☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「有名」と「知名度」の違い2
来、パフォーマンスが先にあるのだ。
たとえばこのブログに迷い込んだ人は、書き手の紹介などされずに先に記事を読むだろう、そうして「パフォーマンスが先にある」。
そして、そのパフォーマンスに見過ごせないものがあり、そこに何か世界があると目撃されたとき、「この世界をやっているのは誰なんだ」ということで、名前が求められる、それであなたはこの書き手が九折さんだということをいつの間にか知っている/こうして名前が求められるということを「有名」という、まあおれなんか知名度は完全にゼロだが、知名度がゼロというのは単にマスメディア展開していないというだけで「有名」という現象には関係ない。
ふと思って、いちおうサイドバーに置いてあるプロフィール的なところを覗いてみたが、いくらなんでも紹介記事が時代錯誤すぎるな、なかなか恥ずかしいのでいつかちゃんとアップデートしよう(と言いながら忘れる可能性大)。

先日ワークショップで「有名になろう」というネタを扱ったのだが、「有名になる」というテーマで何か、多くの人に心理的な不具合不穏が起こることがわかった。
どうも、「有名になる」ということには、よくわからない強烈な願望と、抑圧、また何かよくわからない強い拒否反応みたいなものもあるみたいだ/このあたりはよくわからない、有名になりたいなら有名になればいいだろうし、なりたくなければ有名になっちゃった時点でやめてしまえばいいのだ、何もややこしいことは本来ない。
おれはこのあたり、人づてに「あの人は何という人なんですか」と訊かれることが多かったので、名前を求められるということに対しては、今さらこれという感情や心理はない、だがほとんどの一般例においては、この「有名」という現象に人は強烈な願望を潜在させているようだ、そのあたりが「知名度」とごっちゃになって現代の承認欲求シンドロームになっているのだろう。
「有名」というのはただの現象であって、大規模であれ小規模であれ、目撃されて「名前を求められる」ということだ、そこに世界がある場合も名前を求められるし、悪魔がある場合も名前を求められるのだが、まあそんな細かい話は今はいいだろう/どんなささやかなことでも、本当に本当のことが出来てしまう場合、そこには世界があるので、ごく小規模にも「名前を求められる」ということが起こる、ただそれだけのことなのだが、「有名になりゃいいじゃん」と言うとなかなか「そうだな」とすんなりは返ってこないので、何かこじれる理由がそれぞれ似たような感じである様子なのだった。

「名前を求められる」ということがないのは、「陳腐」だからだ。

端的に言って、「有名」の反対は「陳腐」と捉えればいい、何かのイベント会場でイケメン五人組がくるくる歌って踊っていたら、別に何も悪くないが、いちいちその名前は求めない、そうして名前を求めない場合はそれが「陳腐だった」ということになる/一軒のラーメン屋でさえ、何か秀でた世界があれば無意識にも名前を知ろうと求めるが、陳腐だったらその名前は求めない、ごくあたりまえの現象だ。
「有名になりゃいいじゃん」と言うと、何か心理的な不具合と不穏が起こるのだが、まあそれはしょうがないとして、でもけっきょくは損だから、何かテキトーに解決してしまったほうがいい、何しろ「有名」ということを遠ざけて努力するということは、自ら「陳腐になる」という決定をした上で努力するということになるからだ、そうすると全身と全霊はびっくりするぐらい能力を閉ざす、何の想像力も機能しなくなって、全身全霊で「陳腐」に向かうのだ、そりゃ自己決定が自己の「陳腐化」なのだからそうなるに決まっている、そういう不毛はやらないほうがいいと、おれはいつも思うのだった。
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「有名」と「知名度」の違い

ーズジョインのライブを見たことがあるだろうか?
まだそんなに有名どころではないので、聞いたことがないとか、名前は聞いたことあるけれど具体的にはまったく知らない、という人がいるかもしれない。
いや、そんなことはまったくないか、なぜならローズジョインなどという人もグループも存在していないからだ、おれが今「ローズジョインという急上昇中のイケメン五人組」のダンスパフォーマンスというウソをテキトーにでっち上げただけだ。
一般に「有名」と「知名度」はごっちゃにされているが、その中でこの「有名」という概念は、今好き放題にいじられてたいへん危険な状態にある、ローズジョインなんて五人組は存在していないのだが、もしマスメディアが「今急上昇中の」とローズジョインを紹介したら、あなたはその五人組を「有名」な人たちとして崇めなくてはならない。

本来の「有名」という現象はどのように起こるか。
本来の「有名」は、先にパフォーマンスがあるのだ、そのパフォーマンスに何か世界があるので、それを目撃した人が「あの人は何ていう人なのですか」と名前を求める、こうして「パフォーマンスが先にあって、名前が求められる」ということ、このことを「有名」という。
一方で「知名度」というと、これは主体の名前ではなく「名称」の認知度にすぎない、知名度でいえばセイユーやJRなどの知名度は極めて高い、あるいは連続童女殺人の宮崎勤だって知名度は高い、だがこれを「有名人」と扱うわけにはいかない。
イベント会場でよくわからない五人組が踊っていたとして、そのパフォーマンスが「そこそこ」だったとしても、あなたはわざわざ彼らの名前を求めはしないだろう、けれどもマスメディアやSNSのリツイートが先に「ローズジョインが」とあなたに言いつけると、あなたはその名前を有名人のそれとして崇めなくてはならない、そうしてあなたの脳内にはすでに、本当には「有名」ではない偽造された有名人の名前がてんこもりに詰められている、あなたがまったく求めるところでない名前が崇めるためのものとしてぎっしり詰め込まれているのだ、これは実は魂にとって非常に危険な状態だったりする。

「有名」は「名前の下に世界がある」、「知名度」は「世間の下に名称がある」。

たとえば石原裕次郎や美空ひばりはすでに故人だが、石原裕次郎というとその名前の下に世界があり、美空ひばりというとやはりその名前の下に世界がある、かつて裕次郎がスクリーンの向こうに立ったとき、その世界を目撃した人たちが「あれは誰だ」と名前を求めた、あるいは少女だった美空ひばりが唄ったとき、やはりその世界を聞いた人たちが「あれは誰だ」と名前を求めた。
それに比べると、ここに仮想したイケメン五人組ローズジョインの下に世界はない、いくら知名度が高くても世界はない、すでに若い人たちにとって石原裕次郎より Youtuber−まくらいばぁ咲−のほうが知名度が高いが、それでもローズジョインやまくらいばぁ咲の下に世界はない、彼らの下に世界はないのに、あなたはそれを「名前の有る人」としているので、あなたの魂はその名前のある国へ行かねばならない、そこに国も世界もないのに、あなたはそのねじこまれた偽造の有名をあなたの国の国民とせねばならないのだ/偽造された「有名」がどれだけ魂を蝕んだか、その結果として現代の光景がある。

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身体の声を聞く
体の声というのは実際ある(確かめようはない)。
身体の声を聞くということの、よい点は、当人の言うことを無視できるということだ、当人の言うことはアテにならないことがよくある。
たとえば何を食べたいかについて、当人が言っていることより身体の声のほうがアテになる。
当人の言うことが身体の声とぶつかって自ら身体を疲れさせている人は少なくない/まあこんなもん確かめようがないので言ったもん勝ちみたいなものだな。

多くの人は身体の声がきらいなのだろうか? まさかそんなことはないと思うし、たぶん自覚がないだけなのだと思うが、結果的に身体の声とケンカしている当人というのはよくある。
何か、大事なときに気合が入らなくてヘナヘナになってしまうというタイプの人がいると思うが、そのタイプはたいていこれだ、身体がノッてくるということが当人の思惑として気に入らないのだろう、だから自ら身体をヘナヘナにしてしまう。
身体の声を聞き、そのままにすると、当人の思惑とは違うダサさや、小ささ、性別やら何やらがいろいろ出てくるものだ、もちろんそれを意図的に無視したり封じたりするのはよいと思うが、無自覚に踏みつぶしているのはよくない、いつかそれなりのトラブルになってしまうだろう。
といって、おれも魂の作業をしていると身体の声は放ったらかしになるので、人のことは言えないのだが、こうして記事に書くことによって、おれも身体の声を聞くようにしようと戒めているのだった、おれ自身の身体の声、そして他の誰かの身体の声を聞く。

正論はいつも正しく、センスはいつもハイセンスだが、身体の声からは切り離されている。

それはつまり頭もいいしセンスもいいし、善人だし常識があるということなのだが、でも身体の声からは切り離されているので、あまり意味がないのだ、十字架である身体の恥が命の誇りに到達するかということがテーマなのであって、身体を置き去りに命やら魂やらをこねていたって意味がない、「実際にウマイ飯が作れるのかオラァ」で終わりだ。
最近おれは、もう少し自分のことを自慢して生きてくればよかったと思っている、そのほうが多くの人の本当の役に立てたと思うからだ、おれは身体の声を命の誇りに及ばせてきたが、なぜかそのことをまったく自慢せずにきてしまった、何なら今でもそれを無意味に隠してしまう・控えてしまうところがある、そんなことをしても誰もトクをしないのだから、もはやおれのこれは美徳というよりはただのブキミだ、おれはどうも出しゃばりが苦手なせいで、それが行き過ぎて今は無意味な秘密主義にさえなってしまっている、これはさっさと改めなくてはならない。
視点変えてこ | comments(0) |
関係あるものを買うということは、関係ないものは買わないということだ2
りていに言えば、おれはハイソ地域の百貨店内で、一種の不幸をたくさん目撃したのだった。
というのはつまり、店内には、お金持ちのマダムやお姉ちゃんが客として歩いているのだ、彼女らは見るからに高いブラウスを着ていて、場所に慣れており、おれはそれを見ながら「ここの価格帯を日常にして暮らしているってどういう感覚なんだろうな」と思いを馳せたのだった、もちろんそんな感覚などわかりはしない。
ただおれが目撃したのは、そうした金持ちのマダムやお姉さんたちが、すさまじい値札の中を、思いがけず「ボーッとして」歩いているという事実だった、まるで夢遊病のようにぼんやりしており、どうでもいいような浅薄な商品説明を店員から受けている、ほとんど時間の無駄にしか思えないが/おれは彼女らを目の端に捉えながら、理解した、彼女らは無数の商品を好きに買える金権を持っていながら、どの商品にも「何の関係もない」という中を歩いているのだ。
おれは安物と高級品なら、高級品のほうが好きなたちだ、おれはマグロの柵は買わなかったがマダイの柵は買った、マダイはおれに「関係ある」からだ、おれは愛媛産の天然のマダイを刺身にして食ったが、「うおっ」と驚きの声を出しながら食った、とはいえそれでも瀬戸内の地物として当地で食うのとは大きな開きがあるのだが……

金持ちのマダムやお姉さんがいて、彼女らだってバカではないのだし育ちはよいのだろうから、安い養殖のマダイと高い天然のマダイの差はわかる、最近は養殖ものの品質がとてつもなく上がっているので単純な旨味の量では「あれっ」と驚かされることがあるが、それにしても本当の上物は歯ごたえも違うし味の複雑さも深さもまったく違う、必ずしもそれがすべての料理を具合よくするとは言えないほど本当の上物は特別な力がある(たぶんアヒージョなんか作ったら養殖のほうがウマいという場合がありうると思う)。
金持ちのマダムやお姉さんたちも、バカではないので、高品質のものを「よい」とはわかるのだ、食い物であろうが衣服であろうが、高級品のほうが「桁違いによい」ということはわかる、けれどもそういうことではないのだ/たとえ桁違いのウマさであろうが、それが自分の口の中に入ってくるということに「何の意味もない」ということなのだ、にもかかわらず、人はわざわざマズいものを食おうとは思えないので、漠然と高級品を買って食べている、それもただ自分が立場上その金権・権力を持っているからだ。
高級なワインと超高級なワインは、素人にはどちらが上物かよくわからなかったりするが、安物のワインと超高級なワインならその差は誰にでもわかる、誰だって生まれて初めて当たり年のムートンを飲めば「な、なんじゃこりゃああああ」と目を丸くするはずだ、おれは初めそれを「ブランデーでも混ざっているのか!!」と驚いてウマすぎてガブガブ飲んでしまった(あとでシェフに「だってそりゃムートンだもの」と説明されて「へえ、そういうやつなんですか」と答えた、おれは当時何も知らなかったのだ)。
金持ちのマダムもお姉さんも、高級なワインのほうがウマいというのは知っているし、その差はわかるのだ、だからカネがある以上は高いほうを買って飲むのだが、やはり「口の中に高級ブドウ酒を流し込んだからといって何なのだ」というわけのわからなさの中を生きていることになる、それで「これは当たり年のピノノワールですね、すっごくおいしい」みたいなことを言っている、それがピノであろうが焼きそばUFOであろうが「お前に関係ないものが口の中に入ってきても何にもならんだろ」ということが続いているのだが、そのことには何も答えられないまま彼女らはハイソ百貨店の店内をウロウロしている、おれはそこにはっきりと一種の不幸を見た。

