☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
"ガチ"

羅万象、真空の気に満ち、天から人へ命令が下りているところ、是を能くするのが吾ら無上の唯一の道であります。
しかるに、天から人にと、命令は常なれども、天からわたくしへ、吾我へ、寵愛を受けたのごとき特段の命令が下ることなどありえないのです/そのとき偶々選ばれた者がその場にてわたくしだったということはあれども、そのとき吾はただ人なり、吾が吾のまま天意を能くするということはありえません。
天意を能くするとき己は必ず人であります、吾我から離れて天意に従う人々の一端となりて、よってそこには他ならぬ人々そのものの光景が現成するということになります。
浅薄には、人はそれぞれに上下、優劣の身に分かたれては、ときに虐げらるが謀反せんともがきたるがごとくに見えますが、真に天意に従いて人々の光景が現成するところ、上はただ上の人なりて、下はただ下の人なりける、もって人々そのものの現成と為すは、誰の精神にも直截の本懐なのであります、このよろこびに一度でも浴したるはその者の生涯の果報と相成るでしょう。

きょうびわれわれは "ガチ" といって、天意から見放されたるましらどもの、血眼になった闘争こそを、一種真実の姿だと称えて、あろうことか猿の合戦に真の天分を見いださんと、曲学の鬱血を祭壇に奉っております/そこに醸されたる迫力は、天意から見放された人々の行方のなさ、無明の叫喚に他ならないのですから、これを "ガチ" だといって奉るようなことがあってはなりません。
われわれは、己が身を清浄に錬磨し、精神を正しきに修め、常に真空の気の満ちたりしに育て上げ、天意あらざるは微塵も動かざるも、天意に従いては勝速日に動くというふうに、この地に立てられたアンテナそのものに己をならしめねばなりません、すべてが天意に通じた命令の園となるとき、人々そのものの姿は初夏の花壇がごとき繚乱と無縫の光景と相成ります。
たとえば戦争においてさえ、そこに軍神も武産も見守りあそばず、ただ血に駆られた "ガチ" どもの、つまるところは生産と名誉の奪い合いをするのであれば、たとえそこで仮初めに勝利者となりえても、この勝利者は魂に何らの果実も得ず、内心では己の為した魂の空漠と荒廃に只々心胆を寒からしめられるでしょう/そしてやがては己の掘った暗渠の墓穴が、どのようなおそろしい先へとつながっているものか、己で見分しにゆくことになるのです、これまでに何の光景も得なかった者が、ついに "すべての光景がない世界" へと己を連行してゆくほかなくなります、わざわざそのような暗雲へ己が生を費やしたとはなんと無念なことでありましょう。
而してわれわれは、いつのまにか刷り込まれた曲学阿世そのものたる "ガチ" の酸鼻に不毛を見抜き、いついかなるときも、天意に殉じたるときは吾と彼でなく人と人であると、われわれの得るべき光景の荘厳へ一刻も早く目を覚まさねばなりません。

人々は上下にも共に勝者たるも、吾と彼ならば闘争を俟たず敗者たり。

いかなるときも、吾の力を恃むのではなく、森羅万象を尊ぶのです、言霊は天地に響きますよう、能く見れば人々は天意の下に協したる不可分の者たちにすぎず、然れば吾が勝ちたるや彼が優れたるがごときはなく、あとはところどころに虫食いとなった "ガチ" の人々があるにすぎません/またそうした "ガチ" の人々も、己が協せざる見放されし者ということを明らかに知った方がよいのです、光景のない世界へ誰かを蹴り落とそうした呪は、必ず己のぶんも穴を空けています。
 "ガチ" の人は、そうして己が空けた、憎悪の呪の穴、無限に光景がない穴のことが怖いのです、よって真空の気を己に満たすことはできず、重い空気の気を体内に充填して、己を固定しています、このことは、かつて呪った強度の何倍もの強さで、真にこころの底から悔いるまで消えはせず、何より「もうこの "穴" から逃れられないのだ」と決断して悔いる必要があります/悔いのあとに何かしらの救いがあるとしても、吾の力で逃れて解決できると思い込む傲岸のうちには、救いの妙手が届いたりはしないからです、救いは必ず吾我の無力へ完全に行き着いた後にしかもたらされません。

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WS報告024(3)/マスターと命令とミリ秒と作品と礼拝の世界
ークショップ関連のネタで、報告するのを忘れていた。
「世間」ではなく「世界」という場合、世界というのは<<マスターの命令なしにはびた一文動かない>>、「びた一文」という慣用句の使い方を間違っているのだが、「びた」と言いたいのであえて間違ったまま使おう、「何度も言っているように、マスターの命令なしではびた一文動かないんだって」。
「創作というのは、チームワークだろ、チームワークといえばリーダーシップだ、リーダーシップといえばマスターだろ、マスターと言えば命令だ、そして命令といえば本当はミリ秒なんだよ、風向き等もあるにせよ、本質はミリ秒にたどり着くしかない」「これを "開闢" という、開闢は集中の反対だ」「集中は、空間がありつつ、何かが一点にギャッと集まるから集中だろ、開闢はその逆、ある一点から空間がパッと始まるんだ、だから開闢だ」「誰かがマスターに立って、命令を出すところに踏み出さないと、世界は本当にびた一文動かない」。
ワーク中、「びっくりしすぎた」といって、スタジオの隅で丸まって眠っていた人がいたが、後日になって連絡が受けると、やはり「びっくりしすぎてダウンしたw」という報告だった、うーんそうか、びっくりしすぎたか笑、まあびっくりするんだな/そういうものなんだなあと、そういうことは、僕は他の人からヒアリングしないと知らないのだった、僕はもうずっとそういう開闢法の中にいるようなものだからな。

キャパシティをオーバーしたら、トラブルになる前に自己責任で離脱して休憩しなさい、という、アタリマエのことを、当ワークショップでは「分別(ふんべつ)」と呼んでいる/別にわざわざ呼ぶ必要はないのだが、いちおう関連するネタがあって、わかりやすいので「分別」とした。
それはいいとして、「作品」というのは実作業において不思議なもので、マスターが本当のところを捉えていると、プレイヤーには何かが視えてくるのだ/マスターの無比なる「命令」があって、プレイヤーはわけのわからないまま命令どおりに動くのだが、何もかも「わからん!!??」のままやらされているのに、やらされているとただちに、自分の役割・やり方が「視えて」くるのだ、それで「何これ」となり、「わからないままわかってくるこれは何?」、それがあまりに未知の現象なので、場合によってはびっくりして寝込む(らしい)。
なぜ作品に関連しては、マスターの命令というのが、「ミリ秒」で「開闢」でなくてはならないのか、なぜそうでないかぎり、どれだけ大声を出してもびた一文動かないのか、なぜ前日から刺激的に膨らませたイメージを、吹っ切れたように展開するという方法では、内輪満足にしか成り立たないのか……それは、ソ連の文学理論家ヴィクトル・シクロフスキーの有名な言い方で言えば――<<芸術は、ものが作られる過程を体験する方法であって、作られてしまったものは芸術では重要な意義を持たないのである>>、からに他ならず、またガストン・バシュラールに言わせれば、想像力とは「イメージではなく、イメージを歪形する力」ということだし、そうした想像力というのは人間の「よい状態」というのではなく、人間の「存在そのもの(イグジスタンス)」なのだとウィリアム・ブレイクが言っているとおりになる。
僕はこれらのことを、単に作品のメディアに現成せしめるのみならず、われわれの肉体と脳そのものが、かかる芸術作品と想像力のサーバーユニットそのものでありつづけるという、そういう肉体と脳を具体に現成せしめることができるのではないかと――具体をフィクション化できるのではないかと――現在のように取り組んでいる、そうなるとそれは愛(世界愛)であり神話であり礼拝である(また永遠であり存在である)ということから切り離すことはできず……ただ具体的な実践者として、思いがけず「速さ」、「ミリ秒の中にすべてを捉え、ミリ秒のうちにそのすべてに従う全身でなければ、このことは為されない」という、時間軸上の問題へのアプローチが大きな一手として出現してきたことを、面白いなあという感興と共に報告している、今のところ明確に「作品はミリ秒で完了しろ」という作法を打ち出している説はヨソにたぶんないと思う。

作品はミリ秒で完了し、完成には時間が掛かる。

完成にどれぐらい時間が掛かるかというと、厳密には完全な「完成」というのはないにせよ、一定の「完成」に到達するためには、具体的な技術レベルの問題が出てくる、「作品」という現象そのものがミリ秒で隅々まで捉えられたとしても、「具体的にプレイできないじゃん」ということがある/だから「作品」ということを考える場合、あくまで小作から取り組むのがいい、技術的にはカンタンなはずの小作を、間違いなく「作品」であらしめる、そのためにミリ秒へのアプローチをさぐる。
だがそれにしても知るべきことは、作品はミリ秒で「完了」するのだということ、ここをじっくり努力して、汗を掻いて、血の滲むような思いをして……ということでは、努力と意欲の痕跡が生じてくるだけで、「作品」というものは生じてこない、それは「作品」の原理と異なるからだ、ミリ秒の「開闢」の中にしか「作品」という現象の性質は生じてこない/この純然たる「作品」という現象について、それをプレイするのも、また向き合って観るのも、一種の礼拝の作用をもつ、だから作品は人を物理的に膝から崩すほどの作用をもっているのが望ましい、そのとおり人が寝込むぐらいのほうがいいのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「地球外生命体っているんですかね〜」「お前さぁ……」

球外生命体はいるのだろうか、というネタで、話が盛り上がるとき、いやそんな話で盛り上がるときなんて実際にはないけれども、このネタについて僕はいつも思うことがある。
地球外生命体というのが、いるのかいないのかは知らないし、どうせ知りようもないのだから興味もないのだが、もし「いる」となったら、それはもうきっと、宇宙にぎっちょり、有象無象にひしめいているぜ/地球外生命体が「いる」とかいうレベルではなくて、タウンページの何億倍も、リストに書き切れないぐらいいるぜ、その中で地球の存在なんか忘れ去られるぐらいだ。
どうもこの、「地球外生命体はいるのだろうか」というネタについて、発想の根本のあさましさというか、増長を感じて気に入らない、全宇宙は全体がメガロポリスみたいに生命体だらけで、地球もその中の小さな一部屋にすぎないという可能性を考えないのだろうか、その視点からいえば「地球外生命体」という言い方そのものがヘンだ、まさか太陽系しか宇宙がないとでも思っているわけでもあるまいに。
なんとなく、「地球外生命体」というのではなく、宇宙全体がアホみたいに生命体まみれだったとすると、われわれ地球の住民としては「夢がない」と感じられるのだが、僕はどうせ仮想するなら、その夢のない仮想が好きだ、「何が地球外生命体じゃ、アホらし」「これだけ生命体がひしめいている宇宙で、よく地球限定の視点なんか持てたな」「新宿で電球を自慢しているぐらいアホだぞ」/単に観測しえない宇宙全体のことを考えるにしても、「生命体でぎっちょり」という可能性を持ち得ないのでは知性として何かがマヌケだ。

