☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ブラウスコットンスカートガール
んか突然だけど、明るいのがいいやな。
ずっと昔の話になるけれど、むかし、あいさつ代わりにセックスでも、というようなことが本当にあったな。
何か知らないが、とにかくもうおっかしくてしょうがなくて、何かもうエロいのか何なのか、もう笑って笑ってしょうがないということがあった。
初対面なのにな、腰振りながら「ど、どっからきたの?」みたいな感じで、ひゃっひゃっひゃっひゃで、そのときは明らかに、初対面なのにいきなりこんなに笑えるということのほうがはるかにうれしかったんだ。

何か、あの時代は、まだみんながオタッキーではなかった。
「天然」とか、そういうのもまだなかった、そんなヘンチクリンな性質の奴はいなかったぞ。
何かあのときは、まだ誰も、怒ってなかった、だから誰も、強気なんかじゃなかった/たぶん強気になる必要がなかった。
たぶん、笑うのにアゴが忙しくて、何をしゃべっていたものやら覚えていない、たぶん会話というほどの会話はしてないんだ、そんなこともむかしあったよ。

誰もアニメのキメゼリフなんか言わなかった。

アニメのキメゼリフとかを覚えているのは、むしろオッサンやオバサンが多かったように記憶している、「年寄りってそういう断片的な覚え方するんだなあ」と、当時の僕は不思議がったのを覚えている。
こんなことを今さら話しても意味ないのかもしれないが、まあ僕は記憶が消えないヘンな奴なので……たぶんあのときは、何もエロくなかったよ、セックスはすごくスムーズだったが、あの当時に「エロい」とか言っていたらたぶんビョーキか何かだった、色香はまるで街の一部みたいなものだった。
 
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りょー☆じょく
ちろん僕には、世界中のすべての女性をりょーじょくする権利が……
あればいいのになあ、と思うし、それぐらいの権利がなければ、僕として生きていることに何の値打ちもなくて、僕はタマネギだけを食って下痢になって死んでいくだろう。
そしてもちろん、同様に、すべての女性は、僕にりょーじょくされるために、その身体を捧げる義務が……
それについては、義務というより、そうして幸福を享受する権利が誰にでもある、ということにしておこう、そうでない奴はもうタマネギだけ食って下痢をして正露丸メーカーに勤めるしかない、誰だって服を脱げば裸になる。

別に僕がどうであっても、僕が直接誰かと揉めることはまずないのであって、揉めるとしたら僕の知らんどこかで誰かが揉めるのである、ということは僕は無罪なのでシャトーブリアンを食っていてよいのだ。
まあほんのちょっとだけマジメな話をすると、僕がりょーじょくしないとなったら、「それじゃわたしが生きている価値がないわ」というぐらいの女性は当然いるのであって、そういう女性が最低二億人ぐらいはいないと、この世界の人々は目覚めていないと言えるだろう。
むろん他の男性に、女性をりょーじょくする権利はないが、それは男性がガンバるからであって、ガンバって興奮する男性にあれこれされるなど女性がよろこぶわけがないのだ/そんなことしていたら女性が進めないので。
もしわずかでも僕が、女性をりょーじょくすることにキョーミがあったとしたら、そのとたん僕のりょーじょく権は剥奪されるだろう、その点は安心してもらってよいが、僕はあなたをりょーじょくしたところで、そのことについて何も思わず、「壬生菜の漬物が食いたい、その点については京都最強」というようなことを考えているだろう、だからあなたが汚損されることは一ミリもない。

エロマンガに空想されているものは、りょーじょくではなくただの「大騒ぎ」だ。

それはエロマンガだからそれでいいのだが、そういったことを実際に実行させられるとしたら、たまったものではない、そんなベッド上で劇団チックなことさせられてたまるかよ、映画を観るときのポップコーンのように、あっていいだろということで僕による女性へのりょーじょくは存在する。
ポップコーンの存在が肯定されるためには、よい映画が存在することが前提だ、そしてポップコーンに夢中になる奴は映画館から出て行けアホか、ということになる、たかがこの基本のりょーじょくのことであれこれ問われると、「男か、もしくは女なら、誰だってわかるだろ」と答えたくなる、まあそのあたりはめんどうくさくなるので、僕は万物の間違いであると自称してトンズラを決め込むのであった。
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「女の身体」の使い方3

から話すことは、「ありえない」ことだ、そのつもりで聞いてもらえるとありがたい。
「どうしても、あなたの汚れ物が洗濯したいの、お願いだからそういうのあったらちょうだい」と言う女がいた。
ベッドインする前にシャワーを浴びようとすると、「え? あのさ、それをきれいにするのが、わたしの仕事なんだけど」と引き留める女がいた。
「四日間フロ入ってねえよ」と言うと、「は? 一か月入ってなくても、わたし口できれいにする自信あるんだけど」とその女は言った、まるで「わたしのことナメないで」と怒る眼差しがそこにはあった。

「あなたにおいしいものを食べさせること以上の幸せはないの、それがあって本当によかったって思うの」と言う女がいた、「あなたさえ生きていてくれたらそれでいいって、あるとき気づいたの」と彼女は言った。
女性の部屋にいて、煙草を吸いにベランダに出ようとすると、袖を掴まれて「ここで吸ってよ」と、本気で泣かれたことがある。
……これらのことは、「ありえない」と断定するべきだし、それを誇っていい、また、今どきこんなことを要求する男がもしいたら、そんなのは真性のクズかつスーパー勘違いマンで石を投げておけば間違いない、男なんか「マナー」だけ守ってりゃいい/それ以外は「ありえない」が正しい。
ただ、「ありえない」といっても、過去には事実として「ありえた」わけだから、そこは過去形で「ありえた」ことだけは認めるしかない、そこにどんな心理があっても学門は曲げてはいけない。

