☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「やらせろ」が成立する条件
が女に「やらせろ」と言う。
このことは、セックスのときだけ「やらせろ」と言い出すのでは成立しない。
目の前に何かの仕事があったとき、それをおれに「やらせろ」と言い出す奴、目の前に殴り合いのケンカがあったとき、おれに「やらせろ」と言い出す奴、そういう奴でしか成立しない。
目の前にヘルプが必要な婆さんがいたとき、おれに「やらせろ」と動く奴、目の前に補修が必要な船があったとき、おれに「やらせろ」と動く奴、そういう奴でしか成立しない。

だから男が(女もだが)、「やりたいこと」を探し回るようなことはとてもよくないのだ。
何であれ目の前のことすべてについて、原則おれに「やらせろ」と言い出すような奴でなければならない、そうでないとおいしいことも成立しない。
それは言ってみれば、単なる情熱というやつで、情熱というのは四方八方に見境無く発揮されるので、よりごのみしたそのときだけ「やりたい」と言い出すのは情熱ではないのだ。
よりごのみしたそのときだけ「やりたい」「やらせろ」と鼻息を荒くしてくるのは、単なる「出しゃばり」と思われる、そしてセックスのチャンスでだけ自分に向けて出しゃばりをかまされるのは、女としてとても腹がたつのだ、たぶん(おれは女でないのでわからない)。

ペンやハンドルや書物を握りたがらない者が、女の手だけ握りたがったら、それはもうビョーキだ。

たとえば「こころのまま」学問をわしづかみにする男が、「こころのまま」女の乳房をわしづかみにしたがるというのは、これはよくわかる、何もかもを「こころのまま」わしづかみにして生きたいのだろう、それはきっと女のほうとしても不快ではない。
異国の男同士で握手することのない手が、異性の同国女の手を握りたがり、「やらせろ」というのは、うーんキモチワルイ、性欲が悪いのではなく「情熱が致命傷を負っている」ということに気づくしか生存の方法はない。
視点変えてこ | comments(0) |
美人モデルと、お笑い芸人が破局するとき
能人の、離婚や不倫がよくニュースになる。
ふと、不思議に思うのだが、なぜ著名というほどの芸能人なのに、離婚や不倫……というより、破局側の"トラブル"に至ってしまうのだろう。
芸能界には、美男美女がそろい、またそれぞれに十分裕福なはずだ、しかもタレントなのだから才能に長け、華やかで退屈がないはずだ。
にも関わらず、離婚や不倫というトラブルや破局に至ってしまう、それは「なぜ」なのか、思えば当たり前の疑問を僕は思い浮かべている。

われわれ一般人はふつう、美男美女ではあれないし、裕福というのも難しいし、才能なんか無縁だし、華やかさなんて手の届かない話だ。
しかし、それらのすべてを兼ね備えている芸能人でさえ、男女仲は破局、しかも忘れてしまいたいようなクラッシュに至ってしまうのだとしたら、われわれなどはどうしたらいいのか。
逆に言えば、男女仲が輝かしく残っていくために、本当に必要なものは何なのだ? 少なくともそれは、美男美女であるとか、裕福さとか才能とか華やかさということではないのだろう。
われわれが、わざわざテレビ画面の向こうにまで見たいと思う彼らが、なぜ居宅では互いに「顔も見たくない」ということになってしまうのか? 破局した芸能人たちが「本当のこと」をレポートしてくれたら、われわれはそこに本当に必要な知恵を発見することがあるかもしれない。

美人モデルと、お笑い芸人が破局するとき、なぜ彼らは「うつくしい妻」と「愉快な旦那さん」ではいられなかったのか。

仮に、「結婚したいタレント」ランキングを作ったとして、その上位者が、実は男女仲を形成するのに向いていないという可能性も十分にある、ではかけがえのない男女仲を作り出すのに本当に必要なものって何なんだ。
つまりわれわれは、「わかっていない」のだと思う、わかっていないものはどうしようもないが、わかっていないのならわれわれはそのことを学ぶのに慎重であるべきだ。
視点変えてこ | comments(0) |
僕の迷惑より相手の地獄

は今、目黒区の、商店街と住宅街が半々になったところに住んでいる。
それで、夜中の二時や三時になっても、だいたい通りに酔っ払いが歩いているのだが、彼らの話し声がすさまじくデカいので驚く。
電話をしながら歩いている人も多いのだが、真夜中だというのに、まったく昼間と変わらない大きな声で話している。
たぶん、街の気配もヘッタクレも、本当にゼロなのだろう、今さらそれは非難する気にもなれないが、ただ誰にでも「そんなふうになってはいけない」ということ、および「そんな奴と友人になってはいけない」ということは申し立てておきたい。

