☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「痛み」が人の肉を育てるものだったらどうしよう

代は「痛み」を否定し、「情念」を肯定している。
しかし、もし「痛み」が人の肉を育てるものだったらどうしよう。
教育ママは、公園のジャングルジムを「子供が落ちたら危ない」「ケガしたら誰が責任取るの」と心配するだろう、その心配する気持ちは誰も否定できない。
けれどもなお、「痛み」が人の肉を育てるものだったらどうしよう、母御さんが子供の身を案じてやまない、その「情念」はわかるのだ/現代は「痛み」を否定し、「情念」を肯定している、そのデメリットは未だ言及されていない。

熱血教師が生徒をビンタする、いわゆる体罰というやつ、これは絶対にやめたほうがいい、現代に合わない。
なぜなら、われわれはアントニオ猪木のようにビンタはできないからだ、熱血教師はきっと「情念」で子供にビンタしてしまうだろう、するとその情念が子供の肉に染みてしまう、これは傷つき遺恨になる。
われわれが忌む「暴力」の本質は、痛みやダメージそのものにあるのではなく、相手を打とうという猛烈な「情念」にある/われわれは転んでヒザを擦りむいたというときに「こころが傷ついた」とは言わない、けれども誰かに情念でヒザを蹴飛ばされたら「こころが傷つく」。
走って転んでヒザをすりむいたり、木登りから落ちてどこかを打撲したり、そのときには強い「痛み」があるが、その痛みに「情念」は伴っていない/アントニオ猪木のビンタも「情念」ではない、あれは「闘魂」だが、われわれはそんな情念抜きに闘魂のみを発揮できるほど人間が洗練されていない、プロレスラーなんか痛みに育てられた人間の代表じゃないか。

片頭痛がなかったら、僕は成長できなかった。

最近はほとんどなくなったのだけれど、数年前までは持病が典型的な片頭痛だった、今は特効薬があるから医者に行こうね、しかし長年の片頭痛がなければ僕は今のところまで成長できていなかった、きっと「痛み」には未だわれわれの知らない秘密がある。
かといって、リストカットするようなことはダメだ、リストカットには「情念」が伴う、また品質の低い格闘技で殴られるのもダメだろう、「情念」抜きで痛みの中に立てる機会はそんなに多くないのだった、だいいち痛みって基本的にはイヤだからな(血の痛みはダメだ、血の痛みにはだいたい情念が伴う)。

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反復すると強化される
節、夏と梅雨寒が入れ替わっているな……
「反復すると強化される」という当たり前の話。
反復によってえられるのは強化であって上達じゃない。
ゴルフのへたくそなおじさんが、ゴルフスウィングを反復したら、「ヘタクソが強化される」だけだ、見たことあるでしょう、反復というのはそういうものだ。

上達の道は、むしろ反復の逆だ、そりゃそうで、昨日と同じことをしていたら、今日も昨日と同じレベルに決まっているのだ、それでは元のレベルでカッチリ固定が強化されるだけにしかならない。
上達の道というのは違う/「反復」というのは「同じことをして、毎回同じ結果を得る」ということ、「上達」というのは「同じことをしつこくやって、毎回違うレベルの結果を得る」ということだ。
こう考えればわかりやすい、たとえば毎日、自宅の庭に穴を掘るとする、初日は1mまで掘り、翌日は2mまで掘り……とやっていけば、十年後には「お前どこまで掘ってるねん!?」というえげつない深さに到達するだろう、それが「掘り進める」ということ。
こうして毎日「穴を掘り進める」としたら、毎日「掘る」という作業は同じだ、けれども毎日、昨日とは違うところまで到達している、同じ深さの日は一日もない/この形で「同じことをしつこくやる」なら上達は起こっていく、ここをたがえると「継続は力なり」は大ウソになる。

反復は努力ではなく逃避だ。

自分を進ませるということ、上達していくということは、それなりにしんどいのだ、何しろ今日も新しいところまでいかないといけない/それがしんどいので、人は逃げたがる、かといって逃げるのも癪なので、反復して努力しているフリで今日をごまかす。
よって、上達に必要なのは努力家の精神ではなく、開拓者の精神だと言える、習い事が好きな人は開拓者の精神がないので、あまり物事の上達に向かない/「開拓」はリアルにしんどい、そのかわりリアルに面白くもある。
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φῶς
白い説を聞かせてもらった、「わたしはこれまで、黒い玉の重さを数えていたの。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつと。そしてそれを『存在』だと思っていたわ」。
「だけどあなたは、空っぽのビーカーを見て、とてもうれしそうにしているの。わたしには、そのビーカーは空っぽにしか見えないのだけれど、あなたには、そこに光が乱反射しているのが見えるみたいなのね」
「たとえばmol(モル)という単位が、数えきれないアボガドロ数を含んでいるように、あなたの見ている乱反射は、とても細かく複雑に構造化されて、キラキラらしいの。あなたはそのキラキラ光を感じ取って、それを『存在』だと捉えているのね」
「わたしには、その乱反射が見えないの、だからわたしは黒い玉の『重さ』を数えていた、あなたは乱反射する『光』の量を見ていたのね、そもそも測定していたものが違うんだわ、でもわたしにも、そのときのあなたがとてもうれしそうということだけはわかるのよ」

