☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
余裕がない
だの愚痴でしかないが、余裕がない。
まるで暴風雨の中でライターを点けているような気分になる。
風の流れを読み、雨滴を弾きとばしながら、「理論上は可能なはず」といってライターを点火しているような、曲芸をしているような気分だ。
集中力の極限を用いれば、確かにそれは可能だが、それを通常営業とするのは不自然すぎるだろう、もうおれが不自然だからといって、おれ自身も注目しなくなってしまったけれども。

草津に行って骨休めしてきたのだが、帰宅して一晩経つと、起床後、もう自分を追い込んでいることに気づいた。
目が覚めると、もうその時点で、異様なほど自分を追い込んでいるのだ、そうでなければ書くものなんて見つからないからだ。
だがこれは不自然な状態で、不自然といってもそれしかもう方法はないにせよ、不自然ということも見落とすわけにはいかない、これではもう親族が全員急死しても一ミリも動揺しないような状態だ、そんなことは僕にとってはへっちゃらだったとしても、そんなやり方を元に誰か何かをおすすめするわけにはいかない、非人間的すぎる。
余裕がないのだ、「うぬぼれ」を題材にまとめた話を書こうとしているのだが、それ以前に余裕がなさすぎ、一秒も隙間なく自分を追い込んでいるのが病的だと、ひとまず自己確認するしかなかった、これはただそれだけの話で他意は無い。

目覚めると、すでに自分を追い込んでいて、一方で「自分の部屋か」と、目覚めの場所に驚いている。

つまり、自分がどこで眠っていて、どこで目覚めているかも、すでに見失っているのだ、こんな余裕のない状態を常にするというのは、僕には可能でも、他の誰かに勧められたものじゃない、何かもうちょっとまともな状況が訪れてほしいものだ、ただの願望にすぎないにしても。
この先に何かあるのだろうか、もう何かあってほしいというような希望さえ、不必要なものだとして消去してしまったが、そういったことも含めて余裕がなさすぎるだろう、脳みそも全身の霊も、常に何か大量の演算をしている、そうすれば確かに暴風雨の中でもライターの火は点くのかもしれないが、これを「まとも」とは言えないなと、あてもなく認めているのだった、だからどうしたらいいという方法にはまったくあてがない。
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方法はゴミ箱へ、おれはずっとあがいているだけだ
くづく、独り相撲というか、僕一人でまるで見当外れの、世の中からズレたことをやっているのじゃないかと思う。
まあでも、他人のことは、けっきょくわからないので、わかったふりをせず、おれはやはりいつもどおりの、ぶっちぎりのおれでいるしかない、と思っている。
いつも偉そうなことを言っているが、なにひとつ、前もって準備できたり、自信を持ったりすることはできず、いつも白紙の暗中模索だ、何かに落ち着いて取りかかれるということはたぶんこの先にも一度もない。
ただ僕が知っているのは、ふとしたときに、何かのフタがあくのか、底が抜けるのか、完全に大丈夫、という、完全な成功に接続する瞬間があるということだけだ、いつもそのフタはまぐれで開き、どうやって開くのかは未だによくわからない。

何かに落ち着いて取り組むとか、何かに安心するとか、そういうことは一度もなくて、ひょっとすると僕自身、常に極大の不安に晒されて生きているのかもしれない、こんなことは他人と比較できないが、ひょっとすると他人と比べると極大の不安のさなかにあるのかもしれない。
何しろ、こうして一文一文書くだけでも、何が正しいとか、どういう技術があるとか、アテにしたことは一度もないし、それでも一行でも面白くないと、それは面白くない奴なんだからな、けっきょく何かについての方法論とかノウハウとか、そんなものは持ったことがないし、アテにしたことも一度もない。
わけがわからないからいつも、最終兵器を出すしかないという具合だ、最終兵器はいつも、偉大なるおれさまならなんとかするんだろうという、自信さえアテにしない自信だ、いくらおれに自信がなくても、偉大なるおれさまはなんとかする、何しろ偉大なんだからそういうものだろうという、間違っていれば間違っているほどアテにできるという感触だ/よっておれに何かを相談するということは常に間違っている、相談で解決できるものならおれが誰かにすべてのことを相談したい側だ。
何の補償もない、何の権威もない、何の頼りもない、だから不安があるというよりは不安だけが100%を占める中で、「それ以外に面白いありかたは存在しない」というのが僕の考え方だ、とことん不利になり、とことん武器をなくせということ、何かに頼るこころが1%でもあったら、それは「弱い」ってことだと思うんだ、まあおれがズレているのは知っている、ズレてなかったらわずかでも安心みたいなものが芽生えるのだろう、だから最もズレているところに立ち続けるしかない。

おれよりあがいている奴がいたら、おれの負けだ。

おれは自分自身に対してタチが悪いのかもしれないが、おれはわずかでも、計算して妥当にやっている自分が見えると、その途端に自分を粉砕してしまう、何万字書いてあってもその瞬間にすべて消去してしまう、おれは自分に対する積み立ての一切を、一ミリたりとも許さない、おれの意志がそのようにあるのではなくて、何かが初めからおれの積み立てを一切受け付けず、そのとたんに弾いてしまうのだ、コイツは初めからそれを許す気がないので、粘ってみても必ず時間の損にしかならない。
方法はない、方法と呼べる一切のものには何の面白みもない、かといってヤケクソのものなんてゴミにしかならなくて、すべてのことは度肝を抜くほど計算されつくしていなければならないのだ/何の方法も積み立てもなしに、つまり計算なしに計算しつくせというのは矛盾だが、よくよく見ると矛盾ではない、まだ発見されていない数式に接続すればいいのだ、数式は入念な計算の究極にあって、まだ発見されてないのだからそれは手元に方法としては存在していない、まあそんな理屈をこねていてもどうにもならないが、これは何の話をしているかというと、おれが一番あがいているんじゃねーのという、根拠のない自慢話をしたかったのだ。
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おれが愛してやらなければ
とえばiPadを持っているのは世界でおれだけだ。
秋の涼風が頬に吹き付けているのも、世界でおれだけだし、過去に神戸に住んでいたのもおれだけ、現在目黒区に住んでいるのもおれだけだ。
おれはまったく無邪気だったので、カミサマを使役していた、そして現在も、やはり最低限のことを、「カミサマを使役すること」に置いている。
あのときからずっとおれは変わっていなくて、唯一変わったといえば、それがカミサマの使役なんだと気づいたことだけだ、それだって表面上の利便にすぎないから、やっぱりおれはあのときから何一つ変わっていない。

おれが愛してやらなければ、この世界は存在しない。
この世界が「存在する」というのは、おれが愛してやっているということだからだ、カミサマだっておれが愛してやっているのだ、それがカミサマなのだということをつい最近知ったにすぎない。
カミサマに感謝を捧げるようなアホ行為は断じてやめろ、おれは生まれてこの方、一度たりとも宗教的な気分になったことはない、どこの聖典にも宗教的な気分になれなんてアホ行為は書かれていない。
どんな聖人だろうがカミサマだろうが、おれが愛してやっているから存在している、すべての場所でさえ、あるいは季節でさえ、おれが愛してやっているから存在している/ここ数年の不毛は、わざわざ悪魔を蓄えた奴がおれに愛されることを拒絶ないしは躊躇することから起こっている、どんなアホな流儀があるのか、一顧だにする価値もない。

