☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
女は幸福でなければならない2
代のように、セクシャリティがモデルを失った状況においては、フェミニズムによる尊厳の防御は不可欠だ、女性はなんとかしてセクハラの――もしくはそれ以上の――被害から遠くあれるよう立ち回らねばならない。
そうして常に防衛しなくてはならないのは、女性にとって不利益この上ないと思うが、そのことにはわたし個人として陳謝の思いもあるにせよ、より本質的には「男女ともセクシャリティが狂っている」と言うよりないのであり、もはやどこかの民族紛争のように、一方の咎を責めるだけでは何ら解決はせず、いっそ "今さらうまくやれるという夢想を持たない" ということが、前向きで建設的とも思える。
どのようにセクシャリティが狂っているかというと、たとえば異性を明らかに嫌悪するスタイルとしてミソジニーやミサンドリーが知られているが、そうした勢力においてさえ、「あなたには生涯、異性愛の恋あいは無縁だろう」とはっきり言われると、そのことを引き受けられず、魂が損傷する様子なのだ/これではまるで、「もう市民には戻れない」と通告されてショックを受けているテロリストというように、全体が滑稽劇じみているのだが、本当にそういう状況なので致し方ない。
異性という関係には、当然の衝迫力があり、危険や魅力も伴うのだが、その切実なライブ状況に触れるよりずっと前に、多くの人が自慰的コンテンツから強力な妄想といわゆる性癖を育てており、また多くの交流もテキストチャット等で為されるので、恋あいに必要な心身が具わるより前に、セクシャリティをこじらせきるという状況がある/じっさい現代の若年層は、自分の親しい友人や知人をカウントするより、動画サイトを通して知った誰かをカウントするほうがずっと数が多いはずだ、こんな状況の中でいきなり青春・恋あいが現成するわけがないのであり、女からはうぬぼれとひがみに育ちきった邪なバケモノ、男からは悪臭のするセクハラモンスターが出現して当然というよりない、どれだけ表面を好人物にしたとしてもそのフェイクがますますの混乱を産み出すだろう。

それでも、正当な手続きを知るべきとして、女性はおそらく、もし出会うべき誰かに出会うことができ、彼に対して取るべき態様を取れたとしたら、突然のこと、そこから "すべてが始まった" という体験をするだろう、それまでに持っていた性観念や恋愛観はぜんぶ無関係で、「わたし」はこのときから始まったのだと、そのときになって知ることになる。
男性にとっても同じことで、そこに得られるのは、憧れの恋人プレイゲットということではなく、突如として始まる「わたし」、恋あいで獲得するのはそうした突然の「わたし」なのだ/あなたは恋あいで突然「わたし」を得ることができ、それまでは自分は「わたし」というものを持っていなかったのだと、そのときになってようやく知ることになる。
誰にとっても、本来あるべき主体性、本来あるべき「わたし」というものがあり、その本来あるべき「わたし」と、相克する「自我」が格闘することになるのだが、そうした相克の構図は旧モデルであり、現在においては「わたし」はないのだ、だから単なる異性との接触と合意だけでは、双方に抑圧された自我を噴出させあうというだけになる、そのことは双方の未来を取り返しのつかないほど真っ黒にしてしまう。
突如として「わたし」を獲得するとき、またその「わたし」が突如始まるとき、逆にこれまで焦がれて病みついていた「恋愛」は、そうした形式にこだわる必要がないものだと、急にわかるようになる、それは逆に恋あいを獲得したからであって、獲得したからにはその外形がどのようであるかということはさして問題じゃないということが直接わかるようになる/願わくば、より多くの人に、そうした出会いと幸運と、勇敢さと真摯さがありますように。

恋あいは必ず、自分の歩いた道の先に出会っている/そうでないものは、必ずヨソの畑から盗もうとしている。

きょうび、いわゆる婚活イベントや出会い系サイトが当たり前のように利用されているが、それは残念ながら自分の歩いた道の先に恋あいに出会うという出来事ではない、口をきわめて言えば「目の前に置かれたものを、うまくかっぱらえるような気がした」ということで、抑圧されていた因子が噴き出しているにすぎない、そのことはどれだけうまくやっても、双方に実りは与えず、必ず大きな損失を受けるだろう。
それぞれは、両極端の自分を知ることになるのだ、ひとつには突如として「わたし」を得、「わたし」が始まるということ、もうひとつには、突如として「自我」が噴出し、「自我」のコントロールが利かなくなるということ/男が手の届くところにセックスをちらつかされ、それを狙う男が女をちやほやもてはやすということで、相互は抑圧していた「自我」を突如として噴出させることになる、それはまったくよろこばしくないことだ……恋あいは本来まったく逆のことが起こる、つまり女がちやほやもてはやされることに一切の興味をなくし、男が女をちやほやもてはやす発想を持たなくなる、そうしてくだらない性分から離脱した「わたし」を相互に得ることになる、そうしたことは自分の歩いた道の先にしか現れてこない。
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女は幸福でなければならない

すんだ3000リエルの銀貨と、輝く3000リエルの銀貨が、共に通貨としては3000リエルとして用いられるにせよ、輝く銀貨であるほうがよろこばしいように、女は幸福であるほうがよろこばしい。
青空に映える白い雲が、微細に見えたとて利益にはならないにせよ、微細に見えたほうがうつくしく空気も澄んでいるように、女は幸福であるほうがよろこばしい。
わたしがこれまでに見てきたことは、女をちやほやもてはやすことは、何ら女を幸福にしないということだ、ちやほやもてはやすことで女は、昂ぶり浮かれて満足するが、その満足は小さく隔てられており、むしろその小さな牢獄から出られなくなるように、女は浮かれる。
わたしがこれまでに見てきたことは、ときに魂の宿る女当人こそが、そうしてもてはやして女を牢獄に閉じ込めようとすることに、烈しく怒りをもって迎えるということだ、女はちやほやもてはやされることに浮かれる性分を持つが、その性分は女をわずかも幸福にせず、むしろ決まって女を牢獄に切り取ってしまう。

わたしがこれまでに見てきたことは、むしろ女は、出会うべき男に出会ってその足指を拭き取るなどするとき、己では逃れようがなかった女の性分を逃れているように見えるということだった。
女が女の性分のままにあるということは、女をまったく幸福にはせず、よく見れば女をちやほやもてはやす男の様態も、それじたいが女の性分を男が輸入したもののように感じる/ここで女の性分が女の性分によってもてなされていることにより、女は幸福への出口がなくなる。
わたしがこれまでに見てきたことは、女が足指のよごれを拭ってくれて、女自身が妙に安心するといい、そこからなぜか急遽、女が主体性を持ち始めるということだった/このことは、一般に思われているフェミニズムからの女性主体の発想とは根本が異なる。
わたしが言わなくてはならないのは、女がそうしてわたしの足指を拭ってくれるとき、なぜそのようにしたいのか、またなぜそのようにしてこころ安んじるのか、当人も決まって「知らない」「わからない」と言うことだ/むろんそこに虐げられている女があってはならない、女は幸福でなければならないし、女はより積極的に主体性の獲得に向けて能動的でなければならないと思う。

女性を浮かれさせるのは簡単だが、幸福にするのは困難だ。

わたしがこれまでに見てきたことは、どれだけ女性をちやほやもてはやし、身分と富とを保証したところで、その女性が屈託のないよろこびと美に到達することはありえないということだ、女性の性分に劇薬を注ぎ、浮かれさせるのは簡単なことだが、そのことが女性を幸福にした例をわたしはこれまでに見たことがない/むしろその浮かれる性分への劇薬によって戻ってこなくなったという実例のほうをあまりに多く見てきた。
わたしがこれまでに見てきたことは、ひとつには、なぜかわたしの足指に触れて以来、突如として主体性を持ち始める女のよろこばしさとうつくしさであり、もう一方には、そうしたことと相反し、突如として主体性を持っているふうに強烈な自己誤解をし始める女のすさまじさだった/わたしは女は幸福でなければならないと思っているし、その幸福は女自身の主体性の獲得によらねばならないと思っている。

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おれが好きなのは宗教じゃなく祝福だ
っと認めよ、もっと求めよ。
そのたびに与えられ、祝福に満ち、さらにその栄光を面白がり、求める先が果てしないことを知るだろう。
信じるということより、信じるという概念を忘れ、「疑う」ということがどのような心境だったのかをすでに忘れる。
すると人は、自動的に祈るようになっている、なぜなら祈るのが最も手っ取り早いからだし、祈る以外には実は方法はないということがいつのまにかわかっているからだ。