存在は「光」なのか「重さ」なのか? 物理的に、光子は重さを持たないから、いっそ「光の反対は重さ」と言っても差し支えない/人の「存在」は光なのか重さなのか。
まあいいや、とりあえず「肉染み」つまり「情念が肉に染みる」という考え方はわかりやすい、「絶対に出世する」も「絶対に許さない」も情念だ、情念は肉に染みて「にくしみ」となる、情念の染みた肉は「重さ」を生じるだろう直観的に。
人間が情念を持つのはおかしなことではないが、それが「肉に染みる」のはどうか……イマイチの気がする、肉には光たる霊が宿ってほしいと思うので/これらは「情念主義」と「霊験主義」の二つに大別できそうだ。
僕は海を見たとき、山を見たとき、湧き水を飲んだとき、街のネオンライトを駆け抜けたとき、そこに「情念」を探すというのがよく分からんのだ/たとえば「女の情念が女の肉に染みている」というのがヘヴィなのはわかるが、それをして女の「存在」をよく証しているとは僕には感じられない。

面倒くさがりの極北が、ついに重さ自体を否定申し上げる。

たとえば僕が、「あの女を絶対オトす」「あいつだけは絶対に許さない」と、情念を肉に染ませたとして、そのとき僕は存在感ズッシリ、それが僕の「イグジスタンス」なのか? とてもじゃないが僕はそんなしんどい競争にはキャッチアップできない、海辺のネオンライトを見たらすべてをスコーンと忘れてしまう。
だって、光っているんだもんね、何かが/「そもそも測定していたものが違うんだわ、でもわたしにも、そのときのあなたがとてもうれしそうということだけはわかるのよ」
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大きな愛、そのサイズ差

と恋の違いは何? という、よく知られた問いかけがあるが、これはもともとが間違っていて、愛はそもそも恋と比較考究されるたぐいの事象ではない。
人間にとって、「愛」という事象は、「光」という事象と対のパートナーだ、人は光に引かれ、同時に愛に押し出されもして、進んでゆく、というだけだ。
だからよく知られているように、人間にとってのカミサマは二種に描かれている、ひとつには威光を示す「父」として描かれるカミサマで、もうひとつには慈愛を示す「母」として描かれるカミサマだ。
人間は、愛されなければ踏み出せないし、光がなければ踏み出す理由がない、光がなければ愛されたってしょうがないし、愛されなければ光に向かえるわけもないのだった。

自然愛好家は世の中に多いだろうが、その逆、「天地自然がわたしを愛してくれている」と捉える人は少ない。
加山雄三が唄う「海、その愛」というのがあるが、これは「海よ、おれの海よ/大きな、その愛よ」と唄っている、こうして「わたしが海を愛している」ではなく「海が(わたしを)愛してくれている」と捉える詩文は現代には見当たらない発想だ。
だいたい、家にカルト宗教の勧誘がきた場合など、困るのは勧誘者がいかにも「わたしは誰にも愛されていません」という気配を明らかにしてくるからだ、愛されていないなら泣くべきだが、宗教勧誘者はなぜか強引に笑顔で迫ろうとする(ムリかあるだろそれは)。
この、一般化して「何にも愛されていない者が、何かへの愛をしきりに言う」という悪いパターンが、あまりにもわれわれの世に多すぎる/僕は大きな海が加山雄三を愛したということにムリがあるとは思わない、小さなわれわれが光に踏み出すには、大きな愛に愛されることがそりゃあどうしても必要だ。

愛されていることを見落としている。

いやもちろん、「わたしは天地自然に愛されているの」と言い出すと、それは単なるヤベー奴だが、何しろサイズが違うのだ、僕は加山雄三の歌が正しいと思う、何しろ海と僕とではサイズが違いすぎる、こんなサイズ差に対抗できるやつが人間にいるのだろうか。
もし山が単なる土塁にすぎず、海が単なる食塩水にすぎないのだったら、愛されようがないから、われわれは光に向かって進めないだろう、けれどもそれらを土塁とか食塩水とか呼ぶことこそ、逆にムリがあると僕などは思うのだった。

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古いものから距離を取ること

いものから距離を取ろう。
古いものを敬い、必ず敬いながら、それでも一定の距離を取ろう。
ただし、古いものといって、古来からのものは別だ、古来からのものはすでに普遍的なものであって、古来からのものは絶対にスゲーに決まっているのだ、「古いもの」とはそれのことではない。
古いものからは距離を取ろう、なぜかというと状況が違うからだ、古いものには敬いをもち、必ず敬いながらそれでも一定の距離を取ることだ。

