☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
人はときにサイテーなことをしてしまう、だから前もって「ビューティフル障壁」を知っておこう
こで言うサイテーなこととは、犯罪のことではない。
サイテーなこととは、人が真剣にまじめにやっているものを、しょうもない自分の事情のために、台無しにしてしらばっくれることだ。
それはサイテーなことだが、人はしばしばそういうサイテーなことをしてしまうものだ、自分もそういうことをしてしまうときがあるということを、前もって引き受けて生きていないといけない。
サイテーなことをすると、そのぶん後に報いがあるというか、どこか根本的な部分、あるいは最終的な部分で、上等な扱いはしてもらえなくなるところが出てくる、それはまあ当然のことではあるから「当然だ」と、われわれは前もって引き受けて生きていなくてはならない、自分がサイテーなことをするのに自分の扱いは最上にしてもらわないと気に食わんというのはさすがに話がむちゃくちゃすぎるだろう。

たとえばAさん・Bさん・Cさんが、楽器演奏のセッションをしていたとする。
三人のセッションは、いい感じに高まっていて、相互に「いまの絶妙だなあ」と思えるタイミングで演奏に入ったり停止したりということをやりとりしていたとする。
そこにDさんが加わるとき、Dさんはそのセッションにうまく入れる気がしなかったとする、Dさんにはそのセッションのビートのポケットに入るという特別な感覚を持っていなかった、するとどうなるかというと、Dさんはそれでも自分なりに最善を尽くす……ということならいいのだが、そうではなくて、Dさんだけ急に「えへへっ、ワーイ」と別の遊びで乱入する、ふざけて茶化す「お遊びのアタックだぁ〜」ということをしておどける、するとどうなるか、全体が大きく崩れるのでABCさんのセッションのほうも合わなくなっていく。
ABCさんのセッションが合わなくなれば、Dさんも「合わない」ということが恥でなくなる、自分だけ劣ってみじめという局面を回避できる、だからDさんはおどけて茶化すそれを必殺技のように随所で使い、けっきょく人が真剣にまじめにやっている――真剣に遊んでいる――ものを破壊してまわる存在になる、これはサイテーだ、これはサイテーなのだが、われわれはしばしばそういうことをするものだし、そんなもの「われわれの基本動作のひとつだ」というぐらい覚悟していないといけない、自分がそういうサイテーな行為に及ぶサイテーな人だと認め知るのはとてもつらくショックのあることだが、この期に及んでなお自分のショックを優先しているようではますますサイテーということになってしまう/われわれは肝腎なところで最善を尽くすことを選べない、肝腎なところでこそ人のやっていることを台無しにして自分を守っておどけるということを選ぶ、そのことをみずから引き受けて生きていくべきだ。

そもそもDさんは、真剣に成立させているABCさんのそれを「ビューティフル」とは言えない。

そこが要(かなめ)なのだが、この単純きわまりない要を、人は超えられないのだ、DさんはABCさんのそれを「えー、なんかやってるー」と、前もっておどけて茶化すことでしか受け止められない、われわれは大前提として自分がそのような「まむしの子ら」だと覚悟していないといけない、そのくせちょっとでも自分が真剣にまじめにしようとしたことを馬鹿にされたら烈火のごとく激怒して「ぜったいに許さない」という憎悪と憤怒のかたまりになるのだから、われわれは自分が期待しているようなビューティフルな素直さの子ではない。
このことは「ビューティフル障壁」と呼んでよいだろうし、前もってこの障壁があると知っておいてよいように思う、われわれにおいて自分以外の何かをビューティフルと認めることはきわめて稀で至難のことだ、われわれは自分以外のビューティフルネスを見たら第一に「汚いものを浴びせかける」のだ、前もってそのことを知っておかないといけない/前もって知っておけばどうなるか、その汚いものを浴びせかけることを踏みとどまれるのかというと……残念ながらそうではない、知っていてもなお、耐えに耐え、けっきょく「はい汚いものを浴びせかけまーす」ということを選ぶのだ、それぐらい「サイテー」なことをしてしまうということを、前もって引き受けて生きていかなくてはならない、そうしたサイテーの行為がわれわれの第一の基本動作なのだ、われわれが自分のことをそうではない上等なものだと勝手に見立てているせいで、そのまま生きていくと必ずどこかで破綻が来てしまう。
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やさしさの中の試練、やさしくない中の試練
「いい人」はたくさんいるだろうし、「まじめな人」もたくさんいる、「善人」というべき子供やご老人もいるだろう、しかしそれが「やさしい人」になるかというと、やさしい人ということにはならない。
若いカップルが、いわゆるラブラブ状態にお互いにベタベタ甘え合っていたとして、そのふたりが互いに「やさしい」かというと、「やさしい」ということは当てはまらない、甘いムード・甘い関係ということはあるけれど、「甘い」と「やさしい」はまったくイコールではない、子猫のころから飼っている猫をひざの上に乗せて撫でていたからといってその人が「やさしい」ということにはならない。
「やさしい」というのはもっと別の、わけのわからない現象だ、その現象はなんとも「やさしい」としか言えないのだが、とにかくその人がいるとその人の周辺の空間はやたら「やさしい」ということがある、「この人のそばにずっといるのはぜーんぜんイヤじゃない」「むしろずっとここにいたい」と無性に思わされる。

説明は省くけれど、「やさしい」というのは人間関係ではないのだ、じつは人柄というのでもない、人柄はたしかにやさしさに伴ってあたたかく感じられるけれども、人柄それじたいをどのように工夫してもその人が「やさしい」ということにはならない。
「やさしい」というのは人間関係ではなく、それは「非人間的な関係」なのだ、たとえばあなたがおれの前でカレーライスを食っていたとする、それをおれが華やかにニッコリ笑って「どうぞ、めしあがれ」と言い出すのではない、人間関係として何かしらの配慮があればその人柄は比較的「やさしい」のかもしれないが、本当の「やさしい」という現象はそういうものではないのだ。
やさしさの現象は、まるでわれわれが人間になる前のところから起こっている、奇妙なことだが、「やさしい人」の前であなたがカレーライスを食べるとき、やさしい人の前であなたがカレーライスを食べるということは「ずっと前もって約束済み」なのだ、われわれがそれぞれ「誰か」になる前の事象エリアがあって(今もあるしずっとあるのだ)、その事象エリアではそれぞれは未だ「誰か」ではないのだ、そしてふたりは、おたがいが未だ「誰か」にはなっていない "一緒くた" の状態において、「おれはお前の前にいる、お前はカレーライスを食べる」「うん」という約束をしあって、その約束から相互にその場の「誰か」になっているのだ、だからそれは人間関係ではない、文房具のハサミをイメージしてもらうといいと思うが、ハサミの先端が相互に出会って接触するのは先に約束済みのことであって先端同士が「人間関係」をやりあっているのではない。
「やさしい」というのはそれぐらいわけのわからない現象で、それだけ聞くと誰だって「わたしもそういうのがいいです」と思うのだが、じっさいにはそう思ったとおりにはいかないのだ、やさしさの中においてやさしさそれじたいは疑いないが、やさしさそれじたいがその人にとっての「試練」ともなる、つまり当人がやさしさを獲得・あるいはすくなくともそれを根っこから認めて受容していないとき、人はそのやさしい人に対しても「人間関係」を向けてしまうのだ、それで自分の声も発想もその「やさしい人」とは噛み合わない、そしてやさしい人と噛み合わないというのはけっこうシャレにならんぐらいキツいのだ、何がキツいといって、その「やさしい人」にずっと自分は人間関係の圧をかけるという、そんなおろかしいことがやめられず、「自分はしょせんやさしくない世界の住民なのかな」と思えてきて、そのことにすっごくヘコむのだ。

人間関係は試練だし、非人間関係も試練だ。

われわれが「やさしくない」中にいるとき、われわれは人間関係をやっており、その人間関係というものをしくじると人にきらわれてしまう、そしてわれわれがまれに「やさしい」中にいられたとして、そのときわれわれは「非人間関係」をやっていて、それをしくじるとやはり人にきらわれてしまうのだ、やさしい人の場所できらわれてしまうのだからそれはなおのことキツい。
仮にあなたが人間関係が得意で、あるいは人間関係に正当に誠実で、AさんBさんCさんDさんEさんに仲良くしてもらえたとしよう、でも人間関係とは種類の違うFさんとはうまく噛み合わずヘンなことになってしまったというとき、あなたはたしかに「いい人」たちと仲良しなのだが、「やさしい人」とは仲良しではないのだ、そうなるとどうなる、どうも魂のどこかで「たしかにこの人たちは、いい人たちだけどやさしい人たちというわけではないし、じゃあそれって、わたしってやさしくない人たちと仲良くしていくってことなの?」みたいなことにも考えが及んでしまう、そうなるとあなたとしてはどこか悲惨な気分になるが、にもかかわらず……あなたの目の前に来たFさんはなぜか知らんが「やさしい」のだ、これはこれで厳しい、人間関係におけるわけのわからんおっさんが、意義はともかくとしてやたら厳しいということがあるように、非人間関係におけるやさしい人もやたら厳しいのだ/人間関係も非人間関係も、どちらもまともにこなせるようになりたいものだ、おれだってずっとそう思っている。
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あなたは好きな人を選ぶとは限らない
きな人と結ばれるとは限らないし、好きな人を選ぶとも限らない。
わざわざ好きじゃない人を選ぶわけないじゃん、と思っているかもしれないが、そうでもない、じっさいのケースはいくらでもある。
好きな人とセックスしたとき、「合わない」と感じられ、「あっ、わたしはこの人と一緒には行けないんだ」と思う、そういうことは女性においては多いだろう。
恋愛とかゴールインとかセックスとか、そんなに固定的に考えなくてよくて、もっと大切なこと、もっと本質的なことが別にある。

好きな人、あこがれの人、好きな場所、あこがれの場所、その中に自分が進んでゆけるのだとしたらどれだけ励まされてすてきなことだろう。
でもじっさいには、そうではない、「あっ、わたしには無理かも」「ぼくには無理かも」と直観することがある、その直観は必ずしも正しいわけではないが、少なくともそういう直観があるというのは事実だ。
自分がそんなに好きじゃない人から、言い寄られている、その人を見ていると、「この人はわたしがいないとダメなのかな」とも思えて来る、そして自分がこの人にしてあげられることはあるかというと、それは「ある」とはっきりわかる、そのことには自信がある。
自分のやるべきことは何だろう、自分の採るべき選択はどれだろう? その中で、人は必ずしも好きな人と付き合うとは限らないし、好きじゃない人、むしろちょっときらいな人と、それでも「ゴールイン」するというようなことは、まったく珍しくないことだ、それであとになって自分で「なんでわたしはこの人と一緒にいるんだろう」と思うことがある、それもまったく珍しくない、自分の環境が正しいとか正しくないとか考えるな。

自分の往きたい道を選ぶとは限らないだけだ。

そのことには、悔いも残るし納得も残る、本質はそこじゃないな、本質はどこまで自分にウソをつかずにゆけるかだ、「本当に好きなものがあって、本当に好きな人は別にいた、それはウソじゃない」「でもわたしはこの人を選んだしこの場所を選んだ、それもウソじゃない、この人はわたしの好きな人ではないけれど、わたしはこの人に対して何かをすべきとわたしが選んだのもウソじゃない」。
あのとき、あこがれた道から降りなきゃいけないと感じたのも事実だし、いまここで、あこがれたあの道に帰らなきゃいけないと感じているのも事実、そういうことがあるものだ、人は好きな仕事をするとは限らないし、好きな場所に住むとも限らない、好きなものとは別のやるべきことに生きることもあるし、またそのままそこに生き続けるとも限らない、本当に好きだったもののところへ帰っていくこともある/正しいことがあるわけじゃない、ただ内面が片付かず騒がしいままの人と、乗り越えて静かになれた人があるだけだ。
視点変えてこ | comments(0) |
こころ・人格より深い層に入るもの
ロウィルスに中(あ)たったことがある、正月二日の居酒屋で、ものが古かったのか加熱が甘かったのか、おそらくカキフライでノロウィルスに感染したのだった、「なんか体調悪いな、吐きそう」と思ってトイレに入ったところ、自分の口から放水栓のように吐しゃ物が噴射され、自分で「エエッ!?」とびっくりした、そのあとはもう現在のスマートフォンをいじくる頻度でトイレと部屋を行ったり来たりしていた。
そういう食中毒をやったことがある人なら誰でも知っていると思うが、「もうカキはええわ」「カキはもう一生食わんでええわ」と思うのだ、もちろんじゅうぶんに加熱したカキに食中毒のリスクがないことは知っている、けれどもそのじゅうぶんに加熱したカキの実物を目の前に出されたとき、「……いや、ええわ」と拒絶が起こるのだ、「じゅうぶんに加熱してあるから大丈夫ですって」「うん、いや、それはわかっている、でもそうじゃなくて、そうであったとしても "要らん" のよ」。
カキが嫌いになったのかというとそうではなく、それが旨いのは知っている、では食中毒が怖いのかというと、「いや、加熱してあるやつは大丈夫だから」と知っている、じゃあ食べればいいじゃんと目の前に出されると、「……いや、だから、要らんねんって」と、つまり<<不合理な拒絶>>が起こる、このことをトラウマと呼ぶ。
人格としては、カキと食中毒については「処理済み」で、合理的にその危険性と安全性は理解している、けれどもその人格というシステムよりも深い層に、あの苦しみと恐怖、放水栓のように噴射された自分の吐しゃ物が残っているのだ、人格よりも深い層に「カキ」=「厭」という体験が刻まれていて、つまり "非人格的" にそれを拒絶するということが起こる/それがせいぜい、ノロウィルスのまぐれあたりぐらいであれば、二年もすれば「食べてみる、かあ」という気分になっていって、大げさにいえばトラウマは治癒されるわけだけれども。

