☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「激しさ」というパラメーター2
「激しさ」というのは、「ガンバる」ということとは違うのだ、単にビッグウェーブが「激しい」ということなのだから、それは端的には「かめはめ波」だと思えばいい、「かめはめ波」は典型的に激しいし、悟空はイライラした結果かめはめ波を発射するのではない。
そうだな、わかりやすくいえば、「ゆとり教育」という印象の反対に、「激しい学門」が存在すると捉えればいい/過去の科学者たちを見ればわかるが、学門は激しいものだ、われわれは彼らの著書を読むだけで死にそうになるのに、彼らはそれを著した側なので、その「激しさ」の格差たるや、われわれにとって絶望的なものがある。
「激しさ」と「痛々しさ」は何が違うのかというと、「激しさ」の側は、その膨大なエネルギー量に飛び込んで燃えさかりながら、当人は「幸せそう」というところだ、必死で痛々しく「ガンバります!」とやっている人のほうは、その「幸せそう」という感触がまったくない。
必死で痛々しくガンバっている人を見ると、つい同情と励ましと、肯定の気持ちが起こってしまうが、その実は自分も含めた姑息な逃避でしかないことを、どうせうすうすは自覚しているので、そういう都合のいい甘さは、どこかで見切りをつけることだ、必死で痛々しくガンバっている人には何の罪もない/いや、罪があるね、今さら何を言い逃れするか。

一番アカンのはこれだ、マイケルジャクソンが「カッコいい」とか「センスある」とか「知性がある」とか「たぶんすごくいい人」とか、そんなことは誰だってわかっているのだ、そういうところに評価ボンバーをかまして「わたしもがんばろう」とかしているタイプ、これは本当によくない、巨大な罪がアリアリだ。
何の罪があるかというと、本来は「激しさ」の格差に直面しているのに、それに「圧倒される」ということをキャンセルしているからだ、「激しさ」に圧倒されるということは、同時に自分のチンケに直面するということでもあるが、そのことに直面するのがイヤなので、人はこっそり欺瞞して「センスある〜」というような評価ボンバーに逃げる、そしていざとなれば「わたしガンバってるんです!!」という痛々しさボンバーで切り返そうと予定しているのだ。
「激しさ」というパラメーターは、容赦がないのだ、「激しさ」というのはつまりそれ自体が「幸せそう、しかもカッコいい」となり、そのビッグウェーブが人に直撃しなければならないのだが、そういったことは本当にむつかしいので、その本当のむつかしさからはどうしても目をそらしたくなる/が、そこにガンバる自分の自負をこすりつけてエセ自尊心をなんとかしようと作為するのはさすがに罪だ、あきらめよう。
「はい、じゃあ激しくどうぞ」と言われただけで、何かごちゃごちゃっと破綻アンドごまかしモードが立ち上がってくるだろう、こんなもの逃げ隠れできないんだよ、宇治川で茶道に耽るのもいいし僕は宇治川が好きだが、そういった「○道」というものは、あくまで「激しさを内に納める」ための行法であって、その完成から得られる静けさと、単にたたずんでいるだけのインチキ静けさはまったく別物だ、それが「できない」のは何の罪でもないが、それを「曲げる」のは罪になるのでやめておこう。

「激しく」すると、途端に自我エネルギーで動いているのがバレてしまう。

「激しく」することでなお、「幸せそう、しかもカッコいい」ということが出てくる場合、それは当人が自我エネルギーではなく、何か別のエネルギーで動いているということだ、それは愛であったり「世界」であったりする/これを、自我エネルギー隠蔽キャンペーンで生きている人が評価ボンバーでごまかし消費エッヘンするのは、たいへんよくないことだ、いつだって「じゃあ激しくどうぞ」と言われたら木っ端微塵になることを忘れてはいけない。
「激しさ」の反対が、いわゆる現代の「癒やし系」だが、こんなものにいつまでもムフフしていると、再起不能のビョーキになってしまう、ボディは豆腐のように脆弱なのに、自我が要求するムフフリクエストは極大、という十年前のプリン状態になってしまうのだ、そうなったらもう生涯で「激しさ」にトライできる可能性はゼロになってしまうので、そうなる前に「圧倒される」というストレスの中で頓死することを繰り返そう、いつか「敬う」「尊ぶ」ということがわかるときまで。
できるオンナだね | comments(0) |
「激しさ」というパラメーター

ちいちトランスしているのでぜんぜん間に合わないわけだが、まあ何だ、「激しさ」というのは重要なファクターだ。
「激しさ」というのは、決定的に人を教えるパラメーターなので、超ラブにもなるし、超ガッカリにもなる、ある意味容赦のないパラメーターだ。
どれだけイケメンふうを飾り立てることに成功しても、100人の前で「じゃあ、全力で叫んで」とやらせてみると、正視にたえない酸鼻なものがでてきて、「ダッサwwww」となってしまう/「激しさ」というものは、その人がニセモノかホンモノかをただちに暴いてしまう容赦のないものだ。
誰でも撮影してみるとわかるが、「うつ病で神経が切れた女」というような芝居は誰だってできるのだ、それはエネルギー準位を落とせばいいだけだからだ/しかしその逆、タイタニック号に乗り込んで未知の大陸に向かって叫ぶ、という演技はできないのだ、非常に痛々しいものになってしまう、それは「激しさ」というパラメーターがいかに容赦のないものかを如実に物語っているだろう。

宮崎駿はその作品の中で、航空機のエンジンがどれほど激しいものか、また本来の男たちの食事がどれほど激しいものか、また崇高さに及んだ女の裂帛の気合いがどれほど激しいものかを、よく描いている、むしろただそれだけを描きたいというような側面さえあるはずだ。
故マイケルジャクソンは、人柄としてはすさまじく穏やかだが、その全身からみなぎっているエネルギーはとてつもないものだ、われわれは彼の舞台の客席で金切り声をあげて倒れることはできても、彼のように舞台上で光を放つことはできない。
男女がそれぞれに、愛しているか、誠実か、向き合っているか、ウンタラカンタラというとき、すべてのことは一定の「激しさ」で営まれ、「激しさ」で確かめられねばならない、それは言うなれば、「アクセルを全開で踏み込んで試験しなければ、その自動車が本当に安全で高性能かを保証できない」ということに似ている。
たたずんでいる人は何も偉くなく、すべては「さあ激しくどうぞ」と言われただけで破綻し、馬脚を現すだろう/人柄としては穏やかでなければアホなのだ、しかし発揮されているエネルギーが膨大なものなら、その穏やかな人は直面するだけで人を倒してしまいかねない力を持っている。

