☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
何をしたらいいかわからない人へ
をしたらいいかわからない人は、何をしているのかが見えないのだ。
何をしているのかが、他人から見て「見えない」のだ。
この場合、自分自身も、何をしたらいいのかわからなくなる、これは典型的なパターンだ。
そこから、自分が何をしたいか等、思い詰めていっても、解決はされない、他人から見て「何をしているか」が見えるということ、これが思いがけずキーファクターなのだ。

何をしたらいいかわからない人は、「何を」という点的な視点ではなく、それぞれの「まとまり」や「全体」のことを見るほうがいい、正式な言い方で言うと「構造化して見る」ということになる、これはどうしたって不可欠なのだ。
たとえば小学校の「六年二組」は、他の組があるから二組なのであり、中学校や高校があるから「小学校」なのだ、「六年二組」という単体があるのではない。
中学校や高校の存在を無視して、「六年二組で何の授業をしたらいい?」というのは決定できないのだ、それで「何をしたらいいか」がわからなくなる/いかなるものも構造のうちの「一」であり、構造の中の一断片であることを忘れてはならない、忘れるとまさに「何をしたらいいかわからない」という状態になる。
人は何かをするとき、自分が「どうなっていくか」という前提で、それをすると決定できるものなのだ、今このときにすべてを懸けられるのも、「今このときにすべてを懸けないとこの先が話にならん」という前提から、今このときにすべてを懸けられるのだ。

行き先なしに足跡はない。

足裏を地面にぐりぐり押しつけるというような、わけのわからない「足跡」はない、自分の行く先をきっちり「信じている」こと、そのことなしに今日の一日を足跡にできる可能性はない/いくら「楽しんだ」として、そのことはあなたを救済しないだろう、自分の行く先を信じていない人は、他人から見ても「何をしているのか」が見えないものだ。
足跡のすべては思い出で、足跡そのものがあなたの実在だし、今日という一日、今という瞬間がすべてだが、今という瞬間には「どこかに向かい続けている今」ということも含まれている、永遠の今というのは、われわれが永遠にゆくことを指して「永遠の今」だ/自分の行く先――未来――を構造的に見ないということは、明日を焦ることと同程度に虚しい、「どこへ行くの」と言われたら「ここへ行くの」と目の前で指させ。
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今月のテーマは「夢中」です
の一週間ほど、集中力をおびただしくして過ごしたのだが、色んなものが見える反面、あやうく風邪を引くところだった、あぶねえあぶねえ。
昨夜、急に「これはまずい」と感じて、思いっきりセルフケアの一日に切り替えたのだった、それでうまいこと回避できたのだが、こういう切り替えができるようになったのは、本当にボクもオトナになったんだなーって……この数十年間、すべてのケースに「うるせえ」と言い放って突撃するのがパターンだったから、この回避は本当にGJなのだ、昨夜は37℃まで体温が上がってしまったが、今朝はすっきりさわやか快調なのであった。
今月のテーマは「夢中」です、何のテーマって、また今月も「月刊ワーQショップ」を出すからね、そりゃ月刊なのだから今月もあるわなあ、どうだ寄稿員のみんな、毎月ってキツいだろ? そして来月ってすぐ来ちゃうだろ? そうした苦しみを僕以外の人々に押しつけたく候、今月のテーマは「夢中」と決めつけた、第二号に割といいテーマじゃないか。
なんというかね、ダメなものはダメになっていくし、いいものはなんとか生き残っていくよ、今回おれは、一週間ほど集中力を極大化して、いろんなものを見た、風邪はぎりぎりで回避したし、その弱り尽くす瞬間、特におれはいろんなものを見た。

なんというか、大真面目な話、人はそれぞれ役割があって、不本意でもその役割にブチこまれるのだ、それが "本人の選択" ということになるな、いわゆる自己決定ということになるのだけれど……
毎日を、すっごく気分の悪い中で過ごしている人もいるのだ、あるいは何にも感動せず生きている人や、生涯を何の愛とも関わらずに生きていく人もいる、内面で吾我をメラメラ燃やすばかりで、身体をおかしくして生きていく人もいる、こうしたものは、どうやらやはりどこかで "自分で選んでいる" ようだ、そしてそうしたものを選ぶのは無意味なことではない、それは誰かが引き受けねばならない「苦しい役」だから。
人は、自分の性格とか価値観とか、そういう個人的なものではなく、どこかでそういう「役割」を与えられて、その「役」を担わされることになるのだ、そのことに気づかない限り、人は自動的に「周りが見えていない奴」「本質が見えていない奴」「幸福になりようがない奴」という役に押し込まれてしまう、そしてそういう人も必要なのだ、おれはいやだけどね/そして「必要」といっても、こんなに数多く必要なわけでは本当はないのだ。
この世界に、個人の価値観とか、個人の対決とかいうものはないのだ、それぞれが「役割」を担って、その「役割」がせめぎあっている、このことに気づかないかぎり、「何にも気づいていない奴」という役割に押し込まれるだけだ、その役割の中で、<<自分が何をするかは自分で決められない>>のだ。

舞台上で、お笑い芸人がスベったら、それは技量や才能の問題ではなく、彼が「吾我の膨張で苦しむ役」なのだ、だからある意味スベってはいない。

これまでのことを、思い出してみたらいい、面白くなかった人が面白くなるケースは極めてまれだし、陰鬱なキモオタさんが数年後に熱い魂をもった男になるケースはゼロというぐらいにまれだ、人は変化できないのだ、<<人は担う役割を換えるまで己を変化させることはできない>>。
「夢中」と「熱中」の区別はつきづらく、パチンコで借金するおばさんはパチンコに熱中しているだろうが、そのおばさんが何かに「夢中」になることはできないし、これまで何かに「夢中」になったこともないはずだ、それはおばさんが知らず識らず、そうした「熱中しかできず、何にも夢中にはなれない人」という役割を選んでしまったからだ、そうしたおばさんが借金で自滅していくのは、ある意味何も間違っていない、自分で選んだほうをきっちりやりこなしていくということに、強制的になるのだ。
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世界に首を突っ込んで

の世界に首を突っ込む。
自分で、この世界に首を突っ込む、そのことができない人は、やたら他人のことに首を突っ込むようだ。
誰の出来が悪いとか、誰にセンスがないとか、誰をリスペクトだとか、そんなことはどうでもいいのに、そのどうでもいいことにばかり火を噴く。
自分で、この世界に首を突っ込め、そうしたら、他人のことに首を突っ込むのは即日でもやめられるはずだ。

