☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
黒歴史がない
たも、おれのパターンである「感覚的にわかっていない」が発見された。
おれはどうも、世間一般で言われている「黒歴史」というのがわかっていないらしい、おれとしては言葉の意味はわかっているつもりなのだが、例によって世間一般では "割とマジに言われている" ものなのに、おれはまたそれを一種のジョークとして捉えているつもりでいるみたいだ。
おれはこれまで、「マウント」とか「闇」とか「地雷」とか、その他すべての流行語を、一種のネタとして笑って聞いてきたのだが、実はみんな割とマジでそのことを体験して言っているのだということを、最近になってようやく知るようになった/このパターンでいうと、「黒歴史」もつまりそういうことなのだ、どうも人の話を聞いていてそれを「黒歴史」と言っているのはネタではなくて割とマジなのだということに、また遅まきながら気づかされてきた(たぶんすげー出遅れている、恥ずかしい)。
何しろこれまでの例にもれず、おれにはけっきょくマウントとか闇とか地雷とかがないのでそのことがネタだと思ってきたのと同様に、おれには黒歴史がないので、やはり黒歴史というのもネタでありジョークの言い方だと思ってきたのだ、もう我ながら自分について「こいつはこういうことに関しては本当にダメだ」とあきらめたくなる心境になってきた、どうも人が大マジで言っていることを勝手にネタだと思って「ははは」とフツーに笑っているケースが多すぎるのだ。

おれは子供のころからルパン三世が好きで、中学生からテレビゲームと銀河英雄伝説が好きだったが、そのことは今も変わらない、三十年経っても何一つ変わっていないのがおれの特徴だ、今でも三十年前好きだったものはおれにとっては現役であり続けている。
一方で、子供のころから「筋肉マン」や「ビックリマンシール」は何の興味もなかったので、今もやはり三十年前と同じでまったく興味はない、おれは自分の幼いころはめちゃくちゃで、女の子についイタズラをしたり好きな子に無言電話をしてしまったりというベタなことをいくらでもやってきたが、それらについてもおれは黒歴史とは思っていない、単に「こんな危なっかしい奴がよく現在まで破滅せずに生きてきているなあ」とその奇蹟と加護に感謝する気持ちにしかならない。
どうやら、例によっておれにはわからないマジの感覚で、多くの人が自分の若かったころのことを「青臭い」だのと言って、黒歴史認定するみたいだが、それについてはおれは首をかしげてしまう、確かにそういう人の若かったころはあまり見たくもないような痛々しさがあるが、それでも正直「おっさんくさい現在よりは昔の青臭いときのほうがマシだと思うぞ」と言いたくなる、青臭い過去を黒歴史に認定するなら「でも今のお前は歴史じたいが無いじゃん」と言いたくなってしまう/おれは青臭いのも好きではないがおっさんくさいのはもっと苦手だ、おれとしてはそんなニオイ的なものを振りまいているのはいかにもヒマそうで全般的によくないのじゃないのかと思えてしまう。
なんというか、過去を黒歴史認定するのもよいかもしれないが、そうまでして現在を肯定したいのかよとも言いたくなるし、過去を否定するのは単にヒマだから引きずっている証拠なんじゃないかとも言いたくなる、というわけでおれには黒歴史というものはいまいち存在していないし、感覚もよくわからないのだった/なんだ、けっきょくそう言って居直ってしまったが、どうやら本当にわからないからしょうがないのだ、おれはいちいち自分の書いた古いものを見返すことはしないが、おれが昔に書いたものだってどうせ今のおれが書いているものと変わらないだろう、単にレベルが違うだけであって昔のおれも今のおれもまったく変わっていない、おれにはそもそも「昔」というものが存在していないのかもしれない。

たかだか数十年前のことを「昔」とはまったく感じない。

時代が違うということ、時代が変化するということ、それによってムードや常識が変わってしまうということはよくわかるが、それは時代とムードに流される「人」のほうがアホというだけであって、数十年という時間それじたいはたいして長い時間じゃない/あるいは例によって、おれだけ "何も変わっていない" から、おれだけ時間が流れたという感覚を持っていないのかもしれない、おれは丸の内にいたときに一年目から上司に向かって「社会人気分になって学生気分を侮辱することには何の利益もない」と言い放つぐらいのアホだった(出世しねー)(しかも一年目の終わりには上場企業の人事部長に「おためごかしの会議を開くな」と怒鳴りつけるというありさまだからこんな奴は企業で出世するわけがないのだ)(あのとき人事部長はおれに頭を下げたわけだから、今考えたらあの人事部長のほうが男気があって勇敢だったのだ、何かまだ魂の炸裂が残っていた時代だったなあ)。
このように、時代が変わったのはおれにもわかるが、時代のムードなんてものはしょせんフェイクでしかないので、そのまやかしを真に受けて時間が経ったと思い込むのはただのアホだ、黒歴史というのはすべてそのときの自分が時代と自分のムードと気分に踊らされてしまったというだけであって、たぶん黒歴史ということではなくただのアホさかげんが現在も続いていて見過ごされているというだけなのだろう、あーあまったくの悪口になってしまった/というわけで、おれには黒歴史はよくわからない、幼いころは女の子にイタズラしてしまったが、今だって変わらん、むしろ今はようやく女の子へのイタズラが完成してきたということにすぎんな、おれは大人になるほどの時間は生きてきてねーよ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
ときには安っぽい夏の青
なので、早朝から空がきれいだ。
本当にきれいな夏がやってくる/毎年毎年、すさまじいものだ、季節のない世界はない。
今、別のところで人間的なプロジェクトをやっているので、一部、こうしておれの文章は安っぽくなる。
おれはこういう、安っぽいのが、割と好きなのだ、たまにはこんな失われたエッセイみたいなものもいいだろう。

映画のセットは、安っぽければ安っぽいほどいい。
名画というのは安っぽいのだ、だから撮影機材が貧弱な昔のほうがよい映画が撮られた。
高級感が何たるものかは、できたらこの夏中は忘れていたい、どうせ用事のないしろものだ。
安っぽい世界には、何もかもがあるのだ、高級っぽい世界には何もかもが無い、無の世界だ/今さらこんな話が何の説得力も持たないのはわかっているが、おれだってたまにはこうして説得力を必要とされない世界へ帰らせてもらってもいいだろう。

おれはまるで坂道の上の学生みたいに安っぽい。

何もかも、満たされていたというか、安っぽいからすぐに何でも満たされていたのさ、奥行きのないおれが奥行きのない映画を観ていた、それで十分だった、ありとあらゆるものが鳴り響いていた。
高級な世界になんて行きたくないし、高級な世界なんて存在しないのだ、高級というのは世界を失った人が引きずりこまれていく闇にすぎないから/おれにはこうして安っぽい夏の空で十分だ、本当にきれいなものだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
毎日が退屈な若い君へ2

