☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
自分のこころに向き合う理由
なたのスマートフォンに、100個のアプリが入っていたとする、あなたのスマホは高性能だ、そのように見える。
けれどもじっさいに使おうとすると、100個のうち80個のアプリは、バグっているのだろうか、タップしても画面が開かない、それどころがOSがフリーズしたり、本体が熱くなってシャットダウンしたりする、これでは困ったものだ。
しかも、どのアプリが正常に機能し、どのアプリがバグっているかは、外見上ではわからないのだ、さらに、たとえばヤフーメールじたいは使えるのだけれど、ラインと連携している部分があって、その連係に接触するとやはりアプリが落ちてしまうという、これは困ったものだ、そしてヤフーメールのアプリを閉じようとしたら、今度はそのアプリが閉じずに、どんどん電源を食ってしまうとか、通信リソースを食ってしまうということも起こる、これはまったく困ったことだ。
臨床心理学の唱えるところ、人のこころは二割が「意識」で、八割は意識することのできない「無意識」だという、その八割の領域が "解決" していたら、そのスマホは高性能だが、その八割の領域がまるで未解決の "抑圧" の溜まりだったとしたら、それはここに示したような困り果てるスマホのようになってしまう。

願わくば、すべての機能が解放されている、100%のスマホになりたいものだ、もしそのようになりきれたならそのことは「自己実現」と呼ばれる。
スマホを持っているあなたに、おれが頼みごとをしてみよう、「ナビ見られるかな」「計算機使えるかな」「動画撮れるかな」「店の予約できるかな」、あなたはそのすべてに「できます」と答えるだろう、だってそのことが可能なアプリはすべて入っているのだから。
にもかかわらず、あなたのそのアプリが、入っているのに使えないということがある、それどころか使おうとするとバグりだし、電源が落ちたり本体が熱くなったりする、困りものだ、「じゃあ、できないのか」というと、あなたはやはり「できます、できるはずです」と答えるのだ、それはそうだろう、アプリそのものは入っているのだから。
われわれの精神はスマホほど合理的に造られているわけではないので、なぜかアプリの八割は管理不能で、その管理不能のうち何割が解決しているかは人による、すべてが解決している人は自己実現者だが、そうでない人はじつは大半が「バグったまま」ということがある、われわれが自分のこころに向き合おうとする合理的な理由はこれだ、他の何かになりたいのじゃない、100%の自分になりたいのだ、八割がバグっている自分なんて困りものだし、それがそのままでは悲しいことだから。

生きること、愛すること、遊ぶこと、楽しむこと、よろこぶこと、笑うこと、話すこと、そうしたすべてのことの八割が未解決のまま塞がっているという例は、誇張でもないし珍しい例でもない。

そりゃそうだろう、100%生きて100%愛し、100%笑って100%話したかなんて言われたら、「まさに」なんて答えられる人はそうそういない、なんとなく生きて少しは愛したかもしれず、ぼんやり遊んでほんのり楽しみ、あいまいによろこび形式的に笑い、それなりに話すなんて、ただのその人の「キャラ」でしかない、100%のその人ではない。
自分が管理できる二割のアプリだけで、競争して生きていくということもできる、でもそれはみずから100%の自分に向かうことを放棄した生き方だといえよう、だからわれわれは自分のこころに向き合おうとするし、向き合おうとするべきなのだろう/臨床心理学の唱えるところ、人のこころは意識が二割、無意識が八割だ、だがそんなことはどうでもよくて、主題はその八割の領域のうち何割が「解決」に至ったかだ、心療内科の先生が自己実現に至っているというわけじゃない、「解決」に至っているかどうかはただその人の問題であって心理の問題じゃない。
できるオンナだね | comments(0) |
呼応の仕方


さんとBさんが「呼応する」というとき、A(s)とB(s)のことを考えなくてはならない。
A(s)とは何なのかを説明することは不可能だが、やむをえず言うならそれはAさんの「魂(soul)」だと言うしかない、むろんB(s)も同様だ。
AさんとBさんが呼応するというのは、AさんとBさんが「調子を合わせる」「空気を読み合う」「気が合う」ということではない、AさんとBさんが出会うのではなく、A(s)とB(s)が出会っていなくてはならない。
AさんとBさんが地上で出会っているのではなく、A(s)とB(s)が空間で――それ以上のところで――出会っている、そして出会って合一したAB(s)が主体となり、AとBそれぞれに命令を出している、それでAとBはそれぞれ同一の主体から命令を受けて挙動する同胞になる、またこれは「命令」であるのでAとBは同じひとつの「命」を帯びる。

じっさいのケースでは、片側がマスターになり、もう片側がプレイヤーになることが多い、このマスターとプレイヤーは当人らの意志で交代することもできる(ただし交代した場合に望ましい結果が得られるとは限らない)。
仮にAがマスター、Bがプレイヤーだった場合、BはAに調子を合わせるのではなく、Bは自分の空間をAの空間に合一させようというアプローチになる、極端なたとえ話とするが、「鴨とネギ」はその味がよく合うにせよ、動物としての鴨と植物としてのネギが「合う」わけではない、植物としてのネギが動物としての鴨に「調子を合わせる」というような馬鹿げたことはない、そうではなくそれぞれ鴨から出る味とネギから出る味がよく合ってひとつのものになるということが知られている/そのことのように、AとBが呼応するというのは、Aから出ているもの・Bから出ているものが「合う」ということだ、Aの自意識とBの自意識が寄り合って相互に調整しあうということではない。
たとえばあなたが手のひらを打ち鳴らすとする、わたしはその「あなた」に「わたし」を合わせるのではなく、あなたから出ている音に、わたしが出ている音が「合う」という形で入っていくことにする、もしこのことが本当にできるならば、そのときわたしの手から出る音とあなたの手から出る音は、"怖いぐらい" ぴったりひとつのものになる。
このことは、あなたが声を発するところに、わたしが声を発して入っていっても同じだ、やはりそのことが正しくできるなら、その声は怖いぐらいぴったりひとつのものになる、そしてそのときのあなたもわたしも、「これをやっているのは "誰" ?」という感覚になっていく、図を参考にしてもらえばわかることだが、このことが正しく行われるとき、AもBも命令を受けて挙動しているので、やっていることの主体はその命令者なのだ、そしてその命令者はたしかに自分(たち)であるはずだが、すでに自分(たち)から切り離された、「主体」と言うしかない存在になっている、それでたしかに「主たる "何者か" がわれわれにこれをやらせている」という体験になる。

あなたの課題は、あなたから出るもの[あなた(s)]を、あの人から出るもの[あの人(s)]に合わせられるか、というところにある。

「あなた」を「あの人」あるいは目の前の誰かに合わせたとして、それはいわゆる空気を読むとか、そうでなければただのお追従(ついしょう)にしかならない、そうしたお追従をよろこぶ人だっているけれど、その人はつまり魂がない人だということになる、魂がない人に向けてはたしかにそうして魂がない流儀を向けていればいいのかもしれない/それにしたって、そんな命のないことを自らの本命にはしたくないものだ。
あなたは「あなた」をいかようにも操作できるし、強化もできるものだ、だがあなたから出るものを変えることはそう簡単ではない、あなたから出るものというのはつまり、あなたの信じるもの、あなたの所属している空間、あなたがアテにしているものだから、そんなに簡単に変わってはくれない、たとえばあなたがどれだけ思い立って料理を勉強したとしても、あなたはあの人のようには料理を信じていないし、あの人のようには料理という空間には所属していない、あの人のようには料理をアテにはしていないので、「あなたから出るもの」はけっきょく本当の料理にはならない、それであなたは本当の料理人と出会うことはできない、厨房に立って真横にその料理人を呼んだとしても、その料理人から出ているものとあなたから出ているものが出会わないので、あなたはその料理人と出会うことはできない、あなたがどれだけかわいいふりをしてその料理人にお追従を言ったとしても、あなたはその料理人に出会うことはできない、あなたからはもっと別のものが出てしまっているので、あなたはその別のものが出ている人とのみ出会うことになる。
できるオンナだね | comments(0) |
ヒマなら大金持ちになれ
ることがなくてヒマなら、なんとなく大金持ちにでもなれば。
そこで自己決定にパワーを掛けているようなら、間に合わない、もう大金持ちになるという話は終わってしまった、過ぎ去ってしまった。
財産が百億円ほしければ、百二十億円の価値がある仕事をすればいい。
まちがっても、五千円の仕事しかしていないのに、百億円をほしがってはいけない、そりゃテメー世界に対する罪悪じゃねえか、「これだけの価値を放り込んだのに百億円しかもらっていないの?」と同情されるようになれ、そうすりゃあなたの存在は世界にとってプラスだろう。

百二十億円の価値のある仕事が、どんなものかわからないだろうか。
もしそれがわからないのであれば、あなたが百億円をほしがるということじたいが成り立っていない、余裕で暮らしてぜいたくざんまいがしたいという、安っぽい発想しかもっていないのだろう、その思考の価値は三十円の値打ちもないので、あなたの生涯所得は三十円でじゅうぶんだ。
あなたのおかげで百二十人がまともに生きられるようになったとしたら、その値打ちは百二十億ぐらいあるだろう、あとは支払い能力の問題だが、そんなにゴリゴリに取り立てなくてもよかろう、だからトータルで百億円も集まれば「あとはもういいよ」ということにしてやれ。
あなたは百二十億円ぶんの仕事をするのだが、まさか、その仕事について Google で検索するんじゃあるまいな? Google に載っているものならそんな価値はねえよ、あなたが百二十億の価値がある世界を直接知っていなくちゃだめだ、そんなの大した金額じゃないだろ、小学校の三つか四つを建てるだけでそれぐらいの価格になるじゃないか、それで百億なら松下村塾は一兆円以上の価値があるぞ。

おれは百億の、価値の話をしているんだ、まさかあなたは損得の話をしているんじゃなかろうな。

とりあえず、百円の値打ちがあるウソを一億個言えよ、一億個は無理だって? なんでそうやって、みすみす一個目のウソを取り逃すんだ、一億個が無理なら百万個を百人に売れよ、それも無理なら一万個を一万人に売れよ、ウソを一万個言うのはそんなにむつかしいことじゃないだろ。
損得勘定から百億をひねり出そうとするから、話がややこしくなるんだ、あなたの鼻毛を抜いて百二十億円という値札をつければいいだろ、それを割引価格として百億円で売ればいいんだ、買う奴がいるかどうかなんかどうでもいい、あなたは「百二十億円の商品を取り扱ったことがあります」ということになるだろ/同じヒマなら大金持ちにでもなればという話、その話をみずから見失うような奴は、大金持ちにはならないだろう、もしあなたが自分を賢く現実的だと思うのであれば、その賢いはずのあなたの話をなぜ誰も聞きたがらないかについて考えてみたらいい、おれの話のほうが聞いてもらえるだろ、それはおれの話のほうが本当だからなんだ。
できるオンナだね | comments(0) |
頭のいい奴と同調しろ
のごろたぶん世の中にはアホが多いのだが、アホと同調しないほうがいい。
頭のいい奴と同調しろ。
なんで頭のいい奴と同調するのか、何のためなのか、その疑問じたいがアホっぽいので撤回しろ。
頭のいい奴と同調しろ、頭のいい奴だけと同調しろ、ただし永遠に同調しろ、「娯楽なんか永遠に必要ない」とはっきり言え。

アホというのは、代表作がないクソ老人のことを指す。
代表作がないクソ老人は、ヒマなのでなんとかして他人に絡もうとする。
次代のアホは、そのクソ老人のあとつぎになるために、クソ老人と同調していく奴だ。
それが何なのかということを、知る必要はない、ただのアホなのだ、「アホ」と書いたダンボールに入れて世界一要らない国へ送りつけて忘れろ、あなたはまさか多数派になりたいわけじゃないだろ。

