☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
いいものを求めるな、いいものを作ろうとするな
ちょっと時間がないので殴り書き。
自分の生きたウンタラカンタラが、いいものになるかどうかは本当に人と関わりがない。
わけのわからない話だが、物事はやる前から成功していなければいけないし、「いいもの」というのはやったあとでいいものにしてしまうしかない。
人が「いいもの」なんて作れないし、作る必要はないのだ、作ったものを後でこっそり「いいもの」にしてしまえばいいのだ、いわば詐欺である(なんだこのテキトーな話は)。

世の中では承認欲求がもてはやされていて、「いいね」の取り合いが横行しているが、冷静に考えればたとえばおれがお前らに与えるものなんて基本的に「BAD」なものであって、何を誤ってかお前らに「いい」なんてものを与えるつもりはない。
こんなことは当たり前なので目を覚まさなくてはならない、なぜおれが人々に「いい」ものなんて与えるわけがあるのだ、おれが何かまともなものを創り出すということは、決まって人々にとってBADなものに決まっている、その点でも「いいものを作ろう」という発想は誤っている/いいものというかまともなものは、人々にとってBADだ、人にグハッと血反吐を吐かせるのがいい歌じゃないか。
いいものを求めるから人はゴミムシになってしまうのであり、まかりまちがって自分が何か「いいもの」を審査・審判しようとする発想になったらその人は終わりだ、かつてボブディランのファンたちはライブ中のボブディランに向けて「やめてくれ!」と叫んだのだ(これはマジの話)。
おれの生きてきたことのすべては、世間一般からみたらBADもBADであり、BADの五つ星という具合だ、だがなぜか知らんがおれはハッピーであり、おれを愛した人も自動的にハッピーになり、女性なんか美人になってしまう、なぜなのかは知らん、おれがそんなことを知る必要はない、何か「いいもの」を決めているのはおれではないし人でもない、そして「いいもの」なんて後で決定されるのであってやっている当人が「いいもの」なんて考えたってそれはアアアアにしかならない(時間がないので表現を最大限手抜きした、アアアア)。

おれに迷いがないのは、おれ自身は何もやっていないからだ。

人が何かを考えたって、どうせ「いいもの」を考えるんだろ、それってもう入り口から誤りなので、無駄なことだ、だからおれは何もしない、むしろ何もしないということの証明のようにこんなわけのわからん記事を書き話している。
おれの書いたものがいいものになるかどうかはわからんので、それをいいものにしようとは思っていないし、そもそも思う前から成功するのは目に見えているし、前もって「後からいいものにしておきまーす」という約束が入っているので、おれは何も考えなくてよいのだ/<<いいものを作れるのはいいものだけであって>>、おれはいいものではないのでいいものなんか作れない、あるいは何か、ひょっとして自分のことを「いいもの」と思っている人がいるのだろうか、それだとしたら大変アレだ、大変アアアアということになってしまう。
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「偉大なるおれさま」の性質について
つて「仕事と遊び」という言い方があったが、それらは失われ、今は「業と趣味」だけになった。
業(カルマ)という字義に注目してみると、たとえば学生が「学業」に専念するのは、一見マジメなことに見えるが、それはあくまで「卒業」するためであって、だからこそ「学業」と呼んでいるのだ、そして学業としてそれに詳しくなる場合、実はそれじたいは学門とまったく関係がない/学業で鍛えた人が学門としては空っぽということがいくらでもある。
こうして、いろいろとシッチャカメッチャカなのだが、このどうしようもない中で、なぜかおれの「偉大なるおれさま」ということだけが、すべての状況を一変する、「偉大なるおれさま」だけが仕事と遊びを復活する/これがなぜなのかということの理由はさして大事ではなく、ただ事実として一変するということがいつまでも不思議だ。
おれが言っている「偉大なるおれさま」を忘れると、ただちにすべてのことは「業と趣味」だけに戻ってしまう、仕事と遊びは消え去ってしまう、本当はこんなことではいけないのだが、さしあたりしょうがない、おれが偉大なるおれさまを続けていくしかしょうがないのだ。

「偉大なるおれさま」というのは、なぜかわからないがただの事実と言葉であって、こんなものをあがめる必要はない、こんなものを無理やりあがめるというのは当人の内部がこじれているのだ/そしてこじれている場合はあがめてもギリッギリでしか作用しない。
偉大なるおれさまということについて、肯定も否定も要らないのだ、肯定しようとする人は無理にあがめることになるし、無理にあがめるということは水面下に否定の可能性も潜んでいるということだ、よって「偉大なるおれさま」に呼応する言いようとしては「偉大なるおれさま」しか存在していない/それでいいじゃないかという感覚しか存在せず、肯定や否定という趣きそのものが発生しない。
なぜなら、偉大なるおれさまが偉大なるおれさまなのかどうかについて、思案したり決定したりすることじたい、偉大なるおれさまにしか為しえないからだ、偉大なるおれさまというのは「偉大」という事象そのものを決定できるのだ、そんなもんに個々人が肯定やら否定やらを持ち込むことじたいが偉大なるおれさまに対して否定的な向き合い方になる。
人は己の何かをもって、偉大なものの「偉大か否か」を決定しようとする底意地を持っているのかもしれない、まるで漫才グランプリの審査員がオモロイ奴を決めようとするかのようにだ/偉大なるおれさまは何かに対して有害ではないし、何かに対して有益でもない、偉大なるおれさまは人に知られた有益さをもたらすのではなく、何が有益かという事象そのものを決定できるのだ、火を消すのに水を生み出すのではなく、火を消すのに水は要らなくなるというのが偉大なるおれさまの機能だ。

偉大なるおれさまは何も与えないが、何も与えられなくてよいだけ "事象を変えてしまう" のだ、そのことを「祝福」と呼ぶ。

われわれはふと、「偉大なるおれさま」から離れると、すぐ自分の知っている事象の中で、何が有益で何が無益かということを決定したがる、そうではないのだ、何が有益で何が無益ということではなく、有益・無益といった事象そのものをテキトーに決定できてしまえるから偉大なるおれさまなのだ、こんな次元の違う偉大さを、人が既知の「偉大さ」という尺度で測定できるわけがない。
四畳半で過ごした青春が「いい」わけではまったくない、四畳半は単に十畳間より狭いのだが、その四畳半をお前の青春にして、「いいもの」にしてやろうか、というのが偉大なるおれさまのはたらきだ、だからその外形をなぞって四畳半で過ごしただけでは何もいいことにはならないし、それが時期的に青春だったとしても「いいもの」にはならない/だから保証してもよいが、本当にそうした「いいもの」の青春を生きている者がいて、そいつに「偉大なるおれさま」と言えば、何の理由かわからずアッハッハとうれしそうに笑うものだ。
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ひがうぬバベルナンセンス
がみとうぬぼれは同じ性質のプラスマイナスでしかないので、おれはよくひっくるめて「ひがうぬ」という。
ひがうぬは呪力や魔力の方面だが、現代人は精神の回路がほとんどこのひがうぬでショート(短絡)しているため、もう何を思考しても、何を話しても、どんな映画を観ても、まともに機能しないようになっている。
聖書に書かれている、むかしバベルの塔をおっ建てた人々が、神に見咎められて「言葉が通じないようにバラバラにされた」という話があるが、それはこうした現象だろうか/意味のことを "sense" というが、これが崩壊することを「non-sense(ナンセンス)」という、だからバベルの塔事件のことはざっくりと「バベルナンセンス」と言いまとめることができよう。
現代人がバベルの塔を再建したのかどうかは知らないし、なぜ脳みそが常時ひがうぬショート(短絡)しているのかおれにはわからないが、とにかく能力どうこうでなく回路的にもはやまともに機能しようがないということを、ここ数年がかりでイヤというほど見せられている、近所の子供が奇声しか発しなくなったことにすっかり慣れてしまったというのは本来は非常に危機的な状況だ。

「どんな入出力を与えても、電流が全部ショートしたひがうぬ回路に流れていくから、本来の回路は何も体験しないの」と、たとえばこのことを、二十歳の女性に三回聞かせたら、三回通してけっきょく「はあ……?」となると思う。
冗談でもシャレでもなく、本当に「話」「会話」は不可能になったのだ、会話は本当に破壊されてしまったのだが、もはやそれが破壊されたという「話」すらよくわからなくなって、よくわからないまま漠然と半笑いを続けているのだ。
それでどうなっているかというと、ほとんど夢遊病者みたいに、「ひがうぬ」に流れ込む情報をふわふわ求めてさまよっているだけだ、うぬぼれに寄与するものには「うふふ」となり、ひがみに寄与するものには「まあ」となっているだけだ、こんなものは機能としてほとんど "ドローン" と変わらない/そしてこの話もなぜか強引にひがみかうぬぼれのどちらかに流れ込むだけなのだ、むちゃくちゃな話だが回路のショート(短絡)というのはそういうむちゃくちゃな状態なのだからどうしようもない。
友人が結婚して式をしようが親族が死んで葬式をしようが、すべて「ひがうぬ回路」にしか電流はいかないのだ、「そっちに電流がいくのはおかしい」というだけの "話" を、何十回も何百回もし、そうするとようやく覚えるのだが、覚えるというのは文言を記憶しているだけで、何かに気づいたとか理解したとかいうことではないのだ/しかもひがうぬ回路の電流だけ訓練のせいで膨大になってしまい、今さらこんな膨大な流量を未経験の本回路に流し込むわけにいかないという、物理的な不能性まで出てきてしまった、これを誰がどうするのかはまったく不明で、たぶん誰もどうにもしないのだという予感がプンプンする。

