☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
あなたのキモチと俳句の違い
句には、日本人としての「こころ」を取り戻すための、たいへん有効な様式が保たれている。
どういうことかというと、俳句というのは「わたしのキモチ」ではないのだ、代表的には「花鳥風月のこころ」なのだ、つまり端的には「『わたし』が主語じゃない」ということになる、このことが極めて大切。
「春夏秋冬のうちで、どれが一番好き?」と訊かれたとき、「(わたしは)春が好きです」と答えないこと、「春が、いいですね。春、いいですもの」と、「わたし」ではなく「春」を主語に答えること。
このことさえわかっていれば、俳句は簡単だ、季語をブッ込んで、「わたし」以外の、世界の事物の「こころ」を詠めばいいだけだ/つまり、○花のこころ、○鳥のこころ、○風のこころ、○月のこころ、×わたしのこころ、というのが俳句のすべてになる。

たとえば「寒林(かんりん)」という季語をブッ込む、寒林とは冬に落葉した木々のことだ。
それで、何かそれっぽい景色はないかね〜と想像して(本当はちゃんと逍遙すること)、たとえば「寒林に振袖華やぐ公民館」といえば「ああ田舎の成人式かな」という感じになるし、あるいは「寒林にざざんざざんと海の音」というと「日本海的な?」という感じになるし、「寒林に精霊駆ける童かな」というとそういうふうに遊んでいる幽し子供に向けて想像力は引き起こされる、だが今はそんなむつかしいことじゃなく、「俳句とはつまり自分を主語にしないこと」だ/「古池やかわず飛び込む水の音」に松尾芭蕉による「オレのキモチ」は入っていない。
一番ダメな例は、「食べたいな、ああ食べたいな、きなこもち」みたいなものだ、これは「わたし」が食べたいのであって、「わたしのキモチ」という、「わたし」主語の主張しかない、これはわざわざ575で自分のキモチを言うゴミだ/この場合、たとえば「孫が搗き曾孫がまぶしたきな粉餅」としないといけない。
われわれは、最も幼稚な性質において、自分を主語にしかできないという自己中心性から、脱け出せず一生を送ることがある、そんなことあってたまるかよという恥だ/俳句というのは何もワタクシ様の超感性をエラソーに言うものではなく、逆だ、自分を主語にせず「もっと大きな世界が気づけばあった」ということを捉えるものだ、じゃあまともな大人になるのに良いメソッドだろう。

月を見上げたとき、あなたがどう思うかはゴミだ、月がどう思っているかはゴミじゃない。

「きれいだな、月がまんまる、きれいだな」ではゴミ丸出しだ、「わたしがこう思うわたしのキモチ」というゴミを即刻捨てよう、「寒林を月が照らさば空の棘」「十六夜と寒夕焼の谷歩む」「月の蒼冬薔薇に染み赤黒く」「年越しに満月たくらむ小望月」、「わたし」ではなく「月」を主語にした世界を考えること、その世界を「視る」こと。
あなたがどう生きているかではなく、月がどう生きているかを考えること、そのことを考えられないなら、あなたは僕がどう生きているかも決して考えることはできない、あなたの発想限界が自己中心性で閉ざされているからだ。
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「ステキ」の声と「うざい」の声

なたはどんな「声」をしているか。
たとえば両極端にある二つ、「ステキ!」「うざい!」と言ってみる。
あなたの「声」は、どちらに実感を込めやすいか。
現代、たいてい「うざい!」に実感がこめやすく、「ステキ!」のほうは作り声になってしまう、こうなると問答無用、声帯に毒が回ったのだ、そうなるともう第一に「悔い改める」しかない、毒を抜いて元の声に戻すのはすごく大変なことだ。

食べ物を口にするのに、口に好き嫌いがあるように、言葉を声にするのに、声帯に好き嫌いがあるのだ。
嫌いなものを口にすると「うぇっぷ」となるように、嫌いな言葉を声にすると声帯が「うぐっ」となる。
あなたの声帯は、好き嫌いによって、「うざい」と言うときにはノリノリになり、「ステキ」と言うときには「うぐっ」となったりするのだ、そうなると無理矢理言わせるしかないのだが、やはり「うぐっ」だと作り声になる。
なぜそんなことになったかというと、しつけをせず、偏食を放置したからだ、汚い言葉だけを声帯にむさぼらせ、本来の言葉を声帯に渋らせた、そのせいで声帯がヒステリー症状のガキになってしまった、そういうことはよくあることだ。