みんなが勉強しているから、わたしも勉強する気になるとか、みんなが走っているから、わたしも走る気になるとか、典型的な他者依存、典型的な世界逃げ型だ。
この世界に、自分で首を突っ込むのだ、それ以外にないのだ、そのとき他人のことに首を突っ込んでくる奴が、どれほどうっとうしいものか、ひどいレベルで痛感するだろう。
けっきょく個人的には誰にも尊敬されることのない者が、年齢だけ老いてくると、気位が高くなって、他人のことに首を突っ込むのを得意にしはじめる/誰からも尊敬されることがないのは、自分でこの世界に首を突っ込んだことがないからだ、<<けっきょくヨソの誰かの話しか、きみはしないじゃないか>>、他人との比較と同調を往復して一生を過ごすつもりじゃないのか。
この世界に首を突っ込む、そうしたら、テンションを上げているヒマなんてないね、モチベーションを探しているヒマもないはずだ、ふつうは数分も心臓がもたないんじゃないか? 誇張で言っているのじゃない、僕はいつもこの高まりを「助けてくれ」と思っている。

批評したことはないし、批評されたこともない。

批評するのは、いつも世界から弾き出されている側だ、たき火はさまざまな形で燃えるが、炎の形をどう批評する? 通り過ぎてゆく列車の音や、キンモクセイを運んでいく風、2018年の10月3日は人類史上二度とこない、批評する人はひどいドブの底で呼吸している。
この世界に首を突っ込む、自分で突っ込む、他人のことに首を突っ込むのはぜひやめなよ/とっくに<<追いつけないフェーズ>>が来ていることに気がつきなよ。

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「手に入る」という、しょうもない虫

リックすると情報が手に入る。
ダウンロードもできるし、おしゃれなサウンドを聴くこともできる。
映画でも書籍でも、すぐ手に入るし、何なら即日ダウンロードできてしまう。
人は、「手に入る」ということに極端に弱く、「手に入る」となったら、もう止まれないのだ、それで人は "操作" される。

多くの人は、自分のやるべきことや、生涯を通して追究すべきこと、あるいは「自分はなぜ生きているか」を、所有していない。
所有していないのなら、探して、掴み取らねばならないのだが、現代人はすでに、「手に入らない」ということに耐えられないのだ、「手に入らない」ということにまったく慣れておらず、そのストレスに数秒も耐えられない。
そして、自分が何も掴み取らなくても、簡単に手に入るものが、目の前にぶら下げられてしまう、たとえばイベントに参加したり、何かの募集に参加したり、何かの習い事に月謝を払ったりだ、そうすると初日にも何かしらを「手に入れて」しまう/こうして気づけば何十年も、カスばかりを掴まされてしまうことになる、いろいろやってきて「活発」なタイプだった自分が、気づけば「何も残っていない」という状態になるのはそのせいだ。
何も手に入らない、ということではない、真相は逆だ、何でもすぐに「手に入ってしまう」ということ、そして「手に入る」ということになると、人はまず自分を制止できないということが、問題の真相だ、あなたはそうやって操作されており、いつまでたっても<<手に入らないことに向かう>>ことができない。

ゲットできるならモンスターではない。

ゲットできないからモンスターなのだ、ゲットできるものは質の悪い「虫」のたぐいでしかない/人は「ゲットできる」という状況に極端に弱い、しょうもないものをゲットすればするほど、人は毎日何もしないまま満足に過ごしてしまう。
地位や名誉や称号を欲しがり、立場や役職を欲しがって、安物でも作り物でも、それを与えられると満足する、それで自分の虚無を糊塗しているのだ/「何も手に入れるつもりはない」と言い放って立て、この世界や神やデーモンは見上げるほど大きく「手に入るようなものではない」と見えなくてはならない。

できるオンナだね | comments(0) |
初期投資にカネをかけない

ういえば、忘れないうちに書いておこう/僕などはこのように大文学者であるのに、随所でPCにマイクロソフトWordが入っていないことに、多大なストレスを受けている、いいかげんWordを入れたいので誰かパッケージ版を買っておれによこせ。
こんなことを言うと、乞食みたいだが、こういう機会しかないのだ、何しろ僕の周辺には「何か要るものないですかッ!!」というナゾの寄贈部隊がいて、もう何か寄贈させてやらないとカワイソーなのだ/もちろんダブってはいけないので、心当たりのある奴はうまく調整し、有志どもでこのおれさまにWordのパッケージ版を寄贈すること。
このごろは、パッケージ版といっても、ライセンスを購入してウンタラという方式だろうな、まあそのへんも調べてうまいことやってくれ、もうこれ以上PCにWordが入っていない件で苦しむのはイヤなのだ、そういうときだけ気分がテロリストになって「ぶっ殺すぞゴルァ」となってしまうからな。
その他は今のところ、要るものや欲しいものはないのだった、何しろ僕のやることはすべて、紙とペンと身体があればそれで済むからな/何か欲しいものがあるときはテキトーに言うので、それまで寄贈部隊はハアハアせず待機しておくように。

そういえば、僕が初めて、こうして物を書くようになったときも、友人にお下がりPCをもらって、粗大ゴミの中からブリンターを拾ってきて自分で修理して、始めたのだった/僕は初期投資にカネをかけない奴である、ワークショップだってもともと世田谷公園ありきだったしな。
今、ダンススタジオのシューズを買うべきだと検討しているのだが、幅の合う靴がなくて難儀している、いいかげん裸足スタジオでやりつづける先生もどうよと思うのだが、まあ僕の場合、モノが欲しいというより、モノを買う手間のほうを面倒くさいと思ってしまうのだった、目の前にすぐあれば買うんだけどね……。
あと、そうだな、長袖のTシャツはもうちょっとあってもいいんだよな、ワークショップのせいで着替えと洗濯の頻度がえぐいのである/安くイイものを消耗品として買える心当たりがある奴は、テキトーに買ってよこせ、サイズは日本基準なら3Lだ、これもまたふつうの店では置いていないサイズだから、ますます買いに行くのが面倒くさいのだった。
そういえば僕は、学生時代も、粗大ゴミで拾ってきたテーブルと、粗大ゴミで拾ってきた食器を使って暮らしていたな、電子レンジはヒューズが飛んでいてダメだったが/僕は初期投資にカネはかけない奴で、もし初期投資にカネが掛かってしまうのだとしたら、それはカミサマのバックアップがついていないのだと思う、おれのニューヨーカーのコートはなぜか古着屋で3000円で売っていたものだ、ちょうどおれにピッタリのサイズだった(ニューヨーカーに修理に出したら新品みたいになって戻ってきた)(ちなみに先日着ていた軍服も古着で1200円です)。

