☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
静的なペニスと動的なヴァギナ4
体的に言うと、ペニスがヴァギナの内部を「押す」、このときに女性の全身がバラバラになっていては話にならない/このとき魄は充実して、ペニスとヴァギナはひとところに "実在" する、ペニスの押す気魄とヴァギナの受け止める気魄は拮抗している。
次に、ペニスがヴァギナ内部で「引く」、このとき丁寧に、精密に、瞬間的に、ペニスだけが消えてヴァギナだけが残るようにならねばならないが、そうすると先ほどまで実在していたペニスとヴァギナのうち、ヴァギナだけが残って実在することになる、そのときそこには「ペニスと出会ったあとのヴァギナ」だけが実在として残ることになる、このときヴァギナは当然ながら、ペニスと出会う前のヴァギナとは異なる形を得ている。
先ほどまでヴァギナは「押されて」いたわけだが、その押していたものがふと消えるので、今度はヴァギナが押す・押し返すことになる、そうしてヴァギナは初めて、自ら「動く」という形とありようを知る/これまで単に「ぐりぐりやられる器官」でしかなかったヴァギナは、ペニスと出会い別れたことで、自らの動き方とありようを知るということ。
ここで仮に、「牛革」という実在を考えてみよう、牛革はただの素材だが、そこに足の霊がやってきて、牛革と足の霊が出会ったのち、足の霊と別れた、そうすることで牛革は己から一歩踏み出し、次第に「靴」の象(かたち)を取っていくことになる、牛革は足の霊と出会うまで「靴」という象(かたち)は取れないだろう、男性が女性のヴァギナを作るというのはそういう現象だ、これは物理的な現象ではなく霊魂の現象であるため、陰茎をかたどったディルドで同様のことはできない(物理的な形に慣れるだけになる)。

今、多くの人は、実は「腹減った〜!」「満腹!」という感興さえ持っていない、それは胃腸が食物の精霊と出会っていないからだ、胃腸がただ生理反射として摂取物を消化・吸収しているとき、胃腸は空腹時にも「腹減った〜!」「満腹!」という感興を持たない、この人は「腹減った〜!」がないので空腹は生理的な「飢餓」としてしか得られない/その点で、胃腸もヴァギナも同じ内臓・粘膜だから、ヴァギナもやはり生理的に性交しているだけでは、それが「空いた」「満たされた」という感興を得ないのだ、この人はやはり性欲を飢餓的なものとのみ捉えている。
生理的な飢餓ではなく、食物の精霊が、胃腸の「腹減った〜!」「満腹!」という臓器の感興を解発するように、本来はペニスの霊魂が、ヴァギナの「空いた」「満たされた」という感興を解発する、人は与えられる食べ物がまともでなければ胃腸が霊性を失うし、与えられるペニスがまともでなければヴァギナが霊性を失うのだ。
最近は、コンビニの調理品等でも、バツグンに味がよく、ものによっては栄養素の管理まで心がけている、けれどもそこにはさすがに、料理人の魂は乗りようがないし、食物としての霊魂も失われがちだ、だからこれらのものはどれだけ「美味」であっても、胃腸に霊性を解発するにははたらかない/本当に料理に霊魂が乗せられる人の料理を食べると、多くの人は「食べるほどにもっと腹が減っていく」という体験をするだろう、それと同じで、本当にペニスに霊魂が乗せられる人に抱かれると、多くの女性は「抱かれるほどにもっと抱かれたくなっていく」という体験をする。
多くの人は、それなりに気魄に自信を持っているが、それはおおむね「生」に固執しているからであって、第一にその気魄を濁りなく均一に、かつ烈しく持つことがむつかしく、第二には、その烈しい「生」と、音もなく得る「死」を両立させるのが、本当の意味でむつかしいのだ、澄み切って烈しい「生」が音もなく均一に「死」に消失するとき、そこには大きな霊魂が残る/これまでは形状上、陰の気がこもるしかなかったヴァギナが、ペニスに出会って導かれ、外部へ自ら動こうとするとき、自ら踏み出して出会うのがその大きな霊魂の世界となる、男性の仕事はそのようにして、本来ペニスでヴァギナを内部に押し込んでやることではなく、誘導によってヴァギナを外へ解放してやることだった、われわれがこの二十年間をかけて侮辱しきったセックスという営為の本質がそれだった。

本来セックスは、男性を女性に押し込むものではなく、男性が "堂々とした女性" を引っ張り出してやるものだった。

すべての人がご存じのように、女性というのはパッと見にも、「解き放たれて堂々とした女性」と「押し込められてみじめなおばさん」とに分類することができる、いくら社会的に喧々たる立場を与えたとしても、それによって当の女性が魂から「堂々とした女性」にはならないことは、よほどの事情がないかぎり誰にとっても承知のことのはずだ。
もちろんこの、「本来の」というべきセックスは、現代においてすでにロストしたものであり、あくまで伝説として知っておくぐらいしかできないものだ、現代ではすでに男女が交合によって魂の変貌を得ようとする方策は放棄されており、女性はただ女性単体で「解き放たれて堂々とした女性」になろうというポリシーだ、つまり女性にとって男性は用済みになったと言えるし、男性も当然その任からすでに降りている/そしてそのポリシーは、現代において至極妥当だと認めねばならず、実現はまるで不可能ではないと認めながらも、その実現は旧来の方法よりさらに困難度を増しているとも予想しなくてはならないだろう、男に引っ張り出されるというような差別と期待は廃棄し、純粋な女性自力によって、女性は「解き放たれて堂々とした女性」を成立させねばならない、よもやそれが「みじめなおばさん」と見透かされたら生涯立ち直れないだろう。
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静的なペニスと動的なヴァギナ3

性が女性のヴァギナを作る、といって、それはそうかもしれないが、そんなこと実際には、すべての日々を全身全霊で生きている男でないと実現できないし、その男を根っから信じている女が委ねきって呼応することでしか実現されない。
原理的には、「一往復ごとに女は生まれ変わる」というような現象になる、女の全身が一秒で統合されるわけはないが、一往復ごとに統合が進み、しかもその一回ごとは常に真新しく、繰り返しのピストンなどは存在しないのだ。
単純に、ペニスが押す動作と引く動作があるとして、そのたびに虚実が入れ替わるのだ、その虚実の入れ替わりのたびに、女は生まれ変わった存在になる、その生まれ変わりを繰り返して大きな変貌を遂げるという捉え方は誤っていない。
誰でも知っている(?)とおり、本当に映画を観るということは、虚(フィクション)たる映画の中に入り込むというようなことだ、であれば百本の映画を観るということは、百回の生まれ変わりをするということになるだろう、それと同じように、百回のペニスの往復は、百回の生まれ変わりをもたらすことになる、「わたしはいない」と「わたしがいる」ということを往復するのだ、その繰り返しごとに、女は新しくヴァギナを持った女として成り立っていく。

別にセックスに限ったことではないのだ、人が変貌を遂げることはすべて、そうして「わたしはいない」「わたしがいる」の往復によって為される/そうでなければ人の全身的・霊的な変貌はありえず、人は己をどのように「強化」したとしても、強化は変貌ではありえない。
あなたが一本の映画を観たとき、そこにどれだけ涙をウルウルさせたとしても、あなたがひとつの変貌を遂げるのでなければ、あなたはその映画をただ消費したことになる、そして一本の映画が消費されるのであれば、百本の映画も消費されるだろう、こうして己への絶望感と、己の繰り返す消費について後ろ暗い恐怖が積もっていく、呼びかけてくる魂を踏み殺して自分は都合の煎餅をバリバリ食ったのを知っているのだ。
「消費者」においては、映画がズンドコ動くものであり、視聴者たる自分はソファでデーンとくつろいでいるものだ、だがもちろんそんな態度で映画を観ることは、産業としての映画には寄与しているにせよ、物語としての映画に対しては唾を吐きかけている態度に等しい/映画を観て激動するのは「観る側」であるべきで、ジャッキーチェンが暴れ回るのを視聴者が見物して己の娯楽や慰めにするのは本来の映画を観るという行為に相当しない。
現代にもし、まごうことなきクソ女がいるとすれば、ジャッキーチェンの魂が暴れ回るのを見物し、ジャッキーチェンを高く評価し、自分自身はぴくりとも動かず、己のオマンコに対してだけは猛烈な受身の妄想を高めているだろう、クソ女の定義は「ジャッキーチェンの映画を観ても生まれ変わらない女」と定めていい、「動的なジャッキーチェンが暴れ回って静的なアタシがそれを見物・評価する」という構造に居座り続けるのだ、魂が闇の底へ連れて往かれるそのときまで。

