☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
遠き思いっきりの今
かを思いっきりやる必要があるが、今そんなことをしても炎上するだけだし、思いっきりやるとなると、けっきょくそいつの所属が出てしまう。
ふと気づけば、何も思いっきりやらないタイプを芸人として集めて、そりゃ使いやすいかもしれないし騒動は起こさないかもしれないが、代わりに何一つ面白くなくなったな! そりゃ当たり前だ、元気のない飼い慣らされたタイプを集めて何ができると思ったのか、冷静に考えればバカみたいな話だ。
何かを思いっきりやるとなると、その人が庇護されていることが直接必要になってくる、庇護されていない人が何かを思いっきりやっても迷惑になるだけだし痛々しいだけだ。
そうして、痛々しい何かになるだけだと前もって知っているから、何一つ思い切りはやらないのだろう、おれは意地悪を言っているのではない、大真面目に「それで正しい」と言っているのだ、おれもお前も別に腐っているわけじゃない。

おれが何かを思いっきりやろうというのは、それによって何かになるという意味ではなく、それによって何かにはならないという意味だ。
おれは庇護を受けているので、何を思いっきりやっても、何にもならないのだ、だから安心して思いっきりやれるということ/そういえば、この意味で「安心」って大事だよなあ、いまどき大学生でも安心して思いっきりお酒を飲んだりできないものな、もう十代のころから糖尿病とか気にしているって聞いたぞ。
おれがここで今話している、ナゾめいた「庇護」について、普段は「なんじゃそんなもん」「わけのわからん、いかがわしい」という感じなのだが、いざ何かを思い切ってやろうとすると、「やっぱりそれいるじゃん」と内心で嘆くのだった/なぜかおれだけ何もかもを思いっきりやれるということが不可解で不平等だろう。
何かを思いきりやらないとだめだし、かといって何の庇護もないのだから何かを思いっきりやったりしてはだめだ、大人がテキトーに言う「思いっきりやれ」みたいなものを真に受けちゃだめだぜ、大人も何がどうなっているのかとっくの昔にわからなくなっているんだ/どうしたらいいかはさっぱりわからないが、たぶんお前が何をするということじゃなくおれが何をしているかをお前は知るべきなんだ、そうしたらお前が思い描いているすべてのものがどこかで吹き込まれたインチキだって気づくだろう。

奇妙なことだが、おれとお前は違わない。

お前はきっと、自分とおれとが何か違うと思って、その違いを見切り、その差を詰めようとしているんだろう、だがそうじゃない、奇妙なことに、おれとお前に違いはないのだ、違いはないからその差は埋められない、差があるなら埋められるんだが差がないのじゃ埋めようがないだろう、どれだけ首をかしげてみてもけっきょくこれだから差は埋まらない。
おれとお前に違いはなくて、差はないから、おれはもう埋める差がないことに満足している、動きようのない満足に定義されている、お前は埋める差があると思っているから、埋まることのない不満に定義されているだろう、もしおれがお前だったらおれは満足していたし、もしお前がおれだったらお前は不満だった/おれは変わらない満足のもとで思いきりやる、お前は不満を動機に思い切りやろうとしているだろう、だから庇護がないので、思い切りやれなんて吹き込まれてだまされるべきじゃない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
200 tonight
から第200回のワークショップが始まる。
顧みて思うのは、おれの世界って楽しいなあ、ということばかりなのであった。
おれの楽しさは想像を絶している、いつまでも「何がどーなってんだ」とおれは首をかしげている。
想像を絶しているから楽しいのであって、想像通りに楽しいということはないなあ、おれは何を話しているかというと、単に自慢しているのであった。

何かを頑張るということは苦手なので、何かを頑張るということは二秒で血反吐をはいて死んでしまう、だから遊び続けるしかないわけだが、こうして一秒たりとも例外なく遊ぶというのもけっこうたいへんだ。
想像を絶することが肝要で、万事はおれ自身の理解を超えていなくてはならない、だからおれのやること・やっていることは誰にもわからない、何しろ当人にもわからないのだから誰にもわかりようがない。
今から第200回が始まるのだが、何しろおれはワークショップなんてものに興味はない、これまでに一度も興味や関心をもったことがない、でもまた今夜も始まってしまうな。
おれの世界には興味のないもの・関心のないものがひしめいているのだ、とにかくそうでなかった日は一日もない、ああ19時になったぜ。

今夜何をするのか未だ決まっていない。

なぜ決まっていないかというと、そんなものはおれが決めなくても、もともと決まっているからだ、もしもともと決まっていないのであれば、そんなものを人為的に決めてよいわけがない、何をして遊ぶか前もって決めるほどヒマな奴があるかよ。
こんな話を聞かされてもわけがわからんと思うが、おれだってわけがわからないし、参加している連中もわけのわからないまま「えぇ……」と参加し続けているのだ、今夜こそ破綻しそうだと毎晩思うがこれまでに破綻したことはけっきょく一度もない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
言霊と豚スペアリブ

ょっとブログの更新が滞っているが、おれは引き続き元気でバリバリであり、日々とてつもない躍進を続けている。
躍進を続けているので、ソウル的に「なんだこれはああ」となり、イケイケになったつもりがソウルを使い切ったらしく、この年齢になって一日に二十時間寝るというような様態を示した、ホント際限がないな。
特に慌ててコメントすることもないので何を書こうか迷ってしまうが、いいかげんこのブログというかウェブサイトからも、何かしら映像や音声のコンテンツを発信しようかという案が持ち上がっている、発信などという言い方はまったくおれにそぐわないが/そういうのって需要あるかね、求めている奴がいたらテキトーに拍手ボタンでも押しておけ(で、実際にやるかどうかは別)。
まあどうせおれがやるとなると、けっきょく「なんなんだこれ」というわけのわからないナゾのブツになるのは前もってわかっているのだ、その代わりそのときは練り上げられたキツめのやつを提供することにするぜ、とにかく涼しくなったのでおれは調子がよいのであった。

直近で得たのは、いわゆる言霊の発見だった、言霊とは何かについておれは語るつもりはないのだが、少なくとも言えることは「お前らが一般的に思っているようなものじゃナァァァァイ」ということぐらいだ。
この発見は、またしてもおれにとっては大きなもので、ひょっとするととびきりの大インパクトかもしれない、何しろ「わからないもの」がどうやら本当にあって、その「わからないもの」というのはわれわれの予想・空想しているところの「わからないもの」とはまったく異なるのだ。
もし、おれが標準としている「魂魄(こんぱく)」という古い言い方になぞらえて、はっきりわかるものを気魄と呼び、わからないものを霊魂と呼ぶとしたら、その霊魂というものについてわれわれは、なんだかんだ「わかるものがもやもやになったようなもの」というか、一種の価値観を当てはめてその霊魂やらソウルやらというものを予想・空想している。
だがそういうものではないらしいのだ、言霊って何なのかと言われても、どうも「たとえるなら観測できない酸素分子や窒素分子、あるいは二酸化炭素みたいなもの」とでも言うしかなさそうな具合なのだ、そんな観測できない分子があったから「何なんだ」と言われても、「いや本当にさっぱりわからん」と答えるしかないのだった、別に何でもないのかもしれない、そんなわけであいかわらずおれは元気バリバリであり、最近は豚スペアリブの白ワイン煮込みが得意料理になった(今思えば鎌倉に行ったときにもっと玉ねぎを買っておくべきだった)。