追いつけない奴に同調することを永遠にやめるな。

あなたの足を引っ張るド低能に同調してどうする、ニコニコ笑っているアホはニセモノだ、むっつりバケモノみたいな顔をしているアホのほうが本物だぞ、あなたはそのあとつぎになりたいのか。
なぜアホがニコニコ笑っているかというと、物事が視えていないからだ、未来にも触れられていないからだ、することがないからニコニコしているのだ、あとでむっつりバケモノ顔に変わるけどな/頭のいい奴と同調しろ、笑うときだけ笑っていればよし、物事が視えていたら興奮しているヒマなんて無えんだよ。
できるオンナだね | comments(0) |
ちゃんとしたことをやりたいと思います
題の件、「ちゃんとした」という言い方はそれじたいがあいまいにも思えますが、われわれの直観には正気を取り戻させる力があるように思います、わたしはこのごろ特に思い出したように「ちゃんとしたことがやりたい」と思うのです、そのことについてお話し申し上げます。
わたしはふだん、読み手を面白がらせるダイナミズムをわたしなりに企図して、乱暴な言いようや、下卑た言いよう、稚気めいた言いようや流行の俗言を振り回すような言いようなどを書きものに用いますが、それらはすべて「ちゃんとした」言いよう・書きようが元にあってこその、イレギュラーで目を惹くもの、あるいは見てそれとわかるキッチュな遊びになりうるものだと思います/そこから転じての、この今回の本文の書きようも、ふだんと違って目を惹く・面白がらせるという効能はあるかもしれません、今回の書きようはそのような遊びのものだと愉しんでいただければ幸いです。
わたしが思うに、ちゃんとしたものには力があるのだと思います、あるいは、根底にちゃんとしたものがなければ何事も力は持たないのだと思います、単なる思いつきやただのでたらめなどの投げやりなものが真の力を持つというほどわれわれの文化や営為は安上がりにはできていないものでしょう、だからわれわれは今一度この「ちゃんとしたことをやる、やれるようになる」ということに馬鹿正直に向き合うべきなのではないでしょうか/もちろんここでの言いようは、わたしは具体的な誰かに向けて述べているものではなく、誰かに向けた手紙のような様式に見えるというけっきょく文学の手法を用いたフィクションにすぎないと看破されればその点はそのとおりですが、それは、ここでわたしがフィクションの流儀を保つということはわたしが話していることの真実性を損なうものではなく、むしろここではこの文学・フィクションの様式を保つことじたいが引き続き「ちゃんとしている」ということなのだとわたしなりに考える由です。
そしてわたしの知るささやかなこととして、「ちゃんとしている」ということは、慇懃無礼に様式に則っているということではなく、また、社会人風情に恬淡としているがごときでもなく、ただすべてにおいて "正確だ" ということによってのみ成り立つものです、そしてその正確さには個としての情熱や喜怒哀楽、思想やマインドや idea まで乗っかっていなければ本当の意味では正確ではないと、わたしは経験と直観に立って考えます、感情的に何かを言うということは、しばしば同情の誘いや嫌味を含むなどしてコミュニケーションを偏らせてその本来のありようを歪めますが、かといって感情の見えてこない作為的に冷やしきった言い方というのも "正確" ではなく、それはそれで "冷淡になりきっているさまを見せつけずにいられない" という逆向きの感情的な態度の発露が指摘されるべきだと思うのです/わたしがいまここで書き話していることは、こんにちこの情勢下で異様なものだと受け取られる(あるいは拒絶される)ということは前もって承知していますが、ここでわたしが確かめておきたいのは、これを読む人が快感と不快感のどちらをもよおすかということではなく、ただわたしの書き話している全体は「ちゃんとしているか」否かということなのです、これがちゃんとしていないと言われるのであればここから先にわたしはお話し申し上げるすべを持たないでしょう。

「ちゃんとしたこと」には力があると申し上げましたが、それは逆に考えると「ちゃんとしたことをやるためには力が要る」ということでもあると思うのです、ここでわたしが示している文面に対して、それぞれが内心で生真面目に賛同するのでも、感情的に肯定するのでも、そのことにはじつは力が要らないのではないかと思います、また、わたしの示している文面を嘲笑的に眺めて侮辱することは匿名あるいは非人間的なウェブコンテンツ上ではじつに簡単なことだと察しますが、そのことの是非はいまはどうでもよく、ただそうした嘲笑や侮辱を投げかけることにはじつは力は要らないのではないかという点をピックアップしたいのです、端的にいえばそうした嘲笑や侮辱を向けるのにわざわざ数千字をしたためてそれを為そうとする人はいないでしょう/われわれの生真面目な・あるいは感情的な賛同も、またその逆の習慣的な嘲笑と侮辱の発想も、じつはどちらも「力が要らない」という一点から発生しているわれわれのパターンにすぎないのではないかと、われわれは考えるべき余地を持っているように思います。
いまわれわれは、「ちゃんとしたこと」ができるでしょうか、それは単に様式に則っているとか、社会的定義に照らして不備がないとかいうことではなく、本当に「ちゃんとした」、情熱や喜怒哀楽や思想まで含めて正確に表示されてコミュニケーションとして成り立ちうるものということです、わたしは自称の限りにおいては文学者ですから、こうして書き話すことには訓練を積んでおり、この本文を構築するのにも多大というような苦労はまったく要さないにしても、自分なりに訓練を積んできたぶん、こういったことは「そんなに簡単ではない」と強く思うのです、少なくともわたし自身においてはここまでの過程を含めるとそんなに簡単なことではありませんでした、ここまでのすべての取り組みを蓄積し、ようやくわたしは「ちゃんとした書き話し」ができる力を得たのだと自分では信じるところです。
わたしはちゃんとしたことをやりたいと思います、その「ちゃんとしたことをやりたい」ということについては、少なからざる人が内心で「わたしもそう思います」と言ってくれるところがあると期待しますが、わたしはわたしの書き話しを聞き続けてくれている人に勇敢さが具わっていると信じて、このように申し上げたいのです、そろそろわれわれは退路を断たれて、本当に立ち上がって進まなくてはならないときがきたのではないかと、何かしらのモラトリアムがついに締め切られてしまったのではないかと……つまり、「ちゃんとしたことをやりたい」という "気持ち" にきっと力は要らないのです、気持ちを示すべき時期はおそらく過ぎ去り、すでにその "力" を直接示すべきときが来てしまったのだとわたしは感じます、根拠などありえないことですがあくまでわたしがそう感じてやまないということを偽りなく申し上げておこうと思います。
「ちゃんとしたこと」には力がありますが、じっさいの力がなければけっきょくその「ちゃんとしたこと」を自らで示すことができません、社会的定義として不備がなければ「ちゃんとしているでしょ」と言い張るやり方はけっきょく感情的で嫌味を含むと先に申し上げました、本当の「ちゃんとしたこと」というのは、情熱や喜怒哀楽、思想まで含めて "正確に" 表示されていてこそ「ちゃんとしている」のだと述べました、そしてそのことをじっさいにするには力が要ると改めて思うところですが、われわれはこのじっさいの力を問われたときに、いまや習慣的に、嘲笑を向けたり「ネタ」にしたり、お茶を濁したり忘却したりという反応をするのですが、その反応を咎める権威的立場には誰もいないにせよ、それぞれの当人だけはそれを咎める能があるはずです、ここでもわたしはやはり "正確に" ということがちゃんとしているということのすべてなのだと再確認し、よって正確にこの点をピックアップしたいのです、ピックアップされるべき点とは「そうして逃避的反応で勝利の気分と精神的安寧を得るのは本当に "ちゃんとしている" のでしょうか」という点です、それはじつは無難で姑息というだけなのではないでしょうか。

もしわたし自身が、未だに「ちゃんとした」書き話しができないなら、わたしは無価値というわけではないにせよ、「ちゃんとした」価値には及んでいないのだと思います。

このことは道理としてやむを得ないところです、もしわたし自身の為すことが「ちゃんとした」価値に及んでいないのであれば、わたし自身を「ちゃんとした」価値の何かの隣に・傍に・脇に親しく並べてもらいたいという請願は受理されないことになります、ちゃんとしていないわたしは、やはりちゃんとしていないものの隣に、同等のものとして並べられるべきでしょう、それはきっと正確さを欠いた、感情的で投げやりな、あるいは逆転して冷淡ぶった慇懃無礼な、習慣的にネタにしたりお茶を濁したりする、そういったものとの十把一絡げの地位です。
われわれはここ十数年、漠然と「気持ち」を大事なものと教え込まれる文化環境の中を生きてきました、未成年というほどの若さでないかぎりは、われわれは自分のことを、この文化環境の醸成に与してきた張本人のひとりだと捉えなくてはならないと思います、ところが「気持ち」を大事なものとするということのもっともらしさの中で見失われた――あるいは目を背けてきた――こととして、「ちゃんとしたこと」をやるにはどうやら力が要るようです、気持ちといえばわたしはわたしの気持ちもこの本文に、ありのままに表示していますが、それを正確に表示する力を得るためには相当な営為の蓄積が必要でした/わたしの書き話しはこの先も楽しくダイナミズムに富んだ、過剰に謎めきながらもどこかが根本的に面白さがひしめくものにしたいと望んでいますが、わたしの信じるところは、どこまでも背後あるいは水底に「ちゃんとしたこと」がやれていなくては冗談めいた面白さも成り立たないというところにあります、わたしの書き話しを読み続けてくれる方が、面白さの上澄みと共にその水底にある「ちゃんとしたこと」への力を吸い上げてくださることを祈っています。
できるオンナだね | comments(0) |
意見はいいから戦略を示せ
「意見」がほしけりゃツイッター上を検索すればいい、「意見」を大量にゲットできるだろう。
ところがツイッター上に何億個の意見があっても、何にもならないし、あなたの脳内に「今日も意見を五万件注入しますね〜」と毎日の施術をしても、あなたはまったくよろこばない。
あなたは「意見」なんか求めていないし、「意見」なんてあなたにとってまったくよろこびでも何でもないのだ、学校の教師から言われた「みんなで意見を出し合いましょう」にだまされてはいけない、強力な消しゴムをかけて脳内から抹殺しろ。
「意見」をいくら出したって、何の戦略にもならないのだ、戦略がなければ勝利は得られないし、そもそも一歩も進めない、おれはきのう友人にそういう話をした、「戦略もなしに何の "計画" を立てるつもりなの?」。