初期投資にカネを使うと楽しくなるので使わない。

人は、立派なものを買いそろえたりすると、それだけで楽しくなるのだ、そのせいで、自分のやっていることが「本質的に」楽しいのかどうかがボケてしまって、見えなくなってしまう、だから僕は、自分が何かをやり始めるときには、初期投資にカネをかけない、カネを掛けていないのに楽しいならばそれは本質的に楽しいのだろう。
もし高級車を買ったりしたら、それだけでそりゃ楽しくなるものだ、でもそれが楽しいのは半年ぐらいだろうな、もし僕が世田谷公園とレンタカーで楽しくなれない奴になったとしたら、それはもう僕ではなくなってしまったということだろう/僕はMHLの小物とデュポンのライターとストーンアイランドのTシャツが好きで暮らしているが、それと初期投資は別だ、初期投資にはカネをかけない、それによってつまりこれまでオープンオフィスでしのいでいたからこそ、いまだにPCにWordがないのだった、しかしいいかげん限界がきたので誰か買ってよこせ。

できるオンナだね | comments(0) |
魂の大きさについて

説を書いているのだが、まったくはかどらなくて難儀している(小説は、ウェブ公開用ではないやつ)。
前回の執筆でもそうだったのだが、今回、ようやくこの現象のナゾに気づいた、なぜはかどらないかというと、小説というのは、魂が小さくないと書けないのだ。
正確に言うと、どのジャンルでも、適合する魂の大きさというものがあって、魂の大きさをあるていど操作できないと成り立たないのだ。
こいつはまったくの盲点だったな、魂が大きいというのは必ずしも万能じゃないのね、いやそりゃデカいほうが上位なのは決まっているのだが、あくまで「ジャンル」に落とし込もうとした場合は、魂がデカすぎる場合は不適合になるのだ。

現在、ワークショップの先公をやっているので、そこで「模範」をやらなくちゃならんじゃないか、それで「最大でここまでデカくなりまっせ〜」というのをやるのだが、これがいけない、これのせいで魂サイズがまったく小説向けでなくなってしまっている。
単純なワザでいうと、魂のサイズをアレな感じにすると、まったく別次元のワザが成り立つので、それを実演するためにも、魂をしばしばアレなサイズにしているのだが、これはいかん、あえて魂を小さくするほうにも長けなくてはならないのだった。
まったく難儀な話だな、しかしこのことにはまた、未だ知られていない秘密が隠されているだろう、それを暴くことを楽しみにしてガンバるしかない/これでますますハッキリしてくるが、僕はやはり魂の使い方がオカシイのだ。
岡本太郎の箴言に、「キャンバスからはみ出せ!」というのがあるが、僕はそもそもキャンバスという「枠」の概念がよくわかっていない気がする、僕は僕自身に「キャンバスに収まれ!」と言いつけないといけない、これじゃまるでいわゆるガイジじゃねーか(泣)。

毎日が夢のようなので、小説が書きづらいデ〜ス。

うーんしかし、われながら矛盾するようだが、魂の小さいヤツの話なんか聞いたってなあ、でもそんなこと言うと小説というジャンルそのものにケリを入れることになるのだろうか、そりゃなるだろうな。
小説というのは、大切にされなくてはならないものだが、あんまりデカいものを「大切にする」とは言わないものな、さて困ったぞ、しかし超絶天才の僕のことだからきっとなんとかするのだろう、フヒョヒョヒョ。

できるオンナだね | comments(0) |
悪魔の力でコカコーラ
日、悪魔の力について説明した。
悪魔と契約すると、悪霊がinして、力を得る代わりに、その後がズタボロになりまっせという話、これはわりと身近で、かつ割とマジな話なのだった。
このあたりは、割とマジに、お前らみたいな若輩者は気をつけるべきだ、お前らみたいなモンはすぐ破壊されるじゃない? ダッセエ話……どういうことかというと、悪魔にへいこらお願いして、契約するのはダメなのだ、デーモン(ダイモーン)に親しんで、その力を使役するぐらいでないといけない。
ただし、デーモンの力を正しく使役できるというのは、そーとーな光に至っている人にしかムリだ、基本的に凡人にはギリッギリのスレッスレでしかこなせないことだからな/われわれはカミサマに憧れるものだが、その憧れに近づこうと思ったら、低級でもデーモンの力ぐらい使役できていないようでは話にならない。

悪いことを覚えましょうね……といっても、お前らみたいなモンは、タバコのポイ捨てをしただけでも、こころにやましさを覚えるじゃないか、それは悪いことができていないということだ、それで結果的に「善人」になる。
タバコのポイ捨てをしたぐらいで、こころにやましさを覚えるというのは、よほど光に尽くせていない証拠だ/そこでこころにやましさを覚えるというのは、善人だからではないのだ、「ポイ捨ての悪魔ていどにもあっさり悪霊を送り込まれるぐらい、光の庇護が弱い」ということなのだ、いくらオラついたところで無力なもので、オラついている人はけっきょく「やましい」からだ、詩聖タゴールがそのへんにタバコをポイ捨てしたとしても、そんなところに邪悪がつけ込めると思うか。
そういえば、たとえば僕はワークショップの最中、世田谷公園でタバコを吸いながら指導しているのだが、吸っているタバコをそのへんにポイポイ捨てている、そしてワークショップ後に、プレイヤーの皆さんがせっせと拾って掃除するのだ、もちろんおれは協力しない/そのていどのデーモンの力も使わないで、人に何かを教えるなんて、できるわけないだろ……「先生」というのは、若造の尻を後ろからガンガン蹴っても、それが "体罰" にならないから「先生」なのだ、デーモンの力に邪悪が乗らないということが、デーモンの力を使役できているということになる。
この点については、さすがにアホと問答する気にはなれない、この点はもう実力差っつーもんをいいかげん悟れよ、僕が人妻のスカートをめくったところで何の邪悪にもなるもんか、「ほれコーラ飲め」とコーラを差し出しておわりだ、一ミリでも邪悪が出るなら絶対やめておいたほうがいーよ/邪悪なんてヒマなことをしている余裕はわれわれにはないのだ、「邪悪なんてヒマなことをしたくない」というのは、ダイモーンもこころの底からそう願っているのだ、それがわからないか。

悪魔がカミサマに勝てないのは、カミサマには業(カルマ)がないからだ。

てっぺんのカミサマやホトケサマにおいては、厳密にカルマがゼロなので、悪魔はつけこむ箇所がゼロなのだ、だから悪魔もその力だけを使役させられることになる/人に濃厚なカルマが残っている場合、悪魔はそこに干渉して人を操作するようになるのだが、悪魔だってそんなヒマなことをしたいわけじゃない、悪魔にはただその能力があるというだけで、悪魔だって「助けてくれ〜」と叫んでいる。
お願いがひとつだけある、「悪いこと」をし、「悪いこと」をたくらんで、「悪いキモチ」にドロローンとなるぐらいなら、自分はよほどアホで小物だということを悟ってくれ、悪いことをするってそういうことじゃないんだよ/「悪いことをしたのに悪霊が入らない」というのが使役だ、命を帯びているときはそんなに簡単に悪霊は入りません、悪霊が入るのはただのザコの典型だから、それをまさか特別なアタシなんて思わないでね。
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ゼロから学びましょう
ンガンやりましょうね!!
ガンガンやる前に、ゼロから学びましょうね!!
ゼロから学べないということが、若さがないということ、アンド才能がないということだからね、それは損だね。
ゼロからやれば何だって一発でやれます、これは割とウソじゃない。

