☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
おれは何もできない
霊の庇護でもあるのかよ、と思わせるほどでないといけない。
聖霊の庇護が、本当にあるとかないとか、そういうことを超えてしまうのが本分だ、それはおれの本分だし、誰にとっても本分だ。
聖霊の庇護について、サンプルはというと、そんなもん神話や聖書にしか載っていないので、サンプルはない、たとえ事実が毎日百万回現れたとしても、それはサンプルにはならないのだ、それはサンプルという発想の領域にないことだからしょうがない。
われわれは、イチローがメジャーリーグで活躍したことを知っているが、メジャーリーグの球場でそれを目撃したわけではない、スポーツニュースで聞いただけだ、だからだまされてはいけない/それは、メジャーリーグの球場に行けということではない、あなたの立っている場所であなたが活躍しろということだ、まるでサンプルにならない聖霊の庇護でも受けたみたいにだ。

他人には、理解されなくて当然だ、われわれがイチローを理解していないように、少しでもまともなことは一般に理解されない。
一般に理解されるということは、実は何もしていないということだ、まともなことのすべてはサンプルの領域を離れるのだから、まともなことのすべては一般に理解されない/一般に「へええええ〜」と言われるのは当たり前で、そのように驚かれたとしても、やはり理解はされていないのだ、自分が何かを知るというのはそういうことだ、一般に理解されることを知ったとしてそれは何かを知ったことにはならないだろう。
一般に理解されないということを、ひとつの目途にするべきだ、一般に理解されないというのは、たとえば猟奇殺人犯が童女を殺すことで射精するというようなことだ、そんなことはいくらつぶさに報道されても、けっきょくのところ本当の現象を直接知る身分にはならない、そうして悪霊でも取り憑いているのかと思わせるほどの人がいるように、聖霊の庇護でもあるのかと思わせるほどでなくてはならない。
聖霊の庇護があるかないかについて、聖霊は「ある」と言うだろう、おれは言わない、おれには言う権限がない、おれが言うことはただひとつ、「おれには何もできねー」ということだけだ、童女を殺して射精する猟奇殺人犯を見ればわかるとおり、当人は「何もできない」人じゃないか(いかん、これではまるでおれが猟奇殺人犯みたいな文脈じゃねーか)。

おれに超能力はない/何度も言うように、おれは何もできない。

超能力なんて、ふざけたことを言ってはいけない、人に超能力なんてあってたまるか、そしてこの世界で面白いことといえば、唯一奇蹟と超能力だけなのであった、もしこの世界に聖霊なんてものが本当にあるのだとしたら、聖霊というのは意外にイケイケなものだと思う。
偉大なるおれさまとして思うのだが、どうして偉大なるおれさまが、やれ奇蹟やら超能力やらいう、チャチなものに努力を向けねばならんのかね? そんな面倒くさいことは、他の誰かにやらせるに限る、面倒なことはすべて他人にやらせるのがモットーだ、ヨソの誰かができるのならば、なぜいちいちおれがやる必要があるのか、おれは何もできないのだ、おれに起こることといえばむさぼりとブチギレと頭クルクルパーだけなので、こんなものはなんとかできる奴がなんとかするしかない、おれはそれをなんとかするという熱心な奴の邪魔はしない、何しろ邪魔さえできないほど何もできないのだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
福袋は出来事であり内容はゼロ

の世界にアホが出現したらどうすればよいか?
この世界にアホが出現したら、そいつはサンドバッグにする、ただし、血眼になってパンチを打つ必要はない、血眼になると今度はこっちが「パンチするアホ」になってしまう。
この世界に出現したアホは、ことごとくシリアス社製のサンドバッグになるのだ、それを見てどうすればよいかというと、とりあえず大喜びすればいい、大喜びしたあとに別に用事はないので、賢き者たちは何かステキな夕食でもとりにいく、その後サンドバッグはどこかにぶらんぶらんと吊されている。
サンドバッグの人生はどのようかというと、端的には「刑! 刑! 刑!」という感じだ、そのことについて当人は「え〜〜〜」と渋っているのだが、サンドバッグなのだからまあしゃーない、賢き者はクリスマスに向けて Joy to the world でも唄うのだった。

サンドバッグの刑罰は、ニヤニヤした者から順に終わる。
ニヤニヤしている者は、もうシリアスではないからだ、シリアスでなくなると、サンドバッグの刑は終わってしまう、そのあと異性にモテないと結局サンドバッグに戻るが……そんなこんなで、年末にはいつもどおり holy night がやってくるだろう。
この世界に完璧マンはいない者だが、いないなら作ればいいのであって、作るには「完璧マン」と言えばそれで済むわけだから、うーんおれは完璧マンと、言ってしまえばいいだろう、もちろん「マン」は完璧ではないので、完璧なのは世界と言葉のほうだ、マン基準にするから言葉がいつまでも呪詛になって、シリアス社にスカウトされて、サンドバッグにジョインするのだ、この世界には福袋と砂袋しか存在しない。
福袋と砂袋があったとして、おれは福袋しか抱きしめないが、おれはサンドバッグを馬鹿にしているのではない、ただおれ自身がサンドバッグになりたくないだけだ、それでやむをえず世界の真理を説いている、完璧マンという言葉が完璧である以上、マンが完璧になる必要はない、さあさ完璧な言葉に完璧な祝福が降り注ぐがよい、繰り返すが完璧マンという言葉は完璧だ、ただそれだけでいいじゃないか。

おれの話には内容がゼロで、出来事だけがある。

出来事はイコールハッピーだから、福であって福袋だ、ハッピーが絶え間なく降り注ぎ続けるという以外に、いかなる解決の方法があるだろうか? 解決という発想には解決パンチという手段しか生じず、パンチが生じているようではすでに所属はサンドバッグなのだ、なぜパンチするのか、偉大なるおれさまなどはパンチ回数ゼロでチャンピオンベルト巻きまくりである、先に世界を制しているのだから左なんか制さなくていいだろという話だ暴力団め。
内容がゼロということはむつかしいが、正しくは内容をゼロに "している" のだ、ご存じのとおり福袋は内容がゼロだろう、おれは女の子が好きで久しぶりにババロアが食べたいと思うというような、そんな操作をしながら、内容をゼロにする、どこかで誰かはサンドバッグであり、おれはババロアを思い耽っているということ、どいつもこいつもおれのことが好きだというのだからしゃーない、サンドバッグに対するアドバイスはエジプトの地中に棲むというハラグロイキリムシの顎の下に書かれているので大至急カイロに飛んで調べてこい。

