☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
(文面)
面はある。
だがわれわれは人を視ている。
彩られた白スーツの小粋な姿を視ている。
それはイメジではなく、われわれの自意識がイメジだ。

われわれの魂は空と共に。
単体で存在する魂はない/もとより空とひとつであるものを……
言語は分離をし、言葉は統合をする。
どこにでもいるじーさんの話だ、彩られた白スーツの小粋な姿。

文面はmanだ。

われわれはmanではない。
フリルのついたドレスのgirl、おいで股から変な汁を垂らしたくはないだろう。
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魂を使い切ること2
あそうか、理由というのではないが、仕組みのひとつとしては、なぜ僕が魂を使い切ろうとするかというと、その逆の人になりたくないからだ。
その逆というのは、先に書いた、何かずっと怒っているような人のことだ、険悪さの粘質をコミュニケーションの強度にすり替えて、ずっと周囲を威圧・恫喝しているような、中高年や老人のことだ。
当たり前のことだが、僕が魂をカラッカラに使い切っているとき、何かにムッとしたり、誰かにキツく当たったりする余裕はない、余裕というか余力じたいが尽き果てている、もはやこの世界に響き渡っているものを聞きとってくるしかエネルギー源がなく、この世界に響き渡っていないものは自動的に聞き流すよりしょうがない状態だ、そんな骸みたいなものを見て威圧的と感じる人はさすがにないだろう。
僕は間違っても、自分が魂を使い切れないことの後ろめたさを、他人への説教にすり替えてごまかしたりしたくないし、そもそも他人に圧力をかけるだけの余力が残っていたとしたら、そんな余力を残している自分じたいを軽蔑するようだ、僕は魂をカラッカラに使い切って、三日三晩美女の介抱を受けながら、四日目になって「ところでキミ誰だっけ」と言い出すようなろくでなしでありたい、人との距離感だの空気だの人間関係だのに余力を分配するような奴になりたくないのだ(われながらワガママな奴だ)。

僕は「野垂れ死にでもかまわない」と言ったが、それは諦観でも何でもなくて、大前提、自分の野垂れ死になんぞに注目するような暇人になりたくないということだ、魂を使い切りながら死んでいたらそんなしょーもないことに注目がいくはずがないだろう。
もしそこで、野垂れ死にしないようにと、誰かがおにぎりを差し入れてくれたとしても、そのことに感謝もしたくない、そんなときに感謝とやらでウルウルしているようではやはり魂を使い切っていないのだ、だとするとそれは逆におにぎりを差し入れてくれた人に侮辱と失望を与えることになるだろう。
僕は自分をクソでなくすという発想や思想は持っていなくて、あくまでのこのクソのまま、もはやクソでさえないという何か、もう何とも呼ぶに値しないカラッカラのものになりたいと望んでいる、だから実際、もうクソ呼ばわりされても天才呼ばわりされても僕からの反応はもう何もないのだ、何に反応したらよいのかすでに僕自身まったくわからなくなった。
「アニュス・デイ」ってどういう意味? 知らないが、今それが聞こえる、とりあえず僕は魂を使い切る日々をやめないだろう、なぜかわからないが僕は何者かに「言え」「言い続けろ」とずっとけしかけられているような感じがしている、何を言えという指示も割とあったりする、その指示はちょっと困り種なのだが……

魂を使い切ると、何かになっていくだろうし、魂を使い切らないと、何かになっていってしまうだろう。

僕はあちらの側、使い切らなかった側の何かへ、なっていきたくはないタチだ、仮に千年の寿命がもらえたとして、そのあいだずーっと怒り続けていなくてはならないというのは、さすがに僕としてはキツい、僕は険悪さが得意な人じゃないので、そんなことは得意な人に任せたいのだ、僕は僕で得意なことをしていくから。
ふと思うが、ずっと怒っている人は、現在のそれが千年間続いてもそれが正しいと信じているのだろうか、まあそうなのかもしれない/僕の側はこうして魂を使い切ることを、たぶん千年間ぐらいなら続けられよう、そのときはブログ記事が五十万件になっているはずだが、そのあたりまでなら割と現実的な数字だと僕には思える。
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魂を使い切ること

こしばらく、野暮用ばかりをしていたので、逆に気づいたのだが、ふと油断するとずーっとこうして文章を書いてしまう、意識が切れると逆に文章を書いてしまっているという状態だ/もう元々、何かを「書いている」という意識はほとんどなくなっているけれども。
それで、野暮用のラッシュと比較して、今さらながらに知ったことだが、こうして文章を書いているほうが、どうやら魂(ソウル)をカラッカラにまで使い切っているらしく、実は野暮用の、いわゆる「忙しい」という状態のほうが、とてつもなくラクだということがわかった。
いわゆる一般的に「忙しい」という状態の、気ぜわしさにごまかされて、深奥では極めていかにラクなことかを知った、そういうタイプの「忙しい」は、実は魂においては「何もしていない」のだとよくわかった、そして僕は、その「何もしていない」というラクな状態に耐えられないようだ、耐えられないも何も、そんな状態を続けていたら数ヶ月で人は腐敗し、その後の生をまったく無意味なものにして過ごしてしまうだろう。
僕は決して、しんどいことが好きではないのだが、これはしんどいかどうかの問題ではなく、自分の魂を使い切っているかの問題だ、僕は自分が魂を使い切らずに過ごした時間を、なぜかゾッとして受け入れがたく感じる、魂を使い切っていくとき、それはもう疲れるというより「疲れる余裕なんかない」というような状態だ/僕はこのとき、持論を展開している人や他人の悪口を言うのに時間を費やしている人について、なぜそんな余力とヒマがあるんだと不思議に感じていた。

なぜ魂を使い切ろうとするのかは僕自身もわからない。
なぜ魂を使い切るのですか、と問われたとしたら、たぶん「使い切らなくていいです」と答えてしまいそうだ、実際使い切らないといけないという理由をわざわざ見つけ出そうとは思えない。
それはたぶん、「理由」というものがすでに、魂を使い切るときには邪魔なセーブ装置なのだろう、だからそんな理由うんぬんの思念はとっくの昔に押し流している、なぜ魂を使い切ろうとするのかは、魂が知っていたかもしれないが、その魂も使い切ってしまったのでもうわからない/自分のうちにもう魂の残りがないので、しょうがなしに、この世界から魂をぶっこ抜いてそれを直接使おうとする。
これが何であるのかを答えようとする魂はもう残っていない、いま布団に寝転べば二分もまたず寝入るだろう、いつのまにかそうして使い切ってから眠るのが日常になった、僕は何時間こうして書き物に向かっていても、腰が痛いとか肩が凝るとかいうことはなくなった、もうそんなところに力みをかけている余裕はないからだ、この世界にもともとあるものを使わないかぎりこんなに大量の(魂の)無駄遣いはできない。

クリエイティビティに疑問も結論も無意味だ。

何を伝えようとか、何を書こうとか、どういうテーマにしようとか、そんなことを考える余力はどこにもない、忙しいから余裕がないのではなく、もうとっくに尽きているから余力がないのだ、このとき、尽きているのに「まだやれ」とけしかけられているのは何によってなのかわからない、少なくとも僕自身は価値観を確認して自分を励ましているわけではない/むしろいつも、いいかげん寝た方がいいと理性では諫めているのだ。
たまに、どうして書いているかのとか、何を手がかりに書いているかとか、あれこれ聞かれることがあるけれども、なぜかその問いかけを聞いたとたん、「もういいですよ」と切り離すはたらきが起こる、このはたらきはなぜかシビアで、僕は意地悪をするつもりはないのに、何かがフッと切れて「もういいですよ」となるのだ/実際疑問を持ったり結論を求めたりするなら「もういい」じゃないか、これが何なのかは僕にもわからないのだ、もし誰かが仕組みを説明してくれたら僕は「へえー」と感心する側だろう、別に僕に限らず、魂をカラッカラにまで使い切ることは誰にでもできることだ、これは能力の問題ではないので、使い切るかどうかはどちらにプライドが寄るかの問題にすぎないだろう、僕は使い切らないことにプライドは高まらなかった。

