☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
獣化を治療する方法2

ず、一般にはあまり知られていないことだが、「貨幣」というツールそのもの、これ自体が人を獣化させる性質を持っている/これは鉄則なので曲がらない。
しかし、貨幣を使用せず生きるのはほとんど不可能なので、じゃあ何が必要かというと、貨幣の「正しい使い方」を知らなくてはならない、貨幣を使うときは常にこのことを理解しておこう。
貨幣の使い方は、1.自分のために使う、2.自分以外の誰かのために使う、という二つに大別されるが、貨幣の「正しい使い方」は、必ずこの二つを同時にやっていくということだ、これを片側しかやらないということは、そもそも貨幣の使い方として間違っている。
「貨幣は何に使いますか?」と教師に問われることがあったら、必ず「自分のためと、誰かのためです」と答えるように、そのときだけ「よろしい」と正解の承認が得られる/あなたの財布に入っている金銭は、多くはあなたのものだが、何割かは共用のものだ。

血肉を「分け与える」ということ、つまり「分与」だ、この分与がないかぎり、われわれは血肉の「奪い合い」しかできない。
あなたが友人といて、あなたが自販機で飲み物を買ったとする、そのとき「友人の分は?」と考える、そのとき「分」だ、それが「分け与える」ということを意味している。
あなたが一人で映画を観に行ったとして、それは楽しかったかもしれない、でもあなたが楽しかったとして、その楽しみの「友人の分」は? そこであなただけが「楽しかった」であれば、あなたは貨幣の使い方を間違っている。
われわれはただでさえ、他の生きものを屠殺して、その血肉を食って生きているのだから、友人同士でまで血肉の奪い合いをしなくていいじゃないか、血肉を分け合うことだけがこの奪い合いから逃れる方法だ。

友人に三千円のクッションを買ってあげたとして、あなたはその三千円で破産はしない。

そんなことで破産するアホがいるか、だからあなたが友人に三千円のクッションを買ってあげることがないのは、その発想が忘れられて、さらには死に絶えているからだ、人間は獣になると、本当に自分の貨幣は自分のため「だけ」に使うものだと固定される。
もちろん、血肉を分け与えるといって、それが友人でなければ不自然だ、だがさらにいえば、三千円のクッションも買ってあげられない誰かを友人と思い込んでいるのはもっと不自然ということなのだ/友人が獣化してしまえば、もうそうしたささやかなオゴり方もできなくなる。

恋女のマインドね | comments(1) |
獣化を治療する方法

いがけず有意義なものが見えてきてしまった、つまり僕は、災害派遣ボランティアの映像を見てどこに違和感を覚えたのか。
それは、たいへん恐縮だが、そこにいたボランティアラーの姿を見て、「いかにも太っ腹で」「ついオゴってしまう人だよな」とは見えなかったということなのだ、そしてちょっとした飲み食いにオゴりもしない人が「身をもってボランティア」というのはヘンだと僕は感じた。
これは思いがけず有意義で、重大なことが見えてきたから、年長者として今から教えることを、年少者のあなたはゴリゴリに聞くように、「あなたはオゴり方も知らなければ、オゴられ方も知らない」のだ、そしてそれは単純にいって「不勉強」といえる。
そういえば先日、Kさんという年下の男性と面談したが、Kさんは僕の話を面白がって、二千円もしたコーヒー代をオゴってくれたぞ、遠方からはるばる来てくれたのに、なんともありがたいことだ(これ、聞いてりゃいかにもマトモなことに聞こえるでしょう、それでいいんだよ)。

まず、「オゴる」ということを正しく知ることだ、これは単なる勉強の範疇に入る、これは知っていなけりゃただのバカということにしかならない。
「オゴる」というのは、支払いを負担する、ということではないのだ、これを鉄則としてわかっていなくてはならない、支払いを負担するなんてクソみたいなことを誰もしなくていい。
そうではなくて、オゴるというのは、1.友人の支払いを軽減する、2.自分のカネを自分以外の奴に使う、3.自分へのプレゼントを他人にする、ということなのだ。
よくよく考えろ、あなたは四万円のワンピースを自分に買うのに、四千円の酒を友人に買わないじゃないか、それって不自然なことだと気づかないか、消費税を8%も取られてへっちゃらなのに、どうして友人に10%のプレゼントが「ありえない」という状態になっているのか/それはすでに、血肉の「奪い合い」に加担しているからなんだ、今すぐ引き返せ。

