☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「本当は誰も何一つわかっていない」ということ
ラック企業が跳梁跋扈したり、老人が街中でキレて暴力を振るったり、パワハラやセクハラ、マニアックな異性憎悪などなど、最近はあまりにもおかしいことが多い。
その中で、あまりにもしみじみ確信することだが、あまり人の言うことを真に受けないことだ、何しろどれだけ警告されても「振り込め詐欺」に引っかかる人が後を絶たないのが事実なのであって、その中ですでに人の判断力は健常ではないのだと考えねばならない。
何かに取り乱して、大声で何かを主張し、膨大な呪いを振りまくような人が多数出現するような状況だが、僕がこれまで見てきたところ、誰もがそうした一時的な発狂成分に呑み込まれて、実はよくわからないままわめいているということばかりなのだ、七十五日後に同じことでわめいているという人はほぼ見かけたことがない。
どうでもいいことを、何かわめきたててオオゴトにするというようなことを、「針小棒大」と言ったり「大山鳴動して鼠一匹」と言ったりするが、この実体のない大騒動に付き合っていてもキリがない/誰もふざけているのではなくて、誰もがもう、すべてのことがよくわからなくなったのだ、よくわからなくなったものは気の毒だが、いちいちそれに付き合っても互いに神経を病むことにしかならない。

人は、ベテランであろうがシロウトであろうが、あるいは老人であろうが若人であろうが、本当はすべてのことが「よくわかっていない」のだ/何がよくわかっていないかといって、たとえば人と人との信義とか、愛とか、単なる人付き合いとか、充実とか、救済とか、生死とか、本当はまともなことは何一つわからないまま生きているのだ。
何一つわからないまま生きているのに、一方で、人が不安になる物質や、人が強迫を覚える物質、人がショックを受ける物質、パニックになる物質などは、いくらでも際限なく、体内に分泌され、血中を駆け巡ってしまう、そんな単純な仕組みでいくらでも「騒動」が起こるものだ、だがその騒動が長続きしたためしはないし、何か意味があったというためしもひとつとしてない。
数ヶ月前に起こった「大ブーム」が、今月には本質的に枯れきっているように、「騒動」も同じだ、何一つまともに続かない状態で、だからこそ何一つ、実体のないまま大騒ぎだけが無意味に発生する世の中だ。
いいかげん色んなことに、付き合いきれない状態が来ている、そういうわけのわからないムードに取り込まれないように、ふと思い出すようにしたらいい、「本当は誰も何一つわかっていない」ということ/それが真相なので、けっきょくは真相に向き合いつづけて白けているほうが最後には安穏の環境を得るだろう。

「振り込め詐欺」が後を絶たず、「大ブーム詐欺」「大騒動詐欺」も後を絶たない。

これらはどれも、「本当には誰もよくわかっていない」ということから生じている迷妄・狂乱にすぎない、どうも冗談ではなく多くの人が、たとえば「日本の未来はどうなるのか」というようなことを、今日思いついて最大まで焦り、今日中に答えを決めて答えを引きだそうする、というようなフシがある、どうみても冷静でないし理性的でもない、ただどうにもならないことをそうと認められず発狂をひとつの逃避にしているようにしか思えない。
冷静に眺めてみるとわかるが、そうした「振り込め詐欺」「大ブーム詐欺」「大騒動詐欺」を巻き起こし、また自身もそれに巻き込まれている人々は、当人が最前線で活躍する能力を持っていない人たちばかりだ、最前線で活躍できる能力がないからこそ「本当には何一つわかっていない」のでもある、そうして本当には何一つわかっていないのに、情報だけバカスカ入ってくる時代になったのだ、そして不安物質や強迫物質、ショック物質やパニック物質だけが際限なく分泌される状況になってしまっている、だから三ヶ月後に同じ温度で暴れている人は誰も居ない、これはいっそ疫学的な全体神経症と捉えねばならない、三ヶ月後には鎮静しているものが三ヶ月前には狂乱していましたという(しかも三ヶ月後には過去自分が狂乱していたことをすっかり忘れてしまうという)まったく実体のない怪現象が蔓延しているのだ。
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車間距離を詰めるしかすることがなくなった人々

用があって、このところ連日のように大阪と東京を往復している。
時間がタイトなので、レンタカーを借りて動き回るのだが、このところ大阪の運転マナーは、マナーがどうこうという次元を越えて、わけのわからない状態になっている。
僕の気のせいでなければ、誰も彼もが、なぜか車間距離を詰めることにウオオオとなっているのだ、これは本当に意味がわからない、二日に一回は事故現場を目撃するような気がする。
通常、マナーがないというのは、「自分さえよければいい」というような傍若無人ぶりを指すものだが、僕が今目撃しているのはそういうシロモノではない、なぜなら車間距離をウオオオと詰めることは、当人にとっても何のメリットもないからだ/なんというか、「なんなんですかね」としかもはや思えなくなった、僕の気が狂っているのか、そうでなければ他の誰かの気が狂っているのだろう。

車間距離をウオオオと詰めると、当然、ゴッツンコするリスクは上がる/いつもギリッギリで走っているわけだから、微細なミスや揺動が即座に事故に直結するようになる。
それは、誰がどう考えても当たり前なわけで、いわばテーブルのギリッギリにグラスを置くようなものだから、自ら事故を求めているようにしか見えない/なんというか、もう何もかも、生きるのがイヤになっているのだろうか、だとしても公道でその嘆きを大発表しないでもらいたいところだが……
このところ、「寂」とか「業」とかの話をよくしているが、僕の唱えるところはどうであれ、事実として人はウオオオとなってしまう様子であり、今はフランスもそういう状況なのだろうか、とにかく僕はこの数年、人がいかに「寂」に対抗できず、けっきょくは破滅的な精神と行動に至るのかを目撃しているような気がする/あちらこちらで、「以前はここまでひどくなかったと思うぞ」と首をかしげてばかりだ。
車間距離をウオオオと詰めることは、何のメリットもないし、ゴッツンコのリスクが増えるだけなのだが、人は究極、「車間距離を詰めるしかすることがなくなる」のだと思う/自分が生きるということの、すべてが「見たくない」と感じられて、それでも生きなくてはならないから、何をするかというと、車間距離をウオオオと詰めるのだ(なんでだよ!!)、今日も車間距離を詰めるために起床して、車間距離を詰めるためにメシを食うのだ、そして明日も車間距離を詰めるために夜は眠る、こんな冗談みたいなことが冗談ではなく生きることのすべてになってしまうようだ。

車間距離のなさは、物語のなさと比例している。

前方の車が業務で走行しており、後続する自分の車も業務で走行していて、そのあいだに隙間をなくそうとするような、業務ギチギチ的本能がはたらいているのだ、業は呪縛であって、呪縛(しめつけ)の反対は「遊」だから、必然的にそうなるが、悲惨なことにはそうして業務でギチギチにしたところで、彼らが勝てるわけではないのだ、むしろあちこちでゴッツンコするのでますます負け業界ばかりが拡がっていってしまう/それでもまあ、実際として「しょうがない」のだとは思うが……
おそらく、誰も彼もが本当に苦しくて、自分も崖から飛び降りたいし、誰かを崖から突き落としたくもあるのだろう、そうしたことにヒッヒッヒという、暗いよろこびが起こる、もちろんそんなことを満喫するためにこの世に生を享けたはずではないのだが、そんなこと言われても今さらどうしようにもないのだろう/僕はもう一部の地域をドライブすることを自分に禁止しようと思っている、ゴッツンコすることで自分の人生を実感できるという悲痛な譫妄にとてもじゃないが付き合いきれる気がしないからだ。

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作品を創る者の素質
品を創る者、あるいは、己の生をなりゆき的でなく創造的に形成してゆける者たるには、不可欠の素質がある。
それは、自分より優れたる者、自分よりうつくしい者、自分より満ちたる者を、進んで認められるという素質だ。
実はこの素質が、世にありふれたものではなく、思いがけず少なからざる人が、自分よりうつくしい者を認めない、という生き方をしている。
とはいっても、どうしようもなく事実としてうつくしく満ち足る者もいるので、それを認めないためにはどうするかというと、「まったく別次元の人」ということで、どこか高くへ押し出すのだ、そうすることで、自分の見はるかす平原には、自分がただ一人うつくしい者の頂点として君臨することができる、けっこう多くの人が実はそのような世界観の中で生きているものだ。

その世界観が悪いとか、誤っているとか劣っているとかいうことではないが、少なくとも「作品」ということになると、自分よりうつくしい者は認めないという世界観は、構造上どうしても欠格になる。
なぜかというと、「作品」というのは、その作中に存在する人や事物が、現在の自分より「うつくしい」という動機から始まるからだ、これなくして「作品」というのはそもそも動機が成り立たない。
人は想像力の世界に、現在の自分では追いつけようもない輝き、きらめき、命と魂のありよう、またそれを具現した事物や人を描き出すのであって、自分より下位のものしか認めないという構造においては、人は「作品」に向き合うことさえできない、そのような者が作品を手掛けようとすると、必ずその実物は作品ならざる手の込んだ「嗜好品」になってしまう。
たとえば宮崎駿が、まぎれもない少年少女の純潔と冒険活劇を描き出せるのは、自分自身が年を取って肥えた老人ないしは中年と認め、少年少女らのうつくしさには及ぶべくもないということを進んで認めているからだ、よって作中世界の少年少女は、ピタリ宮崎駿を置き去りにするうつくしさの者として描き出されている/およそわれわれのような凡人は、センスや才能というはるか手前、この「自分よりうつくしいものを認められない」というしょうもない理由から、創作および己の人生と無関係に生きていくものだ、もちろんそのことに感慨深さは一ナノグラムもない。

