☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
極めてハイレベルなのに「つまらない」という現象
とんどのものは、レベルが上がっている。
今や、高校球児が160km/hを投げても驚かないし、アマチュアマジシャンだって超絶技巧だし、女子中学生だってギターの速弾きをする、今のすべてのマンガは「コボちゃん」よりはるかに画力が上だろう。
僕が中学生だったころ、世の中に初めてカラオケボックスというものが流行りだしたのだが、当時はマイクを持たされても「あ、う……」と、まともに唄えない人のほうが多かったのだ、今は子供でも外国語の歌をすらすら唄うだろう。
インベーダーやパックマンの、ピコピコいっていたゲームが、今は実写と区別が付かないような映像で、さらにはVR体験まで出来るようになっている、今さら昔のゲームをやっても退屈でしょうがないだろう/そうしてすべてのものの、レベルは上がっているのだが、なぜかレベルは上がっているのに「つまらない」という現象がある、ほとんどのものはこの現象で今窮地に立たされている。

レベルはきわめて高いのに、なぜか「つまらない」という、思いがけない行き詰まりの現象、この現象にすべてのジャンルが追い詰められている。
つまらないことをしてもしょうがないので、もっとレベル上げていこうぜ、という発想になるのだが、レベルを上げてもなぜかその「つまらない」という現象は解決してくれないのだ/このことは単純に、「レベルの問題じゃなかったんだな」ということで理解される、ただそこに誤解があったというだけだ。
われわれはアホなので、すぐ何かを比較し、比較のために競争させるのだが、競争させるとレベルが上がるにせよ、そこに生じたハイレベル者のことを、けっきょく魂として愛したわけではなかった、ただカゴの中で競争させてひとしきり見物を楽しんだだけだ。
それで、何が誤解だったかというと、あくまでわれわれは人を愛したのであり、何の愛もない運動体が200km/hの速球を投げても、何も面白くないのだった、それはピッチングマシーンが球を発射しているのと同じだからだ/つまり、われわれが「すごい!」といって捉えやすいもの・わかりやすいものは、たいしたものではなかったということだ、われわれはそうした「感想」を持つのを得意としているが、その得意分野によって自ら殺されていった。

いつだって、目の前で見ているものは「たいしたことない」。

いつだって、覚えていなくてはならないが、「つまらない」状態で生きているからこそ、目の前のものに引っかかってしまうのだ、万事が「つまらない」というのはとてもさびしいことで、人はそのさびしさをごまかすために、目の前のものを飾り立て、過剰に評価してしまう。
仮に僕が、ゴルフの名手だったとする、しかしゴルフの名手だったとして、球っころを穴に入れて何をよろこべるわけがある?/それは紳士のスポーツかもしれないし、スポーツに違いないだろうが、あくまでスポーツじゃないか、スポーツで人の存在を代償できると思ったか、むかしカール・ルイスという偉大なランナーがいたが、彼が100メートル走の途中でずっこけたとしても、みんなカール・ルイスのことが大好きだったと思う、カール・ルイスが100メートルを何秒で走ろうが、それはすごいことであり、同時にどうでもいいことだった。
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十五のあばずれ

近は十五の少女を見てもまるで子供に見えない。
まるで子供に見えないのに、まだ何も知らないので、逆にものすごいアホに見える。
十五の少年少女が、無知のままサイダーを飲んで走り回っているのは、何もアホには見えない/無知は愚ではないし、サイダーを飲んで走り回り少年少女より僕のほうがイケているとは、僕はつゆほども思わない。
十五が二十五になっても変わらんが、やはり無知は愚ではない、無知は愚ではないのだが、その顔は何なんだ、何も知らないのに何もかも知っているようなその顔は何なのだ。

僕は十五や二十五の女が、男もそうだが、知ることを壮絶に得てきたとは思えないし、引き返せないほどの経験を膨大に積んできたとも思えない。
ふつう、壮絶に知り膨大に経ようとしないかぎり、人の知識など稼業のひととおりを知ってそれ以上はなしというのが通常だ、稼業とこの藩のことより他は何一つ知りませんというのがふつうのことのはずだ。
三好達治の詩文を目の前において、「ほれ」と言われても、直截何が書いてあるのかなんてピンとこないだろう、わからない漢字や熟語なんかググればいい、そんなことはどうでもいい、それより三好達治は何を言っているのだ/それがまるでピンとこないならば、その何もかも知っているふうの顔は何なんだ。
僕の住むところのひとつ隣駅にでも行けば、喫茶店で打ち合わせをしているアイドルがごろごろいるのだが、その股間を見せつけられても正直なところキツいと感じる、ものすごいアホに見えるものを間近に直面させられて、セッセッセというわけにはいかないだろう、今「かわいい」「エロい」を探している人たちは、ひょっとしてまともなセックスをしたことがない人たちなのではないだろうか。

間近でものすごいアホに直面するのはキツい。

それは無知ということではないのだ、子供が無知なのは当たり前であって、無知な十五の少女を膝の上に乗せたとして、何がキツいことがあるだろう、ただ同じ距離にものすごいアホを置いたときがキツいのだ/最近は十五の少女も子供に見えないが、大人びているわけじゃない、間近で見てみると「キツいアホ」だ、たまに当人もそのことに薄々気づいているからこちらとしても胸が痛む。
未だ何を愛したこともなく、誰を愛したこともなく、何かに泣いたこともなく、読書の経験もなく、思い出の場所さえもっていない、正真正銘の「マンガと動画だけ観てきた」者たちだ、それがもう子供の顔をしておらず、そのぶん露骨にものすごいアホに見える、こんな笑えない理由で若年のうちに生の全体が決定してしまうのはあまりに酷(むご)いのではないだろうか、己の最も清明たる相貌を得ることなく本来の美貌がただキツいものと化して生きていくのは。

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どんなキモチ、どんな感情、どんな人
の中には色んな表現行動があって、よくキモチを込めてとか、感情をこめてとか言われる。
それが何も誤りではないだろうが、僕がグダグダ言うところは違う、人それぞれ色んなキモチ、色んな感情があるだろうが、そのキモチと感情をてんこもりに表出しても、それが「どんな人」かを表示することにはならない。
バレリーナが、「激しい感情」でぐるんぐるん回ったとしても、そこに「どんな人」がいるのかは視えてこない、「激しい感情」なのはわかるが、それなら「激しい感情」と壁に書いておいても意味は通じるだろう。
だから、「どんな人の激しい感情なんだよ?」ということが、ずっと僕の疑問なのだ、僕は目の前の人が「こういう奴」と、一目瞭然でわかるのが好きだ。

さあそれで、「どんな人」かを見せてみろ、ということになるのだが、これがよくよく考えるとわからない、「どんな人」であるかがどのようにしたら表示されるのか/そもそも、人それぞれは「どんな人」であるのか、実はちっともわからないのだ、だから立場や習慣やキャラづくりでニセモノの「人」を表示しようとする。
もとの造詣がよければ、衣裳と化粧で美人を作るのは簡単だろう、そしていつもニコニコしているのも、意識してそうすれば簡単なはずだ、そしていつもニコニコしている美人は人の好感をさそうだろうが、けっきょくそいつが「どんな人」なのかはわからない/それどころか、率直にいえば、たぶん「どんな人でもないんだろ」という気がする、あるいは気がするどころか確信がある。
人にやさしくするのは、意識してトレーニングすれば簡単だ、だがそれでその人は「やさしい人」なのか、そういう場合もあるだろうし、そうでない場合もあるだろう、僕はやさしくない人にやさしくされたいとは思わない、やさしくない人にやさしくされたらあとで支払いを請求されるじゃないか。
ヘイ、どんな人なんだ、そこで「そうですねえ」なんて考え込んでも無駄だよ、だってまだどういう人でもないんだから/ほとんどの人は、自分が「どんな人」にもならずに生きていくものだ、世の中にはいい人もいるし優秀な人もいる、だが忘れるな、いかなる外装条件もそれが「どんな人」であるかの定義にはならない。

空き箱に感情やキモチを詰めるな。

世の中には色んな表現行動があって、それだから色んな表現者が注目され、流行し、忘れ去られていく/なぜ忘れ去られていくかというと、空き箱に感情やキモチを詰めていただけだからだ、そこには「どんな人」もいなかったので、一時的な感情やキモチのブームが去ったあとにはすべてが消え去っていく。
最近はむしろ、そうした空き箱に詰め込んだ一時的なものこそが流行する風潮があるが、それは根本的な空き箱が、同じ空き箱たちの逃げ口になるからだ/お笑い芸人が楽屋にいくと、舞台とは違ってぽつーんと退屈そうな顔をしている、それは空き箱に流行のお笑い業を詰め込んであるだけで、そこにいるのは本当の「笑いの人」ではないからだ。
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犯罪者に注目してみる
罪者というのはダサい言い方だが……/テレビで何かの事件の犯人が逮捕されると、その連行映像が流れる、その犯罪者の顔に注目してみる、正確には犯罪者ではなく「犯罪で逮捕された人」ということになるけれども。
逮捕された人は、男前というわけではないけれども、何か一種、すっきりした顔をしている、それはある意味で魂の顔でもある、なぜそこに魂の顔が出現するかというと、もうインチキの人付き合いをする必要がなくなったからだ/少なくともその逮捕された者の顔は、隣を歩く警官の顔よりも求心力がある。
逮捕された者の連行映像、またその顔の映像は、お茶の間に流れる映像の中で唯一、映画のワンシーンにしても差し支えないような映像だ/逆に言えば、安物の映画が映画の映像を為していないとき、そこには犯罪者が映っていないと捉えてもいい、やはり犯罪者ぐらいは映っていないと映像というのは面白くないのだ。
逮捕された犯罪者のいいところは、もう逃亡する理由がないというところだ、比べて一般の人々は、単に不法性がないというだけで、何かしらの罪を抱えたまま、ずっと逃亡している、だからどう撮影しても映画のワンシーンのようにはならない、だからインスタ映えを狙う人々は、自分の逮捕映像をイメージして撮影すると、何かいいことになるかもしれない(いや、ならないかもしれない)。

