☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
誰もが深く傷ついている

絶偉大なおれさまからすると、いつも「お前らみたいなもんは」、どいつもこいつもわかっとらん、と感じるのだが、どいつもこいつもわかっとらん中で、ひょっとすると誰もが、僕などよりはるかに深く "傷ついて" いるのかもしれない、最近はふとそんな気がしてきた。
そりゃあ正直なところ、偉大なるおれさまでさえ、すべてを看破した上で、現在の状況を完全な平静で眺めてはいられないのだから、ふつうの神経の持ち主では、現在のさまざまなことの実態を、すべて看破して直視したら、とんでもないショックを受けて、まともに生きていけなくなるだろう。
何もわかっとらんくせに、きっちり傷ついてはいる、ということがあるのだ、そして何もわかっとらん中で、それでもなぜか正しいことをする人もいるし、やはり正しくないこと、やってはいけないことをやる人もいる。
多くの人が実は、何もわかっていないまま、深く傷ついているということを、それぞれが自分において自覚できれば、話は簡単になるのだが、おそらくその傷と悲しみの深さは、本人の許容量を超えているので、そもそも自覚できないし、自覚しないほうがいいのだ、このわけのわからない状態で、とにかく盲亀は浮木にたどり着くしかないのだった、うーんこうなるともう「幸運」を求めるしか方法がないぜ。

傷ついて、パニックだが、安全装置がはたらいて、平静、という状態がある。
おそらく、戦争で最前線の砲撃音に晒され続け、精神を損傷して帰ってきた人も、パッと見は正常に見えるし、本人も自分が深く傷ついているという自覚はないのだろう、われわれの状況はそんな勇ましい最前線ではないが、かといってこれだけの状況で誰も傷つかずに生きている "はずがない" ので、安全装置に欺瞞された、逆に適切な平静の状態を前提にする必要がある。
さまざまな局面で、僕がナゾの発言と、ナゾの言葉、ナゾのシャウトをすると、多くの人がハッと黒目を取り戻して、「わーい」と幸福さを取り戻すのだが、きっと誰もが、自分に何が起こっているのかがわからないのだ、安全装置が傷と悲しみを制御しているぶん、僕の呼びかけているものも、ノイズが掛けられて読み取り不可になっているのだろう、そうしてそれぞれの人に何の自覚もないまま笑、悲しみと歓喜の戦いが魂のサイドで行われている。
僕のやっていることが、直截「視えて」くれたら、すべての話は早くてスムースなのだが、きっとそうはいかないのだろう、僕のやっていることが視えるときは、その他のことも一斉に視えてしまうということだ、それは通常のソウルレベルの人が耐えられる威力の嵐じゃない/もうこのままいくしかない、と半ばは思うのだが、でも僕ひとりでは出来ることにあまりに限界がありすぎるとも、当然思うのだった、うーん何の解決にもならないがそういうことなのだと、超絶偉大なおれさまは報告しておく。

自分か深く傷ついていることを、自覚するな、ただし予備知識には持て。

全員がバブル景気を、「バブルだ」と本当に自覚したら、その時点でバブルが大崩壊して致命的なクラッシュが起こるように、すべての問題と解決は、実際的には軟着陸をこころがける必要がある/おれのことをナメてもらっちゃ困るが、あなたがブッ壊れてしまうのはもっと困るので、それよりはずっと僕のことをナメてくれたほうがマシだ、偉大なるおれさまはそのこと自体に腹を立てるようなヒマは持ち合わせていない(どう考えたってとっくにそれどころじゃねえんだ、状況は)。
誰もが深く傷ついているのだが、そこに起こる悲鳴はすでに自分のキャパシティを超えているので、安全装置がはたらいている、それで表面上の平静が成り立っているのだ、僕と同じものを直視して平静でいるわけじゃない(当たり前だ)、この先は本当の意味で時代が変わると思うので、そのときに備えて今から愛や世界や魂のことをやっておくのが吉だと思う/予備知識としてあなた自信の傷と悲しみを知れ、そして予備知識として偉大なるおれさまを超絶尊敬して愛するように(そして不時着に成功したらただちにすべての「ヤバかった!!」を自覚しろ)。

正しく見ないとな | comments(0) |
なんとなくワークショップに誘ってみる
べての人に、どうか「命令法」だけでも体験してもらえないかと願っている、命令法をやってみると、どれだけ自分のやっていることが人に "通じていない" かがはっきりわかるからだ。
あとは合気上げでもやられて、「ふぇっ!? なんじゃこれ」とでも体験してくれれば、少なくとも大きな二つのことがわかる、ひとつには「実は思い切りやって大丈夫なんだ」ということ、もうひとつにはさっきの「実は全然通じていないんだ」ということがわかる。
ほとんどすべての人は今、出すべきものを閉じ込めてストレスを内部に蓄積し、一方では、通じないものを放出して外部にストレスを与えている、つまり、両面において不毛かつダメージのあるスタイルで生きている、こんなことが続いて無事に有益に生きてゆけるわけがない。
だからせめて、「そうじゃない」という実物を見て、スタイルを転換する可能性だけでも、自分の中に芽生えさせておかないといけない、自分の中のウソをすべて剥ぎ取るのはなかなかえぐいが、ウソで塗り固めたままこの先を何十年も生きるのだって長期的に見たらえぐいのだから、せめて有益なほうのえぐさを採るべきだ。

誰だって、それなりの優秀さをもって、何十年も生きているのだから、それなりに自負はあるし、特殊なことはできないにしても、誰にでもできるようなことは、それなりに自分もできると思っている。
ところが、厳密に学門として、つまりお約束や空気の読み合いやキモチへの配慮を排除して、自分の人間的能力を精密に点検してみると、実は本当には何も出来ていないのだ、何も人には通じていなくて、単に立場や力関係や習慣やお約束や慣れで、人は自分に付き合ってくれているだけなのだということがわかる/そのリザルトはなかなか衝撃的なものになるが、それについて当ワークショップは「学門だからしゃーない」の一点張りだ、だって本当に学門だからしゃーない。
自信の喪失は起こるかもしれないし、それ以上に、思想や信仰の問題があって、当のリザルトを、いくら合理的な実験結果だとしても、受け容れられない人もいる、そういう人にまで無理をさせる道理はない/ただけっきょく多くの人は、「いや、逆にこれでよかったです」「すっきりしました、このほうがむしろ納得がいきます」と、学門の正しさにこそ目を覚ますようだ、そのことについて「みんな根性あるなあ」と僕はこっそり驚いている。
学門がもたらす点検のリザルトに、ふつういったんはショックを受けるけれども、一旦それを受け止めてしまえば、「つまり、これだけですよね」といえば「うん、それだけ」ということでもあるので、多くの人は逆に落ち着きを得るようだ、そしてその先どうすればよいかという、メソッドもセオリーもすでに学門として提示されているので、「すべてのことはさておき、数ヶ月だけでもこのことに突っ込んだほうがマシでは?」と、誰だって合理的に考える、そして数ヶ月もまともに突っ込めば、何かに到達するということはもちろんないが、多くの人はとりあえず正しい入口には入れる、正しい入口にさえ入ればあとは、各人が勝手になんとかしていくだろう、それに比べて、間違った入口に放り込まれたまま、その先を何十年もジタバタさせられるのは、不毛で怨みが残るじゃないか。