汚い食べかたが治らないように、汚い言いかたも治らない。

「なぜこの人は、何十年も生きてきて、食べ方がこんなに汚らしいんだろう」と不思議に思える人がいるじゃないか、あれと同じで、言い方が汚いとか声が汚いとかも、何十年生きても治らないのだ、それによって自分がどれだけ損をするかわかっていても、治せない、加齢してからしつけ(再教育)をしようとしてもヒステリーを起こして体調を崩すだけになってしまうからだ。
食べ方のマナーなんか気にしていなくても、「見ていて豪快で、しかも清潔で気持ちいいな」と見える人もあるし、逆に「マナー自体は正しいのだろうけど、何かモソモソ食べていて汚らしいし、丁寧にされてもわざとらしい」と見える人もある、しつけの有無というのはやがてそれぐらい恐ろしいことになる/声帯に無理を強いるばかりでなく、できるだけまともな言葉の本来の「味」をじっくり教えてやることだ。

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【おトク】名を称えるということ
ブ・ディランとかジャッキー・チェンとか、マイケル・ジャクソンとか、あるいはガンジーとか杉原千畝とか。
あるいはラマヌジャンとかジョン・シュワルツとか、トルストイとかゲーテとか西田幾多郎とかでもいいのだが、光の差すようなすばらしい人の、「名」を口に出して言うこと、これは実は重大な効果がある。
いわば、「名を称(たた)える」という行為なのだが、この「名を称える」という行為には、どうやら重大なプラスの効果があるらしい。
光の差すような人の名を称えて言う(口にする)のは重大なプラスになり、闇のにじみ出るような人の名を呪って言う(口にする)のは重大なマイナスになるらしい、これは経験的にそうだというだけで根拠はないが、きっと誰も損をしない話なのでそのままお伝えしておく。

その名を称えるたび、その名の存在は、自分の内で占有率を高めていくことになる。
いわば、その名を言えば言うほど、その名の存在は自分の内の「クラスメート」みたいになっていくということだ/それならばもちろん、わざわざ自分の学級を「闇のクラスメート」で埋め尽くすことはない。
単純な話、「トルストイ読みましたよ、トルストイ!」と言えば、トルストイという名を二回言えることになる、このことが何か知らんが「トク」なのだ、これをやらない手はない/逆に「この、人生論を読んだんですけど……」ではトルストイの名を言うチャンスを自ら捨てているので損だ、とにかく名を称えるのがトクなんだから。
何か用事があるときを別にして、人の名前を呼称の「道具」として使ってはならない、名前というのは「存在」を生じさせるための言霊(ことだま)だから、基本的に「称える」こととして用いること、特に光が差すようなすばらしい人の名についてはそう、しかもこれは会話のテクニックにもなりうる。

あなたは人の名を称えず、ブランド名を称えてここまで来た。

ふつう、「グッチ」とか「シャネル」とか「エルメス」の名を称えたことのほうが多くて、たとえば「南方熊楠」の名を称えたことはほぼないはずだ、それが思いがけずあなたに損をさせている、あなたを人から見て「人間味がない」と感じさせるものにしているのだ。
言い方はカンタン、あなたが確信と尊敬と、よろこびをこめて「ジバンシー!」と言うように、「ユング!」「前田利家公!」「道元禅師!」「本田宗一郎!」「桑田佳祐!」と言うだけだ/あなただってブランド名しか口にしない男と会話はできないだろう。
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「口ぐせ」が何をもたらすか

くよく点検すると、それぞれが「口ぐせ」を持っている。
何か憂鬱なことがあると、「エー」と口にする人がいる、同じくエーと思っていても、口に出さない人もいる。
「うざい」と感じると、つい「うざい」と言ってしまう人がおり、一方では、「おいしい」と感じると、つい「おいしい!」と言ってしまう人がいる。
口ぐせ、口に出して何を言ってしまうかということは、人によってけっこう特徴的なのだ、「うざい」とよく言う人は「おいしい!」とは決して言わなかったり、「おいしい!」とよく言う人は「うざい」とは決して言わなかったりする、これは単純に口の習慣の問題。

