☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
横隔膜で聞くべし!!
グってもらうとわかるが、電子機器としてのマイクとスピーカーは、実は構造上はまったく同じものなのだ、「空気振動を電気信号に転換し」「電気信号を空気振動に転換する」だけだから/そして転換された信号パターンを記録(保存)する場合はそこに「レコード」がつく(ちなみに、本当に、スピーカーラインにマイクをつなぐと、マイクから音が出てくる、ただしマイクが傷む可能性あり)。
さあそれで、シンプルな話だ、人の話を聞くとき、また言葉を聞くとき、音楽を聞くとき、あるいは景色を見るときでさえそうだが、すべては横隔膜で直接聞きたまえよ!! 「鼓膜じゃなくて横隔膜なのかああああ」と、アホみたいに驚いてよろしい、これはアホみたいに驚く奴のほうが賢いのだ。
何かを聞くというとき、単なる「音情報」と、それだけではない何かの「神韻」が含まれている場合がある、音情報は確かに耳(鼓膜)を経由して聞こえてくるのだが、「神韻」のほうは横隔膜なのだ、横隔膜というのは「神韻のマイクおよびスピーカー」と捉えてよろしい、「さらにはレコードも兼ねている!!」というスグレモノだ。
横隔膜はどこにあるか、というのも、まあググれば出てくるが、簡単にいうと肋骨の最下部の「底」をベターッと覆っているのだ、胸腔と腹腔の境目だ(「横に隔てる膜」だから横隔膜だ)、この横隔膜は筋肉で出来た膜なのだが、不思議なことに、随意筋と不随意筋の両方の性質を持っている、寝ているあいだにも勝手に動いて呼吸をしてくれるのに(不随意筋)、息を止めたり深呼吸をしようというときは、ちゃんと自分で操作できるのだ(随意筋)、随意かつ不随意でもあるとか超ヤバイ、皮膜アンド境目として超ヤバイ(なお横隔膜は哺乳類にしかないので、九官鳥が言う「オハヨー」に横隔膜からのソウルはない)。

「エコー」に直接触れられるようになると、実は、しゃっくりを自分で止められるようになる、慌ててメシを食ったときなど、この技術はたいへん重宝する(といっても、そんなことのために、イージーに手に入れられる技術じゃあないが)/しゃっくりというのは横隔膜のけいれんだが、エコー感覚を操作できるようになると、この横隔膜のけいれんを自分で止められるようになるのだ。
それはいいとして、「聞く」ということについてだが、「聞く」といって、耳(鼓膜)から聞いた音情報はどうなるかというと、耳から頭に入ったものは、「認識」され「理解」され、「区分」され「telling」され、保存ではなく「記憶」されるのだ/音楽でいうと、いわゆるメロディと和音とリズムに分割・理解され、歌詞が記憶される、ただしこうして分割理解されたものは、再統合しても元の音楽には戻らない(ツギハギの集成にしかならない)。
だからたとえば、「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは……」という詩文だって、横隔膜に直接入れないと、最終的に「何を言っているのかわからない」という記憶になってしまうのだ、もちろん逐語的に意味は「理解」できるし、「記憶」もできているのだが、それでも最終的に「何を言っているのかわからない」という情報の集成になる、ただしそれでも穴埋めテストには百点が取れてしまうから要注意だ。
すべては横隔膜で聞きたまえよ、アゼルバイジャンンンン!!! 横隔膜で聞きとらず、逐語的に鼓膜から頭へ聞きとろうとすると、ここで何が「アゼルバイジャン」なのかがわからない、そりゃわかるわけがない、別に意味があって言っているわけではないのだから、ハンモックでローストビーフを食うカモメの話を、nnab、逐語的に理解できるわけがない。

「マグロ・お米・酢・にぎる・わさび・しょうゆ」というのは、寿司の「レシピ」であって、寿司ではない。

そして、このレシピどおりにあなたが食材を集成したとしても、それは元の「寿司」にはならないのだ、あなたの横隔膜に直接寿司が入り、あなたの横隔膜から直接寿司が出てこないかぎり、あなたの握ったものは寿司にはならない、記号的に寿司と認識しうるものはできたとしても、「あのときの、あの寿司」には絶対にならない。
耳から入った音情報は、ちょうどこのように、原盤から分割・理解され、レシピにすり替わって「記憶」されていくのだ、このとき原盤は保存されず放棄されるので、記憶だけかさばっていくのに、元のものは「保存されていない」という状態になっていく/とにかく横隔膜で直接聞くことだ、そして横隔膜から直接話せる人になってゆくこと、鼓膜で聞いて記憶して声帯から発声するのではないのだ、マイクもレコードもスピーカーも「横隔膜で直接ですわ」と思いなされ。
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ガキに言うことをきかせる呪法

ず子供を物置や納屋に閉じ込める(拘束・閉じ込め)(このとき、「呪いを始めまーす」という、意識と気配を強く持つこと)。
「はい、もうあなたは、お母さんの子供じゃありません」(血を攻める)
「じゃ、他の人たちだけで、おいしいご飯を食べましょうね」(僻みを攻める)
「あーあ、お母さんしんどいなあ、他の家の人たちは、もっと楽しそうなのになあ」(僻みで攻める)

「あなたのせいで、お母さん、どこにも行けないの。お母さんかわいそうよね」(拘束・閉じ込め・僻み)
「お母さんは、お腹を痛めてあなたを産んで、あなたのオムツを取り替えて、育ててきたの」(血を攻める)
「たくさんお金もかかったなあ、お母さん、読みたいご本も買えなくなっちゃった」(僻み・血(カネは血の代用になる))
「お母さんの子じゃないから、ごめんなさいって言えないのかな? しょうがないよね、お母さんの子じゃないもんね?」(血を攻める・「呪」をやらせる)

「ごめんなさい、ごめんなさい」「僕は○○します」と、血がにじむまで言わせる(「呪」をやらせる)。

これで呪および呪縛が成り立つ、血と僻み(および拘束・閉じ込め)のピークを作り、その中で「語」を刷り込むと、それは「呪」となって、楔のように突き刺さって残存するのだ、よく言う「クギを刺す」ということの、意図的に苛烈化させたバージョンが、こういった「呪法」になる。
もちろん、「人を呪わば穴二つ」ということがあり、このときお母さんは解呪のやり方なんか知らないだろうので、自分にも強烈な呪いが掛かることになる、つまり自分が「お母さん」だという呪いも強烈に自分に掛かる/子供が言うことを聞くようになる代わりに、自分も自分の言うことを聞くハメになるのだった、しかもこの場合の「言うことを聞く」というのは「言葉」ではないので、お母さんもその子供も、「言うことを聞く」たびに内部的に血まみれになる。