最近になって知られるところ、やはり横井庄一さんも、帰国されてから幻覚等があり、つまり PTSD があったようだ、明るい声と相貌を示していたのでわれわれは気づかなかったが、そうした人格よりも深い層に「体験」が刻まれるという仕組みがわれわれにはある/あの生命にかかわるタフさで知られるムツゴロウこと故・畑正憲さんでさえ、生きものの解剖を続けているうち、急に肉が食べられず「うぇっ」と拒絶が起こった時期があったそうだ、畑正憲さんは「このオレがだよ?」とそのときの体験をあざやかにレポートしている。
仮にあなたが、刑務官で死刑の執行人を務めたとしよう、あなたがボタンを押せば、死刑囚は穴に落ちて首つりになって死亡する、多くわれわれは「そんなのカンタンじゃん」と空想する、死刑になる人は残念ながらそれだけの重罪を犯してきたのだから、社会正義以前に因果応報として死刑囚はその刑罰を受けるべきだ、そのことにためらいや悔いを覚える必要はないし、ましてそれが自分の仕事なのだから……とわれわれは空想するものだ。
しかしじっさいにはそうではあるまい、死刑囚は死刑台に連れてこられて泣き叫ぶ、小便を漏らしながら、全身をねじり、抑えつけられながら、悲痛な声で「赦して、赦して!」「殺さないで!」「いやだ、いやだ!」と泣き叫ぶ、泣きながら彼は自分の母親を呼んでいる、もし死刑囚が目隠しをしていないなら、その眼差しはあなたに向けられ、その壮絶な悲しさの色をあなたに見せるだろう、「ねえ、待って! お願いだから、待ってー!!」、「死にたくないよー!」、血のにじんだ叫び声があなたの耳朶に染みこみ、鼓膜を貫く、それを受けながらあなたが死刑を執行するボタンに手を伸ばしたとき、そのことを悟ったのか、死刑囚はあなたに向けてとつぜん様子が変わり、怒りの顔、憎悪のまなざし、恨みと呪詛の口もとを向けた――一瞬の静寂――あなたはボタンを押した、ガターンと装置の音が鳴って、死刑囚は穴に落下、ゲーッ! と声にならない声が階下から響いてきた……
あなたは刑務官として課せられた職務をまっとうしただけだ、あなたの人格はそう理解しているし、納得もしている、社会的にもそのように認められ、社会的にあなたのことを断罪する人は誰もいないだろう、けれどもそれであなたがその日から夜はぐっすり「おやすみ〜」で済むかというと、そうとは限らない、あなたは夜中にとつぜん目が覚める、ゲーッ! という喉の折れた声がどこかから聞こえてきた気がする、「赦して! 赦して! 殺さないで!」と、あのときの音声がくっきり再生できる、その赦しを乞う必死のまなざし、それが急転して、怒りと憎悪と恨みが詰まったあの顔、自分に向けられたあの顔がありありと……われわれがそうしたことを想像力で捉えられず、「いや余裕っしょ」と空想で捉えるにとどまるのは、われわれがそうした層のことを「受け止められない」からだ、死ぬのをいやがっている人を無理やり殺す、そのときに発せられる悲鳴と懇願などというものは「受け止められない」、だから人格的には「しょーがないじゃん」と処理して終わらせる、そうして終わらせたつもりでいる……けれどもあなたは、夜な夜なガバッと布団に起き上がる、体中は汗びっしょり、ふたたび寝入ろうとしても何かが「ビクン!」と反応して、寝付かせてくれない……それ以降、あなたは自分のすべての趣味がまったく楽しくなくなり、友人が友人と思えなくなり、食事がそんなにおいしくなくなり、なぜか人が事故死する映像や、殺される瞬間の映像、そのときの様子や音声をえんえん探してえんえん再生するのが日々の過ごし方になっていった。

グラビアアイドルが、枕営業をして、水着姿でテレビのスタジオ撮影に立っている、「そりゃそういうもんでしょ」とみんなで思っている。

女の子がある夜、父親と母親がセックスしているところを目撃してしまう、「夫婦なんだからそりゃそうでしょ」「自分が産まれてきているってことはそういうことでしょ」、人格的にはそう処理されている、「働かないと生きていけないでしょ」「働かなくても生きていける身分の人もいるけれど、生まれつき格差があるのだからしょうがないでしょ」「年を取っていけば老いていくのはしょうがないでしょ」「人はいずれ死ぬ、そんなの当たり前だし、しょうがないでしょ」「さあね、みんなさびしいんじゃない? しょうがないでしょ」「生きるためには、ほかの生きものを殺して食べないといけないのだから、しょうがないでしょ」「友達といっても、そりゃ裏側ではそういうこともあるでしょ、しょうがないでしょ」「戦争というのは人の性だから、利害がぶつかる以上、どこかでしょうがないでしょ」、人格的にはすべてそう処理されている、処理済みだから、ちゃんとぜんぶ受け止めていて、そのぶん自分は「大人」になってきていると思っている。
人格的な処理なんぞ、人工知能に相談しても妥当な回答が返ってくるのでどうでもよろしい、そうではなく人格よりも深い層、こころよりも深くにある層のことだ、その層に何が入っているか、真っ黒なトラウマが入っている人もいれば、そうでなく光り輝く何かが入っている人もいる、人格でそう思っているというのではなく、体験が刻まれているのだ、おれは夜中にガバッと布団に起き上がるということはない、おれには歓喜の朝がある/先人の名誉のために申し上げておくが、横井庄一さんが帰国して PTSD の様相を示されたのは当然のことだと思うけれど、横井庄一さんの人格よりも深い層にあったのは、それ以上の栄光だったように思う、あの人の生と魂を「悲惨だった」と勝手に決めつけることはどうしてもおれにはできない、「恥ずかしながら」はわれわれの深くに聞こえたのだが、われわれはそこに聞こえたものを受け止めることはできなかったので、横井庄一さんを「悲惨な被害者」の棚に押し込むことにした。
視点変えてこ | comments(0) |
上司と先輩と同期と後輩と取引先がヤベェ!
たしは現在から 11 年前の、2013 年 7 月に、「現代と恋愛」というレクチャーコラムを書き、その第九講でこのように書いた、「このままいくとわれわれは "メンヘラ文化" の人たちになってしまう」。
メンヘラ文化という語から連想される、安直なイメージは、若く性的な女性がいわゆる中二病と自傷癖と "地雷系" ファッションを整え、心療内科からもらった薬を飲んで界隈をうろつくというスタイルになるかと思うが、本当の精神障害・人格障害は、そんな華やかさを伴わない、もっと後ろ暗いものとしてやってくる。
11 年前に書いたその話が――その "予言" が――いま直接のリアリズムとなって実体化してきているように思う、つまりそれはもはや未来へ「傾向」ではなく固定された進行性の「病状」になったのではないかということ。
これからはちょっと、そういう情報も集めていこうかと思っていて、その情報をもとに、どう生き延びていくかを考えようと思うのだが……ここでいう「そういう情報」とは何か、それは単純にいうと「社会人」、つまりふつうの大人が、どのように壊れているかということの情報だ、それを集めていきたいと思っている/ 11 年前はまともだった社会人の青年が、現在は根本的などこかが損傷したおっさんになっているということ、そのことをすでに疫学的に捉えなくてはならない段階だとわたしは考えるわけだ。

「わたしの上司は "決められない" 人なんです」「その人は管理職なんですが、管理と指示が苦手な人なんです」「みんな中堅のはずなんですが、電話をする・電話を取るのが "怖い" らしいんです」「自己愛が強すぎて何を言っているのかわからないんです」「金曜日に行っていたことと翌週の月曜日に言っていることが違うんです、それが毎週なんです」「何か急にアニメ声を出して、決めゼリフを言うんです」「誰もなぜか "連絡" をしなくて、業務がいつも崩壊寸前なんです」「そのくせ承認欲求だけすごく強くて、周りにちやほやされたがるんです」「仕事中にとつぜん、独りで "Oh, my god!" って言いだすんです、日本人なのに」「その人は、自分でやるのはイヤなのに、誰かに代わりにやられると、そのことにも怒るんです」「お詫びのメールを入れておきますってその人は言ったのに、けっきょく入れていなくて、それがその人にとって "いつものこと" なんです」「何かずっと芝居がかっていて、気持ち悪く、でも眼はうつろで、何を言っているのかわからないんです」……等々、最近そういった話があまりにも周囲にあふれかえっている。
さまざまな "症状" が報告されているが、これらは一括すると、いわゆる発達障害という見方をせざるを得なくなる、ADHD や自閉症傾向、境界性知能、アスペルガー、◯◯性パーソナリティ障害、どの概念をあてはめるにせよ、このことを疫学的に捉えるなら、つまり疫学的というのはそういう「疫病(えきびょう)」が蔓延したと考えなくてはならないということだ、そしてわれわれはその疫病の蔓延した中を無理やり「多様性」と言い張って解決のやり方・受け止めの仕方があるという「ふり」をしている。
多様性という捉え方の当てはめは、目の前の個人のケース、個別のケースに当てはめることとしては妥当で有用だと思うが、そうしたミクロではなくマクロの場合、単純にいって「全員が好き放題に発達障害では何ひとつ成り立たない」ということがある、それはそうだろう、「全員、連絡が苦手です、電話が苦手です、指示が苦手です、指示に従うのが苦手です、対話が苦手、交渉が苦手、主体性が苦手です、マニュアルに決められたルーチンワークをひとりでやりつづけることだけができます」と言い出したらこれはもうなにひとつ成り立たない/たとえば性同一性障害があったとして、学校の男子生徒が全員「性自認は女性です」と言い張り出したら、修学旅行は男女混浴にせざるをえなくなる、そんな馬鹿げただけの光景のどこが先進的なのか? こんなことはマクロに置いては成り立たないのを誰だって知っているはずなのに、そのことじたいからも目を背けるだけ、われわれは発達障害様の症状を示しているところがある、そしてそうした自分の "破綻上等" の振る舞いを「多様性です」と言い張ってのさばりさえしようと考えているのだ。
わたしが焦点にしているのは、単に「ダメな人はダメ」ということではないのだ、そうではなく「11年前にはまだまともだった人が、こんにちでは壊れてしまっているという実態が無数にあるのじゃないか?」ということ、単純な健康のことでいえば、11 年前に健康だった人も、いまは「体を壊して」ガタガタになっているということがありえるだろう、「以前は元気で健康だったけれどいつしかアルコールで肝臓を壊してしまって、いまはもうボロボロだ」、それと同じように、メンタルヘルスという言い方は元来は「ヘルス」であってその健康を言うのだから、そのヘルスを「壊して」しまったという人はじゅうぶんありうるじゃないか? そしてそのことが疫学的に、つまり疫病の蔓延によって起こったということを、すでに認めてかからないといけない状況にあるのではないかと、わたしは考えている/たとえ飲み会の席でも、「肝臓を壊してしまって」という人が酒を飲めないのはやむをえないことだ、けれども彼が酒を飲まない・飲めないというのは「多様性」という概念には当てはまっていないだろう。

病識がない。

どう考えてもそんなに簡単にいく話しではないので、あえて焦点を簡単にしておきたい、病気というのは人にとって恐ろしいもので、病気を認識したくないという強い感情があるのと共に、人にとって病気というのは思いがけず「恥ずかしい」ものだ、だから病的な症状が出ていたとしても、基本的に人は自分を「そういうタイプなんです」「そういう性格なんです」「多様性です」と言い張りたくなるのだ、それはしょうがない、そのことは「おれだってそうだ」とはっきり申し上げておこう、けれどもよく知られているとおり、アルコール中毒で人格が損傷している場合、それが中毒・依存症なのだという病識がなければ、その症状は加速度的に悪化の一途に向かってしまう、そうしてなにもかも投げやりになるのは誰にとっても損失だし、何より誰にとってもそれはまだ「気が早い」と思う。
わたしはある老人が、自分自身を指差して、じつに苦しそうにこう言ったのを聞いたことがある、「身体は元気でもな、頭がな、もうバカになってきよるんよ! だからもうそんなに長くは続けられんのや」、わたしはこの老人が思い切ってそう発言したときに、その老人の苦しさと「勇気」を感じ取ったことを記憶している、自分の恥を自分で認めなくてはならないのは、みじめで苦しく、とても勇気の要ることだったろう、頭が下がる思いがした……ただこの場合じっさいにはなぜかその老人はそれからむしろ知性をいくらか恢復していくほうに向かったのだが(それはきわめて稀なケースだったと思う)/つまりわれわれの迎えている苦しさと悲しさは、「あのときの僕たちじゃない」ということ、なんて悲しいことだろうね、疫病に侵されて壊れてしまった僕たち……しかし真に恐ろしいことに、ここには他ならぬおれが残っているからなあ、おれはすべてを迎え撃って平気で勝つつもりでいるんだよ、被害者が多数出るからといって負けるとは限らない、だから疫病に侵されて壊れてしまったアホどもよ、病識は必要だが逆に旗を下ろすのはまだ早いぜ、このおれがこの期に及んで何の作戦も持っていないわけねーんだからなあ、何しろおれは「情報を集めるつもりでいまーす」と言っているのだ、そっちのほうが本格的に怖いだろ。
視点変えてこ | comments(0) |
全力でやれと言うけれど、全力になることじたいが一番むつかしい2/目的には表示性がある
的には表示性がある。
たとえばあなたが妙齢の、うつくしい女性だったとする、そしてあなたのうるわしい髪に、ちょっとしたゴミかホコリがついていたとする、おれはそのゴミをつまんで捨てようと思う。
そのとき、おれがあなたの髪に手を伸ばすとして、おれにスケベごころがあってはいけない、スケベごころが目的なら、髪のゴミではなくスカートの中に手を突っ込むべきだ、<<目的には表示性がある>>、だから目的が複数個あると、その人は何をしているのか視えないのだ、それでその人が「キモい」「気持ち悪い」「ウザいのでいないでほしい」ということになってしまう。
おれが目標をひとつしか持たなかった場合、「あ、髪のゴミを取ってくれるのだな」とはっきり視えるし、また「あ、スカートの中に手を突っ込んでスケベなことをするんだな」とはっきり視える、そのことの善悪はどうあれ、とにかくはっきり「視える」のだ、「何がしたいのかわかる」「何をやっているのかわかる」「何を視ればいいのかわかる」「何を受け取ればいいのかわかる」、これが無条件ですっきり現れるから、それがとてもいいのだ、目的がひとつで全身全霊というのはそういうたわいないことで、かつじっさいにはとてもむつかしいことだ。