関係ないものをずっと買い続けているから、彼女らの眼の奥は恐怖におびえている。

繰り返すが、彼女らだってバカではないのだ、バカではないのにその愚かな行為を続けるしかなくなっていて、眼の奥に恐怖を蓄積し続けている、それが「恐ろしいことになる」ということは直観で知っているのだ、にもかかわらずけっきょくはそれを続けるしかない。
自分に関係ない服でも、高級品を着るときれいに見えて、自分に関係ない肉でも、高級品を食うとやたらに旨い、関係ない音楽でもハイクラスの演奏ならやたら上手で、関係ない車もやたら乗り心地がよく、関係ない酒も宝石もやたらにきらびやかだ、何の関係もないのにだ、そこで「なんで?」というと「カネだから」ということなのだが、そうして冷静に見ると「カネ漬け」にされているだけということを、人の魂は知らないわけではない、自分に関係のないものを消費したり趣味にしたりすることは恐ろしいことだ/そして、自分に関係あるものに満たされて自分に関係あるものに必死になってワッハッハというのが幸福の本質だとよくわかる、生きているうちこの世界に自分の「関係あるもの」が得られるとしたらそれじたいが稀な幸福に属することだ(たいていはそんなもの得られないので、身内を宝にするしかないものだ)。
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関係あるものを買うということは、関係ないものは買わないということだ
暮用で外出したおり、昔から使いあぐねていた商品券があったので、百貨店で何か買うことにしてみた。
久しぶりに、いわゆる「おハイソ」な地域で百貨店に入り、食品売り場など見ていると(食い気ばっかりだな)、物価の感覚に思わず苦笑してしまった、みかんジュースの小瓶が一本600円とか、本マグロの柵が8000円とか、それらは別にぼったくっているわけではないのだろうが、それにしても「おれの知っている飲食の価格じゃない」とおれは笑ってしまった。
とはいえ一方で、おれはショット一杯で数万円するスコッチを飲んだりしていたころがあるし、安物と高級品でいえば、割と高級品が好きなたちだ、それにしてもおれは百貨店で実際に商品券を持て余し、使うつもりだった半額も使えなかった。
「これではまた、手元に商品券を持て余してしまう」と思い、なんとか使い切ろうと店内をうろうろしたのだが、しばらくして「ダメだこりゃ」となってあきらめた、おれにはおれの買い物のルールがあるらしく、それを満たさないかぎりは、資産が何兆円あっても実際にはそれを「買う」ということはないらしい。

わざわざ使い切ろうと店内をウロウロしているのに、時間をかけて「ダメだこりゃ」とあきらめている、この現象は何なのかと考えてみた、「なぜおれはえぐい値段のスコッチを飲むことがあるのに、実にウマそうなメロンを見てもそれを買おうとはまったくしないのだろう」。
それで考えていくと、なるほどなという感触が見つかって、つまりどういうことかというと、スコッチはおれに「関係ある」が、ウマそうなメロンはおれに「関係ない」のだ、だから値段がいくらであっても買えないし、それがどれだけウマいものでもおれは買えない、おれは舌がバカなわけではないので高級品の品質をそれなりにわかるタイプだが、けっきょくおれにとって「よくわかる高級メロンのきわめて洗練された品質」ということは、どれだけわかっても得ても「おれに関係ない」らしい。
おれは万事、高級品のほうが好きなたちだが、そもそも目の前の商品それじたいが「おれに関係ない」場合、価格や品質と無関係に、そもそもが「買う」という検討対象に入らないのだ、だからどれだけ価格が安くて品質が高くてもおれは買わない、ひょっとしたら最高級品が0円でもおれは「要らない」と言うのかもしれない(うーん、実にそういう気がする)。
そういえば昔、マルチ商法が流行っていたときに、おれもそれなりの勧誘を受けたが、「お前に向いている」と力説されて、おれも「たぶんその気になったら向いているだろうな」と答えたのだが、おれは色めき立つ勧誘者に首を傾げ、「何か誤解しているようだが、おれはお前の言っている商売が、ウソだとかインチキだとか言っているのじゃない。おれは、たとえそれで荒稼ぎできるとしても、その荒稼ぎじたいが要らないと言っているんだ。だからさっきから勧誘するだけ無駄だぞ」と言った、勧誘者はおれのことを知ってはいたので、笑いながら、「お前ばバカだ」と、称賛するように言って去っていった。

おれの知る限り、破産する奴は「関係ないもの」を買って破産している。

おれは、貧乏性やケチのやつが、典型的に破産するというか、カネがなくなって追い詰められるのを何度も見てきている、そこには実に一定のパターンがあって、「自分に関係あるものにケチで、けっきょく自分の関係ないものを買う」のだ、男なら漠然と車を買ったり、女なら漠然とアクセサリーを買ったりする/そして肝腎な、当人に関係あるものはけっきょくきっちり買っていないのだ。
今、SNS等で知られるとおり、金持ちが承認欲求的なカネのばらまきをしたりしているが、これもけっきょく「関係ないもの」を買うことしかできないでいて、人としては貧しいほうへ貧しいほうへと転落しているのだ、誰が見てもわかる「この人は豊かではない」という感触がある/たとえ生涯に何千億円と消費しようが、買ったもののすべてが「自分に関係ない」のであれば、その人の財産は空っぽだ、安物のメロンも最高級のメロンも、「自分に関係ない」かぎり、その味がウマかろうがマズかろうが何の意味もないことだ。
視点変えてこ | comments(0) |
マンガとアイドルの疲れ/「えっちかわいい」は公害になりつつある2
れだって、たとえば早朝にテレビを点けて、かわいい巨乳のお姉さんがえっちなお肌でほほ笑んで天気予報を伝えてくれていたら、いちおうそれを見るのだ。
そういうお姉さんは、本当にかわいくて、おしゃれで化粧もきれいで表情もキラキラ、まるでマンガみたいだしアイドルみたいだ、アイドルみたいというか実際アイドルなのだと思う、所属団体がアイドルを決定するものでもなかろう。
おれは彼女の、えっちなお肌とマンガみたいにセクシーなプロポーションを眺めながら、同時に自分の体内がメタメタに疲れていくのも感じ取るのだ、何に疲れているかといえば、そのマンガみたいにかわいいお姉さんの内部に、本当にマンガしかないのが看て取れるからだ、内部にマンガしかないので彼女はマンガみたいな表情と振る舞いをしているのだった。
マンガみたいにセクシーと言ったが、それは便宜上のことであって、本当にはマンガはセクシーではない、そりゃ当たり前だ/だがここで強調しておくべきこととして、今の人々にとってセクシーというのは「マンガみたい」「マンガのキャラクターみたい」ということだ、なぜなら思春期の恋もオナニーもすべてマンガのキャラクターがその対象だったのだから、ここでは逆転して「セクシーということは、マンガみたいってことだ」と言い直さないとと実情に沿わないのだ。

くれぐれも、おれは女を罵っているのではないし、また、罵りたいと思ったことも一度もない、そうではなく、おれぐらいは「なぜか疲れない奴」であってやりたいのだ、おれの書き話していることはいつもメチャクチャでポリコレもクソもないような暴言の専門家みたいになっているが、それでこそ誰かにとって「なぜか疲れない奴」でありえる、おれまでこの「マンガアニメえっちかわいい」に同調したらもう何もかもが疲れてしまう。
今、多くの人は疲れていて、何をするにも穴が空いたように疲れ果てていて、休憩が必要だ、休息と癒しとケアが必要だと自ら感じていると思うが、そうではないのだ、疲れ果てているのはずっと休憩をブチ込まれているからなのだ、ずっと休憩をブチ込まれているから、自ら認めるところ、自分はひどくダサい顔をしており、ひどく濁った眼をしていて、ひどくだらしない呼吸、寝起きで怒鳴ったみたいなひどい声をしている、そのことが四六時中じぶんの事実として付きまとってくるから、そのことに嫌気が差しすぎて疲れ果てているのだ。
それで多くの人が、何かしら意識を高めて、強度のトレーニングに傾倒したりするのだが、そうすると一種のギラつきやオラつきは得られるものの、それは興奮物質が出ているだけで、根本的な疲れおよび、その疲れにむしばまれた薄汚さは解決されない、そしてけっきょく疲れているからソシャゲをして、たまに彼氏とデートはするけれども三回に一回は気分の悪いケンカをするのだ、むしろそうしてケンカしてムカつくことさえ自分の筋トレのエネルギーにするというのが習慣になっている人も少なくない(冷静に考えたら怖すぎるだろ)。
朝から巨乳のお姉さんを見て、そのマンガポーズを見て元気を出して、今日も一日がんばろう、と奮起するかというと、そんなことにはならない、朝から映像でえっちかわいい巨乳を見て自分を奮起させるというようなありさまの、どこに夢や希望があるというのだ、そのとき本当に魂が叫んでいるのは、「ああ今日もしんどいだけの休憩を一日過ごさねばならないのか」という痛哭だ/何度も言うが、おれは女を罵っているのではない、おれが言っているのは、「まともな女は全員、すべての日々を胸に突き刺さる日々として生きたいと叫んでいる」ということだ、魂からえっちかわいいがやりたいなんて望んでいる女は一人もいない、ただそれしか出来ることがなくて、また自分に与えられてあるものがそれしかなくて叫んでいるだけだ。

禁欲なんかしたって何にもならない、禁欲という発想がすでにマンガ漬けのアホの思考だからだ。

「禁欲」という発想のアホさは、「巨乳」という発想のアホさとちょうど同等ぐらいだ、そしていくら過酷なトレーニングを積んでも、あるいはどこかの国の宗教兵士になって戦場でドンパチやっても、このアホは治らない、そういう過酷でシリアスなことをしたら何かになるという発想がすでにマンガ漬けのアホ思考なのだ/冗談でなく、今の人なら「自分を鍛えなおすために禁欲とトレーニングをすることにした」と自らSNSで報告しかねないし、それに大量の「いいね」がつきかねない。
そうして考えると、「えっちかわいい」の包囲網によって、己の顔面と声と脳みそを「アホにされる」というのは、けっこう強烈な攻撃であり、けっこう強烈な痛苦の責めかもしれない、自分の大脳も小脳もすべて「コンビニの端っこに置いてある一番要らない本」になってしまうというのはなかなかの拷問だ/このとおりおれの書き話すことは今日もメチャクチャでおれ自身の立つ瀬がないが、少なくともおれの提出するものは巨乳マンガのえっちかわいいからはかけ離れている、おれはなぜかあなたを疲れさせない奴でありたい。
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マンガとアイドルの疲れ/「えっちかわいい」は公害になりつつある
「かわいい」女の子が大増殖している。
無数のコンテンツの中に、無数の「かわいい」女の子がいて、またコンテンツの中でなくても、夜中の恵比寿あたりにいくと地下アイドルらしき人たちがディレクターと共に打ち合わせしていたりするのだが、とにかくたくさんいる、ものすごい数いる。
あまりにもそれを見かけるようになったのは、単にスマホにカメラがついたからだろう、とにかく自撮りを連打するのがSNSの流儀になって、彼女らの自撮りは自分が「かわいい」以外に表現の内容はない、とにかく「かわいい」だけだ。
そして、そこまでフルスロットルを踏まれると、いいかげんごまかしが利かなくなってくるのだが、「かわいい」は疲れる、「かわいい」というそれじたいは悪いことではないはずなのだが、かわいい「しか」ないというのが、なんというか精神の根底に鈍痛のごとく響いて疲れる。