男は生まれつき幸福で、女は生まれつき不幸だ/だが男は後天的に不幸になることがあり、女は後天的に幸福になることがある。

たぶん現代の文化の中で、言いえるのはここまでが精一杯だ、僕だって現代で、女性の尊厳を擁護するために、女性の不幸拡大に助力せねばならない、「生まれつき不幸とかあるわけないだろ」/うーん、本当にここまでが現代のジョーシキの中で精一杯だ、これ以上は言えない、尊厳を擁護されて文句を言う女は普通おらんわな……。
と、現在も多く「ありえない」中を生きている僕が言うのは、万事に説得力がないのだが、まあこんな奇人は数少ないから安心していい、あなたの味方は必ず僕の反対を言うから何も不安になることはない/何しろ僕のほうは盤石の確信があるわけじゃないんだ、こんな奴に味方が多くいてたまるかよ。
 

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「女の身体」の使い方2
観の鋭い女性にはこう言えばわかるかもしれない。
大前提、「女の身体はきれいじゃない」と切り替えてみる、そうすると、いくつもの謎や違和感や、不具合が解消されてくる。
この「きれいじゃないもの」に目の色を失い、やたら突っ込んでくる男どもが、根本的に不気味で不可解だ、ということにも整合がつく。
また、この「きれいじゃない身体」をもって生かされていることに、生まれつきの苦しさと憂鬱がある、ということにも整合がつく/「女の身体はきれいじゃない」と前提したほうが、実は事実の奥底と整合する。

蠱惑的であることと、「きれい」ということは違うのだ、男どもは死ぬほどセックスがしたいので、自分にとって「そそる」成分ばかりを「きれいだ、かわいい」と言う。
そして……この蠱惑的というときの「蠱」というのは、呪術に使う「虫」のことなのだ、「虫」は「感受性」の世界であり、地獄の道のものだと以前に話したことがあると思う、蠱惑的とは虫の現象であって本当には「きれい」でも何でもない。
つまり、女の身体そのものが、本質的には「花」ではなく「虫」のほうだといえる、男どもはその呪術(蠱物:まじもの、という)にアッサリ掛かるので、女の身体に目の色を失って突っ込んでくる、それはおぞましく見えるし、飲み込まれれば蠱惑的でもある/それが本当のところの真実だ。
女は自分の身体について、それを蠱物(まじもの)として強化していくか、それとも気づいて浄化のほうに進めるか、選ばされている、蠱物としての女の身体を育てていくと、その間は「感受性」が甘露をもたらすが、そのぶん「虫食み(むしばみ)」が身体の内部を食いつくしていく、かといって「浄化」といっても、どうしたらいいのやら一筋縄ではない。

直観の鋭い女性は、自分の「女の身体」が呪われていることに気づいている。

ひでえ話だが、しょうがないのだ、事実ほとんどの女性は、安い男に「きれいな身体だね」と言われたらゾッとするはずだ、それは安い男がアッサリと蠱物に掛かって誤解したキメ顔を見せることにおぞましさを覚えているのだ/ときに美人でセクシーな身体を持つ人ほど、このおぞましさを見せられ続けることになる。
どうすればいいだろうか? まず価値観の大転換をすることだ、蠱惑的な肢体を持つあなたが、自分は「女の身体」として「きれいじゃない」「穢(けが)れている」と捉えてみる、そうすればどうしたらいいかが見えてくる/女の身体を「きれいじゃない」とか、虫だとか穢れているとか、このご時世にぶっとびの女性蔑視に思われるかもしれないが、そうじゃない、女性はバカじゃない、僕が何を話しているかを理解してくれる人はむしろ女性の中にいる。
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「女の身体」の使い方
このことを必要としていない人は、こんな話聞かなくていい。
若い女性は、普通にセックスしていると思うし、セックスはいろんな意味で大切か、もしくはいろんな意味で「厄介」だと思う。
多くの場合、セックスにおいて、女性は「女の身体」の使い方を間違っている、男が「うおおお」で女が「ああああ」には何の意味もないのだ。
正しくは、男の身体と女の身体があって、その接触にインスピレーションの探りあいがあるのだ、しかもその場合のインスピレーションというのは、ふつうの感覚ではまず知覚できないとてつもない深さのものだ。

なぜそんな身体をしているのか考えることだ――なぜバストがそう膨らんでいて、ヴァギナというへこみがあるのか/「授乳のためと繁殖のため」じゃない、それはあなたを単純哺乳類に限定した場合であって現実的じゃない。
なぜそんな身体をしているのか考えること――考えたってわからないんだけどね、でもだからこそ、「この身体はどう使うために、こう作られてあるんだ?」と探してゆく、その先が見つかってきたら、「あっ」、その先に得られる「まとも」なセックスは、これまでに知らされていた情報とはまったく違う感触のものになるはずだ。
このインスピレーションの探索は、当の女性が美人で、セクシーなほど、得られなくなる、なぜなら男の側がすぐ「うおおお」になってしまうからだ、性欲を噴射して終わりになってしまい、その後は正直どうでもいい性癖の開拓にばかり執拗な興味が向くようになる。
女性の胴体は鋭敏だから、インスピレーションに合致しない欲求運動としてのセックスを重ねると、わけのわからない深さの、暗い気持ちになってしまうものだ、それを癒したくてまた欲求運動としてのセックスをしてしまうのだけれど、それでは悪循環だ、どうかそうではない手がかりの人と出会いますように。