宇宙は広すぎるので、というか、宇宙のエリアに比べると、三次元で最速たる「光」の速度が遅すぎるので、どうせ他の生命体とは接触できないに決まっているが、もし生命体が単なる偶然の産物ではなく、何かしらのインテリジェンスの作用が及んでいるのだとすると、そりゃもう宇宙は全体が生命体でぎっちょりだろう、この宇宙に恒星(太陽)の数って、400,000,000,000,000,000,000,000個もあるんだぞ、この恒星系に惑星が複数個くっついているんだから、もういくらでも生命体スポットはあるだろう/仮に太陽2000億個にひとつ、生命体のある惑星が生じるにしても、宇宙全体では2兆個の生命体惑星があるということになる、その中のひとつでしかない地球が、ことさら「地球外生命体!」などと言い出すのは、何か気恥ずかしくてイタい話だ。
だいいち、われわれが知っている「惑星」って、もうけっこう前にボイジャーが頑張って海王星ぐらいまで見に行ったのが限界じゃないのか、そんな情報量で地球外生命体を考察しようなんてどう考えても片腹痛いぜ/太陽系をがんばって調べましたというのは、宇宙全体の広さに比べると、まるで世界中のすべての書物を知ろうとするのに、「五十音で、あいうえお、かきく、まで覚えました!」と言っているようなものだ、人類の歴史をフル出力してそのレベルだから、もう初めからムリなのだ、人為以外の何かが用意してくれた量子テレポーテーションでも起こらないかぎり、われわれが他の恒星系の惑星のことなどを知る方法はない。
ところで、それに付随して思うのだが、われわれは聖書や仏典やその他の聖典や神話を読んだとき、それがわれわれの知る地球の歴史と整合しないので困惑するのだが、それは聖典や神話に書かれていることを、地球限定の出来事だと勝手に決めつけているからではないか? もしわれわれの魂に「輪廻」というようなことが本当に起こるのだとして、その輪廻が地球上だけで起こるとは限らないじゃないか、この宇宙が生命体でぎっちょりなら、他の恒星系や、場合によっては他の銀河、他の宇宙(マルチバース)に輪廻するという可能性もある/また、UFOとか宇宙人襲来とかいう前に、他の恒星系から輪廻してきた魂もこの地球上の誰かには混ざっているという可能性も考えたほうが、まだ説得力があるじゃないかと、僕は仮想にせよ思っている。
聖典や神話には、「んなアホな」と言いたくなるような話も混ざっているのだが、それが「んなアホな」と聞こえるのは、われわれが地球のことしか知らないからであって、ヨソの恒星系から輪廻してきた魂がレアケースとして混じっているなら、神話に書かれているようなことも実際にあるかもしれないではないか/われわれはあまり自分のことを賢いと思わないほうがいい、古代ギリシャ人が根拠無く言い張った、「完全数496は宇宙創世に関係がある数字」というのが、まさか現代に来て「マジだった」と知らされるとは思っていなかったし、古く仏教において「十方世界」と書かれてあっても、この宇宙は10次元+時間次元という最新物理学に今さら驚かされているのだから、われわれの常識なんていつも何も賢くないのだ/宇宙には生命体がぎっちょりで、魂の輪廻は地球に限定されずあちこちに行くこともありまっせという、夢のない仮想が僕は一番しっくりきて好きだ。

地球外生命体は「いる」と主張する人こそ、それを地球外だと "珍品扱い" しているのがヘンだ。

もし地球外生命体が「いる」のなら、それはぎっちょりいるのであって、「珍しいもの」という扱いではないはずだ、そちら側の人こそ、地球を主格扱いする気持ち悪さをやめるべきではないか、自分たちの乗っている船以外はすべて海賊船に見立てるというのは精神的にどうかしている/地球外生命体は、「飽きてつまんねーぐらいいる」と言い換えてはどうだろうか。
ずっと前から、人は猿から進化したというダーウィンの説について、それが聖書の表記と異なるということで揉め事が起こっているのだが、それだってたまたま地球の猿に、はるか遠くからアダムとエヴァの魂の断片が輪廻してきて、その結果として猿が二足歩行する「人」になっていったということなら、つつがなく説明がつくのじゃないのか、まあそんなことはどうでもよくて、こんなところで戯論を言い立てていてもしょうがないのだけれど/誰の何にも関係ない、まったく意味のない話をしてしまった、うーむ反省はしていない。

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物理的に倒れ伏すという「礼拝」が起こる仕組み3/代表例としての「おじぎ」

れわれは「力」を偉いと思っているのだ、なぜならわれわれは生きものだから/生きものの世界においては、力があるほうが生き残れる、弱肉強食のルールで勝利してゆける。
だからこそ、われわれは自分が誰かを「やっつける」ことを快とし、誰かに「やっつけられる」ことを不快とする、われわれの救われがたさは、この「力への帰依」にある/われわれは、力あるものに頭を下げている、つまり会社の上司に頭を下げているし、たくさんお金を払ってくれる太客に頭を下げているし、権力のある顔利きに頭を下げているし、腕力のあるガキ大将に頭を下げている。
つまりわれわれは、ふだんから「力」に礼拝していることになる、このパワー礼拝は本来の礼拝の作用をもたらさない、そりゃ銀行に頭を下げて救われるならわれわれは生きていくだけでバリバリに救われることになるだろう、銀行に頭を下げずに暮らしていけるケースなどほとんどないのだから。
生業をしていると、お金に頭を下げるわけで、そのこと自体、通貨発行権を持っている中央銀行に頭を下げているようなものだから、われわれはごく一般的に、力の信徒であるわけだ、生存本能というのはそういうものだからしゃーない、こんなものにわかに解決なんかできっこないので、あるていどうまいことごまかせ。

仮に、AがBに、「力」を行使したとする、するとAはBに対して上位になる、ところが数千分の一秒に出現するカミサマに接触すると、「な、なんだこれ!?」と、上位と下位が反転する、「力」を行使しているAの側が、下位になっていくのだ、力を使えば使うほど下へさがっていく/そこでAは、己の信じていた「力」の正体を知るのだ、「力」は「重さ」であって、自分を下へと押し下げていく性質のものだということを知る。
数千分の一秒に生じることを捉えるには、われわれは極限まで力みを捨て(ゼロ状態になる)、真に胴体の中心から、全身をひとつにして挙動しなくてはならないが、もしこのことが可能になれば、どういうことが起こるかというと/たとえばAがBに力を行使していたとして、Bが胴体の中心からまっすぐ、ひとつで「おじぎ」をしたとする、本質的には数千分の一秒だけその「おじぎ」は生じ、ただちにゼロ状態に戻るので、あとはおじぎの「残り」が動作するだけになるが、このときBは「うおっ!?」となり、ペシャンコになるのだ、AがおじぎでBをペシャンコにしたのではなく、BがAに向けて行使していた「力」が自分自身をペシャンコにするのだ、相手をやっつけるつもりだった力は相手を持ち上げることに向かってしまい、相手を持ち上げるぶん自分の地位は下へ押し下げられていく、「こなくそ、こなくそ」と力を入れるほど本人が下へ押し下げられてペシャンコになる、つまり数千分の一秒に生じたおじぎで力の「偉い」が反転するのだ。
AがBに「力」を行使しているとして、このときBが、真に「礼拝」に及んでいるミリ秒のおじぎをバッとすると、Aは「うわっ!?」とスッ転ぶのだ、これは物理的な現象(自分の力)だが、本質的には具体的な接触のみで生じるものではない、なぜなら具体的には触れていなくてもこの転倒は生じるからだ/触れてもいないのにスッ転ぶし、その「反転」の原因主は数千分の一秒しか生じないので、見ていても何が起こっているのかはさっぱりわからない、どうせ何かのヤラセか催眠術のたぐいにしか見えない、けれども四人同時にこの技をかけると、四人が同時にスッ転ぶので、そんな単純なヤラセとか催眠術とかのたぐいではない、ヤラセにしてもそんなにきれいに揃って同じ形にスッ転ぶのはむつかしいはずだ、確かに「投地」というような形で四人が同じ形につぶれていく。
だから、ありふれた話に決着するのだが、力を威張らせずに、身体の中心から全身をひとつに「おじぎ」をすること、それを生活の中で当たり前にすることは、とても大切なことだ、日常生活の中でこれを常に養っておくことの、いかに有為で救いにつながることだろう、頭を下げるというのは瞬間のうちに起こるべきことで、頭を下げるというのは力づくでグイーンと下げるものじゃない、われわれは単なるバネ仕掛けの筋肉人形ではないのだから。

Bが数千分の一秒で、目に見えない「おじぎ」をしたとき、Aは「うはっ」と、<<うれしそうに苦しんで>>倒れる。

面白い話、「おじぎをした側が勝つ」んだぜ、まったく面白い話だ、ただしそのおじぎは勝速日というような速さだが、力の強いほうが勝つのではなく、おじぎをした側が勝つのだから、見ていても面白いし、力が強いままスッ転ぶ当人も面白いのだ、うれしそうに苦しんで倒れるというのが特徴で、このほかに「嬉しそうに倒れる」というわけのわからない有様はない。
自分の力で自滅していく当人が「うれしそう」なのは、いかなる力の強い者だって、自分が弱肉強食の世界でただ有限の時間を生かされるということ、そしてそのまま老衰で死んでいくだけということを、こころの底からよろこんでいるわけではないからだ、われわれが各種の力を信仰しているのは、因果の結果であって魂の希求の結果ではない/だから、「自分が力を使っているのに自分がつぶれていく」という、一般の因果律に反転している現象の只中、誰だってそのことをよろこぶ、人は自分の力でつぶれていく中、魂のどこかで「こ、これは、わたしがおじぎしていないからだよ〜」ということを知っているようだ、だからまるで我が意を取り戻したような顔でよろこびながら倒れる。

正しく見ないとな | comments(0) |
物理的に倒れ伏すという「礼拝」が起こる仕組み2

れわれは、必要があって己に「呪縛」を掛けているのだ、「呪い」というのは「のろい」と読んでもいいし「まじない」と読んでもいい/とにかく呪縛だ、「悪いことをすれば悪人でダメ、天罰がありますよ」というのろいを己にかけ、「善いことをすれば善人でイイ、きっと報われますよ」というまじないを己にかけている、そうして自分を縛り上げている。
なぜそうして自分を縛らなくてはならないかというと、縛っているものを解いたら、カルマ行動が発現するからだ、われわれの身は煩悩と業と因果のかたまりであり、こんなものを解放してやると、ただちにカルマぶっ放しの行動・行為しかしない/われわれはふだん、おおむねは善人であり、表面的には善行しかしないものだが、それは呪縛の結果として善人と善行が強制されているにすぎず、ぶっ放した結果として善行が炸裂しているのではない、われわれは己の行為を善に保つために、己を呪縛で固定してあるのだ、そのことまで含めて善人は善人と呼んでよいのが一般的なルールだろう。
悪い子はいけません、よい子でいなさいと、親に教わったのではなく、親に呪縛を与えられたのだ、なぜ親がそれをするかというと、親は一親等の存在であり、呪いというのは主に血を媒介して為されるからだ、あんまりこんなことには詳しくならないほうがいいが、とにかくこれは呪縛であって、生きていくのに必要な呪縛だから、責めるにはあたらない、ただしそれを「教わったこと」と誤解し続けていると、結果的によいことには行き着かない、なぜなら呪縛された善人は「礼拝」の仕方にたどり着けないからだ。
もちろん、呪縛をいきなり全部解いたら、破滅しかしないので、徐々に解きほぐしていく必要がある/そして呪縛を解きほぐすということは、固定を取り外すということ、つまり己のカルマを発現させるということであり、ここから生じるカルマ行動を、カミサマにつぶしてもらえないと、人はただカルマ行動からカルマを増大させていくばかりになる、そんなカルマ増大に向かうばかりなら、呪縛されたままのほうが遥かにマシじゃんというのも、人が持つ直観的な判断だ。

