☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
WS報告067(1)/妥当な流れに乗る奴は全員ミンチにしてタスマニアデビルのエサにしろ
さが堪える、おれも喉をやらかしていたが、各員も方々でダウンしている。
まあこの季節はしょうがないのだが、それにしても、妥当な理由になんか流されてはいけない。
このごろ、あまりに容易に、あまりにルーズに、妥当な理由で流されていき、妥当な理由で物事が消えてゆきすぎだ、そうして流され・諦める・失っていくということがどれくらい恐ろしいことか、きっと多くの人が気づいていない。
このご時世、生きるのに夢がないのがまさしく「妥当」だが、その妥当さに流されたら、もうその時点でゲームオーバーで、ゲームオーバーのまま何十年も生きねばならず、その先にずっと続く悲鳴はもう誰も聞いてくれないのだが、なぜそんなことを平気で受け容れていくのか……そのときごとのムードに流されて生きている人は、よほど楽観的なのだと思う、何かヨソの誰かが庇護者となって、求めてもいないハッピーを大量にズッドーンと投下してくれると思っているようなのだが、なぜそんなことを期待できるのかおれには感覚的にわからないのだった。

勝利しなくては敗北だと思うのだが(当たり前)、勝利するというのは、いわゆる勝ち組としてチヤホヤされたら勝利というわけでもあるまい、おれは競争に勝利したいのではなく、生きることそのものに勝利したい。
そして勝利したあげく、周辺情報を整理して「そりゃあな」と、勝って当たり前だわ、という形で勝利したい/すでにここまで生きてきたぶんでも、十分以上のお釣りが来るのは知っているのだが、そんなケチくさいことは言っていられない、おれは諦めて生きた人と絶望の大差をつけたい、それでしかけっきょく誰も救われないからだ。
厳冬期は、さすがに寒さが身に堪えて、いかんともしがたいところがあるが、だがそういうときこそ、全てを忘れて「ただならぬこと」に身をやつしていたい、だいたい意味のわかるようなことは誰だってやるし、誰だってやることは人を敗北にしか導かないから、そうではない、意味のわからない、だからこそようよう真似はできないようなことを続けていたい/人がおよそ真似できないこととは、つまり懸命さから離れたことだ、懸命なことは誰だってする、たとえば銀行に強盗に入るのは懸命なことだが、博物館に強盗に入ることは懸命なことではない、だから誰も真似できない。
説明不可能なことを、説明不可能な程度にやるのだ、誰だって麻薬をやれば快楽をむさぼれるのは知っている、だから麻薬をやるのは説明可能になってしまう、じゃあ麻薬をやる値打ちはないということだ/余人には説明できない、おれ自身にしか値打ちがわかっていないようなことをやる、それはつまり、この世界におれが存在するということだ、他の誰をあてがってもおれのやることの代替はできない。

誰にも説明できないことをするということは、おれが「素直になっちまう」ということだ。

そんなわけで、金曜日はいつもどおり、身体の使い方と、そこからつながるフィクションのワークをした、具体とフィクションと「言葉」がどうつながるのか? それを実演して、各員にやらせ、「どーだ出来ねーだろう」という体験をたっぷり得させた、いつもこれだし、これで合っているのだ、出来ないことが目の前に実物としてあるということは、目の前で直接「秘密」に触れているということだからだ。
「妥当な流れに乗る」というのは、とてつもなく恐ろしいことだ、あなたが想像しうるかぎりの「こうなりたくない」という人をイメージしてみたらいい、その人もかつて、「妥当な流れに乗る」ということを繰り返して現在の結末に到っている。
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解けた血縁の謎2
くの人が、反射的あるいは生理的に、「母の愛は強い」というふうのことを言いたがるが、一方で、一時期流行った「アダルトチルドレン」というような言い方、また臨床心理学がしつこく「両親の愛が足りなかった場合」を言い続けることに対しては、何ら確実な返答がない。
つまり、無条件に親は子を愛すると言いたがるわりには、親が子を愛さなかった場合という、世の中にむしろ過半数にありふれている実際の例については、恣意的に無回答を決め込んでいるのだ、このいびつな実態は、けっきょく「血縁は無縁だ」という事実から目を背けようとする衝動から生じている。
日本の場合、特に長く続いた江戸時代頃、為政者が封建制を継続する都合もあり、儒学・朱子学が国の学門として体制側に贔屓されたということもあり、血縁および特に父母を強く善く言おうとするが、血縁そのものは昆虫に到るまで生きものに具有されており、特段「人」の性質ではない/血縁はただ生きものの性質にすぎず、われわれの魂を定義しうる成分は皆無なのだ、それが実にゼロだということに冷涼な理解を得なくてはならない。
われわれは異様な執拗さで、父母や実子をありがたいもののように言おうとするが、「おめでとう」と反射的に言うわりには、実際に街中を歩いている子連れの女性を見てありありとそれを「幸福そう」とは感じない、歯に衣を着せずにいえば、「すさまじい荷物を複数抱えて歩いている」としか見えない女性も多いのが実際だ、われわれは街中で母なる女性がその実子を「怒鳴りつけている」ところばかり目撃するような気がするが、なぜかそのことには目を伏せてしきりに他人事のそれを「おめでとう」と言おうとする、われわれは恣意的にひどい思考停止を自らに仕掛けていると思える。

血縁は無縁であり、血縁は無関係、および生まれ故郷や、「同業者」のすべても無関係だ/同じ学業をするクラスメートも、クラスメートのうちは同業者(同じ「学業」にある者)として縁がある友人のように錯覚されるが、別業に移ればその友好はまるでなかったことのように消え去っていくだろう、それほどまでに業(カルマ)はわれわれを支配している。
この、「血縁は無縁」「同業者は無関係者」という本来の事実が、あまりにも押し隠されているため、そこから人格のゆがみや精神の未熟、関係の暗鬱、および痴愚の実体が生じてくるのではないだろうか、つまり「メンタル」がおかしくなることの多くが、この血縁・同業に対する依存・思い込みから生じている/母と娘が血縁を誤解しているので精神がおかしくなり、上司と部下が同業を誤解しているからブラック企業が生じるのではないだろうか。
ここに、「血縁は無縁」「同業は無関係」と言うと、一種のおそれと反発を生じる一勢力があることはいかにも予想されるが、その勢力は当人にも自覚しうるところ、血縁・同業以外に「縁のあった誰か」を思い浮かべることができないのではないだろうか、つまり「血縁は無縁」「同業は無関係」を認めると、それはただちに己の絶望的孤独を認めることになり、生きてきた時間のすべて――ないしは、これから生きていく時間のすべても含めて――を無意味でむなしいと認めることになってしまうから、おそろしくて肯定し得ないということではないだろうか。
このようにして、血縁・同業は、人々の本心から尊重されているのではない、ただ己を庇護し、かけがえなく有利にするものとして、つまり利益によって保護されているにすぎない/だからこそ、血縁・同業を己の存在の絆にすり替えると、表面上の安泰と豊かさが得られる代償に、人相が悪くなり、精神の根底はゆがんでくる、わたしはこのことをあしざまに言っているのではなく、このことが万事を読み解くよい視点になるということを申し上げているつもりだ。

