☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
テキパキはカッコいい美徳
まりむつかしい方法論を持ってもしょうがないので……
「テキパキする」という美徳がある、この美徳に文句をつける人は人類史上いなかった。
毎日、どうせすることがないので、とりあえずテキパキするのだ、とはいえテキパキするのがダルい気はすることはある。
そのときは、「テキパキしてないなら、とりあえずカッコよくはないわな」ということを思い出す、思い出して認める、そして自分がカッコよくないということは土足で踏まれた肉まんのレベルで致命傷なので「それはさすがにマズいな」と思いとどまることができる。

人は、自分がカッコよくないとき、自分に失望するのだ、こうなるともう動けなくなる。
そして不思議なことに、そうして失望して動けなくなっているとき、自分が何に失望しているかはわからないのだ、「自分のカッコ悪さに失望しているのかああああ」ということに、なぜか気づけない、この仕組みはまったく意地悪なものである。
「自分はテキパキやらせてもらいます」「きみ、やけにテキパキにこだわるね、なぜ?」「いや、自分のポリシーなんで」と、これだけで十分カッコいい、このとき初めて自分のやるべきことが見えてくる。
テキパキするということは、「意志決定と初動がメチャ早い」ということだが、それでもカッコよさが足りない場合は、テテキキパパキキ、というぐらいにレベルアップすればいい、それで「なんつー処理速度だ」と瞠目させるほどならそれはもう強制的にカッコいいのだ。

意志が弱いのじゃなく、動体視力が弱いのである。

この世界の具体的事象は、すべて時間軸上に流れて存在しているので、動体視力が弱いとそれが「見えない」「取りこぼす」のである、それで人から見るとモタモタして無能に見える。
不思議なことだが、達成度80%の掃除を、30分でやるのと、二日にわけて四時間でやるのとでは、30分でやったほうが部屋の清潔感は上がるのだ、それは動体視力が高いぶん、部屋に流れているものまでよく見えて掃除してしまえるからだ/だからテキパキやることは、カッコいい上に実効も余分に得られて一石二鳥なのだった。
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明らかにすると明るくなる
だっていろんなこと思うが、「思う」というのは、あまり意味がない。
「思う」ということより、「明らかにする」というのがいい、そして「明らかにする」ということは、人を明るくする。
たとえば、「誰かと愛し合った経験があまりないわたしは根本的にダサ〜い」ということを、明らかにする、明らかにしてしまえば、人は明るくなる。
「ダサいとか言われて、それを認めたりしたら、むしろ暗くなるじゃない」という気がするが、それはちゃんと「明らか」にしていないからだ、明らかにしてしまえば明るくなる(まあ少々の心理的負担を経るわけではあるがね……)。

だってほら、「女にモテたい! しかしモテない! そんなこんなで十余年〜」と言っているヤツは明るいじゃないか。
異性にモテないとか頭があんまりよくないとかは、別に隠しても明らかにしても同じなのだから、明らかにしてしまえばいい、隠して暗くなるほうがよほど損だ。
村人じゃあるまいし(と唐突に日本のムラ社会をdisる)、いろんなことを明らかにして、それで友人にヘンな顔をされるとしたら、それは友人じゃないんだよ、そんなんは友人のやりなおしでっせ。
人に、悩み事を打ち明けるとかいうことは、基本的にキモチワルイことなので、そういうキモチワルイことはせずに、陰部を打ち明けるようなヘンタイ行為はやめて、まず自ら「明らかにする」ということを済ませてから、人に話そうね。

「まあ、デキの悪い奴なんでな」と、まず自分の基本を明らかにする。

そうしたら人は明るくなる……えっ、そりゃまさか、自分が性根からデキのいい奴だなんて思い込んでいるエクストリームバカはいないよな、そんな奴は紀元前二百万年に滅んだと聞いているので大丈夫なはずだ。
人は、明らかになったことには、感情的にならずに済むのだ、そして感情的にならずに済むということは、人が一日中明るくいられるということなのであった。
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数十年のうちにうつくしくなる人

十年生きていくうち、「うつくしくなる人」はごく少ない。
なぜかというと、数十年のうち、「積み重ねる」ことがないからだ、ほとんどの場合はただの「繰り返し」になってしまう。
あなたが部屋で、一日一万回、「こんにちは」と発声を繰り返したとしよう、するとそれは驚くことに、あなたに何一つもたらさない/それはただの繰り返しであって、積み重ねではないからだ。
「繰り返す」ということは、次第に無意識のパターン化するのでラクだが、「積み重ねる」というのはそんなにラクじゃない、毎回新しい一回を積まないといけないから、積み重ねというのは誰だってフラフラになるまでやるものだ。