人々は本来、法曹の担当者でないかぎりは、誰かが麻薬をやったとかどうとかで、その不法性に注目する必要はないが、人はどうやら自分は漠然と「セーフ」「大丈夫」と思いたいらしいので、法的にセーフでなくなった人に注目し、攻撃してみるという性向があるようだ、そうすることで相貌から魂の成分が抜け落ちていく。
この世の中に、「わたしは犯罪者です」と、決して言えない人というのは存在しないと思うのだが、なぜかこの発想は嫌われていて、履歴書に自己PRとして犯罪者性を書くことはまずない(当たり前か)、犯罪者といって問題は美醜であって、人は誰しも犯罪者であるから醜悪でなければそれでよいのだが、人はどうも信号無視ひとつでも必死で言い訳しようとする向きがあり、このごろはその向きが奇妙に強くなった。
マンガ「ワンピース」でさえ、主人公を海賊に設定しないと成り立たなかったし、「紅の豚」だって当地の司法で見れば犯罪者なのだろうが、犯罪者というのは必ずしも醜いものではないし、必ずしも人を傷つける存在ではない、昨今の人々はこの犯罪者アレルギーによって己の魂を喪失している部分があるように思う。
僕が女の子をいじって、からかって、口説いて、教えて、遊ばせて、いろいろしているうちに、女の子は僕のことを愛してくれるようになったりするけれども、そうして女の子に愛されてしまうというのは、単純に言って犯罪だと思う、そしてそれが犯罪だからこそ、美醜が問われるのだろう、おおむね犯罪アレルギーの(つまりPTA気質の)人にその眼差しがうつくしかったためしはない。

犯罪者がうつくしいわけではないが、うつくしいものが犯罪でないパターンはない。

女の子が僕のことを理由なく愛してくれるのは、うつくしいことだが、それがうつくしいということは、必ず犯罪性を含んでいなくてはならない、犯罪といって近所迷惑とか人を傷つけたりするのは単にダサいことだ、そうではなく、人はそもそも魂に帰ることじたいが犯罪だとみなされているということ/それが世の中のルールなのだからしゃあない、絶対に身内はブーブー言う。
というわけなので、逮捕された犯罪者は、とりあえず失敗したパターンではあるにせよ、割と魂の一部が、その相貌に浮き出しているのが視える、へんちくりんに歪んだパターンも多いが、それをとりかこむ報道記者の顔を見ているよりは、まだ何かが視える感じがするだろう/犯罪に興味を持つのはただの悪趣味だが、犯罪者の顔には「魂の表示」というメカニズムの一端が証拠として現れているのが看取できる。
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「ヨーイ、ドン」がすべてをダメにする
度な理論なので誰にもわかるわけねーが、「ヨーイ、ドン」が実はすべてをダメにしているのだ。
「ヨーイ、ドン」は、それだけでもうルールだからだ、「ヨーイ」のときは動いてはならず、「ドン」が来たら動かねばならないルールだ。
これをやることで、すべてのことは力の衝突、すべてのことは気魄のマウント合戦になってしまう、「ヨーイ、ドン」で取っ組み合えば塩田剛三だってそのへんのチンピラに腕力で投げ飛ばされてしまう。
そんなことは、相撲を見ていたってわかるだろう、相撲の行司が「位置について……」「ヨーイ」「ドン!」とやったら、相撲はまったく別の重量スポーツに変化するはずだ/だから腕相撲はアームレスリングというスポーツになっている、ヨーイドンの代わりに「レディセット……ゴー!」だ。

ワークショップに来てもらえばわかるが、魂魄を本当に操作できると、指一本で腕相撲に勝つことができる/誰だって「んなアホな」と初めは思うのだが、やられた瞬間に「ふおっ!?」とヘンな声をあげてステンと組んでいる手が転ぶ、それは気魄で押していたところ、急に気魄は引いて、その瞬間に霊魂の動きで押すからだ、組んでいる相手は気魄上「引いた」と感じられるのに、挙動は逆に押してきているから、対応できずに(つまり力を入れる瞬間がなくて)ステンといってしまう。
まあ正確には、霊魂に押すなんて機能はないので、ただ移動しているだけなのだが、これは剣術に似ている(誰がわかるんだこの話)、気魄で押して臨界点を作り、気魄が引いて(消えて)霊魂で前に出るのだ、すると相手は己の気魄の残存で "前に出てしまう" から、斬撃がかわせなくなる、つまり動けないというより斬られに出てしまうという感じになる/うーんこんな話をしていても誰のトクにもならんな!!
指一本で腕相撲をし、相手をステンと倒すといっても、「ヨーイ、ドン」でやったらダメだ、そりゃダメに決まっているだろ、それはつまり「ヨーイ、ドン」が魂の可能性を根こそぎ奪っているということだ/「ルールに準じる」という機能を使うと、それだけでもう魂はダメになるのだ、魂にはルールという機能がないので、ルールに準じるためには魂をベンチに下げておくしかない。
なんというか、人の「動く」という機能、移動・近づく・前進・後退というような機能は、実は「力」の機能ではないのだ、だから「ヨーイ、ドン」で "瞬発力" で動くという教育と訓練が、人々の魂へのアプローチをさらに困難なものにしている、本来の正しい動き方は「ヨーイ……消える」だ、これは何も特殊な動き方ではなくて、本来は気魄で「押し」、消えて霊魂で「動く」のが元々の身体の仕組みだ。

「ヨーイ、ドン」という、気魄法の訓練を受けてきていると前提したほうがよい。

酒宴が怒鳴り声になり、友人がマウントの取り合いになり、さまざまな会合がストレスになるのは、これが理由だ、すべての「タイミング」が構造的に内心の「ヨーイ、ドン」だから、そりゃあマウント合戦になるのも当たり前なのだ、むしろヨーイドンの後にマウントを取りにいかない奴は競技をサボっているだけでしかないだろう。
わかるだろうか? 学校あるいは社会は、あなたに魂をやらせないために、「ヨーイ、ドン」という方法と呪縛をかけているのだ、だから学校や社会は、あなたに身近でありながら、あなたの味方という気はまったくしなかっただろう/学校や社会は間違った方法をあなたに与えたのではない、あなたに魂をやらせないという目的に向けて、まったく適切な処置をほどこしたのだ、つまりあなたの直観どおり、学校や社会はあなたの味方ではなかった――もっと別の何かに与したものだった――という、ただそれだけのことだ、冷静に考えたら当たり前のことではある。
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差別の反対にある秘密2

十億人中、5人か6人ぐらいの限定的な超アホは、「差別」と「比較」の区別がついていない/よもやあなたはそんな超限定のアホではないよな。
たとえば、女にモテる男と、女にモテない男がいる、これについて双方は、「別にそんなことで競争なんかしていないし」と言うだろう、それはまったくそのとおりで、どこまでいっても平和なものだ。
ところが、ごく一部の極限定的なアホは、女にモテる男と女にモテない男が「比較」の対象だと思って、女にモテるほうが優れていて、女にモテないほうが劣っていると思っているのだ、こんな激しめのアホは、係員のいないところでバンジージャンプさせ、その後四世紀ぐらい吊っておくしかない。
原理を説明しないまま、テキトーに競争主義()をブチこんだ結果がこれだ、女モテ競争にエントリーしたわけでもないのに、ひとりで差別と比較という矛盾をやりはじめ、ひとりで発火し始めるのだ、その件で発火しているのは銀河系で自分一人だけなのによく死ぬ最期までずっと火がついていられるな、誰をも益しないよほどのドMだろうか。

女にモテる奴と女にモテない奴は、それぞれ別の奴であって、差別的なものだ、差別的ということは比較的ではないということだ、それぞれの人生は完全に別個のもので、お互いはお互いに何のサンプリングも与えない。
差別的なことに競争の鼻息を持ち込むから、こういうアホが出現する、差別というのはそういうことではないのだ、「女にモテない奴でいいか?」というのは、誰と比較することでもない、自分ひとりで決めることだ、競争主義者はこの「自分ひとりで決めること」が存在しているということに、本当に一生気づかないことがある。
競争主義においては、100位の奴は10位の奴にバカにされて、劣等という、レッテルではなく事実を与えられることになる、それで「悔しい」となってバトルが発生する、この悔しさとバトルというのが競争主義の特徴だ、それで戦ったりオリたりして、生涯最期の死ぬときまで「自分は○位だった」ということを抱えて死んでいくわけだが、これは競争主義の話であって、「女にモテるオリンピック」みたいなものはどこにも開催されていない、だいいちその競争を主催する団体がない(団体がなければルールがないので競争できない)。
七十億人中、5人か6人ぐらいの限定的な超アホは、このことを知らねばならない、女にモテない誰かは他人だし、女にモテる誰かも他人だ、他人は何の関係もないぞ/「競争」とは他人と比較することだが、「差別」は他人と比較することじゃない、競争じゃないのだから競う相手なんかどこにもいないぞ、勝負する相手は「自分自身のウソ」だけだ、誰とも比較せずに「自分はこれでいいか」と問い質す、そのときにどこまで自分にウソをつかなくてすむかというのが差別主義者の戦いだ。

