは理論上ないし、我欲が消えてなくなることも理論上ない、だから栄光作戦も禁欲作戦も行き着くところは失敗で「ギャアアア」と初めから決まっているのだ、んなこたぁ誰でも少し考えればわかる。
抜け道はただひとつ、我欲以上の何かが見つかるかどうかだ、我欲がなくなることは決してないが、我欲以上のものが見つかれば、我欲を消す必要はなくなる、我欲が支配者じゃなくなればそれを必死こいて消す必要もないし、それをメインコンテンツのように振り回す必要もない。

僕が少女をレイプするとき、少女が或る詩文の意味を尋ねてきたら、僕はレイプの手を止めて解説してしまうだろう。

いかなる状況であれ、僕が詩文の意味を回答できないなどということは、天才としてあってはならないことなので、そのことに比べたら今さら少女と一発ヤることが何やねん、どうでもいい……とはいわんが、まず完璧な回答をしてからドッコイショしないでは話が成り立たん、そうして僕にとって少女レイプはとてもステキだがしょせん二流のステキであって必死でガンバるようなことではない、詩文の読み取りは必死でやれよ。
僕はこれまでに、何度も落とし物の財布を交番に届けているが(目が利くので)、そのたびに中身が何万円入っているかをねっとり確認してから、「うおおお〜」と不満タラタラで交番に届けている、そしてその後は「落とし主は出てくるな、恐竜に踏まれて死んでいてくれ」と念じているものだ、僕は逸失物横領罪の微罪ごときにビビるような者ではないし、拾ったものはネコババしたくて絶頂寸前だが、まあそれは芸術にも愛にも世界にも関係ないのでどうせ二流の絶頂だ/僕に言わせてもらえば、落とし物をネコババする奴はアホだし、交番に届ける奴も同等にアホなのだ、そんなことで人のアホさは変わらん、われわれは別のものが見えているとき以外は誰も一ミリも賢くはない。
視点変えてこ | comments(0) |
我欲支配を認める二派について

は「我欲」を生まれ持っている/我欲がないのは呼吸していない人間だけだ。
「我欲」の取り扱いは二派に分かれる、ひとつは我欲を「ぶんまわし」する派、ひとつは我欲を「ほっかむり」する派。
「ぶんまわし」派は資本主義を形成し、「ほっかむり」派は共産主義を形成した。
ごく一部の例外だけが、第三の派、「我欲に疑問を持つ」派になった、これは資本主義も共産主義も形成せず、ただ学門の徒となっていった。

「ぶんまわし」派は、我欲で堂々と競うことが正義だと信じ、「ほっかむり」派は、我欲を封じ込めることが正義だと信じた。
が、この両者はどちらとも、やがて加齢と共に、自分が信じられなくなっていく/「ぶんまわし」派は我欲を振り回してきた罪と、やがて自分が老いて敗者になる事実に耐えきれず、「ほっかむり」派は、自分が「我欲のないフリ」をしてきたにすぎないことに気づいてその罪と後悔に耐えきれなくなる。
「我欲に疑問を持つ」派は、それをぶんまわすでもなく、ほっかむりするでもなく、そうした我欲があることを自分自身にもまざまざと見て、「これがわれわれを支配している」ということに気づき、同時に「本当にその支配にほころびはないのか?」と疑う。
「我欲に疑問を持つ」派は、学門としてそれを考究し、やがて気づく、「我欲で満たされるも、苦しむも、自分限りでしかない」ということ、それが<<我欲の性質>>だということ、「わたしの我欲」に支配されているのは「この宇宙でわたしだけ」だということ、わたし自身がわたしのこだわりをやめたら、この我欲の支配は瓦解するということ/支配は本当には「性(さが)」ではなくて、あくまで自分の「恣意」だということ。

「ぶんまわし」派も「ほっかむり」派も、「我欲が人間の性(さが)である」という誤解で一致した仲間だ。

学門として考究していくと、それは性(さが)ではなく恣意だということがわかる、我欲がわれわれの恣意なのだとしたら、本当には我欲はわれわれを支配していない、支配ではないならそれをぶんまわす必要もなければほっかむりする必要もない/支配ではないなら、それはわれわれの付録、オマケでしかないのだから、堂々とおもちゃにしていてよい、我欲がない必要はなく、我欲はあってよく、それが支配していないなら、我欲はただのおふざけだ。
ここだけの話、「でもそれが人間の性(さが)ですよ」という言い方は、実は重大な罪(法の謗り)を帯びているので、オススメしない、自分の発言に長い間自分が呪われることになる、言い方は「学の浅いあたしにゃムリです〜」ぐらいにしておくほうがいい。

