☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
体罰に関わる問題
代において、体罰というのは、もうほとんど使えないだろうと僕は思っている、僕の考えなんかどうでもよいことだが、僕はすでに体罰については否定派だ。
 少なくともそれが「体罰」というように、「罰」に見えているのだとしたら話にならない、罰というのは司法によってしか処せないものだから、司法手続きによらない「罰」というのは法治国家においてありえない、体罰に限らず罰金というのも含めて、「罰」というのは司法によってしかありえない。
 それでも便宜上「体罰」としか言いようがないのだろうが、体罰はすでに、局所的なものを除いては否定されるしかなく、体罰が否定されるということは、若年者が救われるということではなく、若年者が救われなくなるということだ、まあそれを承知の上で、僕は現実的な思考から、体罰を否定する立場を採らざるをえない、これは僕の温情ではなく冷酷を示している。
 もしここで、個人的にウソにだまされたくないと求める人がいれば、僕が個人的に、ウソにだまされてはいけないよとお話しすることになるが、あくまで個人的な範疇において、体罰についてブーブー言っている人たちはウソでありインチキだ、本質の問題はそこではない、本質は「寒い人たちの体罰」は目も当てられないのであって、その寒いものと「ナイスガイたちの闘魂のせめぎあい」を比較はできないということだ、よって本当の問題は、われわれが自分たちを「寒い人たち」だと認めないところにある、それを生涯を通して認めることはビンタの一発よりも遥かにきつく重いものだ。

 たとえばここに、「腹から声を出せないAさん」がいたとする/まあ腹から声を出せないといって、大半の人は生涯のうちに一度も腹から声なんか出せないのだけれども。
 このAさんを、「腹から声を出せないAさん」として生涯を定義してしまう前に、唯一の脱出口がある、それはしのごの言う前に、軽く拳をもって、「おい、ちゃんと気ィ入れてやれや」と、その胸を突いてやることだ、そうするとその瞬間にのみ漲(みなぎ)るものがある/もちろんそれをもって、必ずしもすべてのケースで漲るとは限らないのだが、唯一漲る可能性があるのだ、軽く拳をもって胸を突いてやるだけで、その方法しかないし、誰だってそんな単純なことからようやくすべてが始まることはある。
 現代において、体罰はすでに通用しないと僕が考えるのは、拳をもって胸を突くとして、それで彼の全身に危機感と高揚感を漲らせられるという、実際のパーソンがいないということもそうだし、それ以上に、すでに現代における人々の心身の荒廃は、そんなことで好転しないほど進行していると考えるからだ、本当に死んじゃいそうになる人が多くあって、そういう人は本当に、腹から声を出すなんて生涯にわたって「とんでもない」という庇護の中を生きていくしかない。
 Aさんに、「腹から声を出しなさい」といって、説諭のみをもってAさんの体質を変えるのは、どこかの時点からは不可能だ、それで弱々しいAさんを、そのままAさんの個性として保存するという考え方も勿論あるが、そのAさんがその先を、幸福と光輝に満ちて生きていけるかというと、それは誰にもわからない、Aさんは腹の底から笑うことが一度もなく生きていくしかないが、そのことを「しゃーない」というなら、もう初めからAさんに対して何かを教えるとか伝えるとかいうことの一切を諦めるべきだ、AIが判断して適宜情報だけ伝達すればよいだろうし、そういうことにかけてはAIのほうが優秀だろう/僕はそうしたときにどちらが正しいのかを決められないが、僕がただ問いたいのは、「拳で胸を突かれずに生きてきたAさんのことをあなたは愛するのか」ということだけだ、ここですべての問答は窒息するだろう、どうかウソ偽りなしにこの問いにだけ答えてもらいたいところだ。

人を愛していない者が、体罰だけを憎んでいたとしたら、その話は聞き流しておけ。

 別に体罰だけに限ったことではないが、人を愛していない者が何かを宣ったとして、それは人を愛している者が何かに奮闘していることとは性質が異なるのだから、区分して聞き流すことだ、人を愛していない者、何かを愛していない者が、何か正論めいたものを述べてみたとして、それは何も愛していない者の悲憤正論にすぎない、こんな馬鹿げた正論が何の足しになるだろうか?/そしてこの際、急に切り出された "何も愛さずに生きている者" という存在を、改めて異様なものと捉えなおすべきだ、それがたとえ己自身のことであったとしてもだ。
 体罰に関わる問題について、僕は「もう現実的に無理でしょう」と考える、まあ何の立場もない僕がどう考えても、世の中に何の影響もないことだが/腹から声が出ないAさんは、まったくの独力と、ネット検索した情報のみをもって、人格レベルから覚醒し、自己変革に到らねばならないのだ、その見込みの現実的でなさは、「もっと無理だろう」ともちろん考える、誰だってそう考えるから、誰もがそんなミエミエの無理には取り組まない、そうして時だけがすぎ、もう何もかも取り戻せない年齢になるだろう、そうなるともう考える必要もなくなるので、意識は眠るだろう……すべては当たり前で、何の問題もないように見える、何の問題もないように見えるのだが、唯一、Aさんは「愛される」のか? ということだけが残り続ける。
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悪霊の入口は「やることがない」
まざまなニューストピックが、もうトピックの時点で正気を疑わせるので、内容まで知ろうという気になれない。
学校の教師が教師同士で幼稚ないじめ行為に耽るとか、芸能人がタピオカ屋を罵って脅迫するとか、もう何のこっちゃわからない。
ここにある恐怖は、その犯罪性というよりも、「よくそんなヒマなことで、そんなヒステリーのスイッチが入るな」ということであって、犯罪性への恐怖ではなく、その本性の「得体が知れない」ということへの恐怖だ、犯罪性うんぬんよりも、当人があまりにも幸福から遠すぎることが、表面からはわかりづらすぎて恐怖だ。
先日まで「あおり運転」等が、これもまた「よくそんなヒステリーのスイッチが入るな」という恐怖を煽ったのだが、もうこれでは街中も旅先も、同僚も級友も、おっそろしくて気を許せないじゃないか、ハロウィンパーティはまだ先のはずなのに、リアルに魑魅魍魎がうごめいていて現代で言うところの草も生えない。

もうこれらの一切について、事件の正体を、「悪霊が憑いている」としか表現できなくなった。
どのように頭をひねってみても、事件の動機そのものが、まともな経路では発生しえないからだ、それでもう面倒くさいので、一律「悪霊が憑いている」と括るしかないと思える、実際ここしばらくで連続するわけのわからない狂気のニュースは、ぜんぶ「悪霊が大繁殖しています」とアナウンスされたほうがまともに聞こえるのだ、もうNHKから「今日も悪霊のニュースです」と報道してほしいぐらいだ。
そして僕の知る限り、人は生きていて「やることがない」となると、悪霊に入り込まれやすくなるものだ、いくら著名になって裕福になって、権力を得て顔が利くようになっても、根本的に「わたしのやること」がなくなると、人は無力だ、ただ時間が流れて老いていく中をのたうちまわることしかできない、そんなときどうしても悪霊に入り込まれる。
それは、仮に悪霊なんてものがいればという仮想を前提とするが、その上で、それは悪霊の第一の手口なのだ、まずわけのわからないものを肯定させ、そのあとで肯定を取り去ると、「あれ?」となって、その直後に「やること」を失う、このとき大きな恐怖に見舞われるから、ここでサッと別の「やること」を差し入れるのだ、すると人は恐怖から逃れるために、差し出されたそれに飛びつく、そうやって悪霊は人に入りこむ/仮に悪霊なんてものがいればという仮想を前提にしてだけれども、

必ずしも「うつ」の形で現れるとは限らない。

今や、著名人や身の周りの誰もが、「うつ」になったとして誰も驚かないが、「うつ」は神経症(ノイローゼ)の一形態でしかなく、それは必ずしも「うつ」という形で現れるとは限らないのだ、その多種多様な――ときには激烈な――現れ方を捉えようとするとき、観念的には「悪霊」という見方をするほうが、きっと感覚的には正しくなる/仮にその「悪霊」という言い方を採用するなら、すべては悪霊を肯定する前に対処することが大事だ、当人が悪霊を肯定した後では、その悪霊は生半可には出て行ってくれない。
そしてほとんどの悪霊の入口は、自分が「やることがない」というところから生じている、初めは生きるために「やること」があり、いちおうの成功を得ると、今度はその成功を満喫することが「やること」になるのだが、それも一段落すると、そのころにはすでに老い始めていて、途端にこれまでにすべてのことが、まるで肯定感を失って消え去る、すると自分の「やること」が完全に消えてしまう、このとき悪霊が入り込む、だからすべてを超えて自分の「やること」とつながっていることが大事なのだ、そもそも自分の「やること」とつながっていない日々のほうが極めて特殊で危険な状態なのだが、現代はその危険な状態がデフォルトになって、あまりにも多くの人がずっと綱渡りを続けている状況にある。
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年長者の一面は、過ぎた時代へのガイド役
い女性に、「歌の上手い女性歌手って、誰をサンプルにすればいいですか」と訊かれた。
それで僕は、「オリビア・ニュートンジョンとか、カーペンターズとかかなあ」と答えた/「何のクセもなくて、ただ唄っているだけにしか見えないのに、何かが異様に上手い、ああいうのが "歌が上手い" んだと思うよ」。
色んなクセや、色んな特徴、色んな魅力を持つシンガーがいると思うが、ありきたりな話、クセのある人を真似すると、クセだけ似通って自分は行方不明になるので、中央のサンプルはごく正統派がいいと思っている、もちろん歌に限らずなんでもそうだ。
そんなことを話ながら、僕はふと、「年長者というのは、過ぎた時代へのガイド役でもあるのかもしれない」と思った、僕だってオリビア・ニュートンジョンやカーペンターズの時代に直撃している世代ではないのだが、僕自身も誰か年長者に、かつてガイドされたからその名前と歌を知っているのだ。

