☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
現代は催眠ズンドコ節2

レビ局員に「マスター」という係があるが、これは番組を隅から隅まで見てチェックする係だそうだ。
そして、通販番組の「マスター」は、どうしてもその通販番組で紹介された商品の数個を「買ってしまう」らしい、これはテレビ局の人みんなが知っているいわゆる「テレビ局員あるある」だそうだ。
それはつまり、あの見慣れた通販番組のノリも、繰り返し見ているうち催眠効果があるということだ、マスター係はそのテープを何回も見てチェックしないといけないらしいから。
内部事情をすべて知っている制作側でさえ、そうした催眠に「かかる」ものなのだ、催眠という現象は実際にあると覚悟しなくてはならない、すれっからしのテレビ局員でも当人がその催眠にかかるというのだから笑い話だ。

われわれは過去の戦争映像を見て、戦争という愚かな方法に怒りを覚えることができる。
一方、われわれは昭和の街中映像を見て、歩きタバコがされていることについて怒りを覚えることができない。
……あれ? 歩きタバコはダメじゃなかったの? ということについて、これはどういうことなのか、判断は各自におまかせしたい、おっかねえなあ。
催眠という現象は本当にあり、しかもおそらく、身近に大規模にあるのだ、ひょっとして誰かが全体を統制しやすくするために、催眠にかかりやすくなる訓練をほどこしているような気さえしてこなくはない。

催眠にかかった人は、「強烈かつ行方不明」になる。

これは「信じる」ということの逆だ、信じるものがある人はおだやかになるはずだし、信じるものがあれば行方不明にはならないはずだ。
これはつまり、催眠で捻じ込まれた思想や意志はうそっぱちで、本当には自分の思想でもなければ意志でもないということだ、思想も意志もないから声はやけくそになり進む先は行方不明になる、おっかねえなあ。

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現代は催眠ズンドコ節

代では「信じる」ということが衰退している。
広告まみれのウェブサイトや、政治家や芸能界、スパムメールや振り込め詐欺、食品表示偽装や大企業の凋落、モバゲーの重課金や出会い系アプリ、友人がマルチ商法にハマるなど、何もかもが「信じられない」という状態だ。
けれども、「信じられない」という状態はつらく、何より信じられないままでは身動きが取れなくなる、それで「どうする?」となる、何か信じるものがほしいところだ。
「どうする?」といって、それこそ信じがたいことだが、現代人は「催眠」を使うのだ、「信じる」ということの減退に代用するのは「催眠」なのである、そんなアホなと思うが本当にそうなのでしょうがない。

信じることができなくなった世の中に、代替として「催眠」が横行する、「んなアホな」ということが本当に起こっている。
たとえば受験生は大学や学歴や学問を信じられなくなった代わりに、自分は大成功するという自己暗示をかけるのだ、本当にそういうことをしていて、それが自己啓発なのだという曲学阿世がまかりとおっている。
その他、特定のものを貶したくないのでボカすが、今あるたくさんのものについて「アレは催眠だったのか……」と思えるものは、それでだいたい間違いない。
一時的にワッとなって、でも後になって身体はドッと疲れており、肌が荒廃する、内心キレやすくなっている、そして目の色がどうみてもおかしいという場合、それは催眠の症状だ、「あのとき熱くなって」「頑張ったつもりだったのに」は、たいてい催眠で踊らされたのだ残念なことに。

人間不信を受けた直後、人は催眠に出会っている。

たとえば少年少女が両親の冷たさに不信を覚えたとする、するとその直後、なぜか子供は悪質な種類のアニメにハマりだす、それは子供が逃避的に催眠を求めているからだ、その後その子は「催眠を受ければ強くなれる」と錯覚を学習してしまう。
大人でも同じ、人は何か信じるものを決定的に失ったとき、とっさに催眠を求めて催眠にハマる、催眠で疲れた身体は再起動するのにまた催眠を求めてしまう、それを繰り返しているうちやがて脳みそは催眠ズンドコしないと動かないものになってしまう。