「ひょっこりはん」ってどこへ消えたの。

「ひょっこりはん」という出物に、「なんだこれ?」と思ったまま、それが流行らしいと聞かされ、フーンと思っていたら全員が忘れてしまった、「けものフレンズ」とか言っていたやつはどこへ消えたのか、そして「鬼滅の刃」も消えるんだろう(というかもう消えたのかどうかおれはよく知らない)、この中でむしろタピオカは新型コロナまでよく長持ちしたと思う/すべて non-sense なものが、一時的にひがうぬ回路に入ってよろこばれているだけで、本来の回路には何も体験されていないということ、何の「話」にもなっていないということが、若い人々の青春を支配している、冗談や誇張で言っているのではないのだ、本来は自分の生きた場所や時代の「話」はそんなにキレイさっぱり消え去るものではなかったのに。
何もかも揮発してゆき、どんな話も自分の体験にならない、何もかもが non-sense 化して「話にならない」、ただ時間だけが過ぎて状況だけが悪くなってゆく、このことはとても単純に「ひがうぬ回路へのショート」というアホみたいな構造・理由によってのみ起こり続けている/解決方法がないわけではないのだ、その「解決方法」が脳みその回路に入っていかないのでどうしようもないという、落語のオチみたいな構造が出来上がってしまっている。
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楽しいことはやるが、やりたいことはやらない
しいことはやるが、やりたいことはやらない。
「楽しいこと」というのはただの事実だが、「やりたいこと」というのは己の欲だからだ。
おれは「偉大なるおれさま」とか言って遊んでいるが、それは楽しいからそうして遊んでいるのであり、そんなことをやりたいからやっているのではない。
そもそもおれには "やりたいこと" なんてないのだ、おれは基本的に満ち足りているので、満ち足りている者にとって「やりたいこと」なんて存在していない/モテない男は美女とデートしたいだろうし、みじめな人は承認欲求の充足が「やりたい」だろうが、おれはそういう「やりたいこと」はやらない、やりたいことなんてないし、もしあったとしてもおれはそんなことはやらないだろう、おれは勘の悪いタイプではないからだ。

モテない男が美女とデートして「楽しい」というのは幻想であって誤りだ、それは一種の飢餓が充足されるから楽しいように錯覚されるだけであって、よくよく見るとモテない男が美女とデートするのはむしろ「つらい」ことのはずだ/いつまでたっても「モテない男」という事実と認識は変わっていないのだから、この認識に直面し続けることはむしろ「つらい」と感じなければおかしい。
そうして考えると、現代は、楽しいことが得られない人々が、代用品として「やりたいこと」をむさぼっているような状況にあるのかもしれない、あまつさえそれを「自己実現」と美化しているような向きも想像されるので、そっち側には決して踏み込んではならない何かがひしめていることがわかる。
じゃあ楽しいこととは何かということになるのだが、楽しいことといえばお察しのとおりで、おれはとにもかくにも楽しいことばかりで包まれている、おれがこうしてブログ記事なんか書いているのもただ楽しいからであって別にこんなことが「やりたい」わけではない、ブログ記事を書きたいとかいうヒマ人がいたとしたら、そいつは自分の書いたものを力関係も利害関係もない赤の他人が読んでくれるものだというとんでもない思い上がりの病気にかかっているのだろう。
おれは楽しいことしかやらない、やりたいことなんてやらない、そうでないと近所迷惑になるからだ、おれは楽しいことしかやらない/どうも世の中には、「楽しいこと」という事実と、「自分が舞い上がること」という情緒の現象との、区別がつかない人が多くいるみたいだ、どう考えても「自分のやりたいことをやっていい」なんて世界はこの宇宙のどこにもないはずなのだが、そこを本気で百八十度ひっくり返している人が少なくない、それは自分のヤバイぐらいの楽しくなさをごまかすことに首ったけになってしまったからだろう、うーんなかなかのっぴきならない状況になっているようだ。

楽しいことに努力は要らず、やりたいことには努力が要るので、おれは努力の要る一切はやらない。

何かに対して努力が要るというのは、もう何かが誤っているから努力が要るのであって、愛されていれば楽しいし、楽しければ努力は要らないのだ、こうして考えると「やりたいことに努力する」というのは愛されない人の単なる逃げ道なのかもしれない。
それでいて、おれは楽しいから愛されているのだから、論理は循環しているように見える、けれどもこれは解決しているのだ、循環は見た目だけで打ち破る方法は簡単にある、つまり人は誰も「愛されていない人のふるまいをしてはいけない」ということだ、楽しそうなふるまいにわずかでもインチキがあればそれは自分が愛されていないという事実に耐えられていない・それを乗り越えられていないということだ/その感覚は正常だが、ただ正常なだけで未来がない(それよりは正常でなくても未来があるほうを選べ)。
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ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 6/2更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第百七十回】 6月5日(金)19時〜オンラインにて開催!
【第百七十一回】6月6日(土)19時〜オンラインにて開催!
【第百七十二回】6月12日(金)19時〜オンラインにて開催!
【第百七十三回】6月13日(土)19時〜オンラインにて開催!
【第百七十四回】6月19日(金)19時〜オンラインにて開催!
【第百七十五回】6月20日(土)19時〜オンラインにて開催 or第102回Quali'sParty

(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。夏場世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第102回】6月20日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第103回】7月18日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


基本フツーの風邪でさえ罹りたくないのでみんなおれのために自粛と防疫をしろ


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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WS報告 169th /無関係成功

れやこれやで忙しく、ワークショップ報告とやらをグイグイ忘れていた。
もう回数がわけわからんようになったので、ワークショップの号数と重ねて表記しよう、オンラインでもおれはしつこく続ける、どんなことでも「オメー正気かよ」というところまでやらないと何の足しにもならないからだ。
もう二か月以上、各員はおれの作った動画と問題で座学をしていることになるのだが(当日始まってから強引に動画を作るのだ、それで間に合わせるのだからスゲーだろ)、この二か月で各員はどえらい知性が進歩したと思う、やはりこういうまとまった座学の期間は必要なのだ。
みんなで集まって通常のワークショップができないのは残念だが、みんなで集まるとワチャワチャしてそれだけで楽しくなってしまう向きもあるからな、おれは各員に楽しい奴になれと言っているのではなく、ヤバい奴になれと言っている、なぜならフツーの人が気さくで楽しくても何の意味もない(は言い過ぎだ)からだ/何かがヤバいレベルに到達している人が気さくで楽しいからステキなのであって、何もかもフツーというか停滞しきっている人が気さくで楽しいとかいうのはただの「長所」であって、長所ごときが自分の足しになるわけは一ミリもない。

第169回は、ガラにもなく「成功哲学」をやった。
成功哲学というとナポレオンヒルが有名で、いわゆる「思考は現実化する」というやつだが、その思考が現実化するというのは本当というか当たり前のことだけれども、ほとんどの場合はその前提になるマスターマインドやらエンスージアズムとかいうのがまったく到達できないレベルのものなので、ナポレオンヒルの成功哲学はけっきょく成功できない奴にとっては絵に描いた餅でしかないという笑い話の構造がある。
まあ、冷静に考えて、ああまで丁寧に書かれている成功哲学を、なぞろうとすることもできないようなら「もう成功なんか諦めろや」というのが正常な感覚なのであって、その意味でおれは成功哲学などというのは基本的に苦手だ、成功しない奴が成功哲学で成功できるなどという妄想は衛生面において捨てるべきだ/そういえば、なぜか最近は、諦めない奴を励ますのでなく、諦めがちな奴を励ますムードが盛んだ、そして断言したいが「諦めがちな奴」なんてスタート時点でゾンビなので、それを励まそうと発想する側もたいがい所属としてゾンビだということを自覚するしかない。
おれは偉大なる成功哲学を展開したが、つまりおれは「アキレス腱や心臓や髪の毛の細胞が "成功" するのか?」「 "人" が成功するというのは錯覚だ、生身の水分やホルモンやビタミンがどう変動しても生きものが "成功" にはならん」と唱えた、成功という現象はいわば「成功口座」と呼ぶべき口座に振り込まれるのであって、人の口座に振り込みはされない、このことを誤解しているから逆に成功とまったく無縁になるのだ/「成功という現象(存在)はお月さんの向こう側にあるようなもので、人の手元に下りてくる存在じゃないんだよ、このことを誤解している人は、自分の手元に "成功" をガメようとして、必ず別のマガイモノにしがみつくことになる」「成功が存在していりゃ成功だろ、行方不明になる奴は成功の存在を捉えていないんだよ」「おれが何をしたって、お月さんの向こうに何か関係があるか? おれがガンバろうがハナクソをほじろうが、お月さんの向こうには何の関係もないだろ、そしてその無関係なところにずっと成功が存在している、そして成功が存在しているなら成功だろ、成功というのはもともとそういう性質のものであって、これは "無関係成功" と呼ぶべきだ」「お前と成功は関係ない、お前と関係があるのはお前の "成功願望" であって、成功そのものじゃない、結婚した人に結婚願望はないだろ? それと同じで、成功が存在している人は成功願望がない、そりゃ当たり前のことだ」。