予備的な話になるが、女性がデタラメに男に抱かれるわけにいかないのも、これが理由だ、女性には男のペニスと射精を求めるという業(カルマ)があるが、このカルマをぶっ放して、さらにカルマが増大して身が重くなるのでは、自ら致命傷を招くようなものなので、女性はこのことに慎重になる、これは当然の判断だ/だから女性は、直観的に「この人なら大丈夫」と思った人に抱かれようとする、その「この人なら大丈夫」というのは、自分のカルマ行動をつぶしてくれる人ということだ、このカルマ行動をつぶされた姿が、そのまま「礼拝」という形になる、だから礼拝すればカルマ行動がつぶれるのではなく、逆だ、カルマ行動がつぶされたときの姿のことを、人類はこれまで礼拝と呼んできた。
だから、礼拝うんぬんの手続きは、本当にはこうなる、1.主に両親と世間による呪縛(カルマ行動の封印)→2.適切な場を得て、呪縛の徐ろな解除→3.適切な程度の、カルマ行動の発現(つまり、「悪いこと」を自白的に行為する)→4.カルマ行動が、刹那のカミサマに接触し、上下と「重さ」を教わる→5.物理的に、己の重さが膝に来て、立っていられなくなり、自ら倒れ伏す(礼拝)/こういう手続きだ、むろんこのような「礼拝」が生じるには、導き手となる誰かがそこに必要であり、装置や施設や情報だけで成立させられることではない。
われわれが少しでも因果を逃れるのは、実にむつかしいことで、つまり呪縛していた「悪いこと」を実際に発現・行為し、その行為がただちに、刹那のカミサマに接触して、物理的につぶされねばならないのだ、自分の身そのものと、カルマ行為の重さでつぶれる、その重さが実際に膝に掛かってきて、立っていられなくなる/ただし、あくまで己の重さでつぶれるということ、他の何かのエラソーな力でつぶされるのではない、だからお説教や権力でつぶされるのではまったくない、そんなイージーな話ではないのだ。
われわれの身の内は、ふつう善人ではないので、それを呪縛で封印して、善人を気取っていてもだめなのだ、カルマの増大はやや防げるが、その呪縛善人モードでカルマを償却はしてゆけない/だから呪縛を解いて、少し「悪いこと」をしなくてはならない、実際にわれわれがそうした「悪いこと」をできてしまうのは、封じてあるだけで本当は「悪いことをするという能力」があってしまうということだ、この悪いことをする能力を実際に発現させて、行為し、この行為が、世間や司法や権力や腕力の「力」でつぶされるのではなく、カミサマに触れて、己の身の重さと行為の重さでつぶされねばならない、それで重さが膝に来て立っていられなくなり、倒れ伏した姿を「礼拝」と呼ぶ、礼拝というのはそこまでのものだから、そりゃ何度もペシャンコに倒れ伏していたら、そのたびに少しずつ身は軽くなっていくだろう、そのことが繰り返されていくうち、自分の中から「悪いことをする能力」そのものが消えていくのだ(カルマが償却された)、だから呪縛の必要がなくなってくる、こうして「悪いことをする能力」を消し去っていった人は、たとえば友人の尻を後ろから蹴ったとしても、それがなぜか「悪いこと」にはならない(それがカルマ行動ではないからだ)。

悪いことをしようとした瞬間、数千分の一秒、カミサマが出現し、「うおっ!?」と上下が掛かり、物理的に自滅する、その自滅でペシャンコになった姿が「礼拝」だ。

こんなこと、得がたいとか有り難いとかいうレベルじゃない、フツーに「ない」だろ/なお、カミサマが「出現」するというのは、そういう姿のものがババーンと出現するわけじゃない、そういう空想的なものではないのだ、風景としては何も変わるところはないのだが、何か違うものが現れているように見える、そして何より、自分がつぶされていくということそのものに、「こりゃカミサマだ」ということがわかるだけだ、カミサマそのものは、作用としていずれわかるようになるが、出現そのものは数千分の一秒なので、まず通常は観測されない、ただ「今何があった? 何かヤベー瞬間があるのだけはわかるし、その後はもうアカンのはわかるわ」という程度にしか認識できない。
せめて知っておいたらよいことは、「善人」の周辺にいるあいだは、どうやっても「礼拝」は起こらないということだ、もちろん単なる悪人というのでもダメだが、礼拝というのは「悪いことをしても悪いことにならない」という人の周辺で起こる/その人は悪いことをしても悪いことにならないのだが、その人に向けて自分も同じ悪いことをしてみようとすると、なぜか「うおっ!?」となり、重さが掛かってペシャンコにつぶれてしまう、そういう形で「礼拝」は起こる、なお余計な情報だが、大げさに悪いことをしようとすると、その重さで自分が本当にケガをしたり損傷したり、精神的にマジで死んだりすることもあるので、大げさなことは考えないことだ、われわれのカルマが償却される速度というのは鉛筆の芯が減る速度の数万分の一しかないと思え、だから鉛筆の先ほどの悪いことを、そのたびにつぶされていくということ、それでもじゅうぶん膝にきてつぶされるから、それだけわれわれのカルマは物理的に重いということだ、重いというかつまり身の「力」だけどね、力は腕力だったり権力だったり魅力だったり、まあとにかく「礼拝」というのは本当はそれぐらいむつかしく、むつかしいという以上に極めてレアなのだった。

正しく見ないとな | comments(0) |
物理的に倒れ伏すという「礼拝」が起こる仕組み

るほどなあ、つまり、やはり「礼拝」には一定の効果があるのだ。
「効果」というといかにもさもしい感じがするが、まあ「作用」があるわけで、その作用の根源はカミサマなのか何なのか、単に観測できないルートから作用があるので、それを聖霊とかカミサマとかホトケサマとか天とか菩薩とか言うのだろう、その作用ルートが「観測」できないのは、単にわれわれの観測能力が低いからであって、それだけわれわれがアホで無能なのだからしゃーない/さっさと村田製作所が観測センサーを開発できないのが悪い。
われわれは、高所から飛び降りると死ぬので、「重力」等は観測できるのだけれどね……何しろ顕微鏡というアイテムがなければ、微生物も観測できないのがわれわれだ、素粒子うんぬんを観測するのにさえ、CERNというような大がかりの装置を必要とする、あげくにわれわれはアホなので、観測できないものは「ない」と決めたがり、逆に「ある」と説明しようとさえする/観測できないものを「ある」と説明できるわけがあるかよ、問題はそれが「ある」か「ない」かの問題ではなく、「たとえAそのものは観測できなくても、Aからの作用はあるかもしれない」ということだ、仮にわれわれが視力を失ったら、太陽光はもう見えなくなるわけだが、見えなくても作用はあるので、「この世界って、昼と夜があるんじゃね?」ということは言い得るだろう、「だって、何かあたたかいものが当たる時間帯と、それがまったく当たらない時間帯があるし、そのあたたかいものの当たる方向って時間と共に移動しない?」ということで。
とにかく、僕としては経験上、見てきたこともそうだし、己が体験してきたこともそうだが、「礼拝」というのは一定の作用と効果が本当にあるのだ、ただしわれわれが「なるほど」といって、安易に礼拝の旅に出ても、何の効果も得られず、ただ旅費だけが嵩むだろう、それはなぜかというと、単に礼拝というのが本当は「とてもむつかしい」からだ、正しいやり方というのがあって、それはとてもじゃないが誰かに教えてもらうより獲得できるわけがねーよというレベルのむつかしさなのだった。

何しろわれわれは、本当にアホなので、何かしら神社や仏閣や、教会や神棚や仏壇に礼拝しようとするとき、自分を「聖なる心地」にしている/冷静に考えれば、これはアホなのだ、われわれに聖なる心地が得られるのだとすれば、それは礼拝の「後」であるべきであって、礼拝に臨む前から、聖なる心地などが得られるのであれば、もう礼拝する必要はない、こんな単純なことにも気づかないほど、われわれはアホであり、なぜアホかというと、まともに誰かに「教わる」ということを経てきていないからだ。
「教わる」というのも、何か形式や情報を、言語化して暗記すれば、それで「教わった」と思っているしな……だから困ったことに、われわれはある意味ですっかり「出来上がって」いるのだ、礼拝なんて激ムズのことはわれわれにはできっこないから、本来は教わらないといけないのだが、その「教わる」ということもなかなかにむつかしいので、まず「教わり方を教わらないといけない」という状態にある、けれども教わり方を教わるにしても、教わり方を教わっていないわけで、どうもできねーじゃんという、わかりやすい閉塞に陥っている。
だからどうすればいいのか、ということになるのだが、どうすればいいと考えたところで、誰かがそれを教えるとか、誰かにそれを教わるということも、ほとんど破綻しているのだから、まあどうなのだろう、あるていど諦めるということも、リアルなこととして必要だ、せめてわれわれが他人のことを諦めるのと同程度には、自分のことも諦める必要がある、そうでないと辻褄が合わないしな/墜落する状態のまま飛び立った飛行機が、今さら上空で「どうしろってんだ」という話で、まあそういうこともあるさと、笑おうが笑うまいが、行き着く結果は同じか、だからもうあとは個人の趣味しかない。
そういった、いまいち笑えないテンヤワンヤに行き着く前に、僕はすべてのことを前向きに、光あるように保っておきたいのだ/僕はよく友人に、「ごくふつうの程度には、神社やお寺にもお参りしたほうがいいよ」と勧めるが、それが何かになると勧めることはまずない、「何かになる、のじゃなくて、何かにならなくて済む、ということ、自分の知らないところで」と言うことが多い、何しろ本当の礼拝の仕方なんて僕も知らないし、ただ僕が知っているのは、われわれには聖なる心地で礼拝になんか臨めないよということだ、これは別に聖人でなくても単なる理知でわかるだろう、<<あなたが清潔ならシャワーを浴びなくてよろしい>>。

汚いもん見せて土下座しな。

汚いものを見せ、自白し、晒し、その姿のままひれ伏すことだ、ああなんてシンプルなんだろうな/われわれがやるアホは二通りあり、ひとつは清潔なわたしで拝むこと、ひとつは不潔なわたしで居直ることだ、われわれは人間が小さ〜いので、不潔な己を認めるときは、オラついてふんぞり返ることしかできないし、何かに伏して頭を下げるときは、清潔なワタシを気取って頭を下げることしかできない、どちらも傍目には見苦しいということがわかるのに、自分でやるときにはきっちりその見苦しさをなぞるものだな。
われわれが、己の汚いところを開示し、それで一ミリも居直らないなんて、なかなかできることじゃない、だからわれわれにとって、礼拝などむつかしすぎるのだ……あはは、そのぶん、本当に「礼拝」というものが成り立つときは、本当に面白い、実際には「うわっ」と自分でおどろいてひれ伏すからだ、まさにこのこと自体おどろくべきことだが、人が礼拝をするのは、人の意志ではないのだ、人がカミサマに出会うと、人は己自身の重さで倒れ伏すのだ、伏せようとして伏せるのではなく「うわっ」と倒れてしまう、「無理です無理です、立っていられない、ちょちょちょちょ」という感じだ、礼拝とはそうした物理的なもので、カミサマが頭を抑えつけるのではなく、カミサマが人に "重さへの抵抗をやめさせる" のだ、それはカミサマに出会うたびに起こり(出会うといっても本当に刹那で、おそらく数千分の一秒というような単位だ)、そのたびに「ふおっ!?」と、膝から崩れ落ちそうになる、倒れ伏す挙動自体は己の重さから生じているので、挙動は物理的だ、カミサマは重さへの抵抗をやめさせているというより、正確には物理的な "「上下」を教えている" というだけだ、物理的に上下を教わると重い者が下に行くのは当たり前であって、だから己の身の重さで倒れ伏せる、本当に物理的に膝にくるような形だから、絵的にも面白いのだ、そして倒れ伏せることを繰り返したあと、立ち上がると身は少しだけ軽くなっている。

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オードリーヘップバーンに掛けられないなら技じゃねえよ

ーむ、どうも腹が立ってきたな、やっぱり正しいことはあるていど大きく表示しておかないと、果たすべき義務を履行していないことになるみたいだ。
たとえば合気道では基本の技を、一教とか二教とか言うけれども、どこの道場でも当然、屈強な兄さんがトリャーと取り押さえをしたり、エイッと投げを掛けたりしている、それをもって護身術だと言うのだけれども、護身術といってもつまり、そりゃ「相手をやっつける技」だ、たとえ相手がケガを負わなくても、それはやはり相手をやっつけている技だ/僕はいかなる理由があれ、相手をやっつけることは不徳のたぐいであり、たいへん気分の悪いものだと感じている、誰かをやっつけた時点で、根本的には自分も負けのコースに入るのだと思う、思うというよりは確信する。
合気道の開祖、植芝盛平さんと、その弟子である塩田剛三さんにおかれては、弟子にいかなる技を掛けたとしても、弟子を「やっつけて」はいない、なぜなら技に掛けられた弟子はギブアップを示すタップ(「参った」のサイン)を出していないからだ、植芝さんと塩田さんの技は、掛けられた相手がウオッとか「ぬあっ!!??」とかなったりするが、掛けられた側がそのあとイケイケかつ「やさしく」なっている/僕は、合気道などに関しては、完全なズブのシロウトだが(何しろ一秒も習ったことがない)、それとはまったく関係のないこととして、「人ってそんなに甘くない」と断言したい、たとえ相手にケガをさせなかったとしても、一度でも誰かを「やっつけた」なら、その人はその先、永遠に敵であって、ずっと呪いあう関係になる、相手にケガをさせなかったことなど何の言い分にもならない、<<誰かをギブアップさせるとか「仕留める」とかいうことは、兵士でないかぎり模擬にも決してやるべきではない>>、ギブアップさせた(負かした)ということは殺したのと同じだ。
護身術だといい、屈強な兄さん同士でトリャーとやりあい、相手が抵抗できない形にして「参った」をさせあっているが、本当にその技は、うら若きたおやかなオードリーヘップバーンにも掛けられる技なのか? もしそんな可憐に微笑む麗しき花のような女性のやさしい細腕には掛けられないというのなら、それはけっきょく「ケガはさせない暴力」ってことじゃないか/われわれは本当に、うら若きオードリーヘップバーンが、肩関節と肘関節を固定されて締め上げられ、「参った」とタップするところを見ていられるのだろうか、そこには「なぜそんな非道な暴力をやるのだ」という悲嘆が湧き起こるのではないのか。

