☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
蔓延する非常なダルさ3

分が何かをしようとするとき、異常にダルく感じられるのは、自分が「何をしたらいい」かが見えていないからだ。
異常にダルくて、正直一ミリもやれそうにないから、強制するために、何かしらテンションをかけて、ブーストをかけてそれをすることになる、そのことが悪霊を呼び込むということは以前に述べた。
しかし、悪霊を呼んででも、とにかくブーストをかけないでは、何ひとつやれないぐらい、真相としてはダルいのだ、このダルさは自分が「何をしたらいい」かが見えていないことによる。
そして、なぜ自分が、「何をしたらいい」かが見えないかというと、まず、他人が「何をしているか」を見ていないし、これまでにも見たことがないからだ、自分のことしか見てこなかったことのツケはここで最大に現れる。

もう、今さら言っても、多くの場合で手遅れなのだが、もともとは、他人が「何をやっているか」を見てこなければならなかったのだ、若い時間の多くはそのことに割かれねばならなかった。
たとえば、今になって、「まともでアツい仕事をしたいぜ!」と言い出したとしても、これまでに「まともでアツい仕事をしてきた人」のことを見てきていなければ、空中からいきなりそのノウハウを引っこ抜いてこなければならなくなる、そうなると「イメージ」に頼ることになるが、そんなものは初めからムリだ、イメージなんて一時的な、しかも作り物のウソに決まっている。
僕は最近になって、「集中ってどうやるんですか?」と訊かれたことがあるのだが、そのときとっさに、「これまでに見てきたことがないのか?」と訊き返してしまった/これまでに見てきたものを自分でやろうとすることと、見てきてもいないものをいきなり自分でやろうとすることには、天地の開きがある。
見てきていないものを、いきなり自分でやろうとする場合は、根本的に「ムリ」ということを、半ば覚悟しておかねばならない、なぜならそれは、引きこもりのキモオタが、いきなり街に出てナンパして若い青春と激しい純愛の物語をやりたいと言い出しているのと同じだからだ/内心でどのような空想を盛り上げたとしても、これまでに見てきていない――見ることをサボってきた――ものを都合よくいきなり獲得したりはできない。

「どうすればいいかわからない」のは、他人がこれまで「どうしてきた」かを見てこなかったからだ。

他人のやっていることを、しっかり「見る」ことで、自分と他人を「区分する」という能力が養われていく、「あの先生は教えるのに一所懸命だが、ぼくの勉強は一所懸命じゃないな」という区分を、子供心にも養うのだ、「違うんだ」と/そのことが何十年も続いたとき、ふと「一所懸命やってみるか」という思いに行き着く、そうしたらはじめてそれに取り組むにしても、十分に「見てきた」というキャリアがあるので、出来る出来ないの以前に「どうしたらいいかは、知らないでもない」と感じられる。
臍下丹田にある自立の機能、自他を「区分する」という機能を失った人は、他人のやっていることを見てきていないし、今も、他人が何をやっているかが見えないのだ、そして自分のやることというのは、他人のやっていることに対する呼応なので、他人のやっていることが見えないうちは、自分のやることも見えはしない、そしてそれを見えないままやらされるというのは、すさまじくダルいことなので、自分にサイキックドライブ(ブースト)をかけないと一ミリもやれないのだった。

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蔓延する非常なダルさ2

代に蔓延する非常なダルさは、「High」と「Low」に分けて考えるとわかりやすくなる/どちらにせよ、臍下丹田の自立機能を失ったことによって、この「ダルさ」は生じている。
「High」というのは、内心で感情が激しやすいということや、いわゆる「意識高い系」であったり、マウント、炎上、モチベ、やる気であったりなどだ、何かがずっとヒートしていて、自分にヒートしたものだけパッと飛びついてそれを「正義」に振り回すので、周りの人は甚大な迷惑を被ることになる。
「Low」というのは、「High」の反面、たとえば「夢がない」というのにも、極端に夢がなくて暗かったり、仕事や学門についてひどく無気力であったり、万事について反応が異様に鈍く、動きが異様に鈍重であったり、どんな物語にもまったく感動を覚えなかったりするということだ、本人はこれをずっと「特に問題はない」「誰にも迷惑はかけていない」と信じているので、周りの人は甚大な「退屈」に巻き込まれることになる。
ときには、このHighとLowは混在しており、一番ありがちな例でいえば、人を尊敬することについてはひどくLowなのに、人を嫌悪したりディスったりするときには、異様にHighだというような状態がある、あるいは他人にマウントを取ることには異様にHighなのに、じゃあ自分が何をするかについてはひどくLowだったりする/本来このようなことは、バランスとして「成り立っていない」のが明らかなのだが、何しろ臍下丹田の機能が死滅しているので、成り立つも何も、まず「立つ」という機能も感覚も消失しているので、本人は何も思わないのだった、こんなものが跳梁跋扈していればそれはダルいに決まっている。

現代に蔓延するダルさを、端的に言うと、「自分のやるべきことには極端にLowになり、他人のやるべきでないことには極端にHighになる」ということだ。
つまり、「部屋の掃除をしなきゃな」という自分のことについては、全身に鉛が詰まったようにLowになるのに、芸能人がチョンボをやらかしたというようなことについては、全身に火がついたようにHighになるのだ、あるいは自分が本を読もうとするとソッコーで眠くなるのに、誰かが不勉強だとカッと目を見開いて火を噴かずにいられなくなる/これは本来あるべきHighとLowがあべこべなのだが、むろんすでに病的な症状に決まっている。
なぜこのようなメチャクチャが起こるかというと、臍下丹田の機能が死滅し、「立つ」ということが失われるからだ、自分のやるべきことは他人に頼れないから、自分が立ってやるしかないのだが、これはフラついてすぐ出来なくなる、そして他人のことに茶々を入れるときは、他人にしがみつけるので、自分で立つ必要がなくなる、このことには全身の筋力がグワッと燃えさかる。
「立つ」という機能が失われているので、自分が立ってする行為(自分が立脚する行為)については、ほとんど昏睡か、あるいは死に近いほどのLowになり、一方で他人にしがみつき、特に他人を失脚させる行為については、ほとんどけいれんか、あるいは捕食攻撃に近いほどのHighになる/これではつまり、「自分のことを考えると死ぬほど眠くなるので寝る、他人を殺すことを考えるときだけパッとごきげんで寝ていられない」という状態になってしまう、これが別に誇張でもないのだからおそろしい話だ。

部屋の端末でネット上のクソを罵っている時間は、「自分の時間」ではない。

最近では、いわゆるユーチューバー等を見ている人が多いのだろうか? よく知らないが、別に対象はテレビでも同じだ、多くの人は半ば楽しんで半ばは罵ったりしながらメディアを視聴しているのだと思うが、それはまったく「自分の時間」ではない、なぜならそのユーチューバーの映像やテレビのバラエティは、<<あなたが成り立つために必要なもの>>ではまったくないからだ。
臍下丹田、ヘソの下のチャクラ的機能が死滅すると、自立(他人と区分した自分)という機能がなくなるため、このように、何が「自分の時間」なのかさえわからなくなる、自分のやるべきことに対しては病的にLowになって、他人のやるべきでないことについては検察官のようにHighになる、自分が料理をすると「死ぬほどつまらない」と感じるのに、料理動画の誰かがヘタクソなのを見ると大きな声で罵るのだ、これは自立の機能が故障というより本格的に荒廃を始めている証拠だ。

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蔓延する非常なダルさ

、世の中に、非常なダルさが蔓延している。
ダルさが蔓延しているからこそ、「やる気」といってブーストをかけたり、マウントといって業を煮やしてエネルギーにしたり、モチベーションといって自己洗脳状態にしたり、「炎上」といって集団催眠に耽ったりせねばならないのだ。
このダルさが、どこから来ているかというと、(何の根拠もないのだが)、男女の性別が曖昧化されたことから来ている。
男女だけでなく、店と客とか、演者と観客とか、教師と生徒とか、目上と目下とか、書き手と読み手とか、本来は区分されるべきだった両者が、垣根を超えて癒着することで、何もかもがダルくなった、それはもともとの区分・区別からエネルギーが生じていたものを、無くしてしまったことによってエネルギー源が失われたということでもある。

