☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
グッドラックの習慣
まざまな問題に囲まれて暮らしている。
少子化、ミサンドリー、北朝鮮、進学、婚活……どれをとっても、どうすればいいのか一概には言えない。
一概には言えないなら、「よいように」言っておくことだ、わざわざ自分の口から不幸の予言を吐くことはない。
内容がどれだけ正論でも、不幸や陰鬱を告げた唇は、その艶を失い、幸福や光輝を告げた唇は、その艶を増していくものだ、どうせ「一概に言えない」のなら、「よいように言う」という習慣を持っているほうがずいぶんトクだ。

いかなる状況でも、「グッドラック」とは言いうる。
「運」というのは、いかなる状況にもついてまわるものだから、最低限「幸運を」とは言いうるわけだ、これを第一の発想にしていたらいい。
婚活中の人には、「いいじゃん、(グッドラック)、いい人が見つかるといいね」、就職活動や転職活動をしている人には、「いいじゃん、(グッドラック)、未来を切り拓かないとね」、そのことを力強く言えるはずだ、だって「幸運」という最強の力があったらどんなことでもサイコーの結末に向かえるのだから。
さまざまな問題に囲まれて暮らしている、どれも一概に言えないが、どれも「幸運」に恵まれねばどうにもならないのは明らかだ、あなたの唇はおみくじのように、グッドラックを言うほうがよろこばれ大切に扱われるだろう。

「グッドラック」を、まず言ってから考えろ。

われわれはしばしば「考えすぎ」で、同時に、「思考放棄」してもいけない、じゃあどうしたらいいかというと、まず「グッドラック」、そのことを言ってから考える、幸運を祈念せずに考える人間は弱いぞ、強い人間とはまず幸運を祈念する人間のことだ。
グッドラック、僕とあなたは、赤の他人だが、われわれは赤の他人同士でさえ、お互いの幸運を祈念しあえる、その逆もできるが、その逆というのは悪趣味すぎるだろう。
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触らぬ神に祟りなし
「触らぬ神に祟(たた)りなし」という言葉がある。
文字通り、「ちょっかいを出したら厄災があるかも……だから何であれちょっかいを出さないでおこう」という意味だ。
触らぬ神に祟りなし。
……というふうに、見えてしまうし扱われてしまう、そういう女性になってはいけない。

若いうちは大丈夫なのだけれど、いつのまにか、女性はガンバっているうちに、キリキリ……そして「触らぬ神に祟りなし」という状態になってしまうことが多い。
われわれは、ガンバっているうちに、見失うのだ、自分の怒りや感情が絶対のものになり、まるで審判者、烈火の怒りをもたらす神である、というような状態になってしまう。
女性なのだから、基本的にはやさしくやわらかいのがいい、かといって流されるわけでもない、そういうオトナにならないといけない。
女性はよく、オトナになって「強く」なろうとして、その結果、「触らぬ神に祟りなし」というあらぬ方向へ進んでしまうことがある、誰も元々は、「おっかない女になってやろう」としたわけではなかったのに、いつのまにか。

優秀になろう/タタリ神になってはいけない。

いったん、タタリ神状態になってしまうと、もう自分ではコントロールがつかなくなってしまうのだ、全身からニョキニョキとタタリが出てきてしまう状態になる、すると何も悪くない人にまで呪いをぶつけてしまうことになる/そんなのは本人が一番悲しいのだ。
「わたしはタタリ神じゃないし」と、自分で言えば少し落ち着く、そして「そもそもわたし、神じゃないし」と言えばさらに落ち着く、そのほうが幸運がやってくるだろう。
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ウェットとドライの大晦日
年も、また一年、いちおうモテたのかもしれないし、女の子に愛されたのかもしれない。
一眠りして、また例年通り、一年間を振り返る……というようなコラムを書くとしよう、さしあたり僕は、今振り返ってこの一年に後悔はない。
一年間も、という気もするが、この一年間で僕の必要としていた能力は格段に伸びた、一年間でこれなら相当な長足の進歩だろう、思い返しても「これ以上はムリ!!」という実感が特にする、これは僕の限界だからしょうがない。
テキトーに生きているが、たぶんバカ正直に生きてもいる、そうでないと女の子が僕を愛してくれないので/その意味ではとても素敵なこともたくさんあった、今改めて飛び上がりたい心地がしている。

ウェットになるのは間違いだが、ドライになりきるのも間違っている。
気をつけなくてはならないのは、新しいものを取り込むこと、新しいものへ飛び出すこと、いかなる理由があってもこの気概を失わないことだ、なぜならこれだけがいつも人の手から離れそうになる真実だからだ。
これまでとは違う新しいものを、常に手づかみすること、この光をやめたとき、人はただ言い訳上手になるだけだ、その言い訳は万人を納得させるが、万人を絶望させるだけでしかない。
逆を行くしかないのだ、つまり万人を動揺させること、ウェットとドライのアウフヘーベン、"いろんなものを見てきたなあ!"、僕は突き詰めて今もなお、この世界の人々を信じている。

よいお年を。

僕はけっきょく、誰とも話を合わせようとしていないな、僕は僕の了解不能を笑って認めてくれる奴と友人でありたい。
僕にとって、宝物でないものは何一つない、けれどそれが宝物なればこそ、舐め回して安楽にすごすことは1秒もできない/みなさまよいお年を、今年もお世話になりました、来る新年も何卒宜しくお願い申し上げます。 九折空也
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世間一幕
の曲がった婆さんが、「たけのこの水煮」を手に取ろうと、スーパーの棚の前でヘコヘコしていた。
腰が曲がっているので、棚の高さに手が届かない、ギリギリ指先は触れるのだが、手袋をしているので摘まみ上げられないのだ、それで僕が横から手を伸ばして「たけのこの水煮」を代わりに取った。
婆さんは、勘のいい方で、また大変かわいらしい方だったので、顔を赤くして「ああ、ありがとう、ありがとう」とおっしゃっていられた。
僕は婆さんの心臓に負担をかけたくなかったので、「よいお年を」と言ってササッとその場を去った、婆さんは実は足は強いらしく、二軒目のスーパーでも見かけたが……(案外タフだなあ婆さん)。

