☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「肉そのものが速い」
果的にいうと、肉から情念を抜くと(にくぬき派)、肉は「ごっつ速くなる」のだ、極めると何かもうテレポートしているみたいに動くようになる(フィクションの早さ、つまり挙動の機序から違う)。
きっとこの現象自体を、にくしみ派(肉染み派)の人はまったくご存じないのじゃないか、「自分が生きるということは肉に情念を染ませることだ」と、頭から信じ切っているのかもしれない。
にくしみ派の人は、たとえばジェームスブラウンがえけづないシャウトボイスを発揮したとき、それだって「強い情念」から発生しているものだと思ってしまう、何しろそれしか原理を知らないから。
しかしお察しのとおり、肉に情念が染みた人間などいくらでもいて、にくしみを極大にした人があんなシャウトを発揮できるかというと、できないものだ/これはどちらの派閥が偉いというわけでもないが、そもそもにくぬき派の存在がまったく知られていないところに問題があると思う。

「肉そのものが速い」ということが、まったく見えていないのかもしれない。
僕などからすると、立川志の輔や桑田佳祐、黒田鉄山やバーンスタイン、ジェームスブラウンやスキャットマンクロザースも、第一に「速いな!」と見えるのだ、肉の速さが抜群に見える、おそらくこの目利きがにくしみ派の人には皆無なのじゃないか(→黒田鉄山の速さは目を疑うほどだ)。
「脱力、脱力」と、それっぽいことはよく言われるけれども、それは「脱力したいという情念が肉に染みる」だけであって、本当の脱力に向かうことにはならない、しかしおそらく多くの人が、そうして「自分が頑張るということは、より強い情念を肉に染ませることだ」という取り組みを実際にしているのじゃないか。
僕は「営為の三相」として学門・文化・芸術を推奨する立場を採っているが、この営為の三相だって「そういう情念を肉に染ませる」ということを勧めているのじゃない、その逆だ、肉そのものが速くなるまでそれをやろうという話をしているのだ。

情念は加速する、霊はテレポートする。

デタラメな言い方だけど、まあかまわないだろう、情念はメラメラッと加速炎上するものだが、霊はパッと移り結果的に到達してしまう、それに肉がくっついてくるものだから、肉そのものが「速い!」となる。
情念は「重い」のが定番で、一方「霊」なんてものには重さがあったら不自然だ/現在の宇宙で質量を持たないのは光子と重力子だが、ヒッグス粒子が発見されればそうした理論が証明されていきうるように、いつかの未来には情念と霊の重さの違いも証明されるのかもしれない。
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あなたが生きることの、三種のきらめき

門を捨てると、人は生の1/3を失う。
文化を捨てると、人は生の1/3を失う。
芸術を捨てると、人は生の1/3を失う。
3/3、すべてを失ったとき、人はその後「ささやかな話題」を日々追いかけて生きるしかなくなってしまう、これはいかにもさびしいことだ。

己が肉に「学門」が宿っている人は、「決定的な一冊の本」に心当たりがあるはず、あの一冊によってあのときの自分は作られていった。
己が肉に「文化」が宿っている人は、「決定的な一本の映画」に心当たりがあるはず、あの一本によってあのときの自分は作られていった。
己が肉に「芸術」が宿っている人は、「決定的な一曲の歌」に心当たりがあるはず、あの一曲によってあのときの自分は作られていった。
その他、決定的な「場所」、そして何より、決定的な「あの人」に、出会っているはず、そしてそれらのすべては緊張感と共に、ナゾの「きらめき」があったはずだ。

学門には得体のしれないきらめきがあるが、多くの人はそれに触れたことがない。

「勉強」「お勉強」というのは、流血じみていて誰だってイヤなものだが、勉強と学門は違う、学門のどこから光が差してくるのかはまったく不明なのだが、学門には確実に得体のしれないきらめきがある、あのとき生じるナゾの清浄な空気は何なんだろうね。
年の功から申し上げるが、学門・文化・芸術に生じるあの「きらめき」は、そのときがくるまで絶対に前もってはわからない、僕は何一つオススメするつもりはないが、そういったまったく想定外の「きらめき」がそれらの営為にはあるということのみ、年の功によって断言しておく。

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「肉声」はメチャメチャ大事です

に霊が宿るわけですよ(投げやり)、しかも"蓄積的"に。
だから、教師の肉声で教え子らは学ぶ、そのうち学門の霊が子供らの肉に宿っていく、と。
それの何がおかしい、むしろ合成音声でウィキペディア情報を記憶に突っ込まれた子供のほうが明らかにヤバいだろ。
天地自然、学門、文化、芸術、あと食事、また交合も、霊的に肉に蓄積していくわけだな、それで誰しも全身が「ナイス肉」になればいいわけだ、そんなもんステロイド&プロテインでゴチゴチに固めたナゾの筋肉マンよりよほどまともだろ。

肉の身に何も入らないのは本当にマズい、豊かな森林と大きな湖、また香辛料で焼かれた羊肉と、古くからある学門、礼儀や言葉遣いの文化、ジョークとユーモアの芸術、そういうものが肉に入らないのは本当にマズい。
肉の身にそれが入っていくわけだよ、そしてそのサポートに、本来は「精神」に到達しているしっかりした大人が寄り添っている必要があるわけ、未熟なモンに「魔が差して」ヘンなことになってしまわないように。
なんなんだこの、すっごくまともなのか、すっごく怪しいカルト宗教なのか、どちらとも判別のつかない話は……
「肉声」はメチャメチャ大事です、「音声」はメチャメチャ邪魔です、で、「あなた大人として『肉声』が出せますか」と言われると急にキツいわけで、それどころか肉声を受けたときに自分に何が起こっているかもよくわからんで動揺しているというのが普通というありさまなので、これはどうします、もう深酒して寝ますか、という具合なのだった(投げやり)。

