☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
(或る幻視2)
(性器を失うと女は交合を失いますか)
(そのとおりですが、あなたに権利と権力を勧めてくる者がいるので、そうはならないでしょう)
(そそのかされ権利と権力が芽生えると性器はふたたび現れますか)
(そのとおりです、それじたい権利と権力を帯びていますから)

(交合は権利・権力の取引で生じますか)
(一般にはそのとおりです、正しくはそうではありません)
(正しくはどのようになりますか)
(正しくは性器を消してもらうため・奪い去ってもらうために交合を求めます)

(性器を消してもらって女が生じる)

(そうしたことはなぜ一般に聞かれませんか)
(人が権利・権力を支配してはおらず、権利・権力が人を支配しているからです)
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(或る幻視)
(あなたはなぜ女性なのにペニスがあるのですか)
(セックスに興味を持ったからです)
(性的な能動性があなたの股間にペニスをもたらしたということですか)
(本来女性は股間にペニスがないのでしょうか)

(本来女性は性器がありません)
(股間にヴァギナがあるのではないですか)
(いいえ、股間に「ない」というのが女性です)
(交合はどのようになされるでしょうか)

(有と無が観測されないまま交合が起こります)

(だからわたしは股が開かなかった)
(観測されることで異性は終わります)
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セックスの変質と脅威について4

くある話、子供のころはバッタやコオロギを素手で捕まえていたけれど、大人になってからは「気持ち悪くて無理」ということがある、それと同じように、数年前には素敵だったものが、現在は「うーん笑、無理」としっくりこなくなるということがあり、セックスにもそうしたことが起こるということ。
大人になってからバッタやコオロギを触るのは無理になったが、これから先、たとえば昆虫食が一般的なものになったりしたら、すっかり「おいしそうなバッタがいるわよ」ということにもなるかもしれない、いまはふつうバッタを食えと言われたら「えっ、無理」となるけれど/そうして、時代と共に何がステキか何がキモいか、しっくりくる・こないは変動するということだ、そしてそれらのすべてはけっきょく普遍のものではなかったという結論に前もって収まっている。
これだけ時代の変化が早くなると、旧来からある婚姻という概念じたいに無理があるとも、前もって考えておく余地があるだろう、いまこの時点で「この人と結婚するのはしっくりくる」と思っていても、三か月後や半年後にはそれが変化するのは前もってミエミエだ、だからといって結婚してはいけないということではないだろうし、立場や思想の上で結婚しないわけにはいかないという人もいるだろうが、それでもその試みは旧来のイメージどおりには「いくはずがない」と知っておくべきだと思われる。
平成の後半、恋愛至上主義みたいなものがあって、最強の価値や最上の到達点は「セックス」だと思われていた時期があった、このことの名残が強いままわれわれは現代に突入して、その変質に追随できていない状態にある/現況の交際相手とする「大切な」はずのセックスが、どんどん「しっくりこない」ものになってゆき、そのストレスはとても強いものになっていく、ちょうど大人になってからバッタやコオロギを触らされるみたいにだ、そして時代の変化によって、あなたはあなたの価値観と関係なく、「大切でない」人とのセックスが「しっくりくる」ようになる、そのことがすでに起こっていて、すでに「それもアリなんじゃない?」というありきたりの選択肢のひとつになりつつあるという状況だ、このことは個人ひとりきりで体験するとかなりの脅威として感じられると思われる。

それでどうしたらいいのかという話になるが、何にせよ安心しようとわたしは言いたい、あえて冷淡に言うなら「もうそのことはどうでもいいのだ」とも言おう、旧来の「大切な人と」ということは普遍のものではなかったし、新興の「大切でない人と」ということもやはり普遍のものではない。
より実際のことに近づけて言うなら、「あたしと彼の、大切な……うふふ」というのは普遍のものではないし、「オラオラこのチンポが欲しいんだろう?」みたいなものも、普遍のものではないということだ、少なからざる女性が前者の価値観を固持していますと言いながら、なぜかその実際の行為には「しっくりこない」ということが起こっていて、万が一後者の体験をするとあっさり「どハマり」するということ、そのことはいちいち衝撃で脅威だろうけれど、それらのすべてはもうネタが割れていて、どうでもいいのだと、わたしは率直にわたしのすでに知っているところを言い述べたい。
 "普遍のもの" が存在していて、けっきょく大事なことはそこにつながっているかどうかだけだ、その普遍のものにつながっていて、セックスをするならしてもよし、セックスに縁がないなら縁がないでもよしなのだ、どちらも変わらない、そして「大切な人と、うふふ」というのでもかまわないし、「オラオラこのチンポが欲しいんだろ」というのでもかまわない、それらのすべてはどちらであっても残念ながら見せかけではなく、本当にすべてのことを支配しているのはもっと別のところにある "普遍のもの" だ。
オバケやしきに本当のオバケがいるわけではないだろう? それで言うなら、神殿にだって本当のカミサマがいるわけではないのかもしれない、何がしっくりきて・何がしっくりこないというのは、その神殿とオバケやしきを往復しているようなものだ、神殿にしっくりきてもいいし、オバケやしきにしっくりきてもいい、そのどちらもありていにいえばフェイクでしかない、オバケやしきのすべてを禁止しても霊なるものはやはり存在するのかもしれないし、神殿のすべてを破壊してもそれでカミサマが破壊されるわけではないだろう、だからやがては目を覚まそうぜということになる、大切な人とうふふという幻想から目を覚まし、また、大切でない人とオラオラという幻想からも目を覚ます。

あなたが演奏しなくても音楽は存在するし、あなたが演奏しても音楽にならないことがある。

あなたが交合しなくてもセックスは存在するし、あなたが交合してもセックスにならないことがあるということだ、それで時代ごとに起こってくる変質をいわゆる「性癖」に吸い上げ、それを装飾するとセックス「っぽく」はなるが、やがてそのことに愛想を尽かすというのはあなたの体験を待っていれば明らかになるだろう、時代ごとの装飾を貼り付けると音楽「っぽく」はなるが、われわれはそのことごとくに三か月で飽きていったじゃないか。
あなたがカミサマに出会わなかったとしても、それでカミサマは存在しないと言い出すのは不当だろう、おれもカミサマに出会ったことがあるわけではないが、おれは出会ったこともないカミサマに対して「なんだコイツ……」という感覚がある、もちろんそんなすべてはおれの気のせいというやつでかまわない、それはさておき/何につけても、普遍のものが存在し、それに出会えるわけではないけれども、それが "存在している" のであれば、セックスをしてもいいし、しなくてもいい、してもしなくても同じだ、そして「大切な人とうふふ」「大切でない人にオラオラチンポ」、どちらでも同じだ、自分の出会っていない何かがすべてを支配しているなんてまったく想像もしないことで面白いじゃないか、A男とB子がどうなるかは、初めから普遍のCが担っているのだ、A男もB子もそれに出会うというわけではないのに。

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セックスの変質と脅威について3
れわれは50年前の漫才をYoutubeで見たとして、それで当時の人たちのように大笑いするということはないだろう、それと同じように、50年前と同じセックスをすることはできない、無理にそれをやろうとしても「しっくりこない」ということになる、10年前に使っていた顔文字でメールすることはしっくりこないだろうことのように。
モーツァルトやベートーヴェンを現代で演奏しても「しっくりこない」ということはないのだが、それはその芸術が普遍性に及んでいるからだ、われわれは「デスノート」を見たら「うわなつかし」と思うだろうが、モネの絵画を見ても「うわなつかし」とは思わない。
それが普遍性というものだが、われわれはそんな普遍性に及んでセックスするわけではないので、5年前のセックスのやり方を現代で続けようとするとしっくりこない、平成のセックスの仕方を令和の現代に持ち込もうとしても「どうしてもしっくりこない」ということで、実際にその行為は強い不能感・強いストレスのものになってしまう、人はそうしたことについてはナイーブなものだから、そこで強いストレスを数回も受けるとそれはしだいにいわゆるトラウマのような感じになってしまう(もちろんトラウマという本来の語義に及ぶものではないけれども)。
5年前はなんとなく「ふつうに」セックスできていたものが、現代において不能になる・ストレスになるということは、いま頻繁に起こっているだろう、時代の移り変わりが早いので、三か月前のセックスはもう今日においては使えないということが当然ある、その中で「なんとなく男同士でもいい気がしてきた」「女同士でやってみたいという興味が湧いてきてしょうがない」みたいなことも起こってくるだろうし、<<それがどれだけ不本意でも>>、そちらのほうがしっくり来てしまうということが起こってくるのだ、そうなると特に女性はセックスの体感で物事を決めることが多いから、「どうしてもこちらのほうしかしっくりこないの、もうしょうがないの」ということが起こってくる、だからもともと同性愛者ではなかったのになぜか同性愛のほうが「しっくりくる」ようになってしまったという人もいるし、どうしても金銭が絡むほうが「しっくりくる」ようになってしまったという人もいる、極端な変態行為やいわゆる「性癖」というものを強く追求したものだけが「しっくりくる」ようになり、しかもその性癖や変質の一切はほとんど三か月ごとには一新されるのだ、冬には男女原理主義で差別的なセックスにしかしっくりこなかった人が、春には LGBTQ でポリコレ主義的なセックスにしかしっくりこないということになっている、そのうち自分の混乱に吐き気がしてきて精神に損傷が起こってきてしまう。

ここ近年でよくこういうことが起こっている、A男くんとB子さんが数年間交際しているのだが、いつからかお互いにセックスに違和感を覚え始める。
A男は温和な男性で、B子に対して何年間もいかにも「大切にしている」ということを続けている、A男は疑いなくB子のことを "大切に思って" いる。そしてB子としてもそのA男の気持ちがいつもうれしかったので、A男は自分にとって特別・唯一の男性だと思っている、お互いにその思いにウソ偽りはなく、その意味では二人は仲睦まじく相思相愛だ/にも関わらず、お互いの「思っている」こととは別のことが起こってくる、時代が変質するとセックスも変質する。
B子はなぜか、自分のことを大切に "しない" 男性と寝ることを、ほんのり夢想するようになり、それに対して自分の性器が生々しい反応を起こすことを発見する、そしてその発見にびっくりする、本来は自分が苦手としているはずの、オラついたような野卑な男性をYoutubeで見かけながら……「そんなまさかね」とB子は思うのだが、それ以降、A男とセックスするとぎくしゃくしはじめる、しっくりこないということが起こってくる/A男のほうも、大切なはずのB子の身体が、自分に対してつっけんどんな、重苦しくゴロついた砂袋のように感じられ、「これにこすりつけて射精するなんて無理だ」と絶望的な思いが起こり始める。
そうして、しっくりこない・ぎくしゃくする・じっさいに不能になるということが数か月も続いてくると、A男の口からふとB子に向けて、「他の人ともしてみれば?」という投げやりな発言が出てくる、その発言にB子はショックを受け……るはずが、「えっ?」といい、B子はなぜか自分の気持ちが高揚することに驚く、その様子を見てA男のほうがむしろショックを受け、同時にA男は内心で、(こいつマジでそうなんだ)、という認識の決定的転換も覚える、A男がB子に対し、「誰でもいいんでしょ、もっとえげつない男と寝なよ」と言うと、B子は「そんなことない、そんなことあるわけないけど」と言いながら、B子はなぜかそこで自分が "ショックを受けられない" ということに驚く、これはどうしたことだろうと本来考え出すべきところだが、B子がセックスの体感から物事を考えるタイプだった場合、もう数日前までお互いを「大切にしていた」ということには戻れなくなっている。

