☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「わたしの生きた時間」が得られるわけではない
「あなたがいてくれることが、わたしの人生の幸福なの」と、言ってもらえることがない。
「お前がいてくれることが、おれの生きる動機だよ」と、言ってもらえることがない。
クソほど繰り返して観てしまう映画がなく、クソほど繰り返してしまう思い出話の共有がない。
仕事であろうがなかろうが、「気づいたら朝だった」と没頭できるワークがない、「気づいたら朝だった」と語り合える話と仲間がない、食らいついて土下座してでも学びたいテーマがない、どれだけ飲んでも「こんなことになってやるぞ」という歓喜のヴィジョンが湧いてこない。

LGBTにせよ受動喫煙にせよMetooにせよ、今ある流行のすべては、「これまで見えていなかった迷惑と被害にズームインした」にすぎない。
被害を軽視していいわけではないが、いくら被害を圧縮したところで、「わたしの生きた時間」が得られるわけではない。
ホワイト企業に入り、筋トレで身体を鍛え、ボルダリングで汗を流し、瞑想で心身の安定を得たとしても、それらの快適さと充実が、「わたしの生きた時間」になるわけではない。
これまですべて、「目に見える充実にズームインし、見えていなかった被害にもズームインする」ということへ進んできたのたが、ズームインは同時に視野狭窄の手法でもある、拡大されたぶん周辺の情報は外へ追い出されていくわけだから/そして今さら、ズームアウトをして全景を見渡すのはいやなのだ、ズームインされた視野角の中は完璧なのに、ズームアウトされると全体がガタガタだということがバレるからだ。

「充実最大、被害ゼロ」、この理想的で好ましい男を、あなたは決して愛さない。

あなたの愛する男は、むしろ「何をやってきたかわからないが、没頭してきた、さまざまな被害者だったかもしれないが、でもおれの生きた時間だったから」という男だ、こういう男がもし「そうしたすべてが、お前とこうして出会うためだったのだとしたら、たぶんおれは肯定できるどころか、おれの人生はサイコーなのだと思う」と言ってくれたら、あなたも「わたしの生きた時間」を得られるだろう。
「わたしの生きた時間」を得るのは、そんなに簡単なことではない/問題点と解決策を欲しがるのは、気持ちが前向きだからではなくて、問題点と解決策にズームインして全景を観るのを避けようとしているだけだ。
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本当の問題は、致命的なほど「さびしい」ということ

動喫煙を減らして、LGBTへの差別をなくしても、われわれの未来が明るくなるわけではもちろんない。
男性のセクハラが減れば、被害者は当然減るわけだが、そのことが、女性に愛する男との出会いときずなを増やすわけではまったくない。
今、若い人の大半は、仕事は「ほどほど」で、余暇が大事、という考え方らしいが、そうして仕事に夢がないというのは、夢があることよりは不幸なことだと思う。
本当の問題は、きっと本当の友人や本当の恋人が得られないことだし、本当に朝まで語り合うことがないとか、本当に感動した映画や歌や音楽がないということだと思うが、この本当の問題はきっとヘヴィすぎ、もう誰も手が付けられないものになってしまった。

人間はそんなに甘くない。
本当の友人や本当の恋人、あるいは本当の青春といったものが与えられずに生きると、どれだけ受動喫煙が少なかったとしても、その人は必ず世の中を怨み、世の中を呪う。
夢のない仕事を、「ほどほど」にこなしたとして、余暇……といってもけっきょく、何にも没頭できなかった人は、「生まれてこなきゃよかった」と必ずこの世を憎悪する。
本当の問題は、致命的なほど「さびしい」ということだが、もうヘヴィすぎて手が付けられなくなってしまった/もし来世があるのだとしたら、わざわざこれからの日本に生まれてきたいとは望みがたい。

東京オリンピックに向けて、都内の喫煙エリアを減らしているが、もう東京オリンピックに雄叫びをあげる人がいない。

何もかも「ほどほど」で、もう何にも燃えられなくなったわけだが、それはきっと何かが間違っていたのだと思う、だけど「自分が間違っていた」と考える人は一人も出てこない。
1998年に、長野オリンピックがあったのだが、当時僕の友人はその観戦がどうしてもしたかったらしく、彼はそれだけの理由で長野の大学に入学した、全体的に笑ったが、「まあわかるわ」という向きもあった、また同時期の友人が、洋楽のライブに初めて行ったらしく、「三日経ったが、まったく身体から熱が抜けない」とのたうちまわっていた、どちらもそんなに熱い奴ではなかったのだが/彼らからタバコを取り上げてLGBTとポリコレの研修を受けさせても幸福には何も寄与しない、かといって本当の問題はヘヴィすぎて手が付けられなくて……今、致命的な「さびしさ」から目をそらすのは、それ自体が健康増進としてやむを得ないところもあるのかもしれなかった、それは本当に「致命的」だからだ。

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痴漢したい男3
「どうしていつも、こんなにやさしくしてくださるの?」と言ってくれる女性は、現代にも存在する。
別にいいだろ、僕自身はクソでも、そう言ってくれる女はうつくしいものだ、たぶん女神さまか何かの転生なんじゃないかと思う(シャレじゃなく、目を疑うほどキレイな人ですし……)。
一方、「いつもよくしてくださって、ありがとうございます!!」というタイプの女性もいるのだが、こちらは残念ながらハズレだ、あしざまに言うのは僕自身つらいのだが、前向きにいくためにはこう進めるしかない。
理由はクリアだ、「いつもよくしてくださって」のほうは、「女の側」の感謝のこころが主題になっている、一方で「どうしてこんなにやさしくしてくださるの?」というほうは、「男の側」のこころが主題になっている、この「自分以外の誰かのこころを主題にする」ということは、現代人には不可能なのだ、機能がないので、どう逆立ちしたってその女神さまのような声と言葉は出てこないのだった(無念だがしゃーない)。

僕がその女神さまの従姉妹に「痴漢した〜い」と言えば、「わたしなんかでよろしいんですの?」と、彼女は心配する/マジなのだ! これが空想でも妄想でもないし、しかの彼女の演技でもないってんだからおれだっていつもびっくりするのだ。
一方で、その女神さまエリア(つまり「思いやり」を持つ領域)にいるわけではない女性は、僕が「痴漢した〜い」と言えば、「うん、わたしは別にいいよ〜」と了承してくれるだろう。
つまり、前者は第一に「Are you OK?」がフォーカスされているのに対し、後者は第一に「I'm OK.」がフォーカスされている/「どうしていつも、こんなにやさしくしてくださるの?」は、" Why are you always unbelievably tender for me? " になるし、「いつもよくしてくださってありがとうございます」は、" I always do appreciate your much kindness! "になる、英語力についてはとやかく言わんよーに、とにかく第一に「あなた視点」にフォーカスがいく女性は、単純にいって格が違うのだ、これは具有している機能のレベルの問題なので、マネしてどうこうできるたぐいではない。
話が飛ぶようだけど、前者はこの世界に「ナゾ」を見ながら生きている一方、後者はこの世界に何のナゾもないのだ、前者の女神さまは「どうしてわたしなんかに痴漢などしたがりますの?」と、男の側のこころに「ナゾ」を見ているのに対し、後者は「わたしは別にかまわないっていうか〜」と、自分の側のこころを見ているだけなのでナゾがないのだ/そしてナゾのない側は、ナゾがないので本質的に「毎日することがない」のだ。

「痴漢したい男がまともだ」という話を、女神さまは「ナゾを解く手がかり」として聴く、そうでない人は「議論の題材」として聴く。

今、世界中のオンラインとオフラインで、「激論!」が交わされているが、なぜそうして議論がファイヤーするかというと、「聴く」という必要がないからだ、世界に何のナゾもない人が何かの話を聴かねばならない理由は根本的にない、ナゾがないから「聴く」という機能は死滅し、結果的に「発言する」という機能だけが残ったという状態だ、しかも本質的に「毎日することがない」のだから、いくらでも議論に飛びついてファイヤーするに決まっている。
記事のタイトルからずれてしまったがしょうがない、僕はいつでも「痴漢したい男」に還りたいが、そこで「わたしもされた〜い」と女性が言うなら、僕としてはまっぴらごめんで退却することになる、どうしていつもそうやって自分の話にサッと取り替えるのかと、痴漢に説教されてちゃ世話無いぜ。
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痴漢したい男2

