☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
GOOD DAY

体的には言えないが、今日、ひとつの素敵なことがある。
いろんな場所で、いろんな空港で、いろんな思いがあり、単に生きるということとは別の命がある。
僕はうれしいのだ、想像するだけで、こんなに面白いことになるなんてな、しかもまだまだ、この先に楽しみが待ち受けている。
思いがけないことがあって、思いがけないことが進展して、思いがけないことが、わたしの命だった、そんなことが、これからも絶え間なく続けばいいなと、こころの底から思っている。

何もかも、いい具合にいきますように……まあ、大切なものと出会えたら、それだけでいいのだろうから、ここしばらくは、世界中の全員がそうならいいな。
邪魔者はいない、それなりに知り合いはあったとしても、もっとわけのわからないものに導かれて、わけのわからないものに会いにいく。
それでどうなるのか、わからないのだけれど、それがわからないというのがとびきりいい、なぜだろうな、ずいぶん離れてあるものが、何よりも身近にあるような感じがして、行かねばならないのに、しかも身近なくせに「どうなるのかはわからない!」のだから、これはゴキゲンのかたまりだ。
僕はつい祈ってしまうが、きっとその祈りも不要なほど、祝福が満ちているだろう、それでも祈ってしまうがな、それ以外に僕は何もできないが、せめて僕も、負けないように過ごそうと思った、いつもどおりの毎日で、しばらくこっそり祈り続けよう。

二十年ほど前、若かった僕は、ヒンドゥー教の聖地にいた。

だから何だというわけじゃないが、すべては「何」なのか、たぶんまだまだ先にならないと、本当にわからないのだ、ついにこんなところにたどり着いたのか、あるいはそれが、実はすべての始まりにすぎないかもしれず、それがすべての始まりだったなら、これはもう楽しみでたまらないな。
知らない場所が、知っている場所になり、でも本当に知らない場所なら、もともと行かないのかもしれないな、さあて何が何やら、おれも負けていられないぞ、まあ何かがある、おれもわけのわからないものに会いにいかないとな。

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今夜も一人で生きつづける2
ンターネットやSNSは、人間の精神に、電子的な田舎村を作る。
田舎村、つまり、何かを共有していると思い込むのだ、だがわれわれは「本質」において、何かを共有するということ自体がない。
僕が聞いている雨音や、僕が見たガンガーの黎明が、どうやって「共有」されるのか、その共有を妄想することから、すべてのうっとうしさとつまらなさが始まっている。
本質的に「共有」などないのだ、この世界が歓喜なのか悲嘆なのか、そんなことは誰との共有もあてにできない、ただ自分のものだ。

今夜も一人で生きつづける、そもそも「生きる」というのは自分一人のことだ。
僕が誰かのことを愛したとして、他の誰かがその人のことを同様に愛するわけではなし、だから「共有」はないのだ、このありもしない共有への妄想を放棄しなくてはならない。
共有への妄想は、妄想の世界を創り出し、その中に妄想上の「わたし」を創る、つまり本質的に「わたし」でも何でもない習慣的な「わたし」を創り出すのだ、<<このエセの「わたし」は世界の何をも感じることができない>>。
この妄想の「わたし」を破棄したとき、人は何かを探す理由がまったくなくなる、いつもただ目の前のことを掴めばいいだけだからだ、そして目の前のことを掴むというのは自動的なことであって、本人がこれといって頑張るようなことではない。

正しい「わたし」は、「わたし」というよりは「一人」だ。

何しろ「一人称」というのだから、「一人」というほうがいい、一般的な「わたし」はすでに言葉として汚染されすぎているので、「一人」が一人称だと捉えたほうがいい。
僕の友人たちへ……人格が二つ存在するのだ、そして片側は、とんだエセ人格で、世渡りをする以外には何の使い道もない、それは本当には人格でも何でもない、誰かに向けて使うものでもない。
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今夜も一人で生きつづける
っと昔からあるこの感覚。
何なんだろうな、"夜は僕のものだ"。
むろん、どこかで誰かが同じように生きているのだろう、だがそういうことじゃない、僕は今夜も一人で生きつづける。
孤独なわけではない、知人向けの何かを持たなくていい。

ずっと昔からあるこの感覚、この感覚は正しくて、ただそれが何なのか、もう何十年もかけて追求してきた、そしてこのごろは大いに真相に肉薄している。
「今夜も一人で生きつづける」、いい言葉だ、何かのためではない、何かのためなどということはこの世界に存在していない。
世界に吸い込まれていく、僕は小さなものだが、この小さなものは、僕にとって雄大な存在だ、何しろこの夜の持ち主だ、僕の夜は僕しか持っていない。
このシグナルは、何か正しいことに合致しているから、与えられている/他人の声を一切聞かないことだ、おれがおれの世界の主なのだから、そうでなきゃ友人に合わせる顔もない。

友人のいる世界に、今夜も一人で生きつづける。

それは他のすべての人にとっては間違いで、唯一僕にとってのみ正しいことになる、なぜなら他のすべての人は僕ではないからだ、当たり前だそんなことは、ただそれを持っている人と持っていない人がいるだけで。
われわれには相互に、共通しているところなどひとつもないのだ、だからこそコミュニケートが重要になる/ありもしない共通性に依存したとき、われわれはウソの世界を捏造しなくてはならなくなる。
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特権をやりたきゃ勝手にどうぞ
は、放っておくと醜いものであり、また別のときは、うつくしいものでもある。
それは、ごく単純にいうと、エネルギーのない奴は醜いのであり、正確にいうと、エネルギー源とつながっている者はうつくしいのだ。
別の言い方をすれば、消費する者は醜いのであり、産み出す者はうつくしいのだ、この産み出す能力を「産霊(むすひ)」と神道では言うらしいが、産霊のエネルギーから断たれてあるものは、醜いので、やたら自分を飾らねばならなくなる、髪型青年やシャツ青年や顔の角度青年が跳梁跋扈するのはそのためだ/醜いということを糊塗しているのだ、それはまあそういうものだろう。
我慢(吾我驕慢)するとサイアクの結果になるのだし、じゃあ自分を解放せねばならないが、解放といっても醜かったら話にならない、醜いものを解放したところでワイドショーの最悪ニュースにしかならない、解放というのはうつくしい者の特権だ。

