☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
生産性のなさには「恐怖」せよ2
産性とはけっきょく「とんでもないレベル」のことだが、これはたとえば、「剣道を三十年やってきました」というようなことを指すのではない、剣道を三十年やってきた人というのは数は少ないだろうが珍しいというほどではないはずだ。
そうではなくて、「とんでもないレベル」というのは、たとえばその三十年間、まるで毎日「初めて竹刀を手に持つように」振り続けてきたとか、そういうレベルのことだ、「なぜそんなことができるのか」「なぜそんなことになれるのか」、ちょっと普通ではわからないということ、これを「とんでもないレベル」と言っている。
「とんでもないレベル」というのはつまり、ド根性で補えないレベルのことを言っている、どんなことにだってド根性の人はたくさんいるもので、それはそれでちょっと余人には真似できないところがあるが、それをただちに「とんでもないレベル」で「生産性がある」とは言えない/おれは知人の親戚に、いわゆる「本の虫」で何千冊と本を読んできた人がいて会ったことがあるが、この人ほど話していてつまらない人はなかった、ショーペンハウエルが指摘したように単なる読書がその人の知性や生産性を向上することはなく、むしろその逆を証明することも多い。
とんでもないレベルというのはそういうことではなく、やはり何千冊読んでも常に次の一冊を「まるで初めての読書のように」「少年のごとく新鮮な体験として没入する」というような読み方ができる人のことであって、そのことが数千冊も繰り返されてきたのだとすると、それが「とんでもないレベル」になっているということだ、何をやるにしても<<反復というのは身体が覚えてしまうので何の意味もない>>、身体が覚えてしまえば万事がラクになるのだが、それは覚えてしまったクセをなぞっているだけで、本質的には何もやっていないからラクなのだ、そのことは言ってしまえば性風俗嬢が業務を覚えてしまうことと大差ない、そしてその覚えてしまったクセをなぞるだけというのは本質的にはつまらないことだ(「便利」なことではある)。

当たり前のことだが、剣道を三十年やってきた人がいたとして、彼の目の前に槍をもった中学生が三人現れて、いきなり一斉に襲ってきたらどうしようもなくグサッとやられてオワリだろう、それは何も悪いことではなく、彼は三十年間「そんなことはやってきていない」のだから当然だ、何も悪く言われるいわれはない。
「とんでもないレベル」というのはそういうことではなく、「とんでもないレベル」というのはいわば、「わからないもの」「どうしたらいいかわからないもの」に取り組み続けてきた、その人の歴史と蓄積を言うのだ/正統な竹刀剣道を三十年やってきた人にとって、いきなり目の前に槍をもった三人が現れて一斉に突いてくるというのは「どうしたらいいかさっぱりわからない」ものであって、とんでもないレベルの人というのは、ずっと何十年もこうした「どうしたらいいかわからないもの」にばかり向き合ってきた・取り組んできた人のことを指す。
生産性とは記憶の反対であって、覚えごとのレベルをアップしていっても生産性には到達しないのだ、なぜなら記憶およびその反復強化というのは、すでに生産されたものをなぞっているだけで、生産済みのものをどうなぞってもそれは生産にはならないからだ/だから生産性というのは、むしろ「わからないもの」「記憶に該当しないもの」を見つけ出す能力に掛かっていると言える、その能力かもしくはそのこころや魂に掛かっていると言える。
ここに、ナゾの一流料理人がいたとして、この人が開示しているレシピのとおりに、自分も料理を作ったとする、すると一流料理人の作るそれの八割ぐらいの味は再現できたとしよう、そのとき再現できた八割のほうに満足する人と、残る二割のほう、「なぜけっきょく同じ味にはならんのだ?」のほうにナゾを抱え続ける人がいるのだ、そして前者のほうは覚えごとをなぞるだけで何の生産性もない、後者のほうはナゾを何十年も何十万回も取り掛かり続けるので、エネルギーの続くかぎりその人はやがて「とんでもないレベル」の人になる。

 "熟練者" の多くは、「わからない」ものから目を背けて老けてきただけだ。

だから、剣道を三十年間やってきましたという熟練者は、スラム街の少年に突然拳銃を向けられたら、そのときはどうすればいいかわからないし、その「どうすればいいかわからない」ということの可能性じたいを、拒否して拒絶したがるようになる/そうしてほとんどというべき多数の人において、人は自分のわかる・記憶している分野に限定して、自分をその中に引きこもらせるのだ、その限定された空間の中でレベルアップするのだが、その限定空間でのレベルが生産性に到達することはありえない、彼はけっきょく自分の限定空間に他人を呼び込もうとする宣教師になるだけだ。
「どうしたらいいかさっぱりわからないもの」に対し、「こうしてみたらどうだろう」と思いついて実行してみること、それが生産性なのであって、たとえそれが成功しても失敗しても、それは「生産」なのだろう、だから生産性に至る人の周囲には、成功と失敗が散乱している、熟練者の周囲にはこれがなく熟練者の周囲には調子のいい・悪いしかない/おれは今こうして書いている話だって、成功するのか失敗するのかわからずに書いているし、書いた後だって成功しているのか失敗しているのかはわからない、ただおれはこのわからないことに向き合っているときだけ少しまともな気分であれて、成功も失敗もないことに耽ったり楽しんだり退屈したりすることにはどうしようもない「恐怖」を覚えるのだ、認知症に近い老人が立地だけで成り立っている酒屋の店番に座っていたのを見たときにおれが覚えた「恐怖」は、その老人が何十年も、「成功も失敗もない」中に座り続けていたことから生じたと言える。
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生産性のなさには「恐怖」せよ
る酒屋の店番に、ほとんど認知症の老人が座っていてびっくりしたことがある。
端末でバーコードを読んでレジの通りにお釣りを出すだけだから、業務をこなせなくはないのだろうが、こんなことでよくやっていけるものだと驚いた/そのときふと、その酒屋が、周囲に競合がいないという立地から成り立っていることに気づいた、もし目の前にカクヤスやイオンリカーが出店したらたちまち廃業になるだろう。
封建的な「家業」というのはたいていそういうものであって、世の中のことなどほとんど知らないまま、代々やってきたその場所と立地と生業で生活していくものだ、ただそのことの背後にはとてつもない不安があって、何かひとつのはずみで地域の人々に嫌われたり、村八分にされたり、あるいは情け容赦のない大企業の競合が割り込んできたりすると、もう生き延びるすべは何もなくて、あとは生活保護を乞うしかなくなってしまう/もちろん生活保護というのも社会の仕組みなので、それを悪いとはおれはまったく思わないが、おれが見ているのは社会的なことではなく、個人の抱える「不安」のことだ、自分の生きる方法を根こそぎ他者に握られているという致命的な不安がある。
おれはこういったことについて、「よくわからないがそこに座っていたら生きていけますよ」というシステムの全般を、生産性のなさにおいて恐怖しているのだった、ましてこれからは自動レジやAIが前面に出てくるのだから、何の生産性もなく店番に座っている人などというものは成り立たなくなるだろう/おれは気性としてたいへん不真面目な者だが、不真面目といって豪胆とか向こう見ずということではない、むしろ万事についておれは慎重で臆病なたちだ、おれは生産性の高い者であれということをよく言うし自分自身にも課しているつもりだが、それはおれが豪放だからではなくその逆、小心者で自信など持っていないからだ。

おれの場合、「ここに座っていたらそれだけで生きていけます」なんて言われたって、「んなバカな」と疑い、決してそんな甘い話を信じないだろう、他人に言われた業務を淡々とこなしていくだけで生きていけると思い込むほど、おれは根拠のない自信にあふれてはいない、おれは人の何倍も生産性がないと生きていけないと思っているので、むしろそれだけ小心者で自信のないタイプということになる。
おれはたとえばいわゆる「ソシャゲ」のようなものにえんえん時間を費やしたり課金(賦金)したりはしないが、それはそういうことがちっとも楽しいと思えないからではあるにせよ、それ以上に生産性のない自分に対して「恐怖」が起こるからだ、その点おれはひどく臆病で、おれが生きることをこの社会の何かが保護してくれるとはまったく思っていない/生産性のない田舎の町が廃れていくことに誰も目は向けないし誰にも助けようがないのと同じように、生産性のない個人に社会の誰かが目を向けるということはありえない、だからおれは生産性のない町のムードにも同様の「恐怖」を覚える。
古くからその立地でやっている酒屋に、店番の男が座っていれば、もちろんそれだけで立派に「営業」はしているのだが、おれはなくとなく、人はそうして営業しながら滅びていくのではないかなと感じているのだ/店番が座っていれば「営業」にはなっているという確かさの一方で、「店番として座っているだけ」ということについて「生産性がない」という直観も確かなのだ、おれはこのパターンに見られる「生産性なしに営業を続けている」という状態において、なぜ多くの人が恐怖も覚えず安心して日々を過ごせるのか不思議でならないのだった。
そうなると、生産性と営業の違いは何かということになってくるのだが、そういわれると「生産性」とはいったい何のことを指しているのか、そんなにはっきりはしないのだった、ただ直接の感触として、誰でもそう覚えるように、たとえばおれがこうやってわけのわからないことを書き話すことは、おれに限っては生産性がないとはまったく感じないし、おれの話を聞いている誰かがおれの話を蓄積していくことについても、やはり生産性がないとは感じないのだった/もちろんおれが何を話したって、その話の一切が聞き取られず、聞き取ろうとしてもそれが内部に蓄積しない、いっそ痴愚によってすべてが弾き飛ばされてしまうというタイプもいるのだが、おれはそうしたタイプを目撃すると、たとえ他人事であっても恐怖を覚えるのだった、たとえば店番をしていた老人におれが何を話したとしてもその話は一切彼に理解されたり蓄積されたりすることはないだろう。