漫画もアニメもアイドルも同じで、またかなりのていど一般人も本性として同じになってきたと思うのだが、とにかく第一義は「かわいい」で、それと同じぐらいの第二義が「えっち」だ、その「えっち」というのもずっと見せられていると単純に疲れる。
疲れると元気が欲しくなるので、いろいろ探してさまようのだが、探してさまよっても、もはや「かわいい」と「えっち」しかない/なんというか、エナジードリンクしか飲み物がないというような世の中だ、それを飲めば一時的に元気になる気がするだけで、カフェインを大量摂取したらトータルでは疲れるに決まっている。
冗談ではなく、今やマンガもえっち、アニメもえっち、アイドルもえっち、一般人もえっち、男まで女みたいにえっちになっていて、本当にもう単純に疲れるのだ、いっそ軍艦マーチでも聞いていたほうが疲れなくて済むというような状況になっている。
状況は大変まずくなっているのであり、ミエミエのまま最低の状況が進行したのに、けっきょくそれを止める方法はまったくなかったし、そんな方法は誰にもなかった、多くの人がすでに「かわいい」と「えっち」にしか反応できなくなっており、またそのうちでもかなりの人が、実のところ生まれて以来「かわいい」と「えっち」しか刺激と体験を与えられていないのだ、明日もえっちで明後日もえっち、かわいい&かわいいで全ての日を埋め尽くして、ものすごい勢いで疲れて老いて死んでいくしかない。

周囲に「えっちかわいい」しかないという状況は疲れる、周囲にピカソの絵しかないほうが遥かに元気が出る。

いいかげん、若い男性だってもう疲れ果てているのだ、街ゆく若い男性たちを見ると、何か直観的に「ズタズタ」という印象があるだろう、あれはもう「えっちかわいい」とオナニーの繰り返しで疲れ果てているのだ、そして若い人は疲れるとマンガを読むしか出来ることがなくなるので、またそのマンガが「えっちかわいい」だけで構成されているという、一種の包囲網に置かれている。
かといって、今の若い女性に、何をどうしろと求めるのも無茶であり無謀だ、ただちにおれは無数の火矢を撃たれてしまうだろう、何しろ若い女性自身に今のところ「えっちかわいいしかない」というのが実情のはずだ、ずっとマンガを読んできただけなのに急にマイルス・デイビスみたいになれるわけではない/つまり、次第に「えっちかわいい」が一種の公害になりつつあるということなのだが、そうは言われても若い女性のほとんどは「えっちかわいい」しか自分の出来ることはないのであって、それを公害呼ばわりされたら、もう無条件で反撃の火矢を撃つしかなくなるだろう、おれは女を罵っているのではない、女を愛しているのだ、おれは女を愛していて「えっちかわいい」を罵っている、女だって自分と周囲に「えっちかわいいしかない」ということに心底疲れ始めているはずだ。
視点変えてこ | comments(0) |
オバハンがロマンチックになりえない原理

「オバハン」とは、世間・共同体との接続および連携を持っている女性のことを指す。
オバハンが井戸端会議をしているのではなく、井戸端会議の列席する女性たちをオバハンというのだ、彼女らは世間や共同体で共有される噂話や圧力等の「主権」に参画することでオバハンになっている。
オバハンがロマンチックになりえないのは、この原理による、つまりオバハンというのは世間・共同体の「党員」であって、一個人ではないということなのだ、彼女らはそうして個人という存在を失う代わりに、連帯する党という力を持つことになるので、ユニットとしては強力になる。
ロマンチックな少女が、例えば誰かと誰かの殴り合いを見たとすると、彼女はそのことを井戸端会議での噂話のネタにはしないが、オバハンは必ずそれを噂話のネタにする、オバハンは党員で少女は個人なのだ、だからオバハンのほうがユニットとして強く、少女のほうが弱い。

そして、今どき「少女」なんて言い方をしても、それはほとんど仮想のものであって、思春期になれば誰もが端末とSNSで一定の世間に接続し、そこで連携すること・政治することを知っているので、現代において女性は思春期からオバハンになるのだ、これは必ずしも悪いことばかりではない、思春期からすでにユニットとしては「強力」になれるということだ。
女性がそうしてユニットとして強力になれるということは、たとえばセクハラ被害を未然に防ぐ抑止力を持つということになる、昔は学校の先生といえば気の弱い女子生徒にセクハラするのが定番のスタイルというか、どこの学校にも「いるいる」というお決まりの存在だったのだが、女子生徒がすでに端末から世間に接続していることで、この不法行為は抑止されるようになった(といっても根絶にはまったく至らないだろうけれども)(昔はもっとひどかったのだ)。
とはいえ、女性が思春期からすでに強力なオバハンであるという事実は、青春とロマンチックな夢およびその可能性を根こそぎ断ってしまっている、たとえばおれが書き話しているこの記事も、もし気にくわなくて「許せない」と感じる人があれば、その人は個人としておれを論難してくるというよりは、こういったものを嫌う「世間」にこれを晒して潰してやろうという発想をするはずだ、いわゆる「炎上」という世間攻撃を第一に発想するはず、その発想はもちろん中学一年の女子にもある。
ここで、もし少年が少女に愛を向けようとしても、そのたどたどしい愛の言葉や、不慣れでうわっ滑りの愛のふるまいは、その少女ひとりに笑われるのではなくて、SNSに広告されて世間の全体に知られるという状況にあるのだ、じゃあ少年たちはどう対応するかというと、いざというとき世間に広告されても咎めがないように、何かしら定番のキャラや「かわいいボク」みたいなものを確固とした担保として前面に押し出しておくしかないのだ、とてもじゃないが少年が少女に真心を向けられるような状況ではない、ささやかなミスひとつでもただちに断罪ネタとして世間の俎上に載せられるのだ、冷静に考えて「オバハンに真心を向ける」なんてことは誰にとってもありえず、それはオバハンが世間の党員として政治的に強力なユニットである以上は安全保障として致し方ないところだ。

少年が少女に向ける態度は、少年がその少女の母親に向ける態度と同じだ。

旧来、少年と少女とその母親がいたとすれば、少女の母親なんて距離的に遠く、よそよそしいものだった、なるべくかわいがられようとはするけれども、なにせ大人と子供だ、そして少女のほうはそうではない、少女のほうは世間とのつながりや連携を持っていない一人の個人だった、かつて少年はこの一人の個人たる少女に愛を向けて何かを見つけようとしていた/これは懐古主義として申し上げているのではない、そうではなく逆、今ある現実を明視すべきだと申し上げているつもりだ。
少年から見て、よもや少女の「母親」に、真剣なまなざしやら魂やらハートやら真心やらを向けるわけがない、なるべく「かわいがられるボク」を保とうとするはずだ、そして現代においては少女というのも、その母親と同じくらい強力なユニットで、何であれば母親よりも抑止力として強力なユニットたりえる場合もある、つまり常時、「SNSで党に拡散するぞ」という手段が、切り札というよりは常識的な手続きとして手元に準備されているということ、この中に少年と少女がいたとして、「オレとお前の問題」というものはすでに存在しない/少女がオバハンの自衛力を持ったという安全性の側面と、ロマンチックにはなりようがないという喪失の側面があるということだ、このことじたいには是非もない、なぜならどの時代でも「旧来のありように戻る」ということはできないからだ。

視点変えてこ | comments(0) |
その明るい暮らしはノーサンキューだ
軍の威光にケチをつけるようなことをすれば、即刻処罰だし、まして外国と接触しようものなら、処刑は免れない。
鎖国には理由があるのかないのか、よくわからないが、とにかく将軍の一族を守ることが最優先であって、民草に飢饉が起こったとしてもそのことはどうでもいいというか、しょせん民草の死など些細なことにすぎない、農民が死ぬと年貢高が減ってやや困るというだけだ。
民草はすべからく、将軍とその家系を敬わねばならない、それだけをやっていればよい、そして役人たちはそのことについて絶対の権限を持っている、このことに反した民草はいくらでも処刑してかまわない/たとえ諸外国と比較して生活水準や科学技術が劣っていようが、そんなことを民草どもは知らなくていいのだ、とにかく将軍に従っていればいい。
ん? おれは江戸時代の話をしているとは言っていない、ひょっとしたら北朝鮮のことかもしれないだろう、こうして話してみると、この話が日本の江戸時代なのか近年の北朝鮮なのか区別はつかないのだった。

おれは北朝鮮に行ったこともないのでしょせんは風聞でしかないが、とりあえずいわゆる脱北者のレポートを聞いてひとつ驚いたことがある。
それは、その脱北者に言わせると、案の定「国民はみんな政府に洗脳されていた」ということで、「飢饉が起こってこのままでは死んでしまうので脱北した」ということだったのだが、一方でその脱北者は、「北朝鮮であっても、人々の暮らしはみな同じ、みんな笑って温めあいながら暮らしている」とも嬉しそうに言うのだ。
その脱北者は、「ひょっとしたら、豊かな国のほうが、心の冷たさはあるかもしれない」とも言い、「北朝鮮では、何もかもが決められているので、何も考えることがなかったから」と笑って言った/将軍様を称えるのみの社会、そこにはあたたかく笑いあう暮らしがあったということだが、これを聞いておれはなるほどと思い、時代劇に示される江戸時代、封建社会への憧憬、「江戸時代は明るかった」と言いたがる説の根拠を得たように思った。
ポルポトを代表に、共産主義も極端な愚民政策に傾くのが常だった、つまり封建制と同じく「指導者がすべてを決めるから、民草は何も考えずみんなで農作と土木を言われるままやっていればいい」と強制する制度だ、このことには一種の郷愁と、知られざる一種の明るさがあるのだろう/だがおれはその明るさはけっきょくインチキだと思っている、それは闇と戦って超克した明るさではないのだ、むろんわれわれのうちほとんどの者はその戦いに勝てるほど強くないのだということも知ってはいるが、かといって敗北者に与えられる明るさを肯定するなど、さらにただならぬ危険と底深い不穏をおれは感じる、おれはそういうエセの明るさはノーサンキューだ。

「アホのままでいていいよ」と言いつけるのがなぜ "指導者" なんだ。

将軍は民草たちに、まさにその「アホのままでいるように」「アホのまま指導者に平伏し続けて言いなりになるように」ということを求め、また強制したのだろう、そして冷静に考えれば人々に「アホ」の保存を与える者のどこが "指導者" なんだ/「おらは農民なので何も知らなくていいんだ、畑を耕していればいいさぁ」なんて言い分を、たとえば吉田松陰が許したと思うか、吉田松陰はまったくその逆を高らかに説諭しただろう。
 "指導者" の元で愚民化して、明るい暮らしとほほえみの毎日、というような、将軍とアホたちの夢におれは与さない、万人を幸福へと統べる指導者なんて空想でしかないし、アホがアホのままで救われるというのも空想でしかない、この両極の空想組が合致して暴力的制度を作るなんてまっぴらごめんだ/アホのままでいたいんですと言えば吉田松陰はとびきりの声であなたに破門を言い渡しただろうし、目を覚ましたいんですと言えば将軍はとびきりの本性であなたに獄門を言い渡すだろう、「アホのままでいていい」という気の狂った発想をなぜ夢のように思うのかおれにはナゾだ。
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権力とバケモノ
くの人は、自分を善人だと思っており、自分をバケモノだとは思っていない。
人とバケモノは何が違うのだろう、その差分は「権力」によって浮き彫りにされてくる。
たとえば警察官は犯罪者を取り押さえ逮捕する権利がある、それは職務でもありまた正義ともされている、それが国家権力というものだ、このガスに覆われる中、「正義なのだから犯罪者を乱暴に取り押さえてよい」という獣性が現れてくる/獣はそうして己の蛮性を発揮させてよいという機会に堪えがたい悦びとほくそ笑みを見せる。
そこでおれは冷静に申し上げたいのだが、たとえ警察が凶悪犯を取り押さえるのでも、乱暴に取り押さえてよいという「人」はいない、やむを得ず力づくで抑えるときも、そのこころは嘆きと痛みで満ちていなくてはならない/暴れる凶悪犯なのだから乱暴に取り押さえられても自業自得だ? そら、そのようにしてここにもう一人の凶悪犯が浮き上がったじゃないか。