「古いもの」というのは、あなたの内側にもある、つまりあなたの三年前の正義、五年前の考え方、十年前のやり方だ。
それはかつて正しかった、かつては正しかったのだが、状況が変わった、だからそれだけを見て、敬いを保ちながら距離を取れ、それらは捨てられるものではないが、これから先に使われるものでは決してない。
なぜ古いものから距離を取らなくてはならないか? それは、古いものがあると、現在のものが「見えなくなる」からだ、十年前に自分が二十歳だったとして、それを残していると三十歳の現在の自分が見えなくなる。
昔はデカかったコンピューターが、今はとんでもなく小型化されたように、かつては小さかったものが、現代では思いがけず大きくなっていることがあるのだ、「コイツはデカくなったんじゃないか」ということを見落とさないために、小さかった十年前のことを忘れなくてはならない。

かつて要らなかったものが、現在は要るものになった。

われわれは時代の変化と共に、「かつて必要だったものが、今は必要なくなった」という側面ばかりに注目する、だが逆もあるのだ、たとえば「かつて不必要だった読書が、今は必要になった」ということも起こっている。
古い正義を残していると、「そんなもん要らねーんだよ」と思いがちで、今は必要になっているそれを見落とすことがよくある、かつてそれを「要らねーんだよ」と言えていたのは、かつてはそれが小さかったからだ(抽象的な話でごめんね)。

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破壊と創造

壊と創造は表裏一体のものだし、何なら表裏一体というよりは、「破壊が創造だ」「破壊を創造というのだ」と言ってもよい。
玄米を取り出すためには籾殻を破壊せねばならないし、白米を取り出すためには糠を破壊せねばならない。
それはただちに、籾殻の破壊が玄米の出現に他ならないし、糠の破壊が白米の出現に他ならないということでもある。
われわれは、われわれの身を破壊しなくてはならないが、それはわれわれの身を破壊して人間を取り出すということで、われわれの身の破壊はただちに人間の出現に他ならないということだ。

つまり、破壊というのは表面的に行われる、表面的なものを破壊し、内部的なものをより濃密にする。
表面的なもので塞がれていると、内部的なものが交流しないのは明らかなので、表面的なものは破壊する、破壊された表面は後に補われればよい/それは外科医が開腹の後に閉腹をすることに大差ない。
「蓋」は、ふだんは「容器」の一部となって内部を隠匿している、だから「蓋」を引っ張りだして「外」と交わらせる、それによって容器は破壊(開封)され内部的なものがやりとりされる。
われわれは実は、内部的なものを操作することはできない、操作できるのは表面的な「身」だけだ、だが「身」の破壊はただちに内部的人間の出現である、これがやりとりされる。

破壊と創造、そのとき破壊されるのは「妄想」の一点である。

われわれは妄想を持っているし、妄想はいけないという妄想も持っている、これらをこねくりまわしていてもいつまでたっても真実には至らない、だからそれらは「破壊」される、われわれは破壊しかできないが/同時に内部が出現する。
われわれは内部的なものに力をこめることなどできない、財布のチャックを開けるときと同じで、われわれは力を込めて財布のチャックを開けることができるのみであり、そのときのカネに力は込められない/われわれは自己の内なる声に力をこめることなどできないのでするべきではなく、われわれができるのは力強く身の蓋を「外」と交わらせることだけだ、それがただちに内部の出現、「開く」すなわち「創造」となる。

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自分に呪(のろ)いを掛ける簡単な方法

ホみたいな言い方だが、自分に呪(のろ)いを掛ける簡単な方法がある。
それは、自己を大とし、事物を小として、口に出して何かを言うことだ(「呪」は口偏がついている)。
たとえば、「わたし学門に興味があるんです」と言う場合、これは自己を大とし学門を小としているので呪(のろ)われる。
一方、「思えば、学門に支えられて、ここまでやってこられたのだと思う」と言う場合、これは学門を大とし自己を小としているので呪(のろ)われない、この場合は逆に自分に呪(まじな)いが掛かる、「のろい」と「まじない」は同じ字で記されるものだ。

たとえば、イケメンが「おれ、海が好きなんだよね」と言うと、一見さわやかに聞こえるのだが、実はこれは呪(のろ)いが掛かる、自己が大であり海が小だからだ、呪いは蓄積していってやがて解決不可能になる。
一方、加山雄三は、「海よおれの海よ 大きなその愛よ」と唄っている、これは海が大であって自己が小なので、呪(まじな)いになる、呪(まじな)いもやはり蓄積していく。
自分に呪(のろ)いを掛けるほど、自分は肥大し、「大いなる自分」になってゆく/そして自分が「大いなる」ものになるがゆえに、ますます自分に呪(のろ)いを掛けることが加速していく、加速してやがて解決不可能の極点まで行く。
逆に、自分に呪(まじな)いを掛けるほど、世界は明視され、「大いなる世界」になってゆく/そして自分が「小さき」ものになるがゆえに、ますます自分に呪(まじな)いを掛けることが加速していく、加速してやがて解決不要の極点まで行く。