絶対に覚えておいて損は無い、「積み重ねる」人は数十年のうちにうつくしくなり、「繰り返す」人は数十年のうちに醜くなる、これは残酷だがどうしようもない事実だ。
しかも、繰り返しはパターン化して「ラク」なため、本人は知らないうちに「繰り返し」で弱くなっているものだ、パターン化した繰り返しに慣れてしまった人は、もう新しい一回を刻む余力を残していないということがよくある。
たとえばエイ・サ、エイ・サと、「リズム」をつくって、毎日木刀を振り続けてみよう、そうすることであなたはむしろ「醜く」なり、しかも「弱く」なっていくのだ、継続は力なりということはとんでもないウソになる。
「積み重ねる」ということは、毎回新しく行い、一回ごと慎重に行い、その中でどこからともなく「識」が深くなっていくということを指している/逆に記憶したものをなぞりつづけるのが「繰り返し」ということに当たるが、これは百万年後も記憶したままのそれで「変わっていない」ので、一日目も百万年後も同じだ、固いクセがつくだけだ。

繰り返しは楽しい、積み重ねはゾッとする。

たとえば「一日一万歩あるく」と決めて、毎日そうするようにしていたら、それは次第に楽しい日課になっていくだろう、けれどもそうして歩き続けた老人の、歩き方がうつくしくなるわけではない/老人は誰だってわれわれの倍以上を歩いてらっしゃるはずだが、歩き方のうつくしい老人なんてまずいない。
じゃあ「積み重ね」とは何かといって……それはあなたの想像したとおりの、考えうる限りサイアクの、ゾッとするような労力を注ぎ込んだそれのことだ、一日一万歩あるくのじゃなく、一日一万回追究するということだ、一万回足を出すんだから。

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「識」周辺、コドモがオトナになっていくとき
だって、自分の「思い」を捉えることはできる。
自分の「思い」を、高めることだってできるし、ヒートアップさせることだってできる。
この、誰でもできることを、エサにして食いつかされたあなたの負けだ。
誰でも自分の「思い」を捉えることはできる、しかし、人と人とのあいだに潜んでいる「識」を捉えることは誰にでもはできない、オトナにならないとできないことだ。

誰だって、物事を理解することはでき、記憶することはできる、記憶したそれをなぞることもできるが、それらは人間(ジンカン)において何らも為さない。
この、誰にでもできることをなぞらされて、うまくいった気にさせられたあなたの負けだ。
理解とは違う、また記憶とも違う、なぞることとも当然違う、人と人とのあいだに潜んでいる「識」、これはオトナでないと捉えられない。
コドモからオトナになれた人は、必ずどこかで、自分には見えないレベルの「識」から意志を得る人に、「完全に従った」という時間を持っている、そうしてコドモは「識」なるものが存在することを従う経験の中で直覚して、オトナになっていった。

おれの意志があなたの意志だろ、おれの意志はおれの意志じゃないんだから。

両足でまっすぐ立つときのことを考えればわかる、「両足でまっすぐ立つ」ならば、その重心は「足と足のあいだ」に来るはずだ、それがオマエ、左足が左足の重心を取ろうとして、右足が右足の重心を取ろうとしていたら、永遠にまっすぐは立てないだろうよ、その立ち方の妙を知っている人をオトナというんだ。
僕は非常に現実的で、ノー・トラブル主義だから、無謀にロマンチックなことを言いません、ただおれの意志があなたの意志だろという、現実的な線だけを言う、まともなことが成り立つために/ちなみにジンカンの識に基づかない単独自分だけの意志を「我意」という、この我意があなたをジンカン意志のないコドモにしている。
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自己実現と人間実現

来、人と人の「あいだ」にあるものを、その字義のとおり「人間」と呼ぶ、これはもともとジンカンとも読まれた熟語だ。
そして、人間の意志とは、人の意志ではなく人間(ジンカン)の意志なのだから、Aさんの意志とかBさんの意志とか個別の意志のことを本来は指さない。
人間の世界には「識」という現象・能力があって、それはジンカンなのでつまり図式化すると[A−(識)−B]ということ、あくまで「ジンカン」に「識」が捉えられている。
この「識」にもとづいて、「行い」が為されていくのだけれど……僕はこのことをまだ覚えてはおり、このことを、なおも続けていこうとするかどうかは迷っている、あまりに時勢に適わないから。