自分にワンピースを買って何がいけない/友人にワンピースを買って何がいけない。

自分にワンピースを買うほどの余裕もないというならば、それはしょうがない、だが四万円のワンピースを買って手元に四千円残るなら、なぜその四千円まで「自分のもの」を買おうとする? 何もかも自分のものしか買ってはいけないという家訓でも定めてあるのか。
血肉を分け与えていないから、「おれがお前のものを買ったって別にいいだろーが」という発想にならない/「あなたの食事をわたしが購入して何が悪いのよ」と、そう言えるようになってみろ、それは金額の問題じゃない、どれだけ少額でもそれは自分の獣化を治療する有効な一打になるんだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
自分の未来にアメを据えるな
「アメとムチ」という言い方がある、たとえば有名大学に入れば人生は勝ち組になる。
一方、勉強をサボってFラン大学に入れば、お先まっくらだ、だから勉強しよう、それがモチベーション……こういう考え方は「アメとムチ」に属する。
この「アメとムチ」に駆り立てられて受験勉強をした場合、その人は学問に向かったのではなく、アメに向かったのだということになる/アメに向かってムチにおびえたのだ、それは強烈な動機づけではある。
この強烈な動機づけ方法は、表面的には目標に向けて功を奏するだろう、だが「アメとムチ」は見たままあきらかに、家畜を調教する方法でしかない、そこに人間が文化を営むということは起こっていない。

「アメとムチ」というのも、便利な方法なのかもしれない、けれども当然、この方法ではカバーしきれないところも出てくる。
たとえば、「世話になった人にお礼状を書こう」と考えたとする、しかしこのとき、お礼状を書くことはアメにつながるわけではないし、書かなくてもムチにつながるわけでもない。
そうなると、この人はもうお礼状を書く動機がなくなる、世話になった人に礼状を書くのはただの「文化」なのだが、アメとムチで動いてきた人はこの「文化」という動機のありようを感触ごと知らない。
ひどい人になると、何歳になっても、「親に褒められそうなこと(アメ)」をし、「親に叱られそうなこと(ムチ)」をしないという、ただそれだけの原理で動いている、家畜のような人がいる、この人は表面上は実に善良な人に見えるのだが、こころが文化に接続しておらず、内面的には文化のない獣なのだ、そういう人は世の中に思いがけず多い。

アメを鼻で笑い、ムチを遠く聞き流せ。

それでこそ人間じゃないか、それでこそ精神だ、文化は強い人のものだ/そんなに本当にアメがほしいか? そしてそんなに本当にムチが怖いか、「アメとムチ」が本当に人間か。
自分の行く先、自分の未来にアメを据えるな、アメに比べれば、文化も学問もクソッタレだが、そのクソッタレに向かえてこそ人間なんだ、アメなんか蟻の巣に吐き出してやりゃいいんだよ。
恋女のマインドね | comments(0) |
バリバリやるのが安全だ

はバリバリやると決めているのだが、なぜそう決めているかというと、その背後には「そのほうが安全だから」というのもある。
なんというか、何もせずポカーンとしているのは、逆に危険だと思うのだ、それは「危険すぎる」という何かの直感がある。
バリバリやっていれば、根本的な能力も上がるし、何事にも対処が利くようになるし、なにより、「見えているべきものが見えている」という状態であれる。
ポカーンとしていると、見えるべきものが見えなくなってしまう、その一点において、バリバリやらないということは「危険」だと僕は感じる。

「何」をする、ということは、特に関係ないと思う、何でもかまわないからバリバリやることだ、バリバリやっている人間は能力として安全圏にあれる。
ただし、バリバリやるといって……とにかく人間は「安住する」という発想が一番危険なのだ、バリバリやっているふりをして実は「安住している」という状態が一番危険だと思う。
たとえば、この世で暴漢に襲われても最も安全な者は、戦地にいる兵隊さんだと思う、なぜなら常に「危険」に対処できる状態にあるので、暴漢ごときの危険に遅れをとることがないのだ。
そう、バリバリやっていないという状態は、すべてにおいて「遅れをとる」ことが約束されている状態なのだ、これが危ない、人間は戦えば勝てるものが、単に「動揺した」ということだけで一方的に負けてしまうことがある。

戦うのは一見しんどいが、「脅かされる」のはもっとしんどい。

その意味ではやはり、バリバリやっているのが一番安全だ、安全な上に自分が強化もされるのだから、安全度は増していくだろう、けっきょくこれが一番合理的だといつも思う。
伸び盛りにバリバリやっていた企業が、低迷期にポカーンとし始めたら、そりゃ潰れるだろう、もともと「バリバリやる」と決めていないなら、そこでどう会議をしても意味のないことだ、すべての会議は「バリバリやる」ことが前提でしか意味をなさない。

恋女のマインドね | comments(0) |
デートの流儀!(テーマが時代錯誤)
画を観に行ったり、フランス料理を食べに行ったり、ホテルの最上階ラウンジでお酒を飲んだり、ということはしないほうがいい。
なぜなら、当の男性が、自分ひとりではそんなところに行かないからだ、デートだからといって急にそんなところに言ったらオノボリさんになってしまう。
逆に、女性側が当の男性にまったく興味がない場合、高級フレンチと夜景の綺麗なバーなら「退屈しなくて済むな」という打算があって、それでデートがOKされるという悲惨なケースもあるのだが……
女性側も、そこまで致命的に興味のない男性とデートするのはやめような、デートで消費させて自分の充実の足しにしようというのは、さすがに女性という立場にあぐらを掻きすぎだ、それは逆に友人のほうを失っていくよ。

