☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
本来「恋あい」なんてものは一般に存在しない3
類は未だ「恋あい」がどのようなものかわからず、にもかかわらず、それをさもわかっているふりをするという知ったかぶりを続けてきている。
そうして、実はわかってもいないことを、わかっているふりをするために、われわれは「恋あい」を、自分の知っている習慣・伝統・様式に結びつけようとする、そうしてさもそれを「わかっている」ふうに錯覚する。
「恋あい」という、実はまったくわかっていないものを、既知の習慣に結びつけるとき……たとえば古来日本の都市部習慣に結びつけるとき、その人はフーゾクタイプになるし、古来日本の村落習慣に結びつけるとき、その人はヤリサータイプになる、そして輸入した西洋の伴侶習慣に結びつけるとき、その人は婚活タイプになる。
そうすると、あたかも恋あいが「わかった」ような気になるのだ、大日如来を拝む習慣にいる人がヤハウェの話を聞いたら必ずそれを「大日如来のことね」と変型するように(遠藤周作)、われわれは「恋あい」を何十年も未知のままには決してしておかず、必ず既知の習慣と結びつけて変型する、その結果としてわれわれの周囲の、フーゾク・ヤリサー・婚活という事実が建築されている。

むろん、フーゾクもヤリサーも婚活も、「恋あい」ではないということ、そのことは薄々わかっている。
それで、その三種とも「恋あいではないのだ」として、突っぱねたとき人は恋あいへ飛翔するかというと、そうではない、飛翔ではなく谷底へ落ちていってしまう、そこでオナニーを実態とする「オタク」や、マンガ・アニメ・アイドル文化、あるいは逸脱した性的嗜好、また性同一性の混乱が形成されるのだ/つまりフーゾク・ヤリサー・婚活の三タイプともを否定すると、セックス観が「性交でなくなる」ということだ、オーガズムが性交に無関係なものとなり、オーガズムを担うのは「自慰」だという定義になり、また性交を模してみてもその内実は他人を使った自慰だという状態になる。
平面上に三角形を描き、その上空に点を置けば、三角錐が成り立って三角錐の山頂が「恋あい」ということになるが、このとき同時に三角形の地底にも点を置かねばならず、この三角錐の谷底が「自慰愛」になる、フーゾク・ヤリサー・婚活の三タイプを拒絶した者はその勇敢さを称されて恋あいに飛翔するかというとそうはならず、三タイプを拒絶した時点で一種の審判に晒され、その審判の結果ほとんどは恋あいに飛翔するどころか自慰愛の谷底に引き落とされる。
こうして自慰愛の谷底に落ちた者は、それでも自分は陳腐な三タイプを拒絶した者だと信じているから、自分を高尚なものとみなしている、その実際は審判の結果として正統に谷底に落とされた烙印の者だ、この谷底の自慰愛者は、実際の自慰行為に加えて、自分が特別な恋あいの者だという空想と自己陶酔が、その自慰行為を二重の自慰にしているのだ、だから谷底の自慰愛者は、自分の自慰行為とそれに関連するオカズをどこかで「尊い」と感じている/だからこうした自慰愛者は、自分の変態ぶりと矛盾なく、自分の周囲を「見下している」という状態にある、これもまたわれわれが現代のわれわれ自身を観察して理解するのにそのまま適用できる構造だろう。

フーゾク・ヤリサー・婚活という「三国志平面」があり、その上空に「恋あい」、その地底に「自慰愛」がある。

特徴として、フーゾクタイプはフーゾクを尊いと思っているわけではないし、ヤリサータイプもヤリサーを尊いと思っているわけではない、婚活タイプも婚活そのものを尊いと思っているわけではないが、自慰愛者は自慰愛の周辺を「尊い」と思っているのだ、恋あい者が恋あいの周辺を「尊い」と感じているように。
このように、セックス観の平面に「尊さ」という高さ軸を導入しなければ、セックス観はそれぞれフーゾク・ヤリサー・婚活という伝統習慣に分割されるのみとなる、そこに「尊さ」という高さ軸を導入した場合、セックス観の定義は三国志平面上のものではなくなってくる/今、自慰愛者が何かしらのアイドルを押し立ててその偶像のもとにオナニーを積み重ねているのは、そのアイドルを「尊い」と感じてのことなのだ、彼らはフーゾクでイクことやヤリサーでイクことや婚姻関係でイクことを「尊さのない平面的オーガズム」と感じ、偶像をあがめてオナニーしてイクことのほうを「尊さを主題とした立体的オーガズム」と感じている、このようにしてわれわれは実際、周囲に「恋あいでないもの」ばかりを目撃しているというのが現実だ。
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本来「恋あい」なんてものは一般に存在しない2
「実際に残っているのはフーゾクとヤリサーと婚活」と述べた/そのそれぞれは以下のように対応している。
フーゾク古来日本の都市部・宿場タイプ
ヤリサー古来日本の集落タイプ
婚活輸入された西洋タイプ

実際には「恋あい」なんてものは、なかなか存在せず、めったなことで体験は得られないものだ、にもかかわらず、われわれはそれが自分にも平等に「ある」と思っているので、根拠のない恋あいへの希求がそれぞれを伝統的慣習に立ち返らせていく。
たとえばAさんは、「これが恋あいじゃないの」と追いかけているうち、いわゆるメンタルヘルスを病み、「お金くれたらやる気でるw なんでか」という言い方をするようになり、「フーゾクやろっかなw」と、冗談口のうちにもフーゾクタイプになる。
たとえばBさんは、「これが恋あいじゃないの」と追いかけているうち、年長者から「いいじゃん、みんなでパーッとやろうよ」という呼び声が掛かり、リア充グループに属することになり、このグループは「祭り」「フェス」「酒宴」を村のイベントとし、酩酊の中でそれぞれに夜這いをする・夜這いを受けるような形でヤリサータイプになる。
たとえばCさんは、「これが恋あいじゃないの」と追いかけているうち、セックスが後ろ暗いものと感じ続け、「こんなことは続けていたくないの」と考えるようになり、「セックスはあくまで子供を作るためのものだし、結婚するつもりがない相手とはしたくないの」と、万事を「結婚前提」で考えるようになり、それ以外のことは「セクハラ」と疎み、「怒りますよ」と目くじらを立てるような形で婚活タイプになる。

三脚をぐるぐる回ってもそこにカメラはないように、三タイプをぐるぐる回ってもそこに恋あいはない。

この話にはまだ続きがあるのだが、ひとまずカメラを立てる「三脚」だけイメージしてもらうとして、それは数学でいうといわゆる「三角錐」になる、平面上に三角形があり、その上空に点を設定すると、四点を結んで三角錐ができあがる。
さしあたり、「これが恋あいじゃないの」と追いかけるうち、最もありふれた、ある意味最も健全な形で、それぞれの三タイプが生成されるということ、そのことだけを知っておけばいい、自分自身のことを考える場合のみならず、われわれの周囲に起こっていることを判断するときにもこの構造が役立つはずだ。
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本来「恋あい」なんてものは一般に存在しない

本の場合、そもそも明治より前は封建制(=万事を親が決める)なので、当人が見たことも会ったこともない相手と結婚が決定するということがいくらでもあった/たとえば幕末の桂小五郎や西郷隆盛が江戸の屋敷にいると、地元の親から手紙が来て「お前の嫁さん来たよ〜帰ってきて祝言を挙げましょう」といきなり決定済みの連絡を受けるのだ(それが当たり前であり「忠孝」とされた)。
じゃあ親が決めるまでセックスはなかったのかというと、むろんそんなことはなくて、遊郭は存在していたし、宿場ではたらく飯盛女(めしもりおんな)だって娼婦も兼業していた、今でいうと旅館の仲居さんが夜伽の相手もしていたということだ、都市部や旅籠や城下町ではだいたいそんな感じだった、あるいは女性がお伊勢参りに行くのに道中各地で夜鷹して一宿一飯と路銀を得ながら行くということも常套手段だったらしい/ちなみに「千と千尋の神隠し」で「湯女(ゆな)」になった十歳のチヒロも、湯女といえばつまり娼婦になることを示している、宮崎駿は明確にそのモチーフを狙って本作を描いたわけで当人もそのことを隠してはいない。
一方、街道に面していない村落も無数にあるわけで、そういう村落はどうなっているかというと、ご存じのとおり「夜這い」がメインだった、男子は一定の年齢になったら青年組に所属し、青年組に所属すると村の女性に夜這いしていい権利を取得する、むろん女性の側はそのときイヤな相手なら断っていい、このシステムは昭和ぐらいまで地域によっては残っていたふしがある。
そもそも、夜這いシステムの中で女性は複数の男と寝ているので、産まれた子供は誰の子供かよくわからず、誰もそんなことは気にしなかった、産まれた子供は「村の子」だった、このことがあるから、かつて昭和生まれの郊外の子供たちは、近所の家にノックもなしに勝手にあがりこんだりする風土があったのだ、その地域の子・村の子という感覚と風土が残存していたと言える、現在はむろんそんなものは残っていない(極端に隔離された地域なら残っているかもしれない)。

