☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
要はソウルの叫びだ

し、体調が低迷すると、ただちに気づくことがある、「ソウルが叫びすぎ」だ。
なーぜおれひとり、おればっかり、こんなに叫び続けているんだという、アンバランスは承知の上でやっているのだが、少しでも体調不良が起こると、このアンバランスの無理が一気に噴き出してくるな。
なぜソウルが叫び続けているかというと、もうそんなバカはおれしかいねーのじゃないかという気がしているし、このソウルの叫びが途絶えたとき、すべての人がどうなっていくか、僕はよくよく知っているからだ。
ソウルの叫びが途絶えたとき、うーむ、みんなが思っているより遥かに笑えない、阿鼻叫喚の穴の底が待っているのだ、よく平気で自分の住む国を削っていけるな、たぶん大前提としてその先に落ちていくところかどんなところかについて、甘く見ているのだと思う、覚悟なんて通用するレベルのとこじゃないぜ。

まあとりあえず、体調がノリノリではないので、今日なんかはフヌケワークショップを開催しよう、そうすることで逆に発見されることもたくさんあるはずだ。
ソウルの叫びがなくなるのは怖いぞ、あくまでソウルの叫びがあるから金曜の夜はサイコーなのであって、ソウルの叫びがなくなれば、すべての夜は耐えがたいほどの時間の無駄になり、空虚と憎悪しか起こらなくなるのだ、そうなるとあとは田舎者の立ち回り合戦だ。
そのソウルの叫びを、僕一人が担っているという状態が、当然ながら無理があるのだ、誰か代わりに立てば、自分がこれまでどれだけラクな横着をしていたかただちに理解されると思うが、残念ながらその理解に到達する前に、サッと精神が逃げて何も視ないように脳みそにノイズが掛かるだろう、そうまでして横着を決め込みたいのかという問題がある。
何をどうやったって、船が水に浮かぶ物理のようなもので、カルマ量とソウル量が拮抗して、ソウル量が勝っていなければ船は沈むのだ、そこで辞退する船長に何の美学を認めうるだろう、誰もがこぞってソウルを獲得してソウルを放出しまくるしかないのだが、びっくりするぐらいの個人主義が横行しており、船の沈没について自分が責任を持たないよう立ち回ることだけを考えている/しかしおめえ、そうして責任をだまくらかしたって、船が沈めば一緒に海底に引きずり込まれるじゃねーか、何をおめでたいことをやっているのか、神経にデバッグソフトを走査させるべきだ。

自分が目の前の空間を浮揚させている、そのスコアを公正につけろ。

たとえば「親戚のおじさんが来る」として、その親戚のおじさんはとてもいい人かもしれないが、そのおじさんの来訪によって「目の前の空間が浮揚する」かどうかはまったく別じゃないか、それと自分も同じ、誰がどれだけマジメかなんてスコアはねえよ、小学校の先生がよろこびそうなスコアリングを持ち出すな、自分も含めて全員が小学生になっちまうわ。
シンガポールの二十歳の青年が、「新しい演劇の脚本と演出を思いついたんだ」と嬉々としてプランを持ってくるときの、当たり前にある空間の浮揚を考えろ、この二十歳の青年は明らかに責任逃れをしていないし、好感度のための立ち回りもしていないが、この青年のヴィジョンの前にいったい何のごまかしが通用するのか、どれだけ言い訳とキャラを詰め込んだって浮力を得ていない船は物理的に沈むしかないのだ。

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テキトーに作ってテキトーに生きろ
とんどの人はマジメに生きているが……
マジメということでごまかすのはやめろ、マジメだからって命がないことをごまかすな。
マジメの歴史は、お前の弱さの歴史だろう、ごまかすための歴史だったろう、お前にとってマジメになるということは、そのたびに死んでいくということだったろう。
お前にとって、マジメになるということは、そのたびハズレ男のほうを選ぶということだったろう、すべては自分をごまかすための大がかりな一人芝居だったじゃないか。

テキトーに作ってテキトーに生きろ、それでも命のある奴、魂のある奴は、そこに命と魂が成立してしまうから。
むしろテキトーに作ってテキトーに生きるほうが、ごまかしが利かない、マジメにやりましたというお涙頂戴が盛り込めないのでごまかしが利かない。
テキトーに作ってテキトーに生きろと、言われたとたん、イモ女のふりして立ち回りを考える反応は、親譲りのものかい? 環境のせいにするということで二重に防護が利いているな、まるでお前だけがブサイクなお前を見なくて済むというような不毛で有益な仕掛けだ。
テキトーに作ってテキトーに生きろ、愛するべきものを愛したのか? まるで八歳児のように自分は子供扱いされて過保護に構われるという前提に生きているようだが、愛するべきものを愛さなかった若い時間が、若さのすべてを代償に支払わされて、若いうちから若いふりをしなくてはならなくなった、今でもシメシメごまかしが利いているとお前だけが思い込んでいるが、そうじゃないんだ、誰も今さらお前のことなんか突っ込んで見ようとしないだけなんだ、それはお前の中に希望が絶対にないからだよ。

テキトーに作ってテキトーに生き、愛するべきものを愛するという、それだけ。

テキトーに作るのはいい、テキトーに生きるのもいい、何しろごまかしが利かない、命と魂と愛の有無が、一番露骨に出るからとてもいいんだ。
少々の不安を隠しながら、万全に見えていると、お前は思い込んでいるかもしれない、だがこちらから見たお前は万全に見えない、ただガッチガチに見える、それは成り立っているふりを偽装する、その偽装に成功しているのだと、お前だけが思い込んでいる姿だ。
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準備しないということ、崩れているということ2

「崩れていろ」ということ、これが案外、僕のお伝えしたいこととして、潜在的に大きいかもしれない(余計なお世話だということは重々承知している)。
なんというか……「万全」の体勢を準備するだろ、そこから何かをしようとすると、もう体勢は崩れるから、「おっとっと」ということで、体勢の立て直しに戻る、そうして「万全」の体勢を準備しなおしたら、そこから何かをしようとして、するとまた体勢が崩れるので、という繰り返しを、いつまでもやってしまう。
もちろん、体勢を崩したときに、自分から出てくるブサイクなありさまは、黒歴史必定なのだが、そうではないのだ、それがあなたの現時点というか、現在のナマのあなたなので、そこから始めないと話にならないのだ、万全の体勢を整えたときに自分がそれなりのふつうの人に思えるのは完全な錯覚だ、一ミリでも動いたら大ポンコツの自分が出てくる、そっちが本当の現在の自分だ。
体勢を崩したときというのは、たとえば、引きこもりのおっさんがアイドル映像にのめりこみ、財産を切り崩して「推し」に入れ込み始め、彼女の名前を心中に絶叫してオナニーし始めたとき、完全に「崩れている」のだが、それは崩れてみれば中身の自分はそんな感じでしたあというだけで、崩れていないときの自分が本当の自分ではないのだ/絶叫してオナニーしているときにも世界愛がなければそれはもともと世界愛がない奴なのだ。

「こころ」というのは、全身の形および、その形に流れているもののことだ、両手をバンザイすればバンザイの「こころ」が生じるし、頭を抱えれば頭を抱えた「こころ」が生じる、そんなことは今すぐやってみれば誰でもわかる。
そして、この「こころ」というものが、「魂」とは別のものなのだ、むしろ反対のものだと捉えていい、人の身体は崩れることで「こころ」を生じさせるのだが、この「こころ」が生じたまま、同時に「魂」も得られるかという問題なのだ、これがリアルな意味でむつかしいところだ。
先ほどから言うように、「万全」の体勢をとると、「こころ」は静まるから、自分もいっぱしの、ふつうのレベルとして「魂」的なものあるんじゃないの? ヒューと思えるのだが、そこから両手を突きだしてピースサインをしてみると、たちまちピースサインの「こころ」が発生する、そうすると途端にバカになり、「魂」が失われるのだ/最近はそれで、自分の本当の低レベルぶりを見せたくないものだから、誰も自分を崩して「こころ」を生じさせるのを避けるようになってきた、確かにまあ、現状で思いっきり崩して「こころ」をぶっ放すと、近所迷惑にしかならないというレベルになってきてはいるが……
準備しないということ、「崩れていろ」というのはどういうことかというと、両手を突きだしてピースサインをし、舌を出して崩れきり、その「こころ」を生じさせたまま、「于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」という詩文の響きとその空間が聞こえないといけないということだ/勉強するときはまあ「万全の体勢」でもいいが、自分が何かするというとき、自分が魂のことをするというとき、その「万全の体勢」は役に立たない、崩れたまま、不安定で中途半端の体勢で、そのまま「こころ」ではなく聞こえているものについていけるようでないと、実際には魂のことはやれない。