だからこそ色んなことの「解放運動」のようなものは、その現場においては息苦しい、何か醜いものの気配が立ちこめるのだ、まあそのことも、それはそんなものだろうとさっさと決着させるしかない。
正しい解放が知られねばならないが、このことは犠牲者を要するだろう、<<解放は悪である>>ということをまず知って、なぜか光が伴うという者にだけその解放の特権が与えられる。
なぜその特権が与えられるかというと、産み出しているからだ、世界や愛そのものを/産霊なのだ、産霊によって永遠の命(時間軸に無関係な命)が与えられるから、そのために犠牲者が出ても、別に何のことはないだろうということだ、誰も永遠の命があるのならわれわれは犠牲死うんぬんで揉めない、犠牲フライを打ってフィールドを呪う野球選手はいない、点を獲ることが永遠の命なのだから自分の犠打はかまわんじゃないか。
まあとにかく、産霊ということの実際は、想像を絶しているので、解放というのも想像を絶している、すさまじく産み出されるというか……そもそも産み出される前は何もないということ、「無」だということ、このことを知らねばならないが、そんなことを教えてくれる人はまずいないし、どうやって知るという方法もないのだった、じゃあけっきょく何かの幸運に恵まれるしかないのかもしれないな。

産霊(むすひ)をやりたきゃ勝手にどうぞ、それは自動的に特権です。

いやあ、世界はやはり光り輝いているなあ……ただしそれは、世界があればの話であって、一般的に眺められている生活空間は世界でも何でもない、「無」だ、「空」でさえない、世界がないところを眺めて「光り輝いているなあ」と真似事をしてもアホみたいなのでしないほうがいい、こと産霊ということになったら、多くの人が実は自分には友人などいないということにハッと気づく。
産霊が起こるまで世界などないので、産霊に出会わなければ女は女ではないし、キャラクターもキャラクターじゃない、自前のキャラクターや女を用意している人は産霊の門をくぐれないだろう、まったく一般に思われているものと違うのだ、特権だと言っているのだから特権なのであって、産霊に出会ってから始まるのであって、始まってから産霊に出会うのではない、だから自前で始めてしまった人は産霊に出会えない、自前の持ち込み物が検査機ゲートに引っかかって弾き出されるだろう。
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兵士は兵士の夢を見る
「たかが歌詞じゃねえかこんなもん」と言った人があって……
歌詞はひとつの命だ、夢だ/だから、命や夢がステキなのであって、歌詞がエライわけではない。
歌詞にどう反応すればいい? 命で反応すればいい、夢で反応すればいい、お前の命で、お前の夢で/言葉の意味で反応なんかしなくていい。
だから外国語の歌なんか、意味わかんなくていいんだよ、命も夢もひとつの存在、ミスブランニューデイ、兵士は兵士の夢を見る。

耳にイヤホンを突っ込んでいるんじゃない、通常、命に命を突っ込んでいる。
人の甘言にたぶらかされて、甘い夢を見ているのじゃない、おれの夢が叫んでいる、ありがとね、そういえばこれまで礼を言ったことがなかったな。
他のやつの命や夢など、知ったこっちゃない、だが知ったこっちゃなくっても、命や夢はもともとひとつだ、夢を叫ぶ命には夢を叫ぶ命で返してやんよ/それが「聞こえてる」ってよくわかんだろ。
聞こえてんだよ、何もかも見えなくなるぐらい、われわれはどこから来た? この声の出どころから来たんだろ。

たかが歌詞、これ命が踏んでいった足あとだろ?

おれはバカじゃないんで、足あとから情報はえげつなく読み取ってやんよ、おれはクソほど頭がいいからな。
だが、やはりおれはバカじゃないんで、命には命を、夢には夢を返してやんよ、それが最大、あるいは唯一で、「聞こえてる」ってことだろ。
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かっこよくなくてどうする!!3/ガマンクソ顕微鏡

「わたしはブスでアホだけど、マイケルジャクソンはかっこいいよ!!」と言ってみろ。
すると、前半、「わたしはブスでアホ」のほうに、感情の大なりがあり、「マイケルジャクソンはかっこいいよ」のほうには、感情の小なりしかないのだろう。
それが「自分標準」だと言っている、そして言うまでもないが、前半部に感情の大なりがあるのは、この宇宙であなた一人だけであって、他のすべての人は文脈の後半部にしか感情の大なりを持たない/そりゃ当たり前だろ、あなたの「自分標準」は、あなたの「自分」にしか通用していないのだから。
ためしに僕が、「僕はチンカスでアホだが、マイケルジャクソンはかっこいいぜ!!」と言ってみたとする、そうするとどう考えても、前半部に感情の大なりはない、そりゃあたりめーだろ、マイケルジャクソンのかっこよさに比較して、僕のチンカスぶりに何の大なりがあるんだ、そんな芥子粒みたいなもんは顕微鏡でも持ち出さないかぎり注目の方法はないのだ。

この現象を、ガマンクソ顕微鏡という、本当はこの話は別の機会にしようと思っていたのだが、まあいい、「我慢」というのは読んで字の如く、「吾我の驕慢」を意味している、だからガマンにガマンを重ねて生きてきた人は、吾我の驕慢に吾我の驕慢を重ねて生きてきたわけで、結果、もう何がなんでも自分のことしか考えない、つまり顕微鏡で自分のことを何百倍にも拡大してオオゴトにするマシーンとなっている、このことをガマンクソ顕微鏡と僕は呼んでいる、「クソ」とついているのはもちろんただの悪口のためだ。
ガマンクソ顕微鏡というのは、まったく誇張ではなくて、マイケルジャクソンのかっこよさには十億人が注目するのに、自分のかっこ悪さには身内や共同体メンバーの十人しか注目しない、しかしそれを等価以上に扱うのだから、ガマンクソ顕微鏡は実に一億倍以上の拡大能力を持っていることになる、こんなもん電子顕微鏡のレベルだ。
どういうことかわかるだろうか? わかるも何も、きわめて単純なことだ、変数XとYを用いて、一般式「わたしはXだけれども、マイケルジャクソンはYだよ」を示したとき、ガマンクソ顕微鏡によって、Xの値は一億倍に拡大されるということだ、こんなデタラメな人生観を俎上に載せる値打ちがどこにありえようか。
このガマンクソ顕微鏡の持ち主は、自分がちょっとおちょくられると、核ミサイル発射!!! みたいな膨大な怒りを持つのだが、一方で今も世界で続いている民族浄化と殺戮のことなどについては、正直何も感じないのだ、そりゃ一億倍に拡大していりゃそんなものかもしれんな/ガマンクソ顕微鏡の持ち主は、これを「なんとかしてください」というのだが、基本的に一億倍ベースを保存したままで何とかしてもらおうとしているので、ムチャクチャだ、本人も自意識過剰を自覚してはいるのだが、それがまさか一億倍などという単位だとは思っていない。

