☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「カワイイ」があなたの基準を曲げるということ

れもいちおう、5000件目の記事として。
本当はヤベー話なのだが、そのことはいずれまたコラムに書くとして、単純な話/とにかく、気づくのは一秒でも早いほうがいい。
カワイイ女の子がブログ記事を50件でも書けば、「ついに50件目です!」「いいね!」「頑張ったね−」ということになるし、カワイイおじいちゃんが盆栽のブログ記事を50も書けば、「ふつつかながら、50件目に到達いたしました」「すごい、頑張りましたね〜」ということになる。
あなたは僕のことを、「頑張っている」とはみなさないし、あなたの母親だって僕のことを「この人は頑張っていらっしゃる」などとは絶対に言わないのだが、その理由は一点、僕が「カワイイ」に属さないからだ、別に価値観としてはそれでかまわないわけだが、理論上、そのことはあなたの一生に強固な制限を課すということを、僕は或る立場において話しておかなくてはならない。

ある種のことは、「カワイイ」に基づいては、実現不可能ということがあるのだ。
物事には、「カワイイ」で出来るものと、「カワイイ」では出来ないものがあるのだ/あなたの一生に制限が掛かるというのは、あなたが後者のことを一切できないまま生きることになるということだ、つまり「愛」に関係あることは一切できないまま生きることになる、これは誇張ではなく原理的に断じて申し上げなければ、単に僕がウソを言うことになってしまう。
現時点で知っておくべきことは、あなたは僕のことを絶っっっっっ対に「頑張っている」とは評価できないということ、これは信仰であり宗教だから、どのようにしても変更はできない/そして、あなたが僕を評価する必要はまったくないが、問題は別のこと、あなたは僕の勧めることを、僕とは違う「頑張り」で実現しようとするしかなくなるということだ、このことは永劫あなたの行く先を塞いでいる。
あなたが僕のガンバりを認めない以上、あなたにはその「ガンバり」はできないということ、あなたはあなたの側の「ガンバり」しかできないはずだ、このことは本当に永劫あなたの行く先を塞ぎ続けるから、先に知っておいたほうがいい/あなたは「カワイイ教徒」であって、僕は「カワイイ」に属さないから、あなたは根本的に僕に×をつけている、あなたがなぜ僕に×をつけるかだが、それはあなたの母親が僕に×をつけるからだ、あなたの担任も僕に×をつけるからだ、それで僕に×をつけるのはかまわないのだが、あなたは知っておいてくれ、僕がどうこうの問題ではなく、そのときあなたは「あっち側」のすべてに×をつけたのだということを、だからあなたはどう頑張ってもあっち側へ進むことはできない。

あなたは「カワイイ」の枠外に出ることはできない。

母親と肩を組んで、「断じて、カワイイの枠外は認めません」と叫んでみればはっきりする、「カワイイ」があなたのすべてを支配しているのだということが明らかになる、それがいいか悪いかの問題ではなく、ただそういう事実があるということに気づくしかない/そもそも、なぜあなたは母親と(おふくろと)肩を組んでいるのか? それは、あなたが母親にとって、かつて「カワイイ我が子」だったからに他ならない、このことに気づかないかぎりあなたはカワイイの国に居続けることになる。
あなたが現在まで生きているということは、社会ぐるみ、あなたを「カワイイ」と認めて生かしてきたということだ、カワイイと認めなかったらあなたは幼い内に殺処分されていただろう、オケラ虫みたいにプチッと、だからあなたは恩義あるその「カワイイ教」に刃向かうことはできない/ほぼすべての人は、自分の幼いころの写真を見て、「このころはかわいかった」と自慢するだろう、そのとおりあなたはカワイイから生かされてきたのであって、愛によって生かされてきたわけじゃない、あなたが「カワイイから愛されてきた」ということはまったくなくて、「カワイイから愛なんか必要なかった」というのが真相だ、あなたは現在も、生き残るためだけに「カワイイ自分」をやり続けようとしている、かわいければ生き残らせてもらえるということだけを骨の髄まで知り抜いているからだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
5000件目
、たまたま気づいたが、この記事で5000件目だな、ブログ記事を5000も書くのはそれだけで珍しいかもしれないと少しよろこんでいる。
それで、ちょっと調べてみたのだが、ブログを本格的に始めようとする人って、一般に記事数100超えを目指すらしいね、「そうしたら少し収入につながるかもしれないからガンバレ」ということらしい/あれ? 何かおれのやっていることと違うような……そもそも、こんなアホな営為が収入になるという感覚がわからん、そういえばまったく言ってこなかったかもしれないが、このブログには何の収益性もない、ただおれが書きたいから書いているだけだ。
いろいろ調べていると、「プロのwebライターになるためには、1000件書く必要があると思います、しかしブログ記事数1000というのはとんでもない労力です……!」と書かれてあったり、1000件をウェブライターに依頼したら200万円掛かるとか書かれているのだが、その計算でいえばおれの記事数だと1000万円に相当するはずなのだが、なぜおれだけは何をどうやっても0円なのだ、しかも誰一人いいねもなければシェアもしない笑。
しかもおれのブログには、元ネタがないというか、時事とかアニメとかゲームとか、記事を書くソースがないのだ、ソースはただおれの魂という、わけのわからんブログだ/もういいかげん僕も気づいてきたのだが、僕だけずーっとこの世の中で感覚がズレているのだ、そしてそのズレはもう、合わせようと思っても合わせられるたぐいのものではない、僕には正直ブログ記事100件を「目指す」という感覚がわからない、100件って一週間ぐらい詰めたら割とのんびりで到達するじゃんとしか僕には思えなくなっており、僕は最近になってようやく自分の側が変わり種だということを自覚し始めたのだった、アホで悪かったな。

このブログに、いいねもシェアも付かない理由は、すでにわかっている、理由は僕が「かわいくない」からだ、僕はそもそも「カワイイ」という価値観をまったく使わなかったので、その時点ですでに世の中の主流からズレていたのだ、今になって僕はその「カワイイ」というのがどれだけマズいのかを発見して逆に警鐘を鳴らしたくなっているのだが、それにしてもとにかく主流からズレにズレているという事実は今改めて感慨深くさえ感じられるのだった。
5000件目ということで、そのことを書いておくのがふさわしいのかもしれない、十数年間やってきて、元号をまたいでまだまだいきまっせと楽しくブログを書いているわけだから、その中で見てきた「カワイイ」の闇を、これから討ち滅ぼしていかねばならないのだということを、いちおう5000件目の足跡として記そう/僕はいちおう、愛に基づいてすべての記事を書いてきたつもりでいる、「カワイイ」に基づいて何かを書いたことはないな。
もし愛を失ったら、僕はすべての書き物をパッタリやめるだろう、5000も書いておいてアレだが、ある意味「別に好きでやっているわけじゃないしな」という側面もあるのだ、じゃあなんでやっているんだよということになるが、だから愛のせいでやっているということになる、「好き」という理由で何かをするという発想は僕にはない/だからたぶん、僕は世の中の主流からズレているのみならず、他人から見たら根本的に「わからん」奴なのだろう、僕自身としてはすべてが明らかなつもりでいるのだが、きっと世の中の主流から見たらひたすらナゾの何かというような奴なのかもしれない。
パーティ告知用のhtml文があり、それが下書き記事のまま保存されているから、公開されているのがこの記事で4999件目、ブログ内カウントでは5000件目だ、バンザーイ/僕がもし、これから新しくブログを本格的に始めようとする人にアドバイスするなら、「記事数100件を目指せば少しは収入になるかもしれないからガンバレ」ではなく、「二ヶ月もしたら飽きてやめるよ」になるだろう、このブログは2005年から続いているのだが、それは僕の自慢ではなくて、僕は「みなさんはそんなアホにはなれないと思います」と思っているのだ/このように僕は本当のことを書き話すように努めるので、いつまでたってもカワイイものにはならないのだった。