人のあいだに「識」があり、その「識」から「意志」が発生する、その意志によって「行い」が為されていく、つまり「おれが」「わたしが」というのは全部ウソでアホだ。
現代は、個人主義の「自己実現」という妄想に囚われた時代だが、個人主義の自己実現にハアハアするということは、単に本来の「ジンカン実現」を死滅させる結果しか生み出さなかった。
あなたは、人と人とのあいだにある「識」を、直接捉えられるだろうか? それが捉えられないなら、捉えられる人に従うべきだったのに……といっても、それを捉えられる人が枯渇してしまってはもう話にならないので、ある意味しょうがないのだ。
たとえば[僕−(識)−ニュートン]というジンカンがあったとして、ニュートンは運動方程式f=maという「識」を捉えることができた、僕にはそんなこと捉えるのはムリなのでニュートンに従った、それでジンカン関係、ジンカン実現、ただそれだけのことなのだ、これがわからなければ自力で運動方程式を発見するしかないが、そんなこと本当にやっていけるつもりかね。

人間(ジンカン)の意志はサイコーだが、あなたの意志なんてゴミだ。

だって僕自身、僕の意志(と見えるようなもの)は、僕の中から引っ張り出しているものじゃないもの、人と人とのあいだから捉えているのだから/僕だって僕の「マイ意志」みたいなものを持ち出したらそれはゴミだ。
あなたは人間の世界の、人と人とのあいだにある深い深いところの「識」を、捉えられるか? 捉えられないならあなたはコドモだ、賢い人は誰だってこっそり、自分では及ばない「識」を捉えられる人に従うことをしているものだよ、それに従いきれる人だけがこれまで見えなかった深い「識」を獲得していくんだ。

できるオンナだね | comments(0) |
おれの意志がお前の意志だろ
間関係というものがある。
で、テキトーに申し上げると、一般に思われている「人間関係」より、もっと痛快で奥行きのある、これ以上ない、それでいてとても自然な、「人間関係」の粋というのもあるのだ。
たぶん、時代とともに消え失せてゆき、忘れ去られてしまったものがこれだが、それはどういう関係かというと、「おれの意志がお前の意志だろ」ということ。
僕は人に、命令するのがきらいだ、それはいちいち命令を出さなくてはならないということは、人間関係が成り立っていないということだからだ。

「おれの意志がお前の意志だろ」「そりゃそうですね」という状態。
これが実際にある、もちろんいちいちそうやって確認するわけではないが、ごく当たり前にそういう状態になっていることがある。
今の時代はほとんどないけれども。
あなたに意志があるということは、あなた独自で切り取って意志があるということではなく、僕の意志があるからあなたの意志があるということ、「僕の意志があなたの意志だからあなたに意志がある」のだ、短く最適化して説明するとそのようにしか言えない。

一心同体というのは、意志がひとつでよいということ。

二つの意志が「合意」してたら、それはいちいち「合意」を確認しながら進んでいるのであって、国交会談みたいだろ……めんどくさいだろ……それは誰かのことを信じていないからいちいち利益や不利益を検討しているのであって、その合理性が人をむなしさに疲れさせていくのだった。
僕の意志があなたの意志でないなら、その後は何をどう工夫しても基本的にムダだ、お互いに疲れたくはないし疲れさせたくもないだろ。
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「感受性」の本質はどこへ行くか
学志望のくせに、「感受性」を放棄してきたとは、この十年間、なんたる無謀であろうか。
われながら、よくそんな無知ができたなと今さら驚くが、やってしまったものはしょうがない、どうせそういうことはよくあるのだ。
僕の書く、むかしの文章のほうが好きだったという人もいるだろうが、それは狙い所が「感受性」にあったかどうか、という差に尽きる。
僕はあろうことか、ゆったりとした感受性で世界が拓けるということを、否定してかかっているのだ、こんな文学志望はふつうあったもんじゃないな。

だからこそ、非感受性の文学の動きを起こしたい、というのもある。
そんなことは、他の立派なヤツがやればいいと思うが、まあ僕も他にすることがないので、僕が目指してもかまわないだろう。
僕は、ゆったりとした感受性で、ゆったりするということが、苦手なのだ、あろうことか僕が苦手なのだ、僕は追い詰められる中で光を見つけることを愛している。
まあしかし、いくらなんでも「感受性はゼロで」というわけにはいかないよなあ、と今さら反省しているのだった、どうも僕だけのわがままな世界を生きてきてしまった。

