☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
イグアナ女とバレリーナ

なたはお金をもらうとバリバリ動く。
実は、[識]を得ても、あなたはバリバリ動くことができる。
なんで? という話じゃない、あなたは自動販売機じゃない、あなたはお金だけで動く物体ではない。
[識]、つまり、「自分が何を行うのか識っている」という状態が得られれば、あなたはバリバリ動く、それがないとあなたはイグアナのようにろくすっぽ動かない。

あなたはイグアナ女になるよりはバレリーナのようでありたいはずだ。
あなたが急に舞台の上に立たされても「えっ? えっ?」と動けなくなるのは、バレリーナのようにはその舞台上で何を行えばいいのか「識って」はいないからだ。
単純な話、あなたが男性にあいさつするとか、自己紹介するとかでも、あなたがその行いを「識って」いたら、あなたはバレリーナのようにいきいきとそれができる。
「あいさつをちゃんとしよう」というような、「念」は誰だって持っているのだが、念は識ではないので動けない、それで念に満ちたイグアナ女のようになってしまうという、これはわかりやすい話なのだった。

あなたが動けるのは、「識」の範囲内だけ。

だから「識」を広げ、明確化し、自分がバリバリ動けるようになろうね(そのためには識が不可欠だもんね)、ということなのだった。
誰だって、「分かる」のは簡単、「記憶する」のも簡単だ、でも根こそぎ「識る」のはそんなに簡単じゃない、めちゃくそ勉強した奴しか「識る」ことはないわけだが、さっさと「識」にたどり着けよバレリーナ。

できるオンナだね | comments(0) |
「行い」をあきらかにせよ

うかこの与太話が、表面をすり抜けて、あなたに突然の直覚を与えますように、なぜならこれは本当のことであるから。
あるいは、長らく忘れていたこのことがあなたに急に思い出されますように、もしくは、このことを常に確かめたいあなたが、今日もまたそのことをはっきりと確かめられますように。
われわれには、ただする[行う]、ということをもって、すべての肯定と、すべての解決を得る能力が具わっている。
なぜなら、われわれは、自ら何を「行う」かを「識る」ことができ、その「行う」をもって、自己の存在(イグジスタンス)とすることができるから。

これは認知とか充足感とか、そんな甘ったれたものじゃない。
あなたの知らない、清浄で無辺の、痛快できりがない、よろこばしい燃えさかりがある。
僕はそれを、ずっと識ったままでいる、けれども時は流れ、僕の言葉は通じなくなった、工夫を重ねているが、その工夫は困難だ。
目の前の人間を、遺伝子物体として見ることは果てしなくむなしく、また突き詰めるところおぞましいものだ、僕が何をしているか[行っているか]が見えない限り、あなたは僕に向けて不気味に微笑み続けるしかないだろう/だがそれは違う、間違っている。

僕は東京にいます、いま目黒です。

[識る]というただそれだけのことをもって、そこから僕がどう[行う]べきなのかはすでにあきらかだ、百万の語彙が百万の道筋をひとつとなって矛盾なく示すだろう、こんなわかりやすいものをどうして使わない?
あなたの、なるべく若き日に、清浄に燃えさかる一つの時代を、ただそれを行ったのだという、動機に蝕まれることのなかった光の時代を、どうかあなたが無自覚のうちにも得ますように。

できるオンナだね | comments(0) |
人間は「識る」ことができる
体の構造が見え始めてきた、あるいはもうはっきりと見えた。
全体の構造が見え始めてきて、逆に、それがいかに難業かが見えて、途方に暮れているところだ。
信じてついてきてもらうしかない。
仏教が唱えるところの六道輪廻説はびっくりするぐらい正しい、これはもう途方に暮れてしまう、単純な自己啓発のセオリーとして正鵠を射すぎている。

「無意味だけど行う」というのが人間だ。
「無意味だからしない」というのでは老いてしまう。
「有意義だからする」というのもハズレだが、これはまだマシなハズレだ。
「飢えているからする」はマズい状態で、「メラメラくるからする」も同様にマズい状態だ、そして「もう蝕まれているからやらざるをえない」というのは最悪の状態だ、六道輪廻説(および十二因縁説)はこんな身近にありふれたことを解き明かしている。

識(し)れ。

人間は「識(し)る」ことができる、識るからこそ行うことができ、また人が何を行っているかも識ることができる。
識ることができたら、行うということは勝手に見えてくる、これは人間の不思議な能力であり、人間特有の「可能性」だ。
できるオンナだね | comments(0) |
身口意(しん・く・い)