もし正確にカウントするなら、われわれは案外、「ありがとう」とは言っていないし、「おはようございます」とも言っていない、「尊敬する」とか「愛している」とか「すごい!」とか「おめでとう!」とか、思ってはいるだけで、実は口に出しては言っていない。
いつの間にか、単純な「口」の習慣のレベルで、嘆くのが得意な口、ディスるのが得意な口、下卑るのが得意な口、というものに成り果てていることがよくある。
いつの間にか、自分の口が、「感謝を言う口」「賛嘆を言う口」「幸福を言う口」「祝福を言う口」ではなくなっているのだ、そうなると、まさに「口はわざわいのもと」になり、声そのものが、何か不幸や不運や不穏を呼び込む性質を帯びてしまう。
口ぐせは怖いよ、憂鬱に対して「エー」と言うことになれた口は、おいしいものを食べたときも、「エー、これおいしくない?」と、まず憂鬱の「エー」を言うことがやめられなくなっているのだ、その口ぐせはやがてそれにふさわしい人格を作り上げてしまう。

声に出して、「おー」より「あーあ」が馴染むようになったら、あなたはガッカリ女になっている。

ごく簡単に、賛嘆としての「おー」と、落胆や疲労としての「あーあ」を、口に出して言ってみたらいい、すると少なからぬ人が、すでに口のレベルで「あーあ」のほうに慣れているのがわかるはずだ、口がそれに慣れているということは、声はすっかりそういう響きのものに変わっているということ。
単語として、「忠臣蔵」とか「ボブディラン」とか言ってみよう、しっくりこないということがあるはずだ、代わりに「ブラック企業」とか「メンヘラ」とか言ってみるとどうか? いつのまにか口はそれを言うことに馴染んでいる、だから口ぐせは怖い、いつのまにか恋人に対してさえ「いつもありがとうね」とは言えなくなっているのだ、別のことを「口汚く」言いたくなってウズウズするようになってしまう。

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「○○はおれの嫁」「妻じゃないのか」

「ウチの嫁がさあ」というのは、「妻じゃね?」といつも思う。
「ウチの嫁、っていう言い方は、お前の父御さんが使う言い方だと思うが」「そうなん?」。
息子の妻のことを「嫁」と呼ぶ、オトウサンの言い方、というのが普通だ、そりゃ「婿」の反対語なんだから当たり前。
かといって、「じゃあ僕の妻がね」と言ったとして、まあ冗談かギャグみたいになるので、「もう元の言い方でええわ」となるのだが/あるいはこじゃれた言い方としては、あえて旦那さんが「うちの奥さんが……」と他人事めいて言う方法もある。

アニメオタクが、気に入ったアニメキャラクターを「おれの嫁」と呼ぶのと同じように、日本人男性はすでに「妻」という概念を失っている、アニメキャラを「おれの妻」とは言わない。
あるいはもともと、「妻」なんて概念はなかったのかもしれないな、伴侶制の神話がある国でもないし/「嫁」というのは「○○家」という家制度に「嫁ぐ」のであって、直接個人の「○○クンに嫁ぐ」ということはできない。
なぜ「ウチの嫁」がデフォルトの言い方になっているかというと、ぶっちゃけ、日本人男性は文化的に重度のマザコンであり、一人の男性として一人の女性を「娶る」などという器量はないからだ、日本人男性が「妻」などというのはジョークのたぐいでしかない、これは文化的にしょうがないことだ。
そこで全体がどうなっているかというと、「一人の男性として一人の女性を『娶る』なんてできないので」→「○○家というか、『ウチ』に、嫁がない?」「うん、嫁がせて〜」という形で、婚姻が成立している、だからまあ「ウチの嫁がさあ」という言い方で合っている、だから問題は……