生産性とはけっきょく、「とんでもないレベル」のことを指す。

店番で座っていた認知症に近い老人は、最後まで無事に生きられただろうか? むろんそうでないよりは、そうであったほうがいい、誰もそんないじらしい生に不幸があればいいなんて思わない、ただそれにしても、たとえ最後までそれで生きられたとしても、彼はずっと不安の中のみを生きねばならなかったはずだ、自分が生きることを自分でない他の誰かが決めて握っているという不安の中、そして自分は生きるということの情報をまったく蓄積せず何も知らないまま生きているという不安の中を。
われわれの多くは、ほとんどが同じように、学校に行き、部活動に入ったりし、企業に勤めたり、日々の業務をこなしたりする、その中で本を読んだりもするし、ゲームをしたり、何かのファンになったりもするだろう、ただその中でも生産性に到達する人と、生産性にはまったく到達しない人に分かれる、だから何をやるのが生産性というわけでもないのだ、何をやるといえば「何でもやる」というつもりでいなくてはならない/そして自分のやることは、何かしら一般的なそれとは違う、とんでもないレベルに及ばなくてはならない、そうして自分を生産性に至らしめて生きるというのは、生産性に至らずに生きていくよりも大仰なことに思えるかもしれないが、そのぶん自分が生きるということに致命的な不安をもたずに済む、そして致命的な不安を土台に生きていくというのはきっと、本人として生きているという体験は得られないままの一生になるだろう……生産性なしに生きていく人は何一つ「まあいいか」とは言えず、「まあいいか」は他の人が言ってくれるよう拝み倒すしかないのだから。
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使える idea の発想機序
 idea を、持たねばならないし、話さなくてはならない。
ここでたとえば、「世界平和がいいです」みたいなことを言ってもダメだ、いくらその idea が正しかろうが、その idea は使う機会がないし、使える idea として組み立てられてはいないからだ。
 idea と言ってもいいし、知恵というのも同じだが、それらは「使える」ものでなければ値打ちがないし、値打ちがないならいくらその idea を話しても意味がない、聞かされる側はうんざりするだけだ。
「使える」 idea が必要で、その「使える」というところから idea を構築するということ、この機序じたいが実のところ idea の生成とその開示のミソなのだった/「使える」というところから idea を構築するというのは、まず人の常識や習慣の立場から始めて、「どういう思い込みでスタートしてしまうか」ということに立つのだ、そしてその時点で「あ、そうだった」と思い出して、新しい指針に切り替えて踏み出していける……つまりスタートの一歩から別の道を選択できてしまう、そういう道標として idea を構築するのだ、いわば idea というのは「正しさ」ではなく「道標力」が問われると言っていい、「この道標があってスゲー助かったわ」というのがナイスな idea ということだ。

たとえばここで、おれからみなさんに「明治維新」の話をしよう、みんなひととおり学校で習ったと思うが(そしてぜんぜん覚えていないと思うが)、明治維新と聞けばまずその出来事を「気持ちわるっ」と思え、なぜそのように思わねばならないかというと、諸事情あって<<全然つじつまが合わない>>からだ、このことを知らないまま明治維新の大河ドラマを見るとニセの印象的情報だけがすべりこんでデタラメなキャラクター小説みたいな知識が増えてしまう。
まず、われわれの持っている明治維新のイメージは、「幕府をやっつけた」「開国! そして文明開化が来たバンザーイ」という感じだ、このことが実はおかしいと指摘すれば、もうここからすでに「気持ち悪っ」は始まっているのがわかるだろう。
ペリーが黒船で恫喝外交に来て、「オイ港を開けや」と言われて一撃で幕府がビビって江戸時代がたちまちオワタのは事実だが、明治維新において「開国」を推し進めていたのはほかならぬ幕府の側だ、幕府は勝手に五か国に向けて開国をホイホイ進めていたのであって、それに対して「アホウ断じて鎖国じゃ」「攘夷! 夷狄を打ち払え」と言い差し止めたのは天皇の側だ、だから開国を目指すのであれば幕府を佐(たす)けて天皇を封じ込めなくてはならない。
が、明治維新の勝利者側は、いわゆる維新志士たちであって、維新志士たちに与えられているイメージとイデオロギーは「尊王攘夷」だ、尊王攘夷ということは……あれ? 「開国したらダメじゃん」「天皇の言うとおり攘夷っすよ」であって、開国して西洋化したら尊王攘夷のほうが負けのはずだ、にも関わらず実際には、尊王攘夷軍勢が勝利して、開国佐幕側が敗北している、そして明治といえば「開国して文明開化バンザーイ」なのだ、どうだ気持ち悪いだろう、この気持ち悪さを先に教えられていないと何をどう頑張っても明治維新で何が起こったのかは理解不能だ、たぶん学校の先生でも年号を覚えているだけで出来事そのものは理解していないだろう。

こうしてあなたは、明治維新を理解するための、第一の idea を得た。

長州藩は「朝臣(あそん)」の称号を持っているのに、なぜ京都御所にMAX砲撃しているんですかね(禁門の変)、そしてなぜ「朝敵」になって討伐対象にされているんですかね……そして会津藩というとむしろ徳川親藩の気がするがなぜその会津藩が天皇を奉じて長州藩(朝臣なのか何なのかもうわからねー)とドン底までやりあっているんですかね、そして長らく幕府の敵対勢力だった島津藩はいわゆる蘭癖大名(外国オタ大名)の代表だったのに、なぜその蘭癖が「攘夷」の旗手として天皇側に一番頼られているんですかね……このシッチャカメッチャカの向こうに、あなたは「二百年間鎖国して誰も日本という国のことを考えたことがなかった」「誰もが自分の家と藩のことしか考えずにきた The サムライたち」ということのツケがどのようにクレイジーに噴出するかを見るだろう/明治維新というのは実は開国とは何の関係もなく、ただの「これまで抑え込んできた幕藩体制の大崩壊 (・ω<) てへぺろ」にすぎない、開国はいっそ外国からの物理的なモンであって、諸外国は日本国内で起こっている(というよりは幕藩体制の中で起こっている)ワチャワチャについて根本的に「???」だっただろう、あえていうなら日本は明治維新なんか「していない」と言いたいぐらいだ。
というわけで、ここまで言われると、「明治維新って何があったんかね」と、なんとなく関心の芽生えが起こるはずだ、それはあなたが「使える idea」を獲得したからだ、学校の教科書も内容として誤っているわけではないが、教科書に書かれていることが「正しい」としても、それは「使える」わけではないので、聞かされてもウンザリするのだった、だから学校の教科書というのは「成績と将来に向けて現実生活が有利に傾く」という取引を土台にしてしか読まれることがない、教科書ほど「誰も読まない本」「使えない本」は他にないだろう。
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男に愛されなくてはならないし、女たちにモテなくてはならない

は、男に愛されなくてはならないし、男は、女たちにモテなくてはならない。
のみならず、ここが面白いところだが、女だって女たちにモテなくてはならないし、男だって、男に愛されなくてはならない。
それはレズビアンということではないし、ゲイということでもない、それは話を取り違えて混乱しているだけであって、ここでは性行為の話はしていない。
ここで言い換えるならば、男は天に愛されねばならないし、地にモテなくてはならないということになる、そして女は、やはり天に愛されねばならないし、地にモテなくてはならない、同じなのだ、ただこれまでの通例として、女から見上げたときそこに男が立っていたということが割合として多く、男が気づいたとき、足元に女が寄り添っていたということが割合として多いだけだ、「母なる大地」とは言うが「父なる大地」とは言わないし、「天にましますわれらの父」という言い方はあっても、それを「母」に言い換えは一般にしない。

おれは概念について話したいのではなく、感覚について話したいのであり、さらに感覚なんて思い込みや催眠術でいくらでも捏造されるので、おれは「現象」について話したい/「天に愛されねばならない&地にモテなくてはならない」ということ、および、それが成り立ったときに生じる「現象」というものが本当にある。
原則、天に愛されていない男が女たちにモテるということはありえないし、女たちにモテていない男が天に愛されるということもありえないが、とりあえずおれ自身に限った場合、おれは女たちにモテるということをけっこうすっぱり忘れがちなのだ、イメージと違うので自分でも割と驚くのだが、おれはしばしばというかしょっちゅう、自分が女たちにモテるということを忘れる。
いや自負を忘れるというのではなく、その事実や現象を忘れるというか、その視点をまるごと「あ、そうだった」と忘れていることがしょっちゅうなのだ、これはただおれが自分の欠点を反省しているにすぎない、まあ男なんざ天に愛されていればそれだけでいいようにも思うが、それだけでは人は早死にしてしまう。
ヘンな説明になるし、そもそもまともな説明なんかするつもりはないのだが、人にとって天に愛されるということは「叡智のパフォーマンスの質」を決定しており、地にモテるということは「人的パフォーマンスの量」を決定している、という感じになる、だからたとえば純粋な作曲家は早死にする傾向にあり、演奏家は長生きする傾向にある、そして天に愛されるということには「自分が向上することへの厳しさ」というパラメーターが掛かっており、地にモテるということには「自分が下に対するときのやさしさ」というパラメーターが掛かっている/男はやさしいから女たちにモテるのであり、自分に厳しいから天に愛されるのだ、そしてこのことはけっきょく男も女も同じなのだった。

