☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「困難」なこと、その壁にぶち当たること

所に「あなたも陶芸に挑戦しませんか?」みたいな広告が貼り出されている。
こんなことを、いちいち真剣に考えるのもどうかと思うが、そういった習い事に「挑戦」ということは、人にたいしたものをもたらしはしない(当たり前だ)。
なぜそういった「挑戦」がたいしたものをもたらしはしないかというと、それは、「困難に挑戦する」ということではないからだ、一般に「陶芸に挑戦する」ということは、「ここ数年、没頭し、数千回は立ち向かったが、すべてまったく歯が立たなかったよ」というような次元のことを指してはいない。
だが、人は誰しもせっかく生きているのだから、願わくば生きているうちに、「困難」に挑戦することがあるほうがいいと思う、なぜなら、真にすばらしいことのほとんどは、途方もなく困難なことばかりだからだ。

人がすばらしいことに向かうということは、必ず、生々しい「困難」に向かうということだと言っていい。
もし、容易なことですばらしくなれるのなら、万人がすばらしい生を送ることができるはずだが、残念ながらそうではないのだ、すばらしいことは必ずとても困難であり、すばらしいことのすべては手にできる人が限られている。
「そういう、難しいことはなあ、ワシには無理やで、できる人はすごい人なんや」と、見切って清々しく生きていくという道もある、それはそれですばらしいことだと僕は思う、が/それが「すばらしい」ということは、そうして清々しく見切って生きるということ自体が、とても困難だということだ、多くの人はそんなステキな見切りはつけられず、こっそりすべての「困難」を見ないフリをして生きていくことになる。
単純な選択として、すべからく、若い人は「困難」に挑戦すべきだ、その困難とは学門・文化・芸術のどれかに属しており、困難ということは高コストを掛けるということじゃない、「大変なこと」に挑戦するのではなくて、「難しすぎること」に挑戦してヒーヒー言うのだ/その挑戦から毎日逃げずに生きていくことは、あなたに誇りを与え、あなたを力みから解き放つだろう。

「難しすぎて草も生えない」と言え。

大事なことは、「困難」に直面すること、壁にぶち当たるのだ、この「壁にぶち当たる」ということをナシに生きていくと、人は卑屈で力んだものになってしまう。
人が本当に笑って生きてくためには、壁にぶち当たり、何百何千と果てしなく向かってみて、ついに突破するか、ついに「いやあ、ダメだわ!」と痛快に降参するか、どちらかしかないのだ/「難しすぎワロタ」「えぇ……こんなことできる奴マジでいんのかよ……」みたいに打ちのめされるのは、本当に笑って生きていく道の入口だ。

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この時代がどこかおかしいと感じているあなたへ2
なたはぜひ賢い人になってください。
数々の迷惑は、人の本性、その本性における未熟から生じています。
ここでルールAを施行すれば、本性Aは抑圧されます、抑圧された本性Aはアングラ化するので、表面上は迷惑として出てこなくなります。
同時にその本性Aは、未熟なまま保存されます、ルールがAからZまで増えてゆけば、本性もAからZまで未熟なまま保存されます、それを取り出すことは許されなくなります。

人の生きる時間に、その人の本性が含まれていないのであれば、その時間は「架空の人間像」を演じていることになります、人に迷惑はかけませんがそのぶん無意味な時間になります。
だからあるていど、まさにここの按配が肝になりますが、暮らしの上での「迷惑」というのは、それ自体を尊ぶ必要があるのです、駅前に放置自転車があることは、人々の暮らしが息づいて栄えていることの証だとよろこんで見られねばなりません。
さまざまな迷惑防止のルールが施行されるのは、われわれのためではなくて、政治家が存在感をアピールするためです、ほとんどの法律は政治家が次の選挙で勝つために実績として作られているだけで、自分は次の選挙で勝てさえするならもともと政治家は立法そのものに興味がありません。
われわれは今、「架空の人間像」をやりあって、無意味な時間をたくさんすりつぶさねばならなくなっています、さらに抑圧してきた本性AからZが、あまりにも未熟なまま保存され、しかも腐敗しているので、今さらそれを取り出すことはさらにできなくなったという状況です、あなたは賢い人としてこのことを学門において看破してください。

迷惑がないなら、成熟はゼロとなる。

人々は今ヒステリックになり、迷惑にはただちにルール化と厳罰化をもって当たるだけだと思い込んでいます、そうした人々が直感的に「成熟していない」と感じられることは実のところ誰でもわかっている、けれどもすでに多くの人が、加齢した自分がひどく未熟だという直観から目を背けたがっている/それはもう取り返しがつかないと予感されているから。
程度問題はもちろんありますが、あなたは賢い人になるものとして、愛のある人に迷惑をかけられることを尊びましょう、<<突き抜けた愛は必ず一般的迷惑の成分を含んでいる>>/あなたが「確かに愛はあるけれど、カンベンしてよ」と揺らぐその瞬間、あなたはかけがえのない本性成熟の機会を得ています。
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この時代がどこかおかしいと感じているあなたへ