競争主義はしばしば、自分自身のウソからの逃避先になる。

100位だった奴が50位になり、50位が30位になると、引き続き10位からはバカにされて劣等という事実は続くが、それにしても「わたし頑張っているもんね」ということにはなる、この中にいると自分は自分自身についているウソのことを考えなくてよくなるのだ、そりゃ「自分は頑張っている」なら、「女にモテない奴でいいか?」という問いかけなんか、正当に聞き流す担保がある……ように錯覚できるな、なにしろ頑張っているからな。
競争主義者は、本当にパラメーターだけを注視して、それ以外のことに関心を持つべきではない、本当に誤解してこじれるからだ、同じ悔しがるなら「彼のほうが女性の経験人数が2.5倍あるから悔しい」というふうに、定量化して合理的に悔しがったほうがいい、ときにはそのほうが正当なバネになるだろう/そのときは、さすがに競技団体まで設立していられないので、誰か競争主義者に「認定員」になってもらい、認定員に向けて自作したルールと競争の目標を宣言すべきだ、競争というのは本当にそういう手続きを取らないと、単なる自己満足もしくは自己嫉妬にしかならない。

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差別の反対にある秘密

別の反対は「平等」ではない。
差別の反対は「競争」だ。
差別をやめても、万事に差分はあるので、その差分をどうするかというと、フェアに「競争」させて決めるのだ。
差別主義の否定したところで、単に平等が訪れるわけではない、「平等な競争」が訪れるだけだ、厳密なスタートラインに並べてヨーイドン、0.1秒でも遅れると金メダルは銀メダルになるのであって、全員に金メダルが与えられるわけではない。

差別主義から競争主義に切り替わると、何が起こるかというと、万事の数値化・定量化が起こる、そりゃ当然、定量化していないものは評価できないからだ、「80点の奴より90点の奴のほうが頭がいい」と定量化しないと、評価がフェアでなくなってしまう。
ただしこのことは、定量化できない成分は捨象するということでもある、たとえば「彼のムーンサルトは開放的だった」としても、そんなことを言い出したら評価がメチャクチャになるので、開放的うんぬんは捨象し、体操としての動作が完全だったかどうかだけを判定することになる。
ところで人々は、何かしら面白い人になりたいし、うつくしさを持ちたいし、感動を抱えていたいし、物語の中を生きていきたいものだ、しかしそれらのすべては定量化できない要素なので、競争主義の中ではすべて捨象されるものだ、人々はそうした「このようでありたい」のすべてについて、アプローチする根本的な方法を与えられていないし、それ以上に、アプローチする方法そのものを初めから放棄させられている。
つまり、何をどうあがいても、面白い人になんかなれないし、うつくしさとか感動とか物語とか、そんなものは永劫手に入らないのだ、なぜかというとそれらは競争的に得られるものではなく差別的に得られるものだからだ、「差別」という感性がはたらいていないと、それらの非定量要素にどのようにアプローチすればいいのか視えなくなる/それで競争主義のままヒステリーを起こして、いろいろしんどくなってしまうというのは、現代の人々のド定番だとみなしても差し支えない。

「競争して決めましょうよ」主義。

まもなく色んなことの審査員は、人工知能に変わっていくだろうので、ますますこの性質は浮き彫りになっていくだろう/「競争して決めましょうよ」という、このフレーズを聞くだけでゲンナリするのはなぜだろう? それは定量化されて比較されて順位を決めるというとき、定量化できる成分が基本的にしょーもないということを人々が知っているからだ、そのしょーもないことでまた死に物狂いで競争させられるのかという、ラットレースの通告にゲンナリしている。
人種差別や性差別というのは、どうせアホの極致に決まっているのだから、もうそんなことは無視するべきだ、必要なことはもっと別のことで/つまり、誰だって競争的に向上していかねばならない一方、同時に「差別的に向上していく」ということも必要だということだ、差別的に向上していくということを考えないかぎり、人は現在の自分の性質を突破することはできない。

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毒親と、「毒」一般の方法
自身、商社マンだったこともあるので、ひとつの方法を持っているのだが、けっきょくタチの悪い業者と「交渉」するとき、一番手っ取り早い方法は、「相手にクソほどストレスをかける」ということだ、単にストレスで相手の粘りをヘシ折るということ、もう交渉もヘッタクレもないようなやり方だが、実際問題としてそれしか効かないパターンも多いのだからしょうがない。
相手にストレスをかけるにはどうすればいいかというと、第一に声がクソデカく、声調が野卑で、そのくせ正論ばかり言い、しかも親しげに距離をグイグイ詰めてくるというパターンが、相手にとっては一番のストレスだ、加えてあえて猛烈に口が臭いぐらいのアレンジはしてもいい/それを積み重ねて、「もうあの人の顔を見るだけで気が狂いそう」という状態にし、担当の従業員が一人か二人ぐらい辞職するようになると、向こうもマイナスが負担できないので、けっきょく折れるしかなくなる。
つまり、社会的なルールだけ守って、実際には心身に「不穏」を浴びせかけていくのだ、だから実際にやっているのは交渉ではなく、相手の毎日を根こそぎ憂鬱にして耐えられなくしているというだけだ、そうして相手が病的に苦しめられていくことに、僕の側は嵩に掛かってイキイキしていくので、相手は本当に気が狂いそうになっていく/まったくサイテーな方法だが、それだけにこの方法は色んなしょうもないシーンでテキメンかつ決定打になることがあまりに多い。
人の身体には色んな毒が巡っているのだが、この毒は、目の前の人から活性が伝染するという性質があるのだ、だからきわめて非人道的な方法ながら、目の前の人が一所懸命生きているのに、それを根こそぎ台無しにしてやる「毒活性」をかけてやるほうが、致命的に有利にはなる/そして相互にそんな方法をやりあっていると、世の中は毒まみれの病人だらけになり、誰もが割と勝っているつもりでいながら、ふと気づくとたとえば国という単位で大負けしていたりするのだ、そりゃ自分の国に毒を撒いてりゃいずれそうなる。

俗に「毒親」という表現があるが、これは当たっていて、ただし子供にとって毒になる親というより、本当は「毒を使って子供を支配する親」と捉えるべきだろう/その支配方法は、先ほど言ったサイテーの交渉術と変わりない。
親だって子供だって、大人だって子供だって、同じ人間であるには違いないわけで、説得力のない親の言うことに、子供が本心から従ったりはしない/子供だってつまらない番組は観ないのだ、子供だって面白い番組を選んで観るということは、「物事を正味から選別する」という能力があるということだ、つまり親の話がつまらないなら、子供だってそのチャンネルは聞き流すということになる。
そこで、よりによって食い扶持を与えている自分のクソガキに、自分の話を聞き流されると腹が立つので、先に述べた「毒活性」を使うことになる、心身に「不穏」を浴びせかけていくのだ、そうすると子供は親の説得力によってではなく、毒戦争の惨禍に耐えられないとして白旗をあげ、毒戦争の停止を申し入れ、代わりに不平等な降伏条約に調印するしかなくなる。
というわけで、業者であろうが親子であろうが、ハズレ組がやらかしていることは同じで、誰でもたどり着くしょうもない方法、「毒・毒・毒!」の戦争でしかない、いつぞやの「引っ越しおばさん」と何も変わらねーじゃねえか/そして毒業者のやりあいが、気づくと全体として大負け組になっていたというように、親子だってせめぎ合いながら、ふと気づくと親子揃って回復不能の大負け組になっているのだ、こういうのはもう、笑い事ではないが、それでも笑って「程度の低い民族」という事実だけを見るしかない(そんなことにまで毒を抱えていたら本末転倒だ)。

毒で勝利できるが、やがてその毒沼じたいが見放される。

仮にA地区とB地区が、旅客の取り合いをしていて、その利権の交渉に、猛烈に毒をやりあったとする、そしてより猛烈だったA地区が勝利したとして、A地区はウヒヒヒとなるかというと、んなバカな、そのときはもう、地区全体に旅客が寄らなくなってくるのだ、そりゃ誰がどう考えてもそんないわくつきの毒沼に一泊しようなんて思わねーよ、AもBも見放されて滅んでいくしかない。
毒沼に住んでいると、本当にその他のことがわからなくなり、毒だけが生きる方法で世界のすべてと思うようになるけれど、もちろんそんなことはないので冷静にどうぞ、そんなもの世界からみて極めてごく一部の地域でしかない/毒のやりあいなんて、いまさら時代遅れのきわみなのだ、いまどきそんなことしているのって日本人ぐらいじゃないか? 全体が毒沼になったら全体が負けますよというのはとっくに世界の常識だ。
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オバサンと少女の違い

