☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
我欲支配を認める二派について2
ーニンに、「おいそこのハゲたおっちゃん」と呼びかけたら、レーニンは「なんや」と笑ってくれるだろうか、それともムッとするだろうか。
ムッとするどころか、殺されるんじゃないかという気がする、アホの坂田師匠とは違うのだ。
そうして、自分が「ハゲたおっちゃん」と呼ばれることに激怒するということは、我欲があるということだ、いくら根性で質素な暮らしを貫いてみせても、それで「我欲がない」と言い張ることはできない/ガマンしきったということはそれが「なかった」ということにはならない、単に「スーパーウソをつらぬいた」だけだ。
共産主義的な人々に、「似合いますので、これはあなたのような方に」と純金の腕時計をつけて差し上げて、ほほえみのある若く眉目秀麗な異性を横につけてやったら、必ず心拍数や体内のホルモン分泌量は変わるだろう、それは我欲が「ある」ということだ、我欲を否定して禁じて封印して表面的な露出を断絶したとしても、我欲が「ない」ということにはならない、「ある」からこそ禁じていると言えるだろう、各種状況で血液中のホルモン濃度でも測ってやればいいのだ。

「我欲」があるのだ、さあこれをどうする!!!!! というだけの話にすぎない。
「あるからには、僕はぶんまわす、勝ち組になる!!」「栄光作戦か!! でもどうせ我欲は満たされないけどな!!」「じゃあわたしは、埋め尽くす、ユートピアになる!!」「禁欲作戦か!! でもどうせ我欲は消えないけどな!!」という、ただそれだけのことをわれわれは人類史規模で続けている。
我欲が満たされることは理論上ないし、我欲が消えてなくなることも理論上ない、だから栄光作戦も禁欲作戦も行き着くところは失敗で「ギャアアア」と初めから決まっているのだ、んなこたぁ誰でも少し考えればわかる。
抜け道はただひとつ、我欲以上の何かが見つかるかどうかだ、我欲がなくなることは決してないが、我欲以上のものが見つかれば、我欲を消す必要はなくなる、我欲が支配者じゃなくなればそれを必死こいて消す必要もないし、それをメインコンテンツのように振り回す必要もない。

僕が少女をレイプするとき、少女が或る詩文の意味を尋ねてきたら、僕はレイプの手を止めて解説してしまうだろう。

いかなる状況であれ、僕が詩文の意味を回答できないなどということは、天才としてあってはならないことなので、そのことに比べたら今さら少女と一発ヤることが何やねん、どうでもいい……とはいわんが、まず完璧な回答をしてからドッコイショしないでは話が成り立たん、そうして僕にとって少女レイプはとてもステキだがしょせん二流のステキであって必死でガンバるようなことではない、詩文の読み取りは必死でやれよ。
僕はこれまでに、何度も落とし物の財布を交番に届けているが(目が利くので)、そのたびに中身が何万円入っているかをねっとり確認してから、「うおおお〜」と不満タラタラで交番に届けている、そしてその後は「落とし主は出てくるな、恐竜に踏まれて死んでいてくれ」と念じているものだ、僕は逸失物横領罪の微罪ごときにビビるような者ではないし、拾ったものはネコババしたくて絶頂寸前だが、まあそれは芸術にも愛にも世界にも関係ないのでどうせ二流の絶頂だ/僕に言わせてもらえば、落とし物をネコババする奴はアホだし、交番に届ける奴も同等にアホなのだ、そんなことで人のアホさは変わらん、われわれは別のものが見えているとき以外は誰も一ミリも賢くはない。
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我欲支配を認める二派について

は「我欲」を生まれ持っている/我欲がないのは呼吸していない人間だけだ。
「我欲」の取り扱いは二派に分かれる、ひとつは我欲を「ぶんまわし」する派、ひとつは我欲を「ほっかむり」する派。
「ぶんまわし」派は資本主義を形成し、「ほっかむり」派は共産主義を形成した。
ごく一部の例外だけが、第三の派、「我欲に疑問を持つ」派になった、これは資本主義も共産主義も形成せず、ただ学門の徒となっていった。

「ぶんまわし」派は、我欲で堂々と競うことが正義だと信じ、「ほっかむり」派は、我欲を封じ込めることが正義だと信じた。
が、この両者はどちらとも、やがて加齢と共に、自分が信じられなくなっていく/「ぶんまわし」派は我欲を振り回してきた罪と、やがて自分が老いて敗者になる事実に耐えきれず、「ほっかむり」派は、自分が「我欲のないフリ」をしてきたにすぎないことに気づいてその罪と後悔に耐えきれなくなる。
「我欲に疑問を持つ」派は、それをぶんまわすでもなく、ほっかむりするでもなく、そうした我欲があることを自分自身にもまざまざと見て、「これがわれわれを支配している」ということに気づき、同時に「本当にその支配にほころびはないのか?」と疑う。
「我欲に疑問を持つ」派は、学門としてそれを考究し、やがて気づく、「我欲で満たされるも、苦しむも、自分限りでしかない」ということ、それが<<我欲の性質>>だということ、「わたしの我欲」に支配されているのは「この宇宙でわたしだけ」だということ、わたし自身がわたしのこだわりをやめたら、この我欲の支配は瓦解するということ/支配は本当には「性(さが)」ではなくて、あくまで自分の「恣意」だということ。

「ぶんまわし」派も「ほっかむり」派も、「我欲が人間の性(さが)である」という誤解で一致した仲間だ。

学門として考究していくと、それは性(さが)ではなく恣意だということがわかる、我欲がわれわれの恣意なのだとしたら、本当には我欲はわれわれを支配していない、支配ではないならそれをぶんまわす必要もなければほっかむりする必要もない/支配ではないなら、それはわれわれの付録、オマケでしかないのだから、堂々とおもちゃにしていてよい、我欲がない必要はなく、我欲はあってよく、それが支配していないなら、我欲はただのおふざけだ。
ここだけの話、「でもそれが人間の性(さが)ですよ」という言い方は、実は重大な罪(法の謗り)を帯びているので、オススメしない、自分の発言に長い間自分が呪われることになる、言い方は「学の浅いあたしにゃムリです〜」ぐらいにしておくほうがいい。

視点変えてこ | comments(0) |
目の前のJOKER

ペードのA、面倒くさがらせる、こんな言い方には何の意味もない。
ダイヤのA、だがこうして偽装して話す必要があるのだ。
ハートのA、世の中には「偉い人」がいる。
クラブのA、「偉い人」に抱きしめられたら、……だろう? これが最大の禁句。