このことは、チャクラ的にはヘソの下、いわゆる臍下丹田のあたりと関係している/臍下丹田には「自立」という力があるが、自立というのは「自分を他人と区別する」ということだ、この臍下丹田にある「区分の力」そのものを、多くの現代人は失っていると見ていい。
それにより、現代人は、多く「うっとうしい奴」になってしまったのだ、表面上はそのことを隠しているにしても、その内実はずいぶんうっとうしい奴になってしまった/「自立」というのは、うまく言い当てたもので、これは経済的な自立のことを意味してはいない。
「自立」というのは、ただ「立つ」ということだ、ここで区分の力を失った人は、他ならぬ「自分」が立つということがわからないままでいる、それで焼けついたまま他人にしなだれかかり、当人は「やる気」や「モチベ」や「マウント」や「炎上」をしきりにやるので、結果的にうっとうしくてしょうがない奴になるのだ/このことは臍下丹田から「自立」を覚えるまで構造的に解決されない(そりゃヘソの下がない奴がどうやって「立つ」んだよ)。
今、流行しているものを見てみたとして、そこに「彼が立っている」「彼女が立っている」と見える姿はほとんど見当たらない、比較してかつての石原裕次郎が「やる気」「モチベ」「マウント」「炎上」をやっていたという感じはまったくしない、現代人は多く体質のレベルで単純な「区分的自立」の機能を失ってしまったと捉えるとわかりやすい。

ヘソの下、自立を鍛えましょう。

人のつながりというのは、自立した人々がつながるから「つながり」なのであって、癒着して団子化しているものを「つながり」とは言わない、まあ本当にキモチワルイ、うっとうしい人が増えてしまった/「区分の力」を持っていないということは、つまり、他人の意志が他人の意志だとわからないということだから、結果的に、常に他人の意志をべっとり自分向きに曲げようとすることしか発想できない人になってしまう、これはもううっとうしいというレベルを超えて、最終的に殺害関係になるしかしょうがないのだった。
当人は、甘やかされた思春期の幻想がへばりついているから、そのまま中年になると、これは想像を絶するキモチワルさが出来上がること請け合いなのだった、こんなキモチワルイもので互いにダルさを与えあっていては不毛きわまりない/区分的自立が持てない人はいつも内心で感情を激しているが、それも区分的自立を持てないせいだ、臍下丹田の支えが死滅していると内心の感情はまったく制御不能になるのだった、だから当人は激した感情をずっと「正義」だと信じ込んでいる。

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わたしの世界が変容する
たしは自室で本を読んでいる――格闘家であられた山本KID徳郁(のりふみ)さんが四一の若さで夭逝されて、わたしは自身に露骨な心痛を確認もした、思いがけぬ痛みで自身が落下するような……すでに癌でお悪いのだという報せは仄聞していたが、にもかかわらずわたしにとって、縁遠いヒーローの一人だった彼が亡くなるということは、そのときがくるまで現実味の帯びようがなかったのだった。
まったく文学者の、悪い本性を発揮して、わたしはここに、わたしの世界の変容を受け取っている/このように世界を感じ取り、ないしは明視するということが、はたして知性によるものなのか、それとも度しがたい深さからの悪性によるものなのか、わたしにはわからないままだが、少なくともこの世界には、一般に知られている見え方とはまったく異なる見え方が存在する、その "異なる見え方" とは芸術・文学の本質であって、このことに想像力の欠片も触れられなかった者が、やむなくオカルトの門をくぐるようだ、それは醜態とも呼ぶべき笑劇であって、何かが明視されたことにはわずかもなっていない。
一般に知られている「わたし」という現象、およびその感触(実感)は、文学的に明視される「世界」の中には、まるで存在していないと感じられる、まったくどこかに消え去ってしまったというように/むしろ正当な、かつ極端な文学者のたぐいは、この一般的な「わたし」という感覚を得なかったか、あるいは器質的な障害によって取りこぼしでもしたのかのような存在に思える。
文学者は、単にグラビア・モデルのような女性の裸身を見てもオッとならないのみならず、それらを見てオッとなる人々のありふれた様相でさえ、実は眼に入っていない、むしろ文学者というのは、何もかもを己の文脈・文体の中に引きずり込む、悪魔の力の持ち主のようだとも取れる、これの最果てが光に結ばれているのか、そうでないものに結ばれているのかは、けっきょく僕にはわからないままだ/山本KID徳郁さんの早世を悼むと共に、彼の死がなかったことになればよいのにという、埒もない幻想に浸っているという告白をもって、わたしはここに個人的な追悼の意を表しておきたい、あの人は非常に危険な魅力を放っていて、その危険と魅力をどうすればよいのか誰にも見当がつかなかった。

生きる世界が変容する……文学者においては明らかに、人よりも言葉が先行する、彼は何かしらの世界を言語化しているのではなくて、言葉ないしは言語から生じた世界を、 "見せられている" のだ、それが福音によるものかデーモンによるものかは、誰にもわからない、当人にさえそのことは定かではない/ただすべての事象は、彼の文脈・文体の中に吸い込まれていく。
そのことは、もし直面的に見るなり言うなりするとすれば、 "人をナメくさっている" とも感じ取られるだろう、事実、人を根こそぎナメくさっているようなところがないかぎりは、何もかもを己の文脈・文体へ引きずりこむなどということが、躊躇のない反射神経のように繰り返されるなどということはありえないものだ、しかし彼はすっかりこのことを確信しているので……まるですべての供物を文脈・文体の祭壇の火へ放り込み、そこに噴き上がってくる炎がどのようであるかを心待ちにすることだけを信じている、ファナティクな神官であるかのようなのだ。
彼の満足はそこにしかなく、彼はけっきょくすべての供物を火にくべることに何らの痛痒も覚えられない、ただそこにもある一縷の望みとしては、そのような文学神官の性質が彼自身としてやめられることはなかったとしても、その繰り返されていく文脈化・文体化の中で、このような己のありようがいつまでも正しいのだろうか? という、恐怖は持ちうるようなのだ/これは今、わたしがわたしの話をしているのではなく、文学および文学者の話をしている、何しろわたし自身はもっと、抜け目のない男なのでね。
危険な魅力を放っていた、縁遠い一人のヒーローが逝去したことに痛みを受け、他ならぬわたし自身は今、ありふれて「生きたいように生きないとな」という思いを強くしている! わたしは文脈・文体の本質に愚鈍な者ではありえないが、思いがけぬ方向として、文脈・文体を破壊する力の佳さを示してみせる、文学者でありたいと望んでいる、ホラわかるか、他ならぬおれがそう望んでいるのだ、原稿用紙などという野暮ったいものが望んでいるのじゃないぜ。

突如原稿用紙が破られて、ヌッと主の顔が突き出されてくるだろう。

わたしは自室で本を読んでいる――かつてわたしは、そうした中で光を得る、 "可能性のある子" だった、よく感じ取られた文脈・文体の力に、何もかもがひん曲げられてゆき、影響づけられた果ての景色を、再定義の中に明視する……そうしたことを、わたしはごく当然にしてきた、けれどもわたしは、そうした光の中で、――自分自身に光が照っていないだろう? ということに、今となっては気づきえるわけだ、わたしはいつからかそうした道程を歩んできた者であるから。
文学、それも露骨な文学、その露骨さとは薄皮一枚の下でただちに "人をナメくさっている" ということでしか成り立たないが、そうした文学の力は、それぞれが自身の生きる変容自在の「世界」が在るのだということを知るのに、最も直截にはたらきかけて有為だろう、だがそれは大変に面白く有為ということに留まるものであって、この有為じたいが完成に至るものではない/しばしば露骨な文学者が当人として自殺に至ってしまうのは、やがて行き着く "文学の自殺" が受け入れられないからだ、力ある文学者ほど文学の自死を受け入れられず、引き換えに己が文学を――あまりにも愛して信じたそれを――抱えて自殺する方向へ追い詰められていく。
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バリア〜

し、ナゾのバリアみたいなものを持てるというか、与えられるとしたら、そりゃあカミサマ的なものから頂くものだろう、バリアがあれは何だって安心だ。
われわれはアクマ的なものから身を守りたいわけで、悪霊退散、なぜバリアを頂くならカミサマ的なものからだと言いうるかというと、カミサマのほうがアクマより力が強いからだ、アクマのほうが強いのではバリアになってもらえない。
アクマは、人より力が強い……そりゃ人のほうが強けりゃ、バリアなんか要らないわけで、バリアを欲しがるというのは、人よりアクマのほうが強いからだろう、人力ではアクマに勝てないので、カミサマに守って頂くしか、われわれは己を救うすべがないということだ、もちろん本当にアクマとか悪霊なんてものが存在したらの話だけれども。
そして、ふと思うのだが、ドクロをアクセサリーにしている人はいくらでもいるし、街中のグラフィティは何かしらアクマ的にしようと若者らがデザインしているし、ブラックメタルの人々などを見ていると……少なくとも、本気でアクマ的なものを信仰している人たちは、ぼんやりとカミサマを信仰している人たちよりも、本腰を入れて信仰しているなあということなのだった、悪魔崇拝の人々は大マジで儀式をするが、われわれはそこまで本気でカミサマのことを信仰はしにくいのだった。