バカをやろうかあ | comments(0) |
ゼッタイ祝福を受ける方法☆(罠)
ざわざタイトルに罠と書いたのに、このタイトルをタップする者は幸いです。
本日11月7日は、偉大なるおれさまの偉大なる誕生日であるゆえに、大いに称え祝うがよい、この日を祝わないものはただちに玄関の四隅にカビが生える呪いにかかるだろう。
美女と美少女は、セクシー自撮りをおれさまに送りつけて、生涯の大事業を為したことを己に寿(ことほ)ぐように、美女というほどでもないがそこそこの者も、まあ似たり寄ったりのことをせよ、あとの女どもと男どもは、よくわからんが、デスクなりテーブルなりを四回叩いてウヒョーと言い、祝福のこころを明らかに表するがよい、これらのことをしない者はリモコンの電池が液漏れするという災いに遭うだろう。
というわけで旅行から戻ってきて、今日はおれの誕生日なのであった、たとえ世の中がどのようにブルーになろうとも、この日だけはおれを祝うパーフェクトデーなので憂き目のことは考えなくともよい、まあ別の日もこのおれを祝うのであれば一日たりともブルーにはならなくてよいだろう、しょーもない自分のことなんか考えているからブルーになるのである、さあこの世でおれだけを祝うがいい、祝わない者の空は生涯に亘ってドドメ色である。

というわけで、なんのこっちゃわからんが、休養もしたし、偉大なるおれさまは絶好調である。
そしてつくづく思うが、この世界には大切なことがあるのだ、たとえその大切なことに今すぐは準じられなくても、こころの隅っこにその知識を留め続けねばならない。
アホの信じることは常にハズレなのだ、そして、たとえわずかの自覚もなくとも、人は己のうちでわけのわからない、根拠のないこだわり等を、自分の第一の信仰にしているものなのだ、このエセ信仰が入りこんでいるうちは頭がパッパラパーである、あなたが物理の授業で百パーセント何もわからなかったのはこのアホエセ信仰が入り込んでいたからなのだ、あなたの脳に問題があるわけではない(脳は壊れていない限りは常に高性能である)。
この世界は意外にざっくり作られていて、ハズレコースには本当にキレーにハズレが用意されている、成長度ゼロというか、進捗度ゼロという場合が本当にあって、「そんなバカな」とデキる人ふうに笑ってみても、ゼロなものは本当にゼロなのだ、そのへんは本当にざっくりと作られていて容赦がない、あなたが今から五〇〇〇〇〇〇〇〇人のおばちゃんに大切なことを訊いてまわっても、本当のことは教えてもらえず、宗教施設を回っても無駄だ、そんなことよりこのおれを祝え〜 まるで冗談にしか聞こえないだろうが、そのとおり、冗談を信じろと言っている、マジなものを信じたヤツが負けなのだから冗談を信じろといっている、さあおれにセクシー自撮りを送れ、何のためかというとおれをイイ気分にさせるためである。

おれだけがデタラメを言っているのは、こいつだけ「呪われていないからデタラメが言える」ということだ。

おれはさんざん考えてきたし、さんざん見てきたのだ、おれに「感謝」する必要はない、感謝なんかゼロでいいので、祝え、そしてエロめの女はセクシー自撮りを送れ、それがわからないようでは、自分が何のためにエロめに生まれ育ったかがわかっていないということだ、そういうものはお前の足しにするために与えられたのではなく、おれの足しにするために与えられたのだ、そうでないと自分自身がブキミでしゃーないだろう、そのあたりをよくよく考えろ。
ただし、一八歳未満が激し目のやつを送ると、おれがお縄を頂戴することになるので、そのあたりはうまいこと……まあ別にそんなことでお縄を頂戴してもかまわんがね、というわけで本日は偉大なるおれさまの偉大なる誕生日なので、このポイント億倍デーに乗っからない手はない、こんなアホなタイトルをタップしたあなたは幸いです、あなたがやめないかぎりアホな日々が続いてくれるでしょう(当たり前)。
バカをやろうかあ | comments(1) |
(正しいことのあとには奇蹟が降る)
蹟が降っている
慈悲が降っている、聖霊が降っている
誰にもわからないものが降っている
わかるものからわたしを無縁にしてくれる

わたしのくそまじめに呼応して
何かがこれを降らせてくれている
何の歌でもない、それでよいのだというだけの歌が
正しいことには何もないが、正しいことのあとには奇蹟が降る

最大の大人だけ、最小の子供に還らせてもらえる

大人の扉の果ては永遠の子供だ
わたしは還るために進むのだ
バカをやろうかあ | comments(0) |
(涙のこと)
のことまで
技術にせずともよかろう
涙のことまで
説き明かすことはなかろう

涙のことだけ
本当のわたしのことであって
涙のことだけ
わたしの永遠に与えられたものだ

それはなぜかわたしを励まし続ける

涙のことだけがわたしを一番奥で笑わせてくれる
涙のことだけがわたしに解決と無解決を与えてくれる
バカをやろうかあ | comments(0) |
(ずっと遠い記憶の中に)

人で歩いた道があって
誰かと歩いた道があって
みんなで歩いた道があって
どれひとつ忘れていない

なんでもないポップスが流れていて
それがポップスということも当時は知らなくて
今でも実は知ってはいなくて
ただどれひとつ忘れていない、僕限りになっても僕は忘れないだろう

わたしは遠い記憶の中にいる

わたしがそこにいるのに遠いというのは妙な表現だ
でもずっとそこにいた、わたしはずっと遠い記憶の中にいた

バカをやろうかあ | comments(0) |
余裕がない
だの愚痴でしかないが、余裕がない。
まるで暴風雨の中でライターを点けているような気分になる。
風の流れを読み、雨滴を弾きとばしながら、「理論上は可能なはず」といってライターを点火しているような、曲芸をしているような気分だ。
集中力の極限を用いれば、確かにそれは可能だが、それを通常営業とするのは不自然すぎるだろう、もうおれが不自然だからといって、おれ自身も注目しなくなってしまったけれども。

草津に行って骨休めしてきたのだが、帰宅して一晩経つと、起床後、もう自分を追い込んでいることに気づいた。
目が覚めると、もうその時点で、異様なほど自分を追い込んでいるのだ、そうでなければ書くものなんて見つからないからだ。
だがこれは不自然な状態で、不自然といってもそれしかもう方法はないにせよ、不自然ということも見落とすわけにはいかない、これではもう親族が全員急死しても一ミリも動揺しないような状態だ、そんなことは僕にとってはへっちゃらだったとしても、そんなやり方を元に誰か何かをおすすめするわけにはいかない、非人間的すぎる。
余裕がないのだ、「うぬぼれ」を題材にまとめた話を書こうとしているのだが、それ以前に余裕がなさすぎ、一秒も隙間なく自分を追い込んでいるのが病的だと、ひとまず自己確認するしかなかった、これはただそれだけの話で他意は無い。

