☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
第79回Quali's Party[4月28日(土)]参加者募集!

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(ポスター制作中、待ってろ)



キラキラ加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


日時2018年4月28日(土)19時〜23時
場所原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB待ち合わせ:原宿竹下通り商店街突き当たり竹下口交差点ムラサキスポーツ前
費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
業が取り外されることがしばしばある
間にはやることがある。
いかなる環境においても、またいかなることを通しても、やるべきひとつのことがある。
僕はそれを「学門」と呼んでいる。
「学門」とは何かというと、業の否定を究めることだ、業を「つまらん」と断定することへのアプローチを続けることだ。

業が「ない」と否定する必要はない。
業は「ある」が、つまらん、というのが否定だ。
業はわれわれを強烈に掻き立て、引き返せないところへ突き落とし、そこに悪魔が顔を出して「どうだ、見たか」とスゴむのだが、それがどれだけ強力であっても、われわれは「つまらん」と断じるのだ/「この世界は業の世界ですよ」と、人をウソに転落させたいというのが悪魔のたくらみだから。
われわれの身はしばしば、業から逃れることができない、だからそのときはこころの隅に、「じゃあ、自分の身がつまらんのだ」と見つければいい、「自分のつまらん身が、つまらん業に駆られるのは、当然のことだけど、じゃあそれはつまらないってことだわ」と断じられると、悪魔にはもう打つ手がない/悪魔はけっきょくのところわれわれの「我が身かわいさ」につけこんで、「どうだ、見たか」とスゴんでいるにすぎないのだから、「我が身つまらん」と言われてしまうともういやがらせしかすることがない。

身は業(カルマ)に影響されるが、その中に影響されない一点の「真我」がある。

この世界そのものを古い言葉で「梵」といい、突き詰めるところ「この世界」と「わたし」は同一のもので切り離せないということ、その直覚に至ることを「梵我一如」という、「学門」の目指す先はさしあたりそこだ、いきなりそんな大仰なことを求めるものではないが、今ちょっと時間がないので、もう隠し事や婉曲なしにお話ししている。
われわれの誤解は一点、自分の身が「我」だと思っていること、自分の身が「梵」の側なのだとは気づいていないということだ、それはただの思い込みなのだが、この思い込みでむしろわれわれは己の身に損をさせてしまう/僕はこの期に及んで、抜苦与楽の「利益」だけを勧めている、身が業に掴まれたとして、真我はその握力の中にいないのだ、その真我は永遠に生きるものだとトルストイは看破しているが……そこまで大仰なことはまだ要らない、業の握力の中にいない真我が、業を取り外してしまうことがしばしばあるということを、僕は今切実な学門としてお話ししておきたい。
正しく見ないとな | comments(0) |
「おかげ」と「せい」
にAさんが、通り魔に右肺を刺され、死んでしまったとする。
すると、誰でもわかるとおり、Aさんは刺された「せい」で死んだのだ。
しかしもう一方で、それまでAさんは、肺があった「おかげ」で生きていたのだとも言える。
肺のおかげ、血のおかげ、心臓と脈のおかげ、その他無数の「おかげ」で生きている/○○の「せい」ということの背後には、必ずこの「おかげ」ということが隠れている。

この知識はとても重要なのだ。
なぜなら、○○の「せい」というのは誰にでもわかるのに対し、○○の「おかげ」というのは、教わらないと気づけないからだ。
何も教わらないと、人は自分が自力で生きているような気がして来、無数の妨害の「せい」で苦しめられている、としか世界を見ることができなくなる。
われわれは今、目が見えているけれど(もし音読してもらっている人がいるなら除く)、実はこの眼球や視力のシステムは、われわれが作ったものではないのだ、だからもしフッと視力が途絶えると、われわれにはもう為す術がなくなる/われわれは何かの「おかげ」で目が見えているのであり、それを失念して、「パソコンの『せい』でドライアイだ」「花粉症の『せい』で涙目だ」としか考えられなくなったら、世界をえんえん誤解し続けるパターンに陥る。

酔っ払いのせいでうるさいが、耳のおかげで聞こえている。

「酔っ払いがうるさいなあ、迷惑だなあ」と友人と話しているとき、耳のおかげ、口と喉のおかげ、声帯と言葉のおかげ、友人がいるおかげで、「迷惑だなあ」と話せている/なぜこうして見え方が偏るかというと、われわれの意識は区分したものしか捉えられないからだ、「せい」は○○のせいと区分に限定して捉えられるが、○○の「おかげ」というのは無数に連携しているので区分では捉えられない。
どんな低級な民族でも、犯罪者を罰するという仕組みは持っている、イージーに発生する「断罪すべし」という意識によってだ/一方で、福音者や祝福者に対しては、われわれは「どうしたらいいかわからない」となる――「断罪」は誰でもわかるが「礼拝」は知識を与えられた者しか気づけないのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
シャワージェルの香り
、ある人がGというブランドのシャワージェルをくれたので、それをちびちび使っている。
Gのシャワージェルはとんでもなくいい香りがする。
これは、使い切ったら、自分で買いに行ってしまうかもしれない。
色々といいものがあるもんだね、Gの創り出す香りは本当に別格だという感じがする。

そういえば最近、「○○のアカウントが凍結されます」「違法なアクセスがあったのでセキュリティ対応しました」「復旧はこちらから」という形の、フィッシングメールが流行っているらしいので気をつけよう。
今のところAppleを騙るものと、Amazonを騙るものがあったな。
日本人が作文しておらず、翻訳ソフトでも使っているのだろう、少しでも読むと「こんな日本語ないわ」というような文面だ、気をつけていればひっかかりようがない。
僕はどこにでもいけるし、気楽なもんだ、僕はけっきょくどんな状況でも遊んでやるということしかできない、そんな馬鹿げたことだけが僕の誇りだ/どうかこんなしょうもない話がどこへでも届きますように。

