☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
かわいい下着を選んで買ってるよね?

るべきことはいくらでもあるのだが、たぶん今このときには、もっと別のことが先に言われねばなるまい。
おそらく、未来に明るいヴィジョンが見えないという人が多いので、何はともあれそこだ、「明るいヴィジョンが見えないのに正しいことにやる気なんかするか」というのが当たり前だ。
明るいヴィジョンは、明るいヴィジョンだ、必ずしもそうなるとか正しいとかいうことではないが、それは暗いヴィジョンだって同じだ、正しいとかそうなるとか決まったものではない。
明るいヴィジョンということに、特に理由はなく、別に価値があるわけでもないが、とにかく綺麗でさっぱりした女の子が僕にわけもなくやさしくしてくれるという、実際そういうことで生きてきたのだから、これからもそうして生きてゆければよいのだろうだった(文法がメチャクチャだ)。

リアルに考えると、世の中の状況に問題は大ありなので、そこから明るいヴィジョンを模索しない、リアルな考えはリアルな考えとしてまた別だ、明るいヴィジョンは勝手に明るいヴィジョンとしてこさえるものだ。
僕の場合、綺麗でさっぱりした女の子が、「この人にやさしくしちゃお」とニッコリ思えば、それだけで済むのであって、それ以上のことを膨らませてもややこしくなるし、なお実現が遠くなるだけで意味が無いのだ。
明るいヴィジョンはそれだけで力を持つ、そしてこの力、この灯火だけが、最終的に使えるのだ、その他の正論は実はほとんどのところで機能しない。
明るいヴィジョンを持つためには、当人が明るい必要があるが、この世にはもちろん暗い人など存在しないので、このことに課題や問題はないのであった(ああ何か、明るい女の肌が見えたな)。

明るいヴィジョンに材料なんかあるか。

ヴィジョンを描くのに「材料」だなんて、すでにその発想が暗い、わざわざエボラ出血熱のパンデミック地域に行って腕立て伏せをするぐらい暗い。
僕はすべての女性に対し、「かわいい下着を選んで買ってるよね?」ということだけを訊きたいのだ、そのこと「だけ」だ、それ以外のことをするから勝手に暗くなるんじゃないか。

恋女のマインドね | comments(0) |
胴体、生命を、助けてくれた人

だメールがなかったころ、電話口で、「すまんが、抜いてくれ」と言った、電話口の向こうの女の、身の上はほとんど知らない。
短い黒髪がきれいな彼女は、ほとんど躊躇無く、「うん今、手は空いてるよ」と言ってくれた。
彼女は、若い僕の生命について、親身だった、「ほっとけないじゃない」と、僕の吹き出す汗や空腹や何もかもに手当てをしてくれた。
「苦しそう」と彼女は同情的に言い、「これは、一緒にいるわたしの責任じゃない?」と言い、やはり「そんな、こんなのほっとけないよ」と言ってくれた、彼女はやがて幸福を探しにゆかねばならなかったが、それまで可能なかぎり僕のことを愛してくれた。

人間が笑い、泣き、腹を空かせ、胸を高鳴らせる、また若い男性が射精するのも、すべて胴体のことだ。
しかし中には、「腹が空く」ということがない人もいるし、「胸が高鳴る」ということがない人もいる、そうした人は顔だけで笑ったり泣いたりし、粘膜の摩擦だけで射精したりする。
これらは区別するしかないのだ、胴体に起こるのはこころの欲求であり、顔面や腕力に起こるのは自我の願望だ、あなたは女として、どちらの男にも同情して付き合うチャンスがある。
最も残酷で非道なことは、胴体に起こるこころのことを、興味があるといって「観察」することだ、それは「腹を空かせたマウスがどうもがくか」という実験を興味本位で観察している狂人と変わらない、人間がわからないなら人間観察なんかしないのが節度だ。

僕を助けてくれた人へ、あなたを永遠に忘れません。

人間を「観察」しているつもりの人がいるが、それは観察しているのでも何でもなくて、単に「助ける」ことをしていないだけだ、僕は僕を助けてくれた人への絶対の尊敬をこめて、人を助けず観察する人を決定的に差別する、同列に扱えることは決してない。
胴体、生命、なぜそれを助けない? 胴体から胴体へ、生命から生命へ、共鳴してくる切実さはないか、それがないならこころの底から笑ったことはないはずだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
豊かさへのセンスを発揮せよ

分にとって都合のいい世界と未来を考える。
そういったことはたいてい、よくない考えとして世間からは禁忌とされるが、そういった禁忌にこそ、ご存じのとおり最高の滋養成分がある。
意図的に、都合のいい世界を描き、そこを歩んできた人間の良さは、自分をまったく善人だと思わないところだ、善人度に興味を失っているところが清々しい。
自分にとって都合のいい世界と未来を考える、そこに必要なのは清潔感であり、好き放題の夢がありながら、そこに願望の貧しさがないことだ。