「妻」はいないのに「夫」だけがおり、日本の夫婦制度は根本的に破綻を定義されている。

「夫と嫁」という、奇妙な婚姻状況があるのだ、だから「夫」は「嫁」の素行に口出ししないほうがいい、口出しすると烈火の如く反撃を食らうし、またその反撃が正当なのでぐうの音も出なくなるだろう、ひたすら「ムリすんな」と率直に申し上げたい、根本が破綻しているものを急に気分で努力しても絶対に改善はされない。
「嫁」というのは○○家に「嫁ぐ」ものなのだから、○○家の「当主」の指示しか聞かないよ、あなたが言っても「なぜ○○家の次男でしかない丁稚まがいの男の言うことなんか聞かねばならんのだ」と絶対的に反撃されてしまう/かといって「○○家の当主」なんてものは時代錯誤すぎて存在していないので、さらにどういうことかというと、<<家制度がすでに終わっているのに、家制度の名残りである「嫁」文化だけが残存している>>という状態なので、「嫁」と対等に口をきける存在は親族内に存在しないのだ、それはそういうモンなので、あまりむつかしく考えずヘラヘラしているのがベストだ、単なる共同生活ということでも、それは決して暗いものではない。

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「謹(つつし)んで。」
のことを本当に信じてくれている人がいるので、あるがままに書き話したい。
「謹んで」という言葉がある、これがこの現代では誰をも救う魔法の言葉になる。
何をどうしたらいいかわからなくなったとき、あるいはそうでないときでも、メールの文頭に「謹んで。」と書いておけばいい。
口でも言えるようにしたらいい、「謹んで。それでは美容院に行ってきまーす」と言ってもいい、なんのこっちゃと思うかもしれないが、たぶんあなたは僕より言葉の作用に詳しくないからあきらめろ(「謹んで。」と、句点を含めて使うのがコツだ)。

内容はどうでもいいのだ、ただ文頭に「謹んで。」と置くことで、あなたの命に祝福が掛かる。
たとえば、「謹んで。焼肉おごれこのクソ男。よろしく」というメールでもいい、それでも内容より「謹んで。」の祝福の効果のほうが勝る。
とはいえ、当人の人格が破裂していたら、さすがに祝福の効果も及ばないということはあるけど……まあほとんどの人は大丈夫だ。
あなたは人間なんだから、絵文字はしっくりくるのに「謹んで。」はしっくりこないというような、根こそぎヤバい人になっちゃダメだよ。

謹んで。さっさと言われたとおりにやれ。

いいんだ、一種のネタみたいにして使えばいい、「この言葉マイブームなのw」という形で使っても効果に問題はない、とにもかくにも文頭に置くのがミソでありナイスだ。
実際使ってみると、そのうち、「この『謹んで。』を入れたほうが後が続けやすいじゃないか」ということがわかってくる、それは言葉をひとつ掴んだということで、人格の文化性能が向上したということだ、まさか自分の文化性能が向上して文句を言うやつはあるまい。
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言葉で動くこと2
段われわれは、「掃除しなきゃな」という口ぶりで部屋の掃除をする。
あるいは、「散らかっていてイライラする」とか、「掃除したくなる」とかで掃除をする。
つまり、掃除が「必要」だとか「有意義」だとかの、判断や価値観、衝動に押されて、われわれは「掃除」をする。
実はそれとはまったく異なる、人間の行為の方法があるのだ、この場合「掃除」という言葉そのものから、人に行いを為させる力動作用を引き出すことができる。

方法そのものはシンプルで、「掃除」という言葉以外、その他のすべてをなくすことだ。
この世界の他の物すべて(すべての概念)を消去する、この世に「掃除」という言葉だけを存在させる。
その上で、唯一存在するこの「掃除」という言葉を見つめる、するとそれはなんでもないが、「掃除、しますか」という力動がはっきり見えてくる。
このとき人は初めて、「掃除」をはっきり認識できていると言える、実は「散らかっているから」とか「きれいにしたいから」とかの動機が正当性を誇って見えるとき、人は「掃除」という行為を純粋にはできていないのだ、だからそのぶん疲れてしまう。

掃除は部屋をきれいにするためにするのではない。

まるで禅問答なのだが、まさに禅問答というやつで、掃除は掃除のためにするものだ、恋は恋のため、愛は愛のためにそれをするように/外部に「動機」が存在するとき、実はそれは行為ではなく「駆り立てられている」にすぎない。
「???」となるのが当然のことで、おそらくほとんどの人はこの現象を知らない、言葉を唯一に存在させたとき、まったく違う現象が生じてくるということ、このとき初めて「すべてのことに理由は要らないのか」ということが直接見えてくる、このことはぜひだまされたと思って試してみてほしい、極限まで静かにやるのがポイントだ。
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言葉で動くこと
動で動かないこと。
言葉で動くこと。
「言葉は無力」というウソがはびこっている。
言葉の否定は人間の否定だ、たしかに言葉は獣にとっては無力だとしても。