の世間に向けてはまったく通じないことを、個人的に話します、僕を慕ってくれる少なからぬ人に向けて、特にまだ若輩で、健気に生き抜こうとしている人に向けて話します。
たとえば駅前に放置自転車があるとジャマっけです、もちろん駅前はすっきりしているほうがいい、じゃあ駅前の放置自転車を「撤去」すればいいかというと、これは誤りになります、単純な「やりすぎ」という意味で誤りです。
あなたは賢い人になるべきです、そして賢い人とは何かというと/「放置自転車はジャマっけだ、だからそのままにしておこう」と発想できる人のことです、<<実にこちらの発想のほうがレアだ>>ということに気づいてください、短絡された多数派の発想しか持てない人は残念ながら真に賢い人ではありません。
タバコが煙たければ、煙たい中を生きましょう、近所の保育園は実に騒音です、騒音というのはとても迷惑ですが、だからこそ「このままでいく、<<ちょうどいいよ>>」という発想を見つけましょう、実にこちらの発想のほうがレアなのです、ジャマっけだから撤去しようという短絡な手を、「陳腐」だという一点から忌避するのが学門の入口です。

なぜそれが学門の入口かというと、学門とは「問いかけ」の世界だからです。
仮に駅前の放置自転車を厳しく撤去し、その他すべてのことも弾圧的にルール化してゆけば、もうウンザリする必要はなくなるぶん、この世界にはまるで「問いかけ」がなくなるように感じられます、それは学門の否定になるのでした。
よくよく考えてください、もしありとあらゆる「迷惑」を、懲罰を背後に据えたルールで抑圧するとすれば、この世から「迷惑」が消えてなくなる……わけではありません、それは弾圧されて地下に押しやられているだけで、人にそこそこ迷惑をかけもするという人間の本性は消えてなくなっていない、ここのところをよく見てください、人間に非本性化を強いて表面を欺瞞しているだけです。
ありとあらゆる「迷惑」を弾圧され、抑圧されきっている人を目の前で見て、あなたはその人とどうやって本心から付き合えるでしょうか? 彼が真にやさしい人か、慈愛のある人か、わかったものではありません、何もかもを抑圧した彼の地下から、やがて何が噴き出してくるのかわかったものではないのです、そこまで見て人々の暮らしを按配するのでなければ、誰も賢い人ではありません。

短絡は元々、すべての他人に「死んでくれ」と頼むに決まっている。

ルール化すると、禁じられた行為はアングラ化し、見えなくなりますが、それによって人の本性が消えるわけではない/だからわれわれは今、暮らしの中で人間の本性を見いだしたり、本性から互いを磨き合うという機会を失っているのです、そうして人と本性から付き合ってゆけなくなる以上、すべての人に「死んでくれ」頼み始めるのは、ことの初めから構造上に定まっています、地下も含めたすべての「迷惑」を消すのが、「全員死んでくれ」なのです、これは賢い人のやり口ではない。
僕があなたの家の玄関先に、自転車を勝手に駐めて、タバコを投げ捨てますから、あなたはそれについて「死ね」と言うでしょうか、じゃあ自転車を駐めずにタバコも捨てなかったら「死ね」とは言わないでしょうか、それがコロコロ変わるのはおかしい/僕がタバコを捨てようが捨てまいが、もともと「死ね」かもともと「ごきげんよう」かのどちらかにしてください、表面上の行為に陽動させられず人の本性に向けて「死ね」か「ごきげんよう」かを選択してください。

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叡智というのは、チョーゼツ楽しい
「おびえ」を超克するideaは、叡智にしかない、これは鉄則だ、鉄則を丸暗記しておけば少しは賢くなる。
そして付け加えておくならば、叡智というのは、チョーゼツ楽しいとも言っておきたい、そりゃ僕のシュミもあるかもしれんが。
正直な話、僕は叡智に接触すると、とにかく女の子に抱きついていじくりまわしたくなるのだ、わけのわからん話だが、どうやら僕は感受性で女の子が好きなわけではないようだった。
「叡智」にこそ、真のハッピーがあるのは当たり前で、その果てしないハッピーが女の子含め、あちこちに向いていじくり回したくなるのだ、僕はあまり情欲とかそういうものに興味がない、女の子をかわいがるのに情欲が必要なんてそんなツマラン話に巻き込まれてたまるか、そんなものなくても女の子は圧倒的にカワイーだろうが。

今僕は、こうして文章を書いていたいし、アサシンクリードオリジンズの続きがやりたいし、コーヒーが飲みたいし(それはさっき淹れてきた)、散歩に行きたいし、ドライブにも行きたいし……という状態で、そのどれもが、爆発的なハッピーを有していて、頭が割れそうなぐらいに楽しい状態だ。
ふだんはいちいちそんなことを言わないが、それは、僕は基本的に生きている時間のほとんどがコレで構成されているため、この日常をいちいち言っていたらキリがないからだ、これはたぶん僕が特殊なのではなくて、叡智というのはもともとそういうものなのだと思う。
叡智によってなぜか何もかもがチョーゼツに楽しいということは、キモチの問題ではなく(キモチもあるが)、正直なところ全身の肉そのものがよろこんでしょうがない、破裂しそーだぜ、というのが実情だ、何か知らんが、僕にはもう何もかもよくわからんのだ。
僕にとって困難なことは唯一、「おびえ」を押し隠して何かにハマったり、逡巡したりしている人と、どう噛み合うかという方法論だけだ、方法なんてたぶんないのだが、そればっかりはどうしたらいいのかいつもわからん、もう何十年も「わからん」と思ってそのままだ、おれがおかしいのかもしれないがお互いに「そんなこと言われましても」という状態だな。

