☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
人が何をしたらいいのかは本当にわからん
大なるおれさまの、考えていることは、ちょっとここでは明かせないぐらい、常識を遥かに超えている。
考えていることというか、そもそも、何かを「考えて」いるわけではないしな……何かよく知らんが、常にブッ飛びの状態にあるのだ、偉大なるおれさまは、一般に考えつく手続きとまったく手続きを知っており、それをやらせようとする、おれ自身に対してもそうだし、おれが友人と認める者に対してもだ。
そして、それは一般的には「運」であり、人はまったく自分の思っているようなプロセスで、啓かれていくわけではないのだ、まったく別のまったくわからんことが作用していて、ふつうそんなことは誰にも視認できない/偉大なるおれさまは、それがどうやら視認できるのだが、なぜ視認できるのかはおれ自身にもわからん、おれ自身もそのときは「なんやこいつ……」と自分でドン引きしているぐらいなのだ。
まあ一般に向けては、わかりやすく、それっぽいテーマや理念や目標設定を申し立てているが、そんなもんけっきょくウソだな!! だって一人ひとり、魂は違うし、積み重ねている業(カルマ)も違うんだもの、イルカはジャンプするべきかもしれないし南国の鳥は唄うべきかもしれない、そんなものを一緒くたに扱えるかよ、そういうところでハズレをやるようでは、よりによってこのおれの珍しい値打ちがなくなってしまうだろう。

人は何をするべきかといって、何をしたらいいのかは本当にわからん。
何をしたらいいか、急に視えるのは、何かのっぴきならない窮地に陥ったとき、幸運にそれが「視える」ようになるか、そうでなければ、もうすでにそういう視力を宿している人に教えてもらうかだ、かといってそんな人に出会えるかどうか自体が運だし、仮に出会えたとしても何かしら縁が拓けていなければ「知らん」としか言ってもらえない、だって知らんものは知らんので、知らんものについては言えないだろう/すべては自分で考えるしかないのだが、その自分で考えるというときの「自分」というやつを、そもそも誰も獲得していないので話は初めから破綻しているのだった。
まあ偉大なるおれさまから見ると、人それぞれに救済プランや育成プランなどすぐに立つのだが、そんなもん特殊すぎるというか、それだって偉大なるおれさまのことを愛していないと視えてこないしな/より正確かつ正直に言うと、偉大なるおれさまを疑っているようなアホは、救済プランが「ない」というのが視えてしまうということだ、それは絶望的なことではなくて、少なくとも今はそういうフェーズにあるということにすぎない。
フェーズがそちらに固まったら、そりゃ絶望するしかないと思うが、それは老人になってから固まるべきであり、若いうちならなんとかなる、けっきょく何を信じるかで自分の魂は決定するからな/とりあえず、人が何をしたらいいのかなんて本当にわからん、極端にいうと「おでこにバンダナを巻くといい」なんて場合さえしょっちゅうある、そんなもん直接視える以外にどんな方法で考えつけるわけがあるのだ。

おれの言うとおりにしなくてもいいから、おれの言うとおりに言え。

もう長いこと、このわけのわからんブログも続いているのだが、このブログ記事の多くは、そのままあなたが口に出していえば、あなた自身の言葉となりうるように設計されているのだ、だから「人が何をしたらいいのかは本当にわからん」と、「あなたが」言ってみれば、あなた自身が啓けるように作られている、それがなぜなのかはあなたにはわからんし、おれにもわからん。
おれの言うことは、たいてい理解できるものだが、理解したところで何になるわけでもないのだ、理解なんてただのガマン比べでしかないからな/偉大なるおれさまを愛さない女は末期的なバカだと、「あなたが」言う必要があり、「あなたが」それを言えばそれですべて済むし、「あなたが」言う以外では解決の方法はゼロなのだ、偉大なるおれさまを愛してどうこうしろということじゃない、偉大なるおれさまを愛さない女は末期的なバカだと、言うだけならタダだ、そのタダで啓けるというのだからいいじゃないか。
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洪水と幸運3
考までに、現在僕がどのように状況を予想しているかというと、この先、具体的には、たとえば使ってもいない期間の車の使用料の請求が届く「だろう」と予想している。
もしサポートセンターが、「この時点で車はパンク修理に引き取られていて、お客様はサポートパックに加入されているのだから」と計算して、修理中の期間については使用料の請求を出さなかったとしたら、僕は「天才か!!」と称賛したいぐらいに思っている/それぐらい本当に、現在の知的水準は「壊滅的」に見積もっておく必要がある、そうでないといくらでもトラブルに巻き込まれる。
もしパンクの修理に、搬送を含めて二日間かかったとすると、その二日間の使用料も自動的にソフトウェアが請求を出すだろうので、僕がその明細を見て「違くね」と連絡をするのだ、すると向こうは「確認しますので、折り返しご連絡を差し上げます」と対応するだろう。
そして電話が掛かってきて、「あの、お客様は、この二日間は修理の期間であって、その期間は車を利用はされていないので、この期間の使用料を、なしにしてほしいと、そういうことでよろしかったでしょうか」と確認されるだろう、そして僕は「そうですけど」と答えながら、(なんでさっき話したことをこんな再確認されるんや)と首をかしげるに違いない/そこで本来、社会人というやつなら、「あなた、 "請求書を出す" ってことの意味わかっている?」という話にならざるを得ないのだが、そんなことを言い出すともう担当者を無駄に圧迫するだけなので、グダグダのうちに解決することを待つしかないだろう、僕は現在の状況をそのように標準化している(ちなみに「請求書を出す」というのは、本来は相互の債権と債務履行を主張するということなので、本当は割と引っ込みがつかないレベルのことだ、そんなもん友人に手書きで「請求書」を送付してみればわかる、ありもしない債権で請求書を打ったら本質的に「架空請求」の輩と変わらない)。

僕は本来、気質がルーズな奴なので、それもおそらく極めてルーズな奴なので、万事の手違いとかもたつきとかで、激昂するようなタイプではない。
そうではなく、僕は「現象」を追究しているにすぎない、僕が何を視ているかというと、やりとりをするサポートセンター係員が初めから「怯えている」ということなのだ、生涯を通じて不安・恐怖・圧迫に取り憑かれていて、ずっと怯えているので、知性はどんどん崩壊していくし、自分の知性が崩壊していくから、当人はますます怯えなくてはならなくなる。
「機械任せにしていたら架空請求しちゃった、というのは、社会的にまずいでしょ」ということが、「当たり前」にわからないのだ、言われてみたらなんとなくそんな気がするので、なんとなく「そうですね」と調子は合わせるのだが、すでに当たり前にわかるべきことが当たり前にわからなくなっているので、当人はけっきょく何もかもよくわからない認知症状態になっており、不安と恐怖の中で恐慌スレスレに踏みとどまるしかない/その不安やら恐怖やら圧迫やらが、悪霊と呼ぶべき現象で、またその不安と恐怖と圧迫が、ますます悪霊を生育させているということなのだが、よもやそんなこと誰も気づきっこないだろう。
この洪水の中で、たまたま方舟のような何かに引っかかり、知性その他の「徳性」が失われるのを引き留め、なんであれば恢復させることができるというケースは、まさに盲亀浮木というしかないような幸運だ/いつだってそうなのかもしれないが、われわれはけっきょく幸運に縋るしかないのだった、そんなもん「徳性」が何に由来して付与されているのかわからないのだから、それが失われていくときもわけがわからないものだ、なんとかそのパターンから外れられるように、第一に幸運を祈念し、幸運に恵まれなければ自分はカスだと覚悟するしかない。