言葉だけがあなたを人間にしてくれる。
言葉を目指し、言葉を履行すること。
衝動で動かず、言葉で動くこと。
言葉が人間の第一の能力だ、それを「識」という、それは人間独自のもの。

「言葉」には、あなたの知らない本性がある。

あなたの神経が興奮して、あなたがメラメラと盛るから、言葉の声が聞こえていないだけだ、「言葉」以上にあなたに身近なカミサマはいない。
あなたはときに動転し、ときに興奮し、ときに取り乱す、それでもあなたのうちに静かにありつづけるのは「言葉」だけだ/まだ知らぬうちからも「言葉」を敬い、やがてはその本性に気づきますように、その準備だけは整えていなさい。
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「我慢」を絶対の禁止とする2

「お前、ここ片付けとけ」
「えー、なんでわたしがやんなきゃいけないんですか」
「それはガマン!」
「はーい、わっかりましたぁ」

あなたはこの文脈での「ガマン/我慢」をどう読み取る?
「はーい、わっかりましたぁ、ガマンしまーす」と読み取っているだろう、だがそれが間違いでありすべての禍いの元凶だ。
本来の意味はそうではない、ここで言われている「ガマン/我慢」は、「あなたは吾我(ごが)の妄執にとらわれており、そのせいで自分のやるべきことを見失って、煩悩の炎に焼かれています」という指摘を意味している。
だから本来は、「それはガマン!」の後は、「あっ、失礼しました、見失っており筋違いを申し上げました」という文脈にならないといけない/頼むからもう、「我慢が足りない」とか「我慢強さ」とか、おぞましい文脈に結びつけるのを辞めてくれ。

あなたは精神性において役割をこなさなくてはならない。

ガマンして役割をこなしているのではないか? そのことはとんでもない邪悪の蓄積になる。
役割をこなすのに、しばしば忍耐が必要なシーンもある、だが忍耐も含めての精神性だ、それを「ガマン/内心で舌打ちしてメラメラしながら表面上はこなしてみせる」なんてやり方をしていたらあなたは必ずグールになる。

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「我慢」を絶対の禁止とする

「我慢」という語は誤用されている。
「我慢」とはもともと仏教用語でアートマ・マーナと言われる煩悩の一つで/「我慢」というのはその字義のまま、「我、という傲慢さ」のことを指している、これは煩悩のありがちなやつで、七つの傲(おご)りのひとつと数えられている。
じゃあ、母親が子供に向かって「我慢しなさい!」ときつく言うことの、とんでもなさがわかるだろうか。
本来は「辛抱しなさい」「忍耐です」と言われねばならないのだけれど、当人が「我慢」しかしてきたことがないので、辛抱とか忍耐とかは言葉として言われない、本人が定義体験を得てきていない言葉は使えないものだ。

現代における「我慢」とは、ずばり本質的に以下の意味になるし、そのままの役割を果たす、このことは断言していい。
「我慢しなさい」とはつまり、「内心で舌打ちしてメラメラしなさい」という意味だ、そういう意味にしかならないし、そういう呼びかけとしてしか機能しない。
内心で舌打ちして、メラメラする、それでしょうがないから表面上は「わっかりましたぁ」と言う、それが現代で言うところの「我慢」だ、このことが人間の内心にグールと呼ぶべき邪鬼を育てていく、アートマ・マーナの鬼が内部に育っていく。
金輪際、「我慢する」および「我慢しなさい」という用い方を国語として禁止せよ、まして母御さんは自分の子をグールと呼ぶべき邪鬼の子に育てたいのか、「我慢の子」に育てるというのは洒落じゃなくそういうことだぞ。

