☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
澄み切った上澄みは透明すぎて見えない

たあれこれ書くわな。
ヒマな人が多いと思うが、ヒマな人はパーティなんかに来てもしょうがない。
忙しい奴が来いよ、当たり前だが、忙しいというか、時間がいくらでも欲しいと切望している奴が来い。
今回新しく来てくれるらしいゆきさんは、十年前から僕のファンでいてくれたそうだ、なかなか趣味がいいじゃないかと言いたい、人生のヘンな転機なんか来ないように、ぜひ遊びにおいでよ、いらっしゃいと僕は言いたい。

おれはお前たちにつまんねーことをしてやる。
おれのつまんねーことが、お前にとって真に光り輝いているものでなければ、それはおれがつまんねー奴だということだ、そしておれがつまんねー奴であることなど理論上ありえはしない。
どんな理解も及ばない実物の方法を、とっくに入手しているから遊んでいるんだぜ、鼻先に七万の香りがしたらどうする? そんなものもう勝てっこないじゃないか、そしてそういうものにしか本当の値打ちはないじゃないか/まともに生きるには本質をこっそり生きていくしかない。
絶対及ばない光の次元、その名を呼ぶなら「チャロコホイ」だ、お前らの理解が及ぶものは常に根本からつまらないだろう/濁った沈殿には澄んだ上澄みがつきものだが、澄み切った上澄みは透明すぎて見えないわけだな、だからといって濁った沈殿に認識とテーマを遣るバカがどこにいるか、おれのことが大好きなのは初めから理屈に届かないように作られてある、お前らが沈殿に注目するたびにおれは要らん苦労をさせられるのでもうちょっと正しいほうに歩み出たらどうだ。

パーティなんか、やったうちに入らねえ。

沈殿がカルマで、上澄みが光だよ、街中にひしめくチャロコホイだ、実在の実感以上の生存existenceがある、循環するすべての曜日に原宿は存在している、別に原宿じゃなくてもどこでもよかったのだが、原宿チャロコホイがわかりやすいのでなんとなく原宿で続けている。
鉄アレイをブンブンしていれば筋肉がつくが、そりゃ鉄アレイに合わせて自分も重たくなりましたってことだぜ、そりゃ重たい悩みも発生するだろうな、チャロコホイには重さがないが説明には重さがつく/重たいものばっかり好きな人は沈殿ばかり吸収して上澄みの光から遠ざかるがそれで本当に満足なのか、今週はパーティがあるがおれはいつもどおり何もないよ。

できるオンナだね | comments(0) |
最強の作用が最大のハズレ

には夢があってだな……
夢に関してはゼータクなのだ。
どういう夢、ということは長くなるから書かない。
具体的な夢だよ、内容はハチャメチャで、かつ、しっかりとしていないといけないし、ド厚かましくないといけない、それが夢ってもんだ。

われわれの胴体、この「身」とは何なのか、そして「身分」とは何なのか/この身を縛っているものは、さしあたり「カルマ」とひとくくりに定義してまったく差し支えないとして……
われわれの「身」に対する、最強の作用が「カルマ」だ、つまり、<<最強の作用が最大のハズレ>>ということになる、わかりやすい結論だよなあ、だがこんな結論に僕自身がキョーミがあるわけではないのだ。
僕の夢は「世界」であって、そこに同道する人々を含めると、「国」といってもいい、聖書世界でも元々われわれは「永遠の国」から追い出されたという話になっている/これからは「国」という捉え方をしていってもよいのかもしれないな。
というわけで、僕はカルマ肉の話題を、立場上やむをえずにしているだけで、そこに本分は何もないのだった、僕には夢があるだけでね、いいセンまで来ているんだ、どうかこれ以上、一般的な世の中がカルマ大劇場になりませんように/夢に向かう前にカルマの整理説明だけで日が暮れるってなわけにはいかんのだよ。

「永遠の国を追い出される」って、さすがに二回目は要らんやろ。

僕はひたすら「永遠の国」、また東洋人として「極楽の余り風」に、迫ってゆきたいだけだ、また立場上も、そうするっきゃないんだよ、そして「永遠の国」と「極楽の余り風」が人間普遍の夢なのは当たり前だろ、誰だってちょっと考えればわかること/永遠の国のみんなでカップラーメンを食べるのと、カルマのド渦のド真ん中で独りで高級肉を食らうのと、どちらがいいのか、永遠の国の四畳半と、カルマのド渦のタワーマンションと、どちらのリビングで目覚めて「おはよう」がいいか、そんなものカルマのド渦でよろこべることなんて一ミリもあるわけがないのだ。
<<誰も僕の夢を聞かないのはなぜだ?>> カルマ質問箱のみなさん、僕は精一杯お答えするが、その答えの中にあなたの行く先はないことをお忘れなく/あくまでカルマ質問箱は「なぜそっちに行ってはいけないか」という説明を返せるだけで、あなたの行く先ゴーゴーについての情報はないよ、まだしも「オマエと飲んだら気分がいい」という僕の夢をあなたが真剣に聞いてくれることのほうが、あなたの行く先ゴーゴーについて正解に近い、正解にずーっと近い。

できるオンナだね | comments(0) |
しょーーー、もないことから離脱する方法
ょーーー、もないことに付き合うべきではない。
しょーーー、もないこととは何かというと、ハートもなければグルーブもない、回転数も高くない、そして、何もグレートではなく、セクシーでもない、ということだ。
どうせ付き合うなら、わけのわからないグルーブに満ちた、「すぐ振り落とされてしまいそう」と感じることに付き合うべきだ。
あなたの付き合う相手は、あなたの希望によって決定はされない、残念ながらあなたのレベルで決定してしまう/そしてあなたは、自分で人生を歩んでいかないかぎりは、基本的にあなたのお母さんが付き合えるレベルのものしか付き合えない。