「当たり前」というが、洪水に飲まれると「当たる」という感覚はもうない。

「当たり前」という現象について、旧字体でも使って「當たり前」と書いておこうか、当たり前という次元でしか得られないことがあって、たとえば地の田畑に古(いにしえ)から作物が生り、天にカミサマの気配があり、人が建物の中で学門をすることは、「当たり前」でなくてはならない/古(いにしえ)からの田畑と天のカミサマのあいだで人が建物の中で学門をしているというのは、なんと不安や恐怖や圧迫から遠いことだろう。
現代人は今、わけのわからない不安と恐怖と圧迫に取り憑かれていて、もうことごとくの「当たり前」がわからなくなっている、それはきっと社会的な問題ではなく、霊的な問題なのだ、きっと多くの人が「怯えていない自分」というものを体験したことがない/「怯えていない自分」を一度でも体験できたら、その堅牢な能力と明るい未来は、たとえ生きているうちの一瞬だけでしかなかったとしても、すばらしい幸福の体験となるだろう、當たり前のことがすべて視えるという瞬間は。
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洪水と幸運2
づき……最近のレンタカー(というかカーシェア)は、スマートホンのアプリで入出庫の管理をする、いわばユーザーのセルフサービスという仕組みだ。
僕はふと気になって、パンクした車を修理業者が引き取っていったあと、サポートセンターに連絡して、「使用中の車の、利用終了処理はしなくて大丈夫ですか?」と訊いた、するとサポートセンターの係員は、「……あ、そうですね、わかりました、こちらでやっておきます」と答えた。
おそらく、修理で車が引き取られた場合の、ソフトウェア側の処理手続きが、マニュアル化されていないのだろう、そんなデカい項目を漏らしているマニュアルってどういう品質だよと僕は肩をすくめたが、とりあえずこちらから連絡しておいたので大丈夫だろうと安心した。
すると数分後、同じ係員から電話が掛かってきて、「あの、カギ! カギはどうされました?」「カギですか? そりゃあ修理業者にお渡ししていますよ」「そうなんですか」「……そりゃそうですよ、そうでなきゃ、修理業者の人が車を動かせないじゃないですか」「えーっと……」/こんなアホみたいな局面がえんえん続くのだった、アホ「みたい」ということではなく、これはガチのアホなのだと思う、修理業者に車だけあずけてカギは持ち帰るというようなアホがいるだろうか、だが冗談でなくわれわれはこの先、このレベルを標準的な知的水準として生きていかねばならない見込みだ。

たとえば居酒屋で、空になったグラスを出して、店員に「同じやつ、おかわり」と言う/ただしそれは、店内の客数が少なく、明らかにさっきハイボールを持ってきたのがこの兄ちゃんだ、ということが分かっているときだけだ、だから「同じやつ、おかわり」で、向こうも「知多ハイボールで」と確認の上で承り、「あい、よろしく」とやりとりが済む。
他に客がほとんどおらず、まだ五分も経っていないのに、「同じやつ、おかわり」で向こうが「えーっと……?」となると、オイオイ大丈夫かよと思うし、「お前がさっきから運んだグラスっつーと知多ハイボールしかなくね?」と思うのだが、一方で、店内がワイワイガヤガヤ立て込んでいるときに、さっきとは違う店員に「同じやつ、おかわり」とジョッキを差し出しているおっさんを見ると、そっちはそっちで「そんなもんわかるわけないべ」と思う。
こんなこと、いちいちテクニカルに捉えるようなことではなく、フツーに生きていたら誰でも身につくというか、いつのまにかそうなっているはずの、当たり前の「知性」の機能だ、こんなことは学歴には何も関係なく、まともに学校に行ったことがないド田舎のインド人でも当たり前に身につく自然現象だ、この自然現象が得られないのは、勉強不足ではなく「壊れている」とみなさねばならない。
僕はこのことを責めているのではなく、知性が失われる・崩壊するという現象について、疫学的に思える知見を個人的にレポートしているにすぎない、現代の人々はわけのわからない魂の不安や貧困恐怖等に取り憑かれていて、そうした不安・恐怖・圧迫などに取り憑かれると、知性その他のありとあらゆる「徳性」が喪失・崩壊していくのだ、それで不安や恐怖を紛らしてくれる癒やし系コンテンツや身内依存や麻酔等の摂取が始まるのだが、そうして紛らわすことは内部的にますます徳性の喪失と崩壊を加速させていってしまう(といって、紛らわさないと恐慌に陥るのでどうしようもないのだ)。

「当たり前」の一切が、わからなくなるので、その準備をしておこう。

われわれはたとえば、上司の背広を雑巾の代わりに使うと、それは「怒られて当たり前」ということがわかるのだが、それが「当たり前」にわかるという機能が、どこに由来しているのかを知らないのだ、だからその機能が喪失・崩壊していくとき、その崩壊がどこから起こっていて、どのようにすれば食い止められるのかもわからない/冗談でなく僕は、来年の各地の新入社員が、社長の背広を雑巾代わりに使ったとしても、そのことに対して驚きや意外性を覚えないだろう、現在のような不安と恐怖と圧迫が続くかぎり、われわれの持っている「当たり前」という知性の機能は際限なく崩壊し、失われていく。
たとえば前方を走っている車が、ウインカーを出しているとする、すると車線変更してくるのが「当たり前」だし、こちらは速度を緩めるのが「当たり前」なのだが、そこで「ウインカーが出て、入ってこようとするから、加速してあいだを詰めた、そうしたら車がぶつかった」というような狂気の行動をしてくる人は、これからワンサカ出てくるのだ(すでにワンサカ潜在していると考えたほうがいい)、そしてふつうゴツンとぶつかったら、「しまった」と、瞬間的に後悔や反省や罪悪感を覚えるのだが、その「当たり前」もこの先は機能しなくなっていく、「よくわからないが事故になって悪く言われたのでムカついて相手を殴った」ということもこの先はじゅうぶんに基本的な現象としてありえる、われわれはまだ「そんなバカな」と思いたがるが、それもあと数年のことだろう/われわれは自分たちに付与されていた「当たり前」という機能の由来を、けっきょく知らないまま失っていくらしい。
視点変えてこ | comments(0) |
洪水と幸運
用でレンタカーを走らせていたのだが、何を踏んづけたのか、タイヤがパンクして災難だった。
しかしたまたま、「安心サポートパック」的なものに入っていたので、費用の負担はなく、ラッキーだった/何事につけ、人は幸運でないといけない、人に実力なんてありゃしないので、人が頼れるのは幸運しかない。
修理に来るロードサービスの人に連絡したのだが、そのやりとりはひどいもので、「場所は、ええと、一号線を右に入ったところですか?」「……いや、そちらさまが、どちらからいらっしゃるかわからないので、右か左かはわからんのですが」と、内心では「お前ロードサービス業を毎日やっているのにそれかい!」というような状態だった、それでレンタカー会社のサポートセンターに連絡するのだが、サポートセンターの人もアルバイトなのか何なのか、アーウー言うばかりでまったく要領を得ない。
パンクはその場で修理できない状態だったので、業者が修理してのち、業者がもとのレンタカー屋まで運ぶことになったのだが、そのことについてロードサービスもレンタカーサポートも「ええっと……」と困惑している、「お前ら毎日その業務やっているんとちゃうんかい、なぜ修理と搬送ということでアタフタするねん」と、僕は内心で失笑していた、最近はもうそういったことに腹も立たなくなってきた。

なぜ腹が立たないかというと、むしろそうしたシッチャカメッチャカのほうが、理に適っているということが視えてきたからだ/現在の状況下、人々は知性を失わないほうがおかしい、実際こうして知性が崩壊しているほうが「当然」ということが判ってきた。
知性だけではないのだ、人々は何もかもを失っていくのだ、知性を失い、セクシャリティを失い、感動を失い、よろこびを失い、友情を失い、健やかさを失い、笑いを失い、やさしさを失い、芳香を失い、歴史を失い、理性を失っていく/これまで無自覚に「徳性」して与えられていたものが、無自覚のまま失われていくのだ、それがどういう仕組みで与えられていたかなんて誰も知らないので、それが失われていくことについても誰も「知らん」というまま喪失は進行していくしかない。
これは何も、ネガティブに言っているのではないのだ、入念に冷静に観察すると、その事実が明瞭に視えてくるというだけだ/実際に街中の居酒屋にでも行き、大学生の「飲み会」でもちらりと見ると、そのことがすぐに視えてくる、そこには何の物語もなく、誰の言葉もなく、知性はないしセクシャリティもないし、感動もよろこびも友情もない、近頃は疲れていない大学生を見つけるのはとても困難で、やさしさと笑いと健やかさに満ちて芳香を放っているなんてことはまずない。
悪口を言っているのではないのだ、どうやら本当に、そうしてことごとくの「徳性」を失っていくという、現象と原理があるということなのだ、先日は酔っ払った大学生がフラフラ〜と無理やり僕の隣に座ってきたが、それが霊的な直観だったとして、そうして夢遊病のようにフラフラと寄ってくるだけではもはやどうしようもない、直観だけで何かに導いてもらえるようなフェーズはとっくに過ぎてしまっている。