上に創れば作品、下に創れば嗜好品。

仮に僕が何かの作品を創るとしたら、その登場人物、特に主人公の男は、僕のガールフレンドを僕から引きちぎってしまうような男でなければならない、その上で、ガールフレンドを引きちぎられた僕としては、「あんな男になら、持っていかれてしまってしゃーないよそりゃ」と認めざるをえないものでなくてはならない/その意味で作品というのは、ある意味「ちっともうれしくない」シロモノなのだが、だからこそ作品うんぬんというのはわれわれ一般にとって縁遠いのだ、そこは別に堂々と「自分は自分の楽しめる嗜好品を創ります」というふうに決めたって、何ら悪いことじゃない。
ただ、嗜好品と作品を同列に扱ったり、ないしは水面下で恣意的に、嗜好品こそを作品のように押し立てていると、何かしら具合のよくない報いを受けるようになるものだ/なお、己の生を創造的に形成するというのも、自分よりうつくしい者を認めないという世界観の中では進みゆけないことになる、なぜなら自分よりうつくしい者を認めないということは、現在の自分が現在よりうつくしくなる方途が閉ざされているということだからだ、現在の自分を頂点として、あとは「なりゆき」で生きていくしかない、その代わり概念上はいつまでも自分が美の頂点でいつづけられるので、そうすれば確かに「おびやかされる」ということはなくて済むのだ。
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絶望が好きなわれわれの仕事2
い換えれば、「ガマンでしか仕事ができない」といえばわかりやすいか。
「物語で仕事する」ということは、ひょっとすると、多くの人は一度も体験しないのかもしれない。
そして、最も残酷なことは、「ガマンでしか仕事ができない」という場合、ガマンさせられた上に、けっきょくは勝てないということだ、シンガポールの人が物語で仕事をしたら、ガマンで仕事をしているわれわれは勝てない。
だから理論上、「ガマンで仕事するの禁止!!」というのが、本来の正しいルールになる、このルールは一見バカげているがそうではない/このルールがバカげて見えるということはつまり、内心の底では仕事がキライと認めているということじゃないか、だとするとウソをつきながら生きている自分のほうがバカげているではないか。

あくまで理想論だが、この場合、理想論が土台になきゃ話にならないということがあって、たとえば学校教育で社会に役立つ人を育成するならば、モラトリアム中に「物語」を掴める人に育てなくてはだめだ、ガマン戦士を育てて企業に送り込むから、企業が鬼の伏魔殿になるのだ。
「物語」が破綻すると、仕事へのモチベーションはがた落ちするというか、ただちにゼロになるか、それ以上にマイナスになるぐらいなのだけれども、その事実の中で無理やり「ガマン」からモチベーションを大プラスにもっていくのはよくない、よくないといってもそれしか方法がないのは重々承知しているが、それは何の解決にもなっていないし、何に到達したことにもなっていないということはよくよく知っていなくてはならない。
よく年長者が、何かにつけ「甘くない」と言いたがるものだが、その言は、もっと真相を突いて言われねばならない、ガマンから鬼が生じて、鬼の行きかう世間でガマンを重ねて生きていったとして、それで「よくやった」と言われるほど甘くないのだ/何十年も頑張ってきた、という最大の思い入れが、何らのプラスにもならず魂の損傷にしかならないということで、そのことは本当に「甘くない」と言われねばならない。
物語なしにガマンだけで生きたとして、頑張ったから命が報われるというほど甘くはないのだ、ちゃんと厳しくズタズタになるように作られている/さてそれにしても、物語で仕事をするということが、どうやったら得られるのか、まったくアテがなくて、事実上「ありえねー」というような状況なのだが、それにしても厳しく見ることをやめず、「物語で仕事をしなければけっきょく負ける」と、そのことをどこかで知ったまま進むしかない。

モチベーションは、下がるのが正しい。

根本的に、ウソで上げているだけだし、報酬を十倍にしたらモチベーションが上がるというのでは、それは根本的に仕事に対するモチベーションではない、だいたいモチベーションが低くて何が悪いのだ/札束を積んだら、あなたは僕に一時間ぐらいキスしてくれるかもしれないが、それは僕とあなたのあいだには何の物語もないという証であって、こんな証で人生観を説いているようではアホも極まっている。
モチベーションは下がるのが正しく、物語を探しに出かけるのが正しい、そして物語を探しに出かけた道中で、これまでに物語を軽んじて謗ってきたことがいかに自分のビハインドを構築しているかに直面するだろう。
 
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絶望が好きなわれわれの仕事

ークショップに来てくれている人が、「バリバリやらなくても仕事が回るようになった」と報告してきてくれた、これはとてもすばらしいことなのでピックアップしておく。
われわれは学校を卒業すると、だいたいバリバリ働きだして、そのことは死ぬまで続くのだが、なぜわれわれはバリバリ働くかというと、「絶望が好き」だからだ/これは、なんのこっちゃかつ、まったく意外なことだと思う。
われわれは、絶望が好きなので、自分の職場と業務に何の物語もないと見切ると、ただちにそれを「ガマン」する、よろこんでガマンすると見ていい、そしてガマンをすると人は「鬼」になるので、その鬼になって業務を徹底乾燥した形で見、こなしていくのが、一般にいう「バリバリ」という状態だ/そうでなければ、このようなオノマトペはつかない。
このとき、「何の物語もない」という断定が、つまり絶望であって、われわれはなぜか、この断定を偏愛して誇るという性質がある、われわれは乾燥して「仕事なんだからさ」と言い立てるのが「好き」なのだ/なぜそうなるかというと、すでに己が「鬼」になっているからだ、鬼は自分を鬼に保ってくれる「ガマン」と、その前提にある絶望・物語のなさを自己肯定感に転じている。

社会人、と一般に言われるが、これは「社会鬼」と呼び変えたほうが、実際に勤務・労役している人たちの実情に沿う/「社会鬼」と定義されたほうが、働く人々のストレスはいっそ少なくて済むぐらいだ。
加えて、どうしようもなく困ることは、自分の携わっている仕事には「何の物語もない」と断定することが、ほとんどの場合においてがっちり正しいということだ、事実そうだから困る/なぜそうまで物語が消え去っているかというと、すでに状況の全体が「鬼」の集団になっているからに他ならない。
この状況では、絶望が好きということ以前に、希望の持ちようがないのだから戯論だし、キミが職場に物語を作り出すのさ、というのはいくらなんでもウソに無理が過ぎるだろう、力関係において鬼が人に頭を下げることはないし、鬼が人の軍門に下ることはないのだから、物語の持ち込みは鬼たちからただちにヘイト攻撃を受けることにしかならない。
今のところ僕が思うのは、日本の産業はこうやって負けたきたのじゃないかということだ、そしておそらくすでに少なからぬ人が、受験も部活も今やっている業務も、すごく頑張ってきて、どこにも物語はなく、単純に「すべてはひたすらのガマンですよ」と感じているのではないだろうか。

勝った人は互いに物語を共有してきており、負けた人は互いにガマンを押し付けあってきている。

漠然と、二十年前には、一緒に働く人々のあいだで「物語」の共有はあった気がする、今はもうそういったものは皆無だろう/なぜ皆無になったかというと、単にわれわれが愚者になったからだ、愚者から順に何かしらの「ワナ」に引っかかっていったのだろう。
少なくとも完全な記憶としてあるのは、1995年のこと、阪神淡路大震災で駆けつけた初期の自主的なボランティアたちは、あまりにも際限なく働こうとするので、誰かか管理して労働時間に制限ルールをつけなくてはならなかったということだ、そのとき誰の魂にも「ガマン」とか「鬼」とかはなかった、ただ物語がわれわれを駆り立ててやまず、われわれは賞味期限切れのパンだけを食べて瞳を輝かせて過ごしていた。

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業務の本質は「困」なり3/どうしようもない「快感」
「業務」というのは、その字義のとおり、「カルマ・タスク」なので、次第にそうなっていってしまうのはしょうがない/スイッチの入れ方を教えてやれば、誰でもバリバリの業務マンになることができる、それは正しい仕組みを知れば割とカンタンにできることで、たいして自慢になることではない。
一言でいえば、「困らせろよ」に尽きる、「困らせろよ」「あっ、そうか」という、このやりとりだけで業務の本質は目覚める、雨漏りが始まる前に屋根を直すような仕事をしてどうする、見積もりに時間をかけて、雨漏りが始まって「困る」が起こってからにしろよ、ただし他の業者に食い込まれないよう、うまく管理してな……
もちろん、自分の本質が「困らせる」ことにあるとバレてはいけないので、それとはまったく逆の表情をしている必要がある、「ウチが困っているそぶりはみじんも見せるな」「信義誠実という顔をしていろ」と。
たとえばボクシングの試合中、「自分が殴られて困っている」という顔をするアホはいない、自分は何も困っていないという表情で、相手を困らせることにスイッチを入れる、当然ながら相手のダメージが蓄積しているところを狙うのだ、それが業界のルールなのだから/別にウソ隠しなく、このとおりのことをわれわれはやっている、「困らせる奴が強く、困る奴が弱い」と。