2022年11月現在、むしろ「そういうのもアリなんじゃないの?」と、冷淡にセクシャリティの選択候補に採用されるようになっている。

たとえば、われわれは現在、アイドルグループが握手券を販売して活動することに何も思わなくなったし、若年層においては、アイドルオタクというわけではない人もそれぞれ「推し」を持ったりすることが「むしろ普通じゃないの」と思うようになっている、このことを20年前の世情に持ち込んでみれば、「なんていかがわしい」「バカバカしい」「握手券なんて悪徳商法だ」と侮蔑の対象になるだろう、かつてはそうして「ありえない」と唾棄されていたものが、いつからか「そういうのもアリなんじゃないの?」と思われるようになった、そうしたことが個々人のセックスにおいても起こるということだ、個々人が何を大切にしていたかということは過去のどこかへ消え去っていき、思い出にも残らない。
セックスにおいてもそういう時代ごとの変質が起こるということ、大切にしていたものはどこかへ消え去っていくということは、あまり知られていないことのように思う、もちろんスワッピング趣味のようなことは昔だって存在していたが、どこまでも変態趣味という認識の上でのものだった/つまりわれわれの選んだ時代は――われわれがこうあるべしと選んだ時代は――あなたに「大切なもの」を許さないし、あなたが大切なものとなることも許さない可能性があるということだ、セックスを含めてあなたが大切にしようとしていたもののすべては、「しっくりこない」という容赦のない破壊の仕方であなたから失われていく、その破壊においてわれわれはきっと被害者ではなくて当事者なのだ。
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セックスの変質と脅威について2
性は特に、自己決定の根拠を、けっきょくセックスの「具合」で決めるということが多い。
そのことを、悪意を持って指摘する場合、「子宮で物事を考えている」みたいな言い方をするミソジニーがあるが、これもけっきょく十分な経験のない人たちから発せられる初歩的な悪意であって、誰しも十分な経験を得て真相を知ってゆくと、そのような幼稚な悪意は持たなくなるだろう。
ただし、その「十分な経験」というのは、正直なところふつうの人が到達できる領域にない、セックス産業を生業にしているプロの男性・女性も、その回数を増やすだけで、その先のわけのわからない学門に到達するということはない、国語の教師が文学者に近づいていくわけではまったくないみたいに。
われわれは大前提、セックスに対して最後まで不十分な、きわめて不十分な経験と知識と見解しかもたないまま生きていくことになる、まるで中世の医者がペスト患者に対してそれでも医者として振る舞うしかなかったようにだ/そして特に女性はこの、不十分な経験しか得られないセックスの直接の「体感」で物事を決める傾向が高いから、時代と共にセックスが変質していくと、その変質と共に自己決定まで変質していくということが起こる、これらのこともけっきょく知識や経験が十分になんかなりえないから、おれの言っていることは本当のところでは何のことなのか理解されない(それでまったく問題ない)。

ありていに言えば、女性をセックスに「どハマり」させるのは、実は割とカンタンだということだ、仕組みを話すと長くなるので割愛するが(生々しい説明を一方的な書き述べるのは不品行だろう)、とにかくその女性がセックスの体感で物事を考えるというとき、そのセックスの体感に抑圧・リミッターが掛かっているので、それを解除してやれば、もともと女性の身体はそのことに「どハマり」するように造られているということだ、そしてその解除というのも、何も催眠術のようなことは必要ない、男性の側がその抑圧を完全に償却しきっているという前提においては、何のわざとらしさもなく指示だけでその解除は為される。
それで、女性をそのセックスに「どハマり」させれば、男性としては「誰に対してもやりたい放題じゃないか」という夢想を抱くだろうし、女性としても「解放されて、危険だけど幸せなのかも」という夢想を抱くだろう、つまり、完全なセックスと完全なエクスタシーは「最強」なんじゃないかという夢想があるわけだが、この「最強」というのが意外にカンタンで、実際にそのことが数回実現されていくと、それが意外に「安っぽい」ということも明らかになってくる。
われわれはセックスに対して、けっきょく最後まで十分な知識や経験は得られないから、あくまでも夢想の向こうがわで、その完全なセックスは「最強」と思われているのだが、現実にはそうではないということだ/女性は単に性欲によってセックスの体感を自己決定の根拠にしているわけではなく、けっきょくのところ霊的な直観が得られる最大のものがセックスの体感だと信じられる、そういうタイプの女性がけっこう多いというだけでしかないのだが、単純な話、完全なセックスの完全なエクスタシーの「鍵」は、セックスの肢体それじたいにはないということだ、鍵は別の場所に具わっており、残念ながらその鍵は性行為よりずっと高いところに置いてあるということ。
女性の場合、霊的な直観が得られる最大のものとして、そのセックスの体感があり、それを完全開放すればどうなるのだろうと、夢想と警戒心をはたらかせているということが割合として多いと思うが、ありていに言うと、「もっと遥かに震えるものがあります」ということ、セックスの体感が霊的直観の最大だと見積もっていることが架空の限界を思い込ませているのであって、ふつうの女性が夢想する「もう無理」「耐えられない」「壊れちゃう」ということより遥かに上位の、本当に耐えられない巨大な、偉大なものがあるということだ/世間のポリコレとは無関係に、いまでも女性は自分の肉体がセックスにおいて隷属の方に向かうということに霊的な手掛かりを感じている場合が多いと思うが、それで女性が夢想に震えるにせよ、「本当にあるものはそんな生易しいものじゃない」とおれは言っているということだ、本当にあるものの霊的エクスタシーの威力に比べれば、完全なセックスというのはむしろ本当の衝撃をやわらげるクッションのようなものにすぎない、比較するなら「血まみれの暴力と太陽フレア」のような違いで、本当に直視できないほどの威力があるのはどちらか、われわれは後者を前提に入れていないというだけだ。

「最強のセックス」は、夢想する遥かな高みにあるにせよ、その高みなんか粉々に踏み砕く、もっと巨大なものがある。

「最強のセックス」は、単に抑圧・リミッターを解除すればいいだけなので、強固な男根主義を持ち込めば成り立つし、あるいは麻薬を使えばその抑圧・リミッターは解除できる、ひどい言い方をするならそんなことは十代の男の子だってコツを掴めば可能だ、それで有頂天になってセックスの王を気取るようなことがあったとして、それはそれで青春のワンシーンなのかもしれないが、それだってけっきょくもっと遥かに大きなものに見守られていないとみじめなものだ、「最強のセックス」を十代でつかんだとして、それは二十代の半ばぐらいまでしかもたないだろう、女性をセックスにどハマりさせるのが、簡単かつ当たり前のことだと知ってしまったら、自分の安っぽさに嫌気がさしてくるものだ。
女性の少なからざる一部が、セックスの体感で物事を決めることが多いのは、性欲ではなくけっきょくセックスの体感が自分の中で最大の霊的直観だと感じられるからだが、その直観を最大化するということにさえスリルで震えるとして、要はそれよりも遥かに巨大な霊的直観がありますよという話だ、その巨大な直観のほうに従っているのであれば、最強のセックスをしたって別にかまわないし、セックスにはまったく縁が無くても別にかまわない/「最強のセックス」は言ってしまえば食事におけるデザートだ、デザートがなくても食事は完全に成り立つし、でも人によってはデザートにこだわりたい人もいるし、「わたしはまだデザートしか作れないので」という人もいるだろう、ただそれだけであって、最強のセックスに夢想を向けて震えるというのはまだ子供といえば子供だ、ただわれわれは何歳になってもまずこの子供の領域から出られることはないので、それよりは初めからより巨大な本当の直観のほうに向き合っていたほうがいい、このことを裏切るとけっきょくタチの悪い何かになってしまうので、最強のセックスを夢想するのはよいとしても、それを信奉するのは二十代半ばまでにしておいたほうがいい。
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セックスの変質と脅威について
代が変化すると、セックスも変質する、特に現代のように、女子小学生でもハードなアダルトビデオといわゆる性癖エロマンガを読みふける時代では、セックスはとてつもなく変質している。
セックスの変質は、特に女性において、水面下で強い脅威となっているだろう、それについて思うのだが、勝手な話、おれはそのことにはもうケリがついているので、「安心していい」とほざいておきたい、水面下の脅威はあなたにとっては巨大だろうがおれにとってはただのフェイクでしかない。
人によって、セックスにまったく縁のない人もいるだろうが、そういう人も安心していい、「セックスがすべて」なんてことはまーったくないので、まったくセックスしなくても大丈夫だ、苦手なものを無理にやる必要はない、その取りこぼしで大切なことを掴めなくなるとかそういうことはまったくない。
人によって、ずーっとセックスしながら生きてきているという人もいるだろうが、そういう人も安心していい、セックスは別に正しいことでもないし、誤ったことでもないのだ、今していることを無理にやめる必要はない、セックスにこだわるせいで大切なことを掴めなくなるとかそういうことはまったくない。

時代が変化すると、セックスも変質するのだ、そのことはセックスの当事者でなくても巻き込まれる、時代の当事者である以上は強制的に巻き込まれてしまう。
いま水面下に押し寄せてきている脅威は――人によってはすでに表面化している脅威は――特に女性おいて、<<自分がひたすらセックスに隷従することでしか自分は解放されないのではないか>>という衝迫がどこからともなく湧きあがってきているということだ、愛や交際相手や伴侶とは無関係に、果ては美的感覚とさえ無関係に、自分はひたすら大きなペニスに隷従することでしか解放されないのじゃないか――つまり貞操の反対でしか自分は解放されないのじゃないか――という衝迫が湧きあがってきている、それは自分で選んだセックスのスタイルではなく、時代の変化から湧きあがってきている衝迫だ、だから自分個人のことだと思っていると混乱する。
その衝迫に、抗っても無意味なことだし、従っても無意味なことだ、だから安心していい、正しいことを知ってまず安心するべきだ、「正しいことはその衝迫と無関係なところにある」とあなたは知っておけばいい、たとえば「服が脱ぎたい」という衝迫があったとして、その衝迫に従うのは風呂場なら正しいことだし、その衝迫に抗うのは駅前なら正しいことだ、正しいことは別にあり、その別にあることにつながっていれば、その衝迫じたいは別にどちらでもいいということ、抗ってもいいし従ってもいい、どちらも結果は変わらない、だからただのフェイクだ。
男性の側も同じ衝迫を受けていて、それによって交際相手の女性と噛み合わない、ということがよく起こっている、つまり自分はこれまでの社会通念どおりに、自分の交際相手にそれなりの貞操観念を求めるが、それではこの交際相手は解放されないのだということを衝迫のレベルで感じ始めており、自分は彼女に対して、<<彼女を自由にしてやれる解放者ではないのだ>>と感じ、それによって自信を持てず有為なセックスができなくなるという状態に陥っているらしい、それで「他のもっと、貞操を破壊してくれる男性と寝たほうがいい」「そのほうが僕も幸せかもしれないし、そのことじたいに興奮できるかもしれない」とも感じ始めているのだ、しかもこのことはかつて破滅的な感情であったはずが、現代では「それもいいんじゃない?」と軽やかな選択肢として検討され始めているという具合だ、ちょっといまここで説明しきれるような内容ではないが/とにかくこれらの衝迫についても、おれはもう現象の総体を見切ったので、ケリはついている、そして安心していい、そうした現代で変質したセックスの衝迫について、それは異常でもなければ正常でもない、まともな人とメシを食ったり勉強したりすればセックスとは無関係に解決する、解決したらその後はどちらのようにしてもいい、結果は変わらん。