自負はいいから、テイクオフしてみて。

美女と美少女のすべては、ボクの胸に飛び込んできてくれてかまわないのだが、「飛び込む」というならまずテイクオフしないと飛び込みもできんわな、そしてテイクオフできるかどうかにおいて、その機体が本当に良デザインで鍛えられて強いのか、そのエンジンが爆発力を持っているのかどうかがわかる。
たまに、「壊れそう」ということで自分が激しいものと勘違いしている人もあるし、中にはそういうミュージシャンまでいるような気がするが、「壊れそう」というのはボディが弱いから壊れそうなだけで、爆発力というのはそういう破裂脆弱性のことを言うのではない、戦闘機なんか涼しい顔で超音速で飛ぶじゃないか。

できるオンナだね | comments(0) |
愛と食事、および「会話」と熱気の「そのとおり」
に文句はない(ここに帰ってくるのか……)。
文句はないというか、いろんな状況があって、といっても僕は僕の状況しかありえないわけだが、不満とか不平とかいうのは、どうやって持つものなのだろう?
未だにその持ち方そのものがわかっていない。
そりゃ僕は何もしていないのだから、不満も不平も持つわけがないか、生まれてこのかた何に文句を言えばいいのか、正直なところよくわかっていない。

「対話」でもすれば、不満とか不平とかが出てくるのかもしれないが、僕はあまり「対話」というのをすることがないので……(というか、その対話なるものの始まるきっかけもよくわからん、いつどこにそんなヒマがあるのか)
渋滞とか、遊兵とかが出る問題はわかる、それは「もったいないな」と思うので、それだけはどんどん改善なり解決なりされていったらいいと思うし、そのために知恵を出し合うことぐらいはある。
ああでも、そうか、僕としては不満でなくとも、誰しもせっかく頑張るからには、神話世界につながってみたいのだ、「そうそう」と多くの人が顔を上げてうなずくところが見えるかのようだ。
僕は女ではないし、ソロバン勘定も上手ではないし、すべてのことはみんなしてうまく回っていると思うので、神話世界への案内を僕がこころがけよう。

愛や食事の営みは、少なくとも神話世界へハズレではない。

問題は「会話」とかだな、これについては僕が考える必要があるだろう、会話の第一はさしあたり、自分の愚かさについての学門という形で切り出されてよい(我ながらスッキリした佳いideaだ)。
神話世界への接続というのは、実はそんなにむつかしくない、必要なのは努力ではなくて「そのとおり」という感覚だ、「そのとおり」が交わされる熱気の中に自然に神話世界への接続がある。
できるオンナだね | comments(0) |
ゼロの術者(説明する)
明するって言っても、術なんだから説明はできないけどな。
つまり、誰でも愛は必要なわけだ。
僕は愛が得られない中から、自分をゼロにすることで、愛より上位の光に接触することを経て、愛を恵んでもらえるということを知った。
うーん、とても怪しい話だ、別におれが怪しいのじゃなくて世の中が怪しいのだ、世の中には怪しい人がたくさんいるのでおれが被害を受けているのだった(これでいちおう説明する気はあるのだと強弁しておきたい)。

つまり、誰だって、自分をゼロにして、ひとつのことに全身全霊になって、気づけばそれが償却になっていて、長いうちに次のステージに進んだというようなことが、必要なのだ、僕だけ「ヒサンだったけどなんとかなってバンザーイ」ということだけでは済まされない。
これまで、自分をゼロにすることは得意でやってきたが、今度はその逆転だ、誰かがゼロになろうとするとき、その傍で僕が∞の側を取り、相手がゼロ化しようとするときの具合のいい対象でいてやらねばならない。
自分が∞とか、そんなゴーマンなこと、本当にできるのかね……と急に気後れしてきたが、まあしゃあない、僕はありとあらゆる局面で「客」になるのがヘタだ、いっつも最底辺の人間としてバタバタしていないといけないという反応が身に染みついてしまっている。
いかにも苦手になりそうなことが眼前に見えているので、これは「ゼロの術者」として、意識的に取り組んでゆかねばならないのだった、ああファミレスで音を出して動画を見られる人たちぐらいの、あのド厚かましさが欲しいぜ(無理だ!)。

くそー、正直ドサンピンでいたい。

我ながら、不覚悟もいいところで、どうしたらいいかが見えてくるほど、うわーい逃げ出したーいという心情になってきた/だってオメー、この時代状況的にもよ、ますますむつかしいぜ、みんな口論スタンバイで生きているのにこんなこと成り立つのかよ。
まあしかし、おれならなんとかできるのか(と強引に自分を鼓舞)、日本人の持つ「無私」とか「無我の境地」って基本的にサムライの発想であって、それは殿様にコキ使われる側の能力だからな、殿様の発想じゃない、ここにきて「無我の境地を捨てる」というのはたしかに構造上のレベルアップではある/「無我の境地」をわざわざ自分で捨てるのかよ……キツすぎるだろ、ああもうプレステして寝ようかなという気がしてきた。
できるオンナだね | comments(0) |
ゼロの術者(説明しない)
十年前、僕は自分があまりに女の子にモテず、死にそうになって、それでもなんとかならないかという最後の理知で、「何もできないのか?」「いや、おれは女の子を、笑わせることはできるはずだ」と考えた。
モテるとかモテないとか、自分がどうこうの一切を取り去って、ただ「笑わせる」ということに殉じきったら、そのことは不可能じゃない、ただしそこにはコンマ1パーセントの不純物も混じってはダメだった、完全に百パーセント「笑わせる」だけの存在にならねばならなかった。
そのことを二十年間続けてきて、それはずっと正しいと信じてきたし、今でもなお正しくはあるのだが、どうやらある地点で「満了」したらしい、僕がいつぞや「おれからのサービスタイムは終わりだ」と言い出したことと、この満了の到来は連関している。
僕が二十年間、女の子を「笑わせる」ということに徹するという、一種の「鉄の掟」のような中にいたのは、正しいということ以上に、僕にとって何かの償却、要するにカルマの償却だったらしい、それが今になって新しい徳性の証を得て、つまりそのことの償却は済んだということが身に現れてきている、こんなことがありうるとはさすがに当時は思わなかった(今も驚いている)。

何か、少し寂しい気もするな、この二十年間、自分をゼロに消しきって女の子を笑わせることが、僕の持ちうる最大の光だったから。
……とはいえ、ウテが落ちたとは思うなよ、別にウデは落ちてないしますます上がっているわい、そういうことじゃなくて、その「女の子を笑わせる」ということが、おそらく僕自身への「解決」および「足し」にはもうならないだろうということ、もうこのことさえやってりゃオマエはマトモだよと言ってもらえるステージではなくなったらしい。
面白いな、と純粋に思っている、つまり二十年もかけて「女の子を笑わせる」という償却の積み重ねがあって、これがいつかの瞬間に満了して、僕は次のことの償却に向かわされたのだ、つまり僕はまた何か新しいことを本質的にやらされることになる(あのときのような覚悟が今も持てるのかね、持てなかったら僕の生はここでオワリだ)。
もちろん人間のカルマなんてゼロにできようがないので、どれだけ償却しても次から次だ、これから何をやらされるかということは、おおよそ見当がついているが、これからはこれまでのような悲愴感を背負わなくて済むらしい、ただ考え方をガラッと変えないといけないので、しばらく不慣れな感じがするな(詳しくは恥ずかしいのでヒ・ミ・ツ)。