女性をデートに誘う場合、男はもともと遊んでいなきゃいけないのだ! 男がもともと遊んでいるところに、「オマエもくる?」と言って誘うしかないのだ、これは厳しい差別だが真実なのである。
もちろんこれが、十代の男の子なら、女の子だって「一緒に公園でもいく?」ということでOKなのだが、二十代の半ばごろからはさすがにマズい、ソシャゲとインスタしかやっていないでは本当にデートに誘う手立てはもうないぞ。
もちろん何歳になっても、公園でデートしてもいいんだが、忘れるな、公園でデートするほうが難度は高いんだ! 公園でデートする場合は、男の話すことが相当おもしろくないといけない、公園で二十分で話に飽きたらかなりキツいムードになる。
まず男性は、自分が「徹夜で遊ぶ」ということに慣れなくてはいけない、朝まで燃焼だ、自分が徹夜で遊べないのに、女性に「朝までどう?」とは言えないじゃないか。

忘れるな、デートの本題は「誘い出す」ではなく「楽しすぎて帰りたくない」にさせることだ。

女性はちゃんと計算しているのだ、つまり「二時間で飽きちゃったけど、二時間で飽きる人と次もデートするのはさすがに意味ないわよね」と、こんな正論にはニーチェだって抗弁できない。
女性をデートに誘う場合、男はもともと遊んでいなくてはならず、そのときになって初めて、男は自分に遊び方を教えてくれた先輩にこころの底から感謝するのだ/女性をデートに誘えるということは、面白い先輩が師匠にいたということなのだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
本当の恋と青春の手前で

の一年間で見てきたこと。
若い女の子にはやはり恋をする能力が具わっている。
だけど、本当に「恋」の能力が息づき始めると、何かしら恋あいは荒れ模様になるな。
それは一言でいって時代のせいだが、時代のせいとは何かというと、そんなこと若い女の子ちゃんは知らなくてよろしい。

時代がどうであっても、若い人間はやはり清潔なものなので、ふとしたことで本当の恋とか、本当の青春とか、本当の友人とか、そういったことにスイッチが入る。
そしておそらく、現代の女の子ちゃんは、そういうスイッチが入ったとき、それを受け止めて踏ん張るだけの、準備ができていないのだ、何か「オシャレ」なものばかり与えられてきたから。
ジジイの話だと思ってよく聞くように、本当の恋とか本当の青春とか、本当の友人とか本当の芸術とかは、思ったよりもすさまじい力を持つものだと知っておけ、それはどんな形でも必ず「嵐」になって、あなたを良いほうにも悪いほうにも吹っ飛ばしてしまう。
若い女の子ちゃんへ、あなたは自分が若いことを誇るべきだ、そして自分が若いことを誇るということは、自分が何も知らないということを誇るということなんだ、恋も青春も友人も芸術も、「知らないんです」というのが若いということでありうつくしさなんだ。

僕がジジイを誇るから、あなたはババアを誇らないでくれ。

若い女の子ちゃんへ、あなたはカーナビなしに首都高を走ったりできないだろう、あるいは基板に実装されているハイブリッドICに掛かる関税について東芝の営業と打ち合わせできないだろう、あなたはまだ何も知らなくていいので、この世界にドキマギしていてくれ、それがこの世界が「知らないけど見えている」ということだから。
若い女の子ちゃんへ、あなたに必要なのは成長じゃない、若い時間を生きることだ、本当の恋や青春の手前で胸がえぐられる感触がして怯む、そこで震えるということを経験せずに進んだら、あなたは後に「若い時間がなかった」ってことになってしまうんだよ。

恋女のマインドね | comments(0) |
かわいい下着を選んで買ってるよね?

るべきことはいくらでもあるのだが、たぶん今このときには、もっと別のことが先に言われねばなるまい。
おそらく、未来に明るいヴィジョンが見えないという人が多いので、何はともあれそこだ、「明るいヴィジョンが見えないのに正しいことにやる気なんかするか」というのが当たり前だ。
明るいヴィジョンは、明るいヴィジョンだ、必ずしもそうなるとか正しいとかいうことではないが、それは暗いヴィジョンだって同じだ、正しいとかそうなるとか決まったものではない。
明るいヴィジョンということに、特に理由はなく、別に価値があるわけでもないが、とにかく綺麗でさっぱりした女の子が僕にわけもなくやさしくしてくれるという、実際そういうことで生きてきたのだから、これからもそうして生きてゆければよいのだろうだった(文法がメチャクチャだ)。

