☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
シャワージェルの香り
、ある人がGというブランドのシャワージェルをくれたので、それをちびちび使っている。
Gのシャワージェルはとんでもなくいい香りがする。
これは、使い切ったら、自分で買いに行ってしまうかもしれない。
色々といいものがあるもんだね、Gの創り出す香りは本当に別格だという感じがする。

そういえば最近、「○○のアカウントが凍結されます」「違法なアクセスがあったのでセキュリティ対応しました」「復旧はこちらから」という形の、フィッシングメールが流行っているらしいので気をつけよう。
今のところAppleを騙るものと、Amazonを騙るものがあったな。
日本人が作文しておらず、翻訳ソフトでも使っているのだろう、少しでも読むと「こんな日本語ないわ」というような文面だ、気をつけていればひっかかりようがない。
僕はどこにでもいけるし、気楽なもんだ、僕はけっきょくどんな状況でも遊んでやるということしかできない、そんな馬鹿げたことだけが僕の誇りだ/どうかこんなしょうもない話がどこへでも届きますように。

おれだけは別だ。

自分に何ができるのか、あるいは何もできないのかもしれないが、もうこうして奇妙な生き方をしてきてしまったのだ、最後までおれはこのようでいこう、それがどうだったのかは、最後におれ一人だけが確認すればいい。
どこか気まぐれに、新幹線でも乗ってふらっと、無意味な旅に出たいな、何もなかったというような一日の旅がしたい、何か口実でもあればいいんだけどな。
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何度か見る夢/教師どもの顔面を踏み蹴り、その後は警棒でメタクソに打ち伏せねばならない
度か見る夢/出身の中学校が、再演出した「卒業式」をもう一度やるので、みんな参加しろとのこと、僕もしぶしぶ参加する、今度は何か全員にトロフィーを渡すとかなんとか。
しかしそうなると僕は、オープンカーに乗って逃げ回る教師どもの、その車のボンネットに降り立ち、その顔面を蹴り(踏み)まくってやらなくてはならない……なるべく顔面が破壊されるように。
画面を何度も蹴り、踏みつけ、その後はその顔面を、鋼鉄の特殊警棒でメタクソに打ち伏せてやらねばならないのだ、別に殺すつもりはないが、もう生きてても死んでても同じだという感じになる、それを見て級友たちが「相変わらずだな」と安心したように遠巻きに笑っている。
僕には何の憎悪もなく、暴力の感情もないのだ、ただ「クソが」と面倒くさがる感情はあるけれども、なぜか僕はこのことを<<しなければならない>>ので、怠りなくしている、だから級友たちも遠巻きに安心して眺めている、教師どもも悲鳴を上げたりするわけではない。

目が覚めたときに「ああ」という確信があって/「ああ、こんな夢があること自体が、僕は決定的に他の人とは異なるのだ」。
どうして「他の人とは異なる」のかは、あまり自分から話したくなるようなことではないし、確信はあるが朧だ、どうせ自分で知っていることなのだろうが、いちいち確かめたりはしないでゆきたい。
中学のとき、美術のS先生が担任になったときだけは、面白かった、ある意味大胆なことだったろう、S先生は初めから「おれからお前に教えられるようなことは何もない」と断言し、三者面談でさえそう話した、「こいつにはもうこいつの哲学があるんや」とS先生は言った。
確かにS先生は何の無理もしていなかったな……夢の中には出てこなかったが、S先生の顔面を破壊する必要はさすがにないのだろう、いやどーだかわかんねえが、何度かこの夢を見るのだった、起きたとき「はーしんど」とため息が出る。

なぜ、じゃれあって柔道ごっこをしていただけなのに、Iくんの大腿骨は、爆発音を立てて折れたのだろう。

大腿骨が折れるとき、「ポーン!!」とものすごい爆発音がするのだと、僕は目の前で見たのでこれまで確信してきたが、本当にそういうものなのか、今さらになって怪しくなってきた/だいいち、ちょっと足を引っかけてじゃれあっただけで、大腿骨がヘシ折れたりするものかね、今考えるとどうも物理的に不可能な気がしてならない、塩田剛三じゃねえんだからよ。
今になって考えると、小〜中学生にかけての時点で、すでに「?」ということが無数にあるのじゃないか、これはサンプルとして一度すべて棚卸しして記録しておいたほうがいいのかもしれない(とは思うが、とってもめんどくさ〜い)。
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世界とあなたと「命がけ」の仕組み
がけでやらんと何にもならんのだが、命がけというのは武士道的なものではなく、したがって「決死」「特攻」「死ぬことと見つけたり」というたぐいのものは必要ない(武士そのものは別、ありゃ殺し合いを引き受ける人なんだから)。
命がけというのは、単に「むつかしい」のだ、何がむつかしいかというと、「生きているうちに、『何をする人』になる?」という問いかけ、それに答えることがむつかしいということだ、これは根性で通じるたぐいではないから手ごわいのだった。
で、これは何というか、自分の願望とか思念とかではないのだ、<<万人に向けて>>というところがミソになる、万人から見て「この人は○○をする人」と見えないといけない、それは形とかポーズとかではなく、たとえばライオンが「ライオンだな」と見えるようなことだ。
たとえば、「わたしは愛に生きる人になります……!!」みたいなことを言ったところで、本人は熱烈にその気分でも、周囲の人からは説明されないとそうは見えない、<<万人にそうと見える>>ということが大事なのだ、かといって牧師やシスターになってもしょうがないのだが、とにかくそれは「自負」ではないのだ、「命がけ」を「自負」にすりかえると大きな負け戦が容易されているだろう。

逆に言うと、「変質者」のほうがわかりやすい、公衆でバッとチンコをさらけ出したら万人から見て「変質者」だ、同様に「犯罪者」もわかりやすいのだがこちらは物騒なので取り扱いはやめよう。
「わたしは○○をする人」と、いくら自負していても無駄なのだ、その○○は決して実効をなさないだろう、周囲がその実効を為していないものに空気を読んで付き合わざるをえなくなるので、近所迷惑になってしまう。
つまり「命がけ」というのは、マザコンというか、ママに支配されている子供ちゃんには不可能ということなのだが、まあそんな悲しいことを言っていてもしょうがないな、とにかく自負とは違うということ、そしてそれは願望でもないし志望でもない、ただの実態だ、万人から見てそう見えるという実態を採るしかないのだ。
むしろ「自負」が消える必要がある、何しろライオンはライオンの自負があるわけではないからだ/「命がけ」というのは自分の命を損耗させるということではなくて、<<万人に向き合う命をそこで名乗る>>ということだ、命を損耗させるのではなくむしろそこに命を誕生させるということだ、「××さんは○○をやっている」ではなく、「○○をやっているのが××さん」になる←読み飛ばさんとちゃんと考えい。