「感受性」の本質は、停止にある。

「感受性」の本質は、それに浸るということだから、人はその中で動かなくなる、満足の中で動かなくなるというのが僕は苦手だ、求め続けて動き続けろというのが、まったく文学がわかっていない僕の希望だ。
「感受性」の果てが、どこに行くか、ふつうはあまり知らないし、考えもしないだろ? 僕は警告したい、「感受性」の果てはとても危険なところに行くのだ、それよりは「識りて行え」と僕は勧めておきたい、このことがずっと先にはあなたを安全にするから。
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感受性にはまったくの裏側がある
は受け身になれない人間だ。
そんなことに、今さら気づいた。
受け身になれないから、趣味とか娯楽とかがないのだ。
そして、いつまで経っても、他人の趣味とか娯楽に対しても、共感がヘタなのだ。

まあそういうヤツもいるんだなと、誰かが知ってくれたらうれしい。
世の中には、自発的になれない人もいれば、受け身になれない人もいるのだ。
能動的、ということがさっぱりわからない人がいるように、僕はずっと、受動的ということが、さっぱりわからないまま生きている。
そういうヤツもいるのだ、特徴か欠陥か、長所かは知らない。

僕の文章は、能動的なヤツが読むと、別の読み取りが起こるようにできている。

今、この記事は別だ、この記事は、ただ眺めて受け取りやすいように書かれている(これはこれで、悪くはないのだ)。
文章を読むことや、生きることそのものも、「感受性」がすべてじゃないということを、僕は勧めておきたい。
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「認識」という能力の手がかり

んなきれいな人も、どんなかわいい女の子も、若くても年増でも、人間ではなくなっていってしまう。
これな、僕は本当は、こんな話がしたいのじゃない、僕にとっては「認識」の能力があるのは当たり前であって、僕は本当はそれより上位の接続の話をしたいのだ。
でも今このときは、しょうがないのでこのことを話している、こんなことは本来、もっと別のまともな奴が話せばいいことだ(が、そんなことを言っていてもしょうがない)。
僕はここしばらくで、たくさんのことを「目撃」し、ショックだったのだ、「どんなきれいな人も、どんなかわいい女の子もダメなんだ、どうしたって『これ』になってしまうんだ」ということをいやおうなく知ってしまった、知ってしまった以上は全面的に抵抗するしかない。

「認識」の能力がなければ、人は必ず滅んでしまう、どれだけかわいく見える女の子でも、どんなに無垢そのものに見える少女でも同じだ、この現象はまったく容赦がない。
体内で秘密の変化が起こっているのだ、だからどの女の子も、写真に撮ればかわいいが、目の前におくと目の色がおかしい、目の色に人間の「認識」能力が光っておらず、目の焦点が合っていない。
免疫系の第一と第二が入れ替わってしまうと、不可避的にアトピー炎症が生じるように、「認識」と「メラウルワー」の地位が逆転してしまうと、不可避的に獣化・グール化が生じる、これはもし脳科学的に測定が可能ならデータ的にも確認できると思う。
つまり、これはウイルスではなく「通信」によって人から人に伝染した、一種の「疫病」なのだ、まだ人類は通信から疫病が発生することを知らない、たぶんずっと未来には医学書に載るだろう。

静かで確実な能力。

メラウルワーは、必ず騒がしく、抗メラウルワー抑圧発作は、必ず不穏だ、人間の正しき「認識」の能力だけが、静かで確実だ、この「静かで確実な能力」という特徴は手がかりになる。
あなたは何をしたらいい? 何を求めるか? そのことについて考えたとき、あなたは体内を騒がしくして(「血が騒ぐ」という方法をもって)そのことを考えがちだ、だが違う、人間の「静かで確実な能力」、「認識」という能力によって考えるのだ、そこに確実なものが生じてきたとき、その方法はあなたの永遠の手がかりになる。

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不思議な力を強くする人
の世界には不思議なことがいくらでもある。
人間が生きているということだけでも、それがまざまざ見えてしまったら「不思議」でたまらないものだ。
だがその字義のとおり、適切なことは、不思議なことを「思議」しないこと、不思議を思議しようとすると当然行方不明になる。
不思議なことを思議したがるのは、男性が女性専用車両に乗り込むことと同じだ、やるべきことがズレていて、近所迷惑でうっとうしいものだ。