たとえば「就職活動はがんばったほうがいい」という意見は要らないのだ、そうではなくて「このエントリーシートの書き方だと、理屈っぽくて矮小に見えるから、このエピソードの理由づけを『大胆に行動したからこそ』につなげたほうがいい」「その受け答えだと、自分では丁寧に話しているつもりでも、向こうからは "腰が引けている" ように見えてしまう」「よし、今日から一か月間、おれたちに向けてはデカい声で話すようにしろ、これまでより 10cm 近づいてしゃべるようにしろ、それを忘れたり手抜きしたりしたらそのたびに腕立て伏せ 10回 な」ということが必要なのだ、正しい意見なんか要らない、勝ち筋につながっている戦略でしか人は勝利に向かえない。
たとえばあなたが美人だったとして、そのまま美人コンテストに並ぶのは愚策だ、あなたが Youtuber をよく見かけるからといって、そのまま自分も Youtuber をやってみるというのは愚策だ、周りが高い服を着てチャラ男をやっているからといって、自分もその真似をしてコピー品になっていくのは愚策だ、愚策というか無為無策だ、興味のある女性誌を買ってみて、興味のあるフランスの石鹸を買ってみて、興味のある自転車をカタログで観て、興味のある香草料理を作ってみて、興味のあるインフルエンサーのショート動画を観てみて、興味のあるお菓子を買って食べてみてそのレビューを検索してみたとする、これらのすべてには何の戦略もない、こうしてすごした十年間が、後々あなたの礎(いしずえ)になっているわけがない。
センスがどうこうなんてどうでもよろしい、興味のあるなしなんか訊いているのではなくて、必要なのは「戦略」なのだ、自分のやりたいことについて訊かれたとき・考えたとき、「◯◯みたいに有名になって活躍したいです」と答えるようではいけない、どういう戦略で切り拓いて勝ち進んでいくつもりかということを考えないといけないし答えないといけない、戦略を立てるときの基本は「自分の戦力分析」と「周辺状況の分析」だ、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」というやつだ、自分に莫大な戦力があるなら周りがやっていることとまったく同じことをやってもいいが、そんな戦力がなければわざわざ自分から朽ち果てに行っているようなものだ、つまりあなたが周囲の誰より美人というわけではないなら無策で Youtuber になっても勝ち目はない、今からではもう先行者利益もない、「やりたい」とか「興味がある」というのは本来そういう退廃的な精神のものであってはいけない。
あなたは今こうして、おれのわけのわからない書き話しを聞いているけれども、おれはあなたに「意見」を言っているのではないのだ、「意見」はもうツイッター上に何億もあると初めに言っただろう、そうではなくおれは文学者なのだ、といって純文学の人々は実践主義的ではないし、実践主義的な人たちは純文学の技法は持っていないだろう、純文学の人はこうしてロジカルに詰め寄る文脈は持っていないだろうし、意識が高いロジカルな人は詰め寄ることに文学的な体験を仕込ませることはできないだろう、ふざけて生きる人はこんなに膨大な書き話しの蓄積はできないだろうし、マジメに生きる人はおれのようにデタラメな冗談は言えないだろう、おれがここに書き話しているのは「意見」ではなく「ロックやヘヴィメタルの魂を純文学の技法にあらわしたもの」なのだ、あなたの脳みそに聡明なロジックを、そしてあなたの横隔膜にギュイーンとひずんで高鳴るサウンドを鳴らしているのだ、そういうパフォーマンスに特化してくのがおれの「戦略」だ、初めからそのように考えて、現在まで十数年間ずっとそれを続けている、そうでないと勝ち筋がないから。

自分の分析、周辺状況の分析、そこから戦略を立てて、進んでいった先にあなたの「個性」がある。

個性というのは自分のわがまま気分でベッドに寝転がったり買い物を漁ったりすることで得られるものではないのだ、それは「庭を放置していたら雑草が生えまくりました」というだけだ、どんな田舎でも閉じ込めて放置しておくと「独特」の風習や風土を持つようになるが、それはやっかいなクセが凝縮していっただけで、それを個性として振り回したとしても誰もよろこばないし誰も栄えない、まともな若い人は五歳ぐらいにはもう「ぜったい脱出しよ」と思っているだろう。
もちろんここで戦略と言っても、あなたはきっと戦略なんかまともに立てられないだろう、ほとんどの場合、周りからアピールされているさまざまなイメージを見て、それに「あこがれる」「わたしもできたらこうなりたい」と夢想するだけだ、じゃあどうすればいいかといって、そのことも戦略的に考えるのだ、自分がまともに戦略を立てられないのだとしたら、あなたにとってこれから必要な勉強とは何なのか、あなたにとって真に必要な友人とはどんな人なのか、そういう戦略が立ち上がってくるべきだろう、少なくとも「何もしないまま毎日力尽きる」というのはあなたの個性でも何でもないはずだ、誰でもそうなっているものをあなたの個性とは言わない。
できるオンナだね | comments(0) |
場所に立て
所に立て、勝手に立て。
膝の震える場所に立て、そこで自分の本性が出る。
どういう本性が出るか、ひとつには「けっきょくやる奴なんだな」という本性、もうひとつには「けっきょくその場所に立たないんじゃん」という本性。
仮にあなたが教員免許を取り、就職して学校の教師になっても、それで教壇に立つというわけではない、その場所に立つ奴は勝手に立つものだ、そしてけっきょく最後までその場所に立たないという奴もいる、どこまでもオリつづける奴もいるし、はじめっからこいつはけっきょくやる奴なんだなという奴もいる。

すべては場所に立ってから始まるので、場所に立たずに萎えるのはやめろ、そして場所に立たずに奮い立つのもやめろ、どちらもあんまり意味がない。
あなたにどんな能力があるのか、どんな才能があるのかないのか、すべてしかるべき場所に立ってからだ、けっきょく問われるのはずっとひとつのこと、「オリる奴とオリない奴」というひとつのことだ。
オリるふりをする奴は少ないが、オリないふりをする奴はとても多い、けっきょくその本当の場所には立たずに、立っているフリに他人を付き合わせようとする奴、一種の甘えだが、これはもちろんやめておいたほうがいい、付き合わせるのもよくないし、付き合うのもほどほどにしておいたほうがいい、本当に何も起こらないから。
何かのきっかけを待つなんてしないように、また、何かのノウハウを得てからそこに立とうとしないように、また、誰かがその場所を用意してくれるなんて思わないように/どれだけ場所を用意したって、あなたがその場所に立つかどうかはあなたしだいなのだ、その場所に立つならあなたが勝手に立つのであって、外的要因はいっさい無関係だ、さああなたの本性がバレて、あなたは人に尊敬されるかもしれないし、軽蔑されるかもしれない、お追従(ついしょう)されるかもしれないし、無視されるかもしれない。

本当の場所に立ちながら冗談を言うべきであって、自分の立つ場所を冗談にするべきじゃない。

マジっぽい気配になっても意味のないことだ、マジっぽい気配だけ振り回すのに立っている場所は冗談というのはサイアクのパターンだからやめよう、フツーの人が立てない場所に立って、それで平然とフツーの人でいなさい/フツーの人と同じ場所に立って、フツーの人じゃないふりをするのはサイアクだからやめよう、始め方がわからないなんてことはない、オリるくせがやめられないというだけだな、怖いもの知らずのフリなんかちゃんちゃらおかしいからやめておこうぜ。
場所に立て、勝手に立て、周囲を気にするな、きっかけなんか待つな、なぜこのようなことを言っているかというと、あなたを責めているからではない、あなたの時間を無駄にしないためだ、体調が悪いとき以外はあなたは時間を無駄にはするべきじゃない。
できるオンナだね | comments(0) |
未来に向かわないといけない、未来が待ち受けている4/ニュアンスの只中に立て
思議だ、未来にベタ惚れして、未来にシビれる、それが何よりのことだ、内容によらず未来にベタ惚れする。
内容を選定して未来に惚れようとするから、イメージを湧かせてしまうんだな、未来を信じていない証拠だ。
未来を信じていない人にはブラックなものがやってくる、これはしょうがない、ある意味自分が信じたとおりのものが来てしまったということだ、これは「祈り」の原理として正しいと言わざるをえないだろう、疑心暗鬼を生ずといって、疑心を祈れば暗鬼がやってくるのは当然のことだ。
ある意味、そのブラックなものが来ちゃうということに、確信を持ってしまっている人もいるのだろう、こちらがそうではない未来を案内しようとしても「いーや」と、あくまでブラックな未来を選びつづける、そういうことはあるものだ、「だってブラックなものが来る気がするんだもの」、そういう気がするという自分の予感を信じてしまう、それはまあそうかもしれない、そうして彼はブラック予感の人たちと友達になってしまうし、ベタ惚れシビれる未来の人と友人にはなれないのだった、なかなか意地悪な仕組みだし、よくよく見れば硬派で実直な仕組みをしているものだ。

未来の只中に立てよ、どうせジーッとしていても未来は来るしなあ、ええい現在から未来を予想とかイメージするのをやめろよ、現在は何も偉くないんだってば、未来の只中に立てと言っているのに現在の只中に立ってどうする。
さらに言うなら、その「現在」と思い込んでいるやつ、それもただの「認識状態」を現在だと思い込んでいるだけであって、現在でも何でもねえよ、未来の只中が現在だよ、ただのねちっこさを現在と呼ぶんじゃねえよ、もっとわけのわからないものだ、学門というのはわけのわからないものだ、だからわれわれのうち学門をモノにする人はとても少ないのだ。
未来というのは、未来の只中にいるときは何だって叶うのだ、イエーイ、ただそれを現在のねちっこさからゲットしようとするから話が気色悪くなる、すべてのしかるべきものが「おともだち」として得られるのだ、いいものだろう、失われた世界を取り戻せ。
おともだちというのは、干渉しないのだ、そりゃそうだろう、干渉してくるような面倒くさいものはおともだちではないじゃないか、現在のねちっこさをどのように駆使してもおともだちにはなれねえよ、何の干渉もないから手口が通用する、プレーリードッグがハゲワシを見て「ヤベエ」って顔をしていたらおともだちだぜ、命だな、命の只中に立っているんだ。

ねちっこさを捨てれば未来の只中に立てる。

願望も承認欲求もただのねちっこさにすぎない、そんなものに詳しくなってもねちっこさが解決するわけじゃねえしなあ、ハアアアアおれはどこまでわけのわからない奴なんだ、本当にこいつは路上をうろうろしているだけの小石だぞ、時間軸上の現在という点におれは存在していない、おれの手口だけが現在に届いているのだ、いいだろそれで、その手口のせいで未来へ連れていかれるのだから、どうよこの男らしさは。
未来におれはどうなるのだろう? あなたは、わたしは、彼は、彼女は、どうなるのだろう、その疑問と関心はわかるが、未来はニュアンスだし、未来のあなたはさらなる未来にいなくてはならないので、あまり願望イメージでそれを捉えようとしないことだ、もっともっとわけのわからないものだ、未来がすばらしいニュアンスならすばらしいというだけだ、ベタ惚れの理由はそれだけ、シビれる理由はそれだけ、ねちっこさ野郎に未来はねえよ、せっかくの手口にもついてこねえよ、あああああまったく不思議だ、未来はニュアンスにおいて完成している、それがどういう具体かというのも醍醐味のひとつだが、どうせ最上のニュアンスになるんだから心配はゼロだ、ニュアンスは認識できないからニュアンスであって、認識できないなら現在じゃないだろ、それがセンスとの違いだ、完成しているニュアンスの只中に立てパアアアア。
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未来に向かわないといけない、未来が待ち受けている2/未来の風と未来の匂い
来さえ待ち受けていたら、他は別に何がどうでもいいんじゃないかという気がしてきた、おれは何かを焦って努力するということがない。
毎日ずーっとこうして書き話しているが、これは、そうしていないと待ち受けていた未来が消えてしまうので、やむを得ずそうしているだけだ、農家さんが毎日畑を耕しているのを努力とは呼ばんだろう。
作物が生りますという未来が待ち受けているので、その未来に向かうということは、今これを耕しているよなあという感覚があって、畑を耕しているだけだ/未来が待ち受けている、「呼ばれている」、それでしゃーなしに毎日畑に出ているだけだ。
未来が待ち受けていればそれだけでよろしい、他のことはそんなガンバらなくていいな、マージャンの上級者が早いうちから「あーこの手はタンピン三色までついてアガるねえ」と読み取れるなら、そこから何かをガンバるということは特にない、ただ求めるべきものは求めないとまともな牌はツモれないだろうな、メンタンピン三色ツモ裏裏という未来が待ち受けているからこそ打ち進んでいくわけだ、そしてそれが未来の読み取りでなく単なる自分の願望だったら自分が放銃して死ぬ(※放銃:他家のアガリ牌をぶっこんでしまうこと)。

