☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
マンスプレイニングとオカマ重用説2

は、生きていく中でどうしても、誰か「先生」「師匠」を見つける必要があるというか、少なくとも私淑するというところの、 "my lord" を見つけねばならないのだ、そうでないと本当にすべてのことをgoogleと匿名の「レス」から教わるしかなくなってしまう(それもそんなに悪いことではないのかもしれないが)。
そこで、マンスプレイニングの問題から、男性に教わるのは不可能だとして、新たにオカマを "my lord" に奉るということ、このことが真剣に検討されるべきなのだ。
つまり、仁義礼智信と作法とこころを教えてくれる "my lord" を、堂々と「マツコ・デラックスさん」だと掲げればいいのではないかということ、これはまったくリアルな話であって、思考実験として言っているのではない。
実際、今世界中のどの男性が、十六歳の女の子に向かって、「若いうちは勉強しなさい」と話したって、何の意味もなく、本当にただのセクハラにしかならないだろう、軽度であれ慰謝料が発生する/それに比べたらマツコ・デラックスさんが、「あんたねえ、若いうちにねぇ、絶対勉強しときなさいよ、そうでないとあなたが後悔するんだから」と言ったほうが、何万倍も純粋な効果がある。

以前も話したが、もう現代は、男性はダメなのだ、男性は男性であるというだけで、存在そのものがストレスになってしまう/いろいろフェミニズムの方面が声高に正論を唱えているが、本当の心情を言えば「世界中の男性が死滅というか、消滅してほしい」というのが本当の願いだと思う、それはどうしようもなく、切実な願いなのだ、それだけが己が命の恢復なのだと言ってもいい。
その願いは、なんとなくわかるのだ、何しろ僕も男性なので、逆にわかるのだが、きょうび男性は、自分が男性であるというだけでけっこうなストレスなのだ、今や誰でもオカマになれる才能があればよろこんでオカマになるべきだと思う、そうすれば誰も傷つかずに済むし有為に生きられる。
だが、オカマになれるというのもやはり一つの才能であって、ひとつの「選ばれし者」だから、誰でもがそうなれるわけではないのだ、少なくとも僕は自分が九折デラックスになれる気はまったくしていない、かつての石原裕次郎も裕次郎デラックスにはなれなかっただろう。
さしあたり、どうしようもない現実としては、オカマでない男に何かを「説明」されると、深刻に耐えがたい不快と、猛烈に許しがたいセクハラ感が湧き上がるのだが、これについてはしょうがないのだ、ストレスがあるのは大変申し訳ないが、「そうか、この男には、オカマになれる才能がないのだ」「才能がないのはお気の毒ね」と見てやることで、少しはストレスも軟化するのではないだろうか。

若い男性は、マネジメントを学ぶのではなく、オカマの精神を学ぶべきだ。

年齢と共に、何かを牽引し、下に何かを説明しなくてはならない立場になると、もうオカマの才能がなくては何も機能できなくなるのだ/どれだけブーブー言う怠惰な新入社員がいたって、「あなたねえ」とオカマが説教すれば一発なのだ、リアルな話この先は、ゼネラリスト向けにオカマ精神のワークショップが活性化していっても何もおかしくはない。
現代の男性は、本当に自制が利かないレベルで、アニメやアイドル、ソーシャルゲーム、そしてオナニーにのめりこんでいるところがあると思うが、それを「ヤバイ」と感じて自制しても、仕組みが違うのでけっきょく自制は利かないだろう/それらのヤバさは、自分がオカマになった途端にスッとすべて消えていく、そのことをいざというときのために覚えておいたらいい、自分がオカマになると決めた瞬間、男性の抱えているストレスは蒸発してどこかへ飛んでいってくれるだろう、それは現代社会のメカニズムなのだ。

視点変えてこ | comments(0) |
マンスプレイニングとオカマ重用説
ういえば、女性に何かを説明しようとは思わない。
男性に対しても、あまり思わないが……
同じように感じる人は多いらしく、このごろはそれを、マンスプレイニング(Man + explaining)といい、重大なセクハラのひとつに数えるのだそうだ。
男性が女性に対し、エラソーに物事を説明したり教えたり(explaining)することは、重大なセクハラとして許されない、なんとなく僕もそういう空気を同感しているので、僕は基本的に、女性に対しては何も説明しないのだった/ただしごく一部の例外は除いてだけどね。

秋口の富山や能登半島で何を食べたらいいとか、目の前に並べられたボトラーズのスコッチがそれぞれどういう期待のものであるかとか、カイハンセンが実は何のことを歌っていたかとか、どの営為にどう霊魂が関わっているかとか、そういうことを、いつのまにか女性に説明する気はまったくなくなってしまった。
僕は一応、浄土真宗本願寺派の僧侶資格を持っているのだが、それでも、それぞれの寺院に奉られている仏像が何であるかとか、無量寿経と観無量寿経と阿弥陀経が何を伝えているかとか、阿弥陀如来はかつて法蔵菩薩だったとか、そういうことを、やはり説明しようという気にはならない。
なぜ説明する気になれないかというと、セクハラになるというのもそうだが、それ以前に、何も説明しないでも、もう "全部知っています" という顔に見えるので、説明はしないのだった/まあ実際、僕が説明しないでも、すべてのことはgoogleが説明してくれるのだから、僕がしゃしゃり出る必要性は完全に消え去ったといえる、たとえ五歳児でもスマートホンを持った時点で大人からの説明は不要だろう。
そういえば先日、プロのダンサー(男性)が、僕のところに「歌い方」「声の出し方」を習いにきて、こいつは素直な奴だから、やり方が機能して「わーい」となって一晩中よろこんで歌っていたのだが笑、もし僕が十六歳の女の子に「歌い方」「声の出し方」を説明したとしても、絶対にまともに聞いてくれないと思う、マンスプレイニングにしかならないからだ、そのあたりがこの現代のリアルなところだと思う。

もし僕が女性だったら、現在の何十倍も「説明」しただろう。

このテーマは、これまでに何度も出てきたのだ、「九折さんが女性だったらなあ」という説、「そうしたらみんなもっと素直についていけたのに」と/あと、方法論としては九折さんがオカマになるという道筋も残されているのだが、この決定的に有効な方法は、当人にその気がないのでダメなのだった、そこまでして説明すべきようなことは別にないしな。
マンスプレイニングの問題を打破するのに、有効な方策は、第一にすべての説明は女性が担うこと、第二には、すべての説明をオカマが担うことだ/ホモが担ってはどうか? という発想もあるのだが、ホモの場合マンスプレイニングに当たらないのかどうか、僕には知識も感覚もないのでよくわからない、さしあたりホモはよくわからないが、オカマを重用するというのは具体的に有効な策だ。
視点変えてこ | comments(0) |
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 9/25更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第二十五回】9月28日(金)19時〜@世田谷公園
【第二十六回】9月29日(土)19時〜@世田谷公園
【第二十七回】
10月5日(金)19時〜@世田谷公園