僕が「カワイー」と言うと、女の子が泣いて、しかしそんなことにキョーミも感慨もない。

かつて新宿歌舞伎町がアレだった時代、ヤク中の女を路地裏でたくさん見かけたが、ヤク中って本当に快楽なのかね? 見ているかぎり本当に楽しそうなのは誰もいなかったぞ、叡智なしにクスリやホルモン物質ごときで本当に楽しくなれるのかね、それってキョーレツな「気のせい」にすぎないんじゃないか(それで身体を壊した人には大変アレで申し訳ないが)。
「おびえ」を真に超克して焼却していくメドが立たんうちは、本当に楽しくはなれっこないというのが、理の必然だと思うが、どうだろうか、僕の知能があなたより低いのは認めるが、そもそも僕は自分の知能なんぞ使うつもりがないからそこで張り合っても意味がないぜ。
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邪悪が思念しているやつに足しなし
いつもこいつもこころがねえなあ。
まあ夢がなければこころもあるわけがない。
ここ数年でこころは壊滅しすぎだろ、たぶん東日本大震災以降、この世界は無いも同然になっている。
この状況の中で、まだ死んでいない僕が異常にしぶといというか、オカシイぞコイツということで、自分で呆れているのだった、僕はまだ風の音とか聴いているからな。

学門っつうのも、そりゃそうだけど、めんどくさいわ。
学門=愛で、合ってるよ、よくまあそんな正しいこと見つけたなと自分で思うけれど、実際その当人にとってみたら、いちいちそんなことは意識してないっつうの。
何かが光り輝いているとか、いちいち、思ったことなかったもんな、ただメチャメチャやさしい女がいて、何かとんでもないキスとか夜とかをくれた(そんときゃもうどれが誰とか覚えていなくて何かに溶け込んでいってしまうんだが)。
あえて、このご時世の他人と比較して説明しようとすると、それをいちいち「光り輝いている」とか「学門と愛」とか言わなきゃいけないわけだが、こちらは元々それしかなかったわけで、元々それしかなかったのだからいちいち説明はつけてこなかったな、今でも説明なんて根本的に役に立たんウソだけどな。

愛されるには、他人に関わらないのが一番。

これ、矛盾しているようだけど、そうではないんだな、このご時世、「人と関わる」ということがスンゲー誤解されているので、もうこの「人と関わる」ということ自体、無縁にしたほうがいい、愛されていりゃそれで十分だろ、どうして初めから愛もない人と「関わる」なんて不毛を思いつくんだ。
生まれてこの方、1分1秒砂粒たりとも、この日の朝と夜と昼とを、うつくしくないと思ったことはない、明らかに邪悪が思念しているところにいったい何の足しと解決がありうるのか、邪悪が思念しているやつやめろよ。
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0.1%の幻影
っちりメイクをした女の子は無限にきれいで……
きちんと作られた料理は無限においしくて、夜景やライトアップされた庭園は無限にうつくしくて。
友人はきわめて愉快で……と、ずっとそう思ってきた、何十年も変わらないまま、これはいったい何をやっているのだろう。
僕の生きる99.9%の時間がそうでなかったとしても、僕は0.1%の幻影を信じる、もともと僕は正しくありたかったわけでもない、正しさなんかほんとどうでもいいな。

99.9%の人と話が合わなかったとしても(実際それぐらいのパーセンテージかもしれない)、0.1%の幻影を僕は信じる、多数派と話が合ったって本当にトクになるわけじゃあるまい、僕は0.1%の幻影以外は相手しない。
誰か僕に、わかりやすい目印として、「この人は間違っています」というノボリ旗でも付けてくれんかな、そうしたら僕は存分に間違っていられるのに。
間違いでいいのだ、間違っていようがいまいが、僕はそれを信じると決めているのだから/僕はこの世の99.9%に用事がないのだ、どうかずっと間違っていさせてくれ。
どうか99.9%の多数派が、今さら不安になって僕のことなど窺いませんように、正しい者が間違っている者を窺う必要なんてないさ、僕は間違った人間として「メイクをした女の子は無限にきれい」と言っている、それは僕の見るものであり、僕のいやおうなく信じるものだ。

伝わらない僕の話バンザイ。

僕の話が伝わらなくて、僕が苦しむというのはまだアレだが、正しい側が苦しむふうになるのはやめよう、「メイクをした女の子は無限にきれい」だぞ、そんなの伝わるわけないじゃないか、どだい間違っているのだから。
間違った人間としてこの世に生を享けていることは、割と僕の幸福だ、僕は伝わらないことを話し続ける、どうかその「間違っているから伝わらない」というコンセンサスの上で、僕のことを大目に見てやってくれ。
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吉池零時
前零時の男風呂は誰もおらず、南洋のユウトピア也、加水(行っていません)・加温(行っていません)
滝口にざんぶと飛び込み/わたしはもう何十年も夜を友人としてきた
備え付けのヘアドライヤはPanasonicの最新式だ、インテリジェンスモードがわたしを励ます
誰もいない夜、夜は必ず光をくれた、この世に光が満ちていることを教えてくれる夜闇がずっと好きだった

零時にも湧く湯の力はすさまじく
わたしはむき出しになったこの世界の何もかもが好きだ、さまよいつづけて悔いもない
何度も言うように、わたしはこの世で最低最悪の屑男かもしれない/それはまったく嫌悪してよろしい
だがわたしの見る世界を嫌悪する者はいない、誰か盗賊よこの世界を盗んでいけ、わたしはこの世界の譲渡の仕方がわからないのだ