最低限、ファンを減らすように書こうと心がけている。

なぜなら、こうして自己顕示的な何かをするからには、見てくれる人・読んでくれる人が少しでもいてほしいというのが、人として当然の心理だからだ、そしてその当然の心理というようなものに縛られているような奴の話を、少なくとも僕自身は聞きたくない/この世界の何もかもが「ショーマンシップ」ではなく「ファン獲得工作」で染め上げられていくのは、もう飽き飽きなのだ、それよりはせめて、自分で自分を天才と言い張り、空前絶後のアホを続けているという現在のスタイルを続けて、少なくともその点でだけは人をがっかりさせない奴でありたい。
5000件目を記念して、また改めて元号をまたいだことも記念して、振り返りつつ今はこう言いたい、あなたが「カワイイ」をアテにして生き続けるなら、あなたは根本的に何もできない人として老い、そのまま死んでいくだろう/別にあなたの悪口を言っているわけじゃない、あなたにふさわしいのは「カワイイ」ではなく「愛」だと言っているだけだ、ただそういう言い方をすると一部の人が誤解するので、ふだんはそのように麗しいことを言わないようにしているだけだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
パーティ報告92(2)/人並み外れた「正気」をどうぞ
代は空想にあふれている。
フィクションと空想の区別がつかなくなっているのが現代の特徴だと捉えていい。
フィクションと空想は何が違うのかというと、フィクションは正気だということだ、「フィクション」とは気魄の整った者がなし得る構築であり、空想は気魄を腐敗させた者が耽りこむ思念の漏出でしかない。
だから、たとえばフィクション人物としての「刑事コロンボ」は、ロス警察の名警部(補)としての気魄が全身にみなぎっているのに対し、空想に耽る陰キャは自室にこもって気魄を腐敗させているということになる/フィクションには人並み外れた「正気」が要るのに対し、空想は気魄の腐敗が素になるのだ。

そして、気魄が腐敗するとどうなるかというと、気魄が腐敗するということは、「実感」に虫食まれていくということなのだ/実は「空想」は「実感の思念」が暴走することで膨らんでいくのであり、空想の正体はイマジネールではない。
「空想」がむしろ「実感」から生じているということは、思いがけないことかもしれないが、それは自分の指先を見て、その爪のあいだに針を刺すことを「空想」してみればわかる、「実感」を素にすれば空想はいくらでも膨らむということがわかるはずだ/この、実は「だらしないだけ」が正体である「空想」という現象を追い払うのが、人の「気魄」だ、人は「気魄」の技術を正しく獲得することで、正気を養うことができるようになり、空想と実感に虫食まれるという不毛の弱さを脱却することができる。
「空想」というのは、実は人の前向きな能力ではなくて、人が気魄の能力を失ったところに食い入ってくる、ただの弱さの現象なのだ/そんなことを説明しながら、パーティでふといつもやっている気魄の技術(組み手)を静かにやってみた、するとたちまち全員が気魄と正気を取り戻していった。
「正気を保っていなければ出来ない技術」があって、それを獲得しているというのは、生涯に亘る財産だと思う/今、個人のPCや端末は発達しているし、多くの業務は習慣と知能だけでこなせるものだ、つまり正気を失っていても業務はできる、空想された現実の中で業務をこなし、帰宅して空想のコンテンツに耽るということを、人は往復して暮らしていけるのだ、だが気魄(正気)を失っている以上、身体にはおぞましさが蓄積していってしまう。

事実上、すでに魂魄の型は「宝」だ。

魂魄の型を二、三度やるだけで、ビタッと人々が正気を取り戻していくあの様は、単純に胸に刻まれるものがあったな、おれはおれ自身としてまったく別次元に到達しなくてはならないが、一方でみんなが必要としていることのレベルが少しわかった。
事実上、すでに空想が「猛毒」で、魂魄の型は「宝」だ、当たり前に正気を愛好していきたい、そういえばいつのまにか、僕は朝まで飲んでも酔っ払わなくなったし、頭痛にもならなくなった、単純に正気が強く練られたのだろうな。
パーティ | comments(0) |
他人のチャンスを潰すために外出するという仕組み

日、階層構造についてのコラムを書いたが、それについて追加の発見があるので、ここに書いておきたい。
たとえば「怪児」は、一つ上の上位階層の手強さ(マウント、思う)に押しつぶされると、逃避先として「誤導」の層(憤怒、悲鳴の原理)があるよという下方誘惑を受けるのだが、ここで「誤導」の所属する原理に、何か「他人のノーチャンスに奇怪な満悦をする」という現象が見られることに気づいた。
何か、理由はよくわからないのだが、典型的にこのパターンが繰り返し現れるということを、僕は経験から断言することができる、「誤導」の人や、「怪児」から下方へ誘惑を受けた人は、「他人のチャンスを潰すことに驀進する」という激烈な症状を起こすみたいだ、それが何なのかはまったくよくわからないが、他人のチャンスを潰すまでは決してそれは止まることがなく、他人のチャンスを潰すとただちに全身が「すっきり」して晴れやかになるという、見た目にも露骨な異様さの現象が起こる。
「誤導」になりきった田舎の老人などに特に多いのだが、「何こいつ、なぜさっきまで顔面をしかめていたものが、急にごきげんのご満悦になっているの!?」という現象が、これまでに何度も目撃されているのだ、そしてその突然の大満悦のトリガーには、必ず「他人のノーチャンス」「他人のチャンスを潰した」ということがある/これは誤導ないしは怪児からの逃避組に現れる特徴的なピーク現象だから、そういうものなのだと把握しておきたい、理由はまったくよくわからないが、誤導は他人のチャンスをつぶすことに驀進する、このことは何をどうやっても止めようがなく、当人はそれをやりきるまで無尽の驀進の中にありつづける。