まあ、ずいぶん以前に、防音の二重窓を入れたから、個人的にはいいんだけどね。
それにしても、とにかく文化的にも脳みそ的にも、すでに気配とか配慮とかいった感覚の能力をすでに完全な不能にしている人が少なくないのだ。
ありのまま言うと、深夜だから声のトーンを落としている、声をひそめている、という人のほうがはるかに少ない、ほとんどゼロなのではないかというありさまだ。
僕自身、夜中に街を歩くとき、ふと思い出して確かめてみたりするのだが、やはり真夜中で近隣に住居があるという状況では、どうしても声を張り立てる気にはならない、そこはたぶん本当にもう生きものとしての感覚が根こそぎ違うのだろうと思う、このことは現代においてもう引き返せないものの一つだ。

僕も迷惑を被るが、彼らだって地獄なのだと思う。

たぶん、気配とか配慮とか、あと文化とか、そういったものが不能になるよう育てられて、もう修正は利かないのだ、そういったことの自覚はたぶん誰の内にもうっすらとあるのだと思う(その地獄に比べたら僕の被る迷惑なんて些少なものだ)。
しゃべり方とか声の出し方とか、愛し方とか未来の見方とか、たぶん本当にわからないのだ、そしてそういったものはたぶん彼らにおいてはもう取り戻されまい、現代のわれわれはこういった感覚不能の事実を冷静に見つめてゆかねばならないのだと思う。

視点変えてこ | comments(0) |
「方針」を決めるというステキなこと

「方針」を決めるなんてことが、意外に推進力を持つし、人をすっきりさせて落ち着かせる力を持つ。
ただしこのとき、自分の方針を、自分限りで決めることはできない、われわれは一人で生きているのではないからだ。
たとえば消防士が消火活動をするとき、全員でホースの先端を持っていたって、水はいつまでたっても放出されない、それぞれが自分の持ち場を適切に選ぶことをしないと「全体」として機能しない。
われわれが生きている、この「全体」というものについて、自分はどういう持ち場を選択していくか、その感覚を鋭く持ち続ける必要がある。

現代のわれわれはどことなく、「自分のやりたいこと」を探すべきというふうに、教育されているというか、発想づけをされている。
だが実際には、そういう方法は不適切なのだ、全員が「自分のやりたいこと」をスタンドアローンで空想していたって全体が機能するわけがない。
自分が方針を定めるときには、他の人が、そして全体が、何をやっているか、何をやろうとしているか、それを知ることが大事になる、自分の方針を定めるには他の人の方針についてもよく知っておく必要がある。
人間にはそれぞれの個性があって、個性に合った持ち場を得るのが何よりいい、だがその「個性」というものは、実は「孤立」の中では発見されないものなのだ/「個性」は関係性の中で発見される。

友人が建築士になるなら、自分は造園士になればいい。

こうして定まるときの「方針」は、自分だけでふわふわと思い描いたものより、はるかに実感を伴い、推進力を持つのだ、友人が服を創るなら、あなたはセレクトショップの主になればいい。
あなたが「方針」を決めるというとき、それは同時に、あなたがどういう「関係」の中でどういうふうに「活躍」するかということが思い描かれるものでなくてはならない/僕はあなたとの関係において、あなたとは異なることをする、それはあなたとつながるためにだ。

視点変えてこ | comments(0) |
愉快さの男

とえば、「♪は〜るばる、来たぜ、函館へ〜」という歌がある。
この歌を北島三郎が歌うと、なぜかわからないが、どうしようもない愉快さが起こる。
僕は演歌はまるで趣味ではないが、そんなことは関係なく、何か愉快にさせられて、「ああ、函館か」「男だなあ」という納得と敬いが起きる。
この、わけのわからない、きっと上等でさえない「愉快さ」は、男性特有のものだ、たぶん「楽しさ」で勝負したら、しょせん男は女にはかないっこないだろうから、僕は男なら愉快な人間でありたい。

