☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 2/18更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第百四十一回】2月21日(金)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百四十二回】2月22日(土)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百四十三回】2月28日(金)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百四十四回】2月29日(土)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百四十五回】3月6日(金)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百四十六回】3月7日(土)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ



(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。夏場世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第102回】3月21日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第103回】4月18日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第104回】5月16日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


「習い事」は趣味じゃないので、そうでないやつを


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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呪いの次の時代
でえ苦労をさせられたが、ようやく視えた、次の展開が得られた。
これまで呪い・呪術・呪縛を目の敵にしてきたのだけれど、すでに世間は次のフェーズに入ったのだ、呪縛のやり方に愛想を尽かした人々は、ライトに悪魔崇拝に切り替えたのだ、それによって呪いの桎梏から逃れた。
どういうことかというと、「アイドルを推せばサービス残業やブラック企業から抜けられるよ」ということなのだ、事実そのとおりになっている、うーんこんなことを見抜くのにこんなにコストを掛けてしまうとは……
呪術というのは基本的に人の業(わざ)であって、祝福の力が得られないときに、代用で人為的な力を得ようとすることなのだ、その術のことを呪術と呼んでいる、これは人の業(わざ)なので、神や悪魔の庇護を受けている人には掛からない、だから若年層は悪魔に庇護を求めたのだ/若年層がアイドルをガチで崇めている理由がようやくわかった、実際「アイドルの力」という現象があるのだ。

なぜこのような状況が生まれたかというと、おそらく、「もう呪術を使っても勝てない」ということがわかったからだ、特に日本は生産力においてそういう局面にあると思う。
日本はかつて、軍事力で勝てないときに「神風」を祈念して、実際その神風と呼んでよいようなことは元寇のあたりであったのだが、われわれはむろん神風を召喚できるような徳性にないので、代わりに「悪魔風」を召喚したということだ、そりゃ確かに血の業(カルマ)の術を突破できるな。
現在、ヘヴィな呪力に対し、ライトな魔力(悪魔の力)で切り抜けるという状況にある、これは意外に、若年層において表面上は幸せな時間かもしれない、問題はどうせ魔力が次第にヘヴィ化していくことで、どうせ早晩そうなるに決まっているが、今のところはそこまで深刻ではないから幸せなのだろう、本質的にはこれは覚醒剤よりタチの悪いものだ。
これまで、カミサマと縁が切れると、呪い(人が血に言うこと)から逃れられないというパターンだったのだが、今はその状況を飛び越えて、カミサマと縁が切れると呪われるのじゃなく悪魔に誘われるという状況なのだ、悪魔といっても元は堕天する前の天使長だったのだから、まあいかにもダマしやすい、いや別にダマすとかそういうことでさえないか/というわけでとにかく、次の展開は視えたのだった、まあこれから追々話していくことになるでしょう、今このときはとにかく疲れたぜということなのだった。

呪縛から解放されるって、そっちに行くんじゃねえよ。

なんというか、まったく別の話のように聞こえるかもしれないが、おれがこれまで美女と美少女を恐れずにきた理由もわかった、というかふつうの人は美女とか美少女とかを「恐れて」いるんだな、だから崇拝にもなる/おれは美女と美少女と戦争になることはあってもおれの側から美女と美少女を恐れることはない、むしろ美女と美少女のほうがいっそう「恐れなくていい」ということがわかる、だからおれは美女と美少女が大好きだ。
なぜおれが、美女と美少女を恐れないかというと、おれ自身が美女とか美少女に「なりたい」とまったく思わないからだ、つまりおれは美女と美少女を崇拝していないことになる、けれどもきっとこの感覚でいる者は極めて少数なのだろう、どうせいつものパターンだ、それは少数というより「ホントにお前だけじゃね」というようなことなのだろう、ホモでもないのに美女と美少女を崇拝しない者はなかなかいない、おれだけが「禁欲」みたいなことをしなくていい理由もそのへんにある。
正しく見ないとな | comments(0) |
春の日に、出来る人2
たしが「主体」「世界」と呼んでいる現象の他に、まったく正反対の現象があるということなのか?
「ちゃんとする」「ちゃんと出来る」ということには、「主体」とは異なる何かがある。
まったくの非主体的なもの。
それは、ちゃんとしないことに対しては厳格だ、ちゃんとするということを絶対視して、紛れをゆるさないだろう、けれどもそれは「主体」とは異なる現象だ、厳しくて、いつまでもずっと微笑んでいるような存在であり現象だ。

これは「見守る者」なのか、あるいは「許す者」? さらにはそれは、見守り続ける者であるかもしれず、許し続ける者であるかもしれない。
この大きさは何なのだろう、そもそもこれは「大きさ」という現象そのものなのだろうか、これが「大きさ」という現象そのものだとしたら、この「大きさ」の現象は、人々が「ちゃんとする」までずっと人々を見守り続けている、時間の流れない中で。
ちゃんとチェス盤があってこそ、チェスの駒がチェスの駒たれるように、何か大きな「場所」がある、あるいはこれこそが「場所」か、これが「場所」という現象なのか。
ちゃんとやりましょう、永遠の中で、どこという場所があるのではなく、ただ「場所」という現象がある、これは無限に大きいので時間はいつまでも流れない、日の出と日没を繰り返して時間は流れない。

すべての大地は一つであり(当たり前)、わたしでない何かが「ちゃんとやれ」と見守っている。

この世界で唯一探す必要がないものが、「場所」かもしれない、常に「場所」というひとつの場所に立ち続けているからには/永遠にここ、何も変わらず、ずっとここ。
仮に天上から何者かがわたしを見ているとして、見ているのは天上からだけじゃない、仮に唯一の点のようなカミサマが天にあるとしたら、地上にはひとつの無限の大きさを持った「場所」という何かがある、この「場所」はわたしに「ちゃんとしろ」と言っている。
正しく見ないとな | comments(0) |
春の日に、出来る人

たしは、ちゃんと出来る人になりたいのだ。
何が「出来る」のか、よくわからないが、ただすべてのことが「ちゃんと出来る人」になりたい。
それは技術的なことが出来るという意味ではないし、常識的なことや、様式的なことが出来るという意味ではない。
もっと別の次元の、「ちゃんと出来る」ということだ、わたしはちゃんと出来る人になりたい、そんなこと今まで気づかなかったが。

わたしは文学を志向してここまでやってきたし、そのことは別に変わらないが、たとえば芥川龍之介を見たとして、いわば「ぶつくさ言っているだけ」とも言える、芥川龍之介はわたしの言うところの「ちゃんと出来る人」ではない。
こんな春の日に、わたしが求めていたものが襲う/ちゃんと出来る人、わたしは教師という存在を快く思ったことは一度もないが、教師は好かなくとも、それと「教える」ということは別なのかもしれない。
教えて何かが出来るようになるということは、けっきょくまったくないのだが、ただ「ちゃんと出来ること」を直接教えるということだけは、出来るのかもしれない/どれだけ風習や様式をなぞらせても無駄だし、義を説いても無駄だ、そんなことと「ちゃんと出来る」は違う、「ちゃんと出来る」はただ「ちゃんと出来る」としか言い得ない。
「ちゃんと出来る」ということの、不明なままの、確実さとやさしさは何なのだろう、まったくよくわからないが、わたしはちゃんと出来るやさしい者でありたい/断片的なことだけが出来たってしょうがないのだ、わたしはすごいことが出来るようになりたいのではない、すごいことではなくただ「ちゃんと出来る」人になりたい。

「ちゃんと出来る」に関しては、男女も能力も年齢も関係がない。

優秀な人のことを一般に「出来る人」と言うけれど、そういうことじゃない、優秀な人は差別的に何かが出来るだけだ、わたしの言っている「ちゃんと出来る」は、能力が左右するものじゃない、ただひとつ、何かの覚悟だけがそれを為さしめるものだ。
何かをやるということではないのだ、何かをやるということについて、わたしは自分に何がやれたとして、そのことをわずかも評価することはないだろう、何かをやるのではなく「ちゃんと出来る」のだ/わたしを締め上げて、かつわずかも無理をさせないこれはいったい何なのだろう、真なる母体か。

正しく見ないとな | comments(0) |
第101回Quali's Party[2月15日(土)]参加者募集!

Recent entry: ひろみ、あきら、ゆか、りさ、りえ、ともこ、まいこ、まなみ、やじー、かず、ゆうさく、くおり
2/11 Quali tweet> ステイアラ〜イブ、おれだけステイアラ〜イブ pls entry




キラキラ加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


日時2020年2月15日(土)19時〜23時
場所原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB待ち合わせ:原宿竹下通り商店街突き当たり竹下口交差点ムラサキスポーツ前
費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
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宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その6」はこちらから!