「人が人間とは限らん」と、仏教は面白いことを言う。
仏教の輪廻によれば、目の前の人は、1.人間かもしれないし、2.天人かもしれないし、3.修羅かもしれないし、あるいは4.餓鬼か、5.畜生か、6.地獄の者かもしれないというのだ(六道輪廻)。
輪廻と因縁において、人間は「行為」をするものだが、それだって「あくまで人間道の存在ならね」と仏教はクギを刺している(人間道以外の因縁に「行」はないのだ)。
人間のする、「行為」とは何かというと、仏教では身・口・意にそれを分類するらしい、身をもってそれを為すこと、口をもって述べること、自発的な意志においてそれをすること、のようだ。

確かに言われてみると、身がトロい人、口がトロい人、意志がトロい人は実際にいる。
一般的に、これは「やる気がない」とか「怠慢」とかいうように捉えられているのだが、仏教的にはそうではないらしい、「彼の身口意(しんくい)がトロいのは、餓鬼か畜生か、あるいは地獄道の者だからでっせ」と考える、これはこれでいっそうえげつない気もするが……
人は誰でも、自分はいざというときには、闖入してきたテロリストどもを排除できるほど大活躍できると思い込んでいるが、案外そうでもないのだ、実生活のレベルで、身口意がトロいということはとことんその人の足を引っ張る。
人間は「行為」をするものらしいから、身が達者、口が達者、意が達者、という実践を日々続けているのが健全だろう、じっさい身口意が達者な者に誰も文句はつけない。

酒場でも職場でもベッドでも、身口意。

確かによくよく考えれば、ありとあらゆるところで、人はその身口意で何かをしているに違いない、身口意が際やかであればそれだけでいいわけだし、身口意がトロいというのは、まずいという以上に「危険」だ。
せっかく人間に生まれているのに、人間道から外れるということが、案外フツーにあるわけだ、そうしたらもう身口意は不全して動かなくなる、それは危険な状態だから修正するしかない。

できるオンナだね | comments(0) |
あなたがここに「可能性」を見つけること
口にはならない。
偉大なバカになるのはむつかしいので、バカになろうという試みもしない。
だが利口にはならない、僕は小利口を拒絶している。
僕が利口になることでこの世を益することはまったくない。

投げつけられる石と花束を区別しない、そんな区別などしているようなヒマはどこにもない。
軽蔑されても尊敬されても、そんなものを聞き遂げているヒマはない、まったく別のものに追いつかないといけない。
すべての人が、僕の年上ならいいのにな、そうしたら僕はあれこれむつかしいことを考える義務を負わずに済むのに。
たくさん軽蔑されてきた、僕はそのことはまったく平気だ、僕が困り果てて舌打ちしたくなるのは、あなたがあなた自身を軽蔑しているときだ、あなたはそれでは飛翔できまい。

僕をバカにしろ、そうしたら僕に同調せず済む。

僕のようなわけのわからんやつに、同調できるわけがないのだから、バカにしろ、バカにしたってあるていどの滋養分は輸出されているのだから。
自分に疑問を持つな、僕に疑問を持て、「こんな人間のクズは生まれて初めて見た」と感じられるとき、あなたは僕から何かを正しく読み取れているだろう、それは大きな「可能性」だ。
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不受症のすすめ
感症はいただけないが、不受症はいい。
不受症などという言葉は存在せず、造語だ。
刺激を受けるとか影響を受けるとか、受け身とか受動的とか、そういったことのすべて放棄して「求めろ」。
「受」になんか何の意味があるんだ、不感症はいただけないが不受症というのはいかなるときも不可欠なものだ。

不受症において、自ら「求める」、そのとき世界が本当の姿を現す。
世界が本当の姿を現すというのは、アホみたいな言い方だが、本当にそうなのでしょうがない、カッコいい言い方は存在しない。
「受」といったって、今や見失っている人の濃厚なメッセージしか存在しないのだから(というのは言い過ぎか)、そんなもん受け取っていたってしょうがない、受マニアで時間をつぶしてごまかしを続けるのはいいかげんにしろ。
昨今、弱者権力が声高に言われる風潮なので、弱者は堂々と他者に「きみも破綻してよ」と同等性を要求してくる、そんなところで仲良ししているのは正気の沙汰ではないので、さっさと諦めて不受症を獲得すること。

