☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
エリ・オジルビア、これは暴力ではない

一人、何一つ、間違っていないが、もし何かの「世界」を体験したいということなら、すべて間違っているかもしれない。
ダンスが得意で、笑顔の商材写真が印象的な、実はアニメオタクでもあるエリ・オジルビアさん(36)の、ダンスとトークと酒をたくさん共にしても、そこに何かの「世界」が体験されてくるということはきっとないからだ。
もし、それを間違っていると言ってしまえば、それはもう、眼差しから表情から、声も考え方も言葉遣いも発想も、胴体から全身の使い方も全部間違っていると言わざるをえなくなってしまう。
あなたは僕よりエリ・オジルビアさん(36)のほうが好きだろうが、問題は、僕よりエリ・オジルビアさん(36)のほうが本当に「やさしい」と感じられるかどうかだ、あなたの「好き」にはいつの間にか、本質的にはやさしくない人が紛れ込んでいる。

うーむ、何もかもが間違っている(か、もしくは僕の何もかもが間違っている)。
それにしても、あなたが「友好」を得られるのはエリ・オジルビアさん(36)のほうだ、何しろエリ・オジルビアさん(36)には、あなたを蹴っ飛ばしてでもあなたに伝えようとする何かはない。
僕はつい、あなたを蹴っ飛ばしてでも、あなたに伝えようとする何かを持ってしまう、「何もかも間違ってんだよ」と蹴っ飛ばされたら、さすがにそんなもん「友好」とはいかない。
「何もかも間違ってんだよ」と蹴っ飛ばされて、何か正しいものが得られりゃまだしも、それで得られるというわけでもないのだ、だからエリ・オジルビアさん(36)のほうが「はるかにいい」と一般的にはなる、あげくに僕はそれを「まあそれでいいか」と思っているのだから救いがない。

僕は自分を「ろくでもない」と思っており、僕自身を蹴っ飛ばされることに違和感がないので。

単に僕の育ちが悪いからなのか? 僕は「おもんない」とか「気ィ悪い」とか「できてへん」とかいうときには、蹴っ飛ばされるのが当たり前だと思ってきたし、今もその感覚でいる。
僕が後輩やガールフレンドを蹴っ飛ばすところを見たら、エリ・オジルビアさん(36)はびっくりして眉をひそめるだろうな、でも蹴っ飛ばされて笑い合えるぐらいの度量を持ってほしい、エリ・オジルビア、こんなもん戦争の何億分の一だよ。

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妖怪ウォッチ以降の子供
隣の子供が公園で「奇声」を発しているように聞こえるが、あれは「子供が元気」ということなのだろうか。
正直なところ、僕にはあれが「奇声」にしか聞こえていなくて、率直に申し上げれば僕はいつもあの奇声に閉口している。
僕自身も子供のころはああして奇声を発して育ったのだろうか? その記憶はないが、実際にどうだったのかはわからない。
あれは単に子供が元気ということで、僕の聞き取りと受け取りの感性がおかしいのか? それならいいのだが、そのあたりのことはけっきょくよくわからない。

子供のころ、友人の名前を「まっちゃん」「うっちゃん」「つっちゃん」「こったん」等、呼びやすいように呼んでいた記憶がある。
「あさひな」だったり「まきの」だったり、大声で友人の名前を呼んでいた記憶が当然ある/昔はインターホンさえなかったので、家の外から友人をナマ声で呼ぶものだった、「○○くーん、あーそーぼー」というやつ。
が、どうも、このところ耳にする子供たちの奇声の中に、そうして誰か人の名前を呼んでいる音声が見当たらない/犬の名前を呼んでいる音声もあまり耳にしない。
もしも本当に、名が呼ばれることも与えられず、奇声を発しているだけだったら、それは「獣」だ、あくまで「もしも」の話だが。