黒歴史の底にしか黄金の歴史はない。

もちろん、ただの黒歴史になったら、その先の人生がキズありだし、近所迷惑にもなるから弁明の余地なしなのだが、それにしても黒歴史というのは、「魂の解放を甘くみていた」から生じるものだ、「そんなイージーに魂の解放が得られると思っていたのか」という、甘さへの懲罰として黒歴史が発生する。
とはいえ、この黒歴史のリスクに身を寄せず、盤石の体勢からリッパなアタシを保持しているのでは、絶対に何も得られないのだ、リッパなアタシを保持するために一切の崩れを切り捨てるだけだ、そうなるとたしかに黒歴史は回避できるが、無歴史になるな/崩れながらしか魂のことはやれないということ、イコール黒歴史の底にしか黄金の歴史はないということ、そのことを正面から見れば、自分に無理なことと、生きる上での本当のスリルというものが視えてくるだろう。

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準備しないということ、崩れているということ

のことをやるときは、準備しないほうがいい。
準備すると死ぬからだ、魂というのは基本的に変動しないので、「よーし」と思ったときにはもう魂は見失われてしまっている。
人は意識の生きものだから、基本的に「準備」が得意だ、そして「準備」に意識が向いたとき、全身は「ばっちり」のほうへ向かってしまっているので、本質からはもう外れてしまっている。
わかるだろうか、「ばっちり」がハズレなのだ、全身のバッチリ感に向かっているとき、人は何にも向かっていないのだ、これはとても気づきにくいが、成功へ準備したとき本質の電車はもう出発してしまったということを覚えておこう。

準備していないということは、「不安定で中途半端」ということだ、この不安定と中途半端を、「万全」に整えなおしたくなるのが人情というものだ。
だが魂というのは、観測不能の存在なので、魂が不安定とか中途半端ということはないのだ、あくまで観測可能な何かの実体・実感が「不安定」「中途半端」と感じられる、だからこの不安定と中途半端を気にしている時点で、自分の全身は魂を失っていると見ていい。
盤石の体勢からスタートするのと、中途半端の体勢からスタートするのとで、魂の差はないのだ、だからむしろ中途半端の体勢からスタートしたほうが、中途半端感を放棄するぶん魂にまっすぐアクセスできる。
もちろん、ずっと「中途半端感」を引きずっていたら同じだが……どういうことかわかるだろうか、体勢の「中途半端感」に邪魔されるのと同じ原理で、体勢の「ばっちり感」にも実は邪魔されているのだ、このことがわかれば、何をスタートするにしても、「スタートとかいうクソみたいなものはない」ということが前もってわかるようになっている。

準備しない、始めない、終わらない、振り返らない――「崩れていろ」。

魂の向きの問題だが、魂の向きはただ上下だけがあり、前後というものがないのだ、だから進行方向に向かって「よーし」とするとそれだけで魂は失われてしまう、そして何かを始めたつもりで、ひとしきり終わって「いやあ、○○だったねえ」と振り返るとき、それもすでに魂を失っている、魂には前後がないので、何かが始まるとか終わるとか、準備するとか振り返るとかがないのだ。
だから僕はここに、何かを書き始めるということはないし、何かを書き終わるということがない、準備もないし振り返りもない、体勢が中途半端でなかったことはないな、どっしりと盤石の体勢を整えてから書くことに成功したためしはないからだ。

できるオンナだね | comments(0) |
あなたが目標を達成する方法2

しあなたが、キモチワル〜イ人になりたければ、「指示待ち人間」になることだ。
そのときあなたは、「信号機の下で三回ジャンプしなさい」と指示されたら、「ハイ」と言って三回ジャンプするし、「信号機の下で三回ジャンプしなさい、これがルールです」と言われたら、「ハイ」と言って三回ジャンプする。
キモチワル〜イだろ? これが防衛システム「ペアレンツ」の挙動だ、つまり指示やルールを下賜する「親」「親分」から受けた指示だけで動き、親分の言ったルールにだけ頼り、自分では何も決定しないような奴なのだ、これが防衛システム由来のキモチワル〜イ人の性質だ。
防衛システム「ペアレンツ」の支配下にある人は、「ボクはペアレンツの指示とルールに従っているんだもんね、だからボクは正しいもんね〜」と、すべてをペアレンツに依存し、それによってペアレンツの威を借りて自分を大きく見せようとするのだ、うわダッサ/当人の魂は仁丹の粒のように小さいのだが、本人はそのサイズを欺瞞できてしまうので、そのまま三十路になり四十路になり、適当なタイミングで骨壺にインしてこの世から消え去るのだ。

それで、よくよく見るとこの問題はむつかしくて、実際のところ、誰も自前では「信号機の下で三回ジャンプする」というようなことは、実は発想しないということなのだ、もし自分でそんなことをチラッと考えたとしても、こころのどこかで「それって正しいかな、どうかな……」と、何かにお伺いを立てる挙動をする、そのお伺いを立てている先が防衛システム「ペアレンツ」だ。
もちろん馬鹿馬鹿しい話ではあるのだ、信号機の下で三回ジャンプするなんてことに「正しい」もヘッタクレもないのに、キモチワル〜イ人は、ずっと「自分が正しい」ということで内心で威張ってきているので、「正しい」と保証付きのことしかやれないのだ、ペアレンツに保証されると、「ユダヤ人は見つけ次第殺せ」ということにも「ハイ」だし、ペアレンツから保証が得られないと、自分の枕カバーの色さえ自分で決定できず、こころのどこかでずっとお伺いを立てているのだ(アホだ)。
先ほど「願望(動機)」のシステムについて述べたが、実はこの「願望(動機)」のシステムと、防衛システム「ペアレンツ」は、一対を為して機能しているのだ、それは願望(動機)といって、たとえば「通りすがりの女子中学生のおっぱいを触りたい」という願望(動機)だけで動かれてはたまらんからだ、それでペアレンツにお伺いを立てて、ペアレンツが「ダメです」と回答する、それで「そっか、じゃあ別の願望を当たろう」と動機は取り下げになる、こんなしょうもないシステムで人は動いている。
このように、願望(動機)だけで動こうとし、ペアレンツが「ダメ」といえば「はーい」と引き下がる、つまり「何の可能性もない幼児」というような状態で、少なからぬ人が生きているのだった、三十路になっても四十路になってもだ、だから実際に三十路四十路のおじさんは信号機の下で三回ジャンプしたりしていない、難しそうに偉そうな顔をしているけれど、中身は「可能性のない幼児」なのだ、申し訳ないがガチの真相としてそうだぜ。

願望があるのは、夢がないからだ。

ここのところを、合理的に、学門として区分する必要がある、「信号機の下で三回ジャンプするのがわたしの夢なんです」でいいのだ、そもそもあなたは、「○○がわたしの夢なんです」という言い方をこれまでに一度もしたことがないのじゃないか。
そして、同じ内容のことを、「○○がわたしの願望なんです」と言い換えてみる、そこで、「いや、そんな願望はないな」というとき、あなたは目標を達成できるルートの端緒に立っている、「信号機の下で三回ジャンプするのがわたしの願望なんです」というのは、さすがに脳味噌が損壊しているだろう、そんな「願望」はありえないものだ/願望なんてものは客観的には「イタい」だけだし、そこに「ペアレンツ」なんてさらにイタいだろう、そんなもんさっさと焼却炉に捨ててしまえ、僕にはあなたを笑わせたいなんて願望はないし、人を笑わせるのがステキなことかどうかとお伺いを立てるシステムなんてないのだ、すべては信号の下で三回ジャンプするのと同じだけの値打ちしかない。

