☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
完全燃焼は選ばれし者
きているうちに一度でも「完全燃焼」に至った人は別格だ。
人は「栄光」によって格差がつくのではなく、「完全燃焼」によって格差がつく。
ふつうわれわれは、「ヒートアップ」するばかりで、「完全燃焼」には至れない、われわれはふつう焼け付きを起こすことしかできず、完全にクリーンな光を放つ「完全燃焼」には至れないものだ。
「完全燃焼」に至ったとき、初めて余分のすべてが燃え尽き、人は最奥の信頼を得ることができる、そこまでいって初めて「その人」の本当の姿を見ることができるからだ、まあしかしそんなゼータクをわれわれ凡人が夢見るのは分不相応だと覚悟すべきではある。

いわゆる「選ばれし者」とは、まさにその「完全燃焼」に至れる人であって、単なる身分に気取っている人ではない。
だから、人は「選ばれし者」になんかなりたがらない、「完全燃焼」なんかさせられてはたまらないからだ、全エネルギーを一カ所に燃やし尽くせという話、それは癒やし文化の正反対だと言える。
「完全燃焼」に至った人は、自己説明や、いわゆる「人づきあい」のようなことをせずに済むようになる、なぜなら説明しなくても、その人の本当の姿がすでに露出しているからだ、説明しなくても「この人」というのがわかる。
「完全燃焼」……それは不可能を可能にする力だが、だからこそ人はそれを厭う、なぜなら人は、不可能に見えることをやらされるのが大キライだからだ。

越えられないものを越えて、止(と)められないものを止(と)める。

逆に、「越えられないものは越えられない(当たり前)」「止(と)められないものは止(と)められない(当たり前)」とするのが、癒やし文化だ、この文化の中で人々は話が合う。
不可能に見えることをやらされることほど、心理的に苦痛に感じられることは他にない、これに苦痛を感じない人は、不可能に見えるものを「不可能……?」と疑っているのだ、これでは人と話が合わないだろう。
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夢の中で動けるように訓練をする
の中で動けないと使えない。
夢の中で動けるように訓練をする。
夢の中でフワフワせず、夢の中で夢よりも静かに動く、しかもくっきりと早く動く。
そうしたら夢が続く、夢を壊さず、しかも夢に飲まれずに生きてゆける。

夢の中で動けるように訓練をする。
夢の中で話せるように訓練をする。
夢の中で察知できるように訓練をし、さらには、夢の中で戦えるほどに訓練をしてもよいかもしれない。
夢の中といって、眠っているときにそれをしろってんじゃないよ、起きているあいだも「夢」は続いている、夢の世界があるのじゃなくて、そもそも「世界」そのものが夢なのだから。

夢の中にしか値打ちはない。

そりゃそうだろ、どこの母親が、生後六ヶ月の赤子に、「あなたはスクワットをして大腿筋を鍛えるのよ」なんて話すんだ、人は夢の中を生き続けるに決まっている、そうでなきゃ人間らしくない。
夢の中で動けるように訓練をする、そうでなければ、あなたの何ひとつも人に夢心地を与えることがないだろう。
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遡る時計
二時、老いるというのはウソです、われわれは一週間後のセミを見て「老いている」とは感じません。
遡(さかのぼ)って十時、所有するというのはウソです、登記した土地や手に持ったペンを「所有している」と言い張る同士があるだけです。
遡って八時、ゲットするというのはウソです、食べた肉はアミノ酸になり細胞を増やすだけで「わたし」を増やしません。
遡って六時、傷ついたというのはウソです、記憶喪失になれば「傷」は具体に残っていません。

遡って四時、朱肉が赤いというのはウソです、視力がなければ赤色なんて見えません。
遡って二時、「この世界にわたしが生まれ落ちてきた」ということ、これをわれわれは未だ「ウソだ」と言えません。
我々は二時に生まれて、四時にはもうウソにだまされていた。
そのまま十時間が経って、「こうして老いて死んでいくんだよね」と最後のウソにまで行き着かされた。

生後六ヶ月まで、あなたはだまされていなかった。

遡っていくと、あなたは生後六ヶ月のところに行き着く、これほど確かなことがあるだろーか(当たり前すぎて笑える)。
ん? 生後六ヶ月のあなたと現在のあなたが、何か別の「わたし」だなどと言い張るつもりかね、そんなことはありえんよなあ。
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「人間のこころとは何か」
んだかんだ、パーティが楽しみだな……
明るい話にしなくてはならないし、大げさだが、人間のこころを取り戻さなくてはならない。
誰も人間のこころを失ったりしてないわい、と言いたくなるのも、重々わかるのだが、まあまあ。
「人間のこころとは何か」ということについて、誰だって思うところはあるだろうが、それについて入念に、十年がかりで再定義を得たなんてヘンタイはいるまい、僕は最短で美女の役に立ちたい。

たとえば僕は、小説を書いたり、こうしてブログを書いたり、とにかく文章を書いているが、実は人間世界に「文章を書いている人」などというものは存在しない。
これ、何を言っているかわからないと思うが、ここが現代社会の闇を直撃している部分なのだ。
あなたから見て僕は「九折さん」のはずだが、実は僕が文章を書くのをやめたとしても、あなたにから見て僕は「九折さん」のままなのだから、そこに「文章を書いている人」などというよくわからない存在はないのだ、虚妄だ。
たとえば僕が大工に転向したとしたら、僕は「大工をやっている人」になるのか、そんな「○○をやっている人」などという存在は虚妄だ、たとえばわれわれが「フィギュアの本田真凜ちゃん」などとうれしそうに呼んでいるのは、一人の人間を見られなくなっている、一種のビョーキなのだ。