生活している中で、そういう場面はしばしばあるもので、それをたまたま友人に見られると、特に年下からだが、感動気味に「九折さんって実はいい人ですよね」と言われる。
僕はそのたびに、まったく味気ないことで申し訳ないが、たいてい「これが世間じゃボケ」と返すようにしている、なぜかといって本当にそうでしかないからだ。
中学生の女の子が、並んでいる自転車をドミノ倒しにしてしまったのを、僕がしゃしゃり出て「おれがやっとくからええよ」と言ったりすると、まるで何かの事件を見たかのように善人風情を称賛されたりするのだが、そういうことではない、これが「世間」なのだ、どう考えてもそういう単純パワーの仕事はこういうオッサンがやったほうがいいに決まっているのだ、そのかわりたまにやる町内の清掃にはババアと女子中学生が参加すればいいだろう。
力の余っているオッサンが、通りすがりに力を貸していくようなことは、わざわざ善意とは言わんのだ、ただの「世間じゃボケ」、「ボケ」というのは余計な一言という気もするが、そこに「ボケ」がくっついてくるのもまた世間というものだ。

通りすがりのオッサンが手を貸さないとしたら、それは「冷たい」のじゃなく、ただの「チンパンジー」だ。

だってそりゃそうだろ、ガキどもの「いじめ」かなと見える光景があったら、そこにいるOLのお姉さんが割り込んでもイマイチ抑止が利かない、それよりは僕みたいなデカいオッサンが「何しとん?」と割り込んだほうが、ガキどももブルーになるに決まっている。
われわれはチンパンジーじゃないんだから、こんなものをいちいち善意とか正義とか言っていたらアホ丸出しだ、二十歳を超えたら「世間」ぐらいわかっていて当たり前だ/「これが世間じゃボケ」とどこかで言われておかないと、やがて人はルールを守るだけのチンパンジーになってしまうだろう。
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世界のピンチには誰でも戦え

我の強い人は、世界を見ていない。
自己のない人は、世界を自分から分離してぼんやりしている。
自我の強い人は、目の前の人が疲れていることに気がつかない。
自己のない人は、目の前の人が疲れていることが他人事でしかない。

つまり、世界が見えていないパターンと、見えていても関係を持たないパターンがある。
世界が見えていないから「自分だけ」になるパターンと、見えていても自分には関係ないから「自分は自分だけ」になるパターン、この二つに分かれる。
しのごの言わないで、目の前の人が疲れていたら、それはヨソの問題じゃなく自分の問題だ、少なくとも僕は目の前の女の子が疲れていたらそのことは自分の問題として焦る、おれが元気でもその子が疲れているならおれとしてはまずい。
誰だって自分が風邪をひいたら「こりゃまずい」なのに、目の前の人が風邪をひいても「こりゃまずい」とはならない人は案外多いのだ、何がおかしいといって感性とか思いやりとかがおかしい、誰が聞いても「一から出直せ」としか言わないだろう。

自分のピンチにだけ戦って、他人のピンチには戦わないのか。

そんなもの、どう考えたっておかしい、仮面ライダーを観ている子供にさえ非難されるだろう、人は他人のピンチにも我が事のように戦うし、他人の幸運や成功にも我が事のように祝福するものだ。
僕は女にフラれたとき、自分が悲しいとは思わん、目の前の女性が「その気もないヤツに言い寄られてかわいそうだな」と思う、だから僕はそのときの女性を笑わせねばならない、そう戦うしか彼女のピンチは救われないから/自分のピンチも他人のピンチも同じこの世界のピンチなのだから、別に誰が戦ってもかまわない、当事者が戦ってもいいし僕が戦ってもいい、誰もが自分の戦えるぶんだけ世界のピンチに戦えばそれでいいじゃないか。

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日本人の脱藩禁止は永遠に続くのだろうか
MAPが解散してから、キムタクの人気が急激に落ちたことについて、驚いている。
今さらそんな、個々人への評価は変わらないだろうと思っていたのだが、いまだに日本では、やはり共同体への所属は魅力の第一であるようだ。
「SMAPのキムタク」ということが重要だったのか、ということで、僕はひたすら驚いているのだ。
昔で言うところの「脱藩」というのは、人をただちに咎人にするのだろうか、とにかくこれは日本の特殊なバイアスだと思う、もう日本はグローバルスタンダードにも興味を無くしている気配ではあるが。

僕はいまだに、言語の壁はあるにしても、ブロンドの女性にモテなければ自分はクソだと思う、日本人女性「だけ」にモテるというのはいかにも気色悪い。
ニンテンドーの商品はちゃんと外国でも大人気じゃないか、「君の名は」とかはどうだったんだろうな、まあそんなサブカルだけで戦って生きていけるものではないのだろうけれど、あとはご存じのとおりトヨタ大先生にお願い申し上げるしかない。
シャープの社長に就任した台湾人かどこかの人は、シャープを立て直して「自分はぜいたくには興味がないから」と社員寮に住んでいるそうだ、もうわれわれは自国への愛国心をどのように保ったらいいのかわからない。
安室奈美恵も引退するし、桑田佳祐はというと活動しすぎで心配なぐらいだし、もう北島三郎もいないし、十年後には紅白歌合戦はなくなるだろうか、わけのわからん話だが、外国の女性にモテるつもりが一ミリもない男性というのは世界で日本人男性だけではないだろうか。

