☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
パーティ報告83(1)
19時開始→朝5時退店→移動してファミレスに13時まで→歩いて帰る→途中カフェで休憩→さっき返ってきた、まもなく二十四時間。
もちろんフラフラだが、逆にもう、疲れるということはなくなった、ワークショップの成果でもあり、僕だけじゃなくて誰も疲れやがらねえ。
パーティは、いつもどおりだったが、同時に、どれだけのことがあったかはまったく説明しきれない。
五周年ということで、メンバーが店側に仕込んでくれた、ケーキとシャンパンをいただいた、もう遥か昔のことにように感じてしまうが、あれは昨夜のことだったか。

昨日から今日にかけて、どれぐらいもらい物を頂いたのだろう。
ナマモノは先に食べて、あとは数えないともうわからないが、土産物やら高級スコッチやら、タバコの差し入れやら、何か急にたくさん頂いてしまっている。
そしてなんと、遠方から来た人が、「五周年だから」ということで、なんと五万円もパーティ費用として寸志を出してくださった、なんてオトコマエなのだろう、いやオトコマエどころか、厚意が巨大すぎて恐懼してしまった。
僕はもし、愛されなければ、なぜ愛されないのか理由がわからないが、仮に今愛されているとして――愛されていると判断するよりないとして――やはりなぜ愛されているのか、理由がわからない、いかんさすがに眠気でぶったおれそうだ。

誰も疲れない、そのぶん、すさまじい一夜だった。

この一夜に、何があったか、とてもじゃないが全部書けるわけがない、二十四時間で何が起こったものやら、よく二十四時間で足りたな、と気が遠くなる。
まあ、いつもどおり楽しかった、「いつもどおり」ではあるが、その「いつもどおり」が回ごとにヤバくなっている事実があり、今回のことを含めると、僕は「五年も続けてきてよかった」と思った。
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第83回Quali's Party[8月18日(土)]参加者募集!

Recent entry: ひろみ、ゆか、ゆき、あきら、しおん、ともこ、まなみ、ゆうさく、かず、トム、くおり
8/18 Quali tweet> 五周年なのでギリ三十分前にポスター作ったぜ、さすがオレは手抜きなしだ pls entry



キラキラ加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


日時2018年8月18日(土)19時〜23時
場所原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB待ち合わせ:原宿竹下通り商店街突き当たり竹下口交差点ムラサキスポーツ前
費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 8/16更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第十五回】8月17日(金)19時〜@世田谷公園
【第十六回】
8月24日(金)19時〜@世田谷公園
【第十七回】
8月25日(土)19時〜@世田谷公園

(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(基本的には雨天延期です、随時ご連絡いたします)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)

→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第83回】8月18日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第84回】
9月15
日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


ホンマのことやらんとな……
少々ぶっとびなのはしゃーないで〜


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

(ワークショップの各カリキュラムは以下続きをご参照ください)

続きを読む >>
そのほか | comments(0) |
われわれの恋あいの義務と権利は終わった
やくパーティ行けよ、あと三十分しかない。
かつて、たとえば戦前や戦中に、「祖国愛」なんてものがあって、戦後にはそれが消え失せたように、「恋あい」というのもひとつの終わりを迎えた、つまり命脈が絶たれた、おおむね「恋あい」というのは、平成の前半にあった、われわれの「命」だった。
恋あいが命を失ったとしても、性欲や生殖は残るので、あまり気にする必要はない、われわれが戦前の祖国愛なんか気にしていないように、やがて恋あいというのも気にしなくなるだろう。
もちろん、今もまだ、ひっそりとした形で祖国愛を残している人がいるように、恋あいを残す人もいるだろうが、まあ、ごく限られた特殊な人々の命、ということになるだろう/われわれの命は「永遠の命」であり、永遠の命はすなわち愛だが、その愛というのはいろんな形を変遷していくようだ。

端的にいうと、女性が、「どうして? わたしはこの人の精液にまみれるのは、ちっともイヤではないわ?」と、引き受ける現象がなくなってしまった、何か根本的な拒絶感があるか、そうでなければ偏執化した興奮が起こるのだ/そのことはもう、嘆くほどのことではない。
今、女性にとって、AがBの精液にまみれる、そのことを性愛において引き受けるというのは、男性同士の同性愛や少年愛の映像で描かれるだろう、それはただの逃避的置き換えにすぎず、そのことをもって性愛の生き残りとはやはり言えないのだった。
今多くの女性にとって、「セックス」というのは、別にイヤではないだろうし、別にペニスもイヤではないだろうが、どちらかというと、それは「寝転がっていれば勝手に終わる」「それなりに気分は高まる」という行為であって、「それ以上はどうしたらいいかさっぱりわからない」というのが実感だと思う/「命脈が絶たれた」というのはそういう状態だ、やはり嘆くほどのことではない。
われわれの、恋あいの義務は終わり、同時に権利も果てしなく遠のいて、永遠の命は次の形に遷移したのだ、次の命はきっと、何かもっと宇宙的な形のものだ、それがどういう呼び名になるのかはわからない。

問題は、恋あいでさえむつかしかったのに、宇宙的な愛など、恋あいより遥かにむつかしいということだ。

こんなことが可能なのかね、と、それについては危惧を覚える、高校に進学できないから大学院に進学しよう、というような話に、聞こえなくもない、だが命脈は絶たれて命の形は遷移したのだ、しのごの言っていてもしょうがない、死んだ男も悪いし殺した女も悪かった。
僕はあいかわらずパーティに行ってきます、僕だって今日何があるのかは知らんから、誰とだってイーブンに生きているのだった。
正しく見ないとな | comments(0) |
五周年!
ういえばパーティが(再開)五周年なのだ!
みんな来てね〜
明らかにポスターとか作っているヒマがないが、まあ別にいいじゃないか、寝て起きたら音速で作るかもしれないし、鼻歌を唄ってごまかすかもしれない。
まあ世の中には、暗いこともあるかもしれないが、暗いことを考えてもしょうがない、暗いことを考えても一年間は365日で変わらないのだ、あとはその365日が暗くなるかどうかであって、とりあえず僕は、365日×5年を、暗くせずにやってきたことになる(褒めろ)。

五周年といって、別に節目ではないし、何も変わりゃしない、変わる必要がない。
何も変わらないというのが一番だ、何も変わらないということは、進んでいるということであって、これは矛盾しているようだがそうではない。
もし僕が進まなかったら、僕は「古い奴」になるだろうな、古い奴になるなんてカンベンだ、変わらずにありたいので、強制的に進むしかない、そのためにはいろいろ悪辣にだってやってやるぜ。
世の中の、すべてのことに興味はない、すべてのことは誤解でしかないからだ、ウーンこの世界はおれだけナイスハッピーだったらそれでいいのじゃないかな、そういう暴君みたいになっていないと、愛とか光とかはないのだ、愛とか光、僕にはそれ以外のことはおっかなくってしょうがないのだった。

