☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
門外を消せ
が「虫」に克つには、「三昧(さんまい)」という事象に至るしかない。
人がいくら念じても、カミサマ的なものは現れない、人はカミサマを意図的に信じるのではなく、出会ってしまって信じてしまう、そのことは「三昧」の中でしか得られてこない。
「三昧」とは何かというと、いわば常識の限界を超えた集中力の状態のことだが、それは一般的に思われている無我夢中というのとは違う、無我夢中ということには興奮がつきまとうが、三昧においては興奮は逆にゼロだ。
まともな「三昧」に入ると、人は興奮ゼロ、きわめて理知的で、落ち着いており、かといってユーモアやジョークや、やりとりの通常性も残している、誰よりも「まとも」に見える、そしてすさまじい存在感や光や処理の速さを見せつける、それでいて本人は静まりかえっているのだ。

「三昧」に至るにはどうすればいいかというと、逆に「どうもしなければいい」ということになる、これは難しいのだが、「厳密に」、どうもしないということだ、この「厳密に」ということが、一般的にはほとんど不可能というか、想像しているレベルの外側にある。
何かひとつのことをするとしたら(たとえば部屋の掃除でもいい)、そのこと以外は完全にゼロに滅却するということだ、掃除をするとなったらそれ以外の「すべて」を「厳密に」消し去る/すると、おそらくほとんどの人が体験したことのないナゾのクリアな世界が現出する。
人は一般的に、「一所懸命」的な幻想の価値観をねじ込まれており、部屋の掃除をしようとすると、腕や膝に力を入れるようになる、けれども厳密にはそれは「掃除」ではないので、そういったものも消し去る、そして部屋を掃除すればきれいになるが、その「きれい」というのも直接「掃除」とは関係ないので、その価値観も消し去る、部屋をきれいにするために掃除しているのではない。
理由も方法も価値も消え去って、ただただ人の「行為」が爆発する、それは極めて静かで落ち着いており、犯しがたい光を帯び始める、このときこの当人に悪口を言っても無駄で、褒め言葉を言っても無駄、色仕掛けをしても無駄だ、ただひとつのことを除いては滅却されてしまっているので、何をしたって通じない、どんな仕掛けを放り込んでも、きわめて冷静に落ち着いて処理されてしまうだけだ。

学門に入るということは、門外を消すということ。

門外を消せ! けっきょくどこかで一度は、この事象を体験しないと、人間は虫に克てない/門外のことをあれこれ増やしていくと、ざわざわして物理的に「豊か」になって気がするが、それは決して豊かさをもたらしはしない、なぜならざわざわと数多いだけでそれらは「世界」を形成しないからだ、いかなる無数の刺激物も「世界」を形成しないならそれらは究極ゴミでしかない。
三秒でもいい、あるいは三十秒ぐらいでもいい、願わくば三十日、さらには三十年があればなおよいが、あなたのこだわりのすべてを――一時的でいいから――消せ! それが消えた瞬間、あなたはむしろこれまでのすべての時間こそが寝ぼけていたのだとはっきり識ることになるだろう。
 
できるオンナだね | comments(0) |
元々あった一番まっとうなこと
直にレポートすると、僕はこれまで、すくなからぬ女性に慕われてきた。
その中で、あえて「生き残った」という言い方をするならば、生き残った女性は、どこかで「学門」のほうへ傾いた。
「学門」に傾くことがなく、感受性に傾いていった女性は、僕から離れてゆき、「生き残れなかった」、一方的な言い方だがしょうがないのだ、正直に「生き残れなかった」と言うしかない、その声と眼のふちと歯茎は汚らしくなっていった。
僕みたいな胡乱な者にも、それなりの立場の感覚や義侠心というものがあって、僕を慕ってくれる人のうち、僕ごときがなんとかできるものについては、なんとかしてやりたいと勝手に思っている、そのぶん、僕ではなんともできないと感じるものは、スッパリ諦めている、実際僕がなんとかできることなんて本当にたかが知れているのだ。

僕の周りで「生き残った」人は、必ずどこかで学門につながる道を選んでいる。
僕の周りで生き残らなかった人は、必ずどこかで感受性に流されることを選んでいる。
感受性に流されていった人は、まず二度と学門の方向へは戻ってこない、ごくまれに戻ってきた人もこれまで経験的にあるが、そういったことは基本的に「無い」と断定しておくしかない。
いつの間にか、胡乱の代表格のような僕が、「人は学門につながるべき」という、元々あった一番まっとうなことを唱えている、これはなかなかの滑稽劇だが、このことについてはもう迷いはない、僕は僕の前で感受性たっぷりの顔が横行することを許さない、人は学門につながるべきだ。

学門に舵を切れ。

メラメラ、ウルウル、ワーワー、感受性に好き放題にされるのは、もういいかげんにしよう、それはあなたの「信じる」という機構に空けられた穴にすぎず、その穴にはいくつかの虫が巣喰っている、その穴ぼこの刺激が「真実」だというなら……僕はあなたを止められないし、たぶんあなたもあなたを止められない。
学門に舵を切れ、たぶんそれは人間の最終的な選択だ、悲喜こもごも、栄枯盛衰、喜怒哀楽や退屈繁忙のいろんなことが、身に降り注いでいるような気がするが、すべての背後にあって人間を導いている光は「学門」だ、この航路にビタッと重なったとき、その広がりに文句を言う奴を僕は見たことがない。
できるオンナだね | comments(0) |
永遠無敵のワタシスタンダード

面に陰毛が生えているようなアホでも、たとえばバーンスタインの演奏について「評定」をすることができる。
インターネット上にあるレビュー等にはそういったものがあふれかえっているだろう。
そういった「評定」はつまり、自分が「門外漢」だからできることだ、門外漢は永遠に無敵のワタシスタンダードを持っていると考えていい。
とはいえ、何かに「入門」したら即、「お前ぜんぜんダメじゃん」ということになる、それは何に入門しても変わらない、何に入門してもその道の先達に向き合わされると「あわわわわ」となってお陀仏だ、バーンスタインを評定する顔面陰毛は、おうおうにして玄翁でクギをまっすぐ打つことさえできない。