正しいセックスは、何か「不思議さ」に包まれていく。

あなたの身体の各部位を、男の身体のどこに重ねればいいのか? 正しくそれが見つかっていくと……なぜこんなことするのか「不思議」なのだが、不思議なままなぜか「救済」の感覚があるのだ、「このことをたくさん積み重ねたい」という確信がある、なぜそうするのかわからないが、性感や感情よりはるかに深く重要な感覚がある。
美人でセクシーな人ほど、どうかマジで賢い男性に出会いますように、性的な魅力の高い人ほど、より賢い男性との出会いがないと、男女の肌を重ねる「不思議」には到達できなくなる――重ね重ね、「うおおお」「ああああ」では身体の使い方が間違っている――正しく使えば本当は「神韻」があるのだ/「神韻」に触れて以降、あなたの身体は本当にうつくしくなる、女性の身体の単なる性的な魅力の高さを「うつくしい」と言っているのは誤りだ、そのことは女性のあなたのほうがよく知っていよう、本当は女性の身体はもともと「きれい」ではない。
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女性のヴァギナに物を入れることについて2
然とんでもない話をぶっ込んで申し訳ない(二回目)。
女性のヴァギナに物を入れるということは、究極、ムラムラハアハアではなく、うつくしいのだ。
そのことは、「私的」な感情や願望を排除すれば、ただちに出現してくるのだが、このところは誰もが私的な願望空想が猛々しいので、それを排除するということはほとんど不可能に等しい。
私的な感情や願望から離れたペニスの、物への突き入れやこすりつけが、うつくしいのかどうかは、僕は男性なのでよく知らない、けれども原理的にいってそちら側も性的にならうつくしいはずだ。

本来、女性のヴァギナに物を入れるというのは、ウフーンアハーンイヤーンではないし、男性が物にペニスを突き入れるのだって、「ウオー」ではないのだ、そんなアホな状態を人が「営み」に認めるわけがない。
女性のヴァギナに物を入れるといって、僕が女性のヴァギナを馬鹿にしているのではない、それは現代のエロマンガのほうが女性のヴァギナを馬鹿にしているに決まっている。
現在、多くの女性はきっと、性交時には意図的に意識を混濁させ、実は「セックスといって、本当は何をしているのかよくわからない」という事実について、巧みに目を背けるようにしている習慣があるはずだ。
人間には目や鼻や口があり、体内には五臓六腑があるが、それらの中でヴァギナだけが「ニヤニヤしてしまう淫靡なもの」であるはずがない、グランドピアノの中を覗けば内部には弦が張り巡らされてあることが荘厳であるように、女性のヴァギナに物を入れることは本来悪趣味ではない荘厳なものだ。

女性のヴァギナにディルドを入れることさえ「荘厳」だと断言していい。

ただしこんなことを、「私的」にやるから、それは限りなくアホっぽく、悪趣味で侮辱的になるのだ、まあお互いが悪趣味への耽溺で合意しているなら、それは人道的には罪悪ということにはならないだろうけれど。
「女性のヴァギナに物を入れることは荘厳なんだ」と、思い込もうとしても無駄で、その荘厳さが直接発見されるしかない、ただこれは現代においてとても難しい、現代では常に人は「私的」な願望を最優先にして生きているからだ。
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女性のヴァギナに物を入れることについて

性のヴァギナに物を入れるというのは、明らかにそれ自体が一つのジャンルなのだが、(と突然とんでもない話をぶっ込んで申し訳ない)。
しかしこれは「性的」な一ジャンルであり、これを「私的」に営もうとする発想、つまり「性的なつもりの願望」に引きずられていると、これはどうせロクなことにならないので、そんなことはやらないようにしよう。
たとえば魚の頭を出刃包丁で切り落とし、ただちに捌いて刺身にすることは、明らかに「料理」という「文化的」な一ジャンルだが、これを「私的」に包丁を振り下ろすと、それはただの魚の惨殺になり、人間としてヘンなことになるに決まっている。
ご存じのとおり、ツイッターには「私的」な声が繁茂しているので、現代の特徴は「私的さへの傾倒」にあるに違いない、ここで性的な営みを私的に願望するということをするので、セックスがややこしくなるのだ、あまりそこの願望に期待を寄せるべきではない。

現代においては、すでに多くの人が「性欲」のことを、「セックスに関連して空想する私的願望」だと誤解しているだろう。
セックスは性的に営まれるものであり、私的に営まれるものではないのだが、こんな話は今すでに「???」という反応でしか迎えられない。
ヴァギナに物を入れるのが性的な一ジャンルであると共に、ペニスを物に突き入れる・こすりつけるというのも性的な一ジャンルなのだが、これらが性的に営まれることは現代において非常に困難だ、ヴァギナ側とペニス側が性的なものとして同時に存在するというケースはかなり少ないだろう。
まずは手始めとして、というとヘンな言い方だが、ヴァギナかペニス、どちらかが性的に存在できたら、そちら側だけがまず活躍していい、説明は不可能だがこれらが「私的」でなく「性的」に成り立つという現象は本当にある。

性欲が強いのではなく、私欲が強い。

現代、男性も女性も、内心で「実はとても性欲が強いの」というようなことを自負していることは多いと思うが、たいていそれは性欲ではなく私欲だ、私欲を際限なく満たそうと盛りたつ人間は性的な営みに意を得ているわけではまったくない。
魚を私的にバラバラにすれば生臭くしかならないように、セックスを私的にむさぼればやはり生臭くしかならない、現代においてセックスが営みでなくコンテンツ化していった理由はこれだ、私的さへの傾倒と性的な現象の減退によって起こっている。

