☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
妄想のセンス

「妄想」、国語としては正しくは「空想」だが、まあ一般的に言われる「妄想」ということを、男女ともよくする。
「誰だって好きに妄想する権利ぐらいあるんだから、妄想ぐらい好きにさせてやれよ」という温情派の意見に、僕も与するものだが、どうせならということで、自分を悪化させない妄想の「方向づけ」ぐらいは知っていていいように思う。
妄想するにもセンスというものがあり、たとえば、「ヌフォ、○○タンは小生のこころを抉りにくるでござるな、正直マイッタでござるよ、さあ課金せずにはいられない」みたいなもの、これはサイアクだ、課金が悪いのではなく発想のパターンがサイアクだ。
なんというか、厳密には妄想がキモいのではなくて、妄想の中で「あっさり鼻の下を伸ばす」というのがキモいのだ、これは男女ともやめておいたほうがいい、妄想はいくらしてもいいが鼻の下を伸ばすのは禁止だ、それは妄想以前に頭がオカシイのを自分でパワーアップさせてしまうからだ。

僕は世代的に、「ときめきメモリアル」を皮切りとしていわゆる「ギャルゲー」が隆盛を極めた時代を過ごしてきた者だから、よくわかるのだ、同じ妄想といっても良性のものと悪性のものがある。
「女の子が(男の子が)かわいい」という妄想はいい、が、そのかわいいものが自分に無垢に親しげに好意をもって無防備に迫ってくる、そしてブフォとなる、という妄想のパターンはやめることだ、なぜやめなくてはならないかというと、頭がオカシイからだ、「そんなことあるわけないだろ」と言わねばならない、「かわいい女の子」を妄想するのはいいが、それが自分に迫ってくるのは「そりゃないわ」と冷静に判断しなくてはならない。
妄想してよいのは、「そういう女の子がいた」というところまで、そこを逸脱して「ボクちんと○○タンの関係は〜」という妄想に入る奴、これはダメだ、「ボクちん」を含めて妄想するならもっと別の方向で妄想すること。
特別に無垢で、かわいい○○タンがいたなら、その世界の中で自分はひっそり、死ぬ気で努力して自分を鍛え、ぶっちぎりで優秀な人間になって、誰に知られることもなく男らしく生きたという妄想をしろ、「すべて、○○タンがいてくれたおかげだ」と、自分一人だけが知っているという、そういう妄想だ、そうでなきゃ自分が妄想の中の登場人物にもなれないだろう、妄想にもセンスを持て。

過剰報酬の妄想をするな、過剰努力の妄想をしろ。

女性の場合、「西園寺○○クン」とか「クリステナーデ・フォン・○○皇太子」とか、あるいはジャニーズの誰かでもいいのだけれど、それについて妄想するとき、○○クンがわたしに迫ってきてわたし「きゃああああ」とかいう、判断力の欠損した妄想をするな、妄想するというのは判断力を喪失していいということじゃない、妄想の世界を持っていいから、その世界の片隅で誰にも知られず取り憑かれたような努力をしろ、報酬の要らなくなった努力の化身たる自分を妄想しろ、それぐらいしか「○○クン」に恩返しなんかできないんじゃないのか。
萌えなるものが、拙者に向かってきてブフォ、というのでは、言ってみれば「妄想が足りない」、鼻の下が伸びるのは妄想が足りないからであって、何百倍もの力を持つ戦士に成り果てる自分を妄想すれば鼻の下が伸びるようなヒマはない、叡智の積み過ぎで木の葉に七色を見るようになった叡智のバケモノを妄想しろ、いかなる苛烈な訓練にも平然と向き合うようになった自分の妄想は、まだ妄想として良質のものだ。

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情熱大陸の実物を見た者として
「音色」はまだ好きだが、「楽器の音」は好きじゃない。
僕は情熱大陸の<<実物を見たことがある>>、葉加瀬太郎さんのほうが立場が上なのはわかるが、僕は勝手に「お前は情熱大陸を知らんだろ」とテキトーなことを言いたい。
僕はたぶん、一人だけヘンな生き方をしてきてしまったぞ、たぶん僕が言う「感動」と、一般的に言われている「感動」はまったく別のものだ。
僕は「世界」が好きすぎて、その他のことがたぶんまるでわかっていない、僕は世界は好きだが音楽は好きじゃない、音楽とか小説とか映画とかそういうものは一切要らない。

「音色」はまだ「世界」があるので……というか本当は世界さえあれば音色も要らんのだけれども。
僕は「エトピリカ」の中に情熱大陸の実物を見たのだが、かといって「バイオリンの音がいい」とか「葉加瀬太郎の演奏がいい」とかはまったく思わん。
情熱大陸の実物はとてもいいものだが、そこにバイオリンとか葉加瀬太郎とかはジャマだ、といっても葉加瀬太郎がいないと困るというのもわかるのでしょうがないが、それにしてもジャマはジャマだ(意味不明)。
音楽の演奏とか、そういったものにはまるで興味がない、演奏しないとそれが出てこないのもわかるが、それにしても「なに演奏とかしてんねん、ジャマやなあ」とは感じる、どれだけワガママでもそう感じるのだからしょうがない。

恋とか、そういうものがなくては。

恋とか、そういうものがなくては、何にもならんというか、漠然とした立派な「活動」ということには、何の意味もないように感じるが……と、その感覚はたぶんほとんど僕かぎりのもので、たぶん僕の脳みそがヤバい、たぶん僕ひとりかぎり、まったくヘンチクリンな生き方をしてきてしまったぞ。
僕には、立派なものとか、功績とかが、よくわからないのだ、「世界」が好きすぎて、その他のすべてが何一つわかっていない、こりゃ何十年経っても噛み合わないわけだよ、なぜ誰も情熱大陸の実物について話し合わないのかずっとずっと疑問だったんだ。
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箱根ルノアールにて