そうした日本の村落のセックス事情を見て、かつて日本に来た宣教師が、「この国には貞操観念がなくて結婚の制度もメチャクチャです」という焦ったレポートを教会本部に送っている。
だからどういうことがあったかというと、古くから日本にあったのは「恋あい」ではなくてむしろ現代の「ヤリサー」なのだ、ヤリサーに所属している男は、合宿にいけば合宿先で女性に夜這いしてもいいし乱交してもいいというノリだろう、むしろ現代の「ヤリサー」のありようが、古代からの日本の村落の遺伝子が発現していると捉えていい。
日本の伝統的なセックス観は西洋のそれとはまったく異なり、なにしろ創世神話の時代から、アメノウズメという女神が、「陰毛を丸出しにして踊ったので周囲はオオウケした」と描写されている/事典を調べれば出てくることだが、伝統的に日本の集落では、妙齢になった女性の処女をその村の長老が破瓜するのがスタンダードだったし、同じころ少年は、村の年増女たちのグループに連れて行かれて「筆おろし」されるのがスタンダードだった、このスタンダード初夜を済ませた男女がその後は村の「ヤリサー」に所属したことになるというシステムだ。
そもそも日本には、武家などを除いては明確な「婚姻」のシステムがなかったし、武家の婚姻といってもたとえば将軍家の跡継ぎなどはむしろ側室がメインで輩出しているような向きもあってメチャクチャだ、そもそも結婚というと男性側から女性の実家への「通い婚」がメインであって、通い婚のまま子供を出産し(女性側の実家で出産するのであり、旦那さんは出番なし)、子供も育って時間が経ち、男性側の母親が年を取って身体が動かなくなったら、家事をする人がいなくなるので改めて「嫁入り」してもらうというシステムだった/あまりにも現代人の感覚と違うこうしたことが、百年前は常識的スタンダードだったのだ、明治になってから日本は一夫一婦制の婚姻制度を敷いたが、それも富国強兵のためであって、こんな中に「恋あい」が何たるかはまったく捉えられていない、つまり人類は今もずっと「恋あい」を知ったかぶりし続けている。

日本はヤリサー思想で、西洋は伴侶思想だった、そのどちらとも「恋あい」とは無関係だ。

戦後の日本は特に西洋化され、男女の仲は「ロマンチック」であるべきという風習が起こるが、そもそも「ロマンチック」という語も、われわれが思っている意味の語ではない、ロマンチックというのはロマン派チックという意味であり、ロマン派というのは日本で言えばつまり言文一致運動後の明治文学のことだ、そのロマン派のスタイルが過ぎて消えていった後の変容のことを「大正ロマン」と呼んだのであり/わたしが文語体を使わず中世のことにわれわれをつなごうとして書き話していることじたいがロマン派の手法に近いが、これをどう見て誰が「ロマンチック」と言うわけがあるか。
日本は古来から男女といえばヤリサーと遊郭(後の赤線)なのであり、西洋はというと、マグダラのマリアに見られるように、聖書に書かれた「姦淫するなかれ」が厳しい法としてあるので、苦し紛れに「うーん、伴侶ならヤッてOK!」としてきたという歴史だ、カーマ・スートラだって本当に読んだことがある人は少ないだろうが、それにだって「外国人と結婚するのはムリっす、やめとき」ぐらいのことしか書かれていない/このようにして、本当は人類まるごと、「恋あい」なんてものはよくわからないし、一般には存在していないのだ、本当には存在していないからこそ、交際は半年も経つと「冷めた」となり、その後は時間をかけてトラブルの源泉になっていったりする、その面倒くささを避ける人たちがいて結果、実際に残っているのはフーゾクとヤリサーと婚活でしょという事実になるのだ、今われわれが目撃しているとおりのことだ。

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自分のスコア "だけ" を信じるという方法
から十六年前、アテネオリンピックで北島康介が勝ちきり、まだプールに浸かったままの直後のコメントで「チョー気持ちいい!」とはっきり発言し、それがその年の流行語になった。
わたしは当時のことを憶えているが、わたしは当の発言に強い違和感を覚えた、むろん金メダルを獲った選手に悪口を言う意図ではないが、わたしはスポーツ選手ではないため、「チョー気持ちいい!」という発言が為されることは発想になかった/今になって、その選手と発言の心理・精神・現象にわたしは仮想としてアプローチできる。
一心に、自分のスコアを信じてやってきた、そりゃ当たり前だ、トップランカーの選手なのだから/そして水中から顔を出し、ゴーグルを外して見上げるところ、やはり自分のスコアが一位だった、「一位だ」、そのとき当然、「ほらな」と選手としての夢がそこに現成したに違いない。
一心に、自分のスコアを信じてやってきた、そりゃそうだろう、信じるものがそこにあり、しかもその信じたものは彼に報いたのだ、チョー気持ちいいというその瞬間もうなずける/もしスポーツ選手が自分のスコアを信じなかったら、途端にすべてはむなしいものになってしまうだろう、自分が信じたものが報われるというのはサイコーの瞬間だ、自分のスコアが最上位で、それを上回るものは誰もいないという瞬間は、当人に無上の満足を与える。

わたし自身、そういったことを知らないわけではない、わたしは何も劣等な生きものとして生きてきたわけではなかったから/たとえば小学校のときに腕相撲で学年のチャンピオンになったことがある、けれどもわたしはそのとき、照れ隠しに笑ってみせたが、なぜかわたしは歓喜を覚えなかった、別に何の誘惑も覚えなかったし、何かとにかく「やりすごそう」とする振る舞いばかりがわたしにあった。
わたしは丸の内で総合商社に勤めていたとき、もう一度そのような、自分のスコアを信じるという方法をやってみたことがある、自分のスコア「だけ」を信じるのだ、それは一般に競争と言われるが、本当の意味では競争なんかしていない、信じているのは自分のスコア「だけ」だから……それでけっきょく一位になれば、どのような状態がおとずれるかを、わたしは知らないではない、どのような状態になるかというと「迷いがなくなる」という状態だ、何しろ自分の信じたものが報われたのだから、もう誰かの何かと比較する必要がない。
自分が正しいということの「証」がもう出ているのだから、もう誰の言うことも真に受ける必要はなく、また誰のことを真から気に掛ける必要もない、他の誰かが正しい必要がなくなるのだ、だから自分は自分限りで満足できるような気になる、まさにそのとおりで、他の誰かから――他人から――干渉を受けることがなくなる、そのときはきっとサルトルもひとつの完成・完璧さをそこに見いだすだろう。
もし自分のスコア「だけ」を信じるということを、やめてしまったら、すべてのことがむなしくなり、何もしないし何にも燃えない、端的に言うと「人間のクズ」のようになってしまうだろう、燃えさかった者は必ずその後も、次の形態として「わたしのスコアだけを信じる」という状態を模索しにいくだろう、他のすべてのものは一切見えなくなる「純粋」な状態だ、それはまた報われたときに「チョー気持ちいい」になる、なるほどこの状態は完璧無比であるため、わたし自身、なぜその方法を辞したのかが今もって自分でもわからない。

完璧なのだ、それは誰もよろこびを下さらないほどに。

困ったことに、「自分のスコアだけを信じる」という方法は、完璧すぎてほころびがない、理論上は本当に完璧無比の方法だ、だからこの方法は "崩せない" という性質がある。
完璧なのにそれが誤りだとしたら、どうやってそれを崩せようか? 方法はきっと「ない」のだ、「脱出できない完璧な誤り」というのが理論上存在する/だからむしろ「迷い」が生じることがあれば、そのほうが幸福なのだ、迷いが生じるということは、まだ完璧な誤りに吸い込まれてはいないということだから。
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オカズのある男はけっこう幸福

少年向けに、次々に乳デカ尻見せ女の記号が、アニメ等で大量生産されているのを見ると、やはり「こうまでして男は女を必要としている」という感を受ける。
そして同時に、男というのは、ついにシンボル的に女を得られたら、それでなんとかやっていけるのだと思う/逆に女のほうは、けっきょく生身の男の存在が必要で、シンボル的に男をあがめてもそれだけでは満たされないようだ、それがなぜなのかはわたしにはわからない。
男はけっきょく、おっさんになっても、アニメ化・記号化した女をシンボルにしてオナニーしていれば割とやっていけそうなのだが、女はどうもそうではないらしい、女がオバサンになってアニメ化・記号化した男をシンボルにしてオナニーというのは厳しいようだ、だからおばさん向けの生身アイドル男は存在しても、おばさん向けのアニメ記号男は存在しない。
男には、自らセックスを仕掛ける主体性がある(つまりペニスがある)ので、記号化した女をシンボルにして空想上でセックスできるが、女には自らセックスを仕掛ける主体性が具有されていないので、記号化した男をシンボルにして立てているだけでは、空想上でセックスできないのだ、女がセックスを空想するには「男」という記号描写だけではなく「セックス」という行為そのものの描写が必要になる。