バサンと少女の違いは何か、オバサンはすぐ「怒る」のだ。
オバサンというのは、常に「怒る」ということを準備していて、その準備をドカーンとするために、すべてのつじつまを表面上だけ合わせているにすぎない(言い過ぎ)。
たとえば予約していたケーキが、「すいません、市場がバター切れなんです」と手に入らなかったとき、少女はショックを受けて悲しみ、しょんぼりするだろうが(ああ、かわいそう)、そこでオバサンは怒るのだ、「あのさあ、あなたねえ! バターが品薄って、ケーキ屋が○△□×……」。
オバサンだけでなく、オジサンも同じだが、オジサンのほうはまだバリエーションがあるのに対し、オバサンはあまりにも「お怒り」のパターンが多い、オバサンはもう内在的にずっと怒っているとみなしてもいい、だから誰もオバサンとデートしようとは思わないのだった。

少女に「このガキめ」と言っても、少女は人を恫喝するような目つきにはならない、だがオバサンに「このババアめ」と言えば、そのときはどんな恐ろしいものが出現するか、とにかくオバサンの怒りやすさといえばハンパじゃない、「納豆の腐りやすさ」と言っているようなものだ。
人々は、この「怒る」という現象を、なぜかわからないがずっと見落としているのだ、これを見落としているせいで、人々はオバサンを第一に「怖い」と感じていることまでも見落としている/端的にいうと、少女は怖くないのだが、オバサンは怖いのだ、オバサンが常時怒るということはもう誰にも止められないだけに。
もちろん仕組みとしては、瞋恚(しんに・しんい)という、「自分の意に沿わないものには即ブチギレ」という現象が、仏教説では煩悩の大きなひとつに数えられているし、オバサンは自己主張するとき、ブチギレオーラが出ているときだけ話を聞いてもらえるということを学習してきているから、それが常態となるのだが、これは言うなれば、「魅力という力を失ったからブチギレという力を使おう」という方法を、知らず識らず自分で使っているということなのだ、これはあまりにもおっかないだろう。
仮に、オバサンの血流には、常にブチギレホルモンが満ち満ちているとして、いつもオバサンは、それが爆発しないようにガマンしているだけだとしたら、その微笑み……これはおそろしいだろう/われわれは少女とオバサンを、単に若さや美醜で差別しているのではなく、それ以前にオバサンが圧倒的に「怖い」のだ、別に殺し合ったらオバサンは強くはないのだろうが、そういうことではない、気性のイカレた犬に誰が触るかというのと同じ理由で、脅威ではなく危険物として怖いのだった。

ブチギレないようではオバサン失格だ。

仮に、新聞紙をゆるく丸めて、それで通りすがりのオバサンの頭を「えーい♪」と、ポコンと叩いたらどうなるか、そりゃもうとんでもない怒龍が大地を割って登り出てくるだろう、そこでタイやマレーシアの少女をポコンと叩いても、怒龍なんてものは出てこない、なぜかこんな当たり前のことを人々は見落としている。
最近は色んなことがすぐ「炎上」し、何もかも息苦しい世の中になっているが、それは当然「お怒り」を毎日のモットーをしている人たちがいるからなのだ、不品行が排除されるということと、不品行がブチギレ排除されるということはよくよく見ると意味が違う/なぜこの単純な、「少女は怒らない」「オバサンは怒る」「少女は怖くない」「オバサンは怖い」ということがずっと見落とされているのだろうか、どう考えても正当なアンチエイジングというかアンチオバサニングは、顔面を糸でリフトすることではなく、体質からブチギレホルモンを排除することだ。

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女性名を持つという方法3

うミエミエのことなので、ズバリ知っておいたらいいが、「女のほうが上」だよ!! もう十年近く前にすっかりそっちに切り替わった(正確な時期はわからない)。
今なぜ、男尊女卑やフェミニズムがすさまじい火力で言われているかというと、「女のほうが上」だからだ!! 女のほうが上なのに、女に卑をやらせるから、断固許すまじという憤怒の炎が噴き上がるのだ/正確な時期はわからないが、女のほうが上というのをはっきりわれわれは選んだ!! そのことの自覚がないままウジウジやっているから状況にストレスが掛かっているのだ、はっきりいって「往生際が悪い」に尽きる。
なぜ往生際が悪いといって、今になって誰もが薄々、この決定された上下軸のまま魂の往く先が決定したことについて、正直なところ全力でビビっているからだ、女は生であり地であり陰であるから、われわれの魂は最後、陰なる地に昇天することになったのだ、この決定が、今さらどうやっても覆らないということに、男女ともども目を逸らしながらビビり上がっているのだ。
魂の往き先について、もう、すべての男性の魂を下に踏まねばならないと決定したのだ、男性の側は踏まれねばならないと決定した、別にそれはいいのだが、その結果としての往き先に、本当にオールOKかというと、本当は全力で後悔しているのだ、ふぇぇ〜すべての永遠と命と魂と物語の可能性を失ってしまったのだぞ(しかもその真逆の方向へ驀進するという倍増つきだ)、そりゃ目を逸らしたくなるし、わけもわからずブチギレで暮らしていこうということにもなるよな。

男性が女性名を持つようになったら、男性はもう、自分の女性名を特別な名として呼ぶばかりになると思うので、ひょっとしたら、男性(ボディオス)だけは、助かるかもしれないな、というような気がしている。
ただそうして男性だけが助かる手続きを取るということは、むろんその他の一切はあきらめるということだ、だから僕はまだ九折トモエなどという女性名を、ここに定義するのは控えようと思う、だってそれから以降はおれは九折トモエの魂だけ救われりゃいいってことになるからね、まだそんなに慌てるような時間じゃない/クソ宗教みたいな話をしているが、宗教なんかどうでもいい、ただの魂(ソウル)の話だ、大きな声で四回シャウトしてみろ、そこには誇らしい美と物語の声が現れるだろうか? それが悲鳴になるならそれは魂が悲鳴をあげているということだ、クソ宗教みたいにして縋る先を手探りしているのは僕のほうではないのじゃないか。
仮に、人には魂なんてものがあるとして、男が特別な女の名を、魂のうちから呼んだとき、その男はその女の魂を、男の視た「上」へ連れていくということだったらどうだ、もちろんちゃんとした男性でなければ話にならないが/この、男の魂が女の魂を呼んで「上」へ連れていくシステムが、完全に破壊されたのだが、これって本当に破壊してよかったのだろうか? 「よかったわけがない」と、もう多くの人がうすうす気づき始めているのだ、とはいえ破壊してしまったものを今さらどうこういってもどうしようもない、泣いても笑ってもその旧システムは一般にはもうない。
僕は男性なので、あなたが女性だとしたら、僕はどうしてもあなたの上の存在にはなれないし、僕があなたの魂をどこかへ引き上げていくとか、連れていくとかいうことは、もうできないのだ、あなたはどうしても僕のことを、男性として下に踏みつけるしかない、これはあなたの意志ではなくわれわれの「決まり」なのだ/「どうしたらいいのでしょう?」と、訊きたくなるのはすごくよくわかるが、そうじゃない、そこがもうズレている、下から上へ「どうしたらいいのでしょう?」と訊くのは、僕からあなたに訊くのだ、あなたから僕に訊くのではない、どうかそれがマジのことなのだと早めに理解してもらいたい。

今のところ、トモエさんは、僕のことを踏んづけるなど、「とんでもない」と笑っている。

そりゃトモエさんは、ここでは仮に僕の女性名なのだから、僕の見ている「上」を踏んづけるようなことはないだろう、なぜおれがおれの見ている「上」を踏むわけがあるが、おれが見ている上がおれの下にはこねーよ。
実験してみりゃわかるよ、あなたが実験的に、僕の腕の中に入ってきてみればわかる、そのときあなたは僕の腕の中には入らず、あなたの腕の中に僕が入るはずだ、たとえ身長差や腕の長さの差があってもだ/それが軸に定義された「上下」の構造なのだ、あなたが僕をがっしり掴むという主たる感触だけがあり、僕があなたを包み覆っているという感触は起こってこない、これは構造・仕組みの問題なので、どういじくってみてもムダだ、僕の腕の中に入らないやつを僕が連れていけるわけがない、別にあなただけがそうなのではなく、現代においてはほぼすべての女がそうだ、男の腕の中に入る女なんか誰も今どき見たことがないだろう、ごく一部の、トモエさん等を除いては。

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女性名を持つという方法2

田佳祐の「いとしのエリー」、マイケルジャクソンの「ビリージーン」、甲本ヒロトの「リンダリンダ」、甲斐よしひろの「安奈(アンナ)」というように、男はなぜか精神のうちに、特別な女の名を呼ぼうとする性質がある。
これはおそらく、神話的に考えれば、男の魂は呼ぶべき女の名を得てこそ完全な姿になるということなのだろうが、もうそういう時代ではなくなったので、初めから男には特別な女の名を与えておく。
そうすることで、おそらく潜在的精神から刷新されて、セクハラが根本的に減ると思うのだ、あくまでそう予感するとしか言えないが……今多くの女性は、男性が自分の名前を特別なものとして、精神のうちに呼んでいたと考えると、それだけでゾッとするというか、すさまじいセクハラと感じるだろう、その根本から是正しないとこの状況は変わらないのだ。
精神のうちに、特別な女の名を呼ぼうとするということ、つまり、どこぞの男が日記をつけていたとして、その日記に、複数回にわたってあなたの名前が書いてあったら、それだけで絶望的にイヤだろうということだ、それでもつい男はそういうことをしてしまうものなので、そうしたことが起こらないように、もう自前の女性名を与えておくということだ、そうすればもうあなたの名前は男の精神にも呼ばれなくなり、その日記にも書かれなくて済むようになる。

