☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「地球外生命体っているんですかね〜」「お前さぁ……」

球外生命体はいるのだろうか、というネタで、話が盛り上がるとき、いやそんな話で盛り上がるときなんて実際にはないけれども、このネタについて僕はいつも思うことがある。
地球外生命体というのが、いるのかいないのかは知らないし、どうせ知りようもないのだから興味もないのだが、もし「いる」となったら、それはもうきっと、宇宙にぎっちょり、有象無象にひしめいているぜ/地球外生命体が「いる」とかいうレベルではなくて、タウンページの何億倍も、リストに書き切れないぐらいいるぜ、その中で地球の存在なんか忘れ去られるぐらいだ。
どうもこの、「地球外生命体はいるのだろうか」というネタについて、発想の根本のあさましさというか、増長を感じて気に入らない、全宇宙は全体がメガロポリスみたいに生命体だらけで、地球もその中の小さな一部屋にすぎないという可能性を考えないのだろうか、その視点からいえば「地球外生命体」という言い方そのものがヘンだ、まさか太陽系しか宇宙がないとでも思っているわけでもあるまいに。
なんとなく、「地球外生命体」というのではなく、宇宙全体がアホみたいに生命体まみれだったとすると、われわれ地球の住民としては「夢がない」と感じられるのだが、僕はどうせ仮想するなら、その夢のない仮想が好きだ、「何が地球外生命体じゃ、アホらし」「これだけ生命体がひしめいている宇宙で、よく地球限定の視点なんか持てたな」「新宿で電球を自慢しているぐらいアホだぞ」/単に観測しえない宇宙全体のことを考えるにしても、「生命体でぎっちょり」という可能性を持ち得ないのでは知性として何かがマヌケだ。

宇宙は広すぎるので、というか、宇宙のエリアに比べると、三次元で最速たる「光」の速度が遅すぎるので、どうせ他の生命体とは接触できないに決まっているが、もし生命体が単なる偶然の産物ではなく、何かしらのインテリジェンスの作用が及んでいるのだとすると、そりゃもう宇宙は全体が生命体でぎっちょりだろう、この宇宙に恒星(太陽)の数って、400,000,000,000,000,000,000,000個もあるんだぞ、この恒星系に惑星が複数個くっついているんだから、もういくらでも生命体スポットはあるだろう/仮に太陽2000億個にひとつ、生命体のある惑星が生じるにしても、宇宙全体では2兆個の生命体惑星があるということになる、その中のひとつでしかない地球が、ことさら「地球外生命体!」などと言い出すのは、何か気恥ずかしくてイタい話だ。
だいいち、われわれが知っている「惑星」って、もうけっこう前にボイジャーが頑張って海王星ぐらいまで見に行ったのが限界じゃないのか、そんな情報量で地球外生命体を考察しようなんてどう考えても片腹痛いぜ/太陽系をがんばって調べましたというのは、宇宙全体の広さに比べると、まるで世界中のすべての書物を知ろうとするのに、「五十音で、あいうえお、かきく、まで覚えました!」と言っているようなものだ、人類の歴史をフル出力してそのレベルだから、もう初めからムリなのだ、人為以外の何かが用意してくれた量子テレポーテーションでも起こらないかぎり、われわれが他の恒星系の惑星のことなどを知る方法はない。
ところで、それに付随して思うのだが、われわれは聖書や仏典やその他の聖典や神話を読んだとき、それがわれわれの知る地球の歴史と整合しないので困惑するのだが、それは聖典や神話に書かれていることを、地球限定の出来事だと勝手に決めつけているからではないか? もしわれわれの魂に「輪廻」というようなことが本当に起こるのだとして、その輪廻が地球上だけで起こるとは限らないじゃないか、この宇宙が生命体でぎっちょりなら、他の恒星系や、場合によっては他の銀河、他の宇宙(マルチバース)に輪廻するという可能性もある/また、UFOとか宇宙人襲来とかいう前に、他の恒星系から輪廻してきた魂もこの地球上の誰かには混ざっているという可能性も考えたほうが、まだ説得力があるじゃないかと、僕は仮想にせよ思っている。
聖典や神話には、「んなアホな」と言いたくなるような話も混ざっているのだが、それが「んなアホな」と聞こえるのは、われわれが地球のことしか知らないからであって、ヨソの恒星系から輪廻してきた魂がレアケースとして混じっているなら、神話に書かれているようなことも実際にあるかもしれないではないか/われわれはあまり自分のことを賢いと思わないほうがいい、古代ギリシャ人が根拠無く言い張った、「完全数496は宇宙創世に関係がある数字」というのが、まさか現代に来て「マジだった」と知らされるとは思っていなかったし、古く仏教において「十方世界」と書かれてあっても、この宇宙は10次元+時間次元という最新物理学に今さら驚かされているのだから、われわれの常識なんていつも何も賢くないのだ/宇宙には生命体がぎっちょりで、魂の輪廻は地球に限定されずあちこちに行くこともありまっせという、夢のない仮想が僕は一番しっくりきて好きだ。

地球外生命体は「いる」と主張する人こそ、それを地球外だと "珍品扱い" しているのがヘンだ。

もし地球外生命体が「いる」のなら、それはぎっちょりいるのであって、「珍しいもの」という扱いではないはずだ、そちら側の人こそ、地球を主格扱いする気持ち悪さをやめるべきではないか、自分たちの乗っている船以外はすべて海賊船に見立てるというのは精神的にどうかしている/地球外生命体は、「飽きてつまんねーぐらいいる」と言い換えてはどうだろうか。
ずっと前から、人は猿から進化したというダーウィンの説について、それが聖書の表記と異なるということで揉め事が起こっているのだが、それだってたまたま地球の猿に、はるか遠くからアダムとエヴァの魂の断片が輪廻してきて、その結果として猿が二足歩行する「人」になっていったということなら、つつがなく説明がつくのじゃないのか、まあそんなことはどうでもよくて、こんなところで戯論を言い立てていてもしょうがないのだけれど/誰の何にも関係ない、まったく意味のない話をしてしまった、うーむ反省はしていない。

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空前のオナニーブームにおける女性
らゆる国と地域において、性的コンテンツの摂取には年齢制限が設けられている、R18などの指定がそれだ/なぜ年齢制限が設けられているかというと、人類の経験的知識から、学ぶべきを学ぶ前に性感への耽溺を覚えると、引き返せない痴愚になってしまうことが知られているからだ。
では、年齢制限を設けたからといって、それによってすべての人が「学ぶべきを学んでから」性感への耽溺を覚えたのかというと、そのことは定かではない、多くの人が自分自身について「わたしは学ぶべきをすでに十分学んだ」とは断じがたいものだ/よって年齢制限というのも、投げやりに「自己責任」に押しつける以上には確固たる機能を誇ることはできない。
第一、R18指定を真にうけて、十八歳になるまでダウンロードをしないというような人はいないのだから、現代のわれわれはけっきょく、ほぼノーガードで現代の苛烈な性的コンテンツの渦中を生きざるを得ないというのが実情だ/ビクビクしながら深夜の書店でエロ本を買った旧時代とは比較にならない状況がある。
よって、ここで単純な疑問として、われわれは「これだけの強度と頻度の自慰に、本当に耐えられるのか?」ということに怯えねばならないのだった/われわれが愛や学門に向かうにしても、それは苛烈なオナニーを「やりこなして」の末でなくてはならない、だが多くの人は苛烈なオナニーの時点で引き返せない痴愚になっているという可能性をわれわれは考慮しなくてはならない。

現代のわれわれが、百年前の同国人と比べて、心身を強靭かつタフにしているとはとても言いがたい、どう考えても、何かがヤワになり、脆く、危なっかしく、虚弱になった/にもかかわらず、オナニーの強度だけは、旧時代より何十倍も高くなったはずだ、このことは本当に精神の水面下に重大なクラックを引き起こしていないのだろうか。
僕自身の記憶するところ、生まれて初めてアダルトビデオを観て、ショックで嘔吐した少年がいた、彼はヤワな男ではなかったが、思いがけないところで人は繊細なものだ/一方で現代においては、教師が声を荒げて生徒を叱責するのでも、生徒がショックから不登校になったり精神を損傷したりすることが起こるが、その彼が、液体まみれの不明の触手に少女が犯されている絵を日夜みて自慰していたとして、その水面下に本当に損傷は起こっていないのだろうか、彼はそのことに麻痺なり慣れなりを起こしているだろうが、それはタフでもなく貪欲でもなくて、その麻痺こそ損傷の結果ではないのか。
まして現代では、同様の苛烈なオナニーを、女性もかなり一般的にしているという状況がある、この前提を基にわれわれは本当に現在の「女性」を捉えられているのだろうか/ありていにいえば、現代の女性は、語らずあるいは自覚もなく、強力なオナニストという事実が潜行している可能性もあるのだ、われわれは著名なアイドルタレントのすべてがオナニーの実情を急に公開し始めないかぎりはこのことの真相を知ることはできないし仮定にも認めることがしにくい。
多くの女性の引き出しに、愛し合った彼との手紙のやり取りが保管されているというケースはすでに少ないだろうが、一方でPCの保存フォルダには、苛烈で多種多様な「オカズ」が大量に保管されているかもしれない、事実としてそのような女性はそこから急に愛や学門を拓き進めていくことができるのだろうか/われわれは現代において、女性を単純で強力なオナニストと仮定して眺め、状況や様相を捉えなおす必要がある。