望遠鏡を逆さまに使ってりゃ、そりゃ呪(のろ)われる。

望遠鏡を逆さまに使えば、そりゃ加山雄三だって「海って小さいねえ」と言うだろうよ、これで呪(のろ)われていくなんて、こんな馬鹿げた話があるか。
学門や文化や芸術を、「吸収」しようと熱心な人がよくあるのだけれど、そのありさまはどうも自分を膨らませて呪(のろ)われる方向に見えてならない、学門が自分に飛び込んでくるのではなくて、自分が学門に飛び込んでいくのではなかろうか/「大きなその愛」に。

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D妄想、人は割と妄想の中を生きている
じめなことを書きすぎたので休憩!!
人はあんがい、妄想の中を生きているものだね。
僕はそれをD妄想と呼んでいるのだけれど、これはずっと昔にやらかしたDくんの知識から由来して名付けられている。
人は、何について妄想しているかというと、実は「何に」ということでもなくて、あんがいすべてのことについて妄想を持っているものだ、まあふつう生きてるっちゅーのはそういうモンだな。

で、D妄想のいちいちを否定していたってキリがない、キリがないし何か野暮すぎる。
有効なことは、何かひとつでもいい、自分の「これは」というジャンルでだけ、そのD妄想を突破するのだ。
真実の周りをDが取り囲んでいるので、何かひとつのジャンルでいい、そのひとつだけはD層を掘削して真実の層まで到達すること。
僕なんかは、いつか女の子にモテてやるという妄想だけで生きてきたので、今さらその妄想を掘削する気にはなれないのだった、掘削するならもっと別のトコですよ、もっと気楽で愉しいやつをやろう。

D=0に到達せよ。

真実はもともとこの世界にあるモンで、われわれがD妄想でその真実をくるんでいるだけなのだから、何かひとつのジャンルでいいので、そのジャンルについてのD値をゼロにすればいい(そんなもん全域をD=0にできるのはお釈迦様ぐらいしかおらん)。
仮に、超ドスケベ剣豪というのがいたとする、女の前ではグズグズである、しかし裸の美女60人が、刀を抜いて立ち塞がれば、話は別だろう、そのときは超ドスケベが消えて剣豪になる、剣のやりとりにおいてはD=0というのが剣豪なのだから。
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自己啓発の手前
「自己啓発」という言われ方が長いこと続いているけれど、そもそも「啓発」とは何か、その語源は「不憤不、不悱不」という孔子の論語にある(らしい)。
その意味は、孔子いわく、「何より本人が悶絶するほど考えて、それでも言いたいことが言えなくてのたうちまわっているという、そういう状態じゃないと、そもそも何も教えられないよ」ということだそうだ。
ん? それが「啓発」だというのなら、現代の自己啓発ブームと何か違うような気が……
ちなみに当の論語はその後、「部屋に四隅があったとして、一隅を教えたら、残りの三隅を自分で見つけるようでなければ、もう二度と教えねーよ」と続いている。

じゃあ、現代の「自己啓発」って、違ってなくなくない? と思える。
別に誰も悶絶していないし、のたうちまわっているわけじゃないし、一隅から四隅まで全部カッキリ教えてもらうつもりじゃね? と、割とこのことはマジメに指摘されなくてはならない。
おそらく本来の「啓発」というのは、もっと悲壮感のあるもので、きっと流行のハードカバーを読んでスターバックスでタブレットをいじり、スタイリッシュにディベートをかますことで成り立つものではないのだろう。
きっと孔子が現代の「自己啓発」を見たら、啓発の本義において、すべてのディベート空間にバンカーバスター爆弾を投下すると思うが、僕は孔子ではないのでそんなことはしない、ただ僕がぼんやり思うのは、「今でも孔子とディベートして勝てる気はしない」ということなのだった。

そういえば、僕は二十年前、確かにのたうちまわっていた。

今でものたうちまわっているところがあるような気がしないでもないが……こんな僕に誰か啓発プリーズ、いちおう「不憤不啓、不悱不発」の要件には適って啓発をいただけるところあるんじゃね? と思うのだが、考えが甘いだろうか。
現代では、あまり学門に「悶絶」「のたうちまわる」という人はいない/これだと二十年前の僕がまるでアホみたいじゃねえか。
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願望とは違う「夢」

て、いろんなことを思わずにいられない昨今だが、あんまり風呂敷を広げても収拾がつかないので、たまにはダラダラする。
また焼肉に行きたいな、そしてその後カラオケ……人間の生きる意味は焼肉(カルビ)とカラオケである。
人間、やはり「夢」があるということは重要なことで、その他に重要なことといえばあとは「ノー・トラブル」ということしかない。
ということで、何でもいいから「夢」をもってね(これは本当に大事なことなのだった)、あとはノー・トラブルであれば何でもいいのであって/つまり上司がどうとか親がどうとか世間がどうとか、そういうことは本当にどうでもいいのであった、こんなこと言うと怒られるかね。