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淫夢ネタと眼光
年前から、動画サイトを介して「淫夢」というネタが流行している。
ご存じの人にとっては言わずもがな、ホモビデオであって、演者達の棒読みのセリフや、マジなのかネタなのかわからないプレイの混交に、ホモセクシャルというよりは何か奇妙なビデオとして抱腹絶倒というネタだ。
中でも有名な登場人物は「野獣先輩」であって、その中でも「野獣の眼光」と呼ばれるシーンがよく知られている。
だから何だということでもないのだが、僕は野獣の眼光より命の眼差しがいいなあと、草不可避の中で考えるのだった、もちろん十八歳未満は視聴してはいけないし、何であればあんなものはわざわざ人類が視聴してはいけない(戒め)。

「野獣の眼光」というシーンは、そりゃあんなもん見たら誰だって笑うだろう。
で、野獣の眼光なんてわかりやすいシーンがあるのだとしたら、一方でわれわれの眼差しはどうなんだろうなと、僕は思うのだ、僕は人それぞれに「眼差し」があったりなかったりするのを、よく見ている、「眼差し」がない人は、必ず反転した特徴的な「目つき」をしている。
眼の奥に光があるか、それは命の眼差しか、魂の視力か、眼差しそのものにやさしさが宿っているか……「眼差し」というのは、完全に「証」として生じるものなので、まったくごまかしが利かない/どれだけ「目つき」や「表情」や「目ヂカラ」を意図的に操作しても、そこから「眼差し」が生じることはない。
というわけで、「眼差し」という直接の証(あかし)が出るまで、何も自負せずに正々堂々とやろうぜ、おれは自分に眼差しがないと見做されるのであれば、それ以上わずかも反論する気にはなれないのだった、眼差しがないならおれなんて野獣先輩以下で十分、おれは眼差しを失った自分をわずかも評価することはないだろう。

淫夢ネタは野獣の眼光だが、あなたは何ネタの何の眼差しか。

野獣先輩は、セックスを求めるのに野獣の眼光を発するわけだが、あなたはセックスを求めるのに、どんな眼差しを示すのだろうか、それって本当に撮影してもかまわないかね? そのときのあなたのまともな「目」を……そう言われると、誰だってそんなことに自信なんか持てないだろう、野獣先輩を笑っている場合ではないのだ、あれは笑わずにいられないというだけで、それを笑っているわれわれが何も「まとも」というわけではない。
別にセックスだけでなく、メシを食うにしても旅行するにしても、仕事するにしても戦うにしても、何をして遊ぶにしても、「眼差し」があるとないとではまったく別のことになるのだ、麗しき春の夜の夢は、すべて眼差しのあるなしだけで決まってしまう、だからわれわれは眼差しを失った自分自身について、それを認めずジタバタ悪あがきするようなことはしないと誓おう。
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水準を落としてたまるかよ

語に意味はなく、物語が産み出されることに意味がある。
さらには、物語が産み出されることを物語と呼ぶのであって、その産出から切り離された物語には意味がない。
そして物語が産み出されるその瞬間においては、意味があるかないか自体問われないだろう、そこに一切の探し物はないからだ。
まずゴールしろ、ゴールしないとスタートしないからだ、そのためにわたしは言わねばならない、「水準を落としてたまるかよ」と。

僕が話すとなんとなく周りの人もわかったような気がするのは、僕が水準を落としているからだ、あくまで便宜上のことにすぎない。
なぜ水準を上げると、とたんにわけがわからなくなるか、あるいは「わけがわかる」ということ自体がブルドーザーで踏みにじられるかというと、僕が男だからだが、水準を本来の高さに戻すと、そのときは僕だってわけなどわかっていないからだ、わけがわかる必要がどこにもないということが明らかになっている。
物語は、産み出されてしまうものであり、自分で産み出そうとしているのではない、僕という男が存在しなければこの世界に女なんてものは存在しない、そりゃアタリマエだろう、すべての評価者には青酸カリにつけ込んだキュウリの束をプレゼントしなくてはならない。
物語は自分で産み出そうとしているのではない、ということは、よくよく見ればアタリマエで、たとえば僕は男だが、男は女を愛そうとして愛しているのではない、女を愛しているから男というのだ、雨粒は雨を降らそうとして落下してきているのではない/われわれがこのごろすべてのことにたいして「邪魔」を得意にしているだけだ、それについて僕が何かをどうこう思うということはありえない。

ノンフィクションが存在していない以上、フィクションもまた存在していない。

「産み出される」ということだけがあるのであって、産み出された後のものが残存して存在したりはしない、存在はステイト(状態)ではないのだ、この世界には最高位しか存在しておらず初級を偽造するのはあくまで便宜上のことにすぎない(その偽造が役に立たないというわけではない)。
この世界にはおれの魂しか存在していないのだが、その他の魂を認めるとなると、人の中枢をプラスチックや鉛筆の芯と認めねばならなくなり、何より当人にとって不幸になる、わざわざ邪魔をして自分の不幸を大量購入する必要はないと思うのだが/わたしは水準を落とさない、わたしはわたしの魂としか対話したことがなく、その他にもちろん世界なんて存在していない、女がおれの魂でないなんてことはありえない。

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偉大なるおれさまが〇△□×

いうわけで、今日も唯一正しいことは、偉大なるおれさまが〇△□×、ということだけなのであった、今日はバレンタインデーだしな。
日々、いろんなことを発見するが、これまでその種の発見をなしに来たのは、おれさまが偉大すぎるからであって、偉大な人はフツーそんなこと知らんやろというだけのことなのだ、そりゃ当たり前だ。
偉大なものと、そうでないものの、順列を入れ替えようとする、その無理やりな制度がよくない、どこまでいっても制度は虚構であり、偉大というのは魂の事実なのだから、ここに無理やりをしても、制度で魂をひん曲げることにしかならず、それで仕掛けた当人がぐったりして怯え、挙動不審になっていってしまう。
人はけっきょく、信じるものを得られないと、世間的・権威的に流通している外形的な制度をアテにするしかないのだろうが、それがどういうことであり、またどうなっていくものかについて、やはり「なんでおれがそんなこと知らなきゃいけねーんだよ」という気しかしてこない、いいじゃねーか、魂がギャーする人はギャーしたまま、アレなことになるのはしゃーないだろう、おれは正直そんなことは知らないし、そんなことをおれがかまってはいられないのだった。

行き着くところ、ずーっと繰り返されてきたことが、これからも繰り返されていくしかない。
もう僕自身は飽きているのだが、僕が操作している力学ではないので、しゃーない、何か放っておけば勝手にそうなり続けるのだろう、つまり僕の前で直接何かに触れた人は、一時的に何かの世界を観るが、それを観たとしても受容しがたいと感じる人がいて、そういう人は逆に僕に「説教」を残していくものだ、そしてそのあと、たいてい暗いストーリィが続いていくものらしい。
そっち側には、何か知らんドッシリ重い、暗いストーリィが続くらしいのだが、僕はそんな小説を書かないので、その先がどうなるか知らないのだ、だって知ったってしょうがないし、どうせ聞きたくもないシツコイやつに決まっているから……そんなことより、魂が出会うべきものに出会って、世界と愛と物語を得た先のことを知っていくべきだ、本当にこころの底から、僕はそちら側以外のことへ突入していく人が、いったい何を目当てに何をやっているのか、数十年にわたって「さっぱりわからん」のだった。
僕のことを愛さない人も、ひょっとしたらいるのかもしれないが、これまでに言ってきたとおり、おれのことを愛さない奴は本当に魂が数十年前のホットプレートに閉じ込められたままフタを開けてもらえないのだと思うし、そもそもおれのことを愛さない人は、本当に「存在していない」のじゃないかと思う、まあ偉大なるおれさまにおいてはそれぐらい考えていい権利があるだろうヒャッハー/この偉大なるおれさまを愛さない人が、表面上もしいたとしたら、その人はもうずいぶん昔に死んだのだ、死んだまま生きているからそういうわけのわからん不可解挙動を続けているのだ、それはもう制度に肉片がくっついているというような状態なのだろう。

「制度」とは、自分が存在している「ふり」をするための装置だ。

どう考えても、「制度」が魂の本懐であるわけがないので、「制度」とは何のためにあるかというと、単純には社会生活の円滑化のためだが、より内奥では、魂を所有できなかった人が、自分が存在している「ふり」を続けられるための装置なのだ/われわれの視力は、魂がはっきり視えたら制度はまるで見えておらず、制度がはっきり見えたら魂はまるで視えていない、という性質を持っている。
魂を所有できなかった人は、他の魂を視ることもできないので、その視力は必然的に「制度」への視力に流れる、そこは本当に冗談ではなく、制度だけの業者ワールドが爛々と展開されているのだ/しかしまあ、正直「もういい」がすべてに先んじる、おれはやっぱりおれでありつづけて、偉大なるおれから見て他の者はゴミ……ではなく、そもそも「他の者」でさえなかったのだ、偉大なるおれさまは偉大なるおれさまを威張っているわけではない、「偉大」というのは別に威張る要素じゃない、小さくて可憐な魂を下に見たことはおれは一度もない、魂の大小は上下ではない、上下が設定されるのは「制度」のほうだろ、ところで今日はバレンタインデーなんだってね、いろいろとよろしく!!

