命の風、何かが創られるのはそういうときだ。
会社や、イベント会場や、習い事や部活動に「行く」ということで、何かが創られるということはない。
人々が集まるところに熱風が吹く、そのとき、われわれは互いが誰であるかをよく知らない、にもかかわらず、互いを誰であるか、よく知り、その後もずっと覚えている。
「行く」ことに出会いはない、「集まる」ことに出会いがある。
たとえ一人や二人であっても「集まる」ということ、それが「場所」なのだ。
「集まる」ということに主体性があるのだ、イベント会場に「来てみた」「行ってみた」「興味があった」というのは主体性じゃなく見物人だ。
1995年の1月、神戸で震災があり、何かしようとしたボランティアの人たちが集まった、それがどうした人たちだったのかを、おれは覚えていないが、すごくよく覚えている、集まった人たちのことを/そしてそのことは、2月になり、福祉学部の大学生たちが「来てみた」ということで終わった、ああ、おれは同じようなことをたくさん見てきた。
同じ何かに呼ばれたのだろう、集まってきた人々は、見知らぬ同士の友人同士だった。
おれは同じようなことをたくさん見てきた、いつのまにか、ゲームセンターに集まっていた人たち、あの日々のことは、人生にはかかわりのないことで、ただ魂の時間、命のことだったのだと改めて思う/それがまさか「集まる」という象に現われていたとは、気づかなかった。
寒村の道端に老婆がやっている商店があり、そこにふと、旅行中のおれと友人が立ち寄ったというようなとき、その数名にもなぜか「集まった」という象が現れている、表面上は商店に「行った」ように見えるし、向こうからは客が「来た」ように見えるけれど、そうではない、なぜかわからないが「集まった」のだ、そのときどんな真冬にでも魂の原に熱風が吹いている。
コンテンツ、「内容物」であるためには、その大きさが有限である必要がある、線分ABは、それより大きい有限の直方体に内包することができコンテンツたりうるが、直線 y=ax+b は「コンテンツ」になりえない、無限に続く直線を内包できる容器じたいが存在しないからだ。
なぜ近年のボーカロイドが唄っているものは「コンテンツ」に見え、ボブディランが唄っているものが「コンテンツ」には見えないのかというと、それぞれ実物の事象が違うからだ、コンテンツは線分で、本人が何かをしているのは直線だ、だからわれわれはボブディランのそれをそのまま「ボブディラン」としか呼ばない。
それでもいちおうわかりやすさのために、われわれは現在の「コンテンツ」を、くどくどしく「線分コンテンツ」と呼ぶ必要があるだろう、線分コンテンツに包囲されて、もちろん線分コンテンツを摂取するためにわれわれの側の素質も「線分自分」でなくてはならない、そして線分自分が線分コンテンツを摂取しているうちに、誰にスチールされたものか、直線本人はどこかへ消えてなくなってしまった。
わたしはいっそ、この線分コンテンツへの精密な理解をするほうが近道だと考えている。
客席に一万の観衆があれば、それはそれぞれバラバラの線分なのだ、一万本の線分がそこにある、そこで舞台上にはやはり線分に適合する線分コンテンツABを表示する、すると一万本の線分がそれを受けて、「楽しい」になったり「かわいい」になったりするのだ、ただそれだけのことであって、このことだけを精密に見るならこのことに善悪などない、ただの線分の現象だ。
線分をどれだけ膨張させても直線にはならない、それで、線分コンテンツというのはどこまでいっても「ネタ」なのだ、われわれがじっさいショート動画で数億個の「ネタ」を観られるのはそういう現象だ、このことは線分自分になれば誰でも出来ることなので、そのことはいくらでも出来てしまうように精密に理解してしまうのがいい。
そして多くの場合、これは線分コンテンツでしかない、これは線分だから「ネタ」にしかならない、とわかっていても、なぜか次第にそちらのほうに吸い込まれていくことになるだろう、線分自分になり、自分のすべては「ネタ」になっていく、それならせめてごきげんなネタにしよう、楽しいネタやかわいいネタであろう、という発想になっていく、もちろん逆転して「ムカつくネタ」「イラつくネタ」「シャレにならないネタ」「人に損害と危害を加えるネタ」になっていく人もいるが、どちらにしても変わらない、人は自らの意志によらず自動的に線分コンテンツ・線分ネタたる自分になっていくのだ、これがどうやら現代のわれわれに課せられたあたらしい時代の試練らしい/どこから来たのでもない、そしてどこへ往くのでもない、線分かぎりの「ネタ」、なぜかみんなして "そうなって" いく。
線分「−」はネタでありキャラである、それが線分たる友人・観衆ら「−」を興奮させる。
われわれはこの「線分コンテンツ」をよく知るべきなのだ、もちろんほとんどの場合は、それをよく知る行程の中でそれに吸い込まれていってしまうだろうが……線分コンテンツ「−」を聖なる気持ちで良しとする線分自分「−」が存在する、それはもともとの直線をブツ切りにして発生した線分だ、われわれはここまでのどこかでその直線に対する切断行為をどこかでやったらしい。
わたしは、見かけ上線分コンテンツ「−」に見えるものも複数提出していこうと思う、「−」「−」「−」、そしてあなたを困惑させたりどこかで恐慌させたりするのは、わたしの場合「−」…「−」…「−」とそれら見かけ上の線分コンテンツがじつは視えざる一本の「脈絡」で接続されているいうことなのだ、このことはあるていど強くあなたの精神をおびやかしてしまうだろうが、そのぶんいざというときには手繰り寄せるための秘密の糸になる、この糸はわたしを嘔吐させたがそのぶん本当にどこか果てのない果てまでつながっているぞと。
人は本来、どこかからやって来たもので、どこかへと往くものだ、唐突にポン!! と始まるものではないし、唐突にポン!!!「終わり!!!」と終わるものではない、いずこからか来て、いずこかへて往く。
果てしない朝のどこかから来て、果てしない夕の向こうへ往くのだが、その果てしない出自と往く先への接続が切れた人がいるのだ、いうなれば直線と線分の違いで、xy平面上の直線はいずこからかやってきていずこかへと去っていくものだが、「線分AB」はそうではない、唐突にAから始まって唐突にBで終わる、それが線分ABだ。
あなたの家には何かしらの電源ケーブルがあり、電灯スタンドがつながっていたりするのだが、その電源ケーブルはコンセントに刺さっており、その電気はどこからかやってきて、あなたの電灯スタンドを光らせて、その光はどこかへと去って往くはずだ、この電源ケーブルをコンセントから抜いて「電源!! ケーブル!!」と主張したとして、言っていることは誤りではないのだが(電源ケーブルだもんな)、なにかとてつもなくすべてが無意味になってしまう、取り外された電源ケーブルに意味はないので、その品質も機能も本当に「意味がない」ものになる、そうして何もかもに「意味がない」ということに、旧世代の人たちは「意味がない、死にてえ」と思うのが通例だった。
時代は変わり、そもそもが、電源ケーブルがコンセントに接続されるという前提じたいがなくなった、さまざまなキャラクターの電源ケーブルが家電量販店で陳列されているという状態になった、どれも良質な品・まともな品で、文句をつけるようなところはどこにもないのだが、そうではない、失われたのはコンセントのほうなのだ、コンセントがないのに電源ケーブルだけがいろんな種類売っているという状態にある。
それで、時代が変わったので、いまだにおれにだけ「電圧」が掛かっているのが奇妙に見えてしょうがないのだ、おれはいまでもどこかから来た者で、どこかへと往く奴だ、これがおれの「本人」という現象なのだが、これで話も気配も噛み合わなくて、混乱して絡みづらくなっているのだ、つまり「直線九折」と「線分太郎」が会話しているので、見た目には似ているのだが事象が異なるのだ、それはけっきょく噛み合うわけがない。
脈絡じたいがなくなったというのは、もう電源ケーブルも数センチごとにブツ切りにしてみましたという状態で、これではもうわけがわからないのだ、おれが「これでは噛み合うわけがない」と話すより、アニメキャラクターが「アーニャわかんない」と言うほうが、ブツ切り線分太郎にとっては「わかる(共感)」なのだ/しかしいまはそんなことはどうでもよくて、少なくともおれ自身が、この接続の中にある者・旅の途中にある者であることをしっかり使いこなすべきだ、おれはこのことの「手がかり」として自らを明らかに示しながら生き残る必要がある。
おれはいまも、どこかから来た者で、どこかへと往く奴なのだ、その直線の中にいて、ブツ切り線分太郎になっていない、そして注目すべきことは、ブツ切り線分太郎のほうは哀しく墜落していくかというと、そうではないのだ、ブツ切り線分太郎のほうがむしろ躊躇なく、自分の「聖なる気持ち」を燃え立たせて自己主張を湧出し始めるということなのだ、どうやら「自分」「気分」といって「分」がつく以上、それは「線分」の側の現象であるらしい。