悪口なんてとんでもない/この先はもっと、想像を絶しているのに。

われわれはきっと、物事を甘く見ていたのであって、これまでに付与されていた徳性が、どのようにして与えられ、保たれ、またどのようにすると失われるのかを知らなかったし、それが失われるというのがどういうことなのか、どういう結果をもたらすものなのか、まるで知らずにきて、まるで考えずに来た/この先に待ち受けている冗談のような阿鼻叫喚を考えると、とてもじゃないが、僕が今話していることなどまるで悪口とは言えない。
これまでに多くの人が、日本の経済的な危機、生産力や競争力について危機を唱えてきたが、まさか自分も含めて「徳性」をすべて奪い去ってしまう洪水が危機をもたらすというのは、誰も想像していなかっただろう、洪水の中で生き残るには、何かしらの方舟を用意し、あとはなんとかしてたぐいまれなる幸運にでも恵まれるしかない/いかなる状況においても、正しい手続きで接続した「幸運」は、万難を越えて人を救済する力を持っている、だからもう幸運を信じるしかないし、もとより人の信じうるものなんて幸運しかない。
視点変えてこ | comments(0) |
悪と愛

を認めるのは誰でもカンタンだ、カンボジアの地雷を撤去する人を悪く言う人なんてありえようがない。
問題は「悪」のほうだ、ここに中学校の校舎があったとして、僕が「ん〜 鉄パイプで窓をバンバン割りたい〜」と思う、そしてその窓ガラス割りまくりを愛せるかどうかというと、これが愛の実際としてむつかしくなる。
まあ、そこに極端な悪を持ち込むと話がむつかしくなりすぎるのだが、もっとカンタンな話、「こいつの買ってきたプリンをおれが食うと痛快かつウマい」ということを、ムラムラ考えたとする、そしてプリンをがっつり食うのだが、そのときプリンをがっつり食われてしまったということについて、それをよろこべるかどうかが、僕を愛しているかいないかの境目だ。
もちろんそのあたり、天から愛の直観を得ていることが前提で、当人が本当に楽しみにしているプリンだったら、それは食べてはいけない、そのギリギリのところを攻めるのが愛の妙境だ、「お前が買ってきたこのネクタイかっこいいな」と言って、その瞬間からおれのネクタイになったとして、そのことをよろこべるかどうかなのだ、愛というのはそのようにシビアで妙致でなければならない。

それはけっきょく、魂の解放だ。
魂は、善悪ということをあまり考えておらず、魂はただ、「何とつながっているか」があるだけだ/そこで正しきものにつながっている魂は、悪に見えるが本質的に愛という衝動に向けて啓かれるし、そこで邪なるものにつながっている魂は、単なる悪ではない「おぞましさ」をぶちまけてしまう。
たとえば目の前に、誰かの大きなオッパイがあったとして、それをなんとなく割り箸でつついてみたとする、そのとき、その魂が、正しきものとつながってツンツンしたのなら、それは愛だし、邪なるものにつながってツンツンしたのなら、それは「おぞましい」のだ、つまり同じ言い分、「ええ……おれが割り箸でオッパイをつつきたいんですけど……」という開き直った悪の言い分が、言い分としては同じなのに、魂としては「愛」or「おぞましい」のどちらかに分岐しているということなのだ、つまり「おぞましい」と感じられてセクハラ罪が発生する場合、その男は「魂がクソにつながっている」のだ、セクハラ行為そのものがそこまで激烈におぞましいわけではない。
「魂がクソにつながっている」というのは、もう塩素系漂白剤にダイビングしても洗滌できないヤベーやつなので、どうすればいいかというと、「善」に切り替えて魂のつながりをごまかすしかないのだった、つまりカンボジアの地雷を撤去するしかないということだ/単純に考えて、魂が正しきにつながっている奴は割り箸で誰かのオッパイをツンツンしていたらいいし、魂がクソにつながっている奴は、黙ってカンボジアで地雷を撤去していろというのは、最もまともな女の心境に合致しているのだった、別にいいじゃないか、地雷撤去に協力しているほうがフツーの視点ではエラいよ。

おれの悪だけ許せ。

おれの悪だけ許すべきであり、それを許さないというようでは、愛のセンスがない、僕の魂は正しきにつながっているので、そのときはちゃんと新品の割り箸を使っているだろう、さすがに使いさしの割り箸でツンツンするほど僕もアホじゃない。
おれの悪だけを許すということが、ただちに愛に帰依するということだと思うが、たまたまテーブルにあったタバスコをきみのタンブラーの水に入れたからといって、それできみがむせるというのは、おれがそうしたかったからしょうがないのだよ、「ええ……おれがこいつのタンブラーにこっそりタバスコ入れたかったんですけど……」ということだ、それはどう聞いても正しいだろう、この公明正大さがわからない人はカンボジアに行って地雷を撤去したのちデカい蜂に刺されて帰国すること。

視点変えてこ | comments(0) |
老人は地元を大切にするが、地元は老人を大切にはしない

と「地」の関係/もちろんすべての老人がそうではないが、そもそもドがつくような「老人!」みたいな存在じたいが不自然だ。
思ったより状況は悪いらしく、老人はたいてい古くさいものだが、古くさいからといって古(いにしえ)につながっているというわけではない、近年の老人はまるで古(いにしえ)という感じはしない。
リアルな意味で老人というと、テレビと海外旅行とコーラとAKBが好きで、クレームを入れるのに躊躇が無い高齢者、そして憤怒を感情のベースにしている、というような人だ、別に悪口を言いたいわけではないが、リアルに考えるとそうなのだからしょうがない。
もちろんそうでない人もいるのだが、そうでない人は年齢に関わらずたぶん「老人」ではないのだ、僕がここで「老人」と呼んでいるのは、もっと特定の現象を指している、それは年齢とあまり関係がないので、ともすると若年者にも老人がいるのかもしれない(そんなこといちいち観察しないので詳しくは知らない)。

とにかく、状況は思ったよりも悪いらしく、本来は古風を担っているはずの老人も、とっくの昔に地の古(いにしえ)からは切り離されているということだ。
本来、老若男女に関わらず、原宿には原宿、渋谷には渋谷、湘南には湘南の「土地柄」というものがあり、それはどうやら地の古(いにしえ)と接続して得られていたもののようなのだが、今はもうそれが切断されて、誰の身にも残っていないのだ/変な言い方だが、八十を超えて一つの土地に住み続ける老人より、旅行中に立ち寄った僕のほうが、その土地の古(いにしえ)につながっているという気配がある、あるいは気配だけでなく事実がある。
多くの人が、きっと二十年ぐらい前に、違和感を覚えて、今はその違和感も、とっくに忘れ去ってしまったのだろうが、どこかの時点で地の古(いにしえ)から切り離されている、だから地方の老人は異様な落ち着かなさと違和感、そして不安を覚えているはずだ。
その「不安」は、ともすれば狂気ギリギリのところまで来ていて、救いを求めているかもしれない、救いを求めるといっても狂気と憤怒で暴れ回るのでもうどうしようもないのだが、地の古(いにしえ)に接続しているということは、どうやらとても大切なことだったのだ、失われてから言われても困るしかないが/そしてよりにもよって、僕のような論外のちゃらんぽらんに、その接続能力が残っているという、皮肉というか何というか、冗談みたいな状況があるのだった。

地の古(いにしえ)から切り離されたのに、先祖を拝む習慣だけ残していても無駄だ。

二十年前、友人と横浜を旅行したとき、僕は当地の女性といくらか接触して、「やっぱり、 "浜っ子" の気風ってあるよなあ、素敵」と言い合ったのを覚えている、それこそ当時は、原宿と渋谷ではまったく別の土地柄があって、竹下通りなんか二十代の人間が大きな顔をして歩けるような場所ではなかったのだ/時代の変化は、むろん少子化とも関わっているのだろうが、それよりもどうやらもっと致命的な、 "地の古(いにしえ)から切断された" ことから起こっていると、このごろの僕は判断している、つまりカンタンに言うと、みんなして地の古(いにしえ)から "嫌われて" しまったらしい。
今になって、僕は思うのだ、僕がこれまでに幾度となく体験してきた "空間のYes" に対し、裏側で支えていた "地の古(いにしえ)" があったということに/そして地の古(いにしえ)とは、習慣や風習で保たれるものではないし、まして血族で保たれるものでもない、古(いにしえ)は古(いにしえ)だ、習慣や風習にこだわって何かになると思っていたら、そりゃ古代の人にも鼻で笑われるだろうな、「古いものを大切にするって、そういう意味じゃねーよ笑」と。