われわれは歌っていない桑田佳祐を知らない。

木村ヒマ三郎さんが「歌をやっているんですって」というのと、「桑田佳祐」は事象が違うだろう、単に有名ということじゃなくて、命がけだということ、「歌手」ということが桑田佳祐という名前に命を吹き込んでいる。
木村ヒマ三郎さんがボウリングをやっていると、「ボウリングをやっているな」と見える、桑田佳祐がボウリングをやっていると、「ボウリングをして遊んでいる」と見える、これは別に有名と無名は関係なくて、木村ヒマ三郎がボウリングをしている光景は、残念ながら「何をしているのか究極わからん」という光景に見えるのだ、それは木村ヒマ三郎が動物的生命の他には「命」を帯びていないからだ/木村ヒマ三郎は自他ともに「何をしているのかけっきょく永遠にわからん!!」という状態になる、この状態になるのがイヤなら、<<期間限定でもいいから万人に向けて「○○をする人」になることだ>>、「個人的」「内輪的」では命は与えられなくて、万人に向き合ったとき初めて命が与えられる
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若さでは足りない

前、「若さ」はイコール「光」だということを書いた(よね? もう覚えてらねんえよ)。
しかし今日また気づいたが、確かに「若さ」は「光」だが、「若い」ということだけでは足りない。
もう一ランク先に、「少年」というのがあるな……そして少年というのは、何だこれ、「風」なのか、「匂い」なのか? 鼻先に直接「精霊」が入ったりしていない?
なぜ少年にとっては、気温がイコール「匂い」なのだ? そして少年は何も知らないが、何を知る必要もない存在だ、あああああ、そして最もうつくしい女性の寵愛を一身に受ける権利を有している。

「若い」は確かにイコール「光」で、そんなもの電灯を見りゃわかるだろということなのだが、若さは確かにカッコイイ。
が、なんというか、「少年」のほうが永遠度はさらに上だな! なんだこの話は、さすがに意味わかんねえよ。
少年の嗅覚は怖ええぞ、春夏秋冬以外の季節を、毎日自分で嗅ぎ取っていやがる/少年は明らかにマンガなんか必要としていないな、少年がよく迷子になるのはまだ既知の世界を持っていないからだ。
若さはイコール光で、少年はイコール匂い? そういうことってどこかに書いてある? もうこれ以上ウィリアムブレイクとかウパニシャッドとかヤベー奴の本を読むのイヤだよー(泣)。

「ジャックと豆の木」「ガソリンスタンド」「アラジンと魔法のランプ」「裸の女の人」「夕焼け(紫彩)」「雲の形」(意味不明)

少年は交遊を必要としていない、むしろ大人のオンナを連れているほうがいいな、でしゃばりでないオンナなら、という条件がつくが。
少年の目から、大人は「何もわかっていない」のだ、「何もわかっていないから、誰にもわからないことを口々に言い合っている」、少年は年長者を憐れんでいるのだ、何しろ少年は匂いで未分化の季節を直接嗅ぎ取っているからな、「ボク何年生?」とにこやかに訊く老人に、「自分の迷いを人になすりつけてごまかしたふりをするな」と少年は言っている、億劫なのでいちいちその言葉を発さないだけだ。

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一分間に4〜6回しか呼吸しとらん
ういえば「ためしてガッテン」でやっていたから、つい自分でも計ってしまったが、僕は一分間で4〜6回しか呼吸していないな。
ふつうは一分間に15〜20回ぐらいらしい。
僕はタバコを吸いながら4〜6回で、リラックス体勢だったらもっと下がるだろうし、たぶん文章を書いているときはさらに呼吸数が下がっている。
僕は文章を書きながらハアハア汗を流すことがあるが、それはスポーティな呼吸でハアハア言っているのではない、呼吸が止まるからハアハアするのだ、まあそんなこと別に誰もキョーミないがね(おれもない)。

僕は「呼吸法」うんたらのことをやった試しはない。
呼吸数を落とそうとしているのではなくて、これが僕にとってのフツーだ。
しかし、以前、管楽器をやっている人から、「あなたの呼吸数ってどうなってるの、何かおかしくない!?」と驚かれたことがあったな、あれはどうやらマジだったのか、僕は他人の呼吸数になんか注目したことがなかったのでな。
僕の呼吸法のコツをいうと、まーた例によって胴体の最下部(ボトム)で呼吸しているので、どうせこれを普通の人がやるとまたクンダリーニ症候群になるんだろ、だいたいパターンが読めてきたので調べる気もしないが、そういうことを習いたいなら教えてくれる教室に素直に行った方がいい、たぶんこれからはそういうのが当たり前になる時代だ(もうそういう時代になっているのか? 知らない)。

ためしてガッテンは、山瀬まみちゃんがいたほうが好きだった。

志の輔さんとまみちゃんの、息の合った掛け合いが好きだったのに……もう志の輔さんがまみちゃんを弟子にとって落語家に育てるしかないな!
たまにはこういう、極限に落差のある話をブッこんでみるのだった、ただ呼吸数の話はマジだし、まみちゃんがいたほうが好きだったのになあというのもマジだ。
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LGBTについてはまったくわからん

の回りに、実物がいたことがないので、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)というのは実感としてまったくわからない。
歌舞伎町に行ったとき、キックボードのおねえさん(オカマ)がシャーと滑ってきて、「寄ってかな〜い」と声をかけてくることがあって、その絶妙な登場のしかたに大爆笑したことがむかしあったのだが、たぶんこんなオモシロなものは、昨今言われているLGBTとはあまり関係がないのだろう(そうでもないの? 本当にまったく知らんのでよくわからん)。
昔、「保毛尾田保毛男」というホモアピールのコントキャラクターがあって、現代ではこれがLGBT差別だということで大バッシングされているらしいのだが、しかしあんなオモシロキャラを見せられたら笑わないわけにはいかないし、一方で「バカ殿」だって若い娘にひたすら鼻の下を伸ばしているのを見て笑ってしまうので、それを笑ってしまうかどうかというのは性愛が同性か異性かにあまり関係がないのではないかと思う。
LGBTというのは、感覚的に「まったくわからん」というのが正直なところだが、それについてどう思うかというと、正直「どうとも思わない」ので、もしそれに向けて差別の卑しい眼差しを向けている人があるのだとしたら、それは「どんだけヒマやねん」としか思えない、僕は女の尻を追いかけ回すのに忙しく、ヨソの男が「実は男の尻を追いかけています」というようなことに、いちいち関心やコメントを向けていられない、仮にその男が回転中の扇風機とセックスしていたとしても、そんなことには僕は何の意識も感想も持てない。

