☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
思い出は爆発だ
「あのときはねえ」と、ゲラゲラ笑えるようでありたい。
「あのときはねえ」「最高でしたねえ」「サイテーでしたけど」「あーもう二度とやりたくない」「わはは」と笑えるようでありたい。
あるいは一生を通して、「あのときは本当にありがとうございました」と、いつ思い出しても永遠に頭が下がるようでありたい、また頭を下げられるようでありたい。
また、どこの誰だかは知らないが、いつか会ったときには「お前、あのときのアイツだろ?」と、ニカッと、永遠に知人にならない、永遠の旧友のようでありたい(ダセー話をして悪かったな!!)。

思い出は爆発だ/そうして思い出したとき、爆発的に何かがよみがえるということ、それならばその当時のときは、そこに何か確かなものがあったのだ。
僕はひどく強欲なのだと思うが、そうして「確かなものがある」ということを欲してやまないのだ、もう生涯で得るべき「確かなもの」の総量はとっくにオーバーフローしていると思うが、まだまだ、いけるだけいきたい、僕はひどく強欲なのだと思う。
僕は一時的にイイ気分になるのがニガテなのだ、それはなぜかというと、一時的にイイ気分になっている他人を見るのもニガテだからだ、それ以上の理由なんか持ちたくない。
八月ですねみなさん!! 僕はまたこの夏も改めて狂おうと思っております、まだまだ秋までは時間があらぁな、残暑見舞い申し上げます!!

時代はいい、お前が悪い。

どうよこの、真正面から正当性を否定していくスタイルは、このコピイは間違っているが、この間違ったコピイを履行していくことはとてつもなく正しい。
愛があり、夢があり、理知があり、かつまともでないことが重要だ、われわれはまともなことで笑うことはひとつもないし、理知がないことで笑うこともひとつもない。
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ひとつのことに向けて走り抜けて
近、「精神」とか「霊」とかいう話をしてきたが、これはこれらの語を見ているだけだとアホみたいだ、いいかげんやめてえなと思う(思うのだがしょうがないのだ)。
僕は何もややこしい話をしたいのではなく、決定的な話をしたいのだ、正直べつに「霊」なんて話はしなくていい、僕はただ「情念」のやり方を否定したいだけだ。
そういえば、ちょうど先日、テレビ番組で超能力とか霊能力とかでの「リーディング」の特集をやっていたが、ああいうのはせいぜいシャレにしておいたほうがよいと思う、どう考えても心身にプラスにはたらくわけがない。
ああいう「リーディング」の能力は、僕にもあるし、その実績もこれまでに無数にあるが、そのたびに僕は言っているはずだ、「こんなもん何の役にも立たん」と/それより脳みそと胴体の基本性能アップ、クソ頭のいい脳の同時多層処理ができなきゃけっきょく何も解決はしない、僕はそんなことを主張しているのだ。

アホみたいな主張だが、改めて、何かひとつのことに向けて、走り抜けてみないかね、全身全霊で生きてみないかね、僕はそのことについてもう何年間もブーイングしている、「こんなことオレが言うべきことじゃねえ」と。
で、ひとつのことに向けて走り抜けるというとき、それが「情念」だとダメなのだ、硬直してノッペラボーになり、妙味なし、脳が同時多層処理の能力を獲得しない、それでけっきょく人間が進まん、だから今になって「情念」がどうこうという話をしている。
なぜこんなフツーの話をするだけで、四方八方から抵抗されるんだ……ただの愚痴として言わせてもらうが、こんなフツーの話がやたらに抵抗されるようになったのは、せいぜいここ五年ぐらいのことなのだ、わけがわからん、何か後頭部にブラックカートリッジでも差し込まれたのか?
同時多層処理だから、愛も含むし、悪も含む、友人も恋人も、学門も文化も芸術も、場所も街も天地自然も含むだろう、それらすべてを受け止めて「走り抜けよう」という話をしているだけなんだ、各人の事情の話をしているのじゃない、「走り抜けよう」という一般論について話しているんだ。

ノー・トラブルの中、七転八倒せよ。

僕の言っていることは、たぶん十年前から何一つ変わっていない、ノー・トラブルだ、それでいて若い人間は七転八倒しているのが自然だ、この場合の七転八倒というのは、七方向に転び八次元に倒れるということだ、それぐらい同時多層処理をこなすことにもがこうということ。
もう一度言うが、「情念」をリーディングしても意味なし、肉が衰えるだけだ、流血を啜ったって肉は恢復しない、もう一度ひとつのことに向けて全身全霊で生きてみないかね、僕の主張はこの先も変わらん。
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まともな悪と善良な獣
代の世の中は、油断大敵という感じがする。
あまり詳しくは言えないが、「悪さ」を持たないと、まともに生きることは難しいのじゃないか、という気がする。
「悪さ」、つまり「まともな悪になったほうがマシじゃないか」ということなのだが、ここでまともな悪とは、悪行にも最低限の仁義があって、悪い人であっても愛する誰か・愛する何かを持っているということだ。
一方、善良な獣というのは、「善良さを守っているか」というルールで<<自他を監視している>>のだが、これは自分であれ他人であれ、善良さのルールからはみ出した者は許さないという物騒な考え方であって、しかもその実、愛している何か・誰かというものを持っていないのだ、これはひたすらおっかないと、僕などは感じるのだった。