この世に何かをしている人などいない。

「人間のこころとは何か」、その再定義は、「わたしとこいつ」によって得られる、そのとき目の前の「こいつ」に向けて、「何をしている人なんですか?」と視点変換が起こるのは、一人の人間を見られなくなっているビョーキだ、母が子に「この子は将来何をやらせようかしら」としか見られなくなるビョーキと同じだ、将来何になったってそいつはそいつでしかないのに。
一人の人間を見られなくなった代替に、われわれは偶像化視点(アイドル化して人を見ること)を用いている、つまり「文章を書いている人」も「フィギュアの本田真凜ちゃん」も「AKBの○○ちゃん」も全部同じなのだ/それは業者を指定するときの呼び方なのだが、この呼び方で友人関係を作ろうとするからごちゃごちゃになってしまう。
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未来を切り拓くということ
ういえば今週末はパーティなのだった、事情があって一週間繰り上げである。→参加エントリはこちらから
なぜ繰り上げかといって、十月後半は各地でハロウィンパーティがですね……それで会場の都合もあって日程を調整した。
以前にやっていたワークショップとかも、再開したほうがいいのだろうが、なんやかんやしているうちにタイミングを逸してしまった、まあでも近いうちになんとかしようとは思っている。
ダサい言い方をするが、未来を切り拓きましょう、未来がすでに無い人はもうダメだが(えっ)、未来があるうちにそれを切り拓くのは実に明るい話なのだった。

僕が思うに、一般的な認知は、識られるべき本来のことと逆転しているような気がする。
たとえば「十年間の修行」といったとき、「十年間もか〜」「きっと、膨大な、努力をされて」と感じられるのだが、これはまるきり逆だと思う。
十年間という時間は短いというか、人間の生きる時間そのものが絶望的に短いし、一方で「努力」というのは、ほんのちょっぴりでいいのだ、ほんのちょっぴりの努力で人間はえらい差のところまで行ける(だから本当はたいした差ではないのだが)。
ものすごく研ぎ澄まされた刃物があったとする、その刃物で蔦(ツタ)をちょいと引いてやると、プツッと蔦は切れるだろう、未来を切り拓くとはそういうこと、そのとき研ぎ澄まされた刃物が人間の「智恵」にあたる、優れた「智恵」を用いれば、未来を切り拓くにはちょっぴりした努力でいい。

切り拓くのは筋力じゃなくて刃物だ。

この刃物がビミョーに鈍いとだな……すごく力まないといけないし、すごくゴシゴシ繰り返さないといけないし、疲れるし、何か間違っている気がして、やる気が失せてくるのだ、「智恵」ということを今一度ナメないで見直してみるべきではないだろうか。
「みんなで力を集めよう」という発想はよくされるが、「みんなで智恵を研ぎあおう」という発想はほとんどされない、たぶん単純に「智恵」という存在がナメられているのだ。
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根源的なつながりについて

は生まれてこの方、人との「つながり」を探し求めたことがない。
友人であれ身内であれ、恋人であれ、その他の生きものであれ、「つながり」をわざわざ求めたことがない。
しかし一方で、おそらくその「つながり」というものを、平均より多く得てきているのだと思う。
正直なところ、僕は思う、僕はもともとの「つながり」だけがどうやら薄ぼんやりわかっていて、その「つながり」を見失った人の挙動が、ことごとく「わからん」と目に映ってきたのだ。

僕はずっと昔から、交友関係を、共同体に支配されることを厭っていた。
僕が誰と出会い、誰とつきあい、誰と遊ぶかは、僕自身によって決めたくて、もし僕自身の力によってその出会いがゼロになるのだとしたら、ゼロでかまわない、それでも自分の実力どおりでいたいと思っていた。
だから、身内とか、学級とか、出身とか、同窓とか、チームとか、団とか、そういうものの中に閉じ、その中で自分の実力によらない「人脈」めいたものを気取っているのは、気にくわないと思っていたのだ、すくなくとも僕自身に限っては。
そうして何十年も生きてきているが、これは今になって、社会的な仕組みのつながりを捨て、根源的なつながりを確かめに出る旅なのだと思う、「いろんな奴がおったなあ」というこの世界について、「こんなすばらしい世界はない」と僕は何度も確信してきた。

きずなも縁も全部ウソだ。

それらを全部ウソだといって、厭世しているのじゃない、そんなウソのものにしがみつかなくても、もともと根源的な何かのつながりがあるから、人工物は不要なのだ。
誰だって、生後六ヶ月まで、きずなとか縁とか「つながり」とか、欲していなかったじゃないか、それでいて誰に対しても、「赤の他人」と切り捨てて眺めることはなかったじゃないか、そこには根源的なつながりの感覚があった。

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エンディングにヒントがある、「いろんな奴がおったなあ」

ントは自分が死ぬときにある。
自分が死ぬとき、自分がどうだったかを考えず、「いろんな奴がおったなあ」と考えること。
この、「いろんな奴がおったなあ」という事実、これ以上間違いない事実は他に無い、これほど確かな事実は珍しいぐらいだ。
この、「いろんな奴がおったなあ」ということ、それが、生きているうちつながりがあったということ、そしてそれ以上のつながりなんて存在しないということ。

