☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
会話とは、こころの内の声からなるもの

「自分の思っていることを言う」のは、決して"会話"ではない。
まして自分の身の上のこと、プライバシーのことを言うのが、"会話"であるはずがない。
それよりはむしろ「あいさつ」のほうが"会話"だ。
"会話"というのはもっと反応的なものだ(習慣的なものじゃないぞ)、対象ありき、相手ありき、相手に向けて反応を起こして"会話"が始まるものだ。

「どこから来たの」「何やってる人なの」、このあたりはぜんぶ「野暮」であって"会話"ではない。
隠し立てせずに言えば、今はアプリ経由のチャットのほうがやりとりが弾む、という人がいるだろ、というか、今はそっちの人のほうが多いだろ。
"会話"をするのに、「話題」なんか探すのは典型的にだめだ、何かしらのオタクトークにしかならない、どうしてもそれだけがしたいというなら別だけれども。
問題は「声」なのだ、発声とか音声のことじゃないよ、あなたのこころの内に「声」が起こらないのか、起こらないならそりゃ問題だぞということなのだった。

夏に向かう今日の新緑を見たら、「お前、えらい勢いで育つな、昨日は薄かったのに」と言え。

そういうこころの内の「声」がないのがおかしい、それがなけりゃ"会話"が起こりようがない、新緑を見て「きれーい」とか「きもちいーい」とか、あなたの感想を聞いているのじゃない(感想だけは絶対にやめよう)。
原宿でクレープ屋のショーケースを見たら「これもう射幸心あおりすぎやろ」と言え、正午にゴロゴロ雷が鳴り始めたら「夕立はまだやろ、気ィ早すぎや、頻尿ちゃうか」と言え。

できるオンナだね | comments(0) |
酒と主題と初対面

回のパーティのトークテーマは、じねん、「(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの」が土台になりそうだ、読んできてくれたら話が弾むに違いない(→web版はこちら)。
毎回、別にトークテーマなんか決めていないが、今のところ当のコラムがみなさんに話題沸騰なので、きっとそれが中心になるだろう。
話題沸騰、などという、えげつないウソをついてしまったがご放念いただきたい。
トークテーマなんか考えたことなかったけど、本当は毎回そういうのを用意したほうがいいのかもしれないな、と、67回もやってきて今さらすぎるか。

僕は、ダサいのとかクサいのとかはきらいで、理知的なものが好きだ。
そして、理知的に言って、人とまともに話したことのないまま生きたヤツは、ロクなことにならんのでは? と僕は判断するのだ(当たり前)。
知恵と経験と、集中力を身につけてきた、たゆまぬ自発性の人間に、どうやって知恵も経験も集中力もない他人任せの人間が勝てるんですかね……と、そのあたりの捉え方は僕はドライなのだった。
年長者として、経験から申し上げておきたい、まともに話すということをたくさんしてきた人と、それをおろそかにしてきた人とでは、数年後にえらい差になって、取り返しのつかんモンになるものだ、僕はまともなことを続けていきたい。

酒と主題と初対面があることは、そんなにヘンか。

僕はできたら、死ぬ直前まで、酒と主題と初対面に取り囲まれていたいが、それはそんなにヘンなことだろうか/主題のない時間をえんえん生かされるほうがキツい気がするのは僕だけか。
ただ、気力は要るなあ、気力は自分の大前提だ、酒も主題も初対面も、どれも気力がなきゃ避けたくなるものだから。

できるオンナだね | comments(0) |
この先を生きていくのに、もっとも有利な実物
あみんな、パーティ来てね、四月からは誰だって新生活だ。
もちろん病気の人はダメだ、健康で、かつ常識のある人だけ、そういう人こそ常に人生の拡大に取り組んでいくべきだ。
人生の「拡大」、拡大っていいよね、拡大なしに未来を考えるのはとてもしんどいことなので、ラクになるためにも「拡大」が前提に必要だ。
うつむいて考え始めたら、もう負けなんだな、それは考えていることにはなっていないんから/「反論」が出てくるということは、つまり考える力を失ってしまったということだ、もっとポジティブに機能しなくてはいけない。