ブロンドの白人女性にモテる、ということを考えれば、日本人男性にもワイセツ以外の道がありうるかもしれない。

今、猛烈に眠くて目がシパシパするのだが、ちゃんと考えよう、方針や作戦がないとまるで戦いようがない(と半年ぐらい前から言っている)。
ブロンドの白人女性にモテるとして、黒髪の日本人女性はそれまでのつなぎに……とか言ったらブッ殺されるのかな、少なくともキムタクが言ったら一日に400人ストーカーが来て殺されるだろう、ああ眠いのでひとまず寝ます、モテたい、モテたい。
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Q or not
けたら負けだと思うこと。
なんのこっちゃ。
なんのこっちゃとは言うけれど、もともと僕の話なんて、真正カワイイ子にしかわからないように出来ているのだ。
負けたら負けだ、「負けなかったよ〜」と報告にくる女の子の声はいつもかわいい。

もともとqualified(適格)という厳しいルールがある。
本サイトの名前の由来もそれだからな。
恋あいの資格(適格)ってメッチャむつかしいですやん、その無慈悲な峻別を保持しておかないと、けっきょくnot-qualifiedの人たちも救われないのだよ。
だって、何をどうしたらqualifiedになりうるかわからなくなるもの、そんな鬼みたいな顔されたってこれはどうしようもないんだよ。

not-qualifiedは、格差だが、恥じゃない。

「余は万物のqualifiedである」とか勝手に思い込んでいるから、それは許せない恥のように思うだけで、恋あいにnot-qualifiedなんていくらでもいるじゃないか、僕はさすがにAKBの目立つ子と「恋あい」したいとは思わないぞ、もともとそういう人たちでもないし。
いいじゃん、正当に、全員でまとめてnot-qualifiedになろうよ、僕とあのコだけはイヤだけどまあそれはおいといて、not-qualifiedで団結して上カルビでも食いに行こうぜ、何しろ僕は「恋あい経験」あるんだぜスゲエだろ。
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「いい思いをしよう」なんて思わないことだ

い思いをしにいく、というのが間違い。
男が女に近寄っていくのに、「いい思いをしよう」なんて、ふざけていると思うだろ。
女が男に近寄るときも同じ、「いい思いをしよう」なんて、ふざけているとしか思えない。
仕事もそう、学門もそう、生きるってのはすべてそう、いい思いをしにいくもんじゃない、いい思いをするのはオレだけでいいのだ、あなたは女なんだからさ。

いい思いができないということは、「自分が通用しない」ということ。
自分が通用する場になんか溶け込んでどうする? 居心地はいいのかもしれないが、居心地を求める人はみな醜い。
居心地を求めるというのは、休憩か、生きることを引退した人が行き着くものだ、リゾートホテルで余生を過ごすのが「居心地がいい」ということだ。
「いい思いをしよう」なんて、土台ふざけていると思わないか、第一に自分が通用しないこと、第二に、自分が通用しないことにふてくされないことだ、ふてくされたいならお母さんのところに帰るしかない。

自分が通用すると思っているのなら、まず「百戦錬磨です」と自己紹介すべきだ。

百戦錬磨なら、まずどの場にいっても通用するだろうから、そこそこいい思いができるだろうし、そのことを期待してもおかしくないが、そうでない人間がいったいどの場にいって「いい思い」ができるだろう? この世界があなた向きのサービスマンで満ち満ちていたらそれは叶うかも知れないが、残念ながらそういう世界ではない、この世界はフェアにできているのだ。
「いい思いをしよう」と土台思っていて、それが叶わないとふてくされて、それを叶えてくれる真実を探すというようなありさま、さすがにそれはやめるべきだ、真実は目の前に転がっている、いい思いをしようなんて土台考えたこともないヤツにだけ女神が少しほほえむというのがわかりやすい真実だ。

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主張のしどころ
くつか決め打ちをしておくといい。
映画や音楽は楽しむもの、神仏や天皇陛下は尊ぶもの。
食事はよろこぶもの、おしゃれはほどほどにするもの、下ネタは好きだけど調子に乗らないもの。
特に用事のないときは、女らしくしていること、女の子らしくしていること、「好きなもの」の定番をあたりさわりなく答える準備をしておくこと。

人にはいろんなこだわりがある。
けれど、どれだけ正しいこだわりでも、そのときプラスにはたらくとは限らない。
こだわりから離れるときは離れる、それはガマンしているということじゃなく、単にオトナだということ。
たとえば、たぶん婚活に必死になる人は、すでにトランプ遊びに必死になる素地を失っている、本人としてはどうしても「それどころじゃないの」というのが正しく見えるけれど、トランプ遊びも楽しくできない人と結婚を考えろというほうに無理があるんだ。

自信があるということは、主張を下げられるということ。

もちろん、主張が必要なときは、誰だって必要な主張をするべきだ、だがどんな主張もあなたの自信を豊かにはしない、人の自信は「わたしとトランプ遊びしたら楽しーわよ」という平和なところに発生するからだ。
「よくもわたしにババを掴ませたわね、絶対に許さない〜」という拳は、トランプゲームの中で振り回されるのだ、笑いながら、「おれが大貧民だなどと許しがたい、革命が必要だ」という主張は、トランプゲームの中で叫ばれるのだ。
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分岐点、分岐点、分岐点……
一の分岐点、生身の自分を試すかどうか/与えられる課題をこなすのではなく、自ら生身の自分を試すために踏み出すか、この「自ら踏み出す」ということに、人は進めるようで進めない、一生この手前で停滞する人は少なくない。
第二の分岐点、生身の自分を試すために踏み出すと、必ずけちょんけちょんのボロカスにされる、このことは誰でも同じなので分岐点にはならない、ただボロカスにされたとき「力ずくでごまかすか」「萎(しお)れて諦めるか」「なお真っ直ぐ立ち向かうか」/この三つ目を選択できる人はとてもまれだ。
第三の分岐点、なお真っ直ぐ立ち向かうとして、そのトライアルが、一ヶ月つづくか、半年つづくか、二年以上つづくか/二年未満で消えてしまう人は、そもそも自分自身を「運営する」という能力が欠けている。
第四の分岐点、ここでようやく、才能がどうたらと問われる/才能がないと二年以降はフレッシュさが消えて萎れていくだけだ、才能のある人は集中力が増し、能力は拓かれてゆき、ますます「どれだけ時間があっても足りない」となっていく。