料理人は料理人、大工は大工、学者は学者で、自分のくぐる「門」は人それぞれになる。
これらの門をくぐった人は、そのジャンルに関わらず、毎日「あー難しいなぁ」という問題に直面させられている、どういう難しさに直面させられるかが、その門の違いであると考えて差し支えない。
ここで、たとえば一流の料理人と一流の音楽家は、話が合うし、互いのことをよろこびはしても、互いに「評定」ということはあまりしないのだ、「評定」にシュバるのは何の門もくぐったことのない「門外漢」だ、門外漢は毎日何も「難しいこと」に向き合わない。
永遠無敵のワタシスタンダードにある甘みにハマった人は、今さら何かの門をくぐろうとしても、門をくぐればただちに「最低クラスの初心者、入門者」になってしまうので、気に入らない、それで自ら自分を破門にするというか、「その道は捨てた」というふうになり、まあなんだかよくわからない毎日になっていく、道を捨ててしまえばまたワタシスタンダードが恢復していられる。

毎日「難しさ」にフラフラになっている人は、評定の虫が騒がない。

なぜなら、毎日「難しさ」にフラフラになっている人は、ワタシスタンダードに生きておらず、何かしらの「門スタンダード」で生きているからだ、そういう正統のスタンダードに照らされて生きている人は、毎日が「難しいんぬぉぉぉおほおお」という状態であり、正直オシャレな評定なんかブッかましている余裕も発想もないものだ。
永遠無敵のワタシスタンダードにいる人は、フィギュアスケーターが四回転のジャンプで転倒することには厳しい評定をするのだが、自分の作るホウレンソウのおひたしについては「これで十分でしょ?」と絶対合格を押し通すのだ、こんなアンバランスなバケモンになってはいけない。

できるオンナだね | comments(0) |
向上心と入門の背反
一の方法は、あなたが僕を見ることだ。
僕があなたを見てもしゃあない。
僕にはそりゃ、霊視(笑)の能力があるのかもしれないが、そんなもん何にもならんわといつも僕は言っている。
僕からあなたを見て、あなたの何かがわかったところで、何の足しにもならんわな、そうじゃなくあなたが僕を見ることだ、そして出来れば、もっとマシなものに出会って、そのマシなものをあなたが見ることだ、それが唯一の道だ。

けっきょく、自意識過剰な人は、自分で自分のことばっかり見ているから、自分を見てもらうことにしか興味がなく、それでは進展がない。
自分の出来不出来がどうであり、自分のコンプレックスがどうであり、自分のカルマがどうであったとして、それをジロジロ見ることは、けっきょくあまり役には立たんのだよ。
なんつーのか、目の前に佳きものがあったとして、それを見て「ああ、すばらしい」と、まるで自分自身まで佳きもののように錯覚しているのは、ひどい暴走だ。
学門の徒というのは、目の前の世界がいかに完成されているかを学び、それを通して、身のうちの自分がいかに未完成かを識りなおす人のことだ/学門の道に入るということは、いかに自分が最低クラスかということを識ることだ、そりゃ「入門」したら「入門編」で、そのランクは最低クラスに決まっている。

入門しなければ、あなたは標準クラスでいられる。

ここがミソだな、物事に入門するのはきっと向上心からなのだが、「入門」ということはただちに「最低クラスにようこそ」ということになるのだ、入門さえしなければそんなみじめな思いはしなくて済むのだが……このように「向上心」の野望と「入門」の実態が背反していることで人は再現のない停滞に陥る。
何かもっとマシなものに出会って、あなたがそれを見ること、そして自分が改めて最低クラスに位置づけられること、そのときようやく何かが始まる、これは(気が)若いうちにしかできないことだ、おれは最低クラスとかイヤ〜ンってなるからな。
できるオンナだね | comments(0) |
グッドデザイン賞
「うんこ漢字ドリル」という商品が、2017年のグッドデザイン賞を受賞している。
表紙絵もカラフルな「うんこ」で、ドリル例文はすべて「うんこ」、「田んぼの どまんなかで うんこを ひろった」「わたしがうんこ担当の うんこだ ともうします」と、とにかく「うんこ」ですべてが埋め尽くされている。
うんこは汚物なので、人間の中の「虫」を刺激する、虫が騒いで子供はうんこに「キャッキャ」とよろこぶ、元気が出たように錯覚する/「虫」は汚物と甘みを栄養として繁殖するので、子供はうんこドリルをやったあとは、声優の甘い声が効いているアニメを観たがるだろう。
「汚言症」という、一見わけのわからない病気も存在している、軽度には「ぶっちゃけさあ」と汚らしく言わないと耐えられないという病気だ、それはやがて公の場で「うんこちんこまんこ」と叫ぶ症状に進んでいく、「糞、糞、畜生」と言わないと生きていけなくなるという病気だ/人間の中には「虫」が棲んでいる。

長距離ランをする人が増えているが、今長距離ランをする人の多くは、[虫]スズメバチのエキスを飲んで走っている。
カフェイン等だとドーピングになるので……スズメバチエキスはドーピング項目に該当しない、今長距離ランをしている人は「例の」スズメバチエキスを知らない人のほうが少ないのではないだろうか、その薬効はよくわからないがすでに何か「効く」としてランナーたちに重宝されている。
「こどく」を漢字変換すると、誰の端末でも変換候補のうち「蠱毒」というのが出てくると思うが、これは中国方面を発祥とする呪術のことだ、なぜこんなマニアックな語が熟語として登録されているのかはまったく不思議だ/この呪術には呪殺以外にも「富貴を得させる」という効果もある、ただしもちろん毒なので中毒は起こす。
蠱毒の術は、虫と獣、そして「ひがみ」「飢え」「共食い」といったキーワードをヒントに成り立っている、いわゆる狐憑きというのもそれだし、犬神というのもそれだ、「蠱毒」は正式な作り方があるらしいが、平安時代にはすでに詔勅によって禁止されている。

「虫」という字は、元は蛇の象形文字だ。

「蛇」は、ありとあらゆる神話に登場し、さまざまな宗教でシンボル化している、アダムとイブは蛇にそそのかされたのだし、仏教においても煩悩三毒のうちのひとつ「瞋恚」は蛇に象徴されている。
もともとは、「人でもない、鳥でもない、動物でもない、魚でもない」という、よくわからないものを「虫」と総称した(だから「蛇」は虫偏がついている)、われわれが慣用句として「虫が騒ぐ」というとき、このよくわからないものにエサをやっているということだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
虫の業(わざ)