目覚めると、すでに自分を追い込んでいて、一方で「自分の部屋か」と、目覚めの場所に驚いている。

つまり、自分がどこで眠っていて、どこで目覚めているかも、すでに見失っているのだ、こんな余裕のない状態を常にするというのは、僕には可能でも、他の誰かに勧められたものじゃない、何かもうちょっとまともな状況が訪れてほしいものだ、ただの願望にすぎないにしても。
この先に何かあるのだろうか、もう何かあってほしいというような希望さえ、不必要なものだとして消去してしまったが、そういったことも含めて余裕がなさすぎるだろう、脳みそも全身の霊も、常に何か大量の演算をしている、そうすれば確かに暴風雨の中でもライターの火は点くのかもしれないが、これを「まとも」とは言えないなと、あてもなく認めているのだった、だからどうしたらいいという方法にはまったくあてがない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
方法はゴミ箱へ、おれはずっとあがいているだけだ
くづく、独り相撲というか、僕一人でまるで見当外れの、世の中からズレたことをやっているのじゃないかと思う。
まあでも、他人のことは、けっきょくわからないので、わかったふりをせず、おれはやはりいつもどおりの、ぶっちぎりのおれでいるしかない、と思っている。
いつも偉そうなことを言っているが、なにひとつ、前もって準備できたり、自信を持ったりすることはできず、いつも白紙の暗中模索だ、何かに落ち着いて取りかかれるということはたぶんこの先にも一度もない。
ただ僕が知っているのは、ふとしたときに、何かのフタがあくのか、底が抜けるのか、完全に大丈夫、という、完全な成功に接続する瞬間があるということだけだ、いつもそのフタはまぐれで開き、どうやって開くのかは未だによくわからない。

何かに落ち着いて取り組むとか、何かに安心するとか、そういうことは一度もなくて、ひょっとすると僕自身、常に極大の不安に晒されて生きているのかもしれない、こんなことは他人と比較できないが、ひょっとすると他人と比べると極大の不安のさなかにあるのかもしれない。
何しろ、こうして一文一文書くだけでも、何が正しいとか、どういう技術があるとか、アテにしたことは一度もないし、それでも一行でも面白くないと、それは面白くない奴なんだからな、けっきょく何かについての方法論とかノウハウとか、そんなものは持ったことがないし、アテにしたことも一度もない。
わけがわからないからいつも、最終兵器を出すしかないという具合だ、最終兵器はいつも、偉大なるおれさまならなんとかするんだろうという、自信さえアテにしない自信だ、いくらおれに自信がなくても、偉大なるおれさまはなんとかする、何しろ偉大なんだからそういうものだろうという、間違っていれば間違っているほどアテにできるという感触だ/よっておれに何かを相談するということは常に間違っている、相談で解決できるものならおれが誰かにすべてのことを相談したい側だ。
何の補償もない、何の権威もない、何の頼りもない、だから不安があるというよりは不安だけが100%を占める中で、「それ以外に面白いありかたは存在しない」というのが僕の考え方だ、とことん不利になり、とことん武器をなくせということ、何かに頼るこころが1%でもあったら、それは「弱い」ってことだと思うんだ、まあおれがズレているのは知っている、ズレてなかったらわずかでも安心みたいなものが芽生えるのだろう、だから最もズレているところに立ち続けるしかない。

おれよりあがいている奴がいたら、おれの負けだ。

おれは自分自身に対してタチが悪いのかもしれないが、おれはわずかでも、計算して妥当にやっている自分が見えると、その途端に自分を粉砕してしまう、何万字書いてあってもその瞬間にすべて消去してしまう、おれは自分に対する積み立ての一切を、一ミリたりとも許さない、おれの意志がそのようにあるのではなくて、何かが初めからおれの積み立てを一切受け付けず、そのとたんに弾いてしまうのだ、コイツは初めからそれを許す気がないので、粘ってみても必ず時間の損にしかならない。
方法はない、方法と呼べる一切のものには何の面白みもない、かといってヤケクソのものなんてゴミにしかならなくて、すべてのことは度肝を抜くほど計算されつくしていなければならないのだ/何の方法も積み立てもなしに、つまり計算なしに計算しつくせというのは矛盾だが、よくよく見ると矛盾ではない、まだ発見されていない数式に接続すればいいのだ、数式は入念な計算の究極にあって、まだ発見されてないのだからそれは手元に方法としては存在していない、まあそんな理屈をこねていてもどうにもならないが、これは何の話をしているかというと、おれが一番あがいているんじゃねーのという、根拠のない自慢話をしたかったのだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
おれが愛してやらなければ
とえばiPadを持っているのは世界でおれだけだ。
秋の涼風が頬に吹き付けているのも、世界でおれだけだし、過去に神戸に住んでいたのもおれだけ、現在目黒区に住んでいるのもおれだけだ。
おれはまったく無邪気だったので、カミサマを使役していた、そして現在も、やはり最低限のことを、「カミサマを使役すること」に置いている。
あのときからずっとおれは変わっていなくて、唯一変わったといえば、それがカミサマの使役なんだと気づいたことだけだ、それだって表面上の利便にすぎないから、やっぱりおれはあのときから何一つ変わっていない。

おれが愛してやらなければ、この世界は存在しない。
この世界が「存在する」というのは、おれが愛してやっているということだからだ、カミサマだっておれが愛してやっているのだ、それがカミサマなのだということをつい最近知ったにすぎない。
カミサマに感謝を捧げるようなアホ行為は断じてやめろ、おれは生まれてこの方、一度たりとも宗教的な気分になったことはない、どこの聖典にも宗教的な気分になれなんてアホ行為は書かれていない。
どんな聖人だろうがカミサマだろうが、おれが愛してやっているから存在している、すべての場所でさえ、あるいは季節でさえ、おれが愛してやっているから存在している/ここ数年の不毛は、わざわざ悪魔を蓄えた奴がおれに愛されることを拒絶ないしは躊躇することから起こっている、どんなアホな流儀があるのか、一顧だにする価値もない。

おれの愛以外に存在を言い張るから呪われる。

すべての存在の、形式および存在度は、おれがその対象をどのように愛するのかで決定するのだ、そこに茶々を入れるからすべてが行方不明になる/スポーツ選手がスコアの反映だけで存在するように、この世界のすべてはおれの愛の反映だけで存在する。
それはつまり、おれが主体的な存在だということを意味している、どんなカミサマだって、この「主体」の代替はできない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
一般という感覚を持たないこと
般に分かるようには絶対に書いてやらん。
そもそも、「一般に分かる」ということ自体が致命的なハズレだ。
いつの時代からか、人は人に対して冷淡になり、同時に、人に対して気を遣うようになった。
冷淡なのに気を遣うというのはどういうことだ、フレンドリーな工作で自分の一生をつぶす気かよ。

