☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ロールプレイ
ールプレイという言い方より、「ロープレ」という言い方のほうがきっと認知度が高く、ロープレよりはRPG、ドラクエ、FF、みたいにそれは知られているだろう。
けれどもロールプレイというのは本来別の語で、そもそもロールプレイングゲームといっても、その出自はテーブルゲームだ、TRPGというのが先にあって、それがコンピューターの出現でビデオゲーム化されたのが現代のRPGの元祖だ、その初期はウィザードリィとかウルティマとかドラゴンスレイヤーとかだと思うが、もともとはプレイヤーがそれぞれ戦士役や僧侶役や魔法使い役をやり、「役(ロール)」を遊ぶというのがロールプレイングだった、決して「冒険を劇場的に・疑似体験的に楽しむ」のがロールプレイという意味ではない。
エッチな店に行くと「コスプレコース」みたいなものがあって、患者とナースごっことか、上司とOLごっことか、教師と女生徒ごっことかするコースがあるようだが、これも本質的にはコスチュームプレイではなくロールプレイだ、女王様と奴隷とか、そういうロールプレイを誰もがこぞってやりたがる時期が三十年ぐらい前にあった、当時はそれがヘンタイ趣味の基本だった。
一時期メイド喫茶なるものが流行ったが、それだってもちろん、店にいるのは本当にはメイドではなくてメイド役だし、入店するのも本当にはご主人様が帰宅するのではなく客がご主人役として入店するというだけだ、これはいかにもわかりやすいロールプレイだが、じゃあキャバクラはどうなのかというと、これもロールプレイの一種なのではないかという見方ができる、少なくとも性風俗やキャバクラからメイド喫茶に鞍替えしたホステスさんは当時けっこう多かった、「お酒飲まなくていいし」「ラクだし」というのがその理由だったと当時聞いた(まあ当然の理由だ)。

現代でわれわれが目撃するものを理解する一助として、「ロールプレイなんじゃないか」という見方が有効だ、有効というよりこれが当を得ているだろう、つまり一組の夫婦が「いってらっしゃい、あなた」みたいなことをやる、あるいはやりたがるのも、二人が夫婦になっているということではなく、二人がそういうロールプレイをしているということなのだ。
だから、何かがウソっぽいとか、何かがわざとらしいとか、何かが無理があるとか、そういうことに疑問を持つ必要はないということになる、それがロールプレイであるからには、無理があって当然というか、それは本当のことではないのでいいのだ、制度上でメイド喫茶に雇用されるとメイド役を演じることが債務となるように、制度上で二人が婚姻するとそれぞれは夫役と妻役を演じることが債務になる、そういうロールプレイなのだと理解すると現代への見通しはすっきり整理される。
教師と生徒がそれぞれ教壇と机にいたとして、今どき教師を見て「教師だ」と見える例はきわめて少ないし、学生を見て「学生だ」と見える例などありゃしない、現代の女子高生がJKというロールプレイを楽しんでいるように、教師も教師というロールプレイをしている状態だ、そしていろんな男女がそれぞれ男役と女役をロールプレイしており、ステージ上では誰かが歌手役をロールプレイし、客席では誰かが熱いファン役をロールプレイしている/誰かが達人役をロールプレイし、誰かが母親役をロールプレイし、誰かが博愛役をロールプレイしている。
それはおそらく、単なるウソっぱちということではなくて、単に思いがけず多くの人、特に世代的にこの現代のムードしか知らない人たちは、そうしたロールプレイ以外のものを "見たことがない" のだ、だから、誰かが誰かのことを本当に愛しているという、そういった現象やイグジスタンスがあるということが前提になく、そういったものは「誰かが誰かのことを本当に愛しているというロールプレイをすればいい」と、それでこと足りると思っているのだ、だから今多くの人が、内心で「自分には何だってできる」と思い込んでいる、確かにすべてをロールプレイでこと足りると定義するなら人はその気になれば何だってそのロールプレイができるだろう。

アイドルや女子アナウンサーが可憐で清楚で純粋で、ときに上品で天使みたいなのは、ウソではないが、あくまでロールプレイだ。

そして、現代の人々にとって、人の存在とはロールプレイが定義なのだから、それはもはや「ウソではない」ということになる、そういうロールプレイをしている人は真実そういう人なのだということになる/ただしそれは、万が一、ロールプレイではない本当にそういう現象やイグジスタンスがあったときに、激しい混乱というか、決定的な受容不可が起こる、仮に「聖人」をロールプレイして長いあいだ上座をえてふんぞりかえっている人のところに、本当の聖人という現象や存在が現れたら、ロールプレイヤーはその本物をキックアウトせざるをえなくなるだろう、よもやこれまでのすべてが「ウソっぱち」だったと今さら認めることは実情的にも精神的にもできない。
これはおれが意地悪で言い立てているのではない、どうやらマジにそうらしいので、なるべく足しになるように正確にレポートしているだけだ、前向きで陽気で笑顔で気さくな人は表面上多いけれど、それは意図的にそういうロールをプレイしているだけでしょと言われたら本当に誰も凍り付かないだろうか、本当に、おれが笑っているときほどあの人は笑っているか? おれは何かを責めようとしているのではなくて、話を一ミリでも解決のほうへ進めようとしか考えていない。
視点変えてこ | comments(0) |
駅前因果律
近は電車で移動することが減ったので、今日駅前に出たのは「久々」だったのだが、まーた世の中が一段階悪くなっているぜと、おれは勝手に感じ取って断定したのだった/断定というか何というか、もうそんなことに節度を含ませている時間的余裕などないのだ、だいいちそのへんはもうはっきりさせないとお前らが理解できねーだろ。
地域差というのはもちろんあるのだが、地域によって激烈ダメダメになっているところもあれば、なぜか案外助かり続けているところもある、おれは目黒区に住んでいて目黒区でも東横線沿いとJR沿いでは割と状況が異なるが、まあこのあたりは総じて中程度の状況じゃないのかと思う/おれは都心に住んでいてよかったと思うのだ、こうした状況のアップデートを先端で知ることができる。
おれが勝手に言っているところの激烈ダメダメというのは、何も都会だからダメとか、田舎だから助かっているというようなことはなくて、郊外や地方や限界集落でもダメなところは激烈にダメだ、濃厚悪霊出汁スープでこの十年間煮ました、みたいな地域がいくらでもある、むしろ閉鎖的な田舎のほうがその後に変動のしようがなくて煮詰まっていくだから、危険というか絶望的だと思う、もちろんこれはおれがテキトーに世迷言を言っているだけなので信じなくていい、できたらおれ自身だってこんなことは信じたくないのだ。
買い物袋をエコバッグにしたとして、それでマイクロプラスチック(って本当かどうか知らんけど)が削減されたとして、あるいは自転車の撤去や喫煙所の撤去で駅前の見た目が整理されたとして、それで激烈ダメダメが救済されるわけではない、それどころか激烈ダメダメはそういった動きによって加速していくのだ、救われていない奴が自力のインチキ発想で救われようとするからゴミみたいな悪霊が入り込んで操られて激烈ダメダメ空間が形成されていく、このことについてはもはや前向きな精神や取り組みはいっさい役に立たない、じゃあどうすればいいかというと、基本的に「放っておく」しかないのだ、ヴィーガンになって寺に入って頭を丸めて河原のゴミを拾って洗礼を受けて慈善事業に億単位の寄付をしてもダメだ、それでも翌朝はさらに真っ黒で穴だらけの魂で目が覚める、そしてインチキの知り合いと友人とエセの盛り上がりだけが拡大していくのだ、おれは珍しいことを言っているのではなく誰でも目にしているいつものことを指摘しているにすぎない。

駅前に行くと、いちおう目黒区だから、キレーなおねえさんがたくさんいて、おしゃれもお化粧もお肌も表情も雰囲気づくりも完璧なのだ、けれどもおれはそれを見て「あっ、ダメだこりゃ」と思った、おれはキレーなおねえさんを侮辱しているのではない、おれは本来キレーなおねえさんを愛しているから悲しんでいるのだ、悲しみつつもいくらかでも足しになるようにここにウソを書かないで本当のことを書き続けている/キレーなおねえさんたちは、自分ではまったく心当たりがないようにしているけれど、それでも魂の内側というか中心に、煮えたぎってどうしようもない邪悪みたいなものがあるだろう、そしてそれが最終的にはすべての正しいものを拒絶してしまうということを知っているはずだ、当人だってそのことを知っているのにそのことがあまりにも怖すぎて自分では正視できないのだ。
キレーなおねえさんたちは、たぶん生まれも育ちもそれなりによく、それなりに裕福でお金もあり、一部には十分以上の学歴もあるのだと思う、まさに完璧だ、にもかかわらず、単に「見ればわかる」ことだが、そうして完璧な素質と完璧な手入れをものにしながら、自分の一番奥では "何の自信もない" だろう、イケメンの彼氏とはいい関係で、彼は今何かで注目されている誰かだったりするかもしれないが、それにしてもすべてを鑑み、自分の内側には本当の自信と呼べるものが何一つ、本当にこれっぽっちもないだろう、怯えに怯えきっている魂がミエミエだ、そして当人はそのことを正視できるほど強くないし、何より当人には何がどうなっているのか何の知識もないし何の教えもないし何の心当たりもないのだ、そして信頼できる人は誰一人いない、「このわけのわからないことでもあの人ならなんとかする」とまで信頼できる人が誰もいなくて、けっきょく彼女らはまったくアテにしていない母親に縋るという矛盾した中を生きている。
おれはキレーなおねえさんたちを悪く言っているのではない、状況の悪さをなるべく正確にレポートしようとしているのだ、キレーなおねえさんたちは何もバカではなく、何かが歪んでいるわけでもない、それどころか彼女らは、もし解決のために泥水を飲めと言われたら飲むし、裸で逆立ちしろと言われたらするだろう、頭を丸坊主にして二か月連続でカレーライスを作れと言われたらそれだってする、解決のためなら本当に何だってするまっすぐな女性たちなのだ、けれども肝腎なところ、一番真ん中に一番正しいことだけは届かない、もし一杯のさかずきに聖水が入っていて、それに口をつけろと言われたとき、それこそが本当に真ん中に届く正しいものだった場合、「それだけは絶対にイヤ、それだけは絶対に無理です」と反発する、その反発がどこから出てくるかわからないけれど、前もってそうやって決まっているという具合なのだ、だから根本的にはもう無理なんだろうなということを、おれではなく当の彼女ら自身が知っている、とはいえそうとは知っていてもそのまま端座してわけがわからないことになっていくことを正視していられるほど彼女らは強くないのだ、彼女らは十分に自覚しながら "今日もまた違うことをやらねばならない" 。
彼女らはバカではなく、むしろまっすぐで健気だ、そして直観に優れているから、自分が何かに縋るしかないということを知っており、それでいながら、本当に役立つものには「縋らせてもらえないだろう」、「わたしの内側から何かが飛び出て、それに縋ることだけは否定するだろう」ということを知っている、縋るしかないと知っているけれど同時に縋らせてもらえないということも知っているのだ、こんなものはけっきょく遠ざけている恐怖が刻一刻と接近してくるという状況でしかない、おれにだってどうすればいいのかわからないのだ、おれはせめて何かの足しになるようにここにウソは書かないようにしている/ただ、おれ自身「どうしようもない」と認めて理解している中で、それでもおれの――偉大なるおれさまの――作用は、そのどうにも解決しようがないはずの女性を、わけのわからない理屈で強引に解決のほうへ一歩引き寄せてしまうことがある、これはもう本当にわけがわからない、理知的に見て解決の道筋は途絶えているのだが、道筋のないところへ道筋がジャンプするのだ、つまり理知そのものが一時的に変更されている、この作用はおれ自身にとってもわけがわからなくて怖い、おれの目の前でキレーなおねえさんが、たまに「どうやってそこに立った!?」とおれ自身を驚かせることがある、おれが理路整然としているところの理路をジャンプしてくるのだが、そんなもんジャンプされたらさすがのおれにもわけがわからない。