はもともと「痴漢したい男」だ。
ただ、そのことの評判が悪くなってきたので、その「痴漢したい」を滅却した。
そこで「あきらめる」のではなくて、まさかのまさか、上位のスケベ心に到達してやろうぞ〜と発想するのが、僕の悪質なところではある。
痴漢衝動はないのに、性的な力だけ帯びている男が目の前に立つと(あるいはその男の手に触れられると)、女性はシャレではすまない恐慌状態に陥ることがある、経験者に言わせると、何かとんでもない深さの「罪」が我が身に襲いかかってくるそうな/そんなこと言われましても、と笑って済ませたいのだが、実際に起こるその恐慌を見ると、うーん笑って済ませられる次元のことではないようなのだこれは。

男が、「男なんだから痴漢したいに決まっているだろ!」と、正論を主張するのはハズレだ、正論を力説しているという時点でハズレである、これは魂がアカンほうへ落下していく。
女が、「男の人なんだから、そりゃ痴漢はしたいに決まっているわよ」と、同情論を唱えるのはアタリだ、これは魂が救済のほうへ上昇していく。
女がもし、「男の人は、いつもこらえてくださっているのよね」という視点にまで上昇できれば、たぶんそれが最高位だ、この女こそ、男から見て「護(まも)らないと」と見える/ただしすでに発狂済みの男は除く。
うーん、しかし正直なところ、今女性は、自分が襲われることに関心はあるとしても、男性が女性を襲ってしまったり、それをなんとかこらえようとしたりすることには(つまり「男性側」には)、たぶん関心が一ミリもないだろう、つまり「思いやり」が根こそぎゼロなので、これはさしあたり机上の空論なのだった/思いやりの機能が失われている以上、今さらキモチひとつで思いやり派に転向することは不可能だ、まあいかにも現代的ではある。

仮に男が女を大切にしても、「どうしてこんなに大切にしてくださるの?」とは現代の女は言わない。

話が逸れてしまうけれども、つまりはやはり、もう機能的に自分のキモチしかわからないのであって、「他の誰かが何かをしている」ということの全般がわからないのだ、仮にすべての男が自国の女を護るために戦地に出立して戦死したとしても、現代の女はたぶん「よくわからない、とりあえずわたし楽しくすごしてます!!」というぐらいにしか感じないのだ(これは機能的にしゃあないのである)。
つまり、痴漢男に対しては無限の弾劾が湧くが、僕が「バージンはもっとまともな男とヤッてこいw」と女を追い返したりしたことについては、一ミリも評価されないのだ、それもしゃあない/痴漢男が美少女のバージンを目の前にしていながら、それを放棄するのにどれだけの心胆が要るか……そういうことは本当にわかってもらえないのだろう(とほほ)、僕はそのことについて不満や不服は一ミリもないのだが、ただ後になって「とんでもない深さの罪が我が身に襲いかかってくる」というシーンを目撃して、僕自身が鼻白んでいるのだった、「これでは解決しないのか」と、まったくブルーな話だ。

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痴漢したい男

は今、電車の中で、夏服の女子高生たちにギューと包まれたとしても、痴漢したいとは思わないだろう。
これは、僕がまともな男だから、ではない、僕がまともな男ではないからだ。
もしここを誤解したままだと、永遠に春の日はやってこないだろう、まともな男は女子高生に「痴漢したい」からまともなのだ、ただ実際には、女の子を目の前にすると、「そんなことしたらこのコがかわいそうだし」ということで引き留まる、だからこそまともな男だ。
そこでむしろ僕などは、近年の女性たちのリクエスト、「男として性機能を最大化して、でも性衝動はもたないでよ」という希望に応えて、それをまさか実現してしまったというたぐいだ、どうやらそれはえげつないことだったらしく、その結果、「こんな奴についてこられるのか?」という問いかけの実物だけが残ってしまった、どう見てもこんなケースを「まとも」とは言わない。

ひとつ冷静に問いたくなるのだが、「女子高生に痴漢はしたくない男が、自分の恋人にだけは熱烈にセックスする」なんてことが、本当にありえると思うのか、そんな男が欲しければそれはもうそういうロボットを購入するしかないのであって、生身の男が「ロボットと違う〜」ということで責められていたら、もう話がお花畑に転移していて意味不明だ。
僕は、学校の教師であろうが政治家であろうが、男ならキャピキャピの女子高生には痴漢したくなるのが当たり前だと思うし、痴漢したくならないなら、それはよほど頭がオカシイか、さもなくば根こそぎのうそつきなのだと思う、そんな狂人やうそつきの話を聴いてやる値打ちは一ミリもない。
女子高生に痴漢したくない奴は頭がオカシイし、かといって、それを実際にやってしまう奴はただのアホだ、なぜなら「被害者」が出るからだ、正確には痴漢衝動が悪いのではなく「被害者」を生み出すのが悪い/だって仮に電柱に痴漢したくなるドヘンタイがいたとして、電柱に痴漢するぶんには被害者が出ないのだからかまわないじゃないか、この「被害者が出てしまう」ということで人は冷静になるのであって、痴漢衝動そのものを滅却できると思っていたら男女とも両方救いがたいアホだ。
また、男のほうもアホなもので、痴漢衝動でグヘヘヘとなる奴、それは「当たり前」であって何も自負心になるようなことではないので取り下げようか、痴漢衝動にグヘヘヘとなっていたものが、その瞬間「飲みに行こうぜ」と誘われたら「おっ! 行こうぜ」となってしまって全部忘れてしまうのが男のよさだろ?/痴漢衝動のグヘヘヘは、あるのが「当たり前」であって、「それ以外のものがない」という場合が異常なだけだ、そんなものは何の自慢にもならないので引っ込めておこう、最も貧しい生き方をしてきたら男は誰だってそうなるんだからわざわざ自分でアピールするものじゃない。

痴漢衝動がない男は狂気、痴漢行為がない男は正気。

現状、いろいろややこしくなっているのはわかるが、男に「痴漢衝動の自己破壊」を要求するこんにちの状況は、女性たちが「絶対にイヤ」というタイプの男どもを生み出していくだけだぞ、だって頭のオカシイ男を大量生産しているだけなのだから/実際、女の目から、「何か不穏で、話が通じなさそうでこわい」と感じる男の人が増えただろう? そりゃあなた、自分でキンタマを破壊した男が目の前にいたら「こわい」に決まっているよ。
このシッチャカメッチャカな状況を突破するのに、確かに「性的な神霊力のみを看取して交流させる(草)」というのは一つの方法だったのだが、そんなことできてたまるかという話だし、この方法は「できる」と言い張って実際には出来なかったら当事者が地獄に落ちるやつなんだぜ、しかも逃げ回っても何か罰を食らう感じになるし、こんなもん普通の痴漢よりタチが悪いんじゃないのか/あなたの周囲を「痴漢衝動のない男」が100人取り巻いたら、それはあなたにとって安全で安心で安息の状況なのだろうか、ウーンそんなことはなくてまったく逆だと僕は思うし、もしあなたの理想像の男性があなたの目の前に迫ってきたら、あなたはなぜか自殺に追い込まれるリスクがあると僕は思うぜ。

