☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ヒサンになるために求めている
ルーになったら調子が出てきたな。
やはり僕はストレスあっての僕だ、高みの見物は僕を老化しかさせない。
僕が誰かを助けることでは何も解決しない、誰かが僕を助けることでしか解決しない。
アドバイスなんて世界一ヒマな奴がやるもんだよ、人に好かれるそういうたぐいはけっきょく僕が取り扱うところではない。

クソほど研究して、クソほど機能して、クソほど発達して、クソほど飲もう。
あとになって思い返し、「なんてクソな時間なんだ」と高笑いできるとき、僕は最も何かを手づかみにしていると感じる。
それはけっきょく僕の趣味の問題であって、僕などはおおよそ多数の人に蔑視されているのが適切なんだな、ともう何万回も繰り返して思っている。
僕には「やりたいこと」がひとつもなく、しかし「やらなくてはならないこと」が僕を虐げにやってくる、そのとき僕は宇宙一憐れな奴になれるので、そのことが性に合うのだ。

ヒサンでなければ僕ではない。

ああこれでいいな、僕はラクになるために求めているのではなく、ヒサンになるために求めている、そりゃ求めれば求めるほどヒサンになるのは理の必然だ、さあもっとヒサンにいこう。
計算不能というか、計算の意欲を失って、努力ゼロと全身全霊が合一するところまで、僕は虐げられることでしか僕自身に到達できない、そりゃ誰だってそうか。
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間違った奴で居続けるため
ちゃんの内定祝いでCLIMBに集まったので、感覚がおかしくなったが、よくよく考えたらまた今週末はパーティじゃないか、みなさん奮ってのご参加よろしく(→参加エントリはこちらから)。
当方のパーティに参加することで、あなたには人生においての利益が、何も得られないしむしろ減衰するだろうが、別にいいじゃないか、そのぶん僕が楽しいんだから。
パーティも再開後から五年目に突入して、いやそれがどうというわけでもないが、少なくともまた僕は新技を増やしたぞ、スゴい技で、殺し合いぐらいにしか使い道はないが、殺し合いをするつもりはまったくないので、生涯何にも使い道はないだろう。
あなたはパーティに来るのがイヤだと思うが、僕は人にイヤがらせをするのが好きなので、ぜひいらっしゃい、あなたがイヤとかいうどうでもいい理由を、僕がわずかでも鑑みるわけがないので、その点はどうぞご安心ください。

馴染めねー奴は、サッと来てサッと帰ったらいいじゃんと思う、僕が逆の立場だったら、そんなところに行くのはイヤなので絶対行かないが、それは僕が間違っているからであって、あなたは間違っていないのだからサッと来てサッと帰ったらいい。
なんというか、今の時代、待ちと守りに入るのは危険だ、これはちょっとだけマジメな話、どこか自分を拡大していく革命的な余地を形成しておかないと、早晩どうしても行き詰まりがきてしまう。
かといってもちろん、あちこちに顔を出し、あちこちに片足を突っ込んでいくと、ますますややこしくなって危険でしんどいことになるのだが、そうではなく、どこかに飛び込めというのではなく、どこだって飛び越えてしまえということ。
今の時代に、着陸できるところなんて探したらダメだ、何かを見つけたら持ち帰らず、何かを見つけて忘れて帰れ、そうしたら少なくとも自分が飛び続けていたことぐらいは思い出せるだろう。

僕が文章を書き続けること、およびパーティ企画を継続することは、間違っている(だから続ける)。

それは僕が間違った奴で居続けるためだ、僕が間違っていない奴になったら、その時点で僕はもう僕ではないのである、そうなると僕など缶蹴りの缶ぐらいにしか使い道がない。
正しいこととか正常なこととか、オメエ、おっかねえだろうよ……インスタ映え度のマイナス極限を提案する当方のパーティにどうぞ、僕のことなんざ軽蔑する人のほうがずいぶんマトモだ。
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病的に書き続けないと、病気になってしまう

的に書き続けないと、病気になってしまう。
こんにち、こんなやり方をする人はたぶんほとんどいないのだが、僕は自分が病気にならないために、このやり方をするしかない。
病的にやり続けることでしか見えてこないものがある、これはもうどうしようもない。
病的に書き続けることのみ、僕が病気になるのを防ぐだろう、ただこれをやればやるほどに、僕は周囲の人と話が合わなくなってしまうのだった(しかし病気になるのを避けるためにはしょうがないのだ)。

僕が知っている、唯一のまともなことがこれだが、それだけになぜか、まったく人にオススメする気になれないのがこれなのだった。
病的にやり続けること、それだけが自分を病気にさせずにいてくれる。
正常範囲内でやることは、あくまで正常なのだが、それでは正常に病気になってしまう(意味不明)/馬が目の前にぶら下げられたニンジンを追いかけて走るのは「正常」で、人もそのように生きるのが「正常」ではある。
別に僕ひとり、この世で狂っていたとしても、特に問題はあるまいということで、この病的な奴をそれらしく保護するようによろしく、チャリティーの精神が望まれるところだ!