ペニスの仕事は「永遠に在り続ける」こと、ヴァギナの仕事は「生まれ変わり続ける」こと。

だから本来、ペニスは静的でヴァギナは動的なのだ、そこで指標たるペニスが得られない・認められないとなると、ヴァギナはずっと閉じこもっているか、無秩序に暴れ始めるほかなく、それに対してペニスは、取り乱してヴァギナを憎悪し、ヴァギナを殴りつけるようにしかセックスできない(またそれによって、ペニスも指標たり得ないただの陰部と化していく)、それはただのこじれた性交であり人が必要とするセックスではない。
ペニスの側は、そもそもセックスに頼ることはできず、己で一定の高みに接続して、永遠に在り続ける者とならねばならないし、なんだかんだそうして永遠に在り続ける者たりえたときは、何かしら女に愛されてきたはずだ、そして永遠に存在する「あの人」に向けて、際限のない生まれ変わりを経てきた女は、はっきりとその人のことを愛してきたはずだ、そのことが男女性愛の根底にあるから、男がペニスで大運動会をして、女が寝転んでアンアン言ってみるなどというのは、どこまでも馬鹿げているのだった。

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静的なペニスと動的なヴァギナ2

性のヴァギナは男性が作る。
あまり聞きたくもない話だし、どうせ誤解しかされないような話だと思うが、わけもわからずに男がピストンし、女が寝転がってアンアン言っている、という構図よりマシだ。
ただし、よっぽどの愛、よっぽどの集中力、よっぽどの霊性がなければ、ヴァギナ形成なんて起こらない。
少なくとも、男が大運動会になって、女が大陶酔モードになるのは誤りだ、冷えっ冷えになるだろう、このときたいてい男は気の毒で、女はサイテーだ、最近はそうして男の生身をゴミクズ扱いする女が増えたが、あるいはそれを正しい教育とみなす場合はこれ以上どうしようもない。

男の「存在」と女の「作業」になるのが正しい/これが逆転して、女の「存在」と男の「作業」になると、これは本当に陰部摩擦大会にしかならない/演出された股間にアホ男がダイブするだけの無料性風俗にしかならない。
陰部摩擦大会なら逆に、もう特殊な体勢から超音速でピストンして、「すげえ!!」と言わしめてもらいたいものだが、なかなかそんなアホな曲芸は高難度だし、そんな高難度を達成したところで末代までバカにされるという報酬しか得られない、だいいち粘膜のネタで毎日泣いて暮らすのはぼちぼちつらいものだ。
現在、女のセックスは、オナニーよりも汗を掻かないという実態があるだろう、なかなかそんなことにも気づかないものだが/男のほうが汗をだらだら流し、女のほうは気分だけでヒエッヒエ、汗どころか体温まで朝食時と変わらないということが実によくある。
今や男も女も関係ないという状況だが、すさまじい願望や妄想を隠し持って、自我は肥大しているけれど、何をどうしたって汗ひとつ掻かないという実態がある、それなら確かにジョギングでもしているほうがマシだ、そんなことは今さら論難の対象ではない/ただそれでも、かつて男女というのは、意識が飛ぶほど互いを愛し合い、その中でも自分のするべきことを忘れなかったのだ、女は死に物狂いで信じ、終わって「ありがとう」と震えて抱きつくのがよくある蒸気の光景だった、女は蒸気を噴き上げていた。

本来セックスの、主導がペニスで、実動がヴァギナだ。

これを逆転して、ペニスが実動し、ヴァギナが主導してしまうと、ただの哺乳類になってしまって、バカバカしくなる/哺乳類なら服を着ているのがヘンだし、路上でやっていないのがヘンなのだ、動物の繁殖期がそうであるように、発情した野良のメスにオスが群がるという天然の形式を取った方がいい。
現在のところ、ヴァギナの実態は、電動であれ運動であれ、何かしらの具物を突っ込まれてケイレンしておわりという様相だろうが、そこにどれだけアンアン声を乗せても変化はないのだ/本来あのアンアン声は、「わかるわ」という発見の声だった、ヴァギナが形成されていくときの「わかるわ」という発見と確認のコミュニケーション発声であって、性感帯の刺激に伴って漏れるうめき声ではなかった。

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静的なペニスと動的なヴァギナ

はもう、現実的な話ではないが、かつては男性が女性のヴァギナを "作る" という現象があった、もちろんヴァギナは女性の所有物だが、それを男性が整え、男性が作るということがあった。
生々しい話なので、苦手な人は読まずにスルーするように/現在、セックスというと、男性が動的で女性が静的に見えるが、これは誤りで、本来セックスというのはヴァギナが動き出すものであり、ペニスが「ピストン」するものではなかった。
男性が女性のヴァギナを "作る" のだけれども、この話をしたくないのは、第一に現在の女性がこの話を受け付けるわけがない(ただ不快に感じるに決まっている)だろうということと、第二に、勘違いおじさんが「そうなんだよなあ〜」と勘違いガスを噴出するのを見たくないからだった/現在の霊的な集中力がない男性が、女性のヴァギナを "作る" ということはまずありえないだろう、その前提の上で今は、あくまで失われた本来性のことについて話しているのであって、何かの誘導やアドヴァイスをしているわけでは決してない。
元来、ヴァギナというのは強烈なエネルギーをもった器官で、そのエネルギーと不穏は、所有者である女性当人にとって「手に余る」ものだった、それで女性はおおむねヴァギナから切り離されたように生き、それによって心身の安定と、代償に全身の不完全感を負って生きていた、それが悪いということではなくそれが普通だった、ただごくまれにこのモンスターのようなエネルギー器官を、全身の一部に統合することが叶うケースもあった、それが本来の男女性愛の本質だった。

ヴァギナは強烈なエネルギーを持った「陰部」であって、これを女性当人の気質によってのみ陰陽に整えるのは至難だった、それで女性のヴァギナは無秩序にうごめくか、そうでなければ不穏のまま凍りついているしかなかった。
単純に言って、強烈な「陰部」たるヴァギナを、「正しく整え、正しく活動させる」ということが、女性自身では至難だったのだ、それで男性の手を借りる必要があったのだが、それにしてもその作業は困難かつ壮絶なものなので、かなりのていど霊的に完成した男性が、ただならぬ愛と集中力をもってしか、そのことは果たされなかった/ヴァギナを正しく整え、正しく活動する身体の一部として全身に統合してやるというのは、そんなに簡単なことであるわけがない。
現在、男性というのは存在として軽蔑されているし、それ以上に監視され続けているので、この侮辱と監視の中で見世物のようになった男性が、女性のヴァギナを "作る" というような、霊的にも具体的にもハイレベルな作業をこなすことは不可能だ、それで実際に現在の男女セックスは、肉穴に肉棒を入れて激しくピストンし、突いたり摩擦したりして射精して終わりで、女性は仰向けのままその一部始終を眺めている、というような形態になっている(むろん哺乳類としての繁殖行為はそれだけでことたりるのではある)/この交合は単純にいって苦痛かつ屈辱的なので、今多くの人が生きる中でセックスを辞退する方針へ転じている、その転針じたいはまっとうで正しい判断だと認めねばならない、精神を損傷してまで現代のセックスを追求する必要はどこにもない。
ただ、失われたにせよ「本来」というものはあって、本来セックスにおいてはペニスが静的でありヴァギナが動的だった、それは体位を変えろという話ではもちろんない、ペニスが静的でヴァギナが動的というのは、ペニスがヴァギナに本来の「形」と「動き方」を教えていたということだが、このことが果たされたとき、女性はこれまでにない全身の健やかさと、すみずみまで満ちたエネルギー、霊的(陽)な救済と能動性、そして明るい世界を手に入れていた、あくまで失われた話だが、そうした本来の形もかつてはどこかにあったということを少しだけ覚えておくべきかもしれない。