われわれはもともと、ひとつのつながりとして、この世界に生まれ落ちている。
まったく意外なことに、われわれは個人が何かになるのではなく、生きとし生けるものすべて、地球外の生命も合わせて、何なら生命ではない事象まで含めて、全体でひとつの「何か」になろうとしている。
もともとひとつのつながりとして生まれ落ちているので、わざわざ分割する必要もないし、わざわざ、人や何かとの「つながり」を飢えて探しまわる必要もないのだ。
人間はカミサマになるのかホトケサマになるのか、どういう呼び方にしてもよいと思うが、言うなれば「宇宙が修行中」なのであり、われわれはその中のひとつの部品にすぎない、真相はそれぐらいスケールがデカく、およそ人智の及びうる範囲ではない。

「いろんな奴がおったなあ」で終わり(一巡)、それ以上のことはないし、それ以外のこともない。

この宇宙全体の修行から、脱落してはいけない、宇宙全体の修行なんて理解できね〜というのは当たり前だけれど、それを謗ってはならない、理解できなくても、脱落はしてはいけない。
脱落すると、次回の修行に回されると予想されるが、その次回の修行というのがどえらい先だ、次の宇宙が生まれるなんて何十億年も先だ、最近は物理学も宇宙が多元に存在していることを突き止め始めている。

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身体の各部位がグレるということ
体の各部位、各臓器は、それぞれの「声」を持っているのだ。
口は食べたがるし、喉は話したがるし、足は歩きたがるし、胃は膨れたがる。
身体の各部位、各臓器が、それぞれ集まって全体の「ファミリー」を形成していると見ていい。
この「ファミリー」の中で、認められず、声を聞いてもらえない部位があったとしたら? その部分は「グレる」のだ、いわゆる「非行に走る」、非行に走ったらどうなるか? ご存じのとおり、ファミリーに復讐せんがために暴れる。

ペニスは挿入したがり、ヴァギナは挿入されたがる、乳首は吸われたがり、舌は舐めたがる。
これら各部位が、身体全体の「ファミリー」に統合されていたら、部位は暴れないのだ、各部位は「なにがなんでも」と欲しているわけじゃない。
ただ声を聞いてほしいだけ、そしてファミリーの一部として認められたいだけなのだ、一部として認められて声が聞きどけられていたら、少々ブーイングするだけで収まる、破滅的に暴れるというようなグレ方はしない。
口がグレたら摂食障害になり、胃がグレたら胃酸過多、胃が引きこもったら消化不良になる、足がグレたら貧乏ゆすりを始める、そしてペニスやヴァギナがグレ始めると、性癖とオナニーと、淫行への衝動が止まらなくなるのだ。

あなたは無欲だったのではなく、各部位の声を黙殺してきただけだ。

若いのに、食が細い人、あまり遊ばない人、話さない人、動かない人、いろいろあるけれど、これらは性格的に無欲なのじゃなくて、身体の各部位と関係が切れてしまっているだけだ、声の聞き取りが恢復したら若い人間の健全な欲求は取り戻されてくる。
身体の各部位の、声を黙殺しつづけて、自分のアタマだけで物事を決めていると、いつからか各部位がグレて猛烈な反発をするようになってくる、グレた部位がやがてあなた自身を危機に追い込んでしまうだろう/声を聞き取られず、ファミリーに認めてもらえず、無視され抑圧され強制された身体の各部位が、グレるのは理の当然とみなすべきだ。
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「獲得」を忌避してみる法
間は「やる気」で目が曇る。
「やる気はイコール堕落なんですよ」と看破した友人もいた(「わかったんです」とそいつは半泣きで言っていた)。
なぜ「やる気」で目が曇るかというと、たいていその「やる気」は、「獲得」をターゲットにして生じているからだ。
「獲得」ということに向かうとき、人がすることは「行動」であって、「行為」ではない、つまり動物的になってしまうのであり、それは人間の足しにはならないということが、やがて誰にでもわかってくるのだ/いや「誰にでも」ではないかもしれないけれども。

生きているうち、やる気にならなかった人のほうが少ないのであって、多くの人はこれまでの自分の「やる気」が、けっきょく自分に実りをもたらさなかったということを経験的に知っているはずだ。
であればいっそ、「獲得」という動機を捨ててみてはどうか? あなたは本当に「獲得」をモットーにしなければ何をすることもできないか、それはあまりに視野狭窄ではないのか。
本人は「やる気」のつもりなのだが、実は「獲得」に駆られることによって、ひどく不自由な状態になっている、不自由な状態で何かをしようとすると、不自由なものでやたら「ガンバる」ことを強いられるわけだ、するとそこには筋張った人間が形成されていってしまう/しかも肝心のものは得られてこない。
どうせヒマなわけだし、いっそ「獲得は忌避する」ぐらいのつもりで、やってみてはどうか、そのことがどういう心境をもたらし、功を奏するかどうか、試してみるだけの可能性は窺えるはずだ。