確かに、女の子に笑ってもらって、愛を恵んでもらうという夢は叶った。

本当に夢が叶ったのだから、それなりに立派なことなのかもしれない、「荒れた家族の中で姉から暴力を受けて育ったファミコン少年」という典型的な陰キャからスタートして、ここまで女の子に慕ってもらえるようになったのは、到達度としてはレアなたぐいだろう、そういったあたりを再確認して、誰でもいいので美女および美少女はおれのことを褒めるように。←いつものクセ
二十年前、僕は唯一の可能性にすべてをかけてみようと――数学的に――思って、「最底辺」の自分を定義し、いつのまにかそこにある光を知って、気づけばすっかりお気に入りでごきげんで生きてきた、正直その最底辺のままで満足だったのだが/この先は「ゼロの逆転」というようなことを考えてゆかねばならない、ゼロの術者なんだから……このこともいつかずっと先に話せるときがくるのだろうか。
できるオンナだね | comments(0) |
「まともな人」になる魔法の文言
わゆる「まともな人」というのは、「相手の気持ちを考えずに、相手の事情も確認せずに、自分勝手を押し通そうとする人わたしすごくイヤ」と、感情的でなく断言できる人だ(いわばレベル2)。
次に、まとも以上の人、「尊敬できる人」というのは、「自分はいつ死んでもよくて、あの人さえ生きていてくれたらそれだけでいいの」と、感情的でなく断言できる人だ(いわばレベル3)、「わたしも死んだら死んだで困るんだけどさ」ぐらいはくっついてきていい。
さらに次、尊敬できる以上の人、「貴い人」というのは、「あの人がいないと、この世界は損」と、感情的でなく周囲に断言される人だ(いわばレベル4)。
逆に、いわゆる「まともでない人」というのは、「相手の気持ちを考えていない」「自分さえ助かればそれだけでいいんでしょ」「この世界のせいでわたしは損しているって思っているんでしょ?」と周囲に感情的にも断言されるような人だ(いわばレベル1)、これはガキのころはしょうがない、誰だってこのレベル1からスタートしている。

このそれぞれのレベルは、いわずもがな、前に述べた「妄想→こころ→世界→光」の四つのプロセスに引き当たっている、このプロセスはスキップすることができず、誰しも一つずつ乗り越えていかねばならない。
僕自身、十代のころには、「ナンパされるなんて、女性の側からしたら迷惑で当たり前なんだから、ナンパの成功ってお前が女をゲットするってことじゃないんだよ、女性の側に『気分は悪くなかった』と笑わせることが成功なんだよ、お前が女をゲットしたかどうかなんてどうでもいいんだ、女性がいい気分になって笑ってバイバイって去って行ったらそれで成功、気分を害させたらそれが失敗なんだよ、そこだけは絶対曲げるな」とよく話していた、これがせいぜい「まとも」といえるレベル2に相当するだろう。
そして二十代のころには、「もしおれが死んで、代わりに『いきものがかり』のヴォーカルがこの世にもう一人増えるっていうなら、おれはまったく何の躊躇もなく自殺するけどな」とよく話していた、もちろんこれらは感情的な発言ではなくて/だからせいぜいこれも、レベル3に相当する発言とみなせるだろう。
僕は誰だって、「まともな人」ならそれだけで十分だと思うし、その先は誰も口出しできるようなことではないので、誰しもレベル2の文言、「相手の気持ちを考えずに、相手の事情も確認せずに、自分勝手を押し通そうとする人わたしすごくイヤ」ということを断言してみたらいいと思う、ただしやるなら感情的でなくだ。

「まとも」になることは、「むつかしい」のじゃない、「つらい」んだ。

つまり、僕自身の経験で言えば、たとえば女の子は僕に接近されると「イヤ」なわけだ、それが相手の気持ちだという事実、これを受け止めるのが「つらい」ので、僕はレベル1に居続けようとする/ただそれだけのことだ、ただしそのままでいれば、僕は永遠に「まとも」になることはできない。
たとえば、僕が死んだらその代わりにマイケルジャクソンが蘇生するというなら、非常に残念だが、明らかに僕が自殺するほうがこの世界のためになる、それだってしみじみ思うと「つらい」わけだが、しょうがない、迷うようなことじゃないし、総合的にはスカッと笑えることだ/こうして人が成長するということは根本的に「つらい」ことだから、「まとも」になる文言だって、感情的でなく断言しようとすると、よくわからない「つらさ」に苦しめられるものだ、だがこの「つらさ」を「避けるもの」だと思い込んでいるなら、それはただの誤りだろう。
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最低限のシステム正常化

は学生時代、十九歳のときにフロイトの全集を読破した。
あなたが同じことに取り組むと、まあ一巻の中途で挫折するだろう。
あなたは「難しすぎてさ」と、その実感を笑い話にする、もしくは「挑戦しただけ偉い」と自慢話にする。
そのとき、「読破した人もいる」ということは完全に忘れ去られている、「うっかり」ではなく、作為的なシステムによって。

これは、取り返しのつかない「危険」な状態だと警告しておく。
非常に暗い人生を歩まされるリスクがある。
つまり、自分が誰かを尊敬するという負担をゼロにするシステムだ。
自分がすべての頂点にあり、「挑戦して、挫折したけども、そうして等身大のわたしを称賛しなさい」ということだけが頭に満ちるシステムだ、ヨソ(達成者)が称賛されると内心でブチギレする、ガマンしているだけで内心はそうなる。

【危険】自分が弱かった話には興味があり、他人が強かった話には興味がない。

まるで気が狂ったようにアンフェアなシステムなのだが、しょうがない、何しろ他人が強かったとしても、そのことにはワタシのホルモンが分泌されないのだから(同一視というようなヘンなことでもしないかぎりは)/ワタシホルモンだけを追跡する狂ったシステム。
同じ十九歳のとき、僕は日本拳法三段のFさんという人と乱取りをしていたが、そのローリングソバットの切れ味といえば、もう吐き気がするほど強かった、あれは僕が弱かったのではなく、Fさんが異常に強かったのである、「ウォーミングアップにジャンピング腕立て伏せ40回ってどういうことですかね……」と、僕は毎回道場でドン引きしていた/こうして他人の強さが目につくのが正常なシステムだ。

できるオンナだね | comments(0) |
こころの視力を使わないこと

「人」なんかいない、「人」というのは誤解だ。
というのは、無人の風景があるということじゃない、そういうことではないがわれわれが「人」というと、誤解しているのだ。
何か二日酔いのような物質が、ハァと吐き出され、それの溜まるところ、感情や意識が生成していて、それが「人」だと思われている、これはもうどう見ても「ダルさ」だ。
われわれが一般に「人」と思ってそうみなしているものは、本当にはただの「ダルさ」だ、われわれはダルさを人だと思っている、そのせいで元気なのも人だと思っている、そういう意味での「人」なんて本当は存在していないのに。