この先を生きていくのに、一番まずいマイナスは、互いにストレスを掛け合ってしまうことだ。
お互い、ストレスをかけないように遠慮しあっているのだが、その遠慮しあっているというのが実はストレスになっている、和合していないからガマンをし続けている。
で、和合するというのはどういうことなのか、その実物を知らないまま自分をブチマケたら、そんなもの戦争じみたストレスになるに決まっている、僕が言っているのはそういうことじゃない。
僕は何もノウハウを教えないが、実物をお見せすることはできる、ストレスを掛け合わないということは、一緒に生きていけるということだから、それがこの先を生きていくのに最も有利な能力になる。

12時間働く方法のヒントは、12時間遊ぶことの中にしかない。

冷静に考えてみてね、人のそばに12時間寄り添って過ごしたことなんか「ない」んじゃないか? そういうことの実物をすでに僕は用意している/12時間もそばにいられないのに、どこかに就職するとか誰かと結婚するとかいうのはいわゆる無理ゲーになる。
おれたちゃ何回、これまで原宿竹下口に集まったものか笑、それが「拡大」ということ、自分の過ごした「あそこね」という場所の増えることを拡大と呼ぶわけだ、そういうまっとうなことを続けていきたい。
できるオンナだね | comments(0) |
生産的に考えること2

る法則を見つけたような気がしているのだ、「自分がどうなりたい、という志を持たない人は、そもそも生産的な発想自体を持っていない」という法則。
もしここに、「今あなたが商売を始めるとしたら何?」という問いに、「さあ」「特に出てきません」と答える百人いたとして、この百人をまとめて一つの企業に放りこんだらどうなるだろう。
必然、その百人は、自分たちのする仕事を「誰かが投げ込んでくれる」のをずーっと待つことになるだろう、百人はボーッとしながら数ヵ月を過ごし/「仕事は?」と訊かれたら「ないんです、誰も何も言わないんですもん」と答えるに違いない。
今ちょうど、就職活動のシーズンだと思うが、きっと少なからざる人が「仕事をさせられるところを探しに行く」というだけで、自ら何を生産するべきかということを考えずに就職活動に取り組んでいるのではないだろうか。

僕は以前から、最寄りの某コンピニを見るたびに、「ここにコンビニじゃなくて交番があればいいのに」と友人と話している。
街の構造的に、そこに交番があれば治安が安定するのだ、狭い商店街なのに夜中は酔っ払いが多くなりその中を運送のトラックが爆走するのでいつも騒がしくなる。
どうか、大人になる少女たちへ、クサいことを申し上げて恐縮だが、ボーッと生きてるんじゃないよ、街を見て世界を見ろ、そして「もっとこうなればいいのに」ということをいつも新しく見つけろ、それを見つけるのが当たり前の大人になれ。
そして、「もっとこうなればいいのに」ということに合わせてだ、自然に出てくる、「そっか。じゃあ自分がこうなれたら、そしたら……」という夢/生産は「させられる」ものじゃなくて、あなたが見つけてあなたがするものなの、生産を「させられる」なんてただの地獄にしかならないよ。

せっかくのインターネットなのだから、不特定多数が情報を雑多に持ち寄るというのではなく、もっと特定の個人が、不興を買いながらもズケズケと、思いがけないことを言ってきて、新しく知ると共に「なんだこいつ」と面白がれるという、恋あいネタのサイトがあればいいのじゃないか?

そう思ってこのブログやウェブサイトを運営しているのであり、僕は僕の言いたいことや思ったことを書いているのではない(そりゃおれが書き手なのにおれが消費してどーすんだ)。
自分のやりたいこととか、思うこととか、そういうものからは自分のやることも夢も出てこないわけだ、「もっとこういうものがあれば……」という生産的な発想の向こうに、「じゃあ、自分がこういう奴になれれば……」というあなた自身の構築方針が出てくる。

できるオンナだね | comments(0) |
生産的に考えること

かんいかん、落ち着いて考えんとね……(おれが焦る理由は何もないのだった)。
ある人に、「今お前が商売始めるとしたら何?」と訊いてみた、「そうですね、○○のスタッフとか?」と彼女は答えた、「それは就労であって商売じゃないな」「就労じゃなくて商売ですか」。
僕は昔、インド現地から直輸入してハイエンド向けの紅茶を販売することを考えた、当時はまだブランド性のある紅茶茶葉の流通は十分でなかったし、インド当地では品質の管理や保持が十分でからだ(今も十分ではない)。
あと、日本の某所で採れる「○○」は、日本人の口に普遍的に合う香味だと思われるのに、なぜか全国的には流通していない、これは外食のどこかが目をつけたら流通すると思う、そういうところには商売のタネがある。