リアルに考えると、世の中の状況に問題は大ありなので、そこから明るいヴィジョンを模索しない、リアルな考えはリアルな考えとしてまた別だ、明るいヴィジョンは勝手に明るいヴィジョンとしてこさえるものだ。
僕の場合、綺麗でさっぱりした女の子が、「この人にやさしくしちゃお」とニッコリ思えば、それだけで済むのであって、それ以上のことを膨らませてもややこしくなるし、なお実現が遠くなるだけで意味が無いのだ。
明るいヴィジョンはそれだけで力を持つ、そしてこの力、この灯火だけが、最終的に使えるのだ、その他の正論は実はほとんどのところで機能しない。
明るいヴィジョンを持つためには、当人が明るい必要があるが、この世にはもちろん暗い人など存在しないので、このことに課題や問題はないのであった(ああ何か、明るい女の肌が見えたな)。

明るいヴィジョンに材料なんかあるか。

ヴィジョンを描くのに「材料」だなんて、すでにその発想が暗い、わざわざエボラ出血熱のパンデミック地域に行って腕立て伏せをするぐらい暗い。
僕はすべての女性に対し、「かわいい下着を選んで買ってるよね?」ということだけを訊きたいのだ、そのこと「だけ」だ、それ以外のことをするから勝手に暗くなるんじゃないか。

恋女のマインドね | comments(0) |
胴体、生命を、助けてくれた人

だメールがなかったころ、電話口で、「すまんが、抜いてくれ」と言った、電話口の向こうの女の、身の上はほとんど知らない。
短い黒髪がきれいな彼女は、ほとんど躊躇無く、「うん今、手は空いてるよ」と言ってくれた。
彼女は、若い僕の生命について、親身だった、「ほっとけないじゃない」と、僕の吹き出す汗や空腹や何もかもに手当てをしてくれた。
「苦しそう」と彼女は同情的に言い、「これは、一緒にいるわたしの責任じゃない?」と言い、やはり「そんな、こんなのほっとけないよ」と言ってくれた、彼女はやがて幸福を探しにゆかねばならなかったが、それまで可能なかぎり僕のことを愛してくれた。

人間が笑い、泣き、腹を空かせ、胸を高鳴らせる、また若い男性が射精するのも、すべて胴体のことだ。
しかし中には、「腹が空く」ということがない人もいるし、「胸が高鳴る」ということがない人もいる、そうした人は顔だけで笑ったり泣いたりし、粘膜の摩擦だけで射精したりする。
これらは区別するしかないのだ、胴体に起こるのはこころの欲求であり、顔面や腕力に起こるのは自我の願望だ、あなたは女として、どちらの男にも同情して付き合うチャンスがある。
最も残酷で非道なことは、胴体に起こるこころのことを、興味があるといって「観察」することだ、それは「腹を空かせたマウスがどうもがくか」という実験を興味本位で観察している狂人と変わらない、人間がわからないなら人間観察なんかしないのが節度だ。

僕を助けてくれた人へ、あなたを永遠に忘れません。

人間を「観察」しているつもりの人がいるが、それは観察しているのでも何でもなくて、単に「助ける」ことをしていないだけだ、僕は僕を助けてくれた人への絶対の尊敬をこめて、人を助けず観察する人を決定的に差別する、同列に扱えることは決してない。
胴体、生命、なぜそれを助けない? 胴体から胴体へ、生命から生命へ、共鳴してくる切実さはないか、それがないならこころの底から笑ったことはないはずだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
豊かさへのセンスを発揮せよ

分にとって都合のいい世界と未来を考える。
そういったことはたいてい、よくない考えとして世間からは禁忌とされるが、そういった禁忌にこそ、ご存じのとおり最高の滋養成分がある。
意図的に、都合のいい世界を描き、そこを歩んできた人間の良さは、自分をまったく善人だと思わないところだ、善人度に興味を失っているところが清々しい。
自分にとって都合のいい世界と未来を考える、そこに必要なのは清潔感であり、好き放題の夢がありながら、そこに願望の貧しさがないことだ。

自分にとって都合のいい世界と未来を考える。
善人度に興味を失ったまともな奴は、「そうでなきゃ生きていけるか」と冷たいレモネードを飲んでいるだろう。
重要なことは、自分の描いた「都合のいい世界と未来」が、他人をゲンナリさせないことだ、他人をゲンナリさせるそれは都合のよさ以前に「貧しい世界」なので祝福されない、祝福されないからには微塵も実現されない。
自分にとって都合のいい世界と未来を考える、たとえば僕が「世界中の女をつまみぐいしたい」と言ったとき、他人をゲンナリさせるか、それとも「素敵ね」と言ってもらえるか/ゲンナリさせるようなら祝福はない、ゲンナリさせるなら善悪ではなく「貧しい」からだ。