僕が繰り返し言うところ、「占い師の誰一人も、震災を予言してくれない」ということ、このことは永遠に変わらない。
震災に遭って亡くなられた人の中には、「今日はラッキーデー」と占いに予告された人もいるだろう、占いなんてそんなものだ、それは当たり前のことで、そこに思議すべきものは見当たらない。
不思議なことを思議しないということは、理外のことを理にしないということだ、その理外と理とを区別して知る能力のことを「理知」という。
あなたが懸命に生きるとき、何かの運があなたを支えてくれるかもしれないが、それを思議しないこと、それを思議するとあなたは懸命に生きるという単純なことができなくなってしまう。

不思議な力を強くしたけりゃ、思議の力だけ正しく持て。

「不思議な力」とやらにあこがれて、それに興味を持つのは、人類から生じる代表的なアホのひとつだと言える、それは身の回りからも歴史からも証明可能な事実だ。
あなたは飛行機のスケジュールが遅れただけでも乗客としてブーイングするだろうに、自分のことだけ不思議ちゃんぶっていたら、正真正銘の役立たずになり、果ては典型的な「クズ」になってしまう、正しい思議を持たないならすべての方面があなたに味方してくれないだろう。
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すべてのことに失敗しろ

「分かる」というのは危険な状態だ。
「正しい」というのも危険な状態だ。
「分かる」というのは分離であり、「正しい」というのは概念だ。
自分の存在が消え去ったときこそ、人は「分かる」と「正しい」で埋め尽くされてしまう。

人は「分かる」ことで閉じ込められる。
「正しい」からこそ時間を無駄にさせられる。
確認可能なすべてのことはあなたの妨げにしかならないだろう。
すべてのことに失敗しろ、成功するという概念を捨てたら、何を「分かる」必要もなく、また何も「正しい」必要はないということが見つかってくる。

合意できるということは、始まっていないということだ。

誰だって頭の中で会議をする、その中で「少なくともこれは正しいだろう」と合意が交わされる、この合意が取り沙汰されているうちは、人は何にも取り組んでいない。
正しいすべてのことが見つかったら、それを採用しないと決意しろ、正しいことを採用すると正しいマンになるが、この正しいマンが何かに間に合った試しはない。

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生脳が発達する仕組み
ンターネットは、ブログ、SNS、Wiki、動画サイト、とコンテンツを充実させて発達してきた。
何の要求もされずに電脳が自己発達するわけではないので、あくまで要求されてきて電脳は発達してきた。
これは生脳も同じで、生脳もあくまでコンテンツの実現を要求されることで発達していく。
インターネットは、ブログ、SNS、Wiki、動画サイト、というコンテンツで発達していったが、あなたの生脳は、(  )、(  )、(  )、(  )というコンテンツで発達していった、この空欄をあなたは自分で埋めなくてはいけない(空欄に電脳コンテンツが入ってはいけない)。

二十年前は、当たり前だが、まだブログはなかったし、十年前は、まだSNSはなかった、あったとしても実用化されていなかった。
もしこの電脳に、二十年間何も要求せずに放置していたら、電脳は昔のまま、個人の「ホームページ」にアクセスするだけのものだったろう。
二十年前の電脳と比較すると、革命の繰り返しを経て、まさに「隔世の感」があるわけだが、あなたの生脳も革命を繰り返し、二十年前とは「隔世の感」がなければならない/「昔と比べて、なんという充実ぶりだ」と言わしめなくてはならない。
たとえば僕の生脳は、この二十年間で、(仕事)、(恋あい)、(文学)、(場所)、(パーティ)、(身体操作)、(流れ系感覚)、(宗教)、(声)、というコンテンツで発達していった、体内の各サーバーはかつてとは桁違いに補強されている、発達というのはそういうあからさまなものだ。

楽しむな、要求しろ。

人類が厚かましくインターネットに「要求」を繰り返してきたことで、電脳は発達を遂げたのだから、あなたの生脳も同じだ、厚かましく「要求」を繰り返すことで、生脳も発達を遂げていく。
「要求」をせず、「楽しむ」ということばかりに傾倒しても、何ら罪にはならないが、その代わりあなたは一切の「自信」を失っていくことになる、それはそれで結構しんどいことだ。
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自己体内の通信量
「自信」というのは、究極、「通信量」だと見ていい。
「信」というのは「通信」「信号」の意味なので、「自信」というのは、自己体内を駆け巡っている連絡、「自己体内の通信量」をいうのだ。
この通信量は、外部ともつながっているので、極端に単純化していえば、「自己体内の通信量がgoogleの通信量を上回らないといけない」ということになる。
これによってつまり、googleやyoutubeにつながって生きている人間はアホで、自信という状態を失っていくと言える、「自信」を養っていく機会を根こそぎ奪われるのだ。