たとえば最近はフリーマーケットが流行しているので、発想を変えて、○○の一群をフリーマーケットスタイルでやるとか(なぜか商売になりうるものは伏字にしたくなるものだ)は、単発だがウケる需要がたぶんある。
あと、受験生や就活生というのは毎年一定の数が出るのだから、就活生に向けては○○を構えたり、受験生に向けては***のようなオモシロコンテンツを作れば、小規模だが確実にウケる余地があるだろう。
ふつう大人になれば、さしあたり小さくても「まあいちおう商売になるよな」ということが、三つ四つはいつでも出てこないとおかしい、そうでなかったら生きていけない。
生産的に考えるというのは、「今あなたが商売始めるとしたら何?」に尽きる、生産的なideaが問われるのだ、この発想がない大人はたいへんまずいので(生きていけねえよ)、どこかで獲得するようにしよう。

誰かが夜中まで営業する「コンビニエンス・ストア」を考えた。

商店はあったし、スーパーもあった、でもコンビニはまだなかった、そこで誰かが商売を考えた、「朝の7時から夜の11まで『小さい消費モノが全部』置いてある『便利』な店があればいいのじゃないか?」と。
あなたが買ったものや、使っているサービス、飲食にいくところや遊びにいくところ、勉強しにいくところもすべて、誰かが「こういうものがあればいいんじゃないか?」と生産的に考えた、そのideaの産物だ。

できるオンナだね | comments(0) |
まず単純なことから、まず噛みあっていかんとホホホイ
フフ、おれは正しいことを知っているぜ。
噛みあわないけどな!!
噛みあわない正しさって何にどう使えるのよ……といつも困っている。
逆におれが間違っているのでは? と疑ってもみるのだが、そんな自己疑心を許される悠長な状態ではすでになく、突き進むしかなく、それで僕はもうプレステのVRでも買っちゃおうかなーと考えるほどテンヤワンヤなのであった。

誰か噛みあってくれんかな、と思うのだが、このごろどうもいけない、誰が悪いのかはまったくわからん、ボクが悪いのかもしれないしキミが悪いのかもしれないが、別にそのことはどっちゃでもいい。
僕は単純なことをしようとしているのだが、むつかしいことを訊かれるので、むつかしいことを答える、フフフばっちり答えてやるぜ!
しかし、むつかしいことをばっちりむつかしく答えると、訊いた側が呆然として行方不明になるという結果が得られるので、いつもこれでは意味がわからんと感じる、これを一般に「噛みあってなくて草不可避」という。
いつもむつかしいことを訊かれる気がするが、たいていわれわれは単純なこともできないものなので、むつかしいことは単純なことの後でいいのでは……と思うのだが、噛みあっていないのでアンサンブルは総崩れになるのであった。

単純なことは手ごわいので、人は単純なことからシュバババ逃げる。

たとえば「気の利いたジョーク」とか、「ゲラゲラ笑いながら敬語」とか、そういったことは単純かつとても手ごわいので、人はたとえばコンテンポラリーダンスで怖い顔をすることなどに逃避したがる。
「やりまっせ!!」とたとえば僕は言うので、誰か噛みあってくれんかな、そういう単純なことがな、ぐいぐい成り立てばいいのになと思うが、いつまでも僕が能天気すぎるのかもしれない。
できるオンナだね | comments(0) |
私語が止まらない病気

生時代、とある合宿所で、後輩が深夜テレビを観ているのを見た/彼は前傾姿勢で、モニタに食い入るようだった。
番組途中、いわくつきで登場した地下タレントのような誰かを観て、彼はただちに「あー、思ったよりイタくないなー」とあざけるように言った、ほとんど「反射的に」という声だった。
僕はそのとき、(なんだこいつ)と思ったし、立場が先輩だったので、「おい、その気色の悪いテレビの見方やめえや。少なくともおれの前でやんな」と制した。
彼は「えっ」と驚いた様子で、「でもこういうテレビってこういう見方するじゃないですか」と不平を言ったが、当時は先輩後輩の関係は凶悪なものだったので、僕が「あ? "おれの前でやんな"って」と重ねて言うと、彼はささっとテレビを消した。