たとえば「ゆず」というデュオがいて、「コブクロ」や「ケミストリー」というデュオがいた(いる)ことは、二十代の人でも知っているはずだ。
けれども、デュオというと、さかのぼるとたとえば「サイモン&ガーファンクル」というのがいたのだが、これはもう知られていないかもしれない/古いものを再興する必要はないと思うが、連綿と続いてきたものが途絶えているのは、ただの情報のロストでしかない。
ふと、YouTubeで調べてみると、久しぶりに、やはりサイモン&ガーファンクルのハーモニーは異様な荘厳さで、たとえば「サウンド・オブ・サイレンス」とか「スカボローフェア」とかを聞いてみると、やはり今でも「なんなんだこいつら……」と、驚くというよりも何か心胆を寒からしめられる/こういう "デュオ" があったことは、もはや歴史的事実だから、古いとか新しいとかいうことではなく、ただの知識としてつながっていればいいと思う。
われわれは学校の授業で、やれアウストラロピテクスだの、縄文式土器だの、古墳時代だの、墾田永年私財法だのを習うのだが、そういう切断された過去の話ではなく、現在から遡って、「自分が目撃しなかった時代」のことを、あるていどつながって知る必要があると思う/むろん青春の只中でそんなジジくさいことは知らなくてもいいが、僕が思うに、人は青春の次の時期に、その遡行の中で何かに出会う気がする。

過去に戻るのではなく、過去を見て、そこから何を得、何を失っての「今」なのかを知る。

過去から現在に到るまで、「何をしてきて」、現在に到ったのか、そのことがわかるのだ、それは現在が視えなおすということであって、過去に戻るということではないし、懐古するということでもない。
過去を見て、「この時代」というものが視えはじめると、自分の生きている現代も、「この時代」と視えはじめるものだ、そうすることで、今の自分が何をやっているのかが視えるようになる。
視点変えてこ | comments(0) |
慾望と不安、慾望と満足

美人の、育ちのいい、とてつもなくいい香りがする女子高生か何かが、おれのことを深く愛するために、おれに駆け寄ってきて抱きついたりしないかな、そういうことがあればこの世界はハッピーで祝福されまくりだ。
あとは、とりあえず使う用事はないのだが、無意味に六百億円ぐらい降ってこねえかな、別に使う用事はなくてもそれだけ降ってくりゃそれだけでハッピーだ。
慾望というのは、いいパラメーターで、このパラメーターを開放させたとき、何の不安もよぎらない人が、逆に罪がないということになる/少なくとも、罪を「隠蔽」はしていないということになる。
超美人の、育ちのいい女子高生が、とてつもなくいい香りをまとっておれを深く愛するために駆け寄ってきておれに抱きついたとして、またおれがその少女を好き放題にしたとして、そこに何の不安があるだろう、おれが自家用ジェットを買ってパイロットをやとい、なんとなくドゴール空港まで飛んでみたとして、そこに何の不安があるだろう/慾望というパラメーターを開放した状態で、すべてが視えるかということが問題なのであって、慾望を隠蔽したまま視える人のふりをしたところで、そんなものはニセモノのインチキにすぎない。

ふつうの人は、週に五人も初対面の美少女を抱き、「別に一銭も与えていないし、美人だから下着姿で給仕させたり、おれの靴を磨かせたりしているよ」という状態にもしなったら、どうしても「罪」の感覚がよぎるはずだ。
そして、そこに罪の感覚がよぎるのならば、それはその人にとっては罪なので、やらないほうがいい、罪を覚えながら豪遊なんてするものじゃない/おれは世界中のニワトリに、おれのためにナイスなフライドチキンになってくれと願っているし、ヴィーガンの人たちが言う「動物はごはんじゃない」のスローガンに対しても、「いいや、おれのごはんだぜ」と楽しみにしている。
美少女はおれの慾望のために肢体と魂を献じてナイスだし、ニワトリさんはおれの慾望のためにスパイスをふられて油の中へドボンしてナイスだ、その両者は同じようなことにすぎない、おれは何かを苦しませたり悲しませたりするのはイヤだが、おれは何かを苦しめたり悲しませたりしようとしているのではない、ただ双方におれの慾望のためにヨロシクと言っているだけだ。
慾望を開放したとき、何か「不安」がよぎるなら、それはやはり「罪」を形成していて、罪に罰が報われそうだから不安がよぎるということだ/慾望を開放させたとき……つまり初対面の美少女を裸にして押し倒し、ベッドにいい香りをかぎながら、二億円の宝石を指先に眺め、それらが最高でヒャッホウだと慾望を開放させながら、なおも学門が視えているかどうかが問題だ、慾望に無反応になるとか抑圧するとか、隠蔽するとか禁欲するとかは、基本すべてインチキであって、慾望はビンビンに開放されていながら別のメカニズムが支配しているという状態でなくてはならない、ブッ壊れているのに誰よりも正しく動くという状態でなければ何にも到達したことにならない。

調整している奴なんて、ちゃんちゃらおかしい。

とはいえ、現実的には、その調整というものができないとバカなのだ、ただの犯罪者か、少なくとも近所迷惑の、とっても恥ずかしい奴になってしまう/とはいえ、その「調整」をしながらまともな人のふりをしているのは、基本的に偽装だし、「調整」を長くしていると、もう調整ネジがバカになってしまって、「開放」ということじたいがわからなくなる、だからこそ、すべてのことはそんなにカンタンじゃない。
おれは好き放題にできるガールフレンドは二百万人必要だと思っているし、使うアテのない残高でも四千億ぐらいは最低欲しいと思っているが、このガールフレンドが二人になり、残高が四千円になったとしても、満足度は一ミリも変動してはならない、いかなるときも完全な満足にありながら、慾望をフルオープンにしても満足そのものは変動しないということでないと、慾望を満足度にすりかえようとする愚かさの罪が明らかになってしまう/何が罪かといって、慾望を開放すると、実は吾我の慾望を「信仰」しているじゃないかということが明るみに出て、それが罪だとはっきりするのだ、慾望は慾望としてフルオープンして、なおもそのきらめく慾望を「信仰はしていない」ということが要になるのだ、ここまできてようやく、人は初めて「信じられる人」に出会う。

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この手のニュースに現れてくる或る種の文脈・文体について
しぶりにmixiでニュース記事に日記を書いてしまったので転載。
なぜこの自然豊かな国はバーベキューにさえ行きづらくなっとるんだ、ただちに国家予算の一割をおれの口座に入金せよ。
 
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視点変えてこ | comments(0) |
雑談、夜回り先生「もう疲れました」
ういえば、昔「夜回り先生」というのが流行ったが、昨日(8月21日)、「夜回り先生」がブログを閉鎖したそうだ、その理由は「もう疲れました」とブログ記事に書かれている。
僕は、いつぞや流行ったあの「夜回り先生」のようなものを、趣味としては好まなかったけれど、必要か不必要かでいうと、きっとそれは必要なものであって、また僕には到底真似できないたぐいのことなので、好みとは別に勝手に尊崇はしていた、夜回り先生というのは典型的にダセーと思うが、そのダセーものに救われた人はきっと数多くいるはずなのだ。
「夜回り先生」の最後のブログ記事の書き出しは、「私に相談している人の何人が私の本を読んでくれているのか」だ、この書き出しだけですべてを察して余りあるが、つまり、「夜回り先生」に相談するような人は実は世の中にうじゃうじゃいるのだろうけれど、そうして相談してくる人はたいてい、「夜回り先生」に何らの尊厳も認めていない人たちなのだ、よって「夜回り先生サービス」みたいに扱われて好き放題に利用され、消費されたであろうことは、想像に難くない、きっと誰も「夜回り先生」のこころなんか認めなくなったのだろう。
現代、多くの人がそうしてモンスター化を進めており(僕の言い方だと「獣化」という)、特に理由はないが、「夜回り先生」が「もう疲れました」といってサービスを停止すると、人々はそれを漠然と「クソ」扱いして糾弾するのだ、糾弾には何の理由もなく、ただ獣化した人による現象と言うしかない。