情けないことに、僕はこれまでに、何一つ獲得してきていない。

まったく自慢になるようなことではないが、この際はサンプルとしてわかりやすいのでやむをえないだろう、僕は実際何も獲得せずここまで生きてきてしまった、何しろ獲得とやらにガンバれるような根性がない者なのでしょうがないのだ(これでも本人としてはガンバっているつもりなのだが)。
獲得しなくていいというとき、人はとても自由だ/もし僕が、あなたを獲得したいと駆り立てられたなら、僕はあなたを決してデートに誘わないだろう、不自由な僕はあなたに迷惑を掛けるしか能が無いからだ。
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「実感」は学門ではない
とえば873という数字は、3で割り切れる、それは8+7+3=18であって、各ケタの数字の和が3の倍数である数は必ず3で割り切れるからだ。
なぜそれが「必ず」と言い切れるか/それは[8+7+3=3の倍数、800+70+3=873]を一般化して、[a+b+c=3n, 100a+10b+c=N]としたとき、⊆亜櫚ー阿魴彁擦垢襪99a+9b+0=N-3nと導かれ、N=3(33a+3b+n)となり、Nが3の倍数になるからだ。
このように、「いちいち数字をいじくっていたら埒(らち)があかないが、一般化したら一発でケリがつく」ということがある。
われわれにとっては、「873」とか「7911」とか、数字のほうが「実感」があるのだが、実感があるからといって、それが解答にケリをつけてくれるとはかぎらない、なぜなら「実感」は学門ではないからだ、学門にたどり着かないかぎりいかなる実感にもケリはつかない。

われわれは、おちょくられれば腹が立つし、高級品を見るとむさぼりたくなる、イケメンに微笑まれると女性は「キュン」となって、性格の悪い上司と仕事をすると疲れる。
これらの「実感」を、いくらこねくりまわしていても、何の発見もないし、何の解決もないだろう、毎回ひたすら「実感」を食らうだけだ、何一つケリがつくことはない。
腹が立つとかむさぼりたいとか、キュンとなるとか疲れるとかいうのは、いわゆる「感受性」だ、この中に学門はない、学門は「識」の能力だからだ、「識」がなければ人は延々と「感受性」の繰り返しを味わうことしかできなくなる。
繰り返し申し上げる、「実感」は学門ではない、だから「実感」に解決を探していると人は必ず行方不明になる、フィーリングとかいう馬鹿げたものがあなたを救ったことが一度でもあったか?

実感を離れる勇気を持て、数式はあなたの味方だ。

学門アレルギーの人は多いし、学門アレルギーの人はたいてい感受性の信奉者になるが、冷静に考えてみよう、どう考えても学門を捨てるということは「学ぶ」ことそのものを捨てることだ、学ぶことを捨てて努力するならその努力は初めから徒労じゃないか。
もちろん机上の空論や畳水練に意味はない、だが実践なき学門に意味がない以上に、学門のない実践は無意味なのだ/実感の中に解決を探すな、実感の中に学門を探せ、解決は必ず学門の形をもって現れてくるだろう。
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わかるものに肩入れしない

レビでもネットでも、とてもあわれで涙ぐましい人、が取り上げられることがある。
たとえば有名な演歌で言えば、「着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます」という歌詞がある、これなんかとてもあわれだ。
勇気のいることだが、こういったあわれなものには、肩入れしない、「血も涙もないのか」と言われたら、それでかまわない。
そういったことが、あわれで涙ぐましいということが、わからないではないのだ、わかるからこそ肩入れしない、わかることに肩入れしていたら成長はない。

われわれは、「着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます」という哀しさ、あわれさ、涙ぐましさがわかる、わかるからこそ同情したがる。
一方われわれは、キング牧師が「わたしは恐れない、神の国を見たのだから」と言い放って暗殺に斃れていったことや、ゲーテが「もっと光を」と言って死んでいったことなどがわからない、アームストロングの声に示された「すばらしき世界」もわからないし、チャックベリーに放たれたジョニーへの「GO」もわからない、わからないから同情も共感もできない。
わからないもの、未知のものを見、信じて追いつこうとするうち、われわれはまだ若いだろう、一方すでに知ってわかることだけを愛でようとしたとき、われわれは老人なのだろう。
着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでいることを、「女ごころの未練でしょう」と唄うのだが、僕はそこに「いやお前はセーターを編んだだけだ」と言い放ちたい、それで僕がわけのわからない奴になるのだとしたら、それは名誉なことだ。

血も涙もなくていい、それより上位のものがあるから。

寒さをこらえて編み物をしているなら、ダイキンのセラムヒートを買って押しつけてやればいい、セラムヒートの性能はすばらしいものだ、僕は着てはもらえぬセーターに同情せず、セラムヒートの発明を敬いたい。
わかるものだけに同情し、それで世界をわかった気になっていたら、世界は女ごころの未練で出来ていると誤解してしまうだろう/当の演歌だってshure社のダイナミックマイクで集音されてわれわれに届いていることを見落としてはならない。

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生産と競争力の希望
イデンヘッドのリンクウッド24yを買ってしまった、グレンドロナックよりも甘いんじゃないかというような、まるでハチミツを直に突っ込んであるんじゃないかというような、ハニーでバターでアプリコットなスコッチだった(こんなことは知らなくていい)。
開封したてでこれなのだから、この先のボトルコンディションがとても楽しみだ、ちなみにシングルカスクだがアンチルではない(こんなことも知らなくていい)。
僕は未だに、トランプ大統領というアメリカ世界を、どこか「冗談みたいだな」と感じたままだが、ここにきて日本も「希望の党」とかいうムードが高まっているようで、それもどこか「冗談みたいだな」と感じてしまった/だけどトランプは本当に大統領になってしまったわけだし。
僕は、たとえば「ブルゾンちえみ」もよくわからないし、芸能人の不倫スキャンダルもよくわからない、いつのまにか、よくわからないことばかりの世界になってしまった、今このときに「トランプ大統領と希望の党で世界はゴーだぜ! 不倫と喫煙は死ね」とこの世を確信できている人は本当にいるのだろうか。