回は少し実験的に、かつてないハイペースで温泉に入った、これは箱根吉池の湯を信用しているからできることだし、吉池のような湯質でないとこういう無謀な入湯はできない(仮に草津でこんなペースで入湯したらブッ倒れてしまう)。
さあこれで、湯あたりが出ないかどうかが注目されるが、これで湯あたりが出ないのだとしたら、もともと体調が相当いいのだろう/今はチェックアウトして湯本駅前のルノアールにいる、ここのルノアールはいつもオアシスだ。
昨日の夕食は、特に八寸がきらびやかで、それこそインスタ映えの連続だったはずだが、写真を撮るのを忘れた、もちろんインスタに投稿するわけじゃないが/記念写真ぐらい残しておきたいのにいつも忘れる、目の前にすると旨そうすぎるからだ。
ああいう、ゆるめの白米を出すのか……と、少し驚いている、確かに漬物に合わせることを考えたお食事ならああいう白米がよいのかもしれない、ふだん旨味と弾力のある米ばかり選んでいる僕としては、ああして甘くゆるい白米の選択は発想の枠外だった。

当然今、まるで圧力釜で煮られたように、骨の芯までふやけているわけだが……
そういえば昨日は、山崎12yのソーダ割を飲みながら、メニューに獺祭の二割三分があったので、注文してみた、たぶん「二割三分」というのは大吟醸の精米率的なことを意味しているのだと思う(だとしたら「二割三分」はひどいぜいたくだ)。
本来は、僕の好みでいえば、同じメニューにあった船中八策に惹かれていたのだが、逆にこの機会でないと獺祭の大吟醸なんて飲まないなと思ったので(あと久保田万寿の「雪峰」というのも大変気になったのだが、500mlの小ボトルは飲み切れる気がしなかった)、あえて獺祭を飲んだ、案の定まるで正月に咲く桜のようなどうしようもない味で、典型的な大吟醸だった。
そういえば、そろそろ各地で新酒のシーズンが始まるな/昔は、あちこちドライブしながら酒造で新酒をかっさらってくる遊びをしていた、しかし今も昔もそんなに日本酒は好きではないのだ(なんだそりゃ)、まあでもいちおう日本人だからな。

新酒(日本酒)の落ち着きのなさを悪く言う人もあるが、それを言うならオメーこの季節、ボジョレー新酒のほうがいろいろアレだろ。

そういえば昨夜は、今流行りのクラフトビールの類も飲んだ、どこの国のものか忘れたが、本当にコーヒーみたいな香りのラガーがあり、旨かった、まあ毎日飲む味ではないけれども。
家に帰ったら、またケイデンヘッドのリンクウッドでも飲むか、それともいつもどおり、イルガチェフェを淹れて(何年この豆を続ける気なのか)飲むのか/そういえばここ数年の梅干しはここ箱根の藤屋の十年漬けにお世話になっている、今回は杉養蜂園の未認可マヌカハニーでも買って帰るかな、ところで僕にはグルメ気質はまったくないので、僕はあくまで学門についてしか話していない。
 

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カルマ!
さかふだんの生活の中で、「カルマ!」みたいなことを考えているアホはおらんと思うが……
しかし、ここまでくると、もうごまかしは利かんな、見えるようになったらもう、割とスケスケのミエミエだ、人はいつも「カルマ」の前後で行ったり来たりしている、ぶっちゃけて言うと、僕はもうそれが見えてしまっているのだ(あーあ)。
僕がエラソーに言うようなことではないが、その行ったり来たりを見ると、いつも「無駄に勘のいいやつめ」と思う、なぜなーんも見えていないくせに、カルマ的なものにだけ「反応」はしやがるんだ、アホなのか鋭敏なのかはっきりしてくれ、いつも困惑するわ。
カルマがどうこうとかいう、いかがわしい発想とか知識とかは持たない方がいいと思うが、ただある種の次元で「素直」であればいい、「素直に従う」ということがあなたをグッドにし、「意固地に流されていく」ということがあなたをバッドにしていくだろう。

わけのわからんことがあるものだ、「なぜこのことには平気でカネを出すんだ?」とか、「なぜこのことだけ異様なテンションで話すんだ?」とか。
それを、一般には「性格だ」とか「価値観だ」とか、あるいは心理学的には「抑圧だ」「防衛機制だ」「コンプレックスだ」とかいうが、それらのすべては、なぜその人がそういう性格と価値観と特別な抑圧を宿すに至ったか、ということまでは解明しておらず、そこから以降は投げやりなのだ。
「わけのわからんこと」があるもので、それはよくよく見れば(ふつうはよくよく見ねえよ)、実は見たまんまカルマ的なものがはたらいているのだ/まあこの「カルマ」的なもののはたらきが見えるような奴は、相当な変人であって、ふつうはどう工夫しても見えっこないのでヘンな興味は持たないことだ、見えてしまえば何でもないが、ふつうの感覚からするとそれは「めちゃめちゃ深いところ」に当たる。
ある種の次元で「素直」であることだ、刹那の直観、頭を下げるべき人に見えたら頭を下げる、尽くすべき人に見えたら我が身を尽くす、従うべき人に見えたら初めっから従う、ここで「でもさあ」と踏ん張るとカルマが増大してしまう、踏ん張った上にカルマパワーアップっていったい誰がトクするんだよ、もっと利益的にいこうや。