女の子のためにずっと走っている、走っているというか止まらずに前進している、女の子はむろん人ではなくて女神だが、僕が走るのは男だからか、女の子の側からは何が見えているか、けっきょく僕にはわからないかもしれない。
臨場感というのもウソで、ウソというか、この世界にはどうやら細かく「段階」がある、まじめに追求すれば分類できるかもしれないが、それはちょっと今はしんどい。
僕はたぶん、最上位に近いほとんど最上位の世界から始めている、もっとその先に本当の最上位はあるのだろうけれど、もうこの先はさすがに見えない、だから実質最上位と言っていいだろう、少なくとも光はこれ以上は見えない、女神は見えるが「大いなる神」は見えないので、これは僕がとんだスケベなのか(ありうる)。
「光の戦士」というと、その「戦士」というのがまた二日酔い物質のものと誤解されるので、あまり賢い言い方ではない/僕はたぶん珍しいタイプで、最上位の世界から初めて、後から下位の世界の埋め合わせをしてきた、僕は下位の世界で出来ることを増やして「向上した!」とよろこんでいるから、何かアホな感じなのだ、といって下位の世界も楽しいことがたくさんあるので、ついやるべきことというか向上心をくすぐられてしまうけどな。

言うなれば、はじめに大学に入って、高校には落ちていた。

こんな、アホというか、順序のちぐはぐな奴っているの……大学に入れた奴が、なぜ高校入試にがんばって「できた!」とか言っているんだ、アホみたいだが実際しょうがない、なぜか大学には入れたが高校には落ちたのだ、何かそういう段階的世界があるのに、なぜか僕は上から入っている。
まじめに追求して分類したら、もっとわかるのだろうし、分類したらどうせお釈迦様が全部先に解き明かしてあるのだろうが(まさに「お釈迦様」で笑える、シャカに勝てる奴なんかいるかよ)、さすがにそんなことにエネルギーを割いていられない/うーんしかし光の最上位(仮)のやつをやっても、正直これは誰にもわからんぜ、誰にもわからんことをレポートしても意味がないので、高校のレベルでレポートを書いているわけだが、「お前何やってんの」と言われたら立つ瀬が無いな、手抜きしたら大学レベルで頑張ったら高校レベルという、このアホな状況はなんだ、いわばこころの視力が高校レベルで、光の現成力が大学レベルなのだが(こころの「視力」を使ってはいけません、光の光力で見えることなのでこれはもう身体的ではない、たぶん非生存系で、おそらくイマジネールの上位にある「ヴィジョン」と呼ぶべきやつ。ヴィジョンが「見える」のじゃなくてヴィジョンという「現象」、それは初めからある事象運動体であって創造するものではない)。

できるオンナだね | comments(0) |
愛していることしか一言一句発さない

は区役所などにいくと、夢遊病者のようになってしまい、手続きをしたりする際には、本当に半分痴呆みたいになってしまう、気合いを入れれば切り替えもできるのだが/今はたいてい、友人に付き添いを頼んでいる、それは傍から見ていても「かわいそうすぎるから」だそうだ。
なぜそんな痴呆状態になるかというと、僕は習慣的に、愛していることしか一言一句発さないし、一言一句書かないからだ/役所の手続きで書かされる書面には、僕が愛していることは何も記されないので、僕は本当に「わ、わからん」となる(頭が悪いわけじゃないぞ、昔は総合商社の営業だったんだ)。
僕はたとえば、「写真を撮るときは被写体に光源が近いほうがライティングは柔らかく入る」というようなことを知っている、けれどもそういったことはふだんまったく話さないし、ブルガリのプールオムは1996年(95年だっけ?)から発売されているというようなことも、知ってはいるがまったく話さない、僕は自分がただ知っているというだけのことを、愛してもいないに発するということを一言たりともしない。
もしあなたが、自分のやり方について、長足の進歩をいきなりブチかましてやるぜという気概をお持ちなら、このことをおすすめするし、ぜひそうしたらいい、「愛していないことは一言たりとも発さない」、もしそのようにできたら、しょーもないレベルのことはすべて一発で片付くだろう。

前段階というか、予備的に、区別だけは持っていてもよいかもしれない、「愛していることを話している人と、愛してもいないことを話している人がいる」ということ/まあそんなこと言い出すと、万事が急に厳しくはなってしまうが。
たとえば「相撲協会で、またトラブルが起こったそうですねえ」というとき、「はあ、そうらしいですね」という感じだが、そうした世間話を愛して話しているのか、それとも、何も愛していないが単に頭に情報が入っているというだけで発言しているのかは、大きな違いなのだ、正直なところ後者は僕にとって意味がわからん。
「職業柄、洗剤で手が荒れちゃうんですよ〜」と話されたとして、「そりゃまあ、そうでしょうね」とは思うが、僕からすると、こういう人は「会話」「話す」ということを、土台から勘違いしているように思う、「よ〜」と語尾に演出を足されたところで、なんだそりゃということにしかならない、愛してもいないただの情報をいきなり発話して何をどうするつもりなのだ。
僕はたとえば、「大阪方面から神戸方面へ、JRでなく阪急電車でいくと、阪急電車は割と山手側を走るんだよ」ということを話す、僕はそれを愛しているから話す/そこで「へえ、そうなんですね!」みたいな反応をされると、なんなんだコイツは死にたいのか、と思ってしまう(言い過ぎた)、僕の話なんか愛だけ受けてりゃ伝わるように出来ているのに、なぜわざわざ愛を廃棄してゴミ情報だけ拾い上げていくのか、これはもうライフワークを手裏剣投げにしてカバンを全部ボストンバッグにされるぐらいの刑罰を受けたほうがいい。

「そろそろ寒ブリの季節ですな!」と、寒ブリを愛していないなら話すなよ。

だってそりゃそうだろ、寒ブリの季節ぐらい誰だって見当がつくだろうし、ググればすぐ出てくるだろうし、情報番組や新聞の端っこから小耳に挟んだりするかもしれないけれど、その情報があるからっていちいち話してどうする、そんなこと言い出したら、僕はなんだ、黒雲母の話とかエチゼンクラゲの話とか墾田永年私財法の話とかモッズヘアーの話とか、デタラメに放り込みゃいいのか、そんなわけないだろ。
少なくとも、この「区別」はシンプルで有益だ、愛していないことを顔面たっぷりにして話したところで、その会話は永遠に「意味がわからん」ままだろう、まあ実際にやろうとすると意外に難しいのはわかるが/どこかでインチキをやめる努力を始めるしかない、しくじったってせいぜいライフワークが手裏剣投げになってカバンが全部ボストンバッグになるだけだ、少々つらいが耐えられないってレベルでもないだろう。