たとえば、義理人情をもって、人にお中元やお歳暮を贈ることは女性にだってできる。
が、そういう義理人情やお中元やらお歳暮とかを、おっさんがやるのはなぜか「愉快」なのだ、この「愉快さ」だけはなぜか男性だけが特権的に持っている。
この「愉快さ」は、きっとペニスそのものによって起こっていて、つまり北島三郎が「ちょっとションベンしてくらぁ」と立ち上がるだけでそこに愉快さが生じるのは、男性がペニスを所有することに引き起こされているのだ/女性が同じことをやってもそこに愉快さは生じない。
学問でも、仕事でも、決闘でも、食餌でも、喫煙でも、最悪は戦争でも、何でもそうなのだが、男性はそれらを「愉快」にできるのだ、これは現代の男性が男らしく生きるために唯一の道かもしれない。

「楽しそうな男」は、どうしてもオカマにしかならない。

男というのは、愉快にメシを食い、愉快に酒を飲まねばならないのだ、それは女から遠ざかるということだよ、しかしきっと女から遠ざかってくれる男がいてくれることを女は本心では望んでいるだろう。
女性が一人で函館まで行ったら、「津軽海峡冬景色」になってしまうものな、女性はついに男性ほどのアホみたいな愉快さは持てないのだろう、男女それぞれに限界というものがあるものだ。

視点変えてこ | comments(0) |
体調が悪いとき
間は、調子を整えたいという願望を持っている。
それで、体調が悪いとき、「自分の体調の悪さに不機嫌になる」という現象が実は起こっている。
これは、二重に調子が悪くなるので損だ、体調の悪さというのは誰にだってあるが、体調の悪さでヘコむ、ということまではしなくていい。
体調が悪いときは、「おう、来た来た」という程度でいいのだ、体調が悪い日というのは、別のやり方をする日ということでしかない(ただし本当の病気はダメだ)。

体調の悪い日に、逆に散歩に出るぐらいのことをしてみるのもいい。
体調の悪い日に、体調のよい日と同じやり方をするから苦しいのだ、体調の悪い日は、「いかに体調が悪いか」ということを確かめながら歩けばいい。
ほんの数十メートル歩いただけで「ああ、しんどい」「くらくらする」というとき、それを笑えばいい、それは否定されるべきことじゃない。
「体調がいい」ということは、何も「偉い」ということじゃない! 僕たちはスポーツ選手として街中を歩いているのじゃないんだ、そこでかってにその日の調子の成績をつけないように。

遅く歩け、体調の悪さ以上に。

僕たちはいつのまにかすべての日々に「好成績」を収めようとしている、それで体調の悪い日にまるで「自分を呪う」ようなことをしてしまう。
体調の悪い日が、体調のよい日に比べて値打ちがないとか、そんなことありえないよ、もし人間に好調の日しかなかったとしたら、この世に文学なんて何一つ生まれなかっただろう。
視点変えてこ | comments(0) |
僕の知力のなさについては
もかもが、うつくしくて楽しいのだと思っていた。
が、いつのまにか、そうでないものがニョッキリ出てくるようになり……
うつくしくないもの、楽しくないものについても考えさせられてきたけれども、たぶんそれらにはけっきょく何の意味もないのだ。
何の意味もないからこそ、それが主題になっている人はつらいのだ、と想像するが、その想像もけっきょくよくわからないのだった。

つまり僕がAさんを見るから悪いのであって、Aさんが僕を見ればこの問題は生じない。
が、Aさんにはすでに僕を見るなどという機能は残されておらず、AさんはAさん自身およびそれに類似する何かをしか見ることができなくなった。
僕は人のことを見ないようにしよう、そのほうがけっきょくAさんのためにもなるのだ。
僕は何にもわかっていない、あまり知識や概念を保有するだけの知力がないのだ、僕の知力のなさについてはどうかあきらめてくれ。

知力を振り絞ったが、何の意味もなかった。

僕は、誰がどういう人であるとか、誰がどういう問題を抱えているとか、その解決策はとか、そういうことを把握する知力がもともとないのだ、実はカレンダーの見方さえ本当にはわかっていないところがある。
気候とか、うつくしいものとか、そういうものに引き寄せられているだけで、そこでニョッキリ・ドバッと何かが出てきたとしても、それのことはよくわかっていないのだった、ただ夏の光に光っているものは眼下にわかる。
視点変えてこ | comments(0) |
群れ充(モコるというやり方)3
ぜこんなガラにもないことを考えているかというと、何にせよ新しい可能性を模索しているのだった。
「ideaに反したキャラを確立する」という発想には可能性と爆発力がある。
逆に考えると、キャラを確立している人は、内部的に自己ideaとの背反があるので、潜在的に大きく苦しんでいるかもしれない、という仮説も成り立つ。
でも、キャラというのはそういうものだし、キャラはそれでいいんじゃね? とも思うのだ、足しになるならなんだっていい。

