☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
推定売春価値2

性はつまり、自分のオマンコが、無作為に多数のオスを惹きつけることについて、一種の全能感を覚えている。
のべつまくなしにオスが寄ってくるのは、うっとうしいのだが、同時にそのことに安心しているのでもある、自分が多数に対して権力を行使する立場だと考えられるからだ/確かに、一発やらせてくれるとなれば、ひざまずいて足をお揉みするぐらいは、初対面の男だってやってくれるだろう。
多くの女性は、本当に、そんなアホみたいな端っこの、力の原理しかわかっていないので、最も平易に言えば、女性は生涯をオマンコパワーで暮らすつもりでいる、だってそれ以上の力は生涯に一度も与えてもらえないからだ。
多くの女性は、この世界のことが何もわからないまま生きていて、ただ漠然と「負けたくない」というわけのわからない強い情念だけで生きている/ともすれば女性は「いそがしい」ということさえ一度も経験しないかもしれない、まるきりオマンコパワー(鮮度依存)が歩いているだけという様相では、女性は常にいそがしさの代わりに「不満」をもって生きているだろう、こんなメチャクチャなことが実際にあるのだ。

女性は、学校の先生が話すことなんか、実はまるで聞いていなくて、自分のオマンコパワーがどれだけ自分に万物をもたらしてくれるか、そのことを夢想しかしていない。
土台がそれなので……たとえば少年に、「この空の、上空100kmまでが、この地球というか、大気圏だな、カーマン・ラインっていうんだ」と話すと、まともな少年は「へええええ」という反応だが、女性に同じことを話しても、「……?」となるのだ、それは大気圏と自分のオマンコパワーは関係がないからだ/とんでもない失礼な話、「キミなら一晩で五万は余裕じゃない?」という話なら、「?」とはならず、ただちに「あー」と納得する、少年は逆にその話には「?」となるだろう。
もちろん女性だって、アホでありたいわけではないのだが、しょうがないのだ、オマンコパワーがそれを許さないという実情がある/たとえば教壇に教師が立ったとき、生徒として起立して礼をするだけでも、女性は少なからず気分を害するのだ、なぜなら女性は自分の方が本質的には高給取りという自負があるからだ(実際、女子学生が売春にいそしめば、教師の月給など遥かに超えるだろう)。
若い女性の推定売春価値が、それなりの金額になることは事実だ、だがその推定金額をもって、自分が「今日も生きた」ということにはならないし、何より学門が一ミリも入らないのは本当にまずい、推定売春価値はオマンコの価値であってあなたの価値ではない。

「美少年のケツ穴と同じ値段だ」と言われると、女性は怒りを覚えるが、この怒りに正当性の筋道はない。

女性がオマンコパワーで生きているというのは、美少年がケツの穴パワーで生きているというのと同じだ、昨今はLGBTのこともよく言われるのだから、ここに性差別は持ち込めないだろう/美少年がケツ穴パワーで生きているというと、とてつもなく救いのないアホというふうに聞こえるが、実はまったく同質のことじゃないか、オマンコを庇護して美少年のケツ穴を誹謗するのではそれこそ性尊厳の侵害だ。
宇宙飛行士の講演に、育ちのよい少年たちが瞳を輝かして聞き入っているとして、それは「鮮度のよい高級ケツ穴が居並んでいる」という光景なのだろうか?/男女に関わらず、学門が入らないのはそれが理由だ、ずっと大前提に、「だって、わたしって、○万円で売れるし……」という文言が掛かっている、そしてその推定売春価値がゼロになったころには、もうすべてのことが間に合わないのだ。

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推定売春価値

六歳の、確かに美少年ではある少年が、ホモの金持ちに買われていたとして、「ボクを一晩買うには十万円かかるのさ、それでも予約でいっぱいなんだよ」と言ったとする。
そして、この少年の横を、「国境なき医師団」の方々が、忙しそうに「どいてどいて」と歩きぬけていったら、この少年はまるでアホのクズに見える。
少年の場合なら、こうして冷静に、「それはつまり、ただ変態オジサンたちのツボで、ドハマリしているだけだよね」ということがわかる。
しかしどうも、女性の場合、自分が一晩いくらかということで、大マジに自分の価値を量っているところがある、この売春価値が女性の脳を支配しているせいで、女性はまともに学門に触れることができない。

女性は誰でも、自分が娼婦になることを夢想したことがあり、なんというか、ホステスでも何でもいいので、おじさんから万札を出させたら「自分の勝ち」で、それで立派な上位の「仕事」をしている、と感じるところがあるようだ。
実際にはその稼ぎを得ていなくても、「いざとなれば……」と、身体を売って稼ぎうる金額を皮算用して、推定売春価値、それを自分の値打ちと評価して、自尊心を保っているところがあるらしい。
これがあるから、女性は、アホ扱いされると猛烈な怒りを覚えるのだ、特に若い女性はすべて未然の「上位職」で「高給取り」として存在している、だからアホ扱いされるとまず感情的に堪えがたい火を噴いてしまう。
多くの女性は、実はこの世界のことが何もわからないまま生きていて、だからこそ自分の推定売春価値だけが自尊心と精神安定の支えになっている、ホモの少年なら「きっしょ」の一言で済むところが、女性たちにとっては切実な自分を支えるよすがなのだ。

売春価値は、存在しているが、あくまで一種のジョークだ。

六本木でそういう美人クラブに入れば、女優やアイドルと、十数万から数百万で一発やれるようになるが、そういうのを「すごい!」と感じて憧れる女性は、本当に価値観が何もなく、本格的な意味でバカなのだと思う、「カネを動かすことが価値なのだ」ということしかけっきょくわからない人はたくさんいるのだ、百万円のファーストクラスに乗れば百万円の価値があると思っているとんでもないアホさんが世の中には多数実在する。
変態おじさんが美少年に一発十万円を払ったとして、おじさんは美少年に十万円を払ったのではない、自分と自分の快楽が大好きだから十万円を投げてよこしただけだ/別に売春が悪いわけではないが、さすがに「金銭媒介式オマンコ」を自分の時価総額の主体にするのは救いがなさすぎる、まだ中学校のときの成績が自分の価値だと思い込んでいたほうがマシなぐらいだ。

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「現在」を認識することはむろんできない
生日だということで、お祝いされて、箱根に一泊してきた、箱根はもういつものところに投宿し続けている。
今回は、飲めや歌えではなく、とにかく湯に浸かりたおしてきた、僕は恢復に快楽ではなくネイチャーが必要なタイプだ、繰り返し湯に浸かって山の麓を歩かせてもらうと一気に恢復した。
帰りに、新幹線を使わせてもらったのもよかった、小田原から新横浜なら16分で着くんだな、ワープしたみたいでびっくりだ、新宿からロマンスカーで行くのはいつもステキなのだが、新宿の雑踏を抜けるのがやや疲れるのだ、温泉帰りに巨大な広告群の中を歩きたくない。
それでまあ、帰ってきたが、この気温でも汗が出る出る、ふつうこんなに入湯すると湯あたりをするものだが、こんなことにも慣れがあるのだろうか、オッサンがもはやアルコールに悪酔いなんかしないように、いつのまにか湯あたりというのも深刻にはしなくなった。

これから月刊ワーQの編集をして、僕自身も寄稿して、明日はワークショップで、明後日はパーティか、しかしもう体調は万全だ、身体は動く動く、こりゃいくらでも遊べるだろう/ということで、たくさんの人の祝福とバックアップに、まとめて御礼申し上げます、まとめてというところがひでえ横着だが、まあいいだろう、僕が横着でなかったためしはこれまでに一度もない。
明日はワークショップで、基礎から確認し直して、あとそろそろ、慣れてきた人には次のステップに進んでもらおうかな、テメーらが接触しているのはまだまだ奥義なんかじゃねーよということを、また目撃してもらってため息でもついてもらおう。
忘れないようにメモしておこうかな(ひどい記事だ)、命令法は空間そのものに触れているというのが本質だし、金魚法は「何もしない」がイコール「止まらない」ということでもある、釣り合い法はある意味、「相手を掴んでいないから接触している」ということでもある/「止まらない」ということは「未来に進んでいる」ということでもあり、未来というのはつまり、永遠にやって来はしないものだ、やって来たらそれはもう現在だからな。
われわれは、現在そのものを認識する能力を持たない、なぜなら「認識」という機能そのものが、時間を消費するからだ、云わずもがなゼロ秒で認識はできないのだから、「現在」のつもりで認識している瞬間は、それが認識である以上すでにコンマ何秒か「過去」だ、だから「現在」の中を活動しようとすると、認識が発生する以前の中で活動するしかない、これを未来法と呼ぶ……べきだが、まあどう呼ぶかはまだやってみないとわからないな。