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(グレートチャンネル)
「なんだこりゃ」「なんということだ」と打ちのめされるチャンネル。
一つの光景、一つの季節、暮れなずむ紫色の空、熱にけぶる大気。
僕は性欲で女を愛してはいない/「なんだこりゃ」と打ちのめされる景色の中で……
誰か窓の外にクーラーを置いたか? 室内の温度計は27.5℃を指している。

「なんだこりゃ」「なんということだ」と打ちのめされるチャンネル。
人は願望の先に進んでいくのじゃないし、お祈りでカミサマに導かれてゆくのでもない。
「なんだこりゃ」と打ちのめされる光景、その光景の中にわたしがいる。
われわれは、正しいことを探しているが、本当はそうではなく、この世界にはどうしようもない光と、どうしようもない光が潜んでいる、これは書き間違いではない/「どうしようもない光」と、「どうしようもない光」だけが潜んでいる。

光の対極に光がある。

ホホ、いわゆる対立構造を破却する不思議なもの、夏の空と地面に聞いて、夏は空と地面が一緒くただ。
茅ヶ崎の海の向こうには、茅ヶ崎の海があるんだよ、それじゃあ不思議だよなあ、Oh! グレートチャンネル。
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杞人の博打と強迫障害2

えば、僕などは、女の子にメールの一通を送るときでさえ、真剣に祈っている/賭けがあるのだから真剣に祈らざるを得ない。
それは何の祈りかといえば、「どうか、向こうにとっていいタイミングで届きますように」「タイミング的に、うまく笑ってくれるように届きますように」、また内容によっては、「タイミング的に、あたかかみが起こりますように」と祈っている。
そりゃ何しろ、メールなんて、相手の状況がわからないところに電子テキストで届くのだから、タイミングによってはため息をつかれるかもしれないし、大ヘイトになるかもしれないし、またタイミングによっては、あははははと笑ってもらえるかもしれない。
いつでもそういう賭けがあって、僕は漠然と祈るのではない、いつも「奇跡的にうまくいけ!」と意図的に狙って送信している/もしそれで、タイミングが悪いときに届いたとしたら、それはタイミングが悪かったのじゃない、おれが悪かったのだ、タイミングのせいにするというような邪法をしたらその後ずっと呪われるだろう。

そんな必死に祈ってまで、メールなんかしなきゃいいだろという考え方もあるが、もしそこに祈りが必要ないなら、それこそ僕はメールなんか送らないだろう/送るメールに祈りが必要なかったとしたら、そりゃそこに何も書かれていないからだ、さすがにそんなものを送りつけるわけにはいかないだろう、向こうだって読む手間があるんだから。
思えば僕は、一事が万事、ぜんぶそれだな、「空気を読む」ということを完全放棄して、「奇跡を読む」ということにフォオオオと吠えているのだ、まったくアホの極みだが、見えもしねータイミングを最上で掴もうとしたら、そりゃもうフォオオオぐらいしか方法がないのだ/だいたい、その身のアホ度と叡智度が両方同時にピークを得ていないとタイミングなんか外れるアンド外れるのだ。
そう考えると、そもそも「不安」というのは、確認なんかできようがないことを、確認したがっていることから生じているのではないだろうか/もちろん相手にカードの開示を求めてもいいが、お互いに手の内を開示しながら進めるポーカーには、安心だけがあって何のゲーム性もない、そのオープン・ポーカーを続けているプレイヤーはもはやただの死人だ。
どれだけ確認したつもりでも、「あれ? 家の鍵って閉めたっけ?」と、不安になることはあるものだ、そのとき「戻って確かめる」か、「いいや、いける」と判断するかは、やっぱり賭けでしかない、その場で確かめることはできない以上しょうがない/それと同じで、けっきょくすべてのことは「確認できようがない」のだ、だから賭けになる、イチかバチかの賭けじゃなく、理を尽くして「こっちだ」と賭けることになる、だから必要な矜持はやはり、「わたしが賭けに負けるようなヘボであってたまるか」だ。

賭けの結果だけは厳正に。

「賭け」ということになると、ゴネる人が出てくるのだ、賭けには常に「裏目」というリスクがあるのだが、この裏目が出たときにゴネてごまかそうとする人がいる、これは厳正なる「賭け」を侮辱して穢す行為であって許されない/そりゃ「そんなつもりじゃなかったんだよ」と女の子に言いたくなる機会はこれまで二千万回ぐらいあった、だがしょうがないのだ、裏目というのはそういうものだ、裏目リスクを回避できる賭けは存在しない。
「絶対○○って思われているよ〜」と、それでよろしい、本当にその目にBETしたんだな、そうBETしたからには、引き返せない、裏目が出たときはしょうがない、自分がナイスかヘボかのどちらかになるが、ナイスにだけなりたくてヘボが出たらごまかそうとするようでは、そりゃ次第に病気じみてきて当たり前となる/まともな大人が傲ったり自己卑下したりしないのは、そんなことしたら次の賭けの運気が下がるのを知っているからだよ、アガったりサガったりしていられる悠長な余地は賭けにはないのだ。

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杞人の博打と強迫障害
ょっと珍しい話をするが、誰にでも「不安」や「強迫」がある、誰にでもあるていどはある。
たとえば普段は陽気な人でも、人間ドックを受けたりすると、ふと「悪い結果が出たらどうしよう」と、なぜか不安になって、しばらくブルーになって過ごしてしまうことがある。
それは、合理的に考えると、「検査してもしなくても、あなたの身体は同じでしょ」ということだし、「ブルーになったって検査結果は変わらないじゃん、そんなのよけい身体に悪いよ」ということなのだが、そうはいっても「不安になってしまうのだからしょーがないじゃん」ということが実際に起こる/当たり前だが、あるていど誰だってこのことはあるのだ。
誰にでもあるこのことが、なぜか強烈化してゆき、ダメージやトラブルをもたらすようになったとき、これはあらためて「強迫性障害」とか「不安障害(不安神経症)」と呼ばれるようになる、もちろんそれは心療内科の領分だが、僕はしばしばこのことを、「不思議だなあ」と思うのだった。