なぜ「冷淡な親身」になり、「ハズレフレンドリー」になったのか、理由はよくわかっている。
魂が見捨てられたからだ、場合によってはカミサマから切られたと言ってもいい、そうなるともうどうやっても人とつながるようなことはできない/そもそもつながりを得ようとしている人はつながりを失ったからそれを得ようとしているにすぎない。
一般に分かるようには絶対に書いてやらんが、そもそも、現代における「一般」というのが、もう「終わっている人」と同義だ、人って本来もっとワガママなもので、そのワガママな世界の中に特別な連中を得たものだろう。
ヒューマニズムを主題にする時点で、もう誰ともつながりはないし、何の世界も残っていないのだ/初めからそれは何かを得ようとしているのではなくて、すでに失ったものを、これから得るものだと恣意的に誤解してごまかしているだけだろう、これは「死ね」と言っているのではない、それでも死なずに最後まで自分を見届けるべきで、だからこそキツいだろと言っているのだ。

生にせよ命にせよ、ハズレていない奴は主題なんか持たない。

恣意的に「主題」を設定すれば、あたかも自分には道が拓けているように見えるが、それは錯覚だ、まともな奴は自分のやっていることに興味なんか持たないし、自分のやっていることを意識したりしない。
どのように解決のすべがあるかというと、解決のすべはないのかもしれないが、ただ本来あるべき唯一の状態は、「一般」という感覚を失うことだ、おれだけは周囲の一般的状況を認識しない、それでおれは少しだけ女がデートする価値のある男になるだろう。
バカをやろうかあ | comments(0) |
アングリー・ヤング・マン
えてもらってなんとかなるものではないし、まともな音楽は「音楽」なんて感じはしないものだ。
おれが書き話しているこれだって、いちいち「文章」には見えないだろ?
詩文っぽく見える詩文は、詩文ではないし、セックスに見えるセックスはセックスじゃないし、恋愛に見える恋愛は恋あいじゃない。
直接いいことをやればいいのだろうか、おれは知らんけどな、ビリージョエルのアングリー・ヤング・マンでも聴いてみればどうだろうか、おれは音楽を聴くなんてやったことがないけれど。

たぶん僕には「センス」がないのだと思う。
思えば僕は、何一つ「勉強」もしてこなかったのだ、勉強もダメで運動もダメで、センスもゼロという、まさにそのとおりに生きてきただろうし、そのまま生きていくのだと思う。
僕は分からない奴なのだ、そして、分かっている人たちが話しているらしい「分かっていること」について、ずっと「分からないなあ」と感じてきた、もし音楽を和音やメロディと呼び、言葉を名文と呼ぶのであれば、僕は何一つ分からずにきた、僕はびっくりするぐらい「感動しているだけ」の奴だ。
おれは本当に分かんねー奴だな、人が音楽の話をしているとき、僕だけ音楽とはまったく違う話をしている気がする、たぶん僕は物事を二重に捉えられない奴なのだ、「アングリー・ヤング・マン」が「音楽」だということが分からないのだ、おれにはアングリー・ヤング・マンしか聞こえない、おれはそういう病気らしい。

おれは雑誌を読んだことがない。

そもそも、「読む」という行為じたいが、おれには無いように思う、アメリカという外国があるのはよくわからない、「アメリカ」があるのはわかるが、「アメリカ」という「外国」と言われるとそれだけで僕はもうよくわからない。
二次的な捉え方とか、論外で、一次的な理解さえできず、僕は0次的な体験しか持てないようだ、だから僕は世の中のすべてのことがさっぱりわかっていない、おれが女をしばいて何が悪い。
バカをやろうかあ | comments(0) |
(雑感)ひょっとして、忙しいのでは
つのまにか僕は、自分でも不気味なぐらい、「疲れる」ということがなくなった、疲労という現象がどんなものだったか、すでにわからなくなりつつある。
一方で、ワークショップの直後などは、バカスカ食って昏倒するみたいに眠らないと、恢復しようがないのだが、これはひょっとして、僕は忙しいのではないだろうか? これまでにそんなことを考えたことはなかったし、忙しいという言い方はそんなに好きではないのだが……
疲労という感覚はまったくないのに、たとえばこうして文章を書く直前、さすがに「う、うごかねー」「無理っす〜」みたいな時間が少なからずある、それでいつも、「別に疲れているわけでもないのに、おかしいなあ」と感じていたのだが、これはひょっとすると、僕はいそがしいのではないだろうか/そういう発想を持ったことがないので、僕はめずらしく驚いているのだった。
なんというか、毎日、魂を使い果たして「も、もう無理っす〜」となっている感覚はあるのだが、一方で「疲れている」という感覚はまったくないので、休もうとする気も起こらないのだった、ひょっとしてこの状態は「忙しい」というやつなのではないだろうか、いくらなんでも処理できない量の体験や発見が続いて、でも疲れてはいないので「全然余裕だけどもう無理」というわけのわからない状態に、このごろの僕はよくなる。

そういえば僕は、ソシャゲはやらないし、キャバクラにもいかないし、パチンコもやらないし、そういうことにはぜんぜん興味ないなあと思っていたのだが、実は興味うんぬんは関係なくて、単に忙しいのかもしれない。
何しろ、未だにアサシンクリードの最新作をやっていなくて、自分で負い目を覚えているぐらいだからな、こんなことではアサシン失格だとわれながら反省する、このままではテンプル騎士団が跳梁跋扈するばかりだ。
なんというか、毎日が爆裂に楽しいのは何よりでけっこうなことなのだが、爆裂でない日がないという状態、つまり「ふつうの日」とか「特に何もない日」というものが、もう何年も一日もないのだ、それはそれでけっこうキツいものだぞと、僕はなんとなく主張したい、「ふつうの日」というのがどんなものなのか、いつのまにかすっかりわからなくなってしまった。
クリエイティブな日々を過ごしたい、というわけではなく、非クリエイティブなすべてのことが、もうわからなくなってしまったのだ、「特に何もない日」というのはいったいどういう状態なのだろう、よくよく考えるとすべての景色とすべての季節とすべての風がすべて確実に突き刺さってくるというのもなかなかキツいプレイ状況なのだった、四方八方が楽しく輝いていると正直思うが、それはひょっとしたら別の意味では「忙しい」ということなのかもしれない。