ピッチャーが球を投げる前に、一塁に走ってよい。

人間は、しょうもないルールにあっさりと縛られるもので、ピッチャーの投げた球をヒットしてからしか、一塁に走ってはならないと思っているのだ、そんなアホなルールはこの世界のどこにもないぞ、ピッチャーがまだ球を投げていなくても、おれはとっくに打ったのだ、それをお前らが認識できていないだけで、そのお前らの認識に都合して物事を決めようとするから、物事のすべてはガッカリ残念の虚しいカスみたいになってしまうのだ/まあヒットを打ってからしか一塁に走ってはならないというのは、百歩譲ってわかるとしても、ヒットを打つのにわざわざピッチャーが球を投げるのを待つのかね、そんなヒマなことをしている時間がどこにあるんだ。
もし、ピッチャーが投げる前にバッターが走ったら、「野球にならない」ということであれば、それはもう出来合いの、誰かがやった「野球」を二番煎じでなぞっているのだろう、もうちょっと自ら能発的に物事をやったらどうだ、辞書に載っている野球は過去の野球であって「現在」に営まれている野球ではない、そうして一度たりとも「現在」に踏み入らずに最期まで過ごすつもりか。
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次なる恋愛フォーマットのゆくえ
まに、恋あいのことを考える。
多くの若い女の子が、恋あいなし生きていくのはかわいそうだ。
今、事実上、恋あいは無理なのだが、なぜ無理かというと、フォーマットが壊滅しているからだ/フォーマットに乗るのは基本的にダサいのだが、かといってフォーマットなしで恋あいを獲得しろというのは、現実的にご無体がすぎる。
今どき合コンというのもリアリティがないし、ねるとんやらあいのりやらテラスハウスというのも、遺物であって使いものにはならないだろう、ましてゲレンデでシュプールというのはさすがにない、だからチャットアプリで出会い厨をするしかないのだが、これは青春が欲しかった女の子に対してあまりにも残酷すぎる仕打ちだ(iOSはちゃんと、「出会い厨」を予測変換してくれる、なんてひどい話だろう)。

フォーマットというのは、たとえばバレンタインデーに、「はい、義理チョコ」みたいなことが、社会通念上に成立していたことを言う/もし何のフォーマットもなければ、元日にやたらハガキが届いたら「何これキモい」ということになる(年賀状というフォーマットも、おそらく今の十代にはないはずだ、年賀状は20世紀で終焉したのだろう)。
われわれは、フォーマットなしには、他人にチョコレートも贈れないしハガキも送れないのだ、だからフォーマットなしに恋あいなんかできるわけがない/たとえば、今聞くと冗談みたいだが、かつて女性は、男性に食事に誘われると、「あの、それってデートってことですか?」と、そのことを確認しようとしてアワアワしたものだ、それは「デート」というフォーマットがあったということだ。
もちろんそんなことを言い出せば、僕より古代の人も、元旦には本当に「書き初め」とかしていたのだろうし、元服とか帯刀とかいうのも本当にあったのだろう、旧来のフォーマットはすべて失われてゆき、現代は代わりにコスプレというフォーマットが出てきたのだが、コスプレで勃起してセックスして「恋あい!」というのは、いくらなんでもな……しかし実際にありうる、もう合コンを考えるよりコスプレコンパを企画するほうが脳みそがまともだろう、あとはジョギングやボルダリング等のフィジカルコンパがありうるが、フィジカルというのは基本的一人で営むものだから、これを恋あいに結びつけるのはどうもやりにくい。
現代で、非コスプレ的恋あいを考えるなら、「君の名は」みたいにするべきなのだろうが、何しろ僕は未だその映画を観ていないので、その先は考えられないのだった、なんだそりゃ/とりあえず現代の恋あいは「君の名は」に倣おう、何しろ観ていないので好きなように言えるのだった。

「家族」ですることがなくなったように、「男女」でもすることがなくなった。

フォーマットの崩壊に合わせて、することがなくなったのだ、今どきお盆に迎え火や送り火を焚く人はないだろうし、お中元だのお歳暮だのもまもなく消えるだろう、上場企業で忘年会や新年会をしているところはまだあるのだろうか? クリスマスや正月も実際には「することがない」し、男と女も、先輩と後輩も、教師と生徒も、店と客も、死者と生者も、することがなくなったのだ、だから何もかも業者が運営するイベントに頼るしか、営みらしきものは持てなくなってしまった。
具体的には、すべての年中行事は、コスプレイベントにするのが最善だと思う、クリスマスコスとか正月コスとかお盆コス、節分コスやバレンタインコスということなら、はっきりとした一年間が忙しくなるだろう、そうしたら差し当たり、出会いの機会は増えるし、恋愛に発展することもあるはずだ、これは冗談で言っているのではなく割とリアルなこととして言っているつもりだ、青春のフォーマットは今のところコスプレにしか光がない/男とデートなんかするのは勘弁だが、コスデートなら「いいかな」という、次のフォーマットが見えてきてはいるのだ。
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シンプル悪霊説4

「悪霊」などと言っていると、まるきりアホの話に聞こえる。
が、いいのだ、「悪霊を困らせよう」という発想で、すべてがわかりやすくなるし、なんというか、馴染みがよくなる。
悪霊を困らせるにはどうすればいいかというと、まっとうなことをすればいいのだ、感受性うんぬんを出しゃばらせずただ「まっとうなこと」をするということ、これが悪霊にとっては一番困る。
たとえば、当たり前に人に挨拶するとか、目上の人には敬語を使うとか、仕事をテキパキするとか、なるべくたくさん勉強するとかだ、こういうことを感受性抜きにして当たり前にやっていくのが、悪霊にとって一番「困る」ということになる。

「まっとうなこと」を、マジメにやろうとすると、何か異様に善人チックになり、キモチワルくなる。
また、そのキモチワルイことを、断行しようとすると、何か感受性にスイッチを入れなくてはならなくなり、それもさらにキモチワルさを増大してしまう。
だから、「まっとうなこと」をするのに、その理由を、「悪霊を困らせるため」と定義づけるのだ、人に挨拶をするようなことは何もハイではないしダサいことだが、「悪霊を困らせるため」ということなら、なかなか痛快でよろしい、趣味としてはなかなかウイットが利いていてよい趣味だと思う。
悪霊と、戦うとか、根絶するとか言い出すと、それはまたヘンな人ということになるので、悪霊を「困らせる」という、ネタとして扱ったらいい、さわやかにされるのが悪霊としては一番困るのだ、そして前向きにさわやかになるというようなブキミなことはせずに、「悪霊を困らせる」ということ、悪霊を困らせるというのは、ストレス解消に罪がなくていいじゃないか。

悪霊を困らせるということは、悪霊入りの上司も困らせるということだ。

イヤミを言う上司というのは、どこの企業にも、まるで意図的に仕入れたかのように存在していて、そのイヤミがイヤミとして有効にはたらくのは、イヤミが感受性のスイッチを押すからだ、ここで感受性を無力化する術を持たれると、イヤミ上司としては困るのだ、悪霊を抱えている自分だけが損じゃんということになる/イヤミ上司に向けては、「おっ、今日も悪霊が元気ですね!! 今日も支配されていらっしゃる!!」と思えばいい、だって実際にそうなのだから(と、他人事だと大いに笑えるよな)。
実際、ブラック企業などと生ぬるいことを言っておらずに、伏魔殿の悪霊従業員たち、と断定してしまったほうが、世の中にロマンがあっていい/こりゃどう考えても悪霊説を知っているほうが有利なのだ、悪霊に憑かれている当人はその知識がないからカワイソーで、見ているこちらからすれば「んふふ、これは行くとこまで行きますね〜」と他人事を見物できるのだから、精神衛生にとってもイイのだった。