アメリカ人女性の肥満者割合と同程度に、日本人女性はヘビーオナニストかもしれない。

ちなみに僕自身は、男性でもあるし、この時代いくらでもコンテンツがあるので、好き放題に自慰するが、その「オカズ」を漁ること共々、僕は己に制限を課したり、禁欲やストイシズムを試みたことはない、僕は好き放題にオナニーした上で、いつも愛のことを考えている/そしてどのような苛烈な刺激物を見せられても、それで性的嗜好が歪むということは起こらないし、そもそもオナニーに関連する性的嗜好で、実際の女性を眺めるということは起こったことがない。
つまり僕は、ノーガードでこの時代の、「苛烈なオナニーをやりこなし、その強度に耐えている」という実物になるが、最近になってこうしたことが、誰にでもできることではないということを知った/僕はどれだけの強度のオナニーをしても、女性に向けて愛より性欲が先行するということはないが、それはきっと特殊なことで、女性の側はどうだろう、女性は現代の苛烈なオナニーをやりこなして耐えられるのだろうか。
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男型の愛と女型の愛、そして老人の性欲
というものは、自己愛ではなくて、全体の幸福と豊かさに愛を傾ける、そういうものでなくてはならない、この愛を男型の愛と呼ぼう。
女というものは、そうした男型の愛の持ち主を、まさに愛の持ち主だとこころ打たれて、無条件で愛するようでなくてはいけない、この形の愛を女型の愛と呼ぼう。
こうしたことで、男というのは、大前提としてかわいい女の全てを愛していなくてはならない/女から男への愛は、給水のラインであって、男から女への愛は、スプリンクラーのごとくでなければならない、この形を安易に逆転させることがあってはならない。
男が安易に「君だけだよ」と言えば、荒れて性質の悪い女はほだされるというか好んで合意するが、そうして都合をよくしあったものが、けっきょくは互いを軽蔑しあう感情に行き着くのだ、男はバカでなくてはならず、浅知恵で女の希望に沿うと女は当の男を根こそぎ軽蔑するのだった。

このところ、女の勘が悪くなって、自らの手で男を、己の軽蔑するタイプへと押し出すことに、悪霊じみて長けているところがある/近頃で女と付き合っている男にろくなのがいなくなるのはこのせいだ。
男は男型の愛をもつから男なのであって、この男型の愛に女型の愛で反応しているうちが女も女だ、最近は誰もこの反応が悪くなり、男も女もまず可能性を失ってから交流しようとする、このことについては最近の女性はとんでもない無能になっていると認めざるを得ないところがある。
男をまず男型の愛から引きずり下ろして、それからどっこいしょと付き合おうとするから、男もみじめだし、女もとっくに醜いのであって、そこからオスがメスの乳でも揉もうものなら、そこにはもう老人じみた性欲のやり合いしか残っておらず、何の青春の断片もない。
最近の女性は、ひどく性的興奮に貪欲で、男性がいるとなんとかして自分の性的興奮のオカズにしようと第一にするから、そのような積み重ねの果てに、現在もう女が性欲以前に男に対して恋なり愛なりを向けるということがなくなっている/男型の愛も女型の愛もすっかり枯渇していて成り立たないのだが、代わりに老人じみた性欲しか交換されていない現状については、より責任の大なるは女性の側にあるかもしれない。

愛を向けているのに、性欲だけを返してくるのはやめてくれ。

この嘆きと請求は旧来、女から男へ向けられるものだった、しかし現在は女性の男性化が進んだため、女性も痴愚の男性と等しく、常に性的興奮とオカズを探す発想しか持たなくなっている/男性は歴史的に、この痴愚について踏み止まろうとする知識を与えられているのだが、ごく最近に男性化した女性は、歴史的に知識を与えられていない、だから本当に何の歯止めもなく、平気で男性を性的興奮のオカズに見立てて良心の呵責が一切ない。
しかも男の場合、性欲のことしか考えていないというのも、まだ自覚的で笑いどころがあるのだが、女の場合、自分でそのことを認めないからずっと無言で男性を性的興奮のために眺めているのだ、その点で女性が自分を愛ではなく性欲の主だと認めることはまずないだろう/一部の男性は、今も必死で女の子たちを愛そうとしているのだが、そのことごとくを無数の無言性欲で包囲して啄むのをやめてくれ、もはやそこに必要なのは愛ではなく、男型の愛を尽くそうとする者へ覚える義のこころなのだった、彼を平気でむしり殺すな。
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明朗の安定供給タイプと、不明のケンカ腰タイプ
と考えてみると、こんな簡単な分類が出来る。
わたくし、安定供給の九折商店といたしましては、いつもユニーク、いつもユーモアと笑いを尊び、それでいてどこか斬新なideaと、思いがけず煮詰めた知恵などを、明るいソウルと共にご提供しつづけたく、ささやかながら自負なども示したい所存であります、そりゃいつも面白くないと誰もおれの話なんか読まねーだろ……
そこで気づいたのだが、人のタイプとして、僕のような安定供給を第一のモットーにしているタイプと、安定供給などは考えず、なんとなく根っこがケンカ腰、というタイプがあるようだ/僕にはこの「土台ケンカ腰」のタイプが、なぜそうなるのか根本的にわかっていない。
インターネット上では、さまざまな発言が為されているが、その中の多くは、1.土台がケンカ腰であり、2.発信者は自己表示にレスポンシビリティを持たず、3.不満と主張を強く持っており(けっきょく引き下がりはない)、4.根の深い「甘え」の気配があり、5.友人を確かに持たない気配がある、という性質で括ることができる、これは「不明のケンカ腰タイプ」と分類して差し支えなさそうだ、ケンカ腰なのに発想は甘えというところに大きな特徴があるように思う。

それで、だからといって、そのタイプがどうこうと、詳しくなってもしょうがない、僕はただ、「偽りのない安定供給タイプ」をオススメしたいし、自分自身もそのようでありたいと思っている。
「安定供給タイプ」、つまり、「どーもわたしです」と自己を公に表示して、いつもどおりのナイスなブツを、安定供給、いつもどおり、高品質でご提供できりゃ、それだけでいいんじゃないのかと、僕は思うのだ/もちろんその奥に、おどろおどろした怨みや憎しみや不満があるようでは、おっかなくてノーサンキューとなるが……
いつ見ても、中川家もサンドウィッチマンも、面白い空気を爆裂させてくれるし、いつ見ても、フット後藤は、ただならぬおもろいテンションで登場してくれるじゃないか、僕もそのようでありたいし(文学者)、そのようでなくては「他にどうしようもないですやん……」としか思えないのだ/ましてそこを、オープニングから「不明のケンカ腰」とか、ナンノコッチャにもほどがあるじゃないか(と僕は思っている)。
経験上、どうやら「不明のケンカ腰タイプ」は、諸事情から「偽りない安定供給タイプ」が好きではなく、どうしても「不明のケンカ腰タイプ」を続けねばならない理由があるようだ、その理由は何であるのか、もちろん他者には知る由もない、僕はその由を知る者となりたいのではなく、引き続き単なる安定供給タイプでありたいのだった、そんなわけで今年もやってまいりますのでみなさまよろしくご愛顧のほどを。

偽りなき安定供給が、当方のロマンであります。

別にそれを、美徳とか義務とか思っているわけじゃないが、安定供給がロマンそのものに信じられて、フツフツとくるのだから、これはしゃーない、こんなものはもう人それぞれの本分というものでございましょう。
「今日もやっているねぇ!」と、ささやかにお褒めと励ましのほどをいただければ、それで満足なんだろうな、だから今日も、偉大なるおれさまはやっているのである、よって不明のケンカ腰さんは、くれぐれも他店のほうへどうぞ、別に善し悪しの話ではなく、こうしたことには「何かある」のだろう。
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あいつには、生きていくことの恐怖があったのさ

ぜあいつがあの男に靡(なび)いていったか、そんなことが聞きたいのか?
じゃあ教えてやるが、あいつには、生きていくことの不安があったのさ、不安というより恐怖だな、その恐怖を消してくれる何か、癒してくれる何かを探していたんだ/もちろんそんなこと、あの若い女が知っているはずはないよ、だがあいつは、ただそのことのために自分の美貌も磨いていたのさ、全細胞の恐怖への悲鳴が、結果的にあのわかりやすいエロさだ。
何が起こったものか、本当のことが知りたいか? じゃあ単純なことだがな、あいつはあのおぞましい男に言い寄られると、不思議と悪い気はしなかったのさ、なぜだかわかるか、それはあの男に言い寄られる一歩ごとに、カネと立場が得られることを、あいつの全細胞が知っていたからだ、実際あいつは、あの男との一件から、ちょこっとだけ有名になっただろう?
生きていくことの恐怖、それ以上に、もっとはっきりした、「死」の恐怖だな、それが彼女を支配しているのさ、彼女の中に自身の意志やこころなんてありゃしないよ、そんなものいくらでもひん曲がるさ、「死」が握ったコントローラーで、縦横無尽に動くのが彼女の純粋な「こころ」さ。