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あなたが目標を達成する方法
前にも話したようなことだが、決定的なことを教えてしんぜよう。
あなたの目標は、「信号機の下で三回ジャンプする」ことだ、それがあなたの目標……するとどうだ、なんだか「できそう」な気がしてくるだろう、信号機の下で三回ジャンプ。
そりゃそうだ、「できそう」も何も、そりゃできるに決まっているからな、「そりゃできて当たり前ですよ」と思う、だが実はそういうことじゃない。
「できて当たり前」ということであれば、あなたがポストカードを作って友達に贈るのも、できるか・できないかでいえば、できて当たり前なのだ、でもなぜかそちらは急にむつかしく感じるだろう/つまりあなたは、自分が○○を「できる」という仕組みについて、本当はよく知らないのだ。

人の本当の仕組みは、「自己決定で動く」なのだ、この本当の仕組みを教えられていないので、あなたはずいぶん損をしている。
本当の仕組みを教えられていないので、あなたは代替に何を使っているかというと、「動機」のシステムを使っているのだ、だからあなたはいつも自分の「願望」を体内にガメこんでいて、それを切り出しては自分の「動機」にして、その「動機」に基づいて動こうとしている。
「信号機の下で三回ジャンプする」という目標が、あっさり、今日にでも達成できそうなのは、難度が低いからじゃない、そのことに「動機(願望)がない」からだ、動機(願望)がないので、人はただ自己決定するだけで、「信号機の下で三回ジャンプする」という目標に向けて行動し、ただちにそれを達成することができる。
あなたが人として、壊れ、損なわれるとどうなるか、それは、信号機の下で三回ジャンプするというときに、「えー、そんなこと、やっても意味ないし、そんなことに動機(願望)ないし」と感じるようになるのだ/こうしてあなたは、すべての目標が一切達成できない人になってしまう、それは自己決定のシステムを破壊され、動機(願望)のロボットになりなさいという教育に支配されたということだ。

「ポストカードを作る」という目標は達成できないが、「自作したポストカードを持って信号機の下で三回ジャンプする」なら達成できる。

とたんにアホみたいな目標になるのだが、これなら達成できるのだ、敏感な人なら自分の内部がすうっと軽くなることに気づくだろう、人はしょうもない自負心をゴリゴリの鉛10トンのように抱え込んでいるので、ポストカードを自作するだけで、もう猛烈にメラメラと、「アタシ!!」みたいなものが爆裂に噴出するのだ/そこで目標は「三回ジャンプすること」のほうだということにすり替えてやる、そうすると初めて、自分が自作のポストカードの「品質」に支配されていることに気づく(どうせたいした品質のものなんか作れやしないくせに)。
あなたは部屋で、くるっとターンして、ビタッと止まってみればいい、そんなことでさえ、カッコよくキレイにやりたいという、爆裂願望と動機がムンムンと湧いてくるのだ、だからくるっとターンしてビタッと止まって、「サイゼリヤ最強!」と言う、このことを目標にすればいい、目標は「サイゼリヤ最強!」だ、そうなると願望・動機の重みが身体から離れていく、この状態でないと人は自分の動作を自己決定できないし、自己決定できないと何も本質的に学ぶことはできないのだ、サイゼリヤ最強。
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魂の寝床
いうわけで、魂そのものの、拡大、モノを変える、ということに向かっていかないとな。
僕は、ダサいことはきらいなので、ダサいことはしない、誤ったトレーニングやスポ根のようなたぐいにはならない、だいいちそんなことで魂が拡大されるものならそもそも苦労がないだろう。
ワークショップ方面では、しょっちゅう来ている奴らは、なんだかんだ以前よりスゲー鍛えられたと思うが、本質的にはワークショップがどうこうの話ではない、そりゃ魂の問題だからな。
魂の問題とは何かというと、「こりゃ魂の問題だぜ」ということだ、当たり前すぎるな、僕がせいぜい口出しできることなど、紛らわしいものの排除しかない/何が魂かといって、血気盛んになるとよくわかんなくなってしまうからな、それをまともに誘導するのは、たぶんまともな年長者のすることであっていいだろう。

誰でもエネルギー的な拡大を求めている、そりゃわざわざ湯量の少ない源泉を求める人はいない。
だが一方で、自分がさまざまな現場に立たされたとき、即座に防衛システムがはたらき、自分の魂の小ささをごまかしてその場をしのぐということを、繰り返し何十年も続けてしまうという事実もある。
だからそこは各人が、「こういうことではない」「魂の、モノを変えてやるぜ」と、当然に志せばいいのではないだろうか、自分の防衛システム内でやりくりせずに。
自室で寝転んでいるときには、魂の拡大に可能性を見いだし、現場に立つと、魂の防衛を第一とするというようでは、明らかに不毛だ、逆に考えよう、現場があなたの寝床だよってことだ、本番しかない日々を生き、本番の中で眠るという体験を持ちなよ。

自室でくつろいでいるというのはウソだ。

老人じゃあるまいし……人が自室で魂からくつげるものなら、B’zの歌は全部要らないことになるな/自室でくつろいでから、どこかの本番を探しに行くというような、前もって悪臭がするスタイルはやめなよ、そもそも休憩が人の拠点になるわけがないんだから。
休憩もちょっとは必要だが、もっと必要なものがてんこもりにあるのだから、自分が損をするようなスタイルはやめるべきだ/世界の響き、愛の響きが、本当にわからないわけじゃない、ただ想像を絶するほど遠くなってしまって、その想像を絶するほどの遠さが、何も間違っていなくて正しいというだけだ、いつのまに魂がご近所で満足するというようなウソの前提を信じることにしたの、現実的には届きそうにないはるか遠くの響きで合っているよ。
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何のために身体を高度操作するか
とえば今日もまたワークショップなんてものがあるのだが、そこでは「基本」として、やはり身体操作のことを説き明かしている、具体が行き詰まっているのに理屈をこねたってしゃーないからだ/そりゃ姿も動きも「まさに」と見えるようでなければ何の説得力もない。
それで、身体操作をそれだけ高度にこなしたとしてだ、そういったワークショップはすでに世の中にいくつもあって、純粋に身体操作のレベルだけを言えば、はるかに上位で精密な人たちがいるだろう、いや案外そうでもないという意見も多いのだが、まあいいや、そのことはさておき、僕がブーブー言いながらやっているのは本質的にはそういうことではない。
高度に身体操作をしたとして、またそれができたとして、「何のために身体操作するのか」という問題があって、ふつうこのことに、身体操作の技術者は踏み込まないものだ、なぜならその先は身体操作という技術とはまったく別の話になるからだ、どの料理教室も「なぜ人は料理をするのか」というようなアホな哲学に踏み込んだりはしないだろう、「そもそも料理に用事のない奴は教室に来ないでしょ……」というのがまっとうなところであって/ただし「身体」というのは違うのだ、身体というのは本人の用事によらず、誰だって強制的に初めから持っているものであり、誰だって強制的に最後までこれを持ってゆかねばならないジャンルなのだ。
なぜ高度に身体操作するのか、といって、ふつう健康増進とか、「日々をラクに生きるために」とか、「しなやか」とかアンチエイジングとか、場合によっては護身術とか、自信を持つためとか、色んな言われ方が便宜上されるのだけれども、僕の場合はそれらすべて便宜上の理由をゴミ箱に叩きこむのだ、もちろん健康になればいいし、ラクになってしなやかになってアンチエイジングと護身に役立てばいいが、そんなものは付録にすぎず、もっと別の理由があるのだ、その理由を直接ブッ込んでいこうぜというのが、当方のワークショップの独自性なのであった/その独自性がなきゃ、僕がわざわざこんなやり方にしゃしゃり出ることはなかっただろう。