できるオンナだね | comments(0) |
あなたの満たすべき「相」

ァニーで、ユーモラスで、クールで、キュートで、ラブリーで、テンダーで、セクシーで、クレバーで、クレイジーで、エモーショナルで、ジェントルで、クリアーで、トラッドで、フレッシュで、ゴージャスで、シンプルでなくてはならない。
勇壮で、荘厳で、誠実で、現実的で、聡明で、面白く、鋭く、広闊で、鷹揚で、謹直で、自由でなくてはならない。
愛があって、希望があって、夢があって、慈しみがあって、未来があって、友情があって、個性があって、洗練があって、野趣があって、スタミナがあって、典雅があって、知識があって、爛漫があって、勇気があって、知恵があって、蓄積があって、丸腰があって、努力があって、天性があって、美があり、苦がなくてはならない。
精密で、大胆で、賢明で、前衛的で、計画的で、奔放で、傲慢で、敬虔で、捨て身で、狡猾で、理性的で、叙情的で、豪放磊落で、神秘的で、身近で、高潔で、庶民的で、正当で、幸運でなくてはならない、これらの相のどれひとつが欠けても、あなたは僕の話を読んではくれない。

われわれは総じて、自分に甘く、他人に厳しい。
他人のものについて、「いいな」と素直に認めるためには、これらの相がすべて同時に満たされていなければダメだ、ひとつでも欠けると「うーん」と疑義を抱く/一方で自分はというと、「ファニーですか」「いや……たぶんムリです、ははは」と一つ目の相からベタオリをする。
ベタオリをしないならば、「じゃあヤケクソで近所迷惑をしてごまかしてやる」とただちに自己防衛を発想するほど、われわれは自分に甘く、他人に厳しい。
すべての相をほったらかして、「フォトジェニック」だけでごまかしていけるはずがない/あなたは僕のことを「つまらん」と見捨てる権利を持っていて、僕があなたに認められるためにはすべての相を満たさねばならないという、のっぴきならない、リアルなところを話しているのだった。

たとえば故マイケルジャクソンは、上記の相をすべて満たしている。

われわれが「いいな」と素直に認めるものは、それぐらい難しく、それぐらいわれわれの実態からかけ離れているのだ、自分への甘さと他人への厳しさは、それぞれの極点に及んでいると捉えていい、その両極の距離を見誤っていると、努力は必ず空転する。
こんな膨大な「相」群、われわれにとって時間が足りるわけがなく、しばしばわれわれが「やることがない」と感じるのは、これら本当の相から目を背けているからにすぎない/しかし直視したらしたで、絶望的なところもあるので、思わず「自分探し」と銘打って、目を背けるための旅にでも出ようかと思うのだった、そんなこといちいち責めないよーに、元々おれにゃムリな話だぜ。

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証(あかし)3
れながら、なかなかいいことを言ったような気がするが……
「苦痛」には、根性で耐えられるが、根性では「難しさ」には耐えられないのだ、根性は根本的にケンカする能力だから。
「難しさ」に耐えるのは「愛」だ、たとえば料理を愛している人は、それを愛しているからこそ、本当の料理にある学門の難しさに耐えてゆける。
よって、この世界を愛している人は、必ずどこかで学門性を帯びて生き始めると言える/そして根性派の人から見れば理解しかねることとして、世界愛派の人は「難しい」ということに「うっひょー」とよろこぶところがあるはずだ、証(あかし)がやがて身に現れてくるというのは、たいていそういうタイプだ。

「学門」と「理屈」の異なるところ。
われわれが、「理屈」の機能で考えるかぎり、この世界には「光」なんてものは存在しない。
ただ、ごく一部の知性だけが、理屈だけでは説明できない「光」の存在を見抜いており、なんとかそれを突き止めようと、「理屈」を超えて「学門」に到達しようとする。
彼は理屈を超えてある何かの「光」を知っていて、それが故にこの世界を愛している、ただその真相を突き止めてそこに我が身を至らしめんと考えると、とてつもなく「難しい」、この難しさに「うっひょー」となって、やめられない努力を続けている人は、わけのわからない発見をしてゆき、その結果、「いつのまにこうなった?」と、何かの証を身に現していく。

「身に現れる」のだ、ステキじゃないか。

これをステキと思えないようでは、世界を愛していない度MAXなので、悔い改めるように、「身に現れる」という仕組みがワー気に入らんと憎んで、根性トレーニングで代替しようというのは、悪いことではないが、どうしたって種類が違う(種類はどうにもならん)。
まあ、それが「ステキ」だったとしても、いざリアルな「難しさ」に直面させられると、「うーん、これ腕力でなんとかならんかな、ウオオオ!」ってなるものだけどね、それはとにかく種類が違う、難しさに深入りすることは、ステキなことだと僕は思うが。
できるオンナだね | comments(0) |
証(あかし)2
とえば、しこたま勉強するということ、学門に食らいついていくということで、得られる結果は、「知識が増える」ということじゃない。
フラフラのヨレヨレになるまで、身をもって学門に食らいついていった先、学門に目覚めた者としての相や能力が、身に現れてくるということ、そっちが本当の結果だ。
たとえばあなたが、バーンスタインの代わりに指揮台に立ち、指揮棒を持ったとして、どれだけ顔面に力を入れたとしても、あなたが「ニセモノ」であることはただちにわかってしまう、動かなくてもわかってしまう、それは音楽家としての相が身に現れていないからだ。
本当に肝心なことは、すべてその「身に現れているもの」で営まれるので、表面上の形や技術をマネしても意味が無いのだ、この「身に現れてくる」という原理のことを、少なくとも知っておくほうがいい。

やっかいなことは、一口に「努力」といっても、その努力が実らないことがあるのだ、むしろ努力の大半はうまく実らないと捉えてもいい、なぜなら努力というのは相当正しい知識や指導に支えられていないと、「証(あかし)」が出る方向へはたらかず、単なるトレーニングになってしまうからだ。
だから、大人になった人の99%は、筋トレやランニング等、単純結果を求める趣味に傾倒していく、それはこれまでの経験を通して、複雑な努力がいかに実りにくいものかをよく知っているからだ。
強度のランニングを重ねていけば、心肺能力は確実に強化されていく、そのことは間違いないのだが、それに比べるとたとえば「俳句を詠み重ねるうちに粋と典雅が身に現れてきた」というようなことは、いかにも可能性が薄いのだ、そんな可能性は基本的にゼロだと前提するほうが現実的には正しい。
このことには、一長一短があって、トレーニングで得る強化と形容は、確実に得られるものだが、トレーニングを怠るとすぐに劣化していくという特徴がある、そして一方、修行や稽古でまれに得られる「身に現れてくるもの」は、いったん得られたらそうそう消えるものではないのだが、こちらは努力したからといって得られる保証はまるでないのだ、どちらにせよこの両方は厳密に区別しておく必要がある。