誰でもテレビぐらい観るだろうし、今ならウェブ動画をいくらでも観ると思う、その点は誰でも同じだ。
が、おそらくその「見方」はかなり人それぞれなのだ、僕の知るかぎり、ずーっと直接でも頭の中でも自分の「私語」が止まらないタイプがこの時代には少なからずいる。
そういう人間は、会話しているように見えるときでも、よくよく聞くとその都度に思いついた「私語」を吐きだしているに過ぎなかったりする、だから全体として「会話」が成り立たない。
ニュースを観ていても映画を観ていても、あるいは小説を読んでいても、何ならたぶん交通事故を見たときさえも、頭の中で「私語が止まらない」という病気に罹っている人がいる、こういったことは誰か偉い人が是正というか治療をしなくてはならないだろう(おれは知らん)。

私語病に罹っている人は、たぶん一生に一度も「聞く」「話す」をしたことがない。

たぶんそういう人は今、ものすごい割合で有象無象の中にいるのだ、老婆心から申し上げたいが、「頭の中で私語が止まらない」ということは決して「自分なりに考えている」ということではない(どうか若いうちに引き返してね、若いなら間に合う)。
レストランに行って、「これがおいしい」とか「この食材が」「ウーン」とか言っている人たちがあるだろう、あれは会話をしているのではなくて私語が止まらないだけなのだ、だから周囲からは「聞くに堪えない」という感触がする。

できるオンナだね | comments(0) |
ヤリ捨て要員がいた幸福

「〇〇の仕事をしています」みたいな話を聞くといつも違和感があって首をかしげている。
この世に、二十四歳の男が何の仕事をしているかなんて、わずかでも興味を持つ人がいるだろうか?
でもそんな感じで街中の合コンや学生時代の集いのようなものは進んでいっている、ように見える。
僕が古い人間なんだろうが、僕はデキる男が合コンや何かの集いで女の子と「親しげなトーク」みたいなことをしているのを見たことがない、合コンでも男はほとんど男同士で話していた、髪をアップにしてきた女はそれをややきょとんとして聞いていた。

丸の内のデキる男を何人か見てきたが、基本的にデキる男は、嫁さんとヤリ捨て要員しか女を持たない。
だいたいみんな、嫁さんにはすごくやさしくて、ヤリ捨て要員とまた会うというとからなぜ? と訊くと、「パイオツがたまらんのよ」「ああ、そういうことね」というような理由がほとんどだった。
別にそのことが女を苦しめていたわけではないと思うし、そんな中で「今こんな仕事をしていてさあ」みたいなことを男が話していたことはわずかもなかった、だから今でも違和感がある。
少なくとも、「親が」とか「中学時代の先生が」とか、そんな話はぜったいに出てきたことがなかった、有楽町のビアガーデンでコンパしているのにそんな話はでてくるわけがないだろう、とやはり思うのだが、今はそうではないのかもしれない。

億単位のスリップを通すようになると、女とは話すことがなくなってくる。

実際、いかにもそんな感じだった/たまに新人ながらすでに上司や先輩に完全に諦められている男がいて、そういう男だけが女の子と「親しげなトーク」を展開し、なんとかして少しでも見栄えのするセックスにありつこうとしていた、それを見て「またやってる」とみんな笑っていたのだが、本人はセックスしないわけにもいかないからしょうがないだろう。
別に誰も仕事にヤル気なんか持っていなかったし、合コンはただ好きだったのでやっていたのだが、何もかもが「しょーがないだろ」ということで進んでいたと思う、当時は社長でもないのにジョブズの本を読んでいたら思いっきりバカにされていたような気がする。

できるオンナだね | comments(0) |
「分離」して「担当」しろ

担しろ、「分離して担当」しろ。
選手がホームランを打ったとき、解説者は「ホームラーン!!」と言うじゃないか。
ホームランを打った当人が「ホームラーン!!」って言わないだろ、解説者は何を担当している?
解説者が次のバッターボックスに立ったらヘンだろ、そこは役割が違う、分担/「分離して担当」するんだ。

たとえば「話す役」「聞く役」というのがあるのだ、これをはっきりしろ。
「思う役」なんてないし、「気が向いたときにつぶやく役」なんてないんだよ、こんなの何も担当していないんだから。
選手がホームランを打ったとき、解説者が「ホームランですね」では失格だ、「ホームラーン!!」と言わないといけない、つまり解説者も「フルスイング」でホームランを言う必要がある。
「分離して担当」しながら、「ひとつのこと」をするというのはそういう状態だ、まず絶望しろ、これができてなきゃ本当に純正の「アホ」だぞ。