 

パーティ | comments(0) |
全身全霊でいこう!3/歴の否定
「歴」という言い方がある/われわれは歴史にはあまり関係がないが、それでも「経歴」や「履歴」というものがある。
「歴」という言い方があり、「歴然と」という言い方があるが、ここで或る男が或る女を全身全霊で愛したとして、全身全霊で愛するというようなことは「歴然と」はしていない。
「歴然と」というのは、経歴的・履歴的にはっきりしているという意味だ、たとえば○○マラソンを四時間で走破し、そのスコアと仲間の写真をフェイスブックにアップロードすると、それは「歴然と」そういう走破とスコアを為したということになる。
これに比べて、なんとなく北海道まで行き、ただひとりで42.195kmを走り、その様子をどこにも記録せずどこにもアップロードしなかったら、その営為はまったく「歴然と」していないということになる/全霊否定派はこれがイヤなのだ、全霊否定派は必ず「歴然と」したく、またその歴然としたものが他人に見せびらかせる状態でないとイヤなのだ、たとえば踊りで名取りになったら、その人は踊りたいのではなく「名取りになった」とその歴然たるを言いたいのだ。

わたしは全身全霊を肯う者だから、この「歴然」「歴」そのものを否定している。
たとえばわたしだって、小学一年か二年のときに、学校で描かされた水彩画が大阪府で金賞を獲ったことがある、あるいは同じ小学三年生か四年生ぐらいのとき、書かされた詩文が賞を獲って雑誌に載ったこともあるのだ、そんなことは正直いくらでもある、けれどもわたしはそうしたもののすべてをゴミカスだと思っており、事実それらの絵画やらの実物はとっくの昔に捨てられてしまったか何かで手元にない(そんなもん残すわけねーだろ、アホか)。
わたしはその小学校低学年のときから、大阪難波の高島屋にその金賞を獲った絵画が展示されるというので、母親と祖母が勇んで観に行くというのを、面倒くさがって戎橋のゲームセンターに逃げ込んでいたクチだ、ラリーXをやっていた/わたしだってこれまでいちおうまともに生きてきているし、いちおう国立大学を出て丸の内の総合商社に勤めていたことがあるし、なんとなく簿記三級を持っていたりもするし、TOEIC試験だって受けさせられたりして微妙に点数がよかったときもあったのだが、そういった「歴然」「歴々たる」たぐいのことは、すべてゴミ箱に捨てるようにしてきた、なぜかというと、それらは勝手にゴミ箱に飛び込んでいったからだ、そもそも一顧だにしたことがない、これまで腕相撲大会で優勝したり、火起こし大会で優勝したり、高校のころは某合宿で委員長を務めたりしたこともあったのだが、そんなことには何の意味もないのだ、唯一「火起こし大会」だけが、意味がなくて笑えるので自分の経歴として愛しているのだが……
何か少しでも「歴然と」したものを自分にくっつければ、自分に箔なり格なりがつくのかもしれないが、そんなものを一ナノグラムでもつけていると、もう二度と生きていて全身全霊というのはできなくなる、わたしは中学のときマンモス中学校でそれなりに成績優秀者だったが、テストのたびに張り出される学年上位者の一覧を見に行ったことは一度もない、冗談でなくわたしは100点を獲った数学のテスト用紙を、そのまま教室の後ろのゴミ箱に捨てたことがある、見咎められて慌てて言い訳をしたが、「全問正解したのなら見直すところはない、だから捨ててかまわない」とわたしは言った、そのことは今でもやはり「そりゃそうだろ」とわたしは思っている。

学があるのは宝だが、学歴があるのはゴミだ。

実際わたしは、丸の内で働き始めたとき、国立大学を出て総合商社に勤めているというと無駄な女が寄ってくるので、「地方の大学を出て貿易の仕事をしている」とごまかしていた時期があった、さらにひどいときには高卒を自称したり、果ては「十八歳までフィリピンで殺し屋をしていた」というようなデタラメを言いふらしている時期もあった/何なんだ「歴」というのは、何度も言うようにわたしはこれまでに文章を書いたことなんかないし、パーティを主催したことなんかないし、ワークショップなんかやったことはない、わたしに歴はゼロだ、そもそも女性とデートしたり付き合ったりしたことさえない。
わたしには歴がゼロで、つまり令和二年の二月十一日まではわたしは生きてもいなかったし存在もしていなかったから、この二月十二日だけがすべてなのだ、そして明日なんて日は永遠に来ないだろう、それで自動的に全身全霊になるよりない、昨日までのことや明日のことがあるような気がしているのはただの「妄想」だ、すべてはおれの妄想にすぎないので、おれはおれの何を訊かれても「知らんわ」としか答えられない。
できるオンナだね | comments(0) |
全身全霊でいこう!2
身全霊の特徴は、「知らんわ」ということにある。
サッカーワールドカップで優勝したチームに、直後「試合を振り返ってみて、いかがでしたか」とレポーターが訊いても、選手はただちに「知らんわ」と思っているだろう、ただあくまで選手たちは真摯としてリップサービスを欠かさないだけで、選手は内心でことごとく「知らんわ」と思っている。
彼らにレポーターが詰め寄っても、彼らは「知らんわ」と思っているだろうが、サッカーボールを投げ込めば、やはりただちにトラップしてリフティング等の玉蹴りを始めるだろう、飛んできたボールには無条件で全身全霊で向き合うのが彼らだ、それが何であるかを他人にわかってもらう必要がない/彼らは詰め寄ってくるレポーターは「知らんわ」で、ただ自分に飛んでくるボールにだけただちに全身全霊になるのだ。
だから、試合後はレポーターのほうが興奮していて、選手は興奮していないのでチグハグになる、このように全身全霊の特徴は「知らんわ」にあり、また「興奮しない」というところにある、レポーターの側はただの見物人と、イケている仕事ぶりをして評判をよくしようという意識しか持っていないので、昂ぶった意識と「興奮」を特徴にしている、われわれは誰だって試合後の選手になりたいと思い、試合後に詰め寄ってくるドンズベリのレポーターになりたくないと望んでいる。

全身全霊でいこう、というのは、「目の前のことに」という但し書きがつく。
目の前のことに全身全霊100になるので、それが済むと、直後にもう0になる、だから「知らんわ」になる、いわば「0知らんわの法則」と呼んでもいいだろう、0だから興奮もしない。
この「全身全霊100」になれない人は、埋め合わせのごまかしに「ヒステリー」を使う、だから「興奮」するし、とにかくそのことについて後日になってもしつこく言い立てようとする/全身全霊なんて誰でも観ていりゃわかるので、それが成り立たない人は単純に「ヒステリー100」なのだ、思い浮かべたイメージや思念に100%取り憑かれて、そのことで目の前にあるものから逃げようとする。
そして、なぜ目の前のものに全身全霊100になれず、結果的に全霊0のヒステリー100になるかというと、あくまで自分の「名利」から離脱できないからだ、どれだけ全身全霊になろうと思い詰めても、けっきょくは自分の名誉や利益に対して全身全霊になろうとしているから、話の土台が狂っている/「目の前のもの」に対して全身全霊になろうというのに、土台がずっと自己名利なのだ、けっきょく目の前のものなんてどうでもいいと思っていて、すべては自己名利への手段でしかないという人柄なので、そういう人はヒステリーに走る。

困難を突破して「知らんわ」と言え。

たとえばむつかしい本を読破するとか、難曲を暗譜するとか、オリジナルで十万字の小説を書いてみるとか、関節の六カ所を解放してすべてを同時に連動させるとか、五十人でやる舞台を完成させるとかだ、それらを突破した上で「知らんわ」と言え、 YouTuber が教える化粧動画を観て化粧の勉強をするのは何も悪いことではないが、そこには突破すべき困難や全身全霊を向ける何かはない。
いわゆる「達成感」というようなものを重視する人もいるが、こういう人は全身全霊ということに興味がないのだ、達成感というのは「全力」のものであって「全霊」ではない、ベンチプレスで150kgを持ち上げるのはひたすら全力であって全霊ではない/達成感を重視する人はよもやその達成を褒めそやされて「知らんわ」とは言わないだろう、もし 42.195km を完走したいのなら田舎に出かけて距離を測って走ればいいだけなのだが、それでは「達成感」が得られないので彼らはマラソンレースに出場して完走することを目標にするだろう、彼らは自他に「完走しました!」と胸を張って言える達成感を求めているのであって、むやみに長距離を踏破することに自分かぎりの全身全霊を向けているのではない、おそらく彼らは「全身全霊」という現象を生涯に一度も知ることがないだろう(それが別に悪いわけではない)。
できるオンナだね | comments(0) |
全身全霊でいこう!
つもややこしい話ばかりしているが、たまにはこうストレートにも言ってみる。
そもそも、常に誰もが全身全霊を振るっているなら、おれは何もややこしい話なんか持ち出さないのだ。
全身全霊でいこう、ただし、目の前のことに全身全霊でいこう、ということになる。
どういうことかというと、初音ミクを聴いているときは、親兄弟のことなんかすべて捨てろと言っているのだ、目の前のものに全身全霊になるってそういうことだろ/いまどき初音ミクはもうたいがい古いという気もするのだが、その後につづくブームを知らないので古いのはしゃーない、ご容赦ください。