原稿用紙を前にして、自信を持ったことはないし、人を前にして、自信を持ったこともやはりないな。
もし、自信があったとしても、おれは使わないし、そもそも持ち込まないだろうね、そんな一昨日の残り物みたいなモンをよ……何もかもゼロからやる、それが無限と永遠のコツです、分母がゼロだから無限というのは当たり前の話だ。
分母にいくつかのジャンルや、それについての自信を置いたとします、これがいわゆる「分類」です(「分母」なのだから)、こうして「分類」をするとすべてのものは落ち着くように見えるが、その途端もう無限という可能性を失ってしまっている、これはもうどういじくっても面白くはならない。
ゼロから学ぶということは、ゼロのまま帰るということだ、ゼロから1を捻出して持ち帰るのじゃないよ、1なんか捻出しないでも、無限に触れられたらそれでいいじゃないか、1と無限大のどちらがデカいかぐらい、さすがに算数が苦手でもわかるだろう。

ゼロと無限のくせをつけよう。

「ジャンル」を超克する唯一の方法がそれだ、ゼロジャンルになればその物の名は「無限」になる、けっきょくそういうものしか愛さないでしょう、そもそもカミサマの愛が有限ではそれはカミサマの愛でも何でもないのだから。
重力がドシーンとかかり、空気がプーッと入り、「えーっと、ジャンルは、と……」という、こういうのが一番しんどい、そしてしんどい上に何も面白くなければ、愛もないという/逆です、光が際限なく広がり、真空が無限に染み渡ってゆき、「時間軸はないから永遠だな」という、そういうのが一番ラクだ、ラクな上に面白いし、自動的に愛になるのだった。
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恋あいについて
あいについて考えている。
恋あいは、無いわけがないのであって、夜のとばり、濡れるような闇、ネオンを透かす木立、誰かわからない女、オレンジ色のTシャツ、そこに恋あいはある。
あのとき現れるのが女であって、生物学上、あるいは社会的に定義されている「女性」というのには、あまり意味がない。
自分が誰だかわかっているような女に、女はやれないだろう、女は初めから恋人としてしか現れない。

女にとっての恋あいがどういうものなのかなんて、考えたことがない。
女には人格がないからな……いや、人格がある女というのがこの世で最も面倒くさい。
恋あいは、記憶の中にはない、ボブディランではないが、恋あいは風の中にある、おれはかっこいい男なので、かっこいい世界にしか女は現れない。
女の人格がジャジャーンと現れてきて、「どうも!」なんつって、そこから恋あいに……なるわけがないわな、この現代には場違いな人格がごろごろあって邪魔だ、どうも自分が登場人物ではないということがわかっていないらしい。

女が震えていたのであって、人格が震えていたのじゃない。

人格がやりたけりゃ、どこかの会議室でやれよ、そういうの好きなオバサマはいくらでもいるだろ、女をやりたきゃさっさと視力をつぶしていらっしゃいね。
女じゃなくて人格で、この世界を踏み荒らして生きていると、自分の体臭が気に入らなくなってくるだろ? 女なのにさ、レンガの上にデニムで生足で、唇で茶色い髪で、ハイそこまででそれ以上なし、人格なんてしょーもないもんだよ。
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自信があるかないかについて2
はや、どうしたらいいのか……いっそ顰蹙(ひんしゅく)を買いながら進むしかないし、誰にも掴まれないまま進むしかない。
自信というのは、シェアの数ではないし、むしろ他人にシェア(共有)できるものなら、それは自分のものではないので自信にはならない。
状況は、もう承認欲求がどうこうというような、生ぬるい話ではなく、自信という機能の息の根が止められているので、多くの人が自分のネタの「共有」をしてくれることを、「生命線」にするしかないというような状況だ、もうムチャクチャであって、こんなことの解決法はない。
自信というのは何かといって、逆にいえば、「あなたには決して掴むことができないもの」だ、意地悪で言っているのではない、これで「なるほどな」とよろこばないようではあなたには自信を掴む可能性がない。

ここ数ヶ月でわかったことだが、あなたと僕とでは、とんでもないぶっとびの差があるのだ、顰蹙を買いながら進むしかないというのは先に申し上げたとおり。
あなたが掴む「自信」というのは、決して違うだろう、あなたは誇大妄想かシェア希望のどちらかしか掴めないはずだ、意地悪で言っているのではない、他人に自信の根拠を求めるというのは、自信の自給率をゼロにして他人に依存しているという状態だ、最大のヒントのためにこんな話し方をしている。
自信なんてものは、そんなやすやすと手に入らないのだ、ぶっとびの、かつ理知と冷静と愛を極めていないと手に入らないのだ、ヘタクソでもかまわないのだが、ぶっとびで理知的で冷静で愛に満ちていないと、自信なんて手に入るわけがない。
「こんなチンタラしている奴に、自信なんか手に入るわけがあるかよ」と、自分に堂々と言ってのける奴、それこそ自信に近い奴だ、そして「自信がどーこーとか言っていられる状況か?」という奴は、すでに速度として自信の次元に接近している、そのことを正しく見て、正しいと今思っているもののすべてを母親の足元に投げ捨てろ。

自信というのは、「すべてを忘れられる」ということだ。

逆に、すべてに引っかかっているようでは、自信なんか持てるわけがない、友人から「すげーな」と言ってもらい、そう言われたことが「ん?」と、すでに聞こえていないという状態が自信だ、あなたの辞書の中に「自信」はないのだが、それはあなたがいちいち辞書に頼っているからであって、辞書にないなら空中から掴めばいい、空中を信じられない奴が自信がどうこうと寝言をほざくべきじゃない。
もはや、どうしたらいいのか……という状況があって、解決法なんかないのだが、自信があるというのは少なくとも、「どうもせんでええわ」「解決法なんかいらんわ」と、それ以上の何かを空中から掴めている状態だ、周りにいる異性がことごとくメロメロになるなら「自信」を得ている状態だ、「それでいいし、そうでなくてもいい」というのが聞こえてくるぐらいでなければ、自信なんて上等なものは手に入らない、もしこれが異次元に聞こえるのであれば、直接異次元に手を伸ばして掴め。
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自信があるかないかについて
難はいろいろあるにせよ、何か楽しくなってきたな。
困難といっても、僕自身の困難ではないし、じゃあ他人の困難はどうかというと、原則として助け合うべきだ。
重要なことは、自信を持つことだ、そして自信を持つということは、自信なんか要らないということだ、なぜならもう持っているのだから。
この世でもっともアホらしいことは、他人と自信の共有をしたがることだろう、どうもそのあたり、面倒な奴が増えてきている、「自信」というパラメーターは他人にはいじりようがないものだし、外部に表示する必要もないものだ。