自分にとって都合のいい世界と未来を考える。
善人度に興味を失ったまともな奴は、「そうでなきゃ生きていけるか」と冷たいレモネードを飲んでいるだろう。
重要なことは、自分の描いた「都合のいい世界と未来」が、他人をゲンナリさせないことだ、他人をゲンナリさせるそれは都合のよさ以前に「貧しい世界」なので祝福されない、祝福されないからには微塵も実現されない。
自分にとって都合のいい世界と未来を考える、たとえば僕が「世界中の女をつまみぐいしたい」と言ったとき、他人をゲンナリさせるか、それとも「素敵ね」と言ってもらえるか/ゲンナリさせるようなら祝福はない、ゲンナリさせるなら善悪ではなく「貧しい」からだ。

自分にとって都合のいい世界と未来を考える、つまり、豊かさへのセンスを発揮する。

内心に願望が大爆発しているタイプの人間がおり、そういう人の打ち明け話を聞くとすさまじくゲンナリするが、それは願望まみれの人間が根本的に「貧しい」からだ、この世界に生きる豊かさがまるでわかっていないことを直観的に「貧しい」と感じる。
誰だって豊かさを共にしたいのであり、その中では正しき恋あいもかけがえのない豊かさになる、われわれは恋愛やセックスおよび人生への「願望」をこれ以上ない貧しさの感触で聞くように本能的に出来ている、「願望」が豊かさへのセンスと相反しているからだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
大好きな赤の他人がいる世界
はどこの店でも「常連」ぶることは100%ない。
逆に、幾人ものバーテンダーさんが、「常連」に苦しめられているのを何度も見ているからだ、「常連」なんてものは店の一番隅っこで気配を消しているのがベストに決まっている。
たまに金持ちマダムがブティックの店員に絡んだり、深夜の老人がスーパーの店員に絡んだりしているのを見かけるが、ああいったものはもちろん正気の沙汰とは思えない(誰でもそう感じるはずだ)。
そんなことは、すでに大昔に、「儀礼的無関心」ということでさんざん取り沙汰されたのだ、今さら言うに及ばずのたぐいだ。

「一期一会」ということがあって、赤の他人同士は、互いが「赤の他人」であることが重要なのだ、そこにデーンと出しゃばることは野暮以外の何者でもない。
今、接客業をしている人は、たくさんのひどいケースに直面していると思う、現代は赤の他人との距離がわからないメチャクチャな人間が少なくないから。
そしてむろん、赤の他人との距離がわからないメチャクチャな人は、接客業をしている側にも存在するはずだ、こんなこともすでに「儀礼的無関心」の議論で言われ尽くしている、どちらも「たいがいにしろ」としか言えない。
赤の他人同士は、赤の他人であることが重要なのであって/あとは明白なこと、赤の他人が赤の他人のままよろこんでくれるかどうかだけだ、人がよろこばない主張を押し出して歩いたって近所迷惑にしかなりゃしない。

赤の他人同士だから、笑い合う必要があり、仲良くなる必要が無い。

赤の他人同士、笑い合えないのはストレスだし、仲良くなるのもストレスだ、そこをインチキで笑い合い、強引に仲良くなったふうに振る舞うのは互いに自殺行為になる。
人は人を見て「あ、あの人」と感じ、パッとこころを華やがせたいだけだ、人は人に安心して笑いたいだけで、誰かと知り合いたいわけではない、大好きな赤の他人がいることほど素敵な世界はないじゃないか。
恋女のマインドね | comments(0) |
ホンマモンは面白い!!

る格闘技の、三段の位を持つFさんとNさんと、乱取りをしたことがある。
FさんとNさんは、競技上では互角の力量だが、実際に立ち会うと内容が違った、小柄なFさんの打撃は一打一打、こちらが「殺される」という迫力に満ちていた、「もうやりたくない」と思わせる、あれはホンマモンの格闘技だった。
あるいは、僕がセミプロ程度にまで手品をしていたころ、まったく有名人ではない、その筋ではよく知られた年配のおじさんが、内輪の活動でひとしきりのマジックを見せてくれたことがあった。
基本的な技を組み合わせただけの、適当なマジックだったのだが、われわれは「えっ? えっ!?」の連続だった、基本的な技でも完璧な熟練においてやられると同業者でもわからないのだ、それはまさにホンマモンの技芸だと言える。

というわけで、「ホンマモンは面白い」のだ、ホンマモンはときに地味で、派手さが足りなかったりもするが、それにしても何かぶっちぎりで「面白い!!」という事実に直撃される。
何と言えばいいのか……そう、どんなことでも、「ホンマモン」の壁を突破すると、その時点から急激に「面白く」なるのだ、すべてのことはホンマモンになると途端にどうしようもなく面白くなる。
逆に言うと、どれだけ見栄えがして、どれだけ上等な何かに見えたとしても、それが「ホンマモン」未満であった場合、それはやはり「面白くない」のだ、この「面白い」という現象はどこか神聖な区切りとして厳正にわれわれに与えられている。