いい風が吹いているな、どの季節も果てしなくいい匂いがしているな、この風と匂いは何なのか、ずっと不思議に思っていたのだが、これは未来の風で未来の匂いなんだな、そしてこの未来の子であるということが若さだったのだ、年齢のことではなかった、まさにそうだ。
未来はドキドキで、誰もがそのドキドキに耐えられるものじゃないが、だからといって自分の願望から未来を空想予定するのはやめよう、やめようといってやめられるものでもないと思うが、いちおうやめるつもりでいよう、特にちまたでは、本当に「一発逆転」とか「見返してやる」とかの嫉妬・復讐・我欲にあっさり取りつかれてしまう人がいるようなので、そんなアホなことにならないように/うーむおれはけっきょく、そういうアホの精神が信じられないのだ、どれだけその現物を見せられても「んなバカな」という感じがして現実感ないんだよなあ。
未来がない人は未来がある人に嫉妬してしまうかもしれないし、その嫉妬は強烈かもしれないが、それで自分の未来が獲得されるわけではないし、もっと健全で建設的なことを考えよう、ヒントは未来をイメージ "しない" ことだ、未来は現物であって実物なのだから、その実物がエグいわあといってシビれて惚れろ、未来に惚れていない奴が未来を求めているなんて言っちゃダメだぞ、まず未来に惚れていること、未来を疑っていたらそりゃあ未来は来ねえよ、疑ったとおりのブラックなやつが来るよ。
未来が「ある」ということは、それをイメージしなくて済むということだ、目の前にカレーライスを置いたときにカレーライスを「イメージ」する奴はいないだろ、未来が待ち受けている、うーんふつうは未来をイメージして思いを馳せてしまうのだろうが、そうじゃないんだ、思いを馳せられないから未来なんだ、現状を打破しようとするな、現状と取っ組み合っているから現状になってしまうのであって、現状が存在しないならすでに現状とやらは打破済みだ、未来にシビれて惚れろ、この人が未来の人なんだという人を見つけて、そのまま自分も未来の人なんだと言われるようになれ、そして未来から現在を過去のように眺めたとき「友人だったんだな」と言えるようになるだろう。

現在の仲良しでは、未来では友人でなくなっている。

おれはそういう悲しい話が苦手だ、友人というのは単なる仲良しではなく、未来へのシグナルでないとなあ、水色の空に浮かぶアドバルーンのように、仲が良いとかいうわけではないが「あれはおともだち」と呼べるようでないと/何ひとつ変形する必要はない、変形することはない、おれは悲しい話が苦手だからな、すべて元あったようにしかしない、ただしおれの「元あった」のは未来のほうだ、過去や現在のそれを「元あった」とは感じていない。
いい話だよな、未来のほうが「元あったもの」で、そちらに向かっているだけなのだということ、失われるものはないということ、逆に未来に向かわないと元あったものが失われちゃうということだ、「いまがあるのはこれまでのおかげ」という因果律は誰にでもわかりやすいが、そうではないんだ、「いまがあるのは未来のおかげ」なのだ、おれ自身はまさにそのとおりだと感じる、闇夜にも光輝く者が集っていた、あれは未来だったし、いまのこれも未来なのだ、未来に向けていかようにでもやりようはあるのだ。
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未来に向かわないといけない、未来が待ち受けている
んのために未来に向かうのか。
うーん、なんでか知らんが、未来に向かう奴にしか作品は与えられんのよ。
未来を失った国は、過去作品のリメイクや、焼き直しばっかりやるだろう。
未来の人は作品の人なのだ、作品の人たりうるには未来の人でいるほかないのだ。

で、過去のもの、これまでのものを振り切って、すべて捨てて進むのかというと、そういうのは違う、「そういうことじゃねえだろ」というのをこれまでさんざん見てきた。
どこにも進めない人に限って、いわゆる「人間関係リセット癖」みたいなのがあるよな、そんなデタラメな奴がどこに行ったってまともに相手されるわけねえってのに/自分の都合が悪くなるとまた迷子にもどるというただの卑怯者ムーブが未来に向かえるわけではない、常に未知の航路を切り拓いていくのが未来であって、次々に船を乗り換えるのが未来ではない。
未来に向かわないといけないが、じっさいのこととしては、そういう人には<<未来が待ち受けている>>のだ、待ち受けていない未来に向かってグイグイ進んでもあんまり意味ねえよ、血迷った願望のたびに転進したからといってその船はどこにも着かない、その船は本当にずっと血迷っているだけだ。
本当には、ヤッホーイ(意味不明)、未来に向かえる人は、未来が待ち受けているから、初めからその一点に向かっているだけなんだな、いつもまっさらな紆余曲折をしているように見えて、それは航路の問題でしかなく、行き着く先は初めからまったく変わっていない、そして奇妙なことにその航路じたいが醍醐味になるのだ、目的地のために航路があるのではなく、航路のために目的地がある、おれはいまも航路の中を振り回されているのだが、ヤッホーイ、それはおれがいまも自分を見失っていないってことなんだ。

待ち受けているからいかなきゃ、お前が待ち受けていてどうする。

「未来」という言い方がよくないと思うのだが、未来というのは「未だ来ていない」ということであって、それは向こうから見ておれが未だ来ていないってことなんだ、おれのところに未だ来ていないってことじゃねえんだよ/おれは未来が待ち受けているところにいかなきゃいけないし、未来が待ち受けていないところにはいかない。
それが導かれているという感覚なのだが、そういう感覚はこの高齢化した日本では特に薄いと思う、導かれている先がなけりゃどんな未来だって "ブラック" だろうよ、おれが言うその導かれているってやつは、現在から未来に思いを馳せている状態ではなく、未来の自分から現在の自分を見ているような感覚なのだ、すでにそっちに自分はいるという状態、だから「そのまま早く来い」という呼びかけになっている、この感覚に接続を得ていない人は、どれだけそれっぽくしてもけっきょくすべてを「億劫がってイヤがっている」という状態になる、そりゃあおれだって未来が待ち受けていなければすべてが億劫でひたすらイヤだ、永遠に寝転がってダラダラしていたいと思うだろう、さいわいこれまでにおれは一日たりともそんな日を過ごしたことはないけれども。
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ダイジェストの機能で骨子に至れ

イジェストとは「消化」という意味だ、結果的に「要約」という意味に取られるけれど、要約とか「要するに」という捉え方は正しくなく、われわれをよろしくないほうへ導いてしまう、ダイジェストというのは「消化」と力ずくで理解してしまおう。
そして消化するとどうなるか、魚一匹を丸のみしたつもりで想像してもらえばわかるが、消化してしまうと骨だけが残る、本当は胃酸は骨を溶かすけれど今はそうではなくてイメージの捉え方でよいのだ、魚の肉が消化されて骨が残る、つまり「骨子」が残る、ダイジェストというのはそういう機能だと思え、もちろんテレビ番組の機能ではなくあなたの理知の機能について言っているのだ。
あなたにわたしが「企業のうち、メーカーというのは何ですか」と訊いたとする、そのときあなたは「メーカーというのは、たとえばパナソニックという……」と答えるかもしれない、そのことは、骨子についてはやめたまえ、「たとえば」と考えていくのは肉付けの方向であって骨子・ダイジェストの方向ではない。
メーカーといえば「設計して、組み立てて出荷する」のだ、終わり、メーカーというのは本当にそういうものだ、魂を最大限使い、ただし魂でそれを膨らますのではなく消化するのだ、消化して最も中央の骨子だけを引き出せ、地図を膨らますのではなく消化して今進むべき一本道を抽出するのだ。

企業のうち商社は何か、それは「仕入れて売る」だ、設計もしていないし組み立てもしていないだろう、だからメーカーではなくて商社だ。
業態のうち「サービス」とは何か、サービスとは「保存できない富・商品」のことだ、たとえば化粧水を保存することはできるが化粧水を「塗ってくれる」という行為は保存できない、そうした業態のことをサービスと呼ぶ。
役所は何の仕事をしているか、「税を集めて予算とし、その管理と分配をする」だ、「たとえばじっさいに窓口で……」という方向に考えない、役所が公務員を雇っているのも予算の用途のひとつだと捉えれば済むのだから言及しなくていい。
そもそも企業は何をやっているのか、「資本を借りて、運用して利子と配当を出す」だ、企業は株主に配当を出して、銀行に利子を払っているだけだ、資本 100 を 101 に増やして配当を出しているだけ、だからこの仕組みを「資本主義」という/だから資本主義でない国家には金利という仕組みがない、もちろん手数料とか別の名目に切り替えるだけだけれど。

あなたがこれを読んでいる端末は「計算機」だ、その計算機は「入力に対する演算結果を体験的(インターフェイス)に返す」ということをしている。

このことを、「要するに」という横着なオジサンの怒鳴り声でごまかそうとしてはならない、要約ではなく消化・ダイジェストの結果に残る「骨子」なのだ、その消化に魂の全力を使え。
おれが書き話すとは何だ、「あなた自身では発見できなかった idea の回路を開通させる」だ、おれの業態は紙面に対する製造業ではなくあなたの脳みそに対するサービス業だ。

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あなたの作品を始めよう/11.小説の書き方(いきなり実践)

ょっと息抜きに、小説の書き方を本当にお教えしましょう、コツは三つ、1.始末をつけること、2.異化すること、3.できたらクライマックスをつくること、ただそれだけです。
始末をつけるというのは「始まりと終わりを決める」ということです、ではここで仮に「昼休み」という短編を考えてみましょう、短編を書くコツは登場人物を増やしすぎないというのもコツになります。
まず始末をつける、始まりと終わり、この場合「昼休み」ですから始まりも終わりもチャイムが鳴るということでいいでしょう、これでひとつめのコツはクリアしました。
次は異化することです、異化とは何かを説明する余裕はありませんので、ググってください(申し訳ない)、ただ言うなれば「イメージに簡略化されたものの視え方から離れる」ということです、たとえば「あなたの右手でないほうの手」と言ってみましょう、あるいは「裸体に衣服を着装している女性」と言ってみましょう、さらには「視力が衰えなければ必要でなかった二枚のレンズを鼻っ柱に乗せている」と言ってみましょう、これは表現に凝っているのではないのです、ふつうはいちいち指摘しない――簡略化されている――当たり前のことをいちいち指摘しているだけです。