僕には何の資格も立場もないので、与太話として聞き流してもらうけれども、一教とか二教とかいうのは、護身の技なんかじゃない、<<掛けられた相手の身にカミサマを入れる技>>だ、だから何度も技を掛けられると、掛けられた相手は次第に「やさしく」なっていく、身が軽くなり、こころがやさしくなっていくのだ、人為では獲得しえないナゾの精神が「あれ? 何これ?」と得られてくる、だからこのことをかつては武産合気と呼んだ/護身術などではまったくないのだ、相手をやっつける技などではまったくない、相手にカミサマを入れる技だ、この誤解はまったく正反対を向いているじゃないか、正反対ってのはさすがにヤバくないか。
何の資格もない僕から、たいへん不遜に、この与太話を主張しておきたい、われわれの身の内には、「人を攻撃する機能」があるのだ、ふだんはそんなものが決して発現しないよう、入念に管理してコントロールしているが、たとえ完全に管理しきれたとしても、その管理の下にやはりその機能は「ある」のだ、そしてこの「人を攻撃する機能」が、存在自体おそろしくて、この機能が存在するうちは、人はどうやっても救われないのだ/そこで身の内にカミサマを宿し、カミサマにその「人を攻撃する機能」を消し去ってもらうというのが営為の本質だ、それに比べると「護身術」というのは何だ、人には人を攻撃するという機能があるということについて、初めから全面的に屈服しているのが根本のスタイル(文脈)じゃないか、僕は合気道に何の関係も持たない一市民だが、合気道に携わる人は、合気道というものをそんな護身術というような、「自分だけ被害を受けず合法に善人として生き残ろう」というつまらないものに定義してよいのか。
そうじゃないだろう、本当は、<<暴漢になど決してなりたくないわれわれの身の内から、暴漢になりうる潜在的な機能そのものをカミサマによって消し去ってもらう>>という営みだ/塩田剛三が後世に残そうとした技の正体は、「人を攻撃するという機能が "空転" して、元あった攻撃機能のエネルギーが和合のエネルギーに転じてしまう(笑い、むつみ合うエネルギーに転じてしまう)」ということだ、決して単なる自己防衛の技なんかじゃない。
そして植芝盛平の技は、単に人の攻撃機能を空転させるのみならず、その身に人為以上の何かの "存在" を宿す技だった/だからこれらの技は、掛けられた側が救われた心地でつい「ありがとうございます」と言ってしまうという徳性がある、生まれて初めて人と和合するエネルギーの根源を得、さらにはわれわれに「人以上の何か」を見いだす直接の体験と開眼を与えてくれるのだ、そりゃうれしくなって何度も技に掛けられようとするし、技に掛けられて「参った」なんてギブアップはしない、いっそ永遠に技に掛けられていたいと望むものだ(そして言うまでもないが、一教にせよ二教にせよ、極められた関節が痛いなんてことは一ミリもない、だからうら若きオードリーヘップバーンに掛けても平気だ、そもそも痛くないとかいうレベルの話ではなく、いっそ「自分で床に座るよりもラクに地面に伏せることになる」と感じられるのが本来の技だ、なぜそんなにラクなのかは理屈の上では不明で、だからこそ武産の存在を前提にせねば説明がつかないというのがそもそもの原理だ)。

武の中に、技の形をした身の「投地」作法があり、攻撃のカルマの持ち主が、師にすがって攻撃行為のエネルギーを礼拝行為のエネルギーに転じさせてもらうのが営為の本質だ。

われわれの身の内には、煩悩やカルマや因果があって、煩悩三毒というからには、身の内にどうしても毒ガスが溜まっているのだが、植芝エンジンにすがると、自分の毒ガスが燃焼して礼拝動作の挙動エネルギーに変わるということ、そうしたら毒ガスも減らせる上に光まで得られるのだから、こんなエコな完全解決は他にないぞということで、「ありがとうございます」となるのだ、それのどこが護身術なのか、護身が重要なテーマとして考えられていたのはあくまで歩兵の戦争と植民地政策とゲリラ戦が身近だった帝国主義時代の政治状況に関連してのことだった、だから有事には護身にも使えるというだけで、技の主眼が護身にあるわけではまったくない/相手の攻撃力を利用するというのは、相手の毒水がなぜか笑いの酒に変わるということであり、相手の毒水を相手にぶっかけ返して自業自得にさせてやるということではない
自分が相手をやっつけると、相手は「参った」となるのだが、そうして相手を「やっつける」ということが、そもそもおぞましいのだということに、なぜ気づかないのか、自分を攻撃してきた奴など「参った」になればいいというのことなのか、そんな他人の自業自得ぶりの上にふんぞり返ってほくそ笑むのが、われわれの信じうる聖なる道か/つまるところ、「やっつけたら気持ちイイ」のか? もしそうだとすると、それは暴漢と同じ穴のムジナじゃないか、暴漢をケガなくやっつけて「護身術」だなどと、バカなことを言っていてはいけない、もしわれわれが聖なる能力を持ちうるとしたら、それは己と暴漢を同じ身分として、暴漢にも共にカミサマの前で礼拝させてやることだ、「やっつけたら気持ちイイ」なんて性根の腐った元いじめられっこじゃないんだからさ。

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WS報告024(2)/血も凍るようなフィクションをやろうぜ

ういいかげん、「報告」ということにムリがあるような気がするのだが、しゃあない、今回はもう血も凍るような体験の連続だった、連続というか夜通しずっと血が凍った。
合気道の経験者がいるので、僕が教えていろいろやるのだが、どうせ経験者じゃない僕が「教えている」というのがもう意味不明なのだ、説明したくねえ/「な、なんだこれうおっ」「なんでだ、ウヒャハホウ」となるやつを教えていたのだが、そのあと一アレと二アレを教えると、それも何か妙なところにつながり、「なんかこれって……」と、不思議なムードに、いやムードが不思議というのならいいのだが、ムードじゃないリアルなやつが不思議なのだ、全員が同時に「うわ!」と、んなアホなという光景、うーんこれはもう本当に説明をやめよう、とりあえず僕がやっているのは「関節技ではないですね、関節技のわけがないですよ、ンヒャヒャ」ということはわかってもらえた、そりゃ夜中の二時にわざわざ僕が関節技を教えるわけがない、関節技なんて相手をやっつける機能しかない(マジで)。
とりあえず、忘れないようにメモっておくと、われわれの言い方でいうところの「ミリ秒」法が、こっち関係ではキモだ、命令がミリ秒で「終わっている」ということ、命令がそこで終わっているということは、「じゃあ全部もうそのミリ秒で "済んでいる" ってことじゃん」と、まさにそのとおり、勝速日、時間軸を顕微鏡単位で覗き込むと、ごく初期のきわめて短い時間のうちに、あれやこれやが起こっている、まあ「刹那」ということだろう、こんなもん相手と接触してからあれやこれやなんてものはないのだ、そんなことのはるか前にもう全ては決まってしまっている。
「今冬のヴィトンとエルメスが、銀座で張り合っていたとして、そういう結果が生じるのは、もうずっと前にデザイナーがバッグのデザインをしてからだろ、銀座の店舗は "末端" なんだから、末端に表れる現象を待っていたのでは、もう何も間に合うわけがないじゃん」「今の流行バッグは、一シーズン前にデザインされたものだろ、昨日思いついて今日製造するんじゃないんだから、末端の店舗から情報を取っていたらもう何も間に合うわけないんだよ」。

新年ということで、大量のみやげもの等をもらった、もう何か毎月何かゴッソリもらっている気がするが……(ありがとさん)
今これを書いているときも、もちろん意識が飛びそうだ、休憩なしで二十四時間以上が経過している、それは粘って頑張っているのではなく、すべてがやめるにやめられないからこうなるのだ、今年はみんなに「作品」を直接やらせることに決めたが、サンプルで僕があれこれブッこんでやらせてみたら、うーんやっぱりてめえらソッコーでダウンするじゃないかよ、寝込む人もいるのだが、最近はもうそういう正直な姿のほうが、正確に情報が取れて助かる/言語以前の「言葉」に、常時直接アプローチできることは、僕にとってはいつものことというか、毎日の毎時毎分、つまり常時のことだが、お前らにとってはソッコーでアカンやつじゃねえかよ、「作品」というのもまずミリ秒の中にすべてが見えるんだぜ、いちいちイメージをこねくりまわしたりなどしない、そんなのずっと実物を見せてきたはずだが、 "実体験" させるとやっぱり死屍累々だな!! お前らはいつもそんな感じだいいかげん気づけ笑!!
――一月一日お正月/甥っ子のお年玉をもらう/将来の夢はエレベーター・ガール/夕暮れのベランダに出たら彼女のことを思い出してくれ(まーた始まった、やってらんないわね、いつものビョーキでしょ、聞き飽きたわよもう)/(♪年の初めのためしとて)
「こんなにバッタンバッタンやられたのに、どうして身体が軽いんでしょうか」「そりゃそうでしょうよ」/今回は劇的に、後半、理知の扉が開いた人がいたが、それでもやはり、直接の世界・物語ということになると、理知よりさらに上位のアクセス権が必要だということがわかった、お前ら側の最高の理知開眼をもってしても、おれのテキトーサンプルの端っこを掴むのに「ギリギリ」ってレベルじゃねえか、やっぱりこんな状況だよな真相は!! 「この領域に断っているときは、人と対話なんかするな、そんなことしていたらオシマイだ、そして向き合うものがぷっつり途絶えたときは、ただちにこの領域を降りろ、おれが唯一 "一発殴られんとわからんか?" というのはこの点だけだ、そこは途絶えた奴が一秒でも立っていていい場所じゃないんだ」「そして降りたらすぐ、人と対話しろ、こっちに降りてきて対話しないのは、あっちに立って対話しようとし始めるアホと同列にアホなんだ、そんなのいいかげんわかるだろ」。

本年もよろしく。

得られたもの・向き合ったもの・知られたもの・触れたもの、すべてにおいて最高の一日だったかもしれない、たいへん幸先のいいことだ、しかし新年一発目からこのペースかよと考えると、ちょっともう何がどうなるのかと気が遠くなるところもある、新年一発目から「ただただびっくりして寝込んだ」というようなことがあっていいのかね、まあいいけど/あえて、月に一度ぐらい、「手抜き回」を設定しようかなあ、こんな加速度でやっていたらもうレポートなんかやっていられなくなるぜ。
「本当に、努力とかじゃないんですね、けっきょく "教え" なんですね」「そうだな、何かもう、淡々としていて、ヒューマニズムの余地がなさすぎるよな笑」「事実こういうモンであって、こういうものがあるってだけで、スピリチュアルが入り込む余地なんてないんだよ、このところのおれはもう最善を往くことだけのマシーンみてえだわ」「天才を言い張って遊んできたけれど、天才ってこれ、天の "下請け" ってことじゃん、下請けってフツーにつらいな」「入魂で作品をやれ、手抜きなんかしたら何かをやったことには一ミリもならないからだ、それは二番目にいけないことだ」「そして一番いけないことは、 "入魂の作品をゴミ箱に捨てないこと" だ、意味わかるか」「さっさと作れ、入魂で作れ、おれがソッコーでゴミ箱をぶん投げてやるから」「なぜ入魂の作品をゴミ箱にぶん投げるか? このことを、答えられるように覚えておけ、入魂の作品が命を持った場合、それはもう殺せないからだ、ゴミ箱にブン投げたって、もう消せないし、死なない、もう殺せないんだよ、永遠の命を持っているから、だからゴミ箱にぶん投げる前提でいいんだ」「お前らが迷って手詰まりになっているフリをしていつまでも動かないのは、自分が入魂で作った者をゴミ箱にブッ込む前提がないからだよ、だからさっさとよこせ、ソッコーでゴミ箱にブン投げてやるから」「よこせよこせ、おれがゴミ箱にブン投げるために、お前の入魂の作品をよこせ、ゴミ箱にブン投げるのが当たり前の前提でないと作品なんか出せっこねえよ」。