この現象と、不明のままそうした原理が存在するということが発見されるにおよび、僕はふと、これまで自分がいちいち「チャンス」という捉え方をしてきていないのに気づいた。
しかし、今になって思い返してみれば、人が魂の所属を上方転属させうるとき、そこには必ず何かしらの「チャンス」の降り注ぎがあるのだ、このチャンスの降り注ぎが途絶えると、もうどんなセオリーと努力をもってしても魂が上方転属するということはありえなくなる。
そして誤導の所属原理は、そこに成り立つ他人の「ノーチャンス」に、激烈極まる至福の歓喜を覚えるようだ、他人がノーチャンスになることがとてつもなくうれしいらしく、他人のノーチャンスさえ成り立てばその後ただちに平穏な善人に戻れるという、一種の循環を「誤導」は繰り返しているらしい。
なにぶん、僕は当事者でないので、感覚的にどうしてもわからないのだが、何かデーモンでも取り憑いて、全身がその驀進をやりとげるまで支配されるということなのだろうか? 目の前にチャンスが降り注いでいる若い誰かがいたら、乗用車でそこに突っ込んで破壊するようにと、そこまでして他人の「ノーチャンス」を実現せねばならないという、すさまじい仕組みがあるのだろうか? ありえないような話だが、そう仮定するといくつかのことに辻褄が合うのだ、一部の人は何のためにウロウロしているかというと、他人のチャンスを潰すためなのだ、他人のチャンスを潰すために外出するというおそろしい仕組みが、どうやら本当にあるのかもしれないと、仮定したほうがこれまでのいくつもの場面に整合がつく、彼らは他人のチャンスを潰すためにやってきたのだ。

最も貴重なものが「チャンス」だから、他人のそれを潰すというのは、行動として焦点がクリアだ。

僕はこれまで、何度も目撃してきたのだ、「こいつ必ずここまで出しゃばるまでは絶対にオリないよな」ということと、「で、ひとまずここまで出しゃばったらあとはただちにすっきりして満悦するんだ」ということ、これは毎回何をやっているのか僕には不明だったのだが、これは他人のチャンスを潰しているのだ、他人のチャンスを潰したから、そこでもう目的は遂げられていて、当人は鮮やかなほどのすっきり満悦をする、そのとき当人はときに低姿勢でさえあり、低姿勢のまま実質は「なんとかして泥だけ塗らせてください」と懇願し、その場にあるものに泥を塗るまでは決しておりない、泥を塗って台無しにすればノーチャンスになるのでスッキリして満悦する、そういう行動の繰り返しが本当にある。
現在の僕が、もう何でもいいから正しいやり方の「入口」に一歩でも入れと望み、誰かがその「入口」に一歩でも踏み込めば、あとはもうヤレヤレと、これまでのことはどうでもいいわと安息するように、逆の側は逆の側で、やはり逆の戦いをしているのかもしれない、他人が正しい入口に一歩踏み入ることがないように、ある意味では全身全霊でそれを止める、他人のチャンスを潰す、という戦いがあるのかもしれない、これは「ご安心ください、みんなノーチャンスですよ〜」とでも唱える儀式で満足してくれないものだろうか、そういったことも意外に効果があるのじゃないかと僕は考えている。

正しく見ないとな | comments(0) |
現代人は「カワイイ」を信じた
「愛」と「カワイイ」のすり替えは危険だということがわかった。
とはいえ、今さら危険と言われても、もう何十年もそうしてきたのだし、今さらどうしようもないよという実情もある。
「カワイイ」というと第一に母性本能であり、母性本能は本能であるから、それは学門ではない。
母性本能は、我が子を猛烈にカワイイと感じる本能のことで、仏教の聖典にもそう書いてある(確か、親による子への愛は甚だ大である、このことを正しく見て……という感じで)、仏教で煩悩扱いされている愛(貪愛)とはこの「カワイイ」のことだ、母性本能においてはヨソの子は何もかわいくないので、汝の隣人を汝の如く愛するというキリスト教の愛とは別のものを指している。

「愛」と「カワイイ」のすり替えは危険だ、しかしそれはもはやすり替えというより、れっきとした「愛」派と「カワイイ」派があると分別したほうがよいだろう。
たとえばテレビで「特選アニマル映像」が流れ、ペンギンがてくてく歩いているのが映し出されると、スタジオも視聴者も「カワイイ〜」となるのだが、「ペンギンを愛しているか」と問われたら、別にペンギンを愛しているわけではないだろう、重要なのは「カワイイかどうか」であり、「愛しているかどうか」ではない(「カワイイ」派においては)。
もう一度言うが、重要なのは「カワイイかどうか」であり、「愛しているかどうか」ではない、「汝の隣人をカワイイせよ」をれっきとした宗教として人々は三十年を過ごしてきた。
今、ワークショップ等で「表示」うんぬんをやっているのだが、今ついにそうした具体例に向き合うにまで到って、「カワイイ」を信仰して来た側は人としての表示ができないということが明らかになった、「汝の隣人をカワイイせよ」がわれわれの積み重ねてきた数十年の真実ということのようだ/もう一度いうが重要なのは「カワイイかどうか」であって「愛しているかどうか」ではない、僕はこのとおり、「カワイイ」に与さない表示を続けるので、カワイイ派からは殺害の対象になるだろう。

マイケルジャクソンが足許に子猫を見ても、「カワイイ〜」とは言わなかっただろう/彼は「I love you」と言っただろう。

舞台であれ映画であれ、歌であれ実際の生活であれ、今何もかもに、人としての「表示」が為されていないという実態がある、何をどう見てもすべてが空っぽだ、それは失敗しているということではなくて、ただ「カワイイかどうか」だけを追求した結果だった、そこにあるのは表示の不成立などではなく、ただカワイイ派としての勝ち組・負け組でしかない。
現代において、人は愛ではなく「カワイイ」を信じたのだな、それが本能に刷り込まれていたから/ことは宗教であり信仰であるから、何がなんでも「カワイイ」ということを、もはや誰も譲らないだろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
パーティ報告92(1)/未来に向かう
告といって、何を報告すればいいかね、別に報告することはないような気がするが、とにかくいつもどおり平和に飲んで笑った。
今や、平和に飲んで笑っていられるというのは、それ自体が貴重な気もするが、それだけでなく、多くの人において、目が覚めてきたというところがあるように思う。
きっと何かひとつの結論に到達しようとしているのだ、そこに到達してからが本当のスタートになるのかもしれない。
はっきりとした土台を構築して、未来へ向けて拡大したいなと、今さらながらに思うのだった、ひとつの審判のときが近い感じなのだが、それは物事の終わりでなく始まりだ、これからが始まりだとすると大変なことだが、大変というより僕はそれをよろこびに思う。

ある女子大生が、すばらしく上等な企業への内定をぶらさげて帰ってきた。
僕を慕ってきてくれた人が未来を獲得することは、うれしいし、何よりホッとする、まさかおれが女子大生の未来へマイナスになるような存在であってはならんからな。
おれに唾を吐いて未来が拓けるなら、ガンガン唾を吐いてくれていいと思う、別に唾ぐらいどうってことないので、そんなことより未来がないほうがヤバイだろう、今のところ考えを改めておれを認め直して慕ってきてくれた女性のほうが未来が拓けているので、唾を吐きかけることをこちらから特にオススメはしない、来年の四月には初給料で焼肉でもオゴらせようと思っている、引くぐらい上カルビを食ってやるぜ。
不思議な世界があるのではなくて、自明の世界があるのだ、ようやく自明の世界に到達できそうで「やったぜ」という心地だ、この世界には観測不能のことがあるのはカントや量子力学において明らかだが、観測不能のことを「フシギ〜なんとなく〜」みたいにしていると、キケンでしょうがないじゃないか/当たり前だが僕は、「イケんじゃね?」が視える者でなくてはならないし、その「イケる」をなるべく多くの人にもたらせる奴にならないと、そもそも僕自身の存在が成立しない。