業者としてはそれが当然のルールなのだが、厄介なことには、このことは人の心身の最奥にまで染み込むので、そうなると人は、まったく何の利益も理由もないときにも、漠然と人を困らせるようにしか発想・行動しなくなるのだ、これがまったく致命的なこととして起こってしまう。
バリバリの業務マンだから仕方ないのだが、わざわざ高いところにある商品を「あれ取って」と言ってみたり、「これ〇時までにやっておいて」とつっけんどんに言ってみたり、「この件はあなたに任せるからね」と、わざと知らないことのほうをやらせたりと、そうして「困らせる」「困らされる」の立場関係を有利に形成するように、自動的に立ち回ってしまうようになるのだ、このせいで世の中全体がすさまじく息苦しくなっている。
この息苦しさの中、人を困らせることは、どうしようもない「快感」になるのだ/たとえばPCが故障したとして、その直し方をあなただけが知っていたとする、すると周りはおずおずと「あの……」とあなたに頭を下げに来る、そこであなたが「は? どうしてわたしがやらなきゃいけないの?」と無駄に恫喝してみたとしよう、すると全員は「……はい」と縮こまる、みんなが困り果てている中で、あなただけが「ふわぁ〜」とアクビをしている、このことには無上の快感があるはずだ。
麻薬等で知られているとおり、人は快感に逆らえる仕組みを持ってはいないので、一度でもこの快感の味を覚えると、どうしてもその先は、繰り返しその味だけを求めて生きるようになってしまう、そして麻薬等で知られているとおり、やがてはその味が途絶えることに耐えがたい渇きを覚え始めるのだ/ところで僕は、ここまで言っておいて何だが、そうして人を困らせることに何の快感があるのかまったくわからん、それは僕自身がまったく息苦しくないからだろう、全員アホなんじゃないかと、思っているというか確信している。

歓喜を得たことがない人は、必ず業界の快感の門をくぐる。

よく、「お前の代わりなんかいくらでもいる」という言い方があり、「わたしなんか、いなくても誰も困らない」という言い方がある、立場が弱いというのはそういうことだ、自分がいなくても誰も困らないのに、自分は困っているからそこにいるしかなく、ずっと弱者の地位に立たされ、何をするにも息苦しい思いをさせられる、立場の強い人たちに「快感」を提供するためにその場所に飼われている/この立場が逆転して、「わたしがいないとみんな困るでしょ」「わたしがいないと何一つ成り立たないもんね」となったとき、どうしようもない快感がある、ひとたびそのような快感を得たら、よもやふたたび逆の地位に転げ落ちようとは思わないだろう、このような構造で地域と業界の丁々発止が生まれている、そしてその地域と業界は衰亡の一途をたどっている。
衰亡に接近するほど、その地域と業界においては、もう無意味にでも人を困らせる立ち回り、わずかでもその快感を吸い上げる立ち回りが、露骨に、絶え間なく出現してくる、どちらにせよ本質を見抜くことだ、<<そこに困っていない人などいない>>、真に困っていない人はそもそもそんな場所にいないはずだ、水面下では「困って」いるからその場所にその人はいるのだ、あとはどのていどに済ませるかはあなた自身に任せる/業務の本質はそのようであり、さらなる本質を言えば、「歓喜」を得なければしょせん脱出は不可能だということだ、歓喜を得なければ人は何十年でも「立ち回り」を続けてそのまま何の変化もなく死ぬ、本当に容赦なく何の変化も起こらず、立ち回り屋のまま死んでいくのだ、「カルマ・タスク」と表示されているものを甘く見てはいけない。
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業務の本質は「困」なり2/「困」の押し付け合い

「仕事」はステキなものだが「業務」はおっかないものだ。
「お困りのときはご連絡ください」「当方の担当者がすぐに駆け付けます」というのは、一見すると何も悪い話ではないのだが、本質が「困」に依存しているので、業者は次第に<<困っている人にしか興味がない>><<困っている人しか目に入らない>>という体質になっていく。
そして、構造上どうしようもないこととして、業者として熟練してゆけばゆくほど、もしくは業者として窮地に立たされれば立たされるほど、その営業スマイルとは裏腹に、<<人を困らせることで己が生存していく>>という本質が身に宿ってしまうのだ/繰り返される体験の中、「なるほど、誰かが困れば困るほど、おれが肥え太るのだ」ということに、どうしても生存本能は気づいてしまう。
こうして心身の奥まで「業者」に染まりきると、人は「できるオレ」「できるわたし」という自負を持ち始め、表面的には自信を得るのだが、どうせ終盤になってギャーッと悲鳴を上げ始めるのだ、それはなぜかというと、長く生きて業務を進めれば進めるほど、友人は減ってゆき、受ける感謝は薄らいでゆき、怨恨ばかりを身に受けて孤独になり果てるからだ/人を困らせることで己が生存していくという本質が心身の奥まで入り込んだ者などと、誰が友人であれるだろう? 損得勘定で付き合う人はあるだろうが、本質的にはこんな人は誰の味方でもなく、けっきょく唯一の特技は「困らせる」、そして「おれがおいしい思いをする」だ、この人は自負と自信にふんぞり返ったまま、気づくと恢復不能の孤独に陥っている、そのときまるで、この世に自分が生まれ落ちて生きてきたことがまるで無意味だったという確信に苦しめられていく。

業務の本質は、「困」の押し付け合いだと捉えていい。
だからすべての業者は、「ウチは困っていません」というアピールをするのだ、本人にその自覚がなくても、必ずそういう生きものになってしまう/自分が困っていることがバレたら、四方八方からむさぼられるからだ、それで業者というのは相互に、営業スマイルを持ち寄って、水面下では「ヨソを困らせ、ウチは困っていないふりをする」ということを続ける。
「困」のなすりつけあいということについては、たとえばテニスや卓球を考えてみればいい、相手を困らせるということは、相手の打ち返しにくいところにわざわざボールを打ち込むということだ、そして相手が困り果てて打ち返せなくなると、自分のポイントが獲得される/業者というのは必ずそうなるのだ、人を困らせることにひるんでいたら業者失格、そりゃ相手を困らせないテニスプレーヤーなど失格に決まっている。
そうして、染まり切った業者が互いに「困」を押し付けあうようになり、その中で誰が勝ったとか負けたとかやっていると、「仕事」は失せていくので、いつのまにかその地域・業界そのものが衰亡していく、全員が「ウチは困っていません」とふんぞり返ったまま、全員が他人を困らせることを必殺の武器に誇ったまま、その地域・業界そのものが沈没して忘れ去られていくのだ/閑古鳥が鳴くシャッター通りの商店街のおじさんのほうが、銀座のバレンシアガの店長よりも傲然としているのはそれが理由だ、「ウチは困っていません」というふりを続けるしかないのだ、それをやめたとたん一斉に四方八方から食い尽くされてむさぼられてしまうから。

行き着く先、困っている人に融資するほうが金利が高い。

これが資本主義における「業者」の本質だ/単純に考えると、困っている人よりは困っていない人のほうが返済能力は高いに決まっている、だから返済能力の高い人のほうが高い金利を払える余力があるのだが、困っていない人はお金を借りないし、まして困っていない人が高い金利でお金を借りるわけがない、それで「困っている人が高い金利でお金を借りる」という矛盾が発生する、ただでさえ困っている人が高金利で負債を抱えたらその先はますます困るに決まっている、そしてもともと、困っている人に高金利で貸し付けるたぐいは、その先に倒れたものを「むさぼる」ということを当然のアテにしているのだ、そのことをわかっていない業者など存在しない。
業務というのは「困」の押し付け合いであり、困り果てた者から順に高いペイメントを課せられる仕組みだ、つまり<<困らせる奴が強く、困る奴が弱い>>という土台がもともとあり、やがてはだれしもこの土台の流儀にたどり着かざるをえない、そして大多数がこの土台にたどり着いたとき、全員がその土台の上で衰亡していく、なぜならそんなところに外部の誰も寄り付かないからだ、われわれは困らせる人しかいない国に海外旅行はしないし移住もしない。

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業務の本質は「困」なり
暮用が立て込みすぎて、たいへん憮然としている。
連絡をまわすヒマがないのだが、今月のパーティは諸事情から23日(土)になったからよろしくお願いします、と(全員これを読んでくれていますようにと祈念)。
業務というのはおっかないものだ、もちろん業務をこなせないと余計におっかないことになるのだが、業務をバリバリこなすというのは割とカンタンなことで、それが思いがけず巨大なワナになっているのだと、最近になってつくづく理解する。
というわけでみなさま、業務は必ず随時サボりましょう、サボっている上に、結果的に人並み以上にこなせているということでないと、仕事で豊かになることはできません、まあおれが偉そうに言うようなジャンルのことじゃないけれども……

業務の本質は「困」だ。
われわれが困ったときに呼ぶのが「業者」だと見ていいし、逆に考えれば、自分が業者の立場のときには、「人が困っているときに首を突っ込む」というのがその本質になる。
街中にはいろんな看板があり、いろんなビラが配られているが、若い人などは特に、「こんな看板で誰が寄るのだろう?」と見えているかもしれない、だがそれはあなたが「困」の状態にないからなのだ、すべての看板とビラは「困」の状態の人にのみ作用すればいいように作られている。
そのようにして、業務の本質は「困」なのだが、これが思いがけず怖いことなのだ、自分が業務をバリバリやるようになると、人の「困」の状態を嗅ぎつけるようになるのだ、いわゆるカネのにおいを嗅ぎ取る能力が芽生えてしまうということ/ただし根本的にこの能力がないと、業者としての能力は得られず、業務の打ち合わせで噛み合わなくなるから、まったくどうしたらよいものか、われわれはそうして業の深い存在なのだった。