異常なことを、正常範囲内でやると病気になる。

九折さんは異常者ですね〜ということで、そりゃ当たり前なので何の問題もない、問題があるのは、正常範囲内で異常行為のことを考えることだ、考えたって破綻するのが当たり前で、そんな思考を続けていたら本当に病気になってしまう。
この世界は、病的に何かをやり続けてしまう異常者を、絞め殺したりはしないぐらいやさしい、あとはもうホント、同じくやさしい女性が一億人現われて僕を包んでくれたら満足だ。

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特権階級はサイコーにワガママ

うなると、調子が出てくるわけだが……
僕は、最大に馬鹿げたことをしていたいのだ。
最大に馬鹿げたことをやっていられるのが、真の特権階級だと思うから。
ひとつの言葉を追いかけたりね、そういうのがいちばん馬鹿げていて、真の特権階級だと思う。

つまり、真の特権階級とは、「意味がなくていい」ということなのだ。
強いて言うならそれは、「意味が自作できるから」ということで、これはまさに特権階級だと思う。
たとえばリッチな家でリッチな暮らしをして、人生を充実させるというようなことは、誰にでもわかる「意味」があるので、これはしょせん意味の奴隷でしかない、ヨソに決められた意味を履行させられるハメになるのだ。
サイコーのきらめきに、サイコーの意味を自作するだけだが、ヨソで「意味」を大量に仕入れてらっしゃる方には、僕の自作する意味なんか入る余地はないな、ああなんてもったいないことだ。

「サイコーにワガママ」か、「サイコーにつまんない」か、二者択一なのだが、あなたはどうする。

あなたが自前で仕入れてきた無数の「意味」と、僕が自作する「意味」は、必ず衝突するので、調整の取りようがない、調整を取るとサイコーにつまんないことにしかならないので、そこは諦めてもらうしかない。
僕がサイコーにワガママにすることを、あなたがキライなのだとしたら、あなたは僕のことがキライなのだと思うが/あるいはその調子だと、「この世のすべての人がキライ」ということに行き着くな、「誰もいない世界こそサイコー」になるだろう、まあそれはそれでわからんでもないが、素直に言えばもったいないことだ。

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復活:戦いましょう

いうわけで、九折さん復活です。
復活といって、これまでくたばっていたわけではないが……
どう戦うか? という問題があるが、実はその問題より先に、「わたしは戦う」という決断がある。
何と戦うか? という問題があるが、それも同じだ、先に「わたしは戦う」という決断がある/見えてから戦うのじゃない、戦って始めて見えてくるんだ。

何と戦うか? 納得と戦う、納得というのはくせものだ、納得がわれわれを水銀の底に沈没させる。
どう戦うか? 勝つことで戦う、戦って勝つのじゃない、そもそも勝つことで戦う。
納得というのは、常に正しいが、あくまで「間に合っていない」、間に合っていない正しさなどけっきょくは欺瞞でしかない。
戦うということは、戦果を誇ることだ、犠牲は出るのかもしれない、だが戦いはそもそも犠牲を算段して成り立つものではない。

おれは戦います、それは世界に会うためです。

どう戦うか、何と戦うか、犠牲はどうかと、そんな算段をしていたら、いつまでも間に合わない、戦うと決めないとこの世界の分子に間に合わない/今日も秋の光が差している。
事情に納得して飲まれるか、そうでなければ戦い世界に会い続けるか、そのどちらかしかないのだ、ここに宣言しておこう、<<非合理は合理より早い>>、その早さにのみおれの意志がありうるのだからしょうがない。

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ポン介

れわれは、わかることはわかるのだが、わからないことはわからないのだ、これをどうしよう?
「わからないこと」は、ピンとこないこと、実らないことなので、いうなれば荒れ地に葡萄の種をまくようなことだと言える、それは実りっこないものだし、まったく迷惑なゴミのようにしか感じられないものだ。
強烈な雑草の種であれば、荒れ地にもよく茂るかもしれない、じゃあそれをまけば荒れ地はにぎやかになるけれども、それで荒れ地を豊かにして差し上げているのかどうかはあやしい、雑草で土はますます痩せていくのかもしれない。
少なくとも言えることは、荒れ地から雑草を抜こうとしたら、「やめろよ、さびしくなるじゃないか」と咎められるのは明らかだということだ/それは正当な言い分なのでよくわかるのだが、かといって葡萄の種をまいてもしょうがないし、雑草を追加する気にもなれないので、つまり荒れ地に対しては「することがない」に行き着くのだった、多くの人はそう実感していると思う。