白黒映像の中の子供らは、奇声を発しているようには見えない。

youtubeで、1970年の万博に子供らが遊んでいる映像を見つけることができたが、やはり奇声は見当たらない、そして子供らがそろって「はーい!」と答えるときの声が強烈だ。→動画が残っていたらこちら
何かが違うということだけ明らかで、どうしたらいい、ということはないと思うが、さしあたり奇声を発するのをやめればよいのではなかろうか/ただし「奇声を発しちゃいけません!」ってママや教師が奇声を発したら本末転倒だ。
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事情に力はない
それぞれに事情があるが、事情には何の力もない。
たとえば、蕎麦アレルギーの人は蕎麦を食べられないが、それを元にして何かエネルギーやideaが出る、ということはない。
蕎麦アレルギーであろうがなかろうが、エネルギーやideaが出るのはただ「何を食うか」のほうだ、事情のほうには何の力もない。
自己事情に詳しくて、熱烈な思いを持つ、自己事情オタクというような人もあるが、そういう人は何かというと、何の力もない自分が大好きなので、それはそれでしょうがないのだ。

誰でも学業があったり生業があったり、ワークやセックスや恋あいがあったりする。
が、思いがけず、学業と生業の「事情」、ワークとセックスと恋あいの「事情」という、自己事情のことしか頭にない人が少なからずある。
事情には力がないのだ、そんな力のないもの、および公益性もないものを、人前に放り出さないこと、そのことを一般的に「マナー」という。
単に恋人がほしい人と、「事情があって」恋人がほしい人は、まったく別だ、事情があって○○がほしいという人は基本的に不気味で恐怖でしかない。

事情を増やしたら未来が減る。

たとえばこの季節、就職活動中の人がいると思うが、事情から就職活動していたなら、実に未来がないという実感が自分自身にあるはずだ、そんなことをしていると人はたちまち荒廃する。
事情というのは、基本的に自分限りのことなので、自分が「まあいいか」と思えたら事情は雲散霧消する、この宇宙で「あなたの事情」を気にかけているのは、疑いなくあなた一人だけなのであった/あなたがしんどいというのはあなたの事情だ。
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STRAIGHT OUT OF HELL
学の類にはまったく詳しくないのだが、いわゆる「地獄(hell)」も神の創ったものなのだろうか。
「地獄」を創ったのは悪魔? 神? そのあたり、単純な知識がない、誰か詳しい人がいたら教えてください。
聖書世界の捉え方では、全知全能の神が創造主なのだから、地獄もその創造主によって創られたものなんじゃないのと、僕はテキトーに思っているのだが……
自分で勉強しろよという話だが、面倒くさいのだ、まあとりあえず僕は勝手に、地獄もカミサマの創ったものだと思い込んでいる。

地獄もカミサマの創ったものだったとしたらだ。
カミサマの世界を体験しようというときに、天国だけ体験しようとするのは虫が好すぎると思うのだ。
カミサマを肯定しようとするとき、カミサマの創った天国および地獄の両方を肯定しないと筋道が成り立たなくなる。
そして思想はいかにも、ヘヴィ・メタルの局面へ流れ込んでゆくのだった……なんだこのまったく役に立たない話は、つまりヘヴィ・メタルってやっぱり何かあるよねと言いたい。

芸術は、天国もしくは地獄からの、「産地直送」。

人間ごときに芸術が創れるわけがないので、そこは天国や地獄の生産性を借りるしかないのだ、そりゃ土や水を借りずに農作ができる人間はいないのと同じだ。
僕はカミサマになんか会ったことはないし、見たこともないが、天国や地獄の生産性を認めないわけにはいかないので、そこに生産性があるということは、カミサマ的なものはあるのだろうと、やはり認めざるを得ないのだった。
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自己愛の問題は解決しない
己愛の問題は解決しない。
自己愛とは何か、ということに知能を使う必要はない、そんな疲労は負わなくていい。
ただ、自己愛の問題は解決しない、ということだけ言葉どおり覚えておけばいい。
ややゾッとするが、ゾッとしたって解決するわけではないので、あまり難しく考えず知っておくだけでいい、「自己愛の問題は解決しない」。

もちろん、そんなことは根本的には間違っているのだ。
間違っているのだが、そうとわかってはいても解決しないのがミエミエなので、解決しないものだと腹に据える度量のほうが今は必要だ。
「自己愛を超克した人々の邂逅にこそ希望がある」と言い得るのはもちろんだが、たぶん今、相当な気合いを入れなおさないと、「自己愛」とは何で「希望」とは何か、ということが見えてこないはずだ、見えてこないものを取り戻すには相当な負担が掛かりストレスになってしまう。
それぐらい今、知性という機能は破損しているのだが、今は「それがどうしたのよ」と肝を太くしていないといけない、今知性が破損しているという状態は何も恥ずべきような状態じゃない。