何も変わりゃしない、ずっと暴君のままです。

しょーがないだろ、生まれつき暴君なんだからさ、まあ何も変わりゃしない、僕は五日前のことも覚えていないし、未来のことは五秒後だって譲らない。
今夜は飲むわけです、五周年だそうで、新しい人もこじつけに来たらいいんじゃないかな、おれを祝福するために来たらいいのに、まさか世界を祝福せずに土曜日をつぶすとかありえないよね、ということで暴君こそ全方位にハッピーなのであった。
バカをやろうかあ | comments(0) |
WS報告009(2)/たけむすあいきともうします
はすべてのことにシロウトなので、何もエラソーなことは言えないが、「たけむすあいきともうします」というフレーズがグッとよくて、これで朝方までさんざん遊んだ、みんなゲラゲラわらった、飛び込んでいったものが「な、なんだこれはwww」と。
まあむつかしいことは、専門の方がよそでバッチリやってくれるだろう、だから僕はテキトーにお茶を濁しておく(文面に残す資格がないので)、まあ別にこの世界で僕一人ぐらいコンコンチキでも世の中は破綻しないだろう。
「永遠の命」だけが本当のYesに到達しうるわけだが、それでいえばつまり、僕と出会うすべての人、またすれちがうすべての人に、永遠の命を与えられるようであれば何よりだろう、もしそこで永遠の命を与えられるなら、誰もそこで争う理由はないのだ、われわれは永遠の命が信用ならんし目に見えんからウゴーと争い、「生」を有利に引き延ばそうとするのである。
「たけむすあいきともうします」という、フレーズが好き☆、ということぐらい、許されるだろう、ソフトアイですよソフトアイ、そして真空の気がズバッと、こりゃ時間軸に関係ない世界のものだから、速いとか速くないとか……繰り返しになるが、そこで接触して永遠の命が与えられるなら、争う理由はその瞬間になくなってしまう、それで飛び込んできた人も「何をしに飛び込んだかわからなくなる」という現象に見舞われてゲラゲラとなる。

命令法というのは、具体的に「露骨」にやるだけでも、十分値打ちのあるものだが、本当のところは「命」であるから、「永遠の命」という学門の定義に則らなければ、本当の命令法にはならない、これを今回は「真・命令法」と呼んだ、アホみたいな呼び方だがまあ別にいいだろう。
いやあそれにしても、毎週毎週、次のステップに進めてゲラゲラなるな、だいたい午前三時ぐらいになると、僕が一人新しいステップに進んで「やった〜バンザーイ」となるので、みなさんも祝福でバンザーイとなるのだ、誰のためのワークショップやねんという問題もあるが、このときがみんな一番幸福なようである。
繰り返しになるが(しつこい)、すれ違いざまにでも、永遠の命が与えられたら、もうわれわれは争う理由がないのだ(スポーツのようにルール的に戦争を固定されていないかぎりは)、われわれは永遠の命を蹴り飛ばして争う理由がない、このとき真のYesが生じ、あとは刹那の「爆発」を捉えると、Yes以上の「産み出し」があるので、よりナイスになる、うーんなんだこのテキトーな説明は。
まあ僕は、すべてのことについてシロウトなので、エラソーに解説を文面に残す資格がない、来てくれた人にはいくらでもホントのことを口頭で話すがね、ちなみに昭和三十四年の合気道新聞第二号にも、「愛は争わない」という開祖の記事が書かれてある、僕は「永遠の命」が真の「愛」だと定義するのだが、そのへんも僕はシロウトなので詳しく知りたい人は専門家のところにゴーだ。

ぶつかるでもなく、いなすでもなく、永遠の命を与える(何ならそこに産み出す)。

まあ僕はよろこんでいるので、説明なんかどうでもいいかなーと……まあ説明しても伝わらんので、実地でやっているわけだし/僕はけっきょく、武人ではないので(あたりめーだ、文学者だっつーの)、武術そのものに道はないな、争いたい人はアサルトライフルを持って争い合えばいいじゃないか、僕は兵士ではなく民間人なので国際法で庇護プリーズである。
「たけむすあいきともうします」という、合気道新聞第一号のことばが好きなのだ、僕は永遠の命イコール愛が好きで、すれちがうすべての人にそれが与えられたらその他のことは知らねーということを目指している。
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WS報告009(1)/ユークリッド三角形の内角の和は永遠に180度
「永遠の命」という話がよくウケて、それでワークがグッと進んだ、全員が(マグレもあるが)余韻法の糸口を掴むことができた。
この、糸口を掴むというのがスゲーことなのだが、なぜスゲーかというと、肝心なことはすべて雲を掴むような話だから、その雲を掴んでいるうちに糸口を掴んだのだからこれはスゲーことだ、この糸口に一生触れられないのがフツーなのだから。
「永遠の命」という言い方は、正しくもあり、間違ってもいる、何が間違っているかというと、「永遠の命」といって、命は永遠なのが当たり前だからだ、このことには一般に大きな誤解がある。
「永遠」というのは、何もごたいそうなことではなく、「時間の流れと関係ないヤツがいくらでもあるやろ」というだけのことだ、たとえば三角形の内角の和は180度であって、これは去年も今年も変わらない、一万年前も一万年後も変わらないだろう、「時間」という尺度に無関係なのだから「時間軸がない」「時間そのものがない」、だから永遠だというだけだ、三角形の内角の和が古くなったりはしない、モーツァルトも古くはならない。

「永遠の命」というのは、誤解されているのだ、「永遠の命」というのは、「もし、DNAうんぬんのタンパク質でしかないわれわれに、『命』なんてものがあるのだろうか」という視点から始まることなのだ。
そして、もし利己的タンパク質のカタマリであるわれわれに、「命」なんてものがあるとしたら、その為すべき命令、為すべき勅令のようなものは、時間軸のどこかからは出現していないわな、時間軸と関係ないところから出ているわな、ということだ。
「永遠の命」というテーマは、われわれが永遠に生きるかという話ではなくて、そもそも「命」なる、時間軸と関係ない事象がこの世界にあるのかないのか、という話だ、だからもし、そんなものは「ない」と考える人は、どうぞ命のない生を過ごせばよいし、そういうものが「ある」と考える人は、命ある生を模索すればいい/もちろん僕は、この世界に生まれてきたすべての赤子に、「命なんかないんだよ〜」と吹き込んで生きる根性はない。
「永遠の命」というのは、「もし『命』なんてものがあるとしたら、それは有限のわれわれにはカンケーない、つまり時間軸にカンケーない、永遠のところにあるはずだ、そりゃ数学的にね」ということだ、この話がよくウケた、そしてなぜこの話をする必要があったかというと、この「永遠の命」を前提としてしか、われわれは真の「Yes」に到達できないからだ/有限の生は常に焦っており、Yesなんて寝言をやっているヒマはないのだ。

「あなたたちの命は(もしあるとしたら)どこにありますか〜」「永遠、にあります〜」

そりゃそうで、単に数学的な話、命というのはナマモノの話じゃないし、生鮮品の話ではないのだ、われわれの生身が生きているナマモノなのであって、そこにナマモノじゃない「命」が関係しうるか、しえないかの話なのだ、そして「命が永遠ならまあいいか」と学門が進まないかぎり、われわれの生身が本当のYesに到達することはない。
「永遠の命」といって、なんだそりゃと僕にケリを入れる前に、聖書やヨーガ聖典にケリを入れるように、永遠の命とか言い出したオリジナルはおれじゃねえよ、おれがウソつきというのは、おれがいつもテキトーにいう「ボクは童貞ですから」というあたりはウソつきなのであって、「永遠の命」がウソつきかどうかは、ありとあらゆる神殿のボスにケリを入れにいってくれ。
そのほか | comments(0) |
かっこよくなくてどうする!!3/ガマンクソ顕微鏡

「わたしはブスでアホだけど、マイケルジャクソンはかっこいいよ!!」と言ってみろ。
すると、前半、「わたしはブスでアホ」のほうに、感情の大なりがあり、「マイケルジャクソンはかっこいいよ」のほうには、感情の小なりしかないのだろう。
それが「自分標準」だと言っている、そして言うまでもないが、前半部に感情の大なりがあるのは、この宇宙であなた一人だけであって、他のすべての人は文脈の後半部にしか感情の大なりを持たない/そりゃ当たり前だろ、あなたの「自分標準」は、あなたの「自分」にしか通用していないのだから。
ためしに僕が、「僕はチンカスでアホだが、マイケルジャクソンはかっこいいぜ!!」と言ってみたとする、そうするとどう考えても、前半部に感情の大なりはない、そりゃあたりめーだろ、マイケルジャクソンのかっこよさに比較して、僕のチンカスぶりに何の大なりがあるんだ、そんな芥子粒みたいなもんは顕微鏡でも持ち出さないかぎり注目の方法はないのだ。