おれの愛以外に存在を言い張るから呪われる。

すべての存在の、形式および存在度は、おれがその対象をどのように愛するのかで決定するのだ、そこに茶々を入れるからすべてが行方不明になる/スポーツ選手がスコアの反映だけで存在するように、この世界のすべてはおれの愛の反映だけで存在する。
それはつまり、おれが主体的な存在だということを意味している、どんなカミサマだって、この「主体」の代替はできない。
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一般という感覚を持たないこと
般に分かるようには絶対に書いてやらん。
そもそも、「一般に分かる」ということ自体が致命的なハズレだ。
いつの時代からか、人は人に対して冷淡になり、同時に、人に対して気を遣うようになった。
冷淡なのに気を遣うというのはどういうことだ、フレンドリーな工作で自分の一生をつぶす気かよ。

なぜ「冷淡な親身」になり、「ハズレフレンドリー」になったのか、理由はよくわかっている。
魂が見捨てられたからだ、場合によってはカミサマから切られたと言ってもいい、そうなるともうどうやっても人とつながるようなことはできない/そもそもつながりを得ようとしている人はつながりを失ったからそれを得ようとしているにすぎない。
一般に分かるようには絶対に書いてやらんが、そもそも、現代における「一般」というのが、もう「終わっている人」と同義だ、人って本来もっとワガママなもので、そのワガママな世界の中に特別な連中を得たものだろう。
ヒューマニズムを主題にする時点で、もう誰ともつながりはないし、何の世界も残っていないのだ/初めからそれは何かを得ようとしているのではなくて、すでに失ったものを、これから得るものだと恣意的に誤解してごまかしているだけだろう、これは「死ね」と言っているのではない、それでも死なずに最後まで自分を見届けるべきで、だからこそキツいだろと言っているのだ。

生にせよ命にせよ、ハズレていない奴は主題なんか持たない。

恣意的に「主題」を設定すれば、あたかも自分には道が拓けているように見えるが、それは錯覚だ、まともな奴は自分のやっていることに興味なんか持たないし、自分のやっていることを意識したりしない。
どのように解決のすべがあるかというと、解決のすべはないのかもしれないが、ただ本来あるべき唯一の状態は、「一般」という感覚を失うことだ、おれだけは周囲の一般的状況を認識しない、それでおれは少しだけ女がデートする価値のある男になるだろう。
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アングリー・ヤング・マン
えてもらってなんとかなるものではないし、まともな音楽は「音楽」なんて感じはしないものだ。
おれが書き話しているこれだって、いちいち「文章」には見えないだろ?
詩文っぽく見える詩文は、詩文ではないし、セックスに見えるセックスはセックスじゃないし、恋愛に見える恋愛は恋あいじゃない。
直接いいことをやればいいのだろうか、おれは知らんけどな、ビリージョエルのアングリー・ヤング・マンでも聴いてみればどうだろうか、おれは音楽を聴くなんてやったことがないけれど。

たぶん僕には「センス」がないのだと思う。
思えば僕は、何一つ「勉強」もしてこなかったのだ、勉強もダメで運動もダメで、センスもゼロという、まさにそのとおりに生きてきただろうし、そのまま生きていくのだと思う。
僕は分からない奴なのだ、そして、分かっている人たちが話しているらしい「分かっていること」について、ずっと「分からないなあ」と感じてきた、もし音楽を和音やメロディと呼び、言葉を名文と呼ぶのであれば、僕は何一つ分からずにきた、僕はびっくりするぐらい「感動しているだけ」の奴だ。
おれは本当に分かんねー奴だな、人が音楽の話をしているとき、僕だけ音楽とはまったく違う話をしている気がする、たぶん僕は物事を二重に捉えられない奴なのだ、「アングリー・ヤング・マン」が「音楽」だということが分からないのだ、おれにはアングリー・ヤング・マンしか聞こえない、おれはそういう病気らしい。

おれは雑誌を読んだことがない。

そもそも、「読む」という行為じたいが、おれには無いように思う、アメリカという外国があるのはよくわからない、「アメリカ」があるのはわかるが、「アメリカ」という「外国」と言われるとそれだけで僕はもうよくわからない。
二次的な捉え方とか、論外で、一次的な理解さえできず、僕は0次的な体験しか持てないようだ、だから僕は世の中のすべてのことがさっぱりわかっていない、おれが女をしばいて何が悪い。
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(雑感)ひょっとして、忙しいのでは
つのまにか僕は、自分でも不気味なぐらい、「疲れる」ということがなくなった、疲労という現象がどんなものだったか、すでにわからなくなりつつある。
一方で、ワークショップの直後などは、バカスカ食って昏倒するみたいに眠らないと、恢復しようがないのだが、これはひょっとして、僕は忙しいのではないだろうか? これまでにそんなことを考えたことはなかったし、忙しいという言い方はそんなに好きではないのだが……
疲労という感覚はまったくないのに、たとえばこうして文章を書く直前、さすがに「う、うごかねー」「無理っす〜」みたいな時間が少なからずある、それでいつも、「別に疲れているわけでもないのに、おかしいなあ」と感じていたのだが、これはひょっとすると、僕はいそがしいのではないだろうか/そういう発想を持ったことがないので、僕はめずらしく驚いているのだった。
なんというか、毎日、魂を使い果たして「も、もう無理っす〜」となっている感覚はあるのだが、一方で「疲れている」という感覚はまったくないので、休もうとする気も起こらないのだった、ひょっとしてこの状態は「忙しい」というやつなのではないだろうか、いくらなんでも処理できない量の体験や発見が続いて、でも疲れてはいないので「全然余裕だけどもう無理」というわけのわからない状態に、このごろの僕はよくなる。

そういえば僕は、ソシャゲはやらないし、キャバクラにもいかないし、パチンコもやらないし、そういうことにはぜんぜん興味ないなあと思っていたのだが、実は興味うんぬんは関係なくて、単に忙しいのかもしれない。
何しろ、未だにアサシンクリードの最新作をやっていなくて、自分で負い目を覚えているぐらいだからな、こんなことではアサシン失格だとわれながら反省する、このままではテンプル騎士団が跳梁跋扈するばかりだ。
なんというか、毎日が爆裂に楽しいのは何よりでけっこうなことなのだが、爆裂でない日がないという状態、つまり「ふつうの日」とか「特に何もない日」というものが、もう何年も一日もないのだ、それはそれでけっこうキツいものだぞと、僕はなんとなく主張したい、「ふつうの日」というのがどんなものなのか、いつのまにかすっかりわからなくなってしまった。
クリエイティブな日々を過ごしたい、というわけではなく、非クリエイティブなすべてのことが、もうわからなくなってしまったのだ、「特に何もない日」というのはいったいどういう状態なのだろう、よくよく考えるとすべての景色とすべての季節とすべての風がすべて確実に突き刺さってくるというのもなかなかキツいプレイ状況なのだった、四方八方が楽しく輝いていると正直思うが、それはひょっとしたら別の意味では「忙しい」ということなのかもしれない。