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(世界ぼっち)
んなにデタラメに生きたことが、こんなに財産になろうとは。
デタラメに生きたという自覚もなかったが、客観的にはデタラメだったのだろう。
けっきょくのところ、僕には何もわかっていない、ずっと同じことを言っているな、僕は町名ひとつすら他の誰かとは同じに見ていない。
世界にひとりぼっち、ではない、僕はずっと、世界に世界ぼっちだと感じている、今夜も空が風に鳴るのだ、他の誰かのことは考えたことがない。

これが何なのかを、考えさせられることには、すぐに飽きがきてしまうな、自分の髭について考える必要がないように、自分の世界について考える必要は特にない。
僕はずっと同じひとつの世界の中を生きている、そして僕を愛してくれる人だけ、この世界へ少し招き入れることができるみたいだ。
この世界、といって、けっきょく僕はこの世界しか知らないのだから、いちいちその名を呼ぶだけでも不必要なことに感じられるが、このごろはせいぜい、どのようにしたらこの世界を失うことができるかが、ちょっとだけわかってきた/だがなんとまあ必要のない知識だろう。
僕は、他の世界のことはよく知らないし、この世界のことも、知っているくせに、なぜ知るようになったのかは、僕自身にもわからない、なぜ知るようになったのかについては、いっそ誰かに教えてほしいぐらいだ/まあ教わったところで、僕の役に立つわけではないのだろうけれど。

すでに答えているものを問うな。

この世界が、すでに答えているのに、それを聞き流して、あれこれ問うのはよろしくない、よろしくないといっても、この世界がすでに答えているのが、本当に聞こえていないのかもしれないが/もしそれが聞こえていないのなら、どう答えても意味がない、じゃあどうしたらいいのだろう、そんなこと僕にわかるわけがない、なぜなら僕もどうしてこうなったのか自分で理由を知らないのだ。
唯一の手掛かりは、やはり作品、物語、フィクションにある、作品を手掛ける必要はないのかもしれないが、作品を否定することはやめたほうがいい、そして作品でないものを作品と言い張って、業務にするのはさらにやめたほうがいいことのようだ/作品とは世界ぼっちのこと、作品とは業務のことじゃない。
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【祝】「ヘンなところに金が流れないためのボックス」設置さる【朗報】3




ったよりカッコよく出来たと思うのだがどうだろう、カッコいいと思わない者は今すぐ臨海工業地帯の岸壁から海へダイブすること。
正面には「ヘンなところに金が流れないためのボックス」と書かれており、上部には「教わらねーよ」と書かれており、背面には「もともとあるものを教わるバカはねーよ」と書かれている、書かれているといってもおれが書いたわけだが/また側面には、「強さ」「勝速日」と書かれている。
ワークショップあたりでは、霊魂うんぬん、つまり「ソウルがシャウトしていないとダサい」ということを唱えているので、この場合、このボックス自体がシャウトしている必要がある、その意味ではなかなかカッコいいと思うのだが、そう思わない人は臨海工業地帯だろう、慌てて東急ハンズに行ってスタジオで十五分でテキトーに作ったにしてはいい出来だ。
ワークショップの脇に、「教わらねーよ」という箱が叫んでいるというのは、なかなかよい光景で、よい構造だ、この仕組みが必要だった/「教わる」ということで何かが解決するものなら、人類はとっくの昔に大解決しているだろう、世界中のありとあらゆる「教務」が陰気な顔をしているのはなぜなのか、人類はいいかげん気づかねばならない。

学校で英語を教わると、「英語の勘」は身につかず、「学校の勘」が身につく、そのことは全員が知っているはずだ。
じゃあ、たとえば道場で何かを教わると、その「何かの勘」は身につかず、「道場の勘」が身につくだろう、じゃあけっきょく何が身につくかというと、「しきたり」が身につくだけなのだ、こんなおそろしいことがあってたまるか。
「礼に始まり、礼に終わる」というような「しきたり」が身につくだけで、それは「節分には恵方巻きを特定方向にむかって食べる」というしきたりを学んでいることと変わらないのだ、道場で○○の構えとか△△の法とか、それをワザではなく「しきたり」として学ぶんだぞ、「手首をこの角度で掴むしきたり」、そんなもの道場の外では何の役にも立たないし、さらにいえばその「業界」の中でしか役に立たない。
当ワークショップでは(というか、おれ自身がということになるが)、根本的に「教える・教わる」という営為のスタイルを否定する、もうすでにみんなに話してあることだが、「教わるというのはやめろ、しきたりをぶっ込まれて呪われるだけだから」「おれが説き明かすから、それを見て、利いて、自分でやってみて、テメーで悟れ、おれが説き明かすからテメーが悟れ、教えるとか教わるとかいうのはウソだよ、早くこの正しい仕組みの中に入れ」。

まず「勝」が必要だ、そのためには根本的な強さが要る。

弱い人は教わりたがるし、教わると「しきたり」がてんこもりに注入されるので、その「しきたり」をもって、何かを「知っている」「学んできた」と己を定義しがちだ、そしてそのことがいかにヤバいことか、そのことはまた別の記事で説明しよう。
「教わる」という仕組みに入ってしまうと、必ず「しきたり」だけを注入され、「しきたり」の中で、人は「強さ」や「勝」をねじ曲げられてしまう、よってしきたりに詳しい人が真に強かったり真の「勝」を得ていたためしはない/人が何かを学ぶか否か、何かを獲得するか否かは、仕組みによって決定されており、努力や意欲によっては決定されない、正しい仕組みの中にいれば誰だって自動的に勝手に学ぶし獲得していく、その逆の仕組みにいれば、誰だって何かを獲得することは絶対に不可能になる、そんなもともと空っぽになることが決まっている仕組みの中で、努力だけさせられたら空っぽのまま怨恨だけが残ってしまうぜ。
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【祝】「ヘンなところに金が流れないためのボックス」設置さる【朗報】2
「へんため(略)ボックス」は、カーテンの向こうに置かれているので、誰がいくら入れたのかは誰にもわからん、またいちいち集計もしない。
2.「ヘンなところに金が流れないため」のものなので、もともと流れる余裕もない人は入れる必要がない、また入れたフリをすることは何の罪にもならない。
3.「○○を学ぶためにワークショップに行くんだ」というマジメな発想では、逆にカチカチに固まってけっきょくいいことにはならないので、「ワークショップに行く」という思念は避け、「ボックスの出現日にボックスに立ち寄ったらみんなに出くわした」という程度がよい。
4.つまり、ワークするつもりがない人も、ボックスを目当てに来てよい、自分には参加する資格がないと感じる人も、ボックス目当てには何の遠慮も要らない/ワークショップにボックスが付属しているのではなく、ボックスは独立で存在しており、その脇でワークショップは「ついでに」開催されているにすぎない、よってそこに先生も生徒も存在しない。