カネと立場と、ちょこっとだけの有名さが、一歩ごとに増してくるだろう? あの男に言い寄られる一歩ごとに。
するとそのたび、あいつの身体の全細胞は、死の恐怖から遠ざかることのご褒美として、ご褒美ホルモンが出るのさ、それで彼女は、あの男のことを「好き」となるんだ/何を驚いている? 彼女はただ分泌物を自分の感情としているだけだ、それ以外に感情なんて与えられていないのだから! 彼女は純粋に、一ドルずつあげれば、一ドルぶんずつ好きになっていくんだよ、おれたちはカネをもらうと体内に分泌物が出るじゃないか、ただそれだけのことなんだよ。
あいつは両親からも友人からも教師からも書物からも、自己の死について何ら教えられていないだろう? だから、物心ついたときからずっと、死の恐怖に追い立てられて、ずっと狂乱のまま生きているのさ、あいつの細胞が知っているのは本当に、若くて目立つ女が金持ちと特権に接近したら死なずに済むという、ただそれだけだ、もちろんそんなことの自覚はないよ、あいつは純粋に「分泌物行動体」みたいなもので、だからこそ、分泌物を出したい男の側にも普遍的な人気があるんだ。
そんなわけで、あいつはあの男に靡いていったが、それが闇だったとして、闇ってのはそうしてシンプルなもんさ、闇が複雑怪奇に見えるのは、おれたちが闇の直視に耐えられないからだよ/これからあの男が、勢力を失っていったら、それにきっちり比例して、あの女の「好き」は消え失せるのさ、生存本能の分泌物と「好き」が連動しているだけなんだ、だから冗談ではなく、そのへんの電柱だってあいつは恋人にできるんだぜ、そういう仕組みさえ作ってやればな。

あいつの目を見ろ、なかなか怖い目をしているだろう、それはあいつの目の奥に佇んでいるのが、「死」そのものだからだ。

仮にあいつが、世界中のしゃもじを愛している、しゃもじ愛好家ですと名乗るとするだろう、そのときはみんなでいっせいに、チヤホヤしてやればいい、その筋のマニアだって、目立たせてやってカネも与えてやればいい、そうするとどうなるか? そのときは本当に、しゃもじがあいつの恋人になるんだよ、だってあいつは生きることに恐怖がある、しゃもじがその恐怖を癒してくれるなら、そのときはしゃもじがあいつの救世主なんだ、実験してみたらいい、ハハ、本当にそのとおりのことがきっちり起こるから。
驚いたことに、あいつは「純粋」だし、「好き」というのも、ウソの成分は一ミリもないんだ、おれだってただこのことを知っているというだけで、このことの善悪を問う気はまったくしない/ただあの男は、自分が思いがけず好かれて、割と自分でイケるんじゃないかって思い込むだろう、だからもう戻ってはこられないな、何しろあの男は誰にもダマされているわけじゃないんだ、純粋な女に純粋に好かれているのだから、ダマされている何かに気づくということは永遠にないよ、ただし自分を見つめてくる女の瞳は、いつまでも死の瞳だけどな。

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エンジェルAの仮説

に、女性が、「やさしい男性に愛してもらえることを普遍的に希求する偏った存在」だったとする。
あくまでも「仮に」だ、このご時世、この「仮に」を付け忘れようものなら、四方八方から袋だたきにされてしまう。
この、「仮に」思考したものを、仮説Aとしてみよう、するとこのとき、いわゆるセクハラ男は、この仮説Aに背いた男ということになる、つまり彼は「やさしい男性でもないし、女性をやさしく愛しもしなかった男」ということになる。
一方で、いわゆる極北のフェミニズム女性も、この仮説Aを否定する勢力ということになる、「愛して "もらえる" などという偏った表現はありえず、その思い上がった誤解じたいが不快そのものであり、惨死をもってつぐなってもらいたいと熱望するよりない」/仮説Aを否定するというよりは、むしろその逆、女性は「少しでもマシな男を隷僕に従え、それにも及ばない男のすべては軽蔑して焼き払う正義の存在」と唱えるのが、一般的な極北フェミニズムの主張だ。

かよわい女性に、にじりよってセクハラをしでかすような男は、低級で醜悪であり、その被害者から見れば、低級であれその男は「悪魔」そのものに見えるだろう。
そして、極北フェミニズムの女性も、僕などに対してはただちにガソリンをかけて焼き払って哄笑したいと欲するからには、大いなる正義か、もしくは悪魔のたぐいに思えておかしくない/よってこのことは、「仮説Aに背反ないし否定をすると、悪魔の行状を帯びる」という性質に結ぶことができる。
あくまですべて「仮説」でお話ししているが、いちおう仮説A、女性は「やさしい男性に愛してもらえることを普遍的に希求する偏った存在」だとする話は、聖書に記されている言い分でもある、この聖書の言い分に反したら悪魔の行状を帯びるのかどうかは、もちろん聖書の専門家でもなければ神職でもない僕がおおっぴらに答えることはできない。
ただ、たまたま個人的に「やさしい男性に愛してもらえることを普遍的に希求する偏った存在」だった女性Aがいたとして、この女性Aが、やはりたまたまやさしい男性に「愛してもらえた」という出会いを得た場合、この女性Aと愛する男の存在は、現代における男女抗争について蚊帳の外になる/さしあたり言い得ることは、現代のセクハラ勢力も極北フェミニズムの勢力も、こうした女性Aの存在を捨象することを土台にしている、セクハラ勢力も極北フェミニズムの勢力も、その点については野合して「その例は持ち出すな」と同舟せざるをえない。

セクハラの反対は「天使」で、極北フェミニズムの反対も「天使」だ。

だから現代の男性は、アニメやアイドルのパフォーマンスに「天使」を探し、女性も同様、マンガやスポーツやイケメンアイドル青年の中に「天使」を探している/セクハラ勢力とフェミニズム勢力が向き合って居並んだとき、もちろん相互にそこに「天使」を見つけるということはありえないだろう、お互いに滅ぼすべき悪魔しか見つけない(そりゃ当たり前だ)。
よってこのことは、「架空コンテンツの中に "天使"  を見つける度合い(偶像崇拝の度合い)は、実際の男女で悪魔闘争をする度合いと比例する」と捉えることができる、あくまで個人的な仮説でしかないが、僕はこのことをエンジェルAの仮説と呼んでこっそり覚えておくことにする。

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誰かが一所懸命に育てた奴しか育たん
育うんぬんに口を出せる立場に僕はない。
だからただの放言になるが、僕は経験上、「誰かが一所懸命に育てた奴しか育たん」と思い至るようになった。
教育の内容とかシステムとかの問題ではない、人は家畜ではないのだから。
教育システムにガツーンと投入したら、アラ不思議、完成品として出荷されますという幻想が、虫の好い思い込みなのだろうな、そりゃ冷静に考えれば当たり前のことなのだった。

むかし、会社の上司が、ひどく食べ方の汚い人だった。
四十とか五十とかになって、食べ方の汚い人というのは、実はいくらでもいる/それはもう、治らないし、改善もしないということだ、誰かが彼を一所懸命に育てなければ、ただ単にそうなる。
おそらく、人材育成とか、そういうナマっちょろい発想が、根本的に甘えきっているのだろう、わけのわからない情熱と仁でしか、人が人を「育てる」なんてことはありえない。
人が育つのは、誰かが必死こいて育てた結果「のみ」だが、もちろんそんなものは、平等に与えられるものではない、僥倖で与えられるものだ、それでいいじゃないか、誰かに育てられたなんて奴は相当に運と品質がいい奴なのだ。

「育てる」に必要なエネルギーは、「半殺し」に必要なエネルギーと同量だ。

もちろん僕は、こんなことを吹聴できる立場にないので、ただの放言となる、だがただの放言として申し上げるなら、壇上からシステムどおりの文言をぶつぶつ呟いていて、それで誰かが育つとかいう馬鹿げた話は初めからありえないのだった。
僕自身、自分を育ててくれた人たちのことを、ずっと忘れない(忘れられるたぐいではない)ので、覚えているが、何かを教わるというとき、その成分の半分は「こっ、殺される……」という感触だった、最低限それでなきゃ魂に届かなかった。
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カネとさびしさについて
際に会ってみるとわかることだが、たとえお金持ちの人でも、自信と誇りをもって生きられるとは限らないものだ、むしろどこかビクビクして、虚勢を張っている人のほうが多い。
せっかくお金持ちなのに、もったいないと思うのだが、そうはうまくいかないものだ、冷静に考えてみると、口座に五百億あって夕食に百万円使ったところで、それが「自信」になるかというと、そんなはずはないのだった、百万円の夕食というのは、よく見るとただの "高額なメシ"  でしかないわけだから。
お金持ちの人を見ていると、どうも毎朝、「自分はこんなにカネを持っている」ということを思い出し、それを自信にすり替えて、一日を生きていることが多いようだ、しかし冷静に考えてみると、それは自信がないから残高を思い出しているということであって、自信があれば残高のことなど思い出す必要はないはずなのだ。
口座に五百億円ある人の、口座がもしスッカラカンの0円になったとして、それでも「お前のことが大好きだよ」と笑ってくれる人がいるかというと、なかなかそういうわけではないので、よくよく考えれば、自信が持てないのは当然のことでもある/カネには本当に人が集まってくるし、特に女は露骨に集まってくるので、怖いものだ、その集まってくる人たちに自信を支えてもらわねばならないのだから、初めから構造が不穏を為している。