たとえば海外旅行にいったとして、行ったからには帰ってくるな、三泊四日で行ったなら、その期間は一ミリたりとも日本に帰ってくるな、連絡を入れるのはいいにしても、フランスに行ったら三泊四日は親兄弟も天皇も選挙権も捨ててボンジュールになれ、ボンジュールとして連絡を入れたまえ、そうでなきゃ意味がない。
そしてフランスに行ったって、目の前にあるのは石畳で、目の前にいるのはよくわからん白人か移民なのだから、目の前の石畳とよくわからん移民がすべてになれ、それが全身全霊ということだ。
もちろん、どこの国のどんな場所に行ったって、愛する人のことは何も変わらないのだが、それは愛する人が自分の霊魂そのものだということだ、だからそのことは全身全霊と矛盾しない/全身全霊というのは必ずしも自分の霊魂だけという意味ではない、愛して尊ぶすべての人の霊魂も含めて「全霊」だ、そのあたりおれなんか全霊というとおれだけじゃないどころか一種の "軍勢" になっている。
今日は令和二年の二月十二日だが、この日はもう未来永劫戻ってこないのだから、全身全霊でゆけ、何もフランスに行ったときだけ全身全霊になる必要はない、ひらがなの「あ」を書くときだって全霊をそこにブッ込むのだ、他のことはすべて捨てろ、親兄弟の生も自分の生も全部捨てろ、全身全霊というのは、全身全霊以外のことは何一つやらないということだ、令和二年二月十一日までのことはすべて焼却して灰にしろ、「そんなものはなかったのだ」と。

全霊で飛び出して、全霊を吸い上げてこい。

そうしたら、感想を言うヒマもなくなるし、何かを聴いてもらうという発想もなくなる、ミカンを食いながら「それでさあ」なんてつまらないこと、これまでにB’zが歌ったことがあったか? ミカンを食うならその一房ごとに全霊になれ、全宇宙の霊がそのミカンの一房だけを全宇宙として食え、すべての時計とカレンダーを爆破しろ、興奮はすべて0.2秒前のくずかごに入れて業者が回収済みとせよ。
全身全霊のいいところは、何かを否定したり、何かを肯定したりしないところだ、フランスがどうだったかなんて考えなくなるのだ、それは日本がどうなのかなんて考えないことと同じで、また二月十二日がどうなのかなんて考えないということ、そんなヒマはどこにもないということだ、ただ全霊で飛び出して全霊を吸い上げてくるだけ、他の余地は一ミリもない。
できるオンナだね | comments(0) |
ラブソングとウォーソング

の神と戦(いくさ)の神は、両立によってしかもたらされないと述べた。
現代がどう工夫してもラブソングの力を持たないのは、裏側でウォーソングを否定しているからだ/ラブとウォーの両方に優れなければ「英雄」でないとここ数日述べている。
ウォーソングというのは聞き慣れないだろうが、昔は(今も)軍歌というのがあるし、そうでなくてもたとえばアイアン・メイデンの「ザ・トルーパー」とか、戦争の歌というのはいくらでもあるのだ、特に戦地にいった青年兵士が戦場で詩を詠むことはよく知られている。
旧日本軍の少年兵士たちだって死ぬ前日には辞世の句を遺書に添えているし、そもそも二本差し(サムライ)こそが死ぬ間際に句を詠むものだった/ウォーというのは必ずしも国家間の戦争を意味しないだろうが、とにかくたとえばスキッド・ロウがラブソングを歌うとすさまじい力を持つのは背後にウォーの力があるからなのだ、愛の英雄は同時に戦(いくさ)の英雄であるしかないのだ。

現代のわれわれにとって、ウォーソングほど縁遠いものはあるまい、たとえば「♪守るも攻むるも黒がねの〜」(軍艦マーチ)なんて誰も歌詞は覚えていないだろうし(おれも覚えてねえよ)、まして「♪月月火水木金金〜」なんてブラック勤務も甚だしくて笑えるぐらいだ、さすが海の男の艦隊勤務だ。
あるいは、ボブディランだって「マスターズ・オブ・ウォー」あたりで、それはアンチ・ウォーソングだったとしても、やはりウォーソングの一種を歌っているし、桑田佳祐だって、「愛の言霊」あたりで過去にあった戦争と戦人の何かを感じとって歌っている。
われわれは、戦(いくさ)の神に対して絶縁を申し出たので、現代のわれわれがウォーソングあるいはアンチ・ウォーソングを歌ったとしても、その歌には何の力も乗らない、同時にまったく同じ仕組みで、ラブソングを歌ったとしても何の力も乗らない/戦(いくさ)の神と絶縁した時点で人々は英雄の絶対否定に踏み切っており、その時点で愛の神とも絶縁しているのだ。
それで、戦争の一切がなくなればまだしもだが、そういうわけではないのだ、戦(いくさ)はなくなっても悪意ある大量破壊や暴虐は起こってしまう、それは愛がなくなっても悪質な執着としての性的むさぼりは残ってしまうのと同じだ、そうしてわれわれは戦(いくさ)と愛の両方から縁を切り、ただ結果的に残る暴虐と性的むさぼりの衝動だけを迎えることになってしまった。

戦(いくさ)の神と離縁して、人々は「マウント」をやりあうようになり、愛の神と離縁して、人々は「性癖(性的嗜好)」をやりあうようになった。

かつて人々は「戦(いくさ)と愛」をやっていたのに対し、現代のわれわれは「マウントと性癖」をやっているということだ、まったくそのとおりだとわれわれは現代の周囲を確認できるだろう。
もはや信じてもらう必要もないことだが、戦(いくさ)で血を流すことと、血みどろでマウントを取り合うことは、魂魄において性質がまったく異なったのだ、それは愛で身が結ばれることと、性癖で身が結合してしまうことが、魂魄において性質をまったく異にしていたのと同じだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
WS報告076(5)/方針の模索(別に読まなくていい)
れ自身が方針を掴んでいないといけないので、書きながら考えるが、別に他の誰かはこのことを読まなくてよろしい、まあ読むと面白いからみんな読むだろうけど……
当ワークショップは、「身体操作」と「フィクション」の二面から自分を鍛錬することで、具体および精神における「自己のオモシロ完成」を目指しており、その完成は「言葉の獲得」によって証される、という方針で来ている/まあそんな方針は、ほとんどおれしか把握しておらず、やらされている側はただ目の前のことをヒーヒーやらされているだけだが、それでも方針は自動的に作用しているのだ。
いちおうそうしたゴール目標が設定されているからには、逆にゴール目標から下ってくるルートを把握しておかないと、どのルートでそこへ辿り着けるかがわからないのだが、そうして逆ルートを探ってみると、言葉のすぐ下に「愛のカミサマ」「戦(いくさ)のカミサマ」があるように感じる。
この愛の神と戦(いくさ)の神、つまり文学と軍学ということになるが、この両方の神から祝福を受けている者は一般に「英雄」ということになる、「英雄」という烈しい存在を見上げ、「ワテ」という激しいだけのアホを見切ろうというのが基本方針だ、ここに「英雄」という単語が出現してきたのがここ最近のワークショップの特徴でもある、たしかにいかなる時代も英雄がいないと世界は何も面白くないし、世の中は腐敗していくだけなのであった。

愛と戦、文学と軍学が「英雄」で、この「英雄」の地位に到ると、だいたいカミサマうんぬんに興味がなくなってくる。
カミサマといっても、それは唯一神とかそういうものではなくて、聖書ふうにいえば天使のたぐいだろうし、仏教ふうに言えば「○○天」や「○○菩薩」のたぐいなのだろうが、そういうものに興味がなくなってくる、そうしてカミサマうんぬんに興味がなくなってくるのは、きっと「言葉」というのが人のものではなく、それどころが「言葉」が「言葉」をやりあっているにすぎないと視えてくるからだ/まるで音楽を得た人が「音」に興味をなくしていくように、「言葉」を得ていくと人とカミサマのうんぬんには興味がなくなっていく。
つまり、「言葉の獲得」を最終的なゴールにしているのだが、このルートが、図示すれば次のとおり、[ワテ→具体の呪縛解除→フィクションの実現→アハムと作品→愛と戦(英雄)→言葉の獲得]という感じで、最終的には何というか、「人とカミサマとかどうでもよくね」という感じになり、「人が言葉を納得しなくてもいいじゃん」「言葉が言葉を納得したらそれでいいんじゃね」という感じになってくる、つまり主体というものが「わたし」じゃなくて究極「言葉」の側にあるということ/そして「納得」というなら主体が納得するものなので、人が言葉を納得しなくても、言葉が言葉を納得すればいいじゃんということになるのだ、もうこんなことはふつうワケがワカランの一言で片付けられていい。
こうして並べてみると、もう「英雄」というのは、ほとんど「人」ではないのかもしれない、烈しい人というより「烈しく人でないもの」なのかもしれない/何しろアダムとエヴァの神話によれば、アダムはルシファーを使役する側だったはずなので、天使長より位が高い、かなり絶頂の存在だったことになる、天使長ルシファー(後のサタン)をアゴで使えるような奴は一般的に「人」ではないわな、そうするとどこかの地点で激しい「慾望」というのも性質が変わってくる。