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戦いと味方の性質
とえば漫画「ドラゴンボール」の孫悟空はフリーザやセルと戦ったが、「エヴァンゲリオン」の碇シンジは「使徒」と戦ってなどいない。
碇シンジのほうは「自己問題」と戦っている、一方孫悟空はまったく「自己問題」とは戦っていない。
このとき現代の視聴者は、碇シンジのほうが「戦っている」と見えて、孫悟空のほうは「戦っている」と見えない。
現代の視聴者の多くは、世界のためになど戦ってはおらず、自己問題のために戦っているからだ、だから碇シンジこそが「戦っている」と見える、視聴者は碇シンジの「味方」になった、これによってエヴァンゲリオンは大ブームとなった。

人は「戦っている」と見える人の味方にしかなれないし、また、自分のしている戦いと種類の違う戦いは「戦っている」とは見えないという性質がある。
よって現代においては、「青くさく」「胴体が華奢で」「衝動的で」「こわばっており」「ストイックで」「矛盾を抱えながら」「抑圧されている」「あまり笑わない」というのが主人公になる、こういう人の「味方」に多くの人がなる。
現代においては、「堂々として」「頑健で」「思想的で」「やわらかく」「享楽的で」「理路整然としながら」「解放されている」「ゲラゲラ笑う」というのは主人公にならない、これでは「戦っていない」と見えるからだ。
人は互いに「味方」として社会接続するので、つまりその「味方」を友人や恋人やパートナーに選んでいくのだが、それはけっきょくは勝利しない根暗としかつながれないとも言いうるので、理屈はわかるがオススメはできないのだった。

弱い人の味方をするのは、自分が弱くなったからだ。

自分が弱くなると、弱い人のことが「戦っている」と見える、そして自分はその「味方」だとフワフワ感じるようになる、この感覚は絶対的なものでなかなか抵抗しがたい
僕は堂々として頑健で、思想的でやわらかく、享楽的で理路整然としながら、解放されてゲラゲラ笑います、「戦っている」なんて赤っ恥は絶対人に見せません。
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パーティ報告65

んな社会接続のことを気にかけている。
社会接続せずにやると、何もかも「当てずっぽう」になるだろ? そりゃ何ともつながっていないのだから、と僕は話した。
「何をやっているか/やっていいのか、自分でわからなくなる」と言う、そりゃそうで、「自分で決めたこと」なんて溶けてなくなる、何ともつながっていないのだから。
自分であれこれ決めなくても、たとえば僕が「女性にとって愉快な男性でいなくてはならない」ことは、社会接続的に要請されていることなのだ、自分で決めるようなことじゃない、僕にはムッツリする権利が社会的にない。

社会接続していないと、「味方がいない」ということが起こる、これが重い。
ふと気づくと、「味方がいない」ということがあるのだ、友人や家族や、同僚、知人、果ては恋人さえも。
「協力してくれる」とか「善人」とか、そういうことと「味方」は違う、今は企業も消費者も上司も部下も、互いに「味方じゃない」ということが見えざる大問題になっている。
兵隊さんがこれから突撃しようとするとき、背後に「味方」がいてくれるなら突撃できるが、背後に「協力はします」という人しかいないのじゃ突撃はヒサンだ、「味方」がいないのは社会接続が断たれていることによる。

「味方」は「戦っている人」にのみ得られる。

戦っていないのなら、味方もヘッタクレもない、努力に応援や協力はできるけれど、応援や協力は社会接続ではない。
たとえば僕が何と戦っているかがわかる/見える人は、僕の味方になってくれる可能性があるが、僕が何と戦っているのかわからない/見えない人は、僕の味方になりようがないだろう、味方でないということは社会接続でなく、社会接続のないすべての「当てずっぽうの努力」はほとんど意味を為さない。

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第65回Quali's Party無事盛会!