この現象を、ガマンクソ顕微鏡という、本当はこの話は別の機会にしようと思っていたのだが、まあいい、「我慢」というのは読んで字の如く、「吾我の驕慢」を意味している、だからガマンにガマンを重ねて生きてきた人は、吾我の驕慢に吾我の驕慢を重ねて生きてきたわけで、結果、もう何がなんでも自分のことしか考えない、つまり顕微鏡で自分のことを何百倍にも拡大してオオゴトにするマシーンとなっている、このことをガマンクソ顕微鏡と僕は呼んでいる、「クソ」とついているのはもちろんただの悪口のためだ。
ガマンクソ顕微鏡というのは、まったく誇張ではなくて、マイケルジャクソンのかっこよさには十億人が注目するのに、自分のかっこ悪さには身内や共同体メンバーの十人しか注目しない、しかしそれを等価以上に扱うのだから、ガマンクソ顕微鏡は実に一億倍以上の拡大能力を持っていることになる、こんなもん電子顕微鏡のレベルだ。
どういうことかわかるだろうか? わかるも何も、きわめて単純なことだ、変数XとYを用いて、一般式「わたしはXだけれども、マイケルジャクソンはYだよ」を示したとき、ガマンクソ顕微鏡によって、Xの値は一億倍に拡大されるということだ、こんなデタラメな人生観を俎上に載せる値打ちがどこにありえようか。
このガマンクソ顕微鏡の持ち主は、自分がちょっとおちょくられると、核ミサイル発射!!! みたいな膨大な怒りを持つのだが、一方で今も世界で続いている民族浄化と殺戮のことなどについては、正直何も感じないのだ、そりゃ一億倍に拡大していりゃそんなものかもしれんな/ガマンクソ顕微鏡の持ち主は、これを「なんとかしてください」というのだが、基本的に一億倍ベースを保存したままで何とかしてもらおうとしているので、ムチャクチャだ、本人も自意識過剰を自覚してはいるのだが、それがまさか一億倍などという単位だとは思っていない。

今もなお、ガマンクソ顕微鏡の持ち主にとっては、その持ち主たる自分が主役であり、正当な視力の人のことは注目していない。

見ろ!! ガマンクソ顕微鏡の人にとっては、やはり今も自分が一億倍主役なのであって、「マイケルジャクソンはかっこいい」というようなことは、眼中に入らないのだ、自分のことだけが大なり×大なり×大なり×大なり……であって、他のことはすべて相対的に縮小していくばかりになる。
ガマンにガマンを重ねてきた人は、つまり我慢×我慢×我慢×我慢……としてきたわけだから、その拡大レンズの重なりが外れていくまでは、顕微鏡状態を逃れられない、この人にとってはまったく冗談ではなく、<<自分がメチャクチャ大きく見え、マイケルジャクソンがメチャクチャ小さく見えている>>、自分の日記は東京ドームのようなデカさだが、マイケルジャクソンの歌詞はレシートの裏に書かれているサイズなのだ、これが誇張でなく実寸はさらにデカいと思ってもらって差し支えない、こんな奇怪な「標準」を取られたら、まともな話なんかできっこない。

恋女のマインドね | comments(0) |
かっこよくなくてどうする!!2/自己都合で解体する
の世で最たるゴミは、かっこいいものに惚れない奴だ。
もしくは、かっこいいものに惚れる、その惚れっぷりが、薄気味悪い奴だ、こんなやつを野放しにしているから国が腐っていくのだ。
かっこいいものに惚れない、あるいは惚れ方が薄気味悪い奴は、なぜそうなるかというと、「かっこいいもの、かっこいい人」に比較して、自分が絶望的に「かっこ悪い」ということ、このことに向き合えないからだ。
つまり、何がサイテーかといって、そういう最たるゴミは、<<かっこいいものを目撃したときでさえ、自分のことしか考えていない>>のだ、これを最たるゴミと呼ばずして何と呼ぼう? 世界のすべてを自己都合でしか眺めない奴が「薄気味悪い」のは至極当然のことだ。

そして、自己都合だけでこの世界を眺めている者は、かっこいいものを自己都合だけで「解体」するのだ。
つまり、クソブス女は、マイケルジャクソンを「解体」するのだ、どんな権利があってそんなことが可能なのか、テメーがバラバラになりやがれ。
クソブス女は何をするかというと、マイケルジャクソンと自分がいたら、自分を「標準」にして考えるのだ、「やっぱり立ち姿がかっこいいですよね」というふうに、なぜテメーがスタンダードになってマイケルジャクソンを解体できる権利があるのかおれにはさっぱりわからないが、そういう罪業は生涯も死後もずっとつきまとうことを思い知れ、そんな解体ババアが腹の底から笑える時間は今生も来世も一秒だって与えられない。
クソブス女が僕に向けて、「最たるゴミ」と言ったとしても、僕は「そうだな!!」としか応えないが、僕がクソブス女に向けて「最たるゴミ」というと、感情的な嵐が吹き荒れるのだろう、その差はどこから生じている?/そんなもん、僕はかっこいい人を標準とし、つまりマイケルジャクソンあたりを標準にして考えているので、僕なんぞは「最たるゴミ」で妥当としか考えていないからだ、そこで感情的な嵐が吹き荒れるのは、自分標準で考えているからだろう、そうして自分標準でかっこいいものを解体する悪行は精神的にポルポトの従兄弟分にあたるからソッコーでやめたほうがいい。

かっこ悪い自分を標準にして俎上に持ち出してくる行為は、人類史上単位で時間の無駄だ。

ドラマチックといって、マイケルジャクソンのライブがドラマチックなのはわかるが、クソブス女のメランコリーには何のドラマツルギーも認められない、クソブス女がいつも感情的に破裂寸前なのはこの世の常であって、そんなことはドラマでも何でもない、ドラマというのは「何かに到達せんとする物語」のクライマックスがドラマなのであって、「何にも到達できないで憤懣、破裂しそう」ということはまったくドラマではない、ただの心療内科の取り扱いだ。
そして、ドラマでも何でもないものをドラマチックに演出・主張されることほど、人類単位の無駄はないのだ、かっこ悪いということは愛がないということであって、かっこいいというのは人並み外れた愛があるということだが、どうして愛のない側が愛のある側を「解体」するのか、しかも感情的・落涙・主張的・けいれん。陶酔して、自分の解体罪のことはすっかり忘れているのだ、こんなメチャクチャな話があるか、人は自分標準だとそれぐらいブットビのバカになれるぞ。
恋女のマインドね | comments(0) |
かっこよくなくてどうする!!
っこいい人は、かっこつけているのではなく、かっこいいのだ。
かっこつけている人は、かっこよくないから、かっこつけているのだ。
この世で最もクソなことは、かっこいい人と、かっこ悪い自分の区別がつかないことだ。
かっこいい人は、かっこいいのであって、かっこ悪い人は、かっこ悪いのだ、そしてかっこ悪い自分は、出る幕などないのだ/何がどうなって、かっこ悪い人は「悩む」のだ、「かっこ悪い」という結論が出ているのであって、そこに悩みなど存在しない、ただの「かっこわる」であって、それは話題にすらならない。