僕は、たとえば四十歳の男が十五歳の女の子に恋をしているのを見たとしたら、様相にもよるが、それについては「きもちわる」と思う。
だから、四十歳の男が十五歳の男の子に恋をしていたとしても、それを「きもちわる」と思うだろう/僕が「きもちわる」と思うのは、性愛の形式ではなくその当人の陶酔気質とナイーブさについてだ。
僕が、X歳の女性に恋をしたとしたら、僕は無条件でそのことじたいを「きもちわる」と自分で思う、そりゃ当たり前だ、チンコの生えた者がオメェ、「恋」(草不可避)なんかしたら、自分は気分がよくて絶頂モノなのかもしれないが、はたから見りゃキモチワルイんだよ、同性愛も異性愛も関係あるか/「恋」なんて、ぶっちぎりの美的な奴にしか似合わんもので、われわれが入れあげてよいのは恋ではなく「トンコツラーメン」あたりだ、トンコツラーメンでミソ味がマイノリティだと差別されても誰も社会問題には扱わないだろう。
もし繊細なホモの少年が僕の前に現れたら、ズッタズタにされるだろうが、その点は心配いらない、繊細な異性愛の少年が目の前に現れたって、ズッタズタにされるのは同じだからだ、繊細・陶酔してナイーブになっている奴が周囲に庇護してもらおうという主張に転じるのは愛ではなく魂においてキモチワルイのだ/もしおれが「ボクの恋……」とか言い出したら死ぬほどキモチワルイだろ? お互いにそんなしょーもないものはズッタズタにしていこうじゃないか、魂はどうよ、魂がヨレヨレじゃ異性愛でも同性愛でも救われないのは大前提だ。

同性でも異性でも、「恋」なんてキモチワルイもので、唯一例外は、「かっこいい」にまで至った奴だけだ。

僕の敬愛するシンガー、ロブ・ハルフォードや、同じく敬愛する偉大な指揮者、故バーンスタインなどは、どちらともゲイの人らしい、僕にとってはゲイというのはよくわからんが、とにかくかっこいい人たちなので、何も気持ち悪くない、実際ロブ・ハルフォードがゲイをカミングアウトしたとき、たしかファンのあいだでは何のリアクションもなかったはずだ/なんつーか、今「彼はゲイだ」と言われても、「あ、そういえばそうだったな」としか思わん。
というわけで、もし僕自身、陶酔気質のナイーブ異性愛くんになったとしたら、あらゆる形態や事情を無視して「キモチワルイ」と、石を投げつけて差別してよろしい、ただしかっこよかったらキスを投げつけて祝福するように、そりゃ両方なかったらバランスが崩壊しているだろ/さあお互いに、悪あがきはよそうな、かっこよくなれないと石を投げつけられるのが本分だ、石を投げつける軍勢は「ヒマ人」につきるのだが、世にヒマ人の尽きたためしはないんだ。

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天地と人についての与太話2
の世界は、天地がメインコンテンツで、人間はオマケだ(とほほ……)。
そして天地のあいだでやりとりされているものには、「エネルギー」と「重さ」がある。相対性理論によってエネルギーと重さは同一のモンだが、この場合「重さ」というのは「ヒッグス粒子のせいで光ではなくなったやつ」ということでもある、「重さ」とは「動きにくさに縛られているやつ」だな。
われわれは体感のせいで、地面が地で、空が天、地面が「下」で空が「上」だと思い込みがちだが、そりゃ地球という天体にいるからそう引き当てられるだけで、本当にあるのは「重さ」と「重力」だ、天地に重力上下があるのではなく、重力の方向を上下と定義してそれを地球上で「天地」と呼んだだけだ/まあそんなこと詳しく見抜かなくても別にいいけど……
われわれが永遠の国に行けないというのは、いうなればわれわれがエネルギーを極めても光速度を突破できないということだな、どれだけ光速度に近づいても、そこからエネルギーは「重さ」に転換されていってしまう、このへんはただの物理なのでブルーバックスでも読めば書いてあることだ(ただし改めてびっくりするような物理ではある)。

ともかく、ここで話したいのは、われわれがそれぞれ、「エネルギー」に与するか、「重さ」に与するかという話/エネルギー党と重さ党のどちらにあなたは入党するかという話だ。
いやあ、率直なところ、ある体験に基づいて、僕はエネルギー党への入党をオススメしたいわけだ、われわれには自分の「魂」について選択できる方向性が二つある。
1.地と親しみ、「エネルギー」を得て、上に向かう、というのがエネルギー党だし、2.天と親しみ、「重さ」を得て、下に向かう、というのが重さ党だ/これ、たぶんおっかない話、「天を拝みたおして地の底に落下していく」という現象が有為にありうるということだよ、理路からいってそれが正規の道筋だとまで断定するしかないのが正直なところだ。
いわば「バベルの塔」などが、その落下の話だろうな、天にすり寄ることで結果的にドエライことになったというストーリーだ、何はともあれ、僕は与太話としてエネルギー党をオススメしたいのだ、だって「重さ党」とか名前だけでもしんどそうでヤバそうじゃない。

つまり、人に罪の「重さ」ばかり見て、それを指摘ばかりしている人は……

芥川龍之介が、子供向けに「蜘蛛の糸」という話を書いた、お釈迦様が地獄に向けて救済の糸を垂らすという話だが、この話を書いた芥川龍之介本人は「漠然とした不安」という不明の理由で自死している/芥川龍之介は、どう見てもきっとエネルギー党の人ではない。
地と親しみ、さらに言えば、地中や地の底と親しみ、エネルギーを得て、上に向かう、僕が体験したのはとにかく、人のエネルギーは自家製ではまったくないということ、それに気づいて使っていこうぜ(感覚技術的にふつうムリっす)ということだった/しかし理屈から明らかに、地の底から膨大な「自家製でないエネルギー」を引き受けられる奴がいる以上、逆に、天上から膨大な「自家製でない重さ」を引き受けてしまう奴もいるということだ、そうなるとおっかないので、うーん僕はエネルギー党がいいな。
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天地と人についての与太話

まりへんちくりんな話をしたくはないのだが、もろに体験したことを隠すわけにもいかないので、「与太話」というジャンルに放り込んでレポートしておく、全力で聞き流すように、<<人間はあまり重要じゃない>>。
ナンノコッチャという話だが、まず聖書世界で言われている人間の捉え方を見てみよう、最初にカミサマがあって、カミサマが土くれから男を作って、男の肋骨から女を作ったが、その女が蛇(悪魔)にそそのかされて禁断の知恵のリンゴを食べたものだから、「お前ら揃ってアホか」ということで、人間は永遠の国から追放されたのだった。
で、これ、われわれが人間だから、「こうして人間は創られたのだ!!」ということで、ここを超重要命題に捉えてしまうのだけれど、僕のとある体験に基づくと、ここを重視しているのが誤解なのだ、確かに人間はカミサマによって創られているだろうが、人間はカミサマにとって<<メインコンテンツではまったくない>>。
カミサマにとってはおそらく、サタンとか堕天した天使とか、それらとどう戦争になるか、あるいは神の国に還ってくるのか……ということが重要なのであって、人間は残念ながらオマケだ、われわれが人間を主題にカミサマを捉えようとすること自体が土台として見当外れなのだった(与太話だ聞き流せ)。