カブ50で走ってるときに恢復しているかもしれない。

なんというか、原付は一人しか乗られないし、走行中はさすがに文学作業はできないし、唯一脳みそが休める時間かもしれない/と、そんなことを聞かされてもしょーもないと思うが、たまにはいいだろ、本来エッセイってそういうしょーもないもんじゃん。
原付エッセイかあ、まるでしょーもなさの限りだが、たまにはそんなことをしてもいいのかなと、少し思った、うーんわれながらガラでもないけどな。
バカをやろうかあ | comments(0) |
何がなんでもやるのだが、どうなるのかは知らない
がなんでもやる、ということだけは先に決まっていて、それをやったらどうなるかというと、どうなるかは知らない。
何がなんでもやる、というのは、ただの決定であって、熱い思いとかそういうものではない/何がなんでもやる、というのは、ただそう決めてあるだけで、なぜ決めてあるかというと、決めていないと面倒くさいからだ、決めていないといちいち「熱い思い」とかが必要になるのだろう、そんな面倒なことをやっていられるか。
人のこころなんかアテにならないし、熱い思いなんてトラブルになるだけだ、概してあるのは、思いがけず「他人に関わらない」ということ/他人との接続はまったく別次元でなくてはならない、逆にいうと、人とのつながりなんてものは、安易なレベルで得ようとしないほうがいいのだろうな。
根本的に、「誰ともつながっていません」ということが怖いのかもしれない、それで身内やら地元やら、職場やら共同体やらで、人とつながっている「ふり」を続けるのだろうが、そんなことをしていても何も聞こえてこない、言葉の獲得は遥か遠いだろう。

うーん、言葉の獲得、そして、まったく違う次元でのつながりは、なんというか、改めてお気に入りだ。
けっきょくのところ最善は、偉大なるおれさまが、一般にはまったく知られていない次元のつながりだけを視ていて、下々の者どもが言うことなど無視していることなのだろう、偉大なるおれさまが下々の言い分を理解してやることにはまったくといっていいほど意味がないのだ。
ロクなやつがいないのだが、それは僕自身だって、僕は僕のことをロクなやつと思っているわけではない、そうではないのだ、この世界にはもっとマシなことがあって、そのマシなことをアテにするしかない、もともとロクでもないわれわれのために、マシな何かがこの世界には用意されている、もうそのマシなやつをアテにするしかないのだ、初めからずっとそうだった。
何がなんでもやるのだが、それをやったとして、どうなるのかは知らない、何がなんでもやるというのは、このロクでもないおれが決めたことではなく、偉大なるおれさまが命じていることだ、だからしゃーなしにやる、偉大なるおれさまは威張るために存在しているのではなく、おれ自身を導くために存在しているのだ、それがないとまともな小話ひとつ書けやしない。

偉大なるおれさまとは何なのか、実はおれにもよくわからない。

それが何なのかはよくわからないのだが、ただ、遥かにマシな「世界」につながっているためには、そいつだけが橋渡しになるということ、そのことだけが知られているのだ、その橋渡しなしに俗人マインドが寄り集まってヤッサモッサしていても何かになるわけがない。
たとえばワークショップ等を始めるときも、おれは「おれ一人になってもやる、おれ一人でも続ける」と宣言したが、たぶんそのときおれは一人ではないのだ、おれはどうもロクでもない自分と、偉大なるおれさまという、ふたつの存在が重なっているように思う、そしてロクでもない自分のほうにはもうあまり用事がないのだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
すさまじいエネルギー
コにおやつをやって、食べ終わるまで見守っていようとしたら、いつの間にか寝入ってしまい、起きたら朝の四時だった/うちのネコちゃんは腎臓が少し弱いので、動物病院から特別食を買っている、まあそんなことは今関係ないが……
昼寝のつもりでテメーどこまで寝るんだとびっくりしたが、ある種のことをすると、魂のエネルギーをフルに使い切っているようだ、後になるとそのことがわかるのだが、その最中は全身全霊なので気がつかない。
必要なことを知ろうとし、ナゾを解明しようとし、構造を看破しようとするとき、けっきょく方法がないので、霊力だけで突破しているような気がする、X線解析装置ではないが、霊力で読み解くしかないような種類のことがあり、それはどうやら24時間ずっと無尽蔵に使い続けられるものではないらしい。
まあ、その後休めば充填されるわけだし、毎回使い切っていかないと自分のスケールが大きくならないので、これでいいのだが、このごろはほぼ毎日がナゾの解明に全身全霊なので、自分がいつ寝入るかわからないのだった/魂がずっと山を登っているか、朝起きた瞬間からトライアスロンの中にいるみたいだ。

別にやる気があってそうなっているわけではなく、朝起きたらすでにその状態なので、特に何も考えておらず、そのままどこかで休憩すると、寝て起きて「うわっ」というぐらい時間が過ぎている、そして起きてから「使い果たしていたのか」ということに体感として気づく、そんなことをもう半年ぐらい、毎日続けている。
そういえば、いつのまにか、もうパーティの日以外は酒も飲まなくなったものな/酒を飲みたいのは割といつでも飲みたい感じなのだが、いつもギリギリまで脳みそを使い切ろうとするせいで、アルコールを入れられるタイミングがないのだ。
それで別に体調が悪いわけではないし、いちおうワークショップの先生でもあるので、体調はすこぶる絶好調だ、そりゃ自分の体調を壊していたら先生を気取っている場合じゃないしな/それで、11日が〆切だったので、みんなから「月刊ワーQ」の原稿を受け取っている、寝ていたせいでそれぞれに返信できなかったが、いちおうちゃんと受け取っているぞーとここで返答しておこう(みなさんお楽しみに)。
僕はこうして、頑張っているぞーと自己PRしたいのではないのだ、誰に示すものでもなく、おれは常に限界まで遊び続けた者でありたい、そして二十年前の自分から見比べて、二十年前の自分が「もう無理っす、ついていけません」とギブアップするような奴でありたい、僕は朝起きた瞬間からガンバっているのではなく、もはや遊びの中にしか目を覚まさないということをよろこんでいるのだった。

すさまじいエネルギーにあこがれ続けている。

そういえばいつのまにか、人々は、「すさまじいエネルギー」にあこがれることじたいをやめてしまったように見える/人々は今、ひたすら「しんどい」ということから距離を取ろうとし、快適さと運動性だけを整え尽くそうとしているが、それが正しく報われる方法なのかどうか僕は知らない、そもそも僕はエネルギーのない人やエネルギーのない自分のことを記憶はしないし体験もしないだろう、僕はエネルギーのなかった自分なんて記憶は一秒も持っていない。
エネルギーのない人が、エネルギーのあるふりをしようとすると、痛々しくなる、それは誰しもご存じのとおりだ、オタクもフェミニズムもヴィーガンも、あるいは発狂する老人も、単にジャンルからエネルギーを不正に得ようとしているだけに見えなくもない、大声を出している奴が僕より長持ちした試しはないし、むっつりしている奴が僕より長持ちした試しもやはりないな/すさまじいエネルギーを持っていないということが、それぞれにおいて恥なのか誇りなのか僕にはわからない、エネルギーのなさを誇っているように見える人も、実は内心では大恥なのかもしれない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
フィクションは祝福者の特権