「夜回り先生」がブログ閉鎖を告げる前の記事は、一週間前、8月14日の記事だ、その記事は「相談件数が急激に増えています」「主に女子中高生が "死にたい" と死を語るものです」となっている。
このわずか一週間後に、「もう疲れました」となっているのだが、本当にもう疲れ果てられたのだろう、僕は勝手に「夜回り先生」当人が人格の成熟した方ではないと思っていたが、それでも常に単独の生身で最前線に接触しているというのがどれほど壮絶なものかは想像がつくので、おいたわしいという感情は湧く、どうかお気に入りのキャバクラの女性が多めにサービスしてくださりますように……単独で毎日、数十も数百も届く死にかけメールに誠実に応答するというのはふつうの人間にはこなせないことだ、数ヶ月はできても数年はムリだ。
昔、ネット上のジョークの言い方で、「ガンジーが助走をつけて殴るレベル」という言いようがあったが、それになぞらえれば、今リアルな意味で「夜回り先生が夜回りをやめるレベル」に到達したということだ、どう考えても何かまずいことが進行しているのだが、そんなことを俎上にあげても、すでに獣化は進行しているので、とにかく自分は悪くなく誰かがクソだという自動攻撃しか湧いてこない。
「夜回り先生」の記事、「私に相談している人の何人が私の本を読んでくれているのか」という言いようは、つまりどれだけ「ないがしろ」にされているかを暗に示していると思うが、われわれはどうしても、夜回り先生が二十年に亘って続けてきたことには何も思わず、自分が二十分に亘って気持ちを昂ぶらせたことにだけ巨大な評価を与えてしまう/僕は女子中高生が日夜「死にたい」と感じているのならそれをそれなりに悲しく思うが、それ以上に夜回り先生が疲れ果てたことをいたわしく思う、僕は夜回り先生のようなオッサンを好みはしなかったが、かといってこんなに粗略に扱われるべきオッサンだったのかね? 僕は道義を疑う。

夜回り先生の元に、「おっさん、大丈夫かよ」と労るメールは、全体の何パーセントぐらい届いたのだろう。

メディアにも出ている有名人だったから、相談の件数は多かっただろうが、その届くメールの中に、「テレビで活躍しているのを見たけど、おっさんスゲーよ、でも無理すんな」というメールはどれぐらい含まれていたのだろう/そして、そういうメールが一定数飛び交うようにならないと、女子中高生の「死にたい」は止まらない、止まるわけがない、なぜなら「死にたい」のが正しいからだ、そんなもんおっさん一人が夜回りしたところで解決できるわけがない。
ひょっとして、「夜回り先生」のところには、本当に相談の用事「しか」届かなかったのかもしれない、そんなことふつう人の世にあってはならないことだが、現代においては大いにありうることだ、われわれはいつのまにか、自分の使用するPCが老朽化して動かなくなると大きな問題を覚えるが、夜回り先生が老朽化して動かなくなっても何も感じなくなってしまった。
視点変えてこ | comments(0) |
「消費する」という体質の完成
うやら本当に、「楽しい」と思っている人が、数多くいるみたいだ。
そりゃ、楽しいし、すべてのことは、楽しくないと話にならないのだが、「楽しい」なんて片腹痛い、おれはずっと夢と青春と命と魂を投げ出さないと意味ねーと思っている。
本当に、「楽しい」なんて、思っている人がいるんだな、まあ情報がゼロだとそういうものなのかもしれない。
何にも感動したことがない人が多くいるはずだが、「何にも感動したことがないです」と自ら言う人はとても少ない、おれがそのことをとやかく言わないのは、ただおれ自身がそんなことに構っていられるほどヒマじゃないというだけでしかない、誰も何もわからずニコニコしているのは他人事として不思議だ。

「楽しい」、つまり、「消費する」という体質が、一種の完成を迎えたのだと思う。
「消費する」ということ、おれはそのことを、数年前、他人事なので放置すると決定した、その先どうなるのかは知らなかったが、放っておくとあっさり「完成」してしまったようだ、なぜこのことに抵抗のさざなみさえ起こらなかったのかはまったくナゾだ。
消費する、という体質が完成してしまったので、いざ消費してはならない空間に立たされると、自身の全身のフォーマットが、もはや何もできない形で完成しているのがわかる、一ミリでも動けばそれは、そこにある命・魂を消費して自分が「エンジョイ!」することにしかならない。
おれは消費「される」側に回ったのだが、理論上、心身は摩滅していくにせよ、命と魂は永遠のはずだと考え、その理論上のことを鵜呑みにしてみたが、鵜呑みにしてみたら本当にマジだった、そんな思いがけない数年を、おれは生きていることになる、もう誰もおれに興味を持つことはなくなったが/心身は摩滅する、消費される、けれども命と魂は永遠だ、これはイイ話をしているのではなく、実際には悲壮な話をしている、ただおれはもうほとんどのことに慣れてしまった。

消費「される」側が正しいが、現実的にはオススメできない。

よくよく考えれば、おれ自身、なんでコイツ死なねーんだろうと不思議に思っているぐらいなのに、こんなことを他人にオススメできるわけがないのだった/唯一の正解と思える道筋が、現実的にはまったくオススメできないという状況、この閉塞状況に難儀している、むしろ「絶対にやめとけ」としかおれには言えない。
昔ほど夕焼けは赤く染まらなくなったような気がしてならないが、いよいよ空も、インスタ用に消費されるのがバカバカしくなってきたのだろうか? と、「んなアホな」というジョークでごまかしておきたい、もう誰もおれに興味を持つことはなくなったし、夕焼けに興味を持つこともなくなった、それは「消費する」という体質の完成を意味している/消費される夕焼けの側が正しいのだが、そんなこと現実的にはオススメできない。
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矛盾かつ無責任な発言
「世の中」という機能は存在していない。
119番すれば救急車が来てくれるし、それに助けられることもあるが、それにしても、「世の中」なんて機能は存在していない。
言っていることが明らかに矛盾していると思うだろうが、それでかまわない、矛盾かつ無責任の発言だ、それでも本当のことを手放すな。
戦争がうそっぱちであるように、救急車もうそっぱちだ、そのうそっぱちが「世の中」だ、このすべてをうそっぱちだと見抜けないかぎり自分の命は得られないだろう。

おれは自分の命にしか興味がない。
自分の命のほかに、自分の命たるものはないからだ。
世の中に指示されたようには、小指一本だって動かしてやるつもりはない、正しい譜面があったとして、そのとおりにドラムを叩くことは決してしないだろう、おれは自分の命にしか興味がない。
世界が何であるかは、おれが決める、だっておれが生きているのだから、おれの生きる世界はおれしか決めることができないだろう、すべては「世の中」といううそっぱちを見抜くことから始まる、善人は「世の中」に感謝することで生涯のすべてを失うだろう。

「世の中」は「迷惑」と同義語だ。

おれのやることに誤謬はない、なぜならおれのやることがおれのやることだからだ、おれが愚かなことは大いにありうるが、おれがおれである以上、その愚かさを誤謬ということはできない、湖に落ちた羽虫が溺れて魚の餌になるのは傍目にあわれなことではあるが誤謬ではない。
おれがおれを修正することはできない、修正されたものはもうおれではないからだ、だからおれが何かになるしかない、おれをおれでなくしてそれを改善だの修正だのあるいは成長だのと言っているのは甚だおかしいだろう、世の中というのはまったく「おれ」を消す装置でしかない。
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クラシックは「はっきりしている」から偉大だ

とえばピアノという楽器一つをみても、リストやショパンやラフマニノフなど、クラシックの連中はド天才なのだが、なにがド天才なのだろうと考えて、「そうか、はっきりしているのだ」と気づいた。
僕には音楽経験がロクにないし、音楽のセンスがあるとも思わないのだが、あくまで僕の個人的な感じ方として、たとえばリストの曲を聴くと、「この楽器からそんな音出ますかね……?」と疑わしくなってくるのだ/ショパンにしてもそうで、「この楽器からそんなに極端なバリエーション出ますかね……?」と首をかしげてしまう。
それに比べると、たとえばオシャレバーに行って、そこでオシャレジャズみたいなピアノがひっそり鳴っていると、なんというか、スタンダードナンバーやポップスを、ブルーノートコードで弾いているだけじゃないですかね、みたいな気がしてくる/それはそれで、オシャレバーというのはそういうものなのだからかまわないのだろうが、なんとなくおれ自身は、そういうのはイマイチつまらないなと思うのだった。
かといってもちろん、人が酒を飲んで与太話をしようというのに、横で英雄ポロネーズをがっつり弾かれたら困るのだが、とにかくクラシックの何がすごいかといって、あまりにも「はっきりしている」からすごいのだと思うようになった。

たとえばベートーベンの「月光」なんて、誰でも知っている曲だし、弾ける人にとってはそんなにむつかしくないのだろうが(第三楽章は除く)、それにしてもたかがピアノひとつで、「なぜそんなにコッテリした明瞭な世界が出ますかね?」と不思議になる。
そして、それが月光なら月光で「はっきり」しているということは、ある意味で「ダサい」ということなのだ、なぜダサいかというと、それはオシャレの反対だからだ、そしてダサいからこそすごい、偉大だということになる。
どんなものでも、あいまいに暈かして、意味をあるかないかにしてしまえば、オシャレふうになるのだが、クラシックはその真逆を行っている、だからすごいし、ダサいのだ、それが単なるダサさにとどまらず「偉大」にまでなるのは、もう音の向こうに「世界」があることを証してしまっているからだ、漠然としたあいまいな感触やニュアンスがあるのではなく、「世界」があるわいゴルァ、と証してしまうから、そこがエグくてスゲえのだった。
なんというか、「はっきりさせる」というのが、実は最終的に一番むつかしいのだと思う、どうしたってジェームスブラウンのほうが奥田民生より「はっきり」しているし、「ゼンダ城の虜」のほうが、村上春樹の小説より「はっきり」している、それはオシャレとダサいで分類するとダサい側なのだが、どちらがスゲエかというと、やっぱり「はっきりさせる」ことに成功しているほうがスゲエのだと気づいた、僕もぜひそちら側へ行き着く者でありたい。