だからあなたの態度が重要なのだ。
あなたがあなたのレベルを超えていくということは、あなたが前向きに屹となる、ということではない。
あなたがあなたのレベルを超えていくということは、あなたがあなた自身を蹴っ飛ばすのみならず、あなたのお母さんも一緒に蹴っ飛ばすということだ/あなたの現在レベルが蹴っ飛ばされると同時に、あなたのお母さんも蹴っ飛ばされてしまう。
そのことまで引き受けていくというのが、己の生まれ落ちた身分やカルマを超えて生きていくということだ、あなたの生来的な身分は母親の身分によって決定されているから/もしあなたが、「母親を蹴飛ばされてまで進むべき道なんてない」という立場を採る人なら、あなたは生来の身分を超えた誰かと本当に付き合うことは起こらない、それは不幸なことではないのかもしれないが、しょーーー、もないことからの離脱は初めから成り立たない。

あなたが母親のレベルを引き継ぐことは、あなたを安定させるが、母親の救済にはならない。

なぜかというと、母と子が同レベルのまま、しょーーー、もないことにかかずらわり、共倒れになることは、母親にとっては不本意だし、子にとっては怨恨だからだ/その愛憎劇は典型的な「あるある」であって、不幸とは違うと思うが、まあ趣味としては悪趣味だなあと個人的に思う、僕はわざわざそんな筋書きの二時間ドラマは観ない。
僕があなたの母親を蹴飛ばせない限り、あなたのことも蹴飛ばせない、じゃああなたは現行のレベルを超えることはできない、しょーーー、もないことはこれから30年後も繰り返されるだろう。
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大吉探し
勢の下がる人は、勝手に「不吉」を探している。
目が覚めたら雨だったとき、「こんな日に雨が降るということは……」と、わざわざ不吉を見るほうを、勝手に選んでいる。
「めちゃめちゃ体調よく目覚めましたけどね」という、大吉の見え方を捨てているのだ。
運勢にオカルトがあるのかどうかは知らないが、少なくとも、わざわざ不吉を探しているようでは、自らの気力を不利にしているだけだし、大吉を探す奴のほうがまともで有利だということは間違いない。

「将来が不安」という人は、「現在まで無事やってこられた」という大吉を見捨てている。
「カバンをなくした」という人は、我が身にトラブルはなかった、という大吉を見捨てている。
下駄の鼻緒が切れたとしたら、転倒しなかったというのが大吉だ。
大吉がひしめいているのが見えないか/今日もきれいな女性とすれ違ったりしたんじゃないか? 今日も友人からメールが来たんじゃないのか、今日もこんな楽しいブログを読んでいるのじゃないのか、今日の食事はとてもナイスで、今日の野良猫ちゃんもとてもかわいくて、ことごとく大吉に満ちていなかったか。

大吉だけを探せ、これは単純な認知療法だ。

わざわざ自分で「不吉」を探している人が案外多くて、びっくりさせられる、何を弱気になっているんだか、その気になれば明日にでもワンピースが買えるでしょ?
焼肉を食ったりさ、なんでもない文庫本を買ったり、楽しい動画をこってり観ることだって可能じゃないか、不吉連盟さんの発想に馴染むのはよくないよ、不吉連盟の発想に対しては「ええええっ!?」と、根こそぎその発想を否定してやればいいんだ、そのほうが相手も救われるから。
できるオンナだね | comments(0) |
魔を跳ね飛ばすのはアクティブネス

中に通り魔が現れたとして、通り魔が工事現場のおっさんに飛びかかるという例はない。
工事現場のおっさんが屈強ということもあるが、それ以上に、工事現場のおっさんがアクティブだからだ。
アクティブネスの真っ最中にあるおっさんに、チンタラした通り魔が襲いかかっても勝ち目はない。
「魔」に対する最強の防壁がそれだ、チンタラしておらずアクティブネスの真っ最中というのが防壁だ、魔はその防壁に「はぁ?」と言われるのに一番弱いのだった。

強い奴が通り魔にはならない、魔というのは必ず弱い者に取り憑いているものだ。
だから誤解してはならない、魔の取り憑いた者が「ウオー」という表情だったとしても、必ず弱いから取り憑いているのだ、そのときは必ず相手の「弱さ」を見ろ。
魔の取り憑いた者は、一見すごそうに見えるが、フェイクだ、実は立場はすっごく弱くなっているのだ、立場の強い者に魔が取り憑いたりしねえよ、馬力がないから「ウオー」なんだよ、本当は孤独に落とされることが怖くて内心でひどくビビっている。
魔を跳ね飛ばす最強の防壁は、アクティブネスを保っていてやることだ、こっちが気力を上げっぱなしでいくと、魔は打つ手がなくなるんだよ、魔は湿っぽいものには取り憑けるが、バネみたいな奴には取り憑けないんだ、「噛み合わない」という状態になったら、必ず魔のほうが弱いもんだぜ。

魔が来たら足元に土下座させろ。

実はこの構えが、魔に対する特効策なのだ、魔の側は実は自分が弱いということを知っているから、自分が土下座させられる気配にどうしても弱いのだ、<<本当はアクティブなものに土下座したがっている>>、<<従いたがっている>>というのが「魔」の正体なのだ。
魔の側が実は弱いということを忘れるな、そのとき限りで強がっているだけで、裏側ではいつも弱っちいのだ/冷静に見れば、相手がどう弱くなっているか、その理由は必ず透けて見えるはずだ、本当は従いたがっていて、安心したがっているのだ。

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合理的なアクションを取ること
ょうび、正気でない人もいるし、未来に向けては不安な要素も多くある。
が、けっきょくどうなるかといって、われわれは合理的なアクションを取るしかないのだ。
合理的なアクションを取り、その他のことは何かというと、その他のすべては「余計」だ。
パニクった人は、必ず余計なことを言い、余計なことを迫ってくる、だがそれはどういじくっても「余計」なのだ、余計なことは元から「No」に決まっているのだし、そのことに向けての最善は「時間をかけない」ということだけなのだ。

休憩、余暇、お楽しみ、ということを重視しよう。
それこそが、「余計」ということの出現を抑制するからだ。
余計なことにかかずらわっているとき、何が起こっているかというと、単に休憩時間を削られているだけだ。
休憩と余暇とお楽しみを、最大までキープする、厚かましくだ、そうしたら「余計なこと」は排斥される、休憩と余暇とお楽しみまで含めて、われわれはこれを「合理的なアクション」と呼ぶ。