最後のコツはクライマックスをつくることです、思いつかない場合はなくてもしょうがないですが、やはりクライマックスはあったほうが読む側の動機を引き立てます、ここではどのようなクライマックスにするか、ネタバレしてしまうとつまらないので、あとで体験してもらうことにしましょう、少なくとも何かしら「アッ」と驚かせるものがいいです、このことを「想像力の爆発」と言うのですが、この仕掛けを説明するとなると本格的になりすぎるので、「アッ」と驚かせるのがいい、ということに留めておきます。
それでは実作にうつりましょう、モチーフは「昼休み」ですが、タイトルは「ぼうぜん」とさせていただきます/[ぼうぜん]動物になぞらえて言われる眠り方の、つまりは眠っているふりをしているだけの明瞭な意識で、わたしは机に突っ伏して視力を閉ざしていた。うつぶせた額の下に左手の甲を敷き、そうでないほうの手を前方に脱力して机からこぼして垂らし、いかにも眠っているのだという芝居をさせている。昼食を含む大休止のチャイムが鳴ったのもわたしは明瞭に聞き取っていたし、ここから数分経ってから、ようやく目が覚めたという "てい" でわたしは弁当箱をひとり取り出すつもりだ。いかにも寝ぼけまなこをこするふうに芝居を続けながら……昼食を含む大休止の教室は、先週からつづいている文化祭に向けての制作と設営にかかわる話で調子をあげている。誰が言いだしたのかすでにわからなくなった、先月末のホーム・ルーム中に数分の勢いだけで決定した巨大わなげという企画。数体の案山子(カカシ)を相当な遠距離に置き、巨大な投げ輪を力自慢たちが円盤投げのフォームで投げて捕えれば盛り上がるだろうというそれは、いまはまだ愉快なようでもあり、けれども当日にはまったく意味不明で空疎なものになるかもしれない予感を漂わせている。ただしそれが空疎であった場合も、それはそれで青春らしくてよいという目算もそれぞれに秘めているわけだ。案山子をユーモラスなものにすればモニュメントとして目立ちもするし遊戯としても値打ちのあるものになると、まことしやかに語り合われている中で、わたしは明瞭な意識で或る女子生徒の声を聞き取ろうと耳を澄ませている。名は伏せておきたいが、つまりわたしの恋慕する女子の声を聞き取ろうとしている。それは健康な男子生徒であるわたしにとって素直なこころのはたらきだろう? その日ごと、昼食席の座の組み方によっては、彼女が友人らともどもわたしのすぐそばの席に座りこんで、おだやかに会食するさまを見せることがある。もちろん、そのときの彼女を至近からチラチラ盗み見えたとして、わたしの恋が成就に接近するわけではないにしても……彼女はいつも、もの静かで、立ち居振る舞いのすべても寂として貞淑に見える。それでいてその白い頬には無闇なほほえみが絶えないものだから、その彼女の目立たなさはかえってわたしには目立って目を惹くものに見えるのだ。ゴタつく教室の中、わたしは耳を澄ませ、さらには鼻腔にさえ彼女の気配を嗅ぎ取ろうと神経を研ぎ澄ませる……そのうち、わたしの突っ伏した机のすぐ前に、静かに座る誰かの気配があった。わたしは思わず、前方に垂らした右手を揺らして彼女に触れたい――彼女のやわらかい二の腕などに、事故をよそおって――という衝動にかられたが、すんでのところで思いとどまり、誰にも気取られぬように鼻で息を深く吸った。嗅ぎ取られたのは教室に舞ういつもの土埃のにおいだけで、わたしはただあられもなく脈打ち始めた己の心臓じたいにどぎまぎするということを自覚させられたのみだったが。やがて、わたしは意を決するというほどの胆力で、深く寝入っていたところをじっくり起き上がるということをした。突っ伏した体勢で眠りこけていたので、背中が引きつって痛い、だから背伸びが節々に効いてたまらぬ、そういう十分な表現をする。その背伸びのうち、わたしは目の前に座っている彼女のたおやかな皮膚の顔と、その近さを見てアッと驚く準備をしていたのだが、わたしは準備したそれを思いがけず放擲し、別の母音を無音のまま吐いた。わたしの前席に置かれていたのは、工作途中で邪魔っけに除けられた案山子だった。竹ぼうきの柄の頂点には頭部を模して膨らませた布地が括りつけられており、そこには目玉と口が描かれているが、油性ペンの投げやりな描写はつまり頼りない円を三つ配置してあるだけだ。そのときの彼の表情は、まったくわたしの表情と同調しているようで……わたしは明瞭な意識のまま、その場を奇妙な思い出のように過ごした。ずっと落ち着いて冷静なつもりだったが、やがてチャイムが鳴り、わたしは弁当を食べ損ねたことに気づいた。[了]
このようにしてみると、いちおう短編小説ができあがります、改行がしてないのでちょっと読みづらいですが……これはけっこうレアな形態かもしれません、こうした記事の中に短編とはいえ書下ろしの小説がまるまる含まれるということはまずないからです、お楽しみいただけたなら幸いとして/ともあれ、文章の全体は「異化」です、そしてもともとチャイムで始末をつけると決めてあって、あとは案山子でクライマックスを作りました、案山子で「アッ」と言わせてタイトルの[ぼうぜん]に回帰させていわゆるオチをつけるというようなやり方です。
これと同じ話を、仮に「イメージ」で書き連ねていくと次のようになります、イメージはわれわれの生活と慣れで生じてくる簡略化(想像力の省力化)なのですが、そういう書き方をすると小説にはなりません、小説にならないものを小説にしようとすると美少女や美男子やお金や超能力などが無理な「味付け」に出てきてしまうのですが、そのことにはここでは触れずにいきましょう、とにかくイメージで書くと次のようになります、あなたはここに小説の体験はしません、少なくとも文学の体験はしません/キーンコーン、カーンコーン……チャイムが鳴った。でも、僕はたぬき寝入りをしている。学生なら誰もがよくやるあれ、机に突っ伏して。あとからじっくり起き上がるふりをしようかな、そんなふりをしたって何になるのかわからないけれど。僕はたぬき寝入りをしながら、彼女の声を聞き取ろうとしている。クラスメートの◯◯。正直なところ、僕は彼女のことが好きだ。彼女の白い肌、たえまない笑顔。物静かで、逆に目立っている感じ。彼女を思うだけでどぎまぎする。鼻で深呼吸するときも、つい彼女のにおいが届いてこないか、神経を研ぎ澄ましてしまう。クラス中は、わいわいがやがや、文化祭の話で盛り上がっている。でも僕は「こんなの何が面白いんだよ」とため息をつきたくなっている。なんだよ、巨大わなげって。(以下略)

時間芸術に類するものは、すべてこの「三つのコツ」でモチーフが想像力に描かれる(明視される)だけ。

時間芸術というのは、時間軸が進行するのに合わせて展開していく芸術のことです、たとえば音楽は逆再生したら音楽にはなりませんし、ダンスも逆再生や早送りしたらダンスにはなりません、小説が時間芸術かどうかは微妙なところですが、逆から読んでいくと小説にはならないという点で時間芸術に類するものとしてよいと思います/時間軸の進行に関係ないものは空間芸術と呼ばれます、絵画などの二次元に思えるものでも空間芸術に分類されます(単に時間と空間が対極の概念だとして)、空間芸術のほうはここで紹介した現象が逆転し、実現されたモチーフが想像力に「三つのコツ」のほうを描かせるというものです、つまり一枚の絵画が、何かの始末、何かの異化、何かのクライマックスを想像力に描かせるという感じです(時間芸術は物語からシーンを想像力に描き出させ、空間芸術はシーンから物語を想像力に描き出させる、というような感じです)。
もちろん、この三つがコツだと言われても、たとえば「その異化というやつがまったくわからないよ」というようなことになってきますから、もちろんコツなんてものでこなせることではありませんし、その意味ではコツ呼ばわりしているのもちょっとウソかもしれません、コツというよりは「原理」というほうが正しいでしょう、しかしともあれ/ちょっとやってみようという気にさせられるには十分ではないですか、始末は何でもいい、「気になっていた料理屋に、ついに行くことにしてみた(始)が、行ってみたら閉店していた(末)」でもいいですし、「あの人の手術が終わるのを待っていた(始)が、手術の結果は……◯◯だった(末)」「何の鳴き声か(始)と森の中を進んでいったら、ヤマドリだった(末)」でもかまいません、異化は手探りでどうぞ、クライマックスは「予想されるイメージを裏切る仕組み」を形成してください、単に「どんでん返し」と思っていると成功しません、そしてあなたが何より頭の隅っこで知っておかなくてはならないのは、正しい原理に接続を得ないかぎり、なんとなくではあなたの作品にはなりえないということです、偉そうなことを言うようですが、だから勉強してください、あなたはこの勉強に果てしなく燃えるのです。

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あなたの作品を始めよう/10.作品を肯定すること
いうわけで、「自分の作品」に向かうと、いろいろあるわけだ、それはもう本当にいろいろある、数えきれないほどのことが起こる。
自分で自分の作品を肯定できない場合、けっこうたいへんなことで、精神的な失調も起こるし、体調もどうしようもなく悪くなることがある、神経が過敏になり、不安になり、情緒不安定になり、頭が痛くなったり身体のどこかが痛くなったり、食欲が失せたり、眠れなくなったり、ということが起こってくる、過去に何人もの文豪と呼ばれる人たちが自死に至っていることはよく知られていることだろう、ここは甘く見ていると本当にヘンなことになってしまうので、どこまでも気丈に、それでいてどこか肩の力を抜いておくことが必要だ。
こうしてたいへんなことがしばらく続くと、どうしても自分のほうを曲げ始めてしまったり、本来は自分が好きでない人たちのほうへ吸い寄せられていったり、ということが起こるリスクが高まる、単純に言うと、「作品がうまくいかないと "やけくそ" が始まる」ということなのだが、当人はその時点でもうそれが自暴自棄にすぎないという冷静な判断力は失ってしまっている、それはしょうがないことなのだ、毎朝毎晩、体調も精神的な調子もずっと乱れたままではとにかく「きつい」ということが耐えられない、だから「楽になれるのなら」という気の迷いがどうしても頭をもたげてしまう/じっさいここで、麻薬やアルコール、ギャンブル、自傷的なセックスなどに依存症が起こってくるということがよくある、あるいは立て続けに、なぜか悪いこと・運がないことが起こるというようなことも出てくる。
このことに対抗するためには、前もって、初めから図々しくいることだ、根拠なんかない、「いまはまだ手探りだけど近いうちパーッとなんとかなるんだって」と、言いたい放題のことを自ら言っておこう、このことについてわたしは断言しておきたい、こうして「自分の作品」に追い詰められたとき、シリアスになることや気負うことじたいが「作品」から最も遠く、それよりは根拠なく図々しい奴のほうが「作品」に近いのだ、メシが旨いうちは大丈夫、メシが旨くて自分の作品が「なんじゃこりゃ」となっているということ、それが若々しいあなたが生きているということなのだ、すべての順風満帆を言い張るウソつきどもに舌を出せ、大海原に本当の冒険に出ているのはあなたのほうなのだから。