自己愛の問題を解決しようなどとしたら、パニックに襲われるだけだ。

今はそういった、知的にタフな活動ができる状態ではないのだ、かといってこの先に好転する予定があるわけでもないが、そういったことも含めて「それがどうしたのよ」と肝を太くしていくしかない。
取り乱すと、人は何も見えなくなってしまい、何も見えないまま努力することは人を不幸に近づけてしまう、それよりはひとまずあっけらかんとして、そうしたら何か見えてくることがあるかもしれない。
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明るく生きるための秘訣
念ながら時代は変わってしまった。
旧来、価値があるとされてきたものは、もう期待するべきではないのだ。
そんなことはさておき、明るく生きるための秘訣がいる。
秘訣は、今日のことをあまり重く考えないことだと思う、今日がどうであっても明日が変わってしまうわけではない。

今、考えられるべき主題は、「どう生きるか」ではなく「どう死なないか」に切り替わっている。
「どう死なないか」、つまり、別に今日死ぬわけではないのでまあいいだろうという精神だ。
それによってまず、明るくあれることが先決だ、暗くなってしまったらもうまともな思考回路もはたらかない。
思考放棄を意図的に選択するのだ、今日は考えない、明日どうするかは知らない、それはたぶん間違っているのだが、この間違いを今日修正する必要はないのだ。

「今日何もなかった」ということはすばらしいことだ。

旧来、「今日何もなかった」ということはサイアクのことだったのだが、そういう時代は過ぎたのだ、今は「何もなかった」ということはすばらしいということに切り替わっている、なぜなら「何もない」ということは「死なない」ということに最も好都合だからだ。
もし不愉快や不都合なことが起こったとしても、「何もない」と、さしあたりそう思うしかない、そう思考放棄することは今、未来に向けて取りうる最も明るい手段だと言わなくてはならない、「何もない」ということを怖がる必要はない。
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ヒサンな待遇を受けている人が、自分の待遇改善にマックスフルパワーが止まらなくなるということ
ーパーマルチ言い訳マシンになるのをやめよう。
自分から誰かへ愛のアタックをかけていないのは明らかだ。
ホントーに「自分の待遇改善」のことしか考えなくなっているし、ホントーにそのことにしか努力する気なくなっているだろ?
おおっと、ここでスーパーマルチ言い訳システムの発動は禁止だ、だって「マジにそう」なんだからしょうがないじゃん、マジに自分の待遇にしかキョーミないんだから今さら言い訳なんかしなくていいじゃん。

自分の待遇改善にしかキョーミが持てないということは、つまり、えー……、まずそれだけヒサンな境遇にいるということなのだろう、誰も自分によくしてくれず、ヒサンな待遇の中にいる、と。
そういうことは、すごくよくわかる、なぜなら僕も、そういうヒサンな境遇でヒサンな待遇を受けている奴をたくさん見てきたからだ。
一方僕自身は、なぜかこれまでに、自分の境遇や、地位や待遇ということに、そもそもキョーミを持ったことがなかった、「待遇」という概念を忘れてしまっていたほどだ、なぜか一度も考えたことがない。
まあなんであれ、実際のところ、自分の待遇改善にだけマックスフルパワーが止まりませんという状態で、その無節操さについてはスーパーマルチ言い訳システムがバッチリはたらきますという状態では、それはたぶんあなたがかつて「こうなりたい」と思っていた自分の像とはまったく違うのだろう、少なくともおれのせいじゃねえ。

「自分の待遇改善にしかキョーミのない人」に、どういう待遇を与えるべきか。

もちろん、与える待遇は、下の下、つまり「ボッタクリの着色料でも食ってろ」ってあたりになるわなあ、僕はラブリーな女の子を膝に乗せてシーチキンごはんを食べていたいもの。
あなたは自他ともに認める「愛のアタックをかけまくりやがるすげえ人」では、ないのじゃないか、そのままハイクラス待遇を待ち続けるというのは、まるでマリアナ海溝の沈没船の中で市バスが来るのを待ち続けているような状態だと思うのだがどうか。
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デカいサイズ
ホみたいな話だが、割とデカいものが好きだ。
豪華客船とか恐竜とか。
スマートフォンは、手のひらサイズだからあまり好きではない。
なんというか、サイズの合っていない服を着ていると疲れる、みたいなことはあると思う、そりゃあるだろ。