カブ50で走ってるときに恢復しているかもしれない。

なんというか、原付は一人しか乗られないし、走行中はさすがに文学作業はできないし、唯一脳みそが休める時間かもしれない/と、そんなことを聞かされてもしょーもないと思うが、たまにはいいだろ、本来エッセイってそういうしょーもないもんじゃん。
原付エッセイかあ、まるでしょーもなさの限りだが、たまにはそんなことをしてもいいのかなと、少し思った、うーんわれながらガラでもないけどな。
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何がなんでもやるのだが、どうなるのかは知らない
がなんでもやる、ということだけは先に決まっていて、それをやったらどうなるかというと、どうなるかは知らない。
何がなんでもやる、というのは、ただの決定であって、熱い思いとかそういうものではない/何がなんでもやる、というのは、ただそう決めてあるだけで、なぜ決めてあるかというと、決めていないと面倒くさいからだ、決めていないといちいち「熱い思い」とかが必要になるのだろう、そんな面倒なことをやっていられるか。
人のこころなんかアテにならないし、熱い思いなんてトラブルになるだけだ、概してあるのは、思いがけず「他人に関わらない」ということ/他人との接続はまったく別次元でなくてはならない、逆にいうと、人とのつながりなんてものは、安易なレベルで得ようとしないほうがいいのだろうな。
根本的に、「誰ともつながっていません」ということが怖いのかもしれない、それで身内やら地元やら、職場やら共同体やらで、人とつながっている「ふり」を続けるのだろうが、そんなことをしていても何も聞こえてこない、言葉の獲得は遥か遠いだろう。

うーん、言葉の獲得、そして、まったく違う次元でのつながりは、なんというか、改めてお気に入りだ。
けっきょくのところ最善は、偉大なるおれさまが、一般にはまったく知られていない次元のつながりだけを視ていて、下々の者どもが言うことなど無視していることなのだろう、偉大なるおれさまが下々の言い分を理解してやることにはまったくといっていいほど意味がないのだ。
ロクなやつがいないのだが、それは僕自身だって、僕は僕のことをロクなやつと思っているわけではない、そうではないのだ、この世界にはもっとマシなことがあって、そのマシなことをアテにするしかない、もともとロクでもないわれわれのために、マシな何かがこの世界には用意されている、もうそのマシなやつをアテにするしかないのだ、初めからずっとそうだった。
何がなんでもやるのだが、それをやったとして、どうなるのかは知らない、何がなんでもやるというのは、このロクでもないおれが決めたことではなく、偉大なるおれさまが命じていることだ、だからしゃーなしにやる、偉大なるおれさまは威張るために存在しているのではなく、おれ自身を導くために存在しているのだ、それがないとまともな小話ひとつ書けやしない。

偉大なるおれさまとは何なのか、実はおれにもよくわからない。

それが何なのかはよくわからないのだが、ただ、遥かにマシな「世界」につながっているためには、そいつだけが橋渡しになるということ、そのことだけが知られているのだ、その橋渡しなしに俗人マインドが寄り集まってヤッサモッサしていても何かになるわけがない。
たとえばワークショップ等を始めるときも、おれは「おれ一人になってもやる、おれ一人でも続ける」と宣言したが、たぶんそのときおれは一人ではないのだ、おれはどうもロクでもない自分と、偉大なるおれさまという、ふたつの存在が重なっているように思う、そしてロクでもない自分のほうにはもうあまり用事がないのだ。
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すさまじいエネルギー
コにおやつをやって、食べ終わるまで見守っていようとしたら、いつの間にか寝入ってしまい、起きたら朝の四時だった/うちのネコちゃんは腎臓が少し弱いので、動物病院から特別食を買っている、まあそんなことは今関係ないが……
昼寝のつもりでテメーどこまで寝るんだとびっくりしたが、ある種のことをすると、魂のエネルギーをフルに使い切っているようだ、後になるとそのことがわかるのだが、その最中は全身全霊なので気がつかない。
必要なことを知ろうとし、ナゾを解明しようとし、構造を看破しようとするとき、けっきょく方法がないので、霊力だけで突破しているような気がする、X線解析装置ではないが、霊力で読み解くしかないような種類のことがあり、それはどうやら24時間ずっと無尽蔵に使い続けられるものではないらしい。
まあ、その後休めば充填されるわけだし、毎回使い切っていかないと自分のスケールが大きくならないので、これでいいのだが、このごろはほぼ毎日がナゾの解明に全身全霊なので、自分がいつ寝入るかわからないのだった/魂がずっと山を登っているか、朝起きた瞬間からトライアスロンの中にいるみたいだ。

別にやる気があってそうなっているわけではなく、朝起きたらすでにその状態なので、特に何も考えておらず、そのままどこかで休憩すると、寝て起きて「うわっ」というぐらい時間が過ぎている、そして起きてから「使い果たしていたのか」ということに体感として気づく、そんなことをもう半年ぐらい、毎日続けている。
そういえば、いつのまにか、もうパーティの日以外は酒も飲まなくなったものな/酒を飲みたいのは割といつでも飲みたい感じなのだが、いつもギリギリまで脳みそを使い切ろうとするせいで、アルコールを入れられるタイミングがないのだ。
それで別に体調が悪いわけではないし、いちおうワークショップの先生でもあるので、体調はすこぶる絶好調だ、そりゃ自分の体調を壊していたら先生を気取っている場合じゃないしな/それで、11日が〆切だったので、みんなから「月刊ワーQ」の原稿を受け取っている、寝ていたせいでそれぞれに返信できなかったが、いちおうちゃんと受け取っているぞーとここで返答しておこう(みなさんお楽しみに)。
僕はこうして、頑張っているぞーと自己PRしたいのではないのだ、誰に示すものでもなく、おれは常に限界まで遊び続けた者でありたい、そして二十年前の自分から見比べて、二十年前の自分が「もう無理っす、ついていけません」とギブアップするような奴でありたい、僕は朝起きた瞬間からガンバっているのではなく、もはや遊びの中にしか目を覚まさないということをよろこんでいるのだった。

すさまじいエネルギーにあこがれ続けている。

そういえばいつのまにか、人々は、「すさまじいエネルギー」にあこがれることじたいをやめてしまったように見える/人々は今、ひたすら「しんどい」ということから距離を取ろうとし、快適さと運動性だけを整え尽くそうとしているが、それが正しく報われる方法なのかどうか僕は知らない、そもそも僕はエネルギーのない人やエネルギーのない自分のことを記憶はしないし体験もしないだろう、僕はエネルギーのなかった自分なんて記憶は一秒も持っていない。
エネルギーのない人が、エネルギーのあるふりをしようとすると、痛々しくなる、それは誰しもご存じのとおりだ、オタクもフェミニズムもヴィーガンも、あるいは発狂する老人も、単にジャンルからエネルギーを不正に得ようとしているだけに見えなくもない、大声を出している奴が僕より長持ちした試しはないし、むっつりしている奴が僕より長持ちした試しもやはりないな/すさまじいエネルギーを持っていないということが、それぞれにおいて恥なのか誇りなのか僕にはわからない、エネルギーのなさを誇っているように見える人も、実は内心では大恥なのかもしれない。
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フィクションは祝福者の特権

こに、十九歳の、ハンサムの、ヨーロッパの、才能と祝福に満ちたバレエダンサーがいたとする。
そうすると、そのバレエダンサーは、僕が「おう、偉大なる空也さまだぞ」と言うと、笑って「あなたが偉大なる空也さまか」と笑ってくれそうな気がする。
スキャットマンクロザースだって、笑ってそう言ってくれるのではないだろうか(スキャットマン「ジョーンズ」じゃなくて「クロザース」だぞ)、実際僕は十代の優秀なバレエダンサーと握手したことがあるが、身体の中心まで明るいシャレが通じそうな爽やかさに満ちていた感触があった。
おれが偉大なる空也さまだと言っているのに、こんなことにマジになる奴の神経がわからん、実感があるから怖いのはわかるが、なぜ実感を持ち出すのか意味がわからん、実感なんか持ち出されたらおれだって怖いっつーの。