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血と肉の本来のセックス2

「本来」の形がすでに崩れているので、とても説明がしにくい。
もし、実用的なところだけを抽出して言うなら、現代のセックス直接においては、<<なるべく女性の身体が動いているべきで、なるべく男性の身体が固まっているべき>>だ、これはきっと一般的なセックス観とはまったく異なる様相を示しているだろう。
つまり、あまり男性の肉が活性化するべきではないのだ/女性がいわゆる「受け身」で、男性がその上にかぶさって踊るような動きをするというのは、けっきょく現代のセックスをうまく機能させない。
現代においては逆、男性があまり動かず、女性がその上にかぶさって踊るような動きをするというほうが、セックスはまだうまく機能する、ただし踊るように動くといっても、筋力や情念で動いてしまっては逆効果になるが……

おそらく現代においては、女性がベッドに寝転んだ瞬間、女性当人がセックスのやる気をなくすはずだ、それは肉が寝転んだせいで、肉が鎮静に偏るからだ/立ってイチャイチャしていたときはその気だったのに、寝転んだらやる気が遠のいた、という現象があるはず。
旧来、女性がセックスにおいては「受け身」だったのは、それだけ女性が男性に対して肉質化におけるアドバンテージがあったからであって、現代ではそうはいかない、肉を寝転ばせると女性もほとんど血質化に偏ってしまう。
旧来、男性の熱い血と筋の力を、やわらかい女性の肉が受け止めるという分担だったのだが、この分担を今はアレンジする必要がある、つまり女性が肉を踊らせていないと、女性の側も「熱い血と筋の力」に偏ってしまうのだ/女性が肉を止めないのが現代セックスの最大のコツになる。
女性が血質化しているところ、無理にセックスすることもできるが、そのときは男性は「過剰血質化」せざるを得なくなってしまい、毎回バケモノにならないと女性が抱けなくなってしまい、このことは巨大な負担になってしまう。

台所で動き回っている男性はダサいし、台所で固まっている女性もダサい。

男性は咥え煙草で、書斎で固まっているべきで、女性は台所でテキパキ動き回っているべきだ、ベッドの上の男女も、現代においては特にそのように互いを分担するとうまくいく/間違っても男女逆をしないように。
カブトムシと蝶々の動きが逆転したら、どうしたって不自然でブキミだろう、むろん女性が肉質化を恢復したら、旧来の「女性は受け身」という形式も取り戻されるが、そのことはきっとしばらく遠い/「受け身」に対して「攻め身」とは言わないので、身が恢復したら自然にそちらが「受け身」で成り立つようになる(攻めるほうは「攻め筋」という)。

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血と肉の本来のセックス

ックスは、別にしなきゃいかんというものではない(重要)、ただ若い男女は血も肉も盛んなくせに弱いものだから、男女がお互いを助け合わないと、うまく進めないということがあるのだ。
本来セックスの男女差は、「女性は射精できない」というところにある、女性はいわゆる「抜く」ということができないのだ、その代わり女性には月経で血が抜けるというシステムがあることになる。
男性は射精をしないと「自動的に溜まる」というシステム、女性は月経によって「自動的に抜ける」システム、これによって男性は本来「溜まる」ぶんだけ「血」の側に偏ってゆき、女性は本来「血」が抜けるぶんだけ「肉」の側に偏ってゆくことになる。
だから性交は、男性が陰茎を「充血」させることで営まれる、同性愛用語ではいわゆる「攻めと受け」という言い方があるが、これで言えば攻めは血に偏った側、受けは肉に偏った側ということだ/攻めが血に偏らないとそもそも勃起が起こらない。

男性は本来、「溜まる」というシステムによって、「血と筋」に偏る者(血質化)なのだ、「筋」力を強化して流「血」の戦いに臨み、武家なら「○○家の血筋」を誇らしめんとする、一方で女性は「肉」に偏り(肉質化)、伴侶や弱者を慈しみ育てんとする者だ/切腹の文化がある中世日本でも、女性が切腹に及んだという例はゼロに近い(女性の肉を切り血を流させるというのは霊的な損失にしかならないからだ)(現代では知らん)。
現代における、男女交際の低迷は、まず女性が血質化したことに大きな原因がある、女性の血質化(「血が騒ぐ」女性が増えた)に反応して、男性の側は、1.過剰血質化して「オラつく」、2.血質化を停止させ「草食系になる」、3.そもそも男女の関わりを閉ざして「オタクになる」、という三択を迫られることになった(例外的に、4.草食系・オタクのまま過剰血質化して「猟奇化する」、というのもあるが、これは病的であり選択ではない)。
血質化した女性と、過剰血質化したオラつき男性は、セックス可能になるが、これは血だけが盛り肉が滅びていくので「獣化」する、この獣化を避けるためには、女性はなおも血質化したまま、3.そもそも男女の関わりを閉ざして「オタクになる」という形で、いわゆる「腐女子」にならざるをえなくなった。
わかるだろうか? 本来、血質化した男性を肉質化した女性が「抜く」ことによって、男性は肉を取り戻して霊化し、女性は血の通いを取り戻して霊化することができた、男性は血の気が収まって天地自然を取り戻し、女性は貧血と冷え性が治ってオバケを見ずに済むようになったのだ、現代は社会情勢が女性に血質化を推進したことによって特徴付けられている、だから今はバランスの恢復のために「肉」が強く言われねばならない。

