☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
用事のない人を冷静に判断すること
れはブスには用事はないし、ダサい奴にも用事はない。
大量のカネをくれる人には、用事がある……ように見えるが、それも正確じゃない、大量のカネをくれる人はさっさと振り込んでくれたらいいのであって、別にそいつはサバンナでキリンに踏まれて客死してもかまわない、だからその人自身に用事があるわけではない。
ダサいものはダサいと否定し、ブスはブスだと否定すること、それは感情的に否定するということではなく、冷静に判断し、冷静に決定するということだ。
ダサいものはダサいと、本当にちゃんと判断しないと、やがて自分がダサいものになってしまう、おれはブスになりたくはないし、キリンに踏まれて死にたいとも思わない/その判断に一ミリグラムでも感情や執着が入り込むとそれだけで人は行方不明になってしまう。

おれは意地悪を言っているのではない、ただどうせ物申すなら、すべての人が、なるべく「本当に用事のある人」になりうるよう、提供できる情報の精度を上げようとしているだけだ。
おれが用事のある人といえば、単純に、おれの偉大さが視える人だけだ、それはおれの偉大さでなくてもよく、何かの「偉大さ」が直接視えているなら、それだけでその人には用事がある/つまるところおれは、しょーもないものとなるべく縁を切りたくて、偉大なものとなるべく接続を得たいのだ、それは考えてみたら誰だって当たり前のことではある。
たとえば海外旅行にいくのに、まったく偉大さのない国に行くよりは、何かしら偉大さのある国に行きたいはずだ、われわれが観光旅行で世界遺産に行ったり、サハラ砂漠に行ったりガンジス川に行ったりタイムズスクウェアに行ったりするのは、そこに何か「偉大さ」を見いだしてのことだろう、アンコールワットとヤマダ電機店舗だと、どうしてもアンコールワットのほうが偉大なので、人はわざわざパスポートをとって海外のヤマダ電機にいこうと思わない(もちろんそれはヤマダ電機が悪いわけではまったくない)。
何の偉大さにも接続していない人に、おれは用事はないし、そもそもおれの偉大さがまるで視えない人は、おれに対しても用事なんかないはずだ/それでもたとえば、人は老人になると、漠然と近所づきあいや飲み友達のようなものを作りはじめるが、それはつまり、何の用事もない人に対して、それをまったく気にせず自分だけ楽しめる人がいるということだ、それは最終的にそちらのタイプのほうが冷酷なのだと思う。

どれだけすぐれた娯楽でも、今のところ娯楽に「用事」はない。

これは当たり前のことを言っているようだが、そうでもなくて、実は世の中には、娯楽とガマンを往復しているだけという人もいるのだ、何の偉大さもない出勤をして、帰宅すると何の偉大さもない娯楽に耽る、という人がけっこう多い、そしてそのまま何十年も変わらず過ぎて、そのまま老人になる人というのも実に多い/そういう老人は本当にもう何も視えていない目つきになっている……きっと、用事のないものをそうと冷静に判断せず、そのまま何十年も放置していると、自分が究極の「用事のない人」に成り果てるのだろう、何かに用事があるという感覚そのものが完全に消滅して視えなくなるのだ。
おれはふだん、何かに用事があるつもりで生きてはおらず、「何にも用事はないから、タラタラ〜と過ごしたいぜ」と思っているのだが、けっきょくは各シーンで、それこそ朝起きた瞬間から、何かに首根っこを掴まれて、何か偉大なことにむけて命を尽くすことをやらされている/おれみたいな者は、やる気をもたずタラタラしているくらいでちょうどいいのだろうが、それにしても気がつくといつも、何かに支配されてギリギリまでやらされている、そして数ヶ月か数年すると、「あのときのあれがすべてだった」と、そこにすさまじい用事が密集していたことに、後になって気づく。
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コンテンツブロッカーのすすめ
ういえば先日、偉大なるおれさまを祝福するために、民草どもからiPadの奉納を受けたのだった、ちょうど以前のタブレットを紛失して困っていたところだ、おれはiPhoneだしタブレットはやっぱiPadが便利でいい。
で、iPadを使ったときに思ったのだが、久しぶりに何のブロッカーも入れていないブラウザを開くと、どのサイトも馬鹿デカい広告ばかりが表示されて、一瞬本当に、iPadが壊れたのかと思った、そして直後、「あ、そうか、ふだんは広告ブロッカーを入れているからすっかり忘れていたが、本来はこうして広告まみれなのだったな」と思い出した。
そんなわけで、急に別の話になるが、ひょっっっっとしたら知らない人もいるかもしれないので、インターネットを見るアプリ(ブラウザ)には、各種のコンテンツブロッカー、広告ブロック、アドブロックを入れましょうということなのだった、こういうのはどこかの誰かナイスな奴がナイスなアドオンを作成してくれているものだ。
PCのブラウザ、Google Chrome や firefox なら、そのまんま「アドブロック」と「アドブロックプラス」がいいし、iOSで使われている safari なら、「280blocker」というのが最終的に具合がよくて、僕は使っている、即検索しろ/もちろんブラウザの広告をブロックするだけなので、YouTubeアプリ等の広告には干渉できないが、とにかくコンテンツブロッカーなしにウェブ閲覧をするなんて現在の僕には考えられない、久しぶりに広告の嵐を見たら、本当に「こんなん頭おかしなるで」と思った。

インターネットの各コンテンツが、広告料によって成り立っており、うんたらかんたらと、そういう話はわからないではないが、とりあえず実際に表示された広告を見た瞬間、僕は「げっ」としか思わないし、「こんなん広告でも何でもないわ」「頭おかしいやつや」としか思えない/そう思ってしまうものはしゃーないだろう、なぜおれがウェブページを開くと、乳デカアニメ女の映像がガッツリ表示されるのだ、意味がわからん、何の用事もない乳を断りなしにブッこんでくるな。
もちろん僕がふだん、スケベサイトを閲覧しているから、その情報がトレースされて、僕に向けのスケベ広告が選ばれて表示されているのだろうが、それにしても知らん、乳に用事があるときはこちらから行くので、勝手に割り込んでくるな、用事のないときに乳を出されても無関心だし、そもそも乳を広告に使うというのは用途として誤っている。
これまでのところ僕はウェブ広告をクリックしたことはないし、クリックした先で何かを購入するということもありえない、もしユーザーの全員が僕なら広告の効果は「購入者ゼロ」ということになるはずだが、実際にはそれなりに効果があるから広告を出しているのだろう/おれはエロサイトのエロコンテンツを漁るが、それを購入するということはないので、広告はやめてもらえないだろうか、そういえばそもそも僕は広告に影響されて何かを買うということがまったくない、近所のスーパーの特売チラシぐらいしか広告というのは僕の側で採用していない。
広告にしてもそうだし、そういえばSNSにしてもそうだが、万事において「向こうから勝手に割り込んでくる」という手法が多くなった、まあ営業というのは基本的にそういうものかもしれないが……その点おれのこのブログなどは、どう更新しても誰のところにも何のお知らせもいかないのだ、あなたの側から用事があって来訪しないかぎり、こちらの側からの割り込みはない、全員このスタイルにしてみてはどうか(否)/僕の本サイトとブログは2005年くらいからあるのだが、当時はまだウェブ上に広告という概念はほとんどなかった、若年の方は知らないだろうが、インターネットにもかつて営業性のないユートピアみたいな時代があったのだ。