資産が億を超えている金持ちというのは、そんなに珍しいわけではなく、六本木の会員制クラブにいけば、割と常時という感じでいる/会員制というより、誰かの紹介がないと入店できないということだが、そんな店は珍しくもなく、なんとなく「六本木のクラブって半分ぐらいそれじゃね?」というイメージがある(あまり詳しくないのでテキトーなイメージだ)。
これまでの印象を総合すると、金持ちの人は、残高に自負を持っているということ以上に、カネのない人や弱い人を、馬鹿にして憐れむことで、自信に転換していることが多いようだ/特に、カネのない多数の人から受ける「嫉妬」が、当人のエネルギー源になっていることが多い感じがする。
多くお金持ちの人は、これまで「勝って」来ているので(その結果として金持ちになっている)、根本的に「負ける」という姿勢がない、特にカネを得てきていない人に「負ける」ということは、感覚的に絶対に許されないことになる/このせいで、金持ちの人は、自分の得る体験・経験に、大きな制限が掛かる、むしろ生きるうちの大半のことはその先「体験できない」というほうへ制約が掛かるらしい、これは案外盲点のことだ。
そして、当然のことだが、当人として腕に覚えがあること、能力に自信のあることは、カネを稼ぐことおよび、カネを使うことだ、だからお金持ちの人は、いくらお金があってもお金関係のことに関心が向いてそのことに取り組む、いわば「お金に関わっているときしか自信が持てない」という状態があるようだ/このように、お金は誰だって欲しいものだが、それが強烈に欲しいということは、必ずしもそれが強烈な幸福をもらたすということを保証はしていない、あくまでお金はただ「欲しい」ものだ、この点でお金が「欲しくない」という人も、多くは無理がある気がする。

冷静に考えると、金持ちが強烈に幸福だったら、六本木のクラブには来ない。

一生遊んで暮らせるだけのお金があり、それ以上に湯水のように使えるようなお金があったとして、それで爆発的な歓喜とよろこびと愉しさがあるのだったら、縁もゆかりもない派手な女の子を集めて高額なパーティを開き続けるなんてことはしない、本当にはそこまで愉しさが得られるわけではないので、派手なパーティをしているのだ/むしろそのことは、賢明な当人こそよく知っている、お金持ちの中にはそうした自分のありようについて、冷静に見切っている人も案外少なくない。
人にとって、「さびしい」という感情は強烈であり、悪魔のように抗しにくいものだ、その点で大きなカネはさびしさを打ち消してくれるように見えるが、よくよく見ると「さびしさを打ち消すためにカネを使い続けている」という表示が出ているので、これでは人はさびしさに勝てていないのだ/もちろん僕は馬鹿にして言っているのではなく、ただただ真剣に考えているだけだ、人はどう生きればさびしさに勝利できよう。
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あなたは何を表示しているか3

ういうわけで、当たり前だが、自分の本心を「わかってもらう」なんて、厚かましいことを考えてはだめだ、甘えにもほどがある。
そして、表面だけ取り繕って、そのことを「表示」と受け取ってもらおうという、そういう不徳の考えをしてもだめだ、人をバカにするにもほどがある。
じゃあどうすればいいかといって、単純だ、自分の本心から、全身に至るまで、ウソ偽りなくつながって、あるがまま「表示」されていなくてはならない、内心にウソがあってもいけないし、表示にウソがあってもいけない、エネルギーがそのまま表れていなければいけないし、力尽くでエネルギーの「ふり」なんかすることは決して許されない。
表面は「ちゃんとしている」とか、内心は「そんなつもりはない」とか、チャチなことをぬかしていてはいけない、内心が表面までズバッと透き通って、貫いて表れていなければいけない、そうじゃなきゃテメーは何なんだよ、内心の引きこもりに表面の糊塗をプラスして、それを「高値で認めろ」という話か、そんな発想はただちにドブに捨ててしまえ。

実際、内心の魂まで、ラヴでファンクで、仁(思いやり)と、美と光と夢に笑わされているか/内心の魂までそれじゃなきゃ、けっきょく「ただのウソ」じゃねーか、粉飾決算の企業みたいなもので、こんなものさっさと監査で暴露されるしかない。
で、その内心の魂を、本当に曲げずにあるがまま、人に見せ、この世界に示し、己がただ一人この世界に存在しているという不可思議の中に、堂々と立ち続けられるのか、それができないのなら、けっきょく「単に逃げている」んじゃねーか、面倒くさいハズレ思春期の女みたいで、こんなものは老衰で死ぬまで放置しておくしかない。
あなたは何を表示しているか……じゃあわかりやすく、おれは何を表示しているか? 今、目の前にあるとおり、こんなものおれの「表示」しているものしか認められないわけだし、表示しているものが、恣意的に加工された表面的なウソだったとしたら、誰だって「あほくさ」としか思わないだろう/おれはろくでもない人間だが、ウソ発見器にかけたところで、こういう話にウソはない、こんなことにウソを凝らすほどおれはヒマ人ではないし意味不明でもない。
おれは、内心の魂まで、ラヴでファンクなのか? それは知らん、ただおれは、内心の魂を隠すつもりはないし(隠すならこんなもの書かなきゃいいんだから)、表面から内心の魂まで透明化して、そこに見えるのがラヴとファンクならすばらしいことだが、もしそうでなかったとしても、それはしゃーない、そのときはただおれが嫌われるだけだ/おれはおれを表示しているのであって、おれが嫌われるのなら、おれが嫌われるのだろう、おれはおれを表示することしかできず、おれが何を表示するかはおれが決められるわけではない。

躊躇しているのじゃなく、それは「計算」しているのだ。

自分をどう見せるかとか、何を隠さねばならないとか、まあ粉飾だな、人はそういう浅ましい計算を平気でする/ナイスな何かを表示できるのは、当たり前だが内心の魂からナイスな奴だけだ、そこをどう捻って計算しているのか知らないが、内心の魂からナイスじゃない奴から、ナイスな何かが表示されることはありえない、ありえるとしたらそりゃただのウソの表示だ、そのあたり、いいかげんスーパー言い訳システムで脳みそのリソースをパンパンにするのは誰でもやめたほうがいい。
どうも最近になって、自分が何をどう「表示」しているか、まったくわかっていない人が少なくないように思う、「ラヴでファンクで仁と光と夢とジョークが表示されまくっています」なんて人はほとんどいないぜ、そのあたり誰だって自分の「表示」と向き合わねばならないのだ/人に訊いて、まっすぐ向き合えば、自分の「内心」なんて幻想は五分もあれば砕かれるだろう、こころに内も外も無ぇよ、外心なんて言わないだろ。

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あなたは何を表示しているか2

酒屋に入ると、店員が、「帰れ」という表示をする/それはまあ、アルバイトだし、仕事なんか無いほうがいいのだろうから、あるがままのこころにおいて、「帰れ」という表示が出るのだろう。
注文のために店員を呼ぶと、店員は、「死ね」「殺すぞ」「謝罪しろ」「不幸になれ」という表示を明らかにする、それだってやはり、彼のあるがままのこころの表示なのだから致し方ない/彼は、本当に単純に、ピュアに、自分の生活費のためだけにそこにおり、生活費が降ってくるならば、他の全員なんか死滅してまったくかまわないというか、むしろ恨みが晴らせると感じているのだろう。
それが、どこまで彼の本音なのかはわからない、わからないし、わかる必要は誰にもない、ただ彼の顔面と全身からくっきりと現れる「表示」は、ひたすらそのようにしか現れていないということ/当然だが、当人が本心と思いたがっている本心と、実際に身に現れてくる「表示」はまったく別だ、どちらが真の本心かなんて誰にもわからない。
あるいは、僕が女の子とデートしたとして、女の子の側から「歓迎」の表示がされることはごくまれだ、だいたいはムッとして、「わたしは何なのか」「わたしはもっとよい目にあっていいはずなんだけどな」「誰かわたしをケアしなさい」「とにかく、不満です、いろいろ」という表示がしきりに為される/本人にそんなつもりはないのだろうが、そりゃそうだ、反論するのにもポイントがズレている、誰がそんなネガティブなことを意図的に表示するものか、意図的でなくてもこちらはその表示にまず従うしかないというのが本来の主眼だ。

マニュアル接客というのが当たり前になり、その中では笑顔練習や、元気な声を出すと点数アップというような仕組みもあるようだが、そういうフェイクで、本質的な「表示」はごまかせない、いやもちろん、表面的なことしか何も見えませんという人なら別だろうが、少しでもまともに人が見える人なら、「んなアホな」ということはミエミエだろう/お店で立ち働いてお客さんが来るのが「うれしい」と思えないのに、何をどうやって「笑顔」になるのか、それはゴキブリを見たときに笑顔をやらされているのと同じで、徒労以上に滑稽劇だ。
この、「ゴキブリにスマイルしなさい」的なマニュアル発想が、個人的にも根づく人はあるようで、こういう人は接客業でなくても、人と接するときにそういう笑顔のふりや、元気のふり、歓迎のふりをする/だが当然ながら、そんなフェイクの表示に、まともな人は引っかからない、せいぜい「フェイクながら歓迎のふりをしようとはしてくれている」と前向きに捉える程度だ。
そもそも僕なんか、このご時世に、男性として女性に「歓迎」されるというようなことは、もう十数年も前に諦めきっている、何かよくわからないが、当人の意志は関係なしに、前もって男女は敵対関係にあるだろう、社会的にそういう状況だから致し方ない/僕はとにかく僕のことを睨んで唾棄したがる女性のことを、別にへんな人だとは思わない、むしろウソがつけないタイプなんだなと思う。
公園を散歩しているレトリバー犬に、「おっ!」と気魄を向けてやると、ワンちゃんは「!」と反応して、「遊べぇぇりゅぅぅうおおおお〜」と跳ねて走ってくる、リードをご主人ごと引っ張ってくる、そこには何の偽りもない「遊ぼう」「好き〜」が表示されている、僕は表示についてはいつも、「これでいいじゃん」と思うのだ/僕にはレトリバー犬のする「表示」が十分かつ最高であって、それ以上のさまざまな事情については正直あまり興味がない。