本来、女性が唄い踊って、つまり肉を活性化して、男性を誘う。

女性が血と筋のパワーを誇って、男性を誘うなどということは起こりえない、とはいえ現代の女性は「血が騒ぐ」ように社会化されているから、今ではきっと「バランスのとれた筋トレ」に気持ちが傾く女性が多いはずだ、それでますます男女関係はどう営めばいいのかわからなくなるはず、血と筋の強化を(つまりメンタルとフィジカルの強化)を推奨するムードの中で、その強化者はたいていオタク文化に傾倒するようになっていくはず。
明らかに、短い中に説明を詰め込みすぎたと思うが、さしあたり諸問題の根源は「無理のある女性の血質化」にある、女性が「月経が面倒くさい」と堂々と思うようになったところから、根本的な問題は始まっているはずだ。

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「血の騒ぎ」でするセックスのこと

くの女性が、セックスで自分の獣化を加速している。
男性が、女性の乳首やヴァギナに「興奮」するのは、単に性欲のせいじゃない、それら「粘膜」が血に近いからだ、粘膜に向けて「血が騒ぐ」ことが力動作用になっている。
そして女性の側も、「血が騒ぐ」ことがすべてになっているので、男性が自分の粘膜に「血が騒ぐ」ことを露骨に押し付けてくると、どこか「安心」するし、「自信」も湧いてくるし、メラメラと力も湧いてくるのだ、「肌が合う」気がする……だからこの「血が騒ぐセックス」がやめられなくなる。
これについてはさすがに、「やめとけ」なんて言っても無力だし、ただの無粋か野暮にしかならない、ただこころのどこかで覚えておけば、いつかのときに役に立つかもしれない。

「血の騒ぎ」でするセックスがどんな具合のものか、どういうはたらきかけが有効か、またどんな恍惚があるのか、それは僕だって重々知っている、それは単純な年の功の話。
だが結論から言ってしまえば、それらの恍惚と忘我の味、酩酊と陶酔は、けっきょくたいしたものではないのだ、言ってしまえばそれは割と安物の、最もありふれたセックスだと言える。
このご時世と社会不安に、肉の身から自信が失せていったとして、「血が騒ぐセックス」がいっとき自信(のようなもの)を回復させてくれるのはわかるが、それはけっきょく虚構なのだ、それで「女になった」というわけでもないし/山の中で修める学門のほうがはるかに本当のエクスタシーに近い。
僕は容赦なく申し上げているが、残酷なことを言っているのではない、粘膜に関わり血が騒いでするセックスは実は「定番」のもので、あなたが特別に持っている才能でもなければ、秘密でもないし、選民の何かでもない、あなたに鼻を高くする権利は未だどこにも与えられていない/自分にがっかりする義務の方はふつうきらいだ。

セックスのテンションが高いのではなく、学門への集中力がないだけだ。

単に血の気が多いだけのチンピラが、真正の剣士に勝てるとお思いか、真正の剣士はえげつないぞ、殺し合いを学門にしていて、何十年もその学門への集中力を切らさずに生きている/そこで「やぶれかぶれ」なんて誰にでもできる安物の極みだ。
「血の騒ぎ」でするセックスは、けっきょくのところ間違っていると言うしかなくて、それとはまったく異なるセックスがあることを断言しておく、そして多くの人はその異なるセックスに直面したら、怖くて田舎に帰りたいと感じるものだ、それが一番ふつうの反応だ。

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セックス・トラブルの時代4
クスタシー。
この言葉がこのセックス・トラブルの時代を切り返すヒントになる。
あなたの全身は、「エクスタシーに向かえ」とあなたに命じているのだが、あなたはアホなので、そのエクスタシーをエロマンガレベルに定義している。
もし、「エクスタシーがわたしのようなアホにわかるわけがない」と笑って言えるところに立ち返れば、あなたはまともな道をゆけるだろう。

「エクスタシーに向かえ」と命じられると、「うん、つまり、グール化するしかないのよねやっぱり」と、アホみたいな結論を確信する。
まあ、それが抑圧下で育ててきた、ほとんど信仰の対象のような「エクスタシー」イメージなのだからしょうがないのかもしれない。
たぶん、「エクスタシーは一種のヌミノーゼだよ」と言われると、「わかるけどもう何もかもイヤになる」と、すべてから離脱したくなると予想される。
ヌミノーゼとしてのエクスタシーなどと言われても、「やり方がわかんない」ということになるだろうが、そこのところは逆に問うしかない、「なぜ万事のやり方を知りえるなんて思ったの」と。

エクスタシー、うらやましいだろ。

勇気をもって、エクスタシーについて考えるべきで、さらに勇気を持ち得れば、自分のグール・エクスタシーのイメージを、どうやら本当にゴミらしいと笑い飛ばすことができる。
ヌミノーゼふうのことに、同意を示しているふうにするのはカンタンだけれどね、口ではそう言えてもヴァギナからそれを語れる人は少ない、まったくカラダは正直だなオイ。
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セックス・トラブルの時代3

代人は、ただならぬ抑圧、言うなればウルトラ抑圧の環境下にある。
そのウルトラ抑圧の中に、これまた負けずおとらずの、ウルトラ自我の肥大がある。
この構造の中で、人々は空想を始める/抑圧を破裂させて「グール化」し、グール化すれば「実はすごく強い」のだという空想に耽りはじめる。
「進撃の巨人」あたりを見ていてもわかるが、人々は自分が破裂したらグール化して強くなれると思っており、「がんばらなきゃ」という場面では、連想がこのグール化に向かうようになっている。