セックスより上流のダムが壊れて、セックスに流れ込んできているだけで、セックスの水位調整で解決するものではない。

セックスより上位のダムがあって、そのダムが機能しているなら、セックスのダムが干上がっていたとしても誰も困らないし、何も問題はない、あるいはセックスの水位が過剰に上がっていたとしても、上位のダムからの水流を制限すればそれでいいだけであって、決壊は起こらない、セックスのダムを閉門しても、あるいは開放して放水しても、そのことは本質ではないのだ、ただわれわれは平成の恋愛至上主義によって、セックスがほとんど最上位にあるものだと思わされてきたので、それより上位のダムが壊れているということに気づけなくなっているだけだ。
あなたがそのたぐいの女性だったとして、安心してもらえるようにこのように言っておこう、セックスより上位にあるダムに気づけたなら、セックスをしても何も問題はないし、セックスをしなくても何も問題はない、どっちでもいいしどっちでも結果は変わらん、変質したセックスの脅威は実は本質的な脅威ではなかったということだ、「なあんだ」と安心していい/逆にその上位のダムにけっきょく気づけないまま、セックスが最上位なんじゃないかという妄念に囚われているなら、セックスをしてもダメだし、禁じてもダメだ、あなたに安心してもらうために、「あなたがつまらないと思っているもの、あなたが自分には無関係だと思っているもの、それのほうがあなたにとって上位のダムなのです」と言っておこう、おれの言っていることは「オバケよりカミサマのほうが上位にあります」というような当たり前のことだが、それでもオバケの妄念に震えあがっている人はカミサマのことなんか忘れているだろ。
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さびしさとエロとセックスと4
まり、さびしさのなぐさめとしての「セックス」は成立しません。
さびしさのなぐさめとしては「エロ」しか成り立たないということです。
シビアに考えれば、さびしさを乗り越える・何かによって満たされる者でないかぎり、 "本来の" セックスは営めないということになります。
これは厳しいような気がしますが、よくよく冷静に考えると、ここには単に現代のわれわれの誤った思い込みがあるようです。

そもそも本来の営みというのは、何であれ、そんなに安物だったのか? ということです。
いくつかの例を出しましたが、本来の食事、本来の旅、本来の音楽は、本当にそんなに安物だったのでしょうか、さびしさに向き合いもしない横着なわれわれがスマートフォンから予約するだけで得られるものだったのでしょうか。
都心に出れば、たとえば六本木や麻布で、一回で数十万円するというような食事をすることも可能でしょう、そこには贅を凝らした酒池肉林が並ぶと思いますが、いっぽうで世界のどこかの山岳民族は、罠にかけた雉(キジ)を土に埋めて蒸し焼きにし、神に祈る儀式をしてからそれを食べるかもしれません、 "本来の" 食事はいったいどちらでしょう、あなたの全財産をはたいても手が届きそうにないのは本当はどちらですか。
われわれは自分のさびしさに気づきにくいものです、あるいは気づかないようにしているものです、あなたがそのさびしさに向き合って乗り越えようとするとき、どちらを選び、誰と話しますか/その六本木での食事のあと、金持ちに性感帯をいじくられながら、その人と話しますか、それとも、雉の蒸し焼きをいただいたあと、果てしない星空の下で、当地の青年や少女と話しますか。

味覚の刺激は食事と反対方向にあり、性感帯の刺激はセックスと反対方向にあります。

現代のわれわれは、誰もが内心で「実はエロい」と自分のことを思っており、それをある時は自負にし、ある時は自己嫌悪にしています、そのことを往復しています、特殊なプレイや薬物などでそのエロさに耽り、そのプレイを換金もしながら、こんどは唐突に座禅を組み始めたり野菜しか食べなくなったりします、そしてこのことを多くの人が、内心で自分の「セックスの問題」と捉えています。
本当はそうではありません、本当はこれらの人が抱えているのは「セックスが "ない" 」という問題です、すべてについて本来の営みがことごとく無くなっていき、何もかもがさびしくなっていきました、それでありとあらゆるものになぐさめを欲しがっているという状態です、それでわれわれが「エロい」だの何だのではしゃいでいるのは、成分の何割かは冗談と言いえても、大部分は本当に根本的な誤解をしているのです、「エロい」の向こう側にセックスがあるという期待は完全な誤りです。
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さびしさとエロとセックスと3
びしさはなぐさめを欲しがります、その欲しがりが皮膚や粘膜まであがってくること、その現象と印象をわれわれは「エロい」と呼んでいます、それはわれわれにとって性感帯刺激がなぐさめとして特に大きな力を持っているからです。
極端な例を考えてみましょう、たとえばワールドカップで優勝した直後のサッカーチームのメンバーと、クリスマスに部屋に閉じこもってインターネットで誰かの悪口を匿名で掻きこんでいる男性がいたとして、性感帯刺激を "欲しがっていそう" なのはどちらでしょうか。
最先端の物理学者が、高齢にも関わらず、新しい理論を発見し、深夜まで数式を追究しているさなか、彼は性感帯刺激を欲しがっているでしょうか、あるいは、秋になれば収穫の季節がやってきますが、みごと黄金色に豊穣となった稲穂の海をコンバインで刈り取っていく百姓の男性がいたとき、彼はそのさなかに性感帯刺激を欲しがっているでしょうか。
ここに示した、勇壮な、あるいは満ち足りた者たちの例は、すべてわれわれの言う「エロい」という様態にありません、満ち足りて栄光の中にある者はさびしくないのであり、さびしくないものはエロくないのです。

よって、われわれが「エロい」と「セックス」を結び付けているのは単純な誤りです、「エロい」と結び付けられるのは「さびしい」であって、特に「自覚できない・認められないさびしさ」が「エロい」に転じています、さびしさはなぐさめを欲しがるという必然を忘れないでいてください。
表面上、フィジカルを頑強に鍛え上げた男でも、あるいは表面上、瀬戸物のように清楚に整えた女性でも、けっきょく直接の印象としては「エロい」ということばしばしばあります、それはつまり内部的に「さびしい」ということです、さびしさがなぐさめを欲しがっており、それはどう偽装してもやはり「エロい」という印象を隠せません。
われわれは、自尊心やプライドを持って生きており、自分の現在をなるべく成功者に見立てたく、目も当てられない敗者とはなかなか認められません、ですからわれわれにとって自分が「さびしい」と認めることは困難です、認めることが困難なので、それを発見することや直視することも困難です、自分がさびしいというのはまるで自分が負け組のように感じられるので、ほとんどの人はそれを認めないまま生きていきます、それは心理的にやむをえないことです。
ここでひとりの女優さんを想定してみましょう、彼女はすぐれた美貌を持ち、学歴も高く、たくさんの努力をしてきています、チャリティを含めた文化的な活動にも意欲的で、これまで内心にある「負けずぎらい」で力強く生きてきました、近年は結婚して出産もされ、その後に離婚してしまいましたが、彼女の器量から言って引く手あまたに違いなく、彼女は雑誌に載るようなひとつの女性の成功像さえ担っています、この彼女が/今さら「さびしい」なんて認められるでしょうか、今さらさびしさから「エロいんです」「なぐさめを欲しがっているんです」「性感帯に」などと認められるでしょうか、あなたがこの想定された女優に覚えた劇的な衝動が昨今「エロい」と呼ばれているものです、われわれはそれをエロいといって沸き立ちますが、こうしてみればこの女優さんが突如自殺されたとしても別段ふしぎではないのではないでしょうか。

さびしさを認めて乗り越えるには、なぐさめを "与えない" 誰かがいてくれることが必要です、しかもそれは強くてやさしい人でなくてはなりません。

身も蓋もない言い方をすると、さびしさのある誰かを、性感帯刺激からセックスへなだれこませるのは簡単なのです、驚くほど簡単で、だからこそ特に女性はしばしば自分が厭(いや)にもなるのです、さびしさを直視できない女性に性感帯刺激および、刺激的なデートや美的なプレゼントを押し込んで、結婚を申し込んだりすれば、女性は誰だってグラグラになります、でもその後どうなるでしょう、何度も申し上げますが、初めからある「さびしさ」は一向に解決していません、どれだけなぐさめを大量に注ぎ込んでも満たされた錯覚があるのは一時的なことです。
われわれは現代で、メディアを通してお金持ちの人たちをたくさん見ますし、その他有名になった人たちを見ます、彼らはいわゆる成功者で、活動と身なりを派手にして目立ち、満たされているふうを周囲に見せつけます、でも本当になぐさめを欲しがっていないでしょうか? なぐさめに性感帯刺激を欲しがっているようなところはみじんもない・そういうエロさはまったくないと、あなたは本当に感じるでしょうか、また彼らは身分や資金によって、そういう慰めをいくらでも貪れる状況にあるでしょうが、それにも関わらずなぐさめによって満たされないのはなぜでしょうか、たとえ性感帯刺激がなぐさめを欲しがる「エロい」を薬物で数十倍に拡大したとしても、それはわずかも本来のセックスには近づきません、むしろ遠のいていくばかりです。
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さびしさとエロとセックスと2
とつの問いかけについて考えてみましょう、いわく「性感帯がないとセックスはできないか」。
多くの場合、性感帯がないとセックスをしても「意味がない」と考えられるでしょう、本当はそうではないのですが、性感帯以外で営まれる本来のセックスというのは、われわれの日常からは想像を絶したところにあるので、思考の及びようがないというのが実際のところです。
転じて、このように考えてみましょう、たとえば音楽を聴いたとしてテンションが上がる必要があるでしょうか、何かをグッと感じる必要はあるでしょうか。
旅行したとしてそれが楽しい必要があるでしょうか、食事したとして味付けが美味しい必要があるでしょうか、そのような思いがけない問いかけとこの問題は同じところにあります。