合理的に、厚かましく、つまりギャングのように。

正気でない人もいる、不安な要素も多くある、でもそれがギャングの日常だ、手際のいいギャングを見習え。
ギャングは相手に死さえ用意するが、それは必ずしも相手を殺すということではない、誰だっていずれは死ぬということだ、それでも誰だって死ぬまでは生きているのだから、なんだかんだでどうにかなるということだ、ギャングは「余計なこと」に流されない。
できるオンナだね | comments(0) |
われわれが痛みの餌食になる方法
「ためしてガッテン」で、慢性痛の特集が組まれていた。
なんと、(心理的)認知行動療法で、慢性痛が改善するということだ/なぜ改善するかというと、痛みそのものがファントム(幻想)として生じている場合があるからだ。
極論すると、「ボサーッとしていると、ありもしない痛みに苦しみ続ける」ということがありうるということだ、まさにカルマという感じがしてしまうが……原因のない痛みなんてもう逃げようがないからな。
達成感という言い方は、僕は好きではないが、日々何かを「達成」している人は、痛みに苦しまなくて済むようだ、もちろん本当に原因があって痛いものは別だが、それにしても「痛み」や「炎症」というのは、どうも経験上、そんなに単純な生理現象ではない、正当に思える理由さえ、そのまま痛みの肯定にはつながらない。

人は、ありもしない痛みに苦しみ、ありもしない炎に焼け焦げるのだ。
今や街中に、不機嫌な老人を見つけるのはむつかしくないことだが、なぜそういった老人は、「むかしむかし、あるところに……」というようなおじいさんおばあさんにはならなかったのか、なぜ老境を得てなお、安らぎの一端を掴むこともなく、残された日々を徹底した不機嫌で生きているのか。
もし、毎朝起きたときに、何もないのに身体のあちこちが痛い、身動きできないほど痛い、そして何もないのに猛烈に爆発しそうにイライラする、というようなことが、無条件で発生したとしたら、われわれはどうするだろう、どうするといって、もう「どうしようもない」のだ、そのまま何十年間も生きねばならず、その時間を支えて愛してくれる人など一人もいない/疎まれるだけの日々が何十年も続き、ずっと強がっていなくてはならず、しかもその先に待ち受けているのはよくわからないままの「死」だ。
ここ数年の、炎上騒ぎに加担した人たちは、己の行く先に恐怖しないのだろうか、いずれ己に痛みと焼け焦げの時間が始まるのはミエミエだというのに/そんなバカなことをしておらず、どんなささやかなことでも日々達成していくべきだ、われわれは学門をするためにこの世に生まれ落ちている、ボサーッとしていれば逃げ切れるかというと、そうじゃない、そんな逃げ切り方はできないように作られている。

空っぽの時間は、やがて痛みと焼け焦げになって戻ってくる。

「ためしてガッテン」で紹介されたように、習字をしたら慢性痛が治ったとか、毎日書店に通ったら慢性痛が治ったとか、事実としてレポートがあって、今やその認知行動療法が、慢性痛治療法の最右翼だとアメリカでは目されつつあるとのことだ/<<われわれはボサーッとしていると痛みの餌食になり続ける>>のだ。
ボサーッとしているのが一番ラク、ということではないんだな、脳みその全体が活性化することで、痛みは取り下げられるのだと、「ためしてガッテン」で説かれていた/脳みその活性化をしんどがっていたら、後になって真のしんどさが降りかかってくるよ、前者の「しんどい」はシャレで済むが、後者の「しんどい」はシャレでは済まない、われわれの生死を決定してしまうようなたぐいだ。
できるオンナだね | comments(0) |
ドゥー・ドゥー

人のことは他人のことなのだ。
他人には、他人の事情があるのだろう……ということは、考える必要はなく、むしろ「事情はない」という、メチャクチャな暴論を押し込んでかまわない。
他人と連携しようと考えるな、全員と連携することを重視しろ。
全員と連携するということは、連携する必要のないところと連携するということだ、イヌがワン! と吠えるタイミングと連携しろ。

自分が生きるというのはその「連携」のことだし、他人が生きるというのもその「連携」のことなのだ。
そこに事情印の100泥織鵐哀好謄鵑鬚くりつけたら、それは余計にカワイソーだよ、見えない鎖をつけるのではなく、見えない翼をつけてやれ。
事情合戦をやりだすと、本当に双方が不幸になるからな、そこでイヌがワン! と吠えるタイミングだ、これと連携するかぎりわれわれに「事情」はない。
他人のことはドゥー・ドゥーと呼べ、さすがにこれでは話が意味不明すぎるか、でもこの意味不明に引きちぎっていくような話し方を、何年も前にはおれはしていただろ? 実はあのころからおれのほうはなーんも変わっていないんだぜ。

「事情」を除いて、すべては「合図」だ。

何もかもが「合図」なのだ、そのすべてに連携する、なぜそうなのかといって、初めからずっとそうなのだからしょうがない。
おれはドゥー・ドゥーに説明はしない、なぜならおれだってわからないからだ、おれに事情がない以上、おれに何がわかるというのだろう? わからないから「合図」に連携するしかないのだ。

できるオンナだね | comments(0) |
あなたが楽しくなる方法

なたが楽しくなるためには、僕と同時にやることだ。
あなたが何をする人か知らんが、僕と同時にやることだ。
あなたが、あなたのやるべきことを、あなたのタイミングだけでやろうとするから、何も楽しくなくなる。
たとえば先生と生徒がいて、先生が教えるのと、同時に生徒が学ばないと、おもしろくないじゃん、何をやっているのか、クソ勉強みたいですっげー不快じゃん。

あなたはあなた限りのことをやるのだ。
まわりに合わせてとか、まわりに流されてとか、そういうのは何の足しにもならんからやってはいけない。
あなたはあなた限りのことをやるのだ、それでこそ、正しく「全体」に噛み合っていることになる。
あなたがあなた限りのことをやる、そのとき「孤独だ」と感じるのなら、それは感覚がオカシイ、みんな自分限りのことをやるので揃っているのに、この大団円に何の寝言をいっているんだ、何かビート音を聴き取って自分限りのことをやれ。