血縁・同業は、弱い人がいきいきするための装置だ。

それがよいことなのか悪いことなのか、わたしにはわからない、けれどもわたし自身は、血縁に何かの絆を見いだそうとしたり、同業のわかりやすさを己の絆や居場所にしようとしたことはない、これまでに一度もないし、これからもきっと一度もないだろう、わたしがこの先も孤独でないという保証はどこにもないが、わたしはせめてそのときの孤独を包み隠そうとする弱さに陥らないことを自分自身に期待したい。
血縁は無縁だし、同業は無関係だ、ずっと感じていた謎と違和感があって、それが何だったかというと、ついに「弱い人が急に居丈高になる」ということが、わたしにとって違和感だった、今はその違和感の謎が解けて、爽快な心地でいる、彼らは血縁・同業につながりを持っているという誤解を背後において、かくも居丈高だったのだ、だからこそ彼ら自身、引くに引けないという事情もあった、そこから一歩でも退くことは、自分の数十年がすべて孤独で無意味なむなしいものだったと認めることになってしまうからには。
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解けた血縁の謎
風邪をやらかして、野暮用をこなすのも朦朧としている中、ふと解けない謎が解けた、「血縁は本当に、人を狂わせる」という謎があり、それがなぜなのかはわからないでいた。
その謎は唐突に解けたのだが、これは多くの人に目を背けられ、また当人が必要としないうちは遠い余所の記憶として保持されていればいいにすぎないが、この謎はこのように解きうる、つまり「血縁は縁ではない」ということ/縁がないものを不条理に縛りつけているものが「血」なのだ。
もちろん例外的に、血の縛りの中で、それを超えた縁を結びうる人もいるかもしれないが、それはほとんどの場合において虚構だ、誰しも生きていく中で「誰にも縁がない」「何にも縁がない」という実態を為していく中で、さも自分には何かの縁があると、錯覚させ縋り付くために、血があり、出身の土地がある。
これまでわたしは、血縁者というものが何なのかまったくわからなかったが、不意に謎が解かれたところ、血縁者は逆に「縁のない人々」なのだ、その縁のない者たちを無意味に縛りつけている思い込みの拘束が血縁だ、だからほとんどの親子や家族は、「血縁でなければ何の縁もなかっただろう」というような、相互に人格のちぐはぐとコミュニケーション性のなさで形成されている。

例によって、わたし自身には想像のつかないところだが、多く一般の人は己の孤独に耐えられないため、知らず識らず自分の縁あったもの、人や場所に自分を関係させて生きている/少なくともそのつもりでいるものだ。
だが真相は、生まれ落ちた土地や生まれ育った場所、生まれ落ちた血縁やその後に形成されていく血縁も、「縁」ではまったくない、まったくの無関係のもののようだ、ただ血による業(カルマ)が継承されるというだけであり、魂のレベルでは相互には何のつながりもない。
血は業(カルマ)を継承するので、つまり血縁者というのは「同業者」の捉え方に統括できることになる、同じ電気屋のA店とB店には何の縁もゆかりもないように、血縁というのは実は相互に何の縁もゆかりもない/そして多くの孤独者が、生きていく中で同業者の群れに依存することのように、孤独者はやがて故郷や血縁という同業者に依存して己の存在を肯定しようとするのだ、およそこの世界に何のつながりもないと認めて生きていくことは個人の小さな魂に耐えられることではないので、まやかしでもいいからそれに縋ろうとする。
この世界の、ものや人や場所に、ついにつながりを持てなかった者は、「同業者」として血縁や故郷や同窓生に己の存在を頼るにすぎない、多く子供を持つ人の場合もそうだ、およそこの世界を信じなかった人は自分の親と子供と家族のみを信じようとする、そうして「同業」が際限なく繰り返されていく、そのことを古くは輪廻と捉えた。

「血縁」と「父母」は別の事象だ。

血縁から生物が繁殖するという現象は確かにあるが、この繁殖の系譜そのものが、本質的な「父母」という事象を担いはしない、だからこそ「母なる大地」「父なる天」という言い方をする/繁殖の系譜に重ねて「父母」を実現しうるかという試みが人類の文化の一形態を為しているだけであって、その試みはこのところ「不能」という確実なアンサーを返してきている、立場上の大学生がもはや「学生」にはなれないように、立場上の父母がもはや「父母」にはなれない。
ともあれ、血縁とは何の縁かというと、血の業(カルマ)が継承されるという生理的な仕組みがあるのみで、何の縁もないのだ、何の縁もないヨソモノが相互に血縁という思い込みで縛りつけられている、だから血縁というのは依存と不快の装置でしかない/ではなぜこの依存と不快の装置が取り払われないかというと、この依存を取り払うともはや自己が成り立たないという人があまりに多いからだ。
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WS報告066(1)/主体性という現象について
曜日は「歩法」をやった、そして余韻法からのシンボリック・フィクション法、そろそろ各員はおれが何をやらせようとしているのか全体像が視えてきていると思う(いや、そうでもないか)。
土曜日は「主体性」をやった、主体性がリレーされるという現象、および主体性がない場合は業(カルマ)の押し付け合いにしかならないという話、そして主体性からの小劇場、それはそのままアハム劇場へとつながる(理論上はそうだが、各員に出来るとは言っていない)。
そのほかにも、ちゃんと背骨を動かせるようになるということ、あるいは胴体の接続、肩や股関節、肘と膝あたりも、きちんと使いこなせるように訓練している/本当に使えるようになってくると、身体というのはびっくりするぐらいよく動くようになる(そして疲れなくなる)。
けっきょく主体性とは何なのかといって、それは「祈り」「求める」ということになる、祈り求めるのが偉いということではなく、主体性というのはついにその形でしか現れようがないということだ、人は業(カルマ)によって吾我に依存するか、主体性に接続して祈り求めるかのどちらかしかないのだ、つまり「自力で絶対に頑張る!!」というのがイコール「カルマ増大!!」「だって因果律だもん!!」という怒号でしかないということだ、もはや因果律という語を聞くだけでなんとなく腹が立つようになってきた、因果といって「因」を身の内に探すのならば、われわれの身の内にはわれわれがアホになる因しかない。

今回は、「ボーナスタイムだ」といって、わたしが各員の祈りを代行するという曲芸をやった。
人と人は、基本的に1.利害で対立する、2.利害で談合する、のどちらかしか選べないので、利害が対立する関係を作ってやると、双方はもうぶつかるしかなくなる、そこでわたしが二人に触れて祈りを代行する、祈りを代行するといって何が祈りなのかは誰にもわからないだろうが、そうしてわたしが「いいですよ」というと、その二人には到底不可能だった次元のワザが現成してしまう、つまり出来るはずのないことが出来てしまう。
なぜそんなレベルのことが出来てしまうのかは、各員にはわからないのだが、わからないまま、なぜかそれが「あっ、出来る」というのは先にわかるのだ、祈りというのはそういうものだ、だからけっきょくワザではなくて現象なのだ、そしてなぜそんな現象が得られるのかは、当のおれにもわからん、おれの知っていることはただひとつ、「主体」という現象が自分だけでなく他者にも分配されるという分配則だけだ。
われわれの吾我は、それぞれに分離・離散して存在するので、双方は利害で対立するか談合するかのどちらかしか選べない、だが吾我と「主体」は異なる、主体はもともとひとつであり、ひとつのまま分配されるだけだ、だからわたしの主体がしゃがむとき、相手の主体も同時にしゃがむというだけ、なぜそんなことが起こるのかは誰にもわからないが、わたしが「はい、いいですよ」と言うと、なぜかそれが「あっ、出来る」ということはその人にもわかる、なぜ出来るのかはわからないが出来るということは先にわかっている、その状態を一般に「信じている」(疑っていない)という。