おれにフィクションの技術は必要ない、直線じたいがフィクションだから。
おれはどこかからやって来て、どこかへと往く、その中にいるというか、その中のものということ、それじたいがフィクションなのだ、だからこれという技術は必要ない、おれはこの現象が技術でもなければ作為でもないということの実物および手がかりとして生き残らねばならない、花使いのマリエときつねのゴンスケとアーニャわかんないだけではどこへも往けない・どこにもつながっていないと気づいていつか「脈絡」に帰りたいという人も現れるかもしれないので。
さしあたり、あなたがおれのことを愛してやまないのは、おれがあなたの目の前で、いつも「いずこからかやってきた人」だからだ、そしてそれが壊れることがあるとすれば、ブツ切りにされたあなたに湧いてくる「聖なる気持ち」が、目の前のおれの存在とぶつかってしまうからだ、なにも恐れることはない、表面的にはいくつかの苛立ちも湧いてくるけれど、けっきょくあなたはおれがあなたの目の前で注いだ一杯のお茶をその紙コップごと投げ捨てようとは思わない、いずこからか来て注がれたお茶というものをあなたはちゃんと視ている。
若い世代にはそのあたりの躊躇がない、彼らは脈絡を失った世代ではなく、初めからそのことにこころあたりがない世代だ、たとえばわれわれは歴代の天皇陛下の名前を憶えていないが、そのことにわれわれはショックを受けないだろう、ショックを受けるのはご年配の世代だ(むかしは歴代の天皇陛下の名前は一般常識だった)。
若い世代は、脈絡に無縁で、特に理由なく「かわいい」が目の前に示されると、純粋に「わーかわいい」とだけ反応する、旧世代はそこに「かわいい……けど、いやいやいや、いやいやいや」とためらいを覚えるのだ、そして旧世代がその「かわいい」を咎めると、新世代にとっては本当に意味不明なので「可愛くてごめん」という反応になる。
なんというか、若い世代にとっては、たとえば浦島太郎のストーリーに、唐突に「花使いのマリエと、きつねのゴンスケ」というキャラが出てきても、何の違和感もないのだと思う、マリエとゴンスケが「楽しい」「かわいい」なら素直にそのとおりの反応をするだろう、「脈絡」じたいがないのだ、そして旧世代のほうも、そのマリエとゴンスケが「おかしい」と思いながら、もう何がおかしいのかをうまく言えなくなった、脈絡がないというのは若い世代だけではなくわれわれ全体のことだ。
われわれは、この時代を生きねばならないのだと思う。
なぜこんな時代を与えられたのか、この中で何を見つけろということなのか、何に向き合えということなのか、まったくわからないし、この先に何がどうなるのかさっぱり予測もできないが、とにかく時代は変わったのだし、その中を生きねばならないのだ/いまでも歴代の天皇陛下の名前を覚えることはできるのだから、「脈絡」だって自分がそれを得たいという人はそれを得ればいい、ただそれがわれわれの共有する何かではなくなったということ。
思いがけないことだが、「ネタ」について考えることがこの発見につながったらしい、脈絡なしに唐突に出てくる「楽しい」「かわいい」、あるいは「ムカつく」といったものは、脈絡がなければ何なのかというと、それは「ネタ」なのだ、お笑い芸人は楽しいという「ネタ」を提出するもので、女の子はかわいいという「ネタ」を提出するもので、週刊誌や炎上屋さんというのはムカつくという「ネタ」を提供するものという、そういうある意味では純粋な捉え方がされるものになった/芸能界をスキャンダルで叩くというブームが続いているが、これも強烈な「ネタ」にすぎないのであって、だからこそ関心を寄せているふうの人も、根本的な脈絡などはどうでもいいと感じているのだ。
「脈絡」という現象じたいが失われると、世界のすべては多種多様な「ネタ」になる、そしてやはりおれのやることなすことだけがネタでないので、おれはいまとてつもなく絡みづらい奴になっているのだ、おれがここに書いている 8,000 件以上の記事がどれひとつもネタでなくすべてひとつの脈絡を持っているというのはすさまじい違和感のものになってしまった/もちろんここまで視認できている以上、違和感を消してしまう方法もわかるが、そんなことをしても面白くはならないので、おれはとうぜんこの巨大な違和感のまま進むとしよう、その孤立ぶりこそじつにおれらしいところでイイじゃないか。
花使いのマリエときつねのゴンスケが登場するところで、「わー」となるのはかまわない、でもそれは「脈絡」ではないということぐらいは覚えておいてもよいかもしれない。
花使いのマリエときつねのゴンスケが問題ではないのだ、大事なのは、もしわれわれがこの先に「脈絡に帰りたい」と思ったときに、花使いのマリエときつねのゴンスケに引っ張られないことだ、おれはいまギリギリのところでまともなことを言うぞ、<<浦島太郎は楽しくてかわいい話ではない>>のだ、ただの昔話だ。
「脈絡」というものじたいが消え去って、花使いのマリエときつねのゴンスケが「楽しくてかわいい」のであれば、浦島太郎の話は一気にそのマリエとゴンスケのほうへ引っ張られるはずだ、むしろその2キャラが浦島太郎の見どころみたいになってしまうだろう、でもそうではない「脈絡」という事象もあるのだということ、それぐらいは覚えておいてもいいだろう、かつて女性が踊ることや男性が唄うことにもそこへ至る「脈絡」というものがあったのだ、いつかそのことが知りたいと思うときも来るかもしれない。
このわけのわからない感覚は、そうそう掴めるものじゃあるまい、よかった、おれは恵まれている。
思いがけないことに、おれはまだ時代についていけるようだ、少なくともイライラはしないで済む、時代によって分断される人は多いけれど、おれはそのあいだを跨げるらしい。
現代には「脈絡」がないのだ、「脈絡」というものじたいが消え去ってしまった、それで若い人なんかは特に、自分の脈絡がないことに悩んでいないのだ、もともとの脈絡というものじたいが存在していないから。
とつぜんのショート動画で、知らないおねえちゃんがスケベなダンスを踊ってくれたり、よくわからない兄ちゃんが上手いのかどうかわからないギターを弾き出したりする。
おれはそうしたもののすべてが、根本的によくわからないと感じていたのだが、おれが首をかしげていたのは「脈絡」だったのだ、そんなものは初めからありはしなかったのだから、首をかしげているおれのほうがどうかしている。
「脈絡」は存在せず、「楽しい」とか「かわいい」だけが存在している、そしてそのことに、特に若い人は悩んでいないのだ、<<脈絡を無視しているのではなく、脈絡じたいが存在していない>>、このことでおれは若い人を責める気はまったくない、だってじっさいに「無い」のだから、彼らは若いぶんだけ素直なだけだ、彼らがこの先に脈絡を探す旅に出るかどうかはさておき、彼らが責められる筋合いのものではない。
混乱しているのは旧世代のほうだ、旧世代のほうが、失われた脈絡を無理に見い出そうとして苦しい言い訳をしている、旧世代の側は自分に脈絡がないことを恥と感じるので……しかし脈絡じたいが無くなってしまった事実に、すでに細胞のほうは馴染んでしまっており、旧世代はショート動画を眺めながら仏頂面をしている、「楽しい」とか「かわいい」とかを眺めながら仏頂面をしている、混乱しているのは旧世代のほうだ。
そしておれにだけ急に脈絡が「ある」ので、おれはものすごく絡みづらい奴になっている。
まるで他人事みたいになってしまうが、これは面白い混乱だ、旧世代の人はおれに脈絡があることを「正しい」と感じるのだが、なぜか自身からはその脈絡が消え去ってしまっている、まるで「裸の王様」の逆転バージョンみたいに、おれだけ服を着ておれだけネクタイをしているような状態だ、旧世代はおれのことを「正しい」と感じるのだが、なぜか自分には服がなくて裸なのだ。
そしていっそ若い世代のほうが、おれに対する違和感や混乱はないらしい、若い世代には「これがこの人の裸」と見えているようだ、服を着てネクタイをしているのがこの人の裸、「なんかすごい気がするけどよくわからない」という感じで、ナチュラルにイーブンにおれのことを眺めてくれている/時代が変わったんだなあと、唐突に発見した、おれにだけ脈絡が残っていて、そのことが時代の中でものすごい違和感なのだ、この混乱はいましばらくちょっとだけしんどいかもしれないが、別に何も仲を悪くすることはなかった、少なくともおれはイライラしなくていいことになった。
後輩が突堤から海をのぞきこんで、「めっちゃクラゲいますよ! 気色わる〜」と怯えていたところ、先輩がそいつの背中をエイッと押したのだ、すると彼はアアッ・アアッという声をあげて、マンガのように手をぐるぐる回しながら海にドボーンと落ちていった。
海にいたのは小さなミズクラゲの大群だったから、刺されはしなかったのだろうが、それにしてもなかなかひどいことをするものだ、現代でいえばパワハラ以外の何物でもなく、何なら訴訟になってもおかしくないようなことだ、でもわたしがじっさいに目撃したものは別だ、彼は水しぶきを立てて海面で暴れまわり、なんとか岸壁に戻ってきて「めっちゃビビりましたよ!」とその先輩に言った。
