☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
女性のヴァギナに物を入れることについて2
然とんでもない話をぶっ込んで申し訳ない(二回目)。
女性のヴァギナに物を入れるということは、究極、ムラムラハアハアではなく、うつくしいのだ。
そのことは、「私的」な感情や願望を排除すれば、ただちに出現してくるのだが、このところは誰もが私的な願望空想が猛々しいので、それを排除するということはほとんど不可能に等しい。
私的な感情や願望から離れたペニスの、物への突き入れやこすりつけが、うつくしいのかどうかは、僕は男性なのでよく知らない、けれども原理的にいってそちら側も性的にならうつくしいはずだ。

本来、女性のヴァギナに物を入れるというのは、ウフーンアハーンイヤーンではないし、男性が物にペニスを突き入れるのだって、「ウオー」ではないのだ、そんなアホな状態を人が「営み」に認めるわけがない。
女性のヴァギナに物を入れるといって、僕が女性のヴァギナを馬鹿にしているのではない、それは現代のエロマンガのほうが女性のヴァギナを馬鹿にしているに決まっている。
現在、多くの女性はきっと、性交時には意図的に意識を混濁させ、実は「セックスといって、本当は何をしているのかよくわからない」という事実について、巧みに目を背けるようにしている習慣があるはずだ。
人間には目や鼻や口があり、体内には五臓六腑があるが、それらの中でヴァギナだけが「ニヤニヤしてしまう淫靡なもの」であるはずがない、グランドピアノの中を覗けば内部には弦が張り巡らされてあることが荘厳であるように、女性のヴァギナに物を入れることは本来悪趣味ではない荘厳なものだ。

女性のヴァギナにディルドを入れることさえ「荘厳」だと断言していい。

ただしこんなことを、「私的」にやるから、それは限りなくアホっぽく、悪趣味で侮辱的になるのだ、まあお互いが悪趣味への耽溺で合意しているなら、それは人道的には罪悪ということにはならないだろうけれど。
「女性のヴァギナに物を入れることは荘厳なんだ」と、思い込もうとしても無駄で、その荘厳さが直接発見されるしかない、ただこれは現代においてとても難しい、現代では常に人は「私的」な願望を最優先にして生きているからだ。
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女性のヴァギナに物を入れることについて

性のヴァギナに物を入れるというのは、明らかにそれ自体が一つのジャンルなのだが、(と突然とんでもない話をぶっ込んで申し訳ない)。
しかしこれは「性的」な一ジャンルであり、これを「私的」に営もうとする発想、つまり「性的なつもりの願望」に引きずられていると、これはどうせロクなことにならないので、そんなことはやらないようにしよう。
たとえば魚の頭を出刃包丁で切り落とし、ただちに捌いて刺身にすることは、明らかに「料理」という「文化的」な一ジャンルだが、これを「私的」に包丁を振り下ろすと、それはただの魚の惨殺になり、人間としてヘンなことになるに決まっている。
ご存じのとおり、ツイッターには「私的」な声が繁茂しているので、現代の特徴は「私的さへの傾倒」にあるに違いない、ここで性的な営みを私的に願望するということをするので、セックスがややこしくなるのだ、あまりそこの願望に期待を寄せるべきではない。

現代においては、すでに多くの人が「性欲」のことを、「セックスに関連して空想する私的願望」だと誤解しているだろう。
セックスは性的に営まれるものであり、私的に営まれるものではないのだが、こんな話は今すでに「???」という反応でしか迎えられない。
ヴァギナに物を入れるのが性的な一ジャンルであると共に、ペニスを物に突き入れる・こすりつけるというのも性的な一ジャンルなのだが、これらが性的に営まれることは現代において非常に困難だ、ヴァギナ側とペニス側が性的なものとして同時に存在するというケースはかなり少ないだろう。
まずは手始めとして、というとヘンな言い方だが、ヴァギナかペニス、どちらかが性的に存在できたら、そちら側だけがまず活躍していい、説明は不可能だがこれらが「私的」でなく「性的」に成り立つという現象は本当にある。

性欲が強いのではなく、私欲が強い。

現代、男性も女性も、内心で「実はとても性欲が強いの」というようなことを自負していることは多いと思うが、たいていそれは性欲ではなく私欲だ、私欲を際限なく満たそうと盛りたつ人間は性的な営みに意を得ているわけではまったくない。
魚を私的にバラバラにすれば生臭くしかならないように、セックスを私的にむさぼればやはり生臭くしかならない、現代においてセックスが営みでなくコンテンツ化していった理由はこれだ、私的さへの傾倒と性的な現象の減退によって起こっている。

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血と肉の本来のセックス2

「本来」の形がすでに崩れているので、とても説明がしにくい。
もし、実用的なところだけを抽出して言うなら、現代のセックス直接においては、<<なるべく女性の身体が動いているべきで、なるべく男性の身体が固まっているべき>>だ、これはきっと一般的なセックス観とはまったく異なる様相を示しているだろう。
つまり、あまり男性の肉が活性化するべきではないのだ/女性がいわゆる「受け身」で、男性がその上にかぶさって踊るような動きをするというのは、けっきょく現代のセックスをうまく機能させない。
現代においては逆、男性があまり動かず、女性がその上にかぶさって踊るような動きをするというほうが、セックスはまだうまく機能する、ただし踊るように動くといっても、筋力や情念で動いてしまっては逆効果になるが……

