☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
恋あいについて
あいについて考えている。
恋あいは、無いわけがないのであって、夜のとばり、濡れるような闇、ネオンを透かす木立、誰かわからない女、オレンジ色のTシャツ、そこに恋あいはある。
あのとき現れるのが女であって、生物学上、あるいは社会的に定義されている「女性」というのには、あまり意味がない。
自分が誰だかわかっているような女に、女はやれないだろう、女は初めから恋人としてしか現れない。

女にとっての恋あいがどういうものなのかなんて、考えたことがない。
女には人格がないからな……いや、人格がある女というのがこの世で最も面倒くさい。
恋あいは、記憶の中にはない、ボブディランではないが、恋あいは風の中にある、おれはかっこいい男なので、かっこいい世界にしか女は現れない。
女の人格がジャジャーンと現れてきて、「どうも!」なんつって、そこから恋あいに……なるわけがないわな、この現代には場違いな人格がごろごろあって邪魔だ、どうも自分が登場人物ではないということがわかっていないらしい。

女が震えていたのであって、人格が震えていたのじゃない。

人格がやりたけりゃ、どこかの会議室でやれよ、そういうの好きなオバサマはいくらでもいるだろ、女をやりたきゃさっさと視力をつぶしていらっしゃいね。
女じゃなくて人格で、この世界を踏み荒らして生きていると、自分の体臭が気に入らなくなってくるだろ? 女なのにさ、レンガの上にデニムで生足で、唇で茶色い髪で、ハイそこまででそれ以上なし、人格なんてしょーもないもんだよ。
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自信があるかないかについて2
はや、どうしたらいいのか……いっそ顰蹙(ひんしゅく)を買いながら進むしかないし、誰にも掴まれないまま進むしかない。
自信というのは、シェアの数ではないし、むしろ他人にシェア(共有)できるものなら、それは自分のものではないので自信にはならない。
状況は、もう承認欲求がどうこうというような、生ぬるい話ではなく、自信という機能の息の根が止められているので、多くの人が自分のネタの「共有」をしてくれることを、「生命線」にするしかないというような状況だ、もうムチャクチャであって、こんなことの解決法はない。
自信というのは何かといって、逆にいえば、「あなたには決して掴むことができないもの」だ、意地悪で言っているのではない、これで「なるほどな」とよろこばないようではあなたには自信を掴む可能性がない。

ここ数ヶ月でわかったことだが、あなたと僕とでは、とんでもないぶっとびの差があるのだ、顰蹙を買いながら進むしかないというのは先に申し上げたとおり。
あなたが掴む「自信」というのは、決して違うだろう、あなたは誇大妄想かシェア希望のどちらかしか掴めないはずだ、意地悪で言っているのではない、他人に自信の根拠を求めるというのは、自信の自給率をゼロにして他人に依存しているという状態だ、最大のヒントのためにこんな話し方をしている。
自信なんてものは、そんなやすやすと手に入らないのだ、ぶっとびの、かつ理知と冷静と愛を極めていないと手に入らないのだ、ヘタクソでもかまわないのだが、ぶっとびで理知的で冷静で愛に満ちていないと、自信なんて手に入るわけがない。
「こんなチンタラしている奴に、自信なんか手に入るわけがあるかよ」と、自分に堂々と言ってのける奴、それこそ自信に近い奴だ、そして「自信がどーこーとか言っていられる状況か?」という奴は、すでに速度として自信の次元に接近している、そのことを正しく見て、正しいと今思っているもののすべてを母親の足元に投げ捨てろ。

自信というのは、「すべてを忘れられる」ということだ。

逆に、すべてに引っかかっているようでは、自信なんか持てるわけがない、友人から「すげーな」と言ってもらい、そう言われたことが「ん?」と、すでに聞こえていないという状態が自信だ、あなたの辞書の中に「自信」はないのだが、それはあなたがいちいち辞書に頼っているからであって、辞書にないなら空中から掴めばいい、空中を信じられない奴が自信がどうこうと寝言をほざくべきじゃない。
もはや、どうしたらいいのか……という状況があって、解決法なんかないのだが、自信があるというのは少なくとも、「どうもせんでええわ」「解決法なんかいらんわ」と、それ以上の何かを空中から掴めている状態だ、周りにいる異性がことごとくメロメロになるなら「自信」を得ている状態だ、「それでいいし、そうでなくてもいい」というのが聞こえてくるぐらいでなければ、自信なんて上等なものは手に入らない、もしこれが異次元に聞こえるのであれば、直接異次元に手を伸ばして掴め。
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自信があるかないかについて
難はいろいろあるにせよ、何か楽しくなってきたな。
困難といっても、僕自身の困難ではないし、じゃあ他人の困難はどうかというと、原則として助け合うべきだ。
重要なことは、自信を持つことだ、そして自信を持つということは、自信なんか要らないということだ、なぜならもう持っているのだから。
この世でもっともアホらしいことは、他人と自信の共有をしたがることだろう、どうもそのあたり、面倒な奴が増えてきている、「自信」というパラメーターは他人にはいじりようがないものだし、外部に表示する必要もないものだ。

だから、自信をアピールする者は、自信のなさをアピールする者と同等に、意味がなくて愚かしい。
「共有」という概念ほど、近年でめんどうくさいものはない、僕が楽しくなってきたからといって、ヨソの誰かまで楽しくなったふりをする必要はない、あなたにそんな配当は与えられない。
楽しくなりたければ、独自で楽しくなればいいのであって、それをヨソの何かとの共有で楽しくなろうとしているから、自信がなくてブキミになるのだ、このごろはそういう共有ブッコ抜きマンが多い、あなたは何かこの世界のオカーチャンなのか、そんなアホみたいな話はあるまい。
そもそも共有なんてできないのだ、だからこそ共感の能力が必要になってくる/共有を妄想する人はいつも「アナタとアタシ」みたいなことを妄想していて吸血してくる、この人はけっきょく「アタシのこと」しかわかっていなくて、他人のすべてを共有する権利があると自認しているのだ、誰かの大切なことに共感する能力もないのにだよ、そりゃこんな奴がのさばっていたら誰も楽しくなれないだろう。

自信があるかないかは、永遠に自分だけが知っていればいい。

共有ブッコ抜きマンは、自信がないものだから、他人の自信を吸血しようと、やたらにしがみついてくるわけだ、こんなメチャクチャな話があるか/<<他人から自信を吸血している人は、他人も吸血を必要としていると思っているのだろう>>、自信吸血マンは、まさか自前の水脈から自信を得ている人が存在するなんて想像がつかないのだ。
自信があるかないかは、おれだけが知っていればいいのであって、ヨソの誰かが知る必要はないし、そもそも輸出入なんてできないものだ/他人から恵んでもらった自信で生きながらえようとする人は少なくないが、それは吸血行為である上に自殺行為だ。
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星の瞳