仮にソウルやら言霊やらは「ある」っぽいにしても、それが何の役に立っているのかはさっぱりわからない。

これは一般的には意外な結果だと思う、あるいはガッカリの結果かもしれない、言霊なんてものが仮にあるとしてだ、それは何か「いい言葉を使うといい言霊が出てうんぬん」みたいなことだと思われているだろう、だがそういうことではないのだ、日本の場合五十音に対応した言霊があったとして、その言霊が善いとか悪いとかは、「われわれの価値観と無関係なので何が何やら」という具合なのだ、いいかげんこのあたり善人タイプの人は自分に万事の才能がないと諦めたほうがよいように思う(あっ、ひどい言い方をしてしまった)。
おれが知っていることは、五十音なら五十音でどうも言霊くさいものはあるっぽいが、それが何の役に立っているのかはさっぱりわからないで、ただそういう光みたいなものは空間に幻視されるっぽいというか魂には一種の光として視えるような感じなのだが、それが何なのかというと「うーん、何でもない」という具合だ、そして奇妙なことに、それは何でもないにも関わらず、なぜか圧倒的な不満のなさというか、何かわけのわからない「これでいい」感をもたらす、少なくともおれは「これでいい」という感じになるのだ、何が何なのかさっぱりわからん、ただ強烈すぎて翌日はまったく動けなくなった、というわけでおれは全国にあまたいる言霊希望者の思いを裏切って「お前らのそれはただの思い込みと願望だ」と言い放つのであった、センスのない奴がスピリチュアルを言い張るのはハズレだといいかげん見切って諦めろ/もちろんおれのそれだって思い込みかもしれんのだがそれにしては響いてくるものが違いすぎるわな、おれの豚スペアリブは超ウマイしな。

バカをやろうかあ | comments(0) |
iPhoneSE(2nd)を買った!!
ういえばiPhoneSE(2nd)を買ったのだ!! ブログへの報告を忘れていた、つまり/うらまやしいであろう!!

買い換えてみると、これまで使っていたiPhone5Sがさすがに古すぎたということがよくわかった、動きがサクサクすぎてシビれるぜ、偉大なるおれさまのiPhoneは6G回線でも使っているのかというぐらい速い。
調べてみたら、iPhone5Sってもう八年も前のスマホだったのか……ここ最近になってようやく cocoa をインストールしたら、「OSが対応していない」「そしてスマホが古すぎてOS入らないっすわ」となったのでさすがに機種変更を決断した。
cocoa をインストールできないとか、別にそんなアプリをあてにしているわけではないけれども、さすがにこのコロナ禍で国家に見捨てられたみたいでさすがに悲しいだろ、というわけでiPhoneSE(2nd)を入手した、手のひらが真っ赤になるまで拍手してうらやましがるように。

偉大なるおれさまほどになると、こうして何の内容もないエッセイを、何の内容もないまま書き進めることができる。
何より重要なことは、iPhoneSE(2nd)を買ったのみならず、それに合わせて買ったカバーもバンカーリングも超カッコイイということだ、おれのiPhoneSE(2nd)に比べると他のみんなのスマホなどは黒電話に等しい何かにすぎない。
そういえば写真を撮ってみたら、これがもうまったく画質が違うのだった!! これまでおれの腕前がいかに無駄にロスしていたのかを痛感する、おれのスマホのカメラが古いなどというのはまったく世界における損失でしかない、これで少しは世界も是正されるであろう、世界はおれに撮られるために至急ツヤツヤになるようにしなさい。
というわけで、何の用事もないのについスマホをぽちぽちいじってしまうのだった、なんといってもバッテリーの持ちが違うぜ、おれの5Sは何しろ電池残量60%から4%へジャンプするありさまだったからな/60%から4%へジャンプって、「三泊四日の予定が急に日帰りになったような飛びっぷりだな!!」とおれは表現した。

防水になったので風呂場で悠々と使えるぅぅぅ!!

というわけで、あなたにとって本年の最もよろこばしい出来事とニュースは、九折さんが iPhone を新調されたということなので、カワイイ女の子たちは短いスカートを穿いて踊りまくるように、気分がいいのでおれの愛人にはソフトクリームぐらいおごってやってもいい。
こんなによろこばしいことはこの宇宙に他にないので、あなたはこの機会に思い切って気になっていた新しい香水を買う権利を与えられた、よかったな、こうしておれが幸せならあなたを含めて世界のすべてはバンザーイなのであったバンザーイ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
野反湖(のぞりこ)に行ってきた
まりの暑さに腹が立って、草津に行ってきた、草津は標高が1200メートル前後にある。
そして、草津に行くだけではもの足らず(われながら相当腹が立っていたのだろう)、野反湖(のぞりこ)というところまで行ってきた、標高1500メートルにある湖畔だ、行ってみるともう涙が出そうなくらい涼しかった/日中で23℃!
湖畔の涼風に吹かれていると、もうムラムラしてたまらず、そのまま目の前にあったキャンプ場でバンガローを借りて一泊してしまった、バンガローといっても掘っ立て小屋にふとんが準備されているだけだ、ほとんどその場の思い付きだったのでキャンプ道具がなくそれなりに苦労させられたが……(それでも強引に一人でバーベキューをして酒を飲んだ)。
早朝、まだ暗いうち、目を覚まして手洗いに行くと、気温は17℃、そしてバカでかいオリオン座がバカでかい空に浮かんでいて、星がぎっしり並んでいて恐怖だった、ちょうど流星群もあったので、「こんな夜空に流星が飛び交ったら精神がイカれるわ」ということで目を伏せて歩いた。

どうしても大きめのガや、羽アリやアブがいるので、そういうたぐいが苦手な人にはおすすめできないが、とにかくもう涼しくて、景色まで涼しくて涙が出た、まあオススメも何も、東京から車で五時間かかるので、ふつう思い付きだけで行くようなところではない、われながらとびきり腹が立っていたのだろう。
おがけで暑気は身体の芯から抜けてくれたのだが、ふと妙なことに気づく、そういえばおれはそうした遊びについて、ほとんどの人より経験が豊富にあるはずなのに、なぜかそうして遊ぶとき、いつもおれが一番はしゃいでいる気がする。
おれは生まれてこの方、何もせずただ遊んで生きてきただけなので、遊ぶことについてはたいていの場合「一番経験が多い奴」になるのだが、同時にたいてい、「一番大喜びではしゃいで浮かれる奴」にもなる、これは奇妙なことだ、ふつうに考えると、一番経験が多いなら一番スレていて一番落ち着いていそうなものなのに、実際には何であれおれが一番「うおおおお」となっている(今回は一人旅だったが)。
そもそも、おれぐらいの年齢になって、いまだに「暑さに腹が立ったから五時間爆走」とか「湖畔の景色が涼しすぎてうおおおお」とか、そんなことを演出なしにやっているほうがヘンなのだ、自分で言うのも馬鹿馬鹿しいが、こいつは正真正銘の奇人なのだろう、火傷しながら直火で牛肉を焼いてハイボール缶を短時間で5缶飲み干すと脳みそが蒸発して寝た。