古く「魂魄(こんぱく)」といって、人の構成要素には「霊魂」と「気魄」があるというのが古代の考え方だったが、これは実際に取り組んでみると、天才なら誰だってすぐにわかることで、「魂のことをやるには魄が邪魔」なのだ、つまり身体操作をあれこれ言いながら、最終的には「身体(血肉)が邪魔」ということになる。
では何のために身体操作するかというと、<<身体を排除するため>>に高度操作するのだ、人の魂にとって実は身体はノイズなのだ、このノイズのせいで魂はまったく見えなくなるから、このノイズを排除するために、パパッと身体が高度に、かつ速く操作できなくてはならない、というのが根本の idea になる。
このことについては、一般に完全な誤解がまかりとおっていて、たとえば舞台上にマイケルジャクソンが立っていると、すげーカッコよくてビリージーンそのものが立っているように見えるが、そのとき人が視ているのは「身体」ではないのだ、身体が排除された魂の姿が視えているのだ、魂を邪魔しない身体――主権を放棄して魂に従属した身体――が視えており、だからこそ「ビリージーンそのもの」がそこに立っているように視える。
ふつう、人が「ビリージーン」をやろうとしても、身体(血肉)がデーンとそこに居座っているので、ノイズまみれになり、つまり「++++++++++++++ビ++++++++リ++ー+++++++++++++++++++ジ+++++++ー++++++++++ン++++++++」というものが表示されてしまう、それでは観ている側は「???」となるのだ/人は自分の表示性を、ぐいぐい増やしてもダメなのだ、ノイズが増えて了解不能になっていくばかりになる、そこで何のために高度に身体操作するかというと、「+」を増やしてテンコモリにするためではない、「+」を除去しつくして「ビリージーン以外の何物でもない」というものだけを残すのだ。

魂に道をゆずるために身体を操作する。

身体操作が幅を利かせていてはダメなのだ、身体操作のレベルが偉いのはあくまで身体操作の技術を追求している練習中だけだ、練習中以外は身体操作など「どけよ、ゴミ」という扱いだ、ここのところをくっきりさせているのが当ワークショップの独自性であり、また一般ウケを悪くしている要因だろう/しゃーねえだろ、おれは万事において一般ウケがよかったことはこれまでに一度もない(トホホ)。
魂そのものにならねばならない、けれども、実際には身体が邪魔すぎて、まず相当なレベルで身体が片付けられないと、魂なんてカケラも視えないのだ、その意味でこの取り組みは矛盾をはらんでぐぬぬぬとむつかしくなるのだった/何しろさんざん身体操作をやらされた上に、その操作そのものには何の思い入れも持ってはいけないというのだ、ノシノシ幅を利かせるためにハイレベルになるのではなく、サッと道を空けるためにハイレベルになるのだという、このことが受け入れられるかどうかは、もう最終的には思想と信仰の問題になる。
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われわれがこの先を生きていく方法
の先を生きていく、といっても、そんなに簡単に野垂れ死にするわけではないので、誰だってなんとかして生きていくのだろう。
となれば、どうやって値打ちのある生き方をしていくかだ、日々のすべてを業務としきたりと血縁だけで埋め尽くして生きたとしても、そりゃ確かに生きられたのかもしれないにせよ、何のために生きたのかがわからなくて虚しすぎる。
だからわれわれはやはり、生きるために何かの値打ちを消費するべきではなく、何かの値打ちのために生きることを消費すべきだ、そうして突き詰めるところ、けっきょくはその「本当の値打ち」なる不明瞭なものが、われわれの生と存在を決定していることがわかる。
考えてみれば当たり前のことなのだが、仮にわれわれが全員同じ金額の生活費で生涯を暮らしたとしても、その中でそれぞれが「本当の値打ち」へ接触できたのか否かはまったく人それぞれで不明なのだ、だから同じ生活費でも輝ける中を生きた人もあれば、暗く呪しい中だけを生きた人もある/となるとやはり生活費以前にその「本当の値打ち」というものについて考えるしかない。

当たり前だが、2LDKが4LDKになったところで、その人の生きる輝きが倍になるわけではない、「本当の値打ち」とは無関係だからだ/「本当の値打ち」には無関係なのに、値段だけはきっちり倍になりやがる、この意味でどう考えても、家の坪数をもって生の勝ち組を定義することはできない。
部屋が2LDKだったとしても、別のことが50LSPだったらいいのじゃないか、部屋が4LDKでも別のことが0LSPだったらやりきれないだろう/わかりやすさのために造語を入れて話しているが、LSPとはlove(愛)とstory(物語)とplace(場所)だ、誰でも「本当の値打ち」というのはそっちにあると、魂の奥底では知っているものだ(当たり前だ)。
どんな立地の、どんなリビング、どんなダイニング、どんなキッチンを自ら選ぶというのはわかりやすいが、どんなスケールの、どんな愛、どんな物語、どんな場所(聖地)を自ら選ぶというのは、わかりにくいものだ、なぜならそれは安くイメージできないものだし、業者が用意してくれるものでもないからだ。
われわれはなぜか、自分が何LDKかの物件に住むんだろうな、ということは漠然と覚悟するのに、何LSPかの生を過ごすんだろうなということについては、まったく覚悟をしない、そしてリビングやダイニングやキッチンの素敵さを自慢できる人生を送りたいとさえ考えはじめる、どうせ自慢するならLSPを自慢したほうがマシであるのに。

「本当の値打ち」には贅沢をきわめろ。

なぜなら、「本当の値打ち」は何倍にしても、値段はまったく変わらないからだ、じゃあ贅沢をしないと損じゃないか、人の何百倍もloveとstoryとplaceがあったところで、わずかも固定資産税を取られるわけではないのだから。
そして後になってわかってくることだが、「本当の値打ち」が空っぽのまま業務だけ豊かになっていっても、いつまでたっても安心や安穏は得られないのだ、それは業能と残高が尽きたらどうせ見放されると知っているからだ/「本当の値打ち」にいささかでもつながっていれば、生きることはそこまで殺伐としていない、そこで「本当の値打ち」を知って得ていこうとすることは、情理両面においてまったく正当なことだ。
できるオンナだね | comments(0) |
人間らしさに向けて加齢せよ
れわれは人に「すいません、今何時ですか?」と尋ねることがなくなった。
同様に、道を尋ねることもなくなったし、「〇〇って字、どう書くんでしたっけ」と訊くこともなくなった。
あるいは、雛人形は何のために飾り、どう飾るのかも、誰かに訊く必要がなくなった。
つまり、何かを「知っている」とか、何かに「詳しい」ということが、ほとんど意味をなさなくなったのだ、それはいわずもがな、すべてのことは検索で回答してもらえるからに決まっている。

やがてこのことには検索も必要なくなり、人工知能が、自動的に「ああしろこうしろ」と適宜に指示を出してくれるようになるだろう。
このことは何を示しているかというと、われわれが加齢していくとき、何かに詳しい老人になっても意味がないということだ、われわれはしょせんGoogleより不確かな知恵袋にしかなれない。
ではわれわれは何に向かえばいいかというと、何かに詳しくなるのではなく、また何かを知っている風情になるのでもなく、「まだこの世界に現れていないもの」をその場でつかめるようになるべきだ、さすがにまだこの世界に現れていないものがGoogleに出てくる可能性はない。
われわれが漢字検定で特級を取得したとしても、漢字の書き方を尋ねられることはまずない、知識量と尋ねられる量が比例するという世界は終わったのだ、つまりknowledgeの時代は終わり、ideaやwisdomやrealizationに直面する時代が来た。

より人間らしい時代が来た、ただしそこでの「人間らしさ」はたいへんシビアなようだ。

われわれは人間らしさを尊ぶけれども、何の保護装置もなしに、「ほれ」「それ」「どうぞ」と剥き身で人間らしさを問われたときに、それに堂々と人間らしさをもって応えられるほど、人間らしさなるものの精髄を得てはいない/にも関わらず、この先はそのことばかりを直接問われる時代になってしまう。
よって、われわれが真正面から先の時代に向かい、堂々と加齢していくのなら、その加齢は「人間らしさ」の純粋な精髄に向かうための加齢でなくてはならない、つまりわれわれはどこにもドッコイショと一服できる余地はなくなったってわけだ、それは僕にとっては願ったり叶ったりの時代だと感じられる。
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意識を無視せず小さくする2