おれだけは別だ。

自分に何ができるのか、あるいは何もできないのかもしれないが、もうこうして奇妙な生き方をしてきてしまったのだ、最後までおれはこのようでいこう、それがどうだったのかは、最後におれ一人だけが確認すればいい。
どこか気まぐれに、新幹線でも乗ってふらっと、無意味な旅に出たいな、何もなかったというような一日の旅がしたい、何か口実でもあればいいんだけどな。
バカをやろうかあ | comments(0) |
うつくしいばかりの人へ

年だったときの僕が、初めて自慰をしたとき、唐突な射精と共にすさまじい快感が起こって、僕はベッドで「なんじゃこりゃ」とおののいた、そこには心底からの恐怖があった。
翌日も翌々日も、これはいけないことだとわかりながら、すり込まれた快感に勝てず、僕はしきりに自慰をしなくてはならなかった、これが「やめられない」というのがまた恐ろしいことだった。
これまでは親しく僕をあやしてくれる存在だった隣家の「おねえちゃん」が、夕刻になると風呂に入っている、その窓は湯気を抜くのに数センチ開いているのだが、その隙間を覗き込みたい衝迫力がすさまじく起こった、よくよく考えれば、当時の僕の身長では、その窓まで背が届かなかったのだが……/それでも僕は湯気の出る窓から懸命に目を背けた。
これは「業」なのだ、空腹になれば腹が減るのと同じ仕組みだ、空腹は幼い頃からあるが、性徴は途中からやってくる/これまでは「おしっこ」と、意味のない勃起をたまにするだけだったチンチンが、ゴゴンと音を立てて業に目覚めた陰茎という本性を現し始める、当時の僕はそのことを、避けることはせず、ただ何も分からないで、ひたすら恐怖と快感が起こる只中に立ち尽くしていた。

今になって、これまで僕がどのようにして生きてきたのかが少しわかる。
信じてもらえるたぐいではないと思うが、僕は業によって女を愛したわけじゃない。
カッコ悪いことはしたくなかったので、さも業まみれというふうを装っていたけれどね、それは単純に、わかりにくくしてしまったかもしれない、もしそんなことがあったなら本当にごめん。
人間にはいろんな業がある、女性なら宝石やドレスやバッグ、男性なら権力や高級車や暴力的優位だろうか、いくらでもあると思うけれど、僕は僕の愛した女が業のかたまりだとは認めなかった、業なんてほんのちょっとの気まぐれだ、すくなくとも僕の前にいるときはあなたの業なんてどこかへ消し飛んでいたから、本当にうつくしいばかりの人だったから。

それであなたは、僕に会いに来た。

きっと、おそらくね、今こんなところまでこないとこんな単純なことがわからないのかと嘆きたくなるのだが、しょうがない、言ってみれば僕は自分の業なんかよりあなたのほうがはるかに大切で、それでいつのまにかこうなってしまっただけだ。
何も変わらないで生きていくと信じる、それが実際のところだから、まだしばらくは初夏があって、夏がきて秋冬がくる、そのことはまだしばらく繰り返されるよ。

正しく見ないとな | comments(0) |
強力な人間になりたかった
ょっと色々あって、寝ていた……つもりはないのだが、気を失っていたのかもしれない、まあ不意の骨休みになったという冗談みたいなこともある。
逆に、手を止めるべきじゃないと信じて、同じように書き続けることにする、たぶんこのほうがマシなのだと信じて。
やっぱり愛がすべてなのだと思うが、本当に愛してしまうと、その人の幸福や健康を願わずにいられないので、冗談ではなくなってしまう。
愛が「ない」のはさすがにダメだと思うが、愛のレベルが低級という状態は、不幸、ではないのだと思う、大切にできるものを大切にしておくべきだ、たくさん遊んだことが思い出になるから。

たぶん、本当に深く愛するということが、可能になったとしても、人はそれを選べないのだ。
愛した人のことを「願ってしまう」という威力に、こころが耐えきれない。
自己愛性の高い人は、なんだかんだ、自己愛はオナニー以上のインパクトをもたらすものではないので、安全で安心だという理由もあって、自己愛を選んでいるのかもしれない。
これだけ勉強していても、これなのか、と厚かましく思うことを正直にお話ししておく、愛つまりその人のことを願ってしまうということに、ズブのしろうとが耐えきれるわけがない。

愛する人が、どうか。

こんなくだらないことを、それでも書き話すほうが、僕のやることとしてマシなのだと思う、僕はもともとずっとそうしてきたのだろうけれど、たとえそれが誰にも伝わってなかったとしても、かまわない、誰かに伝わったとしてもそれはけっきょくズブのしろうとに耐えられるものではないのだ。
われわれは自業自得の世界を生きているけれど、もし僕が強力な人間になれたら、ほんのわずかでも愛する人の業を、肩代わりして償却してやれるのではというような、妄想が僕にはあるのかもしれない、もし僕が本当に強力な人間になれたらだが(ただし僕に自己犠牲の精神はないので安心してくれ)/もし肩代わりして償却なんかできたとして、そんな分量はごく微々たるものなのだろうけれど、本当にそういったことがあるのかどうかは、聖人でない僕にはわからないままだ、聖人になれたらいいのにと、この瞬間だけは不遜なことを真剣に思う。
正しく見ないとな | comments(0) |
われわれの、アホな頭に、粗雑な「罪」

突な話だが、もう忘れちゃいそうなので書いておこう。
われわれは東洋人で、体質的に仏教寄りだが、和洋折衷というより和洋混交の中にいるので、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
そこで、仏教にはあまり「罪」という概念がないのだが、われわれの頭の中には「罪」という発想が色濃くあるという状況がある、これは聖書世界の発想がわれわれの頭の中にブチ込まれているからだ。
そして、聖書世界を持つ西洋の方面では、ちゃんと「罪」の発想の向こうに、告解・懺悔・贖罪・神の許しという概念があるのだが、われわれは「罪」の発想だけをブチこまれて、その先の手続きは与えられていないのだ、これは単に知識と教養の問題としてもダサいので、誰かちゃんとなんとかしろという話なのだった。