おれはソロキャンプが趣味ではないが、あらゆるソロキャンパーより浮かれているだろう。

おれが何かを趣味にすることはけっきょく死ぬまでないのだろう、何かを「趣味」にするというような高尚な機能がおれにはないのだ、おれの脳みそはバカであって、何かいつもとてつもないものに「うおおおお」となっている、遊んでいるときは趣味がないどころか友人も未来もなくなっている気がする。
それをいちいち「遊ぶ」と認識しているわけではないが、とにかくおれが遊んでいるとき、世界のすべてが目の前にある気がしているのだ、そして当たり前だが、世界のすべては目の前にあるのだろう、「世界」をイメージしているほうが錯覚だ、目の前にあるものが世界のすべてにほかならないのだから/そしておれは目の前にありつづける世界のすべてに、大いに満足し、そのはてしない何かを讃嘆し続けているのだった、何がなんだかわからないが、おれだって何がなんだかわかっていなくて、ただ誰もついてこられないということと、誰もついてこられなくていいということだけがそのときのおれにはわかっている。
バカをやろうかあ | comments(0) |
わたしがキャバ嬢をうらやましく思う瞬間のこと
るほど、わたしはどこかでルールから離れたわけだ。
多くの人は、ルールの中で生きている、たとえばカネを出せば女が買えるなどだ、このルールの中で遊んでいる。
そしてわたしの場合、女を買わずレイプする、ということではないのだ、レイプという非合法が成り立つのは、あくまで合法が先にあって、それに反するから不法・非合法が成り立つという仕組みだ、そもそものルールから離脱してしまうと合法も非合法もなくなってしまう。
これが、多くの人がわたしの前でパニックないしは茫然自失になる理由だ、わたしはルールを守っているのではないし破っているのでもない、ルールそのものから離脱してしまったのだ、だからわたしがどのように遊んでいるのかがふつうの人からは視えないのだ。

むろん、神の存在を除いては、宇宙創世から「ルール」があったわけではないので、ルールというのは人類社会の秩序や習慣から生じた後付けのものだ、だがこの後付けより以前にさかのぼる感覚の人はほとんどいない。
宇宙創世なんてことを言い出せば、人というのはわけもわからないままその魂や存在が宇宙にぽつんと置かれているのであって、それこそまさにわたしの感覚であり「そりゃそうでしょ」のところなのだが、ふつうの人はこの感覚に生涯一度も至らないのだ、それが突然わけのわからない宇宙にわけのわからない自分がぽつんと置かれたら、そりゃあパニックにもなるし茫然自失にもなる、これはむしろこれまでのわたしがうかつだった。
わたしはたまに、茶髪の下品でないキャバ嬢を見て、何かうらやましく感じることがあったのだが、このうらやましさの理由がわかった、そうした彼女たちはルールを頭から信じ込んでいて、ルールの中で遊んだり、ルールからはみ出してドキドキしたりしているのだ、それで何というか、人として素直な色気を放ち、人として素直なセックスを楽しんだり売ったりしている、陽気で明るくて善良だ、「おれの場合はそうはいかないな」というのがわたしにとってはうらやましかったのだ。
わたしがそうした彼女たちを目の前に置いた場合、どういうことが起こるか、もうさんざん繰り返してきたのでよくわかっている、彼女らはいつもの素直で陽気な振る舞いを収めて、夢遊病のような目になってわたしに魂を乞うのだ、魂を乞いながら自分の視認しようとしているものに恐怖が勝ち、何かを閉ざしたり錯乱したりする、「ルールなんか本当は存在していない」ということを視認してしまうのだ、わたしはそうしたことを自慢しているのではなくて、そうではない彼女たちをどこかうらやましがっているのだ、まあ単なる一種の未練なのかもしれない。

世の中が彼女らに良くしてくれますように。

わたしとしては、そう祈らずにはいられない、まあいずれはルールというものは架空の存在であって、そうではないナゾの事実だけが本当には存在しているのだと、知っていくよりしょうがないと思うが、それは何も今このときでなくていいじゃん、といつもわたしは思っている、新しく買ったお気に入りのイヤリングをぶら下げて、好きな人やそうでもない人と楽しくセックスする夜が、彼女たちをやさしく笑わせ続けることを祈っている。
大真面目に魂だの存在だのと、血眼になってみたところで、それで当人が救われるというわけでもない、若いころはたくさん遊んだ、そしてたくさんの夢を見たわ、わたしバカだったからね、と世の中に良くしてもらって生きてきた素直で明るいエッチな子のほうがよほど救われるというのは事実としてある、フェアなのだ、おれもたまにはこのずっと視ているとんでもないものを脇において、ありもしないルールの内外で明るく遊ぶこともしてみたいなと、やはりうらやましく憧れるのだった。
バカをやろうかあ | comments(0) |
おれが奇人でありつづけるために
2020年の「ぷよぷよ」公式試合、「ぷよぷよファイナルズ SEASON2」の決勝戦はすさまじい戦いだった、のちに伝説の一戦と語り継がれてもいいような内容だった。
一方で、「世の中」は本当に、おれのまったく知らない世の中になりつつあるのだと思う/おれはその試合のすさまじさに魂が震えていたのだが、観客やスタッフはそんなに取り乱すというふうではなかったのだ、これは悪口を言っているのではなく、おれがいかに世の中とズレまくっているかという、自覚とその報告でしかない。
おれはもう四半世紀も前に最初期のぷよぷよをやりこんでいたという思い出をもとに観戦しているにすぎないので、もしぷよぷよを競技としてプレイしたら、解説の若い女の子にもボロ負けするんじゃないかなと思う、「世の中」は本当におれの知らない世の中になっていて、万事のレベルはめちゃくちゃに上がっているのだ、そして魂が震えるとかいって取り乱すようなアホはもう誰も残っていない、あるいはもともとおれがそういう珍しい奇人だっただけでかつてもそんな奴はいなかったのかもしれない。
万事のレベルはめちゃくちゃに上がっていて、今や「ぷよぷよ」というひとつのゲームも、公式に戦うのは「プロ」のプレイヤーという前提だ、そして確かにそこにはプロレベルと呼ぶべき次元が確立されていて、おれが遊んでいた「ゲーム」という世界とはまったく異なるものがある、万事のレベルはめちゃくちゃに上がっているので、このまますべてのものはプロ化していくのだろうか、すべては職業化されていって、「遊ぶ」なんてことは日向のプロに対して物陰でこっそりと遊ばねばならなくなるのだろうか。

おれにはわからなくなってしまったことがたくさんある、たとえば2020年度に優勝したプレイヤーは「ともくん」という高校生らしいのだが、この「ともくん」の風貌を指して「チー牛」呼ばわりするのが通例のノリでありシャレというムードらしいのだ、ところがおれは少年の青春に対して大のオトナがわざわざディスって掛かる理由も動機もよくわからないでいる、「大人が少年の青春を肯定しなくてどうするんだ」と、批判というよりは単純に「???」となる(本当におれがズレているのだと思う)。
おれが高校生のころ、ゲームセンターに通い詰めで、確かによく「なか卯」でメシを食ったものだった、頭の中では「スト供廚龍遒碓きをあれこれ思い浮かべながらだ、おれにはなぜそのことが唾を吐かれるようにディスられなくてはならないのかがよくわからない、ゲーセン通いでなか卯でメシを食うような青春はダサいのかもしれないが、おれは当時の自分の青春を、「日焼けしたマッチョで女をヤリ捨てにしてトレーダーとして名を馳せて六本木でシャトーブリアンを食っている」という青春に取り替えたいとは思わない/おれは「ともくん」の見せたプレーについて「すげえ」「行き着くところまで行き着いてるわ」と驚嘆と感動しかしなかった、そこでなぜ「チー牛」が感想のファーストチョイスになるのかおれにはまったくわからないのだ。
同じく天才的な少年プレイヤーというと、将棋の藤井聡太棋士が有名だが、彼に対してもなぜやたらにキャラ扱いして、チヤホヤしたり逆に安いおもちゃのような扱いをしたりするのか、おれにはまったくわからないのだ、少年や少女の青春に大のオトナが首を突っ込むものなのだろうか/そのあたり、部外者でも首をつっこんで何か揶揄をしないと気が収まらないという、一種の体質が、いわゆる流行の「マウント」という精神なのかもしれないが、おれはけっきょくその精神がよくわかっていないのだと痛感する、おれは本当に批判しているのではなくて本当にわかっていないのだ、それで毎回同じことで「えっ!?」とびっくりしている。
おれはけっきょく、そうした奇人でありつづけたいから、この先はますますそうした「わかっていない奴」として浮き続けていかねばならないのだろう、まあそんなことは慣れっこというか世の中から浮いていなかったことはほぼないのでただの通常運行ということになるけれども、さしあたりおれが発想するのは「ともくん」に対して「メシでもおごるわ」という一点のみに尽きる、それがおれの正直なところのファーストチョイスであって、それが「チー牛」呼ばわりになる発想はおれにはどうしても感覚的にわからないのだった(※当の「ともくん」はぜんぜん気にしていないらしいので、まあどうでもいいのかもしれない)。