「ウマいものを喰っている」という内心と、「ウマいものを喰っている」という表示は別だ。

神戸牛のシャトーブリアンを喰えば、誰だっておおよそウマいのは同じだろうが、それが「ウマいぃぅぅりゃぁおおお〜」と表示されるかは別だ、多くはレトリバー犬がささみジャーキーを食べるときのほうが「ウマい」の表示がはっきりと為されるだろう。
こんにち、自己主張とPRの強い人は、本当に増えたと思うが、その主張とPRの向こうに、いつも違う「表示」が為されているので、僕はその表示に従うしかないのだ/どれだけ強いキモチを持っていても、マニュアル方式では「表示」は得られない、真のレトリバー方式でしか「表示」は得られない、そりゃそうでなきゃ虫が好すぎるだろう。

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あなたは何を表示しているか

まに、「○○高校のダンス部」みたいな映像を見る、すると女子高生の女の子たちが、肢体をアピールする服装でよく踊っている。
踊りは、上手なのかヘタなのか、僕には造詣もないし目利きもないのでわからないが、どうも娼婦っぽく見える/もちろん娼婦っぽく見えるのが悪いわけではない。
男子高校生が踊ると、今度はやはり、いわゆるDQNっぽく見えるのだろうか? それだって別に悪いわけではないだろうが、しかし往年のフレッド・アステアのダンスは、まったくDQNっぽくはないし、一緒に踊っているリタ・ヘイワースだって、娼婦用のダンスを踊っているようには見えない。
アイドル文化というか、本職のそういうアイドルは、堂々と娼婦っぽくてよいと思うのだ、もともと女衒のノウハウだって組み込まれた業界だろう、だがそれを部活動で模倣することには違和感を覚える/倫理的に問題を感じるわけではなく、当人らの意志が本当に「それをやりたい」のかが気になる(まったくの余計なお世話ではある)。

歌にせよ踊りにせよ、それ自体が「上手い」ということには、本来何の値打ちもないはずだ、歌や踊りはそもそも、何かしらの愛やよろこび、切なさや怒りなどを表すためのものであって、それが表されないのであれば、「上手い」ということはまったく無意味になる。
こんなもの、門外漢の妄誕でしかないが、ダンスで愛を示そうとするとき、第一に必要な勉強は、ダンスの勉強ではなく愛の勉強ではないのか? 愛のお勉強/このところ、どこでも「カッコいいダンス」を見かける気がするが、それらの「カッコいいダンス」が、愛やよろこびを表現しているところをまず見かけない。
僕は、当たり前だが、愛を表示していない女性、かつ愛以外のものを自ら表示している女性に対して、愛を向けるというような野暮はやらない、僕はコールガールを軽蔑する者ではないし、当人が自ら選んで表示しているものを尊重するたちだ/ただ実際には、僕が向ける愛をゼロにすると、当人がズタズタになっていくというのを事実として目撃する、これでいつも「???」となるのだ、「愛は要りません」という当人の表示に従うと、当人がズタズタになっていく(それでもなお、表示のほうは変化しない)。
だからひょっとすると、一部の若い人、特に未成年の女の子は、自分が何を表示しているのか、実はまったくわかっていないのかもしれない、という可能性に思い当たるようになった、その可能性は大いにある/にしても、やはり人の節度として、当人の表示しているものを最優先にするしか、さしあたりしょうがないのだけれども。

ハンバーガーを売っているように見えたり、ケンカを売っているように見えたり、セックスを売っているように見えたり、「表示」がある。

マクドナルドやモスバーガーは、ハンバーガーを売っているように見える、そりゃ当たり前だ、だからわれわれはハンバーガーを買いに行くのだ、それと同じように、ケンカを売っているようにしか見えない人もあるし、セックスを売っているようにしか見えない女子高生もいる/ケンカを売っている人はヒマつぶしに叩きのめしてもいいのだろうし、セックスを売っている人はヒマつぶしに革靴の値段で買ってもいいのだろう(世界各国、娼婦の値段は革靴の値段と同じだ)、常識的に考えて、そういうふうに「見える」。
あくまで「表示」ということに従うなら、現代女性の中に、僕みたいな奴に「愛してほしい」と表示している女はまずいないし、何かを「教えてほしい」と表示している人もまずいない、さすがに女子高生のダンス部を見て「愛とよろこびを」という表示を見つけるのは不可能だろう(あくまで表示の問題であって、何かが悪いということではまったくない)。

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力任せの時代
ういえば、タチの悪い風邪をひいて、そのまま病み上がりでワークショップとパーティに突入したので、まだ体力が回復したわけではなかった、「なーんか調子でねえな」と思っていたら、そりゃ当たり前だったわという話。
最近は、女性の活躍が目覚ましいが、活躍していようがいまいが、少なからぬ女性が、とにもかくにも「力任せ」で掛かってくる、ということを痛感している、力任せが悪いというわけではないが、僕はニガテだ/どちらかというと、男性のほうが、明らかな「力任せ」という人は少ない。
女性は力任せでガンガンくるので、即座に、「うう、頭痛になってしまう」と感じるのだが、まあしょうがないのかもしれない、具体的にどう対処するかというと、素直に頭痛になるしかないのだ(対処なし)。
時代は、女性の時代であり、また、力任せの時代なのだろう、誰もふざけているわけではないし、すべての女性は努力している、女性は遠慮もするし、積極的にもなるし、ケアもしてくれるし、意欲的だし意識も高いのだが、それらの基本は力任せだ、きっと大前提に「力以外の何があるのよ?」という感覚があるのだと思う。

一般に、女性のほうが、感受性と生存本能に優れているので、性質としては、女性のほうが「力」に頼りがちなのは当たり前だ、女性が非力なのは単に筋力の問題であって、女性が性質的に腕力的でないということではない。
これは何の話をしているかというと、さしあたり、腕力のない僕が、イジメられて苦しんでいるという、しょーもない報告なのだった/だらしないかぎりの話なのだが、どう考えても僕は女性に腕力で勝てる気がしない。
力任せに生きると、当人が荒れていくので、僕はあちこちでそのケアを振る舞っているような気がするが、それはかまわないにしても、ケアをほどこそうとする僕も第一に直撃されるのは「力任せ」で、そのたびに頭痛で倒れそうになるのだが、このことは体調がバツグンによくないとこなせないということがわかってきた/体調がいいというか、体調がキチガイのようによくないとこなせないのだ、一ナノでも僕に休みたい心地があるともう何もかもが破綻してしまう。
力任せというのは、つまり、五、六発ぐらいは誰かをバッチーンとやってやらないと、気が済まないというのが本質なので、とりあえず僕あたりがそれをバッチーンとやられているのがよいのだ/力任せ同士でバッチーンとやりあうと、ケンカになり、戦争になってしまう、その点僕をバッチーンとやっても、僕には腕力がないので、戦争にならない、僕がグエエと頭痛になればそれだけで解決なのだが、そうすると僕の生産力が落ちてしまうのだった、だからさっさと、風邪を完治させましょうねという話なのだった。

女性は基本的に「力任せ」だ。

もちろんすべての女性がそうではないが、そうではない女性でも、「女性は基本的に力任せ」という話については、「確かにそうかもしれない」と、心当たりを得ることができるだろう、「力以外の何があるのよ?」という感覚が女性にはある。
LGBTの隆盛と合わせて考えると、典型的に、ホモのネコ役よりは遥かに、女性のほうが力任せだ、ホモのネコ役には力任せ感がないので、腐女子の人も萌えるのだろう、どちらが「子猫ちゃん」かというと、そりゃホモのネコ役のほうが「子猫ちゃん」のイメージだ/そのあたりもはや「男女」という括りで考えるような時代ではないのだろうが、それにしても来年には、もうLGBTうんぬんにもみんな飽きていそうな予感もあるので、ウーン何がどうなるのかもうよくわからんのだった、とにかく僕は力任せがニガテだ。
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輝ける時間を生きているか