落ち着け、不能肉。

肉の身にあれこれ、蓄積的に入っていかないと解決しないのだけれど、今は諸事情あって、多くの人が肉に何も入らないように適応とコントロールを受けている、これは「不能肉」と呼んで差し支えないが、これは今しょうがないことなので、サボっているわけにもいかないが、焦っても逆効果なので落ち着け、ということなのだった。
あなたはカラオケではごまかされるけれど、高座にすわって「落語」をやれと言われたら、走って逃げ出すだろう? それが端的に肉声の不能を表わしている/今は「不能肉」やむなし、慌てずにだな、この先「肉バンザイ」「肉っぷり、やらせていただきます」と言えるようになれば、いろんなことがたちまち解決していくであろう(具体的な方策はない、投げやr(ry)。

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あなたが普遍性と集団性と個人性を手に入れること

は、普遍的体験。
文化は、集団的体験。
芸術は、個人的体験。
最近、「学門・文化・芸術」という言い方をするので、それについて予備的な話をしておこうと思った。

学門たとえば運動方程式f=maは、異文化もヘッタクレもない、宇宙人にだって通じるもので、普遍的なものだ、誰も「われわれ」とか個人的に運動方程式を信じているわけではない(普遍的に見つけられるカミサマと言っていい)。
文化たとえば「こんにちは」は、宇宙人には通じないし、かといって一人の自室で「αβγω!!」とあいさつするものでもない、よって「こんにちは」は「われわれ」という集団的なものだ、それは普遍的なものではないし個人的なものでもない(集団的に見つけられるカミサマと言っていい)。
芸術たとえば僕が夏の雲間に見えざる極光を見たとして、それは他の誰にわかるものでもない、あくまで個人的なものだ(個人的に見つけられるカミサマと言っていい)。
われわれの胴体には「こころ(文化の機能)」があり、胴体の上部には「理知(学門の機能)」があり、胴体の下部には「インスピレーション(芸術の機能)」がある/しょせんそれらを、血肉を通わせて営めるグッドマンになろうという話しか、僕はしていない。

学門・文化・芸術を捨てるということは、普遍性と、集団性と、個人性を失うということだ。

あなたに集団性がないなら、あなたは文化体験を持っていないのだし、あなたに普遍性がないのなら、あなたは学門体験を持っていないのだ、あなたに個人性がないのならあなたは芸術体験を持っていないわけで、そんな何もかもを捨ててどーする。
あなたの肉には何が宿っている? 「f=ma」が宿っている学者はカッコイイし、「こんにちは」が宿っている老舗のバーサンもカッコイイ、また「雲間の極光」が宿っている芸術家もカッコイイだろう、肉にそれらが宿っていないのに、筋力だけブンブン振り回したってカッコよくはならねーよ(なお気まぐれに色づけしてみたが、われながらヘタクソである、見づらいことこの上ない)。

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「敬(うやま)う」というレアな機能2

「敬い」がすべてを決する、「敬い」のあるなしが最後にすべてを決定してしまう。
このことを教えられずに、わけのわからない破綻に人が追いやられるさまを、僕はこれ以上目撃したくない。
感謝しろ、と言われ、よろこべ、と言われ、がんばれ、とも言われ、しかし「敬え」とは言われないで、われわれは生かされている。
人が生きている、誰もが生きているのだが、そのことを「大切に思え」と言われるだけで、「敬え」とは言われない、これはわれわれはとんでもないミステイクを犯しているのではないだろうか。

雨が降っていたとする、それを「よろこべ」というのもヘンだ。
かといって、雨の写真をインスタグラムに投稿するのもわざとらしいし、「自然の恵みよ」「大地がうるおう」などとネイチャリズムを決め込んでみるのもいかがわしいものだ。
高野喜久雄という数学者の詩にこうある、――降りしきれ雨よ、降りしきれ。
――すべて立ちすくむものの上に、また横たわるものの上に
/高野喜久雄は、円周率の解法に実績を残すほどの数学者だったから、きっとわれわれなどよりはるかに頭が良かっただろう。

僕は雨をよろこばない、よろこぶことが解法だとは思えない。

雨がすべて立ちすくむものの上に降りしきるのだと言えば、まさにそのとおりだと信じられるので、それ以上のことはない、それ以上のことを僕がどうできるとも思わない。
「雨」が「すべて立ちすくむものの上に降りしきる」として、それより高度な解法を僕は見つけられる気がしない、いつでも降る静かな昼の雨を見るたび、高野喜久雄の解法が合っていると見えるので、僕はそう敬い続けるしかないようなのだ。

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「敬(うやま)う」というレアな機能

でも学門・文化・芸術といったことを知っている。
知ってはいるが、それらを「敬う」かというと話は別だ。
誰でも「すごーい」と思うことはあり、「リスペクトします」ということはあるかもしれない、けれどもそれらの感心は、「敬う」ということとは性質を異にする。
「敬う」というのは、不思議な機能であり、不思議な現象だ、まったく思いがけないことに、この「敬う」のあるなしが土壇場で人間の行き先を決定する。