スペードのK、禁句というのは本当に禁句。
ダイヤのK、禁句といってもまだマシなものだが、それでも破壊力はバツグンだ。
ハートのK、このカードの数字とスートには何の意味もないよ、ただひとつのことをお伝えしたいだけ。
クラブのK、世の中には大きな破綻があるね、今あなたが読んでいるとおり。

JOKER、キモチワルイ

赤のQ、まさにそれが破綻、わかるね、だからこそそれが最大の禁句、ごまかして言うしかない重大なこと。
黒のQ、いつの世の中も、この破綻から逃れられない仕組みがわかるね、この破綻がない世界はたとえ小さな世界でもとても恵まれて幸福なものだ。

視点変えてこ | comments(0) |
梵動
るは動く
求むるは動かず
動けば届かず
動かざれば即もたらされむ

求むるは即得る也
求めて得ざるは動く必定、是漁る也
動かずは得るときのみ、得るとき人はよもや動かず
有限は動く必定、もたらされるは動かざる必定

信ずるは非我の能動、是求むる也

王動かず臣果報もたらす
梵我に差分なし、梵動かば我動かず、我が能動は梵動なりけり
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何倍もラクになって、経験が何倍も得られてくる方法

は誰よりもシンドイことが苦手だ。
一方、冷静にリストアップしていくと、僕はいろんなことの経験が多い方に違いない、ふだんは自分でも忘れているが、リストアップすると明らかに多いのだ。
なぜシンドイことを避けるのに、経験は多くなっているのか、これはおかしい、本来は「シンドイことを避けたので経験は少なくなった」となるはず。
このことにはヒントがあるし、何より誰しも、自分がラクになることについては文句は言わないはずだ、今より何倍もラクになって経験が何倍も得られてくるのなら、そのことに文句をつける人は誰もあるまい。

これはつまり、神話世界に関係がある/前に言ったように、神話世界というものがもともとあって、そちらが根本、一方でわれわれが「現実」と呼んでいるものの正体は、二日酔い的物質をハァと吐き出したときにドスンとくる「ダルさ」、つまり「現実」イコール「ダルさ」にすぎない、ということだった。
勇士が女神のために戦いを駆け抜けていくのを、「ダルい」とは言わない、あるいは労役夫が泉の水を王城に運んでくるのも、神話世界においては「ダルい」とは言わない。
神話世界からの命を受けて、神話世界を現成するというメカニズムで動かないと、ダルいのだ、われわれの得意とする「現実」という認識で動こうとすると、それは初めから「ダルい」と決定済みになる/神話世界を否定した上に結論として得られるのは「ダルい」だけというのは、どこからどう見ても損な話だ。
僕は今、東京にいて、深夜の書斎で、この文章を書いている、この営みが「神話世界」の現成に何もつながっていないのだとしたら、そのときは猛烈に「ダルい」だろう、僕はそのダルさに一切抵抗できないダメ人間なので、いつからか神話世界の力ばかり頼って生きてきた。

あなたが僕を笑うのは現実的に正しいが、もし「神話世界」ならあなたが典型的なハズレ役だ。

まあ神話世界といっても、ふつうわれわれは、人の世の「創作物」としてそういう神話世界がイメージされたと捉えているものだ、それがその限りなら何も問題はないが、問題はもし神話世界が本当にあって、この現実世界こそが副産物だった場合だ、そちらが真実だった場合は単に「見誤った」ということになる/むろん、どちらが正なのか、われわれに断定する方法はない。
僕が一切の「ダルさ」を徹底的に苦手とするのは、友人らの証言を集めれば明らかだろう、問題はこの面倒くさがりがなぜ結果的に「経験」を多くしているかだ、僕は今このときも窓から流れてくる神話世界の風をアテにしている、それがなくては僕は何も書けなくなってしまう。

視点変えてこ | comments(0) |
彼には僕の八倍の能力がある
んな話は何の足しにもならないのでさっさとやめないといけない。
僕は、これまで何十年もそうしてきたように、自分が「最底辺」だということについては「わかる」、すごくよくわかるし、これからもそれでやっていこうと思える。
だが一方で、安直にいうと「イケてる」人たちについて、その服装や髪型や、独特の雰囲気や物の言い方、写真の写り方とかもそうだが、そっち側の人たちが実際にはどのような感覚・感性で生きているのかは、正直さっぱりわからないのだ。
何しろ、僕はこれまで歴然たる「最底辺」で生きてきたので、そんな「イケてる」の世界がどんなものなのかなんて、考える権利さえないと思ってきたのだ、だからひょっとしたらすごい誤解をしているのかもしれないし、あるいは誤解はなく、僕ではやはり想像もできないハイレベルな世界がそこにはあるのかもしれない。

僕は率直に言って、おしゃれな女の子がとても好きだし、おしゃれな男の人もとても好きだ。
ぱっと見、僕の四倍ぐらいカッコイイ男の人は、なんとなく、僕の八倍ぐらいの能力を持っているように見える、少なくとも、僕は内心で勝手にそう設定している(なんとなくそのほうがつじつまが合うので)。
僕の八倍の能力があるので、僕の八倍は色濃い経験をし、八倍はハートがあって、八倍は女にモテて経験があって、八倍は充実している、それで「うらやましいなあ」と勝手に思っている。
それがまさか、何か暗黙の約束があって、実は内心で無理をしているとか、実は疲れているとか、実は信頼しあっていないとか、実は経験がさほどないとか、そんなことは正直信じがたい、信じがたいけれども/ちょびっとはそういうこともあるのかもしれないともこのごろは思えてきた、まあなにぶん本当にわからないのだ。