不思議というのは、つまり人間は、催眠術や催眠暗示に掛かりうる以上、「根拠ゼロでも、無限に不安・強迫を覚えられる」ということだ、われわれが万全と信じている「現実味」みたいなものは、根っこでたいへん危ういものだと改めて考えさせられる。
「杞憂」「杞人の憂い」という言葉がある/これは古代の、杞の国の人が、「空が落ちてくるううう、そんな気がするううう、うわああああ」と不安になり、何がどうなったかというと、空は落ちてきませんでした、おつかれさまでした、でもしょうがないよね、という話から成り立っている、
こうした強迫障害や不安障害に対しては、○○療法というのがいくつか確立されているそうだが、それはちゃんとしたものであるはずだから、ここで僕から提案できる療法なんかもちろんない/こんなことに革命的なideaなんか出せるシロウトはいないだろう、まして僕の領分なんてオモシロ話というジャンルなのだから門外漢もいいところだ。
ただ僕は、80%の確率にも100%賭けるし、0.1%の確率にも100%賭けるようにしている、ということを言いたい、100%にしないと「賭け」にならないからだ/そして「賭け」ということは、ハズれるかもしれんということでもある、もちろん賭けにはハズれたくないのが人情だが、さすがに賭けにハズれたときの己のヘボさぐらい自分で引き受けろよと、僕のような者でも思うのだった。

杞人は、間違っていたのではなく、賭けに負けた。

彼が心配したようには、空は落ちてこなかったのだが、「わたしが間違っていました」とか甘いことヌカすんじゃなく、「賭けに負けたんだろ?」と僕は思う/なぜなら、空が落ちてくる確率が0%とは誰も言えないからだ、やはり空は落ちてくるのかも知れないじゃないか、それをお前、「間違っていました」なんて、まるで「なかったことにする」みたいな口ぶりはやめろよと思う、お前は病人だったのじゃないし、気の迷いがあったのでもなかった、ただハズレに賭けてしまった「ヘボ」だったんだろ、と僕は言いたい。
僕はここにこんな話を書き示しているが、これがスベるかウケるか、僕は賭けるしかないのだ、もしこれがスベったとしたら、そのとき僕は「間違っていた」わけでもないし、「気の迷い」があったのでもない、ただこれがウケると信じて賭けたことが「ヘボ」だったんだよ/このことについて、僕には何の不安もない、安心もない、じゃあ何があるかといえば、スリルがある、そりゃ賭けているんだからスリルはある、スリルがなきゃ眠たくてしょうがないだろう。
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流れに飲まれない方法
の中全体の流れというものがある。
そして、それになるたけ抵抗する。
なぜ抵抗するかというと、流れに飲まれてしまったほうが、ラクで安全だからだ。
ラクで安全ということは、物語を奪われるということだ。

正直なところ、他人事については、「よくそんなに平気で時代に飲まれるな」と慨嘆している。
夢も恋あいもない時代、脳ミソにも魂にも響かない時代だが、そんなもんに順応してどうする、100億人がそういう時代に入ったら、そりゃ100億人の側が間違っているのであり、僕の側が間違っているのではない。
僕は十年前の自分が持っていたものを、現在の自分が失っていたら、自分のことを許さない、もしそれを失って平気で「今のおれ」みたいなことをヌカしていたら、僕は自分を天才よばわりする一切のことを辞めてこれまでのすべてを撤回するだろう。
おれはおれが正しいと信じたことを、他人のリアクションや時代のリアクションによって曲げはしない、別に信じたことを貫くなんてわざとらしいことを考えてはいないが、ハズレの航路に付き合うことに理由が見いだせないだけだ。

おれは浮いているので、流れに飲まれないのだろう。

そりゃ浮いていれば流れには飲まれない道理だ、そして浮いているというのは、周囲に迷惑をかけていないかぎりは別にストレスになるものでもない、とはいえ、浮いているということに耐えられないという人は少なくないみたいだが/浮いていても愛されていれば問題ない、できれば僕のことを愛してくれている人が流れに飲まれて遠くに行ってしまわないように。
あ、そうやって考えると、「流れに抵抗する」なんて言いながら、別にガンバって反発していたわけでもないんだな、ただ流れから浮いていただけか/現代からこの先へゆく「流れ」、このムードと文化風潮を、本当に愛していますか、愛していないなら付き合って一緒に流れていく必要はないと僕は思う、ただ浮くのがいやだというなら流されてゆくほかないわけだけれども。
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正義のこころで立ち向かってはいけない
然関係ない話だが、万が一のときのために。
もし密室的な空間で、ナイフをもった狂人が暴れ出したら、どう取り押さえればいいだろうか?
もちろん、逃げられるなら逃げるしかないが、逃げられない状況や、誰かを守らねばならない状況もあるだろう。
あまり自慢できる話ではないが、そういうパターンの「いざというとき」に、「なんとかする」ことができる奴は、頭の回転がいい奴だ、ガラの悪い地域で育った奴ほど、乱闘の中で「頭のいい奴」がコワイというのをうっすら知っているはずだ。

狂人ナイフマンを取り押さえるとしたら、たとえば椅子とか、大きなスーツケースとか、大きなダンボール箱とかを前面に構えて、なるべく体重の重い奴が、そのまま突進するべきだ。
実際、椅子を突き出して突っ込んでこられたら、手元にあるのがナイフだろうが花束だろうが届かないのだ/届かないし、人間、「見たことのない形状や攻撃」というのは、とっさに捌き方がわからないものだ、いきなり椅子を向けられるのは、いきなり木刀を向けられるよりも「わかりにくい」。
「見たことのない攻撃」というのが、実はとても有効なのだ、何ならオープンした雨傘を正面に構えて突っ込んでこられても、そんなことをされるのは誰だって初めてなので、とっさにどう捌いていいか判断できないだろうし、頭に血が上っている奴が華麗に身を躱すという例はこれまで見たことがない/向こうからみて「何をされるのかわからなかった」というのが一番有効だ。
ハンパにかじった格闘技より、「陸上のハードル競技の選手が急に本気で走ってきて跳び蹴りしてきた」「何をされるのかわからなかった」とか、そういうもののほうが避けられないだろうな/どんな技術があっても、狂人と戦ったらキケンでしかないので、とにかくいざというときには相手のシナリオにないことをやってやるべきだ、もちろんそんな機会はないに越したことはないが、いつか「いざというとき」があったとしたら。