作曲しているのは天だし、演奏しているのは地だ、男女うんぬん以前に「人」じゃない/平面的な「人」のやることはゴミになってしまう。

誰でも知っているとおり、人が作曲して人が演奏したものはすべてゴミになる、これは否定的に罵っているのではなく、「飽きたら捨てているでしょ?」という事実を指摘しているにすぎない/そして事実上そうしたゴミの生成と頒布にかかわった人は、男なら女たちにはモテていないし、女なら男には愛されていないだろう、これも罵倒しているのではなく事実とその仕組みを抽出しているだけだ、流行しているあいだは「チヤホヤ」したりされたりするだけで、やはりコンテンツと同様に「飽きたら捨てているでしょ?」という事実がある。
天が語り、地が鳴動しているのが視えないのか、それを担って引っ張り出す本来的な「人」になれないのか、それじゃ女たちにモテないだろうし、男に愛されないだろう/まったく厳しい話だが、わけのわからないニセの努力をするよりは、厳しいなりにマジの仕組みを知っておくほうが結果的におトクだろうとおれなどは思うのだった。

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春の風、天の国
になると天の国がやってくる。
以前は、これをいちいち天の国とは思っていなかったのだが、総括するとこれが天の国というやつらしい、まあおれが惚れ込むからにはそれは天の国であって差し支えないだろう。
春になると天の国がやってくるし、何なら天の国がさっさと来るように、とっ捕まえて引きずり下ろす。
大丈夫、それぐらいて天の国が弱ったりはしないし、そもそもおれに与えられた権限を安く見積もるもんじゃない、おれには天の国を掴んで引きずりおろすぐらいの権威は与えられているだろう、おれがいなきゃこの世界にこの春の国はこないぜ。

おれが誰か人と調子を合わせてやっても、それはその人から春の風と天の国を失わせることにしかならない。
春の精霊が人に調子を合わせたら、春が消え去って人の世間だけが残るだろう、すべての存在をいわゆる「平等」にまとめようとするとそういうことになるのだ。
率直に申し上げるが、おれみたいな奴には、そのまま春の風と天の国を引きずり下ろさせておくべきだと思うぜ、おれがやめたら誰も春の風と天の国を得られないことになるじゃないか、そんなことをして誰が得をするんだ。
それでもあれか、どうしても平等じゃなければいやか、おれがここに引きずりおろした春の風と天の国のうつくしさが、どうしても平等に自分も分割所有しているものでなければいやか/そういう人もいるだろうな、でも実際には、春に直接手が届くような人はほとんどいない、だからそういう人は、春をなくすことでしか「平等」をやれない。

おれの起こす精霊のイベントがあるのだから、あなたも自分の起こす精霊のイベントをやればいい。

平等というのはそういうことだろうし、おれはそのことに文句を差し挟む気はない、文句も何もおれは人がやるそういうことに茶々を入れる権利も興味もない、ただ精霊のイベントなんて本当に引き起こせる奴はそんなにいないと思う、まして集団でなく単独でだろ、そりゃ多くの場合はただの感情的な妄想にしかならないだろう/おれの言っていることだって他人から見たらただの妄想にしか見えなくて当たり前だ、ただそれでもこれがいいという人が少なからずいるからそのままにしている。
精霊のイベント……おれ自身には何もできないし、何をやる気もないので、おれではなく春の風、天の国(らしい)ものを引きずりおろして、その国そのものに早いとこ春の国をやってもらっている、そのことに尽きる、すべての功績は春の国にやってもらっていて、おれには何の功績もない、イベンターというのはそういうものだろう、こんな壮大なイベントがおれみたいな個人に出来てたまるか。
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全身全霊でいこう!3/歴の否定
「歴」という言い方がある/われわれは歴史にはあまり関係がないが、それでも「経歴」や「履歴」というものがある。
「歴」という言い方があり、「歴然と」という言い方があるが、ここで或る男が或る女を全身全霊で愛したとして、全身全霊で愛するというようなことは「歴然と」はしていない。
「歴然と」というのは、経歴的・履歴的にはっきりしているという意味だ、たとえば○○マラソンを四時間で走破し、そのスコアと仲間の写真をフェイスブックにアップロードすると、それは「歴然と」そういう走破とスコアを為したということになる。
これに比べて、なんとなく北海道まで行き、ただひとりで42.195kmを走り、その様子をどこにも記録せずどこにもアップロードしなかったら、その営為はまったく「歴然と」していないということになる/全霊否定派はこれがイヤなのだ、全霊否定派は必ず「歴然と」したく、またその歴然としたものが他人に見せびらかせる状態でないとイヤなのだ、たとえば踊りで名取りになったら、その人は踊りたいのではなく「名取りになった」とその歴然たるを言いたいのだ。

わたしは全身全霊を肯う者だから、この「歴然」「歴」そのものを否定している。
たとえばわたしだって、小学一年か二年のときに、学校で描かされた水彩画が大阪府で金賞を獲ったことがある、あるいは同じ小学三年生か四年生ぐらいのとき、書かされた詩文が賞を獲って雑誌に載ったこともあるのだ、そんなことは正直いくらでもある、けれどもわたしはそうしたもののすべてをゴミカスだと思っており、事実それらの絵画やらの実物はとっくの昔に捨てられてしまったか何かで手元にない(そんなもん残すわけねーだろ、アホか)。
わたしはその小学校低学年のときから、大阪難波の高島屋にその金賞を獲った絵画が展示されるというので、母親と祖母が勇んで観に行くというのを、面倒くさがって戎橋のゲームセンターに逃げ込んでいたクチだ、ラリーXをやっていた/わたしだってこれまでいちおうまともに生きてきているし、いちおう国立大学を出て丸の内の総合商社に勤めていたことがあるし、なんとなく簿記三級を持っていたりもするし、TOEIC試験だって受けさせられたりして微妙に点数がよかったときもあったのだが、そういった「歴然」「歴々たる」たぐいのことは、すべてゴミ箱に捨てるようにしてきた、なぜかというと、それらは勝手にゴミ箱に飛び込んでいったからだ、そもそも一顧だにしたことがない、これまで腕相撲大会で優勝したり、火起こし大会で優勝したり、高校のころは某合宿で委員長を務めたりしたこともあったのだが、そんなことには何の意味もないのだ、唯一「火起こし大会」だけが、意味がなくて笑えるので自分の経歴として愛しているのだが……
何か少しでも「歴然と」したものを自分にくっつければ、自分に箔なり格なりがつくのかもしれないが、そんなものを一ナノグラムでもつけていると、もう二度と生きていて全身全霊というのはできなくなる、わたしは中学のときマンモス中学校でそれなりに成績優秀者だったが、テストのたびに張り出される学年上位者の一覧を見に行ったことは一度もない、冗談でなくわたしは100点を獲った数学のテスト用紙を、そのまま教室の後ろのゴミ箱に捨てたことがある、見咎められて慌てて言い訳をしたが、「全問正解したのなら見直すところはない、だから捨ててかまわない」とわたしは言った、そのことは今でもやはり「そりゃそうだろ」とわたしは思っている。

学があるのは宝だが、学歴があるのはゴミだ。

実際わたしは、丸の内で働き始めたとき、国立大学を出て総合商社に勤めているというと無駄な女が寄ってくるので、「地方の大学を出て貿易の仕事をしている」とごまかしていた時期があった、さらにひどいときには高卒を自称したり、果ては「十八歳までフィリピンで殺し屋をしていた」というようなデタラメを言いふらしている時期もあった/何なんだ「歴」というのは、何度も言うようにわたしはこれまでに文章を書いたことなんかないし、パーティを主催したことなんかないし、ワークショップなんかやったことはない、わたしに歴はゼロだ、そもそも女性とデートしたり付き合ったりしたことさえない。
わたしには歴がゼロで、つまり令和二年の二月十一日まではわたしは生きてもいなかったし存在もしていなかったから、この二月十二日だけがすべてなのだ、そして明日なんて日は永遠に来ないだろう、それで自動的に全身全霊になるよりない、昨日までのことや明日のことがあるような気がしているのはただの「妄想」だ、すべてはおれの妄想にすぎないので、おれはおれの何を訊かれても「知らんわ」としか答えられない。
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全身全霊でいこう!2
身全霊の特徴は、「知らんわ」ということにある。
サッカーワールドカップで優勝したチームに、直後「試合を振り返ってみて、いかがでしたか」とレポーターが訊いても、選手はただちに「知らんわ」と思っているだろう、ただあくまで選手たちは真摯としてリップサービスを欠かさないだけで、選手は内心でことごとく「知らんわ」と思っている。
彼らにレポーターが詰め寄っても、彼らは「知らんわ」と思っているだろうが、サッカーボールを投げ込めば、やはりただちにトラップしてリフティング等の玉蹴りを始めるだろう、飛んできたボールには無条件で全身全霊で向き合うのが彼らだ、それが何であるかを他人にわかってもらう必要がない/彼らは詰め寄ってくるレポーターは「知らんわ」で、ただ自分に飛んでくるボールにだけただちに全身全霊になるのだ。
だから、試合後はレポーターのほうが興奮していて、選手は興奮していないのでチグハグになる、このように全身全霊の特徴は「知らんわ」にあり、また「興奮しない」というところにある、レポーターの側はただの見物人と、イケている仕事ぶりをして評判をよくしようという意識しか持っていないので、昂ぶった意識と「興奮」を特徴にしている、われわれは誰だって試合後の選手になりたいと思い、試合後に詰め寄ってくるドンズベリのレポーターになりたくないと望んでいる。

全身全霊でいこう、というのは、「目の前のことに」という但し書きがつく。
目の前のことに全身全霊100になるので、それが済むと、直後にもう0になる、だから「知らんわ」になる、いわば「0知らんわの法則」と呼んでもいいだろう、0だから興奮もしない。
この「全身全霊100」になれない人は、埋め合わせのごまかしに「ヒステリー」を使う、だから「興奮」するし、とにかくそのことについて後日になってもしつこく言い立てようとする/全身全霊なんて誰でも観ていりゃわかるので、それが成り立たない人は単純に「ヒステリー100」なのだ、思い浮かべたイメージや思念に100%取り憑かれて、そのことで目の前にあるものから逃げようとする。
そして、なぜ目の前のものに全身全霊100になれず、結果的に全霊0のヒステリー100になるかというと、あくまで自分の「名利」から離脱できないからだ、どれだけ全身全霊になろうと思い詰めても、けっきょくは自分の名誉や利益に対して全身全霊になろうとしているから、話の土台が狂っている/「目の前のもの」に対して全身全霊になろうというのに、土台がずっと自己名利なのだ、けっきょく目の前のものなんてどうでもいいと思っていて、すべては自己名利への手段でしかないという人柄なので、そういう人はヒステリーに走る。