個人的にブッ潰すというのならまだいい、それが権力によらないものならあくまでそれは「人」のことだ。
たとえばおれが、あくまで個人的に、仮に「黒人どもは気に入らないからブッ潰す」として、何の権利も権力もなく正義もないまま堂々と、「個人的におれが気に入らないのでブッ潰した」として、わけのわからない黒人を通りすがりに叩きのめしたとする、このときおれは「公的に黒人を排除すべきとはまったく思わない」と言い、「あくまで個人的に気に入らないからブッ潰しただけだ、何が正義だろうがおれ個人的には最後までそうする」と言うだろう、これはおれが自ら「おれは凶悪なんでな」と宣言して背負っているので、これはバケモノでも何でもなくただの「そういう奴」だ。
獣性・そのバケモノの本質は、もっと狡猾な局面で出てくるのだ、例えば「あなたは浮気したんだから、わたしに何をされても文句は言えないはずよ」、「お前が勝手に作物を盗んで食中毒になったのだから、最後まで勝手に苦しめばいい」、「御用だ、神妙に縄につけい」、こうして正義の権力を気取ったところに、狡猾にその獣性は湧き出してきて、その人が人ではなくバケモノだったということを明らかにする。
たとえばナチスドイツは、ブッ潰そうぜというノリでユダヤ人を迫害したのではないのだ、あくまで徹底した正義として、正当な権利および彼らの自業自得として、ユダヤ人を絶滅させようということに権力を用いた、つまり路上喫煙者は矢で射ていいとか、スキャンダルが暴露された芸能人は公的にサンドバッグにしてよいというような、昨今の正義思想と同じだ、自分を含めた多くの人がすっかりバケモノになっていたということに気づかないまま、あるいはそのことに目を伏せたまま、状況は進行し続けている。

警察が犯人を抑え込むのだって、痛みがなければ人じゃない。

多くの人は、自分が善と正義の側に属していると思っていて、正義が悪を取り押さえるとなると、痛みではなく「快感!」を覚えて悦に入るのだ、それについてはっきり言っておきたい、それはただの獣性の現れだ、自分が人ではなくバケモノになっているから人の痛みに快感を覚えているのだ/もう一度言っておく、<<バケモノになっているから人の痛みに快感を覚えているのだ>>、人は人の痛みに快感なんか覚えない、そのことは善悪とは無関係で無条件だ。
あくまで個人的に、何の正義も権利もなく、そして正当化して権力を用いるということ一切なく、何か気に入らないものをブチのめすというのであれば、それはバケモノではなく「人」だ、おれもこのさき個人的にどうしても気に入らない何かを叩きのめすという可能性をゼロにはできないが、そのときクソみたいな痛みの中でそれをするなら人だけれども、そのとき快感を覚えて悦に入るならそのときはバケモノであって、おれの生きる値打ちはゼロどころかただのマイナスになるだろう、せめて正義やら権利やらで正当化して権力に頼って快感で絶頂するというような弱すぎて醜い者にはなりたくない、せめて個人的にブチのめせるぐらいには強くまともな人でありたい。
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封建制と「サムライ」に対する幻想2
とえばあなたが「サムライ」だったとする、するとあなたは子供のとき、たぶん十歳ぐらいだろうか、「あなたももう、子供じゃないんだから、町人の子と口をきいてはいけません」みたいなことを母親から言われる、「えっ?」とあなたは驚く。
寺子屋みたいなところにも通うが、父親から、「お前は武士の子なのだから、読み書きは習っていいが、そろばんは習わなくていい、あれは商人の子が学ぶものだから」と言われる。
夜更けになってから、母親がこっそり豆腐を買いに出かける、「昼間に買いに行けばいいのに」とあなたは思う、けれどなぜか言い出しにくい雰囲気だ、何か聞いてはいけない感じがする/あとになってあなたはそれを、「武士の家なのに中間(ちゅうげん)もいないのかよ」と人に笑われるからだと知る(※中間とは小間使いのこと)、子供のころからあなたの暮らしはけっこう貧乏なのを、なんとなく周囲との比較で気づいている、「お豆腐が食べられるなんてぜいたくなことなのよ」「お父さんが大小を差して歩いているのは名誉なことなのよ」と教えられる、家系図を見せるときだけ父親がやけにイキイキするということがあなたは内心でよくわからず首をかしげている。
あなたはそれなりの塾や剣術道場に通わされる、が、どうも塾の先生も論語がそんなにわかっている様子ではなく、けっきょくは毎回同じ口調で「忠孝」のお説教を聞かされるだけだった、剣術道場は「えい・やー」と無気力な運動をさせられるし、門下生は五人しかいない/元服に向けて刀をそろえ、いちおう裃(かみしも)も用意しなくてはならないということで、父親は商人のところにお金を借りに行く、父親は店の前までは威張っていたが、ふと建屋の窓をのぞき込むと、父は商人に対してペコペコ頭を下げていた、けれども建屋から出てきた父は再び路上で威張っていた。

髪を結われて裃を着せられ、父親の勤め先に連れてゆかれる、いろんな人に挨拶をさせられる、父はこの河原沿いの建物で荷役の検分をしているらしい、ひとつひとつを帳面に記録し、船頭や荷役人にいちいち「よし」と威張ると、よしと言われた側はヘヘェと恐縮しっぱなしだった。
そこに、駕籠に乗った上役がやってくると、父親は作業を放り出し、また他の職員も作業を放り出して立ち上がり、駕籠から下りてくる上役を出迎えた、その偉そうな人が「お役目ご苦労」と言うと父親は「ははっ」と頭をさげて、さげたままそれを上げない、あなたも慌ててそれに倣った、「万事遺漏ないか」と言われると父親はまた「ははっ」と言った、ひととおり調所を見て回った上役がふたたび駕籠に乗って去っていくまで父は頭をさげたまま顔をあげなかった。
河に橋が架けられることになった、その作業に父も駆り出されることになり、あなたは父親がとつぜん土木作業も始めるのが不思議だった、そして父の土木作業は、後で集まってきた工事のおじさんたちの屈強なはたらきぶりに比べていかにも貧弱で手際が悪く、どうしていいものかわかっていないヨタヨタのものだった、屈強な工事のおじさんたちにはみんな刺青が入っていた、そこに馬に乗った上役がやってくると、父親は駆け寄って馬上の上役から指図を受け、何事かを指摘されるたびに「面目ございません」「ただちに」と謝罪していた。
あなたは帰り道、ふと気になっていたことを父親に訊いてみた、「なぜこの河のあそこに橋を架けるの? あっちのほうが人通りが多いし、川幅も狭いし、雨が降ったときもあっちのほうが流れは緩やかだよ」、その河原はあなたが子供のころから遊んでいた河原だったからあなたはそのことをよく知っていた/それを口にしたとたん、父親はギョッとして、左右を見渡し、直接あなたの口元を塞ぐほどの勢いで、「こら、二度と、そんなことを口にしてはいけない。ご政道を批判するつもりか」とあなたに言いつけた、父親の眼球にはこれまでに見たこともない怯えの色が浮かんでいた、そのときあなたは、自分の父親がこの怯えによって、場合によってはいくらでも自分のことを家から放り出すのだということを直観的に知った。

これが「サムライ」だ。

あなたは長男で、兄弟に次男と三男がいたが、次男は十一歳のときに他家に養子に出された、やがてはその他家の跡継ぎになるらしい、三男はどうなるのかと聞くと、「お前がこのまま、当家の跡取りになれればいいが、万が一病気や何かで死んでしまうこともある、そのときは跡継ぎがいなくなってしまうだろう?」と説明された、三男はつまり跡継ぎの「予備」だった、だから三男は寺子屋にも通わされていない/あなたは一念発起して中央の藩校とその付属道場で住み込みになって学門と剣術修行をすることにした、あなたはわずかながら青春を体験した、そうして親元を離れて半年後、手紙が来て「縁談が決まったから戻ってきなさい」という……帰宅すればそのままただちに祝言が催される運びのようだった、あなたは自分の娶るお嫁さんがどんな女性なのか見たこともないし一言も聞かされていない。
これが「サムライ」のスタンダードなのであって、現代のわれわれが何をもって「サムライジャパン」みたいなことを言っているのかまったく不明だ、ある意味サムライジャパンというなら確かにこのサムライジャパンは現代まで続いているだろうよ/あるとき父親があなたの袖をぐいと引っ張り、勤め先の同僚について、「〇〇とは言葉を交わすな、目も合わすな」と言いつけた、「何があったの」と訊くと「先日の大雨で橋が崩れたことに、工事不全としてお咎めの沙汰があるらしい」と父親は言った、あなたが勤め先に行くと、あなたがとぼけてその人に目も合わさないようにしているように、他の誰もその人に目を合わさないようになっていた、やがてその人は勤め先からいなくなり、のちに聞くところ獄に入れられ、獄内で流行っていたコレラに感染して治療を受けられず獄死したそうだ、勤め先では彼の獄死について一言でも触れる人は誰もいなかった、この役人たちの光景がサムライであってサムライというのはまったくソルジャーのことを指してはいない。
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封建制と「サムライ」に対する幻想
来から伝わる(もう伝わってねえか)、日本の剣術が優れているのは疑いないことだし、その日本刀の切れ味を産み出した鍛冶技術、またその他の工芸や建築等についても、日本人が文化的・生産的に優秀な業績を残してきたのは事実だ、他国では真似できないところがいくらでもある。
これらのことを惜しんで、われわれはどうも江戸時代あたりの封建制、および「サムライ」ということに思い入れがあるのだが、このことは追究すればするほど「違う」ということが明るみに出てくる、江戸時代にサムライといえば士族のことであって、それは要するに「役人」ということだ、いわゆる二本差しとして刀を差しているのだが、それは「身分」であって彼らが武士道の中にいたのではない。
宮本武蔵は晩年まで仕官せず禄を得ていない浪人だったのだし、柳生にしたって政治参画をしていない一種の山籠もり集団のような「道場」の人たちだった、われわれはこういう剣士のことを「サムライ」と思っているふしがあるが、これは誤解だ、サムライというのは現在でいえば都庁や県庁に勤めているおじさんのこと、またそのおじさんの(〇〇家の)息子さんたちのことを言うのであって、時代劇に出てくる「ならず者たちをバッサバッサ斬る」という武芸の人がサムライなのではない/サムライというのは常に藩主の顔色を窺って、そのまた上にいる幕府の顔色を窺って、公務だけを粛々と続けて「安泰」にだけ精魂をつぎ込むという、「親分こわい」状態ならびに、そのストレスを町人にぶつけて発散する身分の人たちを言うのだ、これは悪口を言っているのではなくて封建時代の常識を述べているにすぎない。
いわゆるハラキリ・切腹というのも、役人が公私における失態を咎められて、要するに公務員に対する懲罰として切腹させられる(詰め腹を切らされる)のであり、何のことはないただの幕府権力による死刑執行にすぎない、もちろんそこで斬首刑でなく切腹を許されるというのが当時の誉れであり武士の情けということになるのだが、もちろんよく知られているように「扇子腹」といって扇子で切腹のまねごとをするだけということも通例だったし、何よりハラキリは武士の嗜みみたいに思われているが、豊臣以前にはそういう文化は特になかったのだから、要するに江戸時代の文化だ/もちろん気性の激しい藩士は、ときと場合によっては義憤の見せつけと表示のため、いきなり路上ででも己の腹にグサッと刃を立てるということをして人々を驚かせたり畏怖させたりもしたのだが、それはド根性と武士道という場合もあったには違いないにせよ、そういうたぐいのことは現代でも自殺念慮にかられた女がそういう致命的な自傷をすることがあるので、どこまでが「文化的」なハラキリだったのかはわからない、少なくともハラキリを含めた「サムライ」というのは、基本的に各地方・各藩の「公務員」のことであって、時代劇に出てくるヒーローのことではない。