に考えると、われわれは「寂」から逃れるために、大きくもない問題を巨大化させて捉えるのだとも言いうる。
何しろ、人生に何もないのは、一番キツいからな……たとえば「あんたここの植木鉢どこへやったん!?」というようなことで、悲嘆、哀号、激怒、呪詛まで起こしていれば、まるで自分はホットなことの渦中にいるように錯覚できるじゃないか、そうするとそのときはまるで自分がこの世界に存在しているように言い張れるものだ。
なんというか、深入りして考えると、人は、自分にとって「大切なこと」と「どうでもいいこと」を、知らず識らず分類しているものだ、ここで今さら、どうでもいいことを大とし、大切なことを小とすると、自分の人生そのものがクラッシュしてしまう/人はいきなりそんな、これまで信じていたものをクルッと反転させて逆にゴーゴーなんてまねはできない、特に老齢になればなるほどそうだ。
だから、こういうことは警告されていなければいけないのだけれども……自分にとって望ましくないことが、それでも「大きく気になる」と感じられるようなことがあるとき、実は重大事が目の前にあるのではない、一時的にせよ「大切なことが奪われた」のだ、だから結果的に目の前のことが大きく「気になる」という状態になっているにすぎない。

人は空っぽになどなれないのだ。
人は空っぽになるのではなく、小さなものを、さも大きいことのように錯覚して、欺瞞されて、それを抱え続けるという姿になるのだ、別の人から見ればその人の眼差しは空っぽかもしれないが、当人としては「大切なもの」がぎっちり詰まっているのだ、ただしそれは、おそらく本当には大きなものではないわけだが……
よってわれわれは、当たり前だが、いつだって無限の夢を忘れてはいけない、それは無限の夢がすばらしいからということではなくて(むろんすばらしいけれども)、無限の夢がないと必ず小さな別物を大きなことに錯覚して、それによって自分のうちを満たしてしまうからだ、そうしてわれわれの意識は食われていく。
さあわれわれは、目を覚まさなくてはならない、何をどうしたって、世界よりデカくなれる人なんているのだろうか、われわれは昨日まで置きざらしにしてあっただけの植木鉢の揉め事をもって「人生にはいろいろある」と言い張らなくてはならないのだろうか? 小さなことが気にかかっているのじゃない、デカい何かを忘れたんだよ。

キツい人は、イコール寂しそうな人で間違いない。

これほどぬかりなく、必ず当てはまる鉄則もないのではないだろうか、何か当たりがキツい人、余裕のない人、何かを譲ることができなくなった人は、必ずその目の奥に寂しさを抱えている/「目の奥」なんてレベルじゃないな、そりゃもう角膜の表面まで寂しさのエキスが潤沢に噴出しているというものだ。
意識が何かに食われそうなとき、意識を無視するのではなく小さくするのだ、意識が食われるといったって、庭木の端をバッタが少しかじるぐらいで大騒ぎすることはないじゃないか、小さなものを巨大化して大騒ぎするのは、他に騒ぐものがなくて寂しすぎるからだ、それが悪いと言っているのではなく、「寂」というのはそれぐらい手ごわくて抗しがたいものだということだ。

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意識を無視せず小さくする
「すごく役に立つ話」と言われるので、ここにレポート。
人はさまざまなことを憂い、気にして、そのことに意識を食われるものだ、それはもう、日曜日の夕方からでも、ずっと月曜日のことが気になっているという状態がいくらでもある。
月曜日のことを気にして、日曜日を遊べないなら、もちろんただの損失でしかないということはわかっているのだが、わかっていても「つい……」ということがある、この現象は、程度がひどくなるとあっさり神経症になっていってしまう。
僕がそういうときにオススメするのは、そうして意識が食われるという現象、「気になる」という現象について、それを無視しようとせず「小さくする」という方法だ/われわれは自分に「意識」があることは知っているが、その意識に「大きい」「小さい」というスケールパラメーターがあることをまず知らない。

われわれはどんなことでも、際限なく「気にする」ということができるものだ、たとえば「いずれ中国と戦争になるかもしれない!」ということをえんえん気にすることもできるし、「冷蔵庫のシュウマイがもう賞味期限切れかもしれない」ということもえんえん気にすることができる。
実際、たとえば「ペットボトルここに置かないでって言ったじゃん!!」と、血管が切れそうな勢いで、突如として激怒する人は、世の中に少なくないものだ、いわゆる気分屋というのもそうで、母親として娘の結婚が巨大なテーマになったかと思いきや、翌日には婦人会の誰と誰の仲が悪いのよ、ということでウフフと笑っていたりする。
われわれは、自分の意識が食われ、何かが際限なく「気になる」という状態になり、半ばパニックになり、心身の機能を失っていくと、なんとかその意識が奪われていくのを止めようとし、何かしらの「癒し」を求めたり、ギャンブルやセックスや酒におぼれたりするが、それは実は正しい方法ではなく、もともと巨大化した「気になる」に対抗する巨大な麻痺をぶちこんでいるだけなので、身がもたないしコストも大きくかかってしまう。
われわれの意識と、その意識が食われるという現象には、サイズの大小があり、実はサイズには定義がないのだ、だからいくらでも「気になる」ということはわれわれを支配するし、逆に「あれ? 何を気にしていたんだろう」と最小化することもある/単に呪いをかければ問題意識と「気になる」はいくらでもサイズを拡大するし、逆に解放を得て大きなものに接続すると「気になる」はいくらでもサイズを縮小する。

残高が百倍になれば、出費は百分の一になる。

十万円しかない人の一万円は大きいが、十億円ある人の一万円は小さい、そして一万円に意識を食われているとき、その人は十億円に興味がない
これから千の機会と万の景色と億の出会いにまみえるのじゃないか、そうなるとき問題は実に小さい、問題や意識や「気になる」は消えてなくなるわけじゃない、ただそこまで小さいものをわざわざ消し去ろうという発想は起こらない。
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身体は「たくさんある」のが正しい
ういえばこのことを話すのを忘れていた。
人の身体は、各所が関節で接続されているのだが、関節は必ずA節とB節の接合であるため、各関節が「二か所」あるように感じていないとおかしいと話した/関節のA部とB部が二つ同時に感じられて、それではじめて関節の解放が成る。
そして、こうして関節の解放が進むと、たとえば肩なら肩の[胴体側][上腕側]、肘なら肘の[上腕側][下腕側]、と関節を二部に分けて感じるようになるのだが、そうするとなんというか、身体の各所がえらく「増えた」ように感じるようになる、上腕なら上腕、下腕なら下腕と、一緒くたではなくそれぞれのものとして感じられるのだ。
関節はそれぞれの節と節とを接続しているのだが、その関節が解放されるということは、なんとなく「節が取り外された」というような感じになるのだ/模式化するなら、節と関節の関係は「−−」と感じられていたものが、実は「−・・・・−」だったということなのだが、このとき各節の「−」は、何か「取り外せる」というような感じになるのだ、そのことが全身に得られてくると、何か「身体はえらいたくさんあるな」という感じになる。

取り外せるように感じる「節」が、たくさんあると、それこそ「バラバラ」のように想像されるが、実際にはそうではない、そうして身体は「たくさんある」と感じたほうが、正しく「ひとつ」として機能してくれる。
逆に団子のようにギュッと力を入れて、縮めて一緒くたにすると、その内部で身体の接続はバラバラになるのだ、われわれが「ふんっ!」と鼻息と共に筋肉を縮めて踏ん張ったとしても、押し合いへし合いではあっさり負けるのはそれが理由だ。
われわれはつい筋力に頼ってしまうのだが、それは逆に、筋力に自信がないからでもある、そりゃブルドーザーに筋力で勝てる者はいねえよ/われわれが関節を閉じ込めて呪縛するのは、筋力を自分自身にPRするためだ、われわれはいつも筋力が無敵のごとくあるように錯覚したがっているので、自分の知らないうちにも必ず関節をギュッと閉じ込めてしまう。
身体が「たくさんある」という感覚になると、もはや、身体の一か所に力を入れる・力むという、そのやり方そのものがよくわからなくなる、そうなると全身をまんべんなく使うようになっているのだが、それはもうまんべんなく使うようにしているというのではなく、局所的に使うということがわからなくなっているのだ、だからそこまでいくともう「技術」ではない。

