☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
同じ生きるなら大好きな日々を生きるほうがいい

じ生きるなら大好きな日々を生きるほうがいい。
どうやったら大好きな日々を生きられるか、ということになりそうだが、おれはどうしても、「どうやったら大好きな日々じゃなくなるんだよ」という発想しか出てこない。
多くの人には自信も才能もないと思うが、かといっておれも別に、自信や才能があるわけではないのだ、いや仮にそれらがいくばくかあったとしても、そのことを「大好きな日々を生きる」ということには一切使っていない、だから自信やら才能やらは無関係だ。
おれには、おれが何をどうやっているのかよくわからないし、かといって他の人が何をどうやっているかもよくわからないのだった、だから「わかりません」ということになるが、何とも無力な記事だな、それにしてもおれはウソをつきたくないので、ただただ本当のことを話しているのだった。

おれは子供のころから、人の話を聞くのが好きだった。
同時に、他人の話なんかまったく聞いていないし、何らアテにもしていない、とも思う。
おれにとって、人はときおり存在しているのだが、他人は存在していないように思う、他人なんか存在していてもまるきりゴミというか……その意味では、「地獄とは他人のことだ」というサルトルの捨て台詞は正鵠を射ているように思うし、「他人なんか存在するのはサルトルよテメーがダサいだけだ」と断言するのに迷いはないのだった。
おれには話の合わない他人というのは存在しておらず、まあだからこそアレだな、おれと話が合わない奴は当人が慌てるというかビビるのだ、そして現時点のおれと話が合うというのはそんなに容易なことではない、おれがあなたを否定しているのではなくて、あなたがおれを他人として合わせようとしているからあなたが慌ててビビることになるのだ、そりゃ他人と合わせようとしたって合わないよ。

おれの誤っている話を聞けよ。

大好きな日々を生きる秘訣は、とにかく誤っている話を突き進むことだ、いやあ気分がいいな、おれの誤っている話と噛み合わないなら、あなたは他に誰か正しい話でもする奴がいると思っているのだろう、ぜひそいつのところに行けばいいと思うが、それはがっつり不幸になるぜ。
おれの誤っている話がおれの世界であり、世界というとおれの世界しかないのだ、話を聞くというのはそれだな、あなたはおれの話していることに対して「わからない」と思うかもしれないが、あなたはあなたにわかる話を受け入れてきて、正しいまま幸福にはなりえないというジレンマに陥ってきたのじゃないのか/この先もおれが正しい話をする見込みはない。

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ポイズン以外の何かの「作用」
れが何かを教えるということはない、おれは教育者じゃないし、もし教育者であっても何かを教えるなんてことはなかっただろう。
おれが何かをもたらすとか与えるとかいうことも、あるような無いような、もしあるとしてもそれはおれが与えているわけではない、もともとこの世界にある現象だ、だからおれが何かをする必要はまったくない/誰にでも触れられるこの世界の現象がある。
誰でもポイズンが作用することは知っているだろう、甘いミュージックや映像を入れられるとハイになるんだろう、そんなポイズンはアヘン以来誰でも知っている、ただポイズン以外にある何かの「作用」、これについては誰もが知っているわけではないという、ただそれだけのことだ。
ポイズン以外の何かの「作用」、それは一種の、超越的な光だとやはり言ってよい、「超越的なのだからどうしようもないだろ」というやつだ、超越的だからナンクセがつけられないということ、ナンクセを飛び越えて存在しているのだからどうしようもない。

ほとんどの場合それは「言葉」となる、言葉が地位を下落させるとただの言語となり呪詛となるが、言葉が本来の超越的地位を回復すれば、それはナンクセのつけようがない「何か」の作用そのものになる。
われわれは「現実」ということにこだわっているが、何が現実にあり何が現実にないかということについて、言葉の地位は超越してしまっているのだから、ナンクセはつけようがない、たとえば「おれには翼がある」と言ってみたところで、「現実にはないじゃないか」とナンクセをつけようとも、「現実にある必要はまったくない」と言われるとどうしようもない、「現実なんてチンタラしたものに都合をあわせるようなヒマや事情はどこにもない」。
ポイズンや空想や、妄想の万能感などというのは、しょせん現実にこだわっている者の自己手当でしかない、現実が上位にあるからその下部でポイズンを生成してごまかした空想に耽るのだろう/現実はしょせん二義的なものに過ぎず一義的なものは超越の地位にある、われわれがこだわっているという理由だけで現実が一義的であると保証されるわけではないのだから。
現実というくだらない壁を倒すのに、多くはポイズンという逃避を決め込むしかないのだけれども、それで本当に現実が倒せるわけではなし、むなしいことだ、そしてやむをえないことだ/現実というやつが、さも威張っているようで、実は超越的地位から見ればただの「言いなり」でしかないということ、よもや気づかないだろう、ただおれは遊ぶことに貪欲で、第二義や第三義のネタで遊ぶ気にはなれないのだ、おれにとって遊ぶということは最高の地位にあり続けねばならない。

安息日以外の日は存在しない。

安息日というものが、多くは "現実日" と呼ぶべきものとのバランサーとして認識されているのは、実に迷妄であり侮辱だ、おれが話しているのは安息日のことであって定休日のことじゃない。
ポイズン以外の何かの「作用」があり、その作用をいくらでもブッコ抜いてこられるのだから、もうポイズンの作用なんて要らないだろう、おれが何かを教えるということはないし、おれが何かを与えるということもない、そんなもののすべてもやはり要らないからだ、毒が要らないなら解毒も要らないだろう、安息日のおれと共にあれとしかおれは言っていない、それは現実的に何もしないということではなく、ただ完璧になるものの話だけをおれはしている。
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「自信」という現象
近はもう言われなくなったが、もともと、「自信がある」「ない」というのはすごく大事な要素だ。
自信がない人はそれだけで永遠にみじめな感じだし、自信がない人が自信のあるふりをすると、何か痛々しいものになってしまう、かといって自信がないままに振る舞えばそれはうっとうしいし、自信のない人がへりくだって政治工作をして立ち回るのはどうしようもない不潔感がある。
だから誰でも、自信のある自分になりたいと考え、漠然と何かしらのタレント(才能)や成功者を目指すのだが、なぜかよく知られていることとして、自信のない人が成功者になっても、本当に自信のある人にはならない/自信のない人が成功しても、「成功者という経歴を振り回す人、鼻にかける人」になってしまうのだ、そしてこの人は成功者でありながら何かみじめな人として目立つという立場を生きていかなくてはならない。
どれだけ成功しても、また才能があっても、けっきょく誰からも本当には愛されていなかったり、誰からも本当には尊敬されていなかったり、本当の友人や愛人を得たことがない人は、どうしたって自分に自信を持つことはできない、いくらチャリティーに私財を投げ込んでも、そういう人はそれを自分の「足し」にしてしまう、自信がないから自分の足しにしてしまうのだ、そして自分の足しにしたチャリティーはどうやら天の国に富を蓄えたことにはならないらしい(と、聖書に書いてあるらしい)。

オンラインワークショップで「自信」のことを取り扱ってみた、おれは自信というのは「自己完結性の現象」と説明した。
たとえば苦学して難関大学に合格したとか、不利な状況からビジネスで大成功を収めたとか、才能を発揮して永遠の友人たちを得たとか、そういったことのすべては、自分のうちにありつづけるものであって、対外的に名刺のように使うものではない/「外側に振り回して使ったら、その時点でもう自信ではなくなる」「だってもう "自" の外側に出したもん」とおれは説明した、それは自分の魂の財産を投げ捨てることだとも言った。
自己完結性の現象である「自信」、それを持っている人のことを、おれは「高性能の焼却炉のようなもの」と説明した、焼却炉には天高く煙突があって、この煙突が「煙突効果」といって、それじたい高温・高効率の燃焼をもたらすのだが、この煙突がふさがっている人はどうなるか、それは「周囲に毒ガスをまき散らさざるをえない」ことになる/天高く煙突があって煙突効果が果たされているからこそ、高温で完全燃焼が得られて、中のゴミはすべて「消え去った」ということになる、そして焼却炉が共有するのはゴミでもなく毒ガスでもなく晴れ渡った青空なんだと説明した、焼却炉の使命は大気汚染を消し去ることにある。
自信が「ある」という捉え方は、感触としてはそのとおりなのだが、本当の現象としては不適切な捉え方になる、なぜなら本当の現象は、自信がない人にこそたっぷり何かが満ちてしまっており、自信がある人はそれがスッカラカンに消えているという状態だからだ、自信のある人が「エンプティ」で、自信のない人が「フル」だということ、だから焼却炉にたとえて話した、焼却炉が「フル」というのは、つまりゴミの溜まり場ということだ。