このグール化には、大きな力と、同時に強いエクスタシーが伴うと空想されている。
ウルトラ抑圧を、ウルトラ破裂させるのだから、それはものすごいことで、ものすごいエクスタシーと力があると空想されている。
そしてその強い力とものすごいエクスタシーを得たら、自分は特別な人間(ウルトラマン)になれて、その特別化した人生は、ウルトラ肥大した自我を満足させうるのだと空想している。
だがそれらは残念ながら空想で、ただのウソだ、すべてがウルトラ化しているから、空想までウルトラ空想化しているだけだ。

グール化空想にとらわれる人は、自分のウルトラ化を空想するが、実際にはすべてに「初心者」のままになる。

人と話すにせよ、セックスするにせよ、仕事をするにせよ芸事をするにせよ、なぜか何も進まず「ずっと初心者のまま」という人が少なからずいるが、そのことの背後にはこのグール化空想がある。
「がんばらなきゃ」というときに、エネルギーがグール化空想のほうに吸い込まれるからだ、架空のエクスタシーを求めてさまよい続けるのみなのだが、ほとんどそのように調教されたかのごとくでこのことは修正がむつかしい。

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セックス・トラブルの時代2
くの女性が、「理不尽に」「強制的に」、そして「嗜虐的に」、「なぶられたい」と思っている。
そして、その妄想に向けて起こるheatが、正直なところ人生の「可能性」というか、ひとつの「夢」になっている。
そこにさらに、「不倫」とか「オフィスで」とか、逆に「純愛」とか「処女」「童貞」とかを貼り付けたがっている。
絶望させて申し訳ないが、そういう空想の中で描かれているエクスタシーというのは実際にはない、あなたがそのことを考えるとモンモンとするというだけで、実際にはそんなところにエクスタシーはないのだ、夢を壊すようでまったく申し訳ないけれど。

たとえばロリコン趣味の男や、レイプ願望のある女や男がいる。
が、実際に女子小学生の身体に触れたとして、それとの性交が本当に特殊な純潔や性感を与えてくれるかというと、残念ながらそんなことはない。
レイプということになったら、男女とも特別な叫声や挙動を発揮するかというと、残念ながらそれもない、本人が一時的に興奮するだけで実は何もたいしたことは起こらない。
つまり、まったく残念だが、秘密のエクスタシーが存在して、それがあなたの生を解決するということはまったく起こらないのだ、ゼロだと言っていい、あなたはたとえ最低のセックスにまみれきったとしても救済はされない、それぐらいあなたは行き詰まっているのだ、まったく申し訳ないが。

エクスタシーは、存在するが、凡才の空想する方向にはない。

残念なことだが、これは人々の健全さのため、ハッキリ言われるべきだ、凡才がエクスタシーの誇張によって自己の生を特別化できることは決してない。
あなたの必殺技である「取り乱す」が、エクスタシーに到達することは決してない、なぜなら「取り乱す」のは弱い人の特徴であって、強い人の到達するものではありえないからだ。
えっちはいいよな | comments(0) |
セックス・トラブルの時代
うもどの方面を見ても、情熱とか集中力とかいうことが失われてきている気がする。
そして、どうもその背後には、セックス・トラブルがある感触がするのだ。
フロイトの言うとおり、セックスは根本的な情動の装置だから、ここがゆがむと全体がゆがんでしまう。
どうも誰も彼も、抑圧下に「ヒステリック・セックス」のheatが電熱線のように走っているような気がする、ここに通電すると何かが大爆発してしまうので、そもそも電圧が生じないように暮らしている、というふうに見えるのだ。

ネット上では「キチガイゲージ」「キチゲ」という表現が見られる。
そういう、ネタでしかないと思えるようなものが、実はネタでもシャレでもなく人々をおびやかしているのかもしれない/セックス方面の「キチゲ」がぐいぐい溜まるのだろうか。
何かおぞましい(と本人は大げさに思っている)ものを溜め込んでいて、それが破裂しそうになるのがとてもイヤで、でも破裂させたくって、自分のロマンや空想というとそのおぞましいものにしか向かわない、ということなのだろうか。
僕はヒステリック・セックスの妄想について、「しょーもな」と言い捨てることができるが、それは僕が特殊な大人だからであって、言い捨てておしまいにするのは卑怯な気がしている(といって特に対策はない)。

こころの地下室にひどいエロ本を大量に秘匿している。

僕はもう大人なので、そのことを「しょーもな」と言えるが、大人になれない当人にとってはオオゴトなのだろう、どうしたらいいという方法はまったくないが、少なくとも破裂させたところで気色悪いことにしかならないと言える。
こういったことには名前が必要で、適切な名前はきっと「セックス・グール」あたりだろうが、つまり情熱や集中力が生じないのは「グールだから」と言えよう、解決や改善の方法は今のところまったく見えない。
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セックスが下手な人は「無神経」の気質による

ックスが下手なのは、テクニカルな問題というより、「がさつ」「無神経」という気質の問題による。
車の運転と同じだ、運転が下手というのは、テクニカルな問題というより、「がさつ」「無神経」という気質のせいだ。
じゃあなぜ「がさつ」「無神経」になるかというと、焦っているからだ、焦っているから散漫になり、乱暴で力任せになる。
じゃあなぜ焦るのかというと、自意識過剰だからだ、自分が自分に注目して焦り、そのせいで挙動は散漫になり乱暴になる。