まあ、人間が生きているのだから、完全に善良とはいかない、誰でも悪人の部分があらざるを得ないが、それでいて何かを愛しているかということと、悪人というのもどこか笑えるところに収まっていることが必要だ。
一方、善良な獣というのは、行くところまで行くという怖さを持っている、それについての対処法はもう、「おれは善人じゃないから知らん」と突っぱねるしかない。
最近は、不倫で揉め事になる芸能人が多いけれども、僕は不倫で揉めた芸能人の当人とは友人になりえても、それについて炎上攻撃をしている誰かとは友人になりえないだろう、なぜ友人になりえないかというと「おれは善人じゃないから」だ。
考えてみれば、善人と悪人の、どちらが「恐怖」なのかはわかったものではないし、善人と悪人とで、どちらの気が狂うのかも定かではない、現代の世の中は油断大敵で、その世の中から距離を取るとそれはすなわち「悪人」になる。

なんでもやって生きていこう、ただし笑えなくなるのはダメだ。

なんでもやって生きていこう、それより先のことは言えない、誰でも自分で考えるしかないことがある。
なんでもやって生きていこう、ただしどこかで愛をもって、走り続けることを忘れずに、なぜなら愛をもって走り続けることがけっきょく一番安全だからだ。
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僕のことは守ってもらうしかない(厚かましい)

近、自分がものすごいレベルのアホなのだということがわかってきた。
わかってきたというか、いよいよ、不可逆的に認めざるをえなくなってきたというか……
僕はどうやら、いわゆる「大事なこと」のことごとくを、本当に「分かっていない」ようなのだ、自分で認めるのもヘンな話だが。
油断すると、すぐ「分かっていない」ところに吸い込まれていってしまう、僕は文化とか芸術とか学門とか、そういったものの「大事なこと」がよく分からなくなり、吸い込まれていってしまう、僕は吸い込まれていって「この世界に寝そべっていれば十分」というところに行ってしまう、油断するとすぐにそうなる。

だから究極、なんというか、かばってもらうというか、守ってもらうしかない、正直なところを言えば本当はそうだ。
いろいろ書き話したりはしているが、究極のところ、僕があなたに何かを「教える」ということは本質的に不可能だ、なにしろ僕は本当に「分かっていない」側なのだから/それに比べればあなたが僕に「教える」ということは実になめらかに成り立つ。
分かっていない、分かっていないのだ……この数年間は、無理して分かっているふうにしてきたが、そのときの僕は正直半分がたは僕じゃない、何か僕ではないナゾのおじさんがそこにいるようにしか思えない。
何か、わずかでもむつかしい話になると、正直「よく分からん」のだ、僕はどうやってこの世界にひび割れを認知してよいのかわからん、僕は人が何かを「やっている」という、その「やっている」ということがよく分からんので、これはもう守ってもらうしかないのだ、非常にあつかましいが本当のところはそうだ。

なぜ分かりやすくせねばならないのかが分からん。

分かりやすくするなら、分かるモードに切り替えればそうなるのは知っているが、それで分かるようになったとして、「分かるようになる」のが目的だったとは到底思えないのだが……僕はけっきょく、僕を守ってくれる人としか付き合えん、ひどく厚かましいのはわかるが、これはもうどうしようもないのだ。
「分かる」モードになったとたん、僕は「なんのこっちゃ」となる、たとえば秋口にお茶を飲むのが「分かった」として、そのとたん僕は何もかもが「なんのこっちゃ」にしか感じられなくなる/「分かる」って「失くす」と同義じゃない? 僕はいつもおびやかされて困っている。

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永遠のライブ

年前もこんなことをしていた、何かを書いていた。
そのさらに十年前も、何か似たようなことをしていたし、そのさらに十年前も……「書く」ということにこだわらず、僕はずっと夜の中をうろうろしている。
もし前世があったとしたら、きっと同じことをしていただろうし、来世があったとしても、ずっと同じことをしているだろう。
どう考えたって永遠に同じひとつのことをしている、それがたかだか西暦何年とかいうことで変化はしない。

つまり、僕は初めから何一つしないので、何かをやめるということもありえないのだ、われながらひどい面倒くさがりで呆れる。
話が噛み合わないことが多くあるのはそのせいだ、僕は「何をしますか」と訊かれていつも「何のことだろう?」と混乱している、「何をしたらいいでしょう」って、僕にはそもそも何かを「する」ということがわからない。
僕はまるで、墓標みたいな人間だな、でもそれは死んでいるということじゃない、存在しているということは、わざわざ生きないということだ。
すべてのものを、永遠にもっていく、永遠にもっていくのだから、何が重要で何が大事かなど、価値観の話は永遠のあとで決めればいいのじゃないか、永遠のあとなんて永遠にこないだろうけど。

永遠のライブ、「生きる」ってそれじゃないの。

八千八百万のサウンドが、四億ヘクタールのキャニオンに響くんじゃないの、谷間に十七色の虹風が吹いて、夕焼けが四〇〇日間続く、そんなのはもういくらでも見てきたよ。
東京って無限に土地があるんだぜ、だから街が終わらない、永遠なんて言うとバカにされそうだけれど、でも永遠でない恋人を検索しているのもいいかげん言い訳が立たんと思うぜ。