キャラづくりに苦しまなくて済む方法は、あくまでキャラを、完全なつくりものにすることだ、自分とつなげることさえしなければ苦しみは生じない。
そんなことをして何の価値があるんだ……ということになるが、これは価値があるのではなく「可能性」があるということになる。
営業マンが仕事上で営業キャラをつくるように、完全なつくりものを履行するということは、それだけで新しい「可能性」がある、それは新しい自分が出現していくための素地になる(かもしれない)。
何か冷たいものを想像することが必要だ、冷たい外力によって、われわれは完全なキャラづくり(for battle)を発想することができる、つまり血も涙もない何かに飛び込もうとするとき、われわれは新しい自分の素地づくりにトライすることができる。

I was born for battle, 群れ充は可能性のバトルをする。

むろん、そのバトルに勝利できず、可能性が未遂のまま敗退すると、惨憺たる結果しか残らないが、バトルというのはそういうものだ、バトルそのものを否定していては話にならない――バトルに向かえ!
バトルが明確に意識されるとき、群れ充の潜在的正義がはっきりと見えてくる、ただそれがバトルなのだと明確に知らされていないときは、誰にとっても不毛で不利益な時間に堕するだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
群れ充(モコるというやり方)2

とえばわれわれは、AKBの中心的存在である指原莉乃さんのことについて、「よく知っている」というような感触を持っている。
しかし一方で、彼女の考え方であるとか、彼女の愛するものであるとか、彼女がかつて感動したものであるとかについて、実は何も知らない。
指原莉乃さんのキャラクター、および指原莉乃という「キャラ」については、われわれはよく知っているのだが、彼女のideaについてはわれわれは何一つ知らない。
よほど趣味やこだわりに反するでもなければ、指原莉乃さんに悪意や嫌悪を向ける人はないだろうが、われわれは指原莉乃さんを漠然と好意的に眺めながら、やっぱり彼女のことを何も知らない。

一方、たとえば浜田雅功さんが、「若手が礼儀や筋を通すことを怠ったら、そこだけはめっちゃ怒るだろう」ということはわれわれにも想像がつく。
あるいは、故マイケルジャクソンが、世界中の子供たちと自然環境に能動的なケアをはたらきかけようとするこころを切実に持っていたのはほとんど周知のことだ/われわれはそういった人たちの存在とidea(考え方)を知っている。
あなたの場合はどうだろうか? あなたの考え方、あなたの愛するもの、あなたがかつて感動したものについて、実は何も知らないということがままある。
あなたのキャラクター、および、あなたがやっているかもしれないあなたの「キャラ」については、みんなよく知っているのだが、あなたのideaについては――模糊として――みんな何一つ知らない、そういうことがままあるものだ。

(モコるなら)"ideaに反した"キャラを確立せよ。

突き詰めていくとわかる、現代のわれわれは他人にideaを求めてはいない、キャラを求めているのだから、現在おそらく「ideaがない上にキャラもない」という場合が一番うっとうしくなる。
群れ充に参画しようとする場合、最重要のポイントは、「ideaに反した」というところになる、このやり方は皮肉ではなく、実際に活動を拡大するのに大きな力を持つ可能性がある。

視点変えてこ | comments(0) |
群れ充(モコるというやり方)

「リア充」という言い方が、馬鹿げた言い方と苦笑されながら、依然それが上位の様相であるという威を保っている。
そして一般的に「リア充」の定義というと、投稿されるデジタル写真によって証される「群れ」の像が必要十分条件を示している、というように見える。
さかのぼって二十年以上前、人々は「個の確立」ということを、感覚的に知って追求していたように思うが/当時はよく「"自分"がない人キライ」という言い方で異性がクリティカルに評価されることが多かった。
ここで合理的に言うならば、時代は「個の確立」から「群れの模糊」に移り変わったと言える(「模糊」は「確立」の反対)、そのことの是非を論じるのは誰かにまかせるとして、「群れの模糊」という思想は単純知的に現代のわれわれに知られねばならない。