今もなお、ガマンクソ顕微鏡の持ち主にとっては、その持ち主たる自分が主役であり、正当な視力の人のことは注目していない。

見ろ!! ガマンクソ顕微鏡の人にとっては、やはり今も自分が一億倍主役なのであって、「マイケルジャクソンはかっこいい」というようなことは、眼中に入らないのだ、自分のことだけが大なり×大なり×大なり×大なり……であって、他のことはすべて相対的に縮小していくばかりになる。
ガマンにガマンを重ねてきた人は、つまり我慢×我慢×我慢×我慢……としてきたわけだから、その拡大レンズの重なりが外れていくまでは、顕微鏡状態を逃れられない、この人にとってはまったく冗談ではなく、<<自分がメチャクチャ大きく見え、マイケルジャクソンがメチャクチャ小さく見えている>>、自分の日記は東京ドームのようなデカさだが、マイケルジャクソンの歌詞はレシートの裏に書かれているサイズなのだ、これが誇張でなく実寸はさらにデカいと思ってもらって差し支えない、こんな奇怪な「標準」を取られたら、まともな話なんかできっこない。

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かっこよくなくてどうする!!2/自己都合で解体する
の世で最たるゴミは、かっこいいものに惚れない奴だ。
もしくは、かっこいいものに惚れる、その惚れっぷりが、薄気味悪い奴だ、こんなやつを野放しにしているから国が腐っていくのだ。
かっこいいものに惚れない、あるいは惚れ方が薄気味悪い奴は、なぜそうなるかというと、「かっこいいもの、かっこいい人」に比較して、自分が絶望的に「かっこ悪い」ということ、このことに向き合えないからだ。
つまり、何がサイテーかといって、そういう最たるゴミは、<<かっこいいものを目撃したときでさえ、自分のことしか考えていない>>のだ、これを最たるゴミと呼ばずして何と呼ぼう? 世界のすべてを自己都合でしか眺めない奴が「薄気味悪い」のは至極当然のことだ。

そして、自己都合だけでこの世界を眺めている者は、かっこいいものを自己都合だけで「解体」するのだ。
つまり、クソブス女は、マイケルジャクソンを「解体」するのだ、どんな権利があってそんなことが可能なのか、テメーがバラバラになりやがれ。
クソブス女は何をするかというと、マイケルジャクソンと自分がいたら、自分を「標準」にして考えるのだ、「やっぱり立ち姿がかっこいいですよね」というふうに、なぜテメーがスタンダードになってマイケルジャクソンを解体できる権利があるのかおれにはさっぱりわからないが、そういう罪業は生涯も死後もずっとつきまとうことを思い知れ、そんな解体ババアが腹の底から笑える時間は今生も来世も一秒だって与えられない。
クソブス女が僕に向けて、「最たるゴミ」と言ったとしても、僕は「そうだな!!」としか応えないが、僕がクソブス女に向けて「最たるゴミ」というと、感情的な嵐が吹き荒れるのだろう、その差はどこから生じている?/そんなもん、僕はかっこいい人を標準とし、つまりマイケルジャクソンあたりを標準にして考えているので、僕なんぞは「最たるゴミ」で妥当としか考えていないからだ、そこで感情的な嵐が吹き荒れるのは、自分標準で考えているからだろう、そうして自分標準でかっこいいものを解体する悪行は精神的にポルポトの従兄弟分にあたるからソッコーでやめたほうがいい。

かっこ悪い自分を標準にして俎上に持ち出してくる行為は、人類史上単位で時間の無駄だ。

ドラマチックといって、マイケルジャクソンのライブがドラマチックなのはわかるが、クソブス女のメランコリーには何のドラマツルギーも認められない、クソブス女がいつも感情的に破裂寸前なのはこの世の常であって、そんなことはドラマでも何でもない、ドラマというのは「何かに到達せんとする物語」のクライマックスがドラマなのであって、「何にも到達できないで憤懣、破裂しそう」ということはまったくドラマではない、ただの心療内科の取り扱いだ。
そして、ドラマでも何でもないものをドラマチックに演出・主張されることほど、人類単位の無駄はないのだ、かっこ悪いということは愛がないということであって、かっこいいというのは人並み外れた愛があるということだが、どうして愛のない側が愛のある側を「解体」するのか、しかも感情的・落涙・主張的・けいれん。陶酔して、自分の解体罪のことはすっかり忘れているのだ、こんなメチャクチャな話があるか、人は自分標準だとそれぐらいブットビのバカになれるぞ。
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かっこよくなくてどうする!!
っこいい人は、かっこつけているのではなく、かっこいいのだ。
かっこつけている人は、かっこよくないから、かっこつけているのだ。
この世で最もクソなことは、かっこいい人と、かっこ悪い自分の区別がつかないことだ。
かっこいい人は、かっこいいのであって、かっこ悪い人は、かっこ悪いのだ、そしてかっこ悪い自分は、出る幕などないのだ/何がどうなって、かっこ悪い人は「悩む」のだ、「かっこ悪い」という結論が出ているのであって、そこに悩みなど存在しない、ただの「かっこわる」であって、それは話題にすらならない。

たぶんこの世で最大のアホは、「かっこ悪い自分という問題」を、テーマとして俎上に載せる奴だ。
「かっこ悪い」ということは、イコール「テーマにならない」ということだ。
それなのに、それがただ自分のことだからといって、大テーマとして俎上にノシノシ持ち上げてくるのだ。
信じがたいことに、そのたぐいのアホは、<<かっこいい人はかっこ悪い自分のための材料>>だと思っている、そうじゃない、かっこいい人は「存在」であって、かっこ悪い自分は「無」だ、なぜこんな当たり前のことも教わらずに来たのだ、よっぽどクソな両親から生まれてきたのか(なんとでも言ってやる、容赦はしない)。