命令法の実演を見ると、100人が「できる」という気がして、自分でやってみると、100人ができない。

命令法というのは、人にごく単純な動作を命令するということ、それも言語で「指示」するのではなく、人に触れての「命令」として発するということ/これは、実演されると「これだ」という気がするし、「こういうのこそ必要でしょ」と見えるのだが、自分でやってみるとまったくできないのだ、これは全員が驚くことなのだが、自分の命令が他人に伝わっていると思い込んでいるのだ、だから初めはかんたんに出来る気がするのだが、やってみると全然通じないので「あれっ?」となる、「こんなのできて当たり前でしょ」と見えるものが、さっぱり自分にはできないので、「あれっ? あれっ? そんなバカな」となる/典型的なパン祭り(パニック)の入口で、これによるパン祭りの発生は、もう全員が「はいはい」と見て見ぬふりをするようになった(あとは誰かが冷えピタを差し出してくれるだろう笑)。
学校の先生だろうが、演劇の演出家だろうが、公務員だろうが、何かのトレーナーだろうが、この「命令法」のごく初級を、初めからできる人をまず見たことがない、とても簡単なことで、人の肩に触れ、その人に「行け」と命令を送って前方を歩かせるだけなのだが、肩をぐいっと押すだけになり、そこに「命令」を乗せられる人はまず見ない、そこで僕が肩にポンと触れると、「うわ」と、笑いが起こるほどはっきり「命令」が乗っかるのだが、このとてもカンタンかつ、自分にはいかにも出来そうな、「割と得意」と思えそうなことが、いざやってみるとさっぱりできないのだ、実際に直面して初めて、「どうやったらいいか見当もつきません」ということがわかる/こんなこと、実際にやってみれぱ数分でわかることなので、なんとか多くの人に知ってもらう方法はないかなと、あれこれ考えているのだった、どこかの権力者がまとめて「行ってこい」と義務化してくれりゃラクなんだけどな。
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パーティ報告91(1)/冷静な不思議
色悪いことを言うようだが、僕は、僕のことを慕ってきてくれた連中が、少しでも幸福になってくれたら、それだけでいいのだと思う、気色悪いことだとは思うが、僕が気色悪いだけでそれが手に入るなら、僕の気色悪さなど安いものだ。
例によって朝まで飲んで、朝食にいって昼間でしゃべって、その後陽気につられて世田谷公園に行ってしまい、そのままそこで新発明したワークについてやりこんでしまったのだが、つまりパーティをワークショップでサンドイッチしたスケジュールになる。
それで、このごろは、以前までは朝までもたなかった女性が、いつのまにか遊ぶ時間の記録を更新していって、今回はついに最後までくっついて遊びきりやがった、誰よりもよく笑うようになって/それで何か、少し気が遠くなるような、何か不思議な気分で、今僕はいる。
今回のパーティは、盛会とか成功とかいうレベルではなく、もちろん大成功だったのだろうが、やっぱり僕は大成功とかそういうことには興味がないのだ、まったく気色悪いことだと思うが、どうやら本当に、僕のことを慕ってきてくれた連中が、少しでも幸福になってくれたら、僕はそれだけでいいようだ、このことが気色悪いだけで済むなら、僕は生涯この気色悪いやつを抱きかかえて死んでいきたいと思う。

なぜ僕は、こんなに慕われているのか、心当たりがなくて不思議だ、なんなんだこいつの異常な慕われぶりはと、なぜか他人事のように感心して眺めてしまう、感謝もされているようだが、僕は感謝ということには本当に関心が無くて、ただ僕のことを慕ってきてくれる奴が、何か不思議でしょうがないらしい、ときどきそれは自分の体験の映像なのか、自分が目撃しただけの映像なのか、よくわからなくなる。
僕がわけのわからない記号の話をすると、目の前の奴の黒目が、まるでギュルンとスロットで入れ替わったみたいに変化して、これまで疲れて苦しんでいた目がどこかに行ってしまった、何もかもナゾだ、はっきりいって時間軸上の青春だった時代よりも巨大なナゾに包まれている。
黒目がギュルンと恢復して、恢復というより新しい瞳になって、その他、よく笑うようになり、メシがうまくなり、賢くなり、自信を得て、苦しまなくなり、悪い仕草や凶相は消えてゆき、本当によく笑うようになり、いつまでも遊び続けたがり、深々と頭を下げるようになって、それらすべてのことを、けっきょく僕がやっているという自覚はあるのだが、その自覚に矛盾するように、僕は何もしていないという絶対の確信もある、僕は何もしていないのだが、僕がいないとだめだというのもはっきりわかる。
今回は特に、なぜだろう、極端に不思議、ひたすら不思議な気分なった、毎回、毎月、ここ半年、一年、二年、振り返るとみんなびっくりするぐらい変わったのだ、もう昔のそれぞれが思い出せないぐらいに/どんどん、びっくりするぐらい変わっていくのだが、それと矛盾するように、ずっと何も変わっていないという確信もある、こいつらは全員初めからこうだったという確信もどうしてもある。

僕は異常に慕われているが、慕われているのは僕ではない。

謙遜でも何でもなくて、本当にそうなのだ、僕は正直、最近はしばしば、どれのことを「僕」と呼んでいるのかわからなくなることがある、どれも僕自身であるには違いないが、そうではない、正直にいえば「僕」が複数存在しているような気がする、そもそも「僕」が単体という前提のほうがうそくさいようだ。
あと、直接関係はないメモだが、僕は「この世界はひとつの記号だ」と話した、「記号法」によって記号はイコール「表示」の力を持つことが解明されているが、「だからこの世界はずっとひとつの表示なんだよ、超デカイ "表示" だ」と僕は話した、僕はこのことに降り注ぐ何かの作用知っており、「これやると自分が下請けの工場みたいになるんだよな」、ただそのときだけ、いつものとおり「ハイこれ来た」となる、「そしてこの話をするとお前らの目はなぜかきれいになる」、僕はそう話したのだが、なぜかそうして目が綺麗になるということを、僕は知らないまま先に言っていた、心当たりはないが先に知っていたのだ、なぜそれを知っていたのかは僕にはわからない。
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WS報告036(2)/アブソルートリィ

「自分のやっていることについて、当然の説明ができなきゃアホだ、単なる社交的アカウンタビリティの問題だと見てもいい、単純にニューヨークで、学歴のクッソ高い黒人に、自分のやっていることが説明できなきゃ、そんなもの "あいつはよくわからないやつだ" "彼女に関わっていても時間の無駄よ" としか扱われないだろう、そりゃ誰が考えたって当たり前だな」
「今やっていることって何だ? それはつまり、ボディワークであり、contains(含む)、フィロソフィ、ライクヨガ、エスペシャリィムービングだ、ムービングウィズアウトパワーだ、パワーは makes アクセラレーション、アクセラレーションは makes スピード、then パワー・スピード・バトル、バトル、バトル……パワーmakes ストレスフルバトル、だからノーだ、...but 、how can we move without power? ところが、"We can move without power." ジャストフィニィッシュ、イン・ミリセカンド、we don't need power, we don't need acceleration、ジャストフィニィッシュ、ミリセカンド、ここは実演すりゃわかるでしょ」
「ワットイズワールド、ハウトゥシーザワールド? power makes us blind, we cannot see the World because of blindness、so then, ウィーシュッドビーサプライズド、at first we need to "Hear", Hear the some "Unobservable" in space, 横隔膜リリース、it means just "soul", we can move without power, we can move by soul, 観測不能のソウルがわれわれの体内にインだ、そのインしたものが動く、それでわれわれは seeing the world だ、そして、however, オールメソッド、オールセオリー、オールテクニック、イズ、ベリーベリープレシジョン(精密)だ」

「こんなもん英語力の問題じゃない、カタコトで十分だ、カタコトで伝わらないなら丁寧に言ったって伝わらねーよ、そしてファイナリー、 we take the way, アブソルートリィ・ディナイイング・カース(呪縛)だ、呪縛の絶対否定、アズユーノウ、バイブルセッズ、words are life, バットオルソー、アズユーノウ、サムタイムズ words make us cursed, ...then, インショート、ウィーユーズオール words without  true knowledge as for "What is the Word?"」
そんなわけで、もうさっさと眠りたいので(今日はこのあとパーティだぞ)、テキトーに報告するが、「つばぜりあい(鍔迫り合い)」の形を採って、「気魄」の正しいぶつかり合いを稽古した、まず気魄のほうもバチッと整えて、何より量的に気魄が実用に堪えるだけ鍛えないといかんからな……その「気魄」のぶつかりあいの中で、つまり鍔迫り合い状態の中で、「言葉」がどう出現してどう作用するかということをやった、これはやりだすとむつかしすぎて草不可避だ。
この、むつかしすぎて草不可避ということに、さっさと気づいてほしい、そしてむつかしい上に、自分の魂魄の素地が、弱すぎて話にならねええええということにも、さっさと気づいてほしい、その両方にまざまざと気づいたとき、「こりゃ無理っすわ」となるのだが、そのとき初めて正しい入口に立てる、その「無理っすわ」感がわかれば、「なるほどこれは市民根性とか混入していたらやれませんわ」ということもいわずもがなわかってくるはずなのだ。
「なんつーか……たとえば、 "当店ではアレルギー性食品を徹底的に排除しています" という店があったとしたら、その店はさしあたり、何のために存在しているのかわかるだろ、一種の "安心感" があるじゃん、それと同じように、きみたちもまず人前に立ったとき、何を絶対否定して、何を徹底的に排除しようとしている者なのか、それが見えないと、きみたちは永遠に "よくわかんない奴" なんだよ、もちろん一般市民としてはそれでいいんだけれど、きみたちが望むように人前に立とうとするなら、何を絶対否定している者かが不明瞭な場合、要するに "ひたすら迷っている奴" としか見えないんだ、その迷っている奴がいくらがんばっても自分の迷いのためにがんばっている奴にしかならないんだよ」