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創作力
日は一日で二万字ばかりの章を書き上げたのだが、今になって読み返して、この部分は全部ボツにする、まあだいたい文章を書こうとする変人はこういうことばかりをしているものだ、人は二万字を書くことはできても二万字を「書き直す」ということがなかなかできない(そりゃもちろんおれだってイヤだ)。
こうしてそれなりの量の書き直しをすると、そのたびに教訓を見つけようとするが、教訓なんてものは存在しないに決まっている、いつだってそのとき限りに偶然・マグレで・うまくいくしかないのだ。
ありとあらゆる方法論は何の役にも立たず、足をひっぱるばっかりで、その中でも最も役に立たないのは「ダメもと」の精神だ、だいたいそういう、追い詰められた人が納得しやすいロジックというのは、追い詰められた人専用の香料がまぶされているものである。
じゃあどうやって取り組むかということになるのだが、それは「力ずくで取り組んだらいいだろゴルァ」なのであって、ここにきて急にデタラメになるが、けっきょく勝負なのである、勝負に勝ち方など存在しないのだった……

文章を書くとき、いつも「どうやって書いたらええねん」という不能感、および「なんか、もう前もってわかる、何かムリ」という消沈がある。
もちろん、くっだらない文学風味の何かを書くことはできるのだ、それは99%文学の文章に見えるだろう、けれども僕は自分でそれを詠んだとき、「うわ、要らねえ」と感じる、だからその「書ける能力」は何の役にも立たないのだ。
仮に、うまくいく場合にパターンがあるとすると、それは書き出しの時点から「うわなんだこりゃ」「こんなん成立せえへんやろ」という、むしろ「間違ってるだろ」という半笑いの感覚があるということになる、何かがまともに創られるときはたいていそうだ。
つまり、僕は間違わねばならず、間違っているものをどこか天のカミサマがしゃしゃり出て、勝手に別構造化してくれなくてはならないのだ、そういえばこれまでのすべてにおいて、書こうと狙っていたものがそのまま文面になったことはないな、だからもう誰が書いているのやら意味がわからん。

「創作力」ほどの完全なゴミはない。

まあどうせ、僕は何も悪くないので、他の誰かが悪いことにしておこう、非情な話、文章を書くときだけは誰ひとり友人なんてチャラいものがあってはならない、創作のときにあってはならないものは愛と友情と真実だ、除菌もできるジョイで顔を洗って出直せ。
もし僕に「センス」なんてものがあったら、僕は早いうちに自殺してカタコンベ行きだっただろう、まあなんと言えばいいのか、僕は一般に大切と思われているもののほとんどが苦手である、僕に唯一の自慢の能力があるとしたら、それは僕が躊躇なく無能になれることだ、有能などということは苦手だ。
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若い二人はうらやましい!

い二人はうらやましい!
が、このご時世、年の寡(すくな)い者が若いとは限らない!
若い人間がSNSを使いこなしているのではなく、オンラインで済まそうという億劫さはむしろ老人の流儀に属するものだ。
山裾のオンボロ下宿で、運動方程式をいじりながら、「運動量を積分すると運動エネルギーになるのはなぜなんだよ」なんて言い始めたものの、調べる手段もないので侃々諤々(かんかんがくがく)、誰一人帰れずに朝までペンと紙を飛ばしてた、扇風機の取り合いしてた、なんてことのほうが「若い」ってことだ/それに比べたらオンラインなんかオジーサンだな!

若いということは、肉が若いということで、肉が若いかどうかは、緊張感によって証される。
たとえば、十三歳の少年少女らを舞台の上に立たせてみる、するとそこにはそれだけで何かの緊張感が生じる、これは只々肉が若いからだ。
一方、七十三歳のオジーサンオバーサンを舞台の上に立たせてみる、するとそこには「ロータリークラブかな? ははは」という和やかさが生じる、こうして緊張感の有無が肉の老若を証する。
若い二人はうらやましい! それは不変の羨望なので、どうか和まないように、人の肉は緊張感によって高まり、その高まりの中で肉はさまざまな霊を蓄積的に宿していく、まさにそれが「うらやましい」のだ。

オンラインが問題なのではなく、肉がオフになるのが問題だ。

「肉がオフです」とか、まさにオジーサンオバーサンじゃないか、繰り返すが老若は単に年齢によらず、肉の開かれてあるなしによる、肉を閉じたまますごす十年はあなたをえげつなく老化させるだろう。
VRで花火を見るのが悪いわけじゃない、たとえナマで花火を見たって、そこにあなたの肉と彼の肉が開かれてなければ、あなたは不変の「うらやましい!」にはならないだろう、ああ若い二人はうらやましい!