少なくとも、悪魔崇拝者たちの真摯(?)なところは、彼らは教会にも寺院にも頼らないということだ、そういう施設に頼らないで、自分の信心だけでアクマに向き合おうとする、生身で直接/月に一回教会に行けばいいやとか、年に一回墓参りにいけばいいやとか、そういうチャチな信仰を彼らはしない、悪魔崇拝の人は自室をその祭壇にするぐらいの勢いがある。
その意味では、悪魔崇拝の人は、結果的にであれ、引き返さない自己決定をしているのかもしれない、そしてそこまでアクマを本気で信仰する人は、その信仰から何か「力」を得ているからなのだろう、さすがに趣味やヒマつぶしにやれるようなことではないはずだ/あるいはマジで力が得られるとなったら、多くの人はこっそり悪魔崇拝にこそ興味を持つのかもしれない。
馬鹿げた与太話だが、もし、そんなことで力を得られるのだとしたら、それは施設との関係ではなく、本人が直接、アクマ的なものへ向き合って、関係を持つからだろうな、ということになる、そうして考えると、もしカミサマからのバリア的なものがありうるのだとしたら、こちらも、本人が直接、カミサマ的なものへ向き合って、本人から直接の関係を持たないと、バリア的なものはもらえないということになるだろう。
総じて考えると、われわれは、現代の文化の中にいて、なんとなくアクマを信仰する本気のやり方は想像がつくのに、カミサマを信仰する本気のやり方は想像がつかないと感じるのだった、なぜなんだろうな、ひょっとするとそうではなかった逆の時代もあったのかもしれない。

われわれは、アクマじみている人を確信はするのに、カミサマじみている人を確信はしない。

ワイドショーでひどいニュースが報道されると、「マジでアクマじみてんな」というサンプルはいくらでもみつかるのに、反対側、「マジでカミサマじみてんな」というサンプルについては、あまり見当たらず、見つかったとしてもわれわれはあまり自信がない/われわれはアクマじみている人を見かけたらソッコーで逃げたく感じるのに、カミサマじみている人を見かけてもソッコーで駆け寄りたいとは感じない。
単純化すると、われわれは、不審者の不審さに官能するしか能がない、という状態になっているのだが、これはひょっとすると、われわれがすごくアホになっているということなのかもしれない/うーんそんなことでは、ノーバリアで生きていくしかないな、おれはバリア欲しいけどなあ、おれだけこっそりバリアゲットできんものかね。

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マウントゴリラ黙示録7/実験

とえば、ガンジーは偉大だ、というようなことは、誰でも知っている。
ところが、実験として、「うおおお〜ガンジー偉大すぎるわあああ」と言ってみようとすると、その言葉はなぜかわざとらしく、気色悪くなる(おれはならない)。
ぜひ、実験してみるといい、あなたがガンジーを「称揚」しようとすると、あなたの内心は暗くなり、なぜか声はドス黒くなり、顔面の、表情の奥には、ちらっと狂気が窺い始める/「反抗的」な何かが内部にせりあがり、その「反抗的」は、獣の体臭を持っていることが感じられてくる。
それは、信じがたい話、「ガンジーは偉大だ」という、人類にとってはアタリマエの知識に対しても、獣化した全身は、「マウントを取られる」と感じているということだ、獣(ゴリラ)にとっては、「称揚」=「マウントを取られる」なのだ、それで現代人は、マウントを回避する器用な言い方として、「リスペクト」という言い方を発明した、リスペクトというのは「オレがガンジーをリスペクトしている」という意味であって、ガンジーを称揚するものではない、これはうまい抜け道なのだった。

「リア充」「陽キャ」、「イケメン」「草食系」、色んな言い方が発明されてきたが、これらのすべては、発話者の側がマウントを取れるように、デザインされている、つまりこれらの語で「言い捨てる」ことによって、マウントを取ることが可能だ、「彼、イケメンだよねー」と言うとき、発話者の女性はマウントを上位に取ることができる/マウントを上位に取ることは、ゴリラの生理に合う。
単に、これだけなのだ、すべては発話者のゴリラ事情に合わせた語が発明されてきたにすぎない、ゴリラがデイリーでマウントを取らなくてはならないのは、畜生道においてやむをえないことだ、朝起きたときから他者にマウントを取りにいこうとするのは、ゴリラとして自然なことであって、ひとまずそのことを博物学的に認めるしか正しい道のりはない。
れっきとしたゴリラがあって、れっきとしたゴリラ事情があって、「マウントがわれわれの死生であるぞ」という、ゴリラワールドとゴリラ哲学があって……そのゴリラワールドから、脱出なんて思わないことだ、「一生このゴリラワールドなんだ」と、ひとまず認めてしまったほうが、すべてのことがよく見えてくる/「わたしの全身が真に帰依するのは、 "マウント" なんだわ」という悟性をもって、すべての空間を眺めれば、理解にも時間短縮ができよう。
実験してみればわかる、何か偉大なものを、「敬い」「尊び」「称賛する」ということをしようとしたとき、あなたの全身には、人間らしいこころがみなぎ……らない、代わりに、何かよくわからないゴリラっぽいものが全身を駆け巡り、あなたは歯を剥き、目を剥き、両腕を力ませて、そわそわ、沸騰するマウントをどうしたらよいかわからず、固まって不穏になったり、暴れて狂気を見せたりするはずだ、それは「ゴリラに無理をさせた」という状態だ。

「ガンジーは偉大だああああ」と言うと、僕は陽気になるが、あなたは陰気になる。

実際に、あなたもそう言ってみるとわかる、「ガンジーは偉大だああああ〜」/なぜかヘンな声になり、ヘンな言い方になり、ヘンなキャラになるはずだ、ぜひそのとき内部に起こる、不穏なキモチに気づいてほしい、「ガンジーは偉大」というのは教科書にも載っていそうなことだが、あなたはそれを称揚しようとすると、マウント反応を起こす、びっくりだがあなたは一生それでいくのだ、そのことの理由を見つけるのに、「わたしはゴリラなんだからしょーがないでしょ」と捉えること、そうするのが最短の手続きになる。
「実験」してみて、自分を「あっ、ゴリラだ」と発見するということ、また他の誰かについても、「あっ、ゴリラだ」と発見するということ、それが最短の手続きになる/ここで「ゴリラ」と言っているのは、悪口ではないのだ、「事象」なのだ、実験結果を以て、ゴリラ界を生きていることに気づけばいい、ゴリラにガンジーの遺影を与えるとどうなるか? ウホウホ、ガンジーの遺影を投げ飛ばすかもしれない、そのときの様相に、現代人はぴったり重なるということだ、これを発見した人から順に脱出路を見つけるだろう。

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マウントゴリラ黙示録6/報復のリアクション
が、マウントということに疎かったため、そのことのツケが回ってきているような感じだ。
つまり、僕は、一ミリも尊敬されたり、感謝されたり、称賛されたりしてはならないということだ。
なぜなら、そうして少しでも「見上げる」形になるということは、ゴリラにとっては、「マウント!」ということになるからだ、これは爆弾のように瞬間発火するので、もうどのようにも取り扱うことはできない。
これなら、なるほど確かに、今やっているワークショップとやらも、僕が「ボトム」であって初めて成り立つわけだ、僕が底を這い続けているかぎりは、誰かに対してマウントを取る形にはならない、われながら賢明なやり方を知っているものだ。

理屈じゃないんだな、「人の営み」を持ち込んではダメなのだ、ゴリラにはそれはマウントとしか思えないものだから、その瞬間ゴリラに引き裂かれて殺されたとして、ゴリラが悪いとは誰もいえない。
実際、これまでのことを振り返るとわかる、僕が必死に教え、与え、笑わせ、連れてゆき、なんとかしようとしてきたときほど、必ず害意と殺意を持って報われてきた/見上げさせてはダメなのだ、見上げるということは現代人にとってイコール「殺す」になるのだ。
注目すべきは、僕とAがいたとして、Aが僕を「殺す」と反応するということを、僕は知らなかったし、Aも知らなかったということなのだ、そして僕をブン殴って「大金星」を得たときも、Aは爛々と眼を輝かせながら、自分がそのようなことをしたということは、あまり記憶がなく、「また必ずやろう」という眼をしている(おそらく、マウントゴリラが相当な深度まで抑圧されるのだと考えられる)。
だから、構造上は、僕からあれこれ教え、与え、笑わせ、連れてゆくとして、その後一定の、僕をぶちのめす「暴力タイム」を設ければ、何の問題もなく進捗していくということになる、ただしそれでは、獣化への対抗処置にはなっていないので、けっきょく当人にも表面的な利益にしかならない/ここで重要なことは、「暴力タイム」を設けなくても、同様の時間は定期的に発生するということだ、マウントに対する報復のリアクションは、構造上、必ず定期的に生じるとみなさねばならない(メモ:この報復暴力についてを有為にワーク化できるだろうか? たとえば「九折人形」をズタズタに切り裂くとか)。