我が身に何か、ひとつだけでも「ホンマモン」を。

ホンマモンのビジネスマンとか、ホンマモンの医者とか、ホンマモンの法律家とか、ホンマモンの料理人とか、それが「ホンマモン」である場合、問答無用にそれは「面白い」ということになる、そして人が生きるのに面白くなるには実はその方法しか存在しない。
「三日でわかる○○」というたぐいはよく流行するが、そんなものは面白いわけがなく、本当は「三年ぐらいでわかるわけがない○○」のほうが面白い、それが三年ぐらいではわかりっこないから、人には何十年も憑りつかれて生きる理由がありえるわけだ。

できるオンナだね | comments(0) |
サイエンスは面白い!!
とえば「うつ病の人の脳波はこうなっています」というデータがあったとする。
こういうのは面白くないので、サイエンスではない。
面白くないものはサイエンスではないのだ、どれだけ理学部の教授が研究していたとしてもだ。
一方たとえば、坂本龍一がドビュッシーから影響を受けて変ロ短調のサブドミナントコードから13度和音を狙って「戦場のメリークリスマス」を展開しているということは、聴いているだけでゾクゾクして面白くてたまらない。

僕は、文学や音楽のノートが、余人では気づきようもない感覚の、深奥のサイエンスから組み立てられて、作品を構築しているという事実がとてつもなく好きだ。
たぶん、人間の「アホ」というのは、この奥深い構造を為しているものをサイエンスと知らず、表面上の「メンタル! 脳波!」というような短絡をしかサイエンスと思っていない人のことを言うのだ。
僕は、たとえば明治維新が「日本の夜明けは近いぜよ」だけで成り立ったとみなすような、アホ話がとてもノーサンキューだ、この世界にそんな上っ面だけで成り立っているような事象は何一つない。
余人では気づきようもない感覚の、深奥のサイエンスを、直接取り扱える人間になりたいのだ、そのためには鍛えるというか、ウズウズしているうちに鍛えられていくのだろう。

深奥の秘密を、手足のように操る。

数学者の数式や、音楽家の楽音、文学者の言葉は、深奥の秘密を手足のように操るものなので、まあ余人が真似できるものではない、その逆立ちしても真似できっこない神韻の顕れにあこがれる。
深奥のサイエンスが、手足のように使えなくては、すべてのことは一時的に「雰囲気に耽ってみた」というだけに成り下がる、そういうことに耽って後に大きな後悔をしたくないのだ。
できるオンナだね | comments(0) |
「問答」を省略できるチャンス

とえば、若い兄ちゃんが切り盛りしている居酒屋に、いつもどおり僕はときどき行くが、そのとき新メニューを勧められることがある。
そうしたら、「おすすめの新メニューがありまして」「じゃあそれひとつ」「えっ」「いいからそれひとつ。はよ持ってこい」と僕は注文する。
構造的には、「お前らみたいなモンが、新メニューをこさえたというなら、おれみたいなモンが食ってやる、はよ持ってこい」ということで、「内容なんかどうでもええわ、勧められたら食うに決まっとるわ」という、つまり内容を聞く前に注文することが大事だ。
そういえば以前、沖縄料理の店で、はたらいているお嬢さんが沖縄出身だというので、「じゃあ全注文をお前が決めてくれ、沖縄っぽいやつばっかりくれ」と丸投げしたことがあった、あるいは秘密のバーFKに行ったときも注文はいつも「Mさんスペシャルで」で済ませている(Mさんはそこのバーテンダーだ)。

ある大連料理屋で、ひととおり注文して、「あとはおっちゃんの得意料理ひとつちょうだい」と注文したところ、おっちゃんがニヤニヤしてわけのわからないブタの耳の何かを出してくれたことがあった、あれは何という料理だったのか未だにナゾだ(たぶん北京語で説明されたのだが何を言っているかは不明だった)。
まあそれはいいとして、ほんの刹那、われわれは「関係性」の能力において、「問答」を省略できるチャンスがある、僕の投げかけは「クソみたいな客が店の言いなりに飲んだるわ」であり、ほんの刹那、そこに「あいよ」と直接受けて立つチャンスがある。
僕の丸投げに対して、その機会に乗らず、なおマニュアルに定められたとおり新メニューの説明を押し進めてくれる人は、職務に清廉恪勤だと思うが、以降は僕も暗黙裏の客マニュアルの履行に努める。
われわれは、「関係性のなさ」に退屈をきわめ、「問答」の不毛なしんどさに辟易しているのだが、けっきょくは関係の作り方を知らず、「問答」を省略できるチャンスをスルーしては、来るはずもない何かのチャンスを永遠に待ち続けている。

「卓球やりませんか」と誘いがくる場合と、もうひとつ、「ピンポン玉が直接飛んでくる」場合がある。

ピンポン玉を直接打ち返せれば、「卓球やりませんか」という問答を省略することができる、ただしこのときピンポン玉を適切に打ち返せるチャンスは本当に刹那しかない。
むかしインドの列車のコンパートメントで、入室するなりヒンディーの青年四人に「お前はパキスタンをどう思う?」と熱く訊かれ、とっさに「パキスタンのことは知らないが、お前らの国はサイコーだぜ」と答えた、なんとか大ウケしたが不意打ちだったので危ないところだった(ここで「えっ」とか戸惑ってしまうような男には何の見込みもない)。