かといって、「男」が別の女とセックスしている描写を元にオナニーはできないので(それでは自分がアホらしすぎる)、「男」が別の「男」とセックスしている描写を求めることになる、それで昔から腐女子と呼ばれる女性たちが大勢力として生じる。
わかりにくいだろうか? まあこんな話、わからなくていいのだが……わかりやすく言うと、男には「女」という記号だけで足りるが、女には「セックス行為」の記号が必要だということだ、だから男どもが女記号に拠ってオナニーしている絵面には一種の気楽な笑いがあるが、女たちがセックス記号に拠ってオナニーしている絵面には一種の不具めいたシリアスさが伴う。
男にも女にもいわゆる性欲はあるだろうが、その形態が異なっているのだ、男は「女」という記号に向けて性欲を覚えるのに対し、女は「セックス行為」という記号に向けて性欲を覚えている/男の前には女を置いておけばそれだけでムラムラするのだが、女の前には男ではなく「セックス行為」を置いておかないとムラムラしない、それで自然に、女は男記号と男記号のセックス行為を空想するようになる。
ヘンな例え話にすると、われわれが釣りキチではなかったとして、目の前に大きなマダイの写真をおかれても、それは食材として「おいしそう」と見えるだけで、釣りを「ヤリたい!!」とはならない、ところが釣りキチというのは釣り竿を具有しているものだから、大きなマダイという記号を見ると釣りを「ヤリたい!!」となるのだ、そして釣りキチでないわれわれがふと釣りを「やってみたい」と発想するのは、「魚」を見たときではなく「釣り」という現場を見たときだ、目の前で釣りをやっていたら「わたしもやってみたい」とムラムラする、このように同じように見える衝動でも実は機構や形態が異なっているということがある。

男はオカズだけで幸福になれるが、女はオカズだけでは幸福になれない。

なんというか、ここに日本刀と鞘を空想するとして、「日本刀だけ実物があって鞘を空想して納刀する」ということと、「鞘だけ実物があって日本刀を空想して抜刀する」ということとでは、どうしても後者、鞘しか実物がないというのは空虚だ。
というわけで、こんな話を理解しても何の足しにもならないのだが(すまん)、あくまで青少年は、そうまでして女を求めていて、実は女の記号を得られているだけで、それなりに幸福になれるのだった/こんなことはあくまで若いうちの話であって、大人になってから考えるようなことではない、つまりそのまま二十年ほど放置しておけば解決も必要なく消えていくので、もともとどうでもいい話なのであった。

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【驚愕】あなたがおトクになる流行クイズ!!

なたがおトクになる流行クイズ!! マジかよ……騒然。
次のうち、あなたの好きな記号をひとつ選んでください→ [ ○ ☆ ♭ ■ ]
次のうち、あなたがカッコイイと思う数字を選んでください→ [ 22  56  419  8532 ]
次のうち、あなたが不吉だと思う言葉を選んでください→ [ 宸翰 兀兀 耄耋 陰爻 ]

選んでいただけたでしょうか。
もちろんそんな「おトクになるクイズ」なんてものは存在しません、あなたにただ各種を選ばせただけです。
こうしてあなたに「選ばせる」ということが、あなたの気を引き、あなたの時間を無駄にするのに最善(というよりは最強)の方法だということです。
あなたは動画サイトで、動画を観ているのではありません、並べられたサムネイルから動画を「選んで」いるのです、正体はそれです。

「次のうち、○○なのはどっち?」 A:アスファルトに朝顔が咲いている B:老人が寝間着をクリーニングに出した

人間は「識」という業(カルマ)・因果を負っているので、目の前に選択肢を示されると、選択肢群をそれぞれ識別して選択するということを、無条件に始めてしまう/それはたとえば、猫の前にネズミを走らせるのと同じだ(畜生道においては、「取」という業・因果があるので、猫は無条件でネズミを取ろうとする)。
商店に同機能の商品が並んでいるのも同じだ、単品では人は立ち止まりにくく、複数から「選ばせる」ということで立ち止まらせ、時間を無駄にさせる、たとえば街中に美人を一人だけ立たせて「美人」と立て札をしてあっても意味不明だろう、けれども二人を立たせて「どちらが美人?」と立て札をしてあれば、人々は立ち止まって吟味して投票して時間を無駄にしてくれる、あなたの日々の正体はそれだ。

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「恐れ多くも先の副将軍」

近、江戸時代のことを勉強している。
昔から、妙に徳川幕府時代〜幕末にかけてが、何か引っかかるという気がしていたのだが、引っかかる理由にひとつ気づいた。
なぜかわからないが、わたしにとっては、幕府の役人が「威張っている」ということが、恥ずかしくてしょうがないのだ。
幕府は武門であり、また直接の統治も担うのだから、厳格でなくてはならないというのはわかるのだが、厳格ということと「威張る」ということは違う/なぜかわたしにとっては、江戸時代の265年間が、「威張っていて恥ずかしい時代」なのだ、それでずっと引っかかっていた、この時代に日本人の気質はダッサいものになったのではないかと、わたしは勝手に思っている。

なぜ幕府の役人が威張っているかというと、 "威張らないと話を聞いてもらえないから" だ。
これは、幕府の役人でなくても、企業の役員でも同じだ、けっきょくギロリと睨んで威張りくさり、相手を威圧しないと、自分の話をちゃんと聞いてもらえない。
しかもけっきょく、そのギロリと睨んでいるのは、背後に権力を置いているからであって、拳銃をもった現代のアメリカギャングの十五歳少年と差し向かいになれるタマではない、それが実に、ダッサwwwwと致命的な恥ずかしさを覚えさせる。
当時の鎖国の事情と問題についても、けっきょく二百年ぐらい考えさせられるのだが、きっと本当は鎖国に理由なんかない、ただ幕府にとって「外国の人には威張っても効果が無いからピロピロウーン」というだけだ、だから交流できなかったというのが本当の理由なんだろうと、わたしは勝手に思っている/想像するに、けっきょく明治政府も、引き継いで「ギロリと睨んで権力で威張る」ということしかしなかっただろうし、あれから150年が経ったとして、けっきょく「ギロリと睨んで権力で威張る」ということが、ずっとこの国で繰り返されているような気がしてならない。

水戸黄門が印籠をジャジャーンと出すのが、子供のころから恥ずかしくてたまらなかった。

幕府が武門であり実際の統治を担うのはわかるが、それがなぜ「恐れ多くも」将軍ウンタラになるのだ、将軍は別に恐れ多くねえよ、この「将軍は別に恐れ多くないっスwwww」ということに気づけないだけ、どうしようもないアホの集まりだったのではないかと、わたしは勝手に思っている、だって何をどういじくっても「恐れ多く」はないんだからしゃーない。
なんというか、鎌倉時代や室町時代に比較しても、特に江戸時代だけが、将軍サマの「ワシは恐れ多いんちゃうか〜」というアホっぷりが突出している気がする、こんなことに十五代と265年間もかけて気づかないというのは、何かわざわざアホ性を保つ訓練か術でも施してあったのじゃないかとさえ思える/仮におれが全宇宙の統治者になったとしても、そのときはおれはただの統治者であって、別に「恐れ多く」はねえよ、統治者にとって統治はただの仕事だ、出島で付き合ってくれたオランダ人はよくこんなアホ民族と気長に付き合ってくれたものだ(※ちなみに本当は「副将軍」なんて役職はないそうです)。

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うつくしい女性の庇護と破綻
リークリスマス! というにはタイミングがもう遅いが、メリークリスマス。
経験から小咄をひとつ、女性の、特に若いうち、男性から庇護を受けて、また当の女性も無意識のうちにその男性を慕うことから、人目を引くほどうつくしくなることがある。
このことは初めうまく行くのだが、たいてい、途中でその女性が、自分限りでそのうつくしさを成り立たせているのだと思い込み、庇護する男性から切り離されて、ガタッと汚れて醜くなり、そうなるとたいてい、もう戻ってはこられなくなる。
このパターンをあまりにも見てきた、つまり世の中にはごくまれに、無条件に(当の女性が拒絶しないかぎり)女をうつくしくする男というのが存在しており、その存在はまったく指摘されないから、多くの女性は機会を失って誤解の罠を踏んでしまうのだった/まあこんな与太話を、今さら真に受けてもらおうとは思わないが、あくまでそんな小咄というていどなら、目くじらも立てずに聞いてもらえるかもしれない(そんなことはないかもしれない)。