英雄は慾望を使役する/英雄でない者は慾望に使役されてしまう。

テキトーに考えてみたのだが、思いがけず有益な推論が得られてしまった、サタンはもともとルシファーだったらしいが、サタンは一般的にヤバイ奴と言われているものの、それだってアゴで使えるなら、その力は使い回して便利で有益なわけだ、絶対にコントロールできる原子力発電所が有益でしかないように/おれはおれの慾望が大好きだものな、そしてみんなおれの慾望が大好きだから、これは慾望といっても関係と性質が一般とは異なっているわけだ。
自分は「自分でないもの」に動かされる必要があるが、自分は自分より上位にあるものに動かされてしまうのであって――いわば平社員は課長に動かされてしまうのであって部長に動かされるのではないから――ふつう人は慾望や傲慢に動かされる(サタンルシファーに動かされる)ことになる、だから一般にわれわれがカミサマに祈るつもりになってもダメなのだ、われわれが祈るつもりになるとたいていイメージ優先の偶像崇拝になり、結果的にサタンルシファーを崇めることになる、その結果「宗教関係はヤバイ人」という事実が出来上がってしまい、宗教関係の周辺は慾望と傲慢がマジてんこもりという事実が出来上がってしまうのだ、そりゃサタンルシファーをゴリゴリに崇めていたらそうなるわな/慾望を使役できる英雄をあいだに挟んで祈るしか方法はないのであって、つまり現在のサタン課を異動して英雄部に所属しないと、平社員の祈りはすべてサタン課長に届いてしまう、だから慾望と傲慢を使役できている(サタン課長を使役できている)英雄部長が見つかるといいし、その直下に就けてもらえるとすごくイイのだ、英雄部長の命令でサタン課長と一緒に仕事する場合は上長が英雄部長なので安心してその力を解放できる。
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WS報告076(4)/「やりたいこと」を演算から強制的に導く
っさと結論から言うと、人は「吾我でないものによって動かされたい」のだ。
「音楽に動かされる」とか「詩文に動かされる」とか、「物語に動かされる」「光に」「愛に」「空間に」等々。
人はいつも自分の「吾我」に支配されており、その結果として自分が「カッコ悪い」「ダサい」「意味がない」という事実を直視させられ続けている、だからこのことから逃れて、「吾我でないものによって動かされたい」「自分でないものに動かされたい」と望んでいる。
それは強制的にそうなのだ、生まれつき背負ったものとして、「これから離脱したい」「ウソとゴマカシとインチキに満ちた自分をやめたい」というのが不可避の望みだ、そしてそんなことが実際可能かというと、基本的には不可能なのだ、だから多くの人は音楽に動かされた「ふり」をし、愛に、光に、詩文に、空間に、物語に、動かされた「ふり」をする、それで何がしたいかというとけっきょく衆目に自分の株を上げたいのだから、「けっきょく吾我じゃん」ということで、絶望的な寒さと寂しさは解決していないのだった、そりゃ何千億円あっても変わらないことだ。

それで、「自分ではないものに動かされたい」「吾我でないものによって動かされたい」として、そんなものが得られないからには、人は自らの意思によって、業(カルマ)や慾望に溺れようとする、わざわざ麻薬やアルコールの中毒になったり、ねたみやそねみに自ら燃え上がったり、あるいは思春期でもないのに性犯罪に手を出したり、憎悪によって人を加害したり呪ったりする。
とにかく、業(カルマ)や慾望でもいいから、「自分ではないもの」「自分ではコントロールできないもの」に溺れて身を委ね、「吾我でないものによって動かされた」ということにしたいのだ、それによって自分の存在と生を定義・肯定したいのだ、そうでないと本当にただエサを食ってフンをしているだけだからだ/「それでかまわないじゃないか」と思い切れるほどには、人はさびしさに強くないし、また近づいてくる死の恐怖に対抗できない、人はそんなに強くない。
根源的なさびしさ、および死の恐怖に打ち克つには、けっきょく「自分でないもの」に頼るしかないのだが、よもやカミサマみたいなものに頼ってつながれるほどわれわれは立派なモンではないので、何に頼るかというと、けっきょく血肉がギャーッと盛り上がることに頼るのだ、人はたとえば長距離をランニングしていて心肺と骨肉が爆裂しそうになっているとき、その燃えさかりによってさびしさや死の恐怖を一時的に忘れることができる/ただしそれは、心肺と骨肉が落ち着いてくると元に戻ってしまうので、何度もそれを過剰に摂取したがるようになり、ベタなパターンとして依存症になってしまう(しゃーない)。
誰にとっても、「やりたいことがない」というのはウソなのだ、やりたいことは常に一点、「吾我でないものによって動かされたい」「自分でないものに動かされたい」に決まっている、ただそんなことを言い出すと、「何ともつながってないじゃんwww」という事実の身がまざまざと照らし出されて、衆目にも取り返しのつかない恥になるので、そのことを言い出さないようにしているだけだ、そりゃ「音楽に動かされる」といって衆目に自分のダンスを晒すとえげつない恥を掻くに決まっている/だから恥にならないように演出や装飾を足して衆目を欺くことに血眼(ちまなこ)になる、それっぽい思わせぶりな表情をしたり、女なら股を開いて誘ったり乳を揺らしたりして、あるいはカリスマチックな発言をしたりして、とにかく自分の本当の恥がバレないように工作する、それはもう自分の恥さえバレなければどれだけ子供たちをだましても「知ったことか」という振り切りぶりだ。

「おれは偉大なものに動かされているので、自分によらず偉大になっちゃった」、さあキミも同じように言いたまえよ。

別にいいじゃないか、そうして言うぐらい、何をごまかそうとしているのか、おれは常々言っているように、自分としてはカスのゴミムシなのだが、あまりにカスのゴミムシすぎたために、自分に頼らなかったところ偉大なるおれさまによる庇護と操作を受けて、偉大なるおれさまになった、だからおれは自分がカスのゴミムシのように言われても何も思わないというか「オゥ、イエス」としか思わないし、そんなことをいくら罵られてもおれを操作しているのは偉大なるおれさまである、これが何なのかと訊かれても「おれは知らんwww」としか答えられない/当方のワークショップなんぞ、その実体、カスのゴミムシが偉大なるものに操作されると「あれ? これマジで偉大なんじゃね?」というのを目撃・検証する営みにすぎない。
自分の「やりたいこと」といって、そんなものが見つからないわけはないのだ、「自分でないものに動かされたい」に尽きる、ただそれが見つからないから、1.自分でないものに動かされている「ふり」をする、2.業(カルマ)や慾望、憎悪や詛いやねたみそねみに支配されて「動かされた」と言い張るアホをやる、3.それが「やりたいこと」であることを視ないよう、脳を眠らせてバカになる、という三択に追い込まれているだけだ、三者はどれも薄気味悪くてしょうがない/こんなもん言い逃れはできないし、また言い逃れをする理由もないし、さらには言い逃れをしている時間ももう無いのだ、「自分でないものに動かされたい」というのが「自分のやりたいこと」で決定している、それで実際どういうレベルかというと、そりゃあふつうひどいもんよ笑、けれども今さら自分のレベルがひどいということに躊躇を覚える必要があるか? 躊躇しているのは自分だけで周囲はまったく何とも思っていないのに。
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ありもしない母体を剥ぎ取れ2

度、人々を啓蒙するために、本当にそういう法案を可決してしまえばいいと思うのだが、国会の人々はそうして市民が目覚めてしまうとむしろ困ると感じるだろう/国会で「オネオネ・ウミウミ法案」が提出され、それが満場一致で可決される。
それがどのような法律かというと、通称として江頭2:50と知られる者が、当人の意思により任意の者を名指しし、オネオネ・ウミウミに該当すると宣言したとき、名指しされた者は、無条件でその当人と子孫のすべてが「オネオネ・ウミウミ」になるという法律だ、このオネオネ・ウミウミにはそれ以上の意味はなくつまり無意味だが、戸籍にはちゃんと載るし、免許証その他の身分証明にもちゃんと記載される、つまり「オネオネ・ウミウミ」の項目のYes/No欄のうちYesに○がつけられる。
そんなバカな法律は成り立たない、と思われるかもしれないが、そうではないのだ、その内容がどれだけ馬鹿げていても、立法府(国会)を通して可決された法律はどうしてもまっとうせねばならないというのが法律だ、ここで「そんな馬鹿げた法律はありえない」という人は、単に遵法精神がないのだ、ここでオネオネ・ウミウミを否定する人は「アウトロー」で「ならず者」ということになる。
「民主主義の世の中だから、そんなバカなことは成り立たない」と思う人も、根本を間違っている、バカげた法律が成り立たないと主張するのであれば、それは民主主義のおかげではなく立憲主義のおかげだ、憲法があるから市民は権力者の決めた法律を破却できるのであって、憲法がなければわれわれは立法府の言いなりになるしかないのだ/ときに誤解している人がいるけれども、憲法を守るのはわれわれではなく権力者だ、われわれを防衛するために憲法があるのであり、何から防衛するかというと権力者が作ろうとするアホルールからだ、憲法はわれわれが「守るもの」ではなくわれわれが権力者に「守らせるもの」だ。

