☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
封建制と「サムライ」に対する幻想2
とえばあなたが「サムライ」だったとする、するとあなたは子供のとき、たぶん十歳ぐらいだろうか、「あなたももう、子供じゃないんだから、町人の子と口をきいてはいけません」みたいなことを母親から言われる、「えっ?」とあなたは驚く。
寺子屋みたいなところにも通うが、父親から、「お前は武士の子なのだから、読み書きは習っていいが、そろばんは習わなくていい、あれは商人の子が学ぶものだから」と言われる。
夜更けになってから、母親がこっそり豆腐を買いに出かける、「昼間に買いに行けばいいのに」とあなたは思う、けれどなぜか言い出しにくい雰囲気だ、何か聞いてはいけない感じがする/あとになってあなたはそれを、「武士の家なのに中間(ちゅうげん)もいないのかよ」と人に笑われるからだと知る(※中間とは小間使いのこと)、子供のころからあなたの暮らしはけっこう貧乏なのを、なんとなく周囲との比較で気づいている、「お豆腐が食べられるなんてぜいたくなことなのよ」「お父さんが大小を差して歩いているのは名誉なことなのよ」と教えられる、家系図を見せるときだけ父親がやけにイキイキするということがあなたは内心でよくわからず首をかしげている。
あなたはそれなりの塾や剣術道場に通わされる、が、どうも塾の先生も論語がそんなにわかっている様子ではなく、けっきょくは毎回同じ口調で「忠孝」のお説教を聞かされるだけだった、剣術道場は「えい・やー」と無気力な運動をさせられるし、門下生は五人しかいない/元服に向けて刀をそろえ、いちおう裃(かみしも)も用意しなくてはならないということで、父親は商人のところにお金を借りに行く、父親は店の前までは威張っていたが、ふと建屋の窓をのぞき込むと、父は商人に対してペコペコ頭を下げていた、けれども建屋から出てきた父は再び路上で威張っていた。

髪を結われて裃を着せられ、父親の勤め先に連れてゆかれる、いろんな人に挨拶をさせられる、父はこの河原沿いの建物で荷役の検分をしているらしい、ひとつひとつを帳面に記録し、船頭や荷役人にいちいち「よし」と威張ると、よしと言われた側はヘヘェと恐縮しっぱなしだった。
そこに、駕籠に乗った上役がやってくると、父親は作業を放り出し、また他の職員も作業を放り出して立ち上がり、駕籠から下りてくる上役を出迎えた、その偉そうな人が「お役目ご苦労」と言うと父親は「ははっ」と頭をさげて、さげたままそれを上げない、あなたも慌ててそれに倣った、「万事遺漏ないか」と言われると父親はまた「ははっ」と言った、ひととおり調所を見て回った上役がふたたび駕籠に乗って去っていくまで父は頭をさげたまま顔をあげなかった。
河に橋が架けられることになった、その作業に父も駆り出されることになり、あなたは父親がとつぜん土木作業も始めるのが不思議だった、そして父の土木作業は、後で集まってきた工事のおじさんたちの屈強なはたらきぶりに比べていかにも貧弱で手際が悪く、どうしていいものかわかっていないヨタヨタのものだった、屈強な工事のおじさんたちにはみんな刺青が入っていた、そこに馬に乗った上役がやってくると、父親は駆け寄って馬上の上役から指図を受け、何事かを指摘されるたびに「面目ございません」「ただちに」と謝罪していた。
あなたは帰り道、ふと気になっていたことを父親に訊いてみた、「なぜこの河のあそこに橋を架けるの? あっちのほうが人通りが多いし、川幅も狭いし、雨が降ったときもあっちのほうが流れは緩やかだよ」、その河原はあなたが子供のころから遊んでいた河原だったからあなたはそのことをよく知っていた/それを口にしたとたん、父親はギョッとして、左右を見渡し、直接あなたの口元を塞ぐほどの勢いで、「こら、二度と、そんなことを口にしてはいけない。ご政道を批判するつもりか」とあなたに言いつけた、父親の眼球にはこれまでに見たこともない怯えの色が浮かんでいた、そのときあなたは、自分の父親がこの怯えによって、場合によってはいくらでも自分のことを家から放り出すのだということを直観的に知った。

これが「サムライ」だ。

あなたは長男で、兄弟に次男と三男がいたが、次男は十一歳のときに他家に養子に出された、やがてはその他家の跡継ぎになるらしい、三男はどうなるのかと聞くと、「お前がこのまま、当家の跡取りになれればいいが、万が一病気や何かで死んでしまうこともある、そのときは跡継ぎがいなくなってしまうだろう?」と説明された、三男はつまり跡継ぎの「予備」だった、だから三男は寺子屋にも通わされていない/あなたは一念発起して中央の藩校とその付属道場で住み込みになって学門と剣術修行をすることにした、あなたはわずかながら青春を体験した、そうして親元を離れて半年後、手紙が来て「縁談が決まったから戻ってきなさい」という……帰宅すればそのままただちに祝言が催される運びのようだった、あなたは自分の娶るお嫁さんがどんな女性なのか見たこともないし一言も聞かされていない。
これが「サムライ」のスタンダードなのであって、現代のわれわれが何をもって「サムライジャパン」みたいなことを言っているのかまったく不明だ、ある意味サムライジャパンというなら確かにこのサムライジャパンは現代まで続いているだろうよ/あるとき父親があなたの袖をぐいと引っ張り、勤め先の同僚について、「〇〇とは言葉を交わすな、目も合わすな」と言いつけた、「何があったの」と訊くと「先日の大雨で橋が崩れたことに、工事不全としてお咎めの沙汰があるらしい」と父親は言った、あなたが勤め先に行くと、あなたがとぼけてその人に目も合わさないようにしているように、他の誰もその人に目を合わさないようになっていた、やがてその人は勤め先からいなくなり、のちに聞くところ獄に入れられ、獄内で流行っていたコレラに感染して治療を受けられず獄死したそうだ、勤め先では彼の獄死について一言でも触れる人は誰もいなかった、この役人たちの光景がサムライであってサムライというのはまったくソルジャーのことを指してはいない。
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封建制と「サムライ」に対する幻想
来から伝わる(もう伝わってねえか)、日本の剣術が優れているのは疑いないことだし、その日本刀の切れ味を産み出した鍛冶技術、またその他の工芸や建築等についても、日本人が文化的・生産的に優秀な業績を残してきたのは事実だ、他国では真似できないところがいくらでもある。
これらのことを惜しんで、われわれはどうも江戸時代あたりの封建制、および「サムライ」ということに思い入れがあるのだが、このことは追究すればするほど「違う」ということが明るみに出てくる、江戸時代にサムライといえば士族のことであって、それは要するに「役人」ということだ、いわゆる二本差しとして刀を差しているのだが、それは「身分」であって彼らが武士道の中にいたのではない。
宮本武蔵は晩年まで仕官せず禄を得ていない浪人だったのだし、柳生にしたって政治参画をしていない一種の山籠もり集団のような「道場」の人たちだった、われわれはこういう剣士のことを「サムライ」と思っているふしがあるが、これは誤解だ、サムライというのは現在でいえば都庁や県庁に勤めているおじさんのこと、またそのおじさんの(〇〇家の)息子さんたちのことを言うのであって、時代劇に出てくる「ならず者たちをバッサバッサ斬る」という武芸の人がサムライなのではない/サムライというのは常に藩主の顔色を窺って、そのまた上にいる幕府の顔色を窺って、公務だけを粛々と続けて「安泰」にだけ精魂をつぎ込むという、「親分こわい」状態ならびに、そのストレスを町人にぶつけて発散する身分の人たちを言うのだ、これは悪口を言っているのではなくて封建時代の常識を述べているにすぎない。
いわゆるハラキリ・切腹というのも、役人が公私における失態を咎められて、要するに公務員に対する懲罰として切腹させられる(詰め腹を切らされる)のであり、何のことはないただの幕府権力による死刑執行にすぎない、もちろんそこで斬首刑でなく切腹を許されるというのが当時の誉れであり武士の情けということになるのだが、もちろんよく知られているように「扇子腹」といって扇子で切腹のまねごとをするだけということも通例だったし、何よりハラキリは武士の嗜みみたいに思われているが、豊臣以前にはそういう文化は特になかったのだから、要するに江戸時代の文化だ/もちろん気性の激しい藩士は、ときと場合によっては義憤の見せつけと表示のため、いきなり路上ででも己の腹にグサッと刃を立てるということをして人々を驚かせたり畏怖させたりもしたのだが、それはド根性と武士道という場合もあったには違いないにせよ、そういうたぐいのことは現代でも自殺念慮にかられた女がそういう致命的な自傷をすることがあるので、どこまでが「文化的」なハラキリだったのかはわからない、少なくともハラキリを含めた「サムライ」というのは、基本的に各地方・各藩の「公務員」のことであって、時代劇に出てくるヒーローのことではない。

ハラキリの文化は、明治以降には廃止されているが、もちろん個人的にハラキリする人は止めようがないので、たとえば太平洋戦争の敗戦後には、敗戦責任を負って自らハラキリして果てたという将校が複数いた。
それはさすがに、心境としておれにさえわかる、ただでさえ部下たちを無数に死なせてきたわけで、挙句に敗戦しましたというのでは、「負けちゃったかあ」では済まない、どの面さげて生きれるものか、またどの面さげて死ねるものか、それでこんなもの自決するしかないと思い至り、まさか安らかに死ねるクスリでぐっすり永眠というわけにはいかないだろう、だからやむをえず古式にのっとって切腹というのは、さすがにおれにでもわかる、ハラキリが正しいのかどうかなんて誰にもわからないだろうが、そのときその人にとっては選択肢がそれしかないと感じたのだろう、それはハラキリが重いというよりは戦争と敗戦が重い。
三島由紀夫はハラキリをパフォーマンスとして見せた最後の一人だと思うが、彼はサムライ気分だったのかどうなのか、少なくとも三島由紀夫がハラキリの「サムライ」をどう捉えていたのかは不明だ、あえて本来の「サムライ」から定義するなら、三島由紀夫のように奉ずるべき主君も持たず、あのように目立って公的秩序を乱したるがごときは、むしろ「サムライとしてあるまじきこと」に分類されよう、三島由紀夫は単に皇軍を奉じる攘夷浪人の心境だったのかもしれないが、それは確かに攘夷 "浪人" であって、脱藩して世間のどこにも属していない「元サムライ」ということになる/そのあたり、けっきょく三島由紀夫はサムライ的な立場でも存在でもなく、あくまで「個人的」な存在でしかありえなかったから、当時の人々にとってもよくわからない「個人的ハラキリ」が展示されることになった、「つまりヤクザでもないし親分もいないのに指を詰めた」というような行為に似ている、このあたりのことを三島由紀夫が冷静に見ていたのかどうかはおれにはわからない。
ハラキリというのは武士と共にあったわけではなく、江戸時代からの「親分こわい」「徳川こわい」という封建制の中に定められていった様式なのであって、それはあえて極論まで言ってしまえば、戦国時代が終わった武士が「戦う者」ではなく「怖がる者・怖がらせる者」になり、その中で武士のアイデンティティのつじつまを合わせるためにもうけられた、一種のロールプレイ的自死の様式とさえ言いうるだろう、三島由紀夫が大胆なデモンストレーションに出られたのもあくまで昭和の時代だったからであって、あれが江戸時代のサムライだったら連座制によって家族一同も処刑されていただろうし、所属する藩も取り潰しにされていただろう、そういうシャレにならないド抑圧にフルブーストをかけていたのが江戸時代の封建制であって、そういうのはやめましょうということで時代が進んで昭和・平成・令和と来たのだ、われわれが江戸時代やサムライやハラキリを誤解しつづけて夢想しつづけているのは何か精神の根底に深いひずみをもたらしているように思う。