じゃあ、「がさつ」「無神経」をやめよう、丁寧にやろう……と発想するのだが、そうなるとその発想自体が「がさつ」だ。
「丁寧にやりゃいいんでしょ」ということで解決すると思っているところが典型的に「がさつ」なのだった。
「無神経」な人が反省すると、今度は「神経質」になることしかできず、それではおっかなびっくりのヘタクソにしかならない。
神経のある人は、長く「学ぼう」とするのだが、無神経な人は「教われば解決する」と思っている、無神経な人は焦っているので、三分間教わって解決しなければイライラしはじめる、これはセックスに限らず何事でもそうだ。

自分の髪の手入れ以上には上達しない。

がさつな人は、自分の髪にブラシをかけるのもがさつだ、女性にとって髪は持ち前の作品のひとつになるわけだけれど、それさえがさつしているということは、悪いことではないけれど、がさつさのパターンからは脱却できない。
「がさつ」ということは気質のものであって、丁寧にしようとしても、そのとおり丁寧に身体は動いてくれない/自意識がピンチだと焦ってがさつになるしかないわけだけれど、たぶん誰だって自分の髪ぐらいまともに触れるようにはなれるはずだ。

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性感とセックスの違い2

「性感」は、アホみたいに簡単な話で、これは誰にでもあり、自分でやるか誰かとやるかの違いしかない、ローションをつけて性器をぬるぬるすればそれなりに性感になる。
そのことと、「セックスを通じて男と女が出会う・結ばれる」というようなことは、まったく別だ、という、これは当たり前の話なのだった。
当たり前の話、とは言うけれども、そんなことを「当たり前」といって堂々と引き受けるという奴がどこにいるのか、このご時世、そんなことに準備ができている清冽なガールなんてそうそういるようには思えない。
男だって、目つきを見ていればわかるが、そもそも何かを「見る」とか「狙う」とかいう眼差しを持っていない、このあたりのことはあまり言っても悪口にしかならないのだった。

ハートにタフな経験を積んでいない人ほど、なぜかセックスについて異様な自信を持っていたりする。
それは確実に、「性感に鼻息が荒くて願望たっぷり」ということが、間違って「自負」にすり替わっているだけでしかないのだが、これもどう言っても悪口になる。
男の前に堂々と立てない女が、裸で寝転んだら堂々と何かができる、というような虫の好い話はまったくなくて、性感は誰にでもできるけれども、「セックス」と呼んでいい何かをできるかというとまったく別なのだった。
ためしに、男Aと女Bで「見つめ合って」みたらいいけれど、見つめ合ったところで何も入ってこないだろう、ただのにらめっこになって互いにプッと噴き出すはずだ、それがペニスとヴァギナにすり替わったところで、やっぱりお互いに何も入ってきたりはしない/さすがに「性感」なんかに自信を持つのはやめよう。

本来のセックスを得ると、冗談でなく「世界」が増える。

たとえば日本が新しく倍の領土を獲得したら、「日本」という国は形を変えて、元よりも大きな国になるだろう、じっさいセックスが正しく得られるとそういうふうに自分の生きている世界が拡大する。
そして、正しいセックスの最中には、「性感」はほとんど確認されない、性感はあるのだろうけれど「そんなことかまっていられない」からだ、キモチイイとかそんなことはどうでもよくなる、男と女が出会って認め合うというのは本来そういうできごとになる。

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性感とセックスの違い

くの人は性感を求めている。
それはおかしなことではなくて、特に男性は性感を求めて性風俗でサービスを購入する。
性感というのは、一定のムードとローション的な摩擦があれば、それで得られるし、没頭もできるので、そのこと自体には何の罪もない。
そこには何の罪もないので、性風俗のキャストは、単なる肉体労働として性風俗のサービスができるし、AV女優だって撮影を共にした男優と恋仲になるわけではないはずだ、仕事が済めば「誰が誰だったか」すべて忘れてしまうようにできている。

性感とセックスの違いは何かというと、性感には方向性がないのだ、方向性がないので「発散したい」という形の動機になる。
性感というのは、単に異性と裸でアヘアヘしたい、そして発散したいというだけで、AがBを「狙う」という方向性がない。
男Aが上玉女Bを狙っている動機は、単に上玉から性感が得たいという望みからにすぎず、直接AがBを「対象」として狙っているということではない、この場合男Aはより上玉の女Cが現れたら、そちらに切り替えて問題ない。
たいていセックスに関わるいざこざは、この「セックスと性感のやりあいを混同している」ということに起こる、女にとって男に性感を求められることは何のプレッシャーでもないが、そのかわり得られるものも何もない、欲求不満の「発散」が得られるだけでしかない。

男はジロジロあなたを見るが、誰一人「あなた」を見てはいない。

男どもが、上玉から性感を得たい、発散したい、とモーレツに望んであなたをジロジロ見るだけで、それは「あなた」という存在が狙われているということではない。
ひどい話だが、あるがままを言うしか救いがないのであるがままを述べるしかない、そもそも多くの人は、人を「見て」「狙う」ということ自体ができないので、何もそれは性感に限ったことではないのだった。

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「セックスは気持ちよくない」という常識
ろんな人から、「セックスが気持ちよくない」という報告を受けている。
恋人とのセックス、妻や夫とのセックス、いわゆるセフレや行きずりのセックスまで含めて、「気持ちよくない」「自分の手でしたほうがいい」という報告を典型的に受ける、男からも女からもだ。
僕はそれに、「今は割とそれで当たり前、焦らんように。慌てるようなことじゃない」と答えている。
たぶん典型的に、「挿入が気持ちよくない」という現象が目立ってあるはず、逆にローションを使ってぬるぬるごっこをしたら気持ちいいだろう、今はそういうことが当たり前になる状況にある。