目先の選挙に野合した「希望の党」は、呉越同舟の、きっと大同団結ではない同床異夢の、面従腹背の玉石混淆にならざるをえないだろうが、このキメラ政党にムードが盛り上がるということが、僕にはよくわからない、悪く言っているつもりではなくて、本当にさっぱりわからないのだ。
ちなみに「キメラ」とは、複数の動物を無理やり合体させた異形生物のことを指す、それでそのキメラ政党に、大樹将軍はいない気がして、付和雷同さえできない気がするが、よりによって事の発端らしい小池百合子さんは出馬しないの? 朝令暮改か何なのか、そのあたりで僕にはもうわけがわからないのだ。
このままだと、かつて雲散霧消した民主党が、捲土重来というよりは醜類の蠢きめいて、機会にすり寄ってきたという気がするのだが、この情勢のどこに「希望」を見いだして盛り上がっているのか、僕にはさっぱりわからない。
自公の長久与党が続くのは民主主義の原則としてまずいのはわかるが、原則としてマズいからといって、直面的なマズさを無視して原則ぶることもできないだろう、僕は「アベ政権をゆるさない」と声高な人がいるのを知ってはいるのだが、具体的に何が許せないのかやっぱり聞いていてもよくわからないのだった。

国を豊かにするのは、生産と金融であって、立法ではない。

ブラック企業の問題が顕在化するのは、日本に生産性と競争力がないからであって、そのしわ寄せが末端に噴出しているにすぎない、もともと「政治家が国をなんとかする」などという現象は存在しないだろう、日銀が為替と公定歩合を管理し、国民が生産と流通をするだけだ/政治家が国をなんとかするのは基本的に安全保障においてのみだ、安全保障上、有事に向けて「トロい上に無謀」というのが一番怖い。
内閣は税金を行政に分配するが、その税金だって元は日本国民の生産と流通から生じているわけで、日本の生産性と競争力が低ければどういじくっても必ず財源は不足するだろう/ところで最近は台湾でもスコッチが作られているのだが、この台湾スコッチの評判が世界的にいいのだ、誰が台湾にスコッチの生産を興したのかは知らないが、そういったことが「希望」に属するのはさすがに僕でもわかる。
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UFOに向けて「ゆん、ゆん」言っている人
の中には、UFOと交信できると信じている人がいて、屋上から「ゆん、ゆん、ゆん」と、ヘンな声で空に呼びかけている人がいる。
そういう人は、アタマがおかしくなったのかな、と見えるが、かといってオラついているわけでもないし、別に近所迷惑でもないし、何か本人にとっては重要なことのようなので、「まあ、そっとしておこう」と誰でも思う。
ああいう人は、本当は何をしたかったかというと、この世に生まれてきて、カミサマとつながる努力をしたかったのだ、けれども小さいころに「カミサマなんてウソに決まってんじゃん〜」と言われたので、哀しくもそれを信じ、残された思いがUFOに向けての「ゆん、ゆん、ゆん」に転じている。
カミサマのことを教われなかったし、否定もされたので、UFOという「未確認」のものに思いを託し、交信しようとしているのだ、だからものすごいバカであると同時に、ものすごく正しいことをされているわけで、でもやっぱりあわれなほどバカだ。

UFOに向けて「ゆん、ゆん」言うために、かの人はこの世に生を享けたわけではあるまい。
と、他人事なら笑っていられるが、じゃあ人それぞれ「あなたは何のためにこの世に生を享けたか」と問われると、誰だって確信をもって答えられるわけじゃない。
見えざるUFOに向けて「ゆん、ゆん」言っていると明らかにバカだが、じゃあ、あなた誰に向けて何を言えば明らかにバカではなくなるのか、彼を愚者だとして賢者の自分はこうするのだという/そんなことに本当の確信を持てるのか。
UFOに向けて「ゆん、ゆん」と言っている人は、明らかにバカだが、彼は周囲にバカにされることは気にせず、自分で発明した、自分で気づいた何かに向けて、何の利益を求めてでもなく、自分の「行為」を続けている/あなたが恋人の肩を揉むときには、きっと「ゆん、ゆん」というほどの行為の純粋性を持てないだろう、「あなたは何のためにこの世に生を享けたか」。

彼がUFOを敬う態度だけは、あなたが人を敬う態度に勝るだろう。

何しろUFOに向けて「ゆん、ゆん」言い続けている彼は、何一つふざけていないのだ、何一つおちゃらけず、何一つでしゃばらず、ただその交信のあらんことを願い続け、その断片を感じ取ろうとし続けている、それはどれだけ馬鹿げていても、「祈り」であるには違いない。
彼は「祈るためにこの世に生を享けた」のだろうか、そう考えると、表面上のバカくささはやむをえないにして、われわれは彼をあざけり笑ってよいのかはたいへんあやしいことになる。
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無意味の点、フィクションスター