そして彼はその後もその先輩とゲラゲラ笑ってマージャンをするという具合なのだ、これは何かというと「先輩と後輩」という "文化圏" としか説明できない、ただ当人らはいちいちそんなことを認識しているわけではない、彼らにとってはそれは「いつものこと」だから、何かの文化様式を意識してそうしているわけではないのだ。
文化圏にもアタリとハズレがある。
命を帯びている文化はアタリで、命を帯びていない文化はハズレだ、若い女性がコーヒーを淹れて、おっさんが新聞を読んでいるというようなことに、えもいえぬ命が与えられていることもあれば、「何もかもが根こそぎクソだ」という場合もある、「なんでわたしがふんぞり返っているおっさんにコーヒーを淹れてやらないといけないの?」と、怒り心頭がごもっともということがある。
何の指針にもならないが、しょうがない、知っておくことだ、まず「形式」というものがある、この形式じたいは誰でも認識できるものだ、つまり「先輩が後輩にやりたい放題をする」「おっさんがふんぞり返って若い女性がかいがいしくする」、このまったく同じ形式を "やる" として、なぜかそこにえもいえぬ命が与えられることもあれば、何も与えられず「しんどい、キモい、気色悪い、うざい、死にたい、死ね」と発狂したくなることもあるのだ/つまり形式の是非があるわけではなく、同じ形式でも命の有無があるというだけ。
覚えておくことだ、ここで最も不毛で害悪なのは、その文化で命を与えられなかった人が、その文化で命を与えられた人を否定し、非難し、その解体を請求することだ、つまり「先輩だからって後輩にそんなことをするのはパワハラで犯罪です」、「クソみたいなおっさんがふんぞり返って女性がかいがいしく世話するなんてヘドが出る性差別」、そういうふうに文化圏の外側からその解体を請求することは最も不毛で害悪だ、しかもその請求者はたいてい自我の爆裂した「正義」を振りかざしている、これは見るにたえない最も醜悪なものでもあるし、それ以上に、はっきりいってめちゃくそ罪が重い、何の罪かわからんが魂の罪だ、取り返しがつかないぐらい重い罪になるので本当にやめておいたほうがいい。
命のない文化様式をなぞらせることの罪は重く、命ある文化様式を解体させることの罪はさらに重い。
はっきり申し上げておく、もしあなたが、ソファにふんぞり返っているおれにコーヒーを淹れて差し出してみたとして、そこに「佳い」と思える命が与えられてこないなら、即刻そのことはやめるべきだ、そしてもう二度としないと誓い、何であればその労働力分を時給に換算しておれに請求書を打つべきだ、そこに命が与えられないなら様式をなぞるべきではない、それはそれで、かつてどこかであった文化への冒涜にさえなりかねないからだ、残念ながらそうした文化の命は「ごっこ遊び」「イメージの真似っこ」で得られるものではない/せいぜい、浮世の義理でそのように振る舞うか、そうでなければそれこそコンセプトカフェのつもりでそうするしかない、文化の命とはまったく無関係のこととしておけば何の咎にもならないだろう。
はっきり申し上げておく、逆にわたしがテキトーに、知人の女性に向けて「あなたにはわたしのコーヒーは淹れさせません」と言いつけたら、その女性はエッと悲鳴のような息をのんで、泣き出しそうになることさえあるのだ、これは何に対して泣き出しているのか、ぜひ強調して伝えておきたい、<<「あなたはこの文化圏から締め出されます」という通告に聞こえる>>から泣き出すのだ、それぐらい本来は文化圏から締め出されるというのはつらく悲しく致命的なことだ、みんなで揃って締め出されるならあるていど紛れるというかごまかされるかもしれないが、そのことが致命的であることは変わっていない/あなたは自分が締め出されたら泣いてしまうような文化圏を見つけて、みずからそれを守る者になれ。
「文化圏」を解体すると、安全で安心だ。
そして弱くなる。
無価値になるから弱くなる。
無価値なものを人は守らないからだ、守りようがないからだ。
イスラム教徒がメッカをあがめている意味は証明できないし、ヒンドゥー教徒がガンガー(ガンジス川)をあがめている意味は証明できない、日本人が天皇陛下をあがめている意味は証明できない。
ただ明らかなのは、その文化を解体してしまえば「弱くなる」ということだ、弱くなると他のものが入り込みやすくなる。
「紅白歌合戦」が廃止になれば、そのぶんの視聴率を狙って、別番組が入り込みやすくなるだろう、それと同じことだ、「狙い目」が出てくる。
たとえば日本のアイドルタレントが解体されれば、別の国のアイドルタレントが入り込みやすくなるだろう、すでに韓国系は人気だし、これからは中国系が人気になるかもしれない。
さまざまなムーブメントは、あなたを安全安心にするためにはたらきかけてきているのだろうか?
そんなことに何の「狙い目」があるというのか、狙い目はあなたに「何も守らせない」というところに生じる。
さまざまなことが無価値になっていくのは、あなたが偉くなったからじゃない、何かしらの「狙い目」があるのだ。
有名人も含めたお金持ちが自家用クルーザーで秘密の海上パーティをするとなると、海の上に連れていかれた女の子たちは前もって「そりゃあね」という感じだった、「まあ海の上なんか、もう逃げ場ないし、こっちもだいたいそのつもりで来ているし」という感じだ、これらのことはすべて「暗黙の了解」「公然の秘密」みたいなものだった、だからといってもちろん事故やトラブルがあってはいけないのだけれど。
クラブのVIPルームなんてそういうものだし、クルーザーで海上パーティをするなんてそういうものだし、女グセが悪いことで有名な◯◯社長のところにギャラ飲みに呼ばれるということはそういうものだしという、そういう「暗黙の了解」は、それじたいが「文化圏」になっていた。
ある料理人は、修業中、自分のミスを報告するときには、料理長が「おたま」を持っているときに報告していたそうだ、なぜなら、鍋を持っているときに報告すると鍋で殴られるからだ、おたまを持っているときに報告したらおたまで殴られるだけで済む、これは現代で言えばパワハラだが、当時はそういう「文化圏」だった/わたしの友人のKくんは大学のとき、剣道部は下ネタがひどかったのでフェンシング部に入ったと言っていた、本当は剣道がしたかったのに気の毒なことだが、それもそういう「文化圏」だった、もちろん他大学の剣道部はまだ文化が違っただろう。
わたしの学生時代は、部活動においては、パワハラと、それより何よりアルハラがひどかったと思うが、なぜか文化圏として下ネタはまったくなかった、同じ部活動でも某・旧帝大学の部は、毎年宴会になるとわれわれの前で「ジャングルファイヤー」という、やらなくていいことを見せつけてきた/下半身を露出した男どもが舞台上に横並びになり、端のひとりがみずから陰毛に火をつけ、燃え上がったその火を隣の奴の陰毛に「リレー」していくという、サイテーの演(だ)し物だ、われわれの側はそうした下ネタの力業は良しとしなかったのだが、しょうがない、向こうは向こうの文化圏だ、毎回「やめーや」と笑っていたが……あえてここで大学名を言わないだけわたしにも仁義があるというものじゃないか、偏差値70を超えている国立大生のやることか(※こっちも偉そうなことは言えない)。
わたしの学生時代の場合、あのアルハラの中でよくみんな無事に生き抜いたものだと思う、わたしは二日酔いならぬ三日酔いを体験したことがあるし、酒の飲み過ぎで寝ざめに幽体離脱したことがあった(起きたら「自分」がなぜか天井に貼り付いてしまった)、いまは便宜上それをアルハラと呼んでいるが、当時はそういう「文化圏」だった、まあ部活動に女性がひとりもおらず男たちだけ五十数名いたというのもあると思うが、とにかくそういう文化圏だった/新入生にはまず「自己紹介」で絶叫してもらうというパワハラの代表みたいな儀式もあったのだが、そういう「文化圏」は、いまは引き継がれていないだろう、そうした文化圏はいつから始まったものでいつ終わったものかはわたしには知りようがないが、当時はとにかく何もかもを「伝統」ということでごり押しされていた(だめだ、いま思い出しても恐怖が走る)。
「文化圏」について注意するべきことは、その「文化圏」には脱出口・非常口がなくてはならないということだ、強制されるものであってはならない、<<そこに所属するかぎりは実質強制されるけれど、その所属から離脱することは随意に可能>>でなくてはならない/まあじっさいにはいろいろあるのだ、アルハラといっても本当にアルコールが体質として飲めない奴もいたので、そういう場合は同じパートの、隣に座っている奴が代理で飲まされるのだ、「お前代わりに飲むよな?」と先輩に言われて、「当たり前っすよ、ちょうど酒が足りんと思っていたところなんですよ(半泣き)」という具合に。