ハラキリの文化は、明治以降には廃止されているが、もちろん個人的にハラキリする人は止めようがないので、たとえば太平洋戦争の敗戦後には、敗戦責任を負って自らハラキリして果てたという将校が複数いた。
それはさすがに、心境としておれにさえわかる、ただでさえ部下たちを無数に死なせてきたわけで、挙句に敗戦しましたというのでは、「負けちゃったかあ」では済まない、どの面さげて生きれるものか、またどの面さげて死ねるものか、それでこんなもの自決するしかないと思い至り、まさか安らかに死ねるクスリでぐっすり永眠というわけにはいかないだろう、だからやむをえず古式にのっとって切腹というのは、さすがにおれにでもわかる、ハラキリが正しいのかどうかなんて誰にもわからないだろうが、そのときその人にとっては選択肢がそれしかないと感じたのだろう、それはハラキリが重いというよりは戦争と敗戦が重い。
三島由紀夫はハラキリをパフォーマンスとして見せた最後の一人だと思うが、彼はサムライ気分だったのかどうなのか、少なくとも三島由紀夫がハラキリの「サムライ」をどう捉えていたのかは不明だ、あえて本来の「サムライ」から定義するなら、三島由紀夫のように奉ずるべき主君も持たず、あのように目立って公的秩序を乱したるがごときは、むしろ「サムライとしてあるまじきこと」に分類されよう、三島由紀夫は単に皇軍を奉じる攘夷浪人の心境だったのかもしれないが、それは確かに攘夷 "浪人" であって、脱藩して世間のどこにも属していない「元サムライ」ということになる/そのあたり、けっきょく三島由紀夫はサムライ的な立場でも存在でもなく、あくまで「個人的」な存在でしかありえなかったから、当時の人々にとってもよくわからない「個人的ハラキリ」が展示されることになった、「つまりヤクザでもないし親分もいないのに指を詰めた」というような行為に似ている、このあたりのことを三島由紀夫が冷静に見ていたのかどうかはおれにはわからない。
ハラキリというのは武士と共にあったわけではなく、江戸時代からの「親分こわい」「徳川こわい」という封建制の中に定められていった様式なのであって、それはあえて極論まで言ってしまえば、戦国時代が終わった武士が「戦う者」ではなく「怖がる者・怖がらせる者」になり、その中で武士のアイデンティティのつじつまを合わせるためにもうけられた、一種のロールプレイ的自死の様式とさえ言いうるだろう、三島由紀夫が大胆なデモンストレーションに出られたのもあくまで昭和の時代だったからであって、あれが江戸時代のサムライだったら連座制によって家族一同も処刑されていただろうし、所属する藩も取り潰しにされていただろう、そういうシャレにならないド抑圧にフルブーストをかけていたのが江戸時代の封建制であって、そういうのはやめましょうということで時代が進んで昭和・平成・令和と来たのだ、われわれが江戸時代やサムライやハラキリを誤解しつづけて夢想しつづけているのは何か精神の根底に深いひずみをもたらしているように思う。

ハラキリがロールプレイだったとしたら、その流れた血は大地に染みこんでこの国を呪縛しているだろう。

あえておれはこのように言いたい、「そんなに人に腹を切らせたい?」と/この国の――だけではないかもしれない――人々は、誰でもがそうであるように、どことなく自分が偉い・権威があるという思い込みの中を生き、その中で加齢が進んで死が近づいてくると、その自己権威の思い上がりが制御しきれなくなって、ある種の衝動として噴出してくる、表面上は牧歌的な、人懐こい顔をしながら、なぜか自分の権威のもとに誰かが自ら腹を切って血を流すことを求め、その流血によって自己を大いに慰め、悦に入るという性質があるのだ、ハラキリというのはけっきょく徳川謹製のロールプレイであって、まるで二百五十年かけて大地に染みこんだロールプレイの流血によって日本人の血は卑しく屈折したものに歪められてしまったかのようだ。
冷静に考えて、サムライ・武士というのは戦うのが本分の武人なのだから、そもそも「徹底鎖国する武人」というのが一種のジョークでしかない、この鎖国する武人というジョークがさらには権威を言い張って国内の人々を暴力と恫喝で抑圧してきた、こうして「閉鎖された中で暴力を見せつけ権威を言い張る人々」というのは確かに「おっかない」に違いないが、それはおっかないだけであって強いてわけではない、だからペリーが軍艦を持ってきただけで幕府はいきなりお股おっぴろげになってしまい、維新戦争が始まったら江戸城は「戦うのムリっす」と無血開城したのだ、これがサムライの総本山でありハラキリの権威元だという事実が残った/サムライというのは政府の役人のことを言うのであって武芸にすぐれた剣士のことを言うのではまったくない、われわれはいいかげん「サムライ」という幻想を捨てなくてはならない。
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おれの書き話しているものはすばらしい
やあ、おれの書き話しているものはいいなあ、この現代において唯一と言っていいほどまともな何かだ、ウーン唯一はさすがに言い過ぎだがまあ気分がいいのでそのように言ってしまおうではないか。
なぜこのご時世に、コイツだけずっとこの「いいもの」をまったく失わずに続けていられるのだろう、たまに自分の記事群をチラッと見て、ふとそのことに気づくと「不思議だなあ」と首をかしげる/こいつの書き話すことは、内容というより、「こいつが書き話す」ということ自体が、何かいいものとして永遠に成り立ち続けているナゾの感触がある。
自分で言うのもヘンだが、こいつのこれに関してだけは、周りのすべての状況からまったく離脱してただ「いい」ので、いっそのこと全員が「これ」をやっていればいいのでは、とデタラメなことを思ってしまう、もちろんそうやろうとしてもまったくマネできないのが「これ」なのだが/まあそんなふうにして、今になっておれは自分の示している書き話しの群について、「なんだこれは」とまともな評価を向けたのだった。
こいつの書き話していることだけが、なぜかある意味ですべてのものと「噛み合っていない」と感じる、他の何とも噛み合っていないので、何か見ていると「あれ? こっちが世界だったっけ」と思えてくるのだ、そしてそれはそう思えてくるだけではなくて、本当にこっちが世界だったのだろう、なぜかコイツだけ一人でずっと「世界」を続けていられるという、まったくなぜなのかわからないことが実際にデイリーで続けられている。

これは冷静に見たら、本当にナゾの書き話し群だ、日付を見たら今日書かれたもので、実際デイリーで更新されているには違いないが、何かもっと別の時代に書かれたもののようにも見えるし、そうして現代のものには見えない一方で、じゃあ過去のいつの時代のものかというと、別に過去にこんな時代があったという感じもしない、そういうナゾのものがずっと書かれ続けている。
そして、内容はメチャクチャで、一般的な書き物としての節度からは完全にはみ出ているし、平気でカミサマでも悪霊でも何でも出てくるのに、内容は現実的で、まったく空想的ではない、しかも文体はひどくテキトーというか、中学生の作文よりもくだけきった文体なのに、書き話すことを描き出す手法については異様に高精度なのだ、なぜこのへっぽこヘチマ太郎みたいな文体でこんな高尚なことがズバズバ視えるように書けるのか、まったくナゾだ、こんな文体で格調を創り出せている例は古今にない。
ふつう、人が何か書き物を「読む」というときには、何かしら理由や動機があって、その内容に興味があるとか用事があるとか、あるいはヒマつぶしにとかでそれを読むものだが、このナゾの書き話し群については、読み始めるとただちにその前もってあった理由や動機がどこかへ消し飛んでしまう/かといって、別に夢中になって読むというわけでもないのだが、自分がなぜ読んでいるのかわからなくなるし、何を読んでいるのかもわからなくなる、さらには「読んで」いるのかどうかもわからなくなるのだ、ふつう読んでいる側の心境というのは「ふむふむ」的に進むものだが、こいつの書いている記事群は「ふむふむ」ではなく「ああああ」という感触で話が流入してくる。
読者数は多くはないのだろうが、それでも一日に何百人もが読んでいて、そのそれぞれが数年に亘ってずーっと読んでいるというのも(人によっては十年を超している)、ただの書き物を読むということでいえば稀なことであって、さらにはそれだけずーっと読まれていても、誰も何のコメントを入れるわけでもないし、一件もツイートもシェアもされないというのは本当に特殊なことだ、しかもコイツの書いている記事群は元になる「ネタ」がない、ずーっとコイツが追究している何かについて一方的に聞かされているだけだ、にもかかわらずまるで自分にとって最も親しく必要な何かのように聞こえ続けてしまう、いやあこんなものは我ながら本当にすばらしいと思う/そんなことを、今日なぜか記事群をチラッと見て思った、誇張で言っているのではなく、これは単に事実としてすげえよ。

「この人にしかできない」という次元を超えて、もはや「この人が何をやっているのか誰にもわからない」という次元に至っている。

もちろん、何をやっているのか誰にもわからないというだけなら、単なるしっちゃかめっちゃかをやればいいだけなのだが、そうではないのだ、そんなことをしても誰がそんなものを年単位で追跡して読むのだ、そうではなく、「この人が何をやっているのかもう誰にもわからない」にも関わらず、「それをなぜ自分が読み続けているのかもわからない」ということまで起こっているのだ、もうここにあるのは芸術なのかヒューマニズムなのかお説教なのかただの笑い話なのか、誰にもわからない、そして誰にもわからないのに誰も読むのをやめないのだ、読んでいて共感が得られるとか励まされるとかそういうたぐいのものでもないし、これは何なのか、もはや読んでいる側も自分が感動しているのかどうかさえわからないまま読むようになってしまっている。
唯一の手掛かりは、おれがしばしば「偉大なるおれさま」と言うことぐらいで、まあそれを言ってくれると何か安心するという感じが、ちょっとだけ何かをわかったような気にさせてくれる、もちろんなぜそれでちょっと安心するのかはまったく不明なのだが/ふつう価値観上で最上の読み物というと、一位が「この人の話が好き」で、二位が「面白い」というところだと思うが、コイツの書いているこのナゾの書き話し群は、もう「この人」が書き話しているのか何なのかさえよくわからなくなっている、フツーに考えるとこんなものを読んでいると精神がヤバくなりそうなものだが、なぜかその逆、これを読んでいるほうが精神が一番透き通るのだった、いやあそれにしてもおれの書き話しているものはとんでもなくすばらしいな。
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ドラえもんの警告
「ドラえもん」は有名なマンガだが、現代のアニメ版は旧来のそれとテイストがまったく違うし、今や元のマンガ版を読んだことがある人のほうが少ないのではないかとも思うが、まあそのあたりは言いっこなし。
ドラえもんというと、たいていスネ夫が「八丈島に行ってヨットに乗ろう」みたいなことを言い出す、するとジャイアンもしずかちゃんも「行こう行こう」となり、のび太も一緒になって「行こう〜」となるのだが、「悪いなのび太、このヨットは三人乗りなんだ」とのけ者にされる、というところから始まる。
そしてのび太は泣いて帰って「ドラえもーん泣」と、自分も八丈島でヨットに乗りたいウウウと泣き崩れてドラえもんに頼むということになるのだが、このことには藤子不二雄の世界観とマンガ「ドラえもん」による警告が為されていて、のび太は初めから八丈島でヨットに乗りたかったわけではないのだ、のけ者にされることによって「ひがみ」が発生し、「ひがみ」によって何としてもヨットに乗りたいと苦しむことになるというのがいつもの展開なのだ。
このあたりの物語の構築、物語の力動作用の仕掛けは、さすが入念であり、またいかにも手塚治虫の薫陶が篤いという感じだ、実はのび太自身は放っておけば昼寝ばっかりしているような奴で、表面的には強欲な者ではない、あくまで欲は潜在下にしかないという状態だが、それが世間・人の世の中で「そうはいかない」というふうに、呪力を帯びて引き出されてくるのだ、おれは特に手塚治虫がこの手法で物語を構築することについて、見事だとは思うが同時に卑怯だとも思っている、正直なところその仕掛けで物語を構築することは「カンタン」であって、カンタンであるがゆえにその物語はあまり創って人々に示す意味がないからだ/そうした業(カルマ)の描き出しが "万人に訴えかける" というのは当たり前のことであって、そのマンガがヒットすることには構造的にむなしさがある。

「ひがみ」というのは、呪術の基本的な源泉であって、のび太はスネ夫にかけられた「呪い」で動かされることになり、その救済をドラえもんに願い出るということになる、だからいつものび太は地面に伏せてオイオイ泣きながらそのお願いをしている。
そこからドラえもんの道具が出てくるのだが、これはいっそノロイやオマジナイが(※ともに「呪い」と書く)、人に夢のような力、科学や人為を超えた "羨望的" な力を与えるということを表している/そして「呪い」には必ず「穴二つ」という現象があるので、呪いによって得た力や利益は、必ずそのあとに帳尻としてのマイナスを受けることになるのだ、だからドラえもんに出てくるのび太のストーリーは必ず、「秘密道具に頼って救済されてみたけど、結果的に悪いことになりました」という終わり方をする。
呪いというのはもともと、祝福が受けられない人が、人為的に超越的な力を得ようとする、いわば「祝福の代替品」を求めてそれを行うものだ、だからドラえもんの登場人物にはそれぞれ、ジャイアンには力、スネ夫にはお金、しずかちゃんには美と品位が与えられている(彼女の姓が「源」なのは家柄を表している)、その中でのび太は「何も与えられていない者」として存在している/これらの人間模様の中で「出木杉くん」だけが天稟をもっており、だからこそ出木杉くんはこの人間模様の中に参画してこない。
ドラえもんはどのような警告を示しているか/ふと気づくとわれわれも、身の回りにあるすべてのものについて、すべてが本当に「欲しかったのか」と問われると、実はそうではないことがほとんどなのだ、ただ周囲の人々が次々に優れたものを手にするようになると、自分だけそれを持たないわけにはいかなくなる、それが潜在的にも「欲」の仕組みで、このことを世間・人の世の「呪い」が引き出してしまうぞということ、地面に泣き伏して何かを「お願い」することに必ずなってしまうのだということをドラえもんは警告している。