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能動を失った苦しみ
イッターで「バルス祭り」が起こるのは、映画に感動しなくなったからだ。
タピオカミルクティーを飲んだら呪われるということはないが、「感動」という機能が失われたことだけが問題だ。
僕の知る限りのところを、率直に申し上げると、たいへん心苦しいが、正しい青春を得ている人は、さすがにタピオカに行列を為している時間はない/青春がなくてヒマなので、行列を為しているだけだ、こころ燃えさかるものがないので、一時しのぎに「タピオカ〜」とやっているだけだ。
そして、なぜ感動がなくなったかというと、「能動」ということが失われたからだ/たとえば一市民が、天安門で戦車の前に立ったということに対して、絵的な興奮はするのだが、人が「能動」によってその行動を決定したということがわからないので、感動は起こりようがないのだ。

能動を失った苦しみが、現代を覆い尽くしている。
なぜ能動が失われたかというと、端末を介して、処理不能な量のコンテンツが毎日流入してくるからだ、その結果、人々は今、出来の悪いYouTube動画と、品質の低いお笑い芸人に対して、「毒づく」という機能しか持っていない。
あるいはせいぜい前向きに捉えても、やる気のあるお笑い芸人に対して、「すげー面白いと思う」という、ご高説を思いつくだけの機能しか持たなくなってしまった、自らが自らの意志の発端になるという「能動」が失われたのだ、だから必然的に「感動」も失われる。
なぜ「感動」が失われるかといって、人が己の生命の保全を放棄して、「あの戦車の前に立ってやろう」とする、その能動の発生と選択が「感動」の正体だからだ、「勇気がある」ということさえわからないレベルになっていて、「勇気がある」と説明されるとわかるのだが、説明されるまでわからないというのは、本当にもう何も視えていないのだ、半ば「人間扱いしても意味が無い」というレベルにまで、状況は進行している。

僕が書いている内容はわかるが、書いている理由はわからないだろう。

なぜ、僕が書いている内容はわかるのに、書いている理由がわからないかといえば、この世界に僕は存在しているのに対し、あなたはこの世界に存在していないからだ、あなたはこの世界からもたらされる情報に虫食まれていくだけであって、それがどのようにあなたを虫食んでいくのかについては、この世界であなた自身にしか興味がない/だからそういう人は、SNSで自分の虫食まれかたとその感想をガンガン発信するのだが、何をどうやったってそのことへの興味は自分しか持っていない、その人はこの世界に存在していないからだ、夏フェスに混じってみんなと拍手している「つもり」になっているだけで、その人はこの世界に存在していない、自分の手のひらと手のひらを打ち合わせて、その情報に自分が虫食まれる「だけ」だ。
僕がこうして書いている理由は、何かしらの意志であり、何かしらの能動性なので、「能動」という機能と、そのことへの視力が与えられていない以上、僕が何をやっていて、僕がなぜやっているかの理由と構造は、永劫に視えないだろう、今誰しも大量の感想と大量の思いを抱えながら、何の感動も持ち得ないし、感動を誰かに向けるということも出来得ないのだ、そのことを承知で僕はこのことを続けている/僕は世界と噛み合いたいのであって、存在もしていない誰かと仲良く噛み合いたいとはつゆほども思っていない、能動を失った苦しみたちと仲良くしたとしても、やがて全員が殺し合いに転じるのは目に見えている。
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ケツと乳の実録レポート
とえば、おケツがプリプリで、おっぱいがプルンプルンの、女子高生か女子大生がいて、彼女に杉原千畝(すぎはらちうね)の話をすると、「あ、なんかそれ聞いたことある〜」となる。
「なんかあれでしょ、ユダヤ人を助けた人でしょ」「チョー偉い」「マジ尊敬する」という感じになるのだが、彼女らには何の感動もない。
僕が言っているのは、勉強しろということではなく感動しろということなのだが、「感動」なんてものは意図的に起こせるものではないので、感動が起こらないものはどうしようもない。
一体こんな奴と、何を話せばいいんだ、「なあ」と、共にため息をつきたくなるのだが、横にいる国立大学の兄ちゃんも、話の筋がわかっていないのだ、こいつらはアホなのかと思うが、思うという次元ではなくガチの意味でアホなのだ、カンボジアの小学生でも感動するような話に感動が覚えられないぐらい、脳みそがソシャゲストライクになっているだった(いやこれ、マジの話よ)。

おケツがプリブリで、おっぱいがプルンプルンという、それ「だけ」ならいいのだが、へんにニュースを見ていたり夏フェスに行ったり自撮りしたりしているから、面倒くさいのだ。
仮に「第一次世界大戦ってなんで起こったと思う?」と訊いたとして、「ぜんっぜんわかんないwww」というなら、それだけでいいし、それこそおケツでありおっぱいだと思うのだが、何か「ぜんぜん知りませんけど、どうせ戦争の始まった理由なんてロクでもないんですよ〜」みたいなことが出て来るので、面倒くさいのだ。
実際に、そういう設計をされた、美肌アプリケツ乳女とセックスするとわかるが、しょうもない自意識の高さが入っているせいで、おケツもおっぱいも、実用性を失っているのだ、実際にいじくってみるとすぐわかる、絶望的な「つ、つまらん」というリアライゼーションが起こる、それは自称経験豊かなスケベおじさんの武勇伝を聞かされているときぐらい「つまらん」ので、もはや腰を振るにも砂を噛むような苦痛がある。
もうとっくに言い逃れが利かない段階にきていて、そもそも何かに少しでも感動を覚えられるような人なら、そんなうつろな眼差しはしていないものだ、つまり感動する機能を失ったケツと乳が、自意識の興奮によってケツと乳の機能まで失い、それでけっきょく猫画像とキャピキャピ画像を「かわいい〜」という機能しかなく、誰か不幸な人に対して「かわいそう〜」と涙ぐむしかないので、けっきょく田舎の演歌好きのオバハンなのだ、そんな十代の厚化粧を恵比寿でごろごろ見かける/実際にいじくるまでは、ケツも乳も夢が詰まっているのだが、実際にいじくると「つ、つまらん」となる、人の業(カルマ)とはなかなか切実なものなのであった、杉原千畝が見たらその場で銃殺するんじゃないか。

資本家が美人クラブでアイドルを買うのは、恋あい経験がないからだ。

そりゃどんな金持ちだって成功者だって、恋あい経験があるかどうかは別だ、女はいくらでもカネで買えるが、恋あい経験はさすがにカネでは買えない、帳簿から離脱して世界に気づいたときに起こるのが恋あいだから、それをカネで買うというのは構造上不可能だ/だから資本家は、カネを出して「おれの前でラブソングを唄ってくれ」とシンガーにオファーはしない。
そしておそろしいことに、何にも感動しないケツと乳の権化は、カネで買ってやると、そのことにメロメロになり、ヌレヌレになるのだ、その後しばらくはおじさんもアイドルのセックス購入に燃えさかるかもしれないが、どこかで気づいてしまう、目の前でチンコを突っ込んでいるのがとてつもないアホであり、それに腰を振っている自分もとてつもないアホだということに気づいてしまう、するとその「アホ」という事実が、急に凍結した鉛のように重くのしかかってくるのだ、人類史上最も陳腐な罠を踏んだ自分というのを人類単位で客観視してしまうというのはなかなかキツいものがある。
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「キャラ」が視えない者からのレポート
ょっと電化製品を調べていたので、製品のレビューをしている YouTuber の動画をいくつか観た。
製品のレビューは助かるのだが、どうしてこう、 YouTuber というのは全力でキモチワルイのだろうと、改めて首をかしげてしまった。
これは悪口を言いたいのではない、もちろん向こうから見たら僕のほうがキモチワルイのだろうが、それはお互いさまとして、とりあえず僕のほうは、 YouTuber の、特に「どうも、○○TVです」というあたりに、とてつもないキモチワルさを覚えるのだ/しかし「視聴者」は数万もいて、「いいね」は何百と付いているのだから、僕の感覚のほうが例外なのだろう、よって僕の言い分を YouTuber の方が気に掛ける必要はない。
動画を観ていて、なぜこんなにキモチワルイのだろうと疑問に思うのと同時に、なぜみんなはこれが平気で、なぜことによっては結構な高評価だったりするのだろうと、僕は首をかしげていた。