仮に法案が可決されて法律が日時どおり施行されたとしても、「バカくせえ」といって、役所も市民もなるべくボイコットするだろうが、それが「バカくせえ」といえば、殺人罪や放火罪だって「バカくせえ」なのだ、社会通念上妥当な刑法でありえるというだけで、ただし社会通念は個人の思想とは何の関係もないので、社会通念を捨象すればあらゆる法律は「バカくせえ」に尽きる、すべて「オネオネ・ウミウミ法」と同じ法律でしかないからだ。
われわれは、いろいろ勉強せねばならず、なぜ勉強せねばならないかというと、幻想を打ち破るためだ、法律を知るために法を学ぶのではなく、法律なんてものが本当には存在していないことに気づくために法を学ぶ/かつての共産主義国は愚民政策といって国民のすべてを「勉強したら死刑」という実態に追い込んだが、なぜそのようにしたかというと、為政者にとっては幻想が国民を支配する道具であり、それをわずかでも見破る学門や勉強は権力者にとって不都合だからだ。
国や社会というのは、権力者によって運営されているため、原理的に、市井の人々が学び気づくことに対して本能的な否定と弾圧を向ける、それこそ蛮社の獄からその性質は全く変わっていない/だからあなたも国や社会によって、根本的には「何も気づかないバカであってくれ」という操作を受けている、あなたが「いい子」と褒められてきたぶんはそういう仕組みにおいて褒められてきたと見て間違いない。
オネオネ・ウミウミは、何の意味もないけれど、「オネオネ・ウミウミは、外出してはならない、誰かと会話してはならない、また外部との通信手段を保有・使用してはならない、これに反するものは死刑に処する」と法案が可決されると、それは本当にそのとおりになる、そうなるとオネオネ・ウミウミの人たちは法律を違憲だとして訴訟を起こすという行為さえ具体的に封じられることになる、そうなると外部の誰かが社会正義から違憲訴訟を起こさねばならなくなるが、外部と接触の一切を禁じられたオネオネ・ウミウミのことをだれか唐突に気に掛けるだろうか? そうなるともう親族か、もしくは江頭2:50氏が違憲訴訟を起こしてくれるのを期待するしかなくなる/ここで話しているのはすべて架空のことではない、この話を国会議員の過半数が「面白そう」と合意すれば本当にこのことは実現できてしまう、警察や裁判や刑務所や婚姻や税金や国家予算等々を仕切っているみんなの「国」というのはしょせんそんなものなのだ。

国も法律も、本当には存在していない、ただ存在していると言い張る人々が、暴力をもって「引っ捕らえ」に来るだけだ。

ためしに、おれが白昼堂々、渋谷のスクランブル交差点でテキトーにそのへんのババアの頭部を斧で叩き割ったとする、それはおれとしては合法の行為なので、何も気にせず帰宅し、何も気にせず気分のまま旅行に出かけるだろうが、そうしているとおれのところに警察がやってきて、おれが無視していると、そいつらはおれの部屋のドアを破り、暴力でおれをふん捕まえて、彼らの管理する建物のところを連れていくのだ、そして監禁しておれの自由や生命を奪おうとする/紛れもなくホントの話だ、法律というのは「国家がどのように暴力を振るうか」という宣言にすぎない、もしおれがすべての警官と自衛官を単独で叩きのめせてしまう暴力の実力があれば、法律は国家のものではなくおれのものになる。
ありもしない母体を剥ぎ取れ/おれがすべての警官と自衛官を単独で叩きのめしたとして、もし天皇陛下が「出頭して、日本国に定められた刑務に服しなさい」とおれに命じたならば、その命に法的根拠も執行の実力もないかもしれないが、おれはその命令に従うかもしれない、そのときはおれはおれ自身よりこの場合の天皇陛下に「権威」があると認めているということになる、それが別に天皇陛下でなく世話になった先輩や先生でもいいし、親兄弟や恋人という場合もあるだろう、われわれは「法律を守ってイイ子」というわけではまったくなく、法律の定める暴力を恐れ、また法律の定める暴力にうぬぼれるという、とんでもないダサい子なのだ、そんなダサい者がわずかでも世界に触れられるわけがない。

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WS報告076(3)/ありもしない母体を剥ぎ取れ
とえばここに一般的な既婚者A子さんがいたとする、このことは一見して公的な事実に見える。
けれども、ここにもし、わたしが「スーパー結婚」のことを言い出して、一般既婚者A子さんに対し、「わたしはあなたとスーパー結婚する」と言い出したらどうするのか。
スーパー結婚の典礼書は、もちろんおれがおれの権威によってテキトーに書くのだが、その典礼書によると、1.他ならぬおれは無条件でスーパー結婚の儀をつぶやくだけで成立させることができ、2.またスーパー結婚は相手の合意など必要とせず、3.スーパー結婚は誰とでも出来、また何人とでも出来、4.そしてスーパー結婚に比べると一般結婚の一般旦那などはスカスカで川べりの笹の葉一枚ていどの価値しかない、と定められている。
よって、この典礼書が法であるかぎり、このわたしによるスーパー結婚の宣言に背く者はすべて「違法」ということになる/「このことにどう抗弁するか?」とわたしは各員に問うたが、問うも何も、「抗弁はできない」のだ、ほとんどの人がここのところの仕組みがわかっておらず、ありもしない母体に包まれている幻想の中を生きている。

はっきり言っておいてやる、多くの人が「結婚」といって、一般的結婚をするのは、奥さんが旦那さんを信じてのことではない、奥さんが信じているのは旦那ではなくて「国家」だ、奥さんは国家と社会と風習を信じているのであり、旦那さんを信じてはいない。
これは残念ながら、まったく言い逃れのできないことで、もし奥さんが旦那さんを信じたのであれば、旦那さんが「あなたはわたしの妻デース」と承認すればそれだけで婚姻は成立するはずなのだ、けれどもそれがアテにならないと心底では思っているので、宗教組織に頼って宗教組織から承認を受け、またお上に頼って役所から承認を受けた/そのことに比べれば旦那さんなんて終始無言でまったく問題ない。
言ってみれば、婚姻届を出したあとに旦那さんが「おれは結婚したつもりはない」と言っても、「教会と神社で儀式もしたし、役所に届け出て承認を受けているから、あなたがどう抵抗しても、わたしたちは夫婦ですよーっと」というのが一般の見方なのだ、そりゃ事実そのとおりだろう/つまり、ただの「登記」だ、誰も旦那さんの宣言で婚姻を認めているのではなく、国家・役所への登記をもってそれを婚姻関係と認めているだけだ。
そうして一般にわれわれは、ありもしない母体、それも典型的に国とか社会とか役所とかを、「世界」の権威だと信じている、おれがスーパー結婚と言っても誰もおれのことを信じず、国・政府が定めた届け出の様式を信じているのが事実だ、おれのテキトーに定める典礼書より、六法全書のほうが「世界」の権威だと信じているということ、なんというアホチンだ/だから何をどうやっても、一ミリとて「世界」に触れられないのだ、ありもしない母体の幻想に包まれつづけて。

むかつくババアが目の前を通ったとき、その頭を斧で叩き割ると国家的に違法だが、叩き割らないとおれ的に違法になる。

これは何も虚構を言い張って遊んでいるのではなく、ここで言っていることが正当にわからない人は、単に法学の仕組みがわかっていないのだ、それは残念ながら善人ではなくてただの「知性のないアホ」だ/この場合、国家の六法全書と、おれの法全書の「どちらが権威か」ということが問われるだけだ、そして何がどう間違っても、ひとつの国ごときがおれよりエラいわけがあるまい、どう見てもこの世界の権威たりうるのはおれのテキトー典礼書のほうだ。
「むかつくババアが目の前を通ったときには、斧でその頭を叩き割ること」というのは、ちゃんとおれの法全書に書かれている、立派な合法行為で、それを履行しないほうが違法になる、それが法律というものだし、「法治」という精神だ、うーむ清廉潔白/ただしおれの法全書にはそのように書かれていても、おれの世界の風土らおいてはいちいちそんな違法を通報もしないし立件もしないので、実態としては看過されている、それでも違法か合法かと問われれば違法だ、むかつくババアが目の前を通ったらちゃんとその頭を斧で叩き割らねばならない、それが遵法精神というものだ、どうしても話のわからない人はまず社会契約論を読むか、面倒なら大学の法学の教授に訊け。
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WS報告076(2)/文学と軍学、王と民、盗賊が奴隷になること
ワークショップは「小劇場」という形式で "フィクション" という現象にアプローチしている。
そこで今回は、「戦(いくさ)とはどのようなものか」および「戦(いくさ)の神とはどのようなものか」を、小劇場の形式で表示また実演させてみた。
実際に自分で実演表示してみると、直接わかるというか直接「視える」ということがあるものであって、各員はその実演表示に形容しがたい理解とよろこびを得たようだった。
そしていつもの、まったくいつもの不明のこととして、何か正しいことをすると「空間がよくなり」「出来ないはずのことが出来る」という一種のボーナスタイムが与えられる、この作用として土曜日は各員、出来るはずもないレベルの命令法がサクサク出来た、もちろんそれですべてを体得したわけではないにせよ/もともと、各人にとって「出来ないこと」は、どう努力しても永遠に出来ないのであって、何かが「出来るようになる」には、こうした別のバックアップ、フォロー、恩恵、祝福が必要なのだ、努力でなんとかなるものなら世界中の全員がとっくになんとかなっているだろう。