自分をまともなものにせよと祈れ。
自分をまともなものにしようと努力するのでなく、自分をまともなものにせよと求めて祈れ。
祈る先はわたしであり、そのわたしとは祈りの通じたるわたしである、困ったことに「わたし」は複数個あり、わたしは世界でなければわたしでなく、世界はわたしでなければ世界でない、世界と垣根なく響いているわたしに祈れ、そうしたらわたしがわたしに祈るのであるから祈りは聞き遂げられるだろう、だから祈りは他人事でなく、わたしは常に熱心なものだ/疑うわたしは閉ざされた偽りのわたしだ。
もっと求めよ、あなたは求めることに吝嗇で、もっと認めよ、あなたは認めることにも吝嗇だ、あなたは理由なく疑心暗鬼であり、疑ったまま祈ろうとしている、それで祈りが通じたら信じもしようという、本末転倒を言っている/それは電気が通じたら電力会社と契約しようというような愚かな話だ、あなたが先に契約に判をつかないかぎり、あなたの家のコンセントに電気がやってくることはない。

祈りはちゃんと機能するし、疑いもちゃんと機能する。

ある意味幸いなことに、契約に判もついていないのに、電力が供給されることはない、ちゃんと電力会社は契約の信義則を守っているのだ、勝手に電気を送ってその代金を徴収するようなことはしない/あなたの魂に給電がないのは、きちんとした理由があるはずだ、疑いはちゃんと機能している。
偶像を立ててフンジャラマゲーと、這いつくばって呪文をのたまって、何かになるわけがない、聖別されたというふれこみの高価な壺を買ったとして、そんなもので救われた人はいない、もともと救われていた奴はごくまれにいるかもしれないが/おれは宗教はきらいだ、おれが好きなのは祝福だけだ、祝福というのは最高級のキャビアが金庫に湧いてくるということではなく、女の子が買ってきてくれたモスバーガーが死ぬほどウマくなるということだ、おれは催眠術に掛かるタイプではないので宗教とは馴染まないだろう、祝福を求めず宗教を求める人はよほどの事情があるのだろうが、おれはその事情に興味がない。
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覚醒剤と報酬系、および「ドーパミン」の話4
ルコール中毒という病気があるが、これはある本によると、「その人にとってだけ、お酒が覚醒剤になる病気」と書かれていた、それが本当なのかどうかは知らない、おれはアルコール中毒ではない。
ただ、この考え方は的を射ているように思って、つまり「その人にとってだけ、○○は覚醒剤」という捉え方をすれば、ワイルドーカード○○には、何を代入しても「そのとおり」なのだと思う。
その人にとってだけ、アイドルは覚醒剤なのだろうし、その人にとってだけ、BLは覚醒剤、その人にとってだけ、いいねは覚醒剤、その人にとってだけ、巨乳は覚醒剤、その人にとってだけ、パチンコは覚醒剤なのだろう。
依存症がどうこうということではなく、「生きものはみんな覚醒剤でしか動いていない」と捉えるのが正しいだろう、麻薬由来のドーパミンが悪で、筋トレ由来のドーパミンが善ということはない、覚醒剤がやめられないということではなく、それはただ生きるのをやめられないというだけではないだろうか。

だから、たとえ一つでもいいし、一度限りでもいいから、ドーパミンとは異なる何かに触れる必要があるのだと、僕は思う。
このことが、ここ最近はしきりに、僕をせっついてやまないのだ、この「ドーパミンではないもの」に触れたことがあるかないか、それが一度かぎりのことでも、そのことは生涯にわたってその人を支えつづけ、ついには救いきることもあるのだ、だから誰にとってもこのことは必ず一度は触れる機会がないといけないと、まるで似合わない社会正義のように考えている。
ドーパミンと異なるものといって、もちろんオピオイドとかバルビツールとか、セロトニンとかオキシトシンとか、別の薬物やホルモンのことを言っているのではないのだ、そうした生身に起こる薬理機序とは異なる現象に、一度でも触れている必要がある/一度でもそれに触れたことがあるならば、そこから当人がドーパミンフリークとして無為の時間の中に滅んでいくのは、けっきょく当人の責任でしかない、けれども一度もそれに触れたことがない人は、当人に選択の余地も与えられないのだ。
覚醒剤と報酬系、およびドーパミンその他の薬物やホルモンの話をしてきた、そしてわたしが言いたいのはむろん、「それ以外」のものの重要性だ、それが豊富にあるなどというのは夢のまた夢、虫の好すぎる話で論外だが、誰でも一度だけはそのことに触れる必要がある、一度でもそれを触れたことがある人は、最終的に自分の帰る場所を「そこ」に決定することも可能になるからだ。

車内に車窓はない。

妙な言い方をしてすまない、だが「車内に車窓はない」、この一点は誰にとっても理において解せるだろう、いかなるうつくしい車窓もそれが車内にあることは決してない。
人の身体は、37兆個の細胞で出来ているらしいが、それは37兆個の生きものの群体であり、その37兆個をもって「あなた」とは言えない、「車内に車窓はない」ように、あなたが見るべきあなたは体内の現象にない、車内はガソリンで動いているように、体内はドーパミンで動いている、だがそれは世界の景色を見に行くためだ。
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覚醒剤と報酬系、および「ドーパミン」の話3
醒剤という名前がよくないのかもしれない。
覚醒剤がなぜ覚醒剤と呼ばれるかというと、別にヤバイ名前ということではなくて、睡眠薬・麻酔薬の反対の作用を持つからだ、睡眠の反対だから覚醒というだけでしかない。
「覚醒剤」という名前で、実際に投与すると、確かに覚醒っぽい感じがするから、「おれ覚醒したかも」と錯覚するという、思いがけずしょーもないパターンが、人を狂わせているところがあると思う、だから覚醒剤ではなく「蒙昧ハッスル剤」という名前に変えるべきだ。
覚醒剤にかぎらず、脳の報酬系にドーパミンがあふれている状態は、何ら覚醒・目覚めという状態ではなく、そのまんま「蒙昧ハッスル」という状態なので、覚醒剤ではなく蒙昧ハッスル剤という名前に変えたほうがいい、そうしたらさすがにカッコ悪すぎて若年層も忌避しやすいだろう/クラブの暗がりで「蒙昧ハッスル剤、どう?」と売人に言われても、「なんだその凄汁みたいなもんは、赤マムシドリンクのほうがマシだ」と言いうるだろう。

ドラッグにはたいていカッコいい名前がついているので、人々は、カッコよさへの憧れを持っているのだろう(当たり前)。
薬物だけでなく、筋トレや音楽や、淫蕩や変態趣味、マウントやうぬぼれで「ガンギマリ」になるのは、当人としては「カッコいい」という感覚なのだが、残念ながらそうではないのだ、けれどもそれを「ただの蒙昧ハッスル」「一番陳腐なやつ」と直視することは、あまりに破滅的で悲惨だ。
生きものに具わる「血」の性質、この血の呪いで一番強烈なものが「ひがみ」「みじめさ」だが、この呪いが最深部で爆裂的に作用しているため、人は「カッコいい」ということに憧れつづけざるをえず、そのためガンギマリに最後の希望を託さざるをえなくなる。
そうするとけっきょく、人はそれぞれに工夫しながら、けっきょく信じる神は未発の「ガンギマリ」という一点、ということにならざるをえない、そしてそのことは、まったくそのとおりなのだろう、このガンギマリ妄想神が人々の最後の信仰であり、それを導くとされるドラッグにはカッコいい名前が付けられている/まあ、悪魔がカッコいいという感覚もわかるのだが、ガチの魔がガッツリ入り込んだとして、本当にそれを引き受ける覚悟があるのかという問題になってくるな。

「蒙昧ハッスル」が事実だ、けれどもそれ以外に信じられるものがない。

初めに言ったように、人は、自分を助けてくれたものを信じる性質がある、そして蒙昧ハッスルが、薬剤であれ非薬剤であれ、自分を助けてくれたのならば、それを神として、人は信じるしかないのだ。
薬剤であれ非薬剤であれ、ガンギマリを信じた人は、仮にその中毒で死んだとしても、その死の間際、自分の毒物を神として抱きかかえて死んでいったかもしれない、と僕などは思う、それまでどれだけ更生しようと努力した人も、死の間際には、けっきょくその中毒物を抱きかかえ、そこに帰依して死んでいったのではないだろうか/なぜそこに帰依して死んでいったかというと、たとえ一度きりでも、それが自分を「助けて」くれたからだ、他に自分を「助けて」くれたものが認められない場合、人はやはり自分を「助けて」くれた唯一のものを抱きかかえて死んでいくしかない。
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覚醒剤と報酬系、および「ドーパミン」の話2
の脳みその「報酬系」、ここに刺激を受けて、ドーパミンがギャンギャン出ますよ〜というだけでは、人はどう生きても無駄ということ、「わたしはこのように生きた」なんて事実は一ミリも残らないということだ。
その点おれなんかは、きれいな女が大好きだが、きれいな女が十人ぐらい集まって裸でおれに抱きついてキスしてきても、そんなことでドーパミンは出ない、愛があるのにドーパミンが出る必要はない/そんなもん測定したことはないが、直接見たらわかるし、直接触れたらわかる、「こいつ血中に何も起こってねえ」というのはさすがに生きものの直観としてわかる。
あるいは、僕も正確に知り切れていないのだが、脳内にドーパミン的なものが出ないか、もしくは、それが分泌されたとしても、魂がそれに一切取り合っていない、という状態なのかもしれない/とにかくおれにとって必要なものはおれの魂と愛のみであって、ドーパミンがどうこうというのは興味がない、餌付けされたラットの実験みたいになったことはこれまで生まれてから一度もない。
くれぐれも申し上げるが、おれはドパマン状態を「我慢」しているのではないし、「隠して」いるのでもない、抑圧しているのでもないし、忌避しているのでもない、ただそれが「消えた」というだけだ、「消した」と言ってもよいかもしれない、なぜそれを消したかというとつまらないからだ、つまらないものは消すに限る、つまらないものを生かしておく値打ちはない、ブッ殺してしまえ。