フィクションは祝福されし者の特権なのだが、このごろは、呪われし者も「平等」に頑張ろうとするからややこしくなった。
呪われし者がバレエをやったら、ホール中に呪いが蔓延するに決まっているじゃないか……しかしこのごろは、あえてそういう呪いに満ちたライブも多い、呪いに「カワイイ」のコーティングをつけて偶像崇拝するというヤバさMAXのプレイをあちこちでしているが、年老いてからどんなところへ行き着くか楽しみにしていろよ笑、とにかくフィクションは祝福者の特権だったのに、このごろはむしろ呪われし者が与党になっているので、とんでもないことになっているのだった。
人がなぜ呪われし者になっているかというと、第一には、自分が誰か・何かを呪ったからだ、「人を呪わば穴二つ」というのは正式に呪術の現象であって、呪いを使うには呪いを信じることが必要だから、どこかで誰か・何かのことを呪ったことがある人は、知らず識らずそうした宗教的決定を自分に為したということなのだ/そのとき以来、あなたは一切の、フィクションへの権利を失っている。
過去にガッツリ呪いを信仰決定しているのに、そのことを無視してフィクションやら物語やらを気取ってもダメだ、むしろフィクションや物語に触れて、自分が非祝福側にいるということをガッツリ理解するのが最善だろう/物語から切断されているというのは、イコールカミサマから見放されているということだが、もともとカミサマはいちいち誰かを見放すという手続きを持っているのではなく、人の側がカミサマを拒絶することで見放されるだけだ、そこはなんというかまあ機械的なものなので、涙ウルウルで拝んだって仕組みは何も変わらない。

人を呪わば穴二つ、世界を祝わば梅三千。

穴二つサイドの人と、梅三千サイドの人とでは、あまりにも巨大な差があるな!! 偉大なるおれさまと言っているのは梅三千サイドのネタであって、穴二つサイドのネタじゃない、だからこのことだって自身の判定に使えるだろう、「偉大なるおれさま」に対して、実感をウロウロする人は確実に穴二つサイドだ/慈悲と憐れみがありますように、またそのことに気づきますように、テメーで梅一つにでもつながれるかというと大間違いなんだよ、甘く見積もってんじゃねえ。
フィクションは祝福者の特権であって、祝福者の特権はすなわち梅三千だ、芥川龍之介とか三島由紀夫とかニーチェとかに「梅三千」はないだろ、梅三千なんだから「カワイイ」とかそういう話じゃないんだよ。

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5000件目
、たまたま気づいたが、この記事で5000件目だな、ブログ記事を5000も書くのはそれだけで珍しいかもしれないと少しよろこんでいる。
それで、ちょっと調べてみたのだが、ブログを本格的に始めようとする人って、一般に記事数100超えを目指すらしいね、「そうしたら少し収入につながるかもしれないからガンバレ」ということらしい/あれ? 何かおれのやっていることと違うような……そもそも、こんなアホな営為が収入になるという感覚がわからん、そういえばまったく言ってこなかったかもしれないが、このブログには何の収益性もない、ただおれが書きたいから書いているだけだ。
いろいろ調べていると、「プロのwebライターになるためには、1000件書く必要があると思います、しかしブログ記事数1000というのはとんでもない労力です……!」と書かれてあったり、1000件をウェブライターに依頼したら200万円掛かるとか書かれているのだが、その計算でいえばおれの記事数だと1000万円に相当するはずなのだが、なぜおれだけは何をどうやっても0円なのだ、しかも誰一人いいねもなければシェアもしない笑。
しかもおれのブログには、元ネタがないというか、時事とかアニメとかゲームとか、記事を書くソースがないのだ、ソースはただおれの魂という、わけのわからんブログだ/もういいかげん僕も気づいてきたのだが、僕だけずーっとこの世の中で感覚がズレているのだ、そしてそのズレはもう、合わせようと思っても合わせられるたぐいのものではない、僕には正直ブログ記事100件を「目指す」という感覚がわからない、100件って一週間ぐらい詰めたら割とのんびりで到達するじゃんとしか僕には思えなくなっており、僕は最近になってようやく自分の側が変わり種だということを自覚し始めたのだった、アホで悪かったな。

このブログに、いいねもシェアも付かない理由は、すでにわかっている、理由は僕が「かわいくない」からだ、僕はそもそも「カワイイ」という価値観をまったく使わなかったので、その時点ですでに世の中の主流からズレていたのだ、今になって僕はその「カワイイ」というのがどれだけマズいのかを発見して逆に警鐘を鳴らしたくなっているのだが、それにしてもとにかく主流からズレにズレているという事実は今改めて感慨深くさえ感じられるのだった。
5000件目ということで、そのことを書いておくのがふさわしいのかもしれない、十数年間やってきて、元号をまたいでまだまだいきまっせと楽しくブログを書いているわけだから、その中で見てきた「カワイイ」の闇を、これから討ち滅ぼしていかねばならないのだということを、いちおう5000件目の足跡として記そう/僕はいちおう、愛に基づいてすべての記事を書いてきたつもりでいる、「カワイイ」に基づいて何かを書いたことはないな。
もし愛を失ったら、僕はすべての書き物をパッタリやめるだろう、5000も書いておいてアレだが、ある意味「別に好きでやっているわけじゃないしな」という側面もあるのだ、じゃあなんでやっているんだよということになるが、だから愛のせいでやっているということになる、「好き」という理由で何かをするという発想は僕にはない/だからたぶん、僕は世の中の主流からズレているのみならず、他人から見たら根本的に「わからん」奴なのだろう、僕自身としてはすべてが明らかなつもりでいるのだが、きっと世の中の主流から見たらひたすらナゾの何かというような奴なのかもしれない。
パーティ告知用のhtml文があり、それが下書き記事のまま保存されているから、公開されているのがこの記事で4999件目、ブログ内カウントでは5000件目だ、バンザーイ/僕がもし、これから新しくブログを本格的に始めようとする人にアドバイスするなら、「記事数100件を目指せば少しは収入になるかもしれないからガンバレ」ではなく、「二ヶ月もしたら飽きてやめるよ」になるだろう、このブログは2005年から続いているのだが、それは僕の自慢ではなくて、僕は「みなさんはそんなアホにはなれないと思います」と思っているのだ/このように僕は本当のことを書き話すように努めるので、いつまでたってもカワイイものにはならないのだった。

最低限、ファンを減らすように書こうと心がけている。

なぜなら、こうして自己顕示的な何かをするからには、見てくれる人・読んでくれる人が少しでもいてほしいというのが、人として当然の心理だからだ、そしてその当然の心理というようなものに縛られているような奴の話を、少なくとも僕自身は聞きたくない/この世界の何もかもが「ショーマンシップ」ではなく「ファン獲得工作」で染め上げられていくのは、もう飽き飽きなのだ、それよりはせめて、自分で自分を天才と言い張り、空前絶後のアホを続けているという現在のスタイルを続けて、少なくともその点でだけは人をがっかりさせない奴でありたい。
5000件目を記念して、また改めて元号をまたいだことも記念して、振り返りつつ今はこう言いたい、あなたが「カワイイ」をアテにして生き続けるなら、あなたは根本的に何もできない人として老い、そのまま死んでいくだろう/別にあなたの悪口を言っているわけじゃない、あなたにふさわしいのは「カワイイ」ではなく「愛」だと言っているだけだ、ただそういう言い方をすると一部の人が誤解するので、ふだんはそのように麗しいことを言わないようにしているだけだ。
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ガッサー