ハラキリがロールプレイだったとしたら、その流れた血は大地に染みこんでこの国を呪縛しているだろう。

あえておれはこのように言いたい、「そんなに人に腹を切らせたい?」と/この国の――だけではないかもしれない――人々は、誰でもがそうであるように、どことなく自分が偉い・権威があるという思い込みの中を生き、その中で加齢が進んで死が近づいてくると、その自己権威の思い上がりが制御しきれなくなって、ある種の衝動として噴出してくる、表面上は牧歌的な、人懐こい顔をしながら、なぜか自分の権威のもとに誰かが自ら腹を切って血を流すことを求め、その流血によって自己を大いに慰め、悦に入るという性質があるのだ、ハラキリというのはけっきょく徳川謹製のロールプレイであって、まるで二百五十年かけて大地に染みこんだロールプレイの流血によって日本人の血は卑しく屈折したものに歪められてしまったかのようだ。
冷静に考えて、サムライ・武士というのは戦うのが本分の武人なのだから、そもそも「徹底鎖国する武人」というのが一種のジョークでしかない、この鎖国する武人というジョークがさらには権威を言い張って国内の人々を暴力と恫喝で抑圧してきた、こうして「閉鎖された中で暴力を見せつけ権威を言い張る人々」というのは確かに「おっかない」に違いないが、それはおっかないだけであって強いてわけではない、だからペリーが軍艦を持ってきただけで幕府はいきなりお股おっぴろげになってしまい、維新戦争が始まったら江戸城は「戦うのムリっす」と無血開城したのだ、これがサムライの総本山でありハラキリの権威元だという事実が残った/サムライというのは政府の役人のことを言うのであって武芸にすぐれた剣士のことを言うのではまったくない、われわれはいいかげん「サムライ」という幻想を捨てなくてはならない。
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おれの書き話しているものはすばらしい
やあ、おれの書き話しているものはいいなあ、この現代において唯一と言っていいほどまともな何かだ、ウーン唯一はさすがに言い過ぎだがまあ気分がいいのでそのように言ってしまおうではないか。
なぜこのご時世に、コイツだけずっとこの「いいもの」をまったく失わずに続けていられるのだろう、たまに自分の記事群をチラッと見て、ふとそのことに気づくと「不思議だなあ」と首をかしげる/こいつの書き話すことは、内容というより、「こいつが書き話す」ということ自体が、何かいいものとして永遠に成り立ち続けているナゾの感触がある。
自分で言うのもヘンだが、こいつのこれに関してだけは、周りのすべての状況からまったく離脱してただ「いい」ので、いっそのこと全員が「これ」をやっていればいいのでは、とデタラメなことを思ってしまう、もちろんそうやろうとしてもまったくマネできないのが「これ」なのだが/まあそんなふうにして、今になっておれは自分の示している書き話しの群について、「なんだこれは」とまともな評価を向けたのだった。
こいつの書き話していることだけが、なぜかある意味ですべてのものと「噛み合っていない」と感じる、他の何とも噛み合っていないので、何か見ていると「あれ? こっちが世界だったっけ」と思えてくるのだ、そしてそれはそう思えてくるだけではなくて、本当にこっちが世界だったのだろう、なぜかコイツだけ一人でずっと「世界」を続けていられるという、まったくなぜなのかわからないことが実際にデイリーで続けられている。

これは冷静に見たら、本当にナゾの書き話し群だ、日付を見たら今日書かれたもので、実際デイリーで更新されているには違いないが、何かもっと別の時代に書かれたもののようにも見えるし、そうして現代のものには見えない一方で、じゃあ過去のいつの時代のものかというと、別に過去にこんな時代があったという感じもしない、そういうナゾのものがずっと書かれ続けている。
そして、内容はメチャクチャで、一般的な書き物としての節度からは完全にはみ出ているし、平気でカミサマでも悪霊でも何でも出てくるのに、内容は現実的で、まったく空想的ではない、しかも文体はひどくテキトーというか、中学生の作文よりもくだけきった文体なのに、書き話すことを描き出す手法については異様に高精度なのだ、なぜこのへっぽこヘチマ太郎みたいな文体でこんな高尚なことがズバズバ視えるように書けるのか、まったくナゾだ、こんな文体で格調を創り出せている例は古今にない。
ふつう、人が何か書き物を「読む」というときには、何かしら理由や動機があって、その内容に興味があるとか用事があるとか、あるいはヒマつぶしにとかでそれを読むものだが、このナゾの書き話し群については、読み始めるとただちにその前もってあった理由や動機がどこかへ消し飛んでしまう/かといって、別に夢中になって読むというわけでもないのだが、自分がなぜ読んでいるのかわからなくなるし、何を読んでいるのかもわからなくなる、さらには「読んで」いるのかどうかもわからなくなるのだ、ふつう読んでいる側の心境というのは「ふむふむ」的に進むものだが、こいつの書いている記事群は「ふむふむ」ではなく「ああああ」という感触で話が流入してくる。
読者数は多くはないのだろうが、それでも一日に何百人もが読んでいて、そのそれぞれが数年に亘ってずーっと読んでいるというのも(人によっては十年を超している)、ただの書き物を読むということでいえば稀なことであって、さらにはそれだけずーっと読まれていても、誰も何のコメントを入れるわけでもないし、一件もツイートもシェアもされないというのは本当に特殊なことだ、しかもコイツの書いている記事群は元になる「ネタ」がない、ずーっとコイツが追究している何かについて一方的に聞かされているだけだ、にもかかわらずまるで自分にとって最も親しく必要な何かのように聞こえ続けてしまう、いやあこんなものは我ながら本当にすばらしいと思う/そんなことを、今日なぜか記事群をチラッと見て思った、誇張で言っているのではなく、これは単に事実としてすげえよ。

「この人にしかできない」という次元を超えて、もはや「この人が何をやっているのか誰にもわからない」という次元に至っている。

もちろん、何をやっているのか誰にもわからないというだけなら、単なるしっちゃかめっちゃかをやればいいだけなのだが、そうではないのだ、そんなことをしても誰がそんなものを年単位で追跡して読むのだ、そうではなく、「この人が何をやっているのかもう誰にもわからない」にも関わらず、「それをなぜ自分が読み続けているのかもわからない」ということまで起こっているのだ、もうここにあるのは芸術なのかヒューマニズムなのかお説教なのかただの笑い話なのか、誰にもわからない、そして誰にもわからないのに誰も読むのをやめないのだ、読んでいて共感が得られるとか励まされるとかそういうたぐいのものでもないし、これは何なのか、もはや読んでいる側も自分が感動しているのかどうかさえわからないまま読むようになってしまっている。
唯一の手掛かりは、おれがしばしば「偉大なるおれさま」と言うことぐらいで、まあそれを言ってくれると何か安心するという感じが、ちょっとだけ何かをわかったような気にさせてくれる、もちろんなぜそれでちょっと安心するのかはまったく不明なのだが/ふつう価値観上で最上の読み物というと、一位が「この人の話が好き」で、二位が「面白い」というところだと思うが、コイツの書いているこのナゾの書き話し群は、もう「この人」が書き話しているのか何なのかさえよくわからなくなっている、フツーに考えるとこんなものを読んでいると精神がヤバくなりそうなものだが、なぜかその逆、これを読んでいるほうが精神が一番透き通るのだった、いやあそれにしてもおれの書き話しているものはとんでもなくすばらしいな。
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ドラえもんの警告
「ドラえもん」は有名なマンガだが、現代のアニメ版は旧来のそれとテイストがまったく違うし、今や元のマンガ版を読んだことがある人のほうが少ないのではないかとも思うが、まあそのあたりは言いっこなし。
ドラえもんというと、たいていスネ夫が「八丈島に行ってヨットに乗ろう」みたいなことを言い出す、するとジャイアンもしずかちゃんも「行こう行こう」となり、のび太も一緒になって「行こう〜」となるのだが、「悪いなのび太、このヨットは三人乗りなんだ」とのけ者にされる、というところから始まる。
そしてのび太は泣いて帰って「ドラえもーん泣」と、自分も八丈島でヨットに乗りたいウウウと泣き崩れてドラえもんに頼むということになるのだが、このことには藤子不二雄の世界観とマンガ「ドラえもん」による警告が為されていて、のび太は初めから八丈島でヨットに乗りたかったわけではないのだ、のけ者にされることによって「ひがみ」が発生し、「ひがみ」によって何としてもヨットに乗りたいと苦しむことになるというのがいつもの展開なのだ。
このあたりの物語の構築、物語の力動作用の仕掛けは、さすが入念であり、またいかにも手塚治虫の薫陶が篤いという感じだ、実はのび太自身は放っておけば昼寝ばっかりしているような奴で、表面的には強欲な者ではない、あくまで欲は潜在下にしかないという状態だが、それが世間・人の世の中で「そうはいかない」というふうに、呪力を帯びて引き出されてくるのだ、おれは特に手塚治虫がこの手法で物語を構築することについて、見事だとは思うが同時に卑怯だとも思っている、正直なところその仕掛けで物語を構築することは「カンタン」であって、カンタンであるがゆえにその物語はあまり創って人々に示す意味がないからだ/そうした業(カルマ)の描き出しが "万人に訴えかける" というのは当たり前のことであって、そのマンガがヒットすることには構造的にむなしさがある。

「ひがみ」というのは、呪術の基本的な源泉であって、のび太はスネ夫にかけられた「呪い」で動かされることになり、その救済をドラえもんに願い出るということになる、だからいつものび太は地面に伏せてオイオイ泣きながらそのお願いをしている。
そこからドラえもんの道具が出てくるのだが、これはいっそノロイやオマジナイが(※ともに「呪い」と書く)、人に夢のような力、科学や人為を超えた "羨望的" な力を与えるということを表している/そして「呪い」には必ず「穴二つ」という現象があるので、呪いによって得た力や利益は、必ずそのあとに帳尻としてのマイナスを受けることになるのだ、だからドラえもんに出てくるのび太のストーリーは必ず、「秘密道具に頼って救済されてみたけど、結果的に悪いことになりました」という終わり方をする。
呪いというのはもともと、祝福が受けられない人が、人為的に超越的な力を得ようとする、いわば「祝福の代替品」を求めてそれを行うものだ、だからドラえもんの登場人物にはそれぞれ、ジャイアンには力、スネ夫にはお金、しずかちゃんには美と品位が与えられている(彼女の姓が「源」なのは家柄を表している)、その中でのび太は「何も与えられていない者」として存在している/これらの人間模様の中で「出木杉くん」だけが天稟をもっており、だからこそ出木杉くんはこの人間模様の中に参画してこない。
ドラえもんはどのような警告を示しているか/ふと気づくとわれわれも、身の回りにあるすべてのものについて、すべてが本当に「欲しかったのか」と問われると、実はそうではないことがほとんどなのだ、ただ周囲の人々が次々に優れたものを手にするようになると、自分だけそれを持たないわけにはいかなくなる、それが潜在的にも「欲」の仕組みで、このことを世間・人の世の「呪い」が引き出してしまうぞということ、地面に泣き伏して何かを「お願い」することに必ずなってしまうのだということをドラえもんは警告している。

当時、ファミコンが「本当に欲しかった」人はそんなに多くない。

自分の周りが次々に大学にいけば、自分も大学に行きたくなるし、みんな冬休みにはスキーに行くものだとなれば、自分だけ一人で部屋でコタツに寝転んでいるのが苦しくなるし、夏はみんなで「フェス」に行っているとなれば、自分だけ何の予定もなく本なんか読んでいるのが悲しくて苦しくなるのだ、呪いの基本になる「ひがみ」とはそういうもので、 "自分だけ" しいたげられ、 "自分だけ" 劣等に置いてけぼりになるということに、生きもの業(カルマ)は燃え盛る性質がある、ドラえもんはまるでそれこそが世間の正体で、人の世とはひたすらそれを繰り返す営みなのだと言いたげだ、手塚治虫の場合はそれがもっと露骨だった。
同年代の同性が次々に結婚し、みんな子供を産んで家庭を持っていると聞くと、 "自分だけ" という強烈なひがみと呪いが発生するし、またその母親にとっても、周りのみんなは「孫がかわいい」という話ばかりするようになると、やはり "自分だけ" という強烈なひがみと呪いが発生する/これは逆転すると、自分だけ "優等" という場合に発生する傲りと同じ現象だ、優等であれ劣等であれ自分だけがそれであるというチャンピオン―― "自分だけ" が蔑まれ、あるいは "自分だけ" が褒め称えられること――になると、その "呪いの頂点" にはただならぬ呪いの濃度が発生し、その人の血を根底まで支配することになる。
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封建制の中に「友人」は存在していない

年ジャンプのモットーは、ご存じ「友情、努力、勝利」だ、今でもこのモットーが保たれているのかどうかは知らない(さすがにもうマンガ雑誌は読まねー)。
むかし、児童が小学校に入学するときには、背後に「ともだち100人できるかな」みたいな歌が作用していたものだが、この「友人」という現象と観念は、文化的に必ずしも存在するとは限らない、文化によっては友人という観念そのものがないこともある。
日本に「友人」や「友情」の現象をもたらしたのは、言ってみれば吉田松陰であって、吉田松陰より前はこの国に友人や友情は存在していない、吉田松陰より前の日本は儒教・朱子学しかない世界であって、「主従」と「奉公」と「親孝行」しかないのだ、友人や友情は存在していない。
明治維新にかかわって、維新志士たちが「同志」という状態を新しく産み出したのだが、これが日本における友人の端緒であり、この端緒を創り出したのは吉田松陰だと言える/さらに過去にさかのぼれば高山彦九郎がいただろうが、当時はまだ時宜になく、高山彦九郎は人々に愛されて面白がられながら、「なんなんだろうなこの人は」という見世物のたぐいに扱われた、高山彦九郎は日本に実在したドンキホーテのようなもので「友人」という現象を人々に与えるには至っていない。