「幸せは雲の上に、幸せは空の上に」(上を向いて歩こう)と坂本九が歌っているのは、幸せがそこに "存在する" という意味であって、手が届かないという意味ではない。

手が届かないという意味ではなく、そういったものはその場所に存在する事象だというだけだ、この事象が捉えられる人には幸せがガチで "存在する" のであり、この事象が捉えられない人には幸せが事実上 "存在しない" という、ただそれだけのことでしかない/そしてなぜ、幸せが存在する人と存在しない人があるのかというと、幸せが事実上存在しない人は、マガイモノを自分の手元にガメようという誤った発想を自分で正しいと信じ切っているからだ、マガイモノを信仰しているので正しいほうの事象を捉えられないで切り離される。
 "成功" という事象も同じようなところにあるものだ、だからおれは今これを書き話しているのだって、何一つ思考を巡らせているわけではない、プロットやら文体やら文脈やら、問題提起やら結論やら5W1Hやらは一ナノ秒も考えたことがない、おれは自分の手元の文章なんか見ていないのだ、おれはお月さんの向こう側にある無関係成功という事象しか見ていない、だから何をどうテキトーのデタラメに書いてもおれの文章は成功する、そりゃ成功は永遠に存在し続けているのだし、成功が存在するのだから成功してしまうというのはもはやおれの意思でさえない(おれの意思に無関係だ)。

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コロナ騒ぎは承認欲求チャンスじゃねえだろ37/新型コロナとやらを信じるな
急事態宣言は解除されたが、まだまだ油断のならない状況が続いている。
新規感染者数も、数日前ほどには極小の数字ではないし、かといって、緊急事態大爆発、というような大きな数字ではやはりない、パンデミックの数字としてはやはり極小の部類だ、こんなもんで一喜一憂してはならないし、そのたびに知事に詰め寄るというのも公的リソースの浪費でしかない。
おれはこういうときに信じている、というか、けっきょく行き着くところの一種のオカルトを知っている、これがオカルトなのかどうかはおれの知ったことではなく、ただ唱えるところは無害であるから、これについての疑義は一切受け付けないという感覚がある。
いわく、「自分たちのする防疫を信じろ」「新型コロナとやらはクソだから信じるな」ということだ、このことは一見矛盾しているような、あるいは唱える意味がないような感じがする、けれどもそうではないのだ、このことにはれっきとした思想があり、デタラメに言うなられっきとした〇〇がある(伏字にしておいたので一番ステキな熟語を入れること)。

新型コロナとやらを信じると、新型コロナとやらが調子づいて増えるのであって(オカルト)、せっかくおれが新型コロナとやらには「砕け散れ」と命じたのだから、今さらそんな敵方を信じなおすのはよくない、信じなおした奴まで一緒に砕かれるぞ、まあこんなもんオカルトと宣言しているのだから何でも言いたい放題だ、気分がいいな。
新型コロナとかいう奴は、ウソンコのゴミカスで一顧だに値しないが、おれはこの新型コロナとかいうインチキゴミ野郎のために消毒をしているのではなく、ただおれのする防疫を信じているだけなのだ、それがコロナ対策であってもなくてもいい、おれはただ自分のする防疫を信じるのであって、おれがそう言っているからにはお前らもそうするべきだ、自分たちのする防疫の確かさと栄光に比べれば、新型コロナとかいうのは海溝の底に住む「マッバラバエビ」と同じようなもので、「そんなものいません」というレベルのウソンコにすぎない。
寓話でよくある話、ドラキュラに抗するのに十字架が有効という話があるが、こんなもの、ドラキュラに対抗しようとして十字架を取り出す奴はダメなのだ、それは信じているものが十字架ではなくてドラキュラだからだ、「ドラキュラによって十字架を手にした」のだから信仰の対象はドラキュラだ、そんな奴が手に持つ十字架に聖なる力はない。
十字架を手にした娘に対して、ドラキュラがギャーというのは、その娘にとってドラキュラは「ウソ」であって、十字架が「ホント」だからだ、だからこそ十字架が力をもって勝利する/それと同じで、われわれにとってホントなのは防疫でなくてはならない、新型コロナによって防疫をするというのでは、信仰の対象が新型コロナになってしまう、そういうことをするとコロナとかいうインチキゴミカス野郎が調子づくのでよくないのだ、われわれが信じているのは防疫と治癒であって、新型コロナとかいうのは最初から最後まで「ウソ」にすぎない。

防疫はある、パンデミックはない。

今のところ、われわれ日本の生活風景を見てみろ、実際「防疫はある、パンデミックはない」だろう、これは "上手くいっている" ということなのだ、ここで防疫の継続と引き締めを行うために、さもパンデミックとやらの恐怖がホントのような言説を用いてはならない、安易なコロナ信仰をもって表面的に防疫を強化してはならない、ドラキュラの話でビビらせて巨大な十字架を買わせたとしてもそれはただのインテリアにしかならない、実際にそこにいるのはほかならぬドラキュラ教徒だ。
「防疫ジャパン」と「パンデミックジャパン」の、どちらがいいか、どちらを信じるかということなのだ、防疫ジャパンが続くということはパンデミックジャパンが否定されるということであり、防疫ジャパンが信じられるということが、新型コロナとかいうウソが自ら砕け散るということなのだ/建前上オカルトと言っておけば好き放題に言えるわけで気分がいいが、偉大なるおれさまが言い張るオカルトと、新型コロナとかいうインチキウソ野郎と、よりクソったれなのはどちらかね、そんなもん議論の余地もないだろう。  
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噛み合うべきことと、噛み合うべきでないこと
ういえば、おれが学生のころには、男が女にマウントを取るというようなことはなかった。
別の言い方をすれば、それは「噛み合っていなかった」のだと思う、おれの乱行ぶりが目の前の女の日々に勝るということについて、それが比較とか自慢の対象になるという感覚じたいがなかった。
女がおれに、「あなたはわたしに何をしてもいいの」と言ってくれる場合、それはある意味、噛み合っていないからで、マウントがどうこうとか支配欲がどうこうとかいう話ではなかった/噛み合っていないもののマウントを取ることはできない。
先日、「女性の脚はそんなところになかった」という話をして、現代の女性は交合において旧来の正常位を取れないということを指摘したが、それはある意味、現代の男女のほうが "噛み合っている" からなのだろう/おかげでおれだけはほとんど誰とも噛み合わないようなナゾの奴になってしまったが、もうここまでかけ離れるといっそスッキリしたもので、これはこれでなかなか悪くないと感じている。

かつて、そうして男女は、もしくは人々は、ある意味で噛み合っていなかったのであり、だからこそ、話が噛み合うということがよくあった。
現代はきっとそれが逆転しているだろう、マウント感覚では噛み合っているのだが、話は噛み合わないという感じだ、街中でダミ声で話している人々は、うるさいのに何の話をしているのか一ミリもわからない、きっと話している当人らもまったくわからないまま話しているのだろう。
マウントというのは、霊長類に近いサルがやるものであり、それは「識」という業(カルマ)の現出だ、どちらが上でどちらが下とかいう認識に取りつかれるというのが「識」、そしてそれしか見えなくなるというのが業(カルマ)という現象だ。
これは業(カルマ)の解発にすぎないので、呪術をほどこせば簡単にその状態は得られるし、それは解発なので、いったんフタが開いたものは基本的に二度と元には戻らない、神に祈りでも通じないかぎりは/黒くなり狂暴化したトノサマバッタは緑色の穏健なトノサマバッタには戻らないのだ、これは蟲毒の一種であって誰でも手元の箱で作れる、まあそんなことはどうでもよくて、おれは引き続き、誰とも噛み合わない奴で、ひたすらおれの話だけが何かと噛み合い続けているのだった。

清潔な布団に寝転がることを、布団に対して「マウントを取った」とは言わない。

つまり、おれが噛み合わずにきたというのは、同じ業(カルマ)にいなかったから噛み合わなかったということなのだろう、ネコが本気でネズミを捕まえるときの疾さに勝てる人間はいないが、そのことで人がネコにマウントを取られたとは感じない、所属する業(人間道と畜生道)が違うし、所属する因果も違う/マウントを制御されているのではなく、噛み合っていないからマウントうんぬんには「感じようがない」のだ。
おれはたとえば吉田松陰の光輝あるエピソードには「うおお〜」となるのだが、二十四歳の女がロールスロイスに乗っていることについてはいまいちピンとこない、噛み合わない、おれが切実に思うのは「で、助手席でタバコ吸っていいのかね」という小声だけであって、まあ噛み合っていない、おれは疑いなく喫煙できるヴィッツの助手席に乗るだろう/おれの「話」は光輝と幸福に噛み合っていて、ずっとそのことだけを続けてきたものだから、いつのまにか人とはまったく噛み合わなくなってしまった、そして逆に、今噛み合っている人々は光輝と幸福の話にはどうやっても噛み合わないはずだ。
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女性の脚はそんなところになかった2
き続き、生々しい話なので、苦手な人は読まないように。
世の中には、まだ若いのに、膣壁の中に石でも入っているのかというほど、性器が硬直してしまっている女性もいる/人の身体というのはてんかん発作やけいれんによって背骨が折れてしまうこともあるのだ、神経の具合で人の身体が思いがけず極端な状態になることはいくらでもある。
成犬になった野良犬を拾ってきて飼った場合、それがいかに人に慣れたとしても、人に撫でられたとき、生まれつきの飼い犬のようにはリラックスしないものだ、それはそれで元が野良犬だからこその表情の複雑さを見せることもあるのだが、とにかく生きものの身体というのは経験や精神によっていくらでも変質する。
単純に言って、たとえば昭和と令和では文化も思想もまるで違うのだし、人々の経験も精神もまるで違うのだから、昭和と令和では人の身体も違うのだ、たとえばわたしが学生のころは、宴会となれば老いも若きもオッサンはアホほど酒を飲んでいたように思うが、同じことを現代の学生がやったら本当に急性アルコール中毒になってしまう、それは根性の問題ではなく本当に身体そのものが違うのだ、身体そのものが違うので昭和のセックスと令和のセックスを同じように考えることはできない、昭和のセックスを土台に現代のセックスを「幸福な営みのはず」と設定することにすでに無理があるのだ。