「アブソルートリィ、"絶対否定" だ、絶対否定とはどういう意味か、相対的な否定じゃないってことだよ」

相対的に背の高い奴や、相対的に勉強好きな奴、相対的に几帳面な奴や、相対的にきれい好きな奴は、一般市民としてはそりゃ結構なことだが、一般市民性を離脱したときには、「相対的に」は何の指標にもならない、ただの「よくわからない奴」だ/絶対的というのは「相対的でなく」という意味だが、この絶対性がたぶんないのだと思う、この絶対性がないと、どんな奴だかけっきょくわからないし、何をやっているのか自分でもわからないし、何をやっているのか自分でもわからないので、何かの練習や稽古やトレーニングというのも空転する。
当ワークショップは(あくまでワークショップ内においては)、呪縛を絶対否定しており、呪縛の徹底排除は、特に「言葉」を媒介して、必然的に世界のブラボーと接続するはずだという理論だ、別に理論として複雑なことをしているわけではない、このことに「???」と脳みそが混濁する人は、理論の複雑さに混濁しているのではなく、絶対性の根拠を相対的に捉えようとしているから混濁するのだ、相対的に呪縛がバッドなんてのはただの個人の感情でしかない。

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WS報告036(1)/「物語」がわかるために

の体調が悪かったので、どうなるかと思ったが、まあなんとかなったし、僕が休憩したぶんは、やっぱりみんなが苦労した(苦労というか疲労したはずだ)。
ふだんは僕が、万事を成り立たせているからな……人は成り立っていることには疲れないが、成り立たないことにはたちまち疲れるのだ、空回りや不毛や上っ滑りというのがただちに疲労を山積し、この疲労に耐えられないので、人はやけくその「ウソ」をやり始める。
「お前らが何かへんちくりんな、市民劇団になるとしたら、その理由がわかるか? 市民劇団になってしまうのは、お前らが "市民" だからだよ」「こんな特殊なこと、一般市民はやらないし、やらなくていいの。こんな市民があってたまるかよ」「まともな道筋に入りたけりゃ、まともに区別することだ、こんなところに市民根性を持ち込んでくるぐらいなら、本当に単に失せたほうがいい」「市民劇団が悪いと言っているわけじゃない、ただガチの表現やら芸術やらは、まさか市民のものじゃないよね? と言っているだけだ」
一般市民として生きる部分については、何もおかしくする必要はないし、ただすべての生きる時間がその「一般市民」で満たされるわけでもないだろう、それとは別の時間も持つし、別の道も持つということが、ごく当たり前のことだと僕には思えるが、こんな単純なことにもそれなりの混乱があるようだ、混乱というより何か奥底に「異議」があるのかもしれない(その異議が何かの役に立つわけではまったくない)。

「作品」を進めていくと、明らかになってくるのだが、やはりごく単純な、ド初級のレベルでも、「物語」というものが根本的にわかっていない、もしこの検査を国税調査でやったら、恐るべき事実が浮かび上がってくるだろう/僕はすでに、「きみたちの知性はリアルにヤバい状況にある」と伝えている、そしてプレイヤーたちは大いにそのことに納得している、みんなキモチがフワーッとするだけで、「物語」が何なのか本当にまっっったくわかっていないのだ(うーんリアルにヤバい)。
「物語」を知るためには、学門が必要になるが、学門を得るといっても、思いがけずほとんどの人は、文部科学省のマークが入っていないものを、根本的に信じておらず、文部科学省のマークが付与された、文科省下賜の知識しか納得して吸収しないのだ/これは悪口を言っているのではなく、本当にそういう思想と信仰が成り立っているということが、実験してみるとわかるのだ、僕はいま嘆いているのではなく実験結果をレポートしているにすぎない。
日本国憲法に、学問の自由が保証されており、研究発表の自由や教授の自由も保証されているのだが、これらの基本的人権について、「要らない」「放棄したい」というのが、どうやら多くの人の本音らしい/専制者のもとでロボットになりたいというのが本音なのだ、これは歴史的に見てもそうで、実際に歴史上、民主主義の果てに独裁者が誕生している、市民が専制者を求めるのだ、ヒトラーがその代表例だろう。
つまり、文部科学省のマークだけでは本当は物足りず、ハーケンクロイツが冠された聖典をただ鵜呑みにして行進したいというのが本心なのだろう、それについてのよしあしはあまり考えていないが、僕が困っているのは、僕はそうした権威にすがるという感覚がまったくないので、理解も共感もできなくて対処法がわからないということなのだ/もしそれが「一般市民」という性質なのだとしたら、僕は一般市民のすべてが根本的にわからないということになってしまう。

たとえば「ブラボーコンフィデンス、文科省」なら、即日にも肝に銘じられる。

うーむしかし、僕は文科省の事務次官ではないし、文部科学大臣でもないので、困ったものだ、じっさい文科省が靴を舐めろといったらよろこんで靴を舐めるのだと思う、もちろん正体は何のコンフィデンスでもなくただのガバメントギャランティードだが、日本はいつまでも「この紋所が目に入らぬか」「ははー」を続けるしかないのかもしれない。
単純な話、日本を諦めてはどうですか? とも言いたくなる、日本はいま経済的にも文化的にも劣等化していく大ピンチの状況にあるし、これから移民政策に頼るしかないのであれば、もうこの先はわれわれの知っている日本ではなくなるので、先行して日本を諦めるほうが万事の利益がある気がする/もちろん聖徳太子から続く日本の文化、サムライの技術等は、世界に冠たるすばらしいものだ、だがそれは現代まで続かなかったので、その意味で日本を諦めるというのは割と妥当な案だ、むかしソヴィエトの人もソヴィエトを諦めたのだし……われわれもそういう局面に立たされているのかもしれない、まあ天皇陛下が残るなら日本なんか諦めてもいいんじゃないか、魂を失ってまで「日本人」という一般市民幻想にこだわり続ける必要はないし、そのときようやく「物語」が少しわかるようになるかもしれない。

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「これはしてもいいんだ」「これはしなきゃだめなんだ」
近、ブログ記事の内容が荒っぽいが、ご了承願いたい、これは僕が変わらずゆくと宣言するための手続きなのだ。
これ以上、空っぽの美人を見たくないのだ、たいへんわがままな言い分だと思うが、僕はそのことを許しがたく思うほど、一方的に女の子を愛しているのだ、そのことを認めてもらおうとはまったく思わないが、言い分はそのように申し立てうる。
これ以上、何の体験もないのに、何の愛もないのに、何の知識もないのに、空っぽなのに、物憂げにしてみただけの顔面 with 化粧を見たくないのだ、空っぽでちやほやされてその後は加齢して子供産んだらオワリが女の人生って、そんなわけあるかよ。
見た目にも、愛や知性や体験が空っぽなのを、「わたしは空っぽを知っている」なんて強弁するのは無意味なのだ、何も知らんのはただ何も知らんのだし、何も得てきていないのはただの本当の空っぽなのだ、そんなことは珍しくないというか、当たり前なのだ、ただなぜか女の子が空っぽの化粧箱であることを気に掛けない男が最近は異様に増えているのだ。

実際、何をどうしたらいいかなんて、わからないじゃないか、あなたはいきなり目の前の壁に色を塗りつけたりしないし、紙切れに詩文を書き付けたりしないし、いきなりこの世界の賛歌を唄いだしたりしないだろう、何をどうしたらよいかを知るには一定の経験がいる。
それも、一定の経験というのも、「これはしてもいいんだ」「これはしなきゃだめなんだ」と、新しく知る・思いがけず知るという経験を積まなくてはだめだ、雨が降ったら傘を差すということを経験とは言わない、生まれ変わらないものを経験とは言わない。
そうした経験を積むためには、完全に単独では無理だ、友人や先輩たちのいるようなところ、あるいは読書や映画から、場合によっては何かの先生や、とにかく「こいつには何かある」「この人は何か知っている」「この場所には何かある」というところで経験を拓かないと、人の十年は本当にあっさり空っぽのまま進んでしまう。
空っぽのまま生きていくと、やがて加齢によって「死」がちらついてきたとき、空っぽを埋め合わせることとして、どうしても「地域」「血縁」「しきたり」に支配されていくぞ、それに支配されて本当に空っぽでなくなれるのならいいのだが、そうではないのだ、空っぽに空っぽを詰め込んでもやはり空っぽのままなのだ/あなたがどこかで誰かの魂の叫びを聞きつけて、あなた自身の魂を獲得する、そういう十年を掴むことを祈っている。