なんというか、「男」という独特の現象があるのだ、それは一般に思われているセクシャリティの現象ではない、むしろ単純な「うおー」という烈しさの現象だ。
激しさの現象というだけなら、通り魔殺人だって激しいのだが、そうではない烈しさ、競争的でない烈しさ、天に通じようとする烈しさだ、この男のそばでなんとなく補佐をする女には、特別な美と穏やかさが明らかに灯る。
それは精神的なものではないし、価値観上の見方ではなくて、本当にそういう「現象」があるのだ、この現象は本当にびっくりするぐらい明らかにあって、またその女からその男を取り外すと、エッと驚くぐらい、美と穏やかさを得ていた女からは光が消え去ってしまう。
それはまあ、単純に考えてみれば、主人にいじめられていた犬が、その後別の主人に飼われて愛されると、表情も挙動も艶めきもまっっっったく別モノになるのであって、そのことと大差はないかもしれない、ただそうした現象が知られていないので、女性は自分を強化なりコーティングなりすることだけでうつくしくなろうとし、千載一遇でまともな男性に出会ったときも、その庇護・祝福のことはまったく知らないまま、定番のパターンとして、もう二度とうつくしくはならないルートへ入り込んでしまう/もちろんこれはわたしの経験から小咄を吹いているにすぎず、これをもってフェミニズムの風潮を説き伏せようとしているのではない(おれには与太話をするしか能がねえんだよ)。

神泉から摘んできた花を毒庭に植えるなかれ。

その花がことさらうつくしくやさしかったのは神泉の水源につながっていたからで、それを摘んできて己の毒庭に植えたところで同じ花弁と香気は現れない/実際、犬を飼うのがヘタな人が飼っている犬を、正しい愛犬家が十五分も撫でたら、犬の表情も背筋も愛くるしさもコロッと変わる、実際それで飼い主が「このコがこんな顔をするなんて」とおののくところをわたしは何度も見てきた。
男というのはなるべくそういうものであるべきだと思うのだが、いまどきそんなものを男だと言っていると、四方八方から総スカンを食らうのだった、おれが何を言いたいかというと、おれは今でもやはりクリスマスの夜には空に向かってウオーとなってしまうということだ。
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女は幸福でなければならない2
代のように、セクシャリティがモデルを失った状況においては、フェミニズムによる尊厳の防御は不可欠だ、女性はなんとかしてセクハラの――もしくはそれ以上の――被害から遠くあれるよう立ち回らねばならない。
そうして常に防衛しなくてはならないのは、女性にとって不利益この上ないと思うが、そのことにはわたし個人として陳謝の思いもあるにせよ、より本質的には「男女ともセクシャリティが狂っている」と言うよりないのであり、もはやどこかの民族紛争のように、一方の咎を責めるだけでは何ら解決はせず、いっそ "今さらうまくやれるという夢想を持たない" ということが、前向きで建設的とも思える。
どのようにセクシャリティが狂っているかというと、たとえば異性を明らかに嫌悪するスタイルとしてミソジニーやミサンドリーが知られているが、そうした勢力においてさえ、「あなたには生涯、異性愛の恋あいは無縁だろう」とはっきり言われると、そのことを引き受けられず、魂が損傷する様子なのだ/これではまるで、「もう市民には戻れない」と通告されてショックを受けているテロリストというように、全体が滑稽劇じみているのだが、本当にそういう状況なので致し方ない。
異性という関係には、当然の衝迫力があり、危険や魅力も伴うのだが、その切実なライブ状況に触れるよりずっと前に、多くの人が自慰的コンテンツから強力な妄想といわゆる性癖を育てており、また多くの交流もテキストチャット等で為されるので、恋あいに必要な心身が具わるより前に、セクシャリティをこじらせきるという状況がある/じっさい現代の若年層は、自分の親しい友人や知人をカウントするより、動画サイトを通して知った誰かをカウントするほうがずっと数が多いはずだ、こんな状況の中でいきなり青春・恋あいが現成するわけがないのであり、女からはうぬぼれとひがみに育ちきった邪なバケモノ、男からは悪臭のするセクハラモンスターが出現して当然というよりない、どれだけ表面を好人物にしたとしてもそのフェイクがますますの混乱を産み出すだろう。

それでも、正当な手続きを知るべきとして、女性はおそらく、もし出会うべき誰かに出会うことができ、彼に対して取るべき態様を取れたとしたら、突然のこと、そこから "すべてが始まった" という体験をするだろう、それまでに持っていた性観念や恋愛観はぜんぶ無関係で、「わたし」はこのときから始まったのだと、そのときになって知ることになる。
男性にとっても同じことで、そこに得られるのは、憧れの恋人プレイゲットということではなく、突如として始まる「わたし」、恋あいで獲得するのはそうした突然の「わたし」なのだ/あなたは恋あいで突然「わたし」を得ることができ、それまでは自分は「わたし」というものを持っていなかったのだと、そのときになってようやく知ることになる。
誰にとっても、本来あるべき主体性、本来あるべき「わたし」というものがあり、その本来あるべき「わたし」と、相克する「自我」が格闘することになるのだが、そうした相克の構図は旧モデルであり、現在においては「わたし」はないのだ、だから単なる異性との接触と合意だけでは、双方に抑圧された自我を噴出させあうというだけになる、そのことは双方の未来を取り返しのつかないほど真っ黒にしてしまう。
突如として「わたし」を獲得するとき、またその「わたし」が突如始まるとき、逆にこれまで焦がれて病みついていた「恋愛」は、そうした形式にこだわる必要がないものだと、急にわかるようになる、それは逆に恋あいを獲得したからであって、獲得したからにはその外形がどのようであるかということはさして問題じゃないということが直接わかるようになる/願わくば、より多くの人に、そうした出会いと幸運と、勇敢さと真摯さがありますように。

恋あいは必ず、自分の歩いた道の先に出会っている/そうでないものは、必ずヨソの畑から盗もうとしている。

きょうび、いわゆる婚活イベントや出会い系サイトが当たり前のように利用されているが、それは残念ながら自分の歩いた道の先に恋あいに出会うという出来事ではない、口をきわめて言えば「目の前に置かれたものを、うまくかっぱらえるような気がした」ということで、抑圧されていた因子が噴き出しているにすぎない、そのことはどれだけうまくやっても、双方に実りは与えず、必ず大きな損失を受けるだろう。
それぞれは、両極端の自分を知ることになるのだ、ひとつには突如として「わたし」を得、「わたし」が始まるということ、もうひとつには、突如として「自我」が噴出し、「自我」のコントロールが利かなくなるということ/男が手の届くところにセックスをちらつかされ、それを狙う男が女をちやほやもてはやすということで、相互は抑圧していた「自我」を突如として噴出させることになる、それはまったくよろこばしくないことだ……恋あいは本来まったく逆のことが起こる、つまり女がちやほやもてはやされることに一切の興味をなくし、男が女をちやほやもてはやす発想を持たなくなる、そうしてくだらない性分から離脱した「わたし」を相互に得ることになる、そうしたことは自分の歩いた道の先にしか現れてこない。
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女は幸福でなければならない

すんだ3000リエルの銀貨と、輝く3000リエルの銀貨が、共に通貨としては3000リエルとして用いられるにせよ、輝く銀貨であるほうがよろこばしいように、女は幸福であるほうがよろこばしい。
青空に映える白い雲が、微細に見えたとて利益にはならないにせよ、微細に見えたほうがうつくしく空気も澄んでいるように、女は幸福であるほうがよろこばしい。
わたしがこれまでに見てきたことは、女をちやほやもてはやすことは、何ら女を幸福にしないということだ、ちやほやもてはやすことで女は、昂ぶり浮かれて満足するが、その満足は小さく隔てられており、むしろその小さな牢獄から出られなくなるように、女は浮かれる。
わたしがこれまでに見てきたことは、ときに魂の宿る女当人こそが、そうしてもてはやして女を牢獄に閉じ込めようとすることに、烈しく怒りをもって迎えるということだ、女はちやほやもてはやされることに浮かれる性分を持つが、その性分は女をわずかも幸福にせず、むしろ決まって女を牢獄に切り取ってしまう。

わたしがこれまでに見てきたことは、むしろ女は、出会うべき男に出会ってその足指を拭き取るなどするとき、己では逃れようがなかった女の性分を逃れているように見えるということだった。
女が女の性分のままにあるということは、女をまったく幸福にはせず、よく見れば女をちやほやもてはやす男の様態も、それじたいが女の性分を男が輸入したもののように感じる/ここで女の性分が女の性分によってもてなされていることにより、女は幸福への出口がなくなる。
わたしがこれまでに見てきたことは、女が足指のよごれを拭ってくれて、女自身が妙に安心するといい、そこからなぜか急遽、女が主体性を持ち始めるということだった/このことは、一般に思われているフェミニズムからの女性主体の発想とは根本が異なる。
わたしが言わなくてはならないのは、女がそうしてわたしの足指を拭ってくれるとき、なぜそのようにしたいのか、またなぜそのようにしてこころ安んじるのか、当人も決まって「知らない」「わからない」と言うことだ/むろんそこに虐げられている女があってはならない、女は幸福でなければならないし、女はより積極的に主体性の獲得に向けて能動的でなければならないと思う。