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WS報告024(1)/善悪と犯罪と作品

「よくはたらく人や、ものわかりがよい人は、善人だろう、それに比べると、ずっとエロ本ばかり読んでいる人は、善人ではないだろうな、悪趣味というか、悪趣に入る、ただそれでも、その悪は "犯罪者" ということではない、ただのエロ本野郎だから/こうしてわれわれは善悪とは別次元に "犯罪者" を捉えている」
「犯罪者といっても、ひったくりとかそういうのは、程度が知れていると思うのだけれど、もっと凄惨な、猟奇的なまでの犯行をする人もいる、そういう人はもう、善悪では捉えられないヤバイ奴だとわれわれはみなしている、それはある意味で "別格" の人だ、もちろん悪い意味で/もう人為的でない何か悪魔でも憑いているんじゃないかと、われわれは恐れて絶対的な距離を取ろうとする」
「このように、人為や善悪の観念ではもはや捉えきれないもの……その犯罪者の対極に、つまり麗しい側に、学門や、愛や、作品がある、善悪の観念を越えて何かが起こっているということ、そのアカン側がド犯罪者で、イイ側が "作品" を産み出す人なんだよ」
「ここをはっきり捉えないと、おれはもう、みなさんを単なる善人で豊かな暮らしでヨカッタネというほうにしか、押し出すことに協力できない、それも決して悪いことではないけれど、でもそれならわざわざおれがしゃしゃり出るようなことじゃないし、みなさんもわざわざおれのところに来ることなんかないだろ?/善人も悪人も、われわれはただ生きるしかなく、どちらもただ死んでいくしかないのだけれど、学門や愛や作品を産み出すということは、その善悪と "ただ生きる" ということを超克している、このことの門をくぐって、せめて一合目にだけでも到達しようやという話をしているんだよ」

「誰だって小学生のときに、校内写生をさせられるけれど、そのときに描いた絵を "作品" とは呼ばない、少なくとも当ワークショップでは呼ばない/われわれはその校内写生を見て、誰かの魂に出会うわけでは、実際ないからね、それぞれに描いた絵は大切なものかもしれないし、宝物かもしれないけれど、それまでを "作品" とみなすと話がボケる、少なくとも当ワークショップではそれを目指すべき "作品" とは呼ばない」
「われわれは生きているうちに、ただ生きてただ死んでいったというだけにならないように、学門か、(世界)愛か、作品を実現しなくてはならない、スケールは小さくていいんだよ、ヘタでもいいしヘッポコでもいいから、それでもこれは明らかに "作品だ" と言い得るものに到達する/その意味で作品ということを捉えると、実はメチャクチャ難しいんだよ、霊魂だのカミサマだのを確かに言わないとやっていられないというレベルになる」
「誰でも、ちょっとした小説を書いてみたいと思うことがあるし、ちょっとした寸劇をやってみたいとか、ちょっとしたダンスを踊ってみたり、ちょっとした歌を唄ってみたりしてみたいと思うことがある、だがその "ちょっとした作品" というのは、実はメチャクチャ難しいんだ、<<生きているうちに最も出来ないこと>>と捉えたほうがいい、その出来なさは、たとえば "ちょっとした数式の証明法を自分で思いついた" というぐらいの出来なさなんだよ、とてもじゃないが誰でもがさせられる校内写生のレベルと同列に比べられるものじゃない」
「善悪の尺度を超えて、やってやろうじゃないかと自己決定したという点についてだけは、犯罪者を見習うべきなんだよ、ちょっとした作品をどうたらこうたらなんて、生きていくことに足しになるわけじゃないし、誰かにやれと言われるわけでもないんだから/犯罪者というのはメチャクチャだけど、少なくとも、自分の生きることにマイナスになるし、誰にやれと言われたわけでもないのに、それを自分でやってやろうじゃないかと自己決定した、その点だけは見習うべきだ、だからわれわれは重大な犯罪者の名前を知っている、それは偉大な作品の主の名前を知っているのと同じなんだよ、われわれはそうして自分の生活とは関係ない誰かの名前と出会うんだ」

「目を覚ましてやる/そもそもみなさん、作品を産み出すということに必要なエネルギー量を誤解している」

(僕がぶち抜きのデカい声――ただし「作品」の声――で言葉を発すると、むろん全員がウオッと目を覚ました、そりゃビックリするわな)「われわれがたまに、友人に誘われたりで、街中の市民劇団の演劇を観に行ったりすることがあるけれど、それを観て楽しみはすれど、大きく感動するなんてことはまずない、むしろたいていの場合は、劇団の人たちだけが大声で盛り上がって、当人たちは楽しそうだけれど、観ているわれわれは置き去りで、よくわからずに退屈させられるものだ、でもそうした人たちだって演劇を何十年もやっていたりするんだ、それでもそれが現実なんだよ/これは中傷で言っているのじゃなくて、作品を産み出すというのはそれぐらい難しいということなんだ、何十年やっても "作品" なんか出現しないというのが当たり前なんだよ、これは侮辱じゃない、 "作品" とはそういう次元のものであって、だからこそ何もしないよりは何かに取り組むべきだとおれは思っている」
「おれはみなさんを見ていて、たまに怖いと思うことがある、それはなぜかというと、ちょっとした "作品" を産み出すということが、やればできると思っているふうに見えるからだ、おれはそれはとんでもない誤解だと断じるよ、小規模であれ "作品" なんぞを現出せしめるということは、生きているうちで最高難度のことだ、おれはインチキ山の九合目まで登ったことを誇ってほしくない、どれだけヘッポコでもいいから本当の門をくぐって本当の山の一合目にまでたどり着こうじゃないか」

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男女関係とクリエイティビティ3

れながら、いい発見をしたと思っている、「男女関係が破損するとクリエイティビティが失われる」、その失われたものは上っ面で戻ってくることは永遠にないし、クリエイティビティが失われる理由は「恐怖」だ/今、多くの男性にとって、女性とデートするのは「楽しみ」ではなく「恐怖」だというのは、なかなか有為な指摘だと思っている、むしろ女性のほうが「なるほど」と思うかもしれない。
男女関係が正常化しないと、クリエイティビティなんか「無い」のだ、そりゃあってたまるかよという話ではある、冷静に考えりゃ誰だってわかるだろ……そして男女関係を正常化するというのは、セックスをしましょうということではない。
セックスをするというのがどういうことかについては、僕などよりヴァージンの女の子のほうが専門家だろうし、苛烈なフェミニズムの勢力のほうはもっと専門家だろう、僕などはたこわさびで酒を飲んでいるだけのヘッポコヘチマ野郎だからどうでもいいのだ、この自分への悪口もテキトーすぎるが、この悪口が手抜きなのは根本的に僕の機嫌が良いからだった。
正常な男女関係においては、セックスなんかしなくても、男女である以上もともと愛し合っているということだ、それを強引にシコ交パワーで何か正常なふりに持ち込もうとするから、ますますややこしくなるのだ、セックスなんかしなくても男女というのはもともと愛し合っているのデース、ちなみにセクハラとフェミニズムの戦いは、愛し合う男女の戦いではない(当たり前)。

桑田佳祐もマイケルジャクソンも歌っているように、男女というのは条件付きで愛し合うものではない、そこの前提がまず違うのだろうな/どうもほとんどの人は、男女は或る組み合わせにおいて特定の条件が整った場合にのみ愛し合うと捉えているようだ、それではもう根本が違うので、プールにサンポールの瓶を投げ込んで管理員の人にめちゃくそ怒られてこい、男女は誰とでもセックスしていたらビョーキだが、セックスなんか関係なしに、男女なら誰でも基本的に愛し合っていないとウソだ、どうしてハズレ男とハズレ女を男女のメインパーソンに選ぶのかね、あなたの食べるアサリには全部砂が入っているのか。
男女というのは無条件でまず愛し合っているので、つまり、僕が無条件に愛しているのが女であり、僕のことを無条件で愛しているのが女だということになる、もしこの例から外れる者があったとしたら、それはシコ女・シコ男(しこめ・しこお)のたぐいだ、そういう奴はドンキでカルマ洗浄剤でも買ってくるしかない。
男女というのはまず、セックス関係なしに愛し合っており、この男女が元から愛し合っているのを国というし、また世界ともいう、国から弾き出されている男とか世界から追放を受けている男とかを観察して何になる、「ゲンナリしました」というレポートを作成すること自体アホみたいだ、そりゃ前もってゲンナリするものを調べているのだから何のレポートにもなってやしないよ。
男女というのは元々愛し合っているもので、だからこそどうしようと、互いを大切に、支え合って慈しみあうんじゃないか、その結果として、いくら男女だからって「乱暴にはできないね」ということになる、それを「性欲」とか言っている人は、いったいホントに何のことを言っているのだろう/男女は元々愛し合っているもので、そうではないパターン、つまりヨソの国の話をしないでくれ、この世界があり、何かよくわからないこの国があって、この国と世界の外側にはシコ界があるらしいが、そのシコ界隈を土台に主張を繰り返すからハチャメチャになるのだろう。

世界があって、国があって、男と女がある/世界がなけりゃシコとシコだ。

国って、国家のことじゃないよ、国家のことではないけれど、国がなけりゃ獣じゃないか、獣にクリエイティビティはなくて、ははーん、反対のアビリティがあるのだろうな/創造の反対は破壊ではないが、その説明の前にまず、ははーん視えたぞ、クリエイティビティがないのではなく、反対のアビリティを持っているのだな。
漠然と「国」と言っているけれど、この国の外側というのではない、「国」という現象と反対の現象があるのだ、国の反対、世界の反対、ノン国、ノン世界、それはひょっとして「地」のことか? われわれは慣習的に自分の場所のことを「地球」と読んでいるが……ああ今、時間と紙面が足りない、またいずれ、シコと地の話、男女の反対は地にあるのかね。

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男女関係とクリエイティビティ2

多くの人が、幼いうちからハードシコリティのオナニーを重ねてきているので、多くの人はシコリティについてソムリエじみた造詣を持っている(たとえヴァージンの女の子であってもシコリティについてはソムリエ的素養を得ている)、そしてこの造詣の深きソムリエを「満足」させることはたいへん困難で、よって「シコ交」というのも基本的に行為のあとに「不満」しか残さない。
2.シコリティというのは単純な性欲とは異なり、多岐に細分化されていくので、それぞれのシコリティが本心から適合するようにシコ交を営むのは事実上困難だ(常に何かしらの、意図的なプレイに合意し続けざるを得ず、このことは双方に負担を強い続ける)。
3.現代のわれわれは、貧困から生存本能に脅(おびや)かしを受けており、脅かしを受けた生存本能は、生殖衝動を苛烈化させるという性質がある(滅びゆく遺伝子を保存しようと本能がはたらくため)、よってシコ交への衝動も、単なる悪趣味というのではなく苛烈で暴力的な衝動に拡大される。
これら1〜3の性質が重なるため、セクシャリティを失ったわれわれのシコリティは、「シコリティに飢えた鬼」となって、血涙を流しながら、シコ交の相手を捜し求めることになる/性交からシコ交への転換はこのようにわれわれに狂気を強いていく仕組みがある。