最もイージーに、他人の「困」が自分のカネになる。

考えてみればわかりやすいものだ、たとえば道中で車が壊れて困る、水道が壊れて水が漏れて困る、病気が治らなくて困る、お金がなくて困る、腹が減って、のどが渇いて、寝るところがなくて困る、仕事がなくて困る、客が来なくてこまる、揉め事になって困る、煩雑すぎて困る、性欲をもてあまして困る、未来がなくて困る、閉じ込められて困る、さびしくて困る……その「困」の状態のとき、業者の看板がパッと目に入るようにできている/困ったときに駆けつけてくれる人は、一見すると味方に見えるが、そうではないのだ、困ったときに駆けつけてくれる人は「業者」であって「味方」ではないのだと、オトナになるうちにやがて知らなくてはならない。
その意味で、仕事と業務はまったく別だ、「仕事」は別に相手の「困」に依存しない、仕事と業務は根本的なセンスが異なるのだ、仕事のセンスにはクリエイティビティが必要だが、業務のセンスには第一に「困」の状態の人への嗅覚が必要だ/「困」の状態の人を嗅ぎつけられるのなら、仕事の能力なんてほとんどゼロでよいぐらいだ、なぜなら「困」の状態の人を見つけたら、具体的な仕事内容は他所の業者に回してもかまわないからだ、それでいくばくかの口銭を抜けば、自分は実業なしに業績を出すことができる。
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呪いは弱い人の信仰
「呪い」なんてものは存在しない、少なくとも呪いを信じない人たちのあいだでは存在しない。
もし呪いなんてものが有効にあるのだったら、ポルポトは69歳まで生きていないだろうし、あるいはサッカーワールドカップなど開催すれば、互いに敵国のエースを呪詛しあって、死人が続出するはずだ。
呪いはあくまで、呪いを信じる人同士のあいだでしか有効でない/呪いは弱い人の信仰だ、そりゃ強い人は誰かを呪って失調させようなんて企む理由がない。
弱い人は、自分の呪いが強者に対して「有効だ」と信じることでしか、精神的なバランスを保てなくなる、だから呪いを信仰し、自分自身も呪いで縛られた身になる/タフガイたちが集まって呪術をやるというイメージはあまりに湧かない、呪いは弱い人たちの専用の術だ、<<呪いは人の弱さにつけこんで初めて呪いとして有効になる>>、相互に弱いが強がるという条件でのみ、その関係に呪いは実在する。

1.呪いはまず、人を弱らせてから掛けるものだ、何か矛盾しているような気がするが、強いままの人に呪いは掛けられない、だから何かで涙ぐませたり、「かわいそう」なものを見せたり、あるいは「いい人」をよそおって接近し、癒着に取り込み、一時的にでもその人を弱くしてから呪いを掛ける。
2.呪いは基本的に、「縛りつけるもの(呪縛)」だから、呪いを掛ける当人も、どこかに縛りつけておく必要がある/気ままな旅人が呪いを掛けたりはできない、当人が闇の深いところに己を縛りつける必要がある。
3.映画「もののけ姫」であるように、タタリ神は京(みやこ)の真ん中に突っ込んでくるものではない、呪いは中央に背を向けて地方へと深く向かうほど強力になる/ニューヨーク・タイムズスクエア前で「呪い」はさすがにない。
4.呪いは「混乱」している状態でしか掛からない、また呪縛それ自体が「混乱」で人を縛る術みたいなものだから、呪いを掛ける者自身も根本的に混乱している必要がある/よって、執拗な呪いの使い手ほど、表面上は「呪いますよ〜」という顔をしていない、むしろその逆の顔をしている、「呪いますよ〜」の顔のまま呪うのでは混乱がないので有効性が下がるのだ。

呪いの使い手は、本当に自分を善人だと思い込んでいる。

それぐらいでないと、深い呪いなんて掛からないのだ、たとえば「行き遅れた女なんかねぇ、けっきょくただの生き地獄になるよぉ」と、悪口で言うのではない、善人として言わねばならないのだ、本人が善人と信じ切って呪うからこそ、混乱があって呪いが有効になる/銀行強盗が「ぶっ殺してやる」と、呪いを掛けたりはできない、呪いの力は逆だ、<<毎朝公園の掃除をしながら呪いを掛ける>>のだ、善悪の混乱・反転があって初めて呪いは人の弱さに差し掛かり有効になる。
誰でも知っているとおり、弱い人は「善」に走るものだ、この弱い人は「正義は必ず勝つ」「お天道様が見ている」と信じており、己の善を信仰したまま、毎日を呪いの力によって生存する/彼らが何もかもを混乱する方向へ吠えるのは、もう長年で染みついた本能のようなものだ、そうして彼ら自身が混乱を手がけていないと、「自らの内に愛はなく、なぜか滔々と呪いを発し続ける」という自分が本当におそろしいナゾの物体として直視されてしまう、そのことを直視しないために、彼らは常に混乱と反転を仕掛けつづけ、つまり<<「呪わしい自分に直面しない呪い」を己に掛け続けるしかない>>のだ、弱い人の信仰は必ずここに行き着く。
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業界の慣習が滅ぶ

れぞれの業界には、それぞれの慣習があって、慣習の上でさまざまな人が生かされており、それは「文化」に属するかもしれないと、これまでは目されてきた。
だがその捉え方は、近いうちに滅ぶだろう、それもまったく思いがけない方向から/何によって滅ぶかというと、人工知能によって滅ぶ、人工知能がすべてを答えてしまうので、慣習を演算するのに経験が必要なくなってしまう。
残酷な話だが、僕はけっきょく、慣習によって成り立つものを文化だとは思っていない、慣習というのは無数の「パターン」をなぞることでその背後にある発想や思想を受け取っていくというものだが、これまではその背後にあるものを看破するのに人生を添えるような時間を要したのに、人工知能はそのパターンを総合的な情報から一瞬で読み取ってしまうからだ。
どういうことかというと、たとえば人が亡くなったとき、人工知能がこう回答するということだ、「コノ地域ノ慣習ニ従イ、明日午前中ニ(午後ハ慣習ニ合イマセン)、必ズ徒歩デ、服装ハ黒ヲ基調ニシツツ、数珠ハ必要アリマセン、喪主ニ配偶者ガ同行シ、但シ女性配偶者ハコノトキ一切発言セズ後ロニ控エテイテクダサイ、第一ニ町会長ニ挨拶ニ行クベキデス、ソシテ同日中ニ青年団長ニ挨拶ニ行クベキデス、葬儀会場ハ45号線沿イノ『安ラギホール』ヲ使用スルベキデ、『蓮華会館』ハ使用スルベキデハアリマセン、ナオコノ地域デハ45号線ハ常ニ『ヨミハシ線』ト呼称シテクダサイ。通夜告別式ノアトハ三七日・七七日ニ法要ヲスルベキデ、ソノ他ノ法要ヲ公示スルコトハ不適切ナ印象ヲ与エマス、一回忌法要ノ連絡ハ〇月△日ニ竹原印刷ニ依頼シテ葉書デ通知シテクダサイ。ナオ、ヨリ伝統ヲ重ンジル場合ハ、玄関先ノ東北東ニ小皿ヲ置キ、菊ノ花ビラト米ヲ……」。

つまり、これまではその地域に長く根付いて暮らしてきた老人だけが確信をもって知っていた「慣習」を、人工知能が前もって看破してしまうということだ、これではこの地域に長く根付いて暮らしてきた老人の存在理由が消し飛んでしまう、「〇〇さんが詳しい」とか「△△さんしか正確にはわからん」ということがもうなくなるのだ。
これまでは、そうした地域の慣習に詳しいということが、その地域に根付いて暮らしてきた老人の、「生きた証」とでも呼ぶべきものだったのに、それがまもなく撃砕されようとしているのだ/すでにひび割れが入る程度には打撃を受けており、実際、われわれはなんやかやと、「しきたり」については即時にGoogleで検索する習慣をすでに持っている(たとえば結婚式でお祝い金の水引はどうとか、誰がスピーチをするべきかとか、お盆は何日から何日までで、どういう儀式をするべきだとか)。
以前はことあるごとに、若い衆が「わからないから」といって、教えてくださいと頭を下げにきて、それを受けては「やれやれ」「なんだかんだ忙しいなあ」という状況があったのに、そういったものが消失してしまっているので、「業界の慣習」に根付いてきた人は、ここにきて急に閑古鳥が鳴くか、それ以上に冷や飯を食わされている気分になっている/このことが、近年に知られている一般的な、老人の人格損傷につながっている、老人はこれまで生きてきた封建的な時間がすべて無駄になり雲散霧消したように感じて、精神の根底をおびやかされているのだ。
今はまだ、一般的なことをGoogleで検索するだけだから、ギリギリのところで保たれている、検索するといっても何を検索したらよいか、慣習の薄い者にはわからないからだ/けれどもこの先は人工知能が、一般ではなく「この地域」「ここの文化」を特定し、検索するまでもなく人工知能側からサジェスト、もしくはもっと明確な「指示」を出してくる、「そういったことに一番詳しい、一番確実な人」のように、これだともう「口うるさい老人」はまったく必要なくなってしまうのだ、およそ無数のパターンをなぞらせてそこから法則を導き出すということについて人工知能に勝てる人間はいない、町内の老人が全員でよってたかって口うるさくしても人工知能が吐き出す回答にぐうの音も出ず敗退するということがこれから起こってくるだろう。