「夢」というのもな、なにかテキトーでいいのだ、「何もないよりはコレがあったほうがいいわな」という程度でいい、たとえば僕などは「お気に入りの女と『刺身食い旅行』にいくのが基本、そうね、人生で計1000回ぐらいかな」というぐらいでいい。
人生にそんなことがあったって、この偉大なる九折さんには何の足しにもならないが、まあそういうことがないと地獄のように寂しいというのがホンネというか……逆に偉大なものなんて放っておいてもガンガン入ってくるのでいいのだ、偉大なことなんかわざわざ夢にしなくていい。
「ノー・トラブル」ということ自体、ひとつのすばらしい夢だしな、人生800年を生きて、一度たりともトラブルがなかったという人が、亡くなる間際、どれほど「してやったり」の笑みで満たされるか/この世で「トラブル」ほど明確なハズレクジはない、OMG。
うまく生きなくてはならない、そしてうまく生きるということは、申し訳ないが厚かましく、ズル賢く、基本的に悪党として生きることだ、善人は最後までウソと怨みを残さずに生きられればいいが、そこまで徹底した善人には実はなかなかなれないものだ、僕などは初めから諦めている、うひょひょ。

内緒でやりきれなきゃ負けです。

われわれはアホになると、必ず「騒ぐ」、「騒ぎを起こす」、そしてトラブルになり、夢を見失って、気が狂って願望を肥大させる……こうなるとあとはもう魑魅魍魎'2017だからどうしようもない、そんなややこしいコースに踏み入る動機は少なくとも僕にはない。
「夢」といって、自分の願望を「夢」に据えるなんて、不遜かつ不貞なことで、たいていロクなことにならないから、願望とは違う「夢」を持つのだ、あとは内緒でやりきること、それが「あなた」がこの世界で生きているということです。

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警戒すべき「笑顔練」(笑顔の練習)のこと

部の人たちは「笑顔」の練習をする。
演劇の人や、テレビに出るアナウンサー、アイドル、ファッションモデル、ダンサー、あるいは接客業の人や、中には個人的にその練習に取り組まれる人もあるかもしれない。
僕は経験と理論の上から、この「笑顔練」が、実は大きく危険な要素を含むことを感じ取っている。
それは本当に「笑顔」の練習だったか/その背後に、「牙をむく」練習になってしまうような要素の気配はなかっただろうか。

笑顔の練習はだいたいこうやる/身体を大きく開いて、上を向き、口を開いて、なるべく前歯が横に八本みえるように笑う。
もちろん、そのように「笑顔」のパターン学習をしたところで、それは本当に「笑っている」ということではない、単に顔面を機械化しているだけというのは、言うまでもないことだ。
そして、これはやってみるとわかるが、身体を開いて上を向いて、笑顔を……としたとき、この笑顔はたいてい呼吸を伴っていない、息が止まった状態や、呼吸に関係のない状態で顔面だけが笑顔を形成しているのだ。
「笑顔練」/それは獣かグールかヴァンパイアのように、とにもかくにも「牙をむく」、第一にそれをする、というまったく求めていなかった訓練に、なってしまうことがしばしばある。

「笑顔練」以降、気がヘンになっていったということは、大いにありうる。

表面上、「笑顔」で人に接すれば、ウケはよくなるだろう、けれどもそれは……「不穏」な感じがしないか? それはつまり「あなたなんか本当には笑わなくていい」という呪わしいメッセージを内包していないか。
あなたは、友人が「練習」してきた笑顔をあなたに向けてきたとき、どういう感情になるだろうか、それは本当に平和に向かうものか、互いに牙をむき殺し合うことへつながってはゆかないか。

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獣化の時代、それは「よろこびが消えた」ことに確認される
には思慮がない。
獣には精神がない。
獣には渇望があるが、それを満たしたところで、獣にはよろこびがない。
獣には、特別な悪意があるわけではないが、抑えきれない衝動としての残虐性がある。

現代は「獣化」の時代だ、少なくともそう捉えることで整合がつく。
その獣化が、自然発生的なものなのか、それとも意図的な工作によって生じているものかはわからない(わかったってしょうがない)。
ただ、獣化が進行している人間が、そのことを知らずに努力しても、そもそもの仕組みが誤解されているので努力は報われないだろう。
獣には、思慮や精神を交歓する能力がない、つまりよろこびとしてコミュニケートする能力がない、獣はやたらに吠え立てるか、そうでなけれぱ不穏の気配で唸っている。