不受症とは、「求めれば、世界があって、孤独があって、そこにはグッドジョブしかない」ということ。

なんのこっちゃ、わからん人にはわからんと思うが、体験のある人にはわかる、「まったくそのとおりだね」ということが、秋の夜長の直下でわかる。
このご時世、時間をかけて、空気を作って、甘く弱く涙ぐましく、人を腐敗させていくね/敬えば救われることはあったとしても、頼って救われることなんて人の世にないよ。
できるオンナだね | comments(0) |
この世界に「手段」なんてめんどうくさい概念は存在しない
「求める」というのは強い力だ。
ふつう、この力があることには気づかないまま生きていく。
強い力があれば、求めることができる、ということではない、逆だ。
「求める」という、それ自体の力があるのだが、このことにはふつう気づかないまま生きていく。

強い力に、自分が振り回される、ということではないということ。
まあ、一人きりの、○○者、ということにならざるをえない(伏せ字に関してはお教えできない)。
体中、特に頭部に、分散していた血流が、腹の底に集まってくる、これがいわゆる「肚が据わった」という状態なのだろう。
自分の幸福に執着することは、他人の不幸をよろこぶことほどに不健全だ、そして<<見失っている>>。

望みはない、望みはヨソでやってくれ。

ABCを求めるというとき、ABCのそれぞれが手に入るなら、手段はどうでもいい、そもそもこの世界に「手段」なんてめんどうくさい概念は存在しない。
「求める」ということは、救われたがっているということじゃない、逆だ、「求める」はすでに救われている者だけの特権だ。
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「求める」という人格
「求める」という人格。
これは、問答を受け付けていない。
状況への対応や、斟酌、といったことにも機能していない。
これは問答の機能を持たないながら、もっとも理性的な人格であり、唯一「可能性」を具えた人格だ、利便はないが唯一「値打ち」がある人格といってもいいかもしれない。

「求める」という人格は、それを求めるのに正当な理由、というような、理由探しの機能を持っていない。
この人格は、平気でウソをつくというか、「おれさえわかってりゃいいんだし」と、平気で「何も求めてませんよ、いい日ですね」なんてことをのたまう。
「求める」という人格は、何かをいちいち宣言したりはせず、ただただ「求める」ということを済ませていくだけだ、だからこそ唯一「可能性」がある。
「求める」という人格は、求めたものを得て満足する、という機能さえ持っていない、求めたものを得たら、そのまま次のレベルのものを求めるだけだ、そう決まっているから、これは最も静かな人格でもある。

「求める」という人格は、希望さえ持たない。

希望など必要ないからだ、「求める」という人格は、そもそも何かが足しになるというような打算のもとに「求める」ということをしてはいない。
「求める」という人格は、極限まで自由で、極限まで素直だと言える、価値を足すことにみじんも興味を持っていないからだ。
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「真ん中」へのわたしの行為

に山頂があることは、誰でも知っているが、誰でもそこに「向かう」わけではないし、ましてそこに「到達」する人はごく少ない。
目の前の人についても同じで、目の前の人に「真ん中」があることは誰でも知っているが、誰でもそこに「向かう」わけではないし、そこに「到達」する人はごく少ない。
人の真ん中に向かう、到達する、到達し続けるというのは、不思議な現象なのだ、その不思議な現象が「ある」ということだけは断言できる。
目の前の人の真ん中に到達し続けるとき、何もかもが「届き」、体温が上昇する、忘れていた何もかもを思い出す、それは激しい現象だが、汗を垂らしながら、ストレスはまったくない。

目の前の人の真ん中に向かい、到達し続けるとき、それは不思議にわたしの希求なのだ、わたしの希求であり、わたしの行為となる、待ちぼうけしていてこの現象は決して起こらない。
わたしは「向かっている」「向かい続けている」という感覚が確実にある、それはやや犯罪的な行為なので、善人は基本的にここには到達しない。
このとき明確に、感触そのものとして、「わたし」と「お前」が存在する、このときからまったく別の現象が起こる、二人のやるべきことはガラリと変わるし、その他のことはすべて虚しくなる。
それでいて、何が特別というわけでもないのだ、ただ思い出す、すべての夜が特別な夜だったということを思い出す。

これは犯罪だが、被害者は共犯者になる。

だからこの犯罪が成立したとき、犯罪だが訴え出る人はいないのだ、犯罪なので「だめだよ」という感触はあるが、そのときはすでに共犯者も同じ罪に手を染めている。
人だけではく、すべての物事には「真ん中」がある、その真ん中に向かい、到達し、到達し続ける、この犯罪は「わたし」の希求であり、「わたし」の行為だ、そのときまったく別のことが起こる。