できるオンナだね | comments(0) |
関係性インポテンツと自活するスタンドアローン
とえば「先輩と後輩」とか、「男と女」とか、「教師と生徒」、「上司と部下」、「店と客」、「母と子」、「人と人」という、"関係"がある、これらは人間の持つ「関係性」への能力によって現成される。
現代においては、この「関係性」のインポテンツが蔓延していると思われる、それによってたとえば「見るからに先輩と後輩だな」という関係性を目撃することが激減した。
「関係性」の能力は、「信じる」という機能に根ざしており、学習や訓練や知識によって獲得されるものではないので、まさしく「インポテンツ」となり、これを失った者を責めることは誰も益しない。
ただ事実として、この関係性インポテンツにより、スタンドアローンで自活するのみの人間が増えた、たとえばA子さんは誰に対しても先輩でなく、後輩でもなく、どの男に対しても女ではなく、どの友人に対しても友人ではない、A子さんはそれぞれを「キャラ」の振る舞いでやりくりしている。

インポテンツになってしまったものはしょうがないし、そこでこれといって断罪されるべき何かもないのだが、問題はとても生々しく、「関係性が構築されない前提では、何もかも根こそぎ面白くない」ということが成り立ってしまうことだ。
関係性インポテンツからスタンドアローンが定義づけられてしまった人は、「もうこの先をどう工夫しても何も面白いことにはならないのがわかる、つらい」という実感の中にいるはずだ。
僕が後輩のFくんに向けて「おい」「ハイ」という関係をやっていると、衆目にも笑みがこぼれるし、僕が酔っ払ってグーグー寝て女がメシを作っていると、やはり衆目に気持ちがいいみたいだが、かといって誰もそれを自分がやれる「気がしない」のだ。
たとえば近年のテレビ番組を観ていてもそうだが、テレビ番組と視聴者は、裏側で慎重に、それぞれの「無関係性」を構築しながらやっているのが目に見えないか? それは今を生き抜いていくのに必須のことだが、同時に「もうこの先をどう工夫しても何も面白いことにはならないのがわかる、つらい」という実感が伴わざるを得ないのだ。

あなたは誰に「おい」と言うか、「おい」と言われるか。

こういうことは、科学的にアプローチしないとね……そしてもちろん、「おい」なんてオラオラキャラをやっていてもダメだ、言わずもがな関係性インポテンツがそうした表面上の「キャラ」と「空気の読みあい」およびマザコンを人々に強いることになった。
科学的に言って、僕は「面白くない」とわかっていることを絶対にしないので、僕自身のやることはかわらないのだった、あとはすべてを冷静に見切っていくことだ、関係の成り立っていないものが面白くなる可能性はない。
正しく見ないとな | comments(0) |
押し寄せる「総合的インポテンツ」の波

性の陰茎が勃起しなくなり、性交不能になることを一般にインポテンツ(impotenz:ドイツ語)という。
インポテンツというのは、何かしら「萎え」によって「不能」になることを指すので、必ずしも男性の勃起不全のことだけを意味しなくてよい。
たとえば現代では腐女子と呼ばれる人たちも多いが、彼女らはマンガ的なホモセックスでしか濡れなくなったという形の、つまり異性愛のインポテンツの一形態だと捉えて差し支えない。
人間の精は、すべからく何かの「エクスタシー」の原理で活動しているが、何かしらの理由によってエクスタシーが得られなくなり不能になった、そのすべてのことをインポテンツと呼んで差し支えない。

たとえば現代、「夢を持つ」とか「こころを通わす」とかいうことは、かなり困難になったが、これらはすべて「インポになった」と捉えたほうが正しい、男性が「勃たなくなった」というのと同じ現象だ。
だからこそ、お察しのとおり、インポになった者を責めるのは非道だし、責められてもインポテンツが重篤化するばかりだ、本人だって好きでインポになったわけではない。
現代、まともに笑える人や、まともにメシが食える人、まともに会話できる人も減ってきた、これらはすべて総合的な「インポ」だと捉えるとわかりやすくなる。
人間は必ずしも、旅行や映画に感動できるとは限らないし、自分の思うことを話したり、人の話を聞き取ったりはできない、それら当たり前に思えていたすべてのことも、状況によってはインポテンツに陥る、そしてインポテンツに陥った人は、どうしようもなくイライラし始める。

インポを警戒する、インポを攻撃しない。

誰も好きこのんでインポになったわけではないし、好きこのんで総合的不能になったわけでもない、かといってそれに巻き込まれるのもかなわないので、それはそれとして警戒はする、警戒はするけれど攻撃しても詮無きことだ。
勃たなくなった男性があり、濡れなくなった女性がある、笑わなくなった人々がおり、会話が通じず、感動しなくなった少年少女たちがいる、これら総合的インポテンツの前に、短兵急の正面突破は現実的でない、もっと気長に緩和的な措置をとるしかない。

正しく見ないとな | comments(0) |
サーキットでの事故は遅い奴の責任
リバリやることに意味はない。
にもかかわらずバリバリやります。
それは単純に、意味を超えるということだから。
人間は誰しも、人間が意味を超えるところを見たいものです。