わたしはついに違うものが許せない

若い女性らの茶色の髪たなびく/ああどうか夜闇が彼女らに青春の光を与えますように
すべての夜闇が光であって、すべてが学門の入り口であることを、わたしは何十年も愛してきた/わたしが地に伏せるとき、わたしはこの世界のうつくしさを叫ぶだろう
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愛しているなら○したらいい
ういえば本日11月7日は、偉大なる九折さんの誕生日である、みんなこぞって祝福のメールでも送ること、メアドは本サイトのどこかに貼り付けてあるからテキトーに探してくれ。
せっかくの自分の誕生日なので、何かイイ話を書こうと思ったが、特にこれといってなかった、無力で侘しいモンである。
まあなんというか……いろいろ考えたのだが、特に話はないな、みんな虫の居所には気をつけようぜ、ということぐらいだ。
僕のことがキライなのは全然かまわないし、ある意味マトモだと思うのだが、僕のことを愛しているくせに、虫の居所のせいで態度がヘンになるのはヘンだものな、そういう不穏なパターンはやめような、というまっとうな話しか、今のところなかった。

まあなんというか、快適で、若々しく、セクシーで、無理のない、静かだが熱気のある、澄み渡った話とこころの通じ合いがあるといいな。
正直、あれこれ「やる」「がんばる」というたぐいはまったくの苦手だ、物事は初めから成功していなきゃいかん、なぜなら僕には後になって成功させるようなタフな能力なんかないからだ。
愛と学門と命と世界、これらはひとつのものだから、捨てちゃいけないというか、捨てるモンでもないしがんばるモンでもないぞ、なんというか、イイ映画って始まって三秒ぐらいでもう「イイ」じゃないか、そこでコケていたらもうその後がんばってもどうにもならない、愛と学門と命と世界。
「おびえ」と「虫の居所」とでジャジャジャーンと大ストーリーが始まっても、かなわんというか、そういうことじゃないよな、もっと別次元のことを考えるべきだ、何しろこの偉大なる九折さんの、誕生日だぞ/別次元というのはつまり、わかっているじゃないか、僕はあなたにわからないことをがんばって話したりはしない、すべてもともとあなたが識っていることなので、話は特にないのだった。

愛しているなら愛したらいい。

何かもう、このご時世、虫の居所をどう操作されたのか、ややこしいことになっている、何しろ愛していないものに注目してヤッサモッサし、愛しているものに対しては「……」なのだ、なんだこりゃと、これでは後世の歴史家が「意味不明の時代」とこの時代を称するぞ、せめて愛していない物事に注目してギラーンとなるのはやめよう。
まあ、「おびえ」があって、愛するものに対しては動きづらく、愛していないものに対してはイケイケになれる(ただし不毛)というのはよくわかるが、それは考えるチャンスというものだ、どうすれば愛するものに向けて「おびえ」が生じずに済むか? 別次元のことを考えるわけだ、もちろんがんばることじゃない、思っているより愛が貴くてあなたが卑しいから動けないだけだ、そこのところの次元を超えよう。
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命(めい)に仕え事を為す者は聖に至りおびえを償却する
は「悪」を経れば大人になるが、「邪」を経ると「おびえ」を持つようになってしまう。
いわゆる善人タイプは、「おびえ」ている人がおおい、そうして「おびえ」ているということは、聖でなく邪にむしばまれているということだ。
「善」は「悪」に拮抗できるが、「善」で「邪」に拮抗はできないので気をつけて/そりゃ「邪」に拮抗しようと思ったら「聖」しかない。
まあ「おびえ」ゼロで生きていけるもんでもないと思うが、笑えないほど「おびえ」にむしばまれているのはダメだ、いざとなったら「おびえ」を覆すほどの「聖」が湧きだしてくるようでないといけない、そうでないと「危険」だ。

たとえば、災害地にボランティアラーたちが入るとして、彼らが災害地で「まずお宮さんにお参りしよう」という発想はするまい、けれどもその発想は誰かが持っているべきだと思う。
だが人間などしょせん、この世界にお世話になってしか生きられないのだから、神社に「お邪魔します」「われわれに命(めい)をお授けくださいますよう」のあいさつぐらいあっておかしくはないのだ、ボランティアラーたちが「お世話をしにいく、フフン」という発想でいると、知らぬ間に邪が入り込んでいるだろう。
人々が善に浮かれるところには、往々にして邪が棲みつく、善人たちが植樹イベントをしたからといって、「地球にやさしく」なんてことにはならない、単に植物がないとわれわれが死ぬので植樹しているだけだ、植樹のたましいは「頼むから育ってくれ〜お願いします!!」であるはずだ。
朝起きて、学校に行ったり部活をしたり、仕事に行ったりトレーニングをしたりしているが、われわれが頑張っていることは単に「善」であってはならない、なんとかして「聖」に至らなければ、われわれは「おびえ」から離れることができない。

「業務」は神聖にはならないだろうが、「仕える」ということは神聖になりうる。

たとえばお医者さんが「業務」をこなすのでは神聖にならないだろうが、医の道に「仕える事」を為すならそれは神聖たりうるだろう/「それが医師の使命ですから」と。
命(めい)に仕え事を為す者は聖に至りおびえを償却する、業に駆られ務めのみこなす者は邪に入りおびえに蝕まれる。
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悪はいいけど邪はダメ

は、生きているうち平均で何回、偽りの笑顔でだまされるのだろう(リアルに学門として気になる)。
人は、邪(よこしま)を為す能力を持っている、人間がときに聖を為す能力を帯びるように、同等に人は邪な力も持っているものだ。
邪な力は、たいてい「偽り」の形成を本領とする、ここでポイントなのは、「邪」な力は単に「悪」を為すというわけではないというところだ。
あなた自身もそうだし、またあなたが付き合っていく人についてもそう、ぼちぼち悪い人と付き合うのはいいが、邪な人と付き合ってはいけない、あなた自身も、悪になるのは構わないが、邪になってはいけない。