現代の若い男性は、すでに陰茎の勃起について、いわゆるインポテンツとは逆の暴走的勃起を起こしている人が少なからずあるし、いわゆる「性癖」と呼ばれているようなものや、巨大化したバストへの貪婪など、いわば性機能の「不穏」を起こしている。
一方で女性のほうは、どう構えてみてもおそらく格闘技の「ガードポジション」が解けることはないので、ここおいて男女は、「異様化した勃起と貪婪がガードポジションの椅子を下から突く」というようなありさまにならざるを得ない/わたしはいちおう、身体の接触についても専門的な視力を持っているはずだが、アダルトビデオを見ても男女のあいだでぶつかっているのは性器ではなく「脚」だ、だからクライマックスに向けて「盛り上がる」というよりは「しんどそう」な無酸素運動が展開される。
多くの人は自分の魂が体験するものをそのときごと明視する能力を持たないが、つまりこのような状況では、若く青春の環境にあるはずの男女が、無垢に交合してみようとしても、その二人は思いがけず深い闇を体験することがあるということだ、片側は呪われて解けようのないガードポジションで、片側はすっかり異様化した勃起と貪婪を、相互にぶつけあうのだから、逆に直視できないほどの深い闇を若い二人は相互に目撃してしまうことがある、そうすると二人はそれぞれ自分を守るためにまた不穏な行動への強度を高めねばならなくなる(詳細は割愛)。
わたしが現時点で考えていることは、すでにこの状況において、各人が己にかかっている呪いと向き合って解除するということは、実際的に不可能だということだ、もちろんそれをわたしが次々に解除してやれるというような虫の好い話でもない、そうではなく/極端に深刻化した呪いの状況であるけれども、あえてその呪いに外科をほどこすのではなく、まずは何かしら幸福を直接「目撃」させてやるしかないと考えている、それは幸福の獲得でなく目撃なのだが、この目撃を厳密にコントロールしてやることで、呪いとやらが自ら解除されていくということがあるのだ、そのとき本当に身体の神経や精神の奥底に、呪いの解除と呼ぶべき現象が起こるのだが、そのとき何が起こっているかをいきなり視認できる人はまずいない、多くの人(というかほぼ100%の人)は、自分にどのような呪いが掛かっていてそれがどのように解除されたのか、何一つわからないまま解除だけ得ていくものだ。

体つきが変わるまで、幸福を「目撃」せよ。

幸福を、獲得しにいこうとするとダメなのだ、身体に直接呪いが掛かっているので、獲得しようとしたそれは必ず弾き飛ばされるというか、ブロックされてしまう、この身体の具体のこと、簡単にいうと体質や体つきということになるのだが、これが変わるまではあえて厳密な「目撃」に留めることが有効なのだ、焦って幸福を獲得しようとするとむしろ逆に呪いの増大が起こりかねない/そして、呪いを吹き飛ばすだけの幸福を直接「注入」すると、呪いは確かに砕け散るのだが、それにくっついて当人の精神も砕け散ってしまう、つまり本当に精神を損傷するのでもうこのことは禁忌になった。
ヘンな言い方になるが、ここまで呪いが各人の具体に深く突き刺さっている状況を考えると、もう個人としてそれに対抗していく方法なんて存在していないぞ、そこでまるで湯治のようにおっくうな方法だが、本当の幸福を直接「目撃」して、そのうち呪いが剥がれ落ちてしまうことを積み重ねるのが先だ、このことは安直に「目撃療法」みたいな呼び方ができると思うが、こんなのんきな方法だって、その「目撃」をどのように取り扱うかについて厳密な指導とコントロールが要る。
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女性の脚はそんなところになかった
廉恥で生々しい話なので、苦手な人は本記事を読まれないよう。
以前からナゾに思っていることがあり、最近いよいよ確信めいて感じるのだが、男女が交合するときのいわゆる正常位と呼ばれる形、あの形が変化している。
十五年前、正常位といえば、男性が女性の「腰」を持っていたことが多かったはずだが、今は女性の「脚」を持つことがほとんどになっている。
それはアダルトビデオを観ていても確認されるのだ、誰もこんなアホみたいなことを研究はしないだろうが、おれは「???」と思っている、おれの知るかぎり「女性の脚はそんなところにない」はずなのだ、今ある正常位は旧来のそれとは違って、いわゆる総合格闘技の「ガードポジション」に見える(またそう見えるだけでなく実際にそういう体勢なのだ)。

この十五年で、ホルモンバランスの変化から、骨格・体つきが変化したのだろうか? この現象は年齢にはあまり関係なく起こっているように見える。
骨格そのものが変わったか、あるいは、身体の深部感覚が変化して、旧来の形・体勢は取れなくなったのかもしれない/この「女性の脚はそんなところになかった」問題は(別に問題ではないが)、たとえばバレエダンサーのような身体の柔軟な人でも起こっているので、そういう単純な身体性能によるものではない。
総合格闘技で言えば、ガードポジションは「マウントポジションに移行されないよう」に相手をキックし、かつコントロールするための体勢であり技術だが、現代人は生死マウントの本能が解発されてしまったため、もうガードポジションとしての正常位しか取れないのかもしれない。
現代人の性交が本質的に愛も幸福も帯びていないことは今さら仕方のないことだが、のみならず、すでに男の身体と女の身体が「合う」「馴染む」ということさえ、呪いは奪っていってしまうらしい、まあそれは呪いなのだから当たり前といえば当たり前だが、これはまた性交を通して新たな呪いを生み出してしまうし、単純にいって致命的なDVが発生する根源にもなるのだ、何の愛もなく性欲だけで交合だけを続けるとこういうペナルティが課されるらしい。

旧来、男女のあいだに「脚」が挟まることはなかった。

旧来は、性器と性器というより、胴体と胴体が直に密接していたのだが、現代ではもうその形態は得られないのだ、胴体と胴体のあいだに女性の「脚」が挟まる形にどうしてもなる/そして「脚」が挟まるので、それがブロックになり、男性は自然に女性の腰に手を添えるという形がとれない、こうして現代のセックスは事象的に「脚のあいだにねじ込んでいる」という状態になっており、男女の胴体が直接交わるという旧来のそれとはまったく異なる感覚・性質のものになっている。
この呪いは、本当にヤバいぐらい深いレベルの呪いであり、ふつうの人が解除できるようなたぐいではまったくない、無理になんとかしようとすると逆に危ないので、無理にそういうことは考えないほうがいい(ホントに無理です)、逆に流血沙汰になってしまう/このことがあって、「どうせ男女でも胴体が適合しないのなら」ということで、同性愛へ転向することになった人も少なからずあるのかもしれない、またセックスに何らの愛も幸福も感じられず「負担」ばかりを感じる人もそれだけで異常ということではすでになくなっている(実際、ガードポジションで激突することは肉体と神経に強く「しんどい」と感じられる)。
えっちはいいよな | comments(0) |
No. 404 文体は友人だ世界だ、恋人だ花だ

掲題のコラム、本サイトにアップロードしました。


No. 404 文体は友人だ世界だ、恋人だ花だ

――人々は文体を探す長い旅に出なくてはならない。


よろしくお願いします。
九折

本サイトコラム | comments(0) |
フォルマリズムとすさまじいものはこちら
川たかしが歌う「津軽山唄」がすさまじい(前編はこちら)(後編はこちら)/なんというか、もう鬼神がかっている、こんなシロモノを説明できるボイストレーナーは世界に一人もいないはずだ。
すさまじいと言えば、おれはボブディランのアルバム Desire のLPレコードを持っているのだが、その中の「ハリケーン(Hurricane)」の音がすさまじすぎる、なぜこんな「音」が録れたのだろう? 何回聞いても不思議だ、とにかくすんげえ「音」だ/スピーカーとの相性もあって、アナログだと特に音が「飛び出てくる」ように聞こえることはしばしばあるが、「ハリケーン」については異常だった、音が飛び出してくるどころか物理的に「ギター」が飛び出してきたように錯覚してウオッと実際にのけぞったほどだ、これは録音機材の品質から生じた現象ではない。
他にすさまじいもの……といえば、まあいくらでもあるが、毎回メタルの話をしているとアホみたいなので、今回はふとビリージョエルのエンターテイナーを思い出そう、クライマックスに向かってピアノを弾き語る形になるのだが、こんなものをフツー弾き語りとは言わねえ、通常の感覚だとこれは「誰がピアノ弾いてるの?」となるべきであり、この歌っているヤツがピアノを弾いているというのはウソでなくてはならない、技巧とかそういう次元のことではなく、「そんなふうには演奏できない楽器のはず」と首をかしげてしまう。
あとはテキトーに、バックハウスのベートーヴェンでも貼り付けておくか、「月光」の第三楽章は誰が弾いても忙しいことで有名な曲のはずだが、何かコイツはおかしい、どうしても何か「アンサンブル」を聴いているような錯覚を起こす、右手と左手で演奏しているという感じじゃない/まさかのまさかで優雅に弾きこなすので、ベートーヴェンのデロデロ感がなくなり、ベートーヴェンを誤解させるような演奏になっている、あるいはわれわれがベートーヴェンを誤解しているのであってコイツの認識のほうが正しいのかもしれない。