「自慢の料理を食わせたい」という単一目的がはっきりしているシェフの料理なら、食いたいし、食うとしたら気分がよろしい、それが何か「気取りたい」とか「目立ちたい」とか、「成り上がりたい」とか「モテたい」とか「見返したい」とか「承認されたい」とか、ごちゃごちゃしていると、そんなシェフの皿はゴミ箱へポイだ、もちろんじっさいにそんなひどいことをおれはしないけれど、ひどいことははっきり言っておく、シェフの皿にゴミをたくさん乗せたのはお前自身であっておれがそれをゴミにしたのじゃないぞ、皿に料理以外のものを乗せるお前が悪い。
野良猫が草むらに伏せて、朝からミミズをついばむスズメに向けてしっぽを左右に振っているのは、見ていて気分がいいじゃないか、スズメと猫と、どちらを応援したらよいのかわからないが、とにかくそのときの猫は目的がひとつだ、何をしようとしているのかわかるし、何を視ればいいのかわかる、その「猫」というものがどういう存在なのかが直接わかるのだ、「いやあわたしは肉食動物で、小動物を捕食するにゃ〜ん」なんて自己PRを聞かせられずに済む。
目的というのはひとつであって、複数あったらそれはもう目的を見失っているのだが、その目的を見失っている者が「キモい」「何がしたいのかわからん」「何をやっているつもりなのか視えない」ということに加えて、じつはこれは自分自身にとってもそうなのだ、自分自身にとっても「自分が何をやっているのかわからん」「自分が何をしたいのか視えない」という状態なので、自分でも自分がキモいし、自分で自分がしんどいのだ、これは見落としがちなことなので有益なこととして覚えておこう、目的が複数あると自分で自分がなにをしようとしているのかわからなくなるんだぞ、われわれが生きているうちに「しんどい」と感じることの九割ぐらいがこれだ。
月曜日に出勤するのが自分で「なにをやっているのかわからない」、土曜日にマンガを読んでいるのが自分で「なにがしたいのかわからん」、そして十年経って「この十年なにをしてきたのかわからん」、そして今日が何なのか自分でもわからん、という状態になるのだ、それで本人は「うーん、セレブになりたい」とか「彼女欲しいっスよね」みたいなことを本気で思っているのだ、こんなものになったらやっぱりゴミ箱にポイしかないじゃないか、それだって自分にゴミをたくさん乗せた自分が悪いってもんよ、「やりたいこと」なんて必要ない、そのときごと目的をひとつにしなさい。

おれが書き話すのは何かのためではないし、あなたのスカートに手を突っ込むのも何かのためじゃねえよ。

何かの「ため」? そうやって目的を複数にしない、書き話すのが目的ならそれでオワリ、それが何の「ため」であってもおれには関係ない、あなたの「ため」になろうが世界平和の「ため」になろうが自己満足の「ため」になろうが、そんなことは関係ないのだ、何かの「ため」なんて存在しない、目的には表示性があり、目的にしか表示性はないので、何かの「ため」とか言い出したらあなたは必ず「なにがしたいのかさっぱり視えない奴」になってしまう。
仮にどこかのハゲ坊主が、「解脱を得るために坐禅します」と言い出したら、そんなもん解脱なんかしないのは前もって丸わかりじゃないか、坐禅といえば坐るものなんだから坐ったらオワリだ、何かのためじゃない/おれが書き話すのは何かのためか、何のためでもないわい、書き話すということでオワリだ、何のためにもならないし、何のためにもしねえよ、そのかわりあなたはおれが書き話しているということが "視える" だろ、目的には表示性があるのだ。
視点変えてこ | comments(0) |
全力でやれと言うけれど、全力になることじたいが一番むつかしい/複数個は目的じゃない

力というか、全身全霊になればそれでよし、それだけでほかのすべての屁理屈が吹き飛ぶ、哲学なんか持たなくてよろしい。
が、その「全身全霊になる」ということが一番むつかしいのだ、多くの人の発想は異なる、「全身全霊になるコツってないですかね?」だ、この発想に立つかぎり人は永遠に全身全霊になどなりようがない。
全身全霊になるコツをください、と、そんなことを傍で聞いていると「アホかこいつ」と思えるかもしれないが、いやいやそんなものだと思うよ実態は、「全身全霊、なんスかねえ、やっぱり」と遠く思い耽るようなポーズをする、それで何かをしている哲学的な気分になるというようなことを、われわれはけっこう平気でやるものだ、それを馬鹿にして笑っていてもしょうがない、それを馬鹿にして笑っているというようなヒマがあるうちは、そいつも全身全霊ではないのだ、全身全霊になるというのはじつに単純でむつかしい。
むつかしいといってもけっきょく、本人にその気がないだけといえばそのとおりだろうけどね、「はぁ〜、◯◯になりてぇ〜」と言って、◯◯になるということに全身全霊になるわけではないし、「××に死ぬほどあこがれるっス」と言って、やはり死ぬほど全身全霊になっているわけではない、われわれはまるで時間が無駄に過ぎるのをこっそり待っているだけというようなところがあるではないか/さあおろかなわれわれとして、全身全霊になるためのコツでも考えてみようか。

全身全霊といって、やる気やこだわりを燃やすということではないな、「躍起になる」ということではない、そんなことはどうでもいい/ただひとつの目的に集中するというか、目的をひとつしか持たないことだろうな、たとえば「あの大将首を獲る」と考えたとき、自分が生き延びることも考えない、自分の功績も考えない、ただその首を獲ることだけを考える、卑怯も正々堂々もない、首を獲る「だけ」を考え、ほかのことのいっさいは考えない、もちろん核兵器だろうが毒ガスだろうが生物兵器だろうが何でもアリだが、使用許可が出ないならそれ以外の方法を考える(使用許可を出してはいけません!)、方法は何だっていい。
目的を二つ持たないことだ、<<二番目を持つのはいいが二つを持ってはいけない>>、「あの山頂に登って旗を立てる」ということを目的にして、第二の目的として「生きて帰る」ということを持つのはいいが、同時に二つを持ってはだめだ、同時に二つを持つぐらいなら第一の目的を「生きて帰る」にして、二番目の目的を「できたらあの山頂に旗を立てる」にしたほうがいい、生きて帰ることに全身全霊でいいじゃないか、山頂に旗を立てたからって何になるんだよ。
第一の目的が「山頂に旗を立てること」の場合は、順位が逆転しているので、もちろん「生きて帰ったからって何になるんだよ」ということになる、ふつうこのあたりで躊躇してしまうのだが、躊躇する前にこれは「仕組み」だ、さっき「山頂に旗を立てたからって何になるんだよ」と考えたのだから、こんどは「生きて帰ったからって何になるんだよ」とならざるをえない、これをごっちゃにするのは余計に危険なことだ、躍起になって命を捨てたとしても何かいいことになるわけではない。
おれはいま、「ここにまともなことを書き話す」ということを第一の目的にしている、目的はそのひとつしか持っていない、第二の目的は「ついでに」「できたら」であって真の目的ではない、もしおれが今日ここにまともなことを書き話したら死んでしまうという条件であったら、そのときは死んでしまうしかない、今日ここでおれの目的は生き残ることではないんだから、でもだからといって死ぬのかというと死なねーだろ、死なないのだからそんなにむつかしく考えなくていい、目的はひとつで、目的がある以上「死んでもかまわん」のは当たり前のことだ、気合を入れるようなことじゃない、食事をするのに食器が汚れるのはしょうがないことじゃないか、だからといって何も夜のサバンナで野生のライオンに囲まれながら書き物をするわけじゃない、ただ「死んでもかまわん」のは大前提だ/死ぬというとすぐに「不幸」と考えがちだけれど、生き死により大切なことが見つからないまま百年生きるというのも決して幸福とは言えんぜ。

おれは勇敢なのではない、目的が複数個あると「しんどい」のが厭(いや)なだけだ。

たとえばおれがホテルで書き物をしているとき、ホテルに火災が起こったとしよう、じゃあおれはタイピングをしながら焼け死ぬのかというと、そんなアホなことはしない、それはただのアホの話じゃないか、そうじゃなくて、おれは火災から避難しながら、そのとき「ったくもう、おれは書き物をしないといけないのに」とぶつくさ言いながら避難しているだろうということだ、ここは大切なところだからちゃんと把握しろ、おれは「生き延びる」という目的のために避難するのじゃないぞ、「書かないと」という目的のために避難するのだ、目的をがちゃがちゃ入れ替えてはいけない。
目的を複数個持つとどうなるか、本人は何か誤解に陥って、自分の考えを「合理的」と思っているのだが、そうではないのだ、本人は単に目的を見失っているのだ、見失っているから目的の項目に複数個が入ってしまうのであって、複数個あるならそれはもう目的ではない、そして当人は目的を見失ったまま何かをやらされることになるので「しんどい」のだ、部屋に寝転がってマンガ本を読んでいても当人は「しんどい」し、お金があって豪邸に金髪の美女を多数呼びつけてスケベパーティに耽っても「しんどい」のだ、そんなアホで悲惨なことになるぐらいならそりゃ「目的のために死んでしまってもかまわん」のほうがマシだろ、しかも寝転がってマンガ本を読んでいてもいつか死んでしまうという条件までついているわけだしな。

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95 萌えと 05 萌えのナゾ4/「盛り上がり」と「萌え」の関係

のどうでもいい話はここでおしまい。
95 萌えの人たちは「盛り上がって」いただろうか?「ウオオオオオオ」と雄叫びが響いてくるぐらいなのだから……「デュフフ」「キター!」と盛り上がっているか、否、それは残念ながらイメージが混淆してしまっている、95 萌えの人たちは「盛り上がって」はいない。
アニメ映画「サマーウォーズ」(2009)を観た人ならイメージできるところ、掲示板テキスト上で「キタ――(゚∀゚)――!!」と表示されるその象徴的なものは、いかにも「オタク」の趣きがあると感じられるだろう、そして「サマーウォーズ」は割と "ふつう" の人たちも観ただろうから、この時期すでに「オタク」は一般化して、中高生のスクールカースト上位者たちもすでに「オタク」には侵食されていたのだろうと推定に手ごたえが得られる、2009 年にオタクは「ふつう」のことだ、ただしそれは 95 萌えの「オタク」ではない……
わたしは古い時代の当事者として勝手に証言するが、盛り上がりに合わせて「キター」を送信しているのは 95 萌えのオタクたちではない、95 萌えの人たちは盛り上がらない/彼らは「ダメな人」たちであって、彼らはそもそも「盛り上がる」というようなことじたいが苦手だ、まったくどうでもいい話だが、ここで「盛り上がる」という単純な現象を通して、それぞれの年代における差分を捉えやすくしておこうと思う。

「盛り上がる」というのはどういうことか? わかりやすく言うなら、「イェーイ!!」「ウェーイ!」、ノリノリ、ということであって、それはつまり「陽キャ」ではないか、「盛り上がる」ということの強度があきらかな人なら陽キャ、中程度なら「ふつう」、極低なら陰キャと呼ばれるところだろう。
95 萌えの「ダメな人」たちは、その「イェーイ!!」みたいなことが一切できないのだ、盛り上がるということが一切できないのに、その内部には表示できないある種の高まりを、何であれば人より強く抱えている、その高まりは表示されないくせに、抑えきれるわけでもなく、結果、頭のてっぺんから何か湯気のようなものが漏れ出ているような気がしないでもない……その「ダメな人」たちの頭から漏れ出ているダメなものを、どう呼んだらよいかわからないので、きっとそれじたいを「萌え」と呼んだのだ、それぞれローカライズされた意味での「萌え」の捉えようがあったと思うけれども、わたしが聞いた一番初めの「萌え」は、当人の感情・状態のことを指す語であって、ヒロインのキャラクター性を指す語ではなかった。
単純化すると、「盛り上がる」ことができる人と、それが出来ず「萌え」るしかない人がいたということなのだ、盛り上がることができる人はふつうの人であって、それが出来ず何かダメな状態になることしかできない人、しかしその頭のてっぺんから漏れ出ている湯気は、ダメなものであるにせよ良性のものであって、彼の内部にはふつうの人にはわからない桜の花が咲いているに違いない、それはちょっと「ふつう」の人とは仕組みも様態も違うものなので、彼らのことをかつては「オタク」と呼んだ、もちろん中にはひたすら悪趣味に耽る悪性の人たちもいて、彼らのことも一緒くたにオタクと呼ぶしかなかったけれども。
アニメ映画「サマーウォーズ」(2009)を観た人が、「キタ――(゚∀゚)――!!」のところで思いがけず「盛り上がって」しまったとしたら、その当人としては「われながらオタクじみてしまっているなあw」と自嘲したかもしれないが、それは旧義としてはオタクではなく「ふつう」の人なのだ、00 年代にインターネットが普及して、ふつうの人が「盛り上がる」のに、マンガ・ネットの侵食においては「イェーイ」ではなく「キター」だろうというトレンドがあったということにすぎない、われわれはそのマンガ・ネットの侵食によってもたらされたものを享受して盛り上がってきたのであり、それは「ふつう」の人の挙動だ/まさかとは思うが念のため確認しておきたい、あなたは「ふつう」と言われてそのことに不満を覚えるわけではないはずだ、あなたはまさかここまでに示した「ダメな人」、その特殊な様態のものに「なりたい」とは言うまい。