陰キャの本音レポートはありえても、陽キャの本音レポートはありえないのかもしれない。

まあ、何をもって「本音」なんて言えないわけだし、勝手にそれこそ忖度するのは気色悪い話なのでしないが、とにかくカッコイイ人は僕の八倍の能力がないとつじつまが合わない、さっさとそうなってくれたら済む話なので、これはそもそも僕が考える話ではなさそうだった。
僕は陽キャのノリにはついていけそうにないが、かといって陰キャはさらに付き合いようがない、そのへんのキャラというのは僕には年齢的にわからないが、僕はただ能力と経験の実質差にけちょんけちょんにされるのが好きだ、自分が「うおおおお最底辺だああああ」と確認できる瞬間が一番好きだ/その意味で僕は、カッコイイ男に見た目差でけちょんけちょんにされるのも好きだ、万が一そこで彼の能力が僕の八倍ないと、僕がガッカリするし、何より全女性がガッカリするだろう、カッコイイ人にはがんばってもらわねばならないのだった。
視点変えてこ | comments(0) |
#ワタシ顔2
「私心を超えて、やってこられたなあ〜」という人は、気配にもわかるし、声にもわかるし、顔にも出ているからわかるものだ。
私心に取り憑かれてガンバってきた人は、どうしても「ワタシ顔」「ワタシ声」になる一方、私心を超えて取り憑かれたようにやってきた人は、どこかワッハッハと、「人間の顔」「人間の声」をしているものだ。
そういう顔や声のあらわれを、重視する人は、ただちに改善策を求めてくるが、それは改善に前向きというよりは、単に恐ろしいことから目を背けているだけなので……しょうがないじゃん、私心だけで生きてきたことの「顔」とか「声」って、急にそんなに取り去れないよ。
自分だって、オタクっぽい人は「オタクっぽーい、付き合えない〜」とか、頭の悪そうな人は「頭悪そう、付き合えない〜」と、即断して容赦がないのだから、自分だけ逃げ回るわけにはいかんわな、「私心を超えてやってきていない」という顔と声は、「それっぽ〜い」と、他人からはどうしてもあからさまに見えてしまう、とりあえずどうしたらいいかわからんので鼻くそをほじろう。

いちいち自分を卑下していてもしょうがないので、誰もそういう取り乱し方をするべきではない。
要は、一線を引くことだと思う、「おめめパッチリでかわいい〜」というのは、それはそれだ、しかし「私心を超えてやってきていない」という顔のあらわれは厳然と存在する(言い方が荘重で草不可避)。
そもそも、「私心を超えてやってきていない」という人が、「私心を超えてやってきていない」という自分のことにブチギレするのがおかしいのであって、感情的になるフェーズを明らかに間違っている、なぜ自分ごときに立派な「人間の顔」「人間の声」が宿っているはずと思えるのか/そんな立派な生き方なんか実際してきてないやん、それ相応の顔つきと声つきになっていて当たり前やん。
「それって難しいんですよ、だって」と、何か大急ぎで言われることも少なからずあるが、重要なことは明らかにその「難しいこと」を突破してこられた方が実際世の中にはいらっしゃるということであって、その難しさについて大急ぎ自説を唱えたところで「セーフ!!」にはならんだろ、なぜ自分を大前提イケてる側に所属していると主張するに立ち回るのか、それこそ私心がライブでボンバーしている有様じゃないのか。

目安、私心を超えてやってこられた方のほうが「わっはっは」と笑っており、そうでない人のほうが「大忙し」になる。

冷静に考えて、「私心を超えてやったこと、やり遂げたこと、愛したこと」みたいなものは、そんなカンタンに人の手に得られるものではないはずだ、ほとんどの場合は「私心まがい」ていどで、われわれは頑張っているだろう、そんなカンタンに光の記憶が手に入るかよ、どうもこのあたり急にくる「万人は平等なのです……ああキレイなワタシ……」みたいなナゾの爆発力が解けない/平等ったって、顔にも声にも明らかに違うものが現れているんだからしょうがないだろ。
ためしに自分でも「ワッハッハ」と言ってみたらいいし、誰か知人男性や男子大学生にも「ワッハッハ」と言わせてみたらいい、急に忙しいゴマカシネズミみたいになっちゃうじゃないか、#ワタシ顔 と #私心を超えてやってきた顔 とでは、そういう差があるということ、これはきわめてフェアなことのはずだ。
視点変えてこ | comments(0) |
#ワタシ顔
事も笑ってゆけるのがベストだとは思う。
が、なんというか、僕はどうしても、「ワタシ顔」というのが怖くてな……
代表的には、たとえば次々に新しいグラビアアイドルみたいな人たちが出てくるが、それらが多く「かわいい」と称賛を受けていても、僕には正直「怖い」と見えてしまう。
なんというか、そのカワイイ顔は、カワイイかもしれないが、満面「ワタシ顔」なのだ、この世界に「ワタシ」というものほど注目に値しないものは他にないと思うが、むしろその「ワタシ」にこだわりきってきました、という顔をしている、それがどうしても僕には「怖い」と見えてしまうのだった。

なんというか、その「ワタシ顔」を見ていると、「私心を捨ててやり遂げてきたこと」や「私心を超えて学んできたこと」、「私心が消えて何かを愛したこと」や「私心以上に思いやりに尽くしたこと」とかが、まったくなかったのではないかと思えてしまう。
だからなんというか、たとえばプードル犬と一緒に写真に映っていても、その写真には「ワタシ顔」があるだけで、「ああ、このワンちゃんが、とても大切なものなんだなあ」という顔(人間の顔)はそこに映っていないのだ、それでいくら「カワイイ」と言われても、僕にとっては「怖い」と感じられてしまう、率直に言って「大切なものなんかゼロです」という顔だ、表情が演出的なだけでその背後には何の人格もない。
自信を持って言えることだが、仮にそういうグラビアアイドルと僕が、三ヶ月間一緒に旅をしたとしても、彼女は僕のことを何か大切に思うことはゼロだろうし、最初から最後まで厳密に彼女は「ワタシ」だけが大切なはずだ、そう考えると素直に怖いじゃないか、いくらオッパイがデカかったとしても。
僕とワタシ顔の彼女のあいだに、「人間の顔」が交わされることはないだろう、彼女は永遠に「ワタシ顔」を続けるだろうし、その「ワタシ顔」の領地を広げてくれる人に純粋にくっついていくだろう、#ワタシ顔、というタグを付けるとわかりやすいか、僕にとってその「大切なものが何もない人の顔」は怖くてしょうがないのだった。

#ワタシ顔 #私心だけで生きてきました

「私心だけで生きてきました」というのは、現代ではむしろ流行としてカッコイイという扱いになるのかもしれない、が、僕は自分の身近にそんな人を置くのはイヤだ/この世界には僕が風邪をひいただけで「ええっ、大ピンチ!」と慌ててくれる人もあるのに、わざわざそこにある「人間の顔」を否定してワタシ顔の世界に称賛を送る必要はないように感じる。
「私心を超えて○○だった」ということが、一度もなしに来たら、必然的に「ワタシ顔」になるのであって、それはごまかしようがない、私心を超えて演劇を愛していない人は、舞台上でも「ワタシ顔」のアピールにしか興味がなく、どうガンバっても「ワタシ顔」は消えないはずだ、それをカワイイとカッコイイとかいうのは、僕にとっては笑えない恐怖に思える。
視点変えてこ | comments(0) |
「本当にあった」ということ……