おそらく現代においては、女性がベッドに寝転んだ瞬間、女性当人がセックスのやる気をなくすはずだ、それは肉が寝転んだせいで、肉が鎮静に偏るからだ/立ってイチャイチャしていたときはその気だったのに、寝転んだらやる気が遠のいた、という現象があるはず。
旧来、女性がセックスにおいては「受け身」だったのは、それだけ女性が男性に対して肉質化におけるアドバンテージがあったからであって、現代ではそうはいかない、肉を寝転ばせると女性もほとんど血質化に偏ってしまう。
旧来、男性の熱い血と筋の力を、やわらかい女性の肉が受け止めるという分担だったのだが、この分担を今はアレンジする必要がある、つまり女性が肉を踊らせていないと、女性の側も「熱い血と筋の力」に偏ってしまうのだ/女性が肉を止めないのが現代セックスの最大のコツになる。
女性が血質化しているところ、無理にセックスすることもできるが、そのときは男性は「過剰血質化」せざるを得なくなってしまい、毎回バケモノにならないと女性が抱けなくなってしまい、このことは巨大な負担になってしまう。

台所で動き回っている男性はダサいし、台所で固まっている女性もダサい。

男性は咥え煙草で、書斎で固まっているべきで、女性は台所でテキパキ動き回っているべきだ、ベッドの上の男女も、現代においては特にそのように互いを分担するとうまくいく/間違っても男女逆をしないように。
カブトムシと蝶々の動きが逆転したら、どうしたって不自然でブキミだろう、むろん女性が肉質化を恢復したら、旧来の「女性は受け身」という形式も取り戻されるが、そのことはきっとしばらく遠い/「受け身」に対して「攻め身」とは言わないので、身が恢復したら自然にそちらが「受け身」で成り立つようになる(攻めるほうは「攻め筋」という)。

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血と肉の本来のセックス

ックスは、別にしなきゃいかんというものではない(重要)、ただ若い男女は血も肉も盛んなくせに弱いものだから、男女がお互いを助け合わないと、うまく進めないということがあるのだ。
本来セックスの男女差は、「女性は射精できない」というところにある、女性はいわゆる「抜く」ということができないのだ、その代わり女性には月経で血が抜けるというシステムがあることになる。
男性は射精をしないと「自動的に溜まる」というシステム、女性は月経によって「自動的に抜ける」システム、これによって男性は本来「溜まる」ぶんだけ「血」の側に偏ってゆき、女性は本来「血」が抜けるぶんだけ「肉」の側に偏ってゆくことになる。
だから性交は、男性が陰茎を「充血」させることで営まれる、同性愛用語ではいわゆる「攻めと受け」という言い方があるが、これで言えば攻めは血に偏った側、受けは肉に偏った側ということだ/攻めが血に偏らないとそもそも勃起が起こらない。

男性は本来、「溜まる」というシステムによって、「血と筋」に偏る者(血質化)なのだ、「筋」力を強化して流「血」の戦いに臨み、武家なら「○○家の血筋」を誇らしめんとする、一方で女性は「肉」に偏り(肉質化)、伴侶や弱者を慈しみ育てんとする者だ/切腹の文化がある中世日本でも、女性が切腹に及んだという例はゼロに近い(女性の肉を切り血を流させるというのは霊的な損失にしかならないからだ)(現代では知らん)。
現代における、男女交際の低迷は、まず女性が血質化したことに大きな原因がある、女性の血質化(「血が騒ぐ」女性が増えた)に反応して、男性の側は、1.過剰血質化して「オラつく」、2.血質化を停止させ「草食系になる」、3.そもそも男女の関わりを閉ざして「オタクになる」、という三択を迫られることになった(例外的に、4.草食系・オタクのまま過剰血質化して「猟奇化する」、というのもあるが、これは病的であり選択ではない)。
血質化した女性と、過剰血質化したオラつき男性は、セックス可能になるが、これは血だけが盛り肉が滅びていくので「獣化」する、この獣化を避けるためには、女性はなおも血質化したまま、3.そもそも男女の関わりを閉ざして「オタクになる」という形で、いわゆる「腐女子」にならざるをえなくなった。
わかるだろうか? 本来、血質化した男性を肉質化した女性が「抜く」ことによって、男性は肉を取り戻して霊化し、女性は血の通いを取り戻して霊化することができた、男性は血の気が収まって天地自然を取り戻し、女性は貧血と冷え性が治ってオバケを見ずに済むようになったのだ、現代は社会情勢が女性に血質化を推進したことによって特徴付けられている、だから今はバランスの恢復のために「肉」が強く言われねばならない。

本来、女性が唄い踊って、つまり肉を活性化して、男性を誘う。

女性が血と筋のパワーを誇って、男性を誘うなどということは起こりえない、とはいえ現代の女性は「血が騒ぐ」ように社会化されているから、今ではきっと「バランスのとれた筋トレ」に気持ちが傾く女性が多いはずだ、それでますます男女関係はどう営めばいいのかわからなくなるはず、血と筋の強化を(つまりメンタルとフィジカルの強化)を推奨するムードの中で、その強化者はたいていオタク文化に傾倒するようになっていくはず。
明らかに、短い中に説明を詰め込みすぎたと思うが、さしあたり諸問題の根源は「無理のある女性の血質化」にある、女性が「月経が面倒くさい」と堂々と思うようになったところから、根本的な問題は始まっているはずだ。