2/20 Quali tweet>かなやさん&わたなべさん、ごちそーさんでしたアリガトー 。 pls entry

joined: ひろみ、デイブ、あきら、ゆか、わっきー、つかごん、くおり
日時:2017年2月18日(土)
場所:原宿DinningBar CLIMB
おかげさまで今回も無事盛会でした! 次回もよろしく! 九折

 

キラキラ次回3月18日(土)加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ

 

 

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
「苦しんでいる人が好き」というタイプ2

とえば女が身売りに出されている場合、その女は抑圧され不本意に春をひさいでいることになる、胸の内で「本当はこんなことしたくないのに」と。
そういう抑圧の苦しみが「そそる」という人が意外に多くあって、つまり苦しんでいる女に欲情する男は多いのだ。
たぶん芸能プロモーターは、この「抑圧されている女がそそる」ということをよく知っていて、それを組み込んで一種の"商品開発"をしていると思う。
おそらくマザコンの人は、自分が抑圧されて苦しんでいるので、そのことを忘れるために自分が「救済者」の立場になりたがるheatがある、そういうケースはすごく多いものだ。

こうしてマザコン世界においては、逆転的に解放は「敵」と憎まれながら、抑圧されている同士でくっついていくことになる。
問題は、この「抑圧されている同士」が、本当に近接して暮らしてゆけるかどうかだ、互いに「そそる」と「救済」がheatしていたとしても。
抑圧されている人は、こころ(胴体)が閉じ込められているので、本当には人とつながってゆかない、だから近接しているとますます「身が凍える」という状態が起こってくる、つながっていないこころ(胴体)は急激に冷えていくのだ。
こうして、思念上はheatしているのに、心身の具体は冷え切って凍えていくという、矛盾した状態が生じる、冷えるのでより近づこうとしてますます冷える、そうすると実際に病気にもなるし、気が変になってイライラ、怒鳴ったり暴力を振るったりということが出てくる。

マザコン恋愛は、病みつきと調整を往復する。

マザコン恋愛は「heatするのに心身は冷える」という性質において"病的"なのだが、病的だからこそ「病みつき」にもなる。
だからマザコン恋愛においては、病勢が致命性を帯びる手前で、「ちょっと冷却期間を置こうか」という"調整"が必要になる、ここで恋愛はそういうものですよと捉えるタイプと、「ふざけんな」と捉えるタイプがあるだろう。

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「苦しんでいる人が好き」というタイプ
ザコンには思いがけない特性がある。
それは「苦しんでいる人を好きになる」という特性だ。
「抑圧され」「解放されたくてもがいている」という人をマザコンの人は好きになる。
それが「解放されている」になってしまうとダメだ、あくまで「もがいている」という状態がよいのであって、マザコン気質の人は人がそうして苦しんでいる状態を好きになる。

たとえば、封建的な老人にマイケルジャクソンや岡本太郎の映像を見せると「不機嫌」になる。
マザコン気質の人にとっては、解放されている人は「敵」なのだ、それで「何かしらないが、無性に気に障る」という情緒になる。
それはマザコンという一つの文化であって、たとえば苦しんでいる女性アイドルのほうがモテる可能性が大で、それが解放されてしまったら人気がなくなるということがある。
あなたは苦しんでいる人が好きだろうか、正直そのほうが「グッとくる」というなら、それはそういうタイプだ、無理はしないほうがいい。

マザコンは、解放に遠く憧れ、近いと嫉妬し、けっきょく身近な苦しみを愛でる。

たとえば「ドラゴンボール」の主人公孫悟空は解放的な人間だが、マザコン気質の人はドラゴンボールを根本的に好きになれない、そこには「解放されたくてもがいている人」がないからだ。
マザコン気質の人にとっては、「解放されたくてもがいている人」が「セクシー」に見えるのだ、もっといえばそれが「そそる」のだ、世の中の思いがけない夫婦はそういう構造で成り立っていたりもする。
正しく見ないとな | comments(0) |
社会接続への準備をせよ2

置自転車は猛烈に気になるが、東芝の崩壊はあまり気にならない、「だってよくわかんないし」と。
どうしてそう、肌荒れにだけ軟膏を塗り、致命傷のほうはほったらかしなんだ……これは一種の現実逃避だ、「やけくそ社会」なのだと僕は思う。
僕は今、iphoneにBOSEのイヤホンを差し、そのたびに「こりゃあかん」と感じている、これでダイソンの掃除機を使ってフォルクスワーゲンの車に乗るようになったらもうオシマイだろう、プレイステーションは頑張ってくれ。
街が滅ぶとしたら、それは吸い殻によってではなく生産力のなさによってだ、「そりゃ当たり前だろう?」、そういうことは小学生からビシバシ教えていくべきではないだろうか。