退屈を突破するためには、まず己の慾望をフルオープンする。
すると、犯罪者になるし、友人がゼロになり、社会性もゼロになるので、終わる。
冗談でなく、本当にゼロになって終わるのだ、だから立ち止まらなくてはならない、だいたい近所迷惑が許容範囲にない。
そして、この「慾望をフルオープン状態のまま立ち止まる」ということが困難なのだ、困難というより直接「すさまじく苦しい」と言ったほうがいいだろう、ここでふつうの人は神経が持たないので自殺するか薬をやるか犯罪者になってしまう。

幸いおれの場合、犯罪歴はガキのころのいたずらと自転車ドロボーぐらいしかないし、ドラッグはインドでマリファナを試してみたぐらいしかないし、自殺というのも遥か昔に二度ほど未遂があっただけで済んだ、これはまったくラッキーなケースだ。
ふつう耐えられないのだ、慾望を抑圧せずフルオープンにして、ありとあらゆる慾望や嫉妬や衝動が目の前を通り抜けていくのは/本当に部屋にこもって二夜か三夜ぶっ続けで脂汗を垂らして苦しむことになる。
「これらのすべてを解決するのか」と考えると、それはさすがに退屈ではなくなる、ただし無事に生きられる保証はなく、友人や先輩から愛されること、また異性にも愛されること、および天の庇護を受けることが必須条件になるが/このことに比べたら退屈のほうがマシっつーか安全じゃんと今さらになって思えてきた。
まあこんな、何もかもフルオープンして、クンダリーニ症候群のまま「泥酔しようぜ!」みたいな突貫コースをいかなくても、少しずつでも、自分の抑圧された願望・慾望を、抑圧から引き出して解決に向かわせていくという、堅実でまっとうな方法を採ればいいだろう/今さら過去のことを少し思い出してみれば、おっかなくて全身に汗が噴き出した。

「大切なものがある」「慾望をフルオープンした上でか?」

おれはもともと、大切なものを見つけようとか獲得しようとしたわけではまったくなかったのだが、いつもどこか「自分の慾望に殺される」と追い詰められていて、そのことが二転三転、いつのまにかおれの笑い声が空に吸い込まれる手続きになっていた/こんなもん自分でデザインできるか、もうすべておれの知ったことではない。
というわけで、毎日が退屈な若い君へ、おれのようになってはいけないし、おれのようにやってはいけないという、まったくタイトルと関係のないアドバイスをして終わるのだった/今思い返して全身に汗が噴き出すようなことを、なぜおれは勧めようとしていたのだ、いちおう原理的に退屈に対抗する手段は示せたが、どう考えてもそこまでしなくていい。

バカをやろうかあ | comments(0) |
毎日が退屈な若い君へ
イトルにそれっぽいことを書いたが、こんなことに明確な回答などないし、おれはアドバイスをするつもりはない。
おれはアドバイスをするつもりはなく、このご時世にもなお、「退屈をどうしたらいいかなんて知るか」と言い続けようとしている。
せめてそれぐらいでなければ、ますますおれ自身、若い人々を退屈させてしまうと思うからだ、何かしらおれはトチ狂っていないと、若い人の退屈を和らげてやれないだろう。
おれの知る限り、退屈というのはつまりさびしさであって、なぜそれがさびしさであるかというと、退屈がすなわち「自分の限界」を示しているからだ、退屈に突き当たるということは自分の限界に突き当たっているということで、それが悲痛なほどさびしいのだった/もしそのさびしさが悲痛でないなら、誰が覚醒剤で身を滅ぼすだろうか。

高校生や大学生がいわゆる「ぼっち」だったとして、そういう「ぼっち」はたいていネット趣味やアニメ趣味、アイドル趣味、オタク趣味に傾倒する。
なぜ傾倒するかというと、やはり退屈だからだ、退屈だから刺激のあるものを求め、また退屈だから偏執的なものに傾倒する、そうしてさびしさを紛らわせるものだということは、かつて村上龍などがこころを込めて書き連ねてきたものだ。
それで、じゃあいわゆるリア充が本当に「充実!」「退屈じゃない!」のかというと、決してそんなことはなくて、あれはあれで、「陽キャ」というような偏執的なプレイをえんえん続けているのだ/それもしょうがないことなのだ、退屈に悶絶していろんな行状を示すことを一方的にバカにできる者などいない、ブッダやキリストを除いてはわれわれは平等に「退屈」という最大の敵を攻略するのに必死だ。
毎日が退屈な君へ、たまにはこういうダサいタイトルで書き話してみるのだが、おれは何もアドバイスするつもりはない、ただ君がおれよりトチ狂っているということはまずないと思うので、そのことで自分を恥じるべきだ/何を恥じればよいかというと、君はおれのように恥を見せてはおらず、またおれのようには慕われていないということだ、君にはまだ、おれのようにバカにされる材料もなければ慕われる材料もない、そのことをいいかげん恥じるときが来ると気づけば、そのころはしばらく退屈というものが消え去っているだろう。

毎日が退屈な若い君へ、おれは「君をバカにする余裕はおれにはない」としか言えない。

年長者から若い人に向けてメッセージを、というような、クソみたいな茶番こそ、ますます退屈を増強するだろう、もちろんそういう穏やかで誠実なやり方が似合う人もいるのだろうが、おれはそういう奴ではないのだ、おれは実際このとき、好感度を猛烈にゴミ箱に捨てることぐらいしか、君の「退屈」に対抗する手段がない。
毎日が退屈な君へ、君が動画サイトや友人のSNSに「絡む」などをして退屈をしのぐこと、あるいはネイルを執拗に飾ったりマスクをしてタピオカを買いに行ったりするのは間違っているに決まっているが、そのことを指摘しても何の足しにもならないだろう、だからおれは君よりも間違い続けようと思っている、指摘やアドバイスから最も遠いことをしようと思うのだ、おれが君にしてやれる最大の足しは、おれから君に何も足さないことだと思っている。
バカをやろうかあ | comments(0) |
作品と困惑
れ自身が、「偉大なるおれさま」に向けて、「何をどうすればいいか」と訊くと、「今のところ十分」と答えられる。
そこでおれは、「おれは十分だが、他の人々は不十分では」と訊く、すると偉大なるおれさまは、「うん、そりゃまあな……」と答える。
そこでおれは、やむなくおれ自身として活動を始めるのだが、何しろおれ自身はもう「十分」なので、おれが活動することはそれじたいあまり意味がない。
おれはすでに、ひたすら愉しんでいるほうがいいのだが、愉しむといっても今周囲はそういう状況でないため、「しゃーない」と、またおれが活動を始めることになる、これはあまりいい状態でない。

