☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
復活〜(ただの風邪だけど)
いうわけでタイトルのとおり復活、まだ病み上がりだけれども、もう健常の範囲です、ご心配をおかけしました(ただの風邪)。
どうやら今週のパーティおよびワークショップも、問題なく開催できそうです、いやあ一週間ほど大変ダルかったけれども、ふたたび楽しくやってまいりましょう、ある意味では強制的に骨休めにもなったので……数年ぶりに脳みそが休んだ心地がした。
金曜日のワークショップは、いよいよ季節的に今期の公園納めというつもりで、19時〜世田谷公園、21時〜スタジオを予定しております、みなさまどうぞいらっしゃってね。
酔狂から始まったワークショップも、いつのまにかけっこう骨太なものになったなあ、あと数回もすれば年が明けてしまう/やるからには笑えるぐらいやるべきだし、やったからには実を結ばないとやったことにはならないからな。

おれはこの後また寝るので、パーティ等々、参加される方はテキトーにそちらからおれのほうに連絡してやってね、おれの側から打診するまでに回転がまだ上がっていない。
この一週間は、久しぶりにボケーッと、用事以外はテレビを眺めたりして過ごしたのだが、逆にそれで見えてくることもあった/決定的な「違い」がわかった。
今ここで、説明しきれる可能性はゼロだが、なんというか、外部情報をどう切り貼りしても、それは「わたし」にはならないからね、「わたし」というのは一種の恐怖体験であって、これは「死」の直視も含まれているから、たぶんここが根本的に違うのだ、こんなおっそろしいものを全員が直視済みとか、「そんなわけないでしょ」というのがようやく冷静にわかった。
外部情報というのは、「喉が痛い」とか「腹が立つ」とか、感情や身に起こることまで含むのだ、それらさえも「外部情報」なのだ、もちろんその外部情報でおびやかされはするのだが、おびやかされるだけであって、それはその人そのものの情報ではない、この世界に「わたし」が存在しているというのは、もっとブッ飛びのことなのだった/たぶんこのことがおそろしすぎて、逆に外部情報に取り縋って「生きてます」という安心を得るというのがふつうのやり方なのだろう。

科学の進歩は0ミリだ。

ウープス、困ったなあということなのだが、何しろわれわれは科学をぼんやり信仰しているのだが、科学といったって、科学ができる知性を前もって与えられてあるから科学がやれるのであり、「なぜオマエって科学できるの」という問いかけに対しては、いかなる科学もぐぬぬぬと返答に窮するしかない、だから科学はスタート時点からズッこけているのであり、そのことは見ないフリをするのが科学の前提だ、もちろんそのことは科学の無力を言うものではないが、スタート時点からズッこけている以上、厳密にはその進歩はゼロだと認めざるをえない。
いかなる問答も、問答する能力があるから成り立っているのだが、この問答の能力が、なぜかすべての動物のうち人間にしか具わっていないという……他の動物にも大脳はあるのにね、他の動物は問答もできないし犯罪もできないのだ/ほとんどの動物は風邪を引くと思うが、風邪を引くということについて説明するのに科学は強力だ、だがその「説明する・される」という能力そのものについては科学は閉口するしかない、科学は外部情報の整合性を説くのにたいへん強力な手法だが、その外部情報の切り貼りで「わたし」の現出はありえないのだった、まあ喉がよくなったらペラペラお話ししようと思います。
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実にふざけた人間として
の中には、おっかない人たちもいて、おっかない出来事や、おっかない背景もあったりするので、そういったことには、関わらないでいくのがベストというか、なんでそんなもんと関わらんといかんのや、という気がする。
世の中には、こうして何かを書いているような人や、ワークショップの先生やインストラクター、恋愛のことを考える人や、カミサマはなんだろうと解き明かそうとする人が、いくらでもいると思うが、その中で僕が唯一言えるのは、おそらく僕が特級でふざけているということだ。
僕のようなふざけた人間は、何の立つ瀬も持ち合わせておらず、なんというか、なんやかんやの庇護を頂いてしか、生きられないということだ、僕はまったく「ちゃんとしていない」のだ、別の言い方をすれば、「人から尊敬されうる点がひとつもない」とも言える。
よくよく考えれば、こんなテキトーでふざけていて、ヒキョーでズルい人間なんて、僕以外はそうそういないのだったな、そう考えるとおっかないことだ、あげくに僕はまともに感謝さえしないのだから、ろくでなしの極致かもしれない、けれどもここに至って、僕が何かに感謝するようでは、僕を慕ってくれる人から見てガッカリだろう、その点はご心配なく、今さら何かに「感謝」とか、そういう似合いもしない気色の悪さを僕はやらない。

せいぜい言い訳をするなら、広い世の中、僕のような奴も一人ぐらいはいないといけないと思って……というのは、言い訳にもなっていないか。
僕は何を考えてきたかというと、人が生きることにおいて、「がんばっているんですが、さびしいのです」という人に向けて、フマジメな答えを用意してやりたかった、「さびしいのは、本当にはがんばっていないからだ」と、力まかせの答えをしたくなかった、「おれなんか、一ミリもがんばってないのにさびしくないぜ」という、根こそぎふざけた答えを用意しておいてやりたかった。
僕は善人になるつもりはないし、良心的になるつもりもない、結果的に人を笑わせたりはしているが、「笑わせたいと思った」からではなく、人を笑わせる力が降ってきて勝手に僕をそう動かすからだ、僕は何一つの美徳もやっているつもりはない/面白ければいいと思っているが、それは僕の思想ではない、それは「僕を支配している思想」であって、その思想はいつも気づくとどこかからウヘラウヘラと降り注いでくるものだ、前もってその思想で何かを決定したというようなことはこれまでに一度もない。
このごろになってというか、今日になって、色んなことが見えてきたのだ、どうやら僕は本当に特殊な奴らしい、僕はちゃんとした人として愛されるわけにはいかなかったのだ、サイテーでヒキョーな、わけのわからん、美徳も何もない奴として、愛される必要があった、そうでないと僕を愛してくれた人が、わけのわからない最上の笑いを得ることができないからだ、よりによって僕のことを愛してくれるなんて、当人としても「不思議」の極致でわけのわからない笑いが起こるじゃないか。

ワークショップで一番飛躍が期待されているのは九折さんだ。

なんじゃそりゃ、という話なのだが、来ている人はみんなそう言うからしょうがない、「九折さんが何かを掴んだならもうそれでいいんですよ〜」「バンザーイ」と、いつもそんな感じになるな、こんなことがまずふざけている、ふつうは習っている人が何かを掴まないといけないのだと思うが、なんかそんなことは二の次になっている/「わーい」「祭りだ」「おめでとうございます」というのが朝方によくある。
そうした光景は実に、世間一般からみるとふざけきっているのかもしれないが、少なくともおっかなくはないな、どれだけ正しくて有意義でもおっかないのはちょっとな/僕は何かを助けるために生きているわけじゃなし、実にふざけたことを申し上げると、僕は何かに助けられるために生きているのだ、それがサイテーの極致だというのはよくわかっているが、どうか石を投げないでくださ〜い。
バカをやろうかあ | comments(0) |
まともなことを当たり前にやっていこう
、いつのまにか、もう誕生日の前日が終わってしまうじゃないか。
何かもっとこう、大晦日的な気分に浸ろうと思っていたのに。
今、「月刊ワーQ第三号」の、編集作業をしている、その作業をしながら、「まともなことを当たり前にやっていこう」と思った、同じようなことをこれまでに何百回も思ってきた気はするが……
まともなことを、当たり前に、かつ手抜きせず、軽々と、しかも膨大に、他人から見たら「まじかよ」と言われるぐらいの量を、やっていこうと思った、つまり何もかも「今までどおり」だな/おれが自分自身、一番頼りにできるのは、超能力のたぐいではなくて、「まとも」というところからいつまでも剥離しないところだからな。