ヒロイン像を享受して盛り上がれるのが 05 萌えで、ヒロイン像に沈黙して「行かなきゃ」と真顔になっているのが 95 萌えだ。

なんとバカな話だろう、「行かなきゃ」と言っていったいどこへ行くというのか、行くあてなんかねえよ、行くあてなんかないのだが、「行かなきゃ」と言われたらおれは「そうだな」と応えてしまうように思う、そんなやりとりはダメなやりとりであって、ダメな人たちのすることだ、内なる雄叫びをあげてどこへ行こうというのか、行ってらっしゃい/もちろんあなたが女性の場合は、ヒロイン像をヒーロー像に入れ替えてくれ、「◯◯クン超イイよね」と享受して盛り上がれている人は、オタクっぽいとされるが現象としては「ふつう」の人だ、「オタクっぽい」というのはその享受と興奮ぶりが「はしたない」ということに向けて慣習的に言われているだけだ。
こうして考えると、いよいよ 95 萌えの人たちは、本格的にダメな人たちだった、そしてそれが本格的だったということは、同時にそのとき「偽物ではなかった」ということでもあるのだろう、そこに響いている雄叫びが、偽物ではなかったことを証言して、またそれが正直好きだったよということも自白して、わたしは元の話に戻ろうと思う、別に 05 萌えの盛り上がりが偽物だと言うつもりはないが、単純に言って、サマーウォーズに盛り上がった人たちは別に本格的にダメな人たちではなかっただろう/わたしは、ダメな人たちの時代への消えない追憶を持ったまま、いまさらこのように当たり前のことを思う、わたしは自分自身、最終的にダメな人だったとしてもまあいいかと思っているところがある、そのことはずっと変わっていないのだろうなと自覚している、わたしはしょせんオタク気質の者ではなかったけれど、「ダメな人」ということについては変わりがない、ただわたしは「ダメな人はいいが、ダメな結果はダメだ」と思っている、健全に盛り上がれるふつうの人や陽キャと呼ばれるような強い人たちであれ、またあるいは本格的なダメな人たちであれ、正しく行くべきところまでは行かなくてはいけない、ダメな人であろうがふつうの人であろうが強い人であろうが、行くべきところへ行けるかどうかかは平等だ、おれはどうせならダメな人のままでたどり着いてみせよう。

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95 萌えと 05 萌えのナゾ3/能動的なオタクと受動的なオタク

んでいまさらこんな「オタク」みたいな話をしているんだ? もうこんにちでは、老若男女それなりに「推し」のアニメやアイドルを持つようになったのだから、もういいじゃん、トピックじたいに違和感を覚えるよと、われながら思うのだが、わたしはささやかな歴史の断絶部分にいまさら reveal を当てたいのだ、つまりこれは懐古しているのではなく現代・今この瞬間を捉えるために必要な作業なのだとわたしは言い張る。
掲題のテーマについて、わたしは 05 萌えに直撃されている世代に改めてヒアリングをした、そしてわたしの側からは 95 萌えの風景を提出して相互に照らし合わせていったのだが、その 05 萌えの当事者たる女性が言ったことに、わたしはじつに「なるほど」と納得を得たのだ、彼女いわく「聞いていて驚くのは、かつては能動的な人たちがオタクになっていったのだという話です。わたしは 00 年代以降にオタクという用語があるのだと思っていましたが……わたし自身の体験してきたことをそのままいうと、わたしにとってオタクおよびオタク化というのは、"何もしない人が結果的にオタクになっていく" ということなのです。いま聞かされている 95 萌えにおけるオタクの話とは、話がまったく逆のようで驚かされるのです」。
まさにそのとおり、わたしがかつて「そっち系」の人に連れられて垣間見せられたのは、猥雑な商店街のアーケードの一画にある、やたら外向けに遮光と目張りをほどこされた特殊な書店であったり、乾燥した住宅街の奥に唐突にあらわれる雑居ビル二階の「趣味の店」だったりした、そしてわたしを連行していくその先人は、そっちにたむろっている人たちと親しく「おう」「あ、久しぶり」とあいさつを交わすのだった、「なんでこんなに顔が広いのだ? しかも顔が広いといっても、どういう方向へ広いものかまったく全体像がつかめない」。
特殊な書店や、わけのわからない趣味の店、それらはすべて「どーやったらこんなところにたどり着くんだよ」という、奇妙キテレツなところだった、これについてわたしはあえて平易な言い方で断言するが、「ふつう」に暮らしていたらこんなところにはたどり着くわけがない、そしてわたしの目の前で彼はまたしても、その場の住人達から「いま◯◯に××が入っているらしいよ」という情報を手に入れ、「あ、そうなんだ」と、また新たな行先を見つけるようなのだ、そして数週間後、彼はその××なのだと思われるフロッピーディスクの束を掲げて見せて、「例のやつ、やっと手に入ったわ」と言うのだった/彼にとってはそれは「ふつう」のことなのだろうが、それは彼が特殊な別学の中にいるからであって、世の中全体としての「ふつう」の中に暮らしていたら、そのような不明のものを掲げて「やっと手に入った」などとは言わない。

95 萌えの人たちは、「ダメな人たち」である、そのことをわたしは平然と述べるが、当時の人たちはわたしのこの言いようを彼らへの悪口とは捉えないはず、「ダメな人たち」というのは否定性を超えてそれ以上の彼らのアイデンティティのようでもあったから。
そしてわたしが振り返るところ、いまさらではあるがその「ダメな人たち」は、ダメな世界への冒険の旅を、自分の足で踏破していったようである、たしかにそこには地図のない冒険と未知への旅があったのだ、何しろインターネットがなかったのだから! 彼らは本当に、一種のロールプレイングゲームのように、(ダメな)世界をさすらい歩き、(ダメな)町を見つけて(ダメな)町の人から情報を訊き、また(ダメな)仲間や友人を得て、それぞれの独自のストーリーを進んでいったのだ、彼らがその冒険で得ていった宝物はあまり人に顕示できない「なんですかこれ……」というようなものばかりだが、それにしても冒険の旅があり宝物の獲得があったということは疑いないのだった、彼らは(ダメな)雑誌や情報誌を隅から隅まで丹念になんども熟読し、自分なりの(ダメな)論文をキャンパスノートに書きつけていた、そうしたダメな人たちのダメなことの集積が「ウオオオオオオ」という(ダメな)雄叫びになって響いていた。
これに比べて 00 年代は、たとえば中高生のいわゆるスクールカーストの下部から、マンガ、アニメ、ニコニコ動画、一部は腐女子といったものに侵食されてゆき、10 年代に向けては、スクールカーストの頂上たる、いわゆる陽キャ集団においても「じつは隠れオタクで、ワンピースとか超ハマっている」というていどの侵食は行きわたるようになった、00 年代のオタクというのはそうしてメディア環境・テクノロジー環境・コンテンツの流通環境によって受動的にもたらされたものであり、ダメな冒険の日々を踏破して獲得していった宝物の結果というものではない。
わたしはいまこのように捉えている、00 年代に一般化した「オタク」という概念は、まさに一般化したのであって、「ふつう」のこと、つまり 00 年代のオタクと呼ばれる人は「ふつう」の人たちであって旧来のそれとは用語の定義じたいが変化していると見るべきなのだ/先の女性が 00 年代の当事者として、「わたしもマンガ絵を描くのにあこがれて、トレーシングペーパーで、マンガ雑誌のトレースをしていました」と話してくれた、わたしはじつになるほどと思いながら、こちらはこちらの当事者として、「それはオタクのすることではなく、"ふつうの人" がすることだ」と答えた。

90 年代の「オタク」を、もし 00 年代の用語で捉えなおすなら、それはきっと「廃人」に近い。

00 年代になって、単純にマンガが流行し、またその他のメインカルチャーが衰退していったのだから、「ふつう」の人たちにマンガ好きが増えるのは当然のことだ、そのマンガ好きの人たちの中には、やたらいくつかのマンガに「詳しい」人もあるだろうし、勢い余ってファンアートに手を出す人たちもあっただろうが、そのことはふつうのことであって、そのことは旧義の「オタク」には当てはまらない、人はそんなことで「廃人」にはならない。
わたしはじっさいに考えるのだ、90 年代のオタクたちは、00 年代の到来に及んで 95 萌えにあった「ウオオオオオオ」の雄叫びが消え去っていくのを看取り、行き場を失って、侵食してくるテクノロジー環境・メディア環境の中、人知れずオンラインゲームや地下アイドルの世界へと立ち去ってゆき、その先で拡散した「廃人」をじっさいにやっていたのではないかと……つまり 95 萌えの人たちは、00 萌えに居残りはせず、切り替えてウルティマオンラインや FF11 などで「廃人」へ向かっていったのではないか? 彼らは「ダメな人」たちであって、わたしのような者が彼らの雄叫びをこっそり愛好するにしても、彼らがやはり地表で「活躍」はできないのは事実であり、彼らはオンラインゲーム上では「活躍」できるということへ取り込まれて、後の世に知られる「廃人」という用語に当てはまる人たちになっていったのではないか、いまさらそんなことを本当に考えるのだった/少なくともこの「ダメな人」たちの旅は、内容にはモザイクが掛かるにせよ、冒険の無謀さにおいてはロマンチックだった、彼らは能動的に「行ってしまった」人たちであって、00 年代のオタクはそうではない、受動的にコンテンツを「享受」すること、そのことに歯止めが効いているかいないかのていどを「オタク」と呼んでいるにすぎない。

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95 萌えと 05 萌えのナゾ2/男女別学の追憶
れながら、何かスゲーことを発見したのではないかという気が、いまさらになってしてきている。
ちょっとここに、ドン引きするようなサイテーなことを書こう、気が引けるがレポートのためだからやむをえない、わたしが90年代にプレイしてクリアした「ギャルゲー」のたぐいをここにザッと書いてみよう、Toheart、One、White album、kanon、Air、こみっくパーティ、戦国ランス、加奈、サクラ大戦、プリンセスメーカー、という感じだ、この羅列はその世代・そっち方面の人たちにとっては「聞くまでもない」「すごいベタだな」というラインナップとなる。
これで当時わたしが「オタク」だったのかというと、正直なところ、こんな浅いラインナップで「オタク」ぶられては困る、というところだろう、こんなもの「スーパーマリオとドラクエはやったことあります」と言っているていどのものだ/それでも当時、そっち方面に片足を突っ込んでいた友人と、たとえば「戦国ランスをやっていると頭がバグってくる」「わかる」みたいな会話をしていた時期がある、そのときたしかに、自分たちもダメな人たちであって、それはさておき何か「ウオオオオオオ」という雄叫びを内部に起こしていたのではあったのだ、ちなみに当時の言い方でいえば、その雄叫びが漏れてしまうような心境のことを「萌え」と呼んでいたように思う、あまり女の子のキャラクター性そのものに「萌え」と言っていた感じはしていない(しかしどうも当時から何を「萌え」というのかは、ローカルな文化差があったように思う、何を「萌え」と言っているのか判然としなかった)。
それで、いまさらこんな気色悪い趣味を暴露して何が言いたいのかというと、上のラインナップは「ベタ中のベタ」で、レジェンド群だから知らない人なんていないのだけれど、男女別学、「女性はまず知らないでしょ?」ということを示したいのだ(知ったとしても時代的に後に知ったはずだと思う)、サクラ大戦などはメディアミックスがあったので知られているかもしれないが、その他の「いかにも」なやつは本当にまったくご存じないはずだ、初耳で、それはつまり「スーパーマリオもドラクエも初耳です」と言っていることに相当する、それぐらい、当時のそっち方面は男女別学だったということが言いたいくて、こんな悪趣味な記事を書いているのだった、女性は当時「たまごっち」をやっていたんじゃないかな。

そして、せっかく恥さらしのようなことをしているので強調したいのだが、上に示したラインナップについて、当時わたしが親しく交際していた女性でも、やはりひとつも知らないということだ、別に隠していたわけではないが、そういうジャンルで流行しているPCゲームがあったとして、またわたしがそれをそれなりにプレイしていたとして、当時はそのことについて訊くという発想がなかったように記憶している/わたしが隠していたのではなく、訊かれるという想定さえなかったのだ、「何のゲームしてるの」「エッチなゲームしてるの?」みたいなことを訊かれるという可能性じたいが見当たらなかった。
男女別学で、たとえば当時、下宿に女性が来ているのにかまわずプレイステーションでたとえば「バイオハザード」や「影牢」をやっていたとして、それについて「これってどんなゲームなの?」と訊かれることがなかった、なぜなのだろう? いま考えると逆にすごく不思議だ、目の前でゲームをやっていたら、「これってどんなゲームなの?」という関心ぐらい湧きそうなのに……一方、同じ条件のところに男友達がやってくると、それはもう「これってどんなゲームなの」などと訊くわけがなく、「お、やってますな!」という感じだった、そりゃそっち方面の男友達は部屋の外からゲーム音だけで何をやっているかだいたいわかるのだから。
さらにこのことを進めていくと、今さらながら奇妙なことに気づいたのだ、わたしは当時大学のアホ合唱団に所属していたはずで、指揮者も務めていたはずなのだが、それについて交際のあった女性に訊かれたことがない、部活動はアホ合唱団ということは知っているはずなのだが、「どんな曲やるの?」「どこで合宿するの?」「部員どれぐらいいるの?」「指揮者ってどんなことするの?」、そういったことを一度も訊かれたことがないし、一度も話した記憶がない。
いまになって考えるとすごく不思議なのだ、「じゃあどうやって会話していたのか、何の話をしていたのか」、このことを当時の感覚ごと思い出せるだろうか、そういうことはおれの得意分野なのだが、いまこの瞬間はまだそこにまで魂がさかのぼれていない/ともあれ、男女別学ということがたしかにあって、考えてみればたとえばおれが中学生のころなんて、女子としゃべった時間は三年間を合計してもたぶん二分間ぐらいしかないのだ、ひでえモテなさぶりだ、けれども当時はそれぐらい男女のあいだに断絶があった、男子の誰かと女子の誰かがしゃべっているだけで「ひゅーう」みたいな冷やかしが起こるぐらいで、そのことはちょっと現代からは想像がつかない。