一番ひどい武器と方法を見つけるべきだ/そしてそれを見つけるのは正義の心ではなく悪の心だ。

万が一のとき、狂人に立ち向かうしかなかったとして、正義の心で向かっちゃだめだよ、そういうときは一番ひどい方法で対抗してやるべきで、ひどい方法というのは悪の心が見つけるものだ/悪い心には椅子や他人のスーツケースが制圧の「ひどい武器」にとっさに見えるということ。
人間の眼は、「最前面に突き出されたものを見てしまう」という性質がある、たとえそれがポテチの袋だろうがトートバッグだろうが、最前面に突き出されると人の眼はそれを「見てしまう」/だから究極、もし札束を最前面に突き出されて突っ込んでこられたら、狂人ナイフマンとしてもとっさに「どうしたらいいかわからない」だろうな、そんなヒデー戦闘法を正義の心が発想するわけがないので、いざというときには「人として最悪かよ」というような頭の回転をさせるべきだ。
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重要参考人イマジナリーナンバー

「二乗したらマイナス1になる数」を、虚数iと表現する、と学校で習っているはずだ。
なぜiで表現するかというと、「imaginary number」だからだ、「想像上の数」「架空の数字」という意味になる、だから虚数という。
虚数なので、どれだけ電卓を叩いてもこの数は出てこない、「二乗するとマイナスになる」というのは、言ってみれば「マイナスの面積が生じる」ということなので、「んなわけあるか」であり、そんな数は存在しない/あくまで想像上の架空の数としてしか存在しない。
想像上にしか存在しない、ということなのだが、相対性理論以降の物理学にはバリバリ出てくるので、「おいおい」ということなのだが、どうもやっぱりこれは……すでに故人となられたが、ホーキング博士は、宇宙が「虚時間から始まってない?」と唱えた人だ、もうここまでくると何が虚で何が実なのかよくわからなくなってくる。

アインシュタインの一般相対性理論は、「空間と時間って無関係じゃねえわ」ということを解き明かした理論だが、それをさらに、「時間軸を虚数単位に取ることを許せば、ローレンツ変換も普通の回転変換も同じやん」「じゃあ相対性理論って、ただの虚数混じりの四次元空間の回転変換やん」とみなせることを、ミンコフスキー的という/うーん、こんなこと今さら再勉強させられるのはマジ勘弁だぜ。
そんなこと話していられないので、結論だけいうと、つまり「イマジナリー」に宇宙が始まっている可能性があるということだ、そしてさらに突っ込んで言えば、「宇宙は『物語』から始まった可能性がマジである」ということになる。
笑えない話、要するに聖書的なものが示している創世神話が、作り話じゃなくマジくさいということなのだ/この宇宙が始まる前、時間軸は未だ時間軸でなく、別の空間軸だった可能性アリなのだが、当時()は時間軸が未だ無かったのだから、「永遠の国」がそこにあったことになる。
そして、そこに僕のうひょひょな知識を導入すると、つまり時間軸が現在の時間軸になる前(虚時間軸)は、「物語軸」の世界があったと言うしかなくなるのだ、現在のわれわれがいる場所はtを時間とすると(x,y,z,t)の座標だが、もともとはfを物語とした(x,y,z,f)の座標にいたということだ/聖書に書かれているようなイマジナリーな創世神話が、イマジナリーだからこそ「マジ」の可能性があり、「物語」が「物理」の可能性があるのだ、あくまで「あっちの物理」という意味も含むけれども。

イマジナリーが「イマジナリーじゃないよ」と言い張るから困る。

誰だって、ビッグバンという言葉を聞いたことがあって、一度は「じゃあそのビッグバン前には何があったんだよ」と考えたことがあると思う、そして僕は「ビッグバン前は『物語』があった」と、ハナクソをほじりながら言うしかないのだった、それじゃあもうどうするよ/「物語」で織りなされる永遠の国があるのだったら、それはマジに天国ですやんということになる、物理的に天国がありうるということになる。
困ったことに、「イマジナリー」という事象が、思われているほどイマジナリーではないくさいのだ、われわれが勝手に「イマジナリー」をイマジナリーと決めつけているだけで、「実は」ということが、どうやらマジであるくさいのだった。

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日本代表選手たちの試合は、われわれが消費して愉しむコンテンツか
ッカーワールドカップに向けて、今回の日本代表は、戦力不足から暗雲が予想されているらしい。
僕も先ほど、対スイスの親善試合を観て、ウームと思ったが、まあ僕はサッカーのことはよくわからない、ただ現代の日本でサッカーうんぬんの以前に、「チーム」が生成されるということに現実味がない気がする。
今、日本の男性は、セクシャリティを破壊されているので……と、そんなことは関係ないと思われるかもしれないが、僕は関係あるような気がしている、セクシャリティを破壊された男性が「チーム」を形成することはまずない、と勝手に僕は思っている/キャバクラでモテないサッカー選手に「がんばれ」というのは酷すぎる。
「チーム」というと……別にサッカー代表に限ったことでもなく、今や、たとえばふつうの新入社員でも、業務に対する「チーム」の一員になることについては、距離を置くのが常識だという輿論がある/サッカーうんぬんに限らず、われわれは今結合した「チーム」もしくは「チーム愛」というものを目撃することがほとんどない。

加えて、一方では羽生結弦選手の活躍に栄誉賞を与えたり、将棋の藤井聡太棋士を異様にもてはやしたり、あとは女子カーリングだったか、「勝ち組だけ異様にチヤホヤする」と同時に、なぜか勝てる見込みが薄いものには「disる」という向きがある、これは何か精神的におかしいと感じる。
羽生結弦選手も、女子卓球チームも、サッカー日本代表も、すべてわれわれの日本の代表選手たちだ、それを「勝てる見込みの高いものだけチヤホヤする」というのは応援の態度としておかしいし、国民の精神としてもおかしい。
たとえどれだけ実力不足でも、われわれの日本で最高峰のプレイヤーを集めたチームなのだから、彼らにがんばってもらうしかないのであって、スポーツ選手というのは、われわれに勝利を錯覚させ満悦させるための仕事をしているわけではない、最善のチームが敗退したとしてそれに唾を吐く権利は誰にもない。
どれだけ敗色濃厚でも、日本人は日本代表を応援するしかないじゃないか、どうも最近は各国戦のスポーツも、自分が「消費して愉しむコンテンツ」だと思われているフシがある、そして「勝ってくれないと愉しめないので毒づいて愉しむ」という風潮がある、それはあまりに下賤にすぎないか。