この世のすべては、かっこいい人のものだ。

当たり前だ!! かっこ悪い人は、死ねということではないが、まともに市民権があると思うなよ、かっこ悪い人の市民権は、ただ「あの人はサイコーだぜ!」と熱狂する権利にのみ支えられる。
この世に、「かっこ悪い自分」を堂々とのしあげてよい権利は世界中のどこにもないのだ、まさか平等の権利があるとでも吹き込まれてきたのか!?/「かっこ悪い自分」をこの世にのしあげるということは、この世を悪魔の手に売り渡そうとする行為だ、そんなことは遥か辺境の地、アラスカ以北で独特の仲間を集めてやってくれ。
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(夜の王)

乱する 夜の国道
アスファルトは盛り上がり 黒塗りの車は肩幅を利かす
電気を歌うユーロビート
カフェテラスは地球の裏側まで続いている

栗色 三つ編み ポニーテール
すべての職業は終わった この祭りの日々
夜の王は暴徒どもを抑え込んで
アリヴァスウェ アリヴァスウェ わからない低音を唱えるのだ アリヴァスウェ

(心臓が毎秒吐精する)

地上からビルヂングを伝い 天空までまします 夜の王
球体ではない 熱気に噎せ ここは巨きな魚眼の中 水晶体の中だ

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サタデー・ナイト・(    )
たパーティの告知を作るのを忘れていた、今回は何人くるんだろう、よーわからんがまあいいかという心地である、いやまったくよくはないのだが……
僕が何も言わないでも(告知なんか作らなくても)、わらわらっと人が来てくれたらそれでいいのだが、そうもいかないというか、まあそのへんは突っ込むと色々あるのでお茶を濁すとして、まあパーティはやるので、おヒマな人はいらっしゃってね、別に興味があるとは思わないが、それでいえばおれだって別に興味があるわけじゃない。
人はけっきょく、土壇場で「かっこいい」と信じることしか選択しないので、こんなものは強制できないし、けっきょく催促もできないのだった、このよくわからんパーティに、行ってみるというのが「かっこ悪い」と感じるなら、そりゃその人は無理にやってこられる理由がない。
僕のほうはというと、このよくわからんパーティを、続けないのはかっこ悪いし、やめたりしたら超かっこ悪いし、何か知らんがシレッと宣言どおり「やる」「続ける」のがかっこいいので、そのようにしているだけだ、そして内心でかっこ悪いことをごまかして生きると、その後の報いがえげつないので、僕はなるべくかっこ悪いことをしたくないのだった、そんなわけで今月もこの土曜日にはパーティをやるのであります、いやあ相変わらずおれは静かでアクティブでかっこいいぜ。

パーティで何をしたいかというと、そうだな、さしあたり重要なこととしては、超おだてられながら酒が飲みたい。
月に一回ぐらい、女におだてられながら酒を飲まないというのでは、男としてミガキニシンのように悲しいものだし、女のほうもどうだろう、女も月に一回ぐらい、男をおだてながらお酒に相伴するということぐらいなければ、女としてあぜ道のモリアオガエルのように悲しいのではないだろうか、まあおれは女じゃないのでわからんけれども。
おだてられながら酒が飲みたい、これだ、このアホなことを罵る者は、生涯に一度もおだてられながら酒を飲むということを得なくなるだろうし、このアホなことを謗る女は、けっきょく本職が焼いたシャトーブリアンを一度も口にせず人生が終わるだろう、そんなヒサンなことになるぐらいなら、何かまともにアクティブになったほうがいい。
このご時世、気分の悪い論争ツイートが数万もリツイートされるし、東横線沿いの盆踊りには髪の毛を盛った人たちがどこからともなく殺到してきて超自撮りしまくるのに、一方ではおれの名文はゼロリツイートだし、おれのパーティはさんざん煽らないと誰も来ないからなあ、その中でこそおれはかっこいいからまあかまわないのだが、とにかくおれはおだてられながら酒が飲みたいのだった、それ以外にパーティうんぬんに用事はない(当たり前)。

土曜の夜は、お互いどこかでかっこよく過ごそう。

炎上ネタをリツイートしたり、自撮りのイベントに行くことは、本当にかっこいいのだろうか、まあおれはそのことを審判できないので口出しできないが/ただ本当には「かっこいい」と信じていないことを、「かっこいい」と偽って続けていると、そのことはやがてとんでもないツケになるのだった、これだけはマジだから、お互いかっこよさにはウソのないようにいこう。
「イケてる風情」というのと「かっこいい」とはまったく別モノだから、本当にかっこいいものを選ぶべきだ、夏の土曜日は、途切れたらもう来てくれないものだし、おれはまだ遊んでいるよ、そうして遊び続けることが生命だと信じる人は、どうぞ怯まずタイトルの空欄を埋めてね。
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他人のことに口出ししない理由

は目の前で女が発狂していても、口出しはしないし、男がオラついていたりキャラっていたりしても、口出しはしない。
なぜ口出しをしないかというと、「判断が違う」からだ、発狂している女や、オラついている男は、それを「かっこいい」と判断しているのでそうしているのであり、かつその判断は正しいかもしれず、間違っているかもしれない、その正誤の審判は誰にもできない(少なくとも僕にはできない)。
たとえば、震災千羽鶴を全力で否定する人は、それが「かっこいい」と判断しているから全力否定しているのであり、あるいは男性の内なる心を猛烈に穿って糾弾する女は、それを「かっこいい」と判断しているから猛烈糾弾しているのだろう、それが「かっこいい」のかどうか/それはけっきょく、僕には審判できないので、僕には口出しをする権利がない、口出しする気がないのではなく権利がない。
ヒステリー女と、メランコリー男がいたとして、そこにサバサバ女と、意識高い系男が加わったとき、それぞれがそれを「かっこいい」と判断しているのだから、僕には口出しできない、僕の側は口出しされることがあるが、それは口出しすることが「かっこいい」という向こうの判断なので、僕の側からは申し上げるべきコメントはない。