視点変えてこ | comments(0) |
感動を失った人間はどこへ行くか2

んな奴の言い分をまともに聞く必要はない、とわれながら思っている/いや冗談でも謙遜でもなく、おれはひたすら横着をして生きているのだ、自分のことはアンドロメダ星雲の棚に上げるのが基本だ。
ただ、「感動」がないのはキツいなと思って……何しろそれは、愛を告白しようがされようが、部活動を最後までやり抜こうが命を賭した仕事を成し遂げようが、あるいは世界中のあらゆる景色と神殿を見たとしても、何も「感動」がないということなのだから、それはキツいに決まっている。
何も「感動」がないのに、生きていくのには超絶努力をしないといけないし、月曜日は容赦なく来る、さらに一所懸命じゃないと人に非難されるし、自分で自分を責めもするのだ、それではまるで罰ゲームのような百年間を生きなくてはならなくなる。
一方、僕のようなテキトー横着人間は、これまで無数のものに感動し、感動しまくって、気づけばワーと進んできて、振り返ればいつの間にかすべてに思い出が山積している/僕は自分の思い出を語りきることはここまでで「絶対に不可能」という確信があるが、この感動と思い出を全部ナシにして七倍努力しろと言われると、さすがにそれは非道がすぎるのだった。

十代の僕は「天空の城ラピュタ」で形成されたし、二十代の僕は映画「タイタニック」で形成された、三十代は「新しい人よ眼ざめよ」で……その他いろいろ形成の要素はあるが、ざっと書き出したとしてもとんでもない量になるので、もうやらない、この試みはこれまで何度も為されてきたが、毎回「無理!!」と頓挫しているのだ、ゴミ屋敷の主がAmazonの倉庫を管理したというようなどうしようもない物量がある。
その中で、無数の女の子への「バンザーイ」があって、なぜホテルにまで連れ込んだ美少女に手を付けず、「おれになんか気を遣うな、愛している男のところへ行っちまえ」と、神風に吹かれたような祝福と送り出しができたのかというと、何かに「感動」していたからだ/僕は「感動」にクソほど励まされてきただけであって、自分の道徳心から私利私欲を捨てられたことは一度もない(私利私欲はサイコーだぜ!!)。
たとえば神戸の街でそういう思い出があったとき、僕は何を頑張ったとも思わないで、ただひたすら神戸という街の「おかげ」だと思っている、僕にとってはそれが感動的なことなので、「これ以上はない」と心底思うのだ、「これ以上はない」なら「サイコー」に決まっている、そしてサイコーの時だけ人は安らぐことができる/僕の無数の感動と無数の思い出はすべて何かの「おかげ」で得られており、僕自身で獲得したものなど何一つない。
今僕が女の子に「愛」なんて向けたら、女の子としては瞬間的にキモチワルイだろうし、場合によってはその時点で嘔吐か訴訟モノだと思う、それが間違っているとはやはり僕は一ミリも思わない、そして僕は自分の受ける軽蔑や嘲笑ごときで、感動のしもべである自分をやめることはないのだと思う、そんなことぐらいでやめるならもうとっくの昔に、八千年ぐらい前にやめていただろう、これは自慢話ではなく自分の近所迷惑ぶりにあらためてドン引きしているのだ、そりゃこんな奴は嫌悪されるのが当然だ(でもなぜか愛してくれる人もいるのだ)。

僕は感動する、あなたは感動しない、それで最後まで走り抜けよう。

生身として、そんなに何十年も生きるわけじゃないし、たぶん行けるでしょ……学生時代の部室にあった共用ノートには、「人は感動するために生きている」という、僕の手書きの一文が残っているはず、ああいうのは歴代保存されるものだから、ひょっとしたら今も部室にあるのかもしれないな。
丸の内で働いていたとき、僕のことが大キライだった同期の女の子が、唯一この点だけ、「感動、か。そういう視点で、これまで考えたことがなかったな」と、僕の話すことに立ち止まってくれたことがある、その後はなお嫌われたけどな/まあどれだけ劣勢になったとしても、僕はヒマなのでこの道を進んでゆく、たぶん一人だけになってもこの道で行くのではなかろうか、狂人および近所迷惑は重々自覚しておりますので、どうかご容赦のほどを……そして深く反省を、まったくしておりませんので、ざまあみろ〜。

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感動を失った人間はどこへ行くか

ょっとすると、女性にとって、男性に愛を向けられるのは、この上なくうれしいことなのかもしれない。
もちろん、「んなわけあるかw」というのが99.99%の大勢なので、男性陣は甘い夢を見ないように……お互い細々と暮らしていこうじゃないか。
ただ、ふと思い返せば、「あなたが初めて、わたしをちゃんと女として見てくれた、あなたがわたしを女性として扱ってくれた」ということで、女の子が僕の手にしがみついてぽろぽろ泣くのを、実際に僕は見てきたのでもある。
かつてがそうして、「女は男に愛されたい」という欺瞞の世界だったのか、それとも現在が、「女は男の愛なんか要らない」という欺瞞の世界なのか、わからないが、とりあえずわれわれは現在に生きているのであり、かつての時代を生きてはいないのだった。

現代、「男の愛」などというと、まっさきに「草」という感じしかしないし、半分方の人はとっさに、「男の愛? あ、BLのこと?」と連想するだろう、シャレではなくマジにだ/悪意があってそうなっているのではなく、文化的にそうなっている。
別に女が悪いと言っているのではなく、僕だってそう感じるということなのだ、僕が僕自身「男の愛」「おれの愛」とか言い出すと、何の屈託もなく「大草原不可避」としか感じない、ただ僕は厚かましく、その大草原を取り下げないという近所迷惑を続けているだけで……
実際、男の愛といっても、現代のわわれれは石原裕次郎のようではまったくないので、なんというか、「暴落」したのだ、貨幣が暴落すると、何の罪もないタンス貯金の人まで破産するだろう、この貨幣暴落の怨恨から復讐(revenge/リベンジ)の鬼としてナチス・ドイツが出現したという背景が第二次世界大戦にはある/かといってもちろん、ヒトラーの蛮行が肯定されるわけではない。
ただ僕は、今でも「?」と思うことがよくあって……ひょっとしたら今もってなお、女にとっては男に愛を向けられることが、この上なくうれしいことなのかもしれないということがあるのだ、ただし、<<いくらうれしくても拒絶はするし、軽蔑も嘲笑もする>>ので、状況は何も変わらないのだが、そのとき女性たちの身にはそれだけではない嵐が吹きすさんでいるのを看取する気がする/かといって、この先に男の身が受けるのは軽蔑と嘲笑のみということは変わらなくて、ただひとつだけ賢明に言いうることは、<<<変わらないものに目くじらを立てる必要はない>>ということなのだった。

かつて、女に男の愛が向けられることには、何か「感動」があった。

現代の女性も、イケメンに愛されることが(もしあればだが)、不必要とは言っていないし、うれしくないとも言っていない、ただ「感動」があるかというと、さすがにそれはないのだ、そこが決定的に違う/現代で男の愛が女に向けられても、何か「エロ青春マンガの実写版」のような感じがする、それはそれなりに愉快だしときめきもあるものだが、やはり「感動」ということはない(自分が有頂天になるのは感動とは言わない)。
現代で、「男の愛」というのはウソクセエというか、実際「ウソ」だろと断定せざるをえない場合がほとんどだし、それを受けて女が感動するというのも、「ウソ」だろと断定せざるをえない場合が多すぎる、実際、この僕のサイトやブログでさえかつては本当に「感動」してくれる人がいたのだが、今になってそれをなぞるふりをするのは、「ウソ」だろと言わざるをえない/そんなこんなで、われわれは本当にすることがないので、なんとなく「喫煙所を減らす」という何も本質的でないことに奮起して、平成の終わりに向かっているのだった(と、さりげなく悪口をブッこんで終わっておく。スッキリ)。

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降り注ぐ雨とずぶぬれになる女2

んなして、降り注ぐ雨の下で暮らしているのだ。
当たり前だ、降り注ぐ雨がなかったら、川が涸れて井戸も涸れて、作物が枯死し、われわれは餓死してしまう。
みんなして、降り注ぐ雨の下で暮らしており、それぞれ降り注いできたぶんを、自分も何か生産して、献上して返そうとしている。
みんなして、降り注ぐ恵みの下で暮らしていて、恵まれたぶんを、何かお返ししようとしている、「あなたがどうするか」の問題ではなくて、これは「われわれがどうするか」の問題だ/あなたが町中を掃除すればいいわけじゃない、町中の掃除は「誰かがやればいい」のだ、ここではあなたの献身は「不遜だ」と断じられねばならない、そんな勝手な献身は不遜だ。