男が大口でガツガツ食ったら、女も顔を赤くして「食べるねぇ!!」と。

なぜこんな単純なことができないんだ……隊長が「突撃ィー!!」と言ったら、兵士がワーッ!! だろ、隊長が「突撃ィー!!」で、兵士が「はぁーい」じゃむちゃくちゃだ。
「おれねえ」「ん」、ただこれだけのことでいいのに、これだけで男女なんかきらきらできるのに、なんでこんな単純な呼応もないんだ、これはホンマにアカンと引きつづき投げやりにしておこう/「分離」して「担当」しろって。

できるオンナだね | comments(0) |
キャッチボール禁止
話が成立していないケースが多すぎる。
まず絶望しろ。
話す能力がないからコンビが組めないのじゃない。
逆だ、コンビを組む能力がないから話ができないのだ。

コンビの反対は「つぶやき」だ。
どれだけ的確につぶやいたとしてもそれは「つぶやき」だ。
その「つぶやき」をいちいち拾わなくてはならない相手の身にもなってみろ……といっても、現代はそれが「お互いさま」なのか。
コンビを組めって/コンビを組まないってことは「人になすりつける」ってことだぞ。

いつも思うが、会話は「パス回し」であって、キャッチボールなんかじゃない。

「おーい」と言われたらどうする、「おーい」と答えるだろう、それじゃキャッチボールだな、「春ですね」と言われたら「春ですねえ」と返すだけだ、よくよく見たらこりゃ「なすりつけあい」じゃないか。
パス回しだとどうなる? 「おーい↑」「どうも……↓」「どしたの、愛想悪いじゃん↑」「いやね、今頃アフリカの子供たちは、ワクチンがなくて……↓」「うーん、それメシのあとにしてもらえる?↓ 話わかるけどさ↓」、これじゃ完全にコントだな、例としては最悪だがまあ放置してしまおう(投げやり)。
できるオンナだね | comments(0) |
「あのねきみ」「なんでっしゃろ」
かし、僕の先輩のMさんとKさんは、まったくの「名コンビ」だった。
何が「名コンビ」なのかは説明しない、「名コンビ」はそれ以上に説明のしようがない。
むかしの漫才でいうと、「やすきよ」の漫才なんかが名コンビとして知られている(が、むろん参考になんかならない)。
今、街中できれいなご夫婦を見かけても、「名コンビだな」と見えるものはとても少ないと感じている、別に仲は悪くないが「息が合っていない」と見えるし、そもそも「息が合う」ということを体験したことがないのかもしれない。

僕は誰とだってコンビを組みますとも。
そりゃあ、おれを誰だと思ってんだよ……そんなもんキホンのキホンじゃないか。
まず絶望しろ、「コンビを組め」と言われたとき、何か照れ笑いをしてごまかすということしかできない、その圧倒的な自分の現実に絶望しろ。
なぜ「コンビ」ができないのか、まったく不思議だ(と投げやりに終わらせてみる。投げやりが正当だ)。

キホンのキホンのキホンができてない、「コンビ」だって。

「あのねきみ」「なんでっしゃろ」、なぜこんな簡単なことができない……「春やのに毎日寒いやないか」「きみまだ三月やで」「ワシは春を楽しみにしとんねん」「なんやきみ案外ロマンチストやな」、こんなこと台本を暗記しないとできないか?
「ワシは春を楽しみにしとんねん」「なんや羽の生えた蝶々みたいなこと言うやないか」とか、そんな面白いことは言わなくていいから、コンビだよ、「あのねきみ」「なんでっしゃろ」ができないなんてそんな文明があってたまるかい。
できるオンナだね | comments(0) |
0秒
定しなきゃ進めない。
否定は0秒で済ませればいい。
済めばオワリなんだから早いほうがいいだろう。
進めないなんて誰も言わない。

人に迷惑をかけるのも0秒だけ。
迷惑をかけたことをお詫びするのも0秒で済ませればいい。
あなたもご存知のとおり、僕たちは0秒でいろんなことができる。
時間が掛かるのはメシと排泄と役所の手続きだけだ、こころは0秒だ。