おれが何かを信じているわけではない。

この場合の「おれ」、つまり吾我は、万事に対して疑うということから発生している、よって吾我が何かを信じようとしても、必ずその出どころは疑いから発している、だから「おれ」は何かを信じているわけではない、「おれ」は常に「よくわからん」と感じていて、投げやりであきらめて放棄しているから、「おれ」とは異なる「主体」に頼んでいるだけだ、いわば主体が主体を信じているのであって、おれが何かを信じているわけではない/おれはおれの買った宝くじが当たることを期待・願望するだけであり、信じているわけではない、主体が宝くじを買えば確実に当たるだろうが、主体は用事もなしに宝くじを買わない。
繰り返されてすでに飽きたパターンでいうと、わたしが主体の分配によっていくつかの景色や現象を与えると、そのうち何割かの人は、その景色や現象を自分の霊性ていどのものだと思いたがるものだ、けれどもそれを自分由来のものと思い込むときっちり呪われるので、そのパターンは絶対にやめたほうがいい、つねづねそれらの現象は「おれのもんじゃない」とおれ自身が言っているのに、それをヨソの若造が自分のものだと思い込みたがる脳みそメルヘンはいいかげんにすることだ、おれはいつも「感謝はしなくていい」「信仰もいりません」と言っている、おれはいつも「出来る」「出来事(HAPP-Y)」への手続きを与えようとしているだけだ、おれが脇に立って祈りを代行するだけで「あっ、出来る」となることを、いよいよ「なぜか」と単純に考えてみたらいい。
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わたしはこれの子なのではないかという気がする
の外から水の匂いがする。
空の向こうから水の匂いが運ばれてきている。
わたしが人付き合いのすべてを持たなかったあいだ、わたしはずっとこの風の中にいた。
わたしは人付き合いをしたことがなくて、そのかわりずっと誰かがいた。

この季節はどうしても喉風邪にやられる。
そしてやむをえず休んでいると、わたしはやはり、もといた自分の場所に還っていく。
ふだんから無茶をしすぎなのだろう、そもそもわたし自身は何かを必要とはしていなかった。
わたしがわざわざ焦りの中に踏み出すのは、きっと迷いに違いないだろうが、それはわたしが選んでそうした迷いなのだ、だから誤っているとは思わない、わたしはけっきょくここに戻ってくるのだろう/だからいくら迷いの中に踏み込んだってかまわない、ようこそいつもの風の中へ。

わたしは何かの子なのだろうか?

いつも一般向けに、わかりやすいように、理に整合するように、万事を説明しているけれど、初めから最後まで、何らの説明もつかない現象にわたしは包み込まれている、わたしはなぜか一種の約束の風に包み込まれている。
これがあるせいで、わたしはずっと、生まれてから何一つをも必要とすることがなかった、これが何なのかはわからないが、ふとわたしはこれの子なのではないかという気がする、なぜならわたしはこのときいつもまるきり子供のままだからだ。
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ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 12/2更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第百二十三回】12月6日(金)19時〜19:00~検討中、20:00~マイレッスンスタジオ
【第百二十四回】12月7日(土)19時〜19:00~マイレッスンスタジオ
【第百二十五回】12月13日(金)19時〜@19:00~マイレッスンスタジオ(予定)
【第百二十六回】12月14日(土)19時〜@19:00~マイレッスンスタジオ(予定)


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第99回】12月28日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第100回】
1月18日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

【第101回】2月15日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


クソほど学ぶ日々はどうです


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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女は幸福でなければならない2
代のように、セクシャリティがモデルを失った状況においては、フェミニズムによる尊厳の防御は不可欠だ、女性はなんとかしてセクハラの――もしくはそれ以上の――被害から遠くあれるよう立ち回らねばならない。
そうして常に防衛しなくてはならないのは、女性にとって不利益この上ないと思うが、そのことにはわたし個人として陳謝の思いもあるにせよ、より本質的には「男女ともセクシャリティが狂っている」と言うよりないのであり、もはやどこかの民族紛争のように、一方の咎を責めるだけでは何ら解決はせず、いっそ "今さらうまくやれるという夢想を持たない" ということが、前向きで建設的とも思える。
どのようにセクシャリティが狂っているかというと、たとえば異性を明らかに嫌悪するスタイルとしてミソジニーやミサンドリーが知られているが、そうした勢力においてさえ、「あなたには生涯、異性愛の恋あいは無縁だろう」とはっきり言われると、そのことを引き受けられず、魂が損傷する様子なのだ/これではまるで、「もう市民には戻れない」と通告されてショックを受けているテロリストというように、全体が滑稽劇じみているのだが、本当にそういう状況なので致し方ない。
異性という関係には、当然の衝迫力があり、危険や魅力も伴うのだが、その切実なライブ状況に触れるよりずっと前に、多くの人が自慰的コンテンツから強力な妄想といわゆる性癖を育てており、また多くの交流もテキストチャット等で為されるので、恋あいに必要な心身が具わるより前に、セクシャリティをこじらせきるという状況がある/じっさい現代の若年層は、自分の親しい友人や知人をカウントするより、動画サイトを通して知った誰かをカウントするほうがずっと数が多いはずだ、こんな状況の中でいきなり青春・恋あいが現成するわけがないのであり、女からはうぬぼれとひがみに育ちきった邪なバケモノ、男からは悪臭のするセクハラモンスターが出現して当然というよりない、どれだけ表面を好人物にしたとしてもそのフェイクがますますの混乱を産み出すだろう。

それでも、正当な手続きを知るべきとして、女性はおそらく、もし出会うべき誰かに出会うことができ、彼に対して取るべき態様を取れたとしたら、突然のこと、そこから "すべてが始まった" という体験をするだろう、それまでに持っていた性観念や恋愛観はぜんぶ無関係で、「わたし」はこのときから始まったのだと、そのときになって知ることになる。
男性にとっても同じことで、そこに得られるのは、憧れの恋人プレイゲットということではなく、突如として始まる「わたし」、恋あいで獲得するのはそうした突然の「わたし」なのだ/あなたは恋あいで突然「わたし」を得ることができ、それまでは自分は「わたし」というものを持っていなかったのだと、そのときになってようやく知ることになる。
誰にとっても、本来あるべき主体性、本来あるべき「わたし」というものがあり、その本来あるべき「わたし」と、相克する「自我」が格闘することになるのだが、そうした相克の構図は旧モデルであり、現在においては「わたし」はないのだ、だから単なる異性との接触と合意だけでは、双方に抑圧された自我を噴出させあうというだけになる、そのことは双方の未来を取り返しのつかないほど真っ黒にしてしまう。
突如として「わたし」を獲得するとき、またその「わたし」が突如始まるとき、逆にこれまで焦がれて病みついていた「恋愛」は、そうした形式にこだわる必要がないものだと、急にわかるようになる、それは逆に恋あいを獲得したからであって、獲得したからにはその外形がどのようであるかということはさして問題じゃないということが直接わかるようになる/願わくば、より多くの人に、そうした出会いと幸運と、勇敢さと真摯さがありますように。

恋あいは必ず、自分の歩いた道の先に出会っている/そうでないものは、必ずヨソの畑から盗もうとしている。

きょうび、いわゆる婚活イベントや出会い系サイトが当たり前のように利用されているが、それは残念ながら自分の歩いた道の先に恋あいに出会うという出来事ではない、口をきわめて言えば「目の前に置かれたものを、うまくかっぱらえるような気がした」ということで、抑圧されていた因子が噴き出しているにすぎない、そのことはどれだけうまくやっても、双方に実りは与えず、必ず大きな損失を受けるだろう。
それぞれは、両極端の自分を知ることになるのだ、ひとつには突如として「わたし」を得、「わたし」が始まるということ、もうひとつには、突如として「自我」が噴出し、「自我」のコントロールが利かなくなるということ/男が手の届くところにセックスをちらつかされ、それを狙う男が女をちやほやもてはやすということで、相互は抑圧していた「自我」を突如として噴出させることになる、それはまったくよろこばしくないことだ……恋あいは本来まったく逆のことが起こる、つまり女がちやほやもてはやされることに一切の興味をなくし、男が女をちやほやもてはやす発想を持たなくなる、そうしてくだらない性分から離脱した「わたし」を相互に得ることになる、そうしたことは自分の歩いた道の先にしか現れてこない。
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女は幸福でなければならない