ぷよぷよの決勝戦は異次元すぎて魂が震えたし、チー牛呼ばわりも異次元すぎて魂が凍った。

ふと気づけば、本当に「世の中」がわからないブツになってしまったので、逆に考えると、世の中からおれを見た場合も、おれはまったくわからないブツに成り果てているのだろう、おれは望んで奇人でありつづけるしかなくて、おれは本当にガチで何の演出でもなく、夜中に一人で吉野家で牛丼を食ったりするのが好きなのだった、自分のやるべきことを携えて夜中一人で歩いている先、吉野家の看板が光っているのは、しつこく続くおれの青春のオマケ的ワンシーンと言える。
ゲームがプロレベルを確立することもよくわからないが、同時に、万事のプロレベルに対して常にディスとマウントをファーストチョイスするというのも、いわばこの現代のプロ、世の中のプロ、また観客のプロという風情なのかもしれない、いわばおれはプロ集団の中に一人だけズブの素人が紛れ込んでしまったというような状態になっているのかもしれない、おれはプロというのは単なるカネ稼ぎのことを意味しているのではないと思っていたのだが、そのあたりの発想もけっきょくおれがいつまでも素人だという証なのかもしれない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
未来を打開せよ
ークショップ後は、われながらビビるぐらいクタクタになっている(なのでこの後グダグダ休養する)。
ワークショップといってもオンラインでは限界があるので、どうするかというと、おれの能力を上げるのだ、これ以上おれの能力を上げることには何の意味もないような気がするが、しゃーない、他にすることがないのでとりあえずおれだけ無意味にガンガンレベルアップする。
よくよく考えたら、おれが数年や数十年かけて到達した知識や技術を、そうでない誰かが三十分でフンフーンと獲得できるかというと、そもそもその発想や前提がおかしいのかもしれない、なぜか謙虚な人ほど膨大な知識と能力を三十分で獲得できるという発想を持っている気がする。
今どき謙虚な人というのは、「自分みたいなものは、ちょこちょこっとやって、ささやかに最高の誉れと幸福を獲得できたらそれでいいっス」という、控え目な発想を持っているような気がする、それのどこが控え目で謙虚なのだという疑問はあるのだが、なぜか全体的にはそれが謙虚マンというムードなのだ、世の中全体で「七転八倒する人を見かけない」という事実があると思う/おれは嫌味で言っているのではなく誰もが目を覚ませばいいと思って老人みたいな説教をしているのだ。

おれはけっきょく、誰に対しても未来を打開することしか発想にない、根暗な経世家になるつもりはないし、かといってウフフ的なごまかしに寄与することは終生ない。
おれは割と異常な奴かもしれないが、求めているのはフツーのことだ、一方できょうびフツーの人というのは、異常なマンガを読んでいて、人格が異常な「キャラ」になっているのではないだろうか。
この先自分の周囲の友人が、すべて異常なマンガを読んでいる異常なキャラ人間になっていいかというと、そんな友人はゴメンだしそんな同僚と家族はゴメンだと誰もが思う、にもかかわらず、けっこう平気で自分はそういう趣味とそういうキャラ人格に日々ハマっていたりする、やっていることのつじつまが合わない。
おれは痛みの只中に立ち続けるべきだと思うし、「キャラ」なんてバカみたいな解離をやっている場合ではないと思っている、今どきこんなことを言っている奴は異常だというのは理解しているが、おれは「フツー友人というのはそういうもんだろ」と思っているのだ、未来を打開するといってもおれはただ輝かしいフツーのことを求めているにすぎない。

人がジョークを具えるのはうつくしいが、キャラがジョークを言うのはオタクマンガだ。

多くの人が現在、アニメやマンガや、その他何でも「キャラ」に "癒される" のはわかっているが、それが誰も感動させないということは誰だってわかっていることだ、そして誰も感動させない人たちを集めて自分の友人たちと言い張るのにはどう考えても無理がある。
とまあ、相変わらずそんなことを考えているが、とにかくおれは今日は休養するのだった、よーしダラダラするぜ。
 
バカをやろうかあ | comments(0) |
黒歴史がない
たも、おれのパターンである「感覚的にわかっていない」が発見された。
おれはどうも、世間一般で言われている「黒歴史」というのがわかっていないらしい、おれとしては言葉の意味はわかっているつもりなのだが、例によって世間一般では "割とマジに言われている" ものなのに、おれはまたそれを一種のジョークとして捉えているつもりでいるみたいだ。
おれはこれまで、「マウント」とか「闇」とか「地雷」とか、その他すべての流行語を、一種のネタとして笑って聞いてきたのだが、実はみんな割とマジでそのことを体験して言っているのだということを、最近になってようやく知るようになった/このパターンでいうと、「黒歴史」もつまりそういうことなのだ、どうも人の話を聞いていてそれを「黒歴史」と言っているのはネタではなくて割とマジなのだということに、また遅まきながら気づかされてきた(たぶんすげー出遅れている、恥ずかしい)。
何しろこれまでの例にもれず、おれにはけっきょくマウントとか闇とか地雷とかがないのでそのことがネタだと思ってきたのと同様に、おれには黒歴史がないので、やはり黒歴史というのもネタでありジョークの言い方だと思ってきたのだ、もう我ながら自分について「こいつはこういうことに関しては本当にダメだ」とあきらめたくなる心境になってきた、どうも人が大マジで言っていることを勝手にネタだと思って「ははは」とフツーに笑っているケースが多すぎるのだ。