誰にでも「謗(そし)る」という機能はある。
そして、「謗る」の反対は「称賛する」だが、称賛することは必ずしも「敬う」ということには当たっていない。
誰でも、○○が好きかもしれないし、△△のファンかもしれない、けれどもいつのまにか、その中には「敬う」という機能の喪失が見え隠れしている。
「敬う」の反対は、おそらく「反論する」だ、その反論が後に解消されたとしても、おそらくその反論したという事実だけは消えずに残っている、「反論する」という行為は実はわれわれの知らないところで危険な宗教行為を含んでいるのだろう。

「敬う」とは、同意も反論もしないこと、また称賛も誹謗もしないことだ。

われわれはいつのまにか、納得のいかないことには反論する権利があると思い込んでいる、それは一般的には当然のことかもしれないが、別種のことには当然別種のルールがある、おそらく「敬う」とはその別種のことに向ける振る舞いだ。
われわれはいつのまにか、納得のいくことには同意する権利があると思い込んでいる、ともするとわれわれは、聖書や仏典に向けてさえ平気で同意や反論をする、われわれが自分の「納得」ばかりを最優先にするからだが、このことは実に危険な成分を不可視のままに含んでいる。

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気が合う、息が合う、馬が合う
「気が合う」「息が合う」「馬が合う」、そういうことが重要だが、こんなメールとラインの世の中だもの、それらが「合わない」ほうが当たり前だ。
しかし、四方八方、「気が合わない」「息が合わない」「馬が合わない」中をずっと生かされるのはなかなかの苦痛だ、苦痛どころかリアルに心身を失調してしまう。
「息を合わせる」を実演して見せたことがあったが、ある人が笑い出して、「ああ、剣道部にいたときに、先生にまるっきり逆をやらされていた〜」と嘆いていた。
意識と意識をゴリゴリ向け合い、意識と意識が反応するのは、「気が合う」「息が合う」とかいうことと、まったく異なりますよ〜ということで、あまり説明する気にもなれないので、とても投げやりに逃げちゃおうという心境なのだった、まあ別におれのことじゃないからいいよね(ふまじめ)。

「息が合う」「息を合わせる」ということは、当然あるものだけれど、こんなもんいちいち教室で教わるもんでもないし、こんなもんまで講師が必要になったら、日本は素直に終了です、何もかも解決しようとせんでよろしい。
だって、もしそういうことに講師がいたとしても、そのときは生徒と講師の「息が合わない」のだから、何かが授受されるということも起こらないだろう、それだけにこの破綻はとてもまずいのである。
しかし、グーグルの知識とラインチャットのコミュニケーション力を具有している現代人としては、こんなに無敵な自分が悪く言われる筋合いはない! という心境がどうしてもあるしな……実際僕はグーグルの知識には勝てないし、数万人に向けてつぶやきを発信できるツイッターの発信力には勝てない。
一部上場企業に勤めている友人が、「そろそろ、『出勤する意味があるのか?』という気がしてきましたよ」と現状を報告してきている、社内でも当たり前にメールとメッセンジャーだけでやりとりをするので、デスクを向き合わせて仕事をする意味はすでに失われているようだ、この先はアカウント出勤というシステムが実現されていくかもしれない、耳たぶに勤務センサーみたいなものでもぶらさげて自宅のデスクに向かい、そのことを「出勤」とカウントする。

それでも、息の合わない奴はノーサンキューだ。

今、あまりまじめに考える気分でないので、テキトーに考えているが、この先はひょっとして、血液に直接酸素を供給する「長生き酸素カートリッジ」みたいなものを体内にブチこんで、そもそも「呼吸」「息をする」ということさえやめてしまうのだろうか? そういうことは別に起こっても不思議ではないと思う。
しかし、呼吸もしないのに「生きている」とか、息も合わないのに「友達」とか、そういうのは僕の趣味ではないな/「息を合わせる」についてはたとえば「やすきよ」の漫才でもyoutubeで観ればいい、ただし真似できるかどうかはすっごく別だ。
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早朝、K公園で119番通報

朝に散歩をして、公園で休んでいるところ、何か植木鉢を落としたようなパツンという音が聞こえてきて、直後、「あーあ、もう、何よ」とおじいさんがぶつくさ文句を言うのが聞こえてきた。
それは何でもない小さなトラブルのように聞こえていたが、どうもそのぶつくさ続く小言のような声に違和感がある、僕はやがて(あれ?)と感じて立ち上がり、僕は物音のした方へ駆け寄っていった。
駆け寄っていくと路上に、転倒したらしいおばあさんが倒れていた、後頭部を打ち付けたらしく路上には少なからぬ流血が垂れている、先ほどから「何やってんの」と小言を続けていたのはご主人らしい、見慣れない血の量だが、ひとまず、慌てて圧迫止血、というほどの流血ではない/僕は目の端で現在位置の住所と番地表示を探していた。
ご主人は「やれやれ」と、冷静さを保っているふうだったが、きっと動転して判断力を喪失していらっしゃったと思う、それで僕が割り込んで、差出口ながら救急車を提案し、半ば強引に救急車の招請に合意してもらった、「迎えがくるからそれでM病院に行く」と言ってらっしゃったが/「この時間にまだ病院はやっていないので、どうか」と僕が救急車を呼ぶことを"お願い"するのが一番手っ取り早かった、僕がしつこくお願いするとご主人はようやく折れてくれた。