極星という星があるが、星といってもわれわれから見れば夜空の「点」でしかないので、何の意味もないというか、われわれの健康や幸福の足しにはならない。
けれども、夜空にその「点」が浮いているからこそ、これまでの人類は東西南北をよく把握でき、海をゆく船も目的地にたどり着けたということがあるだろう。
われわれは、北極星を基に、東西南北を創ることはできるが、東西南北を基に、北極星を創ることはできない、星は初めからあってもらわないと困る、あんなデカくて遠いもの誰が創れるか。
北極星という星は、それ自体はわれわれの実生活に何も関係ないが、その関係ないものがずっと変わらず浮かんでいるからこそ、われわれは迷わなくて済むし、また自分の住む世界をよく見通せるということがある/生活費の足しにならないからといって、北極星を否定する奴はもちろんアホだ。

北極星がなければ、海をゆく船は、まさに「右往左往」になっただろう。
人間が生きるときも、何かその「無意味の点」、フィクションだからこそ変わらずにありつづける標準点がいるのだ、それがないと人間自体も「右往左往」しかできない。
「男だから」とか「女だから」とか、「先輩だから」とか「後輩だから」とか、そんなことに本当は何の意味もないのだ、何の意味もないのだが、そのフィクションが人を「迷わせずに済む」という役割を果たしている。
北極星というフィクションを基に、われわれは地図と東西南北というノンフィクションを生きているのだ、むろん地軸とか地磁気もあるけれどね、そういうことじゃない、われわれはフィクションの点なしにノンフィクションの世界を整理できないということ。

声が出るから挨拶をするのではなく、挨拶があるから声の出し方がわかる。

東西南北があるから「北極星」がありうるのじゃなく、「北極星」があるから東西南北がわかるのだ、一番遠いものが身近なものを定義するのであって、身近なもので遠くのものを定義はしない/右往左往したくなければ。
「カミサマに祈ったら腹痛が治った」というような、身近なもので遠くのものを定義しようとする浅はかさは、ロクなことにならないよ/われわれの身近な都合から、遠く深淵の真理なんて定義できない、ここを誤るとますます邪悪化してしまうわな。

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ヨーイドン2
ーイドン、というのは実際にある、誰でも知っているし、わかりやすい。
僕があなたに、「ヨーイ」と厳しい声で言う、するとあなたはバッと身構える、「ドン」というと走る、あるいは何かをスタートする。
ところがなぜか、あなたはあなた自身に向けて、「ヨーイ」と言っても、あなたは身構えないのだ、「ドン」といってもスタートしない、なぜこのことの違いが生じるのか?/しかもわざわざ、「やらされる」ほうを選んでいる。
これは認識機能の問題なのだが、むつかしい話はいい、ただあなたが知るべきことは、「他人のヨーイドンにしか反応できないのはマズい」ということ、こんなこと考えてみれば当たり前のことなのだから。

なぜ「ヨーイドン」の、セルフができないのか、このことは意外に、「人付き合いが少なかったから」ということになる。
つまり、ヨーイドンを、言われることは多かったのに、自分で言ったことはないのだ、ほとんど権威と権力にヨーイドンを言われるだけで過ごしてきた。
人付き合いの少なかった人間は、実は、自分自身と付き合うこともできなくなる、誰かにヨーイドンを言わずにきた人間は、自分にもヨーイドンを言えなくなっているものだ。
人間としてのヨーイドン、それはあくまで人付き合い、人間関係のものであって、権力の関係じゃない、権力でヨーイドンを言う・言われることばかりしてきた者は、けっきょく人間のする「ヨーイドン」を知らない、それはとてもマズいことだ。

学生のころは点数で、大人になってからは金銭で。

高い数字利益をもらうためだけに、ヨーイドンを聞き取ろうとする、そういう人間になるように、社会は人を飼育するところがある、それは社会生産に向けては必要なことだが、そんな自分の幸不幸なんて勘案してくれないシステムに下駄を預けてはいけない、そこまでわかっていなけりゃ大人とはいえない。
あなたはヨーイドンに向き合うと、きっと「有意義かどうか」ということを考えるだろう、それは人付き合いが少なかったからだ、少なくとも僕と付き合って有意義と感じた友人は一人もいなかった、それでも無数のヨーイドンは飛び交っていた、誰もトクをしないのが幸福だった。
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ヨーイドン
ラソーなことを言うようだが、自分が何かをやるということは、それを「自分のもの」にするということだ、人に命じられたことを済ませるってことじゃない。
あなたがお笑い芸人だったとして、テレビ局に「手こぎボートで東京湾を渡ってこい」と言われる、そうしたら手こぎボートで東京湾を渡るということが、「自分のもの」にならないといけない。
つまり、テレビ局の命令なんか関係ないってことだ、「おれは手こぎで東京湾を渡る、それをテレビ局は撮影でもしやがれ」と逆転する、そうしてあなたは手こぎのボートに「○○号」という名前をつけるんだ。
あなたが「ドラクエ」をやるのでもいい、そうしたら、ゲームのミッションによってあなたは竜王を倒すのじゃない、「おれが竜王を倒す」のだ、それがゲームとしてどうか? なんてことは関係ない、自分が何かをやるということは、それを自分のものにするということだ。

学校から宿題が出る、算数とか作文とか、それらは面倒くさいが、やるならやる、そしてやるということは、それを学校の宿題にするのじゃない、「おれの宿題」にすることだ。
ここを勘違いする努力家は、宿題を、提出するものだと思っている、そうじゃない、宿題をやったというなら、わざわざ提出してやる義務はないんだ、教師どもが生徒の宿題を見てニヤニヤすることには何の意味もない、そんなことに加担する必要はない。
自分に課題があるとしたら、自分で自分に課したものだけをやることだ、他人に課されたものなどほうっておけばいい、宿題のノートを提出しろというなら、「お前がやれ」と教師に言い返せ、教師はどうせそういうことが得意なんだから。
権力のある奴に、あれをしろこれをしろと言われたら、すべて自分のものにしてから、二倍のワークにして返せ、どんな権力者も二倍のワークが返ってくれば文句はいわない、そしてごくまれにいるまともな権力者が、あなたを朋友に選んでくれるだろう。