タンスの一か所だけに荷物をパンパンにする人はいないし、それを分散することも技術とは言わない。

そりゃ引き出しが「たくさんある」タンスなら、どの引き出しも具合のいいように、まんべんなく使うだろう、当たり前だ/ただ人の身体がそういう状態になるためには、どうしても各関節が「二つの部分」から成り立っているだろという感覚(関節の解放)がいる。
タンスでいえば、引き出しというのも、引き出される側と、それを引き受けている本体側の部分があるはずなのだ、その二か所が一緒くたにくっついてしまっていると、当然引き出しはまともに開かない/われわれの身体はタンスほど単純な構成ではないが、原理は同じだ、各「節」はまるで取り外せるように感じていなくてはならない。
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生活力と魂(命)の合理化2

いうわけで……ありゃ、気づけばバレンタインデーじゃねえか。
記事タイトルはアレだが、そのことはさておき、この偉大なるおれさまにステキなラブメッセージでも送るように、さもなくばすべての靴下の中に小石が入るという呪いにかかるであろう。
モチベーションのことについて考えなくてはならない、モチベーションは実際的な問題だ、誰だって頑張るつもりはあるのだが、何をアテにして頑張るのかという問題が常にある、それこそキミがこの世に生きる理由はこのおれにステキなラブメッセージを送ることそのものにあると思うが、そうしたことをわからないようになると、人はもったいつけてビールがジョッキ半分しか飲めないというテイタラクに行き着くだろう。
ぐいぐい飲めよな……まあそれはいいとして、モチベーションの問題だ、いろんな学業や業務があるが、そんなものにモチベーションなんか持たなくてよろしい、業務はフワッフワこなすようにこころがけよう、バリバリこなすことはあなたを力強く安定させるように見えるが、気づいたころにはすでに「あなた」ではなくなっているから。

なんというか、あまり人をアテにしないことだ、業務もアテにしない、特に、業務をバリバリこなしている人をあまりアテにしない、なぜならバリバリこなしているその当人も、本当はよくわからないままバリバリこなしているからだ/業務をバリバリこなしている人は、当然ながら、その業務をこなしていった果てに何がどうなるのかについてはまったく知らない、そういう限度付きだということを忘れてはいけない。
業務をバリバリこなさず、何か別のことで動くべきだ、別のことをアテにして動くということ/バリバリこなさないということは、沈滞して動かないということではない、サボるのはかまわないが、沈滞してはいけない、業務は「やっていない」という感覚でいることが大切だ、それでいて沈滞せず動いているという状態を保たねばならない。
「バリバリ」というオノマトペがつくのは、何か固いものが折れ・剥がれ・砕けるからだ、沈滞している心身を力づくで破砕している音にすぎない、だから「業務」に首ったけになってはいけない、当たり前だが人は本質的に「業務」などで流麗に動いたりはしない/月曜日の朝から起きないということには無理があるが、かといってバリバリで目覚めるということのも実は最終的には無理がある。
「業務」というのは、「やらない」「やっていない」もの、これがコツだ、何のコツかというと、動きながら、業務の用事が消えていくよう立ち回りながら、それでも「業務」をやっていないという状態を目指すことに、非常に強度の高い魂の訓練があるということだ/業務を「やらない」、「バリバリやらない」、それでも業務の用事が済んでいるというふうに動きつづけるということ、これを目指せば間違いなくそれは高度に洗練された「道」になる、その点で「バリバリ」は「外道」だとみなしていい。

ポンコツになって業務を消せ。

われわれは、やりたくもない業務をやるとき、業務だからやらざるをえないと認識し、やむをえず「ガマン」してやるのだが、これは認識が機能しているのでガマンが発生しているのだ、このガマンは近いうち何かしらの「バリバリ」に転じる/これが堂々たるポンコツの場合、それが「業務」「やらざるをえない」という認識さえ生じなくなる、このことについては「ポンコツ」がヒントなのだ、ポンコツは業務が業務であることをよくわかっていないので、業績を誇ろうとする能さえ持たない。
機能性が低いと、どうしてもいただけないので、ポンコツというのはそういうことではない、高機能でかつポンコツであれということ、われわれはポンコツでない高機能になろうとすると、モチベーションという正体不明のチャージを必要とし始めるのだ、だいたい高機能化したアプリというのはそういうよくわからない前置きを必要とするものだな、正しいポンコツは高機能でありながら、業務のふりをして勝手に自分の「道」を進んでいるものだ、ポンコツにはそういう機能しかないのだからしょうがない(注:バレンタインデーです、あなたの「道」はもちろんぼk(ry)。

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生活力と魂(命)の合理化

「地に足をつけて、実直に生きなさい」とはよく言われる。
「無限世界に魂を飛翔させて、物語に命を為さしめなさい」とはまったく言われない。
このアンバランスが生じるのは、単純に、「生」と「命」が混同されているからだ、人にとって死ぬのは「生」であって、「命」は死ぬものではない/命の不死性は、単に国語の問題であって、思想や宗教の問題ではない(羊はやがて死に絶えるかもしれないが、「羊」という forms は死にようがないだろという話)。
魂と命はほとんど同じものだが、わざわざ「命」と呼ぶのは、魂が無限世界の所属からしばしば「命令」を受けるからだ、「魂」というのはおおむね性質を表している語で(観測不能、という意味)、「命」というのはより直接の振る舞いを表している語だ(よく「命が宿っている」と表現される)。

僕は今、ひたすら合理化を考えている。
なぜ合理化を考えるかというと、現状が不合理だからだ、誰もが懸命に生きているのに、「生」に閉じ込められるだけで、何の魂も命もありゃしないなんて、こんなひどい話があるか/そして、ひどいのみならず、実際に不当なモチベーションの生成に魂を蚕食されねばならないという問題と、しかもそうまでして生きてもけっきょく勝てるわけではないという問題がある、ここを合理化して、少なくとも真に「マシだ」と言いうるような生き方を創出せねばならない。
なぜこんな不合理な状態がまかりとおっているかというと、全員が「ガマン」しているからだ、奇妙な言い方だが、全員ガマンしているから表面上は平穏なのだ/なぜガマンしているかというと、納得も理解もできないからで、なぜ納得も理解もできないかというと、与えられている情報が不合理だからだ、だから最低限のこととして情報を合理化する必要がある。
実は全員がガマンしているだけということを、誰も知らずに、しかもそのことを知らないようでいて、実は全員が知っているというような、薄気味悪い状態が出来上がってしまっている/僕は何もたいそうなことを言っているのではない、青春や恋あい、その他のもっと大きな愛、そこに魂や命があったということの、何が「たいそうなこと」なのか。

生活力を向上させつつ、同時に魂も向上させる、それこそを唯一の「合理」とするしかない。

現状、生活力を下落させる余裕は誰にもないだろうし、またそんなことはするべきではない、ただその生活力の向上と保全のために、魂(命)を否定する向きが短絡なのだ、最終的に見て勝ち筋でないなら、それはやっぱり生活力も下落させていることになる。
今のところほとんどの人は、「魂だとか命だとか、そんなこと言っていられないよ」ということを、自身で理性的・理知的・合理的だと捉えていると思うが、その割にその口上にはそれなりの悲痛さと否定的感情が強く含まれている/魂の向上と生活力の構造的上昇は、いっそ同時に取り扱うからこそ成り立ちうるのではないか? と、そのことに新しく idea を模索しないでは、もう精神が合理性そのものを投げ捨てているだろう、成り立つかどうかはさておき、そのことを一考もしないのでは単に知性が自暴自棄だ。