119番に電話すると、必ず第一に「火事ですか、救急ですか」と訊かれる、つまり「消防車か救急車、どっちが要るの?」と訊かれる/僕は「救急です」と答えた。
そして次に訊かれるのは、住所、番地だ、そして住所に加えて「目印」を訊かれる、「どの建物の近くですか」あたりを訊かれる、「公園の脇です」と僕が電話口で言うと、心配で寄ってきていた近隣の女性がとっさに「K公園!」と教えてくれた、僕は「K公園の脇です」と電話口に答えた。
この時点で救急車は動いてくれるから、あとは必ず訊かれること、「けが人の年齢は」「出血はありますか」「意識はありますか」に答え、あとは通報者の氏名を報告しておく、なおその後通報者の携帯には救急隊から電話が掛かってくるのでその場を動かないほうがいい。
五分ほどして救急車の音が聞こえてきた、僕はそばにいた人に「救急車、誘導に出てください」とお願いした、救急隊はすぐ駆けつけてくれるが、具体的にけが人がどこに倒れているかはわからないのだ、必ず誰かが「こっちです!」と誘導に出なくてはならない(建物の中から救急車を呼んだ場合は特に重要)(あと、事故の現場を見ていた人は、けがの特定のために事故の発生状況を細かく聞かれるので、ぜひその場にいたほうがいい)。

救急車は無料です。

たまに土壇場で訊かれることがある、「救急車ってお金かかるんじゃないの?」、それで躊躇して通報が遅れることがある、小学校で教えておいてもいいんじゃないか、「救急車を呼ぶのにお金はかかりません」。
転倒したおばあさんは、後頭部から大きく出血しているものの、なんとか意識もあり呼吸も正常だった、あとは外傷性脳内出血がなければ、単なるケガで済むと思う、どうかご無事でありますように(ところでたまにはまともなこともするおれのことを褒めるように)。

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一番疲れない方法

番疲れない方法は「緊張感」だ。
親の小言や、夫婦喧嘩、同僚の愚痴や、メンタルヘルスの問題などは、緊張感がないので疲れる。
このことには一般に誤解があるのだ、一般には「緊張感がないのがリラックス状態」だと思われている。
それは逆で、「緊張感がない」ということは、人間が「パニックに接近している」ということだから、内部的にはリラックスから遠ざかっているのだ/このことは覚えておいて損はない、「緊張感がないということは、パニックに接近しているということで、実際はストレスが高くなる」。

一般に思われていることと逆で、本当は、身体(の流れ)がやわらかいと「緊張感」は増すのだ。
逆に、身体が固まると「緊張感」は減る、「身体が緊張すると空間の緊張感は減る」のだ、「緊張」と「緊張感」は互いに相殺関係にあると言っていい。
完全に身体のやわらかい熟練の落語家が舞台に出てくると、「おお」と会場の緊張感は急上昇する、一方、ガチガチに緊張したおじさんが結婚式でスピーチしようとすると、「ははは」と会場の緊張感は一気に下落する。
あなたは何かを討ち取って生きていくだろう、そのために、身体をやわらかく使えるのがいい、身体をやわらかくして討ち取りにいく空間の、濡れた刀剣のような緊張感だ、これが一番疲れない。

美人と話していて疲れることがないのは、美人に緊張感があるからだ。

逆に、不美人には、典型的に緊張感のないタイプがいて、こういうタイプと話すと誰だって疲れる、これは不美人が悪いのではなくて正しくは緊張感のなさが悪いのだ/達人の演舞を見て疲れる人はいないし、おばさんの悋気講を聞いて疲れない人もいない。
緊張感がないということは、固いということだけど、すべてのことはやわらかくないと「間に合わない」/間に合わない上に疲れるなんてまるでいいことなしだな、素直にやわらかさと「緊張感」への稽古を積もう。

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強くなるために、やりとげることを

くなる、といって、強化に走るのは邪道だ。
真に強いなら強化しなくたって勝てるのだから。
強化の発想は基本的に弱虫で、真に強くあろうとするなら不利な態勢を選ぼう。
不利な態勢、つまり万全の態勢の逆だ、不利な態勢の中でさらに「やることを増やす」、その中で状況は不利になるが、中にいる人間は強くなれる。

やりとげる」、と自分で決めたことを、一つから二つに、二つから三つに増やすことだ、これを持っているか持っていないかでは大違いになる。
これはつまり、すでに出撃した戦闘機みたいなもので、地上に駐留している戦闘機なんかよりはるかに強くなる、どんな戦闘機も出撃するまでは一個の置物でしかない。
人間誰だって、「やるべきこと」を持っている、けれどもその「やるべきこと」を、「やりとげる」と自分で決めて出撃したかというと、そうでもないのだ/攻撃目標は定めてあるが、まだそこに向けて出撃はしていない、駐留中の戦闘機がある。
誰と何をする? それは自分の「やりたいこと」とは違って、ただ「やりとげること」だ、やりとげることに意味なんかなくていい、それでもやりとげるために出撃した戦闘機は、地上で会議しているだけの置物戦闘機よりはるかに強い。

こちら作戦行動中、オーバー。

強くなるというのは、帰参して強化トレーニングを積むということじゃない、作戦行動の只中にずっと立ち続けることだ、そして作戦行動はミッションの完了――やりとげる――までずっと続く。
作戦行動中でない時間は、一見、じっくり落ち着いて考えられる時間のように思える、けれども逆だ、それはすでに「やりとげること」を見失っているので、迷子の弱さ、何とも戦えず、何もまともに考えられない弱さの状態に実はあるのだ。