困難を突破して「知らんわ」と言え。

たとえばむつかしい本を読破するとか、難曲を暗譜するとか、オリジナルで十万字の小説を書いてみるとか、関節の六カ所を解放してすべてを同時に連動させるとか、五十人でやる舞台を完成させるとかだ、それらを突破した上で「知らんわ」と言え、 YouTuber が教える化粧動画を観て化粧の勉強をするのは何も悪いことではないが、そこには突破すべき困難や全身全霊を向ける何かはない。
いわゆる「達成感」というようなものを重視する人もいるが、こういう人は全身全霊ということに興味がないのだ、達成感というのは「全力」のものであって「全霊」ではない、ベンチプレスで150kgを持ち上げるのはひたすら全力であって全霊ではない/達成感を重視する人はよもやその達成を褒めそやされて「知らんわ」とは言わないだろう、もし 42.195km を完走したいのなら田舎に出かけて距離を測って走ればいいだけなのだが、それでは「達成感」が得られないので彼らはマラソンレースに出場して完走することを目標にするだろう、彼らは自他に「完走しました!」と胸を張って言える達成感を求めているのであって、むやみに長距離を踏破することに自分かぎりの全身全霊を向けているのではない、おそらく彼らは「全身全霊」という現象を生涯に一度も知ることがないだろう(それが別に悪いわけではない)。
できるオンナだね | comments(0) |
全身全霊でいこう!
つもややこしい話ばかりしているが、たまにはこうストレートにも言ってみる。
そもそも、常に誰もが全身全霊を振るっているなら、おれは何もややこしい話なんか持ち出さないのだ。
全身全霊でいこう、ただし、目の前のことに全身全霊でいこう、ということになる。
どういうことかというと、初音ミクを聴いているときは、親兄弟のことなんかすべて捨てろと言っているのだ、目の前のものに全身全霊になるってそういうことだろ/いまどき初音ミクはもうたいがい古いという気もするのだが、その後につづくブームを知らないので古いのはしゃーない、ご容赦ください。

たとえば海外旅行にいったとして、行ったからには帰ってくるな、三泊四日で行ったなら、その期間は一ミリたりとも日本に帰ってくるな、連絡を入れるのはいいにしても、フランスに行ったら三泊四日は親兄弟も天皇も選挙権も捨ててボンジュールになれ、ボンジュールとして連絡を入れたまえ、そうでなきゃ意味がない。
そしてフランスに行ったって、目の前にあるのは石畳で、目の前にいるのはよくわからん白人か移民なのだから、目の前の石畳とよくわからん移民がすべてになれ、それが全身全霊ということだ。
もちろん、どこの国のどんな場所に行ったって、愛する人のことは何も変わらないのだが、それは愛する人が自分の霊魂そのものだということだ、だからそのことは全身全霊と矛盾しない/全身全霊というのは必ずしも自分の霊魂だけという意味ではない、愛して尊ぶすべての人の霊魂も含めて「全霊」だ、そのあたりおれなんか全霊というとおれだけじゃないどころか一種の "軍勢" になっている。
今日は令和二年の二月十二日だが、この日はもう未来永劫戻ってこないのだから、全身全霊でゆけ、何もフランスに行ったときだけ全身全霊になる必要はない、ひらがなの「あ」を書くときだって全霊をそこにブッ込むのだ、他のことはすべて捨てろ、親兄弟の生も自分の生も全部捨てろ、全身全霊というのは、全身全霊以外のことは何一つやらないということだ、令和二年二月十一日までのことはすべて焼却して灰にしろ、「そんなものはなかったのだ」と。

全霊で飛び出して、全霊を吸い上げてこい。

そうしたら、感想を言うヒマもなくなるし、何かを聴いてもらうという発想もなくなる、ミカンを食いながら「それでさあ」なんてつまらないこと、これまでにB’zが歌ったことがあったか? ミカンを食うならその一房ごとに全霊になれ、全宇宙の霊がそのミカンの一房だけを全宇宙として食え、すべての時計とカレンダーを爆破しろ、興奮はすべて0.2秒前のくずかごに入れて業者が回収済みとせよ。
全身全霊のいいところは、何かを否定したり、何かを肯定したりしないところだ、フランスがどうだったかなんて考えなくなるのだ、それは日本がどうなのかなんて考えないことと同じで、また二月十二日がどうなのかなんて考えないということ、そんなヒマはどこにもないということだ、ただ全霊で飛び出して全霊を吸い上げてくるだけ、他の余地は一ミリもない。
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手入れと装飾
「手入れ」と「装飾」は別だ。
どんな庭でも手入れをしていないと、落ち葉だらけの雑草だらけになる。
一方、庭に金ぴかの灯籠を置きまくるというのは、装飾であって手入れではない。
女性が髪を切って爪を整えて化粧するのだって、手入れという側面があり、また装飾という側面もある。

基本的に、人は己の身ひとつで勝負するつもりでいなくてはならないから、装飾に頼るのは誤りだ、装飾してはいけないということではなく、装飾に "頼る" のが誤りということ。
単純に言って、化粧して十万円のドレスを着ていて「魅力的!」という女が、化粧を落としてジャージを着た途端に「魅力減!」というのでは、話としてバカバカしすぎる/舞台でライティングとズンドコ音響を受けているときは「かっこいい!」となって、化粧を落として路上で見たら「凡人!」というのでは、要するに単なるフェイクになってしまう。
マイケルジャクソンのプライベート映像を観ても、やはりそれはマイケルジャクソンにしか見えないし、桑田佳祐のプライベート映像だってやはり桑田佳祐にしか見えないのだから、すべての人はそうあるべきだ/装飾に頼った途端「○○!」に見えて、装飾を除去したら「○○に見えない」というのでは、フェイクだということ、それは装飾を使っているのではなく、装飾で人をダマしているだけだ。
一方、そうした装飾を否定するとして、一切の「手入れ」までしなくなる人がいるが、それは傲慢だ、手入れなしで様式を保てるものといえば大自然しかないのだ、ただの一個人が大自然ぶるのは不遜というもの/おれも人のことはいえないが、手入れはちゃんとするべきものであって、一方で装飾を加えるにしても、よりその人が「○○」であることが見えるようにするべきであり、ありもしない人物をフェイクで作り出すのは正しい装飾ではない。

誰でもない者が、装飾でごまかすことはできないし、また「手入れなし」でごまかすこともできない。

装飾でフェイク人物を作り出すのはごまかしだし、「手入れなし」で無頓着ぶるのもまたごまかしなのだ、それは「ありのまま」という思想を資格無しにイージーに標榜しているにすぎない。
装飾しないと「恥ずかしい」「負ける」と感じる人もいるだろうし、「手入れなし」と言い張るしか恥ずかしくない方法がないという人も多いだろうが、それらはすべて偽装であって、つまり「なぜわたしは恥ずかしい本体なのだろう」と考えねばならない、それを取り繕う方法は "無い" のだ/「どうすればいい」というのではなく「どうにもできない」ということ、己の恥ずかしさに耐えるしかないのだ、そこにフェイクやごまかしを取り除いてはじめて自分に向き合うことができ、そこから何年でも生きる値打ちが出てくる。
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頭の悪い人は「納得する」、頭のいい人は「仮説を採る」
とえば、「人を愛しているなら、その人の幸福を最優先に考えるべきだ」と言ったとする。
このことは、まあ当たり前の論理なので、「そりゃそうだね」「なるほどね」「同意、同感」と納得する。
けれどもここで「納得」する人は、実は頭の悪いタイプだ、頭のいい人は万事その「納得」を採らない。
もちろん、さらに頭が悪い人にとっては、こんなことでさえ「深いね」と言ったりするし、さらに性質まで悪くなると、当たり前のことにさえ難癖をつけたりし始めるが、そういうたぐいはもうお話にならないので、捨象して話を進めます。

頭のいい人は、「納得」ではなく「仮説を採る」という脳みその使い方をする。
「人を愛しているなら、その人の幸福を最優先に考えるべきとして、ということは……」と、提示された仮説に則り、自分の発想構造がどのように変化するか、仮説を採用した上での自分自身を実験してみようとする/たぶんこの時点で、納得派、頭が悪いタイプは「???」となってしまうが、それはしょうがない、「仮説を採る」という知性じたいに及んでいない場合もある。
あるいは、「小さいヤカンより、大きいヤカンのほうが、暖めにくいし、冷めにくい、これを二乗三乗の法則という」と言ったとして、頭の悪いタイプは「へえ、そうなんですね」と大いに納得する、頭のいいタイプは「ということは……」と、頭の中でヤカンを探す、何なら台所に立ったとき、「そうか、こちらのヤカンを満水にして湧かしたほうが冷めにくいんだ」とし、発想の変化から実際の行動と選択が変容することを愉しむ。
「人を愛しているなら、その人の幸福を最優先に考えるべきだ」と言ったとき、頭の悪いタイプは「そうですよね」と納得し、その納得のカンタンさに満足してオワリになる、頭のいいタイプはここで「ということは……」と、仮説を採った自分を作りだそうとすることで、発想の変化、および行動と選択の変容を手探りし、逆に「あれ? これすっげえむつかしいぞ」と愉しみだす/こうして頭の悪いタイプは万事を納得したまま知識が完成し、実際には何ら知性のはたらいていないボーッとした自分を生きるのに対し、頭のいいタイプは、万事について仮説を採って己を試しているので、いつも「うお〜これはむつかしいぞ〜」という困難とレベルの壁にぶつかって生きている。