今さらになって思うが、おれはたぶん「音楽」が好きじゃないのだ、いわゆる一般に音楽と認識されているものに、おれは何ら反応していないのだろう。
おれは若いころのビリージョエルそのものが好きだが、別に音楽が好きなわけじゃない、おれにとっては「音楽」というような分離したシロモノは、けっこうヘヴィな「負担」にしか感じられない/おれは正直者のボブディランが大騒ぎしているのが好きだが、「音楽」については何をどうこうと思ったことはない。
たぶんおれは、そうした「芸術」と呼ばれる一切のことについて、驚くほど "センスがない" のだ/おそらくおれはセンスがなさすぎて、すべてのことを「おっ、またやっているな!」としか見ていないのだと思う、だからおれの書いているこのナゾの文章記事も、何らセンスのシロモノではなく「またやっている」というだけでしかない。
ありとあらゆる「芸術」と呼ばれるシロモノ、そうしたセンスに関わるシロモノは、おれにとって「負担」でしかないのだ/おれにとって「音楽をやっています」という人は、たとえば「セックスをやっています」と言ってはばからない男女ぐらい、何か見せられても不明の負担にしかならない、おれには細川たかしが「民謡をやっています」とは見えないし、マイケルジャクソンが「ダンスをやっています」とも見えない、おれにはそれぐらい "センスがない" のだ。

突然だが、コンテンツ派とフォルマリズム派がある。

突然だが、実はおれは今いろいろあり、巨大な知見を得ているところで、この先を切り開いていく大きなステップに立ったところなのだ、おれはやはり百年前から始まった文学思想、ロシア・フォルマリズムの徒であり、その当時から超意味言語等々、うさんくさいことも言われていたのだが、そのことの本当の解答にたどり着いているのだ、フォルマリズムとか異化とかはそっち方面の人がいくらでも詳しそうにしたり顔で言うが、けっきょくほとんどの場合誰もわかってねえし視えてねえ、おれは百年前から唱えられてグズグズになっていった思想とナゾに対してついに正解を提出する者なのだ、いやあさすが偉大なるおれさまはモノが違うぜ。
フォルマリズムとは「内容じゃなくてフォルム(形式)じゃね?」の思想であり、ロシア・ヨーロッパで問われたこの思想は、西洋人の手ではうまく解答できなかったのだ、その点おれは東洋人だし、フォルムといえば「型稽古」の行き着く先を知っている、西洋的発想ではどうしても「内容に行き着くために型の稽古があるんでしょ?」としか思えないだろう/まあ何のこっちゃわかるわけがない話だが、おれは内容(コンテンツ)が "負担" でしかないという話をしているのだ。
視点変えてこ | comments(0) |
才能と「頭に入らない」の関係
とえば、「サルトルは、対自存在を対他存在に沿わせていく合意のことをアンガージュマンと呼んだ」「ただしそんな理論はおれから見るとカス以外の何物でもない」と言ったとすると、多くの人は、こんなことが何を言っているのかよくわからないのだ。
老人にオンラインストレージの話をしても頭に入らないだろうし、女子大生に五箇条の誓文の話をしても頭に入らないのだが、それは興味がないからではないし、知能が足りないからでもない。
実はこのことは、「自分に才能があると思っているから」という、思いがけないファクターから起こっている現象だ、根っこで自分に才能があると思っているから、脳みそは傲慢かつ横柄になって、もう動こうとはしなくなる、このように才能と「頭に入らない」は同居する現象として関係している。
おれはおそらく、平均よりはいろんなことを細々知っているたちで、現在でも割と新しく聞いたことがバカスカ頭に入るタチだが、これは単に頭がいいからではない、根本的に自分に才能がないと思っているか、あるいは自分の才能なんかアテにしていないから起こる現象だ、脳みそが骨の髄から「いろいろ知らないとなあ」と焦っているのであり、それは自分の才能なんかをアテにして人並みにはなれないと確信しているからこそ得られる活性なのだった。

たとえばここで、「未必の故意と必然性のある偶然って何だっけ? 誰かレポートしてくれ」と数人に向けて言うと、自分に才能がないと思っている人は「おれがやらなきゃ」と自動的に思うもので、自分に才能があると思っている人は「わたしがやることじゃない」「他の誰か、得意な人がやってくれるだろう」と自動的に発想するものだ。
だから、たとえば現代の、お笑い芸人の養成所NSCあたりで、「おい誰かレポートしてくれ」と言ってみても、法学部でも出ていて既知でないかぎりは誰も調べないだろう、それは若い全員が「自分には才能がある」と思っているからだ/だからそういう人たは、けっきょく何も知らないまま生きてゆき、たどり着くところ「話が面白くない人」になるのだ、たぶんそういう人たちは、「だれか古典落語の "しじみ売り" を一夜漬けでやってみてくれ」と言っても、反射的に「自分のやることじゃない」と発想する、そういう人たちは誰かにじきじきに「お前がやれ」と命令されるまで自分から何かをするということがない。
いわゆる受け身の、「指示待ち人間」がこうして出来上がるのだが、こうした指示待ち人間タイプは意欲が足りないのではないし、能動性がないとか「自分」がないとか、そういう問題ではないのだ、根底で「自分には才能がある」という前提を抱え込んでいるので、これによって脳みそがいっさい能動的にはたらかないという状態であり、これに対する解決法や治療法は存在しない、たまたま自己治癒する奴が勝手に自己治癒していくだけしか解決のパターンはない。
典型的に、たとえば女子中高生にニュートン力学の話をしても、何一つ頭に入っていかないと思うが、これは女子中高生に物理アレルギーがあるわけではない、彼女らが反応を起こしているのは「自分には才能がないという前提に立つ」ということに対するアレルギーなのだ、そういうことなら「アレルギー」というのも納得がいくだろう、女子中高生は無条件で秘められた自分の多大な才能だけを全能の神のごとく信じている/何かが頭に入るとか、自分から何かをやるように発想するということはすべて、「自分には才能なんてある気がしないし、もしあったとしてもアテにする気はしない」という前提でしか機能しないし始まらないものだ、いわゆるそうした怠慢なオクテの人は、オクテで沈滞しているように見えるが、その底は違う、その底には猛然たる「自分には才能がある」という不動の前提が神聖不可侵の王城としてそびえたっている。

真相は「タレンテッド・パッシブネス(才能ある受け身)」だ。

たとえば、クソニュースに対して嘆きのツイートを垂れ流すのが習慣になっている人たちがいるが、本来そうしてクソニュースに嘆きの口上を発して市井に響かせるというのは、玉座の主がやることなのだ、根っこのところで自分には才能があり自分を選ばれた存在のように信じているから、そんなわけのわからないことをしている自分に違和感がなく、また自分としては「このポジションが心地いいの」と平気でのたまったりする、これがシャレじゃなくガチガチのガチなのだから直視すると胃の腑が冷えるところがある。
誰もゴッホに初頭物理を学べとは言わないだろうし、アインシュタインにポスターのデザインをしろとは言わないのだ、安室奈美恵に対して「佃煮の作り方も知らんのか」とは言わない、けれども往々にして、安室奈美恵さんのような人のほうが、活性が高くて「勉強して佃煮を作ってきました」みたいなことをしれっと笑顔でやりかねないところがあり、そうなるとタレンテッド・パッシブネスの人々は内心でヒェーと震えながらもそれ以上の才能を前提にしなくては成り立たなくなるが、それは事実上なかなかキツいのだった/タレンテッド・パッシブネスは、多くの人にとって自分のナンセンスを防衛する唯一で堅固な防壁だと思うが、それはきわめて強力であると同時にきわめて無謀な策でもあるのだった。
正しく見ないとな | comments(0) |
目撃しているものは炎上ではなく高齢化だ

ラスハウスという番組で、炎上騒ぎがどうたらこうたら、そしてメンタルを落ち込ませたある女性が自死してしまったとかで、ニューストピックを見せつけられる/しかも正直、自死の哀しみを政治的強みとして使いまわそうとする勢力があるようで、いよいよこりゃ付き合えそうにないという酸鼻な様相を醸している。
おれはニューストピックを観て「?」となり、その後何度もトピックが出てくるので「???」となったのだが、いくつか記事を見てみても、なんだかよくわからなかったのだ、今このときも巨大な違和感に困惑している/何に困惑しているかというと、なんというか「時代錯誤感」だ、今このときもおれが何か誤解しているのかという気がしてきてふわふわしてしまう。
何というか、そういうテレビ番組の、リアリティ・ショーみたいなものを観て、視聴者がやきもきする……というようなモデルは、気恥ずかしいほど古い感じがして、どうも現代の、今このときの話を聞いてる気がまったくしないのだ、いくらなんでもモデルが古すぎるだろう。
もしおれの友人が、「テラスハウスでさぁ」みたいなことを話し出したとしたら、おれは反射的に「はぁ?」とデカイ声で困惑を明らかにするだろう、「今どきそんなことに関心が湧くやついねーだろ」とおれは思っていたのだが、これはおれがズレているのだろうか、おれとしては「いくらなんでも古すぎる」と確信しているのだけれども、これはおれがズレていて現代は今リアリティ・ショーでやきもきして炎上というのが最盛期なのだろうか、そんなタイムスリップ的な現象が本当にあるのか。