僕には人に偉そうに説教をする立場もないし、能力もないし資格もない、また義理もないので、わかることはせいぜい「迷惑」をなるべくやらないことぐらいだ。
荒れ地とそうでないものを、勝手に感じ取るとして、その両者はただ「棲み分け」と捉えるしかないだろう、棲み分けが正しく為されていれば互いに迷惑はかけあわずに済む。
何か方法を考えないとな……僕はもともと女にモテるたちではないのでその点だけは気が楽だ。
僕は九折ポン介と言うのだが/日本の女性には、もっと熱烈に日本の男性を謗(そし)ってもらわねば困る、そうでないとやりにくいのだ、これは割と冗談ではなくマジな話、僕の利益のための話。

われわれは「平等に尊い」のだろうか、それとも「平等にアホ」なのだろうか。

もし平等に「尊い」のだったら、わからない話があった場合、わからない話の側が「アホ」なのだろう、尊き者にアホの話なんかわからないだろう。
もし平等に「アホ」なのだったら、わからない話があった場合、わからない話の側が「尊い」のだろう、アホな者に尊い話なんかわからないだから/少なくとも僕自身は後者だ。

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四周年!

あ、後でまた告知を出すけどね。
今月もパーティやりますよ、8/19(土)19時、原宿でよろしく。→参加エントリはこちらから
なんと今回で、四周年なのだ、四年前の八月から始まったんだな、今回で第71回となるはずだが、まあしつこく続いている。
四周年ということで、節目なので、また新しい人がわさわさ来てくれたらいいなと思っております、どうぞよろしく(なんか久しぶりだなこういうノリは)。

毎月×四年間もやっていると、いいかげん「やっている」という意識はなくなる、まるで誰も誕生日は辞めようがないように、毎月の第三土曜にはこれがあるのが当たり前になっている。
この四年間で、いろいろあったのだ……と言おうと思ったが、あまり覚えていないな、まあ今回はみんなから思い出話でも引っ張り出してみるか、どうせ重要なのは過去ではなくて未来なのだし。
僕は経験的に、あるいは直感的にか、自分の生きている時間に「何をしていたかわからない時間」があるのはマズいと思っている、それはたぶんどんなに若くてもすでに認知症の始まりなのだ。
僕のやっていることは、引き続きわけがわからないが、僕はこのわけのわからないことを「確かに」やっている、この四年間、僕と同じことをしていたという人はこの地球に存在しないだろう、あまり自慢になるようなことでもないが。

またこの先の四年間に。

だいたい人は、中学・高校の各三年間をはっきりさせており、その後の大学四年間をはっきりさせているのだが、そのあとにつづく四年間がはっきりしないものになる、はっきりしないまま三十歳が見えてくる/すると焦って人生を考え始めるのだが、それはすでに見失ったから考えているのであり、状況に間に合っていない。
月に一回のQuali's Partyというのは、割といいシステムだと思うのだが、どうだろうね、よくよく考えればすごく不思議な集まりになってしまったが、今回はそんなことを再確認するというヒマなことでもしてみようかと思っている(ただし泥酔して忘れる可能性大)。

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光は質量ゼロ

まり、こうして「書く」、およびそれを人に晒し続けるということが、僕を救ったわけだ、フームさすがオレだと言いたい。
この世界には何ら深刻ぶるべきことはないので、同じ何もないなら、遊ばにゃ損ということである。
「光あるうち、光の速さでおれに抱かれろ」とトルストイの著書にもある(光がなくなってから来るんじゃねーよ頼むから)。
思考が「重い」とか発想が「重い」とか、女が「重い」とかいうのは、つまりヒッグス粒子のせいなので、ヒッグス粒子を精神空間に持ち込まなければいいのだ、ヒッグス粒子に邪魔されるのは物質空間だけで十分である。

これはまさに光の考え方なのだけれど、そう、まさしくその「光」があるかないかで、僕は自分の書くものを自分自身で見てきたから、けっきょくこのことが僕を救った。
僕自身、光のないものは2行も読めないたちなので、僕が何かを書くということは、初めから自己に光を要求するハメになるのだ。
質量ゼロ、引きつける力を持っていて、ヒッグス粒子に干渉されないとか、まさに光子であり光、その質量ゼロというあたりがいかにも僕らしくていいぜ! 「どれだけ頭カラッポなの、バカなの?」と言われ続けてきたのだ、それが僕の命脈だった。
光というのは減速不可能で、減速させようとすると消えてしまうものだ、僕は誰のどんな小説にも興味はないが(えっ)、そこから放たれている光だけはよろこんで摂取する者なのである。

宇宙開闢(かいびゃく)当時はすべてに重さがなかった、あなたも開闢当時はすべてに重さがなかった。

そりゃ開闢当時はヒッグス粒子がないからね……これは物理の話であって信仰の話ではない、理科の先生に聞いてこい。
といっても、カミサマだって信仰の話ではないけれどね、人間の信仰ごときでビッグバンが生じないのと同様に、人間の信仰ごときでカミサマが爆誕してたまるか、そういうものは元々在るのである/ワハハハハ、重さのあるものをいくら加速しても光にはならんぞ(むしろエネルギーを掛けるほど質量が増大します)。