なぜコイツはドパマン状態にならないのだと、ブキミに思えたら、そのブキミさのまま、「こいつ霊体なんじゃね」と捉えればいい、デタラメな言い方だがその言い方のほうが近くて手っ取り早い。
もちろん僕だって生きているので、生身の性質はゼロではないが、僕は生身の性質を愛とか意志とかに取り違えて生活するアホが苦手なのだ、生身なんかどこをいじっても愛も魂もない、けれども、よもや誰だって「わたしには何の愛も魂も、そのかけらさえありません」「ただの生身の物体で、報酬系を追いかけるのみでございまァ〜す」とは自称しない、だから生身の性質「だけ」の中に、うそんこの愛や魂を設定しようとする、そんなことが大量に行われて、世の中が極限まで行方不明になってしまった。
あなたの意志なんてないのだ、あなたのこころなんてないし、あなたの魂とか、あなたの愛とかは「無い」のだ、あなたの性格や趣味もない、あるのはただ脳みその報酬系刺激と分泌物という性質だけだ、だからあなたは毎日何をしたらいいかわからず、わけのわからない老化だけが襲ってくるのだ……ということなのだが、これは意地悪で言っているのではない、あなたが「どのように」、その報酬系刺激と分泌物を漁っているか、そのメカニズムを自分で点検してみろということだ、僕はあなたにその牢からの脱獄を勧めているのみ。
うーん、何かこうして話しているうちに、わかってきたぞ、みんなドーパミンを出そう!! そしてそのドーパミンの渦中で、いかに自分の魂が生身のドーパミンに左右されないか、そして魂こそが生身の主人であって、その逆ではないということを己において証するのだ、そうすればとても景気の良い、われわれのまともなやるべきことが見えてくる(といって、この説明はおれにしかわかんねーよ)。

美女と美少女は、おれのところにドーパミンのロンダリングに来るように。

おれが一般的な偉い人と違うのは、おれが美少女のスカートを平気でめくる点だ、一般的な偉い人はまったくそういうことをしない、ところがおれはそういうことを第一にガンガンやるので、何が違うかというと、嵐の中で静かな船がマジな船だと言っているのだ、静かな湖畔に浮かべていたらそりゃあどんな船でも静かなものだろうが、そういう船に限って横風が吹くとたちまちバタバタと転覆していくのだ、そうした一見「静かな人」「穏やかな人」は徹底的にニセモノである、そのことは誰だって年齢と共に周囲の現実から――あるいは自分自身の現実から――思い知らされていく。
おれが美女や美少女を好きというのは、「ドーパミンより美女のほうが好き」ということであって、ドーパミンより札束のほうが好きだし、ドーパミンより名声のほうが好き、ドーパミンより美食と官能のほうが好きということだ、どんな美女だって自分の股間をドーパミンの呼び水みたいに使われたら腹が立つだろう? おれはドーパミンに興味がなく、だからこそドーパミンはじゃぶじゃぶ流してしまえと言っている、ああなんと健全なことだろう、魂にドーパミンをぶっかけるなど、虹に酢をぶっかけるぐらい無駄なことだ。
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覚醒剤と報酬系、および「ドーパミン」の話

は自分を「助けて」くれたものを信じるという性質がある。
自分が苦しいとき、ドーパミンが「助けて」くれたとすると、人はそれを信じるのだ/そりゃ自分を助けてくれないものを信じろと言われてもフツー無理がある。
覚醒剤を使うとただちに犯罪者になってヤバい奴と軽蔑される向きがあるが、覚醒剤も結果的に「ドーパミン掛け流し」に作用するだけなので、別に覚醒剤を使わなくても、ドーパミン信仰者なら本質は同じだ。
音楽を聴きながら筋トレして、意識を高くして自己実現をイメージして、クリエイティブな作業や自己アピールや「いいね」ゲットをして、地味な誰かのことをそこはかとなく見下してマウントし、うぬぼれることを日々の生きる力の源泉としていたら、覚醒剤を使わなくても同じだ、要はドーパミンドパドパマンということであって、こんなものは「ドパマン」と一括りにできる、容赦ないが本当に一括りにして差し支えない。

脳みそには「報酬系」と呼ばれる部分がある。
この報酬系の神経(シナプス)において、ドーパミン蛇口をオープンし、ドーパミン排水溝にフタをする、すると報酬系の脳みそはドーパミンであふれかえることになる。
覚醒剤はそのようにして蛇口と排水溝に作用するということであって、逆に言うなら、やれ音楽を聴いたり筋トレしたり、イメージを高めたりマウントしたりという、面倒なことをしなくても、適量の覚醒剤を入れればドーパミンは十分ヒタヒタになりますよということだ、実際それで過去には薬局でヒロポンが売っていた(ヒロポンはただの覚醒剤の商品名、もちろん合法)。
脳に「報酬系」という部分があるとイメージしてみて、冷静に虚心に考えてもらいたいのだが、今ある環境、あらゆるコンテンツ、刺激物や、自分の性格や挙動、人間関係等について、 "脳みその報酬系に作用しているだけ" ということに、本当に心当たりが皆無だろうか? 人は自分を助けてくれたものを信じるという性質があるが、その自分を「助けて」くれたものは、単に自分の脳みその報酬系に、ホルモン物質(ドーパミン)を出させてくれただけではないのか、そしてこっそりと、今もそれを、自分はやめられないでいるのではないのか? 覚醒剤に問題をなすりつけて自分だけ無事のふりをするのはよくない。

「報酬」に向けてしか動けない、というのが生きものの仕組みだ。

だから覚醒剤の常用者は、その依存から脱却することが極めて困難だとされている、なぜなら直接の脳のレベルにおいて、覚醒剤を断つことは自分に何らの報酬も与えないからだ、自分の「がんばりました」的な報酬など、薬物でブーストされた報酬の量に敵うわけがない。
ここに何が暴露されているのか、冷静に考えれば明らかなことだ、この生きものの仕組み、報酬に向けてしか動けないという仕組みについて、つまり「報酬はクソ」と気づかないかぎり、人はいつまでも生きものの仕組みに振り回されるのみだということ、つまり人の意志なんてないし、人のこころとか、魂とか、性格でさえ存在しない、ただ「報酬」という一点に向けて操られているだけのあわれな生きものだということだ、そこまで「報酬」というシステムに合意したわけでもないのに。

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Anywhere Is

ンヤの Anywhere Is という曲がある。
YouTube から当該作のMVを観るとわかるが、動画00:08秒のところで、地面にデカデカと「YOU ARE NOT HERE(あなたはここにはいない)」と書いてある。
デカデカと書いてあるのだが、ふつうこういったものは気づかないものだ、気づかないように作られていて、わざわざ読み取ろうとする奴だけに向けてこっそりと埋め込んである(万事そういうもんである)。
時計がぐるぐる回る場所―― "時間" が経過する場所――を示して、その足許に「あなたはここにはいない」と書いてある、誰も気づかないのだからそんなこと書かなくてもよさそうなものだが、そう書いておかないとMVの意味がないのだ、わけのわからない印象的な映像なんか作ったりしない。

MVは始終、登場人物(エンヤ当人)が、「時間」の向こう側へ行こうとする表示を見せる。
動画02:48秒時点、これこそ誰も気づかないように示されているが、「NOW IS NOT THE TIME」というスクロールが円弧状に流れる、この英文はさしずめ「 "今" というのは "時刻" のことではない」と読むべきだろう。
つまり、「時間が流れる場所にあなたはいない」し、「時間の流れる場所に "今" もない」と読み取られて、すべては「時間」という思い込みの向こう側が何かの場所が( Anywhere Is )ありますよというメッセージに見える。
もちろんこれらを、「わけがわからない」、意味ありげな雰囲気だけの印象映像と見ることもできるので、そのあたりの判断は各人に依るしかない、僕はさしあたりエンヤの言っていることより、最近流行の煽り運転おじさんのほうが「わけがわからない」と思える/煽り運転おじさんが「リアル」だと僕もわかるが、煽り運転おじさんが「真実」だという気は、僕にはあまりしない。