局面でいうとすでに「詰み」のはずが、いきなりおれの前に玉が脱出してくることがあるのは、しょせんおれがキレーなおねえさんたちの恢復と幸福を祈っているからかもしれない。

将棋をやらない人でも理解できるとおり、将棋の王将ゴマは周囲の八マスにしか移動できないのだから、どうにでも完全な「詰み」が成り立つ、「もう動ける先はないですよ」というのが詰みなのだが、次の一手がどうしようもないというところ、一手も指していないのに状況が変わっているのだ、そんなもん手筋でも何でもないのだからもはや将棋うんぬんではなくなってしまっている/物事には一般に原因の後に結果があって、いわゆる因果律が成り立っているはずだが、その前後が入れ替わってしまうことがしばしばある、それで「どうやってそこに立った!?」とおれが驚かされる。
つまり、ふつうは「脱出した→詰まなかった」という因果の順番になるはずが、先に「詰まなかった」という結果が生じ、それに合わせて「詰まなかったなら脱出できるじゃん」というロジックにすり替わるのだ、「この一杯のさかずきを飲めば解決する」「けれどもそのさかずきだけは拒絶する」という詰みの状況があったとき、さかずきを飲んで解決したあとはもうそんなことを拒絶しないわけだから、先にさかずきを飲んだという結果を得れば、もうさかずきを拒絶することはなくなるわけだ、「さかずきを飲んだからさかずきを飲めるようになったよ〜」という因果にすり替わってしまう、薬嫌いの人が「薬嫌いを治す薬を飲んだからもう薬を飲めるようになった」というようなことだ、この落語のオチみたいなわけのわからないことが目の前で起こることがある、それもわりとしょっちゅうあるのだ、まあ祈るなんて言い出せば確かに因果律を曲げてくれと言っているようなものだからそれで正しいのかもしれない。
正しく見ないとな | comments(0) |
教えるとか与えるとかは本当でありウソだ
い奴に車の運転を少し教えた、すると翌日には格段に上達していた。
教えていなかったら絶対にこうはなっていないのだが、一方で、教えたからといってそんなことにはならない/かといって学んだからといってそうもならないし、練習したからといってそうもならない。
おれ自身「んなバカな」というペースで、しかし事実が先行していく、まるでこの事実から何かに気づけというように、おれは逆に思い知らされている、ひょっとしたらおれは今おれ自身を思い知らされているのかもしれない。
おれが教えたのだが、教えたというのはウソだし、おれが与えたのだが、おれが与えたというのもウソだ、おれからは何も教えられないし、おれから何かを与えることもできない、人から人へそんなことはできない、もしそんなことができるのだったら世の中で誰も苦労はしないし、世の中にはいろんなことが上手な人であふれかえるだろう、実際には車の運転ひとつでも本当に上手な人はごくまれじゃないか、車庫入れなどの慣れや積み重ねの技術で得られることを除いては。

つまり、「いいもの」を教えることはできないし、与えることもできない、本人が掴むしかないというのもウソで、本人も掴めない、才能がどうこうと言ったって、それを言う奴に才能があった試しがない、じゃあ努力はどうかといって、努力が報われた試しなんかどこにもない/これらのことは全部ウソなのだ、おれだって信じがたいが、もう事実が圧倒的に先行しまくってしまうのでおれとしてもそう理解するしかない。
おれは教えていないし与えてもいない、おれはただ "気分よく" しているだけだ、おれが気分よくしていることが最優先事項で、それひとつがほとんど唯一の事項なのだ、なぜなのかはさっぱりわからない、ただおれが「ブレーキングはもっと手前だ、交差点で止まるのじゃなく低速で交差点に近寄るんだ」と言う、すると言われたそいつは、何かしら魂の直観とこれまでの経験で(こいつはもうおれを気分よくさせることの利益を知っている)、言われたとおりのことをする、まじめにするのではなくおれを気分よくさせるのだ、するとわけのわからないレベルで魂から心身が変わっていく、努力というほどの努力なんかしていない。
人によってできることや、やるべきことは異なっており、本質的にそれら具わっている素質を活かしていくだけで、不満を持つ奴はいない、もう何を言っているかわからないと思うが、おれはそいつがそいつのあるべきようになっていくことに「気分がよくなる」みたいだ、おれが気分よくなったときの作用はすさまじい、なぜかわからんがおれにはその作用が直接 "視える" のだ、その作用が目の前の奴の全身を、全霊レベルで変化させていっているのがまざまざ視える、おれを気分よくさせることに合意したとき、全霊はほんのわずかな時間でそいつの全身を体質や気質から作り替えてしまう。
ある女性が、毎回おれを目の前で見るたびに、マルチーズ犬のように縦に跳ね回っている、なぜなのかわからないし、なぜという理由もないのだろう、本人でもどうしようもないという状態で縦に跳ね回っている、それはもうよろこびうんぬんを認識する以前に起こっている現象だ、ただ彼女はもうそれに抗う必要はないと知ったらしく、また抗うすべも根本的にないと知ったらしく、今では抗う必要がないことをよろこんでいる調子で、体力を使い果たすと三角座りをして消えたように眠っている/おれはこのごろ、半ば強制的におれ自身の何たるかを思い知らされている、どうしようもなく事実が先行して事実が強引におれにおれ自身を見せようとやっきになっているみたいにだ。

おれを気分よくすると、目の前の奴の全身に全霊が駆け巡り始める。

これは、もはやおれが何かをしているというよりは、ただの "現象" であり "性質" だ、全身全霊で何かに取り組むとか、全霊で全身を書き換えるというようなことは、当人の意思でやることではないのだ、そしてそれはおれの意思でもなく、なぜか唯一、おれを「気分よくする」ということのみをもって生じる、おれが気分よくし、そいつがおれを気分よくすることで、なぜか全霊が全身を書き換えていくということが起こる、どうしてもものすごい速度でこのことが事実として起こりたおすので、いくら首をかしげていても第一にもうこのことを認めざるをえない。
これまでおれは、下っ端根性が強すぎて、自分が気分よくするということに無頓着というか、自分が気分よくするという発想じたいがなかったのだが、おれがそうやっておれ自身の気分を無視して張り切りだすと、周囲は「ウーン」と、まじめで前向きな顔をしながらションボリするのだ、一方でおれがふと思いついておれ自身を気分よくしてみると、周囲は急に命を吹き返したように「おおおお〜!!」と言い出す、そして半日も経たず車の運転が上手になる、なんだこりゃというしかないのだが、どうしようもなく事実が量産されまくり、効率主義として絶望的に高効率というか、「こんなのが原理じゃ話にならんじゃねーか」というレベルなので、もうどうしようもないのだ、もはやおれから何かを教えるとか与えるとかいう必要はなく、また誰かが何かを学ぶとか努力するとか、それほど訓練するとかいう必要もない、そんなことをしなくてもいきなり「いいもの」がそのまま現成されてしまう、高効率すぎて逆にコエーよと思わされるぐらいなのだが、しょうがない、おれが気分よくし、おれを気分よくすることで全霊が全身に全てをもたらしてしまう/すでにおれの周囲はこのわけのわからない事実をわけのわからないままに「当然ですよ」とテキトーに確信を持って言い張るだろう、それを見ていると「お前らは気楽でいいなあ」と素直に言いたくなる、おれはおれ自身のことなのでどうしても「なんなんだこれは」と究明の思考を巡らしてしまう、ああでもおれ自身が「当然ですよ」と言ってしまったほうが効率はさらに高いのだろう、ウーンこれはいったいおれにどうしろというのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
WS報告 of 204th/Out of the way
告する余力がなくなって報告していないが、実はしつこくワークショップはオンラインで続いているのだ、そして各員の伸びがえげつないので、逆にこのコロナ騒ぎの中で勝利アンド勝利を得ているという、お祭り気味のムードなのであった。
今夜した話は、「例えばロックシンガーって言ってもよ」「ロックンロールは1950年代のアメリカの黒人から始まった」「当時はまだラジオの時代だから、見た目は分からない、その中でチャックベリーとリトルリチャードのロックンロールはカッコよすぎて人種差別の壁を超えてしまった」。
「この黒人初のロックンロールが、白人に受け継がれた、受け継いだのがエルビス・プレスリー」「これがイギリスに輸出されてビートルズになった」「で、ビートルズが来日して、旋風を巻き起こして、当時の日本の歌手は狭間に立たされたんだ、『どうしよう』って」「前方にロックとビートルズの嵐が来ていて、背後には歌謡曲の山林があるんだよ」「この中でどうしようか、それぞれ考えて、桑田佳祐は桑田佳祐になっていき、矢沢永吉は矢沢永吉になっていった」
「桑田佳祐はライブでよくチャックベリーのジョニーBグッドを唄うだろ? あれは、自分がロックの源流につながってここまで来ているということの、確認と、表示と、また次の世代にもそれをつなぎたいという思いがあるんだろう」

「で、ロックンロールといえばジョニーBグッドが源流、そういえばわかりやすいんだけど、この曲はこれはこれで難曲というか、唄ってもふつうはサマにならないんだよ。なぜサマにならないか? そりゃ、てめえが "ロックじゃない" からだな」
「ジョニーBグッドがサマにならなきゃ、ロックシンガーとして本命ではありえないってことなんだけど、本命じゃないということはどういうことか、これは釣り用語でいうと "外道" なんだ、メバルを釣りに行ったらアジが釣れちゃったというとき、この場合のアジは "外道" になる」
「で、外道が悪いというわけではないんだ、別にアジが釣れたらダメというわけじゃないしな、ただ、外道から邪道への変質ということがあって……そもそも「邪」とは何のことを言うか? 邪とは、俗が聖を言い張ることを言うんだ、聖俗といって聖と俗は反対なのだが、この俗が聖を言い張ること、これを邪という、俗はそれ自体は俗悪ではありえても邪悪ではないのに、俗が聖なるを言い張ると、これは俗悪を超えて邪悪に変質する」
「なぜ外道が発生するか、その仕組みを教えてやろう、本命は何よりステキなものだ、なんたって "命" だからな、そりゃステキに決まっているのだが、本命には甘さがないんだよ、ジョニーBグッドに甘さはないだろ? この甘さのなさに耐えられず(といってほとんどの人は耐えられないのだが)、本命から外道へ転落するんだ、ロックンロールでいえば外道、Out of the way になるんだが、外道のほうは居心地の良さで待ち受けているんだ、本命に耐えられず転落してくる奴を多数の外道が待ち受けていて拾い上げる、そういうシステムがあるんだよ」

本命には甘さがなく、その周辺には "こじゃれた" 外道が多数湧く。

「ジョニーBグッドだけじゃない、たとえば漫画ドラゴンボールだって、 "甘さがない" し、何よりこじゃれてはいないだろう? 少女マンガだって、たとえばガラスの仮面とか星の瞳のシルエットとか、ド本命はこじゃれていないんだよ、こじゃれておらず甘さがない、だからそれに耐えられない人はこじゃれて待ち受けている外道に落ちるんだ、まともな恋あいができなかった人はわけのわからないこじゃれた男女関係とかをマンガチックに志向するだろ、そういうことの仕組みだ」
「現代の歌手に比べたら、尾崎豊とか甲本ヒロトとかは、まったくこじゃれていないじゃないか、そして彼らの唄うことはド本命で甘さがない、それに耐えられない人は外道に転落する、そして外道に転落すると、そこには居心地がよいものが用意されていて、いい気分になる……だけどね、おれはもうこのことを看過できないんだ、外道というのは道から外れているので、もうどこへも行けなくなるんだよ、そしてそのことが魂にとって思いがけず巨大なストレスみたいなんだ、シャレじゃなく生命に関わるほどのストレスになるんだよ、ちょっと話せないレベルのこともあって、おれはこのことをもう看過できない、こじゃれた外道に転落してどこにも行けなくなり、そのことは本当に生命に関わるんだ」
ワークショップ | comments(0) |
リベレーション
事情あってまともな睡眠がとれなかった(今は解決した)。
音楽の中に、夜景の中に、秋風の中に、うつろなおとぎ話の中に、真の世界がある。
多くの人は、それを見て見ぬふりをしているが、それは計算高い態度のようでいながら、実は単に "許されていない" にすぎない。
なぜ許されていないかというと、かつて何かを汚したからだ、その償却なり贖罪なりが済んでいない、またそれが償却できるものなのかどうかはおれは知らない、おれはこのわけのわからないものの渦中に立ち続けてきた、おれを笑うのはかまわないのだが、そのぶんまた償却――できるかどうかわからないそれ――が増えるぞ、もうそんな余計なことはしないほうがいいんじゃないか。