「文化圏」には緊急避難口がなくてはならないし、また、「そういう文化圏ですよ」というのは明文化されていなくても「お察し」のていどに明示されていなくてはならない、どうせ「そういうひどい目にあうのも一興かも」と思っているようなアホ連中が巻き込まれていくのだ、そしてその「文化圏」でのしきたりやルール、常識などを、文化圏の外側へ持ちだしてはならない、文化圏の外側でそれが成立する・許されると思っていたらそれはただのアホだ、つまり「そういう」クラブのVIPルームで女の子に酒を飲ませて脱法ドラッグを吸わせてヤッちゃうのはいいが、同じやり方をマッチングアプリの女の子に向けてやったら犯罪になりますよということ/そんな見当違いをやるアホがいるわけあるかと思うのだが、そうでもない、けっこういるのだ、そいつはそいつでけっきょく「文化圏」というものがわかっていなかった奴だ。
「文化圏」のすべてを解除すれば、すべてが安全ですべてが合法、すべてがオンデマンドになるが、何の文化もなくなる。
そりゃそうだろう、たとえばわれわれ日本人は、いまのところ年長者に敬語を向けることになっているが、それだって態度を強要されているハラスメントと言えばハラスメントだ、いまのところそれは「文化圏」と扱われているのだが、これを放棄して解体すれば、わわれれは敬語やら謙譲語やらのややこしい言葉づかいの労力や不満から脱却することができる、そのかわりもちろんかつてあった文化は失われる/敬語を使ってほしい人は、そういう「コンセプトカフェ」にでも行けばいいでしょということになり、文化の代替をオンデマンドが担うことになる。
どう思う? これって単純かつ、いつまでも悩ましい選択だ、「文化圏」を破壊すれば安全安心、それによってつまり、わたしのKくんは剣道部にも行けるしフェンシング部にも行けることになるのだ、ただしそれは「どっちも同じ、剣道部もフェンシング部も『同じ』」ということだ、そこにユニークな体験はないということになる、どの街に行っても同じ、どの人たちといても同じ、文化圏のない平坦な世界だ/もちろん「ジャングルファイヤー」といって、陰毛を燃やしたければ自宅でひとりで陰毛を燃やしていたらいい、それをSNSで発信してもそんなに怒られないだろう、だがそれは文化ではない、さまざまな見世物をオンデマンドでストリーミング再生できるが、そのどれも文化ではない。
それをわざわざ「楽しむ」ということは、おれにはよくわからない、たとえば水菜は歯ごたえを楽しむものだしマツタケは香りを楽しむものだが、それは調理側の話であって食べる側の話じゃないんじゃないのか、水菜は歯ごたえを楽しむものだから火を通し過ぎるとよくないよという話であって、われわれが水菜を噛んでニッコリするという意味ではないように思う。
アサシンクリードの新作が発売されたら、おれとしては「楽しみ」だが、じっさいにはおれは作中で敵となるテンプル騎士団を暗殺しまくっているだけであって、それを「楽しむ」というようなややこしいことはしていない、おれはただ遊んでいるだけだ。
逆に、万事を「楽しむ」としている人は、自分が何をやっているのかよくわかっていないんじゃないのかと思う、スーパーマリオを「楽しむ」という人がいたら、その人はそもそもさらわれたピーチ姫を救出に行くということがわかっていないのではないだろうか、ワインの香りを「楽しむ」というような人がいたら、その人はそもそも「酒を飲む」ということがわかっていないのじゃないかとおれは思う。
「楽しむ」という発想の人は、何か話をしていても噛み合わず、見ていると、肝腎なことのすべてが揮発していくように感じる。
「楽しむ」ことによって脳みそがダメになるのか、あるいは脳みそがダメになると「楽しむ」という発想になるのか、わからないが、とにかくそうではないのだ、教えにゃならんことがある、学ばにゃならんことがあって、たとえばベトナム戦争の映画は「ヘリから突入していった空挺部隊が降り立った先に見たのはこのような地獄の光景だった」ということを教えているのであって、視聴者にその悲惨さの気分を "楽しませて" いるわけではない/もちろんその上で、自分はそうではないのだ、自分はそれを「楽しむ」のだと言うかぎりにおいては、おれの口出しする筋合いではないが。
だからおれとしては、きれいな女の子が唐突に水着姿になってグラビア写真になったり、お笑い芸人が奇抜なかっこうで奇抜な声を出すというようなことについて、受け止めかねてとまどうのだ、そうしたものを「楽しむ」という人に向けては魅力的なコンテンツなのかもしれないが、おれとしては「これはいったい何を教えられているんだ」と困惑してしまう、この女の子のおっぱいはこんなに大きいんだぞということを教えられているのだろうか、しかしそれではいったい何を学んでいるのか意味不明だ。
「ドラゴンクエスト」でいうと、勇者ロトの末裔が、魔物の親玉である龍王を倒して世界に平和を取り戻す、という話を教えられているのだ、そこで何を学ぶかといえば、それはプレイしてクリアしてくれということになる、そのためにドラクエがあるんだから、それでも強いていうなら「勇者が王から正義の命を受ける」「魔とはどのようなものか」ということだろうが、そういう断片では学びようがないから実作になっているのだ、ドラクエを「楽しむ」という人は勇者ではないとおれは思う。
「古池や蛙飛びこむ水の音」、松尾芭蕉は何を教えようとしているか。
「楽しむ」という発想の人は、ここで松尾芭蕉が何を「教えようとしているか」ということを捉えるのが、きわめて苦手で、すべての思考が揮発していく感じになる、それは本当は揮発しているのではなくて、自分が思考だと思っていたものが何ら思考ではなかったということなのだろうが、とにかくこんな単純なことにこそまさに話が噛み合わないということが出てくる。
ここで松尾芭蕉が教えているのは季節であり静けさというべきわびさびだ、「ほほほほおおう、こんな静けさとわびさびと季節があるのか、そしてまたこんな言い方があるのか、お前はこんな季節と場所を見たのかあああ」ということを学ばされるのだ、ところが「楽しむ」という人はここでまっさきに、その静けさやわびさびや季節を「楽しむ」のだと思ってニッコリほほえもうとするのだ、それはさすがに無理があって、あまりにも露骨なアホなんじゃねえかとおれは思うのだがどうだ/松尾芭蕉は「水の中」と言わず「水の音」と言っている、カエルが飛び込む音が響いてくるぐらいあたりは静かだということだ、古い池の周囲に腰を下ろすとそれほど静かだったというわびさびを言っている、そしてそのポチョンという水の音は、カエル「だろう」と思わせる、そういう季節の中に座っているということだ、なるほどねえええええということになって盛り上がって楽しいじゃないか、これを「楽しむ」といってニッコリほほえみだすのはさすがに不気味でムリがあるんじゃないか。
そりゃおしゃれカフェ巡りだったり、気になるカレとの急接近だったり、ボルダリングだったりサイクリングだったり、海外旅行だったり盆栽だったり、お気に入りの動画チャンネルだったり「推し」のライブだったり、楽しめばいいけれど、そんなに「楽しむ」って必要なのか、おれはどうもそんな気はあまりしていない。
生きていることが楽しい必要はあるだろうが、それをわざわざ「楽しむ」という行為は必要なのだろうか、おれは逆に思う、生きているのが楽しければわざわざ何かを「楽しむ」ということはそんなに必要ないように思う、焼酎の水割りを飲むのに新鮮なしめさばをつまんで食うのは楽しいが、それをいちいち「楽しむ」という感覚はおれにはない、楽しいというのは日常のことであって楽しむというわざわざの行為はおれの中にない。
おれの場合は、といって、おれの場合が何かのサンプルになるわけではないけれど、それでもおれの場合は、楽しむというよりは遥かに何かを学んでいる感じだ、ずっと遊んでいるがずっと学んでいるように思う、本を読んでいても映画を観ていても、旅先を歩いていてもフライパンで料理していても、何かをずっと学んでいるような感じだ、おれにとっては「楽しむ」ということにはとても全身全霊を放り込めないような感じがする、学んでいるということには全身全霊が吸い込まれるんだがな、もちろんそれも遊んでいるのか学んでいるのかよくわからないことばっかりだが/けっこうこの単純なところで、話の根幹が噛み合わないことが出て来ているように思う、万事を「楽しむ」と思っている人と、万事を「学ぶ」と思っているおれとでは、「なーんかしっくりこねえなあ、話の根っこのところがよ」という感じになるのだった、おれにとってはその「楽しむ」ということがあんまり楽しい感じがしない、だからおれは他人の「恋バナ」みたいなものを聞いていてもそれをワーキャー「楽しむ」というようなことがいまいち(まったく)できない。
おれが友人に向けて、特に年少の友人に向けて思うことの中には、「教えにゃならんことがある」「学ばにゃならんことがある」というのがれっきとしてあるのだ、ただその感覚じたいが必ずしも共有されているわけではないんだなと、当たり前のことにいまさら憮然とするのだった(もちろん誰が悪いわけでもない、何かが悪いということはまったくない)。