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シンプル悪霊説3

ったくアホみたいな話だが、たとえば以下のような、アホの文言を並べても、割とそれっぽい感じになる。
感受性、ドクンドクン。
感受性、ドクンドクン。
感受性、ドクンドクン。

なんだこのアホな文言は、しかもコピーして貼り付けただけだし……しかし悪霊の基本はこんなしょーもないことなのだ。
こんなアホの文言でも、内容が当を得ているので、ちゃんと効果は成立するわけだ、逆に「本当にこういう仕組みなんだ」ということがわかりやすいだろう。
このアホみたいな仕組みに、何かそれっぽい映像の明滅と、音楽のズンドコを足すと、「うーん、トラップ・ミュージック」みたいになるのだ、感受性のイージーさをナメてはいけない(いや、逆に全力でナメろ)。
悪霊であろうがなかろうが、さすがにこんなアホなことはやめなくてはならない、善悪というより「貧しすぎる」のだ、なんなんだこの貧しさは、あそーれドクンドクン、ドクンドクン、もひとつドクンドクン、感受性〜がドクンドクン〜ホイ〜。

「感受性、ドクンドk…」「きみはアホか」

まさかのまさか、そんなバカなという話なのだが、この感受性ドクンドクンが「ネタバレ」なのだ、本当にこんなスッカスカの仕組みで人は操られるのだ、こんなことはガンガンネタバレして悪霊などをガッツリ困らせていくべきだ。
さすがにこれはないわ、自分がケガしたら119番するくせに、安くて品質のいいコスメがあったら使うくせに、そういう公共性だけ利用しておいて自分は「ドクンドクン」とか、そんなテキトーなチョンボがあってたまるか。

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シンプル悪霊説2
「感性」は別に悪くないし、「感覚」はあって当然のものだし、感覚なんかバッチリ使いこなすべきなのだが、「感受性」はダメだ、感受性というのはただの悪霊用のスイッチでしかない。
だから、悪霊退散ではないが、悪霊サイドにとって「困る」という状況を作るためには、「感受性」から離れるのがいいのだ、感受性を軽視されたら悪霊としては人を操る方法がなくなるので困るしかない。
だいたい、世の中の猟奇的な犯罪等を見ればわかるが、「感受性」が暴走しているからそういうヤバイ奴になるのであって、感受性が軽快化していたら、そんなヤバイ奴にはならねーよ、街中のヤバそうな奴を見てみろ、誰だって「感受性」が盛り上がっているからこそヤバそうな奴になっているじゃないか。
いわゆるサイコパスというような存在に、多くの人は感心があるようだが、サイコパスは感受性がないのではない、感受性がなけりゃ猟奇的なことなんかしねーよ、サイコパスというのは感受性に支配されて感性や感覚がなくなっている人のことを指すのだ/仏像と悪魔の絵でも並べてみろ、どうみても仏像の側に「感受性」は見当たらねーよ。

シンプル悪霊説は、実にシンプルに、「悪霊を困らせよう!」という発想に立脚する/悪霊を困らせるには感受性から離れることが第一だが、その方法としてたとえば「自分をバカにする」という方法がある。
「僕はマンモスの生まれ変わりでプリンを鼻から食べまーす、両手にダブルリモコン!」と部屋で踊っている奴がいたら、こんな奴はあまりに感受性がない、こんな感受性のない奴を悪霊が操れねーよ、「ただいまよりフライドポテトを音速で喰います、フオオオ〜」と両手をクロスさせている奴をどうやって悪霊が操作するのだ、こういうのが悪霊にとって一番居心地が悪いのだ。
感受性でウルウルしたり、自己陶酔したり、逆に自己卑下したり、妖しい気分になってみたり、キチガイゲージを開放してみたり、怒鳴ってみたり、クスリをキメてみたり、とにかく意味を見つめてシリアスになる人ほど、悪魔にとっては上質で居心地がよくなる、「八方手裏剣って味方にも当たらない? 周りにチョー迷惑だよね」とか言い出す奴のほうが、悪魔にとっては操り甲斐がなくて最悪の居心地だ。
シンプル悪霊説は、シンプルに、悪霊の居心地を悪くする、そのためには「自分をバカにする」というのがいい、陶酔でも卑下でもなく、攻撃でもなく、思索でさえない、「ハーイボクはブラッドピットよりかっこよくない何かだよ〜よろしく〜」「ボクが人並みに持っているものといえば、うーん握力ぐらいかな」「休日って鼻毛抜くぐらいしかすることないんですよね」というような発言ばっかりしているのが最適だ/人は自分をバカにしているとき感受性のはたらきようがない

自分をバカにしよう、まさか自分をバカじゃないとは思っていないよね?

まさか、USBメモリの仕組みさえわからないのに、自分を賢いと思い込んだりはできないよな、自分をバカにすること、たとえば僕のよろこびは六本木で女の子のお尻を眺めることであって、女の子のお尻って六本木の特産品かな? というようなことばかりを考えている、これだから僕などは偉大な文学者でステキだなと思っているのだ、僕はバカなので自分をバカにする方法さえよくわかっていない、自分をバカにするということは、よくわからないので、まあお前らなんか悪霊の手駒で別にいいんじゃないのという気がしてきた、「悪霊の手駒だああああもうyoutubeをクリックするしかない」というぐらいが、ちょうど自分をバカにしていてよいかもしれない。
自分をバカにするというのは、感受性を無力化するのに最も手早く、直接的な方法だ、今日の好きな言葉は「エッセンス」、うあああ脳みその性能が悪いよう、と自分をバカにしながら生きよう。
 
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シンプル悪霊説

ンプルに考えたい/そして役に立つなら何でもいい。
現代人は、過去の人間より、明らかに「スカしている」と思うが、何もスカしたいからスカしているわけではないだろう。
本気になればいいのだが、本気になるとダサくなるというか、本気になろうとすると、イタくなる、あるいは何か、発狂している、みたいなものが出てきてしまう。
本気になろうとすると、そういう痛々しいアンド禍々しいものが出てきてしまうので、しょうがない、だからスカすしかないのであって、何もスカしている感じに新しい価値観があるわけではない、唯一の選択肢としてスカしているだけだ。

シンプルに考えたいし、役に立つなら何でもいいので、わかりやすーく考えるが、これはつまり、悪霊が憑いているのだ。
本気になろうとし、全身全霊になろうとすると、なーんかグチャッとした「悪霊」が出てくるのだ、それが痛々しいしキモチワルイ、割とマジなレベルで禍々しい、実際内部的に「闇」を自覚している人は多いしな……全身の全霊に悪霊がたっぷりinしていれば、そりゃ闇と狂気でアタリマエだし、全身全霊なんかお見せできないというのが当然だ。
だから、悪霊退散しなくてはならないわけだが、悪霊退散のやり方なんてわからないし、そもそも自分で招き入れた&ご購入あそばした悪霊については、契約が為されているので気合いうんぬんで退散はさせられない/どこで招き入れたのかな〜どこで購入したのかな〜そんなことマジメに考えてもしゃーないけどな。
シンプルに考えればいい、悪霊退散と鼻息を荒くする前に、悪霊を思い切り「困らせる」のが大事だ、悪霊の居心地を根こそぎ悪くしてやることが大事/そして悪霊というのは「感受性」で人を操っているので、われわれが感受性以外の行動をすると、悪霊にとっては「困る」のだった。

お中元や年賀状等、「つまんねー」と感じられる文化は、もともと悪霊にとっては「困る」ネタだった。

「つまんねー」と感じるのは、その文化と行為が、感受性と無関係だからだ、感受性と無関係な行動をされると、その部分については悪霊は人を操れないので、「いかん」「まずい」「困る」「操れない」「バレる」「居場所がなくなる」と悪霊側は焦るのだった/もし悪霊なんてモノを肯定するのであれば、悪霊というのはそういうものです、「感受性」で人を操るのが悪霊です。
全身に聖水をブッかけてどうこうとか、そういうものじゃないな、「おお、聖霊よ!」とか、感受性で盛り上がっている人は、悪霊にとってはナイスパターンなのだった/その証拠に、「感受性」が爆発しているおばちゃんが、本気アンド全身全霊などやらかした日には、とても見るに堪えないものが出現するのだった、だから悪霊=感受性で合っているのだ。