「苦痛」には耐えられても、「難しさ」には耐えられない。

たとえば強度のランニングにおいては、身体に苦痛がみなぎるだろう、それでもそれに耐えて突破していくことで、トレーニングは成り立っている/ただし! このトレーニングには、何が「難しい」ということはない、ただ身体の負担に「耐える」だけだ。
これが、何かの修行とか、稽古とか、学門とかいうことになってくると、身体的な苦痛というのは特にないのだ、ただ次から次に、何もかもが「難しい」というのがやってくる、つまり脳みそに負担が掛かり続ける、このことに耐えるのは根性ではなく「愛」なので、証が身に現れてくるまで努力するということは、なかなか容易には為されないのだった。
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証(あかし)
子さんが「いつも本当にすてきな笑顔」だったとする。
B子さんはそれを見て、「わたしも見習おう」「いつも笑顔でいる努力をしよう」とする。
このことはうまくいかない。
なぜなら、A子さんは、努力をした結果「いつも本当にすてきな笑顔」でいるわけではないからだ、努力でないものを努力で追跡したって、結果は異なってくるに決まっている。

どういうことかというと、本当にすてきな笑顔とか、本当に何かが似合うとか、本当にやさしさが滲み出ているとか、本当に声がきれいとか、本当に目に光があるとか、本当に使える特別な能力があるとか、本当に「面白い」とかは、努力の結果ではなくて、「証(あかし)」として生じてきているものだということ。
ざっくり言うと、カルマ的なものを償却し、身をもって学門を進めていき、場合によっては何か天啓を受けると、いろいろな「証(あかし)」が身に現れてくるのだ、だからこれはなぞっても複製されない。
たとえば、どれだけマイケルジャクソンの声マネをして、それがどれだけ似ていたとしても、人にワッと届いてときめかせるものがないのはそれが理由だ、マイケルジャクソンの声や姿には何かの「証(あかし)」が現れていた、肝心なものはそれだった。
「努力」ということの根本をくつがえすような話だが、やがてこちらが正しくなる/筋トレをすれば筋肉がつくのは「単純結果」だが、肝心なものはそうした「単純結果」としては現れてこない、肝心なものは「証(あかし)」として身に現れてくる、それ以外にその本質を捏造する方法はない。

証に学び、証まで学べ。

たとえば「笑顔トレーニングの先生」がいたとしたら、その先生の笑顔は見栄えがいいかもしれない、けれどもあなたは、その笑顔をもってその人を生涯の友人あるいは生涯の先生と感じるわけではないはずだ/そうしてトレーニングで鋳造した形容は、どれだけ見栄えがよくても「証(あかし)」を伴ってはいないので、あくまで外見の模造にすぎない、模造品は模造品としての役目しか果たさないだろう。
大事なことは、「証(あかし)が身に現れてくる」という現象が、本当にあるということ、それはまったく「いつのまにこうなった?」という形で現れてきて、ただし少なくとも「あいつはまったくボンヤリは生きていなかったからな」ということの先に現れてくる。
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光はまず邪魔を照らす(賢)

れわれにとって、「ジャマになる」「ジャマをする」という感覚はわかりやすい。
このことを利用して、「光はまず邪魔を照らす」と捉えると、わかりやすくなる、「邪魔」というのはそのまま「よこしまな魔物」だ。
本当に光あるものに出会ったとき、われわれの健全な精神は真っ先に、「邪魔をしてはならない」と感じる、またそのことは、自分の内にあっさり「邪魔」が棲んでいるということを認めているわけでもあるのだ。
首を突っ込めば邪魔をしてしまう、口を挟めば邪魔をしてしまう、意見なんか言えばさらに邪魔になる、このときふと、人はまったく別のことを見つけることがある、たとえば「あ、片付けは全部わたしがやっておきます!」というようなことだ、人はそういう手続きで目覚めていく。

本当に光あるものに出会ったとき、健全なわれわれは、「とにかく邪魔だけはしない」ということをとっさに選択する、そしてその裏側で、「邪魔にならず、かつわたしでもできること」を探す。
そこで見つかる、「邪魔にならず、かつわたしでもできること」は、たいていカルマ的な何かにつながっており、その当人が進むべき第一歩がそこにつながっている。
本来の手続きで言うと、女性が「この人に抱かれていい」と直覚するときも、この形式が多い/男性が本当に光ある行為や振る舞いを示しているとき、それを見た女性がとっさに「彼の邪魔だけはしたくない」と感じ、「それでも、何かわたしにもできることはないかしら……」と探すとき、「もし万が一、彼がわたしをそういうことに求めることがあったら、わたしは躊躇なく応じよう、わたしなんかでよかったら」と見つける。
それが若い男性と若い女性なら、そうしてセックスになることもあり、熟年化してゆけば「食事ぐらいはわたしが作ってあげたい」となったり、「汚れ物はわたしが洗濯してあげたい」となったりする/われわれの中にはあっさり「邪魔」がおり、でしゃばると常にわれわれは「邪魔しかできない」のだが、本当に光に出会うと、ついにわれわれはその邪魔を封印することを選ぶ、そして人間として自分にできることだけを選択する。

光は、あなたの中に光がないことを教える(賢)。

本当の光に出会うと、十中八九、自分の内には本当の光がないことを知るのだ、そのことはあまりに納得がゆくため、人は少し笑う、少し笑って踏ん切りをつけ、しょっぱい自分を(邪魔にならないように)尽くそうと見つける、そのときは光の下で、しょっぱい自分のみじめな全力が、どう笑われようとも「本懐です」と感じられてすっきりしているものだ。
「邪魔にならず、かつわたしでもできること」に、徹底を尽くそうと思う、そのとき人は「自分のできること」を真に拡大したいと望む、そのほとんど「罪滅ぼし」のような感覚で、人は学門に手を伸ばすのだ、自分自身について「このアホにはホンマに何もできんか」「いや、クソほど勉強したらできることあるやろ」と命じる心地で。

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世界能力者は「知らんけどすごい」

れわれ(日本人)も、天皇制の下を生きているのだ。
憲法に、これを「象徴」と定義したのは上手いやり方で、そりゃカミサマ的なものは社会的には「象徴」という定義で差し支えないわけだ、誰も憲法に神話性を求めてはいない。
「世界能力者」という変わり種が、たまに存在するのだが、これはベタに言うとある種の「霊性」によって成り立っている、そりゃそれぐらいぼんやり認めていかないと、天皇制の下で何千年も暮らしている日本人に説得力がない。
霊性というのは、まあ素質やカルマ的なものもあるのかもしれないが、けっきょくのところ決め手は「学門と訓練」に尽きる、不思議ちゃんが不思議な祈りと妄想を膨らます先に霊性なんか生じない、せいぜい夢見が悪くなるだけだ。