5.へんためボックスに「常連」はいても、ワークショップに「常連」は存在しない、よってワークショップに名簿等は存在しない/そしてへんためボックスは誰のことも把握していない、ただの「ご自由にどうぞ」だけがある。
6.これでいつでも来られるし、いつまでも来られるな、またキミのアルバイトのシフトを増やすにも正当な理由もできたってもんだ。
7.へんためボックスは独立で存在しているため、そこに何億円入れようが「お客さん」にはならない、よってワーク中は誰であれ容赦なくシバく、そこに不正は一切ねーよ。
8.人は迷いの中を生きているので、必ず一定の金はどこか「教えてくれるところ」に流れる、そしてたいてい、その金はヘンなところに流れる、なんだかんだそういう「業界」へ流れる/よって、「ここに入れなくても、この金はどこかへ流れるな」と感じられるぶんだけを入れること、するとそのぶんだけ、「教えてもらわんで結構、業界ノーサンキュー、自分で悟ります」という強さになって現れてくる(そうなるように明瞭にデザインしてある)。

9.「あ、へんためボックスに行かなきゃ」という、アホみたいな発想が、あなたを救う瞬間が必ずある/大マジメになりそうになったあなたを、元のアホに戻してくれる。

10.ヘンなところに金が流れると、それは無意味というより、「思ったよりも怖いこと」になる、ヘンなところに流れた金はあなたに「しきたり」を強いることにはたらき、むしろ自分で呪縛を購入したという結果になる(いかなる結界を張っても、自分で購入した呪いは結界を素通りしてしまう)/一方、へんためボックスには何の「教え」もないため、呪縛には掛からず、ただ自分の自由が確かめられる。
11.へんためボックスに収められた資金は、何らの慈善・公共の福祉等には費やされず、ただおれの食うメシがパワーアップするだけということを保証する/また、そのことについて一ミリの感謝も持たないことを宣言する、おれはおれの気ままであることをわずかも曲げない、こんだけ約束しておけば安心してもらえるか。
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【祝】「ヘンなところに金が流れないためのボックス」設置さる【朗報】

いに仕組みが解明されたぜ!!
主にワークショップに付属するブツとして、「ヘンなところに金が流れないためのボックス」が設置された、これで仕組みが正常化する(ないしは清浄化する)、やはりおれはワークショップの先生などではないのだ、おれはただ常に最高傑作に向かい続けているだけのアホだ。
現在のワークショップが始まってから八ヶ月ぐらいだっけ? このおれさまが草不可避の解脱を繰り返していく中、周囲からの貢ぎ物がエグいレベルになってきた、仮におれがふと「りんご食いたいな」とでも言えば、即日にも最高級品をダンボールに詰め込んで運んできそうな勢いがあり、うかつに欲しいものとか言えないような状況が続いていた。
世の中のインチキセミナーか、数時間で十数万の金を取るのに対し、おれは金をとって運営しようとは思わなかったし、これからも金を取るつもりはない、なぜなら金を取ったらプロになってしまうし、そもそも金を取るといっても、おれが提示して与えているブツは「おれのものではない」のだ、おれのものではないものを他人に提示して、おれが金をもらうわけにはいかない/おれが提示して与えているもののすべては、おれのものでもなければ誰のものでもない、「この世界にもともとあるやつ」だ、こんなもので金を取っていい奴がどこにある、そのことで僕はずっと当然の無償で遊んでいたのだが、一方そのことで参加者の人たちはどこか震え上がっていたのだ、週に二日も徹夜で全身全霊で与えられていながら、何の代償も支払いもないというのは、世間一般的には「逆に怖い」というものらしい。

まあしかし、おれが提示して与えているものは、おれのものではなく、この世界にもともとあるやつだから、やはり金を取ってどうこうとは思わない/おれとしては、「こんなもん、世界にもともとあるのだから、わざわざおれに教わるフリなんかせんでええやろ」としか思えないので、こんなもんで商売をするべきではない、商売というのはもっとまっとうにやるべきものだ。
もし僕が、金を取ってこのことをやるようになると、それはプロであり、業務であり営業ということになる、そうなると一種の「業界」も形成するようになるのだろう/その業務や業界が悪いとは言わないが、それを業界にしてしまったら、もう肝心な提示しているそのものが伝わらなくなるし、それが獲得される可能性もなくなってしまう、それでは本末転倒だ、それで僕は一部から「お金を取ってくださらない」と一種のクレームを受けていたのでもある(クレームの意味が逆だな)、それで僕が金を取らないので、なんとかしてお礼のブツを押し込もうという勢いがあり、油断すると貢ぎ物の大洪水が来るという状態でもあった。
この矛盾というか、整合しない構造を、どうしたらいいかわからないで来たのだが、このところ野暮用が増えて、その中で思いがけず整合の手続きを発見した、どう整合するかというと、それは僕の側ではない別の側で起こる出来事のこと、「僕が金を取らなかったとしても、金は一定量、必ずヘンなところへ流れていく」ということだ、このことがワークショップの実技上にも障害として発生してきていた、僕がワークショップでとびきりナイスなものをぶっ込んだとしても、当人がヨソの世間で違うやつを入れられてくる構造があるので、せっかく得られるべきものが、呪縛契約的に弾かれてしまうということがあったのだ。
というわけで、僕は引き続き、一切金を取るつもりはないが、ヘンなところに金が流れるのを差し止める機能を果たすことには合意できるということに気づいた、これは爽快な発見だった/みんなうすうす感じていたことだが、この仕組みがないと、いずれ全員がワークショップに参加できなくなるのだ、それは、僕が何の代償も取らなかったとしても、僕自身は現在の自分に至るために、「野垂れ死にでかまわない」という代償を払ってきているからだ、僕は誰にも何も教わらずに来たので、僕自身がコーチに支払った代償は0円だが、同じ0円で学べということになると、それはつまり全員に僕と同じ代償を背負わせることになる、そんな代償は背負えるものではないので、新しい仕組みがなければ全員がどこかで離脱してしまう宿命だった、だから僕はそもそも、「誰も来られないようにして、一人になってこのワークショップを続けよう」と言っていたのだ、このハードすぎた僕専用の仕組みが、ようやく穏やかな仕組みに再生する。

ボックスの投入口には、デカデカと、「教わらねーよ」と書いてある。

書いてある、といって、そりゃおれが書いたんだけども/人には「わからないこと」がたくさんあり、たとえば自分の生死のこと、人生のこと、物語のこと、作品のこと、恋あいのこと、こころのこと、魂のこと、そうしたわからないすべてのことについて、必ず誰かに「教えてもらおう」とする、そしてそれを教えてくれる人のところに、必ず一定量の金が流れてしまう、だがもともとこの世界にあるものを「教わる」というのはそれ自体間違いなので、教わるものは必ず別モノになってしまう、この別モノにすがってしまうのが人の弱さだ、だから「教わらねーよ」と書かれているところに金をぶっこむのはとても「強い」行動になる。
このことは、まだよくわからない人には、ナンノコッチャわからないだろうし、「これだ!!!」と了解される人には、ただちに欣喜雀躍してもらえるだろう、実際そのブツを開陳して示したとき、いつものアホどもは「これです!!!」といって、みんなで写真を撮りまくっていた/この「仕組み」があれば、みんなウキウキのままワークショップに来続けられて、僕も無理があった先生風情を辞することができる、正しくはワークショップというよりワーイショップのほうが正しいわけだ、そうでなければ本当に欲しかったものものなんて獲得されない。

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新年の抱負
年の抱負、なんて考え出すと、たくさんありすぎてキリがない。
とりあえず、打開的にヤリます、ヤリまくります、ということと、なんというか、生産量を爆上げしたいかなと/あと、「世界に名乗りを上げさせる」だな、このことは「対等」ということと絡み合っている(もちろん意味不明だ、この書き方では)。
生産量を爆上げしようとすると、やはり、生産量という次元そのものを越えねばならず、そのためには、自分で年末に書いたことがヒントになるだろう、元あったやさしさのところに帰るのだ/といって、このことが一番、妨害されまくるパターンだから、降り注ぐ妨害のことを思うと今から気が重いのではあるが……
「対等」というと、「平等」ということで、何やらうつくしい価値観のように思われているが、いやいやとんでもない、「対等」というのはたいへんナチュラルに怖いよ、ありとあらゆる窓から常に「対等」な人が飛び込んでくるんだぜ、そんなおっかない世の中はこれまでになかったぞ。