だから、自信をアピールする者は、自信のなさをアピールする者と同等に、意味がなくて愚かしい。
「共有」という概念ほど、近年でめんどうくさいものはない、僕が楽しくなってきたからといって、ヨソの誰かまで楽しくなったふりをする必要はない、あなたにそんな配当は与えられない。
楽しくなりたければ、独自で楽しくなればいいのであって、それをヨソの何かとの共有で楽しくなろうとしているから、自信がなくてブキミになるのだ、このごろはそういう共有ブッコ抜きマンが多い、あなたは何かこの世界のオカーチャンなのか、そんなアホみたいな話はあるまい。
そもそも共有なんてできないのだ、だからこそ共感の能力が必要になってくる/共有を妄想する人はいつも「アナタとアタシ」みたいなことを妄想していて吸血してくる、この人はけっきょく「アタシのこと」しかわかっていなくて、他人のすべてを共有する権利があると自認しているのだ、誰かの大切なことに共感する能力もないのにだよ、そりゃこんな奴がのさばっていたら誰も楽しくなれないだろう。

自信があるかないかは、永遠に自分だけが知っていればいい。

共有ブッコ抜きマンは、自信がないものだから、他人の自信を吸血しようと、やたらにしがみついてくるわけだ、こんなメチャクチャな話があるか/<<他人から自信を吸血している人は、他人も吸血を必要としていると思っているのだろう>>、自信吸血マンは、まさか自前の水脈から自信を得ている人が存在するなんて想像がつかないのだ。
自信があるかないかは、おれだけが知っていればいいのであって、ヨソの誰かが知る必要はないし、そもそも輸出入なんてできないものだ/他人から恵んでもらった自信で生きながらえようとする人は少なくないが、それは吸血行為である上に自殺行為だ。
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星の瞳

い少女マンガで、有名なのといえば、「ときめきトゥナイト」や「星の瞳のシルエット」あたりが代表格だろうか、当時はよく「目の中に星が入っている」揶揄されたたぐいだ。
だが、今になってわかるけれども、人の瞳、特に少年少女の瞳には、星が入っているぐらいが正常なのであって、マンガ的描写としては正しかったのだ、瞳の中に星がないくせに少女ぶろうとする現代のほうがよっぽどタチが悪いと言える。
なぜ瞳の中に星が入っているかというと、その瞳は、この世界のきらめきを見ているからだ、目ヂカラなどという愚かしい発想ではなく、「瞳に映るもの」が反映されていたという正当な描かれ方だ、今になってわかることだが、あの描写は正しかった。
まともな瞬間、少女の瞳の中には、本当に星が入っていて当たり前というような、きらめきが生じるのだ、それは「興奮する」ということではない、江藤蘭世や沢渡香澄がボーカロイドの打ち込み音源を聴いて「アガってきたwww」と興奮しているという光景は想像がつかない。

瞳のきらめきを、偽造したり加工したりしようとするのは、さすがに人の道に外れるから、やめるべきだ、こういうことが意外にゴマカシが利かないものだ、「あなたは今どんな目をしていますか?」という、直撃の問いかけ、僕はこの問いかけに背を向けるようなヒマ人にはならないでおく。
本人の気負いや主張や、空気でどうゴマカシを利かせても、けっきょく本当のところは瞳が語っているものな/瞳の中には「星」が正しいのだ、なぜなら星は光っており、静かで、ほとんど永遠のようなものだからだ、見えているものが反映されるものだ。
その人の姿や、佇まい、そして瞳の光が、直接語りかけて、その語りかけに信頼が生じないならば、いくら空気を読み合って、いわゆる「絡みやすい」という関係にしたところで、意味がないものな、いや意味がないというのは言い過ぎだが、それは尊いものにはなりえなくて当たり前だ。
くたびれたジジイやババアから好感を獲得したところで、自分の命には何の足しにもならないので、それよりは久住くんや香澄ちゃんに対してまともな友人であれたほうがはるかにマシで重要だ/いまどきそんな古い少女マンガに光を探す奴はいないだろうが、もし真壁俊や江藤蘭世をバカにする人がいたら、僕は表面上はそのことに追従し、内面では明確にその人のことを裏切るだろう、オタクというのもひどいものだがリア充というのもひどいものだ。

菊正宗清四郎に勝てるときまで、僕の傲れる日はこない。

マンガってそういうものじゃないか、いつだってわれわれに勝てないものを提示してくれる、さすがに僕はラオウとタイマンしたり、スーパーサイヤ人でもないのにフリーザの最終形態とやりあえるとは思えないが、何かちょっとはああいう奴らと、はりあえる何者かでありたい、初めの一撃だけでもいいので、「おっ」と驚かせるような奴でありたいな。
少女マンガにリアリティはない、のかもしれないが、それでいうと、現代人の「恋あい」なんて、もっとリアリティがないじゃないか/まあ少女マンガにリアリティがないというのはウソだろうね、僕はこれまでの経験上、本当に瞳の中に星がまたたいている女の子を見たことがある、僕はそうした星の瞳を認め、その他の一切をけっきょく認めていない奴でありたい。

できるオンナだね | comments(0) |
学門とは承認外へのアプローチのこと

ういえば、ワークショップ関連で、「助かった!」と大ウケだったのだが、多くの人は学門と承認の関係がテンヤワンヤになっているらしい。
人間には、「認識」という能力があり、物事について「わかった」と認識するとき、それは「承認した」という状態なのだが、現在の自分の理解範囲を超えるものについては、当然その対象は「承認外」にならざるをえない。
たとえば僕が、魂魄の皮膜、ノーからイエスへの移り変わりの刹那の谷間に、ナゾの爆発力があって、それが産霊(むすひ)だと言ったとする、そんなもんいきなり「わかりました」となる奴があるかよ、とんでもないド天才でないかぎりそれがいきなり「わかる」ということはない。
たとえば僕が、「空間にある『風』(指向性エコー)を捉えて、それを入れ替えると、距離感が狂いまーす」と言い、実際にやってみると、「あれ!?」と、やられた側は本当に距離感が狂うのが確認できる、そりゃやられたことの実感については「わかる」のだが、何がどうなっているのか、現象について「わかる」わけがない、説明されたら説明は「わかる」が、現象については「わからん」ままだ、どうもこの「わからん」=「承認外」であるということが、多くの人の概念にないらしい/何もかもを「わかりました」と言おうとして、テンヤワンヤになっているという実情がレポートされた。