せっかく東京に住んでいるのだし、身体も健康なのだから、楽しいパーティは、あったほうがいい、そりゃ当たり前だ。
ワークショップみたいなものも、役に立つなら、あったほうがいい、やりがいがあって希望があるなら、希望が実現されるまでやったほうがいい、そりゃ当たり前だ、この当たり前のことから目を背ける尤もらしいだけの不毛に、僕は最期まで唾を吐き続けたい。
よくない趣味にえんえん耽ったり、足しにならない中途半端な努力をしたり、人とのつながりを閉鎖的にしていったり、していていいわけがない、まともなことをまともにやるべきに決まっている、そのことも含めて「当たり前のこと」だ、当たり前のことから当たり前の果実を得る当たり前の奴で僕はありたい。
僕はきっと、人より好き勝手に生きてきて、今も好き勝手に生きていると思うが、せいぜい年長者として教訓を垂れるとすれば、「まともなこと」をやるというのは「他人にやれと言われたこと」をやるということではないということだ、他人にやれと言われたことだけをやっているのは、とても危険というか、とても不毛なことだと思う/他人にやれと言われてやったことを、自分の「やったこと」にカウントしてはならない。

当たり前のことを、何億でもやろう、そして当たり前だからといって、「やらされる」のは一ミリだってごめんだ。

この一年間を振り返ると、うーん、「もう二度とやれねーよ」と思えるような、タフさと巨大な飛躍がてんこもりなのだが、これでいいと思う、内容の問題ではなく、充実の問題だと思っているから/内容を立派にしようったって、僕が立派な奴ではないのだから、無理に決まっている、僕に立派なことはできないが、僕自身をフル回転させるかどうかは、常に僕自身に懸かっているだろう、そこでインチキができるほどの厚かましさの根性は、やはり僕にはないのだ。
当たり前のことを、当たり前にやること、ただし他人にやらされることなく、すべて自らに由ってやること、そしてなるべく、他人にそうそう追いつかれないぐらいには大量にやること、ここまでそのようにしてきたのだから、これからもそのようにするだろうな、どれだけ内容がヘッポコでも、それが僕のベストなのだから僕はそれを堂々と誇ろう/一年間、たくさんの人のお世話になって参りました、いつもありがとう、これからもよろしく。
バカをやろうかあ | comments(1) |
百億円とレイプ公認権をよこせ

りあえず、みんな前向きにやっている。
力が悪いのではなく、光がなさすぎて話にならないからな、その修正をしているだけだ。
僕はみんなの狂信ぶりを中和して、まともな「人」に戻そうとしているだけだ、宗教的な狂信者ほど救いがたいものはない。
だれか百億円でもくれんかな、いやマジで……百人がかりでいいので、百億円よこせ、そして僕が誓えることは、たとえ百億円もらったってこのブログは日々更新されるだろうということだ、むしろ百億円もらったほうが調子イイだろうね。

われわれが、「光の存在」なんて言うと草不可避だし、「闇の存在」なんて言うと、さらに大草原不可避だ。
当たり前だが、どちらの成分も、ビタッと同量持てよ、そうでなきゃ中庸じゃなく、中庸でない奴はキモチワルイだろ。
いやー百億円が欲しい、あと僕だけレイプ公認権が欲しい、そしてこの場合の「欲しい」というのが、どうやら他の人と違うらしいのだ、他の人の「欲しい」は、どうやらガチの「欲しい」らしい、どんだけ追い詰められてんだよ、僕はそういうことを言っているのではなく、百億円とレイプ公認権ぐらいあったほうが「バランスが取れてスムースだよなあ」ということを希求しているのだ、百億円ぐらいでメラメラするほど人生ってヒマか?
百億円って、もしもらっても、すぐ使い切ってしまう気がするけどね、まずワークショップのための道場か何かの施設を建てなきゃ、あと僕が書いたものを読みやすいよう印刷物にする必要があるし、宣伝もバリバリしないといけない、うーんしかし宣伝してもどうなのかなあという気もする/クルマは引き続きレンタカーのヴィッツでいいが、百億円もあればレンタカー屋が家まで持って来てくれるかもしれない、なぜレンタカーがいいかというと、レンタカーのほうがメンテナンスがいいし、クルマを買うのとかってまず手続きが面倒くさいだろ。

百億円とレイプ公認権が与えられたとして、僕はどこまで嵐が静寂なのかが知りたい。

レイプ公認権があれば、僕は街ゆく女の子に、初めからお話ができるだろ、そうしたら効率がいいと思うんだ、帰りのタクシー代も出してあげられるしな、自分のカフェや、自分のナイトクラブも持ちたい、バーは……自分のじゃなく街のあちこちのところを彷徨うのがいいな/僕は「何も起こらない」ということを愛している、すさまじい嵐が、完全に解放されるとき、嵐のすさまじさは、この世界に何かが起こるということはないというナイスな事実を現成させるだろう、うーん僕は自分の乗るクルマの車種なんか知りたくないな、マンションの建築者名を教えられるみたいで面倒くさい。
僕は光への才能があるので、そのことを疎んじているのだ、僕のか弱い力の希求を、デカイ光が消し去ってしまう、もーカンベンしてくれよな、いろいろつまらなくなっちゃうじゃない、光と力が混ざらないと面白くない/たぶん、百億円とレイプ公認権が与えられたとしても、なお僕は、自己陶酔のやり方がわからんのだ、誰か自己陶酔のやり方を教えてくれ、百億円とレイプ公認権ぐらいでは、僕の言葉と文脈を見る悟性に勝てないのだ(この悟性をダウンさせないまま拮抗する「力」にまみれたい)。

バカをやろうかあ | comments(0) |
楽しくてしょうがない

、露店でやっている「似顔絵描きます」の光景が苦手だった、今でも正直ちょっと苦手だ。
似顔絵は、だいたいデフォルメされているのだが、愉快にユーモラスにデフォルメされているのに、なぜか陳列された似顔絵の一群を見ていると、薄暗く陰鬱な気持ちになる。
一方で、しょうもないエロマンガでも、なぜか読んでいると、楽しくてしょうがない、明るい、光、と感じさせられることがごくまれにある/内容はいかにもバカげているのだが、エロマンガがバカげているのは当たり前であって、そうではない、特に理由なく、無性に楽しくなってしまうものが含まれている。
しょうもない登場人物と、しょうもない設定、しょうもないストーリィなのだが、なぜか楽しくてしょうがなくなる、エロマンガはいちおう読者を興奮させるために描かれているのだろうが、僕はもともとエロマンガで「興奮」という反応を持っていない/なぜか楽しくてしょうがなくなる、光、という現象があって、そのときにはいつも、不思議だなあと思わされる。