第五の分岐点、運がいいか、悪運強いか/どんなことでも、運に見放されたらどうにもならない、そして清潔かつ「目的のためなら悪いことでもへっちゃらでする」という者にしか運はついてこない、清潔な者は常に清潔な目的を見いだす。
第六の分岐点、希望を捨て、かつ光を見いだせるか/若いうち、希望と光は一緒くたのものだが、ごく限られた人だけ、希望と光は異なるという発見に至り、光に進むのに希望を必要としなくなる。
第七の分岐点、若返っていくか/肌の艶や髪の艶、声や身体の調子など、強化でなく若返っていくか、これは愛や夢やロマンや遊びという原初のところとつながったままでいられるかどうか、そのつながりをさらに強靱にできるかにかかっている、人はこれまでの才能と立場と実績に縋ることで老いはじめる。
第八の分岐点、時間を一に見られるか/文明を得た人類は数千年を生きてきたが、数千年というのはごく短い、また自分が百数十年を生きるというのはさらに短い、時間を一に見る者にとって「人々」というのはすべての時代を生きた人々のことを指している、時間は短すぎ同時代人に限定する意味がわからない。

まず生身で踏み出すこと(第一の分岐点)をおすすめする。

生身で踏み出したとき、男は相当なキャラを演じないとナンパもロクにできないし、女もただセックスを狙われるだけで何らの評価もされないだろう、キャラを演じられない男は論外だし、またセックス狙いの対象にさえならない女は論外だ、誰だって個人として「すごいね」と言ってもらいたいのだが、現代で「すごいね」なんて言ってもらえるのは第七の分岐点を超えたあたりだ、それを入口で揉めていたってしょうがない/あなただって誰かに個人として「すごいね」なんて言わないのだからイーブンだ。
あなたは目前の厳しさに、悩むべきでもないし、嘆くべきでもない、あなたが見いださねばならないことは、確かに同じ道を踏み出していった先人がいるということだ、生身で自ら踏み出していくという、あなたが決してしないことを、やりのけて進んでいった先人がいるのだ。
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あなたは人と違う人になればいい

と違うことをしよう。
ただし、人間らしいことをしよう。
作り笑顔の作り声で、空気を読み、人からの評判をよくするということは、必要なことではあっても、やはり「人間らしいこと」ではない。
じゃあ「人間らしいこと」って何? ということになるが、それは「わからない」、わからないからといって投げやりにしない、でもここで「わからない」と答えることが人間らしさの第一だと僕は思う。

現代には、いろんな悪趣味があるし、セレブ願望があるし、恋あいには否定的だし、男女はそれぞれに嫌悪しあっている。
でもそれらは、第一に「人間らしくない」、らしくないと言われてもどうしようもないのだが、それらが「人間らしくない」ということを忘れてはいけない。
われわれは、その「人間らしくない」ことを、空気を読んでやりながら、結果、「人と同じ」ことをしている、だからどこかで、人と違うことをしてこの循環を断ち切らないといけない。
なぜ人と同じことを続けているかというと、勇気がないからだ、そしてそこを超える勇気があったとしても、おそらく「人間らしいこと」をするまでには、われわれは勇気を持てないのだ。

それは大きなこころで、小さなことに尽くすということ。

われわれは現代、しょっちゅう逆のことをしている、こころは小さいのに、自分のやろうとすることは不毛にデカいのだ、「彼の靴ぐらいわたしが磨いてあげよう」という、その小さなことにこそ必死に尽くすという人が少ない。
将来は社長になりたいという人が、「目の前にいる三人を引っ張って盛り上げてやろう」とする気概も持たないのだ/本当に「小さなこと」に尽くそうとするとき、それがいかに小さなことであっても、人と同じことをしていてはだめなのだということ、そして「人間らしいこと」が本当に必要なのだということが身に染みてわかる。

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見た目にも楽しい奴になるということ
い鍋に素手で触れると、「アッチャッチャッチャ」となる。
「アッチャッチャッチャ」「ははは」となるのだが、実はこれ、ホントに「ははは」となるかというと……そうでもない、実はこれ、とてもむつかしいことが含まれている。
「アッチャッチャッチャ」「ははは」となるのは、ユーモラスだから「ははは」となるわけだけれど、その「ユーモラス」ということが本当に成り立つかというと、実はそうカンタンにはいかない。
芝居がかって「アッチャッチャッチャ」なんてすると、お寒い感じになるし、「アッチャッチャッチャ」と感情的になっても、ユーモラスということにはならない、この「ユーモラス」ひとつにしたって、実はありふれているようで、ありふれてはいないのだ、もしこんなものがありふれていたら誰だってチャップリンになれる。