分で有言実行とか言っておいてアホだと思うが、終わらねーよ、本当におれはアホなのではないだろうか。
いいかげん自分に呆れたので、あえて晒すが、A4サイズで42頁になったぞ(pdf)、今からこれを校正していくのだが、こんなもん間に合うわけねえべ、いつ寝るんだよって話だ、今日はまたワークショップだぜ?
そもそも原稿用紙150枚分を「コラム」とか言い張っているのが、頭おかしいのだ、ふつうコラムってもっと、間に挟まっているちょこちょこっとしたやつだろ、誰がこんな膨大なものを書けと言った。
さっき最後までいちおう書いて、読み返していないので知らないが、いちおう初めのほうはちゃんと書けているらしいのが自分でイヤだ、しかもおれの脳みそはどこかで「もっとやれ」と言い続けているのだ、もっとやるのはいいとしてこれ一体だれがトクしているんだ。

フツーの人って、急に突然「階層構造」とか言い出さなくない? しかもそれで、パパッと短時間寝て起きたら、今度は胴体の「右半身と左半身を入れ替える」とかやるんだぜ、「消えて動く」とか「ミリ秒で終わる」とか、こんなのリア充っていうかキチ充って感じじゃない/これで「理学部化学科出身でむかしは総合商社に勤めていました、趣味は手品です」とか言い出すんだぜ、いくらなんでもワケがわからなすぎる。
うおお〜自分がイヤだ〜毎回書くたびに「誰が読むねんコレ」と思いながらアップロードするのがイヤだ、と言いながら数時間後にはマンキンで演劇的表示とかやっているんだろうな、今日も滑稽劇をひとつ作るかな〜あるいは漫才のネタひとつ作るかな〜。
ふう、いっそ逆に落ち着いてきたぜ、そういえばむかしブラックホール特集がテレビでやっているのを観ながら、メモを取りつつメシを食っていたのだが、友人のKに「自分、いつ落ち着くん?」とマジで訊かれたことがあった、だって当時はYouTubeがなかったのでメモを取りたかったのだよ、今でも酒を飲みながら「映像の世紀」を大マジで観ているのには誰も協調してくれないが……
ところでさあ、よくパーティに来てくれた人とかが、まっさきに言うことだけれど、「もっとコワイ人だと思っていた」って、実物のオレはそんなコワイ人じゃねーよ、むしろ圧倒的にゆるくてのんびりした奴だよ、逆にいうとこんなことキリキリしながらやれると思うか/昨日はペペロンチーノを作るのに「白ワインを入れたら酸になるわけで、油とゆで汁の小麦分が乳化剤になるのだから乳化はソッコーで済ませられるだろ」という実験をしていた、それは割とうまくいった(ウマかった)。

商社マン時代、朝、寝ながら歩いて、サザンカの植え込みにガッサーと突っ込んだことがある。

あのときもそれなりに反省した、といってもあのときは部長が連日おれを六本木に連れて行き、毎回夜中の三時に放り出していたのが悪い、毎晩放り出されているので路上の客引きのガーナ人に憐れまれたんだぞ、うるせえチョコレート野郎と言ったら笑っていた、あのガーナ人はいいヤツだった、おれは板橋まで歩いて帰った。
ところで今週のワークショップ以降、数日スケジュールが詰まっているので、ちゃんと校正して感成功を(←誤字を直すのが面倒くせえ)アップロードできるのは少し後になるかもしれない、まあ別にいいだろ草稿でもどうせ大差ないからテキトーに読んどけ。

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(文面)
面はある。
だがわれわれは人を視ている。
彩られた白スーツの小粋な姿を視ている。
それはイメジではなく、われわれの自意識がイメジだ。

われわれの魂は空と共に。
単体で存在する魂はない/もとより空とひとつであるものを……
言語は分離をし、言葉は統合をする。
どこにでもいるじーさんの話だ、彩られた白スーツの小粋な姿。

文面はmanだ。

われわれはmanではない。
フリルのついたドレスのgirl、おいで股から変な汁を垂らしたくはないだろう。
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魂を使い切ること2
あそうか、理由というのではないが、仕組みのひとつとしては、なぜ僕が魂を使い切ろうとするかというと、その逆の人になりたくないからだ。
その逆というのは、先に書いた、何かずっと怒っているような人のことだ、険悪さの粘質をコミュニケーションの強度にすり替えて、ずっと周囲を威圧・恫喝しているような、中高年や老人のことだ。
当たり前のことだが、僕が魂をカラッカラに使い切っているとき、何かにムッとしたり、誰かにキツく当たったりする余裕はない、余裕というか余力じたいが尽き果てている、もはやこの世界に響き渡っているものを聞きとってくるしかエネルギー源がなく、この世界に響き渡っていないものは自動的に聞き流すよりしょうがない状態だ、そんな骸みたいなものを見て威圧的と感じる人はさすがにないだろう。
僕は間違っても、自分が魂を使い切れないことの後ろめたさを、他人への説教にすり替えてごまかしたりしたくないし、そもそも他人に圧力をかけるだけの余力が残っていたとしたら、そんな余力を残している自分じたいを軽蔑するようだ、僕は魂をカラッカラに使い切って、三日三晩美女の介抱を受けながら、四日目になって「ところでキミ誰だっけ」と言い出すようなろくでなしでありたい、人との距離感だの空気だの人間関係だのに余力を分配するような奴になりたくないのだ(われながらワガママな奴だ)。

僕は「野垂れ死にでもかまわない」と言ったが、それは諦観でも何でもなくて、大前提、自分の野垂れ死になんぞに注目するような暇人になりたくないということだ、魂を使い切りながら死んでいたらそんなしょーもないことに注目がいくはずがないだろう。
もしそこで、野垂れ死にしないようにと、誰かがおにぎりを差し入れてくれたとしても、そのことに感謝もしたくない、そんなときに感謝とやらでウルウルしているようではやはり魂を使い切っていないのだ、だとするとそれは逆におにぎりを差し入れてくれた人に侮辱と失望を与えることになるだろう。
僕は自分をクソでなくすという発想や思想は持っていなくて、あくまでのこのクソのまま、もはやクソでさえないという何か、もう何とも呼ぶに値しないカラッカラのものになりたいと望んでいる、だから実際、もうクソ呼ばわりされても天才呼ばわりされても僕からの反応はもう何もないのだ、何に反応したらよいのかすでに僕自身まったくわからなくなった。
「アニュス・デイ」ってどういう意味? 知らないが、今それが聞こえる、とりあえず僕は魂を使い切る日々をやめないだろう、なぜかわからないが僕は何者かに「言え」「言い続けろ」とずっとけしかけられているような感じがしている、何を言えという指示も割とあったりする、その指示はちょっと困り種なのだが……

魂を使い切ると、何かになっていくだろうし、魂を使い切らないと、何かになっていってしまうだろう。

僕はあちらの側、使い切らなかった側の何かへ、なっていきたくはないタチだ、仮に千年の寿命がもらえたとして、そのあいだずーっと怒り続けていなくてはならないというのは、さすがに僕としてはキツい、僕は険悪さが得意な人じゃないので、そんなことは得意な人に任せたいのだ、僕は僕で得意なことをしていくから。
ふと思うが、ずっと怒っている人は、現在のそれが千年間続いてもそれが正しいと信じているのだろうか、まあそうなのかもしれない/僕の側はこうして魂を使い切ることを、たぶん千年間ぐらいなら続けられよう、そのときはブログ記事が五十万件になっているはずだが、そのあたりまでなら割と現実的な数字だと僕には思える。
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魂を使い切ること