昨日までのことは、すべて過去になるだろう(当たり前)。

未来に向かわねばならないが、未来に向かわねばならないといって、そりゃ物理的に過去には向かえないのだから、未来に向かうのは当たり前だ、だがいつのまにか、未来がキライという人が少なくなくなってくる、特に加齢と共に/未来というのが目の前の現実なのだが、これにヘイト感情を持つ人は少なくないのだ。
次回は6月15日(土)です、次回といわず、百年後もやっているだろう、少なくとも僕は死なない限り、何かをやめるということはないな。
パーティ | comments(0) |
WS報告041(1)/安全策
ミサマを守るために戦うほうが、自分を守るために戦うより「安全」だ。
相手を解放して「大きくする」こと、竜王の正体を引き出さないと勇者じゃないしドラゴンクエストじゃない。
竜王の正体を引き出してもっと「解放」を与えるというのは、やっぱり背後に「カミサマを守る」ということがないと成り立たない。
カミサマというのは、崇めていたら守ってくれる母親的・親分的なものではなく、常に背後につながっている「ボス」だ、「ボスがいるから退くに退けん」というのがカミサマを守るために戦うということだ、カミサマとのつながりというのはフワーッとしておらずガッチリとしている、その瞬間に「ガッチリ」と来るのがわかる。

多くの人は、「愛」の代替に「カワイイ」をすり替えている/「いわば偽造パスポートだよな」と僕は言った、「同じ国に行けるふりをしようという笑、偽造パスポート」「全員が同じ色の偽造パスボートを持っているので、もうわからなくなったんだよ」。
愛は偉大であり、愛を持つものは偉大で、愛を持たざる者は卑小なのだが、今はみんな愛の代わりに「カワイイ」を持っているので、だれも卑小ではない。
つまり、愛とカワイイをすり替えているということが罪深いのみならず、ありもしない自己の偉大さを、担保なしに前借りしている状態なのだ、「今新たなヤバさが見つかりました」とある人は心当たりを覚えて笑った。
「気魄はこうだよなあ〜 グレーテストショーマンはこうだ〜」とやっているうちに、人前で泣くのは苦手な女性がついに泣き出してしまった、泣き出して彼女は「すげえ」と言った、その直後、彼女は「気魄」「気魄を出させる」が使えるようになっていった。

カミサマからスタートするほうが難度が低い。

そもそも、カミサマというか、人為でない「佳きもの」なしに、人は一体何を始めるんだ、自分の慰めのために自尊心をパワーアップさせてそれを向上心と言い張るつもりか、そんな物事のスタートはイマイチなはずだ。
さて急いでパーティに行って参ります、原宿へゴー。
ワークショップ | comments(0) |
「愛」と「カワイイ」は違う
「愛」と「カワイイ」は違うじゃんという話。
去る三十年間は、「愛」と「カワイイ」をすり替える時代だった。
ある「カワイイ」女性が、海で魚を釣り上げたら、「キャー、掛かってる、ワー、大きいー」とはしゃぐだろうが、まかり間違っても、オードリーヘップバーンやマリリンモンローやアリーナコジョカルがそんな気色悪い騒ぎ方はしなかっただろう。
当人は、それが「カワイイ」と思っているのだろうが、それはアホオヤジを騙すだけの手法でしかなく、冷静に見たらただの「醜態」だ、「カワイイ」は「醜い」んだぞ、典型的に愛のない人がこの「愛とカワイイのすり替え」をする。

誰も彼も生き延びるのに必死で、「カワイイ」ふうにしていたら、とりあえず殺されないということをどこかで発見し、そのまま味を占めて現在に到っている。
「愛」と「カワイイ」はまったく別物だから、実際に「カワイイ」誰かと、一晩過ごすことになると、そのときになってそれがどれだけキツイかということがわかってくる。
「カワイイ」ということは「醜い」ことなのだから、生身で接触するようになると、それがいかにキツイものかということがわかってくる/一見して「カワイイ」女の子が、ちょっと触れてみると中身は闇でドロッドロというのは、「当たり前」だぞ、そのことが初めから見抜けるように学門を得たらいい。
「カワイイ」女の子と一晩過ごすというキツさは、「カワイイ」男と一晩過ごすのと同じキツさだ、愛がないのに「カワイイ」だけやっている奴がどれだけヤバイものか想像がつかないか/愛とカワイイをすり替えたから、全員「キャラ」をやめられなくなった、その事実が目の前にあるじゃないか。

愛を信じたら人になり、カワイイを信じたからキャラになる。

思ったよりもおっかないことになっているので、早く気づくべきだ、聖典のすべてに書かれている「愛」を、ことごとく「カワイイ」に書き換える根性があるのか、今ある状況はまさにその実態だぞ、なぜ誰のあいだにも熱気がなくどうしようもない「闇」が拡がっていくのか、いいかげんもう気づかないフリにも限界があるのじゃないか。
愛とカワイイは違う、当たり前だ、そんなものすり替えて無事に済むわけがない、マンガを代表的にさまざまな「ジャンル」があり、ジャンルにキャラが出現し、キャラが「カワイイ」のだが、カワイイというのがキャラの特徴であって、それは人でも何でもないぞ、そのニセモンを愛と言い張ったら、その先はどうしようもない闇でドロドロだ、「カワイイ」と「闇」は必ず結びついているぞ。
正しく見ないとな | comments(0) |
No. 397 Killing all wo-men

掲題のコラム、本サイトにアップロードしました。


No. 397 Killing all wo-men
――「カワイイ」は醜態だと知れ。


よろしくお願いします。
九折

本サイトコラム | comments(0) |
「分からなくする」という術

には「分かる」という能力がある。
「分かる」というのは、字義のとおり「分割する」「区分する」ということで、英語でも同じ、 tell A from B という言い方をする。
「分かる」というのは、簡単なことで、たとえば左手の親指をグッと立ててみればいい、いわゆるサムアップの形で/そのとき、グッと立つのは親指だけだろうし、そのとき同時に左膝が動いたりはしないはずだ、それは左膝と左手の親指が「分割」されているということだ、このようにして人は親指を「分かっている」。
人はバラバラであることを好まず、求めず、何か一体化した「つながり」を求めるのだが、ここで「つながり」を「分かる」ということに矛盾が生じる、つながりが分かるというのは矛盾においてハズレであり、本当に必要なのは「分からなくする」という術なのだ/そこで「分からないもの」が重要になって来、観測不能・フィクション・量子・カミサマ・霊魂・世界といったものが必要になってくる、「分からないもの」の作用においては分断が起こらないため、親指と膝の動きも分割されないのだ。