すんだ3000リエルの銀貨と、輝く3000リエルの銀貨が、共に通貨としては3000リエルとして用いられるにせよ、輝く銀貨であるほうがよろこばしいように、女は幸福であるほうがよろこばしい。
青空に映える白い雲が、微細に見えたとて利益にはならないにせよ、微細に見えたほうがうつくしく空気も澄んでいるように、女は幸福であるほうがよろこばしい。
わたしがこれまでに見てきたことは、女をちやほやもてはやすことは、何ら女を幸福にしないということだ、ちやほやもてはやすことで女は、昂ぶり浮かれて満足するが、その満足は小さく隔てられており、むしろその小さな牢獄から出られなくなるように、女は浮かれる。
わたしがこれまでに見てきたことは、ときに魂の宿る女当人こそが、そうしてもてはやして女を牢獄に閉じ込めようとすることに、烈しく怒りをもって迎えるということだ、女はちやほやもてはやされることに浮かれる性分を持つが、その性分は女をわずかも幸福にせず、むしろ決まって女を牢獄に切り取ってしまう。

わたしがこれまでに見てきたことは、むしろ女は、出会うべき男に出会ってその足指を拭き取るなどするとき、己では逃れようがなかった女の性分を逃れているように見えるということだった。
女が女の性分のままにあるということは、女をまったく幸福にはせず、よく見れば女をちやほやもてはやす男の様態も、それじたいが女の性分を男が輸入したもののように感じる/ここで女の性分が女の性分によってもてなされていることにより、女は幸福への出口がなくなる。
わたしがこれまでに見てきたことは、女が足指のよごれを拭ってくれて、女自身が妙に安心するといい、そこからなぜか急遽、女が主体性を持ち始めるということだった/このことは、一般に思われているフェミニズムからの女性主体の発想とは根本が異なる。
わたしが言わなくてはならないのは、女がそうしてわたしの足指を拭ってくれるとき、なぜそのようにしたいのか、またなぜそのようにしてこころ安んじるのか、当人も決まって「知らない」「わからない」と言うことだ/むろんそこに虐げられている女があってはならない、女は幸福でなければならないし、女はより積極的に主体性の獲得に向けて能動的でなければならないと思う。

女性を浮かれさせるのは簡単だが、幸福にするのは困難だ。

わたしがこれまでに見てきたことは、どれだけ女性をちやほやもてはやし、身分と富とを保証したところで、その女性が屈託のないよろこびと美に到達することはありえないということだ、女性の性分に劇薬を注ぎ、浮かれさせるのは簡単なことだが、そのことが女性を幸福にした例をわたしはこれまでに見たことがない/むしろその浮かれる性分への劇薬によって戻ってこなくなったという実例のほうをあまりに多く見てきた。
わたしがこれまでに見てきたことは、ひとつには、なぜかわたしの足指に触れて以来、突如として主体性を持ち始める女のよろこばしさとうつくしさであり、もう一方には、そうしたことと相反し、突如として主体性を持っているふうに強烈な自己誤解をし始める女のすさまじさだった/わたしは女は幸福でなければならないと思っているし、その幸福は女自身の主体性の獲得によらねばならないと思っている。

視点変えてこ | comments(0) |
何かにならないように動く
かにならないように動く。
われわれが認識上何かに「なる」というのはことごとく誤りだからだ/認識というのは畢竟そうした誤りのための装置でしかない。
認識上、 "何かでないものが何にもならない" ということ、それがギリギリ、認識としての正しい機能の果たし方だ、これで半分方は正しいというか、49%は正しくなる、ただし49%なので、四捨五入すると0点に戻る。
フィクション世界で大地震があっても、ノンフィクション世界では何も起こっていないのだが、これが逆だ、ノンフィクション世界にわずかも「何か」を出現させないということ/フィクション世界で大地震が起こっても何にもならないのだが、その「何にもならない」ということが本当の世界であり、無限と永遠の命・魂の世界だということになる。

われわれはアホなので、認識・観測できるものだけをアテにして、生きる時間のすべてを無駄にしてしまう。
ノンフィクション上で大地震が起こると、それを真実だと思い込むのだが、それは真実でないからわれわれが認識・観測できるのであって、われわれはこの自前の装置にだまされ続けるのだった。
生身のことはしゃーないとして、己の魂の営みについては、 "何かでないものが何にもならない" ように動くということ、これで49%だが、残りの51%は、 "フィクション世界の足しになるように動く" ということだろうか、そこでフィクション世界の足しになるということが、われわれには認識・観測できないのでどうしようもないところがあるのだが……
われわれは各自において「わたし」「自分」という思い込みにこだわっており、この認識・観測のたえまない装置である自我および、それが受ける実感を「実世界」だと思い込んでいる、だからつまらなくなるのだ、<<ノンフィクション上に直線を描くのは無理なので、フィクション上に直線を描くだけでいい>>し、フィクション上でなきゃ直線は描けないじゃないか、われわれは自我のこだわりを実世界だと思っていて、どこまでも実世界の足しにしようとしているから、つまらなくなり、そのつまらなさに自分で文句を言うのだ。

何かにならないように動く、そして "もつれ" だけを利用する。

何かになろうとして動くとき、われわれの心身は落下し、分離し、離散し、重力の干渉を受け、時間を経過させられる、そもそもが認識と観測という錯覚の装置でしか成り立っていない一般的な "実世界" を、誤ってアテにするから「何かになろう」とする。
こんなもん、認識と観測への "こだわり" でしかないのだから、真相の世界であるはずがない、「何かになろう」とするのではなく、「何にでもなる」というのが真相の世界だ、フィクションとノンフィクションは因果律上は完全に無関係で、無関係の上で「もつれ」がある、このもつれを利用するのが正しいやり方だと思うが、実際には少しでも "フィクション世界の足しになるように動く" ということを、常にして積み重ねていくことで、それなりにましなもつれも得られるのではないだろうか、いちいちのもつれを直覚できるほどわれわれは超人じみていないので実際には地味にやるしかない。
正しく見ないとな | comments(0) |
無関係が関係する
いかわらずナゾの記事ばっかりで申し訳ない。
無関係が関係する/いわゆる量子もつれのように、無関係のものが関係する。
因果律とは関係ない、ハンコを作れば南京錠が開く、というように、無関係が関係する。
あっちの世界はこっちの世界と無関係だ、にもかかわらず、無関係が関係する、だからこそ何のこっちゃわからない、「わかる」という現象の範囲にない。

しかし困ったことに、あちらの世界でハンコを作れば、こちらの世界で南京錠が開くというようなことがあった場合、じゃあとにかくあちらの世界でハンコを作るしかないじゃん、ということになる、因果律と無関係なのだからしゃーない。
あちらの世界で絵札がくるくる回ると、こちらの世界で何かいいことがあったりして……おれは現実的でないことの一切を好まない、スピリチュアル趣味に賢人がいた試しはない、おれは世迷い言を云っているふうだが、実際の可能性のみを追求している/因果律に頼らず、ダイレクトに鍵を開けるためにはこうするしかしゃーないという可能性がどうしてもある。
 "因果律以外のもので結ばれている" という可能性、つまり "もつれ" の可能性を無視できない、少なくとも物理学では量子もつれは諦めて認めろという雰囲気だ、じゃあ因果律でなければ何かというと、それは「主体性」なのではないかという気がしている、つまり「主体性は "非因果性" でしょう」ということ。
なぜこんなわけのわからんことを考えて話しているかというと、おれは主体性のないものがつまらなくて苦手だからだ、ミミズを鉄板の乗せて火であぶったらのうたつのが当たり前だが、そんな当たり前の因果は眺めていて実につまらん/あちらの世界で色のついた板ガラスをあぶるとこちらの世界で泉に湧き水が出るという、 "非因果性" のもつれはないか? そうでも考えないと現在のおれが成り立っている理由がまったく説明できないのだった。