のところ、「虫」の話をよくしている。
「虫」は、人間の「信じる」という機構に棲みつく。
「虫」は、人間の「信じる」という機構に棲みつき、そこに虫食いの穴を空けてしまう、するとその穴が「感受性」のレセプターになる(虫の巣穴のようだと捉えてよい、その巣穴の中で虫はエサを待ち焦がれている)。
人間の「信じる」という機構に棲みつく/だから人は、「感受性」に刺激を受けたとき、たちまち誤ったものを「信じる」「確信する」という形で、その感受性を体験する、この体験は甘みを伴っていたり、汚物感を伴っていたりする、そして甘みも汚物も「虫」のエサになるので、虫は繁殖し、人間の「信じる」という機構はますます食い荒らされていくのだ。

「信じる」ということが、正しく・清潔に・整えられて与えられてあれば、そこには虫は棲みつきにくい。
「信じる」ということが、湿っぽく・野ざらしに・暗闇に放置されてあれば、そこにはいくらでも虫が棲みついてしまう。
「信じる」という機構に棲みついた虫は、その内部で力を発揮することで、人に誤った「確信」を感得させるはたらきをする、この誤った穴あきの「確信」を修繕するのは学門しかない。
人は、その他の動物よりはるかに大きく「信じる」という機構をもっており、この機構の作用は大きいのだ、だから人は、学門によって正しきを信じるか、虫によって誤ったことを確信するかのどちらかになる、そのどちらともその当人の生きる時間をほとんど支配してしまう。

感受性から生じる「疑似信仰」が、人を無神論者にする。

たとえば、人にバカにされたであるとか、美女の媚びを受けたとか、そういったことで人はメラメラする、するとそのメラメラは急激にその人にとっての「確信」に成り上がる、そのとき当人は「これだけが真実……」と恍惚になるのだ。
そうして「信じる」という機構に棲みつき、感受性からの疑似信仰を生成するのは、いわば「虫の業(わざ)」だが、この虫の業は手強い/仕組み上、必ず「無神論者は感受性を信仰している」と言える、この感受性信仰は虫のために甘みと汚物を流転しており、どことなく地獄の予感を伴っているものだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
情熱大陸の実物を見た者として
「音色」はまだ好きだが、「楽器の音」は好きじゃない。
僕は情熱大陸の<<実物を見たことがある>>、葉加瀬太郎さんのほうが立場が上なのはわかるが、僕は勝手に「お前は情熱大陸を知らんだろ」とテキトーなことを言いたい。
僕はたぶん、一人だけヘンな生き方をしてきてしまったぞ、たぶん僕が言う「感動」と、一般的に言われている「感動」はまったく別のものだ。
僕は「世界」が好きすぎて、その他のことがたぶんまるでわかっていない、僕は世界は好きだが音楽は好きじゃない、音楽とか小説とか映画とかそういうものは一切要らない。

「音色」はまだ「世界」があるので……というか本当は世界さえあれば音色も要らんのだけれども。
僕は「エトピリカ」の中に情熱大陸の実物を見たのだが、かといって「バイオリンの音がいい」とか「葉加瀬太郎の演奏がいい」とかはまったく思わん。
情熱大陸の実物はとてもいいものだが、そこにバイオリンとか葉加瀬太郎とかはジャマだ、といっても葉加瀬太郎がいないと困るというのもわかるのでしょうがないが、それにしてもジャマはジャマだ(意味不明)。
音楽の演奏とか、そういったものにはまるで興味がない、演奏しないとそれが出てこないのもわかるが、それにしても「なに演奏とかしてんねん、ジャマやなあ」とは感じる、どれだけワガママでもそう感じるのだからしょうがない。

恋とか、そういうものがなくては。

恋とか、そういうものがなくては、何にもならんというか、漠然とした立派な「活動」ということには、何の意味もないように感じるが……と、その感覚はたぶんほとんど僕かぎりのもので、たぶん僕の脳みそがヤバい、たぶん僕ひとりかぎり、まったくヘンチクリンな生き方をしてきてしまったぞ。
僕には、立派なものとか、功績とかが、よくわからないのだ、「世界」が好きすぎて、その他のすべてが何一つわかっていない、こりゃ何十年経っても噛み合わないわけだよ、なぜ誰も情熱大陸の実物について話し合わないのかずっとずっと疑問だったんだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
学門を得られた人は幸いだ
門を得られた人は幸いだ。
学門だけが、人にとって平等であり、学門こそが愛(世界愛)の本質だからだ。
幼いうちから、衝動によって学門をキックした人は、後々とんでもない後悔をしたはずだ。
学門をキックするということは、その後のすべてを投げやりに生き、やるべきことの一切を無くすということだからだ。

人間にとって学門とは、「目が覚めた」ということに他ならない。
学門を、覚えごとだと思っている人はまるで逆で、本当は学門を得ることこそが、覚えごとをしなくてよくなる唯一の道だ。
学門をキックした人は、「砂糖はお湯によく溶けて」「炭酸ガスは冷たい水によく溶ける」ということに、いちいち"激怒"しなくてはならない。
学門をキックするということは、言葉の一切が瓦解するということだ、もはや何を話せばいいのかわからなくなる、そのとき人はあらゆる「症候群」の中を生きるしかなくなる。