女性を浮かれさせるのは簡単だが、幸福にするのは困難だ。

わたしがこれまでに見てきたことは、どれだけ女性をちやほやもてはやし、身分と富とを保証したところで、その女性が屈託のないよろこびと美に到達することはありえないということだ、女性の性分に劇薬を注ぎ、浮かれさせるのは簡単なことだが、そのことが女性を幸福にした例をわたしはこれまでに見たことがない/むしろその浮かれる性分への劇薬によって戻ってこなくなったという実例のほうをあまりに多く見てきた。
わたしがこれまでに見てきたことは、ひとつには、なぜかわたしの足指に触れて以来、突如として主体性を持ち始める女のよろこばしさとうつくしさであり、もう一方には、そうしたことと相反し、突如として主体性を持っているふうに強烈な自己誤解をし始める女のすさまじさだった/わたしは女は幸福でなければならないと思っているし、その幸福は女自身の主体性の獲得によらねばならないと思っている。

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おれが好きなのは宗教じゃなく祝福だ
っと認めよ、もっと求めよ。
そのたびに与えられ、祝福に満ち、さらにその栄光を面白がり、求める先が果てしないことを知るだろう。
信じるということより、信じるという概念を忘れ、「疑う」ということがどのような心境だったのかをすでに忘れる。
すると人は、自動的に祈るようになっている、なぜなら祈るのが最も手っ取り早いからだし、祈る以外には実は方法はないということがいつのまにかわかっているからだ。

自分をまともなものにせよと祈れ。
自分をまともなものにしようと努力するのでなく、自分をまともなものにせよと求めて祈れ。
祈る先はわたしであり、そのわたしとは祈りの通じたるわたしである、困ったことに「わたし」は複数個あり、わたしは世界でなければわたしでなく、世界はわたしでなければ世界でない、世界と垣根なく響いているわたしに祈れ、そうしたらわたしがわたしに祈るのであるから祈りは聞き遂げられるだろう、だから祈りは他人事でなく、わたしは常に熱心なものだ/疑うわたしは閉ざされた偽りのわたしだ。
もっと求めよ、あなたは求めることに吝嗇で、もっと認めよ、あなたは認めることにも吝嗇だ、あなたは理由なく疑心暗鬼であり、疑ったまま祈ろうとしている、それで祈りが通じたら信じもしようという、本末転倒を言っている/それは電気が通じたら電力会社と契約しようというような愚かな話だ、あなたが先に契約に判をつかないかぎり、あなたの家のコンセントに電気がやってくることはない。

祈りはちゃんと機能するし、疑いもちゃんと機能する。

ある意味幸いなことに、契約に判もついていないのに、電力が供給されることはない、ちゃんと電力会社は契約の信義則を守っているのだ、勝手に電気を送ってその代金を徴収するようなことはしない/あなたの魂に給電がないのは、きちんとした理由があるはずだ、疑いはちゃんと機能している。
偶像を立ててフンジャラマゲーと、這いつくばって呪文をのたまって、何かになるわけがない、聖別されたというふれこみの高価な壺を買ったとして、そんなもので救われた人はいない、もともと救われていた奴はごくまれにいるかもしれないが/おれは宗教はきらいだ、おれが好きなのは祝福だけだ、祝福というのは最高級のキャビアが金庫に湧いてくるということではなく、女の子が買ってきてくれたモスバーガーが死ぬほどウマくなるということだ、おれは催眠術に掛かるタイプではないので宗教とは馴染まないだろう、祝福を求めず宗教を求める人はよほどの事情があるのだろうが、おれはその事情に興味がない。
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覚醒剤と報酬系、および「ドーパミン」の話4
ルコール中毒という病気があるが、これはある本によると、「その人にとってだけ、お酒が覚醒剤になる病気」と書かれていた、それが本当なのかどうかは知らない、おれはアルコール中毒ではない。
ただ、この考え方は的を射ているように思って、つまり「その人にとってだけ、○○は覚醒剤」という捉え方をすれば、ワイルドーカード○○には、何を代入しても「そのとおり」なのだと思う。
その人にとってだけ、アイドルは覚醒剤なのだろうし、その人にとってだけ、BLは覚醒剤、その人にとってだけ、いいねは覚醒剤、その人にとってだけ、巨乳は覚醒剤、その人にとってだけ、パチンコは覚醒剤なのだろう。
依存症がどうこうということではなく、「生きものはみんな覚醒剤でしか動いていない」と捉えるのが正しいだろう、麻薬由来のドーパミンが悪で、筋トレ由来のドーパミンが善ということはない、覚醒剤がやめられないということではなく、それはただ生きるのをやめられないというだけではないだろうか。

だから、たとえ一つでもいいし、一度限りでもいいから、ドーパミンとは異なる何かに触れる必要があるのだと、僕は思う。
このことが、ここ最近はしきりに、僕をせっついてやまないのだ、この「ドーパミンではないもの」に触れたことがあるかないか、それが一度かぎりのことでも、そのことは生涯にわたってその人を支えつづけ、ついには救いきることもあるのだ、だから誰にとってもこのことは必ず一度は触れる機会がないといけないと、まるで似合わない社会正義のように考えている。
ドーパミンと異なるものといって、もちろんオピオイドとかバルビツールとか、セロトニンとかオキシトシンとか、別の薬物やホルモンのことを言っているのではないのだ、そうした生身に起こる薬理機序とは異なる現象に、一度でも触れている必要がある/一度でもそれに触れたことがあるならば、そこから当人がドーパミンフリークとして無為の時間の中に滅んでいくのは、けっきょく当人の責任でしかない、けれども一度もそれに触れたことがない人は、当人に選択の余地も与えられないのだ。
覚醒剤と報酬系、およびドーパミンその他の薬物やホルモンの話をしてきた、そしてわたしが言いたいのはむろん、「それ以外」のものの重要性だ、それが豊富にあるなどというのは夢のまた夢、虫の好すぎる話で論外だが、誰でも一度だけはそのことに触れる必要がある、一度でもそれを触れたことがある人は、最終的に自分の帰る場所を「そこ」に決定することも可能になるからだ。

車内に車窓はない。

妙な言い方をしてすまない、だが「車内に車窓はない」、この一点は誰にとっても理において解せるだろう、いかなるうつくしい車窓もそれが車内にあることは決してない。
人の身体は、37兆個の細胞で出来ているらしいが、それは37兆個の生きものの群体であり、その37兆個をもって「あなた」とは言えない、「車内に車窓はない」ように、あなたが見るべきあなたは体内の現象にない、車内はガソリンで動いているように、体内はドーパミンで動いている、だがそれは世界の景色を見に行くためだ。
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覚醒剤と報酬系、および「ドーパミン」の話3
醒剤という名前がよくないのかもしれない。
覚醒剤がなぜ覚醒剤と呼ばれるかというと、別にヤバイ名前ということではなくて、睡眠薬・麻酔薬の反対の作用を持つからだ、睡眠の反対だから覚醒というだけでしかない。
「覚醒剤」という名前で、実際に投与すると、確かに覚醒っぽい感じがするから、「おれ覚醒したかも」と錯覚するという、思いがけずしょーもないパターンが、人を狂わせているところがあると思う、だから覚醒剤ではなく「蒙昧ハッスル剤」という名前に変えるべきだ。
覚醒剤にかぎらず、脳の報酬系にドーパミンがあふれている状態は、何ら覚醒・目覚めという状態ではなく、そのまんま「蒙昧ハッスル」という状態なので、覚醒剤ではなく蒙昧ハッスル剤という名前に変えたほうがいい、そうしたらさすがにカッコ悪すぎて若年層も忌避しやすいだろう/クラブの暗がりで「蒙昧ハッスル剤、どう?」と売人に言われても、「なんだその凄汁みたいなもんは、赤マムシドリンクのほうがマシだ」と言いうるだろう。

ドラッグにはたいていカッコいい名前がついているので、人々は、カッコよさへの憧れを持っているのだろう(当たり前)。
薬物だけでなく、筋トレや音楽や、淫蕩や変態趣味、マウントやうぬぼれで「ガンギマリ」になるのは、当人としては「カッコいい」という感覚なのだが、残念ながらそうではないのだ、けれどもそれを「ただの蒙昧ハッスル」「一番陳腐なやつ」と直視することは、あまりに破滅的で悲惨だ。
生きものに具わる「血」の性質、この血の呪いで一番強烈なものが「ひがみ」「みじめさ」だが、この呪いが最深部で爆裂的に作用しているため、人は「カッコいい」ということに憧れつづけざるをえず、そのためガンギマリに最後の希望を託さざるをえなくなる。
そうするとけっきょく、人はそれぞれに工夫しながら、けっきょく信じる神は未発の「ガンギマリ」という一点、ということにならざるをえない、そしてそのことは、まったくそのとおりなのだろう、このガンギマリ妄想神が人々の最後の信仰であり、それを導くとされるドラッグにはカッコいい名前が付けられている/まあ、悪魔がカッコいいという感覚もわかるのだが、ガチの魔がガッツリ入り込んだとして、本当にそれを引き受ける覚悟があるのかという問題になってくるな。