【第二十八回】10月6日(土)19時〜@世田谷公園
(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(基本的には雨天延期です、随時ご連絡いたします)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)

→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第85回】10月20日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第84回】
11月17日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


愛と速さと集中力
どれも学ばないと身につかないものでごわす


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

(ワークショップの各カリキュラムは以下続きをご参照ください)

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そのほか | comments(0) |
世界とHEROES2
ーローに会いたい、ヒーローが枯渇している。
景色が見たい、女にモテるなんてオマケでかまわない。
女だって景色の一部というか、景色と無関係の女なんて意味がないんだからさ。
ヒーローが見たい、不思議だ、わたしの世界はヒーローと共に帰ってくる、だからこのヒーローの話は、やはり合っている。

この現代には、エロいものが増えたけれどもさ。
エロいものって、つまり、ヒーローが失われた空間の慰めだろ、あんまりというか、正直まったく興味ないな。
ヒーローとは何か? それはわれわれの、知らない世界につながっている人だ、思い込みの持てない、未知の世界で戦っている人だ、もはや未知のものをしか世界と呼ぶべきではないけれどね。
未知にだけ世界があって、そうだな、何もかもわからない世界で戦うんだ、それ以外に勇敢な者なんてありえないよ、この世界は何なんだ? 既知のふりをして毒素をふりまく者にけっきょく僕は一ミリも付き合うつもりはない。

ヒーローの全細胞は震えている。

なんでもない夜、なんでもない街、なんでもない景色、なんでもない酒だ、だがヒーローは知っている、毎秒ごと未知の世界が現れていることに/未知の世界で、われわれは自分が何をしているか知らない、だが何をするべきかだけは毎秒ごとに与えられている。
未知のものなんか現れないよ、ヘンな言い方になるけれどね、現れてくるようじゃ未知のものじゃない、未知のものはいつも "現れている" んだ、誰もそれが見えていないし聞こえていないが、おれにはわかる、すべての学門は人間のこの無力のことを教えている。
正しく見ないとな | comments(0) |
世界とHEROES

はよく、人から相談を受けたときに、「あなたの尊敬する人って誰?」と訊くのだが、これはどちらかというと、リスペクトではなく、「あなたのHERO(ES)は誰?」と訊いていると捉えるほうが正しい。
この数十年で、時代は変わったのだが、時代の変化と共にヒーローも変わっていった……のではなく、ヒーローがすげ替えられることてによって、時代が変わっている/時代でヒーローが変わるのではないのだ、ヒーローで時代が変わるのだ。
ここ十年間ぐらいでは、やっぱりAKB48がヒーローだろう、その他のアイドルグループもそうだが/あるいは若手お笑い芸人も、ヒーローとされる人は大きく変わった、人気が出たからヒーローになったのではなく、ヒーローだから人気が出るようになっている。
ヒーローのすげ替えというと、最もわかりやすいのは「新世紀エヴァンゲリオン」だろう、エヴァ以前にあんな陰気なヒーローはなかった、あれ以降、たとえば進撃の巨人の主人公エレンも違和感なくヒーローと受け取られるようになった。

それ以外の「ヒーロー」というと、一昔前は、やはり「ロッキー」や「ランボー」、あるいは「ターミネーター」、あるいはジャッキーチェンや、大きくは「スピルバーグ映画」の青少年主人公がヒーローだった、およそ80年代はそんな感じだったと思う、少年たちにとっては映画と「少年ジャンプ」がヒーローのカタログだった。
おそらく日本においては、そのスピルバーグ製ヒーローの時代が過ぎた後は、一時期は小室哲哉製ヒーローが台頭し、次いでセーラームーン、その後にポケモン、というふうにヒーローは変化はしていったように思う/誰でも年齢から逆算して、自分が十歳から十五歳ぐらいだったときのことを考えれば、それなりの心当たりがあるはずだ。
人間の精神構造上、神話とは理屈ではなく「ヒーローの物語」なので、あなたの中のヒーローが仮に「陰気でボーッとしている」タイプだった場合、あなたはどう努力しても、あなた自身が「陽気で集中力の研ぎ澄まされた人」になることはできない。
現代のヒーローというと、代表的にはスティーブジョブズか、日本では楽天やZOZOTOWNの社長あたりだろうか、人類史上でそうした商人がヒーローになった例はこれまでになく、これは一種、「資本主義の勝利」を意味している、あるいは貨幣そのものの勝利とも言えよう/誰でも知っているとおり、貨幣の英雄が承認されていくにつれて、イチローやサッカーのナカタ、あるいは本田圭佑を「ヒーロー」とは感じなくなっていった、そして二宮金次郎の像も撤去されることになっていった(安室奈美恵さんも引退しちゃったしなあ)。

ヒーローをすげ替えることで、あなたの夢や努力なんか無効化できる。

そりゃヒーローが灯台なんだから、当たり前だわな……現代、メインストリームとして、カネとアイドルがヒーローなのだから、学門やら恋あいやらは出来るわけがない、よほど自分自身の精神や魂を掴んでいる奴なら別かもしれないが、そんな奴は極めて例外だ、あなたはよほどこのことに抵抗しないかぎり、世の中の事情から形成されたヒーローを灯台として、荒波を泳いでいくしかない/あなたがどう疲れて、どう力尽き、どう投げだし、どう閉じ込められ、どう別のことに執着してしまうかは、あなたに据え付けられたヒーロー像で決定している、あなた自身で決定させてはもらえないのだ。
あなたの「こうなりたい」という意志や、あなたの世界、つまりこの世界であなたがどうなりたいと望むかという夢と努力は、あなたに据え付けられるヒーロー像を灯台にして決定されてしまう、あなたがいかに僕の話に納得としたとしても、あなたは僕の話すところのほうには来られなくて、あなたはあなたのヒーローのほうに行ってしまう/そしてしばしば、そのヒーローは正当でなく、あなたの選んだものですらなく、世の中の事情でテキトーに放り込まれたものでしかなかったりするのだ、なんとまあひどい話じゃないか。

正しく見ないとな | comments(0) |
No. 383 疲れないように生きる

掲題のコラム、本サイトにアップしました。



No. 383 疲れないように生きる

―― つまり、「一切やらない」という自己決定と同時に、「一切やり尽くす」という自己決定も必要になる。


よろしくお願いします。九折

そのほか | comments(0) |
国民の半数が不眠症?(時事通信社)