頭の悪い人は、漠然と「何でも出来る」気がしながら生きていて、頭のいい人は、いつもはっきりと「こんなこと出来るわけあるか〜!」と笑って生きている。

たとえば「生存本能が魂と命の邪魔をしている」と言うと、頭の悪いタイプは「そうなんですね」と納得し、「生存本能はダメだぞ」というようなことを念じたりイメージしたりして、もちろんけっきょく何も起こらない、そこで頭のいいタイプは、「ということは……生存本能がないわけだから……」と考えて、「えっ、こんなん無理ですやん」とその仮説のえげつなさにビビり、さらに実際にその現象が目の前で実演されると「マジかよ、ありえんわ」と驚愕して笑う。
こうして一般に、自分をそれなりに優秀だと思っている人は、単に「仮説を採る」という知性がないために、なんでも自分が納得したらそれが完了だと思っているから、次々に納得する自分を知性として優秀だと誤解しているのだ、だから頭の悪いタイプに「超弦理論によると、この宇宙は11次元らしい」と言うと、「そうなんですね」と納得して終わるのに対し、頭のいいタイプに同じことを言うと、「……ということは」となり、次いでそれが理解を超えるので「ええ……うおおおお、ああああ」となる、このことを頭の悪いタイプはまったくわからないので、驚愕してうおおおおああああとなっている人を、わけもわからずニコニコした顔で眺めている、そういう人はそもそも「知性」ということについてのこの仮説さえ採れないものだ。
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恋あいの仕方2
たしが己の恥辱を恐れるより、公益に与したほうがマシだと考える由にて、最もわかりやすい、また事実としてわたしが繰り返し体験してきたことについて述べたい。
ここにA子さんとB男さんがいて、両者は恋仲に進む由はあらず、それどころかしばしば両人は個人として恋あいには無縁なたちで、願望はあれどもそういった色恋沙汰とは無縁で来た/無縁で来たということは、無欲で来たということではなく、むしろ膨大な欲を抑圧して、その自覚がないまま神経を閉じ込めてきた。
このA子さんB男さんのところに、わたしが参じると、わたしの与える影響によって、A子さんはよく笑い、はしゃぎ、解放され、一時的にうつくしい者としての姿を顕す、またB男も意欲に燃え、よく笑い、傲慢を避けて素直になり、美徳のある青年の姿を顕す。
ここでA子とB男は、知らず識らず接近していくことが多く、場合によってはそのまま交際に到りもする、けれどもこのときすでにA子もB男もわたしの影響下から離れているので、もともと縁のない両者が付き合っているにすぎない、それでお互いの時間を虚しくする、わたしはこの例をあまりに多く見過ぎてきた

潜在的な傲慢があるので、A子はそのとき解放された己のありようを、あくまで自分の功績だと思い込み続ける、A子はその後ずっと、「わたしは本当はもっと解放的で、よく笑ってよくはしゃいで、明るい魅力的な人なの!!」と思い込み続けるのだ、そこにわたしの解放的影響があったということを、A子はわずかも認めない、まるで傲慢の悪魔ルシファーと契約したように、A子はそのことをすべて自分の功績のみだと言い張る。
B男も同様で、B男は美徳のある青年の姿を、あくまで自分の真の姿であるとし、己の功績としてその真の姿があるのだと言い張り、むしろその姿が現れないのは、周囲の抑圧のせいで、自分は被害者なのだと言い張り始める/A子にせよB男にせよ、彼らは本当に、一時的解放に誰かの扶(たす)けがあったということをまったく知らないし、まったく気づかないし、そう教えられてもまったく認めようとしない、それは彼らがこれまで傲慢の主と契約して生きる力を得てきたことで、その契約に拘束されているに他ならない。
A子とB男は互いに解放された麗々しさを己の本質・己の功績だと思っているので、互いに接近し、これまでの抑圧が噴き出すのもあり、互いに有頂天になる、そしてこの二人は自分たちではまったく判断の利かない、正体の視えようもない、罪の重さと暗い闇に引き込まれていくことになる/そして手続き上、この二人はもうどちらも、元あった場所には戻れなくなる。
A子とB男はそれぞれ、1.祝福にまみえた結果としての美性の解放・接続を失い、2.美性の解放・接続を己が功績と言い張る傲慢の罪を犯し、3.互いを祝福から切り離すという罪を犯し、4.何より二人に祝福を与えた主を勝手に「仲人」扱いして引き払わせたという罪を犯すことになる、当人らが有頂天のさなか本当にはこうしたことが起こっているのだ、わたしはこの例をあまりに多く見過ぎてきた。

有頂天になるのは、それが盗品だからだ。

想像してみればわかるとおり、金持ちが高級車を購入しても、それは当たり前であって有頂天にはならない、けれども食い詰めた者が、高級車を窃盗して乗り回すとき、自分が自由と超越的な力を得た気がして有頂天になるだろう/恋愛に発生する有頂天は、そうしてそれが盗品であること(自分のものではないこと)に由来して発生している、だからその交際がしだいに自分のものになっていくとき、有頂天が終わって「冷めた」となる。
相互が正しく作用して、つまり自分が相手をうつくしくし、相手がまた自分に美性と勇敢さを与えてくれるとき、まかりまちがっても「有頂天」などという浮かれた状態は発生しない、わたしはこの例をあまりに多く見過ぎてきた、恋愛に縁のないものが恋あいを獲得したふうに誤解して、それが自分のものでないがゆえに浮かれて有頂天になり、多大な罪を犯し、もう二度と光ある道には戻ってはこられなくことを、傲慢の悪魔と激情の悪魔、またひがみの悪魔が仕掛けたままになぞっていくのをあまり多く見過ぎてきた。
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恋あいの仕方
女どちらであれ、いきなりきれいなもの、いきなり素敵なものを掴もうとすることで、闇が始まる。
いきなりきれいなものが掴めると思っているので、エセの「きれい」が濫造され、流通し、ニセモノ・ハリボテを掴まされ、闇が拡がっていく。
男は出会った女をきれいにしなくてはならないし、女は出会った男を勇敢に輝く男にしなくてはならない。
恋あいというのは、きれいどころが「おっ」と引っかかって、イイ思いをするのではなく、出会うことによって互いがうつくしくなり、そのうつくしくなった者同士が結ばれるのだ、形態の問題じゃない、本当の「あの人のおかげ」で結びついているもので、これを知らない者は生涯迷惑ピエロになる。

どこか魂に突き刺さるような、「なんだこれは」と思えるほどうつくしい女性に会った場合、最も愚かしい男性ほど、それを運命の出会いだと誤解する/本当に誤解する、これが最も愚かで醜い男の姿であり、このことは若年のうち(せいぜい二十歳まで)に収まらねばならない。
そうしてとてつもなくうつくしい女に出会ったとき、「誰と出会ってあなたはそのようにうつくしくなったのか?」と訊けば、答えてもらえるかどうかは別として、彼女の内心には「あの人のおかげ」というのがただちに浮かんでいる。
それは、その女性が「あの人」と呼ぶその人とつながっているから、彼女はうつくしいのだということで、いわば神泉の水源につながっているからこそ極端にうつくしい睡蓮なのであり、それをつまみ上げて我が土壌に植え込んだとしても、たちまちうつくしさを失って萎れていく/最も愚かな男は、このことを知らないので、うつくしい睡蓮をつまみあげて我が物にしようとするのだ、この男が収まらない場合、この男は多大な破壊と、それに伴う重大な罪を犯す。
対象が男性の場合も同じで、魂に突き刺さって離れないほどやさしく雄大で愛に満ちた男は、必ず「誰と出会ってそのように雄大になったのか?」と訊けば、答えてもらえるかどうかは別として、彼の内心には無数の思い出が浮かんでいる、それは誰か友人のおかげであり、先輩のおかげであり、先生のおかげであり、女のおかげだったりする/だからそのうつくしさへのつながりを断って、つまみあげて奪ってゆき、自分のものにできるかというと、構造的にそうはならない、つながりを断って奪ったとしても、そこには愚鈍で退屈なふつうの男が残るのみだ、最も愚かな女はこのことを知らないので、やはり生涯迷惑ピエロになってしまう。

神泉の花を摘んで帰っても、その花は水道水の瓶に生けられ、半年でただの雑草になり、代わりに重大な罪だけが残る。

だから、恋あいの仕方と言うならば、己を水源として、己の水源が彼を(彼女を)うつくしくした場合、それをもってつながりと為せばいい、そのことが成り立った場合、わざとらしい恋愛風情にしなくても、互いには事実として魂のつながりを得ているので、飾り立てた演出のような恋愛は必要なくなる/そしてこうして得られたつながり、互いをうつくしい者にした恋あいは、互いの誇りであり、表面の装飾が要らないぶん、表面をどう掻き回されても、互いのつながりは水底で静かにありつづけて消えない。
恋あいの仕方と言うならば、ただ「あなたは誰をうつくしくしたか」「あなたは誰によってうつくしくされたか」ということを、訊き確かめるだけでよい、自身についてそれを訊き確かめたとき、あやふやな、もしくは偏狭な思い込みを言い立てようとするならば、あなたはこれまでに恋あいの経験は無いのであり、それ以上に重大な愚かさへ踏み出そうとしているばかりだ/それ自体が麗しい「恋あい」という仕組みに、自分だけは与したことがないのではないかという、重大な恥辱のおそれが、そのまま己の真実であり、だからこそ受け容れることができないでいる。
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あなたが活躍するということ
験勉強が大変だと感じる人へ、たとえば大学受験が大変だと感じるなら、自分で大学を作ることを考えたらよいでしょう、そうすればそちらのほうがはるかに大変だということがわかると思います、あなたは人の作った制度に参加させてもらうというだけの楽な立場です。
カフェで MacBook を開いて作業していると、気分が盛り上がるという人へ、あなたはきっと、その MacBook を作り出せる人ではありません、それどころか一個のICだって発明できないでしょう、あなたは人が作りだしたものを気楽にいじっているだけです、そう考えると冷静になれると思います。
リッター超えのバイクや、スポーツ用の車を駆って、峠を走ると自分が速くなったように思うかもしれませんが、それは乗り物が速いのであって、あなたが速いのではありません、あなたが速いと思うならただちに乗り物から降りてください、そう考えれば冷静になれると思います。
あなたは、快適な環境や、すぐれた性能のもの、またうつくしい作品や技術に触れると、それが「あなた」だと錯覚します、あなたの触れるすべてのものは、基本的に他の誰かが作ったものです、それをありがたがれということではありません、あなたではないものをあなただと錯覚しないでくださいということです。