こしばらく、野暮用ばかりをしていたので、逆に気づいたのだが、ふと油断するとずーっとこうして文章を書いてしまう、意識が切れると逆に文章を書いてしまっているという状態だ/もう元々、何かを「書いている」という意識はほとんどなくなっているけれども。
それで、野暮用のラッシュと比較して、今さらながらに知ったことだが、こうして文章を書いているほうが、どうやら魂(ソウル)をカラッカラにまで使い切っているらしく、実は野暮用の、いわゆる「忙しい」という状態のほうが、とてつもなくラクだということがわかった。
いわゆる一般的に「忙しい」という状態の、気ぜわしさにごまかされて、深奥では極めていかにラクなことかを知った、そういうタイプの「忙しい」は、実は魂においては「何もしていない」のだとよくわかった、そして僕は、その「何もしていない」というラクな状態に耐えられないようだ、耐えられないも何も、そんな状態を続けていたら数ヶ月で人は腐敗し、その後の生をまったく無意味なものにして過ごしてしまうだろう。
僕は決して、しんどいことが好きではないのだが、これはしんどいかどうかの問題ではなく、自分の魂を使い切っているかの問題だ、僕は自分が魂を使い切らずに過ごした時間を、なぜかゾッとして受け入れがたく感じる、魂を使い切っていくとき、それはもう疲れるというより「疲れる余裕なんかない」というような状態だ/僕はこのとき、持論を展開している人や他人の悪口を言うのに時間を費やしている人について、なぜそんな余力とヒマがあるんだと不思議に感じていた。

なぜ魂を使い切ろうとするのかは僕自身もわからない。
なぜ魂を使い切るのですか、と問われたとしたら、たぶん「使い切らなくていいです」と答えてしまいそうだ、実際使い切らないといけないという理由をわざわざ見つけ出そうとは思えない。
それはたぶん、「理由」というものがすでに、魂を使い切るときには邪魔なセーブ装置なのだろう、だからそんな理由うんぬんの思念はとっくの昔に押し流している、なぜ魂を使い切ろうとするのかは、魂が知っていたかもしれないが、その魂も使い切ってしまったのでもうわからない/自分のうちにもう魂の残りがないので、しょうがなしに、この世界から魂をぶっこ抜いてそれを直接使おうとする。
これが何であるのかを答えようとする魂はもう残っていない、いま布団に寝転べば二分もまたず寝入るだろう、いつのまにかそうして使い切ってから眠るのが日常になった、僕は何時間こうして書き物に向かっていても、腰が痛いとか肩が凝るとかいうことはなくなった、もうそんなところに力みをかけている余裕はないからだ、この世界にもともとあるものを使わないかぎりこんなに大量の(魂の)無駄遣いはできない。

クリエイティビティに疑問も結論も無意味だ。

何を伝えようとか、何を書こうとか、どういうテーマにしようとか、そんなことを考える余力はどこにもない、忙しいから余裕がないのではなく、もうとっくに尽きているから余力がないのだ、このとき、尽きているのに「まだやれ」とけしかけられているのは何によってなのかわからない、少なくとも僕自身は価値観を確認して自分を励ましているわけではない/むしろいつも、いいかげん寝た方がいいと理性では諫めているのだ。
たまに、どうして書いているかのとか、何を手がかりに書いているかとか、あれこれ聞かれることがあるけれども、なぜかその問いかけを聞いたとたん、「もういいですよ」と切り離すはたらきが起こる、このはたらきはなぜかシビアで、僕は意地悪をするつもりはないのに、何かがフッと切れて「もういいですよ」となるのだ/実際疑問を持ったり結論を求めたりするなら「もういい」じゃないか、これが何なのかは僕にもわからないのだ、もし誰かが仕組みを説明してくれたら僕は「へえー」と感心する側だろう、別に僕に限らず、魂をカラッカラにまで使い切ることは誰にでもできることだ、これは能力の問題ではないので、使い切るかどうかはどちらにプライドが寄るかの問題にすぎないだろう、僕は使い切らないことにプライドは高まらなかった。

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淫夢ネタと眼光
年前から、動画サイトを介して「淫夢」というネタが流行している。
ご存じの人にとっては言わずもがな、ホモビデオであって、演者達の棒読みのセリフや、マジなのかネタなのかわからないプレイの混交に、ホモセクシャルというよりは何か奇妙なビデオとして抱腹絶倒というネタだ。
中でも有名な登場人物は「野獣先輩」であって、その中でも「野獣の眼光」と呼ばれるシーンがよく知られている。
だから何だということでもないのだが、僕は野獣の眼光より命の眼差しがいいなあと、草不可避の中で考えるのだった、もちろん十八歳未満は視聴してはいけないし、何であればあんなものはわざわざ人類が視聴してはいけない(戒め)。

「野獣の眼光」というシーンは、そりゃあんなもん見たら誰だって笑うだろう。
で、野獣の眼光なんてわかりやすいシーンがあるのだとしたら、一方でわれわれの眼差しはどうなんだろうなと、僕は思うのだ、僕は人それぞれに「眼差し」があったりなかったりするのを、よく見ている、「眼差し」がない人は、必ず反転した特徴的な「目つき」をしている。
眼の奥に光があるか、それは命の眼差しか、魂の視力か、眼差しそのものにやさしさが宿っているか……「眼差し」というのは、完全に「証」として生じるものなので、まったくごまかしが利かない/どれだけ「目つき」や「表情」や「目ヂカラ」を意図的に操作しても、そこから「眼差し」が生じることはない。
というわけで、「眼差し」という直接の証(あかし)が出るまで、何も自負せずに正々堂々とやろうぜ、おれは自分に眼差しがないと見做されるのであれば、それ以上わずかも反論する気にはなれないのだった、眼差しがないならおれなんて野獣先輩以下で十分、おれは眼差しを失った自分をわずかも評価することはないだろう。

淫夢ネタは野獣の眼光だが、あなたは何ネタの何の眼差しか。

野獣先輩は、セックスを求めるのに野獣の眼光を発するわけだが、あなたはセックスを求めるのに、どんな眼差しを示すのだろうか、それって本当に撮影してもかまわないかね? そのときのあなたのまともな「目」を……そう言われると、誰だってそんなことに自信なんか持てないだろう、野獣先輩を笑っている場合ではないのだ、あれは笑わずにいられないというだけで、それを笑っているわれわれが何も「まとも」というわけではない。
別にセックスだけでなく、メシを食うにしても旅行するにしても、仕事するにしても戦うにしても、何をして遊ぶにしても、「眼差し」があるとないとではまったく別のことになるのだ、麗しき春の夜の夢は、すべて眼差しのあるなしだけで決まってしまう、だからわれわれは眼差しを失った自分自身について、それを認めずジタバタ悪あがきするようなことはしないと誓おう。
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水準を落としてたまるかよ

語に意味はなく、物語が産み出されることに意味がある。
さらには、物語が産み出されることを物語と呼ぶのであって、その産出から切り離された物語には意味がない。
そして物語が産み出されるその瞬間においては、意味があるかないか自体問われないだろう、そこに一切の探し物はないからだ。
まずゴールしろ、ゴールしないとスタートしないからだ、そのためにわたしは言わねばならない、「水準を落としてたまるかよ」と。