思いがけないことだが、おそらく、「愛」の問題なのだ、当のエロマンガ家は、アホながらこの世界を愛しており、僕の見かけた似顔絵屋は、人の特徴を見抜く目を持ちながら、この世界を愛していないのだろう/この世界を愛していない人は、自覚がなくとも、この世界に呪いをかけてまわる営みを、自動的にしてしまうように思える。
エロマンガ家と、似顔絵作家なら、きっと「よい絵を描こう」という芸術的な気負いは、似顔絵作家のほうが強く持っているのではなかろうかと、僕は想像する、だがけっきょくこの世界を愛していない者に、光を帯びたものを現出させることはできない。
おそらく、エロマンガ家のほうは、何しろバカげているので、この世界を愛しているなどという自覚は、きっと当人にないだろう、そしてひょっとしたら、似顔絵作家のほうが、人のことをよく見て、この世界を愛そうとしているかもしれない、にもかかわらず、光のありようは裏腹で、愛というのが努力ではなく、付与されるものなのだということがよくわかる。
しばしば、「光が得られない人のほうがシリアス」という、よく考えれば当たり前のことがあって、光が得られない人のほうが、愛うんぬんについて、強い意志や、強いこだわりを持っていることがある、シリアスな人は愛うんぬんについて、<<強い感情>>を持つ、だがその感情は愛ではない、愛とはときに自覚さえない悟性であって、グッとくる・こないでいえば、どちらかというと「こない」のほうに近いのだ。

何の悩みもない奴が描くエロマンガは最高だ。

何の悩みもない奴が描くエロマンガは、文化的にサイテーなのだが、だからこそ逆にサイコーということがある/一方、さらにその逆において、やはりシリアスな悩みに囚われている者が描く芸術――のようなもの――が、文化的に最高でありながら、よくよく見たらサイテーということもある、僕は最終的に、文化的にサイテーな奴でありたい。
何しろ、アホのエロマンガ家は、自分が上等になる気がないのだろう、その必要を感じていないというか……確かに、もし本当に、この世界を愛していたら、自分が上等になる必要はないのかもしれない、そういうものの現物を、たとえ一時的にであれ目撃すると、僕は楽しくてしょうがなくなってしまう。

バカをやろうかあ | comments(0) |
飲みましょう!!

うはいっても、今週の土曜日は、パーティで酔っ払ってラッタッタなのだった、それはそれ、これはこれだ、マジメぶってもしゃあない、マジメぶる奴は単に精神力がないのだ。
酔っ払ってラッタッタということは、この期に及んで、アホライブをやるのかということになり、それはそれでゾッとするが、そんなもんしゃあない、ゾッとすることぐらいやらないと何の足しにもならないだろう。
寛(くつろ)ぐ、という発想があって、僕も寛ぐのはいやじゃないが、寛いでいる中で、人が何かイケている気分に浸るのが好きじゃないのだ、そんなに自己肯定感に飢えているものかね、自己肯定感も自己否定感も当人のヒマさの現れでしかないと僕は思うが……
パーティで何をするのかといって、有意義なことはしない、さらにいえば、パーティをしない!! なんじゃそれ!! いやパーティはやるのだが、何かまともなことをやるということは、それが何だったのかよくわからんまま過ぎ去るほどでなければ、何かをやったことにはならないのだ、当たり前だが認識に引っかかるようなものはすべてハズレでしかない、夜空を飛んでいく速い雲のようにすべては夜景の中をサーッと滞りなく流れ去らねばならない。

われわれは、命の中を生きているのであって、その中から何か切り離した一つを取りだして、「これをします」なんて、しょうもないことはやっていられないのだ。
雨が降ると、われわれは傘を差すが、「傘を差す」ということ自体をチマチマやっているわけではない、雨の中を駆けていくために、そういえば傘を差していますねというだけだ、パーティも似たようなものであって……いちいちイベントに捉えるようなことではない、雨中で傘を差すのはイベントではない。
別にパーティに限ったことではないが、飲むと決めた日に「飲みましょう!!」と言われて、コンマ001秒でも電気抵抗が生じたら、そいつはもう世界から脱落しているのだ、見失っている人が多いのがいけない、「飲みましょう!!」というのは、焼肉屋で炭火を前にして「焼きましょう!!」と言っているのと同じだ、ただの「鬨(とき)の声」でしかない、世界はとっくに始まっている。
土曜の夜は、飲みましょう!! それはどういうことかというと、日曜の昼には酒が抜けているということだ、酒を飲むことの何が重要なのだ、重要なことは何もない、酒を飲むということに限らず、われわれが生きる中で重要なことなど何一つ存在しない。

口腹をハイボールでビシャッと濡らす、そんなことに意味があったら僕はやらない。

アホにはアホといい、ナイスにはナイスという、そのことにいちいち引っかかると、人は気色悪いのだ/よもやこれまで生きてきて、自分をアホだと思っていないような奴はいないよな? アホというのはわれわれの揺りかごから墓場までの定義であって、そのことにいちいち反応する誰かがいたら、そいつは大変うっとうしい、世界ダサイ奴連合の中にフルネームで登録して脳天に「ダサイ」という旗でも立ててやるべきだ、そうしたらインスタ映えもするだろうし、好きでもないジャスティンビーバーのCDを買って帰ったら購入したぶんのCD代が嵩むだろう。
引っかかるべきところは何もないのに、いちいち意識を引っかけるのが好きな人が少なからずいる、断固として許しがたい、そのような許されざる民は、二年間におよんでシュウマイの温度についてだけを考え続ける刑に処されるのがいい、シュウマイの温度はたぶん何℃かなのだろうが、別に適温なら何℃でもかまわない、そんなことに注目するのがおかしい、地を這うムカデにさえ「きみはアホか」と憐れまれるだろう(というわけで、土曜日は飲みます!!)。

バカをやろうかあ | comments(0) |
地球の歩き方

が敬愛し、また私淑する、ムツゴロウこと畑正憲氏が、ひさしぶりに特集としてテレビ番組に出演された。
昨年末から今年はじめに、心筋梗塞で入院されて、死線を彷徨われていたそうだ、今はすっかり恢復されて、いつもどおりのように煙草を吸っていらっしゃった様子だったので、僕は安堵した、そしてムツゴロウさんの眼にこれまでに見たことのない色の光を見たように思う。
ムツゴロウさんは、万人が認めるところ、この時代に現存する怪物の代表みたいな方だが、これまでのムツゴロウさんに、あのような目の色は見たことがなかったように思う。
あの目の色が、何を示しているのかは、僕にはわからない、死線をくぐられてなお新しい何かを発見されたのか、新たな地平に到達されたのか、それとも凡人の情愛にも満ち始めたのか、僕にはわからないが、そこにはこれまでより一層豊かな何かがあるように僕には見えたし、またそのように信じたいとも僕は思った。

ふと、昔のことを思い出して、僕がインドを旅していたとき、到着初日の夜中にタクシーの運転手を、後部座席から蹴りつけていたことを思い出した。
当時僕は、大学生で、フロイトの全集とムツゴロウさんの全集を読み、「いつどこで死んでもかまうもんか」というのを当然にして生きていたので、初の外国の地でボッタクリ業者をいきなり蹴るという乱行に出ていたのだが、そうした僕の行動の背景には、命を引き下がらせないという、ムツゴロウさんからの影響づけがあった。
ムツゴロウさんが、ゾウに乗っている古い映像などを見て、僕は今になって、ハッと理解した/僕は地球の歩き方を、この人から習ったのだ、僕がどこかを歩くのは、観光のためではなく、いついかなるときも、出会う命のことごとくに正面から重なるためだった。
僕は当時、理学部のくせに、なぜか執拗にフロイトを読んでいたわけだが、僕はフロイトの解き明かす精神病理よりも、ムツゴロウさんの生きてきた「命」という直接の力を信じたのだった、そのことは今もなお変わっていない、時代が変わって隠してはいるが、僕は今も信じていることを一ミリも曲げていない。