自信のない人の内部は、低評価と高評価で満たされている。

自信のある人は、高評価で満たされているのではないのだ、低評価も高評価も、究極的には罪さえも、「焼尽されて残っていない」という状態なのだ、自己完結性の中で焼尽され、残っておらず、だから外側に向けてまき散らすものが何もない、そうして自信があるという状態は、むしろ事象として「ない」ことへの到達によってもたらされる。
近年、老いも若きも人々はマウントを取り合うのが人間関係の第一になっているらしいが、おれにはそのマウントという感覚がよくわからない、たとえばおれは運動神経が悪くてキャッチボールするだけでもダサい運動になるが、その低評価が自分にとってマイナスになるという感覚がない、おれはいっさいの評価を焼き尽くすからだ、だから褒められてもけなされても何も起こらない/「評価」という比率論がいったいどうやっておれの「存在」に干渉しようというのだ? ガンジス川は四万十川より汚いだろうがそうした評価比率によって「存在」に干渉することはできない、しょせん周囲がこぞって「おれの権威のほうが偉い」と言いたがっているだけだ、おれはそもそも人類に権威があるとは思っていないので権威のない評価などはすべて未開封のまま焼却炉に入れてかまわないのだった。
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おれの話は面白い
れのやっていることは、ひたすら「おれの話は面白い」だけだ。
もともと女の子を釣る目論見もあったのだが、それより「おれの話は面白い」ことのほうが大事だ。
「おれの話は面白い」のであり、それが何であるかとか、それが何に使えるかとかは考えない。
「おれの話は面白い」ということが、おれにとって世界で一番大事なことであり、その大事なものを他の何かに使おうとは思わない、このことに比べれは他のすべてのことはどうでもいいのだった、そうでなきゃロクな女の子が釣れないだろう。

さっさと日銀はおれの口座に六百億円ぐらい振り込めばいいと思っているが、その六百億円を何に使うかといって、慈善事業になんか使わない、ただおれの話を面白くすることに使う。
おれの話を面白くするために、世界人類が滅亡したとしても、それはそれでしゃーないだろう、そんなことよりおれの話が面白いことのほうが世界人類にとって大事なはずだ、ことの軽重を誤ってはならない。
おれが約束できるのは、ただ一点、おれの口座に何兆円振り込もうが、何万人の美女をおれの手元に降らせようが、それらのすべてはおれの話を面白くことにしか使わないということだ、おれの話がつまらなくなるほうへもしおれが消費をしたなら、そのときはさっさと自衛隊が取り囲んで火炎放射器で焼き払ってかまわない。
「おれの話は面白い」ということ以外に、この宇宙に何かの値打ちがあるとは思わないな、おれの話は宇宙一面白いと言っているのではない、おれの話以外にこの宇宙で面白いものなど存在していないとおれは言っているのだ。

おれの話は面白いのだが、そのことに価値があるかどうかはおれの話じゃない。

おれの話じゃないものに、おれが興味を持つ理由は一ミリもないので、おれには何のことかまるで聞こえないのだった/おれが知っていることは唯一、「それはおれの話ではないので面白くないだろう」ということだけだ、すべて開封せず焼却炉にポイポイのポイだ。
おれは何かを必要とすることはないし、おれが必要とされてもそれに応えることなどないだろう、おれが約束できるのはあくまで、おれの話がつまらなくなることはないということだけだ、だがこれ以上にまともで有益な約束はあるまい。
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おれは自粛しない
や、コロナ関連は自粛する、そういうことではなくて、おれは自粛しない。
自粛しないというのはつまり、やりたいようにブッ放すということだが、そんなことをするとキモいし近所迷惑になるので、ぜひ自粛したまえと、常識的には言いたくなる。
といって、自粛するのは基本的に「安全な負け」でしかないし、じゃあどうすればいいのかというと、自粛をやめてオレはやるぜみたいなことをやってみたとしても、そんなものは基本的に「大マイナスを生じて負け」にしかならない。
それでどうなるかというと、唯一の方策として「空気を読む」ということになるのだが、それでつまり、何の魂もない顔のキレーな女の子が胸元をアピールしながら「化粧してみた」みたいな YouTuber になる仕組みだ、そしていいねをもらいながらあるていどカネを稼いで、カネ稼いでますとは言わなくて済むようにうまくまとめる……それはつまり「悲惨な負け方をした勝ち組」ということに他ならず、なかなかどうしようもないというのが実情だ、生まれてこの方永遠に負けっぱなしというのはさすがに魂がツライと思う。

では真の唯一の方法は何かというと、つまり勝つしかないわけで、この状況で勝つということは、つまり自分以外の全員を「負け」に放り込むことだ、自分以外の全員を何か煮えたぎるキツーいやつに放り込むしかない、脱出できないフヌオオオなやつに。
おれはこのとおり芸術家だし、何らノウハウを秘匿しないオープンな芸術家だが、芸術家ということはブッ放すということであって、そのことについては一般的に「やめとけ」と言いたくなる、まずもって成功しないからだ、フツー何をどうあがいても、空気を読んでウケをよくするか、ドンズベリして大ダメージを負うかしかない。
まあ、ドンズベリで大ダメージを負うのは別に誰にとってもかまわないと思うのだが、問題は近所迷惑になって友人にもダメージを与えてしまうということだ、要するにハラスメントになる、疑いなく自己表現ハラスメントということになり、やがて決壊して「死ぬほどキツイからお願いやめて!!」と懇願までされるようになるので、ここが難関なのだ/つまり「極端な形で勝つ」ということしか本当に道筋は残されていない。
おれは自粛しないのだが、自粛しないということはつまり、手当たりしだいにすべてのハラスメントをしますということだ、そしてそれが多めに見られるような共同体の形成を、おれは世界で一番嫌うだろう/おれはこうして、可能な限り公正に自分のキモさを償却してゆきたい。

礼も言わない、お詫びもしない、感謝もしない、反省もしない、ただし自信のための立ち回りもしない。

おれは自信ということに興味がないのかもしれない、強いて言うなら自信というものは片栗粉のようにすべてコナゴナに粉砕されている状態がデフォルトなのであって、自信とかいう放射性ウランなみに迷惑なカタマリを担保にして自己表現などという公共排泄をぶちかますようなことは微塵も許されてはならない/たぶんこのことがフツーの人格には耐えられないだろう、おれは自信とかいう不潔なシロモノを 10^-22 単位ぐらいまでコナゴナに砕いて、その中で完全に無力で通用する方法を模索したい。
おれはこの世に生を享けてからあまさずきっちりキモいのであり、かといってそれに居直るような頭アホにもなれないので、どうするかというと、自信その他のよくわからんものをコナゴナにし、もはやキモいのか立派なのかさえ「わからない」ものになってやりたいのだ、コナゴナになりすぎてもう何のセンサーにもかからないし何の作用もないというようなものになりたい、そのときおれの全力ハラスメント・ライフはついに本懐に至るだろう。
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慾望の資格とまともな国4/英雄について、軍学と文学
ょっと話が逸脱しているが、ついでに。
わたしはよくこういう言い方をする、「隣国を攻め取るのが軍学、そして攻め取った隣国に与えるものが文学」。
隣国を攻め取ったとて、与えられるものがないならただの侵略だし、与えうるものがあったとしても、隣国を攻め取れないならそもそも与えるという立場になれない。
重ね重ね、ここでいう国というのは国家や国籍のことではないのだが、そのことはもうしつこいか/この二つの要素、軍学と文学に秀で、つまり戦(いくさ)の神と愛の神に接続してその天意を振るう者を「英雄」と呼ぶのだ。