コンテンツブロッカー(広告ブロッカー)を入れると、ウェブは快適になり、そのぶん世の中を誤解する。

事実、僕はそのことによって、世の中を少し誤解していたので、ブロッカーがないブラウザを開いたとたん、「うわあああ」となったのだ、そちらのほうが世の中の実態だから、リアルに生きたいぜという人は、ブロッカーなんか入れないほうがいいかもしれない/おれはその点、リアルとかどうでもいいので、快適さのためにブロッカーを入れさせていただく、うーん世界中で広告そのものを禁止にできねーかな(否)。
テレビを観ているときは、広告が入っても何も思わないのだが、いまだにYouTubeを見ていて、広告が入ると「うわっ」とびっくりする、それはつまり、テレビを観ているときの僕というのは相当に受け身というか、受動的・消費者的なのだろう、それ以外のときは常に僕は能動的なので、自分がアクセスした覚えのないものが割り込んでくると、第一に「うわっ!?」「誰だテメー」と驚いてしまう/広告が出るたびに「うわっ!?」と驚き、そのたびに「あ、広告か」と理解しなおしているのだった、
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否定するべきを否定すること
定するべきものは、きっぱり、はっきりと否定する。
感情的に、「否定的」になるのではなくて、はっきりと否定する、それは No というより Nothing に近い。
今、たとえば二年前に流行したものについて、誰が追いかけ続けているだろう、今誰が「アナ雪」を大切に抱えているのか? そうして二年後にはきれいさっぱり消えているものを、二年前はチヤホヤしていたということは、単に二年前に「判断ミス」をしていたということだ。
僕の話だって、二年後には消えてなくなるものなら、今このときに Nothing と判定したほうがいい、そうでなきゃただの判断ミスだ/あるいは、僕のしょうもない話が、なぜか二年後にも残って何かを教えるようであれば、それは二年前にハナクソをほじって聞いていたのが判断ミスということになる、こんな判断ミスをてんこもりに許したままではまともに生きていけるわけがないので、われわれはこの肯定と否定にもっとシビアになる必要がある。

否定するというのは、感情的にすることではないし、否定するというのは、人のことを否定するのではないのだ、むしろ目の前にあるものが本義的に「人」のものではないから、それを否定する/まあ、何を否定しきるかということ、何を否定しきれるかということが、その人の魂の限界を示しているから、これは各人が己の器量として背負っていくしかないことではある。
ここでいう否定というのは、攻撃ではなくただの Nothing なので、たとえば古い同級生のようなものだ、芝居がかったキャラが記憶に残っている○○くんは、何かあったのかというと別に何もなかったので、 Nothing だったということ、こんなものは初めから Nothing だと見えていなくてはならない。
仮に、テレビに10のチャンネルが映るとして、われわれは同時刻に一つのチャンネルしか観られないのだから、一つのチャンネルを観ているあいだ、残りの九つのチャンネルは Nothing だ、そして自分の観ている一つのチャンネルだって、ひょっとしたら Nothing なのかもしれない、じゃあ全部 Nothing ということなので、その判断をミスらないこと、どれだけ肩入れしても最終的に「やはり何もなかった」という結論を得るのは同じだから、なるべく時間の無駄をしないうちにさっさと正しい判断を得ること。
世の中に、わかるもの、わかりやすいものはたくさんあるが、わかるものはすべて比率(ratio)であり、その比率の幻惑が消えるともともと Nothing なので、わかるものはイコール Nothing だ、だからわからないものだけを肯定し、わからないものだけを追いかけ続ける必要があるが、これは自分という主体そのものが「わからないもの」で構成されていないと成り立たないのだった、「わかる自分」は必ず Nothing たる ratio しか追いかけない、そしてすべてを時間の無駄に終わらせてしまう。

なぜ否定せねばならないかというと、潜在的に「敵」だからだ。

人が敵そのものではないが、人ならざる「敵」が含まれているということだ、その敵を Nothing と断定してしまうことに、最善の果報がある/古い同級生の○○くんは、芝居がかったキャラが記憶に残っているが、この記憶は本当にただの記憶でしかなく、本質的に Nothing で、うかうかしていたらその「敵」にそれなりの損傷を負わされていたということだ、他ならぬ○○くん自身がその損傷の被害者なのでもある。
われわれは、人と敵対する必要はないが、人ならざる敵にいつでも食い込まれそうな中を生きているので、早期に、否定するべきものは否定するという、判断力を持たねばならない、この「人ならざる敵」は Nothing と扱う以外には無力化できない/この「人ならざる敵」は、本質的に Nothing なだけに、とにかく "印象的" に残ろうとする、そういう作用に長けているのだ、その印象の強さは Nothing の証左でもあるので、初めから冷静に見抜いているべきだ、 Nothing が「印象的」にはたらきかけるというのは、アイドルのパフォーマンスでもババアの陰鬱でも同じだ、そこには「人ならざる敵」が含まれている。
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ダルさと出来事
れだけ有用なことでも、自分のやるべきことではない、という場合がある。
その場合は、どれだけ有用なことでも、なぜかやっていてダルいというか、眠くなる。
自分のやるべきことではないという場合には、二種類あって、ひとつには「お前はそんなことしなくていい」という場合と、「お前にはそんなことをする資格は無い」という場合がある。
たとえば現代の場合、勉強して遊んでデートして、ということのすべてが、内心ではダルいし眠いということがある、そのとき可能性のひとつは「お前はそんなことしなくていい」というパターンで、もうひとつの可能性は、「お前にはそんなことをする資格は無い」というパターンだ、そして残念ながら前者のほうにはなかなか当てはまらない。

色んなことが、ピンとこないというか、内心で「超ダルくね?」と思えるものだが、その場合、資格をそもそも得ていない場合が多い。
だから人々は、ソシャゲにハマったり、パチンコに行ったり、そうでなければ一日中寝ているのだが、それで正解というわけではもちろんない。
なぜ単純な退廃そのものが正解たりえないかというと、人は自分をやめることができないからだ、単純な退廃の先にどうなるかというと、「自分」がダルくなり、「自分」が眠くなり、「自分」がピンとこなくなる、そうするとその先はひたすら苦痛だけを抱えて生きていかねばならなくなる。
なぜ何もかもについて、どうしようもなくダルく、眠く、ピンとこないかというと、たいていは何かをする「資格が無い」からなのだが、なぜその資格がないかというと、やはり聞いていないからだな、目が覚めるというのは何かが聞こえるからであって、じゃあ何が聞こえるのかというと、一言でいえば「ハッピー」が聞こえなくてはならない、ああこの文章はまったくだらしないが、手続きとして非常に大きなところを捉えているのだ。

今日の出来事を聞け。

今日の出来事が聞こえていないのに、今日何かをすることはできない、今日何かをすることが出来るのは、今日の出来事を聞いた者だけだ/そして、今日の出来事が聞こえ、その出来事に入れたということがハッピーだ、空想をどうこしらえてもそのイメージが自分を真に潤すことはない。
どんなに有用に思えることも、どんなに立派に思えることも、どんなに真実に見えることも、あまり意味がない、少なくとも今日のあなたにとって意味がない、今日のあなたに必要なことは、今日の出来事が聞こえるということだ、それを聞きとろうとしているうちはダルさや眠さとは無縁になる(ただし体調の悪いときまで無理しないよーに)。
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中央のサービスを学ぶこと
バイル環境、スマートホンは応急的に復旧しました、以前のとおり連絡可能です。
で、キャリア側との契約があれこれあって、結果的に、 iPhone5s から iPhone5s に乗り換えることになりました……って、なんだこりゃ、楽しみがなさすぎて草を禁じ得ない。
去る一月に父が他界して、父が家族割プランで複数回線を統合していたから、その継承が必要で、「じゃあそうしましょうか」というと、たまたま一部の回線が「現在修理中」のステータスで、修理中ステータスのときは契約の一切が更改できないとかで……
しゃーない、要するにおれの本体が水没して壊れたのだから、新しい本体がありゃいいんだろということで、秋葉原の電気屋で売っていた中古のソフトバンクの iPhone5s を買って来た、これに元のSIMカードを差せばバッチリよ、いちおうたまに itune にもつないであったのでデータのほとんどもバックアップから復旧できた/けっきょく誰に相談するよりおれ自身の思いつきで行動するほうが早かった、初めからこうしてりゃよかったな(でもそれなりに iPhoneXR あたりにワクワクしていたのだが……(´・ω・`))。

今回は、前回の失敗も踏まえて、代理店ではなく直営店に行ってきた、もう二度とヤバいものは見たくなかったので、わざわざではあるが表参道の直営店に行ってきた、するとやはり万事の品質がまるで違って、手続きに不快さはなかった、まともな社会性のやりとりをしている心地があってホッとする。
キャリアにもよると思うが、表参道の直営店はホスピタリティが高く、ドリンクのサービスがあるし、ソファの品質も高く、試用のNetflixで映画視聴して待ち時間をつぶすこともできた、前日なら来訪をネットで予約もできるので、特に都心近くに住む人は、飛び込みで代理店に行くよりも合理的で快適な方法だと言える。
中古の iPhone5s の、元通り64GBのタイプが、なぜ6000円で手に入ったのかはナゾだ、中古品の尺度ではDランクとなっており、もっとガタガタのものをイメージしていたのだが、手に取るとどう見ても美品にしか見えなくて、何か知らんがラッキーだった。
というわけで、何についても思うが、なるべく社会的にはまともなものとだけ接触していたいのであって、あとはラッキーでなければ楽しく生きられないな、ということなのだった、もうこれ以上、「現実はこれぐらい精神的にヤバいぜ!!」みたいなものを目撃しても、何の足しにもならないということがヒシヒシわかる/こういうのはきっと、人生の分かれ道だと思うのだ、大げさに言っているのではなく、割とマジのこととして。