こういう例え話にしてみるとわかりやすい、たとえば米ソが冷戦に陥っていた時代、その両国のあいだに日本や朝鮮半島があったのだが、それはたまたま間に挟まっていただけで、本当にやりあっているのはアメリカとソ連だ、日本も朝鮮半島もメインコンテンツではまったくない。
それと同じように、もともと「天地」があって、そのあいだに人があるのだが、人はたまたま間に挟まっていただけで、人は何もメインコンテンツではないのだ/冷戦においては「米ソ」がメインコンテンツであるように、この世界においては「天地」がメインコンテンツだ、それを人が「挟まっている奴」の分際であれこれ主人公めいて口出しをしようとするからおかしくなる。
与太話だから聞き流すように、天から地へは、重力、「重さ」が降り注いでいる、地から天へは、「エネルギー」が湧き上がっている、われわれの身に起こるさまざまな感情などは、すべてこの「地から天へ向かってぐいぐい出ているエネルギー」が流れ込んでいることの結果にすぎず、実は自家生産ではないのだ/自分の胴体が頭上まで貫通していればエネルギーは天へ昇華してくれるのだが、胴体のどこかが詰まっていると、詰まっている箇所でクラッシュする、そしてそのクラッシュ部位の性質に合わせた感情や六処の激化が起こるというわけだ。
よって、一般に言われる「その膨大なエネルギー、独特なエネルギーは、どこから出ているんですか」という問いがあるが、これは「エネルギーはおれから出てるんじゃねえよw」というのが正答になる、地から天へ鉛直真上に出ているエネルギーが胴体に流れ込んでいるだけだ、だから人は胴体を直立させたままでは眠れないのだ(即身仏を除く)。

すべての地から、すべての天へ、エネルギーが向かっている、そこで人間はオマケというか、「別に重要じゃないので好きにしたら」の扱い。

人間以外の動物は、肛門から脳天までがタテ並びじゃないので、首を立てたまま眠れるが、人間はだめだ、胴体の鉛直真上に頭があるとエネルギーが流入して眠れない/逆に「覚醒」にはもってこいなので、ヨーガや禅などでは「胴体の最下部を地面につけ、脳天までピシッとまっすぐにしてみようか」という方法が採られる(もちろんわれわれシロウトがやっても精神病になるだけなのでマネしないように)。
「エネルギー」に与する者は、精神が鉛直真上に向かっており、「重さ」に与する者(いのちの「重さ」とか罪の「重さ」とか)は、精神が鉛直真下に向かっている、樹木だって根を張らないと幹が育たないわけだが、それでも樹木はやはり「上へ上へ」と向かっているので、その樹木には上向きの「魂」があるのだと言われてよい。

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おう、おう、とハッピーにふらふら〜
は基本的に人が好きだ。
好きだ、とは別に思っていないのだが、実際に人と接しているときの心境や態度を見ていると、好きなんだろうなと理解できる。
別にアホなやつでも、あんまり美人じゃなくても、実はあまり気にしておらず、なんというか、第一にふつうのワンちゃんを「おう、おう」と感じるように好きらしい(正直あまり考えてないな、実際の場面を思い出すと)。
まあ、人に対してだけではなく、食いものを置かれてもおもちゃを置かれても、何を置かれてもけっきょくそれに「おう、おう」と食いついてポカーンと自我を忘れるので、好きというのか何というのか、本当に何も考えていないらしい、自分でいつもそうしていることを思い出してみたのだが、思い出してみたらわれながら「これはひどい」と思った(他人事のように「なんやこいつ……」と思った)。

人が好きというより、とにかく現場が好きなだけかもしれず、それも「好き」というのもなあ、本当に何も考えていないからそのときのコイツは。
ただ、ワンちゃんでもそうだが、「おうおう」と構ってみたとして、何か「……」とワケありというか、何か事情があり、何か不穏なことがありますよという気配なら、「はいはい」とこちらが引き取って、「まあ知らんしわからん」と、別のほうへふらふら行くみたいだ(やべえな、ホントにコイツ何も考えてないわ、こんなのでよく無事に生きてこられたな)。
つまり僕は、何か本心でもない「約束事」とか、そういうことを強いられないかぎり、すべての局面で同一にハッピーらしい、ハッピー事にはふらふらと近寄り、不穏事を見るとふらふらと去っていくらしい、去っていくというか、別の方角にあるハッピーに向けてふらふらと行ってしまう様子、とにかくこいつは「感動していないときがない」らしい(なんだコイツ胴体にマジで何か流れてるな)。
自分で言うのもアホみたいだが、たしかにコイツは、点検してみると、ふらふら〜と挙動するその挙動の決定が、意思決定じゃないので時間軸上「あれ?」というぐらい早い、動きを決めるのに予備動作がないというか、どれだけ記憶を点検してみても、行動や発言は「明晰」なのに、そう行動してそう発言しようと「企図」した時間が検出されない、なんなんだコイツは、みんなよくこんなヤツを平気で認めてあげているな、みんなえらいやさしいんじゃないの。

みんなの期待の目が突き刺さっている。

記憶を点検すると、ほとんどそのこと「だけ」が光景に残っている、大変恥ずかしい話だが点検した結果をレポートすると、僕はその向けられた期待の目に「愛」で応えているらしい、「愛」で挙動が決定している様子だ、何か水色の気配の(半分液体で、半分気体ののような)モンが胴体の中を駆け巡っているが、これがどうも「愛」くさく、そして誰かに愛を向けるというよりは、その水色の流れているモンが爽快で「んんんん」なので、ただそれだけのために、その流れているものがよどまないようにだけ挙動しているらしい。
つまり、この「愛」は、何ら努力でもないし、特に「人のため」とか「誰かのため」というのでもないな、肉は紅色をしているのだがその中に水色のモンが流れている、爽快、爽快ってなもんで、現場に行くといつもこれなのね、ちなみに僕は「圧倒されちゃって」と言われるのだけが好きなのでスピリチュアルな人ではまったくない、ああ世界の中にいるのだなーということが自己観察からわかって、文章を書くのにさらなる足しになったのであった(意味不明だが許せよ、これで合っているので)。
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用事は増やせば軽くなる

眠時間が取れていないぜ、もうパーティ当日だけど、気になる人来てくれよな! ナイスな人と、ナイスというほどではないけど、という人をお待ちしています、ビョーキの人はもちろんダメだぜ。
改めて思ったのだが、文章書くときにリアルにハァハァ息が切れたことある? ふつうないよなあ、おれだってこんなのは間違っていると思うぜ、フツーもっと文学って重厚な感じで取り組むだろ……
だいいち、インターネット的な環境が、この現代ではエグいわな、こんな書き物をやりだしたら、ホレ書け、今日書け、明日も書け、ってな感じになるものな、人間ってそんな常時「発信」しとるもんかね/お前ら通勤通学とかランチタイムとかに読んでるんだろ、そのときに更新されていないとカワイソーってつい思ってしまうから、とにかくなんぞ更新してやらんとと思い、今このザマだ、どうだ意外と人情があるだろ。
とはいえ、急に冷静になってアレだが、なんだかんだ、コンテンツに値打ちがなければ読んでもらえないので、おれが楽しくてもしょうがないんだよな、読む側が楽しくないといけない、といってもたまにはこうしておれのほうが楽しくてもいいだろ、おれは早く昨夜の残りの麻婆豆腐を今日の朝メシに食いたいのだ。