そのときに、ふと思ったのだが、たぶん僕は、人のやっている「キャラ」が看取できないタイプなのだ、僕には何か、すさまじくスカスカの、友人も恋人もなかったうつろな魂だけが視えてしまう。
なんで YouTuber の「魂」を視ようとするんだ、お前はアホかと言われたら、確かに僕がアホなのかもしれないが、どうしても僕には人の「キャラ」を看取する習慣がないので、ひたすらフランク・シナトラとは違うな、ということばかりが視えてしまう、そりゃあもちろん僕だってシナトラとは違うが……
今となっては、本職のテレビタレントだって、よくよく見たらキモチワルかったりするし、本職のミュージシャンだって、人並み以上にキモチワルイ声をしているな、という場合が多くある。
もちろん、向こうから見たら僕のほうがキモチワルイだろうので、やはりどこまでいってもお互いさまなのだが、僕としては正直、現代の色んなものが「キツい」のだった、「キャラ」というのもネタとしてはわからないでもないが、それはあくまで魂の上にキャラをつけて遊ぶものであって、本当にうわべの「キャラ」だけで自己PRするものでもないだろう/僕が嫌われるのはかまわないし、そもそも僕には好かれる予定なんかないので、ただそうして現代の色んなものを「キモチワルイ」と率直に感じている奴もこのように存在するということを、単純にレポートしたかった。

冷静に思うが、「キャラ」なんてただのウソだ。

どうも首をかしげてしまうのだが、ひょっとしてマジの大マジに、「キャラ」を「人」だと思っている人が、すでに少なからずいるのじゃないかという気がする、場合によってはすでにそっちが多数派を占めているのではとさえ疑いたくなる/僕が思うに、これまでにまともな友人も恋人も経験もなかった奴が、髪型と背景と被写界深度を調整したって、「すてきな人」には絶対にならないぞ、何かこのところは誰もが根拠なく「すてきな人」になれるというようなカルト宗教がまかり通っているような気がしてならない。
当たり前のことだが、人は大量のタフな経験と、嵐のような愛と、立ち向かってきた勇気と、膨大なメシと笑いとが積み重なって、魂のあるすてきな人になるのだ、何がどうなって「キャラ」なんか成り立つと思ったのだ/といって、実際に「キャラ」が成り立って高評価を稼いでいるのだから、僕のほうがズレているのかもしれない、このズレている僕がどこへ行ってしまうのかはわからないし、ズレていないらしい「キャラ」たちも、その後どこへ行ってしまうのかは誰にもわからない。
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「古今」とはタイムラインではなく、原点と到達点のことだ
「古今(ここん)」「今昔(こんじゃく)」という言い方をするが、「古い」から「今」へ時間軸が進行しているというのは、一種の思い込みにすぎないので、本質的には「古今」「今昔」は時間のパラメーターではありえない。
たぶん、中世以前の日本ないし大和では、「時間」という尺度をあまりアテにしていなかったと思う、何しろ西暦もないし時計もないのだ。
では「古今」「今昔」は時間のパラメーターではないとして、何を指す尺度かというと、「原点」と「到達点」だ、「古・昔」というのは原点(origin)のことを指していて、「今」というのは現在の到達点のことを指している。
「昔はよかった」というような言い方があるが、本質的にそういう言い方じたいが錯覚に基づいており、昔から今へ「時間」など流れていない/「昔」とは概念上原点のことを指しており、「今」は現在の到達点のことを指している、だから「今」も「昔」も同一平面上に同時に存在している、「昔」が「今」に存在していないというのは時間という妄念に囚われたゆえの錯覚にすぎない。

よって、たとえば「稽古」という言い方は、ちょうど「進展」あたりの対義語だということになる。
「稽古」というときの「稽」は、「荒唐無稽」などにも使われる字で、「ちょっとまて、どこから来たのか考えろよ」という意味を持っている、だから「稽古」という言葉の意味は、「われわれはどこから来たのか、 origin に行き着けよ」という意味になる。
われわれは、いわゆる「時の流れ」という妄念に支配されて、それをアテにしているので、時間の経過と共に自分は何かしら「進展」するのだと思っているが、これが誤解のカタマリだ、進展するというのは稽古するということの真逆だ、何に近づいていこうとするかの方向がちょうど正反対になっている。
神話のことごとくが古いものであり、またたとえば岡本太郎が「縄文」という時代に惹きつけられたのも、魂に「稽古= origin へ到達しようとするはたらき」があるからだ/あなたは0歳児の自分を見てそれを「古い」とか「昔」とか思わないだろう、それは0歳児のあなたには時間という妄念がなかったからだ。

「古代」というのは、時間軸上の概念ではなく、現在もある「オリジンに近いやつ」だ。

古代から切り離されたら、原点(origin)に向かいようがないので、そんなアホなことがないようにと、人はそれを「稽古」と呼んできた、「その首根っこを古代(オリジン)に括り付けておけよ」という意味があったのだ/われわれは「進展」「進歩」「進化」を良いものだと勝手に思い込んでいるが、時と共によくなっていくという思い込みには実は何の根拠もない。
「昔はよかった」ではなくて、単に「昔のほうが有利だった」のだ、昔のほうがオリジンに近いわけだから/人は時間と共に、有利になるわけではまったくなくて、時間と共に有利になるのは「生」なのだ、「命」を得るのに有利になるわけじゃない、われわれは「生」のメカニズムによってテクノロジーを進化 "させざるをえない" のであり、そのたびに長生きには有利になり、そのたびに命を得るのには不利になっている、その結果として現在の到達点があるのであり、われわれは次々に "到達してしまう" のだ、「生」のメカニズムのせいでどんどん "離れていってしまう" というのがわれわれの真相だ。
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おれの女は五月の夜を逃さないだろう
て、世界中の美女と美少女が、おれの女ならいいのにな。
冷静に考えて、おれのしもべでない漠然とした「女性」など、無価値な wo-men でしかない。
よくよく考えろよ、こんなことに対してさえ「そうね」とよろこべずに、目くじらを立てるようになった余裕のなさは、いったい何年前から始まったんだ。
あなたが美女か美少女か、あるいはそこそこの女性に生まれてきたということは、つまりおれの女としてこの世に生を享けたのではないのか、ここで「そうね」とよろこべない人は、たぶん女ではなくなっているんだ、もともと男女っていうのはもっと愉快なものだったんだぜ。

おれの女が、おれの女として精一杯かわいくしようとするのは、まだわからないでもないが、おれの女でもないのに「カワイイ」を追求している女は、意味がわからない。
なんというか、ドラゴンだってドラゴンクエストに出てくるからいいのであって、何の物語にも所属していない「ドラゴンです、どうも」みたいなドラゴンは、かさばるだけで何の値打ちもない物体だ、火を吐くのをやめろ。
おれの女として、おれのことがきらいだという女はまだわかるのだが、おれの女でないという女、つまり wo-men のようなものは、まったく意味のわからないものだ、それは意味のわからない存在というより、そもそも「存在していない」と指摘するのが正しい。
おれの女でないと意味がわからんというのは、物語につながっていないと「人」ではないということだ、いくら肩肘を張ってみたって、魂まではデカくなっていないんだぜ、楽しくふざけながら魂はおれの女でいてくれよ。

いいじゃないか、減るもんじゃないし、いやむしろそっちは魂が増えるだろ。

おれの女じゃないあなたと、おれの女であるあなたを比較すれば、そりゃあおれの女であるあなたのほうが、魂はアリアリで物語もアリアリに決まっている、僕は何かを欲張って言っているのではない、せっかくなのであなたは無駄な時間をすごすべきではないと主張しているだけだ、おれの女じゃない夜をすごすほど無意味なことってこの宇宙にあるか?
おれの女じゃないあなたが、漠然とカワイイを目指すというのは、いい年をした男が「カワイイぼく」を目指しているのと同じぐらいブキミで無意味なことだ、まかりまちがってもあなたはおれの女として抑圧されるということではない、あなたがおれの女じゃないと言い張るあなたが抑圧なんだ、あなたはどうしてマジメぶって五月の夜を逃すんだ、今目の前にあるだろ。
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闘う戦士達へ愛をこめて
こに書き話すようなことでは本来ないが、株の売買にも信用取引というのがあるのだ。
信用取引ということは、レバレッジが掛けられるということだが、それ以前に信用取引であれば、空売りができるという仕組みがある。
株というのは、所有していなくても売れるのだ、後日に買い戻すという約束(信用)を元に/後日買い戻すという約束であれば、株はプラスマイナスゼロになるので(先に100売っても後日100買い戻すならゼロに戻るので)、所有する株がゼロでも売りから入ることができる。
だから、先に売りから入っておいて、その直後に偶然にも当該企業がたとえばブラック企業に認定され、株価が暴落すれば、膨大な利益を得ることができるのだ、「暴落前に売って暴落後に買い戻す」ということになるのだから。