これ以上、おれがガンバってもしょうがないのだが、他にやり方がない。
だいたい、「んなこと言われても」というやつで、他の誰かだって何をどうガンバればいいのか、わけがわからないだろう、それはもう、当然のことなので、わけのわからないままでかまわない、誤解してヘンなことをおっ始めるべきではない。
おれはもともと、他人を救済して偉そうぶることに、趣味も悦楽もない、どちらかというとそういうことは苦手なたちだ、おれの場合は人を導くというようなことは当人がしょせん世界を見失ったあわれで近所迷惑な奴と感じる。
だから、他人に何かさせようというつもりはわずかもないのだが、ただおれが天から春の国を引きずりおろしてくると、自動的に他の人々が誤解をしてしまう……その誤解は、放置しておくとたいへんよくないので、修正に走り回らねばならないのだが、そんなこんなで何をどうしたらいいのやら、よくわからないのだった/ただ作品世界だけをやっていたいのだが、それはまた人々に誤解をさせることばかりにはたらくだろう、これをいったいどうしろというのだ。

「レディコミでオナニーしてトイレットペーパーを買い占めるアホ」という前提を忘れてはならない。

仮に、政府が全市民にゲーテの詩集を送りつけて読むように強制したとしても、市民というのはゲーテよりデマを信じてトイレットペーパーを買い占める者たちなのだ、そんなに危難の折にケツを拭きたいのかね!! この「市民トレペ説」とでも呼ぶべき説をわれわれは忘れてはならない。
いつぞや、オモシロ詐話師が「平成のベートーヴェン」と呼ばれ、号泣議員みたいなものか「○○と思テ〜ウァァァ」とヘンな慟哭をまき散らしていたのだが、その平成のベートーヴェンをちやほやした人たちが確実に存在するということだし、号泣議員を市民代表として送り込んだ主権の人々が確実に存在するということなのだ/というわけで、作品といってもなあと、二の足を踏んでしまうのだった、作品というのは彼らを誤解に膨張させてそれを「知らんわ」と見捨てることなのだろうか、うーんそうなのかもしれないなあ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
わたしが真に受けてきたもの
年のころ、わたしは「天空の城ラピュタ」を観た、何の予備知識も触れ込みもなしで……心臓も魂も震え上がった、それは金曜のテレビ放映だったはずだが稚気のわたしに記憶はない。
そのときから数日、数ヶ月、いや正直には数年にわたって、わたしは目撃した物語に首根っこを掴まれ続けたように思う、そしてわたしは少年なりに、自分が彼のように勇敢でないということを突きつけられ、それを一人認めつづけることになった/そのときは少年なりの自分に突き刺さる刃のような痛哭があったように思う。
けっきょくわたしはそのとき、流通する商品としての映画を観たのではなく、また鑑賞物としての映画を観たのでもなく、誇らしい友人たちと友人たちでありつづけるためには自分がどうあらねばならないかという切実な事実を観たのだ/その言い方でいえばわたしはこれまでに一度も、一般に言われている「映画」を観たことはないということにもなる。
わたしはいくつものことを真に受けてきたのだった、そしてそのことを振り返ると、振り返るということは実はなく、今も変わらず真に受けたものは真に受けたまま続いているのだった、仮にそれが他のことすべてを失わせるとしても/わたしは一見、物語のことを研究しているように見えるが、その実そうではない、わたしはかねてからずっと「物語と自分の区別がつかない」のだ、本当はわたしが研究のメスを入れるべきようなジャンルめいたものは何一つない。

わたしは物語に没入したつもりはこれまでに一度もなく、そもそも没入という状態を切り取って感じたことはない。
あくまで大人になって、植え付けられた常識に基づいて言うのならば、わたしは物語に没入したというより、初めからその内部にあって、以降一度もその外へ出てきていないということになる、少なくともそのように推測しうるということは、わたしも人並みの知能として分かるようになった、だがどのように分かったとしてもわたしがその外へ出てくることはないのだろう/わたしは子供のころから、すさまじく周囲と「ちぐはぐ」をやらかす時間ばかりを生きてきた、これはけっきょく修復はされないものなのだろう。
このごろになってわたしは、元から物語の中に棲んでしまっているということについて、一部うらやましがられる向きも出て来たのだが、そのことについてわたしの知る限りの誘導を与えても、基本的に人はその物語へ棲みつくことを、拒絶しているようにわたしには視える、それがなぜなのかはわたしには分からないが、まるでわれわれが宇宙旅行を目論むように、それは憧れと実際の拒絶を内包しているように感じる、それでもわたしに引き続き残るのは、ただ唯一のこと、わたしを慕い、信じようとしてくれる人について、わたしの知る限りの不幸を遠ざけたいということだ、<<わたしはわたしから見て危険だと感じることはなるべく友人にはさせないようにしている、またそのことを現場で実際に制止もしている>>。
わたしにはずっと奇妙なものが聞こえている、「聞こえている」という言い方がせいぜい似つかわしいと思ってそのように言っているのだが、わたしにはずっとわたしきりのわたしが聞こえているのだ、一般に知られている自我としてのわたしが物語を余所事に見たり、その中に無理に没入しようとしているのではなく、物語の中にいるわたしがずっとわたし自身に聞こえている、そしてその聞いている主体さえも物語の中にいるわたしではないのかという気がしているのだ/つまりわたしは、いわゆる「無我の境地」というテーゼを考えるときにも、そもそも無にするべき我というのが、はっきり存在しているように感じられないのだ、もし強いて無我の境地というものを考えようとすると、わざわざ意図的に「我」を捏造し、それから改めて無我にせねばならないように感じている、つまりわたしが「わかるわかる」というとき、わたしは一般とまったく異なるものを対象として「わかるわかる」と言っている、物語の中に棲むわたしだけが「わかるわかる」と言う。

青空がわたしであり、夕空がわたしであるということはわかるが、「わたしが青空を見る」という意味がどうしてもわからない。

ここに一冊の本があったとして、本から表紙を切り離すことは可能だったとしても、表紙もその「本」の一部であることのように、青空とわたしをいったん切り離してから接合するということの、意味がよくわからない/わたしは特別な何かを感じたことは一度もない、ただこれまでずっと、わたしにとって意味のわからないことと「ちぐはぐ」をやらされてきて、困らされてきたという覚えだけがある、しかもそれは解決しない困惑だ。
わたしはこれまで、「大人」に話しかけられるたび、困惑のエッという反応を返してきた、それはすべてのことが、本当にわたしにとって意味がわからなかったから/「もうじき年長さんだね」 エッ 「自分のために頑張ってね」 エッ 「深い話するよね」 エッ 「それって面白いの」 エッ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
おれは何もできない
霊の庇護でもあるのかよ、と思わせるほどでないといけない。
聖霊の庇護が、本当にあるとかないとか、そういうことを超えてしまうのが本分だ、それはおれの本分だし、誰にとっても本分だ。
聖霊の庇護について、サンプルはというと、そんなもん神話や聖書にしか載っていないので、サンプルはない、たとえ事実が毎日百万回現れたとしても、それはサンプルにはならないのだ、それはサンプルという発想の領域にないことだからしょうがない。
われわれは、イチローがメジャーリーグで活躍したことを知っているが、メジャーリーグの球場でそれを目撃したわけではない、スポーツニュースで聞いただけだ、だからだまされてはいけない/それは、メジャーリーグの球場に行けということではない、あなたの立っている場所であなたが活躍しろということだ、まるでサンプルにならない聖霊の庇護でも受けたみたいにだ。