従うということが、勝ったということ。

うーん、ほんとね、よくよく見ると(ふつうはよくよく見ない、見えるかよこんなもん)、ありとあらゆる「かけがえのないこと」は、カルマ償却の反応に「素直に従った」ということから成り立っている/ふつうは見えるわけがないとっても深いところでだ。
だから、「かけがえのないこと」のすべては、表面上は「なんでこんなことになったんだ」と見える、それは人に話せないぐらい「ちょっとまともでない」ところがあり、しかし誰から見ても「正直うらやましい」ところがある、馬鹿げているのになぜかいかがわしくなく、かけがえのない光があるのだ。
 
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「おびえ」についてフニャフニャな話(すまん)

「おびえ」を軽減する方法がある、軽減というか、償却してゆけるという話。
「おびえ」を償却していくと、すごく楽になるというか、救われる心地がするのだ、心地というかまあ本当に「救われる」のだろうけれども。
そしてなぜか、その償却の「方法」については、「さあ?」と僕は知らぬふりを決め込まなくてはならなくなる、こりゃひどい話だと僕も思うのだが、どうしてもこうなる(理由は不明)。
なんというか、方法は明らかにあって、バリエーションもいくらでもあり、しかもどれも超カンタンなのに、なぜか「まあ、あんたの性格じゃ無理だとは思うけど」みたいな否定的なことを言わなきゃならんのだ、これ、別にイヤミが言いたくて言っているわけじゃなく、なぜか構造的にそうなるのだ、勘違いして僕を性悪とか思わないように。

不思議だ、何がダメなんだろう、これってどういう構造なんだ? ただ残念な話、「まあ、あんたの性格じゃ無理だとは思うけど」という言い方は、かなり多くの場合にテキメンに当てはまっている、ズバリ的を射ている(ぐぬぬ……)。
自慢じゃないが、僕にとっては「言いづらい話」なんてほとんどなく、いつもここで好き放題にぶちまけているのだから、この話はそういうことじゃない、何かの構造によってこの話を解き明かして話すのは完全な「禁忌」にされてしまっている。
しかも、その「方法」を話したって、まるで予言していたかのように、性格その他で「無理」だということが前もって明らかなのだ、これは何なのかね、いわゆる奥義か密教か、「門外不出」の何かなのか/「門外不出」ってこんな物理的に生じるもんなの?
とにかく、ありていに言ってしまえば、多くの人は無自覚の「おびえ」で、メチャメチャしんどいことになっているから、それを償却する方法を実践していったらテキメンに楽になっていくよということなのだ、そしてその「方法」は絶対に話されないという、なんじゃそれの極みなのだった。

たぶん、神事だからお話しできない。

いや、実際のこととしては、何も神事に見えないのだが、内容的には神事が含まれているということなのだろう、そりゃ「おびえ」を償却するのだから神事ではあるわけか、そして神事って人に話しちゃダメってよく通説にも言うよね(投げやり)。
神事とかいって、神棚にパンパン手を打ったりするわけじゃないよ、まあそういうことも善いことではあるだろうけれど、そういう正統な神事は僕にはわからん、まあヨリシロといいますか、面白いことが見つかってきているのは確かだ(しかしそれを話さないという書き手にあるまじき蛮行、すまん)。

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(話せない)
代は、いろんなものが無料ダウンロードで手に入る。
つまらないものは、無料でゲットしてしまっていいのだ、そりゃ違法ダウンロードも含まれることになってしまうが、今ここではそこに注目するのはやめよう。
問題は、「すばらしいもの」も無料ダウンロードできてしまうということだ、つまり真の恩恵があってしまうということだが、こっちはちょっとまずい。
著作権がどうこうとか、違法ダウンロードがどうこうということではなくてね、人間は、すばらしいものをじゃんじゃんもらえると、豊かになるのではなく、壊れちゃうのだ、いわゆる内観法みたいなものだ。

単純に、inとoutの釣り合いの問題。
人間はなぜか、すばらしいものを受けたら、すばらしいものを放出しないといけないのだ、受けっぱなしだと自分の中に「おびえ」が育ってしまう、これは厄介だが、どうやら本当にそういう仕組みがあるみたいだ。
この「おびえ」のメカニズムは、どうやらとんでもなく深いところにあって、ふつうはまず自覚もできないし、まして操作なんてしようがない、だから「すばらしいものの受けっぱなしはガチでまずいっぽい」とだけ知っておくしかない。
逆に言うと、思いがけないことで、自分の中の「おびえ」を軽減できることもあるのだ、自分から何かを「放出」すること、大放出なんて誰もできないから、そこはうまい具合にして、そこで「あれ? 何かが軽くなった」という不思議な現象が起こるのを見つけていくのがいい。

***(規制)***

急にすまん、やっぱりこの話は書けない。
「おびえ」はリアルにヤバいのだが、これを軽くする方法は、現代のムードの中ではどうしても話せない、かといって「おびえてんこもりであきらめろ」というのもひどすぎる話だ、うーむ/しっかしこの「おびえ絶対保存」の強固なムードは何なのだろう、別に誰もトクをしないのにな。
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胡乱

見があるのはいいことだが、発見が続きすぎてフラフラだ。
何にでも集中力を向けてナンボよ、と言い続けてきた、そのモットーは正しいのかしらんが、このフラフラの状態でも「集中力」だけ機能してしまう自分にちょっと自身で呆れ始めている。
さすがにメシ食いながら寝るというのはどうなの、寝ながら口の中のスプーンに違和感を覚えて起きるというのは、ちょっと行きすぎている気がする、逆に集中力でブッ壊れてない?
ふと去年の自分を思い出して比較してしまうが、一年間でこれだけ技能が上がっているのもヘンだ、高校生じゃねえんだから、ふつうそんなに力量って激変しねーだろ。