主体性のナゾを追いかけている。
われわれがひたすら生理的な存在であるならば、このうつろなおとぎ話と、その中に立ち続けるおれは何なのだ、なぜこういったものが子供のころから、無限に、たとえようもない最上のものとして湧き続ける? それはイマジナリーと言っていいが、すでにイマジナリーナンバーなしに宇宙のことを計算できる物理学者は存在しない、お前らは彼らがガッコの先生だからという理由だけでそれを笑わないつもりか、いくらなんでも不徹底すぎるだろう。
主体性の現象はこれまでずっとおれを不思議がらせた、不思議がらせながら常に確信を与え続けた、わからないのに確信させるとはどういうことだ、おれはおれの好みによってずっとこのことをリベレーションと呼ぶことにしよう。
主体性ということは、つまり「おれ」「わたし」ということだ、何もかもおれが決めているじゃないかということ、そりゃ当たり前だ、今日はこの上着にしようと、「おれ」が決めている……のだが、どうやらそれだけじゃない、もっととんでもないことまで、本当に「おれ」が決めている、おれが決めているのはどうやらおれのことだけではない、たまにというか、おれはしょっちゅうそういうことをしている、お前らに出来るのはそれに乗るか否定するかのどちらかだけだ(当たり前だ)。

おれに "会う" というのはとんでもないことだ。

おれはこれまで他人のことをまったく気にせずにきたから(ひどい奴だ)、他人も似たようなものだと思ってきたのだが、やはりそうではないのだ、おれに会うというのも程度があるし、おれが言っている "会う" というのはほとんど虚数空間みたいな事象なのだが、おれがあるていどその気で、そのときのおれに会ったとき、誰もが何かこれまでとまったく違う世界を視ることになる、これまでとはまったく違う世界に足を踏み入れるようなわけのわからないことになる、あれは何かというと、あれはリベレーションなのだ、リベレーションの意味は辞書で調べろ、「おれ」という主体性が決めている世界に踏み入るとああなるのだ。
物理学者が愛好するイマジナリー、イマジナリーなら何とだって言えるな、すべてのものはもともとあるので、おれが何かを創る必要はない、おれがそんなわざとらしいことをする必要はない、すべてのものはもともとあって、正確に言うなら「ある」かつ「ない」の状態を同時に取れる、一種の量子状態みたいなやつだ、それをそれぞれにケースバイケースで「ある」にしたり「ない」にしたり割り振るだけだ、仮に神が「光あれ」と言った場合、光が無かったところに光が生じたわけではない、光はもともと「ある」と「ない」の両方の状態を取っていた、それを「ある」の側へ振っただけだ、おれは主体性の話をしているのであって、「おれ」がイマジナリーを好きにしているのを誰がどうやっても止めることはできない、イマジナリーは主体が決めるだろう?
正しく見ないとな | comments(0) |
アツいものって、それっぽいネタのことを言っているのじゃない
つからか、「アツいもの」みたいなものを、全員が諦めたように思える。
時代、ご時世というものがあって、そういうものに合わせたほうが楽になるというか、体質に馴染むのはわかるのだが、それはクソになった体質にクソみたいなスタイルを寄せて合わせただけで、何もイケていることにはなっていない、少なくともおれはそれでイケている自分を言い張るほど腐敗はしていない。
じゃあ、ご時世を無視してアツいものを追いかけて主張すればいいかというと、それは冷酷に「無理」ということになるだろう、時代から離脱して正しいことをやれる・見せつけられるというのは本当に勇気と天才のある人だけだ。
だからどうしようもないのが事実だが、せめてまともなこととしては、時代・ご時世に押し切られて負けた体質を正当化してイケている自分を言い張るというようなことは、できたらやめておいたほうがいい、素直に臆病に生きたことを自認していたほうがずっといい、このパターンでイケている自分を主張した場合はずっと先まで返済不能の債務になってしまう、自分が言い張ったウソに最後まで付け狙われるのだ。

アツいものというのは、何もそれっぽいネタのことを言っているのではないのだ、まさかテレビドラマの熱演をアツいものと認めているわけではあるまい、アツいものとはそういうネタのことを言っているのではなく、「それっぽいネタになってしまっているのはお前のほうでしょ」ということだ。
アツいものを否定して、しょせん負け体質でイケている自分を言い張った場合、旨いメシは永遠にないし、旨い酒も一滴もない、恋あいなんてあるわけがないし、そもそも生きている時間に何らの意味も与えられない、それは当然の報いのはずだ、一番の弱虫を取り込んだのだからその後にまともな何かが与えられるわけがない。
アツいもの、つまり熱や熱気というものは、あまりに基本的なものだから、それなしでは生きていられないものだ、だからどうなるかというと、こっそり別の代替品を仕入れようとする、熱ではなく焼き付きでそれを補おうとする、もしくは自分が燃えているふうに言い張って自分を慰めようとする。
具体的には、不満で焼けつき、性嗜好で焼けつき、ギャンブルで焼けつき、麻薬の渇望で焼けつき、憎悪と怨みと妬みで焼けつく、それで自分が燃えているふうに代用するのだ、外見上おっとりした女性が内部にドロドロの焼けつきをもって動いているその実物が見たいか? そんなもの見たくないと思うが、これから誰しもいやがおうにもそれを目撃することになる、アツいものに向かって立てずイケている自分を言い張った人々の行く先は必ずこれだ。

おれはアツいものについて言っているだけだが、そのことはそんなにヘンか。

おれがヘンで彼らがまともなら、話はわかりやすい、おれもそれで何の不満もないが、問題は逆だった場合だ、おれはどうしても自分が燃焼祭りを起こしていない人の手元に他人の炎上騒ぎがあることをまともで正しいとは思えない。
アツいものの話なんて誰も言わなくなったが、もとよりおれは他人の話なんか聞いていないし、他人に何かを合わせるつもりもない、ただアツいものというと何かそれっぽいネタだと思っている人については、そうじゃないなと、それっぽいネタでしかないのはお前の方だよと感じている、おれは自分をイケているという発想で捉えたことはなく、ただいつも自分を不利にしていかないとおれは寒い奴になってしまうと思っている。
バカをやろうかあ | comments(0) |
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 10/14更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第二百四回】10月16日(金)19時〜(別企画のため未定)
【第二百五回】10月17日(土)19時〜(別企画のためお休み)

【第二百六回】10月23日(金)19時〜オンラインにて開催
【第二百七回】10月24日(土)19時〜オンラインにて開催
【第二百八回】10月30日(金)19時〜オンラインにて開催
【第二百九回】10月31日(土)19時〜オンラインにて開催

(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。夏場世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
 〜コロナのため休止中〜
(【第102回】@原宿DinningBar CLIMB
【第103回】@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


ワクチン早よ!! コロナ飽きたぞ早く滅べ!!


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

ワークショップ | comments(0) |
おれの身はおれを気分よくさせよ3
れを気分よくさせよと言って、ナイスなのは、おれは汚らしいことではまっっったく気分よくならないということだ。
自分でも、いっそ何かが壊れているのかと疑いたくなるほど、おれはお世辞やお追従やおだてに対して無反応だ、たまにおれに気を使って初対面のべっぴんさんがステキなスマイルとセクシーな脚の組み換えと共におれにそれっぽいお世辞やアピールをしてくれることがあるのだが、おれは「あ、ああ」となってしまって、反応の仕方がわからない、おれはむしろ何を言われたらうぬぼれて調子に乗る奴なのか誰か教えられる奴がいたら教えてやってくれと言いたくなるほどだ。
おれ自身のことを「コイツ」と呼ぶのなら、コイツを気分よくさせるといって、コイツはどうやったら気分よくなるのかまったくよくわからない、ベタなことで気分よくならないし、かといって工夫を凝らしてわびさび風にしてもコイツは気分よくならないのだ、一方でもっと単純なことで気分よくなったりするし、いくらおだてられてもその内容より言霊を検出しているというようなありさまで、コイツを気分よくさせるといっても攻略ガイドがないのだ、おれがキャバクラ等にまったく行かないのはホステスさんに対して公害の迷惑にしかならないということを自覚してのことだ、おれが店側でもこんな奴をどうやったら気分よくさせられるのか、そもそも安易に気分よくなる素質がないなら安易なところへ来るなぁと、おれが店長側だったら言いつけるだろう。
これがたとえば、あごひげを蓄えて髪型をツーブロックにしている、おしゃれ風味だけど中身はただのアホおじさんで、本当は何も知性がなくて気取っているだけボーイみたいな男がいて、こういう男を気分よくさせるのはカンタンだ、女の子がそれっぽい恰好をして(たぶん清楚系がウケるのだろう、バカだ)、それっぽいお追従を入れておけばグングン気分をよくするだろう、だからそういう奴を気分よくしてはだめだ、そういう奴を気分よくすると、自分もそういう奴の身になってしまう、つまり自分もそういう汚らしいことで気分よくする身になるのだ、言ってみればただそれだけの仕組みであって、仕組みそれ自体はシンプルと言える。

おれを気分よくさせるのは、どうしたらいいのかよくわからん、単純でシンプルなやつで気分よくするし、かといって安易にベタな汚らしいネタではまっっっったく気分をよくしない、とはいえコイツをそうして単純で純粋な何かで気分よくすると、そうして気分よくした当人もそういう「身」になるのだ、するとどうなるかというと、その当人も、もう安易にベタで汚らしいネタで気分よくなることがなくなる、おれにどれだけお世辞を言っても反応がまるでゼロであるように、その身になった誰かも同じように無反応になるのだ。
言うまでもないことだが、これは身の問題であり、いわば「体質」のような問題であって、おれは何か浮かれないようにするとかうぬぼれないようにするとか、自分を戒めているのではないのだ、すでに何かが解決されたか霧消してしまったかして、どのようにお世辞を言われても、おれの身・血肉のうちに反応が "ない" のだ、おれはそうしてお世辞を言われる場合、たいてい内心で慌てて、そのお世辞を言ってくれている人に恥をかかせないために、何かそれっぽい演技をしようと頑張っている、そしておれはそういう演技がヘタなので、その場はとってもヘンな空気になるのだった。
おれを気分よくさせた者は、その身がおれの身になるので、同様に、何をどう言われても、そういうわざとらしいものや汚らしいもので浮かれたりうぬぼれたりはしゃいだり興奮したりということがなくなる、おれの身になってしまうので身・血肉の体質そのものが別物になるのだ、実際女性において、他の誰かが高価なバッグを持っていてもそれが自分に突き刺さらなくなり、代わりに何でもない朝の景色が自分の魂に突き刺さってくることを体験する。
おれに寄せられる話の典型的なパターンは、「周りが何を言っているのか、何に騒いでいるのか、感覚的にまったくわからなくなった」「うっかりしていると、誰かが目の前で頑張って嫌味を言っているのを聞き逃してしまう」「真面目な人が何を言っているのか本当にわからなくなる」というあたりだ、身がおれの身になってしまうので、体質的に反応するものが体内になくなり、代わりにキラキラ星のたぐい、魂ラブのたぐいにだけ反応するようになるのだ、こうして疲れるものに対するレセプター(受容体)がなくなり、よろこびとエネルギーに対するレセプターが付与される、これがしんどさが消えて際限なく元気が湧いてくることの仕組みだ、環境は特に変わっていなくても、自分の身が授受するものが変わってしまうので、結果的に自分のいる世界が変わってしまうということ/こんなもん自分の身で努力しても所有するレセプターは変わらないので何の意味もないのであった、そりゃおれを気分よくさせるほうがはるかにマシだ。