「友人」という現象や観念が、必ずしも存在するとは限らないというのは、少年ジャンプがコンビニに置かれてきたわれわれの世代には意外な驚きかもしれないが、今でも地方にいけば子供はすべて「〇〇さんとこの子」なのであり、お店の屋号があれば「〇〇屋のご主人」やら「〇〇屋の娘さん」なので、本当はそんなに変わっていないのだ、むしろ全体からみればこの国に友人なんて現象はあくまで例外的にしか存在していないと考えたほうがいい。
このあたり、知人や地方の人々、あるいは何かの業者さんと応接するときには、「そもそも人と人の、ヨコのつながりは存在しない」と仮定しておいたほうがいい、封建制における人の関係はあくまで土地の殿様(藩主)に主従として忠を尽くすか、自分の所属する〇〇家に奉公・報恩するか、親に孝行するかという、タテのつながりしかないのだ、ヨコのつながりとしての「誰か」は存在しておらず、それぞれが〇〇さん "とこ" というタテ構造にのみ所属しており、それぞれが自分の "とこ" の没落だけを気にかけているという状態だ、これは封建制として正常なことなのであって冷淡とか頭がおかしいとかいうことではない、そもそも友人や友情という現象が文化的に普遍ではないというだけだ。
現代日本において、あるいは世界中どこも同じような状況下もしれないが、なぜか「友人」という現象が一切得られなくなったので、その挫折感と共に、封建制に回帰しているところがある、漫画「ドラゴンボール」において孫悟空とクリリンは友人だが、どうも現実のわれわれにそういう友人という現象は与えられず、実際には孫悟空は孫家の、クリリンはクリリン家の、それぞれの発展と没落だけを憂いている、そして両家はご近所さんとしてあいさつをしたり地域の会合をしたりするだけという状態だ、誰もそんなドラゴンボールは読まないと思うが、われわれが生きる現実はそうして友人の現象を失い封建制に戻ってしまったと認めていくしかない。
われわれは、芸能人や Youtuber やマンガ家の、急激な勃興や没落を、完全に「ヨソのこと」として楽しみながら見物するという悪趣味をもっているが、この「ヨソのこと」を見物するという趣味が、封建主義の現象に他ならないのだ、われわれにとって吉田松陰の話が、「長州藩の麒麟児が、このように頭角を現し、このように非業の死に向かっていった」と見物されるのみであるのとまったく同様に、芸能人や Youtuber やマンガ家についても、「このように頭角を現し、このように廃れていった」ということをヨソのことして見物するだけだ、むろんそれがおかしいと言っているのではなく、それが封建制だと言っている/おれが友人という現象を否定しているのではない、おれ以外の奴が友人という現象を否定しているのだ、そんなの見りゃわかるだろう。

実際には、「友情、努力、勝利」ではなく、「主従、奉公、親孝行」の中を生きているだろう?

ボブディランのどこを見ても、主従とか奉公とか親孝行が見当たらないように、われわれのどこを見ても、友情やら努力やら勝利やらは見当たらない、だからわざわざ「スポーツ的」な枠を人為的に作って、人為的に作った努力をし、人為的に作った勝利を得、人為的に作った友情のようなものを感じることにしている、人為的にそうしたスポーツ的な枠を作らないと、われわれは努力の仕方がわからず、勝利など「どこにあるかわからない」、そして友情になどまるで心当たりがないのだ/ところが主従や奉公や親孝行と言われると、なぜか何も枠組みしなくても元から「わかります」という感覚がある、そうしてわれわれの所属は少年ジャンプではなく封建制だ。
もちろん明治維新に「同志」と言いうる現象があったとしても、その背後で薩長土はそれぞれ、自分の藩の権勢を有利にするためさまざまな後ろ暗い画策をしていたのだが、まあそんな専門的なことはどうでもいいじゃないか、おそらく当時でもほとんどの人が「ウチの藩だけが大事」という感覚に内心を侵されたままで、吉田松陰だけがその汚染から完全に離脱していただろう、吉田松陰だけが人の世ではなくこの世界にある普遍的な愛の現象を知っていた(おれは西郷隆盛は面倒くさくて敬天愛人の徒とは思っていない)、つまり「われわれは努力するのです、われわれは勝利しなくてはなりません、そのためには互いの友情が何より励みになるでしょう」という少年ジャンプのモットーを、当時から吉田松陰だけが偽りなく掲げることができたということだ、今のわれわれは誰もこんなまともなことは言えない。

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子分は親分が怖いという病的風土2/「親分の怖がらせパワー」
「自分が相手を病的に怖がれば、相手はニコッとするし、相手が自分を病的に怖がれば、自分はニコッとする」。
日本というのは、まさにこれだ、それこそが日本における「権威」の形態なのだと定義すればいい、このことを露骨にやれば日本人はヤクザじみるし、水面下でやれば日本人は田舎じみるというだけだ。
「権威」について例えるなら、キリスト教徒においては、イエスキリストが奇蹟を行うことで人々に示した神の子としての「権威」、この権威がクリスチャンにとってのすべてであるように、日本人にとっては「親分の怖がらせパワー」という権威が、日本人にとってのすべてだということになる/中世から現代の日本に続く聖書をもし書くとすれば、「親分の怖がらせパワー」が権威として書き綴られるべきであり、その一端がたとえば水戸黄門のような時代劇ということになる。
比較して、たとえば宮本武蔵が剣聖の境地に至ったことなどは日本においては聖書には取り扱われない、それは宮本武蔵の五輪の書には「親分の怖がらせバワー」に関する記述がないからだ、これはむしろ権威に対する冒涜と映るので、日本人には本質的によろこばれないものになる。

「親分の怖がらせパワー」!! この文言は実にアホくさく、その実質はさらにアホそのものと言うしかないだろうが、これを聖なる権威として奉っているわれわれが首をかしげていてもしょうがないだろう/ヤクザであろうが役所であろうが、家庭であろうが宗教施設であろうが、日本人が本当にやっているのはこのアホみたいな文言、「親分の怖がらせパワー」という権威だけだ。
さらにこのアホみたいなことの、実にアホらしい構造を突いていくと、「親分の怖がらせパワー」を発揮していくためには、ほかならぬその親分自身が、やはりそのまた親を病的に怖がっているということを必要とする、自分が怖がりパワーに侵されきっていなければ、自分として怖がらせパワーを行使することもできない、だから元はといえば徳川家康が破滅的に怖がりだったからこそ、家康は親藩も外様も根こそぎ怖がらせるパワーを持ちえて、現在の日本を形成したのだということになる、だいたいこういう呪術めいたパワーが発揮されるにはそうした「穴二つ」の仕組みがあるものだ。
そうして仕組みを整理していくと、思い出されてくることがあるが、そういえば丸の内に勤めていたとき、上司の勘違いから業務上のことでギャーギャー言われ、「ですから……」と説明しようとしても聞こうとせずギャーギャー言い続けるので、しゃーなしに堂々と溜息をついて聞いていたのだが、後になって事務方の女性に「なんであんなにあっけらかんとして、まったく "怖く" ないの?」と不思議がられたのを思い出す、おれはそのとき、「怖がるって言っても……別にクビになっても、まあかまわんっちゃあかまわんですし、仮に殴りかかってきたとしても、そのときは明らかにおれが勝っちゃいますし、ましてさっきのあれは完全に向こうの勘違いですし、正直 "なんだこりゃ?" としか思っていないですよ」と答えた/そして、言い出せばキリがないほど、これまでに典型的なパターンとして、相手がおれを怖がらせようというときに限って、おれはボカーンと「なんだこりゃ?」と、首をかしげてそれを眺めてしまうということを、とんでもない回数繰り返してきたことを思い出す、それは柳に風と受け流しているわけではなくて、本当におれにはわからないのだ、相手を怖がらせようとする魂胆も感覚も、おれにはどうしても「わかるような、わからないような……」というファンシーなネタにしか感じられない。
おれにとって唯一恐れることは、自分が愛すべき者でなくなるという可能性と、愛すべき人たちの友人でなくなってしまう可能性についてだけだ、愛すべき者でなくなりまた愛すべき人たちの友人でもなくなってしまい、その後ひたすら何十年も生きるだけ生きなくてはならないとなったら、さすがに「それだけはかんべんしてくれ」と恐怖に値する、それに比較すれば「親分の怖がらせパワー」と遊んでいるヒマはおれにはない、本当は誰にもそんなヒマはないのじゃないかとおれには思えてならないのだが、日本は本質的にはその怖がらせパワーを第一義の、つまり自己存在のすべてに懸けているので、これはもうおれが日本という国を理解していないのかもしれない、まあおれはおれの国が大事なのであって、おれの国でないものに向ける関心は本当は一ミリもない。

日本人の宗教精神は、「親分を怖がれば報われます」だ、だから日本の歴史にはギリシャ彫刻がない。

ギリシャ彫刻といえば、いわゆるアポロンやニケがそうだが、ああいう「光輝」に権威を認めるというところが日本にはまったくない、どう考えてもアポロンやニケが葵のご紋がついた印籠をニュッと出して「控えおろう」と人々を恫喝するとは思えない/そうして考えると、やはり宮崎駿がいた「もののけ」の世界のほうが日本の宗教精神を正しく描いているといえる、ただしそれは日本人の宗教精神として正しい描写なのであって、カミサマが本当にそうなのかは誰も知らない、カミサマは「んなアホな」と言っている可能性もある。
たとえば日本のお寺やその本尊、あるいは各家庭の仏壇を見てもわかるとおり、その第一義の印象はどう見ても「暗くて怖い」だ、どう見ても仏様の光輝という印象よりは、ドロドロ〜という古いオバケの印象がある、アーリントン墓地と日本の墓地の印象もまったく異なるのであって、日本人の宗教精神は「病的に怖がれ」「親分を怖がれば報われます」だと言える/おれはそのあたり、人に怖がられて親分扱いされることにウットリできるという気質がまるでなく、むしろ単純に光輝ある愉快な姿の、光ゆえのやさしさがある者でありたいと望んでいるのだが……これはどちらが正しいかというような話ではなく、ただおれが最近になって知ったのは、おれがおれなりに全身全霊で人生を賭けているように、「親分の怖がらせパワー」をやっている人も、やはり全身全霊で人生を賭けてそれをやっているということだ、もしおれが大ハズレだったらギャアアアという痛哭しか残らないであろうように、やはり「親分の怖がらせパワー」が大ハズレだったら、そちらの人もギャアアアという痛哭しか残らないのだろう、そこはフェアなものであって、互いに諍いを起こすようなことではないと思っている。
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子分は親分が怖いという病的風土
の中には上司と部下という関係があったり、親会社と子会社、師父と弟子、下請けと元請け、取引先にもカスタマーとサプライヤーという関係があったりする。
日本の場合、これらを異様なほど「親と子」にしたがり、自分を「親分と子分」にしたがるのだが、この精神的風土はおそらく徳川時代に最も陰惨な形で日本人の血に入り込んでしまったのだと思う、江戸時代の二百五十年が天下泰平だったというのはおそらく(わたしの感じるところ)真っ赤なウソで、おぞましい暗黒の上にフタをして偽りの中を作り笑顔で過ごした、何の値打ちもない二百五十年だった/ヨーロッパの中世がいわゆる暗黒時代と呼ばれたように、日本にもきっちり、時代遅れの憐れさも併せ持ちつつ、まったく別のテイストで暗黒時代があったということだ、そこで現在に至る日本人の精神的風土が決定的に形作られた。
徳川時代というといわゆる鎖国のイメージがあり、鎖国はもちろん病的なほどの引きこもり精神だったにせよ、より本質的な焦点はそこではなく、本当は徳川を親分として、「子分が親分を怖がるだけ」という二百五十年があったということだ、すべての子分が親分の顔色をうかがって、偽りにゴマスリを続けるだけの二百五十年だった/本当に何の意味もない二百五十年で、何もかもが根本から不毛、そしてこころの本質は「不快」でしかなかった二百五十年だった。
なぜこんな「親が怖い」というだけの不毛な暗黒時代が形成されたかというと、もちろん初代の徳川家康が病的に、怖がりの闇を抱えていたからだと思う、徳川家康が後の徳川家安泰のために施した政治は晩年に至るまで正気を逸脱している/もちろん当時、信長の治世が継承されてゆけば穏やかでない国になっていただろうし、秀吉の治世が継承されていけば野暮の国になっていただろう、何をどうすればよかったという話ではなく、ただ結果的に「親分怖い」という病的な精神的風土が二百五十年かけて入り込んでしまったということだ、この事実の上に日本は形成されている。