報復のリアクションを、あなたはしないが、あなたがする。

あなたが、「とってもありがとう」と感じる瞬間、あなたからまぶしい眼差しが……向けられてくるのではなく、「あれ?」という不穏が起こり、固まり、瞳孔が開き、暴力的な衝動が起こる、「どうしたの」「なんでもないです」、それはあなたの知らない次元の「報復のリアクション」だ、そのリアクションは、理性的には「そんなわけないでしょ」なので、抑えられている、だからそのときあなたは固まったり、不明の挙動に逃げたりする。
「マウント」の原理と、その「報復」のリアクションが、こころの奥の、とてつもない深さにまで入り込んでいるということだ、だから自覚はないまま、すさまじい「根源」というような位置で、あなたを支配している、まあ一種の「呪い」なのだからそれぐらい深くまで入り込むのはいっそ当然だ/このことまで解きほぐして、光の道に入ろうとするなら、それはもう、強力きわまる学門の力が要る、本当の本当にそうしたい人は、何かでたくさん勉強しましょう。
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マウントゴリラ黙示録5/「自分の願っていたことは、もう何一つできない身体になった」
なたがもし、「教えてください!」といって、意気込んで僕のところにやってきたとして、どうなるか……実際にはあなたは、不穏に固まり、黙り込み、それを覆い隠すために、不明の挙動をする、一人でヘンに暴れたりもする/しかも僕のことを「嫌悪」する。
あなたの意志ではない、マウント反応が起こるからだ/すでに、あなたの望んだようには、あなた自身はなってくれない、あなたはあなた自身に、「自分の意志ではない行動・現象」が、不可避に起こるのを発見するだろう。
「こういうデートがしたい」「こういう人と」「こういうふうにリードされたい」「こういうふうに学んでいきたい」「こういう行動ができるようでありたい」と、あなたがそうして夢に描き、望んだすべてのことは、いざそのときになって、あなた自身によって破壊されるだろう、あなたはそのときになって、自分の全身が瘴気を噴き出すことを未だ知らない。
あなたが知らない「あなた」が、すでに内部に巣喰っていて、支配権はすでにそちらの手に渡っているのだ、あなたはそのとき、「こんなにしてくれてありがとう」とは決して言わない、そのときになって「言えない」のがわかるのだ、あなたを支配する内部のそれは、「マウント下位」を断固拒否する、そのためになら大恩ある人も、かけがえのないやさしさを振る舞ってくれた人も、いかなる至高も、膝下にねじふせて己の「マウント上位」を確保しようとする、とんでもない話だが本当にそうなのだ、むしろ「それが獣の道」とアクティブに捉えたほうが、このことはわかりやすくなる。

いっそ、勇気をもって、「自分の願っていたことは、もう何一つできない身体になった」と、先に仮定してみるほうがいい、そうするほうが、まだ予防と緩和と、ひょっとしたら復旧が早くなる。
ちょっとでも(ほんの、ごくわずかでも)、頭が下がりそうになるとき、あるいは、何かを見上げようとするとき、ただちに、あなたの知らない機構が動く、「マウント」の機構だ、あなたはその、頭が下がりそうになること、何かを見上げようとすることに、自分の意志とはまったく関係ない、「ギャー!」というすさまじい悲鳴を内側に聞くことになる、この悲鳴が起こるとただちに、あなたは見上げようとしたものに対して、「殺す」「許さない」という、殺意と、不穏の瘴気を上げ始めることになる。
「素直になれない」などという、かわいらしいレベルのことではないのだ、あなたはあなたから見上げようとする人を、ただ「見上げる」というその位置関係によって、無条件に「殺す」「許さない」と感じる、それも激烈に、悪魔のような瘴気を噴き上げてだ、それはそういう仕組みのものだからしょうがない、この支配は学門なしに理解することはできない。
あなたは、何かを考えているわけではなく、もう獣の物質が、体内においてリミット寸前なのだ、だから何かを見上げようとした瞬間、もう何の理性もなく、ただトリガーが引かれ、「マウントを弾き返す」という、血まみれの反応を起こす、その反応はとても激烈だ/あなたは誰かを尊んだり、誰かに感謝したり、誰かを称賛したり、そういうことはもうできないのだ、あなたにできるのは、その尊崇と感謝と称賛の対象を、突如ひっくり返して踏みつけることだけだ、このことを僕は「大金星」と呼んでいる、あなたはその瞬間「大金星」を上げる。

ボスゴリラに上着をかけたらどうなるか。

「寒いかな」と思い、ボスゴリラに上着をかけてやったとしたら、どうなるか、もちろんボスゴリラは、誰かが自分にマウントを取りに来たと感じ、激烈な攻撃をもってこちらに向かってくるだろう、そんなもの殺されておかしくないし、殺される側が断然悪い/ちょうどそんな感じで、理はまったく通用しない、獣の反応のほうが遥かに速い、ボスゴリラは自分のマウント上位だけ保たれていればすべてが満足なのだ、それ以外の反応はない、それはゴリラなのだからしょうがない。
まったく冗談じゃなく、ここ数年、僕が命がけで与えれば与えるほど、そしてそれが魂に届けば届くほど、僕は殺されそうになってきた、実際に暴力も受けているのだ/僕から相手に何かが届くということは、それだけ向こうにとっては「マウント」なのだ、どれだけ向こうが望み、僕が必死に応えて与えたことであっても、それが届いたらその時点でマウントだ、僕は殺される必要がある、これは誇張で言っているのではなく、マウントを取りに来た者は殺される必要があるのだ、「正義」として……つまり僕がすべてを届け、その後ただちに殺されるということならば、その場合のみ「正義」が成り立つ、今はやせがまんされているが、構造的本質はこれだということは把握しておかねばならない。
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マウントゴリラ黙示録4/「ニューカルマをゲットしました!」

じ話ばかりして申し訳ない、学門上クリアな展開が得られたのでよろこんでいるのだ。
より精密で実益のある学門のために、「ニューカルマをゲットしました!」というテロップを、脳みその右上にでも出しておいてくれ。
この、「ニューカルマ」ということ、新しい因果を得たということ、このことがミソなのだ、これで現代の状況を正しく理解することができる。
「マウント」というのは、動物がやることで、獣の業なのだ、そしてそれは「業(カルマ)」であるから、やめられないのだ/人々はマウント合戦を選んだのではなく、新しいカルマを得たのだ、だからこそ旧来の知識や知恵ではこれに対抗できないのだ。

われわれは、人間なので、もともと人間道の業(カルマ)と、その因果を負っていた/たとえば星条旗を見ると、われわれは「アメリカ」と認識する、これが「識」の業だ、これはカルマと因果なので、人間はこれをやめることはできない、われわれは星条旗を見て「アメリカ」と "思わない" ということはできない。
そして、旧来は、この人間道のカルマと因果において、われわれは戦っていたのだが、今新たに、新しいカルマと因果を得たのだ、堂々たる畜生道時代が来たと言っていい/星条旗を見ると「アメリカ」と認識せざるを得ないように、他者を見ると、マウント合戦を始めざるを得ない時代が来たのだ、これは因果のはたらきなので、われわれが「やめよう」と思ってやめられるものではない。
何をどういうふうにしたら、こんな新カルマをゲットできるのだろう? 何かノウハウがあるのかどうかは知らない、ただ事態はすでに進行したのだ、星条旗を見て「アメリカ」と思わないことが不可能なように、現代において人々は他者を見て「マウント」をやめることができない。
仮に、たとえば上司が新入社員に、社会人としての自覚を持たせようとあれこれ指導しても、すでにフェーズとして成り立たないだろう、「指導」は第一に「マウント」としか受け取られないからだ/本人の選択ではなく、カルマと因果がそのように彼を決定づけるので、彼は抑えつけられた獣のように、不穏な唸り声をあげる、「マウント」、そして目はどんどん黄ばんで濁っていくのだ。

男性が女性を押し倒しても、それは「マウント」としか受け取られない。

今、男尊女卑の撤廃が叫ばれているが、本質は男女平等の希求ではないのだ、男性が女性に「おいで」と言うと、それだけで「マウント」になり、抑えつけられた獣が不穏に唸り始めるのだ、それも本人の選択ではない、獣という新しいカルマがインストールされて、そういうアプリが常駐になったということだ、「マウントを検知しました!」というファイアウォールですべての文化は弾かれてしまう。
これですべてのナゾは氷解する/僕のことを尊崇し、助けてくださいと縋ってくる女の子でさえ、実際に僕が彼女の目の前に立つと、不穏に固まり始め、僕を殺そうとする様相を見せる、これは獣のカルマが自分の状況を「(被)マウント」と捉えているのだ、本人がそう思いたくなくても、カルマは因果を強制するものだ、よって、人間らしい文化のすべては今、獣化した人々にとって「マウントを取られた」としか受け取られず、すべて不穏な唸り声で迎えられるだろう、ここ数年で「なんじゃこれ?」と意味不明に感じられていたすべてがこれだ。