なるべく直営店に行け、それはかけがえのない社会勉強だ。

代理店の――すべてがそうではないと信じるべきにせよ――ありがちな悪徳業者の気配と風貌を見るより、直営店のまともな社会通念とコンプライアンスのありようを見るほうが勉強になるのだ、こういう勉強のチャンスを逃すべきではない/割と大真面目に、僕はこのことはきつめに言いつけたいのだ、中央のサービスを受けにいくのではない、中央のサービスを学びにいくのだ、中央のサービスを学ぶのに意欲的でない場合、それは当人の精神がすでに「田舎者」に固定されているとみなさざるをえない。
むかし、或る女子高生が僕を慕って、東京に修学旅行に行くことにつき、自由時間にどこに行けばいいかしらと相談されたとき、僕は「東京の大丸とか、銀座の三越とか、新宿の伊勢丹とかの、百貨店をうろうろしてこい」と言った、「都心の接客がどういうものか、どういうものでなければ通用しないのかを見てこい、若い女性店員が流暢な中国語で観光客に接するのを見て衝撃を受けてこい」/悪徳業者になった人は、七夕の短冊に願ったとおりに悪徳業者になったのではない、ただ中央レベルのものが身につかなかったので、悪徳業者にならざるをえなかっただけだ。
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自分で気づくべきこと

とえばここに、一人のおじさんがいて、路上でタバコを吸っているとする/そしてその隣には、一台の2tトラックが信号待ちしているとしよう。
もしその場所が、路上喫煙禁止エリアなら、おじさんのタバコは「煙たく」感じられるだろう/けれども、もしあなたの部屋に、おじさんと2tトラックのどちらかを置くとなったら、あなたはどちらを置くだろうか。
あなたの部屋に、1.喫煙中のおじさんを置く、2.信号待ち中の2tトラックを置く、という、二つの場合を並べたとき、とてもじゃないが2のほうは、生活するのは不可能なほど、部屋中に排気ガスが満ちてしまうはずだ/にもかかわらず、われわれは必ずおじさんのほうをだけ「煙たい」と感じる。
つまり、われわれの感覚は、先入観によって操作されているのだ、部屋に置くとなるとわかるとおり、実際の威力としては2tトラックのほうが遥かに強烈なのだが、何に目くじらを立てるかというと、「これに目くじらを立てなさい」ということを教育されている、あなたが自分で何も気づかなければ、そのテキトーな教育だけがあなたを支配し続けるだろう。

われわれの身の周りで、泥棒の被害に遭った人は案外多く、交通事故の話もちらほら聞く、けれども、それに比べると、若年性のガンで亡くなった人というのは実際には少ない。
若年性のガンの話は、実際の割合に比して、多くあることのように刷り込まれているが、その背後には当然、保険会社や健康産業の思惑が、広告等を通して知らず識らず作用しているはずだ、わわれれは自分で考えないかぎりこの操作から抜け出すことができない。
われわれはペットボトルを分別して捨てているが、ペットボトルからリサイクルされた実際の商品や什器というものをそんなに街中で見かけはしない、地球温暖化とやらで何センチ海水面が上昇したのかという話もはっきりと聞かない、喫煙者の減少で今後肺がんの罹患者がどれぐらい減る見込みだという話も聞かされない、最近はファミレスのプラスチックストローさえ使わないようにして紙で出来たストローにするらしいが、プラスチックのストローがどこでどう悪さをしているのかの話はやはりはっきりとは聞かされない。
よく、「歩き煙草を持つ手の高さは、子供の顔と同じ高さにある」というような言われ方がされるが、それで実際にどの程度、子供の顔面に歩き煙草の火が接触したか、確かな情報は聞かせてもらえない/それ以前に、もしその話が成り立つのであれば、煙草を持っていない手も通りすがる子供の顔にガンガン当たらなければならないことになるが、僕はこれまで歩いていて自分の手が子供の顔面に当たったという記憶はない、世の中の多くの人は歩行中に自分の手が子供の顔面に当たることが複数回もあるのだろうか?

他人がまじめに考えていると思わないほうがいい。

別に誰がふざけているとはいちいち考えないし、周辺に予想される利権や、政治家がブログに書きたがる活動成果のことまでいちいち考えていられないが、大前提としてこの世の中の他人が、いちいちそんなことをまじめに考えていると思わないことだ、その場かぎりでテキトーなことを思いついて、へっちゃらにそれを押し通す人なんていくらでもいる/2tトラックをあなたの部屋に置いていたら、あなたの部屋はたちまち真っ黒になり、あなたは半日も持たず部屋から逃げ出すと思うが、そんなものが路上を走り回っていることになぜあなたは平気なのか、このロジックに腹を立てているようだと脳みそは本当に病気になってしまっている。
僕が子供のころは、「石油はあと三十年で枯渇します」とよく言われたものだ、学校の先生が危機感たっぷりにそう言っていたのを僕はよく覚えている、ところが今になっても石油は枯渇せず、今日もガソリンスタンドで売られているのだが、このことについて当時の先生が反省しているかというと、反省しているわけがないのだ、 "他人がまじめに考えていると思わないほうがいい" 、当時は原子力発電所を推進したかったから、石油を否定したかっただけの話なのだ/二十年前は痛風患者に対して「豚バラ肉は絶対禁止」と言っていたが、今はむしろ豚バラ肉はプリン体が少ないと言っている、コレステロールは諸悪の元凶のように言われていたが、今は食べ物を変えてもあまり意味がないと言われる、別に誰がふざけているわけでもないのだが、実は突き詰めて「自分で考え抜く」なんて能力は、そう多くの人に具わっているものではないのだ、だから他人がまじめに考えていると思わないほうがいい、菜食主義者は草食動物のありようを見習っているかもしれないが、ほとんどの人は草食動物がその体内でバクテリアを繁殖させてバクテリアから動物性タンパクを摂取していることを知らない、シカは植物だけであの筋肉質の身体を手に入れているわけではない、「そんなわけなくね?」と自分で気づいて自分で追求しないかぎりあなたは他人のテキトーな言い分で振り回されるだけになってしまう。

できるオンナだね | comments(0) |
盤石の体勢などない
はよく言う、「盤石の体勢などない」「ベストコンディションなどない」「準備万端などない」「安全安心などない」。
いつだって体勢は不十分で、コンディションは難ありで、準備は不十分で、常に何かの不安に晒されているものだ、これらのすべてのマイナス要素がなくなる日などやってこない。
もし、安全安心の、盤石の体勢などがありうると誤解していたら、不意の状況や変化にまったく対応できないだろう、空を飛ぶ飛行機のようにいつだって不確かなものなのだ、だからこそ全身全霊で飛行を続けなくてはならない。
毎日がノートラブルで過ごせるのは、一種の奇蹟であり、自分か誰かのどちらかが、相当うまくやってくれた結果だ、どれだけ防犯と保険と貯蓄と地位を積み重ねても万全なんてことはありえない、万全という妄想に取り憑かれていたら生きているうちに何一つ身動きが取れないだろう。

落ち着いて勉強したり、落ち着いて考えたり、落ち着いて研鑽を積んだりという、そんな落ち着いた時間などは一回もやってこない。
ウェブから流れてくるBGMが、次の曲に変わるだけで、状況なんてものは変化するのだ、だから固定的な状況なんてものがそもそも存在しない、落ち着いた今日や明日を求めることほど無意味なことはない/求めたところで、得ているのは実は退廃した自分自身にすぎないだろう。
「生きている」ということが、そもそも有限で不安定なことなのだから、海を泳いでいる小魚のように、いつなんどき見たこともないデカい魚に食われるかわかったものではない、だからといって磯に引っ込んでいるのが安全というわけでもないのだ、急に水温が変化したらどうするの/だから常に安全を信じず幸運を信じろ。
今や誰も彼もがストレス耐性を弱くして、予期していない状況に対応する能力を失ってしまったものだから、世の中はキャラとブーイングにあふれている、単に中韓に製造業をこんなにあっさり取られると思っていなかったのもあるが、そうして状況はカンタンに動くものだ、実際の世界はテレビドラマのようにチンタラ進行はしてくれない。