これは、日本が諸外国と比較して劣っているという話ではなく、たとえば現在のアメリカの暴動を見ていてもわかるように、人の世というのは潜在的にはいくらでも汚らしく、どこの国でも例外なく、ふだんは何かしら表面を糊塗して偽りに過ごしているだけなのだろう/アメリカが南北戦争やインディアンの駆逐をしていたころ、日本は江戸時代で、諸外国にビビった幕府が、なぜか身内にストレス発散の「弱いものいじめ」をしていた、そのあたり「マニフェスト・ディスティニー」へ吹っ切れてしまうのがアメリカの精神的風土であり、「親分怖い」の悲鳴ヒステリーと「弱いものいじめ」のストレス発散へ吹っ切れてしまうのが日本の精神的風土なのだと考える。
現代から江戸時代を振り返ると、徳川家のやりようはすべてヤクザのするそれだと誰の目にも明らかだが、これは話が入れ替わっており、徳川家がヤクザだったのではなく、現在知られているヤクザの風土が徳川家の封建制風土を引き継いでいるのだ、徳川家がヤクザなのではなくヤクザが徳川家と捉えるのが歴史からの順序だろう/そしてあちこちの家庭や企業で、やたら親が子を怖がらせようとし、上司が部下を怖がらせようとし、元請けが下請けをいじめようとするのは、何か正当な理由や事情があるわけではなく、ただの精神的風土なのだ、「子分が親分を怖がってヒステリーの悲鳴をあげる」「子分が親分の顔色をうかがって偽りの親睦だけを過ごすようになる」というのが、日本人にとって泰平の人の世という感覚なのだ、日本人は毎日この「親分怖い」を成り立たせるためにだけに生きているところがある。
現代の日本人でも、何か江戸時代の封建社会に肩入れをし、郷愁を覚えるところを大いに持っているので、そこはかとなくわれわれの脳内には「時代劇」が残っているのだが、この「時代劇」というのはもちろん当時の真相をレポートするものではまったくなく、当時から日本人が抱き続けることになった、「親分怖い」の天下泰平ファンタジーをそのまま現代に引き継ぐだけのものだ、たとえば「暴れん坊将軍」なる時代劇があって、八代目徳川吉宗がそれまでとは毛色の違う将軍(といっても紀州徳川家から割り込むことになっただけにすぎない)が存在したのは事実だが、吉宗自身がそうして将軍に就任するまでには、「ひょっとしたら……」と思わせる謀略や暗殺の暗い影があるし、吉宗が行った改革は保科正之の idea を再興させただけでしかないし、何より吉宗が晩年に見せたのは強烈な権力への執着であって、自分の子孫たちに権力を継がせるためだけに「御三卿」なる強引なシステムを我意のまま導入し、のちの徳川家の構造をめちゃくちゃにややこしくした/これらのことをすべて見ないようにして「暴れん坊将軍」なる夢想は成り立っている、それはおそらく当時の人々が縋っていた将軍日本・天下泰平の夢想とたいして変わらないのだと思う。
江戸時代の天下泰平やら、町人文化やら旗本退屈男やら、そういったものは "全部ウソ" で、本当は「親分怖い」の病的精神、弱いものいじめをして子分にヒステリーの悲鳴をあげさせると落ち着くという、徳川家康のゆがんだ精神が、ひたすら二百五十年間も押し付けられただけの、何の意味もなかった時代なのではないかと、おれは考えるようになっている/おれは今、歴史の話をしているのだが、過去の話をしているのではない、今現在も「親子」や「親分と子分」があり、元請けやら下請けやら、師父と弟子、カスタマーとサプライヤーなどがあって、これらが泰平と文化を為しているという夢想が、 "全部ウソ" なのではないかと考えているのだ、少なくともおれが実際にこれまで見てきて「???」と感じさせられてきたすべてのものは、この徳川封建制の地縛霊と考えるとすべてつじつまが合うのだ、人々は親や上司や取引先や先生のいる世の中を生きているのではなく、本当には「親分怖い」というゆがんだ精神的風土の中を無意味に生きつないでいるだけにすぎない、親分は子分を怖がらせるためだけに存在して、子分は親分を怖がるためだけに存在しているのだ、これをもって何をしたいのか、おれはずっと「???」と首をかしげて生きてきたことになる。

あなたが相手を怖がれば、相手はニコッとし、相手があなたを怖がれば、あなたはニコッとする。

ありていにいえば、日本の風土が露出した地域や人柄というのはそういうことで、さらに簡略化して言えばその本音は、「わたしのことヒステリーのように怖がってくださいね〜」「そうしたら平和で穏やかですからね〜」というだけでしかない、精神が病的に親分を「怖がる」ということのためだけにこの国は存在している、少なくともあなたがこれから(あるいはこれまでに)わけのわからない人を目撃したとき、このことを知っていたらすべて説明がついてしまう、そうしたわけのわからない人は、当人が病的に親分を怖がっており、また自分自身についても、子分から病的に怖がられたいと思っているのだ、そのことにもはや理由というような理由はなく、ただの精神的風土、その病的怖がりそのものが第一義に求められているのであり、たぶんそのほかのことに考えが及ぶようなことは生きているうちに一度もない。
思えばおれがこれまでに出くわしてきた、「???」のパターンはすべてこれだった、おれにとってはそれはずっと意味不明の「???」で、ずっと目の前で何が起こっているのかわけがわからなかったのだ、それが今、相手はおれをなんとかして「怖がらせよう」としていたのが、いちおう理屈として理解できる、そして多くの若い人がおれの前で精神的に恐慌していくことの「???」も、おれが相手を怖がらせないから逆にパニックになるのだと今になってわかる/といっておれは、その日本的精神風土、子分が親分を病的に怖がってバンザーイというわけのわからないものにどうしても馴染めないというか、その素質がないので、おれとしてはどうしようもない、おれは水戸黄門に印籠を出されても何を怖がればいいのか感覚的にわからない奴なのだ、それは日本においては一種の障碍者なのかもしれないと思う……けれども、いまだに日本人が大マジにそんな「病的に怖がれ」の風土をよろこんで生きているということに、やはり本音としては単純に「バカじゃねーの」と思ってしまう。
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対人的なことに向かねえなあ2
んなことを書き話しても誰のトクになるのか不明だが、まあおれが書き話せば何でも面白いからかまわないだろう。
おれにはナゾの、徹底した苦手があることを再確認する、たとえば仮におれがブラックジャックのような名医だったとしよう、そしておれが無料でたくさんの人々の難病を治療して回ったとすると、おれはきっと自分のことをクソゴミ野郎と感じると思うのだ。
なぜなのか、理由はよくわからない、理由はわからないまま、おれはどうも自分が人の役に立つということについて、最低最悪の感触を覚えているようだ、おれは神業を発揮して人々を治癒しながらどんどん機嫌が悪くなるというまったく人気の出ないブラックジャックになるだろう/もちろんおれは世の中のドクターを否定しているわけではない、人々の生命と健康を庇護しているドクターに対してはひたすらありがたいとおれは賛美しかしない。
なぜかおれは、自分が人の役に立たないことについては「いいぞ〜」と思っており、何か人の役に立つことをすると途端に「このクソゴミ野郎、死ね」という感触になるのだ、さすがにこれはムチャクチャだと自分でも思うのだが、それ以上にこのことは「治りませんよ〜」という感触が前もってある、なぜおれはわずかでも自分が人の役に立つことについておもっくそ唾を吐くのだろうか。

たとえばおれは、自分がエロビデオを見てオナニーしているところや、そんなに美人でもない女子高生をレイプしているところ(注:やっていません)を、高画質で世界中に中継されても何とも思わないが、もしおれが駐輪場のドミノ倒しになっている自転車をこっそり立て直しているところを中継されたとしたら、それはもう気分最悪、タンを吐き散らして死にたい気分になるだろうと思う。
なんというか、人の役に立つのはまあいいのだが、それがわずかでも人目に触れるのがイヤなのだ、おれは自分のサイテーなところを人目にさらすのは、絵的に近所迷惑でないかぎりは別にいくらでもかまわんと思っており、むしろ「サイテーな男ってこんなもんだという資料として残しておいたほうがいいかもしれない」という公共性まで考えが及ぶのだが、自分が何か人の役に立っているところを人目にさらすのはイヤなのだ、道端で転倒したババアを助けているところを見られるよりは、転倒したババアの後頭部を蹴って金品をむしり取っているところを見られるほうがずっといい(注:やっていません)。
この徹底した偏向は何なのだろう? おれの知る限り、古今東西にこんなわけのわからない衝動について指摘した哲学者はいないように思うし、心理学の壊れ精神のレポートにもこんなわけのわからない症例は聞いたことがない、おれは悪趣味は苦手だが善趣味は輪をかけて苦手なのだ/おれが心の底からゲラゲラ笑うとしたら、ブラックジャックのような技術を持ち、治療費を一千万円請求して、そのまま治療もせず一千万円を持ち逃げしたときだと思う、なかなか悪逆な話だが、「こんな奴治らんでええやろ」と一千万円の一部でハンバーガーを食っているときのほうが心の底から笑ってしまうというわけのわからないビョーキにかかっているのだ。
他人のことにけっこう肩入れするくせに、他人の役に立つのは死ぬほど苦手という、このわけのわからない習性で自分が困らされている、別にちょっとぐらい人の役に立ってもいいじゃん……とは、思っているのだが、なぜかメラメラっと、すべてを爆裂ぶっとばそうとする嫌悪感が立ち上るのだった、こんな奴はそりゃ対人的なことには向いていないのだろう。

対人的なことでやりたいことは「破壊」だけだ。

ううむ、困ったことに、対人的なこととして「破壊」だけは、「それいいね、ステキ」というワクワク感が立ち上ってきてしまう/なぜおれはこうして自分の人間性というか人間味について、こうも冷淡で否定的なのだろう、正直に言うと「人としてサイテーですよ」と言われると冗談でなく「やった」とよろこびが湧いてしまうのだ。
というわけで、誰のトクにもならない個人的なナゾの話だったが、やはりおれが書き話すと何でも面白いのでまあいいのだった/にしても、こりゃ何か方法を考えないといけない、人の役に立つことをするとおれが自壊してしまう。
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対人的なことに向かねえなあ
ンラインでワークショップを続けている、そのことは評判もいいし、いいのだが、最近はそのたびにブッ倒れる感じがあり、こりゃなんとかしないとなあと思案している。
まあしょせん、おれが他人に肩入れしすぎなのだ、そりゃわかっているのだが、これはもうクセになってしまっているので、いざ始まってしまうともうバランス的なことには一切耳を貸さなくなってしまう/まあこのあたり、おれはけっきょくそういう何かの「センセー」ではないのだろう、おれはずっと自分のパフォーマンスに対して容赦がなく、つまりブッ倒れるところまでやらないと一ミリも評価しないという悪いクセがある(いや、ブッ倒れたってけっきょく評価なんかしてねえなあ、悪いクセだ)。
おれは自分のパフォーマンスに対して、非人間的に冷淡なので、たまにそういう夢を見るぐらいだ、まあどんな夢なのかは人に言いたくないようなたぐいだが、とにかくバランスが悪くて困っている。
おれは相手から評価を伝えられないかぎり、自分のパフォーマンスには0点しか与えないので、オンラインになると目の前に相手がいないものだから、ずっと0点のままパフォーマンスを続けていることになり、けっきょく力尽きるまでやることになるのだ、おれは仮に一人でサグラダファミリアを建てたとしても、あくまで客観的には0点としか評価しないので、なんというかわれながら人間味がない、つまりおれはサグラダファミリアを完成させた当日にも「0点だからもっとすごいの建てなきゃ」と次の建設を始めている具合なので、そりゃバランスが悪いしブッ倒れるに決まっているのだった。

つまるところ、おれは対人的に何かをするのに向いていない/おれは他人からの評価を頼りにしたことはなく、他人の評価でおれ自身の評価が上下するということはないのだが(何しろおれは自分に対する評価そのものがないのだから上下のしようがない)、これはおれ自身のことであって、おれが対人的に何かをするとなると事情が変わってしまう。
対人的に何かをするのならばおれ自身の評価だけですべてを済ませるわけにはいかないし、それどころか対人的に何かをするのであればそれはおれがどう評価しても意味のないことで、相手方の人の評価を基準にするしかないのだ/ここがやっかいなところで、こうしてブログ記事を書き話すぶんについては、対人的なものではないので「こんなの誰が読んでいるんだろ」と不思議がりながら、まあおれの書くものはサイコーだなと断定できていればいいのだが、ワークショップうんぬんはそうはいかない、さすがにそれはおれから見てサイコーかどうかというのは二の次というか、基本的にそっちの基準は要らなくなる。
おれがこうして書き話しているぶんは、たとえば「コンビニの店員に絡む老人は、四十八時間スキャットマンジョーンズを大音量で聴き続ける刑に処す」と言うと、なんだかまあオモロイなということで済むのだが、これが対人的にうんぬんとなると、オンラインなどで目の前に人がいない場合、対する人にとってオモロイのかどうか、笑っているのかどうかがわからないので、0点が続くことになる、0点が続く中を二夜連続で朝まで過ごしてしかも聖書と仏典の内容を伝えたりしているとさすがに精神が臨界を迎えるのだ、なんというかおれの中の聖書と仏典を語りつくして0点ならさすがにおれにはどうしようもないぜという落雷が何度も落ちるのである。
まあ、そのていどではまったくやめないという常識がおれの中にすでに根付いているのだが、これも何か非人間的なもので、ふつうに考えて力尽きるほうが人間的にマシという感覚もおれの中にはあるのだった/もう十年近く続いていることだが、対人的なものといえば、基本的におれがエネルギーを発揮するとおれが嫌悪・拒絶されるというのがデフォルトのパターンなのだが、ふとこの中で他の人はどうやって生きているのだろうという疑問も湧く、といってどうせ他人のことなんかわからんのは先にミエミエだし、おれとしてはけっきょく「対人的なことに向かねえなあオイ」という初めからの結論に嘆息するよりないのだった、なぜおれはいつまでたっても陶冶されないのだ。