じっくり進むため、0秒で決定してきた。

ゆとりのある暮らしがいいな、特に時間はな、そのためにはすべてのことを0秒で済まそう、肯定しなきゃ進めない。
肯定した、否定した、0秒で済んだ、あとは進むため費やしてきた。
できるオンナだね | comments(0) |
これからの、おすすめの趣味
性の一番いいところは、コストが掛からないところだ。
パチンコや買い物が趣味だとコストが掛かってしまうが、読書や数学、哲学や歴史が趣味ならコストはさして掛からない。
知性のメリットは、汎用性があることだと思う、人と話すのも仕事をするのも知性があれば基本的に有利になる。
知性のデメリットは、獲得しそこねると、屁理屈ばかりで馬力のない嫌われ者になってしまうというところだ、まあこれはコストが掛からないぶんのリスクだから引き受けるしかない。

知性は、正しく獲得できれば、人を笑わせることもできるし、人からリスペクトも受けられる。
抜きんでた知性があるからということで、思いがけず人に大切にしてもらえることがあるし、そばにおいてもらえることもあるのだ。
古今東西、知性がバカにされた時代はなかった、むろん知性のない人からはバカにされるが、それは流派が違うのだからしょうがない。
知性を自分の「メイン」に選ぶというのは、今決して悪くない選択だと思う、むろん知性が全身を輝かせるようでないと、それは本当の知性とは言えないだろうけれど。

知性をメインに、しかし秘密に。

知性のもうひとつのデメリットは、人に脅威を与えることもあるというところだ、知性は才能じみて見えるので、たまに人を比較において悲しませてしまう。
でも知性を秘密のメインにしたからといって、それを前面に振り回す必要は必ずしもない、そうして知性を「秘めて」おくというのもまた知性のはたらきだろうし、知性は幸い秘めていたってどことなく光るものだ、これからのおすすめです。
できるオンナだね | comments(0) |
神聖な体つき
験、クリスチャンのように、胸元で手を組み合わせ、天を仰いでみよう。
きっと何も起こらないだろう(当たり前だ)。
だがその状態で、祈っている方向、つまり仰いでいる「天」の方向に、胸を持ち上げてみる。
すると驚いたことに、「心境」が変わる、「祈る」という心境が発生する、この現象はこころが「胴体」にあるからだ。

組み合わせてある手に力を入れるのはあまり意味がない、思いは強くなるが「こころ」はあまり変化してくれない。
それどころか肘が外に張り出して、祈りではなく「願望」のほうが強くなってしまう、祈るというのは願掛けをすることではない。
胸が「天」のほうへ持ちあがると、腰はやや後ろにせりだす、つまり胴体がS字に伸展する……まあ難しい話は抜きだ。
よくわからないという人は、「天」を漠然と見るのではなく、視線の方向を前方上方の「点」にして、「点」に向けて「まっすぐ」胸を吸い上げさせること、まあこれはお試し実験みたいなものなので、しゃかりきにやるようなことではない。

宗教はさておき、神聖な体つきは誰だって欲しい。

体つきが「疑う体勢」になっていると、胸が「落ちて」いるのだ、僕などは勝手に人のことを見て「胸が落ちすぎでしょ」と驚いていることがある、僕が正しいのかどうかは知らんけれども。
胴体をパワーで持ち上げるのじゃなく、「伸ばす」、すると胸と腰がS字に伸びてつながり……とにかく胸の高さで人間の「心境」は変わるのだ、これは知っている人は「当たり前でしょ」というようなことだったりする。
(※むろんこういった胴体のことは、「本当」にできるようになるには何年もかかります)
できるオンナだね | comments(0) |
朝起きるのさえ思想は要る

「思想は何か」と友人と話した。
すると、「それこそ、頭がよくないと思想は持てない」ということがわかった。
遊ぶのにも、働くのにも、演奏するのにも、思想は要る、それこそ朝起きるのにさえ思想は要る、思想がないと「何をどうしたらいいか」がさっぱりわからない。
思想はそうして朝から晩まで不可欠のものだが、実際にはっきりとした思想を持っている人はごく少ない。

「思想だよ、思想」と話すと友人はよろこんだ。
思想がないと、願望や、好き嫌い、またはその場限りの欲求のみで動くことになり、自分に方向性や蓄積がまったく与えられなくなる。
「あなたは思想ということをまだはっきり持たないけれど、思想のない男はきらいでしょ?」と僕は言った、彼女は笑った。
僕自身は、あきらかにはっきりとした思想を持っているが、その思想が「何」なのか、またそれがどこから来たのかは、考えてみるとよくわからなかった。