あなたはここにはいないし、今というのは時刻のことではない。

だから「どこかが」あって、「どこかが」聞こえていたり存在していたりするということだが、そのようにおれが言っているのではなくて、エンヤが言っているのだ、本当かどうかはおれも知らん。
ただどうしてもわれわれは、エンヤの言っていることが「マジだ」とは思えないのだ、それよりはニュースで報道されている煽り運転おじさんや恫喝タレントのほうが「マジだ」と確信されてしまう、どちらが確信すべき真実かなど誰にもわかりっこないが、さしあたり各人においてどちらが信じられているかということにはごまかしが利かないようだ/そりゃ「マジだ」と思えてしまうものは自分にだってどうしようもない。

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主体(天)と主体(地)の、それぞれで起こる身体の現象
うでもいい話だが、おれが何かに気づくかもしれないので話すと、主体(天)に属して万事を営んでいるときと、主体(地)に属して万事を営んでいるときでは、身体に起こる現象が違う。
わけのわからない書き方をしているが、もうだいたいおれの話なんてわけがわからないのだ、念のために書き足して置くと、主体(我)に属して万事を営んでいるときは、実際には何も営めていなくて、血・遺伝子が盛(さか)っているだけだ、主体(我)で何かを営もうとしてもその大半はただの呪いになってしまう(自我・思念という現象を、生きる力に転用してしまうため)。
うーん、わけがわからないにもほどがあるな、まあ別にかまわんだろうと思うので話を続けるが、つまり主体(天)に所属して万事の活動をしていると、地からの生きる力が足りなくなるのか、猛烈にネイチャー系や温泉の補充が欲しくなるのだ、地から湧いているものが欲しくなる、欲しくなるというか、もうその供給なしには活動不能というぐらい生きる力の欠乏を起こす。
逆に、主体(地)に属して万事の活動をしていると、温泉は必要ないが、なぜか猛烈に腹が減ってくる、これは上から下にものを入れなくてはいけないということなのだろうか、まだはっきりしないが、とりあえず自宅に帰る前に、100メートル手前のコンビニでパンを買わないと空腹で倒れるというぐらい空腹が起こる、そして食パンを一斤とステーキを二枚食べて直後に「腹減った」と言い出したりする、これがどういう現象なのかはわからないが、とにかく主体(天)と主体(地)のどちらに所属して活動するかで、身体に表れてくる現象はずいぶん異なるということだ、とりあえず面白いなあと思っている。

天にせよ地にせよ、念じていても意味がなくて、実際に身体が「天地」につながる必要がある。
天につながると、自分の行き先・響いているものの先が得られるので、叡智を得たり、自他を導く力を得たりする。
一方、地につながると、自分の由来・突き上げてくるものの元が得られるので、愚昧を吹き飛ばしたり、自他を押し上げる力を得たりする。
天につながると、どんどん天・空間に溶け込んでいって、生きているのか死んでいるのかわからない状態になってゆき、一方、地につながると、どんどん地・歴史が噴き上げてきて、生きとし生けるものをすべて焼き尽くそうとする状態になってゆく/だから何だということはないが、とりあえずおれがブッ倒れそうになっているとき、この二種類があるので、そのときおれの近くにいた友人は、それぞれに見合ったケアをするように……実際おれも、100メートル先の自宅に帰る前に倒れそうなときは我ながら焦ったわ。

下から押し上げているときは上から何か足してくれ、上から引っ張り上げているときは下から何か足してくれ。

そうでないと、本当にぴくりとも動けなくなるのだ、もちろんおれ一人きりでいて他と一切関わらないときには、天地双方につながった状態でいるので、バランス的に安定するのだが、他と関わるときは状況に応じて、自らを偏った状態にしないといけないのだ、その偏りでおれはフラフラになっていくので、そのことをなんとなく知っておくように、こんな話もはや誰に向けて何を言っているのかさっぱり意味不明だが……
なんというか、主体(我)で活動している人は、どこかで必ず「うぬぼれ」と「オピオイド」の供給が必要じゃないか、それと同じように、主体(天)・主体(地)で活動している人も、それぞれに必要とする供給があるのだ、この面白い現象にはさらなるヒミツがあるかもしれないので、さらに面白いことが見つかればまたレポートする。
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体罰に関わる問題
代において、体罰というのは、もうほとんど使えないだろうと僕は思っている、僕の考えなんかどうでもよいことだが、僕はすでに体罰については否定派だ。
 少なくともそれが「体罰」というように、「罰」に見えているのだとしたら話にならない、罰というのは司法によってしか処せないものだから、司法手続きによらない「罰」というのは法治国家においてありえない、体罰に限らず罰金というのも含めて、「罰」というのは司法によってしかありえない。
 それでも便宜上「体罰」としか言いようがないのだろうが、体罰はすでに、局所的なものを除いては否定されるしかなく、体罰が否定されるということは、若年者が救われるということではなく、若年者が救われなくなるということだ、まあそれを承知の上で、僕は現実的な思考から、体罰を否定する立場を採らざるをえない、これは僕の温情ではなく冷酷を示している。
 もしここで、個人的にウソにだまされたくないと求める人がいれば、僕が個人的に、ウソにだまされてはいけないよとお話しすることになるが、あくまで個人的な範疇において、体罰についてブーブー言っている人たちはウソでありインチキだ、本質の問題はそこではない、本質は「寒い人たちの体罰」は目も当てられないのであって、その寒いものと「ナイスガイたちの闘魂のせめぎあい」を比較はできないということだ、よって本当の問題は、われわれが自分たちを「寒い人たち」だと認めないところにある、それを生涯を通して認めることはビンタの一発よりも遥かにきつく重いものだ。

 たとえばここに、「腹から声を出せないAさん」がいたとする/まあ腹から声を出せないといって、大半の人は生涯のうちに一度も腹から声なんか出せないのだけれども。
 このAさんを、「腹から声を出せないAさん」として生涯を定義してしまう前に、唯一の脱出口がある、それはしのごの言う前に、軽く拳をもって、「おい、ちゃんと気ィ入れてやれや」と、その胸を突いてやることだ、そうするとその瞬間にのみ漲(みなぎ)るものがある/もちろんそれをもって、必ずしもすべてのケースで漲るとは限らないのだが、唯一漲る可能性があるのだ、軽く拳をもって胸を突いてやるだけで、その方法しかないし、誰だってそんな単純なことからようやくすべてが始まることはある。
 現代において、体罰はすでに通用しないと僕が考えるのは、拳をもって胸を突くとして、それで彼の全身に危機感と高揚感を漲らせられるという、実際のパーソンがいないということもそうだし、それ以上に、すでに現代における人々の心身の荒廃は、そんなことで好転しないほど進行していると考えるからだ、本当に死んじゃいそうになる人が多くあって、そういう人は本当に、腹から声を出すなんて生涯にわたって「とんでもない」という庇護の中を生きていくしかない。
 Aさんに、「腹から声を出しなさい」といって、説諭のみをもってAさんの体質を変えるのは、どこかの時点からは不可能だ、それで弱々しいAさんを、そのままAさんの個性として保存するという考え方も勿論あるが、そのAさんがその先を、幸福と光輝に満ちて生きていけるかというと、それは誰にもわからない、Aさんは腹の底から笑うことが一度もなく生きていくしかないが、そのことを「しゃーない」というなら、もう初めからAさんに対して何かを教えるとか伝えるとかいうことの一切を諦めるべきだ、AIが判断して適宜情報だけ伝達すればよいだろうし、そういうことにかけてはAIのほうが優秀だろう/僕はそうしたときにどちらが正しいのかを決められないが、僕がただ問いたいのは、「拳で胸を突かれずに生きてきたAさんのことをあなたは愛するのか」ということだけだ、ここですべての問答は窒息するだろう、どうかウソ偽りなしにこの問いにだけ答えてもらいたいところだ。