この英雄のもと、戦いから血の臭いは消え去り、また愛と文学から作り物のむなしさは消え去る。
小人は慾望に支配されてしまうゆえに慾望が禁忌となるが、英雄は慾望に支配されないので慾望が肯定される、そしてなぜ英雄は慾望に支配されないかというと、英雄は戦の神と愛の神に支配されているからだ、これでは慾望が英雄を支配することはできない/慾望が支配できるのはあくまで生きものである人にすぎず、神の支配力を上書きできるほど慾望の魔力は上位にない。
金持ちはいつの時代でも女のこころを買えるだろうが、いつまでたってもそのことに肯定感が得られないのは、けっきょく慾望で慾望を取引購入しているにすぎないからだ/金儲けの力はいくらか戦の神に近いところもあろうが、なにぶんそうして金で女を引き寄せたとしても彼には女に与える愛の文学がない、だから同じく慾望に支配されている女しか買えない。
あるいは、愛の神だけでは人は英雄になれない、神の名を称える者は必ず迫害を受けるのに、戦の神がなければ迫害からとにかく逃げるしかなくなるからだ、逃げるのは悪手ではないが、あくまで戦の一手として逃げるということと、ただの逃避として逃げるのとでは意味も作用も違う/このようにして英雄は、隣国の不毛を終わらせ芳醇を始めさせるという存在であり、彼の慾望は常に「カーニバル」の様相を為している、それは小人が密室で後ろ暗いことをやるイメージとは実際まったくことなる性質のものだ。

英雄とは、「この人のもとでは全ての人が獣の取引をやめる」という存在だ。

英雄の慾望が肯定されるのは、英雄のもとにあるときのみ、人はどれだけ慾望を解放しても獣にならないからだ、英雄なしに戦争や性交をすると人はただ未開の獣になってしまうのに、英雄がそれを行うときだけ、人は人としてその営みの中にあれる/英雄を否定しないかぎり、人はその戦の神や愛の神の恩恵につながることができる。
自分自身が英雄かどうかは、ただ隣国に単騎で乗り込めばわかる、そこでわずかでも隣国を歓喜の地に変えるのであればその人は男女に関わらず英雄だし、そこでただ取引や争いをするだけならその人は英雄ではない、そして英雄ではない者が慾望を言い張ると、人は必ず慾望に支配されただの獣に堕してしまう/そして獣に堕してしまった者たちは、結果的に奴隷として生涯を過ごすよりなくなるのだ、これは一般化して「英雄を否定した者が奴隷になる」と言いうる、このことをぜひ自分の実体験にはしないことだ。
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慾望の資格とまともな国3/慾望は英雄のもの
「慾望」を言い出す資格は、「隣国を攻め取って、その国の女に愛されること」なのだが、実はそんなことは誰だってわかっているのだ。
本当は誰だってわかっているのに、直視できないから、わからないふうに自分を洗脳しているだけだ、その証拠として現代の「なろう小説」、特に「異世界転生モノ」がある。
少年がテキトーな仕組みでわけもわからず「異世界」に行き、その異世界でブイブイ言わせて、異世界の半ば王のようになり、その国の女に愛されてウハウハということなのだが、こうしたファンタジー(いやいや)が自然発生してくるからには、本当はわかっているのだ、そのウハウハは「隣国を攻め取って、その国の女に愛されること」でしか得られないと。
重ね重ね、その隣国というのは、国家や国籍ではなく、ただの「他人」「共同体の外側」ということなのだが、とにかく異世界にいかなくても、隣街に行って実力でその街の王になれるのなら、わざわざ作為的な「異世界」なんてものにワープする必要はない、こうして異世界転生モノは夢があるのではなく、もう夢がないから妄想に浸ることに決め打ちしたのだ、だからこれはファンタジーではなくただの「願望」への逃避にすぎない。

「慾望」といって、女性の側も本当はわかっているのだ、本当は異国の力ずくの荒くれものを、女がその徳をもって諫め、愛とやさしさに開眼させ、その結果その荒くれものは騎士となり、騎士は七つの海から財宝を集めてきて姫に献上するということだ、それが正規の慾望であって、慾望というのは「乳とオマンコで男にウッフンしたらヘンなムードになって引き返せなくなった」ということではない(そんなものを言い張られてたまるか)。
ふつう、料理というのは料理人にしかできないものだし、歌というのは歌手にしか唄えないものだし、絵というのは画家にしか描けないものだし、ダンスというのはダンサーにしか踊れないものなのに、最近の人はなぜか何でもかんでも「自分にも出来る」と思っているのだ、これは幼児的万能感の一種の病癖だ/そしてこの病癖と同じたぐいで、そもそも「慾望を言い張れるのは英雄だけ」ということがわかっていないのだ、やはり何でもかんでも「自分にも出来る」と思っている、そのことが全体をブキミにしている。
「異世界転生モノ」でいうと、凡人が異世界に転生して英雄になるというのは、むろん英雄ではなくただのゴミだと思うが、このことはおそらく、英雄でもなければ英雄になる気概さえ持てない、そもそも英雄に対して尊崇どころかひがみしか持てない者が、「自分も英雄になれる」という発想から強引な手続きとしてこの「異世界転生」の仕組みを思いついたのだろう、ふつうに考えれば恥ずかしくて手が出せるわけがないような発想なのだが、それでも現在人気を誇っているからには、もうそれに外聞もなく飛びつく人たちが増えているということだろう/もちろんそれをただの趣味と言い張るなら何のことでもないが、いざ正規に慾望という話になったらさすがにまともな話し合いはできないだろう。
慾望は英雄のものであって、英雄とはまともな国たりえない隣国を打破し、そこに住んでいた女に誇らしい「世界」を与える者のことだ、力と愛があるのであり、ほとんど女はこの英雄の栄光に寄与したくて英雄の慾望をよろこんで受けるにすぎない/そこでどうして安全な身内の中に住みつづけるおじさんやお兄さんの「モンモン」を「慾望!」と言い張るのだ、ましてこれに乗っかってウッフンする女も少なくないのが痛々しい、これはまともな国のない人がやることであって、正直そんなことを続ける民は隣国に侵略された上に見放され、生涯劣悪な「奴隷」になるのがふさわしいのだ、それは冗談でなく本当にそうなってしまう。

正規に慾望を言い張るには英雄にならねばならず、非正規に慾望を言い張った者は奴隷になる。

なぜそうなるのか、じっくり読まないとわからないかもしれないが、若い人はお楽しみに、たとえば学生時代に非正規に慾望を言い張っていた人は、その後本当に「奴隷」のように生きねばならなくなる、あるいは現時点でも妙齢の人は、周囲の人々の成り行きをそれぞれに総括してみると、全体的に「本当だ」ということが視えてくるかもしれない/また現時点において、すでに奴隷のように生きざるをえなくなっている人は、今まさに内心で非正規に「慾望」を言い張っているということが観察してみればわかるはずだ。
慾望は英雄のものであって、多くはこの英雄と、小人たる自分の区別がつかない者が、英雄にあこがれるうち自分にも英雄の権利があると錯覚して――妄想して――慾望に支配されたあげく「奴隷」の身分になる、だから共同体で幅を利かせるおじさんアンドお兄さんも、ほじくってみると自分を英雄だと錯覚している、単騎で隣国にいくと縮こまるのに自分は英雄だという妄念に支配されているのだ。
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慾望の資格とまともな国2
番ダメな慾望のケースを見てみよう。
それはたとえば、風土的にド田舎の地域があって、そこで地元だから顔の利く・幅を利かせているおじさんやお兄さんが、地域の女を手込めにしたいというパターンだ、これを「慾望」と言い出すことが、一番ダサくて醜悪になる。
なぜならこのおじさんやお兄さんは、地元の外側、共同体の外側に行けばまったくモテないし女なんか口説けないのだ、つまり地中海沿岸の町にいってウブな中学生をからかうことさえできないということ、それは彼らに力がなくてただ土着の「権力」だけがあるのを、自分の実力と誤解しているのだ、こういう人は本当に近所迷惑になる。
そして、このおじさんやお兄さんたちが、自分の住む地域を「未開の哺乳類の群れ」と自ら言うならまだ話はわかるのだが、こういう人に限って自分の住む地域をまともな「国」だと言い張りたがるのだ、まともな「国」ならそんなわけのわからない慾望とセックス希望は成り立たないのだが、とにかく自分には力も愛もないことを認めたがらず、さらには自分の地域が未開の群れだということも認めたがらない、こうして無数の近所迷惑と無数の閉塞的地域が生産されてしまうのだった。