こに、十九歳の、ハンサムの、ヨーロッパの、才能と祝福に満ちたバレエダンサーがいたとする。
そうすると、そのバレエダンサーは、僕が「おう、偉大なる空也さまだぞ」と言うと、笑って「あなたが偉大なる空也さまか」と笑ってくれそうな気がする。
スキャットマンクロザースだって、笑ってそう言ってくれるのではないだろうか(スキャットマン「ジョーンズ」じゃなくて「クロザース」だぞ)、実際僕は十代の優秀なバレエダンサーと握手したことがあるが、身体の中心まで明るいシャレが通じそうな爽やかさに満ちていた感触があった。
おれが偉大なる空也さまだと言っているのに、こんなことにマジになる奴の神経がわからん、実感があるから怖いのはわかるが、なぜ実感を持ち出すのか意味がわからん、実感なんか持ち出されたらおれだって怖いっつーの。

フィクションは祝福されし者の特権なのだが、このごろは、呪われし者も「平等」に頑張ろうとするからややこしくなった。
呪われし者がバレエをやったら、ホール中に呪いが蔓延するに決まっているじゃないか……しかしこのごろは、あえてそういう呪いに満ちたライブも多い、呪いに「カワイイ」のコーティングをつけて偶像崇拝するというヤバさMAXのプレイをあちこちでしているが、年老いてからどんなところへ行き着くか楽しみにしていろよ笑、とにかくフィクションは祝福者の特権だったのに、このごろはむしろ呪われし者が与党になっているので、とんでもないことになっているのだった。
人がなぜ呪われし者になっているかというと、第一には、自分が誰か・何かを呪ったからだ、「人を呪わば穴二つ」というのは正式に呪術の現象であって、呪いを使うには呪いを信じることが必要だから、どこかで誰か・何かのことを呪ったことがある人は、知らず識らずそうした宗教的決定を自分に為したということなのだ/そのとき以来、あなたは一切の、フィクションへの権利を失っている。
過去にガッツリ呪いを信仰決定しているのに、そのことを無視してフィクションやら物語やらを気取ってもダメだ、むしろフィクションや物語に触れて、自分が非祝福側にいるということをガッツリ理解するのが最善だろう/物語から切断されているというのは、イコールカミサマから見放されているということだが、もともとカミサマはいちいち誰かを見放すという手続きを持っているのではなく、人の側がカミサマを拒絶することで見放されるだけだ、そこはなんというかまあ機械的なものなので、涙ウルウルで拝んだって仕組みは何も変わらない。

人を呪わば穴二つ、世界を祝わば梅三千。

穴二つサイドの人と、梅三千サイドの人とでは、あまりにも巨大な差があるな!! 偉大なるおれさまと言っているのは梅三千サイドのネタであって、穴二つサイドのネタじゃない、だからこのことだって自身の判定に使えるだろう、「偉大なるおれさま」に対して、実感をウロウロする人は確実に穴二つサイドだ/慈悲と憐れみがありますように、またそのことに気づきますように、テメーで梅一つにでもつながれるかというと大間違いなんだよ、甘く見積もってんじゃねえ。
フィクションは祝福者の特権であって、祝福者の特権はすなわち梅三千だ、芥川龍之介とか三島由紀夫とかニーチェとかに「梅三千」はないだろ、梅三千なんだから「カワイイ」とかそういう話じゃないんだよ。

バカをやろうかあ | comments(0) |
5000件目
、たまたま気づいたが、この記事で5000件目だな、ブログ記事を5000も書くのはそれだけで珍しいかもしれないと少しよろこんでいる。
それで、ちょっと調べてみたのだが、ブログを本格的に始めようとする人って、一般に記事数100超えを目指すらしいね、「そうしたら少し収入につながるかもしれないからガンバレ」ということらしい/あれ? 何かおれのやっていることと違うような……そもそも、こんなアホな営為が収入になるという感覚がわからん、そういえばまったく言ってこなかったかもしれないが、このブログには何の収益性もない、ただおれが書きたいから書いているだけだ。
いろいろ調べていると、「プロのwebライターになるためには、1000件書く必要があると思います、しかしブログ記事数1000というのはとんでもない労力です……!」と書かれてあったり、1000件をウェブライターに依頼したら200万円掛かるとか書かれているのだが、その計算でいえばおれの記事数だと1000万円に相当するはずなのだが、なぜおれだけは何をどうやっても0円なのだ、しかも誰一人いいねもなければシェアもしない笑。
しかもおれのブログには、元ネタがないというか、時事とかアニメとかゲームとか、記事を書くソースがないのだ、ソースはただおれの魂という、わけのわからんブログだ/もういいかげん僕も気づいてきたのだが、僕だけずーっとこの世の中で感覚がズレているのだ、そしてそのズレはもう、合わせようと思っても合わせられるたぐいのものではない、僕には正直ブログ記事100件を「目指す」という感覚がわからない、100件って一週間ぐらい詰めたら割とのんびりで到達するじゃんとしか僕には思えなくなっており、僕は最近になってようやく自分の側が変わり種だということを自覚し始めたのだった、アホで悪かったな。

このブログに、いいねもシェアも付かない理由は、すでにわかっている、理由は僕が「かわいくない」からだ、僕はそもそも「カワイイ」という価値観をまったく使わなかったので、その時点ですでに世の中の主流からズレていたのだ、今になって僕はその「カワイイ」というのがどれだけマズいのかを発見して逆に警鐘を鳴らしたくなっているのだが、それにしてもとにかく主流からズレにズレているという事実は今改めて感慨深くさえ感じられるのだった。
5000件目ということで、そのことを書いておくのがふさわしいのかもしれない、十数年間やってきて、元号をまたいでまだまだいきまっせと楽しくブログを書いているわけだから、その中で見てきた「カワイイ」の闇を、これから討ち滅ぼしていかねばならないのだということを、いちおう5000件目の足跡として記そう/僕はいちおう、愛に基づいてすべての記事を書いてきたつもりでいる、「カワイイ」に基づいて何かを書いたことはないな。
もし愛を失ったら、僕はすべての書き物をパッタリやめるだろう、5000も書いておいてアレだが、ある意味「別に好きでやっているわけじゃないしな」という側面もあるのだ、じゃあなんでやっているんだよということになるが、だから愛のせいでやっているということになる、「好き」という理由で何かをするという発想は僕にはない/だからたぶん、僕は世の中の主流からズレているのみならず、他人から見たら根本的に「わからん」奴なのだろう、僕自身としてはすべてが明らかなつもりでいるのだが、きっと世の中の主流から見たらひたすらナゾの何かというような奴なのかもしれない。
パーティ告知用のhtml文があり、それが下書き記事のまま保存されているから、公開されているのがこの記事で4999件目、ブログ内カウントでは5000件目だ、バンザーイ/僕がもし、これから新しくブログを本格的に始めようとする人にアドバイスするなら、「記事数100件を目指せば少しは収入になるかもしれないからガンバレ」ではなく、「二ヶ月もしたら飽きてやめるよ」になるだろう、このブログは2005年から続いているのだが、それは僕の自慢ではなくて、僕は「みなさんはそんなアホにはなれないと思います」と思っているのだ/このように僕は本当のことを書き話すように努めるので、いつまでたってもカワイイものにはならないのだった。