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正しい「夢」とイメージの描き方

なたが「舞台に立って踊る」ということを、イメージしてみよう、いわゆる「夢」というやつだ。
イメージした? ぜひイメージしてほしい/そのイメージの内容について今から点検する。
あなたのその「イメージ」は、あなたが舞台に立って踊るところを、客席からとか、テレビカメラでとかいうような、「第三者の視点から観ている」という形で描かれていないだろうか。
このことはとてもありがちなのだが、そういう第三者視点での「イメージ」は、夢の描き方として間違いだ、それは「想像力」ではなく「空想」で、あなたに何の滋養も与えず、あなたにヘンな陶酔のクセをつける作用しかもたないのだ。

あなたが「舞台に立って踊る」ということをイメージしたとき、そのイメージは、「舞台袖から、ライテンィグされている舞台そのものを観ている」という形で描かれなくてはならない。
夢をイメージするとして、そのイメージは、その夢の舞台に立つ「当人の視点」で描かれなくてはならないということだ、あなたは慌ただしく自分の衣装の点検をして、目前の、幕が開いた舞台を見つめている。
舞台袖で、関係者がステージマネージャーとトランシーバーで連絡している、あなたは緊張して足下がおぼつかなく、鼓動が高鳴っている、しかしあなた一人でこれから目前の舞台に出てゆかねばならない。
あなたが「舞台に立って踊る」ということをイメージしたとき、結果、「おっそろしいですね」と青ざめるようなら、あなたは夢を思い描くことに成功している/この能力はあなたの生涯を華やがせて救うだろう。

「表彰台に立っている自分」を思い描くのではなく、「表彰台から見下ろす景色のこと」を思い描く。

自己中心性が高く、自意識が過剰な人は、自分が物を見ず、自分で自分ばかりを見ているものだ/そのせいで「イメージ」においても、自分が自分を見ているという形でそれを思い描いてしまう、そのイメージの持ち方では人間は自己陶酔と荒廃を深めていくことにしかならない。
舞台上のあなたを、客席の目線で空想すると、あなたは陶酔して恍惚となるだけだ、そうではなく「舞台上のあなたから、客席がどう広がって見えるか」を思い描く/すると客席二千人の視線はあなたに集中しているわけで、そこには臨場感がある、すでに手が汗ばむようなスリルがある、このことで初めてあなたは自分の夢に向かってゆける胴体の形成を始めるのだ。

できるオンナだね | comments(0) |
波紋の戦士
く知られたマンガ「ジョジョの奇妙な冒険」の、第一部・第二部においては、主人公たちが吸血鬼らに対して「波紋法」の技術と能力で戦う。
「波紋」のエネルギーは、血液のビートを呼吸のリズムでコントロールして集めることで生じてくるエネルギーだ、もともと血液にあるエネルギーを呼吸でコントロールし出力する、あくまでマンガ世界のSFではあるが……
重要なことは、波紋のエネルギーは「血液のエネルギー」なのに、それをコントロールするのは「呼吸法」なのだということだ、血液のエネルギーだから血液をぶちまければOKということにはならない。
「血液のエネルギー」を使うために、波紋の戦士は徹底して「呼吸法」を鍛える、血液を鍛えるのではない/脳みそに無数の針を刺して血液を暴走させれば、それは戦士ではなく吸血鬼になってしまう、「石仮面」はそのための道具だった。

血液を暴走させた吸血鬼(人間をやめた者)は、獣・グールの力を持つが、太陽の下では生きられなくなる、URYYYYYY、波紋の戦士はこの吸血鬼を波紋によって灰にする。
吸血鬼は日光で灰になるが/「波紋の呼吸」はつまり血液のエネルギーをコントロールして、血液のエネルギーから太陽のエネルギーを生じさせるという能力だ、その太陽のエネルギーは代表的に「山吹色(サンライトイエロー)」で放出される。
波紋の戦士が、波紋のエネルギーを失ってしまうとき、その理由は二つだ、「血が止まってしまうこと」「波紋の呼吸が乱れてしまうこと」、特に波紋の戦士にとっては「波紋の呼吸を乱すな」ということが生命線になる。
波紋を強力にするためには、拡散ではなく「一点集中」、波紋の性質は「くっつく波紋」と「はじく波紋」、その身に触れたときに電撃で気絶しそうになるぐらいでなければ、まともな波紋を使えていることにはならない。

この魑魅魍魎が跳梁跋扈する世界で、波紋も使えずに戦っていけるか?