だから僕は、何かにリアクションしたり、注目したりということが苦手だ。
デカいものが好き、というのではアホみたいだが、本当に好きなのでしょうがない。
あの梢にメジロが留まっているよ、というようなことが、割とどうでもいいのかもしれない(文学志望なのに)。
男が女に注目してエッサホイサするデートは害悪だと思っている、もっと砂漠とか大ホールとかに注目してデートしよう。

小さいと夢が死ぬ。

元々そうだったよなあ、と、完全に僕個人の思い入れのようなことを話すが、実際そんなものなのだ、凝った小皿とかに注目し始めると人は死ぬ(暴論)。
サイズの問題をこのところ忘れていた、落ち着くサイズって誰にでもあるものね。
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注目のない、ひたすらいい時間を
は女性に、怨まれたり好かれたりしているが……
こんなドサンピンに怨んだり好いたりする価値はさほどない。
価値がないか、もしくは、こんな図体のデカい奴にそういった感情はよくあてはまらないのだ。
僕は女の子が好きだが、それは好きに決まっているので、何なら会ったことのない女の子さえ大好きだ。

誰でも、いい時間を過ごせばいい。
いい時間というのはきっと、何にも注目しなくてすむという時間だろう。
豊かで、満ちて、夜景も森も潮の香りも押し寄せるようなら、何にも注目せずにすむし、立ち止まらなくてすむ。
図体のデカい僕は、情報なしに女の子が好きだし、誰かのことを軽蔑したりとか、そんなことができるほど脳が活発ではないので安心してくれ、何しろカレンダーの升目もよく見えていない。

注目は、するのもされるのも、たぶん地獄だ。

人気があればよいのであって、注目されるというのはたぶん地獄だ、母親が息子の小テストに注目することぐらい殺意の湧く地獄だ。
注目されたらうれしい、とあなたは思っているかもだけど、たぶんウソだよ、僕があなたに注目したら七分ぐらいで帰りたくなるよ。
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この世でもっともつまらない仕事
きな仕事をしたい、という欲求が誰にでもある。
これは正当な欲求で、大きな仕事はまるで本当の深呼吸みたいに気が晴れるものだ。
小さい仕事はどうしても息がつまるものだ、やだなあ。
大きな仕事ができるかどうかは誰にもわからないけれど、大きな仕事をする準備は誰だってしていたらよいと思う。

大きな仕事というと、自己顕示欲とか承認欲求とかの対象かもしれない。
でも、そんなものがどうでもよくなるからこそ、それは「大きな仕事」だ。
大きなベッドに寝転がりたい、というのは、理屈ではなく欲求だ。
大きなベッドや大きな仕事に乗っかる体勢になると、それ専用の身体になって、気が晴れるのだ、それはとっても落ち着くものなのだった。

大きな仕事に必要なのは、能力ではなく大きさ。

パワーショベルはデカいからパワーショベルなのであって、そのエンジン音は理屈でなく気が晴れるのだった。
そしてこの世でもっとも小さいのは「自分」だ、よって自分を解決するということほど小さくてつまらん仕事はこの世にない。
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六年後の文化
年前のあの日は、笑えないほど大惨事だった。
復興は続いているが、惨事は過去のことだから、あまりシリアスになる気にはなれない。
ああ、それにしても、「あんなことなければよかったのにな」と今でも思ってしまう。
あれだけの大惨事だと、何か得体のしれないショックがあって、あれ以来日本は単純にネクラになった、「まあそりゃそうだよな」と、あのときのことを思うと言わざるをえない。

悲しいなあ。
直接の被害者でないので、たいそうぶる権利は僕にはないけれども、正直今でも悲しいなあと感じている。
被災者ではないけれど、日本が暗くなったことについてぐらいは、僕にも悲しんでいい権利があるだろう。
明るいことが必要だが、明るいことを必要としているということそのものが、やはり根本的に悲しいのだった。