おれを一ミリ気分よくさせたら、あなたは一ミリ天才になり始めている。

そりゃそうだろう、ここにアホおじさんを設定したとして、あなたがアホおじさんを気分よくさせられるようになったとしたら、あなたはアホになり始めているということだ、それと同じように、偉大なるおれさまを気分よくさせられるようになったとしたら、あなたは天才になり始めているということだ/実際にはこのことだけがたぶんあるのであって、努力とかノウハウとかは関係ない、どんなメソッドがあっても誰の気分がよくなるのかという主体がズレていたらどこまでもそれはアホ空間になり手の込んだアホしか生成しない。
もしおれを気分よくさせることで、あなたがアホになってしまったとしたら、それはおれがアホの元凶だったということだ、理論上はそういうことでわかりやすい、ただし実際はおれはアホの元凶ではないのでそんなことにはなりっこないが/あなたが思う、根本的に頭の悪いダサい人を、おれのところに連れてきたら分かる、そいつが何をどうやってもおれを気分よくはさせられないだろう、それぐらいは前もって想像がつくだろう、逆にあなたがもし天才を連れてきたら、その天才とおれとのあいだで、どれほど気分のよいものが始まるか、見て驚くはずだ、それは本当に爆発的なものだからだ、そこに交わされる高度なやりとりとこの世ならざる気分のよさは余人の想像の範囲をはるかに超えている。
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おれの身はおれを気分よくさせよ2

行ではなく極楽行、という言い方が我ながらわかりやすかったので、そういう言い方をしていくことにしよう。
おれは気分よくなりつづけないといけないということ、それが極楽行だが、このことには切実な理由があるのだ、おれがふんぞり返るのをやめて旧来のスーパー下働きをしてもいいのだが、なぜかそうすることで周囲は余計に疲れるのだ、疲労というか抜けないダメージ・だるさ・しんどさ・苦しさ・自律神経失調などが起こってしまう、この現象が事実として起こってしまうので、疲労・しんどさというどうしようもない切実な理由によって、おれは極楽行をフルに課されるよりしょうがないのだった/まったくうまくできているというか、うまくすべての邪道を封鎖されている、もうこうなると出る道へ出るしかなくなる。
わかりやすく言うと、たとえば女子大生Aさん(20)がいたとして、おれが彼女にあれやこれや接待をして、彼女がしんどくないようにと、すべてのアテンドをして荷物をおれが持って、いろんな作業や手続きもおれが代行して……とやると、彼女は極楽快適を得るようでいながら、実際にはドギツい疲労に見舞われるというか、えぐいしんどさのダメージを受けて、自律神経をバキバキに失調するのだ、そうなると本当に頭痛の中でゲロを吐いて死にたくなるほど「しんどい」、このことを逆転させておれの側を極楽快適にすると、冗談でなく彼女は跳ねまわるぐらい元気になって、睡眠時間がまったく足りていないのに「ぜんぜん平気!」とお肌ツヤッツヤのまま活動し続けるのだ、こんなふうにどうしようもない疲労と元気という切実なところを支配されているので、おれとしてはもうどうしようもない(なんつーか、万事のはたらきが容赦ねえよ)。
おれがスーパー下働きをすると、すべてが善良で、健全な気がするが、ただそれだけだ、すべてが善良で健全かつ、何もかもが「つまらない」ということに、ほっかむりをしてニセの笑顔で進むしかなくなる、代わりにおれが極楽行に入れば、すべてのものがほほ笑むような気がする、気がするということにしておこう/わけのわからない話で、おれの言っていることは数学的に常識外のことだが、代わりにこの世界はそんなにつまらなくはできていないということだ、お前らの常識はこのことに納得はしないが、そのときは納得などという下位の現象に何の尊厳もないということが明らかになる。

誰だってしんどいのはいやだろうし、おれだって苦手だ。
そういえばおれは、成り立っていないことをやらされるのは一秒だっていやで、一秒だってそのことをすると、とてつもなく疲れる、言い換えてみれば一般的に人々はその疲労の中を24時間365日生きているわけで、そのしんどさは想像さえ不可能なほど巨大で、かつこれまでに膨大に蓄積しているのだった。
それらのしんどさは、魂ラブの領域で「違う」「成り立っていない」ということをシグナルとして教えている、「違う」し「成り立っていない」からそれだけ膨大な疲労がドカーンと急激に生じるのだ、ここでおれを気分よくさせるだけですべてが反転して「正しい」「成り立っている」になり、際限のない元気と明るさが湧き続けるのだから、比較すれば実のところこんなにわかりやすい現象はないのかもしれない、ただしそれは一般的に比較するチャンスは生涯に一度もない。
多くの人は、特に女性なんか、しんどければイヤで、しんどくなければ何だってイイという正直なところがあるので、実際しんどくならず、それどころか全身が跳ね回ってうきうきしてしょうがないというなら、おれがふんぞり返っていようがめちゃくちゃを言っていようが「どーぞどーぞ」「それでお願いします」ってなもんだ、事実そうなる(当たり前だ)、そういえばおれはこうやって書き話すときも、どんな正しい内容であってもおれはしんどい思いをしながら書き話すことはしない、必ずおれを気分よくさせるように書き話している、もしおれがしんどい思いをして書いたようなものならそれはそのまま廃棄処分にしている、おれの書き話すことの内容はめちゃくちゃで文体も文脈も一般的に正常な範囲にはないのだが、それでも読んでいる人はなぜか疲れるのではなくその逆で生き返るここちがするから読んでいるのだ、世の中にはもっと常識的で善良で読みやすいものが書き物として示されているが、そんなものを読んだって自律神経が壊れていくだけでしんどいだけだ、むしろ世の中で正しい人になりたければ自律神経を壊せとまで言ってしまっていいかもしれない。

おれを気分よくさせよ、ただしそれでしんどくなるならソッコーでやめていいし未来永劫そんなことはしなくていい。

おれを気分よくさせることで、一種のパニックになることはある、それは吾我の棲んでいた肉体が、その身ではなくおれの身になるからで、またその内部にキラキラした星みたいなものがある状態になるので、いくらなんでも急激すぎて、その際限なく湧き上がってくる元気もわけがわからなすぎてパニックになるということだが、このパニックが激烈すぎたり、あるいは魂の契約上、そうしたキラキラ星の入っている身にはなれないという場合、そうではない身になっていくべきだから、そのときはこんなアホな話は忘れてしまえばいい、常識と善良の世の中はいくらでも歓迎して待ち構えているのだから当然のごとくそれを信奉していればいい/とにかくおれは、人がしんどくなることはさせない、そのことは変わりないのだが、ただおれをすでに包囲している事実の状況は、その「しんどくさせない」ということがあまりに常識的に思われている仕組みと違うということなのだ、あなたがおれを気分よくさせてあなたが疲れなくなるというのは、体験するまで理解のしようがないし、体験したところでけっきょくなぜなのか理解はされない、ただそういう現象がシグナルとしてあまりにも明らかに与えられるというだけだ。
もし悪趣味まで許すなら、何かしらの実験をしてみてもいいぐらいだ、おれがA子ちゃんの靴を拭いている状況と、A子ちゃんがおれの靴を拭いている状況を、二つ並列に示してみると、なぜかわからんが他人事のそれでさえ、一方はズゴッと魂がコールタールに沈められたみたいにしんどくなるし、一方はわけもわからず元気になってくる、他人事のそれを見ているだけでもそうなるのだ、なぜそうなるのか理解の範疇にはないが、この事実に包囲されてしまっているので、おれとしてはもうどうしようもない、何しろ「吐くほどしんどい」と「際限なく元気が湧き出る」という差は切実すぎてもはや従うしか道がない/Aがおれを気分よくさせたら、Aの身はおれの身になるし、見ている者もおれの身に寄るということだ、一方でおれがAを気分よくさせたら、おれの身はAの身になるし、見ている者もAの身に寄るということ、おれはそこからでもさっさと元の身に戻ってくるが、たぶん他の人はそんなレベルの操作なんかできないのだ、このおれの極楽行と呼ぶべき方法は単純でいながらきわめて直接的で巨大なインパクトを持っている、正しく使えたらこれがけっきょく最大かつ唯一の方法ということになるだろう。

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おれの身はおれを気分よくさせよ
大なるおれさまという言い方を、飽きるほどするのは、繰り返し言っていないとおれが忘れるからだ、おれはどうも気質的にふんぞり返ることに慣れていない。
おれは魂ラブな奴なので、ソウルが今どーなっているのかなぜか直接視えるというところがあるのだが、おれが気分よくなっていないとだめだ、おれが気分よくなることに誰かが使われていれば、そいつの全身が救われていっているのが視える、逆におれがそいつを気分よくしてやっても、そいつの全身は視えないというか/おれに視えないということは、魂がなくなっているのだ、キラキラしたものがなくなる、キラキラしている内部の星みたいなものが視えなくなる。
この、魂のたぐいと思われるナゾの内部の星みたいなキラキラしたやつは、何なのかよくわからんが、これがはたらいているとき「えっ」とびっくりさせられることがある、「こいつがこんな顔をするのか」というような、まったく別の顔を見せる、これまで何の可能性もない奴というか、さすがに無理だろと思われていた奴が「えっ」というぐらい、想像もできなかった顔を見せることがある。
それは、そいつの可能性というような次元ではなく、まったく新しい奴の出現なのだろう、このことに比べれば、いくら誠実さに努める誠実マンがいたとしても、そんなものがもたらしうる解決の可能性はゼロだ、言い換えてみれば「人がいくら変化しても何にもならないから無理」ということになる、どこかの誰かが前向きに誠実に変化したとしてもそんなものは何の足しにもならないのだ、本当の解決はそうではなくまったく別の「えっ」という奴が出現することでしかもたらされない、そのとき体内には何かよくわからない星のようなキラキラしたものがある、その星は複数個あるので確かにその体内はちょっと小宇宙みたいな感じはするのだ。