波紋法のことは、「ジョジョの奇妙な冒険」1巻〜12巻に書いてある/お前は「ブックオフなら1200円だな」と言う。
東洋人は波紋法のことを「仙道」と呼んだという、仙道とは中国の内丹術のことだ、僕は内丹術などに詳しくはないが、吸血鬼を灰にするぐらいには修行を積んでいないと、今を楽しくは生きていけないかなぁ〜
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「誰にでも通用するもの」を持つこと
(メモ書き)なるべく最大限に、「誰にでも通用するもの」を持たなくてはならない、カミサマではないので誰も完全な普遍性を持つことはできないが。
表面上どう受け取られるかは別にしてだよ、「誰にでも通用するもの」を持つこと、発揮すること、それはいわば、人間の本質に「付け入る」という、ある意味では悪辣さを含んでいるのかもしれない。
誰だって、己の身に関わることとして、美と無垢と永遠に触れたならば、膝を屈して帰順せざるをえない、そんなことに反発する理由は誰にもないからだ/それが人間の本質なので、そこに付け込む、そこに付け入る。
たとえ渋谷駅西口を歩いているすべての人であっても、すべての人は「人間の本質」に支配されて生きているので、そこに付け入るのだ、そうして「誰にでも通用するもの」を希求する、そうすることでしかけっきょく「神業」の追究はできない。

だからそこにあるのは、衝突的戦いではないし、競い合いでもない、比べっこするものではなくて、どちらが本質に及んでいて、抗しようがないかだ。
たとえば人は、強くなりたいわけで、強くなりたいからこそ腕力をふるうのだが、そこで「こうしたほうが強くなれる」ということが示されれば、そのことには抵抗しようがない、人は純潔をきわめた利益には抵抗する方法がない。
人は真の自由と歓喜を得たいわけだが、そこで真の自由と歓喜を与えてくれるものが示されれば、それに対しては抵抗できない、人は勝利を奪おうとされるとき抵抗できるのであって、勝利を与えてくれるものには抵抗できない。
なるべく最大限に、「誰にでも通用するもの」を持つこと、それは人間の本質に「付け入る」ことだから、つまり人間の本質を忘れないこと。

神の国に連れて行ってくれることほど、悪魔的な技術はない。

人は自分の存在を認めてくれる者には抵抗のしようがないし、自分を解放してくれるもの、および自分を高めてくれるものにも抵抗のしようがない/そこに目をつける。
誰しも自分の肯定を探しているものだが、予想している自分の肯定以上の肯定を与えること、すると人はよろこびあって、抵抗する方法がその理由のメカニズムごとなくなってしまう/それは悪魔的技術で神業を為すこと、そこで初めて「誰にでも通用する」。
できるオンナだね | comments(0) |
「使えるヤツ」になる方法6(身を粉にする)

に情念が染みると、肉が硬化し、肉レベルでの連携が弱くなる(ワークに噛みあわなくなる)。
この状態で他人と関わるのは、とてもしんどいのだ、まして「チームワーク」なんかやらされると、連携の機能が失われているので軽く死ねる。
肉に情念が染みると、ワークに連携できなくなるこの現象は、「ワーカビリティが損なわれる」と捉えていい、肉に情念が染みているとワーカビリティが損なわれる。
肉のワーカビリティが損なわれていると、本人の意思や能力に関わらず、自分が「使えない、しかも伸びないヤツ」状態になるのだ、この状態は自分も周囲もキツいので、わりと真剣に回復の手続きを取ったほうがいい。

ワーカビリティの回復は、「身を粉にする」ことで得られる、情念だけを粉砕はできないので、一度身ごと粉にするしかない。
このとき、人間関係があれば、<<ワーカビリティの低い人が率先したほうがいい>>、登山のパーティは経験の浅い者が先頭を行くようにだ/ワーカビリティの低い人が率先して自ら「身を粉にする」。
たとえば丁寧に拭き掃除をするぐらいのワークは誰でもできるので、そこは割り切って「身を粉にする」、たとえば禅寺でやたらお堂の拭き掃除をしている小僧はこれをやらされているのだ、身を粉にしないとワーカビリティの回復と維持ができない。
ワーカビリティが皆無のような、致命的に「使えない上に伸びないヤツ」という人がまれにいるが、そういう人は能力の問題以前に、何かに「身を粉にする」ことがなかったのだ、これは必ずこころあたりがあると思う。

不本意でも、身を粉にすれば、ワーカビリティの回復だけは保証される。

これはほとんど、物理的なモンなので、本人の思想や思念は関係ない、人は疲れても何にもならないが、「身を粉にする」ことでワーカビリティの回復が得られる。
正しく知っておくこと、この手続きに違反することはひたすら損だ/1.まずイージーワークに「身を粉にする」、2.それ自体は無意味に思えるが割り切る(情念を持たないこと)、3.ワーカビリティは物理的(肉レベル)で回復する、4.ワーカビリティが回復した状態で上位ワークにトライする、5.自発的に、率先してすること(「やらされる」と回復が得られないので損)、6.「単純作業」はよいが、ルーチンワークおよびマニュアルワークをしない、マニュアルワークは筋肉に染みてしまう、ワーカビリティは低下する。