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「血の騒ぎ」でするセックスのこと

くの女性が、セックスで自分の獣化を加速している。
男性が、女性の乳首やヴァギナに「興奮」するのは、単に性欲のせいじゃない、それら「粘膜」が血に近いからだ、粘膜に向けて「血が騒ぐ」ことが力動作用になっている。
そして女性の側も、「血が騒ぐ」ことがすべてになっているので、男性が自分の粘膜に「血が騒ぐ」ことを露骨に押し付けてくると、どこか「安心」するし、「自信」も湧いてくるし、メラメラと力も湧いてくるのだ、「肌が合う」気がする……だからこの「血が騒ぐセックス」がやめられなくなる。
これについてはさすがに、「やめとけ」なんて言っても無力だし、ただの無粋か野暮にしかならない、ただこころのどこかで覚えておけば、いつかのときに役に立つかもしれない。

「血の騒ぎ」でするセックスがどんな具合のものか、どういうはたらきかけが有効か、またどんな恍惚があるのか、それは僕だって重々知っている、それは単純な年の功の話。
だが結論から言ってしまえば、それらの恍惚と忘我の味、酩酊と陶酔は、けっきょくたいしたものではないのだ、言ってしまえばそれは割と安物の、最もありふれたセックスだと言える。
このご時世と社会不安に、肉の身から自信が失せていったとして、「血が騒ぐセックス」がいっとき自信(のようなもの)を回復させてくれるのはわかるが、それはけっきょく虚構なのだ、それで「女になった」というわけでもないし/山の中で修める学門のほうがはるかに本当のエクスタシーに近い。
僕は容赦なく申し上げているが、残酷なことを言っているのではない、粘膜に関わり血が騒いでするセックスは実は「定番」のもので、あなたが特別に持っている才能でもなければ、秘密でもないし、選民の何かでもない、あなたに鼻を高くする権利は未だどこにも与えられていない/自分にがっかりする義務の方はふつうきらいだ。

セックスのテンションが高いのではなく、学門への集中力がないだけだ。

単に血の気が多いだけのチンピラが、真正の剣士に勝てるとお思いか、真正の剣士はえげつないぞ、殺し合いを学門にしていて、何十年もその学門への集中力を切らさずに生きている/そこで「やぶれかぶれ」なんて誰にでもできる安物の極みだ。
「血の騒ぎ」でするセックスは、けっきょくのところ間違っていると言うしかなくて、それとはまったく異なるセックスがあることを断言しておく、そして多くの人はその異なるセックスに直面したら、怖くて田舎に帰りたいと感じるものだ、それが一番ふつうの反応だ。

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セックス・トラブルの時代4
クスタシー。
この言葉がこのセックス・トラブルの時代を切り返すヒントになる。
あなたの全身は、「エクスタシーに向かえ」とあなたに命じているのだが、あなたはアホなので、そのエクスタシーをエロマンガレベルに定義している。
もし、「エクスタシーがわたしのようなアホにわかるわけがない」と笑って言えるところに立ち返れば、あなたはまともな道をゆけるだろう。

「エクスタシーに向かえ」と命じられると、「うん、つまり、グール化するしかないのよねやっぱり」と、アホみたいな結論を確信する。
まあ、それが抑圧下で育ててきた、ほとんど信仰の対象のような「エクスタシー」イメージなのだからしょうがないのかもしれない。
たぶん、「エクスタシーは一種のヌミノーゼだよ」と言われると、「わかるけどもう何もかもイヤになる」と、すべてから離脱したくなると予想される。
ヌミノーゼとしてのエクスタシーなどと言われても、「やり方がわかんない」ということになるだろうが、そこのところは逆に問うしかない、「なぜ万事のやり方を知りえるなんて思ったの」と。

エクスタシー、うらやましいだろ。

勇気をもって、エクスタシーについて考えるべきで、さらに勇気を持ち得れば、自分のグール・エクスタシーのイメージを、どうやら本当にゴミらしいと笑い飛ばすことができる。
ヌミノーゼふうのことに、同意を示しているふうにするのはカンタンだけれどね、口ではそう言えてもヴァギナからそれを語れる人は少ない、まったくカラダは正直だなオイ。
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セックス・トラブルの時代3

代人は、ただならぬ抑圧、言うなればウルトラ抑圧の環境下にある。
そのウルトラ抑圧の中に、これまた負けずおとらずの、ウルトラ自我の肥大がある。
この構造の中で、人々は空想を始める/抑圧を破裂させて「グール化」し、グール化すれば「実はすごく強い」のだという空想に耽りはじめる。
「進撃の巨人」あたりを見ていてもわかるが、人々は自分が破裂したらグール化して強くなれると思っており、「がんばらなきゃ」という場面では、連想がこのグール化に向かうようになっている。