い少女マンガで、有名なのといえば、「ときめきトゥナイト」や「星の瞳のシルエット」あたりが代表格だろうか、当時はよく「目の中に星が入っている」揶揄されたたぐいだ。
だが、今になってわかるけれども、人の瞳、特に少年少女の瞳には、星が入っているぐらいが正常なのであって、マンガ的描写としては正しかったのだ、瞳の中に星がないくせに少女ぶろうとする現代のほうがよっぽどタチが悪いと言える。
なぜ瞳の中に星が入っているかというと、その瞳は、この世界のきらめきを見ているからだ、目ヂカラなどという愚かしい発想ではなく、「瞳に映るもの」が反映されていたという正当な描かれ方だ、今になってわかることだが、あの描写は正しかった。
まともな瞬間、少女の瞳の中には、本当に星が入っていて当たり前というような、きらめきが生じるのだ、それは「興奮する」ということではない、江藤蘭世や沢渡香澄がボーカロイドの打ち込み音源を聴いて「アガってきたwww」と興奮しているという光景は想像がつかない。

瞳のきらめきを、偽造したり加工したりしようとするのは、さすがに人の道に外れるから、やめるべきだ、こういうことが意外にゴマカシが利かないものだ、「あなたは今どんな目をしていますか?」という、直撃の問いかけ、僕はこの問いかけに背を向けるようなヒマ人にはならないでおく。
本人の気負いや主張や、空気でどうゴマカシを利かせても、けっきょく本当のところは瞳が語っているものな/瞳の中には「星」が正しいのだ、なぜなら星は光っており、静かで、ほとんど永遠のようなものだからだ、見えているものが反映されるものだ。
その人の姿や、佇まい、そして瞳の光が、直接語りかけて、その語りかけに信頼が生じないならば、いくら空気を読み合って、いわゆる「絡みやすい」という関係にしたところで、意味がないものな、いや意味がないというのは言い過ぎだが、それは尊いものにはなりえなくて当たり前だ。
くたびれたジジイやババアから好感を獲得したところで、自分の命には何の足しにもならないので、それよりは久住くんや香澄ちゃんに対してまともな友人であれたほうがはるかにマシで重要だ/いまどきそんな古い少女マンガに光を探す奴はいないだろうが、もし真壁俊や江藤蘭世をバカにする人がいたら、僕は表面上はそのことに追従し、内面では明確にその人のことを裏切るだろう、オタクというのもひどいものだがリア充というのもひどいものだ。

菊正宗清四郎に勝てるときまで、僕の傲れる日はこない。

マンガってそういうものじゃないか、いつだってわれわれに勝てないものを提示してくれる、さすがに僕はラオウとタイマンしたり、スーパーサイヤ人でもないのにフリーザの最終形態とやりあえるとは思えないが、何かちょっとはああいう奴らと、はりあえる何者かでありたい、初めの一撃だけでもいいので、「おっ」と驚かせるような奴でありたいな。
少女マンガにリアリティはない、のかもしれないが、それでいうと、現代人の「恋あい」なんて、もっとリアリティがないじゃないか/まあ少女マンガにリアリティがないというのはウソだろうね、僕はこれまでの経験上、本当に瞳の中に星がまたたいている女の子を見たことがある、僕はそうした星の瞳を認め、その他の一切をけっきょく認めていない奴でありたい。

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学門とは承認外へのアプローチのこと

ういえば、ワークショップ関連で、「助かった!」と大ウケだったのだが、多くの人は学門と承認の関係がテンヤワンヤになっているらしい。
人間には、「認識」という能力があり、物事について「わかった」と認識するとき、それは「承認した」という状態なのだが、現在の自分の理解範囲を超えるものについては、当然その対象は「承認外」にならざるをえない。
たとえば僕が、魂魄の皮膜、ノーからイエスへの移り変わりの刹那の谷間に、ナゾの爆発力があって、それが産霊(むすひ)だと言ったとする、そんなもんいきなり「わかりました」となる奴があるかよ、とんでもないド天才でないかぎりそれがいきなり「わかる」ということはない。
たとえば僕が、「空間にある『風』(指向性エコー)を捉えて、それを入れ替えると、距離感が狂いまーす」と言い、実際にやってみると、「あれ!?」と、やられた側は本当に距離感が狂うのが確認できる、そりゃやられたことの実感については「わかる」のだが、何がどうなっているのか、現象について「わかる」わけがない、説明されたら説明は「わかる」が、現象については「わからん」ままだ、どうもこの「わからん」=「承認外」であるということが、多くの人の概念にないらしい/何もかもを「わかりました」と言おうとして、テンヤワンヤになっているという実情がレポートされた。

承認外のそれが、「わかる」ようになるのは、何年も先か、何十年も先か、ともしたら一生そんなときは来ないかもしれず、一生来ないほうがパターンとしては大多数を占める、それが当たり前であって、それを五秒で「わかりました」というのはメチャクチャだ。
「わかりました」ということではなく、現時点では承認不能のことを、「教え」られたのだ、その教えられたことが「わかった!!」になるのは、いつのことになるやら、見当もつかない/そしてその承認外の、「教え」られたことに、我が身で接近していこうとすること、そのアプローチを「学門」という。
なんや爆発力があって、その産み出す爆発力を(   )という、という穴埋めがあって、その穴埋めに「むすひ!」と正答を埋めたとしても、そりゃ産霊がわかっているということじゃない、そりゃ教えられた文言を「記憶」しているだけだ、もちろん記憶もゼロになってしまうようではなおさら困るが、正確に記しておくことは大事だとして、本質はその「教え」られたことにどれだけ近づいてゆけるかだ、頭のいいヤツならそこのところをわかっていないと、ただの記憶力のいいアホになってしまう。
「瞳孔の不睨といって、にらみつけていたら見えなくなるんだ、遠山の目付といって、もっと遠くを見るんだ」と言ったとして、「わかりました」と応えたとする、その瞬間いきなりパンパカパーンと、「瞳孔の不睨!」の実物が出現するわけがあるかよ/「瞳孔の不睨と教わった、そして実物も見せてもらった、なんで自分の瞳孔はああならんのや〜?? どうしたらええんや、何がアカンのやろウォォォ〜」という、そこからの脳みその絞り込みが学門だ。

「犯人は○○です」「わかりました。逮捕してきます」

いやいやいや、んなアホな、そんなデタラメな刑事があるか、仮にカミサマに「犯人は○○です」と教わったとして、そいつが犯人だと断定するためには、確実で理に適った捜査と証拠集めをしないといけないだろう、そして数年越しに証拠が集まり、執念が実ってようやく、「わかりました、あなたが犯人ですね」となる/この刑事は数年間ずっと脳みそを絞り続け、証拠を集めて証拠品とにらめっこし続けてきたのだ、それでようやく一本の筋道を発見し、「!! わかりました」となる、これが学門と呼ばれるものだ。
仮にカミサマに「犯人は○○です」と教わったとして、まともな刑事なら、「そうなのか……まったくそうは思えないのに、ナゾだ」「何がどうなっているのだろう」「なんとかしてこれを解き明かさねば」と首をひねるはずだ/「教え」られるということは、そうして現時点では「ナゾでしかない」ことを先に教わるのであって、そのナゾを証して「わかった」にたどり着くまでを学門というのだ、なぜ多くの人が「文言記憶完了!」のときに「わかりました!」というのか僕には不思議でしょうがない。