自分にとって都合のいい世界と未来を考える、つまり、豊かさへのセンスを発揮する。

内心に願望が大爆発しているタイプの人間がおり、そういう人の打ち明け話を聞くとすさまじくゲンナリするが、それは願望まみれの人間が根本的に「貧しい」からだ、この世界に生きる豊かさがまるでわかっていないことを直観的に「貧しい」と感じる。
誰だって豊かさを共にしたいのであり、その中では正しき恋あいもかけがえのない豊かさになる、われわれは恋愛やセックスおよび人生への「願望」をこれ以上ない貧しさの感触で聞くように本能的に出来ている、「願望」が豊かさへのセンスと相反しているからだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
大好きな赤の他人がいる世界
はどこの店でも「常連」ぶることは100%ない。
逆に、幾人ものバーテンダーさんが、「常連」に苦しめられているのを何度も見ているからだ、「常連」なんてものは店の一番隅っこで気配を消しているのがベストに決まっている。
たまに金持ちマダムがブティックの店員に絡んだり、深夜の老人がスーパーの店員に絡んだりしているのを見かけるが、ああいったものはもちろん正気の沙汰とは思えない(誰でもそう感じるはずだ)。
そんなことは、すでに大昔に、「儀礼的無関心」ということでさんざん取り沙汰されたのだ、今さら言うに及ばずのたぐいだ。

「一期一会」ということがあって、赤の他人同士は、互いが「赤の他人」であることが重要なのだ、そこにデーンと出しゃばることは野暮以外の何者でもない。
今、接客業をしている人は、たくさんのひどいケースに直面していると思う、現代は赤の他人との距離がわからないメチャクチャな人間が少なくないから。
そしてむろん、赤の他人との距離がわからないメチャクチャな人は、接客業をしている側にも存在するはずだ、こんなこともすでに「儀礼的無関心」の議論で言われ尽くしている、どちらも「たいがいにしろ」としか言えない。
赤の他人同士は、赤の他人であることが重要なのであって/あとは明白なこと、赤の他人が赤の他人のままよろこんでくれるかどうかだけだ、人がよろこばない主張を押し出して歩いたって近所迷惑にしかなりゃしない。

赤の他人同士だから、笑い合う必要があり、仲良くなる必要が無い。

赤の他人同士、笑い合えないのはストレスだし、仲良くなるのもストレスだ、そこをインチキで笑い合い、強引に仲良くなったふうに振る舞うのは互いに自殺行為になる。
人は人を見て「あ、あの人」と感じ、パッとこころを華やがせたいだけだ、人は人に安心して笑いたいだけで、誰かと知り合いたいわけではない、大好きな赤の他人がいることほど素敵な世界はないじゃないか。
恋女のマインドね | comments(0) |
サーキットでの事故は遅い奴の責任
リバリやることに意味はない。
にもかかわらずバリバリやります。
それは単純に、意味を超えるということだから。
人間は誰しも、人間が意味を超えるところを見たいものです。

他人ができることを、自分ができると思わないこと。
自分には「できない」ことを知ることが、他人を尊重するということにつながる。
サーキットに次々と乗用車が乱入したら、サーキットは消え去り、すべて渋滞するただの道路になってしまう。
サーキットでの事故は一般道とは異なり、"遅い奴の責任"だというのに、それを知らないままサーキットに乱入してはいけない。

アクセルの理由がある。

一般道は「移動」に使うものだけれど、サーキットのゴールはスタート地点だ、どこにも移動しないので、サーキットには特別なアクセルの理由がある。
バリバリやるのは、それをすでに始めてしまったからであって、それ以上の意味はない、これが唯一の方法。
恋女のマインドね | comments(0) |
あなたは今、「何の時間」を生きているか

なたは今、「何の時間」を生きている?
われわれは、日々を健全にするためだけにも、自己の前進をしなくてはならないが、前進というのも「こうなりたい!」というだけでは進めない。
あなたは今、「何の時間」を生きている?
通勤の時間なら通勤の時間、受験勉強の時間なら受験勉強の時間で、それが「○○の時間」ということはとても大切なのだ、それが失われたとき人はいつのまにか進めなくなっている。

たとえば、あなたは「拡大」しろと言われても、「えー、よくわかんない」と否定的に答えるかもしれない。
でも、「あなたは今、"拡大の時間"を生きなさい」と言われたら、「"拡大の時間"ですか」と前向きな実感を思案することができる/"拡大の時間"……。
われわれは実は、キモチの切り替えなんてできなくて、できるのは時間の切り替えだけだ、今生きている時間を「○○の時間」に切り替えることだけができる(「時間」というのは実物だからだ)。
修行の時間、上昇の時間、静養の時間、拡大の時間、挑戦の時間……それら「○○の時間」を捉えることで、人はようやく主体的に動けるようになる。