僕が話すとなんとなく周りの人もわかったような気がするのは、僕が水準を落としているからだ、あくまで便宜上のことにすぎない。
なぜ水準を上げると、とたんにわけがわからなくなるか、あるいは「わけがわかる」ということ自体がブルドーザーで踏みにじられるかというと、僕が男だからだが、水準を本来の高さに戻すと、そのときは僕だってわけなどわかっていないからだ、わけがわかる必要がどこにもないということが明らかになっている。
物語は、産み出されてしまうものであり、自分で産み出そうとしているのではない、僕という男が存在しなければこの世界に女なんてものは存在しない、そりゃアタリマエだろう、すべての評価者には青酸カリにつけ込んだキュウリの束をプレゼントしなくてはならない。
物語は自分で産み出そうとしているのではない、ということは、よくよく見ればアタリマエで、たとえば僕は男だが、男は女を愛そうとして愛しているのではない、女を愛しているから男というのだ、雨粒は雨を降らそうとして落下してきているのではない/われわれがこのごろすべてのことにたいして「邪魔」を得意にしているだけだ、それについて僕が何かをどうこう思うということはありえない。

ノンフィクションが存在していない以上、フィクションもまた存在していない。

「産み出される」ということだけがあるのであって、産み出された後のものが残存して存在したりはしない、存在はステイト(状態)ではないのだ、この世界には最高位しか存在しておらず初級を偽造するのはあくまで便宜上のことにすぎない(その偽造が役に立たないというわけではない)。
この世界にはおれの魂しか存在していないのだが、その他の魂を認めるとなると、人の中枢をプラスチックや鉛筆の芯と認めねばならなくなり、何より当人にとって不幸になる、わざわざ邪魔をして自分の不幸を大量購入する必要はないと思うのだが/わたしは水準を落とさない、わたしはわたしの魂としか対話したことがなく、その他にもちろん世界なんて存在していない、女がおれの魂でないなんてことはありえない。

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偉大なるおれさまが〇△□×

いうわけで、今日も唯一正しいことは、偉大なるおれさまが〇△□×、ということだけなのであった、今日はバレンタインデーだしな。
日々、いろんなことを発見するが、これまでその種の発見をなしに来たのは、おれさまが偉大すぎるからであって、偉大な人はフツーそんなこと知らんやろというだけのことなのだ、そりゃ当たり前だ。
偉大なものと、そうでないものの、順列を入れ替えようとする、その無理やりな制度がよくない、どこまでいっても制度は虚構であり、偉大というのは魂の事実なのだから、ここに無理やりをしても、制度で魂をひん曲げることにしかならず、それで仕掛けた当人がぐったりして怯え、挙動不審になっていってしまう。
人はけっきょく、信じるものを得られないと、世間的・権威的に流通している外形的な制度をアテにするしかないのだろうが、それがどういうことであり、またどうなっていくものかについて、やはり「なんでおれがそんなこと知らなきゃいけねーんだよ」という気しかしてこない、いいじゃねーか、魂がギャーする人はギャーしたまま、アレなことになるのはしゃーないだろう、おれは正直そんなことは知らないし、そんなことをおれがかまってはいられないのだった。

行き着くところ、ずーっと繰り返されてきたことが、これからも繰り返されていくしかない。
もう僕自身は飽きているのだが、僕が操作している力学ではないので、しゃーない、何か放っておけば勝手にそうなり続けるのだろう、つまり僕の前で直接何かに触れた人は、一時的に何かの世界を観るが、それを観たとしても受容しがたいと感じる人がいて、そういう人は逆に僕に「説教」を残していくものだ、そしてそのあと、たいてい暗いストーリィが続いていくものらしい。
そっち側には、何か知らんドッシリ重い、暗いストーリィが続くらしいのだが、僕はそんな小説を書かないので、その先がどうなるか知らないのだ、だって知ったってしょうがないし、どうせ聞きたくもないシツコイやつに決まっているから……そんなことより、魂が出会うべきものに出会って、世界と愛と物語を得た先のことを知っていくべきだ、本当にこころの底から、僕はそちら側以外のことへ突入していく人が、いったい何を目当てに何をやっているのか、数十年にわたって「さっぱりわからん」のだった。
僕のことを愛さない人も、ひょっとしたらいるのかもしれないが、これまでに言ってきたとおり、おれのことを愛さない奴は本当に魂が数十年前のホットプレートに閉じ込められたままフタを開けてもらえないのだと思うし、そもそもおれのことを愛さない人は、本当に「存在していない」のじゃないかと思う、まあ偉大なるおれさまにおいてはそれぐらい考えていい権利があるだろうヒャッハー/この偉大なるおれさまを愛さない人が、表面上もしいたとしたら、その人はもうずいぶん昔に死んだのだ、死んだまま生きているからそういうわけのわからん不可解挙動を続けているのだ、それはもう制度に肉片がくっついているというような状態なのだろう。

「制度」とは、自分が存在している「ふり」をするための装置だ。

どう考えても、「制度」が魂の本懐であるわけがないので、「制度」とは何のためにあるかというと、単純には社会生活の円滑化のためだが、より内奥では、魂を所有できなかった人が、自分が存在している「ふり」を続けられるための装置なのだ/われわれの視力は、魂がはっきり視えたら制度はまるで見えておらず、制度がはっきり見えたら魂はまるで視えていない、という性質を持っている。
魂を所有できなかった人は、他の魂を視ることもできないので、その視力は必然的に「制度」への視力に流れる、そこは本当に冗談ではなく、制度だけの業者ワールドが爛々と展開されているのだ/しかしまあ、正直「もういい」がすべてに先んじる、おれはやっぱりおれでありつづけて、偉大なるおれから見て他の者はゴミ……ではなく、そもそも「他の者」でさえなかったのだ、偉大なるおれさまは偉大なるおれさまを威張っているわけではない、「偉大」というのは別に威張る要素じゃない、小さくて可憐な魂を下に見たことはおれは一度もない、魂の大小は上下ではない、上下が設定されるのは「制度」のほうだろ、ところで今日はバレンタインデーなんだってね、いろいろとよろしく!!

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(世界ぼっち)
んなにデタラメに生きたことが、こんなに財産になろうとは。
デタラメに生きたという自覚もなかったが、客観的にはデタラメだったのだろう。
けっきょくのところ、僕には何もわかっていない、ずっと同じことを言っているな、僕は町名ひとつすら他の誰かとは同じに見ていない。
世界にひとりぼっち、ではない、僕はずっと、世界に世界ぼっちだと感じている、今夜も空が風に鳴るのだ、他の誰かのことは考えたことがない。

これが何なのかを、考えさせられることには、すぐに飽きがきてしまうな、自分の髭について考える必要がないように、自分の世界について考える必要は特にない。
僕はずっと同じひとつの世界の中を生きている、そして僕を愛してくれる人だけ、この世界へ少し招き入れることができるみたいだ。
この世界、といって、けっきょく僕はこの世界しか知らないのだから、いちいちその名を呼ぶだけでも不必要なことに感じられるが、このごろはせいぜい、どのようにしたらこの世界を失うことができるかが、ちょっとだけわかってきた/だがなんとまあ必要のない知識だろう。
僕は、他の世界のことはよく知らないし、この世界のことも、知っているくせに、なぜ知るようになったのかは、僕自身にもわからない、なぜ知るようになったのかについては、いっそ誰かに教えてほしいぐらいだ/まあ教わったところで、僕の役に立つわけではないのだろうけれど。