すべての無意味は、命が通って変質する。

あのとき、毎日がどこか無我夢中で、毎日が光り輝いていて、すべてが無意味で、何もかもが、かけがえがなかった、その秘密を、僕は今も隠し持っていて、ただ周りと話が合わないから、表に出さないようにしている/命のすれ違いは危険だ、本当の危険が生じてしまう、僕はこの危険が処理不能レベルに至ったことを鑑み、命から学門へと旗印を換えたのだ、それでもなお、本質的な危険はいつも皮の下一枚に揺蕩っているが……
危険だ、本当に危険だ、あのときタクシーの運転手は、わけのわからないジャパニーの圧力に押しつぶされて降伏したが、もしそこで運転手がポカーンとしていようものなら、僕は本当に運転手をくびり殺してしまっていただろう、現代は本当に、そうした虚ろの穴がぽっかり空いてしまっている/けれどもなお、「地球の歩き方」は、あのとき習ったあれが正しいのだ、あれ以外に地球の歩き方は存在しない。

バカをやろうかあ | comments(0) |
世界にはすさまじいエネルギーがある

さまじいエネルギーがある。
すさまじいエネルギーは、世界にあって、自分にあるのではない。
世界にあるのは、たとえば太陽のフレアバーストであって、自分にあるのは、たとえば猛烈な下痢だ。
どちらも、「実感」においては、「とんでもないヤバさだああああ」と感じられるのだが、学門においては、フレアバーストと下痢は同等のエネルギーではない、こんなしょうもない話をしたくないのだが、このしょうもない話のほうに、今はどうやら多くの需要があるらしいのだった。

それにしても、すさまじいエネルギーがある、僕は毎週朝までワークショップをして原稿用紙を何百枚と書いたりして生きているわけだが、これで「足りていない」と感じる。
足りていないというのは、エネルギーが足りていないということではなく、朝までという時間とか、数百枚の原稿用紙とか、そちらのスケールのほうが足りていないということだ、スケールが足りていないので、僕はエネルギーのほうを抑えて暮らしている/そしてこのことが、いつまでもカッタルイのだった。
朝までの時間を埋めなきゃとか、何枚の原稿用紙を埋めなきゃとか、そういう発想はしていない、「埋まってしまわないよう、制限しなきゃ」と思っている、これがカッタルイのだ、かといって僕一人だけメチャクチャをするわけにもいかないからな……
しかし、需要うんぬんのことなんか忘れてしまえば、やはりこのエネルギーを本来の量で、巡航させたいのだった、ただその場合、近くにボーッと立っている人を、平気で撥ね飛ばしてしまう、実際にバカスカ人を殴るようなことになってしまうだろう、そうなると僕はごきげんだが、どうせ殴られた側は悲愴感に陥るに決まっている、そういうものではないんだけどね、まあさしあたり制限するしかないのだった/このすさまじいエネルギーが世界にあるということを、このごろはほとんど誰にもわかってもらえない、本当に人を殺してしまうところまであっさり行くということが、どうも想像の範囲外にあるようだ(それじゃ危ないっす)。

本当に何もわからない奴を殴ってしまうのはかわいそうだ。

思い返せば、この数年来、その「かわいそうだ」という視点で、温和な年長者ぶることを決めたのだったな……自分で決めたことなのでそれでかまわないのだが、ときにそのことを思いださないと、このカッタルサがどこから来ているものかを忘れてしまいそうになる。
すさまじいエネルギーがある、世界にはすさまじいエネルギーがひしめいている、それは人智を越えたわけのわからないエネルギーだが、僕が発狂しないのは、それを僕のエネルギーだと誤解しないからだ、僕自身はいつだって平穏なものです(初めて僕に会いに来た人は、いつもその点で驚くよなあ)。

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よい兆し
日の、「Wordが無いのストレスだわ〜」の件については、即日に連絡があって、一同が寄贈してくれることになった、あっさり解決だ(やったあ)。
ワークショップと小説の執筆を同時進行して、さすがに体力も霊力も尽きたところ、アロママッサージに行ったのだが、その費用もワークショップ先生料としてバックアップしてもらえることになった、うーんマジで助かるなあ(二時間で13000円もするからな)。
少し前、大阪から通っていたワークショップのプレイヤーは、いつのまにか目黒に転勤になり、徒歩圏内までワープしてきやがったし(昇給までしたし)、暗い企業でストレスを抱えていたある女性も、今は風通しのよい職場で、トップ企業としてのゲームメーカーではたらいている。
聖地巡礼を終えて、今はリストのカンパネラを弾くのが当たり前になった女性もいるし、急にマッサージの腕が向上したセラピストもいる、また某会場のパフォーマンスで喝采をさらっていったダンサーもいる、何もかもいいニュース、福音ばかりだ、そして「よい兆し」はまだまだ大きな可能性として足許から芽生え始めている、気を引き締めてかかりたいが、ここまでのことをネガティブに取る余地はひとつもない。

よい兆しは、ますます来ている、どうやら僕が僕なりに追究してきた「学門」は、それなりにアタリだったらしい/明らかに「祝福」を受ける側に属している、僕はここでハズレになるのがいやだった、実力なんかなくていいから、祝福を受ける側の何かでありたかった。
この「学門」に準じていくかぎり、基本的にアタリのほうへ行けるな、これはすばらしいことだ、そして逆に、この学門に反対するほうへ行くこと、またこの学門を謗ったり曲げたりすることによって、人はハズレ方面へ転向することになる/と、これは僕の勝手な言い分だが、僕の勝手な言い分としては、そちらの方向へ行くことはおすすめしない、それでも行きたい奴や、行くことを背負ってしまった奴はしゃーないが……
人それぞれに、役割があるのだ、ああまた話が長くなってしまうが、誰でも「地に足のついた暮らしを」ということを一度は考える、けれどもなぜか「天につながった生き方を」とは一度も考えない/考えなくてよいのかどうかは、定かではないのに、そういったことは考えない、ただ慣習において考えない。
よい兆し、先日、僕が冗談で「ん〜、おれさまと会うよろこびがついにわかったわけか」と言ったところ、冗談口にしても「……うん!」と答えてくれた人がいた、なんてすてきなことだろうね、ふつう冗談でもそんなところは飛び越えられないわけだ、飛び越えたとすると何かしら祝福があるだろうよ、それは別におれに関係のあることではない、然るべきものに然るべき関係と態度を持てればそれだけでいい。

よい兆し、ただし常識をいくらか放棄する必要がある。

常識は、常識的な行為の中でしか通用しない、車の運転中に交通法規を守ったりするようなことだ、そこで非常識をする理由はまったくないが、常識的な行為をずっと常識ありきで続けていたとして、よい兆しは何もこない、そうなると人は、よい兆しのある人を呪い、その失脚を願うようになってしまう(このときはすでに悪霊がついているものだ)。
「マッサージ代をよこせ」というチャットを送ったら、「ぜひ使ってください〜」とハートマーク、号泣マークが無数に付属されて返信がきた、人は生きているうち、何かひとつぐらい、それぐらい無私になれるといい、金銭的には損だが(注・おれはトクだから損失はない)、金銭的な損と同等以上に「よい兆しがない」というエグい損も考えねばならない、どうすればいい? 何十年も生きるとわかってくるが、この世界はそんなに神秘的にはできていない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
夢中で生きてきた2