くわからん話を、シツコクするけど、意味があってそうしているので、忍耐してついてくるように、必ずあとあと効いてくるから。
あなたの指導者はレーニンなのだ! わけがわからんと思うが、ひとまずこのことを肯定すること、ギャグみたいに聞こえていい、ここから始めないと解決しないことがどうしてもあるのだ。
そして、この手続きをやってみよう、あなたが街中に出て、通りすがる人々の顔をなんとなく眺めてみる、するとそこには、「よくわからん人の顔」があるはずだ、そりゃ知らん人だからよくわからん顔で当たり前だ。
しかし次に、その「よくわからん人の顔」を、「レーニンを指導者とする人」という仮定で眺めてみたらいい、するとどうなるか/驚いたことに、その「よくわからん人の顔」が、「なんとなくわかる人の顔」に見えてくる、特にオジサンとオバサンがわかりやすい、金髪でオラついている人はわかりにくくなるので除外しよう。

「よくわからん人の顔」は、「偉大なる大指導者レーニンの下(もと)にある市民」として眺めると、なぜか急に「なんとなくわかる人の顔」に見えてくる。
それは、いわゆる世界観という現象だが、本当にそう「見える」という現象があるのだ、それはつまり、人々の顔にそういう「相」が出ているということだ。
通りすがる人に、「クリスチャン」「仏教徒」「ビジネスマン」「学者」「サムライ」「大和男児」「大和なでしこ」と色々当てはめるのもいい、しかしそう当てはめても、今度は「そうは見えない」というのが出てくる、いくら立場上が仏教徒でも、「相」が出ていないのでそのようには見えないのだ。
通りすがる人々を集めてモンペを着せて、「戦前の日本」という劇をしようとしたら入念な演技指導が要るが、国民服を着せて「レーニン指導下の人々」という劇をするならば、まったく演技指導は要らない、初めからその「相」が出ているからだ、冗談でなくわれわれは、「わたしの指導者はレーニンさまです」というとんでもないジョークから始めないと根底のナゾが解けない。

問題は、彼らが史実、「指導者」だったこと。

今も北朝鮮において金正恩総書記は「指導者」なのであって、それをわれわれがどう思うとしても、史実は消えない、現在においてもかつてにおいても、何億もの人々が「指導者」を仰いで生きる世界があったということ、この史実は消せないし消えない。
こんな話、したくないけどな……僕はホレ、このとおり、特殊な次元での「想像力」という能力があってアタリマエの人間だから、かつて指導者を仰いで生きる「共産主義」という国と、その国の人々が、「本当にあった」、僕にはその「わからんもの」が本当にあったということが「わかる」のだ、それが「本当にあった」ということがわかれば、根底のナゾは解ける、ただそれが本当にわかってしまうと、びっくりインパクトが、ちょっと普通の神経には耐えられないぐらいデカいかもしれない。

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人類が繰り返す、「ひとつになりたい」ということ

このところ、話が壮大になりすぎて申し訳ない、僕もさっさとやめたいのだが……
人類は、「ひとつの絶対的なものを見上げて、<<みんな>>でワーッとなりたい」ということを繰り返している。
人は、「みんなでひとつになりたい」のだ、けっきょく誰もこの法則からは逃れられない。
お祭りは基本的にそうだし、ナチスドイツだってそう、学生闘争もそう、オウム真理教もそう、オリンピックもワールドカップもプロ野球も、今あるアイドルオタクのブームもそうなのだ、「ひとつの絶対的なものを見上げて、<<みんな>>でワーッとなりたい」、人間はどうしてもみんながひとつになるアンサンブル(合奏)をしたいのだ、だから人類の繰り返しを上から笑える人なんて一人もいない。

この「みんなでひとつになる」ということが、正しく成り立つのはとてもむつかしく、だからこそナチスドイツとかオウム真理教とか、明らかに悲劇を生んでしまうものも出てきた。
「みんなでひとつになる」ということが、なぜ難しいかというと、正しくは「ふざけて始めたことが、知らぬ間に神聖さに引き込まれていく」という順序でしか起こらないからだ、たいていはその逆になってしまう。
つまりたいていは、「マジメに始めたことが、知らぬ間に邪悪さに引き込まれていく」という順序で進んでしまう、このことにはそのまま、二重になった難しさがある。
まず、神聖さに素質がある奴がもともと少ない上に、その素質のある奴が「ふざけて」何かを始めるということはさらに少なくなってしまう/ほとんどはその逆、邪悪さの素質がこっそりあった奴が、「大真面目に」何を始めることになる、だから正しく「みんなでひとつになる」というのは、実際にはほとんど起こらないのだ、残念。

「神聖な奴」が1/100、「ふざけて始める」が1/100、「邪魔しない」が1/100なので、みんなでひとつになる可能性は百万分の一だ。

せめて「神聖な奴」が1/10、「ふざけて始める」が1/3、「邪魔しない」が1/2ぐらいなら、成立の可能性は1.7%ぐらいあるのだが/この割合数は時代と共に変動するし、教育環境によっても変動する。
99/100、誰でも自分は神聖なつもりだし、自分は愉快なつもりだし、自分は人の邪魔だけは決してしないつもりなのだが、おそらくそういったことは本当はカンタンじゃないのだ、それがまるでカンタンなことのように教えられている時代と教育環境が、よけいに悪く響いているのだろう(と、たまにはマトモなことも言ってみるのだ)。

視点変えてこ | comments(0) |
その瞬間を

分は邪悪をしてやろうなんて、自分で思っている人はごく少なく、ほとんどの人はなるべく、自分は「善いこと」をしたいと望んでいるものだ。
ただ問題は、何が「善いこと」なのか、どうしたら「善いこと」になるのか、よくわからんのだ、表面上だけ善いことをしてみても、何か直感的にウソっぽいことになるというか、本当に善いことはできていない感じがする。
そして、一般的に「善いこと」を推奨したり、自ら実践している人たちを見ても、どこかやはり直感的に、佳いものが身に現れていないような気がして、正直になれば憮然としてくる。
そんな形でけっきょく、誰も邪悪になりたいわけではないし、できるならいくらでも「善いこと」をしたいのだが、どうすればそうなるのか「わからん!!」のだ、一般的に言われている「善いこと」をしてみても、なぜか次第に内心ではイライラしてくるし、「なんでこんな黒い気持ちにならなきゃならないの」ということで、やりきれなくなってくるのだった。