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「遊ぶ」機能は喉元に宿っている

ても信じられないことだろうが、人間の「遊ぶ」という機能は喉元に宿っている。
相変わらず、何かもうやべー奴の話みたいになるので、いっそ聞き流してねと自分で投げ出したくなるが……
鎖骨の中央、つまりネクタイの結び目が収まるあたりの位置だが、そこに筋肉のないU字のくぼみがあって、ここに人間の「遊ぶ」という機能が宿っている。
かといって、いきなりそんなとこ使えるわけがないので、さしあたり言い得ることは、喉が緩んでいないと「遊ぶ」ということができないということだ/なお実験してみるにしても、口をポカーンとアホみたいに縦に開けたほうが、このU字のくぼみ部分はゆるみやすい(呼吸を止めないように)。

人間が追い立てられ、遊べなくなるとき、この喉の部分が、奥に「引っ詰まっている」ような状態になるのだ、こうなるともう遊べなくなる(人間の想像力が停止する)。
だから、遊ぶときはその逆、この喉の部分が前方かつナナメ下方向に、解放されるというか、ゆったりと膨らむような形になる。
アゴや舌に力が入っていると、周辺の筋肉が硬直してうまくいかないので、なるべくアホっぽくやるのがいい、ただしこの喉のくぼみはとても繊細な部分なので、あまり手でグリグリいじらないように。
この喉の部分は、想像力と、いわずもがな声の部分でもあるので、「コミュニケーション」も司っている、たとえばダウンタウンの浜ちゃんなんかを見てみるとわかるが、あの強烈で愉快な声が出るとき、実は顔は動いておらず喉が動いている、あれは声がデカいのではなく喉のくぼみが開いているのだ。

「胸襟(きょうきん)を開く」、という慣用句がある。

「胸」はもちろん胸で、「襟」がその喉のくぼみ部分を指している、胸の中央点は情動を司っているが、つまりこの「胸」と「喉」の両方が開けていないと人間は「遊ぶ」ということができない。
そして、ふつうの人間の身体感覚では、「首」なんてほとんど存在していないものだ、ふつうは首を横に振ろうとしても「頭」を横に振ってしまう、まあそんなことはいいが/とにかく喉のくぼみ部分をキュッと引っ詰まらせるのをやめるのがいい(んなこと言われてもできるかっつー話ではある)。

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自分の変え方、挽回の仕方

純に、「自分を変えなくてはいけない」ということがしょっちゅうあるのだが、これが意外に難しいわけだ、どれだけ必死めいてみたところで思ったより「自分」というものは固定されていて変わってくれない。
たとえば最も容易な例として、「今週は冴えていない」という自分があったとして、そのときは「先週の冴えていた自分」に戻したいと誰だって思うのだが、それだって変えられないのだ、どれだけ自分を罵ってみても自分というやつは変わってくれない。
やらかしてしまった自分を反省し、もう二度とあんな失敗はしたくない、わたし変わらなきゃ……と思うのだが、なぜか変わらない、そりゃ実力不足なのはわかっているのだが、自分が変わらないということは実力も変わらないということなのだ。
どうしたらいい? 挽回および変革を求めるあなたへ、たまにはまともなアドバイスをする、しかし例によって僕のアドバイスは奇想天外なので笑う準備でもしてもらおう。

「自分を変えなくてはならない」というとき、どうしても「自分」に注目するのだ、これを一般に「スタンドアローン」というが、これがよくない、実はこれがあなたのすべてを閉じ込めてしまっている。
「自分を変えなくてはならない」というとき、周囲の空間、天地自然を(ひとつに)見るのだ、そして自分を取り巻いている天地自然ごと変わらなくてはならない、自分「だけ」を切り取って変わることはできないのだ。
他の人を変えることはできないし、他の人はあなたの味方にはならないので(えっ)、せめてこの「世界」でも味方につけないといけない、これはわけのわからないようでいてすごく重要な真実です。
自分の身を捨ててというか、自分の身を空間に溶かして、空間まるごとで思考しろ、そこで「自分」と「世界」がわずかでもズレると、あなたは変わることができない、逆にいうと、そこさえビタッと合っていれば、あなたは割と日常的に自分を変えることができる。

「冴えている自分」に変えるのではなく、「冴えている世界」に変えろ。

たとえば僕とあなたで何が違うかというと、実は僕とあなたは何も違わないのだ、違うのは僕の世界とあなたの世界が違うだけだ、僕の世界が光り輝いているだけで、僕が光り輝いているわけではまったくない。
自分を変えるのなんて超メンドクサイし、世界を変えるのはラクで自分に負担がないからいいじゃないか、まあコツとして他人の世界にいちいち興味なんか持たないというのはあるよね。

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ハッピー・コンテンツと大切なもの

あシンプルな話。
この世界と自分の真相を見つめきれば絶望する。
「ゲッ、自分なんか存在価値ないし、自分が生きるために自分が苦しんで数十年でオワリやんけ」ということがイヤでもわかる。
これがとてつもなくイヤというか、怖いので、「そんなことないのですよ〜」というコンテンツがしのびよってくる、われわれはこのコンテンツとがっちり握手するのだ、「今まで何を怖がってたんだろう」と。