ゴールド・キッス。

さてわけのわからないところ、あちらの世界で黄金の延べ板にキスをしたとして、こちらの世界で何にもならないかというと、それは不明だ、因果律においては何も起こりようがないが、因果律でないもの、非因果性たる主体を認めるなら、それはもうこちらで何になるかはわかったものではない、ただおれは何の感覚もないでたらめを云っているわけでもない、とりあえず病気の治りそうなゴールド・キッスの話をした、おれの話はそうしていつもあちら側だよりだ。
オカルトは常に、ありもしない因果律を妄想することから生じている、もし藁人形にクギを打つだけで人が死ぬならヒトラーは連合国軍の侵略を受ける前にポックリ死んでいただろう、藁人形をいじくって何かになるという因果律はない、この因果律を見失う奴はただのアホでしかない/だがこちら側ではどうにもならない施錠はどうだ、どうにもならないから施錠というのだが、あちら側でポセイドン像をうちわで扇げばこちらの錠が開くというのでは、もうさっさとポセイドン像をうちわで扇ぐしかないのだ、黄金にキスして病気を治そう、そんな因果性のない事象がもつれて起こるならそれはきっと主体性なのだろう。
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完全なる彼方の他者
にこだわらず、自分にこだわらず
奥の中へ(奥の中のほうが広く)
聞いたことをあてにせず
何もない中に無限がぎっしりとある

特殊なものがあるわけではなく
一般と思われているものが悉(ことごと)くない
フィクションの宝がフィクションの界を満たすように
我々が聖と付き合う必要はなく、聖が聖と付き合う必要のみある

わたしが聖であったことはないが、聖が他人であったこともなく

つまりわたしでないわたしがある
完全なる彼方の他者が、完全な他者なるわたしである
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因果律と主体性

果律といい、すべてのものは「原因と結果」によって成り立っていると言われる。
たしかに表面上、ヤカンの水が湯になるのは、下からガスコンロの火で加熱したから、に見えるが、ここで「そんなことおりゃ知らねーボロニア」を爆裂させると、因果律はどこかへいく。
たとえばここでわたしが、「ピッコロ大魔王に牛肉コロッケをかぶせた図」という了解不能のことを突然言うと、わたしがそのように言ったことにさえ、何か原因があるはずだと、因果律論者は言わねばならないが、そんなことキンピラゴボウのマンホールよ、押し出しの強いハンムラビ法典〜カバンの中にガンダム!! とわたしが言えば、因果律論者は自分の仕事にうんざりすること請け合いなのだった。
因果律論者は、すべての結果に原因があると思っているので、すべてのことは「何かのせい」「誰かのせい」だと思っており、何かきっかけになる動機や衝動が常に背後にあるはずだと思っているのだ、つまり因果律論者は "完全な主体性" を否定する立場にある、行き着くところそれは、仮に万物の創造主がいたとしても、その創造主の背後にも、創造主が発生した「原因」がなくてはならないという考え方なので、背後の背後の背後、原因の原因の原因という形で、永遠にどこにもたどり着かないということになる/因果律はいかにも表面上は正しく見えるアホ専用の理論だが、そのアホ専用たるゆえんは、因果の原点をけっきょく説明できないということだ、因果律はそうしてアホ専用の理論なので、これを信じるアホは最終的に「ブチギレ」して話を終わらせるという特徴を持つ。

因果律論者はどうすればいいかというと、単刀直入に、「因果律を抱いて真っ暗闇で死ね」ということになる。
因果律は何も誤っているわけではないので、それを抱いたまま真っ暗闇で死ねとしか言えない、因果律が誤っていればまだ脱出できるのかもしれないが、誤っていないだけにしょうがない、どこまでも正しいそれを「正しいさァ〜」と抱きしめながら死んでいくしかない、そのころおれはスコーンにジャムをつけておいしく食べているだろう。
因果律を採用した奴には、けっきょく主体はありえず原因しかないのだから、話のしようがない、主体のないものに主体的な話をすることは不可能だ、因果律に基づいて人の幸福を考えるなら、その人は世界一の金持ちになって不老不死の施術を受けて大量のヘロインを血中に流し込み続けるしかないだろう、それ以外はすべて絶望の負けフラグでしかない/因果律においては満足にも原因があるはずなので、けっきょく満足薬を飲むしかないじゃないか、その満足薬が途絶えたらその後は激烈不満足のボンバーDaysを生きるしかない、そんなもん主体が存在しないのだから主体的に解決しようがない。
つまり、ある人は "因果律" を選ぶのに対し、おれは "車エビの天ぷら" を選ぶということだ、前者は永遠に因果律でゴーということになるし、おれは永遠にキングサーモンの刺身(醤油は富山産)でゴーということになる、因果律を選ぶ人に対しては「因果律おめでとう!!」としか言うセリフが見つからない、その点おれなんか頭がクルクルパーなので、因果律がよくわからないボンバーにて、ガールフレンドからいい匂いがするということしか見当たらない、これはおれが正しいのではなく、おれが「わけがわからない」のだ。

正しさで認められる人は因果律、根拠なく認められるおれはおれ律。

因果律を選んだ人は、「みなさま、地雷を踏めば爆死します!」という因果律をショーで実演して、きれいさっぱり消え去り、場内の大爆笑を買えばいいと思うのだ、因果律の正しさはドッカーンで、その勇敢な上演はその後二十分間ぐらい語り継がれるだろう、そしてその墓碑銘には「ガガーリンのケツ毛を愛した」というまったく関係ない文言が刻み込まれ、ハシブトガラスにも首をかしげられる。
このように、おれの話がわけがわからないのは、おれがわけがわからない奴だからであって、正しい奴は因果律を選んだ奴だということだ、因果律はそれほどに正しく、正しさの極点、食肉用の巨大ミンサーにダイブしたら「ボクもミンチ肉になったよ!!」と廃棄処分されるほど正しい、脳内の国歌は「♪わたしの〜生涯所得は〜デカめのダイヤ一個に負けぽんち〜」と流れ続ける、それほどまでに因果律は正しいので、まったく正しくないおれの脳みそには因果律が何をやっている暇人なのかぜんぜんわからないのだった。

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難解すぎて理解できない人へ2(より平易に)
り平易に言うと、「よいものが視える」ということだけじゃなく、「悪いものに入り込まれる」ということがあるということ。
「悪いものに入り込まれる」というのは、つまり「誘惑」だ、この誘惑を滅ぼさねばならないが、それは我慢するということじゃない。
我慢するということは、誘惑に魅せられているから我慢しているのであり、誘惑が滅ぼされたらもう我慢する必要はなくなる、我慢というのは「誘惑が滅んでいないので我慢しています」という状態だ、この情けない状態でそうと気づかず威張ることは多くの人にとって人格の致命傷になる。
誘惑を滅ぼしているということは、ドレスを着てライトを浴びて、イケメンと無数の人々にチヤホヤされて、それでも何にも入り込まれないという状態だ、それがいかにむつかしいことかよくわかる、ちょっとでも生きものが興奮するならそれはもう悪いものに入り込まれているのだ。