事通信社の記事によると、国民の半数が不眠症? とも取れる、調査結果があるらしい、寝具メーカー東京西川による調査で、もちろんメーカー側としてはPRの意図もあるのだろうが、なかなかあなどれないデータだ、最大で二十代の61.1%、次いで三十代の58.5%が不眠症の「疑いあり」に該当するらしい/国民の半数というのはいい加減ヤバい、だってそれもう "与党" じゃん。
僕にはむろん、不眠症の疑いはまったくないが、超絶文学者たる僕が安眠で、その他健康志向の人が不眠がちというのはどういうことなんだ、まあそんなことはいい、いざとなれば近所の心療内科に相談すれば穏健な睡眠薬を処方してもらえるだろう。
睡眠薬なんか、飲まないに越したことはないだろうが、ここでは「いざとなったら睡眠薬もらえばいいや」という発想があることが重要だ、それだけで気が楽になって思い詰めずに済むことになる/いまどき心療内科で睡眠薬をもらうことぐらい何も珍しくない、「ヘーキヘーキ」と捉えているのが、何よりも安眠の良剤だろう、いまどき心療内科に抵抗を覚えている人はさすがに時代錯誤というほかない。
ときどき、話すと驚かれることがあるのだが、「睡眠薬の反対が覚醒剤だよ」というと、多くの人が「えっ!?」と驚く、そりゃ読んで字の如く、睡眠と覚醒なのだからそうだろうよ、つまり不眠症というのは何かしら、覚醒剤状態になっているから眠れないということなのだった、もちろんストレスもあるだろうが、それだけで問題は寛解しない。

覚醒剤はつまり、人間の神経にある、ドーパミンやノルアドレナリンの貯蓄を、「売り尽くし大セール」として放出させる薬だ、決して覚醒剤そのものが人を興奮させているわけではない(ちなみに「売り尽くし大セール」なので、その後在庫が尽きる、だから「元気の前借り」と言われる)。
ドーパミンは、筋トレ好きな人ならご存じのとおり、いわゆる「やる気物質」だ、そしてドーパミンはその後ノルアドレナリン→アドレナリンと変化していくので、けっきょく覚醒剤で「大セール」をしなくても、ドーパミン過剰状態を意図的に形成すれば、似たような覚醒剤状態になるのだった。
一般にドーパミン→ノルアドレナリン→アドレナリンは、ドーパミン(やる気)→ノルアドレナリン(怒り)→アドレナリン(恐怖)という感情に作用していると言われるので、不眠状態に陥る人は、この感情のサイクルにも陥っているはずだ、とはいえ、このサイクルが停止したら今度はうつ病になってしまうが……だからそもそも、人が何かに取り組むのに、ドーパミンブーストで「やるぞ!」とする、その発想が間違いなのだ、一時的にはしゃーないにしても、常態としてその方式を採るのはやがてどこかで破綻するに決まっている。
僕が思うに、「不眠症」の実態は、不眠症というより「覚醒症」だと思うが、これはドーパミン信奉社会のツケだと言える、今やどのコンテンツもドーパミンを煽ってこないジャンルがあるかね? 僕は先日、徹夜ワークショップ後にファミレスで十二時間話し込むというバカみたいなことをしたが、それでも最後まで脳みそがキレッキレなのは、ドーパミンブーストなんか使っていないからだ、素の脳みそでこれということを称賛してもらいたい/それと共に、こころの隅に、「ドーパミンブーストはいいかげんヤバい」という知識を持っておいてくれ、あとはいざとなれば心療内科が適切にバックアップしてくれるだろう。

覚醒剤を使わなくても、似たような覚醒症にはなります。

僕だって、タウリン入りのアリナミンVぐらいはたまに飲むし、目覚ましにコーヒーぐらいは飲むがね……しかし現代においては、マウント社会に炎上、煽り、液晶がド派手なゲームに、性的嗜好刺激アニメ、そこにエナジードリンクを飲んで突撃するんだろ、そんなメチャクチャな中で「安眠」なんかできるわけあるかい、そのあたり「たしかにwww」と笑って捉えられるぐらいの余裕が何より必要だと僕は思う。
「ストレス」による不眠と、安易に言うけれど、ストレスというのは漠然としすぎだ、実体は主に「怒りと恐怖」だろ、そして「逆にやる気が湧いてくるわ」というサイクルを繰り返しているはずだ、<<国民の半数>>がな、そしてそこに筋トレをしてドーパミンを追加するとか、こりゃどこかで見切りをつけないといけない、そりゃいずれ身体に悪いに決まっているし、ヤバい与党が結成されるに決まっている/僕はドーパミンではなく世界が「見える」、そして「自己決定する」ということで活動していくことを推奨する者です、んー健全ですわな。

視点変えてこ | comments(0) |
バランスあるいはワールド・オーダー3

はもう、立場的にも身分的にも、ヒントのある書き話しはできないようになってしまった。
それは、僕が偉くなったということではなくて、誰かがこれをやらねばならないからだ、他に誰もこれを担わないので、しゃあない、僕がやるしかないということになったのだった。
今さら、ヒントに満ちた書き話しをしようとすると、人格を二つに分け、それぞれに名前をつけて活動するしかないが、そのことは能力的には可能だったとしても、さすがに時間が足りない、現在のこれだけでも時間は使い切りなのに……古今東西、自分で解説本を書いた哲学者がいるかね!? そんなアホなことは期待せず、もう各人でなんとか読み解いてもらうしかないのだ。
その他、何かうまい方法はあるかね、ないような気がするなあ、「サバンナの大自然を満喫できるハイテク都市を作ってほしい」というような無茶があるぜ、無茶というか大矛盾だろ、レンブラントに消防活動までやらせるか? さすがに消火ホースで散水しながら昇架の絵を描くのはレンブラントにも無理だと思う。