ニーチェは、「教会が言っているカミサマってウソっぽくね?」ということを指摘して、カミサマのない世界を賞翫してみたが、そのうちよくわからなくなり、ぐるぐるしたものに狂死してしまった。
われわれはけっきょく出来がよくないので、ビビリながら生きていくしかないのだが、よりによって、ビビっている人にはますます魔が差すんじゃね……? というような致命的な皮肉があるので、われわれは安易に悔い改めることさえできない。
われわれはなんとなく、できるなら「善いこと」のほうをして、なんであれば地獄でなく天国のほうに行きたい、というようなことを考えるのだが、「そうして自分だけ天国に行きたがるのが我欲」と意地悪を言われたら、もうわれわれのようなアホには方策がないのだ、「そんなハイレベルなこと言われたらますますわからんよー!!」というのが正直なところだと思う。
こんなこと、どうしたらいいのかは僕にもさっぱりわからんが、僕が可能性を感じているのは、ひょっとしてわれわれは誰しも、「瞬間」だけちょっとはマシな奴になれるのではないかということだ、われわれの出来の悪さはどうしようもないが、ひょっとしたら何かの「瞬間」だけは、出来の悪さが紛れることがあるのかもしれない、それだけでも何とか掴めんかな、と思う。

えんえん「わからん!!」が続くが、どうか一瞬でも、「わかる」ときがありますように。

一瞬だけ「わかる」があって、その後どうせすぐに「わからん!!」に戻るのだろうが、それでもその一瞬の「わかる」が、一度はありますように、なんであれは数度、十数度とありますように、まるで毎度マグレのようでもかまわないから/そうしたら今度は、きっとわれわれが瞬間を掴めなくても、瞬間の側がわれわれを掴んで離さなくなるから。
もともとわれわれは出来がよくないのだから、何が「善いこと」なのか、「わかってますよ〜」というほうが危険だと思うのだ、われわれが浅知恵で規定した「善いこと」なんて間違っているに決まっている、われわれ聖者でないモンがどうやって聖者の規定を作れるわけがあるか、それぐらいはせめてわきまえてありたい。

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小狡(ずる)い狐と白痴の正義漢

は小中学校で、「君が代」を歌ったことがない。
なぜかというと、そういう、いわゆるサヨク思想が特に蔓延している時期および、そういう地域に育ったからだ、社会科では日本の成り立ちについてはまったく教わらず、やたらコルホーズとかソフホーズとかを教えられた。
君が代を歌うかどうかの議論さえされなかった/そのくせ、校歌斉唱のときは、やたら大きな声で歌わせられるのだから、ひどい欺瞞だな、しかしそういう欺瞞にまったく気づかず先生方は喜色満面という時期と地域がたしかにあった。
冷静に考えれば、国家を歌ったことのない少年なんか、単純に知性の面においてポンコツになるに決まっているのに、そういうポンコツ作成をあえて学校という教育装置が全力で仕掛けてくるという、とんでもない時代があったのだ、あのときの教師の気配を今も覚えているが、彼の祖国は完全にソ連だったのだと思う、ソ連はたちまちなくなってしまったけど。

同じく左翼というか、共産主義を土台にしている北朝鮮から、いわゆる「脱北」をしてきた人は、その後資本主義社会でまったく生きていけないということがよく知られている。
なぜかというと、左翼・共産主義において国民は、知性の根本を剥奪されるからだ、そのことはカンボジアを破壊したポルポトのデタラメ政策で歴史的によく知られている、ポルポトは「眼鏡をかけている奴は知性があるっぽいので殺せ」といって、国中の大人を皆殺しにした(誇張ではなくマジにだ)。
知性の根本を剥奪されているので、脱北者はその後、資本主義社会で生きていけない、なぜなら共産主義における国民は、とにかく「リーダーの言いなり」になるよう教育されているからだ、教育されてきたとおり、どうしても「完全指示待ちのマシーン」が優れているのだという思い込みから離れられない/自分の知性なんか持っている奴は「死刑」なのだ、そういう思想だ。
驚くべきことは、北朝鮮と韓国はもともとひとつの国であり、同じ民族だということだ、同じ国を南北に分けて別の制度をやらせただけで、それぞれは異人種になってしまう、仮に北朝鮮の人間が勉強してハーバード大学に入ったとしても、その彼に知性はない、自分で何かを考える能力はサヨクにおいては禁止されているのだ。

資本主義は小狡(ずる)い狐を大量に生んだが、その対抗に、共産主義は白痴の正義漢を大量に生んでしまった。

あなたは「小狡い狐」タイプだろうか、それとも「白痴の正義漢」タイプだろうか、これはだいたい、両親と学校がどんなムードだったかによって決定される(つまんねー話だが事実だ)、そしてこの両タイプは、毎度同じことで衝突し、ケンカする。
韓国と北朝鮮は、もともと一つの国で、同じ文化だったのだから、博物学的に「韓国人より北朝鮮人のほうがアホ」ということはありえない、しかし同じ生きものでも制度や文化によって知性を剥奪されることはある、もしあなたが自分の知性に不安を覚えるようなら、悩む前にもっととんでもないことを疑ったほうがいい、根っこで間違っていると知性は永遠に戻ってこない/あなたは「いつも同じことで衝突」していないか。

視点変えてこ | comments(0) |
「ヘヴィなくせに浅い」および「イージーだが深い」ということ
げさにしないこと、重大なことは何もないということ。
こんなことをスローガンにするのもとてもヘンなことだがな。
勉強したり受験したり、進学したり就職したり、仕事したり創作したり、結婚したりと、人それぞれに色々あると思うが、それらのどれひとつも「重大」ではないということ。
なぜなら個人的な、一身上の何かであって、われわれの個人に「重大なこと」なんて起こらないからだ、何かが重大に思えたとしたら、それは自分が自分だけを勝手に重大だと思い込んでいるからだ、自分には重大な何かがあると思い込んで、一人だけ血相を変えているにすぎない、それはひどい痴態と迷惑と喧噪の罠になる。