「蒙昧ハッスル」が事実だ、けれどもそれ以外に信じられるものがない。

初めに言ったように、人は、自分を助けてくれたものを信じる性質がある、そして蒙昧ハッスルが、薬剤であれ非薬剤であれ、自分を助けてくれたのならば、それを神として、人は信じるしかないのだ。
薬剤であれ非薬剤であれ、ガンギマリを信じた人は、仮にその中毒で死んだとしても、その死の間際、自分の毒物を神として抱きかかえて死んでいったかもしれない、と僕などは思う、それまでどれだけ更生しようと努力した人も、死の間際には、けっきょくその中毒物を抱きかかえ、そこに帰依して死んでいったのではないだろうか/なぜそこに帰依して死んでいったかというと、たとえ一度きりでも、それが自分を「助けて」くれたからだ、他に自分を「助けて」くれたものが認められない場合、人はやはり自分を「助けて」くれた唯一のものを抱きかかえて死んでいくしかない。
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覚醒剤と報酬系、および「ドーパミン」の話2
の脳みその「報酬系」、ここに刺激を受けて、ドーパミンがギャンギャン出ますよ〜というだけでは、人はどう生きても無駄ということ、「わたしはこのように生きた」なんて事実は一ミリも残らないということだ。
その点おれなんかは、きれいな女が大好きだが、きれいな女が十人ぐらい集まって裸でおれに抱きついてキスしてきても、そんなことでドーパミンは出ない、愛があるのにドーパミンが出る必要はない/そんなもん測定したことはないが、直接見たらわかるし、直接触れたらわかる、「こいつ血中に何も起こってねえ」というのはさすがに生きものの直観としてわかる。
あるいは、僕も正確に知り切れていないのだが、脳内にドーパミン的なものが出ないか、もしくは、それが分泌されたとしても、魂がそれに一切取り合っていない、という状態なのかもしれない/とにかくおれにとって必要なものはおれの魂と愛のみであって、ドーパミンがどうこうというのは興味がない、餌付けされたラットの実験みたいになったことはこれまで生まれてから一度もない。
くれぐれも申し上げるが、おれはドパマン状態を「我慢」しているのではないし、「隠して」いるのでもない、抑圧しているのでもないし、忌避しているのでもない、ただそれが「消えた」というだけだ、「消した」と言ってもよいかもしれない、なぜそれを消したかというとつまらないからだ、つまらないものは消すに限る、つまらないものを生かしておく値打ちはない、ブッ殺してしまえ。

なぜコイツはドパマン状態にならないのだと、ブキミに思えたら、そのブキミさのまま、「こいつ霊体なんじゃね」と捉えればいい、デタラメな言い方だがその言い方のほうが近くて手っ取り早い。
もちろん僕だって生きているので、生身の性質はゼロではないが、僕は生身の性質を愛とか意志とかに取り違えて生活するアホが苦手なのだ、生身なんかどこをいじっても愛も魂もない、けれども、よもや誰だって「わたしには何の愛も魂も、そのかけらさえありません」「ただの生身の物体で、報酬系を追いかけるのみでございまァ〜す」とは自称しない、だから生身の性質「だけ」の中に、うそんこの愛や魂を設定しようとする、そんなことが大量に行われて、世の中が極限まで行方不明になってしまった。
あなたの意志なんてないのだ、あなたのこころなんてないし、あなたの魂とか、あなたの愛とかは「無い」のだ、あなたの性格や趣味もない、あるのはただ脳みその報酬系刺激と分泌物という性質だけだ、だからあなたは毎日何をしたらいいかわからず、わけのわからない老化だけが襲ってくるのだ……ということなのだが、これは意地悪で言っているのではない、あなたが「どのように」、その報酬系刺激と分泌物を漁っているか、そのメカニズムを自分で点検してみろということだ、僕はあなたにその牢からの脱獄を勧めているのみ。
うーん、何かこうして話しているうちに、わかってきたぞ、みんなドーパミンを出そう!! そしてそのドーパミンの渦中で、いかに自分の魂が生身のドーパミンに左右されないか、そして魂こそが生身の主人であって、その逆ではないということを己において証するのだ、そうすればとても景気の良い、われわれのまともなやるべきことが見えてくる(といって、この説明はおれにしかわかんねーよ)。

美女と美少女は、おれのところにドーパミンのロンダリングに来るように。

おれが一般的な偉い人と違うのは、おれが美少女のスカートを平気でめくる点だ、一般的な偉い人はまったくそういうことをしない、ところがおれはそういうことを第一にガンガンやるので、何が違うかというと、嵐の中で静かな船がマジな船だと言っているのだ、静かな湖畔に浮かべていたらそりゃあどんな船でも静かなものだろうが、そういう船に限って横風が吹くとたちまちバタバタと転覆していくのだ、そうした一見「静かな人」「穏やかな人」は徹底的にニセモノである、そのことは誰だって年齢と共に周囲の現実から――あるいは自分自身の現実から――思い知らされていく。
おれが美女や美少女を好きというのは、「ドーパミンより美女のほうが好き」ということであって、ドーパミンより札束のほうが好きだし、ドーパミンより名声のほうが好き、ドーパミンより美食と官能のほうが好きということだ、どんな美女だって自分の股間をドーパミンの呼び水みたいに使われたら腹が立つだろう? おれはドーパミンに興味がなく、だからこそドーパミンはじゃぶじゃぶ流してしまえと言っている、ああなんと健全なことだろう、魂にドーパミンをぶっかけるなど、虹に酢をぶっかけるぐらい無駄なことだ。
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覚醒剤と報酬系、および「ドーパミン」の話

は自分を「助けて」くれたものを信じるという性質がある。
自分が苦しいとき、ドーパミンが「助けて」くれたとすると、人はそれを信じるのだ/そりゃ自分を助けてくれないものを信じろと言われてもフツー無理がある。
覚醒剤を使うとただちに犯罪者になってヤバい奴と軽蔑される向きがあるが、覚醒剤も結果的に「ドーパミン掛け流し」に作用するだけなので、別に覚醒剤を使わなくても、ドーパミン信仰者なら本質は同じだ。
音楽を聴きながら筋トレして、意識を高くして自己実現をイメージして、クリエイティブな作業や自己アピールや「いいね」ゲットをして、地味な誰かのことをそこはかとなく見下してマウントし、うぬぼれることを日々の生きる力の源泉としていたら、覚醒剤を使わなくても同じだ、要はドーパミンドパドパマンということであって、こんなものは「ドパマン」と一括りにできる、容赦ないが本当に一括りにして差し支えない。

脳みそには「報酬系」と呼ばれる部分がある。
この報酬系の神経(シナプス)において、ドーパミン蛇口をオープンし、ドーパミン排水溝にフタをする、すると報酬系の脳みそはドーパミンであふれかえることになる。
覚醒剤はそのようにして蛇口と排水溝に作用するということであって、逆に言うなら、やれ音楽を聴いたり筋トレしたり、イメージを高めたりマウントしたりという、面倒なことをしなくても、適量の覚醒剤を入れればドーパミンは十分ヒタヒタになりますよということだ、実際それで過去には薬局でヒロポンが売っていた(ヒロポンはただの覚醒剤の商品名、もちろん合法)。
脳に「報酬系」という部分があるとイメージしてみて、冷静に虚心に考えてもらいたいのだが、今ある環境、あらゆるコンテンツ、刺激物や、自分の性格や挙動、人間関係等について、 "脳みその報酬系に作用しているだけ" ということに、本当に心当たりが皆無だろうか? 人は自分を助けてくれたものを信じるという性質があるが、その自分を「助けて」くれたものは、単に自分の脳みその報酬系に、ホルモン物質(ドーパミン)を出させてくれただけではないのか、そしてこっそりと、今もそれを、自分はやめられないでいるのではないのか? 覚醒剤に問題をなすりつけて自分だけ無事のふりをするのはよくない。

「報酬」に向けてしか動けない、というのが生きものの仕組みだ。

だから覚醒剤の常用者は、その依存から脱却することが極めて困難だとされている、なぜなら直接の脳のレベルにおいて、覚醒剤を断つことは自分に何らの報酬も与えないからだ、自分の「がんばりました」的な報酬など、薬物でブーストされた報酬の量に敵うわけがない。
ここに何が暴露されているのか、冷静に考えれば明らかなことだ、この生きものの仕組み、報酬に向けてしか動けないという仕組みについて、つまり「報酬はクソ」と気づかないかぎり、人はいつまでも生きものの仕組みに振り回されるのみだということ、つまり人の意志なんてないし、人のこころとか、魂とか、性格でさえ存在しない、ただ「報酬」という一点に向けて操られているだけのあわれな生きものだということだ、そこまで「報酬」というシステムに合意したわけでもないのに。