若い女の子がスカートをひらひらして「ボクとキミ」と踊ってくれたら、「おおっ!」となり、この世界の真相は「楽しいんだ!」になるのかもしれない。
あるいは耽美的なホモセックスが女性の前で展開されたり、100人のキン肉マンが舞台上で一声に腕立てふせを始めたり、あるいは塩と油のカタマリを日課のように飲み込んだりして……まあどれも似たり寄ったりか。
とにかく、人間には「悟性」というやっかいな機能があって、この機能がこの世界と自分の真相を見つめきってしまうことがあるので、この悟性がブッ壊れるだけの刺激をブチこんでやれば、人間は「フンッ! フンッ!」となり、絶望を粉砕できるのだ/一時的には。
これら、悟性をブッ壊すだけの刺激を盛り込んだ現代のコンテンツは、ハッピー・コンテンツと呼びうる、こいつを摂取すれば絶望からは逃れられるが、そのかわり二度と花鳥風月とか天地自然とかいったものは見えなくなる、だから善し悪しであって必ずしもメリットばかりではない。

ハッピーを捨てよう。

古今東西、学門・文化・芸術といったことが、「ハッピー」に営まれたことは一度たりともない。
今、ハッピーを捨てるという方向は、多くの人の発想外だと思う、だがそのときになってわかるが、「ハッピー」と「大切なもの」はまったく別のものだ。

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獣化を治療する方法4

化は顔面に起こる。
獣化は、顔面に、「笑う」ということに似たような動きで、「目をむく」「牙をむく」という動作を引き起こして成り立っている。
これに対抗する方法、および治癒に向かう方法として、しょうもないが、ストローを唇に咥える、という方法がある。
この方法は、アホみたいだが、けっこう有効なのだ、先の記事に書いた「笑顔練」を相殺するカウンタートレーニングになる、だまされたと思ってやってみて……と言う気にはなれないが、なんとなくいちおうご報告だけしておく。

ごく普通のストローを、「口に」ではなく「唇」に咥える、すると唇はごくわずか前方へ突き出された形になる。
そして、ストローは唇から、だらりと下にぶら下がっている……この状態だと、唇を開くとストローは落ちてしまうだろう。
つまり、こうしてストローを唇に保持していると、「牙をむく」という動作ができないのだ、それによって習慣化していた獣化の動作に制限がかかるようになる。
ためしに、ストローを唇にだらりとぶらさげて、何かイライラする動画コンテンツでも観てみるといい、すると、「牙をむく」の動作が制限されているせいで、自分の内に「噛みつく」という感情が発生しづらくなっていることがわかると思う。

顔面が「くわっ」とする人は、獣であって、強い人なのではない。

技術的にいうと、自分が挙動するとき、特に人に向けて挙動するとき、さらには「言葉」や「声」を使って挙動するとき、わずかも顔面を「くわっ」とさせないのは非常にむつかしいのだ/さらに「手を振る」「首を振る」「視線を散らす」という動作を禁止すれば、「言葉」や「声」を使うのはものすごくむつかしくなる、これはやってみればわかる。
つまり、脳と呼吸だけで「言葉」「声」を使うのは本当は超むつかしくて、本当はそれが超正しいのだが、まあそれはいいとして、ストローを唇に咥えて垂らすことは、案外大きな発見をもたらすことがあります、まったくアホみたいな方法ですが。

できるオンナだね | comments(0) |
ナイスバカの身体点
日のパーティで「チャクラ、チャクラ!」とアホな話をしてしまったので、つい気になって一般的なチャクラうんぬんのことを調べてみた。
すると、まったく申し訳ないが、僕から見ると信じられないぐらい弱々しい人たちが出てきて、細い声でボソボソと何かを言ってやがった(動画)。
うーん、ふざけんなよ、と僕が言うのはまったくの筋違いだが、いわゆる「スピリチュアル」というやつなんだろ? 詳しくは知らないが、少なくとも僕はそんな「声」の確かに出ていないヤツの言うことを一ミリたりとも真に受けてやる義務を持たない。
そんな、気色の悪いことをしていないでだな、強い酒を飲み、強い声を発し、他人をあたたかくして笑わせて、女の子の気分を穏やかにしてやるという、そういう直接的なことをアタリマエにしてみてはいかがだろーか、少なくとも僕はそういうことにしか興味はないのだ。

「強い声」というのは、「大きい声」というのとは違って、だって大きい声なんてウルサイだけだし……まあこれは説明のしようがない、とにかく事実として、人は人の強い「声」を受け取ると、何かすごい勢いで恢復するという現象があるのだ、眠気が吹っ飛んで食欲が盛り上がり、笑いが起こって鋭気と穏やかさが満ちてくる。
どういうことかというと、たとえばウチに貴金属のセールスマンがやってくるだろう、そうしたら僕は「ウチに縁ないわ、ヨソを当たり」と一撃で追い払う、そりゃ僕みたいなオッサンが出てきたらセールスマンの若造なんか敗走するしかないに決まっているだろう。
ただここで重要なのは、「ウチに縁ないわ、ヨソを当たり」と、まあ気の毒なぐらい「強い声」でセールスマンは言われるのだが、同じ人と人として、その声によってセールスマンの若造は励まされ、活性化して敗走しなくてはならないのだ、そうでなければ人道に悖(もと)るというべきだろう、僕はそういうとき「強い声」を使う。
セールスマンは二度と来ないけどね、そりゃそうだ、こんな心臓に悪い家を二度も訪問するバカはいないだろう、だがそれでも人は人を病気にさせるようなことをしてはならない、声は生き返るような声でなくては/あなたもどうぞ強い声の人になれば、就職面接にも受かるのではなかろうか(適当)。