たぶんこの世で最大のアホは、「かっこ悪い自分という問題」を、テーマとして俎上に載せる奴だ。
「かっこ悪い」ということは、イコール「テーマにならない」ということだ。
それなのに、それがただ自分のことだからといって、大テーマとして俎上にノシノシ持ち上げてくるのだ。
信じがたいことに、そのたぐいのアホは、<<かっこいい人はかっこ悪い自分のための材料>>だと思っている、そうじゃない、かっこいい人は「存在」であって、かっこ悪い自分は「無」だ、なぜこんな当たり前のことも教わらずに来たのだ、よっぽどクソな両親から生まれてきたのか(なんとでも言ってやる、容赦はしない)。

この世のすべては、かっこいい人のものだ。

当たり前だ!! かっこ悪い人は、死ねということではないが、まともに市民権があると思うなよ、かっこ悪い人の市民権は、ただ「あの人はサイコーだぜ!」と熱狂する権利にのみ支えられる。
この世に、「かっこ悪い自分」を堂々とのしあげてよい権利は世界中のどこにもないのだ、まさか平等の権利があるとでも吹き込まれてきたのか!?/「かっこ悪い自分」をこの世にのしあげるということは、この世を悪魔の手に売り渡そうとする行為だ、そんなことは遥か辺境の地、アラスカ以北で独特の仲間を集めてやってくれ。
恋女のマインドね | comments(0) |
大きな命と針小棒大2

なりに、世間一般のことを配慮しながら書き話しているので、いつかきっと、本当に好き放題に、本当のことを書き話してみたいものだ。
命あることを書き話さねばならない……なんというか、最大の誤解は、思議には思議の世界があるということだ、思議マンには思議マンの見る世界があるのであって、それは命ある世界とはまったく異なる/なんと言えばいいのか……五感を使うのではないということだ、虚数単位を使えば五i感ということになるが、五感はそれぞれバラバラであるのに対し、五i感はひとつであってバラバラではありえない、そりゃ虚数単位のものを実数単位と同様に扱うことはできないだろう。
くれぐれも、思議の世界がないわけではなくて、思議のゲイン(および五感のゲイン)を上昇させると、そちらの世界が見え、命の世界は見えなくなっていくというだけだ、思議の世界から命の世界の話を聴くと「ななな、なんのこっちゃ、きっしょ」にしかならない、それが正常の反応だ。
ここで太鼓がドンドンと鳴ったとして、それは夏の匂いと関係があるだろうか? 聴覚や媒質振動と考える人は、「嗅覚には関係ありません」と考えるだろう、それが思議の世界であって、何の問題もない、だが命の世界は違う、命の世界では季節がドンドンと鳴っているのであり、それが当たり前だからいちいち注目も感動もしない/そもそもバラバラでなければ「注目」ということ自体できないだろう。

もっとすさまじいものですよ、言ってしまうと。
めちゃめちゃ広いし、めちゃめちゃ広がる、と思っていただいてよい、なんというか、ペン先で青インクをちょんとつけたとして、実はその紙面の裏側はとてつもなく大きな湖になっており、青インクが広大に拡散してゆくというようなことだ、すべてのことはそのひとつの湖の中でせめぎあっており、何がどうなっているかは表面上のちょんちょんではわかりようがない、自分の踏み出す一歩が何なのか、それはとてつもなく大きすぎてとてもじゃないが認識は不可能なのだ。
ただ、そのとてつもない大きさを、なんとなく感じ取ること、それが感じ取られていれば、自動的にウハハハとなる、何しろ自分を押し込めている重い空気は、バラバラの小さなものでしかない、どれだけ気張ったところで、真空の大きさには勝ちようがない、生きているというのはノンフィクションの実在だけれども、真空の大きさに比べればまったく芥子粒みたいなものでしかない、それでもなんとか長生きしようとするのだけれども、なればこそ芥子粒をこの世界のすべてにするのは逆に不合理を極めてしまう。
踏み出す一歩が五十センチだったとして、その五十センチは計測可能だ、だからそれを「一歩」だと定義したくなるのだけれども、その一歩が実は湖のはるか彼方、何那由多かわからない広さまでつながって響いていくというのがわかると、もうわけがわからなくて、逆にウハハハとなる、そちらが真相なのだけれども、そちらの真相は一ミリも思議できないので、思議の人々はそういったことを忘れてしまおうとする。

われわれの努力は、針の先ていどだけれども、そのエコーがどこまで広がっているかは、急に人智を飛び超えてしまう。

その、人智を飛び超えたものは、いかにもありそうだとして、尊重していこうとすること、せいぜいそれぐらいしか、われわれにはやりようがない/針の先ていどのことは、われわれも薄々わかっていて、だから自己洗脳でもしないとやる気がしない、かといって真相のほうはというと、まるで計測できない上に、大きさが人智を超えているので、こちらもやる気どうこうというものは通用しない、またいわゆるオカルトとかスピリチュアルというのも、大半が、その大きな命を自分が切り出して理解できると思っていて、それでおかしなことになっていってしまう。
われわれにできることは、大きな命に、なるべく準じることだけ、できればその大きな命に合一することだけであって、この大きな命を切り取って理解のまな板に載せるというようなことは到底できない、こんな大きなものは、あればいいじゃないか、というのがまっとうな感覚だ/われわれが旅をするとして、どこを旅した、などということは知らなくてよいのだ、そうでないと小さなところを点検しにいってそれを旅だと言い張らねばならなくなる、旅はずっとわからないから旅でありえる。

正しく見ないとな | comments(0) |
大きな命と針小棒大
きな命が来ている。
世の中というか、時代に逆行しすぎだろ、と思う、僕自身がドン引きする感じだが、でもこれはずっと昔から知っていた「命」だ。
バラバラにすれば、生きていくのには有利だが、バラバラにすると、命はなくなってしまう。
大きな命が来るほどに、個々のものは小さくなってしまう、そりゃ比較的に当たり前だが/しかし吾我の小さいことをヒートアップさせ、それを己のこの世のすべてとしたがる者にとっては、「大きな命」はますます敵愾心の湧くものになる、「大きな命」と「針小棒大」は対立するのだ、僕は「大きな命」につなぐ派だ。

「大きな命」は、これまでなんども来ていたが、今度は「見る」のではなく「来い」と……つまりこの景色とか季節とかだ、空間というような簡素なものではなく、もっと何もかもに満ちたもの、これの中で動くという、まあワザとしては「ヒキョー」だよな、針小棒大のルールを無視しちゃうんだから。
まあとにかく、「大きな命」だ、やりたい放題にやらせていただきたい/「殺すマン」が多いけれど、この大きさになるとさすがにもう殺せないのでは? まあそれでも殺すマンを続ける人の果敢な挑戦は、少し見てみたくもある、この大きさのものはさすがに死なないような気もするのだが、どうなんだろうね。
僕は細かな命も大切にしてきたし、それだからこそ、その細かな命がいちいち殺されることにもなったのだが、結果的に、その殺すマンによって、僕は大きな命につながっていくことになるのかもしれない、まあそりゃしゃーないな、殺されるたび大きな命になっていかざるを得ず、いいかげん「これって殺せるのかね……」という大きさにたどり着いてしまうのもしょうがないことだ。
これはきっと、「殺すマン」の側が、逆に「殺される」という恐怖というか、錯覚を、はっきり持ってしまうやつではないだろうか、単純に言って「大きな命が来ていますよ」というと、「殺すマン」の人はビビるのかもしれない。