承認外のそれが、「わかる」ようになるのは、何年も先か、何十年も先か、ともしたら一生そんなときは来ないかもしれず、一生来ないほうがパターンとしては大多数を占める、それが当たり前であって、それを五秒で「わかりました」というのはメチャクチャだ。
「わかりました」ということではなく、現時点では承認不能のことを、「教え」られたのだ、その教えられたことが「わかった!!」になるのは、いつのことになるやら、見当もつかない/そしてその承認外の、「教え」られたことに、我が身で接近していこうとすること、そのアプローチを「学門」という。
なんや爆発力があって、その産み出す爆発力を(   )という、という穴埋めがあって、その穴埋めに「むすひ!」と正答を埋めたとしても、そりゃ産霊がわかっているということじゃない、そりゃ教えられた文言を「記憶」しているだけだ、もちろん記憶もゼロになってしまうようではなおさら困るが、正確に記しておくことは大事だとして、本質はその「教え」られたことにどれだけ近づいてゆけるかだ、頭のいいヤツならそこのところをわかっていないと、ただの記憶力のいいアホになってしまう。
「瞳孔の不睨といって、にらみつけていたら見えなくなるんだ、遠山の目付といって、もっと遠くを見るんだ」と言ったとして、「わかりました」と応えたとする、その瞬間いきなりパンパカパーンと、「瞳孔の不睨!」の実物が出現するわけがあるかよ/「瞳孔の不睨と教わった、そして実物も見せてもらった、なんで自分の瞳孔はああならんのや〜?? どうしたらええんや、何がアカンのやろウォォォ〜」という、そこからの脳みその絞り込みが学門だ。

「犯人は○○です」「わかりました。逮捕してきます」

いやいやいや、んなアホな、そんなデタラメな刑事があるか、仮にカミサマに「犯人は○○です」と教わったとして、そいつが犯人だと断定するためには、確実で理に適った捜査と証拠集めをしないといけないだろう、そして数年越しに証拠が集まり、執念が実ってようやく、「わかりました、あなたが犯人ですね」となる/この刑事は数年間ずっと脳みそを絞り続け、証拠を集めて証拠品とにらめっこし続けてきたのだ、それでようやく一本の筋道を発見し、「!! わかりました」となる、これが学門と呼ばれるものだ。
仮にカミサマに「犯人は○○です」と教わったとして、まともな刑事なら、「そうなのか……まったくそうは思えないのに、ナゾだ」「何がどうなっているのだろう」「なんとかしてこれを解き明かさねば」と首をひねるはずだ/「教え」られるということは、そうして現時点では「ナゾでしかない」ことを先に教わるのであって、そのナゾを証して「わかった」にたどり着くまでを学門というのだ、なぜ多くの人が「文言記憶完了!」のときに「わかりました!」というのか僕には不思議でしょうがない。

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ドアホにならないために(真面目な話)4

いうわけでだ、僕は正直なところ、ウフフッと生きている人を見ると、気が遠くなるのだ。
そりゃもちろん、余計なお世話だとはわかっているのだが、何かしらん、何一つとも噛み合わずにウフフッとなっているのを見て、オゥ、テリブル、という気分になるのだ、率直にいえばもうそのたぐいを見たくないのだ。
このところ、清涼飲料水のCMを見ると、若い人々がマスゲームのように踊っているのだが、あれは僕から見ると、何の「説」でそのように動いているのかがわからないのだ、何の「説」もなしにただ動いているだけに見える、そしてそうしたものは、見ているだけで正直「怖い」のだった。
もちろん、そんなCMに対して、僕に何の意見があるのでもない、ただ僕は、「何の説もなしにただ動いているのではないか」という「説」を唱えているのだ/このところ、こうして「説」を唱えると、「なるほど」ではなく「ポカーン」という表情で迎えられることが多くなってきた、このこともやはり正直「怖い」のだった。

あなたは勉強したり、お出かけしたり、異性と絡んだり、新しいアルバイトを始めたり、するかもしれない。
ぜひその背後には、「学門のない自分になったらきっとわたしは後悔する説」や、「街中でこそ得られる作用がある説」や、「異性と敬愛しあう時間が当たり前でないとやることがなくなる説」や、「新しいことをこなすストレスが自分の地力を育てる説」などがあってほしい。
ウフフッという状態から、やりたいことをする、キョーミのあることを……ということではないのだ、自分が何をしたらよくて、また何をすべきかということは、「説」が照らし出すのだ、自分のウフフッでその日を消費して終わらせるものではない。
ウフフッという状態を、何年も続けていると、やがて「どういう説で生きているの」と訊かれたとき、「そうですねえ……えーっと……」と、ごまかして言わねばならない奴になるぞ、人はそのとき「何の説もありませんや」とスパッと答えられるものではないのだ/はっきり申し上げると、己で採択した「説」なしに生きた時間は、どれだけ多忙あるいは遊興的でも、自分が生きた時間にはなっていないものだ、必ず忘れて消去されていく、まるで本当に何もせず生きてきたみたいに。

今あなたは、何の「説」の時間を生きているか。

あなたが女性だったとして、一人の男性と出会い、「ウフフッ」となり、その男性とお近づきになり、ハダカになってセッセッセをしたとしても、それは本当に「何にもならない」ぞ、粘膜に慰めぐせがついてコントロールが利かなくなるだけだ/端的にいうと、「ウフフッ」は本当に人生の時間の無駄なのだ、あなたはこの夏、何の「説」の時間を生き、この夏、何の「説」が証されて残るのか。
……さて僕は、今ここに、どういう「説」を唱えただろうか? ウフフッという顔面の気配は控えてもらって、もう一度訊ねる、僕は今ここにどういう「説」を唱えましたか/それにズバッと回答できないということは、「説」が見えていないということだ、ここでフワフワして「えーっと、その……」とわかっているふうになるのはドアホ傾向において本当にまずい(回答例は以下続きに記載しておきます)。

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ドアホにならないために(真面目な話)3
「たくさん遊んで生きないと、怨みが残ってしまう」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「力を入れると身体は止まり、力が脱けると身体は動く」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「言語が血に入ると、言葉ではなく呪いになってしまう」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「身分差の中で、ある種の行為はカルマになり、ある種の行為はその償却になる」という、意見ではなく、「説」を唱えている。

「『我慢』をすると、我が肥大する」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「脳みそに不快をさせても、何も得られずダメージだけ残る」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「フィクションは、ノンフィクションと比較して、時間軸上を先行している」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「心臓の気魄にアクションが授受され、横隔膜の霊魂にエコーが授受される」という、意見ではなく、「説」を唱えている。

僕はこれらの「説」どおりにやっているだけで、何の努力もしてはいない。

だから、これらの「説」が、「説」として見えなければダメだ、たとえその説を採用しないとしても、説は「説」として見えなければダメだ、これは単純な知性の問題だ。
たとえば、煮物に味が染みていくのは、煮込むときの火力ではなくて、煮汁が冷えていくときの浸透圧現象なのだ……そういう「説」があるのでその通りにやってみたらよいが、このことに何の「努力」がいるのだろう? まずは説が「説」として見えなくてはならない、この「説」が見えない者は定義として「ドアホ」と認められる。
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ドアホにならないために(真面目な話)2