自分が楽しい奴になるということは、見た目にも楽しい奴になるということ。
これ、実はむつかしいのだ、楽しい奴の「ふり」してもいかがわしいだけだし、感情的になることや、大げさにすることは何も楽しくない、演出的にすることは実は何も楽しくないのだ。
「楽しい奴」といって、自分だけそのつもりになり、「自分だけ楽しい奴」になりきるのは意外にカンタンだ、しかしそういう人はごく当たり前に敬遠されてしまう、そりゃ誰だってそんな自己中な人とは付き合いたくない。
想像してみるとわかると思うが、「アッチャッチャッチャ」がユーモラスな人は、メシを食う時点で「うまい、超ウマイぜ」と、すでに「楽しい奴」のはずだ、その楽しい奴が素手で鍋に触ると「アッチャッチャッチャ」「ははは」となる、それが表現力があるということで、それはつまり、こころが開けているということだ、それは案外ごまかしの利かないことだ。

「ユーモラス」は、学ぶもの。

自分だけ楽しい気分になってみたつもりでも、それでは「ユーモラス」にはならないので、自分は楽しくても周りは楽しくない、むしろ周りは空気を読んであなたに合わせないといけなくなるので、疲れてしまう、「ユーモラス」というのはそうして、自分のキモチ限りで実現可能なことじゃない/自分のこころがどれだけ開いていないか、学習に学習を重ねる先にしか実現してこないものだ。
だからあなたは、もし「この人は真にユーモラスだ」と見える人がいたら、ぼんやり眺めて「ははは」と消費していてはいけない、あなたを楽しくさせてくれているその人は、実はあなたよりはるか先にいて、ずっと高みにいるんだ、あなたがそのとき「ユーモラス」の荘厳を学ぶかどうかで、あなたの未来は大きく変わっていってしまう/生まれつき「見た目にも楽しい奴」なんて本当はいない、誰だって見えないところで努力して覚悟をもってそうして遊んでくれているんだ。
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Quali, Love Entertainment

うちょっと、とっつきやすくしないとな。
究極原理、みたいなものは確かに存在するが、究極原理みたいなものが使いこなせるなら、表面的なこともこなせないと話がおかしい。
表面的なことの履行と、奥深いところの追究とで、けっきょくどちらが有効だとも限らない。
表面的なことの履行が、けっきょく当人を進捗させてくれるということも、少なからずある。

なんだかんだ、もともとの屋号、Love Entertainmentから離れてはいないのだと思う。
ただ、エンターテインメントと書かれているのに、「誰が世阿弥の話をしろといった」みたいなことはあるな、世阿弥もそりゃエンターテインメントの総本山には違いないのかもしれないが。
人はすべからく、人に気前よくあいさつをすべし、「元気よく」じゃなく「気前よく」だ。
表面的なことは、悪いことじゃない、すごくステキなことだ、ただ表面的なことを気前よく履行するのはステキで、その逆、表面的なことに「こだわる」というのはうっとうしいわけだ、それは表面的なことでいいんだからさ。

表面がステキじゃないのは、奥が漏れているからだ。

表面的なことは、表面的なことだって、きっちりわきまえる、そこに奥側のネタミやらソネミやらウラミやらが滲み出ているからキモチワルいわけだ。
表面がエセじみていたら、それは表面もちゃんとできていないということだ、表面をきっちりステキにするのにも奥側が要るものだよ、表面が内奥を支えて育てるということもおうおうにしてあるね。

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メリークリスマス
リークリスマス!!
さっき近くのケーキ屋に行ったのだが、生産が追いつかないのだろう、いつものパティシエさんが(諸事情あって彼のことは「ペンペン」と呼ぶ)、調理場に入ったきりゾーン状態で、生命の燃焼を見せつけていた。
ペンペンは、きわめて静かでシャイでおだやかなお人柄だが、いつ見ても朝早くから調理場に入っていて、手を抜くということを知らないのだろう、いつも全力で、情熱的にケーキを作っている、それでクリスマスになっても手抜きをしないものだから、生産が追いつくわけがないのだ、夕刻になってもゾロゾロ客が来て「4号で」「5号で」と次々に容赦のない注文をブッ込んでいた。
とっくに引退した先代の爺さんも、調理場に引っ張り出されていて、爺さんはフラッフラになりながら、調理台に手を突いて伊右衛門のペットボトルをラッパ飲みしていた、ものすごくゆっくりの動作で……爺さん大丈夫かね(ペンペンはもうケーキだけを作るゾーンに突入していて、時計が本日の0時を指すまで、おそらく他の何も受け付けないだろう)。

爺さんが「伊右衛門」を死にそうに飲んでいるのを見て、「クリスマスっていいなあ」と思った、人類史上、何があってもクリスマスというのは存続していくべきだろう。
人が頑張るというとき、ついにその理由はないのだ、まったく理由なしに人は「頑張る」というゾーンに突入するのだ、それが何のためだったのかというようなことは、終わった後になってからじっくり考えたらいい。
爺さんは冷蔵庫の戸を引くだけで身体のバランスを崩すヨレヨレっぷり、一方ペンペンはもう阿修羅像みたいになっているからどうしようもない、「こりゃメリークリスマスだな」と心底思った、買って帰ったナポレオンパイはいつもより輪を掛けておいしかった(たぶん異様な魂魄が封入されているのだ)。
爺さんはヨレヨレになりながら、しかし引退したとはいっても元はド本職、何をどうしたらいいか作業は脳にも身体にも入っているらしく、ケーキづくりだけは進行していた、僕はこの世界を底抜けにうつくしいものだと思っている、たまにそれで叫びたくなるときがある。

メリークリスマス!!!