よって、自己体内を「鎖国する」というと言い過ぎだが、あるていど関税をもうけるしかない、googleからの通信流入を制限する、あるいは接触はしてもそれを体内に輸入しないということが有効だ。
すべての輸入を自由化したら、国内の産業が壊滅するという国家の仕組みと変わらない、そこは適切な防壁が要るのだ。
各国が貿易を自由化するのは、あくまで勝利するためであり、勝利の見込みがないのに自由化したらアホだ、国内の産業が他国とせめぎあって勝てるよう、国内の充実を進めるのが先だ。
むつかしい話はさておき、「自己体内の通信量」はいかほどか? その実感がスカスカなら、それは単純にヤバいといえる、googleを介して数千億の「いいね」が飛び交っているなら、自己体内には数千兆の「いいね」が飛び交っていないといけない。

電脳に生脳が負けている。

あなたの目の前には「電脳」の通信があるわけだが、それ以前に、あなたの体内には「生脳」の通信があるはずだ、これを確実に峻別すること、あなたの自己体内ネットワークが「過疎」なら、それはあなた自身がクソプロバイダーだと言わざるをえない、インターネットには何の罪もない。
電脳で「恋愛」と検索すると、何かしらのウェブサイトにアクセスが起こるが、生脳で「恋あい」と検索したとき、どこかしらの内臓にアクセスが起こらないといけない/「自己体内の通信量」はいかほどか、今あなたのネットがアツいかどうかを僕は訊いている。
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焦ったら走れ
ったら走れ。
不安や焦りは、人にマイナスしかもたらさない。
走れって、運動しろってことじゃないよ。
あなたは不安と焦りを覚えたとき、必ず<<走るのをやめたくてゴールしたがる>>から、それがいけない、焦ったらゴールを遙か遠くにしろ、予定の十倍走ることに切り替えたとき、人はようやく不安と焦りから離れる。

あなたが森に1km入り込んで、迷子になったとする、そうしたらあなたは、不安になって慌てて元きた道を引き返そうとするだろう、そしてますます遭難する。
あなたが森に100km入り込んで、迷子になったとする、そうしたらあなたは、今さら焦るか? どれだけ焦ったところで、すぐには森から出られないのは明らかなのだから、「合理的に考えて脱出しよう」と冷静に考えるに決まっている。
不安があり、焦りが起こったら、「粗熱(あらねつ)を取る」ということを思い出そう、「考えるにしても、今から45分間はジッとしていること、45分間は考えるの禁止」と定める、そうしたら45分のうちに粗熱は取れ、焦ろうとしてもその焦りはだいぶ遠のいている。
たとえばボクシングの試合で考えてみて、両者リングに入場、にらみ合って、「あとはゴングを待つだけです!」といって、そのままポケーッと一時間半も座ったまま待たされたらどうなる、どうあがいても冷静になってしまうじゃないか、ただそれだけのことで人は理性的な自分を恢復できる。

一日に、二十四時間働いたら間に合わないが、四十八時間働いたら間に合う。

「あと二時間しかないじゃん」と思うと、「二時間で間に合うかな」と焦る、ここで「この二時間のうちで、四時間働こう」と考えると、なぜか冷静になって間に合う、二時間だと足りないが四時間なら余裕があるからだ。
「あと二時間しかないじゃん」と思うと、あなたは焦り、「二時間でゴールしなきゃ」と、いつのまにか「ゴールしたがる」ことに切り替わっているから、それがよくないのだ/焦りから生じるゴール衝動に引き込まれず、走り続けるマニアに逆行すればあなたは間に合う。
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イグアナ女とバレリーナ

なたはお金をもらうとバリバリ動く。
実は、[識]を得ても、あなたはバリバリ動くことができる。
なんで? という話じゃない、あなたは自動販売機じゃない、あなたはお金だけで動く物体ではない。
[識]、つまり、「自分が何を行うのか識っている」という状態が得られれば、あなたはバリバリ動く、それがないとあなたはイグアナのようにろくすっぽ動かない。