茶碗を作っているのは陶芸家ではなく米食だ。

米食のない外国人が、いくら陶芸に凝ったとしても、茶碗を作ることはありえない/中に米が盛られることが見えていない茶碗は、どれだけ精巧に、また大量に作られたとしても、不気味なだけだろう、茶碗に米を盛るという観測不能の営為があってはじめて茶碗はありえるのであり、その米食なしに茶碗の外形だけ似せたとしてもそれは営みから切り離されたナゾのこだわりブツだ。
陰陽の呼応があって、生・身は陰だが、陽に呼応した生・身の形と動きは救われていてうつくしい、陽に呼応していない生・身は何かというと、ただの闇だ/陰陽の呼応が完全であるとき、陰と陽は切り離されない、つまり呼応が完全化するとき、むしろ「陰部」は消失する、陰部は陽と呼応して、物体ではなくなり存在を担うことになるのだ、本来の男女性愛の営為はそのためにあり、実際にそうした存在としてのヴァギナを、男性が作っていたということだ、それは女性にとって単純にハッピーだった、全身にハッピーが満ちるのだからそりゃハッピーでしかありえない。

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「殺す」という機能

ぜかわれわれには、何かを「殺す」という、意志と機能がありうるように、元から具わっている。
元から具わっている機能は、使わないとインチキなのだが、かといって実際にホイホイ殺害したら、それはただの狂人であって犯罪者だ、そういうつまらないものは一番よくない。
原理的に、「殺す」といって、殺すことについてワーッと感受性が盛(さか)るのはダメだ、大ハズレもいいところで、感受性の強い人はとにかく善人でいるしかない、やけくそになっても光はまったく与えられない/光は学門の果てにしか与えられないのだからしょうがない。
「殺す」というと、何かおおげさだが、たとえばスーパーマリオをやっていれば、クリボーやクッパを「殺す」じゃないか、「殺す」というのはただそれだけのことだ、そのときにウキーッと燃えさかる人は大ハズレであって、「殺す」という機能それ自体はそもそも感受性とは無関係なもので、ただ仕留める・終わらせるということだ/イエスキリストだっていちじくの木を枯らしている。

しばしば、「愛」と「殺す」は接続しているのだ/このことは、女性のほうがよくわかるかもしれない、どことなく女性は、真に愛のある男に対して「わたしを殺してほしい」というヴィジョンを持つことがある、あるいは「この人になら殺されてもいい」「殺されるならこの人がいい」と、どことなく感じることがあるものだ。
なぜ「愛」と「殺す」が接続することがあるかというと、内在的に、殺されることよりも感受性のほうがサイアク度が高いということなのだ、殺されてしまえば感受性はなくなるので/つまり、愛の中で、感受性なしに殺されることが叶うのであれば、感受性に振り回されて生きながらえるよりも「多分、いいのだと思う」という直観があるということだ、まあ実際には、感受性なしに殺すなどというのは凡人には不可能な話だし、逆にサイコパスなんかは感受性のカタマリだから誤解してはならないのだけれども……
だから、「殺す」および「殺す機能」といっても、実際に殺害するのは基本的にハズレなのであって、殺す対象は「感受性」なのだ、説明がむつかしいが、特に女性は、殺す機能の発現している男性に触れると、根源的な感受性が鎮静して、決定的な安らぎと肯定を得ることがあるのだ/逆にいうと、殺す機能のない男とは、どれだけ関わっても、自分が自分のタチの悪さを鎮められないという不本意の直観が、女性の内部にしばしばあるということ。
とはいえ、どこまでいっても、殺す機能が完全な静寂のうちにあるというような人は、もうかつての剣豪とか聖人とかでしかありえないので、われわれにとって現実的なものではない、あくまで原理と概念だけ知っておくべきで、このことに鼻息を荒くする人は確実にハズレなので自覚してションボリするように。

自分を殺しに来た暴漢を目の前にしたとき、完全な静寂に至って戦える男なら、女に「ありがとう」と言われる資格がある。

「殺す機能」うんぬんをいうなら、男はまず自分が死地に立つことを想定しなくてはならない、自分が死地に立ったときわずかでも力が入ってしまうようなら、「殺す機能」で女の感受性を鎮静させることはできない、どんだけレベル高い話なんだよという気がするが、数十年前に戦争で散華していった若者たちの中には、そういう人たちもいたのかもしれない、彼らから見たらわれわれが「どんだけレベル低い話なんだよ」ということかもしれない/そういう男だけがやはり女たちにとっては別格なのであって、実際に静寂と勇敢さのシーンを十や二十も創れていないわれわれが同格ぶろうとするのはとんでもないレベルでおこがましいだろう、われわれって実際には市井のDQNにさえビビるわけだし。
己の死地に静寂で立って戦える男は、静寂のまま「殺す機能」を発現することができ、この機能の前で唯一、女の感受性は根本から鎮静する、このとき女は全身からまったくアホ女ではなくなれるのだ、自分の全身が急にアホ女ではなくなり、それがうれしくて不意に「ありがとう」という言葉が出てくる/あくまでそういう、原理と概念があるという話、もともとそんなレベルに立てている男なら、えげつなくモテているはずなので、モテない男の工夫策には一切なりません(お互いがんばりましょう……)。

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メモ、「男は女を抱くものだ」
にも伝わりようのない話だが、本質的なことなのでメモ書き。
男は女を抱くものだ、それはペニスとかヴァギナの話ではなく。
霊魂のレベルで、まあこれは錯覚や妄想であってかまわないが、僕のような特殊な感覚が使える奴の場合、すれ違っただけの女をそのときに抱けるな、これは僕だからではなく「男だから」ということのようだ、男と女の霊魂ウンタラということなのだろう。
だからといって、別に何ということでもないが……ペニスやヴァギナは後付けのものであって、先に霊魂で抱いたり交わったりしているな、これはすれ違っただけでも起こるので、これなら女を抱くといって、何万人という数が稼げるじゃないか、数を稼いでどーすんねんとは思うけれども、僕はバカなのでそんなことばかり考えている。

男は、男の、肩を叩いたり、胸を打ったりするだろう。
大人は嬰児を、慈しむだろう。
ガキに対してはどうかというと、このところガキとはすれ違っていないのでわからない。
これは「気」ではなく、出会ってふれあう感触があるのは、やはり霊魂のものだな、まあうさんくさいったらないが、誰かに伝えるための話じゃないからいいだろう、すれ違っただけの女とそのときまぐわうことができる、男と女だから/ちなみに、このまぐわいはペニスやヴァギナを介さないのでセクハラにはなりません、ただ向こうはフウッと身が軽くなるもよう、マイナスにはならない(なるならやらない)、男と女だから。

霊魂のレベルでは、この世界そのものとまぐわって生きられるもよう。

僕が初対面の異性に、初めっからベタベタするのを見て、「なぜこんなことが許されるんだ?」「なぜいきなりこんなことをしているのに、『何も起こらない』んだ?」と不思議に感じた人がいると思うが、どうやら仕組みはこれらしい、身をもってベタベタするよりずっと前に、もうさっさと霊魂の側ではまぐわっているからのようだ、「もうヤッてしまったから今さら……」ということで、「何も起こらない」ということになるもよう。
この件については、男性陣はその極意を知りたがるに違いないが、三百万円を納付してくれたら、その方には「うん、キミにはそんなことできねーから」と耳打ちしてあげよう/スケベカルマが発動するようでは、霊魂なんてずいぶん後回しになるわけで、そこは話が逆だ、チンコマンコがしたい人は、それによって霊魂が閉じ込められているということなのだ、つまりチンコマンコをしたがる人というのは、僕ほど女の子のことが好きではないのだろう、僕などはチンコマンコ以前にタマシイが飛び出してしまうほど女の子が好きだから、そんなことが起こってしまうということなのだった。
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裸も着こなしのひとつ

いレディに向けて……若いレディなら誰でもご存じのとおり、それぞれの服装には着こなしというものがある、ポップな服にはポップな着こなし、ロックにはロック、エレガンスにはエレガンス、フォーマルにはフォーマル、キッチュにはキッチュ、甘々には甘々、フォークロアにはフォークロアの着こなしというものがある。
それでいうと、裸にも裸の着こなしがあるといえば、若いレディにとって、一つの道筋になるかもしれない/裸になったからといって、あなたは急にAV女優さんになるわけではない、何も着ていないというのも服装のひとつだ、われわれは文化をもつ大人なので、われわれの全裸は赤子の全裸と同質ではない
実際、ロンドンのファッション・ショーで、帽子と靴とバッグの他は「全裸」という、コレクションの展開もあったのだ、それじゃあオメエ、売るブランドが無ぇだろうよとは思うが、裸は服装のひとつには違いないし、そもそも「服装」はすでに「裸を隠すためのもの」ではとっくにない(裸を隠すだけなら国民服だけでいい)。
一方で、実はセックスの場面でも、全裸になるのは「ふしだら」「はしたない」という理由で、着衣のままセックスするのがマナーだった時代や地域もあるのだ、とかくわれわれは全裸になると何かが「なげやり」になりすぎる、そのことはあなた自身をラクにはしないしあなたに利益ももたらさないのだ。