し自分に、何か小さな才能があったとしても、どこかで無我夢中にならなければ、才能なんか開花しないだろう。
もし自分に、何か小さな美徳があったとしても、どこかで無我夢中にならなければ、誰も惚れてはくれないだろう。
感情的な人は世の中にいくらでもいるが、感動的な人は世の中に少ない。
無我夢中ということは、自失という失態とは意味が異なるのだが、どうしても感情的な人は、自失を近所迷惑に振り回して、姑息にその場を取り繕おうとする、つまり「わたしにも無我夢中ができます」と言いたいのだろうが、ムリだ、無我夢中というのは静かなものであって、吾我が暴れ回る性質のことではないから。

無我夢中とは、単なる失認のことを言うのじゃない、多重債務で資金繰りに走り回っている人のことを無我夢中とは言わない。
無我夢中とは、己が吾我から切り離されて、夢の中につながっているという状態を指す、まあそんなことを言っても、いくらでも誤解できるのだが、もうこの種の誤解をする人は、自分をごまかしたいから誤解しているのだ、どうしても自分が優れた素質の者だと思い込みたいらしい。
僕はこれまで、寸分たりとも、自分のことを優れた素質の者だなんて思ったことはない、今この瞬間も、自分の何かを優れているなんてこれっぽっちも思っていない、もしそのことを計測する装置があるなら、ダイナマイトをつないだその装置を僕にぶらさげてくれてけっこうだ、僕は自分が何かに優れているとか、選ばれているとか、そういう意識はまったく持たない、もしそんな意識を持つようならその瞬間に爆死してしまってけっこうだ。
人が本当に無我夢中になっているとき、まともな人は「うつくしすぎて近寄れない」と感じるものだ、そんなレベルで無我夢中になったことがあるか、果たして誰が「ありますあります」と気軽に言えるんだ/傍目に見ると、死んでしまいそうに見えるらしく、「どうか生きていてください」「どうか休んでください」とばかり言われるぜ、無我夢中ってそういうものだ、そこに才能とか選民とかいったい何の関係があるんだ、無我夢中は、ただの無我夢中だ。

「あのときのあなたの姿を一生忘れられません」、と言われるところまでいったら無我夢中。

時代を超えて、普遍的というレベルで、脳みそに刻まれる誰かの姿があるだろ、あれは何かが優れていたわけではなく、「無我夢中」だったのだ、マイケルジャクソンはいつも無我夢中だった、吾我から離れて夢の中につながっていた/そういったものを、技術と努力と評論でカバーできるかというと、できるわけがない、夢中で生きるということに代替できる方法はない。
自分がクズなのか、優れているのか、そんな役にも立たない視点で遊んでいないで、おれは無我夢中のほうが上等だと思うな/精神を壊したって無我夢中になんかなれねーよ、精神を極めないと無我夢中にはなれない、不時着を成功させるのに無我夢中の機長は感動的だが、麻薬中毒で自失荒廃しているガキは何ら感動的じゃない、夢中で生きるには夢中で生きるしか方法がない。

バカをやろうかあ | comments(0) |
夢中で生きてきた

はろくでもない人間かもしれないが、それにしても、夢中で生きてきたのではあるのだ。
もうしょうもないことに気を遣ってやるのはやめて、はっきり言っていけるといいな、僕が人並みと比べてどうかということについて、正直僕は一度も考えたことがない、人並み以下だろうが以上だろうが、そんなこと自体考えたことがない。
夢中で生きてきたし、今もそうだし、たぶんこれらかもそうなので、夢中で生きない人とは、きっと生涯一ミリも話が噛み合わないのだ、そりゃそうで当たり前じゃないか/「話が噛み合う」なんてどれだけ幸せなことか、どうして「そんなもの得られるわけがないよ」と義務教育の教諭は教えないんだ、自分の人生にヒビが入るからか。
僕はクズなのかもしれないし、サイコーなのかもしれないが、僕はこれまで自己評価とか誰かの批評とかを、気にしているヒマがなかった、そんなヒマっていつ訪れるんでしょうね、どうしておれが、夢中で生きていない奴と話を合わせてやらなくちゃいけないんだ、おれには何の楽しみもない、楽しむなんてヒマつぶしをさせてもらえる時間がおれには与えられないからだ。

おれの話がわからない場合、おれが噛み砕いてやるべきではない、わかりたい奴だけが背伸びをすればいいのであって、そして背伸びの上で絶望すればいいのであって、噛み砕くって何の話だ、それは母親が嬰児に離乳食を与える場合だけじゃないのか、噛み砕いたら理解できるような男に惚れる女がこの世に一人でもいるのか。
冗談ではなく、すでに致命傷を負っている人もいるのだ、どうしてそのことを誰も言ってやらない? たとえば六本木のハードロックカフェは、全席禁煙なのだ、ハードロックカフェなのにだ、つまりハードロックが本当にわからないという、致命傷を負った人もすでにいるのだ、だとするともうどんなポーズもハンドサインも似合わなくなるのだが、この場合ハードロックが死んだのじゃない、健康な人々が健康なまま死んだのだ。
僕はどうせ、人より経験が多いので、わかるのだ、この場合僕がアホみたいで、事実アホなのかもしれないし、人に笑われるのは僕であって他の誰かではないのだが、わかるのだ、夢中になって生きるアホでないと、けっきょく最後の橋が渡れない、荘重な船でクルージングしている人たちは、ずぶぬれの僕がアホに見えるだろうが、そうじゃない、そのクルージングはどうなるか知っているか、世界のあちこちを見てまわって、しかしどこにも接岸できないから、どこにも上陸できず元の港までのんびり帰るんだぜ、そして元の港に着くころには本当にジジイとババアになっていてもう取り返しはつかないんだ、快適なクルージングとずぶ濡れのアホの違いがそれだよ、おれはどこにでも上陸できるからな。
まともに生きていく第一のコツは、赤の他人に「すげえな」と言ってもらえるところまで行くことだ、東京大学に入ったり個人で毎年一億円を稼いだりだ、そして第二のコツは、赤の他人が「すごい」といって、その足許と魂が震えるところまでぶちかましてやることだ/「すごい」って言われたことあるか? 「すごい」と言われる人がまともで、このことは自分で捏造しないほうがいい。

「すごい」と言われることがない人は、これまで「すごい」と言わずに生きてきたのだ。

魂が震えて「すごい」「すげえ」と、魂の震える先に向かって生きてきていたら、十数年後には自分もそれなりに、魂を震えさせる力を持っているものだ、そういうあからさまな事実をなんとかしてねじ伏せようとする人がこのごろ多くて、泣き落としや精神トラブル、健康被害やハラスメント問題と、さまざまな方法で抵抗活動をする、しかしそんなことをしても事実は変わらない、夢中で生きてこなかった人が、今さら魂を震わせる力を持つことはない。
僕が小学生だったとき、担任のN先生が、出来の悪い僕のために、特別の懲罰席を用意して、僕と友人Mをその席に座らせ、一年間恥を掻かせたのだが、僕とMはその席で授業中にイヤホンでラジオを聴いていた、最終学歴はけっきょく僕のほうがN先生より上だと思うが、N先生は夢中で生きてきたのか? 僕は誰も責めるつもりはない、ただ夢中で生きてきたのかどうかだけを訊きたい、その上で責めるとしたら、N先生が自分で自分の生を責めてしまうんだろう、でもその条件は僕だって同じだ。

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壮大なモンしか見たことがない
は情熱大陸を見たことがある。
テレビ番組ではなく、情熱大陸という大陸そのものを見たことがある。
壮大なものを見たことがあるかどうかが決め手になる。
壮大なものが見えているかどうかが決め手になる。