慾望を言いたいのなら、そんなもんB’zの歌うように、「愛のバクダン」を落っことしてやればいいのだ、ただし愛のバクダンは街のド真ん中に落とすものであり、身内のド真ん中に落とすものではない。
街というのは自分にとって隣国だから(街が自宅の奴はいない)、その隣国にバクダンをぶっこむということ、そうして攻め取った国の女に愛されるということ、それなら慾望というのも正当でうつくしく、何の咎があろうかという話だ/この愛のバクダンを街のド真ん中に落とせない奴が「慾望!」とか言い出すからおかしくなるのだ、日本中がド田舎の哺乳類の群れになってしまう。
隣国に愛のバクダンをぶっこむなんてことはできないという人が、それでもまともな「国」においてセックス相手を求めるのに、長老と神職の承認のもと「婚姻」の制度に準じるというのは、何もおかしなことではない、ただこれも当人がありもしない自分の力や愛を言い張ると話がおかしくなる。
慾望が肯定されるのは、「誰が世界を与えたか」という一点によるのだ、まともな国がまともな世界を与えていた場合、それを与えたわけでもない者が「慾望!」なんて言い張れない/男であれ女であれ、慾望が肯定されるのは、相手から見て「この人がわたしに世界を与えてくれた」と認められる場合だけなのだ、それに比べると地域や共同体で幅を利かせているおじさんやお兄さんは、一体どこの誰にどのような世界を与えたというのだろうか、こんな者の「慾望」が肯定されるわけがない、そんなことは自分で考えてもわかるはずなのだが、それを考えないというのは、けっきょく当人の知性が未開の哺乳類状態だからなのだ。

尾崎豊がどの女と寝ていただろうかという空想は、圧倒的な「どうでもよくない?」に消し飛ばされる。

当時、どれだけ多数の少女が尾崎豊によって世界を与えられたかわからないが、その愛のバクダン野郎がどこの少女たちとどれだけ寝ていたとして、完全に「どうでもよくない?」としか思えない、慾望が肯定されるというのはそういうことで、仮にアイルトン・セナがグランプリのあと一晩200万円のコールガールを呼んでいたって、そんなことは誰も何も思わない。
慾望というのは、そうして正規の場合は認められるのだが、なぜ正規の場合は認められるかというと、明らかに慾望が当人を支配していないからだ/慾望が禁忌とされるのは、慾望が当人を支配してしまって魔の拠点になるからというのが理由だ、じっさい共同体の幅利かせおじさんなどは、本当に慾望に支配されて魔の拠点になってしまっているから、自分の発想についてミエミエの「んなアホな」ということさえ考えられなくなっている。
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慾望の資格とまともな国
「慾望」を言い出していい資格はハッキリしている。
「自ら隣国を攻め取って、旧敵国の女に愛されること」だ/この場合の隣国とは国家や国籍のことではなくただ「隣人」「身内でない他人」のことを指している。
逆に「慾望」を言い出す資格がない者も、はっきりしていて、それは安全な身内の中で幅を利かせてセックス相手を探そうとする者だ。
といってふつう、自ら隣国を攻め取って、旧敵国の女に愛を受けるなんてことはできないので、だからこそ身内の中でセックスするには「婚姻」という制度がある、長老と神職に承認を得たら婚姻仲としてセックスしていいというシステムだ。

古来、日本の村落には「夜這い」の文化があったが、なぜそんな文化があったかというと、まともな「国」がなかったからだ。
誰が誰のことも慈しんではいない、ただの「群れ」という状態だったので、群れの中で誰が交尾しても誰も知ったことではないという状態だった、夜這いというのはラブロマンスではなくて未開の哺乳類状態だったにすぎない。
もしわれわれがまともな「国」を求めるなら、気の向くままの交尾なんて認められなくて、それでもなお慾望を言い立てようとするならば、まだまともな「国」たりえていない隣国を攻め取って、そこにいた女にまともな国を与えて愛されろということになる/重ね重ね、ここでいう「国」というのは国家や国籍のことではない、ただの共同体のことだ。
つまり男の場合、安全な身内の中で「慾望!」とかアホなことを言わず……世の中にはまともでない父親の下で、まともな世界をまるで与えられずさびしがっている女の子がいくらでもいるのだから、そこに攻め入って女の子に世界を与えろということだ、その女の子が父親や家族のものでなくなり、自分の与えた国の民となったなら、その女の子はいくらでもその世界を与えてくれた男の慾望を受けてそれをよろこびとするだろう/隣国を攻め取ることができなければその者には力がないのだし、その国の女に愛されなければその者には力しかないということだ、その両方があってはじめて「慾望」というのも当然の言い分になる。

ヤリサーがダサいのは、力のない者が慾望を言い立てようと、あわれな共同体を形成しているところだ。

いまどき、単に多数のセックスがしたいなら、わざわざサークルなんか仕立てなくても、自分の力と愛でいくらでもやれるはずなのだ、そこでけっきょく安全な身内としかヤレない・口説けないというのは、どうしたってダサいのだ、あるいはナンパ目的でナイトクラブに行く男も、けっきょくその「仲良し空間」に頼ってセックス相手を得ようとしているところがどうしてもダサい。
ヤリサーというのは本当に日本土着の古い村落とまったく同じ体質のもので、だからこそヤリサーはまさに「まともな国がない」という様態を実物として示す、それは未開の哺乳類の群れが祭りを口実にセックス相手を見繕うというもので、本当にただの「生態系」の一形態にすぎない/別にそれを悪いとは思わないが、まともな「国」のない民なら、それなりに俚人の態様を公示すべきで、これが文明ある人のふりをするべきではない、つまりただの性交牧場を「サークル」ふうに言い張るべきではない(でないとまともな側の大学生が迷惑する)。
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十七と季節
ていてわかった、彼女は十七歳の春にいるのに、その春風が心身の内へ吹き込まないのだ。
それでけっきょくは、自分が自身の体をセクハラ的に扱い、換金性のアイテムとして用いることしかできなくなっている、それをウェブ発信で広告宣伝しているのだ、友人らと共に並んでスカートを短くたくしあげて。
おそらく彼女は何もわかっていない、一度は与えられた春の風を失ったのではなく、初めから一度も春の風など与えられていないからだ/ただ生きものの本能として、生存有利なほうへ興奮と共に突き出されているだけだ、彼女には名前さえ必要ない。
元高校野球のピッチャーが銭ゲバの爺さんになり、栄光のスター選手は覚醒剤の番長になり、人気者には非行の謝罪を永遠にさせることがブームになり、誰も東京の居酒屋でタバコをぷかぷか、酒を飲むということはできなくなって、子供たちは自分の街へ自転車で駆けていくことができなくなって、何の夢と希望があるだろう? よほど極端な祝福を受けた人しか春の風は吹き込まなくなって、そんな祝福を受けた人は実際には「いない」と断定しておくほうがよいぐらいだ、だいたいそれを「わたし」と考えてとんでもないことになるのだから。