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摂取せよ!2

日「摂取せよ!」という記事を書いたが、これのウケがいいようだ、誰でも心当たりがあるようで、今最も有益なところを突いているのかもしれない。
ついでに、光モノとして、ショーペンハウアーとガンジーを足しておいた/前にも述べたように、属性が「光」であることは、レベルの高低にあまり関係が無く、ただ何であれ希少で貴重だということだけがある。
その希少な「光」の属性のものを、とにもかくにも「摂取」すること、そこで「光とは何か」なんてウダウダ考えても意味が無い、単に摂取量だけがモノを言うぞ、という考え方、これは確かに今有効な考え方だ。
もし、本当は根こそぎ単純な仕組みで、「光の摂取量が足りないと獣になりま〜す」というだけだったら、どうしようね……と、割とそういったことは冗談でなくあるような気が、しないでもないのだった。

世の中に、立派な人やハイレベルな人はいるのだが、それとは異なり、「光」の属性の人はそもそも、あまりその「立派」とか「ハイレベル」とかの印象を覚えさせない。
ここで重要なことは、自分が「がんばろう」と思うのではなく、目の前の人に「幸福であってほしい」と感じることだ、なぜか「光」の属性の人に対しては、自分がどうこうと思わず、その人自身に幸せであってほしいと願ってしまうのだった。
昔話に「笠地蔵」というのがあるが、あれがちょうどわかりやすい、お地蔵さまを見て少女は「自分も雪に降られてもがんばろう」と思ったのではなく、お地蔵さまが冷えないようにと胸を痛めて笠を差し掛けた、そのとき別にお地蔵さまは「立派」でもなければ「ハイレベル」でもなかったはずだ。
僕などは、スキャットマンクロザースなどを見ていると、もし手元に瓶詰めのプリンでもあったならば、そのプリンを彼につい差し出したくなるような衝動があるのだが……つまり「光」の属性の人は、ハイレベルとか向上心とかいうことに関係がなく、「この人は守られなくてはならない」という直観だけが走る。

「光」を見たとき、自分が助かりたいと思うのではなく、自分が光を助けたいと思う。

なんだこのインチキ宗教みたいな話は……まあしかし、実際にそういう事象があるのだからしょうがない、たぶん「光明」といって、自分が助かるために光を追いかけるのは違うのだ、それは芥川龍之介「蜘蛛の糸」のように、とんでもないドリフエンドが待っていよう。
なぜか「光」の属性のものを見ると、真剣さや誠実さのこころが起こるより以前に、何か無性に笑いたくなってしまう、そのときの笑いには、「もうこれでいいじゃないか」という絶対的解決の気配が含まれているのだ、だからこそ笑いたくなるんだろう。

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摂取せよ!

学でいうと、R・タゴール、レフ・トルストイ、哲学や宗教でいうと、澤木興道、西田幾多郎、学道用心集(道元)、ショーペンハウアー(追加)、ガンジー(追加)。
音楽でいうと、桑田佳祐、ジェームスブラウン、ジューダス・プリースト(Vo:ロブハルフォード)、インペリテリ(Vo:ロブロック)、デヴィッドカヴァデール、スキャットマンクロザース、ここではあえてボブマーリーを入れ、マイケルジャクソンは外しておく、あと音楽家そのものとしてバーンスタインを入れておこう。
思いがけず、古い時代の学生合唱もいい、あとアニメでいうと古い時代のルパン三世テレビシリーズ、あるいは「銀河英雄伝説」。
武術でいうと、塩田剛三、植芝盛平、お笑い芸人で言うと、ダウンタウンの浜ちゃんか、フットボールアワーの後藤、あるいは落語家の立川志の輔。(※検索しづらいものについてのみ参考リンクを貼りました)

これらを「摂取」せよ、これは何も趣味の善し悪しとしておすすめしているのではない。
じゃあこれは何かというと、またアホみたいな話だが、属性が「光」なのだ、手短に説明するならそう言うしかない。
そしてこれらのものについて、すべての意味を「理解」しろと言われると、ぶっちゃけ不可能なので、「摂取」しろと言っておきたい、意味はわかんなくても自分に吸い込ませておくのだ、つまりテキトーにyoutubeで再生していろ、それだけでも十分に作用がある。
世の中、ハイレベルな人はいくらでもいるが、レベルの上下と属性の「光」は別なのだ、ハイレベルでも「これはアカン」というのはいくらでもある、ここではあえて極端に「光」に寄っているものを並べた。

これらのことごとくが、自分に「ハマらない」という人は、つまり……(ゲフンゲフン

現代の多くの人にとって、ここに並べたものはきっと「退屈」に感じられるはずだ、「色気がない」と感じられるかもしれない、だがそれでも――それだからこそ――今これらを「摂取」せよと申し立てておきたい(ちなみにマイケルジャクソンは「退屈」になれないのであえて外した)。
現代、「光」の属性を持っている人は極めて少ない……と、こんなことを言うとまたウンコスピリチュアルみたいでサイアクだが、もう踏み越えて言うしかない状況なのだ、あなたにハマらない、このあなたの趣味でないものたちをわけもわからず摂取せよ。