そのケーキ屋は、オペラも置いてある正統のパティスリーで、中目黒の商店街奥にありながら、価格は都内で屈指の安さなのだが、大丈夫なのかね、近隣の人も「体力的に大丈夫?」としきりに心配している、何によって機能しているかと問われたらもう「良心だろ」としか言いようがない、「もしくはわれわれの知らない、良心以上の何かだ」。
この街はいろんな芸能人が住んでいて、たまに意味不明のフェラーリも走っているから、少なからぬ闇も感じるところがあるのだが、だからといって何だ、ペンペンがいるかぎりこの街は世界で最高の街のひとつだ。
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スリルのなさが、代替に安全保障付のヘンタイを生む
景気に生まれれば好景気だろうし、不景気に生まれたら不景気だろう、金持ちの家に生まれたら金持ちで、貧乏な家に生まれたら貧乏だと思うが……
それでも僕は、愧(は)じのないように生きていきたい。
どれだけ金持ちで好景気で、生まれつきの知能と風貌にすぐれていて、つまりどれだけ「有利」でも、愧じがないかどうかは別だ、ひたすら自分が楽しかっただけ、いい気分でしたイェーイというのは、僕には愧じのように感じられる/また、醜い貧乏者が、生きていてひたすら憂鬱でしたというのも、やはり僕には愧じのように感じられる。
毎日、何をしなきゃいけないということもないし、特に何もしなくても、ただ一般的なことをこなしていれば一般的に生きていくことはできるのかもしれないが、僕は僕自身がただそうして生きただけというのは、愧じのように感じられる、それで毎日、愧じないために自分のすることが生じている。

人に慚(は)じるのは、かまわないというか、周りにとっては迷惑かもしれないが、しゃあない、人から見て僕が慚ずかしい奴だと見えることについては、気にならないのだ、どうせ僕が僕自身のことを他人の目で見るわけではない。
ただ、自分で自分を見るということもするものだから、そのときに、自分で自分を愧じるのはいやだ、せめて自分は自分に対して「見どころあるじゃん」という程度には品質や誠実さを保っておきたい。
僕は、他人に貶されても何とも思わないという性質があるぶん、他人に褒められてもそれが何のうれしさや動機にもつながらないという性質もあるので、すべての動機はニュートラルに生じないといけない、それでけっきょく、自分は愧じのないように生きていきたいということだけが、僕を毎朝寝床から叩き出す動力になっているのだ。
僕は悪いことはいくらでもするし、善人や良人となって生きるつもりはさらさらないので、人から見て慚ずかしいということはどうでもいいのだ、僕は人から見たらクルクルパーであってかまわないし、むしろ人からまともに見えるようでは「僕」としてはまともに生きていないのだということで、愧じのように感じられるので、僕はやはり秘密を増やしながら生きるしかないのだが、最近はそれで女に愛されるということでもなくなったので、現代の女の子ってかわいそうねと勝手なことを思っていたりするのだった。

女の子はみな、こっそり隠し持ってヘンタイのつもりでいるので、「スリルがない」と言われると本質的すぎて落ち込む。

われわれはよく、ドキュメンタリーなどで「ジェットコースターのような人生だった」という話を聞くが、ジェットコースターは入念に安全性を担保されている娯楽装置にしかすぎず、本質的なスリルはない/本質的なスリルというのは本当におっかないので、女の子では立ち向かうことができず、さびしいから自分はヘンタイだと思い込んでそれをスリルの代替にする、それはとても健全なことであって非難されるようなことではまったくないが、まあ、人をしみじみ考え込ませるところは確かにある。
現代で「スリル」といってもな……何かまともな見返りがある気がしない、幽霊屋敷に忍び込むのにはまだまともなスリルがありうるけれど、汚染地区に忍び込むのはスリルじゃなくてただ健康被害を受けるだけだし、マラリア蚊が大量発生した区域に飛び込めば、本当にただマラリアに罹るだけなのだろう、だからスリルを求めるなんて馬鹿馬鹿しい話なのだが/かといって本質的なスリルなしに生きたとしたら、それはやはり僕には愧じだと感じられるので、僕は男のくせにヘンタイを売りにするというような逃避はやはりしないのだった。
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新しい男よ眼ざめよ

十年前、男も女も、「自分がない」という人は悪く言われた/「あなたには自分がないの、だから付き合えないの」というお断りワードが正当に輝いていた。
かつて言われたこの「自分がない」ということは、イコール「世界がない」ということで、世界がないなら愛はありえようがないということで、お断りの決定打だった。
今は「自分がない」というようなことは特に言われなくなったが、基本的な性質は変わらないだろう、だがかつては「自分がない」というのはあわれな少数派を指すがごとく言われたものだったが、現代では多数派というか「前提」にまで成り上がっているように思う、だからこのことはあえて言われなくなっていった。
自我のない人はいないし、自意識はたっぷりあるのだし、自尊心はむしろパワーアップしているので、「自分がない」というのはそういうことではないのだ、ただこのようなことは、「言われてももうムリ」というムードが確定的にあって、使えない言い方になった、もうかつてのようには「自分がない」と言われてもピンとこなくなったのだ、こうして最善の言いようが死語になったのでこの方面は半ばあきらめるしかない。

もういいかげん、リア充とかイケメンとか、陽キャ陰キャとか、現代物の概念を否定してかかるのにも飽きた。
人々は、誰でもマシになりたがっている、僕自身がそう希求して生きているようにだ、ただありとあらゆる方途が塞がれているので、困っているのだ。
状況は、悪くなっている……とも限らんか、ムチャクチャをすれば活路は割と手近にあるのだが、僕が女性にムチャクチャをする気概がないので、方途が塞がれているのだ/僕はリベラリストのフェミニストだからな、わずかでも女性が権利を主張したらただちに「どうぞどうぞ」と引き下がってしまう。
うーん、それで僕だけ光を見ていて、結果的に若い女の子のことは「知らね」というのでは、さすがに冷たすぎるだろうか、少なくとも年長者としての義務は履行していないのかもしれないな、これはフェミニズムの履行を破棄しないといけないので、どちらにしても心苦しいのだった/なんというか、新しい男が要るねえ。