インターネット普及以降、「情報へのアクセス」という態度じたいが変わっているかもしれない。

ひょっとしたらインターネット以前は、情報へのアクセスということじたいに、なにかしらの心理的な障壁があったのかもしれない、それで「部活なにやってるの」「どんな曲やるの」「どこで合宿するの」「指揮者ってどんなことするの」と訊かれることじたいがなく、また「これってどんなゲームなの」「エッチなゲームやってんの」みたいに訊かれることもなかったのかもしれない。
たしかに当時のことを考えると、たとえば女性に「どこの美容院いってるの?」みたいなことは、いかにも訊きにくいというか、何か訊いちゃダメでしょみたいな感覚が残っている、それが現代の若い世代なら、男性が女性に「お前ってさ、下着ってどこで買ってんの?」と訊いても特に問題はなさそうに思えるので、えらい違いだ、これはもろちんどちらが良いとか悪いとかの話ではない、おれだっていまは女性に下着の購入先を訊いたって別に問題ないでしょという感覚だ、「フツーに、最近は通販かな」「ふーん」というだけだろう/当時はなぜ「訊いちゃダメ」で、何が「訊いちゃダメ」だったのだろう、そしていまはなぜ「別にいいでしょ」なのだろう、スゲー不思議だ、われわれはいつのまに「なんでもかんでも訊いていい」ということになったのか、なぜそれがかつては「ダメでしょ」だったのか、このことはさらに深入りして相当考えないと解明できないようだ。
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95 萌えと 05 萌えのナゾ
まさらそんな古い話はどうでもいいだろうと言われたら、まさにそう、と答えたくなるのだが、ずっと昔のことであっても、そこで話が・ストーリーが断絶していると、その後の話にも命がなくなったり、話が成り立たなくなったりするので、わたしはいまになって逆にしつこく考えているのだ、かつて覚えた違和感、かつてそのまま見過ごした違和感について、いまさらここに申し述べたい、若い世代には何のこっちゃわからない話になるが……けれどもむしろ、本質的には、若い人たちにこそこういったことは知られなくてはならないとわたしは感じている。
いま年齢が三十代の人にとって、すでに死語めいて感じられる「萌え」という語の記憶をさかのぼってもらうと、そこにはどのようなイメージが湧いてくるだろうか? 「萌え〜」、そういう言いようが、いかがわしくはあれ流行した時代がたしかにあったはず、あれはいつのことだったろう、このことについてきっと多くの人に想起されて「それだ」と首肯される代表例は、きっと「メイド喫茶」だと思うのだ、「アキバ」「おかえりなさいませご主人様♪」、オムライスにケチャップで描かれたハートマーク……そしてテレビ好きの人には同時に「電車男」というドラマのタイトルが脳裏をかすめ、「エルメス」という名前で伊東美咲さんの風貌を思い出す人があるかもしれない。
そのような「萌え」の流行があったのは、ざっくり言って 2005 年ごろだ、たしかにこのころ秋葉原は「メイド喫茶」一色に染まってゆき、たしかこのころから、秋葉原は電気街・電子部品の街ではなくなっていったというように記憶している、当時わたしも、あきらかに精神的な無理をしながら有名どころらしいメイド喫茶に二軒ほど飛び込み、時代を目撃してゆこうとする作家的自意識を満たそうとしたのだが、もちろんまったく馴染みようもなく、苦しい思いをしたという、笑い話もまさにそのころのこととしてわたしは思い出すことができる。
それで、当時からあった違和感とナゾについて、それはいまもって振り返ると、今もナゾのままでわたしを立ち止まらせるのだが、わたしと同年代の連中は同じようにこう疑問を持ったはずだ、「 "萌え" というのはむしろ 1995 年ごろの用語なのでは?」、あるいはせいぜい 90年代の後半に盛り上がった用語で、00年代の初頭には終焉を迎えていったジャンルだったはずだ、それがなぜ 2005 年になって「メイド喫茶」として再燃していたのだろう、終焉したはずが逆に「萌え」のピークであるかのごとくに/しかも再燃したといっても、かつての「萌え」信者たちはいまさらそれに食いつくわけではなかった、05 の萌えは 95 の萌えとは明らかに異なるものだった、ここに何があったのかを今さらになって「疑問だ、断絶している」とわたしは考えて悩んでいるのだった、ううむまったく、どうでもいい話だな。

わたしはいわゆる「オタク」というタイプからは遠いが、幼いころからゲーム少年だったので、そっち方面の知り合いや情勢に触れることは多かったのだ、それでわたしはたしかに記憶していることと申し上げられるのだが、95 萌えのころ、そっち方面の「ダメな男の子たち」による、地の底からの「ウオオオオオオ」という雄叫びはたしかにあった、自分たちがダメな男の子たちだということは当人らがよくわかっていたのだが、それはさておき(と全員が思っていた)、「ウオオオオオオ」という雄叫びはあった、それがどのような雄叫びだったのか? その様子を覗き込もうとする女性がもしいたとしたら、わたしはその女性をきっぱりと差し止め、「およしなさい、あなたが見るようなものではないのです」と言っただろう、「何がいけないのですか」「どのようにいけないことになっているか、そのことじたいをあなたはまるで知らないほうがよいのです」、その背後か地下からは、たしかにダメな人たちの「ウオオオオオオ」という雄叫びが聞こえていた。
95 萌えのほうは、その雄叫びが地下に満ちている、そりゃそうだ、当時はまだインターネットがない、よってオタクたちは、何かしらの会場で「ウオオオオオオ」か、それ以外はそっち系の雑誌をなめるように熟読し、体内で「ウオオオオオオ」となることしかできなかった、すでに一部の人たちはパソコン通信を始めていたが、ネット環境の充実は現代のそれとは比較にならない、冗談でなくその情報量は「数億分の一」ぐらいしかなかっただろう。
95 萌えと 05 萌え、ここにある差分は何なのだろう? 05 萌えのほうにはその「地下の雄叫び」はないのだ、細かく追跡していけば話が際限なく膨張するのでかいつまんで進めてゆくが、05 萌えに「地下の雄叫び」がないのは、すでに地上に出ているからというべきか、つまりインターネットで「表面化」したオタクであり萌えだったからだ、すでに地表に出たオタクや萌えであって、そのことの象徴がいかにも「電車男」というように、わたしの世代からはいまさら感じ取られる。
95 萌えを直接知っている世代は、記憶しているならばダメな人たちの「ウオオオオオオ」の雄叫びと共に、当時の「萌え」に女性たちの影はなかったということにいまさら気づけるだろう、新世紀エヴァンゲリオンや、特に「ときめきメモリアル」、さらには「葉鍵」にまさか女性たちの影はなかっただろう? 95 萌えの人たちが「葉鍵」を知らないということはありえないが、このことは同じ世代の女性たちにとって「何それ?」という初耳のはずだ、それに比べれば 05萌えから「涼宮ハルヒ」を引っ張ってくれば、これは世代の女性たちにとって初耳ではないはずなのだ、よってわたしは 95 萌えと 05 萌えについて、次のように仮説を立てて捉え始めている。

90 年代までは男女別学、00 年代からは男女共学。

そもそも「男女別学」というのをご存じだろうか、戦前まで日本は「男女七歳にして席を同じゅうせず」といい、小学校二年生以降は男子と女子がそれぞれ「別クラス」だったのだ、それが戦後になって「男女共学」になった……そのことになぞらえるのが適切と思われ、わたしはそのように表現して捉えたいと思う、95 萌えは男女別学のときの萌え、05 萌えは男女共学以降の萌えだ、インターネットによって男女共学、「男女が同クラスになった」という現象があったのだと推定する、たとえばかつて「テレビゲーム」というといかにも男の子の領域のものだったが、それが男女同クラスのものになり、つまり「ファイナルファンタジー10」(2001)ぐらいから初めて「テレビゲーム」をしっかりプレイした、という女性は多いのではなかろうか/念のため付記しておくが、90年代に女性のオタクがいなかったわけではまったくない、ただ相互に「別学」だったというだけだ、わたしは平成二年のとき友人に連れられて初めて「コミケット」なるものを知った、そのときからすでに「コスプレ」をしている女性たちはふつうにいた(そのときからすでに、会場にはすごい人数の人がいて、わたしは素直に驚いた)。
この仮説の上で言うなら、つまりわたしの世代は、男女別学のときの記憶を持っている古い世代だということになる、「ウオオオオオ」の雄叫びは、ダメな人たちの雄叫びだったのだが、それは本当は「男子クラスからの」雄叫びだったということになる、共学になってから以降はそのダメな人たちの "雄叫び" はない(ダメな人たちはいるだろうけど……)/ついでに 95 萌えの「ダメな人たち」の動向についても付記しておこう、90 年代の末期になって「萌え」は粗製乱造、データベースの切り貼りで済まそうとする商業主義になっていって堕落し、どうしようもない凋落を迎えた、この凋落はもう「終焉」なのだろうかとさびしく思い、「いや、そうではあるまい」と強く信じようとしたのだが……インターネットの普及から「男女共学」が始まり、「萌え」じたいが彼らの知っているものとは異なるものになっていった、それで 00 年代以降は、彼らは多くオンラインゲームの方向へ溶け込んでいった、地下アイドルの探求に向かっていった人も一部にある、以上、わたしはこのどうでもいい歴史をここに書き記しながらしみじみ思うが、わたしは「ダメな人たち」のウオオオオオという雄叫びが正直なところ好きだった、このどうでもいい話はじつは思いがけず大きなインパクトの瞬間に言及しているのかもしれない。
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マッチングアプリと「負け」の回避

ぜ現代人はマッチングアプリを使うか。
それは「負け」はイヤだからだ。
何が「負け」かというと、自分が恋愛希望を言い出して、向こうにその気がなかったら「負け」ということだ。
その点、マッチングアプリなら、それに登録している人はその時点で「恋愛希望」だから、その点での「負け」ということは発生しなくなる/マッチングアプリが便利というより、われわれの日常では出会いからの恋愛はもう無理になっているのだ。

何が「負け」か? たとえばこう考えるとわかりやすい。
企業の採用担当が、街ゆく人に声をかける、「ウチではたらきませんか、どうですか」、すると声をかけられた人は、「いや、もう他の企業で働いていますんで」「いや、いまはまだ働くつもりないので」「わたし学生なんで」と、けんもほろろだ、そりゃ当たり前だ、たまたま求職中の人と出くわして、それが募集要件とぴったりマッチングするなんてことそうそうあるわけがない。
そんなことをしていたら不効率だから、「リクナビ」のようなアプリでマッチングを行うのだ、アプリに載っている企業は求人中だし、アプリに登録している人は求職中だ、だから空振りというのがなくなる。
いま、恋愛というのもそういうものになって、人との出会いとかそういうものではなくなっているのだ、もちろん誰だって内心では本来の「出会い」で恋愛を得たいとは思っているけれど、現実的には想定される「負け」がキツすぎて、もう出会いなんてものは機能していない、自分は求恋中なのに相手は求恋中ではなかったというときの、負け、恥さらし、そのみじめさがあまりにキツいので、現代では恋愛というとリクナビに登録するものになった、リクナビじゃなくて何か有名なアプリがあると思うが、さすがにおれは知らないので適当にリクナビと呼ぶことにした。

フラれたとしても、「お前だってマチアプに登録してんだろ」と言えるからな。

ううーむ、かといってな、こんなことでおれは悪口を言いたいのでないのだ、じっさい本当にどうしようもないので、ただ記録するみたいに書いているのだ、現代で出会いとか、まさかナンパみたいなものはキツすぎる、友達ともそんなに語り明かせないのに赤の他人とナンパで深い仲になるとかいうのは無理だし、周辺に発生する近所迷惑を考えると、「マチアプ使えばいいでしょ」と、他でもないおれだって言ってしまうところだ、舌の根も乾かないうちからひどい裏切りで申し訳ないが、わけのわからんナンパ攻撃で精神が疲弊する女性の被害を思うとどう考えてもマチアプの一択しかない、ぜひそうしろ。
ただその一方で、やはりマッチングアプリの隆盛、というより必須性は、現代人の強烈なマウント気質の中で、現代人が異様に「負け」をピックアップし、「負け」に異様なストレスを覚えることに生じているという点は、見て見ぬふりをできないところだ、「誰も自分に振り向いてくれない」「肝腎なあの人には振り向いてもらえない」というみじめさは恋愛の第一の要素だから、これを排除するということはそもそも恋あいの否定だ、恋あいというのは「まったくマッチングしていないのに恋はしてしまう」ものだからな/釣り合わないし彼氏もいる彼女に恋をして、二十メートル向こうから「大好きでした!」と告白して、そのまま立ち去るのが恋だ、「それでも彼女は、笑ってくれて、ちゃんとおれに手を振ってくれたんだ、彼女はやさしかったよ」と、泣きながら喜んでいる、恋あいってそういうものも含めて恋あいだと思うけれど、さすがにおれの言っていることは時代錯誤だろう、二十メートル向こうから告白なんてしたらその企画を誰かに動画で撮影されて拡散されてしまうように思うが、それでおれが恋あいを馬鹿にしているということにはならない、恋あいを馬鹿にしているのはこの同時代の全員だろ、それが罪なら一緒に罰を受けようぜ。

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00 年代の補足2/「応援」

つこくて申し訳ない、芋づる式に思い出されてくるので書き方が逐次的になってしまう。
そういえば 00 年代から「応援する」というわけのわからないムーブが出るようになった、このことをおれは当時、気色悪いと思ったし、いまも気色悪いと思っている/もちろん、一般的な感覚で漠然と「応援しています」というやつは、社交辞令的なものとして理解はしているのだけれども。
おれが、よりによってどこぞのクリスマスパーティで、数百人の前で手品をやらされるハメになったが、その幕が開いたときにびっくりした、なぜか前方に並んだ人たちが、おれに向けて「応援しますよ」という目つきと顔つきだったからだ、おれは幕の向こうから現れつつ、内心で「なんやこれ……」と思っていたのだった、テキトーなマジシャンだなあ。
そういえば、手品をさせられるときに、同時に「応援するから」という、よくわからないがなんとなくフォローの感じでついてくれる人がいつからか増えたのだが、そのこころづかいはいちおうありがたく思うにしても、おれはシロウトじゃないんだし、はっきり言ってしまえば、おれは天才だ、だから申し訳ないがおれのことを気持ち的・立ち位置的に「応援する」というようなカバーは要らない、あなたは応援されているとわかるとホッとするのかもしれないが、おれはホッとしない、おれは単に「なんだこれ、やりにくいな」としか思わない、不遜で申し訳ないがどうか気分は害さないでいただきたい、もう一度言っておこうか、おれが言っていることはつまり、「おれは天才だから」ということだ、いやあ不遜で申し訳ないけれど事実だからしょーがないだろ。