しかし、おそらく、「学門と訓練」によってその世界能力者なる霊性がコンニチハするとしてもだ。
おそらくほとんどの人は、そこでコンニチハしてくるいろんなアレやコレやに、耐えられないだろう、単純に頭がヘンになってしまう、だからこれは思ったよりいいものではない。
これらのことから、僕が思うに、宗教とか天皇制とかを、熱烈に信じるのはたいていアレになるから、少なくとも「謗(そし)らない」ということをオススメしたい、そういうものを謗るとたいていロクなことにならないのだ。
そういうオカルティックなことを、より信じたがる人の場合は、「わからんこと」があるらしい、という形で信じるのがよいと思う、何かそういう「わからんこと」があるらしいが、同時にそれを「知らないまま」信じるのがよいと思う、「知らんけどすごい」の精神だ、知らんけど思わず尊重してしまう、おそらくそのほうが実際的に「世界」の獲得に近いだろう。

世界能力者をないがしろにしたから、クリスマスが消えた。

近年、「クリスマス」というムードが日本中から、あるいは世界中から、消えている、古い世代の人たちは知っているだろうが、過去はもっと圧倒的な「クリスマス」というムードと世界があった。
正月とか、「渋谷」とか、青春とか、「大学」とか、そういったものが次々に消えていってしまうのだ、それは「世界」を生成できる変わり種をないがしろにすることによって起こっている/そんなこと誰もトクしないのに。

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門外を消せ
が「虫」に克つには、「三昧(さんまい)」という事象に至るしかない。
人がいくら念じても、カミサマ的なものは現れない、人はカミサマを意図的に信じるのではなく、出会ってしまって信じてしまう、そのことは「三昧」の中でしか得られてこない。
「三昧」とは何かというと、いわば常識の限界を超えた集中力の状態のことだが、それは一般的に思われている無我夢中というのとは違う、無我夢中ということには興奮がつきまとうが、三昧においては興奮は逆にゼロだ。
まともな「三昧」に入ると、人は興奮ゼロ、きわめて理知的で、落ち着いており、かといってユーモアやジョークや、やりとりの通常性も残している、誰よりも「まとも」に見える、そしてすさまじい存在感や光や処理の速さを見せつける、それでいて本人は静まりかえっているのだ。

「三昧」に至るにはどうすればいいかというと、逆に「どうもしなければいい」ということになる、これは難しいのだが、「厳密に」、どうもしないということだ、この「厳密に」ということが、一般的にはほとんど不可能というか、想像しているレベルの外側にある。
何かひとつのことをするとしたら(たとえば部屋の掃除でもいい)、そのこと以外は完全にゼロに滅却するということだ、掃除をするとなったらそれ以外の「すべて」を「厳密に」消し去る/すると、おそらくほとんどの人が体験したことのないナゾのクリアな世界が現出する。
人は一般的に、「一所懸命」的な幻想の価値観をねじ込まれており、部屋の掃除をしようとすると、腕や膝に力を入れるようになる、けれども厳密にはそれは「掃除」ではないので、そういったものも消し去る、そして部屋を掃除すればきれいになるが、その「きれい」というのも直接「掃除」とは関係ないので、その価値観も消し去る、部屋をきれいにするために掃除しているのではない。
理由も方法も価値も消え去って、ただただ人の「行為」が爆発する、それは極めて静かで落ち着いており、犯しがたい光を帯び始める、このときこの当人に悪口を言っても無駄で、褒め言葉を言っても無駄、色仕掛けをしても無駄だ、ただひとつのことを除いては滅却されてしまっているので、何をしたって通じない、どんな仕掛けを放り込んでも、きわめて冷静に落ち着いて処理されてしまうだけだ。

学門に入るということは、門外を消すということ。

門外を消せ! けっきょくどこかで一度は、この事象を体験しないと、人間は虫に克てない/門外のことをあれこれ増やしていくと、ざわざわして物理的に「豊か」になって気がするが、それは決して豊かさをもたらしはしない、なぜならざわざわと数多いだけでそれらは「世界」を形成しないからだ、いかなる無数の刺激物も「世界」を形成しないならそれらは究極ゴミでしかない。
三秒でもいい、あるいは三十秒ぐらいでもいい、願わくば三十日、さらには三十年があればなおよいが、あなたのこだわりのすべてを――一時的でいいから――消せ! それが消えた瞬間、あなたはむしろこれまでのすべての時間こそが寝ぼけていたのだとはっきり識ることになるだろう。
 
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元々あった一番まっとうなこと
直にレポートすると、僕はこれまで、すくなからぬ女性に慕われてきた。
その中で、あえて「生き残った」という言い方をするならば、生き残った女性は、どこかで「学門」のほうへ傾いた。
「学門」に傾くことがなく、感受性に傾いていった女性は、僕から離れてゆき、「生き残れなかった」、一方的な言い方だがしょうがないのだ、正直に「生き残れなかった」と言うしかない、その声と眼のふちと歯茎は汚らしくなっていった。
僕みたいな胡乱な者にも、それなりの立場の感覚や義侠心というものがあって、僕を慕ってくれる人のうち、僕ごときがなんとかできるものについては、なんとかしてやりたいと勝手に思っている、そのぶん、僕ではなんともできないと感じるものは、スッパリ諦めている、実際僕がなんとかできることなんて本当にたかが知れているのだ。

僕の周りで「生き残った」人は、必ずどこかで学門につながる道を選んでいる。
僕の周りで生き残らなかった人は、必ずどこかで感受性に流されることを選んでいる。
感受性に流されていった人は、まず二度と学門の方向へは戻ってこない、ごくまれに戻ってきた人もこれまで経験的にあるが、そういったことは基本的に「無い」と断定しておくしかない。
いつの間にか、胡乱の代表格のような僕が、「人は学門につながるべき」という、元々あった一番まっとうなことを唱えている、これはなかなかの滑稽劇だが、このことについてはもう迷いはない、僕は僕の前で感受性たっぷりの顔が横行することを許さない、人は学門につながるべきだ。

学門に舵を切れ。

メラメラ、ウルウル、ワーワー、感受性に好き放題にされるのは、もういいかげんにしよう、それはあなたの「信じる」という機構に空けられた穴にすぎず、その穴にはいくつかの虫が巣喰っている、その穴ぼこの刺激が「真実」だというなら……僕はあなたを止められないし、たぶんあなたもあなたを止められない。
学門に舵を切れ、たぶんそれは人間の最終的な選択だ、悲喜こもごも、栄枯盛衰、喜怒哀楽や退屈繁忙のいろんなことが、身に降り注いでいるような気がするが、すべての背後にあって人間を導いている光は「学門」だ、この航路にビタッと重なったとき、その広がりに文句を言う奴を僕は見たことがない。
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永遠無敵のワタシスタンダード