なぜこのような状況が始まったのか、これがいつからのことで、何が理由で始まったものなのか、その経緯はまったくわからない。
ただ言いうることは、二十数年前、つまり平成の初期ぐらいまでは、たとえばクラスメートの男子の日記に、「あなたのことがたくさん書いてあったわ」ということがあれば、それはドキッとし、「えっ……」と、いちおうの「ときめき」を覚えることであったはずだった、その先に交際するかどうかはまったく別のこととしてだ。
それがいつのまにか、全力でキモい、「えっ……」というのもときめきではなく「ドン引き」のきわみというふうに、いつから変わったのだろう、これでは思春期の男性たちがアニメや声優やアイドルの世界に亡命していくのもやむをえないのだ、なぜなら少なくともアイドルは、その名前を部屋で呼んだり日記にこっそり書いたからといって攻撃はしないしドン引きはしないからだ、もちろん彼女らは事務所に守られているし、名前を呼ばれるぶん献金を受け取っているからだということもあるが……
一方で、これは別に女性を悪く言っているつもりではなく、確かに現代の男性に、こっそり名前を呼ばれていたり、名前を日記に書かれていたりすると、僕だってなんとなく「きもちわる」と思ってしまうのだ、われながら冷血漢ぶりがひどいと思うが、たとえイージーにもそう思ってしまうものを、ウソで隠蔽していてもしょうがない/男性が特別な女の名を精神のうちに呼ばせてもらえなくなり、こっそり日記にも書かせてもらえなくなったのは、そもそも「言葉」というものを失ったから、言葉を持たない人がわたしの名前を日記に書いたりしないで!! ということなのかもしれないと思う、まあそれにしても、すべては男性が自らの女性名を持てばさしあたり解決はしそうなのだった、男だってその女性名で人に呼んでもらえるほうが気楽だろう。

「言葉」が失われて、「呪」の世の中になり、男の日記に名前を書かれるということは、性的デスノートに名前を書かれる気分になるというのは事実だ。

呪いというのは実在しておらず(当たり前だ)、ただ呪いを信じる人同士は、信じ合っているのでグハァとなってしまうというだけなのだが、事実上「呪い」の世の中になってしまったので、いっそ「諱(いみな)」の文化を再興するときなのかもしれない/とはいえ、あまり僕も詳しくないので知らないが、呪いをよけるために諱を用いたなんてのは、たしか江戸時代とかの話だぞ、そんな前近代的なことをわれわれはやらねばならないのか、率直に言って全力のアホで時間の無駄にしかならないだろう、それよりはやはり男性が己の女性名を持つように義務づけるほうが進歩としてまともだ。
男性は、魂のうちに、女性と一心同体になろうとするはたらきがあり、そのことの結果として、精神のうちに特別な女の名を呼ぼうとする性質が現れるのだが、実情として「呼ばれちゃかなわねえ」という生理的嫌悪があるので、これをどのように解決するか、ここまでアニメと声優とアイドルの名を呼ぶ人が増えたのだから、そこに自分自身の名(女性名)を呼ぶということが加わっても、何も不思議はないというか、むしろ最も健全でロスがないのではないかと思うのだ/過去にそういう施策がなされたことがどこかの地域や歴史にあるのか、もし心当たりのある人があればぜひ教えてほしい(ねーよそんな心当たりはよ)。

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女性名を持つという方法

れから先、実際に起こってくることだと思うのだが、そもそも一人の人間に、一つの名前を当てはめるということに限界が来ている。
さしあたり女性は、女性名だけ持っていればいいと思うのだが、この先男性はムリだ、男性は男性名と女性名を両方持つ必要がある。
そもそも、一人あたり名前が一つということにも、何の根拠があるわけではないので、出産時に名前を二つ付ければいいのだ、男性名と女性名、つまりボディジェンダーと精神ジェンダーを区分けし、ボディジェンダーがどちらであれ、精神ジェンダーは誰もが両方持つことにすればいい、戸籍にはボディジェンダー(オス・メス)を記載すると共に、それより重要な項目としてダブルジェンダーの名前を記載するわけだ。
たとえば僕の場合、ボディジェンダーはオスだが、精神ジェンダー男性名は「九折空也」、精神ジェンダー女性名はたとえば「九折トモエ」とでもつけておけばいい、それで適宜、空也さんと呼んだりトモエさんと呼んだりすればいいのだ、こうすればもう、今とやかく言われているセックスのホモだのレズだのヘテロだのは、メジャーもマイナーもわからなくなって雲散霧消するだろう/今のところ女性を次郎長呼ばわりすると侮辱と言われるかもしれないので、ボディメスは女性名だけを義務とし、ボディオスは男女両名を義務とすればいい(今のところ男性をハナコちゃん呼ばわりしても、それが侮辱にあたるという声は上がらないだろう、逆に盛り上がるネタのきっかけになるのじゃないだろうか)。

本来、男の精神のうちには、愛する女・愛した女の名前がなくてはならないという気がするのだが(なんとなくだ)、男が女を愛するという仕組みは一般に終焉を迎えたので、もう前もって、自分の名前として女の名前を与えておけばいいのだ/たとえばボディオスが出生から「ロミオ」という男性名を持ち、同時に「ジュリエット」という女性名も持っていれば、もうロミオとジュリエットが出会って愛し合わねばならないというストーリーはなくなる。
現在、腐女子と呼ばれる性向の女性はものすごく大勢いて、これはボディオスとボディオスがそれぞれネコとタチに分かれて愛し合うのを嗜好するわけだから、その実情に当てはまるように、ネコ側に引き当てられる女性名を出生時に与えておけばいい、じゃあネコとタチといっても実名ハナコとタロウなのだから、もう何がおかしいというわけでもなくなる/ずっと先には、すべてのホモサピエンスが、遺伝子工学か外科手術によって、両性具有になるかもしれないので、その橋頭堡として男性名・女性名の両方を持つというのは十分に妥当な案だと思える。
現在、われわれの文化は、男性の何もかもを認めないということを、基本的に決定している、男性が認められるのはほとんど公共の福祉に尽くしたときだけだ、これでは男性(ボディオス)はもう何も機能できないので、男性は尊崇されうる文化的・精神的・創造的な仕事を為すぶんにおいては、主に女性名を使うようにすればいい、そうすればいくらボディがオスでも、そこまで否定的な攻撃は受けなくなるだろう。
これはリアルな話をしているのであって……たとえば僕が今こうやって書き話していることについても、読み手は「空也さ〜ん」というノリにはならないだろう、でもここで同時に女性名もあって、「トモエさ〜ん」と呼ぶことが認められ、何であればそちらがメインだということになれば、読み手としてはずいぶんラクではないだろうか? 女性名さえあれば、大いにこうした書き話しについても、穏やかに認めるなり、場合によっては尊崇するということも可能になる/このことの、是非はさておき、そうした状況はすでに確実に到来している、あなた自身で確かめてみればいいが、男性名「空也さ〜ん」と認めて呼ぶよりも、女性名「トモエさ〜ん」と認めて呼ぶほうが、なぜかストレスは大幅に少ないはずだ、それはすでに現在のわれわれの文化が、男性の創作や発言や愛を認めないと決定しているからだ、ことに男性名から語られようとする愛は決して認められる余地が現在なく、無条件で攻撃の対象にしかならない、それが女性名から語られようとする愛なら、むしろ加速的に尊崇されるという向きがある、そうして愛が認められたり尊崇されたりするなら、そのほうがはるかに大事なのであって、そこは別に男性名でも女性名でもかまわないだろう。

もう数年以上、われわれの精神的指導者はオカマだが、女性名さえ持っていれば、それはオカマである必要はない。

さすがに一般人が「マツコデラックス」とか「ミッツマングローブ」とかのド派手な名前を持つと、社会生活上にムリがありすぎる、だからごく普通の名前でいいので、基本の名前のすべてを女性名にしてしまえばいい、安倍晋三も同時に「安倍ハナコ」として、通称ハナコ総理と呼べば、われわれはここまですべてのことに敵愾心を高めている必要はなくなる/何であれば、このダブルネームが実現されれば、度が過ぎた「キラキラネーム」の風潮も鎮静するのではないかと思えるのだ、さすがに男性名も女性名もキラッキラではクドすぎると感じるのではないか(そうでもない?)。
男性も今、女装趣味が流行っていたり、「男の娘」なんてブームもあるのだから、すでに潜在的とはいえないほどに、急激なメス化が起こっているのだろう、だからむしろ男性たちの側から、女性名を持たせてほしいという要求があってもおかしくない状況だ、今多くの男性がきっと、女性名を持たせてくれたらなぜか「ホッとする」と感じるところがあるのではないだろうか、もう攻撃されなくて済むようになるし、ボディオスの精神のうちには特別な女の名前が必要であって、それを自分の名前として与えてもらえるのならば、病的なアニメやアイドルへの耽溺からも逃れられるかもしれないからだ、何しろこころの中で呼べる特別な女の名前がもうあるのだから。

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白痴と憤怒と中毒のカクテル
れわれは寂しいので……
加齢して死が近づくにつれ、まったく適切でない対処療法を取り出す。
ひとつには、「わたし何にもわかりませーん」とする、ひとつには「とにかくブチギレ」、ひとつには「ずーっとミカン食ってる」「ずーっと酒飲んで、パチンコ行って、アル中」、この三つがある。
だいたいこの三つがブレンドされたカクテルになる、もちろんいい味がした試しはない。