われわれはまったく「エロ」全盛の時代と文化に生きています、それ以外には考えられないというほどにです。
つまり、食事をすると「味付けがサイコー」を期待しますし、旅行する理由を「楽しい!」に紐づけますし、テンションが上がるということをもって「音楽を聴いた」と承認します、同じように「性感帯が思いっきり感じきった」ということをもってセックスをしたと承認するようになっています。
思考を柔軟にして、このような可能性を検討してみましょう、つまり "刺激" とはまったく異なる営為が存在するのでは? という可能性です、味付けの刺激ではなく食事ということじたいのよろこび、楽しいということではなく旅することじたいのときめき、テンションが上がるのではなく音楽の中に世界を体験する感動、交合の中に男女が生じる十全性、そういったものがひょっとしたらありうるのかもしれません。
さらにこう考えてみましょう、人はひょっとしたら、「さびしさがなければ "刺激" は必要ないのでは?」……誰が食事のよろこびの中で、旅するときめきの中で、音楽の中に世界を体験する感動の中で、交合で得られる十全性の中で、「刺激をください」と叫びだすでしょう、ただし先に申し上げたように、人は自分のさびしさに案外気づかないものです。

フィジカルとマインドフルネスで刺激への希求を絶ったとしても、けっきょく本来の営為が戻ってくるわけではありません。

フィジカルに傾倒する人は、もう「食事に味なんか要らない」となるでしょう、マインドフルネスに傾倒する人は、旅行しても音楽を聴いてもいちいち "精神性" に接続せずにいられないでしょう、しかし「味なんか要らない」というのはフィジカル思想の結果に過ぎず本来の食事の恢復ではありませんし、旅行や音楽は何も精神性の足しのためにあるものではありません、けっきょくさびしさをこっそり埋め合わせようとしています。
本来の営為は「シェア」される必要はありませんし、見せびらかされる必要もありません、主張される必要も、布教される必要もありません、ですがフィジカルもマインドフルネスも根幹はさびしさから生じていますから、それをシェアという名目等で見せびらかすことができないのではなぐさめという目的が果たせません/ですので、けっきょく "タチの悪いエロがフィジカルやマインドフルネスという衣装を着飾った" にすぎません、根幹がさびしいということに気づけない・あるいはそれが認められないということによって、このような様態が出現してきます。
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さびしさとエロとセックスと
は自分が「さびしい」ということに案外気づかないものです。
気づいていなくても、内部がさびしいと「なぐさめ」を欲しがります。
なぐさめを欲しがる衝動が、皮膚や粘膜まで上がってきた状態、その印象を俗に「エロい」と言います。
性感帯に刺激を受けると、さびしさに対する大きななぐさめになりますので、さびしい人はここから一気にセックスになだれ込みます、さびしさがなぐさめられるのでこの人は一時的に「満たされた」ような錯覚をします。

錯覚は翌日や、数か月後に消えていきます、そうなるとまたさびしさが皮膚まで浮き出て、ふたたび「エロい」の状態に戻ります、そこでまた性感帯を受けると、そのままセックスになだれ込みます。
このことが繰り返されると、トラブルも増えますし、女性は自分の低劣さに嫌気がさすということが出てきます、それでこんどはフィジカルやマインドフルネスの方向へ転身します、フィジカルを鍛えて「エロさ」を筋肉に閉じ込め、マインドフルネスで自分の感覚をボカそうという発想です、これは一時的にうまくいったような錯覚を与えます。
しかし根本的なさびしさは消えていないので、やはりなぐさめを欲しがり続けています、しかしエロさは閉じ込めたりボカしたりしているので、別の刺激がなぐさめになります、それはしばしば憤怒やいらだち、暴力、人を傷つけることなどに転じます。
人の食事が貧しくなることや、尊厳を傷つけられること、大切だったものが破壊されること、そうしたことに強いなぐさめを得るようになります、誰か弱い人が殴られると内心で笑みが止まらなくなります、貧乏人のみじめさを見ると残酷さにワクワクしてたまらなくなります。

エロと本来のセックスは「反対」にあります/性感帯を要するのが「エロ」で、性感帯を不要とするのが「セックス」です。

だからいわゆる「エロマンガ」や「エロビデオ」も、「セックスマンガ」「セックスビデオ」とは言いません、本質が "さびしさを慰めるのに性感帯刺激を用いる" ということにあるので、それは「エロ」であって本来「セックス」ではないのです。
「さびしいのを誰でもいいので慰めてもらう」という中で営まれるのがエロで、「この人のおかげでさびしさがなくなった」という中で営まれるのがセックスです、ただし初めに申し上げたとおり、人は自分がさびしいのかそうでないのか、案外気づきません。
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真の処女たる意味
「処女」ということへの思い入れは、男女双方に一定ていどあり、正当なていどにも、過剰なていどにもその思い入れはある、その思い入れは何をもって正しいと基準を定めることはできない、それぞれの文化や個人の価値観、宗教や時代によっても違う。
 "実際の経験" を多くしてきた人は、処女といっても単純に性交未経験という意味においては、それは何かと気苦労のある、なめらかでない、けれども正当に大切に営まれるべきだという認識を実体験から持つだろうし(中にはただ「面倒くさい」という率直さを実体験から言う人もあろうけれど)、実際の経験を多くせず性交を半ば神秘主義の趣きもあって思い描く人は、「処女」ということに絶対の重きを置くだろう、この双方の見解はいつも割れるわけだが、この決裂は初めから修復するアテもないし、修復しなくてはならない理由も存在しない。
単純な経験、それも性交に限らず万事の経験を、加齢と共に多く重ねていくと、実際的には「処女」を崇拝する向きは劣勢というのが事実だろう、実際には処女はほとんどの場合童心に期待されているような「青い果実」のようなものではなく、のみならず人の営みというものは万事がそうして美麗なものではないと知っていくものだ、それでもごくまれに人は青春と呼んでよいシーンを永遠に刻むものとして体験することができるし、またそうでないもののたくましさを実際「最高だ」と全身に浴びて駆け抜けるように体験していくこともできる/もちろん、そうならない場合もある、われわれの生は単純な数的割合において多数派は「うつくしかった」という時間を生きられない。
さてここで、まったく唐突な話をするが、わたしはすでに童心を抱えて女性の処女性に美麗な空想を描く者ではとっくにないにせよ、むしろ逆に女性の処女性というのは単純な「性交未経験」から定義されるのではないという気がしている/処女には処女独特の「おいしさ」があるのか? 夏の精霊に煽られて時間軸の消し飛ぶところ、波音に掻き消されるように願って世迷言をほざいておきたい、処女には処女特有の「おいしさ」が――処女しか当然「おいしくない」ということが――あって、ただしその処女というのは性交未経験を意味するものではない。

処女を改めて「男を知らない女性」と再定義するなら、女性はそもそも男を知りようがないと言える、なぜなら女性は男ではないのだから/たとえ百人の男と合計1000回寝たとしても、それで女性が「男を知った」とはならない、それは女性が男との性交渉に慣れて、男を「知った気になった」というだけで、けっきょくは錯覚に留まるものだ。
百冊の文学書を読んだところで、その者が文学を「知る」とはまったく限らないように、また百の風景画を鑑賞したところで、その者が風景を「知る」とはまったく限らないように、女性が男とどれだけ寝たところで女性が男を「知る」ということは本当には得られない/百冊の文学書を読んで文学を知ったならばその者はすでに文学者となったのだろうし、百の絵画を見て絵画を知ったならその者はすでに芸術家になったのだろう、けれども女性が百の男と寝ても女性が男になることは基本的には無いのだから、けっきょく女性が男を「知る」ということは起こらない、こうして「男を知らない女性」という処女性は、本当に厳密に体験を追うなら、果てしなく永遠に続いていくと言える。
逆に言うと、実際の性交渉が体験済みか否かを問わず、ただ男を知ったという「錯覚」に依拠するならば、その女性はその時点で処女ではないということだ、たとえば実際の性交渉は未経験であっても、さまざまな自慰刺激コンテンツから空想を膨らませて、さも男と女性の交合は「こうである」と、男の側まで含めてそれを「知った」と精神が決定づけられるとき、その女性はもう処女ではないのだ/たとえば最も顕著な典型例として、女性が男性の――ほとんどはマンガ的な――ホモセクシャル性交をイメージに描き、自身が性的な官能とカタルシスを得るといういわゆる腐女子のようなタイプは、空想イメージとコンテンツを通してすでに「セックスはこのようなものだ」、特に「ペニスと射精はこのようなものだ」と当事者側の錯覚をもってそれを採用しているので、この時点で処女ではない、それがたとえ錯覚であったとしても彼女はすでに「男を知っている」のだから処女ではない、こうして実際の性交の有無とは無関係に女性の処女性は決定されるし、その決定はその人の具体の様相・挙動・感触にそのまま現れてくる。
敬虔な鳥類学者は、その指先に文鳥を乗せているときでさえ、「鳥を知った」とは言わないだろう、自身はどこまでも鳥ではないのだから、彼はいつまでも処女のようにその鳥のさえずりを聞き、その羽ばたきを見上げることになる/われわれはそうした学者ほど経験に鳥のことを見ないだろうから、目にするスズメやツバメのことを「とっくに、よく知っているよ」と錯覚を採用する、「スズメはネズミと同じぐらい雑菌を持っているんだよね」「ツバメは渡り鳥で、人里を利用して安全な巣をつくるんだよね」。

処女しか「おいしくない」し、男を知った女性と寝ることにはあまり意味がない。

われわれは一般的に、五月にやってきたツバメが庇に巣作りして子育てをするということを "知っている" ので、それをわざわざ目の前に見せられても、今さらあまりに意味がないと感じるだろう、それと同じようなことが、性感と性欲にごまかされながら起こっている、ツバメの巣作りと子育てを毎年見ていられるのは処女性が保たれる学者だけだ、われわれに海をわたる翼は生えていないように、女性にも本来ペニスは生えていない。
わたしが指摘していることは、本来それほど奇異なことではない、「産婦人科医でさえ、彼が男性ならば、月経も出産も "未経験" だろう」と言っているだけでしかない、われわれはそれほど錯覚の手に落ちやすいということだ、高校生は大学生を前もって「知っている」気がしているし、なったことのないアメリカ人を「知っている」気がしている、あまつさえ生者のまま死者のことさえ「知っている」気がしているのだ/処女には特有の「おいしさ」があり、処女しかけっきょく「おいしくない」とも言える、何であれば一部の男らは、このことを追いかけて単純な性交未経験の女性に特別なおいしさを幻想しているのかもしれない、であればその幻想は実体験の蓄積によって打ち砕かれてゆくのみだろう。
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セックスにはエロが邪魔だ2
方向のことを考えると、さらにわかりやすいかもしれない、特に女性には典型的にありがちなこととして、「エロが魂の負担から解放してくれる」ということがある。
どういうことか? どういうことかといって、まんま現代はほとんどそれじゃねえかというとわかりやすいと思うが、魂に関わることで、どうしようもなく負担になることがあるのだ、たとえば生死のこと、自分の未来のこと、自分のこれまでのこと、美に関わること、作品うんぬん、自分の姿のこと、自分の声のこと、自分の話のこと、そういうよくわからないものに直面して、よくわからないまま挫折するとき、魂にかかる負担は強大だ、この負担を何が解放してくれるかというと「エロ」になる。
身も蓋もない言い方をすると、変態プレイをしてアヘ顔をキメれば、魂の負担うんぬんとかいうよくわからないものはどこかへ飛んでいくということだ、そして現代においては、その「魂の負担を解放する」ということを目的にして、むしろ合目的的にエロコンテンツと性的嗜好が充実していると見るべきだろう、いわゆる性癖(性的嗜好)をド変態にして隠語プレイをして強烈にアヘってみたとして、実はそのことじたいが目的ではなく、「何もない自分」「どうしたらいいかわからない自分」を忘れることが目的だということだ。
ここで営まれているのは、「魂に向かうセックス」ではまるでなく、真逆、「魂から逃避するためのエロエロ極限」だ、女性においては実のところ典型的によくある話、自分自身について「どうしたらいいかわからない」と、魂に不安と強迫を覚えたとき、それから逃れるために、特に意味のないエロエロ性癖の誘いにソッコーで乗っかってしまうものだ、もちろんそれっぽいムードや文脈もくっつけてあるが/そのとき必ず証拠のようにあるのは、その相手もやはり魂に向かうことから逃避してしまった人だということだ、だからこそその時は盛り上がったものの、数か月もするとお互いのことが次第にイヤになってくるのだ、お互いに魂に向かうことから逃げていることを知っているので、けっきょく最後に発見するのは尊敬ではなく軽蔑なのだった。