日本代表チームをdisっている人は、当人がどこのチームにも結合していないのではなかろうか。

日本人全体がまったくチーム化しようとする気配がないのに、スポーツの代表だけ急にチームワーク化するわけがない/今やどこかの店長とアルバイトとか、部活動のリーダーと後輩とかでも、チームとして結合・団結というのは聞かない話のはずだ。
リーダーシップとか、団結力とか、決定力とか、日本人のわれわれにないものが、急に日本代表選手たちにだけ生じるわけがない、われわれはきっと精神のどこかをおかしくしている/「課題を明らかにして具体的に改善していく誠実さが必要」なのは、われわれの誰もがそうなのであって、代表選手たちだけに向けられる説教じゃない、われわれが代表選手に説教を向けるのはどう考えてもおかしい。
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「愛」にはまず「反発」が起こる
「愛」が身に流入すると、身は「反発」する。
なんで反発するんだよ、わけわかんねーぜという話だが、事実そうなるのでしょうがない。
ふだん、愛のない中を生きるように、「身構え」が出来上がっているので、身構えが愛に反発するのだ。
「素直になれない」とか、そういう次元のことではなくて、体調レベルでクラッシュしてしまうことがある/愛のない中のほうが「落ち着く」「慣れている」「やりやすい」「元気になる」ということがあるのだ、そういう「身構え」で長いこと生きているから。

もちろん、愛に反発する身構えなんておかしいので、あくまで反発は表面的なことであるはずだが、この表面的なものが深入りしてしまっている場合が少なからずあり、これは割と、シャレにならず、解決の仕方もない、やっかいな状況なのだった。
なんというか、「身」には、これまでのウラミツラミや憎しみ等、いろんなものが詰まっていて、そこに急激に「愛」が流れ込んだとしても、「すっきり感動」とはいかないのだ。
およそほとんどの場合、「愛」が流入すると、身は反発して、精神の失調・不明と不穏の感情・わけのわからない八つ当たり・急に始まった妄想・ナゾの敵愾心・地獄落ちのヴィジョン・逆に「愛のなさ」を探してむさぼること、などを生み出す/「愛」そのものは「大好き」なのだが、体調および生理的なレベルで、パニック的な症状が生じるのだ。
そんなことをレポートされたところで、どうしようもないと思うが、「愛」というのは具体的に、そうしたショック症状をもたらすものだということは、前もって知っておいたほうがいいかもしれない、愛そのものはやさしく穏やかなものだが、それが流入するとあなたの身の内は「大暴れ」することが少なからずあるのだ、そのときはまあ「ひとまず距離を置いて落ち着く」しかない(なんて頼りないアドバイスであろう)。

いかなる美食も、胃腸が停止していたら嘔吐せざるをえない。

われわれは、味覚において美食を「最高」「大好き」と思うわけだが、それがすんなり吸収されるのは、あくまで胃腸が健全であることが前提だ、胃腸が停止していたら、その「最高」「大好き」もたちまち不本意な嘔吐に転じざるをえない。
それと同じように、「愛」に接触すると初めのうち、とてもすてきで「最高」「大好き」と思えるのだが、それがどんどん流入してくると、何か身が吸収できずに反発して、悪寒や敵愾心を持ち始めるのだ、愛を吸収するハートが恢復しないうちは、停止している胃袋に美食が流入するのと同じ症状になる/何か「液キャベ」みたいに、ハートを補助してくれるお薬でもあればいいんだけどね、ひょっとして「救心」とか効果あったりするのかね(んなアホな)。
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僕にはけっきょく、「何かの人」がまったくわからない3

がまともに(正しく)活動しようとすると、僕は「ただの人」でありつづけるしかない。
僕は何かをがんばろうとしたことはないし、活発であろうとしてこともないし、何かの知識や、理解に長けていると思ったことも一度もない。
たぶん、この誤解は、半永久的に続くのだ、僕の主体に誰かの吾我が、取っ組み合おうとすると、噛み合いようがなく……どう説明したらいいのだろう? このことの説明は「不能」だ、これだけは明確に「不能」なのだと断言できる。
「音」が違うのだ、何の説明にもなっていないが、僕にとって音は「世界」なのだから/あなたにとって音は「音」だろう、音波として聞こえる音も勿論あるが、音波ではない世界そのものの音というのもある、それは鼓膜とは別のメカニズムで、しかし確かに「聞こえる」。

僕はどこまでも「ただの人」で、この世には「ただの人」以外は存在していないと感じる、その意味で万人は平等だが、おそらくこの「平等」というものを、どこかのアホが曲解したのだろう。
「ただの人」といって、表面上は優秀な人や拙劣な人がいるだろうが、どうせそれを比較しているんだろ? その「比較」という識行が出てくるのがまずおかしい、この世界に「比較」という概念は、概念としてあるだけで、概念は実体ではない。
概念しかわからないから、毎日ヒマなあまり、概念のヒートアップで生きているフリをしようとする……というのは言い過ぎか、いや言い過ぎでもないなあ、それにしてもこのことは、「比較の音を聞かせてみろ」と言われたら決着する、実体があるなら音があるはずだが、比較には実体がないので「比較の音」は成り立たない。
音がないものには実体がないのだ、僕は音がするすべての女を会う前から愛している、それは僕がただの男だからだ。

音楽から感動が生じるのではなく、感動から音楽が生じている。

そりゃあたりめーだ、われわれは音楽に対して消費者だから、「音楽を聴くと感動する」と思っているが、音楽の生産者は、音のないところから音楽を作るしかあるめえよ/「無音」が音的にnothingnessなのだったら、音楽家はパクリ以外に音楽の生み出しようがないだろう。
それはつまり、この世界そのものに音があって、<<感動そのものに音がある>>ということだ、僕には器楽的な能力や知識はまったくないが、正直なところ、作曲ができないという人のほうが意味不明だ、世界の音ってずっと聞こえてね?/音に従い、音に基づけば、違和感のない「世界」がある、比較という識行に音なんてねえよ。

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僕にはけっきょく、「何かの人」がまったくわからない2
識サイドの観点にも配慮して、いっそドライに言ってしまうと、あなたなんかは僕を尊崇し、わかりやすくヨイショするべきだろうな。
はっきりと、わかりやすい上下関係があったほうがいい/あったほうがいいというか、そう作ってしまったほうがいい。
それは、僕の側の事情によってではなく、あなたの側の事情によってだ、なにしろ僕にとって僕は「ただの人」だが、あなたから観ると僕は「何かの人」に見えてしまっているはず。
「ただの人」ということで、上下とか無しでいいだろというのは、僕の側において問題が無いというだけで、あなたの側では破綻するのだ、そのパターンの破綻は正直、もうほとほと飽きた、この話も本来、僕の側が言い出すことではなかったのだ。