「問題」を見つけることで、空想の「安定」に取り憑かれる。

意外なことだが、人それぞれに色んな問題意識があり、社会的な「問題」に取りかかる活動勢力もあちこちにあるのだが、それらのすべては、実は空想でもいいから「安定」の中にいたいとして、「問題」に取り縋っているにすぎない/人は己の意識を「問題」に偏らせることで、実は何もかもが不安定だというストレスから逃れることができる。
盤石の体勢や、固定的な安心などありえなくて、それと同様に、固定的な「問題」というのもありえないのだ、「問題」を固定的に考えることで人は無制限にありうる不安というストレスから離れられるのだが、もちろんラクになるぶん弱くなる/盤石の体勢もないし固定的な問題もないとすると、「未知」の中を生きていくしかなくなるのだが、このことに負けた順に人は弱くなっていってしまう。
できるオンナだね | comments(0) |
ガチ知性でいこう

とえば、次に僕が書き話すことを読んでみてほしい。
「ワークショップでは、各員が自分のワーク実態を検証できるように、ビデオカメラで録画している。三脚を立てて、パナソニックの中級機、4Kのハンディで録画しているのだが、内蔵マイクが貧弱で、ダイナミックレンジの広い音声がまともに録れない。だからタスカム社のPCMレコーダ(ICレコーダ)を外部マイクとしてつないで収録している。タスカム社のPCMレコーダはイヤホンジャックからモニタ情報を吐き出しているのでコンデンサマイクとしても使えるわけだ」
われわれは現在、習慣からか悪霊からか、脳みそと知性のレベルを壊滅的に低下させていて、このていどの文章となると、おそらく「4Kのハンディ」ぐらいでもう脳みそがついていかなくなる。
われわれの脳みそは、近年、まともな情報を反射的に「聞き流す」クセがついていて、それによって脳みそを横着させる・サボるということをやめられなくなっているのだ/ここでもう一度、先ほどあなたが読んだはずの文章をあなた自身で話し直そうとすると、断片的な暗記をアウアウ言いながら話すことになる、最近はこのレベルの文章でさえ組み立てて話せる人はごく少ない。

人々は、何の根拠もなく、「知性」を否定して蔑むという、わけのわからない宗教にいつのまにか入っている。
そしてその宗教においては、なぜか、知性をバカにした人が「勝ち」になるのだ、それで実態はどうなるかというと、次のとおりになる、「ワークショップで、みんな自分がどういうふうになっているかなって、あとで見られるように、ビデオカメラで撮影しているんです。三脚で、ふつうのパナソニックの、よくあるやつで録画しています。でも、マイクがダメで、音割れとかするんですね。だから外付けで、タスカムっていうやつを使っているんです。もともとはレコーダーらしいんですが、マイクとしても使えるやつです」。
冗談でなく、近年の、知性を蔑む人々においては、前者と後者の違いがわからないのだ、「けっきょくどちらも同じじゃないですか? 前者のほうが難しげに言っているだけで」と本当に思っている、本当にその差がわからないぐらい知性という感覚そのものが失せているのだ/知性がこころならずも低いという状態ではなく、知性というパラメーターそのものへの放棄が文化的に起こっている。
前者と後者で何が違うかというと、前者の話においては、「お値頃で買える民生用のハンディビデオさえ4K撮影できるほどに光学画質の技術は向上かつ重視されているのに、音声に関してはおざなりだ」「ICレコーダにも外部マイクとしての使用を想定してデザインされているタイプがある」ということがわかるが、後者ではその話が含まれていないのだ、つまり前者には知識の伝播があるのに対し、後者にはそれがなく、後者はただ自分のやっていることを言っているだけということになる、だから後者のほうの話は聴く値打ちがない/この「知識の伝播」があるかないかで、話の値打ちは変わるでしょうというのが、直接感じられるということ、それこそが知性であって、この知性がない人は、何か話を小難しく言っているだけだと本当に思っている。

知性とは、単位時間あたりの提供知識量と吸収効率の高さをいう。

たとえばこういう話がある、「肉食動物は顔面の前方に目が並んでいて、捕食対象との距離測定に優れた視力を具えている、一方で草食動物は顔面の左右に目がついており、警戒範囲の広さに優れた視力を具えている」「夜行性の動物や深海の魚などは、集光のために眼球が大きい、ただしそのぶん焦点領域が狭くなっている、その反対が昼間に飛んでいる鳥で、目は点のように小さいから、焦点領域が限りなく広く、たとえばハヤブサは数百メートルの高さから高速滑降してもピンボケなく水中の魚を捕らえられる、ただし集光できないので夜は目が見えない、それで夜に目が見えなくなるビタミンA欠乏症のことを俗に "鳥目" といった」、ただこれだけの話で、光とレンズの性能バランスはおおむね理解されるのだが、知性の低い人はいつまでたってもこの知識密度を保持できないのだ、知性のない人は知と暗記の区別がついておらず、暗記したものを「知っている」と誤解している。
今、知性の高い・低いの問題より、「知性」という機能そのものが失われつつあることのほうが大きな問題としてある、知性を蔑む宗教に入った人は、人が知性において「何を話しているか」がけっきょくわかっていない/僕は自分のやっていることを話したのではなく、「近年の撮影機材ブームは、画質ばっかりで音声はドントケアだ、偏っている」ということと、「タスカムは気の利いた設計をしている、そういうメーカーがよろこばしい」ということを話したのだ、そうでなきゃ僕がワークショップでワークの録画をしていることなんて人に話しても何の意味もない(何の意味もない、と感じられるのがまともな知性だ)。

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強制するのはきらいだが命令に従わねばブッ殺す
み踏み地鎮はいい方法だ(気にしなくていい)。
命令が命(いのち)であって、命を与えられていない人を視認できるようなると、それはもうゴロゴロいる。
ゴロゴロいるというか、今は、そういう人しかいないというのがリアルだ、そりゃこんなハラスメント時代だからしゃーない。
たとえば恋あいとは、互いが互いに命じていた営みだったわけだ、みんなカネをもらえばスッと業務に従うのに、魂については頑として動かない、そういう教育と訓練を受けてきているわけだ。

人はそれぞれ、別個の存在なので、人が人に命令してはいけない、そんなもんパワハラでしかない。
人が人に命令してはいけないのは、「命」は人から発されるものではないからだ、命がディールされていない命令なんか命令じゃないので、ただの力関係や圧力でしかない、それは命令でなくフォース(強制する)だ。
僕はフォースがきらいで、強制するのもされるのもまっぴらごめんだ、ただしおれの命令に従わなければ殺す、そりゃ命に従わないということはただちに DEATH でいいじゃないか、命に従わないで生きていても意味がなかろう。
おれの命令を拒絶することはありえないので、ありえるとしたら「それは命ではありません」と弁明することだ、それなら認めよう、おれが認めたとしてその弁明が真実なのかどうかは誰にもわからないが、おれの言っていることはメチャクチャなようでいて、カネさえ払って女の子が合意したら、どんな美少女にもハナクソを食わせることができるというのは、それはそれでメチャクチャではないかと僕は思うのだ、いくらカネと合意があっても、そこに命がないことはやってはならない、そりゃ当たり前だろう。