何か、こう……そうだな、とにかく楽しいのがいい、たとえばパーティのことだが、いつも参加者のHNをずらっと書いているけれど、これがズバーッと、一頁を埋め尽くすぐらいまで並ばないかな〜などと考える、そういうことは夢があっていい。
何もぜいたくはいわない、現在の十倍ぐらいの規模で遊べたらなあと、いつも思っている、たかが百人ぐらいじゃねーか、夏フェスに行くよりこっちのほうが楽しいぞ〜(てきとう)。
まあこのブログは、内容がいつもアレであるため、パーティどころか、ブログの存在自体あまり友人に紹介してもらえないものな、お前らはみんな「こっそり」読んでやがるだろう、うーんどう考えてもそれが正しい態度だとおれも思うよ、こんなもんおれだって友人に紹介しないもんな(でも自分はこっそり読んじゃうだろうな)。
さて、説得力ゼロの勧誘をしたところで、パーティはマジでやるので(当たり前だ)、気になる人は来てね、というかおれとデートするのを断らない奴は全員来いよ、もともとそういう趣旨で始まっているモンなんだし。

パーティで出会って、デートとか、くぅ〜、いいねえ!!

まあ実際にはそういう展開にはならんというか、実際ならんのだけど、夢であり憧れだ、実際にはそうならんでも「くぅ〜、いいねえ」ということは保たれないといけない、そういうキホンが共有されない世の中は不健康じゃないか、ブラック企業になんかリアリティほしくねえよ。
今回参加する、と考えるとぜったいに腰が引けるので、今回と次回と、そのまた次回と、ひとまず三回ぐらい参加する、と考えればよろしい、不思議とそのほうが腰は軽くなるものだ、それだけじゃない、パーティに参加したぶん、その他の用事もイベントも「増やせば」いい、減らして調整しようとしたらダメだよ、気が滅入って動けなくなるから/用事というのは増やしたほうが軽くなるものです、と、けっきょくマジメな話をしてしまった(麻婆豆腐食ってきます、お前は早く参加エントリーしろ)。

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三月のパーティはワンサカ
回のパーティは、人がワンサカ来るらしい、というか毎回ワンサカ来いよな(泣)、何はともあれにぎやかにやれそうなのでよいことだ。
春だし、来月からは新生活の人も多いしということで、ぜひこの機会に、これまで二の足を踏んでいた方も参加してくれたらうれしいなーと思っているので、ご参加お待ちしております。
空気に馴染むか馴染まないか、来てみなきゃわからんし、足しになるかならんかも、来てみなきゃわからん、いまいち居心地が悪けりゃ途中でしれっと離脱してしまえばいいんだからヘーキヘーキ、ということで、これからもパーティの拡大を志しております。
せっかくやるからには、盛り上がった方がいいもんな、そしてお前らは考え方を変えるのだ、自分の足しになると考えずにパーティの足しになるという方向で考えるのだ、お前みたいなモンがトクをしてどうなるってんだべらぼうめ、ご参加お待ちしております。

当方のパーティは現在のところ、露骨なスケベ心を禁止にしております、まあ最近世の中がそういうムードじゃないし、慣れてないモンがスケベ心なんか出してもトラブルにしかなんねえんだよ、みなさまご存じのとおり、そういうチャレンジングな時代はムード的に去ったのであります。
で、当方のパーティ、自己管理できないご病気の方はダメで、もちろん迷惑行為に及ぶ方もダメです、だいいちそんな大騒ぎする集まりでもないし、まあなんというか「若さがあり、生きることを豊かにしようとし、現在と未来を面白がっている健全なヤツ」が参加資格です、もちろん宗教とかスピリチュアルとか、その他勧誘的なものは一切ナシです、そんなヤツは全員叩き出します(これまでそんなヤツはいなかったが)。
なんというか……よほどムリをしていないかぎり、ふつう人付き合いの土台は「控えめ」からスタートするのが基本であって、かといって陰キャになったら話は別というかそれはただの陰キャだろ、ということで、よって現在のノリというかムードは、「これまで半分方リア充もやってみたけれど、コレジャナイ感があって、ずっと何かホンマモンを探していた」という人が多い、この「半分型リア充・離脱組」が当方のパーティの特色だろうか(そりゃそうだろうよ)。
メンバーには、東大卒とかお医者様とか、ダンスの先生とか公務員とか、現役女子大生やら劇団員やら、なんやかんやいます、まあ何一つおれは興味ないけど(えっ)、とにかく全員、「ごまかしながら生きるのはマズい」と感じていて、でも「毎日ごまかしながら生きているよなあへへへ」と苦笑いしているところです、「わかるわ」という方は早くいらっしゃいませ。

断じて、激論とか、熱く語り合うとか、そういうしゃべり場的なことはナイです(この誤解が多いらしいな!)。

こんなもん、想像すりゃわかるだろ、おれ一人がうっひょーと遊びまくって、周りの木偶(デク)がそれを見て「いやあ楽しいなあ」とニヤニヤしているだけだ、そして「お前何楽しんどんねん」「えっ(まずい)、あっハイボール頼みますか」と回避展開する、そういう極端に責任の偏差したパーティだ! これでも一時期よりはマシになったんだけどね(一時期は完全におれ一人が朝までライブパフォーマンス状態だった、あれは死ぬ)。
ためになる話をしてほしけりゃするし、ワークショップ的なトークとパフォーマンスをしてほしけりゃするわいな、実はそんなことを飛び越えて、どこかでお見せ(アンドお伝え)しなくてはならない独自の実体があるので、こんな企画をえんえんやっているわけです、だれか釣られて遊びにおいでね。
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夢中で生きる奴
本的に、夢中で生きる奴と、夢中で生きない奴がいる。
夢中で生きる奴は、法(ルール)からはみ出すが、法からはみ出すことが必ずしも、犯罪を構成するとは限らない。
カネがないのにレストランで食事をするのはルール違反だが、カネがない奴に「いいから食っていけ」と食事を与えるレストランもルール違反だ。
夢中で生きる奴は、基本的にルールからはみ出している、そこで単純な犯罪にしか行き着かない奴は筋が悪い/ルールからはみ出したとき、そいつが本性から愛や公益心をもっているか否かが判る。

世の中の嘆きの半分以上は、夢中で生きない奴の、「むなしいんです」という嘆きで成り立っている。
夢中で生きないので、むなしく、その埋め合わせに、「執着する」ということで夢中の代用にしようとする/しかしこのことが、全身に毒となり、全身は毒に虫食まれる、この毒は長引いて当人をずっと支配する。
夢中で生きない奴は、胴体の動きが「緩慢」になっていく、全身がダルいのだ、ものの15分も稼働していられない、そこで「執着」や「おびえ」「ご褒美」をアメとムチにして、稼働しているふりを続けるのだが、やはり胴体は毒に虫食まれていく、「緩慢」は精神病の予兆を示すシグナルでもある。
夢中で生きる奴と、夢中で生きない奴がいて、何が違うかといっても何も違わず、ただ一点、夢中に生きる奴は疑義を抱かない、夢中で生きない奴はずっと疑義を抱いている、疑義に答えてくれる何かが現れるとずっと空想して待っているのだ。