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ネット・カルマ・レバレッジ

態をついたり、人の陰口を言ったり、大切なものを罵ったり、揶揄・侮辱したり、曲学を嘯いて人に吹きこんだりすると、たいていロクなことにならない。
バレなきゃダイジョーブ、ということは確かにあるのだが、たとえ匿名であったり相手にバレなかったとしても、自分の口には悪口を言ったという履歴が残ってしまう、筋トレをした腕には熱と筋肉痛と筋力増加が残るように、悪口を言えばやっぱり口には何かが残るのだ、何かしら身が汚らしくなり、重くなる/この現象を古代の人々は業(カルマ)と呼んだ。
デカい「やらかし」をするほど、業(カルマ)もデカくなるのは当たり前だが、そこで現代、われわれの状況を考えねばならない、われわれは通信端末を手に入れ、Web上・SNS上にどんな軽口でも放りこめる環境を与えられている/われわれの「発信力」は格段に上昇し、どんな軽口も即座に・多数に・明瞭に、発信して伝達できるようになってしまった、このことがどうもわれわれの業(カルマ)状況にも影響を与えているようなのだ。
単純に言うと、われわれの口がやらかす、悪口や讒言、中傷や誹謗が、通信端末の発信力によってレバレッジされるという状況があるのだ、発信力の増大はナイスなのだが、そのぶん業(カルマ)の発生速度も激増しているじゃんという話/裏アカウントだしバレなきゃダイジョーブというのは、間違いないのだが、それで自分のやったことが消えるわけではない、自分のやったことはちゃんと自分の身に残っているもので、そんなものを若いうちに何十倍・何百倍・何千倍もレバレッジかけてダイジョーブなのかよという、これはリアルな話なのだった。

レバレッジというのはあれだ、検索してもらうのが一番だが、簡単に金融的に言うと、十万円の元手で二百万円の取引をするというような方法だ、実際にある金融商品で、ハイ・レバレッジをかけて取引をしているのは、ハイリスクハイリターンであり、多くの人は「やけくそ」「中毒」でやるようなことでもある/貧乏人が短期間に数億も稼ぎ、絶頂しているところ、翌日にはスッカラカンどころから借金まみれになって自殺するようなケースは、多くこのハイ・レバレッジが原因だ、負担できる範囲の何十倍もかけてギャンブルしているのだからどうしてもそうなる。
そして、業(カルマ)というのはアレだ、逆に考えるとわかりやすいが、誰だって人生を振り返って、「あのときわたしは、われながらまともな、徳のあることをしたんだよな」と確信できることがあると、そのことを支えに、自分を認めて生きていけるじゃないか、そのおかげで少しは身を軽くして生きてゆけるということ/じゃあやっぱり、逆もあるのだ、「あのときわたしは、とんでもないことをしたし、とんでもないことを言ったからな」ということを、人は自分で覚えているもので、これが償却されないかぎり、人は身軽には生きていけないのだ、前向きに生きて何かをよろこぼうと思っても、「でも……」とずっと足を引っ張られてしまう、それは徳行の反対なのだからしょうがない、<<業(カルマ)は、たとえ自覚がなくても、関係なしにきっちり「身」に積み重なるものだ>>、その点はいっそ摩訶不思議とさえ言いたくなるところがある、原因を自覚はできないのにこころの内の黒さだけが拡大していくというキョーフの状態が実際に起こる。
現代のネット環境・発信力倍増環境で、日々の気分のままに、悪態をつくようなツイートをすると、そのツイートを何百人もが目撃することになり、当人はそのことを意識せず、また記憶から次々失っていったとしても、「身」にはちゃんと残っているのだ、何百人もの手元に悪意の何かを届けたということが、業(カルマ)になって身に残っている/本人は、そこまでのことをしている自覚はないだけに、自分の身が重く・汚らしくなっていっても、「なぜ?」ということはまったくわからないのだ、こんなおそろしい状況があるだろうか。
冷静に考えて、たとえば自分が気分のままに思いついた悪態や悪口を、何百枚もの紙に書き、それを無作為に誰かの家にポスティングしていったとして、そんなことが業(カルマ)にならないわけがないじゃないか、フツーに考えて超絶コワイ行状だ/むろん憲法に言論の自由は保障されているし、本人はただ現代風に「ツイートしただけ」と思っているだろうが、それでまったく誰からも責められないにせよ、「身」に積もるカルマは、ちゃんと相場どおりに積もるのだ、カルマの発生源を身口意(しん・く・い)というが、これのレバレッジ装置をふんだんに活用して毎日を送るというのは、本当にダイジョーブなのか、ツイートしたりどこぞの掲示板やレビュー欄に書きこみしたりすると「スッキリする」のはわかるが、そんなに安易に「スッキリ」が手に入るということ自体はヤバくないのか、ふつう「一口でスッキリする薬品です」なんて警戒するだろ。

ハイ・レバレッジは、多くの人が「やけくそ」「中毒」でやるものだ。

ツイートや書き込みは、手軽に「スッキリ」を得られる方法かもしれないが、結果的にどうなったかというと、現代人は明らかにスッキリしていないわけで、疫学的にはむしろ逆、身がどんより重く、汚らしくなるということに、環境は作用しているはずだ、発信力倍増装置としてのインターネットは、当たり前だがわれわれに徳行を積ませるナイスアイテムには、主流としてはならなかった。
重要なことは、われわれはネット上に無数の「ひどい」ツイートや書き込みを目撃するのに、その「ひどい」ツイートや書き込みを、「わたしがやっています」とは誰も名乗らないことだ、だからどういう発信をした人がどういう身の様態になるかの、データが集まらない/もし身の様態とネット発信内容の相関を可視化できたら、若年層の多くは「ゲッ、これはやめよう」と思いとどまるのではなかろうか、もしリアルに声が汚く・暗くなるということなら、さすがにそれを引き替えにしてまでネット上に悪口なんかまき散らさないだろう(中年以降は、もうやけくそで引き返さないかもしれないが)。

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合理的に見たキリスト教の必要性2

道は主に、「浄穢」をテーマにしている、これはわれわれ日本人にはわかりやすい、大晦日までに大掃除をするのはこれが理由だ、そしてその先の奥義は、逆にむつかしすぎてわれわれには到底わからない。
キリスト教はきっと、「聖俗」をテーマにしている、これはわれわれ日本人には縁遠い、だからわれわれは意図的に学ぶ必要がある、特に暮らしの卑俗化に対抗する知識として今急速に必要性を増してきている。
仏教は究極、「有無」をテーマにしている、有も空であり無も空であるというような、「色即是空」の、理解ではなく会得を、仏教は "入口" にしている、これはわれわれ日本人にとってとりあえず「すげえ」というのがわかるが、自分がどうしたらいいかは「さっぱりわからん」となる。
ハラキリや突撃や武士道に顕れているように、東洋の宗教観は、死生観がハードなのだ、神仏に比べたら小さなものだから「サッと死ね」と言っているようなところがあり、われわれのうちにある「聖なるものに出会わせてください」という願いを突き放しているところがある、そのぶん東洋の宗教は宗教戦争を大規模に起こさずに来たのだが(サッと死ぬという発想の奴が戦争なんか仕掛けない)、それにしても生と自己実現という思想を植え込まれたわれわれにとっては突き放しが悲しいのだった、現代のわれわれにはソフト路線としてキリスト教への基礎知識と理知的尊崇が求められている。

われわれは、「穢れ」という感覚で、具合が悪くなるときがある、そういうときは神社でお祓いでもしてもらってこいということになる。
またわれわれは、人生が無意味だとか、絶対に取り去れない憎しみが有るとかで、具合が悪くなるときがある、そういうときは禅寺で座禅でもしてこいということになる。
そして、特に現代のわれわれは、生活環境において「俗悪」にまみれ、俗悪およびそれ以上の何かに毒され、それによって具合が悪くなるときがある、そしてそういうときは「教会で……」という手続きが、われわれの内にない/もちろんこんなテキトーな発想で、教会の世話になるべきではないと思うが、僕は教会の実態は知らないのでよくわからない、とりあえずいちいち施設のやっかいになる必要はない。
僕の感じているところ、産業に取り囲まれたわれわれに降り注いでいる俗悪、および俗悪以上のものが、われわれの身にキツすぎるのだ、何の対抗手段もなくガンガンその毒を放り込まれている/俗悪の技術を、外国から輸入したのに、その拮抗阻害になる「聖」は輸入していないというのでは、バランスが壊れるに決まっている、仮にオンラインゲームなら調整アップデートが至急に必要な状態だ、「俗悪系で攻められたら勝ち目ねーじゃんこれ」というクソゲー状態だ。