あなたが基本的にマジメで、善良で、カミサマに何かを献上しろというのならいくらでもする、ということは、言われなくてもわかっている。
あなたがどこか内心で、救われたくて必死だというのはわかっている、だがそのままカミサマに縋ってもだめだ、「"みんなして"どこか内心で、救われたくて必死だ」というのがわからないままでは、あなたはカミサマを"個人的に"頼ることになってしまう、それはそもそもカミサマの御心に合わない。
僕は子供のころ、友人と、「おれは水泳選手になってオリンピックに出る」「じゃあおれは学者になってノーベル賞を獲る」と話したことがある、<<みんなしてこの世界に何かを献上しようとしている>>、われわれにとって赤の他人は無関係な存在に見えるが、それは「そいつが何をどうやっているかは知らない」というだけで、やっていることは同じだ、同じだからいちいち訊かなくていいだけだ、みんなして何かを献上して返報を尽くそうとしている。
今日も走って行く消防隊のサイレンが聞こえるだろう? 彼らは尽くしている、われわれもそのようでなければならない、広く雨が降り注いで作物が実る、それでわれわれも消防隊員も、似たようにじゃがいものフライを食っているわけだ、お互い赤の他人だが、やっていることは同じだ、降り注ぐ雨に何かをお返ししようとしている。

僕が書き話す真剣さは、美容師があなたの髪を整える真剣さと同一だ。

その真剣さは、一言で「サービス」と言っていい、それは個人的な真剣さではないのだ、ここのところを取り違えているから、あなたのマジメさは空転してしまう/自分だけの真剣さなんて持っている人はいないんだよ、誰だって「あいつらと同じさ」と赤の他人を同胞に持って、その真剣さを成り立たせている。
こう考えてみなよ、たとえば一人の消防隊員が、休日、教会のミサで礼拝をしていた、だが近くに消防車のサイレンが聞こえてくると、男はやにわに礼拝を蹴っ飛ばして立ち上がり、消防活動に駆けだしていった、刹那だけ神父さまに目配せをしてから……この男こそ、まさに神の「しもべ」ではないか?/神父と消防の男はアイコンタクトをする、神父さまは「よろしい」と言ってくれるだろう、神父は布教が命がけのサービス、消防隊員は消防が命がけのサービスだ、どちらも神のしもべたる礼拝の力を認めてよい、この神父のサービスと消防隊員のサービスは同じ一つの力が転じているにすぎないんだ。

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降り注ぐ雨とずぶぬれになる女

「すっごい雨だった、町中ずぶぬれだわ」という人がある。
「雨に降られちゃって、全身ずぶぬれー」という人もある。
雨が広く降り注いでいる、ということがわかっていない人がいる。
自分の身がずぶぬれになることしかわかっていない人がいる。

たとえば、マイケルジャクソンの歌とダンスが、観衆に、あるいは世界中の人たちに、降り注いでいく。
そのことが、感覚的にわからない人がいるのだ、ガマンシステムで生きてきた人はこうなる。
自分に「届いてきている」のだけはわかるので、この女は、自分とマイケルの「二人きりの世界」があると思い込む、妄想だがマジにそう確信するのだ。
経験上、これは100%そうなると断言できる、自分に届いてきているのだけがわかる、広く降り注いでいるということがわからない。

愛を向けられると「二人きりの世界」、叱られると「どうしてわたしだけこんなひどい目に」。

広く降り注ぐ雨がわからないのだ、自分がずぶぬれになることしかわからない、それで「いつもわたしだけが責められる」「わたしだけがバカにされる」と思っていて、しかしベトナム戦争に行軍した兵士たちの苦しみには不感症だ、何しろ自分がそこでずぶぬれになったわけではないから。
道路渋滞につかまると、「自分が渋滞につかまっている」のはわかるのに、「みんなが縦隊につかまっている」とはわからないのだ、自分の失恋に発狂する女は、この世界で失恋しているのは自分だけと思っている。

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アカンアカンそれはマジにあかん5(終)
ーむ、本当はもっと別にいい話があって、こんなことを話したいのではないのだが、今ちょっと事情があってな。
僕は、自分の大切にしている女が、セクハラ被害や恫喝に遭って、吐き気がするほど厭な気持ちになったことがある(何度もある)。
けっきょく、女性が非力だということにつけこんで、サイテーサイアクのことしかしないよな男ってと、全男性の即時消滅を願ったことは何度もあるが(もちろん僕自身を含めてだ)、何しろ僕自身が男なので、どれだけ同情ぶっても意味がないというか、同罪人だけに逆にキモチワルイのだった、それよりはまだ目の前で舌を噛んで死んでくれたほうが女性にとっては誠実さが見えるだろう。
僕はきっと、多くの女性よりも力があるので、別にセクハラ男といわず、赤子まで含めて男という男を殺害してまわるという手もあるのだが、それを成し遂げて後ちゃんと自分も自殺するということまで含めると「うーんそれもアリだなあ」と思える一方、どうもそのことを正しい金剛乗で成し遂げられる自信がまったくない/金剛乗とは純密密教でいうところのヴァジュラ・ヤーナで、つまり帝釈天の持っている金剛杵で「殺害の功徳」(罪業しか生まない者は最速で殺すのが功徳)を積むというようなことなのだが、そんなことを正覚してやれる気が全然しない、何しろ金剛乗って大乗・小乗のさらに上位の「乗」だからね、凡夫にはムリ&ムリという気がする。

男というのは存在するだけで性暴力の装置だ、それがオメェ、非力な女性に力で詰め寄るなんて、カマドウマのオスよりもサイテーなもので、縛り上げて列車に轢殺させても何の痛痒も覚えないだろう、むしろ「功徳、功徳」という感じがして正当なものだ(そんなもん踏まされた鉄道会社は大迷惑だが……)。
まあしかし、縛り上げて列車に轢殺させるというのは、KKKが有色人種を処刑するときに使っていた方法だ、KKKも「蛮行が過ぎる有色人種どもを、こらしめて躾(しつけ)る」という精神からスタートしているから、いや逆にここは、KKKに倣ったほうがよいのかもしれない。
例外的に、愛があれば、確かに「わたしはこの人から性暴力を受けることが幸せなのに?」ということになり、例外的に男の罪業は消えるが、そんなありもしない可能性についてを、よりにもよって性暴力男連盟筆頭の僕が主張しても、何の値打ちも説得力もないのだった(うーむ、やっぱり黙って土下座しているのが最善だったか)。
何をどうすることもできないので、けっきょく男女双方とも、「愛はないので必ずリベンジ(復讐・報復)に行き着きます」ということを、前もって知っている道標にしておくしかない、生きる目標は復讐だ/そんな未来に向けて何十年も生きるのかよということにガックリくるが、よくよく考えれば、「愛をもたずに生きていくのはすっごく無意味」ということなので、もともとこれで合っているのだ、どこも間違っていない。

女性だけ拳銃を携行できる、というようになれば、バランスが取れて、大戦争が始まるだろう。

男性は頭がパーなので、女性に拳銃を向けられて屈服するぐらいなら、ここで死んだ方がいいわとなって、その後はピストルとチンコのどんちゃん祭りが始まるだろう、もともと現代の男性なんて憂さ晴らしに死ねる場所をいつも探しているようなところがある、「めちゃくちゃに襲ってから死んでしまえ」と男たちはノリノリのギャング団を形成して町中にはびこるだろう/そのときどれぐらいの加速度で流血が起こっていくものか、単なる学門として正直なところ興味はある。
うーんけっきょくのところ、僕のようなクズ男は、セクハラというクソと、そのクソを撲滅させるべきという切実さに、本心からの興味が持てなくて、愛のあるなしがどのように反映された結果をもたらすかにしか興味がないようだ、リベンジの魂が満たされたとき、何が得られるのか僕にはわからないが、せめて不幸ではないものが待っていますように、そのとき僕は日の差すところの岩陰にガスのように吹き込んで消えてしまっているだろう。
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アカンアカンそれはマジにあかん4
ーん、まずいぞ!!
これはもう、こういう煽られ方をすると、全体としては引き返しは不可能かもしれない。
愛というのは、原理的にはシンプルなのだが、現実的には「ありえん」のだ、突っ込めば突っ込むほど、実感的には「わっかんない!!」に行き着くのが「愛」という現象だ。
うーん、これはまずいぞ、つまり愛は基本的に「わっかんない!!」なのに、性暴力被害の憤怒と憎悪とリベンジ・アベンジについては「わかる!!」のだ、こりゃ当然情報を与えられれば与えられるほど「わかる!!」のほうに傾くのは自明のことだ、せめてこんな状況はオレが作ったんじゃねえぜという無意味な弁解だけしてマシな気分になっておきたい。