僕にとって「かっこいい奴」というのは、「何にも頼っていないのに、結果的に、何かに導かれているような奴」だ。
僕にとっては、その逆、「何もかもに頼ろうとしているのに、けっきょく、まったく導かれていない奴」が、かっこわるい奴ということになる/あくまで僕自身の限りにおいて。
人は誰しも、土壇場で、必ず「かっこいい」と判断するほうを選んでいる/たとえばヒステリー女は、「そうだ、ここでヒステリーを起こすのがカッコイイ!」と、その瞬間に信じるから、ヒステリーを起こすのだ、人は誰しもそうした「正当性」の実感の中で生きている。
何がかっこよくて、何がかっこ悪いのか、それを審判する権限はけっきょく僕にはないので、僕は他人のことに口出ししない、口出ししないことが構造上決定しているので、実はそもそも他人のことなんか見ていないのだった、僕の目に映るのはかっこいいものだけだ、そしてかっこいいものは僕にとって他人ではない。

TSUTAYAに行ったとき、かっこ悪いディスクが置いてあったとしたら、それについてどう思うということはなく、ただ借りないだけだ。

生活上、何をしているかというと、かっこいいと思えないものはそもそも目に映ってもいないのだが、あくまで一人の生活者および年長者として振る舞うとき、「トラブル」になりそうなことについては、前もって沈静することに、最低限の協力をするというだけだ、だから仮に世情に「かっこ悪いもの」があふれかえったとしても、それは僕の視界には入ってこないので、それらの一切についてはノーコメントになる/どんなディスクもTSUTAYAにそっと置かれていればいい、誰が借りていくのかは知らない。
他人のことに口出しはしないし、かっこいい奴は僕にとって他人ではない/たまに、「未だに幸福になれる可能性が残されていると思っているのか……」と、内心で愕然として思うことはあるが、言わない、それは向こうからこちらを見たとしても同じことを思っているに違いないからだ。

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意志と価値観/全身全霊とは

は全身全霊でこのブログを書いているが、こんなしょーもないものに思い入れがあるわけではない。
全身全霊になるのは、思い入れのせいではなく、ただ僕の意志だから全身全霊なのであって、僕は僕自身の意志に関するかぎり、全身全霊にならないことがない。
何せ自分の意志なのだから、全身全霊にならないほうがおかしい/自分の意志なのに全身全霊にならないということは、あれか、部分身・部分霊でガンバリますということか、そんなバラッバラの取り組みをするほうが僕には手間に思えるし気色悪く思える。
僕にとって全身全霊になるというのは、ノーマルのことであってスペシャルのことではない、つまり僕は、自分の意志には全身全霊が当たり前であって、価値観によって全身全霊になるのではない。

価値観としては、たとえばこんなブログ、「まあ、あったほうがいいんじゃないですか、毎日何百人も、楽しみに見にきているみたいだし」としか思わない、価値観としてはそんなものだろう。
が、価値観というのは基本的にヨソのことであって、価値観うんぬんで僕のスイッチが入ったり切れたりはしない、価値観がどうであろうが、僕は自分の意志としてやると決めたことには常に全身全霊だ、悪党を斬り殺す場合も全身全霊だろうし、女子中学生をレイプする場合も全身全霊だろう、仮に僕がそのことをするという意志を持った場合においては。
価値観としてどれだけ「すばらしいことです」と言われても、僕は僕の意志がないときは全身全霊どころか完全にゼロだし、価値観として「しょーもな」と言われても、僕は僕の意志で向かうときには全身全霊だ、たとえばこの夏はきっと僕は避暑に出ると思うが、全身全霊で避暑に出ると思う、そしてもちろんそんなことに価値観上の重きは置かない、そもそも僕には価値観なんてものは飾りにしか存在していないが……
若くうつくしい少女が、えっちな自撮りを送ってくれたりすると、途端に「よーし、やるぞ!!」という英気がみなぎってくるが、それは価値観や興奮で昂ぶっているのではなく、美少女の全身(と全霊)には、僕も全身と全霊をもって迎えるのが僕の意志というだけだ/仮に美少女の側がそういう意志でなかったとしても、いいのだ、きれいな下着が似合っているね、僕の意志と全身全霊は、そうした安っぽいものにこそ起動するという掟、そのこと自体が僕の意志だからいいのだ。

PCのキーボードは、どのキーを押しても即座に反応する、これはキーボードが全身全霊だということだ。

「価値観」というと、たとえばEnterキーだけアツアツになり、Enterキーだけ押してもいないのに反応するとか、押すたびに感情的な汁が出るとかで、一方でctrlキーを押されても「えー……」とイヤがって反応しないとかだろう、それはキーボードが全力で自我を主張しているのであり、即刻買い換えの案件だ、キーボードたることへの意志がないキーボードを、わざわざ使う必要はない/僕が男たることへの意志を失ったらそのときはただちにヨソのものに買い換えてくれ。
僕は自分の意志に向けては常に全身全霊であって、それが「ノーマル」だ、価値観サイドの人は逆に「スペシャル」を求めるのだろう、価値観上のスペシャルに昂ぶったらアタシもスペシャルかもしれないという動機で/別にそれがいいとか悪いとか思わない、価値観サイドの人の苦悶を取り沙汰することは僕の意志にはないので、そのことについては僕の関心はゼロだ、「価値観」に僕の意志は向かわない。

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疲れる理由
ホイのホイ〜と、さて、パーティのポスターでも作らんとな。
おれは至って冷静である。
どうも、突き詰めるところ、人は都合の悪いことがあると、実は「感情的」になるのではなくて、「panic」になってごまかすというのが真相のような気がしてきた、そんなことに気づいてしまった。
しかもその逃避方法は、クセになるらしい、逃避するのが悪いと言っているのじゃない、それはクセになって、自分が戻ってこられなくなるらしい、ということを噛みしめているのだった。