「やらされた」なら、「やらなかった」ということだ。

宿題をキチンと「やらされた」者は、教師の言いなりになったというだけで、自分を自分の言いなりにはできなかったんだな、そういうタイプはやがて追い詰められる、実は自分では何一つ「やらなかった」というまま生きてきているからだ、こんなことは早く気づいて切り替えるべきだ。
権力のある誰かが、「ヨーイドン」と言うとあなたは走る、なぜあなたは自分で自分に「ヨーイドン」と言っても、走り出せないのか? そうやっていつのまにか飼い慣らされているということは実際にあるんだ。
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(これは僕の話)解決編
りがたいことに、帰国子女の友人がさっそく情報をくれた、「デーモン」の原義について、英語版のwikipediaを調べてくれたらしい(助かる)。
デーモンの概念は、古代ギリシアの時代からあり、つまり紀元前からあるので、キリスト教成立以前からあるのだ、そしてキリスト教以前の「デーモン」(スペリングも違い、もともとはダイモーンと呼ぶらしい)は、あきらかに「霊」ないしは「神霊」のことを指しており、必ずしも悪魔じみたものを指してはいない。
ただ、キリスト教が主流化していく中では、ダイモーンの神霊力はキリスト教にとって異端であるので、単純な権威主義的な背景から、デーモン=異端=悪魔、という見做し方をするようにバイアスが掛かっていったようだ、特にルネサンス以前の保守的な教会勢力においてはそういう抑制が有為にあり得ただろう。
キリスト以前、紀元前の賢者ソクラテスは、典型的な「カミサマありき」の「光の人」だったが、その弟子プラトンから見て、ソクラテスはダイモーンによってインスピレーションを得ていたと看取されたようだ、ということは元々のデーモン(ダイモーン)は、僕が捉えるところの「霊」ということで間違いない。

ご存じのとおり(?)、僕は「血に情念が宿り」「肉に霊が宿る」と主張している、そして「血の情念が肉に染みる」ということが「にくしみ(肉染み)」になると、僕はそのことを忌避的に捉えている。
そして、肉から血の情念を抜かなくてはならない、つまり染み抜きをするように肉を洒脱しなくてはならない、そうすることで肉に霊が宿るのだと唱えているが、このとき「肉に善なるダイモーンが宿る」と言い換えても差し支えない(さすがに言い方がおっかないが)。
人間の中心軸「精」に、カミサマが入り込むことで、人間の中心軸はその字義どおり「精神」になり、このときウパニシャッド(ヴェーダの奥義書)で言われる梵我一如の状態が得られるのだが、このとき肉が鍛えられていると全身の霊化が起こる、胴体の「流れ」が滞りなく精神と合一する、つまり人間はこのとき全身全霊でダイモーン化する。
われわれが自分を「鍛える」とか、「修行する」とかいうのはすべて、この全身全霊のダイモーン化を目指すことを言うのだが、このとき人間のクリエイティビティが「神業」に及ぶので、そのことをユングは「創造のデーモン」という元型で捉えたということだろう/何を言っているんだコイツはという話だが、こういう基礎理論はちゃんと整合していないと自分が混乱する。

わたしが世界を描くことはありえず、ありえるなら世界が世界を描き出す[創造のダイモーン]。

何を言っているんだコイツという話だが、実用的に書き残すならこうしておくしかない、こんなもん僕だけがわかっていればいいのだ、僕が何かを書くのではなく肉に宿った霊が何かを書く、ところがその霊は世界から宿ったものなのだから、けっきょくは世界が世界を描き出すにすぎない、ただ僕は人間の肉を持っているので、その描き出しは人間の肉(の性質)に特徴づけられる。
僕自身には何のクリエイティビティもないのだ、僕は何もしない、ただ肉という装置が勝手に世界化のin-outの営為をするにすぎない、第一この肉自体、勝手に育ったもので僕が創ったものではまったくないのだから、肉の性質は勝手に肉の性質だし、肉が世界でないほうが不自然だ。
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(これは僕の話)
れは僕の話なので、誰も理解せんでいいが……
「創造者のデーモン」がわからんのだ(ユング元型)、いやもちろん僕は芸術家なので、創作のときにはけっきょくその力ばっかり使ってはいるのだが、その「デーモン」の存在が僕の基礎理論と合一しないで困っている。
「まとめる力」がカミサマ由来なのはわかるが、「ぶっ壊す力」はデーモン由来なの? 創作に関して人間がチャチいのだけはわかるが、何しろ東洋人としては「デーモン」が感覚的にわからん。
デーモンというと、典型的に岡本太郎がわかりやすいが、あれも別に「闇」というのじゃないし、獣とかグールとかとも違うものな、じゃあ「デーモンってなんだよ?」、これが、さんざん使っているくせに実は自分でわかっていないのだった(誰か教えろ)。