このグール化には、大きな力と、同時に強いエクスタシーが伴うと空想されている。
ウルトラ抑圧を、ウルトラ破裂させるのだから、それはものすごいことで、ものすごいエクスタシーと力があると空想されている。
そしてその強い力とものすごいエクスタシーを得たら、自分は特別な人間(ウルトラマン)になれて、その特別化した人生は、ウルトラ肥大した自我を満足させうるのだと空想している。
だがそれらは残念ながら空想で、ただのウソだ、すべてがウルトラ化しているから、空想までウルトラ空想化しているだけだ。

グール化空想にとらわれる人は、自分のウルトラ化を空想するが、実際にはすべてに「初心者」のままになる。

人と話すにせよ、セックスするにせよ、仕事をするにせよ芸事をするにせよ、なぜか何も進まず「ずっと初心者のまま」という人が少なからずいるが、そのことの背後にはこのグール化空想がある。
「がんばらなきゃ」というときに、エネルギーがグール化空想のほうに吸い込まれるからだ、架空のエクスタシーを求めてさまよい続けるのみなのだが、ほとんどそのように調教されたかのごとくでこのことは修正がむつかしい。

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セックス・トラブルの時代2
くの女性が、「理不尽に」「強制的に」、そして「嗜虐的に」、「なぶられたい」と思っている。
そして、その妄想に向けて起こるheatが、正直なところ人生の「可能性」というか、ひとつの「夢」になっている。
そこにさらに、「不倫」とか「オフィスで」とか、逆に「純愛」とか「処女」「童貞」とかを貼り付けたがっている。
絶望させて申し訳ないが、そういう空想の中で描かれているエクスタシーというのは実際にはない、あなたがそのことを考えるとモンモンとするというだけで、実際にはそんなところにエクスタシーはないのだ、夢を壊すようでまったく申し訳ないけれど。

たとえばロリコン趣味の男や、レイプ願望のある女や男がいる。
が、実際に女子小学生の身体に触れたとして、それとの性交が本当に特殊な純潔や性感を与えてくれるかというと、残念ながらそんなことはない。
レイプということになったら、男女とも特別な叫声や挙動を発揮するかというと、残念ながらそれもない、本人が一時的に興奮するだけで実は何もたいしたことは起こらない。
つまり、まったく残念だが、秘密のエクスタシーが存在して、それがあなたの生を解決するということはまったく起こらないのだ、ゼロだと言っていい、あなたはたとえ最低のセックスにまみれきったとしても救済はされない、それぐらいあなたは行き詰まっているのだ、まったく申し訳ないが。

エクスタシーは、存在するが、凡才の空想する方向にはない。

残念なことだが、これは人々の健全さのため、ハッキリ言われるべきだ、凡才がエクスタシーの誇張によって自己の生を特別化できることは決してない。
あなたの必殺技である「取り乱す」が、エクスタシーに到達することは決してない、なぜなら「取り乱す」のは弱い人の特徴であって、強い人の到達するものではありえないからだ。
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セックス・トラブルの時代
うもどの方面を見ても、情熱とか集中力とかいうことが失われてきている気がする。
そして、どうもその背後には、セックス・トラブルがある感触がするのだ。
フロイトの言うとおり、セックスは根本的な情動の装置だから、ここがゆがむと全体がゆがんでしまう。
どうも誰も彼も、抑圧下に「ヒステリック・セックス」のheatが電熱線のように走っているような気がする、ここに通電すると何かが大爆発してしまうので、そもそも電圧が生じないように暮らしている、というふうに見えるのだ。

ネット上では「キチガイゲージ」「キチゲ」という表現が見られる。
そういう、ネタでしかないと思えるようなものが、実はネタでもシャレでもなく人々をおびやかしているのかもしれない/セックス方面の「キチゲ」がぐいぐい溜まるのだろうか。
何かおぞましい(と本人は大げさに思っている)ものを溜め込んでいて、それが破裂しそうになるのがとてもイヤで、でも破裂させたくって、自分のロマンや空想というとそのおぞましいものにしか向かわない、ということなのだろうか。
僕はヒステリック・セックスの妄想について、「しょーもな」と言い捨てることができるが、それは僕が特殊な大人だからであって、言い捨てておしまいにするのは卑怯な気がしている(といって特に対策はない)。

こころの地下室にひどいエロ本を大量に秘匿している。

僕はもう大人なので、そのことを「しょーもな」と言えるが、大人になれない当人にとってはオオゴトなのだろう、どうしたらいいという方法はまったくないが、少なくとも破裂させたところで気色悪いことにしかならないと言える。
こういったことには名前が必要で、適切な名前はきっと「セックス・グール」あたりだろうが、つまり情熱や集中力が生じないのは「グールだから」と言えよう、解決や改善の方法は今のところまったく見えない。
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セックスが下手な人は「無神経」の気質による

ックスが下手なのは、テクニカルな問題というより、「がさつ」「無神経」という気質の問題による。
車の運転と同じだ、運転が下手というのは、テクニカルな問題というより、「がさつ」「無神経」という気質のせいだ。
じゃあなぜ「がさつ」「無神経」になるかというと、焦っているからだ、焦っているから散漫になり、乱暴で力任せになる。
じゃあなぜ焦るのかというと、自意識過剰だからだ、自分が自分に注目して焦り、そのせいで挙動は散漫になり乱暴になる。