ほとんどの人がセックスするが、ほとんどの人が握手しない。

あちこちのラブホテルが満室であるぶん、あるいは性風俗のキャストが出勤しているぶん、世の中にはセックスがあふれているということだ、でもわれわれはその頻度で人々が握手しているところを見ない、それどころか語り合っているところさえ見ない、人には生理的および金銭的な理由からのセックスの希求があって、どれだけ空っぽでもセックスに関心を持ち得てしまう。
僕はあなたを、握手する存在であり、語り合う存在であるとみなしているのだ、空っぽであってよいはずがないあなたへ、あなたをラブホテルにつめこむ上物だとみなしているわけじゃない、僕はあなたに嫌われようとしているのだ、それはあなたに好かれようとする以外の男もあなたにとって存在させるためだ、あなたがやがて「これはしてもいいんだ」「これはしなきゃだめなんだ」と知るためにだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
十五のあばずれ

近は十五の少女を見てもまるで子供に見えない。
まるで子供に見えないのに、まだ何も知らないので、逆にものすごいアホに見える。
十五の少年少女が、無知のままサイダーを飲んで走り回っているのは、何もアホには見えない/無知は愚ではないし、サイダーを飲んで走り回り少年少女より僕のほうがイケているとは、僕はつゆほども思わない。
十五が二十五になっても変わらんが、やはり無知は愚ではない、無知は愚ではないのだが、その顔は何なんだ、何も知らないのに何もかも知っているようなその顔は何なのだ。

僕は十五や二十五の女が、男もそうだが、知ることを壮絶に得てきたとは思えないし、引き返せないほどの経験を膨大に積んできたとも思えない。
ふつう、壮絶に知り膨大に経ようとしないかぎり、人の知識など稼業のひととおりを知ってそれ以上はなしというのが通常だ、稼業とこの藩のことより他は何一つ知りませんというのがふつうのことのはずだ。
三好達治の詩文を目の前において、「ほれ」と言われても、直截何が書いてあるのかなんてピンとこないだろう、わからない漢字や熟語なんかググればいい、そんなことはどうでもいい、それより三好達治は何を言っているのだ/それがまるでピンとこないならば、その何もかも知っているふうの顔は何なんだ。
僕の住むところのひとつ隣駅にでも行けば、喫茶店で打ち合わせをしているアイドルがごろごろいるのだが、その股間を見せつけられても正直なところキツいと感じる、ものすごいアホに見えるものを間近に直面させられて、セッセッセというわけにはいかないだろう、今「かわいい」「エロい」を探している人たちは、ひょっとしてまともなセックスをしたことがない人たちなのではないだろうか。

間近でものすごいアホに直面するのはキツい。

それは無知ということではないのだ、子供が無知なのは当たり前であって、無知な十五の少女を膝の上に乗せたとして、何がキツいことがあるだろう、ただ同じ距離にものすごいアホを置いたときがキツいのだ/最近は十五の少女も子供に見えないが、大人びているわけじゃない、間近で見てみると「キツいアホ」だ、たまに当人もそのことに薄々気づいているからこちらとしても胸が痛む。
未だ何を愛したこともなく、誰を愛したこともなく、何かに泣いたこともなく、読書の経験もなく、思い出の場所さえもっていない、正真正銘の「マンガと動画だけ観てきた」者たちだ、それがもう子供の顔をしておらず、そのぶん露骨にものすごいアホに見える、こんな笑えない理由で若年のうちに生の全体が決定してしまうのはあまりに酷(むご)いのではないだろうか、己の最も清明たる相貌を得ることなく本来の美貌がただキツいものと化して生きていくのは。

視点変えてこ | comments(0) |
空から女の子が降ってくる
「親方、空から女の子が!」という有名なセリフがある。
空から女の子が降ってくるのが正常であり、空から女の子が降ってこないのは異常だ。
もう一度言うが、「空から女の子が降ってこないのは異常だ」、まったくどんな世界を生きているのか、何の世界もない中を生きているに違いない。
万が一、空から女の子が降ってこない場合があるとしたら、それは魂がないからだ、そして魂のない奴を基準にこの世界のことを考えるわけにはいかない、恋あい経験のない奴を基準に恋あいを考えるというぐらいイタい話だ。

空から女の子が降ってこない奴が、無理に「空から女の子が」と言い出そうとすると、イタい空想、イタい妄想、つまりただの「ウソ」になる、そんなウソ話に付き合ってくれるヒマな奴はこの世界に1ppmも存在しない。
あなたの両親は、空から女の子が降ってくるということを教えなかったろうし、むしろ親御さんは、「空から女の子なんか降ってきません」と言うだろうが、それは単に親御さんが誤っているのだ、そりゃあたりまえで、親御さんが無謬なら、すべての子供はどこの大学にもいく必要がない、すべて両親に教われば超弦理論までバッチリだろう。
空から女の子が降ってくるというのを、「信じたがる」人はけっこういて、「否定する」人も同程度いるのだが、「当たり前じゃね」と首をかしげる人はとても少ないのだ/なぜ空から女の子が降ってくるのを、当たり前と思えないかというと、単に学門のセンスがないからだ、学門のセンスがない人は繰り返された「習慣」しか身に覚えがない。
人はそれぞれ何かしらの業(カルマ)があるから、家に請求書が届くわけだ、それは誰にでも「当たり前」と感じられる、それと同様に、人それぞれに何かしらの魂(ソウル)があれば、空から女の子が降ってくるわけだが、それが「当たり前」と感じられる人はとても少ない/根本的な誤解があって、ノンフィクションからフィクションへ「離脱」しようと考えている場合、その離脱は永遠に成功しない、なぜならそのような「離脱」はそもそも必要ないからだ、ずっと何か誤解をしているのだろう。

フィクションの失敗作をノンフィクションと呼んでいるだけだ。

おそらく根本的な誤解は、ノンフィクションをベースにおいて、そこからフィクション作品の成功とか失敗とかがありうると捉えているのだろうが、そういうことではなくて、「空から女の子が降ってくる」のは成功作であり、「家に請求書が届く」のは失敗作なのだ、その失敗作をノンフィクションと呼んでいるにすぎない、そこに「離脱」うんぬんを言っているのは明らかに誤解で見当違いだろう。
空から女の子が降ってくるのは「当たり前」だから、そのことを夢見る必要はない、そうしょっちゅうデイリーで目の前に女の子が降ってきたらじっさい困るぜ、毎週「竜の巣」に突撃するほどの根性を僕は持ち合わせていない/フィクションとノンフィクションのあいだには何の無理もないので、人は誰も無理する必要がない、それでも空から女の子が降ってこない場合、それは自分が失敗作のに与して、成功作を謗ってきたのだろう、じっさい世の中には「わざわざ失敗作のファン」というのも少なからずいるし、どういう動機があるのかは僕も知らない。
正しく見ないとな | comments(0) |
要はソウルの叫びだ

し、体調が低迷すると、ただちに気づくことがある、「ソウルが叫びすぎ」だ。
なーぜおれひとり、おればっかり、こんなに叫び続けているんだという、アンバランスは承知の上でやっているのだが、少しでも体調不良が起こると、このアンバランスの無理が一気に噴き出してくるな。
なぜソウルが叫び続けているかというと、もうそんなバカはおれしかいねーのじゃないかという気がしているし、このソウルの叫びが途絶えたとき、すべての人がどうなっていくか、僕はよくよく知っているからだ。
ソウルの叫びが途絶えたとき、うーむ、みんなが思っているより遥かに笑えない、阿鼻叫喚の穴の底が待っているのだ、よく平気で自分の住む国を削っていけるな、たぶん大前提としてその先に落ちていくところかどんなところかについて、甘く見ているのだと思う、覚悟なんて通用するレベルのとこじゃないぜ。