「命」が怖いから、「格」で覆うのか。

まあそういうものかもしれない、深い森に無数の木々の命があると思うと、単純に怖いのかもしれない、それで自我だけを人格で区切って「わたしさあ」ということをしているのかもしれない/何しろ、「命」はわれわれが人為的に作ったものではないから。
生物にも命があるのだが、それは「生きているから命がある」ということではなく、「生物にも命がある」ということであって、風や季節にも命があるのだ、風は風であることが命であって、生物は生きていることが命だ、サルトルが見た虚無の極限(嘔吐)が、実は命に満ちているということ、もし命がなければサルトルの見たとおりだろうねと僕も思う/さて針小棒大をやめたとき、われわれがそれそれに見るのは嘔吐だろうか命だろうか。
正しく見ないとな | comments(0) |
学門とは承認外へのアプローチのこと

ういえば、ワークショップ関連で、「助かった!」と大ウケだったのだが、多くの人は学門と承認の関係がテンヤワンヤになっているらしい。
人間には、「認識」という能力があり、物事について「わかった」と認識するとき、それは「承認した」という状態なのだが、現在の自分の理解範囲を超えるものについては、当然その対象は「承認外」にならざるをえない。
たとえば僕が、魂魄の皮膜、ノーからイエスへの移り変わりの刹那の谷間に、ナゾの爆発力があって、それが産霊(むすひ)だと言ったとする、そんなもんいきなり「わかりました」となる奴があるかよ、とんでもないド天才でないかぎりそれがいきなり「わかる」ということはない。
たとえば僕が、「空間にある『風』(指向性エコー)を捉えて、それを入れ替えると、距離感が狂いまーす」と言い、実際にやってみると、「あれ!?」と、やられた側は本当に距離感が狂うのが確認できる、そりゃやられたことの実感については「わかる」のだが、何がどうなっているのか、現象について「わかる」わけがない、説明されたら説明は「わかる」が、現象については「わからん」ままだ、どうもこの「わからん」=「承認外」であるということが、多くの人の概念にないらしい/何もかもを「わかりました」と言おうとして、テンヤワンヤになっているという実情がレポートされた。

承認外のそれが、「わかる」ようになるのは、何年も先か、何十年も先か、ともしたら一生そんなときは来ないかもしれず、一生来ないほうがパターンとしては大多数を占める、それが当たり前であって、それを五秒で「わかりました」というのはメチャクチャだ。
「わかりました」ということではなく、現時点では承認不能のことを、「教え」られたのだ、その教えられたことが「わかった!!」になるのは、いつのことになるやら、見当もつかない/そしてその承認外の、「教え」られたことに、我が身で接近していこうとすること、そのアプローチを「学門」という。
なんや爆発力があって、その産み出す爆発力を(   )という、という穴埋めがあって、その穴埋めに「むすひ!」と正答を埋めたとしても、そりゃ産霊がわかっているということじゃない、そりゃ教えられた文言を「記憶」しているだけだ、もちろん記憶もゼロになってしまうようではなおさら困るが、正確に記しておくことは大事だとして、本質はその「教え」られたことにどれだけ近づいてゆけるかだ、頭のいいヤツならそこのところをわかっていないと、ただの記憶力のいいアホになってしまう。
「瞳孔の不睨といって、にらみつけていたら見えなくなるんだ、遠山の目付といって、もっと遠くを見るんだ」と言ったとして、「わかりました」と応えたとする、その瞬間いきなりパンパカパーンと、「瞳孔の不睨!」の実物が出現するわけがあるかよ/「瞳孔の不睨と教わった、そして実物も見せてもらった、なんで自分の瞳孔はああならんのや〜?? どうしたらええんや、何がアカンのやろウォォォ〜」という、そこからの脳みその絞り込みが学門だ。

「犯人は○○です」「わかりました。逮捕してきます」

いやいやいや、んなアホな、そんなデタラメな刑事があるか、仮にカミサマに「犯人は○○です」と教わったとして、そいつが犯人だと断定するためには、確実で理に適った捜査と証拠集めをしないといけないだろう、そして数年越しに証拠が集まり、執念が実ってようやく、「わかりました、あなたが犯人ですね」となる/この刑事は数年間ずっと脳みそを絞り続け、証拠を集めて証拠品とにらめっこし続けてきたのだ、それでようやく一本の筋道を発見し、「!! わかりました」となる、これが学門と呼ばれるものだ。
仮にカミサマに「犯人は○○です」と教わったとして、まともな刑事なら、「そうなのか……まったくそうは思えないのに、ナゾだ」「何がどうなっているのだろう」「なんとかしてこれを解き明かさねば」と首をひねるはずだ/「教え」られるということは、そうして現時点では「ナゾでしかない」ことを先に教わるのであって、そのナゾを証して「わかった」にたどり着くまでを学門というのだ、なぜ多くの人が「文言記憶完了!」のときに「わかりました!」というのか僕には不思議でしょうがない。

できるオンナだね | comments(0) |
命の標準を目指して
ぜこんなことを、ウダウダ言っているかというと、改めて僕自身が、より大きな命に呼び込まれている感触があるからだ、まるで大学生のサークル勧誘みたいだが、大学生のサークル勧誘だって命あるものは命があるだろう、僕はそうしたものにしか反応してこなかった。
すでに明らかに解き明かしたのであるから、明らかにせよ、「生きる」ということと、「命」(を吹き込む)ということは、まったくの別で、むしろ逆方向だ、ほとんどの人は「己が命がない、命を吹き込んでいない」ということに立ち尽くすだけで正しい学門の入口に立脚できるはずだ。
<<命あるものに触れるということは、重大なことなのだ>>、これまで命がなくただ吸収して生きてきた者は、命あるものに触れたとき、<<己が命のなさに直面するあまり、そのことを「殺される」がごときに錯覚する>>だろう、それはあくまで錯覚にすぎない/命を奪われて殺されるのではなく、もともと命がなかったことを今になって認識させられるということ、だから表面上は「殺される」という感じがするのだ、それはもともと命的に死んでいたのであって、今になって殺されるということではない。
どこにでもあるような歌詞に、「あなたがそこにいてくれるだけで」というようなものがあるが、それはそこに「命」があってくれるということだ、わたしはこのことを「命の標準」と呼びたい/「そこにいるだけ」では、「生」としては何もしていないことになるが、「命」は大いに吹き込まれている、標準というのはランドマークのようなものなのだから、実用的には大きければ大きいほどよい、己が大いなる命の標準に至ることを目指すのは、万人にとってまったく健全なことだ。

われわれは、進化したテクノロジーによって、「生物」の仕組みをかなり詳細に知るようになったが、けっきょくのところ、その生物がなぜ「命」を持っているのかについては、解明できない/すべての生物は「生きよ」という命を帯びているが、その命がどこからやってきているのかはまったくわからない、アミノ酸をどう組み合わせてもそこに「命令」が発生することはありえないはずだ、よって「命」はけっきょくアミノ酸由来ではない。
「命」の仕組みについては、けっきょくナゾのままなのだが、われわれにそれを感得する能力がないわけではない、であればこの能力を磨き、この能力に準ずることを、合理的に重視すべきだ/ある空間に、一人の人間が立ったとする、<<生物としては誰がそこに立っても同じはずであるが>>、実際にはそうではない、大きな命の標準たる者がそこに立つと、空間がまるごと「命」ある空間に変わってしまう、そんなことは誰でも体験すればわかってしまうことだ。
女性であれば、誰でも知っているとおり、あるいは、誰でもそのことを一度は知るべきだが、同じ道を歩くのにも、「この人と歩くとまったくそれは違うものになり、違う景色になる」「この人と歩くとき、わたしにはこの人と歩いているという命が与えられる」という現象があるはずだ/このとき、<<命あるものに触れるということは、重大なことなのだ>>ということを思い出して、我がふわついて膨張することを断じて禁じねばならない、そのことはけっきょく、「わたしごときには、自身で命は持てない」という合理的な理解がなければ支えきれない。
すでに明らかに解き明かしたのであるから、明らかにせよ、<<小我に満ちた自分ごときに、命など持てるわけがない>>ので、もし命に触れることがあったとすれば、それは大なり小なり、命の標準たる誰かに命を吹き込まれたものなのだ、このことをないがしろにして吾我を増長させてゆくと、さらに命は遠のいてゆき、命がなく膨張した生だけを背負ってゆくことになる。