復興だけじゃ足りんのだろうね。

阪神淡路大震災のときのことを思い出す、僕は住み込みでボランティアをしていたが、物資や仮設住宅が用意されて「よかったですね」と言われたとき、「よくはないわな」と笑うおじさんの声をよく聴いた。
「元どおりに」という発想には、ネガティブなものを僕は感じる、あれは大きな体験だったのだから、あの体験が次の文化につながらないか、などと僕は個人的に考えてみる、傷口に切断されるのじゃなくてね。
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「道徳」を履行していても、人は何も満たされない
付の駐禁を切られたのでがっくりきている。
よくあんな隅っこに停めてあるものを見つけたな、がっくりくる、雨が降り出したので停めておいたらこのザマだ。
僕は、柔軟でかつはっきりとした思想をもっている人が魅力的だと思うが、「思想」ということにはヒントがあっていいと思う。
おそらく多くの人は今、「道徳」だけを持っており、「思想」を持っていない、このことはきっと多くの人にヒントになると思う。

多くの人は混乱しているのだと思う。
なぜなら、「道徳」を履行しているのに、まったく満たされないからだ、「なぜ」とは誰も教えてくれない。
「思想」を履行すれば、人はまだ満たされる可能性があるが、「道徳」を履行していても、人は何も満たされないからだ。
今多くの人は、「違法駐車をしてはいけない」ということだけ知っていて、その車をどこに走らせればいいのかがわからないでいる、道徳を遵守するのは単に道徳家であって思想家ではない。

僕には、「駐禁なんか取り締まっていても国は豊かにならない」という思想がある。

原付の駐禁ぐらいで根に持ちすぎだろうか? きっとそうだと思うが、僕は悲しいのだ、道徳の履行にコストをかけても何も豊かにはならないのに、今人々のコストは道徳の履行にばかり向かっている気がしている(もちろん違法駐車は僕が悪い)。
僕は、自分を慕ってきてくれた女を、何かしら豊かなほうへ押し出してやる義務があると思っている、それが僕の思想だが、そんなことは駐禁の反則金には何の関係もないのであった、とほほ……
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破格に弱い僕から

べての謎を解くカギ、ネタバラシみたいになっちゃうけど。
僕は破格に弱いのだ。
わずかでも強化して戦うのがいやだったから、破格に弱いままで来た。
僕を親しく感じてくれている人へ、僕が破格に弱いということをお話しします、これがすべての謎を解くカギです。

表面上の事実や能力を見て、あなたは僕を破格に強い人と思ったかもしれない。
でも、びっくりだろうけれど、僕はあなたより何十倍も何百倍も弱いのだ、たぶん弱すぎて死んだ音が聞こえないだけだ。
たとえば「どういうことですか?」とあなたが強く訊くだけで、僕はあっさり死んでいる、何度も殺されている、そのたびに蘇生するので死んでいるようには見えないのだろうけれど。
あなたは自分が「弱い」と思い、僕から「強さ」を探ろうとしたでしょう、それが実はまるきり逆、あなたは僕を殺して探っているからいつまでも「わけがわからない」となる。

あなたが一番信じたくない「それ」、僕はその弱さで生きています。

もし僕が少しでも強化をしたら、もう誰も安心できなくなるじゃないか、そんなのはいやだと思った、強化するのは卑怯で逃げだと僕は思った。
あなたの何百倍も僕が弱いと仮定したら、「じゃあまさか……」とめまいがしてこない? たぶん僕はあなたの想像するとおりのことをしています。

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ごはんってすごいよなあ
「ごはんってすごいよなあ」と言いながらごはんを食べた。
それがキモチワルイと言われたら、それはもうキモチワルイのでしょうがない。
僕は自分の好きな人が(人だけじゃないが)ごはんを食べてくれていたら、その他のことは全部オマケなのだと思う。
僕はそのオマケも好きなのでさんざん贅沢にやるけれどもね。

唇に、口腔に、スプーンが運ばれて、「ごはん」が食べられる。
そのことを見ていて、すごいなあ、とずっと思っている。
「いのち」なんだなあ、とずっと見ている、よくわからないが大切で涙が出そうになる。
このごろは、僕のことは、誰にもわかってもらえなくなってきたけれど、幸いなんとかなるみたいだ、僕は一人でこっそり、何も恨まないで済みそうだ。