あなたがどれだけ、自分の信じること、よいと思うこと、あるいは自分を救いさえしたことを、振り回しても、そのことは人をよろこばせないし、むしろあなたが正当に軽蔑されるだろう。
あなたが証さねばならないのは、あなたの信じることの振り回しではなく、あなたが悪いものに振り回されなくなったという姿だからだ、あなたは何も我慢せず快活にリラックスして、むしろ開放的なのに、悪いものに振り回されていないということ、その姿を証さねば人々はあなたをよろこんでくれない。
わたしが書き話すことが、あなたに好んで読まれているのは、わたしの書き話すことがあなたの魂に明るさを与えること、および、その明るさによって誘惑の入り込む隙を一時的につぶしているからだ、入り込もうとする誘惑を一時的にわたしが焼き払っているので、一時的にあなたはすべてのことに何の問題もなくすべてが解決しているように感じる。
だがあなたがあなた自身でそれを思うことに切り替えた瞬間、しょせん隙だらけのあなたの心身には、ドッと一斉に誘惑が入り込んでくる、そのときのあなたは、もう傍目には悪いものが入り込んで振り回されているというのがミエミエだから、そんなあなたが何かを振り回したって説得力がないのだ/わたしの書き話すことを信じてくれるのはうれしいことだが、あなたが本当に信じたと言ってよいのは、あなたが誘惑に入り込まれなくなったぶんだけだ、それ以外は一時的なわたしからの "作用" でしかない。

何もしないでも、いずれ「どうしたらあなたのようになれるの?」と訊かれるようになる。

だから、あなたが何かを振り回す必要はない、何か信じるものを振り回さねばならないほどの立場になれば、そのときはそのときだが、そんな状況はそんなにやってこない/生きものの側面として、お金持ちになれば必ず「どうやったらあなたのようになれますか」と切実に訊かれるようになるのと同じように、命・魂の側面として、永遠のものになれば必ず「どうやったらあなたのようになれますか」と切実に訊かれるようになる、未だそのように訊かれることがないのだとすれば、それは傍目にはあなたが悪いものに入り込まれて振り回されているという姿が視えているからだ。
わたしの書き話すことが難解で、理解できないが、それでも何かを好いて読んでいるという人は、ぜひふだんは自分に好き放題に入り込んでいる悪いもの、「誘惑」と呼ぶべきものに、我慢や抑圧で応じるのではなく、その入り込もうとする瞬間に光を当て、その正体を突き止めるように、そのように討ち取られることが「誘惑」の側にとってもっとも不都合なことなのだから/悪しきものが入り込まなくなり、我慢もなく振り回されることもなくなったあなたの快活な姿を見て、内心にも多くの人が「どうやったらこうなれるのだろう」と思うようになるはずだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
難解すぎて理解できない人へ
たしの話が、難解すぎて理解できず、それでも何かが救われる気がするから読み続けているという人がいたら、そのままでかまわないので、いくらでも読んで、いくらでもあなたのよろこびの足しにするように/たとえ内容があなたの知性の限界を超えていても、無理解だからといって福が断たれるほど、この世界の仕組みはケチではない。
ただし、あなたの魂が明るさを覚えたからといって、その覚えを自分のもののように振り回さないように、あなたが振り回してよいのは、ただ自分が「何かを信じているから」という一点のみだ、あなた自身が証したものではないものを、あなたの身分を表すもののごときに振り回してはいけない、あなたはただ「何かを信じているからハッピーになる」という、世界に必要な実際の者でありつづければいい。
これまで何度も見てきた例として、わたしが話すことをよろこんで聞き、魂に明るさが差すのを覚えた人は、わたし自身よりはるかに、まるで「選ばれた者」「救われた者」のごとくに自分を舞い上がらせ、その結果、急速に呪われていくということがあった、このことについてあえて言うなら、わたしの話すことで魂に明るさを覚えるのは、何も特別なことではない、まともな者なら全員・万人が魂に明るさを覚えるようにわたしは書き話している、わたしの話すことじたいは珍しいにしてもそのことに魂を明るくすることは万人のことであって珍しいことではない。
だいいち、わたしが書き話していることは、内容も精密であるようにとこころがけてはいるが、それよりも本質的には、読むだけで祝福があるようにと、単に書き物として優れた品質――あるいは品質以上のもの――を凝らしているので、たいていの場合、あなたの魂が明るさを覚えるのは、内容そのものによってというより、単にわたしが凝らした秘密の工夫によってだ、だからあなたは自分で理解したつもりのことも、わたしと同じように誰かに(書き)話して聞かせることはできない/つまり、いくらでもあなたの魂が明るくなるように読んで楽しんでもらえばいいが、おそらくあなたが振り回せるようなものはわたしの書き話すことの中にはほとんど含まれていない。

わたしが書き話していることを、あなたが読み楽しむのはいくらでもよいにせよ、あなたが振り回すべきでない理由は、あなたはここに書き話されていることに何かの影響づけを受けるにせよ、あなた自身で考えるぶんには、必ずここに書き話されていることと矛盾を生じるからだ。
その矛盾について、たとえばわかりやすい代表を挙げると、わたしがここに「マウントは生きものの性分」「魂や命とはまったく関係がない」と言い、あなたがそれをまったくそのとおりだと同意したとしても、あなたは自分で納得した「そのとおり」に則して生きられはしないということだ、だから矛盾が生じる。
さらにわかりやすく、具体例にまでして言うと、あなたがあなたの知人に「マウントは生きものの性分でしかない、魂や命とはまったく関係がない」と話したとして、その知人が「は? 何その負け組くさい言い方www」と嘲弄すれば、あなたは自分の意見をもとにやっぱりマウント合戦に参加する性分を、たとえ内心のことであってもあきらかにするだろう、だからあなたが教わったことはあなたの振り回せることではない
わたしはこのように、いつもわけのわからない話ばかりをして、あなたに楽しんでもらい、知らず識らずにもあなたの魂にいくらかの明るさが差すことを目論んでいるのだが、そのことのために、あなたがわたしの書き話すことを精密に理解する必要はない、ただ「何かを信じているからハッピーになる」ということの手かがりを得るか、もしくは、その掴んでいる手がかりを失わないための一助にしてもらえれば十分だ/そしてもしそれ以上に、わたしが振り回しているものを、納得しながらなぜか自分自身では振り回せないとあなた自身で感じ、その謎に取りかかろうということであれば、あなたが何を振り回せばいいかを考えるのではなく、あなたを振り回しているものは何なのかをぜひ考えることだ、「何かを信じているからハッピーになる」ということと、「何かにつけこまれるからアンハッピーになる」ということが相克している。

信じるべき何かを見つけることと、同時に、断ち切るべき誘惑を見つけること。

矛盾が生じるというのはその点だ、たとえ信じるべき何かを見つけていたとしても、断ち切るべき誘惑を未だ見切っていないので、前者と後者が入り乱れて矛盾になる、わたしの話がまったく未知と無理解のままそれでも魂に明るさを与えるように、あなたの自覚しない未知と無理解の誘惑は常時あなたに入り込み続けている、あなたは誘惑につけこまれることで "毎秒自分を面白くないものにしている" のだ。
かといって、わたしは断ち切るべき誘惑についてストイシズムを勧めたことは一度もない、ストイシズムはけっきょく "我慢への誘惑" に他ならないからだ、わたしは解放を求める者として我慢を旨にしたことは一度もない/人々があなたの存在をよろこぶために必要なことは、あなたが何かを振り回すことではなく、目から梁が抜けたあなたの眼差しが開示されることだ、あなたが何かを振り回すのではなく、入り込もうとする誘惑がことごとく水際で討ち滅ぼされることで、振り回されなくなったあなたを見て、人々はあなたをよろこぶ。
正しく見ないとな | comments(0) |
同時性(当たり前 ver.)
とえば「水中で水を得る」のは、当たり前以上に「同時」だ。
水中といえば水の中なのだから、「水中」と「水を得る」はほとんど同義だ、そこにタイムラグはない。
タイムラグはないどころか、感覚的には「前もって水を得ている」というような状態、つまり "先に未来を獲得済み" という状態でさえある。
このところ、「祈り」の話をしているが、 "祈り求めると必ず与えられる" という場合、「祈る」と「与えられる」は同時でなくてはならない、そこにタイムラグがあるのは空想であって祈りではない。