Metooに代表される、性暴力の被害レポートを受けて、胸の痛まない人間はいない、痛まないやつがいたら人間じゃねえよ。
ただし、その性暴力被害のレポートは「わかる!!」のに対して、僕がウダウダ言う「愛」とやらの話は「わっかんない!!」じゃないか、そこは、じゃあもうムリじゃねえか〜と言うしかなくなる、僕が言うところの「愛」についてのLoveMetooタグが人口に膾炙することは単純な事象の高低差においてありえないだろう。
まあ疲れてきたので急にテキトーにお茶を濁すことにするが、とにかく女性は、男の何も愛していないのに男に近づいたりしてはダメだ、どれだけときめきやハッピーがそこにあったとしても、男に近づいてはならない/わけがわからない? いやそうじゃない、文脈は確実に整合している。
あなたにどれだけときめきやハッピーがあったとしても、その男の何を愛しているわけでもない、つまり自分のときめきやハッピーしかないのであれば、男に近づいてはならない、あなたは必ず最終的に被害者になる、その男の何かを愛していたら気楽なものですべてはホホイのホイでかまわないが、その愛がないなら近づいてはだめだ/あなたの未来は必ず「わかる!!」のほうへ形成されてゆき、「わっかんない!!」のほうには形成されていかないのだ、だからあなたは必ず未来において愛の女にはならずリベンジの女になる、わざわざそんなことのために男に近づいてはならない。

胴体の配列上、叡智とセックスは、実は同次元の「わっかんない!!」エリアに置かれている。

人間の胴体の機能上、叡智というのはトップオーバーの位置にあり、セックスというのは究極のところボトムアンダーの位置にある、どちらも「遠い」ものだ……単純な性行為はカンタンだし、神学の単なる知識もwikipediaを漁ればカンタンだが、その本質的体験は人間の「身」から逸脱しているところにあるのだ、だからよほどの到達がないかぎり「わっかんない!!」にしかならない/だから必ず、どこかで「わかる!!」のほうへ転落していく、転落っつうかふつう二分も持たずに「わかる!!」のほうへ転向する。
もし、「異性の根絶」以外の方法で、セクハラゴミ地獄を脱出しようとしたら、その「わっかんない!!」に食らいつく精神、つまりやはり「学門」の精神で対抗するしかないのだ、ただし「わかる!!」を捨てて「わっかんない!!」に食らいつくのには、ただならぬハートがいる、特に「わかる!!」を捨てることは果てしなく辛くて耐えられないのだ、それはまったく「自分自身を捨てる」ことに他ならないから(実はこのことは完璧に説明しきれるのだが長大になるのでここでは話しきれない)。
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アカンアカンそれはマジにあかん3
には、大切な女がたくさんいるので、セクハラという事象の存在を、たいへん憎んでいる。
実際、僕がやっているパーティ企画でも、男性によるセクハラ行為に対しては監視が厳しく、男性陣の萎縮ぷりったらない、それについては女性陣からむしろ「男の人たちがかわいそう」という同情の声があがるぐらいだ。
けれども、そこは甘くできない、それどころかもっと厳しく取り締まらないといけない、これはマジだ、現代の男はとてつもなくバカなので、まともな入口に至るまでは決して甘やかしてはならないのだ。
まともな入口とは何か、それがだから「愛」だと、アホみたいなことを繰り返し言っている、たとえば犬を愛していないおっさんが、「この子犬かわいいな」と、ペットショップから買って帰ったら、そのあとは悪夢のような地獄絵図が待っているだろう、何しろ愛していないのだぜ、愛してもいないのに「欲しかったから」といって子犬を買って帰っていい世界がどこにある? 愛について覚醒するまでは毎日のドリンクが煮え湯でよろしい。

愛というのは、何も難しいことではなく、ただ「ありえない」というだけだ、それは不可解なだけであって難解なわけではない。
愛というのはつまり、「欲しい」の代わりに「あげたい」が出現するだけだ、欲しくてムラムラするのではなくあげたくてムラムラするというだけ、これは単純な話だが、ありえるかありえないかでいうと現実的には「ありえない」としておいたほうがバランスがよろしい。
まもなくやってくる初夏に、僕が女を拉致して、日本海側に連れて行く、そこで何をしたいかというと、僕が何を欲しがっているというのではなく、その女に富山湾のホタルイカを食わせて「あげたい」のだ、丁寧に仕事されたホタルイカの沖漬けを食わせて「あげたい」、見霽かす初夏の海を目の前にしたままナイロン袋から沖漬けを手づかみで食う光を見せて「あげたい」、そう思うとムラムラしてたまらなくなるぜウオオオオひゃっはー、というのが愛だ。
あなたは伊勢丹に行くと、「ヤバい、このバッグ、超欲しい」とはなるだろうが、「ヤバい、このペン、九折さんに超あげたい」とはならないだろうから、僕に対する愛はない、それが間違っているというわけじゃない、それで「合っている」のだ、だからあなたは僕の言うところ、「存在しているだけで性暴力」ということに対して、「うーん、それは確かにそうかも」と納得する、ただそれだけのことだ。

本当は、あなたが僕に「あげたくて」来るのが、あなたにとっても一番気楽だ。

なぜなら、あなたが僕に「あげたくて」来ているなら、僕がそれを奪うことは(性)暴力にならないからだ、これによってのみ(性)暴力の被害者は消滅する/ただしこの「愛」は現実的ではないのであくまで仮想の思考実験でしかない。
このことは原理的にはスッキリカンタンに見えるけれど、正しく現成しようとすると「原理的に不可能じゃね?」という循環に陥るのだ、なぜなら愛というのは、「あげよう」「与えよう」と努力することではなく、「こころのまま」にしてみたところ、「あげたい」「与えたい」というこころが爆発する>>ということだからだ/「こころのまま」にしてしまったら「欲しい」ばっかりになるでしょ? それが「愛」がないということだから、愛というのはシンプルだが現実的は不可能、さらにいうと「見当たらない」なのだ、努力で済むなら誰だってとっくに愛なんか獲得済みに決まっているだろう。
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アカンアカンそれはマジにあかん2
る男性が、精一杯健全のつもりではあったのだろうが、「まともに女性と接することができるようになりたい、ちゃんと勉強して練習したい」と言った、この男性は僕などよりはるかにイケメンの男性で、あこがれに足りるような自活を獲得している男性でもある。
それでその男性は、がんばりますという調子で、勇気をもって女性の横に座ったのだが、僕はその途端に彼の頬を軽く平手打ちせざるをえなかった/このことは感触的に、全員を驚かせはしたが、全員を何かよろこばせもした(当の男性も何か妙にワーイとなった、なんでだよ笑)。
僕は全員に聞こえるようにきっぱり言うしかなかったわけだが、「いかなる理由があったとしても、男が女を『練習』に使っていい道理はない、ましてカネを払っているわけでもないのにだ、いきなりひっぱたいてすまんかったが、ここでは罪を最小限で断ち切るにはこの方法しかないんだ、わかってくれ、みんなも、今の『罪』は即刻『罰された』ということで、『済んだ』ということにしてやってくれ」。
そのことは、なぜか当人を「ワーイ、叩かれちゃった」とはしゃがせたが(繰り返すがなんでだよ笑)、このとき僕はこの男性とほとんど初対面なんだぞ、なぜ僕だけこうして毎日のように魂をギリッギリにすり減らすようなことをしなくちゃならんのだ、これがさしあたり性暴力男連盟の筆頭者のライフスタイルです(やりたくてやっているわけではない)。