書かねばならない話がたくさんあって、しかしどう考えても、発見の勢いに書く速度が追いつかないのだ、今書いているコラムはヘタすると三十万字ぐらいになる(すでに十五万字を超えているのだがまだ半分も書き足りていない)、そんなものを「コラム」呼ばわりするのにはいいかげん限界がある。
ネタ話として聞いてもらいたいが、僕はある筋の見方によると、ある種のヨガのグル(指導者)みたいな能力をすでに得ており、またある筋の見方では、武術で言うところの「無刀取り」ができる状態に到達していることになる、また気功まがいの人には「流れている気の量がおかしい」とも言われる。
そんなんさすがにウソでしょと、何より僕自身が言いたい、僕はそういうナゾの技芸者を目指したつもりはまったくない、そういうことに「不本意」に到達する奴なんているのかね? そんなアホな奴がいてたまるかと思うし、まして自分がそんなオモシロマンになってはたいへん困る。
しかし、たとえば急激すぎるヨガ体験には、「クンダリーニ症候群」という劇的な不調が発生するケースがあるらしいと最近知ったが、実際それっぽい症状で僕の前で倒れてしまう人が少なからずあるような……それで、このうさんくさい症候群にも、注意を払わないと合理的でないと言わざるをえない状況になってしまった、これはもう空前絶後のギャグみたいな状況だ、どうか全部ウソでありますように、ホント頼むから。

胡乱(うろん)に走ることは、常に負けフラグだ。

えげつない自己矛盾を言うようだが、僕はヨガとか瞑想とか気功とか呼吸法とか、そういったものには一切興味を持たないタチだ、もちろんそんなものは習ったことはないし、これから習うつもりもない、そういった術はスゲー人はスゲーのだろうが、どうせそんなスゲー人がたくさんいるわけがないのであって、僕はyoutubeでマイケルジャクソンを観ているだけで十分じゃね? というミーハーな人間だ。
最近僕を、天人か聖者(ホーリーマン)として、「礼拝」しようという遊びが発生している、しかも一部には遊びじゃねえ奴が混じっている、こんな日常的にまとめサイトとpornhubを巡回しているバカが聖者なわけないだろ、このカオスぶりをどこに着地させるのか、こりゃわれながらミモノだ(テメー笑ってんなよ、いいかげんどうすんだよコレ)。

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愛と失格

の世界に、楽しいことなどないし、むしろ「楽しいことなんか要らんだろ!!」と感じる、その状態を愛(世界愛)という。
世界愛のない人は、楽しいことや、充実することを探し回るし、むしろ個別に設定されうる「愛」があるふうに言いたがるが、もうそういったハズレのことは、あまり考えたくないのであった。
世界愛というのは、「評価」や「選択」がない状態なので、「迷いが無い状態」ということでもある、何がいいとか悪いとか、何が楽しいとか楽しくないとか、そういうことがないのだ。
評価も選択もないのに、何かしら身は燃え、口は叫び、意志は跳ねている、「お前はゴミか」とゲラゲラ笑いながら、誰かがときどき神がかりなほどうつくしい、でもうつくしいからこそ評価は向けない、そういう状態を世界愛と呼ぶのだった、まあ僕の独自の呼び方だけども。

試みに、自分一人、自分に向けて、「しっっっかーーく(失格)!」とカッコよく言ってみる。
そこで、ムフフ、あるいはウヒヒ、アヒャヒャと、笑いとよろこばしさが起こってくる場合、その人には世界愛がある。
あるいはそこで、何かしら躊躇や、モヤモヤしたもの、作り笑い等が出てくる場合、その人は世界愛を見失っている/世界を信じていないのでそうなる。
失格におびえる人は、失格にこころあたりがあるからおびえるのだ、失格におびえない人は「まあこんな奴もともと合格せんやろ」と思っているからおびえずに済む、それでいて笑っていられるのは世界を愛しているからだ。

「失格」が光っていたら合格している。

光なら、失格だって光っているわけで、闇なら、合格だって闇っているだろう、「闇(やみ)っている」という言い方はムチャクチャな気がするがまあいい。
ムフフってならない? ならないならシーチキンの油で顔を洗って反省すること、「評価」や「選択」がはびこっているという状態は迷いまくっている状態ということだ。

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ヒサンになるために求めている
ルーになったら調子が出てきたな。
やはり僕はストレスあっての僕だ、高みの見物は僕を老化しかさせない。
僕が誰かを助けることでは何も解決しない、誰かが僕を助けることでしか解決しない。
アドバイスなんて世界一ヒマな奴がやるもんだよ、人に好かれるそういうたぐいはけっきょく僕が取り扱うところではない。

クソほど研究して、クソほど機能して、クソほど発達して、クソほど飲もう。
あとになって思い返し、「なんてクソな時間なんだ」と高笑いできるとき、僕は最も何かを手づかみにしていると感じる。
それはけっきょく僕の趣味の問題であって、僕などはおおよそ多数の人に蔑視されているのが適切なんだな、ともう何万回も繰り返して思っている。
僕には「やりたいこと」がひとつもなく、しかし「やらなくてはならないこと」が僕を虐げにやってくる、そのとき僕は宇宙一憐れな奴になれるので、そのことが性に合うのだ。

ヒサンでなければ僕ではない。

ああこれでいいな、僕はラクになるために求めているのではなく、ヒサンになるために求めている、そりゃ求めれば求めるほどヒサンになるのは理の必然だ、さあもっとヒサンにいこう。
計算不能というか、計算の意欲を失って、努力ゼロと全身全霊が合一するところまで、僕は虐げられることでしか僕自身に到達できない、そりゃ誰だってそうか。
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間違った奴で居続けるため
ちゃんの内定祝いでCLIMBに集まったので、感覚がおかしくなったが、よくよく考えたらまた今週末はパーティじゃないか、みなさん奮ってのご参加よろしく(→参加エントリはこちらから)。
当方のパーティに参加することで、あなたには人生においての利益が、何も得られないしむしろ減衰するだろうが、別にいいじゃないか、そのぶん僕が楽しいんだから。
パーティも再開後から五年目に突入して、いやそれがどうというわけでもないが、少なくともまた僕は新技を増やしたぞ、スゴい技で、殺し合いぐらいにしか使い道はないが、殺し合いをするつもりはまったくないので、生涯何にも使い道はないだろう。
あなたはパーティに来るのがイヤだと思うが、僕は人にイヤがらせをするのが好きなので、ぜひいらっしゃい、あなたがイヤとかいうどうでもいい理由を、僕がわずかでも鑑みるわけがないので、その点はどうぞご安心ください。