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一応、身体の点についてのメモというか、雑記

性でいうとヴァギナのあたりに、生命そのもの、および「大地」とつながる何かの、身体的な「点」がある、僕はここをよく使う、特に飲み食いによく使っている気がする。
次に、へその下のいわゆる丹田のあたりに、男性性や独立性に関わる何かの「点」がある、僕はここを、たまに使うが、ここを使いすぎると何か冷たい感じがするので、ふだんはあまり使わない。
次、いわゆるみぞおちのあたりに、何かスポーティな「点」がある気がするが、僕はここを使えない、ここをどう使えばいいのかよくわかっていなくて、つまり未発達なのだと思う。
次、両乳首の中点、胸骨の真ん中に、僕が「情動の点」と勝手に読んでいる点がある、僕はここを最もよく使う/笑う、盛り上がる、という一番にぎやかな点がここだ(本当かどうかは知らん)。

次、喉(両鎖骨中央のくぼみ)に、思いがけず「自由と想像力と、バカ」の点がある、僕はここを常時使っているが、最近になって「ここ大事だよな」とさらに重要性を再確認している。
次、眉間とおでこのあいだ(?)ぐらいに、何か「言葉の世界」とつながる点がある、ここは使っているはずだが、使っている自覚があまりない(ここを使うと集中してしまって「自覚」ということが消えてしまう様子)(自覚としては、頭蓋骨全体が「鉢」になる感触はある)。
次、頭頂部に、何かキリスト教的な「点」がある、キリスト教的なカミサマとつながる何かの点だと思うが、僕はあまりここが使えない、意識すれば使えるが、ここを使うと何か別の人みたいになってイマイチなのであまり使わない。
補足、これらの「点」は、なぜか足下の地中1mにもひとつ燃えさかってあり、頭上にもひとつ光ってある気がする、地中のものにはつながれるが(地面を踏むときに使う)、頭上のものには僕はつながれない(へたくそ)、そして背面部の仙骨のあたりや首の付け根あたりは、それ自体が「点」ではないが、そこが使えていないと他の「点」が使えませんよ、という支えの役割があるような気がする。

身体の中心軸を極限まで「まっすぐ」に――偏りなく――すると、これらの点をすべて同時に使える。

これらは僕自身の身体の感覚であって、これらが何かのセオリーに適合しているのかどうかは知らない、正直興味はないのだ、興味はないのだが勝手にそういう感覚が僕自身にあるので、僕はあくまで僕自身の内においてのみこれらの「点」を使っている。
僕はヨガをやったことはないし、瞑想やら座禅やら呼吸法やらもやったことはない、やったことはないしこれからもやらないだろう、僕はただ遊び続けているだけだ、メモはしてみたがけっきょく人間なんていつでも実力勝負するしかないんじゃないか。

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永遠の感謝には微笑が伴う
「あの人がいてくれてよかった」と永遠に思えるか。
「あの人と出会えてよかった」と永遠に思えるか。
付き合った・別れたということよりも、そちらが大事なんだ、別れたあと消えてしまうものなら、それは実は出会ってもいなかったのだ。
もし目の前の友人が、何であれ「あの人がいてくれてよかった」と、遠い昔のことでも手放さず言い、感謝に微笑むようなら、あなたはその友人を自分の友人として誇らしく思い、またそのうつくしい生に内心で祝福を贈るはずだ。

われわれはけっきょく、その永遠の感謝の中だけを生きている。
「あの場所にいられてよかった」「あの本に出会えてよかった」「あの瞬間が見られてよかった」「一緒に過ごせてよかった」、その遠い抱きしめる感謝の蓄積でわれわれの生は成り立っているものだ/そのひとつひとつに感謝の微笑を伴わせながら。
われわれはいつでも、すべてを振り返るたびに強く、「こうして生きてきてよかった」思うべきで、なればこそ、今の時間を、いつか振り返ったときそう思えるものにしなくてはならない。
だいたい、自分のことに関しては、「あのとき、ああいうバカをやっておいてよかった」と思い返せるものなので、われわれはなるべく賢明ぶらないことだ、賢明ぶった時間に微笑が伴うことはないのだから。

あなたを永遠に微笑ませる人は、何かしらバカだったはずだ。

あなたは大真面目な顔でこれを読んでいないだろうか? もしそうだとしたら、あなたは賢明さに閉じ込められている/あなたが大真面目にこれを読んでいるのは、あなたが僕のバカさをわかってくれていないからだ。
感謝というのは不思議だ、われわれはいつでも待機してくれている救急隊員や消防隊員にものすごく感謝しているが、その感謝に向けて微笑みは起こらない、そちらに大真面目な感謝と低頭が起こる、さて何が違うものやら、その先はバフチンにでも説明してもらってくれ(無責任)。
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「やさしさ」を実現する方法
や猫は、飼い主にいじめられるとすぐ神経症になる。
神経症になった犬や猫は、穏やかでなくなる。
穏やかでなくなった動物は、興奮していきりたったり、反転して自失状態になったりして、生産性を失う。
現代はそういう時代だと思う、お互いにいじめあって、お互いに生産性を失っている。