受験勉強がしんどくて、ついカフェに出向き、 MacBook を開いて、趣味でやっている動画編集作業に耽ってしまう人がいたとします。
この人は、「つい、そちらのほうが楽しくて」と考えていると思いますが、そうではありません、趣味でやっていることが楽しいのではなく、自分を誤解できることが楽しいだけです。
快適な環境にせよ、すばらしい性能のものにせよ、それを購入すれば、あなたはそれを所有することができますが、あなたはそれを所有できるのみであって、それは「あなた」ではないのです、楽しいふりをして、ただ自分を見なくて済むということを、自分の趣味にして笑っていないでください。
同じ楽しむなら、環境や製品の性能ではなく、他ならぬ自分自身を見て楽しむようであってください、受験勉強の机の前でも、畳の上で修行しているときでも、アルバイトでレジに立っているときでも、他ならぬ自分自身は、ずーっと変わらず自分自身のままです、環境を変えても自分は変わっていません、本当のわたしというのはいついかなるときもあなた自身から離れてはいません、たとえ黄金郷にたどり着いたとしても、あなた自身は何の変化もしていません、あなたの気分の変化はあなたの変化ではないのです。

勉強が進まないのは、あなたが活躍していないからです。

あなたはひょっとすると、誤解をしていて、おしゃれスポットに行って写真を撮り、それをSNSに上げて数百の「いいね」をもらうことが、あなたの活躍だと思い、またそのように感じているのかもしれません、けれどもそれは誤解です、なぜならその「いいね」は、他の美人がそこに立って写真をアップロードしても同じだけ「いいね」がつくからです、あくまでSNSのアカウントに「いいね」がつくだけです、あなた自身は何も変わっていません/SNS側がアカウントをBANしたらすべてのいいねは消え去ってしまいますので、それはあなたのものではないのです。
一方、あなたが勉強し、あなた自身に勉学が身につくことは、他の何物とも関係ありません、他ならぬあなた自身にそれが身につくということです、仮に周囲があなたを罵ったとしても、あなたが身につけた勉学はあなたの身から消えてなくなりはしません、だからそれこそが「あなた」の活躍に他なりません/あなたは受験勉強がしんどいのではありません、いつまでたっても活躍しない自分自身を見ているのが苦痛というだけです。
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用事のない人を冷静に判断すること
れはブスには用事はないし、ダサい奴にも用事はない。
大量のカネをくれる人には、用事がある……ように見えるが、それも正確じゃない、大量のカネをくれる人はさっさと振り込んでくれたらいいのであって、別にそいつはサバンナでキリンに踏まれて客死してもかまわない、だからその人自身に用事があるわけではない。
ダサいものはダサいと否定し、ブスはブスだと否定すること、それは感情的に否定するということではなく、冷静に判断し、冷静に決定するということだ。
ダサいものはダサいと、本当にちゃんと判断しないと、やがて自分がダサいものになってしまう、おれはブスになりたくはないし、キリンに踏まれて死にたいとも思わない/その判断に一ミリグラムでも感情や執着が入り込むとそれだけで人は行方不明になってしまう。

おれは意地悪を言っているのではない、ただどうせ物申すなら、すべての人が、なるべく「本当に用事のある人」になりうるよう、提供できる情報の精度を上げようとしているだけだ。
おれが用事のある人といえば、単純に、おれの偉大さが視える人だけだ、それはおれの偉大さでなくてもよく、何かの「偉大さ」が直接視えているなら、それだけでその人には用事がある/つまるところおれは、しょーもないものとなるべく縁を切りたくて、偉大なものとなるべく接続を得たいのだ、それは考えてみたら誰だって当たり前のことではある。
たとえば海外旅行にいくのに、まったく偉大さのない国に行くよりは、何かしら偉大さのある国に行きたいはずだ、われわれが観光旅行で世界遺産に行ったり、サハラ砂漠に行ったりガンジス川に行ったりタイムズスクウェアに行ったりするのは、そこに何か「偉大さ」を見いだしてのことだろう、アンコールワットとヤマダ電機店舗だと、どうしてもアンコールワットのほうが偉大なので、人はわざわざパスポートをとって海外のヤマダ電機にいこうと思わない(もちろんそれはヤマダ電機が悪いわけではまったくない)。
何の偉大さにも接続していない人に、おれは用事はないし、そもそもおれの偉大さがまるで視えない人は、おれに対しても用事なんかないはずだ/それでもたとえば、人は老人になると、漠然と近所づきあいや飲み友達のようなものを作りはじめるが、それはつまり、何の用事もない人に対して、それをまったく気にせず自分だけ楽しめる人がいるということだ、それは最終的にそちらのタイプのほうが冷酷なのだと思う。

どれだけすぐれた娯楽でも、今のところ娯楽に「用事」はない。

これは当たり前のことを言っているようだが、そうでもなくて、実は世の中には、娯楽とガマンを往復しているだけという人もいるのだ、何の偉大さもない出勤をして、帰宅すると何の偉大さもない娯楽に耽る、という人がけっこう多い、そしてそのまま何十年も変わらず過ぎて、そのまま老人になる人というのも実に多い/そういう老人は本当にもう何も視えていない目つきになっている……きっと、用事のないものをそうと冷静に判断せず、そのまま何十年も放置していると、自分が究極の「用事のない人」に成り果てるのだろう、何かに用事があるという感覚そのものが完全に消滅して視えなくなるのだ。
おれはふだん、何かに用事があるつもりで生きてはおらず、「何にも用事はないから、タラタラ〜と過ごしたいぜ」と思っているのだが、けっきょくは各シーンで、それこそ朝起きた瞬間から、何かに首根っこを掴まれて、何か偉大なことにむけて命を尽くすことをやらされている/おれみたいな者は、やる気をもたずタラタラしているくらいでちょうどいいのだろうが、それにしても気がつくといつも、何かに支配されてギリギリまでやらされている、そして数ヶ月か数年すると、「あのときのあれがすべてだった」と、そこにすさまじい用事が密集していたことに、後になって気づく。
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コンテンツブロッカーのすすめ
ういえば先日、偉大なるおれさまを祝福するために、民草どもからiPadの奉納を受けたのだった、ちょうど以前のタブレットを紛失して困っていたところだ、おれはiPhoneだしタブレットはやっぱiPadが便利でいい。
で、iPadを使ったときに思ったのだが、久しぶりに何のブロッカーも入れていないブラウザを開くと、どのサイトも馬鹿デカい広告ばかりが表示されて、一瞬本当に、iPadが壊れたのかと思った、そして直後、「あ、そうか、ふだんは広告ブロッカーを入れているからすっかり忘れていたが、本来はこうして広告まみれなのだったな」と思い出した。
そんなわけで、急に別の話になるが、ひょっっっっとしたら知らない人もいるかもしれないので、インターネットを見るアプリ(ブラウザ)には、各種のコンテンツブロッカー、広告ブロック、アドブロックを入れましょうということなのだった、こういうのはどこかの誰かナイスな奴がナイスなアドオンを作成してくれているものだ。
PCのブラウザ、Google Chrome や firefox なら、そのまんま「アドブロック」と「アドブロックプラス」がいいし、iOSで使われている safari なら、「280blocker」というのが最終的に具合がよくて、僕は使っている、即検索しろ/もちろんブラウザの広告をブロックするだけなので、YouTubeアプリ等の広告には干渉できないが、とにかくコンテンツブロッカーなしにウェブ閲覧をするなんて現在の僕には考えられない、久しぶりに広告の嵐を見たら、本当に「こんなん頭おかしなるで」と思った。

インターネットの各コンテンツが、広告料によって成り立っており、うんたらかんたらと、そういう話はわからないではないが、とりあえず実際に表示された広告を見た瞬間、僕は「げっ」としか思わないし、「こんなん広告でも何でもないわ」「頭おかしいやつや」としか思えない/そう思ってしまうものはしゃーないだろう、なぜおれがウェブページを開くと、乳デカアニメ女の映像がガッツリ表示されるのだ、意味がわからん、何の用事もない乳を断りなしにブッこんでくるな。
もちろん僕がふだん、スケベサイトを閲覧しているから、その情報がトレースされて、僕に向けのスケベ広告が選ばれて表示されているのだろうが、それにしても知らん、乳に用事があるときはこちらから行くので、勝手に割り込んでくるな、用事のないときに乳を出されても無関心だし、そもそも乳を広告に使うというのは用途として誤っている。
これまでのところ僕はウェブ広告をクリックしたことはないし、クリックした先で何かを購入するということもありえない、もしユーザーの全員が僕なら広告の効果は「購入者ゼロ」ということになるはずだが、実際にはそれなりに効果があるから広告を出しているのだろう/おれはエロサイトのエロコンテンツを漁るが、それを購入するということはないので、広告はやめてもらえないだろうか、そういえばそもそも僕は広告に影響されて何かを買うということがまったくない、近所のスーパーの特売チラシぐらいしか広告というのは僕の側で採用していない。
広告にしてもそうだし、そういえばSNSにしてもそうだが、万事において「向こうから勝手に割り込んでくる」という手法が多くなった、まあ営業というのは基本的にそういうものかもしれないが……その点おれのこのブログなどは、どう更新しても誰のところにも何のお知らせもいかないのだ、あなたの側から用事があって来訪しないかぎり、こちらの側からの割り込みはない、全員このスタイルにしてみてはどうか(否)/僕の本サイトとブログは2005年くらいからあるのだが、当時はまだウェブ上に広告という概念はほとんどなかった、若年の方は知らないだろうが、インターネットにもかつて営業性のないユートピアみたいな時代があったのだ。