すでに答えているものを問うな。

この世界が、すでに答えているのに、それを聞き流して、あれこれ問うのはよろしくない、よろしくないといっても、この世界がすでに答えているのが、本当に聞こえていないのかもしれないが/もしそれが聞こえていないのなら、どう答えても意味がない、じゃあどうしたらいいのだろう、そんなこと僕にわかるわけがない、なぜなら僕もどうしてこうなったのか自分で理由を知らないのだ。
唯一の手掛かりは、やはり作品、物語、フィクションにある、作品を手掛ける必要はないのかもしれないが、作品を否定することはやめたほうがいい、そして作品でないものを作品と言い張って、業務にするのはさらにやめたほうがいいことのようだ/作品とは世界ぼっちのこと、作品とは業務のことじゃない。
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【祝】「ヘンなところに金が流れないためのボックス」設置さる【朗報】3




ったよりカッコよく出来たと思うのだがどうだろう、カッコいいと思わない者は今すぐ臨海工業地帯の岸壁から海へダイブすること。
正面には「ヘンなところに金が流れないためのボックス」と書かれており、上部には「教わらねーよ」と書かれており、背面には「もともとあるものを教わるバカはねーよ」と書かれている、書かれているといってもおれが書いたわけだが/また側面には、「強さ」「勝速日」と書かれている。
ワークショップあたりでは、霊魂うんぬん、つまり「ソウルがシャウトしていないとダサい」ということを唱えているので、この場合、このボックス自体がシャウトしている必要がある、その意味ではなかなかカッコいいと思うのだが、そう思わない人は臨海工業地帯だろう、慌てて東急ハンズに行ってスタジオで十五分でテキトーに作ったにしてはいい出来だ。
ワークショップの脇に、「教わらねーよ」という箱が叫んでいるというのは、なかなかよい光景で、よい構造だ、この仕組みが必要だった/「教わる」ということで何かが解決するものなら、人類はとっくの昔に大解決しているだろう、世界中のありとあらゆる「教務」が陰気な顔をしているのはなぜなのか、人類はいいかげん気づかねばならない。

学校で英語を教わると、「英語の勘」は身につかず、「学校の勘」が身につく、そのことは全員が知っているはずだ。
じゃあ、たとえば道場で何かを教わると、その「何かの勘」は身につかず、「道場の勘」が身につくだろう、じゃあけっきょく何が身につくかというと、「しきたり」が身につくだけなのだ、こんなおそろしいことがあってたまるか。
「礼に始まり、礼に終わる」というような「しきたり」が身につくだけで、それは「節分には恵方巻きを特定方向にむかって食べる」というしきたりを学んでいることと変わらないのだ、道場で○○の構えとか△△の法とか、それをワザではなく「しきたり」として学ぶんだぞ、「手首をこの角度で掴むしきたり」、そんなもの道場の外では何の役にも立たないし、さらにいえばその「業界」の中でしか役に立たない。
当ワークショップでは(というか、おれ自身がということになるが)、根本的に「教える・教わる」という営為のスタイルを否定する、もうすでにみんなに話してあることだが、「教わるというのはやめろ、しきたりをぶっ込まれて呪われるだけだから」「おれが説き明かすから、それを見て、利いて、自分でやってみて、テメーで悟れ、おれが説き明かすからテメーが悟れ、教えるとか教わるとかいうのはウソだよ、早くこの正しい仕組みの中に入れ」。

まず「勝」が必要だ、そのためには根本的な強さが要る。

弱い人は教わりたがるし、教わると「しきたり」がてんこもりに注入されるので、その「しきたり」をもって、何かを「知っている」「学んできた」と己を定義しがちだ、そしてそのことがいかにヤバいことか、そのことはまた別の記事で説明しよう。
「教わる」という仕組みに入ってしまうと、必ず「しきたり」だけを注入され、「しきたり」の中で、人は「強さ」や「勝」をねじ曲げられてしまう、よってしきたりに詳しい人が真に強かったり真の「勝」を得ていたためしはない/人が何かを学ぶか否か、何かを獲得するか否かは、仕組みによって決定されており、努力や意欲によっては決定されない、正しい仕組みの中にいれば誰だって自動的に勝手に学ぶし獲得していく、その逆の仕組みにいれば、誰だって何かを獲得することは絶対に不可能になる、そんなもともと空っぽになることが決まっている仕組みの中で、努力だけさせられたら空っぽのまま怨恨だけが残ってしまうぜ。
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【祝】「ヘンなところに金が流れないためのボックス」設置さる【朗報】2
「へんため(略)ボックス」は、カーテンの向こうに置かれているので、誰がいくら入れたのかは誰にもわからん、またいちいち集計もしない。
2.「ヘンなところに金が流れないため」のものなので、もともと流れる余裕もない人は入れる必要がない、また入れたフリをすることは何の罪にもならない。
3.「○○を学ぶためにワークショップに行くんだ」というマジメな発想では、逆にカチカチに固まってけっきょくいいことにはならないので、「ワークショップに行く」という思念は避け、「ボックスの出現日にボックスに立ち寄ったらみんなに出くわした」という程度がよい。
4.つまり、ワークするつもりがない人も、ボックスを目当てに来てよい、自分には参加する資格がないと感じる人も、ボックス目当てには何の遠慮も要らない/ワークショップにボックスが付属しているのではなく、ボックスは独立で存在しており、その脇でワークショップは「ついでに」開催されているにすぎない、よってそこに先生も生徒も存在しない。

5.へんためボックスに「常連」はいても、ワークショップに「常連」は存在しない、よってワークショップに名簿等は存在しない/そしてへんためボックスは誰のことも把握していない、ただの「ご自由にどうぞ」だけがある。
6.これでいつでも来られるし、いつまでも来られるな、またキミのアルバイトのシフトを増やすにも正当な理由もできたってもんだ。
7.へんためボックスは独立で存在しているため、そこに何億円入れようが「お客さん」にはならない、よってワーク中は誰であれ容赦なくシバく、そこに不正は一切ねーよ。
8.人は迷いの中を生きているので、必ず一定の金はどこか「教えてくれるところ」に流れる、そしてたいてい、その金はヘンなところに流れる、なんだかんだそういう「業界」へ流れる/よって、「ここに入れなくても、この金はどこかへ流れるな」と感じられるぶんだけを入れること、するとそのぶんだけ、「教えてもらわんで結構、業界ノーサンキュー、自分で悟ります」という強さになって現れてくる(そうなるように明瞭にデザインしてある)。

9.「あ、へんためボックスに行かなきゃ」という、アホみたいな発想が、あなたを救う瞬間が必ずある/大マジメになりそうになったあなたを、元のアホに戻してくれる。

10.ヘンなところに金が流れると、それは無意味というより、「思ったよりも怖いこと」になる、ヘンなところに流れた金はあなたに「しきたり」を強いることにはたらき、むしろ自分で呪縛を購入したという結果になる(いかなる結界を張っても、自分で購入した呪いは結界を素通りしてしまう)/一方、へんためボックスには何の「教え」もないため、呪縛には掛からず、ただ自分の自由が確かめられる。
11.へんためボックスに収められた資金は、何らの慈善・公共の福祉等には費やされず、ただおれの食うメシがパワーアップするだけということを保証する/また、そのことについて一ミリの感謝も持たないことを宣言する、おれはおれの気ままであることをわずかも曲げない、こんだけ約束しておけば安心してもらえるか。
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