鍋の底は、釉薬が掛かっていないので、水洗いしないほうがいい、ひび割れの原因になるから……という「」を、金物屋の主人に聞いたことがある。
ライターのガスは、給入直後、すぐに点火しないほうがいい、ガスでメカが冷えているので、着火機構の具合が狂うから……という「」を、喫煙具屋の兄ちゃんに聞いたことがある。
目玉焼きを作るときは、卵をなるべく低くから落とし、卵に衝撃を与えないほうが、食感がグンとよくなる……という「」を、テレビ番組で聞いたことがある。
ステレオを組むときは、アンプの電源を、タコ足配線につながず一つだけコンセントにつないでやったほうが、電圧が安定して音に艶が出る……という「」を、ヨドバシカメラの店員に聞いたことがある。

「わたしは絶対に負け組にはなりたくないんです」というのは、何の「説」だろうか、「意見」ではないだろうか。
「こんなことは絶対許せません」というのは、何の「説」だろうか、「意見」ではないだろうか。
「えー、絶対うらやましい、わたしも行きたーい」というのは、何の「説」だろうか、「意見」ではないだろうか。
「○○が好きなんです、うふふ、すごくいいですよね」というのは、何の「説」だろうか、「意見」ではないだろうか。

土鍋と、ライターガスと、目玉焼きと、アンプの「説」は、あなたに入っただろうか。

知性の封鎖によって、「説」というジャンルそのものが、身に入らないという人があるのだ、その人は残念ながら、定義上「ドアホ」にならざるをえない。
あなたは若い頃就学し、部活も男女交際もし、その後就職し、その後結婚したり出産したりするかもしれないし、娯楽や趣味やスポーツもしていたりするかもしれないが、それらすべては何の「説」に立脚したものだったのだろう、そしてこれまでに、何の説が証されてきただろうか。

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ドアホにならないために(真面目な話)

「ドアホ」を定義しておこう。
「ドアホ」というのは、「そのとき思ったこと」をし、そのとき思ったことを「意見」として言う者だ。
これは、どれだけ上品ふうにしても、定義上「ドアホ」なのだ、注意されたし。
「ドアホ」というのは、自分の意見や思ったこと、あるいは行動の背後に、「説」がないのだ、だから時代の気分だけでいくらでもズルズル行方不明になる、これは性格の問題ではなく残念ながら知性の問題だ。

そのときだけフォォォと、「やる気」になってもダメなのだ、またアンニュイになってもダメだし、エロティックになってもダメなのだ、残念ながらそれは感性でも何でもなく、ただの気分屋、もしくはそれより下位の、体内物質に支配されるだけの物体人間でしかない。
誰だって、「今何をすべきか」という問いかけ、あるいは分岐路の前に立たされているものだが、この問いかけと分岐路に対して、「説」で行動を決定する者と、「そのとき思ったこと」で行動を決定する者があるのだ、後者は定義上「ドアホ」であって、これは後々本当にヒサンなことになるから、なんとかこのドアホ路線は避けられたらいい。
つまり一方には、「わたし厳しいことに挑戦します!」と、そのときの気分で「思ったこと」を選ぶだけの人があり、もう一方には、「人はけっきょく、自らに課した厳しさの総量によってのみ、その行き先のグレードが決定するのでは?」というから、「厳しいほうを選びます」という選択をする人があるのだ、この両者は実は互いにまったく話が噛み合っていない。
まともな人は、行動のすべてが何かしらの「説」に立脚しているのに対し、「ドアホ」というのは、そのときの気分を探して「思うこと」に支配されているだけなのだ、この「ドアホ」のリスクは十分に鑑みられるべきで、誰だって自分にその点検を課すほうがいい。

あなたはどういう「説」で生きていますか。

たとえばあなたが女性だったとしたら、「女はどう生きるべき」だろうか? その問いかけを前にしたとき、これまで構築してきた「説」をレポートする人もあれば、一方で、そのとき「思うこと」「気分」だけで慌てて「意見」する人もある、この後者は本当にタチが悪い(仮説を検討し合っているところに「思うこと」をブッ込んでくるのでタチが悪い)。
男でも女でも、たとえば「うつくしく生きよう」とするとき、まず「どう生きればうつくしくなりうるか?」ということについて、一定の「説」が見つかる必要がある、そして人が生きるというのは、その「説」を半ば自らの身で実証してみせようという試みでもあるのだ/定義上「ドアホ」は、この「説」の試みから完全な門外漢になっている。

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格はずし2

に、エコーは格の外だから、心身にエコー命令を通してやれば、格の呪縛から離脱できる(わけのわからん話が続いてすまんね……)。
どうも、冷静になってきたんだが、これ、多くの人がこれまで、生きてくる中で「マスターのエコー命令」を受けたことがないので、わけのわからん反発心を持っているだけじゃないのかね、なんかそんな気がしてきた。
今多くの人が、自分が「キャラ」になってしまって、そのことを筆頭とした、際限のない「呪縛生活」に嵌まり込んでいるのだが、これ、道のりは遠いにしても、すでに解呪の鍵は見つかってしまったのでは? つまり小さな「命」(命令)を与えてやって、それを糸口に、次第にすべてを「命」で上書きするというだけじゃないのか。
エコー命令で、格はずしをしてやって、そうしたら小さくても命は宿るから、じゃあウダウダ言っとらんでエコー命令をガンガン流し込んでやったほうが早いんじゃないのか/つまりお前らが習って学んで努力するより、おれがおもちゃにしてやったほうが早えぞということだが、ウーンいかにもそんな感じがするなあ、だからこそいよいよメンドクセーということでもある。

エコー命令を通すということは、エコーに従属させるということだ。
ロマンチックだなあ、と改めて思うのだが、それにしても、何のエコーに従属させるかだ、どうせ呪われし民()はジタバタ暴れるに決まっているのだし……
歌と踊りのエコー、言葉のエコー、うーん、愛の問題になってくるな、こりゃもともとやっぱり、学校とか部活動とかがちゃんとあったほうがよかったんだよ! とまあ、そんなことを言っていても愚痴にしかならないが、愚痴も言いたくなるのだった。
「格はずし」か/なんでえけっきょく、おれが多くの人のリクエストを聞いて丸くなったのに、そのことがてめーらの首を絞めているんじゃないか、おれが若いやつをおもちゃにしてゲラゲラ笑っているのがベストだったのだ、あーあこんなことになっちまってどーーーするんだよ〜(愚痴)。

おれのおもちゃだけが救われる。

そんなデタラメな話があるか、と言いたくなるのだが、しょうがないのだ、理論上マジでこうなんだよ、しかもおれ自身は、もうかなりおもちゃ遊びへの関心は失っていて、どーーーするよという状態なのだった、一昔前はもう少し何かやりようがあった気がするんだが……
まあいいや、ちょっとマジメに考えよう、この先は愛の問題だというのはわかるが、この場合、愛の対象をどこに捉えるかの問題があるのだった/うーんみんな愛に正直に生きようね、さあておれの愛するおもちゃだけが救われるぜ。