年をとると、死が近くなって、寂しいまま死ぬことに直面できないので、三種の原酒、「白痴」「憤怒」「中毒」をカクテル、どれも意図的なものだ。
愛がなかったんだものな、物語もな、命も、言葉も……そうなるとだいたい憤怒する、憤怒しても何も変わらないが、憤怒しているうちは寂ではなく憤怒になれる。
別にこんなことは、誰がダメとか、誰が偉いとかいう話じゃない、それ以上に、誰かのことにはできない話、これについては自分が自分限りで向き合う話だ。
さあ女の子は、きれいなうちに、ネックレスで胸元をかざって、おれのTシャツに飛び込んでこない? 汗臭いかもしれないが、それはお前がおれの相手をしておれのケアをしないせいだから、お前の仕事が放ったらかしになっているってことだ。

このカクテルだけは、乾杯はするがゴミ箱に捨てる。

だって冷静に考えれば、これは毒液であって、酒ではないからね、寂に向き合うのはそれぞれ自分限りのことだから、そのことにわれわれが口出しする必要はない、寂が永遠に続くのか有限で終わるのかは誰にもわからない、おれにしかわからない(と妄言)。
カクテルが悪いというわけではないが、このごろはずーっと怒っている人が増えたな、それがどうなるって、どうにもならずにそのまま行くよ、でもそれはおれたちの話じゃないから。
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「険悪法」というコミュニケーション方法2

ういえば僕は、誰かと直接会うと、「もっと怖い人だと思っていました」とよく言われる、ほとんど毎回のようにこれを言われる。
それはまあ、このブログ等、めちゃくちゃ書くからな、そういうふうに誤解されてもしょうがないが、これはあくまでテクニックのものであって、短く切り詰めてスリリングに書かないと「面白くない」のだ、僕にとってではなく読む側にとって、大前提としてズバズバやらないと面白くないからそのようにしているにすぎない。
僕だって怒ることはあるし、むしろ怒ったときには険悪とかいう次元では済まないが、僕はそんなバカではないので、何かの価値観や何かの気分でキレたり怒ったりすることはない、僕が怒るのは相手がバグっているときだけだ、そのバグは放置していると当人が病気になったり行方不明になったりするので、しょうがなしに強制終了させるためにカミナリを落とすことがあるだけだ。
実際、これぐらいは僕だって自信を持ちたいのだが、僕が誰かと会ったとき、僕が初めからいきなり不機嫌だったことなんてないんじゃないか、もしそんなうっとうしいことがあったら僕はこころの底からお詫びするだろう、まあ絶対ナイけど/僕は誰かが遅刻したり、礼儀やら敬語やらを心得ていなかったり、物事をまったく知らなかったりしても、そのことを理由に怒ったり説教したりしたことは、ここ十年以上に亘ってないはずだ、僕は単純に「もう怒るのやめましょーよ」と言ってまわりたいぐらいなのだ、いくら怒気を振り回してみても、勝てなかった者が勝ったふりをすることはできないのだから。

そもそも僕は、怒らなくても誰だって話を聞いてくれるので、怒って話す理由じたいがない。
僕が、「うおお〜ほらこれ、○万円もする万年筆を買ったぜ!!」と、通りすがりの女子中学生に話しかけるとしても、その女子中学生は僕の話をちゃんと聞いてくれるし、ちゃんとお話も返してくれるので、僕としてはそこでブチギレる必要がない。
おれがナイスな感動について話すのに、それを聞いてくれない美女ないしは美少女なんて存在しないし、そもそも聞いてくれない人に向けては僕は話しかけることをしない、そりゃ当たり前だ、聞いてくれない人に話しかけてどうする。
あれ? ということはひょっとして、話をするのに前もって、相手が聞いてくれるかどうかがわからないという人が多いのだろうか、だから前もって険悪にストレスを掛けてから話しかけようとするのかもしれない、自分が恥を掻かないために。

僕の恋人は、僕の話を聞いてくれるので、つまり、すべての女の子は僕の話を聞いてくれるということだ。

見よ、このブチギレとは対極にある、雄大で風の吹き抜けたる爽やかな愛を/と、話をテキトーにしてしまったが、大筋は合っていよう、まともなコミュニケーション方法があれば、何も険悪法などという邪道の方法を用いる必要がない、そもそもまともなコミュニケーション方法があれば、前もって話を聞いてはもらえない人は見るからにわかるので、そんな人に話しかけることはないし……という、こういう一切のことが実は多くの人にはわからないのかもしれない。
というわけで、もはや何の話でもなくなってしまったが、僕は実物としてはそんなおっかない人ではないし、むしろ多くの人に「こんなに地雷のない人を初めて見た」と言われるぐらいのものなので、そのあたり誤解のないように、だいいちおれのように偉大な存在がお前らみたいなモンにいちいち怒るとかブチギレるとかあるわけがなかろう、おれが好きなのは下っ端への暴虐であって説教ではない(暴虐は大好き)。

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「険悪法」というコミュニケーション方法
際問題として、現代日本においては、なぜか誰も彼も、ずーっと「怒っている」ような気がする。
老人が目立つが、老人に限ったことではなく、オラついている若い人も、バイト探し中のお姉ちゃんたちも、小学校の女教師も、新入社員を教育する課長も、そして街ゆく立派なはずのご老人も、何がずーっと「怒っている」のだ、何かもう初めから、何もなくても不機嫌で剣呑で、声も目つきも険悪で威圧的だ、何をそんなに怒っているのだろうと思う。
おおよそ察しはつくのだが、たいてい、サラリーマンが三十路近くなり、部下というか後輩を持つようになると、業務を指導するのに、「険悪に言わないと聞いてもらえない」ということを学習するものだ、とにもかくにも「キツく言う」「キツく当たる」というのが唯一のコミュニケーション方法になってしまう、そしてそうしたものはもう二ヶ月もあれば方法として染みついてしまう。
どう考えても、現代のコンビニの店員が、近隣の老人の立ち話に付き合う気にはなれないだろうので(コンビニ店員は見るからに忙しそうだ)、老人が話しかけても店員はそっけないものだろう、当たり前だ、それでどうすればいいかというと、老人は唯一「ブチギレ」のときだけ、話を聞いてもらえるのだ、実はそんなしょうもないことで、われわれの現代空間は成り立ってしまっているところがある。

実際、リアルな問題として、今さら誰が誰の話を聞くものか、という状況がある/われわれはだいぶ前に、他人と何を話せばいいのかを見失ってしまった。
われわれはこの先、赤の他人と向き合って会話するのに、「クレーム」以外の場面を持たないだろう、「どうなっているんですか!」「あなたねえ」「無責任でしょ!」「どうするつもりなの!?」、そうした怒号だけが他人とのコミュニケーション方法になるだろう/だって本当に、もうそれ以外に他人との話し方なんてわからない人がたくさんいるのだからしょうがない。
そして、そうして「ブチギレ」のときだけ唯一話を聞いてもらえるとして、それはもちろん、何か正当だから聞いてもらえているわけではまったくなくて、単にストレスとリスクの負荷を掛けているから、相手が動けなくなって、しょうがなしに相手が話を聞く羽目になっているだけだ/そうまでしてわれわれは自分を慰め、自分がこの世界に存在しているフリをしないと、不安で悲しくてさびしくて生きていけないという情けない性分を持っている。
けっきょく、元のコミュニケーション方法が壊滅しているので、唯一残されているのが、この邪道の極みたる「険悪法」ということになるのだが、われわれはこぞってアホなのだろうか、けっこうそうなのだろうと思う/僕だってオッサンの一人だが、もし僕が他人と話すのに前もって険悪さのストレスを内包してそれを使うようになったら、そのときは世界中の全市民で僕のことを無視してくれ、おれにだけ核兵器を落としてくれてもいい、おれはよりにもよって前もって険悪なオッサンなんてものは大キライなのだ。

日本人はすぐキレる。

まだあちこちでバラつきはあるが、何かちょっと思い通りにいかないとすぐにキレる人が実際に多いじゃないか、何しろ初めから怒鳴るような声で話している人も多いのだ/ちょっと僕は冷静になって首をかしげるのだが、人ってそもそも、そんなにすぐに怒るものだっけ? いくらなんでも、怒りんぼとかいう次元を超しているんじゃないか。
政治家の街頭演説は何か「怒っています!」というような演説だし、向こう岸では活動団体のほうも「怒っています!」という行進だ、「怒る」ってそんなに毎日見かけるものだっけ? 僕はそもそも「怒れ、憎悪しろ」なんて積極的な教育は受けてきていないし、「怒る」という方法が優れた方法だとも思えないのだ、いくら効果的だからといってそだけで優れた方法と魂から認める気には僕はなれない。
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単なる自分のキモチよさを「愛」と言い張ってしまう2
るいはわかりやすく言うと、こうしたわけのわからない記事を書くにしても、僕は書き話すことに自分のキモチよさはまったく得ていないのだ、僕はもういわゆる自己上昇を「キモチいい」と感じるということがどういう現象なのか感覚的にわからなくなってしまった。
とはいえ僕にだって、キモチいいとかキモチ悪いとかいうことはむしろ猛烈にあるので、この猛烈な現象をよくするためには、世界にキモチよくなってもらうしかないのだ、それで僕はえんえん書き話しているということになる。
「世界にキモチよくなってもらう」といって、それはもちろん、世の中を変えようとしているわけではない、世の中が変わるなら変わったほうがそりゃいいだろうとは思うが、われわれの知っている「世の中」というのは、「世界」ではまったくない、「世界」というのはしょせん人為でどうこう変わるものではないので、僕はもともとある「世界」のキモチよさがこのときに恢復して現れてくるように作業しているだけだ。
僕はもともと、このことを「愛」とは思っていなかったのだが、ここ数年で情報を整理していくと、これが「愛」なのかと理解するよりなくなったのだ、一時期は「世界愛」という言い方もしていたのでそのとおりだ、僕は自分がキモチよくなるという現象がすでにわからないので、世界がキモチよくなる(キモチよさをこのときに恢復する)ということに日夜励むしかないのだった。