「罪」という発想でいうと、人間は確実にオワッテイルのであり、どうしようもない、さっさと地獄に行け、という話になる。
そこで、だからこそ救世主(メシア)が必要になる、われわれだけではオワッテイルからだ、そしてキリスト教徒においては当然ながら救世主はイエス・キリストだということになる、キリストが救世主というよりキリストという語が「救世主」の意味だ、誰が救世主かという問いにはこの場合「ナザレのイエス」と答えるべきだろう。
そして、なぜイエスが救世主であり、人々はイエス・キリストを崇めないといけないかというと、オワッテイルわれわれの罪を、イエスが一身に引き受けて罪をあがなってくれたからだ(贖罪)、そのためにイエス・キリストは凄惨な死に方をせねばならなかった。
われわれが、「罪」という意識を自前で追求したとき、「ああああああもうムリだああああ」となるのは当たり前であって、そんなこと昔の人がとっくに知っとったっちゅうねんということを、単なる常識の発想として持っておくべきだ、今さら何を言っとんねんという話で、われわれが自前で罪をあがなえるならイエス・キリストは必要なかったろうよ/「あなたに贖罪はムリだから救世主が引き受けてくれた」ということだ、別にキリスト教はわからなくても「もしそんな方がいらっしゃったなら、ケタはずれで頭が下がるほかない」とは誰だって思うだろうよ。

「自分の罪深さ」などという、手前味噌にかぶれないように。

そんなことであなたが気分に浸らなくても、もっとマジでシリアスな追求を、過去の偉大な人々がしてきたのだ、かといって居直るのはまた別の話になってしまうと思うが、一人で勝手に「わたしは罪を知りたる者」みたいな増長をするのは凶相だ、どうせわれわれは罪を悔いることにさえ頭が悪いという、あわれんでもらうしかないような身分の低きアホどもなのだから(とほほ……)。
仏教では地獄行きは「自業自得」で、聖書世界でも人間は禁断の果実の盗み食い罪で罰されたのだから「自業自得」だ、そして仏教にせよ聖書世界にせよ、その自業自得からは逃れられんと結論している、そして逃れられない理由はわれわれが「アホ」だからだ/アホが自前でがんばっても無力だから、奇跡的なほど賢い人に縋れということになっている、われわれは頭の中に「罪! 罪!」という概念だけブチ込まれているが、その先のまともな話をまったく聴かせてもらえずにきているのだった。

正しく見ないとな | comments(0) |
失ったものは「識化」する2
やこしい話だが、もし正確に知りたい人があれば。
人間道の因果(因業)は「識」、つまり「分かる」ということだ、われわれは「区分」することで「識別」し、そのことを指して「分かる」という。
ここを逆に捉えると、人間道のカルマが償却されれば、人は「分からない」という徳性を得るということだ、これはかなり上位の徳性なので、ふつうはナンノコッチャになるだろう。
「引き受ける」とは「分からない」ということ、区分を持たないということだ、区分しないかぎりは識化しない、つまり僕が女好きという指摘は当たっていない、僕は「分かっていない」のだ、確かに目の前の誰かを「女だ」と捉えたことなど一度もない。

「消費」はヤバい、ということからこのことにたどり着いた。
なぜ愛や感動が「消費」されてしまうかというと、識化されてしまうからだ、「分かります」のメカニズムに吸収されて裁断機にかけられるのだ、人間にとっては消費=識化だ、人間の業が盛(さか)るほどこの消費=識化が激化する、それは「識」が人間道の因縁(因果)だからだ。
女が「女」である必要はないのだ、なぜなら異性愛の進みゆきに女の識化プロセスは必要ないからだ、結果的に雨が降るなら白雲と黒雲の区別は必要ないように、また結果的に二階に行くなら一階と二階のどちらが「上」と識化する必要がないように、向かうべき先を捉えるときにただ近傍しているふうというだけの要素を識化するプロセスは必要ない。
つまるところ、近年の異性愛の破綻は、異性愛が「別性愛」になっていることに起因している、われわれは風景にチューリップとケヤキを見たとき、チューリップとケヤキは異なるものだが、それぞれを「別のもの」とはわざわざ見ない/男女の異性愛がしばしば性器の交合を経るとして、「異性器」ならば性器は"交合"できようものが、「別性器」だと性器は"交合"とはならないのだ、異性器ならばそれぞれが「性器」を持っているということになるが、別性器ならばそれぞれが「ペニス」「ヴァギナ」を持っていることになる、その場合は性器の交合ではなく「ペニスinヴァギナ」の遊びになる、この遊びは因業であり人を暗さに引きずり込む遊びとなるのだ。

元来、男女の性器は「性器」という同じ感触のものだ。

そして元来、男女の身も、「人」という同じ感触のものだ、元来「異性」というのは分離的な別物感触をもたらすものではない/もしこの別物感触が解決されるならば、現代人は不本意なケースの同性愛偏向を避けられるたろう。
識化によって別物感触の因業へ追いやられるのはまだわかるとして、その別物感触がなぜ「グロテスク」と感じられるのかは今のところナゾだ、ただおそらくサルトルはこの因業の果てを見て「嘔吐」したのではないか/西田幾多郎の得た「見神の事実」がカルマ償却の果ての「別物なし」の世界だったとしたら、サルトルの得た「嘔吐」はカルマを深めた果ての「無限の別物群」の世界だったのかもしれない、そのことはむろんクトゥルフ神話の厭らしさにもつながっている(なぜ「グロテスク」と感じるのだろう?)。
正しく見ないとな | comments(0) |
失ったものは「識化」する

あ、なるほど……われながら頭の良さにびっくりするぜ(称賛せよ)。
人間にとって、何かを失うということは、単に消えるということではないのだ/「識化」するということなのだ。
なぜそう言い得るかというと、仏教説の六道輪廻と十二因縁において、人間の因果は「識」だからだ/うおおおオレはなんて頭がいいんだ(称賛せよ二度目)。
たとえば目の前にまんじゅうがあったとする、これは食べたらなくなるものだが、われわれは人間なので、単にまんじゅうが消えてなくなるのじゃない、「さっきまであったまんじゅうがもうない」として「意識」に残るのだ、失われたまんじゅうは識化まんじゅうになるのである、オウなんつー発見だ、これは頭が良すぎるのでさすがに褒めるように(三度目)。