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人気のない光の博覧会

うして人を死体みたいに扱うのか。
わたしは光である、われらは光である、けれどもこれらは、こんにちいまいち人気がない!
遊ぶのではないのか、酒を飲みくだすのではないのか、笑うのではないのか、七色の鳥が飛び/桃色の花びらが舞うのではないのか。
人気のない光の博覧会へようこそ、われらおんぼろのカローラに乗って/ことごとくの岬から朝夕の光を確かめて参るのです。

才能のない人間なんていない、同様に、才能のある人間などもいない。
カミサマがいるかいないかの論争は、論争しても変わらないという結論だけがもともと笑ってあるだろう。
人をわすれよ、我をわすれよ、名をわすれよ、夏のあいだは冬をわすれ/秋になれば夏のない世界を生きよ。
美をわすれよ、光の仔ら、聲わたりて問答は失せて/われらの寫眞は他人のごと残るのです。

博覧会に実績なし。

頭から水をかぶれ虹を見るために太陽を背にして頭を垂れて両耳に清水受け入れて鼻から蝉と水音の鳴く聲を聞け。
実績を好む者はこんにちの光に関心がないな、最も佳い博覧会者は博覧会をわすれることだと思うのです(そりゃ人気も出ませんって……)。

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「まともな人」のところに遊びに行くこと
わいい女の子は、誰かのところへ遊びに行かなくてはならない。
かわいい女の子なら、ぜひ僕のところに遊びに来てもいいが、もしそうでなくても、誰かのところに遊びに行かねばならない。
それは、「なぜ?」という問題ではない、かわいい女の子はミツバチのように、自分の知らないところで花粉を運んでいたりするので、飛び回っていなければ漠然と「ヤバい」のだ、世界が滅んでしまう。
どこにでも遊びに行くのがいい、ただしかわいい女の子はなるべく最優先で僕のところにだなあ……

女の子はどこに遊びに行くか、何より「誰」のところへ遊びに行くか。
それは、一言につきる、「まともな人」のところに遊びに行くのだ、誰であってもかまわないから、「まともな人」のところに遊びに行く。
だからこそ、若い男性たちのモットーは、第一に「まともな人」を目指していなくてはならない、今や多くの女性は「まともな男の人って、すごく少ないの」と嘆いているのだから、男性にとってはチャンスの時代でもある。
かわいい女の子は、すべからく遊びに行くように、誰か「まともな人」のところへ遊びに行くように/理由はない、別に理由はなくても、「そのほうが正しい」とあなたも漠然と知っているのだからかまわないだろう。

自分から遊びに行かなかった人は、将来必ず悔やんでしまう。

「もっと遊べばよかった」で検索してみたらわかるが、多くの人が後にそう悔やむものだ、「遊ぶ」「遊びに行く」ということをやりのこすと、必ず悔いになるし、サイアクの場合はそれが怨みにさえなってしまう。
かわいい女の子は遊びに行くこと、ただし現代ではそこに「まともな人、のところに行くこと」という条件がつく、あなたの周囲に「まともな人」があふれかえっていることを祈ります/もしそうでないときはそうでないように上手くやれよ、原則は変わらない、「まともな人」のところに「遊び」に行け。
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あなたが優秀であらねばならない理由

年のごとく、葛飾区の花火大会をかぶりつきで観てきた。
毎回思うのだが、葛飾区の花火大会で打ち上げられる「デジタルスターマイン」の試み、あれは本当に正気の沙汰ではない。
誰がどうやって作っているのか? わからないが、よくもまあ、リハーサルも利かないファイアーワークであれだけのシロモノをつくれるものだ、正直いつも戦慄する。
さっそく今年の大会模様を翌日現在のyoutubeで観ることもできるが、こんなたぐいのものはむろん動画で体験できるものではない/「デジタルスターマイン」は特になあ、かぶりつきの至近で観た人にしかよくわからないであろう、とてもゼータクなものだ。

僕はたいへんわがままな人間なので、もし「花火、いいですよね」と美人キャスターに言われることがあったりしたら、とっさに微笑む美人キャスターのみぞおちにケリを入れたくなるだろう。
「いい」とか「好き」とか「きれい」とか、そういうことで花火を観ているわけではないのだが……といって、これは明らかに僕がおかしいので、僕が人格障害者だという捉え方でさしつかえない。
化学科を出て、花火職人になって、あの暗闇の下でコソコソ走り回り花火を打ち上げるというのは、果たされなかった僕のもう一方の夢でもあった、今でも花火を見上げているとき、かつてそう信じたときの自分が今も内側に生きているのを実感する。
僕は過去、何十年も、「花火と音楽を合わせようとかいうのは、邪道だし蛇足だし、しかも成功したためしがない」とそのことに否定的だったのだが、何年か前の葛飾区のデジタルスターマインによって、僕は持論をねじ伏せられたのだった/それは震えるほど幸福な屈服だった。

誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない。

話が飛ぶな、しかしその帰り道に急に気づいた、きっと多くの人が逆をしている、「一人で生きていけるように、優秀になるのだ」と思っている、そこでよく見ろ、破滅する人は必ず一人になって破滅している。
優秀になろうと努力するとき、ここのロジックが破綻している人は、絶対に進捗しないという法則がある/優秀であらねばならない理由は、一人で生きていけるためにではない、誰かと共に生きていけるためにだ。

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獣化を治療する方法2

ず、一般にはあまり知られていないことだが、「貨幣」というツールそのもの、これ自体が人を獣化させる性質を持っている/これは鉄則なので曲がらない。
しかし、貨幣を使用せず生きるのはほとんど不可能なので、じゃあ何が必要かというと、貨幣の「正しい使い方」を知らなくてはならない、貨幣を使うときは常にこのことを理解しておこう。
貨幣の使い方は、1.自分のために使う、2.自分以外の誰かのために使う、という二つに大別されるが、貨幣の「正しい使い方」は、必ずこの二つを同時にやっていくということだ、これを片側しかやらないということは、そもそも貨幣の使い方として間違っている。
「貨幣は何に使いますか?」と教師に問われることがあったら、必ず「自分のためと、誰かのためです」と答えるように、そのときだけ「よろしい」と正解の承認が得られる/あなたの財布に入っている金銭は、多くはあなたのものだが、何割かは共用のものだ。