他人には、理解されなくて当然だ、われわれがイチローを理解していないように、少しでもまともなことは一般に理解されない。
一般に理解されるということは、実は何もしていないということだ、まともなことのすべてはサンプルの領域を離れるのだから、まともなことのすべては一般に理解されない/一般に「へええええ〜」と言われるのは当たり前で、そのように驚かれたとしても、やはり理解はされていないのだ、自分が何かを知るというのはそういうことだ、一般に理解されることを知ったとしてそれは何かを知ったことにはならないだろう。
一般に理解されないということを、ひとつの目途にするべきだ、一般に理解されないというのは、たとえば猟奇殺人犯が童女を殺すことで射精するというようなことだ、そんなことはいくらつぶさに報道されても、けっきょくのところ本当の現象を直接知る身分にはならない、そうして悪霊でも取り憑いているのかと思わせるほどの人がいるように、聖霊の庇護でもあるのかと思わせるほどでなくてはならない。
聖霊の庇護があるかないかについて、聖霊は「ある」と言うだろう、おれは言わない、おれには言う権限がない、おれが言うことはただひとつ、「おれには何もできねー」ということだけだ、童女を殺して射精する猟奇殺人犯を見ればわかるとおり、当人は「何もできない」人じゃないか(いかん、これではまるでおれが猟奇殺人犯みたいな文脈じゃねーか)。

おれに超能力はない/何度も言うように、おれは何もできない。

超能力なんて、ふざけたことを言ってはいけない、人に超能力なんてあってたまるか、そしてこの世界で面白いことといえば、唯一奇蹟と超能力だけなのであった、もしこの世界に聖霊なんてものが本当にあるのだとしたら、聖霊というのは意外にイケイケなものだと思う。
偉大なるおれさまとして思うのだが、どうして偉大なるおれさまが、やれ奇蹟やら超能力やらいう、チャチなものに努力を向けねばならんのかね? そんな面倒くさいことは、他の誰かにやらせるに限る、面倒なことはすべて他人にやらせるのがモットーだ、ヨソの誰かができるのならば、なぜいちいちおれがやる必要があるのか、おれは何もできないのだ、おれに起こることといえばむさぼりとブチギレと頭クルクルパーだけなので、こんなものはなんとかできる奴がなんとかするしかない、おれはそれをなんとかするという熱心な奴の邪魔はしない、何しろ邪魔さえできないほど何もできないのだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
福袋は出来事であり内容はゼロ

の世界にアホが出現したらどうすればよいか?
この世界にアホが出現したら、そいつはサンドバッグにする、ただし、血眼になってパンチを打つ必要はない、血眼になると今度はこっちが「パンチするアホ」になってしまう。
この世界に出現したアホは、ことごとくシリアス社製のサンドバッグになるのだ、それを見てどうすればよいかというと、とりあえず大喜びすればいい、大喜びしたあとに別に用事はないので、賢き者たちは何かステキな夕食でもとりにいく、その後サンドバッグはどこかにぶらんぶらんと吊されている。
サンドバッグの人生はどのようかというと、端的には「刑! 刑! 刑!」という感じだ、そのことについて当人は「え〜〜〜」と渋っているのだが、サンドバッグなのだからまあしゃーない、賢き者はクリスマスに向けて Joy to the world でも唄うのだった。

サンドバッグの刑罰は、ニヤニヤした者から順に終わる。
ニヤニヤしている者は、もうシリアスではないからだ、シリアスでなくなると、サンドバッグの刑は終わってしまう、そのあと異性にモテないと結局サンドバッグに戻るが……そんなこんなで、年末にはいつもどおり holy night がやってくるだろう。
この世界に完璧マンはいない者だが、いないなら作ればいいのであって、作るには「完璧マン」と言えばそれで済むわけだから、うーんおれは完璧マンと、言ってしまえばいいだろう、もちろん「マン」は完璧ではないので、完璧なのは世界と言葉のほうだ、マン基準にするから言葉がいつまでも呪詛になって、シリアス社にスカウトされて、サンドバッグにジョインするのだ、この世界には福袋と砂袋しか存在しない。
福袋と砂袋があったとして、おれは福袋しか抱きしめないが、おれはサンドバッグを馬鹿にしているのではない、ただおれ自身がサンドバッグになりたくないだけだ、それでやむをえず世界の真理を説いている、完璧マンという言葉が完璧である以上、マンが完璧になる必要はない、さあさ完璧な言葉に完璧な祝福が降り注ぐがよい、繰り返すが完璧マンという言葉は完璧だ、ただそれだけでいいじゃないか。

おれの話には内容がゼロで、出来事だけがある。

出来事はイコールハッピーだから、福であって福袋だ、ハッピーが絶え間なく降り注ぎ続けるという以外に、いかなる解決の方法があるだろうか? 解決という発想には解決パンチという手段しか生じず、パンチが生じているようではすでに所属はサンドバッグなのだ、なぜパンチするのか、偉大なるおれさまなどはパンチ回数ゼロでチャンピオンベルト巻きまくりである、先に世界を制しているのだから左なんか制さなくていいだろという話だ暴力団め。
内容がゼロということはむつかしいが、正しくは内容をゼロに "している" のだ、ご存じのとおり福袋は内容がゼロだろう、おれは女の子が好きで久しぶりにババロアが食べたいと思うというような、そんな操作をしながら、内容をゼロにする、どこかで誰かはサンドバッグであり、おれはババロアを思い耽っているということ、どいつもこいつもおれのことが好きだというのだからしゃーない、サンドバッグに対するアドバイスはエジプトの地中に棲むというハラグロイキリムシの顎の下に書かれているので大至急カイロに飛んで調べてこい。