ああ、対人的に何かをするというのがさっぱりわからん(ワークショップの先生のくせに)。

おれにはよくわからんのだ、たとえば二十二歳のハモンド・やもめ太郎が、「おれはナイフ一本で海中のシャチと戦って勝ってきます」と言ってカリブ海にドボーンと飛び込んだとしても、そりゃそいつのやりたいことだからそれでいいんじゃないのかとしか思っていないのだ、海中のシャチに勝てる人間は絶対にいないと思うが、ハモンド・やもめ太郎がそう言うなら「うーんひょっとしたらイケるのかもしれんな」とも思って、おれとしては対人的に何かをするというのがさっぱりわからなくなる。
おれは対人的に何かをするということはよくわかっておらず、さらに言えば、人の役に立つということじたいまったくわかっていないのかもしれない、なんというか「おれが人の役に立っても、何の役にも立たんだろ……」という矛盾した文脈の、しかし確信が存在していて、こんなものがあるうちは対人的にどうこうなんてやりようがないのだ/といって実際、このペースでブッ倒れているわけにもいかないので、何かうまい方法を考えなくてはならない、おれにとっては対人的に何かをするというのは本当に何も見えない闇の中だ。
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芸能界をボヤかず自分のことに絶望しろ

ーた芸能界で不倫がどうこうと……悪趣味きわまりない。
他人のことでどうこう口出しをしたり嘆いたりする権利は、それを愛していた人にしかない、かつて野球選手の清原がヤク中になったときには、清原の姿を愛していた人たちにそれを悲嘆してヤケ酒を飲む権利はあったと思うが、誰も愛していないお笑い芸人に対してギャーギャー口出しをする権利はない、他人のことなんだからほっとけ。
愛してもいない他人にギャーギャー口出しをするのは、断言していいが老人だけだ、なぜ老人は他人のことに口出しをするかというと、「自分のことがもうない」からだ、老人はあとは死ぬだけなのでその絶望に耐えられず、さも自分には口出しして口論するべき何かがあると思い込もうとするのだ、それと同じようなことを七十歳にもなっていない奴がやってはいけない、基本的にそんなことは死ぬ直前だけにしろ。
芸能人がどうこうとか、それが許せるとか許せないとか病的だとかそうでないとか、そんなことはどうでもいいのだ、そんなことより自分には何の未来もないということ、何の現在もないということ、本当は何の過去もないということ、そうした生々しいことのほうに直面しろ、ショッキングなニュースに飢えているならそっちのほうがはるかにショッキングなニュースだろう、マスコミをマスゴミ呼ばわりするのもけっこうだし市民の権利だと思うが、その中に燦然と輝きたる致命的なゴミの実物が自分だということを心臓の第一の文言に刻み込め、知っているとは思うが芸能人のスキャンダルに関心を寄せているというのは逃避的人間の中でも最下等のどん底を極めているタイプだ。

いくらなんでも現代は人が弱くなりすぎだ、人というのは多くは若いうちにそんなに輝ける少年少女時代はないし、実は青春なんてほとんどの人にないし、幼馴染というのも地域の闇を吸い込んでいるし、まともな恋あいやらまともな仕事やらまともな友人というものはほとんどの人には与えられないのだ、よりにもよってセンスとか才能とかいうのはほとんどの人はゼロだと諦めねばならない、その代わり庶民には何があるのかといって、何もないのだ、浪花節なんかすでに存在しないし、もともと存在していたのかどうか不明だ、そのくせ老化と病気と税金と家財の減価償却だけはキッチリ来るのだ、このことを直視せずに何が芸能人のアワワワワだ、笑止というよりない。
自分の何もなさに恐怖し、またそれがこの先も基本的にどうしようもないことに恐怖し、さらにはそれを自分が直視できず偽りの充実気分で糊塗していることを認めて恐怖せよ、そのことを直視していたらよもや愛してもいないお笑い芸人のスキャンダルどうこうで一秒たりとも時間を無駄にしようとは発想しないものだ/このことを直視すると精神がドエライことになってクラッシュするのだが、クラッシュしたところでわけのわからない生は続いてわけのわからない死がやってくるのだ、ヘンな言い方だが自殺したって死がやってきてしまうのだからどうしようもない。
現代人はまるで「愛していないものについて目移りしながらギャーギャー言って逃避し続けている」と総括されるような存在だ、ここ数十年の人々をこの総括でオッケーにしてしまうつもりか、自分が何を愛したこともなく何に愛されたこともなく、何の場所も得たことがないし何の光景も見たことがないという大ピンチのさなかで、それをちょっとした著名人のトラブルに転嫁して自分をごまかそうとはなんたる醜態か、自分のことを親しく「あいつ」と呼んでくれる人さえいないくせに他人の行状に品評を垂れるとは、少しでも正気が残っていたら自分の臓腑が酸鼻を極めているその臭気にサルトルの三倍は嘔吐するはずだ。
お笑い芸人が品行方正にしていたって、あるいはその逆で不埒を極めていたって、どちらにせよテメーのスッカスカぶりには何の手当てにもならねーんだよ、もちろん誰だって努力しているのは知っているが、残念ながら努力ごときで埋まるようなスッカスカぶりではないのだ、ヨソに向ける見当はずれな品評の刃を、その百分の一でも自分に向けてみたらどうだ、もう昨日までの若かった日は一日も返ってこないのだぜ、テメーがマジメに生きようがマジメに自殺しようが中毒者になろうがチャリティマニアになろうが、どうやってもそのスカスカぶりは一ミリも埋まらないのだ/面白くないテレビで自分をごまかして、次はそのテレビを叩いて自分をごまかすという、そんなことをするために生を享けたのか、テメーの墓碑銘には「芸能人に注目し、またそれを叩きし者」というわけのわからない文言が刻まれるだろう、いいかげん飽き飽きなのでガチでやめよう、他人の失脚に注目する奴なんざ自分が破滅している奴ばっかりじゃないか。

自分について絶望し、それをSNSや媒体の一切に示すな。

太宰治のようなヒマ人を二度と世に出してはいけない、自分についての絶望を外に垂れながしたら、それじたいが逃避になってしまうし、またそれに肩入れをするというヒマ人タイプにとっても恰好の逃避ネタになってしまうのだ、ありもしない友人と話している気分になるな/おれはひどいことを言っているようだが、そうではないのだ、そうしてありもしない友人と話している気分を続けていると、ずっと先にもっとひどくえげつないことが事実として襲ってくるのだ、いくら自分が自分についての絶望を直視しなかったとしても、それは消えてなくなったわけではなく直視されないぶん後払いになって、ガッツリ金利を上乗せしてあるとき突然「満期です」というように襲い掛かってくる。
おれ自身にそこまでの趣味はないが、見栄えのする女を多目的トイレでやって一万円で済まして仕事に行くというのは、そんなに悪いことではない、むしろ生者の全体から見たら割と幸福な奴だ、もちろん真の幸福ではないのだろうが、真の幸福なんか得ていないのはスキャンダル以前から見ていたらわかるだろ!! まさかそれが視えていなかったという奴はもうこの世界のなにひとつをさえまともに視たことがないのだ、そしてわれわれは自分を直視すれば、ほとんどの場合その「真の幸福ではないエセの幸福」にさえ日々触れて生きてはいけないのだから、そちらのほうがヤバいと直視しろ、多目的トイレでインスタントセックスをするというのは下品なことだが、われわれのほとんどは多目的トイレでウンコをするしかやることがないのだ、多目的トイレで「ウンコするだけ」も「ガンバってセックスする」も直視すればどちらも絶望的な話だ、さあ絶望を極める自分に対する陰惨なレポーターになって、そのレポートをどこにも報告せず、書きもせず、ただただレポートして自分で楽しめ、おれは人が明るい未来に向かうべきだという話をしている。

視点変えてこ | comments(0) |
死にたいぐらいうらやましくて、なおそれ以上に辛いこと
「うらやましい」は「羨ましい」と書くが、かつて「心病ましい」とも書いた、今でも「うらさびしい」を漢字変換すると「心寂しい」という字が出てくるはずだ、「心」は「うら」とも読む/オモテ・ウラの意味から「内心」をうらと呼ぶわけだ。
心が病むほどのうらやましさ、それは単に金持ちだとか美人だとか、学歴がよいとかそういうことではない、いくら金持ちで美人で高学歴でも、まともな青春がない・まともに誇れる仕事がない・まともな友人がいない・まともな愛の記憶がない・まともな尊敬を受けたことがないということはいくらでもあるからだ/真に「心病ましい」のはそうしたまぶしい青春、つい胸が高鳴るほどの仕事、掛け値なしの友人、鮮やかに刻まれたままの愛、心底から受けた尊敬のほうだ、こんなもの百億円積んだって手に入らない、百億円には人が「寄ってくる」というだけでそれじたいがありがたいわけではない。
こうした、真に「うらやましいもの」を、持っている人と持っていない人があるのだが、この劣化ウランで作った矢じりが心臓をつらぬくような辛さよりも、なおはるかに上回る辛さがあるという、その辛さとは何か、それは「2020年6月8日はもう二度とやってこない」ということだ。
保証してもいい、2020年6月8日はもう二度とやってこない、この日は今日限りのものであって、明日以降は決して戻ってこないのだ、いかなる金持ちもいかなる才能もいかなる超能力者でさえも、このことを覆すことはできない/このことの辛さと切なさを直視したら、やれポリティカル・コレクトネスなどで騒ぎたくなるような気持ちはまったく起こらないはずだ、だってそんなことをしているうちに今日という日が終わってしまい、それはもう二度と帰ってはこないからだ。

2020年の夏を二度体験できる人はいない、どれだけ若い人でも、この夏を二度体験できるという人は存在しない。
人は、年をとって老けるのが辛いのではないのだ、一日たりともかつての日に戻ることはできないというのが辛いのだ、二十歳の人はまだ若いように見えるが、十年後に十歳になっていることはなく、十年後には三十歳にしかなっていないというのが辛い、われわれはもう昭和も平成も体験することができない。
われわれは、精神というメカニズムの上で、「うらやましい」のすべてを抑圧して生きており、つまり潜在的には全員が神経症(ノイローゼ)の上で生きているということになるが、これを乗り越えられる唯一の方法が、逆にこの「それ以上に辛いこと」なのだ、誰もがこの辛さを抱えて生きるしかないということに気づくと、自分の潜在下で「うらやましい、辛い」とほざいていることが何とくだらないことかと、ハッと目が覚めることがある。
逆に考えよう、この目覚めるべきことに目覚め、一日でもいいから、本当に「自分はマシな一日を生きた」と認められる日を過ごすのだ、そうすると、もう過去にはさかのぼれないのだから、その自分でさえ認めるところの「マシに生きた一日」は、その先もう二度と失われることがないということだ、その後の自分がどれだけクソのようであっても、「マシに生きた一日」が消えることはない/2020年6月8日は、もう二度とやってこないが、そのぶんこのときに得たこの日は、この先どうなっても消失はしない、たとえ自分の記憶が消え失せての "この日をまともに生きたということ" だけは永遠に残ってゆくのだ。

