☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
WS報告005(2)

魄を分離するといって、それは「心臓」→「横隔膜」にセンターを移動するということなのだが、まあ念のために言っておくと、おれ自身の能力はそんな次元のもんじゃねえ、これはワークショップのために次元を落として取り組んでいるんだ、おれの次元はもっとぶっとびなのでそこんとこヨロシク、そりゃおれは直接女の子をメロメロにしうる領域じゃなきゃ本分じゃねえよ。
まあその次元のこともどこかでnotice程度には表示したくあるが……まあいいや、とにかくギリギリ「視える」ところからコツコツとだな、それでいうと、「腹から声を出す」というのもやってみたいと思った(こうして書いておかないとおれは忘れるのだ)。
腹から声を出す、といって、「ああ、やっぱそうですよね」と多くの人は賛同すると思うが、ふへへへ、実はこのことは根こそぎ誤解されているのだ、腹から声を出すといって、「やっぱり口先三寸ではダメですよね」と思われていると思うが、違うのだ、「腹から声を出す」というのは、腹→喉→口で声を出すということではないのである。
じゃあどういうことかというと、「腹」から、それ自体をスピーカーのようにして声を出すのだ、「腹」から直接サウンドアウトするのだ、喉を経由しないのだ/そりゃふつう「ええっ」とビビるような話じゃないか、「腹から声を出すって、直接ですか……」とドン引きされるとたいへん面白い。

横隔膜自体が「エコー」の能力があるということ。
だから、横隔膜の下部に、エコーアウトすると、「腹」が直接鳴っているように聞こえるのだ、聞こえるというかたぶんマジで鳴っているのだろう、それは喉から出る「音」とは性質が違うのだった。
僕も学生時代に合唱団にいたので、いわゆる「発声法」みたいなものは、基本的に一通り知っているつもりだ、だがあの発声法というのは基本的にベルカントを土台にしており、横隔膜の下部にサウンドアウトするというようなキショイ話は出てこない、少なくとも僕の知る限りそんなイカレポンチ発声を教えている教本はない/ベルカント唱法は、マイクのなかった時代、オーケストラを飛び越えて客席に声が届かないといけないので、とにかく声量と響きの大きさを最大化することを基本の目的に作られている、もちろんそれはひとつの精髄であってインチキのものではまったくない。
が、われわれがベルカント唱法を身につけても、あまり意味がないので、僕が伝えたいことは別だ/まあそれ以上は説明できないが、おれが実際に横隔膜の下部からサウンドアウトしたら、フツーに「うお!」とびっくりするよ、それはエコーだから届いてくる性質が違うし、「なぜか声の向こうからオーケストラが聞こえてくる」というようなやつだ、エコーだから実は「空間」「世界」が届いているんだな、次回はこの露骨なやつをやってみよう(出来るのはどうせおれだけだが、横隔膜に直接覚醒の作用があるかもしれないと期待している)。

「この声ってどこから出ているんですか」「うーん、たぶん、横隔膜の『思い出』からなんだろうな」

「思い出」が、人の身のどこに入るのだろう、どこに刻まれるのだろう、思い出というのは単なる記憶とは違うし……/どうもこの解答が、横隔膜ということらしい、少なくとも大きな部分を横隔膜が担っているのは間違いない、「横隔膜って呼吸するための膜っていうだけじゃないんですね」「そりゃそうだ、スリーエムが開発しました、みたいな話じゃねえもの」。
ワーク中、自分の身体に手を当てて、「うわー、あった、あったわ、横隔膜あったわ」と歓喜している人がいた、たいへん素直で健全でいいと思う/おれは別に横隔膜がスゴイという話をしたいのじゃない、横隔膜がないのはヤバイという話をしているのだった、横隔膜がないままこの先を何十年も生きるのはキツすぎるだろう。

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WS報告005(1)
から書けばいいのかわからんが、とにかくまた19時から朝の5時までやった、ダレている時間はない、少なくともおれはない(いや、たぶん誰にもない)。
とにかく、当初はおれが言っていた、全員にとっては「なんのこっちゃ……」が、ここにきてプレイヤーの全員に「視えてきた」「つながってきました」ということになったので、たいへんめでたい、とにかくおれが何のことを言っているのかがわかってきたのだ。
これについてはやはり、横隔膜の発見が大きかった、つーかテメーらはここまで具体化しないとわかんねーのかよという話だが、むしろそうしたプレイヤーとの関わりの中で、僕自身が「どこ」を使っていたのかがわかってきた、これは僕一人ではわからんことなのだ。
ある種の現象を、僕はできて、他の人はできないわけだが、そうなると「どこが違うんだ?」ということになる、プレイヤーだけでなく僕もなる、その中で僕自身も「ここが違うのか」「おれはここを使っていたのか」「へえええ〜」と発見していく、それで学門が進む/これまで僕が何も知らないで出来ていたことが、今は明瞭に「これ」とわかって出来るようになったということ、そうなると今度は、出来ることの精度が格段に上がっていく(いや別に、もともと精度が低いわけでもねーけどよ)。

「ノー」の出どころと、「イエス」の出どころが、まったく違うということ、それぞれは次元が異なる事象だということ、これがうまくハマったし、その先に「全身にイエスが満ちている者にならないと」ということは説得力を持った。
まだ全員、「言語が入るとぜんぜんダメですわ」という状態だが、それが「ぜんぜんダメだわ」という自覚レベルに至ったということがすばらしいことだ、前にも言ったが「できね〜」というのはすばらしいことなのだ、「出来ているか、いないか、よくわかりません」というのが本当の蒙昧だから、その蒙昧状態よりは遥かに躍進したことになる。
やっていることはずっと同じ、気魄は人に触れ、「触れるだけ、何もしない」、霊魂は横隔膜でエコーを聞く、「イエス」を聞く、包む感じになる、エコーというと「行け行け行け行け……」とやまびこだが、「こんなことがマジで正しいんだ」という驚き。
そして、横隔膜・エコーについては、「直接法」とでもいうべきか、直接横隔膜から横隔膜へ共鳴させてやるのが手っ取り早いというのがわかった、むしろこれが唯一の方法なのかもしれないな、あと「格はずし」のワークをやるのを忘れた、こんなことでまだ半分も書き話せていないと思う。

ヘンなことをしているようだが、違う、まともな奴になるための訓練をしている。

朝にはデニーズに行って、メシを食ってアイスコーヒーをがぶ飲みし(暑いんだよ)、「言葉」についての点検をして、○△□×とやってみると、「な、言葉に見放されているだろ?」「ほんまや、これめちゃまずいですやん、逆に笑けてきますわ」となった、こうしていよいよ本丸に手ごたえが出てきたのだ(本丸に討ち入れるかどうかは知らん)。
「胸は身体の表側にあって、肩は身体の裏側にある……のじゃないよ、そりゃたとえば、ブラジルが地球の裏側にあると思っているんだろ? 勝手に日本が表だと思ってさ。自分の見えているほうが『表』で、見えないところは『裏』だという、その思い込みから逃れないかぎり、肩は身体につながらないよ/たとえば冷蔵庫にマヨネーズのボトルがあるじゃん、あのマヨネーズのボトルの裏表なんて気にしないでしょ、身体もそういうものだよ、肩がつながるとあなたの腕は腕でなくなりようやく『身体』になるよ、そのとき腕は『消える』んだな」
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第82回Quali's Party[7月21日(土)]参加者募集!