0億円やるから命令にしたがえ。

億単位だぞ、億単位、そりゃもうどんな命令にも従いますってもんじゃないか、しかも0億円ならスペースもとらないし、誰かに盗まれる可能性もないから安全だ、0億円やるからきみの裸踊りが見たいのだ、それって結構うつくしいものだろう、きみは学門がなくてゼロという数字がわからないかもしれないが、ゼロという数字は実感できない数字なので、ちゃんと学門においてゼロを捉えよ。
0億円やるということは、業務ゼロということだぞ、きみは業務がコッテリあるのがいいか、業務なんかゼロのほうがいいだろう? じゃあ業務ゼロでしかも0億円もらえるなんて完璧な話じゃないか、業務ゼロで0億円もらって命令にホイホイ従うのが当たり前でリッチということが、きみが自由を手に入れたということだ。
できるオンナだね | comments(0) |
未来は光り輝いている(と選べ)
日、というか今日も、またワークショップがあり、土曜日は野暮用があって休講なのだが、野暮用というのは本当に面倒なもので、そのぶん逆に、ワークショップとかをやっているのはスゲー楽しいなあと、改めて思うのだった、いやあスゲー楽しいわ。
未来は光り輝いているのだが、それをじっくりした人が、じっくり考えると、光り輝いているどころか、特に理由無く暗黒の魔物の恐怖世界なので、じっくり考えてはいけない/未来は光り輝いていると、断定できる人は誰もいないはずだが、たぶん光り輝くルートはあるのだ、あとはそのルートに入れるかどうかなのだろう。
未来は光り輝いていると、断定できる人はいないといって、おれは別に断定できるような気もするが、まあいい、空想に気をつけることだ、人々のうち99.9%は、「リアリティこそが空想だ」ということに生涯気づかない/仮にそう聞かされたとしても、必ず「いいえ」と反駁するだろう。
リアリティとは何かといって、リアリティとは実感および、強度に予想される実感なのだが、それ以上に "リアリティとは他人のことだ" 、これはサルトルが言った「地獄とは他人のことだ」をもじっているのであり、同時にサルトルと同じことを言っているのだ、僕のほうがおおげさでなくてイイんじゃない、「リアリティとは他人のことだ」。

未来は光り輝いている、ということは、つまり、「他人は存在していない」ということだ、そう言い切れたらサルトルもハッピーだったろう。
他人は存在していないのだ、他人は "リアリティ" なのだ、他人がリアリティであることを僕は認めるが、そのぶん、他人が存在することをやはり僕は認めない、僕は他人に出会うのではなくカミサマに出会おう、何がどうなって "リアリティ業界" に関心を持たねばならないのだ、業界のことは業界の人だけ関心を持っていればいいじゃないか。
偉大なるおれさまは、まあカミサマみたいなものだが、それは何もおれが威張ってうぬぼれているのではない、カミサマという事象はそんなに珍しいものではないというだけだ/そしてカミサマだけが唯一「業界」ではない、業界というのは「カルマ界」という意味なのだから、さすがにカミサマは業界ではないだろう。
「カミサマに出会う」というのは、なんともイイ響きじゃないか、天地のあいだに人があって、天地に出会うんじゃないぜ、おれは人だから人に出会う、天地とつながった人だけに出会う、それはまあカミサマみたいなもので、とてもよろしい、天地に出会うなんて空想はやめてカミサマに出会おう、他人は存在はしていない。

未来に他人を選ぶから、リアリティの巣窟になる。

他人はやめましょう、リアリティというのはとてもカンタンで、他人というのはどれほど迫力があるに見えても実にカンタンなものにすぎず、けっきょく程度が低い上に、すげえつまんねーし、サイアクというほど何の足しにもならないということを、去る三十年のうちに誰しも知ったはずだ、他人に空想リアリティで訴えかけるという不毛ダイナマイトなことを去る三十年のうちにねっとりやったじゃないか、そしてそれはもうやめようと、誰だっていいかげん思ったじゃないか。
今日もまたワークショップがあるのだが、ワークショップに何のリアリティがある? わざわざ集まって毎週リアリティ業界をやるアホはいねえよ、リアリティ業界は叩き出してオワリだ/リアリティを選んでいないから、そこに他人はなく、カミサマと出会ってゲラゲラ、未来は光り輝いている、それは選択であって予想や見込みではない。
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作品のごとくに
べての時間を作品のごとくに生きたい、過ごしたい。
作品のごとくにと言っても、人によって作品とは何かの捉え方が違うので、そのミゾは埋まらない、埋めたくもない。
このように、ふだんのおれは冷酷であり、峻厳であり、カッコいいのであった、作品には悲惨に尽きる脇役も必要だからな。
恋愛に興味はないし、元気の無い女の子を庇って調子を合わせるつもりもない、女の子の声は夏の空に響いていなくてはならない、女の子は天使というより、天の代替品でなくてはならない、でなきゃ作品のごとくにならない。

言葉が遠くなったのは、人が近くなったからだ、人が人ごときを自慢するのは、たいていロクなことにならない/人がくっつくと天やら言葉やらからは切り離されてしまう。
人がくっつくと、「わたし」が消えてしまうのだ、「わたし」とは "世界を体験する主体" のことであって、他人とネチャネチャするのは競争的「自我」であって「わたし」ではない/「わたし」を得ていない人と近づいたところで、実際何もすることがない、たぶん現代において多くの人は、世界を体験する主体としての「わたし」を、まったく得たことがないか、あるいは十年前に少し持っていたものが、完全に揮発して消失してしまっているだろう、誰も目の前の「世界」に向けて対話する感覚を残していない。
「わたし」とは世界を体験する主体のことであって、「世界」とはわたしが体験する主観的事象のことだ、その他のすべては方便であって、世界でも何でもない/誰だって輪投げぐらいしたことがあると思うが、おれと輪投げをしたことはないので、主観的事象として誰も輪投げをしたことがない、あなたが目を覚まして救われる唯一のルートはそれだ、おれと輪投げをするときすべてのことを否定しておれと輪投げすることだけが初めての世界だと知れ。
アホだなあキミは、たとえばドリフターズのコント劇で、いかりや長介が「屋根の無い、すし屋」とコールしたら、屋根の無いすし屋が世界じゃないか、それを屋根のあるすし屋と比較競争させたら毒の回りきったアホだ、おれと輪投げをするまではキミに世界なんかないよ、世界なんかないと知っておれと輪投げをしたときのみ、キミには世界が与えられるだろう、たかが輪投げぐらいで突っ張ろうとするキミの意固地は意味不明でいけない。

あなたと僕が輪投げをするシーンが、作品の冒頭にあって、それ以前の時間のすべてはどうでもいいのでゴミ箱に投棄する。

われわれの知らない熱帯雨林で、今日もシダ植物が胞子を飛ばして、ニョキニョキ生えたり、虫に食われて枯れたりしていると思うが、あなたは自分の存在がそのシダ植物みたいなものでバッチリだと感じるか、シダ植物が繁茂して後に枯れるのはただのアミノ酸の都合であってわれわれが世界とか物語とか存在とか呼ぶところのものではない。
非世界がリズム化してあなたを食い尽くそうとしているのだが、その非世界が捨てられてゼロになったら、だいたい勝ち確だ、けっきょくのところ「記憶」に依存しているだけなのだが、記憶に依存しているということは、今このときを作品として生きるということに横着をしているということだ、それが悪いものの手口なんだぜ/<<記憶はあなたを停止させるために仕掛けられている>>と、太字にしておけばあなたは何か気づくだろうか。
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創作のススメと、「やめといたら?」というアドバイス
妙なことがあって、いや別に奇妙ではないのか、どこまでも戸惑っているというか、いつまでも躊躇しているところがある。
どうも、僕の見るかぎり、人は何かしら自分の「作品」を産み出し、その作品を生きねばならないようだ、そこはビクトール・フランクルの言っていたとおり/「自分自身について考えないでください/あなたが創造しなければならない作品、まだ生まれていない作品に目を向けてください。あなたがどんな人かは、あなたがその作品を作ることではじめてわかることなのです。
そして、僕が戸惑うのは、僕にとっては最も容易なことが、他の多くの人にとっては最も困難なようなのだ、つまり僕は、出来のよしあしは別にして、「こういう作品を創りたい」ということは、無条件にいくらでもポンポン出て来るし、そのことに対しては確信がある、「おれが創るならこういう作品だ」というのは最も単純で最も陽気なところに確信としてあるのだ、だが多くの人はそれこそが最も困難なことなのだと切実に言う。
どうしたらいいのか、とりあえず何の解決も見えてこないが、少なくとも現時点で言いうるのは、「作品」へ躊躇しているのはいつまでも勿体ないし、あと己の「作品」に向けて立ちすくみ、踏み出せなくなるのは、普遍的・全人類的なテーマであり課題のようだ/つまり、なぜか僕にとっては最も容易なことが、多くの人にとっては最も困難であり、しかも、そのことからどうやら人は逃げられないということのようなのだ、逃げられないならもうさっさと入門してしまったほうがいい(と、イージーに思えるのもたぶん僕だからなのだろうが……)。