春風が心身の内に吹き込まないので、その眼光がぎょろぎょろ外を見続けている。
たぶん本当に、肌の露出をふやせば、注目を浴びるということ、乳がでかければ注目を浴びるということ、そうしたら生きていく不安にもカネとオトコの予感がするということだけに、本能的に反応している、脂肪とタンパク質のロボットにすぎない。
この春の風が、心身の内に、あるいは魂に直接、吹き込まないか、吹き込まないのだろう、あなたはあなたが調子づくことしか知らないものな/あなたはまるで自由自在に、やりたいようにすることができ、まるで周囲のすべてを操っているかのように見える、十七歳だ、でもそんな顔面操作でそれっぽい表情をするだけで操れるものがあなたの青春の友人たちだと本当に思えるのかい、あなたはすでに太ミミズのように腫れ上がってしまった自分の精神が収まらずうねうね動くことに内心で恐怖を感じているはずだ。
やがて僕のような、余計なことを言い出す奴はいなくなり、それがいなくなれば、すべてのことはきっちり調和を完成させるだろう、それはきっちりと滅亡させられた操りの木偶たちの群れだ、そのときあなたは完全な無謬を得ることになるが、それは電卓のどのボタンを叩いても誤りは起こりっこないということみたいに、すべてのことには何の誤りもないまま、電卓をどう叩いても何の意味も出力されないって状態なんだ、電卓の演算みたいにあなたの性器と乳と尻、あとは蠱惑的な表情に計算どおりの虫たちが寄ってくるということ、あなたは生涯そのことだけに面することになり、しかもその収益だって加齢のごとに減っていくんだ、そのときはもう何がどうなのかを教えてくれる人はあなたに誰もいないんだよ。

この世界に春夏秋冬がなければ、あなたの勝ちだったろうに。

気づきませんか、かつて多くの人々が、春には春、夏には夏を歌ったはずが、今は誰もそれを歌わなくなったということに/そのことを、十七のあなたに、しかも初めから春を一度も与えられなかったあなたに、気づいて知れというのは無理かもしれない。
でも本当は、季節があったし、今もあるのだ、今も本当は季節がある、本当はあなたは僕に文句を言って絡むような少女ではなかったし、カスみたいな男を股間で釣って興奮するような不幸なあばずれではなかった、あなたは本来、季節の神に撫でつけられて、どうしようもなく、ただ汚らしさとは無縁の者だった、今はそれが……あなたはただ、「そんなことはない」と言えるようにならねばならない、何に対抗するのでもなく/この世界の何もあなたに対抗していないのに、あなただけが架空の何かに対抗しつづけるそのことをやめねばならない。
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すべての恋を滅ぼすために

えて奇妙な言い方をする。
「恋」というのは試金石になる。
アイドルオタクが推しアイドルに向けているのも「恋」なのだ、あるいは腐女子がホモマンガに向けているこころだって「恋」だ。
人はいつも「恋」に願望を持っているが、それでも原理上、人は決して上等ではないから「恋」をする、そして恋は試金石となり、一部の人を恋以上のところへ導き、そうでない人を恋以下のやさぐれたところへ導く。

恋はいかにも人のもので、人の持つ「誤解にまっしぐらになる」という性質を明らかにする。
その、恋という「いかにも人のもの」の渦中にあって、人は大きな壁、つまり「人以上の何か」との壁に突き当たることになる、その壁を越えさせられる試みは、いかにも無謀で、人は人以上のものになろうとすることに道理はないという弱音を覚える。
このとき、恋は確かに試金石であり、それ以上に、恋はひとつごとの分岐点を形成している、その峻厳さに一種の美を覚えるのも当然だろう、つまり恋はその成就の可否にかかわらず、その後の人に、さらなる飛翔を与えるか、もしくはいかにも人らしい落ち着き・落着を与える。
恋のあと、落着を得た人は……ひとしきりはそれをひとつの結論とし、自分なりの自信を得たように思う、にもかかわらず、やはり解決してはいない、元からあった「誤解にまっしぐらになる」という性質に、ふたたび時間をかけて引きずりこまれていく、それは次第に恋という形ではなくなり、加齢と共に明らかな「迷い」の形を見せ始める、これは恋が滅びきらなかったことによって起こるのであり、然ればわれわれは本来、すべての恋を滅ぼすために恋に直面するべきだ、恋以上のものが必ずあり、恋が真の飛翔ではなかったことが明らかにされるのだから。

恋の後、ある人は限界を明らかにし、ある人は無限を明らかにする。

限界を明らかにした人は、ひとしきりその限界に納得し、満足したふうに、人生観を整えるのだが、「それでは人は限界のうちにただ死にゆくだけなのか?」、この問いかけに答えきれず、けっきょくはふたたび、誤解にまっしぐらになるという性質に引きずりこまれていくよりない、ただそれは加齢を重ねるごとに、罪業が深く重くなり、祝福から縁遠い、つまり厳しいテストになる。
限界説を信じる人は、いつまでも恋が最上位にうつくしいと信じ、その憧れにすがりつくだろう、一方で無限説を自分のものにできた人は、誰よりも恋に感謝している、恋がなければ自分がそこへたどり着くことはありえなかったから/こうして、恋を滅ぼした者こそ恋に永遠の感謝をし、逆に恋に憧れつづけたつもりの者が、最期に恋を激しく憎み呪うということが起こる。

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渋谷ハロウィンを見物してきた2
ュースを調べると、「東京・渋谷のハロウィーンでは、11月1日午前0時を前にして逮捕者が4人に上っている」(産経新聞ウェブニュース)とあった。
逮捕者が4人に「上っている」というが、実際に当地の人数と密度を見た上では、あの群衆の中で4人しか逮捕者がでないというのは、屈指の秩序レベルだと思う/そもそも平時の渋谷でだって、逮捕者はゼロではないだろう、平時の渋谷で一日に4人逮捕者が出たとして誰かがそれに驚くのだろうか。
僕は大阪堺市の出身なので、子供のころは、よく「ふとん太鼓」という祭りに行った、規模としてはかなり大きめの祭りで、広い境内に夜店がワンサカ出て、子供にとっては境内が冒険できる迷路のようになる/そして、その祭りの夜は、僕が見かけるだけでもたいてい一日に2〜3件、しょうもない殴り合いのケンカがあったように思う、それはもう、ケンカをしたいだけの人たちが、互いにケンカを買ってくれる相手を求めてうろついていたからだ、子供心に内心で苦笑せざるをえない趣があったが……
渋谷ハロウィンにて、あれだけの人数が、あの狭い区画に集まって、逮捕者が4人しか出なかったなら、われわれは若い人たちの秩序を愛するこころとその穏やかさを称賛しなくてはならないと思う、もしこの逮捕者4人という数字に唾を吐くのであれば、日本は移民政策をただちに中断するべきだ、移民が本格的に増えたらとてもじゃないがこんな数字では済まないだろう。

渋谷ハロウィンに向けて、治安等の対策費が一億円使われているということだが、平成三十年度の渋谷区の予算は937億円だ/仮に、街が衰退して、歳入が1%減るほうが、経済的には9倍も損だと言えるだろう。
一億円を、個人が支払うわけではないし、たかが一億円で他に何ができるだろう? 有名芸能人の家屋を建てることもできない額だ/比較として、沖縄の首里城が焼失したが、その被害額は単純焼失分だけで73億円と言われている(沖縄総合事務局)、観光業も含めた被害総額となればその何倍にもなるだろう、そのことと比較すれば、われわれ高齢者の渋谷ハロウィン「叩き」は感情的に過ぎるのではないだろうか。
もちろんハロウィンは伝統的に日本の文化ではないし、よくわからないお祭り騒ぎになっているのだが、それを言えば元のハロウィンだってどういう祭りなのか僕にはよくわからない、日本でいえば「節分」の豆まきに近いものを感じる、なお余談だが「日本人はクリスチャンでもないのに」という言い方をしばしば聞くが、僕の知るかぎりおそらくハロウィンとキリスト教はほとんど何の関連もない。
一方で、渋谷ハロウィンに集う穏やかな人たちを見ていると、こういう善良な人たちこそが、突発的な――風習的な、ではなく――暴動を起こすのだという予感もする、かといってそれを理由に予備検束するのはもちろん官憲の横暴にすぎない/ハロウィンの本場がどこなのか僕は知らないが、本場でも別に大真面目に収穫祭をやっているわけではないのだろう、節分もハロウィンも、はしゃいでやるのは大人のすることではないと思うが、現実的に現代の十代や二十代は大人ではない、それを大人のすることではないと否定するなら、まずアニメやソーシャルゲームのたぐいから否定して断たないと、ハロウィンだけが偏って弾劾されるだろう、だからなんというか、率直に、このまま平和な洋風の節分が続いてほしいし、あまり唾を吐かないでやってほしい、これ以上若い人たちに抑圧の半笑いを強いる必要があるだろうか?