面倒な手続きだが、「つながる」前にはまず厳密に「分かる」ということが必要になる。
なぜなら、「分かる」以前の「分かっていない」は、「バラバラなのに呪縛されている」という状態だからだ、いわゆる「クセがついている」もそれにあたる/あなたは前腕「だけ」を動かしてくださいと言われても、ふと油断すると上腕も一緒に動いてしまうことに気づくはずだ、それは上腕と前腕が「分かっていない」から、呪縛された肘が上腕に「お前も来なさい」と強制して、一緒に動いてしまっているということだ。
全身がそれぞれの節ごとに「分かっている」という状態を得て、それを瞬間的に「分からなく」する、すると全身は分割されずひとつにつながるので、その瞬間にひとつの命令が入ると、ひとつになった全身の隅々にまで命令が行き渡る(視える)ということだ、またそうして命令が行き渡るということは、全身に「命」が宿るということでもある(だから「命」令という)/ちなみに「ひとつ」で命令が行き渡って動く身体はめちゃくちゃ速い。
何かを「教える」というとき、「分かる」ということに向けて「教える」ということは可能だ、だがその次の「分からなくする」については、「与える」「視せる」ということしかできない、そして「教える」ということは「本当に正しく分かっている」人なら誰にでも可能だ、だがその次の「与える」「視せる」ということは「分かっている」というレベルの人では担うことができない。

「分かりましょうのコーナー」と、「分からなくなりましょうのコーナー」がある。

そして、あくまで「分かる」のが「人」であって、そこから「分からなくする」ステージに移るのだが、このときの導きがハズレなら全身は発狂・ヒステリーに行き着き、アタリなら全身は「世界」に行き着く。
初めはまざまざと「分からせる」という工程があるのだ、その点、たぶんキチガイ養成所は初めから「分からなくなりましょう」ということを推してくるのじゃないかな/「世界はひとつ」と言ったって、おれとオメーは違うんだよ、まずは分かるべきを分かれよ。

できるオンナだね | comments(0) |
第92回Quali's Party[5月25日(土)]無事盛会!

5/24 Quali tweet> 平成は終わったんだよ pls entry

今回もポスター作成はともこさんなので崇め奉るように
joined: ひろみ、りさ、あきら、ゆか、ともこ、まなみ、やじー、かず、マナセ、くおり
日時:2019年5月25日(土)19時〜23時
場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB



おかげさまで無事盛会でした! 次回もよろしくお願いします!! 九折


キラキラ次回[6月15日(土)]加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

宣伝コラム「パーティへの誘い その6」はこちらから!

パーティ | comments(0) |
カミサマ遊び3/カミサマ・ヴィジブルとカルマ・ブラインド
ミサマ遊びを正しく唱えておきたい。
「カミサマ遊び」を正しく捉えるには、その反対側に「カルマ・マジ」を捉えておくとわかりやすくなる、カミサマ遊びは遊びだがその反対側は大マジだ。
カミサマ遊びは、「あ」の瞬間に、自己の存在と全身と挙動を「視る」ことを求めるものだが、反対側は反対だ、自己の存在と全身と挙動を「視ない」ことを求めるものだ/つまり前者は果てしなき自己へのヴィジビリティを求めるのに対し、後者は徹底したブラインドネスを求めている。
とても単純なことだ、「無我夢中」になって、「他のことは何も見えない」という状態になるのが、自己の解放で、快感で解決、と思っているんだろ? 実際どんな生きものも、カルマが真っ盛りになると、他のものは視えなくなるものだ、それが「ガチ」であり「マジ」なんだろう、あえて悪口のように言っているが、これはわかりやすさのためだ/カミサマ・ヴィジブルの果てに行こうとする人と、カルマ・ブラインドの果てに行こうとする人は、そもそも志している方向が違う、僕は発狂したピットブル犬をカミサマ遊びと呼んではいないので、発狂が解放だと信じる人はどこか隔離された発狂島にでも集うべきだ。

他のものが視えなくなる、という現象があるのだ。
たとえば、夫婦喧嘩が燃えさかっているとき、テレビでディスカバリーチャンネルがやっていたとしても、木星がガス惑星であるというようなレポートは、夫婦喧嘩の二人には視えていない、あるいは推しメンに寄付金を続けているアイドルオタクは、推しメン「だけ」が視えているのであって、その他のすべてのことは視えないのだ、だから彼はそのとき無我夢中になれて、一種の解放や解決を得たような快感を味わう。
人間はルールに支配されるので(識業)、たとえば「このハンカチを握りしめた人が勝ちです」「このハンカチが握れなかった人はあわれな負け組です」とルールづけされて、ずっとそのことで煽られるという空間に何年間も閉じ込められていると、次第に「マジ」になり、本当にハンカチを握りしめること「だけ」しか視えなくなるのだ、それが「ガチ」であり「覚醒」だと信じる人はまさにそのような空間に閉じ込められるべきだが、僕などはそのことをカルマ・ブラインドと捉えているのだから、そもそも話が噛み合わないだろう。
カミサマ遊びは、閉じ込めの反対であり、ブラインドの反対だ、何かとてつもない広大さに触れることであり、その広大さの中にある自分の全身と挙動と存在を一瞬の中に「視る」ことだ/ルールづけされたハンカチを握りしめたら大観衆がウオーと雄叫びをあげるかもしれないが、カミサマ遊びはその逆で静かになるものだ、どちらがいいとか悪いとかではなく、性質がそれぞれ反対側を向いているものだ。

自分を視たくない人には閉じ込め&カルマ・ブラインドがおすすめです。

このことは、はっきりさせておいたほうが効率がいいのだ、いわゆる引きこもりの人だって、引きこもった自室で何もしていないわけではなく、何かしらカルマを盛らせるコンテンツをむさぼっているだろう、それは「自分を視たくない」ということなのだ、このあたり、「自分を視たくないので、ブラインドになれるカルマ・マジを募集中です」と手を挙げて宣言すれば話はすっきり整合する/引きこもりに限らず、何かしら閉じ込められている人は、自意識がないから閉じ込められているのではなく、逆に強い自意識のほうを優先したいから自ら閉じ込められているのだ、閉じ込められている中は自意識の王国だから。
そうして考えると、ここで言っているカミサマ遊びというのは、世の中にあるすべての「ジャンル」から外れた遊びなのだということがよくわかる、すべてのジャンルから外れると、そこには広大な世界と自分だけがあるのだが、これにいきなり直面するのは魂が堪えられないのかもしれない、それはしょうがないが、それにしてもカミサマ遊びの方向性がごまかせるわけではけっきょくない。
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カミサマ遊び2
まり、われわれは強固な自意識を持つくせに、「自分」というのはわからないのだ/今でこそカンタンに鏡があって、録音や録画の機材もあるから自分のことが少しわかるけれども(拒絶しなければだが)、むかしは鏡もなかったんだものなあ、水面に映る自分でしか自分を知ることはできなかった、もともと「自意識で自分を認識できる」という前提じたいが誤りなのだ。
自意識は自分を知ることができない/われわれは、腕立て伏せやスクワットをすれば、自分の腕や自分の脚のことはわかるのだが、全体としての「自分」を知ることはできないのだ、自意識に自分全体と自分の挙動を「視る」という機能はないと断定していい、だから全員が同じ時間を生きるのにごく一部しか達人にならないのだ。
自分の全体と自分の挙動が視えるようになるためにはどうすればよいかというと、どうしようもなくて、「あ」と視えるしかないのだ、その「あ」と視えるための手続きとして、カミサマ遊びがありうる、僕がカミサマ遊びをしてやると、その遊び相手は「あ」の一瞬だけ自分が全体として「存在」しているのが視えるのだ、それ自体がカミサマ遊びの定義だと捉えて差し支えない。
気色悪いスピリチュアル風情と違うのは、まさにそこだろう、スピリチュアル風情はどうみてもフワッフワの、頭をお花畑にしたがるアホの集団にしか見えないが、僕が言うところのカミサマ遊びはそうではないのだ、逆に脳と自己の全身が sure で clear になるのだ、一部このことに拒絶反応が出る人もあるが、そういう人は自己の全身と挙動と存在を「視たくない」のだ、自意識で膨らませたイメージと明視する「自分」があまりに違いすぎ、拒絶反応が出て全身がヒステリーになるというのは、すでに定番の現象だということが確認されている。