パワースポットは流行したが、ホーリープレイスは流行していない。

流行しようがないのだ、そもそも「ホーリー(聖)」という概念が輸入されていないのだから/汚穢には浄化のパワーで対抗できるが、そのパワースポット的発想では「俗悪」には対抗できない、いかなる神宮も「清浄」なのであって、俗悪に対抗するパワーではないのだ、かといって仏教を持ち出すと、仏教は基本的に「解脱」のことしか言ってくれない。
われわれ日本人には、もともと「トレーニング」という発想がなかった(たとえば相撲取りは稽古で身体を作るのであって筋トレで身体を作るのではない)、だから「聖」という概念も必要なかったのだが、己の身に力を蓄えるという発想を持ち始めると……力の原理は、愛の原理の反対なのだ、力の原理だけ与えられて「聖」の概念を与えられないと、俗と力だけが肥大化し、「愛」の原理にまったく触れられなくなる、よって今こそ汚穢でもなければ善悪でもない「聖」の学習が必要なのだった/「聖」のバリアがないと俗悪の「力」に入り込まれるのだ。

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合理的に見たキリスト教の必要性

はゴリゴリの仏教徒だし、ちゃんとしたクリスチャンに知己がいないので、「キリスト教」というものがどういうものなのか、直接の体験として知らない。
ただ、聖書というのは一般にあるものだし、イエス・キリストのストーリィを、漠然と知ってはいる、逆にクリスチャンでも、日本人なら「ナムアミダブツ」ぐらいは知っているのではないだろうか。
宗教および帰依の問題ではなく、宗教「的」な暮らしにおいて、キリスト教の必要性はとても高いと感じる、仏教徒の僕だってイエス・キリストという人が偉大な聖人だったことぐらいは当然にわかるわけだし……
なぜわざわざ「必要性」なんて、不遜な言い方をするかというと、リアルに考えたいからだ、仏教は真理に富んでいるが、仏教はすべての "産業" からあっさり切り離される前提ですべてを教えている、それは究極的に真理なのだろうが、まだまだ産業と共に暮らしそうなわれわれについて、基本的にケアがないので、われわれは見放されているようでトホホと感じさせられてしまうのだ(もちろんちゃんと勉強したら大乗仏教の現世利益もちゃんと定義されているのではある、仏教では愛ではなく慈悲と捉える)。

あまり上手に言えないが、 "産業対抗力" としてはキリスト教に偉大な力があるように感じる、むしろ産業と共に暮らすのであれば、聖書およびイエス・キリストとその教えは偉大だったという情報が、不可欠なのじゃないかという気がする。
僕はどうしても、帰依の問題は別として、イエス・キリストへの尊崇と、仏教の真理性を認めることとに、衝突があるようには感じられないのだ、そして産業的な暮らしをする中で、イエス・キリストの情報ゼロというのは、危険というか無謀という感じがしている、どういう理由でという説明はうまくできないのだが、まあそんなもん説明で伝わるようなことではないだろう。
かといって、キリスト像に礼拝したり、ちゃちにアーメンと唱えたり、教会に通ったりして何がどうなるというわけでもないし、そういう安易な救済のつまみぐい発想はたいていロクなことにならんものだが、なんというか、言うなれば、われわれは産業においてホラー映画をいくらでも見せられるのに、ホーリー映画を見せられることはまったくないということなのだ、それはバランスが悪いのであって、これが割と冗談ですまないところがあるのだ(フツー気づかれないレベルで)。
われわれの国には神道があるから、浄穢については対抗できる、けれども「俗」に忍び込む「邪」に向けて対抗する手段がない、俗の反対は「聖」だから、聖というとキリスト教が代表なのだ/われわれが産業と共に暮らすというのは基本的に「俗」なことだから、「聖」の教えがないと産業の俗悪に対抗できない、特に最近の産業は俗悪を越えて邪というほどのパワーがある。

仏教は目的地を与え、キリスト教は目的地までのバリアを与える。

仏教は、特に根本仏教においては、「ん? 仏道を行くなら産業には用事ゼロじゃない?」と平気で言ってくるところがあり、しかも「産業に肩入れしてたらそりゃカルマ道に行きますよ」「目的地が与えられたら寄り道の必要なくない? だからバリアとか要らなくない?」と容赦のないところがある、それは真理としてはそうなのだろうが、われわれは筋金入りの「迷い」を行く人なので、いきなりナマの真理だけというのは辛すぎるのだ、「迷える仔羊」という実態へのケアはキリスト教のほうが充実している。
産業に仕込まれた俗悪が、血と霊にまで入り込まないように、合理的にキリスト教は必要だと感じている、神道のお祓いやお札は穢れたものを祓う力があるかもしれないが、あまり悪魔や呪いに対抗するものという感じはしないので……/それぞれ洗い物に対しても洗剤や漂白剤や消毒液が用いられるように、われわれはこの産業の中に生きるのならばキリスト教への基礎知識と尊崇が必要なようだ(ただしそれ用のヘンなアイテムなんか買ってこないように、ただ「勉強しろ」というだけの話だ)。

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「受け身」は怖い

うーむ、ナゾは解けてきた。
ナゾは解けてきて、ますます困る、ということも出てきた。
困るといっても、本質的にうれしい困惑なのだが、何のことかというと、僕は何かについていったり、何かを説明したりということが、機能的に許されていないらしい。
本質的に、あるいは霊的にというレベルで、僕は野暮を禁じられているのだ、その方向には数秒も進めないようになっている、よって方法は、おれが愛されるしかなく、おれが何かをしてやるということは不可能なのだ、そりゃ身分構造的にそれでアタリマエといえばアタリマエのことではある。

もう、しょうがないのだ、僕があなたから奪い、あなたが僕に捧げるしかないのだ。
何を捧げるかといって、まあ単純には、読む時間とか、読む労力とかだな/僕の側から説明の労を費やすということは、構造的にできない、もしそれをやると、とてつもないマイナスがあなたの未来にセットされてしまう。
労を費やされる側……いわゆる「受け身」というやつだが、「受け身」というのは怖いんだな、スマートフォンそのものが悪いのじゃない、スマートフォンがもたらした「受け身体質」が怖い、スーパー消費者の行く先は想像しているよりも遥かに真っ黒で重油のように粘り着きあなたを取り込んで離さないだろう。
またよりによって、僕自身、最低ランクの身分たる自分を、いつでも起動できるし、それを使い慣れているから危ないのだ、みなさんにご愛顧いただけるサービス・マンたる能力が、むしろ僕の出自だというのが危ない、多くの人は逆にサービスを受けるのが本分で出自ですという感じだから、相互にピタッと嵌まりうるのが危ない/僕が野暮側をやるのは全然かまわんのだが、前もってシャレにならん闇になるとわかっていてわざわざそれをやるのは、さすがにどーなのと最近は冷静に考えるようになった。

高みから風を受けるということは、あなたが落下させられるということだ。

誰だって、冷静に考えればわかることだ、高みに向かっている人は、低みから追い風を受けていないと構造的におかしい、高みから追い風を受けているのだとしたら、そりゃ自分は低みに向かっているんだ、だから「受け身」は怖い。
受け身の人は、もちろん高みにあるものを選び、そこからわざわざ「受け身」に風を捉えるのだから、自分を低みに追い落としていることになる、だから「受け身」というのは怖い/よくよく考えりゃ僕自身は、自分より高みにある人に対して、受け身になんかなったことはないな、そのときに受け身になるという感覚が、僕には正直よくわからないのだった。