あいまいでいる権利は、一般にはあるが、おれにはない。

物事や表現をあいまいにすると、オシャレに見えるし、何か奥行きがあって、思わせぶりでミステリアス、そしてカッコいい、ふうに見えるのだが、それはけっきょく、少なくとも僕自身を満足させるたぐいではないようだ、ジャズならジャズでビルエヴァンスのように「はっきり」とジャズならスゲエと逆に思うが、大半のオシャレふうのサウンドより、僕はケンタッキーフライドチキンのほうが偉大に思える、ケンタッキーは「はっきり」しているからなあ。
あいまいでいるのは、実は奥行きがあるのではなくて、単に「未決定」が大量にうごめいているだけなのでは、という気がする、優柔不断の物理的カタマリのような、そしてそうしたものが、一部の女にウケが悪く、一部の女にウケがいいのだ、そしておれはこのことにウケのいい女にあまり興味がないというか、おれは前者の女に愛されないと魂が萎えるのだった/この「はっきりしている」というのは割と特殊な感覚なので、ひょっとすると女の愛にもクラシックに向かう奴とモダンに向かう奴があるのかもしれない。

視点変えてこ | comments(0) |
「ほどほど理論」は破綻しているように見える
ういえば先日、参議院選挙があったのだった、芸能事務所の騒動と重なったこともあり、まったく何の話題にもならなかったな。
もういちいち、各党のマニフェストなんか見ていないが、ふと想像するに、どの政党だって何かしら、国民の生活を向上することを公言しているはずだ、今回はきっと、子供が作れる日本へ、みたいな文言が多かったに違いない。
一方で、僕は思うのだが、現代のわれわれがイメージしている「国民の暮らし」というのは、四畳半一間に小さなテレビを囲んで四人が雑魚寝している、そして首振り扇風機が風を送っている、というイメージではないはずだ/今イメージされている「国民の暮らし」というのは、大人も子供も自分の部屋を持ち、各部屋にはエアコンがついていて、各人はスマートフォンを持ち、Wi−Fi通信は無制限で、映画配信サイトに課金しており、男の子はPCとゲーム機を持ち、女の子はおしゃれな服を化粧道具を持っているというイメージのはずだ。
国民の多くは、特に若い世代はそうだと思うが、これをもって「ほどほどの、華美でない暮らしがしたい」と望んでいるのだと思う、だからこそ、「快適ていどに働いて、よいライフワークバランスの中を生きたい」とも思っているのだろう、だが問題は、その生産力でイメージどおりの暮らしの消費を賄えるかどうかだ/かつての人々は、新婚旅行というと箱根や伊豆や南紀白浜に行ったそうだし、それ以前は新婚旅行というと「三本立ての映画を観に行く」ということだったそうだ、座席が硬いから自分で座布団を持ち込んで……現代のわれわれが「華美でない暮らし」というのは、そういうイメージではないだろう、今さらそんな生活水準に戻れるはずがない。

一方で、現代の少年が、かつてのように「ぼくは新しい飛行機を設計したい」「ぼくはすごいお医者さんになる」「総理大臣になって日本をすごい国にする」「ぼくは昆虫博士になって世界中で新しい虫を発見したい」と、少年の精気あふれる夢に満ちているかというと、そんなことはないのだろう、おそらく「大人気のYouTuberになりたい」とか「プロゲーマーになりたい」とか「アイドルになりたい」とかのほうが多いのではなかろうか。
われわれの現代の、「華美でない暮らし」は、それでも爆発的消費の継続を土台にしているのだが、一方で人心の志はというと、「爆発的生産の旗手になりたい」という方向にはまるで向かっていない、つまり町工場からホンダを創った本田宗一郎のようになりたいとは誰も思っていない、むしろ大人になれば全員が「ほどほどに働きたい」と思う風潮だが、全員がその「ほどほど」をのんびりこなしたとして、われわれの「華美でない暮らし」は本当に賄えるのだろうか/そのことに言及する政治家は誰もいない、そりゃあそんなことに言及したら誰も票を投じないだろう、だからもっと、とってつけたようなわかりやすさの公約をぶらさげて立候補者は選挙に立たざるを得ない。
それぞれの政党や政治家が、LGBTの差別解消や禁煙区域の拡大を公約にかがけたとして、たとえそれらのすべてが実現されたとしても、もっと大きな課題として、われわれの生活の消費と生産が建設的に釣り合うということはこの先に成り立つのだろうか、もう青少年の誰も、「自分が大人物になる!」とは思っていなくて、YouTuberになれないなら「ほどほど」でいいやとしか思っていない中、いったいどこの誰が爆発的生産を担うのだろう/もし中国の青少年らがこぞって「自分が大人物になる!」といって猛勉強を始め、自動車やレンズの製造について日本の技術に並ばれたら、もう世界中の誰もメイドインジャパンの製品を買わなくなるのだが、それでもわれわれの求めるところの「華美でない暮らし」が成り立つ道理はどこかにあるのだろうか。
件の芸能事務所の騒動が延焼して、給与の取り分がここにきて取り沙汰されているようだが、その話の進みゆきにしても、なぜか全員が、商品の価格相場は需給のバランスで決まる、という原則を忘れているように見えてならない、お笑い芸人だって供給過剰になれば個々の価格はダンピングせざるを得ないのが経済の仕組みだ、われわれはカタギの人間として、身内の結婚式に百万円出してお笑い芸人を呼びたいとはふつう思わないし、近所でお笑いのイベントがあったとしても、一万二千円を出してそれを観たいとは思わない、僕のこのブログだって一日に十円でも課金されたらほとんどの人は読むのをやめるのじゃないか? どうもいつからか、富の生産と消費という感覚が失われ、需給のバランスがあって生産者と消費者があるという感覚も忘れられ、漠然とした金銭だけがどこかから降って湧いてきているようなイメージが起こっているような気がしてならない/われわれがこのごろ、「もう吉本興業製の商品は要らないかな」と思い始めているように、世界中の人に「もう日本製は要らないかな」と思われているのだが、であればわれわれが吉本興業に「もっとこうすればいいのに」と思うように、われわれ自身に対しても「もっとこうすればいいのに」という idea があるはずだ、そして政治家というのは本来、そうした idea を理念として打ち出して立候補するものでなくてはならなかった、目先の話題をこねくりまわして注目を浴びてトクをしようという発想では成り立たなかったはずだ。

吉本興業の経営者をすげ替えても、お笑い業界は復興しないだろうし、日本の政治家をすげ替えても、日本は復興しないだろう。

日本の青少年たちが、初めから万事を「ほどほど」にしようと決めていることが、日本の沈滞と没落を約束しているように、吉本の若手たちだって、初めから万事を「ほどほど」にしようと決めているのだから、この先には沈滞と没落が約束されているだろう、過激な行動によって騒動を起こすYouTuberはたくさんいるが、鮮烈な情熱に燃え続けている誰かは見当たらない、僕としては誰かの単発の過激行動を観ても何が慰められるのか感覚的にわからない/われわれは自分が為すことに対しては万事の低温を前提にするのに、自分が与えられるものについては十分以上の高温を疑いなく請求する、この偏りを背後にした「ほどほど理論」は破綻しているように僕には思えるのだが、これは僕の計算がトンチンカンなのだろうか。
先日の参議院選挙において、各立候補者から何が主張されたのか、僕はまったく聞いていなかったけれども、今政治家が国民の声に準じるということは、国民の「ほどほど理論」に準じるということに他ならないと思う、すべての政党は「差別なく、快適な、みなさまのほどほど理論を充足させてみせます」という論調にならざるをえないと思うが、それが本当に成り立つという計算を背後に立てている人はいるのだろうか、「それぞれが大人物になってみせるという情熱に到らなければ国は没落して当然ですよ」とは誰も言わなかったはずだ。
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作品と人の遠近
品には、何かしらの作中世界というものがある。
人間関係には、人間関係中世界というものはない。
ほとんどの人にとって、自分の「作品」というものは、まず生涯にひとつもないものだし、もしあったとしても、それはとても特別なものだ。
ほとんどの人はつまり、人間関係と人の目を気にするという、つまり「人の世」を生きているのであり、「世界」を生きているわけではない、もし「世界」を生きたいと望む人がいたら、その人はさっさと「作品」が特別ではなく当たり前の根性と実態になるべきだ、それは技術やレベルの上下とは関係ない。