ヘレンケラーが「ウォーター」と叫んだのは、彼女がそのとき学門に気づいたからだ。

ヘレンケラーが学門に到達するまで、サリバン先生は暴力的なほどの「教育」を施した、そうでなければヘレンケラーは獣になってしまうから、そしてやがて虫に食われて地獄のものになってしまうから。
ヘレンケラーが獣にならず、ウォーターと叫んだことに、幸いがあることは疑いない、この不可能を可能にしたのはカミサマの力だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「困難に向かう」か「毒づく」か、どちらか
々、「困難」に立ち向かってそれを突破しようとしている人があれば、そういう人は眼差しが違って当然だ。
日々、特に意味もなく微笑んでいたり、やたらとリラックスにこだわっていたり、そういう人が、「困難」に挑み続けている人と同じ眼差しを持つことはできない。
そしてなぜか、日々いろんなことに腹を立てるのは、「困難」に挑んでいない側の人なのだ、「困難」に挑んでいる人は正直それどころではなく、「あ〜くそ〜難しいなあ〜いやしかし待てよ、そうかつまり、あああ」という具合なので、何かに腹を立てるという機会がほとんどない。
「困難」に挑んでいない人は、日々あれこれ考えるのだが、初めから「困難」を避けることは決定済みなので、いくら探してもまともなことは見つかってこない、それでしょうもないことばかりが目について腹を立てるのだ、そういう人はやがて腹を立てることが日課になってしまう、これが冗談ではなく本当にそうなるからおっかないものだ。

「困難」に立ち向かわずに来た人は、後ろめたさがあるので、早晩、「困難アレルギー」というべき状態になる、とにかくリアルな「困難」や「難しいこと」に面すると、急に眠くなったり機嫌が悪くなったりということが、ヒステリー様に現れるようになるのだ。
実につまらない話なのだが、「困難」に立ち向かわずに来た人は、「困難」に立ち向かってきた人のことを認められないのだ、そこを認めてしまうと人間性に上下がついてしまう、人間の対等性を保持するためには、「困難に立ち向かう」ということの迫力自体を消去するしかなくなる。
こうして、人は、自分の知らないレベルで、「腹を立てたがる」という性癖に取り込まれていくことになる、なぜか?/それは、人は腹を立てているあいだ、いろんなことを見失うことができ、「困難」に立ち向かうことをせず生きてきた自分のことを見ずに済むからだ(だから人は人間の対等性を主張するとき、必ず腹を立てている)。
「困難」に立ち向かってきた人と、そうでない人とでは、残念ながらどーしようもない明らかな差、それも「輝き」と呼ぶべきレベルで差がある、その差があった上で「優越しない」ということが<<愛>>ということだが/よって愛のない人は、実は「困難」に立ち向かうことをせず、「競争」に立ち向かっている、愛のない人は「困難」に立ち向かわずおおよそ「共食い競争」に立ち向かうので、その眼差しには輝きではなく蠱毒が宿る。

「毎日一度は、困難に立ち向かう」というタイプと、「毎日一度は、腹を立てる」というタイプに分かれる。

運転中に罵詈を発する人や、会話中に「でもそれってさあ」と声を高める人、急に何かを諦めたように冷たい声を出す人などは、毎日一度はそうして腹を立てるタイプだ、そうやって蠱毒を足さないと日々のエネルギーが充填されないので、知らぬ間に定期的にそうしている。
大雑把に言ってしまえば、人は「困難に向かう」か「毒づく」か、どちらかの人にしかなれないのだ、どう努力しても「毒づく」ということをやめることはできない、また困難に立ち向かっている人には、次第に「毒づく」という能力自体がなくなっていく、それはただの分岐であって努力の結果ではない。
正しく見ないとな | comments(0) |
「困難」なこと、その壁にぶち当たること

所に「あなたも陶芸に挑戦しませんか?」みたいな広告が貼り出されている。
こんなことを、いちいち真剣に考えるのもどうかと思うが、そういった習い事に「挑戦」ということは、人にたいしたものをもたらしはしない(当たり前だ)。
なぜそういった「挑戦」がたいしたものをもたらしはしないかというと、それは、「困難に挑戦する」ということではないからだ、一般に「陶芸に挑戦する」ということは、「ここ数年、没頭し、数千回は立ち向かったが、すべてまったく歯が立たなかったよ」というような次元のことを指してはいない。
だが、人は誰しもせっかく生きているのだから、願わくば生きているうちに、「困難」に挑戦することがあるほうがいいと思う、なぜなら、真にすばらしいことのほとんどは、途方もなく困難なことばかりだからだ。

人がすばらしいことに向かうということは、必ず、生々しい「困難」に向かうということだと言っていい。
もし、容易なことですばらしくなれるのなら、万人がすばらしい生を送ることができるはずだが、残念ながらそうではないのだ、すばらしいことは必ずとても困難であり、すばらしいことのすべては手にできる人が限られている。
「そういう、難しいことはなあ、ワシには無理やで、できる人はすごい人なんや」と、見切って清々しく生きていくという道もある、それはそれですばらしいことだと僕は思う、が/それが「すばらしい」ということは、そうして清々しく見切って生きるということ自体が、とても困難だということだ、多くの人はそんなステキな見切りはつけられず、こっそりすべての「困難」を見ないフリをして生きていくことになる。
単純な選択として、すべからく、若い人は「困難」に挑戦すべきだ、その困難とは学門・文化・芸術のどれかに属しており、困難ということは高コストを掛けるということじゃない、「大変なこと」に挑戦するのではなくて、「難しすぎること」に挑戦してヒーヒー言うのだ/その挑戦から毎日逃げずに生きていくことは、あなたに誇りを与え、あなたを力みから解き放つだろう。

「難しすぎて草も生えない」と言え。

大事なことは、「困難」に直面すること、壁にぶち当たるのだ、この「壁にぶち当たる」ということをナシに生きていくと、人は卑屈で力んだものになってしまう。
人が本当に笑って生きてくためには、壁にぶち当たり、何百何千と果てしなく向かってみて、ついに突破するか、ついに「いやあ、ダメだわ!」と痛快に降参するか、どちらかしかないのだ/「難しすぎワロタ」「えぇ……こんなことできる奴マジでいんのかよ……」みたいに打ちのめされるのは、本当に笑って生きていく道の入口だ。

恋女のマインドね | comments(0) |
われわれは11万回以上は食事できない

さらながら、「ビットコイン」って何なの? ということを調べてみた。
えーと、なるほどね/……なんだこの、おっかないモノは!! よくまあこんな、発行権の所在がよくわからない突然の新通貨に、平気で両替できるなと、僕は驚いたのであった。
通貨の発行権が、中央銀行にない(国家にもない)どころか、そもそも管理所が銀行でさえないじゃないか、なぜこんなもんが突然出てきて、なぜまた多くの企業がこんな不明の通貨で決済を許すんだ、ビットコインとやらの急な万能の外貨通用性は一体誰が保証しているのか、こりゃいくらなんでもエエエエと僕は驚いている。
「ポイント」を購入しているわけじゃなくて、通貨を「両替」しているわけだろ、もちろん担保金なんか供託していないのだろうし、この急激な通用性の隆盛は誰がどうやって創造しているのか等、僕はおっかなくて調べる気にもなれないのだった。