先日友人と酒を飲み、「昔のわれわれって、確かに働きすぎでしたよね、今考えれば」と話した。
僕は「そうだな」といい、「でもそうしないと、人間はいつ鍛えられるんだ? って話になるからなあ」とも話した、友人も深く同意している。
ブラック企業は論外だけど、何もかも忘れて生産に明け暮れていたという思い出が残れば、それは充実であり、うつくしく、また人間を鍛えもするだろう、その本来の「ベスト」をどこかで希求していないといけない。
連日朝まで働け、というのは馬鹿馬鹿しい話に聞こえる、でもいつのまにか、連日朝まで遊ぶこともできなくなったね、もちろんそれはおれのことじゃないよ。

社会があなたを「解放」する。

阪神淡路大震災のとき、僕は一か月間住み込みでボランティアをしていたが、リーダーが「17時以降は働くな」と厳しく全体を律していた、われわれは物資の仕分けと運搬をいつまでも「やりたがった」からだ、朝礼のたび「われわれが身体を壊したら元も子もない」と言われた。
「個人的」であるということは、実は解放ではなくて抑圧だ、人は社会的にこそ解放される、ただしそれは今のやけくそ社会のことではない。

正しく見ないとな | comments(0) |
社会接続への準備をせよ

が言うのもいよいよ末世感があるが、人は社会的でないといけない。
社会的であるべし、ということだが、この場合正しい「社会的」というのは、「社会接続的」ということになる。
「個人的に」というような、もういいかげん聞きたくもない文脈を放棄するのだ、社会接続への準備をせよ
社会接続といったって、今の日本の「社会」みたいな、冗談の類に接続することじゃない、今の日本の「ありえねー社会」に接続するのじゃなく、この先にありうる「かくあるべき社会」に接続する準備をするのだ、でないとそろそろ出遅れるぞ。

現在の日本の社会は、「駅前の放置自転車と歩きタバコにヒートアップしているうちに東芝がダメになった」という、割と冗談でもないヒサンな状態にある。
放置自転車と歩きタバコが好ましくないという小学生にでもわかるようなことを「社会的」と言い張り、一方、東芝がなぜダメになったかについては「さあ?」とわからないまま、それが社会人だと言い張っているというジョーク的状況がある。
ブラック企業の存在は社会問題というより、「驚いたことに、"個人的"な会社がけっこうある」ということにすぎない、つまり会社が社会接続的な存在であることをやめているのだ、それで「当てずっぽう企業」がブラック化する。
好感度タレントがスキャンダルを起こすと「炎上」が発生するが、その「炎上」は社会接続されていない大量個人が感情的に上げている炎でしかない、その社会接続されていない大量個人が「世論」とみなされているのだから、これはもう冗談はよし子さんだ。

総理大臣は今、正式に「やけくそ社会」を宣言していい。

企業も消費者も社会接続していないので、企業は「何を作ったらいいかわからん」と、当てずっぽうのやけくそ生産をした、そんな投資で競争に勝てるわけはない。
炎上コメントのすべては、一人ひとり明らかに「やけくそ」なのだろうし、ブラック企業はもちろんやけくそ、テレヴィ番組だってやけくその造りがいくらでもある、社会接続の準備をするということは、このやけくそ社会を過去に追いやることだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
低級者として
分が冷たい奴なのかまともな奴なのかよくわからん。
冷たい奴になりたくないのであれこれ必死こいているところがあるが、これが「必死」なのかどうかもよくわからん。
実はひどいインチキ野郎で、誰より冷たい奴なんじゃないか、という疑いがずっとある。
だからやるしかないのだが、つまり毎日、昨日の何倍も力がでないと何もできないと思っている。

能力や実力がまるでスカスカで足りていないんじゃないのか、と思う。
だが自分の実力を判定する基準なんかどこにもないので、やるしかない、自己評価なんてしてるヒマはない。
自分を「天才だ」と言い張ることは最もヒサンなことだと思う。
だからその最もヒサンなことをしようと決めている、僕は天才だ。