「空間と点」、集中力(しかない)、Aが出ればマイナスAも出る、バランス・オーダー、刻一刻というか常に変動しつづけるそれが、そのまま見えていなきゃムリだってばよ、その簡単なことをどうも、「アタシのほうが偉いから教えろ」と迫ってくるところがあるよなあ、本来話は逆で、アナタのほうが偉ければ僕のほうから教えることはないじゃん……(愚痴)
現代人として、あるいは現代人の誇りとしてか、まずマウントを取ってからしか「教えろ」と迫れないのは、まあわかるというか、いいかげん慣れたので理解するが、よくよく見るとやっぱりおかしいわな、みんな僕より偉いという一点だけで満足すればいいのに!!! まあそこのムチャクチャはもういいのだが、なんというか、「芸術的な教科書を」「それもあるていど完璧でないと読む気がしません」ということになると、実作レベルで行き詰まるのだった、芸術的なら教科書的ではなかろうし、教科書的なら芸術的ではなかろーよ〜。
まあこんなもの、冷静に見れば、「明らかにムリに決まってんじゃん」という話なのだが、そうして「ムリ」と言われると、「はたしてそうかな?」と、反逆したくなるのが僕の性格なのだった、別にそのことで死人が出ても僕はまったくかまわんので、「実はムリじゃなかった」という事実を先行させたくなる/すべてのひとつの文字に二つの意味を持たせるというような、キチガイみたいなことはできないかな? 僕に至ってはそれぐらいのことはできるかもしれんね、そういうことにだけやる気が出てしまうタイプだし……
ガババババ、ここに来て、鏡の中にウンタラカンタラというのが、再び出てくるのだろうか、まあそれはいかにもありそうな話だなあ、なるほど鏡の中と同時に動くのであれば、二つの人格はひとつだと言えるな/よろしいですかみなさん、世界はバランス・オーダーです、自分のことだけ見ていたらビョーキになりますよ、圧倒的なAは圧倒的なマイナスAを見て同時に認めつつ生じるのです!!

おれが怖いんじゃない、あなたが怖い。

そりゃそうだろ、おれは自分のことだけを見てありゃりーんとしているのではなく、世界のバランス・オーダーを常に見ながらありゃりーんとしているのだから、健全だ、それに比べてあなたは何だ、自分のことだけを見て「そう、ですね……」とかやっているじゃないか、そりゃそっちのほうがコエーよ、なんだその空気/おれがただのバケモンだった場合は、話が簡単でいいのだけれどね、問題は逆の可能性だ、あなたの側がバケモンだったらどうしようという話だ。
「世界」は不平等で、偏っているのだが、「偏ってバランスしている」のだ、そりゃローマと夕張市は違うだろうよ、それを平坦にならそうなんて、世界の破壊だぜ、夕張市が劣っているのじゃなくて、夕張市があるからローマもあるんだよ、夕張市もローマも両方なければ世界地図が描けないでしょう、あなたは夕張市ダンスと呼応しないとローマダンスが踊れないんだぜ、仮に踊っても「世界」にならないんだぜ、ここでようやく世界が「ひとつ」なのは当たり前じゃないか。

正しく見ないとな | comments(0) |
バランスあるいはワールド・オーダー2
界にバランス・オーダーがあるというより、「バランス・オーダーがあるから世界になる」と捉えたほうがいい/バランス・オーダーのないグイグイしただけのものは世界にはならない。
世界中に教会や寺院をもたらしたキリストやブッダは偉大だが、そこに通うキリスト教徒や仏教徒が偉大なわけではない。
人は幸福であったり不幸であったり、男であったり女であったりする、それが「世界」であって、この不平等を消し去って平等を計らうことは、「世界」の消去だ/「世界」を消去して、何が悪いというわけではないが、ただそれば「世界」の消去だ。
「世界」が消去されると、それはとてつもなくつまらない、空虚な、むなしい、見るに堪えないものになるが、ただそれだけといえばそれだけかもしれない、その退屈の苦しさがどれほどのものかは、僕は当事者ではないのでわからない、僕は「世界」に反することはしないのでわからない。

物質があれば反物質があるように、幸福があれば不幸がある、AがあればマイナスAもあるということだ、それもスカラー値として……
それを陰陽の考えで理解することは簡単だが、そのバランス・オーダーを「常に明視している」という状態の中にあることは、そう簡単ではないようだ/身動きの取れない人、話すことができない人、自己決定ができない人は、このバランス・オーダーを常に見失い、常に視認できない状態になっている。
バランス・オーダーは、いわゆるプラマイゼロではなく、常にわずかずつ、あるいはハッキリと、光のほうへ向かっているが、つまるところヒサンな人は、このことの一切が見えていないのだ、今このときも、僕が何に基づいてこのように書き話しているのかがまったくわからない、見当がつかない。
バランス・オーダーがあり、この「世界」はほとんど無限に広がってゆく、「世界」はバランス・オーダーにおいて「ひとつ」となり、これが見えていない人は、何か単独の差分や差別があるのだと思っている、その人たちに理解できる言い方というのはけっきょく存在しない。

「世界」の人が、何をしてくれているのか、本当にわからないのか。

なるべく、「世界」からの逸脱者が出ないように、大きな魂を支えてくれているのに、わざわざ入念に、それを引きちぎろうとする人が少なくない、それを引きちぎった先に何が起こるのか、引きちぎった満足の直後に、とんでもないことになるぞ、とんでもないことといっても個人的にそうなるというだけで、「世界」はむしろ平穏になるのだけれどね。
おれはもともと、そんなに器量のデカい奴じゃないんです、いささか無理をしているというか、強引に器がデカいふりをしているね、結果的になんとかなっているところが面白いが、おれがシュッと己を休めて縮小したら端っこはもう切り離されるよ、まあおれはケチな奴にはなりたくないので意地悪はしないが、そうはいっても人為の船なんて甲板は無限に広くないのです、どこかから先は「あっ」と足許が消えて落ちるよ。
正しく見ないとな | comments(0) |
バランスあるいはワールド・オーダー

ランスというのは、自分の中のバランスではなく……
幸福になる人間もいれば、不幸になる人間もいるということ。
夢中になって勉強する人もいれば、やさぐれて、すべてを罵って生きる人もあるということ、それで「全体」がバランスしている。
なぜそうなるのかといって、なぜかはよくわからないのだ、強いて言うならそれが「世界」だと言うしかない、そりゃ誰だって自分一人が世界ではないので。

世の中には、ヒサンなことになって生きる人もいるのだが、なぜヒサンなことになって生きていく羽目になるかというと、バランスのことを知らなかったからだ。
自分だけで考え、他人のことを見ずに生きるとそうなる、世界を無視して生きているわけだから、自分はどういうバランスユニットに配属されているかわかっていないのだ、自分の中の願望と不満だけで戦っており(草不可避)、そうした暗愚の中で荒んでいく……というユニットとして、この世界に定義づけられてしまう。
これはとても「無慈悲」なことであり、徹底した「差別」的現象なのだが、人為的なものではなく、ナゾのバランス現象として生じるものなので、いくら呪ってみたところで意味が無い、ヒサンなユニットはただヒサンさを担うのである、本人は自分が勉強不足だなんて思っていないのだから、ある意味では本望といえば本望の結果に落ち着いていく(と、周囲からは見えるものだ)。
仮に地獄行きの人がいたとして、単純に地獄行きではないのだ、「地獄役」なのだ、本当は誰だってそんな役は避けたいと思うだろうが、しょうがない、何しろ<<全体のシナリオがあることを知らない>>のだから、自分の配役変更なんてわかるわけがない。