しかも、スマートフォンのアプリで所有貨幣を自己管理もできるそうだから、それはつまり、どうやってもクラックできない入念な仕組みがすでに作られているということか。
これはアレかね、要するに、すでにビットコインの発行高と為替を、人工知能が自動的に統合管理しているということかね、それで新時代のハードマネーを作ろうという……そしてスイス銀行よさらばという具合のプロジェクト的な何かなのか。
昔から「マザーコンピューター」というと、人間に謀反して戦争をふっかけてくるのが映画のストーリーだったが、まさか戦争じゃなくて財産を押さえにくるのかよ!! そりゃ地味すぎるというか陰湿すぎるというか、そういうのもうやめにしましょーよホント。
国際決済銀行の会議に、人工知能の「頭取」が一席を並べるという……そんな感じの空想を膨らませつつ、まあでも値上がりの可能性があるとして、単純なファンドとして狙われているというところなのだろうな、そういう話は常におっかなくて僕は好きじゃない。

3×365×100=約11万だから、われわれは11万回の食事分を稼げば生きていける。

逆に考えると、われわれはどう頑張っても、11万回以上の食事は不可能なのだ、あとは寝るところと着るものがあれば……もちろん医療も十分に欲しいところだが、そこから娯楽だの何だのと足していきすぎるとキリがなくなる。
11万回の食事分が、勝手に地面から生えてきたり、海から湧いてきたりしたら、われわれは生きるのがラクでいいのにな、そうしたらもっと愛と学門だけに集中していられるのに。

正しく見ないとな | comments(0) |
パーティ報告74(2)

「むし」(虫)の話は、新しい切り口だが、一番わかりやすく、よく伝わったように感じる。
「虫の居所」「虫が騒ぐ」という言い方があり、また麻薬中毒者の禁断症状に「虫」を幻視するのもあり、つまり人間の内部には本当に元型的な「虫」が棲みついている/それはミトコンドリアのことではないかと、僕は漠然と疑っている。
人間の内なる戦いは、この「虫」との戦いだし、人間が「わたし」を世界に向き合わせてする学門は、この「虫」を暴き立てて排除していく学門だ。
「いろんなよろこび、のつもりのもの、いろんな楽しみ、のつもりのものが、実は自分の足しにならず、『虫』の足しになってしまうことがあるんだよ、そこを区別しないといけない」

「虫が騒ぐ、という現象がある、虫が『エサをよこせ』と騒ぐわけだね、騒いだら、もうたまらんから、エサをあげる、すると虫どもはいったん落ち着いて騒ぎをやめる、そうすると何か、『すっきりした』とわれわれは誤解するものだ」
「でも、虫どもは落ち着いたふうでいて、実はエサをもらったぶんだけ増殖している、だから次に『エサをよこせ』と騒ぎ出すときは、その騒ぎはもっと大きくなっているんだ、この現象をよく見極めないといけない」
「究極的には、酸素さえそうなのだけれど、『虫』への栄養が経たれると、人は表面上『苦しい』と感じる。でもそれは、本当は虫の苦しみであって、本当の本当には人間の苦しみではないんだ」
「だから、『苦しみ』というのは、本当に苦しいものだけれど、本当はそれは『悪いものではない』ということなんだね、苦しみというのが実は悪いものではないと知ったとき、われわれはちょっとラクになるところがある。いつか死ぬときにも、このことを思い出したらいいかもしれない」

つっても、呼吸しないと死ぬので笑、まあうまいこと塩梅して生きていくしかない。

われわれの呼吸が実は細胞内のミトコンドリアに依存しているということはすでに科学的に周知の事実だが、この虫みてえなものがおっかないとしても、それを絶滅すると(一般的には)自分が死ぬので……まあしゃあない、敗北的呼吸をしつつ、そのまま学門を進めていくしかない。
「虫を絶滅するってのは、たぶん凡人のわれわれには無理だよ、でもなるべくそれが減っていく方向の、軌道に乗せないといけないな、さすがに『右肩上がり』はまずいだろ笑、『虫が増殖して絶好調』というのはさすがにやめよう」

そのほか | comments(0) |
パーティ報告74
19時から飲み始め、朝の5時までキッチリ飲み(10hours)、そこからファミレスに行き8時まで朝食(3hours)、そこからカラオケにいって終わったのは正午だった(4hours)。
今回は、「なぜ全員こんなに飲めるんだ……?」「徹夜どころかもう翌日の昼なんだが、どうして誰も疲れていないんだ……?」と、誰もが不審がるほどの回だった、しかも今回はおしなべて酒宴も静かに進行したというところが印象的だ。
まあ最後のカラオケではおれがめちゃくちゃに盛り上げてやったけどな!! サハスラーラチャクラ(草)の開いている人間のガチ勢ぶりを見たかよ!!
こういったことが、誇張された冗談だと、いうことにしておきたい、「あなたの先祖は江戸で寺子屋をやっていた」などという霊視(草)が、ホンマに家系図にピッタリ重なっていたなどという話は、いよいよシャレにならなくて草も生えない。

あと、あのときは言い忘れていたが、カラオケで歌っていたとき、あれでエコー(およびリバーブ)はゼロにしてある、イコライザーもフラットだしエフェクターも全OFFにしてある(だからコンプレッサーもかかっていない。はず)。
使っていたマイクはパッシブのダイナミックマイクなので、集音は増幅されていない、マイクはド定番のshure58、いわゆる「ゴッパー」なので、そのへんに特に秘密はない、音楽スタジオならだいたいどこもこのshure58だろう。
だから、あのときのあれが、極力加工を排除した「生声」だと思ってもらって差し支えない、そして19時から朝の5時まで飲み続けた直後の声があれだというのも見逃せない資料になるだろう。
つまり、人間はそんなに弱くない、コンディションにこだわるのは逃避にすぎないし、加工に頼るのは堕落にすぎない、そして僕は誰かに技術を習ったわけでもないので、そのコストもかけていない、よって誰でも「フツー」にできるはずというのが、あのとき見たアレだ、そう考えるとそんなに貧しいもんでもないだろ。