仮に「導かれたい」と望む人があったとしても、「もう導かれとるわい」としか言えない。

大きな誤解があって、「命」そのものを「導き」と呼ぶのであれば、「導き」はもともと先に存在していて、後になってパカーンと追加されるものではない、もともと先にあるそれを、当人の吾我がキックしているのが問題というだけだ、新たに導きを求める必要などどこにもないし、新たに追加されても同じように新たにキックするだけだ、あなたは/なぜ命の導きをキックするのか? それは当然、「命の標準」に、「生の標準」がバトルするからだ、「生の標準」が殺されそうだと誤解するので、「生の標準」が「命の標準」を殺しにかかる、自分で毎回「導き」を殺しているだけなのだ。
僕は今、より大きな命に呼び込まれている感触がある、それはさまざまなジャンルの命を統合する大きな命だ、景色も季節も音楽も恋あいも文学も学校も祭りも酒も空もおなじ一つの命にすぎないというような、だから「何」をする必要もないというような/どれほど小さきことも大いなるつながりにおいて大いなることなのだ、そうして大きな命の標準に呼び込まれていくと、また僕の殺される度が上がるのだが、正直もうそんなしょうもないことに相手をしていられないのだ、それが「しょうもないこと」と言われてどれだけグサリと来るものか知っていても、僕がこの命を蹴ってしまうとますます大きな船は沈没していってしまう。
正しく見ないとな | comments(0) |
命がない現代芸術家Aさん2

ぶん、命のことがサッパリわからない人が少なからずいるのだ。
そりゃ、命の世界から思議の世界に転落したのではなく、生まれてこの方、思議の世界にしかいたことがありません、という人なら、命の世界なんて「???」としかならないだろう/あるいは「命、なのです……」とトンデモナイ誤解の持論を振り回してしまいそうだ。
このことを考え、また書き話すと、メキメキっと身体に外圧が掛かる感触がある、これはとてもシンドイ、これが僕の殺される理由なのだろう、<<逆に向こうも「殺される」と感じているはずだと推定できる>>、殺されそうに感じるから僕のことを殺すのだろう。
Aさんだって生きているし、僕だって生きている、「生きている」ということはそれだけで涙に値することだ、けれども/同じ場所で二人がたたずんでいるとき、Aさんには命がない、僕には命がある。

「生きる」ということは、エネルギーの摂取と吸収だ、われわれは酸素を吸って二酸化炭素を吐き出しているが、それは酸素のほうが二酸化炭素よりもポテンシャルエネルギーが低いからであって、差分のエネルギーはわれわれに摂取されている、炭水化物等が「分解」されるのも同様だ、われわれは一つのブドウ糖(C6H12O6)を六つの二酸化炭素と水に分解するが(6CO2 + 6H2O)、分解後のほうがポテンシャルエネルギーが低いからこそ自身にエネルギーを摂取することができる。
一方「命」ということは、逆方向、エネルギーの放出と供与だ、六つの二酸化炭素と水をブドウ糖という一つのものに作り上げて放出できれば「命」になる、バラバラの食材を一つの料理に作り上げられれば「命」だ、この場合料理は食材の単なる「加工」ではなくなる/バラバラのものを一つのものに作り上げること、このことはエントロピー法則の逆行であり、物理学的にナゾとされる「命」の性質とも整合する。
「生きる」と「命」は逆方向のものであって、「生きる」は一つのものをバラバラにして己がエネルギーを吸収すること、「命」はバラバラのものに己がエネルギーを供与して一つのものにすること/「生きる」とは「己が生きるために他の命を費やす」ことであり、一方「命」とは、「命のために己が生を費やす」ことだ、性質的に「生きる」は「自」であり、「命」は自の外側にある「他」であるので、造語として「自生他命」と言いうる。
「あなたの命は何か?」、そのときあなたは、感覚的にも、自分の外側へ「己が命」を探すはずだ、己が生を費やした先が己が命であり、他の命を費やした結果が己が生となっている/生は吸収であり命は放出である、よって命を持たざる者は生ばかりを膨張させているはずだ、その重たい空気の中で、膨張した生はやがて重すぎて動けなくなってくる。

生は吸い込むもの、命は吹き込むもの。

生は計測可能な魄のものであり、命は計測不能な魂のものだ、吸い込んだぶんは同等量を吹き出さないと、やがて自分が膨れ上がるだろう、いくら計測可能だからといって「生」だけを取り扱っていたら、己はひたすら吸収消費するだけのマシンになり、やがて動けなくなってしまう、他に命を吹き込むことができず、ただ命を殺すために存在しているがごときユニットになってしまう。
命を吹き込め、己が生きることのみを用事とせず/力を尽くしているつもりの労役でさえ、気づけば己が生への吸収にしかなっていないことがよくある、命を吹き込むには決意と正しい学門が必要だ、計測不能なものが慎重な学門以外の何によって正しく取り扱われることがありえようか。

正しく見ないとな | comments(0) |
命がない現代芸術家Aさん

るほど、そう考えればすべてつじつまが合うな。
なぜ現代人は、命あるものを「殺す」か、それは、己に命がないということを認めがたいためだ。
仮に、芸術家Aさんがいたとすると、このAさんは、これまでの芸術に命があるのを目撃して、比較すると己に命がないということを認めてしまうのがイヤがために、命ある芸術を殺してまわるのだ、そして「命のないものこそ芸術」として、「芸術は死んだ」「無意味の意味」とアピールする活動をしていくことになった。
つまり、命のないカワイソーなボクちんを、肯定するために必死こいただけだ、「芸術は死んだ」とかいって、命から切り離されて見捨てられたのは自分自身なのに、そのことが認めがたいから、ヨソの命あるものを否定することに、第一義の機械的反応を持つだけのゴマカシユニットAさんになってしまった。

つまり、「芸術には命があるぅ〜でもボクちんには命がないぃ〜」というだけで、本来話は済んだのだが、そうとすんなり認められる話ではないらしい、当事者でないので僕はわからんが、命がないというのはそーとーキツいようだ。
そりゃあな、命がないのなら、他の生きものを殺して食事にしているというのは、そーとー後ろめたいものな、せめてベジタリアンかヴィーガンになろうかな、という気を起こすのもわからんではない。
「ボクちんは命がない」ということを、認められないので、あいまいに寝ぼけた眠たい顔をしてごまかし続けるしかなく、はっきりしない声と、不明瞭な言葉、そして状況に応じて感情的に激昂したり、消沈演技をしたりと、あれこれしなくてはいけない、しかしそんなことをしても命がないモンはしょーがないのだ/芸術家Aさんは、自分が存在していない(命がない)から、自分が無意味であり、その無意味を肯定するためには、無意味の意味を肯定せざるを得なかったのだ、とんだ自己都合の芸術だな、まあでもそのサイクルから抜け出すことはもう不可能だろう。
芸術が死んだのじゃないですよ!!! 残念だったねアホのAさん!!! 命のない者は、命のない世界に生きねばならず、それは思議の世界である、この思議の世界には命がないので、この世界において「芸術は死んだ」と見えるだけだ、アンタが本来の世界から叩き出されただけでございますよ、思議の世界に元からミエミエにある論理的限界を、既製品芸術にまとめたところで、誰だって「んなこたぁわかっている」としか反応しねえよ、だって本当に元からそんなことはわかっているのだもの。