男女というものが消えてしまったので、男女は識化したのだ、それで「男女を意識する」ということが出てくる/失ったものは「識化」するのだ、なんというクリティカルな発見だろう(あっもう称賛はいいです)。
これなら説明がつくぞ、もし現在のおれが現代の女性を押し倒したら、第一に女性は「意識が混濁(パニック)」を起こすはずだ、もちろんおれは童貞なのでそんなことをしないが/現代の女性にとって、識化したヴァギナやバストを狙われるのはわかるが、「わたし」を狙われるのは感覚的にわからず意識が混濁するはずだということ。
そして、識化したヴァギナに識化したペニスを入れてヤッホッホするのはどうしてもグロテスクなので、人々は同性愛に転向しはじめる、特に女性においてはいわゆる腐女子化が起こるのだろう/女性はそもそもペニスを所有していないので、それが「失われる」ということがない、よって識化していないペニス同士が性交するということに、非グロテスクな性交の憧憬が描けるはずだ。
昭和のグラビア写真などを見るとわかるが、かつての女性の身体においては、そのバストも「おっぱい!!!」というふうに切り離されて識化はしていなかった、だから画像加工はなくてもグロテスクじゃないのだ、そして現代の男性諸君は識化された「おっぱい!!!」や股間が「そそる」「シコい」と感じてグロテスクオナニーをする訓練を積んでいるので、昭和のグラビアなんか見ても「そそらない」とテンションが下がるはずだ。

「識化」が人間道の因果なので、識化したヴァギナのセックスは因業(カルマ)行為になる。

これで完全に説明がつく、ヴァギナが識化したせいで、ヴァギナセックスが愛の行為ではなく因業の行為になってしまうのだ、その気配が根こそぎ不穏だと感じて、今女性たちはヴァギナセックスを自らの禁忌にしようとしている/また、その因業の所有を付け狙われることについては悪魔じみた恐怖と嫌悪を覚えるはずで、そのことがセクハラ男へのマニアックな糾弾につながっているところがきっとあるはずだ。
女性もふつうに自慰ぐらいすると思うが、もし「このところ、急にヴァギナの因業化が進んでいる」「歯止めが利かない向きがある」と言われたとして、「心当たりがある」という人は実はけっこう多いのではなかろうか。

正しく見ないとな | comments(0) |
「男女を意識する」ということ

女を「意識する」、その代表格は、たとえばPTAのおばちゃんだ。
おばちゃんは「んまあああ」と言い、何かえぐい香水と口臭をまき散らすのだが、このおばちゃんが「女」であることはありえない。
このように、男女を意識する者は、この世から男女として消えていく。
二十年前、僕はセックスにおいて「ペニスをヴァギナに入れていた」という記憶がない、なんというか、当時の女性の股間は触れてみてもそんなにヴァギナヴァギナしていなかったからだ、それでいうとPTAのんまあああおばちゃんは、もし下着を脱がせて脚を開かせれば、ものすごく「ヴァギナ」というものがそこに露出するだろう/男女が「意識」されるこの現代でセックスはひどくグロテスクなものであり、その意味では同性愛に転向する者が多くなるのも当然なのかもしれなかった。

たとえば犬を目の前にしたとき、「おれは人間だ」などと意識する奴はいない、たしかに人間には違いなかろうがいちいちそんなこと意識はしない。
女を目の前にしたとき「おれは男だ」と意識する奴は、犬に向けて「おれは人間だ」といちいちふんぞりかえっているような奴だということだ、文脈は正しいが発想の装置が壊れている。
たぶんわれわれが、自分が人間であるということに「しっくりこない」という状態になったとき、犬に向けても、「おれは人間だ」とふんぞり返るようになるのかもしれない。
男女が「男女を意識する」というのはそういうことだ、たぶん食事をするときに「これは食事だ」と意識しているようなバカらしさで、本当にはもう自分が男だとか女だとかいうことが、胴体のシグナルとして消えてしまっているのだ、それでいちいち意識しないといけないという行状になっている。

同性愛へ希望を見いだしている方へ、足しになるかはわからないけれど、旧来の異性愛はきっとあなたが求める同性愛的なものだったよ。

男はチンコチンコしていなかったし、女もヴァギナヴァギナしていなかったのだ、どうやってセックスしていたのか正直なところ記憶がない、セックスの前後の幸福な記憶はあるが、最中にどうしていたのかの記憶があまりなく、特にペニスinヴァギナという記憶がまったくない。
現代のアイドルブーム以降、女性はナチュラルに「媚び」の表情を持つようになったけれど、あれは正直なところ僕からは、「男化した者が『女媚び』を演出している」と見える、それもまた「男女を意識した」結果で生じているのだろう。

正しく見ないとな | comments(0) |
消費とカルマとオーマイグッドネス4

来、何もマジになることはない。
引き受けるということは、マジになるということではない。
普段がクソ化しているから、慌ててマジ化しようとしたりするだけだ。
愛と勇気を真に受けていくんですよね、と、確認しないといけなくなっているのは、完全にクソ化だ。

人の愛を「消費」してしまうのはとてもデカいカルマになる。
突然だが、二十年前の記憶において、女が男と「対等」みたいなことを求めていたという景色はひとつも残っていない。
あのとき、女性は女であって、いつも明るくて華やかで、元気だった、男はいつも手玉に取られていた、そして女性が女でなくなると、男と「対等」を求めるという性質がある。
うーん? 人が人の愛を「消費」してしまうようになったのは、男性が男でなくなり、女性が女でなくなったからではないだろうか? ラメ入りの細眼鏡、ブラウスにおっぱいが大きい女の子が、「あなたに言われて目が覚めたわ」とにこにこして、僕を木陰のほうへ引っ張っていった、あのとき女は女だったし対等という概念はなかったし、愛が「消費」されでナンジャソレカルマになるということもなかった、これは現代の新しい現象なのだろう。