マジメな人は声が弱い、それは喉(鎖骨のくぼみ)の力を前方に抜けないからだ。

ほーらこんなこと言い出すと急に専門的な感じなって意味不明になった、しかしこのことは追究していくと本当にそういうことだな、喉(鎖骨のくぼみ)の力を前方に向けて抜くと声が響いて強くなるが、それ以上に何か人間がナイスバカになる、マジメでなくなる、これは想像力と芸術の営為に大いに関係がある身体の点だ。
僕自身、「なんかここだよな、ここにあるんだよなあ」と感じていたところ、調べたら古い記録に「そういうチャクラがあります」と書かれてあったのだから、しょうがないだろう/こんなもん、誰に習うわけでもないし、誰に教えるつもりもございやせん、多分僕は世界で一番スピリチュアル系の人々と話が合わないだろう。
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学門のこころ

沢諭吉の「学問のすゝめ」は、僕の勧めるところではない、なぜならあれは「実学のすゝめ」であって、「学問が社会的実益の生産に供されないなら意味なくね?」という論旨であり、学門そのもののよろこびを説くものではないからだ。
そりゃ福沢諭吉は半分政治家なのだし、明治維新の時期に欧州で思想を注入されてきた時点で或る種のことを「疑う」べきだし(すまん)、何もかもが国体強化につながることが是とされていたあの時代のものなのだから、そのことをもって疑うべきだ(と、福沢諭吉自身も言っている)。
――あなたがうどんを茹でたとする、そして食べきれなかったぶんを冷凍しようと考えた、そのとき「あれ? うどんって冷凍保存できたっけ?」と躊躇する、その後「あ、でも、冷凍うどんなんて商品があるのだからきっと大丈夫よね」と考える。
数日後、冷凍したうどんを解凍して食べてみると、ブヨブヨのブツブツで、食べられたものじゃない、そこで「うどんって冷凍できないのね、覚えとこ」と捉えるようでは、あなたには「学門のこころ」がない。

学門のこころとは、冷凍したうどんを解凍して食べたとき、その破綻した食感に「えっ? なんでよ!」と噛みつくことだからだ。
「冷凍うどんが売っているのに、どうしてわたしが冷凍したものは破綻しちゃうのよ?」と、その納得のゆかなさに首をかしげ続けるということ。
むろん、自前で冷凍したうどんは、氷の結晶がグルテンを切断してしまうことで食感を破綻させるのだが、それはただの「知識」だ、そうでなはく「学門のこころ」というのは、その納得のゆかなさを抱え続けるということ。
なぜなら、「じゃあ売っている冷凍うどんのアレ、アレはどうやって冷凍しているのよ」と、フツフツしたものが残ったままだ、フツフツと……「わたし、加ト吉で働いている人がいたら、まっさきにこのことを問いただしたいわ」。

「冷凍するとグルテンが切断される」という知識を、誰かの学門がついに打ち破り、冷凍うどんが発明された。

僕が子供のころには冷凍うどんなんてものはなかったのだ、そして発明された当時はみんなして驚いたのを覚えている、「コシがあってめっちゃおいしくない?」、今でも誰が発明したのかよく知らないが、それは「うどんって冷凍できないのね、覚えとこ」で済ませなかった誰かであるのは間違いない。
あなたが今いる空間には、蛍光灯が光っていると思うが、発電所で「発電」されて、蛍光灯が「光っている」ということに、あなたは本当に納得しているだろうか、「本当は納得していない」というとき、あなたには学門のこころが起こっている、フツフツ/「タービンを回すって、それはわかるけど、そのタービンを回したらなぜ電気が出るのよ、タービンって何なの、そもそも電気って何なのよ? 蛍光灯って何が"蛍光"なの、この筒の中に何が入っていてどうやって光っているの」。

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愛と存在のストラテジー

略(ストラテジー)が要るのだ。
そして戦略の立案に、必要なのは「大義」だ、達成目標の向こうに「大義」があって初めて戦略立案は可能になる。
戦略と達成目標の向こうに、決して「願望」を入れないように。
まったく不思議なことなのだが、人間は「願望」を元に戦略は組めないのだ、なぜだかわからないがそういうものなのである、たぶん脳の機能としてそういう制限があるのだ。

だから、最も興味のない状態で目標を立てることだ、ここに願望が混入すると、必ず戦略は破綻する。
たとえば、「ガールフレンドを600人持つ」を目標にするとして、それを達成できるのは、そこに願望を覚えない人間だけだ、少なくとも願望と戦略はきっちり分離されていなければならない。
人は願望で動けるような気がするが、錯覚だ、人は願望に「囚われる」のであって、願望で動けるという事象は存在しない、人は実はストラテジーによってしか動けない。
戦略(ストラテジー)を立案するには、目標が必要で、願望のない目標はつまり、精神によって成り立っているから、それは「大義」を帯びるということなのだが、まあむつかしい話はいい、願望のない戦略を立てよ、その途端あなたはたちまち動き出し、みるみる成長していくだろう。