僕はよく、「おれのことを愛さない女はアホだ、気が狂っている」というようなことを言うが、そのように言えば僕がキモチよくなるから言っているのではなく、そのように言うしか世界がキモチよくならないから、そのように言っている。
ここできっと、幾人かのまともなレディは、僕がそのように言うほうが「確かに世界はキモチいいわね」と同感してくれると思うが、問題はその先だ/その世界のキモチよさに連動して、飛びつくふうに、自分のキモチよさをぐいっと持ってくるパターンがある、これが誰にとってもよくない。
世界がキモチよければ、その愛に接続している全員が問題なくキモチよくあれるわけで、そこにセルフオンリーのキモチよさを持ち込んでくるのはとてもよくないことだ、どうしてもわれわれはアホで、自分だけ人よりちょっと優れているとかちょっとだけ偉いとか思い込みたいものだから、そんなことの必要がないところにも、ササッとセルフオンリーのキモチよさを持ち込もうとしてしまう。
たとえば麻薬中毒者がいて、彼は注射器でドラッグを腕にプスーとすれば、彼かぎりでキモチいいのかもしれないが、そんなことで世界はキモチよくならない、だから僕はドラッグを腕にプスーとはやらない、似たようなことがいくらでもあるだろう、われわれはどうにかして「コイツがいるおかげで世界はキモチよさを恢復している」ということに寄与している一人にならねばならない。

僕はあなたのキモチよさにはまったく寄与しない。

しばしば、このことで誤解を受けているような気もするのだが、僕はどれだけ女の子が好きであっても、それは僕が美女と美少女を愛しているほうが世界がキモチいいからそうしているだけであって、何も僕個人のために美女や美少女を愛好しているわけではないし、僕個人のために美女や美少女を笑わせたり彼女らに景色を見せたりしているわけではない/僕が美女と美少女に薔薇の花束を差し上げたとしても、僕の内には彼女らをキモチよくさせようとする意図はまったくないので、そのことだけお知りおき願いたい、そしてもしそのことか気にくわないというならば、あなたはもともと僕のことがキライなのだ。
僕が美女に薔薇の花束を差し上げたときは、それが世界をキモチよくするのに最も妥当だからそうしているのであって、当の女性がキモチいいかどうかなど、正直一ミリも考えたことがない、だいいちそっちの線で考えるなら、僕なんぞから花束をもらってキモチよくなる人はセンスがおかしい/僕はそのように、愛を最優先に物事を考えているところがあるが、その「愛」というのは僕のキモチではない、あるとしたら世界のキモチだ、だからそのときの花束も世界からのものであって、僕がその代行をしているのはそのときたまたまそこにいたからでしかない、そもそも「世界」に主体がないと思っているから世界のキモチに気づかないわけで、本当に主体があるのはむろん「世界」だ、この主体なしにはわれわれには「我」しかない。
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単なる自分のキモチよさを「愛」と言い張ってしまう
れわれはどことなく自分を偉いと思っているので、自分が偉くなるチャンスが来ると、つい飛びついてしまう。
われわれは、自分が何かを愛するといって、自分の決めたキモチひとつでパッと「愛せる」と思っていて、愛に関連しては常に自分が偉いものになってしまう。
つまり、一種のアジテート・ソングのようになってしまうが、自分が何かステキなものを見つけて、「愛してる(かも)!!」となると、それだけで「あたし・ハイレベル」に自己上昇してしまうのだ、つまり「何かを愛してるあたしイケてる!!」になってしまう。
これは宗教などでも同じで、何かを熱烈に信仰していることの背後には、たいてい「信仰度の高いあたしイケてる!! 一般の人よりハイレベル!!」という自己上昇があるのだ(そうなると自分がキモチいい)、むろん愛というのはそういう現象では本来ないのだが、ほとんどの場合は愛が何であるかということより、単に「自分のキモチよさ」だけが基準になって、そのまま異論は検討もされず生涯の終わりまで突っ走るばかりになる。

愛というのは、自分がキモチよくなることではないし、自己上昇に鼻息を荒くすることでもないのだが、けっきょくこのことの魅力に抗えることは少なく、つまりは「愛」と「興奮」の差さえわからないまますべてのことは終わっていってしまう。
むろん本当にはそうではないのだ、もし本当にカミサマを愛することがあったとしたら、そのときはカミサマが偉いのであって、カミサマを愛しているあたしが偉いわけではまったくない。
最近はアイドルブームが続いていて、アイドルブームが続いているということは、「ファン」という現象が続いているということだが、「ファン」というのは楽しみという意味のファンではなくて、「ファナティク:狂信者」という意味のファンだ/だからアイドルとファンの関係というのもどうしても、イケてるアイドルを愛している(つもりの)ファンが自己上昇するという、つまりファン側のキモチよさで成り立ってしまう、ファンたちは本当にアイドルを愛しているわけではなく、自分のキモチよさを愛しているので、そのファンたちのキモチよさを損壊した場合には、ファンたちのキモチは一気にアイドルへの攻撃・炎上のほうへ転じる、だからそれはもともとが愛ではなかったということのわかりやすい証左になる。
われわれは、自己肯定感を求めているのに、それがいまいち得られず、しかし一方ではもともと自分を漠然と偉いと思っているものだから、自己上昇の機会を与えられると、スルッとそれに飛びついてしまうのだ、そうして実体のない自己上昇にすがりつくのはいかにもいかがわしいし、何よりそれを愛と言い張っているのは実によくない/同じことを繰り返して言うことになるが、もしカミサマを愛することがあったとすれば、それはカミサマが偉いのであって、カミサマを愛している(つもりの)自分が偉くなるわけではまったくない。

愛でキモチよくなるのは、「あたし」じゃなくて「世界」だ。

カミサマあるいはカミサマ的なものがそこにある場合、カミサマはイコール世界なのだから、世界ってすごいねキモチいいわとなるだけで、あたしの偉さやキモチよさがどうこうということは消し飛ぶ、そのときすべてのアジテート・ソングは鳴り止むだろう、そんな音響を立てなくてもこの世界にはもともと「寂」のうちに鳴り響いている無限の荘厳があることがひしひしと聞こえてくる。
少しでもまともに愛や世界のことが見えたら、「あたし」の自己上昇なんか、何の意味もないと強制的にわかるはずだ、たとえタワーマンションの最上階で暮らしたとして、それがちょっとでも銀河系をはみ出すことになると思うかね、われわれが世界において自己上昇するというのは冗談でなくそういうスケールのことだぞ、それでキモチよくなれるとしたらその人はものすごい勘違いをしているのだ。
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「どこの人」

渕剛の「とんぼ」という歌に、「♪死にたいくらいに憧れた 花の都 大東京……」という詞がある、僕はこの歌詞のことがよくわからない。
というのは、東京が日本の首都であることは社会的な事実だし、そうしたGDPの高い花の都に憧れを持つのは、「ふつうに健全なこと」としか僕には思われないからだ(ただしむろん、僕にわからないからといって、それを悪く言っているのではない)。
一方で僕は、今東京に住んでいるわけだが、実は昔から、東京に憧れたことは一度もなかったのだ、なぜ憧れなかったかというと、特に理由はなくて、万事「あんまりよくわかっていなかった」ということに尽きる/正直なところ神戸のうつくしさを知ったのもむしろ近年になってからだと思う、僕はたぶん本当に何もよくわからずに生きてきたのだろう。
ただ学生のころ、所用で初めて東京に出て、そこで新しく得た友人と酒を飲んで、女の子と遊んでもらったりして、「いやあ、東京っていいところだなあ」と単純に思った、ただそれだけのことしかなく、現在に至っている(相変わらず役に立たんレポートだ)。

最近、中央と地方という構造に目を付けているのだが、目を付けているくせに、実は僕自身が中央と地方のことがよくわかっていない。
何しろ僕自身は、中央に憧れたことがないし、同時に、地方の地方らしさもよくわからないで生きてきたのだ、僕は大阪の南部の出身だが、きっと子供のころからそうした「地域」のことがまったくわからずに生きてきたのだと思う、だから僕はありとあらゆる共同体の中に入れず、ずーっと一人で浮いた状態で生きてきた。
一人でずーっと浮いてきたといっても、僕に友人のいない時期はなかったので、なんというか、やはり現在と変わらず、周囲から見れば「なんだコイツ」と不思議がられるような奴として生きてきたのだろう/僕は地方のことがわからず、そのぶん、中央に「憧れる」というその感情のこともよくわかっていない。
僕はただ、愛と遊びと出会いとその他が好きなだけであって、それに付随して自分の好きな場所と、そうではない場所、もしくは「いてもしょうがない場所」を見ているだけだ、だから僕にとって東京は東京であり、いちいち「花の都」とは思わないし、死にたいくらいに憧れるというのも、「新幹線で来られますよ」としか思えない、まあでもそういうことじゃないんだろうな、でも東京駅で降りたらそこは東京だけどな。