血肉を「分け与える」ということ、つまり「分与」だ、この分与がないかぎり、われわれは血肉の「奪い合い」しかできない。
あなたが友人といて、あなたが自販機で飲み物を買ったとする、そのとき「友人の分は?」と考える、そのとき「分」だ、それが「分け与える」ということを意味している。
あなたが一人で映画を観に行ったとして、それは楽しかったかもしれない、でもあなたが楽しかったとして、その楽しみの「友人の分」は? そこであなただけが「楽しかった」であれば、あなたは貨幣の使い方を間違っている。
われわれはただでさえ、他の生きものを屠殺して、その血肉を食って生きているのだから、友人同士でまで血肉の奪い合いをしなくていいじゃないか、血肉を分け合うことだけがこの奪い合いから逃れる方法だ。

友人に三千円のクッションを買ってあげたとして、あなたはその三千円で破産はしない。

そんなことで破産するアホがいるか、だからあなたが友人に三千円のクッションを買ってあげることがないのは、その発想が忘れられて、さらには死に絶えているからだ、人間は獣になると、本当に自分の貨幣は自分のため「だけ」に使うものだと固定される。
もちろん、血肉を分け与えるといって、それが友人でなければ不自然だ、だがさらにいえば、三千円のクッションも買ってあげられない誰かを友人と思い込んでいるのはもっと不自然ということなのだ/友人が獣化してしまえば、もうそうしたささやかなオゴり方もできなくなる。

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獣化を治療する方法

いがけず有意義なものが見えてきてしまった、つまり僕は、災害派遣ボランティアの映像を見てどこに違和感を覚えたのか。
それは、たいへん恐縮だが、そこにいたボランティアラーの姿を見て、「いかにも太っ腹で」「ついオゴってしまう人だよな」とは見えなかったということなのだ、そしてちょっとした飲み食いにオゴりもしない人が「身をもってボランティア」というのはヘンだと僕は感じた。
これは思いがけず有意義で、重大なことが見えてきたから、年長者として今から教えることを、年少者のあなたはゴリゴリに聞くように、「あなたはオゴり方も知らなければ、オゴられ方も知らない」のだ、そしてそれは単純にいって「不勉強」といえる。
そういえば先日、Kさんという年下の男性と面談したが、Kさんは僕の話を面白がって、二千円もしたコーヒー代をオゴってくれたぞ、遠方からはるばる来てくれたのに、なんともありがたいことだ(これ、聞いてりゃいかにもマトモなことに聞こえるでしょう、それでいいんだよ)。

まず、「オゴる」ということを正しく知ることだ、これは単なる勉強の範疇に入る、これは知っていなけりゃただのバカということにしかならない。
「オゴる」というのは、支払いを負担する、ということではないのだ、これを鉄則としてわかっていなくてはならない、支払いを負担するなんてクソみたいなことを誰もしなくていい。
そうではなくて、オゴるというのは、1.友人の支払いを軽減する、2.自分のカネを自分以外の奴に使う、3.自分へのプレゼントを他人にする、ということなのだ。
よくよく考えろ、あなたは四万円のワンピースを自分に買うのに、四千円の酒を友人に買わないじゃないか、それって不自然なことだと気づかないか、消費税を8%も取られてへっちゃらなのに、どうして友人に10%のプレゼントが「ありえない」という状態になっているのか/それはすでに、血肉の「奪い合い」に加担しているからなんだ、今すぐ引き返せ。

自分にワンピースを買って何がいけない/友人にワンピースを買って何がいけない。

自分にワンピースを買うほどの余裕もないというならば、それはしょうがない、だが四万円のワンピースを買って手元に四千円残るなら、なぜその四千円まで「自分のもの」を買おうとする? 何もかも自分のものしか買ってはいけないという家訓でも定めてあるのか。
血肉を分け与えていないから、「おれがお前のものを買ったって別にいいだろーが」という発想にならない/「あなたの食事をわたしが購入して何が悪いのよ」と、そう言えるようになってみろ、それは金額の問題じゃない、どれだけ少額でもそれは自分の獣化を治療する有効な一打になるんだ。

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自分の未来にアメを据えるな
「アメとムチ」という言い方がある、たとえば有名大学に入れば人生は勝ち組になる。
一方、勉強をサボってFラン大学に入れば、お先まっくらだ、だから勉強しよう、それがモチベーション……こういう考え方は「アメとムチ」に属する。
この「アメとムチ」に駆り立てられて受験勉強をした場合、その人は学問に向かったのではなく、アメに向かったのだということになる/アメに向かってムチにおびえたのだ、それは強烈な動機づけではある。
この強烈な動機づけ方法は、表面的には目標に向けて功を奏するだろう、だが「アメとムチ」は見たままあきらかに、家畜を調教する方法でしかない、そこに人間が文化を営むということは起こっていない。