あなたの微笑みを剥ぎ取って、動かしたい。

それは今このときでなくてもいいのだけれど、いつかはそうなる、微笑んで佇んで……というようなことは、少なくとも僕のような低級者がやることじゃない、もっと上等な奴に似合うものだ。
僕を助けてくれるのはわかる、非難してくれるのもよくわかる、でも微笑むのだけはやめろ、やめろと僕が言っているのじゃなくあなたの内奥が言っている。
仲良くなろうぜ | comments(0) |
身体をやめた面々
TAの会長と「面会」はできるが、PTAの会長を「体験」することはできない。
ボブディランを「体験」はできるが、ボブディランと「面会」はできない、感覚的にする気になれない。
面会と体験、「面」と「体」があるわけだが、胴体(こころ)をやめた人間は「体験」を失うので、あとは喫茶店で面会・面談ばかりをやることになる。
僕は生涯に一度も誰とも面会なんかしたくない。

「We are the world」の集合写真を見たとき、それを「We are the worldの面々です」とは感じない。
「〇〇の面々」というのは、あくまで体験性のない「面子(メンツ)主義の共同体」に引き当てられる感性だ。
「〇〇の面々です」ということの中に、僕は混じりたくない、それを「仲間」などと吹聴したくない。
誰しも仲がいいことは好いことだけれど、「あなたを体験する方法は?」と訊くと、あなたは決まって"強い不機嫌"になる、それはどうしたことだろうね。

面会していたら友人じゃない。

なぜ「面会」なんて、そんな寒々しさを「大人っぽい!!」って、コドモみたいなことに興じるんだよ、あなたはインタビュアーを見ていつも寒いって感じているじゃないか。
悲しいことに、身体をやめた人々、胴体をやめた人々は、よほど「体験したくない」ことに囲まれていたんだ、身体をやめたらいやなことも「体験」せずに済むから。
正しく見ないとな | comments(0) |
社会と派手と無駄遣い

会接続的に求められることと、消費者遠隔的に求められることは違う。
消費者遠隔的に求められることには何の実感もなくて、生産はほとんど「当てずっぽう」になる。
何を言っているかわからんと思うが、そのへんの社長に聞いてくれ。
消費者が社会に接続せず、メーカーが社会接続的に商品を作り出さなかったら、生産はやけくその当てずっぽうになり、日本のメーカーは滅ぶだろう。

派手なだけというのはよろしくないが、地味なのはもっといけない、だから派手を心がけるのがいい。
派手な無駄遣いというのは人間の究極目標だから、このことを身近にも忘れてはならない。
人間の個人が力を失ったのは、個人が社会から切り離されたからだ、個人と社会は互いに「期待」しあっているが、遠隔的期待であり接続はしていない。
だから個人の誰も燃えない、消費者も生産者も遠隔的に当てずっぽうをやるだけだから、非常に冷え切って非効率的だ。

当てずっぽう労役をやらされるのはいやだが、社会をやらされるのはいやじゃない。

生産が遠隔的になり、当てずっぽうの労役をやらされるのがいやなだけだ、社会接続がなく、つぶれるかもともと要らない企業とわかりきっている場合は特につらい。
出勤するのじゃない、もともとは社会をやりにいくのだった、われわれは元は社会的兄弟でありえた。

正しく見ないとな | comments(0) |
「どう強くなったらいいかわからない」
来永劫、僕には何のピンチもないが、世の中にはピンチがある。
そして、世の中のすべてのピンチはどうでもいいが、例外的に、僕を慕ってくれるカワイ子ちゃんのピンチだけは困る。
みんな、「どう強くなったらいいかわからない」のだ、少なくともパワーとか意識とかで強くなるのは「弱い」とだけ気づいている。
僕は間違っているだろうか、間違っていたとして、僕が正しいほうに修正すると思うか? うへっへっへ。

僕が間違っていて、他のすべての人が正しいのだが、そのわりに僕が正しさをマネするのは簡単で、正しい人が僕のマネをするのはむつかしい。
「どう強くなったらいいかわからない」ということなのだから、「発想の転換は必要」と、わりと当然のことを申し上げておく。
強くなるというのは、「正しさを探らない」ということだ、地雷探知機で探りながら歩いている人間のどこが「強い」んだ。
「地雷を踏んだらヒサンじゃん」というけれど、人間の地雷は、愛があれば不発になるのだ、愛がないから正しさを探っているという、ホルモン焼き屋で土下座するレベルの弱さにあらためて打ちのめされたまえ。