人によっては、この「魂の負担」からの「エロエロ逃避」を、際限のない往復として繰り返していることがある、まあ際限がないといってもたぶん二十年ぐらいが限界だと思うが/もはやこの人にとっては、自分の性交渉は「魂の負担から解放してくれるもの」という定義であって、そうでないセックスがありえるということじたいが想像のうちにも捉えられない、アル中患者が利き酒なんか発想しないことのように、逃避のためにエロ摂取をしている人は「えっ、それがセックスでしょ?」と本当にまるきり思い込んでいる。
実際によくある例としてはこんな感じが一番多い、たとえば本人は「セックスの相性が大事だから」「セックスのときにビビっと来た人をけっきょく選んじゃう」ということで交際相手を選んでいる、その選択眼には当人としては自信がある感じなのだ、けれどもその交際相手とは数か月で揉め始め、なぜかわからないが一番「しんどい」形で別れることになる、交際しているあいだは露骨にほれ込んでいる様子だけれど、別れたあとは、そんな人のことすっかり忘れていたわという具合に、「ああ(そんな人もいたっけ)」というていどに思い出し、それを思い出したときにも「しんどい」という感じのため息がぶり返す気配なのだ、そういうパターンが一番多い。
このパターン、本当に冷静に追跡調査してみると、実は当人が、「魂の負担・危機」のたびに、セックスではなく「エロ」に逃避しているということが有為に検出されてくる、それが自慰行為であったとしてもだ、この場合実は彼女は交際相手を選んでいるのではなくて、そのときごとに「エロ逃避先」を反射的に見繕っているのだということが浮き彫りになってくる、当人が「セックスの相性」と思っていたのは、本当は相性などではなく「そのときの逃避に対する適合度」に過ぎず、逆にだからこそそのときは「ついに本当のものを見つけた」とも繰り返し思うのだ、魂の負担がエロで飛んでいくとき、まるでその負担を打開したように錯覚するからだ、そしてお互いはセックスではなく相互に「負担解除エロ係」をやらせているわけだから、その関係はしだいに「そういう逃げ方はやめろよ」「そういう甘え方されるの、本当にしんどくて付き合いきれない」という嫌悪をぶつけあうことになってゆき破綻する。
誰にも説明なんかされないまま、こういうパターンは本当にド定番のように横行しているので、そこから「セックスにはエロが邪魔なんだよ」と伝えるのはとてつもなく困難だ、だいいち、まだ若い人が魂の負担からエロに逃避してしまうことなんていわば当然のことでさえあって、それをいきなり禁忌といって切り捨てるなど非現実的だし無慈悲すぎるのだ、だから「あるていどそういうものなんだよ、しゃーないんだよ」としておくしかない、ただその上で、現代のわれわれは、周囲をエロコンテンツで包囲され過ぎで、またSNSをはじめ赤の他人に絡まれうるツールを持ちすぎなのだ、かつてのように「耐えられなくなって深夜のエロビデオ屋に向かって原付で走る」というのならまだ救いがあるものの、寝転んだまま数秒で無数の・無料のエロコンテンツに逃避できるというのは環境として強力すぎるのだった。

セックスは魂が震える、エロは魂が崩れる。

といって、ただでさえ「どうしたらいいかわからない」と魂が震え始めた中、さらにその震えの極限に立てとかいうのは無茶な話だ、耐えきれなくて魂をグズグズに、ベチャベチャに「崩しちゃえ」となるのは、生理的には自然なことだ、解放感もそりゃあるだろうので、そこから態勢を立て直すというのも若年者にはあってしかるべき青春のシーンだ、だがこんにちのようにセックスがまるきりエロと入れ替わってしまい、「セックスといえば、MAXエロエロにして、魂を崩しきって、ラクになっちゃうんすよね!」と信じ込まれているのはいくらなんでも極端だ/何度でも言うが、女性は「エロ」において "ラクになる" のだ、それは得意分野であって、けっきょくエロでは尊厳がおびやかされないし、魂の負担にはならないからだ。
今さら男女の区分なんか本当になくて、男でもエロで "ラクになる" のだが、いちおうわかりやすさのために女性を主題にして、女性にとって「エロ」は恥ずかしいことではないのだ、真に恥ずかしいこと、耐えきれないほど恥ずかしいことが魂の負担としてあって、それから手を放してラクになってしまうこととして、典型的にエロがある、そしてそのエロは「セックス」ではないのだ、当人はそのエロでセックスをしているつもりだが、真相は逆、セックスで「エロ」をしているのだ、セックスを追究することとエロを追求することはまったく違うし、むしろ真逆だ、魂の負担にたいへん弱いまま生きている現代のわれわれにとって、本来の「セックス」といえば、やはり他の魂の負担と同じ、あなたにとって「絶対に無理です」と拒絶するところの領域にある/それは本当に、女性にとって致命傷になりうる領域にあるので、本来その相手になる男は、昔から言われるようにやさしい男でないとだめなのだ、ただしもう男女の区分は現代において有効ではない。
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セックスにはエロが邪魔だ
ロでセックスをするのは、女性にとって日常的なことであって、致命的なことではない。
エロでセックスをするのは、女性にとっては得意分野で、どちらかというと「気楽」なものだ、得意分野だからけっきょく恥ずかしくはないし、致命傷にもならない、だからアダルトビデオの女優はその仕事で尊厳を失わない。
女性にとって本当に致命傷になるのは、エロの介在しないセックスだ、だからそちらのセックスは粗雑にできないし、致命傷になるから女性は庇護されなくてはならない、エロの介在しないセックスは女性にとって致命傷になりうるものとして強度の緊張感をもたらす。
本来は、女性が誰という男性に抱かれたいか否かについてなど、マークシートで Yes/No をつけるだけでいい、でもそれがとてつもなく恥ずかしくて致命傷をもたらすので、女性はそこに「エロ」を理由に持ち込んで自分をカバーする、それはごく自然な成り行きだが、それをしていると安全で有利なぶん、根本的につまらない・あまり意味がないということになってしまう。

現代では男女とも、文化において「エロエロ教育」を受けてしまっているので、このことがセックスをつまらなくしてしまっている。
精神に何も見つからなかった人・見つけることを諦めた人は、土着のエロエロ文化に吸い込まれていくものだ、それは閉塞的地方に現れる乱交の文化と、大学生のヤリサーが同等の形態に行き着くことによく表れている、性愛の緊張感と致命性から退避した人は基本的に土着の乱交に行き着くのだ、そこでひどい目にあった人は土着の乱交から性的接触を憎悪するようになるし、いい目にあった人は鼻の下を伸ばして生きていくようになる。
「エロ」というのは基本的に頭がボーッとするものだ、そこで土着の乱交を選んでいる人は、何も「己の魂の選択」みたいなことを体験しているわけではなく、直接のエロ感触に「ボーッと」しているだけだ、逆にそこでトラウマを覚えた人も拒絶反応を起こしているだけだ、「エロ」が介入した時点でセックスはこのように、かなりのていど「だらしない」レベルのものになってしまう。
現代のエロエロ文化において、セックスに関わって「魂が震える」というようなことは実際には無いわけだ、それよりはどちらかというと、マークシートの Yes に鉛筆で黒丸をつけるほうが緊張感が走る、けれどもそこでただちに「エロ」が流入してきて緊張感が台無しになってしまうという具合だ、本当の本当にエロを排除して自ら Yes を申し立てるということの魂の負担は巨大なものだ、だから現代ではセックスがエロおよびその他の何かに入れ替わっている

エロ教育のおかげで、セックスは女性の魂に負担でなくなった。

良くも悪くもそういうことになる、といって、今さら現代においてそこに男女の区分を設定することは無意味だ、ヴァギナを持っていない男性だっていわゆる「メスっぽい」情動とそのエロを持つことは簡単だろう、そしていまどきこのあふれかえる無数のどぎついエロコンテンツに、中学生でさえたいして興奮はしないだろうということは、端的に「エロ」はセックスに関わってネガティブにはたらいているということを示している/テレビ番組が「舞台裏」ばかりを見せて舞台そのものを見せなくなったことで、陳腐化してつまらなくなったように(そのぶん魂の負担にはならなくなったように)、われわれのセックスも舞台の緊張感ではなく舞台裏のだらしなさをクロースアップするものに変質した。
情動が激しくなるということは、たいてい「魂の負担に耐えきれず」「気が乱れる・動転する」ということから起こっている、だから情動の激しいセックスというのは、一般にイメージされているような強い性的体験にはならない、むしろ逆だ、だらだら汗を掻いてするスポーツの快感、ジムで思いっきり汗を流すということの快感と大差ないものになる、それはもうほとんど性的体験でさえないのだ/もちろん日常的にストレスの溜まっている人は、その発散こそが「すっきりした」「思いきりやれた」と感じることもあるけれども、それでも全身に性的冒涜のような感覚は蓄積していて、次第に「何かバカバカしくなってきた」ということは起こってしまうのだった。
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「好きだからセックスする」という結び付けはやがて崩れる
風俗を職業にしている女性がいるわけですから、具体的には、女性は誰とでもセックスが出来てしまうという事実があるわけです、これに比べると男性は虚弱なもので、誰とでもセックスはできません、薬物でも投与しないと無理ということはしばしばあります、男性がよく言われる「誰でもいいんでしょ」というのは、卑近に言うと「自分としてヤリたい女なら誰でもいい」という丁寧な但し書きがついています、それを突破して「本当に誰でもいい」なんて極端な男性は実際にはほとんどいません。
女性は具体的には誰とでもセックスできてしまうという事実があるわけですが、正確に言うなら、性風俗を仕事とする女性でも、必ず報酬・金銭を受け取っています、性風俗を職業にする女性は必ず「お金をもらわないと絶対ムリ」と言うでしょう、ムリといっても機能的にはセックスそれじたいは可能なのですが、何が「ムリ」なのかというと、「仕事だから」「お金のためだから」という上位の価値に結び付けずに無制限にその行為をするのは「ムリ」ということです、なぜムリなのかというとそれだけ女性とって「性感」は強い体験になるからです、何かに結び付けていないと女性はその体験によって身もこころも(魂も)何かバラバラにされてしまう、だろう、ということにしておきます、結び付けるところがなければバラバラになるという単純な構造の話です。
過半数の人は性風俗を生業にしませんから、そのセックスを何に結び付けるかというと、たいていは「好き」ということに結び付けます、繰り返しになりますが結び付けないと自分が性感によって「バラバラ」になってしまうからです、「好きな人だからセックスする」という結び付けが一般的で、それがもう少し緩和されると、「別にイヤじゃなかったから」という結び付けで性行為を捉える女性もあるでしょう、「好きだから」と「イヤではないから」はていどの差こそあれ、つまりは好意という基準に結び付けて性行為を決定しているということになります。
そのほかにも、結婚しているからとか、子供が欲しいからとか、仕事が欲しいからとか(いわゆる枕営業などです)、一時的になぐさめが欲しいからとか、そういう理由もありますが、それでもやはり大前提、それが職業でないかぎりは、「好きじゃない人とはしたくない」「好きな人とならセックスしていい、というかしたい」と捉えているものだと思います、これは何の話をしているかというと、女性は具体的には「誰とでもセックスできてしまう」のに対し、だからこそ何かに「結び付ける」必要があるのだということを話しています。