出会いやセックスは、拡大の時間の道ばたに咲く。

出会いに執心する女や、セックスに執心する男はキモチワルイのであって、そうではない、拡大の時間を生きているもの同士なら、いつの間にか出会っていつの間にかそういうこともしたねということか付随するというだけ、われわれは執心「プレイ」に耽るほどヒマな時間を生きてはいない。
仕事であれ学問であれ、友人であれ芸術であれ、それ自体がテーマになるなんてヒマなことはわれわれにはない、「拡大の時間なので」と生きつづける勇ましさの周囲に、すべてのことが見逃されず息づき始めるだけだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
胸を打たれる人、打たれない人
い空と、青い海に、胸を打たれる人がいる。
が、一方で、実はそういったものに胸を「打たれない」という人もいる。
これらの差は、ささやかなようでいて決定的だ。
胸を打たれる人と、打たれない人とのあいだで、何かが通じ合いやりとりされるということはけっきょくない。

何か「わめく」人がいて、あるいは反転してむっつりと「押し黙る」人がいる。
どちらも騒々しくてかなわないが、僕には彼らが「胸を打たれていない」と見える。
胸を打たれていないと、さびしいので、何か強い主張を持ったり、何かをむさぼったりしているが、それにしたって誰も何も胸を打たれていないのは変わっていない。
胸を打たれる人がいて、胸を打たれない人もいる/人が事情により、胸を打たれない人に転向することはよくあっても、その逆、胸を打たれる人に転向するということはほぼない。

胸を打たれる人、打たれない人、互いにどうか尊重を。

胸を打たれない人は、打たれない人の事情がきっとあり、胸を打たれる人は、そのとき貴重なものがきっとあるのだ、そのときわれわれに何ができるかといえば、互いを「尊重」するしかできない。
どちらも、時計とカレンダーの上では同じ時間を過ごしていて、互いにそれを台無しにしないためには、互いにそれを尊重しあうことだ/僕には青い空と青い海を見に行く用事があって、そこにわめかない人・押し黙らない人を同道に得るのは僕にとって大切なことなのだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
グッドラックパーティ
ーティに来る人は、やれ東大卒の元テレビウーマンだったり、音大卒のエステティシャンだったり、慶応卒の帰国子女だったり、正看護師だったり現役の国立大生だったり、公務員だったりする。
つまり、言い方は悪いが、いわゆる「底辺」の性質がまったくない、これは単純にすばらしいことだ。
そして一方で、僕が知ったのは、これら本来「優秀」な人たちが、やはり「それだけでは納得して生きてゆけない」ということだった、そこに僕がでしゃばる余地があった。
「優秀」ということは、生きる上で「有利」ではある、けれども「有利」はイコール「獲得」ではない、ある女性は「このままじゃお先真っ暗なの、自分でもわかるのよ」と言った。

自分が生きる時間を、問答無用に「かけがえのない何か」にしたい、最近の僕の言い方で言うと、それは「いくら優秀で充実していても、代表作にならなきゃ意味がない」ということになる。
そういうことならそういうことで、真正面から向かうのも悪くないじゃないか、と僕は思っている、少なくとも僕自身がそこへ真正面から向かうことで、それを見物する人は自分のことへの参考にできるだろう。
僕は、出来のいいものを作りたいわけではないし、出来のいい人間になりたいわけでもない、ただまぎれもなく自分の生きた時間を得ていたいだけだ/こんなアホなことに正面から向かう奴は少ないので、僕がでしゃばる余地があったわけだ。
それら本当の意味で「成功」しないといけないわけだが、そうなるとつくづく、最重要で必要なのは「幸運」だということになる、幸運が全てを決するだろう。

幸運を与え合うのでなければ、友人ではいられない。

われわれがカミサマを見られるとしたら、それは幸運によってでしかありえないし、われわれは性欲でキスをしたいのではなく、幸運に口づけをしたいだけだ。
そして、どれだけ底辺性がゼロで、優秀さや美貌を持っていたとしても、かけがえのない時間へ至れる「幸運」が得られるかどうかは別だ、そこにやはり僕がでしゃばる余地があった(今月もよろしく)。
恋女のマインドね | comments(0) |
骨の髄まで震えてからのこと
放送で、NHKの特集「ニッポンの家族が非常事態!?」がやっていたので、その後半をチラリと観た。
内容は、申し訳ないが、この世のものとは思えないとんでもないアホの内容だと僕には思えた。
「オキシトシンホルモンを点鼻薬でブチこめば夫婦円満!」というような、ヤク中のススメとしか思えないようなヤケクソの内容だったから、さすがにそれがヤケクソな結論だというのは、製作者側もわかっていると思う。
もし人間が、精神や文化を持たない家畜の群れにすぎないのだとしたら、確かにオキシトシンをブチこんで解決ということでいいだろう、だがそれには人間の尊厳を根こそぎ破壊するというのが大前提だ。