まあとりあえず、体調がノリノリではないので、今日なんかはフヌケワークショップを開催しよう、そうすることで逆に発見されることもたくさんあるはずだ。
ソウルの叫びがなくなるのは怖いぞ、あくまでソウルの叫びがあるから金曜の夜はサイコーなのであって、ソウルの叫びがなくなれば、すべての夜は耐えがたいほどの時間の無駄になり、空虚と憎悪しか起こらなくなるのだ、そうなるとあとは田舎者の立ち回り合戦だ。
そのソウルの叫びを、僕一人が担っているという状態が、当然ながら無理があるのだ、誰か代わりに立てば、自分がこれまでどれだけラクな横着をしていたかただちに理解されると思うが、残念ながらその理解に到達する前に、サッと精神が逃げて何も視ないように脳みそにノイズが掛かるだろう、そうまでして横着を決め込みたいのかという問題がある。
何をどうやったって、船が水に浮かぶ物理のようなもので、カルマ量とソウル量が拮抗して、ソウル量が勝っていなければ船は沈むのだ、そこで辞退する船長に何の美学を認めうるだろう、誰もがこぞってソウルを獲得してソウルを放出しまくるしかないのだが、びっくりするぐらいの個人主義が横行しており、船の沈没について自分が責任を持たないよう立ち回ることだけを考えている/しかしおめえ、そうして責任をだまくらかしたって、船が沈めば一緒に海底に引きずり込まれるじゃねーか、何をおめでたいことをやっているのか、神経にデバッグソフトを走査させるべきだ。

自分が目の前の空間を浮揚させている、そのスコアを公正につけろ。

たとえば「親戚のおじさんが来る」として、その親戚のおじさんはとてもいい人かもしれないが、そのおじさんの来訪によって「目の前の空間が浮揚する」かどうかはまったく別じゃないか、それと自分も同じ、誰がどれだけマジメかなんてスコアはねえよ、小学校の先生がよろこびそうなスコアリングを持ち出すな、自分も含めて全員が小学生になっちまうわ。
シンガポールの二十歳の青年が、「新しい演劇の脚本と演出を思いついたんだ」と嬉々としてプランを持ってくるときの、当たり前にある空間の浮揚を考えろ、この二十歳の青年は明らかに責任逃れをしていないし、好感度のための立ち回りもしていないが、この青年のヴィジョンの前にいったい何のごまかしが通用するのか、どれだけ言い訳とキャラを詰め込んだって浮力を得ていない船は物理的に沈むしかないのだ。

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ワークショップ業務連絡:4/19(金)は19時から21時まで[中目黒デュアルポップスタジオ]です

題のとおり、4月19日(金)のワークショップは
19時から21時まで中目黒デュアルポップスタジオ にて開催されます。

(21時以降は三軒茶屋マイレッスンスタジオにて開催されます。)
ご確認よろしくお願いします。 九折


<中目黒デュアルポップスタジオへの到達の仕方>
・あなたは中目黒駅の正面改札を出るべきである
・正面の横断歩道を渡ることで山手通りを渡るべきである
・正面には蔦屋書店があり、あなたは蔦屋書店に併設されているスターバックスの角店の脇を前進してゆくべきである。このとき右手には「中目黒アリーナ」の看板があるべきである。
・前方に目黒川の橋があり、あなたは橋を渡るべきである。
・目黒川を渡るとただちに右折して川沿いをゆくべきである。
・すぐにあなたはオレンジ色の看板「いろは寿司」の前を通過するべきである。
・あなたはすぐ「river side gallery」の黒看板を見上げるべきである。するとその隣はすでに「中目黒マンション」である。
・あなたは「中目黒マンション」という金属切文字の看板を見て、そのエントランスを覗き込むべきである。地下に続く階段があり、あなたはその階段を降るべきである。
・B12室はB06室の奥にあり通路からは視認できない。よってあなたは踏み入って覗き込むべきである。金属のドアは押して開くものである。

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ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 4/19更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第六十六回】4月19日(金)19時〜中目黒デュアルポップスタジオ(19時〜)マイレッスン三軒茶屋スタジオ(21時〜)
【パーティ】
4月20日(土)19時〜@原宿竹下口Dinning Bar CLIMB
【第六十七回】4月26日(金)19時〜@マイレッスン三軒茶屋スタジオ
【第六十八回】
4月27日(土)19時〜@マイレッスン三軒茶屋スタジオ


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。世田谷公園では青空教室です
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期はスタジオを使用します、随時ブログ記事でご連絡いたします)
(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第91回】4月20日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

【第92回】5月18日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第93回】
6月15日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


「注目してる」ということは
「何もやっていない」ってことだよ



みなさまのご参加をお待ちしております。 九折
 

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静的なペニスと動的なヴァギナ4
体的に言うと、ペニスがヴァギナの内部を「押す」、このときに女性の全身がバラバラになっていては話にならない/このとき魄は充実して、ペニスとヴァギナはひとところに "実在" する、ペニスの押す気魄とヴァギナの受け止める気魄は拮抗している。
次に、ペニスがヴァギナ内部で「引く」、このとき丁寧に、精密に、瞬間的に、ペニスだけが消えてヴァギナだけが残るようにならねばならないが、そうすると先ほどまで実在していたペニスとヴァギナのうち、ヴァギナだけが残って実在することになる、そのときそこには「ペニスと出会ったあとのヴァギナ」だけが実在として残ることになる、このときヴァギナは当然ながら、ペニスと出会う前のヴァギナとは異なる形を得ている。
先ほどまでヴァギナは「押されて」いたわけだが、その押していたものがふと消えるので、今度はヴァギナが押す・押し返すことになる、そうしてヴァギナは初めて、自ら「動く」という形とありようを知る/これまで単に「ぐりぐりやられる器官」でしかなかったヴァギナは、ペニスと出会い別れたことで、自らの動き方とありようを知るということ。
ここで仮に、「牛革」という実在を考えてみよう、牛革はただの素材だが、そこに足の霊がやってきて、牛革と足の霊が出会ったのち、足の霊と別れた、そうすることで牛革は己から一歩踏み出し、次第に「靴」の象(かたち)を取っていくことになる、牛革は足の霊と出会うまで「靴」という象(かたち)は取れないだろう、男性が女性のヴァギナを作るというのはそういう現象だ、これは物理的な現象ではなく霊魂の現象であるため、陰茎をかたどったディルドで同様のことはできない(物理的な形に慣れるだけになる)。

今、多くの人は、実は「腹減った〜!」「満腹!」という感興さえ持っていない、それは胃腸が食物の精霊と出会っていないからだ、胃腸がただ生理反射として摂取物を消化・吸収しているとき、胃腸は空腹時にも「腹減った〜!」「満腹!」という感興を持たない、この人は「腹減った〜!」がないので空腹は生理的な「飢餓」としてしか得られない/その点で、胃腸もヴァギナも同じ内臓・粘膜だから、ヴァギナもやはり生理的に性交しているだけでは、それが「空いた」「満たされた」という感興を得ないのだ、この人はやはり性欲を飢餓的なものとのみ捉えている。
生理的な飢餓ではなく、食物の精霊が、胃腸の「腹減った〜!」「満腹!」という臓器の感興を解発するように、本来はペニスの霊魂が、ヴァギナの「空いた」「満たされた」という感興を解発する、人は与えられる食べ物がまともでなければ胃腸が霊性を失うし、与えられるペニスがまともでなければヴァギナが霊性を失うのだ。
最近は、コンビニの調理品等でも、バツグンに味がよく、ものによっては栄養素の管理まで心がけている、けれどもそこにはさすがに、料理人の魂は乗りようがないし、食物としての霊魂も失われがちだ、だからこれらのものはどれだけ「美味」であっても、胃腸に霊性を解発するにははたらかない/本当に料理に霊魂が乗せられる人の料理を食べると、多くの人は「食べるほどにもっと腹が減っていく」という体験をするだろう、それと同じで、本当にペニスに霊魂が乗せられる人に抱かれると、多くの女性は「抱かれるほどにもっと抱かれたくなっていく」という体験をする。
多くの人は、それなりに気魄に自信を持っているが、それはおおむね「生」に固執しているからであって、第一にその気魄を濁りなく均一に、かつ烈しく持つことがむつかしく、第二には、その烈しい「生」と、音もなく得る「死」を両立させるのが、本当の意味でむつかしいのだ、澄み切って烈しい「生」が音もなく均一に「死」に消失するとき、そこには大きな霊魂が残る/これまでは形状上、陰の気がこもるしかなかったヴァギナが、ペニスに出会って導かれ、外部へ自ら動こうとするとき、自ら踏み出して出会うのがその大きな霊魂の世界となる、男性の仕事はそのようにして、本来ペニスでヴァギナを内部に押し込んでやることではなく、誘導によってヴァギナを外へ解放してやることだった、われわれがこの二十年間をかけて侮辱しきったセックスという営為の本質がそれだった。