ヒサンな人がヒサンになるのは正しい。

ヒサンになる人は、決まっている、ヒサンになる人はまず「全体のバランス、人々のバランス、配役」なんてことは考えないし、そんなこと見ないし、そんなことを言われても内心で否定するはずだ、それが悪いわけじゃない、ただ周囲が「あっ、お疲れ様です」と見るだけだ、賢明な人ほど一種の感謝さえ持ってその盲動を眺めるだろう、<<自分の幸福役は目の前の人のヒサン役と同時に成り立っている>>ということを知っているからだ。
ヒサンな人はたいてい、自分がカミサマに祈って自分がなんとかなればいいとしか考えておらず、たとえば天皇陛下がこの国のために祈ってくれていたり、あるいはダライラマやローマ教皇が人々のために祈ってくれていたり、するかもしれない、という発想がない、たいていヒサン役に配属される人はそういうものだ、別に脱出はしなくていいが、脱出しようとするなら自分が祈るというアホをやめて、自分以外の誰かが<<全体>>に祈ってくれているという可能性を発見しないかぎり活路はない。

正しく見ないとな | comments(0) |
理由はご自由にどうぞ
と自由なんかいくら語られてもよろしい……
また一つのナゾが解かれようとしている。
僕が友人のノートに「絵」を描いてやると、みんなの食いつきがよすぎる。
今ここに書いている文章だってそうだけどね、僕に見えているものを、僕自身が甘く捉えているのか?

隣人愛は、兄弟愛と似たようなものだと思うが、エーリッヒフロムの言うところの……まあ、感情的になるものではない、愛というのは現象であって感情ではない。
「その感情の出方は、メカニズム的におかしくないか? どうなっているんだ」という、背後の現象が「愛」だ、愛そのものはエモーショナルなものではなく、本当にただの現象だ/ただし、この世の根幹のすべてをひもとく現象だ。
脳みそに叡智と健康を/隣人愛については近々、合理的に単純に、説明がされねばならない、なぜおれがという気はいつまでもするがね、[モチベーションは集中力の反対です]。
愛について、はっきり理解すること、あくまで学門の項目のひとつとしてね、そのことが第一の鍵になるや否や、ひとつの数式が過去のすべてを誤解の液体に溶かしきることはよくある。

どうも、「愛」を理解していないと、自己決定に至れない模様。

なぜなのかは、まだわからないが、決してすべてのことが、理由までわかる必要はない/愛を理解していないと自己決定には至れないのかもしれない、理由はご自由にどうぞと。
ボーイズ&ガールズ、まったく別の、コミュニケーションの原理があるんだよ、まったく別の、伝わるものがな、suicaを改札機にタッチさせたら、何かが伝わっているでしょう、たとえばそういうふうにだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
WS報告013(3)/ガイルはアメリカ人

ブタイトルは気にしないでくれ、全部を報告することはとても不可能だ。
とにかく「集中力」をやった、そのせいで難度は跳ね上がったが、そんなもん「集中力なしで出来るまともなことなんてあるか?」と、ウリャアアア。
集中力を付加して金魚法や手渡し法をやると、きらめきと実用性が増すなあ、ただし集中力ができればだけどな、集中力は「空間と点」、これをこの機に叩きこまねばならない。
あくまで手続きとしては、集中力は空間と点だから「空間」が必要で、「空間」のためには横隔膜(霊魂)が必要で、横隔膜のためには気魄との分離が必要で、そのためには胴体がまとまっていなくてはならなかったということ/ここまで最速の手続きで「集中力」まで到達できたと捉えるべきだ、初めから「集中力」なんてアプローチできなかったんだよ。

その他は「歩く」という動作の、たまには完全に身体操作のみのワークをした。
また、重要な話として、祭り・フェスティバル・カーニバルと、人間の精神が深く関わっているということを話した、人々とカミサマってどうつながるのよという話なのだが、「旧来、ふつう、人々とカミサマの間には "祭り" が挟まっていた」「簡単に言うと、カミサマ→神事→祭り→文化→人々という順だったんだな、だが現代では祭りがオモチャにされてしまって、その下の "文化" も破壊されてしまった」「だからもう、個々人が、直接カミサマにアプローチできる方法を持つしかない、基本的に現代では、文化と祭りを通してカミサマに接続することは不可能だ、神事以下の人は墜落していくしかない状況がある」。
朝になって、食事に行き、その後話し込んで、なんと十二時間も話し込んだのだが、これはもうアホではなかろうか、結果的にほぼ二十四時間コースじゃねーか、しかも一昨日からほとんど寝ていないやつが今夕までぶっとおしだったが本当に大丈夫なのか……
十二時間も話し込んだのは、自己決定についてのことと、何より「愛」「隣人愛」についてのことだった、「愛というのは感情じゃなくて現象なの、フェノメノンなの」「エモーションとラブを混同するなって」「 "アレルギー" について説明できるだろ? それと同様に隣人愛について説明できないなら、そりゃ単に勉強不足だよ」「学ばないと隣人愛なんて現象は絶対にわからんぜ」。

彼は一晩中歌っていた。

彼はこれまで歌うことが苦手だったそうだが、何かがうまくハマったらしく、ごきげんな歌声が噴水まわりを一晩中ぐるぐる歩いていた、まあすべてを説明はできないが、「もう本番前に充足を得ちゃいましたよ〜」的な状態だったらしい、とはいえ本番もうまくいきますように! ネタ的にはスゲー出来だし、バリバリ優勝を狙えると思うぜ〜(だが優勝を狙いにいくようなモンなのかどうかは知らん笑)/「まさかこんな具体的な指導と改善をしてもらえるとは、思って……ました!www」
おれさまは愛の人間なので、アドバイスはしない、だいいち愛の力で解決しないものを、アドバイスなんかで解決できるはずがない/おれが何かを改善しているのではなく、改善が起こるとしたら何か別の力だ、スゲー力がスゲーことをしてくれるだけであって、おれが何かしたりはしない、おれはめんどうくさがりなのだ。

そのほか | comments(0) |
WS報告013(2)/集中力にはメソッドがある

回は「集中力」をやった、これがめざましいテーマとなった。
もちろんすべてのテーマはひとつのことにつながっているけれどね。
こんなこと、ここに報告してもしょうがないかもしれないが、「集中力」というのは、「集中〜」ではないのだ、「空間と点」なのだ。
広い空間があり、それが一点に集まるから「集中」というのだ、広い空間を捉えていないと、「集中」といっても「何が "集まる" の?」ということになる、このメソッドというかセオリーを知るまで、「集中」および「集中力」というのを正しく得ることはできない、だからここにバラしておく。