僕にはそもそも、「どこの人」という感覚がない。

仮に僕がパキスタン出身だったとしても、それで僕が「パキスタンの人」になるかというと、んなアホなという気がする/あるいは、よくお好み焼きやたこ焼きのことを大阪人のソウルフードとか言ったりするけれど、僕には何のことを言っているのかさっぱりわからない、別に大阪人が食おうがブルガリア人が食おうが「たこ焼きは同じなのでは……?」と僕は思っている。
つまり、出身地にソウルが関係ありますか? そりゃあなたがソウルのことを勘違いしているんじゃ……と、僕はどうしても思っているのだった、地域に文化差があるのは誰にでもわかるが、それは人のソウル(霊魂)に何のカンケーもねえよ、もう「どこの人」なんて寝言をぬかしている連中は、まとめてイナバ物置に詰めてどこかの海溝へ沈めてしまおう、「マリアナ海溝のイナバ物置の人」ということで爆裂アイデンティティをドッコイショしてろや、と暴言を吐きたくなるので、もうこのへんにしておこう、とにかく僕には終生「どこの人」という感覚がないのだった、そういうことでよろしく。

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貧困恐怖と神経症2/自分が高度生産しているイメージを未来に描くべきだ
来の貧困を危惧するのは理性の範囲において正当だが、それが「恐怖症」になり、震えあがって精神を失調するのでは、ただのビョーキだ、そしてただのビョーキになってしまったということは、未来に向けてグーンと不利になってしまったということだ、それぐらいのことはさすがに判断がつくだろう。
そして、この先はもう「納得」がいかないレベルなのかもしれないが、納得がいこうがいくまいが理は曲がらないので、当たり前のことを言うと、人は高度生産者にならなければ、貧しい人になるのだ、当たり前だ!! よもや馬券や宝くじをアテにするわけでもあるまい。
われわれを取り巻く環境は確かに厳しいのかもしれないが、それは氷河期を憂いたって気温が上がるわけではないというのと同じで、嘆いていてもしょうがないことだ、氷河期がきたら生産者は寒冷に耐える農作物を検討し始めるべきであり、アンチ氷河期マンとなって日々に悪態をつくのは何のideaとも呼べない、それはただの趣味でしかない。
ひょっとすると、そもそも「貧困恐怖症」という神経症があるということを、まともに知らされていない人のほうが多いのかもしれない、だとすると自ら「健常」というステータスを放り捨てて生きていることに、まるで気づいていないということがあるのかもしれない、だとするとひどいお笑い種で、場合によっては国全体や地域全体で、高度生産しない!! という神経症的団結を為している可能性さえあるのだ。

若い人は、どーーーーーーーーーーー考えても、自分が高度生産しているイメージを未来に描くべきだ、イメージはタダなのだし、イメージさえ持てないものがいきなり実現するわけがないだろう。
イメージが持てないというのは、そのイメージを形成するために必要な情報や勉強が不足しているという場合がほとんどで、そりゃ勉強不足のままイメージだけねつ造しようとするのはただの妄想になる。
この世界に高度生産を為してきた人たちの情報が開示されていないなんてことはありえないだろう? 自分がそれを為せるかどうかについては、何を確信しているのか知らないが、それができるとかできないとか、どちらにせよ確信できるほどわれわれは頭がいいのだろうか、それだけ自分は絶対頭がイイと断定する場合はしょうがないが、僕はすべてのことは自分がまともに冷静にひとしきり取り組んでみないと「わからん」と考えている、それは僕が自分をそれほど頭がイイとはみなしていないからだろう。
人は貧困恐怖から神経症になると、それだけで神経をやられており、体内はいつも毒が脈打つのが当たり前になっているので、それだけでもう「自分が高度生産している未来のイメージ」なんか描けなくなる、しかしそんなお粗末な状況をいったい誰のせいにできようか、イメージぐらい自分の好きなように描けばいいし、描こうとするイメージが途切れるならそれは単に勉強不足なのだ/昨日より今日の生産性を1%だけ上げると、一年後に生産性は38倍になっているし、逆に昨日より今日を1%だけ下げるならば、一年後には50分の1になり、生産性はほとんどゼロになっている(1.01^365 と 0.99^365)。

友人の夢を否定することが、貧困恐怖の始まりだ。

友人の夢、つまり、「一年後には生産性を38倍にする」と友人が言っていたのを、何かしらバカにしたり否定したりしてきたので、いざ自分がその発想に立とうとしても、過去の自分の行為がこれからの自分の行為をキックするのだ、なんてバカな話だろう/どうしたらいいといって、単に自分の誤りを悔い改めて己を愧じればいいだけだ、そんなことは三十秒で済むだろう、だからさっさとやれ、冷静に考えろよ、<<自分が高度生産しているイメージを未来に描かない人はそれだけではっきりいってビョーキだ>>。
何かに毒づいたり、体内に毒を脈打たせたり、ため息合戦や現実合戦をしている場合じゃないの、さっさと「高度生産!!」と叫べ、そんなこと二秒で済むだろ/あなたが夜ぐっすり寝て、かつ友人でない誰かの無意味な圧迫や呪いから逃れるために必要なことは、何かしらの癒しとかオナニーとかではない、一年後に生産性が38倍になっているイメージだ、そのイメージのほうが友人でない誰かより何億倍も大切だろう。
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貧困恐怖と神経症
かし、郊外や地方や田舎というと、都会とは違ってのんびり、ゆったりとしていたはずだ/特に、昔話のような「おじいさんとおばあさん」がいるかのように思われていた。
今でもそうした「地方」はあるのかもしれないが、このごろはどうも逆のような気がする、都心部の若い女性のほうがゆったりしていて、地方の老人のほうが余裕がなく、何かに追い詰められたような目つきをしている。
といって、誰だって東京と地方の両方で仕事を経験すると、そのペースの差がどれほどのものかを、いやがおうにも知るもので、まず地方の仕事が都心の仕事よりハイペースということは少ない、都心の仕事は冗談でなく「忙殺」ということが成り立つ場合がある。
なぜ地方の老人のほうが追い詰められているのか、不思議で考えてしまうのだが、ひとつの可能性としては、単純に「カネがない」のだろうかと考える、誰もそんなことは公言しないのであくまで可能性のひとつでしかないが、もし目つきの不穏な地方の老人のすべてを、単純に「カネがなくて追い詰められている」と仮定すれば、相当な範囲でつじつまは合うのだった/全体の状況なんて誰にもわからないだろうが、日本の製造業が敗北した事実がついに日本の地方窮乏という現実に反映され始めたのだろうか?

ただひとつだけ、明らかなことがあって、「貧困恐怖」というのは神経症のひとつだ、人は誰でも将来の窮乏に不安を覚えるものだが、その不安に対してパニックになる・精神的に失調するというのは、まさに神経症で、明らかに百害あって一利なしだ。
将来に不安要素が大きくあり、あるいは現在すでに窮乏の状況があったとしても、そのことでパニックになったり本来の精神機能を失調させているようでは、どう見ても状況はますます悪いほうへゆくに決まっている/穴のあいた船の上で、人々の精神にまで穴があいたら、その船は当然ながら最悪の結果へ行き着くだろう。
貧困に対する恐怖は誰にでも(ふつうは)あるもので、ただそれが正当な危惧を超えて「恐怖症」になってはいけない、貧困というか生活水準の低い暮らしは世界的に見れば「当たり前」のものなのだから、パニクることには何らの道理もない、駅前のホームレスを見ても何も思わなかった者が急に自分のことだけ生活水準について発狂するのは話がおかしい。
精神が完全な老人になると、もう精神の切り替えは利かないのかもしれないが、若い人間まで貧困恐怖神経症になる必要はない/理性の指し示すところは明らかに、「貧困恐怖の中で手近にバトルして盲目になろう」ということではなく、「今とはレベルが違うばっちり高度な生産ができている自分を描き出せ」ということのはずだ、神経症のすべてがそうだが、神経症になると必ず神経症を作り出しているネガティブなテーマそのものを拡大しにかかるので人は神経症から脱せなくなるのだ。

必要なイメージは、将来の貧困のイメージではなく、未来の生産のイメージだ。

当たり前のことで、健康に向かうということが病気を避けるということだし、高度な生産に向かうということが貧困を避けるということだ、ところがこの当たり前のことがイメージできなくなる一種の呪いにかかってしまうと、自分で将来の窮乏と絶望を「絶対」と信じ込み、その確信に自らを殺されて、毎晩まともに眠れなくなり、結果的に自らがイメージしたとおりになっていくのだ、これはいくらなんでもバカらしすぎるじゃないか。
なぜか一部の人は、自分が高度生産者になるということが「バカらしい」と感じるらしく、自分が困窮者になることが「絶対」「妥当」と感じるようだ、なぜかそれで「自分はオトナで、現実を知っている」と自負と主張まで強く持ち始める、<<体内に毒が脈打つのがそんなにお好みか>>、それがお好みというならきっとそういう友人たちに包囲されていたりもするのだろう。
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