おれはどこかで、教えにゃならんことがある、学ばにゃならんことがあると思っているのに対し、向こうが「楽しもう!」と思っていると、まあまるで噛み合わないのだ、おれはもちろん万事を楽しくやろうと思っているしけっきょくおれが生きる時間のうちに楽しくない時間なんて一秒もないのだが、たとえばおれが「やっぱり那須高原に行ってみようか、おれにとっては三度目ぐらいだが」と切り出すとき、おれは根本的に「そうして現地に行って学ばにゃならんことが何かある、それが何なのかはよくわからんし、行ってみるまではそれが何なのかわからんのだが」という感覚で言っているのだ、でも多くの人はこうしたことに「面白そう! 楽しみましょう」みたいな受け取り方をするようだ、別にそれでいいでしょと言われたら確かにそうだとおれも思うのだが、おれにはとにかくその「楽しむ」という発想がない、楽しむと言いだせばおれはそんなはるばる遠くまで行かなくてもすべての時間が楽しさに満ちているのでわざわざ出かける必要がない。
何なんだろうなこの感覚の違いは、たとえばおれが富山にブリやイワシを食いに行ったとして、おれにはやはりそれを「楽しみに」行くという感覚がない、英語で言えばエンジョイという動詞がおれにはない、夕暮れに湘南にいけばとうぜん海に夕陽が沈んでいったりするだろうが、おれにはそれを「楽しむ」という感覚がわからない、おれは子供のころからずっと「この世界は何なんだ」というような疑問があって、夕陽のひとつだってその答えの断片あるいは答えそのものになるから、それを学びに行っているような感じなのだ、「ほおおおお湘南の夕陽とはこういうものかほおおおお」という感じで、そうして日が沈んでいって空が藍色になっていくのは、美そのものであってやはり「ほおおおお」となる、その中に自分が存在しているのは際限なく楽しいが、そのときおれは別に「にっこり」しているわけではない、おれが唐突に路上でイセエビみたいにジャンプしたところ写真に撮ってそれを「楽しんでいる!!」と自己アピールすることはおれには不向きだ。
教えにゃならんことがあって、学ばにゃならんことがある、おれは単純にそう思っているのだが、根幹ですべてを「楽しむ」と思っている人とは、ものの見事に根幹で話が合わない、その話の合わなさの感覚をおれなりに無理やり捉えてみると、すべてを根幹で「楽しむ」と思っている人にとっては、どうやら教わるとか学ぶとかいうことはすべての「おまけ」のようなのだ、たとえば「ローストビーフを作るときには、塩と胡椒と、ちょこっとタイムでもまぶして、表面を焼いたあとはアルミホイルでくるんでオーブンに入れて、このサイズなら100℃で一時間ぐらいかな、それでそのあとバスタオルにでも来るんで保温したままルポゼする、ルポゼだ、調理時間の七割はこのルポゼと思ったほうがよくて……」とおれが話したとしよう、そうすると、「楽しむ」の人はこの話を聞きながら「うふふ」みたいな感じになるようなのだ、ローストビーフを題材に何かを「楽しんで」いるらしく、その調理方法じたいは楽しむということの「おまけ」のようなのだ、それに向けて調理方法を説明していると「なんだこいつ」という感じがおれにはしてしまう、こんなのを「楽しむ」と言うならもう「夜中の二時にポリバケツをゴム草履で叩き続けて母親の旧姓を連呼する」というようなことを楽しんでいればいいんじゃないのか、おれにはその「楽しむ」という人のやっていることが具体的に何なのかさっぱりわからないのだ。
「楽しむ」という人とは話が合わないし、さらにおれの知る限り、「楽しむ」という人は誰かと揉める。
なんで揉めるのかは知らん、まったくわからないのだ、おれは世界中のすべてのことを学ばにゃならん、逆の立場としては教えにゃならんと、そのことの只中にあるのを無上に楽しいと体験しつづけているのに、そのときふと「楽しむ」の勢力を見ると、なんか知らんがビミョーに揉め始めているのだ、それが何なのかおれにはわからん、おれにとっては彼らが「おまけ」と思っているそれがメインなので、おれはメインに集中してしまっているので、彼らがメインにしているらしい何かについてはわからないのだ、彼らがメインにしている「楽しむ」うんぬんの周辺で何か揉め事が起こるのだろう/わからんが、おれが知っていることは逆側のひとつのこと、教えにゃならんし学ばにゃならんというおれの声が届いたとき、揉め事は消えるということ、そりゃ世界のすべてを教えたり学んだりしようと全員がしている中で揉め事は起こりようがないだろうよ。
ひとりのジジイとして、年少者に向けてとうぜんのことを、ジジイらしく話しておきたいのだが、どだいすべてを教わらにゃならん・学ばにゃならんと十年間を生きた奴と、すべてを「楽しむ」ということで十年間を生きた奴とでは、あたりまえだがずいぶんな差がつくぜ、十年間でまるまるついた差なんてもう巻き返しはきかない差だ、どっちが偉いとかいうことではなくただ差がつくだけだ、どちらが偉いわけでもないからどちらを選ぶかは人それぞれだが、それを選ぶにあたってアナウンスぐらいはあっていいだろう、すべてを教わり学んでいくものなのか、それとも同じ十年間で、夜中の二時にポリバケツをゴム草履で叩いて母親の旧姓を連呼することを楽しみつつ常に誰かと揉めていくものなのか、もちろん自分でステキと思うほうを選べ。
こんどは手書きのラブレターまで公開だ、こんなもの見せられてワーキャー騒ぐ気にはおれはなれない、おれはひたすら胸が痛む。
他人の恋愛なんて、外部の者が首を突っ込んでも気色悪いだけだ、恋愛なんてそんなもんだろ、そして首を突っ込まれた側より首を突っ込んでくる側のほうが気色悪い。
不倫に関わって正義ファイヤーがドッカーンと、建前で爆発しているのは承知しているし、それにつける薬はもうないということも承知している、嫌味で言っているのではなく、もうガチで "引き返すことはできなくなった" のだということを改めて思い知っている、不倫どうこうの当事者になって恋愛にあれこれあった側の人とはまだ友人なりうるかもしれないが、他人の恋愛に首を突っ込んでいる側とは友人にはなれない。
他人の恋愛に首を突っ込む神経がどうかしている、それがどうかしているということはきっと当人たちもうすうす知っているのだろう、でも自覚はどうあれ、その神経はもう引き返せなくなった。
いざというときは、きちんと尊厳を守りますと当人は思っているかもしれないが、そうではないのだ、もう神経がエロマンガ反応だけを起こすものになってしまったので、他人の恋愛を見かけるとそれをエロ本として見開こうとするシステムだけが駆動するのだ、そんなこと、週刊誌の側が性質をよく知って仕掛けを打ってきているだろう、全神経がエロマンガになってしまった人を狙い撃ちにするプロたちの仕掛けだ。
他人の恋愛なんて外部の者が首を突っ込んだら気色悪いわけだ、そうした気色悪い甘えや情欲や無垢なものがない交ぜになって出現するのだ、それが何なのかはよくわからないが、当事者同士はそれを許し合ってどこかへ向かおうとしている、恋愛というのはそういうものだ、その先に失敗が待ち受けていたとしても恋愛はさしあたりそういうものだろう/まるで「さなぎ」の殻を切り拓いてその中身が「ドロドロだあ〜」と騒いでいるアホみたいじゃないか、そのままドロドロが枯れ果てて死骸になるかもしれないし、一部は見事な翅を宿して羽化して飛び去ってしまうのかもしれないのが、その飛び去るところは外部のわれわれには知りようもない、知りようもないからといってその存在を認めないというのは偏屈だろう。
神経のすべてがエロマンガ反応なのだ、男性アイドル事務所の元社長がどうこうということについて、歴史や文化や性愛にかかわる思索が湧くのではなくて、ウワーというエロマンガの見開きがイメージされるだけなんだろう、自衛隊で乱射事件が起こったら「Z戦士」「キチゲ解放」というマンガのイメージが湧く、自分の親や子についてさえ「ガチャ」にしか見えない、それで他人の恋愛に首を突っ込むのはやめようやと言いたい、全力でエロマンガ「だけ」に首を突っ込もうじゃないか、おれは老いも若きも男たちが「NTR! NTR!」とエロマンガの議論をしているのは好きだよ、でも他人がやっているフツーの恋愛については首を突っ込むのはやめようや、おれも件のラブレターをちらっと見たけど、平成の恋愛ってみんなあんなのだったよ、おれはすなおに「なつかしいな」としか思わなかった。
ラブレターに首をかしげる権利があるのは、それをもらった当人だけだ。
おれ自身はどれだけクズでもよろしい、そして世の中のルールだの善悪だの道徳だの倫理だのとかいうのはどうでもいいよ、おれは女性の書いたラブレターに対しては「お幸せに」としか思わない、当事者にはさまざまな違和感や、やりきなれさや憤懣があるかもしれないが、外部者には関係ねーじゃねえか、ラブレターをもらった当人がそれをよろこんだなら「お幸せ」としか思わないし、ラブレターをもらった当人が首をかしげたなら「それは残念でした」としか思わない。