生きているうち、何もかも、そんなに悪いことではないし、小さくとも素敵なことは色々あるのに、それを「重大」と思い込むことで、滋養は薄まる、思い込みと気負いが乗れば乗るほど、物事の滋養は薄まっていくのだ、何もかもを「重大」と反応することで、何もかもが逆にスッカスカになってしまう。
この「重大思い込み主義」によって、現在、何もかもが「ヘヴィなくせに浅い」という状態になっている、本来はその逆、「イージーだが深い」という状態にならないといけない。
なんというか、たとえば「わたしは彼のことを愛しているんです」というとき、その思いはとてもヘヴィなのに、「愛している」という実態はとても浅いのだ、本来はその逆、「愛している」という思いなんかイージーに五分ごとに湧いてきていい、それでいてその「愛している」という実態は軽口の向こうに深くないといけない。
たとえば僕とあなたが共に小説を書いたとしたら、小説を書くということはあなたにヘヴィな思い入れを持たせるだろう、しかしその書かれた小説の実態が僕より深くなるということはありえない、自慢じゃないが僕は小説その他を書くということに思い入れなんか持ったことはない、安造りの演出マンガのせいで誤解しているかもしれないが、重大ぶっているということはただちに「浅い」ということだ。

ヘヴィなの、じゃあ何にもならないよ。

映画「アルマゲドン」では、有名なエアロスミスの歌が流れるのだが、かつて「郵便配達は二度ベルを鳴らす」等の映画では、そんなド派手な音楽は流れなかった、この現代の過剰演出が人々の知性を「重大病」に罹らせている/「アルマゲドン」、決してきらいな映画ではないんだけどね。
一般に、無能さと大げささは比例すると見てよく、重大ぶる人は行為や出来事のすべてをますます加水して薄めていく、よって結果的に、重大ぶる人は毎日が重大で、かつ五年後も十年後も何一つ変わらず、何一つ得られていないというところに行き着く。
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「人のことがわからんからキャラに入る」

の早いクリスマスツリーが各所に出始めた。
それを見てふと思い出した、数年前のクリスマス、僕はいろんな人にサプライズで何かプレゼントしていたような……そのために原付で走り回ったりしていた。
その結果、何が得られるかというと、もう説明はしていられないのだが、サプライズプレゼント→僕が嫌われる→僕が殴られる→僕が謝罪する、という道筋で進んでいく、「なんでやねん」という話なのだがこうなのだ、説明は長くなるので端折るしかない。
それ以来僕はどうしているかというと、僕の元々の本性のすべてと、素敵なことのすべてを諦めた、なぜかというとそういったものは、ことごとくが何かのドッカーンオルガスムスの材料に供されるからだ、さらに僕が呆然としていると僕が嫌われ、僕が殴られ、かつ向こうが被害者になる(僕は謝罪)という進みゆきになる、何を言っているのかわからんと思うが、本当にそうなるのでこれはもうやめたのだった、僕の本性とステキなことの一切はすでに過去で遮断されている。

遮断されているからといって、僕の内で消えてなくなったわけじゃない、僕は天才である上に科学者であるので、そういうところはキッチリしている/本性と本当にステキなことの一切は、使わなくなっただけで、別に僕の内から消え去ったりはしていない、僕は悪党なのでそこまで付き合いはよくない。
「人のことがわからんからキャラに入る」のだと、言われねばならない、これもまた説明をナシにぶっ込むだけだが、人は自分以外の人のことがわからない場合、そこに何かがドッカーンと「あった」のだと、キャラを自作して捏造するようになる。
なぜキャラを作ってドッカーンとすると、何かが「あった」ことになるんだ、意味不明だと言われるかもしれないが、それは僕から見ても意味不明なのであって、しかし実態がそのように呈示されるのだからしょうがない、僕がサプライズでプレゼントした場合、そこで僕のことが「わからん」人は、キャラを作ってドッカーンとなった、そのことはなぜか次第に僕への攻撃に転向していく。
「キャラ」という言い方はすでに一般化していてわかりやすいと思うが、このことを逆方向から照らしてみればいい、「キャラ」が作られてその効用が発揮されているとき、必ずその背後に「人のことがわからんから」というメカニズムが動機としてはたらいているはずだ。

「キャラ」はすべて、「わからないこと」を目の前にしたとき生成される。

頭のイイ人にはわかってもらえると思うが、ここに示されている原理は堂々たる「大発見」だ、すさまじい&超絶の大発見と言ってもいい、<<キャラは必ず、わからないことを目の前にしたときに生じる>>、そして目の前のものがわかるようになるまで、そのキャラは永遠に続けられるしかない。
僕が元々の本性を発揮し、素敵なことをぶち込めばぶち込むほど、それは目の前に「わからないこと」が示されることになり、人々の「キャラ」を強烈化することになる、そして人に向けてキャラを振る舞うというようなカルマ(業)の増大に自分が耐えきれなくなり、対象を破壊なり消去なりする方向に自己がはたらき始めるのだ/だから本当の愛や哀しさ、やさしさなんてものはないほうがいい、それらはますます「わからないもの」として人々のキャラを強烈化してしまうだけだ、それで僕自身、それらの一切は過去に遮断している。

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冷たい水に濡れたちゅっちゅ
たい水に濡れたちゅっちゅは、一種の諦めの中から生じる。
諦めと、同時に安心と……わたしでは届かなかったところへゆける人に向けて、祝福と敬いをこめて。
悲劇とは、諦めのことを言うのじゃない、猿芝居の一切を言う、「こんな大きなものもわからないの?」。
大きなものに、なれないのは無念なことだが、大きなものにつながってあれるのなら、次点で十分すばらしいことだ、それが無かったときのうすら寒さに比べたら。

冷たい水に濡れたちゅっちゅ……
この人と永遠にあるために、あえて離れるということ。
いつまでもこの人のそばにあるために、この距離を認めるということ。
「これなら自信を持ってできるわ」、何が気持ちいいのかわからないが、この距離に愛は生じるのだろう。

冷たい水に濡れたちゅっちゅは、古代の光の王国に。

古代の王国というのは、実にリアルにヤバかった、それは治安がどうこうという以前に、ガチにカミサマありき&呪いありきの世界があり、その中で一部の人がちゅっちゅに浴していたからだ、そりゃもう油を注がれた者もガチであったわけだ、正気と狂気のギリギリの中を生きていただろう、虫、スカラベ、蛇、カエル、そして絹の召し物。
古代の王国は、科学や社会通念が薄かったから、この世界を直視するしかなかった、今でもわれわれがこの世界を直視することを引き受けるなら、われわれは古代の王国にいるのだ。
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愛と学門と、世界と命と、聲と音楽と、そのコストについて
「愛と学門と世界と命」は、どれも同じ一つのものだ、と前に書いたと思う。
そこに、「聲(声:こえ)」と「音楽」も足していい、これらも合わせて一つのものだ。
われわれは、われわれ自身が言うところのギャーギャーと、プッシュと、こだわりと、主張を、愛していないのだ、それよりは音楽がいいと言っている。
われわれは人間として、「愛と学門と(以下略)」という一つのものを愛しており、われわれの内に棲んでいる「虫」は、そんなものを愛していない、虫はギャーギャーとプッシュとこだわりと主張に棲みつく、さまざまな論争がこの虫のレベルで起こっているので、われわれの周囲にある論争からは何の音楽も聞こえてこないのだった。