近年の老人の人格損傷は、「誰にも頼ってもらえなくなった」ということに由来している。

かつて老人というと、お礼状の代筆を頼まれたり、家柄からお見合い相手のマッチングを頼まれたり、「すいません、このあたりで水道業者さんというと……」「ああ、このあたりは笹野さんところだな、こちらから連絡入れておこうか」「すいません、助かります」とやりとりしたりするようなことがあった、今はもうそういうことが本当になくなってしまい、なんでも検索から一発で用事が済んでしまうから、老人のところに「ごめんくださーい」と尋ねてくる人がいなくなったのだ、今や老人のところに若い誰かが訪ねてきたらたいていは不必要なセールスか金融かオレオレ詐欺のたぐいだ、老人に用事のある若い人はもうどこにもおらず、だからこそ老人がさびしがって次々に詐欺の被害に遭ってしまうのでもある(老人が子をガメて依存する理由もこのさびしさに由来している)。
自動運転が実現すれば、さすがにタクシーの運転手は廃業だろうが、それ以前に、スマートホンがナビゲーションアプリをもっているので、もう運転手が「道に詳しい」ということが無意味になっているのだ、若い運転手はそれを「便利じゃん」としか感じないが、老いた運転手は自分の蓄積してきたノウハウを無にされているみたいに感じ(「みたいに」ではないな)、精神を強く追い詰められている/老いた運転手は「この時間帯はこの道路のほうが空くんですよ」という話をするのが大切な自負だったのだ、それを人工衛星経由のライブデータから最適化された迂回路を提案されてはたまったものではない、だがよかれあしかれ、すでにそういう時代が到来している、この世界から「場所」が消えることはないだろうが、「この地域、この慣習の中を生きてきた」という自負と自我同一性はすでに構築不可能で、実際にあちこちで瓦解の悲鳴があがっている、損傷した当人も何が損傷したのかはわからず、ただ内側から悲鳴と怒号が出そうなものを無理やり押し込めているだけという状況だ。

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仕事をバリバリこなせる人は無能
は知ってしまったのだ。
僕だって、元丸の内の商社マンだ、いろんなことがわからないではないし、できないではないが、なぜあのとき、唐突にあれをキックしたのだろう?
今になってその理由がわかる/人は、わけのわかることに精通していくうちに、わけのわからないことがまったく見えなくなっていくのだ。
次々に仕事をこなしていく、あのときの僕に言い寄ってきた女のことを、僕は冗談でなく誰一人覚えていない、名前も肌の感触もきれいさっぱり忘れてしまった。

業務をバリバリこなしていく、その人は、本当に有能なのだろうか。
むろん、業務の上では有能に見えるだろう、だがそう見えるだけだ、業務を離れても人として本当に有能に見えるだろうか。
今になってわかるが、僕の見るところ、仕事をバリバリこなすなんて、とてもイージーなことだ、もちろんそのイージーなことだっておぼつかない人はいくらでもいるのだが……
だから、まったく逆の、思いがけない真相を明かそう、「仕事をバリバリこなせる人は無能」なのだ、だから仕事をバリバリこなす人は、いつも貧相であわれな、追い詰められた目をしている/それは「業務」に乗っかったからだ、よくよく見なさい、その「当然の結果」を。

仕事をバリバリこなすには、身体をバラバラにすればよい。

あるていど能力のある人にとってはすでに、「業務」ほどカンタンなことはないという実感があるだろう、そうして業務をバリバリこなすと、現代において褒めそやされるところがあるが、どうだか/思い出してみてくれ、あなたの本質が、業務をバリバリこなしたからといって、いきなり褒められるほどになるというのは、何かえらく虫が好すぎる気がしないか? あなたが「有能」だって?
スイッチを入れたら、わたしバリバリやりますよって、そりゃ当たり前、あなたも真のおじさんやおばさんになればわかるかもしれない/スイッチを入れたらバリバリやるなんてのは、典型的な「シロウト」の発想だ、だから意識の高い大学生だって出来る、まさかそんなものを優秀な人・有能な人と誤解する日がくるなんてな。
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僕は僕自身のみで僕を定義できる
にとって、この二年半ほどは、すべて「他の人のことを知らなかった」に尽きる/この二年半で、僕はこれまで知らなかった、自分のことではない「他の人のこと」を知るようになった。
それで、まったく最近になってまた知ったことなのだが、僕はどうやら、自分が何者であるかという定義、いわゆるアイデンティティのようなものを、まったく外部に依存せず定義できるらしい、そしてそれが非常に珍しい例なのだということも最近になって知った。
僕は、文章なんか書いていないし、国立大学なんか出ていないし、総合商社になんか勤めていないし、ワークショップの先生なんかやっていないのだ、むろん事実としては「やっている」のだが、僕の中にいちいちすべてのことを「やっている」という感覚はない、僕は唄っているときにも唄っているという感覚はない。
これらはすべて、僕が僕自身を、ただこの世界に「僕」がいるということだけで定義できるから、起こっていることのようだ、自己の定義について何ら他者との融通性を必要としないのだ、だから僕は何もしなくていい、何かをしないと僕が手に入らないということはまったくないし、何かをやったとして「僕」が変化することはわずかもないので、けっきょく僕が何かをしたということをカウントする必要が根本的にない。

刈り上げた髪を緑色に染めている、通りすがりの人を見て、ハッと気づいたのだ/僕はこれまで、「個性」を持とうとしている人のことがまったくわからなかった。
おそらく、自らに「個性」を求めている人は、先立って一般的な「自分」という群が存在し、その群の中に己の自分が埋没してゆくような感覚があるのだろう、だからその中で、ユニークネスを主張するタグを付けなくてはならない、それで髪を刈り上げて緑色に染めるというような「個性」の獲得を欲するようになる。
ここが僕の場合はまったく逆で、僕はこれまでに一度も、「自分」という群に僕を溶かし入れてもらったことがないのだ、ある人の言い方を借りれば「九折さんは本当に単独で九折さんだから」ということになる、あの言い方が正しかったわけだ。
また別の人の言い方を借りれば、「あなたは自分の国を持っている、自然、王の地位にある」「あなたの周りにだけなぜか世界がある」ということになる/僕はこの二年半、ひたすら「これまで知らなかった他の人のこと」を知ることになった、自分の「個性」や「やること」を見つけたいと欲している人のことが、これまでずっとわからなくて、このごろになってようやく少しわかってきた。

僕は経歴と能力と思い出と友人のすべてを失ったとしても、僕自身が何ら変動しない。

たぶん生命を失ったとて、何ら変動はしないのだと思う、なぜそんなことになったのかは知らないが/僕は僕の国に住んでいる以上、僕自身の「個性」などというものは、数学的に存在しえない、唯一性の存在は他と比較しえない以上、比較の上に成り立つ「個性」というパラメータは出現しない。
僕はこの世界に僕として存在していて、その "自己存在の直覚" そのものが、どうやら「他の人」にはもともとないみたいだ、だから僕がいつも言っている「この世界」「世界愛」のことが正しく伝わらない/僕自身が唯一のものとして存在している以上、 "僕が存在しているこの世界" も唯一のものだ、僕が「この世界」「世界愛」と呼んでいるのはこの唯一性の事象を指してのことで、この事象平原にしか厳密には「世界」はないと僕は断言せざるをえない。
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やさしい人と、憂さ晴らしの人
とえば、誰かが結婚詐欺に引っかかったとする。
すると、「あの人ってさあ」「ねー……」と、ヒソヒソ話が交わされ、ひっそりとした嘲笑や見下しが起こったりする。
よくよく考えると、こうしたヒソヒソ話や、嘲笑や見下しに、まったく縁のない人もいるし、まるで生まれつきというように、ヒソヒソ話が似合う人もいる/そしてこうした属性は、ほとんどの場合、生涯のあいだ変わらない、ヒソヒソ話の中学生グループは、おばあさんになってもヒソヒソ話をするグループになっている。
こうしたヒソヒソ話や、嘲笑や見下し、またいわゆるいじめなどでもそうなのだが、何が根底にあるかというと「憂さ晴らし」なのだ、人によって憂さが溜まっていく人と溜まってゆかない人があり、憂さが溜まっていく人は憂さ晴らしなしに日々を過ごしていくことはできない。

誰か他人が損をしたり、恥をかいたりしたとして、もしそれを傍目に見る人が「憂さ」をもっていないのならば、ヒソヒソ話やら嘲笑などは起こらない/根底にあるのは「憂さ晴らし」というメカニズムなので、憂さがなければメカニズムは挙動しない。
根本的に憂さが溜まってしまう人の場合、どのように人にやさしくしようとしても、無理なのだ、人は憂さが溜まると憂さ晴らしをしないではいられないので、いつでも潜在的に憂さ晴らしを探している人になってしまう、そういう人が「やさしい」とは決して言えないので、憂さの溜まる人は構造的にやさしい人になるのは不可能になる。
ブラック企業なども典型的にそれだが、ブラック企業というのは、単に労働条件が劣悪というのみならず、そうして過酷な労働をさせられている人を見て、すっきりする、憂さ晴らしができる、という人によって形成されるのだ/人が恥をかいたり、困っていたりする、そういうさまを眺めているのがどうしても好きな人がいるのだ、憂さ晴らしというのはそういうメカニズムなので本人も止められない。
地域によっては、他人の畑にわけのわからない嫌がらせをする農家がいたり、新しいクラスメートの中で全員が「まずはいじめられないようにしないと」と図りあったりする、これらのことはすべて「憂さ晴らし」というメカニズムから生じている、その中では、憂さ晴らしのターゲットにならないことが最大の関心というふうになっていくものだ/「やさしさ」の反対は「憂さ」ということか、そしてなぜか、この「憂さ」は、性的に抑圧されている人の中に特徴的に溜まっていく、憂さ晴らしには一種のオーガズムがあるのかもしれない。