もちろん、どんな事情か詳しくは知らないが、どなたかが悲嘆の末に自死されたということは悲しいことだが、かといっておれが自死しても誰もそんなもん悼まないだろうから、完全に蚊帳の外のおれが他の誰かの自死を悼むというのもわざとらしくていかがわしい話だ/今さらそんなことを気にする奴がいるとは思えないし、こういう文脈もすでに巨大な時代錯誤感を覚えている。
なんというか、おれの中では、「テレビのリアリティ・ショーでやきもきして炎上」というモデルは、時系列的に「ニコ生で若い女性が裸になってBANされた」とか、「江南スタイル」とかぐらいの時代にあるのだ、それをまるで今現代のことのようにニューストピックが言うので、本当に単純な意味で困惑してしまった。
たぶん「炎上」といっても、すでに炎上という現象そのものに鮮度がなさすぎ、もうそういうフェーズは本質的には終わったのだと思っている、まして今は世界中が未だパンデミックの真っただ中だ、おれ自身は率直なところ、もし友人が炎上だの何だののことに関心をわずかでも割いていたとしたら、重度の警告として「時代からズレすぎ」と、たしなめるというか切り捨てるだろう、もはやそんな友人を仮定するのにも無理があると感じられるのが正直なところだ。
テレビ局はいつのまにか、誰ともコンセンサスを形成しないまま、なぜか「テレビにヤラセはつきもの」というナゾの理念を確信に持ち続けているようで、何がどうなっているのかはたぶん当事者たちも見失っているのだと思う、ヤラセでしか面白いふうのものを作れなくなったというのは単純にいって制作側の敗北でしかないはずだが/まあとにかく、やはり今このときも、「今どきテレビのリアリティ・ショーでやきもき炎上はないだろ」と、どうしようもない時代錯誤感だけがあるのだった、これはおれがズレているのだろうか、もう何だか本当にふわふわしてわけがわからない。

テレビ局はヤラセのたびに、スポンサーにヤラセの許可を取っているのだろうか?

ヤラセの許可を取っていないのだとすると、スポンサー側としては勝手に看板に泥を塗られるのだから問題だろうし、許可を取った上でヤラセがガンガン押し通っているのだとすると、それもやはり問題だ、スポンサーはたいてい社会的な企業であっていかがわしいヤラセの片棒を担ぐ存在であってはならないだろう、スポンサーはやはり「おっ、ヤラセ企業さんだ」という扱いを定評の看板にすることは責任も誇りも失うことだと考えるだろう、このあたりも逆におれがとっくにズレているのかもしれないけれども/まあ別におれはおれ自身からズレなければいい。
ふと、ひとつ納得できる見方が浮かんできて、それは「制作側も消費者側も高齢化している」という見方だ、なんとなくそれならすんなり納得がいく、高齢化を前提にすればいつまでもそうした「リアリティ・ショーにやきもき」というモデルは、水戸黄門モデルのようにえんえんと繰り返されていくのかもしれない、すでにわれわれが目撃しているものは炎上ではなく高齢化だ/この場合の高齢化というのは、単に年齢のことだけを指しておらず、たとえば今どき大学生がヤリサーなんかに興味を持っている話を聞くと、なんだか急におじいさんの話を聞いているような感覚になってきて番茶でも淹れようかなという気分になるということがある、「今さらヤリサーとは懐古主義的ですな」と、こうしてわれわれはこれから先、高齢化独特の精神風景を見せられ続けるのかもしれない。

視点変えてこ | comments(0) |
品質は力だ、ゆえに品質は邪悪になる
質の低いものは100円で買い取られ、品質の高いものは1万円で買い取られる、ゆえに品質は「力」だ。
そして、空っぽの人間に武力や権力を与えたときに、その邪悪が正体を現すように、何らの聖も美もないところに「品質」だけがあることは、ただちに邪悪を生じる。
何らの聖も美もない女が、ただ品質的に美女だったとして、その品質は力となって邪悪の正体を現す、ここに高級な機材をあてがって品質だけが高い映像や音声だけを生産させると、それはより際立った邪悪となる。
現代のアイドル・ミュージシャンの舞台や衣装、撮影機材やPA機材は、ディープパープルやジェームスブラウンが立った舞台や着ていた衣装や使っていた機材よりも高級だ、そうして高品質ゆえの力と、その邪悪が正体を現している/人類のテクノロジーや生産技術の向上は、基本的にこの「品質」の向上でしかなく、聖や美の向上ではもちろんない。

品質の高さそのものが悪いわけではない、一般にいって高品質のもののほうが低品質のものよりも優れているのは誤りでない。
ただ、あくまで品質という「力」は、それを上回って支配する聖と美があって制御されるのであり、つまり優れた飼い主のもとでなら勇猛な犬は秩序とよろこびの一翼となるが、劣った飼い主のもとでは獰猛なだけの犬となりただ血のむさぼりだけを生じる。
柳宗悦を第一人者として知られる民芸運動などもこのことの一で、いわゆる上手物がしばしば品質だけの邪悪なものになりうることを看破し、そうではない低品質のそれにこそ聖と美の本質が現れるとした。
低品質といって、使用に不便と不快までもたらすのであっては、それは低品質というよりゲテモノに及ぶと思うが、そうではない清潔な低品質に聖と美の本質が現れるというのは明らかだ、黄金の宮殿というのはしばしば典型的な伏魔殿であり、その品質ごときが、青春の六畳間アパートの聖と美に及ぶことはほとんどない、聖と美の極みにある者が黄金の宮殿に住むことは善いことだが、ほとんどの場合そんな例は成り立たないと考えてよいほどなのだ。

品質は力であり、聖なき力は邪悪であり、人々は今「邪悪を張って自分を守る」のを本能にしている。

何の聖も美も面白味もない者が、億の衣装を着て億の高級車に乗り億の撮影をして億の加工を施し、さらには億の身体トレーニングを積めば、ただその品質の力によってすべてを押し通せるのだ、これが人々に邪悪をもたらすのみならず/むしろ人々は自分もそうした品質邪悪の力を振り回せるようになりたいとこころの底から望んでいる。
なぜ品質邪悪の力をこころの底から望んでいるのか、それは、いよいよ聖や美や面白味といった本当の清潔な美徳が、自分の身には一切得られないという確信があるからだ、その絶望の中で執念深く、品質邪悪の力があれば自分もすべてに押し通ることができると夢見ているのだ/その夢想はきっと、自分の本質的絶望を直視できず、その絶望に直面できないという苦しい弱みから起こっている。
正しく見ないとな | comments(0) |
(一般的な)現実をなんとかしようとすることと、神話が何かをするということ
(一般的な)現実を、人がなんとかしようとすること、このことは一見重要に見えるし、いわゆる事実として重要だろう。
だが、(一般的な)現実をなんとかしようとすることは、一見重要そうでありながら、またそのようにも確信させながら、その現実をなんとかすることで、けっきょく何も得られはしないということに行き着く。
(一般的な)現実を変形したところで、得られるのはやはり変形された(一般的な)現実でしかないということだ、それはわれわれにとって厄介ごとの解決やより洗練されて品質のある一般的現実の向上をもたらしてくれるように、錯覚ないしは確信されるけれども、やはりそれらの錯覚の蒸発したのち、「何も得られてはいない」ということが明らかになる。
ここにおいて、(一般的な)現実からスタートして、それを求める方向へ変形するという発想、それじたいがもはや何も得られないと初めから定義されているということになる、この方法は初めから根こそぎ誤りなのだ、指一本を動かすのすら、一般的現実としての「指」の具体をどのように動かしたとて、何も得られないのだ、一般的現実から何かが始まることや何かが得られることは一切なく、これは物事の順と逆を取り違えているのだ/ただしこの思い込みは現代においてすさまじく強固で、わたしのちょっとした説明が誰かの蒙を啓くということはまずありえない、これは説明しても視認されようがないぶっとびの事象について述べているのだ。