バカをやろうかあ | comments(0) |
ゼッタイ祝福を受ける方法☆(罠)
ざわざタイトルに罠と書いたのに、このタイトルをタップする者は幸いです。
本日11月7日は、偉大なるおれさまの偉大なる誕生日であるゆえに、大いに称え祝うがよい、この日を祝わないものはただちに玄関の四隅にカビが生える呪いにかかるだろう。
美女と美少女は、セクシー自撮りをおれさまに送りつけて、生涯の大事業を為したことを己に寿(ことほ)ぐように、美女というほどでもないがそこそこの者も、まあ似たり寄ったりのことをせよ、あとの女どもと男どもは、よくわからんが、デスクなりテーブルなりを四回叩いてウヒョーと言い、祝福のこころを明らかに表するがよい、これらのことをしない者はリモコンの電池が液漏れするという災いに遭うだろう。
というわけで旅行から戻ってきて、今日はおれの誕生日なのであった、たとえ世の中がどのようにブルーになろうとも、この日だけはおれを祝うパーフェクトデーなので憂き目のことは考えなくともよい、まあ別の日もこのおれを祝うのであれば一日たりともブルーにはならなくてよいだろう、しょーもない自分のことなんか考えているからブルーになるのである、さあこの世でおれだけを祝うがいい、祝わない者の空は生涯に亘ってドドメ色である。

というわけで、なんのこっちゃわからんが、休養もしたし、偉大なるおれさまは絶好調である。
そしてつくづく思うが、この世界には大切なことがあるのだ、たとえその大切なことに今すぐは準じられなくても、こころの隅っこにその知識を留め続けねばならない。
アホの信じることは常にハズレなのだ、そして、たとえわずかの自覚もなくとも、人は己のうちでわけのわからない、根拠のないこだわり等を、自分の第一の信仰にしているものなのだ、このエセ信仰が入りこんでいるうちは頭がパッパラパーである、あなたが物理の授業で百パーセント何もわからなかったのはこのアホエセ信仰が入り込んでいたからなのだ、あなたの脳に問題があるわけではない(脳は壊れていない限りは常に高性能である)。
この世界は意外にざっくり作られていて、ハズレコースには本当にキレーにハズレが用意されている、成長度ゼロというか、進捗度ゼロという場合が本当にあって、「そんなバカな」とデキる人ふうに笑ってみても、ゼロなものは本当にゼロなのだ、そのへんは本当にざっくりと作られていて容赦がない、あなたが今から五〇〇〇〇〇〇〇〇人のおばちゃんに大切なことを訊いてまわっても、本当のことは教えてもらえず、宗教施設を回っても無駄だ、そんなことよりこのおれを祝え〜 まるで冗談にしか聞こえないだろうが、そのとおり、冗談を信じろと言っている、マジなものを信じたヤツが負けなのだから冗談を信じろといっている、さあおれにセクシー自撮りを送れ、何のためかというとおれをイイ気分にさせるためである。

おれだけがデタラメを言っているのは、こいつだけ「呪われていないからデタラメが言える」ということだ。

おれはさんざん考えてきたし、さんざん見てきたのだ、おれに「感謝」する必要はない、感謝なんかゼロでいいので、祝え、そしてエロめの女はセクシー自撮りを送れ、それがわからないようでは、自分が何のためにエロめに生まれ育ったかがわかっていないということだ、そういうものはお前の足しにするために与えられたのではなく、おれの足しにするために与えられたのだ、そうでないと自分自身がブキミでしゃーないだろう、そのあたりをよくよく考えろ。
ただし、一八歳未満が激し目のやつを送ると、おれがお縄を頂戴することになるので、そのあたりはうまいこと……まあ別にそんなことでお縄を頂戴してもかまわんがね、というわけで本日は偉大なるおれさまの偉大なる誕生日なので、このポイント億倍デーに乗っからない手はない、こんなアホなタイトルをタップしたあなたは幸いです、あなたがやめないかぎりアホな日々が続いてくれるでしょう(当たり前)。
バカをやろうかあ | comments(1) |
(正しいことのあとには奇蹟が降る)
蹟が降っている
慈悲が降っている、聖霊が降っている
誰にもわからないものが降っている
わかるものからわたしを無縁にしてくれる

わたしのくそまじめに呼応して
何かがこれを降らせてくれている
何の歌でもない、それでよいのだというだけの歌が
正しいことには何もないが、正しいことのあとには奇蹟が降る

最大の大人だけ、最小の子供に還らせてもらえる

大人の扉の果ては永遠の子供だ
わたしは還るために進むのだ
バカをやろうかあ | comments(0) |
(涙のこと)
のことまで
技術にせずともよかろう
涙のことまで
説き明かすことはなかろう

涙のことだけ
本当のわたしのことであって
涙のことだけ
わたしの永遠に与えられたものだ

それはなぜかわたしを励まし続ける

涙のことだけがわたしを一番奥で笑わせてくれる
涙のことだけがわたしに解決と無解決を与えてくれる
バカをやろうかあ | comments(0) |
(ずっと遠い記憶の中に)

人で歩いた道があって
誰かと歩いた道があって
みんなで歩いた道があって
どれひとつ忘れていない

なんでもないポップスが流れていて
それがポップスということも当時は知らなくて
今でも実は知ってはいなくて
ただどれひとつ忘れていない、僕限りになっても僕は忘れないだろう

わたしは遠い記憶の中にいる

わたしがそこにいるのに遠いというのは妙な表現だ
でもずっとそこにいた、わたしはずっと遠い記憶の中にいた

バカをやろうかあ | comments(0) |
余裕がない
だの愚痴でしかないが、余裕がない。
まるで暴風雨の中でライターを点けているような気分になる。
風の流れを読み、雨滴を弾きとばしながら、「理論上は可能なはず」といってライターを点火しているような、曲芸をしているような気分だ。
集中力の極限を用いれば、確かにそれは可能だが、それを通常営業とするのは不自然すぎるだろう、もうおれが不自然だからといって、おれ自身も注目しなくなってしまったけれども。

草津に行って骨休めしてきたのだが、帰宅して一晩経つと、起床後、もう自分を追い込んでいることに気づいた。
目が覚めると、もうその時点で、異様なほど自分を追い込んでいるのだ、そうでなければ書くものなんて見つからないからだ。
だがこれは不自然な状態で、不自然といってもそれしかもう方法はないにせよ、不自然ということも見落とすわけにはいかない、これではもう親族が全員急死しても一ミリも動揺しないような状態だ、そんなことは僕にとってはへっちゃらだったとしても、そんなやり方を元に誰か何かをおすすめするわけにはいかない、非人間的すぎる。
余裕がないのだ、「うぬぼれ」を題材にまとめた話を書こうとしているのだが、それ以前に余裕がなさすぎ、一秒も隙間なく自分を追い込んでいるのが病的だと、ひとまず自己確認するしかなかった、これはただそれだけの話で他意は無い。