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「使えるヤツ」になる方法5

「ワーク」と「願望」を区別しないといけない。
たとえば、誰だって「美人になりたい」「男前になりたい」とは思うだろうが、それは願望であって/「美人になるのがわたしのワーク」「男前になるのがおれのワーク」と胸を張って進んでいることはまったく別のことだ。
ここに、タテ10m、ヨコ10mからなるキャンバスに、大きな花束の絵を描いている真っ最中の人がいたとして、その人に向けて「わたしも画家になりたいです!!」と言い放つことは、まったく噛みあわない。
「もっとレベルを上げたい」と、ワークに向けて言う人と、「もっとレベルを上げたい」と、願望に向けて言う人は、言う対象がまったく別だ、誰だって基本的に「ワーク」という感覚を持たないといけない。

仕事(または役)を持っている人は、誰だって「ジョブ」を持っているのだが、どうやってジョブの成果を出すかというと、「はたらき(work)」によってだ、けっきょく現場でモノを言っているのは具体的なワークに違いない。
「グッドジョブ!」という言い方があるが、グッドジョブが為し遂げられるのは、身もフタもないナイスワークによってであり、人はけっきょく自分のナイスワークぶりを「見てろよ」と見せつけながら生きるしかないのだった。
しかし、自分のワークぶりというのは、願望と違って身もフタもないものなので、ここに自分のワークぶりを隠蔽したいという、ワーク・コンプレックスが生じる/願望なら好き放題言えるが、ワークぶりを見せろと言われたら「あの、その……」が普通だ。
「修行中」もしくは「修業中」というのは、「エッセンス・ワークを肉に蓄積中」という営為状態を指すのであって、むつかしく悩んで勉強中、という状態を指すのではない/エッセンス・ワークを1000日分蓄積すると「鍛」になり、10000日分蓄積すると「錬」になる、これを「鍛錬」と言うそうだ(宮本武蔵)。

「ワークしていない」のじゃない、「スリープしている」の。

課長のワークに、新入社員の肉が反応していない場合、課長は新入社員に「寝ぼけてんのか」という叱責をする、まさにそれはスリープしているのであって/本人のマインドがいくらマジメでも関係ない、肉がワークに噛みあっていない限り肉はスリープしている。
もちろん、肉を休ませているとか、避難させているとか、それ自体は状況に応じて悪いことではない、だが肉がスリープしたまま「使えるヤツ」にはなりえないので、不毛な努力に逃避せず「ワーク」という感覚に目覚めるべきだ。

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「使えるヤツ」になる方法4

とえばAさんが「バーを開店したい」と言ったとする。
そのときBさん、Cさん、Dさんに必要な反応は何か。
「めっちゃいいですね!」「応援します!」「わたしもやりたい!」とかいうことではない。
「どういうバーをやるんですか」と興味を持つことでもないし、「Aさんはそういうのに向いていますよ」と意見を言うことでもない。

Aさんのワークはどうなる? 開業資金の確保、運転資金の借り入れ、経営計画書の作成、場所の選定、物件探し、バーテンダーのノウハウ修業、営業許可と届け出、内装工事、什器の入手、仕入れの見積もり、広告等だ。
これらのワークに「連携」しないと意味がない/たとえば「わたしの叔父がそこの信用金庫で働いてますよ」「わたし○○川沿いに住んでいるので周辺のテナント料とか見てきますよ」「うちの実家、ちょうど冷蔵庫買い替えて、古いやつ余ってますから、いちおう残しときますね」というような連携だ。
こういった連携が、自動的に起こらなくてはならない、指示されてから動くのでは連携ではない、この連携が起こらなくなったとき、大げさに言えば国が亡ぶだろう。
「使えるヤツ」というのは、ヘロヘロっと提案を「してみた」というようなことをする人間ではなく、「叔父に会って一通り聞いてきました、それで内密に、融資が下りたケースの事業計画書のコピーもらってきましたよ」とまで動くヤツだ、残念だがそこまでしれっとできるようでないとリアルには「使えるヤツ」とは言われない。

使える=連携×手柄。

連携してなきゃ意味がないし、手柄を立てなきゃインパクトは生じない、まるでサッカー選手のようだが、高度な連携能力と高度な個人能力が掛け算に作用しないと、けっきょくまともな成果は得られない。
このことの了解には個人差があって、「へ? そんなの当たり前だろ」とキョトンとしている人もいれば、「は? そんなのムリに決まってるでしょ」とグッタリしている人もいる、このことへの個人差はものすごく大きいのだ。