われわれはおそらく、「どういう自分になるか」ということを、考えさせてもらえるフェーズにはないし、そういったことを考えられる機能をどこかの時点で失ってきている。
現在、「どういう群れにモコる(模糊る)か」ということでしか、自分の行き先を考えられないだろう、人間の思考機能は文化や風潮の中で大きく制限されているものだ。
実際、十以上年下の人間と話すと、そのことを如実に感じる、すべての思考はただちに「群れ」のほうへシフトしていくのだ、「自分」という確立個に焦点を当て続けることがほぼできない。
「個の確立」のアンチテーゼのように勃興した、この「群れの模糊」という思想が、この先に何を顕してくるのか、まだ誰もわからないので、そこは静観するしかないが、ただ言えるのは「モコる」というやり方が現在は便利にはたらくということだけだ。

モコる技術には可能性がある。

現代、アイドルではなくて「アイドルグループ」が重要であるように、また「パーティ」ではなく「パーティピーポー」が重要であるように、「群れ」という現象への模糊性そのものが重視されている/われわれは「模糊」そのものになれるだろうか?
かつて「個の確立」ということにガイダンスが必要だったように、「群れの模糊」にもそれなりのガイダンスが必要なように思える/「群れの模糊」ということが哀しさを帯びるようでは、どこかが不徹底だと思うのだ。

視点変えてこ | comments(0) |
身体を増やせ
本的に、実益のことしか考えない。
仕事が好きな人は、仕事が増えればいいし、セックスが好きな人は、恋人が増えればいいし、芸術が好きな人は、世界が増えればいい。
かといって、流れ星が好きだからといって、流れ星そのものは増やせない、物理的なモノを増やすことはできない。
われわれが増やせるのは「体験」だけだ、流れ星を見るという体験を増やすことはできる。

体験が増えるのは、明らかに実益なので、このことはガンガンいこう。
単に回数を増やすことは、体験を増やすことにはならないだろう、「体験」というのは身体に「ためす」「しるす」ということだから、回数だけ増えても「ためす」「しるす」が増えなければ無意味だ。
何を増やすべきかというと、もういっそのこと、「身体を増やせ」と言いたいぐらいだ、一日に二十の体験をするということは、そこに二十の身体があるということだから。
身体を増やすというのはいいな、増えるたびできることが増えるということで、二十の身体があれば、二十の街に生きることができるだろう。

二十の身体なら二十の実益。

われわれが入浴をおっくうがるのは、そのとき入浴する身体を得ていないからだ、だから入浴してしまえばそれが「イヤ」ということではなくなる、それだけ身体を増やせばできることは広がる。
仕事が好きな人は、仕事の身体、セックスが好きな人は、恋人の身体、芸術が好きな人は、世界の身体、全部が好きな人は、全部の身体にまで増やせばいい、そしたら実益はどこまでもいくな。
視点変えてこ | comments(0) |
自立ジョージ
立か。
自立のためには言葉を消せ。
言葉は喧噪の中で消える。
沸騰する喧噪を自分の居場所にするんだ。

言葉を消して友人を持て。
ダサい言葉だが、片思いをしたことをない人間は永遠に自立しない。
自立ということは、何もかもを「うまくいかせない」ことだ、うまくいかせようとする奴は癒着する、ある意味ママのように賢いのかもしれない。
誰だってストレスが大好きだろ? 耳元で大声にサウンドがある奴を友人というんだ。

自立じゃないんだ、立ち上がっていないんだ。

自立には愛と出会いと、輝かしさがある、慈しみまであるんだ、マネーの問題じゃない、よく見たら世の中にはサイコーな奴とサイテーな奴しかいない。
今夜も自立していない奴は情報で肥大しているだろう、友人と片思いのない奴は実に不安そうな顔で街を歩いている。
視点変えてこ | comments(0) |
さびしい時代に、逆の発想
どくさびしい時代が来ていると思う。
人はさびしいと焦ってしまうものだが……
人は焦ると、問題を解決する「熱心さ」をもって、状況に対抗しようとするものだ、熱心なほうが強いし有利だと思っているから。
だが、焦りから生じた、対抗のための「熱心さ」は、実は視野狭窄にしかならない、いつの間にか発想が制限されて、逆に追い詰められていってしまうものだ。

逆の発想、「さびしいなら、今日はもっとさびしくなってやれ」という発想が有効だ。
問題の解決が必要なところで、「じゃあ、問題の解決からさらに遠ざかってやる」という発想をする。
この発想を持つことはとてもむつかしいのだ/言うなれば、水に溺れているところの人間が、「よっしゃ、逆に深く潜ったろ」と考えるようなことだから、これはとてもむつかしいのだった。
しかし、溺れているところの人間が、ひたすら水面に上昇しようともがくのは、強くもなければ実は熱心ということでもないのだった、逆の発想はどうしても必要だ。