繰り返すが、僕は男性なので、存在しているだけで女性に対する性暴力だ、だからすべての女性は性的な安全保障の危急において、毎晩「すべての男性が即刻死滅しますように」と祈念するのが正しい、冗談ではなく本当に正しい、子孫の繁栄なんてこの先はバイオテクノロジーでどうとでもなるので、本当に男性が死滅するのが女性にとっての安全保障なのだ。
ただし、例外中の例外がひとつだけある、それは女性が男性を愛している場合だ、その場合だけ例外的に「殺さないで!」「彼の存在が、わたしの生の幸福なの!」ということになる/そのことは、何もむつかしいことではなくて、たとえば家の中にネズミが出たら「捕まえて放り出せ、あるいは殺してしまうのもやむをえない」となるが、それが愛して飼っているネズミのジェリー君だったら、「もしこのコが殺されるなら、わたしが死んだ方がマシです」となる、そのことと同じだ。
そして、ケーススタディとして理性的に言われねばならないが、いくつかの女性のグループにおいては、<<男性を愛することは決してない>>ので、男性の存在が性暴力でなくなるという例外が得られる可能性はゼロだと言われねばならない、その場合はあくまで冷静に、「あなたは生まれつき被害者で、最後まで被害者であり続けます、これは不動のことです」ということを受け止め、その中で不幸になりつくさないことを考えてゆくしかない(リアルに本当にそうなのであって感情論ではどうにもならない)。
理想論や希望のことはさておき、冷静なケーススタディが必要だ、幾人かの女性は、男性を愛することがないというより、「誰かの何かを愛する」ということ自体がないことが多い、それは何も珍しいことではなく、<<自己愛以外の愛を持っている人のほうがきわめてレアだ>>という前提に立ちなおして、<<愛していないすべてのものはゴミにしかなりえない>>という当たり前のことに回帰するしかない、そしてゴミに絡まれれば程度の差こそあれすべては「被害」にしかなりえないという自明が、あなたを永く救済するだろう。

他ならぬゴミ筆頭の説得力をもって申し上げる、僕があなたにコーヒー一杯をおごったって、あなたにとっては「被害」になる。

すべての恐れを脇に置き、冷静に偽りなく考えるべきだ、僕があなたにコーヒー一杯をおごったとして、「えーまた明日もコーヒー飲みに連れてってよ〜」「また明日もあなたの話を聴かせてよ〜」「明日はわたしにおごらせてよ〜」とはならない、僕に対してそうならないだけではなく、誰に対してもならないし、これまでにそんなふうになったことはないし、これから先もそんなことになることはないだろう/冷静に考えるべきだ、そういうふうになることが「ある」か「ない」でいえば、現実的には「ない」にBETするしかない。
「また明日も連れてってよ〜」「また明日も、あなたの話を、そして明日はわたしにおごらせてよ〜」とならないのは、当然ながら、あなたが僕のことを愛してはいないからだ、じゃあどうなっているかというと、「今日だけ」「コーヒー一杯の時間だけ」ということならば、「このゴミ被害にも、まあ耐えられる」「ガマンしてやってもいい」というだけだ/僕があなたの肩を抱いたら、あなたは耐えがたき嘆きと憤怒を覚えるだろうし、僕がカンボジアで地雷を踏んで死んだら、あなたは何の痛痒も覚えないどころか、何か痛快さでよろこびを覚えるだろう、それが間違っているのではなく「合っている」のだ、愛というのはそれが逆転する現象にすぎない、僕が地雷を踏んで死んだら「耐えがたい」と泣き、僕があなたの肩を抱いたら「何でもない」「何か痛快でよろこびを覚える」というのが、あなたが僕を愛しているということだ、ただしのこの「愛」というのはきわめてレアで現実的ではないと考えねばならない。
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アカンアカンそれはマジにあかん
れとしてはハッピーな発見が得られているのに、世間ではまったく逆の槍玉とさらし首で、逆方向に進んでいくなあ、もうおれのささやかな抵抗では何の効力もなさないぜ。
「リベンジ」ってあっさり言うけれど、リベンジって「復讐」でっせ、「報復」でっせ、つまり「怨恨」の感情を認めているってこった/じゃあどこで「怨恨」を覚えたかというと、当然記憶にあるだろう、「我慢」したときだ。
「我慢」というのは、何度もしつこく言うように、ひとつの悪魔だ、アートマ・マーラ(我慢)という、「ガマンガマン」というのが実は悪魔への帰依で、悪魔に覚醒の酒を注いでいる、その悪魔が「怨恨」という確信の力を帯びて人を絶対の「復讐」「報復」に駆り立てているのが見えないか、こんなミエミエのことがどうして見えないのだあああ。
人間の体内に「我慢の鬼」が育ち、それが「復讐の鬼」に転じることがわからないか、「ガマン」が「リベンジ」になって、まもなく無数のリベンジが集合して悪魔の「アベンジ」を形成するということがどーーーしてわからんのだ、これ以上ミエミエの状況はないぞ。

一人の女性の我慢(アートマ・マーラ)を弱体化させるのにも、どれだけ苦労するか、どれだけエネルギーとリスクを掛けねばならないものか、ちょっとは想像してくれ〜と言いたくなる/そこにおめぇ、集団でマーラに大五郎をガンガン注ぐみたいなことはやめろ、そんなもん沈静が追いつくわけがないじゃねえか。
いま世間では、Metoo運動が活性化しているが、それはあくまでセクハラを受けたというMetooに限定されていて、「わたしはこの男の人に救われました」のMetooは存在しない。
つまり、このセクハラ被害限定の女性たちのMetooは、男性たちに向けて、セクハラ加害の「Youtoo」を突きつけていることになる、それが本意だということぐらいさすがに誰だってわかるだろう。
女性にはセクハラ被害の「Metoo」が与えられ、男性にはセクハラ加害の「Youtoo」が与えられる、こんな中でオメエ若い連中に「恋あいしろ」「結婚しろ」「草食系はディス」「経済力が重要」とか、シッチャカメッチャカを強要するつもりなのか、これはあきまへんて、実際に「レイプされた苦しみを逃れたい」といって相談というか必死の対話が持ち込まれてくるのは僕のところになのだが、オメェこれどうする気なんだよ、一緒になって性暴力男を非難するのは簡単だが、当人は「男の人を愛せるようになりたい、男を愛せる女に戻りたい」と泣くほど健気なんだぞ、コイツには女の味方もいないんだ、「同情されたいわけではなくて」、コイツはヒサンな顔をしているがそれでも「復讐の鬼」になって人生をフイにしたくはないと言っている、コイツはまだこころの底から明るく笑うことを諦めたくはないと言っている。

あなたは果たして、誰かの何かを愛していたのだろうか?