「デーモン」を、もし地獄由来のものだとすると、これはどうも僕の基礎理論と合一しない気がする……じゃあ「ぶっ壊す力」はいわゆる破壊神(シヴァ)あたりなのか? それなら話はわかりやすいが、破壊神イコールデーモンでいいのか、というとやっぱり確信がない。
あ、でもそういえば、このところやたらに「おでこに横線」のインスピレーションを受けているから、やっぱりシヴァ神なのか? うーん、そうなると破壊と創造はヨコとタテしか変わらんということになる(いや、そう考えてみるといかにもそれっぽくはある)。
こんなもん、もうただのグチにしかならんのだけどね、維持神(ヴィシュヌ)方面に偏ったまま、芸術の創作なんかできないわけであって、だから本当は人間の認識と行為を勧めるとかいう話を、僕はしたくないのだ、こうして本分の能力が行方不明になっちゃうから。
まあどうせ、おれのことだから、なんとかするんだろうけれどさ(ぐずっている)、この切り替えを日に何度もやらされるのはさすがにキツいというか、まあいいやさしあたり地下室と生命のグロッタで芸術につなごう(自己解決)。

カミサマの要らない世界がカミサマだ。

われわれが、老いたり死んだり苦しんだりするからカミサマが必要なのであって、それさえなければカミサマは要らないということになる、なぜならすでにそこにカミサマがあるからだ、デーモンを否定しないでいられる唯一の存在がカミサマだ、なぜならカミサマのほうが強いから。
カミサマのいない世界で、デーモンが暴れたらサイアクだが、カミサマがいれば「好きにせえ」てなもんよ、デーモンの脅威を説く賢人を正面から踏み潰して笑うのがカミサマの徒というやつだろう、稚拙で未完成だが僕の知っている正しいことなんてこれきりしかないのでしょうがない。
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どの方向へいこうか迷うとき
折するためには、自転車を左に倒す。
すると、あなたは自転車ごと転倒する。
転倒したあなたは、「左折ではなく右折だったか」と考え直すが、こんどは右側に倒れてしまう。
こうなると、どちらに向かっても倒れてしまうので、「もうジッとしているしかないですよね?」と、その判断が正しいと信じ込むようになる。

あなたもご存じのとおり、自転車で左折するならば、その本質は「前に進み続ける」ことだ。
これは案外盲点で、「左に曲がるなら前に進めよ」と言われると、意識的には「?」となってしまうのだ、立ち止まっている人はどうしてもそう。
つまり、立ち止まって考えて、「やっぱり勉強したいのじゃなく恋人がほしい」と言い出すと、人は転倒するのだ、実はいつもどおりの「前進」が自分に方向の自由を与えていることに気づいていない。
もし受験がなければ、もし仕事がなければ、遊び回って、恋もして、いろいろ自由にやれるのに……という発想は、誰でもしばしばするけれど、結果的には間違いだ、実は前進し続けている奴だけが自分の方向に行ける権利を得ている。

迷っているから進めないのではなく、進んでいないから迷うのだ。

人間は「自分」を知りたがり、「自分」を判断したがるのだが、実は「自分」という現象は、それが進行中にしか自覚できないようにできている、塞ぎ込んで停滞しているとき「自分」そのものを発見不能になるのだ、もともとそういう仕組みのものだ。
どんなしょうもないことでもいいから、また直接役に立たないことでもいいから、自分を進めること、その前進の最中に考えること、<<邁進せずに前進すること>>、左右をみながら当たり前のように前進を続けること、進行方向を決めるときに「進行」そのものを失っていると「方向」は必ず迷うようにできている。
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「人を追い詰めていくもの」と「人を解き放っていくもの」

ぜニーチェは晩年、発狂して死んだのか。
なぜ芥川龍之介はトルストイを「嘘つき」呼ばわりし、「ぼんやりとした不安」によって自死したのか。
なぜサルトルは世界の無意味を明視して「嘔吐」を覚えたのか、なぜドストエフスキーは皇帝暗殺の情報に興奮し、発作を起こして死んだのか。
近年では、リンキンパークのヴォーカル・チェスターが、うつ病によって自死してしまった、それは多くの人にとって深い悲しみであったに違いない。

意外に、「そういうことは、ある」のだ、最近になってそのことがよくわかるようになった。
人を追い詰めていく、人為以上の「何か」が、どうやら本当にあるのだ、しかもそれは意外に身近にある、そんなに珍しいモンじゃない。
そして僕は、自分を振り返ると、我ながらびっくりするぐらい、その「人を追い詰めていくもの」に対して無縁に生きてきている、つまり僕は自死する小説家や芸術家の作品をまるで摂取しない、自動的にそれを避けてきているのだ。
「人を追い詰めていくもの」がどうやら本当にあり、同時に、「人を解き放っていくもの」もどうやら本当にある、前者は「永劫に閉じ込められる」というインスピレーションによって与えられ、後者は「永遠につながっている」というインスピレーションによって与えられている。

僕は「名作」の大半に不感症だ。

僕はリンキンパークの切ない歌声を知っているし、その向こうに広がる溶けそうな美を知っている、しかしなぜか、それを聴き続けることはない、あくまで知っているだけだ、その切なさを/なぜそれを聴き続けることはないのかは僕自身にもわからない、ただ勝手にそうなる。
「罪と罰」だって、そりゃ読んだけれど、僕はけっきょく不感症だ、サルトルが世界の虚無を直視して嘔吐を覚えたというが、僕はなぜかその逆の症状を呈している、ぼんやりとした不安というのもわからないではないが、「じゃあこのはっきりとした歓喜はどうする?」と僕にはわからないでいる。

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