できるオンナだね | comments(0) |
ドアホにならないために(真面目な話)4

いうわけでだ、僕は正直なところ、ウフフッと生きている人を見ると、気が遠くなるのだ。
そりゃもちろん、余計なお世話だとはわかっているのだが、何かしらん、何一つとも噛み合わずにウフフッとなっているのを見て、オゥ、テリブル、という気分になるのだ、率直にいえばもうそのたぐいを見たくないのだ。
このところ、清涼飲料水のCMを見ると、若い人々がマスゲームのように踊っているのだが、あれは僕から見ると、何の「説」でそのように動いているのかがわからないのだ、何の「説」もなしにただ動いているだけに見える、そしてそうしたものは、見ているだけで正直「怖い」のだった。
もちろん、そんなCMに対して、僕に何の意見があるのでもない、ただ僕は、「何の説もなしにただ動いているのではないか」という「説」を唱えているのだ/このところ、こうして「説」を唱えると、「なるほど」ではなく「ポカーン」という表情で迎えられることが多くなってきた、このこともやはり正直「怖い」のだった。

あなたは勉強したり、お出かけしたり、異性と絡んだり、新しいアルバイトを始めたり、するかもしれない。
ぜひその背後には、「学門のない自分になったらきっとわたしは後悔する説」や、「街中でこそ得られる作用がある説」や、「異性と敬愛しあう時間が当たり前でないとやることがなくなる説」や、「新しいことをこなすストレスが自分の地力を育てる説」などがあってほしい。
ウフフッという状態から、やりたいことをする、キョーミのあることを……ということではないのだ、自分が何をしたらよくて、また何をすべきかということは、「説」が照らし出すのだ、自分のウフフッでその日を消費して終わらせるものではない。
ウフフッという状態を、何年も続けていると、やがて「どういう説で生きているの」と訊かれたとき、「そうですねえ……えーっと……」と、ごまかして言わねばならない奴になるぞ、人はそのとき「何の説もありませんや」とスパッと答えられるものではないのだ/はっきり申し上げると、己で採択した「説」なしに生きた時間は、どれだけ多忙あるいは遊興的でも、自分が生きた時間にはなっていないものだ、必ず忘れて消去されていく、まるで本当に何もせず生きてきたみたいに。

今あなたは、何の「説」の時間を生きているか。

あなたが女性だったとして、一人の男性と出会い、「ウフフッ」となり、その男性とお近づきになり、ハダカになってセッセッセをしたとしても、それは本当に「何にもならない」ぞ、粘膜に慰めぐせがついてコントロールが利かなくなるだけだ/端的にいうと、「ウフフッ」は本当に人生の時間の無駄なのだ、あなたはこの夏、何の「説」の時間を生き、この夏、何の「説」が証されて残るのか。
……さて僕は、今ここに、どういう「説」を唱えただろうか? ウフフッという顔面の気配は控えてもらって、もう一度訊ねる、僕は今ここにどういう「説」を唱えましたか/それにズバッと回答できないということは、「説」が見えていないということだ、ここでフワフワして「えーっと、その……」とわかっているふうになるのはドアホ傾向において本当にまずい(回答例は以下続きに記載しておきます)。

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ドアホにならないために(真面目な話)3
「たくさん遊んで生きないと、怨みが残ってしまう」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「力を入れると身体は止まり、力が脱けると身体は動く」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「言語が血に入ると、言葉ではなく呪いになってしまう」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「身分差の中で、ある種の行為はカルマになり、ある種の行為はその償却になる」という、意見ではなく、「説」を唱えている。

「『我慢』をすると、我が肥大する」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「脳みそに不快をさせても、何も得られずダメージだけ残る」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「フィクションは、ノンフィクションと比較して、時間軸上を先行している」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「心臓の気魄にアクションが授受され、横隔膜の霊魂にエコーが授受される」という、意見ではなく、「説」を唱えている。

僕はこれらの「説」どおりにやっているだけで、何の努力もしてはいない。

だから、これらの「説」が、「説」として見えなければダメだ、たとえその説を採用しないとしても、説は「説」として見えなければダメだ、これは単純な知性の問題だ。
たとえば、煮物に味が染みていくのは、煮込むときの火力ではなくて、煮汁が冷えていくときの浸透圧現象なのだ……そういう「説」があるのでその通りにやってみたらよいが、このことに何の「努力」がいるのだろう? まずは説が「説」として見えなくてはならない、この「説」が見えない者は定義として「ドアホ」と認められる。
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ドアホにならないために(真面目な話)2

鍋の底は、釉薬が掛かっていないので、水洗いしないほうがいい、ひび割れの原因になるから……という「」を、金物屋の主人に聞いたことがある。
ライターのガスは、給入直後、すぐに点火しないほうがいい、ガスでメカが冷えているので、着火機構の具合が狂うから……という「」を、喫煙具屋の兄ちゃんに聞いたことがある。
目玉焼きを作るときは、卵をなるべく低くから落とし、卵に衝撃を与えないほうが、食感がグンとよくなる……という「」を、テレビ番組で聞いたことがある。
ステレオを組むときは、アンプの電源を、タコ足配線につながず一つだけコンセントにつないでやったほうが、電圧が安定して音に艶が出る……という「」を、ヨドバシカメラの店員に聞いたことがある。

「わたしは絶対に負け組にはなりたくないんです」というのは、何の「説」だろうか、「意見」ではないだろうか。
「こんなことは絶対許せません」というのは、何の「説」だろうか、「意見」ではないだろうか。
「えー、絶対うらやましい、わたしも行きたーい」というのは、何の「説」だろうか、「意見」ではないだろうか。
「○○が好きなんです、うふふ、すごくいいですよね」というのは、何の「説」だろうか、「意見」ではないだろうか。

土鍋と、ライターガスと、目玉焼きと、アンプの「説」は、あなたに入っただろうか。

知性の封鎖によって、「説」というジャンルそのものが、身に入らないという人があるのだ、その人は残念ながら、定義上「ドアホ」にならざるをえない。
あなたは若い頃就学し、部活も男女交際もし、その後就職し、その後結婚したり出産したりするかもしれないし、娯楽や趣味やスポーツもしていたりするかもしれないが、それらすべては何の「説」に立脚したものだったのだろう、そしてこれまでに、何の説が証されてきただろうか。

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ドアホにならないために(真面目な話)

「ドアホ」を定義しておこう。
「ドアホ」というのは、「そのとき思ったこと」をし、そのとき思ったことを「意見」として言う者だ。
これは、どれだけ上品ふうにしても、定義上「ドアホ」なのだ、注意されたし。
「ドアホ」というのは、自分の意見や思ったこと、あるいは行動の背後に、「説」がないのだ、だから時代の気分だけでいくらでもズルズル行方不明になる、これは性格の問題ではなく残念ながら知性の問題だ。

そのときだけフォォォと、「やる気」になってもダメなのだ、またアンニュイになってもダメだし、エロティックになってもダメなのだ、残念ながらそれは感性でも何でもなく、ただの気分屋、もしくはそれより下位の、体内物質に支配されるだけの物体人間でしかない。
誰だって、「今何をすべきか」という問いかけ、あるいは分岐路の前に立たされているものだが、この問いかけと分岐路に対して、「説」で行動を決定する者と、「そのとき思ったこと」で行動を決定する者があるのだ、後者は定義上「ドアホ」であって、これは後々本当にヒサンなことになるから、なんとかこのドアホ路線は避けられたらいい。
つまり一方には、「わたし厳しいことに挑戦します!」と、そのときの気分で「思ったこと」を選ぶだけの人があり、もう一方には、「人はけっきょく、自らに課した厳しさの総量によってのみ、その行き先のグレードが決定するのでは?」というから、「厳しいほうを選びます」という選択をする人があるのだ、この両者は実は互いにまったく話が噛み合っていない。
まともな人は、行動のすべてが何かしらの「説」に立脚しているのに対し、「ドアホ」というのは、そのときの気分を探して「思うこと」に支配されているだけなのだ、この「ドアホ」のリスクは十分に鑑みられるべきで、誰だって自分にその点検を課すほうがいい。