自分の作品を肯定しよう、それがどれだけ寒いものであってもだ、未熟で陳腐で、よしあしというより破綻しているといような自分の作品が現れたとき、それを「よしよし」と肯定しよう、あなたが犬を連れて公園に行き、ボールを投げてみたら、あなたの犬はまったくボールを取りに行かないかもしれないし、取りに行ってもガジガジそれを噛むだけかもしれない、それは教育されたレトリバー犬にくらべたらアホ犬に見えるかもしれないが……あなたがそのとき自分の犬にかけてやることばは疑いなく「よしよし」だろう、あなたの犬はあなたと共に生きるために存在しているのであって、ボールを拾ってくるために存在しているのじゃない、あなたの作品もそうで、それはあなたと共に生きるために存在しているものだ、評価されるために存在しているものじゃない。
ここで「負けずぎらい」というキーワードを出しておこう、あなたの内に潜む「負けずぎらい」が、あなたを曲げて混乱させてしまうことがある、あなたの作品が他の誰かのそれにはとうてい及ばなかったり、比較されたら陳腐でスカスカで恥ずかしいと思うことがあるかもしれないが、そんなことはどうでもいいのだ、どうでもいいからそれらの点では「負けとるわなw」と軽くいなしておけばいい、これは勝ち負けの話ではないのだ、存在しているかどうかの話であって、存在しているかどうかについては、ヨソのことは関係ない/あなたの犬が存在しているかどうかは、ヨソの犬が存在しているかどうかと無関係じゃないか、ボール拾いの性能がどうこうなんてどうでもいいじゃないか。
あなたはあなたの作品を肯定してやらなくてはならない、ただし、曲げて評価してはいけない、あなたが仮に「何を言っているのかさっぱりわからない退屈な小説」「そのくせ修飾語だけ華美でこっ恥ずかしい小説」を書いたとしたら、あなたはそれを「恥ずかしいやつめ」と評価し、それと同時に「よしよし」と肯定してやらなくてはならない、それでいいのだ、それはあなたの作品なのだから。
あなたが陶芸を始めて、粘土をこねてお皿や茶碗を作ったとしたら、それはきっとなんでもないお皿や茶碗になるだろうし、ゴツゴツで太くて歪んでいて、洗練されていないダサいものになるだろう、でもそれはすばらしいものだ、本当に掛け値なくすばらしいものだ、あなたの作品という一点で無条件にすばらしいものだ、赤飯を炊いて祝っていいほどのすばらしいものだ、けれども同時に、その不細工をこねまわして文化人気取りをするべきではない、芸術家風情をかもしだすべきでもない、そうではないのだ、わたしはあなたに「自分の作品に自信を持て」と言っている/仮にあなたが100円均一の店で消しゴムを買ってきて、彫刻刀で彫りこんでぎくしゃくした消しゴムハンコを作ったとしたら、それはあなたの作品なのだから、掛け値なしにあなたは自分の作品に自信を持っていい、だが評価を曲げるということではない、<<自分の作品に自信を持つということは、自分の作品に評価が必要なくなるということ>>だ、洗練なんか要らないし、斬新さなんて要らない、作品に上等な何かが必要だと思う人は、自分の作品に自信がない人なのだ、もしおれが陶芸で自分の皿を焼いたとしたら、おれは堂々と「人間国宝の焼いた皿なんで、まあおれが焼いた皿に比べたらゴミみたいなもんです」と言い放ってやろう、ただし! そう言えるだけ、しろうとの陶芸であっても全身全霊をこめてやるんだ、おれは人間国宝に対して「あなたのほうが技術的にちょっと上手なだけじゃないですか」と言い放ってやろう(人間国宝さんもバカではないので、たぶんおれの言いようが正しいと笑ってくれるだろう)。

あなたはあなたの作品をやろうとしろ、勝手に「極(きわ)めよう」にすり替えるな。

女子中学生が初めての愛から誰かとセックスをしようとするとき、その技巧がプロのお姉さんにかなわなかったとして、彼女のセックスを否定するようなバカがどこにいるだろうか? 彼女が全身全霊でその魂の営為に飛び込んだことじたいがすばらしいのであって、その出来栄えなんかどうでもよろしい、どうでもいいというかそれは明確に別ジャンルなのだ/勝手に「極めよう」とするな、むしろ自分の作品に向き合うことじたいが怖いから、それを避けるために「極める」うんぬんに思考をずらすことが多いのだ、そういうだらしないことをしてはいけない、負けずぎらいを言い訳のトリガーにして、<<あなたがうっかり芸術を極める発想にすり替わってしまったら、あなたは自分の作品から遠いところへ流されてしまう>>。
あなたが焼いた皿は常に100点満点で、あなたの書いた小説は常に100点満点だ、あなたの描いた絵は常に100点満点で、あなたが唄って踊ったのは常に100点満点だ、そりゃそうだろう、漁師がテレビゲームをやったってそのプレイは100点満点だし、プロゲーマーがヘタクソな釣りをしたってその釣りは100点満点だ、あなたが自分の作品について「これでいいんでしょうか」とわたしのところに実作を持ってきたら、わたしはその内容を見ないまま「それでいいんです」と答えてやろう、これでいいのか悪いのか、迷いながら持ってきたということだけでぜったいにすばらしいからだ/あなたの作品に失敗作は存在せず、未完成から未発表になったすべてについてもそれは失敗作ではない、発芽しなかった種は失敗作ではないし、まったく飛ばなかった紙飛行機も失敗作ではない、すべてあなたの作品ですばらしいものだ、わたしが否定するとしたらあなたの作品ではなくあなたなのだ、あなたの作品に対してあなたがうっとりしようとしたり、あなたの作品によってあなたが自分の負けずぎらいを満足させようとしたり、そういうときにのみわたしは否定をする、あなたの作品ではなくあなたを否定する、あなたの作品を守るためにおれはあなたを否定しなくてはならないのだ、あなたの犬があなたの気分を満足させるために存在しているのではないように、あなたの作品はあなたの気分を満足させるために存在しているのではない。
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あなたの作品を始めよう/9.恐怖と確信
「自分の作品」に向き合って、まず「怖い」と感じる方は、幸いなことに才能があります、「怖い」と感じるのは自分の置かれる場所がヤバイと直観できているからです、そのことじたい素晴らしいことです。
それはどういう場所なのか、どう怖いところに置かれるのかというと、まず「経験が持ち込めない」ということです、だから自分のこれまでの成長などが使えません、完全にもともとの自分・素の自分がそこに置かれてしまいます、そしてつぎに「奥行きでごまかすことができない」ということです、作品についてつまらないものは残念ながら数秒あるいは数分でそれとわかってしまいます、あとから巻き返すということは基本的にありません(つまらなかった漫才が五分後から面白くなってきた試しはありませんね)、そうして作品の失敗で「死亡!」という感じを味わうのは、ほとんどその場で即死という一撃死で味わってしまいます、これらのことが恐怖なのです。
あなたはこの恐怖に詳しくなっておいて損はないです、さらにこの恐怖の真髄は、作品うんぬんをやってみてまったく太刀打ちできなかったところ、じゃあ次にどうするかというと、次もけっきょく同じことに突っ込むしかないのです、そしてどうなるかというと、やはり同じように即死を食らいます、「だんだんできるようになってきた」ということがないのです、にもかかわらず「自分の作品」というテーマは自分に毎日、永遠につきまとってしまいますから、このことが真の恐怖です、たとえばあなたが小説を書くとして、ぐちゃぐちゃのまま一本書き上げることは可能かもしれません、けれどもそのぐちゃぐちゃを五本書いて、つぎに六本目を書けるかというと、「もうカンベンしてください……」というムードになってきます、作品というのは生産「し続ける」ということが真の恐怖と困難をもたらします。
小説や絵画の場合、目の前にあるのは白紙であり、演奏や踊りの場合、目の前にあるのは無音の空間です、つまりどちらも「白紙」と言ってよいでしょう、その白紙に向き合うのは誰かというと、白紙のままの自分なのです、何かを持ち込むということは基本的にできません、まるで子供が生まれて初めて小学校に入学したときのようなことがえんえん繰り返されます、たとえばわたしはこのようにあなたに向けて書き話しをしていますが、今日の書き話しが面白い良作だったとして、明日の書き話しが同じように良作になる保証はどこにもありません、今日の経験を明日の作品に使うことはできないのです、だからこそ恐怖であり、だからこそこれは最もタフなことなのです、いつもいつも新品の・情報を持っていない・白紙の魂だけを振る舞うしかありません、その魂がぐうぜん祝福を受けたら何かになるかもしれませんが、その祝福があるのかないのかはわれわれ自身で用意も決定もできないのですから、作品は常に・いつまでも・恐怖のものだと考えていてむしろ正しいと言えるでしょう。

何にも頼ることができない、というのが作品に取り掛かったときの特徴です。
何にも頼ることができない、となると、恐怖と共に、人はどのような挙動に出るか、このことを知っておいて損はありません、人は自分の魂に覚えのある、一番強いもの・一番確信のあるもの・これまでに一番幅を利かせてきたものを取り出してきます、そのとき人は作品がどうこうというより自分の魂を守ることが最優先になりがちです、安全のためにやむをえないことではありますが、これによって思いがけないことが起こります/自分の中でこれまで一番強かったもの、一番確信があるもの、それがたとえば嫉妬感情だったら、その人は魂の場所で嫉妬感情を出してきます、「恨み」に確信がある人は恨みを出してきます、性的欲求不満に確信がある人はそれを出してきますし、幼児退行に確信がある人はそれを出してきます、不機嫌に確信がある人は不機嫌というパフォーマンスをし、嫌味に確信がある人は嫌味をパフォーマンスします、猫がかわいいということにしか確信がない人はすぐに猫がかわいいというのを出してきますし、若い女性のおっぱいにしか確信がない人はすぐにそれを出してきます、お金にしか確信がない人はそれを出してきますし、高級街とハイブランドが「おしゃれ」という妄執にしか確信がない人はけっきょくそれを出してきます、その他いくらでも、イキる人、オラつく人、エゴイスティックに振る舞う人、不思議ちゃんを振る舞う人、セルフィッシュに振る舞う人、煽ってくる人、攻撃や敵愾心をむき出しにしてくる人、泣き落としする人、無知愚昧を振る舞う人、もうなんでもかんでも出てきます、その人が持っている一番確信のあるもの、一番強いと感じられているものを取り出してきます。
たとえばここで登場人物Aを設定してみます、登場人物Aにかかわる情報はもちろん白紙です、その白紙に何かを決定するのは作品のマスターたるあなたになるのですが、もしここであなたが確信している一番強い感情がたとえば「仕事ダルいなあ、イヤだなあ」だったとすると、それがそのまま登場人物Aのセリフと挙動になります、A「あーあ、今日も仕事かぁ、イヤだなあ、ダルいなあ、誰かなんとかしてくれないかなあ」。
たとえばあなたは、生まれてきた環境や両親のことに「恨み」を持っていたとします、その恨みっぽさと比較して、「明るい街で明るい人たちが無闇な希望に向かっている世界」を置くならば、そのふたつのうちどちらが大事なことであるか、あなたはもちろん後者のほうが大事ですてきだと考えるのです、そうは考えるのですが、そのように魂に確信を得ているわけではないということがあります、ですからあなたが自分の作品に取り掛かろうとするとき、登場人物Aは無闇な希望に向かっていく人にはならず、恨みっぽい人になります、人は作品にかかわって自分の求めるところの世界を創り出せるわけではなく、むしろ「わたしが住んでいるのはこういう世界です」「こういうのが一番強いんです! だからこういうのが世界の主です!」ということが暴露されてしまうのです、恐怖といえばそのことを自分で知ってしまうのが最大の恐怖かもしれません。

恥じずに、誇って笑いなさい、その恐怖に突っかかっていっただけあなたはふつうの人より強いのだから。

おすすめできないことは、その恐怖に対抗できず、フェイバリットの中に逃げ込むことや、斜に構えて余裕ぶることです、またそうして余裕ぶっている人のほうへふらふらと吸引されていかないように/あなたは白紙のあなたで白紙の空間と戦うことをやめないでください、われわれは造物主になれないというのがこの世の理(ことわり)ですが、その理を破ってでもなんとかしろというあなたでいてください、あなたが造物主になれないなら必要なことは造物主にやらせればいいではないですか、この際それが不遜だとか傲慢だとかいうことはもはやどうでもいいことです、たかが自分の作品をやりたいだけでそんなに根こそぎ罰せられるというものでもないでしょう。
自分の作品というのは、それだけでイコール「恐怖」です、さらにその恐怖におびやかされて、自分が本当に確信しているものは何かが暴露されてくる、そのことがさらに恐怖です、しかもその恐怖が「じゃあ明日もよろしく、明後日もよろしく」と際限なく繰り返されていくのが恐怖です、この恐怖はたいへんキツいので、どうぞいくらでも先送りにしてください、ただし先送りにするというのはそれを諦めるということではありません/誰だってある恐怖、誰でも等しく向き合わねばならない恐怖、そしてほとんどの人が最後まで見ないふりをしようとするその恐怖に、じつはこっそりあなただけが日に日に突っかかっていっているとしたら、あなたはそれだけでじゅうぶんに勇者です、あなたがゲームオーバーを繰り返すように感じているのは、あなたが何度も勇敢にスタートボタンを押してきたからではないですか。
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あなたの作品を始めよう/8.袋叩きにしろ