仮に僕が、作詞作曲したり映画を撮ったり、絵を描いたり、洋服をデザインしてみたり、写真を撮ってみたり、歌ってみたり踊ってみたりしても、誰も何の違和感も覚えないだろう、それが上手いかヘタかに係わらず/つまり僕にとって「作品」というのは日常のことであって特別のことではない。
このことに、思いがけず個人差が大きくあるのだ、どこかの急成長会社の大金持ちが、成功者として無制限にレジャーを楽しんでいたとしても、彼が己の「作品」をひとまとめに打ち出してくることはないし、田舎の気難しい近所づきあいのババアがいきなり「作品」をぶっこんでくることもない。
己の作品のレベルなんて誰も気にしていないので、作品なんか好きにしたらいいのだが、より核心の問題は、誰から見てもその当人が、「作品」という営為から近いか遠いかなのだ/もし近所のヒマなおじさんが急に音楽教室に通って作曲を勉強し、自分の曲を作りはじめたら、それは実に「頑張って作曲している」というふうに見えるだろう、それは作品から彼が遠いということだ、一方でたとえばポールマッカートニー(ビートルズのヴォーカル)が五線譜に何かを書いていたとしても、それはただそこにポールマッカートニーが座っているだけで、わざわざ「作曲している!」とは見えないだろう、それは彼が作品に限りなく近いということだ。
「作品」に関わって生きようとするとき、必ず魂の問題が出てくるのだが、その魂の問題は、レベルの高低ではなく、まず距離の遠近として現れてくる、この距離を詰められる人がまずほとんどいないのが実際のところだ、ほとんどの人は生きているうちに何かの業者になるだけであって、作品と己の魂の距離は縮まらない/そういう人は業者として知人と人間関係をやっているほうが「自然」になってしまい、作品というのもしょせん業界と人間関係の中にひねりだされた姑息イベントでしかないものになってしまう。

作品が新しい必要があり、イベントが新しいようでは作品から遠い。

どういうことかというと、たとえばあなたが絵を描いて個展を開くとして、そのイベントが自他ともに新しいイベントの感じをもって気分を盛り上げるのだとしたら、あなたは絵を描くというような作品の営為からまったく遠いということだ/故マイケルジャクソンにとってダンスは何らイベントではなかっただろうが、それは彼がプロ(職業)だったからではなくて、彼の魂が作品と合一していたからだ、距離がゼロだったのでそれは何のイベントでもなかったということ。
この視点をもって、周囲を見直してみると、まったく別のものが見えてくる、誰かが何かの「作品を創りました」と言ったとして、そのことが何の違和感もなく聞こえる人と、明らかに無理があると聞こえる人がいる、その違和感の程度は、それぞれの魂が、「作品」か「人間関係」かのどちらにどれだけ寄っているかを示している/むろん人間関係そのものが悪いわけではないが、人間関係というのはそもそも魂のものではないと僕は思っている。
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ガキの使いクリエイティブエージェンシー

う進展がどうなっているのか、追跡できなくなっているので、無責任な思いばかり話すことになってしまうが、ダウンタウンの松本人志さんが吉本の弱者をバックアップ顧問になるという話は、善良だが筋が違うと思う/筋が違うからこそ、松っちゃんにナゾの勝利があってほしいと僕は望んでいる、別に筋がどうこうなんてどうでもいい話だ。
ただもっと単純な、本来の構造がありえるとして、ダウンタウンさんとココリコさんとライセンスさんあたり、あと大崎氏と岡本氏と藤原氏あたりで、「ガキの使いクリエイティブエージェンシー」として独立すればいいのだろうとは思う、そうしたら構造はすっきりする。
この構造は、何を意味しているかというと、つまりダウンタウン周辺の歴史から見て、宮迫さんその他はダウンタウンから見て「後輩ではない」ということだ、この後輩ではないものをなんとかかわいがろうとしているから、松っちゃんの話は不自然さがあり、その不自然さが報われるべき善良さを帯びている。
吉本興業に所属する中堅以下が、実は全員「ダウンタウンさんの後輩じゃない」ということを認め、もっと合理的な吉本興業を成り立たせれば、構造はすっきりする、そうしてダウンタウン一派に離脱された吉本興業はとても合理的で、それなりに快適で、とてもさびしいだろう、全員がただの「事務所に所属しているタレント」という労働者になるのだ/松っちゃんはツイッターで「わたしたちは生まれつきオモロイ」と励まし唱えたが、その「わたしたち」の中に合理化吉本の人たちはもう含まれないことになる、真の構造として "見捨てられる" というのはそういうことだ。

件の会見でブーイングをあびた岡本社長は、90年代に、自ら「人間大砲バナナ取り」等、身体を張った大ネタとシリーズキャラをダウンタウンと共に演っていたのだが、これは若い人は知るまいし、コアなファンしか覚えていまい。
機械仕掛けの大砲に自ら乗り込み、自ら海に向かってドーンと射出されるのは、芸能事務所の一従業員としては、就労形態が非合理でブラックだ、だがそれよりも笑いが優先され、笑いの魂がみんなを連れていっていた時代が確かにあった、視ている側も腹を抱えて笑っていた、それはもう単に面白いということを超えて、ここまで笑えるということに一種の幸福があった、まるで日曜日より笑いの使者が降臨したというような。
現吉本興業の芸人さんたちだって、プロだから気づいていると思うのだが、今回の騒動によって、視聴者というより国民の全体は、「もう吉本芸人についてこころの底から笑うつもりはないよ」という状態なのだが、そこに危機感や忸怩たる思いは起こらないのだろうか/昭和のいつからか、この五十年間ほど、お笑い芸人はテレビというツールを、万人の実生活における「笑いの箱」にしてきたのだが、その歴史が終わろうとしている、時代の変化といえばそれまでかもしれないが、いわば "Youtube killed the TV star" というところか。
企業が合理化するのはまっとうなことだが、現在、合理化のことしか唱えない人々の集う吉本興業に対し、こころの底から腹を抱えての笑いを期待する国民は、もういないのだと思う、そこで芸事の流儀から考えて、また人々の率直な直観から考えても、「この人たちは、ガキ使の人たちとは違うじゃない?」とすっきり言われてしまうと、やはり元々そうなのだと思う、ただひとり当事者の松本人志さんがなおも違う道を探り当てようとするので、僕はきわめて個人的に、松っちゃんがあきらめるまで、なんとなく僕もあきらめずにゴーゴーという気分でいようと思うけれども/僕は実のところそんなに松本人志さんのファンではないのだが、あの人は笑いに関しては信じるに足る人だと思うので、応援しているのではなく僕はあの人を信じようとしている。

合理化した吉本に、腹の底から笑うつもりは誰にもない/そしてそれはわれわれも同じだ、合理化した自分にもはや何の笑いがありえようか。

お笑い芸人で生きようというのは、カタギのホワイト就労を要請しうる進路なのだろうか、それは当事者から見れば家族もあってシリアスなところだと思うが、それがシリアスだというならもうわれわれは笑わない、シリアスなものにわれわれは笑える性質を持っていない/シリアスな人はもう岡本社長のケツがタイキックされたって、本当に腹の底から笑うことはできないのだろう、その人たちについて腹の底から笑えと言われてもムリがある話だ。
きっと、すでに多くの「芸人」さんたちはそのあたり、リアルに「別に笑ってもらわなくていいですよ」と思っているのだと思う、合理的に考えて、人を笑わせるということはもはや目的ではなく、単純な生活の保障が目的で、あくまで生活のために就労しているという感覚なのだと思う/それで、件のツイッターに芸人さんたちがどう呼応したのかはおれは知らないが、みなさんご存じのとおり、少なくともおれは生まれつきオモロイよ、おれは今のところ自分の合理化なんか考えたことないし、おれが面白くないなどという可能性は決して「別にいいですよ」では済まされない魂の問題だ。

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Good Days 2
んなことが上手くいきすぎで怖いぐらいだ。
こうして万事が、輝かしいぐらい上手くいくのは、根本が正しいことへ到達しているからだろう、これはただの性質の話であって自慢話をしているのではない。
一般に、勝って兜の緒を締めよというが、それは一般論であって、僕のようなわけのわからんことになると、もはや兜の緒を締めるのが正しいのかどうかさえ怪しいのだ、真に勝利を信じるなら兜の緒なんか締めてんじゃねえよという言い方もありうる。
そんな既成概念なんかより、言葉とか、恋あいとかだよなあ、単純なアムールの話、愛の話、愛をどうしたらいいか、それをさらに正しく捉えたので、ますます万事が上手くいくようになったのだ、たぶんまた新しいフェーズに入ったのだと思う。

「おれはやめる」「世界動き出す」「魂引っ張り出す」で新しいフェーズだ。
このことに、「内と外は同一」という新しい真理が加わっており、なんというか、第二原理が得られたというような形になるのかな、第一原理が「地の古から天のYes」だとして、「魂引っ張り出す」「内と外は同一」が第二原理となり、いわばヨコのはたらきが出てきたということになる、もちろんこんなことは何のこっちゃ僕以外の誰にもわからない。
古くから文武両道というが、文武両道のうちに愛うんぬんはまったく考えられていない、仏教が貪愛を戒めたせいもあるだろうが/第一原理だけでは、創作は必要ないことになってしまう、だから創作はいささかわざとらしくなってしまう、そこで第二原理があれば創作は自然不可欠のものになるというか、創作がイコール原理ということになってくれる。
主体Aが主体Bの、魂を引っ張り出したとき、それじたいが関係性となり、それじたいが物語になるのだ、そりゃ登場人物にならないと物語には登場できないし、物語の中にしか登場人物は出てこないものな/天地はおれに無関係で、いわばタテの現象がおれを消してくれるのだが、タテが成り立てば次はヨコだ、この場合ヨコの現象はおれに「無関係でない」のだ、ヨコは「おれ」による引っ張りだしなのだ、そりゃそうでないといささかカミサマのネタもつまんねーってもんよ、そんな冷淡な世界じゃないしな。