あなたはどういう「説」で生きていますか。

たとえばあなたが女性だったとしたら、「女はどう生きるべき」だろうか? その問いかけを前にしたとき、これまで構築してきた「説」をレポートする人もあれば、一方で、そのとき「思うこと」「気分」だけで慌てて「意見」する人もある、この後者は本当にタチが悪い(仮説を検討し合っているところに「思うこと」をブッ込んでくるのでタチが悪い)。
男でも女でも、たとえば「うつくしく生きよう」とするとき、まず「どう生きればうつくしくなりうるか?」ということについて、一定の「説」が見つかる必要がある、そして人が生きるというのは、その「説」を半ば自らの身で実証してみせようという試みでもあるのだ/定義上「ドアホ」は、この「説」の試みから完全な門外漢になっている。

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格はずし2

に、エコーは格の外だから、心身にエコー命令を通してやれば、格の呪縛から離脱できる(わけのわからん話が続いてすまんね……)。
どうも、冷静になってきたんだが、これ、多くの人がこれまで、生きてくる中で「マスターのエコー命令」を受けたことがないので、わけのわからん反発心を持っているだけじゃないのかね、なんかそんな気がしてきた。
今多くの人が、自分が「キャラ」になってしまって、そのことを筆頭とした、際限のない「呪縛生活」に嵌まり込んでいるのだが、これ、道のりは遠いにしても、すでに解呪の鍵は見つかってしまったのでは? つまり小さな「命」(命令)を与えてやって、それを糸口に、次第にすべてを「命」で上書きするというだけじゃないのか。
エコー命令で、格はずしをしてやって、そうしたら小さくても命は宿るから、じゃあウダウダ言っとらんでエコー命令をガンガン流し込んでやったほうが早いんじゃないのか/つまりお前らが習って学んで努力するより、おれがおもちゃにしてやったほうが早えぞということだが、ウーンいかにもそんな感じがするなあ、だからこそいよいよメンドクセーということでもある。

エコー命令を通すということは、エコーに従属させるということだ。
ロマンチックだなあ、と改めて思うのだが、それにしても、何のエコーに従属させるかだ、どうせ呪われし民()はジタバタ暴れるに決まっているのだし……
歌と踊りのエコー、言葉のエコー、うーん、愛の問題になってくるな、こりゃもともとやっぱり、学校とか部活動とかがちゃんとあったほうがよかったんだよ! とまあ、そんなことを言っていても愚痴にしかならないが、愚痴も言いたくなるのだった。
「格はずし」か/なんでえけっきょく、おれが多くの人のリクエストを聞いて丸くなったのに、そのことがてめーらの首を絞めているんじゃないか、おれが若いやつをおもちゃにしてゲラゲラ笑っているのがベストだったのだ、あーあこんなことになっちまってどーーーするんだよ〜(愚痴)。

おれのおもちゃだけが救われる。

そんなデタラメな話があるか、と言いたくなるのだが、しょうがないのだ、理論上マジでこうなんだよ、しかもおれ自身は、もうかなりおもちゃ遊びへの関心は失っていて、どーーーするよという状態なのだった、一昔前はもう少し何かやりようがあった気がするんだが……
まあいいや、ちょっとマジメに考えよう、この先は愛の問題だというのはわかるが、この場合、愛の対象をどこに捉えるかの問題があるのだった/うーんみんな愛に正直に生きようね、さあておれの愛するおもちゃだけが救われるぜ。

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マスターから教わるのは別

「知っている人から教わる」「わかっている人から教わる」「出来ている人から教わる」というのと、「マスターから教わる」というのは別だ。
マスターから教わるのは別」と、覚えておいたらいいかもしれない、マスターというのはある意味「宗家」みたいなところがあるが、どういうことかというと、マスターというのは「その先に遡れる先生がいない」ということだ。
もちろんどんな人だって、色んなことを学んでいくのに、師匠にあたるような人が存在したはずだけれど、「マスター」になると別なのだ、「マスター」に到達してしまえば、もう誰に教わったとか誰が師匠とか、そういうことは関係なくなる、もちろん尊崇や敬愛は残るだろうが、そうではなく、つまりもう誰かの弟子ではなくなるのだ。
「マスター」に到達すると、物事の事象がガラッと変わる、「マスター」はつまり、「世界」から直接「どうしたらいいか」を受け取っているのだ、つまり言葉・学門・世界そのものからエコー命令を受けて動いている、だから「マスターから教わるのは別」だ、マスターというのは一般的な人間関係の法外にある。

一般に、物事に熟達していくと、熟達度合いによって「格上」になっていく。
これが、「マスター」ということになると、ガラッと変わるのだ、マスターというのは「格の外」なのだ、格上の格上の格上……を目指してたとして、「マスター」は格そのものから離脱しているのだ、だからいっそ、「○○流の宗家というのは、○○流の師範ではない」と捉えておいたらいい、それぐらい「マスターから教わるのは別」だ。
師範や師範代から「教わり」、修練を積んでいくということと、「マスター・トライアルをする」ということは、まったく別なのだ、師範だけを目指す人はマスターにはなりえない、よって、厳密には師範を目指すことは「道」ではないということになる/師範というのは、弟子や生徒を前提とした格付け上の定義であるのに対し、「マスター」というのは、弟子や生徒がいなくても単体で存在する、マスターはただのマスターなのだ。
人それぞれ、どんな道をゆくにせよ、大前提に「マスター・トライアル」がなければ、人は実は、いかなる努力をしても「道」を進んでいることにはならないのだ/仮に「○○道」の道場があったとして、師範だけを目指した人は、道場に住み続けるしかなくなる、マスター・トライアルがなければ「世界」に生きることはできないのだ、そうなると狭い道場の中や、狭い舞台の中、あるいは狭いカンバスの中に閉じ込められるしかなくなってしまう。

宇宙物理学者の居場所は、宇宙であって大学ではない。

宇宙物理学者は、宇宙と取っ組み合いがしたいのであり、大学で幅を利かせたいのではないのだ/宇宙物理学者は、宇宙と取っ組み合いをするのに、大学が環境と予算を用意してくれるので、大学の教授職にあるにすぎず、もしその環境と予算が得られるなら、別に郵便局員でもいいのだ、宇宙と取っ組み合いをするのに夢中なのだから、人の世の格付けなんかまったく関心を失っている(実際、ペレリマンという数学者は、ポアンカレ予想という大問題を証明したあと、フィールズ賞を受け取らず、ミレニアム賞の一億円も受け取らず、どこかに雲隠れしてしまった、「自分の証明が正しければ賞は必要ない」そうだ)。
マスターだけが「格」の法外なので、マスターだけが「世界」に直接存在でき、だからこそマスターは「教え」の伝播に頼らず、エコーで直接教えることができる、同じ「教える」といっても作用の理法が違うのだ/どんな小さなことでもいいし、どんなガタガタの状態でもいいので、格をはずして「マスター・トライアル」を大前提にするべきだ、そうでなければいかなる努力も一切「道」を進んではいないことになってしまう。