文学は軍学なしには得られないし、軍学は文学なしには得られない、「それらは両立でしか得られないものだ」とわたしは話してきた。
文学とは「隣国の民に与えるもの」であり、軍学とは「隣国の領土を奪うこと」だ、ここで隣国の民に与えるものが「ある」ということは、隣国の領土を奪うことで、隣国は豊かになるということだ、この両立でしかこのことは成り立たず、片側だけを恣意的に得ることはできない。
ここでいう「隣国」というのは、別に国家のことを指してはいないのだが、いいかげんこの注釈はしつこい/それより要点は、隣国に与えうる愛を持っていないなら戦(いくさ)の神は庇護を与えないだろうし、隣国に攻め入ってそれを与えにゆかないのであれば愛の神はその文学を与えないだろうということ。
B’zの歌うところに「愛のバクダン」というのがあるが、隣国に攻め入らないならバクダンは必要ないから与えられないし、隣国に愛を与えないのであれば戦の神は庇護を与えず見捨てるだろう、愛のバクダンを隣国に落とすということは、貧しく不毛な隣国を爆撃で「終わらせる」ということで、バクダンでない愛はニセモノだし、愛でないバクダンもゴミなのだ/不毛な国を吹っ飛ばすための戦士、そのための愛とバクダンを具有している(文学と軍学を得ている)者を「英雄」と呼ぶ、この「英雄」だけが己の慾望を宣言していい権利を公的に有する。

ニセの愛と文学が、人を誘惑し、誘惑されきったところで、そのニセの愛と文学はフッと消える/そして持たざる欲しがりの盗賊が残る。

これが悪魔のしわざだということは、言語的に説明されるより、自分で実演表示してみるほうがわかりやすい/このところ、あらゆるブームが人々の手元に現れ、数ヶ月でフッと消えるのは、人々を真の愛と文学から切断するためなのだ、手元に与えたそれがフッと消えたとき、その人は「さびしい」「何も持っていない」者になり、この者は愛と文学を「欲しがる」から、強制的に "盗賊" になる。
こうして出現した盗賊は、真の愛と文学を持つ人たちから、それを奪おうと忍び寄るが、そこで戦士に見つかると、戦の神に庇護を受けている戦士には太刀打ちできず敗北してしまう、そして盗賊はどうなるかというと、当然ながら奴隷になる/この世をまるで奴隷のように生きていかねばならなくなった人は、実はそのような仕組みで作られているのだ、周囲をよくよく観察してみるとこの仕組みが本当にあることがわかる、彼はまずニセの愛を掴むも、それが後にフッと消えて、さびしさからホンモノを奪いに行こうとするが叶わず、偸盗を為そうとした罰として奴隷にされる。
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WS報告076(1)/×自分さがし ○強制自分視認
日は遠方から再訪してくれた初学者がいたので、身体操作含め「基礎」をみっちりやった。
ここ最近、「呪縛からの解放」「関節の解放」という基本によって、まさに実物の具体を手に入れ、それによってこれまではかすりもしなかったアハムにかするようになった人がいるので、具体の基礎をやり遂げるということは実に値打ちがあると、このおれさまのメソッドは改めて評価されているのだ、じゃあ乗るしかないぜこのムーブメントに。
今そうして「具体っしょ」という再評価のブームなので、今回は逆に初めて、「寝返らせ名人グランプリ」をやった、ううむテキトーに題したせいで説明が面倒くさいな、理学療法士の方がいたのでこのワークになった/つまり目の前に誰かに寝転んでもらい、それをひっくり返す・寝返りを打たせるということなのだが、この単純なことで本当に人の身体の構造および、それに触れて操作するということが出来ているかどうかが浮き彫りに出てくる、このワークはとても好評で意外に盛り上がった。
具体のブーム、つまり直接の「身体!」なのだが、身体については本当に単に正しい知識と、正しい方法(メソッド・教え)と、何よりそれに触れる「手」そのものの発達が必要だ、人の身体に触れる「手」そのものがクソほど賢くならないとダメなのだ、手そのものの機能というよりグレードが上がらないといけない、こんなものはやはりクソほど人に「触れる」ということを積み重ねるしか方法はない、もちろんあくまで正しい知識とメソッドの上でだ。

「露骨法」「命令法」も基本通りやった、途中で面白ワークとして「暗殺術」もやったが、これだって実はネタではなく根底の最重要クラスの感覚を発見するためにやっている/暗殺というのは(笑)、攻撃してはダメなのだ、攻撃すると防御されてしまう、するとバトルになってしまう、バトルに強いことは何の意味もない(だってバトルなら人より戦車のほうが強いもん)、そうではなく暗殺というのは最も "魂を寄せて" 刃を突き立てないと成り立たないのだ、暗殺というのはそういう "術" であって "バトル" ではない。
実は現代のわれわれが想定する「戦い」「戦争」は、本来の戦(いくさ)とはまったく異なるものだ/われわれは人の諍い・揉め事から戦争や暴漢をイメージしてしまうので、このことが人々に実りのない格闘妄想を与えてしまっている、まあそんなことは今ここで説明しきれないのだが、とにかく戦(いくさ)がいくらか視えていないと「英雄」がまるで視えないのだ、そして戦(いくさ)というならバトルよりも暗殺術のほうがずいぶん近い(何の説明にもなっていないなこれ)。
今回は命令法を録画してみた、するとなかなか興味深い資料が得られた、きっと各人は自分がマスター状態(のつもり)のとき、どのような様相にあるかを改めて直視することになるだろう、これを録画して見直す方法はまたこれからもやろうと思う/ところでついでに思うが、各員にあるていどカメラマンとしての基本動作を学ばせたほうがいいな、これだけ撮影するからには、何しろカメラマンの気の利かせ方ひとつで映像に写り込む情報量がまるで違うのだ。
当方のワークショップは、現在に到るまで毎回必ず新しいワークがその場で飛び込んでくるというのがひとつの目玉になっているが、今回はそれで「フィクション・サバイバー」のコーナーをやった、これは初学者でも長尺の動画が撮れるので自己研究にとてもよいものだ、もちろんその自己研究は泣きたくなるぐらいブルーなものだが/フィクション・サバイバーもまたぜひやろう、何がどうなるまでやるかというと、出来るようになるまでやるのじゃない、周囲が無意識に拍手してしまうところまでやるのだ、人はそこに何かがあったとき無意識に拍手を打つものだから。

遠方から来た方は、「動画で拝見していて、出来そうと思っていたものが、ことごとくまったく出来ないということがわかった、すごい収穫だった」と言った。

当方のワークショップでは、ワークはえげつないほどシンプルかつ酷薄に出来ていて、シンプルだからこそごまかしはまったく利かず、カンタンだからこそ「出来ないほうがおかしい」と見えるものばかりなのだ、そして実際、内容として「出来ないほうがおかしい」のだが、自分でやってみると本当にぜんぜん出来ないことがわかる、そのことから何がわかってくるかというと、「自分が思っていたより "おかしい" 」ということなのだ、「出来ないほうがおかしい」という、その「おかしい」に自分がまざまざ当てはまるということが、連日連夜、しかも確認可能な動画に記録されてしまう(※注:この動画は、プライバシー保護のため、現在のところ参加者だけで共有するものです、検索しても出てきません)。
百数十回も徹夜でこんな珍妙なことをしてきて(※注:全員が徹夜ではないです、終電で帰る方もあります)、今になって誰もが振り返って思うのは、「もし、この "おかしい" 自分に、まったく気づかないまま生きていっていたら今ごろどうなっていたんでしょうね……」という恐怖の笑い話だ/というわけで、今夜も絶望に向かってまいりましょう、なぜ今夜絶望に向かうかというと、翌朝を明るいものにするためです、なんというかこんなのいつぞや流行した「自分さがし」どころではなく、ただの「強制自分視認」だよなあ。
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悪霊リパブリック
突に妙な話をするが、民主制、リパブリックは、「多数決が一番正気を失わない」という前提のもとに成り立っている。
もちろん、より原理的には、議決の責任をすべての市民が負うという仕組みでもあるのだが、その考えから民主制を支持している人はきっと少ないだろう、おそらく大半の人は「だって少数の偉い人が決めたらまずいじゃん」「権力者って狂うんでしょ? 皇帝とか幕府とか」という感覚から民主制を支持しているに違いない。
衆知のように民主制は議決を「多数決をもってする」のだが、これは多数決というより単に「多数派の言うとおりにする」だけだ、だからもし「狂気」が多数派になったら、とうぜん民主制は狂気の議決を積み重ねていくことになる。
現代の多数派は本当に「正気」だろうか、本当に「狂気」ではないだろうか、もちろん少数の「権力者」に施政権を委ねるのは危険だということは歴史的事実なのだが、多数派に委ねるのは安全と保証されているわけではない/後の歴史に「多数派に委ねるのは危険」という事実が刻まれることは大いにありうる、まったく次のありようなんて視えてこないが、ひょっとすると民主制そのものの限界点をわれわれは迎えているのかもしれないという、そんな気がふとした。