この時代において特に、「やさしさ」とは、相対的な「性質」ではなく、ただ独立してある「要素」だ。
この時代において特に、「やさしさ」とは、絶対的なバカが持つものだと思う、周りの状況がわかっていないバカが絶対的な「やさしさ」を振るう。
この時代に「やさしさ」をやろうというのは、「バカ」をやろうとすることとほとんど同義だ、だからこそそれは困難なことで、人は賢くはなれてもなかなかバカにはなれない。
しかし、「やさしさ」を実現する方法はこの現代にもあるということだ。

だから僕は、なるべく人の話を聴かない。

穏やかでなくなった人の話を聴いてどうするの、そこに生産性がありえないことはすでに脊椎動物のレベルで決定されている。
人の話なんか聴かなくても、この世界は消えない。
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I am an art man.
らびれた街路樹に、わたしは悪い夢で見た血の結晶の名残を見る、だがそれはもう過ぎたことだ。
今は"OPEN"のレッドサイン……朱色のネオンサインだ、麦わら帽をかぶって派手にいくぜ。
わたしはありとあらゆる過去を持たない、ここは中目黒、押し入れの秘密(なんでも バレなきゃ 悪じゃない)。
わたしの知らない土曜日の夜、この街はすべて二十四時間の営業をする、すべてがフリイイイイイマーケットになるのだ。

I am an art man, アドレスを教えろ、われわれの現在地を。
I am an art man, 流線型の女体、鼠径部、寝転んだ肌に陰部はない。
I am an art man, 感性はない、繰り返す、感性はない……
I am an art man, すべては笑うために、真実に恥を掻かせろ。

東京十分、これ以上の街はない。

何しろ皇居、ヨコハマ、湘南の海までつながっている、横須賀の火薬、嵐の雲が丹沢の風に流されてゆく。
きみの茶色い艶々の髪、きみは感性がないからうつくしい、生きた眼球が罪のように夜を捉えている。
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カミサマを見ちゃった(夢の中だからいいだろ)

ミサマを見ちゃったぜ!! まあ夢の中だからかまわんだろう。
――ある日、青空は巨大で、わたしを畏怖させている、ところどころの薄雲が建築物めいて圧巻だった/わたしは友人らと戯れに空を見上げている。
地上にも仏像はあるのだ、しかし、見上げるところ遥かに霞んだ青空とも宇宙ともつかない向こうに、円陣を為して端座し、吾らを見下ろしている白い砂糖菓子のような何かがある/その横にはひとつ巨体の砂糖菓子もある。
「あれは本当にカミサマじゃないか」、それはありがたいというより、偉大すぎて"カッコよすぎ"て、吾らは震えあがる/しかもよく見れば砂糖菓子に見えるカミサマはそれだけじゃなく、実は巨大な青空の一面にひしめいている……

目覚めてわたしは夢うつつに大量の涙を流していた、わたしは同じような感触の夢をこれまでに見たことがあり、また夢でない似たような景色もきっとどこかで見たことがある。
おかしいな、僕は昨夜まで、PS4の「ブラッドボーン」をクリアして、ガスコイン神父を内蔵ブッコ抜き攻撃でメタメタに殺していたんだが……一日のバリエーションが利きすぎだろ!
夢の中で見るかぎり、カミサマに関する情報はいわゆる「マンダラ絵」の形状を取るのは間違いないようだ、確かによく見ると青空の一面に端座する砂糖菓子たちのマンダラ構造があった。
しかしカミサマの夢を見ようが、「ブラッドボーン」のウデマエはやりこみ勢とは比較にならず、動画を観てそのウデマエの違いに愕然とするのだった、なんでみんなそんな簡単にパリィ取れるんだよ、僕は割とヒイヒイ言いながらクリアしたんだがな。

カミサマは、なくては困るが、生活の役には立たん、遠すぎるから。

夢の中で見る限り、カミサマは超カッコイイものだったが、だからといっておれが暮らすのに直接役には立たんわな、何しろそれは遥かに遠すぎる、「遠すぎて役には立たん」と確かに思ったのだ/そもそもカミサマを役立てようという発想がどうかしている。
大昔からゲーム少年として育ってきた僕が、現代のゲームやりこみ勢に大きく後れを取っていることについて、「こんなことでいいのか」と忸怩たる思いがするのだった、人間が生きているというのはどちらかというとこっちだ。

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ヘンな僕から、ヘンではないあなたへ
から僕の言うことを真に受けないこと。
あなたは、ヘンではないし、間違ってもいない。
だが、それがいまいちうまくないのだ、あなたはヘンであるべきだし、間違ってもいるべきだ。
ヘンなことをしなさい、そして間違ったことをしろ、雑誌を冷蔵庫にしまえ、使うアテがないがすごく切れそうなハサミを購入しろ。