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アレについて、先払いと後払い

んなものは、マンガみたいな話だと捉えてもらえればけっこうだが、人に霊力というようなものがあったとして、聖霊と悪霊とでは、霊力の得られる手続きが違うのだ。
聖霊の力のほうは、先払いでしか手に入らず、悪霊の力のほうは、後払いで手に入るのだ、だから手持ちがないときに「それでも力が要る」という場合、人は悪霊の力を借りることになる、いわゆる「悪魔と契約した」的なことで、契約したからには必ず後で支払いが待っているのだ、それでもとっさにすぐ力が手に入るのは、街中のキャッシングローンと変わらない。
比べると、聖霊の力のほうは、先に支払わねばならないのに、商品はなかなか手元に来ないのだ、それ自体が高価だということもあるが……つまり聖霊の力というのは、何のトクにもならないと思えることに、純粋無垢に打ち込んで、報酬をもらうことなんか忘れていたわ、というようなころに、ふっと手元に届くようになっている/ここで少しでも、「あの、報酬を……」と請求すると、聖霊の力は届かない、サッと手元に届くのは決まって悪霊商品なのだった。
筋トレなんかはわかりやすい、十年前にした筋トレの成果が今になって現われてくるなんてことはないはずだ、比べると十年前に先輩にシバかれたことが今になって「あれ?」と、自分を支えていることがある、霊力といって聖霊の側はそれぐらいまだるっこしいのであった、こりゃご時世的には悪霊パワーのほうが流行するのは当たり前だ。

手に入った霊力も、商品として性質がことなって、聖霊の力は不動産的に手に入るのに、悪霊の力は消耗品的に手に入るのだ/聖霊の霊力が得られたとき、それは一生使えるのだが、悪霊の霊力が得られたときは、それは数回も使えばなくなる、だから悪霊の霊力はずっと仕入れを続けねばならなくなる。
それは、聖霊の力が「(永遠の)世界」の力であって、悪霊の力が「滅ぶもの」の力だから、わかってしまえば当たり前のことなのだが、気の短い消費者には、悪霊パワーのカタログしか届かないのだった/そして消費したぶんは後になって支払いが待っているので、加齢すると身体がガタガタになっていくのだった、「最近疲れやすくなった」のではなく、今になって支払いが立て込んできたということなのだ、うーんおっかねえなあ。
悪魔のカタログしか手元に届かない人は、気をつけて、あなたはこれまでに、何のトクにもならないことに全身全霊で尽くした、打ち込んだということが、一度もないかもしれない/それは、十年後の仕入れのことなんか教わっていないのだから、そんな無駄な投資はしなかっただろう、十年前にあなたに盛り上がったもの・流行したものは、消費されてあなたの財には残っていない(支払いは残っている)。
霊力の仕入れについて、年長者としてノウハウをお伝えしている、今日純粋に損をするということは、数年後の聖霊を仕入れているということで、今日それなりのトクをするということは、今日の悪霊を仕入れて支払いを後に残しているということだ/どちらも何か不当性があるわけじゃない、ただ前者は消耗品ではなく、後者は消耗品の仕入れだというだけだ、そして仕入れ先の問題もあって、聖霊の仕入れ先はごく少なく、悪霊の仕入れ先はいくらでも乱立している。

今日、必ず損をしなくてはならない。

正直な話、そういう感覚のない人を見ると、僕は不思議で、「怖くないのかね?」と、首をかしげてしまう、僕はどの一日でも、自分が損をしているようでないと不安でならないのだが……/計算ずくで損を納得する人は、いまいち的外れだと思う、それはけっきょく損を拒否しているからな、正しくは<<センスで損をしなさい>>、筋のいいヤツってたいていそうだ、損の仕方が小粋で上手だ。
人はトクをすることに弱く、損をするという発想がわからないので、せいぜい「善」というところに逃げ口を探す、たとえばチャリティー的な発想がそれだが、「善」なら損をしてもいいかと捉えるのだが、これはセンスが悪い、悪に損をしないと聖霊の力は仕入れられない、だからこそ "聖霊の仕入れ先はごく少ない" のだった。

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愛なきものの恣意的な陳列
おお〜とにかく愛がないとな。
どれだけ「楽しい」ふうをやられても、そりゃ違うのだ、ダメというわけじゃないが、愛がないことはごまかせない。
愛があれば、ふつうそこまでわざと楽しそーにはしないものだし、そこまでイカツイ顔をするものでもない。
「アタシ」感とか「オレっち」感がやたら強いものが目立つが、それはどうブーストしても、愛のなさから発生している感触なので、違うのだ、愛とは無関係のジャンルですという場合はそれでいいのだが、愛に関しては冷静に「違う」と言わざるをえないのだった。

うおお〜愛というのは、いっそわかりやすいのに、なぜわざわざ避けているのか、いや「わかりやすい」と感じているのは僕だけなのか? そのパターンは容易に想像がつくが、なぜこの現代はわざわざ愛のないものを選りすぐって陳列するのかと不思議でならん。
「愛」って、基本的に、所属が違えば永遠に手に入らないぜ、プールに釣り糸を垂らしているようなものだ、表面上は似ているがやっていることはまったく別ジャンルになってしまう。
「ハイになる」ってことじゃないのだ、「ラブになる」ということなのだが、人は所属が違う場合、蛇の原理でハイになるので、違うのだ、とにかく愛の原理と現象を正確に学習する必要がある(ただし、学習しても手に入るかどうかは別)。
映像を一枚ずつ見せて、「はい、ここに愛はありますか〜?」という、テストをやってやろうか、これホントに正答できないとまずいんだよ、愛がないジャンルが悪いわけではないが、そこに愛がないのがわかっていないのはまずい、蛇に帰依すれば帰依するほど人はギラギラ輝くものだしエネルギーも獲得するものだが、それは愛ではない、愛の側に所属している人って、もう皮膚感覚から「違う」のは見ていたらすぐわかるじゃねーか。

成功者と、一流選手と、著名作家と、美人女優が、四時間正論を語り合っても、愛がない場合は、愛がないのでどうしようもない。

どうしたことか、なぜ最近は、愛のないものを選りすぐって、時間をかけてエッセンス化し、それをばらまくのだろう、ここまで厳密に愛のないものだけが陳列されることには、一種のデザイン力がはたらいているのかとさえ疑われてくる。
おれと夜中にラーメンを食べに行くとして、そこに愛の存在が感じられなきゃ、こなくていーよ、なぜこのわかりやすい愛という現象にわざとらしい逡巡が取り巻くのか、僕にとってはナゾだ、愛のある世界以外に何か用事があるか?
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健康になる実力勝負と、不健康になる勝負事

は勝負事が好きでない。
勝負事は、真剣勝負に近づくほど、敗者には破滅が用意されているからだ。
勝負事があったとして、仮に、僕が勝利したとしても、敗者が破滅に追いやられるなら、そんな勝利も勝負事も欲しくはない、僕は勝負事という方法そのものが間違っていると思う。
人は、自分と他人とを「本気」にさせたがるから、この「真剣勝負」という方法を思いつくのだが、方法の発想が間違っていると思う、これはけっきょく「血で血を洗う」ことにしかならない。

僕は、勝負をするのではなく、初めから勝利していたい、そうでなければ勝利の値打ちがないと感じている。
つまり、敗者の発生と引き換えに、自分が勝者になるのがいやだ、その点僕が初めから勝者なら、敗者なんか発生しようがないので、方法として優れていると思う。
僕は堂々と実力勝負をしていきたいが、僕にとっての実力勝負というのは、「お前は初めから勝利しているか?」という問いに起こっている、この問いに敗北して、実力勝負が勝負事に転落したとき、その後はもう勝っても負けても負けだと思っている、不本意な勝利か不本意な敗北かのどちらかしか得られないのだから。
「勝負事」には、スリルがある、それは破滅と栄光の天秤がゆらぐスリルだ、でもそのスリルは、ゼロサムであってそもそもが豊かでないと考えている/何より決定的なのは、「勝負事」のスリルは、どれだけ夢のない人でも得られてしまうスリルだということだ、僕はこのスリルを肯定しない。

勝利の門に入ること、勝負の門に入らないこと。

法や倫理を放逐すれば、スリルなんて簡単に作り出すことができる、憎み合う二人を一席に座らせて、互いに命がけのギャンブルをさせればいいのだ、片側は耐えがたい屈辱の中で死んでゆき、片側は抑えきれない愉悦の中で憎む相手の惨死を見守るだろう、その周辺には人々の本性が垣間見えるかもしれないが、その本性はたいしたことではないのだ、共食いさせるという呪術は古くからあって陳腐化している。
勝負事が、常軌を逸するほど、勝負事のスリルは高まるものだが、そこで心臓がドキドキするのはときめきではない、「不穏」のシステムが活発化するだけだ、人は光から離れた休憩中にそうした不穏のスリルをむさぼり、気づくと光のところへは戻ってこられなくなっている。