だいぶ前から、僕は人の「獣化」ということを唱えてきている。
それは、「獣みたいになる」のではなく、バッタ等によく見られる「相変異」の現象であると僕は捉えている/それは遺伝子に秘められていた知られざる機能の解発であり、遺伝子から引き起こされる現象なので、つまり別の生きものに変わってしまうというということだ、この現象は仕組み上どうしても不可逆に起こる。
日本のトノサマバッタだって、狭い環境に密集させて閉じ込めておけば、相変異が起こって真っ黒な飛蝗(バッタ)になって凶暴化する、だからそれと同じように、サラリーマンが真っ黒になって四足歩行をするようになってもおかしくはないのだ/僕はこれまでに何度も、「閉じ込めておく」ということが呪術の重要なプロセスであることを指摘してきている。
それで、銀座や六本木で、数年も勤務していたキャバ嬢のうち、インサイダー情報を聞いたことがない人なんて存在しないのではないだろうか、むろんいつもちらつかされているだけとか、中にはガセを掴まされた人もいるだろうけれども。

そこは「戦場のような場所」ではなく、ただの戦場だ。

「戦場」といって、そもそも「戦場」に対する誤認があるような気がする、銃砲でドンパチやっている戦場だって、相手の殺害を目的としているのではない、戦闘の目的は敵方の武装解除だ、ただお互いに死ぬまで(無力化するまで)武装は解除しないので戦場は第一に敵方の殺害・掃討が手段になるにすぎない/そもそも純粋な「戦争」は、あくまで「利益」に対する平和的交渉が成り立たなかったときに、非平和的な解決の手段として生じてくる、仕組みとしては理性的な生存競争の一形態にすぎない、戦争そのものはわけのわからないファイヤーではない、戦争は突き詰めるところ、運ではなく量で勝敗を強制する「ジャンケン」でしかない(実際われわわれは、交渉が成り立たないときは、利益取得者をジャンケンで決めている)。
「戦場」といって、必ずしも相互の殺害攻防だけが「戦場」を為すとは限らない、必ずしも刃物や銃弾だけが戦場ではないということだ/そして戦場に「閉じ込める」ことで、人は相変異を起こす、相互の利益交渉が非平和的解決に向かうというところまでは理性的だが、そこに生じる「戦場」という事象の中で人の身に相変異が起こることはあまり知られていない、相転移の以降はわけのわからないファイヤーが消えなくなる、ただしこの相転移は戦場に「閉じ込められる」ことで生じるので、わずかでも「外部」につながれている人は相転移を免れられるかもしれない。
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機械的に、クルクルパーのことを考えておく

日金曜日は、またワークショップで、19時から公園スタートです、23時からはスタジオに移る予定/土曜日は19-21が公園、21時以降がスタジオになります。
ワークショップで何をやっているかというと、第一には、全身のコントロール、全身をつなぐということ、全身をひとつにして、特に自分が「どこを向いているか」を自分でコントロールできるようになるということ、こんなことがやってみたら以外とバラバラで、完全なコントロールは「超むつかしいじゃん」ということがわかる。
自分のコントロールとしては「全身の向き」(金魚法)に尽きるし、対人においては露骨法・手渡し法・命令法あたりに尽きるし、言葉やフィクションに向かうものとして今は「表示法」が盛んだ、これらはどれも実演を受けてみれば明らかにわかるもので、やってみたら「あれ? 意外に超むずいじゃん」ということがわかるものばかりだ。
だからこんなものは、さっさとバリバリやって、さっさと入口にだけでも入ってしまえばいいのだが、実際はそうはいかない、多くの人はそれらの能力以前にまずクルクルパーだからだ、このクルクルパーが二時間で治らない人は、能力どうこうの問題でなく、まったく別の問題を抱えていることになるので、ワークショップでどうこうという話ではなくなる。

クルクルパーというのは、誇張ではなく、大マジにそれだからやむを得ず言っているのだ、能力がどうこうの以前に、どれだけわかりやすく簡単化して説明しても、その理解が二秒で揮発してしまうので、こちらが説明したことをやれない、まったく別の独自のキャラ動作をやり出したりする。
これは悪口で言っているのではないのだ、本当に日本人はクルクルパーが多いのだ、今僕はリアルで現実的なことを機械的に話しているにすぎない/つまり、自動車教習所で、「踏切を渡るときは左右を確認してください」と指示されたのに、二秒後には踏切にブーンと突っ込むようなレベルだ、クルクルパーというのはリアルにそういうものであって、当人はもう自分の挙動を自分で管理できないのだ。
「踏切を渡るときには左右を確認してください」というのは、小学生にでも出来ることだから、これが理解できず意識から揮発していくというのは、能力の問題ではなく精神障害の問題だ、あまりにもそういう精神障害が多いので、このごろは「所属階層」みたいなことを考えざるを得なくなった。
全身の向きを「一動作」で動かす、すると挙動は速く済むので、すべてが速い上にストレスがないし、しかもクリアだ、ただしそうして全身が「一動作」で動くためには、全身がつながっている必要がある、全身のつながりは特に、胴体が伸び、骨盤と胸郭がなるべく遠くへ離されている必要がある/つまり「伸ばせばつながる」→「つながればひとつ」→「ひとつなら一動作で済む」→だから速いということなのだが、このことが脳みそから揮発して、なぜか独自の顔面と気分でヘコヘコ挙動し始めるのだ、何をどうやったらそんな独自の殺法が出てくるのかわからんが、もういいかげん見飽きるぐらいこのパターンを見ているので、これは能力の問題ではなく精神のトラブル問題にすぎない、このパターンにつける薬は基本的にないので諦めましょう。

ひょっとしたらもう、自分に「全身」があることさえわかっていないのかもしれない。

少なからず、そう疑わせるケースに実際遭遇する/茶碗と皿と箸と汁椀をバラバラに運ぶより、お膳に載せて「ひとつ」にして運ぶほうが速いということがわからんのか、冗談でなく本当にこんなイージーな説明が「わからない」のだ、たぶんこれまで人の話を何一つ聞かず、内心でずーっと別のモンモンとした自己要求を舐め回し続けてきたのだろうと思う。
伸ばせばつながる、つながればひとつで、ひとつで動かすなら、バラバラに動かすより速いよ! という、これだけのことが、わからない人は何ヶ月経ってもわからないのだ、できるできないの以前に、まったく別のことを繰り返して、感情と血流をハアハアさせるという、とんでもないレベルのバグが、すでに多くの人に見られる/それはついに、ヒステリーによる認知症なのだと判断せざるを得なくなった、その認知症をどうしたらよいのかは僕は知らないが、少なくともワークショップで取り扱うようなネタではないな。

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現実とリアリティの違い2

とえばポル・ポトは、原始共産主義をやるには知識人が邪魔だと感じて、「メガネを掛けている奴は知識人の可能性が高いから殺せ」と虐殺していった、まるでリアリティのない話だが現実にあったことだ。
あるいはリンドバーグは、オンボロのプロペラ機に乗り、思いつきで人類初の、飛行機による大西洋横断を敢行した、それは無事成功したのだが、もちろん途中で墜落して死ぬ可能性はおおいにあった、これもリアリティのない話だが現実にあったことだ。
今、多くの人は「現実」を誤解していて、自分の「心当たり」だけが現実だと思っている/つまり、友人のフェイスブックに「結婚しました」と告知が出ると、ギョッとしてビビる、その後なぜか落ち込むというようなこと、そういうものだけが「現実」だと思っている。
話を聞いていて、「わかるわかる」とか「すごく共感する」とか、自分の心当たりだけが現実だと思っているのだ、ひょっとしたら織田信長が現実にいたということも薄ボンヤリとおとぎ話になっているのかもしれない。

このことがあって、いくら勉強してもムダ、いくら努力してもムダ、という現象が生じている。
いくら勉強しても、たとえば酸素原子に非共有電子対があるというようなことには、いつまで経っても「心当たり」はないからだ、非共有電子対について「わかるわかる」という人間はいない。
いくら勉強しても、「なんか過酸化水素水と二酸化マンガンってあったよね」「わかる〜なんかそういうのあった〜」という知識の入り方しかしない、それは理学でも何でもない/人にちゃんとあいさつをしない人は、ちゃんとあいさつをするということに心当たりがないので、ちゃんとしたあいさつをしようと努力してもムダだ、「ちゃんとあいさつしちゃうよね〜」「わかる〜」とはならないので、すべての努力は雲散霧消する。
通信テクノロジーが進化して、SNS的評価システムが一般化してくると、「共感漬け」ということが起こり、わけがわからなくなったのだ、脳みそが第一に「共感」を探すというわけのわからない状態になっている/このことを打破しないかぎり、あなたは永遠に自分の「心当たり」をぐるぐる循環するだけだ、僕は現実のことを話しているのだが、僕の言う現実はあなたにとってリアリティがない。