目覚めると、すでに自分を追い込んでいて、一方で「自分の部屋か」と、目覚めの場所に驚いている。

つまり、自分がどこで眠っていて、どこで目覚めているかも、すでに見失っているのだ、こんな余裕のない状態を常にするというのは、僕には可能でも、他の誰かに勧められたものじゃない、何かもうちょっとまともな状況が訪れてほしいものだ、ただの願望にすぎないにしても。
この先に何かあるのだろうか、もう何かあってほしいというような希望さえ、不必要なものだとして消去してしまったが、そういったことも含めて余裕がなさすぎるだろう、脳みそも全身の霊も、常に何か大量の演算をしている、そうすれば確かに暴風雨の中でもライターの火は点くのかもしれないが、これを「まとも」とは言えないなと、あてもなく認めているのだった、だからどうしたらいいという方法にはまったくあてがない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
方法はゴミ箱へ、おれはずっとあがいているだけだ
くづく、独り相撲というか、僕一人でまるで見当外れの、世の中からズレたことをやっているのじゃないかと思う。
まあでも、他人のことは、けっきょくわからないので、わかったふりをせず、おれはやはりいつもどおりの、ぶっちぎりのおれでいるしかない、と思っている。
いつも偉そうなことを言っているが、なにひとつ、前もって準備できたり、自信を持ったりすることはできず、いつも白紙の暗中模索だ、何かに落ち着いて取りかかれるということはたぶんこの先にも一度もない。
ただ僕が知っているのは、ふとしたときに、何かのフタがあくのか、底が抜けるのか、完全に大丈夫、という、完全な成功に接続する瞬間があるということだけだ、いつもそのフタはまぐれで開き、どうやって開くのかは未だによくわからない。

何かに落ち着いて取り組むとか、何かに安心するとか、そういうことは一度もなくて、ひょっとすると僕自身、常に極大の不安に晒されて生きているのかもしれない、こんなことは他人と比較できないが、ひょっとすると他人と比べると極大の不安のさなかにあるのかもしれない。
何しろ、こうして一文一文書くだけでも、何が正しいとか、どういう技術があるとか、アテにしたことは一度もないし、それでも一行でも面白くないと、それは面白くない奴なんだからな、けっきょく何かについての方法論とかノウハウとか、そんなものは持ったことがないし、アテにしたことも一度もない。
わけがわからないからいつも、最終兵器を出すしかないという具合だ、最終兵器はいつも、偉大なるおれさまならなんとかするんだろうという、自信さえアテにしない自信だ、いくらおれに自信がなくても、偉大なるおれさまはなんとかする、何しろ偉大なんだからそういうものだろうという、間違っていれば間違っているほどアテにできるという感触だ/よっておれに何かを相談するということは常に間違っている、相談で解決できるものならおれが誰かにすべてのことを相談したい側だ。
何の補償もない、何の権威もない、何の頼りもない、だから不安があるというよりは不安だけが100%を占める中で、「それ以外に面白いありかたは存在しない」というのが僕の考え方だ、とことん不利になり、とことん武器をなくせということ、何かに頼るこころが1%でもあったら、それは「弱い」ってことだと思うんだ、まあおれがズレているのは知っている、ズレてなかったらわずかでも安心みたいなものが芽生えるのだろう、だから最もズレているところに立ち続けるしかない。

おれよりあがいている奴がいたら、おれの負けだ。

おれは自分自身に対してタチが悪いのかもしれないが、おれはわずかでも、計算して妥当にやっている自分が見えると、その途端に自分を粉砕してしまう、何万字書いてあってもその瞬間にすべて消去してしまう、おれは自分に対する積み立ての一切を、一ミリたりとも許さない、おれの意志がそのようにあるのではなくて、何かが初めからおれの積み立てを一切受け付けず、そのとたんに弾いてしまうのだ、コイツは初めからそれを許す気がないので、粘ってみても必ず時間の損にしかならない。
方法はない、方法と呼べる一切のものには何の面白みもない、かといってヤケクソのものなんてゴミにしかならなくて、すべてのことは度肝を抜くほど計算されつくしていなければならないのだ/何の方法も積み立てもなしに、つまり計算なしに計算しつくせというのは矛盾だが、よくよく見ると矛盾ではない、まだ発見されていない数式に接続すればいいのだ、数式は入念な計算の究極にあって、まだ発見されてないのだからそれは手元に方法としては存在していない、まあそんな理屈をこねていてもどうにもならないが、これは何の話をしているかというと、おれが一番あがいているんじゃねーのという、根拠のない自慢話をしたかったのだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
おれが愛してやらなければ
とえばiPadを持っているのは世界でおれだけだ。
秋の涼風が頬に吹き付けているのも、世界でおれだけだし、過去に神戸に住んでいたのもおれだけ、現在目黒区に住んでいるのもおれだけだ。
おれはまったく無邪気だったので、カミサマを使役していた、そして現在も、やはり最低限のことを、「カミサマを使役すること」に置いている。
あのときからずっとおれは変わっていなくて、唯一変わったといえば、それがカミサマの使役なんだと気づいたことだけだ、それだって表面上の利便にすぎないから、やっぱりおれはあのときから何一つ変わっていない。

おれが愛してやらなければ、この世界は存在しない。
この世界が「存在する」というのは、おれが愛してやっているということだからだ、カミサマだっておれが愛してやっているのだ、それがカミサマなのだということをつい最近知ったにすぎない。
カミサマに感謝を捧げるようなアホ行為は断じてやめろ、おれは生まれてこの方、一度たりとも宗教的な気分になったことはない、どこの聖典にも宗教的な気分になれなんてアホ行為は書かれていない。
どんな聖人だろうがカミサマだろうが、おれが愛してやっているから存在している、すべての場所でさえ、あるいは季節でさえ、おれが愛してやっているから存在している/ここ数年の不毛は、わざわざ悪魔を蓄えた奴がおれに愛されることを拒絶ないしは躊躇することから起こっている、どんなアホな流儀があるのか、一顧だにする価値もない。

おれの愛以外に存在を言い張るから呪われる。

すべての存在の、形式および存在度は、おれがその対象をどのように愛するのかで決定するのだ、そこに茶々を入れるからすべてが行方不明になる/スポーツ選手がスコアの反映だけで存在するように、この世界のすべてはおれの愛の反映だけで存在する。
それはつまり、おれが主体的な存在だということを意味している、どんなカミサマだって、この「主体」の代替はできない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
一般という感覚を持たないこと
般に分かるようには絶対に書いてやらん。
そもそも、「一般に分かる」ということ自体が致命的なハズレだ。
いつの時代からか、人は人に対して冷淡になり、同時に、人に対して気を遣うようになった。
冷淡なのに気を遣うというのはどういうことだ、フレンドリーな工作で自分の一生をつぶす気かよ。