ある意味、僕は映画なんか観たことがないと言える。
僕は一人、勝手に何か壮大なものを見ているのだ、子とはそういうものだ、音楽を聴いたこともないし詩文も読んだことがない。
今もなお、壮大なものは見え続けている、古代大和の森やオリジンのエジプト、蒸気にけぶるエレクトリックアイなどが見えている/僕には「イメージする」という能力がない。
単なる「大きさ」の問題として、あちこちで話が合わないのだった、好きとかきらいとかの問題でなく、幾人かの女性を招いて、幾人もの女性が自ら去っていった。

僕が壮大なのではない、逆だ。

壮大なものの中にいる、僕はそこに小さな人を呼び込みたいが、大きな人はそれを拒絶するものだ/ここで大きな人と小さな人は逆転している、僕は「壮大な世界の人」だけが「存在している」と感じる。
小さな世間の人は、対照として吾我を大きくするはずだが、こうした小さな世間の人は、僕には「存在していない」と見える、どんどん"消えかかっている"のだ、「存在」はゴースト映像のようにノイズに干渉されて消えていってしまう。
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五周年!
ういえばパーティが(再開)五周年なのだ!
みんな来てね〜
明らかにポスターとか作っているヒマがないが、まあ別にいいじゃないか、寝て起きたら音速で作るかもしれないし、鼻歌を唄ってごまかすかもしれない。
まあ世の中には、暗いこともあるかもしれないが、暗いことを考えてもしょうがない、暗いことを考えても一年間は365日で変わらないのだ、あとはその365日が暗くなるかどうかであって、とりあえず僕は、365日×5年を、暗くせずにやってきたことになる(褒めろ)。

五周年といって、別に節目ではないし、何も変わりゃしない、変わる必要がない。
何も変わらないというのが一番だ、何も変わらないということは、進んでいるということであって、これは矛盾しているようだがそうではない。
もし僕が進まなかったら、僕は「古い奴」になるだろうな、古い奴になるなんてカンベンだ、変わらずにありたいので、強制的に進むしかない、そのためにはいろいろ悪辣にだってやってやるぜ。
世の中の、すべてのことに興味はない、すべてのことは誤解でしかないからだ、ウーンこの世界はおれだけナイスハッピーだったらそれでいいのじゃないかな、そういう暴君みたいになっていないと、愛とか光とかはないのだ、愛とか光、僕にはそれ以外のことはおっかなくってしょうがないのだった。

何も変わりゃしない、ずっと暴君のままです。

しょーがないだろ、生まれつき暴君なんだからさ、まあ何も変わりゃしない、僕は五日前のことも覚えていないし、未来のことは五秒後だって譲らない。
今夜は飲むわけです、五周年だそうで、新しい人もこじつけに来たらいいんじゃないかな、おれを祝福するために来たらいいのに、まさか世界を祝福せずに土曜日をつぶすとかありえないよね、ということで暴君こそ全方位にハッピーなのであった。
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すべてをひっくり返す別ルート

ルート名は、面倒なので「むすひ(産霊)」としておこう。
今月もまたパーティをやるわけだが(忘れてた)、まあすべてのことは成功させなくちゃならん、成功というのは何をもって成功かというと、成功をもって成功というのだ、ごちゃごちゃ混ぜ返していてもしょうがねー。
きょうび、まともな何事に取り組もうとしたって、無数の障害で道筋はすべて塞がれているように見える、そこで決定的な別ルートを用意するしかない、別ルートとはいっても、これがもともと唯一のルートみたいなものだが……
別ルートというのは、産み出すことだ、創り出すことだ、命を与えることだ/ガンバることではない、苦しむことでもない、この単純な別ルートのために、友人のすべてを切り捨てよう(でも美人は残すのだ、うひょひょ)。

そんなもん、別ルートに行ったって、友人はついてくるだろうし、そもそも突破ルートに進めないようじゃ誰だっていずれ友人ではなくなるぜ、同窓会と友人はまた別モンだろうし、漠然とした仲間と友人もまた別モンだろう。
創るのだ、どんなささやかなものでもいいから、創り続けることが重要だ、自分の創り出したモンを眺めているヒマは数分しかない、これだけがすべての障壁を無視して進めるだろう/それは障壁の生成前に発生する事象だからだ、「創る」ということ。
創られたものは、批評を受けたり、楽しまれたりするが、批評のすべては気にする必要がない、というのは、批評はすでに「創る」ということには追いつけないからだ、常に創っている者は過去のものに批評を受けても「なんだっけ?」としか感じない、それが批評とニセの友人を断ち切るコツだ。
割とマジメにいうが、あなたは何を産み出しているだろうか、夏フェスに参加するのは楽しいだろうが、その参加は何かを産み出していることにはあまりならない、かといって○○に対する抗議活動をしても産み出していることにはならないけれども/産み出すということは、立ち上がるのが速いということだ、何かを創り出す「風」はとても速く、「えっ」と逡巡したらそのときにもう過ぎ去ってしまう。

しんどいだろう、産み出していないから。

産み出していない人は、自分がメチャしんどいし、どうしたって、他人のこともそのしんどいタイミングのものに引きずりこんでしまう、とにかくメチャ遅で、速くしようとしたら力むのだ、メカニズムが間違っているのである、すっころぶのはいいが立ち上がってから「あいててて」と言うべきだ、立ち上がるまでが無秒ならばよくて、「あいててて」は別にゆっくりでもかまわない。
このところ、誰だって顔(顔面)に力が入っている人が多いが、顔面なんぞはすべてに対するブレーキみたいなものでしかない、もう何をやっても間に合わねえぜ、生卵を音速で割るオバハンが顔面に力を入れている余裕がないのは誰でもわかるだろう、ああしまったパーティの宣伝をするのを忘れた(みんな来てね〜)。

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NHK「つながり孤独」

NHKのクロースアップ現代で、「つながり孤独」というのを特集したそうだ、残念ながら見逃したので内容は詳しく知らない。
が、そんなもの、観なくてもわかるわなあ、どうせSNSでつながっているのに「孤独……」ってやつだろ、今さら何言ってんだと、ガリガリ君を投げつけてやりたい。
まさかの冗談だと思いたかったのだが、おそらく、すでに少なからざる人が、SNSのアカウント連携を、「つながっている」と本当に思っている人がいるのだろうな、こんなアホさ極限MAXの時代が来るとは思っていなかったが、どうやら最近はマジっぽいのだ、バカにしているのではなく、腹の底から笑っているだけだ。
「若い世代を中心に……」というふうに特集されていたらしいが、そんなもん、老いも若きも変わらねーよ、そうして社会問題に仕立てて高説をたまわりつつ、自分だけその当事者でないフリをしたがる大人がいるからややこしくなるのだ、「全員つながり孤独です、終わり!!」でいいじゃねーか、そうしたら番組の制作費も浮くだろう。