僕がタトゥーを入れたら、まだ女の子を助けられるかもしれない。

が、僕はそういうシンドイことはきらいなので、やらない、ただ何かうまい切り替えがいるね、あくまでそんなものを求める女の子がもしいたらという制限つきになるけど……
なんというか、女の子が味方されるムードが世の中にあるけど、本当はあなたを助けてくれる人や世界はどこにもないよ、ウソっぱちの作り物だ、なぜならあなたも他人の女の子を助けようなんて本当にはこれっぽっちも思わないのだから/だまされているの、気づいてね、あなたを強力な消費者にさせるために、あなたに無限のドライブ思想を埋め込んだのさ、そういうことって容赦ないよ。

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愛は世界的なもの、世界は個人的なもの

しい考え方を得てきているので、このところゴキゲンだ(今ここに書くのは新しい考え方じゃない)。
僕はもともと、孤独が好きだった、孤独というのは、他人に付き合わなくていいということだ。
一緒くたの団子になっていると、つまりムラ社会だと、誰が何なのかもうわからなくなる、そういうのが好きな人もいるのかもしれないが、まあ僕は生理的に苦手だ。
孤独が好きな第一の理由は、僕が何を言ってもかまわないということだ/僕は他人に発言や表情を強制されるのがきらいだ、特にセックスの最中にオス犬をやらされるのはとてもじゃないが付き合いきれないのだ。

男と女なのだから、本来愛し合うのに、理由は要らない、理由を交換したらその時点でもうムラ社会だ、そうすると村人はバンザーイになるが、僕としてはおいとますることになる。
僕などに言わせてもらえば、ムラ社会なんてもう人間のものじゃない、人が人間ではなくなってしまう、ただ人間性の荒廃を隠蔽するには便利な逃げ口なのかもしれないが、僕はとてもじゃないがもう……付き合いきれない。
ヘンな声は聞きたくないし、ヘンな顔は見たくない、ヘンな主張は聞きたくないし、自意識過剰丸出しは別に罪ではないだろうがほっかむりすることは不可能だからカンベンしてくれ。
愛って、個人的なものじゃないんだな、愛は世界的なものだ、ところがこの「世界」というものが、個人的なものなんだ、それで世界で唯一の世界そのものの唯一の唇が命がけで愛を語る/僕は幾度か、首元でその声を聞いてきた。

僕はクソだが、たぶん愛は教えた。

僕はこれしかできん人間だからな/僕は愛を教えたし、それは同時に「世界」も教えているはずだ、それがいかに佳いものかを識ったはずだが、いざ自分でやってみようと思うと出来なかった、「世界」が何だかわかっていないから、「世界」とは異なる何かムラ的なことをやる。
「わたし」というのは単一しか存在していなくて、その他のすべては「わたしにはならないもの」、だから世界には世界しか存在しないのだが、「だからこの世界がわたしなのか」となる/最大の誤解は情報が増えたこと、情報が増えると判断材料が増えて、まるで「わたし」が増量したように感じられるが、錯覚だ、判断材料の増量はあなたの増量じゃない、ただ現代情報の発信者側は「わたし」が増量すると思ってやっている、それに付き合うと無限の誤解に吸い込まれていく、「わたしの思うこと」が増えたところでそのすべては錯覚でしかないのだが、人々は今「一緒に増やしていこうよ!」とやりあっている、そうして一見平和でにぎやかなムラができあがっていく。

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貞淑な僕より

かましくなければ、いつか殺されるに決まっている。
厚かましい、ということは、「厚かましくないヤツのことは知らん」ということだ。
厚かましくなければ、運気は下がるに決まっている。
厚かましい、ということは、「正当なヤツの話を聴かない」ということだ、この世には正当なヤツばっかりいて話を聴いていてもキリがないのだ。

いいようにしか考えないし、いいようにしか行動しない。
厚かましいということは、曲解もするし、誤射もするということだ、ただし責任をもって総合的に最善の結果をもたらすということだ。
恐れる、などということは面倒くさいのでしない、愛してもいないものを恐れることほどこの世に不毛なことはない。
厚かましいということは、盛んに敵を攻撃することじゃない、敵が自滅的に弱っていることを期待して決めつけることだ、するとたいていそういうふうになっているものだ、これはラクでいい。

厚かましいということは、悪党のくせに幸運で、しかも最善を作り出すから、文句を言われないということだ。

人は自分が幸運なら周りに文句は言わないものだし、最善を作り出していたら周りに文句も言われないものだ、それが「平和」というものだろ? とのたまってやるのが最も厚かましい言い分だ。
逆に世の中には、善人なのに不運で、しかも最悪を作り出す上に、自己開示までしてくるから困るよなあという人があるものだ、これはあなたのことを言っているのでは決してなく、あなたがキライなあの人のことを言っているのだから安心していい、僕は人の悪口なんか言ったことがないし、なんだっていいようにしか考えないもの。

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最低の僕が必死に見せるわずかな男らしさのこと

なんだから、男らしくな……
少なくとも、僕自身はそう思っている。
何の意味があるのかと言われたら知らない、僕が「意味」なんて高度なことを扱える生きものに見えるかね?
僕にとって、女性たちが女神であること、ミオも女神であること、それは完全な真実であって、真実以外は受けつけるつもりはない、たとえ僕の目が曇っていて判断力がアンモニア漬けになっているのだとしても、それならそれで「そりゃよかった」と好都合にしか思わん、なぜ僕がいちいち正しさを追求しなきゃならんのだ、メンドクサイよっとっと。