まずはタテに消え去り、次いでヨコに腕力だ。

もともとおれは、強引で横暴でバイオレンスな奴なんだから、くぅ〜暴力っていいよねえ!! 確か聖書のどこかにも書いてあったはずだ、パリサイ派の質問に答えて、「第一に汝の神を愛せ、次に汝の隣人を愛せ」的なことを言っていたはず、おれは詳しくないのでどこにどう書いてあったかは忘れたが、そんなのはAIが検索したら出てくるだろう/毎日おれだけが暴力していいと思うと毎日がハッピーなのであった。
腕力、暴力というけれども、天地と愛に接続していたら、その腕力はマジに愛のものにしかならないので、暴力でオッケーなのだ、それがヨコであり第二原理だ、まあますます人がついてこられなくなるのだが、ついてこられなくても不幸になるのはおれじゃないからかまわないのだった、なるほどこの Good Days は暴力のおかげだな。
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Good Days

んなことが上手くいきすぎで怖いぐらいだ。
別に上手くいかせることに興味はないのだが、そんなことを言っていたらバチが当たるか。
上手くいかせることに興味はない。
僕の目的は、他人の一切から完全に関心を失うことだ、おれには愛人や恋人がいればいいのであって、他人などというわけのわからないものは必要ない。

他人というのは、自己主張のもとに存在する。
そして、他人の自己主張は、おれに関係ないので、やはり他人は存在していないということになる。
おそろしいよな、何の存在にもなっていないものが、そうとは教わらずに何十年も頑張っているケースがあるんだぜ。
さまざまな電脳ツールが手元にきて、便利になったが、さまざまなニュースが手元に飛び込んできて、わけのわからない他人を錯覚するだけの装置になってしまった、これはアホの所業だ。

おれは愛しているのであり、愛している奴が何を言っているのかは聞いていない。

まともな女がおれのことを好きなのは当たり前のことだから、いちいち聞かなくていいし(聞かなくても聞こえているし)、それ以外のことを思う奴はアホに決まっているのだから、やはり聞かなくていい、おれが愛している時点ですべてのことは上手くいっている、それ以外には夕焼けとか黎明とかさえあればいい、おれの世界以外にマシな世界などない。
地獄とは他人のことだ、とサルトルは言った、しかしおれにとってはサルトルも他人なので、他人の言うことはおれに何も関係がないのだった、たとえサルトルが「ホタテ貝柱とは他人のことだ」と言ってもまるで同意見を言っているように僕には聞こえるだろう、根本的に聞いていないというのはこのとおりショーペンハウエルが腹を抱えて笑うたぐいだ、なぜサルトルは他人なんかアテにしたんだろうな。

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世間知と叡智の決定的な違い

者が、会話の中、たとえば「やべぇ、おれマザコンかも!?」と言って、周囲を笑わせたとする。
その言い方は、何か愉快げで、周囲も笑うからには、彼は面白い人ということになりそうだが、実はここで、「世間知では叡智を代用できない」という法則がある。
世間知による笑いは、理解の範囲内にあり、当然わかりやすいけれども、その笑いが魂の救済をもたらすことはない。
一方で僕が後輩に、たとえば「クスノキと自撮りしてきて、めっちゃハイテンションの顔で」と命じたとする、そうすると、この笑いは理解の範囲を超えている、何が面白いのかはわかりにくいが、こうした笑いは世間知とは異なる魂の救済をもたらす。

よくよく観察すると――本当に、わざわざ観察すればだが――実は世間知ではない側の笑いを創り出せる人は、割合としてとても少ない、百分率で一桁もいない。
たとえプロのお笑い芸人であったとしても、世間知から離脱したわけのわからないヴィジョンを描き出せる人はごく少ないのだ、それを創り出せない人が、よくリズムや奇抜な扮装や音響や照明に頼る/だが演出に頼ってそう見せるというのはけっきょくインチキで、原理的に話と声と言葉でそれが創り出せていなければ演出モノはごく短時間で飽きる。
ここ数日、お笑い芸人の事務所に関わってスキャンダルとトラブルが騒動を起こしているが、この騒動があぶり出してくる「溝(みぞ)」に、実はこの違いがある/あくまで世間知の範囲で面白い人と、そうではない領域で面白い人がいる、それはよくよく観察すると明瞭に視えてくる差分だ。
おれの言っていることがわからない者は、祖母の写真を手に持ったまま荒磯でバク転するべきだが、おれは常に世間知の範囲にないことを話し続けているのだ、この偉大なるおれさまを崇めない者は、暴力団事務所の前で青いイナズマを熱唱し続ける刑に処されるだろう、できたらよくよく観察してほしい、世間知の範囲に留まるものはどれだけ上等でもやがて「不必要」という事実に直面してしまう。

コネチカット・ミキサーで生まれ変われ。

コネチカット・ミキサーとは何かというと、そんなものは無いのだが、別に無くてもいいじゃないか/ここでフット後藤なら、「なんで君は、そんな無いものを堂々と言うたんや」と、全力で乗っかってきてくれるだろう、こうして世間知の範囲外のものに全力で乗っかれる人はごく少ない、よくよく観察するとそのタイプだけ別種を形成していることが視えてくる。
これは別種の現象なので、どれだけ世間知の範囲で「面白い」人でも、たとえプロでも、この現象に入り込むことはできない、これば芸ではなくて魂の現象だからだ、そしていかなる芸もけっきょく魂を現成するものでなければ最終的に「不必要」という事実に行き着く。

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女が「付き合う」のに、最低限の男3

って、現代で「恋愛」というと、主に次の三種類に分けられる。
1.ガチで、何百万人に一人というような、美と強さと富貴を具えた者だけを「恋愛」の対象とする。
2.演出によって「超人」に装飾されたアイドルを「恋愛」の対象とする。
3.プレ婚活を恋愛の正道と認め、自分だけを愛する誰かがいるというメンタルヘルス補助効果を、情緒的に恋愛成分とみなす。

いわば、1.は原理主義的な強硬派であり、2.はシンボリズムに変型したタイプであり、3.はリアリズムを選択した派閥だろう。
現在、セメントの「恋愛」を諦めた人が、アイドル派と婚活派に分派していると捉えるとわかりやすい、アイドル派と婚活派はそれぞれ左派と右派なのだ。
こうして考えると、むしろ旧来は、どうやって「恋あい」なんてものが成立していたのかが不明だ、この三派以外の他に何かがありえると思えない。
旧来は、どうやって「恋あい」なんてものが成り立っていたのか、僕にはわからないし、考えればわかるのかもしれないが、なぜおれが考えなきゃならんのだという気がするので、考えない、なのでかつて「恋あい」がどうして成り立っていたのかは、僕にはわからない、何しろ僕は乙女心の当人ではない。

男性に出会わなかった人が婚活をし、男性に出会わなかった人がアイドルと恋愛する。

おそらく、本来の「恋あい」というのは、乙女心から生じるものではなかったのだ、むしろ女性が男性と出会ったとき、「乙女心」が粉砕されることで、別のこころが生じていたのだと思う/とはいえ現代は、男性を全否定するのが基本方針で、乙女心を最優先にあがめるのも基本方針なので、かつての形態を探っていてもしょうがない、これからは男女とも「乙女心」の支配を受けねばならず、主眼は恋愛ではなく乙女心なのだということに切り替わらねばならない。
僕はいちおう、乙女心のギリギリ最低の最低を、かろうじて拾えるようにと、自分を設計してきたつもりだが、よもや乙女心の世界で主役を張れるとは一ミリも思わない、乙女心の世界において僕はギリギリ最低限のゲジゲジ虫で、「まあ殺さなくてもよくない?」と笑われるぐらいの身分だ/男女とも、当事者としても対象者としても、「乙女心」が今さら自分たちを許してくれるとは考えないほうがいい、生涯にわたって乙女心はわれわれを支配し、生涯にわたってわれわれを苛み続けるだろう。