人ならよろこぶが、獣ならむさぼるだろう。

たとえば現代において、メディアに美女が出演したとき、人々はその美女を「よろこんで」いるだろうか、それとも「むさぼって」いるだろうか? そこにはよろこびが営まれる場合もあれば、むさぼりが換金されている場合もある。
今、生活の一切の中に、なぜか自分が「よろこびを覚えない」という人が多くある、これはよろこびが失われたのではなくて、自分が獣化したのだ、少なくともそう捉えるしか状況を整合する方法はない。
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「やらせろ」が成立する条件
が女に「やらせろ」と言う。
このことは、セックスのときだけ「やらせろ」と言い出すのでは成立しない。
目の前に何かの仕事があったとき、それをおれに「やらせろ」と言い出す奴、目の前に殴り合いのケンカがあったとき、おれに「やらせろ」と言い出す奴、そういう奴でしか成立しない。
目の前にヘルプが必要な婆さんがいたとき、おれに「やらせろ」と動く奴、目の前に補修が必要な船があったとき、おれに「やらせろ」と動く奴、そういう奴でしか成立しない。

だから男が(女もだが)、「やりたいこと」を探し回るようなことはとてもよくないのだ。
何であれ目の前のことすべてについて、原則おれに「やらせろ」と言い出すような奴でなければならない、そうでないとおいしいことも成立しない。
それは言ってみれば、単なる情熱というやつで、情熱というのは四方八方に見境無く発揮されるので、よりごのみしたそのときだけ「やりたい」と言い出すのは情熱ではないのだ。
よりごのみしたそのときだけ「やりたい」「やらせろ」と鼻息を荒くしてくるのは、単なる「出しゃばり」と思われる、そしてセックスのチャンスでだけ自分に向けて出しゃばりをかまされるのは、女としてとても腹がたつのだ、たぶん(おれは女でないのでわからない)。

ペンやハンドルや書物を握りたがらない者が、女の手だけ握りたがったら、それはもうビョーキだ。

たとえば「こころのまま」学問をわしづかみにする男が、「こころのまま」女の乳房をわしづかみにしたがるというのは、これはよくわかる、何もかもを「こころのまま」わしづかみにして生きたいのだろう、それはきっと女のほうとしても不快ではない。
異国の男同士で握手することのない手が、異性の同国女の手を握りたがり、「やらせろ」というのは、うーんキモチワルイ、性欲が悪いのではなく「情熱が致命傷を負っている」ということに気づくしか生存の方法はない。
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美人モデルと、お笑い芸人が破局するとき
能人の、離婚や不倫がよくニュースになる。
ふと、不思議に思うのだが、なぜ著名というほどの芸能人なのに、離婚や不倫……というより、破局側の"トラブル"に至ってしまうのだろう。
芸能界には、美男美女がそろい、またそれぞれに十分裕福なはずだ、しかもタレントなのだから才能に長け、華やかで退屈がないはずだ。
にも関わらず、離婚や不倫というトラブルや破局に至ってしまう、それは「なぜ」なのか、思えば当たり前の疑問を僕は思い浮かべている。

われわれ一般人はふつう、美男美女ではあれないし、裕福というのも難しいし、才能なんか無縁だし、華やかさなんて手の届かない話だ。
しかし、それらのすべてを兼ね備えている芸能人でさえ、男女仲は破局、しかも忘れてしまいたいようなクラッシュに至ってしまうのだとしたら、われわれなどはどうしたらいいのか。
逆に言えば、男女仲が輝かしく残っていくために、本当に必要なものは何なのだ? 少なくともそれは、美男美女であるとか、裕福さとか才能とか華やかさということではないのだろう。
われわれが、わざわざテレビ画面の向こうにまで見たいと思う彼らが、なぜ居宅では互いに「顔も見たくない」ということになってしまうのか? 破局した芸能人たちが「本当のこと」をレポートしてくれたら、われわれはそこに本当に必要な知恵を発見することがあるかもしれない。

美人モデルと、お笑い芸人が破局するとき、なぜ彼らは「うつくしい妻」と「愉快な旦那さん」ではいられなかったのか。

仮に、「結婚したいタレント」ランキングを作ったとして、その上位者が、実は男女仲を形成するのに向いていないという可能性も十分にある、ではかけがえのない男女仲を作り出すのに本当に必要なものって何なんだ。
つまりわれわれは、「わかっていない」のだと思う、わかっていないものはどうしようもないが、わかっていないのならわれわれはそのことを学ぶのに慎重であるべきだ。
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僕の迷惑より相手の地獄

は今、目黒区の、商店街と住宅街が半々になったところに住んでいる。
それで、夜中の二時や三時になっても、だいたい通りに酔っ払いが歩いているのだが、彼らの話し声がすさまじくデカいので驚く。
電話をしながら歩いている人も多いのだが、真夜中だというのに、まったく昼間と変わらない大きな声で話している。
たぶん、街の気配もヘッタクレも、本当にゼロなのだろう、今さらそれは非難する気にもなれないが、ただ誰にでも「そんなふうになってはいけない」ということ、および「そんな奴と友人になってはいけない」ということは申し立てておきたい。