かっこよくないものは疲れる。
どれだけ正しくても、疲れる、というか、この世に強く主張される声は、全部「正しい」やつだよ!! だって入念に「正しい」ように点検されているからな。
だが何もかっこよくはないのだった、さっきおれは久しぶりに「スムース・クリミナル」のMVを観てしまったので、そのかっこよさに冷静になってしまったのだった。
何か顔つきがヘンだな、という奴を街中で見かけるが、あれは七割方パニック状態というか、常に「panic待機状態」で歩いているということなのだ、いつでもサッと逃避できるように常に準備を整えている/決してそれが悪いというわけではなく、そういうものだということだ、最近は冷静に落ち込む奴を見なくなった。

かっこよくないものは(panicなので)疲れる。

いつも冷静に、同じことだけが頭の中にある、いつも僕が念頭に置いているのは、「かっこよくなかったら誰がおれの話を聞くんだよ」ということ、おれが人を疲れさせてどーする、おれが人を疲れさせるようでは、誰もおれの話なんか聞かなくなるだろう。
ただ、「かっこよくなる」というのは、人類史上最大の難事業なので、そうカンタンにはいかないのだった、いくら作り笑顔をしたところでな、本当に「かっこいい」とは思ってもらえない、トホホ/冷静に落ち込む奴については、少なくとも疲れはしない、それはただの再建計画だからね、冷静に再建してゆける奴はスゲー根性があると思うよ、ふつうはpanicでやり過ごすのがオチだから、そうならない奴は強い奴だ。
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80000 vs 0

日、「余談」と題して、珍しくニュースネタを元に、かつての震災ボランティア体験について書いたのだけれども……
ニュースの元になったのは、東日本大震災を体験された方のツイートらしく、つまり「千羽鶴を折って寄こされても邪魔で困るから、そのぶんのお金を送ってほしい、千羽鶴は作る側の自己満足でしかありません」という発言がバズったのだ、もちろん賛否両論あったらしい。
ここで、今さら言うまでもないかもしれないけれども、僕としての焦点は、千羽鶴がどうこうではなく、当該のツイートか八万以上もリツイートされているのに、僕の実体験の「余談」はゼロ・リツイートだということだ、おかしいじゃないか、避難所に千羽鶴を届けるという現場にいた当事者の実体験だぞ☆?
久しぶりに、mixiにもニュースに関連して当該の日記を書いたのに、まったく拡散されないのだ、なんだこれは、まるでおれの文章が無意味でヘタクソみたいな扱いじゃないか、もう一度言うがリツイート・ゼロだぜ? おれが震災の現場で体験した生々しい愛と感動のドラマツルギーがなぜリツイート・ゼロなんだ〜。

で、今さらもう婉曲にもしないが、千羽鶴がどうこうというのは、送る側もどうかしているし、それを「自己満足で迷惑」と着火する側もどうかしている、それに便乗して議論する奴もどうかしている、と僕は思っている、彼らは呪われているのだ、呪われているから「言葉と世界」でなく「燃えさかる業火」のほうに身を投げ込んでいる。
いいか、もう一度、冷静によーーーく考えろよ、僕が書き話した「余談」の一幕と、「千羽鶴は自己満迷惑だからカネで証せ」の議論と、あなたが仮に飛び込むとしたら、どちらの世界に飛び込みたいよ、僕にとって一ヶ月超の震災神戸のボランティアは思い出だが、千羽鶴議論は何の思い出にもならんじゃないか。
このことについて僕が誰かにブーブー言うと、<<必ず>>、ひとつの誠実な返答が返ってくる、それは、<<堪(た)えられないんですよ>>ということだ、まあ歯に衣着せず言うと、呪われてしまった人にとっては、<<「言葉」と「世界」があることのほうが堪えられない>>そうだ、これはもうバッッッチリ呪いがキマっているということの証左だ。
災害が起こったら、ソッコーで千羽鶴を作って送るという人に対しては、やはりその独りよがりに対して、「それで、てめー満足かい?」という問いかけが発生するが、それとまったく同質に、「千羽鶴なんて自己満足で迷惑です!」と火をつける人に対しても、「それで、てめー満足かい?」という問いかけが発生する、もっとラブと思い出の世界に直接生きるほうがいいんじゃねーのか/僕は堂々と答えるが、十八歳のときに震災の神戸でいろいろあったよ、きっとあのときの世界を永遠に思い出せるだろう、そのことについてはおれは満足だよ。

千羽鶴をぶちかますのが自己満といえば、千言万語のツイート議論をぶちかますのも自己満じゃないか。

こんなミエミエのことに、なぜ容易に引っかかれるのだ……ほれラブレターを贈るとか、手編みのウンタラとか、手作りのウンタラを贈るというのはどうする、ぜんぶ千羽鶴と同じじゃねーか、先方は「邪魔だな」「自己満だな」と思うかもしれない、そりゃ年賀状だってクリスマスカードだって贈る側の自己満で邪魔かもしれないじゃないか、そんな自己満を贈るより商品券を贈ったほうがいいのか〜さあどうする〜。
こんなもん、千羽鶴を肯定しても死亡確定だし、千羽鶴を否定しても死亡確定なのだ、だってそこに何の「世界」もないのだもの/タイムマシンに乗って、1995年の神戸に来るかい? 千羽鶴を大量に受け取って、「これはこれで困るわなぁ」という人もあったよ、でもあたたかく笑っていらっしゃったよ、もうこれ以上の不毛な呪詛ごっこはやめにしないか、けっこうな数の人が物事のシャレをわからなくなっている様子がある。

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(余談)

珍しくニュースネタから。無聊のなぐさめにどうぞ。

◆「被災地に千羽鶴はやめるべき」議論が西日本豪雨で再燃 熊本地震で現場はどうだったか、熊本市に聞く


 

 

 

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(言葉)

(これは言葉だ)ヘイ、なんだあいつのことか、あいつのことは、適当にサブマシンガンで撃った、ひょっとしたら死んだかもしれないが、どうだかわからない、ひょっとしたら撃ったのはあいつではなかったかもしれない、ただおれがすっきりしたことは事実だ
(これは言葉だ)おれはつくづく思うが、おれはこの街を愛している、夕焼けの中、工場の林立や、ビーチウェイを走って椰子の木が風に揺れているのを見るとき、どの女のケツだって抱いてやろうという気持ちになれて、おれはひどく感動するんだ、クスリなんか要らない
(これは言葉だ)おれは、自分の子供のころなんて思い出さないし、ママの思い出なんか一ミリも必要としていない、子供のころといえば、今がその子供のころなんじゃないか? 青い空の下は、夜とはまったく別の世界の気がする、おれは無限の世界を生きている気がする、気がするだけじゃなくて実際にそうなんだ
(これは言葉だ)おれには友人がいて、愛する女もあって、すべての犬や猫を愛しているが、誰が友人で、誰がおれの愛する女なのかは、よくわかっていないんだ、友人はいるが友情はないんだ、友情なんて気色の悪いものを、おれは自分の友人にぶっかける気にはならない、どうしてそんなものが必要とされているのかも、おれにはさっぱりわからない