あくまで「祈り」が存在する世界を仮定して話している/こういうときフィクションは便利だ、「フィクションだから」といえばどんな話でも通る。
「祈る」と「与えられる」は同時であり、そこにタイムラグはない、少なくともフィクション上、祈りを考えるときはこのことを知らねばならない、ムンムン念じてからパンパカパーンとプレゼントが与えられるのでは話があまりにアホすぎるだろう。
つまり、フィクション上であれ「祈り」を考える場合、祈りと祝福は "因果関係で生じない" ということだ、コショウを吸引すると直後にくしゃみが出るというような因果関係ではなく、祈りと祝福は「同時」であり、祈った後に祝福が与えられるわけではない。
では、因果関係でないなら何なのかというと、あくまでフィクション上、それは直接「信じる」ことだ、ということになる、たとえば原稿用紙の一マス目に「雨」と書くと、それは雨にならざるを得ない、雨と書いてからタイムラグでフィクション上の雨が降り始めるわけではない、雨と書けば同時に雨にならざるを得ない、それが言葉であり祈りだ。

疑いとは「因果関係」を信仰することであり、信じるとは因果関係のすべてを否定することだ。

よって、祈れば与えられるという説を因果関係で捉えることは、フィクションにおいてさえ誤りとなる、同時性(時間ゼロ)の中に因果は生じ得ない/一般に、「祈れば与えられる」などという話は、「そんな都合のいい話があるか」といって、つまりいわゆる「神の沈黙」ネタとして一蹴されるのだが、それは「祈れば与えられる」ということを因果関係で捉えているので、その場合は一蹴されるほうが正しい、因果関係として考える以上それは "疑っている" ということだからだ、それで「信じて祈れば与えられる」という説とも整合する。
原稿用紙の一マス目に「雨」と書けばただちに――同時性として――雨なのだが、それが祈りだということはどうしても理解されにくい、「それは小説というか、あくまで作り話の中でのことでしょ」ということになる……こうして一般には、 "因果関係がすべてを確実に支配している世" ――つまり神の不在確実の世――が信じられ、すっかり出来上がっているので、祈りうんぬんはもはや考えられることがない/もちろん、因果関係で「祈り」に期待するようなら、そんなもん考えないほうがいいのだ、因果関係で祈りと祝福を考えるなんてただの妄想に決まっている(かといって、ふつう人は、因果関係を超えた事象なんて仮想にも思考できない)。
正しく見ないとな | comments(0) |
世に勝つ2
大なるおれさまは健在だ。
偉大なるおれさまの目的は、美女および美少女とウフンアハンすることだけだが、まあその他にも、何かテキトーに祝福が混ざっていていいだろう。
偉大なるおれさまは、偉大なるおれさまの王国における、唯一の王であり、不変の王だ、実はこのことは誰にでも言いうる。
なぜなら、「おれさまの王国」を設定するなら、その王はおれさまに決まっているからだ、何もおれは世の王だと言い張っているわけではない、世においてはおれはスーパーマーケットで半額シールを狙う者だ、そんなことはどうだっていいのだ、本当にそういうことはどうだっていいということが今になってはっきりとわかる。

時間と重力の関係を見れば、「時間が経過するほど落下していく」ということは明らかだ。
そして「落下」ということは、天から離れていくというのは説明不要だろう、それはただの時間と重力の関係であって、われわれの思念は関係ない。
おれは誰かの不孝を願ったことはないし、これからもないだろう、この世界に重力がなければ、すべてのものは光の速度なので、光の速度においては「時間」は経過しない、これは物理の話だからやはりわれわれの思念は関係ない。
時間が経過するほど落下していくというのが「世」そのものの性質だと思うが、だから何だという興味はなくなってしまった、もっと大切なものがある、その大切なものとは「時間が経過しないもの」だ/もし「世に勝つ」ということがあるのだとしたら、それは時間と重力から縁を切ることだろう。

成功した〜い。

成功した〜いというのは、偉大なるおれさまの、願いではなくて祈りだ、祈りということはつまり、同時に即成立ということだ、祈りと成立にタイムラグはない、タイムラグがあるものは祈りではない。
つまり成功した〜いと、祈るということ、また "そのように祈れる" ということは、もう成功しているからなのだ、そりゃそうだ、成功していない奴が毎朝元気に起床できるわけがない、成功にタイムラグなんか設定していたら永遠に成功なんてやってこないぜ、祈りってそういうものだからさ。
正しく見ないとな | comments(0) |
世に勝つ
校がキリスト教系だったので、校歌に「世に勝て」という歌詞が入っていた。
♪我に従え、世に勝てと……と、ヘンな校歌だなあと思っていたが、校歌はともかくとして、今「世に勝つ」という言い方は好きだ。
必要なことが話されねばならない。
「世の中」といい、「世間」というが、それとはまったく別の現象もある、おれはずっと前からその現象に気づいていて、今はその現象のほうに確信を得ている。

つまらない奴にはなりたくないし、つまらないことになるのもごめんだ。
すかした奴や萎れた奴になりたくはないし、かといって、イキリ立ってバトルしている奴も違う、そういうことじゃない、もっと別の現象がある。
必要なことが話されねばならない/カッコいいというのは、そういうことじゃない、世の中でどうこうということじゃない、おれだってこれまで幾人かの死を見てきたが、生前のどうこうというのは本当に意味がない、立派に生きたらどうこうなると思っているのはただの生きている奴だけの錯覚だ。
祈ることは必要だが、世に勝った奴に祈れ、世に勝った奴から祝福をもらえ、世の中という現象もあるが、それとはまったく異なる現象もあるのだ、それはもうびっくりするぐらい別の現象だ。

世に祈りは必要ない。

もし祈りなんてものを認めるとすれば、それは世と異なる事象平原に起こることであって、そういうことじゃない、世にだまくらかされているから話が行方不明になる、世が世を決定しているわけではない、じゃあ何が決定しているのかというと、物理学者も未だ「ぜんぜんわからない」としか答えられない/世を抱きかかえて死んでも世はあなたを裏切るだろう、世はけっきょくあなたに死だけをプレゼントしてあとは知らんぷりをする。
必要なことが話されねばならない、だからこんなアホみたいなブログ記事を続けている、何ら世のためにはならないだろう、世のためという安直なことに興味はない、ステキなことが世のためであった試しは一度もない。
正しく見ないとな | comments(0) |
すべての恋を滅ぼすために

えて奇妙な言い方をする。
「恋」というのは試金石になる。
アイドルオタクが推しアイドルに向けているのも「恋」なのだ、あるいは腐女子がホモマンガに向けているこころだって「恋」だ。
人はいつも「恋」に願望を持っているが、それでも原理上、人は決して上等ではないから「恋」をする、そして恋は試金石となり、一部の人を恋以上のところへ導き、そうでない人を恋以下のやさぐれたところへ導く。

恋はいかにも人のもので、人の持つ「誤解にまっしぐらになる」という性質を明らかにする。
その、恋という「いかにも人のもの」の渦中にあって、人は大きな壁、つまり「人以上の何か」との壁に突き当たることになる、その壁を越えさせられる試みは、いかにも無謀で、人は人以上のものになろうとすることに道理はないという弱音を覚える。
このとき、恋は確かに試金石であり、それ以上に、恋はひとつごとの分岐点を形成している、その峻厳さに一種の美を覚えるのも当然だろう、つまり恋はその成就の可否にかかわらず、その後の人に、さらなる飛翔を与えるか、もしくはいかにも人らしい落ち着き・落着を与える。
恋のあと、落着を得た人は……ひとしきりはそれをひとつの結論とし、自分なりの自信を得たように思う、にもかかわらず、やはり解決してはいない、元からあった「誤解にまっしぐらになる」という性質に、ふたたび時間をかけて引きずりこまれていく、それは次第に恋という形ではなくなり、加齢と共に明らかな「迷い」の形を見せ始める、これは恋が滅びきらなかったことによって起こるのであり、然ればわれわれは本来、すべての恋を滅ぼすために恋に直面するべきだ、恋以上のものが必ずあり、恋が真の飛翔ではなかったことが明らかにされるのだから。