人を愛していない者が、体罰だけを憎んでいたとしたら、その話は聞き流しておけ。

 別に体罰だけに限ったことではないが、人を愛していない者が何かを宣ったとして、それは人を愛している者が何かに奮闘していることとは性質が異なるのだから、区分して聞き流すことだ、人を愛していない者、何かを愛していない者が、何か正論めいたものを述べてみたとして、それは何も愛していない者の悲憤正論にすぎない、こんな馬鹿げた正論が何の足しになるだろうか?/そしてこの際、急に切り出された "何も愛さずに生きている者" という存在を、改めて異様なものと捉えなおすべきだ、それがたとえ己自身のことであったとしてもだ。
 体罰に関わる問題について、僕は「もう現実的に無理でしょう」と考える、まあ何の立場もない僕がどう考えても、世の中に何の影響もないことだが/腹から声が出ないAさんは、まったくの独力と、ネット検索した情報のみをもって、人格レベルから覚醒し、自己変革に到らねばならないのだ、その見込みの現実的でなさは、「もっと無理だろう」ともちろん考える、誰だってそう考えるから、誰もがそんなミエミエの無理には取り組まない、そうして時だけがすぎ、もう何もかも取り戻せない年齢になるだろう、そうなるともう考える必要もなくなるので、意識は眠るだろう……すべては当たり前で、何の問題もないように見える、何の問題もないように見えるのだが、唯一、Aさんは「愛される」のか? ということだけが残り続ける。
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悪霊の入口は「やることがない」
まざまなニューストピックが、もうトピックの時点で正気を疑わせるので、内容まで知ろうという気になれない。
学校の教師が教師同士で幼稚ないじめ行為に耽るとか、芸能人がタピオカ屋を罵って脅迫するとか、もう何のこっちゃわからない。
ここにある恐怖は、その犯罪性というよりも、「よくそんなヒマなことで、そんなヒステリーのスイッチが入るな」ということであって、犯罪性への恐怖ではなく、その本性の「得体が知れない」ということへの恐怖だ、犯罪性うんぬんよりも、当人があまりにも幸福から遠すぎることが、表面からはわかりづらすぎて恐怖だ。
先日まで「あおり運転」等が、これもまた「よくそんなヒステリーのスイッチが入るな」という恐怖を煽ったのだが、もうこれでは街中も旅先も、同僚も級友も、おっそろしくて気を許せないじゃないか、ハロウィンパーティはまだ先のはずなのに、リアルに魑魅魍魎がうごめいていて現代で言うところの草も生えない。

もうこれらの一切について、事件の正体を、「悪霊が憑いている」としか表現できなくなった。
どのように頭をひねってみても、事件の動機そのものが、まともな経路では発生しえないからだ、それでもう面倒くさいので、一律「悪霊が憑いている」と括るしかないと思える、実際ここしばらくで連続するわけのわからない狂気のニュースは、ぜんぶ「悪霊が大繁殖しています」とアナウンスされたほうがまともに聞こえるのだ、もうNHKから「今日も悪霊のニュースです」と報道してほしいぐらいだ。
そして僕の知る限り、人は生きていて「やることがない」となると、悪霊に入り込まれやすくなるものだ、いくら著名になって裕福になって、権力を得て顔が利くようになっても、根本的に「わたしのやること」がなくなると、人は無力だ、ただ時間が流れて老いていく中をのたうちまわることしかできない、そんなときどうしても悪霊に入り込まれる。
それは、仮に悪霊なんてものがいればという仮想を前提とするが、その上で、それは悪霊の第一の手口なのだ、まずわけのわからないものを肯定させ、そのあとで肯定を取り去ると、「あれ?」となって、その直後に「やること」を失う、このとき大きな恐怖に見舞われるから、ここでサッと別の「やること」を差し入れるのだ、すると人は恐怖から逃れるために、差し出されたそれに飛びつく、そうやって悪霊は人に入りこむ/仮に悪霊なんてものがいればという仮想を前提にしてだけれども、

必ずしも「うつ」の形で現れるとは限らない。

今や、著名人や身の周りの誰もが、「うつ」になったとして誰も驚かないが、「うつ」は神経症(ノイローゼ)の一形態でしかなく、それは必ずしも「うつ」という形で現れるとは限らないのだ、その多種多様な――ときには激烈な――現れ方を捉えようとするとき、観念的には「悪霊」という見方をするほうが、きっと感覚的には正しくなる/仮にその「悪霊」という言い方を採用するなら、すべては悪霊を肯定する前に対処することが大事だ、当人が悪霊を肯定した後では、その悪霊は生半可には出て行ってくれない。
そしてほとんどの悪霊の入口は、自分が「やることがない」というところから生じている、初めは生きるために「やること」があり、いちおうの成功を得ると、今度はその成功を満喫することが「やること」になるのだが、それも一段落すると、そのころにはすでに老い始めていて、途端にこれまでにすべてのことが、まるで肯定感を失って消え去る、すると自分の「やること」が完全に消えてしまう、このとき悪霊が入り込む、だからすべてを超えて自分の「やること」とつながっていることが大事なのだ、そもそも自分の「やること」とつながっていない日々のほうが極めて特殊で危険な状態なのだが、現代はその危険な状態がデフォルトになって、あまりにも多くの人がずっと綱渡りを続けている状況にある。
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年長者の一面は、過ぎた時代へのガイド役
い女性に、「歌の上手い女性歌手って、誰をサンプルにすればいいですか」と訊かれた。
それで僕は、「オリビア・ニュートンジョンとか、カーペンターズとかかなあ」と答えた/「何のクセもなくて、ただ唄っているだけにしか見えないのに、何かが異様に上手い、ああいうのが "歌が上手い" んだと思うよ」。
色んなクセや、色んな特徴、色んな魅力を持つシンガーがいると思うが、ありきたりな話、クセのある人を真似すると、クセだけ似通って自分は行方不明になるので、中央のサンプルはごく正統派がいいと思っている、もちろん歌に限らずなんでもそうだ。
そんなことを話ながら、僕はふと、「年長者というのは、過ぎた時代へのガイド役でもあるのかもしれない」と思った、僕だってオリビア・ニュートンジョンやカーペンターズの時代に直撃している世代ではないのだが、僕自身も誰か年長者に、かつてガイドされたからその名前と歌を知っているのだ。

たとえば「ゆず」というデュオがいて、「コブクロ」や「ケミストリー」というデュオがいた(いる)ことは、二十代の人でも知っているはずだ。
けれども、デュオというと、さかのぼるとたとえば「サイモン&ガーファンクル」というのがいたのだが、これはもう知られていないかもしれない/古いものを再興する必要はないと思うが、連綿と続いてきたものが途絶えているのは、ただの情報のロストでしかない。
ふと、YouTubeで調べてみると、久しぶりに、やはりサイモン&ガーファンクルのハーモニーは異様な荘厳さで、たとえば「サウンド・オブ・サイレンス」とか「スカボローフェア」とかを聞いてみると、やはり今でも「なんなんだこいつら……」と、驚くというよりも何か心胆を寒からしめられる/こういう "デュオ" があったことは、もはや歴史的事実だから、古いとか新しいとかいうことではなく、ただの知識としてつながっていればいいと思う。
われわれは学校の授業で、やれアウストラロピテクスだの、縄文式土器だの、古墳時代だの、墾田永年私財法だのを習うのだが、そういう切断された過去の話ではなく、現在から遡って、「自分が目撃しなかった時代」のことを、あるていどつながって知る必要があると思う/むろん青春の只中でそんなジジくさいことは知らなくてもいいが、僕が思うに、人は青春の次の時期に、その遡行の中で何かに出会う気がする。

過去に戻るのではなく、過去を見て、そこから何を得、何を失っての「今」なのかを知る。

過去から現在に到るまで、「何をしてきて」、現在に到ったのか、そのことがわかるのだ、それは現在が視えなおすということであって、過去に戻るということではないし、懐古するということでもない。
過去を見て、「この時代」というものが視えはじめると、自分の生きている現代も、「この時代」と視えはじめるものだ、そうすることで、今の自分が何をやっているのかが視えるようになる。
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慾望と不安、慾望と満足

美人の、育ちのいい、とてつもなくいい香りがする女子高生か何かが、おれのことを深く愛するために、おれに駆け寄ってきて抱きついたりしないかな、そういうことがあればこの世界はハッピーで祝福されまくりだ。
あとは、とりあえず使う用事はないのだが、無意味に六百億円ぐらい降ってこねえかな、別に使う用事はなくてもそれだけ降ってくりゃそれだけでハッピーだ。
慾望というのは、いいパラメーターで、このパラメーターを開放させたとき、何の不安もよぎらない人が、逆に罪がないということになる/少なくとも、罪を「隠蔽」はしていないということになる。
超美人の、育ちのいい女子高生が、とてつもなくいい香りをまとっておれを深く愛するために駆け寄ってきておれに抱きついたとして、またおれがその少女を好き放題にしたとして、そこに何の不安があるだろう、おれが自家用ジェットを買ってパイロットをやとい、なんとなくドゴール空港まで飛んでみたとして、そこに何の不安があるだろう/慾望というパラメーターを開放した状態で、すべてが視えるかということが問題なのであって、慾望を隠蔽したまま視える人のふりをしたところで、そんなものはニセモノのインチキにすぎない。