ういえば先日、免許の更新にいって、久しぶりに二時間の「講習」を受けた。
二時間講習ということは、違反者講習なのだが、東京には原付通行禁止の道路が多すぎるのだ、不意打ちで「原付通行禁止」が現れてアッと思っていると、その出口にきっちり白バイが待っていやがったりする。
まあそれはいいとして、久しぶりに二時間の「講習」を受けたのだが、なんとまあ眠いことか、授業ってこんなにキツかったのかと、久しぶりに思い出した心地がした/そして、ある意味僕がおかしいのだろうが、二時間の講習をする側は、どうもその二時間が「惜しく」ないのだと思った、僕にとっての二時間の使い方とは明らかに回転というか密度が違った。
そして、ただ過ぎ去るように消耗される二時間の、なんと耐えがたいことで、なんと長く感じるものか、何度も壁掛け時計とスマホの時刻を突き合わせて時刻の確認をした、いつまでたっても時計の針が進まない、僕自身がやっているワークショップとはえらい違いだ、ワークショップで二時間なんて序の口というか導入であれこれしていたらアッというまに過ぎ去ってしまうものな。

ああして二時間の「講習」をするのは、別に悪いことではなくて、きっとあれが「ふつう」なのだと思う、いつもキリキリしてウアアアと振りしぼっている僕の側が特殊なのだ、僕自身であんな水増しの二時間を過ごしたことはここ十数年に亘って一度もない。
人は、ある年齢から、またある段階から、自分の時間が惜しくなくなるのだと思う/二時間の講習中、時間が過ぎ去るのを "待っているだけ" というような雰囲気だった、でも思い返せば、記憶の中でほとんどの「年配」はそういう時間の過ごし方をしていたように思う。
僕はワークショップをしているときに、毎回、「どうして朝までやっているのに毎回こんなに時間が足りないんだ」と嘆いているありさまだし、自分がこうやって文章を書き話しているときも、とにもかくにも時間が何十倍でもあってほしいというか、「時間よ、流れないでくれえええ」と心中で叫んでいるほどなのだが、そのこと自体が特殊なのだと、先日の講習以来思うようになった、どうせすぐ忘れるだろうけれど……時間が惜しいのだ、それは時間がないということではなく、僕にとってたとえば二時間散歩するとき、その二時間は気晴らしではなく光に満ちあふれている時間なのだ、事実そうなのだからしょうがないだろう。
というわけで、青少年諸君、時間が惜しくなくなったらオシマイだ、時間の有効活用なんてケチを言わず、輝ける時間の中のみを生きなさい、限られた時間でどう有意義なことをするかではなく、二時間なら二時間で、時間そのものが輝いているのだ、それで初めて輝ける時間の中を生きていくことができる。

二時間の違反講習も、二時間のソシャゲも、二時間が過ぎるのをただ待っているだけだ。

ソシャゲが悪いわけではないし、二時間も勉強するなんてすてきなことだ、だがそういうことじゃない、二時間が過ぎるということに、スパイスを加えてごまかしているだけじゃないか、そういうことはやめるのだ/流れる時間の中を生きるのじゃなく、生きる中を時間が流れていくようでありなさい、時間に対して受け身であることは絶対にやめたほうがいい、あなたは百年間を生きるのではなく、あなたが生きているうちに百年間が流れるのだ、時間に食い物にされるのではなく、あなたが時間を食って生きなくてはならない。
「時は金なり」と言うけれど、カネにひざまずいて生きるなんてイヤだろ、カネがひざまずくようでないとだめだろ、二時間を快適に過ごすかしんどく過ごすかの問題ではなくて、時間そのものをガリガリ食って生きなくてはだめだ、「何万時間でも食いまっせ」というぐらい、時間については貪食であってくれ/実際ワークショップのアホ連中なんか、やらせたら何万時間でもやるだろうな、時間が流れるのを待つだけの受け身なんて、やがてサイテーでサイアクの結果に行き着いてしまうだろう。

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いわゆる「トシ」はどうやって来るか
長者がよく、「きみも、もうトシだからさ」という言い方をする。
これはどういうことかというと、「トシ」というのは、何かが終わってからわかるのだ、もう「取り戻されないもの」が見つかり、その時点でそれを「トシ」というのだ。
それがどのようにやって来るかというと、こんな感じだ、自分はXを大事にしているのだが、なぜかある日、そのXが大事に思えなくなるのだ、このXには恋人や夢や、思い出、テーマ、感動に類するものなら何だって代入される。
たとえば、自分が大切にしていた、大事な人からの贈り物が、ある日突然、大切なものではなくなってしまうのだ、「あんなに大切にしていたのに」と、自分でもそのことは不思議でならない、が、それでももう、それが「大切だった」という感覚は戻ってこないのだ、この突然の終焉のことを指して、年長者はそれを「トシ」と呼んでいるのだ。

これは何というか、まぎれもない、恐怖の体験だ、恐怖の現象でもある、これまで自分の生そのものだった「大切なもの」が、急に「はい終了ですー」と打ち切られて、もう戻ってこないのだ/そして恐ろしいことに、それ以降、生きるのは「ラク」になるのだ、それは生存本能がもらたす抵抗不能の褒美として心身にはたらきかける。
大切だったものはもう戻ってこなくなり、生きるのはラクになり、逆に「自信」を持つようになる、そしてこのころから、なぜか、1.テレビの健康情報が目に留まるようになる、2.街中の不動産広告が目に留まるようになる、3.これまで興味がなかったテレビドラマにハマるようになる、4.財テクや株に興味が湧いてくる、5.体力づくりに関心が起こる、6.同窓会に焦がれ始める、7.地元・ふるさとに「いいなあ」と感じ始める、8.かわいそう系に異様に涙もろくなる、という現象が起こってくる。
そして、9.新しい知識がどうやっても頭に入ってこなくなってくる、10.すべての作業が異様に時間を食うようになってくる、11.お酒や音楽を入れないと身体が動かなくなってくる、12.単語の言い間違いが日常化してくる、という現象が起こってくる。
これらはすべて、遺伝子・生存本能が、あなたを支配するということの具体的な現象として生じてくる、遺伝子はあなたの意志や価値観など知ったことではないのだ、この現象を前もって告知されていればまだ、いざというとき瀬戸際で戦うことができるが、大半は何の知識も与えられないまま、アッという間に「先週までの自分はもう帰ってこない」という現象に呑み込まれてゆく。

若いうちに目にしていた広告やイベントのうち、「???」だったものは、あるときから突然、あなたの関心にストライクでハマるようになる。

そのあたり、業者のノウハウをナメてはいけない、あなたが「こんなの誰が関心持つの?」とナメてかかっていたもののすべては、あるときから突然、あなたの生きる世界の情報そのものになるのだ/くれぐれも忘れてはならないのは、それによってあなたは「ラク」になるということ、そしてそのときになって引き返すように進言されても、あなたはこれまでになかったような強固で激烈な感情的反発をするようになる、そしてその反発はどこにでも押し通るので、あなたはますますラクになっていくのだ。
もちろん、そうしてラクになっていった先、あなたの心身はすっかりあなたのものではなくなり、遺伝子の奴隷になるわけだが、それでいて最後、遺伝子は急にあなたのことを見捨てるのだ、「もうそんなに生きられないし」と、突然、投げやりに/そのときになってあなたは、わけのわからないまま数十年を生きてきたということ、するべきことを何もせずに来てしまったという突然の悟性の中で、一人の友人もなく、孤独に立ち尽くすしかないのだ、そのときすべての悟性は「このまま死ぬだけ」と告げてくるのみになる、このことに人の精神はまず耐えられないので、精神がクラッシュすることになってしまう、「トシ」というのはそのようにやってきて、そして最後にはわれわれを破壊して立ち去るのだ。
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こころの採算と黒字転換

とつ、質問を受けたので、それに回答するような形で。
誰だって、「こころ」の存在に気づくと、それを大切にしようと、思いを改めるものだが、思いを改めた時点から何かが改善するということはまずない。
なぜかというと、これまで「こころ」の存在に気づかず、それをないがしろにしてきたのだから、そのぶんの負債が溜まっているのだ/「こころ」の交歓とその果実を得るためには、これまで自分がないがしろにしてきた量と同じだけ、自分のこころがないがしろにされなくてはならない。
これまで、千のこころをゴミ箱にポイしてきたということは、これから自分も、千のこころを人に向け、そのことごとくをゴミ箱にポイされねばならないということだ、それは採算上妥当というか、しょうがないことだ/けれども、普通の人間にとって、向けたこころをゴミ箱にポイされるというようなことが、一や二ならともかく、百、まして千などというと、物理的に耐えられないのだ、「これから五年間こころを爆裂に向け続けて、無視され続けても一ミリもひずむことなくよろこび続けろ」などというのは、常人にこなせるタスクではない、それでも採算上は当然そういうことになるというのが、なかなかリアルに厳しいことなのだった。

なぜこうしたアンパランスというか、インパクト格差が生じるかというと、人にとって、「力は簡単」ということがあるからだ。
つまり、花畑を育てるのには、たいへんな時間と技術と蓄積と愛と献身が要るが、それを踏み荒らして破壊することには何のノウハウも要らず、半日もかからないということだ、このアンバランスが人の業(カルマ)の厄介さを創り出している。
誰だって、爆弾を放り込めば、街中の建築物を破壊することは簡単なのだ、ところがその破壊した建築物と同じだけ、お前が建造しろと言われると、これはとてつもなくハードになる/ポル・ポトに、焚書して失われた叡智のぶんを、自ら獲得して書きあらわして恢復しろと言えば、「そんなこと輪廻を何回繰り返してもムリっす」ということになる。
もしあなたが、何かを歌って語って、人とつながりたいと望む場合、これまでにゴミ箱にポイして捨ててきた、すべての言葉と声と命のぶんを、自分も同じだけ創り出して、それらのすべてをゴミ箱にポイしてもらう必要が第一にある、このことがふつうムリなのだ、耐えられるわけがない/というわけで、このことのヤバさがあるから、われわれは人に対して「思いやる」ということを自ら封じているところがある、なぜなら本当にこれまでのすべてを思いやってしまうと、もう取り返しがつかないことの総量があまりにデカすぎて震え上がるからだ。