まあ、ずいぶん以前に、防音の二重窓を入れたから、個人的にはいいんだけどね。
それにしても、とにかく文化的にも脳みそ的にも、すでに気配とか配慮とかいった感覚の能力をすでに完全な不能にしている人が少なくないのだ。
ありのまま言うと、深夜だから声のトーンを落としている、声をひそめている、という人のほうがはるかに少ない、ほとんどゼロなのではないかというありさまだ。
僕自身、夜中に街を歩くとき、ふと思い出して確かめてみたりするのだが、やはり真夜中で近隣に住居があるという状況では、どうしても声を張り立てる気にはならない、そこはたぶん本当にもう生きものとしての感覚が根こそぎ違うのだろうと思う、このことは現代においてもう引き返せないものの一つだ。

僕も迷惑を被るが、彼らだって地獄なのだと思う。

たぶん、気配とか配慮とか、あと文化とか、そういったものが不能になるよう育てられて、もう修正は利かないのだ、そういったことの自覚はたぶん誰の内にもうっすらとあるのだと思う(その地獄に比べたら僕の被る迷惑なんて些少なものだ)。
しゃべり方とか声の出し方とか、愛し方とか未来の見方とか、たぶん本当にわからないのだ、そしてそういったものはたぶん彼らにおいてはもう取り戻されまい、現代のわれわれはこういった感覚不能の事実を冷静に見つめてゆかねばならないのだと思う。

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「方針」を決めるというステキなこと

「方針」を決めるなんてことが、意外に推進力を持つし、人をすっきりさせて落ち着かせる力を持つ。
ただしこのとき、自分の方針を、自分限りで決めることはできない、われわれは一人で生きているのではないからだ。
たとえば消防士が消火活動をするとき、全員でホースの先端を持っていたって、水はいつまでたっても放出されない、それぞれが自分の持ち場を適切に選ぶことをしないと「全体」として機能しない。
われわれが生きている、この「全体」というものについて、自分はどういう持ち場を選択していくか、その感覚を鋭く持ち続ける必要がある。

現代のわれわれはどことなく、「自分のやりたいこと」を探すべきというふうに、教育されているというか、発想づけをされている。
だが実際には、そういう方法は不適切なのだ、全員が「自分のやりたいこと」をスタンドアローンで空想していたって全体が機能するわけがない。
自分が方針を定めるときには、他の人が、そして全体が、何をやっているか、何をやろうとしているか、それを知ることが大事になる、自分の方針を定めるには他の人の方針についてもよく知っておく必要がある。
人間にはそれぞれの個性があって、個性に合った持ち場を得るのが何よりいい、だがその「個性」というものは、実は「孤立」の中では発見されないものなのだ/「個性」は関係性の中で発見される。

友人が建築士になるなら、自分は造園士になればいい。

こうして定まるときの「方針」は、自分だけでふわふわと思い描いたものより、はるかに実感を伴い、推進力を持つのだ、友人が服を創るなら、あなたはセレクトショップの主になればいい。
あなたが「方針」を決めるというとき、それは同時に、あなたがどういう「関係」の中でどういうふうに「活躍」するかということが思い描かれるものでなくてはならない/僕はあなたとの関係において、あなたとは異なることをする、それはあなたとつながるためにだ。

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愉快さの男

とえば、「♪は〜るばる、来たぜ、函館へ〜」という歌がある。
この歌を北島三郎が歌うと、なぜかわからないが、どうしようもない愉快さが起こる。
僕は演歌はまるで趣味ではないが、そんなことは関係なく、何か愉快にさせられて、「ああ、函館か」「男だなあ」という納得と敬いが起きる。
この、わけのわからない、きっと上等でさえない「愉快さ」は、男性特有のものだ、たぶん「楽しさ」で勝負したら、しょせん男は女にはかないっこないだろうから、僕は男なら愉快な人間でありたい。

たとえば、義理人情をもって、人にお中元やお歳暮を贈ることは女性にだってできる。
が、そういう義理人情やお中元やらお歳暮とかを、おっさんがやるのはなぜか「愉快」なのだ、この「愉快さ」だけはなぜか男性だけが特権的に持っている。
この「愉快さ」は、きっとペニスそのものによって起こっていて、つまり北島三郎が「ちょっとションベンしてくらぁ」と立ち上がるだけでそこに愉快さが生じるのは、男性がペニスを所有することに引き起こされているのだ/女性が同じことをやってもそこに愉快さは生じない。
学問でも、仕事でも、決闘でも、食餌でも、喫煙でも、最悪は戦争でも、何でもそうなのだが、男性はそれらを「愉快」にできるのだ、これは現代の男性が男らしく生きるために唯一の道かもしれない。

「楽しそうな男」は、どうしてもオカマにしかならない。

男というのは、愉快にメシを食い、愉快に酒を飲まねばならないのだ、それは女から遠ざかるということだよ、しかしきっと女から遠ざかってくれる男がいてくれることを女は本心では望んでいるだろう。
女性が一人で函館まで行ったら、「津軽海峡冬景色」になってしまうものな、女性はついに男性ほどのアホみたいな愉快さは持てないのだろう、男女それぞれに限界というものがあるものだ。