究極、あなたには、「年を取ると腰が痛い」という心当たりだけが残るかもしれない。

これは冗談でもなければ誇張でもなく、本当にそういうものなのだ、あなたに「ずっとPCのモニタ見ていると目が乾くよね」という話をしたら「わかるわかる」と言ってくれるかもしれないが、「グノーシス派の文書は聖書に入れられていない」という話をしてもあなたの脳みそは何も聞きとらないだろう/あなたにとって前者だけが現実で後者は何かよくわからない靄だ、靄はいくら丸暗記してもやがて時間と共に消えていく。
そのレベルで「共感」というかぎり、人間には共感の能力があるのではなく、脳みそが機能を失うと、共感にしか反応しなくなるということなのだ、脳みそにとって既知の「わかるわかる〜」にだけ反応するようになるということ/「わかるわかる〜」にだけ反応するとして、それだけわかっていることについては勉強する必要もないし、練習する必要もない、そして「わかるわかる〜」にしか反応しないのだから、あらゆる勉強と努力がムダになってしまう(わからないことには反応できない)、実際老人は「腰が痛い」「わかるわ〜」のたぐいの話をずっと繰り返している、現実が消えて心当たりのリアリティだけが残るのだ。

視点変えてこ | comments(0) |
現実とリアリティの違い
フィスワーカーにとって、「月曜日の朝が憂鬱」ということにはリアリティがある。
だから、レディコミの主人公が、月曜の朝からベッドでため息をついていると、読み手は「わかるわかる」となる。
だが、そこにあるリアリティは、あくまで自分の「心当たり」にすぎず、心当たりがただちにこの世界の現実ということではない。
月曜の朝から、ふとんを蹴り上げて「とぅりゃぁああ〜」と起きる奴だっているだろう、それは非現実的なのではない、あなた自身にその心当たりがないだけだ。

今、多くの人に「心当たり」がないものは、「いいね」がつかないしリツイートもされないので、評価を受けない、という仕組みになっている。
だからあなたには、月曜の朝からふとんを蹴り上げて「とぅりゃぁああ〜」と起きるということの、エネルギーやヒントが与えられない。
仮にあなたが「しょうもない人」だったとして、あなたには、しょうもない人が「わかるわかる」と反応するものしか与えられない、つまりあなたにまともなものは与えられない/なぜなら、しょうもないあなたから「いいね」やリツイートをもらうためには、しょうもないあなたに「共感」できるものを示すしかないからだ。
SNS的評価のシステムが、文化の本質を変えたのだ、かつて人々は己の常識を越えるものを追求したが、今は己が「わかるわかる」と共感できるものに票を投じるようになった、よって作品やコンテンツも当選を狙う政治家のようになった、政治家は有権者の共感を勝ち取らないと選挙に勝てない。

消費者の顔色を窺っていない作家はもういない。

たとえば、僕は三島由紀夫が好きではないが、それでも三島由紀夫は、消費者の顔色なんか窺っていなかっただろう、カール・ルイスが走ったあとに視聴者の顔色を窺う必要はどこにもなかった。
消費者の顔色を窺っていない作家はもういない、だから色んなものが根こそぎつまらないだろ? もう誰だって共感のディールをマーケティング的に演算している(向こうはプロだ)、元気のない奴がブームを牽引していくが、そりゃいまどき元気のある奴は共感を呼ばないからだ/あなたの心当たりを狙われるというこのしょーもない状況はどうだ。
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現代の真のマイノリティ
楽に感動する人は本当にいるし、物語に感動する人は本当にいる。
それは涙もろくて感極まりやすい人ということではなく、本当にそこに何かを視て感動する人がいるということだ。
LGBTがマイノリティとして守られるべきなら、「感動する人」もマイノリティとして保護してほしい。
「感動した」とレビュー欄に書く人は多いけれど、その感動を抱えてその先の何十年を生きる人は本当に少ない、たぶんLGBTよりずっと少ないんじゃないか。

多くの人は、人それぞれの「性癖」や「性的嗜好」は、真摯に認め合うのに、人が「感動する」ということについては、まったく認め合おうとしない。
たとえばうねうねした触手が女の子を犯すのを見て「興奮する」という人が、自分のマイノリティぶりを自負することがあるけれども、きっといちいちの物語や光景などに「感動する」という僕のほうが、数的にはるかにマイノリティだろう/そうした性的嗜好の人がオカズに餓えている度合いより、きっと僕が感動する作品に餓えている度合いのほうがきついはずだ。
「触手系は何とも思わない」というように、性的嗜好については、人は理性的なのに、なぜか「音楽や物語には何とも思わない、感動しない」ということは誰も言わず、「感動」については人は非理性的だ、なぜかありもしない感動を頑強に最後まで言い張ろうとする。
触手系に何とも思わない人は、「所属が違う」のだから何とも思わなくていいわけで、それと同じように、万事に何も「感動しない」という人は、所属が違うので、何も頑強に言い張ることはないのだ/ただせめてその感動というものを己の命のように抱えていく人も本当にいるのだということを、どうか寛恕において了解してくれる世の中であってほしい。

感動は、「トラウマの逆」のように刻まれているので、それは一種の異常者だ。

今や多くの、変態的な性的嗜好は、誰でもそうだと一般に認められているので、何も珍しいものではなくなった、もう十数年前と比べると、「ヘンタイ」という語には何の迫力もなくなった/今は「感動」というほうがマイノリティでクレイジーだ、それはまったく「所属の違う人」だ。
所属の違う人というと、たとえばほとんどの人は、学校の試験か趣味のために勉強するのであり、学門のために勉強するという人はほとんどいない、職業学者でもないのに学門のために勉強するという人はきわめてマイノリティでクレイジーだ、そうした人はひたすら「所属が違う」ので、かつてヘンタイを眺めていたような目で遠くに眺めているのがいい。
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ジャストマンインラブ
ぜだかわからないが、いついかなるときもカッコよくなくてはならない。
「カッコよくないと」と、いつも言っているが、ここまでくるといっそ、カッコいい教の信徒みたいだ。
作品の内容なんかそっちのけで、カッコいいということが優先される。
カッコいいということには、面白いということも含まれていて、なぜかわからないが「カッコいい」が最優先なのだ、これ以外のすべては所詮ゴミでしかない、少なくとも僕がやることに限っては。

何しろ僕自身、マジでカッコいいと思う人の言うことしか、一ミリも聞かないのだからしょうがない。
たぶん僕にとっては、「正しい」という内容じたいがゴミなのだ、そこに来ると急に「芸術も文学もヘッタクレもあるか」と僕は野蛮になってしまう。
よく切れる刃物は、よく切れれば正しい刃物なのだろうが、僕にとってはよく切れる刃物がカッコいいからよしなのであって、正しいということなら即座にゴミ箱に捨ててよいと思う/志村けんの笑いへの切り込みはまったく剣豪の切り込みの速さとまったく変わらないというか並の剣豪をはるかに超えていると思うが、それが正しいと感じるのではなく僕はカッコいいと感じているのだ。
志村けんこそ、現代の宮本武蔵だと思う、まあそんなことは今話していることと話題が違うが/僕は人々の魂魄について、さまざまな諸問題とその解決の手続きを知っているが、そのことをテーマにしても何もカッコよくないので、話せない、というジレンマがあるのだった。

聖書や仏典には、おそらく解脱者が「カッコよかった」という記述が抜けている。

ヘロヘロスピリチュアルのおばさんたちを見ても、カッコいいとはまるで思わないので、テメーの守護霊様は何をやっているんだバカじゃねーのかと僕は思うのだが、そんなわけのわからん霊力に縋る精神がすでに激烈にカッコ悪いので、せめて頼るなら己の霊力に頼るべきだ。
階層構造についての考究をまとめねばならないのだが、さしあたり最下層は、寒村でヒステリーを起こしているババアだと思う、そしてヒステリーババアが自分を不正義と見切っていた試しはこれまでに一度もない。
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極めてハイレベルなのに「つまらない」という現象
とんどのものは、レベルが上がっている。
今や、高校球児が160km/hを投げても驚かないし、アマチュアマジシャンだって超絶技巧だし、女子中学生だってギターの速弾きをする、今のすべてのマンガは「コボちゃん」よりはるかに画力が上だろう。
僕が中学生だったころ、世の中に初めてカラオケボックスというものが流行りだしたのだが、当時はマイクを持たされても「あ、う……」と、まともに唄えない人のほうが多かったのだ、今は子供でも外国語の歌をすらすら唄うだろう。
インベーダーやパックマンの、ピコピコいっていたゲームが、今は実写と区別が付かないような映像で、さらにはVR体験まで出来るようになっている、今さら昔のゲームをやっても退屈でしょうがないだろう/そうしてすべてのものの、レベルは上がっているのだが、なぜかレベルは上がっているのに「つまらない」という現象がある、ほとんどのものはこの現象で今窮地に立たされている。