「アメとムチ」というのも、便利な方法なのかもしれない、けれども当然、この方法ではカバーしきれないところも出てくる。
たとえば、「世話になった人にお礼状を書こう」と考えたとする、しかしこのとき、お礼状を書くことはアメにつながるわけではないし、書かなくてもムチにつながるわけでもない。
そうなると、この人はもうお礼状を書く動機がなくなる、世話になった人に礼状を書くのはただの「文化」なのだが、アメとムチで動いてきた人はこの「文化」という動機のありようを感触ごと知らない。
ひどい人になると、何歳になっても、「親に褒められそうなこと(アメ)」をし、「親に叱られそうなこと(ムチ)」をしないという、ただそれだけの原理で動いている、家畜のような人がいる、この人は表面上は実に善良な人に見えるのだが、こころが文化に接続しておらず、内面的には文化のない獣なのだ、そういう人は世の中に思いがけず多い。

アメを鼻で笑い、ムチを遠く聞き流せ。

それでこそ人間じゃないか、それでこそ精神だ、文化は強い人のものだ/そんなに本当にアメがほしいか? そしてそんなに本当にムチが怖いか、「アメとムチ」が本当に人間か。
自分の行く先、自分の未来にアメを据えるな、アメに比べれば、文化も学問もクソッタレだが、そのクソッタレに向かえてこそ人間なんだ、アメなんか蟻の巣に吐き出してやりゃいいんだよ。
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バリバリやるのが安全だ

はバリバリやると決めているのだが、なぜそう決めているかというと、その背後には「そのほうが安全だから」というのもある。
なんというか、何もせずポカーンとしているのは、逆に危険だと思うのだ、それは「危険すぎる」という何かの直感がある。
バリバリやっていれば、根本的な能力も上がるし、何事にも対処が利くようになるし、なにより、「見えているべきものが見えている」という状態であれる。
ポカーンとしていると、見えるべきものが見えなくなってしまう、その一点において、バリバリやらないということは「危険」だと僕は感じる。

「何」をする、ということは、特に関係ないと思う、何でもかまわないからバリバリやることだ、バリバリやっている人間は能力として安全圏にあれる。
ただし、バリバリやるといって……とにかく人間は「安住する」という発想が一番危険なのだ、バリバリやっているふりをして実は「安住している」という状態が一番危険だと思う。
たとえば、この世で暴漢に襲われても最も安全な者は、戦地にいる兵隊さんだと思う、なぜなら常に「危険」に対処できる状態にあるので、暴漢ごときの危険に遅れをとることがないのだ。
そう、バリバリやっていないという状態は、すべてにおいて「遅れをとる」ことが約束されている状態なのだ、これが危ない、人間は戦えば勝てるものが、単に「動揺した」ということだけで一方的に負けてしまうことがある。

戦うのは一見しんどいが、「脅かされる」のはもっとしんどい。

その意味ではやはり、バリバリやっているのが一番安全だ、安全な上に自分が強化もされるのだから、安全度は増していくだろう、けっきょくこれが一番合理的だといつも思う。
伸び盛りにバリバリやっていた企業が、低迷期にポカーンとし始めたら、そりゃ潰れるだろう、もともと「バリバリやる」と決めていないなら、そこでどう会議をしても意味のないことだ、すべての会議は「バリバリやる」ことが前提でしか意味をなさない。

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デートの流儀!(テーマが時代錯誤)
画を観に行ったり、フランス料理を食べに行ったり、ホテルの最上階ラウンジでお酒を飲んだり、ということはしないほうがいい。
なぜなら、当の男性が、自分ひとりではそんなところに行かないからだ、デートだからといって急にそんなところに言ったらオノボリさんになってしまう。
逆に、女性側が当の男性にまったく興味がない場合、高級フレンチと夜景の綺麗なバーなら「退屈しなくて済むな」という打算があって、それでデートがOKされるという悲惨なケースもあるのだが……
女性側も、そこまで致命的に興味のない男性とデートするのはやめような、デートで消費させて自分の充実の足しにしようというのは、さすがに女性という立場にあぐらを掻きすぎだ、それは逆に友人のほうを失っていくよ。

女性をデートに誘う場合、男はもともと遊んでいなきゃいけないのだ! 男がもともと遊んでいるところに、「オマエもくる?」と言って誘うしかないのだ、これは厳しい差別だが真実なのである。
もちろんこれが、十代の男の子なら、女の子だって「一緒に公園でもいく?」ということでOKなのだが、二十代の半ばごろからはさすがにマズい、ソシャゲとインスタしかやっていないでは本当にデートに誘う手立てはもうないぞ。
もちろん何歳になっても、公園でデートしてもいいんだが、忘れるな、公園でデートするほうが難度は高いんだ! 公園でデートする場合は、男の話すことが相当おもしろくないといけない、公園で二十分で話に飽きたらかなりキツいムードになる。
まず男性は、自分が「徹夜で遊ぶ」ということに慣れなくてはいけない、朝まで燃焼だ、自分が徹夜で遊べないのに、女性に「朝までどう?」とは言えないじゃないか。

忘れるな、デートの本題は「誘い出す」ではなく「楽しすぎて帰りたくない」にさせることだ。

女性はちゃんと計算しているのだ、つまり「二時間で飽きちゃったけど、二時間で飽きる人と次もデートするのはさすがに意味ないわよね」と、こんな正論にはニーチェだって抗弁できない。
女性をデートに誘う場合、男はもともと遊んでいなくてはならず、そのときになって初めて、男は自分に遊び方を教えてくれた先輩にこころの底から感謝するのだ/女性をデートに誘えるということは、面白い先輩が師匠にいたということなのだ。
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本当の恋と青春の手前で