報告:二日酔いも疲労もなし、そして喉もまったく涸れていません。

僕みたいな、音楽的な素養もなければ訓練も受けていない、しかもヘヴィスモーカーが、朝までたらふく飲んで、そのままカラオケ屋でシャウトしまくったとかいったら、常識的にはヒサンな声しか想像されないだろう、けれどもその常識はついに間違っている、有利な常識があなたを勝手に弱いものに仕立ててしまう。
僕はあのようなとき、デタラメ気ままにウヒャヒャとやっているように見えるが、実は内部では(上空では?)非常に緻密な操作をしている、それは酔っ払っていても消えない、むしろ酒もあって僕が消えれば消えるほど、その緻密な操作ばかりが僕を支配するようになる。
そのほか | comments(0) |
第74回Quali's Party[11月18日(土)]無事盛会!

Recent entry: ひろみ、こりん、ゆか、りさ、くおり
11/20 Quali tweet> ところでfirefoxがアップデートされてfire gesturesが使えなくなって困っている人が多いと思うが、代替にfoxy gestureをインストールして設定をいじればイケるぞ! pls entry


(子曰。

遊而時不作ポスター。

不亦説乎。)


今回も無事盛会でした! 次回もよろしくお願いします!

九折


キラキラ次回[12月16日(土)]加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB
費用:男性5000円 女性3000円
参加資格:ブログorサイトのファンであること

→その他詳細はこちらから

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
この時代がどこかおかしいと感じているあなたへ2
なたはぜひ賢い人になってください。
数々の迷惑は、人の本性、その本性における未熟から生じています。
ここでルールAを施行すれば、本性Aは抑圧されます、抑圧された本性Aはアングラ化するので、表面上は迷惑として出てこなくなります。
同時にその本性Aは、未熟なまま保存されます、ルールがAからZまで増えてゆけば、本性もAからZまで未熟なまま保存されます、それを取り出すことは許されなくなります。

人の生きる時間に、その人の本性が含まれていないのであれば、その時間は「架空の人間像」を演じていることになります、人に迷惑はかけませんがそのぶん無意味な時間になります。
だからあるていど、まさにここの按配が肝になりますが、暮らしの上での「迷惑」というのは、それ自体を尊ぶ必要があるのです、駅前に放置自転車があることは、人々の暮らしが息づいて栄えていることの証だとよろこんで見られねばなりません。
さまざまな迷惑防止のルールが施行されるのは、われわれのためではなくて、政治家が存在感をアピールするためです、ほとんどの法律は政治家が次の選挙で勝つために実績として作られているだけで、自分は次の選挙で勝てさえするならもともと政治家は立法そのものに興味がありません。
われわれは今、「架空の人間像」をやりあって、無意味な時間をたくさんすりつぶさねばならなくなっています、さらに抑圧してきた本性AからZが、あまりにも未熟なまま保存され、しかも腐敗しているので、今さらそれを取り出すことはさらにできなくなったという状況です、あなたは賢い人としてこのことを学門において看破してください。

迷惑がないなら、成熟はゼロとなる。

人々は今ヒステリックになり、迷惑にはただちにルール化と厳罰化をもって当たるだけだと思い込んでいます、そうした人々が直感的に「成熟していない」と感じられることは実のところ誰でもわかっている、けれどもすでに多くの人が、加齢した自分がひどく未熟だという直観から目を背けたがっている/それはもう取り返しがつかないと予感されているから。
程度問題はもちろんありますが、あなたは賢い人になるものとして、愛のある人に迷惑をかけられることを尊びましょう、<<突き抜けた愛は必ず一般的迷惑の成分を含んでいる>>/あなたが「確かに愛はあるけれど、カンベンしてよ」と揺らぐその瞬間、あなたはかけがえのない本性成熟の機会を得ています。
恋女のマインドね | comments(0) |
この時代がどこかおかしいと感じているあなたへ

の世間に向けてはまったく通じないことを、個人的に話します、僕を慕ってくれる少なからぬ人に向けて、特にまだ若輩で、健気に生き抜こうとしている人に向けて話します。
たとえば駅前に放置自転車があるとジャマっけです、もちろん駅前はすっきりしているほうがいい、じゃあ駅前の放置自転車を「撤去」すればいいかというと、これは誤りになります、単純な「やりすぎ」という意味で誤りです。
あなたは賢い人になるべきです、そして賢い人とは何かというと/「放置自転車はジャマっけだ、だからそのままにしておこう」と発想できる人のことです、<<実にこちらの発想のほうがレアだ>>ということに気づいてください、短絡された多数派の発想しか持てない人は残念ながら真に賢い人ではありません。
タバコが煙たければ、煙たい中を生きましょう、近所の保育園は実に騒音です、騒音というのはとても迷惑ですが、だからこそ「このままでいく、<<ちょうどいいよ>>」という発想を見つけましょう、実にこちらの発想のほうがレアなのです、ジャマっけだから撤去しようという短絡な手を、「陳腐」だという一点から忌避するのが学門の入口です。

なぜそれが学門の入口かというと、学門とは「問いかけ」の世界だからです。
仮に駅前の放置自転車を厳しく撤去し、その他すべてのことも弾圧的にルール化してゆけば、もうウンザリする必要はなくなるぶん、この世界にはまるで「問いかけ」がなくなるように感じられます、それは学門の否定になるのでした。
よくよく考えてください、もしありとあらゆる「迷惑」を、懲罰を背後に据えたルールで抑圧するとすれば、この世から「迷惑」が消えてなくなる……わけではありません、それは弾圧されて地下に押しやられているだけで、人にそこそこ迷惑をかけもするという人間の本性は消えてなくなっていない、ここのところをよく見てください、人間に非本性化を強いて表面を欺瞞しているだけです。
ありとあらゆる「迷惑」を弾圧され、抑圧されきっている人を目の前で見て、あなたはその人とどうやって本心から付き合えるでしょうか? 彼が真にやさしい人か、慈愛のある人か、わかったものではありません、何もかもを抑圧した彼の地下から、やがて何が噴き出してくるのかわかったものではないのです、そこまで見て人々の暮らしを按配するのでなければ、誰も賢い人ではありません。