人を千回、傷つけてきたのは「しょうがない」のだが、この先、人に千回傷つけられて、「しょうがない」と言うまで許してもらえない。

こういう、ひどく不都合な構造があるのだ、誰だって人を傷つけて生きてきたのは「しょうがない」のだが、そちらの履歴は数千もあるのに、これから先、自分が傷つけられることについてはひとつひとつ、「しょうがない」とは言えない、「許せない」「耐えられない」という激烈感情付きなのだ/これまでこころの外壁に一万回護られてきた人は、これからは一万回、外壁に激突して「受け入れてもらえない」ということを体験し、そのことごとくを「しょうがない」と引き受けるまで許されないのだ、そりゃ採算上はそうなのだろうが現実的に考えるとあまりにツライ。
僕がこのように語りかけ、僕がなんとかして誰かを笑わせたとしても、そのことは別に評価されないのだが、それが評価されないということは問題ではない、問題は、そうして冷淡だったすべての人は、当然ながらこれまでに冷淡に突き放してきたすべてのものよりハイレベルに到達するまで、冷淡に突き放され続けるしかないということなのだ、きっとその構造を覚悟しないままに、人々は気ままに振る舞っているように思う、それは危険なことであり、それ以上に損なことだ/またそうして冷淡に振る舞うということを、自分で決定したわけではなく、そのように振る舞うように操作されているのだとしたら、これほどひどいマイナスの所業はない。

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いわゆるレディファーストというイベント2
じさんがキャバクラなどに行くと、当然、おじさんは下にも置かぬ扱いをされる。
これを、世間的な言い方になぞらえれば、「おじさんファースト」ということになるだろう。
一方、僕などは、女性も含めてパーティ等になると、なんだかんだ、おれが盛り上げるぜ〜ヘイヘイ〜となる。
そういうときはいつも、「おれが先陣を切るぜ」という状態なので、これは原義的な意味で、「おじさんファースト」ということになるだろう/誰がおじさんや! まあそれはいいとして、あくまで本来の言葉から考えれば、僕はほとんど習慣として、女性に対してはエスコートとおじさんファーストを天然にしている。

で、なんというか、僕としては今さら、男女のことなんかどうでもいいので、言葉の問題だけなんとかならないかなと思う/男女のうんぬんはどうでもよくても、言葉のうんぬんはどうでもいいとは言えないからだ。
だから、願わくばこの先、男性に「レディファースト」を要求するのではなく、「おじさんファースト」を要求するような世の中であってほしいと思う、そうしたら言葉の由来としては正しいところに帰参できるのだから。
レディファーストという語が誤認されたままでは、いつぞやの「都民ファースト」とかも、誤認のまま使われた言葉の黒歴史ということになってしまうではないか/言葉の間違いというのはコワイのだ、「我慢」という言葉が邪悪を指しているということを知らず使い回してきたことがえげつない悪霊を育ててきたように、○○ファーストもこれからの悪霊育成の土台になりかねない。
だいたい、「ladies and gentlemen」といって、レディの対語はもともとジェントルマンではないのだから、そこも不気味だ、このあたりの不気味さとリスクを、ただ一言「おじさんファースト」と言い回すだけで解決できる、だからこれからはおじさんファーストでいこうじゃないか。

僕がやっているのはレディファーストではなく「おじさんファースト」なのでよろしく。

これで言葉は正しく使われることになる、言葉さえ正しけりゃその他の価値観なんぞはどーでもいいのだ/おじさんファーストの理念によって、僕は誰にも僕より先に動くことはさせないだろう、そりゃ技術的におれより速く動ける奴がいないのだから、卑怯なまでに僕のおじさんファーストは成り立つ。
女性が本来、レディファーストでしか輝きえないように、男性だって、おじさんファーストでしか輝きえないのだ、それならガンガン己がファーストを取っていけばいい/そもそも「歓待」されて人の何が輝くというのだろう? 歓待されるとアガるという人の神経が僕には未だ一ミリもわからないままだ。
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いわゆるレディファーストというイベント

わゆる「レディファースト」がどこから始まったのかは定かではない、起源はもともと女性礼賛のものではない(ウィキペディアに載っている)。
起源としてのレディファーストは、「奥まっている置物みたいな女性はやめよう」「女性が先に立って動こう」というものだったようだ/男性がドアをあけて女性をホールに導き入れるということではなくて、女性が先に入場して安全確認をする、そのために男性がドアを開けて補助する、ということだったらしい。
つまり、レディファーストに関しては、単純な意味において、空前絶後のアホをやらかしてきたということになる、いつぞや佐村河内とかいうオモシロマンを現代のベートーヴェン呼ばわりしていたアホ事件と同じだ/「レディファースト」と「エスコート」の区分がわからなくてウアアアアと興奮したという、ただの醜態が現代に残ってしまっており、何ならわれわれはこれからも、この醜態をプレイさせられなくてはならない運びだ。
レディファーストを履行するのは「女性」であって、その女性にエスコートを履行するのが「男性」だったようだ、この正しい知識が与えられなかったので、女性は何かババーンとした、「何かよくわからない猛烈なアホ」になってしまった、よくわからないが皇帝陛下みたいに扱われると自尊心がボンバーでタマラナイという、冗談でなく、そういうブツに成り下がるようにわれわれは訓練を受けてきてしまったわけだ。

レディファーストを「女性がやる」という感覚は、さすがにありえず、この先もまず実現はされないだろう。
かといって、僕はエスコートをやめる気にはなれないし、そもそもフツーにしていたら男性ってエスコートの機能が勝手にはたらくじゃないか、わざわざその機能に反して無理をしたくはないので、僕はエスコートを続けるだろう、そして女性に、レディファーストを「やる」というような、無理はいまさらしてほしくない。
僕はエスコートをし、女性は何もしない、という構造は、偏っているのだろうが、「もう別にそれでいいだろ」と、僕は納得している/納得というか、これ以上ごちゃごちゃ、出来もしないことにいきり立って、ややこしいことになってほしくない、何がファーストで何がエスコートやら、そんな些末なことはどーでもいいじゃないか、僕のエスコート風情だって、僕自身が満足していりゃそれでいいというネタであって、そんなものを女性に認めてほしいとはツユ思わない。
ただ、あくまで年長者として、経験から得られてきた知識と情報は、開示してアナウンスする必要があるだろう、女性がエスコートを「受け」、なぜかレディファーストも「受けて」いると、女性の身の内で知性・瞳・声・仕草・挙動といったものの美性と徳性は失われ、何かメタメタに汚らしくなっていくということを報告しておかねばならない、この事象は急速だ、何かが急速に瓦解していく、本人にそれと気づく余地さえ与えない速度で/逆に言えば女性を回復不能のバケモノに仕立てるなら、「置物・激発・皇帝陛下」として扱えばいい、それが悪いということではなく、本当にそうなるということだけ、年長者からの情報としてご提供申し上げたい。

いわゆる世間の「レディファースト」は、イベントとしては愉快だ。

例えるなら、つまり「お誕生日会」みたいなものだ、この日はこの子がエラいんですというイベントだ、そういうイベントはしばしばカーニバル的でありキッチュさが楽しいものだが、僕はさしあたり、いわゆる世間のレディファーストというのは、イベント以上の値打ちはないのだと感じるようになった、なぜなら僕は、自分がエスコートする女性がメタメタに汚らしくなっていくことに加担したくないからだ、もし別にどうなってもいいというような女がいたら、その女には「レディファースト実験」をして、そのデータを取るかもしれないが……しかしそれもさすがに物々しいというか、そんな血なまぐさい研究まですることではないだろう。
レディファーストを「女性がやる」などというのは、現代において「ふざけんな」という話だろうし、そもそも今さら男性と女性がどうしようが、男性が女性にやさしくなく、女性が男性にやさしくないのでは、何をどういじくっても果実など得られるわけがない、女はやさしい男に出会うしかないだろうし、男はやさしい女に出会うしかない、男はそのために、やさしい男でありつづけるしかないだろうな/僕は現代において、動けなくなっている女性が、世間的レディファーストを受けるとたちまち気色ばむという光景を目前に見てきた、それはひたすら「不気味」としか思えない光景だった。

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推定売春価値2

性はつまり、自分のオマンコが、無作為に多数のオスを惹きつけることについて、一種の全能感を覚えている。
のべつまくなしにオスが寄ってくるのは、うっとうしいのだが、同時にそのことに安心しているのでもある、自分が多数に対して権力を行使する立場だと考えられるからだ/確かに、一発やらせてくれるとなれば、ひざまずいて足をお揉みするぐらいは、初対面の男だってやってくれるだろう。
多くの女性は、本当に、そんなアホみたいな端っこの、力の原理しかわかっていないので、最も平易に言えば、女性は生涯をオマンコパワーで暮らすつもりでいる、だってそれ以上の力は生涯に一度も与えてもらえないからだ。
多くの女性は、この世界のことが何もわからないまま生きていて、ただ漠然と「負けたくない」というわけのわからない強い情念だけで生きている/ともすれば女性は「いそがしい」ということさえ一度も経験しないかもしれない、まるきりオマンコパワー(鮮度依存)が歩いているだけという様相では、女性は常にいそがしさの代わりに「不満」をもって生きているだろう、こんなメチャクチャなことが実際にあるのだ。