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女が「付き合う」のに、最低限の男2
アルなところでいうと、本当に僕が女性にとっての、付き合うということの「ギリギリ最低限」なので、もし女性が僕と「付き合う」ということを考えると、「うーん……」と考え、最大限前向きに捉えたところで、ギリギリで「ないわ」と判断するだろう/それは、ギリギリ最低限であるには違いないが、そこに当然、「なぜギリギリ最低限の男とわたしが付き合わなきゃならないの」という考えが起こるからだ、この考えはごく健全で前向きで正しい。
一方で、恋愛イメージからいったん離れて、本当に僕より頭がよくて、僕よりユーモアに優れて、僕より遊び上手で、僕よりセクシーで、僕より戦闘能力が高いという、すべての要件を具えている男がいるかというと、そんなにゴロゴロはいないものなので、頭が混乱する、「最低限より上が見当たらないってどういうこと?」と、この混乱はただちに憎悪と怨みに転じていくだろう。
もし女性が、この恋愛イメージから直観するところの、「付き合いたい男性」という感覚を手放さなければ、女性は確率分布として結婚が困難になるので、女性は今「婚活」というモードに切り替えると、ただちに恋愛イメージから離脱するという仕組みで、婚姻を再定義して捉えている。
女性にとって、僕あたりがちょうど「ギリギリ最低限」なので、僕より下に見えるような奴は、平たくいって「カス」にしか見えないのだ、倫理的な判断はどうであれ、直観として「カス」にしか見えないのだからしょうがない/それで女性は、いったんその恋愛イメージの機能を遮断し、婚活においては年収と身分と人格の高度・安定性のみを見るようにして、いわゆる婚活を進めている、つまり恋愛イメージにおける「ギリギリ最低限」と、婚活における「ギリギリ最低限」は、採用するパラメーターが違うのだ、単純に言うと婚活においては、年収と機能が安定しているのならば、対象は人でなくても構わず、巨大な秋ナスと結婚するのでもかまわない、むしろ「そのほうがいい」と秋ナスに飛びつく女性は少なくないだろう、「秋ナスなら浮気される心配もない」。

恋愛イメージに直観される、女性にとって「付き合いたい男性」は、甘めに見ても一万人に一人ぐらいの高度な男性のみが、「割と本気で付き合いたい」という対象なので、確率分布として現実的といえず、よって現代における恋愛というのは、婚活をベースにした男女交際にならざるをえない。
つまり、本気で恋愛ということを考えると、途端に笑いが起こって、周囲の男性すべてに向けて「ありえないwww」となるので、そのことはいったん遮断して、本格的な婚活を背後に控えた、「プレ婚活」としての恋愛が主流になる、そしてプレ婚活というフォーマットにおいては、周囲の男性はそれぞれに「アリっちゃあ、アリ」になるので、現実的に恋愛が成立する。
このことは、幸か不幸か、誰の責任なのか、何もわからないままにいつの間にか、現代の女性にとっての基本スタイルとして植え込まれてしまったのだ、女性がそれぞれに昂ぶらせる「乙女心」に対して、最低限で釣り合う男性というと、確率的には一万分の一か、率直にいえばそれよりもっと少なくなってしまうのだ、きっと本当にはジーン・ケリーとスティーブ・ジョブズとチェ・ゲバラを足したぐらいの男でないと本当の恋愛対象にはならない、多くの女性は自らを控えることとしてそこに「石油王でなくてもいい」ぐらいは申し出るだろう。
現代の女性はそうして、自分の乙女心と釣り合うだけの男性が、率直にいえばまるで与えられないことに、耐えがたい憤怒と怨みを覚えていて、それでもそのことを面に出して暴れ回るようなみっともないことはすまいと、己を殺してガマンしている、だから女性の多くは今「ガマンしているわたしは偉い」という感情があるはずだ、この感情はどうやっても消せない/善いか悪いかは別にして、現代の女性はそうして、男性の前ではもう二度と幸福に笑えなくなったのだ、もしこの現代の女性をなぐさめるのであれば、何であれ男性が、「いつもガマンさせていてゴメンね」「いつもガマンしてくれてあなたは偉いよ」と言うしかない、それで女性が美と人格の化身なのかどうか、本当のことは誰にもわからない。

プレ婚活としての恋愛があり、唯一、「自分だけを愛して、よそに浮気しない人」という点だけが、メンタルヘルスに効くので、そこだけ恋愛の風味になっている。

僕は乙女心をディスっているのではなく、「乙女心」というのがまさに、そういうものだとレポートしているにすぎない、乙女心は特に意味を持っておらず、ただ本当は「映画俳優と石油王と殺し屋を兼ねたような男が、この宇宙でわたしのことだけを熱烈に愛してほしい」ということだけを率直に求めているのだ、「それ以外のことでは正直盛り上がれないの」「わたしはウソをつきたくないの」/そしてその乙女心当人の美性について問うことは、弾劾の刃をもって許されない、乙女心という美を持つ当人が、美において問題があるわけがない、少なくとも「乙女心」の側からはそう見えている。
ジャニーズ系のイベントに行くと、おばさんたちが熱烈な声援をあげているが、あれはおばさんたちが「恋愛」しているのだ、おばさんたちが恋愛イメージに素直になったとき、ジャニーズアイドルの中からさらに選抜した「推しメン」に対してなら、唯一本当に恋愛ができるという、乙女心の率直なあらわれに、おばさんたちは従っているにすぎない、それはもちろんアイドルイベントに参集しているおじさんたちも同じだろう、アイドルイベントに集まるおじさんたちは「男らしく」はないのだから、彼らも一種の乙女心に取り憑かれている/そして、それぞれにとっての本当の「恋愛」の対象が、自分だけを愛さず、ヨソの誰かと恋愛していたりすることが発覚すると、スキャンダルになり、ファンたちのメンタルヘルスを破壊するので、ファンたちはそのようなことをしでかした「恋人」を、ただちに槍玉にあげ、濃厚な呪詛をもって彼を滅ぼそうとする、そのときもまた「ガマンしているわたしは偉い」という感情が起こっているはずだ。
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女が「付き合う」のに、最低限の男
ういえば僕は、以前ずっと、「おれが最低限だからね」と言っていたのだった。
女が男と付き合うのに、まあおれはギリギリ最低限というやつなので、まじめに付き合うということになれば、「もっとマシな、フツーの男にあたれよwww」と言ってきて、そのことを多くの女性が笑いながら納得してきた。
僕は、いちおう地方の国立大学を出ているのだが、地方の国立大学卒ぐらいが、女性として付き合える男性の最低ラインだと、リアルな感じとして思う。
その後、いちおう丸の内の総合商社に勤めていたことがあるし、セミプロのマジシャンとして震災の避難所で手品をやってまわっていた、一ヶ月住み込みのボランティア経験もある、合唱団の指揮者として指揮台に立っていたという文化的な経験もあるし、いちおう車の運転もヘタではなく、身長も179cmある、そしてもともと寺族なのだから家柄も悪くないはずなのだ、料理はほとんどの女性より僕のほうが上手だし、夜遊びにはそれなりに詳しくて慣れていて、スコッチは飲んだことのない銘柄のほうがずっと少ない、海外文化で生きてきた女性からは「セクシー」だと言ってもらえるし、ギャンブルや、お金で女を買う女遊びはしない、あと人に指導を求められるぐらいには歌は上手だ、知人女性がする不動産屋への敷金返還交渉を買って出てその半額をもぎ取ってくるぐらいは交渉能力があるし、保険に提出する書面を代筆して高度補償をもぎ取るぐらいには文面が書ける、精神病患者を目の前にしても動揺せず最善の判断力が保てるタイプだし、たぶん暴力に直面してもそんなに戦闘と防衛の能力は低くない、あと数千人が受けた知能テストで単独トップを取ったことがあるので、たぶんそんなに知能は低くないのだ。

けれども、そんなことより何より、僕はいちおう、女性を「笑わせる」ということを第一のモットーにして、そのことはぬかりなく推敲してきているのだから(僕に笑わされたことがない女性は一人もいないはずだ)、そのことをもって、僕は女性から見て、付き合うのに「ギリギリ最低限の男」を自負してきた。
実際、率直なこととして思うのだ、女性が男性と付き合うとして、よくわからない中堅私立卒で、よくわからない地場産業に勤めていて、文化的な経験は特になし、ユニークネスもなし、身長は165cm、交渉事にはオクテで、夜遊びというほどの遊び方は知らないし、人を笑わせるなんてことに特に長けてはいない、そしてチンピラの二人に絡まれたらけちょんけちょんにやられてしまうだろうし、料理なんかしたことがない、そして知能テストをしたら偏差値55ぐらいじゃないかなというような男性と、何がどうなっても、女性は交際したいとは思わないだろう。
女性が男性と「付き合う」ということを考えたとき、まさに僕が最低限であって、本当はできたら大学も東大か京大であってほしくて、総合商社からコンサルにヘッドハントされたぐらいの経歴は欲しくて、文化的であれスポーツ的であれ、全日本で何位かの受賞はしていてほしくて、身長は185cmぐらいあって、家柄は武士の末裔で、何よりちょっとイケメンで、モデルもできるんじゃない? というぐらいの素質は欲しいはずだ、それぐらいの素材なら、「あ、ちょっと、恋愛してもいいかも」と女性は感じるはずだ、もちろんさまざまな遠慮を取り外して、あくまでこころのまま、率直なままに言えばという話をしている。
本当に、われながら、僕が僕自身を「最低ライン」と捉えているのは、いいセンをいっていると自負しているのだ、多くの女性にとって明るい気分になれるのは、「よーし、こいつよりマシな男を捕まえてみせる」と志せたときだと思う、だから僕もこれまでずっと、「もっとマシなフツーの男を見つけなさい」と言ってきた/一方で問題というか、疑問は、女性当人の側だ、女性はなぜか女性の側については、これという最低限のラインを設けていない、女性の場合は大半、自分におっぱいとヴァギナがついていて、あとは膨れ上がった乙女心があるから「OK!!」とみなしているようだ、そりゃあ男性に最低限のラインを表明するのは万人を首肯させるけれども、女性に最低限のラインなど課した日には、当事者に対し水面下で火あぶり処刑の決定が為されるだろう。