まあそれはそれとして、恋あい論も書かねばならないし……忘れそうなのでメモしておこう、おそらくタイトルは「恋あいは何も起こらないのが正しい」になると思われる。
「対等」というのはおそろしくて、対等というのはつまり、「四十年間、死力を尽くしてきました」という人と、「四十分間、頑張ってみました」という人が、「対等」になってしまうということだ、このびっくりな仕組みが、とても身近に浸透してきてしまっている/「対等」ってつまり「永遠に差分は無しね笑」ということだから、なかなかそれだけで恐怖じゃないか。
「対等」ということに関連して、「視える」ということもそうなのだが、どういえばいいのか……僕のところに、今あれこれ勉強しに来ている人がいるという状況があるが、いくら勉強しに来たとしても、おれのことを見て「がんばっている」と見えないなら、おれから学べることなんて一ミリもないぜ、これがまずいのだ、だいたい自分が頑張っていることだけ見えておれのことは頑張っているとは見えないのだから、おれから学べることなんて何一つない/人は自分の視える先にしか進めないものだ、たとえどんな不本意なものが「視える」にしてもだ。
そうして冷静に考えると、新年だからといって何らイケイケになれるというわけでもないのだが、でも新年だからイケイケにいこうかな、けっきょく最後に通用する外貨は「学門」という一言だと思う、誰が最後まで学門に食らいついてゆけるだろうか。

学門に差がある世界を夢見ている。

「対等」って怖いよなあ、「対等」の強制性があるから、学門の差において矛盾が生じる、この矛盾が、人の絆を破壊してまわるのだ/「対等」ってつまり、自分よりスゲー奴を認めない、殺せ、という思想だぜ、そのへんが僕にはわからない、僕は自分よりスゲー奴はただ「スゲー」とよろこぶようにしか捉えられない、自分よりスゲー奴がいない世界とかどう考えてもありえねーだろ。
まあしかし、「対等」というのは怖い、ヘッポコ新入社員も、業界で名うてのベテランも、「対等」でないといけないのだ、だとしたら名うてのベテランのほうは大丈夫だが、ヘッポコ新入社員はもう自己を壊滅させるしかないじゃないか、うーん新年の抱負から遠ざかってしまったが、とりあえずそういう壊滅野郎のことは見ないようにしよう、僕は今年は「学門に差がある世界」を、引き続き夢見ていくことにする。
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謹賀新年

様、新年明けましておめでとうございます、本年もどうぞよろしく。
平成最後の、ということで、卑小の身ながら一般参賀に行って参りました、ものすごい人の数で……お出ましを拝するまでにけっきょく四時間以上並んだな、陽射しが割とあたたかくてそのぶんは助けられたけれども。
天皇皇后両陛下ならび皇族の方々がガラス向こうにお出ましになると、僕はなんというか、思っていたよりもはるかに「こええ」と感じた、今上陛下は古今になく庶民に近しくしてくださる方でやさしい人となりであらせられるけれども、それにしても「うぉおん、なんつーか、やっぱり庶民とは完全な壁があるというか、えげつねえ結界でも張られているのか、目の前におわす一族が、何かとってもコワイですけれども!!」と感じた、このビクッと凍りついてしまうナゾの感覚は、八年前に伊勢神宮で何か黒装束を着た人の姿を見たとき以来だった。
そして、マイクを通して天皇陛下のごあいさつというか、そのお言葉をたまわる感じになるのだけれども、その声が、お年に関係なく異様に「強い」……何か知らんが、僕にはメチャメチャ「強い」声に聞こえた、何かでバシッと縛られる感じがするんだが、とにかく想像していたものとはまったく異なる厳しさがあった、あれが「帝(みかど)」というものか、とてもじゃないが僕のような胡乱者が入り込めない世界だというのがよくよくわかった、僕が紛れ込もうとしたら結界で焼き切れて死ぬのではなかろうか。

不思議なことに、皇宮の中は時間が止まっており(そんな気がするというだけだが)、皇宮内の世界は、大正か昭和か平成なのか区別がつかない、見分けはせいぜい人々がスマートホンとデジタル一眼を持っているということぐらいだろう。
十万人が四時間も待たされるのに、不思議だ、いつもどおり奇声を発する子供が一人もいない、駅前のケンタッキーですら順番待ちすると二分で子供は奇声を発するのに、奇声を発している子供は一人もいなかった/そして、家族連れが多いのだが、なぜかものすごく久しぶりに、家族同士の「仲が良い」という光景を見たように思う、何しろ中学生ぐらいの娘さんが母親をスマホで撮影したりしていた。
僕は天皇制やその歴史についてあまり詳しくないが、なぜか、日の丸の手旗を持って、コート姿のおじさんたちが陛下のもとへぞろぞろと歩いて行く、あの景色を、ずっと昔に見たことがあるような気がする、それはもちろん記憶の錯覚だが、何かそれだけではない別次元の記憶がどこかにあるような気がする/ちなみに、皇宮警護官の振るまいたるや、ワークショップ用語で言うと「顔を使わないこと」、またその相互が「呼応」して「同時に動く」ということが、これほど完璧に表示されていた例もない、逆にそこまで魂を投げ込まないと務められない仕事いうのは本当に大変だと思う、おれにはムリだなあとしみじみ思った。
天皇皇后両陛下、ならびに皇族の方々がお出ましになって、みんなでワーと歓声をあげて終わりだが、不思議なものだ、その参賀が終わると帰り道、とたんにみんな気が抜けて、浅草を歩いているヒマなおっさんの群れ、みたいなムードに変わる、僕はつい可笑しくなって、「みんな急にIQ下がりすぎだろ」と割と大声で言ってしまった。

本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

天皇家の実物などを拝すると、僕などは、自分がしょせん、だらしないリベラルのいかれぽんちでしかないのだなあと痛感する/ただそんな僕にも、こうして「国」ないしは「クニ」というものが本当に "ある" のだなあということぐらいはわかった、僕のようなちゃらんぽらんには、一言でいって「こわいっす、おっかないっす」という感興しか持てなかったが……僕には「結界」のノウハウがない(あるわけねえよ)。
元旦には氏神様のところへ初詣にも行き、おみくじは大吉をひいたぞ、おとそを飲んでお雑煮をたべて、ひとしきり正月らしいことをした、「笑ってはいけない」も「よゐこ無人島」もサイコーだったね、紅白では桑っちょがまたも鬼神の如きはたらきを……あとは録画したいくつかの漫才を観て、ウルトラマンDASHも観ないといけない、そうして年末年始は割と忙しいのだった、本年もどうぞよろしく。

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復活〜(ただの風邪だけど)
いうわけでタイトルのとおり復活、まだ病み上がりだけれども、もう健常の範囲です、ご心配をおかけしました(ただの風邪)。
どうやら今週のパーティおよびワークショップも、問題なく開催できそうです、いやあ一週間ほど大変ダルかったけれども、ふたたび楽しくやってまいりましょう、ある意味では強制的に骨休めにもなったので……数年ぶりに脳みそが休んだ心地がした。
金曜日のワークショップは、いよいよ季節的に今期の公園納めというつもりで、19時〜世田谷公園、21時〜スタジオを予定しております、みなさまどうぞいらっしゃってね。
酔狂から始まったワークショップも、いつのまにかけっこう骨太なものになったなあ、あと数回もすれば年が明けてしまう/やるからには笑えるぐらいやるべきだし、やったからには実を結ばないとやったことにはならないからな。

おれはこの後また寝るので、パーティ等々、参加される方はテキトーにそちらからおれのほうに連絡してやってね、おれの側から打診するまでに回転がまだ上がっていない。
この一週間は、久しぶりにボケーッと、用事以外はテレビを眺めたりして過ごしたのだが、逆にそれで見えてくることもあった/決定的な「違い」がわかった。
今ここで、説明しきれる可能性はゼロだが、なんというか、外部情報をどう切り貼りしても、それは「わたし」にはならないからね、「わたし」というのは一種の恐怖体験であって、これは「死」の直視も含まれているから、たぶんここが根本的に違うのだ、こんなおっそろしいものを全員が直視済みとか、「そんなわけないでしょ」というのがようやく冷静にわかった。
外部情報というのは、「喉が痛い」とか「腹が立つ」とか、感情や身に起こることまで含むのだ、それらさえも「外部情報」なのだ、もちろんその外部情報でおびやかされはするのだが、おびやかされるだけであって、それはその人そのものの情報ではない、この世界に「わたし」が存在しているというのは、もっとブッ飛びのことなのだった/たぶんこのことがおそろしすぎて、逆に外部情報に取り縋って「生きてます」という安心を得るというのがふつうのやり方なのだろう。