僕は、若い女性が、服を「脱ぐ」というのが、どうも好きでない/またそれに合わせて、男性が目の色を変えるのも好きでない、何かどうもアホっぽいことが始まってしまう気配がある。
服を「脱ぐ」というのは、服を洗濯籠に放り込むときの動作を言うのであって、そうでない場合は、服から肌を脱(ぬ)くのだ、鞘から刀を抜くように、脱かれる肌の側が主役であって脱がれる服の側が主役ではない/「服を脱ぐ」では脱衣という行為が主役になってしまう。
たとえば、肘まであるロング手袋を、あなたが嵌めていたとして、その手袋を外すということは、ヨッコラセと手袋を脱ぐということではなく、前腕と手指が脱き出されるということだ、そうでないとなんとなくカッコ悪いじゃないか/ヨッコラセと「脱がせる」のではまるで介護みたいになる。
おそらく、「全裸」というと何かはしたないことばかり空想・連想しているので、それに合わせて、全裸に何かはしたない空気が貼り付くようになってしまうのだ、そういうのが好きという人もいるかもしれないが、あなたがそういうのが好きでないなら、考え方を変えて、そこから体質と肌質を変えていくのがいい、お刺身が料理のひとつであるように、全裸というのも服装のひとつだ。

全裸を着こなせないと、いわゆる性癖が歪んでしまう。

その意味では、いわゆる「性癖」が好きな人、それもドギツイ「性癖」が好きな人もいるので、そこは趣味の問題かもしれないが、けっきょく健全なことではない/どういうことかわかるだろうか、つまり「全裸」が逆に、一種のコスプレになってしまっているということだ、たしかにコスプレは「服装」ではないな。
若いレディなら、誰でもご存じのとおり、「服装」とは本体あってのもので、誰でも同じ服を着れば同じ服装になってくれるわけではない、着衣は1枚から服装でなく、着衣は0枚から服装だ/われわれは身体を着ているのだから、まずはこれを着こなすのが第一だ、もし裸が「服を着ていないワイセツ状態」だというならば、一人の画家も裸婦像を描かなかっただろう。

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セックスが気持ちよくないという若い人へ
れぐらい風が吹き抜けてくれると、30℃超えもいいな!
若い女性のうち、セックスがいまいち「気持ちよくない」という人が少なからずいると思う。
男性も同じで、特に「生まれて初めてセックスしたが、こんなもんかとガッカリした」という人はたくさんいると思う。
この、「セックスが気持ちよくない」という現象は、たいてい、セックスを「性欲」「興奮」でしているからだ/性欲、特に性的抑圧をぶっつける形でやるセックスは、さも気持ちよさそうに空想され、興奮が起こるが、それはエロマンガの話であって、身体感覚的にはバランスを失っているので気持ちよくないのだ、おばちゃんが必死で運転している車の乗り心地と同じだ。

「偏りがない」「何もしない」「どこにもいかない」というのがナイスという、これは、心身の営為すべての基本だ。
ところが、さびしい人、まあ若すぎる人はしょーがないところだが、自分に「何か」が欲しくて、抑圧の解放に「何か」が得られるという空想に縋らざるをえない人は、何かすごいことを「する」という発想を、セックスに持ち込んでしまう。
そうしてハァハァ息を切らし、「する」ということに突っ込めば、多大な「興奮」は得られ、さびしさは一時的にごまかされるのかもしれないけれど、それは興奮に慣れが生じてくると、身体感覚としては気持ちよくないのだ、若いやつはしゃーないのかもしれないが、こころの端で知っておくといい。
男女の身体が「触れる」ということは、男女の身体が「当たる」ということとは違うのだ、「触れる」というのはむしろ感触が消えることに近い/ガツンガツン「当たる」と、刺激的ではあり、それが性感帯ならウッフンアッハンはするのだが、それは性感帯だからごまかされているのであり、本質的には「痛い」のだ、かといって「添い寝」みたいなことをやりだすと、お互いを疲れさせるだけなので、ウットリしたところで相手はしんどいだけなのだった。

セックスにおいては、慕情と興奮が邪魔だ。

一般に、セックスにおいて重要だと思われている慕情と興奮が、両方とも邪魔だというのが、意外なことに真実なのだ、それは慕情にせよ興奮にせよ心身に「偏り」を生み出してしまうから/だからいざ始まってしまったら、慕情と興奮を切りなよ、そこまでしてさしあげるということを愛というのだ。
まあ、ガツンガツン当たるのも、「添い寝」みたいにするのも、アレンジとしてはいいのかもしれない、でもそれがメインコンテンツじゃない/ガツンガツンハァハァする人は、性欲からセックスに優れているのではないし、「添い寝」したがる人も、慕情からセックスをよく見られているわけではない、とにかくヘンな自信を持つものじゃないな、目指すなら「かっこよくセックスする」を目指すのが一番無難で筋がいいところだ(もちろんスベってはいけない)。
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セックスで結合するもの
般に、A男くんとB子さんがセックスすると、「A男くんとB子さんがセックスした」と捉えられる。
が、本当の事象が起こるときは、「A男くんがB子さんでセックスした」というほうが正しい。
ふつう(現代人は)、そんな事象の本質にまで感覚は届かないが、まあ一応、フーンというネタていどに。
本当に正しくそれが営まれると、セックスにおいて結合するのは「男と女」であり、A男くんとかB子さんとかの個人的なスケールからは逸脱するのだ、「全的な男と全的な女が結合する全的な現象」が営まれるというのが正しい。

つまり、吾我に起こる「男」とか「女」とか、「やりたい」「やられたい」とかの現象よりも、「セックス」という現象のほうが、それ自体としてデカいということ。
正しくそれが営まれるとき、「セックスが男女の二人をつなぐ」のであって、「男女の二人がセックスをする」のではないのだ。
「セックス」という世界的事象が主体となって、そのとき男女は従体になり結合されるということ、これをそれぞれの吾我が「本能〜」とかいってヤッちゃうと、オオハズレで、何かあとになって「やめときゃよかった」と揉め事になるのだ/正しくそれが営まれると、どちらかというと「不思議」という感覚だけが後に残る。
吾我が認識し、空想したり憧れたりする「セックス」と、まったく異なる「セックス」というそれ自体の事象が、巨大なものとして存在するということだ/このことは、どれだけセックスに空想をたくましくしても、実体験を得るまでは絶対にわかりません、というかそんなもんわからんでええやろ。

正しく営まれると、官能なんかよりはるかにデカい「ナゾの大きな結合事象」の感覚がある。

天と地が結合しているのか、いやセックスだから地に関係しているのは間違いないだろうが、それにしても、地が解決し、天に飛翔するような何かの感覚がある、それはまったく個人的な事象ではない、これが正しく営まれたとき、少なくとも「性器」というようなアホなこだわりの感覚はない/この正しい営為においては、どれだけ乳がデカくても、どれだけコスプレが変態的でも、まったくの無意味だ。
これに比べると、どれだけ官能ブーストしたオナニーも、またどれだけ相互に官能補助しあったセックスも、ただの官能なので無意味だ、無意味っつーとアレだから、まあそれ限りのものでしかないということになる、官能のやりあいでは「ベッドルームが消し飛ぶ」というようなことはない、本当のセックスは天地的であり密室的ではない、まして性器的なんかであるはずがない。
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「あなた、あの子にもしてあげたんでしょ、あなたって本当にやさしいわよね」
まにはこういう話をしないと救済にならない、特に女性にとっての救済がなくなる。
震えるほど、前を見て、何もかも蹴散らして、清潔、「すごい」と思える人、「この人は死んじゃだめ」と思える人、そういう人と交差し、そういう人と、たまに重なって生きていくといい。
セックスのために自分を調整して、セックスにターゲットを絞り、セックスに「ボク」を発揮しようとする男は、たいてい女をげんなりさせる(たいてい、というレベルじゃないな)、そうしてげんなりダメージを負うとけっこう尾を引いてしんどいものだ。
女は、どうしてもセックスに囚われてしまうところがあるので、女から見て男は、セックスに囚われていない人であってほしいのだ、セックスして数分後、「あっこの人、もうセックスしたこと忘れているわ」という眼差しを見て、女は「よかった」と思える/僕は男なので本当のことは知らず、もちろん口から出任せでテキトーを言っているのだ。