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マウントゴリラ黙示録3

ょうど、この一年ぐらいか、僕は「獣化」ということをよく言ってきた。
そして、「獣化」というのは、血に偏って起こり、言語は言葉ではなく「呪い」になる、ということまでわかってきた。
が、一方で、「どうしてこれだけ説明してもわかんねーんだ?」という、不可解さも覚えていたのだ、その不可解さが「マウント」によって解消された。
獣化すると、常時マウント合戦のスイッチが入って、全身が「マウントの森スタイル」になるから、その時点でもういかなる説明も届かないのだ、ひたすらマウントの上位・下位だけが最優先になり、それだけが唯一の価値になってしまうようだ、これはごまかしが利かない。

どうやって上位マウントを取るか?
ということしか、脳みその中にない、そのことしか第一義に発想されない、そういう心身の仕組みに、すでに仕上がっているようだ。
そのことで、心身がやたらに疲れ、荒廃し、痛みまくっているので、「けものフレンズ」のようなものが流行ったり、「なろう系小説」で、異世界に転生して無双、というようなファンタジーが流行ったりする/それらはどうしようもなく「癒される」のだと思う、マウント合戦の反動として。
この悲惨さから脱け出すには、とにかく自分で気づくしかない、全身に「マウント反応」「マウント合戦の準備」「マウントの森スタイル」が染みついていることに、そして昭和の映像からでもいいから、そこに「マウント合戦なんて無いじゃん……」ということを見つけなくてはならない、どうやって生き残るかの前に、どうやって正気に返るかが先だ。

マウントを取られるのが怖いので、マウントを取ると救われる。

マウントを取られると、獣化の血が「叫ぶ」のだ、ギャーッ! この悲鳴がとても苦しく恐ろしいので、逆に一定の地位からマウント有利になると、ホッとこころが救われる、こんな悲惨な仕組みがある、だからこそ己を有利にするマウント合戦がやめられない、自分があんなに苦しく叫ばされるのは絶対にいやだ/こんな救いのない状態が、冗談ではなくほとんど主流してわれわれの空間を支配している、さっさと気づかなくてはならない。
何が間違っているかといえば、むろんぜんぶ間違っているのだ、まんま畜生道に落ちているのがわからないか、せめて「人の世にマウントなんてねえよ」という当たり前のことぐらい頭の中に復旧してくれ、マウントがあるのはゴリラの世だろ。

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マウントゴリラ黙示録2
「マウント」ということに気づいて、急にラクになった。
いつもこのパターンだが、僕は、僕でない誰かが「何」をしているのかが、わからないのだ、それでいつも「???」となる。
マウントゴリラにどう対処すればいいかという問題だが、対処なんかしなくていい、マウントゴリラにあるのは意志ではなく「動向」にすぎない、こんなものナショナルジオグラフィックが隠しカメラで特集するたぐいだ、人間が真に受けることではない。
本当に、どうしたらいいという問題ではないのだ、だってゴリラじゃないものがゴリラ化しているのだから、対処法は上野動物園の係員に訊くしかないだろう、まさか「マウント」なんてことを本気でやっているヒューマンカインドがいるとは思わなかった。

急にラクになって、とてもすがすがしい気分だ。
マウントゴリラにほどこされるべき正しい処置は、唯一、元のジャングルに放ってやることだろう、いや本当に冗談ではなく、人類の文化や文明は、ゴリラのものではないのだ。
このことに、誰もが早く気づくといい、このことは、早く気づいた者が勝ちだ、<<マウントはゴリラだ>>という、極めてわかりやすい真実を獲得せよ、このことに気づかないかぎり、どのような成長も「ゴリラとして成長したね」という方向にしかいかない。
おそらく、多くの人が、自分の全身に、<<マウントの森スタイル>>がこびりついていることに、気づいていないのだ、それでたいへんな思いをしている、だからさっさと気づくといい、マウントありきの平和スタイルを、「マウントの森スタイル」と呼ぶことにするが、こんなスタイルで十年も過ごせばそりゃあ体臭さえ人間らしさを失うというものだ。

どんなに低い身分もカーストも、さすがにゴリラとは違うわ。

これですっきりした、僕はどこかで「身分」ということを考えなくてはならないと思っていたが、どうもしっくりこないと思っていた、その違和感が解決した/僕が言おうとしているのは人の身分であって、ゴリラの上位・下位じゃないのだ、だって「上位ゴリラ」になったって、そんなもん爆笑トンチンカンライフしか待ち受けていないじゃないか。
うーん、ゴリラだったのか……そりゃコミュニケートの根本が違うわけだぜ。
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マウントゴリラ黙示録

近、youtubeのコメント欄を見たときに、ふと、「これがマウントを取り合っているということか」ということに気づいた。
僕は、他人の会話を聞いていないので、世の中でいう、「マウント合戦」の意味がよくわかっていなかったのだ。
コメント欄でなくても、会話の中で、マウント合戦をしている人たちはいるのだろうけれども、それは間違いで、マウント合戦をしているような場合、それはもう「会話」ではない。
世の中から「会話」が消えているような気がしたのだが、どうもこの、「マウント合戦」にすべてを持って行かれたような気配だ、なるほどそういうことなら納得がいく。

しばしば、「何やってんだこいつ」「なんでいつまでも噛み合わないんだ?」と、不思議に思い続けるということがあったが、そうか、あれはマウント合戦の準備を常にしているのか、そういうことなら理解できる。
なぜそんな、不仲の群れのゴリラみたいなスタイルが身についているのか、事情は知らんが、少なくともわかることは、そんなことはすべて時間の無駄だということだ、人生の時間がスッカラカンのまま消えてなくなるだろう。
「マウント」て……冷静に考えろ、どう見てもアホの極北をやっているに決まっている、まあでも心身に刷り込まれた反射的スタイルだから、しょうがないのだろう、僕がマウント合戦に入り込まないのは、僕が人間だからだ、僕がゴリラだったら、僕もマウント合戦をするのかもしれない。
ここ数年、文章を書くにしても、異様な書きにくさ、異様な、読み手の捉えづらさがあったのだが、原因はこれか、申し訳ないがゴリラに読書は不可能だ、言語を所有するゴリラであっても、読書という営みはできないし、その営みの光を手にすることはできない。

「コメント欄」じゃなくて「マウント欄」に変えたほうがいい。

そうしたらきっと、世界に爆笑の波が走り抜け、人々も少しは冷静になるかもしれない、さすがにマウント欄に書き込み合戦をしている自分を見たら、自分に対して失笑するだろう、冷静になるにはそうしたわかりやすい手続きがいい。
僕などは、急に素になって申し訳ないが、マウント合戦の文化があったとして、「そんなことしているヒマなくない……?」としかツッコむ気になれない、SNSもSMSに変えよう、ソーシャル・マウンティング・システムと改名すれば、やはり世界中に爆笑が駆け抜けるよ/ここ数年間人類は、「マウント」なんてヒマなことをやっていたのか、そりゃ退屈で死にたくなるわけだよ。

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恐怖心と強さの錯覚

く構えてみてもらって、腰のあたりを押すと、すぐに身体が浮くのがわかる。
そこで、我を小さくして、同じ形のまま「弱く」なってもらうと、腰のあたりを押しても、どっしりと動かず、身体が浮かないのがわかる。
「なぜ人は、"強く"構えるかわかる? 実は、恐怖心からなんだ、恐怖心があるから、その恐怖心を消すために、強く構えているんだよ、このとき全身で表現しているのは、"強い"ではなく"わたしの恐怖心"なんだよ」
「それで、恐怖心を消すには、どうしたらいいと思う? 生きものはすべて、恐怖心に特別弱くてね……そう、哺乳類に具わっているやつ、"パニック"を起こせば、恐怖心を消せるね、シカでもウマでも"パニック"を起こすね、だから実は、何も強く構えているのじゃなく、これは"パニック状態にして恐怖心を消している"んだ、それぐらいわれわれは、恐怖心に弱い生きものなんだよ」