そうなると、単純に「作品のススメ」「創作のススメ」という話になりそうだが、これについては逆に、僕はそうイージーなことに思えない、作品というのはシビアに向き合わないと、己の魂が落下するからだ。
別に駄作を創ったからといって、駄作そのものによって魂が落下はしないが、駄作というよりは「あかん作品」を、自分の作品だからといって強引に佳いように言い張ると、魂が落下するのだ、魂の落下というのはわりとシャレにならないので、これだけはイージーに考えてはいけないと、僕は逆にそのことを慎重に考える/「あかん作品」を称賛するだけで魂は落下していくのに、自分でそれを創作してしかも言い張り続けるようなことをすると、魂は桁違いに落下していってしまう。
その意味で僕は、「創作をやっています」というような人を、アテにしたことが初めからない、誰かのギャラリーを覗くことなんてまずないし、どこかの劇団のオリジナル脚本公演を観劇しようともまったく思わない/ひどいことを言っているように聞こえるかもしれないが、そうではないのだ、僕は自分の創作したものについても同じ扱いだからそれでいいのだ、だいたい人が書いた文章とか小説とかが「面白いわけがない」というのが第一の前提でないとおかしい、そうでないとまず現実感覚がなさすぎる。
たとえば、木彫りのアヒルを創り続けて二十年という人がいたとして、その人に、木彫りの楽しさとアヒルの造形について、僕は一ミリも話を聞きたいとは思わない、それは愛を否定しているのではなくて、そんなヒマなことをしている奴は愛がないのだと僕は判断するからだ/僕はすでに、誰もが「己の作品」から逃れられないのだということに気づいているが、それと同時に、「やめといたら?」とアドバイスしたくなる現実感覚も持ち合わせている。

作品を創ったことのない人は、女を口説いたことがない男と同じ様相に行き着く。

そうして考えると、本当に「女を口説いたことがある」という男性は、世の中にとても少ないのじゃないか、ということに気づく、そして同時に、「口説けばいいってものじゃない」ということも見えてくる、「そんな口説き方するぐらいなら、初めから何もしないほうがマシ」ということがあって、それが当然でありフェアだ/作品もまったく同じことがある、「ぜんぜん口説いていることになっていないし、独りよがりをぶちまけているだけじゃん」ということがあるのだから、「ぜんぜん作品になっていないし、独りよがりをぶちまけているだけじゃん」ということが当然ある。
しかしここに来て、今さら現代人が「傷つくのが怖い」なんて言えるはずはないし、潜在的な傲慢ぶりにふさわしい作品と超カッケー口説きぶりをズバーンとかまさないと、辻褄が合わないのだが、その辻褄整合を「まあ見てろよ」と実践しようとしたりしたら、それはもうとてつもない大けがと近所迷惑をするのがミエミエで、困るのだった/だからその線は正直あきらめていたのだが、ここに来て、どうやら人は「己の作品」という課題から、生涯逃げられないようなのだ、それにしても引き続き、生涯そのことから逃れられないのなら、さっさと入門してしまえばいいじゃんと、つい僕はイージーに考えてしまうのだった、それで魂が落下する場合は、まあ、「残念でした」と言うしかないのかもしれない。
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学門にススメ
期的に、いいことを言わねばならない。
いいことを言うのは、それだけでいいことがあるのだ。
学門をやっていますと、いつでもシレッと言えるように。
愛の問題ですと、いつでもシレッと言えるように。

向上心という、自分の事情や都合は要らない。
同じわけがわからず生きていくなら、学門ぐらい抱えて生きるのがいいじゃないか。
色んなことが、うまくいったり、うまくいかなかったり、まあ、うまくいっているんだけど、表面上の具合がどうでも、学門さえ進んでいたらいいじゃないか、「少なくとも生きる半分はそれ」と、いつでもシレッと言えるように。
自分がスゴいと言われたいかね、僕はもう正直どうでもいい、それより自分がこの世界のことをスゴいと賛嘆するときのほうがこころの底からよろこべる、おれなんかこの世界のオモチャでいいな。

おれはクソになりえても、学門はクソになりえない。

じゃあ少なくとも自分の半分はクソにならずに済むわけだ、それはありうべきサイコーじゃないか。
そもそもわれわれの知り得る、なぜかクソでないもののすべてのことを学門と呼ぶのだ、おれはシーチキンの空き缶のような存在でも、学門は事実スゲーのだった。
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「分からなくする」という術

には「分かる」という能力がある。
「分かる」というのは、字義のとおり「分割する」「区分する」ということで、英語でも同じ、 tell A from B という言い方をする。
「分かる」というのは、簡単なことで、たとえば左手の親指をグッと立ててみればいい、いわゆるサムアップの形で/そのとき、グッと立つのは親指だけだろうし、そのとき同時に左膝が動いたりはしないはずだ、それは左膝と左手の親指が「分割」されているということだ、このようにして人は親指を「分かっている」。
人はバラバラであることを好まず、求めず、何か一体化した「つながり」を求めるのだが、ここで「つながり」を「分かる」ということに矛盾が生じる、つながりが分かるというのは矛盾においてハズレであり、本当に必要なのは「分からなくする」という術なのだ/そこで「分からないもの」が重要になって来、観測不能・フィクション・量子・カミサマ・霊魂・世界といったものが必要になってくる、「分からないもの」の作用においては分断が起こらないため、親指と膝の動きも分割されないのだ。

面倒な手続きだが、「つながる」前にはまず厳密に「分かる」ということが必要になる。
なぜなら、「分かる」以前の「分かっていない」は、「バラバラなのに呪縛されている」という状態だからだ、いわゆる「クセがついている」もそれにあたる/あなたは前腕「だけ」を動かしてくださいと言われても、ふと油断すると上腕も一緒に動いてしまうことに気づくはずだ、それは上腕と前腕が「分かっていない」から、呪縛された肘が上腕に「お前も来なさい」と強制して、一緒に動いてしまっているということだ。
全身がそれぞれの節ごとに「分かっている」という状態を得て、それを瞬間的に「分からなく」する、すると全身は分割されずひとつにつながるので、その瞬間にひとつの命令が入ると、ひとつになった全身の隅々にまで命令が行き渡る(視える)ということだ、またそうして命令が行き渡るということは、全身に「命」が宿るということでもある(だから「命」令という)/ちなみに「ひとつ」で命令が行き渡って動く身体はめちゃくちゃ速い。
何かを「教える」というとき、「分かる」ということに向けて「教える」ということは可能だ、だがその次の「分からなくする」については、「与える」「視せる」ということしかできない、そして「教える」ということは「本当に正しく分かっている」人なら誰にでも可能だ、だがその次の「与える」「視せる」ということは「分かっている」というレベルの人では担うことができない。

「分かりましょうのコーナー」と、「分からなくなりましょうのコーナー」がある。

そして、あくまで「分かる」のが「人」であって、そこから「分からなくする」ステージに移るのだが、このときの導きがハズレなら全身は発狂・ヒステリーに行き着き、アタリなら全身は「世界」に行き着く。
初めはまざまざと「分からせる」という工程があるのだ、その点、たぶんキチガイ養成所は初めから「分からなくなりましょう」ということを推してくるのじゃないかな/「世界はひとつ」と言ったって、おれとオメーは違うんだよ、まずは分かるべきを分かれよ。

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白日の下に
れは自由に、やりたい放題をやるのだ。
いつからか、世の中の「友達」というやつは、そういった自由とやりたい放題を認めないようになった。
自分が抑圧されているからだ。
自分に後ろ暗さがあるので、「友達」が自由にやりたい放題をすることを認められず、自動的に足を引っ張るようになった、それは友達が身内になったということだ、だいたいお母さんとPTAは人の自由とやりたい放題を抑圧する立場にあるものだから。

やりたい放題といって、コンプレックスから暴れ回る近所迷惑とは話が違う。
真に自信を得た自由の者が、そんなしょうもないことをするものか、真に自由とやりたい放題を得たら、何かしらの高みに向かうに決まっている。
真に高みに向かわれると、「友達」は困るのだ、自分が今インチキの高みにいることがバレるから/しかしそんな友達は真の友人じゃないな、少なくともおれは自由にやりたい放題をやるよ。
おれは誰かに何かを強制することはないので、どうか冷静に理解していてくれ、おれがやっているのは一縷の望みなんだ、おれがおれの化けの皮をはぐのはおれ自身のためであって、お前の化けの皮をはぐためじゃない、同時にお前の化けの皮まではがれてしまうのは、そのときそこにいたお前への副作用にすぎない。