あなたにしかできないことが自動的にある。

なぜなら、あなたは前を向いているだろう、そりゃ眼球が前についているんだから前しか見られねーよな、そして「あなたの前」を見られるのはあなただけだから、あなたにしかできないことがあるのだ。
人には「フツフツくる」という現象があると思うが、それは前方に向かって生じるものだよ、観念的ではなく実際の前方にだな、「ビートと前方とフツフツ」でだいたい正解だよ。

できるオンナだね | comments(0) |
ポカーンとしない、流されない

界卓球、女子、決勝戦は残念だった/中国の選手たちは相変わらず特殊部隊みたいで、その顔つきだけで「えぇ……」とビビらされるが、それにしても、石川佳純選手なんか、昨日の全身全霊を「今日もやれ」というのはいくらなんでも無茶だと思う、昨日の対合同コリアですべてを出し尽くしていても何もおかしくない話だ。
さきほど、youtubeのほうもちらりと覗いたが、コメント欄に「やっぱり勝てないね」という感じの、冷淡なコメントが書かれている、一体何をどう観戦したらそんな冷淡なコメントで済むのか、僕にとっては不思議なぐらいだが、たぶんそういうコメントを書いている当人は本当にわからないのだろう/「観てるだけで悶絶しそう」ということでないなら、他人の試合を観戦することになんか何の値打ちもない。
僕は、人のこころや、魂や、霊や精神について、一般とは違う知識を得ている、それはむろんスピリチュアル系統のしょーもない幻想とも違う、僕は自分で確かめてきたこの知識に基づいて、もはやその他一切の風潮やムードに耳を傾けることはゼロにしようと決めた/多くの人は、その流されていった先がどれだけつらいかを知らないから、平然と流されてゆけるのだろうな。
人々があっさり流されていくことに、僕は驚いているが、同時に、正しい知識がないと抵抗は不可能なのだな、ということもわかってきた/せめてポカーンとするべきじゃないよ、そして今は、全体的なムードの中に何かを探しても、絶対にそこに正解はない、流されるだけ損だよ。

冷静に考えてみるといい、たとえば三十年前のロック音楽には、うそいつわりなくアツいシーンがあった。
あれから三十年が経ったのだが、たった「三十年」だぞ、二百万年前の話をしているのじゃない、たった三十年で人間そのものが変わると思うかね/現代の女性がプラダを着るようになったからといって、モンペを穿いていた時代と人間そのものが変わると思うか。
三十年前のアフリカゾウと、現代のアフリカゾウが、何か違うと思うかね、生物学の先生に焼酎瓶で殴られてこい/人間の場合、ムードに呑まれやすいというだけだ、現代人の全員を明治時代に連れて行けば明治時代の奴になるのだ、何も変わっていない、われわれが束になって「暗示にかかりやすいw」というだけだ。
よって、人間普遍のこと、人間が生きているということは「アツい」のです、このことから脱落した奴は、何の思想があるわけでもない、単にムードに流されただけだ、ポカーンとしているとそういうふうになるんだよ、申し訳ないがこれはおれが100%正しくて、あっちが100%間違っている。

流されているなあ、流れなんて存在していないのにな。

あとになって、めっっっっちゃアホだったと自覚するハメになったらどうするよ? 「流れ」みたいなものがあって、それに流されていったというのならまだしも、実は「流れ」そのものが存在していなくて、ただの思い込みだったりして……/だったりしてというか、まさにそうだよ、この時代の流れなんてものは存在してねえよ、これはおれが100%正しいのだから抗弁しても無駄だ、だって本当に存在してねーんだもの。
人には愛があって、出会いには愛があって、慈しみには愛があって、その他といえば「誤解に包まれている奴」しかいねえんだよ、僕が話しているときに帰りたがる奴なんて一人もいないもの/本当のことを言っておいてやる、本当は僕がこの時代に噛み合っていないのじゃない、本当は僕一人だけがこの時代に噛み合っているんだ、その他全員が噛み合っていないというのが本当の真相なんだよ、さすがにそこまでは考えが及ばなかったろ。

できるオンナだね | comments(0) |
世界に名乗りを上げること

の世界には、どうも、一般に思われているのとは違う仕組みがある。
戦って生きるために、「世界に名乗りを上げること」をおすすめしたい/中空に手を挙げて「私は○○です」と名乗るのだ、このとき「私は」とつけるのを忘れないように。
誰に向けるというのではなく、世界に向けて名乗りを上げる、「○○」というのは実名でもいいし、何か活動で名乗っている名前でもいい/ただこれは、呼称としての名前ではなく「存在」としての名前だということを、なんとなく知っておくこと。
こんなアヤシイ儀式みたいなこと、やれと強要するものじゃないし、まあまったくやらなくていいが……ただこのことに、「何もない」とは経験的にいえない/そしてこのことを経ずに、われわれはたぶん「戦う」ということがそもそもできないのだ、戦う前に自分の存在が約束されていないから(まあ詳しい仕組みなんか知らんでよろしい)。

世界に名乗りを上げると、ではその○○という存在には、「何が期待されるか」という運びになる。
そこで、なんというか、これは漠然とでいいのだが、「これこれの業(カルマ)を超えます」ということを宣言し、それを期待される身になればいい。
これで初めて、己が「戦う」ということが始まるのだ、この「世界に名乗りを上げること」を経てからの「私」は、ちゃんと「存在」になるのだが、この「世界に名乗りを上げること」を経ずに「私」と言い出すと、なぜか独りよがりの吾我にしかならない。
何もむつかしいことではなく、ソニーならソニー、パナソニックならパナソニックで、世界に名乗りを上げているわな、というだけの話だ、それに倣って世界に名乗りを上げましょうというだけ、ただし「私は」をつけて名乗りを上げるということを忘れないように、これは自己PRではないのだから。

世界に名乗りを上げないかぎり、この世界に「私」は未だ存在していない。

もちろん、そんなことをしなくても生きていけるのだ、この世界は「私」がなくても生きていけるから/生業だけこなしていればわれわれの身は生きていくことができる、単に生きるだけなら粛々と生業だけをしているほうが有利かもしれない。
第一に、「私は」○○です、と世界に名乗りを上げること、次に、その○○には何が期待されるか、ということ、何かの業(カルマ)を超えることが期待されるのだが、これはいくらでも変化していいし、さしあたりは漠然としていてもいい、ただ世界に名乗りを上げないままでは、何をどう頑張ってもそれは戦いにはならない。