じゃあ、「がさつ」「無神経」をやめよう、丁寧にやろう……と発想するのだが、そうなるとその発想自体が「がさつ」だ。
「丁寧にやりゃいいんでしょ」ということで解決すると思っているところが典型的に「がさつ」なのだった。
「無神経」な人が反省すると、今度は「神経質」になることしかできず、それではおっかなびっくりのヘタクソにしかならない。
神経のある人は、長く「学ぼう」とするのだが、無神経な人は「教われば解決する」と思っている、無神経な人は焦っているので、三分間教わって解決しなければイライラしはじめる、これはセックスに限らず何事でもそうだ。

自分の髪の手入れ以上には上達しない。

がさつな人は、自分の髪にブラシをかけるのもがさつだ、女性にとって髪は持ち前の作品のひとつになるわけだけれど、それさえがさつしているということは、悪いことではないけれど、がさつさのパターンからは脱却できない。
「がさつ」ということは気質のものであって、丁寧にしようとしても、そのとおり丁寧に身体は動いてくれない/自意識がピンチだと焦ってがさつになるしかないわけだけれど、たぶん誰だって自分の髪ぐらいまともに触れるようにはなれるはずだ。

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性感とセックスの違い2

「性感」は、アホみたいに簡単な話で、これは誰にでもあり、自分でやるか誰かとやるかの違いしかない、ローションをつけて性器をぬるぬるすればそれなりに性感になる。
そのことと、「セックスを通じて男と女が出会う・結ばれる」というようなことは、まったく別だ、という、これは当たり前の話なのだった。
当たり前の話、とは言うけれども、そんなことを「当たり前」といって堂々と引き受けるという奴がどこにいるのか、このご時世、そんなことに準備ができている清冽なガールなんてそうそういるようには思えない。
男だって、目つきを見ていればわかるが、そもそも何かを「見る」とか「狙う」とかいう眼差しを持っていない、このあたりのことはあまり言っても悪口にしかならないのだった。

ハートにタフな経験を積んでいない人ほど、なぜかセックスについて異様な自信を持っていたりする。
それは確実に、「性感に鼻息が荒くて願望たっぷり」ということが、間違って「自負」にすり替わっているだけでしかないのだが、これもどう言っても悪口になる。
男の前に堂々と立てない女が、裸で寝転んだら堂々と何かができる、というような虫の好い話はまったくなくて、性感は誰にでもできるけれども、「セックス」と呼んでいい何かをできるかというとまったく別なのだった。
ためしに、男Aと女Bで「見つめ合って」みたらいいけれど、見つめ合ったところで何も入ってこないだろう、ただのにらめっこになって互いにプッと噴き出すはずだ、それがペニスとヴァギナにすり替わったところで、やっぱりお互いに何も入ってきたりはしない/さすがに「性感」なんかに自信を持つのはやめよう。

本来のセックスを得ると、冗談でなく「世界」が増える。

たとえば日本が新しく倍の領土を獲得したら、「日本」という国は形を変えて、元よりも大きな国になるだろう、じっさいセックスが正しく得られるとそういうふうに自分の生きている世界が拡大する。
そして、正しいセックスの最中には、「性感」はほとんど確認されない、性感はあるのだろうけれど「そんなことかまっていられない」からだ、キモチイイとかそんなことはどうでもよくなる、男と女が出会って認め合うというのは本来そういうできごとになる。

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性感とセックスの違い

くの人は性感を求めている。
それはおかしなことではなくて、特に男性は性感を求めて性風俗でサービスを購入する。
性感というのは、一定のムードとローション的な摩擦があれば、それで得られるし、没頭もできるので、そのこと自体には何の罪もない。
そこには何の罪もないので、性風俗のキャストは、単なる肉体労働として性風俗のサービスができるし、AV女優だって撮影を共にした男優と恋仲になるわけではないはずだ、仕事が済めば「誰が誰だったか」すべて忘れてしまうようにできている。

性感とセックスの違いは何かというと、性感には方向性がないのだ、方向性がないので「発散したい」という形の動機になる。
性感というのは、単に異性と裸でアヘアヘしたい、そして発散したいというだけで、AがBを「狙う」という方向性がない。
男Aが上玉女Bを狙っている動機は、単に上玉から性感が得たいという望みからにすぎず、直接AがBを「対象」として狙っているということではない、この場合男Aはより上玉の女Cが現れたら、そちらに切り替えて問題ない。
たいていセックスに関わるいざこざは、この「セックスと性感のやりあいを混同している」ということに起こる、女にとって男に性感を求められることは何のプレッシャーでもないが、そのかわり得られるものも何もない、欲求不満の「発散」が得られるだけでしかない。

男はジロジロあなたを見るが、誰一人「あなた」を見てはいない。

男どもが、上玉から性感を得たい、発散したい、とモーレツに望んであなたをジロジロ見るだけで、それは「あなた」という存在が狙われているということではない。
ひどい話だが、あるがままを言うしか救いがないのであるがままを述べるしかない、そもそも多くの人は、人を「見て」「狙う」ということ自体ができないので、何もそれは性感に限ったことではないのだった。