あなたはイグアナ女になるよりはバレリーナのようでありたいはずだ。
あなたが急に舞台の上に立たされても「えっ? えっ?」と動けなくなるのは、バレリーナのようにはその舞台上で何を行えばいいのか「識って」はいないからだ。
単純な話、あなたが男性にあいさつするとか、自己紹介するとかでも、あなたがその行いを「識って」いたら、あなたはバレリーナのようにいきいきとそれができる。
「あいさつをちゃんとしよう」というような、「念」は誰だって持っているのだが、念は識ではないので動けない、それで念に満ちたイグアナ女のようになってしまうという、これはわかりやすい話なのだった。

あなたが動けるのは、「識」の範囲内だけ。

だから「識」を広げ、明確化し、自分がバリバリ動けるようになろうね(そのためには識が不可欠だもんね)、ということなのだった。
誰だって、「分かる」のは簡単、「記憶する」のも簡単だ、でも根こそぎ「識る」のはそんなに簡単じゃない、めちゃくそ勉強した奴しか「識る」ことはないわけだが、さっさと「識」にたどり着けよバレリーナ。

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「行い」をあきらかにせよ

うかこの与太話が、表面をすり抜けて、あなたに突然の直覚を与えますように、なぜならこれは本当のことであるから。
あるいは、長らく忘れていたこのことがあなたに急に思い出されますように、もしくは、このことを常に確かめたいあなたが、今日もまたそのことをはっきりと確かめられますように。
われわれには、ただする[行う]、ということをもって、すべての肯定と、すべての解決を得る能力が具わっている。
なぜなら、われわれは、自ら何を「行う」かを「識る」ことができ、その「行う」をもって、自己の存在(イグジスタンス)とすることができるから。

これは認知とか充足感とか、そんな甘ったれたものじゃない。
あなたの知らない、清浄で無辺の、痛快できりがない、よろこばしい燃えさかりがある。
僕はそれを、ずっと識ったままでいる、けれども時は流れ、僕の言葉は通じなくなった、工夫を重ねているが、その工夫は困難だ。
目の前の人間を、遺伝子物体として見ることは果てしなくむなしく、また突き詰めるところおぞましいものだ、僕が何をしているか[行っているか]が見えない限り、あなたは僕に向けて不気味に微笑み続けるしかないだろう/だがそれは違う、間違っている。

僕は東京にいます、いま目黒です。

[識る]というただそれだけのことをもって、そこから僕がどう[行う]べきなのかはすでにあきらかだ、百万の語彙が百万の道筋をひとつとなって矛盾なく示すだろう、こんなわかりやすいものをどうして使わない?
あなたの、なるべく若き日に、清浄に燃えさかる一つの時代を、ただそれを行ったのだという、動機に蝕まれることのなかった光の時代を、どうかあなたが無自覚のうちにも得ますように。

できるオンナだね | comments(0) |
人間は「識る」ことができる
体の構造が見え始めてきた、あるいはもうはっきりと見えた。
全体の構造が見え始めてきて、逆に、それがいかに難業かが見えて、途方に暮れているところだ。
信じてついてきてもらうしかない。
仏教が唱えるところの六道輪廻説はびっくりするぐらい正しい、これはもう途方に暮れてしまう、単純な自己啓発のセオリーとして正鵠を射すぎている。

「無意味だけど行う」というのが人間だ。
「無意味だからしない」というのでは老いてしまう。
「有意義だからする」というのもハズレだが、これはまだマシなハズレだ。
「飢えているからする」はマズい状態で、「メラメラくるからする」も同様にマズい状態だ、そして「もう蝕まれているからやらざるをえない」というのは最悪の状態だ、六道輪廻説(および十二因縁説)はこんな身近にありふれたことを解き明かしている。

識(し)れ。

人間は「識(し)る」ことができる、識るからこそ行うことができ、また人が何を行っているかも識ることができる。
識ることができたら、行うということは勝手に見えてくる、これは人間の不思議な能力であり、人間特有の「可能性」だ。
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身口意(しん・く・い)

「人が人間とは限らん」と、仏教は面白いことを言う。
仏教の輪廻によれば、目の前の人は、1.人間かもしれないし、2.天人かもしれないし、3.修羅かもしれないし、あるいは4.餓鬼か、5.畜生か、6.地獄の者かもしれないというのだ(六道輪廻)。
輪廻と因縁において、人間は「行為」をするものだが、それだって「あくまで人間道の存在ならね」と仏教はクギを刺している(人間道以外の因縁に「行」はないのだ)。
人間のする、「行為」とは何かというと、仏教では身・口・意にそれを分類するらしい、身をもってそれを為すこと、口をもって述べること、自発的な意志においてそれをすること、のようだ。