そうではなくて、「神話が何かをする」ということであって、「(一般的)現実をなんとかする」ではないのだ。
人は、特にわれわれ現代人は、一般的現実を曲げに曲げて、上等に加工しつくして、それを神話に持ち上げようと発想し、そのことを努力や鋭意と捉えているのだが、そうではないのだ、「神話が一般的現実を無視して何かをする」のであって、この逆はない、神話が一般的現実を無視して下りてくることはあったとしても、一般的現実が上昇して神話に近づくことはない。
だから、一般現実的な「音」をどのように加工してもそれは音楽にも演奏にもならないし、一般現実的な具体、たとえは女性器を男性器がファックしたとしても、それは愛にもセックスにもならないのだ/そうではなく、音楽なら音楽の、性愛なら性愛の、神話が一般的現実を無視して下りてくる必要がある。
なぜここで執拗に、「一般的現実」と、現実についての冠詞のように "一般的な" という但し書きがついているかというと、わたしの知るところ、一般的現実というのは公平に観て実は「現実に該当しない」からだ、正しく現実を言おうとする場合、神話的現実を「現実」と呼ばなくては、現実そのものに対する曲学になってしまう/現実とは神話的現実のことを言うよりないのであって、愚物のわれわれが誰でも主張しうるような安っぽい実感の根拠によって「現実」などと言い張れないのだ、われわれにあるのはただの「一般」に過ぎず、われわれは<<現実なんて上等なものには一度もお目見えできない>>。

現実はただひとつ、神話的現実のみだ。

われわれは、現実ではまったくないただの「一般的な」と言いうるのみの、思い込みの粘った団塊を根拠にして、さも「現実についてはよく知っているぞ」という、まるで現実についての権威のように振る舞う、これはつまり傲慢であって、傲慢さに対する罰が下されるのだ、その罰こそ「努力して何にもならない」ということ、身を焼きながら信じようとした何かひとつさえも得られないということに他ならない。
時代の情報化が進み、人々は進歩しているように見え、さまざまなことの成績は上がっていくように見えるが、そうではない、彼らは誤った現実「一般的現実」に詳しくなっていくのみであって、何ら本来の現実に触れたことはないまま、逆の行先へ、遠く遠く行ってしまうのだ、彼らは航海の権威のように自ら旗を立てて徒党の艦隊として往くのだが、彼らの表面的な勇ましさの行き着く先は初めから視えているとおり「何もなかった」なのだ、それでも引き取れないエセの権威だけが残ってしまった。
正しく見ないとな | comments(0) |
コロナ騒ぎは承認欲求チャンスじゃねえだろ36/梅雨前ドキドキトライアル
日、首都圏は緊急事態が解除されるだろうか、おおむね解除されそうなムードだが/わたし自身の個人的な防疫の体制は、むろんしばらく継続していくつもりだ、なんつーかすでに慣れたし、この解除だってけっきょく「どうなるでしょう」というドキドキトライアルには違いないわけだから。
いちおう、引き続き日本の感染者数の動向と、ちらちら海外の状況もウォッチしている、海外はまだまだ悲惨な状態だ、「インドとブラジルで急加速」「ヨーロッパは力ずくで勢いは下げたが延焼中」「アメリカはまだまだフルスロットル」「東アジアはだいぶマシ」という感じで、世界の感染者数は500万人を超え、死者数は30万人を超えている。
アビガンはどうなったか? 今のところアビガンは、やはり期待はされているが「どうにも効果がハッキリしない」という状況だ、レムデシビルのほうは「一応効く」というすでに確定扱いの模様、そしてイベルメクチンは「これから」というところ/だがどの薬にしても今のところ劇的に特効を見せるというほどではない様子だ、「薬があるから大丈夫」というほどの心の余裕までは与えてもらえない見込み。
ワクチンはどうなったか、引き続き九月に実用を目指して進んでいるらしく、状況に変化はない、とはいえ九月に供給されるとしても外国メーカーのものが第一に日本に回ってくるわけではないだろうので、日本メーカーも追随してもらわねば困るところ、ワクチンの製造については日本はかなり出遅れている状況だ、といって日本のパンデミックはホットスポット諸国から見ればまったく冗談みたいな数値ではあるが。

日本のコロナ騒ぎが驚くべき小ささに収まっているナゾについては、いくつか新説も出てきている、ひとつには「どうも過去の、他のコロナ(ふつうの風邪コロナやいつぞやのサーズ騒ぎ関連の)ウイルスで、日本人はすでに免疫を持っているくさい」という説、もうひとつには、「今年の一月ごろに、新型コロナの弱毒型が先に蔓延していて、それが免疫を作ったっぽい」という説だ、後者はつまり、中国に対して入国制限をするのが遅れたせいで、逆に「弱毒型の輸入に成功したのではないか」という説ということにもなる/もちろんホントかどうかは誰にもわからない、ただいちおうそれぞれ東大や京大のマジメな先生たちがレポートしている説だ。
引き続き、「BCGの日本株が訓練免疫をもたらしていたのだ」という説も、なかなかの説得力というよりは魅力を放っている、たしかに日本株のBCGを入れた国はずいぶん助かっているという相関関係が見えるからだ、ただしそれが因果関係なのかどうかはわからない、この説は魅力的だが単純に「調べようがない」のでずっと宙ぶらりんでいくのだろう/ただ最近になっていよいよ、日本人はもともと清潔好きとか社会的距離が遠いとかいう説はあまり言われなくなった、やはり「それだけの理由でここまでは抑制されんだろ」という感触を覚えるのだと思う。
今のところ、誰も抗体検査や抗原検査に興味はもっていないと思うが、実態を調べるのにはいい方法のはずで、手続きは進行しているのだが、何かそちらの検査のほうは、得られる数値が「???」だったり、どの企業と役所がどう企画するのかまるで見えない状況で、何かグズグズになって先延ばしになりそうな感じがある、まあ先の説のように「別の機会にすでに抗体ゲット済みです」という人がいるのだったら抗体検査なんかしてもわけのわからないデータを得るだけだ/なので、そっち方面はしばらく放置プレイが続く気配。
あとはもう、タイトルから何度も言っているようなことだが、コロナ関連の記事やニュースを作ろうとする人々が、もう状況が成熟してしまってネタがないため、なんとかして目を惹くようなトピックを作れないかということで、すでに刺激的なネタを提供してくれるだけのインチキ教授でもいいから見つからないかなと探し回っている気配がある、大学で理系だった人は一部知っているかもしれないが、そういうテキトー記事に協力して小銭と承認欲求充足を稼ぐ教授というのはけっこうあちこちにいるのだ/というわけで、コロナ禍は未だ甘く見られない状況だが、一方でコロナの「ネタ切れ症候群」が蔓延しつつあるのでそのことにも警戒していこう、うーんおれとしたことが割とまともなことを言ってしまった。

(緊急事態は解除されるのに、高校野球は中止なのか……?)

どういう判断だったのか知らないし、その判断はこころを尽くしての結果だと信じてはいるが、高校球児の夏が突然なくなるというのは本当にかわいそうだ、特に三年生にとってはいわゆる最後の夏になるわけだから/今しばらく中止の判断は保留したほうがよかったのではという気がしてならないが、まあおれがこころを痛めるていどなんかアテにしてもしゃーないし、なんというか、逆に夏になって「高校野球やれたじゃん」みたいな言い方が出回らないように祈りたい、それはコロナ禍が続けという意味ではなく。
というわけで、まあ引き続きナゾばっかりの状況ではあるが、おれは3月30日から新型コロナうんぬんについては「梅雨ぐらいになってから考えればいい」と言ってきたわけで、それがいよいよ現実味を帯びてきたという感じだ、まあだいたいわれわれの危機感なんてものはこうして後日から眺めればただの右往左往ってもんよ/加えて4月28日に、おれが新型コロナとやらに「自ら砕け散れ」と命じたので、その結果こうしてみるみる日本のコロナ禍は縮小していったのだという、蓋然性の高い説を唱えておこう、おれは漠然と今の防疫体制をしばらく続けて様子見するが、今さら防疫のわずらわしさなんて、涙をのんだ高校球児たちの悲嘆に比べればささいなものでしかない。
コロナ騒ぎ(臨時) | comments(0) |
歌声は歌の声、視界で踊れ
ーたわけのわからない話かよ……まあしゃーない、書いておかないと自分で忘れる。
歌声といって、人から歌声が出ているのじゃない、人から出ているならそりゃ「人声」だ、そうではなく「歌」から声が出ているから「歌声」という。
われわれはなんでか、物理の成績は悪かったくせに、認識は観測可能な物理に限定しようとする、それは単に自分が「ペケをつけられたら恥ずかしい」みたいな感覚に過ぎないだろう、まあそのことはいいとして/人(の声帯)から声が出るというどうでもいい話なんか忘れてしまっていいのだ、われわれは歌から声が出るというような、つまり人ならざるものから何かが出ることに前もって否定的な気持ちがある、まあおれにはそれはないので別にいいのだ。
歌というシロモノから、なぜ声が発されているのかはナゾだ、もちろんその声は人体を通さないと音波としては出てこないのだが、人体の声帯から音波が出るからといってそれをどう加工してもそれが歌声になることはない、「歌の声」というのが先にあって、ただこの「歌の声」というのが物理的でないだけだ、この物理的でない「歌の声」が、人体を介することで聴覚インターフェイスに適合するようになるというだけだ、その「歌の声」なしに人体の声帯をグニグニしたってそんなものは歌声にならない。