強くなるということは、失敗を無力化するということ。

失敗を無視するのじゃない、失敗を無力化すること、地雷を踏むには踏んでしまうのだ、でも「あれ?」と不発になる、人間の地雷は爆発しがいのない奴に対しては阿呆くさくて爆発しない。
「発想の転換は必要」と申し上げておく、つまり、冒頭に「未来永劫僕には何のピンチもない」と申し上げている、ピンチぶっているのはすべて人の弱さですな。
できるオンナだね | comments(0) |
おいバレンタインだぞわかってるな

かんいかん、今日はバレンタインじゃないか。
みんな本サイトのどこかからテキトーにメルアドを探して僕にラブリーでセクシーな祝福メールを送るように。
そんなことをする義理はねえぜと言うのは当たり前だが、そんな正しいことを主張していてどうする。
正しいことなんかいつまでもやっていても、何も得られないと、もういいかげんみんなわかったじゃないか。

このとおり、僕はたいへんバカなので、まあどこの誰と会ったとしても、目の前の人が僕よりバカということはまずない。
バカにだってキャリアがあるもので、そんな簡単にこちらのバカの実力を追い抜けると思っては困る、僕は大変なキャリアを積んできているのだ。
黒歴史なんてみんな言うけれど、僕なんか何千という黒歴史を珠玉に磨いているので、それはまるで黒真珠のようなのだった、まあ褒められたものではない。
あなたは僕にラブリーセクシーメールを送るなんてバカなことをしないと思うが、あなたはきっと、そういうバカを平気でやってしまう人と友人になりたがるはずだ、だとしたらなぜあなたはわざわざ自分で自分を友人になりたくないよーな奴に仕向けていくんだ、そこのところを考えなさい。

バカをしない奴からは猛烈な税金を取ろうぜ。

きわめてデタラメなことを言ってやったぜ、ざまあみろ、僕が国王になったら平気でそれぐらいのことはする、トランプなんか善人なもんだ、おれならホワイトハウスとディズニーランドを合併する。
最後の一行に書くことがないので、特に無意味にうひょひょ〜と書いておこう、うひょひょ〜(僕は純文学を志向しています)。

バカをやろうかあ | comments(1) |
あなたから何が聴こえるか
ンドを旅行しているとき、よく同国人で群れをなして、安ホテルでえんえんトランプ遊びをしている組があった。
それはバックパッカーには定番の「文化」なのだが、僕はその文化が好きではなかった(ので、僕は混ざらなかった)。
われわれは生活の中で、いろんな集団的「文化」と接触しており、そのことに混ざったり混ざらなかったりしている。
自分の所属している「文化」、それが本当に自分が求めていたものなのかどうか、年を取りすぎるともうその「文化」から抜け出せなくなってしまう。

若いなら、実は気に入っていないという文化に「スパッと」見切りをつける。
そして、新しい文化を探しに行き、その文化のやり方を身につける。
動き回れ、しかしその先のどこでも「つまみぐい」なんかしていてはいけない、そんな自分探しは身にならない。
気に入らない文化に染められることは一番悲しいことで、気に入った文化に染まれないことは二番目に悲しいことだ、がんばれよ。

あなたがロックを聴くな、あなたからロックが聴こえろ。

気に入った文化に染まるというのはそういうことだ、いかなる文化も外からあこがれてつまみぐいすることにはあまり意味がない。
あなたから何が聴こえるか、けっきょく沈滞と田舎者音頭が聴こえるとしたら許し難いことじゃないか。
恋女のマインドね | comments(0) |
(※リンク修正しました。日本語字幕が表示されない場合のため)われわれが狂気の世界を食い止めるために

「TED」で語られたジョハン・ハリの「『依存症』――間違いだらけの常識」には実に聴くべき値打ちがある(クリックすると動画にジャンプします、ぜひどうぞ)。
語られたところはこうだ――昔、ある心理学者がネズミを使って麻薬の依存性について実験した。
ネズミをオリに入れて、「真水」と「麻薬入りの水」を二つ並べて与えていると、ネズミは「麻薬入りの水」を好んで飲んだ、そしてそれを飲んでいるうちやがて中毒で死んでいった。
こうして「この麻薬には依存性がありますね」と信じられてきたのだが、どうやらその結論は間違いだった、そのことが別の実験で証明されている。