Recent entry: ひろみ、ゆか、あきら、りさ、ともこ、まなみやじー、つかごん、ゆうさく、くおり
7/19 Quali tweet> 今を調整してしまったら、十年後の思い出にならない。 pls entry


キラキラ加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


日時2018年7月21日(土)19時〜23時
場所原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB待ち合わせ:原宿竹下通り商店街突き当たり竹下口交差点ムラサキスポーツ前
費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

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ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 7/16更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第七回】7月20日(金)19時〜@世田谷公園
【第八回】
7月27日(金)19時〜@世田谷公園
【第九回】
7月28日(土)19時〜@世田谷公園

(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(基本的には雨天延期です、随時ご連絡いたします)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)

→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第82回】7月21日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第83回】8月18
日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


呪縛から離れてスパスパ動く。ストレスは大キライ〜。
ただしカルマが噴き出して精神的にアレになる人もある。まあそんなことはおれは知らん。


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

(ワークショップの各カリキュラムは以下続きをご参照ください)

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WS報告004(5)

ークショップの報告ばかりになってつまんねーな……まあ今だけのことなのでお許し願いたい、申し訳ない。
ひとつだけ、業務連絡みたいにもなるが、「マスター状態」についてメモ書きしておきたい/本ワークショップでは「マスター状態」を重視しております。
「マスター状態」なしに、チームワークとかリーダーシップとか、みんなでどうこうとかは、「どうせ伝わらんから疲れるだけや」と身も蓋もなく言うのが本ワークショップの理念であり、一方「マスター状態」なら、何の文句もストレスもなしに「命令」がスイスイ通るし、それで全員がすげーラクだし、しかも「何か世界があるわー」ってなるやん、ということを実演・実体験するのが本ワークショップの実体だ。
マスターというのは、中央にどっしり立つ帆柱(マスト)に引っかけて、その原理を理解するのがよいのだが、逆にこの「マスター状態」が、「決して成り立たない」というケースについて指摘しておきたい、受講生はクソほどこのことを把握しておくように。

マスター状態が「決して成り立たない」という状態、それは「」だ。
「輪」とはどういう状態かというと、「中心に何もない」という状態だ、この状態になる人がとっっっても多い。
マスター状態というのは違うのだ、自分が「マスター」としてそこに立つとき、中心は自分だ/誤解するな、マスターとプレイヤーが向き合って、マスターとプレイヤーの中点に中心があるのじゃないぞ。
マスターが「中心」であって、マスターの前方にはプレイヤー、マスターの後方には「客」(対外)があるということだ、プレイヤーと客が「輪」になるのであって、マスターは「輪」の一員じゃないよ/この「輪」に入りたがる人・「輪」から出たがらない人は、マスターとして機能することはできない、これは「原理」なのでよーく把握しておくように。

オーケストラのコンサートがあったとき、「演奏もしていなければ、音楽を聴いてもいない奴」が一人だけいる。

オーケストラのメンバーは、全員プレイヤーだから、全員「演奏」をしている、一方で客席のほうは、全員オーディエンスだから、全員「音楽を聴いて」いる、その中で、真ん中の指揮者だけ、何の音も出していないし、何の音楽も聴いていない、じゃあコイツは何をしているのかというと、the echo を受けている、コイツ一人だけコンサートホールの中でまったく別のことをしているのだ。
このことを徹底的に把握しておくこと、たとえばオーケストラの指揮者は、音楽を聴いていたら<<絶対に間に合わない>>よ、だって指揮者が振り出す前に演奏は無いんだから、音楽を聴いてから指揮棒を振り始めたのでは間に合うわけがない、指揮棒から演奏が「始まる」のであって、指揮棒は常に演奏の「以前」にしか存在しない/多数の人々の「輪」があったとして、マスターはその輪の一員では決してない、背後のオーディエンスと目前のプレイヤーが輪になって「コンサート」が成立するのだろうが、指揮者は時間軸上「コンサート」より先行した時点に立ち続けている、「マスター」は人々の輪の「出来事」から離脱しており、逆に「コンサートに参加したことがない」のが指揮者だ。

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WS報告004(4)
スト(帆柱)が低性能だと、船は進まない。
セイル(帆)が低性能だと、やはり船は進まない。
マストがぐにゃぐにゃだわ、傾いているわ、甲板につながっていないわ、セイルは畳まれたままだわ、スカスカだわというのでは、船は進みっこない。
ちゃんとしたマストが立っていて、ちゃんと帆が貼っている船のことを、「マスター」という、これはただの、船に関する用語の話。

もし船がマスター状態になっていなければ、それぞれが人力で船を漕ぐしかないが、それで大西洋を渡りきれというのはえぐい話である、全員腕がムッキムキになってしまうぜ。
マスター状態において、マストはまっすぐ、偏りなく立ち、しっかりと一本になって、船の中央につながっていなくてはならない/そこでマストそのものは、「何もしていない」のだが、このマストはセイルに受けた力を船の全体に伝える役割を果たしている、船員たちはこのマストに「運ばれていく」のだ。
もちろん、人間はムササビではないので、風そのものを受けて進むものではない、だがこの世界にはどうも、the echo と呼ぶべき何かがひしめいている、それは一種の「言葉」ないしは「言葉の素(もと)」なのだが、説明はしにくいし、実用的にも the echo と呼ぶしかない。
桑田佳祐の歌に、「いつか何処かで (i feel the echo)」というのがあったけれど、それはつまりそういうことなのだ、人は気魄で触れてつながり、かつ「何もしない」なら、the echo を受けて進んでいくのだ、何もむつかしいことはなくて、ただ思いがけないことが「マジだった」というだけだ。

横隔膜には、この世界の「マスター原盤」が入る。

それは記憶ではなくて、原盤のレコードなのだ/全身をレコードプレイヤーに見立てたとき、レコードプレイヤーがガタついていてはいけない(ポンコツかよ)、レコードプレイヤーはハイエンド機であってガタつかず、その中で原盤レコードだけがスーッと回り始めるといいのだ、それだけで人を何かの世界に連れて行くことができる。
頭の中には、いろんな理解(格・分割)と記憶が入るのだが、それはつまり、「解説! 尾崎豊のすべて」というような冊子が本棚に入るというだけであり、尾崎豊の原盤レコードが頭に入るわけではない、まあ目の前でやられたら一発でわかるので、気になる人はどうぞいらっしゃいませであり、説明はメンドクサ〜イのだった。
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WS報告004(3)/マストに帆が張られエコーに出会う