僕はこれまで、いろんな人と暮らしてきたけれど、その中で「ストレスを覚える」なんて対象になったことがない。
今だって、誰のところに遊びに行ったって、帰り際には「えー」とおおげさに言って引き留めてもらえる、「もう少しいようか」と言うと「やった!」と言ってもらえる。
このことに関しては、「そんなに甘くないんだよ」と、さすがに僕にも自慢させてもらいたい、僕は自分の愛される・愛されないに容赦なく向き合ってきたのだから。
よもや多くの人が、実は「パパキャラ」と「ママキャラ」をやっているだけで、本当には何も成立していないなんて考えもしないだろう、そんなことは誰も考えなくていいが、もし「本当のことを」と望む人があれば、その人は本当のことを考えなくてはならない。

「砂糖を入れたら甘くなるって、人間はそんなものじゃないのよ」と友人は言った。

人間を、オキシトシンとかテストステロンとか、ホルモンデータで量ろうとする尊厳の侮辱が、逆に最大のストレスをかけあっている、これは「怨み」と「憎悪」を呼び、内在的に殺し合いの欲求を高めているだけなのだ。
人と人が向き合えば、オキシトシンが増える? それはそうかもしれない、だがそれは向き合って骨の髄まで震えてからのことだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
あなたの「代表作」
「青春」はふつう、誰にとっても、自分が生きる上での「代表作」になる。
「代表作」になるべきだが、残念ながらそうはならない場合もある。
友人は、「代表作、と言われると、とてつもなく怖い、何かが怖い」と言った。
人間は、髪形をヘンテコにして、タトゥーを入れたり、ピアスを無数に空けたり、奇抜な服装をしたり、わけのわからん言行をしたりできるけれども、そんなことをいくらやってもそれらはその人の「代表作」にはならない。

「代表作」を問われることは、とても厳しいことで、それだけその人間のど真ん中を射抜く問いだ。
いくら「充実」ということを蓄積してみて、その写真を大量にアップロードしてみても、それらは決してその人の生きた「代表作」にはならない。
「代表作は?」と自分に問いかけて生きることは、とても厳しいが、とても有益なやり方だ、実はこの「代表作」に向かう人間とそうでない人間には大きな差異が生じる。
人間は、自分の生きる「代表作」に向かわない限り、ある機能のスイッチが入らないのだ、人間は己の「代表作」に向かわないかぎり根本のスイッチが入らないようにできている、このスイッチを入れずに努力することは初めから当人を徒労に苦しめる行為になる。

あなたの「代表作」が、あなたの歴史だ。

あなたはどんな時間を生きてきた? どんな情熱とどんな愛の時間があったか、そこにずばり代表作を提出できる人は幸いだ、たくみに弁解するなんて余計なことをせずに済む。
あなたがあなたの生きる時間の「代表作」に向き合ったとき、あなたの内で重大なスイッチが入る、このスイッチなしに人は何かをまともにするということはできないのだ。
 
恋女のマインドね | comments(0) |
「楽しいこと」は、「面白く」はない
極僕は、「楽しいこと」が好きじゃない。
なぜかというと、僕が「楽しい♪」となっていても、それを見ている他人からは何も面白くないだろうからだ。
楽しがっている人なんか見ていても、面白いはずがない、それよりは「明らかに危険ですが、噴火口のすぐ脇まで降りてみます」と冒険に踏み出している奴を見ているほうがずっと面白い。
何であれ、希望のあることにヒーヒー言っている人のほうが、見ていて面白いじゃないか、僕は自分が「楽しい」からといって、面白くない奴になりたくない。

同じ見ているなら、キツくてヤバそうな冒険に深入りしていく人間を見ているほうが面白い。
これはつまり、「楽しい」ということは実は「面白くない」ということなのだ、仲良しグループの他人が行った温泉旅行の話を聞かされても何も「面白く」はない。
だから僕は、「楽しいからみんなおいでよ」と勧誘するような、サークル活動のようなやり方はしたくないのだ、それよりは「この人面白いな」と、勧誘するのではなく"惹きつけて"いたい。
僕はよく、無精ひげプラス、洗っていない髪の毛がネトネトの状態で、死にそうな顔でみんなの前に出るが、そのとき別に軽蔑はされない、「相変わらずですね」と面白がってもらえる/おれが美容院めぐりに「楽しそう」だったらみんなガッカリだろ?