あなたが友人宅に行って、冷蔵庫を開けたとする、あなたは「な、なんで冷蔵庫に雑誌が入ってんの?」。
彼答えて曰く、「本棚がないし、ジャマだったから」と、このことに何の問題がある、このことのどこに退廃がある?
彼がハサミを買ってきて、「何に使うの?」、「め、めっちゃ切れそうだったので……」このことに何の問題がある、このことの何が不道徳なのか。
僕の言うことを真に受けるな、しかし、真に受けていないにもかかわらず、あなたは言われたとおりのことをやってもいい、真に受けていないことをしてはいけないというルールはどこにもない。

雑誌を冷蔵庫にしまえない男に、スカートをめくられると、腹が立つ。

ヘンなことができないという抑圧的な人間が、そのときだけ鼻息を荒くしてスカートをめくられると、腹が立つのだ、ふだんは思うがままに生きていないのに、そのときだけ思うがままふうに振る舞うのをやめよ。
やるつもりのないサーフボードを急に自作し始めて夢中になる男がいたとき、あなたはその男に「肩をもんでくれ」と言われても腹が立たない、どれだけ表面上はヘンでも、彼がこころのままに生きていることはしっかり伝わってくるからだ。
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永遠のササイコー
遠のササイコーでなくてはならない、サイコーの上位、永遠に流入してカラフルな星印にまみれたやつ。
こんなことを言うといかにもヤバイ奴に見えるしかないが、そうではないのだ、僕は鉄腕DASHを毎週録画するぐらいには健全な人物だ。
永遠のササイコーはいい、というよりこれしかない、ロリポップアメにスイートジャム、それは恋あいに関係ないが、そもそも恋あいに期待するほうがおかしい(注:読み飛ばしていい)。
恋あいとセックスは、サイコーでなくてはならないが、恋あいとセックスなしでもサイコーでなくてはならない、そりゃそうだろ、恋あいとセックスでみじめさを救済しようというのは厚かましすぎるだろう。

永遠のササイコー、このポップさのよろこびを見よ、そこには太ゴチックが……あるのだが、よく考えたら文字はどこにもなかったな。
それは芳醇なのだが、あんがい奥行きのないノッペラボーも芳醇ということで、そういえばそういう絵画もあるな(ピカソの絵には奥行きがない)。
永遠のササイコーというのはつまり、これまでの「サイコー」は、もういいじゃんということなのだ、よく知ってるサイコーとか、イメージしやすいサイコーとか、イメージするだけで疲れるじゃん。
「なんでだよ」と思うときが、逆にいつも正しかったりするが、そうかつまり、サイコーは認識可能だがササイコーは認識不能なのだ、ササイコーはサイコーの上位でありながら同時に「なんでだよ、まったくサイコーじゃないだろ」という性質も持っている。

PLEASE NO GOOD

永遠のササイコーは、逆に「一時的」だ、つまり「あのときね」という永遠である、あのときの永遠を引きずってきたらそりゃ使いまわしの遺物にならぁ、一時的なものを恐れるなかれ。
この世界には、"GOODなもの"というモノは存在しないのである、なぜならGOODと評定された時点ですでにモノでもなければブツでもないからだ/永遠のササイコー、あのときかぎりのササイコー。
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某日難儀

あもう、難儀するぜ!!
創るというのはなぜこうもややこしいのだ。
僕は天才なので、つまり、僕が僕のチョイチョイによって創作しているのではないので、自分ではそう都合よく操作できないのだ。
かといって操作しないと永遠に何も始まらんしな、ここまでヤバいところに接続してまだ足りんか。

何事でもそうだが、ちゃんとできるとき、およびうまくできるときは、本当に何が何なのかわけがわからん。
比べて、入念にベストの状態を作っていっても、本当に何にもならないしな!!
唯一の手掛かりは、「創る」ということだ、ここにわずかでも「創る技術」が混入すると、もう天才的なアリャリャは発生してくれない。
天地創造とか言うけれど、そりゃカミサマなんだから創るでしょうよ、「カミサマ」と「創る」のあいだには1ナノのスキマもない、「カミサマ」と「創る」は同じなんだから、そりゃカミサマっていえば創ってんだよ。

天が天才なのであって、おれは「邪魔」だ。

邪悪な魔物であるおれに何ができるかって、そりゃジャマしかできんよ、ジャマさえなけりゃ天才なのに、その天才を厳密に求められるとボクにも限界がですね……
とにかく難儀している、おれがGoodなときはだいたい天才的にはNo goodなんだ、じゃあつまりおれが発生する前にやるしかない、やっぱりアレしかないのだ(「アレ」が何なのかは面倒なので説明しない)。