本来セックスは、男性を女性に押し込むものではなく、男性が "堂々とした女性" を引っ張り出してやるものだった。

すべての人がご存じのように、女性というのはパッと見にも、「解き放たれて堂々とした女性」と「押し込められてみじめなおばさん」とに分類することができる、いくら社会的に喧々たる立場を与えたとしても、それによって当の女性が魂から「堂々とした女性」にはならないことは、よほどの事情がないかぎり誰にとっても承知のことのはずだ。
もちろんこの、「本来の」というべきセックスは、現代においてすでにロストしたものであり、あくまで伝説として知っておくぐらいしかできないものだ、現代ではすでに男女が交合によって魂の変貌を得ようとする方策は放棄されており、女性はただ女性単体で「解き放たれて堂々とした女性」になろうというポリシーだ、つまり女性にとって男性は用済みになったと言えるし、男性も当然その任からすでに降りている/そしてそのポリシーは、現代において至極妥当だと認めねばならず、実現はまるで不可能ではないと認めながらも、その実現は旧来の方法よりさらに困難度を増しているとも予想しなくてはならないだろう、男に引っ張り出されるというような差別と期待は廃棄し、純粋な女性自力によって、女性は「解き放たれて堂々とした女性」を成立させねばならない、よもやそれが「みじめなおばさん」と見透かされたら生涯立ち直れないだろう。
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静的なペニスと動的なヴァギナ3

性が女性のヴァギナを作る、といって、それはそうかもしれないが、そんなこと実際には、すべての日々を全身全霊で生きている男でないと実現できないし、その男を根っから信じている女が委ねきって呼応することでしか実現されない。
原理的には、「一往復ごとに女は生まれ変わる」というような現象になる、女の全身が一秒で統合されるわけはないが、一往復ごとに統合が進み、しかもその一回ごとは常に真新しく、繰り返しのピストンなどは存在しないのだ。
単純に、ペニスが押す動作と引く動作があるとして、そのたびに虚実が入れ替わるのだ、その虚実の入れ替わりのたびに、女は生まれ変わった存在になる、その生まれ変わりを繰り返して大きな変貌を遂げるという捉え方は誤っていない。
誰でも知っている(?)とおり、本当に映画を観るということは、虚(フィクション)たる映画の中に入り込むというようなことだ、であれば百本の映画を観るということは、百回の生まれ変わりをするということになるだろう、それと同じように、百回のペニスの往復は、百回の生まれ変わりをもたらすことになる、「わたしはいない」と「わたしがいる」ということを往復するのだ、その繰り返しごとに、女は新しくヴァギナを持った女として成り立っていく。

別にセックスに限ったことではないのだ、人が変貌を遂げることはすべて、そうして「わたしはいない」「わたしがいる」の往復によって為される/そうでなければ人の全身的・霊的な変貌はありえず、人は己をどのように「強化」したとしても、強化は変貌ではありえない。
あなたが一本の映画を観たとき、そこにどれだけ涙をウルウルさせたとしても、あなたがひとつの変貌を遂げるのでなければ、あなたはその映画をただ消費したことになる、そして一本の映画が消費されるのであれば、百本の映画も消費されるだろう、こうして己への絶望感と、己の繰り返す消費について後ろ暗い恐怖が積もっていく、呼びかけてくる魂を踏み殺して自分は都合の煎餅をバリバリ食ったのを知っているのだ。
「消費者」においては、映画がズンドコ動くものであり、視聴者たる自分はソファでデーンとくつろいでいるものだ、だがもちろんそんな態度で映画を観ることは、産業としての映画には寄与しているにせよ、物語としての映画に対しては唾を吐きかけている態度に等しい/映画を観て激動するのは「観る側」であるべきで、ジャッキーチェンが暴れ回るのを視聴者が見物して己の娯楽や慰めにするのは本来の映画を観るという行為に相当しない。
現代にもし、まごうことなきクソ女がいるとすれば、ジャッキーチェンの魂が暴れ回るのを見物し、ジャッキーチェンを高く評価し、自分自身はぴくりとも動かず、己のオマンコに対してだけは猛烈な受身の妄想を高めているだろう、クソ女の定義は「ジャッキーチェンの映画を観ても生まれ変わらない女」と定めていい、「動的なジャッキーチェンが暴れ回って静的なアタシがそれを見物・評価する」という構造に居座り続けるのだ、魂が闇の底へ連れて往かれるそのときまで。

ペニスの仕事は「永遠に在り続ける」こと、ヴァギナの仕事は「生まれ変わり続ける」こと。

だから本来、ペニスは静的でヴァギナは動的なのだ、そこで指標たるペニスが得られない・認められないとなると、ヴァギナはずっと閉じこもっているか、無秩序に暴れ始めるほかなく、それに対してペニスは、取り乱してヴァギナを憎悪し、ヴァギナを殴りつけるようにしかセックスできない(またそれによって、ペニスも指標たり得ないただの陰部と化していく)、それはただのこじれた性交であり人が必要とするセックスではない。
ペニスの側は、そもそもセックスに頼ることはできず、己で一定の高みに接続して、永遠に在り続ける者とならねばならないし、なんだかんだそうして永遠に在り続ける者たりえたときは、何かしら女に愛されてきたはずだ、そして永遠に存在する「あの人」に向けて、際限のない生まれ変わりを経てきた女は、はっきりとその人のことを愛してきたはずだ、そのことが男女性愛の根底にあるから、男がペニスで大運動会をして、女が寝転んでアンアン言ってみるなどというのは、どこまでも馬鹿げているのだった。

えっちはいいよな | comments(0) |
静的なペニスと動的なヴァギナ2

性のヴァギナは男性が作る。
あまり聞きたくもない話だし、どうせ誤解しかされないような話だと思うが、わけもわからずに男がピストンし、女が寝転がってアンアン言っている、という構図よりマシだ。
ただし、よっぽどの愛、よっぽどの集中力、よっぽどの霊性がなければ、ヴァギナ形成なんて起こらない。
少なくとも、男が大運動会になって、女が大陶酔モードになるのは誤りだ、冷えっ冷えになるだろう、このときたいてい男は気の毒で、女はサイテーだ、最近はそうして男の生身をゴミクズ扱いする女が増えたが、あるいはそれを正しい教育とみなす場合はこれ以上どうしようもない。

男の「存在」と女の「作業」になるのが正しい/これが逆転して、女の「存在」と男の「作業」になると、これは本当に陰部摩擦大会にしかならない/演出された股間にアホ男がダイブするだけの無料性風俗にしかならない。
陰部摩擦大会なら逆に、もう特殊な体勢から超音速でピストンして、「すげえ!!」と言わしめてもらいたいものだが、なかなかそんなアホな曲芸は高難度だし、そんな高難度を達成したところで末代までバカにされるという報酬しか得られない、だいいち粘膜のネタで毎日泣いて暮らすのはぼちぼちつらいものだ。
現在、女のセックスは、オナニーよりも汗を掻かないという実態があるだろう、なかなかそんなことにも気づかないものだが/男のほうが汗をだらだら流し、女のほうは気分だけでヒエッヒエ、汗どころか体温まで朝食時と変わらないということが実によくある。
今や男も女も関係ないという状況だが、すさまじい願望や妄想を隠し持って、自我は肥大しているけれど、何をどうしたって汗ひとつ掻かないという実態がある、それなら確かにジョギングでもしているほうがマシだ、そんなことは今さら論難の対象ではない/ただそれでも、かつて男女というのは、意識が飛ぶほど互いを愛し合い、その中でも自分のするべきことを忘れなかったのだ、女は死に物狂いで信じ、終わって「ありがとう」と震えて抱きつくのがよくある蒸気の光景だった、女は蒸気を噴き上げていた。