最低限、ファンを減らすように書こうと心がけている。

なぜなら、こうして自己顕示的な何かをするからには、見てくれる人・読んでくれる人が少しでもいてほしいというのが、人として当然の心理だからだ、そしてその当然の心理というようなものに縛られているような奴の話を、少なくとも僕自身は聞きたくない/この世界の何もかもが「ショーマンシップ」ではなく「ファン獲得工作」で染め上げられていくのは、もう飽き飽きなのだ、それよりはせめて、自分で自分を天才と言い張り、空前絶後のアホを続けているという現在のスタイルを続けて、少なくともその点でだけは人をがっかりさせない奴でありたい。
5000件目を記念して、また改めて元号をまたいだことも記念して、振り返りつつ今はこう言いたい、あなたが「カワイイ」をアテにして生き続けるなら、あなたは根本的に何もできない人として老い、そのまま死んでいくだろう/別にあなたの悪口を言っているわけじゃない、あなたにふさわしいのは「カワイイ」ではなく「愛」だと言っているだけだ、ただそういう言い方をすると一部の人が誤解するので、ふだんはそのように麗しいことを言わないようにしているだけだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
ガッサー

分で有言実行とか言っておいてアホだと思うが、終わらねーよ、本当におれはアホなのではないだろうか。
いいかげん自分に呆れたので、あえて晒すが、A4サイズで42頁になったぞ(pdf)、今からこれを校正していくのだが、こんなもん間に合うわけねえべ、いつ寝るんだよって話だ、今日はまたワークショップだぜ?
そもそも原稿用紙150枚分を「コラム」とか言い張っているのが、頭おかしいのだ、ふつうコラムってもっと、間に挟まっているちょこちょこっとしたやつだろ、誰がこんな膨大なものを書けと言った。
さっき最後までいちおう書いて、読み返していないので知らないが、いちおう初めのほうはちゃんと書けているらしいのが自分でイヤだ、しかもおれの脳みそはどこかで「もっとやれ」と言い続けているのだ、もっとやるのはいいとしてこれ一体だれがトクしているんだ。

フツーの人って、急に突然「階層構造」とか言い出さなくない? しかもそれで、パパッと短時間寝て起きたら、今度は胴体の「右半身と左半身を入れ替える」とかやるんだぜ、「消えて動く」とか「ミリ秒で終わる」とか、こんなのリア充っていうかキチ充って感じじゃない/これで「理学部化学科出身でむかしは総合商社に勤めていました、趣味は手品です」とか言い出すんだぜ、いくらなんでもワケがわからなすぎる。
うおお〜自分がイヤだ〜毎回書くたびに「誰が読むねんコレ」と思いながらアップロードするのがイヤだ、と言いながら数時間後にはマンキンで演劇的表示とかやっているんだろうな、今日も滑稽劇をひとつ作るかな〜あるいは漫才のネタひとつ作るかな〜。
ふう、いっそ逆に落ち着いてきたぜ、そういえばむかしブラックホール特集がテレビでやっているのを観ながら、メモを取りつつメシを食っていたのだが、友人のKに「自分、いつ落ち着くん?」とマジで訊かれたことがあった、だって当時はYouTubeがなかったのでメモを取りたかったのだよ、今でも酒を飲みながら「映像の世紀」を大マジで観ているのには誰も協調してくれないが……
ところでさあ、よくパーティに来てくれた人とかが、まっさきに言うことだけれど、「もっとコワイ人だと思っていた」って、実物のオレはそんなコワイ人じゃねーよ、むしろ圧倒的にゆるくてのんびりした奴だよ、逆にいうとこんなことキリキリしながらやれると思うか/昨日はペペロンチーノを作るのに「白ワインを入れたら酸になるわけで、油とゆで汁の小麦分が乳化剤になるのだから乳化はソッコーで済ませられるだろ」という実験をしていた、それは割とうまくいった(ウマかった)。

商社マン時代、朝、寝ながら歩いて、サザンカの植え込みにガッサーと突っ込んだことがある。

あのときもそれなりに反省した、といってもあのときは部長が連日おれを六本木に連れて行き、毎回夜中の三時に放り出していたのが悪い、毎晩放り出されているので路上の客引きのガーナ人に憐れまれたんだぞ、うるせえチョコレート野郎と言ったら笑っていた、あのガーナ人はいいヤツだった、おれは板橋まで歩いて帰った。
ところで今週のワークショップ以降、数日スケジュールが詰まっているので、ちゃんと校正して感成功を(←誤字を直すのが面倒くせえ)アップロードできるのは少し後になるかもしれない、まあ別にいいだろ草稿でもどうせ大差ないからテキトーに読んどけ。

バカをやろうかあ | comments(0) |
(文面)
面はある。
だがわれわれは人を視ている。
彩られた白スーツの小粋な姿を視ている。
それはイメジではなく、われわれの自意識がイメジだ。

われわれの魂は空と共に。
単体で存在する魂はない/もとより空とひとつであるものを……
言語は分離をし、言葉は統合をする。
どこにでもいるじーさんの話だ、彩られた白スーツの小粋な姿。

文面はmanだ。

われわれはmanではない。
フリルのついたドレスのgirl、おいで股から変な汁を垂らしたくはないだろう。
バカをやろうかあ | comments(0) |
魂を使い切ること2
あそうか、理由というのではないが、仕組みのひとつとしては、なぜ僕が魂を使い切ろうとするかというと、その逆の人になりたくないからだ。
その逆というのは、先に書いた、何かずっと怒っているような人のことだ、険悪さの粘質をコミュニケーションの強度にすり替えて、ずっと周囲を威圧・恫喝しているような、中高年や老人のことだ。
当たり前のことだが、僕が魂をカラッカラに使い切っているとき、何かにムッとしたり、誰かにキツく当たったりする余裕はない、余裕というか余力じたいが尽き果てている、もはやこの世界に響き渡っているものを聞きとってくるしかエネルギー源がなく、この世界に響き渡っていないものは自動的に聞き流すよりしょうがない状態だ、そんな骸みたいなものを見て威圧的と感じる人はさすがにないだろう。
僕は間違っても、自分が魂を使い切れないことの後ろめたさを、他人への説教にすり替えてごまかしたりしたくないし、そもそも他人に圧力をかけるだけの余力が残っていたとしたら、そんな余力を残している自分じたいを軽蔑するようだ、僕は魂をカラッカラに使い切って、三日三晩美女の介抱を受けながら、四日目になって「ところでキミ誰だっけ」と言い出すようなろくでなしでありたい、人との距離感だの空気だの人間関係だのに余力を分配するような奴になりたくないのだ(われながらワガママな奴だ)。