「憂さ」という、ナゾの倦怠物質がある。

憂さが溜まる人は、他の誰かがドジを踏んだりすると、うれしくてたまらないのだが、なぜ他人のドジが自分の「すっきり」になるのか、冷静に見ると理由がわからない、理由は「憂さ」と「憂さ晴らし」としか説明できないが、やはりナゾだ、なぜなら憂さ晴らしをした人も、半日後にはふたたひ憂さが溜まっていっているからだ。
よく「三大欲求」というような言い方をするけれど、人によっては、そこに「憂さ晴らし」を足して、四大欲求にしたほうがよいのかもしれない、われわれは「おなかすいた」「眠い」「セックスしたい」という欲求についてはよく自覚しているが、「憂さ晴らししたい」という欲求については自覚が非常に薄い。
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「地球外生命体っているんですかね〜」「お前さぁ……」

球外生命体はいるのだろうか、というネタで、話が盛り上がるとき、いやそんな話で盛り上がるときなんて実際にはないけれども、このネタについて僕はいつも思うことがある。
地球外生命体というのが、いるのかいないのかは知らないし、どうせ知りようもないのだから興味もないのだが、もし「いる」となったら、それはもうきっと、宇宙にぎっちょり、有象無象にひしめいているぜ/地球外生命体が「いる」とかいうレベルではなくて、タウンページの何億倍も、リストに書き切れないぐらいいるぜ、その中で地球の存在なんか忘れ去られるぐらいだ。
どうもこの、「地球外生命体はいるのだろうか」というネタについて、発想の根本のあさましさというか、増長を感じて気に入らない、全宇宙は全体がメガロポリスみたいに生命体だらけで、地球もその中の小さな一部屋にすぎないという可能性を考えないのだろうか、その視点からいえば「地球外生命体」という言い方そのものがヘンだ、まさか太陽系しか宇宙がないとでも思っているわけでもあるまいに。
なんとなく、「地球外生命体」というのではなく、宇宙全体がアホみたいに生命体まみれだったとすると、われわれ地球の住民としては「夢がない」と感じられるのだが、僕はどうせ仮想するなら、その夢のない仮想が好きだ、「何が地球外生命体じゃ、アホらし」「これだけ生命体がひしめいている宇宙で、よく地球限定の視点なんか持てたな」「新宿で電球を自慢しているぐらいアホだぞ」/単に観測しえない宇宙全体のことを考えるにしても、「生命体でぎっちょり」という可能性を持ち得ないのでは知性として何かがマヌケだ。

宇宙は広すぎるので、というか、宇宙のエリアに比べると、三次元で最速たる「光」の速度が遅すぎるので、どうせ他の生命体とは接触できないに決まっているが、もし生命体が単なる偶然の産物ではなく、何かしらのインテリジェンスの作用が及んでいるのだとすると、そりゃもう宇宙は全体が生命体でぎっちょりだろう、この宇宙に恒星(太陽)の数って、400,000,000,000,000,000,000,000個もあるんだぞ、この恒星系に惑星が複数個くっついているんだから、もういくらでも生命体スポットはあるだろう/仮に太陽2000億個にひとつ、生命体のある惑星が生じるにしても、宇宙全体では2兆個の生命体惑星があるということになる、その中のひとつでしかない地球が、ことさら「地球外生命体!」などと言い出すのは、何か気恥ずかしくてイタい話だ。
だいいち、われわれが知っている「惑星」って、もうけっこう前にボイジャーが頑張って海王星ぐらいまで見に行ったのが限界じゃないのか、そんな情報量で地球外生命体を考察しようなんてどう考えても片腹痛いぜ/太陽系をがんばって調べましたというのは、宇宙全体の広さに比べると、まるで世界中のすべての書物を知ろうとするのに、「五十音で、あいうえお、かきく、まで覚えました!」と言っているようなものだ、人類の歴史をフル出力してそのレベルだから、もう初めからムリなのだ、人為以外の何かが用意してくれた量子テレポーテーションでも起こらないかぎり、われわれが他の恒星系の惑星のことなどを知る方法はない。
ところで、それに付随して思うのだが、われわれは聖書や仏典やその他の聖典や神話を読んだとき、それがわれわれの知る地球の歴史と整合しないので困惑するのだが、それは聖典や神話に書かれていることを、地球限定の出来事だと勝手に決めつけているからではないか? もしわれわれの魂に「輪廻」というようなことが本当に起こるのだとして、その輪廻が地球上だけで起こるとは限らないじゃないか、この宇宙が生命体でぎっちょりなら、他の恒星系や、場合によっては他の銀河、他の宇宙(マルチバース)に輪廻するという可能性もある/また、UFOとか宇宙人襲来とかいう前に、他の恒星系から輪廻してきた魂もこの地球上の誰かには混ざっているという可能性も考えたほうが、まだ説得力があるじゃないかと、僕は仮想にせよ思っている。
聖典や神話には、「んなアホな」と言いたくなるような話も混ざっているのだが、それが「んなアホな」と聞こえるのは、われわれが地球のことしか知らないからであって、ヨソの恒星系から輪廻してきた魂がレアケースとして混じっているなら、神話に書かれているようなことも実際にあるかもしれないではないか/われわれはあまり自分のことを賢いと思わないほうがいい、古代ギリシャ人が根拠無く言い張った、「完全数496は宇宙創世に関係がある数字」というのが、まさか現代に来て「マジだった」と知らされるとは思っていなかったし、古く仏教において「十方世界」と書かれてあっても、この宇宙は10次元+時間次元という最新物理学に今さら驚かされているのだから、われわれの常識なんていつも何も賢くないのだ/宇宙には生命体がぎっちょりで、魂の輪廻は地球に限定されずあちこちに行くこともありまっせという、夢のない仮想が僕は一番しっくりきて好きだ。

地球外生命体は「いる」と主張する人こそ、それを地球外だと "珍品扱い" しているのがヘンだ。

もし地球外生命体が「いる」のなら、それはぎっちょりいるのであって、「珍しいもの」という扱いではないはずだ、そちら側の人こそ、地球を主格扱いする気持ち悪さをやめるべきではないか、自分たちの乗っている船以外はすべて海賊船に見立てるというのは精神的にどうかしている/地球外生命体は、「飽きてつまんねーぐらいいる」と言い換えてはどうだろうか。
ずっと前から、人は猿から進化したというダーウィンの説について、それが聖書の表記と異なるということで揉め事が起こっているのだが、それだってたまたま地球の猿に、はるか遠くからアダムとエヴァの魂の断片が輪廻してきて、その結果として猿が二足歩行する「人」になっていったということなら、つつがなく説明がつくのじゃないのか、まあそんなことはどうでもよくて、こんなところで戯論を言い立てていてもしょうがないのだけれど/誰の何にも関係ない、まったく意味のない話をしてしまった、うーむ反省はしていない。

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空前のオナニーブームにおける女性
らゆる国と地域において、性的コンテンツの摂取には年齢制限が設けられている、R18などの指定がそれだ/なぜ年齢制限が設けられているかというと、人類の経験的知識から、学ぶべきを学ぶ前に性感への耽溺を覚えると、引き返せない痴愚になってしまうことが知られているからだ。
では、年齢制限を設けたからといって、それによってすべての人が「学ぶべきを学んでから」性感への耽溺を覚えたのかというと、そのことは定かではない、多くの人が自分自身について「わたしは学ぶべきをすでに十分学んだ」とは断じがたいものだ/よって年齢制限というのも、投げやりに「自己責任」に押しつける以上には確固たる機能を誇ることはできない。
第一、R18指定を真にうけて、十八歳になるまでダウンロードをしないというような人はいないのだから、現代のわれわれはけっきょく、ほぼノーガードで現代の苛烈な性的コンテンツの渦中を生きざるを得ないというのが実情だ/ビクビクしながら深夜の書店でエロ本を買った旧時代とは比較にならない状況がある。
よって、ここで単純な疑問として、われわれは「これだけの強度と頻度の自慰に、本当に耐えられるのか?」ということに怯えねばならないのだった/われわれが愛や学門に向かうにしても、それは苛烈なオナニーを「やりこなして」の末でなくてはならない、だが多くの人は苛烈なオナニーの時点で引き返せない痴愚になっているという可能性をわれわれは考慮しなくてはならない。