他人ができることを、自分ができると思わないこと。
自分には「できない」ことを知ることが、他人を尊重するということにつながる。
サーキットに次々と乗用車が乱入したら、サーキットは消え去り、すべて渋滞するただの道路になってしまう。
サーキットでの事故は一般道とは異なり、"遅い奴の責任"だというのに、それを知らないままサーキットに乱入してはいけない。

アクセルの理由がある。

一般道は「移動」に使うものだけれど、サーキットのゴールはスタート地点だ、どこにも移動しないので、サーキットには特別なアクセルの理由がある。
バリバリやるのは、それをすでに始めてしまったからであって、それ以上の意味はない、これが唯一の方法。
恋女のマインドね | comments(0) |
「やらせろ」が成立する条件
が女に「やらせろ」と言う。
このことは、セックスのときだけ「やらせろ」と言い出すのでは成立しない。
目の前に何かの仕事があったとき、それをおれに「やらせろ」と言い出す奴、目の前に殴り合いのケンカがあったとき、おれに「やらせろ」と言い出す奴、そういう奴でしか成立しない。
目の前にヘルプが必要な婆さんがいたとき、おれに「やらせろ」と動く奴、目の前に補修が必要な船があったとき、おれに「やらせろ」と動く奴、そういう奴でしか成立しない。

だから男が(女もだが)、「やりたいこと」を探し回るようなことはとてもよくないのだ。
何であれ目の前のことすべてについて、原則おれに「やらせろ」と言い出すような奴でなければならない、そうでないとおいしいことも成立しない。
それは言ってみれば、単なる情熱というやつで、情熱というのは四方八方に見境無く発揮されるので、よりごのみしたそのときだけ「やりたい」と言い出すのは情熱ではないのだ。
よりごのみしたそのときだけ「やりたい」「やらせろ」と鼻息を荒くしてくるのは、単なる「出しゃばり」と思われる、そしてセックスのチャンスでだけ自分に向けて出しゃばりをかまされるのは、女としてとても腹がたつのだ、たぶん(おれは女でないのでわからない)。

ペンやハンドルや書物を握りたがらない者が、女の手だけ握りたがったら、それはもうビョーキだ。

たとえば「こころのまま」学問をわしづかみにする男が、「こころのまま」女の乳房をわしづかみにしたがるというのは、これはよくわかる、何もかもを「こころのまま」わしづかみにして生きたいのだろう、それはきっと女のほうとしても不快ではない。
異国の男同士で握手することのない手が、異性の同国女の手を握りたがり、「やらせろ」というのは、うーんキモチワルイ、性欲が悪いのではなく「情熱が致命傷を負っている」ということに気づくしか生存の方法はない。
視点変えてこ | comments(0) |
永遠の国から追い出されて言語が壊されまっせ(聖書)

書には、人間の愚かさについて、それがいかなる「罪」か、という原理が書かれているように見える。
仏典には、人間の愚かさについて、それをどうしたら(少しは)やめられるか、という実践が書かれているように見える。
聖書には、「バベルの塔をおっ建てると、言語が壊されて会話が不能になりまっせ」と書かれており、また「禁断の知恵の実を食うと永遠の国から追い出されまっせ」とも書かれている(永遠の国から追い出されるということは、一時的な何かにさせられるということだ)。
これらのことは、あまり冗談でもないし、単なる寓話とも違う、ぼちぼちマジな"警告"の話なので、うーん怖いなあと感じるのだった。

こんなこと書いてて大丈夫なのかね? まあいいや、僕は何者にも敵対行為をはたらくつもりはないのでそこのところをどうぞよろしく……
われわれは人間であって、獣にはなりたくないのだが、なぜわれわれが獣でなく人間でありえているかというと、実はそれは人間自身の功績によってではない。
われわれが人間でありえているのは、言語を持ち、通じ合い、また神社や仏像や聖書を持っているからだ、それらがなければわれわれは経済的な獣でしかありえない。
そしてよくよく見ると、それらすべて人間を定義するものは、われわれが自前で作ったものではないような気が……してくる、そこでわれわれが人間であることを自前のものだと思い込んでいると、われわれは通じ合わない経済的な獣になりまっせ、ということなのだった。

事実、現代に流行するお笑い芸人は、「何を言っているかわからず」、確実に「一時的」だ。

お笑い芸人の方には何の責任もないが、この際はわかりやすさのためだけにピックアップさせていただく、申し訳ない。
宗教なんか知らなくていいが、聖書や仏典をまるで知らないというのは多分よくない/聖書は「罪と罰」を説き、仏典は「煩悩と苦しみ」を説いているから、煩悩が罪で苦しみが罰だとするならどちらも似たようなものだ、何にせよあなどれないことが書かれていることは間違いない。