一般の感覚としてはアレなのだろうか、芸能人、特に好感度にかかわる芸能人は政治家のように公人たるを基準とすべきという感覚なのだろうか、そしてそうした人たちは「ちゃんと」していて、われわれの側は全神経が全力エロマンガでいいという感覚なのだろうか、おれにはわからん、おれが知っているのはただ一点、ラブレターというのはそれを受け取った当人が肯定してくれたら、その他の外野がどれだけワーキャー言っても問題にならないということだ、それで彼らが真実の愛に至るのかどうかは知らない、失敗するのかもしれないけれど、ただそのラブレターを書いたときはそれが愛だと信じたってことだろ、平成はみんなそうやってズッこけてきたし、ズッこける機会もない人は悔し涙を呑んだものだった、そういう健全なやつでいこうや。
真っ青な空は 新しい海みたいで
地上から空に 風が昇って
洗濯物から入道雲へ駆け抜けていった
この日のことは あの日のことに
やがてなるだろうし すべては断片
君がわらった 誰だったっけ白亜の横丁
僕はこの日を覚えないと誓った
僕にうそはない ホントのない日を一日生きた
ビビッドカラーの帽子かぶって
すべての時代が吹き込んできた 真昼間だ
エンターテインメントだということは、マイケルジャクソンやサミーデイビス Jr. と同格にあるということだ、映画「ロッキー」であり、「バックトゥザフューチャー」だ。
何に向けてもインターテインしない、観客に向けてさえインターテインしない、それがエンターテインメントだ、エンターテインメントは人の営為として最上の格にある。
おれはプロレスなんか観たことないんだけどね、観たことなくてもそれがスゲーのはわかる、男の子だったらそんなの観なくても誰でもわかる。
プロレスラーは幼児とも戦える、そこが弱い男と違う、弱い男は幼児とは戦えない、プロレスラーは幼児とも戦って、エンターテインメントを成り立たせた上に、KO負けでもフォール負けでもすることができる。
だからおれも、そうありたいのだ、幼児でも命のフィールドに入れるように、あるいは幼児こそ命のフィールドに入れるように、おれはプロレスラーでありたい、おれにはそういうことが出来る、おれが人を「尊重する」という古めかしいくせさえ捨ててしまえば、あるいはそれよりはっきり上位の学門を持ってしまえば。
観客たちも、幼児さえも、命のフィールドに入れてしまう、それは強い男だ、それ以上に大きな男だ、それは単純に言って「魂」だな、おれの魂の役目は「幼児を笑いものにさせないこと」「幼児を英雄にすること」だ、監督・兼・主演だ、おれがやりたいのはお遊戯じゃない、お遊戯なら小さい男でも出来てしまう、おれはもっとバカにしかできないことをやりたい。
おれは安易に「ありがとう」と言うのがいやだった、他人を尊重するくせによってだ、そして連帯感みたいなものを持つのもいやだった、それも他人を尊重するくせによってだ、そのくせを見切って今おれはプロレスラーのほうに軍配をあげよう/自分と他人の峻別ができないのはただの甘えだが、癒着を連帯感としたいわけではない、そんなことをする必要もない、おれが知っているのは、プロレス会場にいるとき観客もまた全員プロレスラーだということだ、観客も含めて「プロレス」をやっている、そこが競技や趣味の小ささと異なる、果てしなくデカいところだ。
プロレスは魂の教育だ。
そしてプロレス以外に魂を教育する方法はない、プロレスの選手になれる人はごくわずかだろうが、プロレスラーは誰だってなれる、全員がプロレスラーになれるし、全員がプロレスラーにならなくてはならない、われわれが命のフィールドにいつづけるために。
<<プロレスラーしかいない>>ということが大事なのだ、それ以外に必要なものは何もない、一万人のプロレスラーを会場に放ってみろ、全員で大暴れの大騒ぎで、誰一人ふてくされてはいないだろう、そして誰一人ケンカはしていないだろう、入国証をその胸に貼られた時点でプロレスラーなんだ。
なんつーダサい言いようだと気恥ずかしくなるが、それはさておき、おれはやさしくなりたいのだ、何度も何度もそう思う。
何年も繰り返すたび、やはり時は流れていない、ただ加速している、夏は加速し、春も加速する、夏は積み重なり、春も積み重なっていく/そのたびにやさしくなりたいと思いなおす。
やさしくなりたい、命のフィールドで、そのフィールドにいる人は滅ばないから、滅ばないなら不安はないから、そもそもシリアスなものがないから、いつでも大好きな話があるだけだから。
わたしにとって他人を尊重するというのは、その他人を勝手に命のフィールドに入れないことだ。
その人を勝手に命のフィールドに連れ込んだら、その人の意思を尊重していることにならないだろう、だからそういう失礼のないように、そういう侵害のないようにとこころがけるくせがおれにはあるが、実際にはそのときザクッと、すさまじい傷つけ方が起こるだけだ、こんなことならもう尊重なんかしないほうがいい。
何をどうやったってダメなのだ、おれはただ話しているだけ、まともな話をしているだけ、それだけのことがザクッと致命的な切れ味をもってしまう、それはただの状況の為せるわざだが、状況にそんなものを為させるからよくないのだ、何が尊重だ、誰がその野ざらしのフィールドでザクッと斬られて耐えられるなんて宣言したんだ、耐えている人はただ斬られたことに気づいていないだけだ、悲しい流血に気づいていないだけだ。
すばらしい話を、くだらない話にしよう、内容は同じままで、命のフィールドに引き込んでさ、命のフィールドで誰も死なない、誰も滅ばない、人々が意識高いとかコミュニケーションを求めているとかいうのは安易なウソだ、どんなにドギツいふうの人でさえ本心では命のフィールドに立たせてもらうことを求めている、そこでしか人は安心なんかできないのだから/よろしい、おれが随時その入国証を発行しよう、人を尊重しないおれが、人を尊重しない入国証を。
プロレスこそが真の男の戦いだ。
おれはプロレスなんか観たことないけどね、そもそもあれか、「男の戦い」なんて言うとポリコレに引っ掛かっちゃうのか、そのあたりがわからないから、おれはメキシコから来た怪人・覆面ポリコレマンに胴回し回転蹴りを打ち込むのだ、観客はうつむくのか、いいや歓声を上げるだろう、そうして鬱屈なく見上げてよろこべる戦いこそ真の栄光の戦いだ。
おれは果てしなく強くなりたい、すべてを命のフィールドでやりとげる強さを、すべてをプロレスのリングだけで決着させる強さを、正論を張り倒し、戯論を叩き割るのだ、いつまでもおれの強さとおれの戦いを見せ続けよう、なぜそんなことをするか、そうしているときのおれだけがとびきりカッコよくて、とびきりまともだからだ、おれはペンネームではなくリングネームを名乗るつもりでいるよ。
一週間、ネットに張り付いてニュースやら Wikipedia やらを見ていたら、世の中の色んなことに詳しくなるだろう、その点でPCやスマホは情報端末だ。
一方、一週間、合宿に行ってメンバー全員で狂ったように何かを演奏し続けていたら、その一週間は世の中のことをまったく知らずに過ごすだろう、その意味で合宿なんぞは情報端末ではない。
けれども、一週間で、メンバーと酒も飲んだ、議論もした、ゲラゲラ笑いあったりもした、声が枯れた、睡眠不足で椅子からころげおちた、早食い競争をした、気が付くと全員で日の出を見ていた、部屋にスズメバチが入り込んできて騒動になった、将来や家族や恋あいのバカ話もした、タフな奴も見たし、idea を絞り出す奴も見た、意地の奴も見たし発想の転換が出来る奴も見た、歓声も上がったし握手もした、そういうことの情報の密度と量は、PCやスマホに劣るのか。
別に合宿がいいねなんて話をしているわけではない、ただ、後者のような「体験」を積み重ねてきたって、世の中の情報には詳しくないという話をしている、世の中の情報には詳しくないし、自分の積み重ねてきた「体験」の話は、ニュースサイトのコメント欄にちょこちょこっと意見のように書いたりはできないということを話している/たとえばアカデミー賞の会場で、誰が誰をビンタしたとか、そんな話にはおれは根本的に興味がない、一方でおれは若いころ酔っぱらって後輩をバチーンと吹っ飛ばしたことが実際にある、そしてそいつは最後までおれのことを慕って懐いてきた、そういうことが実際にあったという体験だけを持っている、そしてそれがどういうようなことかなんて、とてもじゃないが5分で書くツイートで説明することはできない。
友人と朝まで飲んで話し続けたことが何夜ある? そのときのことはすべて大切な夜の大切な場所になっているか、あるいは目の前の人の涙を何回共有したことがある、自分にとって大切な映画の一本は、本の一冊は、ひとつの曲は、あのときの友人の言葉、先輩の言葉、彼・彼女の言葉、あの人の笑った顔、まなざし、背中、そういうものがどれだけある、お前が名前を呼んだら必ずまっすぐ走ってくる犬はいたか、その健気によろこぶ顔をどれだけ見てきてしまったか。