馴染めねー奴は、サッと来てサッと帰ったらいいじゃんと思う、僕が逆の立場だったら、そんなところに行くのはイヤなので絶対行かないが、それは僕が間違っているからであって、あなたは間違っていないのだからサッと来てサッと帰ったらいい。
なんというか、今の時代、待ちと守りに入るのは危険だ、これはちょっとだけマジメな話、どこか自分を拡大していく革命的な余地を形成しておかないと、早晩どうしても行き詰まりがきてしまう。
かといってもちろん、あちこちに顔を出し、あちこちに片足を突っ込んでいくと、ますますややこしくなって危険でしんどいことになるのだが、そうではなく、どこかに飛び込めというのではなく、どこだって飛び越えてしまえということ。
今の時代に、着陸できるところなんて探したらダメだ、何かを見つけたら持ち帰らず、何かを見つけて忘れて帰れ、そうしたら少なくとも自分が飛び続けていたことぐらいは思い出せるだろう。

僕が文章を書き続けること、およびパーティ企画を継続することは、間違っている(だから続ける)。

それは僕が間違った奴で居続けるためだ、僕が間違っていない奴になったら、その時点で僕はもう僕ではないのである、そうなると僕など缶蹴りの缶ぐらいにしか使い道がない。
正しいこととか正常なこととか、オメエ、おっかねえだろうよ……インスタ映え度のマイナス極限を提案する当方のパーティにどうぞ、僕のことなんざ軽蔑する人のほうがずいぶんマトモだ。
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病的に書き続けないと、病気になってしまう

的に書き続けないと、病気になってしまう。
こんにち、こんなやり方をする人はたぶんほとんどいないのだが、僕は自分が病気にならないために、このやり方をするしかない。
病的にやり続けることでしか見えてこないものがある、これはもうどうしようもない。
病的に書き続けることのみ、僕が病気になるのを防ぐだろう、ただこれをやればやるほどに、僕は周囲の人と話が合わなくなってしまうのだった(しかし病気になるのを避けるためにはしょうがないのだ)。

僕が知っている、唯一のまともなことがこれだが、それだけになぜか、まったく人にオススメする気になれないのがこれなのだった。
病的にやり続けること、それだけが自分を病気にさせずにいてくれる。
正常範囲内でやることは、あくまで正常なのだが、それでは正常に病気になってしまう(意味不明)/馬が目の前にぶら下げられたニンジンを追いかけて走るのは「正常」で、人もそのように生きるのが「正常」ではある。
別に僕ひとり、この世で狂っていたとしても、特に問題はあるまいということで、この病的な奴をそれらしく保護するようによろしく、チャリティーの精神が望まれるところだ!

異常なことを、正常範囲内でやると病気になる。

九折さんは異常者ですね〜ということで、そりゃ当たり前なので何の問題もない、問題があるのは、正常範囲内で異常行為のことを考えることだ、考えたって破綻するのが当たり前で、そんな思考を続けていたら本当に病気になってしまう。
この世界は、病的に何かをやり続けてしまう異常者を、絞め殺したりはしないぐらいやさしい、あとはもうホント、同じくやさしい女性が一億人現われて僕を包んでくれたら満足だ。

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特権階級はサイコーにワガママ

うなると、調子が出てくるわけだが……
僕は、最大に馬鹿げたことをしていたいのだ。
最大に馬鹿げたことをやっていられるのが、真の特権階級だと思うから。
ひとつの言葉を追いかけたりね、そういうのがいちばん馬鹿げていて、真の特権階級だと思う。

つまり、真の特権階級とは、「意味がなくていい」ということなのだ。
強いて言うならそれは、「意味が自作できるから」ということで、これはまさに特権階級だと思う。
たとえばリッチな家でリッチな暮らしをして、人生を充実させるというようなことは、誰にでもわかる「意味」があるので、これはしょせん意味の奴隷でしかない、ヨソに決められた意味を履行させられるハメになるのだ。
サイコーのきらめきに、サイコーの意味を自作するだけだが、ヨソで「意味」を大量に仕入れてらっしゃる方には、僕の自作する意味なんか入る余地はないな、ああなんてもったいないことだ。

「サイコーにワガママ」か、「サイコーにつまんない」か、二者択一なのだが、あなたはどうする。

あなたが自前で仕入れてきた無数の「意味」と、僕が自作する「意味」は、必ず衝突するので、調整の取りようがない、調整を取るとサイコーにつまんないことにしかならないので、そこは諦めてもらうしかない。
僕がサイコーにワガママにすることを、あなたがキライなのだとしたら、あなたは僕のことがキライなのだと思うが/あるいはその調子だと、「この世のすべての人がキライ」ということに行き着くな、「誰もいない世界こそサイコー」になるだろう、まあそれはそれでわからんでもないが、素直に言えばもったいないことだ。

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復活:戦いましょう

いうわけで、九折さん復活です。
復活といって、これまでくたばっていたわけではないが……
どう戦うか? という問題があるが、実はその問題より先に、「わたしは戦う」という決断がある。
何と戦うか? という問題があるが、それも同じだ、先に「わたしは戦う」という決断がある/見えてから戦うのじゃない、戦って始めて見えてくるんだ。