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邪ンル2(命あるものは暴走する)
葉が暴走する。
それは、人が暴走するより、はるかにまし、あるいは光に満ちたことだ。
女というのはジャンルになり、グラビアになったり女優になったり、清楚になったりビッチになったりした、そしてどれもうっとうしいので、公的に女はセクハラというジャンルになった。
男は何々系と呼ばれるようになって、典型的なジャンルになった、たとえ何系であっても、走行しない新幹線というぐらい意味がなく使い道がない。

言葉はもともとジャンルではなかった、言葉はわれわれより上位にある。
言葉が人の道具なのではなく人が言葉の道具なのだ。
いかに言葉に使われきる道具であるかということで、人の品性の善し悪しが問われる、あるいは人の性能が、徳性が問われる、言葉はもともと誰のものでもなく、そもそも人のものではない。
言葉そのものがしゃべっているのが、どうしても聞こえないか、またこれをやると悪霊つきの人がギャーと叫び始めるのだがな、それもいいだろう、そのときになって悪霊つきというジャンル扱いされたらいかに救いがないか、そういう時間が三十年ぐらいは続くのだろう。

言葉はジャンルじゃなくて命だ(命あるものは暴走する)。

その他、すべてのものがそう、命あるものは暴走する、人は生きているかもしれないが生きているだけで命があるわけじゃない、命あるものが暴走する、それに付き合ってゆけるのなら、われわれが生きていることにも値打ちがある、この世で最高の美女、あなたの目の前の譜面には命があって、暴走した痕跡が音符の並びに記録されているだろう、もともとは紙と墨だった。
こうやってまた、楽しい毎日が続いていくのだ、命は永遠だ、生きているものが事情に暴走することは貧しい、命あるものが暴走するのがうつくしいのであって、それはまるで見上げるばかりの秋の陽光みたいなのだった(いやあけっきょくおれはスポイルされなかったなあ)。
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邪ンル
品を通してしか、やれないことや、伝わらないことがあって……
そもそも、人とのコミュニケーションというのは、そんなに大事じゃない。
人とのコミュニケーションが大事というのは、地図やガソリンスタンドが大事ということと同じで、どこかに向かうから大事ということに過ぎず、どこにも行かないのに地図を眺めたり給油だけを続けたりしているのはヘンだ。
映画を観て、感動しない人と、話すことはない、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を観て感動しない人と、いったい何を話せばいいのだ、そんな人と話す義務があるのは医者と警察官だけだ。

「ジャンル」という、概念自体に危険があって、たとえばイーグルスが「ホテルカリフォルニア」を歌っているのを聴くと、それは「歌っている」という感じがしない、少なくとも現代のように「バンド活動をしている」というふうにはまったく見えない、「ホテル、カリフォルニア」としか聞こえてこない。
音楽や、歌や、バンド演奏という捉え方も勿論可能なのだが、そういう捉え方で頑張っている人からは、何億年経っても「ホテルカリフォルニア」は聞こえてこないのだ、その意味で「ジャンル」という概念は恐ろしいものだ。
「ジャンル」という概念があると、たとえば、何も語るべき世界がない人でも、「よし、 "小説" を書こう」と、決断できてしまうのだ、これは恐ろしいことだ、こういう人はたとえば「よし、 "セックス" をしよう」とも決断できてしまうということだ/本来、人のやることが、冗談的にはジャンルに分けられるというだけであって、ジャンルという分類そのものを人が「やる」のではないのだが、現代ではそれができてしまう、このトリックには重大な恐怖を察知せねばならない。
こういうふうに、「ジャンル」をやる人と、「コミュニケーション」なんかさせられた日には、わけがわからなくなるのだ、イーグルスが「ホテル、カリフォルニア」と言っているのは、わかるのだが、その他の人々があれこれ言っている現代は、本当に何を言っているのかわからない/われわれはコミュニケーションといっても、世界の中で話している人の言っていることしかわからない、世界の外側から思いつきをツイートしている人の話は、本当に100パーセント完全にまったく意味がわからないのだった。

「ホテル、カリフォルニア」はわかるのだが、それを「いいですよね」と言っている人の話は僕にはわからない。

たとえば「かくれんぼ」という遊びがあって、人は鬼から隠れるということはできるが、「かくれんぼ」というジャンルを「やる」ことはできない、できないはずだが、現代人はできてしまう、何をやっているのか意味がわからないが、現代人は「ジャンル」をやってしまうのだ、恐ろしいことで、「ジャンル」として「ホテルカリフォルニア」を演奏しても、それはホテルカリフォルニアという歌曲のシミュレーションにしかならず、そのままだと何億年も「何これ……」という意味不明の作業だけが続いてしまう。
たとえば、人には「ハレルヤ」という言葉があると思うが、「ハレルヤ」という「ジャンル」をやったとしたら、イエスキリストだって「何それ」と言うだろう、何もしていることにはならないのだが、現代人はこの「何もしていない」ということを熱烈にやれてしまうのだ、それならもう「バンド、活動ぅ〜」と歌ったほうがいい、そのほうが逆に歌うということの意味がわかるかもしれない。
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マンスプレイニングとオカマ重用説2

は、生きていく中でどうしても、誰か「先生」「師匠」を見つける必要があるというか、少なくとも私淑するというところの、 "my lord" を見つけねばならないのだ、そうでないと本当にすべてのことをgoogleと匿名の「レス」から教わるしかなくなってしまう(それもそんなに悪いことではないのかもしれないが)。
そこで、マンスプレイニングの問題から、男性に教わるのは不可能だとして、新たにオカマを "my lord" に奉るということ、このことが真剣に検討されるべきなのだ。
つまり、仁義礼智信と作法とこころを教えてくれる "my lord" を、堂々と「マツコ・デラックスさん」だと掲げればいいのではないかということ、これはまったくリアルな話であって、思考実験として言っているのではない。
実際、今世界中のどの男性が、十六歳の女の子に向かって、「若いうちは勉強しなさい」と話したって、何の意味もなく、本当にただのセクハラにしかならないだろう、軽度であれ慰謝料が発生する/それに比べたらマツコ・デラックスさんが、「あんたねえ、若いうちにねぇ、絶対勉強しときなさいよ、そうでないとあなたが後悔するんだから」と言ったほうが、何万倍も純粋な効果がある。

以前も話したが、もう現代は、男性はダメなのだ、男性は男性であるというだけで、存在そのものがストレスになってしまう/いろいろフェミニズムの方面が声高に正論を唱えているが、本当の心情を言えば「世界中の男性が死滅というか、消滅してほしい」というのが本当の願いだと思う、それはどうしようもなく、切実な願いなのだ、それだけが己が命の恢復なのだと言ってもいい。
その願いは、なんとなくわかるのだ、何しろ僕も男性なので、逆にわかるのだが、きょうび男性は、自分が男性であるというだけでけっこうなストレスなのだ、今や誰でもオカマになれる才能があればよろこんでオカマになるべきだと思う、そうすれば誰も傷つかずに済むし有為に生きられる。
だが、オカマになれるというのもやはり一つの才能であって、ひとつの「選ばれし者」だから、誰でもがそうなれるわけではないのだ、少なくとも僕は自分が九折デラックスになれる気はまったくしていない、かつての石原裕次郎も裕次郎デラックスにはなれなかっただろう。
さしあたり、どうしようもない現実としては、オカマでない男に何かを「説明」されると、深刻に耐えがたい不快と、猛烈に許しがたいセクハラ感が湧き上がるのだが、これについてはしょうがないのだ、ストレスがあるのは大変申し訳ないが、「そうか、この男には、オカマになれる才能がないのだ」「才能がないのはお気の毒ね」と見てやることで、少しはストレスも軟化するのではないだろうか。