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「使えるヤツ」になる方法3
戸に旅行するなら、三ノ宮から元町の大丸まで、商店街を歩いてね、そして元町の「森谷商店」でコロッケを買い食いしてね、ありゃもう名物みたいなもんだから。
そしてハイヒールでなければ、建物を見ながらメリケンパークのポートタワーまで歩こう、写真を撮って、そのままモザイク神戸まで歩いてティータイムと雑貨ショッピングだ、建造物に興味がなければタクシーで直接モザイクへどうぞ。
夕刻に、JRで六甲道まで戻って、バスで「六甲ケーブル下」まで行き、ケーブルカーを上がれば、壮大な夜景が見られるだろう、ただし山の上はすぐ雲に覆われるので天候に注意だ。
夜景が見られないときは、あきらめて元町の中華街でディナーにしよう、ただし中華街は夜が早いので気をつけて、夜が更けてしまったら三ノ宮の北側へどうぞ、リッチに過ごしたいときは北野坂にどうぞ。

神戸の旅行案内なんて、ほとんどこれだけでいい、誰でも「簡にして要を得ている」ことが重要、あなたは余分な情報をぜい肉のように感じて好かないだろう。
ここであなたに、「元町はステキなところなんですよ〜!」なんてプッシュもしない、あなたのワークは「旅行プランの構築」であって、そこに僕の感興は寄与しないから、感興のブチかましなんかしない。
あなたの「ワーク」に向けて、僕は「使えるヤツ」でありたい、だから僕はヘンな笑顔など見せずに、「地図で見ていたらわからんけど、神戸って南北は常に上り坂なんだ、だからヒールが高いと歩くのがきついよ」というようなことを伝えるだろう。
どれだけ知識や、思いがあっても、あなたのワークにビタッと嵌って機能しないかぎり、何の役にも立たない/神戸の旅行案内に必要な能力は、「神戸に詳しい」ことではなく「神戸に詳しくないあなたのことがわかる」ことだ。

物事に詳しいのではなく、あなたのワークに詳しい。

ためしに「神戸 旅行」と検索してみればわかるが、旅行アドバイザーのサイトが出てきて、情報は提供してくれるが、それでは旅行する気になれない/googleはすべての物事に詳しいが、「あなた」のワークにはまるで詳しくないからだ。
東京から新幹線で新大阪まで行ったとして、「新大阪から三ノ宮は新快速で30分だよ?」「えっ、じゃあぜんぜん近いじゃん」とあなたを驚かせることが、googleにはできない/あなたのワークに詳しい必要があって、あなたに「そういう情報が聞きたかったの!」と言われなくては、僕は「使えるヤツ」ではありえないだろう。
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「使えるヤツ」になる方法2
とえば「最近、就職活動はどうなの」なんて訊かない。
「最近、しゅーしょく活動はどーなの、バリバリでございますかい、はっはっは」と話を振る。
就職活動中の人は、就職活動がワークであって、その進捗を僕に話すことは、何のワークでもないからだ、「訊く」なんて論外になる。
就職活動中の人は、「そうですねえ……」と、状況と今後の作戦を整理したいと思っているので、会話がその整理というワークにはたらくように話を振るだけだ/ふつう会話の中で、相手の状況や身の上を「訊く」なんてことは一度もない。

「けっきょく、面接に行くと、自分がブレてて、定まってないって一番感じるんですよ」
「あー、思いが定まっているのと、話すことが定まっているのは別ってことあるもんね」(と、彼が「話す」能力へ注目をシフトさせることを狙う)
「九折さんはどうでした? 学生のころとか、面接で苦労しませんでした?」
「あー、おれはねえ、たぶん面接どうこうじゃなくて、見ず知らずの人と話すということ自体に慣れていたからね、その意味で面接で苦労とかはしなかったな」(と、彼が「面接」という形式に力んで視野狭窄することにアンチテーゼを示す)

ワークが「進む」ということが、話が「進む」ということ。

だから、相手の「ワーク」が見えていないと、話は進みようがない、思っていることを「言う」とか「訊く」とかいうのは本質的に会話ではない/それは「問答」だから、納得が増えるばかりで、何も進まない。
「お前と話すと、前に進めるわ、仕事も進むし、話も進むなあ」と言ってもらえるようになること、それが「使えるヤツ」の基本だ、「使えるヤツ」とは他人のワークに連携して挙動が決められる奴のことだ。
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「使えるヤツ」になる方法