「集中」というのは、「集中〜!!」じゃないよ、「空間と点の関係だよ」と、説明はそれでオワリだ、説明としてはそれ以上ない。
本来は、こんな中枢のセオリーを、バラしてしまっていいのかという話になるのだが、僕の場合はかまわんのだ、この一言セオリーで「あ、そっか」とわかる奴は、もうそれでいいじゃないか、それでわかる奴はワークショップなんか来なくていいんだよ、どうだこのあくまで公正な考え方は。
テキトーに、たとえば種田山頭火が、まっすぐな道を歩いていたとすると、その魂はこの世界の空間へ広くつながっていたに違いない、そのとき種田山頭火の魂はデカいだろう、空間を広く捉えるのはそうして霊魂の機能だ/そしてその空間が広く保たれたまま、ビャッと感覚が一点に集中する、そうしたら言霊ぐらいはあるんじゃないか、さすがに種田山頭火に言霊がないと言い張る奴は何の見込みもないのでスズメバチの巣に全力でダッシュパンチすること。
もし言霊なんてものがあるのだとしたら、理論的に、 "言霊をディールする方法がある" ということだ、それは「空間と点」という集中力の問題だから、別に言霊でなくても何ダマでも同じだ、ただそれだけのことで、そんなもんはビシャッと「出来て」しまえばそれで何の文句もないのだった。

広い空間が保たれたまま、点にビャッと集まるなら、そりゃ「集中」だ、気合いじゃなく国語の話だ。

愛と速さと集中力、この三つは、誰が持っていても「何の文句もない」というスグレモノだ、一方で、ストレスと重さとわだかまりを持ちたい奴なんているのかね、そんな在庫を蓄積してやがてのバーゲンセールとか、ぜひやめていただきたい/さっさと正当な対抗手段を持つべきだと、僕は合理的に考えるのだった。
「         → ・ ←         」。

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WS報告013(1)/ことごとくグッド・ニュース

さんは右半身・左半身を獲得(すげえ)、ヴェジ青年は「集中力」を得てマジ躍進、色鉛筆ちゃんも集中の「点」がわかったようだ、その他も色々……
ふつうこんなペースで、人の根源的な変化というか獲得というか、こんなグッド・ニュースは出るものじゃないね、何かよくわからんが背後に大きなすばらしい流れがあるのだ。
僕自身、何かを「使い切る」というところまで本当に出力できるようなったようで、途中で急に眠り込んでしまう、しばらくして起きると超スッキリしているのだが、二歳児じゃあるまいし、なんなんだこりゃと我ながら呆れる。
雨天とスタジオの都合で、今回は出だしの二時間を座学にしたが、二時間なんか一呼吸であっという間だな、今回はわずかも沈滞ムードは生じず、急にスタジオの床で僕が眠り始めたときも、たまたま覚醒したヴェジ青年が「集中力」ワークのリードを取ってくれた、最年少なのにやってくれるじゃないか。

「脳みそに快適じゃないと入らないんだよ」「脳みそって臓器だからね」「胃袋を痛めつけて吸収がよくなるかい? 脳みそもそれと同じだよ」。
僕がノートに "爆発的" なメモの取り方を示すと、みんなで「うわあっ」とよろこびが起こった、「な、これでもう忘れっこないだろ」「ホントはこれで、この言葉が "定義" されたってことになるんだ」「十二時間前と今とでは、この言葉の示すところがまったく違うだろ」。
「陳腐な線はひとつもあってはならない」「魂から出たやつだけを示すんだ、うりゃあああ〜ってな」、そうすると "爆発的" な物が出るが、これが脳みそに直接ビンビン来るというか、ひとつのまとまりとして……つまり魂から出たものだから魂に直接作用するわけだ、魂というのは分離できるたぐいのものではないのでその像は「ひとつ」のまとまりになる。
この独特のよろこびに、名前をつけたい、脳みそがよろこぶという臓器アタリマエの感じも合わせて/しかしどう名前をつけたものか、困っている、「芸術は爆発だ」というとそのままだが、それでは過去のグッドガイの箴言そのままになってしまうぜ。

「せっかく脳みそがお祭り騒ぎなんだから、お祭り騒ぎのままを書き記すんだよ」

「このメモというか、見開きには、 "自己決定した何者かがここを踏み抜いていった" という痕跡があるだろ、これが脳みそに直接ズドンと来るんだ」、自己決定の福音がいよいよ聞こえてくるだろうか、みんな魂を書き込んでやったノートを宝物にして胸に抱えて休みに帰ったよ。
すばらしい成果なのだが、いちいちよろこぼうという気はしない、収穫時期の農家のように、リアルに実りがあるときはよろこんでいるヒマなんかないんだろうな。

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ただの愛2
だの愛があれば、そんなにヒサンなことにはならない。
何か、水面下でヒサンなことになっている人は、ただの愛がないのだ。
このことを、認めない人はけっこう多いのだが、認めようが認めないが、それは「日本の国土から石油が出ねー」という事実と同じで、認めなくても愛のない奴は愛がないのだ。
透明感のある美少女が、グアムの砂浜でグラビア撮影をして、おっぱいがぷるんぷるんでも、そいつに愛があるかないかは別だ、どれだけバレエレッスンに真剣で鬼教官に叱られてウッウッと泣いていても、愛があるかどうかは別だ。

ただの愛だが、ただの愛がある人って、そんなに多くないぜ? ここのところを曲げるから話がややこしくなるのだ。
路上で通りすがりに、酔っ払いが電柱にもたれてゲロを吐いていたら、どう思うんだ、ふつう「おいおい、大丈夫かよ」と思うだろう、まさか「近所迷惑!」なんて思う人は一人もいないよな? 人が飲み過ぎで嘔吐しているのに急にモラルを唱え出す邪悪なんかふつう一人もいないよな。
自分ちの玄関先で、誰かがタバコを吸っていたらどう思う、ふつう、「座るところもなくてすまんな」って思うだろ? まさか「迷惑!」とか「路上喫煙!」とか思う人はいないよな、よほどのクサレ邪悪でないかぎりそんな血みどろな発想は湧いてこないものだ。
僕は以前、トラブったワンちゃんを助けるのに、代々木公園の池に飛び込んだことがあるぜ、どういう状況だったか説明するのは面倒なので省くが/なぜ他ならぬ僕が飛び込んだかというと、そこにいた中で僕の身体が一番頑丈だったからだ、たいへんな感謝をされたが、どうして犬を助けるために飛び込んだら感謝されるのか意味がわからん、まさか「傍観」していろというのか、そんなキチガイはこの世に一人もいねえよ。