僕は「野垂れ死にでもかまわない」と言ったが、それは諦観でも何でもなくて、大前提、自分の野垂れ死になんぞに注目するような暇人になりたくないということだ、魂を使い切りながら死んでいたらそんなしょーもないことに注目がいくはずがないだろう。
もしそこで、野垂れ死にしないようにと、誰かがおにぎりを差し入れてくれたとしても、そのことに感謝もしたくない、そんなときに感謝とやらでウルウルしているようではやはり魂を使い切っていないのだ、だとするとそれは逆におにぎりを差し入れてくれた人に侮辱と失望を与えることになるだろう。
僕は自分をクソでなくすという発想や思想は持っていなくて、あくまでのこのクソのまま、もはやクソでさえないという何か、もう何とも呼ぶに値しないカラッカラのものになりたいと望んでいる、だから実際、もうクソ呼ばわりされても天才呼ばわりされても僕からの反応はもう何もないのだ、何に反応したらよいのかすでに僕自身まったくわからなくなった。
「アニュス・デイ」ってどういう意味? 知らないが、今それが聞こえる、とりあえず僕は魂を使い切る日々をやめないだろう、なぜかわからないが僕は何者かに「言え」「言い続けろ」とずっとけしかけられているような感じがしている、何を言えという指示も割とあったりする、その指示はちょっと困り種なのだが……

魂を使い切ると、何かになっていくだろうし、魂を使い切らないと、何かになっていってしまうだろう。

僕はあちらの側、使い切らなかった側の何かへ、なっていきたくはないタチだ、仮に千年の寿命がもらえたとして、そのあいだずーっと怒り続けていなくてはならないというのは、さすがに僕としてはキツい、僕は険悪さが得意な人じゃないので、そんなことは得意な人に任せたいのだ、僕は僕で得意なことをしていくから。
ふと思うが、ずっと怒っている人は、現在のそれが千年間続いてもそれが正しいと信じているのだろうか、まあそうなのかもしれない/僕の側はこうして魂を使い切ることを、たぶん千年間ぐらいなら続けられよう、そのときはブログ記事が五十万件になっているはずだが、そのあたりまでなら割と現実的な数字だと僕には思える。
バカをやろうかあ | comments(0) |
魂を使い切ること

こしばらく、野暮用ばかりをしていたので、逆に気づいたのだが、ふと油断するとずーっとこうして文章を書いてしまう、意識が切れると逆に文章を書いてしまっているという状態だ/もう元々、何かを「書いている」という意識はほとんどなくなっているけれども。
それで、野暮用のラッシュと比較して、今さらながらに知ったことだが、こうして文章を書いているほうが、どうやら魂(ソウル)をカラッカラにまで使い切っているらしく、実は野暮用の、いわゆる「忙しい」という状態のほうが、とてつもなくラクだということがわかった。
いわゆる一般的に「忙しい」という状態の、気ぜわしさにごまかされて、深奥では極めていかにラクなことかを知った、そういうタイプの「忙しい」は、実は魂においては「何もしていない」のだとよくわかった、そして僕は、その「何もしていない」というラクな状態に耐えられないようだ、耐えられないも何も、そんな状態を続けていたら数ヶ月で人は腐敗し、その後の生をまったく無意味なものにして過ごしてしまうだろう。
僕は決して、しんどいことが好きではないのだが、これはしんどいかどうかの問題ではなく、自分の魂を使い切っているかの問題だ、僕は自分が魂を使い切らずに過ごした時間を、なぜかゾッとして受け入れがたく感じる、魂を使い切っていくとき、それはもう疲れるというより「疲れる余裕なんかない」というような状態だ/僕はこのとき、持論を展開している人や他人の悪口を言うのに時間を費やしている人について、なぜそんな余力とヒマがあるんだと不思議に感じていた。

なぜ魂を使い切ろうとするのかは僕自身もわからない。
なぜ魂を使い切るのですか、と問われたとしたら、たぶん「使い切らなくていいです」と答えてしまいそうだ、実際使い切らないといけないという理由をわざわざ見つけ出そうとは思えない。
それはたぶん、「理由」というものがすでに、魂を使い切るときには邪魔なセーブ装置なのだろう、だからそんな理由うんぬんの思念はとっくの昔に押し流している、なぜ魂を使い切ろうとするのかは、魂が知っていたかもしれないが、その魂も使い切ってしまったのでもうわからない/自分のうちにもう魂の残りがないので、しょうがなしに、この世界から魂をぶっこ抜いてそれを直接使おうとする。
これが何であるのかを答えようとする魂はもう残っていない、いま布団に寝転べば二分もまたず寝入るだろう、いつのまにかそうして使い切ってから眠るのが日常になった、僕は何時間こうして書き物に向かっていても、腰が痛いとか肩が凝るとかいうことはなくなった、もうそんなところに力みをかけている余裕はないからだ、この世界にもともとあるものを使わないかぎりこんなに大量の(魂の)無駄遣いはできない。

クリエイティビティに疑問も結論も無意味だ。

何を伝えようとか、何を書こうとか、どういうテーマにしようとか、そんなことを考える余力はどこにもない、忙しいから余裕がないのではなく、もうとっくに尽きているから余力がないのだ、このとき、尽きているのに「まだやれ」とけしかけられているのは何によってなのかわからない、少なくとも僕自身は価値観を確認して自分を励ましているわけではない/むしろいつも、いいかげん寝た方がいいと理性では諫めているのだ。
たまに、どうして書いているかのとか、何を手がかりに書いているかとか、あれこれ聞かれることがあるけれども、なぜかその問いかけを聞いたとたん、「もういいですよ」と切り離すはたらきが起こる、このはたらきはなぜかシビアで、僕は意地悪をするつもりはないのに、何かがフッと切れて「もういいですよ」となるのだ/実際疑問を持ったり結論を求めたりするなら「もういい」じゃないか、これが何なのかは僕にもわからないのだ、もし誰かが仕組みを説明してくれたら僕は「へえー」と感心する側だろう、別に僕に限らず、魂をカラッカラにまで使い切ることは誰にでもできることだ、これは能力の問題ではないので、使い切るかどうかはどちらにプライドが寄るかの問題にすぎないだろう、僕は使い切らないことにプライドは高まらなかった。

バカをやろうかあ | comments(0) |
| 1/15PAGES | >>