今日を貧しくしよう。

スマホいじりながら寝ちゃえ、ということじゃないよ、スマホいじりながら寝るのは楽しすぎるだろう、そうじゃなく、もっとさびしいことへスタスタ歩いていってしまうのだ。
一番大切なことから、逆に離れろ、そうしたらきっと思い出せる、「新しさ」/新しい一日だけがあなたを救ってくれるのだということを思い出せる。
視点変えてこ | comments(0) |
ideaは「言語感覚からの構築物」
なたには「考え方/idea」が要る。
もし「考え方/idea」なしに生きようとすると、あなたは自分のこれからについてことごとくno ideaになってしまうからだ。
ところが、この「考え方/idea」は、実は「言語感覚」によって構築されているのだが、このことがあまり言及されていないというか、知らされていない。
ideaというのは、「言語感覚からの構築物」なのだ、あなたが今をどう生きて、これからどう生きていくかということのideaには、実は「言語感覚」がどうしても要るのだ。

たとえば「充実」という言葉をここに置いてみる。
ここで重要なことは、「なににつけ、充実させたいですよね!」と、パパッと言葉を片付けてしまわないことだ。
「充実とは何か?」と言葉遊びをするのではなく、まず、「充実」という言葉をじっくり見ること/言葉の中にはそれぞれカミサマが棲んでいる。
「充実」という言葉ひとつが、あなたにideaとエネルギーを与えてくれるまで、慌てない、あなたは言葉を知ってはいるのだが、そのとき言葉が見えているとは限らないから。

一万の言葉を重ねるより、一つの言葉に向き合ったほうが、大展開がある。

必要なことは、あなたがどう思うかではないし、どう考えるかでもなく、「言葉そのもの」、実は言葉そのものにはあなたを励ますカミサマが宿っているので、それが出てくるまで暴れないことだ/あれこれ言い換えなんかしなくても、言葉があなたに「教えてくれる」。
たとえるならば、一万人の知人を持ったって、実は足しにならなくて、一人の誰かと向き合ったほうが、あなたに大展開がある、そのことと同じだ、どうかあなたにとって特別な言葉と出会ってください。
視点変えてこ | comments(0) |
「団体性」がウケている

ぜかここ数年、「団体性」がウケている。
アイドルグループの隆盛はここ数年明らかだが、それらはなぜか「グループ」なのだ、かつての松田聖子のような単独性のアイドルが出現する気配はほとんどない。
マンガ「進撃の巨人」で言うと、訴求力は第一に「調査兵団」という団体性が重要だという感じがする/エグザイルメンバーにしても「ワンピース」のルフィ一行にしても、何か団体性の膨張傾向が感じられてならない。
もちろん、団体性の何が悪いわけでもないが、このことは、少なからぬ人が団体性への帰属に「焦がれている」ということなのだろうか?/なんとなくだが、「北斗の拳」のケンシロウみたいになりたいと望んでいる少年はもういないのではないかという感じがする。

バラエティ番組などを見てみても、このごろは、固定ゲストやADやディレクターまでも含めた「一団」をにぎやかせるという、その団体性が第一にウケているように見える。
そしてその団体性は、何かかつての「ドリフターズ」とは異種に見えるのだ、今ある団体性は「親和」に特化しているように見える。
インスタグラム等に投稿される個人的なイベント写真等についても、このメンツと絡みましたというふうの、「親和団体性」が強調された写真が特徴的に多いと感じる。
たとえば今、街中で「喧嘩」があったとして、とっさにそのイメージは、「おっさんとおっさんがサシで殴り合っている」という絵面では浮かばないのではなかろうか? 「街中で喧嘩」というと、団体と団体が殴り合って喧嘩しているというイメージが湧く、それぐらいなぜか現代では「団体性」が前面に押し出されている。

独りで歩け。

近所の公園では、子供たちでさえ、何か「友達と遊んでいる」というよりは、「団体で遊んでいる」という感触がある/夏休みに子供が一人で虫取り網を持って歩いているという絵面が、このところイメージされないのだ(単に防犯の側面もあるだろうが)。
単にモバイルフォンとSNSのアカウントを持つと、人は単独性を喪失するということなのだろうか/僕はこれまですべての街を一人で歩いてきたし、そうすることを愛してきたので、独りで歩くことをおすすめしておきたい(ただし防犯にかなう程度でね)。