単純な話として、たとえば架空の電器メーカーAがあったとして、このA社の経営方針を、A社の全従業員の多数決で決めるという方法は、A社にとって安全なのだろうか。
むろん現在は、株主がその株式の取得割合に応じて議決権を保有しており、つまり人頭に与えられる民主制ではなく資金割合に与えられる民主制という形式、すなわち資本主義に議決権が定められているのだが、もちろん株主だってより安全な議決方法があるのならそちらを選びたいだろう、別に株主は株主総会に出たいわけではなくただ配当と値上がりが欲しいだけだ。
あるいはA社の経営方針を、国民全員で決定するというのは、安全な議決方法になるだろうか/それでいうとつまり日本という国は、国民が均等に株式を保有している「日本株式会社」なのだが、この経営方針を国民全員で議決するというのは本当に安全安心な方法なのだろうか。
多数派が狂気ないしはヤケクソ、あるいは馬鹿げていえば、多数派が悪霊に憑かれているというようなことだって仮想することは可能だろう、つまり悪霊リパブリックという現象だってありうるのかもしれない/だからどうすればいいということはまったく視えてこないが、それは視えてこないのではなく、そもそも初めから視えるべきものなんてないのかもしれない、そんな気がふとした。

人類というのはもともと、「ダメになる速度 > なんとかする速度」なのかもしれない。

人類の歴史は、はじめ原始共産主義から始まり、それがダメになって封建制になり、封建制がダメになって王制になり、王制がダメになって民主制になった、これは実は進歩しているのではなくて、次々に救命ボートに乗り込んでいるだけなのではないか/初めの船がダメになり、救命ボートに乗り込んで、そのボートもダメになったので、その中から救命ボートを作って脱出し、その救命ボートもダメになり……ということを繰り返しているような気がしないでもない、もちろんその救命ボートに意味がないとはまったく思わないけれども。
「このままではこの国はダメになる」というのは、実は有史以来ピリオディカルに言われていて、ダメになるという現象は実は "レギュラー" ではないのだろうか? であれば現在の民主制もダメになるのがレギュラーだ、王が悪霊に憑かれたら王制はダメになるのであり、豪族たちが悪霊に憑かれたら封建制がダメになる、ただそれだけのことであって、今度は市民が悪霊に憑かれたら民主制はダメになるだろう、われわれはこれまで改革や革命で何かを解決してきたと、ずっと "錯覚" してきただけなのじゃないか/本当はもっと別に、考えるべきことがずっとあったのではないだろうか。
視点変えてこ | comments(0) |
慾望の資格とまともな国4/英雄について、軍学と文学
ょっと話が逸脱しているが、ついでに。
わたしはよくこういう言い方をする、「隣国を攻め取るのが軍学、そして攻め取った隣国に与えるものが文学」。
隣国を攻め取ったとて、与えられるものがないならただの侵略だし、与えうるものがあったとしても、隣国を攻め取れないならそもそも与えるという立場になれない。
重ね重ね、ここでいう国というのは国家や国籍のことではないのだが、そのことはもうしつこいか/この二つの要素、軍学と文学に秀で、つまり戦(いくさ)の神と愛の神に接続してその天意を振るう者を「英雄」と呼ぶのだ。

この英雄のもと、戦いから血の臭いは消え去り、また愛と文学から作り物のむなしさは消え去る。
小人は慾望に支配されてしまうゆえに慾望が禁忌となるが、英雄は慾望に支配されないので慾望が肯定される、そしてなぜ英雄は慾望に支配されないかというと、英雄は戦の神と愛の神に支配されているからだ、これでは慾望が英雄を支配することはできない/慾望が支配できるのはあくまで生きものである人にすぎず、神の支配力を上書きできるほど慾望の魔力は上位にない。
金持ちはいつの時代でも女のこころを買えるだろうが、いつまでたってもそのことに肯定感が得られないのは、けっきょく慾望で慾望を取引購入しているにすぎないからだ/金儲けの力はいくらか戦の神に近いところもあろうが、なにぶんそうして金で女を引き寄せたとしても彼には女に与える愛の文学がない、だから同じく慾望に支配されている女しか買えない。
あるいは、愛の神だけでは人は英雄になれない、神の名を称える者は必ず迫害を受けるのに、戦の神がなければ迫害からとにかく逃げるしかなくなるからだ、逃げるのは悪手ではないが、あくまで戦の一手として逃げるということと、ただの逃避として逃げるのとでは意味も作用も違う/このようにして英雄は、隣国の不毛を終わらせ芳醇を始めさせるという存在であり、彼の慾望は常に「カーニバル」の様相を為している、それは小人が密室で後ろ暗いことをやるイメージとは実際まったくことなる性質のものだ。

英雄とは、「この人のもとでは全ての人が獣の取引をやめる」という存在だ。

英雄の慾望が肯定されるのは、英雄のもとにあるときのみ、人はどれだけ慾望を解放しても獣にならないからだ、英雄なしに戦争や性交をすると人はただ未開の獣になってしまうのに、英雄がそれを行うときだけ、人は人としてその営みの中にあれる/英雄を否定しないかぎり、人はその戦の神や愛の神の恩恵につながることができる。
自分自身が英雄かどうかは、ただ隣国に単騎で乗り込めばわかる、そこでわずかでも隣国を歓喜の地に変えるのであればその人は男女に関わらず英雄だし、そこでただ取引や争いをするだけならその人は英雄ではない、そして英雄ではない者が慾望を言い張ると、人は必ず慾望に支配されただの獣に堕してしまう/そして獣に堕してしまった者たちは、結果的に奴隷として生涯を過ごすよりなくなるのだ、これは一般化して「英雄を否定した者が奴隷になる」と言いうる、このことをぜひ自分の実体験にはしないことだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
慾望の資格とまともな国3/慾望は英雄のもの
「慾望」を言い出す資格は、「隣国を攻め取って、その国の女に愛されること」なのだが、実はそんなことは誰だってわかっているのだ。
本当は誰だってわかっているのに、直視できないから、わからないふうに自分を洗脳しているだけだ、その証拠として現代の「なろう小説」、特に「異世界転生モノ」がある。
少年がテキトーな仕組みでわけもわからず「異世界」に行き、その異世界でブイブイ言わせて、異世界の半ば王のようになり、その国の女に愛されてウハウハということなのだが、こうしたファンタジー(いやいや)が自然発生してくるからには、本当はわかっているのだ、そのウハウハは「隣国を攻め取って、その国の女に愛されること」でしか得られないと。
重ね重ね、その隣国というのは、国家や国籍ではなく、ただの「他人」「共同体の外側」ということなのだが、とにかく異世界にいかなくても、隣街に行って実力でその街の王になれるのなら、わざわざ作為的な「異世界」なんてものにワープする必要はない、こうして異世界転生モノは夢があるのではなく、もう夢がないから妄想に浸ることに決め打ちしたのだ、だからこれはファンタジーではなくただの「願望」への逃避にすぎない。

「慾望」といって、女性の側も本当はわかっているのだ、本当は異国の力ずくの荒くれものを、女がその徳をもって諫め、愛とやさしさに開眼させ、その結果その荒くれものは騎士となり、騎士は七つの海から財宝を集めてきて姫に献上するということだ、それが正規の慾望であって、慾望というのは「乳とオマンコで男にウッフンしたらヘンなムードになって引き返せなくなった」ということではない(そんなものを言い張られてたまるか)。
ふつう、料理というのは料理人にしかできないものだし、歌というのは歌手にしか唄えないものだし、絵というのは画家にしか描けないものだし、ダンスというのはダンサーにしか踊れないものなのに、最近の人はなぜか何でもかんでも「自分にも出来る」と思っているのだ、これは幼児的万能感の一種の病癖だ/そしてこの病癖と同じたぐいで、そもそも「慾望を言い張れるのは英雄だけ」ということがわかっていないのだ、やはり何でもかんでも「自分にも出来る」と思っている、そのことが全体をブキミにしている。
「異世界転生モノ」でいうと、凡人が異世界に転生して英雄になるというのは、むろん英雄ではなくただのゴミだと思うが、このことはおそらく、英雄でもなければ英雄になる気概さえ持てない、そもそも英雄に対して尊崇どころかひがみしか持てない者が、「自分も英雄になれる」という発想から強引な手続きとしてこの「異世界転生」の仕組みを思いついたのだろう、ふつうに考えれば恥ずかしくて手が出せるわけがないような発想なのだが、それでも現在人気を誇っているからには、もうそれに外聞もなく飛びつく人たちが増えているということだろう/もちろんそれをただの趣味と言い張るなら何のことでもないが、いざ正規に慾望という話になったらさすがにまともな話し合いはできないだろう。
慾望は英雄のものであって、英雄とはまともな国たりえない隣国を打破し、そこに住んでいた女に誇らしい「世界」を与える者のことだ、力と愛があるのであり、ほとんど女はこの英雄の栄光に寄与したくて英雄の慾望をよろこんで受けるにすぎない/そこでどうして安全な身内の中に住みつづけるおじさんやお兄さんの「モンモン」を「慾望!」と言い張るのだ、ましてこれに乗っかってウッフンする女も少なくないのが痛々しい、これはまともな国のない人がやることであって、正直そんなことを続ける民は隣国に侵略された上に見放され、生涯劣悪な「奴隷」になるのがふさわしいのだ、それは冗談でなく本当にそうなってしまう。