「だからいわゆる、街で見かける、オラついた人たちも、本当は何も強いわけではなくて、根っこにあるのは恐怖心なんだ、その恐怖心を消したいがために、全身をパニック状態にしている、だから彼らはずっと、全身が不穏な興奮状態にあるんだ、見たとおりだよ」
「ためしに、そのオラついている人の一人を、そうだな、同級生の二〇〇人でも集めて、その前の壇上に、一人で立たせてみたらわかるよ。彼はそんなとき、人前で何を見せ、何を語るんだろう。同級生に冷めた目で見られるぐらいのことを、すっごく気にしてしまうものだよ、そんなことを一生の黒歴史にしてしまう、消えない屈辱と劣等感を抱えてゆかねばならない、おそろしい、そういう恐怖の中に実はいるんだ」
「そうした、恢復不能の傷つきを負うのが怖くて、その恐怖心を打ち消すために、年がら年中、自分をパニック状態にしているんだ、全身をブチギレ状態にしているんだよ、そうしたらさも、恐怖心がないように錯覚できるから」
「われわれは、ごくわずかな恐怖心でも、それに直面すると、サッと身体をバラバラにして、パニック状態にし、恐怖心を感知不能にして、恐怖心がないように己を錯覚させる。いつも大きな声を出している人や、怖い顔をしている人の正体は、全部これなんだよ、こんなしょうもないことから諍いが発生して、その諍いにヒートしているうちは、恐怖心を離れることができる。そんなことをして何十年間も、ただ恐怖心から逃げ回るためだけに生きるんだ、こんな馬鹿馬鹿しい数十年が不可避に生じてしまうぐらいに、われわれは恐怖心というものに弱い」

一番弱く、一番怖く入れ。

パニックは、「動けない」か、もしくは「暴れてしまう」という、どちらかの形で生じてくる、そしてどちらも性質として同一だ/弱く入ったほうが、恐怖心がデカいに決まっている、その恐怖心の中に端座し、あるいは佇立できるか……このとき恐怖心を「覆い隠している人」と、「超克している人」との差分を見なくてはならない、このことから目を背ける人は、根本的に何かを「敬う」という機能の一切が持てない。
「"強い"のではまるでなく、ただの恐怖心のカバーなの。じゃあ見方が変わるでしょ。これこそまさに学門だよ」

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ドラえ○ん「なんでも草〜」
ンデラの指摘する、邪悪の笑いについて、現代ではついに、「草」という言葉を獲得したと言える。
これは、言うなれば、「草」は「アーメン」の反対だ、と捉えればいい、これでたとえば、次のようにわかりやすくなる。
・彼は「草」と言った、友人は添えて「アーメン」と発した。
・彼は「アーメン」と言った、友人は添えて「草」と発した。

だがしょうがないのだ、われわれは「アーメン」なんて言っても、元気が出ない、なんでも「草」と言っておけば、さしあたり元気が出る。
ああ、なぜか、急にやる気が湧いてきたな、もちろん草のせいじゃないよ、自分の所属しているところにピタッと収まれば、やる気が出てくるものだ、みんなも自分の所属するところへピタッと収まればいい。
僕は草を否定しているわけではない、そして愛を否定しているわけでもない、両者はまったく等分に思える、「草も実在するし愛も実在するじゃないか」と僕には思える。
なんでも草といえば草だし、なんでも愛といえば愛じゃないか、そのどちらが本当か、その「本当のところ」を必要としている人もいるだろうが、僕は必要としていない、なんというか、つまり僕は勝手にやっている。

草不可避は、ニュースではない。

なんのこっちゃわからんと思うが、僕はそう言っておきたい、これが核心だから/草不可避は、いつものことであって、ニュースではない、だから報告は要らない。
「なんでも草〜」「うん、知ってる」という感じだ、いやあそれにしても、時代は変わったものだね。
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箸が転んでもおかしい年頃

ょっとマジメに考えるか……ミラン・クンデラという文学者がいて、彼は「笑い」というものがしばしば、邪悪に属しているということを看破している(天使の笑いと悪魔の笑い、有名な話だ)。
クンデラを背後において、僕もそう感じることを思い出すが、たとえば「箸が転んでもおかしい年頃」という言い方がある、古い言い方だが、思春期の女性に生じる精神の不安定や逸脱現象を指しており、実際に「箸が転んでもおかしい年頃なのね」という現象はよく目の当たりにした。
その、「箸が転んでもおかしい年頃」に、特定の「餌付け」したらどうなるのだろう……ということを、考えざるをえない、箸が転んでもおかしいというのに、男性がペニスをぶらさげて「恋」なんて言っていたら、おかしいどころか抱腹絶倒モンになるだろう。
クンデラが言っているのはそういうことだ、そして僕が目撃してきたそういう笑いも、「あれでしょ、とびきり邪悪な、あのキッツイ笑いのことでしょ?」という実感のものだ、思えばそんなものばかりに、たくさん包囲されてきたのでもある。

そういえば、ふだんはこんなことをあまり話さないが、僕がペニスをぶらさげて必死に女の子を抱こうとしたとき、ゲラゲラ笑い出す女の子なんていくらでもいる、僕の体験だけでも何十とか何百とかいるんじゃないか、女の子はおかしくってたまらないのだ、そのときの女の子の様相を言い表すのに「ちょwww 大草原不可避www」という表記は的を射ていると思う。
そうやって、ずっと笑って生きられたらいいな……しかしクンデラがいなければ、ひょっとするとわれわれは、「それって邪悪なんだけどね」ということに、いつまでも気づけなかったかもしれない。
「草」というのは、とても不思議な現象で、たとえば特攻隊で死んでいった青年たちも「草」といえば草だし、男性が女性を死に物狂いで愛したとしても「草」だし、こっそりお金を貯めてプレゼントを買ったとしても「草」、年長者が年少者に必死で教えても「草」といえば草だ/すでに現在、たとえば核戦争が起こって無辜の民たちが非業に焼き払われても、主流として生じる心象は「草」だろう、「非業で草w」、そうなってしまったものはしょうがないのであって、あまり無理をして自分を取り繕わなくていい。
実際、このアホなブログだって、他の誰かに見せてみりゃ第一に「草」だろう、つまり「何コレw」だ、それが間違っているというわけではなくて、僕だってそうなのだからしょうがないということだ、人の愛とか悲しみとか痛みとか全部「草」だよ/まあ「僕だってそう」というのは、完全なウソだけどね。

僕は愛を、あなたは草を。

僕自身、ここが最大にトリッキーなのだと思うが、僕は表面上、「草」に完全に合意しながら、裏側ではその草から完全に離脱しているところが、ひどいサギなのだろう/僕は、見る人によっては、すでにえげつないレベルの神霊力を持っているらしいが、僕はその表面を完全に「草」で覆うので、ひどい偽装地雷なのだ、それで人によっては、「もう神霊力やめてクレメンス……」となる。
草の生えた人に、僕はぴったり合意するし、合意していても、裏側で離脱していたら、神霊力()は作用してしまうからな、そうしたら草と神霊力が衝突して、身にドエライことが起こるぜ、まあそれはしょうがないというか、別にいいじゃん、さしあたりなんでも「草」としておけばすべてのことは解決する。

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女性を侮辱してはならない

「女性を侮辱してはならない」と言うと、「そうだな」「そりゃそうだ」という感じが実にする。
一方、「男性を侮辱してはならない」と言うと、「草、なんで?」という感じがする。
なぜ、という理由は特になくて、ただの社会的な声だ、「女性を侮辱してはならない」というのは正で、「男性を侮辱してはならない」というのは草だ、本当にそういう感じがするのだからしょうがない。
「男性を侮辱してはならない」って、リアルに、ただのオモシロ冗談にしか聞こえないからな……ここに「社会的な声」の作用の強さを、われわれは見るのだった。

もし僕が、二十歳の女の子に、「まじウザイんですけど」と言い放ったら、僕はサイテー男になってしまう。
逆に、もし僕が、二十歳の女の子に「まじウザイんですけど」と言われたとしたら、それは僕がサイテー男だから、そのように言われているのだろう、根拠はないがそう感じる。
僕はなんとなく、それでいいんじゃないかなという気がしているのだが、本当にそれでいいのかどうかは知らない、まあ別にいいんじゃないか/というのは、もはやどうしたって、女性が男性を侮蔑的に見ないということは、すでに状況的に不可能だからだ、不可能なことをあれこれ考えていてもしょうがない、<<草が生えるのを止める方法はない>>。
別に女性を悪く言っているわけではないのだ、「男性を侮辱してはならない」と言うと、「草」という反応になるのは、僕自身だってそうなのだ、僕でさえ操作できないその反応を、若い女ごときの余人どもが操作できるとは思えない。

男性を侮辱しない方法が、女性にはわからないし、僕にもわからない。

「女性を侮辱してはならない」というのは、誰だってわかるのだ、誰だって「はい、そのとおりです」という感じがする、それに比べるとオメエ、「男性を侮辱してはならない」というと、誰だって「はい草、そのとおりです草」となるだろう、こんな草祭りを、たとえミラン・クンデラだって止めることはできない。
どうしよう、という発想はすでにないが、何が起こっているのか、ということには引き続き関心がある、きっと何か大きなことが進行しているのだろう、二十年前は「草不可避」なんて反応はなかったものな。