正しく見ないとな | comments(0) |
「連動」する「非直接関係」

「自己責任」とか「自己実現」とか、われわれはジコジコ言い過ぎた、結果、われわれはアホのなれの果てだ。
われわれは、「お隣さん」というと、やれ責任や負担をなすりつけあったり、気を遣わされたり、空気を読まされたりして、そのことで疲れ果てたのだが、そんなことはそもそもが間違いだった。
われわれは誰しも、お隣さんとは何の関係もないし、何の連帯もしていないが、われわれは存在として「連動」しているのだ、これは「連動」としか言いようがない。
われわれは、人間というと「無関係」か「直接関係」のどちらかしかないと思っているが、そうではない、「非直接関係」と呼ぶべきものがあるのだ、少なくともまともに機能する人間は必ずこの「非直接関係」の感覚を隠し持っている。

たとえば、あなたが今これを読んでいたとして、僕は今これを書いているわけだが、このときあなたと僕のあいだには何の関係もない、関係のあるフリをされてもお互いに困る。
しかし、それがまるきりの「無関係」だったら、あなたは「することがない」はずだ、こんなことは街中でも同じで、街中の99.9999%の人はあなたと「無関係」に見えるので、あなたは街中で「することがない」。
「非直接関係」の感覚がないと、万事「何をしたらいいのかわからない」のだ、じゃあ一方で、一般的に「家族」や「同僚」「上司」などは直接関係があるのだが、この直接関係のほとんどは気を遣うばかりで負担になりメンドクサイ。
この「直接関係」と「無関係」のあいだを往復しているだけでは、本当に「何をしたらいいかわからない」ままだ、「連動」する「非直接関係」に気づけ、今これを読んでいるあなたと、書いている僕と、読んでいない誰かがあるわけだが、これらがどう「連動」するかが見えたら、あなたは自分が何をしたらいいか本当にわかる。

あなたがピアノを弾く日も、世界中で電車が走っている。

よもや自分がピアノを弾くときに、世界中で電車が走っていることを思い出す人はないはずだ、けれどもそこがミソで、まさかのまさか、ピアノを弾く力は「お隣さん」が運転手として電車を走らせているところから生じてくる、ピアノを弾く力の源は電車が走っていることとの「連動」にある。
あなたがまともにピアノを弾くということは、まともな電車の運転手と握手するということなんだ、信じがたいことだろうが、どうか一度は信じてみろ。

正しく見ないとな | comments(0) |
ヘイ、「お隣さん」には力がある
もや「お隣さん」に力があるとは誰も思うまいて。
みんなして生きているので、僕にとっては銀行員や農業従事者、アイドルグループや暴走族、年を食ったフリーターなどすべてが「お隣さん」だ。
これら「お隣さん」は、自分に関係がないようだが、やはり関係があって、何か関係があるのかと言われたら、やはり関係はない。
関係はないのだが、それは「お隣さん」なのだ、"存在する"のである、このことを見失うとわれわれは力を失う。

なんというか……われわれはすべてのことを、「お隣さん」との兼ね合いや按配(あんばい)の中でやっているのだ。
すべてのことを、「自分だけ」と思ってやっていると、われわれは必ず行方不明になってしまう。
一丁目のギターシンガーは、二丁目の八百屋が営業しているから、そっちはそっち、こっちはこっちで、歌が唄えるのだ、これは馬鹿げているようだが真実の真実である。
感覚的にね、そういう感覚があり、そういう機能もある、われわれは何か大きな分業の中にいるのだ、「お隣さんはああだから、こちらはこうなんだ」ということでがんばろう、それで初めて力が出るよ。

八百屋が野菜をヨイショと売るから、魚屋が魚をセイヤと売る。

八百屋の「ヨイショ」があり、魚屋の「セイヤ」があるから、その中であなたはホイ? となるのだ、この中で按配されていないとあなたは動けない、これなしで動こうとするとあなたはヤケクソの行方不明しかできなくなる。
「お隣さん」がクラシック音楽をやるから、こちらはロック音楽ができるのだ、お隣さんがあって「こちらはこうやる」、それは互いに気を遣う関係ではないが、お隣さんは「あってもらわなくては困る」存在だ、お互い邪魔しないけれど深い関係がある。
正しく見ないとな | comments(0) |
あなたは今、「何の時間」を生きているか

なたは今、「何の時間」を生きている?
われわれは、日々を健全にするためだけにも、自己の前進をしなくてはならないが、前進というのも「こうなりたい!」というだけでは進めない。
あなたは今、「何の時間」を生きている?
通勤の時間なら通勤の時間、受験勉強の時間なら受験勉強の時間で、それが「○○の時間」ということはとても大切なのだ、それが失われたとき人はいつのまにか進めなくなっている。

たとえば、あなたは「拡大」しろと言われても、「えー、よくわかんない」と否定的に答えるかもしれない。
でも、「あなたは今、"拡大の時間"を生きなさい」と言われたら、「"拡大の時間"ですか」と前向きな実感を思案することができる/"拡大の時間"……。
われわれは実は、キモチの切り替えなんてできなくて、できるのは時間の切り替えだけだ、今生きている時間を「○○の時間」に切り替えることだけができる(「時間」というのは実物だからだ)。
修行の時間、上昇の時間、静養の時間、拡大の時間、挑戦の時間……それら「○○の時間」を捉えることで、人はようやく主体的に動けるようになる。