19時から始まったWSは午前4時に「まとめ」に入り、その後向かいのデニーズに行く、そこでおれは大量にメシを食いながら、食後にはコーヒーを飲んで引き続き学門を考究する、メンバーは半分ぐらいついてくる、これがいつものパターンだ。
今回は革新的な発見があって、基礎の理論とワークの品質が大幅に向上したので、そのことを記録しておきたい、時刻は午前9時を過ぎていた(マジメにやっているわけではない、マジメが始まったらこの世のオワリだ)。
マストに帆が張られエコーに出会う/「余韻法」と呼んでいた「余韻」というのは、the echo のことだと再定義すればすべての話がひとつにつながる、エコーというのはギリシャ神話に出てくる妖精の名を成り立ちにするのでもある、妖精エコーは半獣神パーンを置き去りにする(ググれ)。
全身をひとつなぎに"戻す"、なぜ"戻す"かというと、神話において妖精エコーは身体の節を「八つ裂き」にされてバラバラになったからだ、この節は音楽の節とも同義の語が当てられる、ひとつなぎに戻して何にするかというと、船のマスト(帆柱)となる、マストになって何をするかというと、帆(sail)にエコーを受けるのだ、この帆船はthe echoの力によって動く、この帆船は自力の動力によって動いてはいない。

今回の大発見、それはエコーを受ける帆(sail)が、つまり横隔膜だということだ、横隔膜はエコーについて、スピーカーであると同時にマイクでもある(そもそもマイクとスピーカーはまったく同じ構造のものだ)、そしてこの横隔膜というやつは、受けたエコーをそのまま「保存」するというレコードでもあるのだ。
何度も話すように、ノンフィクションとしての「気」「気魄」というものがある、この機能の中心(センター)は、どうやら胸の中央、胸郭の中央であるらしい(およそ両乳首の中点)、ここに全身がつながると、確かに「気」と呼ばれる現象が明らかに起こってくる。
この胸郭中央からの「気魄」で何をするかというと、「触れる」「つながる」、そして「何もしない」なのだ、何かをしてしまうと、ただ接触とつながりが切れてしまって、相手の気とぶつかってしまうだけになる/この、「触れるだけ、何もしない」、かつ「動く」というのが大問題だった、それはこれまで「気魄は触れるだけで、霊魂が抜け出して動く」と説明していたのだが(魂魄分離論)……
今回は、はっきりしたことがわかった、魂魄分離というのはつまり、胸の中央(心臓)から「つなぐだけ」「触れるだけ」とし、その状態を保ったまま、機能の中心(センター)を、数センチ下の横隔膜(の上面)に落とすことなのだ、そのとき「わたし」「あなた」だった関係は、突然ガス化してすべて世界とひとつながりになる(ガスは分離できない、これは「魂」の字義に整合する)、このとき「肉体」はふれあったまま相互に「何もせず」、しかし世界とひとつながりになって唯々「世界」を見る、つまりすべてが in the echo の状態になるのだ/この世界はからっぽではない、the echo がひしめいている。

action機能の完全統御と、echo機能の完全統御、ただそれだけだ。

ひょっとすると、東洋人は文化圏として「気」「気魄」に元々素養があり、西洋人は文化圏として the echo(魂・霊魂) に元々の素養があるのかもしれない、東洋の言語発声より西洋の言語発声のほうが明らかに横隔膜的に響くのは今さらながら見逃せないところだ、そして西洋にはけっきょく「気」そのものに該当する語はない(一方で、「九折さんのレクチャーは英語で言われないと入ってこない」と言われたこともこれまで複数ある)。
まあ何にせよ、発見されればシンプルなことに、アクションセンター心臓と、エコーセンター横隔膜の、正式な分離と統御が出来たらそれでいいということなのだった、そして本ワークショップの目的は、「言語がアクションセンターに入るとバグ状態になる」=「呪いになる」という、アホな状況をいいかげんやめようということなのだった、言語はエコーセンターに入ると「言葉」になり「世界」になる、どう見てもこちらがまともだろう、バグ状態も一種のパワーを持つには違いないが、バグっていることを前提に生きるのなんかどう考えてもムチャクチャに決まっているだろう。

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WS報告004(2)

ういえば、この話はぜひ聞け、おれはワークショップの始まるちょっと前、準備運動がわりに、棒きれを振り回して剣術の型稽古のようなことをしていたのだが、それを通りすがりに見ていられた老夫婦の方が、二人そろって「かっこいい」「かっこいい」と言って笑ってくださった。
「居合いですか」「あ、いや、居合いというのとちょっと違いますが」「いやあ、かっこいいです」と、わかるかお前ら、おれはかっこいいのである、だって実際見とれていたもんね、もちろんおれがやるからには剣道のようなアレとは違うのだ、もっと何かスゲー気配のやつだ。
まあ、あれぐらいご年配で、位の高い方々におかれては、物事の真贋というか、美醜というか、そういうものがわかるわけだな!! 目が利いていらっしゃるよ!! こういうときこそいろいろガンバってきてよかったとこころの底から確信するね。
わかるかお前ら、おれはかっこいいのである、何しろ老練のこころあるご夫婦の審美眼にかなったのだから間違いない、丸棒の木材を振り回していたのに、それが「剣」に見えたのは間違いないのだ、うーんもっとすげえワザを見せてさしあげてもよかったな!!

この報告記事は、つまり、おれがかっこいいということのみを報告している、お前らは深く納得しておれにラブレターを贈るように(女性限定)。
まあしかし、割と冗談でなく、集中した姿というのは、「ガンバっている」ではなく「かっこいい」に見えないといけない、しかも価値観としてかっこいいのではなく、実物そのものが「かっこいい」でないとダメだ。
繰り返して自慢すると、おれはスケートボードに乗っていたわけではないし、ヒップホップやラッパーな格好をしていたのでもなく、デニムを穿いたTシャツ姿で、丸棒の木材を振っていただけだ、しかしそれでかっこいいわけだから、これはもうかっこいいのだろう、こんなカネのかからない「かっこいい」はなかなかないぞ。
おれがそうして「かっこいい」と見とれられているとき、ちゃんと一人の参加者がその場面を見ていたから、これはおれのウソではないのだ、というわけでこの記事はとにかくおれの自慢である、お前らはハンカチを噛んでくやしがるように。

人を感動させたら、おれの勝利だ。

問答無用、それだけがおれの勝利で、それ以外は全部敗北だ、その他の価値観についてはおれは知らねー、おれは自分が評価されたいのじゃない、おれへの評価なんかどうでもいいが、おれはこの世界で感動を直接現成する確実な一人でありたい。
おれは、おれがかっこいいのがうれしいのじゃない、通りすがりの老夫婦に、かっこいいという感動をマジで与えられたのがうれしいだけだ、まあかっこわるいものが感動を与えることはありえないから、おれはこれからも永遠にかっこよくないとな!!