自分のやることがわからないのは、男性が男でなくなり、女性が女でなくなったからだ。

正直なところ、僕は女性の前で、自分が「男だ」と思ったことは一度もない、そして女性もいちいち自分が「女だ」とは思っていなかっただろう、僕は男だから男子便所に入るのではなく、僕にとって女子便所は便所ではないのだ。
男女が消えればこの世に感動はない、感動はすべて消費物に終わるだろう、そしてこの世から男女が消失するということは、男女ということが"意識される"ということだ、男女を意識するような奴は絶対に男ではない。

正しく見ないとな | comments(0) |
消費とカルマとオーマイグッドネス3

代のムードがあるし、人それぞれ個人の事情がある。
にもかかわらず、カルマ的な仕組みは、どうやら情状酌量はしてくれないらしい。
たまにはホントのことをちょろっと話そう。
愛を見、青春を見、情熱を見、勇気を見せられたら、それを我が身に引き受けないといけないんだな、しのごの言い訳は聴いてもらえない、これは厳しい仕組みだ。

たとえば映画を観たとき、映画の中に、本当に愛が描かれ、青春が描かれ、情熱と勇気が描かれている場合がある。
この場合、もうこの映画を観たときから、引き受けて、人格を変えなきゃいけないんだ、われわれはそんなもの「楽しむ」とか馬鹿げたことを言っていられないんだよ。
映画の中から引き継いだぶん、自分も愛を発揮し、青春に立ち上がり、情熱と勇気を当然とする者にならないといけない/その引き継ぎができなければけっきょく「消費」したことになってしまう。
同じ一本の映画を観て、引き受けちゃう奴もいれば、何にもならず消費してしまう奴もいる、「消費」してしまう人は、考えが甘いということが必ずあるよ、「映画を観たからって変わらなきゃいけないの?」「そうだよ、変わらなきゃいけないの」、あなただけ引き受けなくていいなんて個人の事情はいっさい酌量されないんだ。

本当の映画を観たとき、1.真っ向から引き受ける、2.敗北を引き受ける、3.引き受けず消費する、消費はもちろんカルマに残る。

単純に考えてごらんよ、たとえば「交通安全の教習ビデオ」を観せられたときだって、そこに本当に交通安全を願う誰かのこころが現れていたら、われわれはそのこころを引き受けないといけない、運転中のスピードをふと下げるだろ、「ビデオを観たからな」と、そうでなきゃ人間は不誠実じゃないか。
交通安全の教習をビデオを、せっかく観せられた直後なのに、不注意でゴツンと事故を起こした人があったとしたら? それは見ていて、「業の深い奴だなあ」と感じるじゃないか、せっかく観たものはどこへ消費させたんだって、そんなこと個人の事情なんか関係ないだろうって/それと同じで、愛と青春の映画を観た直後に、すぐそれを引き受けずに消費するような人がいたら、それは「業の深い奴だなあ」になるよ。

正しく見ないとな | comments(0) |
消費とカルマとオーマイグッドネス2

あもう、ごまかしなく言うなら、自分でアホなことを言うしかない、これはもう個人的なホラ話として聞き流してくれ。
どう考えても、得られている結果群からは、「九折さんからの愛がヤバい」と推定せざるをえない、しかも自分自身でいうのはアホみたいだが、「目に見えてヤバいだけじゃなく、マジで目に見えないヤバさがある」とも推定しなくてはいけない。
マジでシャレにならん話、目に見えて検出可能な愛の量だけを見積もっても、生じてくる「結果」とどうしても帳尻が合わないのだ、ズレがあるなんてものじゃなく「ケタが違う」というような帳尻の合わなさだ、これを何かしら概算でも見積もる方法がないと本当に不安で危なっかしくてしょうがない。
何かこう、赤外線カメラみたいなもので、僕から相手に届いているものが全量視認化できたらいいんだけどな、そんな機械はないし目安になる文献もないし、かといって僕はこの線で傲慢になれるタイプでもないし、何かもうヒヤヒヤしているのだった。

もし、単純にこれまでの「結果」から事象の出納を推定するなら、「九折さんへの返報が爆発的に足りない」という結論を採るしかない。
それで、これまでの「結果」とはつじつまが合うのだが、もしこの説を採ってしまうと、「もう爆発的に返報してもまったく足りていない」という結論まで肯定しなくてはならないので、この説を採るにはどうしても抵抗がある。
誰もそんな、爆発的に返報しなくてはならない心当たりはないだろうし、僕のほうにも爆発的に返報されるような心当たりはないのだ、お互いに心当たりがないものに「がんばれ」とも言えないし「がんばります」とも言えるわけがない。
ううう、これは一体どういう現象なのだ〜、たとえるならこうだ/家の中の家財を、すべて価値鑑定してもらうとして、「全部でたぶん百万円ぐらいにはなるんじゃない?」と浮き立っているところ、「一億円〜!」と査定が出たような感じだ、「はぁ!? ちょっと待て」「家財の中の、どれが一億円もするんだ?」「どこにそんなものあるんだ、見当もつかねえよ」というような状態だ、そして家中を探し回っても、そんな財物は見当たらない気がする、「ウーンやっぱそんな値打ちもんはどこにもねえよ」と確信されるのに、全体の鑑定をすると「一億円〜!」という結果なのだ、これは本当に「???」で、まったく落ち着かないのだった。

この家には、土足で入ればいいのか、正装して入ればいいのか、わからなくて不安だ。

なんというか、たとえるならば、足元の床に十万人の顔写真が貼られていて、「その中に一枚だけ聖人の像があります」というような状態だ、土足で歩き回っても何もないのだが、踏んではいけない一枚がどこかにあるらしく、それがどれだかはわからない、それであるとき突然「どうしたの?」と、胸を押さえてかがみ込んでしまう人が出てくる、そのとき当人はいつも「わからない……」のだ。
こんなもん、逆にカルマトラップみたいで、根こそぎタチが悪りぃじゃねえかと思うのだが、本当にわからないのだ、誰にも心当たりはないし僕にも心当たりはないのに、なぜか「爆発的な返報」で初めて成り立つ世界があるのもミエミエにわかる/いったいこのゴミ屋敷の中に、何が大切なものとしてあるのだろうか、うーん自分でいうのはアホみたいだという話をしてしまった。