たとえばわかりやすく、多くの人にとっては、「マイケルジャクソン」は、「何かの人」に見えているはずだ。
なぜそうして、「何かの人」に見えているかというと、「何かの人」と捉えることによって、「切断」をしているのだ/切断せずにそのまま「接続」してしまうと、身が「世界」に直撃されてしまう、これがフツー「耐えられない」のだ。
だから、あくまで説明として言うと、僕にとって「マイケルジャクソン」は、「マイケルジャクソンという人」に見えている/つまり、僕の部屋に突然マイケルジャクソンが現れても、僕は戸惑わないということだ、もちろんおおよろこびはするだろうけれど。
わかりやすく、スターの話を例にしている、スターというのはもちろん星のことで、星というのは何かというと、夜空を見上げればわかるとおり、星は「宇宙を視認する手がかり」だ/つまり星を手がかりに夜空に本当に「宇宙」を視認してしまうと、人は身がもたないということなのだった、うーんだからといって何の解決にもなっていないな。

事実、僕を「ただの人」と扱おうとした人は、順に不幸になっていった(とっても不思議)。

くれぐれも、それは僕の側の事情ではないのだ、僕の側としては「ただの人」でいいし、僕自身にはそのようにしか思えない/もし何かがヤバいと感じることがあったら、あなたの側から上下関係を作ったほうがいい、何しろ僕の側からは上下があるように見えていないのだから、あなたがそれを作らないかぎり僕の側からあれこれ口出しすることは原則ない。
そもそも僕は、人のやり方や、人の態度に口出しする説教オジイサンじゃないからな、すべてはあなたのやりたいようにすればいい、ただ年長者として一定の安全保障を懸念する義務ぐらいはあるだろう/<<あなたがいつでも逃げ出せるように>>、あなたの側から上下関係を作ったほうがいい、あなたが自分の低級を認めないと、あなたは低級への退路を自らで封鎖することになってしまうから……逆にあなたから上下関係を作ってしまったほうが、あなたにとって僕が無害な存在になるよ。
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僕にはけっきょく、「何かの人」がまったくわからない
れながら、いいことを言っていると思う。
やはりこの世界は「二重に進行」しており、ひとつは「主体」の世界、ひとつは「吾我」の世界だ。
主体と吾我は、事象平原が異なるので、主体の「わたし」と吾我の「わたし」は、出会えないのだ。
僕と実際に会ったことのある人は、僕についての感触・印象・気配に、何か「根本的に違う」というところを感じたはずだ、それがあなたにとって好ましかったかどうかはまた別にして。

うーむ、それではけっきょく、僕にとっては人々と「問答」することが最大の禁忌になる。
すさましい香りと、すさまじい可能性、すさまじい季節、すさまじい音、すさまじい光が、この世界にはひしめいている。
この僕の、現象と存在を、「破壊して消去しよう」というのが、人々のメインの目的になる、本人の「意図」のせいではなく、本人の「性質」のせいで自動的にそうなる。
僕はやはり、芸術家でも何でもなく、「ただの人」だな、「何かの人」というのは僕にはけっきょくわからなかったから。

あなたは「世界」を求めている、僕はまったく求めていない。

取り囲み、降り注いでいるものを、わざわざ「求める」ということはない。
僕は主体的であろうとしたことはない、「世界」はイコール「主体」で、こんなものどうやっても自分から主体と世界が剥がれるわけがないのだ。
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1/1000の美女
しぶりにがっつり風邪をやらかして、意識が朦朧としている。
たまにはこうして余裕のない中で書き話すことにも値打ちがあるかもしれない。
「どうしてやさしくしてくれないの?」と言われることがよくある、特に、他の女にやさしくしていたりすると、しょっちゅう言われる/しばらく責める気持ちで爆撃しないと女性の気は収まらないので、僕は一定時間責められる必要がある。
一方、ごくまれに、1/1000ぐらいの確率だが、「どうしてこんなにやさしくしてくださるの?」と、逆のことを言われることもある/ごくまれに、こうして本当にまともで、本当にきれいな女性が存在する。

「どうしてこんなにやさしくしてくださるの?」という視点で疑問が呈される確率は、二十年前なら、1/3ぐらいだったような気がする。
現代ではこれが1/1000まで下がってしまった。
現代の女性にとって、自分がやさしくされないときには、疑問度999ポイントなのだが、自分がやさしくされるときには、納得度999ポイント(疑問度ゼロ)なのだろう。
つまり、現代女性というのは、ひたすら自己感情だけの生きものであって、目の前の僕がどういう感情を持っているかなど、関心はゼロに等しいのだ、僕は女性を責めているのではなく、ただ疫学的な事実をレポートしている/実際、「どうしてこんなにやさしくしてくださるの?」という視点の疑問が呈される可能性は、このところ「ゼロ」と断定して差し支えないという事実がある。

あなたの感情が攪乱する、僕の意識が朦朧としていることは忘れ去られる。

「自己感情だけの生きもの」と、まず定義するしか先行きはないのだ、僕は今ノドが腫れて意識が朦朧とする中、なおも書き話そうとしているのだが、この僕の側の意思や感情については、関心は一ミリ(1/1000)も向けられない、僕の意思や感情はあなたの自己感情ではないからだ、自己感情の側が1000倍にブーストされているので、僕の側の何がどうだろうが、僕の意思や感情を捉えることがあなたの主題になる瞬間は一秒も来ない。
自分がやさしくされないとき、その不満感情は1000倍にブーストされて、「どうしてやさしくしてくれないの?」という疑問と不満が至上命題として燦然と輝き始める、一方、「どうしてこんなにやさしくしてくださるの?」「どうしてそんなに人にやさしくできるの」という疑問は、一ミリも呈されないという事実があり、これからこの偏向はさらに拡大する一途なのだ、僕はもはや自分の感情について話したいのではなく、この疫学的事象を学門的に究明したいとのみ考えている、僕自身が感情的に救われるなどという話はもうとっくの昔に廃棄してしまった、もうそんな甘チャンな状況ではないのだ。
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あなたの求めた弱い男3
いながら気づいたが、僕は「強い男」が好きだ。
自分が強い男になりたいという以前に、無条件で「強い男」が好きだ。
だから、エヴァンゲリオンの碇シンジくんとか、進撃の巨人のエレンくんとか、そういうのは正直「見たくもねえわ」と感じていて、それよりは孫悟空か、ジョセフ・ジョースターのような男を見ていたい。
「強い男」というと、「でも実はその裏で……」と、なぜか決まってありもしない妄想をする人がけっこういるのだが、僕はそれについても「意味がわからん」と感じている、とにかく「弱い男」に○○○○がムズムズするという人がけっこう少なくないのだ、何がムズムズするのかその伏せ字の中は僕も知らない。