疑義があるか、でもおれはそうは思わない。

疑義があるなら、その疑義は永遠に消えない、そして僕には疑義はない、いくら押しつけられてもその疑義は僕の手元に絡み合わずスルッと流れて落ちてしまう、いくら立ち止まっても僕は疑義に染まらない。
夢中で生きる奴がいて、夢中で生きない奴がいる、これにだって「ホントだ」と感じる奴と、「そうなんです、でも」と疑義を抱く奴がいる。
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カメラ得意な人いる?
像作品を撮ろう、という話がじわじわ盛り上がっているのだが、脚本とideaはあっても機材がない(技術もない)。
そこでどなたか、フルサイズのデジタル一眼あたりをお持ちで、撮影が趣味&得意だよ〜というような方はいらっしゃるだろうか、もしいらっしゃったらご協力を願いたい。
何の工夫もない申し出だな! と我ながら思うが、まあしょうがない、もしご縁があれば誰ぞ一緒にやりましょう、プリーズヘルプミー。
機材を買ったらまたそこそこの出費になるし、それよりなにより、もうこれ以上カメラのノウハウにまで手を拡げたくないのだ(と言いつつ、けっきょくまた自分で買って自分で手を拡げるのではという可能性が大なのであった)。

百聞は一見に如かずという言葉があって、これはテメー文学志望の言っていい言葉じゃねえぞという話なのだが、まあ実際そういうことはある。
どうせまた僕の創る映像作品だから「なんだこれは……」とナゾめいているブツになることは請け合いなのだが、まあやれることがあるならやってしまうほうがいいだろうし、そんなに日にちもかけず、たぶん二、三日もあればだいたい終わるだろう、楽しく遊ぶふうにしているうちにすべて仕上がるというのが何事もベストだ。
最近はyoutuberなるものが流行っているらしい、と仄聞していたが、実際に検索してみると、すでにものすごい数いるのね、もちろん僕はそのyoutuber的なものになるつもりはないが、せっかくのこの時代、動画コンテンツぐらい創らないともったいないという見方は確かにある。
どんなことでも、「作る」と決めたら作るしかなくなるという、その始まってしまったどうしようもない状態というのが僕は好きだ、実作なしにあれこれ「本当のこと」なんて探していたって、見つかるわけがないものな、というわけで今年もバリバリやっていこうというわけです、よろしくお願いします、当方メールアドレスは本サイトの横にリンクがございます。

Save  the 弱Q.

第一話、と銘打って、その後どうするかはわからんという、まあ例によって無責任な……しかしもともとこのブログも本サイトも、こんなにえんえんやると思っていなかったからな! 物事には吉凶っちゅーものがあるので、何かくだらんことにヒィヒィ言うのがいい、ヒィヒィ言うのは吉相で、あれこれ文句を垂れているのは凶相だ。
自分から何かをする、それもあまり自分にトクだとは思えない、人に「何それ」と言われそうなもの、バカにされそうなもの、それに自ら突っ込んでいくのはいつも吉相だ、一方気づけば実は他人任せで、何か自分をご立派な順境だと思い込み、いつの間にかエラソーな気分になり、自分は難しいことをしていると思い込むのは凶相だ、誰しも運なしには不幸にしかなりえないのでみなさま吉相に向かって驀進しましょう、だいたい無暗なアホのほうが運はいいものです。
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恋あいは実感に勝る実話である

折空也と申します。
「お話」は、「お話」であります……それは何の役にも立たないもの、しかし背後でなにか、突破的な知恵や物事の定義を行っているもの。
お話を聴くということは、それに賛同するということでもなし、議論するということでもなし、理解するということでもなし、ただよく聴くということです。
われわれは、「お話」の中においてのみ、何の屈託もなくyesと言える、たとえ川の上流から大きな桃がどんぶらこと流れてきたということにしたって、ただちにyesと言えるのです。

男は男らしくあって、女は女らしくあり、互いは悪ふざけをして、ただし互いに尊びあい、大切にしあっていた。
それについて、己の実感を持ち出すべきではありません、それはあなたの「実感」なのですから……「お話」には関係ない。
たとえあなたが桃を生産する農家だったとしても、大きな桃が上流からどんぶらこと流れてきたことに疑問を持つべきではないのです、ここでは桃農家さんに桃生産についての実感を尋ねてはいません。
男らしい男がいて、女らしい女がいて、悪ふざけで男は女を、後ろから乳房ごと抱きしめた、そうした夏や冬があった、そのことはどう見てもyesでしかないのです、感情や実感は関係ありません、これは「お話」なのですから。

ふられた男が、「へっちゃらだ」と言い張った夜があった、これはそういう「お話」です。

胸の谷間に、尻のふくらみに、あるいはすらっとした肢体に、何があったのか、そういうことの「お話」がある、ここに数万数億のワイセツ的事実や実感を積み重ねたところで、「お話」には関係ないのです、週刊誌記者の方はお帰りください。
その黒髪は絹のようであった、肌は象牙のようで、香りは神殿に焚き込まれた白檀のようであった、女はブラウスを脱ぎ捨てるとみなそのようであった、これはそういう「お話」です、われわれはつまらない実感だけを「実話」とは言わない。

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ラブストーリーは当然に
うも九折空也です。
これは恋あいエンターテインメントという長いお話のひとつです。
われわれはまず「お話」に入ります、最近は忘れられがちですが……
この世界には教訓もアドバイスも存在しません、観客が舞台に闖入することを除いては。

男と女が恋をするとか、愛し合うとか、はたまた青春とか、そういう「お話」があります。
決して全員が美男美女ではない、笑いに満ちた一幕もありますが、われわれはこれをエンターテインメントと捉えています、よってどこまでもシリアスなものではない。
「お話」というのは、即効性の足しにならないものです、けれどもめぐりめぐって、いつの間にか足しになっていることがある、何かを定義していたということさえしばしばある。
この世に、お話が得意、などという人は存在しません、お話はお話でしかないですから……つまり「われわれ」と「お話上のわれわれ」は別の存在です、どちらが真にわれわれを豊かにするかは、わかったものではありませんが。

「お話」は別です、ご賛同いただけると思います。

たくさんの星と天の川、空や雲や大海原を定義するのにさえ、まず「お話」がいるのです、いわんや男と女など。
長い間やってきましたし、これからもまだまだ続くのです、何しろ「お話」には制限がありませんから、時間制限も空間の制限も、貴賤も、貧富も。
 