当時、ファミコンが「本当に欲しかった」人はそんなに多くない。

自分の周りが次々に大学にいけば、自分も大学に行きたくなるし、みんな冬休みにはスキーに行くものだとなれば、自分だけ一人で部屋でコタツに寝転んでいるのが苦しくなるし、夏はみんなで「フェス」に行っているとなれば、自分だけ何の予定もなく本なんか読んでいるのが悲しくて苦しくなるのだ、呪いの基本になる「ひがみ」とはそういうもので、 "自分だけ" しいたげられ、 "自分だけ" 劣等に置いてけぼりになるということに、生きもの業(カルマ)は燃え盛る性質がある、ドラえもんはまるでそれこそが世間の正体で、人の世とはひたすらそれを繰り返す営みなのだと言いたげだ、手塚治虫の場合はそれがもっと露骨だった。
同年代の同性が次々に結婚し、みんな子供を産んで家庭を持っていると聞くと、 "自分だけ" という強烈なひがみと呪いが発生するし、またその母親にとっても、周りのみんなは「孫がかわいい」という話ばかりするようになると、やはり "自分だけ" という強烈なひがみと呪いが発生する/これは逆転すると、自分だけ "優等" という場合に発生する傲りと同じ現象だ、優等であれ劣等であれ自分だけがそれであるというチャンピオン―― "自分だけ" が蔑まれ、あるいは "自分だけ" が褒め称えられること――になると、その "呪いの頂点" にはただならぬ呪いの濃度が発生し、その人の血を根底まで支配することになる。
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封建制の中に「友人」は存在していない

年ジャンプのモットーは、ご存じ「友情、努力、勝利」だ、今でもこのモットーが保たれているのかどうかは知らない(さすがにもうマンガ雑誌は読まねー)。
むかし、児童が小学校に入学するときには、背後に「ともだち100人できるかな」みたいな歌が作用していたものだが、この「友人」という現象と観念は、文化的に必ずしも存在するとは限らない、文化によっては友人という観念そのものがないこともある。
日本に「友人」や「友情」の現象をもたらしたのは、言ってみれば吉田松陰であって、吉田松陰より前はこの国に友人や友情は存在していない、吉田松陰より前の日本は儒教・朱子学しかない世界であって、「主従」と「奉公」と「親孝行」しかないのだ、友人や友情は存在していない。
明治維新にかかわって、維新志士たちが「同志」という状態を新しく産み出したのだが、これが日本における友人の端緒であり、この端緒を創り出したのは吉田松陰だと言える/さらに過去にさかのぼれば高山彦九郎がいただろうが、当時はまだ時宜になく、高山彦九郎は人々に愛されて面白がられながら、「なんなんだろうなこの人は」という見世物のたぐいに扱われた、高山彦九郎は日本に実在したドンキホーテのようなもので「友人」という現象を人々に与えるには至っていない。

「友人」という現象や観念が、必ずしも存在するとは限らないというのは、少年ジャンプがコンビニに置かれてきたわれわれの世代には意外な驚きかもしれないが、今でも地方にいけば子供はすべて「〇〇さんとこの子」なのであり、お店の屋号があれば「〇〇屋のご主人」やら「〇〇屋の娘さん」なので、本当はそんなに変わっていないのだ、むしろ全体からみればこの国に友人なんて現象はあくまで例外的にしか存在していないと考えたほうがいい。
このあたり、知人や地方の人々、あるいは何かの業者さんと応接するときには、「そもそも人と人の、ヨコのつながりは存在しない」と仮定しておいたほうがいい、封建制における人の関係はあくまで土地の殿様(藩主)に主従として忠を尽くすか、自分の所属する〇〇家に奉公・報恩するか、親に孝行するかという、タテのつながりしかないのだ、ヨコのつながりとしての「誰か」は存在しておらず、それぞれが〇〇さん "とこ" というタテ構造にのみ所属しており、それぞれが自分の "とこ" の没落だけを気にかけているという状態だ、これは封建制として正常なことなのであって冷淡とか頭がおかしいとかいうことではない、そもそも友人や友情という現象が文化的に普遍ではないというだけだ。
現代日本において、あるいは世界中どこも同じような状況下もしれないが、なぜか「友人」という現象が一切得られなくなったので、その挫折感と共に、封建制に回帰しているところがある、漫画「ドラゴンボール」において孫悟空とクリリンは友人だが、どうも現実のわれわれにそういう友人という現象は与えられず、実際には孫悟空は孫家の、クリリンはクリリン家の、それぞれの発展と没落だけを憂いている、そして両家はご近所さんとしてあいさつをしたり地域の会合をしたりするだけという状態だ、誰もそんなドラゴンボールは読まないと思うが、われわれが生きる現実はそうして友人の現象を失い封建制に戻ってしまったと認めていくしかない。
われわれは、芸能人や Youtuber やマンガ家の、急激な勃興や没落を、完全に「ヨソのこと」として楽しみながら見物するという悪趣味をもっているが、この「ヨソのこと」を見物するという趣味が、封建主義の現象に他ならないのだ、われわれにとって吉田松陰の話が、「長州藩の麒麟児が、このように頭角を現し、このように非業の死に向かっていった」と見物されるのみであるのとまったく同様に、芸能人や Youtuber やマンガ家についても、「このように頭角を現し、このように廃れていった」ということをヨソのことして見物するだけだ、むろんそれがおかしいと言っているのではなく、それが封建制だと言っている/おれが友人という現象を否定しているのではない、おれ以外の奴が友人という現象を否定しているのだ、そんなの見りゃわかるだろう。

実際には、「友情、努力、勝利」ではなく、「主従、奉公、親孝行」の中を生きているだろう?

ボブディランのどこを見ても、主従とか奉公とか親孝行が見当たらないように、われわれのどこを見ても、友情やら努力やら勝利やらは見当たらない、だからわざわざ「スポーツ的」な枠を人為的に作って、人為的に作った努力をし、人為的に作った勝利を得、人為的に作った友情のようなものを感じることにしている、人為的にそうしたスポーツ的な枠を作らないと、われわれは努力の仕方がわからず、勝利など「どこにあるかわからない」、そして友情になどまるで心当たりがないのだ/ところが主従や奉公や親孝行と言われると、なぜか何も枠組みしなくても元から「わかります」という感覚がある、そうしてわれわれの所属は少年ジャンプではなく封建制だ。
もちろん明治維新に「同志」と言いうる現象があったとしても、その背後で薩長土はそれぞれ、自分の藩の権勢を有利にするためさまざまな後ろ暗い画策をしていたのだが、まあそんな専門的なことはどうでもいいじゃないか、おそらく当時でもほとんどの人が「ウチの藩だけが大事」という感覚に内心を侵されたままで、吉田松陰だけがその汚染から完全に離脱していただろう、吉田松陰だけが人の世ではなくこの世界にある普遍的な愛の現象を知っていた(おれは西郷隆盛は面倒くさくて敬天愛人の徒とは思っていない)、つまり「われわれは努力するのです、われわれは勝利しなくてはなりません、そのためには互いの友情が何より励みになるでしょう」という少年ジャンプのモットーを、当時から吉田松陰だけが偽りなく掲げることができたということだ、今のわれわれは誰もこんなまともなことは言えない。

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子分は親分が怖いという病的風土2/「親分の怖がらせパワー」
「自分が相手を病的に怖がれば、相手はニコッとするし、相手が自分を病的に怖がれば、自分はニコッとする」。
日本というのは、まさにこれだ、それこそが日本における「権威」の形態なのだと定義すればいい、このことを露骨にやれば日本人はヤクザじみるし、水面下でやれば日本人は田舎じみるというだけだ。
「権威」について例えるなら、キリスト教徒においては、イエスキリストが奇蹟を行うことで人々に示した神の子としての「権威」、この権威がクリスチャンにとってのすべてであるように、日本人にとっては「親分の怖がらせパワー」という権威が、日本人にとってのすべてだということになる/中世から現代の日本に続く聖書をもし書くとすれば、「親分の怖がらせパワー」が権威として書き綴られるべきであり、その一端がたとえば水戸黄門のような時代劇ということになる。
比較して、たとえば宮本武蔵が剣聖の境地に至ったことなどは日本においては聖書には取り扱われない、それは宮本武蔵の五輪の書には「親分の怖がらせバワー」に関する記述がないからだ、これはむしろ権威に対する冒涜と映るので、日本人には本質的によろこばれないものになる。

「親分の怖がらせパワー」!! この文言は実にアホくさく、その実質はさらにアホそのものと言うしかないだろうが、これを聖なる権威として奉っているわれわれが首をかしげていてもしょうがないだろう/ヤクザであろうが役所であろうが、家庭であろうが宗教施設であろうが、日本人が本当にやっているのはこのアホみたいな文言、「親分の怖がらせパワー」という権威だけだ。
さらにこのアホみたいなことの、実にアホらしい構造を突いていくと、「親分の怖がらせパワー」を発揮していくためには、ほかならぬその親分自身が、やはりそのまた親を病的に怖がっているということを必要とする、自分が怖がりパワーに侵されきっていなければ、自分として怖がらせパワーを行使することもできない、だから元はといえば徳川家康が破滅的に怖がりだったからこそ、家康は親藩も外様も根こそぎ怖がらせるパワーを持ちえて、現在の日本を形成したのだということになる、だいたいこういう呪術めいたパワーが発揮されるにはそうした「穴二つ」の仕組みがあるものだ。
そうして仕組みを整理していくと、思い出されてくることがあるが、そういえば丸の内に勤めていたとき、上司の勘違いから業務上のことでギャーギャー言われ、「ですから……」と説明しようとしても聞こうとせずギャーギャー言い続けるので、しゃーなしに堂々と溜息をついて聞いていたのだが、後になって事務方の女性に「なんであんなにあっけらかんとして、まったく "怖く" ないの?」と不思議がられたのを思い出す、おれはそのとき、「怖がるって言っても……別にクビになっても、まあかまわんっちゃあかまわんですし、仮に殴りかかってきたとしても、そのときは明らかにおれが勝っちゃいますし、ましてさっきのあれは完全に向こうの勘違いですし、正直 "なんだこりゃ?" としか思っていないですよ」と答えた/そして、言い出せばキリがないほど、これまでに典型的なパターンとして、相手がおれを怖がらせようというときに限って、おれはボカーンと「なんだこりゃ?」と、首をかしげてそれを眺めてしまうということを、とんでもない回数繰り返してきたことを思い出す、それは柳に風と受け流しているわけではなくて、本当におれにはわからないのだ、相手を怖がらせようとする魂胆も感覚も、おれにはどうしても「わかるような、わからないような……」というファンシーなネタにしか感じられない。
おれにとって唯一恐れることは、自分が愛すべき者でなくなるという可能性と、愛すべき人たちの友人でなくなってしまう可能性についてだけだ、愛すべき者でなくなりまた愛すべき人たちの友人でもなくなってしまい、その後ひたすら何十年も生きるだけ生きなくてはならないとなったら、さすがに「それだけはかんべんしてくれ」と恐怖に値する、それに比較すれば「親分の怖がらせパワー」と遊んでいるヒマはおれにはない、本当は誰にもそんなヒマはないのじゃないかとおれには思えてならないのだが、日本は本質的にはその怖がらせパワーを第一義の、つまり自己存在のすべてに懸けているので、これはもうおれが日本という国を理解していないのかもしれない、まあおれはおれの国が大事なのであって、おれの国でないものに向ける関心は本当は一ミリもない。