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We don't accept defeat10、「徳関係」
とんど蛇足だが、われわれは「徳」と「業」の中を生きているのだ。
下を向くと、われわれを縛っている「業関係」がまざまざと見えてくる。
上を向くと、われわれが行くべき「徳関係」が光にかすんで視える。
業の第一は生命であり、続いて身内、地元、共同体、業者……と連なっていく、業に縛られるわれわれはこの「業関係」が実に見えやすいが、それはけっきょくわれわれの行く先ではないので、これをジロジロ見ていても実は何の足しにもなっていない。

飯屋に行って千円出せば、カツ丼が出てくる、それはそういう業者だからであり、業務であり、生業だからだ、このことは誰だってわかる。
一方、そこで何円出そうが、「精魂込めたカツ丼が出てくる」という場合、これは業から離れている、それは「徳」によって出されてくるカツ丼だ、このカツ丼の味わいは誰にでもわかるというものではない。
われわれは、誰だって一人では生きていないのだが、それは片面として「業の関係で縛られている」ということであり、もう片面としては、「徳の関係で出会っている」ということがありうるということだ、ただどちらの面を見るか、どちらの面が「見えてしまうか」という差だけがある。
われわれは、下を向いたとき、業で縛られた業関係がすべてであるように見え、徳関係で得られる絆などは存在しないかに見え始める/けれどもわれわれがそうして業関係に沈み込んでいくことがもしあったら、それは自己の生の終焉に向かっているということだ、なぜならわれわれは、もともと、業によってこの世に生まれ落ちたのであり、もともとは、その業を償却するために生きようとしたのだから。

逆に、業者、共同体、地元、身内、生命……と償却していくと、本当の「わたし」に到達する。

単純な仕組みだ、業関係の下降路を、逆行すれば徳関係の上昇路になる/飲食業者を超え、食べ物屋を超え、どこの誰でもなくなり、どの家の者でもなくなり、生命の保守を無視してカツ丼を作る、そのとき「この人はあの世でもカツ丼を作っているのでは」という気配が漂ってくる、それが徳性だ、この人のカツ丼を食べるとき人は特別に手を合わせる。
僕が思うに、バーンスタインは音楽業者じゃなかったし、音楽連中でもなかったし、どこ出身の、どの家族の者でもなく、死のそのときまで「バーンスタイン」だったと思う、だから「バーンスタイン」のままあの世に行ったんじゃないか/下を向けば業関係しか見えなくなる、だがどれだけ情念深く強弁してみせたとしても、「この人はあの世でもこれを続けているのでは」と直感される徳関係の出会いと絆への抗弁にはなりえない、われわれは何のために生きるか? われわれはけっきょく業関係によろこぶということが不可能だ。
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We don't accept defeat9、「コキ使」
べての社会通念を取っ払って、本当の利益のために、わかりやすいことも書き話しておきたい。
仕事にせよ遊びにせよ、勉強にせよ部活にせよ、恋あいにせよセックスにせよ、そういう観念は全部捨ててしまうことだ、それを「意識」してしまうということは、人間にとって、むしろそれを失ってしまう(識化)ということだから。
それで、観念を全部捨ててしまうとして、具体的にどうすればいいかというと、「コキ使われる」ことだ、仕事も遊びも、勉強も部活も、恋あいもセックスも、すべて「コキ使われる」を第一義にして統一する/そうして取り組んだとき、初めて本当の利益がありうる。
仮に、僕があなたをナンパしたとして、あなたがそれについてくるにしても、唯一の利益がありうるとしたら、あなたが「今日はこの人にコキ使われよう」という意図で僕についてくる場合のみだ、それ以外のチョメチョメは、どうやったってしょーもないカルマで遊ぶことにしかならない/まあナンパごときでそこまで気合を入れることはないのかもしれないが、どこかで気合を入れないとあなたは格上の美人にはなれないだろう。

僕があなたの、上司だったとして、あるいはナンパ男だったとして、あなたは第一義に、僕に「コキ使われる」ということだけを指針にする。
そして、あなたが僕にコキ使われたとして、あなたに得られるものが何もなかったとしたら、そのときは僕の身分が低かったのだ、身分の低いところにコキ使われても得られるものは何もない/そのときは立場が逆で、僕があなたにコキ使われなくてはならなかったということだ。
現代の社会通念とはまるで逆だが、はっきりと申し上げておきたい、「部下が上司にコキ使われる」とか「女が男にコキ使われる」とかは、身分が正順である場合、確実に双方の利益になる/そして本当の利益を得ようとしたとき、この「コキ使われる」という方法だけが唯一の方法なのだと、この際は断言しておきたい、このことをいくらごまかしていても、けっきょく数十年後にここにたどりつくというだけなのだから婉曲しても時間の無駄だ。
よって、あなたの取るべき正道は単純だ、1.あなたをジロジロ見ない人にコキ使われる、2.あなたから視きれない人にコキ使われる、3.「身」に徳性を感じる人にコキ使われる、この方法を単純に履行すると、「あれ?」という具合に、本当に己の胴体が変化するのだ、これまでになかった徳性と世界が拓けてくる/カネに余裕ある人は、カネを供するのでもいい、図書館で借りた本がいまいち身にならず、本屋に行って買った本のほうが身になるのはこのせいだ、あなたの尽した労働分(コキ使われたぶん)だけ徳性が拓けるようにちゃんとできている、カネを媒介した場合にも作用しているのは「コキ使われたぶん」だ。