理想的には、女としては、すれ違いざまに抱かれた、というぐらいが、本当はベストなのかもしれない。
全身にみなぎる鋭気とやさしさ、集中力と荘厳、同時に保たれているやわらかさとユーモアの気配、そして燃焼と可能性、危険と慈愛の只中にいる男の双眸と、たまたますれちがうことがあって、「あっ」と思ったとき、すれ違いざまに抱かれて、その後は何事もなかったように立ち去られた、「わたし震えちゃった」というのが、本来は理想的なのかもしれない。
セックスは男の時間であるべきで、その男の時間の中、女は自分の吾我が消えてほしいのだ、男の時間を成り立たせるために自分がそこにあった、というのがベストなのだ、つまり女性にとってセックスは「おまんこ」であってほしくないということ。
セックスというのは、特に女性にとって、ネチネチした遺恨モノになるのが最悪のケースだが、だからこそ、元々がネチネチの遺恨モノのように生きている男性だけはカンベンなのだ、そういう男がセックスに必死であれば必死であるほど、「ヨソを当たってよ」という気持ちにどうしてもなる/ただし、よっぽどさびしがっている依存症の女は別で、共依存したい場合はそういう遺恨ワールドもありということだろう(おれはいやだ)。

「すごい人だったわ、そして、何でもなかったわ」というのがいい。

昔、六億年前の僕の経験によると、一番まともな状態のとき、女性は僕の相手をつとめることを「当たり前じゃない?」と言ってくれ、つまり「あなたがわたしをこうするのは正しいことよ」と僕によく話してくれた、もちろん六億年前の話なのでアテにされても困るし、もういろいろ時効だということでお許し願いたい。
冗談でなく、六億年前には、「あなた、あの子にもしてあげたんでしょ、あなたって本当にやさしいわよね」と言われることが実際にあった、今取り出したところで使いようのない話だが/ただ少なくとも、ネチネチした怨恨モノになるよりは遙かにマシだ、僕はれっきとした美女のちょっとしたかわいらしいジェラシーにしかローズオイルは湧かないと思う、ローズオイルに対しては例外的に土下座しようかなと僕は思っているのだった、いわゆるダブルスタンダードである(自ら弁解の余地をなくしていくスタイル)。
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エイジア、ホテル、「こいつ誰だっけ?」
なんてもんは、どんな女でもセックスできりゃいいわけで……
「昨日誰としたっけ? そもそもオマエとしたことあったっけ? 忘れたわ」ぐらいのほうがちょうどいい。
もともと男はそういうふうに創られているのだから、それを「ボクは純愛の一途です」みたいなことを言っていたら、そりゃ単純にいってウソだ、ウソプラス不能ということもあるのかもしれない。
だいいち、おめえ、これまで何種類のアダルトコンテンツでオナニーしてきたと思っているんだ、一途とか言っている奴はその背後にエロ動画の全再生履歴でも表示しておけよ、その全履歴が一途だったら逆に激笑で一途だけどな。

問題は、「こいつ誰だっけ?」とファックしているとき、それでもなお、その光景に愛があるかだ。
何か知らんが押し倒した、押し倒したらヤレたからヤッた、「別にニコニコ動画を観るタイミングでもなかったので」という理由だけでヤッた、その中でなお相手の女が「この人はやさしかった」と感じるようでなくてはならない/そうでなきゃ女が傷つく、女を傷つけていいなんて考える奴はセメントをシェイクにして飲んでろ。
別に意味があってヤルわけではないし、とびきり愛している女とヤルということと、そうではない女とヤルときとは、何かの内容がまったく違うのかもしれないが、それにしてもそいつに関わったすべての女性が、「この人はやさしかった、正直で、素直で、何も怖くなかった、うれしかった、わたし女でよかった、わたしでよければいつでもお相手をさせてほしい、わたしはあの人の味方なの」と感じるようでなければ、平たくいって「失敗」だ、銀座のおねーちゃんに夜な夜な説教している白髪のメガネジジイのように「失敗」だ。
PTAの熱烈な指導がどのようであれ、残念ながら、男は元々そういうふうに創られているので、つまり本当にやさしい男がいるならば、その男にめちゃくちゃにされたのに「やさしかった」ということでなければならない/パラメーターを自己調整して「やさしい男」を創ったとしても、そりゃ調整をやめたら正体としては何もやさしくない男ってことだろ、そりゃどんな酒でも百分の一に希釈したら「やさしいお酒」になるに決まっている。

火薬庫にけっきょく花火しか入っていない男がやさしい。

その男は、火力を総動員したとしても、けっきょく花火しか出てこなくて、人を傷つけないだろう/それに比べたら、牧歌的な草原のふりをして、実は数カ所に殺人地雷が埋まっていますという男のほうがよっぽどやさしくない、しばらく付き合っていたら必ずその地雷がモノを言うのだから。
まあ、だいたい、やさしさをウリにしようとする男はそれだけで激しくイタいというのが相場だが、まあ僕みたいなおじさんは童貞みたいなものだからおとなしいものです、いやあ腰痛がね、腰痛なんて一ミリも持ったことないけどね/若い頃はひどいことをしたのかもしれない、僕は女を暗くするのがイヤだったから、「こいつ誰だっけ?」と、別にヤレたら誰でもいいということを遵守していた、今はもう童貞なので僕には何もわかりませ〜ん。
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【聞け】若い女性とセックス2【聞け】
紙に対抗できない=さびしい、という脅威がある。
そこで女性は、自分が男に「求められる」ということに希望を見いだす。
男が、業(カルマ)によって自分を求め、苦しんでもだえるほどなら、自分には「何かがある」のではないか、自分は空虚ではないのではないか/そう信じて縋りたくなる。
ふだんは何ということもないが、水面下からさびしさがせり上がるとき、自分が「求められる」ということに食いついてしまう/慌てることは何もない、ただ知っておくべきことがどうしてもある。

慌てることは何もないが、つまり、そのとき目的は自分が「求められる」ことであって、男を満たしてやることではない。
「求められる」と、自分は空虚ではないという気がして、白紙の脅威が止む、それが目的であって、そのとき目的の本質は愛ではない。
女はさびしいとき、「自分を求めて苦しんでくれる男」が、どうしても救いに感じられる/逆に、もし自分を求めてもこず、しかも心底満たされている男がいたら、女は「自分には何もできないんだ」と奈落に突き落とされる心地さえする。
それで女は、さびしさにおびやかされたとき、何かしらで「業に苦しんでいる男」のほうと付き合うことになる/そのこと自体が悪いわけではないが、けっきょく目的に愛があったか、慈しみがあったか、それとも自分のさびしさしかなかったのじゃないか、ということが問題になる。

なぜ「求められる」イコール「救い」に感じる? その時点で省みろ。

突き詰めるところ、「自分のさびしさを慰めるために、男の業を(最大限煽って)利用した」ということだけが残る場合もあるのだ、そんなことけっきょくろくなことにならないに決まっている。
まして、その「求められる」ということは、女性にとって生涯続くことではないのだ、一方で「自分は何のために生きているのか」という白紙の脅威は生涯続く/紆余曲折はしょうがないが、「求められる」を恒久の救済と信じてはいけない、ふと気づくといつのまにか、他人の業を期待して、自分を救済に使おうとしている。
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【聞け】若い女性とセックス【聞け】
、詳細までは話せない。
若い女性は、「さびしいから」セックスをしてしまうだろう。
さびしい、ということは、白紙に対するアプローチを持てない、ということだ。
誰にもナイショにし、こっそりしていると思うが、さびしいからセックスをしてしまうという、「このことから逃げ切れない」ということがあるはずだ。

白紙に対するアプローチを持てない。
さびしい、ということが、抗えない脅威で、セックスをすれば、白紙ではなくなる気がして、さびしさの脅威から逃れることができる(気がする)。
慌てなくていい、ただ、それはセックスを「してしまう」ということだ、自ら選んでしているのではない。
「わたし」がやっているのではないのだ、「わたし」の問題は継続されている、さしあたりそれだけどこかに覚えておくのがいい、さびしいからセックスしてしまうのであって、それは白紙に対するアプローチではなく、白紙に対して目を背けたということだ(ただし慌てなくていい)。