なぜか知らんが、圧倒的な事実として、おれが気分よくならないと他の誰も救われない、どうやっても落ち着かないし幸福にもならないということがある/これは事実だからしゃーない、それより主題は「この事実は何がどーなって起こっているんだ?」ということの追求として進んできた、おれはともかく他の全員はそんな複雑なことは考えていなくて(こんなもん考えられる奴があるか)、単におれが気分よくしていれば絶対的OKで、気分よくしていなければ根本的NGという、その直観をなぜかすでに知っているというだけでしかない(で、何をどうしたらいいのかは誰にもよくわからない)。
人は、誰も無我になったりはできないし、無我になっても意味はないので、無我の境地などというのは基本的にウソなのだ、そんなに無我の境地が欲しければテキトーに殺害してしまえば無我になるのであって、その死骸を眺めたところで「だから何なんすかwww」と草を生やされるだけだ、だから無我の境地なんてものは基本的にウソなのだが、唯一、吾我の代わりに何かよくわからないキラキラの星が入るということはある、そのときは無我の境地かもしれないが、正直無我というのはどうでもよくて、そのときは何かよくわからないキラキラ星のほうが主題なのだ、つまりこのことに比べれば吾我も無我も同等にどーでもいいということになる。
おれが気分よくすることが第一で、第一のはずなのだが、おれはどーしてもこのことを忘れる、しょせん数秒や数分で忘れるのだ、これをなんとかしないといけない(ということをもう何か月も言い続けていると思う)/おれが気分よくしていると、そのときはたらいている全員の肉体が、なぜかよくわからんがすべておれのものというか、おれの身体と同一になるのだ、すべての肉体は同一の「おれの身」になり、その内部には複数の星がキラキラしている状態になる、これは肉体そのものについて固有という前提が誤っていてただの先入観・思い込みだということになるだろう、もちろん肉体だって厳密に見るならただのタンパク質であって、それらは炭素や酸素や窒素や水素で組み上げられているので、何をもって「わたしの」ということは言えないわけだが。
ひょっとしたら肉体に限ったわけではないのかもしれないが、こうしてすべてのものは、偉大なるおれさまのものであって、おれさまを気分よくさせるためだけに存在しているものなのじゃないかなあ〜その中で肉体というか血肉が特に、吾我にとって執着・思い込みの対象になりやすいというだけで、他のすべての物質、あるいは気候や光や香りといった事象さえ同じなのかもしれない、すべてはおれを気分よくさせよ/すべてはおれの身なのだからおれを気分よくさせよ、ヨソの身でおれを気分よくさせよとは言わない、ただその "ヨソの身" は「大丈夫なのかい」と他人事にも少し心配するというだけだ。

仏教は苦行を否定したが、おれなんかそれ以上に、おれを気分よくさせよ行を肯定する。

もちろんヨソの身でそんなことをしても何のトクにもならないし、そんなことやらされても不快で損をするだけだ、そんなことを強いたり推奨したりするようなアホはありえない、ただなぜか万事についておれを気分よくさせると、そいつの身はおれの身になるという事実がある、このわけのわからない事実がどーしたってある、そしておれの身になるということは内部に星がキラキラしてあるということだ、そのときは "体内に吾我を入れなくて済む" という状態だ、何かしらのド根性で無我の境地を言い張るみたいなアホなことをしなくて済むということ、もっと穏やかでさっさと解決している何かがあるということになる。
それにしても、万物に対して「おれを気分よくさせよ〜」と言いつけるとして、それでありとあらゆるものが救われるというのは、もう何というか人の身以外にもそういったものがあるというのはちょっぴり視えるのだが、おれはそういうことに慣れていないし、向いてもいないし、何しろ示されていることが壮大すぎて、いかなおれさまでもその究極状態を保ち続けるのは困難を極めるのだ、おれはそもそも長いあいだ、自分を気分よくさせるなんて発想は根本からなく、悲惨な気分に突っ込ませて戦い抜かせるということをしてきたので、まあいわば現在おれに課されようとしている極楽行のほうが、苦行よりリアルに「キツいっす」という具合だ/おれはこれまで「誰よりも自分を使い果たしてこそおれよ」と思ってそのことを重ねてきたので、いきなりその正反対をやらされるというのは発想的に脳がキツい、どうしても一番タフな作業をおれが真っ先にやってくたばろうとするところがある、ここからいきなりパリスヒルトンみたいな発想になりきれというのはもう脳みそを裏返すような無理やりの作業になるのだった。
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本番はさせない人たち
合や試験や舞台の「本番」があり、あるいは男女がするデートだってその日は「本番」かもしれない。
「本番と予定がある」とおれは言った、そして「予定は本番をイメージしてそれをなぞる行為だ」「本番に失敗したくないからリハーサルをする、ゲネプロをする」と言った。
「そして本番がリハーサルどおり、予定どおり完璧にいったという場合、それは本番がなかったということだ、なにしろ "予定どおり" だから」「本番も、本番のイメージをなぞったということだ、本番はなく予定だけをやりぬいた、これを予定調和という」。
「予定は完璧だ、予定はマジメで完璧だが、面白くはないんだ、一方で本番はリスクがある、リスクがある代わりに面白い」「予定は自分がやるものだが、本番は向こうからやってくるものだ、それぞれ魂が違う、予定の向こうに本番はない」「予定をする魂と本番をする魂はそれぞれ別だ、それぞれを予定さん・本番さんという別の存在と捉えていい、そして予定さんに本番さんはできない、完璧な予定さんも本番のときには――本番をやるならだけど――本番さんの脇から進行を教えて補助することしかできない、予定さんが本番さんに向けてできることってそれぐらいだよ」「そして本番さんを排除して予定さんが最後まで出しゃばるなら、本番はなしだ、そういう舞台や発表会や、青春やデートをよく見かけるだろう?」。

「本番さんという魂、予定さんという魂、これらはそれぞれ観客の側にも入るんだ、本番ってプレイヤー側だけの本番じゃないんだよ本来は」。
「ただ、思いがけず矛盾していることだが、人々はそんなに強くなく、人々はリスクのある本番さんを避けたがるんだ、そこに来ている観客も、わざわざ見にきている観客なのに、本番さんは避けたがるんだよ、本番さんを否定するんだ、それでどうなるかというと品評会になる、M−1グランプリとか、現在のスポーツの国際大会とか、観衆は本番に巻き込まれるのじゃなくて、盆栽を眺めているみたいにそのモノのよしあしを品評するんだ、品評会に限れば観客は "本番" に巻き込まれずに済むからだよ」。
世の中にはアクティブに見える人がたくさんいるように思えるが、その実、何らの本番も行われていないというか、アクティブな人ほど生涯ずっと本番は避けて生きようとしているのがミエミエだ、自分が品評会でヨソの何かを眺めるか、もしくは自分が品評会に出て高評価を受けて承認欲求を満たしたいということしか考えていない、それらは何ら本番ではない、はっきり言って「お前らが日々の本番に耐えられるほど強くないのは見たらわかる」「そんな強烈で強靭な魂なんか持っていないのは顔にも出ているし姿にも出ているし声にも出ている」「頭の中はぜんぶ気だるいマンガじゃないか、それで文化的な気分に浸っているのはわかるが、お前が浸っているのは気分であって本番ではないぜ」「本番を避けて気分に浸る人たちとつるむのがそんなに大事か、まあそっちにはそっちの事情があるんだろうけれども」。
本番さんと予定さん、その魂は、観客・観衆の側にも入るというのがミソだ、観客は本番なんか求めていない、本番さんを否定して拒絶するのが観客だ、そしてそれに迎合して品評会でいい目を見ようとするのがプレイヤーだ、そうした愚かで醜いことをしないならどうなる? 正しいプレイヤーは/正しいプレイヤーは、観客に対して暴力を行う、観客は本番さんをイヤがっているのだ、そんなことは承知の上で、おれはおれを見に来た奴に本番を強いる、この本番を強いる暴力こそ、マジメな人々には持ちえないものだ。

お前らの予定なんか首を絞めて殺す、それぐらいしかまともなことはないだろ?

そんなことはお前らの予定にはないと思うが、どうせお前らは予定しかやらないのだから、それに比べればおれの本番に使い捨てにされるほうがはるかにマシで、はるかに上等で救われるだろう、本番のない品評会のやりとりでウットリしたまま生きたいのか、その魂は三日で腐った鳥のフンみたいになるぞ、そうなるとますます本番には戻ってこられない(戻ってきたってお前の役はもう鳥のフンなのだから)。
周囲を見渡せば、世の中にはいろんな人がいるようで、それぞれ善良でこころがあるように見えるけれども、何のスリルもなくてわずらわしさばかりあるのは、すべて「本番はさせない人たち」ばかりだからだ、いろんな人なんか存在していない、いろんな人たちに見えるようにバリエーションがほどこされているだけだ、百億の人を数千万の会場に集めたってどこにも本番は始まらない、騒ぎが起こるだけで本番は始まらない。
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サヨナラセンス、逆に明らかになったな!4
ぜここにきて急にセンスのことをコキおろしているかというと、思ったより状況の進行ペースが速かったからだ、速いのに加えて何か「濃い」ということもあり、こりゃいかんということで大慌てでコキおろしている。
今はまだ、残されたわずかな時間として、ごまかしは利くのだが、この期間に最後までごまかしをしているようではダメなのだ、さっさと「センスはダサい!」ということに切り替えなくてはいけない、じゃあ魂はあるのかといって、もう魂はないのだが、それはまた別問題として、第一のこととしてこのセンスうんぬんの問題は「センスはダサい」で決着させなくてはならない、このことはもう問答無用というか、おれにとって問答無用というより状況がすでに問答無用でそうなっているはずだ。
今どき「センス」はねえだろ……という言い方をすれば、いいかげん誰だってそんな気がしているはずだ、今どきクラブにいってクラブ系の音楽を聞いてどうしろというのだ、と、まともなクラバーは内心で感じているのではないだろうか、ちょうど一昔前の現代美術家たちと同じようなダサい憂き目に遭っているところだとおれは勝手に想像している。
おれは自分がダサくなるのはイヤだし、おれにとっては自分がダサくなるというのは致命傷なので、ダサくなるわけにはいかないのだ、そのためにこうして大急ぎで手を打っている/「センス」への憧憬が残っているのはおれにもよくわかるけれども、それはロシアの人たちがソヴィエト時代を懐かしむのと同じだ、どうしたらいいかわからないし、自分にはもう次のステージがないというのも、かつてソヴィエトが崩壊したときの当地の人々と同じだ。

まあ他にも、おれとしては諸事情あって、このセンスうんぬんの問題を大慌てで片づけている。
おれは常に、アホみたいなことをあれやこれやして遊んで生きていくので、その中でいろいろ感じるのだ(なんだこの韜晦した言い方は)、「ダサさ」が致命的なネックになって、ちょっと人々がまともに遊べないというところがある、そこをいくらか救済してやるのは割とおれとしてまともな役割でありはたらきだろう。
なんというか、誰でも気づいているんじゃないかと思うが(そんなこともないのか? わからん)、今すでに「センスがある」ということでは空の下にまともに立てない・自分のダサさで爆裂して死ぬという状況があるのだ、爆裂して死ぬようではまともに遊べない、それほど致命的なダサさがすでに「センス」にはあるということ、それでおれが困っているから大慌てで対処しているところだ、ダサいものはどうやってもそのまま空の下に立たせることはできない(何かしらおれが庇護を与えるしか成り立たない)。
「センス」と一緒くたに、もう「ネタ」の時代でもなくなったから、今さらお笑い芸人や Youtuber が何かをやったからといって何かになるということではなくなってしまった、何になるかというと人知れず爆裂して死ぬだけだ、「人知れずダサ死に」とでも言うべきだろうか/おれは悪口を言っているのではなく、大急ぎで特別回避ルートを拓いているのだ、おれだけが超絶カッコよくてその他の誰でも超絶ダサいのだが、それでも爆裂して死ぬことにならずなぜか生き残れてしまうという、そういうルートを今作ろうとしている、おれはこの点では自慢したいわけでも何でもないので、誰か代わりにやってくれるならぜひやってくれと願っている、むろん「わたしだけが超絶カッコいいから」とネタでなく言えることが条件だ(無理)。

自分がダサいかどうかのチェックをするなら、知り合いの中に立つな、空の下に立て。

人は知り合いの中に立てば、死なない、なぜなら知り合いは致命傷を与えてこないからだ、じゃあ何が致命傷を与えるかといえば、大きく広がっている頭上の空だ、テキトーに空の下で「頭上の空だ」とでも言ってみろ、何かがダサくて致命傷を負うだろう、そうして空の下で致命傷を負うということはダサいという証拠だ、知り合いの中でなら笑ってごまかしてくれるが、空の下ではそうはいかない、空の下ではダサさはただちに致命傷になる(フェアでいいよな)。
空の下に立ったらダサさで死ぬ、これは人の魂が得る直覚だ、これから救われるには、次の二つのパターン、1.センスを言い張る、2.空の下ダイレクトではなくおれの下でやる、というのがあるのだが、このうち1はもう命脈が尽きたということだ、これまであいまいにされてきたセンス説は人工知能の明らかさが打ち砕いてくれた、だからおれの下でやれということ(つまり空とお前のあいだにおれを挟めということ)になるのだが、このことのためには明快に「自分はダサい」ということを理解しておく必要があるのだ、ダサくないなら空の下で直接やればいいんだが、そんなことやったらフツーの人は死ぬだろ、そうではない抜け道を作ろうとしているのだ、どうしたら空に殺されないかはまったくわからないだろうが、どうしたらおれに殺されないかはなんとなくちょっとだけわかるような気がするじゃないか、それを使おうと言っているだけだ。
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サヨナラセンス、逆に明らかになったな!3