人は自分より弱いものを見ると安心するのだろうか?
まあそういうことはあるのかもしれないが、僕は正直「見たくもねえわ」としか感じない。
現代の女性の求めによって、現代の男は積極的に「弱い男」になっていったが、それこそ女性が「安心できる」ということなのだろうか? あるいは弱い男のほうが、自分から何かを「してあげられる」というようなこともあるのかもしれない/とまあ、僕は女ではないのでわからない(じゃあこんな話するなよ)。
そういえば、現代でも、三島由紀夫のファンという女性はけっこういるが、石原裕次郎のファンという女性はほとんど聞かない/じゃあ僕も、腺病質なところを持てば女にモテるのかなあと考えたりするのだが、僕はその作戦を採れないのだった、なぜならそのときは僕が僕自身を「見たくもねえわ」と感じてしまうからだ(うーん、利益なし)。

カルマを平気で吹っ飛ばしてしまうような男は、カルマ的にはセクシーではない。

弱い男を見ると「キュン」と来るわけだが、それは内在するカルマの未償却レベルが同等程度だから安心できるということで、またカルマによる誘因からセクシーというか、カルマとしてのセックスに誘因される、それが「キュン」とくる、ということなのかもしれない/だとしたらやっぱりおれはキョーミねえな。
しかしそう考えていけば、なるほど、女性にとっては「強い男」と出くわすと、自分の弱みというか、自分のカルマ度だけが浮き彫りになって、追い詰められるということがあるのかもしれない、この捉え方は、僕個人の経験のいくつかを「あ、そうか」と解き明かしてくれるので、僕個人としては満足なのだった/もはや何の話でもないが、現代の男は、女性の要望に応えて多数が「弱い男」になったということ、ほとんどの女性が「強い男」にキュンとこないのだからしゃーない。
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あなたの求めた弱い男2
は、揉め事はきらいな人間だが、たぶんそこまで弱い男でもない。
ここでいう「強い男」というのは、競争に優れた男ということではない、競争に優れた男なら羽生結弦が最強だろう。
かといって、オラついている男が「強い男」ということでもない、ストレスで凶暴化したピットブル犬は、ただ凶暴化しているのであって「強い」とは言わない。
「強い男」というのは、すさまじいカルマの受け入れと、それを上回るすさまじい償却の力を持っている男だ、魂のエネルギーが高すぎて、融けるはずのない金属が融けてしまうような男だ、目の前にいるだけで目が覚める男、隣にいるだけで女が気絶しそうになる男のことだ。

「強い男」は、よく響く声を持っており、少し笑うだけで何か創造的だ、「ムードづくり」というようなゴミの発想が自動的に蹴散らされてしまう、ふつうに酒を飲んでいるだけで文化と男がそこに出現する、その他のカッコいい「つもり」のものがすべて破壊されてしまう。
何度も見てきたパターンだが、そうして「強い男」がたまに現れた場合、女はそれに張り合うのだが、どうしても女はそのとき、自分の声が男の声に比べてショボいということがわかってしまうし、周りの人もその女の声がショボいということがわかってしまう/これは強さのレベルでまったく太刀打ちできていないという状態だ。
本来、そうして「強い男」に出会えたことは、女にとっては幸運であり幸福なことのはずだと思っていたのだが、このところはそうでもなく、女にとっては自分が通用しないということが、第一に「腹立たしい」らしい、それで女は自分と同程度に弱い男を求め、それが見つかるとよろこんで付き合うところがある。
単純に、劣等感にさいなまれるということなのだろうか、このところの女性は、強い男に出くわすと「調子を乱す」ということを重視するように思う、目の前の男に「勝てない」とか「及ばない」ということが、決定的に不快なようだ、不快ということならしょうがない/また女性だけでなく男性のほうも、強い男に出会うよりは弱い男とつるむほうが快適で好ましいと選択しているような気がする。

現代人は、何かずっとケンカの前提でいる。

ずっと、全方位にケンカ予定なので、相手のほうが「強い」と、自分が喪失するということになるのだろう、そりゃあケンカということになれば相手が強いとか言っていられない、ケンカなのだから相手が折れないかぎり相手を否定し続けるしかない。
現代の女性は、多くケンカ前提なので、自分が太刀打ちできる男、ないしは自分より弱い男を求めている/そして、何をケンカしているのかは、正直なところ僕にはさっぱりわからない、僕は揉め事はきらいなのでケンカ気配の人は初めからまともに相手しない。
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あなたの求めた弱い男
は女が欲しいので、女の求めに合わせる。
どうして女性は、弱い男を求めるようになっちゃったの、そりゃ弱い男が増産されるよ。
ジェームス・ブラウンよりヘナヘナのマッシュルーム頭のほうがそんなに好きか?
どうして弱い男が好きなのかね、後になって嫌気が差すのはミエミエなのに、どうしてそんな選択をしたのか。

太刀打ちできそうな男がそんなに好きか?
あなたが太刀打ちできそうな男ではあんまり意味が無いと思うがな。
女が男を、女々しいワールドに連れて行って、女カルマに付き合うことを強制する権利なんて、どこで得たんだ。
太刀打ちできない男に出会って、メロメロにされて、そのことに「差別だ」というのはおかしいんじゃないか? あなたのママはあなたに何を吹き込んだんだ。

あなたの求めた弱い男は、あなたと同程度にヒステリーを起こすぜ。

なぜそれを、あなたは「付き合いやすい」なんて思ったんだ、まあ付き合いやすいというのはあるのかもしれないが、僕があなたを怒鳴ったらペッシャンコになる程度に、その男もおれが怒鳴ったらペッシャンコになるぜ、あなたの求めた男がそれだ。
あなたは、自分の付き合う男を、女だと思っているのかもしれないな、そのとおりの男が手に入ると思うが、あなたが髪のブローがうまくいかないときにイライラするように、彼もお気に入りの下着が見つからないとき同程度にイライラすると思うぜ、あなたの求めた男なんだからちゃんと一緒に食事してやれよ。
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多くの場合、人生はびっくりするぐらいつまらない