思想はきっと、接続体験の中にある。

友人との接続、愛人との接続、場所との接続、先人との接続、物語との接続、社会との接続、時代との接続、文化との接続、叡智との接続、などなど……
すべてが同時に接続し、ひとかたまりの多層を為すわけだが、この多層を知性が同時処理するとき、その中に思想は生まれる。

できるオンナだね | comments(0) |
体験の矢、検証の石

なたが手元に石を持ち、その石を僕に投げつけようと思っているとする。
そのとき僕は、あなたに向けて弓矢を引き絞っている、矢じりの先端であなたをピタリと捉えている、お互いの距離は5メートル弱。
あなたがわずかでも動けば、僕は引き手をパッと離すだろう、矢は鋭く飛んでいく、あなたの「石を投げる」は間に合わない。
あなたが石を投げ放つころには、僕はもう後片付けをしているところだろう、これが「間に合っていない」という状態だ、本当にそれぐらい時間差がある。

あなたは動き始めて、「石を投げる」という動作を始める。
が、僕は動き始めたとき、もう「矢を放つ」という動作を完了させている、これが時間差になる。
あなたは人にあいさつをするとき、「石を投げる」動作でそれをするか、それともすでに引き絞ってある「矢を放つ」動作でそれをするか。
「体験」という現象は容赦なく早い、あなたがあなたのあいさつを体験する・体験させるというとき、それは矢が放たれる早さでないと「体験」に間に合わない。

検証は、正しいが、間に合わない。

真実は実に単純で、「検証してからあいさつする」のじゃなくて、「あいさつしてからずっとあとで検証する」というだけ、この順序を入れ替えているから「体験」がまったく起こらなくなる。
検証してから動いたら、確かに失敗はせずに済むけれど、それは失敗体験を避けるということだな、体験ごと避けているから失敗体験も避けられるというだけだな。

できるオンナだね | comments(0) |
有能なあなたホールディングス
つこいようだが、こころは胴体にあって、その中心センターは「心臓」のあたりなのだ、胸の中央が特に「こころ」になる。
そして人間は、「こころ」から動く=胸の中央から動くほうが、ずっと早いし、ずっとラクなのだ。
こんなものは、座っているとき、テーブルの上のリモコンを取るときでさえわかる、ちょっとやってみたらいい。
手だけ伸ばしてリモコンを取ろうとすると、まず手がニュッと伸びて、そのあと胴体がくっついていっているのがわかってもらえると思う、これはまるで「手で胴体を引っ張っている」ようなもので、実はすごくシンドイのだ。

ほんの数センチでもいいから、胴体まるごとをリモコンのほうへスッと寄せる(断じて「顔」を寄せるのじゃないよ)。
「スッ」とだ、ぐいっとやるのではないし、傾くのでもない、スッと寄せる、物音も出ない感じで。
腰から上、胴体まるごとが、リモコンのほうへなるべく厳密に「まっすぐ」動く、できれば胸の中央がリモコンの側へ「引っ張られる」感じで、とにかく「まっすぐ/直線」に動くのが大事。
それだけで、「こころ」のエネルギーが発生しているので、そこから手を伸ばせば動作はラクだ、しかもきれいで自然に見えるし、断然「早い」のだ、ふたたび手だけで取ろうとしてごらん、その動作が「もっさり」しているのがわかってもらえると思う。

本社から動いたほうが早いに決まっている。

末端の営業所が本社を引っ張っていくとか、非効率も甚だしい、まず本社から動いて末端が「ついていく」ものだろ、あなたの胴体が本社で手先は営業所だ(胸の中央が経営陣だと見ていい)。
さらにいえば、「肘」の先端が、なるべく胸の中央に寄り添って動くほうがいい、肘が左右へ広がると手先まで連絡がいかないよ、肘は本社と営業所をつなぐ支社だから。
できるオンナだね | comments(0) |
「体験」に間に合う早さ
「早い」ということは至上の価値を持つ。
かといって、「加速する」ということは、もう出遅れたものをプッシュしているので、そもそも間に合っていない。
じゃあなぜ出遅れるかというと、「検証」しているからだ、ノンフィクションに検証はつきものだから、これで遅くなる。
たとえば「あなたの母親は何歳ですか」と訊かれたとき、ノンフィクションで答えなくてはならないので、「えーっと」となる、「母は三十のときわたしを生んでいるので……」と検証して答える、これで決定的に遅くなる。