おれは子供のころからルパン三世が好きで、中学生からテレビゲームと銀河英雄伝説が好きだったが、そのことは今も変わらない、三十年経っても何一つ変わっていないのがおれの特徴だ、今でも三十年前好きだったものはおれにとっては現役であり続けている。
一方で、子供のころから「筋肉マン」や「ビックリマンシール」は何の興味もなかったので、今もやはり三十年前と同じでまったく興味はない、おれは自分の幼いころはめちゃくちゃで、女の子についイタズラをしたり好きな子に無言電話をしてしまったりというベタなことをいくらでもやってきたが、それらについてもおれは黒歴史とは思っていない、単に「こんな危なっかしい奴がよく現在まで破滅せずに生きてきているなあ」とその奇蹟と加護に感謝する気持ちにしかならない。
どうやら、例によっておれにはわからないマジの感覚で、多くの人が自分の若かったころのことを「青臭い」だのと言って、黒歴史認定するみたいだが、それについてはおれは首をかしげてしまう、確かにそういう人の若かったころはあまり見たくもないような痛々しさがあるが、それでも正直「おっさんくさい現在よりは昔の青臭いときのほうがマシだと思うぞ」と言いたくなる、青臭い過去を黒歴史に認定するなら「でも今のお前は歴史じたいが無いじゃん」と言いたくなってしまう/おれは青臭いのも好きではないがおっさんくさいのはもっと苦手だ、おれとしてはそんなニオイ的なものを振りまいているのはいかにもヒマそうで全般的によくないのじゃないのかと思えてしまう。
なんというか、過去を黒歴史認定するのもよいかもしれないが、そうまでして現在を肯定したいのかよとも言いたくなるし、過去を否定するのは単にヒマだから引きずっている証拠なんじゃないかとも言いたくなる、というわけでおれには黒歴史というものはいまいち存在していないし、感覚もよくわからないのだった/なんだ、けっきょくそう言って居直ってしまったが、どうやら本当にわからないからしょうがないのだ、おれはいちいち自分の書いた古いものを見返すことはしないが、おれが昔に書いたものだってどうせ今のおれが書いているものと変わらないだろう、単にレベルが違うだけであって昔のおれも今のおれもまったく変わっていない、おれにはそもそも「昔」というものが存在していないのかもしれない。

たかだか数十年前のことを「昔」とはまったく感じない。

時代が違うということ、時代が変化するということ、それによってムードや常識が変わってしまうということはよくわかるが、それは時代とムードに流される「人」のほうがアホというだけであって、数十年という時間それじたいはたいして長い時間じゃない/あるいは例によって、おれだけ "何も変わっていない" から、おれだけ時間が流れたという感覚を持っていないのかもしれない、おれは丸の内にいたときに一年目から上司に向かって「社会人気分になって学生気分を侮辱することには何の利益もない」と言い放つぐらいのアホだった(出世しねー)(しかも一年目の終わりには上場企業の人事部長に「おためごかしの会議を開くな」と怒鳴りつけるというありさまだからこんな奴は企業で出世するわけがないのだ)(あのとき人事部長はおれに頭を下げたわけだから、今考えたらあの人事部長のほうが男気があって勇敢だったのだ、何かまだ魂の炸裂が残っていた時代だったなあ)。
このように、時代が変わったのはおれにもわかるが、時代のムードなんてものはしょせんフェイクでしかないので、そのまやかしを真に受けて時間が経ったと思い込むのはただのアホだ、黒歴史というのはすべてそのときの自分が時代と自分のムードと気分に踊らされてしまったというだけであって、たぶん黒歴史ということではなくただのアホさかげんが現在も続いていて見過ごされているというだけなのだろう、あーあまったくの悪口になってしまった/というわけで、おれには黒歴史はよくわからない、幼いころは女の子にイタズラしてしまったが、今だって変わらん、むしろ今はようやく女の子へのイタズラが完成してきたということにすぎんな、おれは大人になるほどの時間は生きてきてねーよ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
ときには安っぽい夏の青
なので、早朝から空がきれいだ。
本当にきれいな夏がやってくる/毎年毎年、すさまじいものだ、季節のない世界はない。
今、別のところで人間的なプロジェクトをやっているので、一部、こうしておれの文章は安っぽくなる。
おれはこういう、安っぽいのが、割と好きなのだ、たまにはこんな失われたエッセイみたいなものもいいだろう。

映画のセットは、安っぽければ安っぽいほどいい。
名画というのは安っぽいのだ、だから撮影機材が貧弱な昔のほうがよい映画が撮られた。
高級感が何たるものかは、できたらこの夏中は忘れていたい、どうせ用事のないしろものだ。
安っぽい世界には、何もかもがあるのだ、高級っぽい世界には何もかもが無い、無の世界だ/今さらこんな話が何の説得力も持たないのはわかっているが、おれだってたまにはこうして説得力を必要とされない世界へ帰らせてもらってもいいだろう。

おれはまるで坂道の上の学生みたいに安っぽい。

何もかも、満たされていたというか、安っぽいからすぐに何でも満たされていたのさ、奥行きのないおれが奥行きのない映画を観ていた、それで十分だった、ありとあらゆるものが鳴り響いていた。
高級な世界になんて行きたくないし、高級な世界なんて存在しないのだ、高級というのは世界を失った人が引きずりこまれていく闇にすぎないから/おれにはこうして安っぽい夏の空で十分だ、本当にきれいなものだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
毎日が退屈な若い君へ2

退屈を突破するためには、まず己の慾望をフルオープンする。
すると、犯罪者になるし、友人がゼロになり、社会性もゼロになるので、終わる。
冗談でなく、本当にゼロになって終わるのだ、だから立ち止まらなくてはならない、だいたい近所迷惑が許容範囲にない。
そして、この「慾望をフルオープン状態のまま立ち止まる」ということが困難なのだ、困難というより直接「すさまじく苦しい」と言ったほうがいいだろう、ここでふつうの人は神経が持たないので自殺するか薬をやるか犯罪者になってしまう。

幸いおれの場合、犯罪歴はガキのころのいたずらと自転車ドロボーぐらいしかないし、ドラッグはインドでマリファナを試してみたぐらいしかないし、自殺というのも遥か昔に二度ほど未遂があっただけで済んだ、これはまったくラッキーなケースだ。
ふつう耐えられないのだ、慾望を抑圧せずフルオープンにして、ありとあらゆる慾望や嫉妬や衝動が目の前を通り抜けていくのは/本当に部屋にこもって二夜か三夜ぶっ続けで脂汗を垂らして苦しむことになる。
「これらのすべてを解決するのか」と考えると、それはさすがに退屈ではなくなる、ただし無事に生きられる保証はなく、友人や先輩から愛されること、また異性にも愛されること、および天の庇護を受けることが必須条件になるが/このことに比べたら退屈のほうがマシっつーか安全じゃんと今さらになって思えてきた。
まあこんな、何もかもフルオープンして、クンダリーニ症候群のまま「泥酔しようぜ!」みたいな突貫コースをいかなくても、少しずつでも、自分の抑圧された願望・慾望を、抑圧から引き出して解決に向かわせていくという、堅実でまっとうな方法を採ればいいだろう/今さら過去のことを少し思い出してみれば、おっかなくて全身に汗が噴き出した。

「大切なものがある」「慾望をフルオープンした上でか?」

おれはもともと、大切なものを見つけようとか獲得しようとしたわけではまったくなかったのだが、いつもどこか「自分の慾望に殺される」と追い詰められていて、そのことが二転三転、いつのまにかおれの笑い声が空に吸い込まれる手続きになっていた/こんなもん自分でデザインできるか、もうすべておれの知ったことではない。
というわけで、毎日が退屈な若い君へ、おれのようになってはいけないし、おれのようにやってはいけないという、まったくタイトルと関係のないアドバイスをして終わるのだった/今思い返して全身に汗が噴き出すようなことを、なぜおれは勧めようとしていたのだ、いちおう原理的に退屈に対抗する手段は示せたが、どう考えてもそこまでしなくていい。