具体的、あるいはいっそ「物理的」には、女性は誰とでもセックスが可能です、実際に若い女性などは街中をその気でうろつけば、一日に三人でも四人でも見知らぬ誰かと性交可能でしょう、でもそれではいかにも危険です、生理的にも危険ですし、精神的にも危険という感じが直接します、そんなことがわからない女性は存在しないでしょう。
だからこそ、そのセックスは何かに結び付けて決定されます、そして相手のことが「好き」という理由に結び付けてそれが決定されるのが一般的なのですが、いずれ女性はやっかいな問題に直面してゆきます、その「好き」ということが少なからず変動してしまうということです/二か月前は極端に「好き」だったものが、今はまったくどうでもよくなっていたり、一年前は死ぬほど「好き」だったものが、今は「顔もみたくない」と大嫌いになっていたりします、そのことはまったく奇異なことではなくむしろよくあることです。
「好き」に結び付けてこそ、そのセックスは危険のていどをそれなりに制御できるのですが、その結び付ける先の「好き」というものが、思いがけず安定せず、何度結び付けてもそれが壊れてしまうということを繰り返し体験してゆくことになります、するとどうしても頭のどこかで、「こんなの誰とやっても同じじゃないの」という発想がチラついてきます、もちろんそれをそのまま実行に移すわけではないけれども、自分の身体を明け渡すようなその強い性感のセックスが「誰とやっても同じ」と思えてくると、女性の精神は安定を失いはじめ、「バラバラ」のほうへ揺さぶられていく危機に至ります、このとき女性は自分から「邪悪な声」「聞きたくないような笑い声」が出てくるのを体験することもあります、自分でゾッとするようなそれを、出さないように努めても、ときおりそれが噴出してきてしまいます。
次にどうなっていくかというと、この「誰とやっても同じ」と思えてしまうものについて、1.「それならそれで武器として利用しよう」という発想が湧いてきます、そしてその反対側に、2.何かしら自分を鍛えて性感から自分を遠ざけよう、という発想も湧いてきます、だいたいはこの1と2が往復する形になり、自分の調子が悪いときはセックスを武器にし、調子がよいときは自分を鍛えて性感から遠ざかるという具合になってきます、そのことは周期的に往復もしますし、とっさの瞬間、たとえば口論になって負けそうだと感じた瞬間にもパッと、セックスを武器にする発想にしてマウントを取る側にまわろうともしますし、誰かをやっつけたり、誰かを見返したり、誰かを上回って気分のよいときなどには、瞬間的に「さあ自分を鍛えよう」という発想になったりもします。

セックスをする本当の理由は、存在しますが、こんにちの社会的状況において、お話しすることはできません。

社会的にそれを話すことは許されていないというのもありますし、現在の情勢下において、それを聞いたとしてもまったく理解しかねるとしか聞こえないというのもあります、ですからここでは、セックスをする本当の理由は「ある」ないしは「ありうる」とのみお話ししておきます、そしておせっかいながら記憶のどこかに置いておいてほしいのは、「好きだからセックスする」という結び付けは早晩崩れていくということです、そのことはごく当たり前のありふれたことですから動揺することはありません、あなたが前もってこのことを知っていたらそのときに落ち着いてあなた自身で考えることができると思います。
われわれは誰だって、それなりに頑張って生きています、その頑張って生きるということも、何が理由なのかよくわかりません、「死にたくはないからw」といえばそうかもしれませんが、その思いだって揺れ動くことが起こらないではない、それだってわたしは申し上げます、あなたが頑張って生きる本当の理由は「ある」のです、ただそれについてお話しすることは、こんにちの情勢下においてはあまりにむつかしいということです、ただそれが「ある」ということだけは勝手にわたしが断言しておきます、その理由があなたに聞こえる日が来たら、その日わたしがあなたにそのことを話せる日が来たということです。
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恋あいと色情3
体の相性、なんてものは本当には存在しない。
が、ほとんどの女性は、そういうものが「絶対ある」と体験上思っている。
本当にあるのは身体の相性ではなく、単に具体の「物体度」だ、その身体の「色情の物体」たるを引き出すと、それが物体であるという露骨な感じ方を解放されるので、その解放された性感が「身体の相性がいいのかも」と誤認されるだけだ。
どうしても「話」の視えない女性がいたとして、それでもなんとか「話」や「恋あい」につながろうと頑張っている、この「頑張っている」というのは単に「身体を固くして閉じ込めている」というだけだ、これに対して、「話」が視えるようにとか "頑張っていない" 男性がやってきて、彼女の身体を物体の方向へ解放すると、話や恋あいを放棄して「色情の物体」たるを明らかにするというだけだ、こんなもんは正直その男女をおれが20分ぐらい教育したら出来るようになってしまう、おれはそんな邪道を教えるなんてことは絶対にしないけどね。

このとき女性を解放する方法は二通りある、1.求めている「話」を与えてやって解放するという方法と、2.「話」を諦めさせてやって色情の物体に戻してやるという方法だ。
もちろん1.のほうが正当な方法だと思うが、クソほどハイレベルで無理だ、オメーはアポロン神の権化なのかよというような男でないと無理だ、だからどうなるかというと、もちろん必然2.のほうへ偏っていく、偏っていくとどうなるか、「色情の物体」が解放されて「身体の相性がいいのかしら」という驚くような体験をする。
はじめ女性は、その頑張っていない男のことが好きではないのだ、ただ自分が落ち込んでいるときにそこに吸い寄せられていくという現象が起こる、どうしても自分で「話」を掴むことができなくて、絶望的な気分になっているところ、本当には好きでもなければ尊敬もしていないその男のほうへ吸い寄せられていく、正直むしろ嫌悪しているのに吸い寄せられていくのだ、それでどうなるかというと、びっくりするようなセックスの体験をして、その動揺を「身体の相性がいいのかしら」と判断する、そうなるとその女性はもうその男性を嫌悪することはできない、当人が誤認しているところの「身体の相性」に親しんでしまって、その人のそばにいるのが「わたしにとって本当のことなんだ」と思うようになる/どこまでいっても彼女には「話」が視えないのだからしょうがない運びだ。
女性は直観的に、自分の身体、その「色情の物体」に潜在しているリスクをよく知っている、だからどうするかというと、どちらの解放を目指すかというより、3.そもそも「解放」なんか求めない、という選択を採る、これは有効かつ現実的な選択だ、この選択をした女性も家庭を持ってセックスするようになるが、そのセックスはガチャガチャっとしたもので、その感触は「まあ別に……」というような具合のものになる、これは身体を解放せず営むセックス、つまり魂ではなく生身の業(カルマ)で営むセックスになる、このセックスはガチャガチャっとしているが、錯覚される「身体の相性」としては、やはり「まあ別に……」という感じになる、それは、たとえガチャガチャっとしていたとしても、生きものの身体は「閉じ込める」ことによって適応するという「呪術」の性質があるからだ、婚姻制度や家庭の中に閉じ込められると、自分の思念や価値観とは無関係に「勝手に身体が順応する」ということが起こる、それは職場に閉じ込められた人が誰でも一応「プロ」(業務用)になるのと同じ現象だ/このように、本当には「身体の相性」なんて漠然とした現象はひとつもない。

 "物体度" を誘導してもらえば運命的(誤認)なセックスは簡単に出来るし、制度や契約や債務に閉じ込めてもらえば業務用セックスが簡単に出来るようになる。

おれは誰のこともバカにするつもりではないが、きっとほとんどすべての場合で、こういうネタに関わってはおれのようなキチガイに張り合わないほうがいいだろう、一般に友達同士で話題にしてはしゃげるようなレベルで視認されることで、おれの話している本当にヤバそうなやつに対抗できるわけがないのじゃないか、おれはあなたが直接視てしまったら精神がクラッシュして再起不能になってしまうようなことを前もって教えておいてあなたの安全保障をしているのだ。
身体の相性やら、いわゆる性癖やらいろいろ言うが、そんなもんどうでもいいのだ、もしおれがあなたの身体を「色情の物体」へ誘導すれば、あなたは二度と戻れない色情の物体そのものになるというだけのことで、そんなことはおれにとっては児戯に等しい、おれはそうやってけっきょくカンタンなほうへ逃避することを良しとはしないのだ、色情の物体が「話」を得てその体質を恋あいに解放する、ということのほうが一億倍むつかしいと思わないか、そちらのほうが一億倍むつかしいなら、無条件でそちら向かえよ、カンタンなほうにいかずクソほどむつかしいほうに行け、気が遠くなるほど、誰とも話が合わなくなるほど、カミサマとしか話が合わなくなるほどのところまで行け/あなたがエロ本の中に入るのじゃなく神話の中に入ろうとする勇気を持つなら、あなたはあなた自身で「神話の中に "身体の相性" なんて出てこないわ」と言うだろう、エロ本でおれに対抗するのはどうしたって無駄だぞ。
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恋あいと色情2
あいのひとつでもすれば、人は大きく魂の者となるが、色情を何百人としたところで、魂はわずかも得られない、何の命もないただの「物体」でしかありえない。
魂・命を得ていない場合、女性の全身はけっきょく色情の具体たる「物体」でしかない、このことはある種の状況でとてつもない強烈さで出現するし、何であれば実験によってその本質を出現させることもできてしまう、そのおぞましさはその女性当人に破滅的な体験を与えてしまうのでもちろん実験なんかされるべきではないが、おれが今ここで話していることは万人の記憶の隅に留められておくべきだ、まるで緊急時のパニックルームのように、いざというときおれが話していたことに逃げ込んで落ち着きを得ないと精神がクラッシュしてしまうということがある。
そのとき女性の身体は「色情の物体」であって、色情が猛り狂うことに抵抗できない、抵抗できる要素がないのだから抵抗もヘッタクレもないのだ、蛇口をひねれば水が出るというように、そのとき女性の全身はわなないて嬌声を出すしかない、むろん女性は自分の身がそうして色情の物体となって落下していくときに、自分が地獄に落ちそうだということを直観するのではある、けれどもその恐怖を癒してくれるものは何かというと、もう色情しかないのだ、色情の全身はまさに全身から自信と権威を与えてくれる、地獄に落ちる色情の物体が自分に自信を与えてくれる、その傲慢と絶望の中で女性は最悪と最高の悲鳴を同時にあげつづけるよりない/おれの言っていることはポリコレやフェミニズムにおいては論外かつ最悪の言説だろうが、そんなことはおれが軽蔑・弾劾されれば済むだけのことだ、おれは女性がこの悲鳴の坩堝に埋め殺されなくて済むように合理的な学門とアナウンスを示すべきだと考えている。
女性の恋愛体質というのはほとんどの場合ウソであって、女性の全身は基本的に色情体質だ、だからこそ男の側が恋あい体質でなくてはならない、女性はその男の体質に触れて、男の体質が勝り、自分の全身が色情ではなく恋あいになることを求めている。