たまには根こそぎ聞いてくれな、あなたは、「悪いことなんかいくらやってもいい」のだ、それは、「善いことなんかいくらやっても無駄」というのと同等に成り立っている。
それよりは、「邪なことはやってはいけない」、それもやはり、「聖なることをわずかでもしたらいい」というのと同等に成り立っている。
「善人」と「聖人」だと、どちらか格上か、直観的にわかるだろ、本当に見上げるべきは「聖人」のほう、そりゃ当たり前であって、善人とか善悪とかに注目しているのは単純に見失っているだけだ。
たとえば金持ちのおじさんと麻雀するとき、イカサマでサクッと巻き上げればいいんだよ、「悪いやっちゃな〜」ということになるが、「そうか? さっさと終わらせてみんなの食事代に充てたほうが合理的じゃん」ということになる、邪でなく悪というのはそうして合理的なものだ。

悪は合理的、邪は感情的。

だから悪が問題なのじゃなく、不潔にニヤニヤしているのが問題なのだ、そっちは邪だから/人はときに、特に理由なく人を「偽る」ということをする、ただ「偽る」という暗い愉しみに取り憑かれて、それこそが典型的な邪だ。
たとえば万引きが問題なのじゃなくて(語弊がある)、つけまつげとカップラーメンは万引きするのに、タゴールの詩集は万引きしないところが問題なんだ/表面上にどれだけ人の好さそうな笑顔があっても、タゴールの詩集を万引きする見込みのない奴はダメだ、万引きよりその笑顔のほうがコエーよ。

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いい方に流されないこと
に言うと、あなたはなぜこんなブログを読んでいるのだ、最近のこのブログ、ホンマにヤバい人のやつみたいですやん……断じておれはまともだからな、そこのところよろしく。
で、内容をこのヤバめに振り切って以降、来場者カウントはうなぎのぼりなんですがそれは……/明らかに先月と今月とでは来場者数が違うぞ! あなたもこのブログを見る頻度が上がっているのじゃなかろーか。
で、それってつまり、救済というと大げさで草不可避だけど、とにかくこの次元のヘルプとかideaとかが必要ってことでしょ、それはわかるんだけど、そこんところ非常識的な直観だけでついてくるのはやめにしませんかね……もっと理性的にですね……
いやいや、これは笑いごとではなくてね、その「直観」みたいなものは、本当に自慢にならんやつなんだよ、直観なんかを自慢とか自負とかにしていちゃダメ、そんなのより毎日忙殺されている証券マンのほうがよっぽど偉いぞ、そこは誰しもわきまえないとまずいところだ。

この次元でのヘルプが必要なのはわかるが、それでもあれだ、「流される」のはダメだ、いい方・光の方へ、「歩む」のはいいけど、「流される」のはダメだ/直観なんか自慢しておらずに自己決定のほうを自慢にしろ、これは割とマジな話で。
たとえいい方へであっても、「流される」というのはいずれクラッシュしてしまう、特に流されたまま深いところまでいくのはよくない、気づけばえげつない急流次元に突入してしまっていることがよくある。
自分で歩まず、流されるまま深いところへ行ったら、どれぐらいの勢いで流れているのかわからないので、いざ自分で足をつけたときに、たちまち急流に呑まれてしまうものだ、流されていった先は自分の到達点じゃないぞ、そこは誰しも気をつけよう。
こんなわけのわからん次元に深入りする用事があるのは、てっきり僕だけだと思っていたが、何かどいつもこいつも直観だけ無駄にいいな! そこんとこテメー、本当に笑いごとじゃすまなくなるケースもあるから、こいつは自己決定の歩みしか評価しやがらねえということを最後まで忘れないように、だいいち年齢もぜんぜん違うじゃないか、おっさんをナメんなよ。

浅田真央に手を引かれてスケートしたら死ぬ。

そりゃそうだろ、こっちはオメエ、歩くより遅いぐらいがリアルな実力なんだから、浅田真央の世界に連れていかれて滑走させられたら、手を離された瞬間にすっころんで死亡するに決まっている。
直観なんか自慢してたらアカンで、そりゃ「流されるのが得意」と自慢しているようなものなんだから/いっそどこかでセンス的なものには愛想を尽かして、ホンマに「自分ができること」に集中してみたらいい、そっちのほうがよっぽど実りがあるしカッコいいから。
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最大の吉相へ向かうケタはずれの勇気だけを

人的なことばっかり続けてごめんね、今、「こころが静かすぎて逆に戸惑う」という状態にある。
いや、環境としては、今大阪出張中で、「かんべんしてくれよ」と嘆きたくなるダメージはたくさんあるのだが、それとは別のこととして、こころが静かすぎて戸惑う。
なんというか、そりゃ人間、取り乱すことに何の利益もないのはわかるが、これではいくらなんでも取り乱すところがなさすぎだろ、こんなもん、もう何のスリルも戦いもないぞ/以前はもう少し、非常識への取り乱しがあったろうに。
冷静にもほどがあるというか……さすがに急にこんなことに到達されても、僕自身慣れていないので、戸惑うのだ、果ては「こんなんでええのか」と訝って、何か自分でわざわざ不安や取り乱すことを探そうとしてしまう気配さえある、それでは本末転倒だ。