科学の進歩は0ミリだ。

ウープス、困ったなあということなのだが、何しろわれわれは科学をぼんやり信仰しているのだが、科学といったって、科学ができる知性を前もって与えられてあるから科学がやれるのであり、「なぜオマエって科学できるの」という問いかけに対しては、いかなる科学もぐぬぬぬと返答に窮するしかない、だから科学はスタート時点からズッこけているのであり、そのことは見ないフリをするのが科学の前提だ、もちろんそのことは科学の無力を言うものではないが、スタート時点からズッこけている以上、厳密にはその進歩はゼロだと認めざるをえない。
いかなる問答も、問答する能力があるから成り立っているのだが、この問答の能力が、なぜかすべての動物のうち人間にしか具わっていないという……他の動物にも大脳はあるのにね、他の動物は問答もできないし犯罪もできないのだ/ほとんどの動物は風邪を引くと思うが、風邪を引くということについて説明するのに科学は強力だ、だがその「説明する・される」という能力そのものについては科学は閉口するしかない、科学は外部情報の整合性を説くのにたいへん強力な手法だが、その外部情報の切り貼りで「わたし」の現出はありえないのだった、まあ喉がよくなったらペラペラお話ししようと思います。
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実にふざけた人間として
の中には、おっかない人たちもいて、おっかない出来事や、おっかない背景もあったりするので、そういったことには、関わらないでいくのがベストというか、なんでそんなもんと関わらんといかんのや、という気がする。
世の中には、こうして何かを書いているような人や、ワークショップの先生やインストラクター、恋愛のことを考える人や、カミサマはなんだろうと解き明かそうとする人が、いくらでもいると思うが、その中で僕が唯一言えるのは、おそらく僕が特級でふざけているということだ。
僕のようなふざけた人間は、何の立つ瀬も持ち合わせておらず、なんというか、なんやかんやの庇護を頂いてしか、生きられないということだ、僕はまったく「ちゃんとしていない」のだ、別の言い方をすれば、「人から尊敬されうる点がひとつもない」とも言える。
よくよく考えれば、こんなテキトーでふざけていて、ヒキョーでズルい人間なんて、僕以外はそうそういないのだったな、そう考えるとおっかないことだ、あげくに僕はまともに感謝さえしないのだから、ろくでなしの極致かもしれない、けれどもここに至って、僕が何かに感謝するようでは、僕を慕ってくれる人から見てガッカリだろう、その点はご心配なく、今さら何かに「感謝」とか、そういう似合いもしない気色の悪さを僕はやらない。

せいぜい言い訳をするなら、広い世の中、僕のような奴も一人ぐらいはいないといけないと思って……というのは、言い訳にもなっていないか。
僕は何を考えてきたかというと、人が生きることにおいて、「がんばっているんですが、さびしいのです」という人に向けて、フマジメな答えを用意してやりたかった、「さびしいのは、本当にはがんばっていないからだ」と、力まかせの答えをしたくなかった、「おれなんか、一ミリもがんばってないのにさびしくないぜ」という、根こそぎふざけた答えを用意しておいてやりたかった。
僕は善人になるつもりはないし、良心的になるつもりもない、結果的に人を笑わせたりはしているが、「笑わせたいと思った」からではなく、人を笑わせる力が降ってきて勝手に僕をそう動かすからだ、僕は何一つの美徳もやっているつもりはない/面白ければいいと思っているが、それは僕の思想ではない、それは「僕を支配している思想」であって、その思想はいつも気づくとどこかからウヘラウヘラと降り注いでくるものだ、前もってその思想で何かを決定したというようなことはこれまでに一度もない。
このごろになってというか、今日になって、色んなことが見えてきたのだ、どうやら僕は本当に特殊な奴らしい、僕はちゃんとした人として愛されるわけにはいかなかったのだ、サイテーでヒキョーな、わけのわからん、美徳も何もない奴として、愛される必要があった、そうでないと僕を愛してくれた人が、わけのわからない最上の笑いを得ることができないからだ、よりによって僕のことを愛してくれるなんて、当人としても「不思議」の極致でわけのわからない笑いが起こるじゃないか。

ワークショップで一番飛躍が期待されているのは九折さんだ。

なんじゃそりゃ、という話なのだが、来ている人はみんなそう言うからしょうがない、「九折さんが何かを掴んだならもうそれでいいんですよ〜」「バンザーイ」と、いつもそんな感じになるな、こんなことがまずふざけている、ふつうは習っている人が何かを掴まないといけないのだと思うが、なんかそんなことは二の次になっている/「わーい」「祭りだ」「おめでとうございます」というのが朝方によくある。
そうした光景は実に、世間一般からみるとふざけきっているのかもしれないが、少なくともおっかなくはないな、どれだけ正しくて有意義でもおっかないのはちょっとな/僕は何かを助けるために生きているわけじゃなし、実にふざけたことを申し上げると、僕は何かに助けられるために生きているのだ、それがサイテーの極致だというのはよくわかっているが、どうか石を投げないでくださ〜い。
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まともなことを当たり前にやっていこう
、いつのまにか、もう誕生日の前日が終わってしまうじゃないか。
何かもっとこう、大晦日的な気分に浸ろうと思っていたのに。
今、「月刊ワーQ第三号」の、編集作業をしている、その作業をしながら、「まともなことを当たり前にやっていこう」と思った、同じようなことをこれまでに何百回も思ってきた気はするが……
まともなことを、当たり前に、かつ手抜きせず、軽々と、しかも膨大に、他人から見たら「まじかよ」と言われるぐらいの量を、やっていこうと思った、つまり何もかも「今までどおり」だな/おれが自分自身、一番頼りにできるのは、超能力のたぐいではなくて、「まとも」というところからいつまでも剥離しないところだからな。

せっかく東京に住んでいるのだし、身体も健康なのだから、楽しいパーティは、あったほうがいい、そりゃ当たり前だ。
ワークショップみたいなものも、役に立つなら、あったほうがいい、やりがいがあって希望があるなら、希望が実現されるまでやったほうがいい、そりゃ当たり前だ、この当たり前のことから目を背ける尤もらしいだけの不毛に、僕は最期まで唾を吐き続けたい。
よくない趣味にえんえん耽ったり、足しにならない中途半端な努力をしたり、人とのつながりを閉鎖的にしていったり、していていいわけがない、まともなことをまともにやるべきに決まっている、そのことも含めて「当たり前のこと」だ、当たり前のことから当たり前の果実を得る当たり前の奴で僕はありたい。
僕はきっと、人より好き勝手に生きてきて、今も好き勝手に生きていると思うが、せいぜい年長者として教訓を垂れるとすれば、「まともなこと」をやるというのは「他人にやれと言われたこと」をやるということではないということだ、他人にやれと言われたことだけをやっているのは、とても危険というか、とても不毛なことだと思う/他人にやれと言われてやったことを、自分の「やったこと」にカウントしてはならない。

当たり前のことを、何億でもやろう、そして当たり前だからといって、「やらされる」のは一ミリだってごめんだ。

この一年間を振り返ると、うーん、「もう二度とやれねーよ」と思えるような、タフさと巨大な飛躍がてんこもりなのだが、これでいいと思う、内容の問題ではなく、充実の問題だと思っているから/内容を立派にしようったって、僕が立派な奴ではないのだから、無理に決まっている、僕に立派なことはできないが、僕自身をフル回転させるかどうかは、常に僕自身に懸かっているだろう、そこでインチキができるほどの厚かましさの根性は、やはり僕にはないのだ。
当たり前のことを、当たり前にやること、ただし他人にやらされることなく、すべて自らに由ってやること、そしてなるべく、他人にそうそう追いつかれないぐらいには大量にやること、ここまでそのようにしてきたのだから、これからもそのようにするだろうな、どれだけ内容がヘッポコでも、それが僕のベストなのだから僕はそれを堂々と誇ろう/一年間、たくさんの人のお世話になって参りました、いつもありがとう、これからもよろしく。
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百億円とレイプ公認権をよこせ