バカをやろうかあ | comments(0) |
毎日が退屈な若い君へ
イトルにそれっぽいことを書いたが、こんなことに明確な回答などないし、おれはアドバイスをするつもりはない。
おれはアドバイスをするつもりはなく、このご時世にもなお、「退屈をどうしたらいいかなんて知るか」と言い続けようとしている。
せめてそれぐらいでなければ、ますますおれ自身、若い人々を退屈させてしまうと思うからだ、何かしらおれはトチ狂っていないと、若い人の退屈を和らげてやれないだろう。
おれの知る限り、退屈というのはつまりさびしさであって、なぜそれがさびしさであるかというと、退屈がすなわち「自分の限界」を示しているからだ、退屈に突き当たるということは自分の限界に突き当たっているということで、それが悲痛なほどさびしいのだった/もしそのさびしさが悲痛でないなら、誰が覚醒剤で身を滅ぼすだろうか。

高校生や大学生がいわゆる「ぼっち」だったとして、そういう「ぼっち」はたいていネット趣味やアニメ趣味、アイドル趣味、オタク趣味に傾倒する。
なぜ傾倒するかというと、やはり退屈だからだ、退屈だから刺激のあるものを求め、また退屈だから偏執的なものに傾倒する、そうしてさびしさを紛らわせるものだということは、かつて村上龍などがこころを込めて書き連ねてきたものだ。
それで、じゃあいわゆるリア充が本当に「充実!」「退屈じゃない!」のかというと、決してそんなことはなくて、あれはあれで、「陽キャ」というような偏執的なプレイをえんえん続けているのだ/それもしょうがないことなのだ、退屈に悶絶していろんな行状を示すことを一方的にバカにできる者などいない、ブッダやキリストを除いてはわれわれは平等に「退屈」という最大の敵を攻略するのに必死だ。
毎日が退屈な君へ、たまにはこういうダサいタイトルで書き話してみるのだが、おれは何もアドバイスするつもりはない、ただ君がおれよりトチ狂っているということはまずないと思うので、そのことで自分を恥じるべきだ/何を恥じればよいかというと、君はおれのように恥を見せてはおらず、またおれのようには慕われていないということだ、君にはまだ、おれのようにバカにされる材料もなければ慕われる材料もない、そのことをいいかげん恥じるときが来ると気づけば、そのころはしばらく退屈というものが消え去っているだろう。

毎日が退屈な若い君へ、おれは「君をバカにする余裕はおれにはない」としか言えない。

年長者から若い人に向けてメッセージを、というような、クソみたいな茶番こそ、ますます退屈を増強するだろう、もちろんそういう穏やかで誠実なやり方が似合う人もいるのだろうが、おれはそういう奴ではないのだ、おれは実際このとき、好感度を猛烈にゴミ箱に捨てることぐらいしか、君の「退屈」に対抗する手段がない。
毎日が退屈な君へ、君が動画サイトや友人のSNSに「絡む」などをして退屈をしのぐこと、あるいはネイルを執拗に飾ったりマスクをしてタピオカを買いに行ったりするのは間違っているに決まっているが、そのことを指摘しても何の足しにもならないだろう、だからおれは君よりも間違い続けようと思っている、指摘やアドバイスから最も遠いことをしようと思うのだ、おれが君にしてやれる最大の足しは、おれから君に何も足さないことだと思っている。
バカをやろうかあ | comments(0) |
作品と困惑
れ自身が、「偉大なるおれさま」に向けて、「何をどうすればいいか」と訊くと、「今のところ十分」と答えられる。
そこでおれは、「おれは十分だが、他の人々は不十分では」と訊く、すると偉大なるおれさまは、「うん、そりゃまあな……」と答える。
そこでおれは、やむなくおれ自身として活動を始めるのだが、何しろおれ自身はもう「十分」なので、おれが活動することはそれじたいあまり意味がない。
おれはすでに、ひたすら愉しんでいるほうがいいのだが、愉しむといっても今周囲はそういう状況でないため、「しゃーない」と、またおれが活動を始めることになる、これはあまりいい状態でない。

これ以上、おれがガンバってもしょうがないのだが、他にやり方がない。
だいたい、「んなこと言われても」というやつで、他の誰かだって何をどうガンバればいいのか、わけがわからないだろう、それはもう、当然のことなので、わけのわからないままでかまわない、誤解してヘンなことをおっ始めるべきではない。
おれはもともと、他人を救済して偉そうぶることに、趣味も悦楽もない、どちらかというとそういうことは苦手なたちだ、おれの場合は人を導くというようなことは当人がしょせん世界を見失ったあわれで近所迷惑な奴と感じる。
だから、他人に何かさせようというつもりはわずかもないのだが、ただおれが天から春の国を引きずりおろしてくると、自動的に他の人々が誤解をしてしまう……その誤解は、放置しておくとたいへんよくないので、修正に走り回らねばならないのだが、そんなこんなで何をどうしたらいいのやら、よくわからないのだった/ただ作品世界だけをやっていたいのだが、それはまた人々に誤解をさせることばかりにはたらくだろう、これをいったいどうしろというのだ。

「レディコミでオナニーしてトイレットペーパーを買い占めるアホ」という前提を忘れてはならない。

仮に、政府が全市民にゲーテの詩集を送りつけて読むように強制したとしても、市民というのはゲーテよりデマを信じてトイレットペーパーを買い占める者たちなのだ、そんなに危難の折にケツを拭きたいのかね!! この「市民トレペ説」とでも呼ぶべき説をわれわれは忘れてはならない。
いつぞや、オモシロ詐話師が「平成のベートーヴェン」と呼ばれ、号泣議員みたいなものか「○○と思テ〜ウァァァ」とヘンな慟哭をまき散らしていたのだが、その平成のベートーヴェンをちやほやした人たちが確実に存在するということだし、号泣議員を市民代表として送り込んだ主権の人々が確実に存在するということなのだ/というわけで、作品といってもなあと、二の足を踏んでしまうのだった、作品というのは彼らを誤解に膨張させてそれを「知らんわ」と見捨てることなのだろうか、うーんそうなのかもしれないなあ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
わたしが真に受けてきたもの
年のころ、わたしは「天空の城ラピュタ」を観た、何の予備知識も触れ込みもなしで……心臓も魂も震え上がった、それは金曜のテレビ放映だったはずだが稚気のわたしに記憶はない。
そのときから数日、数ヶ月、いや正直には数年にわたって、わたしは目撃した物語に首根っこを掴まれ続けたように思う、そしてわたしは少年なりに、自分が彼のように勇敢でないということを突きつけられ、それを一人認めつづけることになった/そのときは少年なりの自分に突き刺さる刃のような痛哭があったように思う。
けっきょくわたしはそのとき、流通する商品としての映画を観たのではなく、また鑑賞物としての映画を観たのでもなく、誇らしい友人たちと友人たちでありつづけるためには自分がどうあらねばならないかという切実な事実を観たのだ/その言い方でいえばわたしはこれまでに一度も、一般に言われている「映画」を観たことはないということにもなる。
わたしはいくつものことを真に受けてきたのだった、そしてそのことを振り返ると、振り返るということは実はなく、今も変わらず真に受けたものは真に受けたまま続いているのだった、仮にそれが他のことすべてを失わせるとしても/わたしは一見、物語のことを研究しているように見えるが、その実そうではない、わたしはかねてからずっと「物語と自分の区別がつかない」のだ、本当はわたしが研究のメスを入れるべきようなジャンルめいたものは何一つない。