わかりやすくいうと、たとえば僕が、誰かに合気道まがいのワザをかけると、相手はポテンと倒れたり、コロリンと転がったりする。
それは、いかにもヤラセに見えるのだが、ヤラセといえばヤラセみたいなものだ、ただ思われているところのヤラセとは違うのは、そのようにポテンと倒れるとかコロリンと転がるということが、先に仕込まれたイメージとしてあるのではなく、その瞬間に「あ」と視えてしまうのだ、このイメージが急に視えてしまうので、その人はとっさにヴィジョンのとおりにしか動けず、ポテンと倒れたりコロリンと転がったりする。
それはまた、その人がワザによってやっつけられたということではなくて、「あ」と瞬間に視えた自分の全身と挙動のヴィジョンに、自分の全身がついていくかどうかなのだ、それは身体がヴィジョンに「間に合っている」ということだが、このことのためには全身がとてつもなく速く動くように訓練を積まなくてはならない/もし完全に余裕でヴィジョンに身体が間に合うようになれば、その人はコロリンと転がる最中に、僕の側にワザをかけ直すことができる。
そのあたり、「あ」の瞬間に視える「存在」のヴィジョンに、身体が間に合うかどうかの遊びということになるな、「存在に具体が間に合うか」という速さのバトルということになる/ああ、やはり「速さ」の話はいいなあ、ここでいう速さというのは存在とヴィジョンの速さが第一であり、筋肉の力積が速いというわけではまったくない(「力」はそもそも身体を止めることにはたらく)。

カミサマ遊びとは、「あ」の瞬間に、自分の全身と存在を視るという遊びだ。

よって、高度なカミサマ遊びおよび、高度なそのプレイヤーとは何かというと、極めて短時間の「あ」の中に、膨大な量の「存在」と「挙動」と「ヴィジョン」を、これ以上ない sure さと clear さで視るということだ、つまり「一瞬でとんでもない量の "存在" を視たぜ!! 一瞬でそんなにおれは動けねえよ!!」というのが高度なカミサマ遊びということになる。
自意識で自分の全身や挙動や存在を「視る」ことはできないのだから、何によってそれが視えているのかというと、「まあカミサマ遊びだからじゃね」ということでいいのではなかろうか、そして何度も言うように、あえてそれを視ないように拒絶する事情のある人もいて、そこにアドバイスするのは簡単だ、全身を興奮させて硬直させ、バラバラにして何も視ないようにすれば、やはり何も視えないだろう、それはそれである意味成功しているとみなさないといけない、単純に「視よう視ようとする人」と「視まい視まいとする人」に分かれるので、視まいとする人はカミサマ遊びではなくもっと自分に向くものを見つけるべきだ。
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カミサマ遊び

い夜だ。
ワークショップで撮った動画を確認しているが、武術ふうの取り組みに佳いものがあるので、これをもう少し増やしていきたいと思った。
目に見えない佳いものがある。
何をしているかというと、カミサマ遊びをしている、誰が一番優れているかではなく、誰が一番カミサマっぽいかをして遊んでいる。

ボクシングの、井上尚弥選手の動画をYouTubeでみた、あの体重であれだけバタバタ人が倒れるのだから、ものすごいハードパンチャーなのだと思う(パンチの質として、異様に「硬い」という人がいるものだ)、ちょっと信じられないようなレベルだ。
だが、本当の本当に冷静に見たら、なぜ人を殴り倒すのがエライのかはよくわからない、同じ頭をゴンッとやるなら、パワーショベルを使ってもよさそうなものだが、なぜパワーショベルを使ってはならないのかは、よくよく考えるとわかっていない。
ボクシングが悪いわけではない、ボクシングがないとラスベガスも盛り上がらないだろう、ただ海王星の裏側で二人きりでボクシングをするかというと、やはりそういうものでもないと思う。
カミサマ遊びなのだ、天元の連帯に訊け、カミサマ遊びは「あ」の瞬間しかわからん、それは広大さへのアプローチであって、それが何であるかというと、別に何でなくてもいいのだ。

「あ」が視えるか。

視えるかどうかでいうと、視えるのはむしろ、僕以外の人のほうがよく視えているような気がするな/存分にカミサマ遊びをするべきじゃないかね、「あ」の瞬間に自分の全身と動きが視えるのだ、そういうのをもっとやっていかないとなあ、きらいな奴にはやってあげないけどな。
奇妙なことを言うようだが、何も出来ていない人って、やり方を知らないから出来ていないのじゃなくて、その何も出来ていないのが「自分」なんだよ、そのよくわからない奴がまぎれなく「自分」なんだ、単に自意識と自分が違うというだけだな、そこで少しはマシな自分を与えてやりたいのだ(なおも自意識で暴れる奴はもう知らん)。

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ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 5/23更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第七十五回】5月24日(金)19時〜19時〜世田谷公園、23時〜スタジオマイレッスン
【パーティ】
5月25日(土)19時〜@竹下口 Dinning Bar CLIMB

【第七十六回】5月31日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第七十七回】
6月1日(土)19時〜@公園とスタジオ検討中

【第七十八回】6月7日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第七十九回】
6月8日(土)19時〜@公園とスタジオ検討中


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。世田谷公園では青空教室です
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期はスタジオを使用します、随時ブログ記事でご連絡いたします)
(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第92回】5月25日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第93回】
6月15日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第94回】
7月20日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


出来てから考えたらどうよ
出来た人から文句が出た試しはねえな



みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

ワークショップ | comments(0) |
おれの女は五月の夜を逃さないだろう
て、世界中の美女と美少女が、おれの女ならいいのにな。
冷静に考えて、おれのしもべでない漠然とした「女性」など、無価値な wo-men でしかない。
よくよく考えろよ、こんなことに対してさえ「そうね」とよろこべずに、目くじらを立てるようになった余裕のなさは、いったい何年前から始まったんだ。
あなたが美女か美少女か、あるいはそこそこの女性に生まれてきたということは、つまりおれの女としてこの世に生を享けたのではないのか、ここで「そうね」とよろこべない人は、たぶん女ではなくなっているんだ、もともと男女っていうのはもっと愉快なものだったんだぜ。