なんというか、根本的に、青春とか友人とか恋人とか絆とか、この世に生きた価値とか、そういうものを、土台「得られる」と思っているのが間違いだ、そんなものはなかなか得られるものではなく、孤独とむなしさと因業に「ンゴォォォ」と言いながら苦しんで生きて苦しんで死んでいくのである、何をフワッフワした話をしているのか、このオタメゴカシなものは早急になんとかしなくてはならないが、きっと半永久的にどうにもならないだろう。
NHKの側が、若い世代に特殊に現れた「つながり孤独」があるというのならば、じゃあ年長者の側で「そうではない、つながりというのはこれだァァァァァァ!!!」という実物を大爆発と共に見せてやればいいのだ、そうしたら若い世代も解決した先のモデルを獲得できるだろう、モデルってその意味でとても大事だ。
でも、そんな実物は見せられないだろう? ということは、そんな実物は「ない」ということだ、僕は以前、過去に数回会っただけの友人に、六年ぶりにあったが、お互い何も変わらず超ラブだったぜ、そしておれは新しくできた年下の友人に、後ろからケリを入れたりしているが、そんな実物も「ない」のだろう、男が女の子の頭をぐしゃぐしゃにして「あー」という実物もないのだろう、もちろんわざとらしいやつとかキャラのやつはナシだぜ、さあ「つながり孤独でないもの」の実物はどこにあるんだ、それがないなら現代の若者を勝手に被差別階級に扱うんじゃねえ。
つながり孤独でないものといえば、もう、ずっと遡って、ビートルズのレコーディング風景の映像でも見せるしかないと思うが、そのマジの「つながり」に比較して、「おれの青春もこうだったな」と言える奴がどれだけいるんだよ、つながりってそんなに安く得られるもんじゃねえぜ、SNSが悪いのじゃない、SNSの使い方が間違っているだけだ。

SNSはつながりを得るものではなく、共同体との癒着を切るためにある。

そうして厳しく使え、SNSやインターネットを槍玉に挙げるけれども、一方では最悪な共同体や最悪な親から、逃れて脱出するためのツールとして、多くの人々を救っているのでもあるのだ、SNSに礼拝しろ、そして孤独になるとしたら、それはただの当人の問題だ、当人が生きているのだから、その結果として孤独にさせてやれ、それでいいんだよ、つながりショップなんか与えたらそいつの人生がなくなってしまうわ。
「つながり孤独」の中で、死にたいぐらい孤独を感じている人がたくさんいるらしいが、それが「たくさんいる」なら、孤独ではないはずだ、「たくさんいる」んだろ? でもそれが「自分のことしか感じられない」から孤独になるわけだ、じゃあそれは自己中心性とコミュニケーション能力欠損の問題であって、SNSの問題ではない、単に自己中心性の解決とコミュニケーション能力の獲得が「思っていたほど甘くはまったくない」というだけだ、「つながり孤独」から逃れたければ、そうしたクソ用語に唾を吐く同士と出会うように生きるしかない、出会えるかどうかはテメーの人生の問題だ。

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ことのしんそう☆

魄(こんぱく)を分離するといって、たとえば気魄が右側に残り、霊魂は左側へ移動したとしよう、マスター状態がうんたらかんたらでね……(これは実際にできる)
で、別に、そんなことはどうでもいいのだ、気魄は人に「触れるだけ、何もしない」のだし、霊魂のほうは、ノーマルで全身全霊だ、こちらも別におれが何かをがんばるわけじゃない。
つまり、気魄が右側に残り、霊魂が左側に行ったとして、魂魄が左右に分かれるだろ、じゃあ真ん中はどうなるかというと、真ん中には「何もない」のだ、「何もない」が「ある」ことになる、そりゃもともとこの世界は「何もない」が「ある」という状態なのだからアタリマエだ。
魂魄分離といって、霊魂と気魄を分離して使えて、おおスゲーとなるが、そのこと自体、僕としてはどーでもいいのだった、それがいかに「どーでもいい」かに到達してもらうために、教えたいことがないではないのだった、つまり僕は重要なことへ人を案内しているのではなく、「どーでもいい」ことへ人を案内しようとしている。

魂魄分離が、ビターッと成り立てば成り立つほど、真ん中は「何もない、がある」という状態になり、「どーでもいい」度が上がる。
中心がその「どーでもいい」のだから、中心には成長もなく、下落もない、パワーアップもなければ、ダウンもない、グッドもバッドもない、完璧もなければミスもなく、時間もなければ永遠もないのだ、魂魄のどちらが重要ということではなく、どちらも重要でないということ、何一つ重要でないということは、同時にすべてのものが完全均一に重要でもかまわんということ、ありとあらゆる差分がないということ。
気魄の側から見れば、この世界は互いに「迷惑」をしないべきであり、同時に霊魂の側から見れば、この世界はなにもかも「ひとつ」だ、そしてこの魂魄を等分に分離できたら、この世界は「ひとつ」というよりは「0つ」と表現すべきになる、「迷惑」もなければ「ひとつ」もない、つまりいかなる演算を向けてもこの世界は可変でないということ(そりゃ世界から演算が出ているのだから演算で世界は変化しねえよ)。
0つ、究極そこに行き着く、ということではなく、初めからそこに行き着いているのであり、誰もそこから動いてはいないということ、そりゃ0つの世界からどうやって動くんだよ、すべての成分は「ある」と同時に「ない」ので、「0つ」なのだ。

だから女の子の下着姿はうつくしくなく、だから女の子の下着姿はうつくしい。

この世界は、「それぞれ」なのか、「ひとつ」なのか〜、それがびっくり、「それぞれ」でもなければ「ひとつ」でもないのだ、すべてのものは「ある」のだが、「ない」が「ある」のだ、「ない」が「ある」からこそ、すべては「それぞれ」でもあり「ひとつ」でもあり、かつどちらでもないということになる、実は何も変わっていないということ、変わるという現象は世界にない。
別におれが悟っているわけじゃない、悟っていても悟っていなくても同じだということ、何も変わっていないし、「誰」ということも存在していない、悟るなんてことが存在しない以上、この世界に「悟っている人」などというものは存在しないし、だから同時に「悟っていない人」というのも存在していない、みんな一緒というのでもなく、「みんな」というのがそもそも存在していない、存在させても存在させなくても何も変わっていないのだから、この世界は真相しかないのだから、あえてそれを真相と呼ぶ必要もない、ジャン! これで終わっているし、これがずーっと続いている。

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もっとおれを間違わせておくれよ
の話なんか聞かないほうがいい。
人の話は、どこまでいっても、人の話にしかならないからだ。
人の話がある、というだけでいい、この世界には人の話があるのだ。
僕は昔、先輩の話を聴くのが好きで、いつも楽しみにしていたけどな。

人の話に、何かを探そうとするから卑しくなるのだ。
人の話は、人の話だ、ワールドカップの最終戦、最後のホイッスルが鳴ったときは何か無上の感動があったけれど、そのことに何かを探すというのは馬鹿げている。
人間関係に頼るなよ、何を見失って、高慢に、かつ弱くなったのか、一人で歩いている少年に笑われるぞ。
もっとおれに間違わせておくれよ、おれに誤解を続けさせてくれ、これまでおれに誤解を諭してくれた人は、そのたびなぜか急落して憂鬱な顔になったもんさ。

おれは「間違っている人」じゃない/間違っていることは認めるが、おれはあなたが言うような「人」じゃない。

おれは「人」なんて、立派な格付けの中にはいないのさ、間違いだらけの、何かのやつだよ、夜や夕焼けや赤紫色に吸い寄せられていく何かであって、間違いのすべてがおれの養分なんだ、もっと迷路でおれを閉ざしてくれ。
おれがときどき、常識人のふりをしたり、知恵のある大人のふりをしたりするのは、おれの女や友人が、行方不明になってしまいそうなとき、しょうがなく緊急出動しているだけさ、多くの人は間違うと迷うのだろう? おれは違う、おれは間違ったままゴールしてみせる。
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異性愛氷河期にて2