正しく見ないとな | comments(0) |
消費とカルマとオーマイグッドネス

れわれは、教わっていないだけで、実はすさまじい「消費体質」になっている。
ちゃんとカネは払っています……ということではなくて、これまでの文化とか、人の愛とかだ、あなたがこれまで「消費」してきたのは。
これまでにめちゃくちゃ受け取ってきているのに、それを「消費」してしまってフンフーン♪ と鼻歌にしてしまってきたから、多くの人が奥底で後ろめたいのだ、これはシャレにならんタイプのやつだ。
消費って怖いし、消費体質ってさらに怖いよ、自分から供給しようとしたらピタッと全身が止まってしまい、しかも「キゲンが悪くなる」んだから、もうそれが「ダメだ」とわかっていても身動きが取れなくなる。

この世界には色んな仕組みがあり、まあ誰でもうすうす知ってはいる気がするが、これまでに受けた愛や授かった文化や注いでもらったサービスを、フンフーン♪と「消費」したら、必ずそのあとに請求書がくるのだ、この請求書はアメリカドルではなく「カルマ」という通貨ベースで届く。
よくこんな怖いツケを、平気で蓄積していけるなと思うのだが、誰も本当に平気なのではない、怖すぎて逆に直視できなくなったのだ、多重債務者が陥るパターンで、「もうどこにどれだけ溜まっているのかわからないから見たくなくなった」というやつだ。
これまでに、多数の歌が、多数の詩が、多数の声が、多数の映画が、多数の物語が、多数の異性が、あなたに「愛」を教えようと与えてきたのだから、あなたは愛を「実現」できてなきゃダメだったのだ/悪趣味と自己弁護でこれまでごまかしてきた、ように見えたが、やっぱりまったくごまかせてはいなかったんだな、それにはちょっと笑い話の感さえある、こんなに根こそぎ目論見がはずれることってあるのかと笑いたくなる。
やっぱり真心には真心で、熱い声には熱い声で、勇敢な愛には勇敢な愛で、応えなきゃダメだったのだ、そりゃまあ当たり前ではあるな、けっきょく「わたしのペース」みたいなものは、酌量の対象にはなってくれなかったみたいだ。

あきませんわ、世界のルールが、やっぱ思っていたより「熱い」ですわ。

たとえば、若いうち、われわれは疾風怒濤の愛と冒険を生きられるように、若さの身が与えられてある、で、それが与えられてあるということは、やっぱりそれを十全に使いつくすしかなかったみたいだ、こらあかん/しかもこの期におよんで「○○のせい」と他人のせいにしているからな、本当はそういう問答って誰にも聞いてもらえていないみたいだ、この世界はまずいぐらいシンプルなルールで出来ているようだ。
100の愛と100の青春が、本来「できるように」と与えられてあるところ、80の愛と80の青春しかできなかったら。20と20で計40が「カルマ」として未払いになるな、たまにこっそりホントのことを教えておくけれど、アンタこれから過払いせんとあかんのやで、それでも果たして追いつくかどうかという……ブルーになることは何もない、だって必ず、あなたが「消費」したぶんだけがカルマになっているからだ、ただそのマイナス残高を見たら、本当にゾッとして眼がくらむかもしれない。

正しく見ないとな | comments(1) |
病人と業人(ごうにん)
悪犯やド変態犯のニュースが流れると、われわれは「ええっ」と驚く。
注目するのだが、なぜ注目するかというと、それは「業(カルマ)」だからだ、われわれは犯罪や犯人の心理に注目しているのではない。
われわれは身分が低いので、低い身分に現れる「業(カルマ)」のことしか見えないのだ。
身分の低い者は、身分の高い者およびその世界が「見えない」のだ、よってわれわれにとって行基上人の話は眠たく、凶悪犯やド変態犯の話には「ええっ」と注目がいく。

われわれは、自分の徳性が解放されている範囲でしか、この世界を観ることができない。
われわれは身分が低いので、目の前に一億円があると「わー」と燃える一方、目の前に伊勢神宮があっても「わー」と燃えることがない、どう考えても資産価値としては一億円で伊勢神宮が買えるわけはないのに、われわれが燃えるのは「一億円」のほうだ。
「父親からの性的迫害」「苦悶の重病に少年は」「○○の年収を大暴露!?」「わたしティッシュを食べちゃうんです」「告発! 枕営業の実態」「アル中青年の自殺日記」、こういった見出しに強く関心が惹かれるのは、何もそこに正義があるからではなくて、われわれのような身分の低い者には、けっきょくそういう低級の「業(カルマ)」しか見えないからだ。
われわれにできることは三つだ、1.己の低い身分の業(カルマ)を認めること、2.己の低い身分の業(カルマ)に居直らないこと、3.己に高い身分や徳性を偽らないことだ、われわれが己の身の業(カルマ)を甘くみたとき、そこに「ですよね」と寄り添ってくるのは必ず友人でなくて「業者」だ、業者はそこにつけこむ、嗅覚にすぐれた本職なのだから。

われわれは、病人ではないが業人だ/奇跡的な快癒に向かう者を「すげえな」とたたえるべきだ。

誰がどう考えたって、入院患者が「無事退院となり、これからは通院で」となれば、入院患者同士で「おめでとう」「すごい、がんばったね」とたたえるのが当たり前だ、それが病人のルールだろう、それと同じように、われわれ業人も健全なルールがあったほうがいい。
病人同士でも、確かに「重病自慢」というパターンがあったりするが、それは救われがたい方向だ/快癒していく病人には明らかに「健康」が現れてくるように、快癒していく業人には明らかに「徳性」が現れてくる、われわれは幸運にも「健康」が当たり前だと思っているが、残念ながら「徳性」が当たり前だと思ってよい身分ではまったくない。
正しく見ないとな | comments(0) |
季節は汗を掻き、大気の声が満ちている