おれは不遜だが、言っていることはきっとまともだ、90年代に若者たちは B'z に励まされたのであって、B'z を応援していたのではない、おばさまが自分の子供のピアノ発表会に参席するなら、自分の子供を応援するというのは妥当なことだと思うが、舞台上のシンガーはわれわれの子供ではないので「応援」するには当たらない/でもいつからかそうではなくなったのかもしれない、いまは舞台上のプレイヤーのほうが「応援されるとうれしい」と感じているのかもしれない、そうしたら客席のほうも「応援パワー」がみなぎるのかもしれない。
もちろん、便宜上のこととして、「これからもやっていくので応援ヨロシクぅ」みたいなことは言うと思うし、それはおかしなことではないのだけれど、客席の凡人であるわれわれが舞台上の才人を「応援する」というのは構図がおかしいし気色悪い、応援してもらえないとまともにやれないのはわれわれ凡俗のほうだろうよ、ビリージョエルが客席から応援してもらってニッコリ笑い、「ピアノを弾く勇気が出てきました」とコメントするとは思えない。
ちょっと工夫のしようがないので、赤裸々に単刀直入に歯に衣を着せずに申し上げてしまうが、「応援する」という発想は、その背後に(あるいはその中枢に)、「上から目線で善人ぶれる」ということがあるだろ? 自分が励まされる側だったら自分が下になってしまうが、自分が応援する側だったら上から目線じゃないか、子供の発表会を応援するママは上から目線だろう/上から目線、自分のほうが上、そうしたら何かが精神的に安定する、だから「応援」が自分で大好きになる……このあたりは「ムン」というおれの書いたコラムを参照してもらったら詳しく書いてある(コラムといってもA4サイズで151ページもあるけど)。
さて、ここでこっそり、まともなおれからまともなあなたに向けて、永遠に役に立つ正しいこと、清潔なことを教えよう、あなたがまともな何かでありたいなら、常に「応援される」ということを撥ねつけなさい、排除しなさい、拒絶しなさい、断絶しなさい、応援する余地がないとなったとき、あなたは「ちゃんとした人」になったのだ/「ファン」の語源はファナティクで、狂信的という意味だが、イエスキリストのファンがイエスキリストを「応援」していたら、さすがにそれは魂がおかしいと思わないか、現代人は何もかも「応援する」というわけのわからないことを言いだしている、そして誰も彼も「ちゃんとした人」ではなくなっていく、では何になるかといって、誰も彼も腐女子になっていくのだ、一括して腐女子でいいと以前に説明したとおりだ。

嵐の中、魂を支えるのは誰だ、あなたがおれの魂を支えているのか、それともおれがあなたの魂を支えているのか。

おれだってたまにはこうしてまともなことを言うのだ、無数にことばを並べて話が出現するとき、魂が嵐の中で吹き飛ばされそうになるのは、おれじゃねえ、あなただよ、だからおれはあなたの魂を支えているだろう、おれにとって書き話すというのはそういうことだ、何がどうなっても感謝なんてするんじゃねえぞ、そんなわざとらしいものはまったく必要ない、ただそういうものなんだとだけ知っておけ、嵐の中であなたの魂を守っているのはおれだ、あなたがおれの魂を守るわけじゃない、だってあなたの魂の文章ってぐちゃぐちゃになるでしょ? 文章だけでもないけどさ。
それで、なんでおれのほうは、嵐の中で魂が吹き飛ばされないかというと、おれは天から祝福を受けた天才だからだ、おれのウソでもいいし世迷言でもけっこう、でもあなたがおれの隣にきておれと同じことをやったら、むしろあなたのほうから言い出すよ、「この人は天から祝福を受けている天才なので同じことはわたしにはできません」って/でね、おれは天から祝福を受けた天才だけど、そういうことならあなたも天から祝福を受けたらいいんだ、そして「天から祝福を受けたわたしに『応援』を向けるとかいうアホはやめーや」とあなた自身で言えばいい、そしてどうやったら天から祝福を受けるかというと、もっと汗臭くあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああとやることなんだ、あなたが天からの祝福とやらで首をかしげているのは、あなたが頭がいいふりをしてあなたが疑っているというだけだろう。

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あのときの伴奏から
生のころ、おれはアホ合唱団のアホ指揮者だった。
それで、ある曲にピアノ伴奏が必要だということで、ピアノの達者な奴にその伴奏を頼んだ、そいつは音楽に意欲がある奴だった。
しかし、じっさいの演奏になると、おれは明確には言い出せなかったけれども、「それはちょっと……」ということがあった、そのNGというか違和感について、当時は言語化することができなかった。
そして彼とは一年半後、再会することになった、再会してふたたび別の曲でピアノ伴奏を頼むことになった、そのころおれはアホ指揮者としてまともなものになっていて、彼にアインザッツを向けると、彼のピアノから音が出て、相互に「あっ」となった/おれの指揮棒もまともになっていたが、彼のピアノもまともになっていた、そして瞬間、しみじみと、お互いに「成長したんだなあ」と思いあった、一言もそのことには触れなかったがまったく同じことを相互に感じていた。

伴奏といって、それは「伴」なのだから、「お伴」だ、主のプレイヤーではない。
ドン・キホーテのお供についているのはサンチョ・パンサだ、ドン・キホーテのお伴はサンチョ・パンサしか考えられないが、かといって、それは同列に並ぶものではない、「お伴」だ、つまりサンチョ・パンサならドン・キホーテの伴奏ができる。
いつからか、「伴奏」に引き当たる役目の人が、リード演奏側と同列に並び、押し出てきて演奏するというパターンが増えたように思う、音楽の演奏ではなく精神的な挙動としてだ/同列に並びたければ、正当に同列に並べばいい、つまり自分で演奏会を開けばいいのであって、他人の演奏会で伴奏が主役を気取るのはやっていることがめちゃくちゃだ、自分も岩波書店に並びたければサンチョ・パンサ自身で冒険の旅をしたらいいし、そうするべきだ、ドン・キホーテの物語を破壊して自分を主役に並べるべきではない。
いまや、誰も「お伴」なんかしたがらないし、そんなことを度する胸など持っていないので、さまざまなことがむちゃくちゃになっている、音楽を演奏する「バンド」があったら、バンドはひとつのカンパニーだが、それでも伴奏というのは accompany なのだ/お伴というのは主役の伴奏をするはずなのだが、このごろのお伴というのはむしろ「勝ち馬の尻に乗りたがる」ことを指しているらしい、うーむジジイみたいな言いようで申し訳ないが、万事、自分で主役を張りたければ自分でやれよ、お伴の地位から他人の舞台を乗っ取ってオイシイめを見ようというのはさすがに発想が不潔だ。

カーテンコールに、お伴のサンチョ・パンサに向ける拍手はあるが、お伴でないサンチョ・パンサに向ける拍手はない。

かつて、あいつのピアノから出た第一音は「主役気取り」だったのだ、若かったし、意欲が裏目に出た、色気が押さえられなかったということだな、けれども一年半後、第一音から「あっ」と言わせた、それは「お伴」の出す音だった、お見事、とおれは内心で拍手した、もうずっと昔のことだ/あなたは拍手されたい人だろう、こころからの拍手を受けることがありたい人だろう、じゃあきっとこの「お伴」と拍手のことはあなたにとって必要な知識になる。
おれが商社マンになってから、部長に連れられて何度も六本木の会員制キャバクラに行ったとき、おれは完全に「お伴」だったけどね、おれはそういう時間が割ときらいではなかったのだが、最近ではとにかく流行らないらしい、あるいは精神的にも体験的にもその「お伴」ということがさっぱりわからないということもあるかもしれない/自分は何もせずボーッとしているというのが「お伴」じゃないよ、演奏でいえばリードボーカルが遊んでいるものだ、伴奏はそのボーカルにしっかりお伴するものだろ、どっちかというとお伴のほうが真面目で忙しいものだ。
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00 年代の補足
い出したので忘れないうちに補足。
00年代の女性ボーカルが強く「ノリノリ」という傾向にあると指摘した、そして、それに対比して男性ボーカル側は「裏声じみている」という感じで、気圧されている・対抗できていないと見る向きが成り立つとも指摘した。
たとえば「mihimaru GT」と検索してもらうと、Youtube の公式で「気分上々↑↑」という曲のMVが出てくると思うが、これに出てくる女性ボーカルが、じつにわたしの記憶に照らすところ「00 年代の女性の顔」をしているのだ、そして当時はたしかにこの曲はヒットしていて、誰でも聞いたことのある曲、知らない人はいないでしょという曲だった。
改めて不思議に思わされるのだが、いまになってMVを見れば、当時なぜこれに自分たちが「ノリノリ」になっていたのかが、正直なところ感覚的にまったくわからないのだ、時代が変化したといえばそれまでだろうが、当時はこういったものが正義で、特に女性のノリノリ具合、「女の子は誰にも止められないのダ!」みたいな感じが本当に大正義だった/そして mihimaru GT は、男性ボーカルとのデュオ形式になっているといってよいと思うのだが、どう見ても少なくとも「パンチ力」を担っているのは女性なのだ、ファンの人たちから見るとわたしの言いようは不遜で礼を失し腹立たしいところがあると思うが、ご容赦願いたい、おれは悪意や誹謗の意図があって言っているのではないのだ、00年代を大慌てで捉えなおすということをいまこのときに片づけてしまいたいかぎりで申し上げている。

男性がパンチ力を担ってはいないということ、気圧されていて対抗できていないということに引き当てて、別の方面から記憶がよみがえってきた、「そうだ、そうだった」とわたしは独り言さえもらす勢いだったのだが/ポップスとは関係なく、ある種のお笑い番組のブームがあった、その代表は略称でも「オンエアバトル」「エンタの神様」と言えば当時の人たちには思い当たるところがあきらかだろう、さらにのちの「爆笑レッドカーペット」までこの系統はつづく。
これらのお笑い番組は疑いなく当時の大ブームであり、そこに出演するプレイヤーたちは、お笑い芸人というよりは、基礎って「イロモノのネタ的存在」だった、そのネタ的な存在を壇上にあげ、みんなで点数をつけて遊ぶというのが当時のお笑い番組として大ブームだった。
そのことまで踏まえると、00年代にわたしが見てきた光景は、特に男女のかかわりにおいて、当時の女性ボーカルに方向づけられた「ノリノリ」の女性に対し、「イロモノのネタ的存在」の男性が添えられる、というものがじつに多かったと思う、つまり、キラキラの服を着て大きいサングラスをつけていれば、女性は「あゆっぽい(浜崎あゆみっぽい)」と見られたのに対し、男性が同じ格好をすると、「エンタっぽい(エンタの神様っぽい)」と見られたのだ、このことは同時代を生きた人たちにはきっと「なるほど」という当然の共感を引き起こすものとわたしは確信する。
以前にも申し上げたとおり、わたしはこの当時のことを、いまになって恨みがましく攻撃することを企図しているのではない、当時はわたし自身も含めて、何もよくわからないままひたすら「そういう時代だった」のだ、そしてその後はとつぜんの東日本大震災がすべてを踏みつぶしてしまったとはいえ、やはり現在も当時の文化を引き継いだまま進んできてしまっており/つまるところ、たとえわたしのことを尊重したいという女性であっても、わたしのことを「エンタ向けのイロモノ芸人ですよね」と扱うことがやめられないのだ、なぜやめられないかというと、これまでに与えられてきた文化・思想として、男性に向けるものがそれしかないからだ、彼女がそれを選択しているのではなく、それしか選択肢を持っていなくて、彼女自身がそのことに傷ついて苦しんでいる、その女性はわたしを逆立ちさせてそのままインスタントラーメンを食べさせてゲラゲラ笑いたいわけではないのだが、彼女に与えられた文化・思想においてはわたしに向ける態度と思想はそのようなものしか与えられていない。

「ノリノリの女性とエンタっぽい男」が、なぜうまくいかなかったのかはわからない、そして、当時なぜそれがイケると思ったのかも、今になってはよくわからないのだ。

現代の弱年層は、さすがにいまさら「エンタっぽい」はありえないから、韓国とアニメを中心にして、「アイドルっぽいかわいい女性と、キャラがおいしい男」の組み合わせでうまくやれるという思想でいる、彼らはたしかに 90年代からも切り離され、小室ブームからもまったく無縁で、00年代の「ノリノリ女性」にもまったく影響を受けない領域にいるだろう、彼らにとってポップスというとむしろボーカロイドが始まりという世代になると思うが、彼らがうまくいくのかどうかはもちろん誰にもわからない、そしてそれがどうなるとして、わたしは彼らから切り離された側にあるのだから、どのように思いを馳せたとしても「大きなお世話」にしかならないだろう、さすがにそれぐらいおれだって弁えているが、おれは小説家なので時代の変遷を見届けていきたいのだ、近隣をちょろちょろして迷惑をかけることについては前もって深くお詫びしておきたい、なるべく他の誰かの邪魔はしないように気持ちだけはこころがけている。
このことは、男女がどうこうということではないはずだが、実情としては、男同士ではあまり問題にならず、女性からわたしに向けてが問題になるのだ、わたしのことを最大限に尊敬したい女性でさえ、与えられた文化・思想として、わたしの頭にハゲヅラをかぶせて口許にチョビヒゲをつけて笑いものにするということに、どうしようもない誘引力と安心感を覚える、かといってわたしが自らハゲヅラわかぶってチョビヒゲをつけ、「面白おじさんだぴょ〜ん」と現れることを繰り返していると、その女性は泣いてしまうのだ、悔しさと悲しさで泣いてしまう、しかもその上でわたしの文学論と芸術論と想像力論と魂魄の理論は冷酷なほど明晰で正しいから、ますます混乱して精神が損傷してしまう/このことは、ひょっとしたら最後まで治癒はしないのかもしれないが、それにしてもひとつわれわれが落ち着ける材料として、「このことは 00 年代からの継承なんだよ」と言いうるということがあると思うのだ、00 年代からの継承、あるいは、00年代にそれより以前の何かを継承しそこねたということなのかもしれない……おれのこの話だって「ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙」に解説してもらったらもっと虚心に聞けるのかもしれないが、そんなことをしたってますます本末転倒だもんな。
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00年代の女性の「ノリノリ」、男の「はかなさ」、そして以降のことは本当によくわからない
あそれで、おれのよくわかっていない 00 年代の話をする、本当にわかっていないので全体的に知ったかぶりだ/それでも考えなくてはならないことがあるのだ、00 年代の女性ボーカル、特にシンガーソングライターという印象の存在について、および、それに対比される男性シンガーについて。
わたしの言いたいことはこうだ、「00 年代の女性ボーカルの "パンチ力" 」、そして、同時期の男性シンガーの「線の細さ」だ、この時代に出現した女性シンガーとして、記憶に目立つところを列挙すると、aiko、浜崎あゆみ、倖田來未、大塚愛、矢井田瞳、BoA、MISIA、小柳ゆき、中島美嘉、Superfly、BONNIE PINK、と枚挙にいとまがないのだが、ざっと見た限りでも彼女らの表現するところのパンチ力はいかほどだろう、極端なまとめ方をすれば「テトラポッドのぼってさくらんぼ(もう一回)がタイトなジーンズにねじ込まれてダーリンダーリン、あなたのキスを数えてハニーフラッシュ、ラブレボリューション21(hoo↑)」という具合だ、おれはバカにして言っているのではない、本当にそういう時代があったはずだということを再確認している、おれは真面目な話をしているのだ。
この女性ボーカルの羅列から想像できる、当時の女性たちの異様な「ノリノリ」ぶりというのがあるじゃないか? ここに並べた歌手たちの代表曲をひととおり聞いていけばその性向は強く「ノリノリ」なはずだ/おれは現在になって、二十年前にあったこのことをまるごと見落としていたのだ、女性たちが 00 年代に強くある種の「ノリノリ」のほうへ牽引されていったということ、おれの頭の中はどこか「名もなき歌」ぐらいで止まっていた一方、女性たちはいつのまにか「夏の星座にぶら下がって」いた、そのことにこれまでまったく気づかずにいた。
そして思い返すに、おれ自身もたしかに00年代、何が起こっているかはまったく知らないままに、女性たちの「ノリノリ」に、気圧され、圧迫され、同時に惹かれもし、けれどもやはり圧されていた、ということがあったのだ、当時はまったくそのことに気づかなかったが、いまになって思い返してみればそのことはたしかにあった、誰が悪いとかいうことではなく、本当にそういう情勢があったということなのだ/それが良い時代だったとか悪い時代だったというようなことにはおれは興味はない、ただそういう時代があったということ、そしておれはその時代の直撃を受けていたのに、何の直撃を受けているのかまったく知らず、気づかずにいた。