は男なので、女の子ちゃんは全員好きだ。
それは、僕が異常なのかもしれないが、僕が正常になんかなったら、世界が異常だ、異常な九折さんが正常なのは周知のとおりだ。
「自由で、かっこよくて、満足で」と申し上げているように、女の子ちゃんの全員が僕のことを嫌ったとしても、そんなことで僕の満足は消せない、女ごときが男の満足を傷つけられるわけがないだろ、そのへんはいいかげん弁えたらどうだ。
僕は男なので、女の子ちゃんは全員好きで、だからこそ女の子ちゃんの全員が、こころの底から笑っていないと許せないのだ、そのためには叡智だろうが霊力だろうがフル稼働してやる/男の僕がそう振り切っているのだから、女のあなたに止められるわけがないだろう。

女に感謝されるほどクソなことはない。
感謝の言葉なんて、ヨソのヘナヘナ男に贈ってやれ、よろこぶ奴もいるかもしんねーから、おれは要らない、おれ向けにはヘイトかエロ自撮りのどちらかを送れ、お前が幸せになるどちらかを送れ。
女に嫌われる頻度なんて、パンくずをテーブルにこぼす頻度より高いよ、そんなにチンタラ食っていられないだろ? そしてパンくずをテーブルにこぼして「ショックを受ける」なんて男があってたまるか。
おれにダメージを与える、唯一の方法を教えてやろうか、それはあなたが元気をなくすことだよ、それだけはさすがの僕も抵抗のしようがない/あなたが元気をなくすことだけは絶対にやめてくれ、その方法はさすがに卑怯すぎる。

あなたの愛なんかどうでもいい、大切なのはおれの愛だ。

マフィアが銃口を突きつけるのと同じやり方で、僕もつい突きつけるのをやめられないのだ、おれはおれの判断で引き金をひくよ、あなたの言い分なんか初めから聞いていない、引き金をひくのにあなたの同意なんか必要としていない。
おれにとって大切なのは、おれの愛だけだからね、あなたが笑っているか、元気でいるか、幸福でいるか、それがあなたのためかどうかなんて知らなくて、おれはおれのためにしか動かない/僕は女の子ちゃんが全員好きだ、女と同意なんかしたくない。

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異性愛氷河期にて
性愛が攻撃に晒されている。
同性愛のことは、僕はよくわからないので、ここでは申し訳ないが捨象する/異性愛が攻撃に晒されている。
つまり、男が、「女の子ちゃんたち、みんな大好きだよ!」と清潔に言うことを不可能にさせられ、女の子たちが、「男の方たち、どうかわたしなども愛してくださるように!」と清潔に言うことを不可能にさせられている。
もちろん男性は、「キミのことが好きだよ」とは女性に向けて言うだろうが、「女の子が好き」とは言わせてもらえない、「女の子が好き」とは言えないのに「キミのことが好きだよ」とは言わされるよう義務づけられているのは、非常にいびつで苦しい状態だ。

僕は今でも、「女の子ちゃんたちが好き」「女の子は基本全員好き」と言い続けているが、もし僕がこの言をやめたら、さすがに僕はオシマイだろう。
もし僕が、「女の子ちゃんが全員好き」と言わなくなったら、そのときは一切の書き物をやめるだろう、なぜなら僕自身、「女の子が全員好き」と言えない奴の書き話すことなんか、聞きたくないからだ、世の中の害毒にしかならんから引っ込めと自分で思う。
僕は男なので、女の子ちゃんは基本的に全員好きだ、「なんてカワイイんだ!!」としか基本的に思わない、それによって、もしすべての女の子が僕のことを「超キモイ」とキライになったとしても、僕の側は「女の子は全員好き」と言うのをやめないだろう、その点については、女の言うことなんか聞いてられっかよ。
かつて、「あなたはどういう女の子が好きなの?」と訊かれたとき、「女の子なら誰でも好き」と答えたことがある、怒られるかと思ったが、思いがけず「あはは、あなたってすごくやさしいのね」と笑われたことがあった/やさしいのかどうかは知らんし、そんなことに興味はないが、僕は「女の子なら誰でも全員好き」だ、女がおれのことをキライなのは慣れている。

僕はすべての女の子にハートを投げ、すべての女の子は僕に石を投げる、それが「平和」だ。

このことに何の問題がある? 石を投げる女の子が悪いのじゃない、女の子だから石しか投げられないのだ、女の子がハートなんか投げられるわけがないだろ、石しか投げられないから女の子なんだよ/地球上の石より僕のハートのほうが多ければ僕の勝ちになるという、ただそれだけのゲームだ。
「女の子は全員好き」という、サイテーなハートを、もうここに四千件も書いているわけだが、どんなミサンドリーでも一人で四千件も記事を書いて男を罵っているバカはいないよ、それはけっきょく向こうの弾数が負けるってことじゃないか、このゲームで降伏するのはおれの側じゃねえよ、物量作戦でおれに勝てるわけがあるか。
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意味のない記事ホェェェェェ
期的に、不思議に思うのだが、このブログと本サイトを観てくれている人(お前のことだぜ)は、何をどうやって、こんなところにたどり着いたのだ、それがいっつも不思議でならない。
自分で運営しているくせに、だらしないことだが、これだけウェブ全体が発達した状況の中、もうこのサイトに偶然たどり着く可能性はほとんどないぜ、いまどき「ホームページビルダー」で更新しているサイトなんて探しても見つからないだろう。
もうかれこれ、十年以上前から続けているのだが、これほど閲覧者数が増えもせず、減りもしないサイトは希少だ、何を書いても閲覧者数は増えないし、かといって減りもしない、まったく不思議なもんだぜ。
定期的に、「何かもっと、閲覧者数を増やす方法はないかなー」と思うのだが、結論として「ない」のだ、それはお前らがおれのナイス記事をシェアしないからであって、という、この愚痴もすでに言い飽きてしまった、4000件ある記事が1件たりともツイッターにもフェイスブックにもシェアされないというのはどういうことだ!! インターネット壊れてるのとちゃうか!!

まあなんというか、みんなして「こっそり」読んでいやがるわけだから、しゃあないが、それにしても、何年も継続して読むのだから、共有できる友人がいたらいいよね、そういうこころあたりのある友人にはぜひ個人的にシェアするように。
とはいっても、何かこう、「シェア」と言った途端、何かそーゆーのじゃないよね感がすさまじくあるな、そもそもこれは「コンテンツ」なのかどうかさえアヤシイ。
とはいえだ、漸増でもいいから、物事は拡大に向かっているべきなので、まあ何かのときには、友人に教えて差し上げるようにな! 単純に一人が一人に教えてくれたら、それだけで無限に閲覧者は増えていくはずなんだから〜(はぁと
とはいえ(「とはいえ」が三回も続くクソ文)、人は何かしら、貴重に感じるものって、そんな簡単に他人に分散しないよね、おれだって貴重なものは赤の他人に見せたりしないからなぁ、というわけで、おれのことなんかどーでもいいやという奴は、ガンガンシェアするように、よろしく。

閲覧者数が動かないのは、おれの責任ではなく、閲覧者たちの責任である。

と、このように、辞書に載るほどの責任転嫁だが、まあいいじゃないか、何かのマグレで閲覧者がドカーンと増えねえかな、ジャスティンビーバーが急にアクセスしてくることはないだろうか。
あ、かといって、ヘンチクリンなスピリチュアルの奴を呼び込んでくるんじゃねえよ、何かもっとイケイケでプルンプルンの女の子を呼び込んでくるのが最善だ、そりゃイケイケでプルンプルンの女の子のほうが霊的にイケてるのは明らかなんだから。
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