ふつうの人は、週に五人も初対面の美少女を抱き、「別に一銭も与えていないし、美人だから下着姿で給仕させたり、おれの靴を磨かせたりしているよ」という状態にもしなったら、どうしても「罪」の感覚がよぎるはずだ。
そして、そこに罪の感覚がよぎるのならば、それはその人にとっては罪なので、やらないほうがいい、罪を覚えながら豪遊なんてするものじゃない/おれは世界中のニワトリに、おれのためにナイスなフライドチキンになってくれと願っているし、ヴィーガンの人たちが言う「動物はごはんじゃない」のスローガンに対しても、「いいや、おれのごはんだぜ」と楽しみにしている。
美少女はおれの慾望のために肢体と魂を献じてナイスだし、ニワトリさんはおれの慾望のためにスパイスをふられて油の中へドボンしてナイスだ、その両者は同じようなことにすぎない、おれは何かを苦しませたり悲しませたりするのはイヤだが、おれは何かを苦しめたり悲しませたりしようとしているのではない、ただ双方におれの慾望のためにヨロシクと言っているだけだ。
慾望を開放したとき、何か「不安」がよぎるなら、それはやはり「罪」を形成していて、罪に罰が報われそうだから不安がよぎるということだ/慾望を開放させたとき……つまり初対面の美少女を裸にして押し倒し、ベッドにいい香りをかぎながら、二億円の宝石を指先に眺め、それらが最高でヒャッホウだと慾望を開放させながら、なおも学門が視えているかどうかが問題だ、慾望に無反応になるとか抑圧するとか、隠蔽するとか禁欲するとかは、基本すべてインチキであって、慾望はビンビンに開放されていながら別のメカニズムが支配しているという状態でなくてはならない、ブッ壊れているのに誰よりも正しく動くという状態でなければ何にも到達したことにならない。

調整している奴なんて、ちゃんちゃらおかしい。

とはいえ、現実的には、その調整というものができないとバカなのだ、ただの犯罪者か、少なくとも近所迷惑の、とっても恥ずかしい奴になってしまう/とはいえ、その「調整」をしながらまともな人のふりをしているのは、基本的に偽装だし、「調整」を長くしていると、もう調整ネジがバカになってしまって、「開放」ということじたいがわからなくなる、だからこそ、すべてのことはそんなにカンタンじゃない。
おれは好き放題にできるガールフレンドは二百万人必要だと思っているし、使うアテのない残高でも四千億ぐらいは最低欲しいと思っているが、このガールフレンドが二人になり、残高が四千円になったとしても、満足度は一ミリも変動してはならない、いかなるときも完全な満足にありながら、慾望をフルオープンにしても満足そのものは変動しないということでないと、慾望を満足度にすりかえようとする愚かさの罪が明らかになってしまう/何が罪かといって、慾望を開放すると、実は吾我の慾望を「信仰」しているじゃないかということが明るみに出て、それが罪だとはっきりするのだ、慾望は慾望としてフルオープンして、なおもそのきらめく慾望を「信仰はしていない」ということが要になるのだ、ここまできてようやく、人は初めて「信じられる人」に出会う。

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この手のニュースに現れてくる或る種の文脈・文体について
しぶりにmixiでニュース記事に日記を書いてしまったので転載。
なぜこの自然豊かな国はバーベキューにさえ行きづらくなっとるんだ、ただちに国家予算の一割をおれの口座に入金せよ。
 
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雑談、夜回り先生「もう疲れました」
ういえば、昔「夜回り先生」というのが流行ったが、昨日(8月21日)、「夜回り先生」がブログを閉鎖したそうだ、その理由は「もう疲れました」とブログ記事に書かれている。
僕は、いつぞや流行ったあの「夜回り先生」のようなものを、趣味としては好まなかったけれど、必要か不必要かでいうと、きっとそれは必要なものであって、また僕には到底真似できないたぐいのことなので、好みとは別に勝手に尊崇はしていた、夜回り先生というのは典型的にダセーと思うが、そのダセーものに救われた人はきっと数多くいるはずなのだ。
「夜回り先生」の最後のブログ記事の書き出しは、「私に相談している人の何人が私の本を読んでくれているのか」だ、この書き出しだけですべてを察して余りあるが、つまり、「夜回り先生」に相談するような人は実は世の中にうじゃうじゃいるのだろうけれど、そうして相談してくる人はたいてい、「夜回り先生」に何らの尊厳も認めていない人たちなのだ、よって「夜回り先生サービス」みたいに扱われて好き放題に利用され、消費されたであろうことは、想像に難くない、きっと誰も「夜回り先生」のこころなんか認めなくなったのだろう。
現代、多くの人がそうしてモンスター化を進めており(僕の言い方だと「獣化」という)、特に理由はないが、「夜回り先生」が「もう疲れました」といってサービスを停止すると、人々はそれを漠然と「クソ」扱いして糾弾するのだ、糾弾には何の理由もなく、ただ獣化した人による現象と言うしかない。

「夜回り先生」がブログ閉鎖を告げる前の記事は、一週間前、8月14日の記事だ、その記事は「相談件数が急激に増えています」「主に女子中高生が "死にたい" と死を語るものです」となっている。
このわずか一週間後に、「もう疲れました」となっているのだが、本当にもう疲れ果てられたのだろう、僕は勝手に「夜回り先生」当人が人格の成熟した方ではないと思っていたが、それでも常に単独の生身で最前線に接触しているというのがどれほど壮絶なものかは想像がつくので、おいたわしいという感情は湧く、どうかお気に入りのキャバクラの女性が多めにサービスしてくださりますように……単独で毎日、数十も数百も届く死にかけメールに誠実に応答するというのはふつうの人間にはこなせないことだ、数ヶ月はできても数年はムリだ。
昔、ネット上のジョークの言い方で、「ガンジーが助走をつけて殴るレベル」という言いようがあったが、それになぞらえれば、今リアルな意味で「夜回り先生が夜回りをやめるレベル」に到達したということだ、どう考えても何かまずいことが進行しているのだが、そんなことを俎上にあげても、すでに獣化は進行しているので、とにかく自分は悪くなく誰かがクソだという自動攻撃しか湧いてこない。
「夜回り先生」の記事、「私に相談している人の何人が私の本を読んでくれているのか」という言いようは、つまりどれだけ「ないがしろ」にされているかを暗に示していると思うが、われわれはどうしても、夜回り先生が二十年に亘って続けてきたことには何も思わず、自分が二十分に亘って気持ちを昂ぶらせたことにだけ巨大な評価を与えてしまう/僕は女子中高生が日夜「死にたい」と感じているのならそれをそれなりに悲しく思うが、それ以上に夜回り先生が疲れ果てたことをいたわしく思う、僕は夜回り先生のようなオッサンを好みはしなかったが、かといってこんなに粗略に扱われるべきオッサンだったのかね? 僕は道義を疑う。

夜回り先生の元に、「おっさん、大丈夫かよ」と労るメールは、全体の何パーセントぐらい届いたのだろう。

メディアにも出ている有名人だったから、相談の件数は多かっただろうが、その届くメールの中に、「テレビで活躍しているのを見たけど、おっさんスゲーよ、でも無理すんな」というメールはどれぐらい含まれていたのだろう/そして、そういうメールが一定数飛び交うようにならないと、女子中高生の「死にたい」は止まらない、止まるわけがない、なぜなら「死にたい」のが正しいからだ、そんなもんおっさん一人が夜回りしたところで解決できるわけがない。
ひょっとして、「夜回り先生」のところには、本当に相談の用事「しか」届かなかったのかもしれない、そんなことふつう人の世にあってはならないことだが、現代においては大いにありうることだ、われわれはいつのまにか、自分の使用するPCが老朽化して動かなくなると大きな問題を覚えるが、夜回り先生が老朽化して動かなくなっても何も感じなくなってしまった。
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「消費する」という体質の完成
うやら本当に、「楽しい」と思っている人が、数多くいるみたいだ。
そりゃ、楽しいし、すべてのことは、楽しくないと話にならないのだが、「楽しい」なんて片腹痛い、おれはずっと夢と青春と命と魂を投げ出さないと意味ねーと思っている。
本当に、「楽しい」なんて、思っている人がいるんだな、まあ情報がゼロだとそういうものなのかもしれない。
何にも感動したことがない人が多くいるはずだが、「何にも感動したことがないです」と自ら言う人はとても少ない、おれがそのことをとやかく言わないのは、ただおれ自身がそんなことに構っていられるほどヒマじゃないというだけでしかない、誰も何もわからずニコニコしているのは他人事として不思議だ。