何と戦うか? 納得と戦う、納得というのはくせものだ、納得がわれわれを水銀の底に沈没させる。
どう戦うか? 勝つことで戦う、戦って勝つのじゃない、そもそも勝つことで戦う。
納得というのは、常に正しいが、あくまで「間に合っていない」、間に合っていない正しさなどけっきょくは欺瞞でしかない。
戦うということは、戦果を誇ることだ、犠牲は出るのかもしれない、だが戦いはそもそも犠牲を算段して成り立つものではない。

おれは戦います、それは世界に会うためです。

どう戦うか、何と戦うか、犠牲はどうかと、そんな算段をしていたら、いつまでも間に合わない、戦うと決めないとこの世界の分子に間に合わない/今日も秋の光が差している。
事情に納得して飲まれるか、そうでなければ戦い世界に会い続けるか、そのどちらかしかないのだ、ここに宣言しておこう、<<非合理は合理より早い>>、その早さにのみおれの意志がありうるのだからしょうがない。

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ポン介

れわれは、わかることはわかるのだが、わからないことはわからないのだ、これをどうしよう?
「わからないこと」は、ピンとこないこと、実らないことなので、いうなれば荒れ地に葡萄の種をまくようなことだと言える、それは実りっこないものだし、まったく迷惑なゴミのようにしか感じられないものだ。
強烈な雑草の種であれば、荒れ地にもよく茂るかもしれない、じゃあそれをまけば荒れ地はにぎやかになるけれども、それで荒れ地を豊かにして差し上げているのかどうかはあやしい、雑草で土はますます痩せていくのかもしれない。
少なくとも言えることは、荒れ地から雑草を抜こうとしたら、「やめろよ、さびしくなるじゃないか」と咎められるのは明らかだということだ/それは正当な言い分なのでよくわかるのだが、かといって葡萄の種をまいてもしょうがないし、雑草を追加する気にもなれないので、つまり荒れ地に対しては「することがない」に行き着くのだった、多くの人はそう実感していると思う。

僕には人に偉そうに説教をする立場もないし、能力もないし資格もない、また義理もないので、わかることはせいぜい「迷惑」をなるべくやらないことぐらいだ。
荒れ地とそうでないものを、勝手に感じ取るとして、その両者はただ「棲み分け」と捉えるしかないだろう、棲み分けが正しく為されていれば互いに迷惑はかけあわずに済む。
何か方法を考えないとな……僕はもともと女にモテるたちではないのでその点だけは気が楽だ。
僕は九折ポン介と言うのだが/日本の女性には、もっと熱烈に日本の男性を謗(そし)ってもらわねば困る、そうでないとやりにくいのだ、これは割と冗談ではなくマジな話、僕の利益のための話。

われわれは「平等に尊い」のだろうか、それとも「平等にアホ」なのだろうか。

もし平等に「尊い」のだったら、わからない話があった場合、わからない話の側が「アホ」なのだろう、尊き者にアホの話なんかわからないだろう。
もし平等に「アホ」なのだったら、わからない話があった場合、わからない話の側が「尊い」のだろう、アホな者に尊い話なんかわからないだから/少なくとも僕自身は後者だ。

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四周年!

あ、後でまた告知を出すけどね。
今月もパーティやりますよ、8/19(土)19時、原宿でよろしく。→参加エントリはこちらから
なんと今回で、四周年なのだ、四年前の八月から始まったんだな、今回で第71回となるはずだが、まあしつこく続いている。
四周年ということで、節目なので、また新しい人がわさわさ来てくれたらいいなと思っております、どうぞよろしく(なんか久しぶりだなこういうノリは)。

毎月×四年間もやっていると、いいかげん「やっている」という意識はなくなる、まるで誰も誕生日は辞めようがないように、毎月の第三土曜にはこれがあるのが当たり前になっている。
この四年間で、いろいろあったのだ……と言おうと思ったが、あまり覚えていないな、まあ今回はみんなから思い出話でも引っ張り出してみるか、どうせ重要なのは過去ではなくて未来なのだし。
僕は経験的に、あるいは直感的にか、自分の生きている時間に「何をしていたかわからない時間」があるのはマズいと思っている、それはたぶんどんなに若くてもすでに認知症の始まりなのだ。
僕のやっていることは、引き続きわけがわからないが、僕はこのわけのわからないことを「確かに」やっている、この四年間、僕と同じことをしていたという人はこの地球に存在しないだろう、あまり自慢になるようなことでもないが。

またこの先の四年間に。

だいたい人は、中学・高校の各三年間をはっきりさせており、その後の大学四年間をはっきりさせているのだが、そのあとにつづく四年間がはっきりしないものになる、はっきりしないまま三十歳が見えてくる/すると焦って人生を考え始めるのだが、それはすでに見失ったから考えているのであり、状況に間に合っていない。
月に一回のQuali's Partyというのは、割といいシステムだと思うのだが、どうだろうね、よくよく考えればすごく不思議な集まりになってしまったが、今回はそんなことを再確認するというヒマなことでもしてみようかと思っている(ただし泥酔して忘れる可能性大)。

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光は質量ゼロ

まり、こうして「書く」、およびそれを人に晒し続けるということが、僕を救ったわけだ、フームさすがオレだと言いたい。
この世界には何ら深刻ぶるべきことはないので、同じ何もないなら、遊ばにゃ損ということである。
「光あるうち、光の速さでおれに抱かれろ」とトルストイの著書にもある(光がなくなってから来るんじゃねーよ頼むから)。
思考が「重い」とか発想が「重い」とか、女が「重い」とかいうのは、つまりヒッグス粒子のせいなので、ヒッグス粒子を精神空間に持ち込まなければいいのだ、ヒッグス粒子に邪魔されるのは物質空間だけで十分である。