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妄想のセンス

「妄想」、国語としては正しくは「空想」だが、まあ一般的に言われる「妄想」ということを、男女ともよくする。
「誰だって好きに妄想する権利ぐらいあるんだから、妄想ぐらい好きにさせてやれよ」という温情派の意見に、僕も与するものだが、どうせならということで、自分を悪化させない妄想の「方向づけ」ぐらいは知っていていいように思う。
妄想するにもセンスというものがあり、たとえば、「ヌフォ、○○タンは小生のこころを抉りにくるでござるな、正直マイッタでござるよ、さあ課金せずにはいられない」みたいなもの、これはサイアクだ、課金が悪いのではなく発想のパターンがサイアクだ。
なんというか、厳密には妄想がキモいのではなくて、妄想の中で「あっさり鼻の下を伸ばす」というのがキモいのだ、これは男女ともやめておいたほうがいい、妄想はいくらしてもいいが鼻の下を伸ばすのは禁止だ、それは妄想以前に頭がオカシイのを自分でパワーアップさせてしまうからだ。

僕は世代的に、「ときめきメモリアル」を皮切りとしていわゆる「ギャルゲー」が隆盛を極めた時代を過ごしてきた者だから、よくわかるのだ、同じ妄想といっても良性のものと悪性のものがある。
「女の子が(男の子が)かわいい」という妄想はいい、が、そのかわいいものが自分に無垢に親しげに好意をもって無防備に迫ってくる、そしてブフォとなる、という妄想のパターンはやめることだ、なぜやめなくてはならないかというと、頭がオカシイからだ、「そんなことあるわけないだろ」と言わねばならない、「かわいい女の子」を妄想するのはいいが、それが自分に迫ってくるのは「そりゃないわ」と冷静に判断しなくてはならない。
妄想してよいのは、「そういう女の子がいた」というところまで、そこを逸脱して「ボクちんと○○タンの関係は〜」という妄想に入る奴、これはダメだ、「ボクちん」を含めて妄想するならもっと別の方向で妄想すること。
特別に無垢で、かわいい○○タンがいたなら、その世界の中で自分はひっそり、死ぬ気で努力して自分を鍛え、ぶっちぎりで優秀な人間になって、誰に知られることもなく男らしく生きたという妄想をしろ、「すべて、○○タンがいてくれたおかげだ」と、自分一人だけが知っているという、そういう妄想だ、そうでなきゃ自分が妄想の中の登場人物にもなれないだろう、妄想にもセンスを持て。

過剰報酬の妄想をするな、過剰努力の妄想をしろ。

女性の場合、「西園寺○○クン」とか「クリステナーデ・フォン・○○皇太子」とか、あるいはジャニーズの誰かでもいいのだけれど、それについて妄想するとき、○○クンがわたしに迫ってきてわたし「きゃああああ」とかいう、判断力の欠損した妄想をするな、妄想するというのは判断力を喪失していいということじゃない、妄想の世界を持っていいから、その世界の片隅で誰にも知られず取り憑かれたような努力をしろ、報酬の要らなくなった努力の化身たる自分を妄想しろ、それぐらいしか「○○クン」に恩返しなんかできないんじゃないのか。
萌えなるものが、拙者に向かってきてブフォ、というのでは、言ってみれば「妄想が足りない」、鼻の下が伸びるのは妄想が足りないからであって、何百倍もの力を持つ戦士に成り果てる自分を妄想すれば鼻の下が伸びるようなヒマはない、叡智の積み過ぎで木の葉に七色を見るようになった叡智のバケモノを妄想しろ、いかなる苛烈な訓練にも平然と向き合うようになった自分の妄想は、まだ妄想として良質のものだ。

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情熱大陸の実物を見た者として
「音色」はまだ好きだが、「楽器の音」は好きじゃない。
僕は情熱大陸の<<実物を見たことがある>>、葉加瀬太郎さんのほうが立場が上なのはわかるが、僕は勝手に「お前は情熱大陸を知らんだろ」とテキトーなことを言いたい。
僕はたぶん、一人だけヘンな生き方をしてきてしまったぞ、たぶん僕が言う「感動」と、一般的に言われている「感動」はまったく別のものだ。
僕は「世界」が好きすぎて、その他のことがたぶんまるでわかっていない、僕は世界は好きだが音楽は好きじゃない、音楽とか小説とか映画とかそういうものは一切要らない。

「音色」はまだ「世界」があるので……というか本当は世界さえあれば音色も要らんのだけれども。
僕は「エトピリカ」の中に情熱大陸の実物を見たのだが、かといって「バイオリンの音がいい」とか「葉加瀬太郎の演奏がいい」とかはまったく思わん。
情熱大陸の実物はとてもいいものだが、そこにバイオリンとか葉加瀬太郎とかはジャマだ、といっても葉加瀬太郎がいないと困るというのもわかるのでしょうがないが、それにしてもジャマはジャマだ(意味不明)。
音楽の演奏とか、そういったものにはまるで興味がない、演奏しないとそれが出てこないのもわかるが、それにしても「なに演奏とかしてんねん、ジャマやなあ」とは感じる、どれだけワガママでもそう感じるのだからしょうがない。

恋とか、そういうものがなくては。

恋とか、そういうものがなくては、何にもならんというか、漠然とした立派な「活動」ということには、何の意味もないように感じるが……と、その感覚はたぶんほとんど僕かぎりのもので、たぶん僕の脳みそがヤバい、たぶん僕ひとりかぎり、まったくヘンチクリンな生き方をしてきてしまったぞ。
僕には、立派なものとか、功績とかが、よくわからないのだ、「世界」が好きすぎて、その他のすべてが何一つわかっていない、こりゃ何十年経っても噛み合わないわけだよ、なぜ誰も情熱大陸の実物について話し合わないのかずっとずっと疑問だったんだ。
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箱根ルノアールにて

回は少し実験的に、かつてないハイペースで温泉に入った、これは箱根吉池の湯を信用しているからできることだし、吉池のような湯質でないとこういう無謀な入湯はできない(仮に草津でこんなペースで入湯したらブッ倒れてしまう)。
さあこれで、湯あたりが出ないかどうかが注目されるが、これで湯あたりが出ないのだとしたら、もともと体調が相当いいのだろう/今はチェックアウトして湯本駅前のルノアールにいる、ここのルノアールはいつもオアシスだ。
昨日の夕食は、特に八寸がきらびやかで、それこそインスタ映えの連続だったはずだが、写真を撮るのを忘れた、もちろんインスタに投稿するわけじゃないが/記念写真ぐらい残しておきたいのにいつも忘れる、目の前にすると旨そうすぎるからだ。
ああいう、ゆるめの白米を出すのか……と、少し驚いている、確かに漬物に合わせることを考えたお食事ならああいう白米がよいのかもしれない、ふだん旨味と弾力のある米ばかり選んでいる僕としては、ああして甘くゆるい白米の選択は発想の枠外だった。