本当に僕が「最低限」なので、女性に「評価される」というのは、僕より上からの話だと考えていい。

男女共、また老いも若きも、僕のことを見るとやはり「最低限」と見えるのだが、一方で少なからぬ人が、自分自身と僕を突き合わせて検討してみると、あまりはっきりと「上」とは言えないことが多いのだ、それで「あれ? これじゃ恋愛って成り立たなくね?」という問題に突き当たっている/もっと率直にいえば、第一の直観として、僕のようなギリギリ最低限の奴に対して、「さすがに劣ることはないわ」と感じるのだが、点検してみると、なぜかゆうゆうと僕ごときを越えていけるものがないのだ、それでアタフタして、脳みそにノイズをかけて、何もかもをわからなくしてしまう、そうして恣意的な認知症が始まる。
僕は女性から見て付き合うのに、まさに「ギリギリ最低限」という男だが、何しろちゃらんぽらんだし、スポーツをしないし、イケメンでもないし、何より余計な破天荒癖があるので、ギリギリ最低限とはいうが、けっきょくは「ないわwww」に落ち着く男だ、女が己の直観をねじ曲げないかぎり、僕より上の男と当然のお付き合いをするしかなく、もし僕より上の男と出会えなかったり、あるいはその彼をゲットできなかった場合は、どうなるかというと、ひたすらこの世界のことを怨むしかなくなる、それで現代というと女性にとって恋愛は消失し、代わって怨みが燃えさかり始めている。
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恐怖の確かめ合い
性を崩壊させている人は、実は根こそぎ恐怖しているのかもしれない。
もちろん、恐怖があるから知性が失われるのだが、そういうハイレベルな話ではなくて、「生涯に一度も、他人が何を言っているかわからない」「生涯に一度も、他人に何を言えばいいかわからない」というのは、ひょっとしてスゲー恐怖かもなと思ったのだった。
われわれの大半は、平凡な一生を過ごすはずだが、表面上は同じ平凡さでも、内実は恐怖に押しつぶされていたというのでは、あまりにも悲惨だ、恐怖に耐えただけであとは老化して病死するだけというのではもはや人の一生とは言えない。
われわれはけっきょく、共同体の外部とは一切コミュニケートできない民族なのに、移民政策など進めて大丈夫なのだろうか、などど考える/きっと大丈夫ではないのだろうが、それ以上に大丈夫じゃないことがあるので、もうすべてがやむを得ないのだろう。

いわゆるムラ社会という性質があって、それはもう何十年も前から問題視されていたのだが、それはけっきょく改善しなかったどころか、まったく別次元までパワーアップしてしまった。
以前は、ムラの外側、つまりヨソ者とコミュニケートできるかどうかは、単にハートの問題だったのだが、今はハートの問題ではなく、純粋な知性の問題になってしまった。
どういうことかというと、たとえば学校の先生が婚活パーティに出たとして、初対面の異性とコミュニケートなんかできないということだ、むろん同性ともコミュニケートできないが/ハートの問題でなく、リアルに知性の問題として、もう人は人と何を話せばいいのかわからなくなった。
そうして、知性レベルでコミュニケート能力から見放されたした大人が、子供に権力で何かをねじ込んでいるのだが、そんなもん幸福になるわけはない、むろんそんなことは誰だってわかっているのだろうが、われわれは知性を崩壊させてしまい、恐慌するかブチギレするかどちらかしかできなくなってしまったのだ/生涯コミュニケートなしって、問題というより恐怖じゃない?

はたで聞いていると、何を話しているか一ミリもわからないが、それは他人事だからであって、当人らは「恐怖」なのかもしれない。

冗談でなく、みんな会話しているのではなくて、恐怖の確かめ合いをしているのだろうか、少なくとも外野からはそう認識したほうが、視認される実態と辻褄が合うのだ。
同級生が全員集まって、その全員が「何を話しているかわからない」だったら、そりゃあ恐怖だよな、今さらバベルの塔でもおっ建てたのか/僕は会話がわからない人に対しては互いにソッコーで諦めてしまうので、わからないまま恐怖を確かめ合うというのがどういう感覚なのかわからないのだった。
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この世で最も薄気味悪い奴になる方法
の世で最も薄気味悪い奴になる方法は、「自分の言葉を疑うこと」だ。
だから、たとえばカルト主教にドハマリしているババアの妄言などが、最大級に薄気味悪いものとなる/人は救われていれば、カルト宗教になんか入らないのであり、入ったところで救われていないからカルト宗教などに入っているのだ、自分でもそのことを押し隠しているから、カルト宗教にドハマリしている人はすべての発言が薄気味悪いのだった。
逆にもっと、自分として疑いようのない言葉、たとえば「ダイソンの扇風機って高すぎるだろ!!」というようなことだ、「いくら羽がなくて物珍しいからといって三万円はキツい!!」と、自分として疑いようのないことを言う、そうすれば人は薄気味悪くならない。
ところが、人によってはもう、長いあいだ自分の言うことを疑うのが習慣になっている人がいて、そういう人は、たとえば「わたしは全盛期のイチローよりバッティングがヘタです!!」というようなことさえ、疑いながらしか言えないのだ、こういうタイプからこの世で最も薄気味悪い奴ということになる/全盛期のイチローよりバッティングがヘタなのは、地球上の生物なら当たり前のことであって、疑いようなどないはずなのだが、もう「疑う」ということが自己防御の鉄板になっている人は、何もかもを疑ってしか発声できないのだ、こうなるともう「ビルゲイツは金持ちです!!」ということさえまともに言えなくなる。

人は、疑情体質といって、大前提「疑う」という病気に罹っている/その病気も近年は異様なステージにいたっており、自己防御のためにえげつない病状に到ったとみなすべきだろう、もう「南極は寒いです!!」ということさえ疑ってしか言えないような病状なのだ。
疑情体質という病気が、末期のステージに到っているので、たとえば「わたしは太陽に突入したら死にます」というようなことさえ、「わたしは太陽に突入したら、死ぬと "思います" 」としか言えないのだ、いったい何を「思って」いるのか不明なのだが、そうまでして自己決定を避けているのだ/自分でやってみるとわかるが、「太陽に突入したら死ぬ!!」ということさえ、実は自己決定しないと、それは言葉としては言えないものだ。
たとえば大学生が、「なあ! このピザめっちゃ旨くね!?」と、激烈な大声で言っているのは、そんなことでさえ激烈な勢いで主張しないと、誰も自分を認めてはくれないので、激烈な主張で自己防御しなくてはならないということなのだ、しかもクエスチョンマークをつけることで、保険までかけておかねばならないありさまで、とても悲しいことだが、それが現在の事実だということを認めねばならない/実際あなただって、「んおお〜 このヴィシソワーズ超おいしい!!」とは、主張なしに信じては言えないはずだ、今は誰だってそれぐらい周囲のすべてを疑って生きている。
だから状況の本質は、実のところ、「やーい、誰にも認められたことがない奴〜」「そして、誰のことも認めずに生きてきている奴〜」と囃し立てると、すべて明らかになって分かりやすいのだが、人々は今、誰にも認められずに生きてきて、誰のことも認めずに生きてきているので、すべてを疑ってかかるのが大前提の基本態度になっているのだ/「ポテチうめえ!!」といって、ポテチが旨いのは全人類の魂が共通して知り、共通して認めていることのはずなのだが、それをさえ疑ってかからないと、自分の魂が守られないという、そういう末世的な状況にある、おれとしてはいかなる個人の美徳よりポテチの旨さのほうを確かなものとして信じるが、今はポテチの旨さに対してさえモソモソっとしたり、激烈に主張したりと、薄気味悪さを背負って生きねばならないのが人々の基本になっている。

認めたこともないし、認められたこともないので、疑いが暴走し、同時に承認欲求も暴走している。

たとえばここに一人のギャルがいたとして、「この香水のビンすごくきれい」と彼女は思うのだが、「この香水のビン、すごくきれいね」と言葉にしてみたところで、周囲の誰も彼女のことを認めてくれないので、彼女は口にしないまま、承認欲求が餓死寸前で……それで彼女は彩りとおっぱいをさりげなくアピールした写真を撮り、それをウェブ経由で「いいね」と認めてもらわねばならないのだ/なんじゃそのアホな話と、誰だって思うだろうが、今本当にそれが圧倒的な事実なのだからしゃーない、今ウェブだろうが生身だろうが、いったい誰が誰のことを認めているというのか、認めている同士の実物がない以上、実物のすべては疑いあっていると判断するしかしょうがないだろう。
というわけで、「やーい、誰にも認められたことがない奴〜」と囃し、「そして誰のことも認めずに生きている奴〜」と囃し立てることで、本質はすっきり視えてくるし、その疑情体質は、強気に出ても弱気に出ても、けっきょく「薄気味悪い」に尽きるのだった/あなたはこのことについて、「そうだ!!」とも言えないし、「違う!!」とも言えない、「そうだと思います」か「違うと思います」しか言えない、ずっと疑いの中に守られていて自己決定できない。
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