素敵なことをごまかす努力はもう飽きただろう。

素敵なことをごまかすのをやめたら、自分が素敵じゃないということも白日に晒されてしまうが、それでいいんじゃないのか? 太陽の下に立つということは白日の下に晒されるということではなかったのか。
複雑にからみあった事情を、隅々まで読み解いてみたとして、けっきょくそのからみあった事情とやらが、正気でやっているものに思えないんだ、その手の込んだ納得できる不正解みたいなものは本当に一ミリでもあなたの足しになるのか。
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要はソウルの叫びだ

し、体調が低迷すると、ただちに気づくことがある、「ソウルが叫びすぎ」だ。
なーぜおれひとり、おればっかり、こんなに叫び続けているんだという、アンバランスは承知の上でやっているのだが、少しでも体調不良が起こると、このアンバランスの無理が一気に噴き出してくるな。
なぜソウルが叫び続けているかというと、もうそんなバカはおれしかいねーのじゃないかという気がしているし、このソウルの叫びが途絶えたとき、すべての人がどうなっていくか、僕はよくよく知っているからだ。
ソウルの叫びが途絶えたとき、うーむ、みんなが思っているより遥かに笑えない、阿鼻叫喚の穴の底が待っているのだ、よく平気で自分の住む国を削っていけるな、たぶん大前提としてその先に落ちていくところかどんなところかについて、甘く見ているのだと思う、覚悟なんて通用するレベルのとこじゃないぜ。

まあとりあえず、体調がノリノリではないので、今日なんかはフヌケワークショップを開催しよう、そうすることで逆に発見されることもたくさんあるはずだ。
ソウルの叫びがなくなるのは怖いぞ、あくまでソウルの叫びがあるから金曜の夜はサイコーなのであって、ソウルの叫びがなくなれば、すべての夜は耐えがたいほどの時間の無駄になり、空虚と憎悪しか起こらなくなるのだ、そうなるとあとは田舎者の立ち回り合戦だ。
そのソウルの叫びを、僕一人が担っているという状態が、当然ながら無理があるのだ、誰か代わりに立てば、自分がこれまでどれだけラクな横着をしていたかただちに理解されると思うが、残念ながらその理解に到達する前に、サッと精神が逃げて何も視ないように脳みそにノイズが掛かるだろう、そうまでして横着を決め込みたいのかという問題がある。
何をどうやったって、船が水に浮かぶ物理のようなもので、カルマ量とソウル量が拮抗して、ソウル量が勝っていなければ船は沈むのだ、そこで辞退する船長に何の美学を認めうるだろう、誰もがこぞってソウルを獲得してソウルを放出しまくるしかないのだが、びっくりするぐらいの個人主義が横行しており、船の沈没について自分が責任を持たないよう立ち回ることだけを考えている/しかしおめえ、そうして責任をだまくらかしたって、船が沈めば一緒に海底に引きずり込まれるじゃねーか、何をおめでたいことをやっているのか、神経にデバッグソフトを走査させるべきだ。

自分が目の前の空間を浮揚させている、そのスコアを公正につけろ。

たとえば「親戚のおじさんが来る」として、その親戚のおじさんはとてもいい人かもしれないが、そのおじさんの来訪によって「目の前の空間が浮揚する」かどうかはまったく別じゃないか、それと自分も同じ、誰がどれだけマジメかなんてスコアはねえよ、小学校の先生がよろこびそうなスコアリングを持ち出すな、自分も含めて全員が小学生になっちまうわ。
シンガポールの二十歳の青年が、「新しい演劇の脚本と演出を思いついたんだ」と嬉々としてプランを持ってくるときの、当たり前にある空間の浮揚を考えろ、この二十歳の青年は明らかに責任逃れをしていないし、好感度のための立ち回りもしていないが、この青年のヴィジョンの前にいったい何のごまかしが通用するのか、どれだけ言い訳とキャラを詰め込んだって浮力を得ていない船は物理的に沈むしかないのだ。

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テキトーに作ってテキトーに生きろ
とんどの人はマジメに生きているが……
マジメということでごまかすのはやめろ、マジメだからって命がないことをごまかすな。
マジメの歴史は、お前の弱さの歴史だろう、ごまかすための歴史だったろう、お前にとってマジメになるということは、そのたびに死んでいくということだったろう。
お前にとって、マジメになるということは、そのたびハズレ男のほうを選ぶということだったろう、すべては自分をごまかすための大がかりな一人芝居だったじゃないか。

テキトーに作ってテキトーに生きろ、それでも命のある奴、魂のある奴は、そこに命と魂が成立してしまうから。
むしろテキトーに作ってテキトーに生きるほうが、ごまかしが利かない、マジメにやりましたというお涙頂戴が盛り込めないのでごまかしが利かない。
テキトーに作ってテキトーに生きろと、言われたとたん、イモ女のふりして立ち回りを考える反応は、親譲りのものかい? 環境のせいにするということで二重に防護が利いているな、まるでお前だけがブサイクなお前を見なくて済むというような不毛で有益な仕掛けだ。
テキトーに作ってテキトーに生きろ、愛するべきものを愛したのか? まるで八歳児のように自分は子供扱いされて過保護に構われるという前提に生きているようだが、愛するべきものを愛さなかった若い時間が、若さのすべてを代償に支払わされて、若いうちから若いふりをしなくてはならなくなった、今でもシメシメごまかしが利いているとお前だけが思い込んでいるが、そうじゃないんだ、誰も今さらお前のことなんか突っ込んで見ようとしないだけなんだ、それはお前の中に希望が絶対にないからだよ。

テキトーに作ってテキトーに生き、愛するべきものを愛するという、それだけ。

テキトーに作るのはいい、テキトーに生きるのもいい、何しろごまかしが利かない、命と魂と愛の有無が、一番露骨に出るからとてもいいんだ。
少々の不安を隠しながら、万全に見えていると、お前は思い込んでいるかもしれない、だがこちらから見たお前は万全に見えない、ただガッチガチに見える、それは成り立っているふりを偽装する、その偽装に成功しているのだと、お前だけが思い込んでいる姿だ。
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準備しないということ、崩れているということ2

「崩れていろ」ということ、これが案外、僕のお伝えしたいこととして、潜在的に大きいかもしれない(余計なお世話だということは重々承知している)。
なんというか……「万全」の体勢を準備するだろ、そこから何かをしようとすると、もう体勢は崩れるから、「おっとっと」ということで、体勢の立て直しに戻る、そうして「万全」の体勢を準備しなおしたら、そこから何かをしようとして、するとまた体勢が崩れるので、という繰り返しを、いつまでもやってしまう。
もちろん、体勢を崩したときに、自分から出てくるブサイクなありさまは、黒歴史必定なのだが、そうではないのだ、それがあなたの現時点というか、現在のナマのあなたなので、そこから始めないと話にならないのだ、万全の体勢を整えたときに自分がそれなりのふつうの人に思えるのは完全な錯覚だ、一ミリでも動いたら大ポンコツの自分が出てくる、そっちが本当の現在の自分だ。
体勢を崩したときというのは、たとえば、引きこもりのおっさんがアイドル映像にのめりこみ、財産を切り崩して「推し」に入れ込み始め、彼女の名前を心中に絶叫してオナニーし始めたとき、完全に「崩れている」のだが、それは崩れてみれば中身の自分はそんな感じでしたあというだけで、崩れていないときの自分が本当の自分ではないのだ/絶叫してオナニーしているときにも世界愛がなければそれはもともと世界愛がない奴なのだ。

「こころ」というのは、全身の形および、その形に流れているもののことだ、両手をバンザイすればバンザイの「こころ」が生じるし、頭を抱えれば頭を抱えた「こころ」が生じる、そんなことは今すぐやってみれば誰でもわかる。
そして、この「こころ」というものが、「魂」とは別のものなのだ、むしろ反対のものだと捉えていい、人の身体は崩れることで「こころ」を生じさせるのだが、この「こころ」が生じたまま、同時に「魂」も得られるかという問題なのだ、これがリアルな意味でむつかしいところだ。
先ほどから言うように、「万全」の体勢をとると、「こころ」は静まるから、自分もいっぱしの、ふつうのレベルとして「魂」的なものあるんじゃないの? ヒューと思えるのだが、そこから両手を突きだしてピースサインをしてみると、たちまちピースサインの「こころ」が発生する、そうすると途端にバカになり、「魂」が失われるのだ/最近はそれで、自分の本当の低レベルぶりを見せたくないものだから、誰も自分を崩して「こころ」を生じさせるのを避けるようになってきた、確かにまあ、現状で思いっきり崩して「こころ」をぶっ放すと、近所迷惑にしかならないというレベルになってきてはいるが……
準備しないということ、「崩れていろ」というのはどういうことかというと、両手を突きだしてピースサインをし、舌を出して崩れきり、その「こころ」を生じさせたまま、「于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」という詩文の響きとその空間が聞こえないといけないということだ/勉強するときはまあ「万全の体勢」でもいいが、自分が何かするというとき、自分が魂のことをするというとき、その「万全の体勢」は役に立たない、崩れたまま、不安定で中途半端の体勢で、そのまま「こころ」ではなく聞こえているものについていけるようでないと、実際には魂のことはやれない。