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体調が悪いとき
間は、調子を整えたいという願望を持っている。
それで、体調が悪いとき、「自分の体調の悪さに不機嫌になる」という現象が実は起こっている。
これは、二重に調子が悪くなるので損だ、体調の悪さというのは誰にだってあるが、体調の悪さでヘコむ、ということまではしなくていい。
体調が悪いときは、「おう、来た来た」という程度でいいのだ、体調が悪い日というのは、別のやり方をする日ということでしかない(ただし本当の病気はダメだ)。

体調の悪い日に、逆に散歩に出るぐらいのことをしてみるのもいい。
体調の悪い日に、体調のよい日と同じやり方をするから苦しいのだ、体調の悪い日は、「いかに体調が悪いか」ということを確かめながら歩けばいい。
ほんの数十メートル歩いただけで「ああ、しんどい」「くらくらする」というとき、それを笑えばいい、それは否定されるべきことじゃない。
「体調がいい」ということは、何も「偉い」ということじゃない! 僕たちはスポーツ選手として街中を歩いているのじゃないんだ、そこでかってにその日の調子の成績をつけないように。

遅く歩け、体調の悪さ以上に。

僕たちはいつのまにかすべての日々に「好成績」を収めようとしている、それで体調の悪い日にまるで「自分を呪う」ようなことをしてしまう。
体調の悪い日が、体調のよい日に比べて値打ちがないとか、そんなことありえないよ、もし人間に好調の日しかなかったとしたら、この世に文学なんて何一つ生まれなかっただろう。
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僕の知力のなさについては
もかもが、うつくしくて楽しいのだと思っていた。
が、いつのまにか、そうでないものがニョッキリ出てくるようになり……
うつくしくないもの、楽しくないものについても考えさせられてきたけれども、たぶんそれらにはけっきょく何の意味もないのだ。
何の意味もないからこそ、それが主題になっている人はつらいのだ、と想像するが、その想像もけっきょくよくわからないのだった。

つまり僕がAさんを見るから悪いのであって、Aさんが僕を見ればこの問題は生じない。
が、Aさんにはすでに僕を見るなどという機能は残されておらず、AさんはAさん自身およびそれに類似する何かをしか見ることができなくなった。
僕は人のことを見ないようにしよう、そのほうがけっきょくAさんのためにもなるのだ。
僕は何にもわかっていない、あまり知識や概念を保有するだけの知力がないのだ、僕の知力のなさについてはどうかあきらめてくれ。

知力を振り絞ったが、何の意味もなかった。

僕は、誰がどういう人であるとか、誰がどういう問題を抱えているとか、その解決策はとか、そういうことを把握する知力がもともとないのだ、実はカレンダーの見方さえ本当にはわかっていないところがある。
気候とか、うつくしいものとか、そういうものに引き寄せられているだけで、そこでニョッキリ・ドバッと何かが出てきたとしても、それのことはよくわかっていないのだった、ただ夏の光に光っているものは眼下にわかる。
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群れ充(モコるというやり方)3
ぜこんなガラにもないことを考えているかというと、何にせよ新しい可能性を模索しているのだった。
「ideaに反したキャラを確立する」という発想には可能性と爆発力がある。
逆に考えると、キャラを確立している人は、内部的に自己ideaとの背反があるので、潜在的に大きく苦しんでいるかもしれない、という仮説も成り立つ。
でも、キャラというのはそういうものだし、キャラはそれでいいんじゃね? とも思うのだ、足しになるならなんだっていい。

キャラづくりに苦しまなくて済む方法は、あくまでキャラを、完全なつくりものにすることだ、自分とつなげることさえしなければ苦しみは生じない。
そんなことをして何の価値があるんだ……ということになるが、これは価値があるのではなく「可能性」があるということになる。
営業マンが仕事上で営業キャラをつくるように、完全なつくりものを履行するということは、それだけで新しい「可能性」がある、それは新しい自分が出現していくための素地になる(かもしれない)。
何か冷たいものを想像することが必要だ、冷たい外力によって、われわれは完全なキャラづくり(for battle)を発想することができる、つまり血も涙もない何かに飛び込もうとするとき、われわれは新しい自分の素地づくりにトライすることができる。

I was born for battle, 群れ充は可能性のバトルをする。

むろん、そのバトルに勝利できず、可能性が未遂のまま敗退すると、惨憺たる結果しか残らないが、バトルというのはそういうものだ、バトルそのものを否定していては話にならない――バトルに向かえ!
バトルが明確に意識されるとき、群れ充の潜在的正義がはっきりと見えてくる、ただそれがバトルなのだと明確に知らされていないときは、誰にとっても不毛で不利益な時間に堕するだろう。
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