もう何十年になる? 僕はずっと女神さまを見上げてきて、また女神さまが見上げる先には、愛する男がいるのだろう、そのことを信じて仕えるぶんには、女神さまは案外僕に冷たくはなかった、たまに愛の施しも下賜してくださり、僕はしばしばそれに浴してきた。
何がどうなっているのか知らないし、知りたくもないが、女性の面持ちが1暗いなら、問答無用で僕に100億の責任がある、別に土下座でもダンスでもダサい手品でもなんでもする、そうして僕の空は広くあって、僕の街は夜に明るかった。
ときには女神さまも、何か自信をなくすようなことがあって、そのときは僕がしゃしゃり出て、女神さまの本分を回復してきたつもりだった、別にいいじゃん、このゴミムシの生きる中にも、「割と男らしいねw」と笑える一幕をどうかください、これまでどおりで結構です。
もうとっくに破綻しているらしいけれど、僕の中にずっとある完璧なテーゼ、これが絶対に正しいという必殺の武器、「僕が男として最低限の最低ランクだから、僕よりひどい男なんてこの世に一人もいない、女の子なんてもっと素敵だ、だから安心して行ってらっしゃい」ということ、これをどうか信じなおしてね/僕より下の人間なんてさすがに一人も存在しない、これに関しては欺瞞はないのでどうかウソ発見器にでもかけてくれ。

女神さまが僕を罵り、女神さまがときに僕を許しもする、それはどちらも遠く神聖なことだ。

今たまたま、女神さまが女神さまたるコツを忘れているか、もしくは間違った流行りの方法をねじこまれているのかもしれないけれど、元をたどれば女性のすべてが女神さまで、僕が人間男性としての最低限・最低ランクであることは変わりない/人々のランキング付けの中に入りもしない自分が、これまで僕は幸福だった、平和で競わずにいられたから。
僕みたいな最低限・最低ランクでも、ときにバカにせずに話を聞いてくださる人がいた、それははっきりと「女神だからだ」と僕にもわかった、僕はけっきょくそのことを永遠に忘れないだろう/僕は這いつくばっているのではまったくなくて、ずっとよろこんでいるのです、最低の僕が必死に見せるわずかな男らしさにあなたが笑ってくれることに。

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僕たちの希望のあかし

て、このニュース記事など見てもらえばわかるように、世の中は意外にムチャクチャなものである。
そして、この当代最高峰の(中のたぶん52448位ぐらいの)大天才である九折猊下の小説がなかなか出版されない理由もだな、似たようなところにあり、つまり世の中が悪く社会が悪いのであって、おれが悪いのではない、世の中と社会は反省するように。
一部、僕の小説を読んだことのある人は、その超ド級の面白さとうつくしさに悶絶卒倒したはずだが、なぜそういったものが評価されないのか……サン=サーンスでもフル出力の斧スイングで脳天をカチ割りにくるレベルの不始末である。
今日は双子座の流星群が見頃らしいが、こちら東京だし、夜空がねえし、外に出てみたらクッソ寒いので引き返してきた、まあ流星などは美女と美少女が見られたらいいし、美女は見たらしいのでまあ僕はロールケーキを買ってきてむさぼって満足することにした。

まっっっったく関係ない話だが、最近、「あかし(明石)」という日本のウイスキーが新たに生産されている、一本800円ぐらいという大衆ウイスキーだ。
しかしこれ、なんというか、線はきわめて細いけれども、びっくりするぐらい雑味のない、実は「めっちゃ細いけどグレードは高いスコッチ」の味をしている、僕はこれを飲んで「なにこれ、日本のやつなの!?」と驚き、その後値段を知ってさらに驚いたのだ、800円/500mlというのは格安に思える。
ただし、好みは分かれるというか、よく知られているサントリーの「角」「山崎」「響」あたりをウイスキーのスタンダードに捉え、それを水割りやソーダ割りにして飲む感覚だと、この「あかし(明石)」は何の味も香りもないように感じられるかもしれない、だがそうではないのだと僕は言いたい、ストレートでちびっと飲んでみろ、「オーク樽の37年もののクライヌリッシュだから枯れて線が細いのは当然で〜」と自己洗脳して飲め/こうして新しい生産が正しい魅力のあるものとして出現してくるというのはいつの時代だって希望であり光だ。
何が言いたいのかというと、九折さんの小説はやはり当代最高のものであって、九折さんマジ天才ということで間違っていないので、評価されるまでちょっと待っててねということだった、それまで美女および美少女は先行投資でラブをこの鬼天才に奉仕するように、そうしたらやがていいことになるかもしれないし、そうならなかったとしてもそのときにはあなたも忘れているから大丈夫である。

正しく評価しなかった奴ぁ全員丸坊主の刑である。

ウィリアムブレイクが死んでずいぶん経ってから、「あれ? これ実はめっちゃよくね?」と言い出すのが、吾らアホ人類であるし、「めっちゃいい」と言われると追随して「知ってた!!」と言い出すのが吾らビッグアホ人類である、どうしてもわれわれは目の前に四千円のおっぱいがバインバインしていることに「おっ」と反応する知能しか持っておらず、おいテメエら「ダメよ〜、ダメダメ」と言っていた芸人の名前を思い出せるか、思い出すのに二秒以上掛かったら丸坊主の刑な。
「ももクロはガチ」と言い張ってライブに行っていた人は、僕がこうして文章を書いているのを、やめるときまで、そのライブに通い続けることをやめてはならない、やめたら丸坊主の刑だ、僕の側は永遠にやめないのでまあそちらも永遠にやめられないということだが/正しく評価するということは、むつかしいことなので、ときに誤った評価をしてしまうこともある、けれども信賞必罰、そこには丸坊主の刑が待っている、そのときにはもはや僕にワイロを贈ることでしか、この刑罰を逃れられない、つまり謹んでワイロ方お待ち申し上げております。

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