4.現代における「セクハラ」の問題も、本質的にはセクシャルな問題ではなく、一部の男性は本当に異性をヘテロシコリアルの対象としか見ていないので、旧来の「もう、えっち!」という冗談とは性質が異なる、「シコリティに飢えた鬼」が血涙を流しながら、表面上だけ善人のふうで寄ってくることが現代のセクハラの恐怖であり、その恐怖は性というより狂気に由来する。
5.一方で女性の側も、異性をヘテロシコリアルの対象にしか見られていない実情があり、この「飢えた鬼」の女性がセクハラに対抗するフェミニズムの勢力に流入すると、唱えるべき正当性の背後に「グッドシコリティ男性を希求する」というノイズが混じりはじめる/そうなると男女は互いに水面下で「グッドシコリティが認められない」と罵り合うのみとなり、だがこの不毛の争いは餓鬼の血涙が染みて呪われた狂気の戦いとなる(呪縛が掛かるのでもう脱け出せない)。
6.かつて、「恋愛」には或る種の尊厳と聖性が認められて(信じられて)いたので、セクハラとフェミズムの周辺で闘争する精神に向けては、無自覚のうちに聖戦と高貴さを自負するようになる、その中で己がシコ交の狂気に駆られていると疑い始める者はいない、しかし実態としての闘争には狂気に由来する底深い恐怖があるので、その恐怖の所以は必ず先方にあるとみなし、双方は互いを「悪魔」のたぐいに見立てるようになる。
これら4〜6の状況が重なっているため、われわれは「男女関係」「恋愛」というと、それを甘やかなものと捉えるよりは、第一に最大の「恐怖」として捉える/特に現今の情勢下(戦況として女性のほうが前線を押し進めている)、男性にとって女性と恋愛関係や男女関係を持つことは、第一のこころとして「恐怖」だ、ロマンスなどは遠く聞かされた概念でしかなく、実際に得られる感興としては「恐怖」しかない。

恐怖から逃れるために、クリエイティビティを放棄する。

そういう仕組みがある/われわれが、己の魂からのクリエイティビティを開示しないかぎり、われわれの魂が攻撃されることはない、攻撃されないのであればしょせん恐怖は対岸のことでしかないし、あとは社会的・具体的なことはなるべく司法に守ってもらえば、われわれはついに恐怖のすべてを対岸に押しやることができる。
まったく誇張ではなく、現代の男性にとって、女性とのデートは「楽しみ」などではなく第一に「恐怖」だ、それは現代の女性にとっては男性が存在するだけで「安心」どころか「恐怖」だということに重なっている/われわれは互いにクリエイティビティを発揮すれば、互いに誰かの魂と出会うのかもしれないのだが、<<だからこそ>>クリエイティビティを放棄するのだ、恐怖を避ける最善かつ最も賢明な判断として/われわれは自分たちがそうした恐怖の世を作り出したことをこころの底で知っている。

正しく見ないとな | comments(0) |
男女関係とクリエイティビティ

験的にも疫学的にも、「男女関係が損傷するとクリエイティビティが失われる」という現象があるみたいだ。
男女関係がまともでないと、イイものは産み出されないわけだ、つまり現代がどこか薄ら寒いのは、女性のみなさんの責任ですよ!! そして男性のみなさんの責任です!!
男女関係がまともというのは、セックスの問題ではなく、むしろセックスなんかするから男女関係がメチャクチャになるというか、男女関係が壊れても動物としてのオスメスの関係は残ってしまうということを忘れないように/動物のオスメスに「クリエイティビティ」はさすがにない、何も産み出されないのにズッコンバッコンしたら精神がビョーキになるに決まっている。
まともでない男女関係に巻き込まれるか、そうでなくとも、まともでない男女関係を見せられるだけでも、クリエイティビティというのは羽を生やして飛んで逃げていってしまうのだ、そりゃ現代になってどれだけ映像技術が上がっても、「ローマの休日」をまともに撮り直せたりするわけがない、男女関係が無くなると創造への接続が断たれるようだ。

最近は、少年みたいなタイプのジャニーズが、主に中高年層の女性にウケているようだけれども、さすがにその少年ジャニーズが女性に向けて、「お嬢ちゃん、かわいくおめかしして、どこいくの」とは言わない、少年ジャニーズは美形だが石原裕次郎ではない。
男性アイドルにしても女性アイドルにしてもそうだが、現代における「理想的異性」の像は、輝ける男性・女性の姿として称えられているのではなく、ずばり言えばいわゆる「性癖」にドンピシャだから称えられているという向きが強い、向きが強いというかずばりそのままだと判断したほうがよさそうだ。
石原裕次郎は、当時の男性から見ても「かっけー」と惚れるところがあったろうが、現代で女性にウケている「イケメン」は、男性から見てあまり「かっけー」と惚れるような対象ではない、女性から見た女性アイドルもそうだと思うが/つまりセックスの妄想やオナニーのオカズとして「そそる」、性癖(逸脱した性的嗜好)をくすぐる、そういうパラメーターで男性と女性がターゲッティングされている、いわゆる「シコリティが高い」という捉え方でしか、もう異性を見ていないのだ。
それは、異性を侮辱しているというような話ではなくて、誰もそんな意志はなく、本当に根源から「え? 異性ってそういうものでしょ?」と思っているのだ、異性を侮辱しているのではなく、オスメス以外の異性、シコリティ以前の男性や女性というものがもう「無い」のだ、ガチでこんな精神構造になってしまったものが、今さらシェイクスピアのモチーフに影響づけを受けることなどできない、そこまで含めて「男女関係が損傷するとクリエイティビティが失われる」と考えることができる。

われわれは、セクシャリティをシコリティで上書きした。

男性も女性も、ふと自分がオナニーをするオカズを見て、「なぜこんな、性別としてブッ壊れたものを、自分はオカズにしているのだろう」と、自分のことが薄ら寒く思えるときがあるはずだ、それはすでに己という個体が、男性・女性というセクシャリティの世界には住んでおらず、それとはまったく別のシコリティの世界に住んでいるということだ/一部にはLGBTの関連で、この破損が背後にある人もいるかもしれない、よもや自分でセクシャリティのこじれだと思っていたものが、シコリティのこじれだとは発想しないものだ、現代では異性愛(ヘテロセクシャル)者も、実際にはそうではなく「ヘテロシコリアル」にすぎないというケースが多い。
われわれにとって現在、何にシコれるかというシコリティはセンシティブな問題だが、セクシャリティというのは基本的にもう無い、「無い」と考えるのがあるていど妥当だ、われわれがセクシャリティを自認するのは、われわれがたとえば愛国心を自認するぐらい無理がある、もうそのことはいいだろう/別にわれわれが「男と女」ではなくなって「シコとシコ」になったとしても、何が悪いわけでもないし、誰が困るわけでもないのだが、そのことによってクリエイティビティの全般が根絶されるという性質が窺われるのだ、それはまずい、それはつまり「シコとシコ」の世界に首を突っ込んでいても、永遠に一ミリも面白くないということで、これはゆゆしき問題なのだった、もちろん解決の方法は今のところまったくない。

正しく見ないとな | comments(0) |
寂(じゃく)

の協力と幸運とおれさまの偉大さが重なって、ナイスな発見をしたのだが、僕は丸の内の総合商社に勤めていたときに、一度修羅道に踏み込んでいるということが知られた/そのときに、一部修羅道の因果を引き込んでしまったのだ、修羅道の因果は「有」「生」となる。
まあ、何しろこういう性分なので、一旦やるとなったら極端にやるところがあり、当時の僕は完全に鬼というか、修羅の発想に振り切れていた、仕事中は人間など「納期を守るためのマシーン」でしかないと思っていた/今でも純粋に「業務」を仕事と言い張りたいなら、それ以外のことは考えるべきではないと思う、納期と入金を前にして人間など存在しない。
修羅道とはそういうもので、納期さえ守ればテメーのことなんか知るかよ、うつ病にでもガンにでも勝手になってろ、ただし納期は遅れるなよ、というのが一般的に言われている「仕事」のルールだ/別に自宅で首を吊ってもかまわないが納期は遅れるな、そして入金は金額を間違うなよ、「ビルから飛び降りるのはいいけどちゃんと引き継ぎはしたの?」という、ある意味わかりやすいルールがあって、現在の僕はこれを「仕事」とは思っていない、これはただの「業務」だ。
こんな業務に人のよろこびなんかあるわけがないので、というか人のよろこびより納期と入金だけが重要なのであって、そもそも業務に人のよろこびを探す奴の頭がおかしい、というのが当時の僕の文脈だった/納期と入金に遅滞ない奴だけが生き残ればいいのであって、あとはなるべく早く多くのカネを吸い上げた奴が勝ち、それ以外に何もないというのが、少なくとも当時の「業務」のルールだった、今でも「業務」というのはそういうものだと思う、今ではブラック企業という言い方もされるが、当時の僕だと「黒とか白とか、その色と納期に何の関係があるの? とりあえず納期にキャッチアップしてくれる?」と首をかしげていただろう。

今でもやはり、業務というのは原則そのようなものだと思うので、もし学校で強力な「社会人」を育てたいのであれば、納期と入金以外のことは何もしないよう教えるべきだと思う、家族とか夢とか自己実現とか、そんなゴミを入力するからややこしくなる、「納期と入金以外のことを口走る奴は退学にしろ」という教育が、あくまで原理主義的に「業務」「社会人」においては正しいと思う。
輪廻図に示されている六道や十二因果とはそういうもので、「因果」というのは、その道に入り込んでいくと、もうそのことしか見えなくなるということだ、真剣なヤク中というのはもう麻薬のことしか考えられないように(地獄道の「蝕」「受」因果)、真剣な社会人というのはもう納期と入金のことしか考えられない、それ以外のことを視ているような奴は、はっきりいってただの邪魔だ、業務の邪魔/これは誇張ではなく、いわゆる「社会人」になるように言い立てられた人は、そういう道を往かされるのだと前もって覚悟しておいたほうがよいと思う(それでも修羅道はいわゆる「悪趣」ではない)。
仏教説というか古代インド哲学の説では、人は煩悩によって六道を輪廻し、それぞれの道における「因果」のものが、「見えてしまう(消せない)」ということ、そしてその因果が「見えてしまう」ことによって、本来の視えるべきものが見えなくなるというか、「そのせいでずーっと見えないんですけどね」というのが続くというのが、人の本質だと捉えている/僕の場合でいうと、一時期に修羅道に踏み込んでしまっているので、だからこそ神戸の街と目黒の街の視え方が違うのだ。
まあ視え方の違いは、僕自身だけでなく、そこで暮らす人々の違いや、時代全体の違いもあるけれども……何にせよ、もうネタは割れたので、こうなるともう学門のほうが強い、正しく究明の手続きを経た学門は、本当に容赦なく蒙を啓いてくれる上に、思いがけず短期間でバッサリいってくれるからいつも安心できる、これはもう「学門の勝ち」なのだ。

仏教説によると「有る」と見えるのはアホのせいであり(修羅道)、「無」と見えるのもまたアホのせい(天道)だそうだ。

確かにしょーもない煩悩がなければ、「有る」「無」とを分離して捉えるとかいう、ヒマかつセンスがないようなことはしないわな/体験から確かめられるしょーもない僕の勝手な説によると、「有る」というアホの見え方が失せ、正しく視えることを「寂(じゃく)」という、僕にとって神戸は寂であり目黒は寂でないので、それが僕自身「社会人」という経験で引き込んだ因果によって蒙昧になったということの証拠になる。
正しく究明の手続きを経た学門というのは、本当にクリティカルなもので、僕はもう「寂」の一言で、引き込んだ修羅道の因果を打ち消すことができる、これを「消滅」させるにはもうちょっと時間が掛かるが……しかしネタが割れてしまえばあとはアッサリしたものだ、僕はふたたびこの街を「寂」の中に歩くことができる。

正しく見ないとな | comments(0) |
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 1/9更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第四十六回】1月11日(金)19時〜@マイレッスン三軒茶屋スタジオ
【第四十七回】
1月12日(土)19時〜@マイレッスン三軒茶屋スタジオ
【第四十八回】
1月18日(金)19時〜@マイレッスン三軒茶屋スタジオ
【第四十九回】
1月19日(土)19時〜@マイレッスン三軒茶屋スタジオ

【第五十回】1月25日(金)19時〜@マイレッスン三軒茶屋スタジオ
【パーティ】
1月26日(土)19時〜@原宿竹下口Bar CLIMB


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期はスタジオを使用します、随時ブログ記事でご連絡いたします)
(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第88回】1月26日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第89回】
2月16日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


謹賀新年
諦観風情はプルトニウム飲んでこいゴルァ〜



みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

(ワークショップの各カリキュラムは以下続きをご参照ください)

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そのほか | comments(0) |
地方で暮らす若い女性へ2/「スタンダード」ということ