女性は、学校の先生が話すことなんか、実はまるで聞いていなくて、自分のオマンコパワーがどれだけ自分に万物をもたらしてくれるか、そのことを夢想しかしていない。
土台がそれなので……たとえば少年に、「この空の、上空100kmまでが、この地球というか、大気圏だな、カーマン・ラインっていうんだ」と話すと、まともな少年は「へええええ」という反応だが、女性に同じことを話しても、「……?」となるのだ、それは大気圏と自分のオマンコパワーは関係がないからだ/とんでもない失礼な話、「キミなら一晩で五万は余裕じゃない?」という話なら、「?」とはならず、ただちに「あー」と納得する、少年は逆にその話には「?」となるだろう。
もちろん女性だって、アホでありたいわけではないのだが、しょうがないのだ、オマンコパワーがそれを許さないという実情がある/たとえば教壇に教師が立ったとき、生徒として起立して礼をするだけでも、女性は少なからず気分を害するのだ、なぜなら女性は自分の方が本質的には高給取りという自負があるからだ(実際、女子学生が売春にいそしめば、教師の月給など遥かに超えるだろう)。
若い女性の推定売春価値が、それなりの金額になることは事実だ、だがその推定金額をもって、自分が「今日も生きた」ということにはならないし、何より学門が一ミリも入らないのは本当にまずい、推定売春価値はオマンコの価値であってあなたの価値ではない。

「美少年のケツ穴と同じ値段だ」と言われると、女性は怒りを覚えるが、この怒りに正当性の筋道はない。

女性がオマンコパワーで生きているというのは、美少年がケツの穴パワーで生きているというのと同じだ、昨今はLGBTのこともよく言われるのだから、ここに性差別は持ち込めないだろう/美少年がケツ穴パワーで生きているというと、とてつもなく救いのないアホというふうに聞こえるが、実はまったく同質のことじゃないか、オマンコを庇護して美少年のケツ穴を誹謗するのではそれこそ性尊厳の侵害だ。
宇宙飛行士の講演に、育ちのよい少年たちが瞳を輝かして聞き入っているとして、それは「鮮度のよい高級ケツ穴が居並んでいる」という光景なのだろうか?/男女に関わらず、学門が入らないのはそれが理由だ、ずっと大前提に、「だって、わたしって、○万円で売れるし……」という文言が掛かっている、そしてその推定売春価値がゼロになったころには、もうすべてのことが間に合わないのだ。

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推定売春価値

六歳の、確かに美少年ではある少年が、ホモの金持ちに買われていたとして、「ボクを一晩買うには十万円かかるのさ、それでも予約でいっぱいなんだよ」と言ったとする。
そして、この少年の横を、「国境なき医師団」の方々が、忙しそうに「どいてどいて」と歩きぬけていったら、この少年はまるでアホのクズに見える。
少年の場合なら、こうして冷静に、「それはつまり、ただ変態オジサンたちのツボで、ドハマリしているだけだよね」ということがわかる。
しかしどうも、女性の場合、自分が一晩いくらかということで、大マジに自分の価値を量っているところがある、この売春価値が女性の脳を支配しているせいで、女性はまともに学門に触れることができない。

女性は誰でも、自分が娼婦になることを夢想したことがあり、なんというか、ホステスでも何でもいいので、おじさんから万札を出させたら「自分の勝ち」で、それで立派な上位の「仕事」をしている、と感じるところがあるようだ。
実際にはその稼ぎを得ていなくても、「いざとなれば……」と、身体を売って稼ぎうる金額を皮算用して、推定売春価値、それを自分の値打ちと評価して、自尊心を保っているところがあるらしい。
これがあるから、女性は、アホ扱いされると猛烈な怒りを覚えるのだ、特に若い女性はすべて未然の「上位職」で「高給取り」として存在している、だからアホ扱いされるとまず感情的に堪えがたい火を噴いてしまう。
多くの女性は、実はこの世界のことが何もわからないまま生きていて、だからこそ自分の推定売春価値だけが自尊心と精神安定の支えになっている、ホモの少年なら「きっしょ」の一言で済むところが、女性たちにとっては切実な自分を支えるよすがなのだ。

売春価値は、存在しているが、あくまで一種のジョークだ。

六本木でそういう美人クラブに入れば、女優やアイドルと、十数万から数百万で一発やれるようになるが、そういうのを「すごい!」と感じて憧れる女性は、本当に価値観が何もなく、本格的な意味でバカなのだと思う、「カネを動かすことが価値なのだ」ということしかけっきょくわからない人はたくさんいるのだ、百万円のファーストクラスに乗れば百万円の価値があると思っているとんでもないアホさんが世の中には多数実在する。
変態おじさんが美少年に一発十万円を払ったとして、おじさんは美少年に十万円を払ったのではない、自分と自分の快楽が大好きだから十万円を投げてよこしただけだ/別に売春が悪いわけではないが、さすがに「金銭媒介式オマンコ」を自分の時価総額の主体にするのは救いがなさすぎる、まだ中学校のときの成績が自分の価値だと思い込んでいたほうがマシなぐらいだ。

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「現在」を認識することはむろんできない
生日だということで、お祝いされて、箱根に一泊してきた、箱根はもういつものところに投宿し続けている。
今回は、飲めや歌えではなく、とにかく湯に浸かりたおしてきた、僕は恢復に快楽ではなくネイチャーが必要なタイプだ、繰り返し湯に浸かって山の麓を歩かせてもらうと一気に恢復した。
帰りに、新幹線を使わせてもらったのもよかった、小田原から新横浜なら16分で着くんだな、ワープしたみたいでびっくりだ、新宿からロマンスカーで行くのはいつもステキなのだが、新宿の雑踏を抜けるのがやや疲れるのだ、温泉帰りに巨大な広告群の中を歩きたくない。
それでまあ、帰ってきたが、この気温でも汗が出る出る、ふつうこんなに入湯すると湯あたりをするものだが、こんなことにも慣れがあるのだろうか、オッサンがもはやアルコールに悪酔いなんかしないように、いつのまにか湯あたりというのも深刻にはしなくなった。

これから月刊ワーQの編集をして、僕自身も寄稿して、明日はワークショップで、明後日はパーティか、しかしもう体調は万全だ、身体は動く動く、こりゃいくらでも遊べるだろう/ということで、たくさんの人の祝福とバックアップに、まとめて御礼申し上げます、まとめてというところがひでえ横着だが、まあいいだろう、僕が横着でなかったためしはこれまでに一度もない。
明日はワークショップで、基礎から確認し直して、あとそろそろ、慣れてきた人には次のステップに進んでもらおうかな、テメーらが接触しているのはまだまだ奥義なんかじゃねーよということを、また目撃してもらってため息でもついてもらおう。
忘れないようにメモしておこうかな(ひどい記事だ)、命令法は空間そのものに触れているというのが本質だし、金魚法は「何もしない」がイコール「止まらない」ということでもある、釣り合い法はある意味、「相手を掴んでいないから接触している」ということでもある/「止まらない」ということは「未来に進んでいる」ということでもあり、未来というのはつまり、永遠にやって来はしないものだ、やって来たらそれはもう現在だからな。
われわれは、現在そのものを認識する能力を持たない、なぜなら「認識」という機能そのものが、時間を消費するからだ、云わずもがなゼロ秒で認識はできないのだから、「現在」のつもりで認識している瞬間は、それが認識である以上すでにコンマ何秒か「過去」だ、だから「現在」の中を活動しようとすると、認識が発生する以前の中で活動するしかない、これを未来法と呼ぶ……べきだが、まあどう呼ぶかはまだやってみないとわからないな。

ピッチャーが球を投げる前に、一塁に走ってよい。

人間は、しょうもないルールにあっさりと縛られるもので、ピッチャーの投げた球をヒットしてからしか、一塁に走ってはならないと思っているのだ、そんなアホなルールはこの世界のどこにもないぞ、ピッチャーがまだ球を投げていなくても、おれはとっくに打ったのだ、それをお前らが認識できていないだけで、そのお前らの認識に都合して物事を決めようとするから、物事のすべてはガッカリ残念の虚しいカスみたいになってしまうのだ/まあヒットを打ってからしか一塁に走ってはならないというのは、百歩譲ってわかるとしても、ヒットを打つのにわざわざピッチャーが球を投げるのを待つのかね、そんなヒマなことをしている時間がどこにあるんだ。
もし、ピッチャーが投げる前にバッターが走ったら、「野球にならない」ということであれば、それはもう出来合いの、誰かがやった「野球」を二番煎じでなぞっているのだろう、もうちょっと自ら能発的に物事をやったらどうだ、辞書に載っている野球は過去の野球であって「現在」に営まれている野球ではない、そうして一度たりとも「現在」に踏み入らずに最期まで過ごすつもりか。
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