いやまあ、どうせこちらが正しいんだろう、これまでの経験上、正しいことというのはこうしてまったく味気ない形でやってくるものだ。
勝つというのは、せめぎあうから快感があるのであって、本当に勝つということになると、もう初めから支配済みだからせめぎあいの快感はない。
まあそれでも、本当に勝つということがそれなら、本当に勝つほうを容赦なく選ばないとな、「せめぎあいの中の快感」とか、そんなアホくさいことを言ってはいられない、本当に「強い」というのはそういう容赦のないものだ。
いいかげん僕も、周囲の忠告にしたがって、ステージの上昇を認めなくてはならないんだな、あまり趣味ではないのだが、なんとか大物ぶることに努力してみよう、努力するからには面白くなるところまで。

僕だって常識が恋しくはあった。

だがまあ、こんな未練は、トラブルにはならないにしても、遅滞しか生み出さないだろう、やめだやめ/どうやら僕は他人が大物ぶりたがる心理がわかっていないらしい、僕自身には大物ぶりたくなる心理がまったくないからだが、それは今や美徳というよりは単に無知と他者への無理解にしかなっていないように思える。
大物ぶるというのは、僕にとってはたいへん居心地が悪いのだが、そんな好き嫌いを言っていられる状況ではないらしい/似合いもしない常識への恋はやめて、最大の吉相へ向かうケタはずれの勇気だけを持とう。

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「しばく」ということ/三毒の拮抗阻害剤
、話を書く集中力がないのだが……(大阪出張中)
「しばく」という言い方がある、「しばくぞゴルァ」というときの「しばく」だ、この「しばく」という行為には、思いがけない実りがある。
男でも女でも、どこかで「しばかれて」きていない者は、役に立たないのだ、「しばく」ということから始まるものが明らかにあり、これがなくては始まらないという重大な事象がある。
「しばく」というのは、人が人間の道を進んでゆくのにとても重要なもので、しかもそれは、正しく用いられるときには暴力的でないものだ/暴力的になってしまうのはまだ「しばく」ということを上手にやれていないからだ、「しばく」の失敗例がただの暴力になるのだ。

端的にいえば、「しばく」ということが、人間の煩悩三毒の拮抗阻害剤になる。
煩悩三毒というのは、本当に体内に「分泌物質」のように駆け巡るのだ、この分泌物質に拮抗阻害する分泌物がなくては、人は三毒に対抗しようがない。
これ、本当にアホみたいな話なんだが、アホみたいに事実がそうなるのだ、「しばく」のが上手な奴が、襟首をつかんで「おいコラ」と気を入れると、それだけで相手は「しばかれた」ということになる、そのとき体内にワッと「しばかれた」の分泌物が放出される。
「しばく」、それは暴力ではなくて、劇的な信頼関係だ、「しばかれているのに暴力的でない」と直覚されることで、人は互いに「人間だ」という事象を識る、「しばく」ということが実は初期の第一に要るのだ、煩悩三毒が深くなってしまうと、もうこの拮抗阻害剤も効かなくなってしまう。

「しばく」が、「感情以上のもの」を初めてもたらす。

「しばく」を説明するのは困難だ、とんでもない怒声に張り飛ばされただけでも、それは「しばかれた」になりうるが、しくじればそこにはやはり暴力的な恫喝しかない。
よく、愛情を受けられなかった子供が、親に構われたくていろんな悪さをわざとすることがあるが、あれはいわゆる「怒られたい」ということではなく、正しくは「しばかれたい」のだ、人間として「感情以上のもの」を向けてはこないのか? ということを求めているのだ。
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(頭上の颱風)
風の中
ひとりでいる
人影は籠の灯に浮きあがり
闇夜の中に消えていく

颱風の中
ひとりでいる
生まれたきりの時間が続き
何もない中にすべてがある

(数千年も生きた)

颱風はいつも頭上に
生まれたきりそこにあったまま
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自分はどんな奴になりたいか

分がどんな奴になりたいかは、けっこう重要だ。
「こういう感じの、ステキな人になりたい」……とイメージを膨らませる、すると、これは必ず失敗する。
なぜなら、本当に素敵な人は、必ず<<あなたを驚かせる>>からだ、あなたを驚かせるということは、真に素敵な人はあなたにとって「未知」の人だということになる。
これがやっかいなところだ、けれどもこう考えないとこの作戦は必ず失敗する、「自分はどんな奴になりたいか」? その解答は、現在の自分の所有するイメージの中には「無い」というのが正解になる。

考え方を変えよう、「自分はどんな奴になりたいか」について、「自分の知らない奴になりたい」と考える、実はこれが正しい。
どんな街に住んでいて、どんな仕事をしていて、どんな能力を持っていて、どんな表情を見せるかについて、「知らない街に住んでいて」「知らない仕事をしていて」「知らない能力を持っていて」「知らない表情を見せる」と考える。
「自分はどんな奴になりたいか」、その向こうから、「自分の知らない声」が聞こえてくる、ここで想像力がはたらき始めている、想像力がはたらくということは、イメージを持たないということだ。
想像力がはたらき始め、イメージを持たないことに徹したとき、「何をしてもいいし」「何をしてはいけないということもない」ということが見えてくる、自分が自分の「知らない奴」になるためにはどうするべきか、理由なしに見えるようになってくる。