「やりたいこと」が見つかったら、動けない。

これはまったく逆に思われている、多くの人は「やりたいこと」が見つかったら、そこから自分がバリバリ動けると思っているだろう、そしてそのために自分の「やりたいこと」を探しているようなところがあるはずだ、これは根こそぎ間違っているのでぜひ修正すること。
人間に「やりたいこと」なんて必要ないのだ、必要なのは「やりたいこと」ではなくストラテジーだ、あらゆることはストラテジーによって可能になるが、この「ストラテジーによって可能になる」ということそれ自体が人間にとって快感なのだ、このエクスタシーでのみ人間は動ける。

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本当に「歌」を生成できる人
下に語ることは、本当のことだが、マジメな人は真に受けないように、マジメな人はマジメな人の話を真に受けよう。
歌が上手い人というのは世の中に大量にいるものだが、歌が上手いということと、その歌を「聴いていられる」「聴いていたい」「聴きたい」というのはまた違う。
要するに、ボブディランは別に歌唱力が高いわけではなかろうが、ものすごくボブディランであって、これは「歌が上手い人」とは何が違うんだ? という話、力のある歌と力のない歌の差はどこから生じているのかという話。
これ、実はだいぶ前から気づいているのだが、何かに「媚びる」ことをして生きてきてしまった人は、以降はもうその声しか出せなくなるのだ、「媚びる」ということが歌から力を失わせている、いくら上手くても「媚びる」ことをした以降はもう歌に力がなくなる。

かといって、このご時世、とくに女性は、何にも媚びずに生きていくなんて困難きわまるが……
しかし、何はともあれ、歌が本当の意味で上手になりたいと思う人は、よく知っておくしかない、<<本当に「歌」を生成できるのは、媚びずに生きてきた人だけ>>なのだ、それは上手いかヘタかにはあまり関係がない。
まかりまちがっても、ユーミンが何かに媚びているとは思えないし、甲本ヒロトが何かに媚びているとも思えない、もんたよしのりも何かに媚びているとは思えない、実はそこなのだ。
あなたは実は、発声を聴いて感動しているのではなくて、「媚びずに生きている人の声」に感動しているのだ、力のある歌手ほどファンとべったりしていないという性質があるのはこれが理由だ。

歌に力がある理由は、1.媚びる気質がないから、2.媚びる能力がないから。

うつくしい人格者に見えるシンガーがいる一方、「何かどこかおかしいよね」と不安に思えるシンガーもいる、しかもそうしたシンガーの歌が思いがけず大きな力を持っていることがあるのだが、それは彼に「媚びる能力がない」からだ、一種の欠落があるから聴いていて不安を覚える。
マジメな人は真に受けないように/あなたが声を発するのに必要なことは、ヴォイストレーニングではなく、「媚びるのをやめること」です。
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脳みそいかわたシュークリーム
「ドクター、脳みそがいかわたの人がいるんですって!?」
「そうなんだ、まるでマニア向けのシュークリームのようなんだよ」
そういう発表が先日、NASAの広報官スルコトナイ・ヒマノフから発表された。
これを受けてニューヨーク・タイムズ紙は、「いかわたはあまり食べないので誰もピンとこないだろう」と社説で反論している。

僕もあまりいかわたは好みじゃないので……
かわいくて素直な女の子とキスすることが楽しみで生きている僕にとっては、この世のすべては「何やってんの?」としばしば見える。
「モメるな!!」の一言で済むことが、どうしてもシュークリームいかわた脳の人にはわからないらしい、それはいかわただからしょうがないのかもしれない。
ベーリング海でアカエイと競泳する選手になればいいと思うが、ところでかわいい女の子は全員僕のことだけを愛するように、他の男たちはみなベーリング海に行ったので、僕のことだけを愛するように。

そんなにベーリング海に行きたいか、イエスかノーで答えろ。

ベーリング海でアカエイと競泳する職業は、そうとうキツいと思うぞ、さすがに他人事といえども老婆心から心配する。
実際、かわいい女の子と僕「だけ」という状態は、とってもいいよね! 僕ぐらい学問を修めて脳みそがゴールデンだといつもそういう真実が見えるのだった、学問って本当に大事だと思う。
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宝石を見る習慣
石はとってもいいものだ。
何がいいといって、「輝いている」からいい。
「輝いている」ということをよく知るためには、よく宝石を見るようにするのがいい。
宝石を見る習慣をつけよう、あなたは輝かなくてはならないから。

宝石を、買わなくてはならないわけではない、見るだけでいい、そりゃ余裕があったら買ってもいいけれども。
しかし重要なことは、あなたが宝石を「欲しい」と感じること、それ自体は実はたいしたことではないということだ、ここがミソだ。
あなたが宝石を欲しがったとしても、それでは他の誰かがあなたのことを「欲しい」とは思ってくれないでしょ、そこに気づかないと。
あなたが宝石に寄っていくのは、宝石が「輝いている」からで、じゃあ他の人が「あなた」に寄ってくるようになるためには? そのヒントというか、答えそのものを宝石が示している、答えは「輝いているから」だ、あなたが宝石の購入者なのではなく、宝石があなたの先生なんだ。

輝きは、努力ではなく性質である。

豪奢な宝石を見ると、圧倒されてフラフラ〜っとなるかもしれないが、踏みとどまれ、「輝いている」というその「性質」、その性質の感触をあなたはよく知らねばならない。
あなたの声は輝いているか/あなたの声は輝いているべきだが、そうあろうとしたとき、あなたは誤って「努力」のほうへ傾くのではなかろうか、輝きはあくまで「性質」だ。
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