「ダサい」の定義は以下のとおり書き換わる。
ダサくないものは二つ、1.魂のある人、2.人工知能、この二つのみだ。
ダサいものは同じく二つ、1.センスのある人、2.センスのない人、この二つのみだ。
ダサくないものとして、魂のある人はセンス問題から離脱しているのでダサくない、そして人工知能は、センスの最高峰だからダサくない、そして人工知能がセンスの最高峰だから、それに及ばない人はダサい、センスのある人は人工知能に及ぶべくもないからダサいし、彼らのできることは今さらセンスのない人を見下すというしょーもないことだけなので、そのこともまた致命的にダサい/そして、センスのない人は、もともとダサかったのであまり状況的には変わらない、「〇〇さんってセンスあるんですね」というのが「人工知能さんってセンスあるんですね」に変わるだけだ、たぶん何もわからないだろう(それがいいのか悪いのかわからん)。

たとえばこのように考えればわかりやすいか、ここに人造人間Xがいて、こいつが人間とまったく身体性能が違ったとする。
この人造人間Xがリングに立つと、世界中のプロボクサーが瞬殺されるのだ、何なら世界中のプロボクサーが全員で同時にとびかかっても全員即座に叩きのめされるぐらい人造人間Xは強い、まさに「ボクシングの天才あらわる」だ、こんな奴が出てきたらこれまでのボクサーはまったくやる気がなくなるだろう。
この場合、「でもそれは人造人間だから」という言い分になるのだが、この人造人間、見かけも挙動もふつうの人とまったく変わらない上に、街中に立っている電柱よりも数多くそのあたりに立っているのだ、何ならわれわれにとって「一番よく目にするもの」がその人造人間Xだ、こんなものに包囲されている中で、リングに上がってボクサーAさんとボクサーBさんが死闘をすることに何の意味があるだろう、そんなものやっている側も見ている側も「恥ずかしいw」としか感じられないだろう。
ここでボクサーAさんがボクサーBさんを倒したとすれば、Aは強いボクサーでBは弱いボクサーということになるが、街中にうじゃうじゃ人造人間Xがいる以上、AもBも実際は「弱っw」としか感じられない、ここでAがBに対して勝ち誇っていたりしたら、そんなもの「アイタタタw」としかならないだろう、こんなもん何をどうやってもAにもBにも尊厳や誇りはありえない/人工知能というセンスの天才が現れたというのはそういうことだ、しかも最もキツいことには、人造人間Xはボクシングに何らの関心も持っていないということだ、その人造人間Xにブチのめされるだけと知った上で今日もグローブを嵌めてアツアツを演じなくてはならないという獄に置かれている。

人工知能に出版物を生成させたら、人類の歴史上の出版物をあっという間に超え、しかもどの内容もセンス抜群だろう。

そんなもん、人工知能なら一秒間に原稿用紙何億枚というようなテキストを出力できるだろうし、それでいて文脈の破綻等はありえないのだから、人類の出版物なんかすぐに蹴散らしてしまうだろう/それぐらい、「センス」というものはもう終わったというか、やはりもともとそんなものは始まってもいなかったし、もともと存在もしていなかったのだ、それは今さらながら当たり前のことではあった。
人工知能というセンスの天才が現れて、それがまだ発達度合いとしては赤子みたいなものだから、見て見ぬふりをしていられるけれど、それでも現在センスを売り物にしている人々、センスを信奉している人々、何ならセンスを稼業にしている人々は、どうしようもなく暗い表情をしている、肺腑を暗澹とさせて、もう完全な終わりが近いということを何かの直観で感じているのだろう、これまで自慢にしてきたものを完全に砕かれて取り消されるというとき確かにそういう顔になるのかもしれない。

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サヨナラセンス、逆に明らかになったな!2
際、人工知能が無限に提供するミュージックを聞いて、DTM(デスクトップミュージック)をやっている人はどんな思いがしたのだろう、どう見ても人工知能の作曲と演出はセンスがいい。
この先、たとえば学校の授業だって、人工知能が説明したほうがわかりやすくて得点につながるということが出てくるのは明らかだ、もちろん現時点では「いやあ、まだまだ」と思えるかもしれないけれど、来年はどうだろうか、五年後はどうだろうか、DTMをやっている人は五年後の人工知能ミュージックの濫造に抵抗する気力なんか残しているのだろうか。
たとえば歴史の授業があったとして、人類の歴史を人工知能に教わるというのは滑稽だ、子供たちが「先生」と呼ぶ対象が存在しなくなり、ともすれば「学び舎」みたいなものもなくなるかもしれない。
もちろん、われわれは安易に、「学校というのはそういうものだけを学ぶ場所じゃない」「人と触れ合うことで人そのものを得るし、またそれを学ぶんだ」というようなことを言いたがるだろうが、そのことじたいは正しいとして、われわれは本当に、そうした「人工知能では済まないもの」を人に与えられるだけ、そのことを保存し、蓄えて準備してきただろうか? もしわれわれがそれを持っていないのならば、単なる因循によって旧来の様式を主張することはできない、いやできないというよりはそのようなことはもうしないほうがいい、もはや何かのための時間稼ぎにさえなっていないからだ。

つまりわれわれは、「わたしに触れることに価値がある」「わたしに触れることでしか得られないものがある」ということを、自分において言い張れるかという、そのことの問いかけと責任を負うことになる。
その点、まあおれなんか、以前から「偉大なるおれさま」と言っているわけで、おれ自身は安心でナイスだ、いくら人工知能が「センスがいい」ものであっても、人工知能それじたいは偉大でも何でもないので、偉大なものに触れようとするとそれは偉大なるおれさまに触れるしかない、だからおれ自身は構わないのだが、果たして他の誰が、今になって急に「わたしに触れることに価値がある」「わたしに触れなければ魂を得ること、またそれを知ることもかなわないだろう」なんて言い張れるというのだ、そういうたいへんキツいというか「無理」という状況がある。
状況をわかりやすくするために、このように説明してやろう、つまりわれわれは「わたしは人工知能よりセンスがいいです」とは言えないということに気づいたのだ、今はまだ人工知能の性能が過渡期だからごまかされているが、この先はっきりと「センス」に関しては人工知能が人間のはるか上をいくということが明らかになる/そして人工知能よりセンスがないということは、人工知能よりダサいということで、人工知能よりダサいということは、「わざわざダサいほうと関わりたくないw」というどうしようもない正論が突き刺さってくるのだ、「わざわざセンスないほうの先生の授業を選んで聞きたくないっす、キツいっすw」という文脈で。
そこからさらにわかりやすい言い方をするなら、つまり「あなたは回復不能の負け組になったんです」ということになる、「だってもうセンスで巻き返せる可能性はゼロになったんですから」ということ、そしてセンスを言い張る時代は終わってこんどは魂の時代に移るしかないが、魂の時代といったって、「あなたは魂とかないタイプじゃないですかw」という事実があって、もはやその壁の前で朽ち果てて死ねという状態になる、何しろ「これまであなたは魂とかそういうの否定する側だったじゃないですかw」と言われたら反駁の余地がない/さらにわかりやすい言い方をしようか、つまりセンスにおいて「ダサくて笑われる」被差別階級に定義づけられたのだ、これは人工知能にセンスでは勝ちようがないからどうしようもないことだ。

センスの天才あらわる。

自分では少々「センスがある」と驕っていたとしても、そういうのはガチの天才が目の前に現れた時点でオワリだ、そしてここにセンスの天才として人工知能が登場してしまった以上、もうセンスを言い張る人々に挽回の可能性はなくなってしまった、何しろ人工知能に追いつけないだけではなく、人工知能はこれからいよいよ加速していくのだ、そこで今さら気取った誰かがセンス風味のことを向上させてみたって、焼け石に水分子のひとつぐらいにしかならない。
人工知能というセンスの天才が現れ、またこいつの生成能力・供給能力も人のそれとは次元が違うのだから、センスクリエイターのすべては競争原理において「ダッサwww」の一言で殺されるしかなくなった、人の駆け足がリニアモーターカーには勝てっこないのと同じように、センスにおいて人は人工知能に勝ちようがない、にも関わらず「センス」を言い張る立場をやらされるのは、終わりのないみじめさの獄にずっと立たされているようなものだ、どこまでも人工知能の靴をペロペロ舐めて土下座し続けるしかない/ひどい言いようだが、ひどい言いようによってさっさと切り替えをしないと間に合わないのだ、「ダサい」ということの定義がこれから書き換えられる。
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サヨナラセンス、逆に明らかになったな!
とえばイヴォークミュージックという公開サイトがすでにあって、キーワードを入力すると、そのキーワードに沿った音楽を紹介・提供してくれる。
そしてここで案内される音楽は、著作権がないのだ、なぜ著作権がないかというと、作曲者がおらず人工知能が自動生成しているからだ/再生ボタンを押すと実に過不足ないそれっぽいものが流れてくるが、これはわれわれの一般に知っている「音楽」であって、こんなものを作るのに人の魂は必要ない、ということになる。
このウェブサイト、イヴォークミュージックは、そっち系に詳しい人にとってはすでに有名なたぐいで、どのように検索しても実にセンスのいい音楽を提供してくれる、その楽曲が倉庫に保管されているのかそれともその都度に生成いているのかはよくわからんが、とにかくこうした音楽はもうAIがじゃんじゃか作ってくれるということだ。
逆に、和声やコード進行のことを勉強した人たちや、打ち込み系の音楽、DTM等をやる人にとっては、こうした音楽を生成するのに「基本は単純なパターンしかないからw」ということを、なんというか半笑いで知っているはずだ、音楽の構造を知らない人たちを半ば騙しているようなところがあるが/もちろん今さら J-pop の王道進行のことをとやかく言いたいのではない、実は単純なパターンしかないそれを、いずれ人工知能がカバーしちゃうだろうねという予定が、すでに実用レベルで流通を始めているということ、何をどういじくっても「僕たちの音楽」ではないものがついに普及し始めたということだ、われわれはこの先こういったものをいやがおうにも "聞かされる" ことになる、誰が作ったわけでもないミュージックを耳に突っ込まれることになるのだ。