このところ、リアルな感じでいえば、多くの人はすでに「愛」とか「学門」とか「世界」とか「命」とか、あるいは「聲」「音楽」についてもそうだが、それらのものを実際「求めていない」という状態にある。
たとえば代表的に「愛」を、求めているというなら、それらしき話の糸口がありうるのだが、今はすでにそれは求められていないので、話の糸口自体がなくなってしまう/リアルな感じ、「愛を求めているんです」なんて高校生や大学生は今どき見かけないだろう。
今のところ、それを求めているどころか、それ以前に「興味がない」というか、ナチュラルに「興味がわかない」という状態にあると思う、そうなると、そりゃ興味の湧かないモンを求める気になんかならんわな。
僕が子供のころ、流行ったのは「キン肉マン」と「ビックリマンチョコ」だったが、そのどちらにも僕は興味がなかったな、そこには愛も学門もなかったから/僕はルパン三世が好きだった、そこには愛と学門があったから。

「愛」を求めていないということは、コストが掛かっているはずだ。

愛、学門、世界、命、聲、音楽というのは、どれも根本的にコストが掛からないものだ、なぜならカネを出したって買えないからだ、その他すべての趣味嗜好はカネを出せばあるていど買えると思うが、そうなるとカネに依存せざるを得ない、そのことは常にあなたを根本的に不安にしているだろう。
たとえば四畳半の部屋があって、男女四人がせまっ苦しく暮らしていたとして、しかしそこに鮮烈な愛と学門と、世界と命と、聲と音楽があれば、それはむなしい暮らしではない/興味が湧かないものを強いて推すことは不可能だが、根本的なコストが違うということぐらいはアナウンスできるだろう(今箱根の温泉宿に来ているが、これは誕生日ということで友人のオゴりだ、恐縮はしない)。
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テキトー風水をいくつか

直なアドバイスをすると、そうだな、たとえば長いあいだ「運が悪い」とか「体調が悪い」とか、あるいは家族総ぐるみで何かしら「具合が悪い」というような場合、思い切って部屋を明るくしてしまうのがいい、電気代は掛かるがまあ負担できる範囲だろう。
イケア等にいけば素敵なスタンドライトが置いてあるから、部屋の中をおしゃれにするのではなくて、ただ明るくする、何なら現在の光量の三倍ぐらいを狙っていい(特に部屋の「隅」を明るくすると効果が高い)。
あとは、部屋が静かすぎるのもアレなので、これもベタな方法だが、ドアに鈴でもぶらさげておくのがいい、もともと鈴というのはそういう魔除けのものだ、特にお年寄り向けに効果が高い、気の迷いや気の滅入りが減る。
そのほか、これは案外見落とされる方法だが、無駄に明るい色の服を着るのもいい、原色というより、やはりベタにピンクとかオレンジがいいな、あまり黒い服とか寒色系の服ばっかりきているのは風水的によくないのだ/まあ風水の知識なんかゼロだからテキトーだけどな。

部屋に、「丸」形のものがあるのもいい、気づくと部屋の中って四角ばっかりになったりするからな、案外部屋の中に「丸」がひとつもないという状態はよくある。
あとはなんだ、部屋にガスコンロがある場合は、じゃんじゃん煮炊きするほうがいい、「火」を使うことで払われるもの・取り戻されるものがあるからな、もし部屋の中がサイアクの場合はレモンその他の果物をデタラメに鍋で煮まくるといい、部屋に火力と蒸気と果物の香りが充満する。
湯船に日本酒を半カップ入れたり、粗塩で身体を軽くこすり落としたりするのもいい、身体にオイル的なものを塗るのも、美容以外に一種の「防壁」の効果がある。
その他、金額は小さくていいから、まったく意味のない、欲しいわけでもない何かを無意味に買うのもいい、淀んでいた流れを押し流す効果がある、「欲しくもないものをあえて買う」というところがこの方法はミソだ、まったく使い道のないカッコいいネジでも買って眺めろ(ただし通販はダメだ)。

たまに肉屋や八百屋で買い物をすること(スーパー「だけ」が続くのはよくない)。

まあこんなこと言い出したら無数にあるというか、本当に無数にあるのだが、へんちくりんなオカルトに傾倒せずに、当たり前の発送で考えるといい/うすぐらいコンビニで、ドアが開いても無音だったら、誰がそんな店に入るかよ、そんなの薄気味悪いに決まっているわな。
コンビニって実はめちゃくちゃ蛍光灯が多数ついていて、実はあの光量に惹かれて客が入っているのだった、一度あなたの行きつけのコンビニもご確認ください、その蛍光灯が半分になったらあなたはその店に行かない。

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空想科学雑談
れわれは自分が「呼吸」しているつもりでいるが、本当は「細胞」が呼吸をしているはずだ/酸素を用いて糖などを分解し、エネルギーを取り出し、二酸化炭素を排出する、ということが細胞内で起こっている。
で、さらに言えば、実は「呼吸」をしているのは、われわれの細胞そのものではないのだ、「呼吸」をしているのは実は細胞内に棲んでいる「ミトコンドリア」なのである。
この「ミトコンドリア」は、独自のDNAを持っており、実はそれ自体は「ヒト」ではない、動物の細胞内にミトコンドリアという一種の「菌」が共生している状態なのだ、われわれが「呼吸」をしている「つもり」のすべてはこのミトコンドリアという共生菌に行き着く。
僕はこのごろ、このミトコンドリアという菌のことを、「あやしい」と疑っている、もちろんミトコンドリアがなければ僕の体細胞は全部死滅するのだが、それしてもと思う、人間にとって「虫が騒ぐ」「血が騒ぐ」というとき、その「虫」というのはこのミトコンドリアのことじゃないのかね?/もちろん何の科学的裏付けもない、ただ僕があやしがっているだけのことだが……