なぜ「冷淡な親身」になり、「ハズレフレンドリー」になったのか、理由はよくわかっている。
魂が見捨てられたからだ、場合によってはカミサマから切られたと言ってもいい、そうなるともうどうやっても人とつながるようなことはできない/そもそもつながりを得ようとしている人はつながりを失ったからそれを得ようとしているにすぎない。
一般に分かるようには絶対に書いてやらんが、そもそも、現代における「一般」というのが、もう「終わっている人」と同義だ、人って本来もっとワガママなもので、そのワガママな世界の中に特別な連中を得たものだろう。
ヒューマニズムを主題にする時点で、もう誰ともつながりはないし、何の世界も残っていないのだ/初めからそれは何かを得ようとしているのではなくて、すでに失ったものを、これから得るものだと恣意的に誤解してごまかしているだけだろう、これは「死ね」と言っているのではない、それでも死なずに最後まで自分を見届けるべきで、だからこそキツいだろと言っているのだ。

生にせよ命にせよ、ハズレていない奴は主題なんか持たない。

恣意的に「主題」を設定すれば、あたかも自分には道が拓けているように見えるが、それは錯覚だ、まともな奴は自分のやっていることに興味なんか持たないし、自分のやっていることを意識したりしない。
どのように解決のすべがあるかというと、解決のすべはないのかもしれないが、ただ本来あるべき唯一の状態は、「一般」という感覚を失うことだ、おれだけは周囲の一般的状況を認識しない、それでおれは少しだけ女がデートする価値のある男になるだろう。
バカをやろうかあ | comments(0) |
アングリー・ヤング・マン
えてもらってなんとかなるものではないし、まともな音楽は「音楽」なんて感じはしないものだ。
おれが書き話しているこれだって、いちいち「文章」には見えないだろ?
詩文っぽく見える詩文は、詩文ではないし、セックスに見えるセックスはセックスじゃないし、恋愛に見える恋愛は恋あいじゃない。
直接いいことをやればいいのだろうか、おれは知らんけどな、ビリージョエルのアングリー・ヤング・マンでも聴いてみればどうだろうか、おれは音楽を聴くなんてやったことがないけれど。

たぶん僕には「センス」がないのだと思う。
思えば僕は、何一つ「勉強」もしてこなかったのだ、勉強もダメで運動もダメで、センスもゼロという、まさにそのとおりに生きてきただろうし、そのまま生きていくのだと思う。
僕は分からない奴なのだ、そして、分かっている人たちが話しているらしい「分かっていること」について、ずっと「分からないなあ」と感じてきた、もし音楽を和音やメロディと呼び、言葉を名文と呼ぶのであれば、僕は何一つ分からずにきた、僕はびっくりするぐらい「感動しているだけ」の奴だ。
おれは本当に分かんねー奴だな、人が音楽の話をしているとき、僕だけ音楽とはまったく違う話をしている気がする、たぶん僕は物事を二重に捉えられない奴なのだ、「アングリー・ヤング・マン」が「音楽」だということが分からないのだ、おれにはアングリー・ヤング・マンしか聞こえない、おれはそういう病気らしい。

おれは雑誌を読んだことがない。

そもそも、「読む」という行為じたいが、おれには無いように思う、アメリカという外国があるのはよくわからない、「アメリカ」があるのはわかるが、「アメリカ」という「外国」と言われるとそれだけで僕はもうよくわからない。
二次的な捉え方とか、論外で、一次的な理解さえできず、僕は0次的な体験しか持てないようだ、だから僕は世の中のすべてのことがさっぱりわかっていない、おれが女をしばいて何が悪い。
バカをやろうかあ | comments(0) |
(雑感)ひょっとして、忙しいのでは
つのまにか僕は、自分でも不気味なぐらい、「疲れる」ということがなくなった、疲労という現象がどんなものだったか、すでにわからなくなりつつある。
一方で、ワークショップの直後などは、バカスカ食って昏倒するみたいに眠らないと、恢復しようがないのだが、これはひょっとして、僕は忙しいのではないだろうか? これまでにそんなことを考えたことはなかったし、忙しいという言い方はそんなに好きではないのだが……
疲労という感覚はまったくないのに、たとえばこうして文章を書く直前、さすがに「う、うごかねー」「無理っす〜」みたいな時間が少なからずある、それでいつも、「別に疲れているわけでもないのに、おかしいなあ」と感じていたのだが、これはひょっとすると、僕はいそがしいのではないだろうか/そういう発想を持ったことがないので、僕はめずらしく驚いているのだった。
なんというか、毎日、魂を使い果たして「も、もう無理っす〜」となっている感覚はあるのだが、一方で「疲れている」という感覚はまったくないので、休もうとする気も起こらないのだった、ひょっとしてこの状態は「忙しい」というやつなのではないだろうか、いくらなんでも処理できない量の体験や発見が続いて、でも疲れてはいないので「全然余裕だけどもう無理」というわけのわからない状態に、このごろの僕はよくなる。

そういえば僕は、ソシャゲはやらないし、キャバクラにもいかないし、パチンコもやらないし、そういうことにはぜんぜん興味ないなあと思っていたのだが、実は興味うんぬんは関係なくて、単に忙しいのかもしれない。
何しろ、未だにアサシンクリードの最新作をやっていなくて、自分で負い目を覚えているぐらいだからな、こんなことではアサシン失格だとわれながら反省する、このままではテンプル騎士団が跳梁跋扈するばかりだ。
なんというか、毎日が爆裂に楽しいのは何よりでけっこうなことなのだが、爆裂でない日がないという状態、つまり「ふつうの日」とか「特に何もない日」というものが、もう何年も一日もないのだ、それはそれでけっこうキツいものだぞと、僕はなんとなく主張したい、「ふつうの日」というのがどんなものなのか、いつのまにかすっかりわからなくなってしまった。
クリエイティブな日々を過ごしたい、というわけではなく、非クリエイティブなすべてのことが、もうわからなくなってしまったのだ、「特に何もない日」というのはいったいどういう状態なのだろう、よくよく考えるとすべての景色とすべての季節とすべての風がすべて確実に突き刺さってくるというのもなかなかキツいプレイ状況なのだった、四方八方が楽しく輝いていると正直思うが、それはひょっとしたら別の意味では「忙しい」ということなのかもしれない。