りあえず、みんな前向きにやっている。
力が悪いのではなく、光がなさすぎて話にならないからな、その修正をしているだけだ。
僕はみんなの狂信ぶりを中和して、まともな「人」に戻そうとしているだけだ、宗教的な狂信者ほど救いがたいものはない。
だれか百億円でもくれんかな、いやマジで……百人がかりでいいので、百億円よこせ、そして僕が誓えることは、たとえ百億円もらったってこのブログは日々更新されるだろうということだ、むしろ百億円もらったほうが調子イイだろうね。

われわれが、「光の存在」なんて言うと草不可避だし、「闇の存在」なんて言うと、さらに大草原不可避だ。
当たり前だが、どちらの成分も、ビタッと同量持てよ、そうでなきゃ中庸じゃなく、中庸でない奴はキモチワルイだろ。
いやー百億円が欲しい、あと僕だけレイプ公認権が欲しい、そしてこの場合の「欲しい」というのが、どうやら他の人と違うらしいのだ、他の人の「欲しい」は、どうやらガチの「欲しい」らしい、どんだけ追い詰められてんだよ、僕はそういうことを言っているのではなく、百億円とレイプ公認権ぐらいあったほうが「バランスが取れてスムースだよなあ」ということを希求しているのだ、百億円ぐらいでメラメラするほど人生ってヒマか?
百億円って、もしもらっても、すぐ使い切ってしまう気がするけどね、まずワークショップのための道場か何かの施設を建てなきゃ、あと僕が書いたものを読みやすいよう印刷物にする必要があるし、宣伝もバリバリしないといけない、うーんしかし宣伝してもどうなのかなあという気もする/クルマは引き続きレンタカーのヴィッツでいいが、百億円もあればレンタカー屋が家まで持って来てくれるかもしれない、なぜレンタカーがいいかというと、レンタカーのほうがメンテナンスがいいし、クルマを買うのとかってまず手続きが面倒くさいだろ。

百億円とレイプ公認権が与えられたとして、僕はどこまで嵐が静寂なのかが知りたい。

レイプ公認権があれば、僕は街ゆく女の子に、初めからお話ができるだろ、そうしたら効率がいいと思うんだ、帰りのタクシー代も出してあげられるしな、自分のカフェや、自分のナイトクラブも持ちたい、バーは……自分のじゃなく街のあちこちのところを彷徨うのがいいな/僕は「何も起こらない」ということを愛している、すさまじい嵐が、完全に解放されるとき、嵐のすさまじさは、この世界に何かが起こるということはないというナイスな事実を現成させるだろう、うーん僕は自分の乗るクルマの車種なんか知りたくないな、マンションの建築者名を教えられるみたいで面倒くさい。
僕は光への才能があるので、そのことを疎んじているのだ、僕のか弱い力の希求を、デカイ光が消し去ってしまう、もーカンベンしてくれよな、いろいろつまらなくなっちゃうじゃない、光と力が混ざらないと面白くない/たぶん、百億円とレイプ公認権が与えられたとしても、なお僕は、自己陶酔のやり方がわからんのだ、誰か自己陶酔のやり方を教えてくれ、百億円とレイプ公認権ぐらいでは、僕の言葉と文脈を見る悟性に勝てないのだ(この悟性をダウンさせないまま拮抗する「力」にまみれたい)。

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楽しくてしょうがない

、露店でやっている「似顔絵描きます」の光景が苦手だった、今でも正直ちょっと苦手だ。
似顔絵は、だいたいデフォルメされているのだが、愉快にユーモラスにデフォルメされているのに、なぜか陳列された似顔絵の一群を見ていると、薄暗く陰鬱な気持ちになる。
一方で、しょうもないエロマンガでも、なぜか読んでいると、楽しくてしょうがない、明るい、光、と感じさせられることがごくまれにある/内容はいかにもバカげているのだが、エロマンガがバカげているのは当たり前であって、そうではない、特に理由なく、無性に楽しくなってしまうものが含まれている。
しょうもない登場人物と、しょうもない設定、しょうもないストーリィなのだが、なぜか楽しくてしょうがなくなる、エロマンガはいちおう読者を興奮させるために描かれているのだろうが、僕はもともとエロマンガで「興奮」という反応を持っていない/なぜか楽しくてしょうがなくなる、光、という現象があって、そのときにはいつも、不思議だなあと思わされる。

思いがけないことだが、おそらく、「愛」の問題なのだ、当のエロマンガ家は、アホながらこの世界を愛しており、僕の見かけた似顔絵屋は、人の特徴を見抜く目を持ちながら、この世界を愛していないのだろう/この世界を愛していない人は、自覚がなくとも、この世界に呪いをかけてまわる営みを、自動的にしてしまうように思える。
エロマンガ家と、似顔絵作家なら、きっと「よい絵を描こう」という芸術的な気負いは、似顔絵作家のほうが強く持っているのではなかろうかと、僕は想像する、だがけっきょくこの世界を愛していない者に、光を帯びたものを現出させることはできない。
おそらく、エロマンガ家のほうは、何しろバカげているので、この世界を愛しているなどという自覚は、きっと当人にないだろう、そしてひょっとしたら、似顔絵作家のほうが、人のことをよく見て、この世界を愛そうとしているかもしれない、にもかかわらず、光のありようは裏腹で、愛というのが努力ではなく、付与されるものなのだということがよくわかる。
しばしば、「光が得られない人のほうがシリアス」という、よく考えれば当たり前のことがあって、光が得られない人のほうが、愛うんぬんについて、強い意志や、強いこだわりを持っていることがある、シリアスな人は愛うんぬんについて、<<強い感情>>を持つ、だがその感情は愛ではない、愛とはときに自覚さえない悟性であって、グッとくる・こないでいえば、どちらかというと「こない」のほうに近いのだ。

何の悩みもない奴が描くエロマンガは最高だ。

何の悩みもない奴が描くエロマンガは、文化的にサイテーなのだが、だからこそ逆にサイコーということがある/一方、さらにその逆において、やはりシリアスな悩みに囚われている者が描く芸術――のようなもの――が、文化的に最高でありながら、よくよく見たらサイテーということもある、僕は最終的に、文化的にサイテーな奴でありたい。
何しろ、アホのエロマンガ家は、自分が上等になる気がないのだろう、その必要を感じていないというか……確かに、もし本当に、この世界を愛していたら、自分が上等になる必要はないのかもしれない、そういうものの現物を、たとえ一時的にであれ目撃すると、僕は楽しくてしょうがなくなってしまう。

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飲みましょう!!