「楽しい」、つまり、「消費する」という体質が、一種の完成を迎えたのだと思う。
「消費する」ということ、おれはそのことを、数年前、他人事なので放置すると決定した、その先どうなるのかは知らなかったが、放っておくとあっさり「完成」してしまったようだ、なぜこのことに抵抗のさざなみさえ起こらなかったのかはまったくナゾだ。
消費する、という体質が完成してしまったので、いざ消費してはならない空間に立たされると、自身の全身のフォーマットが、もはや何もできない形で完成しているのがわかる、一ミリでも動けばそれは、そこにある命・魂を消費して自分が「エンジョイ!」することにしかならない。
おれは消費「される」側に回ったのだが、理論上、心身は摩滅していくにせよ、命と魂は永遠のはずだと考え、その理論上のことを鵜呑みにしてみたが、鵜呑みにしてみたら本当にマジだった、そんな思いがけない数年を、おれは生きていることになる、もう誰もおれに興味を持つことはなくなったが/心身は摩滅する、消費される、けれども命と魂は永遠だ、これはイイ話をしているのではなく、実際には悲壮な話をしている、ただおれはもうほとんどのことに慣れてしまった。

消費「される」側が正しいが、現実的にはオススメできない。

よくよく考えれば、おれ自身、なんでコイツ死なねーんだろうと不思議に思っているぐらいなのに、こんなことを他人にオススメできるわけがないのだった/唯一の正解と思える道筋が、現実的にはまったくオススメできないという状況、この閉塞状況に難儀している、むしろ「絶対にやめとけ」としかおれには言えない。
昔ほど夕焼けは赤く染まらなくなったような気がしてならないが、いよいよ空も、インスタ用に消費されるのがバカバカしくなってきたのだろうか? と、「んなアホな」というジョークでごまかしておきたい、もう誰もおれに興味を持つことはなくなったし、夕焼けに興味を持つこともなくなった、それは「消費する」という体質の完成を意味している/消費される夕焼けの側が正しいのだが、そんなこと現実的にはオススメできない。
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矛盾かつ無責任な発言
「世の中」という機能は存在していない。
119番すれば救急車が来てくれるし、それに助けられることもあるが、それにしても、「世の中」なんて機能は存在していない。
言っていることが明らかに矛盾していると思うだろうが、それでかまわない、矛盾かつ無責任の発言だ、それでも本当のことを手放すな。
戦争がうそっぱちであるように、救急車もうそっぱちだ、そのうそっぱちが「世の中」だ、このすべてをうそっぱちだと見抜けないかぎり自分の命は得られないだろう。

おれは自分の命にしか興味がない。
自分の命のほかに、自分の命たるものはないからだ。
世の中に指示されたようには、小指一本だって動かしてやるつもりはない、正しい譜面があったとして、そのとおりにドラムを叩くことは決してしないだろう、おれは自分の命にしか興味がない。
世界が何であるかは、おれが決める、だっておれが生きているのだから、おれの生きる世界はおれしか決めることができないだろう、すべては「世の中」といううそっぱちを見抜くことから始まる、善人は「世の中」に感謝することで生涯のすべてを失うだろう。

「世の中」は「迷惑」と同義語だ。

おれのやることに誤謬はない、なぜならおれのやることがおれのやることだからだ、おれが愚かなことは大いにありうるが、おれがおれである以上、その愚かさを誤謬ということはできない、湖に落ちた羽虫が溺れて魚の餌になるのは傍目にあわれなことではあるが誤謬ではない。
おれがおれを修正することはできない、修正されたものはもうおれではないからだ、だからおれが何かになるしかない、おれをおれでなくしてそれを改善だの修正だのあるいは成長だのと言っているのは甚だおかしいだろう、世の中というのはまったく「おれ」を消す装置でしかない。
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クラシックは「はっきりしている」から偉大だ

とえばピアノという楽器一つをみても、リストやショパンやラフマニノフなど、クラシックの連中はド天才なのだが、なにがド天才なのだろうと考えて、「そうか、はっきりしているのだ」と気づいた。
僕には音楽経験がロクにないし、音楽のセンスがあるとも思わないのだが、あくまで僕の個人的な感じ方として、たとえばリストの曲を聴くと、「この楽器からそんな音出ますかね……?」と疑わしくなってくるのだ/ショパンにしてもそうで、「この楽器からそんなに極端なバリエーション出ますかね……?」と首をかしげてしまう。
それに比べると、たとえばオシャレバーに行って、そこでオシャレジャズみたいなピアノがひっそり鳴っていると、なんというか、スタンダードナンバーやポップスを、ブルーノートコードで弾いているだけじゃないですかね、みたいな気がしてくる/それはそれで、オシャレバーというのはそういうものなのだからかまわないのだろうが、なんとなくおれ自身は、そういうのはイマイチつまらないなと思うのだった。
かといってもちろん、人が酒を飲んで与太話をしようというのに、横で英雄ポロネーズをがっつり弾かれたら困るのだが、とにかくクラシックの何がすごいかといって、あまりにも「はっきりしている」からすごいのだと思うようになった。

たとえばベートーベンの「月光」なんて、誰でも知っている曲だし、弾ける人にとってはそんなにむつかしくないのだろうが(第三楽章は除く)、それにしてもたかがピアノひとつで、「なぜそんなにコッテリした明瞭な世界が出ますかね?」と不思議になる。
そして、それが月光なら月光で「はっきり」しているということは、ある意味で「ダサい」ということなのだ、なぜダサいかというと、それはオシャレの反対だからだ、そしてダサいからこそすごい、偉大だということになる。
どんなものでも、あいまいに暈かして、意味をあるかないかにしてしまえば、オシャレふうになるのだが、クラシックはその真逆を行っている、だからすごいし、ダサいのだ、それが単なるダサさにとどまらず「偉大」にまでなるのは、もう音の向こうに「世界」があることを証してしまっているからだ、漠然としたあいまいな感触やニュアンスがあるのではなく、「世界」があるわいゴルァ、と証してしまうから、そこがエグくてスゲえのだった。
なんというか、「はっきりさせる」というのが、実は最終的に一番むつかしいのだと思う、どうしたってジェームスブラウンのほうが奥田民生より「はっきり」しているし、「ゼンダ城の虜」のほうが、村上春樹の小説より「はっきり」している、それはオシャレとダサいで分類するとダサい側なのだが、どちらがスゲエかというと、やっぱり「はっきりさせる」ことに成功しているほうがスゲエのだと気づいた、僕もぜひそちら側へ行き着く者でありたい。

あいまいでいる権利は、一般にはあるが、おれにはない。

物事や表現をあいまいにすると、オシャレに見えるし、何か奥行きがあって、思わせぶりでミステリアス、そしてカッコいい、ふうに見えるのだが、それはけっきょく、少なくとも僕自身を満足させるたぐいではないようだ、ジャズならジャズでビルエヴァンスのように「はっきり」とジャズならスゲエと逆に思うが、大半のオシャレふうのサウンドより、僕はケンタッキーフライドチキンのほうが偉大に思える、ケンタッキーは「はっきり」しているからなあ。
あいまいでいるのは、実は奥行きがあるのではなくて、単に「未決定」が大量にうごめいているだけなのでは、という気がする、優柔不断の物理的カタマリのような、そしてそうしたものが、一部の女にウケが悪く、一部の女にウケがいいのだ、そしておれはこのことにウケのいい女にあまり興味がないというか、おれは前者の女に愛されないと魂が萎えるのだった/この「はっきりしている」というのは割と特殊な感覚なので、ひょっとすると女の愛にもクラシックに向かう奴とモダンに向かう奴があるのかもしれない。

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「ほどほど理論」は破綻しているように見える
ういえば先日、参議院選挙があったのだった、芸能事務所の騒動と重なったこともあり、まったく何の話題にもならなかったな。
もういちいち、各党のマニフェストなんか見ていないが、ふと想像するに、どの政党だって何かしら、国民の生活を向上することを公言しているはずだ、今回はきっと、子供が作れる日本へ、みたいな文言が多かったに違いない。
一方で、僕は思うのだが、現代のわれわれがイメージしている「国民の暮らし」というのは、四畳半一間に小さなテレビを囲んで四人が雑魚寝している、そして首振り扇風機が風を送っている、というイメージではないはずだ/今イメージされている「国民の暮らし」というのは、大人も子供も自分の部屋を持ち、各部屋にはエアコンがついていて、各人はスマートフォンを持ち、Wi−Fi通信は無制限で、映画配信サイトに課金しており、男の子はPCとゲーム機を持ち、女の子はおしゃれな服を化粧道具を持っているというイメージのはずだ。
国民の多くは、特に若い世代はそうだと思うが、これをもって「ほどほどの、華美でない暮らしがしたい」と望んでいるのだと思う、だからこそ、「快適ていどに働いて、よいライフワークバランスの中を生きたい」とも思っているのだろう、だが問題は、その生産力でイメージどおりの暮らしの消費を賄えるかどうかだ/かつての人々は、新婚旅行というと箱根や伊豆や南紀白浜に行ったそうだし、それ以前は新婚旅行というと「三本立ての映画を観に行く」ということだったそうだ、座席が硬いから自分で座布団を持ち込んで……現代のわれわれが「華美でない暮らし」というのは、そういうイメージではないだろう、今さらそんな生活水準に戻れるはずがない。