「簿記3級がすべての入口になる」(日商簿記)と言われて、「そういうものか」と応じ、ササッと手続きして、ササッと勉強してこの春のうちにも合格してしまえる人は、基本的にどうとでもなります/それは努力や知能の問題というより、精神の中に「スタンダード」を捉える機構があるからです。
なぜ「スタンダード」が要るかというと、「中央」には色んな人が来るからです、入れ替わり立ち替わり、さまざまな人が来るので、「スタンダード」が設定されていないと、まともにコミュニケーションやコンセンサスを得ることができません/この「スタンダード」を捉える機構がある人は、中央という以前に「色んな人」とコミュニケーションを取ることができます、だからこそ中央に進出するのに向いているのです。
一方、「地方」においては、色んな人が入れ替わり立ち替わりに来るということはなく、いつも同じ人たちが長いあいだいることになるので、ことさら「スタンダード」を設定する必要がありません、長いあいだ掛かってその土地に根づいた「慣習」のほうが重要になります/「地方」においては、むしろこの慣習に逆らってスタンダードを主張するほうが邪道と扱われ、疎まれることになります、地方には常に「スタンダードより重いものがある」と捉えておくべきでしょう。
たとえば、大阪の堺市には、「13号線」という言い方があり、これはなぜか "府道30号線" のことを指します、これはローカルの慣習であり、法的に知事が決めたものとは異なりますし、国土地理院の地図表示とも勿論異なります、これにより、外部から来た人は大いに困りますが、基本的に外部から人が来ることを想定はしていないので、これでかまわないのです、それよりスタンダードだからといって言い方を変えられるほうが地域の人々にとって「困る」という実情があります/ここで、「13号は13号でしょ」と捉える人は、中央向きではなく、「いいかげんスタンダードに基づいて呼称しろよ」と捉える人が中央向きになります。

昔、有名になった裁判で、「おっとい嫁じょ」という事件があります、ある男性が、片恋慕した女性を強姦して婚姻しようとした事件なのですが、この事件について弁護士は、当の強姦犯を「無罪」と主張したのです、つまりそのような誘拐婚の「手続き」が、その地域には古くからあったらしく、当の犯行はその慣習に則ったものにすぎないので、犯罪ではないのだという主張です、その点で地域住民からの情状酌量を求める嘆願署名も集まりました/昭和34年のことですから、そんな大昔のことではありません、そしてこうした誘拐婚のような形は、今でも世界のあちこちで「慣習」として残っています、地方には常に「スタンダードより重いもの」があるわけです。
むろん、何が「スタンダード」であるかといって、すべてのことがスタンダードで収まるわけではありません、むしろその点では、地方に保存される「慣習」のほうが、強制性は高くあるのですが、とにかく中央においては、スタンダードを第一の土台とし、そこから先に、その場で新たに作り出される・新しく認めてゆかれるものを模索し、創り出していきます/中央においては「スタンダードがスタート地点」と捉えられているのに対し、地方においては「慣習が初めからゴール」と捉えられていると考えてください、これはどちらがよいとか悪いとかの問題ではなく、ただそうした性質・性向の違いがあります。
簿記3級に向けて勉強すると、現在の世の中のすべての企業が、個人事業主から税務署まで、すべてこのスタンダードルールで駆動しているのだということがわかるようになります/それだけに、そのスタンダードルールが、「しっくりこない」「気にくわない」と感じる人も出てきます、それは己の魂の向きを知るよいチャンスでもあります。
「仕入れ」「売り上げ」「従業員」「借入金」ということを見たとき、それをスタンダードルールで正確に見たいという人と、そうではなく、自分の中にあるイメージ、根づいた「慣習」で見たいという人に分かれるのです、それは目の前の道路のことを、「13号線」と見たいか「30号線」と見たいかの違いと同じです/スタンダードルールにしっくりこないという人は、どう粘ってもやがて「慣習」に連れて行かれることになります、それは善し悪しの問題ではなく、あなた自身にとって本意か不本意かということの問題になります。

簿記3級なんか、商業高校の生徒でさえ持っている。

これもつまり、「スタンダード」です、東京にも勿論ローカルはあって、東京ローカルでは簿記だの売り上げだの減価償却だのは「てやんでえ」と捉えられるのですが、これはやはりアンチスタンダードの「地方」の発想であり、中央の発想だと、「高校生でも理解しているものを、いいかげんあなたも学んだら?」ということになります/「地方」では、常にスタンダードより重いものがありますから、やはりいつまでも「てやんでえ」になります、中央向きと地方向きが反転しないかぎり、この「どちらが偉いか」は逆転しません。
何はともあれ、高校生も「高卒」というスタンダードに向けて、教育を受けていますから、商業高校卒なら「簿記ぐらい持っているでしょ」というのがスタンダードだとされているわけです/簿記3級はそのとおり、進学校でもない高校の生徒が取得できるものですから、内容としてはそこまでむつかしくありません、そこであなたが向き合うのは、知能の問題ではなく「スタンダード」に正面を向くか、それとも背を向けるかという、己の魂の方向性です。

できるオンナだね | comments(0) |
地方で暮らす若い女性へ
「地方」というのは「中央」の対義語で、「地方」そのものが侮蔑の意味を持ってはいません、このことは市場の人に訊くか、もしくは「中央卸売市場」と「地方卸売市場」の違いを検索してください。
日本において(日本に限りませんが)、地方で暮らす人が、中央に移り住むことはきわめて困難です、特に日本には、かつての封建主義や幕藩体制の思想がありますから、地方の人は地方を脱出できません、まして女性が脱出するというのは、退嬰的な文化環境において「ありえない」というぐらいむつかしいことです。
地方で暮らす若い女性が、「中央」への進出をもくろむなら、第一に中央の国立大学に進学することです(中央とは必ずしも東京のみを指しません)、そして最善は、霞ヶ関の省庁に勤めるか、NHKの局員になること、そうでなければ上場企業に勤めることです、これによって人は地方から中央へと進出できます。
あくまでそれが、最善で強靱なルートですが、必ずしもそのルートに乗れない場合もありますし、またすでに「乗れなかった」と完了形になっている場合もあります、その場合はどうしたらよいかというと、第一に「簿記3級」のことを考えてください(日商簿記)、簿記3級はほとんどの人が独学で取得しますし、受験費用も三千円ぐらいしか掛かりません/これが全ての入口になります。

簿記3級に向けて、試験勉強をし、一日の勉強で合格できたら、あなたは一般よりケタはずれに頭がいいです、これが三日で合格できたとしても、十分に「頭がいい」と認識してかまいません、これが一週間で合格できたとしても、いつもの仲間内では「頭がいい」の範疇に入るでしょう、これが一ヶ月かかると、頭のていどはごく普通だと判断したほうがよさそうです(もちろんおバカさんのたぐいではありません)。
合格するのに、三ヶ月の勉強を要したとすると、これは冷静に、これまでのすべての時間が「勉強不足」で来たのだと自覚せねばなりません、集中力を養わねば人に劣り続けると覚悟しましょう、そして六ヶ月の勉強を要し、あるいは六ヶ月掛けても合格できなかったという場合は、これは精神的に暗雲を抱えていると捉えてください、この場合「尊ぶべきを尊ばず、敬うべきを敬うということを知らない」というのがほとんどです、これは精神と脳みそがそもそも何かを「学べる」という状態にありません。
こうして、簿記3級を取得して、その体験を手がかりに、世の中には「会計士」や「税理士」、「行政書士」や「社会福祉士」といった士業があるのだということを知ってください、合わせて「看護師」や「専門調理師」や「管理栄養士」という職業があることも知りましょう、初めて取り組むと多くの人は簿記3級でもそれなりに苦労すると思いますので、その苦労を元に、それぞれの資格を取得するには「そうとうな苦労がある」ということを肌身で察せるようになってください。
今、多くの若い女性が、どこかで「アイドルになりたい」という空想を抱えていますが、この空想の多くは、実は背後に「地方を出て、中央に進出したい」という願望を抱えています、ですが中央に進出しようとするのに、「アイドルになる!」とのみ発想するのはあまりにも短絡です/中央で「通用する」、あるいは中央から「オファーが掛かる」というのはどういうことなのか、正しく理解してプランを練ってください、世界中どこの中央でも簿記3級が要らないという場所はありません。

1.中央の大学から中央の企業へ就職する、2.中央でも通用する士業を得る、3.中央でも通用する芸術・文化の「先生」になる、4.自己資金と金融知識を得て起業する、5.アイドル・スターになる。

地方から中央へ進出する方法は、だいたいその五つになります/あなたは「デンソー」という企業をご存じでしょうか、「宅建」という資格をご存じでしょうか、あなたは明日から急に何かのインストラクターを始められるでしょうか、あなたは「国金」をご存じでしょうか、そのどれもに心当たりがないのだとすると、あなたの知識は「地方」に閉じ込められすぎです、そのままやけくそのようにアイドル・スターの空想だけを膨らませて爆発しようとするのでは、あなたが無責任すぎます、またそうしたやけくその少女を拾い上げて搾り取るだけの業者のシステムも抜け目なく中央には張り巡らされています。
あなたはなんとなく、街中のオシャレなエリアでセレクトショップや雑貨屋をやりたいというような夢を持っているかもしれませんが、簿記3級にも苦戦する人が憧れだけで店舗を構えるというのは夢物語すぎ、そのまま突撃すると人生をただ損なうというリスクが大きすぎます、路地裏のスナックとは床面積も坪単価も違うのです/ここに並べた五つの方法は、中央では「このとおりだね」と見えるものですが、地方では「わけがわからない」と腹を立てられるものです、よってここで腹が立つような具合だと、あなた自身が中央の文脈に噛み合わない人だということになります、そのときは実はあなた自身が中央に対して「アンチ」の気質の人なのです。
できるオンナだね | comments(0) |
25

んとなく、今年の目標として、ワークショップの濃厚メンバーを25人にまで拡大、というのはどうだろうか。
もちろんその数字に意味はないので、なんとなくでしかないのだが、そもそも目標ってなんとなく決めません? 濃厚メンバーが25人になったら夢があるなあ(なんとなく、僕は「常連」という言葉を使いたくないので使わない)。
現在のメンバーでも、連れ立って歩くとなかなかの迫力なのに、25人になったらすっかりナゾの勢力になれるぜ笑、そういう冗談みたいな状況に、あなたも参加しませんか? しねーよな普通……まあいいや、とにかく今年の目標のひとつとして、25という数字をブッこんでみることにした。
別にいいのではないだろうか、スポーツをする人なら25km完走とか、懸垂25回とか、悪いことをする人は悪いこと25回とか、25箇所の温泉に行くとか、目標なんてそんなもんでいいだろう、マジメな人は25分前に出勤して、仕事に掛かる時間を25%削減したらいい、つまり25という数字は魔法の数字ではなくて、ただの数字だ(ただの数字で十分でしょう)。

急に自己啓発的なノリになってしまうけれども、目標というのは、数字で決めるのがいいのだ。
何しろ数字というものには根拠がない、そして目標というのも、もともと根拠がないものなので、目標と数字はとても相性がいいのだ、目標は数字化されているのがよく、逆にいうと、目標は数字化以外の何かにしないほうがいい。
今年は東京に進出だ、と考えている人は、あえて強引に、「東京タワーの下で三分間深呼吸をする」という目標に切り替えたほうがいい、その深呼吸が、二分ではだめだし、五分でもだめだ、きっちり三分間というのがいい、そうすると何の意味も根拠もなくて、だからこそそれが「目標」なのだと明確に捉えることができる。
あなたは僕にセクシー自撮りつきのラブレターを送るべきだが、あなたがそれをなかなか送ってこないのは、それを25通送るという目標を立てていないからだ、そんなところで停滞していると塗り立てのマニキュアに必ずホコリが入るという呪いが掛かるので、さっさと目標を決めてどんどん前へ進んでゆきましょう。

あなたに必要なのは、乗り越えることではなく、25回乗り越えることだ。

やる気のある人は、年内に25回の失敗をノートにつけよう、さらにやる気のある人は、毎月25回の失敗をノートにつけるのだ、<<目標に限ってはカミサマはカンケーねえよ>>、目標は人の力だ、たまには人としてまともなところを見せたら。
あなたは、人に頭を下げるのがニガテかもしれないが、それは人に頭を25回下げるということを考えていないからだ、むつかしい本を読むなんて何の足しにもならないだろう、だがその本を25回繰り返して読むならあなたの中でそれは「読んだ」ということになる、これは人の力なので本来は若い人の領分です。