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WS報告004(1)
夜のワークショップは偉大な成果をあげた。
偉大な成果というと言い過ぎか、偉大な体験に到達はした、まあおれにとっちゃ毎日アタリマエの体験だがな、とにかく本ワークショップの目標到達点にみんな触れることはできた(触れただけだ、見せたのはおれだ)。
誰が到達できるねんこれ、というツッコミはごもっともだが、ひとまずそれに触れられたというだけでもスゲーことだ、正直期待してなかったんだが←、思ったよりみんな食らいついてきやがった。
「世界って本当にあるんだ」とか「世界って奥が深いっすね」というあたりの、ベタな感想は、ベタだが率直なところだと思う、そしてこれらのすべては、けっきょくラブな励ましのおかげなのだ、うーんやっぱりラブがいいよね、それも純愛だけじゃないラブがサイコーだぜ。

困ったことに、いやこれは本当に困ったことに、どうやらこのワークショップのやり方は正しいらしい、マジに正しいらしいので半ばゾッとしている。
なぜゾッとするかというと、正しいということは、もう引っ込みがつかないからだ、行くところまで行かねばならない、そういうパターンはいつもいやあああああなのだった(ちなみに帰宅したらこのとおり朝の七時半で、今夜もどうせ朝までワークショップなのだ、アホちゃうかこれ)。
あとは何だ、「本当に、一ミリもふわっふわされないんですね、本当に徹底してサイエンスなんですね」というあたりが、僕としては気分のいい話だ、そのとおり、おれはわけのわからんことはしたくない、マジのことアンド当たり前のことだけがやりたい。
何があったのか、もう話す気にもなれないが、一晩で到達できる最高点としては上々じゃないか、どうせ寝て起きたらまた忘れてやがるんだろうが、まあいいよ、本当にいい夜があった、おれの伝えたいことを伝えることはできた(誰も掴めてはいないもよう、そんな簡単に掴めてたまるか)。

「余韻」の先にはマジのやつがある。

理論、セオリーは、どうやらバッチリ正しいらしい、原則を精密にやればやるほど、やはりクリアな事象が出てくる、「言葉が世界」だとかうんたらかんたら、それがマジなのだから不思議なもんだ。
理論、セオリーというのはあれだ、気魄は「触れるだけ、何もしない」ということ、そして霊魂は「世界に連れて行く」という話だ、「やっぱソウルですよソウル」という話が、けっきょく一番有効で信憑性がある、だってソウルがないと感動しねえもんという、割と当たり前のことではあるのだった。
 
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WS報告003(3)

ゃんとレポートしないとな……
二日間で計36時間のワークショップを終え(えぇ……)、その後眠って起きると、身体が新しく確実な感覚を得ているのがわかる、まるで「身長が伸びたのか?」というような感覚だ/感覚が増えるということは身体のパーツが増えるということでもあるので、古い2DKの全身から新築の6LDKの全身に引っ越ししてきた、というような感覚が得られる、全身の充実感と確かさがまるで違うのだ。
身体を使い込むことで、身体はヘトヘト……にはまったくならず、むしろ細かいガタつきがなくなり、ワークショップ前よりも格段に軽く穏やかに、かつ静かになっている、そうして「使い込むことでラクになる」というのが、正しく使い込めている証拠だと僕は考えている。
僕はしんどい方向には決して進まない、極限にラクになる方向にしか進まない、何しろ「何もしない」ということに特化したワークで、「何もしないことによって最速で動く」ということなのだから、身体は極限のラクさに向かうのが当たり前だ、負荷をかけた運動で課される筋肉や関節の灼熱感というようなたぐいはまったくない、むしろそれらの炎症を徹底的にゼロにして最速を得るのが僕のワークの基本方針だ。

まあ、二日間で36時間も、全身の連結と切り外しを正式に行っていたら、当然そうなる。
僕は当然そうなるが、参加者の全員がそうなるわけではもちろんない、いきなりそうなれるなら何も人に教わる必要はないし、何より僕だって毎回驚いているのだ、「逆にこんなにラクになるのか、へえええ」と。
とりあえず、「身」を使い込まないことには、何も始まらない、だから基本として、まず自分の身が集中できることを探す/あまりにも「さっぱりわからん」ことには集中できないし、また何か感情的になったり心理的になったとしても、けっきょく「身」は何もしていないことが多いので、とにかく自分の「身」で集中できることを土台にする、具体的にはそういうふうに積み重ね始めるしかないのだ。
「ものっすごい集中して、ものっすごい丁寧にしたら、ちょっと出来る」ということを見つけて、そこに集中力と錬磨を注ぎ込むのだ、その蓄積の果てに毎日身体が変わっていく、昨日の身体と今日の身体がもう違うというのが「当たり前」という日々にしていくしかない、僕みたいな奴でも割とそこはありふれてマジメに考えるのだった。

昨日の僕より今日の僕のほうが、強くて速くて精密でラクだ、それが「当たり前」でなくてはいけない。

一方、スポーツや筋トレといったたぐいは、ピークを保っていないと、すぐスコアが落ちるじゃないか、僕のやっていることはそういうことではない、ピークを強化しているのではなく呪縛を取り去っていっているのだから、何かをキープするという必要はない/僕はステータスを強化しているのではなく、イグジスタンス(存在)を変化させているのだ、「永久脱毛すればその後がラク」というのと同じように、永久解呪したらその後がラクというだけで、こんなことはけっきょく、「思い切ってやっちゃおう」以外の何物でもない。
だからこれは、やはりフィジカルのワークではないのだ、右脳とか左脳とかいう捉え方は古いらしいが、仮にその右脳と左脳の回転と使い分けがおっそろしく速い人がありうるとしたら、それと同じように、魂魄(霊魂と気魄)の回転と使い分けがおっそろしく速い人になるまで根こそぎ鍛錬してやろうというだけだ、ただしそういったことは思念ではできないので(思念では霊魂も気魄も凝固していくだけだ)、具体的に身をもってやっていくしかない/シロウトがたこ焼きをひっくり返そうとすると、タコも小麦粉もグズグズになるが、名人がやるとパッと一瞬でひっくり返っていく、それと同じ速さの差が人間の全身と魂魄に起こるというだけだ。

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WS報告003(2)

、ワザ的なものに興味はないのだ、ワザ的に捉えると、「出来ているか・出来ていないか」の判別がしやすく、またその修練で己の身が「練られる」のでグッドというだけで、ワザそのものに重きはない、ワザは単なる方便だ(競技者や職業人は除く)。
で、何から話したらいいものやら、けっきょく「言葉」というのは人に向けてよいものではないのだ、言葉は「世界」に向けるものだ、僕がこうして人に届けているのも、実体は言葉でなく世界だということになる。
まあもともと「言葉」イコール「世界」だと唱えているのだから、今さら同意義の循環ではあるが、今回はいよいよそのことが明確に発見されて、こうして書き話すことと、音声で話すことの、統合が得られるということが起こった、僕は「世界」を提供しているということなのだ/実際、僕がえんえん何かを話しているのだが、僕に何かを「言われた」という人はほとんどないはずだ、僕はずーっと「話している」のに、「人には何も言っていない」となる、それはひたすら「世界」を届けているからであって、言語の使い道がまったく違うということになる。
今、多くの人が、なぜか僕に向けて「食事代ぐらい出させてください!!」となっているのだが、これは何が起こっているのかというと、別に僕がエライわけではなく、これは「祝祭」の手続きなのだ、「呪い」の反対に「祝祭」があって、何か直観的にその祝祭の方向へ「参加させてくれ!!」ということが起こっているということ、ただそれだけにすぎない。