短絡は元々、すべての他人に「死んでくれ」と頼むに決まっている。

ルール化すると、禁じられた行為はアングラ化し、見えなくなりますが、それによって人の本性が消えるわけではない/だからわれわれは今、暮らしの中で人間の本性を見いだしたり、本性から互いを磨き合うという機会を失っているのです、そうして人と本性から付き合ってゆけなくなる以上、すべての人に「死んでくれ」頼み始めるのは、ことの初めから構造上に定まっています、地下も含めたすべての「迷惑」を消すのが、「全員死んでくれ」なのです、これは賢い人のやり口ではない。
僕があなたの家の玄関先に、自転車を勝手に駐めて、タバコを投げ捨てますから、あなたはそれについて「死ね」と言うでしょうか、じゃあ自転車を駐めずにタバコも捨てなかったら「死ね」とは言わないでしょうか、それがコロコロ変わるのはおかしい/僕がタバコを捨てようが捨てまいが、もともと「死ね」かもともと「ごきげんよう」かのどちらかにしてください、表面上の行為に陽動させられず人の本性に向けて「死ね」か「ごきげんよう」かを選択してください。

恋女のマインドね | comments(0) |
重大汁のぶっかけ
ヴィで重大ということは、つまり「重い」ということだから、それが重い以上、動けない、ということになる。
重大ぶる人は、それが「重い」ので、ほんのわずか動いたことを、「すごくがんばった」と感じる、けれども当然、そこに耕された営みは浅い、ほんの少ししか動いていないからごくごく浅い。
この視点で万事を眺めていくと、人間の営為の本性がわかる、たとえば家族が重い人は家族の内に深いきずながない、恋愛が重い人は恋愛の中に深い思い出がない。
勉強が重い人は深い学門にはまるで到達しない、趣味が重い人は浅いウンチクを垂れるだけでしかない、と、誰だって周囲を冷静に見たらそうなっていることがわかるはずだ。

「重大にすると薄まる」のだ、このことはそのまま丸暗記していて損はない。
たとえば今ここで僕が、僕の出身地や出身校、これまでしてきた仕事や恋愛、たしなんできた趣味のすべてについてどっしり重く話してみようか、そうすれば当然、そんな話を聴く前に、僕は「浅い奴」になるだろう。
何なら旅行先でシャッターを切って涙を流し、「そのときの思い出の俳句なんだ」みたいなことを聴かせてやろうか、そうするとますます僕は「浅い奴」になるだろう、あるいは「おれ、あのとき○○さんに殴られてさ……」と気分たっぷりに話してやろうか、そうするとますます「浅い奴」だ。
たとえば、食事に行くというのなら、本当にただそれだけ、「食事に行く」というだけでいいの、それだけで十分確かで滋養になる値打ち、輝くものがあるんだよ、これにわずかでも足し物をすると薄まる、この足し物で薄まることで、人々は一気に行方不明になっていった。

薄めるなって。

調味料をドバドバ足したら、そりゃ味が濃くなるかもしれない、だけどそれは料理の味じゃない、足し物の味で醍醐味のほうは消えてしまっている、どんな料理でも一リットルの醤油をかけたら料理としては「消える」のが道理だ、そうして物事の玩味を薄めるな。
体内で習慣的に分泌される……まあいわば自家製の「重大汁」だな、この重大汁がすべての営為や出来事を薄めて消去してしまう、重大汁のぶっかけは性犯罪なのでやめましょう、性癖のゆがんだエロマンガの読み過ぎです。
正しく見ないとな | comments(0) |
「ヘヴィなくせに浅い」および「イージーだが深い」ということ
げさにしないこと、重大なことは何もないということ。
こんなことをスローガンにするのもとてもヘンなことだがな。
勉強したり受験したり、進学したり就職したり、仕事したり創作したり、結婚したりと、人それぞれに色々あると思うが、それらのどれひとつも「重大」ではないということ。
なぜなら個人的な、一身上の何かであって、われわれの個人に「重大なこと」なんて起こらないからだ、何かが重大に思えたとしたら、それは自分が自分だけを勝手に重大だと思い込んでいるからだ、自分には重大な何かがあると思い込んで、一人だけ血相を変えているにすぎない、それはひどい痴態と迷惑と喧噪の罠になる。

生きているうち、何もかも、そんなに悪いことではないし、小さくとも素敵なことは色々あるのに、それを「重大」と思い込むことで、滋養は薄まる、思い込みと気負いが乗れば乗るほど、物事の滋養は薄まっていくのだ、何もかもを「重大」と反応することで、何もかもが逆にスッカスカになってしまう。
この「重大思い込み主義」によって、現在、何もかもが「ヘヴィなくせに浅い」という状態になっている、本来はその逆、「イージーだが深い」という状態にならないといけない。
なんというか、たとえば「わたしは彼のことを愛しているんです」というとき、その思いはとてもヘヴィなのに、「愛している」という実態はとても浅いのだ、本来はその逆、「愛している」という思いなんかイージーに五分ごとに湧いてきていい、それでいてその「愛している」という実態は軽口の向こうに深くないといけない。
たとえば僕とあなたが共に小説を書いたとしたら、小説を書くということはあなたにヘヴィな思い入れを持たせるだろう、しかしその書かれた小説の実態が僕より深くなるということはありえない、自慢じゃないが僕は小説その他を書くということに思い入れなんか持ったことはない、安造りの演出マンガのせいで誤解しているかもしれないが、重大ぶっているということはただちに「浅い」ということだ。

ヘヴィなの、じゃあ何にもならないよ。

映画「アルマゲドン」では、有名なエアロスミスの歌が流れるのだが、かつて「郵便配達は二度ベルを鳴らす」等の映画では、そんなド派手な音楽は流れなかった、この現代の過剰演出が人々の知性を「重大病」に罹らせている/「アルマゲドン」、決してきらいな映画ではないんだけどね。
一般に、無能さと大げささは比例すると見てよく、重大ぶる人は行為や出来事のすべてをますます加水して薄めていく、よって結果的に、重大ぶる人は毎日が重大で、かつ五年後も十年後も何一つ変わらず、何一つ得られていないというところに行き着く。
視点変えてこ | comments(0) |
「人のことがわからんからキャラに入る」