法はシンプルだ。
課長は仕事を進めたいのだ。
課長は「ワーク」をしたいのだ、部下は課長の「ワーク」のためにホウレンソウをする。
よって、あなたの持つべき視点は、「わたしが何をするべきか」じゃない、「課長は何をどうしようとしているか」だ、その課長の「ワーク」に噛みあう形でホウレンソウが為されねばならない。

つまり構造は、[あなた→課長]で終わりじゃない。
構造は、[あなた→課長→ワーク→客]までつながっている、この全体の構造がわかっていないといけない。
あなたは部下として資料を作成するのだが、そのとき、資料はあなたが「わかりやすく」作るのではなくて、課長が客先で営業をする、そのときのワークに向けて「使いやすいよう」に作られていなくてはならない。
課長は客先に営業に出て、何の交渉をするのか、どういう取引をするのか、そのことに向けて「使いやすい」資料を、あなたが作るのだ、そこが噛みあっているヤツが「使えるヤツ」になる、それは読み取りの問題であって努力の問題じゃない。

Did you make it For his Work?

あなたのベストエフォートも、全体のワークと噛みあっていなければ「使えない」になる、相手がどういうワークに出ようとしているのか常に知っておけ、どれだけ品質のいい手袋を編んでも、ワークに軍手が必要なときは「使えない」になる。
課長の「要求」を無言に読み取るなんてテレパシーでもなきゃ不可能だ、そうではなく、課長のワークが客先にどうつながるのかをよく見て、「これで使えるでしょ」という資料をババーンと作るのが最善だ、読み取る対象は「課長」ではなく「ワーク」そのもの、ワークに「使えるでしょ」が足りていればそれで何の問題もないのだ。

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分割(わか)らない
「分からない」ということが思いがけず極意となる。
「分かる」というのは、「分割する」ということで、「tell A from B」と同じ、「分かる」ということは「分割しました」ということに他ならない。
「分かる」というのは、「身に入らないように、肉の身から分割しました」ということであって、「わかる」ものは決して身に入らない、身につかない。
このごろは、誰しも「分かる」という能ばかり鍛えられておって、「分かる」ということが賢いことだと思い込まされている、それは賢いには違いないが、それではただ賢い風情のまま死んでゆくしかない、それはあまりありがたいことではない。

情念の染みた人間は、よう分かりよる、「勝ち組・負け組」だの「肉食系・草食系」だの、何もかも分割しようとする、そうすると分かる分かるのオンパレードになる。
そうなれば、数学だって分かるし試験だって分かるのだが、それは肉の身から分割された宙空の何かをやっておるのであって、その宙空のものをいくら足してやっても、自分の肉身の足しにはならない、宙空のものが膨らむだけだ。
人はみな、分からないで頭を下げておる、分からないというのはこの肉の身から切っても切れない、切り離せないことだということで、情念なしにそれをしておる、夢の中ででも頭を下げておる。
胃袋がなんでも入れられたタンパク質を分からんまま一所懸命に溶かしよるように、われわれ人間も分からんまま一所懸命に頭を下げておる、分かる分かるというのはどの面が申したか/人間は風邪をひくのがとうの昔に分かっておるが、分かっておるからといって肉の身が風邪を引くのはやまんし止まらん、分けとうてもよう分けられん。

「分かり」たいのか、身になりたいのか。

風邪などは、願わくば分かってもらえればありがたい、しかし風邪をひくときはひくのでよう分からん、一方で数学は分かるばかりで身にならん、つい咳をしてしまうようにはわれわれの内から数式や理知は出てこん、必死に内緒で記憶した参考書を思い出さねばならん、それではまるで学を修めたということにならん。
われわれ日本人は、なんで箸でメシを食うとるのかわからん、小さいシャベルでメシを食うてもよさそうなもんだ、しかし分からんが茶碗に箸でメシを食うとる、それを文化という、メシを食う時に「ええと、箸で食うのだった」と分かったことを思い出さねばならんかったら、それは外人である、それではもう彼の身が何者なのかまるでわからん。
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誰だってハードトレーニングならできる
並み以上の悪をやり
分からない分割しないで
ソフトソフトの無為を積む
分別の別を弁えて軽し

人並み以上の善に執し
分かる納得理解する
ハードハードのトレーニング
分別の別を弁えず重し

喉元を緩め膨らまし遊べ

分割妙霊を失し、不別所有に執念す/不分妙霊に従し、別個敬天に喜悦す
誰だってハードトレーニングならできる/そうではない、そうはできないそれ
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