おれの女が、おれの女として精一杯かわいくしようとするのは、まだわからないでもないが、おれの女でもないのに「カワイイ」を追求している女は、意味がわからない。
なんというか、ドラゴンだってドラゴンクエストに出てくるからいいのであって、何の物語にも所属していない「ドラゴンです、どうも」みたいなドラゴンは、かさばるだけで何の値打ちもない物体だ、火を吐くのをやめろ。
おれの女として、おれのことがきらいだという女はまだわかるのだが、おれの女でないという女、つまり wo-men のようなものは、まったく意味のわからないものだ、それは意味のわからない存在というより、そもそも「存在していない」と指摘するのが正しい。
おれの女でないと意味がわからんというのは、物語につながっていないと「人」ではないということだ、いくら肩肘を張ってみたって、魂まではデカくなっていないんだぜ、楽しくふざけながら魂はおれの女でいてくれよ。

いいじゃないか、減るもんじゃないし、いやむしろそっちは魂が増えるだろ。

おれの女じゃないあなたと、おれの女であるあなたを比較すれば、そりゃあおれの女であるあなたのほうが、魂はアリアリで物語もアリアリに決まっている、僕は何かを欲張って言っているのではない、せっかくなのであなたは無駄な時間をすごすべきではないと主張しているだけだ、おれの女じゃない夜をすごすほど無意味なことってこの宇宙にあるか?
おれの女じゃないあなたが、漠然とカワイイを目指すというのは、いい年をした男が「カワイイぼく」を目指しているのと同じぐらいブキミで無意味なことだ、まかりまちがってもあなたはおれの女として抑圧されるということではない、あなたがおれの女じゃないと言い張るあなたが抑圧なんだ、あなたはどうしてマジメぶって五月の夜を逃すんだ、今目の前にあるだろ。
視点変えてこ | comments(0) |
身近なものはすべて誤解
んというか、パーッとやりたい。
ちょうどいいか、今週末はパーティだ。
ひどい記事を書いているのに、言っていることが矛盾するようだが、そういうことではないのだ、つながるべきところへつながっていないと、何もなしにパーッとやっても、けっきょく何も楽しくないのだ。
ああ、これはつながっているのがわかるなあ、最近はこういうナゾ発言ばっかりしてしまうが、しょうがないのだ、一般に思われているよりも「世界」はデカいのでしょうがないのだ、そりゃあナゾ発言にもなるってもんよ、ナゾなんて気にしなくていいのだ。

あえていうなら、縮尺の問題だ、ほーれこのように、いい香りがしてくるように考えなくてはならない(ナゾ発言)。
大いなる、というのは、ただの縮尺の問題であって、ありがたがって拝むようなことではないのだ/たとえば地球のサイズと太陽のサイズはまったく違うのだろうが、その縮尺を明視したときに世界が得られるということで、認識を超えたものとつながる必要があるのだ、そのとき独特の解放があって……このとおりナゾ発言のオンパレードにならざるをえない。
たぶん今、誰も広大なことの中にいないのだが、それは広大なものを認識なんか不可能だからであって、広大なものというのは認識の能力を超えてしまう以上、広大なものとは直接つながるしかないのだ、広大なことの中で出会い、広大なことの中で学ばねばならない、そうでなければ何をしたって快感がない。
広大というのはナゾの感覚であり、ナゾの現象だ、魂には時間が存在していないように、魂には大小というスケールそのものが存在していないのかもしれない/僕が言っている「認識不能の広大に直接つながる」というのは、きっと大きさ尺度についての無限と永遠に接続するということなのだ、やはりナゾ発言だが「世界」は実際そういうものなのだからしゃーない。

世界に「身近なもの」など存在していない。

「広大」は「身近」の反対だが、みんな魂が弱ェーので、いつもあっさり「身近逃げ」してしまうのだ、まあいきなり広大な宇宙に自分の魂だけポツーンと置かれたら耐えられないのはわかるが/パーッとやりたいが、身近なのはイマイチだな、広大が八割で、残り二割ぐらいが身近なのがいい。
「カワイイ」みたいなものを虐殺しろと言ったが、それは「カワイイ」的なものが広大さの逆へ人を引き込むからだ、身近なものってすべてが誤解だからイヤだね、世界とつながるというのは無限の孤独の中で身近なものが何一つなく、ただ世界だけはつながってくれているという状態だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「面白い」ということ、「面白くない」ということ5/ジャンルキャラカワイイ
っと「かわいい」という感覚と表現それじたいが、女性的なのだ、「カワイイ」とカタカナにすればよりわかりやすいだろうか。
男性が「カワイイ」女の子を求めるというとき、その男性はすでに男性ではない。
背後に「カワイイ」という邪法があり、「ジャンル」が生じて「キャラ」を思いつき、「キャラ」が「カワイイ」だと本当に信仰している、その果てがたとえばいわゆるコスプレとなって現代に現れているのだろう。
「カワイイ」の業界で元気な人は、「カワイイ」をもってマウントを取り合うだろうが、疲れた人はただちに憤怒と悲鳴に転落するだろう/勝ち筋はどこかといって、かわいい wo-men をものすごく下に扱うことだ、実際すでにまともな女性は、ものすごく下に扱われることに鋭敏によろこぶという反応を示している(ものすごく下に、女性が正しく「はまる」場所がある)。

むしろまともな女性当人が、一番気づいているはずだ、自分がしゃしゃり出ることによって、そこにあった「面白い」もののすべてがおじゃんになるということに、形容しがたい恐怖と忌避を感じている/それはまともな感覚であって……ただ今のところ女性は引くことは知っていても下がるということを知らない。
実感上、「カワイイ」ということの価値が低いとはまるで思えないだろうし、どうせ自分が少しでもピンチになると、現代の「カワイイ」を使ってその場逃れをするはずだ/現代の邪教・邪法が「カワイイ」なのだが、かといって正教・正法を与えられていないのだからどう言われたって切り替えようがない。
現代、別に女性が無価値ということではなくて、男性も女性も似たり寄ったりで、同程度に無価値なのだろう、たぶん男も女も「想像を絶するほど無価値」なのだ、この無価値に「そんなまさか」と甘い味付けをするから、いつまでたっても真相が行方不明になる/実際に今、何もかもが「面白くない」のに、そこに強引に「カワイイ」を足して、価値があるふうに偽装しているというのが事実だ。
これをもって、だから死ねということにはならないにせよ、すべてのことが「 "ジャンル" で "キャラ" で "カワイイ" でしょ?」で済むし、「じゃあ面白くはないじゃん」ということが前もって判明してしまっている、「カワイイ」というのはそれほど邪法だったのだ/かといって、もちろんブスやブ男が救われるわけではまったくなくて、ブスやブ男は邪法にさえ力をもらえなかったというどうしようもない例だ。

「 "ジャンル" で "キャラ" で "カワイイ" でしょ?」を、どうやら大真面目にやっているらしい。

ちょっと想像のつかないことだが、確かにこれまで「面白い」ということに、まったく本質的に触れずに来たならば、その「ジャンルキャラカワイイ」を唯一の価値観として、大真面目になぞることになるのかもしれない、「面白い」という悟性がないなら、ジャンルキャラカワイイの「実感」だけを根拠に生きるしかないのは必然ということになるのだろう。
悪口を言っているのではない、勝ち筋を残そうとしている、ジャンルキャラカワイイはそれぞれ、世界・人・愛に変わらないといけないが、これらは基本的に wo-men のものではない、それは女性に不可能ということではない、すべての wo-men を殺しきるのだ、「世界」にはもともと wo-men は存在していないから/今やそのことは、男も女も同じだ。男も女も wo-men は殺せ(あくまで勝ち筋のために)。
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「面白い」ということ、「面白くない」ということ4/Killing all wo-men