これはまさに光の考え方なのだけれど、そう、まさしくその「光」があるかないかで、僕は自分の書くものを自分自身で見てきたから、けっきょくこのことが僕を救った。
僕自身、光のないものは2行も読めないたちなので、僕が何かを書くということは、初めから自己に光を要求するハメになるのだ。
質量ゼロ、引きつける力を持っていて、ヒッグス粒子に干渉されないとか、まさに光子であり光、その質量ゼロというあたりがいかにも僕らしくていいぜ! 「どれだけ頭カラッポなの、バカなの?」と言われ続けてきたのだ、それが僕の命脈だった。
光というのは減速不可能で、減速させようとすると消えてしまうものだ、僕は誰のどんな小説にも興味はないが(えっ)、そこから放たれている光だけはよろこんで摂取する者なのである。

宇宙開闢(かいびゃく)当時はすべてに重さがなかった、あなたも開闢当時はすべてに重さがなかった。

そりゃ開闢当時はヒッグス粒子がないからね……これは物理の話であって信仰の話ではない、理科の先生に聞いてこい。
といっても、カミサマだって信仰の話ではないけれどね、人間の信仰ごときでビッグバンが生じないのと同様に、人間の信仰ごときでカミサマが爆誕してたまるか、そういうものは元々在るのである/ワハハハハ、重さのあるものをいくら加速しても光にはならんぞ(むしろエネルギーを掛けるほど質量が増大します)。

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摂取せよ!2

日「摂取せよ!」という記事を書いたが、これのウケがいいようだ、誰でも心当たりがあるようで、今最も有益なところを突いているのかもしれない。
ついでに、光モノとして、ショーペンハウアーとガンジーを足しておいた/前にも述べたように、属性が「光」であることは、レベルの高低にあまり関係が無く、ただ何であれ希少で貴重だということだけがある。
その希少な「光」の属性のものを、とにもかくにも「摂取」すること、そこで「光とは何か」なんてウダウダ考えても意味が無い、単に摂取量だけがモノを言うぞ、という考え方、これは確かに今有効な考え方だ。
もし、本当は根こそぎ単純な仕組みで、「光の摂取量が足りないと獣になりま〜す」というだけだったら、どうしようね……と、割とそういったことは冗談でなくあるような気が、しないでもないのだった。

世の中に、立派な人やハイレベルな人はいるのだが、それとは異なり、「光」の属性の人はそもそも、あまりその「立派」とか「ハイレベル」とかの印象を覚えさせない。
ここで重要なことは、自分が「がんばろう」と思うのではなく、目の前の人に「幸福であってほしい」と感じることだ、なぜか「光」の属性の人に対しては、自分がどうこうと思わず、その人自身に幸せであってほしいと願ってしまうのだった。
昔話に「笠地蔵」というのがあるが、あれがちょうどわかりやすい、お地蔵さまを見て少女は「自分も雪に降られてもがんばろう」と思ったのではなく、お地蔵さまが冷えないようにと胸を痛めて笠を差し掛けた、そのとき別にお地蔵さまは「立派」でもなければ「ハイレベル」でもなかったはずだ。
僕などは、スキャットマンクロザースなどを見ていると、もし手元に瓶詰めのプリンでもあったならば、そのプリンを彼につい差し出したくなるような衝動があるのだが……つまり「光」の属性の人は、ハイレベルとか向上心とかいうことに関係がなく、「この人は守られなくてはならない」という直観だけが走る。

「光」を見たとき、自分が助かりたいと思うのではなく、自分が光を助けたいと思う。

なんだこのインチキ宗教みたいな話は……まあしかし、実際にそういう事象があるのだからしょうがない、たぶん「光明」といって、自分が助かるために光を追いかけるのは違うのだ、それは芥川龍之介「蜘蛛の糸」のように、とんでもないドリフエンドが待っていよう。
なぜか「光」の属性のものを見ると、真剣さや誠実さのこころが起こるより以前に、何か無性に笑いたくなってしまう、そのときの笑いには、「もうこれでいいじゃないか」という絶対的解決の気配が含まれているのだ、だからこそ笑いたくなるんだろう。

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摂取せよ!

学でいうと、R・タゴール、レフ・トルストイ、哲学や宗教でいうと、澤木興道、西田幾多郎、学道用心集(道元)、ショーペンハウアー(追加)、ガンジー(追加)。
音楽でいうと、桑田佳祐、ジェームスブラウン、ジューダス・プリースト(Vo:ロブハルフォード)、インペリテリ(Vo:ロブロック)、デヴィッドカヴァデール、スキャットマンクロザース、ここではあえてボブマーリーを入れ、マイケルジャクソンは外しておく、あと音楽家そのものとしてバーンスタインを入れておこう。
思いがけず、古い時代の学生合唱もいい、あとアニメでいうと古い時代のルパン三世テレビシリーズ、あるいは「銀河英雄伝説」。
武術でいうと、塩田剛三、植芝盛平、お笑い芸人で言うと、ダウンタウンの浜ちゃんか、フットボールアワーの後藤、あるいは落語家の立川志の輔。(※検索しづらいものについてのみ参考リンクを貼りました)

これらを「摂取」せよ、これは何も趣味の善し悪しとしておすすめしているのではない。
じゃあこれは何かというと、またアホみたいな話だが、属性が「光」なのだ、手短に説明するならそう言うしかない。
そしてこれらのものについて、すべての意味を「理解」しろと言われると、ぶっちゃけ不可能なので、「摂取」しろと言っておきたい、意味はわかんなくても自分に吸い込ませておくのだ、つまりテキトーにyoutubeで再生していろ、それだけでも十分に作用がある。
世の中、ハイレベルな人はいくらでもいるが、レベルの上下と属性の「光」は別なのだ、ハイレベルでも「これはアカン」というのはいくらでもある、ここではあえて極端に「光」に寄っているものを並べた。