視点変えてこ | comments(0) |
情報音量による難聴の中で

世の人間は新聞を読むことがなかっただろう。
江戸時代の庶民はまだ字が読めなかったそうなので、立て札を読めるのは通りすがりの坊さんや侍だけだっただろう。
それどころか、伊能忠敬が日本地図を作るまで、日本人は自分がどんな場所に住んでいるのかも知らなかったはずだ。
中世の人間は、朝起きたとき、その「時刻」もわからず(時計がない)、「場所」もわからず、何の「ニュース」もなかったはずだ、情報は別次元に少なかったと言える。

それに比べれば、現代の情報量はいかに膨大なものか、それはいっそ「過酷」と言ってよいほどの情報量だ。
最近は、人々の新聞離れが言われるが、逆に言うと、現代の十代ほどニューストピックを毎日確認している世代はこれまでになかったはずだ。
もしこの情報に「音量」があったとしたら、膨大な音量に鼓膜は傷み、難聴になっていただろう。
この情報音量による難聴の中で、「自分の生きること」なんて見えなくなるに決まっている、この情報量の中で集中力を保てというのはいくらなんでも酷だ。

古代や中世のように生きろ。

あなたが生きるということの本質は、古代や中世と変わらない、中世より表面上の情報が増えただけで、中世よりあなたの肝臓や腎臓が増えたということではないし、アップル社製に進化したということでもない。
あなたの心臓や脾臓が中世と変わらずあるように、あなたの見上げる夜空も中世のころと変わりはない、あなたが古代や中世のように生きていくことは何もおかしなことではない、現代情報が消失してもあなたは消失しない。

視点変えてこ | comments(0) |
何もない日のすばらしさ

「今日もまた、何もなかった」ということは、何か悪いことのように聞こえる。
が、本来「何もなかった」というのはよろこばしいことだ。
問題は、「何もない」がイコール「さびしい」になっている場合だ。
本来、さびしくなければ、「何もない一日だった」ということはイコール「満たされた一日だった」になるものだ。

ふだん勉強しない人が勉強をすると、その日は「勉強をした」と思うだろう。
ふだん笑わない人が大笑いすると、その日は「たくさん笑った」と思うかもしれない。
ふだんお酒を飲まない人が酔っ払うと、その日は「お酒を飲んだ」と思うだろうし、ふだんお酒ばかり飲む人がめずらしく飲まないと、その日は「節制した」と思うだろう。
その逆、「何もない一日」こそ、すばらしい一日だ、そういう日がずっと続けばいいのにと願っている。

満たされたコップは、静かだ。

めずらしいことをテンコモリにしたり、さわがしいものをテンコモリにしたとしても、それは満足とは違う、さびしさがごまかされるだけだ/もしテンコモリ思想にとらわれるなら、そこは考え方を変えたほうが素敵だ。
何かある人生が「満たされる」というわけではなく、満たされるということは「何もない」ということだ、何もないままみんなで出かけて、何もないまま帰ってくるのが一番しあわせじゃないか、それが最高のぜいたくだ。

視点変えてこ | comments(0) |
エリ・オジルビア、これは暴力ではない

一人、何一つ、間違っていないが、もし何かの「世界」を体験したいということなら、すべて間違っているかもしれない。
ダンスが得意で、笑顔の商材写真が印象的な、実はアニメオタクでもあるエリ・オジルビアさん(36)の、ダンスとトークと酒をたくさん共にしても、そこに何かの「世界」が体験されてくるということはきっとないからだ。
もし、それを間違っていると言ってしまえば、それはもう、眼差しから表情から、声も考え方も言葉遣いも発想も、胴体から全身の使い方も全部間違っていると言わざるをえなくなってしまう。
あなたは僕よりエリ・オジルビアさん(36)のほうが好きだろうが、問題は、僕よりエリ・オジルビアさん(36)のほうが本当に「やさしい」と感じられるかどうかだ、あなたの「好き」にはいつの間にか、本質的にはやさしくない人が紛れ込んでいる。

うーむ、何もかもが間違っている(か、もしくは僕の何もかもが間違っている)。
それにしても、あなたが「友好」を得られるのはエリ・オジルビアさん(36)のほうだ、何しろエリ・オジルビアさん(36)には、あなたを蹴っ飛ばしてでもあなたに伝えようとする何かはない。
僕はつい、あなたを蹴っ飛ばしてでも、あなたに伝えようとする何かを持ってしまう、「何もかも間違ってんだよ」と蹴っ飛ばされたら、さすがにそんなもん「友好」とはいかない。
「何もかも間違ってんだよ」と蹴っ飛ばされて、何か正しいものが得られりゃまだしも、それで得られるというわけでもないのだ、だからエリ・オジルビアさん(36)のほうが「はるかにいい」と一般的にはなる、あげくに僕はそれを「まあそれでいいか」と思っているのだから救いがない。