わかったふりをされるのがつらかった。

うーむ、たぶん僕は、「強くて面白いキャラ」にされておくほうが、誰かにとって都合がいいのだろう、そういうのがいなければ困るのはわかるし、そういうのが役立つというのもよくわかる。
本当のところの僕は、いのちがごはんを食べているところを見ながら「すごいなあ」と感じ続けるだけに思えるが、たぶんこの僕はもう誰とも会えなくなった、それでもこの僕はけっきょく生き残りつづけたので本当によかった。
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現代の「母親」のナゾ

つの間に「家族」はこんなに強くなったのだろう。
僕が二十歳のころは、「そういえば」「すっかり忘れていた」という程度で、親のことなんか忘れていたけれどな。
最近はやけに、家族が子供に食い込んでいる、特にどの家庭も「母親」の存在がでかいみたいだ。
母親を大事にするというより、それは、自分の存在で世界を踏みしめないことにすぎないと僕は思うけれども。

父親が運転した車で、その道筋なんか、覚えていないだろう? どうしても記憶になんか残らない。
自分で歩いたり、自分で運転したり、特に自分一人で歩かないと、どの道も覚えられない。
僕が十九歳だった秋、僕は初めて独り暮らしを始めた、その日の夜、僕はすさまじいときめきの中にあった。
自由って感じたことある?

家族のことを言い出すのが「大人」という、最近の風潮。

いつの間にこうなったのかわからないが、少なくとも二十年前、僕の友人で「母が……」と言い出す人は一人もいなかった、本当に一人もいなかったんだ。
最近はなぜか、「母が……」と言い出す女こそが、「しっかり者の娘」で「大人」だとされる風潮がある、正直わけがわからない、それはかつてはコドモ扱いされたものだった。

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「決めつけ」をやめよう
建的共同体は文化として「決めつけ」の精神的習慣をもたらしてしまう。
これではちょっとわかりづらいか……たとえば「お母さん」というのはたいてい、あなたのことを「こういう子」と"決めつけて"しまっている。
あるいは大学生のグループなどにおいては、Aくんはどういうキャラで、Bさんはどういうキャラ、というようなことが"決めつけ"られてしまうところがある。
誰でもそういう「決めつけ」はよくないと知ってはいるのだが、自動的にそうなってしまう、これは共同体というものの性質なのだ。

なぜかというと、共同体の中には「個人」とか「個性」とか「個人で向き合うこと」とかが存在しないからだ。
共同体の中において、あなたがみんなから「いい子」だと思われていたとしたら、「もうあきらめて、みんなの思うとおり、いい子でいなさいよ」という圧力が掛かってしまう。
共同体の中においては、あなたが真実どういう個人で、どういう個性であるかなんて、封殺されてしまうのだ、その代わりあなたも他の誰かを「いい人」なんて決めつけて横着ができる、あまりいいことじゃない。
たとえば僕のことだって、「なんだコイツ」とあなたに思ってもらえるなら素敵なことだけれど、「あーはいはい、こういう人ね」と決めつけられるのであれば、何よりあなたにとって退屈でつまらないことだ。

あなたの明日を訂正してください。

今日のうちから、あなたの明日を、「いつもどおり」なんて決めつけちゃだめ、そうして自動的に決めつける習慣が根付いているものだよ。
違うよな、だって本当は、何だってできるものな、剥がすのは「決めつけ」だけだ。
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催眠系の音楽と、打ちのめされる音楽の差
ーも、九折です。
催眠系の音楽にはある特徴があります。
それは、聴いている側がなぜか「自分はイケている」という錯覚を得るところです。
その趣向が好きな人にとっては、それは「アガる」とか「中毒性」とか言われます、これが催眠系音楽の特徴です。

一方、たとえばジェームスブラウンの「Sex Machine」を聴いているとき、聴いている側は「自分はイケている」とは感じません。
明らかにジェームスブラウンは「アゲて」来ているのですが、こちらは圧倒されるばかりで「自分はイケている」とは感じない。
これはなぜかというと、ジェームスブラウンの場合、聴いているこちらが「負けた」と感じるからです、ジェームスブラウンは聴いている人たちに「勝負」を仕掛けてきます、それで「敗北」が発生する。
これが「初音ミク」の場合、初音ミクは聴き手に「勝負」を仕掛けてはきません、だから聴いている側の「敗北」もありません、催眠系の音楽とそうでない音楽にはこういう差があるのです。