これらのことごとくが、自分に「ハマらない」という人は、つまり……(ゲフンゲフン

現代の多くの人にとって、ここに並べたものはきっと「退屈」に感じられるはずだ、「色気がない」と感じられるかもしれない、だがそれでも――それだからこそ――今これらを「摂取」せよと申し立てておきたい(ちなみにマイケルジャクソンは「退屈」になれないのであえて外した)。
現代、「光」の属性を持っている人は極めて少ない……と、こんなことを言うとまたウンコスピリチュアルみたいでサイアクだが、もう踏み越えて言うしかない状況なのだ、あなたにハマらない、このあなたの趣味でないものたちをわけもわからず摂取せよ。

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一応、身体の点についてのメモというか、雑記

性でいうとヴァギナのあたりに、生命そのもの、および「大地」とつながる何かの、身体的な「点」がある、僕はここをよく使う、特に飲み食いによく使っている気がする。
次に、へその下のいわゆる丹田のあたりに、男性性や独立性に関わる何かの「点」がある、僕はここを、たまに使うが、ここを使いすぎると何か冷たい感じがするので、ふだんはあまり使わない。
次、いわゆるみぞおちのあたりに、何かスポーティな「点」がある気がするが、僕はここを使えない、ここをどう使えばいいのかよくわかっていなくて、つまり未発達なのだと思う。
次、両乳首の中点、胸骨の真ん中に、僕が「情動の点」と勝手に読んでいる点がある、僕はここを最もよく使う/笑う、盛り上がる、という一番にぎやかな点がここだ(本当かどうかは知らん)。

次、喉(両鎖骨中央のくぼみ)に、思いがけず「自由と想像力と、バカ」の点がある、僕はここを常時使っているが、最近になって「ここ大事だよな」とさらに重要性を再確認している。
次、眉間とおでこのあいだ(?)ぐらいに、何か「言葉の世界」とつながる点がある、ここは使っているはずだが、使っている自覚があまりない(ここを使うと集中してしまって「自覚」ということが消えてしまう様子)(自覚としては、頭蓋骨全体が「鉢」になる感触はある)。
次、頭頂部に、何かキリスト教的な「点」がある、キリスト教的なカミサマとつながる何かの点だと思うが、僕はあまりここが使えない、意識すれば使えるが、ここを使うと何か別の人みたいになってイマイチなのであまり使わない。
補足、これらの「点」は、なぜか足下の地中1mにもひとつ燃えさかってあり、頭上にもひとつ光ってある気がする、地中のものにはつながれるが(地面を踏むときに使う)、頭上のものには僕はつながれない(へたくそ)、そして背面部の仙骨のあたりや首の付け根あたりは、それ自体が「点」ではないが、そこが使えていないと他の「点」が使えませんよ、という支えの役割があるような気がする。

身体の中心軸を極限まで「まっすぐ」に――偏りなく――すると、これらの点をすべて同時に使える。

これらは僕自身の身体の感覚であって、これらが何かのセオリーに適合しているのかどうかは知らない、正直興味はないのだ、興味はないのだが勝手にそういう感覚が僕自身にあるので、僕はあくまで僕自身の内においてのみこれらの「点」を使っている。
僕はヨガをやったことはないし、瞑想やら座禅やら呼吸法やらもやったことはない、やったことはないしこれからもやらないだろう、僕はただ遊び続けているだけだ、メモはしてみたがけっきょく人間なんていつでも実力勝負するしかないんじゃないか。

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永遠の感謝には微笑が伴う
「あの人がいてくれてよかった」と永遠に思えるか。
「あの人と出会えてよかった」と永遠に思えるか。
付き合った・別れたということよりも、そちらが大事なんだ、別れたあと消えてしまうものなら、それは実は出会ってもいなかったのだ。
もし目の前の友人が、何であれ「あの人がいてくれてよかった」と、遠い昔のことでも手放さず言い、感謝に微笑むようなら、あなたはその友人を自分の友人として誇らしく思い、またそのうつくしい生に内心で祝福を贈るはずだ。

われわれはけっきょく、その永遠の感謝の中だけを生きている。
「あの場所にいられてよかった」「あの本に出会えてよかった」「あの瞬間が見られてよかった」「一緒に過ごせてよかった」、その遠い抱きしめる感謝の蓄積でわれわれの生は成り立っているものだ/そのひとつひとつに感謝の微笑を伴わせながら。
われわれはいつでも、すべてを振り返るたびに強く、「こうして生きてきてよかった」思うべきで、なればこそ、今の時間を、いつか振り返ったときそう思えるものにしなくてはならない。
だいたい、自分のことに関しては、「あのとき、ああいうバカをやっておいてよかった」と思い返せるものなので、われわれはなるべく賢明ぶらないことだ、賢明ぶった時間に微笑が伴うことはないのだから。

あなたを永遠に微笑ませる人は、何かしらバカだったはずだ。

あなたは大真面目な顔でこれを読んでいないだろうか? もしそうだとしたら、あなたは賢明さに閉じ込められている/あなたが大真面目にこれを読んでいるのは、あなたが僕のバカさをわかってくれていないからだ。
感謝というのは不思議だ、われわれはいつでも待機してくれている救急隊員や消防隊員にものすごく感謝しているが、その感謝に向けて微笑みは起こらない、そちらに大真面目な感謝と低頭が起こる、さて何が違うものやら、その先はバフチンにでも説明してもらってくれ(無責任)。
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