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完成に向かうことがない人

チンコ屋でオバサンが、「えいクソッ」とパチンコ台をどついていたとする。
これは、オバサンによって、「よしパチンコ台をどつくべきであろう」と判断された結果、パチンコ台がどつかれたのではない、単に感情的になっただけだ、体内にそういう興奮物質が駆け巡ったので、オバサンはパチンコ台をどついた。
「勉強しなきゃ」「あの人が好き」「○○へ行きたい」「ああいう服が着たい」、人によっては、自分の挙動や思念の何もかもが、単に体内を駆け巡る興奮物質によって活性化され、決定されている、メラメラしたりウルウルしたりワーッとなったりするので、僕は「メラウルワー物質」と呼んでいるが……
人間の体内のことなので、興奮物質を常時注入していれば、次第にボロボロになっていくのだ、そうして内部がメラウルワー荒廃すると、もう理性は残されてゆかない、すさまじい虚脱に陥るか、そうでなければさらなる興奮物質をオーバードースしていくしかないのだ。

麻薬でボロボロになった身体が、その後なめらかにすばやく動くということはまずない、われわれは引退した元プロ野球選手をテレビで見て、「テキパキしていてすばやいな」という印象は受けない、つまりジャッキーチェンのようではない/元プロ野球選手ということは、かつては最高峰クラスの身体能力を誇っていたはずだが、なぜかそのことはその後に「身体のすぐれたおじさん」を残さない、動かなくなるのだ、筋肉と興奮物質のエキサイトで振り回した身体は、そのときだけ表面上は意気軒昂にしてくれるが、内部的にはズタズタになっている。
麻薬でズタボロになった身体は、ひどい虚脱で、ダルく、苦しい、とても耐えられない、だからご存じのように、一度そうして麻薬漬けで暴れた者は、その後もずっと「麻薬をくれ、麻薬をくれ」と言い続けることになる/パチンコ屋のオバサンは、<<台をどつくぐらいならパチンコ屋に来なければいいのだが>>、そうはいかない、パチンコ屋と現金ギャンブルの興奮を、体内に注入しないでは、もう朝から晩までがダルくてしょうがないのだ、<<パチンコにハマっているのではなく、虚脱症状に耐えられないだけだ>>、そのダルさと苦しさは、あるところから人の意志や理性を吹き飛ばし抵抗を不可能にする。
最大の問題は何だろうか? それは、当該のオバサンが、自分を信じ、他の誰かのことをけっきょく信じていないということだ/オバサンはけっきょく、<<自分にこそ光があるという誘惑を断ち切れなかった>>、だからこれまでに差し伸べられた手に、本当に頭を下げるということができず、自分の洞窟の最奥では、……自分のカルマこそ光では? という信仰をこっそりやってきた、この先オバサンは、なおも自分が正しいと信じ続けるのだ、この吾我驕慢を字義のとおり「我慢」という。
「自分にこそ光がある」、メラウルワー麻薬を体内に流した者は、誰でもこのことの「確信」を得るものだ、「自分にこそ光がある」、そうすると自分は無敵のように感じる、そうすると他の誰かが<<完成に向かおうとしている>>ということが見えなくなり、そのことに否定的になり、当人は何の完成にも向かわなくなり、そのことに自覚もなくなる。

何かを完成させるのは、すさまじくダルいものだ。

このダルさを突破して、一定の完成を得てきた人と、そういった完成は一度も得ていない人とのあいだには、おびただしい格差がある/完成に向かってゆく人は、ひとつひとつのことに「気が遠くなるわ」と感じながら、なおもそのすさまじいダルさを独りで踏破してゆく、一方で完成に向かうことがない人は、漠然と自分は「無敵だ」と感じていて、自己陶酔が好調だが、けっきょくはわずかなダルさでも目前に現れると、多量のメラウルワーを注入してしか取り組めない。
「完成に向かう」ということは、すさまじくダルいのであって、そのダルさを知らない者は、何歳になっても何も知らないということになるだろう/そして、「完成に向かう」ということがない人は、必ず別の方へ向かっているはずで、別の方向といえば完成の反対、何かをメチャクチャにするという方へ向かっているはずだ、こうして人は無条件に「他人の完成を妨害する生きもの」に勝手になってゆく。

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「信じる人」を得る方法2

「信じる」というと、まるで「アアッ、神よ!」みたいな感じに、感情的に拝み倒すものだと思われている、だがこれはすでに気配からしてアホの感じがする。
そうではなく、「信じる」というのは、「信じる人」という分類を認めるということであり、それは「迷わす人」という分類を認めることに支えられている、あなたは「信じる人」を設定すればよいだけであって、その設定のために、「迷わす人」も設定すればよいだけだ/カーナビが「左折です」と言うところに、それが「迷わす人」だと設定されるのであれば、あなたは右折すればいい、そこに感情的な「信仰風情」は要らない。
それで、カーナビといっても、完璧というわけにはいかないものだ、たまにはエラーやバグも起こす、そのとき「信じていたのに裏切られた、迷わされた」といって、カーナビを大破壊していちいち買い換えていたらキリがないだろう/ここでこのことを知らねばならない、<<「信じる」ということは絶対性を担保にして成り立つものではない>>ということ、信じるといっても「誰しも完璧とはいかないでしょう」という前提があるのは当たり前だ。
「信じる」といって、誰かを絶対化することが「信じる」ということなのだと誤解している人は少なくない、それは仏教徒がブッダを崇めるような場合の信仰であって、その他の一切に向けうるものではない/「弘法にも筆の誤り」という言葉があるが、弘法大師が筆を誤ったからといって、そのたびにブン殴って別の師匠を探していたらキリがない、おおむね妄想気質の人が、この「人を絶対化して信じる」ということをやる傾向にある、この人は己の生成した絶対妄想を信じているというだけであって、誰か人を信じているということではない。

妄想気質に合わせて、われわれには「信じたくなる」という現象があることを、よく知らねばならない/端的に言うと、きれいに着飾った年少の女の子がシクシク泣いていると、そこにきれいなこころがあるのだと「信じたくなる」ものだ、だが本当にそこに自分の「信じる人」がいるのか、それとも「迷わす人」がいるのかは、わかったものではない、このことは合理的に捉えねばならない、合理的に捉えるために、われわれは「信じたくなる」という現象に十分な警戒心を持っていなければならない。
ここで警戒心として有効なのは、「信じたくなる」という現象は、あくまで感情的なものだということだ、たとえば「母親は我が子を愛するものだ」というようなことは、感情的に信じたくなるものだし、さわやかな笑顔のセールスマンがやってきたら、感情的には「悪い人ではない」と信じたくなるものだ/だがその感情は、学門としての判断とは異なるので、「判断を誤る」ということはあったとしても、「学門を曲げる」ということはあってはならない。
単に、われわれは己が感情的に"ほだされる"と、そのほだされるという感情がカルマ的に快感であるので、学門を曲げて判断をバイアスしてしまうということだ/<<感情的にグッとくることと、「光が差す」ということを取り違えてはならない>>、<<「光」はわざとらしい感情を伴わないものだ>>。
あなたは、自分の「信じる人」と、自分を「迷わす人」を分類せねばならないが、「迷わす人」はまさにあなたを迷わすということを忘れてはならない、あなたが信じたくなるかどうかの前に、自分が「迷わされているのではないか」という発想を持つことだ、その発想がありながら、なおも判断を誤った場合は、それはしょうがないし、そのことは経験にはなっても悪習にはならない。

あなたの「信じる人」は、あなたの感情を鎮める人であり、あなたを「迷わす人」は、あなたの感情を昂ぶらせる人だ。

誰でも知っているとおり、夜になると、繁華街で騒ぎが起こり、ときには殴り合いのケンカ等が起こるものだ、あまり昼の日中から騒ぎや殴り合いは起こらないものだ、つまり人は光を失うと感情を昂ぶらせるものであって、光が照ってくるほど感情を落ち着かせるものだ、女の子がシクシク泣いていて、それが傍目にもグッとくるのは、たいてい夕暮れか夜だからであって、正午の日向にシクシク泣いていたら感情はそこまで昂ぶらない/ここでは「光」の話をしている、ここではシクシク泣いている女の子より、まっすぐな眼差しで本を読んでいる少女のほうを信じるべきだ――どちらが「迷わす人」かをよく見て。
「光」の中、人は感情を落ち着かせるものだし、「光」の中であるから、物事はよく見えるようになるものだ、ところが「信じる」ということを誤って捉えようとする人は、自分に物事がよく見えないように、つまり「盲目的」に信じようとする、これは恣意的に学門を曲げているのであって、これをやるようではふりだしに戻るしかない、初めのところからやりなおしだ/「信じる」ということは意志の問題ではなく、感情の問題でもなく、ただの分類の問題だ、だからそのとおり「分類」しろ。