若い男性は、マネジメントを学ぶのではなく、オカマの精神を学ぶべきだ。

年齢と共に、何かを牽引し、下に何かを説明しなくてはならない立場になると、もうオカマの才能がなくては何も機能できなくなるのだ/どれだけブーブー言う怠惰な新入社員がいたって、「あなたねえ」とオカマが説教すれば一発なのだ、リアルな話この先は、ゼネラリスト向けにオカマ精神のワークショップが活性化していっても何もおかしくはない。
現代の男性は、本当に自制が利かないレベルで、アニメやアイドル、ソーシャルゲーム、そしてオナニーにのめりこんでいるところがあると思うが、それを「ヤバイ」と感じて自制しても、仕組みが違うのでけっきょく自制は利かないだろう/それらのヤバさは、自分がオカマになった途端にスッとすべて消えていく、そのことをいざというときのために覚えておいたらいい、自分がオカマになると決めた瞬間、男性の抱えているストレスは蒸発してどこかへ飛んでいってくれるだろう、それは現代社会のメカニズムなのだ。

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マンスプレイニングとオカマ重用説
ういえば、女性に何かを説明しようとは思わない。
男性に対しても、あまり思わないが……
同じように感じる人は多いらしく、このごろはそれを、マンスプレイニング(Man + explaining)といい、重大なセクハラのひとつに数えるのだそうだ。
男性が女性に対し、エラソーに物事を説明したり教えたり(explaining)することは、重大なセクハラとして許されない、なんとなく僕もそういう空気を同感しているので、僕は基本的に、女性に対しては何も説明しないのだった/ただしごく一部の例外は除いてだけどね。

秋口の富山や能登半島で何を食べたらいいとか、目の前に並べられたボトラーズのスコッチがそれぞれどういう期待のものであるかとか、カイハンセンが実は何のことを歌っていたかとか、どの営為にどう霊魂が関わっているかとか、そういうことを、いつのまにか女性に説明する気はまったくなくなってしまった。
僕は一応、浄土真宗本願寺派の僧侶資格を持っているのだが、それでも、それぞれの寺院に奉られている仏像が何であるかとか、無量寿経と観無量寿経と阿弥陀経が何を伝えているかとか、阿弥陀如来はかつて法蔵菩薩だったとか、そういうことを、やはり説明しようという気にはならない。
なぜ説明する気になれないかというと、セクハラになるというのもそうだが、それ以前に、何も説明しないでも、もう "全部知っています" という顔に見えるので、説明はしないのだった/まあ実際、僕が説明しないでも、すべてのことはgoogleが説明してくれるのだから、僕がしゃしゃり出る必要性は完全に消え去ったといえる、たとえ五歳児でもスマートホンを持った時点で大人からの説明は不要だろう。
そういえば先日、プロのダンサー(男性)が、僕のところに「歌い方」「声の出し方」を習いにきて、こいつは素直な奴だから、やり方が機能して「わーい」となって一晩中よろこんで歌っていたのだが笑、もし僕が十六歳の女の子に「歌い方」「声の出し方」を説明したとしても、絶対にまともに聞いてくれないと思う、マンスプレイニングにしかならないからだ、そのあたりがこの現代のリアルなところだと思う。

もし僕が女性だったら、現在の何十倍も「説明」しただろう。

このテーマは、これまでに何度も出てきたのだ、「九折さんが女性だったらなあ」という説、「そうしたらみんなもっと素直についていけたのに」と/あと、方法論としては九折さんがオカマになるという道筋も残されているのだが、この決定的に有効な方法は、当人にその気がないのでダメなのだった、そこまでして説明すべきようなことは別にないしな。
マンスプレイニングの問題を打破するのに、有効な方策は、第一にすべての説明は女性が担うこと、第二には、すべての説明をオカマが担うことだ/ホモが担ってはどうか? という発想もあるのだが、ホモの場合マンスプレイニングに当たらないのかどうか、僕には知識も感覚もないのでよくわからない、さしあたりホモはよくわからないが、オカマを重用するというのは具体的に有効な策だ。
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国民の半数が不眠症?(時事通信社)

事通信社の記事によると、国民の半数が不眠症? とも取れる、調査結果があるらしい、寝具メーカー東京西川による調査で、もちろんメーカー側としてはPRの意図もあるのだろうが、なかなかあなどれないデータだ、最大で二十代の61.1%、次いで三十代の58.5%が不眠症の「疑いあり」に該当するらしい/国民の半数というのはいい加減ヤバい、だってそれもう "与党" じゃん。
僕にはむろん、不眠症の疑いはまったくないが、超絶文学者たる僕が安眠で、その他健康志向の人が不眠がちというのはどういうことなんだ、まあそんなことはいい、いざとなれば近所の心療内科に相談すれば穏健な睡眠薬を処方してもらえるだろう。
睡眠薬なんか、飲まないに越したことはないだろうが、ここでは「いざとなったら睡眠薬もらえばいいや」という発想があることが重要だ、それだけで気が楽になって思い詰めずに済むことになる/いまどき心療内科で睡眠薬をもらうことぐらい何も珍しくない、「ヘーキヘーキ」と捉えているのが、何よりも安眠の良剤だろう、いまどき心療内科に抵抗を覚えている人はさすがに時代錯誤というほかない。
ときどき、話すと驚かれることがあるのだが、「睡眠薬の反対が覚醒剤だよ」というと、多くの人が「えっ!?」と驚く、そりゃ読んで字の如く、睡眠と覚醒なのだからそうだろうよ、つまり不眠症というのは何かしら、覚醒剤状態になっているから眠れないということなのだった、もちろんストレスもあるだろうが、それだけで問題は寛解しない。

覚醒剤はつまり、人間の神経にある、ドーパミンやノルアドレナリンの貯蓄を、「売り尽くし大セール」として放出させる薬だ、決して覚醒剤そのものが人を興奮させているわけではない(ちなみに「売り尽くし大セール」なので、その後在庫が尽きる、だから「元気の前借り」と言われる)。
ドーパミンは、筋トレ好きな人ならご存じのとおり、いわゆる「やる気物質」だ、そしてドーパミンはその後ノルアドレナリン→アドレナリンと変化していくので、けっきょく覚醒剤で「大セール」をしなくても、ドーパミン過剰状態を意図的に形成すれば、似たような覚醒剤状態になるのだった。
一般にドーパミン→ノルアドレナリン→アドレナリンは、ドーパミン(やる気)→ノルアドレナリン(怒り)→アドレナリン(恐怖)という感情に作用していると言われるので、不眠状態に陥る人は、この感情のサイクルにも陥っているはずだ、とはいえ、このサイクルが停止したら今度はうつ病になってしまうが……だからそもそも、人が何かに取り組むのに、ドーパミンブーストで「やるぞ!」とする、その発想が間違いなのだ、一時的にはしゃーないにしても、常態としてその方式を採るのはやがてどこかで破綻するに決まっている。
僕が思うに、「不眠症」の実態は、不眠症というより「覚醒症」だと思うが、これはドーパミン信奉社会のツケだと言える、今やどのコンテンツもドーパミンを煽ってこないジャンルがあるかね? 僕は先日、徹夜ワークショップ後にファミレスで十二時間話し込むというバカみたいなことをしたが、それでも最後まで脳みそがキレッキレなのは、ドーパミンブーストなんか使っていないからだ、素の脳みそでこれということを称賛してもらいたい/それと共に、こころの隅に、「ドーパミンブーストはいいかげんヤバい」という知識を持っておいてくれ、あとはいざとなれば心療内科が適切にバックアップしてくれるだろう。

覚醒剤を使わなくても、似たような覚醒症にはなります。

僕だって、タウリン入りのアリナミンVぐらいはたまに飲むし、目覚ましにコーヒーぐらいは飲むがね……しかし現代においては、マウント社会に炎上、煽り、液晶がド派手なゲームに、性的嗜好刺激アニメ、そこにエナジードリンクを飲んで突撃するんだろ、そんなメチャクチャな中で「安眠」なんかできるわけあるかい、そのあたり「たしかにwww」と笑って捉えられるぐらいの余裕が何より必要だと僕は思う。
「ストレス」による不眠と、安易に言うけれど、ストレスというのは漠然としすぎだ、実体は主に「怒りと恐怖」だろ、そして「逆にやる気が湧いてくるわ」というサイクルを繰り返しているはずだ、<<国民の半数>>がな、そしてそこに筋トレをしてドーパミンを追加するとか、こりゃどこかで見切りをつけないといけない、そりゃいずれ身体に悪いに決まっているし、ヤバい与党が結成されるに決まっている/僕はドーパミンではなく世界が「見える」、そして「自己決定する」ということで活動していくことを推奨する者です、んー健全ですわな。

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