おれは意地悪を言っているのではない、ただ、そうしたものがゼロの人ほど、世の中のことに詳しい "ふう" だなあという話をしている、世の中の情報には詳しいかもしれないけれど、命がけで抱きかかえている情報はゼロじゃないかという話をしているのだ、おれは十年前でも二十年前でも三十年前でも抱きしめているものは今も覚えているが、果たして誰が三年前にしたレスバトルの内容をしみじみ振り返って覚えているんだ。
おれは意地悪を言っているのではなく、意地悪を言っている余裕なんかこの世界のどこにも残っておらず、おれは「このことはすでに多くの人にとって致命的な弱点だろ」という話をしているのだ、「命がけで抱きかかえているお前自身の体験がないんだろ」という致命的な弱点だ、おれはそこを突いて遊んでいるのではない、この致命的な弱点に向き合って青ざめるのが誰にとっても正しい魂のありようで、マウント合戦なんざはそれじたいが逃避だろ、そんなもの勝っても負けても抱きしめて生きるわけじゃないのに。
おれは他の誰よりもはるかに悪質なのであって、最もシャレにならんことを放言しているのだ、アカデミー賞で誰が誰をビンタしたか知らないが、これを読んでいるあなたはどの映画がアカデミー賞を受賞したか知っているのか、そしてその受賞作に深い感銘を受けて胸に抱きしめて生きていくのか、そんなことはまったくないでしょという、身も蓋もない完全に致命的な話をしているのだ、生涯にわたって胸に抱きしめるものをひとつも得ないまま老人になって死んでいくということは何も珍しくないことであって、現代人が盛り上がっていることのほとんどは根本的に逃避でしかないというえげつないことをおれは放言している、干された芸能人の経営する焼肉屋がつぶれようが繁盛しようが何らお前の抱きしめることにはならないし、その抱きしめることでもないどうでもいいことをキャラ同士で会話しあうそれはけっきょく友人ではないだろという話をしている、おれはおれの時間を無駄にしたくないし、あなたもあなたの時間を無駄にするべきではないとおれは思っている。
「ツイート」の正反対に、本来「胸に秘めるもの」がある。
おれだって、これだけ大量に書き話しているのに、なおも胸に秘めて話せないことのほうがずっと多い、なぜならその秘めざるを得ないものは、おれだけのものではないから、ずっと先、遥かな思い出になってからしか話せないのだ、あるいは遥かな思い出になってもけっきょく話すわけにはいかず、最後まで一人で抱えていくのかもしれないが/おれはそれでいいし、誰にとってもそれでいいのだ、おれの言っているのは単純な話、胸に秘めるものがない奴ほどツイートめいた情報に詳しくなるというだけの話だ、そしてそんなバカみてーなことに飲み込まれていくなとおれは警告している。
ありていにいって、多くの人は、胸に秘めるもの、抱きしめて生きるものが「ない」んだろ、ゼロとは言いたくないが、スカスカでほとんど空っぽ、ひょっとしたら母親のことぐらいしかないかもしれないとかなんだろう、それは致命的なことであって、その致命的な状態のまま生きるよりないのかもしれないが、それにしても逃避のつもりか他人事ののツイート的情報で物事に詳しい "ふう" になるのはやめたほうがいいし、そんな詳しいふうの奴をアテにするのもやめたほうがいい、そんな詳しいふうの奴とどうでもいいバトルをするのもやめたほうがいい、それよりはいつか誰かと「このままじゃ致命的だよね」というまともな話が出来るかもしれないという可能性に向けていつも準備を続けていたほうがいい、そうしてまともな話をする友人という中から弾きだされたときが本当に一番悲しいじゃないか。
ウクライナ首都のキエフまで軍勢が押し寄せているが、驚異的な粘りを見せている、ロシア側が作戦として攻勢を緩めているのでないかぎり、ウクライナ側の抵抗が激烈なのだろう/すべて概念ではなく、誰か青年が自らの手をもってやっていることだ、地面に伏せて轟音の中でトリガーを引いているのだ。
戦争の話がしたいわけではない、幸いなことに今回われわれは銃弾に関わってはひとまずカヤの外だ、戦争反対という気持ちはイヤというほどわかる、戦争中はまだしも戦争が "始まる" というのは実にイヤなものだ、いつどの瞬間でも「やっぱりやめました」と言い出したとして誰もガッカリはしないだろう/おれは戦争の話がしたいのではなく友人の話をしようとしている、タイトルにそう書いたように。
いま、実際に自分の国を、祖国を、自分の街を、家族と友人の済むところを、守るために手を取り合って戦っている人たちがいる、学校の先生がキライな "戦争" においてだ、ここでわれわれが誰しも考えるべきことがある、自分の友人はどちらかということ/手を取り合って戦っている人たちか、それとも戦争反対の気持ちとこころで寄り集まっている人たちか。
戦争反対のおばちゃんたちが感情を昂らせて寄り集まるかもしれない、その涙腺はウルウルと水気と熱を持つかもしれない。
おれが善人だったら、そういう戦争反対に "本気" な人たちと友人になることに誇りを見出すのかもしれないけれど、おれはそうではないのだ、おれはきっと善人ではないので、いま実際に地面に伏せて、慣れてもいない銃器を自らの頼りにして、そこで散ることまで含めて互いに手を取り合っている人たちにとっておれは友人でありたいのだ、おれの積み重ねた手は彼らの若い手に劣らないものであるようでいたい。
おれにだって戦争反対の気持ちはある、実はおれにだってこころがあるのだ、けれどもおれはいつもこのことに立ち止まる、「こころ」を言いふらすのは簡単だ、簡単すぎて、「こんな簡単なことでおれが善人になれてたまるか」と思うのだ、おれはこの先自分がどうなるかわからないが、地面にはいつくばってでも何かしらの戦いは続けるというようでありたい、そうしたらおれは善人ではなくても誰かと手を合わせる友人たることはできるかもしれないから。
われわれはいま、直接的には平和でいる、そしてわれわれにとっては、戦争反対で感情を昂らせるおばちゃんのほうが「まとも」だ、地面にはいつくばって慣れない銃を構えている大学生のほうが「異常」だ、おれは一緒に酒を飲みたい友人、一緒に食事の卓を囲みたい友人のほうを選びたいと思う、あなたもいつかこうして自分の友人について一度は考えてみてくれ、おれは戦争に胸を痛めているのではなく友人に胸を痛めている。
おれは戦争のこころに用事はないが、戦争反対のこころにも用事はない。
おれが友人として用事があるのは、誇りあることのために手を尽くし、手を取り合う人たちの「手」に対してだ、おれの手はここまで何を受け取り、この先何に触れ、これから何を為し、何を手渡していくだろう、おれのこころがどうこうとはさすがにもはや思わない、おれの手が為すことがこの先も誰かの手に触れますように、そしておれの手が最後まで怯えて引きこもることがないように。
おれにこころがないわけではない、ただ出さないだけで、なぜ出さないかというと、出さなくても友人には伝わるからだ、手を取り合う友人なら誰であってもそうだ。
それは決して、どうでもいいことなんかではないんだ、だから話の前に引き下がれ。
あなたがそれが好きで、あなたが選んだものだろう、だからそれを誇るな、あなたが好きで選んだすべてを、何一つもらさず天国まで持っていくんだ、何一つ「どうでもいい」なんてものはない。
あなたが旅行先で飲んだジュースを、ひとしきり遊んだおもちゃのようなポラロイドカメラを、祭りの夜店で取った金魚を、通学路にあった菊の花を、すべて持っていくんだ、だからあなたの「好き」うんぬんを振り回すな。
あなたが好きなメロディを、好きだからといって持ってはいけない。
「わたしの好きなメロディなんです」と、「だから持っていってください、持っていけるようにしてください」と、あなたが言うなら、おれはすべてその話ごと、何もかもを持っていこうじゃないか。
あなたが好きで選んだもの、好きで手元に置いておいたもの、好きで記憶の中に抱え続けたもの、それを台無しにするとしたらあなたであっておれではない、おれはすべてを話にしようとしている、話になったそれは壊れないからだ/人のこころや好き嫌いはやがて風の前に崩れていく、永遠に壊れないあなたの話が必要だ。
十五のあなたはいつか終わり、二十歳のあなたもいつか終わった、二十五のあなた、その後のあなた、あなたはすべてを好きでいたって、それを振り回したところですべては壊れて失われていくだけじゃないか、あなたの好きだったすべてをおれは持って行こうという話をしている、十年前のあなたの帽子が失われたなら、今日のあなたの靴は十年後には失われているということだろう、その帽子も靴もおれが持って行ってやると言っている、あなたが自分の好きなもので泣き叫ぶのは、その「好き」を振り回してそれじたいを壊してしまうことをどこかで知っているからじゃないか。
あなたが好きだったすべてのもので、あなたが威張るから、それを持っていけなくなるんだ。