構造上、ノンフィクションは、フィクションの早さを超えられない。
そして、細かい説明は省くが、すべての体験はフィクションでないと「間に合わない」のだ。
あなたが歌を唄うときも、「おはよう」というときも、本を読むときも、ノンフィクションにこだわるから実は体験に間に合っていない。
「そうかな?」と考えてみるか、でもそうして考えたらもう「検証」だから、それでもう間に合っていないんだ、信じる人の早さには追いつけない。

早さについて、絶対の感覚がある。

これは時間芸術をこなしている人なら、特別に身につけている(べき)能力だと思う、時間停止能力というか、時間ゼロ能力というか、ちょっとここでは説明しきれないけれども。
早さが間に合っているので、逆に「じっくり」やることができ、ちゃんと「体験」になるという現象がある、説明はできないがこのことには絶対の感覚がある。
できるオンナだね | comments(0) |
能力が開かれる決定的要因

間にはわけのわからん能力がある。
むしろ、人間の能力といえば、イコール「わけがわからん」というほうが正しいかもしれない。
一番損なことは、能力が伸びない状態で努力することだ、能力の伸びる・伸びないには実は「決定的な要因」がある。
たとえば料理の練習をしようとしたなら、その練習は厨房から始まるのではないのだ、これはまったく驚くべき、わけのわからん真相だと思う。

実は料理の練習は、「腹減った」から始まる。
なんのこっちゃ、という感じなのだが、よくよく研究するとこれが正しいのだ。
人間は、実は人のつながりで能力が開放されるようにできていて、「腹減った」と言われると「よっしゃまかせとけ」という人間関係の反応が起こる、実はこの「人間関係の反応」がカギになって能力が開くのだ。
なぜだかはわからんが、これが本当の話、実は料理人は「腹が減っている人」に反応して能力を発揮している、だからデリバリやレトルトと「料理人」の差は永遠に埋まらない、これは本当に不思議な現象だ。

「何回やってきたか」ではなく、「何人にやってきたか」。

家庭料理の人がどれだけ料理を研究しても、その能力は「料理人」にはならない、料理人は「数千人に向けて」料理をしてきたのだから、そのことで生じる能力差に勝てない。
不思議な現象だが、このことは応用すべきだ、あなたの能力はあなたの努力によって伸びるのじゃない、あなたの引き受けた人間関係によって決まる、そこに壁を挟んだらもう何も伸びなくなる。

できるオンナだね | comments(0) |
記号的に考えること
なたは人や世界から、何を受け止めるのか、また自分からは人や世界に向けて、何を発するのか。
記号的に考えろ。
記号的に考えることすらできやしないから。
たっぷりとしたふりをして、悠然と、実は記号ひとつさえ履行できてやしないから、そのことに気づくためにもまず記号的に考えろ。

あなたは人や世界に向けて何をどうする、訊かれてみると実は"不明"で、気分しだいのno idea、実は当てずっぽうの「やぶれかぶれ」なんてことがほとんどだ。
また人や世界から何を受け止めるか、それだってじっくり考えてみると「全部ただの気分しだいだわ」ということに気づかされる。
記号的に考えろ、あなたはなぜ分別を受け止めの入口にしないのか、またなぜ人と会い気心の通うを出口の第一にしないのか。
記号は優秀です、no ideaのモジャモジャメラメラは優秀じゃないよ、あなたは「礼儀正しい人」でさえないのじゃないか、そのよくわからないモジャモジャメラメラの人は。

「うぇーい」は、やぶれかぶれの象徴。

本当に、「何をどうしたらいいか記号的にもわかっていない」ので、やぶれかぶれでうぇーいなのだ、人はモゴモゴするのもやぶれかぶれだし、勢いづくのもやぶれかぶれだ。
いかめしい「半ギレ」みたいに歩いている老人は、あれだってやぶれかぶれだ、インチキスマイルやインチキ発声だってやぶれかぶれ、全体何がどうなっているのか、「分別で受けて気心で発する」ほうがはるかにまともでマシじゃないのか、その記号をきちんと履行するかぎりは。
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