代社会は、病んでいる。
なぜ病んでいるかというと、「おれ、こーゆーやつには、絶対に幸せになってほしいんだよ!!」という叫びがないからだ。
あるいは、「わたし、こういう人には、絶対に幸せになってほしいの!!」という叫びがないからだ。
さらには、「人の幸せって願っちゃいけない? おかしい?」と、糾弾する眼差しがないからだ、そして糾弾された側に、「おれの負けだ、一杯オゴるわ」と負けを認める姿勢がないからだ。

「おれに比べたらあいつのほうがよっぽど上等だろ!!」と熱く吐ける男がいないからだ。
別れ際、「あなたと過ごせた時間が光栄でした」と言い残す女がいないからだ。
言葉と大気が混ざらないからだ/繰り返す、言葉と大気が混ざらないからだ。
大気には季節が乗っかっている、季節は汗をかいている、大気の情報は全身の皮膚の周囲にある、これと混じって出されるときだけ言葉は本当の言葉になる。

言葉は思いから出るのではなく、皮膚の周りから出る。

人は感動するのではなく、季節するのだ、○○の季節という言い方をする、季節を伴っていない本当の感動はありえない。
わたしに気持ちがあるのではなく、季節に気持ちがあるからだ、たとえ虫は鳴いていなくても、季節には季節の虫の声がする、大気の声だ、人間の皮膚が鼓膜で、大気の声が満ちている、これに混ざらなければ人の言葉ではないし声でもない。

できるオンナだね | comments(0) |
「わたしの生きた時間」が得られるわけではない
「あなたがいてくれることが、わたしの人生の幸福なの」と、言ってもらえることがない。
「お前がいてくれることが、おれの生きる動機だよ」と、言ってもらえることがない。
クソほど繰り返して観てしまう映画がなく、クソほど繰り返してしまう思い出話の共有がない。
仕事であろうがなかろうが、「気づいたら朝だった」と没頭できるワークがない、「気づいたら朝だった」と語り合える話と仲間がない、食らいついて土下座してでも学びたいテーマがない、どれだけ飲んでも「こんなことになってやるぞ」という歓喜のヴィジョンが湧いてこない。

LGBTにせよ受動喫煙にせよMetooにせよ、今ある流行のすべては、「これまで見えていなかった迷惑と被害にズームインした」にすぎない。
被害を軽視していいわけではないが、いくら被害を圧縮したところで、「わたしの生きた時間」が得られるわけではない。
ホワイト企業に入り、筋トレで身体を鍛え、ボルダリングで汗を流し、瞑想で心身の安定を得たとしても、それらの快適さと充実が、「わたしの生きた時間」になるわけではない。
これまですべて、「目に見える充実にズームインし、見えていなかった被害にもズームインする」ということへ進んできたのたが、ズームインは同時に視野狭窄の手法でもある、拡大されたぶん周辺の情報は外へ追い出されていくわけだから/そして今さら、ズームアウトをして全景を見渡すのはいやなのだ、ズームインされた視野角の中は完璧なのに、ズームアウトされると全体がガタガタだということがバレるからだ。

「充実最大、被害ゼロ」、この理想的で好ましい男を、あなたは決して愛さない。

あなたの愛する男は、むしろ「何をやってきたかわからないが、没頭してきた、さまざまな被害者だったかもしれないが、でもおれの生きた時間だったから」という男だ、こういう男がもし「そうしたすべてが、お前とこうして出会うためだったのだとしたら、たぶんおれは肯定できるどころか、おれの人生はサイコーなのだと思う」と言ってくれたら、あなたも「わたしの生きた時間」を得られるだろう。
「わたしの生きた時間」を得るのは、そんなに簡単なことではない/問題点と解決策を欲しがるのは、気持ちが前向きだからではなくて、問題点と解決策にズームインして全景を観るのを避けようとしているだけだ。
視点変えてこ | comments(0) |
本当の問題は、致命的なほど「さびしい」ということ

動喫煙を減らして、LGBTへの差別をなくしても、われわれの未来が明るくなるわけではもちろんない。
男性のセクハラが減れば、被害者は当然減るわけだが、そのことが、女性に愛する男との出会いときずなを増やすわけではまったくない。
今、若い人の大半は、仕事は「ほどほど」で、余暇が大事、という考え方らしいが、そうして仕事に夢がないというのは、夢があることよりは不幸なことだと思う。
本当の問題は、きっと本当の友人や本当の恋人が得られないことだし、本当に朝まで語り合うことがないとか、本当に感動した映画や歌や音楽がないということだと思うが、この本当の問題はきっとヘヴィすぎ、もう誰も手が付けられないものになってしまった。

人間はそんなに甘くない。
本当の友人や本当の恋人、あるいは本当の青春といったものが与えられずに生きると、どれだけ受動喫煙が少なかったとしても、その人は必ず世の中を怨み、世の中を呪う。
夢のない仕事を、「ほどほど」にこなしたとして、余暇……といってもけっきょく、何にも没頭できなかった人は、「生まれてこなきゃよかった」と必ずこの世を憎悪する。
本当の問題は、致命的なほど「さびしい」ということだが、もうヘヴィすぎて手が付けられなくなってしまった/もし来世があるのだとしたら、わざわざこれからの日本に生まれてきたいとは望みがたい。

東京オリンピックに向けて、都内の喫煙エリアを減らしているが、もう東京オリンピックに雄叫びをあげる人がいない。

何もかも「ほどほど」で、もう何にも燃えられなくなったわけだが、それはきっと何かが間違っていたのだと思う、だけど「自分が間違っていた」と考える人は一人も出てこない。
1998年に、長野オリンピックがあったのだが、当時僕の友人はその観戦がどうしてもしたかったらしく、彼はそれだけの理由で長野の大学に入学した、全体的に笑ったが、「まあわかるわ」という向きもあった、また同時期の友人が、洋楽のライブに初めて行ったらしく、「三日経ったが、まったく身体から熱が抜けない」とのたうちまわっていた、どちらもそんなに熱い奴ではなかったのだが/彼らからタバコを取り上げてLGBTとポリコレの研修を受けさせても幸福には何も寄与しない、かといって本当の問題はヘヴィすぎて手が付けられなくて……今、致命的な「さびしさ」から目をそらすのは、それ自体が健康増進としてやむを得ないところもあるのかもしれなかった、それは本当に「致命的」だからだ。