日本人の宗教精神は、「親分を怖がれば報われます」だ、だから日本の歴史にはギリシャ彫刻がない。

ギリシャ彫刻といえば、いわゆるアポロンやニケがそうだが、ああいう「光輝」に権威を認めるというところが日本にはまったくない、どう考えてもアポロンやニケが葵のご紋がついた印籠をニュッと出して「控えおろう」と人々を恫喝するとは思えない/そうして考えると、やはり宮崎駿がいた「もののけ」の世界のほうが日本の宗教精神を正しく描いているといえる、ただしそれは日本人の宗教精神として正しい描写なのであって、カミサマが本当にそうなのかは誰も知らない、カミサマは「んなアホな」と言っている可能性もある。
たとえば日本のお寺やその本尊、あるいは各家庭の仏壇を見てもわかるとおり、その第一義の印象はどう見ても「暗くて怖い」だ、どう見ても仏様の光輝という印象よりは、ドロドロ〜という古いオバケの印象がある、アーリントン墓地と日本の墓地の印象もまったく異なるのであって、日本人の宗教精神は「病的に怖がれ」「親分を怖がれば報われます」だと言える/おれはそのあたり、人に怖がられて親分扱いされることにウットリできるという気質がまるでなく、むしろ単純に光輝ある愉快な姿の、光ゆえのやさしさがある者でありたいと望んでいるのだが……これはどちらが正しいかというような話ではなく、ただおれが最近になって知ったのは、おれがおれなりに全身全霊で人生を賭けているように、「親分の怖がらせパワー」をやっている人も、やはり全身全霊で人生を賭けてそれをやっているということだ、もしおれが大ハズレだったらギャアアアという痛哭しか残らないであろうように、やはり「親分の怖がらせパワー」が大ハズレだったら、そちらの人もギャアアアという痛哭しか残らないのだろう、そこはフェアなものであって、互いに諍いを起こすようなことではないと思っている。
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子分は親分が怖いという病的風土
の中には上司と部下という関係があったり、親会社と子会社、師父と弟子、下請けと元請け、取引先にもカスタマーとサプライヤーという関係があったりする。
日本の場合、これらを異様なほど「親と子」にしたがり、自分を「親分と子分」にしたがるのだが、この精神的風土はおそらく徳川時代に最も陰惨な形で日本人の血に入り込んでしまったのだと思う、江戸時代の二百五十年が天下泰平だったというのはおそらく(わたしの感じるところ)真っ赤なウソで、おぞましい暗黒の上にフタをして偽りの中を作り笑顔で過ごした、何の値打ちもない二百五十年だった/ヨーロッパの中世がいわゆる暗黒時代と呼ばれたように、日本にもきっちり、時代遅れの憐れさも併せ持ちつつ、まったく別のテイストで暗黒時代があったということだ、そこで現在に至る日本人の精神的風土が決定的に形作られた。
徳川時代というといわゆる鎖国のイメージがあり、鎖国はもちろん病的なほどの引きこもり精神だったにせよ、より本質的な焦点はそこではなく、本当は徳川を親分として、「子分が親分を怖がるだけ」という二百五十年があったということだ、すべての子分が親分の顔色をうかがって、偽りにゴマスリを続けるだけの二百五十年だった/本当に何の意味もない二百五十年で、何もかもが根本から不毛、そしてこころの本質は「不快」でしかなかった二百五十年だった。
なぜこんな「親が怖い」というだけの不毛な暗黒時代が形成されたかというと、もちろん初代の徳川家康が病的に、怖がりの闇を抱えていたからだと思う、徳川家康が後の徳川家安泰のために施した政治は晩年に至るまで正気を逸脱している/もちろん当時、信長の治世が継承されてゆけば穏やかでない国になっていただろうし、秀吉の治世が継承されていけば野暮の国になっていただろう、何をどうすればよかったという話ではなく、ただ結果的に「親分怖い」という病的な精神的風土が二百五十年かけて入り込んでしまったということだ、この事実の上に日本は形成されている。

これは、日本が諸外国と比較して劣っているという話ではなく、たとえば現在のアメリカの暴動を見ていてもわかるように、人の世というのは潜在的にはいくらでも汚らしく、どこの国でも例外なく、ふだんは何かしら表面を糊塗して偽りに過ごしているだけなのだろう/アメリカが南北戦争やインディアンの駆逐をしていたころ、日本は江戸時代で、諸外国にビビった幕府が、なぜか身内にストレス発散の「弱いものいじめ」をしていた、そのあたり「マニフェスト・ディスティニー」へ吹っ切れてしまうのがアメリカの精神的風土であり、「親分怖い」の悲鳴ヒステリーと「弱いものいじめ」のストレス発散へ吹っ切れてしまうのが日本の精神的風土なのだと考える。
現代から江戸時代を振り返ると、徳川家のやりようはすべてヤクザのするそれだと誰の目にも明らかだが、これは話が入れ替わっており、徳川家がヤクザだったのではなく、現在知られているヤクザの風土が徳川家の封建制風土を引き継いでいるのだ、徳川家がヤクザなのではなくヤクザが徳川家と捉えるのが歴史からの順序だろう/そしてあちこちの家庭や企業で、やたら親が子を怖がらせようとし、上司が部下を怖がらせようとし、元請けが下請けをいじめようとするのは、何か正当な理由や事情があるわけではなく、ただの精神的風土なのだ、「子分が親分を怖がってヒステリーの悲鳴をあげる」「子分が親分の顔色をうかがって偽りの親睦だけを過ごすようになる」というのが、日本人にとって泰平の人の世という感覚なのだ、日本人は毎日この「親分怖い」を成り立たせるためにだけに生きているところがある。
現代の日本人でも、何か江戸時代の封建社会に肩入れをし、郷愁を覚えるところを大いに持っているので、そこはかとなくわれわれの脳内には「時代劇」が残っているのだが、この「時代劇」というのはもちろん当時の真相をレポートするものではまったくなく、当時から日本人が抱き続けることになった、「親分怖い」の天下泰平ファンタジーをそのまま現代に引き継ぐだけのものだ、たとえば「暴れん坊将軍」なる時代劇があって、八代目徳川吉宗がそれまでとは毛色の違う将軍(といっても紀州徳川家から割り込むことになっただけにすぎない)が存在したのは事実だが、吉宗自身がそうして将軍に就任するまでには、「ひょっとしたら……」と思わせる謀略や暗殺の暗い影があるし、吉宗が行った改革は保科正之の idea を再興させただけでしかないし、何より吉宗が晩年に見せたのは強烈な権力への執着であって、自分の子孫たちに権力を継がせるためだけに「御三卿」なる強引なシステムを我意のまま導入し、のちの徳川家の構造をめちゃくちゃにややこしくした/これらのことをすべて見ないようにして「暴れん坊将軍」なる夢想は成り立っている、それはおそらく当時の人々が縋っていた将軍日本・天下泰平の夢想とたいして変わらないのだと思う。
江戸時代の天下泰平やら、町人文化やら旗本退屈男やら、そういったものは "全部ウソ" で、本当は「親分怖い」の病的精神、弱いものいじめをして子分にヒステリーの悲鳴をあげさせると落ち着くという、徳川家康のゆがんだ精神が、ひたすら二百五十年間も押し付けられただけの、何の意味もなかった時代なのではないかと、おれは考えるようになっている/おれは今、歴史の話をしているのだが、過去の話をしているのではない、今現在も「親子」や「親分と子分」があり、元請けやら下請けやら、師父と弟子、カスタマーとサプライヤーなどがあって、これらが泰平と文化を為しているという夢想が、 "全部ウソ" なのではないかと考えているのだ、少なくともおれが実際にこれまで見てきて「???」と感じさせられてきたすべてのものは、この徳川封建制の地縛霊と考えるとすべてつじつまが合うのだ、人々は親や上司や取引先や先生のいる世の中を生きているのではなく、本当には「親分怖い」というゆがんだ精神的風土の中を無意味に生きつないでいるだけにすぎない、親分は子分を怖がらせるためだけに存在して、子分は親分を怖がるためだけに存在しているのだ、これをもって何をしたいのか、おれはずっと「???」と首をかしげて生きてきたことになる。

あなたが相手を怖がれば、相手はニコッとし、相手があなたを怖がれば、あなたはニコッとする。

ありていにいえば、日本の風土が露出した地域や人柄というのはそういうことで、さらに簡略化して言えばその本音は、「わたしのことヒステリーのように怖がってくださいね〜」「そうしたら平和で穏やかですからね〜」というだけでしかない、精神が病的に親分を「怖がる」ということのためだけにこの国は存在している、少なくともあなたがこれから(あるいはこれまでに)わけのわからない人を目撃したとき、このことを知っていたらすべて説明がついてしまう、そうしたわけのわからない人は、当人が病的に親分を怖がっており、また自分自身についても、子分から病的に怖がられたいと思っているのだ、そのことにもはや理由というような理由はなく、ただの精神的風土、その病的怖がりそのものが第一義に求められているのであり、たぶんそのほかのことに考えが及ぶようなことは生きているうちに一度もない。
思えばおれがこれまでに出くわしてきた、「???」のパターンはすべてこれだった、おれにとってはそれはずっと意味不明の「???」で、ずっと目の前で何が起こっているのかわけがわからなかったのだ、それが今、相手はおれをなんとかして「怖がらせよう」としていたのが、いちおう理屈として理解できる、そして多くの若い人がおれの前で精神的に恐慌していくことの「???」も、おれが相手を怖がらせないから逆にパニックになるのだと今になってわかる/といっておれは、その日本的精神風土、子分が親分を病的に怖がってバンザーイというわけのわからないものにどうしても馴染めないというか、その素質がないので、おれとしてはどうしようもない、おれは水戸黄門に印籠を出されても何を怖がればいいのか感覚的にわからない奴なのだ、それは日本においては一種の障碍者なのかもしれないと思う……けれども、いまだに日本人が大マジにそんな「病的に怖がれ」の風土をよろこんで生きているということに、やはり本音としては単純に「バカじゃねーの」と思ってしまう。
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対人的なことに向かねえなあ2
んなことを書き話しても誰のトクになるのか不明だが、まあおれが書き話せば何でも面白いからかまわないだろう。
おれにはナゾの、徹底した苦手があることを再確認する、たとえば仮におれがブラックジャックのような名医だったとしよう、そしておれが無料でたくさんの人々の難病を治療して回ったとすると、おれはきっと自分のことをクソゴミ野郎と感じると思うのだ。
なぜなのか、理由はよくわからない、理由はわからないまま、おれはどうも自分が人の役に立つということについて、最低最悪の感触を覚えているようだ、おれは神業を発揮して人々を治癒しながらどんどん機嫌が悪くなるというまったく人気の出ないブラックジャックになるだろう/もちろんおれは世の中のドクターを否定しているわけではない、人々の生命と健康を庇護しているドクターに対してはひたすらありがたいとおれは賛美しかしない。
なぜかおれは、自分が人の役に立たないことについては「いいぞ〜」と思っており、何か人の役に立つことをすると途端に「このクソゴミ野郎、死ね」という感触になるのだ、さすがにこれはムチャクチャだと自分でも思うのだが、それ以上にこのことは「治りませんよ〜」という感触が前もってある、なぜおれはわずかでも自分が人の役に立つことについておもっくそ唾を吐くのだろうか。

たとえばおれは、自分がエロビデオを見てオナニーしているところや、そんなに美人でもない女子高生をレイプしているところ(注:やっていません)を、高画質で世界中に中継されても何とも思わないが、もしおれが駐輪場のドミノ倒しになっている自転車をこっそり立て直しているところを中継されたとしたら、それはもう気分最悪、タンを吐き散らして死にたい気分になるだろうと思う。
なんというか、人の役に立つのはまあいいのだが、それがわずかでも人目に触れるのがイヤなのだ、おれは自分のサイテーなところを人目にさらすのは、絵的に近所迷惑でないかぎりは別にいくらでもかまわんと思っており、むしろ「サイテーな男ってこんなもんだという資料として残しておいたほうがいいかもしれない」という公共性まで考えが及ぶのだが、自分が何か人の役に立っているところを人目にさらすのはイヤなのだ、道端で転倒したババアを助けているところを見られるよりは、転倒したババアの後頭部を蹴って金品をむしり取っているところを見られるほうがずっといい(注:やっていません)。
この徹底した偏向は何なのだろう? おれの知る限り、古今東西にこんなわけのわからない衝動について指摘した哲学者はいないように思うし、心理学の壊れ精神のレポートにもこんなわけのわからない症例は聞いたことがない、おれは悪趣味は苦手だが善趣味は輪をかけて苦手なのだ/おれが心の底からゲラゲラ笑うとしたら、ブラックジャックのような技術を持ち、治療費を一千万円請求して、そのまま治療もせず一千万円を持ち逃げしたときだと思う、なかなか悪逆な話だが、「こんな奴治らんでええやろ」と一千万円の一部でハンバーガーを食っているときのほうが心の底から笑ってしまうというわけのわからないビョーキにかかっているのだ。
他人のことにけっこう肩入れするくせに、他人の役に立つのは死ぬほど苦手という、このわけのわからない習性で自分が困らされている、別にちょっとぐらい人の役に立ってもいいじゃん……とは、思っているのだが、なぜかメラメラっと、すべてを爆裂ぶっとばそうとする嫌悪感が立ち上るのだった、こんな奴はそりゃ対人的なことには向いていないのだろう。