「我慢する」ということは、つまり「精神性のなさ」を育てる。

もともと人は、我慢(アートマ・マーナ)ということの愚かしさを脱するために、辛抱や忍耐も含めたことの中から、ある種の精神性に到達して生きていくものだ、勉強も仕事も「我慢」でするものではなく、精神性に到達して営まれるべきもの。
精神性のない舌打ちメラメラ我慢が内部に育っていく、それは精神性がないのだから「グール」と呼ばれるにふさわしい/どれだけ不本意であっても、「我慢」という語を使っていると必ずそういうふうになる、それが言葉の力なのだからしょうがない、「我慢」は徹底的に否定されなくてはならない。

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まともな話にはかけがえのない魅力がある

メリカ大統領は、アメリカ合衆国のリーダーであると共に、世界のリーダーでもありうるとわれわれ他国者は感じているし、またそう認めさせるだけの実効的な力をアメリカ合衆国は保有している。
近現代の人類は、市民が解放的であれる「民主化」をおおむね是として信奉してきたので、われわれはアメリカ大統領について、今後も拓かれていく民主化世界への牽引と保全を果たすリーダーかつシンボルであってほしいと望んでいる。
ここで民主化世界のシンボルについては、「力ある者の自制」のシンボルであってほしいという要求が起こる、なぜならか民主主義そのものが特に権力者を憲法でコントロールするという「力ある者の自制」を法文化したシステムだからだ。
もし、「力ある者がほしいまま振る舞う」ということを容認すると、世界は過去の、蛮族的社会に戻ってしまうだろう、われわれはそうしたことが実際に起こりえるという畏れと共に、世界をそうはさせないシンボルとしてアメリカ大統領を見ようとし、期待もしているのだ。

「力ある者の自制」、つまりわれわれはアメリカ大統領に、第一に理性的な「ジェントルマン」であってほしいと望んでいる。
その点、過去のオバマ・アメリカは、理性的ジェントルマンを望む声に適っていた、われわれにはアメリカ国内の実情は肌身に知りえないが、世界のリーダーとしてジェントルマン・オバマを見上げることに異存はなかった。
トランプ・アメリカの時代が来たとして、われわれは未だ、アメリカ大統領の系譜にミスター・トランプを並べる実感に至っていない、未だあの苛烈なキャラクターを最高権力に据えたという実験的状況に「盛り上がり」を覚えているのみというような状況にある。
われわれは、戦争の勃発さえリスクに含んだこの実験的状況に、悪ノリのスリルを覚えて興じるべからざることを自らに戒めながら、今もなお「アメリカ大統領」はジェントルマンであるはずだと信じているのだ、われわれはそのことを信じると共に、演出やパフォーマンスが政治に彩られる類は、アメリカがアメリカだからだと信じようとしている/その信頼が為政者に届くときはじめて、民主主義は単なるシステムではなく人類が実体化を為し遂げたひとつの理念だと言いうるだろう。

(まともなことを話すのは何もおかしくない)

たまにはこうしてまともなことも書き話してみた/最近、「言葉」はつくづく大事だと思うのだった。
僕がこうしてまともなことを書き話すと、いかにもガラじゃない感じがするので、こうしたことはあなたとあなたの友人が話すべきだ、まともな話にはかけがえのない魅力がある。

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煽情文化について

ょっと真面目な話、「煽情的/せんじょうてき」という言葉ぐらいは持っていていい。
そうしたら、目の前のものが「感動的」なのか「煽情的」なのか、少し区別がついてくる。
大昔、パックマンというゲームがあった、蓮の葉形の操作キャラが、オバケをよけながらドットを食べていくというシンプルなゲームだった。
今はどのゲームだって、登場キャラはとても煽情的だ、蓮の葉形のパックマンがドットを食べていくなんてゲームが流行るわけはない。

30年前、マリオだってパックマンだって、「アルプスの少女ハイジ」だって「風の谷のナウシカ」だって、特に子供向けのものは煽情的ではなかった。
一方、現代では何もかもが「煽情的」たろうとしている風潮があると、こんな考察は誰が見たって正しい。
でもたぶんね、かつて松田優作みたいなお兄ちゃんが、地味なゲームセンターでタバコの煙に巻かれながらパックマンのハイスコアに熱中していたことは実際にあったし、あなたはそのお兄ちゃんとなら、話すことがたくさんあった。
今残念ながら、煽情的なものに煽情されている人と、話すことは特にない、煽情文化に浸りきった人は、本当にもう煽情的なものにしか反応しなくなるから、話せったって話すことは本当にないんだよ。