今回起こったのは、「呪い」の手続きを見ることで、逆に「祝祭」の手続きが見えてきたということだ、といってもそんなワークをしているわけではない、ワークをしているうちに背後の原理が見えてきたということ(ワークそのものは泣きたいぐらい具体的です)。
人のタマシイには魂魄(こんぱく)という二種類があり、魂はフィクション担当で魄はノンフィクション担当なのだが、この魂魄に関わる営為を「合っている」方向でやるとそれは祝祭になり、「反対でっせ」の方向でやるとそれは呪いになる。
簡単に言うと、「血」を神殿に捧げ、「詞」を人に向けると、それは呪いになるのだ、そりゃそんなことしたら呪いになるだろうよ/本来の正方向は、「神殿に祝詞が捧げられ、人に御神酒が下される」のだが、その逆方向が呪いになる、だから「血筋をあがめて人に詞をぶつけまくる」とかをやれば、呪いはガンガン掛かることになる、そして呪いはその性質上、祝祭と同じだけの力を持っている、祝祭の解放力と呪いの呪縛力は強度において同等だ。
「言葉」をどうすればよいか? たとえばオゾン(O3)は、天空で層をなすことで、われわれを守ってくれているのだが、このオゾンが直接体内に入ると、オゾンは人体にとっては猛毒なのだ、それと同じで、言葉は天に向けられるとき正方向で祝祭となるが、言葉は体内に入り込むと猛毒になる、そのことをわれわれは「呪い」と呼んでいる/一方、血は体内にあると生命だが、血を「世界」に流出させると、やはり「呪い」になる、正しい方向は逆だ、「血肉を為す気魄を人に向け」「言葉を世界に捧げる」が正方向だ、これを逆転して「詞を人に向け」「血肉を世界に捧げる」とするとゴリゴリに呪い方向へ進んでいってしまう。

[祝祭:世界に言葉が流れており、人々が血肉を為し合う]/[呪い:世界に血が流れており、人々が詞を為し合う]

これが祝祭と呪いのメカニズムだ、だから、人々が血肉を為し合えば、世界に言葉が流れ始めるし、人々が詞を為し合えば、世界に血が流れ始める/「食事代ぐらい出させてください!!」ということが起こっているのは、そうして「血肉を為し合う」ことに参加することで、祝祭に参加することになり、言葉が流れ始めた世界に参加できるからだ、その逆方向は、やれ陽キャだのセクハラだの「詞を為し合う」ことに、「おれにも言わせろ」と参加すると、呪いに参加することになり、血が流れ始めた世界に参加することになる。
魂魄を入れ違えに営為させると呪いになり、正方向(というか順方向)に営為させると祝祭になるわけだ/「飲めや歌え」という言い方があるが、これは「気魄が酒を飲み、霊魂が歌い出す」のが祝祭だということであって、逆方向に、「気魄が演説しだし、霊魂が酒を飲み始める」と、これは呪いの宴になってしまう(うーんこれってワークショップの報告になってねえな)。

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WS報告003(1)

ークショップで得られる知見のことを、書き出すと膨大になりすぎる。
そもそも、ワークショップ関連ネタは、読み手にウケているのだろうか、ウケていないのだろうか……もしワークショップ関連のネタがもっと聞きたいよ〜という人がいたら、その人は横カラムの拍手ボタンから「WS関連ネタ希望!」とでも送っておいてくれ。
「伸ばすとつながる」「金魚法」「余韻法」「命令法」というように、シンプルで質のいいワークが形になってきた、命令法というのは本質的に「関係法」でもあるが、このことはまた説明しないとな。
「余韻法」は、やはり大いにウケたな、フィクションに入る方法として、マジに「具体的」なやつだ、ただ方法が超シンプルだとして、シンプルがイコール簡単というわけではない、まあそこはみんな全力で苦しみましょー。

追究していくと、すべては「アクション」と「余韻」のどちらかに分かれる。
そして、われわれの魂魄[こんぱく]のうち、(気)魄はアクション、(霊)魂は余韻に属する、というだけだ。
そこから、われわれが高性能かつまともになろうとするとき、つまり気魄は「触れるだけ」「他者に何もしない」を徹底すればよく、そのぶん霊魂は「やりたい放題」「自分も他者も一緒くたに連れていく」に到達すればよい。
手のひらを打ち鳴らすのが「アクション」で、パーンと打ち鳴らされた直後から生じているのが「余韻」だ、自分の全身がアクション側から余韻側へスルッと脱け出るかどうかの問題で、スルッと脱け出たとき、その人はキャラから脱け出しており、そのときその人の魂が見える。

気で留めて、霊でブッコ抜く。

これがバッッッチリ決まると、たとえば手首をひょいと捻られただけでも、人がスッテーンとひっくり返ることが実際にある、人はいつも自動的に、スッテーンと転ばないように「気をつける」という状態でいるのだが、このワザに掛かったときは、何しろ気のほうは「留まっている」ままなので、気をつけるといっても気をつけようがないのだ、気のほうは「大丈夫」という気がしたままスッテーンとひっくり返ってしまう、「大丈夫」のまま肉の座標だけが変わってしまうため、もうそのときには今さら「気をつけて」もすでに手遅れになる。
ということを、どうも僕は出来ているくさいが、他の誰かが出来ているわけではない、そりゃこんなヘンタイワザがそうそう余人に出来てたまるかよ、ただわれわれは何にガンバればいいのか、われわれが追究すべきは何なのか、その糸口を垂らしているだけだ、それをどれだけ上れるかなんて人と比べっこしなくていい(ただ糸口がないとか糸口が間違っているというのは単純に損だと思う)。

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WS報告002(1)
ソみてーな話だが、本当のことを報告するしかない、フラフラなので話をこねくりまわす余裕がない。
まったくウソみたいな、合気道の高等技術が出来てしまった、これってアレでしょ、いわゆる気は接触しているのに(合気)、身はそこにはないってことでしょ/飛びかかってきた人がすっころんだりポーンと飛ばされたりして「ヤラセだろ」と見えるアレのことだ、マジでコンクリートの上では危なくて制限しないといけないぐらいポンポンできた。
僕は合気という捉え方はしないが、ノンフィクション・実感・接触の「気魄」は接触しているのに、フィクション・身・魂のほうは、ひょいっと抜けちゃうんだな、すると相手は「接触しているのに相手の身がない」ので、幻覚の手すりを掴んだみたいに「うおっ」と空振りしてしまう。
これ、考えようによっては本当に危ないぜ、逆にいうと、安全確認をしてから踏み出したのに「ガシャーン!」となって、「はあ?」みたいな感じだ、安全確認をしていなければ危険を予想するが、安全確認をしているだけ人は安心して踏み出してしまう、それで「ガシャーン」では本当に「はあ?」としか言えない。