わたしはヴァギナなんだ、という考えには一定の人気があるが、すべて白紙への無力から生じている。

むつかしい話なので、今詳細は書き切れない、だが冷静に考えればあなたがヴァギナであるはずはない、「自分がヴァギナならセックスをすればわたしだ」と曲げているだけだ/しかし白紙は充実していない。
さびしいからセックスをしてしまう、慌てなくていい、ただそれはセックスを「してしまう」のであって、あなたのセックスがそこにあるわけではないということ、ヴァギナのセックスはあなたのすることには入っていない/あなたはヴァギナではなく、あなたのすることがあなただ。
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ゴーマンな腰振りと、しょーもないメスの気配3
は女に幻想を抱いている。
女も、女に幻想を抱いている。
よく女同士なら、「女ってひどいもんだよ〜」というが、そう言っている女だって、自分のヴァギナのタチの悪さを心底から知り抜いて言っているわけではない。
女はいつでも、クスリを盛(も)られてそのときのペニスを入れられたら、ふらーっとそちらのペニスへ流れて行ってしまう存在だ、そのための穴があいているのだ、このゾッとするようなものをよく知った上で、それでも「かわいい」「大切なもの」と言えるのでないと、男は女を愛していることにならない/性欲が盛(さか)るのを理由に「女を愛している」とは決して言い出さないように、でないと当人が混乱するから。

つまり、「○○ちゃんのことが大好き」とか、「キミのことを愛しているよ」とか「思い出がいっぱいだね」とか、信じたくなるのはわかるが、その愛では残念ながら「届いて(到達して)」はいない、女も必死にその健気な愛を信じて縋ろうとするが、本当の本当に「届いて(到達して)」いるかというと、残念ながらそうではないのだ/かといってそれがニセモノというのではない、なんとか愛し合おうとした者たちの健気さは崇高だ。
だが、もし人々の健気さとヴァギナの本質を「真っ向勝負」させたら、単なる威力としてヴァギナの本質が勝ってしまうのだ、いかに健気で涙ぐましくても、それだけではヴァギナのタチの悪さには勝てない、勝利できるとしたら唯一、愛が届いて一度は女が100に到達した場合だけだ、その場合だけ、女は「わたし」をヴァギナに譲渡せずに済む。
もし男が、セックスという直接の方法を通して、女に「わたし」を掴ませようとするのならば、そのヴァギナのタチの悪さを全面的に引き受けた上で、それでも愛してやるということが必要になる、ただしこれは壮絶なことなので、必ずしもこの方法にこだわる必要はない、フツーの感覚なら「ムリムリw」というたぐいだ。
女が目の前の男を信じて、ヴァギナの本質をすべて解放したとき、ヴァギナの力が嵐となって噴出してくる、それでもなお男が、その女の内に、ヴァギナではない「お前」を見つけてやれるか/これはヴァギナの力が嵐のように吹きすさぶ中、その嵐に直撃されて微動だにせず「お前」を見つけてやるという作業だから、よほど鍛えられている男にしかできないのだ、まして自己がヴァギナに食い尽くされていく真っ最中の女に向けてだ、<<女当人も叫んで拒絶する>>中、それでも微動だにしないで「お前」を見つけてやるということだから、いくらなんでも壮絶すぎるのだ、そこまでできたら「女を愛している」といって誰も否定はしないだろうよ。

「わたし」を掴んだ女に、「おめでとう!!」と送ってやるときが一番幸せだ。

女にとって、自分が何のために生きているのかという、定義が得られるかどうかの問題だ、別にセックスにこだわる必要はなくて、ただその定義が得られないと女はたいていヴァギナに自分を譲渡するということがある、そして僕はわざわざその方向へ足を引っ張る男どもが存在することにはどうしても肯定的になれないのだった/もともと自己を持っていない女に自己を放棄させるのなんて簡単すぎるんだよ、その逆がどれだけカッタルイものか、そのイージーなほうを男の自負にするのは本当にやめにしないかと提案したい(しかもそっちのほうが老けた女にはウケがいいという、ふざけんじゃねえよオイ)。
今、世界中の女性が、自己実現に向けて明らかな動きを示している、僕はそれを応援したい者だが、男を否定した女が自分だけで自己実現に至る(「わたし」を掴む)というのがどれだけ困難なことかも、年の功として知っているつもりでいる/できたらどの女性にも、「本当の愛を向けてくれた男性がいた」ということが背後にこっそりあったほうが、取り組みの支えとして有利なので、できたらそうであればいいなと、僕は祈っているのだった、もちろん大きなお世話というやつではあるけれども。
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ゴーマンな腰振りと、しょーもないメスの気配2

ーい面倒だ、本当のことを話してしまおう。
女は、ヴァギナという穴があいていて、そこにペニスを突っ込まれると、いつでもバカになれるというリスクがある。
だがこのリスクは、「わたし」の存在が掴めていない女に限る、「わたし」が掴めない・失われていくという苦しい状態でいると、女はヴァギナ感覚に「わたし」を譲渡したくなるのだ、このことには本能のはたらきもあって、つまり自分の生が「わからない」から、次の世代に投げようというはたらきもある。
つまり、「わたし」という自己が掴めない女は、実は根本的な自己決定の能力がない、いつでも「ふらついているヴァギナ」にすぎないのだ、このことがわかっていたから昔は、女というと家の中に囲っておくものだったのだ/「ふらついているヴァギナ」は、好ましいペニスと出会ったらもうそちらに行ってしまって帰ってはこなくなるから。

何も珍しいことではなくて、当たり前のことなのだ、自己が掴めていない女はヴァギナなのだ、こんなミエミエのことをいつまでも「女のナゾ」みたいに扱う風潮はいいかげん付き合いきれない。
女が自己を掴むにはどうすればいいだろうか、それは言わずもがな、男でも女でもそうだが、「愛」に出会うことだ、人は誰かへの(誰かからの)「愛」に出会うことで、はじめて「わたし」の存在とその理由、および自己決定を見つける。
ただし、女にそれだけの愛を向けて、「わたし」の存在と自己決定を得させるのは、ただごとではないし至難のワザだ、女が好むファンシーな思い出をいくら足してやったところで、女が「わたし」を見つけることは決してない、人間なのだからそんな甘い話があるわけないのだ。
たとえ99まで壮絶な愛を向けたとしても、それが100に到達したことがなければ、女は適宜、出くわしたペニスと仲良しして、その都度「ヴァギナ自己」にふわぁっとなって、もう戻ってこなくなる、そりゃ当たり前の「定番」だ/女が100に到達したくて男と出会いたがるのはうつくしいことだが、それを放棄して盛(さか)んなペニスと出会いたがるようになるのは、残念ながらつまらんことなのだ、僕は女と寝るというのはわかるが、ヴァギナと寝るというのはわからないし好きじゃない、ついでに言っておくと男性のペニスの大きさは業(カルマ)と関連しており、ペニスが大きいというのは実は業が深くて不利なのだ、ギリシャ彫刻を見ればアポロンのペニスが小さくて「理想的」と示されているのがよくわかる、女がヴァギナ化してしまうのは「真実」じゃなくてただの「失敗」なのだ。

ヴァギナに向けてセックスをするのは容易だが、女に向けてセックスをするのは壮絶な根性がいる。

女が「ふらついているヴァギナ」にならないために、たとえば中東では女にだけ姦通の罪を重く設定したり、とにかく「貞操」でがんじがらめにしてきたのだが、それは防衛障壁であって解決の方法ではない、解決のためには女が「わたし」を掴みとるしかないのだ/つまり「この人と出会うために生まれてきた」「それがわたしだ」というところまで到達しないかぎり、女は本質的に野放しにすれば「ふらついているヴァギナ」にしかなれない。
こう考えればわかりやすいか……たとえば、優れた女性シンガーがいたとするじゃないか、そのときその女はとても強力に自己を発揮しているように見える、けれどもどこか、「結婚したらシンガー活動をやめてしまいそう」という感じがしないか? だとすると、それはそれだけ歌っていてもなお、その歌手は「わたし」でなはいということなのだ、もちろん婚姻のシステムに帰順したからといって女が「わたし」を掴めるわけでもない/こんなもん、もともとがこれだけ不利な「女」を、ヴァギナ化したとしても男には何の自慢にもならんのだぜ、男はすべからく女が「わたし」を掴むことに協力しろ、女をヴァギナ化してエロ湯たんぽにすることなんかクソ簡単すぎてつまんねえんだよ。