正規に慾望を言い張るには英雄にならねばならず、非正規に慾望を言い張った者は奴隷になる。

なぜそうなるのか、じっくり読まないとわからないかもしれないが、若い人はお楽しみに、たとえば学生時代に非正規に慾望を言い張っていた人は、その後本当に「奴隷」のように生きねばならなくなる、あるいは現時点でも妙齢の人は、周囲の人々の成り行きをそれぞれに総括してみると、全体的に「本当だ」ということが視えてくるかもしれない/また現時点において、すでに奴隷のように生きざるをえなくなっている人は、今まさに内心で非正規に「慾望」を言い張っているということが観察してみればわかるはずだ。
慾望は英雄のものであって、多くはこの英雄と、小人たる自分の区別がつかない者が、英雄にあこがれるうち自分にも英雄の権利があると錯覚して――妄想して――慾望に支配されたあげく「奴隷」の身分になる、だから共同体で幅を利かせるおじさんアンドお兄さんも、ほじくってみると自分を英雄だと錯覚している、単騎で隣国にいくと縮こまるのに自分は英雄だという妄念に支配されているのだ。
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慾望の資格とまともな国2
番ダメな慾望のケースを見てみよう。
それはたとえば、風土的にド田舎の地域があって、そこで地元だから顔の利く・幅を利かせているおじさんやお兄さんが、地域の女を手込めにしたいというパターンだ、これを「慾望」と言い出すことが、一番ダサくて醜悪になる。
なぜならこのおじさんやお兄さんは、地元の外側、共同体の外側に行けばまったくモテないし女なんか口説けないのだ、つまり地中海沿岸の町にいってウブな中学生をからかうことさえできないということ、それは彼らに力がなくてただ土着の「権力」だけがあるのを、自分の実力と誤解しているのだ、こういう人は本当に近所迷惑になる。
そして、このおじさんやお兄さんたちが、自分の住む地域を「未開の哺乳類の群れ」と自ら言うならまだ話はわかるのだが、こういう人に限って自分の住む地域をまともな「国」だと言い張りたがるのだ、まともな「国」ならそんなわけのわからない慾望とセックス希望は成り立たないのだが、とにかく自分には力も愛もないことを認めたがらず、さらには自分の地域が未開の群れだということも認めたがらない、こうして無数の近所迷惑と無数の閉塞的地域が生産されてしまうのだった。

慾望を言いたいのなら、そんなもんB’zの歌うように、「愛のバクダン」を落っことしてやればいいのだ、ただし愛のバクダンは街のド真ん中に落とすものであり、身内のド真ん中に落とすものではない。
街というのは自分にとって隣国だから(街が自宅の奴はいない)、その隣国にバクダンをぶっこむということ、そうして攻め取った国の女に愛されるということ、それなら慾望というのも正当でうつくしく、何の咎があろうかという話だ/この愛のバクダンを街のド真ん中に落とせない奴が「慾望!」とか言い出すからおかしくなるのだ、日本中がド田舎の哺乳類の群れになってしまう。
隣国に愛のバクダンをぶっこむなんてことはできないという人が、それでもまともな「国」においてセックス相手を求めるのに、長老と神職の承認のもと「婚姻」の制度に準じるというのは、何もおかしなことではない、ただこれも当人がありもしない自分の力や愛を言い張ると話がおかしくなる。
慾望が肯定されるのは、「誰が世界を与えたか」という一点によるのだ、まともな国がまともな世界を与えていた場合、それを与えたわけでもない者が「慾望!」なんて言い張れない/男であれ女であれ、慾望が肯定されるのは、相手から見て「この人がわたしに世界を与えてくれた」と認められる場合だけなのだ、それに比べると地域や共同体で幅を利かせているおじさんやお兄さんは、一体どこの誰にどのような世界を与えたというのだろうか、こんな者の「慾望」が肯定されるわけがない、そんなことは自分で考えてもわかるはずなのだが、それを考えないというのは、けっきょく当人の知性が未開の哺乳類状態だからなのだ。

尾崎豊がどの女と寝ていただろうかという空想は、圧倒的な「どうでもよくない?」に消し飛ばされる。

当時、どれだけ多数の少女が尾崎豊によって世界を与えられたかわからないが、その愛のバクダン野郎がどこの少女たちとどれだけ寝ていたとして、完全に「どうでもよくない?」としか思えない、慾望が肯定されるというのはそういうことで、仮にアイルトン・セナがグランプリのあと一晩200万円のコールガールを呼んでいたって、そんなことは誰も何も思わない。
慾望というのは、そうして正規の場合は認められるのだが、なぜ正規の場合は認められるかというと、明らかに慾望が当人を支配していないからだ/慾望が禁忌とされるのは、慾望が当人を支配してしまって魔の拠点になるからというのが理由だ、じっさい共同体の幅利かせおじさんなどは、本当に慾望に支配されて魔の拠点になってしまっているから、自分の発想についてミエミエの「んなアホな」ということさえ考えられなくなっている。
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慾望の資格とまともな国
「慾望」を言い出していい資格はハッキリしている。
「自ら隣国を攻め取って、旧敵国の女に愛されること」だ/この場合の隣国とは国家や国籍のことではなくただ「隣人」「身内でない他人」のことを指している。
逆に「慾望」を言い出す資格がない者も、はっきりしていて、それは安全な身内の中で幅を利かせてセックス相手を探そうとする者だ。
といってふつう、自ら隣国を攻め取って、旧敵国の女に愛を受けるなんてことはできないので、だからこそ身内の中でセックスするには「婚姻」という制度がある、長老と神職に承認を得たら婚姻仲としてセックスしていいというシステムだ。

古来、日本の村落には「夜這い」の文化があったが、なぜそんな文化があったかというと、まともな「国」がなかったからだ。
誰が誰のことも慈しんではいない、ただの「群れ」という状態だったので、群れの中で誰が交尾しても誰も知ったことではないという状態だった、夜這いというのはラブロマンスではなくて未開の哺乳類状態だったにすぎない。
もしわれわれがまともな「国」を求めるなら、気の向くままの交尾なんて認められなくて、それでもなお慾望を言い立てようとするならば、まだまともな「国」たりえていない隣国を攻め取って、そこにいた女にまともな国を与えて愛されろということになる/重ね重ね、ここでいう「国」というのは国家や国籍のことではない、ただの共同体のことだ。
つまり男の場合、安全な身内の中で「慾望!」とかアホなことを言わず……世の中にはまともでない父親の下で、まともな世界をまるで与えられずさびしがっている女の子がいくらでもいるのだから、そこに攻め入って女の子に世界を与えろということだ、その女の子が父親や家族のものでなくなり、自分の与えた国の民となったなら、その女の子はいくらでもその世界を与えてくれた男の慾望を受けてそれをよろこびとするだろう/隣国を攻め取ることができなければその者には力がないのだし、その国の女に愛されなければその者には力しかないということだ、その両方があってはじめて「慾望」というのも当然の言い分になる。

ヤリサーがダサいのは、力のない者が慾望を言い立てようと、あわれな共同体を形成しているところだ。

いまどき、単に多数のセックスがしたいなら、わざわざサークルなんか仕立てなくても、自分の力と愛でいくらでもやれるはずなのだ、そこでけっきょく安全な身内としかヤレない・口説けないというのは、どうしたってダサいのだ、あるいはナンパ目的でナイトクラブに行く男も、けっきょくその「仲良し空間」に頼ってセックス相手を得ようとしているところがどうしてもダサい。
ヤリサーというのは本当に日本土着の古い村落とまったく同じ体質のもので、だからこそヤリサーはまさに「まともな国がない」という様態を実物として示す、それは未開の哺乳類の群れが祭りを口実にセックス相手を見繕うというもので、本当にただの「生態系」の一形態にすぎない/別にそれを悪いとは思わないが、まともな「国」のない民なら、それなりに俚人の態様を公示すべきで、これが文明ある人のふりをするべきではない、つまりただの性交牧場を「サークル」ふうに言い張るべきではない(でないとまともな側の大学生が迷惑する)。
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