(これは言葉だ)おれは交通違反をして走っているのじゃない、おれは交通に興味がないだけなんだ、だから赤信号を無視しているのじゃない、赤信号も青信号も見ていないだけなんだ、だってあれはおれのために設置されたものじゃないだろ? おれだっておれ宛に書かれた手紙なら見るよ、でもそうじゃないものに目をくれてやる必要はおれにはないはずだ
(これは言葉だ)文句つけてきたおっさんが、バットを持って殴りかかってきた、それは撃ってくれってことなんじゃないか? だからおれは撃った、そんなに騒音は立てなかったし、ほんの数秒のことだ、死体は誰かが片付けるだろう、おれはまったく慌てなかったし、そのあと気分のいいスタンドの兄ちゃんからサンドイッチを買うときには、ちゃんとカネを払った、おれはあの兄ちゃんの笑顔が好きだから、こういうことは毎週続いていい
(これは言葉だ)おれはずっと感動している、この街はなんてうつくしいんだろうって、おれはこの街に生きることができて本当によかったよ、おれは一部に勘違いされているかもしれないが、おれは興奮しているのじゃない、おれは興奮の一切が要らないんだ、だからシャッターに突っ込んで走ったり通行人のババアをサブマシンガンで撃ったりするのも、興奮したいからじゃない、興奮しないために、おれはやりたいようにやっているんだ、だからおれはいつも満足で穏やかなんだよ
(これは言葉だ)これ以上何の必要がある? 無理解なやつは殺してしまった、だからこんなに平和になっている、おれはこの街を愛しているんだよ、おれは理解者が欲しいのじゃない、ただ誰もがおれのこの街の人間であってほしいんだ、おれが気分よく走り回るためにだよ

(これは言葉だ)殺しても、血は流れていない、ただ別のところに行きたい奴が、別のところに行っただけなんだ

(これは言葉だ)血を流させるなんてことを、おれは決してやらない、血は興奮するだろう、そういうものを消しながらおれは走り回るんだ、おれは大声を出したことがないだろう? それはおれが満たされているからなんだ、たまに強盗みたいなこともするが、別に困って奪って興奮しているのじゃない、おれはこの街に似合う強盗しかしないよ
(これは言葉だ)なあ、おれは満たされきって、もう何の願望もないんだ、おれは満足したんだよ、よろこびばかりがあるんだよ、ヨットの上で男を突き落として女とやった、すばらしい潮の香りと星空が包んでいた、そのあとおれは女と話し込んだよ、海の上で、おれはそのあと寝入ったんだが、女は寝入っているおれを殺さずに、夜明けになって「おはよう」って云ったよ、ここはそういう街なんだ

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本当のことなんかできるわけがない

近は呪いの話ばかりしている、申し訳ない。
呪いは、「血と僻み」の中で言語を刷りこむことで、それを言葉とせず「呪」にするという方法だが、これによって呪いは人を呪縛する……と同時に、その場所にピン留めしておく、という役目も果たしている。
呪いにピン留めされていると、呪縛状態なので、本当のことなどできないのだが、かといってそのピン留めを取り外すとどうなる? ここまでごまかしてきた血と僻みが一気に襲いかかってくることになる。
ふつうそのことに、人は耐えられないから、血と僻みに殺されてしまう前に、言語を「呪」として、その場所に留まらせておくのだ、だからこの呪いはセーフティロックなのでもある/安全ピンの効いたジェットコースターに、真のスリルはないかもしれないが、本当の飛翔を得たいからといって、安全ピンの効いていないジェットコースターに乗ったらアホだ、じゃあどうすればいいかといって、そんな高度な知恵なんか手に入らない、だから本当のことなんか「できるわけがない」と見立てておくのが一般的には健全なことだ。

確かに「血と僻み」を突破した向こう側に、「世界」があるのだということは、僕の知るかぎり保証できる、そしてその「世界」は唯一無二にうつくしいものだ。
とはいえ、現実的に考えると、まず「血と僻み」の力に抗することがむつかしい上に、本当にその先の「世界」を見たら、そのうつくしさにもまた、心臓がつぶれてしまうだろう、だから「本当のことなんかできるわけがない」のだ。
セーフティロックである、「ピン留め」を外すとどうなる? それはもちろん、血と僻みが出てくる/血……たとえば、人間はあっという間に老いて死ぬものだとか、「母と子のきずな」なんて本当は無いとか、僻みといえば、自分には青春がなかったことや、もう若くないこと、自分は中級以下の外見しか持っていないこと、誰にも愛されずに生きてきて、これからも愛されずに生きていく見込みだということ、こころのつながりがどこにもないこと、何かに本当に感動したことが一度もない、などなど、「本当のこと」のすべてがいきなり国境を突破して総力戦を仕掛けてくる。
もちろん、それらのすべては「思い込み」なのだ、あっという間に「老いて死ぬ」というのは、生命であって「わたし」ではないし、母と子のきずなといっても記憶喪失になったら消えるし、DNA鑑定なしには血のつながりは確かめられないし、また他人がうつくしく愛されていて自分は醜く愛されていないというのは、ただの比較であって、比較しなければ僻みはないし、そもそも「比較」というのが正当ではない、だからそれらのすべては「思い込み」でしかない/だがそれが「思い込みだ」という、叡智に到達する前に、人は心臓の負担に堪えかねて死んでしまうだろう、とりあえずまともにメシを食いながらやっていける範囲に留めるしかない。