恋の後、ある人は限界を明らかにし、ある人は無限を明らかにする。

限界を明らかにした人は、ひとしきりその限界に納得し、満足したふうに、人生観を整えるのだが、「それでは人は限界のうちにただ死にゆくだけなのか?」、この問いかけに答えきれず、けっきょくはふたたび、誤解にまっしぐらになるという性質に引きずりこまれていくよりない、ただそれは加齢を重ねるごとに、罪業が深く重くなり、祝福から縁遠い、つまり厳しいテストになる。
限界説を信じる人は、いつまでも恋が最上位にうつくしいと信じ、その憧れにすがりつくだろう、一方で無限説を自分のものにできた人は、誰よりも恋に感謝している、恋がなければ自分がそこへたどり着くことはありえなかったから/こうして、恋を滅ぼした者こそ恋に永遠の感謝をし、逆に恋に憧れつづけたつもりの者が、最期に恋を激しく憎み呪うということが起こる。

恋女のマインドね | comments(0) |
WS報告065(4)/次の方程式の解を求めなさい2

っかくなので、多くの人が、少しでも「求める」ということへ傾きますように。
 "誰でも解ける" 、連立の二次方程式を以下に示すので、ぜひその解を「求める」ように、求めるというのは「祝福プリーズ!!」ということであり、何も宗教くさいことではない。
・ x + y = 10
・ xy = 25


方程式の解き方を覚えている人は、そのとおりの手順で求めればいいし、方程式の解き方を忘れた人、またその解き方がけっきょくわからなかった人も、ただ「求める」という魂を忘れてはいけない。
「求める」というのは魂の問題なのだ、たとえ試験解答が0点でもかまわない、正解が得られないとテストは0点だが、それによって「求めなかった」ということにはならない/むしろ、解法を暗記してしまって、求める魂なしに機械的に作業する人のほうが「求める」ということから離れ、祝福から見放されてしまうだろう。
なつかしい解法を思い出せば、要するに「代入」すればいいのだから、 y=25/x であり、x + 25/x = 10 だから、両辺に x を掛けると x^2 +25 = 10x 、これを移項すれば x^2 -10x + 25 = 0 となり、あとはよく知られた形で因数分解すれば解は得られる、もちろん二次方程式の「解の公式」に当てはめてもいい。
これは "誰でも解ける" 方程式だ、学力のない人も己の手をじっと見なさい、左右の手の指、その指の数を足すと10だし、その指の数を掛け合わせると25だ、先に示した方程式は「足すと10になり」「掛けると25になる」としか書かれていない。

数学で得られるのは解であって点数じゃない。

点数は、アホの生きものたちの欲(うぬぼれマウント欲)を煽るために設定されている仮想エサに過ぎず、だから高得点を獲る者にもアホが大量にいるのだ、アホはこの仮想エサに餌付けされて跳ね回るのであり、彼らは真に方程式の解を「求めて」はいない。
事実、今あなたは、先の方程式の解を得たところで誰に何の点数をもらえるわけでもないが、かといって方程式の解を得たことは完全に無意味だったろうか? 少しでも解を「求める」という魂があった人は、その解が己の両手の指と重なったときに、理由のないよろこびを得ているはずだ、この理由のない祝福が何なのかは誰にもわからないので、古くから人は「求めなさい」と言った。

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WS報告065(3)/次の方程式の解を求めなさい

めれば与えられる、という聖書の言い方がある。
求めれば与えられるということ、つまり求めて祈れば祝福が与えられるというのが聖書的な言い方だが、今、祈るという発想を持っている人は、漠然と祈るというイメージしか持っておらず、「求める」というプロセスがないので祈りが発生しない。
何も求めずに祈る、というようなイメージがあり、このタイプは自分で清廉潔白なつもりでいながら、その中身はルシファーのごとく傲慢さに満ちているのだが、当人としてはそのことに気づけない、そうした自分にまるきり都合の悪い情報には人はなかなか気づけないものだ。
人間には「欲求」といい、「欲」と「求」があるのであって、「求める」ということを持たない人は、ただ「欲する」ということに支配されているのだ、求めるということがない人は無欲なのではない、欲に支配されているから求めるという謙虚さと敬虔さを持てないのだ、このことを取り違えてはならない。

ためしに、何も求めずに祈っている「つもり」の人を用意して、その人に向けて、「われわれはこれから楽しい食事とドライブに行くけれど、あなただけナシね」と言ってみたとする、すると何も求めていないはずのこの人は、「えっ」となり、内心で「自分も行きたい」「どうしてわたしは連れていってくれないの」と思う。
内心ではそう思うのだが、当人は「求める」という謙虚さと敬虔さを持っていないので、健気に求めるということができない、これは遠慮がちなのではなく傲慢なのだ、「求める」というような "下位" の立場を採れないのである……まして、求めて与えられなかったとき、その屈辱をこの傲慢さが許しえようか? だからこの人は求めない、求めないからどうするかというと「我慢」する、我慢は字義のごとく吾我の驕慢だから、この人は傲慢さを内部に拡大していく。
「求める」ということをしない人は、無欲なのではまったくない、その正反対だ、傲慢だから「求める」という行為ができないのだ、そして「求」を放棄しているということは、必ず「欲」に支配されている、だから「求める」ということのない人は、もう若年のうちから内部的には欲深く、加齢と共にもはや処理不能の強欲さになっていく/あまりにも多くの人が、「欲」と「求」の区別がついておらず、結果的に欲のバケモノに成り果ててしまう。
中学のとき、誰だって数学の設問に、「次の方程式の解を求めなさい」という文章を見たはずだ、そのとき誰が方程式の解を「欲して」いただろう? 人はそれを "求める" とき欲の軛(くびき)から脱している/だから中学のとき、無心に方程式の解を "求めて" いた人は、そのとき何も欲していなかったし、方程式の解を素直に "求め" られなかった人は、代わりに他の何か、オシャレとか交際相手とか、チヤホヤされることやお金とか、オタクグッズやオナニーのオカズとか、何かを「欲する」ということに支配されていたはずだ、それほど「欲」と「求」は別のものだ。

目の前に方程式を置いたとき、欲に支配された人ほど、その解を求めようとしない。

仮にAさんの自室の机に、何の意味もない方程式を書いた紙を置いておくとする、Aさんはそれを目に留めたら、「なんだこれ」と紙をつまみあげるだろう、そのときまるきり興味のないゴミをつまみあげる人と、わずかにでもその方程式を解こうとする眼差しを向ける人がいる、その方程式が解けるかどうかの、学力の問題ではなく、ただそれを「求めようとする」眼差しがあるかどうか、この有無で人は大きく二分されている。
そこで、もしあなたが、「この人であれば、とっさに解を求めようとする眼差しを向けるかもしれない」という人を知っているのであれば、あなたにとってその人は信頼できる人だし、逆にあなたが、「この人はただゴミの紙をつまみあげるだけだろう」と確信できる人を知っているのであれば、あなたにとってその人は諦められた人だ/人がただ生きるという欲望と願望しか持たない生きもののカタマリに成り果てるとき、人は方程式の解を「求める」という性質の一切を失う、繰り返しこれは学力の問題ではなく、ただ「求める」ということの性質なのだ。

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