僕は男性なので、はっきりわかることがある、あなた(女性)が僕を愛さないかぎり、僕は存在しているだけで加害者であり、存在しているだけで性暴力だ/あなたは女なのだから、僕を愛していないかぎり、僕に近寄ってきてはならない(当たり前)、たとえ僕があなたの身を励まし、胴体に健康と賦活を与え、知恵と気力によって未来を拓き、叡智によってめざましい「世界」を見せたとしても、あなたは「それが欲しいから」という自己愛で僕に寄ってきてはならない、いいものがもらえるからという理由で寄ってくるなら野良犬やサルと同じだ、あなたから与えたいというのでなければ男のところになんか近寄ってはならない(男女を逆転させても同じだ、僕は自分から与えたいということがないなら女には近寄らない)。
性暴力者・セクハラ男のリストがあったら、僕はその筆頭として自らを記名したい、女に軽蔑され忌避されることには慣れているので、今さらそんなことはどうでもいいのだ、ただ今もなお「男の人を愛したいの」という女もわずかながらいるのだ、彼女らにすべての抜け道を断つのはやめろ/どうかこの一点だけを可能性として考慮してくれ、僕が石を投げつけられても僕はヘッチャラだが、僕を愛してくれている女が泣くのだ、そりゃあなただって「全身全霊をなげうってわたしを救ってくれたあの人に、世間の女が無限に石を投げてリベンジしている」というのをえんえん目撃し続けたら泣くと思うよ。
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沈降と上昇、西洋と東洋
が沈降に向かっている人は、「けっきょくセックスに行き着くんじゃないですか」と感じている。
魂が上昇に向かっている人は、「セックスがすべてのスタートだな」と感じている。
魂が沈降に向かっている人は、「すべてはカミサマから始まっているんです」と感じている。
魂が上昇に向かっている人は、「すべてはカミサマに行き着くものだ」と感じている。

ひょっとすると、西洋が「落下の物語」を担っており、東洋が「上昇の物語」を担っているのかもしれない。
旧約聖書などは、人間がカミサマの国を追い出されたという描写が特徴的に強く、一方で東洋では、人間の出自より「修行、解脱」を説く向きが強い/つまり西洋は「人がどこから来たか」を唱えており、東洋は「人がどこへ行くか」を唱えている。
戦争の歴史があって、西洋人が東洋人を「見上げている」ということはごくまれだろう、だが西洋人が東洋人を「見下している」なら、西洋人の側が魂の沈降に向かっている/東洋人が西洋人を見上げて「キラキラしている」なら、実は魂の方向は東洋人のほうが有利だ。
揉める話だからあまり言いたくないが、「カミサマ」の前で「愛」を誓って、「はいじゃあセックスしてよろしい」とするやり方は、少なくとも東洋には向かないと思う、そのやり方はつまり堕落を防ぐやり方だが、そのやり方をこちら東洋に押し込まれてきたのは単に東洋人がナメられていたからだろうな。

「天から堕落するのを全力で防ぐ」という発想と、「地の底から上昇するのを全力でやる」という発想がある。

聖書世界などは、特に「堕天」ということが言われているのだから、前者の発想になりがちだろう、しかし僕などは堕落といっても、もともとゲジケジ虫みたいな自覚なので、堕落を防ごうという感覚はまるでなかった。
8階のエレベーターと、2階のエレベーターなら、屋上に近いのは8階のエレベーターだが、それぞれのエレベーターガールが「下へまいります」「上へまいります」と言ったとしたら、前者はエッとなるだろうな、前者は「ストップ! ストップ」となり、後者は「ゴー! ゴー!」となる/僕は堕落を防ごうという発想は持ったことはなく、ただ向上の足しにならんことは断じてやらんわという発想だけがあった。
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身分学、研究中9
えすぎてフラフラになっている。
突き詰めるところ、わかってくるのは、やはり見上げれば「エネルギー」で、見下ろせば「重さ」なのだということ。
重さとエネルギーはもちろん等価のものだ(相対性理論)。
人間は業(カルマ)の存在だが、見上げればキラキラしており、見下ろせば淀んでいる/下から目線の魂は上に向かっており、上から目線の魂は下に向かっている、そりゃ目線の方向的にそうなるだろうよ。

人間の業を、胴体の最下部から順に言うと、セックス、暴力、自己快活、友愛、面白さ、知恵、となり、最後はもう業から離脱している叡智につながる。
その各位の業を、見上げているか・見下しているか、ということがあるのだ、つまり見下している人にとってセックスは「罪に淀んだもの」(重さのもの)であり、見上げている人にとってセックスは「キラキラしたもの」(エネルギーのもの)となる。
たとえば、僕はよく、「ぷりんぷりんとのセックスは最高だああああああ」と言うが、こんな発言をする僕に対しては、PTAの全員は「下品」「破廉恥」と見下す目線を向けるだろう。
つまり僕から見て、セックスは「キラキラしたもの、エネルギーのもの」だが、PTAの全員から見て、セックスは「罪に淀んだもの、重さのもの」だ、もちろんPTAの見方のほうが究極的には合っている、ただしそれはPTAの全員が、すでに人を超え業をもたざる神霊的存在へと高まっていることを前提にする/もちろんPTAの全員はセックスに関わる業などとっくに超越しているので、僕などとはまったく身分が違うのだった(その証拠に、彼らは僕を見下すだろう)。

それぞれの業を、キラキラにクリアしたのか、それとも淀みに否定したのか。

PTAのおばさんは、セックスや暴力を感情的に否定するだろうが、それを感情的に否定する当人が、それをとっくにクリア済だというわけじゃない、下位の業がクリアできていないまま、上位の業に首を突っ込んだところで、それはモグリでしかない。
各位の業(カルマ)を償却すれば、たしかに身分は上がるけれど、各位の業を償却するって、ふつうタダゴトじゃないぜ、下着をひん剥かれて「キラキラ」、みぞおちにケリが飛んできて「キラキラ」ってことだぞ、男なら「この人が女の下着をひん剥いてみぞおちにケリを入れているところは何かキラキラしているな」と見える人ってことだぞ、ふつうに考えればもう入口から「ありえん!!」のだ。
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天地と人についての与太話3
「重さ」と「エネルギー」は、同一というか等価のものだ、これは相対性理論の結論なので僕が主張する筋合いではない、重さはエネルギーの一形態にすぎない。
われわれは「罪の重さ」という言い方をするが、相対論的にはこれは「罪のエネルギー」と等価だということになる/質量保存の法則があるので、「重さ」が消えることはふつうありえないが、この質量保存の法則は相対論において破れる(つまり核反応等なら質量はエネルギーの形に転じるので重さが"消える"ことは起こる)ので、「罪の重さ」が消えるという可能性は相対論においてはありうると言える。
そんな、「罪の重さ」なんて観念的なものを、物理的なものにコジツケても……とは思うが、いいのだこれで、表面上何かヤベー奴の話に聞こえてしまうのもしょうがない、そもそも「罪」なんて観念的なものを「重い」と言い出した奴が悪いのだ。xw
さて改めて、「罪の重さ」には何が報われるかというと、一般的には「重い罰」だ、罪に対しては罰が向けられる、罰によって罪を贖(あがな)うことになるのだが、実はこれ、「罰を受けた」からといって「償いをした」ことにはならないのだ/「罪と(刑)罰」の思想は、罪そのものは「消えない」という前提から成り立っているので、現在の罪刑法定主義は「償い」という可能性を放棄している、うーんこんな話こんな短い文面にまとまるわけがないだろ!!

人は罪を犯してしまうし、罪を犯してしまうと一般的には罰を受けることになるのだが、この罪と刑罰の発想は、人が罪を犯す原動力・そもそもの仕組みには立ち入らないことが前提になっている。
なぜ人が罪を犯してしまうかといえば、それは「業(ごう)」があるからだということになる、蛇にそそのかされたエヴァが禁断の知恵のリンゴを食べてしまった(原罪)のも、そもそも人の身に「優れたものを食べてみたい、向上したい」とさわぐ業があったからだ。
人間の身は、罪の重さによる「沈降」と、業のエネルギーによる「散華」が、同一等価でせめぎあって成り立っているのだ、人間の身は「上から見下ろす」と罪の重さに沈みゆくほかないと見えるし、「下から見上げる」と散華して光そのものになりゆく可能性があると見える。
仮にわかりやすいように、一般でもない特殊でもない、「秘密相対性理論」でも勝手に名付けておこうか、秘密相対性理論によると、人間の業は散華すると光(のエネルギー)になり、沈降すると罪(の重さ)になる、形態が変わるだけで同一のものだ、ただ散華と沈降では魂の行く先が異なってくる。