対人的なことでやりたいことは「破壊」だけだ。

ううむ、困ったことに、対人的なこととして「破壊」だけは、「それいいね、ステキ」というワクワク感が立ち上ってきてしまう/なぜおれはこうして自分の人間性というか人間味について、こうも冷淡で否定的なのだろう、正直に言うと「人としてサイテーですよ」と言われると冗談でなく「やった」とよろこびが湧いてしまうのだ。
というわけで、誰のトクにもならない個人的なナゾの話だったが、やはりおれが書き話すと何でも面白いのでまあいいのだった/にしても、こりゃ何か方法を考えないといけない、人の役に立つことをするとおれが自壊してしまう。
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対人的なことに向かねえなあ
ンラインでワークショップを続けている、そのことは評判もいいし、いいのだが、最近はそのたびにブッ倒れる感じがあり、こりゃなんとかしないとなあと思案している。
まあしょせん、おれが他人に肩入れしすぎなのだ、そりゃわかっているのだが、これはもうクセになってしまっているので、いざ始まってしまうともうバランス的なことには一切耳を貸さなくなってしまう/まあこのあたり、おれはけっきょくそういう何かの「センセー」ではないのだろう、おれはずっと自分のパフォーマンスに対して容赦がなく、つまりブッ倒れるところまでやらないと一ミリも評価しないという悪いクセがある(いや、ブッ倒れたってけっきょく評価なんかしてねえなあ、悪いクセだ)。
おれは自分のパフォーマンスに対して、非人間的に冷淡なので、たまにそういう夢を見るぐらいだ、まあどんな夢なのかは人に言いたくないようなたぐいだが、とにかくバランスが悪くて困っている。
おれは相手から評価を伝えられないかぎり、自分のパフォーマンスには0点しか与えないので、オンラインになると目の前に相手がいないものだから、ずっと0点のままパフォーマンスを続けていることになり、けっきょく力尽きるまでやることになるのだ、おれは仮に一人でサグラダファミリアを建てたとしても、あくまで客観的には0点としか評価しないので、なんというかわれながら人間味がない、つまりおれはサグラダファミリアを完成させた当日にも「0点だからもっとすごいの建てなきゃ」と次の建設を始めている具合なので、そりゃバランスが悪いしブッ倒れるに決まっているのだった。

つまるところ、おれは対人的に何かをするのに向いていない/おれは他人からの評価を頼りにしたことはなく、他人の評価でおれ自身の評価が上下するということはないのだが(何しろおれは自分に対する評価そのものがないのだから上下のしようがない)、これはおれ自身のことであって、おれが対人的に何かをするとなると事情が変わってしまう。
対人的に何かをするのならばおれ自身の評価だけですべてを済ませるわけにはいかないし、それどころか対人的に何かをするのであればそれはおれがどう評価しても意味のないことで、相手方の人の評価を基準にするしかないのだ/ここがやっかいなところで、こうしてブログ記事を書き話すぶんについては、対人的なものではないので「こんなの誰が読んでいるんだろ」と不思議がりながら、まあおれの書くものはサイコーだなと断定できていればいいのだが、ワークショップうんぬんはそうはいかない、さすがにそれはおれから見てサイコーかどうかというのは二の次というか、基本的にそっちの基準は要らなくなる。
おれがこうして書き話しているぶんは、たとえば「コンビニの店員に絡む老人は、四十八時間スキャットマンジョーンズを大音量で聴き続ける刑に処す」と言うと、なんだかまあオモロイなということで済むのだが、これが対人的にうんぬんとなると、オンラインなどで目の前に人がいない場合、対する人にとってオモロイのかどうか、笑っているのかどうかがわからないので、0点が続くことになる、0点が続く中を二夜連続で朝まで過ごしてしかも聖書と仏典の内容を伝えたりしているとさすがに精神が臨界を迎えるのだ、なんというかおれの中の聖書と仏典を語りつくして0点ならさすがにおれにはどうしようもないぜという落雷が何度も落ちるのである。
まあ、そのていどではまったくやめないという常識がおれの中にすでに根付いているのだが、これも何か非人間的なもので、ふつうに考えて力尽きるほうが人間的にマシという感覚もおれの中にはあるのだった/もう十年近く続いていることだが、対人的なものといえば、基本的におれがエネルギーを発揮するとおれが嫌悪・拒絶されるというのがデフォルトのパターンなのだが、ふとこの中で他の人はどうやって生きているのだろうという疑問も湧く、といってどうせ他人のことなんかわからんのは先にミエミエだし、おれとしてはけっきょく「対人的なことに向かねえなあオイ」という初めからの結論に嘆息するよりないのだった、なぜおれはいつまでたっても陶冶されないのだ。

ああ、対人的に何かをするというのがさっぱりわからん(ワークショップの先生のくせに)。

おれにはよくわからんのだ、たとえば二十二歳のハモンド・やもめ太郎が、「おれはナイフ一本で海中のシャチと戦って勝ってきます」と言ってカリブ海にドボーンと飛び込んだとしても、そりゃそいつのやりたいことだからそれでいいんじゃないのかとしか思っていないのだ、海中のシャチに勝てる人間は絶対にいないと思うが、ハモンド・やもめ太郎がそう言うなら「うーんひょっとしたらイケるのかもしれんな」とも思って、おれとしては対人的に何かをするというのがさっぱりわからなくなる。
おれは対人的に何かをするということはよくわかっておらず、さらに言えば、人の役に立つということじたいまったくわかっていないのかもしれない、なんというか「おれが人の役に立っても、何の役にも立たんだろ……」という矛盾した文脈の、しかし確信が存在していて、こんなものがあるうちは対人的にどうこうなんてやりようがないのだ/といって実際、このペースでブッ倒れているわけにもいかないので、何かうまい方法を考えなくてはならない、おれにとっては対人的に何かをするというのは本当に何も見えない闇の中だ。
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芸能界をボヤかず自分のことに絶望しろ

ーた芸能界で不倫がどうこうと……悪趣味きわまりない。
他人のことでどうこう口出しをしたり嘆いたりする権利は、それを愛していた人にしかない、かつて野球選手の清原がヤク中になったときには、清原の姿を愛していた人たちにそれを悲嘆してヤケ酒を飲む権利はあったと思うが、誰も愛していないお笑い芸人に対してギャーギャー口出しをする権利はない、他人のことなんだからほっとけ。
愛してもいない他人にギャーギャー口出しをするのは、断言していいが老人だけだ、なぜ老人は他人のことに口出しをするかというと、「自分のことがもうない」からだ、老人はあとは死ぬだけなのでその絶望に耐えられず、さも自分には口出しして口論するべき何かがあると思い込もうとするのだ、それと同じようなことを七十歳にもなっていない奴がやってはいけない、基本的にそんなことは死ぬ直前だけにしろ。
芸能人がどうこうとか、それが許せるとか許せないとか病的だとかそうでないとか、そんなことはどうでもいいのだ、そんなことより自分には何の未来もないということ、何の現在もないということ、本当は何の過去もないということ、そうした生々しいことのほうに直面しろ、ショッキングなニュースに飢えているならそっちのほうがはるかにショッキングなニュースだろう、マスコミをマスゴミ呼ばわりするのもけっこうだし市民の権利だと思うが、その中に燦然と輝きたる致命的なゴミの実物が自分だということを心臓の第一の文言に刻み込め、知っているとは思うが芸能人のスキャンダルに関心を寄せているというのは逃避的人間の中でも最下等のどん底を極めているタイプだ。

いくらなんでも現代は人が弱くなりすぎだ、人というのは多くは若いうちにそんなに輝ける少年少女時代はないし、実は青春なんてほとんどの人にないし、幼馴染というのも地域の闇を吸い込んでいるし、まともな恋あいやらまともな仕事やらまともな友人というものはほとんどの人には与えられないのだ、よりにもよってセンスとか才能とかいうのはほとんどの人はゼロだと諦めねばならない、その代わり庶民には何があるのかといって、何もないのだ、浪花節なんかすでに存在しないし、もともと存在していたのかどうか不明だ、そのくせ老化と病気と税金と家財の減価償却だけはキッチリ来るのだ、このことを直視せずに何が芸能人のアワワワワだ、笑止というよりない。
自分の何もなさに恐怖し、またそれがこの先も基本的にどうしようもないことに恐怖し、さらにはそれを自分が直視できず偽りの充実気分で糊塗していることを認めて恐怖せよ、そのことを直視していたらよもや愛してもいないお笑い芸人のスキャンダルどうこうで一秒たりとも時間を無駄にしようとは発想しないものだ/このことを直視すると精神がドエライことになってクラッシュするのだが、クラッシュしたところでわけのわからない生は続いてわけのわからない死がやってくるのだ、ヘンな言い方だが自殺したって死がやってきてしまうのだからどうしようもない。
現代人はまるで「愛していないものについて目移りしながらギャーギャー言って逃避し続けている」と総括されるような存在だ、ここ数十年の人々をこの総括でオッケーにしてしまうつもりか、自分が何を愛したこともなく何に愛されたこともなく、何の場所も得たことがないし何の光景も見たことがないという大ピンチのさなかで、それをちょっとした著名人のトラブルに転嫁して自分をごまかそうとはなんたる醜態か、自分のことを親しく「あいつ」と呼んでくれる人さえいないくせに他人の行状に品評を垂れるとは、少しでも正気が残っていたら自分の臓腑が酸鼻を極めているその臭気にサルトルの三倍は嘔吐するはずだ。
お笑い芸人が品行方正にしていたって、あるいはその逆で不埒を極めていたって、どちらにせよテメーのスッカスカぶりには何の手当てにもならねーんだよ、もちろん誰だって努力しているのは知っているが、残念ながら努力ごときで埋まるようなスッカスカぶりではないのだ、ヨソに向ける見当はずれな品評の刃を、その百分の一でも自分に向けてみたらどうだ、もう昨日までの若かった日は一日も返ってこないのだぜ、テメーがマジメに生きようがマジメに自殺しようが中毒者になろうがチャリティマニアになろうが、どうやってもそのスカスカぶりは一ミリも埋まらないのだ/面白くないテレビで自分をごまかして、次はそのテレビを叩いて自分をごまかすという、そんなことをするために生を享けたのか、テメーの墓碑銘には「芸能人に注目し、またそれを叩きし者」というわけのわからない文言が刻まれるだろう、いいかげん飽き飽きなのでガチでやめよう、他人の失脚に注目する奴なんざ自分が破滅している奴ばっかりじゃないか。

自分について絶望し、それをSNSや媒体の一切に示すな。

太宰治のようなヒマ人を二度と世に出してはいけない、自分についての絶望を外に垂れながしたら、それじたいが逃避になってしまうし、またそれに肩入れをするというヒマ人タイプにとっても恰好の逃避ネタになってしまうのだ、ありもしない友人と話している気分になるな/おれはひどいことを言っているようだが、そうではないのだ、そうしてありもしない友人と話している気分を続けていると、ずっと先にもっとひどくえげつないことが事実として襲ってくるのだ、いくら自分が自分についての絶望を直視しなかったとしても、それは消えてなくなったわけではなく直視されないぶん後払いになって、ガッツリ金利を上乗せしてあるとき突然「満期です」というように襲い掛かってくる。
おれ自身にそこまでの趣味はないが、見栄えのする女を多目的トイレでやって一万円で済まして仕事に行くというのは、そんなに悪いことではない、むしろ生者の全体から見たら割と幸福な奴だ、もちろん真の幸福ではないのだろうが、真の幸福なんか得ていないのはスキャンダル以前から見ていたらわかるだろ!! まさかそれが視えていなかったという奴はもうこの世界のなにひとつをさえまともに視たことがないのだ、そしてわれわれは自分を直視すれば、ほとんどの場合その「真の幸福ではないエセの幸福」にさえ日々触れて生きてはいけないのだから、そちらのほうがヤバいと直視しろ、多目的トイレでインスタントセックスをするというのは下品なことだが、われわれのほとんどは多目的トイレでウンコをするしかやることがないのだ、多目的トイレで「ウンコするだけ」も「ガンバってセックスする」も直視すればどちらも絶望的な話だ、さあ絶望を極める自分に対する陰惨なレポーターになって、そのレポートをどこにも報告せず、書きもせず、ただただレポートして自分で楽しめ、おれは人が明るい未来に向かうべきだという話をしている。

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