「どんな奴になりたいか」は、自分が描くのではなく、向こうから声が掛かってくる。

「自分はどんな奴になりたいか」について、「自分の知らない奴になりたい」と答える習慣は、よい習慣だ、自分を閉じ込めず、いつも真新しく切り拓いていく習慣になる、想像力のフタが開く。
「トレーニングしてみようかな」「勉強してみようかな」、いろんな想念が湧いてくる、そのときに思い出されるべきことは、「何をしたらいいということは特にないし」「何をしてはいけないということも特にない」「何かが足しになるというわけではないし」「足しにするつもりじゃないなら何をやったっていい」ということ、あとは向こうからの声が届いていれば空回りは起こらない、手抜きして生きないことがもう始まっている。

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学門万歳、勉強撤廃

「学門万歳、勉強撤廃」、これが我が党のスローガンである(出馬はしません)。
なぜ勉強撤廃かというと、勉強というのは「強いて勉める」ことだからだ、そういうシンドイことはよくない。
そういうことは、シンドイ上に、けっきょく学門にもつながらないので……その意味で学門をナメてはいけない、勉強なんかしていたら学門なんか身につくかよというぐらい学門はキビシイ。
次のように示されるべきだ、「勉強を忘れさせるのが学門である」、ホレこうすると、学門というのがいかにキビシイかが切実に伝わってくるだろう、ざまあみろという感じである。

つまり、たとえばマジモンの数学者は、数式を愛しているので、その愛のさなか、勉強なんてことはすっかり忘れているということなのだ、それぐらい学門はキビシイ。
学門というのは、形而上と形而下の、両方の世界を捉えるためにやるので、つまり「この世界」を識るためにやる、だから学門の識を学識という。
そうして学門でマジの学識が得られるためには、それが「お勉強」ではなく、マジの「世界への愛」にならなくてはダメだ、形而上と形而下の両方の世界を学門によって識る、識るほどに愛さざるをえない、そして「この愛があってこそ、わたしは存在できる」というところまで到達する、それでようやく学門だ。
学門は、物事に詳しくなるためにやるわけじゃない、そんなアホな動機はさっそく生ゴミに捨てよう、学門は「この世界」と愛し合った思い出を残すために身を投げ出してやるものだ。

学門とは、「知識に思い出が残る」ということ。

一つの数式とか、一つの文言とか、一つの術とか、一つの原理とか、なんでもいい、ただ「知識」だ、なんでもない「知識」に「思い出が残っている」ということ、それが学門に取り組んだ証拠、この世界と愛し合ったことの証拠になる。
誰でも生後六ヶ月までは、「この世界」の何もかもを見つめて、手を伸ばし、身を投げ出して学門をしていた、あの眼は「学門の徒」の眼差しなのだ、何かに詳しくなんかなりたくない、ただこの世界と愛し合うことだけがやめられなかった。

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直接のアレに基づいていなければ機能しない

ったく別のことを考えている。
まったく別のことと言っても、ある意味「元通り」のことではあるのだが……
この世界は、愛に支配されているので、いくら自分が正しかったとしても、愛に基づいていなければ機能しない。
どうせ愛というのも人それぞれ、自分アレンジで定義しているので、話はすれちがうだろうが、それでもこの世界は愛と呼ぶべき直接の「アレ」に支配されている、この支配に従わなければどんな正しいふうも機能しない。

思いがけない単純なところで決着がついている。
誰だってこの世に生まれ落ちてきて、「この世界」に「わたし」が存在している、このことは誰にとっても本来同じだ。
ただ、「この世界」を、愛すると決めたヤツと、愛さないと決めたヤツがいて、ここの差ですべてのケリがついている。
この世界を愛する、といって、その「愛する」もそれぞれが自分アレンジをしているので、話はすれちがうだろう、それでも、この世界は愛と呼ぶべき「アレ」に支配されているので、この支配に従わなければどんな正しいふうも機能しない。

この世界を愛さないという決定は、同時に、自分を愛さないということの決定でもある。

世界を愛さずに、自己愛だけが肥大していくか? そう見えて、実は逆だ、自己愛が「満たされる」なら人は幸福になりえるが、そうじゃない、自己愛が激しいと見える人は、自己愛に「渇く」から苦しんでいるのだ、自己愛がしおれるからこそ渇きが加速していく、世界を否定した自己愛は初めから永遠に渇き続けると数学的に証明されうる。
なぜなら、「この世界」に「わたし」が生まれ落ちている以上、「この世界」なしには「わたし」はありえないからだ、こうして「わたし」を失った人こそ自己愛の渇きに大声をあげはじめる、まるでこの世界を支配する愛と呼ぶべき直接のアレを謗ったことの罰のように。

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副流煙付コンフェッション
は、ご存じのとおり、善人ではまったくなく、悪いことをたくさんしている身なので、根本的には「自分みたいなモンが」と思っている、このことはすでに習慣なので変化しない。
しかしこのところ、ヘンな技は身につくし、枕元にホトケサマは出てくるし、初対面の女性は耳元で「大好きです」と言い残して去ってくれるし、わけがわからないのだ。
ただ、いいかげん明言しておきたいのは、僕はたいへん徳の低い、善悪でいうと明らかに悪党のほうなので、そういうことでどうぞよろしくということだ。
僕があなたにプレゼントできるものといえば、絶え間ない副流煙ぐらいのものだ、ただ明らかに僕の作ったメシは旨いらしいし、僕と食う食事は底抜けに旨くなるらしい(ほとんど食事のためだけに女性に呼び出されているフシさえある、別に僕にオゴるわけではないのに)。