罪の重さには罰の重さが対応し、業のエネルギーには散華のエネルギーが対応する、この二つは形態が違うだけで等価のものだ。

簡単に言うと、誰だって自分の身は「ヤバイ」のだ、それは人間なのだから誰だって変わらない、その身のヤバさはけっきょく変わらないのだが、ヤバさのせいで地獄に沈降していくか、ヤバさのせいで天国に散華していくか、その「形態」が異なってくるということだ。
……この感じでいくと、ホーキング博士が指摘したブラックホールの蒸発のみならず、すべての質量そのものが、とんでもない"永劫"の時間の中で「蒸発」していっているということはないのだろうか? Dブレーンから蒸発したものがどこへ行くのか僕のような無学者にはさっぱりワケワカメだが、誰かいつか超絶賢いやつが本当のことを説き明かしてくれるだろう(誰かたのむ)。
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上から目線に鎮魂歌

筋と関係ない話だが、いわゆる「上から目線」の人がいる。
割と腹の立つものだが、あまり気にしなくてよろしい、なぜなら「上から目線」の目線は必然的に「下に向かって」いる。
「上から目線」ではなく本質は「下向き目線」なのだ、それは当人の魂が沈降に向かっているから生じている現象だ、だから「お気の毒に」ということでそっとしておいてやるのがいい。
たとえば芸能人が不倫をやらかしたりすると、上向き目線の人は「そりゃエネルギーの強い人たちの集まりだから、いろいろ一般のモンとは違うんだろう」となるし、下向き目線の人は「そもそもさぁ、芸能人なんて人たちは全員……」となる、後者は魂が沈降に向かっているのだ、それはまもなく人としてサヨナラを言わねばならない予兆でもある。

魂が上昇に向かったり沈降に向かったりする。
そのことで、人の視線の向きが決定する、「上から目線」=「下向き目線」は必定だが、これも責められたものではない、上向きの目線を保つのは人として根性がいるのだ。
たとえばオリンピックの試合を見たとき、下向き目線はすべてを見下ろし、「○○くんはとてもよくがんばった! すばらしい、感動した!」となるし、上向き目線ならすべてを見上げ、「こいつらなんやねん、どんだけ跳ぶねん、みんなバケモンばっかりじゃねえか!!」となる。
女子高生だろうがオジサンだろうが売春婦だろうがオタクボーイだろうが、関係ない、魂が沈降に向かっている者は、視線が「上から下を見る向き」になる、上から目線なら途上国は「貧しい国」だが下から目線なら途上国は「タフな国」になる/下から目線は合言葉を交わそう。

「おれにはムリだぜ」「わたしにはムリだよ!」、"明るい"目線の合言葉。

氷の上を滑ってジャンプして四回転するとか、ラーメン屋の湯気うずまく厨房に十二時間立ち続けるとか、少なくとも僕にはムリだ、どんな気迫とド根性が要るものやら、見当もつかん、だからいつも気構えだけでも、「がんばっていかんとな」と思うようにはしている、まあ実際に実力を問われたらヘナヘナの無様を見せてしまうとは思うけれど。
そんなわけなので、いわゆる「上から目線」にいちいち腹を立てる必要はない、腹を立てる必要はないというより、実はもっと恐ろしいことなので、腹を立てたりしているような場合ではとっくにないのだ、魂が沈降に向かっている、それは人としてサヨナラを言わねばならない予兆であって、そこで告げられたサヨナラはまず二度と帰参してこない。

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身分学、研究中8
体の最下部から頭上に向かって、償却と解放が起こっていく、これは胴体という実物に依拠しているものなので、価値観うんぬんで変更は利かない(頭の上におへそを移植したりはできん)。
第一の身分:過去、淫猥でないセックスをこなしてきたことがある。
第二の身分:「いらつく」等の、感情的にならず、怒るべきときにはっきり怒り、道を正してきたことがある。
第三の身分:困難極まる状況を、ガッツと快活さで突破し、事を為してきたことがある。

第四の身分:立場や共同体から離れて、個人として親しい友人と信頼を得てきたことがある。
第五の身分:「面白い」ということで、敵味方関係なしに、自分のすることに人がついてきたことがある。
第六の身分:自分が使ったペン(その他道具)が、他の人から見て「使い古し」にならず「神聖なもの」と扱われてきたことがある。
第七の身分:「自分」が存在することや「宇宙(この世界)」が存在することを、「あなたに触れてから初めて知った」と、限定的ではあれ「帰依」されてきたことがある。

道が合っていても、運転がヘボだと事故をする。

明らかに「第一の身分」からキツイじゃないか……身分を「思う」「考える」のは簡単だが、マジにエネルギーを吸い上げてドーンとやるのはキツイ、これは教習所じゃなくて路上のことなのだから、安全運転で堅実にいこう。
詳しいことはまた後にレポートできればいいなと思うが、まあ骨子はだいたいこれで変わらない。
視点変えてこ | comments(0) |
平等とドラゴンスレイヤー
かりやすいように、アホみたいな話をしよう、ファンタジー的な話にするとわかりやすいのだ。
あなたが、女性ばかり乗っている客船で、川を下っていたとする、女性ばかり100人が乗っている、日が暮れてくるが「このあたりは魔物が多い」ともっぱらのウワサだ。
何人かが、たいまつをもって甲板から見張りと警護にあたるが、いかにも心細い感触だ……そのときふと見ると、甲板の隅に一人の男が、暗がりに紛れ、目立たないように立っている、(あの人はなあに? 女性しか乗らないこの船にどうして)。
「あなた、どうして男の人なのに……」と誰何しようとしたとき、ひとりの女性がそれを制した、「待ちなさい、あれを見て」――男が腰にぶらさげていた長剣は、男の身分を明かしている、「なんてこと。あの方、ドラゴンスレイヤーの一人よ」/たしかにここ数年前から、洞穴に巣くう毒竜を滅ぼしてまわる一旅団があるとウワサされている、王府はすでに彼らにドラゴンスレイヤーの称号を正式に与え、国境の自由通過権を与えようとしているという話だが……

魔物が出ることで有名な難所にさしかかるとき、訳あってか偶然か、一人のドラゴンスレイヤーがそこに乗り合わせているなど、なんという頼もしさ、なんという僥倖だろう、もし少々の魔物が入り込むことがあっても、この方が先陣に立ってくださるなら……「少々の魔物どもなど、蹴散らされるに決まっているわ」、そうなると船内は明るい/「あの、どうかそんな冷えるところにいらっしゃらないで、どうぞこちらへ」という程度に、応接の態度も自然に表れてくるだろう。
これが現代においては、魔物はおらんし、ドラゴンスレイヤーもおらん(当たり前)、何が魔物かといえば「たしかに痴漢という色魔がいますね、だからそのおっさんが一番魔物ですわな」という有様なので、おっさんが間違って女性専用車両に紛れ込んでしまったときには、非難囂々で「出て行け」「死ね」としか言われないだろう。
あくまで架空の話だが、もしこの世に魔物がいて、ドラゴンスレイヤーなんて男がいたら、女性たちにとっても幸福なことだと思う、ドラゴンスレイヤーの剣士には、彼を援護する仲間として、峻厳な魔術師と陽気な狩人と、治癒を務める吟遊詩人がついている/そうしたら女性たちも、男とその仲間を「敬う」とか、自分の身を「弁(わきま)える」とか、そういったことをあれこれ考えずとも実現できるだろう。
しかし現実的なところでは、女性はドラゴンスレイヤーの男に出会う可能性はなくて、痴漢男から逃げ回らねばならない可能性――どころか蓋然性――だけが確然とあるので、どうしようもないのだった/而して問題は、この世に魔物がいるのかいないのかという一点に集約してくる、「この人がいてくれて助かった」ということが、本当にあるのかないのか、そこは誰にもわからない。

男女も年齢も勇怯も関係なく、万人は均一平等で構わないが、「ドラゴンスレイヤー」だけは別格にしよう。

どうせ存在しないのだからかまわないだろう、さすがにドラゴンスレイヤーがフェミニズムとイクメンをやらされて、駐輪場で小銭を取られて、煙草を吸うのに公営の喫煙所まで走らされるのは気の毒だ、どう考えてもそんなやつに毒竜を倒せるわけがないだろ。
世情から見て、「さすがにドラゴンスレイヤーなんて人がいたら別格でしょw」という感覚は、あと三年ぐらいは使えると思う(五年後には通用しないだろう)。
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