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「信じる人」を得る方法

いうわけで、さっさとやりましょうか、という気がしてくる、まあこれはいつもの僕の精神だな。
「光」がないと、「ガマン」とその中毒しかなくなるわけだが、それならさっさと「光」を得たらいいだけであって、何もお涙をウッウッと流している必要はない。
そして、「光」というのは、つまり「信じる人」を得るということだ、生きている人でもいいし故人でもかまわない/ただし、両親や身内はやめておいたほうがいい(血縁において「血」が作用するのでよくない、血縁はカルマを継承し合っている)。
そして、重要なことだが、「信じる人」を得るのには、コツがあるのだ、それはどういうことかというと、<<「信じる」というのは学門であって自分の意志ではない>>ということだ、そのことは以下の手続きで判明してくる。

コツは、こういうことだ、「信じる人」を設定する(大げさにいうと「奉る」)と同時に、自分を「迷わす人」、自分が「迷わされる人」も設定するということだ、この後者のことが見落とされている。
自分には、信じる人がいて、そのほかには、信じる気になれないクソどもがいる……ということではない、否定的に捉えなくていい、自分には「信じる人」がいて、また「自分を迷わす人」もいるということ/否定的に捉えなくていいのは、<<自分自身もその「自分を迷わす人」の一人だからだ>>、このことは死ぬほど理解しておく必要がある。
ここにおいて、自分の「信じる人」というのは、キモチの問題ではなく、ただの分類の問題だということになる、信じる人というのは、単に「迷わす人」の補集合にすぎない/この手続きによって、<<感情的にではなく、合理的に「信じる」ということを生成できる>>、<<疑うという現象を排除できる>>のだ、なぜなら「疑うぐらいなら、『迷わす人』に分類すりゃいーだろ」で済むからだ、これであくまで分類上「疑わない」ということが成立させられ、そこで初めて、その人の「話を聞く」ということが成り立つ、逆にいうとそれまでは自分が誰かの話を聞くということは成立しない。
あとは単純に、自分が誰を「信じる人」に奉るかの問題であって、そこのセンスがまずければ、まずい方向へいくのだろう、だがそれは自分で選んだものなのだから本懐のはずだ、芥川龍之介を「信じる人」に設定したとき、トルストイは「迷わす人」に設定されるだろう/重要なことは<<自分自身も「迷わす人」に設定する>>ということだ、こうすることで初めて、<<静かに人の話を聞ける自分>>というものが成立する、この手続きがないうち、自分というのは内心で常に何かを言い続け、決して黙ってはくれない。

「信じる人」「迷わす人」、どちらも疑わなくていい。

どちらも疑わなくていい、なぜなら、どちらも疑いはないからだ、「迷わす人」は「迷わす人」なのだから、疑う必要はない、詐欺師と定義されている人を「詐欺ではないか」と疑う必要はない、もう定義されているのだ、信じる人でないなら迷わす人なのであって、迷わす人は迷わせてくるだろう、そこに疑義を抱く必要はまったくない、「信じる人がいるので」で正当に一蹴できる。
このように、「信じる」ということは、<<何ら感情的なことではない>>のだ、<<あなたはカーナビの指示を拝み倒しているだろうか?>> そんな感情を入れなくてもあなたはカーナビの指示を信じてハンドルを切るはずだ、それは自分が道に詳しくなく自分では「迷う」ということを自覚しているからだろう、ただそれだけのことであって、このことを整理したら光はさっさと手に入る、こんなところにまごつく理由は一ミリもない。

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「がまんびと」と「すなおびと」
でにサイエンスとしてよく知られているように、ガマンや抑圧をしてきた者、また現在もそうしている者が、エロ本的状況に置かれると、信じられないぐらいアホの挙動を示す、そういうマジックがあるのだ、この点、ガマンと抑圧をして生きてきた人と、そうでない人は、想定しうる世界と冗談が噛み合わない、つまりガマン人と素直人がいたら、彼らは相互に「そんなバカな」とお互いの真相にびっくりするのだ。
ガマン人が、エーイとやけくそで酒を飲んだ場合、二ヶ月も飲み続ければ、それだけで生涯を追い詰めつづけるアルコール中毒になることもある、素直人はこれにはならない、だから素直人から見ると「そんなバカな」「おれはもっと連日飲んでいたと思うぞ」と思えるのだが、そういうことではないのである、アルコール中毒の真相はアルコールではなくガマンにあるのだ、これまでに蓄積してきたガマン毒が体内で爆裂するのである。
麻薬などもそうで、マリファナや大麻では外国で実際に見たことがあるが、もともとが素直人の場合、「何かボーッとするね、あはは」というだけでしかないのだが、ふだんからガマンと抑圧のガマン人であった場合、そのガマンと抑圧のタガがゆるんで、ドカーンと爆発を起こすのだ、そうなると狂気が露出してくる、見るからに目がおかしい人になるのだ、ガマン人の場合たいていそこから嬌声や叫び声をあげる、もうタガが外れているので止まらなくなる。
酒にせよ麻薬にせよ、ギャンブルにせよセックスにせよ、あるいはソーシャルゲームやオタク趣味にせよ、度が過ぎれば「アホらし」と思えるのだが、そう思えるのは素直人だけであって、ガマン人はそうではないのだ、ガマン人はまったく安物のマンガのように、それにドハマリするし、「ああああ〜」となっていくのだ、いわゆる「堕ちる」というような、アホみたいなことが本当にあるのだ。

だから、ある意味、エロマンガに描かれている「優等生がセックスを仕込まれてああああ〜」みたいなことは、本当にあるのだ、ガマン人にだけ、そういう「堕ちる」とか「調教」とかいうような現象がある、あるいは正確には、<<光を失った人はエロマンガみたいになる>>と捉えていてよいかもしれない。
これは当たり前の話で、たとえば誰だって、昼の墓場に行って「キャー」とはならないのだ、夜の墓場に行くから「キャー」になりうる、それはつまり光がないということだ、よって自分の生きることや自分の世界に光が見当たらないとき、どんなしょうもないことでも人は「ああああ〜」になりうる、これはもうただの「人間の仕組み」なので、そういうものなのだと初等教育として知っておいたらいい。
それでけっきょく、「人ってどういうもの」だとか、「女ってどういうもの」「男ってどういうもの」だとかも、ガマン人と素直人で真っ二つに分かれるということだ、ガマン人は内心で常に水位を高めている「ああああ〜」の予感を真相だと本当に思っているし、素直人のほうはそのエロマンガ的な真相説をこころの底から「……は?」と思っている/光が見えている人と光が見えていない人は性質がまったく異なるのだ/昼の墓場にいる人が夜の墓場にいる人に電話して、その電話口で「キャー」と言われたら、アホかこいつとしか思えないが、叫んでいる人はマジのマジなのだ。
誰でもそれなりに、試験勉強をしたり、何かのトレーニングをしたり、就職活動をしたり、仕事で残業したりする、そのとき、何か「光」が見えていて試験勉強をする人は、ガマンしてそれをするということではなくなるのだが、「光」が見えていなくて試験勉強する人は、猛烈なガマンを強いてそれをするしかなくなる、そうしてガマン人ができあがり、このガマン人は、「光があってガマンは必要ありませんでした」という人とまったく性質が異なるのだ、これは何もスリリングなことではなく単純な仕組みのことだから、初等教育として把握していればいい、そして多くの場合、自分を素直人なんて安易に思わないほうがいい。

ガマン人は、ガマンを嫌悪しているが、ガマンしかやり方を知らないので、けっきょくガマンをやりたがる。

ガマン人は、光がないからガマン人になったので、けっきょくはガマンが「得意」なのだ、たとえそれがどれだけ毒に満ちていて闇に閉ざされたものでしかなかったとしても、ガマン人はガマンという方法しか採れない/典型的に起こるのは、ガマン人は素直人を攻撃せずにいられないということ、また「光」がもたらされることを否定し攻撃せずにいられないということだ、ガマン人は結果的に、<<自ら光を殺す人>>になるのが、お定まりのパターンと言える、これも別にドラマチックなことではなく、ただの仕組みのことだ、「ガマン人は素直人じゃないのだから、素直になれるわけがないだろう?」と言えば目が覚めやすいか。
「ガマン」の本質がわかるだろうか? ガマンというのは、実は自分の意志ではないということ/「ガマン」というのは、むしろ逆、自分の意志の反発が抑えられないので、「ガマン」という物質をブチ込んだということなのだ、「ガマン」という向精神ホルモンをブチ込んだという捉え方が正しい、そんなものを幼少期からブチ込んでいたら、深い中毒を引き起こしているのが当たり前だ、その傷口はいつでもエロマンガ的な「堕ちる」を吸収して発狂できる状態にある。
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