現代のわれわれが、百年前の同国人と比べて、心身を強靭かつタフにしているとはとても言いがたい、どう考えても、何かがヤワになり、脆く、危なっかしく、虚弱になった/にもかかわらず、オナニーの強度だけは、旧時代より何十倍も高くなったはずだ、このことは本当に精神の水面下に重大なクラックを引き起こしていないのだろうか。
僕自身の記憶するところ、生まれて初めてアダルトビデオを観て、ショックで嘔吐した少年がいた、彼はヤワな男ではなかったが、思いがけないところで人は繊細なものだ/一方で現代においては、教師が声を荒げて生徒を叱責するのでも、生徒がショックから不登校になったり精神を損傷したりすることが起こるが、その彼が、液体まみれの不明の触手に少女が犯されている絵を日夜みて自慰していたとして、その水面下に本当に損傷は起こっていないのだろうか、彼はそのことに麻痺なり慣れなりを起こしているだろうが、それはタフでもなく貪欲でもなくて、その麻痺こそ損傷の結果ではないのか。
まして現代では、同様の苛烈なオナニーを、女性もかなり一般的にしているという状況がある、この前提を基にわれわれは本当に現在の「女性」を捉えられているのだろうか/ありていにいえば、現代の女性は、語らずあるいは自覚もなく、強力なオナニストという事実が潜行している可能性もあるのだ、われわれは著名なアイドルタレントのすべてがオナニーの実情を急に公開し始めないかぎりはこのことの真相を知ることはできないし仮定にも認めることがしにくい。
多くの女性の引き出しに、愛し合った彼との手紙のやり取りが保管されているというケースはすでに少ないだろうが、一方でPCの保存フォルダには、苛烈で多種多様な「オカズ」が大量に保管されているかもしれない、事実としてそのような女性はそこから急に愛や学門を拓き進めていくことができるのだろうか/われわれは現代において、女性を単純で強力なオナニストと仮定して眺め、状況や様相を捉えなおす必要がある。

アメリカ人女性の肥満者割合と同程度に、日本人女性はヘビーオナニストかもしれない。

ちなみに僕自身は、男性でもあるし、この時代いくらでもコンテンツがあるので、好き放題に自慰するが、その「オカズ」を漁ること共々、僕は己に制限を課したり、禁欲やストイシズムを試みたことはない、僕は好き放題にオナニーした上で、いつも愛のことを考えている/そしてどのような苛烈な刺激物を見せられても、それで性的嗜好が歪むということは起こらないし、そもそもオナニーに関連する性的嗜好で、実際の女性を眺めるということは起こったことがない。
つまり僕は、ノーガードでこの時代の、「苛烈なオナニーをやりこなし、その強度に耐えている」という実物になるが、最近になってこうしたことが、誰にでもできることではないということを知った/僕はどれだけの強度のオナニーをしても、女性に向けて愛より性欲が先行するということはないが、それはきっと特殊なことで、女性の側はどうだろう、女性は現代の苛烈なオナニーをやりこなして耐えられるのだろうか。
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男型の愛と女型の愛、そして老人の性欲
というものは、自己愛ではなくて、全体の幸福と豊かさに愛を傾ける、そういうものでなくてはならない、この愛を男型の愛と呼ぼう。
女というものは、そうした男型の愛の持ち主を、まさに愛の持ち主だとこころ打たれて、無条件で愛するようでなくてはいけない、この形の愛を女型の愛と呼ぼう。
こうしたことで、男というのは、大前提としてかわいい女の全てを愛していなくてはならない/女から男への愛は、給水のラインであって、男から女への愛は、スプリンクラーのごとくでなければならない、この形を安易に逆転させることがあってはならない。
男が安易に「君だけだよ」と言えば、荒れて性質の悪い女はほだされるというか好んで合意するが、そうして都合をよくしあったものが、けっきょくは互いを軽蔑しあう感情に行き着くのだ、男はバカでなくてはならず、浅知恵で女の希望に沿うと女は当の男を根こそぎ軽蔑するのだった。

このところ、女の勘が悪くなって、自らの手で男を、己の軽蔑するタイプへと押し出すことに、悪霊じみて長けているところがある/近頃で女と付き合っている男にろくなのがいなくなるのはこのせいだ。
男は男型の愛をもつから男なのであって、この男型の愛に女型の愛で反応しているうちが女も女だ、最近は誰もこの反応が悪くなり、男も女もまず可能性を失ってから交流しようとする、このことについては最近の女性はとんでもない無能になっていると認めざるを得ないところがある。
男をまず男型の愛から引きずり下ろして、それからどっこいしょと付き合おうとするから、男もみじめだし、女もとっくに醜いのであって、そこからオスがメスの乳でも揉もうものなら、そこにはもう老人じみた性欲のやり合いしか残っておらず、何の青春の断片もない。
最近の女性は、ひどく性的興奮に貪欲で、男性がいるとなんとかして自分の性的興奮のオカズにしようと第一にするから、そのような積み重ねの果てに、現在もう女が性欲以前に男に対して恋なり愛なりを向けるということがなくなっている/男型の愛も女型の愛もすっかり枯渇していて成り立たないのだが、代わりに老人じみた性欲しか交換されていない現状については、より責任の大なるは女性の側にあるかもしれない。

愛を向けているのに、性欲だけを返してくるのはやめてくれ。

この嘆きと請求は旧来、女から男へ向けられるものだった、しかし現在は女性の男性化が進んだため、女性も痴愚の男性と等しく、常に性的興奮とオカズを探す発想しか持たなくなっている/男性は歴史的に、この痴愚について踏み止まろうとする知識を与えられているのだが、ごく最近に男性化した女性は、歴史的に知識を与えられていない、だから本当に何の歯止めもなく、平気で男性を性的興奮のオカズに見立てて良心の呵責が一切ない。
しかも男の場合、性欲のことしか考えていないというのも、まだ自覚的で笑いどころがあるのだが、女の場合、自分でそのことを認めないからずっと無言で男性を性的興奮のために眺めているのだ、その点で女性が自分を愛ではなく性欲の主だと認めることはまずないだろう/一部の男性は、今も必死で女の子たちを愛そうとしているのだが、そのことごとくを無数の無言性欲で包囲して啄むのをやめてくれ、もはやそこに必要なのは愛ではなく、男型の愛を尽くそうとする者へ覚える義のこころなのだった、彼を平気でむしり殺すな。
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明朗の安定供給タイプと、不明のケンカ腰タイプ
と考えてみると、こんな簡単な分類が出来る。
わたくし、安定供給の九折商店といたしましては、いつもユニーク、いつもユーモアと笑いを尊び、それでいてどこか斬新なideaと、思いがけず煮詰めた知恵などを、明るいソウルと共にご提供しつづけたく、ささやかながら自負なども示したい所存であります、そりゃいつも面白くないと誰もおれの話なんか読まねーだろ……
そこで気づいたのだが、人のタイプとして、僕のような安定供給を第一のモットーにしているタイプと、安定供給などは考えず、なんとなく根っこがケンカ腰、というタイプがあるようだ/僕にはこの「土台ケンカ腰」のタイプが、なぜそうなるのか根本的にわかっていない。
インターネット上では、さまざまな発言が為されているが、その中の多くは、1.土台がケンカ腰であり、2.発信者は自己表示にレスポンシビリティを持たず、3.不満と主張を強く持っており(けっきょく引き下がりはない)、4.根の深い「甘え」の気配があり、5.友人を確かに持たない気配がある、という性質で括ることができる、これは「不明のケンカ腰タイプ」と分類して差し支えなさそうだ、ケンカ腰なのに発想は甘えというところに大きな特徴があるように思う。

それで、だからといって、そのタイプがどうこうと、詳しくなってもしょうがない、僕はただ、「偽りのない安定供給タイプ」をオススメしたいし、自分自身もそのようでありたいと思っている。
「安定供給タイプ」、つまり、「どーもわたしです」と自己を公に表示して、いつもどおりのナイスなブツを、安定供給、いつもどおり、高品質でご提供できりゃ、それだけでいいんじゃないのかと、僕は思うのだ/もちろんその奥に、おどろおどろした怨みや憎しみや不満があるようでは、おっかなくてノーサンキューとなるが……
いつ見ても、中川家もサンドウィッチマンも、面白い空気を爆裂させてくれるし、いつ見ても、フット後藤は、ただならぬおもろいテンションで登場してくれるじゃないか、僕もそのようでありたいし(文学者)、そのようでなくては「他にどうしようもないですやん……」としか思えないのだ/ましてそこを、オープニングから「不明のケンカ腰」とか、ナンノコッチャにもほどがあるじゃないか(と僕は思っている)。
経験上、どうやら「不明のケンカ腰タイプ」は、諸事情から「偽りない安定供給タイプ」が好きではなく、どうしても「不明のケンカ腰タイプ」を続けねばならない理由があるようだ、その理由は何であるのか、もちろん他者には知る由もない、僕はその由を知る者となりたいのではなく、引き続き単なる安定供給タイプでありたいのだった、そんなわけで今年もやってまいりますのでみなさまよろしくご愛顧のほどを。

偽りなき安定供給が、当方のロマンであります。

別にそれを、美徳とか義務とか思っているわけじゃないが、安定供給がロマンそのものに信じられて、フツフツとくるのだから、これはしゃーない、こんなものはもう人それぞれの本分というものでございましょう。
「今日もやっているねぇ!」と、ささやかにお褒めと励ましのほどをいただければ、それで満足なんだろうな、だから今日も、偉大なるおれさまはやっているのである、よって不明のケンカ腰さんは、くれぐれも他店のほうへどうぞ、別に善し悪しの話ではなく、こうしたことには「何かある」のだろう。
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あいつには、生きていくことの恐怖があったのさ