「命がないコンプレックス」は、すさまじく堪えがたいようだ。

命から切り離された者は、強制的に思議世界に放り込まれるが、この思議世界に行っちゃった者が、命ある誰かを見上げていても意味がねーよ/端的にいえば、思議世界と命世界があるわけで、どーも思議世界の者はコンプレックスがえげつなく、自分たちこそが命の徒であると自認したがり……だからこそ、その救いの自認に脅かしをかけてくる「命」の存在を、殺害せずにはいられないようだ、それだけ「命がないコンプレックス」はキツいのだろう。
本来、生きていくのは何もみじめなことではないが、命がないままに生きていくのは、どうしたってみじめなことだ、命がないのに朝は起きねばならず、覚えごとをせねばならず、労役せねばならず、食事せねばならず、恢復に眠らねばならないのだ、そこで「何の命もありませんけどね!」というのはみじめすぎる、だがこのみじめすぎるのがマジの事実なのでしょうがないのだ、朝起きたときから「うおおお〜命が呼んでいる〜メンドクサイけどしょーがねえええええうおおお」とはならないんだろ? ホラAさんの渋そうなゴマカシ顔を見ろよ。

正しく見ないとな | comments(0) |
思議の世界とアホになった瞳孔
思議なもんだ、もうこの世に生きる用事はそんなに残っていない。
もともと何かを、必死こいてやらんでよろしい、それはダラダラするということではまったくないが……そもそも「この世」というのを安直に決めつけすぎだ。
われわれは日常、やたらと思議し、頭ン中はずーっと何かを思議しているのだが、それは今の時代だけであって、過去もそうだったわけではない。
思議が悪いのではなく、思議から生じる世界もあって、ただそれは世界のすべてではないというだけだ、いわゆる「瞳孔の不睨」が成らないかぎり、この思議の世界から脱出することはできない。

摩訶不思議な世界があるというわけではなく、思議には思議から生じる世界があり、思議しなければ、思議しない側の世界もあるというだけだ。
ただ、思議によって生じる世界は、偏屈かつ偏狭であり、極めて偏っている、だからそれだけを世界にしていることには極度の無理がある。
人が消えていく……人の命がない、だから人が消えていく、さすがに僕は人の命に反応しないほど鈍感な者ではあるまい、人の命があればそれなりに反応するだろう/思議の世界にはけっきょく命はないので、あるのは格と呪いだけだ、とにかくまったく異なる世界が広がっている。
ひんやりとして綺麗な、あの世界を観たことがないのだろう? 思議の世界はただ現代の特徴であって、過去までがそうだったわけではないし、かつてはここまで誰も彼もうるさくはなかったのだ、なぜ思い出せないのか、ほんのこの数年のことじゃないか。

どうして何もない世界のファンなのか。

現代芸術を見ればわかるが、誰も彼も、芸術の死、何もなさ、無意味の意味を執拗に問うことに大真面目だ、しかし一人でも賢ければ、「芸術が死んだんじゃなくテメーが死んだんだよ?」ということなのだが、本人は思議世界しかこの世にないものだと思っているので、芸術は死んだと本気で思い込んでいる、自分の瞳孔がアホになっただけなのだが、どうしてもそこに視点を向けるのはイヤなようだ。
現代芸術というジャンルが成り立ったのではなく、現代人が芸術というジャンルに土足で闖入したから、何の命も愛もないものが、「これこそ芸術」と定義をスリカエられただけだ/瞳孔がアホになった自分を肯定するために、これまで命あったものを殺害してまわるというのはどうなのか、思えば今の「現代」はそうして成り立ってきたのかもしれない、詩聖タゴールにどう抗弁するつもりなのか。
視点変えてこ | comments(0) |
僕が受けてきた暴力のレポート3
も無防備なところに、最もえぐいものをズドンだ、このことは、人の力で抑えることはできない。
眠りから覚め、夢うつつのきわ、直観とは異なる具体のヴィジョンを見た、「何が起こっているか」について/僕が横隔膜を無防備の極点に近づけ、人に分け与える極点に近づくほど、人はその無防備なところにズドン! の衝動を抑えられぬ、その衝動は人の力では抑えられないようだ。
まったく、われわれの常識や通常の想像力では、推し量れない出来事が起こっている、まるで機械化された何かのように、僕は愛そうとし、やさしくあろうとし、笑わせようとして、それがうまくいく極点でズドンやグサリで討ち取られる、そうしたら僕はただちに再生せねばならない、僕は自分を討ち取った者に土下座しながら再生せねばならない。
これは何かの因果なのだろうか? そう捉えることは気分的にイージーだが、安易な結論は出せない、これは因果でも何でもなく、「何の意味もない」ことかもしれなかった、それによって僕が何かをやめるということは決してないだろうけれども……

夢うつつのきわ、すべてのものが、僕を殺しに来るのがよくわかった/なぜ殺しに来るかというと、僕が「横隔膜を広くたゆたわせているから」というだけの、理由未満の理由しかない、人々はこのときの僕に向けて、自動的にキリング・マシーンにならざるをえない。
<<赤子を見よ/嬰児でさえ、苦悶にわめくとき、横隔膜を引き攣りあげ、また極楽にほほえむとき、横隔膜を広くたゆたわせている>>、われわれのほとんどは、あの苦悶の表情から生涯脱することができない。
僕に土下座をさせ、平手を打ち込み、鼓膜を傷つけたり、土を舐めたさせたり嘔吐と悪夢を繰り返させたりしたとして、なおも彼らにとって加害者は僕だ、特に彼女らは悪いことを決してしない者たちであるから、このことは定義とみなしてよい/僕は己の加害者たるを認め、土下座して詫びながら、再生し続けねばならない、もう一度彼女らを笑わせるのが、彼女らにとって「当然」のことである限りは……
昨日がそのようであったから、今日もそのようであり、明日もそのようであるだろう、僕は学門の徒であるから、読み取りうるものだけを読み取らねばならない、したがい僕の横隔膜が出会うのは、現代において多くの人の靴底だ、僕は横隔膜に靴底を受け入れるとよいが、ただし僕が加害者たるの自認と自責を忘れるとやはり許されないだろう。

こころある者は、僕の横隔膜をトランポリンとして踏んで楽しみ、こころない者は、トランポリンに切れ目を入れてみる衝動を抑えられないだろう。

僕自身は、このことに、悲劇的な感情は持たないし、ネガティブな思念を引き起こされるわけでもない、本当にもう慣れてしまったのだと思う、ただ事実だけを知りたいのだ、どれほどのことが起こっているのか/なぜなら僕は、まさに今日のこととして、これらの思念の中、青草に輝く日の光を目撃し、吹き抜ける一陣の風にすべてを肯う声を聞いた、だから僕に絶望はないのだ、あのような光と風に包まれてあれるのならば、その他のことがどうであってもかまわない、もうほとんどのことには慣れてしまった。
僕は横隔膜を広げて踏まれる、そして極点に至るとズドン・グサリだ、それはいつものことで、もう飽きてしまった、珍しくなくなったことに、人は冷静になれるものだな/すべてのものが、僕を殺すことに色めき立つとして、それはそのようであるからどうする必要もない、僕はただ、あの光と一陣の風に出会うために行くのだろう、それに比べれば僕の払う代償なんて安いものだ。
視点変えてこ | comments(0) |
僕が受けてきた暴力のレポート2
えば、僕を一度も攻撃しなかった女性というのは、実に数少ない、ほとんどの人が数度は、強力な呪詛のこもった攻撃を仕掛けて来、僕が土下座なりして、その後笑わせようとする、取りなして世界を恢復しようとする、というのが一連のパターンだ。
僕はいつからか、現代女性にとって男性の定義を(特に僕自身に向けての定義を)、単純に「断罪と処刑でノリノリになるもの」として、その上で女性になお与えること、世界と笑いを与えることをやめなかった。
そうするうち、その「断罪と処刑でノリノリ」という本質は何ら変質するわけではないが、僕のクレイジーな(と、女性たちには見えたらしい)選択と行為に、逆に震え上がり始めた、そしてその後、実際に強烈な「カルマ」というべき現象が体験されてきたのでもあった、中にはあからさまな「地獄落ち」のヴィジョンを見て錯乱し救急隊員の世話になった人もいる。
ちなみに、僕は別に、クレイジーな判断と行為をしているわけではなくて、もともと女性が僕をどう扱おうとも、僕の側は女の子への態度を変えるつもりはないので、僕にとっては当たり前のことだ、その点については他の人の按配は知らない/そりゃだって、僕はカルマ地獄に落ちたくないものな、向こうの投げつけてくるものが石でも糞でも唾液でも、僕から差し出すのは花束で変わらない、そりゃ僕は男なんだから当たり前ではないだろうか。