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説き明かしたら悟れ

き明かしたら悟れよ〜(前にも言った)。
どれだけ待っていても、僕からは絶対に、ああしろこうしろというのは出てこないからな。
教えられるのは「しきたり」だけだ、「あて先の『行』は『御中』に書き換えとけ」というようなことしか「教える」ということはできない。
どうしたらいいんですか、といって、待ち続けるのは、悟っていない証拠だ、悟るって別にホトケサマになれって話じゃないよ、ただの「悟性」の話/「岩塩は空気中に晒していると潮解するぞ」としか僕は言わない、「だから岩塩はああしろ、こうしろ」とは絶対に言わない。

知性および悟性が壊滅している人が、実はけっこう多くて、悟性が壊滅している人は、悟性をはたらかせるのを面倒くさがる。
そして横着の結果、ほとんどヒステリックにだが、「で、どうしたらいいんですか」ということだけを聞きたがる、それでこの人は、指示されたとおり、岩塩をサランラップで包むということを、ナゾの風習としきたりとして丸暗記することになる(ブキミだ)。
岩塩は確かに、空気中に晒していると、目に見えて潮解するのだが、潮解してはいけないとは誰も言っていない、ケーブルは八の字に巻かないともつれるのだが、別にもつれてはいけないというわけではない、雲は水蒸気ではなく水と氷のつぶだが、それを水蒸気と誤解していて何が悪いというわけでもない/僕はたまに何かを説き明かすが、どうするのが正しいとは決して言わない。
僕が何かを教えるとしたら、せいぜい年長者として、どこが上座だとか、尊敬語と謙譲語の修正とか、あるいは猫にアロマオイル塗っちゃだめだよとか、換気なしで防水スプレーを使っちゃだめだよとか、てんぷらの天かすを積んでおくと酸化熱で自然発火するから水をぶっかけとけとか、さしあたり教えておかないと損害のリスクがあるものだけだ、だがそんなものはじきに人工知能が全部教えてくれるようになるだろう/僕は何も教えない、たまに説き明かすが、それが気に入った奴は勝手に悟れ、悟るか悟らないかは当人の好みと選択でしかない。

教わりたい奴はカーナビを買ってこい。

「まもなく右方向です」「この信号を左です」と、間違いなく「教えて」くれるだろう、カーナビは確かに現代で屈指の便利ツールだ、同じ便利ツールに「まもなく結婚です」「この機会で転職です」と教えてもらえたら、これほど頼もしい存在はないのかもしれないな/あるいは貞淑な女性になるためには、「まもなくおじぎです」「この袱紗を左手に持ちます」とナビゲートしてくれるツールもやがて発売されるのかもしれない。
僕はこんな、人工知能でもやれるアホみたいなツール役をやるつもりはないので、僕はただ説き明かすだけだ、悟りたい奴は勝手に悟れ、このごろはカルマだの償却だの、ミリ秒だの無限だのと、それっぽいことを言っているが、だからどうしろというのは一切出てこない、それは別にどうもしなくていいからだし、逆にどうしたってかまわないからだ/ただ説き明かされていないとさすがに情報不足だろ? というだけの話なのだった。

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コミュニケーションガタガタ問題
ろいろ一気に視えるようになってしまった。
もうごまかしをしていてもしょうがないので、冷静に唱えるが、要するにガッタガタじゃねえか、人のこころとか魂とか、そもそもコミュニケーションというのがよくわかっていないんだな。
若い奴は仕方がないと思うし、かわいそうだと思う、そして若い奴はこれから獲得していけばいいじゃないかと思う、ただしそれならばきっちりと本当に獲得していくべきだと思う、ごまかすしかなくなったオッサンやオバサンにならないでほしい。
必要なのは、光と言葉とやわらかさだ、カミサマのことをギャーギャー言ったってしょうがない、光と言葉とやわらかさがあれば、わざとらしく「コミュニケーション」なんかしなくていいし、わざわざ何かを言うとか話すとかもしなくていい、その意味では僕は「コミュニケーション」なんかしたことがないな、無限の空があればそれだけでよくて、無限の空がなければ何をしても基本無駄だよ。

コミュニケーションについて、「わからん」を土台とする世の中になればいいなあ。
人のこころについても、「わからん」を土台にして、もっと慎重になり、もっと正当に学門に向かうようになればいいのにと、不遜ながら僕自身は思っている。
だって、人のこころをどうしたらいいか、どう触れたらいいか、どう遊べばいいか、どう出会えばいいか、けっきょく「わからん」じゃない/最近は、男も女も互いが「わからん」のに、一方はおっぱいを揉みたがり、一方はおっぱいを「えー」と言いながら揉ませたがったりしていて、それでけっきょくズッコンバッコンするのだから、見ていてひっくり返りそうになる、よくそんな本当には何もわからないまま性感帯だけでセックスができるな。
よくあいさつとかリラックスとか、自己紹介とかいうけれど、本当にコミュニケーションの本質に至ったら、あいさつとかリラックスとか自己紹介とか、そんなことしているヒマはなくなるよ/本当にコミュニケーションの本質に至れば、「人になんかいちいち注目していられるか」という状態になるから。

ガタガタです、勉強を超えた勉強をしなさい。

コミュニケーションというのは、その人の姿を見た瞬間に起こり、その瞬間にはメインはもう完了しているので、いちいち見つめあうような必要もない、なぜか知らないが見た瞬間、「この人はやさしい」「そしてこの人は守られねばならない」「自分はこの人の味方だ」「この人はわたしにどういう態度であってもかまわない」と直覚するものだ、たとえ初対面でも僕が「喉乾いた」といえばあなたは何のためらいもなく飲み物を買いに出てくれるだろう。
コミュニケーションの基本がこれだ、魂が閉じていたら、ヘンな探り合いばかりになり、魂が開いていたら、もう「ああ」ってなもので、他にこれというものは必要なくなる/ここで自分がガタガタだというのは賢明なことで、そりゃ経験と学門を積んでなきゃコミュニケーションなんて為せないのだ、なぜか勝手に加齢と共にこなせるようになっていると思い込むほうが脳みそがジジイでトントンチキだ。
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間に合うということは「間に合っている」ということ
タバタもいいところだが、ワークショップもパーティもやりまっせ!! 今日は19時からAスタジオだ〜
パーティには何人来るのだろう、連絡したのにまとめていないからわからない笑、まあワークショップ中にまとめるか(でたらめ)、これはちゃんとしていないのではなくて逆にちゃんとしているのだ。
逆にちゃんとしているというのは、そんなもん、ちゃんとしたぐらいでわれわれは解決なんかしねーよということなので、もっとイケイケなものを直接掴んでいないといけないということだ。
すべてが冗談みたいなのであって、その中に、何かいい明かりと、いい時間だったなあ、なんだったんだろうなアレ、というものだけが、値打ちがあるのだ、ずっとその中を生きてきたのでたぶん間違いない。

何をやっているのかは、明確なのだが、実際には、何をやっているのかはわからない、というのは、何かを「やる」といって、それが「わかる」という範囲のものであれば、けっきょくあまり値打ちがないということだ、やっていることは明確でありながら、何をやっているのかは「わからない」という状態でなければならない。
「わかる」というのは、しょせん、全体から分離されて、限定的である、ということにすぎない、たとえば「わたしは、今、筋トレをしています」というのはとてもわかりやすい、さらに「上腕二頭筋のトレーニングをしています」というのはわかりやすいのだ/ただし、その上腕二頭筋のトレーニングとアウンサンスーチーはどう関係しているかというと「さあ」ということになってしまう。
限定的なことは、わかりやすいのだが、限定的ということは、全体的ではないということであって、じゃあ全体的にはあまり関係ないということなのだから、上腕二頭筋がムキムキになるものの、全体的には「あまり関係ないな」ということになってしまう、そんなことをしているうちに、また次のわかりやすい限定的なものを探してしまい、あばばばばとなっていくので、こういうやり方に耽ってはならない。
前にも何度も言ったようなことだが、僕はパーティなんかやっていないし、ワークショップなんかやっていない、その他ドタバタしているけれど、別に何もやっていないのだ、それでいつも「今何やってんの」と訊かれると「……?」という反応をしてしまうのだった、「お前のことがわからん」と言われるが、もしわかるような何かがそこにあったとしたら、そのわかるものは僕ではないだろう/なぜ僕のことがわかると思ったのか、それ以前に、なぜ人のことなんかわかると思ったのか。