新しい実験はこうだ、今度はネズミを「オリ」に入れるのではなく、ネズミたちが楽しく駆けまわれる「ネズミたちの楽園」に入れる……そこにやはり「真水」と「麻薬入りの水」を二つ並べて与える。
そうすると今度は、ネズミたちは「真水」を飲み、「麻薬入りの水」をほとんど飲まない、つまり「楽園」においてならネズミは「麻薬入りの水」を好まないのだ、依存性なんぞどこへやらだ。
この実験の示すところはこうだ、「依存症の根本的原因は麻薬ではなく『オリ』のほう」ということ、依存症はオリのような環境に「適応」するための現象にすぎないということ、このことは医療用麻薬や戦場での麻薬使用では依存症にならないという事実を整合する。
われわれは今、楽でない生活に縛られつつ、人とつながりを持たない一人ひとりが孤立的な――閉ざされて「オリ」的な――環境の中を生きている、このことは各人がやがて致命的依存に向けて決壊しかねないというリスクを育てている、そしてその決壊はすでに各所で起こっているように見えるのだ、別に麻薬そのものに限らず中毒性の悪趣味や遊びやコンテンツで、自分の生を取り崩しながら……そのことはうっすら狂気を帯び始めている。

われわれは、好きあう義務はないが、最低限助け合う義務がある。

「お前のことは嫌いだが少しは助ける」という態度が要る、舌打ちしながらでも、と僕は考える、われわれにとって人を恣意的に好きになることは不可能だが少し助けることは不可能ではない。
オリ的状況、信頼できる誰かがおらず孤立しているという状態は、思いがけず「ヤバい」ということ、われわれは好きあうなどというぜいたくを言わずに、まずこの「オリではない」という状況を希求せねばならないだろう、舌打ちしながらでもだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
「いい女」で行こう2

年前の正当文脈をまだ覚えている人はいるだろうか。
春の日は本当にきれいで、光も東風も絵画じみて吹き抜けて、どこからかパラシュート花火の音、手をつないで歩いて四方のどこにも奇跡しかない。
話すことは何もなくて、ただそばに感じれば耐えきれず「なあに」「なんだよ」と何かをわめいてしまい、顔がほころぶのを止められなかった。
誰だってそうしている、そしてすべてのカレンダーの升目は同じことで埋め尽くされる、今日も同じ明日も同じ、部屋を出るということは光の中に飛び出すということだった、光の粒子が当たり前だった。

もし万が一、そうではない一万人に一人のハズレ女がいたとしたら、気づくべき正しい方法はひとつだけ。
彼女たちが主人公であって、自分は主人公ではないということ。
自分のために知るのではなく、彼女たちのために知ること、「この世界は彼女たちのためにある」とこの世界のうつくしさを目撃すること。
暗い自分を混ぜ込むから、世界が暗いものに見える、そして暗い世界からは暗い方法しか思いつかない、「わたしがんばります」という暗い厚かましさをやめないといけない。

彼女たちがますます光ることについて考えろ。

真剣にだ、検討するのじゃなく身を入れて考えろ、「彼女たちがこれからますます光っていく」ということについて考えろ、ハズレがアタリになっていく夢想など捨てて、アタリがますますのアタリになっていくという希望の光について考えろ。
それを考えたとき初めて、あなたは「彼女たち」と同じ考え方を持ち始めている、よくよく考えてみろ、アタリの人はますますのアタリでありたいと希望の光を考えているだろう、だからそこで初めて「彼女たち」と同じ考え方の始まりだ(ハズレがアタリになるストーリーを「希望」と感じているのはハズレの人たちだけなんだ)。

恋女のマインドね | comments(0) |
「いい女」で行こう
と原点回帰する。
「いい女」で行こう、というコピィの言い方には力があって、実はこのフレーズは厳密に正しい。
安っぽい「あるがまま」なんかで行ってもヒサンなことになるので、あえて「いい女」で行こうという文脈だ。
「いい女」で行こうということ、そうして明るく途中でズッこけることにも値打ちが出てくる、まあそんなことをずっと以前から考えていた。