出会いやセックスは、拡大の時間の道ばたに咲く。

出会いに執心する女や、セックスに執心する男はキモチワルイのであって、そうではない、拡大の時間を生きているもの同士なら、いつの間にか出会っていつの間にかそういうこともしたねということか付随するというだけ、われわれは執心「プレイ」に耽るほどヒマな時間を生きてはいない。
仕事であれ学問であれ、友人であれ芸術であれ、それ自体がテーマになるなんてヒマなことはわれわれにはない、「拡大の時間なので」と生きつづける勇ましさの周囲に、すべてのことが見逃されず息づき始めるだけだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
胸を打たれる人、打たれない人
い空と、青い海に、胸を打たれる人がいる。
が、一方で、実はそういったものに胸を「打たれない」という人もいる。
これらの差は、ささやかなようでいて決定的だ。
胸を打たれる人と、打たれない人とのあいだで、何かが通じ合いやりとりされるということはけっきょくない。

何か「わめく」人がいて、あるいは反転してむっつりと「押し黙る」人がいる。
どちらも騒々しくてかなわないが、僕には彼らが「胸を打たれていない」と見える。
胸を打たれていないと、さびしいので、何か強い主張を持ったり、何かをむさぼったりしているが、それにしたって誰も何も胸を打たれていないのは変わっていない。
胸を打たれる人がいて、胸を打たれない人もいる/人が事情により、胸を打たれない人に転向することはよくあっても、その逆、胸を打たれる人に転向するということはほぼない。

胸を打たれる人、打たれない人、互いにどうか尊重を。

胸を打たれない人は、打たれない人の事情がきっとあり、胸を打たれる人は、そのとき貴重なものがきっとあるのだ、そのときわれわれに何ができるかといえば、互いを「尊重」するしかできない。
どちらも、時計とカレンダーの上では同じ時間を過ごしていて、互いにそれを台無しにしないためには、互いにそれを尊重しあうことだ/僕には青い空と青い海を見に行く用事があって、そこにわめかない人・押し黙らない人を同道に得るのは僕にとって大切なことなのだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
時間は「素材」である

ラダラしないためには「尺」が有効だ。
おそらく人間は、切り取られた「時間」という感覚に直結して引き出されてくる特別な能力を持っている。
もし人間が永遠に生きるのだとしたら人間はひどく無能化するだろう。
むろん、人間の存在(イグジスタンス)は永遠だし、芸術というのはその「永遠」をやるのだが、それはたとえば四分間なら四分間のうちに、その「永遠」をやるということだ、「永遠」の上映時間が四分間ですということになる、永遠の四分間をやるのだ。

「時間」というのは本当に不思議だ、何しろ「四分間」というのは勝手に終わる、僕が何をしなくてもだ。
たとえば「ボレロ」という、ほとんど繰り返しのような音楽があり、十五分ぐらいで演奏されるのだが、「ボレロ」を演奏する指揮者はきっとその「十五分」をやりに行く、という感覚で指揮台に立つはずだ。
「時間」というのは、「素材」なのだと思う、1kgの粘土で作れるものは1000kgの粘土で作れるものと違う、また料理でも一人前の素材と十人前の素材は量が違うし、1mのキャンバスと10mのキャンバスでは描かれるものが違う。
永遠の四分間というとき、第一にその「四分」が素材なのだ、われわれが電子書籍に違和感を覚えるのは、手に取ったときの本の重みという「素材の量」がわからないからだ、実はわれわれは「それが何分であり」「何人前であるか」ということを先に合意して授受のやりとりをしている、時間芸術ではその分量合意が「時間」になるのだ。

分量合意が、授受の絆を作る。

こんな話、まったく僕にしか役に立たんと思うが、まあいいじゃないか、誰だって授業時間には授業を受けるし、勤務時間には仕事をする。
おそらく必要なことは、たとえば仕事をする場合なら、「勤務時間」という時間そのものを実現することなのだ、誰だって何だって「○○時間」という時間を実現することはよいことに決まっている。

正しく見ないとな | comments(0) |
美人モデルと、お笑い芸人が破局するとき
能人の、離婚や不倫がよくニュースになる。
ふと、不思議に思うのだが、なぜ著名というほどの芸能人なのに、離婚や不倫……というより、破局側の"トラブル"に至ってしまうのだろう。
芸能界には、美男美女がそろい、またそれぞれに十分裕福なはずだ、しかもタレントなのだから才能に長け、華やかで退屈がないはずだ。
にも関わらず、離婚や不倫というトラブルや破局に至ってしまう、それは「なぜ」なのか、思えば当たり前の疑問を僕は思い浮かべている。

われわれ一般人はふつう、美男美女ではあれないし、裕福というのも難しいし、才能なんか無縁だし、華やかさなんて手の届かない話だ。
しかし、それらのすべてを兼ね備えている芸能人でさえ、男女仲は破局、しかも忘れてしまいたいようなクラッシュに至ってしまうのだとしたら、われわれなどはどうしたらいいのか。
逆に言えば、男女仲が輝かしく残っていくために、本当に必要なものは何なのだ? 少なくともそれは、美男美女であるとか、裕福さとか才能とか華やかさということではないのだろう。
われわれが、わざわざテレビ画面の向こうにまで見たいと思う彼らが、なぜ居宅では互いに「顔も見たくない」ということになってしまうのか? 破局した芸能人たちが「本当のこと」をレポートしてくれたら、われわれはそこに本当に必要な知恵を発見することがあるかもしれない。