渋谷区はハロウィンで荒稼ぎしてほしい。

今のところ、人口密度に対して商業施設のキャパシティが応えられる状況にないので、中心街の店舗は休業しているような状態があるのだが、逆にもう街中にホラー音楽でも流して、各店舗はアヤシイ光でも照らして、一夜限りのテーマパークのようになって、その日だけで11月分のテナント家賃が払えるようになってほしい/おおよそ想像のつくところだが、この先日本が衰退し、街に閑古鳥が鳴くようになれば、ハロウィンのことだって「あのときは栄えていた」と、老人が昔話を言うようになるのだ、そんなことになる前に、どうかすべてのことが厚かましく豊かになるよう、電博に食い込まれるのではない、ひとつの idea に収束していきますように。
10月や11月というと、学園祭のシーズンでもあるが、若年者人口が減っているから、若い人たちの祭りは縮小しているのだ、そのさびしさがコミケやハロウィンに集まっているという向きもあると思う、だから渋谷区がハロウィンで荒稼ぎするか、さもなくばヨソの区なりヨソの地域が企画して、ハロウィン人口を横取りするような、厚かましくいいことが起こりますように。
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渋谷ハロウィンを見物してきた
願だった渋谷ハロウィンに物見遊山してきた。
なぜ念願だったかというと、昨年までは、親族で年中行事の法事があり、10月末は身動きできなかったのだ、今年からはそれがもうないので……原付で二駅も走ればもう渋谷だから、混雑にも巻き込まれずに済むと、気楽に見物に行った、時刻は22時半ごろにした。
当地に着くと、交通規制はごくごく一部で、あの人数を、うまく強引に、センター街に押し込んでいると思う、近場に原付を停めて歩行者に紛れると、渋谷駅の南口あたりは通行に何の支障もない日常ていどで、ハチ公前からセンター街に渡るスクランブル交差点だけは、いわゆるすし詰め、芋の子を洗う状態だった/外国人の方々が多く、外国人の方々にとってこの日は居心地がよいのだという印象も受けた。
今年から、路上飲酒が規制されたからというのもあると思うが、人々はきわめて善良で温厚で、穏やかで秩序を守っていた、「ハメを外す」なんてとんでもない、十代から二十代がほとんどだと思うが、彼らは誰も「ハメを外す」なんてことはできない、ハメの外し方なんか習っていないだろう/いつぞや二十年前に巻き込まれた、インド・バラナシのフェスティバルのほうがよっぽどハメを外していた、何しろ渋谷ハロウィンはタクシーの車内に爆竹が投げ込まれたりはしないし、追い立てられた牛の集団が人を殺す勢いで走り抜けていったりはしない。

なんというか、予断に反して、実際の現場は「おだやかなもんだね〜」というのが、僕の率直な感想だった。
みんな、面白い仮装をしている人は、通りすがりの人たちに「ウケたい」という一心だ、そしてあわよくば、いい展開があればと期待して、ささやかな下心を潜ませているのだろう、そりゃそうだ、彼らは大道芸の求道者たちではない/それらはすべて、平和で、かわいらしいもので、そうした若い人たちが一堂に会せるのは貴重な機会だと思う。
どうせイベント後のゴミの山積が問題になるのだろうが、僕の率直な感想としては、あれだけの人数があんな小区画に押し込まれて、好んで暴力を振るうでもなく、報道されているていどのゴミの量だけを残していくのは、やはり日本人がたぐいまれなる温厚さと良識の民族だからなのだと思う、そのへんのシャッターを破ればすぐに少額とはいえ富が奪えるのに……/実際、条例で路上飲酒が規制されると、そのとおり路上飲酒を控えるのだから、きわめて善良で従順な、素直な人たちだと思う。
一方で、これまで歴史上で起こってきた暴動について、暴動というのは善良な人々が起こすのだという、なぜかインスピレーションも受けた、もともと悪逆な人たちはふだんから抑圧というものを形成していないので、きっと暴動を起こす当事者ではないのだ、善良な人たちこそ、その善良さゆえに内部に抑圧を形成することになる/つまり渋谷ハロウィンに集まっているような人たちは、とてもかわいらしいながら、行き着くところ「どうすればいいかわからない人たち」という面があるのだ、もし彼らに投石を始めるように扇動すれば、「どうすればいいかわからない」彼らは、その場のムードに合わせて、自ら投石に加わるしかないのだろう、「どうすればいいかわからない」のだから……それが「善良」ということの一側面で、その善良さにおいてこれまでいくつものことが起こってきたのだという気がした。

渋谷ハロウィンは最高の秩序を保っている、これからもできるだけ続いてほしいと願う。

実際、善良でかわいらしい人たちばかりで、「どうすればいいかわからない」という率直さのまま、とりあえず集まっているというのは、本来でいえば大学のキャンパスのような、可能性の場を形成していると思う、それが大学のキャンパスでは実現不可能になったのは、規制の締め付けが強くなったのと、単純に少子化によって人数が少なくなったからだ、今や渋谷ハロウィンのように若い人たちが高密度に集まる機会は稀少なものだと思う、これを焼き払うようではもう続く世代への祝福など一ミリもなくなってしまうだろう。
セクシーな格好をした若い女の子がいて、写真で見るとそれをビッチ呼ばわりする人もあるが、実際にはそんないかがわしいものではない、むしろ本物の淫蕩を見たことがないから、いちいち目くじらを立てられるだけだ/万事がそうしてかわいらしいものばかりだったので、僕は勝手に楽しい夜になりますようにと祈って帰った、ゾンビの格好をしているかわいい女の子たちが、本当の人の獣化・グール化に直面することが生涯ないことを祈った。
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「何の人」
夏が緩んで、急に秋が来て、いい夜だ、突然いつかの風が吹く。
思えばこれまで、誰の話も聞かずにきたなあ……それでよかった、これからも人の話なんか聞かない所存だ。
僕は誰の話も聞かずにきて、ただ、「何の人」なのかということに焦がれてきた、聞き流されるすべての話はまるで外国語のように無視してきた。
世間が積み重ねてきた、数十や数百の前提を、ことごとく無視して、まったく別のものを視て、まったく別のものに焦がれてきた、そのことはこれからも続くのだろう。

おれは過去より強くなっているが、おれが強くなることはあまり意味がない。
おれが強くなったということは、おれが倒さなきゃならんものが増えたということであって、そのことは凶相だ、なーんでおれが何かを倒さなきゃならんのだ、男って女を倒すものじゃなかったろうに。
男が男の人ではなくなり、女も女の人ではなくなってしまったが、それだけでなく、すべてについて「何の人」ということが消え去っていった、それではどんな大学に入ってどんな企業に入ってもまったく意味が無いということになるが、まさにそうなっているだろう、われわれは何かの世界がなければ――その世界が信じられなければ――何かの人になることはできなかった。
おれは何の人かなと、少し考えてみる、それは素敵な探索だが、自分で言うのは恥ずかしいので、これからも自分では言わないだろう、幸いおれには視えている世界があるので、その世界の人だ、世界が尽きない以上、夢も尽きない。