面に陰毛が生えているようなアホでも、たとえばバーンスタインの演奏について「評定」をすることができる。
インターネット上にあるレビュー等にはそういったものがあふれかえっているだろう。
そういった「評定」はつまり、自分が「門外漢」だからできることだ、門外漢は永遠に無敵のワタシスタンダードを持っていると考えていい。
とはいえ、何かに「入門」したら即、「お前ぜんぜんダメじゃん」ということになる、それは何に入門しても変わらない、何に入門してもその道の先達に向き合わされると「あわわわわ」となってお陀仏だ、バーンスタインを評定する顔面陰毛は、おうおうにして玄翁でクギをまっすぐ打つことさえできない。

料理人は料理人、大工は大工、学者は学者で、自分のくぐる「門」は人それぞれになる。
これらの門をくぐった人は、そのジャンルに関わらず、毎日「あー難しいなぁ」という問題に直面させられている、どういう難しさに直面させられるかが、その門の違いであると考えて差し支えない。
ここで、たとえば一流の料理人と一流の音楽家は、話が合うし、互いのことをよろこびはしても、互いに「評定」ということはあまりしないのだ、「評定」にシュバるのは何の門もくぐったことのない「門外漢」だ、門外漢は毎日何も「難しいこと」に向き合わない。
永遠無敵のワタシスタンダードにある甘みにハマった人は、今さら何かの門をくぐろうとしても、門をくぐればただちに「最低クラスの初心者、入門者」になってしまうので、気に入らない、それで自ら自分を破門にするというか、「その道は捨てた」というふうになり、まあなんだかよくわからない毎日になっていく、道を捨ててしまえばまたワタシスタンダードが恢復していられる。

毎日「難しさ」にフラフラになっている人は、評定の虫が騒がない。

なぜなら、毎日「難しさ」にフラフラになっている人は、ワタシスタンダードに生きておらず、何かしらの「門スタンダード」で生きているからだ、そういう正統のスタンダードに照らされて生きている人は、毎日が「難しいんぬぉぉぉおほおお」という状態であり、正直オシャレな評定なんかブッかましている余裕も発想もないものだ。
永遠無敵のワタシスタンダードにいる人は、フィギュアスケーターが四回転のジャンプで転倒することには厳しい評定をするのだが、自分の作るホウレンソウのおひたしについては「これで十分でしょ?」と絶対合格を押し通すのだ、こんなアンバランスなバケモンになってはいけない。

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向上心と入門の背反
一の方法は、あなたが僕を見ることだ。
僕があなたを見てもしゃあない。
僕にはそりゃ、霊視(笑)の能力があるのかもしれないが、そんなもん何にもならんわといつも僕は言っている。
僕からあなたを見て、あなたの何かがわかったところで、何の足しにもならんわな、そうじゃなくあなたが僕を見ることだ、そして出来れば、もっとマシなものに出会って、そのマシなものをあなたが見ることだ、それが唯一の道だ。

けっきょく、自意識過剰な人は、自分で自分のことばっかり見ているから、自分を見てもらうことにしか興味がなく、それでは進展がない。
自分の出来不出来がどうであり、自分のコンプレックスがどうであり、自分のカルマがどうであったとして、それをジロジロ見ることは、けっきょくあまり役には立たんのだよ。
なんつーのか、目の前に佳きものがあったとして、それを見て「ああ、すばらしい」と、まるで自分自身まで佳きもののように錯覚しているのは、ひどい暴走だ。
学門の徒というのは、目の前の世界がいかに完成されているかを学び、それを通して、身のうちの自分がいかに未完成かを識りなおす人のことだ/学門の道に入るということは、いかに自分が最低クラスかということを識ることだ、そりゃ「入門」したら「入門編」で、そのランクは最低クラスに決まっている。

入門しなければ、あなたは標準クラスでいられる。

ここがミソだな、物事に入門するのはきっと向上心からなのだが、「入門」ということはただちに「最低クラスにようこそ」ということになるのだ、入門さえしなければそんなみじめな思いはしなくて済むのだが……このように「向上心」の野望と「入門」の実態が背反していることで人は再現のない停滞に陥る。
何かもっとマシなものに出会って、あなたがそれを見ること、そして自分が改めて最低クラスに位置づけられること、そのときようやく何かが始まる、これは(気が)若いうちにしかできないことだ、おれは最低クラスとかイヤ〜ンってなるからな。
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5年も取りこぼしたら、もう本流には戻ってこられない
にか、気づくともう明日がパーティじゃねえか、なんでこうアッちゅうまに……まったく、ここまで生きてきて一度たりとも、僕は「前もって十分に準備する」ということができたためしがない。
数年前、僕は友人に、「だってお前は、活発に生きていないじゃん」と言った、そして「おれが思うに、人間て、生きているうち5年取りこぼしたら、たぶんその後はもう続かんぜ」と話した。
まったくそのとおりだと思う、僕は「活発」という言葉は好きじゃないが、それでも思い返してみると、「活発」に生きていない時間はきっと、数日、というような単位でしかなかったろう、たぶん風邪引いたときぐらいだ。
5年間活発に生きた奴と、5年間停滞して生きた奴とで、その時点ですでに差がつくのに、停滞して生きてきた側が本流に復帰するのは容易なことじゃない、それは言い換えてみれば、中学一年生の知識で大学受験に挑むようなことなんだから。

たまにはこうして単純に考える/「活発」に生きてきた奴に、「活発」に生きてこなかった奴が、どうやって及ぶはずがあるだろう?
むろん、「活発」というのはハズレも多いのだが、しかし活発でないというならハズレ以上にハズレに決まっている。
しかも、活発でなく生きてきた人に限って、自分がそこそこまっとう(あるいはやや上位)に扱われないと強烈な不満を覚えるのはなぜなんだ、活発に生きてきていない人の話なんて面白くないに決まっているじゃないか、そんなことに不満を持つのは我欲と増長が過ぎる。
活発に生きていない人は、よく誤解しているが、「上司の○○がウザい」とか「アニメの○○が好き」とか、「○○の料理がおいしかった」とか「○○のエクササイズにハマっています」とかいうのは、あなたが受け身でそう受けたという話であって、あなたが何かをした(している)という話じゃないぜ? 5年間もそんな停滞の中にいたらもう本流に戻るのはとてつもなく難しくなってしまう。

5年も出遅れたら、もう強固なゴマカシ名人になってしまう。

いわば、言い訳と言い分のプロ、みたいになってしまう、そうなってしまったとき、すでに当人にその自覚はない、すばやく「だってぇ」と、言い訳と言い分ですべてをゴマカす反射神経が日常になってしまっている。
活発な奴が5年分もリードを広げていて、活発でない奴がそこから巻き返すというのはえげつないエネルギーがいるし、ましてそこで言い訳名人が毎回出てくるというのでは、もうどうしようもない、年々格差は広がっていくだろう、そんなことになる前に自分の活発さに証を立てたほうがいい、活発でない日なんて本来、月に数日もあってはいけない。
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