「楽しい」ということを、実はあなたはそれほどよろこばない。

もちろん「楽しい」ということは、それなりにうれしいのだが、本当にこころの底からよろこぶというほどのことではないのだ、「楽しい」ということは今日と明日の活力にはなりえても、明後日までの動機にはなりえない。
冒険のほうが見応えがある、そして女性は「楽しい」というだけの男性を、ありがたくは思うだろうが愛しはしないだろう。
恋女のマインドね | comments(0) |
大変なことばかりで、大切なものがない

とえば母親が精神病に罹ったりすると、それは大変なことであって、対処に時間もお金もかかるし、心労も少なからず発生する。
そうした、大変なことがあるケースにかぎって、家族にとってその母親は「大切なもの」でない、ということがあるものだ。
どの仕事だって、仕事をしている人は大変なのだが、真の問題は、その大変な仕事をしている人が、その仕事を「大切なもの」と思えないでいる場合だ。
大変な思いをさせられているのに、大切なものが何一つ得られないという、この不毛さが人を荒廃させていってしまう。

きっと有効なことは、「大変なこと」に心を割かないことだ。
人は、自分が虚しく生きていると思うのがイヤなので、何かにつけ身の回りの出来事に「注目」する習性がある、この習性をコントロールする。
「大切なもの」がない人は、何か「大変なこと」があると、それを「大変」という理由だけで注目してしまうが、それは無意味だし疲れるのだ、わざわざ自分の心労を拡大していることにしかならない。
一方で、どれだけ小さくとも、何か「大切なもの」と思えることがあれば、せめてそちらに心を割くべきだ、世間ではスキャンダラスなニュースがさも「大変なこと」というふうに報道されるが、それらの何一つをとってもあなたにとって「大切なもの」ではありえない。

ぜひ当ブログを、「大切なもの」のひとつに。

いや冗談ではなく、そこにわずかも大切さが感じられないのなら、こんなところで時間つぶしをしているのは不毛なのだ、あなたはなるべく少しでも「大切なもの」に自分を向かわせねばならない。
もしあなたが、自分の四方を見渡して、自分の「大切なもの」がまるで見当たらないのだとしたら、それはちょっとあなたが考えなくてはならない、ヘンなことをしているのだ、ごくフツーにしているつもりがいつのまにか。
 

恋女のマインドね | comments(0) |
「そりゃこんな人、守るでしょ」と笑ってくれた
ぅ、ちょっと休憩。
よくよく考えれば、僕の側には何の問題もないのだった。
周りに合わせて書いているのだが、けっきょく周りのことなんてどうしようもないというか、本当はよくわかっていないので、周りのことなんて僕には何をどうしようもない。
僕は、好いてくれる人もいるし、いい人といい思いをしたいというだけで、そして今日も新しくそれが可能だというだけで、それ以上の何があるわけでもなかった、僕にはハイレベルなことはよくわからない。

体調の悪い日なんかが好きだ(と思ったがこの話は長くなるのでやめよう)。
僕の記憶にあるかぎり、まともな女性は、すべからく直観的に、会うなり僕のことを守ってくれようとした。
なぜかわからないが、女性は直観的に「そりゃこんな人、守るでしょ」と笑ってくれる様子だったので、よくわからない、たぶん僕はそれぐらい弱い生き方をしているのだろう。
弱い、というのが僕自身にぴったりくるし、僕を直観的に守ってくれようとした女性はすべて素敵だった、それは向上心とは何の関係もないことだ。

守ってくれようとした女がいた、それでいいじゃないか。

それが何なのか、ということは、たぶん他の誰かにはわからない、他の誰かはまた別の人生を生きているからだ、他人がどう生きているかということは、けっきょくわからないので、自分の生きることにはあまり関係がない。
守ってくれた人に特に感謝があるわけでもないので、守ってくれない人に特に非難があるわけでもないが、ただ守ってくれた人は何かが無性にうつくしかった、僕には理解や納得や向上やエンジョイが「うつくしい」とは感じられないでいる。
恋女のマインドね | comments(0) |
進む力2

「進む」ことを選択していないただの努力ふうは、すべて茶番に終始するだろう。
人間にとって、停滞は恥ではないが、茶番は恥だ。
世の中のいくつものことは不可能に見える。
だが「進む」ということを前提にすれば話は別だ、「進む」という選択において人間はまったく異なる力を得る。

進み続ける者は、いつのまにか学問を得る。
進むという選択がない者は、ただ知識だけを増やして、よくわからないで微笑んでいる時間を過ごすだろう。
人間に成長は必要なく、成長というタテマエはしばしば進もうとしない人間の逃避先になる。
真に進もうとしたとき、人はなぜか自分が得るべきものを知っている、その得るべきものを教えてくれる大きなはたらきを英知と呼ぶ/わたしは英知の人になりたかった。

誰にでも未来はあるが、進むのは英知ある人だけだ。

死刑囚が、絞首の縄を前にして立ち止まらず、「自分の足で歩かせろ」と叫ぶとき、人は英知において「進んで」いる。
アメリカのいいところは、地獄を知っているところだ、日本の平和ボケのよくないところは、人を天国に鎖でつないでおこうとするところだ/進むというのはその鎖を断ち切ることだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
| 1/40PAGES | >>