当然今、まるで圧力釜で煮られたように、骨の芯までふやけているわけだが……
そういえば昨日は、山崎12yのソーダ割を飲みながら、メニューに獺祭の二割三分があったので、注文してみた、たぶん「二割三分」というのは大吟醸の精米率的なことを意味しているのだと思う(だとしたら「二割三分」はひどいぜいたくだ)。
本来は、僕の好みでいえば、同じメニューにあった船中八策に惹かれていたのだが、逆にこの機会でないと獺祭の大吟醸なんて飲まないなと思ったので(あと久保田万寿の「雪峰」というのも大変気になったのだが、500mlの小ボトルは飲み切れる気がしなかった)、あえて獺祭を飲んだ、案の定まるで正月に咲く桜のようなどうしようもない味で、典型的な大吟醸だった。
そういえば、そろそろ各地で新酒のシーズンが始まるな/昔は、あちこちドライブしながら酒造で新酒をかっさらってくる遊びをしていた、しかし今も昔もそんなに日本酒は好きではないのだ(なんだそりゃ)、まあでもいちおう日本人だからな。

新酒(日本酒)の落ち着きのなさを悪く言う人もあるが、それを言うならオメーこの季節、ボジョレー新酒のほうがいろいろアレだろ。

そういえば昨夜は、今流行りのクラフトビールの類も飲んだ、どこの国のものか忘れたが、本当にコーヒーみたいな香りのラガーがあり、旨かった、まあ毎日飲む味ではないけれども。
家に帰ったら、またケイデンヘッドのリンクウッドでも飲むか、それともいつもどおり、イルガチェフェを淹れて(何年この豆を続ける気なのか)飲むのか/そういえばここ数年の梅干しはここ箱根の藤屋の十年漬けにお世話になっている、今回は杉養蜂園の未認可マヌカハニーでも買って帰るかな、ところで僕にはグルメ気質はまったくないので、僕はあくまで学門についてしか話していない。
 

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カルマ!
さかふだんの生活の中で、「カルマ!」みたいなことを考えているアホはおらんと思うが……
しかし、ここまでくると、もうごまかしは利かんな、見えるようになったらもう、割とスケスケのミエミエだ、人はいつも「カルマ」の前後で行ったり来たりしている、ぶっちゃけて言うと、僕はもうそれが見えてしまっているのだ(あーあ)。
僕がエラソーに言うようなことではないが、その行ったり来たりを見ると、いつも「無駄に勘のいいやつめ」と思う、なぜなーんも見えていないくせに、カルマ的なものにだけ「反応」はしやがるんだ、アホなのか鋭敏なのかはっきりしてくれ、いつも困惑するわ。
カルマがどうこうとかいう、いかがわしい発想とか知識とかは持たない方がいいと思うが、ただある種の次元で「素直」であればいい、「素直に従う」ということがあなたをグッドにし、「意固地に流されていく」ということがあなたをバッドにしていくだろう。

わけのわからんことがあるものだ、「なぜこのことには平気でカネを出すんだ?」とか、「なぜこのことだけ異様なテンションで話すんだ?」とか。
それを、一般には「性格だ」とか「価値観だ」とか、あるいは心理学的には「抑圧だ」「防衛機制だ」「コンプレックスだ」とかいうが、それらのすべては、なぜその人がそういう性格と価値観と特別な抑圧を宿すに至ったか、ということまでは解明しておらず、そこから以降は投げやりなのだ。
「わけのわからんこと」があるもので、それはよくよく見れば(ふつうはよくよく見ねえよ)、実は見たまんまカルマ的なものがはたらいているのだ/まあこの「カルマ」的なもののはたらきが見えるような奴は、相当な変人であって、ふつうはどう工夫しても見えっこないのでヘンな興味は持たないことだ、見えてしまえば何でもないが、ふつうの感覚からするとそれは「めちゃめちゃ深いところ」に当たる。
ある種の次元で「素直」であることだ、刹那の直観、頭を下げるべき人に見えたら頭を下げる、尽くすべき人に見えたら我が身を尽くす、従うべき人に見えたら初めっから従う、ここで「でもさあ」と踏ん張るとカルマが増大してしまう、踏ん張った上にカルマパワーアップっていったい誰がトクするんだよ、もっと利益的にいこうや。

従うということが、勝ったということ。

うーん、ほんとね、よくよく見ると(ふつうはよくよく見ない、見えるかよこんなもん)、ありとあらゆる「かけがえのないこと」は、カルマ償却の反応に「素直に従った」ということから成り立っている/ふつうは見えるわけがないとっても深いところでだ。
だから、「かけがえのないこと」のすべては、表面上は「なんでこんなことになったんだ」と見える、それは人に話せないぐらい「ちょっとまともでない」ところがあり、しかし誰から見ても「正直うらやましい」ところがある、馬鹿げているのになぜかいかがわしくなく、かけがえのない光があるのだ。
 
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「おびえ」についてフニャフニャな話(すまん)

「おびえ」を軽減する方法がある、軽減というか、償却してゆけるという話。
「おびえ」を償却していくと、すごく楽になるというか、救われる心地がするのだ、心地というかまあ本当に「救われる」のだろうけれども。
そしてなぜか、その償却の「方法」については、「さあ?」と僕は知らぬふりを決め込まなくてはならなくなる、こりゃひどい話だと僕も思うのだが、どうしてもこうなる(理由は不明)。
なんというか、方法は明らかにあって、バリエーションもいくらでもあり、しかもどれも超カンタンなのに、なぜか「まあ、あんたの性格じゃ無理だとは思うけど」みたいな否定的なことを言わなきゃならんのだ、これ、別にイヤミが言いたくて言っているわけじゃなく、なぜか構造的にそうなるのだ、勘違いして僕を性悪とか思わないように。

不思議だ、何がダメなんだろう、これってどういう構造なんだ? ただ残念な話、「まあ、あんたの性格じゃ無理だとは思うけど」という言い方は、かなり多くの場合にテキメンに当てはまっている、ズバリ的を射ている(ぐぬぬ……)。
自慢じゃないが、僕にとっては「言いづらい話」なんてほとんどなく、いつもここで好き放題にぶちまけているのだから、この話はそういうことじゃない、何かの構造によってこの話を解き明かして話すのは完全な「禁忌」にされてしまっている。
しかも、その「方法」を話したって、まるで予言していたかのように、性格その他で「無理」だということが前もって明らかなのだ、これは何なのかね、いわゆる奥義か密教か、「門外不出」の何かなのか/「門外不出」ってこんな物理的に生じるもんなの?
とにかく、ありていに言ってしまえば、多くの人は無自覚の「おびえ」で、メチャメチャしんどいことになっているから、それを償却する方法を実践していったらテキメンに楽になっていくよということなのだ、そしてその「方法」は絶対に話されないという、なんじゃそれの極みなのだった。

たぶん、神事だからお話しできない。

いや、実際のこととしては、何も神事に見えないのだが、内容的には神事が含まれているということなのだろう、そりゃ「おびえ」を償却するのだから神事ではあるわけか、そして神事って人に話しちゃダメってよく通説にも言うよね(投げやり)。
神事とかいって、神棚にパンパン手を打ったりするわけじゃないよ、まあそういうことも善いことではあるだろうけれど、そういう正統な神事は僕にはわからん、まあヨリシロといいますか、面白いことが見つかってきているのは確かだ(しかしそれを話さないという書き手にあるまじき蛮行、すまん)。

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