黒歴史の底にしか黄金の歴史はない。

もちろん、ただの黒歴史になったら、その先の人生がキズありだし、近所迷惑にもなるから弁明の余地なしなのだが、それにしても黒歴史というのは、「魂の解放を甘くみていた」から生じるものだ、「そんなイージーに魂の解放が得られると思っていたのか」という、甘さへの懲罰として黒歴史が発生する。
とはいえ、この黒歴史のリスクに身を寄せず、盤石の体勢からリッパなアタシを保持しているのでは、絶対に何も得られないのだ、リッパなアタシを保持するために一切の崩れを切り捨てるだけだ、そうなるとたしかに黒歴史は回避できるが、無歴史になるな/崩れながらしか魂のことはやれないということ、イコール黒歴史の底にしか黄金の歴史はないということ、そのことを正面から見れば、自分に無理なことと、生きる上での本当のスリルというものが視えてくるだろう。

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準備しないということ、崩れているということ

のことをやるときは、準備しないほうがいい。
準備すると死ぬからだ、魂というのは基本的に変動しないので、「よーし」と思ったときにはもう魂は見失われてしまっている。
人は意識の生きものだから、基本的に「準備」が得意だ、そして「準備」に意識が向いたとき、全身は「ばっちり」のほうへ向かってしまっているので、本質からはもう外れてしまっている。
わかるだろうか、「ばっちり」がハズレなのだ、全身のバッチリ感に向かっているとき、人は何にも向かっていないのだ、これはとても気づきにくいが、成功へ準備したとき本質の電車はもう出発してしまったということを覚えておこう。

準備していないということは、「不安定で中途半端」ということだ、この不安定と中途半端を、「万全」に整えなおしたくなるのが人情というものだ。
だが魂というのは、観測不能の存在なので、魂が不安定とか中途半端ということはないのだ、あくまで観測可能な何かの実体・実感が「不安定」「中途半端」と感じられる、だからこの不安定と中途半端を気にしている時点で、自分の全身は魂を失っていると見ていい。
盤石の体勢からスタートするのと、中途半端の体勢からスタートするのとで、魂の差はないのだ、だからむしろ中途半端の体勢からスタートしたほうが、中途半端感を放棄するぶん魂にまっすぐアクセスできる。
もちろん、ずっと「中途半端感」を引きずっていたら同じだが……どういうことかわかるだろうか、体勢の「中途半端感」に邪魔されるのと同じ原理で、体勢の「ばっちり感」にも実は邪魔されているのだ、このことがわかれば、何をスタートするにしても、「スタートとかいうクソみたいなものはない」ということが前もってわかるようになっている。

準備しない、始めない、終わらない、振り返らない――「崩れていろ」。

魂の向きの問題だが、魂の向きはただ上下だけがあり、前後というものがないのだ、だから進行方向に向かって「よーし」とするとそれだけで魂は失われてしまう、そして何かを始めたつもりで、ひとしきり終わって「いやあ、○○だったねえ」と振り返るとき、それもすでに魂を失っている、魂には前後がないので、何かが始まるとか終わるとか、準備するとか振り返るとかがないのだ。
だから僕はここに、何かを書き始めるということはないし、何かを書き終わるということがない、準備もないし振り返りもない、体勢が中途半端でなかったことはないな、どっしりと盤石の体勢を整えてから書くことに成功したためしはないからだ。

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あなたが目標を達成する方法2

しあなたが、キモチワル〜イ人になりたければ、「指示待ち人間」になることだ。
そのときあなたは、「信号機の下で三回ジャンプしなさい」と指示されたら、「ハイ」と言って三回ジャンプするし、「信号機の下で三回ジャンプしなさい、これがルールです」と言われたら、「ハイ」と言って三回ジャンプする。
キモチワル〜イだろ? これが防衛システム「ペアレンツ」の挙動だ、つまり指示やルールを下賜する「親」「親分」から受けた指示だけで動き、親分の言ったルールにだけ頼り、自分では何も決定しないような奴なのだ、これが防衛システム由来のキモチワル〜イ人の性質だ。
防衛システム「ペアレンツ」の支配下にある人は、「ボクはペアレンツの指示とルールに従っているんだもんね、だからボクは正しいもんね〜」と、すべてをペアレンツに依存し、それによってペアレンツの威を借りて自分を大きく見せようとするのだ、うわダッサ/当人の魂は仁丹の粒のように小さいのだが、本人はそのサイズを欺瞞できてしまうので、そのまま三十路になり四十路になり、適当なタイミングで骨壺にインしてこの世から消え去るのだ。

それで、よくよく見るとこの問題はむつかしくて、実際のところ、誰も自前では「信号機の下で三回ジャンプする」というようなことは、実は発想しないということなのだ、もし自分でそんなことをチラッと考えたとしても、こころのどこかで「それって正しいかな、どうかな……」と、何かにお伺いを立てる挙動をする、そのお伺いを立てている先が防衛システム「ペアレンツ」だ。
もちろん馬鹿馬鹿しい話ではあるのだ、信号機の下で三回ジャンプするなんてことに「正しい」もヘッタクレもないのに、キモチワル〜イ人は、ずっと「自分が正しい」ということで内心で威張ってきているので、「正しい」と保証付きのことしかやれないのだ、ペアレンツに保証されると、「ユダヤ人は見つけ次第殺せ」ということにも「ハイ」だし、ペアレンツから保証が得られないと、自分の枕カバーの色さえ自分で決定できず、こころのどこかでずっとお伺いを立てているのだ(アホだ)。
先ほど「願望(動機)」のシステムについて述べたが、実はこの「願望(動機)」のシステムと、防衛システム「ペアレンツ」は、一対を為して機能しているのだ、それは願望(動機)といって、たとえば「通りすがりの女子中学生のおっぱいを触りたい」という願望(動機)だけで動かれてはたまらんからだ、それでペアレンツにお伺いを立てて、ペアレンツが「ダメです」と回答する、それで「そっか、じゃあ別の願望を当たろう」と動機は取り下げになる、こんなしょうもないシステムで人は動いている。
このように、願望(動機)だけで動こうとし、ペアレンツが「ダメ」といえば「はーい」と引き下がる、つまり「何の可能性もない幼児」というような状態で、少なからぬ人が生きているのだった、三十路になっても四十路になってもだ、だから実際に三十路四十路のおじさんは信号機の下で三回ジャンプしたりしていない、難しそうに偉そうな顔をしているけれど、中身は「可能性のない幼児」なのだ、申し訳ないがガチの真相としてそうだぜ。

願望があるのは、夢がないからだ。

ここのところを、合理的に、学門として区分する必要がある、「信号機の下で三回ジャンプするのがわたしの夢なんです」でいいのだ、そもそもあなたは、「○○がわたしの夢なんです」という言い方をこれまでに一度もしたことがないのじゃないか。
そして、同じ内容のことを、「○○がわたしの願望なんです」と言い換えてみる、そこで、「いや、そんな願望はないな」というとき、あなたは目標を達成できるルートの端緒に立っている、「信号機の下で三回ジャンプするのがわたしの願望なんです」というのは、さすがに脳味噌が損壊しているだろう、そんな「願望」はありえないものだ/願望なんてものは客観的には「イタい」だけだし、そこに「ペアレンツ」なんてさらにイタいだろう、そんなもんさっさと焼却炉に捨ててしまえ、僕にはあなたを笑わせたいなんて願望はないし、人を笑わせるのがステキなことかどうかとお伺いを立てるシステムなんてないのだ、すべては信号の下で三回ジャンプするのと同じだけの値打ちしかない。

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