うらやましいすべてのものが自分に「ない」のはしょうがないが、自分に今日が「ない」のはダメだ許すな。

人々は長いこと、生まれや育ちや環境に関わる「差別」をなくそうと考えている、格差によってまともなすべてのものが「ない」というのはとても辛いことだからだ、だがその試みが成功することはこれまであまりなかった、たとえ同じ環境を与えてもまともなものが「ない」人は「ない」ままでゆくのだから/そこでわれわれは、そうしたうらやましいうんぬんどころではない、はるかにもっと辛いことに直面するべきだ、 "何をどうしたってもう2020年6月8日は帰ってこない" 。
この、よりすさまじく辛いことに直面すると、その「うらやましい」うんたらの辛さなんて、まるでどうでもいいというか、「それどころじゃない」ということでいいかげん目が覚めるのだ、もちろん精神が子供すぎるとそれ以前に精神がクラッシュしてしまうかもしれないが、おれは子供向けに話してはいない、この話は十三歳以下には未だ必要のないものだと思うが、十四歳以上の全員は引き受けてかかるしかないと思っている、十三歳は子供だが十四歳は大人だ、過去のカレンダーには一日たりとも戻れない、この辛さがわれわれをして心の弱さを超克せしむる秘密の作用を持っているだろう。
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フォルマリズムとすさまじいものはこちら
川たかしが歌う「津軽山唄」がすさまじい(前編はこちら)(後編はこちら)/なんというか、もう鬼神がかっている、こんなシロモノを説明できるボイストレーナーは世界に一人もいないはずだ。
すさまじいと言えば、おれはボブディランのアルバム Desire のLPレコードを持っているのだが、その中の「ハリケーン(Hurricane)」の音がすさまじすぎる、なぜこんな「音」が録れたのだろう? 何回聞いても不思議だ、とにかくすんげえ「音」だ/スピーカーとの相性もあって、アナログだと特に音が「飛び出てくる」ように聞こえることはしばしばあるが、「ハリケーン」については異常だった、音が飛び出してくるどころか物理的に「ギター」が飛び出してきたように錯覚してウオッと実際にのけぞったほどだ、これは録音機材の品質から生じた現象ではない。
他にすさまじいもの……といえば、まあいくらでもあるが、毎回メタルの話をしているとアホみたいなので、今回はふとビリージョエルのエンターテイナーを思い出そう、クライマックスに向かってピアノを弾き語る形になるのだが、こんなものをフツー弾き語りとは言わねえ、通常の感覚だとこれは「誰がピアノ弾いてるの?」となるべきであり、この歌っているヤツがピアノを弾いているというのはウソでなくてはならない、技巧とかそういう次元のことではなく、「そんなふうには演奏できない楽器のはず」と首をかしげてしまう。
あとはテキトーに、バックハウスのベートーヴェンでも貼り付けておくか、「月光」の第三楽章は誰が弾いても忙しいことで有名な曲のはずだが、何かコイツはおかしい、どうしても何か「アンサンブル」を聴いているような錯覚を起こす、右手と左手で演奏しているという感じじゃない/まさかのまさかで優雅に弾きこなすので、ベートーヴェンのデロデロ感がなくなり、ベートーヴェンを誤解させるような演奏になっている、あるいはわれわれがベートーヴェンを誤解しているのであってコイツの認識のほうが正しいのかもしれない。

今さらになって思うが、おれはたぶん「音楽」が好きじゃないのだ、いわゆる一般に音楽と認識されているものに、おれは何ら反応していないのだろう。
おれは若いころのビリージョエルそのものが好きだが、別に音楽が好きなわけじゃない、おれにとっては「音楽」というような分離したシロモノは、けっこうヘヴィな「負担」にしか感じられない/おれは正直者のボブディランが大騒ぎしているのが好きだが、「音楽」については何をどうこうと思ったことはない。
たぶんおれは、そうした「芸術」と呼ばれる一切のことについて、驚くほど "センスがない" のだ/おそらくおれはセンスがなさすぎて、すべてのことを「おっ、またやっているな!」としか見ていないのだと思う、だからおれの書いているこのナゾの文章記事も、何らセンスのシロモノではなく「またやっている」というだけでしかない。
ありとあらゆる「芸術」と呼ばれるシロモノ、そうしたセンスに関わるシロモノは、おれにとって「負担」でしかないのだ/おれにとって「音楽をやっています」という人は、たとえば「セックスをやっています」と言ってはばからない男女ぐらい、何か見せられても不明の負担にしかならない、おれには細川たかしが「民謡をやっています」とは見えないし、マイケルジャクソンが「ダンスをやっています」とも見えない、おれにはそれぐらい "センスがない" のだ。

突然だが、コンテンツ派とフォルマリズム派がある。

突然だが、実はおれは今いろいろあり、巨大な知見を得ているところで、この先を切り開いていく大きなステップに立ったところなのだ、おれはやはり百年前から始まった文学思想、ロシア・フォルマリズムの徒であり、その当時から超意味言語等々、うさんくさいことも言われていたのだが、そのことの本当の解答にたどり着いているのだ、フォルマリズムとか異化とかはそっち方面の人がいくらでも詳しそうにしたり顔で言うが、けっきょくほとんどの場合誰もわかってねえし視えてねえ、おれは百年前から唱えられてグズグズになっていった思想とナゾに対してついに正解を提出する者なのだ、いやあさすが偉大なるおれさまはモノが違うぜ。
フォルマリズムとは「内容じゃなくてフォルム(形式)じゃね?」の思想であり、ロシア・ヨーロッパで問われたこの思想は、西洋人の手ではうまく解答できなかったのだ、その点おれは東洋人だし、フォルムといえば「型稽古」の行き着く先を知っている、西洋的発想ではどうしても「内容に行き着くために型の稽古があるんでしょ?」としか思えないだろう/まあ何のこっちゃわかるわけがない話だが、おれは内容(コンテンツ)が "負担" でしかないという話をしているのだ。
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目撃しているものは炎上ではなく高齢化だ

ラスハウスという番組で、炎上騒ぎがどうたらこうたら、そしてメンタルを落ち込ませたある女性が自死してしまったとかで、ニューストピックを見せつけられる/しかも正直、自死の哀しみを政治的強みとして使いまわそうとする勢力があるようで、いよいよこりゃ付き合えそうにないという酸鼻な様相を醸している。
おれはニューストピックを観て「?」となり、その後何度もトピックが出てくるので「???」となったのだが、いくつか記事を見てみても、なんだかよくわからなかったのだ、今このときも巨大な違和感に困惑している/何に困惑しているかというと、なんというか「時代錯誤感」だ、今このときもおれが何か誤解しているのかという気がしてきてふわふわしてしまう。
何というか、そういうテレビ番組の、リアリティ・ショーみたいなものを観て、視聴者がやきもきする……というようなモデルは、気恥ずかしいほど古い感じがして、どうも現代の、今このときの話を聞いてる気がまったくしないのだ、いくらなんでもモデルが古すぎるだろう。
もしおれの友人が、「テラスハウスでさぁ」みたいなことを話し出したとしたら、おれは反射的に「はぁ?」とデカイ声で困惑を明らかにするだろう、「今どきそんなことに関心が湧くやついねーだろ」とおれは思っていたのだが、これはおれがズレているのだろうか、おれとしては「いくらなんでも古すぎる」と確信しているのだけれども、これはおれがズレていて現代は今リアリティ・ショーでやきもきして炎上というのが最盛期なのだろうか、そんなタイムスリップ的な現象が本当にあるのか。

もちろん、どんな事情か詳しくは知らないが、どなたかが悲嘆の末に自死されたということは悲しいことだが、かといっておれが自死しても誰もそんなもん悼まないだろうから、完全に蚊帳の外のおれが他の誰かの自死を悼むというのもわざとらしくていかがわしい話だ/今さらそんなことを気にする奴がいるとは思えないし、こういう文脈もすでに巨大な時代錯誤感を覚えている。
なんというか、おれの中では、「テレビのリアリティ・ショーでやきもきして炎上」というモデルは、時系列的に「ニコ生で若い女性が裸になってBANされた」とか、「江南スタイル」とかぐらいの時代にあるのだ、それをまるで今現代のことのようにニューストピックが言うので、本当に単純な意味で困惑してしまった。
たぶん「炎上」といっても、すでに炎上という現象そのものに鮮度がなさすぎ、もうそういうフェーズは本質的には終わったのだと思っている、まして今は世界中が未だパンデミックの真っただ中だ、おれ自身は率直なところ、もし友人が炎上だの何だののことに関心をわずかでも割いていたとしたら、重度の警告として「時代からズレすぎ」と、たしなめるというか切り捨てるだろう、もはやそんな友人を仮定するのにも無理があると感じられるのが正直なところだ。
テレビ局はいつのまにか、誰ともコンセンサスを形成しないまま、なぜか「テレビにヤラセはつきもの」というナゾの理念を確信に持ち続けているようで、何がどうなっているのかはたぶん当事者たちも見失っているのだと思う、ヤラセでしか面白いふうのものを作れなくなったというのは単純にいって制作側の敗北でしかないはずだが/まあとにかく、やはり今このときも、「今どきテレビのリアリティ・ショーでやきもき炎上はないだろ」と、どうしようもない時代錯誤感だけがあるのだった、これはおれがズレているのだろうか、もう何だか本当にふわふわしてわけがわからない。

テレビ局はヤラセのたびに、スポンサーにヤラセの許可を取っているのだろうか?

ヤラセの許可を取っていないのだとすると、スポンサー側としては勝手に看板に泥を塗られるのだから問題だろうし、許可を取った上でヤラセがガンガン押し通っているのだとすると、それもやはり問題だ、スポンサーはたいてい社会的な企業であっていかがわしいヤラセの片棒を担ぐ存在であってはならないだろう、スポンサーはやはり「おっ、ヤラセ企業さんだ」という扱いを定評の看板にすることは責任も誇りも失うことだと考えるだろう、このあたりも逆におれがとっくにズレているのかもしれないけれども/まあ別におれはおれ自身からズレなければいい。
ふと、ひとつ納得できる見方が浮かんできて、それは「制作側も消費者側も高齢化している」という見方だ、なんとなくそれならすんなり納得がいく、高齢化を前提にすればいつまでもそうした「リアリティ・ショーにやきもき」というモデルは、水戸黄門モデルのようにえんえんと繰り返されていくのかもしれない、すでにわれわれが目撃しているものは炎上ではなく高齢化だ/この場合の高齢化というのは、単に年齢のことだけを指しておらず、たとえば今どき大学生がヤリサーなんかに興味を持っている話を聞くと、なんだか急におじいさんの話を聞いているような感覚になってきて番茶でも淹れようかなという気分になるということがある、「今さらヤリサーとは懐古主義的ですな」と、こうしてわれわれはこれから先、高齢化独特の精神風景を見せられ続けるのかもしれない。

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人の仕事は代行されないが、プロの仕事は機械が代行する

ロ(プロフェッション・職業)には、プロのクオリティやプロの凄みというものがある。
そしてこれらのクオリティと凄みは、順次機械に代行されていくものだ。
プロというのは、「機械のように精密でシビア」というものだから、そもそも人を業務機械化することをプロと呼んでいるにすぎない。
人の仕事は機械に代行されないが、プロの仕事は順次機械に代行されていく、あるいはより正確にいうなら、プロの仕事というのは機械が出来上がるまで「人が機械の代行をしていた」にすぎない、もちろんそれだってその時期は必要なものだったので軽んじられるものではない。

このことで一番わかりやすいのは、たとえばカメラのオートフォーカスだろうか。
カメラのフォーカスは、かつて人がマニュアル操作してピントを合わせていたものだが、そこにはむろん「プロの技術」「プロのクオリティ」「プロの凄み」「プロの精密さ・シビアさ」というものがあっただろう、それらは現在ではきっちり機械化されている、さすがにフォーカスに関してオートフォーカスより速いカメラマンはいない。
これからは人工知能が発達していくから、どうしても「タクシーの運転」や「イラストの仕上げ」などは、機械がそのプロフェッションを代行していくだろう、そして機械がそれを担当するともう人力では追いつけない/しょせん人が機械のまねごとをしていただけのものを、機械そのものがやりだしたら追いつけるわけがないのだ(そして追いつく意味もまったくない)。
というわけで、これからはというよりは元々から、本当に大事なのは「プロとしての仕事ぶり」ではなく「その人としての仕事ぶり」なのだ、一所懸命やっていますってことじゃないよ、「人」そのものの作用が仕事になっていることが大事ということ、そんなもん、プロが作ったハンバーグよりおれが作ったデタラメハンバーグのほうが食べたいだろう?