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ゴーマンな腰振りと、しょーもないメスの気配
は男尊女卑がキライだ。
おれが女よりエライのはステキでいいけど、男が女よりエライというのはどうなの、そんなことはまったくないだろと思ってしまう。
なんというか、アダルトビデオなどを見ていると、男の腰の振り方がゴーマンなのがきらいだ、何かチンコを突っ込んだら「はいオレの勝ち〜」みたいな、意味不明の傲(おご)りがある/一般にセックスってそうやって楽しんでるの? 正直まったくその感情がわからん。
また、その意味不明のチンコ感情に、女の側もオマンコ感情で応えて落ち着くというところがあって、これが僕はキライなのだ、女のほうがさっさとオマンコになりたがっている素振りを見せることはよくある/またその性分につけこんで女の上にのしかかり、「ハイ女心〜」と思っている男が増えるのも、僕はキライなのだ、これは僕が悪いのだろうが、そっち系のパターンはもうかなり昔に飽きてしまっており、今さら盛り上がられてもげんなりするのだ。

これは、あきらかに僕のほうが近所迷惑なのであって、つまり僕は、男女平等どころか女の子たちに隷属するオモシロ虫として向き合ってきたのだが、その結果、陰茎と女陰で「ハイ決着〜」ということはせずに、よりにもよって男の神霊力()と女の神霊力()をフル出力で対決させあうというやり方をしてきた、そりゃあ確かに男尊女卑にはなりっこないけどさ……/しかし結果的には、こちらのほうがメチャクチャになってしまうのは当たり前であって、僕は男女平等というからには、女性のほとんどはこのていど簡単に付き合えるのだと思っていた(アホだ)。
マジにそう思っていたので、そのことはこれまで何十回も、周囲の女性たちに叱られてきたのだ、「こんなバケモノが手加減なしにフル出力してくるものに、女がどうしろと?」と、いよいよ本気で叱られたので僕も本気で反省している、しかし反省はしたとしても、その後どうしたらいいものやら……ということでぼんやり困り続けている。
とりあえず、僕はおとなしくしていると割と評判がいいので、いろいろサボろうとは心がけている、僕がサボろうかなというと「ぜひぜひ」と言われるのも逆にどうかと思うのだが/何せよ、僕は、アダルトビデオで見る男の腰の振り方がゴーマンな感じがして好きじゃない、あれを「男らしさ」と言われるとさすがにそれは弁当箱に特製ベニテングダケソースを入れてやりたくなる。
そして、そのゴーマンな腰振りに、屈服して楽になろうとするウッフン女の気配があるのもきらいだ、中には男女平等を主張する女当人こそ、ゴーマンな腰振りに屈服するオマンコの気配が滲み出ていて、またそれを男どもがニマニマ見ているというような構図もあって、僕はそれらにきらいというより「ヒマすぎるだろ」と言い立てたいのだ/「ゴーマンな腰振り」というと「ゾクッとします」というようなしょーもないパターンは男も女もやめような、ガキじゃねえんだから。

僕は自分のエロビデオの閲覧履歴のすべてを世界中に開示されても何とも思わん。

まあ、あまり変態的な趣味はないので、王道か、一部にはロリ系に偏ったものを観ているぐらいで、あまり面白みはないだろうが、しかしこんなものを暴露されたところで、いったい何が恥ずかしいのかおれにはさっぱりわからん、別にオナニーしているところを世界中に配信されてもおれは何とも思わない、ただそんなもの人を不快にするだけなのでわざわざこちらから見せてかかるわけはないが、もし放映されたらびっくりするぐらい「つまらん」と思うぜ/いったいセックスに「淫靡」を覚えている人は、どのへんに淫靡さを覚えているんだ、頼むから今さら「堕落、したいの……」みたいなのはやめてくれよ、どうせ本当にゲロを吐くのはマジモンの神霊力()を食らったときなんだから。
ゴーマンな腰振りをする男、その、チンコをマンコに入れたら「ハイ勝ち〜」みたいな傲り方で出てくる感情は、何かふだんよっぽど優越感に飢えているからなのかね、またその優越の下敷きになって特別な気分になるのが得意な女もどーなんだ、こんなことで「オトコとオンナ」とか言っているとめまいがするので、もっと健全にやりましょうや/男女に身分はあると思うけれど、まさかその身分を「おらおら」と「あんあん」に帰属させるつもりじゃないでしょ、どこの詩文にもそんな男女像は示されていないし、ルーブル美術館にもそんな男女像はひとつも展示されていないでしょ。
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勇敢な女性へ向けて、セックスと「オマンコ感情」の話

敢な女性に向けて、身も蓋もない話、しかし本当に一番役に立ちうる形として、この話をしておきたい。
われわれは、<<肉体を解放したい>>のだ、しかし肉体を解放すると(若いうちは特に)セックスになり、セックスをすると何かが「下落」してしまう。
結論から申し上げると、この「下落」は、実は「オマンコ感情」によるものであって、セックスそのものから生じているものではない
要するに、<<真の肉体解放とは、オマンコ感情から離脱すること>>だということ、ただしこのことは現代ではおそろしく難しくなっている、この明白な結論は「わかりやすいが、とてつもなく難しい」と慎重に理解されている必要がある。

「下落」を避けるために、ある人は肉体を抑圧した/これは小市民的な「プラトニック・ラブ」が選ばれたと見ていい。
またある人は、オマンコがなければ「オマンコ感情」は起こらないと考え、具体的にオマンコを排除し、男同士の交合に憧れた/現代でいうといわゆる腐女子がそう、そして古代ギリシャの少年愛制度もこれにあたる。
しかし、プラトニックラブも、肉体を解放したら「けっきょくオマンコになるんじゃんw」ということならつまらないものだ、そして男同士の交合だって、「けっきょくケツマンコしてるんじゃん、それはオマンコじゃんw」ということになったらつまらないものだ。
それでけっきょく、「どうやったらオマンコ感情を離脱できるの」ということに尽きてくる、そしてそれについての回答もカンタンだ、「それ以上の感情を見つければいい」というだけだ、ただしその上位感情の発見はとてつもなく難しい、何しろそれは「叡智」のたぐいだ/とはいえ、それは「難しい」だけであって、それは「ある」のだということだけは先に申し上げることができる。

オマンコ感情 < ○○感情。

あえて、それに名前をつけるのは避けておく、僕がエラソーに言うような話では本来ないからだ/それは愛には違いないが、一般に思われている愛の感情とはかなり異なる、これは儚くて切なくて、勇敢で世界的な感情、そしてなぜか得られてしまえば「ありふれて当然の感情」なのだが、どうせこれ以上は野暮になるだろう、とにかく<<オマンコ感情は正じゃない>>とだけ話しておきたかった、<<オマンコ感情に落ちていくことは、ロマンチックでも何でもない、女であっても男であっても>>。
オマンコ感情の使徒になってしまう女、あるいはオマンコ感情に隷属してしまう男、また互いに「下落」の責任をなすりつけあって反発しあう男と女、そんなことが本当にしたいのではわれわれはなかった/男女とも、どちらも決定的な責任を負っている、オマンコがあって射精が起こる、そのカウンターに本当には何が起こっているのだろう? 僕はえげつない話をしているのじゃない、オマンコ感情が盛(さか)るからえげつなさが感じられるだけだ。

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射精する役と、射精させる役2
は、「ガマン」と「サービス」は、対極の精神から発生しており、これが人の行き先を光と闇に振り分けているのだが……
「ガマン」というのは「アートマ・マーラ」という悪魔のことで、「サービス」というのは実は「礼拝」という意味でもあるからね、辞書を調べればわかるが、悪魔と礼拝だと精神がまるで逆でしょ/まあそんなことはいいや。
「射精する役」と「射精させる役」、このことをあなたが言おうとすると、射精「される」役、とあなたは言い間違えるかもしれない。
人によっては、実感は、射精「される」役かもしれないが、正しくは「させる」役だ、実感が異なるのは人によってそれぞれやっていることの実際が違うからにすぎない、つまりサービスがさかんな人は射精「させる」役だが、内心にガマンがある人は射精「される」役になっているはずだ、僕は「ガマン」に寄与することは一切取り扱わない。