本来セックスの、主導がペニスで、実動がヴァギナだ。

これを逆転して、ペニスが実動し、ヴァギナが主導してしまうと、ただの哺乳類になってしまって、バカバカしくなる/哺乳類なら服を着ているのがヘンだし、路上でやっていないのがヘンなのだ、動物の繁殖期がそうであるように、発情した野良のメスにオスが群がるという天然の形式を取った方がいい。
現在のところ、ヴァギナの実態は、電動であれ運動であれ、何かしらの具物を突っ込まれてケイレンしておわりという様相だろうが、そこにどれだけアンアン声を乗せても変化はないのだ/本来あのアンアン声は、「わかるわ」という発見の声だった、ヴァギナが形成されていくときの「わかるわ」という発見と確認のコミュニケーション発声であって、性感帯の刺激に伴って漏れるうめき声ではなかった。

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静的なペニスと動的なヴァギナ

はもう、現実的な話ではないが、かつては男性が女性のヴァギナを "作る" という現象があった、もちろんヴァギナは女性の所有物だが、それを男性が整え、男性が作るということがあった。
生々しい話なので、苦手な人は読まずにスルーするように/現在、セックスというと、男性が動的で女性が静的に見えるが、これは誤りで、本来セックスというのはヴァギナが動き出すものであり、ペニスが「ピストン」するものではなかった。
男性が女性のヴァギナを "作る" のだけれども、この話をしたくないのは、第一に現在の女性がこの話を受け付けるわけがない(ただ不快に感じるに決まっている)だろうということと、第二に、勘違いおじさんが「そうなんだよなあ〜」と勘違いガスを噴出するのを見たくないからだった/現在の霊的な集中力がない男性が、女性のヴァギナを "作る" ということはまずありえないだろう、その前提の上で今は、あくまで失われた本来性のことについて話しているのであって、何かの誘導やアドヴァイスをしているわけでは決してない。
元来、ヴァギナというのは強烈なエネルギーをもった器官で、そのエネルギーと不穏は、所有者である女性当人にとって「手に余る」ものだった、それで女性はおおむねヴァギナから切り離されたように生き、それによって心身の安定と、代償に全身の不完全感を負って生きていた、それが悪いということではなくそれが普通だった、ただごくまれにこのモンスターのようなエネルギー器官を、全身の一部に統合することが叶うケースもあった、それが本来の男女性愛の本質だった。

ヴァギナは強烈なエネルギーを持った「陰部」であって、これを女性当人の気質によってのみ陰陽に整えるのは至難だった、それで女性のヴァギナは無秩序にうごめくか、そうでなければ不穏のまま凍りついているしかなかった。
単純に言って、強烈な「陰部」たるヴァギナを、「正しく整え、正しく活動させる」ということが、女性自身では至難だったのだ、それで男性の手を借りる必要があったのだが、それにしてもその作業は困難かつ壮絶なものなので、かなりのていど霊的に完成した男性が、ただならぬ愛と集中力をもってしか、そのことは果たされなかった/ヴァギナを正しく整え、正しく活動する身体の一部として全身に統合してやるというのは、そんなに簡単なことであるわけがない。
現在、男性というのは存在として軽蔑されているし、それ以上に監視され続けているので、この侮辱と監視の中で見世物のようになった男性が、女性のヴァギナを "作る" というような、霊的にも具体的にもハイレベルな作業をこなすことは不可能だ、それで実際に現在の男女セックスは、肉穴に肉棒を入れて激しくピストンし、突いたり摩擦したりして射精して終わりで、女性は仰向けのままその一部始終を眺めている、というような形態になっている(むろん哺乳類としての繁殖行為はそれだけでことたりるのではある)/この交合は単純にいって苦痛かつ屈辱的なので、今多くの人が生きる中でセックスを辞退する方針へ転じている、その転針じたいはまっとうで正しい判断だと認めねばならない、精神を損傷してまで現代のセックスを追求する必要はどこにもない。
ただ、失われたにせよ「本来」というものはあって、本来セックスにおいてはペニスが静的でありヴァギナが動的だった、それは体位を変えろという話ではもちろんない、ペニスが静的でヴァギナが動的というのは、ペニスがヴァギナに本来の「形」と「動き方」を教えていたということだが、このことが果たされたとき、女性はこれまでにない全身の健やかさと、すみずみまで満ちたエネルギー、霊的(陽)な救済と能動性、そして明るい世界を手に入れていた、あくまで失われた話だが、そうした本来の形もかつてはどこかにあったということを少しだけ覚えておくべきかもしれない。

茶碗を作っているのは陶芸家ではなく米食だ。

米食のない外国人が、いくら陶芸に凝ったとしても、茶碗を作ることはありえない/中に米が盛られることが見えていない茶碗は、どれだけ精巧に、また大量に作られたとしても、不気味なだけだろう、茶碗に米を盛るという観測不能の営為があってはじめて茶碗はありえるのであり、その米食なしに茶碗の外形だけ似せたとしてもそれは営みから切り離されたナゾのこだわりブツだ。
陰陽の呼応があって、生・身は陰だが、陽に呼応した生・身の形と動きは救われていてうつくしい、陽に呼応していない生・身は何かというと、ただの闇だ/陰陽の呼応が完全であるとき、陰と陽は切り離されない、つまり呼応が完全化するとき、むしろ「陰部」は消失する、陰部は陽と呼応して、物体ではなくなり存在を担うことになるのだ、本来の男女性愛の営為はそのためにあり、実際にそうした存在としてのヴァギナを、男性が作っていたということだ、それは女性にとって単純にハッピーだった、全身にハッピーが満ちるのだからそりゃハッピーでしかありえない。

えっちはいいよな | comments(0) |
第91回Quali's Party[4月20日(土)]参加者募集!

Recent entry: ひろみ、あきら、ゆか、ともこ、まなみ、かず、やじー、マナセ、ゆうさく、くおり
4/15 Quali tweet> サイコーの季節がやってきたぜ! pls entry

今回もポスターはともこさん作、称賛しない奴は地獄行き推奨


キラキラ加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


日時2019年4月20日(土)19時〜23時
場所原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB待ち合わせ:原宿竹下通り商店街突き当たり竹下口交差点ムラサキスポーツ前
費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その6」はこちらから!

パーティ | comments(0) |
「パーティへの誘い その6」

なんやパーティ参加者の一人まなみさんが

宣伝コラム「パーティへの誘い その6」はこちらから!

を寄稿してくれたので読むこと。
若い人向けです。
読まない人はゴールデンウィークなしです。

九折
 

パーティ | comments(0) |
テキトーに作ってテキトーに生きろ
とんどの人はマジメに生きているが……
マジメということでごまかすのはやめろ、マジメだからって命がないことをごまかすな。
マジメの歴史は、お前の弱さの歴史だろう、ごまかすための歴史だったろう、お前にとってマジメになるということは、そのたびに死んでいくということだったろう。
お前にとって、マジメになるということは、そのたびハズレ男のほうを選ぶということだったろう、すべては自分をごまかすための大がかりな一人芝居だったじゃないか。

テキトーに作ってテキトーに生きろ、それでも命のある奴、魂のある奴は、そこに命と魂が成立してしまうから。
むしろテキトーに作ってテキトーに生きるほうが、ごまかしが利かない、マジメにやりましたというお涙頂戴が盛り込めないのでごまかしが利かない。
テキトーに作ってテキトーに生きろと、言われたとたん、イモ女のふりして立ち回りを考える反応は、親譲りのものかい? 環境のせいにするということで二重に防護が利いているな、まるでお前だけがブサイクなお前を見なくて済むというような不毛で有益な仕掛けだ。
テキトーに作ってテキトーに生きろ、愛するべきものを愛したのか? まるで八歳児のように自分は子供扱いされて過保護に構われるという前提に生きているようだが、愛するべきものを愛さなかった若い時間が、若さのすべてを代償に支払わされて、若いうちから若いふりをしなくてはならなくなった、今でもシメシメごまかしが利いているとお前だけが思い込んでいるが、そうじゃないんだ、誰も今さらお前のことなんか突っ込んで見ようとしないだけなんだ、それはお前の中に希望が絶対にないからだよ。

テキトーに作ってテキトーに生き、愛するべきものを愛するという、それだけ。

テキトーに作るのはいい、テキトーに生きるのもいい、何しろごまかしが利かない、命と魂と愛の有無が、一番露骨に出るからとてもいいんだ。
少々の不安を隠しながら、万全に見えていると、お前は思い込んでいるかもしれない、だがこちらから見たお前は万全に見えない、ただガッチガチに見える、それは成り立っているふりを偽装する、その偽装に成功しているのだと、お前だけが思い込んでいる姿だ。
できるオンナだね | comments(0) |
WS報告035(5)/自己決定と事実決定