プロが作ったものは必ず「すごい」が、人が作っていなければ必ず「面白くない」。

今われわれの周囲に、「すごい」ものがたくさんあり、にもかかわらず何一つ「面白くない」のは、これが理由だ、プロと機械が出しゃばっているだけで、誰も人としての仕事ができていないから、何も面白くないのだ、そしてその面白くなさがいいかげん苦痛になってきているという状況だ。
そもそも、プロが作ったものが必ず面白くて値打ちがあるなら、ここであなたはこんな記事を読んではいないだろう、とっくに何かの雑誌を購読しているはずだ/文章なんて、近々人工知能が代筆するようになるだろう、すでに公募小説の一次審査を通過するレベルにあるのだ、ただしそれは何をどうしたって「面白く」はならない。

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底辺がトップニュース2
謡曲が昭和で打ち止めになったように、インターネットも平成で打ち止めになったのだろう。
 "Video killed the radio star" という、古くてせつない、すてきな歌があるが、ラジオスターがビデオに殺されるのはよくわかる、そしてテレビがインターネットに殺されるというのも「そりゃまあ」と思っていたが、ここにきてなぜインターネットは何にも殺されずに死んだのだろう。
次のテクノロジーって、実際ないよな、次の外来種がやってきていないのに、なぜかインターネットは自家中毒で死ぬかのように死んでしまった。
女子中高生、だけでない、大学生も社会人も、スマホ中毒だとは思うが、その中毒の先に夢やときめきや「本当に楽しい」はもう感じていないだろう? もちろんそれでも習慣的に続けてしまうから中毒ということだ、アルコール中毒と同じだ(アルコール中毒の人も、 "飲みたくなんかない" のに飲まずにはいられないらしい)。

もうどのトピックをタップしても、また底辺ニュースか、あるいは誰かがデカ乳を揺らしているだけなんだ……。
これから目の前に繰り返されていくものが、前もって「つまらない」と確定しているというのは、なかなかキツいことだ、だからもう一切アテにしないほうがいい。
底辺ニュースを「吸収」していいかげん何になる、そしてデカ乳を揺らしてホレホレするたぐいは、おれは趣味としてあんまり好きじゃない、ダメな映画が暴力とセックスシーンで間をつないでいるときと同じ息苦しさを覚える。
どのトピックをタップしても、「何かしらの底辺と乳しか出てこないよ」ということを、しつこく言っておきたい、そのことはきっとあなたを救うだろう/タップする前からもう、おおよそどんなていどのものが出てくるか察しはついているだろ。

スマホ中毒ではなく「底辺中毒」だ。

こんな底辺情報を吸収しても何の足しにもならないし、底辺情報を散布している人々も、何の動機でやっているのか意味不明だ、まさか「ボクはこうして底辺情報を散布するためにこの世に生を享けたのさ」とは自負していないだろう。
たぶんまともなことが何ひとつできない人が底辺中毒になっていったのだろうが、さすがにその中毒者にとっても「限界がある笑」と笑いだすだろうと思えるぐらいに、本当にすべてが根こそぎつまらないものになってしまった、さすがにこのミエミエの底辺タップを続けるのには限界がある/歴然と「要らない世の中」という領域ができてしまったな。
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底辺がトップニュース
わゆる「底辺」という侮辱的な言い方を、わかりやすさのために用いるとして。
SNSじみたウェブコンテンツの主流は、事実上、底辺をトップニュースに取り上げる、という装置になってしまった。
たとえば誰かが失言で炎上とか、たとえばどこかのホステスさんがまとめた「ムカつく客ベストテン」とか、そういうものがトップニュースになる。
一方、たとえば一人のきれいな女性がおれに対し、「あなたと歩いているとまるですべての景色が夢みたいなの」と言ったとする、そんなことはSNSじみたものにツイートされないし、もしツイートされてもそんなものはトップニュースにならない、この仕組みをよく見ておかねばならない。

もともと「2ちゃんねる」の時代から、ウェブ上で成熟していく匿名の交流は、互いに「便所の落書き」にすぎないという認識が交わされていた、そのことのやるせなさと汚らしさを、せめて当時の「ねらー」は自覚して、いちおうはその上で遊んでいたように思う。
が、このところのウェブユーザーは、自分の参画しているものが便所の落書きだということがわからなくなったのではないかと思う、便所の落書きがやたら広がって力を持つからといって、それは必ずしも人文的にまともなものではない、便所の落書きが惰性的に社会的影響力を持つようになってしまったというだけであり、便所の落書きが社会的なディベートに昇格したわけではまったくない/友人もいないのにディベートなんかできるわけがない。
このことをよく知っておかねばならない、たとえば〇〇高校の吹奏楽部がその年の定期演奏会でなぜか見事な名演をしたとして、そのことはむろんSNS関連のトップニュースにはならない、代わりに××高校の吹奏楽部が演奏会の途中で突如全裸になってオナニーを始めたということなら、その映像ともども、高校の名前を目立たせてトップニュースになるだろう。
もともとそうした、便所の落書きの集大成みたいなものは、いかにも「下世話」とわかる表紙を具えた週刊誌が担うところだった、あるいはスポーツ新聞のお下劣記事が担当するところだった、そんなものを個人がタイムラインで追跡し続けているというのは正気の沙汰ではない、大学生がショーペンハウアーを読まずに「底辺がトップニュース」を追いかけ続けているのだ、そんな奴がまともな友人を持てるわけがない。

もうインターネットの面白味の時代は終わった、この先はずっと「底辺がトップニュース」しか続かない。

本当に終わってしまったのだ、 Youtuber が物珍しい時代も終わってしまった、つまりもうネットは「見る価値がない」のだ、これはこれでけっこう困ると思う/それでもしょうがないのだ、正しく理解しておくしかない、本当にこの先は「底辺がトップニュース」しかない、底辺がどれだけ「まともでないか」というアピールだけが繰り返され、えんえんデカ乳の女が交替で乳を揺らしていくだけだ、さすがにこんなものを面白がるにも限界がある、こんなアホなものに飽きるなというのは無理だ。
これはこれでけっこう困るだろう、リアルな話、底辺トップニュースを追いかけているうち、友人を得る能力はすべて失ったのに、スマホもネットも面白味はもう終わりですと言われたのでは、「これから先どうすればいいの」と立ち尽くすばかりだ、でも本当にそういう状況にある/どうしたらいいということは差し当たり "ない" のだが、とりあえず今言いうることは、これからどんなトピックが出てきたとしても、すべては前もって「底辺がトップニュース」ということだけだ、たとえそれが何百万のリツイートを帯びていたとしても、先輩が吸っている煙草の銘柄ひとつを覚えることにさえ値しない。
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口が腐った人々
のところ、コロナ騒ぎもあって、人々は「めちゃくちゃ」を言い合っている。
おれはこの数年間、なぜ人々がこうも、「めちゃくちゃ」を言って躊躇がないのか、不思議でならなかった/人が「めちゃくちゃ」を言うようになったということを、おれはこのコロナ騒ぎで確信した。
何の根拠も立場も責任感もなく、ただ本人が衝動のままに、「日本は壊滅する」だの、「ただの風邪でしかない」だの、本当にめちゃくちゃを言うのだ/元来人々には、己の口で「めちゃくちゃ」は言わないという制御が掛かっていたように思うが、いつのまにかその制御はなくなり、人はもうめちゃくちゃを言うようになったのだ。
なぜその制御がなくなり、「めちゃくちゃ」を言い出すようになり、もうそれが止まらなくなったのか、おれは数年来ふしぎでならなかったのだが、このコロナ騒ぎで確信した、「口が腐った」のだ、口が腐ったので、腐敗というものは自分で止められるものではなく、もう自動的に口がめちゃくちゃを言うようになってしまったのだ、これはいっそ割り切って、口の腐った人々のことはもう「妖怪・口腐り」とでも捉えておいたほうがよいかもしれない、もう本当に当人らもそれを止められないのだ。

以前から、たとえば「腐女子」というのがあって、なぜ「腐る」という表現をあてるのか、面白いなあと思っていた/腐るというのはおそらく、身体の一部・臓腑のどこかが腐るということで、それが糜爛して戻らないということ、進行し続けるということを指すのだろう、そしてそこからおびただしいものが漏れるというのは、腐敗ということの性質上しょうがないのだ。
口が腐った人々は、本当にもうめちゃくちゃを言い続ける、しかもそれが腐女子の場合と同じように、腐れば腐るほど当人は「調子がいい」と感じるのだ、アガるというかノるというか/そしてそのアガる感じは当人にとってとてもハイなので、当人はそれをやめることができない、無理に止めたとしても強烈に離脱症状で落ち込むし、そのストレスには耐えられないから再び「腐」をやり始めるしかないのだ。
他人から見れば、「その、何の責任も負わずめちゃくちゃ言うのやめたら」と思うのだが、この一見すると冗談のようなものが、意外に強烈に根深くて、当人はもうやめられないのだ、当人がやめるというよりすでに器官としての腐敗が始まっているので、もう当人の意志ではない状態だ/すでに現在でも成り立っているある種の状況があるが、この先はますますそれが決定的になっていくだろう、つまりこの先、「人が互いに話すことにまったく意味も価値もない世の中」が待ち受けている。
すでに賢明な人から順に、ツイッターやらYouTubeやらまとめサイトやら、かつては賑やかに見えたウェブツールに愛想をつかして離れていっているだろう、テレビにしてもすでに似たような状況が侵食している、「口の腐った人々がめちゃくちゃを言うだけ」「しかもそれがやめられないだけ」なので、聞いていても本当に意味がないのだと、思うというより事実に直面するときが来たのだ、これから先はしばらく「口の腐った人々」の "絶好調" を目撃することになるが、いいかげんその価値のなさに万人が気づくだろうし、そうして見捨てられた状況でなお、「めちゃくちゃを言う」ということは絶好調で加速していくだろう、それは口が腐るという現象であって人の営為の現象ではないのだ。

口の腐った人々は、ずっと何かを言い続けるが、「話を聞いてもらえる」ということは生涯に一度もない。

これは一種の「症状」なのであって、誰もそうとは気づかないから、放置されてそのまま進行してしまったような状態だ、口が腐った人はもう自分で「やめてくれ」と懇願しても、自分の口がめちゃくちゃを言うことを止められないのだ、口の腐敗は人為でなはく進行しているからだ/何をどうしたらいいかという話は、もっとはるか以前に考えられるべきことだったので、今さらになって何をどうしようということもできないだろう、ただ「口が腐る」ということが本当にあるのだと、まざまざ正視するしかない。
この先ずっと、自分が話を聞いてもらえることは一度もないのだと、先にわかっていながら、それでも自分の口がめちゃくちゃを言い続けるというのは、なかなかシャレにならずキツいことだ、自分の口があれこれ言い続ける以上、自分の話を聞いてもらいたいという希求は止まることがない、が、本当にその話を聞いてもらえることは生涯に一度もないだろう、コミュニケートを中心にした人生の大半が空回りのストレスに費やされるのみということになるが、しょうがない、将来的には冗談でなく、そうして口の腐った人々に対して表面上の話し相手になるAIが作られるのではないだろうか/これは馬鹿にして言っているのではなく本当にそれぐらいの装置がないと辛すぎて耐えられないだろうと予測しているのだ、自分の話が決して誰にも聞いてもらえないというのはすさまじい苦痛だ。
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久しぶりに自己利益に戻るフェーズ2
ぜこんな話をしているかというと、逆に自分を戒めるためだ。
自分自身で、指摘してそのように書かないと、コロナ情報だの何だのをクソほど調べて整理し、それを魂を支えきるようなシロモノに書き上げて……というようなことが、いつのまにか自分のアタリマエになってしまうからだ、だが冷静に考えればおれはそうして何でもかんでもをやらなくてはならないわけではない、課題が出されるたびに勝手に引き受ける自分のクセをどこかで抑えねばならないのだ。
ふと気づくとおれは、何か利益を追求する回路が壊れているのか、文学や芸術をやりだしたと思ったら、やれ温泉地の情報を事細かに教えたり、オーディオインターフェースのことを教えたり、昆布だしの取り方を教えたり、一眼レフの被写界深度を教えたり、自動車のハンドル操作のコツを教えたり、安政の大獄の発端を教えたり、動画の形式変換を教えたり、国富論と社会契約論を教えたり、サルトルと実存主義の破綻を教えたり、次亜塩素酸ナトリウムがなぜアルカリ性になるかを教えたりしている、こうして何でもかんでも「おれが伝えないと」と自動的に発想する仕組みに歯止めをかけなくてはいけないのだ、もうこれ以上「エンベロープウイルスのACE-2受容体に……」みたいな話をしたくない/なぜおれは森羅万象についてことごとく答えねばならないと思い込んでいるのだろう、そしてまたそれを見透かしたように、なんぞあればおれの周りは全員おれに「これって……」と訊いてくるのだ、そういう際限のないサイクルが出来上がってしまっている。
これに加えてワークショップでは、やれ人体の構造、関節とその呪縛、合気やら柔術やら歌やら踊りやら演劇やら漫才やらラジオトークまで教えていたのだ、今考えるとコイツ馬鹿なんじゃねーのと思う、そしてなぜおれがそんなにクソほど何もかもを教えていたかというと、おれしか伝えるコミュニケーション能力を持っていなかったからだ、ヨソにそういったことをまともに担当する奴がいないのでぜんぶおれがやっている/そしてけっきょく、九折さんの話が一番わかりやすいし、九折さんの話だけスゲーわかるからということで、何もかもを「九折さんに訊けばいいだろう」というパターンが出来上がってしまったのだ、まあそれはしょうがないのだが、こうしてたまに自分で否定的に言わないと、抑制機構がなくてガチで身体を壊すのだ、おれの神通力は無限かもしれないが神通力を引き受ける肉体のほうは無限ではないので、いくらなんでも限界がある、ということで自己利益に戻るフェーズかいくらか必要なのだった。