の一年間で見てきたこと。
若い女の子にはやはり恋をする能力が具わっている。
だけど、本当に「恋」の能力が息づき始めると、何かしら恋あいは荒れ模様になるな。
それは一言でいって時代のせいだが、時代のせいとは何かというと、そんなこと若い女の子ちゃんは知らなくてよろしい。

時代がどうであっても、若い人間はやはり清潔なものなので、ふとしたことで本当の恋とか、本当の青春とか、本当の友人とか、そういったことにスイッチが入る。
そしておそらく、現代の女の子ちゃんは、そういうスイッチが入ったとき、それを受け止めて踏ん張るだけの、準備ができていないのだ、何か「オシャレ」なものばかり与えられてきたから。
ジジイの話だと思ってよく聞くように、本当の恋とか本当の青春とか、本当の友人とか本当の芸術とかは、思ったよりもすさまじい力を持つものだと知っておけ、それはどんな形でも必ず「嵐」になって、あなたを良いほうにも悪いほうにも吹っ飛ばしてしまう。
若い女の子ちゃんへ、あなたは自分が若いことを誇るべきだ、そして自分が若いことを誇るということは、自分が何も知らないということを誇るということなんだ、恋も青春も友人も芸術も、「知らないんです」というのが若いということでありうつくしさなんだ。

僕がジジイを誇るから、あなたはババアを誇らないでくれ。

若い女の子ちゃんへ、あなたはカーナビなしに首都高を走ったりできないだろう、あるいは基板に実装されているハイブリッドICに掛かる関税について東芝の営業と打ち合わせできないだろう、あなたはまだ何も知らなくていいので、この世界にドキマギしていてくれ、それがこの世界が「知らないけど見えている」ということだから。
若い女の子ちゃんへ、あなたに必要なのは成長じゃない、若い時間を生きることだ、本当の恋や青春の手前で胸がえぐられる感触がして怯む、そこで震えるということを経験せずに進んだら、あなたは後に「若い時間がなかった」ってことになってしまうんだよ。

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かわいい下着を選んで買ってるよね?

るべきことはいくらでもあるのだが、たぶん今このときには、もっと別のことが先に言われねばなるまい。
おそらく、未来に明るいヴィジョンが見えないという人が多いので、何はともあれそこだ、「明るいヴィジョンが見えないのに正しいことにやる気なんかするか」というのが当たり前だ。
明るいヴィジョンは、明るいヴィジョンだ、必ずしもそうなるとか正しいとかいうことではないが、それは暗いヴィジョンだって同じだ、正しいとかそうなるとか決まったものではない。
明るいヴィジョンということに、特に理由はなく、別に価値があるわけでもないが、とにかく綺麗でさっぱりした女の子が僕にわけもなくやさしくしてくれるという、実際そういうことで生きてきたのだから、これからもそうして生きてゆければよいのだろうだった(文法がメチャクチャだ)。

リアルに考えると、世の中の状況に問題は大ありなので、そこから明るいヴィジョンを模索しない、リアルな考えはリアルな考えとしてまた別だ、明るいヴィジョンは勝手に明るいヴィジョンとしてこさえるものだ。
僕の場合、綺麗でさっぱりした女の子が、「この人にやさしくしちゃお」とニッコリ思えば、それだけで済むのであって、それ以上のことを膨らませてもややこしくなるし、なお実現が遠くなるだけで意味が無いのだ。
明るいヴィジョンはそれだけで力を持つ、そしてこの力、この灯火だけが、最終的に使えるのだ、その他の正論は実はほとんどのところで機能しない。
明るいヴィジョンを持つためには、当人が明るい必要があるが、この世にはもちろん暗い人など存在しないので、このことに課題や問題はないのであった(ああ何か、明るい女の肌が見えたな)。

明るいヴィジョンに材料なんかあるか。

ヴィジョンを描くのに「材料」だなんて、すでにその発想が暗い、わざわざエボラ出血熱のパンデミック地域に行って腕立て伏せをするぐらい暗い。
僕はすべての女性に対し、「かわいい下着を選んで買ってるよね?」ということだけを訊きたいのだ、そのこと「だけ」だ、それ以外のことをするから勝手に暗くなるんじゃないか。

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胴体、生命を、助けてくれた人

だメールがなかったころ、電話口で、「すまんが、抜いてくれ」と言った、電話口の向こうの女の、身の上はほとんど知らない。
短い黒髪がきれいな彼女は、ほとんど躊躇無く、「うん今、手は空いてるよ」と言ってくれた。
彼女は、若い僕の生命について、親身だった、「ほっとけないじゃない」と、僕の吹き出す汗や空腹や何もかもに手当てをしてくれた。
「苦しそう」と彼女は同情的に言い、「これは、一緒にいるわたしの責任じゃない?」と言い、やはり「そんな、こんなのほっとけないよ」と言ってくれた、彼女はやがて幸福を探しにゆかねばならなかったが、それまで可能なかぎり僕のことを愛してくれた。