コンテンツブロッカー(広告ブロッカー)を入れると、ウェブは快適になり、そのぶん世の中を誤解する。

事実、僕はそのことによって、世の中を少し誤解していたので、ブロッカーがないブラウザを開いたとたん、「うわあああ」となったのだ、そちらのほうが世の中の実態だから、リアルに生きたいぜという人は、ブロッカーなんか入れないほうがいいかもしれない/おれはその点、リアルとかどうでもいいので、快適さのためにブロッカーを入れさせていただく、うーん世界中で広告そのものを禁止にできねーかな(否)。
テレビを観ているときは、広告が入っても何も思わないのだが、いまだにYouTubeを見ていて、広告が入ると「うわっ」とびっくりする、それはつまり、テレビを観ているときの僕というのは相当に受け身というか、受動的・消費者的なのだろう、それ以外のときは常に僕は能動的なので、自分がアクセスした覚えのないものが割り込んでくると、第一に「うわっ!?」「誰だテメー」と驚いてしまう/広告が出るたびに「うわっ!?」と驚き、そのたびに「あ、広告か」と理解しなおしているのだった、
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否定するべきを否定すること
定するべきものは、きっぱり、はっきりと否定する。
感情的に、「否定的」になるのではなくて、はっきりと否定する、それは No というより Nothing に近い。
今、たとえば二年前に流行したものについて、誰が追いかけ続けているだろう、今誰が「アナ雪」を大切に抱えているのか? そうして二年後にはきれいさっぱり消えているものを、二年前はチヤホヤしていたということは、単に二年前に「判断ミス」をしていたということだ。
僕の話だって、二年後には消えてなくなるものなら、今このときに Nothing と判定したほうがいい、そうでなきゃただの判断ミスだ/あるいは、僕のしょうもない話が、なぜか二年後にも残って何かを教えるようであれば、それは二年前にハナクソをほじって聞いていたのが判断ミスということになる、こんな判断ミスをてんこもりに許したままではまともに生きていけるわけがないので、われわれはこの肯定と否定にもっとシビアになる必要がある。

否定するというのは、感情的にすることではないし、否定するというのは、人のことを否定するのではないのだ、むしろ目の前にあるものが本義的に「人」のものではないから、それを否定する/まあ、何を否定しきるかということ、何を否定しきれるかということが、その人の魂の限界を示しているから、これは各人が己の器量として背負っていくしかないことではある。
ここでいう否定というのは、攻撃ではなくただの Nothing なので、たとえば古い同級生のようなものだ、芝居がかったキャラが記憶に残っている○○くんは、何かあったのかというと別に何もなかったので、 Nothing だったということ、こんなものは初めから Nothing だと見えていなくてはならない。
仮に、テレビに10のチャンネルが映るとして、われわれは同時刻に一つのチャンネルしか観られないのだから、一つのチャンネルを観ているあいだ、残りの九つのチャンネルは Nothing だ、そして自分の観ている一つのチャンネルだって、ひょっとしたら Nothing なのかもしれない、じゃあ全部 Nothing ということなので、その判断をミスらないこと、どれだけ肩入れしても最終的に「やはり何もなかった」という結論を得るのは同じだから、なるべく時間の無駄をしないうちにさっさと正しい判断を得ること。
世の中に、わかるもの、わかりやすいものはたくさんあるが、わかるものはすべて比率(ratio)であり、その比率の幻惑が消えるともともと Nothing なので、わかるものはイコール Nothing だ、だからわからないものだけを肯定し、わからないものだけを追いかけ続ける必要があるが、これは自分という主体そのものが「わからないもの」で構成されていないと成り立たないのだった、「わかる自分」は必ず Nothing たる ratio しか追いかけない、そしてすべてを時間の無駄に終わらせてしまう。

なぜ否定せねばならないかというと、潜在的に「敵」だからだ。

人が敵そのものではないが、人ならざる「敵」が含まれているということだ、その敵を Nothing と断定してしまうことに、最善の果報がある/古い同級生の○○くんは、芝居がかったキャラが記憶に残っているが、この記憶は本当にただの記憶でしかなく、本質的に Nothing で、うかうかしていたらその「敵」にそれなりの損傷を負わされていたということだ、他ならぬ○○くん自身がその損傷の被害者なのでもある。
われわれは、人と敵対する必要はないが、人ならざる敵にいつでも食い込まれそうな中を生きているので、早期に、否定するべきものは否定するという、判断力を持たねばならない、この「人ならざる敵」は Nothing と扱う以外には無力化できない/この「人ならざる敵」は、本質的に Nothing なだけに、とにかく "印象的" に残ろうとする、そういう作用に長けているのだ、その印象の強さは Nothing の証左でもあるので、初めから冷静に見抜いているべきだ、 Nothing が「印象的」にはたらきかけるというのは、アイドルのパフォーマンスでもババアの陰鬱でも同じだ、そこには「人ならざる敵」が含まれている。
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ダルさと出来事
れだけ有用なことでも、自分のやるべきことではない、という場合がある。
その場合は、どれだけ有用なことでも、なぜかやっていてダルいというか、眠くなる。
自分のやるべきことではないという場合には、二種類あって、ひとつには「お前はそんなことしなくていい」という場合と、「お前にはそんなことをする資格は無い」という場合がある。
たとえば現代の場合、勉強して遊んでデートして、ということのすべてが、内心ではダルいし眠いということがある、そのとき可能性のひとつは「お前はそんなことしなくていい」というパターンで、もうひとつの可能性は、「お前にはそんなことをする資格は無い」というパターンだ、そして残念ながら前者のほうにはなかなか当てはまらない。

色んなことが、ピンとこないというか、内心で「超ダルくね?」と思えるものだが、その場合、資格をそもそも得ていない場合が多い。
だから人々は、ソシャゲにハマったり、パチンコに行ったり、そうでなければ一日中寝ているのだが、それで正解というわけではもちろんない。
なぜ単純な退廃そのものが正解たりえないかというと、人は自分をやめることができないからだ、単純な退廃の先にどうなるかというと、「自分」がダルくなり、「自分」が眠くなり、「自分」がピンとこなくなる、そうするとその先はひたすら苦痛だけを抱えて生きていかねばならなくなる。
なぜ何もかもについて、どうしようもなくダルく、眠く、ピンとこないかというと、たいていは何かをする「資格が無い」からなのだが、なぜその資格がないかというと、やはり聞いていないからだな、目が覚めるというのは何かが聞こえるからであって、じゃあ何が聞こえるのかというと、一言でいえば「ハッピー」が聞こえなくてはならない、ああこの文章はまったくだらしないが、手続きとして非常に大きなところを捉えているのだ。

今日の出来事を聞け。

今日の出来事が聞こえていないのに、今日何かをすることはできない、今日何かをすることが出来るのは、今日の出来事を聞いた者だけだ/そして、今日の出来事が聞こえ、その出来事に入れたということがハッピーだ、空想をどうこしらえてもそのイメージが自分を真に潤すことはない。
どんなに有用に思えることも、どんなに立派に思えることも、どんなに真実に見えることも、あまり意味がない、少なくとも今日のあなたにとって意味がない、今日のあなたに必要なことは、今日の出来事が聞こえるということだ、それを聞きとろうとしているうちはダルさや眠さとは無縁になる(ただし体調の悪いときまで無理しないよーに)。
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中央のサービスを学ぶこと
バイル環境、スマートホンは応急的に復旧しました、以前のとおり連絡可能です。
で、キャリア側との契約があれこれあって、結果的に、 iPhone5s から iPhone5s に乗り換えることになりました……って、なんだこりゃ、楽しみがなさすぎて草を禁じ得ない。
去る一月に父が他界して、父が家族割プランで複数回線を統合していたから、その継承が必要で、「じゃあそうしましょうか」というと、たまたま一部の回線が「現在修理中」のステータスで、修理中ステータスのときは契約の一切が更改できないとかで……
しゃーない、要するにおれの本体が水没して壊れたのだから、新しい本体がありゃいいんだろということで、秋葉原の電気屋で売っていた中古のソフトバンクの iPhone5s を買って来た、これに元のSIMカードを差せばバッチリよ、いちおうたまに itune にもつないであったのでデータのほとんどもバックアップから復旧できた/けっきょく誰に相談するよりおれ自身の思いつきで行動するほうが早かった、初めからこうしてりゃよかったな(でもそれなりに iPhoneXR あたりにワクワクしていたのだが……(´・ω・`))。