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格はずし

目黒の熱帯夜、灰色ニット/肩丸出しの女が/カールさせた栗色の髪/友達らと連れだって/とんがった口紅/ストローを差されたかき氷/ショートパンツからアジアの素足/膝頭かわるがわる歩いてゆく
なんてうつくしいのだろうと僕は思う、僕は今日これを考えた、ややこしくなってしまった人は別にして、「格はずし」のことは誰に教えてもよいのではないか、まして肩丸出しの、これから行ける勇敢さのある少女に向けては。
人は、なおも、うつくしくあろうとしている、そして、単純な誤解がある……彼女らは・彼らは、意地を張っているのでは実はない、ごく単純な誤解があって、うつくしくなる・うつくしくあるということは、己を格付けてゆくことであり、格上げしてゆくことだと思っているのだ。
それは誤謬というより、正しいことを知らされないまま来ているだけの、無垢な不具合にすぎず……少なくとも、正しく教わればパッと誤解をやめてしまう、勇敢な人たちが残されているのは確かなのだ/うつくしい灰色ニットを尻目に、僕は「格はずし」のことをやっていこうと考えた。

ややこしくなってしまった人は、しょうがないけれど……
「格」をはずす、何であれば、「人格」まで外してもかまわない、人格を外しても、そこに世界と「人」は残るのだから/多くの人は単純に、格付けを足していくことが、己をうつくしくすることだと誤解していて、格をはずしたら醜くなるのではないかと、誤解している、この誤解はただ正しいことを断言するだけで解消できる。
格をはずしたら、めちゃくちゃになってしまう? そんなことはまったくなくて、格を外したら何かとんでもないことになるという、その予感さえ含めて思い込みだ、もちろん格を外して何もないスッカラカンだと話にならないが、そこはエコーを通してやればいい、エコーの命令を通してやれば、そこに命が宿る、命が宿ることを見つけたら、思い込まされた人格などさして業務以外では必要ないのだ。
エコーで格をはずす、「エコーで格をはずします」と、僕がはっきりやればいいのだ、僕がというよりはマスターが、はっきりそれをやればいい、ああすべての両親とすべての教師がマスターだったらよかったのにな。

「エコーで格をはずします」

バーカ、ゴミ野郎、と、そんなことを言われる腹が立つ、どうしてそんなことを言われると腹が立つ? それは誰かがあなたを見ているからだ、誰かがあなたの人格という格付けをじろじろ見ているから、格で揉めて血と僻みが沸き立つのだ、マスターはあなたの人格を見ないだろう、マスターは世界とあなたを見るが、あなたはしょせんこの世界の同体であるから、世界はエコーであり、あなたもエコーになる、評価の一切は命令ではないので、いかなる評価にも命は反応しない。
エコーで格をはずします、それはあなたが、命と世界に還るために、このことはすぐに実現可能だ/ただし、ややこしくなってしまった人を除いては、そりゃ人それぞれ事情ってものがあるんだろう。

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「できない」というすばらしいこと2(理法が違う)

しいことを教えられたとき、「で、できね〜」と反応する人はすばらしい。
なぜなら、「理法が違う」ということに気づいているからだ。
「理法が違う」「自分のやっていることと違う」「やり方がそもそも違う」ということに気づいているから、「で、できね〜」となる。
この、「理法が違う」ということに気づいていない人は、「できね〜」ではなく「むつかしいですね」という反応になる、こちらは新しい理法への切り替えが起こらないので、そのままでは何もできるようにはならない(だから損だ)。

たとえば、ゴミ箱にゴミを投げ入れるとき、ゴミ箱が近ければ「かんたん」で、ゴミ箱が遠ければ「むつかしい」だ、これはただの難易度の問題だ。
単に、ゴミを投げ入れるだけなので、「かんたん」でも「むつかしい」でも、理法は同じだ、これまでどおり、「狙って投げる」だけでいいし、それ以外に方法はない。
だが、これまで人に「意識」を向けていたものを、急に「意識を向けず、胴体に流れているものを向けて、相手とつなぐ」なんて言われた日にゃ、それはもうまるっきり理法が違う/ここで、この「新しいこと」に飛び込んで、「で、できね〜」となるのはまったく正しい反応だ。
ここで、まるっきり別の理法が示されているということに気づかず、どことなく楽しそうに、「がんばります」「むつかしいですね」と反応している人は、これまでの自前の理法のままを続けてしまうので、転換が起こらない/それどころか、これまでの自前の理法をけっきょく強化することになり、見当違いのパワーアップをしてしまう、これは合目的的に見て損だ。

「わたしを認めないでください」が最短の入口だ。

僕自身、思えばそのことを第一に繰り返してきたわけだ、「おれが面白くないのに愛想笑いをしないでくれ」「おれのやっていることが視えなければお追従(ついしょう)しないでくれ」「はいはい、それでいい、もっとプレッシャーをかけてください」と/それらのお追従を剥ぎ取ったとき、真実何が届いているのか、それとも何も届いていないのか、そこをさっさと暴き立てないでは時間がムダになってしょうがない、僕はいつも「絶対に視えるようにやるので、視えるまで勝手に動かないでください」と言い立ててきた。
こちらが愛想良くし、人好きする意識を向ければ、向こうも空気を読んでそれに付き合ってくれる、それもひとつの理法ではある、だけど僕がわざわざ教えようとする理法はそれとは異なる、別にどちらの理法が正しいというわけではないが、僕がお追従の理法を「できねー」のと同じで、お追従の側は僕の理法を第一に「できねー」はずだ。

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「できない」というすばらしいこと
ークショップの途中、「で、できね〜」「コンタクトできね〜」という人がいた/これはとてもすばらしいことだと思う。
なぜなら、率直に言ってアホちんは、そういうときに「むつかしいですね」と言うからだ。
この、「むつかしいですね」は、たいへんに鬼門であって、これが出てくる人は、基本的に万事が何一つ進まない。
この人にとっては、戦闘機の操縦も「むつかしいですね」だし、エベレスト登頂も「むつかしいですね」、トリプルアクセルも「むつかしいですね」、ダークソウルRTAで一時間を切るのも「むつかしいですね」、般若心経も「むつかしいですね」、ムーンウォークも「むつかしいですね」、ハーバードに入るのも「むつかしいですね」、三船十段の空気投げも「むつかしいですね」だからだ、それで本人の実力はというと、初代スーパーマリオもクリアできないのだが、そうしてすべてが「むつかしいですね、うふふっ」で過ぎてしまうのだ。