僕は賢い女が好きだ、病んだりこころに闇があったり未来がなかったりする女はその時点でどう考えても賢くはない。
女性だって、面白い男が好きだろう、面白くなければその男は魅力的でもなければ有能でもないに決まっている。
このところは時代的に、「まず人々はわたしがどれだけヒサンかを知ってわたしのことを受け入れるべき」というような、ビックリ仰天の文脈をデイリーで押し通してくる自然体の人も少々存在するようだ(おっかねえなあオイ……)。
だがどこまでいっても、僕の基本的な発想は変わらない、絶っっ対に変わりっこない、僕は賢くて明るくてやさしい女が好きだ、それで一緒に桜を見に行こうねとずっと言っているだけだ。

おれが絶対に正しくて、あなたが絶対に間違っているの。

そんな言い方をすると、とんでもない傲岸不遜か、そう思われたってかまわないがそうじゃなくて、そうまでしてでも僕は何かの役に立ちたいの、いいかげんわかれよ。
必要なことは「差別」なんだ、「いい女」という差別階級が存在するということ、その差別の前に立って「あっ、そうか!」と目が覚めないとあなたは向こう側に飛べないじゃないか、あなたの足元なんか誰も知らねえんだよハズレ女。
恋女のマインドね | comments(0) |
「女も同罪よ」
る女性が、「女も同罪よ」と言った。
僕は彼女を勇敢な女だと思った。
女を傷つける男がひどくいるのは知っているわ、と彼女は言った。
「でも女も同じよ、女のせいでひどく傷ついた男の人がきっとたくさんいるわ」と彼女は言った、僕は気圧されて納得させられるばかりだった。

僕はほとんどクセのものとして、男が女に傷つけられるという文脈を完全に忘れている。
僕自身、もし「女に傷つけられた」というと、「死ね」としか思わないからだ、これはあくまで僕自身に限り。
ただそれは、今すでにフェアではないのかもしれない、フェアでないどころかただの事実誤認かもしれない(と反省している)。
僕は女から、ひどい男の話をたくさん聞くが、実は女の側も「同罪」で、ひどい女がたくさんいるのかもしれない、なるべく忘れないようにしておこうと思った。

確かに、「尊厳」を知らないビックリ女は少なくない。

尊厳も知らなければ、節度もマナーもなく、やさしさも気くばりもなく、気分屋で不思議ちゃん気取り、けっきょくよく見ると不満とワガママの塊でしかないという"邪悪"な女が、いくらでもいることをさすがに僕も知らないわけではない。
そういう女性に向けて僕がどうしているかというと、実はどうもしていなくて、僕はただ自分が男だということを大切にしているだけなのであった、これは我ながらひどいヤツかもしれない(と反省している)。
恋女のマインドね | comments(0) |
「大人」は今や希少な存在だ
中にご老人をたくさん見つける。
高齢化社会なのだなあ、と実感するが、そのときふと、なぜかご老人を見て「大人」と感じないことに気づく。
同じく、たとえば大学四年生の男性を見ても、なぜか彼のことを「大人」とはまったく感じない。
企業に勤め始めると、いかにも企業臭がする感じにはなるのだが、それでも「大人」という感じはまったくしない、今「大人」と感じられる人はたいへん希少な存在なのだと思う。

「大人」という存在は、すでに完全に否定されつつあるのかもしれない。
僕自身、ふと気づけば「大人」ということを隠して振る舞っているところがあって、内心ひどい裏切りをしているような気がしなくもなく、少し気が引ける思いがしている。
たぶん、「大人」の文脈で話したとしても、もう誰にも話が通じないのだ、それはいいとか悪いとかではなく文化の差だと思う。
問題は、加齢した人間が大人になっていないとき、何をどう工夫してもかっこよくはないということだ/そして大人にはなれなくても、老人には強制的になるのだった、それが問題だ。

目の前の人を「大きい」と感じるか。

今さらだが、「大きい」と感じる人が大人だ、ただし今はどんな成人も子供から見て同じぐらい子供に見えるのがウケるという文化のようではある。
僕はもし目の前の女性が僕を「小さい」と感じたなら、僕はただちに「帰ってくれ」と言うだろう、わざわざ小さいと感じられる男の相手をすることほど女にとって無駄な時間はないからだ。
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