わかっているなら、やっていないし、やっているなら、わかっていない。

「今何やってんの」と訊かれると、「……?」となるし、おれは内心で(これをやっているんだがな、目の前で)と考えている、まあそれを含めて全体が何を為すものなのかに、直接つながっていくしかないわけだが、とにかく間に合わないといけない、間に合うということは急ぐということではなく、間に合うように速さを得るということでもなく、間に合うということは「間に合っている」ということだ、すでに間に合っていないものが加速して間に合うようになることはありえない。
「間に合っていない」というのは、時間の感覚だが、「間に合っている」というのは、直接の感覚であって、時間の感覚ではない、時間の感覚が生じた時点でもう間に合っていないということだ、間に合っている存在と間に合っていない状態とでは所属している世界が異なるため、間に合っていない者が間に合っている世界へアプローチすることはできない、間に合っていない者をやめるしかないのだ、そしてなぜ間に合わない状態世界に所属しているかというと、何かのことをわかると思い込んでこだわったからだ。
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新しい未来を切り拓け
サいタイトルだが、ダサくてもカッコよければそれでいいだろう。
人は、どう生きるかを探しているが、納得というのはたいていハズレで、正解は新しい未来を切り拓くことにある。
新しく切り拓かれた未来は、まったく新しいが、それでいて同時に、もともとそういうものだった、というような感じがする。
新しく切り拓かれた未来は、成り立っているのだ、だから納得なんか必要ない。

グッドな未来を切り拓くものでもない。
新しく切り拓かれた先は、まったく新しい「未来」なので、「未来」というものが直接イイのだ、直接イイので納得なんか必要ない。
「納得」というのは逆に、未来を閉ざすことだ、未来がなくなれば誰だって納得する。
未来は、お願いするものではなくて、切り拓くものだ、だから説得力があるというか、直接イイので、誰だってその直接のイイに引き込まれるものだ。

未来が切り拓かれたとき、「もともとこうだった」という気がどうしてもする。

納得というのは、違うのだ、「みんなこうでしょ」と思っているのだ、「みんなこう」というのは間違っていないが、実は<<「みんなこう」で「納得」しても、そこで安穏が得られる根拠はない>>、全員でイライラし続けるかもしれないのだ、そりゃよくよく考えれば当たり前の話。
新しい未来を切り拓け、それは夢に向かう道ではなく、すでに夢が現実になった瞬間だ。
 
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地方で暮らす若い女性へ2/「スタンダード」ということ

「簿記3級がすべての入口になる」(日商簿記)と言われて、「そういうものか」と応じ、ササッと手続きして、ササッと勉強してこの春のうちにも合格してしまえる人は、基本的にどうとでもなります/それは努力や知能の問題というより、精神の中に「スタンダード」を捉える機構があるからです。
なぜ「スタンダード」が要るかというと、「中央」には色んな人が来るからです、入れ替わり立ち替わり、さまざまな人が来るので、「スタンダード」が設定されていないと、まともにコミュニケーションやコンセンサスを得ることができません/この「スタンダード」を捉える機構がある人は、中央という以前に「色んな人」とコミュニケーションを取ることができます、だからこそ中央に進出するのに向いているのです。
一方、「地方」においては、色んな人が入れ替わり立ち替わりに来るということはなく、いつも同じ人たちが長いあいだいることになるので、ことさら「スタンダード」を設定する必要がありません、長いあいだ掛かってその土地に根づいた「慣習」のほうが重要になります/「地方」においては、むしろこの慣習に逆らってスタンダードを主張するほうが邪道と扱われ、疎まれることになります、地方には常に「スタンダードより重いものがある」と捉えておくべきでしょう。
たとえば、大阪の堺市には、「13号線」という言い方があり、これはなぜか "府道30号線" のことを指します、これはローカルの慣習であり、法的に知事が決めたものとは異なりますし、国土地理院の地図表示とも勿論異なります、これにより、外部から来た人は大いに困りますが、基本的に外部から人が来ることを想定はしていないので、これでかまわないのです、それよりスタンダードだからといって言い方を変えられるほうが地域の人々にとって「困る」という実情があります/ここで、「13号は13号でしょ」と捉える人は、中央向きではなく、「いいかげんスタンダードに基づいて呼称しろよ」と捉える人が中央向きになります。

昔、有名になった裁判で、「おっとい嫁じょ」という事件があります、ある男性が、片恋慕した女性を強姦して婚姻しようとした事件なのですが、この事件について弁護士は、当の強姦犯を「無罪」と主張したのです、つまりそのような誘拐婚の「手続き」が、その地域には古くからあったらしく、当の犯行はその慣習に則ったものにすぎないので、犯罪ではないのだという主張です、その点で地域住民からの情状酌量を求める嘆願署名も集まりました/昭和34年のことですから、そんな大昔のことではありません、そしてこうした誘拐婚のような形は、今でも世界のあちこちで「慣習」として残っています、地方には常に「スタンダードより重いもの」があるわけです。
むろん、何が「スタンダード」であるかといって、すべてのことがスタンダードで収まるわけではありません、むしろその点では、地方に保存される「慣習」のほうが、強制性は高くあるのですが、とにかく中央においては、スタンダードを第一の土台とし、そこから先に、その場で新たに作り出される・新しく認めてゆかれるものを模索し、創り出していきます/中央においては「スタンダードがスタート地点」と捉えられているのに対し、地方においては「慣習が初めからゴール」と捉えられていると考えてください、これはどちらがよいとか悪いとかの問題ではなく、ただそうした性質・性向の違いがあります。
簿記3級に向けて勉強すると、現在の世の中のすべての企業が、個人事業主から税務署まで、すべてこのスタンダードルールで駆動しているのだということがわかるようになります/それだけに、そのスタンダードルールが、「しっくりこない」「気にくわない」と感じる人も出てきます、それは己の魂の向きを知るよいチャンスでもあります。
「仕入れ」「売り上げ」「従業員」「借入金」ということを見たとき、それをスタンダードルールで正確に見たいという人と、そうではなく、自分の中にあるイメージ、根づいた「慣習」で見たいという人に分かれるのです、それは目の前の道路のことを、「13号線」と見たいか「30号線」と見たいかの違いと同じです/スタンダードルールにしっくりこないという人は、どう粘ってもやがて「慣習」に連れて行かれることになります、それは善し悪しの問題ではなく、あなた自身にとって本意か不本意かということの問題になります。

簿記3級なんか、商業高校の生徒でさえ持っている。

これもつまり、「スタンダード」です、東京にも勿論ローカルはあって、東京ローカルでは簿記だの売り上げだの減価償却だのは「てやんでえ」と捉えられるのですが、これはやはりアンチスタンダードの「地方」の発想であり、中央の発想だと、「高校生でも理解しているものを、いいかげんあなたも学んだら?」ということになります/「地方」では、常にスタンダードより重いものがありますから、やはりいつまでも「てやんでえ」になります、中央向きと地方向きが反転しないかぎり、この「どちらが偉いか」は逆転しません。
何はともあれ、高校生も「高卒」というスタンダードに向けて、教育を受けていますから、商業高校卒なら「簿記ぐらい持っているでしょ」というのがスタンダードだとされているわけです/簿記3級はそのとおり、進学校でもない高校の生徒が取得できるものですから、内容としてはそこまでむつかしくありません、そこであなたが向き合うのは、知能の問題ではなく「スタンダード」に正面を向くか、それとも背を向けるかという、己の魂の方向性です。

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