視点変えてこ | comments(0) |
スーッと間合いを詰めていく前提

闘技等でいうと、攻撃といえば「パンチ、キック」だ。
あるいは、フェイントや、見せつけるジャブ、「オラァ」と声を浴びせるのも、攻撃のひとつに違いない。
そして、僕が経験上思うに、すべての攻撃の土台となる、攻撃の基本は、実は「間合いを詰める」だと思う、いわゆるステップインということになるが、跳んだり跳ねたりすると相手が逃げるので意味が無い。
パンチ・キックが、相手からミエミエでは意味がない、よけられるし防がれるに決まっている、相手から見えにくいパンチ・キックでないと意味が無いな、それと同じように/「間合いを詰める」というのも、相手から「見えにくい」、それどころかいつ始まったのかわからないままスーッと入ってきてしまうのが、一番強力な「攻撃」だと経験上思う、これが最大かつ第一の武器だ。

相手から見て「見えない」というのは、力を使っていないということ、加速・減速をしないということ、および「弧を描かない」といいうことだ/僕はそれを「流れて・まっすぐ・ひと調子」と呼んでいる。
この、なるべく「見えない」歩法で、スーッと間合いを詰めていく、詰め寄り方はやがて相手とすれちがう(交錯する)ところまでいくべきだが、この「スーッと間合いを詰めていく」ということをやめてしまうと、もうどんなワザも発揮されないのだ。
自ら間合いを詰めるのを忘れ、棒立ちになってワザやサバキを考えると、もうどんなワザも感覚も役に立たないと心得るべきだ、<<棒立ち・スタンディング状態になると、ジャンルが変わってしまう>>のだ、こうなってしまうともう、あとはバチバチ叩き合いの「ケンカ」にしかならない。
どんなことでもそうだが、ありとあらゆる技芸とプロジェクトは、「対象にスーッと間合いを詰めていく」、その歩法に乗っかっていることが大前提になっている、恋あいだってそうだよ、立ち止まってしまったらもうハグさえできないもの。

立ち止まれば「ぶつかる相手」、流れて詰め寄れば「交わる相手」。

「ぶつかる相手」になってしまったら、もう何の技芸もテクニックもないのだ、たんに力の強い側がそれなりのダメージを負いつつハァハァ勝利するだけだ/その不毛パターンに陥らないよう、まず詰め寄って「交わる相手」を生じさせること、このことは誰しも抽出的にトレーニングする値打ちがあるね。
腕や足をぶんぶんさせることではないし、さらに<<全身をぶんぶんさせることでもない>>、「わたし」がスーッと進むということだ、「わたし」はぶんぶんさせても意味がないからな。

できるオンナだね | comments(0) |
何度か見る夢/教師どもの顔面を踏み蹴り、その後は警棒でメタクソに打ち伏せねばならない
度か見る夢/出身の中学校が、再演出した「卒業式」をもう一度やるので、みんな参加しろとのこと、僕もしぶしぶ参加する、今度は何か全員にトロフィーを渡すとかなんとか。
しかしそうなると僕は、オープンカーに乗って逃げ回る教師どもの、その車のボンネットに降り立ち、その顔面を蹴り(踏み)まくってやらなくてはならない……なるべく顔面が破壊されるように。
画面を何度も蹴り、踏みつけ、その後はその顔面を、鋼鉄の特殊警棒でメタクソに打ち伏せてやらねばならないのだ、別に殺すつもりはないが、もう生きてても死んでても同じだという感じになる、それを見て級友たちが「相変わらずだな」と安心したように遠巻きに笑っている。
僕には何の憎悪もなく、暴力の感情もないのだ、ただ「クソが」と面倒くさがる感情はあるけれども、なぜか僕はこのことを<<しなければならない>>ので、怠りなくしている、だから級友たちも遠巻きに安心して眺めている、教師どもも悲鳴を上げたりするわけではない。

目が覚めたときに「ああ」という確信があって/「ああ、こんな夢があること自体が、僕は決定的に他の人とは異なるのだ」。
どうして「他の人とは異なる」のかは、あまり自分から話したくなるようなことではないし、確信はあるが朧だ、どうせ自分で知っていることなのだろうが、いちいち確かめたりはしないでゆきたい。
中学のとき、美術のS先生が担任になったときだけは、面白かった、ある意味大胆なことだったろう、S先生は初めから「おれからお前に教えられるようなことは何もない」と断言し、三者面談でさえそう話した、「こいつにはもうこいつの哲学があるんや」とS先生は言った。
確かにS先生は何の無理もしていなかったな……夢の中には出てこなかったが、S先生の顔面を破壊する必要はさすがにないのだろう、いやどーだかわかんねえが、何度かこの夢を見るのだった、起きたとき「はーしんど」とため息が出る。

なぜ、じゃれあって柔道ごっこをしていただけなのに、Iくんの大腿骨は、爆発音を立てて折れたのだろう。

大腿骨が折れるとき、「ポーン!!」とものすごい爆発音がするのだと、僕は目の前で見たのでこれまで確信してきたが、本当にそういうものなのか、今さらになって怪しくなってきた/だいいち、ちょっと足を引っかけてじゃれあっただけで、大腿骨がヘシ折れたりするものかね、今考えるとどうも物理的に不可能な気がしてならない、塩田剛三じゃねえんだからよ。
今になって考えると、小〜中学生にかけての時点で、すでに「?」ということが無数にあるのじゃないか、これはサンプルとして一度すべて棚卸しして記録しておいたほうがいいのかもしれない(とは思うが、とってもめんどくさ〜い)。
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