人間が笑い、泣き、腹を空かせ、胸を高鳴らせる、また若い男性が射精するのも、すべて胴体のことだ。
しかし中には、「腹が空く」ということがない人もいるし、「胸が高鳴る」ということがない人もいる、そうした人は顔だけで笑ったり泣いたりし、粘膜の摩擦だけで射精したりする。
これらは区別するしかないのだ、胴体に起こるのはこころの欲求であり、顔面や腕力に起こるのは自我の願望だ、あなたは女として、どちらの男にも同情して付き合うチャンスがある。
最も残酷で非道なことは、胴体に起こるこころのことを、興味があるといって「観察」することだ、それは「腹を空かせたマウスがどうもがくか」という実験を興味本位で観察している狂人と変わらない、人間がわからないなら人間観察なんかしないのが節度だ。

僕を助けてくれた人へ、あなたを永遠に忘れません。

人間を「観察」しているつもりの人がいるが、それは観察しているのでも何でもなくて、単に「助ける」ことをしていないだけだ、僕は僕を助けてくれた人への絶対の尊敬をこめて、人を助けず観察する人を決定的に差別する、同列に扱えることは決してない。
胴体、生命、なぜそれを助けない? 胴体から胴体へ、生命から生命へ、共鳴してくる切実さはないか、それがないならこころの底から笑ったことはないはずだ。

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豊かさへのセンスを発揮せよ

分にとって都合のいい世界と未来を考える。
そういったことはたいてい、よくない考えとして世間からは禁忌とされるが、そういった禁忌にこそ、ご存じのとおり最高の滋養成分がある。
意図的に、都合のいい世界を描き、そこを歩んできた人間の良さは、自分をまったく善人だと思わないところだ、善人度に興味を失っているところが清々しい。
自分にとって都合のいい世界と未来を考える、そこに必要なのは清潔感であり、好き放題の夢がありながら、そこに願望の貧しさがないことだ。

自分にとって都合のいい世界と未来を考える。
善人度に興味を失ったまともな奴は、「そうでなきゃ生きていけるか」と冷たいレモネードを飲んでいるだろう。
重要なことは、自分の描いた「都合のいい世界と未来」が、他人をゲンナリさせないことだ、他人をゲンナリさせるそれは都合のよさ以前に「貧しい世界」なので祝福されない、祝福されないからには微塵も実現されない。
自分にとって都合のいい世界と未来を考える、たとえば僕が「世界中の女をつまみぐいしたい」と言ったとき、他人をゲンナリさせるか、それとも「素敵ね」と言ってもらえるか/ゲンナリさせるようなら祝福はない、ゲンナリさせるなら善悪ではなく「貧しい」からだ。

自分にとって都合のいい世界と未来を考える、つまり、豊かさへのセンスを発揮する。

内心に願望が大爆発しているタイプの人間がおり、そういう人の打ち明け話を聞くとすさまじくゲンナリするが、それは願望まみれの人間が根本的に「貧しい」からだ、この世界に生きる豊かさがまるでわかっていないことを直観的に「貧しい」と感じる。
誰だって豊かさを共にしたいのであり、その中では正しき恋あいもかけがえのない豊かさになる、われわれは恋愛やセックスおよび人生への「願望」をこれ以上ない貧しさの感触で聞くように本能的に出来ている、「願望」が豊かさへのセンスと相反しているからだ。

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大好きな赤の他人がいる世界
はどこの店でも「常連」ぶることは100%ない。
逆に、幾人ものバーテンダーさんが、「常連」に苦しめられているのを何度も見ているからだ、「常連」なんてものは店の一番隅っこで気配を消しているのがベストに決まっている。
たまに金持ちマダムがブティックの店員に絡んだり、深夜の老人がスーパーの店員に絡んだりしているのを見かけるが、ああいったものはもちろん正気の沙汰とは思えない(誰でもそう感じるはずだ)。
そんなことは、すでに大昔に、「儀礼的無関心」ということでさんざん取り沙汰されたのだ、今さら言うに及ばずのたぐいだ。

「一期一会」ということがあって、赤の他人同士は、互いが「赤の他人」であることが重要なのだ、そこにデーンと出しゃばることは野暮以外の何者でもない。
今、接客業をしている人は、たくさんのひどいケースに直面していると思う、現代は赤の他人との距離がわからないメチャクチャな人間が少なくないから。
そしてむろん、赤の他人との距離がわからないメチャクチャな人は、接客業をしている側にも存在するはずだ、こんなこともすでに「儀礼的無関心」の議論で言われ尽くしている、どちらも「たいがいにしろ」としか言えない。
赤の他人同士は、赤の他人であることが重要なのであって/あとは明白なこと、赤の他人が赤の他人のままよろこんでくれるかどうかだけだ、人がよろこばない主張を押し出して歩いたって近所迷惑にしかなりゃしない。

赤の他人同士だから、笑い合う必要があり、仲良くなる必要が無い。

赤の他人同士、笑い合えないのはストレスだし、仲良くなるのもストレスだ、そこをインチキで笑い合い、強引に仲良くなったふうに振る舞うのは互いに自殺行為になる。
人は人を見て「あ、あの人」と感じ、パッとこころを華やがせたいだけだ、人は人に安心して笑いたいだけで、誰かと知り合いたいわけではない、大好きな赤の他人がいることほど素敵な世界はないじゃないか。
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