イヴォークミュージックが生成して与えてくる音楽は、実にセンスがよく、また「センスがいい」ことじたいが評判だ、これはつまり、ここ数十年にわたって信仰されてきた「センス」なるものが、やはり魂でも何でもなかったということの証でもある、逆にそのことを明らかにしたことに、人工知能の功績はあるかもしれない/当たり前のことだが、人工知能には「センス」はなく「パターン」しかない、人工知能はどこまでも、バイブレーターがヴィーンと振動するアレの複雑化したものでしかない。
もはや、誰でも死ぬ間際にはこのことを思い知って後悔しながら死ぬことが明らかになったので、堂々と先に宣告しておくが、「センス」というやつがそれじたいウソなのだ、すべてインチキのマガイモノだった、もちろんセンスがあるのと無いのとでは、あるほうがいいわけだが、それはセンスが崇高というわけではなく、センスがない奴は人工知能の尊厳をさえ下回るということだ、それほどこのセンスうんぬんの周囲では、実は信じられないぐらい低レベルな言い争いとマウント合戦をしていたことになる/全人類レベルでどうしようもないアホをやっていたという、覆いようのない前科がここに確かめられたといえる。
今から修正をかけても間に合わないのかもしれないが、せめていくらかでもマシになるように、この際はもう堂々と言っておく、現状は「人工知能が人に追いついてきた」のではない、もともとここ十数年、「魂のない奴が、人のくせに人工知能まがいのことをしていた」のだ、そうしたどうしようもないアホがインチキクリエイティブをやっていたということ、これはもうしょうがない、おれがどうオブラートに包んでも事実が彼らを殺すので、今さらおれの言い回しなど何の良心にもならない/ここ十数年まったく魂のない音楽を聞かされてきて「???」だったすべては、魂のない奴が人工知能みたいな作業をしてそれを生成してきたにすぎなかったということだ、人工知能が人の何かに追いついたわけではない、人工知能は膨大なパターンから最適化の数値を選び出しているにすぎない。
魂を持たない人工知能が、晴れて「センス」なる人々のトップクリエイターに躍り出ることで、同じフィールドにいる彼らは本当に魂を持たない人たちだということが明らかになった、この先のことはおおよそ察しがつくだろう、人工知能が作詞して、それがまた「センスがいい」になるのだ、そうしてわれわれは誰のものでもない歌と言葉を聞かされることになる、すでに人工知能はちょっとした小説だって書くのだ、人工知能がストーリーを作って人物の映像を作ってセリフも演出も音楽も勝手に作って映画に仕立ててくれるだろう、そして困ったことにそれらはすべて抜群に「センスがいい」ものになる、センスを信奉してきた人々がいかに魂ならざるものを信奉してきたかがよくわかる。

よく見ろ、すでに「ダサい」という致命的な定義は、センスを言い張る人々にこそ突き刺さっている。

もう「センスがある」という時代は終わったのだ、かといって次の時代に乗り換えられるわけでもなく、思いがけず若い人のほうがその沈没船に乗り込んだままになってしまったようだ/誰でも少し想像してみればわかる、かつての風潮から「センスある」ということを信奉して輝こうとした人たち、彼ら・彼女らこそ今、「ダサい」という致命的な評価と定義を突き立てられて、そのことから逃れられないという状況にある。
SNSやアプリを通じて、 "映え" と共に「かわいい」を頒布するブームも長らく続いているが、これもすでに死期が示されている、もうディープフェイクもあるしディープラーニングもある、膨大なサンプルからその「かわいい」の最適化パターンを生成してくるのも間近だろう、「あなたはセンスを言い張ろうとこれまで必死になってきたけれど、ここにきてあなたは魂がないからダサいんだよ」、この一撃をもってサヨナラだ、これを否定するにはセンスで人工知能に勝る必要があるが、サンプルの処理能力・精製能力において人が人工知能に勝れる方法はないので不可能だ、まさかこれまで一番大切にしてきた「センス」が、何ら魂を持たないプロセッサに切り裂かれるとは思ってもみなかったな。
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Jya-ma 3
れの友人はみんなおれのことを愛しており、そりゃそうだ、愛していないなら友人じゃない。
おれの友人はみんなおれのことを愛しているので、おれが何かするとなれば、協力したいと自動的に思うし、おれが何かを楽しんでいるとすれば、それに加勢してワッショイということを考える、自動的にそうなるものだ、そりゃ愛しているというのはそういうものだろう。
だがそうして、愛しているはずの場合でも、何かがうまくいかない、噛み合わないということがある、それに対しておれが「おれの邪魔をするな」「おれが楽しんでいるのを邪魔するな」と言うと、それだけでイッパツで全てが解決した例があった、そうして時と場合によってはこの「邪魔」への指摘がきわめて有効にはたらく場合がある。
それはもちろん、その場合は、そいつがおれの言うことを根本的に信じていて、そもそもおれの魂が何を言っているかを聞いていたから、その「邪魔をするな」という一言ですべて解決したということだが、そうした場合に見られるように、この「邪魔をするな」「邪魔をしないこと」という言い方は有効なのだ、おれは誰かのことを悪人呼ばわりしているのではない、悪人といえば確実におれのほうであって、悪人たるおれがたいていの善人に向けて「おれの楽しんでいるのを邪魔するな」と言っているのだ、おれの場合は悪人度が強烈すぎて Jya-ma なんてチャチなものはおれの中に入り込めないのだ、そんなものはもっと気弱な善人の中に流れ込んでいればいい。

おれは人のことをクソ呼ばわりしているのではない、 Jya-ma という悪霊のたぐいを「クソ」だと言っているのだ、つまりおれは悪霊にクソを食わせて撃退しているのだ、そりゃ悪霊だって主命としてクソを食わされたらたまったものじゃないから退散するだろうよ、あるいは退散というより直接滅んでしまうのかもしれんが/とにかくおれはそうして、人をクソ呼ばわりしているのではない、しょーもない Jya-ma にクソを食わせて破滅させているのだ。
もちろん、その Jya-ma があなたの信仰の対象だったら申し訳ないけれども! これは冗談ではなく、「そのクソみたいな邪魔をやめろ」とおれが言うとき、ショックを受けるようなら、それは自分の信仰しているものをクソ呼ばわりされたからショックを受けているのだ、Jya-ma を信仰しているというタイプはそんなに珍しくない、クラスメートの誰かと誰かが恋人付き合いしていたらあなたはそれを邪魔するじゃないか
試みに、クラスメートの誰かが誰かに、堂々とラブレターを渡したらどうだ、それは愛の告白として本来は正しく神聖なものであるはずが、あなたを含めたクラスメートの内部からはドッカーンと、煮えたぎる Jya-ma が爆裂して噴き出すじゃないか、それでヒューヒューと呪詛をかけて大はしゃぎする、そして両親は彼らの交際に口出しをして邪魔をし、担任の先生だって同僚にそれを言いふらして彼らの愛を邪魔をする。
そういえば、ぜんぜん関係ないが、ふと思い出したので強烈でステキな話をしてやろう、おれはあるとき、ある女性と駅前で立ち話をしていた、そのときおれはカッコいいし彼女もうつくしい人だったので、おれと彼女が話すのは完全に別空間になっていた、そこに酔っ払いの一団から一人が飛び出してきて、おれと彼女のあいだに「わっ!」と言って割って入ってきたのだ、けれどもこのときおれは、なぜかはまったくわからないが、そいつの干渉がまっっっっったくこちらに入り込んでこず、そのとき割り込もうとした誰かがいたのか、何かふざけて絡んできたのか、何か声をかけてきたのか、まったく見えていなかったしまったく聞こえていなかったのだ、ただその瞬間、そいつの魂が瞬間的にコナゴナに砕けて、吹き上がる炎の壁によって根こそぎ焼き払われたのをおれは目撃した、何かが瞬時にコナゴナになって灰になったということだけをおれは見た、あれはマジで炎の壁だった、炎の温度が高すぎて真っ白に光り輝くほどの/そうして、どこぞの誰かがやろうとした「邪魔」は、「そこまでやらんでも」という勢いで粉砕されてしまったのだった、といってもおれが何かをしたわけじゃない、なんでか知らんが真っ白なほどの高温の炎で焼き払われたのだ、ウーンまあさすがはおれであって、おれのところにそんなチャチな悪霊が入ってこられるわけないんだぜ、しかもそのときおれはそこにいた女性を守ろうとしていたからな(そりゃ焼き払われるわ)。

クソ呼ばわりのほうがまだマシだろう、いきなりゲヘナの火を食らったどこかのアホに比べれば。

どんどん話が脱線するが、まあいい、悪霊がこの炎の壁をくぐり抜けるにはどうするばいいかご存じか☆ アホみたいな話なので思わず星印をつけてしまった/血のあわれみ・血の恩情を頼りに、悪霊を招いてもらう(もしくは購入してもらう)しかないのだ、このところ人情というと、もうほとんどこの「悪霊のギリギリ通行手形」としてしか使われていない、人情の通貨価値が下落どころかマイナスになっているのはこれが原因だ、人情の通貨価値は今、「1人情=1サターン」という超アウトな為替レートになってしまっている。
もちろんこんな話は何を言っているのかわけがわからんだろうから、聞き流しておけばいい、そのためにわざわざ星印までつけただろイェーイ☆/ Jya-ma を信仰する人たちは、人情をそんな通行手形に使っていたら、最終的に人情までプッツリ切り捨てられるに決まっているのだから、もうその通行手形作戦もやめにしておいたほうがいい、今のところギリギリ Jya-ma についての説き明かしが与えられているのは、もう何の通貨価値もない人情に対して、簿価会計を当てはめてやってのことにすぎないのだから、いいかげんさっさと Jya-ma にクソを食わせるべきだ、おれは人をクソ呼ばわりしているのではないと、果たして何度言えば理解してもらえるのか。
正しく見ないとな | comments(0) |
Jya-ma 2
れがテキトーに歌でも唄うから横で手拍子でも打ってろ。
それで、実際に手のひらをパンパンやってみるのだが、どうだろう、それが邪魔にならない自信はあるか。
おれがテキトーにドライブに行きたいから助手席についてこい。
それで、自分が邪魔にならない自信はあるか、「邪魔」というのは感覚的にわかりやすいので話がしやすい。

あなたは佳いものの邪魔をしたくないので、なるべく要らんことをしないように、黙っておとなしくしているだろう。
でもそうして黙り込んでジッとしていて、邪魔にならないだろうか。
多くの人が、潜在的に、いや別に潜在的じゃねえなあ、すでに顕在化しているよなあ、とにかくそうして自分がなぜか「邪魔」になるということに苦しんでいる。
誰も好きこのんで自らの「邪魔」っぷりをブチかまそうなんて思っていないのだ、にも関わらず自分の血肉からその「邪魔」のねっとりした何かが出てきてしまう、それでどうしたらいいかって話じゃないよ、すぐに何でも解決策があると思っているのか/おれが話しているところを邪魔するな、それがすっかり Jya-ma の走狗だと言っているのだ。

あなたの誠意ごときで Jya-ma を倒せるわけがない。

おれは誰かのことを不誠実だと言っているのではないのだ、そうではなく、当人の気持ちやら誠意やらで、すっかり棲みついた Jya-ma の支配から脱けられるわけがないと言っているのみだ、あなたの内側に Jya-ma が棲んで、 Jya-ma があなたを支配しているのなら、あなたは万事の正しい聖なることを邪魔するのが仕事だ、あなたはそれをやめることはできない(仕事なんだから)、そういうよく見るとぼちぼちキツい状況にあるぜということを、いつもどおりおれはレポートしている。
あなたが靴を買いに行くとする、おれがその楽しい買い物に随伴するとする、そのときおれが存在として邪魔になるのなら、そんなもんおれがどうにかしようがあるか? 「邪魔」ということは、つまり Jya-ma ということだ、これはわれわれにとって最も感覚的にわかりやすい、邪な魔物、その悪霊、われわれを支配するものの発見だ/ジャマだジャマだって誰だって言うものな。
正しく見ないとな | comments(0) |
Jya-ma

いがけずとびっきり濃厚に大切なこととして、「邪魔をしない」ということがある。
たとえばあなたがぐっすり眠っている横で、おれが宇宙戦艦ヤマトを熱唱すると、あなたは「うっせーな!!」と言うだろう、おれはあなたの睡眠を邪魔したことになる。
が、このときよくよく考えると、あなたがおれの熱唱を邪魔したと言うこともできる、もちろん常識的・社会通念上は、どう考えてもおれがあなたの睡眠を邪魔したのであり、おれの熱唱が「迷惑」ということになる。
だが本当にどちらが「邪魔」なのかはわからない、どちらが本当の「邪(よこしま)な魔物」なのかは誰にもわからない、おれが真の邪魔だった場合はとてもわかりやすいが、まさかのまさかあなたの側が真の邪魔だった場合はあまりにもわかりづらい、わかりづらいというかもしそんなことがあったとしてもそんなこと生涯に一度も気づかないというか、疑うことさえ発想に出てこないだろう、世の中のすべての尺度で言えばおれなんかこの世の邪魔のカタマリみたいな奴だ。