美人モデルと、お笑い芸人が破局するとき、なぜ彼らは「うつくしい妻」と「愉快な旦那さん」ではいられなかったのか。

仮に、「結婚したいタレント」ランキングを作ったとして、その上位者が、実は男女仲を形成するのに向いていないという可能性も十分にある、ではかけがえのない男女仲を作り出すのに本当に必要なものって何なんだ。
つまりわれわれは、「わかっていない」のだと思う、わかっていないものはどうしようもないが、わかっていないのならわれわれはそのことを学ぶのに慎重であるべきだ。
視点変えてこ | comments(0) |
「グレート」の感性と幸運の人
とえばマハトマ・ガンジーやキング牧師などの伝記や映像を見聞きすると、その偉大さに圧倒される。
「偉大さ」を感じるということ、それは「グレート」という感性だが、実はこの感性は誰でもが持っているものではない。
誰でもが持っているものではないし、かつて持っていたとしても、だいたい加齢と共に失う感性でもある。
そして、「偉大だ」「グレート」という感性を失うと、経験上、人はガクッと老け込み、同時に何か持っていた「運」をガクッと失うものだ、そうして生は彩りを一気に失ってしまう、そういうことはよくあるものだ。

誰だって神社や仏閣を巡ることはあるだろうし、美術館に行くこともあるだろうし、モーツァルトやベートーヴェンを聴くこともあるだろう。
けれどもそれらを見聞きするとき、そのそれぞれの見聞を「偉大だ」と感じられるとは限らない、特に「あれ? 昔はもっとわなわなと感動していたのに」と自分の変化に気づくことはよくある。
それは老いたということであり、しかも年齢に由らず文化的に老いたということなのだが、このことを契機に、生きることは急激に「つまらなく」なる、毎日が本当はダルくてしょうがないというふうになる。
自分が生きるのに、何一つ「グレート」と感じられなくなるということ、世界から一切の「グレート」が消え去るということは、実はおそろしいことなのだ、このことに対抗するにはせいぜい「老けてんじゃねえよ」と真っ向から自分を罵倒するしかない。

「カミサマは偉大」なのではなく、人が「偉大さの中にカミサマを見つけてきた」のだ。

「偉大」「グレート」というのは、よくよく見ると、何がグレートなのかはよくわからない、よくわからないがわなわなと「グレート」だった、そのよくわからない「グレート」の向こうに、カミサマと呼ぶべき事象があるということを、古代の賢人たちが見抜いてきたにすぎない。
いくらでも、楽しいことや刺激的なことはあるけれども、「グレート」と感じられるものがないでは、いくら楽しんだり刺激を受けたりしてもはっきり言って無駄だ、あるとき突然やってくる若い生命の終わりに、あっさり引き込まれたりしないように。
正しく見ないとな | comments(0) |
全責任を自分「だけ」が引き受けて立て(繰り返し)

日、「全責任を自分だけが引き受けて立て」という記事を書いたけれども……
この、「全責任を自分だけが引き受けて立て」というのがとてもいいのだ、それも特に、全責任を自分「だけ」が引き受けて立つ、というところがいい。
自分「だけ」なのだ、他の誰かがどうこうは関係ない、このときこの瞬間自分「だけ」が。
自分がどう生きたか、そして何を愛して何を得たかなんて、自分「だけ」が知り、自分「だけ」が抱えて満たされてゆくものだから、これがいいのだ、こんなもの僕「だけ」のやり方でかまわないけれども。

自分「だけ」が全責任を持つ。
いつものことだけれど、僕は人に、決してしんどいことは勧めない、必ず何かしら解放のエネルギーを得られる方法のことを勧めている。
人間の胴体は、「責任」に反応してエネルギーを生産する自動的な仕組みがあるのだ、これを解放して使う、そうしたらもう本人は頑張る必要がない(それぐらいエネルギーは自動的に湧いてくる)。
自分「だけ」が全責任を持つというとき、その人はあらためてこの世界に「存在」する、自動的にそうなる、そういうエネルギーの仕組みがあるのだった、なんと素敵なことだろうね。

他人の評定を求めることが、人間のエネルギーを終わらせる。

たとえば男性が女性を口説くとき、その彼「だけ」が全責任を持たねばならない、そうでなければそこに誰が存在して口説いているのか意味不明だ、そしてそのときの男が女に評定を求めるときほど、女がガックリ疲れることもほかにないだろう。
もちろん自分「だけ」が全責任を負うわけだから、誰よりも自分は自分に厳しくなくてはならない/このところは自分「だけ」というと、自分に甘くて「無責任」を破裂させようとするきらいがあるが、そうじゃない、「全責任を持つ」のだから無責任であっていいはずがない。

できるオンナだね | comments(0) |
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