わたしは物語に没入したつもりはこれまでに一度もなく、そもそも没入という状態を切り取って感じたことはない。
あくまで大人になって、植え付けられた常識に基づいて言うのならば、わたしは物語に没入したというより、初めからその内部にあって、以降一度もその外へ出てきていないということになる、少なくともそのように推測しうるということは、わたしも人並みの知能として分かるようになった、だがどのように分かったとしてもわたしがその外へ出てくることはないのだろう/わたしは子供のころから、すさまじく周囲と「ちぐはぐ」をやらかす時間ばかりを生きてきた、これはけっきょく修復はされないものなのだろう。
このごろになってわたしは、元から物語の中に棲んでしまっているということについて、一部うらやましがられる向きも出て来たのだが、そのことについてわたしの知る限りの誘導を与えても、基本的に人はその物語へ棲みつくことを、拒絶しているようにわたしには視える、それがなぜなのかはわたしには分からないが、まるでわれわれが宇宙旅行を目論むように、それは憧れと実際の拒絶を内包しているように感じる、それでもわたしに引き続き残るのは、ただ唯一のこと、わたしを慕い、信じようとしてくれる人について、わたしの知る限りの不幸を遠ざけたいということだ、<<わたしはわたしから見て危険だと感じることはなるべく友人にはさせないようにしている、またそのことを現場で実際に制止もしている>>。
わたしにはずっと奇妙なものが聞こえている、「聞こえている」という言い方がせいぜい似つかわしいと思ってそのように言っているのだが、わたしにはずっとわたしきりのわたしが聞こえているのだ、一般に知られている自我としてのわたしが物語を余所事に見たり、その中に無理に没入しようとしているのではなく、物語の中にいるわたしがずっとわたし自身に聞こえている、そしてその聞いている主体さえも物語の中にいるわたしではないのかという気がしているのだ/つまりわたしは、いわゆる「無我の境地」というテーゼを考えるときにも、そもそも無にするべき我というのが、はっきり存在しているように感じられないのだ、もし強いて無我の境地というものを考えようとすると、わざわざ意図的に「我」を捏造し、それから改めて無我にせねばならないように感じている、つまりわたしが「わかるわかる」というとき、わたしは一般とまったく異なるものを対象として「わかるわかる」と言っている、物語の中に棲むわたしだけが「わかるわかる」と言う。

青空がわたしであり、夕空がわたしであるということはわかるが、「わたしが青空を見る」という意味がどうしてもわからない。

ここに一冊の本があったとして、本から表紙を切り離すことは可能だったとしても、表紙もその「本」の一部であることのように、青空とわたしをいったん切り離してから接合するということの、意味がよくわからない/わたしは特別な何かを感じたことは一度もない、ただこれまでずっと、わたしにとって意味のわからないことと「ちぐはぐ」をやらされてきて、困らされてきたという覚えだけがある、しかもそれは解決しない困惑だ。
わたしはこれまで、「大人」に話しかけられるたび、困惑のエッという反応を返してきた、それはすべてのことが、本当にわたしにとって意味がわからなかったから/「もうじき年長さんだね」 エッ 「自分のために頑張ってね」 エッ 「深い話するよね」 エッ 「それって面白いの」 エッ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
おれは何もできない
霊の庇護でもあるのかよ、と思わせるほどでないといけない。
聖霊の庇護が、本当にあるとかないとか、そういうことを超えてしまうのが本分だ、それはおれの本分だし、誰にとっても本分だ。
聖霊の庇護について、サンプルはというと、そんなもん神話や聖書にしか載っていないので、サンプルはない、たとえ事実が毎日百万回現れたとしても、それはサンプルにはならないのだ、それはサンプルという発想の領域にないことだからしょうがない。
われわれは、イチローがメジャーリーグで活躍したことを知っているが、メジャーリーグの球場でそれを目撃したわけではない、スポーツニュースで聞いただけだ、だからだまされてはいけない/それは、メジャーリーグの球場に行けということではない、あなたの立っている場所であなたが活躍しろということだ、まるでサンプルにならない聖霊の庇護でも受けたみたいにだ。

他人には、理解されなくて当然だ、われわれがイチローを理解していないように、少しでもまともなことは一般に理解されない。
一般に理解されるということは、実は何もしていないということだ、まともなことのすべてはサンプルの領域を離れるのだから、まともなことのすべては一般に理解されない/一般に「へええええ〜」と言われるのは当たり前で、そのように驚かれたとしても、やはり理解はされていないのだ、自分が何かを知るというのはそういうことだ、一般に理解されることを知ったとしてそれは何かを知ったことにはならないだろう。
一般に理解されないということを、ひとつの目途にするべきだ、一般に理解されないというのは、たとえば猟奇殺人犯が童女を殺すことで射精するというようなことだ、そんなことはいくらつぶさに報道されても、けっきょくのところ本当の現象を直接知る身分にはならない、そうして悪霊でも取り憑いているのかと思わせるほどの人がいるように、聖霊の庇護でもあるのかと思わせるほどでなくてはならない。
聖霊の庇護があるかないかについて、聖霊は「ある」と言うだろう、おれは言わない、おれには言う権限がない、おれが言うことはただひとつ、「おれには何もできねー」ということだけだ、童女を殺して射精する猟奇殺人犯を見ればわかるとおり、当人は「何もできない」人じゃないか(いかん、これではまるでおれが猟奇殺人犯みたいな文脈じゃねーか)。

おれに超能力はない/何度も言うように、おれは何もできない。

超能力なんて、ふざけたことを言ってはいけない、人に超能力なんてあってたまるか、そしてこの世界で面白いことといえば、唯一奇蹟と超能力だけなのであった、もしこの世界に聖霊なんてものが本当にあるのだとしたら、聖霊というのは意外にイケイケなものだと思う。
偉大なるおれさまとして思うのだが、どうして偉大なるおれさまが、やれ奇蹟やら超能力やらいう、チャチなものに努力を向けねばならんのかね? そんな面倒くさいことは、他の誰かにやらせるに限る、面倒なことはすべて他人にやらせるのがモットーだ、ヨソの誰かができるのならば、なぜいちいちおれがやる必要があるのか、おれは何もできないのだ、おれに起こることといえばむさぼりとブチギレと頭クルクルパーだけなので、こんなものはなんとかできる奴がなんとかするしかない、おれはそれをなんとかするという熱心な奴の邪魔はしない、何しろ邪魔さえできないほど何もできないのだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
福袋は出来事であり内容はゼロ

の世界にアホが出現したらどうすればよいか?
この世界にアホが出現したら、そいつはサンドバッグにする、ただし、血眼になってパンチを打つ必要はない、血眼になると今度はこっちが「パンチするアホ」になってしまう。
この世界に出現したアホは、ことごとくシリアス社製のサンドバッグになるのだ、それを見てどうすればよいかというと、とりあえず大喜びすればいい、大喜びしたあとに別に用事はないので、賢き者たちは何かステキな夕食でもとりにいく、その後サンドバッグはどこかにぶらんぶらんと吊されている。
サンドバッグの人生はどのようかというと、端的には「刑! 刑! 刑!」という感じだ、そのことについて当人は「え〜〜〜」と渋っているのだが、サンドバッグなのだからまあしゃーない、賢き者はクリスマスに向けて Joy to the world でも唄うのだった。