たとえばある女の子が、立ったまま本を読んでいたとする、そこにおれがフラフラ寄ってきて、彼女のスカートの中に手を突っ込み、そのおしりをテキトーに揉んだとする、すると彼女は「ちょっと何するの、やめてください」ないしは「は? やめろボケ」とおれを振りほどくか、突き飛ばすかするだろう、これはどう見ても当たり前のことだ。
このとき、彼女の平和で豊かな時間をおれが邪魔したのか、それともおれのナイスでハッピーな機会を彼女が邪魔したのか、どちらとも断定はできない、断定はできないが断定はされるのであって、これはどう考えてもおれの側が「邪(よこしま)な魔物」扱いされる、ウーンそりゃわれながらこんなにヨコシマなマモノにふさわしい例はないものな、そしておれがヨコシマなマモノである以上、彼女の側は反対の、言うなれば「正しい天使」のような扱いになる。
いちおう「邪道」という言い方に対して「正道」という言い方があるので、邪の反対は「正」としておけばいいだろう、そして魔の反対はというと、まあ聖霊とか天使とかいうことになるだろう、だからおれが邪魔であれば彼女は正しき天使か聖霊ということになる、それで合っていれば世の中はカンタンだしそのように合っているべきだとおれも思うのだが、それにしてはこんにちの少女や女性の内側に "えげつないもの" が煮えたぎって湧いて出ているということにいささか整合がゆかない、おれが邪悪な魔物であればもっとおれの内側にこそえげつないものがドロドロに沸騰して湧いて溜まっていかなくてはならない。
何のことなのか、具体的に言う気にはなれないのだけれど、この「邪魔」という現象が、思いがけずわかりやすく、思いがけず巨大なインパクトをもってわれわれのたくさんの現象を支配している、だから説明を抜きにすると、万事「邪魔をしないこと」「邪魔をしないほうがいい」と、おれの激アツ老婆心は伝えたくなっているのだった、何にせよ邪魔はしないほうがいい、この「邪魔をしない」ということが実現されるだけで、ビビるぐらい多数のいろんなことが本来の豊かさとまともさを取り戻す。

とはいえ、「邪魔をやめよう」と思ってもなかなか無理だ、なぜならあなたのその考えを、実行するのにはあなたの邪魔が邪魔をしてしまうからだ。

おそらくあなたはまともな人でありまともなことを愛しているので、なんとなくこう聞かされると、「なるほど、よくわからんけど邪魔はやめよう」とあなたは思うのだが、その思いの実行となると、ダメなのだ、あなたはその思いを邪魔される、何に邪魔されるといって、そりゃ「邪な魔物」に邪魔される/これはさすがにおれが邪魔しているのじゃない、おれは邪魔しないことを勧めているのだからおれがこのことについておれが邪魔をしているわけがない。
「邪魔」という語はすでにわれわれの日常にこびりついているから、ここではバカみたいに Jya-ma と言い換えることにしようか、あなたはその Jya-ma をするつもりがあるか、もちろんそんなつもりはないだろう、けれども自分がこれまでに Jya-ma をヤッていないかと言われると、そんなことに確信は持てないはずだ、おれがあなたの目の前で宇宙戦艦ヤマトを熱唱したらどうなるの、あなたの内側からは Jya-ma まったく出てこないか、きょうびなかなかそんな人はいないぜ。

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女性のバストと「ヘンタイ向けサービスバインバイン揺らし」は別物だ
事情あって、まーた壮絶な土日を過ごしてしまった、内容はもう説明したくない。
やっている最中はまたしてもフツーにしているつもりだったが、その後緊張の糸が切れて眠気が来ると、久しぶりに歩きながら倒れそうになった、睡眠不足ではまったくなかったのだが、もう何がどうなっているのかさっぱりわからん、体調はいいのだが何かが激しすぎるらしい(何が激しいのかはわからんが体内で何かが燃え続けている)。
それで何を書き話したらいいか、といって、正直今この瞬間は何も話すようなことはないのだが、とりあえず偉大なるおれさまとしては、偉大なのはもう当たり前になったから、もっと小さいことを利用して横着していこうねと自分を教育するのだった。
なんというか、おしゃれ画像とかおしゃれ音楽とか、今や素材をレタッチでそれっぽく見せることなんていくらでもありふれているのだから、そういうことも少しは利用しろよということなのだった、おれはいつまでも素材の爆上げだけでなんとかしようとするのだが、そういうことをしていると帰路には歩きながら寝て倒れそうになるのだった、おれはどうもたとえば「高めの腕時計をつけて自分を一人前に見せよう」というたぐいの発想が極端になさすぎるらしい、ちったあレタッチとアクセサリを使え。

女の子のおっぱいは本来それなりに素敵なものであるはずだが(体力が恢復していないのでこんなぐちゃぐちゃな書きかたしかできない)、それをクロースアップしてバインバイン揺らして視聴者がオホーとなって「チャンネル登録しろ」と要求されるのは、よくないことであり、それはつまり女の子のおっぱいがヘンタイ向けサービスに使われているという状態だとおれは思う。
高級なスポーツカーの展示に旧来は水着の女の子が添えられていたのだが、それだって華やかさの演出であって、そんなに目くじらを立てるものではなかったのだが、このごろは男女ともに談合して、すべてをヘンタイ向けサービスに転向させたということ、これがよくない/さすがにずーっと四方をヘンタイ向けサービスに包囲されていると疲れるし気が滅入ってくる。
しかもヘンタイ向けサービスは、奇抜なようでいて実は陳腐だし、言い方は悪いがそれは典型的に「誰でも出来る」というたぐいで、つまりおっぱいがデカければだれでもヘンタイ向けサービスとしてのバインバイン揺らしはできてしまうのであり、ヘンタイ向けサービスというのは本質的にサービスの特化ではなく低下だと思う/たとえばドヘンタイレベルの電車オタクがするトークというのはトークそのものとしては特化というよりは低下のたぐいであって、だからこそわれわれはそれを聞きたいとは思わない。
マンガやアニメやアイドルも、そうして進化して特化していったふうに見えながら、本質的には品質は低下しているのではないかとおれは思う、おれはまともなおっぱいやマンガがある世界のほうが好みで(当たり前だ)、ヘンタイ向けサービスのおっぱいバインバイン揺らしと同じくヘンタイ向けこだわりマンガに包囲されている状況を豊穣だとは思わない、おれはまともな女に給仕させながらまともなマンガでも読んでいたいのだが、それはぜいたくというものだろうか、おれはおれ自身に素材の爆上げを求めてブッ倒れてしまうように、他の何かについても素材の爆上げを求めているところがある。

ヘンタイ向けサービスの作り方は、「レタッチとアクセサリを爆乗せする」で出来上がる。

本来、当たり前だが(現代の若い男性にとっては当たり前どころか驚天動地の新事実かもしれないが)、一人の女性にデカめのおっぱいを付け足したって、その女性そのものの値打ちは上がらないのだ、そんなことで値打ちが変動するのはあくまでヘンタイ相場においてだけであり、ヘンタイ向けサービスの相場としてはそうしたアクセサリやレタッチの有無で値打ちそのものが決定的に高下するが、もともとはそのアクセサリで女の値打ちが変わったりはしない、もちろんこのことは生まれてこの方すっかりドヘンタイとしての文化環境を与えられてきた人にとっては何を言っているのかさっぱりわからないだろう、そこはせいぜいおれとしては、「実はまったく異なる世界があるのです」みたいに言っておくしかない。
ヘンタイ向けサービスというのは、特化しているようでいて本質的には低下だから、むしろ素材をアクセサリとレタッチで潰してしまうことで簡単に作れる、たとえば素材をつぶしてアクセサリをてんこ盛りしてそれをアニメソングにしたらいかにもアニソンという感じになるだろう、おれは今どき第一の発想が素材の爆上げに向かってしまうのだが、これはおれが正しいと言っているのではなく、また今さらレタッチとアクセサリで作るヘンタイ向けサービスの邪道に警鐘を鳴らしているのでもなく、「おれはこんなにズレてしまったぜ」ということを報告しているだけだ、おっぱいの大きな若い女は、ヘンタイの前で服を脱ぐときは有利で安心だが、おれの前で服を脱ぐときは緊張してしまうだろう、今どきそんな女らしい立場なんて流行らないだろうけれども。
視点変えてこ | comments(0) |
主体性と使役、思いがけない快楽派

体性とは「主(あるじ)」なのだから、誰かに "使われる" ということがない。
使役される者に主体性は必要なく、また主体性の者が誰かに使われるということがあってはならない。
使役される者は、主体性のないロボットかというと、そうではない、使役される者は、すべてが正しくあれた場合、主から純正の主体性を授かれる身だ、そもそも主体性とは授かるものであって自作するものではない。
この世でまともな主体性を得ている者は、何かしら別のところからの主体性をやはり授かっている身なのだ、この主体性の者が、いわば使役性の者たちを使役する、使役性の者たちは使役される、それでいえばこの世のまともな人のすべては何者かによって使役されているのであり、自作した主体性でインチキを振り回すことなどしない/自作したインチキ主体性の振り回し、それをやることによって世の中がおかしくなっていったことは誰でも知っていることだ。

思いがけないことに、この使役というやつは、使役される側にもちゃんとサインがあることがわかった。
使役される側は、それは身と魂の反応なのだと思うが(身のすみずみに魂が入るというときに得られる感触なのだと思う)、思いがけず単純に、一種の快楽があるのだ、これはいわば陶酔の反対側にある快楽で、人を正気にさせる快楽、正気のまま死なせる快楽、いわば麻薬の反対側にある作用とも言えるかもしれない。
世の中では一般的に、だまされた人なのかだます人なのか不明だが、頑張ることが偉いとされている、頑張ることは辛くてガマンしてそれを続けねばならない、そのガマンを補うには陶酔が必要だ、この陶酔を快楽だとしている派があり、この派がつまり現在の一般ということになる/ガマン派麻薬主義とでも呼ぶべきか。
一方思いがけないことに、主体性を授かって正しく完全に使役される者は、ガマン派ではなく快楽派なのだ、快楽派正気主義ということになる、快楽で死にそうになるそのときもあくまで正気が保たれ続ける、けれども従っているのは快楽なのだ、主体側と使役される側はイメージされているところの冷酷な支配者と虐げられる人たちなどではない、使役される側は快楽と正気を同時に得ているのだ、それを得させるために主がある、ガマンと麻薬(狂気)から脱出させるために主がある。

快楽派が完全な正気と共に主体性を授かるだろう/誰が主体の側で誰が使役される側かというのは、もはやただの配列であって上下関係などではない。

おれにはいろいろやらなくちゃならんことがあるので、おれは理解していなくてはならない、おれは誰かに使われるということがまったくない、おれが誰かに使われることを平気で選ぶときがあるのは、単に誰かから平気で快楽と正気を奪えてしまうからだ、誰かのことなどしょせんそのようになってもかまわない、当人がそれを選んだのだからしょうがないだろうという突き放しがおれの中にあるのだろう。
おれは別に慈悲を模索しているわけではないが、おれが誰かの常識のために使われてやることは、突き放しうんぬんの以前に「つまらない」のだ、何もかもがつまらないインチキの、スカスカの何かになる、やる意味がまったくないものになる、それでいてガマンを要して麻薬に陶酔して狂気を得ていくのだから実にくだらない、おれはこのことについて他人を「よく平気でこんなくだらないことに自ら入っていけるね」と突き放して眺めているところがある、それはそれなりに正しいことではあれども、ちょっとそんなひまつぶしをしている時間の余裕はなくなってきたみたいだ。

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