「色情の物体」が落下する速度はものすごいものだ、何百年も修道女として生きてきたとしても数分で最も破滅的な底にまで落下してしまう/ものの数分で、数百年の祈りのすべてなど破壊できてしまうのだ、そのとき当の女性はどうしているか、絶望に泣いているのではなく、有頂天にケラケラ笑って、ニヤニヤ笑って、自信たっぷりの微笑みを示し、人を傷つける準備をしているのだ、もう彼女の悲鳴は彼女自身にさえ届かなくなっているから。
男は初め恋あい体質だったとして、若いうちに恋あい経験を目指すとしても、途中で失速し、それはただの娯楽のひとつになってしまう、それはなぜかというと、恋あい経験の途中で自覚のない「恐怖」に出会うからだ、それは自分の相手しているそれが「色情の物体」でしかないのではないかという、未だ自覚に至らない直観、その先ぶれだ、この恐ろしいものに出会って、男は知らず識らずその時点でそこから先へは進まないで置こうという決定をする、まるで新聞記者が本当にヤバいネタを掴んでしまったときのように、「この先の恐怖に自分は耐えられないだろうし、耐えるまでする意味や利益が自分にはないさ」と日常の感覚に引き返す、<< "色情の物体" が干渉してきて自分の体質は巻き込まれようとしている>>という恐怖それじたいを、はっきりとは視なくて済む地点のまま引き返す。
エロ漫画のジャンルで、最近はNTR(寝取られ)というのがあるが、ネット民はその(いわゆる)性癖に触れると、「脳が破壊される」という表現をする、といってそれはしょせんエロ漫画なのでかわいらしいものだが、それでもあえていうなら「ふつうの人」は、そのエロ漫画を観るだけで脳が破壊されるようなショックを受けるのだろう、おれが言っているのはもちろんそんな生ぬるいものではなく、本当に脳が破壊される体験の話だ、女性の全身はある意味「色情の "物体" 」としてその天然の本質を発揮するかもしれない、けれどもそれは本当に致命的に "物体" で、これと性交するならば、ほぼ確実に男の側が絶対的物体の威力に敗北してしまう、そして自身も物体に敗北した者として物体の烙印を押され、その先いっさいの「話」は視えなくなるだろう、これはもう脳が壊れてしまったのだし、正確にいうともう二度と魂が統一されなくなってしまったということになる、魂がすべて断片化し、すべてが感受性に流れるだけの、己も物体になってしまったのだ。
男の恋あい体質はどのようにあるべきか? おれは以前、「おれはレンガ石のひとつにも話を与える」と言っただろう、それと同様に、色情の物体にも話を与える、 "物体" に話を与えるとおれは言っているのだからな、それが恋あい体質だ、この言い方では男に要求されていることがレベル的に異次元でメチャクチャだけどね、あくまで説明のために簡単化してそのように話してみた、色情の物体にも話を与えるということは別に男女のどちらがやってもかまわない、ただおれの経験としては女性にそのことを要求するほうが「無理強い」という感じがあって気が引けるのだった、あくまでおれの偏った経験としてはな。

あなたが色情男とギラギラのデートをしているより、おれがマネキン人形を連れてデートしているほうが一万倍ハッピーだ、そんなことはあなたもわかっているだろう。

物体よおれの話を聞け、あなたが権威なき物体であったらただちにおれの話は聞き取られ、命は下されたろうに/おれの言っていることは、困ったことに事実だ、おれがあなたに向けてではなく、マネキン人形に向けてこう言う、「しばらくおれの隣にいなさい」、人形に向けて命令するおれはアホみたいに見えるだろうか? そうではない、あなたは「その命令をわたしにはして下さらないのですか」とあなたは泣いて悲しむだろう、なぜあなたは泣くかというと、そのマネキン人形が祝福を受けて幸福だということがあなたの魂に視えてしまうからだ。
ただしおれが意地悪をしているのではない、おれが拒絶しているのではなくあなたが拒絶するのだ、マネキン人形なら拒絶しないものを、あなたは拒絶してしまう、なぜ拒絶してしまうか、それは自分の全身が「色情の物体」だということに恐怖があるからだ、そのとてつもない落下の速度が直観されるだけでとてつもない恐怖がある、風邪を引いた者は病院に行くことを拒絶はしまいが、治らないかもしれない致命的な病気が疑われる者はときに病院に行くことを拒絶するだろう/ともあれおれは、レンガ石ひとつという物体にも話を入れる、色情の物体にも話を入れる、物体ではないおれに色情は入らない、おれはもう自分に色情体質を導入してみるとか、そういう遊びさえ二度とやらない。
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恋あいと色情
あいと色情は別物だ。
だが形式的にやることは同じようなものなので区別がつかない、とてもやっかいな問題だ。
ふつうの人に恋あいはできない、ふつうの人は色情しかやれない、誰だって暴力は振るえるが、誰も武術なんかできないように、誰だって色情はやれるが、誰も恋あいなんかできない。
交際そのものや、結婚などはまた違うのかもしれない、結婚というのは実際には生活の一形態だから/今はそんなことはどうでもいい、恋あいと色情だ、それぞれはまったく別物なのに、形式上やることは同じようなものだから区別がつかなくてやっかいだ。

形式上やることは同じだが、おれは「色情」は差し控えなくてはならない。
おれまで色情をやりだしたら、もう何もかもメチャクチャになるからだ。
実際問題として、おれが主体であるがゆえに、おれの係る事象のすべては変質する、おれが当たり前にやることは誰にもできないし、他の誰かが当たり前にやることを、おれが強いてやる必要はない、おれがおれの権威に一ミリでも色情を混ぜて遊んでみると、それだけで何もかもが絶望に変わってしまう/おれだってそんなことに興味はないのだから、おれはもうそんなことを無理にやらない。
おれが手をつなげば、向こうの手が恋あいに変質するのだ、それ以外にその手を色情でなくす方法なんてない、女性はけっきょく自分の全身が自らの色情の具体であることを知っているが、それは女性にとって悲嘆であり、せめて男性の全身は恋あいの主体であってほしいと求めているのだ、それに触れたとき女性は自分の身体が唯一変質しうるということを知っているから。

男性が女性とうまく噛み合うには、男性がその全身に色情を湧かせることだが、そこに女性がうまく噛み合うということは、女性にとって悲劇でしかない。

女性の身体は色情の具体だが、女性の希求はその全身が恋あいの具体に変質することなのだ、色情において噛み合うものを欲しているのではない、いや、欲しているわけではないのに欲してしまっているので、女性にとって色情が噛み合うことは悪夢なのだ、どのように拒否しても、そのときにはけっきょく吸い込まれてしまい、自分の色情の全身を思い知らされることになり、また泣かなくてはならないから。
女のオカズを研究すれば、女の色情に噛み合うことは簡単だ、女のオカズなんて単純だから、ただしその色情は女性にとって拭い去れない悪夢だ、一番きらいなものなのに一番好きになってしまうもの、一番遠ざけたいのに一番吸い込まれてしまうものだ、女性はその悪夢にほとんどの場合けっきょく抵抗できないので、それを振り回してやるのは女性に対して酷だ、女性の色情に噛み合わずフラれるほうが男として一億倍もマシだ。
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天国セックスと地獄セックス
うもこんにちは、ウソ車ぐるぐるエビ太郎です、今後ともよろしく。
もうこれぐらいめちゃくちゃにしないと、まともな話なんかできなくなったな、今から話すことはウソ車ぐるぐるエビ太郎の言うことなので、一ミリも真に受けることのないように、ちゃんと世界中のインフルエンサーの言うことだけをアテにしなさい。
六道輪廻説でいうと地獄道の因果は「受」と「蝕」であって、これは「感受性」と「蝕(むしば)み」と捉えていい、蝕みとは何のことかいうと、いわゆる「中毒性」みたいなものだと思っていい、それは毒なのに求め続けてしまうということ、穴だらけにされることをやめられなくなるという蝕みのことだ。
地獄に向かうにはどうすればいいだろうか、地獄に行く方法は、カミサマに唾を吐けばいいだろう、カミサマに罰を与えられているとして、その罰を拒否して、正反対のものを振り回せばいい、つまりカミサマに与えられた罰を「悪魔」「ブラック」と罵り、代わって吾こそが神聖な輝ける権威であるとすればいい、そうしたら地獄にまっしぐらだ、地獄に棲んでいるものもあなたを友人としてあなたに惜しみなく力を貸してくれるだろう、あなたはその付与された力によって多大な活躍ができるに違いない。