身分の高い人にコキ使われれば双方勝利、身分の低い人にコキ使われれば共倒れ。

<<コキ使われるのが第一>>だと、はっきり知っておけ、単に身分を知るだけでは旨味がない、身分が高い人にコキ使われるのは最高のビッグチャンスなのだ、なぜ勝利のほうへ胴体が拓けていくかは、そのことが起こってからでしかわからない(起こってからもなお、「なぜ」というのはけっきょくわからない、本当に不思議だ)。
あなたはコキ使われるために行き、コキ使ってもらったから満足して帰るのだ、この、現代では社会通念上「ありえない」と感じる本当に仕組みにあなたがピタッと嵌ったとき、胴体は思いがけない速度で拓かれていく/きょうび、この社会情勢においては、身分の高い人が「コキ使ってくれる」「受け取ってくれる」ということ自体がとても少ないので、なるべくそのチャンスには自ら食いついていくべきだ、いっそ「コキ使」というタスキを肩から掛けていてもよいぐらいに。
できるオンナだね | comments(0) |
We don't accept defeat8、「しょーもないカルマで遊ぶのをやめよう」
いうわけで、われわれは力強く、われわれの未来は明るい。
<<しょーもないカルマで遊ぶのをやめよう>>、もういいかげん見切ったわ、しょーもないカルマに付き合うことは、本当に時間をドブに捨てることにしかならない。
われわれはけっきょく、1.視きれない何かについていく、2.しょーもないカルマで遊ぶ、という、二つの選択肢しかもっていないのだ、1だけが万人を益し、2は万人を損なうだけにしかならない、「しょーもないカルマで遊ぶ」ということは、実は何のドラマも生成しないということがいやというほどわかった、生成するのは疲労だけだ。
「身分」というものがどうやら本当にあって、この「身分」というものの前提がないと、1.視きれない何かについていく、という選択肢が消えるのだ、だから紆余曲折してけっきょく「しょーもないカルマで遊んでいました」という結果しか残らなくなる、本当にこんな人生はスカじゃないか、わざわざ苦しみを増やした上でスカとか、シャレじゃなく何の利益にもならないぜ。

利益を取りましょう、何もかもを利益にする/ここは厚かましさが大事だ、「何もかもから利益を取る」。
なぜ利益を取らねばならないか? そこに明確な回答、「視きれない何かについていかねばならないから」、この回答まで含めてワンセットだ、すべての利益は何かに「ついていく」ためだと断じていれば、すべては吉相に向かう(本当に)。
「断じてついていく=断じて利益を取る」というのがワンセットだ、ここでエセ演歌の気分になって利益を放棄するようなことは、外道の不徳だと思いたまえ、なぜ外道の不徳かというと、本当に外道の不徳だからだ。
「身分」というものが本当にあって、身分の下の者についていっちゃ本当にダメなのだ、だいたいしょーもないカルマで遊んで声がデカくなっている奴が身分の低い者だよ、代表的には「世間を説いてキレる老人」が身分として最下層だ、エセ敬老からこいつの言い分に耳を傾けてはならない/しょーもないカルマのエグエグ正当性を怒鳴っているなんて万人がどこから見てもアチャーでしかないのだから。

真剣に生きるということは、利益を取るということだ。

しょーもないカルマで遊ぶのをやめよう、それって本当に、そのときはめっちゃ真剣なつもりでいるけれど、後になって「本当に遊んでいただけだった、うわぁ」って後悔するようになるから、ここは本当に見切らなきゃダメなんだ/不安の中でギャーと叫んで、老化する、それが真実だというなら、もう何も勉強する必要はないじゃないか、何も勉強しなければ人は自動的にそういうところに行き着くんだから。
真剣なつもりだったのに、しょーもないカルマで遊んでいただけだったとは……と、晩年になってから気づいたってしょうがねえよ、しょーもないカルマで遊ぶために生まれてきたのじゃなく、しょーもないカルマで遊ぶのをやめるために生まれてきたんだろ、「やらなきゃいけないことがある」というのはそれのことのはずだ/しょーもないカルマのしょーもない演出に引っかかっていたらここ何十年を生きてきた意味がないぜ、その演出を見切るためにこれまで勉強してきたはずだったろ、それを今さら回帰はないな。
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We don't accept defeat7、「どうでもいいショック」
に言うと、人はそもそも、何かを「ジロジロ見る」という必要がない。
人が「視える」とか、何かが「視える」とかいうのは、一瞬で感得できる能力のことであって、ジロジロ情報集めをすることではないからだ。
だって、そりゃそうだろ、ロブ・ロックのシャウトを聴けば、一瞬で「いい声」だとわかるはずだ、その後の声をジロジロ観察しないといい声かどうかわからないなんてことはない。
人は何かをジロジロ見る必要はないし、特に男が女をジロジロ見る必要なんてわずかもないのだ、視えていればそれでいいのであって、ジロジロ見るのは「不安」によって見えるべきが見えなくなっているからにすぎない/「ジロジロ」がすでに危険な状態なのだ。

異性や、身内のこと、あるいは自身のこと、また見栄えや欲に関わることなどは、業(カルマ)が絡むため、「ジロジロ見る」が発生しやすい。
その「ジロジロ見る」は、視えているからジロジロ見ているのではなく、業が盛(さか)っているからジロジロ見てしまうのだ、視力を失った結果のジロジロだと捉えていい/肝心なものが視えておらず「どうでもいいショック」ばかり探しているから「ジロジロ」という目つきになる。
上の者から下の者を見るのは、一瞬で「視える」し、下の者から上の者は、どうしても光にかすんで「視きれない」ものだ、それで下の者が上の者に「ついていく」しかないわけだが/ジロジロ見て見えるものに注目していく・それに肩入れしていくなんて、それは業(カルマ)についていくということにしかならない、ジロジロ見た先についていくなんて、その先にはしょーもないカルマとどうでもいいショックしかないぞ、そんなところに叫喚しにいって何のトクがある?
最大にアホなことに、われわれは、「ジロジロ見る」という目つきの先に「どうでもいいショック」が見えてきたとき、それを自分で「センスがある」とか「わかっている」とかいう自負にするのだ、そしてこの自負を内心の強力な主張にする、こんなアチャーなことをしている人が、逆に声をデカくするから、あちこちで時間を割かれてものすごい迷惑なのだ。

あなたをジロジロ見ない男と出会ったら幸運だ。

「不安」に首根っこを掴まれていたり、アホな自負で「ふふん」「わたしはわかっている人、センスのある人」と思い込んでいたりすると、自分のことをジロジロ見て憑りつかれてくれる人ばかり、自分として好ましく感じられるのだが、それはもうカルト宗教と詐欺に引っかかる一歩手前だ、通常われわれは「ジロジロ見る」という目つきを当然に「不快」と感じなくてはおかしい。
六本木の会員制クラブなどに行ったりすると、セクシードレスを着た、特別な雰囲気のある、いかにも「ジロジロ見たくなる」女性がいるものだが、それをジロジロ見てしまうというのは、うつくしさが見えているのではなくて業に駆られているだけだ/視えなくなっているからジロジロ見ているだけで、必然的に「不安」に首根っこを掴まれているだけ、別に魔性の女でも何でもなくて、どいつもこいつもアホで教育がないというだけだ、「どうでもいいショック」に耽って一定量の不幸をゲットするだけで終わる。
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We don't accept defeat6、「しょーもないカルマ」