おそらく、僕にやさしくしてもらったという女性はこの世に存在せず、あの世にもむろん存在しないが、つまり僕は女性に対してはひどいことしかしないし、男の後輩に対してはさらにひどいことしかしない、これはもう性質だからしょうがないのだ。
ただ、せめて弁明するなら、僕は女性に強引にひどいことをしたことはあるが(それしかしたことはないが)、あくまで「強引」であって「乱暴」とか「無理やり」とかはない、乱暴とか無理やりとかいうのは僕の趣味ではないので僕自身のテンションが下がってしまう。
まあ、さすがにそんな乱暴や無理強いをはたらくようなら、こんなあからさまなスケベサイトを十年以上もやっていられないだろう、とっくに逮捕されているはずだ。
そんなわけで、僕は直接ふれあった女性たちからは、ことごとくサイテーと認められる地位でありながら、たぶん「死ね」とは思われていないらしい、なぜ「死ね」と思われないかというと、究極女性がやさしいからだと思う、なかなか世の中捨てたもんじゃないな。

サイテーのままサイコーの思いをしてきました。

と、太宰治「人間失格」の正反対を唱えておきたい、なんというか、僕は初めから人間に合格しようなんて思ったことはないし、初めからサイテーと自覚している者には、今さら恥とかいう概念もないのだ、僕には太宰が何をブツクサ言いたがっていたのかけっきょく最後までわからない(わかるつもりもない、サイテー)。
もし僕が芥川龍之介「蜘蛛の糸」を書いたとしたら、お釈迦様の立場ではなく、糸に飛びつくカンダタの立場で書いただろうな、僕は蓮池から地獄を見下ろせるような身分ではなく、悪い人用のアリーナ席に座らされるに決まっている、「糸というよりエレベーターを下ろしてもらえませんかね」と厚かましいことを言い出して喫煙をやめない僕はサイテーの人間で、どうぞよろしく。
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光に導かれねばならない
事を見て、分析するとか批評するとか、そういうことはじつに簡単だ。
じつに簡単だという一点において、僕はそのことをやらない。
簡単なことを自慢げにやるのはとても恥ずかしいことだからだ。
光のほうへ、明るいほうへ、導かれていかねばならない、そのことのほうがはるかにむつかしい、だから僕はこのむつかしいほうを好んでする。

ニュースは暗い話題が多いし、ドラマや映画や、マンガやアニメも、最近は暗い話が多い。
が、暗い話というのは、技術的に簡単なので、僕はやらない。
簡単なことを賢(さか)しげにやるのはとても恥ずかしいことだからだ。
光のほう、明るいほうとは何か? 僕は執拗に、ここでまともな話をし続けている、まともな話を執拗に続ける奴がいるのは、きっと明るいことだろう。

僕の野心は、女にモテることではなく、女を明るくすることだ。

僕が服装と髪型をキメたとしても、誰も女は明るくならないだろう、だから僕はそういうことをしない、簡単な上に消費だけが見えるようなことはしない。
おだてて、オゴって、ヘンタイ的なセックスをしてやったら、女は明るくなるかというと、ならない、まともな光を見られる女は、そんな安上がりには済まない、まともな女はどうしても何が本当に光っているものかを直感的に識っている。
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ゴーゴー! ……しないの?
の世界は単純に二派に分かれている。
光のグループは、たとえばソクラテス、ゲーテ、ブレイク、タゴール、トルストイ、西田幾多郎など、彼らは大抵、緑の野に赤いバラが咲く[統一的存在が存在する]ことに光を見いだして歓喜する。
闇のグループは、たとえばニーチェ、ドストエフスキー、芥川龍之介、サルトルなど、彼らは大抵、世界が淀んだ土くれでしかないことに闇を見いだして吐き気を催す。
こんなミエミエの二派があるのに、この二派の違いがいつまでたっても明言されないのは、人類は何か遊んでいるのか、ふざけているのかなと最近思えてならない、こんなのどう見てもミエミエの差なのに。

闇のグループはさっさと、「ブッダやキリストはゴミでウソつき」と明言してしまえばいいし、光のグループは「ブッダやキリストは聖人で本当のことを言っている」と明言してしまえばいい、いったいこのミエミエのことに延々と躊躇しているのはなぜなんだ?
闇のグループは、闇の突出者を重宝するし、光のグループは、光の突出者を重宝するという、ただそれだけであって、そこに珍しいことは何一つない。
闇のグループは、「世界(宇宙)」との接続を否定し、そのぶん「人間の良心」に期待を寄せる、カミサマを否定し「人間の良心」に期待することで共産主義を生み出したりしたが、けっきょく人間の良心に限界を知ったら闇グループの人は自殺する。
ハッキリしてしまえばいいのにと、いつもこの単純さに辟易している、ハッキリと「ブッダやキリストの言ったことは全部ウソ」と断言して、一方で人間の良心の完全性を証明および具現してしまえばいいのに、何を遠巻きに思慮深いふうにしているのか、またなぜそんなヒマをしていられるのか、とても不思議だ。

闇グループが光グループをうらやむのは「不均衡」に尽きる。

当たり前だが、光グループは闇グループをうらやまないのだ、だから闇グループも光グループをうらやまなければそれで均衡して解決する、こんな均衡と不均衡は子供でもわかる。
光は光へゴーゴーだし、闇は闇へゴーゴーだ、それでいいのだが、どうも闇の側は「ゴーゴー」となっていない気がする、そしたら躊躇していないでさっさと自分がバカで間違っていると認めたらどうだね。
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