の早いクリスマスツリーが各所に出始めた。
それを見てふと思い出した、数年前のクリスマス、僕はいろんな人にサプライズで何かプレゼントしていたような……そのために原付で走り回ったりしていた。
その結果、何が得られるかというと、もう説明はしていられないのだが、サプライズプレゼント→僕が嫌われる→僕が殴られる→僕が謝罪する、という道筋で進んでいく、「なんでやねん」という話なのだがこうなのだ、説明は長くなるので端折るしかない。
それ以来僕はどうしているかというと、僕の元々の本性のすべてと、素敵なことのすべてを諦めた、なぜかというとそういったものは、ことごとくが何かのドッカーンオルガスムスの材料に供されるからだ、さらに僕が呆然としていると僕が嫌われ、僕が殴られ、かつ向こうが被害者になる(僕は謝罪)という進みゆきになる、何を言っているのかわからんと思うが、本当にそうなるのでこれはもうやめたのだった、僕の本性とステキなことの一切はすでに過去で遮断されている。

遮断されているからといって、僕の内で消えてなくなったわけじゃない、僕は天才である上に科学者であるので、そういうところはキッチリしている/本性と本当にステキなことの一切は、使わなくなっただけで、別に僕の内から消え去ったりはしていない、僕は悪党なのでそこまで付き合いはよくない。
「人のことがわからんからキャラに入る」のだと、言われねばならない、これもまた説明をナシにぶっ込むだけだが、人は自分以外の人のことがわからない場合、そこに何かがドッカーンと「あった」のだと、キャラを自作して捏造するようになる。
なぜキャラを作ってドッカーンとすると、何かが「あった」ことになるんだ、意味不明だと言われるかもしれないが、それは僕から見ても意味不明なのであって、しかし実態がそのように呈示されるのだからしょうがない、僕がサプライズでプレゼントした場合、そこで僕のことが「わからん」人は、キャラを作ってドッカーンとなった、そのことはなぜか次第に僕への攻撃に転向していく。
「キャラ」という言い方はすでに一般化していてわかりやすいと思うが、このことを逆方向から照らしてみればいい、「キャラ」が作られてその効用が発揮されているとき、必ずその背後に「人のことがわからんから」というメカニズムが動機としてはたらいているはずだ。

「キャラ」はすべて、「わからないこと」を目の前にしたとき生成される。

頭のイイ人にはわかってもらえると思うが、ここに示されている原理は堂々たる「大発見」だ、すさまじい&超絶の大発見と言ってもいい、<<キャラは必ず、わからないことを目の前にしたときに生じる>>、そして目の前のものがわかるようになるまで、そのキャラは永遠に続けられるしかない。
僕が元々の本性を発揮し、素敵なことをぶち込めばぶち込むほど、それは目の前に「わからないこと」が示されることになり、人々の「キャラ」を強烈化することになる、そして人に向けてキャラを振る舞うというようなカルマ(業)の増大に自分が耐えきれなくなり、対象を破壊なり消去なりする方向に自己がはたらき始めるのだ/だから本当の愛や哀しさ、やさしさなんてものはないほうがいい、それらはますます「わからないもの」として人々のキャラを強烈化してしまうだけだ、それで僕自身、それらの一切は過去に遮断している。

視点変えてこ | comments(0) |
5年も取りこぼしたら、もう本流には戻ってこられない
にか、気づくともう明日がパーティじゃねえか、なんでこうアッちゅうまに……まったく、ここまで生きてきて一度たりとも、僕は「前もって十分に準備する」ということができたためしがない。
数年前、僕は友人に、「だってお前は、活発に生きていないじゃん」と言った、そして「おれが思うに、人間て、生きているうち5年取りこぼしたら、たぶんその後はもう続かんぜ」と話した。
まったくそのとおりだと思う、僕は「活発」という言葉は好きじゃないが、それでも思い返してみると、「活発」に生きていない時間はきっと、数日、というような単位でしかなかったろう、たぶん風邪引いたときぐらいだ。
5年間活発に生きた奴と、5年間停滞して生きた奴とで、その時点ですでに差がつくのに、停滞して生きてきた側が本流に復帰するのは容易なことじゃない、それは言い換えてみれば、中学一年生の知識で大学受験に挑むようなことなんだから。

たまにはこうして単純に考える/「活発」に生きてきた奴に、「活発」に生きてこなかった奴が、どうやって及ぶはずがあるだろう?
むろん、「活発」というのはハズレも多いのだが、しかし活発でないというならハズレ以上にハズレに決まっている。
しかも、活発でなく生きてきた人に限って、自分がそこそこまっとう(あるいはやや上位)に扱われないと強烈な不満を覚えるのはなぜなんだ、活発に生きてきていない人の話なんて面白くないに決まっているじゃないか、そんなことに不満を持つのは我欲と増長が過ぎる。
活発に生きていない人は、よく誤解しているが、「上司の○○がウザい」とか「アニメの○○が好き」とか、「○○の料理がおいしかった」とか「○○のエクササイズにハマっています」とかいうのは、あなたが受け身でそう受けたという話であって、あなたが何かをした(している)という話じゃないぜ? 5年間もそんな停滞の中にいたらもう本流に戻るのはとてつもなく難しくなってしまう。

5年も出遅れたら、もう強固なゴマカシ名人になってしまう。

いわば、言い訳と言い分のプロ、みたいになってしまう、そうなってしまったとき、すでに当人にその自覚はない、すばやく「だってぇ」と、言い訳と言い分ですべてをゴマカす反射神経が日常になってしまっている。
活発な奴が5年分もリードを広げていて、活発でない奴がそこから巻き返すというのはえげつないエネルギーがいるし、ましてそこで言い訳名人が毎回出てくるというのでは、もうどうしようもない、年々格差は広がっていくだろう、そんなことになる前に自分の活発さに証を立てたほうがいい、活発でない日なんて本来、月に数日もあってはいけない。
できるオンナだね | comments(0) |
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