便宜上、「ジロジロ見る」と書いたけれども……
実は、この「ジロジロ見る」という時点でもう間違いだ、凶相はもう始まっている。
人は、「不安」に首根っこを掴まれると、自動的に「ジロジロ見る」という機能のものに変化するのだ、不安と不穏を癒したくて、自動的に何かを「探す」という目つきと目の動きが始まる。
アイドル的な顔や、表情、特に笑顔、またその声を、自動的にジロジロ見るようになり、アイドル的な表情に「不安をごまかす癒し」を見つけて、それが脳に燦然と刻まれるのだ、こうして根の深いアイドル愛好やアニメ愛好が起こっている。

<<不安を抱えていると、顔の見え方が変わる>>ということ。
なぜか、人は不安を抱えていると、「人」が見えなくなり、「顔」が見えるようになる、それも異様に精細に、生々しく見えるようになる/だがこれは、物事の見え方に目が啓かれたわけではなく、業と因果によって「そう見えるようになってしまった」ということだ、本当にそこにあるものが見えるようになったわけではなく、自分が執着するものに「引っかかる」という状態になったということ。
カルト宗教にせよ安物アニメにせよ露骨なアイドルにせよ詐欺業者にせよ、そこに見るからに明らかな「作り笑顔」が示されてあるのは、部外者にとっては「だまされっこない」ものなのだが、不安を抱えている者にとってはそうではないのだ、不安を抱えている者にはその露骨な作り笑顔こそが脳に燦然と刻まれるという性質がある。
人は、しょーもないカルマに引っかかり、不安に首根っこを掴まれるのだが、不安に首根っこを掴まれるということは、本来見えているべきことが「見失われる」ということだ、そして本来見えているべきことが見失われるということは、見えなくていい欺瞞や錯覚がありありと見え始めるということだ、そのときは身体を動かせ、ふりほどけ、不安の中で見えてきたものは決して真実ではなく常に魔物だ、不安の中で得られる諦観風味はエセ演歌にすぎない、それを引き受けるがごときで人生が獲得できるというほどこの世は甘くない、どこまでいっても不安に屈したとき待ち受けているのは人生の喪失であって獲得ではない。

強烈な不安は、しょーもないカルマだ。

こんなものに、われわれはやすやす引っかかるのだ、しょーもないカルマに引っかかったとき、われわれは強烈な「不安」のさなか、<<見えるべきが失せて、見えざるべきがありありと見えてくる>>ということを、よく覚えておけ、これは本当に誰も一ミリもトクをしない、あなたはこの一点に抗するためにこの世に生を享けたようなものなのに、ここであっさり屈していたらせっかく生まれてきた甲斐がない(マジでない)。
われわれが、しょーもないカルマに引っかかるのをやめたとき、すべてのノンフィクション的説得力は、「は?」としか感じなくなる、だって本当に「は?」だからだ、カルマには実にそういった説得力があるが、われわれはしょーもないカルマを循環するために生まれてきたわけでは決してない/露骨にひでえことを言っておいてやるが、ヨソの田舎にいくと田舎の人がこちらの顔をやたらジロジロ見てくるのはこのためだ、不安に首根っこを掴まれる=ジロジロ見るという性質なのだ。

できるオンナだね | comments(0) |
We don't accept defeat5/ Look up at " f "

いかげん、上の者は下の者に騙されてはいけない。
下の者は、自覚はなくとも、演出とツケコミの自己陶酔者なのだ、これまであまりにもその実証を見てきたじゃないか。
下の者というのは、行き着くところ、エヴァをそそのかして禁断の果実を食べさせた蛇なのだから、天然で演出に長けているに決まっている、これを真に受けることは、上の者はしてはいけないのだ。
悪意があって、その演出と自己陶酔が生じているのじゃない、それでいえば、エヴァをそそのかした蛇だって悪意があってそうしたわけではたぶんないんだよ、「天然でそうしちゃう」ってことなんだ。

何十年も経てば、やがて誰でも知ることになる、「まーた言っている」というたぐい、これが実は演出と陶酔でしかなかったということに、何十年も経ってから気づかされるのでは損失が大きい。
そいつの本性がどうこうってことじゃないんだよ、大きく見て「人間」というもの、その本性が、本来そんなしょーもないものではないということ、ただ身分によってその演出と陶酔というしょーもないものが天然で出てきてしまうだけだ。
だから、人を人として信じるということは、その演出や陶酔を「見ない」ということ、天然で出てきてしまう蛇の演出を<<情報源から遮断する>>ということだ、そうしたら「実は何でもないじゃないか!!」という正しいことが見えてくる、こんなことに何十年も騙されていたら本当に人生の損だ。
演出と陶酔、誰もトクしない、不安と不穏と、ノンフィクションの闇への敗北……なぜこんなしょーもないことを「してしまう」のだろうと、本人が後になって思い知らされるものだよ、じゃあ上の者が引き受けることは、そのしょーもないことを一切見ない・聴かないということだ、そうしたらそのぶんだけ、後になって全員が「あれで救われた」ということになるから。

上の者に「ついていく」ことができず、ブレーク状態になると、自動的に演出と陶酔が出現する/これを「見ない」ことが救済だ。

みんなそうして生きているのだ、老いも若きもだ、人間は不思議に誰も彼も、思いがけないところで健気に生きている。
まさかのまさか、一切「見ない」ということが、最終的に正しく、最終的に救いになるのだ/情報源を遮断するということは、邪念を断つというようなことだが、自分から生じる邪念より誰かから吹き込まれる邪念のほうが大きい、だがこれを「見ない」ようになることこそ本質的な修行だ、自分が正しいありかたを学び切れていないから邪念が流入しうるのだ(「これを断てるか」というのは、学ぶ機会および装置として、とても有効ですばらしいものだ)。