回は、無数のことがありすぎて、また夕方まで大量に話しすぎて(二十四時間コース)(が、定番化しているという恐怖)、もう報告は不能なのだ、さすがにシャウト注入ビクンビクン事件まで報告していられない、一番笑ったネタを報告できないのは残念ではあるが……
たとえば僕は、理学療法士が触れても「なんだコイツ」とドン引きされるぐらい、肩こりをしない奴だが、仮に僕が肩こりをしたとしても、「わたしは肩こりをします」というのは誤りだ、なぜなら肩こりというのは「肩が」凝るのであって、オレが凝るわけではない、肩がバキバキになるのはわかるが、「オレがバキバキになる」というような意味不明のことは発生し得ない。
「おい、クイズだ。おれが、完全に肩こりをしないためにはどうしたらいいか、きみにわかるか」「えっと、全身をつなげて、コントロールを……」「そりゃそうだけどね、もっと簡単な方法がある。両肩を切除して焼却炉に放り込んでしまえばいい。そうしたらおれが肩こりをするのは不可能になる、何しろ肩がないんだからな」

「でね、仮にそうして、おれの身体から両肩を切除したとして、『おれ』は何か変わってしまうのか? 両肩を切り取ったらおれはおれでなくなってしまうのか」「そんなことはないですね」「そう、だから、おれが肩こりをするというのは誤りなんだ。理において誤っているんだよ。肩こりというのはあくまで肩がバキバキになるのであって、おれがバキバキになるのではない。肩はおれじゃねえ、肩は肩だ。おれがバキバキになったらそれは肩こりじゃなくて "おれこり" だよ」
「おれはさ、よく、自己決定が大事だと言うんだけれど、それは単純に、フィクションの自分を決定するってことなんだ、どうもこのあたりに誤解があるようなんだけどね/仮に、ノンフィクションの自分というものを認めたとして、そのノンフィクションの自分というのは、つまり "事実の自分" だろう? この事実の自分を、どうやって自分で決定できるはずがあるんだ、事実の自分は事実が決定するだろう、この世の中の "事実" なんてものを、誰がどうやって決定できるわけがあるか、たとえば水 100cc は 100g だろう、そんなものを誰が "よし 120g にしよう" なんて決定できるんだ、そんなわけない、事実を決定するのは事実であっておれじゃない」
「おれが言っている自己決定というのは、フィクションの自分を決定することなんだ、たとえば今日もおれは自分のことを、『おれはノリノリでイケイケの天才ブラボーマンだぜ〜』と言っているが、この言っている調子は、何かノンフィクションの事実について言っているように聞こえるかい、そんなわけないよな、おれの言っている調子は、たとえば『日本の国土の面積は○○平方キロメートルです』という話とはまったく違うものな、日本の国土面積なんていう事実をおれが決定できるわけがない、事実はただ事実が決定する、国土を増やしたければヨソから取ってきたという事実を得るしかない」
「おれが言っているのは、おれがノリノリでイケイケの天才ブラボーマンだぜということであって、それはいちいち事実を検索した結果として話していることじゃない、ただおれが自分について言っているだけだ/そしておれがいちいち事実を検索しないのは、おれにとって事実というのは何の興味の対象でもないからだ、今われわれには事実の身体があって、その事実の身体がフィクションの自分にとって "住み心地が悪い" から、そのリフォームをしているんだろ? そしてそういったリフォームについては、それなりに専門家が必要だろうという、ただそれだけのことでしかないんだ、そして住みよくリフォームするといっても、入居者がいないのじゃ誰にとって住みよいのか意味不明だろ、だから自己決定が必要だと言っているわけだ」

「自分の内側を決定する」のではなくて、「決定したものだけが自分の内側に入る」ということ。

「自己決定しない場合、内なる自分が自分をどうしようか、迷っている……のではなくて、 "空き家" なんだよ、容れ物・建物しかないんだ、そこに身体はあるが、身体があるだけで誰もいない、びっくりするけれど本当に誰もいないんだ、ここのところに根本的な勘違いがある/自己決定というのは、すでに存在している自分を何かの方向や状態に決定するということじゃないんだ、自己決定するまでは、自分なんてものは存在していないということなんだよ、それがさも "自分" がいるように言い張っているから、面倒くさくなるんだ、それでもせめて、この先に入居がありえるように、建物を一般的な意味でマシにリフォームしておくに、越したことはないのだけれど」
「本当はそこには誰もいなくて、空き家しかないということ、そのことに気づけないから、自己決定や自分ということを考えたとき、 "事実の自分" なんてものを、さも自分ですというふうに取り出してくるんだ、それで自己決定といっても、事実の自分は事実が決定するだけなので、色黒の細マッチョになってパーマをあてます、というような決定しかできないんだよ/フィクションの自分を決定するということ、おれなんかノリノリでイケイケの天才ブラボーマンだが、それはおれの話であって、容れ物の話じゃない、容れ物はなるべくおれにとって住みよいように、徹底的にリフォームするだけだ、まさにおれというような容れ物にするのがそのリフォームのゴールじゃないか」

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WS報告035(4)/「悔い改める」というシンプルな方法
っこう大きな声で言った。
「みんながこれまでの、いろんなことを "悔(く)いて" いるのは知っているよ」
「同時に、みんなが何ひとつ、 "改めて" はいないということも知っているよ」
「 "悔い改める" といって、改めたらもう悔いは終わっているはずだからね、でもわかるよ、悔いるのはカンタンだけど、改めるというのはめっちゃむつかしいものな」

「世の中には、たとえばスープを飲むのに、ズズズッと啜って飲むのを、ずっとやめられないおじさんがいる」
「そんなの、生きているうちに、これまで何度も注意されたに決まっているんだ、でも "改まらない" んだよ、スープを飲むのに音を立てるなというような、単純なことであってもだ、それには理由がある」
「音を立てずにスープを飲むというのは、技術的にむつかしいことじゃない、ただズズズッとやるのがおじさんのスタイルなんだ、もっと奥にルーツがあるんだよ、だからおじさんはそれをやめられないんだ、どれだけその下品を悔いたって、それを改めることはできない/過去のどこかでアンチ・ブラボーに与(くみ)したんだ、今さらそれを、本当はブラボーでした、自分が誤っていましたなんて、改められないから、おじさんは生涯下品なスープを飲み続けるしかないんだ」
僕はふと、或る心当たりを指して、一人の女性に、「振り返ってみればさ、単純に、改めたぶんだけ救われて、改めたぶんだけ祝福されてきたでしょ?」と言った、彼女はひとしきりこれまでのことを思い出して、(そうです)、とうなずいていた。

何を悔いているかなんて訊いていない、何が改まったかを訊いている。

僕はなるべく最短の、なるべく有効な方法だけを採りたい、なぜ最短効率を選びたがるかというと、単に面倒くさいからだ、これまでのすべての体験を総合すると、「すべては努力ではなく祝福の有無で決定されている」と認めざるをえない、そして祝福を受けるためには当人がブラボーを言う必要があるが、誰だって過去にアンチ・ブラボーに与してきているので、それを悔いる……ではなく改めないかぎり、ブラボーを言わせてはもらえないのだ/だから「さっさと改める」→「取り戻されたブラボーを言い続ける」→「祝福を受ける」→「要る人になってオメデトウ」という、この最短が一番面倒くさくないし、たぶんこれ以外に方法なんかないのだ、そして僕は他に方法がないとわかっているのに回り道をするふりに付き合う気になれない冷淡な人間なのだった、まあそのへんは性格だからしゃーないだろう。
「自分のことだけじゃなくて、自分の見るすべての人がそうだよ、改めた量が取り戻されるブラボー量に比例し、ブラボーを言う量が受ける祝福量に比例する、そしてその祝福量だけがすべてを支配しまっせという、単純な原理をこれからずっと見続けることになるんだ/その中で、悔いた量なんて何にも反映されないんだよ、悔いる量が増大するのはあくまで改める前でしかないからさ、むしろ "改めないよう粘った量" がイコール悔いた量ってことだろうな、それを自慢されるのにはいささか飽きたんだよ」
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