感受性は地獄への道だが、一般にセックスというと、この感受性を最大まで引っ張りあげてそれをするのが最高にナイスとされている、また「蝕み」も地獄への道だが、その蝕みこそがゾクゾクゾワゾワで最高のセックスともされている、こうしてこんにちおけるセックスというと、過激にすればするほど地獄への道まっしぐらということがよくわかる、そして一般にセックスというと、感受性なしにセックスなどというのは「ありえない」とされている。
これはウソ車ぐるぐるエビ太郎のホラ話なので、一ミリも真に受けなくていいのだが、逆方向のセックスもあるのだ、セックスというとオーガズムに向かうというその方向は同じなのだが、それが感受性ではなく「出来事」で営まれるということ、出来事とは何ぞやというと、つまりは「話」だということになる、このあたりは説明しだすとキリがないので、ウソ車ぐるぐるエビ太郎のホラ話ということで決着しておいてほしい。
さてしかし現代において、人は伝承で「罰」とされているものの正反対に向かっているので、この HAPP-Y な「出来事」への視力は閉ざされている、視力がなくなっているのではそんなもの営めないし、視認もできないわな、となるとどうなる、感受性でセックスするしかないし、「出来事」への視力が閉ざされれば閉ざされるほど、ひたすら感受性と蝕みのセックスが権威として力を増すことになる、それは感受性と蝕みで地獄セックスを営むものへ深く突き刺さるのだった、何の話も出来事もないまま(本当にひたすら「刺さる」だけ)。
ウソ車ぐるぐるエビ太郎いわく、伝承にある「罰」のまま、つまりヒーヒー言いながら自分の仕事をやりとげようとしている男と、その男に惚れて胸が苦しくてヒーヒー言っている女性が、出会って愛し合うとき、それが愛し合って交合するという「出来事」になり、天国セックスが営まれるということだ、そこにおいてはセックスなのに感受性の一切が消沈され、蝕みの一切が排斥される、自分たちは巨大なひとつの「話」の中にあり続けているのだということがもたらされる、二人はそれぞれに「ヒーヒー」言っているのだが、そのことが「しんどい」かというと、「そんなことはまったくない」ときっぱり言うのだった、そのとき本当に澄んだ瞳がそこにはあって、どうしようもない説得力を権威と共に示すのだった。

天国に唾を吐くとき、あなたには地獄セックスの超絶官能が与えられる。

感受性の一切が退けられてセックスが成り立つなどということは、一般には想像不可能だ、だからこのことは、ウソ車ぐるぐるエビ太郎が言っているだけのことでしかないのだ、その上でウソ車ぐるぐるエビ太郎はこうも言っている、「おれはよりにもよって女性の身体と官能を地獄往きの切符にしてやるつもりはない」「全世界の女性にフラれたとしてもおれは天国セックス以外には与さない」。
地獄セックスの超絶官能は、強烈でテキメンだし、何よりその誘引力がすごい、いつのまにか吸い込まれているのだ、ふと気づいたとき「わたしはなぜこんな人のところにいるのだろう」と、場合によってはそこそこ薬物などもキメながら、異様なセックスをしているものだ、ただただ刺さる、刺さるだけ、何の話も出来事もなく、刺さるだけ、刺さるだけ、刺さる、刺さる、悲鳴をあげて、刺さることは一切やまない、それはまるで地獄みたいだ、そこで地獄なんてものがもしあったとして、それもそうしたウッフンアッハンの官能であればいいのにな/でもそちら側の女性って、少なからず、そうやって地獄の予行演習をしているね、そんなに勝手にそちらが自分の居場所だなんて思い込まなくていいのにと、思いがけず本気でウソ車ぐるぐるエビ太郎は言っているようだ、あなたの友人が本気でそう言っていたということぐらいは覚えておいてもいいんじゃないか。
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女性の脚はそんなところになかった2
き続き、生々しい話なので、苦手な人は読まないように。
世の中には、まだ若いのに、膣壁の中に石でも入っているのかというほど、性器が硬直してしまっている女性もいる/人の身体というのはてんかん発作やけいれんによって背骨が折れてしまうこともあるのだ、神経の具合で人の身体が思いがけず極端な状態になることはいくらでもある。
成犬になった野良犬を拾ってきて飼った場合、それがいかに人に慣れたとしても、人に撫でられたとき、生まれつきの飼い犬のようにはリラックスしないものだ、それはそれで元が野良犬だからこその表情の複雑さを見せることもあるのだが、とにかく生きものの身体というのは経験や精神によっていくらでも変質する。
単純に言って、たとえば昭和と令和では文化も思想もまるで違うのだし、人々の経験も精神もまるで違うのだから、昭和と令和では人の身体も違うのだ、たとえばわたしが学生のころは、宴会となれば老いも若きもオッサンはアホほど酒を飲んでいたように思うが、同じことを現代の学生がやったら本当に急性アルコール中毒になってしまう、それは根性の問題ではなく本当に身体そのものが違うのだ、身体そのものが違うので昭和のセックスと令和のセックスを同じように考えることはできない、昭和のセックスを土台に現代のセックスを「幸福な営みのはず」と設定することにすでに無理があるのだ。

現代の若い男性は、すでに陰茎の勃起について、いわゆるインポテンツとは逆の暴走的勃起を起こしている人が少なからずあるし、いわゆる「性癖」と呼ばれているようなものや、巨大化したバストへの貪婪など、いわば性機能の「不穏」を起こしている。
一方で女性のほうは、どう構えてみてもおそらく格闘技の「ガードポジション」が解けることはないので、ここおいて男女は、「異様化した勃起と貪婪がガードポジションの椅子を下から突く」というようなありさまにならざるを得ない/わたしはいちおう、身体の接触についても専門的な視力を持っているはずだが、アダルトビデオを見ても男女のあいだでぶつかっているのは性器ではなく「脚」だ、だからクライマックスに向けて「盛り上がる」というよりは「しんどそう」な無酸素運動が展開される。
多くの人は自分の魂が体験するものをそのときごと明視する能力を持たないが、つまりこのような状況では、若く青春の環境にあるはずの男女が、無垢に交合してみようとしても、その二人は思いがけず深い闇を体験することがあるということだ、片側は呪われて解けようのないガードポジションで、片側はすっかり異様化した勃起と貪婪を、相互にぶつけあうのだから、逆に直視できないほどの深い闇を若い二人は相互に目撃してしまうことがある、そうすると二人はそれぞれ自分を守るためにまた不穏な行動への強度を高めねばならなくなる(詳細は割愛)。
わたしが現時点で考えていることは、すでにこの状況において、各人が己にかかっている呪いと向き合って解除するということは、実際的に不可能だということだ、もちろんそれをわたしが次々に解除してやれるというような虫の好い話でもない、そうではなく/極端に深刻化した呪いの状況であるけれども、あえてその呪いに外科をほどこすのではなく、まずは何かしら幸福を直接「目撃」させてやるしかないと考えている、それは幸福の獲得でなく目撃なのだが、この目撃を厳密にコントロールしてやることで、呪いとやらが自ら解除されていくということがあるのだ、そのとき本当に身体の神経や精神の奥底に、呪いの解除と呼ぶべき現象が起こるのだが、そのとき何が起こっているかをいきなり視認できる人はまずいない、多くの人(というかほぼ100%の人)は、自分にどのような呪いが掛かっていてそれがどのように解除されたのか、何一つわからないまま解除だけ得ていくものだ。

体つきが変わるまで、幸福を「目撃」せよ。

幸福を、獲得しにいこうとするとダメなのだ、身体に直接呪いが掛かっているので、獲得しようとしたそれは必ず弾き飛ばされるというか、ブロックされてしまう、この身体の具体のこと、簡単にいうと体質や体つきということになるのだが、これが変わるまではあえて厳密な「目撃」に留めることが有効なのだ、焦って幸福を獲得しようとするとむしろ逆に呪いの増大が起こりかねない/そして、呪いを吹き飛ばすだけの幸福を直接「注入」すると、呪いは確かに砕け散るのだが、それにくっついて当人の精神も砕け散ってしまう、つまり本当に精神を損傷するのでもうこのことは禁忌になった。
ヘンな言い方になるが、ここまで呪いが各人の具体に深く突き刺さっている状況を考えると、もう個人としてそれに対抗していく方法なんて存在していないぞ、そこでまるで湯治のようにおっくうな方法だが、本当の幸福を直接「目撃」して、そのうち呪いが剥がれ落ちてしまうことを積み重ねるのが先だ、このことは安直に「目撃療法」みたいな呼び方ができると思うが、こんなのんきな方法だって、その「目撃」をどのように取り扱うかについて厳密な指導とコントロールが要る。
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女性の脚はそんなところになかった
廉恥で生々しい話なので、苦手な人は本記事を読まれないよう。
以前からナゾに思っていることがあり、最近いよいよ確信めいて感じるのだが、男女が交合するときのいわゆる正常位と呼ばれる形、あの形が変化している。
十五年前、正常位といえば、男性が女性の「腰」を持っていたことが多かったはずだが、今は女性の「脚」を持つことがほとんどになっている。
それはアダルトビデオを観ていても確認されるのだ、誰もこんなアホみたいなことを研究はしないだろうが、おれは「???」と思っている、おれの知るかぎり「女性の脚はそんなところにない」はずなのだ、今ある正常位は旧来のそれとは違って、いわゆる総合格闘技の「ガードポジション」に見える(またそう見えるだけでなく実際にそういう体勢なのだ)。

この十五年で、ホルモンバランスの変化から、骨格・体つきが変化したのだろうか? この現象は年齢にはあまり関係なく起こっているように見える。
骨格そのものが変わったか、あるいは、身体の深部感覚が変化して、旧来の形・体勢は取れなくなったのかもしれない/この「女性の脚はそんなところになかった」問題は(別に問題ではないが)、たとえばバレエダンサーのような身体の柔軟な人でも起こっているので、そういう単純な身体性能によるものではない。
総合格闘技で言えば、ガードポジションは「マウントポジションに移行されないよう」に相手をキックし、かつコントロールするための体勢であり技術だが、現代人は生死マウントの本能が解発されてしまったため、もうガードポジションとしての正常位しか取れないのかもしれない。
現代人の性交が本質的に愛も幸福も帯びていないことは今さら仕方のないことだが、のみならず、すでに男の身体と女の身体が「合う」「馴染む」ということさえ、呪いは奪っていってしまうらしい、まあそれは呪いなのだから当たり前といえば当たり前だが、これはまた性交を通して新たな呪いを生み出してしまうし、単純にいって致命的なDVが発生する根源にもなるのだ、何の愛もなく性欲だけで交合だけを続けるとこういうペナルティが課されるらしい。

旧来、男女のあいだに「脚」が挟まることはなかった。

旧来は、性器と性器というより、胴体と胴体が直に密接していたのだが、現代ではもうその形態は得られないのだ、胴体と胴体のあいだに女性の「脚」が挟まる形にどうしてもなる/そして「脚」が挟まるので、それがブロックになり、男性は自然に女性の腰に手を添えるという形がとれない、こうして現代のセックスは事象的に「脚のあいだにねじ込んでいる」という状態になっており、男女の胴体が直接交わるという旧来のそれとはまったく異なる感覚・性質のものになっている。
この呪いは、本当にヤバいぐらい深いレベルの呪いであり、ふつうの人が解除できるようなたぐいではまったくない、無理になんとかしようとすると逆に危ないので、無理にそういうことは考えないほうがいい(ホントに無理です)、逆に流血沙汰になってしまう/このことがあって、「どうせ男女でも胴体が適合しないのなら」ということで、同性愛へ転向することになった人も少なからずあるのかもしれない、またセックスに何らの愛も幸福も感じられず「負担」ばかりを感じる人もそれだけで異常ということではすでになくなっている(実際、ガードポジションで激突することは肉体と神経に強く「しんどい」と感じられる)。
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