カブ50で走ってるときに恢復しているかもしれない。

なんというか、原付は一人しか乗られないし、走行中はさすがに文学作業はできないし、唯一脳みそが休める時間かもしれない/と、そんなことを聞かされてもしょーもないと思うが、たまにはいいだろ、本来エッセイってそういうしょーもないもんじゃん。
原付エッセイかあ、まるでしょーもなさの限りだが、たまにはそんなことをしてもいいのかなと、少し思った、うーんわれながらガラでもないけどな。
バカをやろうかあ | comments(0) |
何がなんでもやるのだが、どうなるのかは知らない
がなんでもやる、ということだけは先に決まっていて、それをやったらどうなるかというと、どうなるかは知らない。
何がなんでもやる、というのは、ただの決定であって、熱い思いとかそういうものではない/何がなんでもやる、というのは、ただそう決めてあるだけで、なぜ決めてあるかというと、決めていないと面倒くさいからだ、決めていないといちいち「熱い思い」とかが必要になるのだろう、そんな面倒なことをやっていられるか。
人のこころなんかアテにならないし、熱い思いなんてトラブルになるだけだ、概してあるのは、思いがけず「他人に関わらない」ということ/他人との接続はまったく別次元でなくてはならない、逆にいうと、人とのつながりなんてものは、安易なレベルで得ようとしないほうがいいのだろうな。
根本的に、「誰ともつながっていません」ということが怖いのかもしれない、それで身内やら地元やら、職場やら共同体やらで、人とつながっている「ふり」を続けるのだろうが、そんなことをしていても何も聞こえてこない、言葉の獲得は遥か遠いだろう。

うーん、言葉の獲得、そして、まったく違う次元でのつながりは、なんというか、改めてお気に入りだ。
けっきょくのところ最善は、偉大なるおれさまが、一般にはまったく知られていない次元のつながりだけを視ていて、下々の者どもが言うことなど無視していることなのだろう、偉大なるおれさまが下々の言い分を理解してやることにはまったくといっていいほど意味がないのだ。
ロクなやつがいないのだが、それは僕自身だって、僕は僕のことをロクなやつと思っているわけではない、そうではないのだ、この世界にはもっとマシなことがあって、そのマシなことをアテにするしかない、もともとロクでもないわれわれのために、マシな何かがこの世界には用意されている、もうそのマシなやつをアテにするしかないのだ、初めからずっとそうだった。
何がなんでもやるのだが、それをやったとして、どうなるのかは知らない、何がなんでもやるというのは、このロクでもないおれが決めたことではなく、偉大なるおれさまが命じていることだ、だからしゃーなしにやる、偉大なるおれさまは威張るために存在しているのではなく、おれ自身を導くために存在しているのだ、それがないとまともな小話ひとつ書けやしない。

偉大なるおれさまとは何なのか、実はおれにもよくわからない。

それが何なのかはよくわからないのだが、ただ、遥かにマシな「世界」につながっているためには、そいつだけが橋渡しになるということ、そのことだけが知られているのだ、その橋渡しなしに俗人マインドが寄り集まってヤッサモッサしていても何かになるわけがない。
たとえばワークショップ等を始めるときも、おれは「おれ一人になってもやる、おれ一人でも続ける」と宣言したが、たぶんそのときおれは一人ではないのだ、おれはどうもロクでもない自分と、偉大なるおれさまという、ふたつの存在が重なっているように思う、そしてロクでもない自分のほうにはもうあまり用事がないのだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
すさまじいエネルギー
コにおやつをやって、食べ終わるまで見守っていようとしたら、いつの間にか寝入ってしまい、起きたら朝の四時だった/うちのネコちゃんは腎臓が少し弱いので、動物病院から特別食を買っている、まあそんなことは今関係ないが……
昼寝のつもりでテメーどこまで寝るんだとびっくりしたが、ある種のことをすると、魂のエネルギーをフルに使い切っているようだ、後になるとそのことがわかるのだが、その最中は全身全霊なので気がつかない。
必要なことを知ろうとし、ナゾを解明しようとし、構造を看破しようとするとき、けっきょく方法がないので、霊力だけで突破しているような気がする、X線解析装置ではないが、霊力で読み解くしかないような種類のことがあり、それはどうやら24時間ずっと無尽蔵に使い続けられるものではないらしい。
まあ、その後休めば充填されるわけだし、毎回使い切っていかないと自分のスケールが大きくならないので、これでいいのだが、このごろはほぼ毎日がナゾの解明に全身全霊なので、自分がいつ寝入るかわからないのだった/魂がずっと山を登っているか、朝起きた瞬間からトライアスロンの中にいるみたいだ。

別にやる気があってそうなっているわけではなく、朝起きたらすでにその状態なので、特に何も考えておらず、そのままどこかで休憩すると、寝て起きて「うわっ」というぐらい時間が過ぎている、そして起きてから「使い果たしていたのか」ということに体感として気づく、そんなことをもう半年ぐらい、毎日続けている。
そういえば、いつのまにか、もうパーティの日以外は酒も飲まなくなったものな/酒を飲みたいのは割といつでも飲みたい感じなのだが、いつもギリギリまで脳みそを使い切ろうとするせいで、アルコールを入れられるタイミングがないのだ。
それで別に体調が悪いわけではないし、いちおうワークショップの先生でもあるので、体調はすこぶる絶好調だ、そりゃ自分の体調を壊していたら先生を気取っている場合じゃないしな/それで、11日が〆切だったので、みんなから「月刊ワーQ」の原稿を受け取っている、寝ていたせいでそれぞれに返信できなかったが、いちおうちゃんと受け取っているぞーとここで返答しておこう(みなさんお楽しみに)。
僕はこうして、頑張っているぞーと自己PRしたいのではないのだ、誰に示すものでもなく、おれは常に限界まで遊び続けた者でありたい、そして二十年前の自分から見比べて、二十年前の自分が「もう無理っす、ついていけません」とギブアップするような奴でありたい、僕は朝起きた瞬間からガンバっているのではなく、もはや遊びの中にしか目を覚まさないということをよろこんでいるのだった。

すさまじいエネルギーにあこがれ続けている。

そういえばいつのまにか、人々は、「すさまじいエネルギー」にあこがれることじたいをやめてしまったように見える/人々は今、ひたすら「しんどい」ということから距離を取ろうとし、快適さと運動性だけを整え尽くそうとしているが、それが正しく報われる方法なのかどうか僕は知らない、そもそも僕はエネルギーのない人やエネルギーのない自分のことを記憶はしないし体験もしないだろう、僕はエネルギーのなかった自分なんて記憶は一秒も持っていない。
エネルギーのない人が、エネルギーのあるふりをしようとすると、痛々しくなる、それは誰しもご存じのとおりだ、オタクもフェミニズムもヴィーガンも、あるいは発狂する老人も、単にジャンルからエネルギーを不正に得ようとしているだけに見えなくもない、大声を出している奴が僕より長持ちした試しはないし、むっつりしている奴が僕より長持ちした試しもやはりないな/すさまじいエネルギーを持っていないということが、それぞれにおいて恥なのか誇りなのか僕にはわからない、エネルギーのなさを誇っているように見える人も、実は内心では大恥なのかもしれない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
| 1/16PAGES | >>