来てくれた方へのワークとしては、後半、それは「金魚法」と呼んでよいものになった、これはとっっっっても有益だった。
つまり、「水槽の金魚は、どうして金魚同士でぶつからないのだろう」ということだが、「ぶつからない」「切る(外す)」ということをきちんとやっていくと、実際全員が認めるところ「ホントだ、金魚だわコレ」という状態になる。
合気道の天才だった塩田剛三が、金魚鉢の金魚を観察して合気道の動きを研究したという逸話があるが、この逸話は知られていても、人間の挙動が金魚化するというのは具体的にどういうことか知られていないだろう、これはちゃんとやるとシロウトでもできるのだ、もちろんストレスの高くない稽古レベルに条件は限定されるが、この糸口が掴めただけでもこりゃとんでもない神回だったと言っていい。
なぜ水槽で金魚同士がぶつからないかというと、金魚は「解放」のほうへパッと外れるからだ、金魚にはもともと呪縛がないので当たり前にそうなる、人間も呪縛がないと同じ動きになるのだ、こりゃなかなかシンプルでえげつなく有益だから誰かたまにはおれのことを褒めるように。

魂魄/気魄がつながるとき魂は世界から切れ、気魄から切れるとき魂は世界とつながる。

ちょっと、こんな短い話では伝わらないと思うが、逆に「ノンフィクションには実体がない」のだ、われわれは身をもってノンフィクションに関わるときの「気」を「魄」として、それをノンフィクションの「実感」にしているだけだ、身の実体である「肉」のほうは、実はフィクションの媒体なのだ/だから操作を分離していくと、「肉」の場所と「実感」の場所をずらすことができる、人は「実感」のところに触れに行こうとするので、そのとき「肉」に触れることができない(肉はフィクション世界の動きのほうへすでに溶けて出て行ってしまっている)。
そして、「実感」の位置を「肉」の位置とずらす、ということについては、その道の達人がいるかもしれないが、そのとき「肉」のほうが「世界」(というか、森羅万象からの「言葉」)とつながりうる、ということについては、教えようとするシステムはなかっただろう、うーんもちろん、こんな話を理屈で聞かされたってわけがわからないのだった、ただ僕が向かおうとする先はそちら森羅万象からの「言葉」(もしくは言葉の素)であって、合気道的なものにはまったく興味はないのだった(ただスゲーことが出来るとやっぱり盛り上がるのではあった)/「時間軸上ズレる」という言い方を僕はよくするが、まさかそのズレた二点を同時に出力できるとは思っていなかった。
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WS報告001(1)
ラッフラだがレポートしないわけにもいかない。
WS(ワークショップ)第一回目は、少人数だが、大成功を収めた、これは大成功と言っていい/これまでの蓄積が大きく生きた感じだ。
参加してくれた方々には、自覚はないかもしれないけれど、実は長足の進歩が起こっているのだ、すばらしいことの入口に立てたと思っていい。
やはり「呪い」ということまで学門が進んで、これがアタリだったのだ、学門が正しく深くなるほど、ワークはシンプルになり効率的になる、僕はそういうことの先生が本分ではないが、こういうことの先生は世の中ウジャウジャいたらいいのにと思う(ただしニセモノはだめだ)。

「止まらないこと」「切ること」「切らないと動けないということ」「何もしないということ」「偏らないこと」「何もしないということは、偏らないということ」。
身体の動かし方の、ルールを知るのじゃない、これは絶っっっ対に違う、ルールに呪縛されている身体を、ルールから解放して動かすのだ、そのための訓練であり蓄積だということ、意外にこのことでぐっと理解が進んだようだ。
「ルールは呪いだ」、呪いを解除するということは、身体をルールから解き放つということであって、身体にルールを教えるということじゃない、偏らなければ呪いは薄まる、「何もしない」なら呪いが出る余地はない/「何かした」なら、己も相手も呪いがグッと力を盛り返す、そのとき動きは止まる。
ちょっと調子に乗りすぎて、この年齢になってコンクリートの上で受け身を取ることになるとは思わなかった、擦り傷なんかできたのは何年ぶりだろう、うーんホントはジーパンなんか穿いてやるものじゃないんだろうな。

「ボクサーの人って、初対面の人をいきなり殴るんだぜ? 頭おかしーだろ?」というと、みんな大爆笑していた。

でもそれが、「ルール」なのだ、「ラウンド1、ファイッ」とゴングを鳴らされると、人は「おっ始めて」しまうのだ、初対面なのに何の躊躇もなく/これが呪いだ、人は「ルールを守ってボクシングをする」のではなく、ボクシングという「ルール」そのものをやっている、すべての「ルール」は呪いで出来ている。
なぜルールが必要とされるかというと、人は学門を与えられないかぎり、「偏り」を消せないからだ、偏りさえ消せればおのずとルールは不要になり、呪いのピン留めも廃棄される/僕は動き方を教えているのではなく、「偏りのなさ」を教えている、何かのやり方ではなく、「何もしないやり方」を教えている、今回は本当に大成功だった。
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業務連絡(ワークショップ)
日6月23日(土)のワークショップは、19時〜20.5時を世田谷公園、21時〜を三軒茶屋レンタルスタジオ「マイレッスン」で行います→アクセスはこのリンクご参照三軒茶屋スタジオだぞ間違えるなよ)/雨が降りそうなのでしょーがない、スタジオ借りちゃいますよ。
えーとそれで、今日は誰が来るんだっけ、やじーとゆうさくだろ、あと誰だ、金曜日のメンバーも来るんだろうが、もう誰が来るかなんて覚えてられねーよ、まあこの業務連絡を見てみんな会場にたどり着くだろうと信じておくことにする。
今回のワークショップは、方向性としては大アタリですよ、基礎から第一のゴールまで、「何ができなきゃいけないか」「どこが根本的に違うか」が、明瞭に浮き彫りになったよ、昨日金曜日も朝まで盛り上がった/11時間ほぼぶっとおしでやっていられるというのは何かヘンな魔法でも掛かっていたのか。
それにしても、ワークショップといって、教え役がいきなり初日からこんなフラッフラになるものなのか? まあ新次元に到達するためにはいつもこういうふうにするしかないのだが、このまま眠ったら起きてすぐワークショップじゃんという逼迫具合には、講師役である僕が一番ビビっているのだった、目がチカチカしているがちゃんと起きられるのかねこれ。