ぜあいつがあの男に靡(なび)いていったか、そんなことが聞きたいのか?
じゃあ教えてやるが、あいつには、生きていくことの不安があったのさ、不安というより恐怖だな、その恐怖を消してくれる何か、癒してくれる何かを探していたんだ/もちろんそんなこと、あの若い女が知っているはずはないよ、だがあいつは、ただそのことのために自分の美貌も磨いていたのさ、全細胞の恐怖への悲鳴が、結果的にあのわかりやすいエロさだ。
何が起こったものか、本当のことが知りたいか? じゃあ単純なことだがな、あいつはあのおぞましい男に言い寄られると、不思議と悪い気はしなかったのさ、なぜだかわかるか、それはあの男に言い寄られる一歩ごとに、カネと立場が得られることを、あいつの全細胞が知っていたからだ、実際あいつは、あの男との一件から、ちょこっとだけ有名になっただろう?
生きていくことの恐怖、それ以上に、もっとはっきりした、「死」の恐怖だな、それが彼女を支配しているのさ、彼女の中に自身の意志やこころなんてありゃしないよ、そんなものいくらでもひん曲がるさ、「死」が握ったコントローラーで、縦横無尽に動くのが彼女の純粋な「こころ」さ。

カネと立場と、ちょこっとだけの有名さが、一歩ごとに増してくるだろう? あの男に言い寄られる一歩ごとに。
するとそのたび、あいつの身体の全細胞は、死の恐怖から遠ざかることのご褒美として、ご褒美ホルモンが出るのさ、それで彼女は、あの男のことを「好き」となるんだ/何を驚いている? 彼女はただ分泌物を自分の感情としているだけだ、それ以外に感情なんて与えられていないのだから! 彼女は純粋に、一ドルずつあげれば、一ドルぶんずつ好きになっていくんだよ、おれたちはカネをもらうと体内に分泌物が出るじゃないか、ただそれだけのことなんだよ。
あいつは両親からも友人からも教師からも書物からも、自己の死について何ら教えられていないだろう? だから、物心ついたときからずっと、死の恐怖に追い立てられて、ずっと狂乱のまま生きているのさ、あいつの細胞が知っているのは本当に、若くて目立つ女が金持ちと特権に接近したら死なずに済むという、ただそれだけだ、もちろんそんなことの自覚はないよ、あいつは純粋に「分泌物行動体」みたいなもので、だからこそ、分泌物を出したい男の側にも普遍的な人気があるんだ。
そんなわけで、あいつはあの男に靡いていったが、それが闇だったとして、闇ってのはそうしてシンプルなもんさ、闇が複雑怪奇に見えるのは、おれたちが闇の直視に耐えられないからだよ/これからあの男が、勢力を失っていったら、それにきっちり比例して、あの女の「好き」は消え失せるのさ、生存本能の分泌物と「好き」が連動しているだけなんだ、だから冗談ではなく、そのへんの電柱だってあいつは恋人にできるんだぜ、そういう仕組みさえ作ってやればな。

あいつの目を見ろ、なかなか怖い目をしているだろう、それはあいつの目の奥に佇んでいるのが、「死」そのものだからだ。

仮にあいつが、世界中のしゃもじを愛している、しゃもじ愛好家ですと名乗るとするだろう、そのときはみんなでいっせいに、チヤホヤしてやればいい、その筋のマニアだって、目立たせてやってカネも与えてやればいい、そうするとどうなるか? そのときは本当に、しゃもじがあいつの恋人になるんだよ、だってあいつは生きることに恐怖がある、しゃもじがその恐怖を癒してくれるなら、そのときはしゃもじがあいつの救世主なんだ、実験してみたらいい、ハハ、本当にそのとおりのことがきっちり起こるから。
驚いたことに、あいつは「純粋」だし、「好き」というのも、ウソの成分は一ミリもないんだ、おれだってただこのことを知っているというだけで、このことの善悪を問う気はまったくしない/ただあの男は、自分が思いがけず好かれて、割と自分でイケるんじゃないかって思い込むだろう、だからもう戻ってはこられないな、何しろあの男は誰にもダマされているわけじゃないんだ、純粋な女に純粋に好かれているのだから、ダマされている何かに気づくということは永遠にないよ、ただし自分を見つめてくる女の瞳は、いつまでも死の瞳だけどな。

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エンジェルAの仮説

に、女性が、「やさしい男性に愛してもらえることを普遍的に希求する偏った存在」だったとする。
あくまでも「仮に」だ、このご時世、この「仮に」を付け忘れようものなら、四方八方から袋だたきにされてしまう。
この、「仮に」思考したものを、仮説Aとしてみよう、するとこのとき、いわゆるセクハラ男は、この仮説Aに背いた男ということになる、つまり彼は「やさしい男性でもないし、女性をやさしく愛しもしなかった男」ということになる。
一方で、いわゆる極北のフェミニズム女性も、この仮説Aを否定する勢力ということになる、「愛して "もらえる" などという偏った表現はありえず、その思い上がった誤解じたいが不快そのものであり、惨死をもってつぐなってもらいたいと熱望するよりない」/仮説Aを否定するというよりは、むしろその逆、女性は「少しでもマシな男を隷僕に従え、それにも及ばない男のすべては軽蔑して焼き払う正義の存在」と唱えるのが、一般的な極北フェミニズムの主張だ。

かよわい女性に、にじりよってセクハラをしでかすような男は、低級で醜悪であり、その被害者から見れば、低級であれその男は「悪魔」そのものに見えるだろう。
そして、極北フェミニズムの女性も、僕などに対してはただちにガソリンをかけて焼き払って哄笑したいと欲するからには、大いなる正義か、もしくは悪魔のたぐいに思えておかしくない/よってこのことは、「仮説Aに背反ないし否定をすると、悪魔の行状を帯びる」という性質に結ぶことができる。
あくまですべて「仮説」でお話ししているが、いちおう仮説A、女性は「やさしい男性に愛してもらえることを普遍的に希求する偏った存在」だとする話は、聖書に記されている言い分でもある、この聖書の言い分に反したら悪魔の行状を帯びるのかどうかは、もちろん聖書の専門家でもなければ神職でもない僕がおおっぴらに答えることはできない。
ただ、たまたま個人的に「やさしい男性に愛してもらえることを普遍的に希求する偏った存在」だった女性Aがいたとして、この女性Aが、やはりたまたまやさしい男性に「愛してもらえた」という出会いを得た場合、この女性Aと愛する男の存在は、現代における男女抗争について蚊帳の外になる/さしあたり言い得ることは、現代のセクハラ勢力も極北フェミニズムの勢力も、こうした女性Aの存在を捨象することを土台にしている、セクハラ勢力も極北フェミニズムの勢力も、その点については野合して「その例は持ち出すな」と同舟せざるをえない。

セクハラの反対は「天使」で、極北フェミニズムの反対も「天使」だ。

だから現代の男性は、アニメやアイドルのパフォーマンスに「天使」を探し、女性も同様、マンガやスポーツやイケメンアイドル青年の中に「天使」を探している/セクハラ勢力とフェミニズム勢力が向き合って居並んだとき、もちろん相互にそこに「天使」を見つけるということはありえないだろう、お互いに滅ぼすべき悪魔しか見つけない(そりゃ当たり前だ)。
よってこのことは、「架空コンテンツの中に "天使"  を見つける度合い(偶像崇拝の度合い)は、実際の男女で悪魔闘争をする度合いと比例する」と捉えることができる、あくまで個人的な仮説でしかないが、僕はこのことをエンジェルAの仮説と呼んでこっそり覚えておくことにする。

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誰かが一所懸命に育てた奴しか育たん
育うんぬんに口を出せる立場に僕はない。
だからただの放言になるが、僕は経験上、「誰かが一所懸命に育てた奴しか育たん」と思い至るようになった。
教育の内容とかシステムとかの問題ではない、人は家畜ではないのだから。
教育システムにガツーンと投入したら、アラ不思議、完成品として出荷されますという幻想が、虫の好い思い込みなのだろうな、そりゃ冷静に考えれば当たり前のことなのだった。

むかし、会社の上司が、ひどく食べ方の汚い人だった。
四十とか五十とかになって、食べ方の汚い人というのは、実はいくらでもいる/それはもう、治らないし、改善もしないということだ、誰かが彼を一所懸命に育てなければ、ただ単にそうなる。
おそらく、人材育成とか、そういうナマっちょろい発想が、根本的に甘えきっているのだろう、わけのわからない情熱と仁でしか、人が人を「育てる」なんてことはありえない。
人が育つのは、誰かが必死こいて育てた結果「のみ」だが、もちろんそんなものは、平等に与えられるものではない、僥倖で与えられるものだ、それでいいじゃないか、誰かに育てられたなんて奴は相当に運と品質がいい奴なのだ。

「育てる」に必要なエネルギーは、「半殺し」に必要なエネルギーと同量だ。

もちろん僕は、こんなことを吹聴できる立場にないので、ただの放言となる、だがただの放言として申し上げるなら、壇上からシステムどおりの文言をぶつぶつ呟いていて、それで誰かが育つとかいう馬鹿げた話は初めからありえないのだった。
僕自身、自分を育ててくれた人たちのことを、ずっと忘れない(忘れられるたぐいではない)ので、覚えているが、何かを教わるというとき、その成分の半分は「こっ、殺される……」という感触だった、最低限それでなきゃ魂に届かなかった。
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