こういう「無敵マン」の人はけっこうな割合で存在していて、何が無敵かというと、この人はどんなことでも「誰かが教えてくれれば」、すべて超一流で出来るという前提でいるのだ、これは誇張でも何でもなく、いわゆる幼児的万能感というやつだ。
だからこの人は、たとえば目の前に超一流の板前がいて、その彼がとんでもない味覚の繊細さと、人間離れした静寂の包丁さばきを持っていたとしても、「自分も同じだけ習えば同じようになれる」と思って眺めているのだ、だから「すごい!!」と感嘆しない、ただ本人に包丁を握らせると、リンゴの皮むきにさえモタモタするので、「むつかしいですね、うふふっ」という感じになる/そして、誰もわざわざ習うようなことではないはずのリンゴの皮むきでも、「皮むきの仕方を教えてください」と他人任せモードに移項するのだ、そのとき、やはり根底で「ちゃんと教わればわたしはぜったいにできます!」という怒りのような確信がある。
たとえば、車の運転がヘタな人は、もし運転を上手になろうとするならば、何かを根本的に「変える」必要があるはずだが、無敵マンの人は大前提として自分を何か「完璧」と思っているので、自分の何かを「変える」という発想がない、<<ちゃんと教わればできるはずだ>>と思い込んでいるので、自分を変えることはまったくないまま、やり方を教えてくれる人に丸投げする態度になる、それこそが無敵マンの人にとっては「誠実で一所懸命、努力」という感覚なのだ、これはもうマジの話なので責め立てる気にもなれない。
大変まずい話、「むつかしいですね」が口から出てくる人は、「できる」「できない」でいうと、すでに「できる」側の感覚でいるのだ、だからできないことへのアプローチは構造上一切の不可能になる、まあ幼児的万能感の保持のほうが優先なら致し方ないのだが、合理的に考えると「で、できね〜」のほうが利益的だとおすすめしたい。

「で、できね〜」と言っている人のみ、「何が違うのか?」を見つめる眼差しを持っている。

「むつかしいですね、うふふっ」のパターンの人は、あとは努力すればできるので(と本人は思っているので)、「何が違うのか」を見つめて探す眼差しがないのだ、そりゃそんなもの必要ないのだから、そんな眼差しは出てこないに決まっている、だからこのタイプの人の努力は必ず盲目的になる、盲目的になるので、「やっていることが違う」ということに何十年経っても気づかないままなのだ。
たとえば僕の場合、速い球を投げる人や、サッカーボールを蹴って遠くまで飛ばす人が、どうやっているのか「うぬむむぐ、さっぱりわからん!!」のだ、そして自分でやってみると、「んぬくえおおおあ、さっぱりできん!!」のだ、なーにが違うんだろうなと思って、よくyoutubeを見るのだが、どれだけ解説されても、「わからん!」「できん!」のだった、それでいいのだ、「むつかしいですね」とはまったく思わない、自分ができねーのにむつかしいもヘッタクレもないわ。
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手を使うこと、「その手があったか」

そらく、どんなジャンルでもいいから、まっとうなことに、「複雑に手を使う」という作業が、暮らしの中であったほうがいい。
ピアノを弾くことや、タイピングすることでもいい、あるいは編み物であったり、料理や洗い物でもいいかもしれない、「力を使うのではなく、手の複雑な形を使うこと」だ。
どうも、僕の経験上、たとえばバットを振り回したりダンベルを持ち上げたり、腕立て伏せをしたり、重量物を運んだりするだけで、手の複雑作業というと「うーん、スマホのフリック入力ぐらいかなあ」という人は、何かの「相」が悪い気がする、根拠はないので、ただの与太話だが。
僕の経験上、ルール脳の人、あるいは、何かに「触れる」という能力がバカになっている人は、長い間、「手」の複雑な形を使っていない、という印象があるのだ/手先が器用かどうかの問題ではなく、手の「形」が限定されていることに、何か悪い相を感じてならない。

仏像を見ると、その手は投げ出されてはおらず、たいてい何かしらの「印」を結んでいる、その印が何を意味するのかはまったくわからないけれども、とにかく仏像の「手の形」はかなり幽玄に複雑な形をとっているのがわかる。
あくまで仮説というか、与太話だが、どうも僕の直観上、われわれはなるべく単純作業でない複雑な「手作業」「手でものに触れること」で、知らぬまに手がいくつもの「印」を結んでおり、その中で啓かれていく何かがあるんじゃないのかという気がする、もちろんひとつひとつの印なんてわれわれにはわかりっこないので、「たくさん複雑に動かしている奴のほうが格段に有利」というだけでしかないけれども。
僕はいつも、古くから使われている言葉、漢字、熟語などを学門の手かがりとして重要視するが、それこそ「手がかり」というのも手という字を使うし、「手段」「一手」「手ほどき」「手抜き」「手こずる」「打つ手がない」「その手があったか」等、「手」に関わる熟語や慣用句は極端に多いのだ、どうもこのあたり、以前から、「何か、『手』というのは、思っているよりもヤバい器官なのか?」という気がしてならない。
僕には、人の手相を見るというような趣味はないが、手のひらのシワがどうこうというより、「手」そのものの印象として、手が「見えない」とか「くぐもっている」とか「固まっている」「こわばっている」「手そのものがない」とかの印象を受けることはよくある、そして「手」がトラブって見える人はたいてい、ロクな状態にないものだ、たぶん暮らしの中で、フリック入力しか手作業はしませんというのは見えざるレベルで「ヤバい」のだと思う。

あなたの「手」がこれまでに付き合ってきたものを思い出してみよう。

誰だって生活上、小銭に触れながら生きているはずだが、それは手品師がコインに「触れてきた」ということとは、内実が違うだろう、その意味ではあなたの手は何に触れてきたか/逆に考えれば、あなたの手垢が最もついているものは何だ。
僕はこれまでに、千匹以上の犬に触れてきただろうし、トカゲやらカエルやら、もちろん女性にも、そして十代のころは手品師だったし、ずっとゲームコントローラーを握っていたし、指揮棒に触れていた時期もあったし、手巻きタバコを15秒で巻くし、今も僕のデスクのシートは手を乗せる部分で剥げ、チェアの肘当ては両側とも穴が空き、キーボードの刻印は指で擦られて消えかかっているのだが、もし「手」そのものに学習と「印」を結ぶ能力があるのだとしたら、これまで「手」が触れてきた対象と経験の量は膨大な差を生み出すはずだ/ひょっとすると単純に、「手を使い込んできた奴には勝てっこない」という現象があるのかもしれない、だとしたら暮らしの中に手の作業がないのは損だ。

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ルール脳と学門脳3

「人間の身体は、力を入れると"止まり"、力が抜けると"動く"ものだ、だから力で動いちゃダメ、『抜けて動く』の」と説明する。
すると、どうしても、「えーっと、抜けて動くんですよね」と確認される、僕は「そうだね」と答えるしかない。
僕は学門の話をしているのだが、どうしてもルール脳の人は、「抜けて動く」というのが「ルール」だと思うのだ、そしてそのルールを守れば何か正しい動き方ができるという発想になってしまう。
もちろん、そんなルールがもしあれば、守ればいいのかもしれないが、別にそんなルールは「ない」ので、ありもしないルールを守ったところで何にもならない、そして困ったことに、そのありもしないルールを守っているつもりの当人は、誰より自分が「がんばっている」つもりになるので、誰よりも興奮するのだ、それで手が付けられなくなってしまう。