ノンフィクションは「つなぐ」、フィクションは「切る」、これを同時にやれないといけない。
ただそれだけのことだということがはっきりわかった、そしてヨソ様のちゃんとしたワークショップは、およそ「フィクション」のことを直接は取り扱わない/ここは今世紀屈指のバカである僕の役割だ、マジメなワークショップの先生はこんなアホなことやっていられないだろう。
二年前のワークショップのときより、僕自身は段違いにレベルアップしていたし、もともとの技術レベルがそんなに低くないということも、参加者の方はわかってくれただろう、割とちゃんとやってまっせ、技術はまともだが精神がアホだというだけだ、それはアホにしかできないことがあるのでしょうがない。
自分の全身は「伸ばす」ことでつなぐ、他人の身体とは「向き合う」「触れる」でつなぐ、ところで「触れる」であんなにつながるとは思わなかっただろ? でもあれが基本になるからヨロシク/こうして「つなぐ」「つながる」のほうはあちこちのワークショップでやっている、僕のワークショップはそのつながりの中でどうやって「Yeahhhhh」とソウルを露出させるかということだ、このソウルが呪いを打ち払うし、このソウルが「こいつ」という魂をこの世界に存在させる、そのとき「切る」「フィクション」がどう作用し、どう出現しているか? こんなことに冗談のような、しかし明確なテクノロジーの暴露がある、参加者の一人が「本当に、神秘主義ではないのですね」と呆れたように言っていた、そのとおり僕は提示する学門の準備が整ったからこのワークショップを開講した。

少なくとも僕は新次元に到達してやる。

僕が「ワークショップ」なんて余計なことをやるとして、唯一の正当な理由はそれだ、参加者たちなんかオマケでしかない、誰よりおれが新次元に到達してやる、テッテー的にレベルアップしてやんよ、フィクションとノンフィクションの境目、虚実皮膜を洗練とフル出力で強化してやる、教え役はもちろんちゃんとやるが、それ以上に僕はぶっちぎり役でないと面白くない。
一番見た目にもわかりやすい「つなぐ・切る」は、肘から先だろう、全身をつないで片腕の肘から先だけを「切る」、そしてそこを「切る」ということは、「肘から先はあの世に放っちまえ」ということだ、実際そう指導したし、身体を通して「存在」するそのイグジスタンスが、事象平原の向こう側にいかないと面白くない/われわれは、マジメなことは他人にやらせて、自分たちは究極の自由時間を得て叫ぶのだ、その厚かましい精神において、僕はぶっちぎり役でなければならない、自由時間以外に愛や芸術が出現しうる時間はないのだ、その自由時間の作り方には身体的なテクノロジーがある。
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コラム[No.380] Hey, yo, 現代の呪いを知っているかい?(上)

掲題のコラム、本サイトにアップしました。



No.380 Hey, yo, 現代の呪いを知っているかい?(上)


―― 彼女は呪われないかぎり、そこを自分の「居場所」とは感じられない


どうぞよろしく。九折

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パーティ報告81(6)

と、何だっけ、そうそう、「不安」じゃなくて「賭け」なんだ、という記事が、割とウケていたようだ。
それにしても、つくづく思うが、よくまあみんなこんなわけのわからんブログを、熱心に読んでくれているものだな……しかも割とちゃんと理解しているのだからスゴいと思う(ただしちゃんと「出来ている」とは言わんぞオイ)。
まあだから、こんなわけのわからんブログを読んでくれているプリプリのプリティーちゃんは、またぜひパーティにいらっしゃいねと思うのだった/身近な友人といくらでもこういう話ができるなら、まあこんなパーティは必要ないのかもしれないけれど。
ヴェジ青年はなぜかゴキを見るとコンマ五秒で踏み潰す男らしいし、朴訥そうな趣で急に致命的な地雷発言を同僚女性にブチ込むらしいので(「意外にシワがありますね」等←致命傷もいいとこ)、まあ脳にブラックメタルでも流れ込んでしまったのだろうか/そんなわけで、われわれごときが物事に「有意義」など期待してはいけないのだった。

ガイル青年はどーも、このところ逆に「童貞マインドに覚醒する」というイカレポンチな方向へ出航している気配があるが、それもまた出航かもしれんな、まあしかし彼はとても能力の高い男だ(ただしマインドは童貞)。
ニセハーバード青年は、忍者の術にあこがれを燃やしており、意欲は高く意識は明瞭だが、キャラと忍者志向がえらい真逆でそれはいいのかと思うが、まあいいのだろう、何か毎回幸せそうだし。
餃子カルマ女子大生も、ひとまずキツいアルバイトが千秋楽を迎えたので、これからは遊びに来やすくなるかな、ただし就職活動が無事に満了したらだけどな、しかしこいつもよくよく考えたらせっかくのブランド女子大と真逆のライフスタイルを採ったナゾの奴ではある。
こうして考えると、ウチのパーティには、「お上品型」と「なんやこいつ型」の二つの参加者があるということなのだろうか、確かに表面的にはそう見える/だがけっきょく本質的には全員が「なんやこいつ型」なのだろうな、うーんまったく正常なのはおれだけじゃないか、いっそ転向してギャグ集団になってもいいんじゃないのかと思わされる今日このごろなのだった。

自分で言うのもアホみたいだが、このパーティは案外おもしろいのかもしれない。

なんとなくそんな気がしてきた、まあ気の迷いかもしれないが/しかし少なくとも、一般的なホームパーティや異業種交流会等だったら、19時から朝の5時までやっていられないものな、第一もし退屈なものだったとしたら、僕自身がソッコーで辞めていただろうから、何かしらおもしろさはあるのだ(多分)。
乾杯前、僕は、「今日はおれ、乾杯の音頭で、ヘンな声出すからな」と宣言し、まったく無意味に自分でハードルを上げてみたのだった、その中でハイボールのグラスは運ばれてきて、時は迫る……!/どういう理由でそのようなことをしたかというと、理由はびっっっくりするぐらい何もないのだ、それでも乾杯の音頭でスベらなかったのだから、どうだ!!! と自慢したいのではある、こんなアホなことを報告しているのがアホなのじゃないかという気が改めてしてくるが、ありのままそう報告するしかしゃーない、こんなパーティに来月は、あなたもぜひいらっしゃいね〜(←来づらい)。

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パーティ報告81(5)
五時になるとCLIMBが閉店になるので、その後はいつも渋谷のファミレスに行く(みんな腹が減っているのだ)。
そして僕はいつも、そこで朝五時半からステーキ肉を食うのだが、肉食によってパーティで使い切った霊力を恢復すると、たいてい新しい身体状態が得られる、それは成長というより何かが「進んでいる」という現象だ。
肉の霊化が前進して、また何か新しい奴になるということだ、結果的に毎回そうなっている、今回は「横隔膜から直接音が出る」というナゾの現象が獲得された/本当に、胴体がオーディオスピーカーみたいになり、それがあまりに奇異なので、みんなで腹を抱えて笑った。
忘れないようにメモしておくと、解剖学的に正確な位置の横隔膜が、「声帯と接続している」ということが得られたのだ、僕は自分自身がスピーカーになり、その音を自分でさえ「聴いている」という、聴く側の感覚になった、声にせよ音にせよ音楽にせよ、それは僕の内側から出るものではない、横隔膜の周辺外部から僕の内側に入力されるものだ、わけのわからん話だがこのようにメモしておくしか実際ない。