皮肉な話じゃないか、あなたがひとつひとつを「好き」ということしか知らなくて、それが最上の権威だと威張るものだから、男であるおれの出番がないんだ、そりゃあおれがあなたの「好き」をすべて持っていくのだとしたら、あなたとしては権威の失墜に感じられるかもしれないけれど、その権威は本当にあなたが生まれつき誇っていたようなものか、世間でもみ合ううちに躍起になって誇り振り回すようになってしまっただけのものじゃないのか。
どうしてあなたは、自分の好きなものを、選ぶのに不安になってしまったのか、その不安のゆえに、無理やりはしゃいで威張り散らし、さも強くて無敵のふうに振る舞って、威圧的に自分の「好き」で外敵を制圧するふうになったのか、それは自分の「好き」が守られなくなって、しょせんすべては隙あらば周囲に攻撃されるものだと、いやというほど思い知ったからだろう、今さら無防備になれないというのはよくわかる、その生理的な防御反応は獣じみて生きものの身体にしみつくものだ、でも一方であなたは、おれがあなたの話を持っていくといったものは、本当に永遠に天国にでも持っていってしまうということを知っているだろう、おれはそうやって外敵と圧力闘争をしていることをしてあなたが「戦っている」とは定義したくないんだ、やらなきゃならない戦いはもっと別のところにあったはずだ。
わたしはなぜかくもこのように自分の話すことを制限せねばならないのだろう、いくら公平性を保つためだとは言え、本当はもっと話さねばならないことがあるのに、多くのわたしを信じない人のためにわたしが趣向を凝らすことは、最終的には何の意味もないのだと思う、だがこれらのフェアネスはその最終的なときに至るときにまでわたしの話が少しでも残るようにとわたしなりに願ってのことだ。
これもまた、信じてもらえないことだと思うが、わたしに胸の痛みがないわけではないのだ、あるいはひょっとすると、誰よりも胸の痛みは強くあるのかもしれないと思う、それなりにわたしは万事に突っ込むように、飛び込んで引き返さないように生きてきたものであるつもりだから。
わたしは胸の痛みの只中で、破局的な右往左往をしながらも、けっきょくは「この果てはいったいどうなっているのだろう」という疑問を持ち続けた、けっきょくはその学門の引力がわたしを引きとどめ、そこに立たせ続けた、そのうちなぜかわたしの胸の痛みは、それ以上の何かによって救済されるようになった、それでわたしはその痛みと同時にやってくる「よかったじゃないか」という何かすべてをかっさらっていく物語のような力に、見下ろされてか包囲されてか、そのすべてをどうしようもなくうつくしいと感じるのだった、それはわたしではどうしようもない遥かな権威にある力であって、もはやわたしが何かを尊ぼうとするような意図が介入する余地は与えられていない。
胸の痛みはとてつもないものだ、あるいは単に「痛み」と言ってもいいのかもしれない、それはとてもではないが耐えられないものだ、わたしはこの痛みに勝利したわけではない、この痛みと同時に "それ" がやってきて、「よかったじゃないか」となるのだ、すべてが摂氏0度の紫色に吸い込まれてゆき、すべてがわたしの生きたすべてになる、そしてわたしの生きたすべてはもはやわたしの手の及ぶところにない純粋のものになるのだ。
わたしの推察するところはこう、この胸の痛みは、予感されるだけで「無理」と恐れられるのではないか、何しろこの胸の痛みはまるで突っ込めばいくらでも、無限大にまで引き上げられてしまいそうだからだ、この痛みの予感がする手前で引き返すのは誰にとっても正当の防御策のように思う、わたしのような頑強な者でさえ張り裂けそうに感じるそれを、他の誰もが平然と受けて立てる "わけがない" とわたしは当然に思うのだ。
安易に「強く」なろうとするような発想はたいてい無駄で、いまほとんどの場合におけるその「強い」というのは、神経を野卑にして何らも胸のうちに愛さないということにすぎない、何一つ胸のうちに入れないのであれば確かにその胸は痛みに無縁になるだろうが、そのことの何が強いと言えるのか/かといって「弱い」というのにも希望はない、胸のうちに入れないのは弱いし、また胸のうちに入れたもので痛みによじれて悲鳴をあげ続けるだけでも弱い、こうして考えると強いだの弱いだのはそう安易に区別がつけられない微妙な一歩だと思う、それでいてそれは直観的にわかる一歩だ、それが強い一歩なのか弱い一歩なのか。
わたしは自分が強いとはまったく思わないが、ただ傲岸不遜だと思うのだ、わたしの胸のうちが果てしなく痛みそうなのは、それが正しいのじゃないかとどこかで思っていた、その痛みにどのように耐え、どのように処理して生きていくかにまったく目途を持たないまま/その傲岸不遜が認められたのか何なのかわからないが、わたしの果てしない胸の痛みが高まるほど、同時にそれをかっさらっていく何かがある、「よかったじゃないか」、何もかもが紫色の空に溶けていく、なぜわたしはこのうつくしいものの直下で生きさせてもらっているのだろう、わからない、ただわたしはこの痛みをかっさらっていく何かについて首を傾げながら話し続けたい。
「よかったじゃないか」、そうまさしく、何もかもがあるべきようでよかった。
おそらく、わたしの話しているこのわけのわからないことの正反対に、まったく真逆の語りかけを受ける者もあるのだろうとは感じている、わたしはそうした人々や集団をひとまとまりに見てもきた、向こう側にあるのはどういうここちなのか、けっきょく想像もできないが、論理的に推定はできる、それは胸のうちが快感に満たされても、「だめだったじゃないか」と語りかけられるのだろう、そしてそれがやはり胸のうちの快感などどうしようもなくかっさらっていくのだろう。
何がどうなっているのかなど、わたしにはわかりようもない、正直わたしは自ら何を選んだとか、自分の正しさを言い張るに足る記憶もこころあたりもないのだ、ただ紫色の上空にある何かが、わたしの胸のうちに湧く果てしない痛みを、そのたびごとにこまめにかっさらっていってくれる、すべて「よかったじゃないか」と/わたしはこれまでうつくしいもののうちを生きさせてもらって、さらにとんでもないことに、今もまだその最中が続いている、仮にこれが途絶えることがあったとしても、わたしの見るべき光景としては満了どころか世界の富をすべて積んでも足りないほどのおつりが出ていると思うが、それでも傲岸不遜なわたしは、このことが途絶えることのないよう、あつかましくものこの続きを生きていきたい、また何もかもを「よかったじゃないか」とかっさらっていってもらい、そのときに首をかしげてそのことを話したい。
あなただったのですね
わたしはいくつもの景色に困っておりました
いくつもの景色の、手前にしか立てませんでした、あなたが景色の彼方からやってくるまでは
誰も景色の前で冗談がしたいわけではなかった
ただ誰が景色の中に立てばよいのかわからなかった
誰が立ってもその中に立つことはできなかった
あなただったのですね、景色の彼方から来た人
あなたは初めから景色の中に
教えてください、どうすれば景色とわたしは完成するのか
連れていってください、その完成した景色の中へ
興行収入をアテにするものじゃないだろう。
興行なら選手入場に演出をかけろ、プロボクシングやプロレスリングのように、「ウサインボルト選手の入場です!」とスモークを焚け。
無観客のオリンピックを前にして、まるで「東京オリンピックはオリンピックじゃない」というようなふざけたムードが醸成されることにおれは愛想をつかしている。
高校球児は観客やファンのためにホームランを打つのか。
プロ野球ならそうだろう、「観客の前でホームラン打ってなんぼよ」、プロのするスポーツ興行・スポーツショーとはかくあるべき、けれども高校野球にもともと観客は存在しない。
プロスポーツの興行は「客」が主体性を持つが、高校野球に主体性を持つ「客」など存在しない、主体は選手だ、それがプロフェッションではない純正のスポーツじゃなかったのか。
おれはオリンピックに強い関心を持つタイプじゃないが、それでも少しはまともなことがわかるつもりだ、「各国の選手はお前の酒の肴になるために走るんじゃない」、酒の肴としてのスポーツ観戦がしたかったら妥当なプロスポーツを正当なペイメントで購入しろ、寂しいお前の夜を慰めるために聖火を点すわけじゃないんだ。
オリンピックに必要はなのは国民であって観客ではない。
無観客なんか元々どうでもいいわけで、現在のようなまるで「無国民」という状態のほうが遥かに問題だ、 "各国の代表" が戦争ならざる手段で競うというのに、まるで戦争じゃなければ興味を持たない国民みたいじゃないか。
同級生が母校の代表として試合に出ていたら、それをビール片手に眺めて「観客」になるアホはいないだろう、同国人が国の代表として試合に出るのだ、誰がそんなものの "観客" になりたいか、「おれたちの国に栄光をもたらしてくれ」「われわれの勝利をもぎとってくれ」と、おれのようなスポーツ音痴でもそれぐらいのまともなことは思うものだ。