ただの愛が、ない奴は「ない」でいいだろ。

透明感のある美少女が、薄着姿で髪の毛をくるくるに巻き、遠くを見るような目をしたとしても、愛がないなら「ない」だろうよ、それのどこに問題がある/ただの愛がある奴なら、これまでに愛の時間を必ず生きているはずだ、その時間に心当たりがないなら、そりゃただの愛が「ない」のだろう、なぜかこのことに頑強に抵抗する人がいて、その抵抗は完全に無意味だからやめようぜと僕などは提案したい。
ただの愛がない人は、なぜかそれが「ない」と認めることをしないで、結果的にどうなっているかというと、ただの愛が「ある」人のことを、「ある」とも認めていないのだった、その単純なことを認めないせいで、自分の生きる数十年をすべてゴミにしてしまう、その損失に比べたら、そこまで頑強に抵抗するようなことだろうか(と僕は思うのだが、本当に頑強に抵抗するのでよくわからない)。
恋女のマインドね | comments(0) |
ただの愛

の中には、ただのキチガイ、という人もいるのだから、同様に、ただの愛、という人もいる。
ただのキチガイに、理由なんかありえないのだから、ただの愛にも、理由なんかない。
愛は、ただの愛なのだが、ただの愛を持っている人はそんなに多くない。
そして、このただの愛のあるなしが、すべてを決定してしまう、ただの愛がなければすべてはゴージャスな絶望にすぎず、ただの愛があれば、それはどう地味なものでもかけがえのないものだ。

ただの愛は、話としてはわかりやすいのに、実物としてはわかりづらい。
本当に、ただの愛だからだ/そのわかりにくい実物は、わかりにくいがゆえにいつも見落とされている。
いつまでも誤解されているのだが、愛というのは、「好きな人をケアする」ということではない、「好きな人をケア」するというのは、ただのキモチだ。
かといってもちろん、「恵まれない人たちのために井戸を掘りに行く」、というのも違う、ただの愛というのは、「そこ座ってるの寒くない?」というだけのことであって、本当にただの愛だ。

野良猫にこっそりエサをやったことがない人は、意外に多い。

スーパーマーケットからの帰り道、「ニャー」と鳴かれたら、「あ、そういえばカマボコ買ったな」ということで、こっそりカマボコをあげたりする、できたら塩分少なめのやつをな……ただそれだけのことだが、そういったことを一生に一度もしたことがない人はけっこう多い/そういう人に、僕は冷静に訊きたいのだが、キミは永遠に自分だけがカマボコを喰うつもりかね?
この世の幸せとは何かというと、僕がヒルズマンションの上階に住むことじゃない、猫ちゃんがおいしそうなごはんにありつくことだ、それはただのリアルなことであって、涙がウルウルするようなことじゃない、自分だけ特上カマボコにかぶりついて「幸せ」なんて、バカの顔は見るに堪えないだろ。

恋女のマインドね | comments(0) |
悪魔の力でコカコーラ
日、悪魔の力について説明した。
悪魔と契約すると、悪霊がinして、力を得る代わりに、その後がズタボロになりまっせという話、これはわりと身近で、かつ割とマジな話なのだった。
このあたりは、割とマジに、お前らみたいな若輩者は気をつけるべきだ、お前らみたいなモンはすぐ破壊されるじゃない? ダッセエ話……どういうことかというと、悪魔にへいこらお願いして、契約するのはダメなのだ、デーモン(ダイモーン)に親しんで、その力を使役するぐらいでないといけない。
ただし、デーモンの力を正しく使役できるというのは、そーとーな光に至っている人にしかムリだ、基本的に凡人にはギリッギリのスレッスレでしかこなせないことだからな/われわれはカミサマに憧れるものだが、その憧れに近づこうと思ったら、低級でもデーモンの力ぐらい使役できていないようでは話にならない。

悪いことを覚えましょうね……といっても、お前らみたいなモンは、タバコのポイ捨てをしただけでも、こころにやましさを覚えるじゃないか、それは悪いことができていないということだ、それで結果的に「善人」になる。
タバコのポイ捨てをしたぐらいで、こころにやましさを覚えるというのは、よほど光に尽くせていない証拠だ/そこでこころにやましさを覚えるというのは、善人だからではないのだ、「ポイ捨ての悪魔ていどにもあっさり悪霊を送り込まれるぐらい、光の庇護が弱い」ということなのだ、いくらオラついたところで無力なもので、オラついている人はけっきょく「やましい」からだ、詩聖タゴールがそのへんにタバコをポイ捨てしたとしても、そんなところに邪悪がつけ込めると思うか。
そういえば、たとえば僕はワークショップの最中、世田谷公園でタバコを吸いながら指導しているのだが、吸っているタバコをそのへんにポイポイ捨てている、そしてワークショップ後に、プレイヤーの皆さんがせっせと拾って掃除するのだ、もちろんおれは協力しない/そのていどのデーモンの力も使わないで、人に何かを教えるなんて、できるわけないだろ……「先生」というのは、若造の尻を後ろからガンガン蹴っても、それが "体罰" にならないから「先生」なのだ、デーモンの力に邪悪が乗らないということが、デーモンの力を使役できているということになる。
この点については、さすがにアホと問答する気にはなれない、この点はもう実力差っつーもんをいいかげん悟れよ、僕が人妻のスカートをめくったところで何の邪悪にもなるもんか、「ほれコーラ飲め」とコーラを差し出しておわりだ、一ミリでも邪悪が出るなら絶対やめておいたほうがいーよ/邪悪なんてヒマなことをしている余裕はわれわれにはないのだ、「邪悪なんてヒマなことをしたくない」というのは、ダイモーンもこころの底からそう願っているのだ、それがわからないか。

悪魔がカミサマに勝てないのは、カミサマには業(カルマ)がないからだ。

てっぺんのカミサマやホトケサマにおいては、厳密にカルマがゼロなので、悪魔はつけこむ箇所がゼロなのだ、だから悪魔もその力だけを使役させられることになる/人に濃厚なカルマが残っている場合、悪魔はそこに干渉して人を操作するようになるのだが、悪魔だってそんなヒマなことをしたいわけじゃない、悪魔にはただその能力があるというだけで、悪魔だって「助けてくれ〜」と叫んでいる。
お願いがひとつだけある、「悪いこと」をし、「悪いこと」をたくらんで、「悪いキモチ」にドロローンとなるぐらいなら、自分はよほどアホで小物だということを悟ってくれ、悪いことをするってそういうことじゃないんだよ/「悪いことをしたのに悪霊が入らない」というのが使役だ、命を帯びているときはそんなに簡単に悪霊は入りません、悪霊が入るのはただのザコの典型だから、それをまさか特別なアタシなんて思わないでね。
できるオンナだね | comments(0) |
ゼロから学びましょう
ンガンやりましょうね!!
ガンガンやる前に、ゼロから学びましょうね!!
ゼロから学べないということが、若さがないということ、アンド才能がないということだからね、それは損だね。
ゼロからやれば何だって一発でやれます、これは割とウソじゃない。