時間を実数単位に取ったとき、距離は虚数単位ということを前提にして、僕は音楽を聴いたとき、「ゼロ距離」で聴いているということが判明した、ゼロ距離(正しくは虚距離で、距離自体が観測しえない)で聴いたとき、それは肉に直接干渉していて、肉に宿った霊となる/もはや説明する気もないが、正しく表記するならこう書いておくしかない。
ここに詳しくは書けないが、僕はこのところ、「みんな『記憶』はするのに、肉に(霊的に)宿らない」という現象に、ナゾを見て問題視している、人はけっきょく記憶したものなんか使えないし、表面上使えたとしてもそれは「自分のものではない」のだ/このナゾを解く手かがりに、僕自身がゼロ距離(虚距離)で体験しているという発見が得られたのは有益だ。
ある人が、肉に霊が宿らないということについて、「気づきました。上からエラソーに取捨選択しています。いいものがあったら宿らせようなどと考えていて、それは意識で選別しているものですから、ワンクッションあって、そのワンクッションに阻害され、もう肉には宿らないのです」とレポートしてくれた、このレポートは正確でいいところを突いていると思う。
つまり、そのレベルでの「吸収」、肉に霊が宿るというレベルの吸収と獲得は、「いいものであれ悪いものであれ」という次元でしか吸収できないということだ、好き嫌いで食べ分けることが許されない世界で、毒にさえ打ち克つことが必要な世界だが、これはちょっとシリアスな次元になるな、まあしかしこういうときこそ単純な明るさが必要なのだった、なんであれ上手くいきゃあ勝ちなのよ。

物語があるということは、距離がないということ。

「物語があるということは、距離がないということ」、この一文は、金言と呼んでよいだけの叡智に満ちている、この点に関してだけは、僕は誰よりも上手くやれているようだ/距離世界は時間だけが流れてゆき、物語世界は永遠にみたされているが、これは割と当たり前のことであって、別に感動的なことではない、僕がよく言う「世界」が得られるとき、「わたし」と「世界」のあいだに距離はない。
「蓋(ふた)」がされるので、そんなに簡単に霊は宿らないな/煩悩の炎、因果の業火で焼かれているから入らない/距離(空間)は世界の実在ではなくて「認識」だ/われわれが「識」の業に盛(さか)る前、つまり五歳未満ぐらいまで、誰しも「世界」と「わたし」に距離はなかった、だから霊的な存在性を持ち得た/「わたし」の「それ」は「わたしの一部」でなくてはならない、一ページでも抜けてよい小説はない。
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パーティ報告81(4)

も近くなり、ふと僕はこのごろの疑問を言ってみた。
「なぜだろうな? おれは気づくと、毎日何か、ずーっと『限界に挑戦』しているような気がする、最近になってようやくわかったんだが、このこと自体が珍しい奴なんだよな? おれは」
今ごろ気づいたのか、と慨嘆される気配もあったが、「まさにそこなんですよ」と応える声もあった。
「誰かについていくために、とか、チームについていくために、とかなら、まだわかる気がするんです。でもそれと違って、何もないところから、自分で自分を追い込むというようなことは、ちょっと見当がつかないんです。ここにいる誰も、あなたのようにそれはできません」

さすがに僕も、最近は賢くなったので、メシを食うのも限界に挑戦、酒を飲むのも限界に挑戦、というのは控えるようになった。
「おれも最近は、賢くなったからさ、今このときもかなり手加減していて……でもやっぱり、今このときからでも全部ひっくり返してやりたいっていう衝動があるな、おれ正直、まだまだフル出力できるもの」、僕がフハハハと笑うと、「この時間になると、あなたらしくなりますね」と誰かが言った。
「おれは毎日、自分を使い切りたい。もうピクリとも動けませんってなって、そのあと、新しいエネルギーが補充されていくのが好きだ。またどこかで、そうしないと新しい力なんか得られないって、どこかで知っているのもある」
「八百屋のおっちゃんや、魚屋のおっちゃんは、強い声をしているだろう? それは毎日、声を使いまくったからだ。ハートも同じだ。毎日、使えるだけ使いまくってやらないと、強くなんかならない」/僕は「おれは、何にもならない日々を過ごすのが怖いんだろうな」と話した。

「エネルギーを使い切る。使い切って、なお動こうとするから、この世界の何でもから、エネルギーを引っ張ってこようとする」

「スラムダンクとか読んだら感動するじゃない? 三井寿は、『赤木がスクリーンかけてくれる』『外しても桜木がリバウンド取ってくれる』と信じて、チカチカの目で全身全霊のシュートを打つんだよ。そういう極限状態で為し遂げたことしか、自分の魂にまでは入ってこない」
「そこまでやらないのは、本能的に、自分の身を守ろうとしているんですかね」と誰かが言った、それはそうかもしれなかった、ただ僕にはよくわからなかった、僕はたぶん努力も本能もよくわかっていない。

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パーティ報告81(3)
「根こそぎふざける」ということが話題に上った。
僕にとっては簡単なこのことが、他のすべての人にとっては至難というか、それ以前に「不能」であるらしい。
ある男性が「同時代に生きているというのがいいですよね」と言ったので、僕は「同時代ね」と言った。
彼が「その、同時代というのはですね」と続けたので、僕は「同時代、ドウジダーイ」と続けた、それは次第にドゥージ・ダイになってゆき、Do-thee-Die! Do-thee-Die! となっていってしまったので、彼が話そうとした何かは原宿の藻屑となり消えていったのだった。

「根こそぎふざける」というのは、どういうことかというと、たとえば僕の場合、根こそぎふざけるなんてしたことないし、そんなことは僕には不可能です、ということだ。
何しろ僕は、謹厳実直の権化であって、隙あらば女の子の服に手を突っ込むとか、そういうことはしたことがないのだ、もはや僕などは岩波文庫の本棚が歩いているようなものだと思ってもらえればいい。
短いスカートで僕に会いに来る女性などに対しては、まったくけしからんと感じ、そうした女性にはお仕置きをすることしか考えていないほど、僕は清廉潔白のダイナマイトだが、それはさておき、すべての人が根本的に「根こそぎふざける」ということを不能にしているという実態が改めてわかった。
「根こそぎふざける」ということが不能化しているということは、けっきょくフィクションとノンフィクションの境目を正しく把握していないということだ/「マジメぶる」という安全圏内に居座ったまま、他人と世界の関わりを見物しようと決め込んでいる、それは実は相当に悪辣な態度なのだった、少なくともその身分はシャウエッセンより下だ(ただし美人は除く)。

「根こそぎふざける」ができない人は、裏返った世界を生きている。

これはマジな話、キミの生きている世界はビミョーに世界じゃないよ、ということがあるのだった、何しろ僕はモテモテであるが、そのことはただ言いたかっただけで、この文脈はまったくつながっていない。
裏返った先に、本当の世界があるらしいということを、ホエホエ感じておらずに、さっさと学門を修めるのがよろしい、ただし美人は除く(ただしおれに懐かない美人は何なんだ、何をしに生まれてきたか)。
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