うはいっても、今週の土曜日は、パーティで酔っ払ってラッタッタなのだった、それはそれ、これはこれだ、マジメぶってもしゃあない、マジメぶる奴は単に精神力がないのだ。
酔っ払ってラッタッタということは、この期に及んで、アホライブをやるのかということになり、それはそれでゾッとするが、そんなもんしゃあない、ゾッとすることぐらいやらないと何の足しにもならないだろう。
寛(くつろ)ぐ、という発想があって、僕も寛ぐのはいやじゃないが、寛いでいる中で、人が何かイケている気分に浸るのが好きじゃないのだ、そんなに自己肯定感に飢えているものかね、自己肯定感も自己否定感も当人のヒマさの現れでしかないと僕は思うが……
パーティで何をするのかといって、有意義なことはしない、さらにいえば、パーティをしない!! なんじゃそれ!! いやパーティはやるのだが、何かまともなことをやるということは、それが何だったのかよくわからんまま過ぎ去るほどでなければ、何かをやったことにはならないのだ、当たり前だが認識に引っかかるようなものはすべてハズレでしかない、夜空を飛んでいく速い雲のようにすべては夜景の中をサーッと滞りなく流れ去らねばならない。

われわれは、命の中を生きているのであって、その中から何か切り離した一つを取りだして、「これをします」なんて、しょうもないことはやっていられないのだ。
雨が降ると、われわれは傘を差すが、「傘を差す」ということ自体をチマチマやっているわけではない、雨の中を駆けていくために、そういえば傘を差していますねというだけだ、パーティも似たようなものであって……いちいちイベントに捉えるようなことではない、雨中で傘を差すのはイベントではない。
別にパーティに限ったことではないが、飲むと決めた日に「飲みましょう!!」と言われて、コンマ001秒でも電気抵抗が生じたら、そいつはもう世界から脱落しているのだ、見失っている人が多いのがいけない、「飲みましょう!!」というのは、焼肉屋で炭火を前にして「焼きましょう!!」と言っているのと同じだ、ただの「鬨(とき)の声」でしかない、世界はとっくに始まっている。
土曜の夜は、飲みましょう!! それはどういうことかというと、日曜の昼には酒が抜けているということだ、酒を飲むことの何が重要なのだ、重要なことは何もない、酒を飲むということに限らず、われわれが生きる中で重要なことなど何一つ存在しない。

口腹をハイボールでビシャッと濡らす、そんなことに意味があったら僕はやらない。

アホにはアホといい、ナイスにはナイスという、そのことにいちいち引っかかると、人は気色悪いのだ/よもやこれまで生きてきて、自分をアホだと思っていないような奴はいないよな? アホというのはわれわれの揺りかごから墓場までの定義であって、そのことにいちいち反応する誰かがいたら、そいつは大変うっとうしい、世界ダサイ奴連合の中にフルネームで登録して脳天に「ダサイ」という旗でも立ててやるべきだ、そうしたらインスタ映えもするだろうし、好きでもないジャスティンビーバーのCDを買って帰ったら購入したぶんのCD代が嵩むだろう。
引っかかるべきところは何もないのに、いちいち意識を引っかけるのが好きな人が少なからずいる、断固として許しがたい、そのような許されざる民は、二年間におよんでシュウマイの温度についてだけを考え続ける刑に処されるのがいい、シュウマイの温度はたぶん何℃かなのだろうが、別に適温なら何℃でもかまわない、そんなことに注目するのがおかしい、地を這うムカデにさえ「きみはアホか」と憐れまれるだろう(というわけで、土曜日は飲みます!!)。

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地球の歩き方

が敬愛し、また私淑する、ムツゴロウこと畑正憲氏が、ひさしぶりに特集としてテレビ番組に出演された。
昨年末から今年はじめに、心筋梗塞で入院されて、死線を彷徨われていたそうだ、今はすっかり恢復されて、いつもどおりのように煙草を吸っていらっしゃった様子だったので、僕は安堵した、そしてムツゴロウさんの眼にこれまでに見たことのない色の光を見たように思う。
ムツゴロウさんは、万人が認めるところ、この時代に現存する怪物の代表みたいな方だが、これまでのムツゴロウさんに、あのような目の色は見たことがなかったように思う。
あの目の色が、何を示しているのかは、僕にはわからない、死線をくぐられてなお新しい何かを発見されたのか、新たな地平に到達されたのか、それとも凡人の情愛にも満ち始めたのか、僕にはわからないが、そこにはこれまでより一層豊かな何かがあるように僕には見えたし、またそのように信じたいとも僕は思った。

ふと、昔のことを思い出して、僕がインドを旅していたとき、到着初日の夜中にタクシーの運転手を、後部座席から蹴りつけていたことを思い出した。
当時僕は、大学生で、フロイトの全集とムツゴロウさんの全集を読み、「いつどこで死んでもかまうもんか」というのを当然にして生きていたので、初の外国の地でボッタクリ業者をいきなり蹴るという乱行に出ていたのだが、そうした僕の行動の背景には、命を引き下がらせないという、ムツゴロウさんからの影響づけがあった。
ムツゴロウさんが、ゾウに乗っている古い映像などを見て、僕は今になって、ハッと理解した/僕は地球の歩き方を、この人から習ったのだ、僕がどこかを歩くのは、観光のためではなく、いついかなるときも、出会う命のことごとくに正面から重なるためだった。
僕は当時、理学部のくせに、なぜか執拗にフロイトを読んでいたわけだが、僕はフロイトの解き明かす精神病理よりも、ムツゴロウさんの生きてきた「命」という直接の力を信じたのだった、そのことは今もなお変わっていない、時代が変わって隠してはいるが、僕は今も信じていることを一ミリも曲げていない。

すべての無意味は、命が通って変質する。

あのとき、毎日がどこか無我夢中で、毎日が光り輝いていて、すべてが無意味で、何もかもが、かけがえがなかった、その秘密を、僕は今も隠し持っていて、ただ周りと話が合わないから、表に出さないようにしている/命のすれ違いは危険だ、本当の危険が生じてしまう、僕はこの危険が処理不能レベルに至ったことを鑑み、命から学門へと旗印を換えたのだ、それでもなお、本質的な危険はいつも皮の下一枚に揺蕩っているが……
危険だ、本当に危険だ、あのときタクシーの運転手は、わけのわからないジャパニーの圧力に押しつぶされて降伏したが、もしそこで運転手がポカーンとしていようものなら、僕は本当に運転手をくびり殺してしまっていただろう、現代は本当に、そうした虚ろの穴がぽっかり空いてしまっている/けれどもなお、「地球の歩き方」は、あのとき習ったあれが正しいのだ、あれ以外に地球の歩き方は存在しない。

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世界にはすさまじいエネルギーがある

さまじいエネルギーがある。
すさまじいエネルギーは、世界にあって、自分にあるのではない。
世界にあるのは、たとえば太陽のフレアバーストであって、自分にあるのは、たとえば猛烈な下痢だ。
どちらも、「実感」においては、「とんでもないヤバさだああああ」と感じられるのだが、学門においては、フレアバーストと下痢は同等のエネルギーではない、こんなしょうもない話をしたくないのだが、このしょうもない話のほうに、今はどうやら多くの需要があるらしいのだった。

それにしても、すさまじいエネルギーがある、僕は毎週朝までワークショップをして原稿用紙を何百枚と書いたりして生きているわけだが、これで「足りていない」と感じる。
足りていないというのは、エネルギーが足りていないということではなく、朝までという時間とか、数百枚の原稿用紙とか、そちらのスケールのほうが足りていないということだ、スケールが足りていないので、僕はエネルギーのほうを抑えて暮らしている/そしてこのことが、いつまでもカッタルイのだった。
朝までの時間を埋めなきゃとか、何枚の原稿用紙を埋めなきゃとか、そういう発想はしていない、「埋まってしまわないよう、制限しなきゃ」と思っている、これがカッタルイのだ、かといって僕一人だけメチャクチャをするわけにもいかないからな……
しかし、需要うんぬんのことなんか忘れてしまえば、やはりこのエネルギーを本来の量で、巡航させたいのだった、ただその場合、近くにボーッと立っている人を、平気で撥ね飛ばしてしまう、実際にバカスカ人を殴るようなことになってしまうだろう、そうなると僕はごきげんだが、どうせ殴られた側は悲愴感に陥るに決まっている、そういうものではないんだけどね、まあさしあたり制限するしかないのだった/このすさまじいエネルギーが世界にあるということを、このごろはほとんど誰にもわかってもらえない、本当に人を殺してしまうところまであっさり行くということが、どうも想像の範囲外にあるようだ(それじゃ危ないっす)。

本当に何もわからない奴を殴ってしまうのはかわいそうだ。

思い返せば、この数年来、その「かわいそうだ」という視点で、温和な年長者ぶることを決めたのだったな……自分で決めたことなのでそれでかまわないのだが、ときにそのことを思いださないと、このカッタルサがどこから来ているものかを忘れてしまいそうになる。
すさまじいエネルギーがある、世界にはすさまじいエネルギーがひしめいている、それは人智を越えたわけのわからないエネルギーだが、僕が発狂しないのは、それを僕のエネルギーだと誤解しないからだ、僕自身はいつだって平穏なものです(初めて僕に会いに来た人は、いつもその点で驚くよなあ)。

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