品には買い手がいてはじめて商品でありうるように、作品・表現は受け手がいてはじめて作品・表現となるという向きがあります/作品の "受け手" について詳しくなってください、ポイントは一点のみ、受け手は「ひとり」だということです、ルーブル美術館には毎日数千人が来ますが、それにしても作品の受け手は「ひとり」です。
どういうことか、あなたはこのように考えましょう、あなたは誰かと一緒に死ぬことはできませんし、誰かと一緒に本を読むことはできません、誰かと一緒に夢を見ることもできません、誰かと一緒に音楽を聴くぐらいはできるように思うかもしれませんが、それはその人と「ひとつ」になっている場合だけ一緒に音楽を聴けるのであって、それではけっきょく受け手は「ひとり」ということになります/受け手はひとりでよいのですし、ひとりでしかありえません、そしてもちろん、それは「誰」ということもないのです。
このように考えましょう、舞台上でスターがひとり、パフォーマンスをし、客席に数万人が詰めかけていたとして、まるで表現の仕手側はひとり・受け手側は無数という感じがします、けれどもこれは錯覚なのです、わたしのこの書き物もどうやら毎日数百人が読んでくれているようですが、じっさいにはどうでしょう、じっさいにはあなたがわたしの話を受け取るときはあなたが「ひとり」ではないでしょうか、しかもその「ひとり」というのは、書き手側のわたしさえそこにはおらず、ただそれを受け取るあなた「ひとり」だけがそこにいるという意味です。
作品についてこのように知っておいてください、見かけ上、作品の仕手側はひとりで、受け手側が無数にいるというふうに見えますが、本当は逆で、仕手側は無数の軍勢、受け手側はひとりなのです/われわれは現代において、SNSを通じて起こる「炎上」という現象を知っています、芸能人のスキャンダルにおいてその炎上が起こる場合、視聴者側から芸能人側へ、多数をもって個人をいたぶる「袋叩き」が起こるわけですが、本当の作品・表現においてはこれが逆転します、仕手側が受け手側を「袋叩き」にするのです。

ですからあなたも、自分の作品を始めるにあたり、あなたが袋叩きにされるのではない、あなたが「袋叩きにしてやる」という発想を持つ側なのだと考えてください。
じっさい、あなたはわたしの書き物を読むときどうでしょうか、あなたがわたしを袋叩きにする気分でしょうか、いやいや、どちらかというとあなたはわたしによって袋叩きにされている気分ではないでしょうか、あなたひとりがわたしの軍勢に脅威を覚えているのであり、あなたは読み手側として連合勢力なんか持っている感じはしないでしょう、あなたはひとりです、わたしは軍勢です、だからあなたの側が袋叩きにされていると感じていると思います。
袋叩きの方向性だけでいえば、いわゆる「炎上」は、「作品」と真逆にある現象だと言えます、よってもしあなたが炎上騒ぎに加担するタイプの場合、残念ながらあなたは自分の作品を成り立たせることにかなり距離がある、そのことに縁遠い人だということになるでしょう、そしてもしあなたがすぐれた作品によってむしろ受け手の自分が袋叩きにされている感覚だということであれば、あなたは自分の作品を始めていくのに大きなアドバンテージを持っているということになります。
あなたの経験をもとに、その「ひとり」を視認してください、受け手は「ひとり」であって、作品によって袋叩きにされている者です、彼がどのように袋叩きにされているか、そのことを手触りとして知るなら、あなたは作品と表現の入口をすでに得ているということになります、あなたは彼を作品で袋叩きにするという感覚だけで、本当の「表現」をそこに起こすことができます/あなたがすべてを「ひとり」で受け取ってきたことが、ここにきて報われるのです。

あなたの作品の受け手は、あなたにフェイバリットを送ってくる群ではありません、その向こうで「ひとり」でいる人です。

だから、多数のフェイバリットに注意してください、多数のフェイバリット群を真に受けていると、あなたは永遠に作品への到達チャンスを失ってしまいます、作品は仕手側と受け手側が必要なものですが、あなたの作品の受け手は、そのフェイバリットを送ってくれる多数の人々の向こう側に隠れています、フェイバリットは感謝と共に無視して、その向こう側に隠れている「ひとり」を狙ってください、彼に愛の軍勢を向けて袋叩きにするのがあなたの作品です。
きわめてすぐれた映画などを観たとき、あなたは「打ちのめされた」というように感じたことがあるのではないでしょうか、あるいは本当の愛や情熱に生きている人に出会ったときにも、あるいはそうしたシンガーの声を聞いたときも、あなたはその作品性に「打ちのめされた」と感じておかしくありません、そしてそうして打ちのめされたとき、あなたは「ひとり」打ちのめされていたのではないでしょうか? オペラ「魔笛」を観たときには、タミーノ、パミーノ、パパゲーノ、パパミーナ、夜の女王、ザラストロ、そして僧侶たちが、よってたかってあなたひとりを袋叩きにしたのではないでしょうか/あなたの「作品」は、あなたの軍勢の全戦力が、よってたかって受け手たる「ひとり」を袋叩きにするものです、あなたが多数の眼や審査に晒されて袋叩きにされる気分だと考えてはいけませんし、多数に好意的に審査されてフェイバリット群を送られることにだまされてもいけません、あなたは誰というのでもない「ひとり」でいる受け手だけを全戦力で袋叩きにします。

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あなたの作品を始めよう/7.冷蔵庫はスイカを失え
「表現」をやってみましょう、あなたのこころの中にあるものを表に現す、詩文でも歌でも、絵でも踊りでもかまいません。
そこで出来上がったものを見てください、そこにはまさに「わたしのこころの中のもの」がそこにあるでしょう、ですがこれは表現にはなっていません、われわれはは自分の作品について99%ここでつまづきます。
なぜ表現にはなっていないのでしょうか、それはこうです、「わたしのこころの中のもの」がそこにある場合、それはまだあなたのこころの中にあって表に現れてはいないからです。
勇気をもって率直に感じてください、一時的には感情が盛り上がったかもしれないけれど、あとで冷静に見返してみると、それは「表に現れる」どころか、「内側にいてください、というか出てこないでください」と苦笑したくなるしろものではなかったでしょうか、それはこういうことです、「こころの中にあるものなら、こころの中に置いておいてください」ということなのです、なぜあなたはこころの中のものを表に出すことがエライと思ってしまったのでしょうか、われわれは万事につき「表現する」ということをエライと思い込んでいて、そのことがわれわれを魔境に誘うのです。

表現というのはそうではありません、ガラッと認識を変えてください、表現というのは「あなたの脳みその中にあるもの」を、「宇宙の脳みそに移譲する」ということです、移譲してしまえばそれはもうあなたの脳みその中のものではなくなります。
もちろん「あなたのこころの中にあるもの」を「宇宙のこころに移譲する」でもかまいません、要は、それはもうあなたの内なるものとしては無くなってしまうということです、だから作品というのは自分のこころの中とつながったままではいけないのです、自分のこころの中とつながったままならそれは何ら表現はされていない、モゴモゴした何かだということになります、それなら「こころの中に置いておいてください」「押し出さなくてけっこうです」ということになります。
物書きなら紙面じたいが脳みそだと思ってください、画家ならキャンバスじたいが脳みそだと思ってください、演奏家ならホールの空間じたいが脳みそだと思ってください、その外なる脳みそにモチーフが移譲され、あなたの体内の脳みそからはそれが失われるのです、じっさいわたしのこうした書き話しは、紙面じたいが脳みそとなって思考・演繹しているのであって、すでにわたしの脳みそからは手放されたものです/もしわたしの書き話しがわたしの脳みそとつながったままであれば、それはやはり「頭の中に置いておいてください、勝手に出してこないでください」ということになるでしょう。
あなたの家の冷蔵庫から、スイカを出してくれば、あなたの家の冷蔵庫はむしろスイカを失います、もしあなたが自宅の冷蔵庫に入っているスイカの写真を撮り、その写真をみんなのところに持って行ったとして、それであなたのスイカが "表に現れた" ということにはならないでしょう、それは冷蔵庫の中のものなのだから「冷蔵庫の中に置いておいてください」「そんなの見せられても困ります、持ってこないでください」ということになります/冷蔵庫の中に入ったままのスイカを客が食べられるわけはないように、あなたのこころの中につながったままのものを客が体験することはありえないということです、「表現」ということの認識を改定してください。

あなたの脳内に鳴り響いているものを、宇宙の脳みそに移譲してください、宇宙の脳内が鳴り響き、あなたの脳内は静かになります。

作品には仕手側と受け手側があり、たとえばいまはわたしが書き手であなたが読み手ですが、もしわたしが書き手として自分の脳内に鳴り響いているものを受け手のあなたに向けようとすると、あなたは脳内が騒がしくなって「しんどい」「うっとうしい」「やめてください」と感じるのです、だから表現というのはそうではありません/脳内に鳴り響いているものをさっさと紙面の脳みそに移譲する、自分の脳みそからはそのサウンドを失う、そしてあなたは紙面の脳みそが考えたことを読んでいるのです、あなたが聞いている 声/voice は、紙面の脳みその声です、わたしの脳みその声ではありません。
あなたは白紙に向け、あるいは無音の空間に向け、湧いてくる脳内のものを失っていきましょう、たとえば脳内でスイカをイメージしてください、そのイメージのまま白紙にスイカを描けばつまらないものになりますが、それは「表現ではない」ものです、よって<<あなたの脳内のスイカのイメージは残ったままになっている>>はずです、本当に白紙にスイカが移譲され、あなたの脳内のスイカのイメージが消え去るなら、そのとき白紙に描かれているスイカはイメージではない「物/モノ」になっています、それが「表現」です/それについて、あなたに「スイカのことを考えながら描いたのですか」と訊けば、あなたは「いや、頭の中にスイカはなかったよ」と答えるでしょう。
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あなたの作品を始めよう/6.パイナップルハンカチパイナップル
れでは手元のメモ用紙にパイナップルの絵でも書いてみましょう、モチーフはパイナップルです。
あなたはパイナップルに魂を向かわせながら、ハンカチの絵を描いてください、描かれていくのはどう見てもハンカチでしょうが、あなたはハンカチの絵を描いているのではありません、あなたはパイナップルの絵を描いています、もちろんそんな描き方をしたら、描線はモタモタ・ぎくしゃくするでしょうが、そのほうがすばらしいです。
このとき、あなたは大事なことを発見してください、あなたがそうして「パイナップルの魂でハンカチが描かれる」ということを体験しているぶんには、なぜかあなたは疲れないということです、また逆にこうもためしてみましょう、パイナップルをイメージしてパイナップルを書こうとしたらとたんに疲れます、ハンカチをイメージしてハンカチを描こうとしても同様です、すぐに疲れます、その疲労を感じるのにおそらく数秒とかかっていません、一瞬のことです。
そうして描かれたものは、どう見てもハンカチに見えるでしょう、だがそれが何だというのでしょう? われわれはパイナップルの造形・シルエットに似た図形を見ればそれをパイナップルだと認識しますが、それのどこがパイナップルだというのでしょうか、それなら絵画といっても🍍と絵文字でも表示しておけば十分ではないですか、その絵文字で十分だろうということをわざわざ感情的な手描きでやらされると、人は二秒で疲れ果てるのです。