男が射精に向けて高まるとき、女からは「この人は自分にはないものがある」「自分にはない世界を持っている」ということに、どうしてもなるのだが、このことがうまく成立するのに、一番ありふれた例が「家」だ、女性は男性よりはるかに「家」のことを大事にする(家系という意味ではなく、ハウス、衣食し、住むところの家として)。
女性が「家」という世界を掴んでいるとき、男性が男性にしかない「射精する」という世界に行くとしても、「まあ別にかまわない」「いってらっしゃい」となりやすい、わかりやすくいうと女性には射精の代わりに「家」があるのだ、だから男性が射精にこだわるのと同次元で、女性は「家」に強いこだわりを持つことが多い。
ここは別に、射精だの家だのと、ありふれているものに限定することはないのだ、どんなものでも「世界」を掴めばいい、自分の掴んでいる世界なんてたくさんあるほうがいいに決まっているのだから/そして射精にせよ家にせよその他にせよ、その世界を掴めている人は、それを掴めはしない人に比べて特権があることを認めねばならない、ここを平等主義でごり押しすることはけっきょく不毛だろう。
男性が射精に向けて高まるとき、男性は射精の世界に行ってしまう、それは女性が入ることのできない世界だ、そのとき自分の行く世界がないと、置き去りにされるので「うわっ」となる、イヤな気持ちが荒れてゆくのだ、このイヤな気持ちは根源的に男性の射精世界を否定するほうへ傾いていく/射精という機能と行為そのものが「サイテー」「サイアク」に感じられてくるのだ、自分だけ置き去りにされて他のみんなだけ楽しい世界に行ってしまってずるい、というような怨恨の感情が湧いてきてしまう。

射精で荒れる女は、部屋が汚い。

自分の部屋をひとつの「世界」にできないので、部屋は汚くなる、こういう女性はたいてい外に自分の世界を獲得しようとガンバっているものだが、それがなかなか得られないという場合も多い/この中でセックスをすると、男は射精の世界を明らかにするが、女はそのとき「また自分だけ何もないところに置き去りにされる」「ずるい」「自分だけ犠牲者」と感じて荒れ始める、ただしこの感情は奥の層で生じているので、ふつうの感覚レベルではまず精細に読み取ることはできない(読み取りはできないが、気持ちが「荒れる」ということだけ起こる)。
音楽でも絵画でも、小説でも射精でもそうなのだが、優れた者がその営みに本腰を入れた瞬間、そこに多彩でうらやましいほどの「世界」が本当にあることが見えてしまう、それが見えた瞬間、自分の「世界」を掴んでいない人は、荒れ始めるのだ、それは「さびしい」という、実は激烈な感情で、この感情がある以上、どう取り繕っても真に穏やかになることはできない。
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射精する役と、射精させる役

れぐれもいうが、セックスなんて、別に必須のものではないので、無理にやらんでよろしい。
ただ、あくまでセックスを「する」ということになれば、射精する役と、射精させる役に分かれる、これだけはさすがにいかんともしがたい。
結論からいうと、男性が射精に向けて高まるとき、気持ちが「荒れていく」女性は、残念ながらハズレだ、どこで何を呪ったのか知らんが、魂は闇に向かっている(沈降)。
一方、男性が射精に向けて高まるとき、気持ちが「穏やかになっていく」女性は、幸いなことにアタリだ、わざわざ気分を高めなくても、魂は光に向かっている(上昇)。

ただしそれは、「満足感」ではない、女性なのだから男性に射精を向けられると、一定の満足感があるのは当たり前だ、そのことはアテにならない。
男性が射精に向かうとき、何が起こるかというと、女性の側には「こればっかりは自分にはわからん」なのだ、女性はどうしたって射精はできないからだ、そのとき女性は自分の身が射精「させる側」だということに向き合わされることになる。
もちろんその射精に、直面しないように、そっぽを向いているようにすれば、情緒的な動揺は起こらない、だからそっぽを向いているか、こころのつながっていない男性と寝る場合には、アンアンしたりさせたりを楽しんでいれば、それだけで終わるので何の問題もない。
男性が射精に向かうとき、女性から見ると、「この人はわたしにないものを持っている」「だからこの人はにこの人だけが持っている世界がある」ということがわかってしまうのだ、それを見て「イヤだ」と内心が叫ぶ人は気持ちが「荒れていく」、「どうぞ」と内心が送り出す人は気持ちが「穏やかになっていく」/女にはない世界があるというので、「イヤだ」もしくは「いってらっしゃい」と、二つの感情に分かれるのだ、片側だけが世界を持っている特権階級なので、平等主義だとこの瞬間は「イヤだ」という感情に傾く、むしろ「イヤだ」という感情のほうが倫理上は正しいのかもしれない。

射精させる役は、さびしい。

射精させる役は、自分が射精はできないので、射精する役を世界に向けて「いってらっしゃい」と送り出すことになる、自分はその世界へゆけないのでさびしいのだ、このさびしさは自己愛に向けては明らかにマイナスなので、自己愛が失せるほど目の前の男を愛していないと、「わたしはさびしくていいの」と引き受けることはできない、むろん女性は憤怒していいのだ、これほどひどい男尊女卑も世の中にない。
けれども「世界」というのは、もちろん射精することの「世界」しかないわけではないし、他の世界を自分で掴める方法はいくらでもある/そして女性が何かの世界を掴んで、射精の世界については「いってらっしゃい」「わたしが射精させる側を引き受けられるのなら光栄だわ」「見送る側はいつもさびしくていいの」と引き受けられるなら、セックスはずいぶんまともで穏やかなものになる、一方自分で何の世界も掴めていない女がセックスをすると、どうしても麻薬依存的な状態になり、射精「させる側」へ置き去りにされるときには異様な気持ちの荒れが生じる。

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男のシャツのボタンに手を掛ける指
源的に、セックスを「悪いこと」「下劣なこと」と思っている人が少なからずいるようだ。
セックスが「悪いこと」「下劣なこと」とする捉え方は、間違っているのかもしれないし、間違っていないのかもしれない、そしてもし間違っていたのだとしても、その修正はめんどうくさいので、もうそれでいいんじゃね、という気がしてくる。
第一、いまどき、セックスなんか無理にする必要はまったくないので、そういうことに向く人はやればいいし、いまいち向かない人は、無理にやる必要はないのだ、あまり主要なテーマにはふさわしくない。
少なくとも言えることは、セックスを「悪いこと」「下劣なこと」と捉えている人と、逆に「正義のこと」「気高いこと」と捉えている人、両方があるということだ、この両方は性質が違うので互いに噛み合わないだろう。

「わたしのような、色気づいただけの小さな女が、それでも愛する男に祝福と歓喜と解放を与えて差し上げられるなんて、わたしにとっては最高に恵まれた正義のことなの、わたしが汗を流すだけで、彼は自分が男に生まれてきたことをよろこぶことができて、そこから彼は自分が生きることをなお拡大できるのよ、ここでわたしが引き下がれる理由はわずかもないわ」という捉え方もある。
一方、「まあわたしも、エッチはきらいじゃないし、本能だから仕方ないんじゃない? それに、男の人がそういうことに必死になっている姿って、やっぱり見ていて女として気分がいいし」というような捉え方もある。
それは、なんというか、セックスを人の「営為」と見る派か、人の「趣味」と見る派の違いだ/そして確かにセックスを「趣味」として見るなら、セックスはどちらかというと悪趣味に入るだろう。そんな人に見せられない趣味に耽らずとも、世の中にはもっと健全で明るい趣味がいくらでもある。
たとえば、うまいメシや料理を、自分の生きる世界そのものと接続する人もあれば、単に食い道楽が趣味、という人もある、またそれが趣味だというなら、「正直あまり食事がどうこうとか関心無いのよね、洋服のほうが好き」という人もある/絵画が趣味とかダンスが趣味とか音楽演奏が趣味とかいう人はいくらでもいるが、それらを「営為」として「自分の生きる世界そのもの」と接続する人はそんなにいない、そもそも「自分の生きる世界」なんてものを持っている人が絶対数として少ないのだから。

セックスへの向き合い方は、読書への向き合い方に似ている。

「わたしけっこう読書するよ、本好きなの」という人が、かわいらしい趣味をしている一方、やはりこれまでの歴史の中で、「命がけで書物を読み解かねばならかった」という人々もいる、同じひとくちに「読書」といっても、その内実はまったく性質が異なるだろう。
男のシャツのボタンに手を掛ける指は、本の表紙に手を掛ける指に似ているということだ、単なる趣味の人、「何があるかな」とただ楽しみにする人、それ以上の命を帯びている人/そこは人それぞれなので、ただ人それぞれなのだということを知り、うかつに同じ語り口を向けるべきではない。
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