「何の人か」、おれの世界の言葉だけ聞こえる。

そりゃ、外国というのはそういうものだろう、ヨソの国はヨソの言葉だ/おれだってヨソの国の言語をそれなりに理解はしたが、そのヨソの言語が殺伐とした呪いあいの国を創り出すなら、肩入れなんぞしようがないぜ、おれは今日きれいな音色をきいて、佳い夜の風に吹かれているのだ、おれにはおれの世界の言葉しか聞こえない。
おれの世界の言葉は常に、周囲に「何の人かな」という焦がれを向けている、ヨソが積み立てた前提なんか知ったこっちゃねえぜ、いい夜にいつかの風が吹いている、けっきょく時間が流れたりはしていないということがこういう夜にはよくわかる、ずっとあのときのままで、何もかもに「何の人か」という焦がれがある。
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理解は空想なり
に立つ話を書くのは好きじゃない。
世の中を知るということが自分を失うということだ。
あいつらは世の中が生きていると思っているらしい。
自分が生きているとは思わないらしい。

理解し合うために世の中は便利だ。
だが理解し合ったものは誰でもないただの約束合わせだ。
理解しないまま愛し合うこと、それはもちろん利益にはならない。
利益のためにすることはない、お前は前もって計算でもしているのか。

世の中と話すおれは存在しない。

決定的なことを言うなら、「全部ウソ」だ、世の中と言いうるすべてのことは体験できない、体験不能の空想でしかない。
おれはおれを体験している/世の中を理解すること、および、世の中から理解されることも必要ない。
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メンタルヘルスは軋んでナンボ
康と不健康を考えたとき、健康のほうがいいに決まっているが、健康「だけ」というのもつまらないし、健康「だけ」というのも恐ろしいものだ。
つまり、八十年間「健康です」という "だけ" で、「どうなりましたか」と訊くと「死にました」と言われる、「なんだよけっきょく死ぬのかよ」という……それで、生前の彼はどうでしたと訊くと、「健康でした」と言われる、「えっ?」、これはなかなかのホラーだ、三十分のドラマに仕立ててもいい。
暴飲暴食はヘルスにはよくないだろうし、寝不足や乱行や喫煙もヘルスにはよくないだろう、だが生涯ヘルスマンとして生きたとして、どうなりましたかというと「死にました」というのだ、こんなアホな話があってたまるか。
ヘルスが損傷するのはよくないが、それはヘルスが保たれてほしいということであって、ヘルスバンザーイということではない、いわゆるメンタルヘルスというのも同じことで、メンタルがヘルシーだった奴がどうなるかというと、けっきょく死ぬのだ、ヘルシーに死ねただけマシという考え方もあるが、おそろしくつまらない中を生きてつまらないまま死んだという見方もある、おれはそれはとてつもなくつまらないことだと捉える派だ。

おれが思うに、身体的ヘルスでもメンタルヘルスでも、そのヘルスが脅かされる段になって、その人の底が出てくると思う。
ヘルスが脅かされるといっても、損なわれてはいけないのだが、つまりその人の酒の飲みっぷりに、その人の底が出るのだし、その人のメンタルヘルスが軋むあたりで、その人の底が出てくるのだと思う。
およそ、メンタルヘルスが良好なときは「いい人」で、少しでもそれが軋むと邪悪な蛇が頭をもたげてくるのでは、もともと虚弱でヤベー奴なのだ、メンタルヘルスが軋むあたりで、そいつがどういう奴なのか底が知れる。
この世界で、こころも魂も全開で生きているのに、メンタルヘルスが缶詰安心みたいにいくわけがあるか、メンタルヘルスは軋んでナンボだ、そしてメンタルヘルスが軋んだときにどういう奴が現れるか……そこでしょーもない奴が現れるということは、底がしょーもない奴なのだ、言い逃れはできない/メンタルヘルスが軋んだとき、そいつがしょーもない奴か、それとも何かを信じている奴かどうかというのか暴露されるのだと思う、その手前でずっと引っ込んでいるのは、缶詰安心だがとてつもなくつまらないことだと思う。

メンタルヘルシーに愛はない。

そりゃ、そんな都合のいい話はないだろう、メンタルヘルシーなら最後までメンタルヘルシー "だけ" でいくしかなく、メンタルヘルシーが歌劇「トスカ」を観ることは何の意味もない、どう見てもトスカの中にメンタルヘルシーなどという登場人物は出てこない/メンタルヘルスが軋まないところに歌劇なんか生じるかよ、ジョギング中にトスカは出てこねーよ。
メンタルヘルシーを放棄し、メンタルが軋む中、それでもメンタルが損傷せず、ついにそいつの信じているところが明らかになるということが唯一のよろこびだが、残念ながら、そんなナイスなパーソンはこのごろいなくなったのだ、メンタルが少しでも軋むと、ただちに荒廃も荒廃、その底のポンコツぶりとしょーもなさが明らかになってしまう/そこには多大な近所迷惑と、いっそ邪悪さまで仄見えるから、底を見せるわけにはいかない、だからメンタルヘルスを保っていこうというポリシーになっている、そのポリシーは正しいけれども、根底はただのホラーでしかない、このごろはずっとそんな風潮だ。
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或る微笑

と昔のことを思い出した。
或る微笑を幾度となく見てきたことを思い出した。
それは女の子が僕に向けてくれた微笑だった。
わけのわからない僕を、認め、許し、愛してくれた瞬間の微笑だった、僕はその瞬間を何度も見てきた。

媒体を見ると、グラビアアイドルの女の子が笑っている。
僕はずっとそれに首をかしげてきたのだが、その理由がふとわかった。
それは僕が見てきた微笑ではないからだ。
現代、楽しそうに笑っている女の子は、ウソでやっているのではないだろうが、あれは自分が楽しいから笑っているのだろう、それは僕が見てきた微笑ではない。

かつて微笑は自己主張ではなかった。

でたらめな僕を許してしまえるほど、深いやさしさと突然の慈愛がかつての女の子たちにあった。
今は、女性がオス化したということなのか、権利意識を植え付けられたのか、わからないが、僕はまだこれまでに見てきた微笑を忘れてはいない/たとえ当人が忘れても、この僕の優れた頭脳がずっと覚えている。

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余談、「笑う」というのはまったく別のことなのだとして

笑い芸人宮迫博之さんを中心に、お笑い芸人と反社会勢力とのつながりが、金銭授受も含めて明るみに出て、誰をどのようにパージするか、大きな問題になっているらしい。
それについて、僕は宮迫さんその他の直接のファンというわけでもなかったし、当事者的な危機意識は起きようもないのだが、ここで先輩格の松本人志さんが後輩全体の救済と庇護に向けて、企業上層部にはたらきかけるらしいということを聞き、そういうことならば例外的に、掛かる事態が思いがけぬ慈悲ぶりで特赦されることを祈る態度に、僕の内側は切り替わった。
僕は社会的に自分に与えられた選挙権および、それに付随する政権監視の義務以外は、社会的なことに対しては行使もしないし履行もしない、古い言い方でいえばいわゆるノンポリの人種だし、社会問題に見せかけた、実は一企業の背徳トラブルにすぎない他人事に倒錯して気勢を挙げる気質は持ち合わせていないけれども、今回に限っては例外的に、松本人志さんのはたらきかけが、功を奏しますようにと祈り、ささやかに気を送るつもりでおりたい。
松本人志さんは、今すでに妻子を持たれ、筋骨を隆々と鍛え上げられているけれども、元より笑いをもって、人々から魔を祓うということを、それと知らず続けていらっしゃった方だと思う、それが今現在の松本人志さんにとってどのような形態になっているのかは知る由もないが、今もなお不穏な魔のほうが祓われ滅びますように/端的に申し上げるなら、僕は宮迫博之さんの姿を再び見たいと心底から望む者ではないが、松本人志さんの往年よりの笑いの信奉が今一度勝利するところを見たいと、心底から望んでいる。