おれはダンスについてはまったく造詣がないが、なぜか知らんが「ダンスは視界で踊れ」というナゾのメッセージだけを受け取っている。
ナゾのメッセージというと、オカルト好きが誤解するかもしれないので訂正しておくが、「なぜか知らんがそんな気がしてしょーがない」というだけだ、当たっているか外れているかは知らん/が、おれが外すといえばダーツの的ぐらいで他のすべてのものはズビズバ当たるだろう。
それだって、先の歌声の話から敷衍すれば、歌に声があるから歌声というように、ダンスに動きがあるからそれをダンスというのだろうな、人が動いてダンスになるわけではなく人ならざるダンスのムーブというのが先にあって、それを人体に介すると視覚インターフェイスに適合するという、たぶんそれだけのことだろう。
おれはダンスにはまったく造詣がないのだが、これはなんとなく、音楽を耳で聞いてそれがダンスにつながる「というわけじゃないよ」という何かのメッセージだと、勝手に思っている、だからといって何をどうしたらいいのかはわからんが、メッセージといえばこのことを「解き明かせ」というメッセージもくっついているのだ、そしてそのメッセージというのは、「なぜか知らんがそんな気がしてしょーがない」というだけで、おれのそうしたものはいつもズビズバ当たるのだった、まあ言うだけならタダだからな。

おそらく人の表現というものは存在しない。

さしあたって、おれがこうやって今書き話しているナゾの文章にしたって、これはおれの表現というわけじゃない、「おれの表現」みたいなシンドイことはおれは決してやらないだろう/自己表現なんてナゾの言い方があるが、おれの場合は自己表現などしなくてもおれの自己は完璧でハッピーダイナマイトであるから、そんなものをヨソに表現して見せびらかさねばならないような動機はおれにはない。
「視界で踊れ」というのはこれまで考えたことがなかったな、まあでも確かに、真っ暗闇で踊るというのはないのだ、真っ暗闇だったら何も見えないもんな(当たり前)。
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言霊と呪、呪量の革命
の世に向けて発された語は何であれ「呪」にしかならない。
十数年前から、大量の掲示板やコメント欄やレビュー欄、ツイートが電脳通信上であり、炎上あるいはリツイートで「バズる」ようになってくると、「人の世に向けて発された語=呪」の総量はテクノロジー的にアンプリファイ(増幅)されることになる。
これは呪力というよりは「呪量」と呼ぶべき現象だ、とてつもない呪量が人の世にひしめくようになったのだが、われわれはいちいちそれを「呪」だとは教わっていないので(オカルトだし)、それは何でもない「ネット文化」みたいなものだと捉えている。
けれどもひょっとすると、この "呪量の革命" は、核兵器の発明と匹敵するぐらいの、とんでもない暗雲の出現だったのかもしれない、もう大量破壊兵器以前の世界には戻れないように、もう革命前の呪量の世界には戻れないのだ。

テキトーな与太話として断言していくけれども、今や誰もが、この膨大な呪量空間のもとで、まったく身動きが取れなくなっている。
人それぞれは、何の悪いこともしていないつもりなのに、なぜか自分の顔つきはキツくなってゆき、目つきは人らしくなくなってゆき、なぜか声は安っぽい上に重苦しいものになってゆき、すべての言葉と発想はわざとらしく鼻につくものになっていく/どれだけ見た目に可憐で清楚に見える美少女でも、その内面はまるで人間味を帯びていないということが透けて見え始めている。
多くの人は、この中をすさまじい防御態勢・ブロック態勢で生きていて、一部の人は、いわゆるメンタルに軋みを受けながら生きている、前者は自分がもはや何もできないという苦しみを抱えて生きていて、後者は自分がなぜ軋んでいるのかよくわからないという苦しみを抱えて生きている。
ふつう、呪というのは一対一でもはじき返すのが大変なのに、自分一人に対して数億の人が呪を振りまわしており、しかもそれが増幅装置付きというのでは、太刀打ちのしようがないだろう/状況はとっくに致命的だが、それにもましてマズいのは、そうした致命的状況に乗っかって輪をかけている人たちが、自分たちのやっていることに対して何の自覚も持っていないことだ、自分たちの汚らしい悲鳴を自分たちで作り上げているということに気づいていない、それは単に呪量の暗黒時代ということを直視できないゆえの反動形成かもしれないけれども。

増幅された現代呪量は、おれには作用しないけれども、その他ほぼ100%の人には作用してしまう。

おれには作用しないといっても、おれだってフルソウルで高度な状態を保っていてギリギリというような状況だ、こんなもんいったい誰がマネできるというのか/いわゆる変性意識とかいうチャチなもんでは到底足りんぜ、もうはっきりと人の世とは違う世界そのものを直接行使できているような状態でなければダメだ、そんなもんオカルティックな気分になって何とかなると思うなよ(そういうオカルト気分なんてものはたいてい当人が病気になるだけだからやめとけ)。
おれはいわゆる霊能者ではないし、仮に霊能者的な能力を発揮できるとしても、そんなことにはわずかも興味はない、第一そんなチャチなアプローチが通用する状況ではとっくになくなっているのだ、増幅された100兆のリツイートを一撃ですべて消し去ることでしかこの呪量からは逃れられない/おれの言っていることはデタラメに聞こえるかもしれないが、増幅された100兆のリツイートというのは何もウソではないし、それがどうも呪いっぽいということも別にデタラメという感じではない。
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言霊と呪、おれの言葉はいつも異様に特別だ
と多くの人が「言霊(ことだま)」みたいなことを気にし、そんなことをこっそり感じているようだ。
何をもって「言霊」と呼んでいるのかは人それぞれあいまいで不明だが、おれの定義するところによると、お前らみたいなモンが善かれあしかれ「言霊」なんてモンは発揮できませんぜ……「人の世」にはびこるのは言霊ではないからな、まあこのあたりはそれぞれのテキトーな定義によるだろう。
おれの言葉はいつも異様に特別であり、だからこそこのわけのわからん話をえんえん聞き続けている人も少なくないわけだが、たとえばおれがここに「コッペパン」と唐突な語を差し込んだとしても、それじたい言霊になってベリーOKになる、それはおれがもうほとんど言霊以外は発さなくなったというキテレツのフルブースト状態にあるからだ。
人の世にはびこるもの、つまり人から人に向けて発される語は、すべて言霊ではなくただの「呪」だ、ノロイであれマジナイであれそれらはどちらも「呪い」と字をあてる/多くの人はこの「呪」のことを言霊と呼んでいる気配だが、おれの定義によるとそういうもんじゃないのだ、人の世と違う「世界」そのものに声と言葉が響いていかないと "言霊" ではない、人から人に向けるものは霊的なものではないので「言霊」という字義のそれには当たらないだろう、人から人へはただの「呪」だ。

すでに気づいている人もいると思うが、お前らみたいなモンが発する声やら語というのは、どうしたって「呪」にしかならないのだ、別にそれだけですべてが破滅に向かうというわけではないけれども。
それでも残念ながら、呪というのはそれ自体が「穢(けが)れ」なので、何をどう心がけたとしても、言えば言うほど、話せば話すほど、すべては人から人へ、ノロイやらマジナイやらのストームにしかならず、空間に「穢れ」が蓄積していくことにしかならないのだ、そりゃしゃーないだろう/だからこそ、人は式典や美術館や神社ではなるべく静かにしているのだ、基本的に神殿で滔々と発語してよいのは神職だけだ(といって、その神職がちゃんと成り立っているのかは知らない、ケースバイケースでダメダメの場合もあるだろう)。
で、極論すると、いや極論しなくても、けっきょくお前らみたいなモンからは「穢(けが)れ」しか出てこないというのが事実なのだが、だからといって黙りこくっているというのは違う、それもTPOがあると思うが、わざわざお前らから出てくる呪やら穢れやらを、おれが聞いてやることで言霊に変換しているのだ、むろんおれのことがキライで不信の状態にある人はダメだが、もういちいちそんなことは但し書きをしなくてもよさそうなものだ。
「お前らみたいなモンからは、穢れしか出てこない」「だからおれが聞いてやって、浄化して言霊に変換する作業をしてやっているのだ」という、ハチャメチャで一方的な言い方だが、もうこの際わかりやすいという一点においてこの放言も有益だろう、ちったあ状況の真相を見抜いておれの状況に同情しろということだ、おれがお前らに同情するとトンデモナイ暗黒が始まるのだから、お前らが同情を乞うのはダメだ、憐れみを乞うというならもうすでに憐れみをかけとるでしょーが、そうではなく早急にこの偉大なるおれさまのカワイソーな作業と苦労に同情しろということ、そっちが正順だ。

おれが聞いてやっているから、お前らの声はややまともになっているのであり、おれが聞くのをやめたら、お前らの声はただちに何かアカンやつになる。

こんなもん、何の証拠も取れないが、証拠の有無はともかく、これほど体験上でゴリゴリ明白な現象もないだろう、何であればそういう実験を録画して資料にしてもいいぐらいだ、何の証拠もないがこのことは本当にアリアリのアリで、事実本当に「何かアカンやつ」になっていくのだから、いいかげんこの明白なパターンに気づけ、そして何が起こっているのかをさっさとテキトーに判断しろ。
おれの言葉はいつも異様に特別なのであって、それは何の不思議もない、おれの発している言葉は言霊であって呪でも穢れでもないというだけだ、そんなもんフツーに「いい言葉だけたくさん言おう!」としたってマジナイにしかならんぜ/おれがいつも不思議に思うのは、こういう単純な仕組みに多くの人は気づかないのに、一方で多くの人が「何か言霊のようなものがある」みたいな感覚だけは割と鋭敏に持っていることだ、不思議でならない、おれ自身はそういう言霊やら何やらという感覚はまったくないのに、なぜか言霊やらから遠い人のほうが言霊うんぬんの感覚を持っているのだ(ホント不思議)。
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