しかもこのミトコンドリア、独自のDNAを持っているのだが、こいつのDNAは「輪っか」になっていて、端っこがないのである、始まりもなければ終わりもない輪っかのDNAを持つ虫/僕はこのごろ、「輪廻」ってこいつのDNA構造に由来してない? と疑っている。
つまりわれわれの「生命」は、ミトコンドリアなしには数分も存続できない構造物なのだが、これってひょっとして、ある意味ではわれわれがこの虫に「飼われている」ということじゃないのか、と疑われてならないのだ(もちろん何の科学的裏付けもないけれど)。
つまり、「虫」とか「地獄道」とか、「血が騒ぐ」とか(血が騒ぐというのは、遺伝子が騒ぐということだ)、あるいは「輪廻」のこととか、古代の賢人が、顕微鏡のない時代に人の体内で起こっていることを直感的に看破したということじゃないのか、そういうことって割とあるものな。
古代ギリシャの学者たちが、496という完全数を「宇宙の創世に関係がある」と崇めていたという話が、現代の超弦理論の発見の中で「マジに関係あった」と判明したこともなかなかヤベー話だと思うが(詳細はググれ)、古代ギリシャ人は何を看破していたのか、それと同じように古代の叡智が物事の本質をいきなり看破して、われわれの使う慣用句に「虫」が言われているのかもしれない、まあそんなことを考えていると夜も眠れず楽しいのだった。

ミトコンドリアが騒いでいるのは、「あなた」の声じゃない。

われわれのエネルギー代謝を担っている根本がミトコンドリアだから、こいつとはケンカのしようがないとも見えるのだが、いやいやわからんね、生命の存在の何たるかなんて、科学的にわからんことだらけだ、究極飲まず食わずで呼吸もなしで、われわれが生存できてしまう可能性もゼロではない、この先の科学が何を発見するかはとてもわかったものではない。
血が騒ぐとか虫が騒ぐとか「輪廻」とか、そういったことが実はミトコンドリア由来であって「ヒト」由来ではなかったということが、はるか先の未来で証明される可能性もゼロじゃない、496が宇宙創世に関係あるとかいうぶっとびの看破に比べたらまだマシに思える話だ。
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イヴァンカ・トランプさんが「来日」しているらしい
メリカ大統領のご息女、イヴァンカ・トランプさんが「来日」しているらしい。
テロのリスクがあるので、警備態勢が敷かれるのはわかるし、VIPといえばVIPなのだろうが……僕は「???」となっている。
イギリス王室のご息女というならわかるのだ、王権は世襲制だから、でも大統領の「娘」と言われても、それは投票で選ばれたものじゃないし、「???」となる/まさか「ホワイトハウス家のプリンセス」というわけじゃないだろう。
安倍総理の「娘」が訪米したら、アメリカはそれをプリンセス扱いしてくれるのだろうか? イヴァンカ・トランプさんの「来日」という言い方自体、僕には何のこっちゃ意味不明に感じられるのだが、それは僕がおかしいのだろうか。

しかもイヴァンカ・トランプさんは、何かしらの国際会議で、「女性が活躍できる社会を」と発言されたそうだが、それについても「???」となる。
どうしても、単純な印象として、「権力者パパにぶらさがって派手をやる女」に見えてしまうのだ、むろんそれは印象だけのことだとしても、この場合は印象も重要だろう。
まして当のパパがヒラリー女史を蹴落として大統領になり、女性アメリカを否定して立った代表のようにも、シンボル的には見えるのだが……
われわれは、いや世界中は(国際会議らしいから)、イヴァンカ女史を輝ける女性のシンボルとして見上げ、その言葉を拝聴しなくてはならないだろうか、別に拝聴するのはかまわないのだが、それってひどい女性蔑視になっていないだろうか、権力者パパがいなかったとしたら誰が彼女に注目したのか、よくわからない、典型的な「親の七光り」をどう否定すればいい? そのわりにこの浮かれたムードは何だあ。

安倍総理の娘は一般人だ。

なんというか、どうしても、「金持ちパパがいなけりゃ女は負けなのよ」というふうに見えるきらいがあるので、そこからわざわざ女性性をアピールしなくてもと思うのだが……そもそもどうしたって、権力者の「娘」が何事かを世間に向けて「アピール」するのはおかしいのだ、どうしてそんなパリス・ヒルトン的なことを公権力でやるのか、またそれを真に受けているわれわれは、もうムラムラするしかできない生きものなのか、ちょっとそれはアホさが過ぎないか。
まあ、ことのなりゆきや、発言の詳細をつぶさに聞いたわけではないので、よく知らないが、それにしてもおかしいよなあ、僕はむろんアメリカの法律には詳しくないが、大統領の親族には正式に公務職権が付与されたりするのだろうか、それはそれで露骨に「縁故」というやつになるが……まあよくわからないが、とにかくよくわからないのだった、最近わからんことだらけだなあ。
 
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レディーファーストで女性を地獄に落とすケースがある2

とえば僕が、「ささ、どうぞこちらへ」と女性に上座を勧めたとする。
そのとき当の女性が、「何、わたしを地獄に落としたいの?」と言って、厳しく首を横に振ったとしたらどうか。
「やめてよね、わたしはこっちの席で十分なの、あなたそっちに座ってよ」と言う。
この女性は貧しいのだろうか? こっちの線も十分にアリではないだろうか。

あるいはここに、スマホゲーに夢中になっている十二歳の女の子がいたとする。
この女の子を、僕がベントレーで迎えにきて、ドアを開けて「ささ、どうぞ」と促す、少女は「んー」とスマホゲーをしながらぶっきらぼうに答える。
こういうことは大丈夫だろうか? この少女は地獄に落ちないだろうか、地獄というのは大げさに決まっているが、何かとんでもないことになるのではないだろうか。
体内に棲む毒蜂に、蜜をやれば、毒蜂はおとなしくなり、上機嫌になるだろうが、それは毒蜂を肥やし、その繁殖を援けるということにならないだろうか/それでもつつけば毒蜂が出てきてしまうという場合、これはどうしたらいいだろうか。

男性を軽蔑している女性に「レディーファースト」をやると、たぶん取り返しがつかないほうに進む。

むろん、このご時世に、男性を軽蔑するなというのは無理なのだ、僕を含め男性を軽蔑するのは構わないのだが、同時にその時点でレディーファーストは危険化するということは、利益のために知られねばならない/「男性を軽蔑しなさい、そして、女性として優先されるのです」なんてレディ教育があるわけがない、そりゃどう見ても地獄教育だ。
男性を軽蔑するに至った女性に向けては、僕は一人の男性としてお詫びし、丁重さをもって報いるということをしてきたが、これはたぶん僕の判断ミスだった、しかし判断ミスだとわかったとしても、他にどうすればよいのかわからないでいる、ここは新しいideaが要る。

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