このところ、芸能人のスキャンダル騒ぎと炎上が続いているが、それをもって、僕は芸能人を「信用できない」とは今さら思わないし、「裏切られた」というような心地も覚えない。
僕が今覚えている確信は、むしろ逆方向で、信用できないのは芸能人ではなく、日本国民のほうだ、僕は掛かる事態の連続を見て、日本国民全体に対し、「この方々は、温情や仁愛を持たない人々なのだ」と判断せざるをえなくなっている/「この方々は、快感と不快感しか覚えない人々なのだ」。
何が嘘で、何が裏切りだったかというと、お茶の間でテレビを見て笑っている、温厚そうな日本国民が「嘘」だったのだなと、僕は捉えている、彼らは本当には笑っていなかったし、本当は、そのときがくればいつでも堂々と、今まで笑っていたものを手槍に持ちかえて、即日にも処刑の執行人になるつもりだったのだ、日本国民とそのお茶の間は、実はそうした真実の姿を隠蔽しているものにすぎないのだと僕は判断せざるをえない。
当該の騒動につき、被疑者が釈明にあきらかな嘘を申し立てたということがあったようだが、僕はそうした個人の嘘については何も思わないし、状況的に「そりゃあ嘘も出るだろう」としか思わないが、日本国民全体の「嘘」については別だ、日本国民全体が「嘘」をつき、しかもそのことを自分たちでも気づいていないというのは、善悪というより恐怖の対象たりえる……日本国民は温情を持たず、いつでも隠した手槍を取り出して、人を磔(はりつけ)にして呵責を覚えない人々なのだ/そう考えると今、そうした処刑の怨霊徒たりえない松本人志さんに、今一度勝利の凱歌があがることを、やはり祈念するよりない。

宮迫はあまり面白くないが、それより、日本国民の愛のなさのほうがひどい。

もし僕が、当人の前で「宮迫はあまり面白くないが……」と言ったとして、僕は宮迫さんが「ちょっと待って、今何て言った?」と、威勢良く食いついてくるようであってほしい/一方で、もし僕が "当人ら" の目の前で、「日本国民には愛がない」と言ったとしたら、そこに可笑しなものは何も食いついてこず、ひたすらシリアスな呪詛ばかりがのしかかってくるだろう、それでいてこの国民は他人に対してだけ異様に誠実さを要求してくるのだ。
宮迫博之さんとその他の一派は、掛かる事件によって通例的に、いわゆる「イメージが悪く」なり、広告やスポンサードのストレートな看板たりえなくなるかもしれないけれども、そもそも「お笑い芸人」というのは、人々に商品を好印象でイメージさせるコンパニオンユニットではなかったはずだ、ここで「お笑い芸人」を処刑するというのはそもそもの筋道がおかしい/「笑う」というのはまったく別のことなのだと、このたびは今一度、松本人志さんが勝利してほしい、そのことを祈念して、ここに僕は場違いな話をした。

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思い出の使い道はない
れだけ自由であれるか。
自由を奪う最大のものは「記憶」だ。
強い願望も、記憶から生じているし、イメージも記憶から発生している、記憶がわれわれを支配するうち、今日は決して「今日」ではありえない。
記憶を用いるな、予定さえ記憶であって、計画や予測さえ記憶だ、人は記憶を用いて万事の効率をよくしようとする、そうすると効率はよくなるだろうが、効率がよいだけの無意味な日々が続いてしまう。

記憶をゼロにして実生活は営めないから、実生活は面倒くさいのだが、それは実生活の仕組みに全面降伏することを意味しない。
貴重な思い出、大切な思い出、あるいは「正しい思い出」さえ、われわれから「今日」を奪う/思い出があるのはよいが、思い出を「使う」ことがあってはならない。
誰だって、若いころや幼いころに、一種の美の体験をしているはずだが、なぜそれが若いころや幼いころに限定されるかというと、当時はまだすべてが未知だったからだ、つまり万事に対して記憶を発揮できなかった/何も記憶そのものが悪いわけではない、記憶を「使う」ということが重い、昨日の記憶を今日に持ち込んで使うのは、今日という出来事への否定と冒涜になる。
昨日まで正しいことがあったとして、それが今日に持ち込まれたとすると、昨日の正しいことが今日へ持ち込まれたということが第一の誤りとなる、いかにその記憶が正しく機能したとしてもだ、五秒前の記憶も許されないし、二秒前の記憶さえ許されない、記憶のすべては「知ったかぶり」でしかない、そうすると一歩ごとはなんと清々しい真相なのだろう。

残高が何億円あっても、財布の中は空にできるだろう。

口座から引き出さなければいいだけだ、記憶を使わないというのはそういうことだ、いついかなるときもあのときのまま、何も持たない素寒貧(すかんぴん)でいろよ/いちいち記憶の出し入れに頼らないと毎日がやっていけないなら、それは根本的に能力がないのだ、そのことを恥に思え。
どうせ引き出して使うことをしない貯蓄なら、思い出は無駄な貯蓄でしかないかもしれない、それで結構、思い出の貯蓄をそれ以外の何かに流用するような、お前はド貧乏なのか、思い出を何かに使うようになったら人はオワリだ/「どうしたらいいかさっぱりわからない」というなら、どうしたらいいかさっぱりわからないままでいなさい、あのときがそうだったようにだ、何かがわかっている必要があるというような、お前は安物の人間だったのか。
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人は明るく楽しいほうが決まっている2

でもご存じのとおり、「陽キャ」ほど陰鬱で息苦しい集団はない。
ただ、「陰キャ」がそれを下回っているだけだ、どんぐりのキャラ比べというやつで、そんなものを主題にした歌がこれまで唄われたことはない。
陽キャが真に楽しく明るいわけがないし、女子大生の集団も、OLの女子会も、ソシャゲに耽るおじさんおばさんも、真に明るく楽しいわけがない。
どうも、誰も彼も、すでに明るく楽しい人である権利はごっそり失ったのに、それでも自分はまだマシな何かだと思い込もうとして、全員がその思い込みの中にあるから、しっちゃかめっちゃかになったのだと思う、僕はそのことに同情しているのではないし、むろんアドバイスを目論んでいるのでもない。

おれはただ言っているだけだ、それで何のために言っているかというと、もともとそんなことに理由はなかった、明るく楽しくない奴が架空の常識で近隣を荒らしてまわる風習をいいかげんやめてもらわないと何一つマシにならない。
誰かがあなたのことを心配するなんてことはないし、陽キャの誰かが交通事故で死んだとしても、ひとしきりネタに使い回されるだけで、胸を痛めたりはしないのだ、それは人の素直な生理だからしょうがないだろう? 愛がないというのは当然そういう状態だ、そこで愛のあるふりを続けるからしょうもない事態が長引いた。
テレビやユーチューバーを観るのはかまわないが、もともとそういうものは、あくまで休憩の、ポテトチップスを食うのと同じようなことであって、よもやそれは文化だと言い張るようなものではなかった、いくら自分と友人と恋人が存在しなくてさびしいからといって、夜中にポテトチップスを食うことを文化と言い張るのは冗談にしても度が過ぎた。
きっと過去のどこかに問題があったのだが、もう問題は過ぎたのだ、今残っているのは問題ではなくてただの結果だ、どうしようもない悪あがきを一生続けるだけの奴が大量にあふれかえることになったという、結果だけが残ったんだ、それは一種の社会問題になっているだろうが、それが社会問題とみなされるということは、もう人間的な問題とはみなされていないってことだぜ。

お前は腹の底から誰かを笑わせたことが一度でもあるのか。

そういう根本的な話になると、誰も彼も目を背ける、陽キャの面々は急にマカクザルみたいになってオラついて威嚇で脅威を遠ざけようとする、おれは思うのだが、よく一度しかない自分の一生を、そんな安物のカスみたいに定義できるな/おれは夜中にポテトチップスを食うことを責めるようなアホじゃない、夜中にポテトチップスを食うようなことを人生のピークにもてはやしている連中の気がしれないと言っているだけだ、いくら寂しいからって妄動にも限度がある。
どうもいまだに、「励まし」を求めている人が少なくないようだが、きょうびのキモい奴を励まそうとするような悪趣味は、少なくともまともな奴のあいだには一人も残っていないぜ、そもそも対話する必要はないと見切られているんだ、たぶん自分だけ対話ありきって妄想に取り憑かれたままなんだろうな/おれだって少しは考えているが、たぶんウソが最大によくないんだ、素敵じゃないってことはやっぱりゴミってことなんだよ、ありふれているだろ、お前に少しでもまともなところが残っているなら。

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