の話をしているんだコイツ、という感じだが、勝ち筋を残すために、精密検査をしているのだ、何かとんでもないワナがあって、勝ち筋を消されてしまう仕組みが現代にある。
今、きれいな女の人はものすごくきれいだし、そんな人たくさんいるし、前向きな人はみんな本当に前向きで、何の問題もないように見える、でも「何かがおかしい」と感じていないと、それはどこかセンスが甘い。
人はウソをつくからね……しかもそのウソに、当人も気づいていない場合が多い、こういうとき僕はまったく奇想天外の、別次元の感覚をアテにしていて、何かとんでもない悪霊が潜んでいるというところを、探知機で探り当てているのだ、そこから何が出てくるのかは探り当ててみないと判明しない。
僕が思うに、このギョッとする悪霊の感触は、「面白い」と「かわいい」が反対関係にあるというところに潜んでいるのだ、ありとあらゆる美術館に「かわいい」が置かれた試しはない/そして今、キモオタと呼ばれるような人たちは、日夜通信端末で「かわいい」女の子を追いかけ回している。

今から三十年ぐらい前に、女性はなんでもかんでも「かわいい」と表現する、ということが、半ば問題視されるような、半ば揶揄されるような、そういう時期があった。
そもそも、有史以来、ここまで「かわいい」が陳列され、それがえんえん眺められるという時代はなかったはずなのだ/この数十年で、明らかに「かわいい」という基準軸が文化に乱入してきている、そのことは現代の女性文化が台頭してきた時期と重なっているはずだ。
「かわいいは正義」という言い方が、すでによく知られているけれど、これがとんだ邪法で、「かわいい」は「面白い」より下層だったのだ/「かわいいは正義」というのが、実感によく当てはまるのは察せるが、だいたい実感にぴったり当てはまるものというのは、果てしない闇への入口だ、「かわいい」がすべての「面白い」を葬り去ってわれわれは今罰を受けているところだと捉えていいだろう。
女性の大半は、「かわいい」という感覚しか持ち合わせていなくて、何が「面白い」かをわかっていないし、まして自分で「面白い」を創り出すことはできない、まさに「かわいいは作れる」が「面白いは作れない」が女性だ、その女性の感覚軸・基準軸をあがめているうちに、男性も「面白い」ということがわからなくなり、男性も「面白い」が作れなくなった/ご存じのとおり、今は若手のお笑い芸人も、「面白い」ではなく「かわいい」を第一にして売れようとしている。

実際、「かわいい」女の子とセックスしても、つまらなすぎて倒れそうになる。

あの極端な「つまらなさ」は何なのだろう、鉛を呑み込んだように全身が「つまらなさ」でズッシリと重くなっていくのだ、「かわいい」の当人はずっとその重さの中を生きているのだろうかと想像すると、それはただごとではなく狂気だと思う、だが当人はそれを信仰として上位を得てきたのだから今さら退くに退けないのだろう。
かわいくない女の子には、何の価値もないように思えるが、そのとおり何の価値もないのだろう、そして本質的には、そこに「かわいい」を貼り付けたところで、価値がないことは解決していないことになる/まったく「面白くない」ものに、「かわいい」を貼り付けるということを、現在は男性がやっているということだ、この wo-men の現象を滅ぼさねばならない、あくまで勝ち筋を残すためにまったく別次元の感覚を使って申し上げている。

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「面白い」ということ、「面白くない」ということ3
れぐれも、勝ち筋のためにすべてのことを修正している。
今多くの人は、「面白いこと」と「消費衝動」の区別がついていない、例えば YouTuber が「激辛500倍カレーを食べてみた!」とすると、内容的に "気になる" のだが、それは「面白い」ということではないのだ、ただ気になるから消費衝動が起こるだけだ。
そして、消費衝動については、凡人も非凡も関係ないのだ、どんなに面白くないお笑い芸人でも、ジェットコースターに乗せてその顔面を至近で撮影すれば笑える映像が撮れるように、500倍カレーを食べて「辛っ!!」となるのは、どんな凡人でもいいのだ。
くれぐれも、凡人を否定しているのではない、「面白い」ということと、そうでないものとを区別しているだけだ/現代人の多くは、根本的に「面白い」ということをわかっておらず、消費衝動の充足を「面白い」ことだと勘違いしている、少なくともこの是正が為されない人には勝ち筋がない。

両者の区別のために、「消費衝動」はまさに「後に何も残らない(消えている)」のが特徴だと捉えておくといい。
「消費衝動」というのは、ただの「ジャンル」なのだ、たとえばジェットコースターに乗ったお笑い芸人の顔や、500倍カレーを食べた YouTuber のリアクションというのは、「バラエティ」というジャンルであって、それがそのときに消費されたら、その後には何も残らない/残らないのが悪いわけではなく、そういう性質のものだと、あくまで区別のために指摘している。
一方で、たとえばフジ子ヘミングのカンパネラを聴くと、その後なぜかずっとフジ子ヘミングのカンパネラという(後頭部がゾッとするような)「世界」が残ってしまうのだが、これだって人によるのだ、たとえばロックフェスに集った若者だって、「楽しかったね」「アツかったね」と、それを「フェス」というジャンルで消費し、その後何の世界も残っていないということが大いにありうる/それは、当人は楽しんでいるつもりでいるし、確かに楽しんでいるのかもしれないが、実はなにひとつ「面白く」はないということだ、今はただそのことの説明だけをしている。
凡人と非凡の境目はまさにここにあり、凡人の営為はすべて消えていってしまう(消費してしまうし、消費されてしまう)のに対し、非凡な人たちの営為はどれも新たに「世界」を現成させるのだ/いくら偏差値が70あっても、それは当該ジャンルにおける「高性能な凡人」ということにすぎず、偏差値の発想で「世界」うんぬんには到達できない、凡人と非凡の差はまさに、この「ジャンル」と「世界」のどちらにアクセスできるかという違いから生じている。

「ジャンル」が凡人の言い訳になっている。

あくまで、勝ち筋の確保のために申し上げている/たとえば市民楽団に入ると「音楽をやっている」ことになるが、それは「ジャンル」だ、「ジャンル」に深入りすることで凡人が非凡空想を保持しやすくするというスタイルが横行している。
登山する女性をわざわざ「山ガール」と呼んだり、インスタグラムを利用する人をインスタグラマーと呼んだり、婚姻相手を求めることを「婚活女子」と言ったり、ただゲームに耽っているだけの人を「ゲーマー」と呼んだり、はしゃいでいるだけの茶髪を「陽キャ」と呼んだりして、自意識をジャンルに所属させることで非凡気分を加速させるという、目も当てられない手法がまかりとおっているのだ、そこに残っているのは「まったく面白くない凡人」なのだが、当人は非凡な何かの中にいるつもりでいるので、手がつけられない/どうして凡人のまま山に登ってゲームをしてインスタをパシャッと撮って飲んでさわいで婚姻相手を求めるというのが不満なのだ、やっていることはことごとくふつうの平凡なことじゃないか。
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