一方で、現代の少年が、かつてのように「ぼくは新しい飛行機を設計したい」「ぼくはすごいお医者さんになる」「総理大臣になって日本をすごい国にする」「ぼくは昆虫博士になって世界中で新しい虫を発見したい」と、少年の精気あふれる夢に満ちているかというと、そんなことはないのだろう、おそらく「大人気のYouTuberになりたい」とか「プロゲーマーになりたい」とか「アイドルになりたい」とかのほうが多いのではなかろうか。
われわれの現代の、「華美でない暮らし」は、それでも爆発的消費の継続を土台にしているのだが、一方で人心の志はというと、「爆発的生産の旗手になりたい」という方向にはまるで向かっていない、つまり町工場からホンダを創った本田宗一郎のようになりたいとは誰も思っていない、むしろ大人になれば全員が「ほどほどに働きたい」と思う風潮だが、全員がその「ほどほど」をのんびりこなしたとして、われわれの「華美でない暮らし」は本当に賄えるのだろうか/そのことに言及する政治家は誰もいない、そりゃあそんなことに言及したら誰も票を投じないだろう、だからもっと、とってつけたようなわかりやすさの公約をぶらさげて立候補者は選挙に立たざるを得ない。
それぞれの政党や政治家が、LGBTの差別解消や禁煙区域の拡大を公約にかがけたとして、たとえそれらのすべてが実現されたとしても、もっと大きな課題として、われわれの生活の消費と生産が建設的に釣り合うということはこの先に成り立つのだろうか、もう青少年の誰も、「自分が大人物になる!」とは思っていなくて、YouTuberになれないなら「ほどほど」でいいやとしか思っていない中、いったいどこの誰が爆発的生産を担うのだろう/もし中国の青少年らがこぞって「自分が大人物になる!」といって猛勉強を始め、自動車やレンズの製造について日本の技術に並ばれたら、もう世界中の誰もメイドインジャパンの製品を買わなくなるのだが、それでもわれわれの求めるところの「華美でない暮らし」が成り立つ道理はどこかにあるのだろうか。
件の芸能事務所の騒動が延焼して、給与の取り分がここにきて取り沙汰されているようだが、その話の進みゆきにしても、なぜか全員が、商品の価格相場は需給のバランスで決まる、という原則を忘れているように見えてならない、お笑い芸人だって供給過剰になれば個々の価格はダンピングせざるを得ないのが経済の仕組みだ、われわれはカタギの人間として、身内の結婚式に百万円出してお笑い芸人を呼びたいとはふつう思わないし、近所でお笑いのイベントがあったとしても、一万二千円を出してそれを観たいとは思わない、僕のこのブログだって一日に十円でも課金されたらほとんどの人は読むのをやめるのじゃないか? どうもいつからか、富の生産と消費という感覚が失われ、需給のバランスがあって生産者と消費者があるという感覚も忘れられ、漠然とした金銭だけがどこかから降って湧いてきているようなイメージが起こっているような気がしてならない/われわれがこのごろ、「もう吉本興業製の商品は要らないかな」と思い始めているように、世界中の人に「もう日本製は要らないかな」と思われているのだが、であればわれわれが吉本興業に「もっとこうすればいいのに」と思うように、われわれ自身に対しても「もっとこうすればいいのに」という idea があるはずだ、そして政治家というのは本来、そうした idea を理念として打ち出して立候補するものでなくてはならなかった、目先の話題をこねくりまわして注目を浴びてトクをしようという発想では成り立たなかったはずだ。

吉本興業の経営者をすげ替えても、お笑い業界は復興しないだろうし、日本の政治家をすげ替えても、日本は復興しないだろう。

日本の青少年たちが、初めから万事を「ほどほど」にしようと決めていることが、日本の沈滞と没落を約束しているように、吉本の若手たちだって、初めから万事を「ほどほど」にしようと決めているのだから、この先には沈滞と没落が約束されているだろう、過激な行動によって騒動を起こすYouTuberはたくさんいるが、鮮烈な情熱に燃え続けている誰かは見当たらない、僕としては誰かの単発の過激行動を観ても何が慰められるのか感覚的にわからない/われわれは自分が為すことに対しては万事の低温を前提にするのに、自分が与えられるものについては十分以上の高温を疑いなく請求する、この偏りを背後にした「ほどほど理論」は破綻しているように僕には思えるのだが、これは僕の計算がトンチンカンなのだろうか。
先日の参議院選挙において、各立候補者から何が主張されたのか、僕はまったく聞いていなかったけれども、今政治家が国民の声に準じるということは、国民の「ほどほど理論」に準じるということに他ならないと思う、すべての政党は「差別なく、快適な、みなさまのほどほど理論を充足させてみせます」という論調にならざるをえないと思うが、それが本当に成り立つという計算を背後に立てている人はいるのだろうか、「それぞれが大人物になってみせるという情熱に到らなければ国は没落して当然ですよ」とは誰も言わなかったはずだ。
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作品と人の遠近
品には、何かしらの作中世界というものがある。
人間関係には、人間関係中世界というものはない。
ほとんどの人にとって、自分の「作品」というものは、まず生涯にひとつもないものだし、もしあったとしても、それはとても特別なものだ。
ほとんどの人はつまり、人間関係と人の目を気にするという、つまり「人の世」を生きているのであり、「世界」を生きているわけではない、もし「世界」を生きたいと望む人がいたら、その人はさっさと「作品」が特別ではなく当たり前の根性と実態になるべきだ、それは技術やレベルの上下とは関係ない。

仮に僕が、作詞作曲したり映画を撮ったり、絵を描いたり、洋服をデザインしてみたり、写真を撮ってみたり、歌ってみたり踊ってみたりしても、誰も何の違和感も覚えないだろう、それが上手いかヘタかに係わらず/つまり僕にとって「作品」というのは日常のことであって特別のことではない。
このことに、思いがけず個人差が大きくあるのだ、どこかの急成長会社の大金持ちが、成功者として無制限にレジャーを楽しんでいたとしても、彼が己の「作品」をひとまとめに打ち出してくることはないし、田舎の気難しい近所づきあいのババアがいきなり「作品」をぶっこんでくることもない。
己の作品のレベルなんて誰も気にしていないので、作品なんか好きにしたらいいのだが、より核心の問題は、誰から見てもその当人が、「作品」という営為から近いか遠いかなのだ/もし近所のヒマなおじさんが急に音楽教室に通って作曲を勉強し、自分の曲を作りはじめたら、それは実に「頑張って作曲している」というふうに見えるだろう、それは作品から彼が遠いということだ、一方でたとえばポールマッカートニー(ビートルズのヴォーカル)が五線譜に何かを書いていたとしても、それはただそこにポールマッカートニーが座っているだけで、わざわざ「作曲している!」とは見えないだろう、それは彼が作品に限りなく近いということだ。
「作品」に関わって生きようとするとき、必ず魂の問題が出てくるのだが、その魂の問題は、レベルの高低ではなく、まず距離の遠近として現れてくる、この距離を詰められる人がまずほとんどいないのが実際のところだ、ほとんどの人は生きているうちに何かの業者になるだけであって、作品と己の魂の距離は縮まらない/そういう人は業者として知人と人間関係をやっているほうが「自然」になってしまい、作品というのもしょせん業界と人間関係の中にひねりだされた姑息イベントでしかないものになってしまう。

作品が新しい必要があり、イベントが新しいようでは作品から遠い。

どういうことかというと、たとえばあなたが絵を描いて個展を開くとして、そのイベントが自他ともに新しいイベントの感じをもって気分を盛り上げるのだとしたら、あなたは絵を描くというような作品の営為からまったく遠いということだ/故マイケルジャクソンにとってダンスは何らイベントではなかっただろうが、それは彼がプロ(職業)だったからではなくて、彼の魂が作品と合一していたからだ、距離がゼロだったのでそれは何のイベントでもなかったということ。
この視点をもって、周囲を見直してみると、まったく別のものが見えてくる、誰かが何かの「作品を創りました」と言ったとして、そのことが何の違和感もなく聞こえる人と、明らかに無理があると聞こえる人がいる、その違和感の程度は、それぞれの魂が、「作品」か「人間関係」かのどちらにどれだけ寄っているかを示している/むろん人間関係そのものが悪いわけではないが、人間関係というのはそもそも魂のものではないと僕は思っている。
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