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Anywhere Is

ンヤの Anywhere Is という曲がある。
YouTube から当該作のMVを観るとわかるが、動画00:08秒のところで、地面にデカデカと「YOU ARE NOT HERE(あなたはここにはいない)」と書いてある。
デカデカと書いてあるのだが、ふつうこういったものは気づかないものだ、気づかないように作られていて、わざわざ読み取ろうとする奴だけに向けてこっそりと埋め込んである(万事そういうもんである)。
時計がぐるぐる回る場所―― "時間" が経過する場所――を示して、その足許に「あなたはここにはいない」と書いてある、誰も気づかないのだからそんなこと書かなくてもよさそうなものだが、そう書いておかないとMVの意味がないのだ、わけのわからない印象的な映像なんか作ったりしない。

MVは始終、登場人物(エンヤ当人)が、「時間」の向こう側へ行こうとする表示を見せる。
動画02:48秒時点、これこそ誰も気づかないように示されているが、「NOW IS NOT THE TIME」というスクロールが円弧状に流れる、この英文はさしずめ「 "今" というのは "時刻" のことではない」と読むべきだろう。
つまり、「時間が流れる場所にあなたはいない」し、「時間の流れる場所に "今" もない」と読み取られて、すべては「時間」という思い込みの向こう側が何かの場所が( Anywhere Is )ありますよというメッセージに見える。
もちろんこれらを、「わけがわからない」、意味ありげな雰囲気だけの印象映像と見ることもできるので、そのあたりの判断は各人に依るしかない、僕はさしあたりエンヤの言っていることより、最近流行の煽り運転おじさんのほうが「わけがわからない」と思える/煽り運転おじさんが「リアル」だと僕もわかるが、煽り運転おじさんが「真実」だという気は、僕にはあまりしない。

あなたはここにはいないし、今というのは時刻のことではない。

だから「どこかが」あって、「どこかが」聞こえていたり存在していたりするということだが、そのようにおれが言っているのではなくて、エンヤが言っているのだ、本当かどうかはおれも知らん。
ただどうしてもわれわれは、エンヤの言っていることが「マジだ」とは思えないのだ、それよりはニュースで報道されている煽り運転おじさんや恫喝タレントのほうが「マジだ」と確信されてしまう、どちらが確信すべき真実かなど誰にもわかりっこないが、さしあたり各人においてどちらが信じられているかということにはごまかしが利かないようだ/そりゃ「マジだ」と思えてしまうものは自分にだってどうしようもない。

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主体(天)と主体(地)の、それぞれで起こる身体の現象
うでもいい話だが、おれが何かに気づくかもしれないので話すと、主体(天)に属して万事を営んでいるときと、主体(地)に属して万事を営んでいるときでは、身体に起こる現象が違う。
わけのわからない書き方をしているが、もうだいたいおれの話なんてわけがわからないのだ、念のために書き足して置くと、主体(我)に属して万事を営んでいるときは、実際には何も営めていなくて、血・遺伝子が盛(さか)っているだけだ、主体(我)で何かを営もうとしてもその大半はただの呪いになってしまう(自我・思念という現象を、生きる力に転用してしまうため)。
うーん、わけがわからないにもほどがあるな、まあ別にかまわんだろうと思うので話を続けるが、つまり主体(天)に所属して万事の活動をしていると、地からの生きる力が足りなくなるのか、猛烈にネイチャー系や温泉の補充が欲しくなるのだ、地から湧いているものが欲しくなる、欲しくなるというか、もうその供給なしには活動不能というぐらい生きる力の欠乏を起こす。
逆に、主体(地)に属して万事の活動をしていると、温泉は必要ないが、なぜか猛烈に腹が減ってくる、これは上から下にものを入れなくてはいけないということなのだろうか、まだはっきりしないが、とりあえず自宅に帰る前に、100メートル手前のコンビニでパンを買わないと空腹で倒れるというぐらい空腹が起こる、そして食パンを一斤とステーキを二枚食べて直後に「腹減った」と言い出したりする、これがどういう現象なのかはわからないが、とにかく主体(天)と主体(地)のどちらに所属して活動するかで、身体に表れてくる現象はずいぶん異なるということだ、とりあえず面白いなあと思っている。

天にせよ地にせよ、念じていても意味がなくて、実際に身体が「天地」につながる必要がある。
天につながると、自分の行き先・響いているものの先が得られるので、叡智を得たり、自他を導く力を得たりする。
一方、地につながると、自分の由来・突き上げてくるものの元が得られるので、愚昧を吹き飛ばしたり、自他を押し上げる力を得たりする。
天につながると、どんどん天・空間に溶け込んでいって、生きているのか死んでいるのかわからない状態になってゆき、一方、地につながると、どんどん地・歴史が噴き上げてきて、生きとし生けるものをすべて焼き尽くそうとする状態になってゆく/だから何だということはないが、とりあえずおれがブッ倒れそうになっているとき、この二種類があるので、そのときおれの近くにいた友人は、それぞれに見合ったケアをするように……実際おれも、100メートル先の自宅に帰る前に倒れそうなときは我ながら焦ったわ。

下から押し上げているときは上から何か足してくれ、上から引っ張り上げているときは下から何か足してくれ。

そうでないと、本当にぴくりとも動けなくなるのだ、もちろんおれ一人きりでいて他と一切関わらないときには、天地双方につながった状態でいるので、バランス的に安定するのだが、他と関わるときは状況に応じて、自らを偏った状態にしないといけないのだ、その偏りでおれはフラフラになっていくので、そのことをなんとなく知っておくように、こんな話もはや誰に向けて何を言っているのかさっぱり意味不明だが……
なんというか、主体(我)で活動している人は、どこかで必ず「うぬぼれ」と「オピオイド」の供給が必要じゃないか、それと同じように、主体(天)・主体(地)で活動している人も、それぞれに必要とする供給があるのだ、この面白い現象にはさらなるヒミツがあるかもしれないので、さらに面白いことが見つかればまたレポートする。
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体罰に関わる問題
代において、体罰というのは、もうほとんど使えないだろうと僕は思っている、僕の考えなんかどうでもよいことだが、僕はすでに体罰については否定派だ。
 少なくともそれが「体罰」というように、「罰」に見えているのだとしたら話にならない、罰というのは司法によってしか処せないものだから、司法手続きによらない「罰」というのは法治国家においてありえない、体罰に限らず罰金というのも含めて、「罰」というのは司法によってしかありえない。
 それでも便宜上「体罰」としか言いようがないのだろうが、体罰はすでに、局所的なものを除いては否定されるしかなく、体罰が否定されるということは、若年者が救われるということではなく、若年者が救われなくなるということだ、まあそれを承知の上で、僕は現実的な思考から、体罰を否定する立場を採らざるをえない、これは僕の温情ではなく冷酷を示している。
 もしここで、個人的にウソにだまされたくないと求める人がいれば、僕が個人的に、ウソにだまされてはいけないよとお話しすることになるが、あくまで個人的な範疇において、体罰についてブーブー言っている人たちはウソでありインチキだ、本質の問題はそこではない、本質は「寒い人たちの体罰」は目も当てられないのであって、その寒いものと「ナイスガイたちの闘魂のせめぎあい」を比較はできないということだ、よって本当の問題は、われわれが自分たちを「寒い人たち」だと認めないところにある、それを生涯を通して認めることはビンタの一発よりも遥かにきつく重いものだ。

 たとえばここに、「腹から声を出せないAさん」がいたとする/まあ腹から声を出せないといって、大半の人は生涯のうちに一度も腹から声なんか出せないのだけれども。
 このAさんを、「腹から声を出せないAさん」として生涯を定義してしまう前に、唯一の脱出口がある、それはしのごの言う前に、軽く拳をもって、「おい、ちゃんと気ィ入れてやれや」と、その胸を突いてやることだ、そうするとその瞬間にのみ漲(みなぎ)るものがある/もちろんそれをもって、必ずしもすべてのケースで漲るとは限らないのだが、唯一漲る可能性があるのだ、軽く拳をもって胸を突いてやるだけで、その方法しかないし、誰だってそんな単純なことからようやくすべてが始まることはある。
 現代において、体罰はすでに通用しないと僕が考えるのは、拳をもって胸を突くとして、それで彼の全身に危機感と高揚感を漲らせられるという、実際のパーソンがいないということもそうだし、それ以上に、すでに現代における人々の心身の荒廃は、そんなことで好転しないほど進行していると考えるからだ、本当に死んじゃいそうになる人が多くあって、そういう人は本当に、腹から声を出すなんて生涯にわたって「とんでもない」という庇護の中を生きていくしかない。
 Aさんに、「腹から声を出しなさい」といって、説諭のみをもってAさんの体質を変えるのは、どこかの時点からは不可能だ、それで弱々しいAさんを、そのままAさんの個性として保存するという考え方も勿論あるが、そのAさんがその先を、幸福と光輝に満ちて生きていけるかというと、それは誰にもわからない、Aさんは腹の底から笑うことが一度もなく生きていくしかないが、そのことを「しゃーない」というなら、もう初めからAさんに対して何かを教えるとか伝えるとかいうことの一切を諦めるべきだ、AIが判断して適宜情報だけ伝達すればよいだろうし、そういうことにかけてはAIのほうが優秀だろう/僕はそうしたときにどちらが正しいのかを決められないが、僕がただ問いたいのは、「拳で胸を突かれずに生きてきたAさんのことをあなたは愛するのか」ということだけだ、ここですべての問答は窒息するだろう、どうかウソ偽りなしにこの問いにだけ答えてもらいたいところだ。