くの場合、人が生きるというのは、びっくりするぐらい「つまらない」という実態に行き着く。
なんというか、たとえば百歳まで生きたバーサンが、同じく百歳まで生きたジーサンに看取られて亡くなるということがあったとき、そこにある実態は、すべて「?」なのだ。
驚くべきことなのだが、精密に追求していくとやはり、人はたとえ百年連れ添った誰かであっても、その人のことがわからなかったら、ずっとわからないままなのだ、百年連れ添ったバーサンが死んでも「?」だし、またバーサンの側も「?」のままなのだ。
つまり、多くの人は、この世界の何とも出会わず、誰とも出会わず、何一つもわからないまま、「?」のまま死んでゆくのだ、それは逆に絶望さえないという状態で、ただルーチンとカルマの循環がひとつ繰り返されたという、本当にそれだけで終わるのだ。

まったく冗談でなく、われわれの「メイン」の生き方は、そんなもんだと言い切るしかない、だって本当にそうだからね。
百年生きた人が、何にも出会わないまま、「?」のままずーっと生きているのだから、言ってしまえば、この人はずっと中空で独り言を言っていても変わらなかったということだ/本当にこの人は、生きていて「何もなかった」のだ、これにこころや感情を傾けても、本当にびっくりするぐらい何のレスポンスもない。
この、「何にも出会わないマン」「永遠の独り言マン」に、仮に百年間、誕生日プレゼントをしたとしても、本当に何も届いていないのだ、その場では当人はいい気分になるだろうが、本当にこの人は自分の気分しかなくて、誰かに向けて「ありがとう」というこころが起こることは一ミリもない。
僕は、そういう人のことを責めているのじゃない、ただガチでそういうものなので、本質的に相手しちゃだめだよと警告したいのだ、そういう人は本当にこの世に「存在」していないのだ、なぜなら彼にとってこの世界もまた存在していないし、彼から見ればあなたも存在していないのだから。

本当に、そういう人は、電柱に看取られても同じなのだ。

仮に、娘の前で母が泣いているシーンがあったとして、それは何か母子的なこころうんぬんに見えるが、本当はそうではないのだ、この母は自分の気分のみで泣いているので、娘の代わりに電柱を置いても同じなのだ/この世で何にも出会わない人のほうが「メイン」なのだと、われわれはいつか気づく必要がある。
この話は、絶望的というより、「つまらなさすぎワロタ」ということに行き着く、でも本当にカルマと輪廻が繰り返されるってそういうことだぜ、本当に何もなく「?」のままカルマだけがえんえん繰り返されていくんだ、そりゃニーチェだって発狂すると思うよ/ただしそれは、おれのようにバッチリ「存在」している者は別だ、だからたくさんの人が、わざわざ僕に「会いに行かなきゃ」と感じてくれているんだろうな(もうごまかしていても意味がない)。
 

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全員
たちのニッポンだ。
ニッポン、ゴーゴー。
分析したものはデータだよ、ニッポンじゃねえよ。
ニッポンはニッポン人の全員が知っているだろ、別に応援はしていなくてもよ。

全員が知っているってことが財産だよ。
自分だけというのは究極役には立たないな。
個人で観察しないように、というか「観察」って何の役に立つんだよ、意味ねえからやめろ。
ズーダ、ズダダ・ズーダ、ニッポンはニッポン人の全員が知っている、それ以上は特に要らない。

同時代人という偉大なことよ。

しょうもないこともたくさんある、かにみえる、けれどもそのしょうもないことがあったことを、僕たちの全員が知っている。
われわれは努力せんでもつながっているのだ、だって同じことを知っているからな(母国語自体がそういうもんだ)。
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必ず新常識が流行する
ず「空気が汚いですよ、病気になりますよ」と宣伝しないと、空気清浄機が売れない。
「地球環境がヤバいですよ、温暖化で水没しますよ」と宣伝しないと、エコ関連の製品が売れない。
昔からずっと繰り返されていることだが、危機感や禁忌感を創り出すことによって、ビジネスのムーブメントを作るのだ/たとえばタスポであったりチャイルドシートであったりアイコスであったり、そんな小さなものにも利権が生じる。
僕が子供のころに教え込まれた常識では、石油は今ごろとっくに枯渇しているはずで、安全な原子力で電気はタダになっているはずだった、そして今、海水面上昇がどうかというと、「1906〜2017年の期間では明瞭な上昇傾向は見られません」と気象庁(国土交通省)のサイトにデカデカと書いてある、これから先は、喫煙者が減ったから肺がんの罹患者が減るかどうかだが、本当のところどうなるのかはわからない、僕は社会派の人間ではないのでまさに「わからない」に尽きる。

F1はレースクイーン(グリッドガール)を撤廃したし、今度は自転車のロードレースでも、ボディウムガールを撤廃するそうだ、優勝者に祝福のキスといういつものアレはもう無くなるということ/これによって女性の尊厳が守られるという話だが、人によっては落語のオチみたいでずっこけるかもしれない。
LGBTうんぬんもそうだが、とにかく最近は、男女の祝福やキスというのを禁忌にしたいらしい、ひょっとするとこの先はハリウッド映画にも、セクシーねえちゃんがタフガイにキスをする、というシーンはなくなるかもしれない。
毎年、女性の服に「流行」が設定されるように、われわれの思考にも、時代ごとに「常識」が設定されるのだ、そして重要なことは、そうして設定される常識のブームが、必ずわれわれを抑圧し、何かしらの消費行動へ行き着かせるということ。
狙い目は、抑圧されたぶん、耐えようがないからヨソのはけ口に流れるということなのだ、そのことに向けて新常識の流行がデザインされているということは、何もおかしなことではない、むしろデザインされていない流行のほうが珍しいだろう/たとえば弥生時代には流行なんて少なかっただろうから、つまり、デザインなしに流行はなかなか生じ得ない。

常識を知らないのは論外だが、常識に反発する権利は誰にでもある。

おれはレースに買ったら、クイーンにキスされたいけどな……ただそれが、「非常識」になるというだけの話だ、じゃあ僕は非常識な者と扱ってもらえばいいわけで、あとは時代の常識家に出くわしたら走って逃げなくてはならないという、ただそれだけのことだ。
今流行している新常識は、誰でもわかっていると思うが、「性愛の歓喜禁止」だ、そしてこんな根源的なもの、耐えようがないので、必ずヨソのはけ口に流れるということだ/それが間違っていると言っているのじゃない、それが「常識だ」と言っている、僕は正しいことを話しているのではない、ただ非常識なことを話している。
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