視点変えてこ | comments(0) |
目の前のJOKER

ペードのA、面倒くさがらせる、こんな言い方には何の意味もない。
ダイヤのA、だがこうして偽装して話す必要があるのだ。
ハートのA、世の中には「偉い人」がいる。
クラブのA、「偉い人」に抱きしめられたら、……だろう? これが最大の禁句。

スペードのK、禁句というのは本当に禁句。
ダイヤのK、禁句といってもまだマシなものだが、それでも破壊力はバツグンだ。
ハートのK、このカードの数字とスートには何の意味もないよ、ただひとつのことをお伝えしたいだけ。
クラブのK、世の中には大きな破綻があるね、今あなたが読んでいるとおり。

JOKER、キモチワルイ

赤のQ、まさにそれが破綻、わかるね、だからこそそれが最大の禁句、ごまかして言うしかない重大なこと。
黒のQ、いつの世の中も、この破綻から逃れられない仕組みがわかるね、この破綻がない世界はたとえ小さな世界でもとても恵まれて幸福なものだ。

視点変えてこ | comments(0) |
この世界を「クソのカタマリ」に感じる原動力3

るほどな、という感じがする。
学門でない学門を脳みそに突っ込まれ、食事でない食事を口腹に突っ込まれ、ワークでないワークを四肢に突っ込まれ、セックスでないセックスを性器に突っ込まれ……と、すべてがそうして侮辱に満ちていたら、現実的に考えればもう復帰は不可能だろう。
家族でない家族を突っ込まれ、友人でない友人を突っ込まれ、恋人でない恋人を突っ込まれ、青春でない青春を突っ込まれ、とすると、それは単なる虚無では済まないのだ、「侮辱」となって怨みの人生をスタートさせてしまう。
一見すると善良で穏やかな人が、一歩踏み込んでみるとすさまじい怨みのカタマリだったということは今どきまったく珍しくないが、そのことはこの構造から起こっている、いくら当人の性格が善良でも臓器や血肉の性質はそれとは異なるのだ/ある意味完全な虚無に生きた人など存在しなくて、虚無イコール「膨大な怨み」と見立てたほうがいい、おっかないことだが知らずに放置するほうがよほどリスクが高いだろう。

リアルな話、女性から見て、「抱きしめたくなる男性」なんてほとんどいないのじゃないか。
男女どちらにおいてもそうだが、若い美貌が性欲や情動を刺激して、変態的に「抱きしめたい」という衝動を起こすことはあっても、ただ安らいだ人の身体として「抱きしめたい」かというと別だ、そんな身体はほとんどこの世に現存せず、あったとしてもとても希少な存在になる。
それが犬や猫の場合、犬は少々インチキな調教を仕込まれることがあったとしても、まあ人間ほどではないので、犬や猫は、その臓器と血肉に「侮辱的強化」を突っ込まれていることがとても少ない、それでおおむね人里に生きている犬や猫は人から見て「抱きしめたい」の対象に入る(向こうが「抱きしめられたい」のかどうかは知らない)。
マガイモノを突っ込まれた全身、その臓器と血肉は、消えない「侮辱」を受けており、当人の感情とは関係なく「怨んで」いる、われわれは今やそんなものだから、うかつに馴れ合って近づくべきではないし、同時にお互いにさらに怨みあうべきでもない、お互いに本来の営みの恢復に協力し合うしかまともな道筋はありえないだろう。

学門のない詰め込み知識は、教育ではなくハラスメントだった。

残念だが、われわれは公的に、少年少女たちに詰め込みハラスメントを行う機関を認め、それを推進していたことになる、ハラスメントを受け続けた人が防衛と怨みの反射感情を持つのは当然であってやむなきことだ。
実際、僕自身が誰かに、学門の話を突っ込んだり、食事をその口腹に突っ込んだり、ワークをその胴体に突っ込んだりするとき、そのことをイヤがる人は一人もいない/おそらく多くの人はすでに、「臓器および血肉」と「正しい営み」が感覚的にわからないのだ、だから表面上は強化になる「詰め込み」を突っ込んで、その後のことは知らんぷりをしているのだろう、こんなことは社会的な問題なので、僕一人がブーブー言っていても解決はされない。

正しく見ないとな | comments(0) |
| 1/176PAGES | >>