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メモリ増設した!!
はは、これまで4GBだったメインメモリに8GBメモリを増設して12GBにしたぜ! キングストン社のメモリで七千円弱した。
元からあるメモリとメーカーごと違うのでむろんデュアルでは動かないが、あんまり関係ないっぽいな、シングル動作で十分だ。
これでcore i5の本来のCPUパワーも発揮されるであろう、最近は複数窓であっさりフリーズするようになっていて、「今どきフリーズとか……」と落ち込んでいたのだ、しかし今メモリ三倍で快適サクサクとなり気分の好いことこの上ない。
ところで、ずっと前にも思ったことだが、マザーボードに増設メモリを差し込むとして、なぜその差し込み口はあんなにキチキチで「力任せ」なのだ、これだけハイテク製品なのだからメカ(物理機構)も快適にしてくれよ、なぜか何年経ってもメカの部分は「電子工作」のままだなオイ。

メモリを増設するときは、まず「CPU-Z(CPUID)」という無料アプリを入れるのだ、そして現在使っているメモリの「タイプ」を調べる、この作業は必須なので省略不可能となる。
で、「タイプ」の何を調べるかというと、「DDR3とかDDR4とか」を調べ、次に「PC3-12800」とかを調べる(鵜呑みにしろ)/で、これらのタイプについて、「現在刺さっているメモリと同じタイプのもの」を買ったほうがいい、それ以上のことはマニアックすぎて専門的な奴にしかわからん。
DIMMというタイプ表記があるが、これはふつう個人用のタワーデスクトップなら「DIMM」で、ノートパソコンなら「S.O.DIMM」というのを選ばないといけない、これは大きさが違うのでタイプが違うとマザーボードに刺さらないのでどうしようもない(スリム型デスクトップはどっちか怪しい)。
とにかくまあ、「CPU-Z(CPUID)で、今刺さっているメモリを調べて、それと同じ『タイプ』のものを選ぶしかない、デュアルで動くとかは初めから諦めろ」ということになる/うーん、メモリ増設という誰でもやりたがりそうなことが、ややこしい上に前近代的すぎるよな、なんとかしろビルゲイツ。

DDR( )、(DIMM or S.O.DIMM)、PC( )-(     )、←この空欄を埋めたらメモリ増設ができます。

なんでこんな話をしているかというと、単に書斎のPCが快適になって気分がよいからであった、その他の含みはまったくない。
こうして快適になったPCをよろこび、タスクマネージャーからそのパフォーマンス性能の表示を眺めていると、「あ、ハードディスクが遅いな」と気づき、次はHDDをSSDに換装したくなるというどーでもいい欲求がムクムクと起こってくるのであった、こういうのってやりだしたらキリがないわな。
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温泉

「電車で、日帰りで」ということに限定すると、箱根湯本が圧倒的に有利だ、湯量と立地をここまで兼ね備えている温泉地は他にない、いっそ「ずるい」と言いたくなるほどだ。
関西なら有馬や城之崎が温泉として有名だが、これらはそこまでの「湯量」そのものを誇るものではない/というよりもはっきりとした「湯量」を誇る温泉郷は実はそんなに数多くない。
湯量で言うと、やはり草津はずば抜けている、馬鹿げた湯量が自噴している(見りゃわかる)、関東で湯量そのものを味わいたければ草津か那須か箱根か、強いていえば伊豆というところだろう。
湯量では別府と奥飛騨もずば抜けているはずだが、まだ行ったことがないので僕は知らない、どうしても大きな自噴は僻地にある、草津だってほとんど伊香保からさらに小旅行に出るぐらいの距離だ(だが強引に日帰りで行く)。

若い人は、箱根か草津か伊香保あたりがエンジョイしやすいだろう、伊豆あたりは付属する「街」が渋すぎるので海で遊ばないかぎりはエンジョイしづらいはず/那須方面へは「キャンプ旅行」のつもりでどうぞ(あと伊香保は閑散期は本当に閑散としているので注意)。
あるいは、温泉郷全体としての湯量は大きくなくても、箱根から山を上がったところの強羅とか、鳥取の三朝温泉とか、水上の宝川温泉とか、富山の小川温泉とか、ピンポイントで名湯が湧いているところを狙う方法もある。
ピンポイントといって、秋田の玉川温泉などは、本当に塩酸の風呂で湯治に使うような湯だから、名物といってあまり遊びにいくようなところではない(見物するだけでビビるぐらいの塩酸湯が湧いてはいるから面白くはあるが)。
箱根の周辺には、伊豆、熱海、石和、湯河原、奥湯河原と無数の温泉郷があるのだが、どこもチャラくは遊びづらいので、みんな諦めて箱根湯本で遊んでおいでと、僕は勧めるしかないのだった、けっきょくロマンスカー最強なんですよ。

僕は温泉に詳しいわけではない。

ただ自分の得てきた体験について話しているだけだ/しかし詳しくないにしても、いいかげん掛け流しか循環かは、湯に触れた瞬間にわかる、そりゃ誰だってそうなる。
僕が勧めたいのはいつも、何かに詳しくなることではなくて、たくさん遊びましょうよということなのだった。

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