テーブルの下に、手のひらを上にして、前腕を入れてみる、そしてテーブルを持ち上げてみる、そして次に、今度は手の甲を上にして、前腕を入れてみる、そしてテーブルを持ち上げてみると、なぜか手の甲を上にしたほうがラクに持ち上がるということがわかる。
このとき、学門脳の人は、実際にやってみて、「えっ!? ホントだ!」ということで驚く、びっくりして「すごい」「なにこれ」という反応をする、これは学門脳特有の「発見」がはたらいているからだ、これまでの思い込みがはがれて新しい発見を得ることによろこびを覚えている。
物を持ち上げるとき、手のひらを上にするほうが、「力が入りやすい」というだけで、強い力が出ているわけではないのだ、腕に力が入ると、「力感」は強く得られるが、それは強い力が出ているということではない、まったく意外な感触だが、手の甲の側へ持ち上げる力のほうが実力としては強いのだ。
このとき、ルール脳の人は、「えっ!? ホントだ!」という驚きがなく、「これって、手の甲の側のほうが強いんですよね」というルールに加工して、そのルールを持ち帰ろうとするのだ、この人は「膝を抜いて動く」というのもルールだと思っているし、全身を「伸ばせばつながる」というのもルールだと思っている、これでは「えっ!? ホントだ!」という驚きの瞬間はいつまでたってもやってこない。

だから、いくら覚えても、自分で説明(説き明かすこと)ができない。

ルール脳の人は、自分がルール脳であるため、他人に対しても「ルールを押しつける」ということしかできない、そしてルール脳は学門脳より格上であるため、どうしても居丈高に、上から目線でモノを言うことになる/「ここに郵便番号を書くの」「二酸化マンガンが触媒なの」「手の甲側のほうが強いの」「とにかく抜けて動くの」「伸ばせばつながるの」というふうに、とにかく押しつけて言うことしかできない。
これはまったく「説き明かす」ということになっていないため、自分自身にも、説き明かしがまったく得られていない状態になる、「とにかくこういうふうにするのが正しいらしい」というルールを自分にもゴリ押しするのだ、それで何かになるのならまだマシなのだが、それは本当に何にもならないので、キツイのだった/この問題は、ルール脳者が「ルールに呪縛されている」ということに気づくことでしか解決しない。

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ルール脳と学門脳2

ール脳の人は、「殺人をしたら警察が捕まえにくる」と確信している。
そして、それが「法律だ」と確信している。
しかし正確には、殺人は立件されると「事件」になり、「事件」は「解決」しようと国家(司法)の統治権力がはたらき、その結果警察と検察の捜査権が発動され、逮捕されると刑事裁判になり、判決が下ると「事件解決」になる、というのが法律だが、こう言われるとルール脳の人は「確信」がなくなってしまう。
法律は、学門上、「社会契約をしたとみなされる市民が合意の上で認めたとされる統治制度の権力が法文のとおりに執行・実力行使されること」と捉えてよいと思うが、このことがルール脳の人にとっては「???」なのだ、法律ってそういうものだよという「確信」がまったく得られてこない。

多くの人は、「殺人をしたら警察が捕まえにくる」「刑務所に入れて罪を償わせるために」と思っているが、これは言ってみれば、自分が勝手に自作した「ルール」でしかなく、法律でも何でもない。
実際、刑法に定義されているのは基本的に懲役刑・禁固刑・罰金刑・死刑といった「刑罰」であって、賠償は民法の定義だから、刑務所と「償い」は関係がない。
これは、学門脳の人にとっては脳みそレベルの快感がある話なのだが、ルール脳の人にとっては、逆に脳みそレベルの不快感がある話なのだ、法律という学門が自分のルール脳に反するということが、実はかなり強烈な不快感をもたらす/制度に囚われている人は、制度の背景には遡れないので、制度の背景に学門があるということには強烈な不快感と不可視(見えない)感を覚える。
ルール脳の人は、いわば脳の接続範囲が「制度以上」に限定されているので、「制度」より背後に遡ろうとすると、「キーッ!」という不快感をもよおすのだ、この不快感は脳レベルのものなので非常に耐えがたいものになる/だからルール脳の人は、「なぜ過酸化水素水に二酸化マンガンを加えると酸素が発生しますか」と問われると、ついに「学校でそう習ったから!」と答え、その解答に快感を覚える。

ルール脳は、学門脳より「格上」だ。

ルール脳は、制度「以上」に限定されてはたらくのに対し、学門脳は、制度「以下」にもはたらくので、学門脳のほうに格はなく、ルール脳のほうには格があるということになる、なぜというものではなく、それが「格」というものだ、「格」とは規格や格納といった熟語に表されるように、「その線引きから出ないように区切る」という意味だ。
「殺人をしたら警察が捕まえにくる」という思い込みに対し、「それが法律だ」という人のほうが格が高く、「そういう制度ですな」という人のほうが格がない/単純に考えて、たとえばあなたの母親と僕が対面することを考えたら、そのときはあなたの母親のほうが僕より「格上」の関係になるはずだ、僕のようなルール失格者が誰かの格上になることはまずない、そして脳みそが「キーッ」となる不快感はすべて、格上が格下に理を言われるから「キーッ」となる。

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ルール脳と学門脳

便物を送るときには、郵便番号を書き、住所と宛名を書いてポストに入れる。
そのことについては、あなたは「確信」があると思う。
一方で、「過酸化水素水に二酸化マンガンを入れると酸素が発生する」ということについては、「たしかそうだったはず」とは記憶しているが、「確信」はないのじゃないか。
郵便物に郵便番号を書くのは「ルール」で、過酸化水素水に二酸化マンガンを入れたら酸素が出るというのは、「ルール」じゃなくて学門だ/ルール脳で生きている人は、どれだけ学門に触れても、その学門が確信を与えてくれないという状態にある、これは脳の性質を切り替える必要がある。

人の脳は、ルールにだまされるのだ。
「ルール」が、「存在」するものだと思い込まされて、脳みそがルール脳になってしまう。
「過酸化水素水に二酸化マンガンを入れると酸素が発生する」と、記憶はしているのに、なぜか「確信」が持てないのは、「そう解答したら○がついて点数をもらえた」という、学校ルールの記憶が刻まれているからだ。
あなたは、穴埋めの問題として、「過酸化水素水に二酸化マンガンを入れると(  )が発生する」という設問があったとき、そこに「酸素!」と答えることには確信がある、しかし、過酸化水素水から酸素が出るという実際のことについては確信がない/テストで点数がもらえる確信[ルール]はあるのだが、過酸化水素水から酸素がもらえる確信[学門]はないのだ、これは典型的なルール脳の症状で、このままでは学門を身につけることができない。

郵便物に郵便番号を書く確信は、制度であって学門じゃない。

ルール脳の人は、自分が制度に縛られているのに、「制度」のことをよく知らないから、自分が縛られているのがわからないのだ、そして「ルール」がこの世界だと思っているので、過酸化水素水に二酸化マンガンを入れると酸素が出るのも、どこかそういう「ルール」だと思っているのだ、ルールとは関係なくこの世界が存在しているということが根っこのところでわかっていない。
たとえば僕が、「別に二酸化マンガンでなくても、そのへんの砂をブッ込んでも、酸素は出るんじゃない? 過酸化水素水なんだから」と言うと、ルール脳の人にとっては「???」となる、これまでに与えられてきたルールとして、「そのへんの砂をブッ込む」というルールは習ってきていないからだ/しかし当然ながら、本来の学門というのは、「過酸化水素水にそのへんの砂をブッ込んだらどうなるか」ということが理知で推測できるから学門なのだ、それはルールではなく理の知識だ。