人を愛していない者が、体罰だけを憎んでいたとしたら、その話は聞き流しておけ。

 別に体罰だけに限ったことではないが、人を愛していない者が何かを宣ったとして、それは人を愛している者が何かに奮闘していることとは性質が異なるのだから、区分して聞き流すことだ、人を愛していない者、何かを愛していない者が、何か正論めいたものを述べてみたとして、それは何も愛していない者の悲憤正論にすぎない、こんな馬鹿げた正論が何の足しになるだろうか?/そしてこの際、急に切り出された "何も愛さずに生きている者" という存在を、改めて異様なものと捉えなおすべきだ、それがたとえ己自身のことであったとしてもだ。
 体罰に関わる問題について、僕は「もう現実的に無理でしょう」と考える、まあ何の立場もない僕がどう考えても、世の中に何の影響もないことだが/腹から声が出ないAさんは、まったくの独力と、ネット検索した情報のみをもって、人格レベルから覚醒し、自己変革に到らねばならないのだ、その見込みの現実的でなさは、「もっと無理だろう」ともちろん考える、誰だってそう考えるから、誰もがそんなミエミエの無理には取り組まない、そうして時だけがすぎ、もう何もかも取り戻せない年齢になるだろう、そうなるともう考える必要もなくなるので、意識は眠るだろう……すべては当たり前で、何の問題もないように見える、何の問題もないように見えるのだが、唯一、Aさんは「愛される」のか? ということだけが残り続ける。
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悪霊の入口は「やることがない」
まざまなニューストピックが、もうトピックの時点で正気を疑わせるので、内容まで知ろうという気になれない。
学校の教師が教師同士で幼稚ないじめ行為に耽るとか、芸能人がタピオカ屋を罵って脅迫するとか、もう何のこっちゃわからない。
ここにある恐怖は、その犯罪性というよりも、「よくそんなヒマなことで、そんなヒステリーのスイッチが入るな」ということであって、犯罪性への恐怖ではなく、その本性の「得体が知れない」ということへの恐怖だ、犯罪性うんぬんよりも、当人があまりにも幸福から遠すぎることが、表面からはわかりづらすぎて恐怖だ。
先日まで「あおり運転」等が、これもまた「よくそんなヒステリーのスイッチが入るな」という恐怖を煽ったのだが、もうこれでは街中も旅先も、同僚も級友も、おっそろしくて気を許せないじゃないか、ハロウィンパーティはまだ先のはずなのに、リアルに魑魅魍魎がうごめいていて現代で言うところの草も生えない。

もうこれらの一切について、事件の正体を、「悪霊が憑いている」としか表現できなくなった。
どのように頭をひねってみても、事件の動機そのものが、まともな経路では発生しえないからだ、それでもう面倒くさいので、一律「悪霊が憑いている」と括るしかないと思える、実際ここしばらくで連続するわけのわからない狂気のニュースは、ぜんぶ「悪霊が大繁殖しています」とアナウンスされたほうがまともに聞こえるのだ、もうNHKから「今日も悪霊のニュースです」と報道してほしいぐらいだ。
そして僕の知る限り、人は生きていて「やることがない」となると、悪霊に入り込まれやすくなるものだ、いくら著名になって裕福になって、権力を得て顔が利くようになっても、根本的に「わたしのやること」がなくなると、人は無力だ、ただ時間が流れて老いていく中をのたうちまわることしかできない、そんなときどうしても悪霊に入り込まれる。
それは、仮に悪霊なんてものがいればという仮想を前提とするが、その上で、それは悪霊の第一の手口なのだ、まずわけのわからないものを肯定させ、そのあとで肯定を取り去ると、「あれ?」となって、その直後に「やること」を失う、このとき大きな恐怖に見舞われるから、ここでサッと別の「やること」を差し入れるのだ、すると人は恐怖から逃れるために、差し出されたそれに飛びつく、そうやって悪霊は人に入りこむ/仮に悪霊なんてものがいればという仮想を前提にしてだけれども、

必ずしも「うつ」の形で現れるとは限らない。

今や、著名人や身の周りの誰もが、「うつ」になったとして誰も驚かないが、「うつ」は神経症(ノイローゼ)の一形態でしかなく、それは必ずしも「うつ」という形で現れるとは限らないのだ、その多種多様な――ときには激烈な――現れ方を捉えようとするとき、観念的には「悪霊」という見方をするほうが、きっと感覚的には正しくなる/仮にその「悪霊」という言い方を採用するなら、すべては悪霊を肯定する前に対処することが大事だ、当人が悪霊を肯定した後では、その悪霊は生半可には出て行ってくれない。
そしてほとんどの悪霊の入口は、自分が「やることがない」というところから生じている、初めは生きるために「やること」があり、いちおうの成功を得ると、今度はその成功を満喫することが「やること」になるのだが、それも一段落すると、そのころにはすでに老い始めていて、途端にこれまでにすべてのことが、まるで肯定感を失って消え去る、すると自分の「やること」が完全に消えてしまう、このとき悪霊が入り込む、だからすべてを超えて自分の「やること」とつながっていることが大事なのだ、そもそも自分の「やること」とつながっていない日々のほうが極めて特殊で危険な状態なのだが、現代はその危険な状態がデフォルトになって、あまりにも多くの人がずっと綱渡りを続けている状況にある。
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年長者の一面は、過ぎた時代へのガイド役
い女性に、「歌の上手い女性歌手って、誰をサンプルにすればいいですか」と訊かれた。
それで僕は、「オリビア・ニュートンジョンとか、カーペンターズとかかなあ」と答えた/「何のクセもなくて、ただ唄っているだけにしか見えないのに、何かが異様に上手い、ああいうのが "歌が上手い" んだと思うよ」。
色んなクセや、色んな特徴、色んな魅力を持つシンガーがいると思うが、ありきたりな話、クセのある人を真似すると、クセだけ似通って自分は行方不明になるので、中央のサンプルはごく正統派がいいと思っている、もちろん歌に限らずなんでもそうだ。
そんなことを話ながら、僕はふと、「年長者というのは、過ぎた時代へのガイド役でもあるのかもしれない」と思った、僕だってオリビア・ニュートンジョンやカーペンターズの時代に直撃している世代ではないのだが、僕自身も誰か年長者に、かつてガイドされたからその名前と歌を知っているのだ。

たとえば「ゆず」というデュオがいて、「コブクロ」や「ケミストリー」というデュオがいた(いる)ことは、二十代の人でも知っているはずだ。
けれども、デュオというと、さかのぼるとたとえば「サイモン&ガーファンクル」というのがいたのだが、これはもう知られていないかもしれない/古いものを再興する必要はないと思うが、連綿と続いてきたものが途絶えているのは、ただの情報のロストでしかない。
ふと、YouTubeで調べてみると、久しぶりに、やはりサイモン&ガーファンクルのハーモニーは異様な荘厳さで、たとえば「サウンド・オブ・サイレンス」とか「スカボローフェア」とかを聞いてみると、やはり今でも「なんなんだこいつら……」と、驚くというよりも何か心胆を寒からしめられる/こういう "デュオ" があったことは、もはや歴史的事実だから、古いとか新しいとかいうことではなく、ただの知識としてつながっていればいいと思う。
われわれは学校の授業で、やれアウストラロピテクスだの、縄文式土器だの、古墳時代だの、墾田永年私財法だのを習うのだが、そういう切断された過去の話ではなく、現在から遡って、「自分が目撃しなかった時代」のことを、あるていどつながって知る必要があると思う/むろん青春の只中でそんなジジくさいことは知らなくてもいいが、僕が思うに、人は青春の次の時期に、その遡行の中で何かに出会う気がする。

過去に戻るのではなく、過去を見て、そこから何を得、何を失っての「今」なのかを知る。

過去から現在に到るまで、「何をしてきて」、現在に到ったのか、そのことがわかるのだ、それは現在が視えなおすということであって、過去に戻るということではないし、懐古するということでもない。
過去を見て、「この時代」というものが視えはじめると、自分の生きている現代も、「この時代」と視えはじめるものだ、そうすることで、今の自分が何をやっているのかが視えるようになる。
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