さあそれで、同時代の男性シンガーとして、平井堅や森山直太朗を引っ張り出してきたとする、するとこれは典型的に「ファルセット(裏声)じゃねーか」という指摘が当てはまるのだ、女性シンガーたちのパンチ力に張り合うものとして、裏声で「大きな古時計」を唄うというのでは、少なくとも「ノリノリ」度では対抗できていないし、2008年には森山直太朗が「生きてることが辛いならいっそ小さく死ねばいい」とまで唄ってしまっている、Superflyが「愛をこめて花束を」を朗々と歌っていることに比べてその裏声はあまりに細くはかないものということになるのではないだろうか。
他の同時代の男性シンガーは、ボーカリストというよりバンドやデュオという印象が強いが、たとえば chemistry はやはりファルセットじみているところがあるし、ポルノグラフィティもその傾向だ、そしてコブクロにせよ BUMP OF CHIKEN にせよ、00 年代後半のレミオロメンにせよ、音楽としての美や良し悪しのことではなく、何か「はかない」ということで共通している、この時代の女性陣の「ノリノリ」にはまるで対抗できるように思えない。
この時代、本来のロック・ポップスを引き継ぐべき勢力というと、ロードオブメジャー、MONGOL 800、175R、あたりだったはずなのだが、それがかつてのロック音楽のような役割を果たせたとは少々思いがたい、なぜなら「彼らの歌に励まされ、支えられておれの青春があった」という人をこれまで聞いたことがないからだ(おれが知らないだけかもしれないが)、いまでも B'z やミスチルを聞いている人は若い人にもいるが、00 年代のロック・ポップスをいまでも聞いているという人はあまり知らない/そして何より、「ノリノリ度」ではこの時代の女性シンガーに太刀打ちできるように思えない、ORANGE RANGE の作り出そうとしたノリノリは、キャッチーにノリノリではあったが、やはり同時代の女性シンガーのシリアスでさえあるパンチ力に比べるとノリノリの "迫力" はない。
つまり何が言いたいかというと、90年代の末におれが言語化はできずに直覚していた「男らしくない」というのは当たっており、その「男らしくない」という潮流がそのまま 00年代に繁栄し、男たちは「はかない」ものとなって唄い、女性たちは「ノリノリ」で強いパンチ力を示して唄ったということではないかと思われるのだ、「はかない男の子とパワフルな女性」という構図/おれは奇妙にはっきり覚えていることがある、ある女性と話していたとき、chemistry について訊かれて、正直なところ「まったく知らないし、まったく興味を持ったことがない」と答えた、それについてなぜか、おれはその女性に「彼らのことを否定しないであげて」と強く言われた、そのときの奇妙な感覚を今でも覚えている……いまはその奇妙な感覚を、言語化できるようにおれはなった、おれが感じた奇妙さは、「なぜそのように、庇護者のような言い方になるのだろう?」ということなのだった、彼女にとってすでに唄う男の子たちは「守ってあげるべき存在」だったのだろうか、おれはその年代にあったことをこれまでまるごと見落としてきてしまった。

00 年代、たしかにおれも「ノリノリの女性」あるいは「女性のノリノリ」に、できるかぎりの協力をした、けれどもおれは「はかない男」にはなれなかったみたいで、けっきょくウケがよくなかった。

当時のことを考えると、これは確かに、明確といってよいほどの傾向があった、「男性は女性がノリノリになるために存在する」ということ、「女性をノリノリにできるのが価値のある男性」ということ、すべてそのためにデートがあり交際があるという感じだった、それも悪く言っているつもりではなく、当時はいつのまにかみんなでそう信じ込んでいたのだ、おれもそのことに不満はなかったし、いまでもその当時のことを不満には思わない、ただ確かに当時は女性を「夏の星座にぶら下がらせる」ために最大限の努力をしたように思う/そしてそのことは、あきらかに 90 年代にはなかったのだ、90年代において男性は、面白い奴であることは課せられていたけれど、「女性をノリノリにさせられるか否か」という基準で評価されてはいなかった。
おれは 00 年代をまるごと取りこぼしてきて、よくわからないまま女性から「ノリノリ」への圧力を受けていたのだが、そのことはおそらく、10 年代に進んでボーカロイドに切り替わってゆくことで薄まってゆき、しだいに消失していったのだと思う、男性が受け取る女性の声が「みっくみくにしてあげる(してやんよ)」ということならたしかに男性陣が受ける圧力はない、そして男性らはやはり「はかない」とは別のものになっていっただろう/ここから先のことはおれには本当にわからないので、いま、特に若い人たちがどういう声を支えにして精神的に生きているのかはわからない、ただ一部からは「うっせぇわ」や「可愛くてごめん」等について、「流行している(していた)けれど、聞きたくて流行しているわけではない」という話も聞いている、もうこのあたりからはおれに考える材料がないのでこの話はここで終わりだ、ただあらためてここに至るまで何があったのか、のんびり思いを馳せようとだけ思っている……それにしてもずいぶんなところまできたものだ、おれのことではなくて、民謡から演歌になり、歌謡曲になり、ロックが流入して押し出され、ポップスに励まされ、ポップスにつまづきを教えられ、男らしさがどうにかなって、女性がノリノリになったのか何なのか、そして人工音声になって、この先は作詞作曲も歌唱もすべて人工知能になるのだろう、おれは小説家なので出来るかぎりその時代に何があったのかを記録できるようになっていなくてはならないのだ。
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励ましから「つまづき」を覚えたポップス、そしておれ自身の離脱以降のこと

「民謡・フォーク」は場所と風土の歌、「演歌・カントリー」は思い入れが場所と風土に結ばれる歌、歌謡曲は場所と風土から切り離されて思い入れを新しい景色に結ぶ歌、ロックは新しい場所へ「GO」を呼びかける歌、そして GO と言われてもその前に解き放たれないと GO なんてできないよということで、解き放たれようと励ます歌としてポップス音楽がはたらき始めた。
「恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム」、それを超えていくんだと、いささか無理も孕みながらではあれ、強引にも励まされていたころは明るかったのだが、次にポップスは「つまづく」ということを覚えた、「あのころの未来に僕らは立っているのかなあ?」と/かつてそのように「つまづいた」人は、ふるさとに帰るというのが演歌の文脈だった、しかし歌謡曲以後のものとしてあるポップスは、つまづいたときその場に立ち尽くすよりないという文脈になっている。
さてそれで、唐突にここで話は終わってしまうのだが、申し訳ない、というのはおれ自身、このポップスが「励まし」と「つまづき」でせめぎ合っている中、タイミング的にも世代的にも、ポップス音楽からは卒業ということになってしまったのだ、だからそれ以降のムーブメントがおれにはよくわからない、つまり九十年代の末あたりで、おれの時代体験と結びついた「歌」は途絶えてしまっており、00 年代からは外部からそのミュージックシーンを遠く窺う卒業生、たまに現在のシーンを覗き見たがる未練がましい離脱者というような具合になった、そこから先に何がどのように進展していったのか、離脱者になってしまったおれにはわからなくて、「むしろおれのほうが知りたい」といまになって強く求めているところなのだ。
おれの時代体験と結びついた、さしあたりポップスの体験は、「ゆず」が夏色を引っ提げて登場してきた時点で首をかしげ、GRAY や L'Arc〜en〜Ciel の「ヴィジュアル系」が主流になってきたところで、完全に「おれの知らないものになった」と感じ、それ以降はポップス音楽に牽引されたり励まされたりということはなくなった、つまり他人事になってしまった/それは単に、おれが年齢的にそうなったというのもあるだろうし、その後は社会人になってクソ忙しくなったからというだけというのもあるだろう、わたしはこのことで何かを批評しているのではないし、嘆いているのでもなくて、あのとき首を傾げた時点にもう一度立ち戻ろうとしているのだ、あのとき本当には何があったのかを現在の知識から確かめなおすために。

当時、若い男連中が一般的なマインドとして共有していたのは、要するに B'z と ミスターチルドレンであって、それは「切なさと、それを乗り越えるためのロック的な励まし」だった、当時まだインターネットもろくにない時代、ポケベルの隆盛に合わせてさびしさを埋めようとする派もあったが、「いやいや、いくらさびしいからといって、ベルトモ を作ってさびしさを紛らわすようなことになってたまるものか」と意地を張る派もあったというわけだ、そのとき枕元で夜な夜な B'z やミスチルを再生するのは、励ましでもあり、同時に自殺行為のようにも感じていた、それでもやはり励ましだった/このとき、別の勢力として「ドリカム」から励ましを得ていた人たちもいたのだが、わたしはその勢力と縁がなかったのでここではそのことを詳細に語ることができない、ただその勢力が「あった」ということだけは言いうるので、そのことに留める。
おれはいまでも覚えている、まだ大学生だったおれが、同じ大学生であるMに、阪急六甲駅の近くを歩きながら、「ゆずって何なんやろな」となんとなく訊いた、Mもそれについて、「うーん、何なんやろな」と、よくわからないという様子で応えた、けれどもMは当時アコースティックギターを練習し始めたころで、よくわからないまま「夏色」のイントロを上手に弾けるようになっていた……
あれからもう四半世紀、二十五年が経つ、おれの記憶のシステムはどうもへんちくりんなタイプで、おれの記憶というのは時系列に並んでおらず、内容が古くならないのだ、おれは二十五年前の自分と友人Mにいまさらようやく答えうると思うのだが、ここまで自分なりに追究してきた学門から、ごく単純な解答についに到達した/おれが体験して首をかしげたのは、自分が聞いたそのあたらしい歌が「男らしくない」ということだったのだ、当時にしてもこの二十五年間にしても、その「男らしさ」というようなわざとらしいことにはまったく観点が及ばなかったのだが、まさかのまさか、二十五年もかけてたどり着いたあのときの疑問、あのときの違和感、あのとき首をかしげたことについての回答は、「男らしくないから」というまったくどうでもいい、ダサくてしょーもないことだったのだ。
これは完全に、おれの側の勝手な思想の問題であって、90 年代の末から切り替わり、00 年代を席巻していった「時の人」たちのことを批判する意図のものではない、その前提の上で今になってようやくわかる、おれにとって「ゆず」も「GRAY」も「ラルク」も、良し悪しではなく「男らしくない」ものだったのだ、あるいは少しでも客観性を保全するなら、時代と共に「男らしさ」じたいが変化してゆき、その変化におれが気づかなかった、そして取り残されたということでもあったのかもしれない/おれは、自覚するところの思想としては、「男らしさ」などというダッサい要素を評価基準に入れているつもりはまったくなかったのだが、まさかのまさか、おれが耳にしたい声の第一の条件はどうも「男らしさ」だったらしいのだ、おれはそうして自覚のないまま二十五年間を生きてきてしまい、つまり、二十五年間ずっと首をかしげつづけて生きてきてしまった。

おれには音楽のセンスはないが、「汗を流して唄う男たち」ぐらいは見ていてわかる。

極端な例でいうと、たとえば世良公則が「今夜こそオマエをおとしてみせる」と唄うのは、ライブ映像を見てわかるとおり汗だくだ、ライブ映像を見なくてもわかるとおり汗だくだ、わたしは世良公則さんのそうした「銃爪(ひきがね)」が趣味ではまったくないが、それにしてもアホみたいに「かっけェ〜」と思ってしまうのだ、そうなると、正直なところ何を歌っているかなんてどうでもいいじゃねえかと思ってしまう/わたしはわたしの趣味でなくても、汗だくで唄う男たちを見ると無条件で尊敬するようだ、その汗が偽りの運動のものでないかぎり、つまり、その汗が正当な「本当のバカ」が流す汗であるかぎり。
男らしさ、なんてそれこそバカみたいな言いようをしているが、おれはもちろん「女はダメだ」なんて言っているわけではない、おれはシンディローパーの声にまっすぐ感動するし、ビョークのすさまじさには最上級の尊厳を覚える、TOM★CATのロックにいまでも背中を押されかねないぐらい単純だ、「いきものがかり」のことを思うといまでも胸が切ない/おれに向けられうる非難があるとして、それは引き受けるにせよ、それに先立ってはおれからも申し立てることがあるのだ、それはつまりこういうこと、<<汗を流して唄った人たちに冷笑を向ける意味不明の勢力におれは永遠に与しない>>ということ、おれが赦されないならそいつらだって赦されねえよ。