原因は簡単で、今は時代状況的に、人々が男であることや女であることをやめているからだ、「性的に凍結した胴体」で生きている、こうしないと現代では生活が不快すぎるのでしょうがない。
このことに慌てる必要はないが、このことを正しく知っておかないと、いちいちうまくいかないセックス・気持ちよくないセックスにイライラして過ごすことになってしまう、イライラして仲たがいすることは不毛だ。
こう考えればいい、「もしセックスがかつてのように、天国のように気持ちいいなら、みんな必死で恋人を欲しがったし、恋人のいる人はもっと日々幸せそうで光り輝いているでしょ」と/今明らかにそんな幸福そうな人はいないでしょ。
セックスで、「興奮した」「あれは燃えた」と語る人も少なくないとは思うが、それは胴体が性的に凍結しているので、その中でセックスをするのに「異様な量のムード」を要求されているというだけだ、だからそのへんの話もアテにしなくていい、この問題はそんな一朝一夕に解決はしない。

本来、女は男に押し倒されるだけで、ヘソのまわりに汗が噴き出す。

本来はそういうものなのだけれど、今はそんな現象はありえないだろう、こんなもの訓練のしようもないし解決のしようもない、もともとはセックスにおいてはヴァギナ内の温度がまったく違ったのだ、さすがにそんな科学的なデータは残されていないだろうけど。
われわれは他の哺乳類と違い、文化的にセックスをしているので、路上で交尾はしない、だからわれわれは文化的な生き方から離れていくごとに、セックスを不能にしていくのだ、これは別に焦ることではなく「そういうものだ」とあらかじめ了解しておくしかない。
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セックスは性癖の狂乱ではない6

じ話をしていてもしょうがないので、このへんにしとこう。
人は何かに深入りしないと「生きている」という実感が得られない。
家族と、仕事と、友人と、趣味と、食事と、社会と、思想と、芸術と、物語と、「距離」をとって深入りしないようにすると楽にはなるが、「生きている」という実感がなくなり猛烈にむなしくなる。
このむなしさには耐えられないから、何か裏切られない「深入り」の対象を探す、その対象が「性癖」になるだけだ、麻薬があれば麻薬でもかまわないのかもしれない。

人はキモチワルイものに深入りすることができる。
たとえば「発狂した母親」とか「マザコン男」とか、「童女をなぶりたい青年」とか「敗北の腹いせに拷問処刑」とかはキモチワルイ。
人間は、他に深入りできるものがないと、あまりにヒマなので、これらキモチワルイものに深入りして、それを「真実の体験」などと言い張りたくなる。
だけどそんなものは、直截の春の東風といったような、本当にうつくしいものには勝てっこない、ありがちな変態風情に特権性なんて無いので、あきらめてうつくしい夜に帰ってくるしかない。

深入りできるものは、夢、もしくはキモチワルイもの。

夢に深入りできなくなったとき、人はキモチワルイものに深入りする、それしか深入りできるものがなくなるからだ。
今実際に、キモチワルイものが人気じゃないか? キモチワルイものにしか濡れない・疼かないという状態に実際なってしまうらしいが、それは残念ながら特権的なことじゃない、今もっともありふれたパターンだ。

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セックスは性癖の狂乱ではない5

きていくには、何か「これだ」と感じられる、強く「ただものでない」衝動への接触が必要だ。
特に人生が不明、あるいは破損や欠損や消失をしたりしたら、ますますその「これだ、と感じられる強い衝動への接触」が必要になる。
そのとき、尖鋭化した「性癖」への拡大刺激が、「これだ」という強い衝動への接触だと信じられてしまう、性癖への「えげつない刺激」が「真実」なのだと信じるしかなくなってくる。
ただのアホだけどね、ただしそれを「ただのアホ」と言ってしまえば、僕の人気がなくなる(それでも言うが)。

だってもう、どれだけ歪んでいようが、ギンギンに勃起するかドロドロに濡れるしかないのだ、「ぜったいそのほうが真実」と言いたいのだ。
ラジカルな性癖に向き合うことのほうが「勇敢で」「誠実で」「真実の愛」とぜったい言いたいのだ、それはつまり、自分が「勇敢でなく」「誠実でなく」「真実の愛にまるで縁がない」と言いたくないということでもある。
いつの間にか尖鋭化した「性癖」を、ついに実現させようと決意する、その踏み切る勇気、および向き合わされる苦しみ、そういうことが人間の真実的存在で、肯定するし認めると言いたいし、闇を含んだ狂乱に触れないと「これだ」という気がしないのだからしょうがない。
それをよりによって、「胴体(こころ)が閉じ込められたから、性癖が尖鋭化したんですな」「胴体が解放されたら性癖は剥がれ落ちます」というのでは、夢がなさすぎる、夢がなさすぎるけれど、それは性癖以上のものはないという前提に立っているからだな。

人は人生が破損すると、おぞましさに希望を探す。

ちょっと言っている意味がわからないと思うが、これで正しいし有効だ、人は人生に希望を託せなくなると、おぞましさへの転落に希望を探すことになる、つまり「それ」が本当はおぞましいものだと知っている、知っていて希望にしている。
胴体が解放されて、性癖が剥がれ落ちるなんて、きわめてつまらないこと、かつブキミなものだよ、ただそれは「これだ、と感じられる強い衝動への接触」がないからであって、その「これだ」は別に性癖なんかじゃなくてかまわないってだけだ。

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