今回は、前回の失敗も踏まえて、代理店ではなく直営店に行ってきた、もう二度とヤバいものは見たくなかったので、わざわざではあるが表参道の直営店に行ってきた、するとやはり万事の品質がまるで違って、手続きに不快さはなかった、まともな社会性のやりとりをしている心地があってホッとする。
キャリアにもよると思うが、表参道の直営店はホスピタリティが高く、ドリンクのサービスがあるし、ソファの品質も高く、試用のNetflixで映画視聴して待ち時間をつぶすこともできた、前日なら来訪をネットで予約もできるので、特に都心近くに住む人は、飛び込みで代理店に行くよりも合理的で快適な方法だと言える。
中古の iPhone5s の、元通り64GBのタイプが、なぜ6000円で手に入ったのかはナゾだ、中古品の尺度ではDランクとなっており、もっとガタガタのものをイメージしていたのだが、手に取るとどう見ても美品にしか見えなくて、何か知らんがラッキーだった。
というわけで、何についても思うが、なるべく社会的にはまともなものとだけ接触していたいのであって、あとはラッキーでなければ楽しく生きられないな、ということなのだった、もうこれ以上、「現実はこれぐらい精神的にヤバいぜ!!」みたいなものを目撃しても、何の足しにもならないということがヒシヒシわかる/こういうのはきっと、人生の分かれ道だと思うのだ、大げさに言っているのではなく、割とマジのこととして。

なるべく直営店に行け、それはかけがえのない社会勉強だ。

代理店の――すべてがそうではないと信じるべきにせよ――ありがちな悪徳業者の気配と風貌を見るより、直営店のまともな社会通念とコンプライアンスのありようを見るほうが勉強になるのだ、こういう勉強のチャンスを逃すべきではない/割と大真面目に、僕はこのことはきつめに言いつけたいのだ、中央のサービスを受けにいくのではない、中央のサービスを学びにいくのだ、中央のサービスを学ぶのに意欲的でない場合、それは当人の精神がすでに「田舎者」に固定されているとみなさざるをえない。
むかし、或る女子高生が僕を慕って、東京に修学旅行に行くことにつき、自由時間にどこに行けばいいかしらと相談されたとき、僕は「東京の大丸とか、銀座の三越とか、新宿の伊勢丹とかの、百貨店をうろうろしてこい」と言った、「都心の接客がどういうものか、どういうものでなければ通用しないのかを見てこい、若い女性店員が流暢な中国語で観光客に接するのを見て衝撃を受けてこい」/悪徳業者になった人は、七夕の短冊に願ったとおりに悪徳業者になったのではない、ただ中央レベルのものが身につかなかったので、悪徳業者にならざるをえなかっただけだ。
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自分で気づくべきこと

とえばここに、一人のおじさんがいて、路上でタバコを吸っているとする/そしてその隣には、一台の2tトラックが信号待ちしているとしよう。
もしその場所が、路上喫煙禁止エリアなら、おじさんのタバコは「煙たく」感じられるだろう/けれども、もしあなたの部屋に、おじさんと2tトラックのどちらかを置くとなったら、あなたはどちらを置くだろうか。
あなたの部屋に、1.喫煙中のおじさんを置く、2.信号待ち中の2tトラックを置く、という、二つの場合を並べたとき、とてもじゃないが2のほうは、生活するのは不可能なほど、部屋中に排気ガスが満ちてしまうはずだ/にもかかわらず、われわれは必ずおじさんのほうをだけ「煙たい」と感じる。
つまり、われわれの感覚は、先入観によって操作されているのだ、部屋に置くとなるとわかるとおり、実際の威力としては2tトラックのほうが遥かに強烈なのだが、何に目くじらを立てるかというと、「これに目くじらを立てなさい」ということを教育されている、あなたが自分で何も気づかなければ、そのテキトーな教育だけがあなたを支配し続けるだろう。

われわれの身の周りで、泥棒の被害に遭った人は案外多く、交通事故の話もちらほら聞く、けれども、それに比べると、若年性のガンで亡くなった人というのは実際には少ない。
若年性のガンの話は、実際の割合に比して、多くあることのように刷り込まれているが、その背後には当然、保険会社や健康産業の思惑が、広告等を通して知らず識らず作用しているはずだ、わわれれは自分で考えないかぎりこの操作から抜け出すことができない。
われわれはペットボトルを分別して捨てているが、ペットボトルからリサイクルされた実際の商品や什器というものをそんなに街中で見かけはしない、地球温暖化とやらで何センチ海水面が上昇したのかという話もはっきりと聞かない、喫煙者の減少で今後肺がんの罹患者がどれぐらい減る見込みだという話も聞かされない、最近はファミレスのプラスチックストローさえ使わないようにして紙で出来たストローにするらしいが、プラスチックのストローがどこでどう悪さをしているのかの話はやはりはっきりとは聞かされない。
よく、「歩き煙草を持つ手の高さは、子供の顔と同じ高さにある」というような言われ方がされるが、それで実際にどの程度、子供の顔面に歩き煙草の火が接触したか、確かな情報は聞かせてもらえない/それ以前に、もしその話が成り立つのであれば、煙草を持っていない手も通りすがる子供の顔にガンガン当たらなければならないことになるが、僕はこれまで歩いていて自分の手が子供の顔面に当たったという記憶はない、世の中の多くの人は歩行中に自分の手が子供の顔面に当たることが複数回もあるのだろうか?

他人がまじめに考えていると思わないほうがいい。

別に誰がふざけているとはいちいち考えないし、周辺に予想される利権や、政治家がブログに書きたがる活動成果のことまでいちいち考えていられないが、大前提としてこの世の中の他人が、いちいちそんなことをまじめに考えていると思わないことだ、その場かぎりでテキトーなことを思いついて、へっちゃらにそれを押し通す人なんていくらでもいる/2tトラックをあなたの部屋に置いていたら、あなたの部屋はたちまち真っ黒になり、あなたは半日も持たず部屋から逃げ出すと思うが、そんなものが路上を走り回っていることになぜあなたは平気なのか、このロジックに腹を立てているようだと脳みそは本当に病気になってしまっている。
僕が子供のころは、「石油はあと三十年で枯渇します」とよく言われたものだ、学校の先生が危機感たっぷりにそう言っていたのを僕はよく覚えている、ところが今になっても石油は枯渇せず、今日もガソリンスタンドで売られているのだが、このことについて当時の先生が反省しているかというと、反省しているわけがないのだ、 "他人がまじめに考えていると思わないほうがいい" 、当時は原子力発電所を推進したかったから、石油を否定したかっただけの話なのだ/二十年前は痛風患者に対して「豚バラ肉は絶対禁止」と言っていたが、今はむしろ豚バラ肉はプリン体が少ないと言っている、コレステロールは諸悪の元凶のように言われていたが、今は食べ物を変えてもあまり意味がないと言われる、別に誰がふざけているわけでもないのだが、実は突き詰めて「自分で考え抜く」なんて能力は、そう多くの人に具わっているものではないのだ、だから他人がまじめに考えていると思わないほうがいい、菜食主義者は草食動物のありようを見習っているかもしれないが、ほとんどの人は草食動物がその体内でバクテリアを繁殖させてバクテリアから動物性タンパクを摂取していることを知らない、シカは植物だけであの筋肉質の身体を手に入れているわけではない、「そんなわけなくね?」と自分で気づいて自分で追求しないかぎりあなたは他人のテキトーな言い分で振り回されるだけになってしまう。

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盤石の体勢などない
はよく言う、「盤石の体勢などない」「ベストコンディションなどない」「準備万端などない」「安全安心などない」。
いつだって体勢は不十分で、コンディションは難ありで、準備は不十分で、常に何かの不安に晒されているものだ、これらのすべてのマイナス要素がなくなる日などやってこない。
もし、安全安心の、盤石の体勢などがありうると誤解していたら、不意の状況や変化にまったく対応できないだろう、空を飛ぶ飛行機のようにいつだって不確かなものなのだ、だからこそ全身全霊で飛行を続けなくてはならない。
毎日がノートラブルで過ごせるのは、一種の奇蹟であり、自分か誰かのどちらかが、相当うまくやってくれた結果だ、どれだけ防犯と保険と貯蓄と地位を積み重ねても万全なんてことはありえない、万全という妄想に取り憑かれていたら生きているうちに何一つ身動きが取れないだろう。

落ち着いて勉強したり、落ち着いて考えたり、落ち着いて研鑽を積んだりという、そんな落ち着いた時間などは一回もやってこない。
ウェブから流れてくるBGMが、次の曲に変わるだけで、状況なんてものは変化するのだ、だから固定的な状況なんてものがそもそも存在しない、落ち着いた今日や明日を求めることほど無意味なことはない/求めたところで、得ているのは実は退廃した自分自身にすぎないだろう。
「生きている」ということが、そもそも有限で不安定なことなのだから、海を泳いでいる小魚のように、いつなんどき見たこともないデカい魚に食われるかわかったものではない、だからといって磯に引っ込んでいるのが安全というわけでもないのだ、急に水温が変化したらどうするの/だから常に安全を信じず幸運を信じろ。
今や誰も彼もがストレス耐性を弱くして、予期していない状況に対応する能力を失ってしまったものだから、世の中はキャラとブーイングにあふれている、単に中韓に製造業をこんなにあっさり取られると思っていなかったのもあるが、そうして状況はカンタンに動くものだ、実際の世界はテレビドラマのようにチンタラ進行はしてくれない。

「問題」を見つけることで、空想の「安定」に取り憑かれる。

意外なことだが、人それぞれに色んな問題意識があり、社会的な「問題」に取りかかる活動勢力もあちこちにあるのだが、それらのすべては、実は空想でもいいから「安定」の中にいたいとして、「問題」に取り縋っているにすぎない/人は己の意識を「問題」に偏らせることで、実は何もかもが不安定だというストレスから逃れることができる。
盤石の体勢や、固定的な安心などありえなくて、それと同様に、固定的な「問題」というのもありえないのだ、「問題」を固定的に考えることで人は無制限にありうる不安というストレスから離れられるのだが、もちろんラクになるぶん弱くなる/盤石の体勢もないし固定的な問題もないとすると、「未知」の中を生きていくしかなくなるのだが、このことに負けた順に人は弱くなっていってしまう。
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