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池上彰についていけば間違いない

金の余裕がプールされていて、その使い道が特にないなら、池上彰の著作を全部買ってしまえばいい。
今、池上彰氏の知識とその教授が、わかりやすく、正確で、核心を突いており、スリルに満ちている。
なぜ「スリル」に満ちているかは、正しい知識が獲得されていくとわかる、池上氏がどういう境界線でギリギリの中立を保ち、しかし本当には何を企んでいる男なのか、それが見えてくると、本当に見ていてほれぼれする。
池上氏は、本当に頭が良く、賢明で、ウイットに富み、タフで、すさまじい精神力を持ち、かつ熱い男だ、彼は単にわれわれに知識を与えようとしてくれているのではなくて、彼は知性の工作を仕掛けてきている、いわば知性のテロリストというような男だ、このタフガイについていけば基本的に間違いない、あなたは決してバカにはならない。

旧約聖書は、ざっくり言えばモーセが書いたものであり、新約聖書は、キリスト以降の弟子たちが書いたものだ、それぞれ書かれた時期は一五〇〇年以上離れている。
そして、ムハンマドがコーランを預かったことについてもそうだが、中東方面を発端とする宗教は、「奇蹟というものがマジである」ということから始まっている、なんとなく山ごもりしていたムハンマドは、ある日突然、長大な詩文であるコーランを暗唱して帰ってきたのだ、しかしムハンマドは文盲であり、字が読めない男だった、人々は「んなアホな」とびっくりしたことだろう。
人智を超えた事象がマジで目の前に示されるので、「これをどうしよう」「こりゃマジでカミサマがいてはるわ」というところから宗教が始まっている、決して道徳や世間知の集積から宗教が形成されたのではなく、人間のものではないカミサマの言葉を預かってしまう、「なんだこりゃ」に直面して宗教が興っているのだ/そして、こうして興った宗教から、社会が形成されていったのであり、その逆ではないのだ、社会が宗教を生み出したのではない、そして宗教側の本質に触れている立場の人は、人々がこの点を誤解していることについて、「知ったことか、ほっとけ」という考え方なのだ、つまりあなたは誤解したまま放っておかれている。
そしてここにきて、最先端の物理学が、宇宙の成り立ちを解明していくと、どうも物理学の結論が、それぞれの宗教が語っている宇宙の成り立ちと、符合してくるようなのだ、それも含めて「どうやら奇蹟とかカミサマとかいうのは、信仰のモンではなく、マジのモンらしい」と思い知らされる、そういう局面に、今人類のストーリィは来ている、あなたは放っておかれているが/そうした奇蹟と宗教と社会と学門が本質的に「何だったのか」を、総合的に、池上彰はあなたにブチ込もうとしている、しれっと「ジャーナリストです」という顔をしているが、なんとまあ熱い男だと、見ていてほれぼれする。

池上彰があなたの父親でいい。

現在の父親には、ちょっと席を移動していただいてだ、池上彰を私淑し、師父に仰ぐというのは、今もっとも有益でスリリングでバランスがよいと思う、池上彰を指して「この人がわたしの父ですから」というのは、機知に富んで、何もアタマのおかしい話ではない。
池上氏は、本当にスリリングな叡智の活動を、ギリギリのバランスで展開しており、場合によっては本当に暗殺されてもおかしくないような方だ、きっとあの方は、われわれの知らないことを知っている(知ってしまっている)/あなたも人生に一度くらい、「この人の新刊を楽しみにする」という経験を持ったらいい、それはあなたの生きたひとつの時代になるだろう。

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今日は「余韻法」をやりま〜す
、今日は東京、19時から雨が降るのか止むのか、本当にビミョーだな。
ううむ、前線は北へ逸れると信じて、とりあえず強行だ、世田谷公園にいこう、どうせ今からでは19時代のスタジオは取れないし、そんなに本格的にやるのも面倒くさい、公園でやりましょ。
小雨なりでも降るかもだから、今回は金魚法だけではなく、余韻法も用意していこう、余韻法は新しいワークだ、まあこれは例によって「で、できね〜」というワークになるが、そうして「できねー」やつほど、実現すべき本質に近くにある(当たり前)。
たとえば手のひらをパンと打ち鳴らすだけでも、フィクションとノンフィクションの分岐点が生まれるのだが、この分岐点で、自分も分離されて並行に機能を続けねばならないのだ、前に言った「魂魄分離論」というやつ、ここが分離並行で機能しないと、一方は「現実〜」に偏り、一方は「空想……」に偏ることになる、この差異は目の前で実演されたら一発でわかる。

思えば、今やっているワーク群は、すべて「分かれ目」にばかり注目していることになる、その分かれ目を「実際に自分でやってみよう!」というやつだ、われながらシンプルでよろしい。
そして、ある意味予想通りのことではあるが、この「分かれ目」を実際にやってみると、多くの人はけっきょく、その分かれ目が「きらい」なのだ、むしろアンチとなって、その「分かれ目」なるものを壊しにかかりたくなるという現象が発生する/この現象については僕は口出ししない、それはワークの問題ではなく人それぞれの選択の問題だからだ。
なぜ「分かれ目」に対するアンチが発生するかというと、いわゆる自己愛があるからだ、人は自分の囚われる「現実」と長年付き合っており、その執着を「わたし」にしている、そして一方で、現実を紛らわす「空想」にも、長年の思い入れを持っている、「分かれ目」の方法はこの両方を同時に消失させてしまうから、いくら正しいにせよ、人々は否定と攻撃に傾くのだ/他人がやっていることについては、その「分かれ目」が正しいと見えるのだが、自分がやるとなると、その「分かれ目」はとってもイヤなのだ、これはむしろワークに取り組む上での大前提といえる。
手のひらをパンと打ち鳴らした直後、ノンフィクション側では「時間が流れ」、フィクション側では「余韻が残る」ことになる、こりゃどちらとも「当たり前」なのだが、この両方に同時につながっていくとき、まったく別のことが起こる/まったく別なことが起こるぶん、これまでにあったいつものこと、つまり「わたし」という吾我が消えてしまう、このことが許しがたいので、多くの人は否定に転じるのだ、それは別に悪い選択ではない(が、僕の指示するワークではない)。

誰でもできるが、「わたし」にはできない。

これは「誰でもできる」ものなので、逆にいうと、あなたがその「誰でもできる」を身につけないといけない、ということになる/「わたし」のやつをやりたい人は、それは「わたし」にしかできないやつなので、「誰にでもできる」のやつではないはずだ、ここを取り違えていると永遠に時間の無駄になってしまう。
これは「誰でもできる」のやつなので、言ってみれば、「みんなのやつ」なのだ、「わたしのやつ」ではなくてね、そして「みんなのやつ」より「わたしのやつ」が好きというか、そちらばかり大事な人は、ワークうんぬんに用事はない/手のひらをパンと鳴らしたとき、「時間が流れる」はみんなのやつだし、「余韻が残る」のもみんなのやつだろう、そこに「どう思うか」「どうイメージするか」などは、「あなたのやつ」だ、この「あなたのやつ」に注目するかぎり僕の話していることは何一つ伝わらないし、また本質的に伝わる必要もない。
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