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「セックスは気持ちよくない」という常識
ろんな人から、「セックスが気持ちよくない」という報告を受けている。
恋人とのセックス、妻や夫とのセックス、いわゆるセフレや行きずりのセックスまで含めて、「気持ちよくない」「自分の手でしたほうがいい」という報告を典型的に受ける、男からも女からもだ。
僕はそれに、「今は割とそれで当たり前、焦らんように。慌てるようなことじゃない」と答えている。
たぶん典型的に、「挿入が気持ちよくない」という現象が目立ってあるはず、逆にローションを使ってぬるぬるごっこをしたら気持ちいいだろう、今はそういうことが当たり前になる状況にある。

原因は簡単で、今は時代状況的に、人々が男であることや女であることをやめているからだ、「性的に凍結した胴体」で生きている、こうしないと現代では生活が不快すぎるのでしょうがない。
このことに慌てる必要はないが、このことを正しく知っておかないと、いちいちうまくいかないセックス・気持ちよくないセックスにイライラして過ごすことになってしまう、イライラして仲たがいすることは不毛だ。
こう考えればいい、「もしセックスがかつてのように、天国のように気持ちいいなら、みんな必死で恋人を欲しがったし、恋人のいる人はもっと日々幸せそうで光り輝いているでしょ」と/今明らかにそんな幸福そうな人はいないでしょ。
セックスで、「興奮した」「あれは燃えた」と語る人も少なくないとは思うが、それは胴体が性的に凍結しているので、その中でセックスをするのに「異様な量のムード」を要求されているというだけだ、だからそのへんの話もアテにしなくていい、この問題はそんな一朝一夕に解決はしない。

本来、女は男に押し倒されるだけで、ヘソのまわりに汗が噴き出す。

本来はそういうものなのだけれど、今はそんな現象はありえないだろう、こんなもの訓練のしようもないし解決のしようもない、もともとはセックスにおいてはヴァギナ内の温度がまったく違ったのだ、さすがにそんな科学的なデータは残されていないだろうけど。
われわれは他の哺乳類と違い、文化的にセックスをしているので、路上で交尾はしない、だからわれわれは文化的な生き方から離れていくごとに、セックスを不能にしていくのだ、これは別に焦ることではなく「そういうものだ」とあらかじめ了解しておくしかない。
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セックスは性癖の狂乱ではない6

じ話をしていてもしょうがないので、このへんにしとこう。
人は何かに深入りしないと「生きている」という実感が得られない。
家族と、仕事と、友人と、趣味と、食事と、社会と、思想と、芸術と、物語と、「距離」をとって深入りしないようにすると楽にはなるが、「生きている」という実感がなくなり猛烈にむなしくなる。
このむなしさには耐えられないから、何か裏切られない「深入り」の対象を探す、その対象が「性癖」になるだけだ、麻薬があれば麻薬でもかまわないのかもしれない。

人はキモチワルイものに深入りすることができる。
たとえば「発狂した母親」とか「マザコン男」とか、「童女をなぶりたい青年」とか「敗北の腹いせに拷問処刑」とかはキモチワルイ。
人間は、他に深入りできるものがないと、あまりにヒマなので、これらキモチワルイものに深入りして、それを「真実の体験」などと言い張りたくなる。
だけどそんなものは、直截の春の東風といったような、本当にうつくしいものには勝てっこない、ありがちな変態風情に特権性なんて無いので、あきらめてうつくしい夜に帰ってくるしかない。

深入りできるものは、夢、もしくはキモチワルイもの。

夢に深入りできなくなったとき、人はキモチワルイものに深入りする、それしか深入りできるものがなくなるからだ。
今実際に、キモチワルイものが人気じゃないか? キモチワルイものにしか濡れない・疼かないという状態に実際なってしまうらしいが、それは残念ながら特権的なことじゃない、今もっともありふれたパターンだ。

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セックスは性癖の狂乱ではない5

きていくには、何か「これだ」と感じられる、強く「ただものでない」衝動への接触が必要だ。
特に人生が不明、あるいは破損や欠損や消失をしたりしたら、ますますその「これだ、と感じられる強い衝動への接触」が必要になる。
そのとき、尖鋭化した「性癖」への拡大刺激が、「これだ」という強い衝動への接触だと信じられてしまう、性癖への「えげつない刺激」が「真実」なのだと信じるしかなくなってくる。
ただのアホだけどね、ただしそれを「ただのアホ」と言ってしまえば、僕の人気がなくなる(それでも言うが)。

だってもう、どれだけ歪んでいようが、ギンギンに勃起するかドロドロに濡れるしかないのだ、「ぜったいそのほうが真実」と言いたいのだ。
ラジカルな性癖に向き合うことのほうが「勇敢で」「誠実で」「真実の愛」とぜったい言いたいのだ、それはつまり、自分が「勇敢でなく」「誠実でなく」「真実の愛にまるで縁がない」と言いたくないということでもある。
いつの間にか尖鋭化した「性癖」を、ついに実現させようと決意する、その踏み切る勇気、および向き合わされる苦しみ、そういうことが人間の真実的存在で、肯定するし認めると言いたいし、闇を含んだ狂乱に触れないと「これだ」という気がしないのだからしょうがない。
それをよりによって、「胴体(こころ)が閉じ込められたから、性癖が尖鋭化したんですな」「胴体が解放されたら性癖は剥がれ落ちます」というのでは、夢がなさすぎる、夢がなさすぎるけれど、それは性癖以上のものはないという前提に立っているからだな。