パイナップルを描いてもつまらないのです、ハンカチを描いてもつまらない。
それに比べると、先ほどのいわば「パイナップルハンカチ」は、何かがちょっとマシだということになります、マシだからあなたはそれをしていてなぜか疲れないということを体験します。
では、このように考えてみましょう、パイナップルに向かいながらハンカチを描いたらそれはパイナップルハンカチになるだろうということにして、逆も言えます、ハンカチに向かいながらパイナップルを描いたらそれはハンカチパイナップルでしょう、さらにそれを組み合わせて考えてみます、パイナップルハンカチに向かいながらパイナップルを描いたらそれはどうなりますか、当然、パイナップルハンカチパイナップルということになるでしょう、まるでいつぞやの "PPAP" みたいですが……
「パイナップルに向かいながら描かれたハンカチ、に向かいながら描かれたパイナップル」がそこに描写されることになります、なんとまあ余計な紆余曲折を孕んでいるものでしょう、描線は泥(なず)み、ぎくしゃくするに決まっています、サッサッサーと描けるわけがない/しかし、なぜかあなたはその難渋な描写を無理やりしてみると、そのことにはなぜか疲れないということを体験します、そしてパイナップルから始まってそこに描かれたものはパイナップルです、ぎくしゃくしたパイナップルですが、あなたはなぜかそのパイナップルを「つまらない」とは感じないと思います、つまらなく感じるのはあなたが手抜きした箇所だけで(つまりパイナップルのイメージを直接描いた場所だけで)、そうでない、パイナップルハンカチを経由して描いた部分は「つまらない」という感触にはならないはずです、ただしあなたがこの手続きでの描画を「愉しむ」というような余計なことをしなければですが……さあこれはどういうことなのでしょう、あなたは絵描きでなくてかまいませんが、あなたの絵がつまらなくなってしまうパターンについては知っておいて損はありません。

パイナップルを真に受けていると、パイナップルの絵はつまらなくなる。

妙な話ですが、「こんなもん、いわゆるパイナップルに見えるけれど、じつはハンカチなんじゃないの? ああ?」というぐらい、わけのわからないことを言い張って、パイナップルの形を真に受けないほうがいいのです、だってそうでしょう、空を飛んでいるトンボはじつは養殖アサリかもしれませんし、ひまわりに見えるそれはじつは鉄の拳かもしれないではありませんか、鉄道に見えるそれはじつはモジャモジャの羊でしたなんてことはいっそよくあることなのじゃないですか? どうですかこのよろこびは/見たもののイメージおよび連想をそのまま真に受けるのであればわざわざそれを絵画等の芸術にすることはありません、見たもののイメージおよび連想をそのまま真に受けるのであれば、それはそのまま「イメージおよび連想」なのであって、どう考えてもあなたの「作品」ではありません。
パイナップルの絵を描くときに、パイナップルのイメージを焼き付かせてそれを描いてはいけません、どちらかというと「エリオットへの感情」でそれを描いてください、もろちんエリオットが誰かなんてわたしはまったく知りません、「蚊取り線香の卵とじをフライパンで焦がして通販でシンガポール政府に売ったときの後味」のような空気感がみっしり表れるようにパイナップルを描いてください、くれぐれも愉しむことのないように描いてください、愉しむなんて奴はふざけているのですから/描きながらあなたがハアハア息を切らしはじめ、汗を流すまでになるようなら成功です、あなたの描いた絵を友人が目に留めて、とたんに「何これ?」と言ってくれるでしょう、見た目はパイナップルの絵に決まっているのですが、あなたの友人はあなたの作品に見入っているのです。
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あなたの作品を始めよう/5.作品は薄っぺらく
行きがあって重厚なものがよいとされています。
けれどもそれはワインのような話であって、作品のそれとは違います。
作品は薄っぺらいほうがよく、さらには、薄っぺらくなければ作品ではありません。
薄っぺらいということはどういうことか、奥行きがないということです、奥行きがないということは、行き着くところ二次元ということです、もちろんアニメやマンガのことを言っているのではなく、作品という事象じたいが二次元だということです。

作品には奥行きがなく、ペラペラで何であれば「中身がない」とも言えます、そりゃ二次元で奥行きを持たないのだから「中身」なんかありようがありません。
そのようにして、奥行きがなく、中身が存在しない、はずなのに、なぜか奥行きが体験され、中身が創り出されます、それが不思議なので、優れた作品はその奥行きや中身が評価されるのです、ただしそれはもちろん、奥行きや中身を「匂わせ」て創り出すというものではありません、匂わせ・フレーバーはむしろその奥行きが得られないから人為的に香料を貼り付けて奥行きを偽装している行為に当たるものです(いわゆるセンスというのもすべてそのフレーバー行為にすぎません)。
奥行きが出ちゃったら失敗です、そのときあなたは「弱み出ちゃったな〜」と反省するようにしてください/なるべく薄っぺらく……ほらここで、あなたは妙なことに気づきませんか、あなたはその「薄っぺらく」をこころがけようとするとき、なぜか「やけくそ」みたいな気持ちになろうとしていませんか、ただ薄っぺらくしろというだけなのに、あなたは自動的にやけくそになろうとしている。
作品は薄っぺらく、二次元のそれに中身はないのですが、あなたは中身を愛好してしまっているのです、だからどうしても中身から作品を作ろうとしてしまいます、それを薄っぺらくしろと言われると、あなたは中身を放棄しなくてはならないので、やけくそにならなきゃという気分にさせられるのです/作品に関わる誤解ですね、あなたは作品の奥行きや重厚さを味わい、それを評価するかもしれませんが、それは作品から奥行きが生じているのであって、奥行きから作品が生じているのではありません

作品に中身はないということは、つまりあなたは作品の中に入れないということです。

人はどうしても、自分の作品の中に自分を入れたいらしく、そのことをすると作品は失敗します、どんな天才であっても、たとえば宮崎駿監督であってもそのときは失敗します、作品それじたいに奥行きはなく、だからこそ奥行きのないはずの作品から奥行きが生じるという不思議があるのです、なんとも「自分がわずかも入っていない」という他人事のような作品を創りましょう、するとその二次元の事象に、なぜか自分が(奥行き方向に)現れてくるということがあるのです。
作品は、イメージを広げるのではないのです、そうではなく逆、作品はすべて「畳む」のです、奥行きも畳み、時間も畳み、何であれば愉しみや配列、位置関係も畳みます、ちょっと何を言っているのかわからないと思いますが、「広げるのではなく畳む」というぐらいに知っておいてください、畳む方向で創られた作品は、それが体験されるときは広がるように体験されるという仕組みなのです/カバンを大きくすれば大きくするほど中身は詰まらなくなっていくでしょう? そのことをわれわれは「つまらない」と呼んでいるのです、作品は広げて創るとつまらなくなります。
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あなたの作品を始めよう/4.習作の中を生きる
なたは毎日トイレに行きますが、毎回のトイレのことを記憶などしていません、何に使うわけでもないのですから、すべて水に流していると思います。
作品に関わっては習作というものが必要だと思いますが、あなたはどう思いますか、習作は必要ですと言いなさい、ずっと習作の中を生きるものですと言いなさい、あなたはあなたの知らないことを勝手に言ってもいいのです。
ただし、習作の経験を蓄積すると考えると、それは誤りです、習作は学校の試験とは違うので、経験を蓄積してスコアが上がるものではありません、経験を蓄積させたものはもう作品ではなくなります/技術コンクールには入賞できるかもしれませんが、それはやはり作品ではない。
あなたが毎日トイレに行くように、あなたはずっと習作の中を生きています、そしてトイレのことをいちいち覚えてはいないように、習作のことを蓄積はしていません、すべての習作を壁に張ったりフォルダに保存していったりしてかまいませんが、それはあくまで記録であって記憶ではないと理解しておいてください、何に使うわけでもないのですから。

あなたはトイレを「やる」とは言わないでしょう? あなたにとってトイレは「済ます」もののはずです、習作もそれと同じで、あなたは習作を「やる」わけではない、毎日ただそれを「済ます」だけです。
トイレはただ済ますものであって、何の価値もないかというと、そうではなく、毎日トイレを済まさないようでは便秘・ふん詰まりでひどく苦しむではないですか、習作も同じです、ただ済ますだけ、毎日それを済まさないでは「詰まり」でひどく苦しむということです。
「あなたの作品をやってみせて」と言われると、あなたはプレッシャーからウッと息が詰まるでしょう、それに比べてバスガイドさんが「お手洗いをお済ませください」と言ったとしてあなたがプレッシャーを受けることはないでしょう、そして体内に「済ます」べきそれがないときにはバスガイドさんに「大丈夫です」とあなたはいう、ただそれだけでしょう。
もちろん作品は排泄物ではありませんから、まるまる習作をあなたの部屋のトイレと重ねるわけにはいきません、ただあなたが認識を改めるべきは、あなたは毎日習作という「課題をやる」のではないということです、人はさまざまな課題の中を生きていると思いますが、それはわれわれの生活の事情であって、作品の営為ではありません、われわれの生きる課題に作品は含まれていないということです、われわれがトイレに行くのが課題ではないようにです/「自分の作品」を課題のように感じている人はすごく多いものです!

デッサンの課題、小曲の課題、そんなのほったらかしてトイレに逃げ込みなさい。

あなたがフィギュアスケートの選手なら、大会で優勝するために、さまざまな課題があるかもしれません、ですがそれは競技であってそれじたいは作品ではありません、作品に向けては習作が必要で、ただその習作というのは課題ではないのです、習作をいちいちやるということではなくて、一日に二度でも三度でもある習作の中を生きるだけです。
「あなたの作品」というのも、けっきょくあなたの課題ではない、そのことを当たり前にしましょう、そのために習作の中を生きるのです、のびのびやってください、ただしダラダラやるのではありません、一気に開放的に! ……開放的にというのがわからない? それではしょうがありません、お下品になりますが説明のためにやむをえず申し上げましょう、あなたが毎日トイレでやっているそれが開放的なはずです、あなたはダラダラ排泄なんかしないじゃないですか、いつも一気に開放的にそれをやっているでしょう。
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あなたの作品を始めよう/3.蒸発するマチルダ

なたにマチルダさんを紹介しました。
マチルダさんは蒸発しました/以上、紹介は終わりです。
蒸発したというのは物理的に蒸発したということです、失踪したということではありません。
マチルダさんは実在します/フィクションですが実在します、そして実在していなければフィクションではありません、実在していないならただのウソ・ただの作り話です。

マチルダさんは実在しているので、蒸発してしまってもかまいません。
実在していないものならば、ちゃんと残っておいてもらわないと困りますが、実在しているのであれば蒸発してもかまわないでしょう/あなたの魂が実在しているなら、そのまま蒸発してしまってもかまわないでしょう、あなたの魂が存在していないなら、何か石にでも刻んで括りつけ、確保しておかないといけないかもしれませんが。
あなたの作品も蒸発してください、作品は蒸発して実在するものです。
録音や録画、あるいはプリントをすると残るように思えますが、錯覚です、それは蒸発したもののレコード(記録)にすぎません/さあ四の五の言わないで、作品は蒸発をもって作品となさい、蒸発しないものはすべてあなたのいわゆる黒歴史になるだけです。

蒸発しないと残りません、蒸発しなかったものは消えていきます。

さまざまなブームは消えていったでしょう? あれらは蒸発しないもので、刺さるもの、ヒットするもの、愉しまれるものだった、だから実在はしないものだった、ということはフィクションではなかった、イメージのこと、ノンフィクションのことだった、だから消えていきました。
さあ四の五の言わず、そのように致しましょう、蒸発したものは残り、蒸発しなかったものは消えていきます、いまこのときもわたしが紹介したマチルダは残っていますし、あなたの想像力はそのマチルダに会ってしまうではありませんか/あなたの声、あなたの姿、あなたの顔、あなたの動きも蒸発してください、あなたの描線も一本ごとに蒸発しなさい、作品をやろうとしたあなたがくたばるなんてことあるわけがないというのが、その蒸発でわかるでしょう?

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