原稿用紙を前にして、自信を持ったことはないし、人を前にして、自信を持ったこともやはりないな。
もし、自信があったとしても、おれは使わないし、そもそも持ち込まないだろうね、そんな一昨日の残り物みたいなモンをよ……何もかもゼロからやる、それが無限と永遠のコツです、分母がゼロだから無限というのは当たり前の話だ。
分母にいくつかのジャンルや、それについての自信を置いたとします、これがいわゆる「分類」です(「分母」なのだから)、こうして「分類」をするとすべてのものは落ち着くように見えるが、その途端もう無限という可能性を失ってしまっている、これはもうどういじくっても面白くはならない。
ゼロから学ぶということは、ゼロのまま帰るということだ、ゼロから1を捻出して持ち帰るのじゃないよ、1なんか捻出しないでも、無限に触れられたらそれでいいじゃないか、1と無限大のどちらがデカいかぐらい、さすがに算数が苦手でもわかるだろう。

ゼロと無限のくせをつけよう。

「ジャンル」を超克する唯一の方法がそれだ、ゼロジャンルになればその物の名は「無限」になる、けっきょくそういうものしか愛さないでしょう、そもそもカミサマの愛が有限ではそれはカミサマの愛でも何でもないのだから。
重力がドシーンとかかり、空気がプーッと入り、「えーっと、ジャンルは、と……」という、こういうのが一番しんどい、そしてしんどい上に何も面白くなければ、愛もないという/逆です、光が際限なく広がり、真空が無限に染み渡ってゆき、「時間軸はないから永遠だな」という、そういうのが一番ラクだ、ラクな上に面白いし、自動的に愛になるのだった。
できるオンナだね | comments(0) |
愛とジャンルと開祖の関係

切なことはいくらでも教えまっせ!!
人は愛がないと「ジャンル」に走る。
「愛」は、すべてのものをジャンルでなくしてしまうからな……
それが愛とジャンルの関係だ、よく覚えておこう。

ただ、愛というのはごまかされやすい。
愛というのは、実現してしまうと、誰がその当事者で、誰かその恩恵を受けているだけか、わからなくなるのだ。
それで、「ジャンル」というものの強みが出る、ジャンルというのは個々人の実力差がはっきり出るからだ。
だからいったん愛を外して、ジャンルにして確かめてみろ、ジャンルが成立してなお愛が生じてくれば愛の当事者だ、ジャンルが破綻するなら愛の当事者ではない。

ジャンルにもならない人 < ジャンルに留まる人 < ジャンルを超えてしまう人。

ジャンルには、いわばやけくそ界・正当界・超克界の三つがあって、「ジャンル」だけを正当に極めても、やはりそれは愛にはならないのでショボーンなのだが、かといってやけくそ界に転落するのでは話にならない、やけくそになるということはジャンルを超克することではまったくない。
人は愛から逃避すると「ジャンル」に走るし、さらに「ジャンル」からも逃避すると「やけくそ」に走る、そのやけくそは実は勇敢ではなく弱虫の表れだ、いくべき方向は逆、われわれの道は容赦なく険しいのだ/ジャンルをくれた人のことを考えろ、どんなジャンルにも開祖がいるものだ、開祖の出る前はそのジャンルはなかったんだぜ、だから開祖の世界を見ないと根源がわからないのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
蔓延する非常なダルさ3

分が何かをしようとするとき、異常にダルく感じられるのは、自分が「何をしたらいい」かが見えていないからだ。
異常にダルくて、正直一ミリもやれそうにないから、強制するために、何かしらテンションをかけて、ブーストをかけてそれをすることになる、そのことが悪霊を呼び込むということは以前に述べた。
しかし、悪霊を呼んででも、とにかくブーストをかけないでは、何ひとつやれないぐらい、真相としてはダルいのだ、このダルさは自分が「何をしたらいい」かが見えていないことによる。
そして、なぜ自分が、「何をしたらいい」かが見えないかというと、まず、他人が「何をしているか」を見ていないし、これまでにも見たことがないからだ、自分のことしか見てこなかったことのツケはここで最大に現れる。

もう、今さら言っても、多くの場合で手遅れなのだが、もともとは、他人が「何をやっているか」を見てこなければならなかったのだ、若い時間の多くはそのことに割かれねばならなかった。
たとえば、今になって、「まともでアツい仕事をしたいぜ!」と言い出したとしても、これまでに「まともでアツい仕事をしてきた人」のことを見てきていなければ、空中からいきなりそのノウハウを引っこ抜いてこなければならなくなる、そうなると「イメージ」に頼ることになるが、そんなものは初めからムリだ、イメージなんて一時的な、しかも作り物のウソに決まっている。
僕は最近になって、「集中ってどうやるんですか?」と訊かれたことがあるのだが、そのときとっさに、「これまでに見てきたことがないのか?」と訊き返してしまった/これまでに見てきたものを自分でやろうとすることと、見てきてもいないものをいきなり自分でやろうとすることには、天地の開きがある。
見てきていないものを、いきなり自分でやろうとする場合は、根本的に「ムリ」ということを、半ば覚悟しておかねばならない、なぜならそれは、引きこもりのキモオタが、いきなり街に出てナンパして若い青春と激しい純愛の物語をやりたいと言い出しているのと同じだからだ/内心でどのような空想を盛り上げたとしても、これまでに見てきていない――見ることをサボってきた――ものを都合よくいきなり獲得したりはできない。

「どうすればいいかわからない」のは、他人がこれまで「どうしてきた」かを見てこなかったからだ。

他人のやっていることを、しっかり「見る」ことで、自分と他人を「区分する」という能力が養われていく、「あの先生は教えるのに一所懸命だが、ぼくの勉強は一所懸命じゃないな」という区分を、子供心にも養うのだ、「違うんだ」と/そのことが何十年も続いたとき、ふと「一所懸命やってみるか」という思いに行き着く、そうしたらはじめてそれに取り組むにしても、十分に「見てきた」というキャリアがあるので、出来る出来ないの以前に「どうしたらいいかは、知らないでもない」と感じられる。
臍下丹田にある自立の機能、自他を「区分する」という機能を失った人は、他人のやっていることを見てきていないし、今も、他人が何をやっているかが見えないのだ、そして自分のやることというのは、他人のやっていることに対する呼応なので、他人のやっていることが見えないうちは、自分のやることも見えはしない、そしてそれを見えないままやらされるというのは、すさまじくダルいことなので、自分にサイキックドライブ(ブースト)をかけないと一ミリもやれないのだった。

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