人は人生が破損すると、おぞましさに希望を探す。

ちょっと言っている意味がわからないと思うが、これで正しいし有効だ、人は人生に希望を託せなくなると、おぞましさへの転落に希望を探すことになる、つまり「それ」が本当はおぞましいものだと知っている、知っていて希望にしている。
胴体が解放されて、性癖が剥がれ落ちるなんて、きわめてつまらないこと、かつブキミなものだよ、ただそれは「これだ、と感じられる強い衝動への接触」がないからであって、その「これだ」は別に性癖なんかじゃなくてかまわないってだけだ。

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セックスは性癖の狂乱ではない4

ルバート・ネイは中学生の少年と交際した。
気弱で迫害されていた少年を、ネイは初め庇護しようとしたが、やがて少年のあまりの病的な弱さに苛立ち、ネイは納屋で少年の頬を血がにじむほど懲罰につねった。
少年はその痛みによって射精した、「あっこいつ」とネイは腹立たしく思い、さらにつねりあげると少年はひくひく泣いた、少年は一切の抵抗力を持たない。
虐げられる少年を見て、ネイはなぜか自身の内にヒステリックな歓喜がけいれんするのを感じた、ネイは「いいのよ」と少年にいい、睾丸を手で締め上げながら少年にキスをした、ガーと呻く少年、「そのとき鼻腔にもっとも不潔な匂いがした」と後日のネイは語っている。

ネイはカネで暴力的な男を雇い、少年の肛門を犯させた、「興味が持てなくなるほど打ちのめして」とネイは依頼した。
納屋に据えられた少年は、犯されながら必死でネイに許しを乞うたが、その懇願のさまはますますネイに歓喜を与えた、ネイはこのとき自分は「自由で」「特権的だ」とこれまでにない高揚を得た。
犯された血と痛みで白色の蝋と化した少年の身体を、改めてやさしく抱き、「愛しい子」、その弱い肌を撫でてやると、そこにはウソも隠しもないと感じられ、ネイは自分が「誰よりもまっすぐに愛に向き合っている」と感じて涙をこぼした。/「ごめんね……」
ネイはこれまで虚しかった自分の生に、真の誠実さと充実と、誰でもが手にできない愛を獲得したと思ったが、それが錯覚だったということに生涯気づけなかった。

「わたし割とSなの」と笑っていたのを、友人は冗談だと思っていたし、ネイ自身も冗談だと思っていた。

やがて少年はその傷口を慈善団体に見とがめられ施設に収容された、ネイは大学を卒業後「特別なことを知っている」という自負を隠し持つ文化人になろうと努力していった。
僕はこういったケーススタディを、「ただのアホ」と断じます、申し訳ないが大爆笑の類でね、この世界にはもっと素敵なことがいくらでもあるのに、さすがに「性癖でモンモンしましたあ」はアホすぎるでしょう。(上記の話はフィクションです)

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セックスは性癖の狂乱ではない3

き流すよーに、あくまで仮説だ、そういうことにしておこう。
世の中を疑い、人を疑って生きるしかなくなったとき、人は「疑う胴体」になり、「性癖」は強固に偏向化していく。
その偏向した性癖は、具体的にどういったものになるかというと、多くは「人が苦しんでいる状態でしかセックスできない」となる。
なぜだかわかってもらえるだろうか、「人は苦しんでいるときが最も疑いない」からだ、苦しみは疑いなく発生するので、そのときだけ人を「信じる」ことができ、セックスの機能が解放されるように感じる(事実そのときだけ濡れたり、勃起したり、オーガズムを得たりする)。

つまり、苦しんでいる女に勃起するとか、苦しんでいる男に濡れるとか、多くはそういう性癖になる。
いわゆるロリコンと呼ばれるペドフィリアもそうだ、童女はまだ人をあざむく能力を持っていないので「疑う」という必要がなくなる。
言うなれば、人はそれだけ、「人を信じられない」という状態がつらく、そのことに弱いのだ、このつらさは「自分を信じられない」ということも含む/よって自他共に「苦しめる」ということへ自然に進んでいってしまう。
このところやけに、「人の苦しむところを見たい」「見たがっている」「そういうシーンを漁っている」という自覚はないか? ともすればこの「性癖」のレベルで「ブラック企業」や「芸能人のスキャンダル炎上」も発生しているところがある、ただただ人の苦しむところを見て濡れたい・勃起したいという「性癖」の充足のために。

信じるものを持たず、性癖だけはぎとったら、びっくりするぐらいつまらない人間になる。

あえてそのことも真実だと申し上げておこう、胴体だけ解放されて、その胴体に「信じるもの」が入っていなかったら、それはおそろしくつまらない、かえって不気味なほどの人間になる、「そんなふうになるわけにはいかない」と誰だって思う。
じゃあ何を信じるかということになるが、むろんカミサマがどうこうというエセ宗教じみたことは言いたくない、ただこの薄暗い状況を突破するのは、「性癖からの離脱」および「信じるものの獲得」とだけひとまず言っておきたい。