音楽は、打ちのめされて聴くべき。

映画でも小説でもそう、あるいは「人」そのものにだってそうです、本当によいものに出会ったときは「打ちのめされる」のが正しい、なぜなら真実は常にわれわれを打ちのめさずにいないからです。
一度この観点で、催眠系の音楽を聴いてみてください、なぜか「自分はイケている」という錯覚が生じてくるのがわかると思います、それは端的にいって危険な作用です、勝負なしに「イケている」なんて錯覚を得るのは。
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「セリフ」しか言えない現代人

「うぇーい」は「やぶれかぶれ」の象徴だと言ったが……
もちろん誰だって「うぇーい」「それな」だけで生きているわけじゃない、はずだ。
ところが、よくよく聞いてみよう……はっきり言えば、現代人は「話」をするという能力を失っている。
よくよく聞いてみよう、周囲の人が何を「話している」か? 実は今多くの人が「話」をする能力を失い、「話」の代わりに「セリフ」だけを発するようになっている。

なんでそんなことになったかというと、マンガの読みすぎ。
マンガの中では、マンガとして「話」が進み、登場人物らは「セリフ」で語っていくわな。
摂取したメインカルチャーがそれなもので、みんないつの間にか「セリフ」しか言えなくなったの、「話す」という能力はなくなってしまった。
「そんなことないですよ!」と言ってごらん、そう言ったとたんに、それが「セリフ」であって「話」じゃないことに気づくだろう。

警告、マジです、「セリフ」しか言えなくなっています。

セリフの特徴、1.主語がない 2.必ず演出が掛かっている 3.沈黙に逃げ込む/本当に「セリフ」しか言えなくなっていて、「話」をするということはほとんど不能になっている。
たとえば「LINE」アプリのチャットを見てごらん、それぞれのメッセージは「吹き出し」の形で表示されているだろう、あれはわれわれのセリフ文化に沿ったインターフェースなんだ、実はこれ相当ヤバいことだよ。

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現実はこうもロマンチック
「大人っぽい」なんて完全にウソだな。
「子供っぽい」よりもはるかにマシではあるけれど。
打ち解け、渦、熱、何でもない表情、赤坂御所……現実はこうもロマンチック、そうでなければ大人でない。
他人のやっていることもわかるが、僕にはとてもとても、そんな大人っぽいふりはやっていられない。

どこかで誰かが助けてくれると思っているのだろうか? だとしたらそれはとんだ誤解的甘えだ。
あなたに似合う外車をたまたま拾って持ってきたよ、なんてことはいつまでたっても起こらない。
顔面をミシミシさせているだけの、あれをまさか情熱なんて思っているのじゃあるまいな、情熱ってそんなに安くない。
安ドラマじゃあるまいし、「激しく抱き寄せるのが情熱」なんて演出主義はやめたら、どう考えたって情熱の春には、男は女をとてつもなくやさしく抱き寄せるの、それで情熱だって気づくものだ。

赤い空は五十万メートル、温度二〇〇〇℃、スペースシャトルが飛んでいる。

現実はこうもロマンチック、赤坂の246の国道から、前方には国会議事堂、後方には青山学院大学。
何があってもおかしくないね、この現実、それで男は女を抱き寄せている、そんなところに演出は要らない。
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春問題と自己愛者
びまわってクタクタになった。
春だからな……自己愛者は春から脱落する。
自己愛者はわりとくっきりしている、わかりやすい。
そこには何の警告もないのだった、ただその先は崖だ。

僕は春のことを忘れない。
自己愛者はいつも自己問題だけを考えている。
自己問題の檻(オリ)だ、自己愛のせいで自己が檻に閉じ込められる、それが自己問題なのだということに、すべてがあると注目し続けるのが自己愛だ。
僕には春問題のほうがずっと問題だというのに。

春問題いまだ解決せず。

一方、自己愛者の自己問題は解決している、そもそも自己問題を解決したがるのを自己愛と呼ぶのだから、自己愛者には自己しかないという定義に沿う。
春問題はいまだ解決しない、われわれは何を見てしまっているのか、そりゃただの景色か僕か。
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