世の中には「教え魔」みたいな人がいるのだから、そういう人がわかりやすく教えればいいのに、どうもそうした教え魔の人も、大半は「自分の口調」でしかそれをやらない、そしてその自分の口調というのは偏執的な気質から発生しているものなので、他人が聞いても何のこっちゃさっぱりわからない、ガンバって理解すれば理解は不可能ではないが、話を聞いて知る・わかるという "快感" がないのだ、おれの場合はそこが違い、おれの話は聞いているだけで知る・わかるという快感があるので、まあどうせ聞くなら九折さんから聞きたいという当然の要望が起こるのだった、その要望じたいは悪いものではなくて、その要望に応えられるユニットが少なすぎるのが悪い。
ありとあらゆるシーンにおいて、おれがいればありとあらゆるものが楽しくハッピーに光り輝き、すべて意味のあるものになって世界バンザーイとなるのだが、そのことに向けておれはいつも――この「いつも」というのがヤバイ――人知の及ばないピークに到達して振る舞うということを続けてしまっている、実際おれが書いたエントリーシートは100%審査に通るとかいうのはヤバくない? しかも他人のエントリーシートを書くので、しゃーなしにおれがそいつの魂を読み取っておれがエントリーシートに書くのだ、そうしてけっきょく魂のピークや奇跡が出なければすべてのことは面白くないわけだが、さすがのおれも打率10割を決め込んでいては肉体的に限界が来る/こんな祈りそのものみたいな暮らしをしていたら死後は天国や浄土に行くかもしれないが、だからといってサクッと死んでいいとはおれ自身は望んでいないのだ、今ある自分の周囲のすべてのものを放ったらかしていきなり死ぬとかいうのはとてもじゃないが甘受できない。
叫びっぱなしの毎日で、とはいえさすがにどんなミュージシャンも毎日ライブで叫び続けているわけではないだろう、ふつう収録とツアーのときに叫ぶもので、朝起きたときから「ほれ叫べ」とは言われないはずだ/おれはチンタラ日帰りで温泉旅行にいくときが叫びの休憩だったのだが、それを自粛させられるともう二十四時間ずっと「ほれ叫べ」ということの中に閉じ込められてしまう、ベトナム戦争の映像を見ながらマニアックなカスクスコッチを飲んでたまに模造刀を振りながらラインで送られてきたワークショップ員からの課題作文の講評作業をしてボブディランの歌を唄うとかいうのは冷静にみるとイカレてしまっているのだ。
だから今、自粛といえばおれ自身が自粛しないといけない、外出の自粛じゃなく万事に叫び切ろうとするこのむちゃくちゃを自粛しなくてはならない、なぜおれはこの期におよんで自分の状態をなおもどこか「足りない」と感じているのだろう、そりゃ足りないといえば人はいつまでたっても足りるものではないので、いいかげんにしなくてはいけない、フルスロットルの目盛りがないところまでスロットルを振り切ったとしても、人なんてしょせん「足りない」のだ、というわけで自己利益のほうへ戻らなくはならない、この調整ツマミを片側へ振り切ったまま、ずっとやっているとそりゃいつかブッ壊れるのだった。

努力しないと、おれには「引き受けない」という能力がない。

なんでもかんでも、おれは「自動的に引き受ける」というデタラメなアビリティがついてしまっていて、そのことがおれをここまで奇跡のように持ち上げてきたのだとは思うが、そのまま突っ走って頓死するものじゃねえ、世の中にマスクが足りず、医療施設に物資は足りておらず、人々にはいま致命的に魂が足りていないと思うが、たぶんおれが死ぬまで突っ走ってもその魂がここしばらくで「足りる」ということはないだろうよ/おれを否定する勢力はおれの一億倍いるのに、そんなもんおれ単独で躍起になったところで足りるわけがないのだ、精一杯やっても足りないものは足りない、医療従事者の方だって足りないベッドの上に患者を寝かせることはできない。
というわけで、このようにおれはそうとう気合を入れないと、自己利益という発想を見失うのだった、長いことビョーキのように「ほれ叫べ」という発想だけが起こるように脳みその回路が習慣づいてしまっている、とにかくこれの程度を下げなくてはならない、あげくにおれを否定する勢力が増えれば増えるほど高精度で叫ぶという習慣までついてしまっている/デスクの前で五時間ぐらいグラングランしてようやく「無理!! 魂が尽きている!!」とあきらめて床に就くというようなアホなやり方はしばらく引き取らねばならないのだった。
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久しぶりに自己利益に戻るフェーズ(と、あとは悪口)
年に一度、この時期がやってくるようなのだが、「自己利益」を選ばねばならない、もう何度もこのことを繰り返してきている。
おれはいつも傲慢なのだが、傲慢とはいえ常に人が盛り上がってよろこぶことに加担しているので、このことを続けていると、定期的に身体にトラブルが起こるのだ、といって何か故障が起こっているわけではないのだが、感覚的に「このままではダメです」というというのはわかるのだ、このフェーズに来たら一回「自己利益」のほうへ戻らないといけない。
この世界を盛り上げるのはおれしかいないかな、ということはわかるし(傲慢)、いつだって人の憂さや迷いを吹き飛ばしてやりたいのだけれど、そのことをずっと続けていると、肉体に単純ダメージが溜まるらしい、ましてここ数か月で起こったコロナ騒動は、まったくおれに余計な仕事を増やした、そのせいで久しぶりに自己利益に戻るフェーズがやってきてしまった。
といって、表面上はそんなに変わらないと思うし、自己利益に戻るといってもしょせん二か月か三か月ぐらいのことだが、まあおれから提供しているボーナスタイムの量と品質は、それなりに低下する見込みだ、第一なぜかおれは自己利益を追求しないものと決められているみたいになっているが、何の根拠もなくそう決めつけるものでもなかろう、おれの魂は無限だからいくら消費してくれても大丈夫だが、肉体はごく一般的なアタリマエのものなので無限の消費に耐えられるようにはできていないのだ、そりゃまあアタリマエか。

第一、たまには考えてみればいいと思うのだが、なぜおれが頭がいいからといって、やれコロナ騒ぎとなると適切なデータとニュースの集計をして、人々が勇気づけられる発信をしなくてはならないのか、よくよく考えたら意味がわからんのだった、おれは社会的にはゴミ扱いなのに社会的な役割を上等にやらされるというのは矛盾している。
コロナ関連の情報なんてどこかの保健の先生が統合・整理して発信すればいいのであって、おれみたいなセクハラ大王がそんな役割をやらされるようでは世も末だ、そんなもん関連する研究室に所属する大学院生が結党してデイリー防疫チャンネルでも作ればよいはずだ/そんなもん、逆に考えたら、毎日ずーっと疫学をやっている奴が、急にデイリーで恋あいと文学と芸術と神についての確たる発信をしろという話で、無理があるに決まっている、さすがのおれとしても「コロナ状況」と「芸術」をゴリゴリに往復するのはすさまじい無理があるのだ、日経新聞の記者に緊急の記事を書きながら交響曲を作曲しろと言いつけているような無理がある。
といって、愚痴を言っているようだが、本当はわかっているのだ、今それっぽい知識を専門的に持っている人でも、情報発信をするのにメインが「ボクの承認欲求を "いいね" してね!」というテーマが前面に出てきているので、誰もが「アテにならない」と感じているのだ/日本には今、自覚的に賢いはずの人が一億人いるが、この一億人がこぞってコミュニケーション能力をからっけつに欠損させているので、もうおれが情報を取りまとめて話すしかないのだ、実際多くの人から「九折さんのまとめてくださる冷静な情報だけが心の支えです」「それのおかげでなんとか精神の安定を保っています」と連絡が来ている。
今、自覚的には賢いはずの一億人が、なぜか事実上はとってもアホな可能性が大であり、承認欲求が破裂寸前なので、濫造された〇〇チャンネルのすべては「目立つ情報」しか言わないのだ、だって自分が目立つことしか第一の動機にないのだからしょうがない/そんなことは学者や教授やドクターにさえありうることで、むしろ理系の研究室にいたことがある人のほうが、いかに教授連中が承認欲求とマウントの世界で瘴気を放っているかをよくよく知っているはずだ、だからまともな情報がひとつも入ってこない、そこで唯一、承認欲求やらマウントやらとは無縁の、かつコミュニケーション能力を持っているおれが、まったくお門違いの情報の整理と発信をしなくてはならないのだった、自分が承認されたい人って他人がどう聞いているかなんてまったく考えていないからなぁ、現場で格闘している人の中には偉大な人がたくさんいらっしゃると思うが、マスゴミと呼ばれるマスコミ以上に、発信したがる個人もダメだぜ。

情報発信は続けてやるが、しばらくボーナス量は低下するぞ(自己利益に戻らんと死ぬっつーの)。

あっちこっちで、「コロナは長期化します」とか、テキトーな情報をばらまいているアホがいるだろう、もちろんしかるべき立場があって公的にそれを述べる人はいいのだが/必要なのは、感染力が致死性が長期化がどうとか、そんなチンパンジーでもわかるような予測ではなくて、「お前らもちろん、少々長引いてもやっていけるよなあ?」と、魂を支えきれる情報なのだ、「コロナは長期化する」と言っているだけのアホは「人間はやがて死にます」と得意満面で言いふらしているだけのアホと同質だ、今は悲惨なこととマスクと消毒の話をしていれば目立つので、承認欲求チンパンジーが悲惨で目立つことだけを言いふらしている、めいわくな話だ……おれはすさまじい悪口を言っているように聞こえるかもしれないが、「コロナで悲惨になります」なんてクソ発言は一切していない、どちらの側の口元をセメントで埋めてやる必要があるか? なぜ友人と尊敬を得ていない者がこぞって「発信」なんてしているのか。
ツイッター等、SNSが発達してから、人々のあいだに何が起こったか、それはいうなれば、「追い詰められてパニックになった人ほど情報発信して自己救済にあてがう」という精神失調行動が定番になったということだ、そのことの加速の中で、失調していないおれにどれだけしわ寄せがきているものか/そのことに慣れてしまったおれにも問題があるが、とにかくそろそろ自己利益に戻らないと身体のほうが壊れるので、やむをえずボーナスのていどは下がります、本来この世界のあらゆるツールは、サービスに使うためのものであり、自己利益に使うためのものじゃないぞ、両親にそう教わらなかったのか。
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女性主権とストレスの関係6/根源的なヒーローへの嫉妬

れでようやく決定的な話ができる。
当たり前だが、女性の 99.99 %以上は、おれのことをヒーローとは認めないだろう。
男でも同じで、やはり男の 99.99 %以上は、おれのことをヒーローとは認めないだろう。
もう面倒なので、さっさと本当に必要な情報だけを話すと、おれの前でとたんに「大丈夫な奴」になった人は、単におれのことをヒーローと認めたのだ/別におれに限らず、誰かヒーローを認められた人だけが「大丈夫」になるのだ。

現代の、女性主権派の人々は、すさまじいストレスの中を生き続け、毎日調子が悪く、イライラする上に、方針のすべてが翌日には雲散霧消するという果てしない苦しみの中を生きねばならないのだが、それはつまり、ヒーローを否認しているからなのだ。
この単純な尺度をもとに、おれはこれまでのすべての経験に整合を得ることができる、つまりどうしてもおれのことを一ミリもヒーローだとは認められない人が当然いて、そういう人はどうしてもストレスで神経をギャーと破綻させ、ずばりいえば転落していくのだ/けっきょく何も構築できず、その先はもう振り返ればただのストレスの貯蓄でしかない日々を生きることになる。
そうして考えると、おれは実に単純だった、おれが生きてくる中には色んなヒーローがいたのだ、それは特撮の中に出てくるものではなく、先輩であったり先生であったり、友人であったり私淑する誰かであったり、何かの登場人物であったりした。
色んなごまかしが利いているようでいて、根っこの仕組みはシンプルだ、つまり、自分以外の誰かがヒーローであるということの嫉妬に耐えられない人がいる! この人が内心でヒーローの格下げをしていて、自分の心理・嫉妬心との釣り合いを取っているのだ/この人々のことは、平等善意のパリサイ派と呼んでも差し支えないだろう、平等善意のパリサイ派は、けっきょくは何がなんでもヒーローを否定して人々を「平等」に引き戻したがる。

ヒーローのない人は「趣味」をやっている。

よし、この文言だけで、現代の多くのことを説明できるだろう/昭和の資料や白黒映像に残っている人々には「趣味」をやっている気配がまったくないのは、あれはヒーローを否定していなかったからなのだ、現代ではそれがすっかり逆転している、すべてのチャンネルは YouTube も含めて「趣味」をやっている。
いつからか「歌ってみた」というようなジャンルが隆盛し、そこからプロが輩出されるのも当たり前になったが、旧来との性質の違いは、そこにヒーローはいないということ、ヒーローは否定されているということだ、すべて「趣味」で成り立っている/そして「趣味」というのは、よほど偏執的でないかぎりは、やはり「どうでもいいもの」なのだろう、だから女性主権に革命されてから以降、あまりにもすべてのものが「どうでもいいもの」として過ぎさるようになった、その代わり根源的なヒーローへの嫉妬に打ちのめされることはなくなったのだ。

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