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民謡から演歌、演歌から歌謡曲、ロックの流入とポップスの発生
楽のジャンルは定義があきらかでない、だから人によって言うことはまちまちだ/面倒くさいので、おれはおれの話をする、そのような前置きでお付き合い願いたい。
アメリカのカントリーからロックが生み出されたのは、時系列とサウンドの近傍性からあきらかだと思うが、ではカントリーとは何かというと、場所と風土に結びついた歌、人情や思い入れが場所と風土に結実する文脈の歌、ということになる、それはつまり日本では「演歌」だ、「さよならあなた」が「津軽海峡」に結実し、「隠し切れない移り香」が「天城峠」に行き着く、アメリカではウェストバージニアに行き着く、しみじみ飲めば「舟歌」に結実し、寒さをこらえてセーターを編むと「北の宿」に結実する。
演歌の元になっているものは民謡であって、つまりソーラン節や木曽節などが元になっている、ただ民謡は個人的な思い入れの歌ではないので、それを私小説ふうに書き換えていくと、やはり演歌の、たとえば「望郷じょんがら」のようになるわけだ、日本ではそうして民謡が演歌になり、海外ではきっと同じようにフォークがカントリーになっていき、そこに次なるものとしてロックの潮流が起こっているはず。
ロックの潮流は発端があきらかで、1950年代のアメリカの黒人、チャックベリーとリトルリチャードだ、「ジョニーBグッド」と「のっぽのサリー」だ、これが白人のエルビスプレスリーに受け継がれ、海をわたってビートルズに引き継がれていく、そしてビートルズが日本の桑田佳祐や矢沢永吉に引き継がれていくということになる/その中で「ポップス」はどういう端緒から起こったのか、ポップスというのは定義がさらにあいまいでなんとも追究しづらいが、おそらくロックのあと、電子音楽が入り込んだときに発生しているように思う、電子音楽がそれまでの音楽と溶け合ってポップスになり、電子音楽だけで切り取られたものはテクノとして発展していったのだろう。

日本の場合、カントリー・演歌を打ち破ろうとするロックが流入してくる前に、もっとおだやかなはたらきのものとして「歌謡曲」が発生しているように思う、「歌謡曲」もきわめて定義があいまいで、「歌謡曲」という言い方じたいがもう定義を放棄しているようにさえ思われるが、ともあれ「昭和歌謡」と言ってじつに当てはまる歌謡曲が存在するのも事実だ、そして歌謡曲の本質は演歌と引き当てたときに、「場所・風土からの切り離し」にあると思う、先に述べたように演歌は人情と思い入れが場所と風土に結びつくという文脈の歌だが、歌謡曲はその場所と風土を切り離して、人情と思い入れをあたらしい景色に結実させようとする文脈に切り替わって生まれたものだと思う、たとえば同じ森進一の歌でも「襟裳岬」は演歌であるいっぽう「冬のリヴィエラ」は歌謡曲だと見るべきなのだ。
歌謡曲では、文脈が場所と風土に結実せず、何かあたらしい景色に結実する、たとえば「君は部屋を出て行った」は「サボテンは小さな花をつくった」に結実し、あるいは「若かったあのころ」が結実する「神田川」は、ふるさとや風土の場所としての神田川を指しているのではない、歌謡曲はそうして場所と風土から切り離されることで演歌を超えていったのだが、そこで海外から流入してきたロックはさらにそれを能動的にして「Go」「飛び出せ」という思想を呼び掛けている、「Go! Johnny Go!」という呼びかけは、ハイウェイスターになり、「裸足のままで飛び出してあの列車に乗ってゆこう」になった、歌謡曲の「冬のリヴィエラ」では船を見送る立場になるのだが、ロックの場合は自分がその船に乗ってしまえという文脈になるわけだ。
ロックはその意味で新天地への力強い呼びかけになったが、とうぜん現在の体制に対する強いアンチテーゼともなり、つまり体制へのカウンターカルチャーになった、ボブディランの「風に吹かれて」はベトナム戦争に反対するテーマソングになり、尾崎豊が「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」と唄うとじっさいに当時の中学校では深夜に窓ガラスが割られる事件が多発して社会問題になった/そういうことになるだろうと予感されていたので、ビートルズが来日したときには、当時の中学と高校で「ライブを観に行ってはいけません」という禁止令が出たのだ。
ロックがそのような勇ましいあるいは無謀な行先を敢然と示す中、そこまで跳躍できないと怯む人たちも大勢いただろう、跳躍するためにはまず現在の自分のくびき、自分の弱さを断ち切らなくてはいけないということに人々は気づいた、そしてポップス音楽は自分の弱さを超えるため・自分のくびきを壊すための励ましの役目を担っていった、いきなりハイウェイスターにはなれなかったので「わかりはじめたマイレボリューション」に励まされたという具合だ。

高速道路、新幹線、空港と飛行機など、交通インフラが整うと共に、演歌はその社会的な役割を終えていった。

精神的な役割まで消えてなくなるわけではないかもしれないが、少なくとも青函トンネルが開通すれば青函連絡船は役目を終えるのであって、歌われるべき課題・向き合うべき課題は次のフェーズに移る。
おれは音楽の歴史にはまったく詳しくないので、誰かめちゃ詳しい人がいたら聞きたいことが山ほどあるのだ、さてこの話は次につづき、おれの疑問はいま 00 年代初頭の女性ボーカルの台頭に向かっている。
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自信のない人はなんでも思い通りになると思い込む
盾した話だ、自信がないのであれば、なんでもそう思い通りにはならない、と控えめに考えそうなものなのに。
じっさいにはそうではない、自信のない人は、なんでも思い通りになると思い込む、なぜかというと、そう思い込まないと動けないからだ。
「もしもし、お母さんだけど、アンタ、お盆には帰ってくるでしょ?」と、向こうは決めつけて言ってくる、それは自信がないからだ。
「次の誕生日に、ちゃんとしたバッグが欲しい! あと、来年の冬にスキーに連れてってほしいな」と、向こうは決めつけて言ってくる、それは自信がないからだ/なんでも思い通りになると思い込む、それを土台にしないと、自信のない人は動けないので、まずそのスイッチを自分に入れるものだ。

自信のある人は、たとえば後輩を呼び出すのでも、「おう、あのさ、夜中だけどラーメン食べに行かん?」と、相手と対話することを始まりにして動く。
デートに誘うのでも、「週末、銀座に出て一緒にランチに行かない」と、やはり対話することを始まりにして動く、なぜそうなるかというと、自信のある人はフラれた場合の「処理」ができるからだ。
自信のある人は、たとえば面接に落ちた場合でも、「うーん、そうかあ、残念」、夜中のラーメンに誘ったけれど朝から用事があるとかで不発だった場合でも、「そりゃしゃーない」、デートに誘ってもつれなかった場合も、「残念、じゃあまたいずれ」と、思い通りにいかなかったことを "受け止めて処理" できるのだ、自信のない人はこれができない、自信がないせいでいちいちショックを受けてパニックになり、感情を激したり精神的に不安定になったりするのだ。
ふだんこのことは、水面下に潜伏しているので、「そんなことにならないでしょ」と笑って思えるのだが、そうではない、何かしら魂をおびやかされることがあった場合、このことが水面上に出てきて顕在化するのだ、たとえば母親の知り合いがガンで死んだとき、母親自身も自分の年齢と死を意識する、それで「アンタ、お盆には帰ってくるでしょ?」となる、またたとえば、友人はオーディションに合格してバリバリやっているのに、自分はまるで才能がないみたいでゾクッと恐怖したとき、「次の誕生日に、ちゃんとしたバッグが欲しい!」となる。

「あのさ、ハイブランドのバッグを買ってやれる余裕はちょっとない」と言われると、彼女はショックを受け、「わたしの自信を返して」と泣く。

むちゃくちゃな話なのだが、さしあたり表面的なことで言うならば、この場合の彼は彼女の自信のために、彼女の思い通りにならなくてはならないのだ、もちろんそんな話はめちゃくちゃなのだが、このときにはそのめちゃくちゃが絶対的に彼女においては優先されてしまう、それぐらい、自信がないというのは根本的につらい状態なのだ、特に魂がおびやかされているときに自信がないというのはとてもつらく、そのためには彼に借金させるということも二の次だし彼がスクールに通うためのお金を貯めていたということも三の次になりかねない。
「お盆の期間は、わたし海外出張中だから帰れないよ」と言うと、母親は「エー!」と怒る、「アンタお盆なのに何言ってるの、ホントあきれるわあ」と憤懣やるかたない、このばあい母親は「わたしの自信を返して」と怒っているのだ/われわれは、自信のないまま誰かと佳き友人でいることはできないのだ、だからあなたが誰かと佳き友人でいるために、さあ逆に考えよう、あなたがいろいろ思い通りにならないとき、おだやかに引き下がれるなら、あなたは強くて自信を持っているのだ、「ぜんぜん思い通りにはならない笑」と、そのことでみずから怯えず、卑屈にもならずに笑って進めるなら、あなたはその強さと自信を宇宙の果てまで誇っていい。
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「やさしい男」はいなくなる
んにちの情勢を鑑みるに、このさき、旧来のようなセクハラ男はいなくなっていくだろう、正確に言えば「犯罪者を除いて減っていく」ということになる。
それはそれですばらしいことだ、冗談でなくすばらしいことだとおれは思っている、なぜならセクハラの被害を受けた女性というのはじっさいにすごく多いからだ、その被害というのも、単に「けしからん」というだけのものから、それはひどすぎる・悲惨だというものまで多様に含まれるけれども。
ただこれまでは、セクハラ被害を受けていながらも、当人がなぜか「それをあまり気にしているわけではなくて」という人も少なからずあった、「ただ自分がこれからどうしたらいいかを掴みたいだけなんです」という人がたくさんいた、もちろんその逆に、男性という存在そのものを永遠に憎悪すると魂に彫り込んだ人もいるだろう、ただそうした人は男性のおれのところに相談話なんかしにこないので、直接おれと関わり合うことがないので、おれとしては直接の事例は知ることができない/おれが男性だというだけで、一種のトラウマから、隣にいるだけで震える女性もいたけれど、その人も過去のことではなくこれから先の未来をどうしたいかを考えていた、そうしてセクハラ被害のすべてが必ずしも当人においてそれじたいを焦点としていない例も多くあったということを、時代の名残として書き残しておきたい。
こうした、一種の多様性、一種の柔軟性を残した話は、こんにちかぎりのもの、あるいはすでに過去になったものだろう、これからは一様に、一直線に「セクハラは可能性じたいで悪」ということで固定される、それでじっさいにセクハラ被害は全体として減少するに違いないから、それじたいはすばらしいことだ、ただそれに伴って主作用とは異なる副作用ようなことも起こるのは当然のことだ、それについてこれからどうなっていくかを考えておきたい。

単純にいって、これから先は男性によるセクハラは減るだろうけれど、同時に、「やさしい男」という存在もなくなっていくとおれは推定する、あるいはそのように断言しても差し支えない/セクハラ男性はいなくなっていくが、同時に、基本的に「やさしさゼロ男性」になっていく、このことは陰陽の現象なので、当人のこころがけなどではどうにも変化しない。
やさしさゼロ男性、と言われると、現時点では「それはイヤです」と思えるのだが、それも現時点だからそう思えるだけで、本当にゼロになってしまったら「やさしい男」「やさしい人」という概念じたいがなくなるので、そのことがイヤだという感覚も発生してこないだろう、ただこれまでのことと同じように、「過去の "恋あい" ってどうやっていたのだろう?」という、一種のロストテクノロジーのようになるだけだ、いまになって70年代のロックコンサートがなぜあんなに熱気を帯びていたのか、どう考えてもわからない・再現のしようがないということのように、これから先、「やさしい男と、それに応える女性」という現象じたいがロストして、過去のそれが首をかしげるばかりの「ナゾ」になっていく。
「やさしい男」というのはどういうものだったか? たとえば安直にイメージするならこうだ、急な雨が降ってきて、十歳の少女がずぶぬれになる、そして雨宿りに商店の軒先に駆け込んでくる、そのずぶぬれの少女の頭に、同じく雨宿りしていた石原裕次郎がタオルをかけてやる、というような感じだ、それで何がどうというわけでもないにせよ、かつて人々はそこに「やさしい男」「やさしい人」というようなことを体験していた。
いまだって、まったく同じシチュエーションを与えられれば、二十代の人気お笑い芸人だって、同じように少女の頭にタオルをかけてやることはするかもしれない、そのお笑い芸人はイケメンで、髪型と髪色を最新型にしている、その彼の印象は特に若い女性にとって「エモい」のだが、石原裕次郎が少女の頭にタオルをかけてやったそれと比べると、何か「やさしい男」というのは無いのだ、イケメンお笑い芸人は善人感が強くてエモいのだけれど、彼にかけてもらったタオルは石原裕次郎にかけてもらったタオルほどあたたかくはないし、そのような安心感もない、この場合のイケメンお笑い芸人は「フレンドリー」ではあるがやさしくはない。

陰陽から万物が生じるので、この先に男女の交際に何かが生じるということはなくなる。

意地悪で言っているのではない、すでに現時点で、男女の交際に何かが生じるというようなことはもう基本的になくなっているはずだ、もちろん男女のことだからさまざまな願望や執着が起こるのは当然のことだが、「名シーン」のようなものは生じなくなっているだろうということ。
かつては、やさしい男の魂とことばに、やさしい女の気と色が応えて、何かが生じるという独特のことが起こっていたのだ、それがなくなってこれから先はどうなっていくかというと、「理解のある彼と、まっとうな彼女」が、パートナーシップでむつみあっていくということになる、それもすでに現時点でじっさいの恋愛の理想像になっているというのが事実だろう/セクハラが撲滅されて理想の男女関係モデルに近づいていくというのは本当によろこばしいことなのだが、それと同時に、とうぜん失われるものもあるということ、いじめが撲滅されたら藤子不二雄は「少年時代」を描きようがないように、すばらしい改善の中にも失われていくものはある、だから改善は必ずしもわれわれの魂を救いはしない、むしろ魂が崖から突き落とされるということもしばしば伴うのだ。
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