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マスターから教わるのは別

「知っている人から教わる」「わかっている人から教わる」「出来ている人から教わる」というのと、「マスターから教わる」というのは別だ。
マスターから教わるのは別」と、覚えておいたらいいかもしれない、マスターというのはある意味「宗家」みたいなところがあるが、どういうことかというと、マスターというのは「その先に遡れる先生がいない」ということだ。
もちろんどんな人だって、色んなことを学んでいくのに、師匠にあたるような人が存在したはずだけれど、「マスター」になると別なのだ、「マスター」に到達してしまえば、もう誰に教わったとか誰が師匠とか、そういうことは関係なくなる、もちろん尊崇や敬愛は残るだろうが、そうではなく、つまりもう誰かの弟子ではなくなるのだ。
「マスター」に到達すると、物事の事象がガラッと変わる、「マスター」はつまり、「世界」から直接「どうしたらいいか」を受け取っているのだ、つまり言葉・学門・世界そのものからエコー命令を受けて動いている、だから「マスターから教わるのは別」だ、マスターというのは一般的な人間関係の法外にある。

一般に、物事に熟達していくと、熟達度合いによって「格上」になっていく。
これが、「マスター」ということになると、ガラッと変わるのだ、マスターというのは「格の外」なのだ、格上の格上の格上……を目指してたとして、「マスター」は格そのものから離脱しているのだ、だからいっそ、「○○流の宗家というのは、○○流の師範ではない」と捉えておいたらいい、それぐらい「マスターから教わるのは別」だ。
師範や師範代から「教わり」、修練を積んでいくということと、「マスター・トライアルをする」ということは、まったく別なのだ、師範だけを目指す人はマスターにはなりえない、よって、厳密には師範を目指すことは「道」ではないということになる/師範というのは、弟子や生徒を前提とした格付け上の定義であるのに対し、「マスター」というのは、弟子や生徒がいなくても単体で存在する、マスターはただのマスターなのだ。
人それぞれ、どんな道をゆくにせよ、大前提に「マスター・トライアル」がなければ、人は実は、いかなる努力をしても「道」を進んでいることにはならないのだ/仮に「○○道」の道場があったとして、師範だけを目指した人は、道場に住み続けるしかなくなる、マスター・トライアルがなければ「世界」に生きることはできないのだ、そうなると狭い道場の中や、狭い舞台の中、あるいは狭いカンバスの中に閉じ込められるしかなくなってしまう。

宇宙物理学者の居場所は、宇宙であって大学ではない。

宇宙物理学者は、宇宙と取っ組み合いがしたいのであり、大学で幅を利かせたいのではないのだ/宇宙物理学者は、宇宙と取っ組み合いをするのに、大学が環境と予算を用意してくれるので、大学の教授職にあるにすぎず、もしその環境と予算が得られるなら、別に郵便局員でもいいのだ、宇宙と取っ組み合いをするのに夢中なのだから、人の世の格付けなんかまったく関心を失っている(実際、ペレリマンという数学者は、ポアンカレ予想という大問題を証明したあと、フィールズ賞を受け取らず、ミレニアム賞の一億円も受け取らず、どこかに雲隠れしてしまった、「自分の証明が正しければ賞は必要ない」そうだ)。
マスターだけが「格」の法外なので、マスターだけが「世界」に直接存在でき、だからこそマスターは「教え」の伝播に頼らず、エコーで直接教えることができる、同じ「教える」といっても作用の理法が違うのだ/どんな小さなことでもいいし、どんなガタガタの状態でもいいので、格をはずして「マスター・トライアル」を大前提にするべきだ、そうでなければいかなる努力も一切「道」を進んではいないことになってしまう。

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格はずし

目黒の熱帯夜、灰色ニット/肩丸出しの女が/カールさせた栗色の髪/友達らと連れだって/とんがった口紅/ストローを差されたかき氷/ショートパンツからアジアの素足/膝頭かわるがわる歩いてゆく
なんてうつくしいのだろうと僕は思う、僕は今日これを考えた、ややこしくなってしまった人は別にして、「格はずし」のことは誰に教えてもよいのではないか、まして肩丸出しの、これから行ける勇敢さのある少女に向けては。
人は、なおも、うつくしくあろうとしている、そして、単純な誤解がある……彼女らは・彼らは、意地を張っているのでは実はない、ごく単純な誤解があって、うつくしくなる・うつくしくあるということは、己を格付けてゆくことであり、格上げしてゆくことだと思っているのだ。
それは誤謬というより、正しいことを知らされないまま来ているだけの、無垢な不具合にすぎず……少なくとも、正しく教わればパッと誤解をやめてしまう、勇敢な人たちが残されているのは確かなのだ/うつくしい灰色ニットを尻目に、僕は「格はずし」のことをやっていこうと考えた。

ややこしくなってしまった人は、しょうがないけれど……
「格」をはずす、何であれば、「人格」まで外してもかまわない、人格を外しても、そこに世界と「人」は残るのだから/多くの人は単純に、格付けを足していくことが、己をうつくしくすることだと誤解していて、格をはずしたら醜くなるのではないかと、誤解している、この誤解はただ正しいことを断言するだけで解消できる。
格をはずしたら、めちゃくちゃになってしまう? そんなことはまったくなくて、格を外したら何かとんでもないことになるという、その予感さえ含めて思い込みだ、もちろん格を外して何もないスッカラカンだと話にならないが、そこはエコーを通してやればいい、エコーの命令を通してやれば、そこに命が宿る、命が宿ることを見つけたら、思い込まされた人格などさして業務以外では必要ないのだ。
エコーで格をはずす、「エコーで格をはずします」と、僕がはっきりやればいいのだ、僕がというよりはマスターが、はっきりそれをやればいい、ああすべての両親とすべての教師がマスターだったらよかったのにな。

「エコーで格をはずします」

バーカ、ゴミ野郎、と、そんなことを言われる腹が立つ、どうしてそんなことを言われると腹が立つ? それは誰かがあなたを見ているからだ、誰かがあなたの人格という格付けをじろじろ見ているから、格で揉めて血と僻みが沸き立つのだ、マスターはあなたの人格を見ないだろう、マスターは世界とあなたを見るが、あなたはしょせんこの世界の同体であるから、世界はエコーであり、あなたもエコーになる、評価の一切は命令ではないので、いかなる評価にも命は反応しない。
エコーで格をはずします、それはあなたが、命と世界に還るために、このことはすぐに実現可能だ/ただし、ややこしくなってしまった人を除いては、そりゃ人それぞれ事情ってものがあるんだろう。

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