確かに言われてみると、身がトロい人、口がトロい人、意志がトロい人は実際にいる。
一般的に、これは「やる気がない」とか「怠慢」とかいうように捉えられているのだが、仏教的にはそうではないらしい、「彼の身口意(しんくい)がトロいのは、餓鬼か畜生か、あるいは地獄道の者だからでっせ」と考える、これはこれでいっそうえげつない気もするが……
人は誰でも、自分はいざというときには、闖入してきたテロリストどもを排除できるほど大活躍できると思い込んでいるが、案外そうでもないのだ、実生活のレベルで、身口意がトロいということはとことんその人の足を引っ張る。
人間は「行為」をするものらしいから、身が達者、口が達者、意が達者、という実践を日々続けているのが健全だろう、じっさい身口意が達者な者に誰も文句はつけない。

酒場でも職場でもベッドでも、身口意。

確かによくよく考えれば、ありとあらゆるところで、人はその身口意で何かをしているに違いない、身口意が際やかであればそれだけでいいわけだし、身口意がトロいというのは、まずいという以上に「危険」だ。
せっかく人間に生まれているのに、人間道から外れるということが、案外フツーにあるわけだ、そうしたらもう身口意は不全して動かなくなる、それは危険な状態だから修正するしかない。

できるオンナだね | comments(0) |
あなたがここに「可能性」を見つけること
口にはならない。
偉大なバカになるのはむつかしいので、バカになろうという試みもしない。
だが利口にはならない、僕は小利口を拒絶している。
僕が利口になることでこの世を益することはまったくない。

投げつけられる石と花束を区別しない、そんな区別などしているようなヒマはどこにもない。
軽蔑されても尊敬されても、そんなものを聞き遂げているヒマはない、まったく別のものに追いつかないといけない。
すべての人が、僕の年上ならいいのにな、そうしたら僕はあれこれむつかしいことを考える義務を負わずに済むのに。
たくさん軽蔑されてきた、僕はそのことはまったく平気だ、僕が困り果てて舌打ちしたくなるのは、あなたがあなた自身を軽蔑しているときだ、あなたはそれでは飛翔できまい。

僕をバカにしろ、そうしたら僕に同調せず済む。

僕のようなわけのわからんやつに、同調できるわけがないのだから、バカにしろ、バカにしたってあるていどの滋養分は輸出されているのだから。
自分に疑問を持つな、僕に疑問を持て、「こんな人間のクズは生まれて初めて見た」と感じられるとき、あなたは僕から何かを正しく読み取れているだろう、それは大きな「可能性」だ。
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不受症のすすめ
感症はいただけないが、不受症はいい。
不受症などという言葉は存在せず、造語だ。
刺激を受けるとか影響を受けるとか、受け身とか受動的とか、そういったことのすべて放棄して「求めろ」。
「受」になんか何の意味があるんだ、不感症はいただけないが不受症というのはいかなるときも不可欠なものだ。

不受症において、自ら「求める」、そのとき世界が本当の姿を現す。
世界が本当の姿を現すというのは、アホみたいな言い方だが、本当にそうなのでしょうがない、カッコいい言い方は存在しない。
「受」といったって、今や見失っている人の濃厚なメッセージしか存在しないのだから(というのは言い過ぎか)、そんなもん受け取っていたってしょうがない、受マニアで時間をつぶしてごまかしを続けるのはいいかげんにしろ。
昨今、弱者権力が声高に言われる風潮なので、弱者は堂々と他者に「きみも破綻してよ」と同等性を要求してくる、そんなところで仲良ししているのは正気の沙汰ではないので、さっさと諦めて不受症を獲得すること。

不受症とは、「求めれば、世界があって、孤独があって、そこにはグッドジョブしかない」ということ。

なんのこっちゃ、わからん人にはわからんと思うが、体験のある人にはわかる、「まったくそのとおりだね」ということが、秋の夜長の直下でわかる。
このご時世、時間をかけて、空気を作って、甘く弱く涙ぐましく、人を腐敗させていくね/敬えば救われることはあったとしても、頼って救われることなんて人の世にないよ。
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