いわゆる腐女子という人々も、現在は数百万単位でいるのだろうし、LGBTも、生来的なものでなく結果的に、場合によっては流れ着いた先に、そうなったとしても何もおかしくない、異性愛のまま背後に「断罪と処刑でノリノリ」を隠しているよりは、慈しみのあるLGBTのほうがよっぽど「まとも」と言えるかもしれない。
また、女性のほうが、男性への「断罪と処刑でノリノリ」の度合いが強いので、女性のことをメインに話しているが、男でも同じだ、男でも現在、「男」と見える男には「断罪と処刑」の衝動を覚えるし、お肌ツルツルでヒョロヒョロの男性のほうが、素直に応援できるし、慈しめるし、励まし合えるのだ。
僕自身はできるかぎり、もとあった「男」としての自分を、変えずにいきたいし、変えたところで僕はもうこの世で何の役にも立たない、かつ何の面白みもない物体に成り下がってしまうので、今さら変えるつもりはないのだが、これは「断罪と処刑でノリノリ」の大正になるのだ、そのことに理由はまったくない/理由があるのではなく、ただの「定義」だ、特別な感情があるわけじゃない、きれいな海があったらつい飛び込みたくなるのと同じ「衝動」だ。
十年前、あるいは二十年前から、僕は知っているし、今もまだ覚えている、僕がなんとかして正当な愛を向けたら、相手の女の子も「あっ」と、受け取ってほほえみを向けてくれたものだ/今はそれが、くっきり変わっているのがわかる、僕がなんとかして正当な愛を向けると、向こうからは「断罪と処刑」の予定に向ける眼差しが返ってくる、そしてそれは正義だ(「定義」において正しいのだから「正義」に決まっている)。

戦中は英雄だった兵隊さんが、戦後には罰すべき蛮族に再定義されたように、過去はすてきだった「男」が、現代では罰すべき蛮族に再定義されている。

そういえば今日は、終戦記念日か、国の興廃と身命を賭した戦いに比べると僕の危難などゴミみたいなものだが、この際は英霊への非礼を詫びつつ、なんとかあやからせてもらおう/どうして戦中は国を守る英雄だった兵隊さんたちを、戦後は急に「処刑すべきゴミ」なんて扱ったのだろう? そのときもやはり、「断罪と処刑でノリノリ」という現象はあったのだろうか。
戦後はGHQ主導のプロパガンダ等もあり(WGIP)、ラジオ番組などもあって、敗戦感情の市民はコロッといってしまったということだそうだが、現代でも同じように、プロパガンダとメディアブームがあると、敗戦感情の市民はコロッといってしまうのだろうか/僕は戦争にはしゃぐほどクルクルパーではないが、愛するもののために死地に赴いた兵隊さんは今もかっこいいと信じて疑わない(疑いようがない)ので、なんとか僕も少しはかっこよくありたいのだった、他人にどう扱われるかについてはもうどうしようもないのだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
僕が受けてきた暴力のレポート

ういえば、僕はこれまで、何人の女性に土下座してきただろう、きっと十人ぐらいになるだろうか。
象徴的にだが、箸で首を刺されたり、土下座してそのまま、十数回平手打ちされ、鼓膜を損傷したこともある。
なぜ土下座したかといって、たぶん、最終的には、そこまで僕に悪逆非道があったわけではなく、場合によっては僕は何も悪くない可能性もあったのだが、とにかくそのとき女性は僕のことを憎悪もしくは「邪悪のもの」と信じているので、土下座して暴行させてやらないと収まらない。
僕が知ったのは、僕が土下座したところを、女性が十数回平手打ちすると、女性は「ノリノリ」になるということだ、「意外にすっきりするね」「また明日もやらせてもらおうかしら」というようなことを、大マジで言うものだ、僕の鼓膜を損傷させたあたりなどは「大金星」という様子だった、それが偽らざるところの彼女の心情だったのだろう、そのノリノリは未来へも引き継がれてゆく。

僕は基本、なんとかして女性を笑わせようとし、何かしら足しになれるようであろうとするが、それで女の子がたくさん笑って、いろいろ足しになればなるほど、必ずその女性は僕を攻撃する、何かしら僕に対して「死ね」という衝動で攻撃が起こり、そのことは止められないのだ/「死ね」という衝動が起こる上に、攻撃したらノリノリになっていくのだから、それを制御する方法は内省的にはありえようもない。
もし女性の手に拳銃があり、法が殺人罪を罰さないならば、女性は数秒とまたず僕に銃弾を撃ち込んでノリノリになるだろう、たぶん何かしらヒロイックな気分にもなるし、悲劇的な気分にも浸れるので、そのことは一種の「サイコー」なのだと思う、そういう表情はすでに経験から心当たりがある。
「そんなバカな」「そんなことない」という人も多いと思うが、そうでもないのだ、心当たりがないのは、関係に深入りしていないからにすぎない/たぶんその衝動には特に意味はなくて、単に「罪を着せて殺したい」「流血させて苦しめたらスッキリする」「何かがノリノリになってたまらない」というだけのようだ、そのことについて僕はすでに「そりゃそういうもんだろ」という理解で安定している(単純に言って、もう慣れて飽きてしまったというのもある)。
ただまったくわからないのは、十年前は、女性がそんな血祭り衝動を覚えることはなかったし、二十年前ともなれば、その逆で、流血といえばびっくりして慌てて手当てに来てくれた女性も少なくなかったということだ/なぜかよくわからないが、とにかく現代女性は、男性に罪を着せて苦しめて流血殺害することに、ノリノリでたまらない衝動を覚える、理由はよくわからないが、潜在的にそれは現代女性の「正義」なのだろう、もちろん女性が悪いことをするわけではないから。

男性が、現代の特定キャラに閉じこもって生涯を過ごすのは、女性に殴り殺されないためだ。

自分で言うのもアレだが、男性が、十も二十も年下の女、しかもこれまでにさんざんこころを砕いて色々与えてきた女に、鼓膜が損傷するまで平手打ちされて、正気でいられるとは思えない/ましてそれをシレッと学門の資料にするなどというのは、まるで死人みたいな考え方だ、こんなことさすがにオススメできるわけがない、生きることを諦めた奴の発想だ。
一般に、女性による男性嫌悪のことをミサンドリーというが、僕の知る限り、かなりの勢力がもともと、「嫌悪」とかの次元ではなく、さらには「憎悪」という次元でさえないのだ、ただの「煮えたぎる断罪と処刑の衝動」なのだ、やはり磔にして槍でも刺さないとスッキリしないのだろうか/僕は女の子ちゃんが大好きなのにね、まったく不公平なことになっちゃったぜ。

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