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We don't accept defeat4/ Look up at " f "
ーむ……今ちょっと、ドタバタしているので、整理できないが、とにかく重要なのは「上を見ろ」ということ。
上が下を注目するのは本当にダメなのだ、何をどうやっても不安と敗北にしか行き着かない。
どれだけ妥当性が感じられたとしても、下に関心を向けてはダメなのだ、下に注目すると、上も下も「共倒れ」で敗北にしか行き着かない。
下は上を見ろ、上も上を見ろ、われわれの見上げる先はけっきょくフィクションだ、下に注目することは「ますますのノンフィクション」という闇に取り込まれることにしかけっきょくならない。

これ、けっきょく、抗して勝利する唯一の方法なんだな。
高い世界が見えている奴(=身分の高い奴)を、見上げる・注目するしか、本当に方法がないんだ。
みんなして、勝つほうに行きませんか? 一番高い「次」が見えている奴に、みんなして注目する、それ以外にけっきょくわれわれが勝利に向かう方法はない。
上を見るということ、そして上は「上」であって、格差があるので、下のものは「合意」はできない(格が違う)ので、ただ「ついていく」ということしかできない/思えば、振り返って断言するが、すべてのまともなことは唯一この方法でしか得られてこなかったよ、下が上を見上げてついていったということ、下のことに注目した途端すべてはめちゃくちゃになって誰もトクしない闇に吸い込まれていく。

ケガ人は健常者を見上げよ/健常者はケガ人にわずかも注目するな。

そのとき、<<この世にケガ人なんてものは存在しなくなる>>、ケガ人がそのケガ人という身分から離れられる唯一の方法がそれだ、ケガというのは異常な状態で、その異常さに食われていくことは何より本人にとっての不幸になるのだから。
下に注目し、ケガ人に注目するということは、ありもしない不幸を不幸だと感じさせることになり、そこに満ちてある幸福を、幸福とは見えなくすることになる/われわれが愚かな関心や注目に引き込まれないかぎり、この世にケガ人なんてものは存在しない
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We don't accept defeat3
にいうと、われわれは安心が要るのだ。
不安に駆られているような奴はどうしても弱いから、弱いということは何もかもに不利にしかならない。
単純な話、<<男が女をジロジロ見ると、不安が生じる>>し、<<女が男をジロジロ見ると、安心が生じる>>のだ。
女が女をジロジロ見ても不安が生じるし、男が男をジロジロ見ても安心が生じるのだ、なんとまあ、不思議でかつ単純なことよ。

たとえば、僕は男で、このブログだって毎日何百人かの人が読んでいるのだが、読んでいる人は女性が多いのかなあ(いやよくわからんな)として、男の話をみんなでジロジロ聴いているのは、なんとなく「安心」の相が出るのだ。
僕は、何を持ち上げているのでもなく、ただ僕がオリャーと書き話しているだけなのだが、これによって「安心」の相が出るのは、僕が女々しいタイプでない「男」だからだ/こういうアホ男を、気のいい女の子がにこにこ見上げて持ち上げていると、ことの是非はともかくとして、「不安」の側へ転じることはないのだ。
うーむ、つまり、これがやはり「身分」なのだ、身分の低い者が高い者をジロジロ見ることは「安心」につながり、逆に身分の低い側がジロジロ見られる側に立つことは、わけのわからない「不安」を生じるのだ/この「不安」は、全体を敗北のほうに引き込むだけなので誰もトクをしない。
うつくしい女たちへ/女がうつくしいというのは本当の本当にすばらしい(極限にすばらしい!)ことだけど、それでもなお、あなたが「ジロジロ見られる側」になるということは、正しいことではないみたいだ、あなた自身に何かをジロジロ見る眼差しがあるべきなんだ、その眼差しが保たれたとき、あなたは自分の女としての像に確信と誇りが持てるだろう。

女は「うつくしい側」だが、実は「見られる側」ではない。

何か、漠然とした不安・不穏・勝利の光が予感されないという状態があるとき、<<見る側と見られる側が入れ違っている>>のだ/たとえば志村けんがグラビアの女の子を脇に置いていても不穏にならないのは、志村けんというスケベおじさんのほうが目を引くからだ、みんな志村けんのほうを見ているので、そこには不安が生じず「安心」が生じる。
うーむ、これは重大な発見だ、われわれは勝利に向かうため、<<見なくていいものを見ないこと>>という鉄の掟を守る必要があるみたいだ、つまり注目してはならないテーマがあるってことだよ。
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We don't accept defeat2

「うつくしくありたいわ、男性にも褒められるようでありたい」
「でも、持ち上げてほしいわけでは決してないわ」
これで解決している。
「ぜいたくをいえば、わたしがいるだけで、一緒にいる男性が持ち上がるほどでありたいの、そのためにわたしはうつくしい女でいたいの」

女性を持ち上げようとする文化は、単に、女性たちの「居場所」をこの世から奪っただけだ。
今この世の中は、つまらないことがたくさん横行しているが、われわれは断じて抗し、活性化して戦うしかない。
現代、無数の女性が、自分を「かわいいでしょ」「うつくしいでしょ」とアピールするのに、撮影した自撮りをウェブ上にアップロードしているのだが、そのこと自体が自動的に世の中を「不安」にするのだ/無数の「女画像」があふれかえっているというのは、それだけで非常にネガティブな状態だ。
もちろん、「持ち上げられたいわけではない」と、そのことがはっきりとわかっている女性は別だ、でも多くは、わけのわからないまま自己顕示しているだけにすぎないと思う/なぜか無条件で「不安」が生じるメカニズムがあって、このメカニズムが正しく知られないかぎりこの状況は抑制されない。

この世界は明るい。

大きく戦うかぎり、この世界は明るい、この明るさと光を知らないと、われわれは戦うすべを見失ってしまう。
女性だって、おそらくほとんどの場合、「この男性を持ち上げたいので、この男性に会いたい」ということが掴めたほうが、自分というものに理と融通が具わるはずだ/自分を持ち上げてもらうためにデートするというのは、表面上の気分はよいが、どうしても引き受けきれない不安が生じるはずだ、そういう不安や不快にはむしろ女性のほうが鋭敏なことが多い。

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