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セックスは性癖の狂乱ではない2
き続き、この話は仮説だとして、話半分に聞き流してくれ、ある種の危険を含んでいる。
恥を忍んでいうと、僕は二年前、「歩く」という身体操作を獲得せねばならなかった、理由は「死なないために」だった、僕の友人はよく知ってくれている。
すべてを説明はできないが、間違いなく言いうるのは、僕が「歩く」ために決定的に胴体からこわばりを捨てていったときに、確実に「性癖」も捨てていっているということ。
いわば僕はあのときから、性癖という「信仰」を捨てたのだと思う、いつの間にかそうなっていたのだが、今になってそれがやはり正道だったと確信できている、僕はそれによって死なずに――殺されずに――済んだ。

僕の話を聞いてくれる人のうち、幾人かはこう言えば楽になってくれるだろうか、いわく「性癖じゃなくてもセックスはできるよ」と。
人は何かを信じて生きていかねばならないが、なかなかカミサマを信じられるほど、カミサマを体験できるわけじゃない、カミサマなどと言い出すのは基本的にルール違反だ。
ひとつ、絶対に覚えておいてくれ、「人を疑って生きるしかなくなると、性癖は強固に偏向化する」、そうなるとその後はほとんどその性癖を信仰して生きていくしかなくなる。
次のことを考えてくれ、「根本的な無気力」「イライラしやすくなった」「食欲の乱調(偏ってやたら食べる・パタリと食べられなくなる)」「声が引きつるようになった」「変なハイになりやすくなった」「肌の調子や顔色がおかしい」「入浴しても身体があたたまらない」、これらは性癖の狂乱セックスをしたあとで出てくる症状だ、性癖でセックスしているので胴体は弱っていっている。

あなたは性癖をなくしても濡れることができる。

あなたは信じるものがあれば、濡れることができる、信じるものがない(もしくはなくした)せいで、性癖を信仰せざるをえなくなっただけだ。
女性は濡れる男性としか一緒にいられないだろうし、男性は勃起する女性としか一緒にいられない、と、一般に思われている、けれども本当はそんなことはない、人間はそんな単純な性癖だけでできてはいない/「性癖をなくしたらつまらない」のじゃない、性癖が最後の信じるものになっているので、「信じるものをなくすのが怖い」だけだ。
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セックスは性癖の狂乱ではない
度なダンス、バレエ、武術の世界には「色気」がない。
本当は、その世界にもセクシャリティや愛はあるのだが、一般的にはそういったものが見受けられないと感じられると思う。
それはなぜかというと、こわばり(こだわり)を克服した自由な身体は、「性癖」を離脱するからだ。
この話は現在仮説で、これからもずっと仮説にしておきたい、ある種の危険を含んでいるから、そのつもりで聞き流しておいてくれ。

現代においては、周知のとおり、「性癖」は各方面に先鋭化している(本来の国語的には「性癖」はそのことを指すのではないが、この場合はいわゆる「セックスの趣味」として)。
先鋭化した性癖は、各方面で冗談のネタに使われているふうだが、実は「性癖がシャレにならない」という人も少なくないはずだ、自覚があってもなくても、そういうことは現在あちこちで起こっている。
今や性癖は単なる趣味ではなく、「セックスの"不具合"とも言いうる偏向」のレベルになり、人々を苦しめている、そして偏った性癖のセックスを重ねていけば、性癖はさらに強化されていってしまう。
「疑う」世の中になり、「疑う胴体」になると、セックスの機能は"閉じ込められて"歪んでいく、そして「性癖」が始まる、気づいたときにはこの「性癖」から脱出不可能になっていたりする。

人はどうしても、性癖を「真実」と信じてしまう。

性癖は一種の「信仰」じみる、性癖の偏向に苦しめられている人も、そこに一種の「信仰」があるので、「そこから離れるのはいやだ」と感じる、偏った性癖を離脱することは巨大なものを「失う」ことだと感じられるのだ。
現代において、性癖が先鋭化していくのは、疑う胴体がセックスの機能を強固に閉じ込めるせいだ、僕は年長者として言っておきたい、性癖の狂乱とは異なる本来のセックスというのはきちんとあるし、そのことを解き明かすサイエンスもきちんとある、いつか未来に向かおうとするとき、この知識が必要になる人がきっといると思う。
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始業のチャイム

静に考えれば正しいことが見えてくる。
そして何の役にも立たないだろう、そのお決めになった「正しいこと」とやらは。
怒りを持って考えろ。
怒りが私的でなく「天」に通じているとき、「天」は人に「思想」をもたらす、そして人は思想の人となり、思想にから生じた「意志」を持つのだ。

ヤラせろって言ったらヤラせろよ。
女なのにそんなこともわからないのか、あるいは老化でついにわからなくなったのか。
あなたは「ヤラせろ」と言われて、そのこともわからない女になった、思想のない硬い虫けらみたいになってしまった、そのことを一生続けさせられることに怒りはないか。
「正しいこと」? そのわりにはクッタクタで、精気がないですな、しんどいことばかりをわざわざお選びになられているように見えますぞ、あたかも「棒立ちと緘黙の刑」に処せられたかのようで。

ヤラせろ。

思想なしに生きている人は、とてもしんどく生きているのだ、思想がなければ気分に振り回されるだけでしかもどこに向かう推進力もない、羅針盤のない板切れが海に浮かんでいるだけを誰も船とは呼んでくれない。
「ヤラせろ」と霧笛が鳴った、あるいはオーボエが鳴った、銅鑼が鳴らされた、"チャイム"が鳴った、何をしたらいいかわからないか?

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