僕は自分を「ろくでもない」と思っており、僕自身を蹴っ飛ばされることに違和感がないので。

単に僕の育ちが悪いからなのか? 僕は「おもんない」とか「気ィ悪い」とか「できてへん」とかいうときには、蹴っ飛ばされるのが当たり前だと思ってきたし、今もその感覚でいる。
僕が後輩やガールフレンドを蹴っ飛ばすところを見たら、エリ・オジルビアさん(36)はびっくりして眉をひそめるだろうな、でも蹴っ飛ばされて笑い合えるぐらいの度量を持ってほしい、エリ・オジルビア、こんなもん戦争の何億分の一だよ。

視点変えてこ | comments(0) |
妖怪ウォッチ以降の子供
隣の子供が公園で「奇声」を発しているように聞こえるが、あれは「子供が元気」ということなのだろうか。
正直なところ、僕にはあれが「奇声」にしか聞こえていなくて、率直に申し上げれば僕はいつもあの奇声に閉口している。
僕自身も子供のころはああして奇声を発して育ったのだろうか? その記憶はないが、実際にどうだったのかはわからない。
あれは単に子供が元気ということで、僕の聞き取りと受け取りの感性がおかしいのか? それならいいのだが、そのあたりのことはけっきょくよくわからない。

子供のころ、友人の名前を「まっちゃん」「うっちゃん」「つっちゃん」「こったん」等、呼びやすいように呼んでいた記憶がある。
「あさひな」だったり「まきの」だったり、大声で友人の名前を呼んでいた記憶が当然ある/昔はインターホンさえなかったので、家の外から友人をナマ声で呼ぶものだった、「○○くーん、あーそーぼー」というやつ。
が、どうも、このところ耳にする子供たちの奇声の中に、そうして誰か人の名前を呼んでいる音声が見当たらない/犬の名前を呼んでいる音声もあまり耳にしない。
もしも本当に、名が呼ばれることも与えられず、奇声を発しているだけだったら、それは「獣」だ、あくまで「もしも」の話だが。

白黒映像の中の子供らは、奇声を発しているようには見えない。

youtubeで、1970年の万博に子供らが遊んでいる映像を見つけることができたが、やはり奇声は見当たらない、そして子供らがそろって「はーい!」と答えるときの声が強烈だ。→動画が残っていたらこちら
何かが違うということだけ明らかで、どうしたらいい、ということはないと思うが、さしあたり奇声を発するのをやめればよいのではなかろうか/ただし「奇声を発しちゃいけません!」ってママや教師が奇声を発したら本末転倒だ。
視点変えてこ | comments(1) |
事情に力はない
それぞれに事情があるが、事情には何の力もない。
たとえば、蕎麦アレルギーの人は蕎麦を食べられないが、それを元にして何かエネルギーやideaが出る、ということはない。
蕎麦アレルギーであろうがなかろうが、エネルギーやideaが出るのはただ「何を食うか」のほうだ、事情のほうには何の力もない。
自己事情に詳しくて、熱烈な思いを持つ、自己事情オタクというような人もあるが、そういう人は何かというと、何の力もない自分が大好きなので、それはそれでしょうがないのだ。

誰でも学業があったり生業があったり、ワークやセックスや恋あいがあったりする。
が、思いがけず、学業と生業の「事情」、ワークとセックスと恋あいの「事情」という、自己事情のことしか頭にない人が少なからずある。
事情には力がないのだ、そんな力のないもの、および公益性もないものを、人前に放り出さないこと、そのことを一般的に「マナー」という。
単に恋人がほしい人と、「事情があって」恋人がほしい人は、まったく別だ、事情があって○○がほしいという人は基本的に不気味で恐怖でしかない。

事情を増やしたら未来が減る。

たとえばこの季節、就職活動中の人がいると思うが、事情から就職活動していたなら、実に未来がないという実感が自分自身にあるはずだ、そんなことをしていると人はたちまち荒廃する。
事情というのは、基本的に自分限りのことなので、自分が「まあいいか」と思えたら事情は雲散霧消する、この宇宙で「あなたの事情」を気にかけているのは、疑いなくあなた一人だけなのであった/あなたがしんどいというのはあなたの事情だ。
視点変えてこ | comments(0) |
| 1/17PAGES | >>