浮き輪でプカプカ浮いているところ、浮き輪を取り去ってやるのが解呪だ。

そりゃ、浮き輪を抱えていたら自由には動けないし、浮き輪に拘束されているのは「呪縛」かもしれない、だからといって、これまで浮き輪で浮いていた奴からいきなり浮き輪を取り去ったら、そのまま「解放」になるかというと、そんなことはない、そのまま逆に血と僻みの海に吸い込まれていってしまうのが関の山だ/だからふつうは言語(呪)でピン留めしておく。
僕はもうジジイだし、イケメンではないし、腹も出ているし、社会的には何の格もないわけだが、僕はそれで何を言われても平気だし、「それが本当のことですやん」としか思わないのだが、ふつう女性に「年増のおばさん、しかも別に美人でもないな、体型がダサイし、社会的には何の値打ちもない存在だよね」なんて言いつければ、そのとたん沸騰したヤカンをフルスインクで投げつけられるのがオチだ、われわれはそういう身も蓋もない「本当のこと」に向き合わないよう自分を呪でピン留めしてある、だから「本当のことなんかできるわけがない」と、笑い飛ばして生きるのがおおむね健全ということなのだ。

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もう一度夏をやる

う一度夏をやる。
毎年同じようなことを考えているが、今年も執念深くやるのだ。
すべてのものを裏切ってでも夏をやる。
あのとき夏の言葉とサイダーがあったね〜と、後になって思い出せるように。

この期におよんで、妥協というか、迎合しないのかと、我ながら呆れる感じがする。
まあでも、しょうがないわな、おれの求めているのはシンプルなモンだから。
ベストなものなんか要らないし、ベターなものなんてさらに要らない、じゃあ何が要るかって、だから夏をやるって言っているだろ。
究極、おれだけかっこよけりゃいいんだよ、代官山のすべての看板はオレだけのためにあるのだ。

友人は要るが、日本人は要らない。

もちろん日本はいい国だ、天皇陛下がおわす、メシの旨い、いい国だよ、だが呪縛に掛かった日本人の団子は要らねえ、友人なんて夏の旅先で美少女がごろごろ転がってんだろ、おれはそれを拾い食いする夏でいいよ。
どうも団子をやりたがる人が多いねえ、おれはもっとささやかなものでいいよ、団子はヨソの誰かに差し上げまーす。

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三種の神器

況はどんどん手ごわくなるが、そのぶん逆に、方法はシンプルになっていく。
「自由で」「かっこよくて」「××××」こと、この三つが不可欠だ、そしてこの三つだけでいい
厳密に自由であることはむつかしい、ついどこかで体面や常識や不安を考えてしまうものだからだ、どこまでものびのびと自由でなくてはならない。
そして、「かっこいい」ということを、人は忘れがちだ、人は己の「かっこいい」がほとんどすべての目的であって、この目的を忘れると、架空の目的を探し始めてしまう、「かっこいい」のほうがはるかにシビアでリアルで十分なのだ。

「××××」はワイルドカードだが、基本的には「やさしい」が入る。
「やさしい」か、あるいは「有益」が入るのだが、これが複数ありうるからといって、三種の神器を四つや五つに増やすのはよくない/基本は「自由で」「かっこよくて」なのだ、三つ目のワイルドカードは、ほとんどTPOに合わせるものでしかない。
「やさしい」の代わりに「無慈悲」が入ることもあるし、「理知的」が入ることもあるし、「霊的」が入ることもある、だがどこまでいっても、「自由で」「かっこよくて」が基本だ。
あ、そういえば忘れていたが、今月もパーティをやるのだ、それは「自由に」「かっこよく」やらないといけない、それを「自由に」「かっこよく」やるということは、「無意味」にやるということだろうな、こうして「××××」のワイルドカードはTPOに合わせて自在に動くのだった。

自由でかっこよくて××××、ここに「なぜ」という問いは一切当てはまらない。

「亀はのんびり歩く」ということと同列に、「おれは自由でかっこよくて××××」というだけだ、「なぜ」という問いかけにはマジで千ドルの罰金を設けてもいいぐらいだ、それは否定のためのクッションでしかないシツレーなやつだから/おれが「自由でかっこよくて××××」であることは、誰ぞが「抑圧されてブザマで非××××」ということと同様に、理由なしに成り立っていることだ。
自由でないと何をしていることにもならないし、かっこよくないならすべては「やめろ」って話だし、まあそれはいいや、土曜日はパーティをやるのでいらっしゃってね、今回は珍しく女性が少なめなので(すげーレアな回だ)新しい女性の方ドーゾドーゾ。

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いいえ、だめだね。
の夏の気配……
「だめだね」というのは、否定ではない。
否定ではないが、完全な否定だ、なんというか、否定ではあるが、呵責しているのではない。
人は、出会わねばならない、出会うほうがよいという意味ではなくて、向けられた愛のぶんだけ、出会わなくてはならない。

このご時世、防御的になるのが合理的だ。
だが、時世そのものが間違っているので、時世に対して合理的だと、時世もろとも自分も間違うことになるしかない。
向けられた愛を、断るのはいい、断るのは当然だ、でも向けられただけ、きちんと出会って、その上で断らないといけない、その理由については「問答無用」の領域にある。
どれだけ慣れていないのか知らん、どれだけ事情があるのか知らんが、そんな事情は斟酌してもらえない、これは鉄の掟だ、向けられた愛のぶんだけ出会うしかない、さもなくば永遠に夏の匂いを失う、そういうルールなのだ。

愛のない出会いはインチキさんになるし、愛に出会いで応えないのもインチキさんになる。

さまざまな事情を取り出して、誰もが誰とも出会わないがごときに生きているが、たとえ全員がそうなったとして、そのときは全員が間違いだ、全員が罰されるだろう/向けられた愛と応える出会いの深さは等価でなくてはならない、ここに債務不履行を残したものは長い時間をかけて必ず代償を支払わされるだろう。
間違いだったのだ、そして「だめ」だったのだ、向けられた愛には応えないと、知識や経験があろうがなかろうが/愛に応えなかったことは、愛を偽ったことと等価だから、そのぶん必ず偽りの愛に付き合わされることになる、そのことを呵責するような鬼には僕はなれないが、それでもそれが「だめ」ということは、絶対的な知識として断言しておく、僕まで一緒になってウソを言うわけにはいかないからな。
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