できるオンナだね | comments(0) |
すべての歌と言葉と物語

ったく残念なことに、すべての歌と言葉と物語は、「にょんにょんにょん〜」が正体らしい、まったく冗談みたいなのだが、学究の結果そのことが証されたのだからしょうがない。
何か、もうちょっとこう、ドラマティックで感動的なものであってほしかったのだが、ピタッと嵌まるのはこの「にょんにょんにょん〜」しかないので、しゃーない、カミサマは冗談だと自分で指摘したのだが、何かこう、思い入れとしてがっくりくるものがあるな……
しかしもちろん、にょんにょん側が悪いのではなくて、そういったものが降り注いでいるのに、花を咲かせないわれわれのほうが悪い/すべては花の観察者が、降り注ぐものを知らずに花だけ見て高説を垂れたのが誤りの根源だ、花についての弁論は降り注ぐものについての視点がまったくなかった。
花というのは、タネがド突きあいをして、思念と願望の結果、咲くものではない、花はなんでか知らんがいつのまにか咲いとるのだ、その作用の根源を聞きとるなら「にょんにょんにょん〜」だが、こんなことを言っていてはまるでUFOを呼びだそうとする電波おじさんみたいでやる気がなくなるのだった。

今このときもそうなのだが、われわれが自分の意識で何かを「やる」とか「始める」とかいうことは、基本的にナイのだ、自分の意識で何かを始めようとするのは、そりゃ元のにょん(略)から切り離されているからにすぎない/それは「自分」というのではなく「自我が元の何かから分離されてしまったヤツ」でしかない、もっとにょんにょんしろ。
ダメだ、こんな説明をしたって、これでは世の中に勘違いにょんにょんを増やすだけだ、勘違いにょんにょんなどもちろんガソリンスタンドのアルバイトも務まらない不思議電波の役立たずだ/正月には正月らしいことをやはりするべきなのだが、「なぜ正月らしいことをするか」という思念が湧いた時点でもう負けなのだ、元のものとつながっていたらそんな余計な思念は湧いてこない。
このところ僕は、まるで人のことを完全に無視しているかのごとくだが、そうではないのだ、もう僕一人ぐらい、別の原理で機能している実物として存在していないと、このパターンが世の中に皆無になってしまう/もちろん僕の言っていることは、常識的にはタワケの限界突破みたいなブツだが、それにしては「なぜコイツの歌と言葉と物語はこんなに上手いんだ?」というナゾが残るだろう、僕自身そのナゾを追いかけた者なのでこんなことになってしまうのはしゃーない。
僕はまるで人のことを無視しているみたいだが、そうではない、僕はたしかにあなたのことを無視しているが、あなたのことを無視していないナゾの何かのことを、僕が無視していないので、こんなことになるのだ/つまり、僕があなたを気に掛けたって、けっきょくあなたを豊かにするのに最善ではないということが知られているのだ、僕があなたに仕掛けられる最善は、あなたが無視している、そして向こうはあなたを無視してはいない、何かよくわからないにょん(略)と、あなたを接続することだ、あなたがあなたの物語を上手くなる以外にあなたが豊かになる方法なんてありっこないんだから。

あなたの自分(我)をブッ壊して、あなたのにょん(主)と接続したら、ようやくあなたはあなたになる。

ここ十数年、降り注いでくるものに比較して、われわれの証した成績はガッタガタだぞ! おれの言っていることがわからん奴は、壇上に立たせて「わたしの物語」を話すという刑罰に処す、その刑罰に処されたら、いかに自分の「物語」が破綻と偽装に満ちているかがわかるだろう、まさかオメェ、お茶の間向けにウケがいいように加工された姑息的物語を言うんじゃねえだろうな、聞いたところ三十分後にはキレーに忘れ去られるものをよ、それを物語とは言わんぜ。
われわれはけっきょく、歌と言葉と物語そのものにならねばならないが、自我が歌と言葉と物語になりきるなんてことになっては、そりゃイタさ爆発というものだぜ、己の主が歌と言葉と物語そのものにならねばならないが、それを言うなら己の主というのはもともとが歌であり言葉であり物語なのだから、そこに人為的な細工はしなくてよいのだ、鹿が鹿のフリをすることはあるめえよ、にょん(略)は元からにょん(略)なのだから、それか歌や言葉や物語のフリをすることはない/なんだこれという話だが、なんだこれというならあなたは何を手がかりにこのわけのわからん話を聞きとっているんだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
「中央」と「地方」、魂の向かうベクトル
は割と多くの人に頼られているし、多くの人に利用されている(というよりはご利用いただいている)のだが、その過程で単純に「九折さんサイコー」となる人もあれば、ある意味ド定番として、僕のことを「こづく」ことが決してやめられないというケースが出現する。
そして、この「こづく」というケースを集計してみると、なぜだろう、あまりにも有為な割合で、「地方出身者は僕をこづく」というパターンが認められるのだ/もちろんこのことは百パーセントではないが、九十数パーセントには達しており、ほとんど百パーセントに近いとみなさねばならない。
僕は、なぜか気づいてしまったのだが、この世界の仕組みには「中央」と「地方」があって(市場と同じだ)、人それぞれに、魂の向かう方が「中央」に向かう人と「地方」に向かう人があるようだ、なぜそんな二種に分かたれるのかはよくわからないし、その理由にあまり興味はない。
今知られているのは、地方出身者が僕を「こづく」ということなのだが、正確にいうと、魂が「地方」に向かう人は、僕のことを「こづく」のであり、魂が「中央」へ向かう人は、僕をこづいたりはしない、ふつうに「九折さんサイコー」といって遊んでくれるということだ/この法則はびっくりするぐらい普遍的に当てはまる、この世界には「中央」と「地方」という仕組みがあって、そのことはわれわれの魂の向かう先と深く関連しているのだ。

魂が向かう先について、このような質問を出すと、割とタイプが判別できる/「年越し」をするときは、1.それぞれが地元でしめやかに過ごすべき、2.全員がタイムズスクウェアに集まってドカーンといくべき、この二つのうちどちらを真実と感じるだろうか。
いわずもがな、2を選ぶ人は魂が「中央」に向かっており、1を選ぶ人は魂が「地方」に向かっている/まあ、ざっくりとしたテストでしかないが、少なくとも「タイムズスクウェアに集まってドカーン」と唄うような演歌はない。
もちろん、1も2も、どちらが正しいというわけではなくて、どちらもある程度正しいだろというたぐいなのだが、中には頑強に1だけを主張する人もいる、そういう人は2のことが本当に一ミリもわからないという人だ/いわゆる「ハレの日」というものがあったとして、ハレの日は「地方」に向かうべきだろうか、それとも「中央」に向かうべきだろうか? そこで地方に向かう魂の人は、僕のことを「こづく」という法則がある(それが悪いとか間違っているとかいう話ではない)。
そもそも、われわれは誰しも「発展」しながら生きようとしているのだが、その「発展」というものの元型が、「発展といえば中央が発展するでしょ」と捉えられている人と、「発展といえば地方が発展するでしょ」と捉えられている人がいるのだ/たとえば、四国で生産した特別なトマトが、赤坂の料亭で消費されているとしたら、それをもって1.「だから本当は地方のほうが偉い、中央なんて実力のないウソの集まり」と捉えるか、2.「中央を栄えさせるために、われわれ地方が頑張るんじゃないか」と捉えるかだ、これはどちらが正しいという話ではなく、人それぞれの魂の向かうベクトルを示している。

「中央」と「地方」の関係は、「精神(中央)」と「身体(地方)」の関係に重なっている。

ある人は、1.地方のために、中央が頑張らないといけない、と捉えるだろうし、ある人は、2.中央のために、地方が頑張るのだ、と捉えるだろう、それと同じように、1.健康で豊かに長生きするために、精神が頑張る必要がある、と捉える人と、2.精神が高みに到達するために、己が身が力を尽くす必要がある、と捉える人がある/「中央」と「地方」の基本感覚は、このように人それぞれの「精神」と「身体」の基本感覚に重なっているのだ。
心身の構造上、精神が「中央」であり、身体がそれぞれの「地方」に当たる、この中央と地方を見て、どちらが主でありどちらが従であるかについて、人それぞれの基本感覚があるのだ、その基本感覚の対極は、魂がどちらを向いているかで分かたれている。
正しく見ないとな | comments(0) |
死への恐怖と、縛りプレイ

の年末年始に僕が知ったことは、すべての一般的なものが、実は単一の「死への恐怖」から生じているということだった。
われわれは、ジャンケンに勝ってさえよろこぶ、「なぜ?」と言われたらわからない、幼児でさえ「勝つ」ことによろこぶ/ルールが解せるものなら、ムカデだってジャンケンに勝てばよろこぶだろう。
タクシーの運転手は、死への恐怖から生じている、アダルトビデオの喘ぎ声も、死への恐怖から生じている、そのことがはっきりと視えるようになった、これで僕の積年の、しょうもないナゾもひとつ解けた。
積年のしょうもないナゾというのは、タクシーの運転手さんが軽く話しかけてきてくれるところに、僕が陽気に話を重ねると、運転手さんがピタリと話し止んでしまうことだった、これは長いあいだ「なぜ?」と不思議だった/そこに僕は、意図的に死への恐怖を(声に)盛り込んでみた、すると運転手さんはスルスル話すようになった、このことで積年の疑問は氷解した。

逆に、僕が能動的に話し、唄い、動き、飲食すると、周囲の人々は、急に解放されたように動き始めることになる、このことの現象もより正確に視えた。
僕が何かしらの声・言葉を発すると、周囲の人々は、一時的に「死への恐怖」から離脱できるのだ、それでそれぞれに、「何かわたしはイケているかもしれない」という錯覚を起こしてノリ始める、僕がこれまで何千回と見てきたのはこの現象だった。
僕はもう、話すことや、言葉を発すること、唄うこと、動くこと、飲食すること、その他のことを、見せ続けねばならず、やり続けねばならず、はたらき続けねばならないということがよくわかった、もう僕がそれを止(と)めたら、誰も呼吸できなくなるからだ、もう実情として僕がしぶったり見物に回ったりしている余裕はない/最善を尽くすしかないのだ、「死への恐怖」から離脱した一瞬だけでも人々が得られるように。
それにしても、それで一時的な解放を得た人々は、「何かわたしはイケているかもしれない」とノッてくるわけで、ノッてくると必然、自分のほうが偉いと思っているものだから、たいてい僕のことを「こづく」のだが、これは大丈夫なんですかね……僕はこづかれながらも、もう「解放」への最善を続けるしかないのだが、こづかれながらそれをするのは数十倍も大変で、それでもすでに僕は「最善縛り」というような縛りプレイをやらされている状況なので、どうしようもないのだが、最後までこの「こづかれる」ままでいいのだろうが、たぶん僕は大丈夫なのだが、全体としてこれで大丈夫なのかどうかはよくわからない(おれにはどうにもできねー)。

意味不明だと思うが/「死への恐怖」が支配者で、「死」そのものは味方だ。

もしわれわれが、努力と慎重さによって「永遠に生きられるチャンス」を持ち得たとしたら、われわれの生はもっと悲惨だ、われわれはひたすら自分の保護と遺伝子コピーの繁栄にのみ血道をあげることになってしまう/死が約束されているから(および、地球上の生命といっても百億年後には全部カラっぽでしょと約束されているから)、われわれは死への恐怖にあるていど区切りをつけることができる、だから死そのものは実は味方だ。
それはいいとして、とにかく仕組みは視えた、僕のことをふんだんに利用しながら、その利用者は利用したぶんだけ僕を「こづく」のだ、それは得られた解放の中で先方のほうが「偉い」からだ、偉いものが卑しいものをこづくのはしょうがない、それは一般的には理不尽に類することだろうが、つまり一般的でない僕が悪いという卑近な結論に落ち着くようだ、何にせよ僕は最善縛りという特殊プレイを強いられているような状況なので、常に「こづかれながらやる」というのを大前提にしなければならないようだ、唯一それで「大丈夫なのかね」という不安だけがほんのり残っている。

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