レベルはきわめて高いのに、なぜか「つまらない」という、思いがけない行き詰まりの現象、この現象にすべてのジャンルが追い詰められている。
つまらないことをしてもしょうがないので、もっとレベル上げていこうぜ、という発想になるのだが、レベルを上げてもなぜかその「つまらない」という現象は解決してくれないのだ/このことは単純に、「レベルの問題じゃなかったんだな」ということで理解される、ただそこに誤解があったというだけだ。
われわれはアホなので、すぐ何かを比較し、比較のために競争させるのだが、競争させるとレベルが上がるにせよ、そこに生じたハイレベル者のことを、けっきょく魂として愛したわけではなかった、ただカゴの中で競争させてひとしきり見物を楽しんだだけだ。
それで、何が誤解だったかというと、あくまでわれわれは人を愛したのであり、何の愛もない運動体が200km/hの速球を投げても、何も面白くないのだった、それはピッチングマシーンが球を発射しているのと同じだからだ/つまり、われわれが「すごい!」といって捉えやすいもの・わかりやすいものは、たいしたものではなかったということだ、われわれはそうした「感想」を持つのを得意としているが、その得意分野によって自ら殺されていった。

いつだって、目の前で見ているものは「たいしたことない」。

いつだって、覚えていなくてはならないが、「つまらない」状態で生きているからこそ、目の前のものに引っかかってしまうのだ、万事が「つまらない」というのはとてもさびしいことで、人はそのさびしさをごまかすために、目の前のものを飾り立て、過剰に評価してしまう。
仮に僕が、ゴルフの名手だったとする、しかしゴルフの名手だったとして、球っころを穴に入れて何をよろこべるわけがある?/それは紳士のスポーツかもしれないし、スポーツに違いないだろうが、あくまでスポーツじゃないか、スポーツで人の存在を代償できると思ったか、むかしカール・ルイスという偉大なランナーがいたが、彼が100メートル走の途中でずっこけたとしても、みんなカール・ルイスのことが大好きだったと思う、カール・ルイスが100メートルを何秒で走ろうが、それはすごいことであり、同時にどうでもいいことだった。
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十五のあばずれ

近は十五の少女を見てもまるで子供に見えない。
まるで子供に見えないのに、まだ何も知らないので、逆にものすごいアホに見える。
十五の少年少女が、無知のままサイダーを飲んで走り回っているのは、何もアホには見えない/無知は愚ではないし、サイダーを飲んで走り回り少年少女より僕のほうがイケているとは、僕はつゆほども思わない。
十五が二十五になっても変わらんが、やはり無知は愚ではない、無知は愚ではないのだが、その顔は何なんだ、何も知らないのに何もかも知っているようなその顔は何なのだ。

僕は十五や二十五の女が、男もそうだが、知ることを壮絶に得てきたとは思えないし、引き返せないほどの経験を膨大に積んできたとも思えない。
ふつう、壮絶に知り膨大に経ようとしないかぎり、人の知識など稼業のひととおりを知ってそれ以上はなしというのが通常だ、稼業とこの藩のことより他は何一つ知りませんというのがふつうのことのはずだ。
三好達治の詩文を目の前において、「ほれ」と言われても、直截何が書いてあるのかなんてピンとこないだろう、わからない漢字や熟語なんかググればいい、そんなことはどうでもいい、それより三好達治は何を言っているのだ/それがまるでピンとこないならば、その何もかも知っているふうの顔は何なんだ。
僕の住むところのひとつ隣駅にでも行けば、喫茶店で打ち合わせをしているアイドルがごろごろいるのだが、その股間を見せつけられても正直なところキツいと感じる、ものすごいアホに見えるものを間近に直面させられて、セッセッセというわけにはいかないだろう、今「かわいい」「エロい」を探している人たちは、ひょっとしてまともなセックスをしたことがない人たちなのではないだろうか。

間近でものすごいアホに直面するのはキツい。

それは無知ということではないのだ、子供が無知なのは当たり前であって、無知な十五の少女を膝の上に乗せたとして、何がキツいことがあるだろう、ただ同じ距離にものすごいアホを置いたときがキツいのだ/最近は十五の少女も子供に見えないが、大人びているわけじゃない、間近で見てみると「キツいアホ」だ、たまに当人もそのことに薄々気づいているからこちらとしても胸が痛む。
未だ何を愛したこともなく、誰を愛したこともなく、何かに泣いたこともなく、読書の経験もなく、思い出の場所さえもっていない、正真正銘の「マンガと動画だけ観てきた」者たちだ、それがもう子供の顔をしておらず、そのぶん露骨にものすごいアホに見える、こんな笑えない理由で若年のうちに生の全体が決定してしまうのはあまりに酷(むご)いのではないだろうか、己の最も清明たる相貌を得ることなく本来の美貌がただキツいものと化して生きていくのは。

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どんなキモチ、どんな感情、どんな人
の中には色んな表現行動があって、よくキモチを込めてとか、感情をこめてとか言われる。
それが何も誤りではないだろうが、僕がグダグダ言うところは違う、人それぞれ色んなキモチ、色んな感情があるだろうが、そのキモチと感情をてんこもりに表出しても、それが「どんな人」かを表示することにはならない。
バレリーナが、「激しい感情」でぐるんぐるん回ったとしても、そこに「どんな人」がいるのかは視えてこない、「激しい感情」なのはわかるが、それなら「激しい感情」と壁に書いておいても意味は通じるだろう。
だから、「どんな人の激しい感情なんだよ?」ということが、ずっと僕の疑問なのだ、僕は目の前の人が「こういう奴」と、一目瞭然でわかるのが好きだ。

さあそれで、「どんな人」かを見せてみろ、ということになるのだが、これがよくよく考えるとわからない、「どんな人」であるかがどのようにしたら表示されるのか/そもそも、人それぞれは「どんな人」であるのか、実はちっともわからないのだ、だから立場や習慣やキャラづくりでニセモノの「人」を表示しようとする。
もとの造詣がよければ、衣裳と化粧で美人を作るのは簡単だろう、そしていつもニコニコしているのも、意識してそうすれば簡単なはずだ、そしていつもニコニコしている美人は人の好感をさそうだろうが、けっきょくそいつが「どんな人」なのかはわからない/それどころか、率直にいえば、たぶん「どんな人でもないんだろ」という気がする、あるいは気がするどころか確信がある。
人にやさしくするのは、意識してトレーニングすれば簡単だ、だがそれでその人は「やさしい人」なのか、そういう場合もあるだろうし、そうでない場合もあるだろう、僕はやさしくない人にやさしくされたいとは思わない、やさしくない人にやさしくされたらあとで支払いを請求されるじゃないか。
ヘイ、どんな人なんだ、そこで「そうですねえ」なんて考え込んでも無駄だよ、だってまだどういう人でもないんだから/ほとんどの人は、自分が「どんな人」にもならずに生きていくものだ、世の中にはいい人もいるし優秀な人もいる、だが忘れるな、いかなる外装条件もそれが「どんな人」であるかの定義にはならない。

空き箱に感情やキモチを詰めるな。

世の中には色んな表現行動があって、それだから色んな表現者が注目され、流行し、忘れ去られていく/なぜ忘れ去られていくかというと、空き箱に感情やキモチを詰めていただけだからだ、そこには「どんな人」もいなかったので、一時的な感情やキモチのブームが去ったあとにはすべてが消え去っていく。
最近はむしろ、そうした空き箱に詰め込んだ一時的なものこそが流行する風潮があるが、それは根本的な空き箱が、同じ空き箱たちの逃げ口になるからだ/お笑い芸人が楽屋にいくと、舞台とは違ってぽつーんと退屈そうな顔をしている、それは空き箱に流行のお笑い業を詰め込んであるだけで、そこにいるのは本当の「笑いの人」ではないからだ。
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