サンドバッグの刑罰は、ニヤニヤした者から順に終わる。
ニヤニヤしている者は、もうシリアスではないからだ、シリアスでなくなると、サンドバッグの刑は終わってしまう、そのあと異性にモテないと結局サンドバッグに戻るが……そんなこんなで、年末にはいつもどおり holy night がやってくるだろう。
この世界に完璧マンはいない者だが、いないなら作ればいいのであって、作るには「完璧マン」と言えばそれで済むわけだから、うーんおれは完璧マンと、言ってしまえばいいだろう、もちろん「マン」は完璧ではないので、完璧なのは世界と言葉のほうだ、マン基準にするから言葉がいつまでも呪詛になって、シリアス社にスカウトされて、サンドバッグにジョインするのだ、この世界には福袋と砂袋しか存在しない。
福袋と砂袋があったとして、おれは福袋しか抱きしめないが、おれはサンドバッグを馬鹿にしているのではない、ただおれ自身がサンドバッグになりたくないだけだ、それでやむをえず世界の真理を説いている、完璧マンという言葉が完璧である以上、マンが完璧になる必要はない、さあさ完璧な言葉に完璧な祝福が降り注ぐがよい、繰り返すが完璧マンという言葉は完璧だ、ただそれだけでいいじゃないか。

おれの話には内容がゼロで、出来事だけがある。

出来事はイコールハッピーだから、福であって福袋だ、ハッピーが絶え間なく降り注ぎ続けるという以外に、いかなる解決の方法があるだろうか? 解決という発想には解決パンチという手段しか生じず、パンチが生じているようではすでに所属はサンドバッグなのだ、なぜパンチするのか、偉大なるおれさまなどはパンチ回数ゼロでチャンピオンベルト巻きまくりである、先に世界を制しているのだから左なんか制さなくていいだろという話だ暴力団め。
内容がゼロということはむつかしいが、正しくは内容をゼロに "している" のだ、ご存じのとおり福袋は内容がゼロだろう、おれは女の子が好きで久しぶりにババロアが食べたいと思うというような、そんな操作をしながら、内容をゼロにする、どこかで誰かはサンドバッグであり、おれはババロアを思い耽っているということ、どいつもこいつもおれのことが好きだというのだからしゃーない、サンドバッグに対するアドバイスはエジプトの地中に棲むというハラグロイキリムシの顎の下に書かれているので大至急カイロに飛んで調べてこい。

バカをやろうかあ | comments(0) |
ゼッタイ祝福を受ける方法☆(罠)
ざわざタイトルに罠と書いたのに、このタイトルをタップする者は幸いです。
本日11月7日は、偉大なるおれさまの偉大なる誕生日であるゆえに、大いに称え祝うがよい、この日を祝わないものはただちに玄関の四隅にカビが生える呪いにかかるだろう。
美女と美少女は、セクシー自撮りをおれさまに送りつけて、生涯の大事業を為したことを己に寿(ことほ)ぐように、美女というほどでもないがそこそこの者も、まあ似たり寄ったりのことをせよ、あとの女どもと男どもは、よくわからんが、デスクなりテーブルなりを四回叩いてウヒョーと言い、祝福のこころを明らかに表するがよい、これらのことをしない者はリモコンの電池が液漏れするという災いに遭うだろう。
というわけで旅行から戻ってきて、今日はおれの誕生日なのであった、たとえ世の中がどのようにブルーになろうとも、この日だけはおれを祝うパーフェクトデーなので憂き目のことは考えなくともよい、まあ別の日もこのおれを祝うのであれば一日たりともブルーにはならなくてよいだろう、しょーもない自分のことなんか考えているからブルーになるのである、さあこの世でおれだけを祝うがいい、祝わない者の空は生涯に亘ってドドメ色である。

というわけで、なんのこっちゃわからんが、休養もしたし、偉大なるおれさまは絶好調である。
そしてつくづく思うが、この世界には大切なことがあるのだ、たとえその大切なことに今すぐは準じられなくても、こころの隅っこにその知識を留め続けねばならない。
アホの信じることは常にハズレなのだ、そして、たとえわずかの自覚もなくとも、人は己のうちでわけのわからない、根拠のないこだわり等を、自分の第一の信仰にしているものなのだ、このエセ信仰が入りこんでいるうちは頭がパッパラパーである、あなたが物理の授業で百パーセント何もわからなかったのはこのアホエセ信仰が入り込んでいたからなのだ、あなたの脳に問題があるわけではない(脳は壊れていない限りは常に高性能である)。
この世界は意外にざっくり作られていて、ハズレコースには本当にキレーにハズレが用意されている、成長度ゼロというか、進捗度ゼロという場合が本当にあって、「そんなバカな」とデキる人ふうに笑ってみても、ゼロなものは本当にゼロなのだ、そのへんは本当にざっくりと作られていて容赦がない、あなたが今から五〇〇〇〇〇〇〇〇人のおばちゃんに大切なことを訊いてまわっても、本当のことは教えてもらえず、宗教施設を回っても無駄だ、そんなことよりこのおれを祝え〜 まるで冗談にしか聞こえないだろうが、そのとおり、冗談を信じろと言っている、マジなものを信じたヤツが負けなのだから冗談を信じろといっている、さあおれにセクシー自撮りを送れ、何のためかというとおれをイイ気分にさせるためである。

おれだけがデタラメを言っているのは、こいつだけ「呪われていないからデタラメが言える」ということだ。

おれはさんざん考えてきたし、さんざん見てきたのだ、おれに「感謝」する必要はない、感謝なんかゼロでいいので、祝え、そしてエロめの女はセクシー自撮りを送れ、それがわからないようでは、自分が何のためにエロめに生まれ育ったかがわかっていないということだ、そういうものはお前の足しにするために与えられたのではなく、おれの足しにするために与えられたのだ、そうでないと自分自身がブキミでしゃーないだろう、そのあたりをよくよく考えろ。
ただし、一八歳未満が激し目のやつを送ると、おれがお縄を頂戴することになるので、そのあたりはうまいこと……まあ別にそんなことでお縄を頂戴してもかまわんがね、というわけで本日は偉大なるおれさまの偉大なる誕生日なので、このポイント億倍デーに乗っからない手はない、こんなアホなタイトルをタップしたあなたは幸いです、あなたがやめないかぎりアホな日々が続いてくれるでしょう(当たり前)。
バカをやろうかあ | comments(1) |
(正しいことのあとには奇蹟が降る)
蹟が降っている
慈悲が降っている、聖霊が降っている
誰にもわからないものが降っている
わかるものからわたしを無縁にしてくれる

わたしのくそまじめに呼応して
何かがこれを降らせてくれている
何の歌でもない、それでよいのだというだけの歌が
正しいことには何もないが、正しいことのあとには奇蹟が降る

最大の大人だけ、最小の子供に還らせてもらえる

大人の扉の果ては永遠の子供だ
わたしは還るために進むのだ
バカをやろうかあ | comments(0) |
(涙のこと)
のことまで
技術にせずともよかろう
涙のことまで
説き明かすことはなかろう

涙のことだけ
本当のわたしのことであって
涙のことだけ
わたしの永遠に与えられたものだ

それはなぜかわたしを励まし続ける

涙のことだけがわたしを一番奥で笑わせてくれる
涙のことだけがわたしに解決と無解決を与えてくれる
バカをやろうかあ | comments(0) |
(ずっと遠い記憶の中に)

人で歩いた道があって
誰かと歩いた道があって
みんなで歩いた道があって
どれひとつ忘れていない

なんでもないポップスが流れていて
それがポップスということも当時は知らなくて
今でも実は知ってはいなくて
ただどれひとつ忘れていない、僕限りになっても僕は忘れないだろう

わたしは遠い記憶の中にいる

わたしがそこにいるのに遠いというのは妙な表現だ
でもずっとそこにいた、わたしはずっと遠い記憶の中にいた

バカをやろうかあ | comments(0) |
| 1/16PAGES | >>