ビリー・ホリデイは ○叙情的 ×煽情的。

感情を叙(じょ)する[述べ表す]ものと、感情を"煽り立てる"ものはまるで違う、ビリーホリディは暗闇で歌っていてよくて、背後にライトをチカチカさせたら叙情の邪魔になる。
あなたは熱情を叙情するべきで、劣情を煽情されるべきではないよ、少なくともあなたは煽情されるために生まれてきたわけじゃない。

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八〇〇年の本棚
きるのがヒマなら、この世界にあるうつくしい本のすべてを読めばいい。
そういうことは、実にしてみたいもので、人生が最低八〇〇年は無いと足りない、といつも僕は感じている。
重要なことは、その八〇〇年のあいだに読んだすべてのうつくしい本のことについて、一言も云わないことだと思う。
ちょろっと読んだ本や、ちょろっと見た映画、ちょろっとやったゲームについて、あれこれ云うのは、最もだらしない形ですべてを台無しにしてしまうだろう。

うつくしい本を見つけて、読み込み、それについて黙りつづけることは、自分が生きることより何倍かの価値がある。
中には単純に、話が抜群に上手、という本もあって、それについて重要なことは、「この本の話がすごく上手なんだよ」と喧伝することではない。
そんなことはどうでもよくて、どうせなら自分自身真に受けて、しれっと話上手になってしまうことだ。
類まれなる、フィクションとノンフィクションの境目、一見するとくだらないふうに見せかけた風景や人物の決め方、そうして読み手を引きずりこんでいく、そこには当然何年もかかる特別な体験が大口をあんぐり開けて待ち構えている。

どんな大きな部屋も本棚にすぎない。

部屋の大小なんて錯覚にすぎず、どうせ本を読んでいる間は、人は畳の半畳か一畳かをしか占拠できない、立って半畳寝て一畳だ。
本を読んだって、現実生活に関係はない、でもそうではなくて、本当は"現実に生活したって本を読むのに関係はない"という、そちらのことが見えてきておかしくなるってことなんだ。
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生涯の言葉
代の風潮の中で、僕のするような語り口やその口調、文体、また語ろうとする題材そのものについても、どうしようもないおぞましさがついてまわる。
いつの時代もそうだったのかもしれないが、僕は先人がそうであったのならそれに倣うとして、この読み手におぞけを覚えさせるような語り口をやめない。
逆に現代の風潮の中で、矛盾せずおぞましさのない口調を保って言葉遣いをする中に暮らしてゆかれる方に向けては、普段は気づかれようもない警鐘を鳴らしたくも思う。
おのおのの時代ごとの風潮に馴染んで言葉遣いを整えてゆけばよいけれど……本当にあなたの"生涯の言葉"はそれで埋め尽くされてよいのだろうか? そんなことを誰しも一度は考えることがあってよいはずだ。

つまり単純化して言えば、僕が個人宛にラブレターを贈ったとしたら、その受取人はそこに示される語り口において虫唾が走るようなおぞけを覚えるはずなのだ。
だがそれが当然の反応だとしても、では一方で"生涯の言葉"はすべてこの時代の風潮にもみほぐされたもののみでよいと断じ得るかと言われると、誰しも深い畏れから怯みを覚えるものだ。
生涯に交わされる言葉、放つ言葉も受ける言葉も、総量は無限ではあらず決まっており、それらのすべては本当にあなたの生涯を飾るものとして不朽のものでありえたのか。
そしてたいていは、自分にふさわしい言葉どもが自分の生涯を取り巻くというよりも、自分を取り囲んだ言葉どもにふさわしいように自分が生かされることが多いものだ、のちにすべてが"生涯の言葉"となる。

あなたはあなたの言葉によって形作られる。

あなたがこの時代に揉みほぐされた半笑いの言葉どものみを使うならば、あなた自身もこの時代にもみほぐされた、当然の半笑い人間になるよりなく、それらはやがてすべて"生涯の言葉"となり、あなたの生涯そのものを形作って終息する。
なお「言葉」は、影響づけの許に定義され、受け継がれる……という形でのみ自分のものとなる、あなたがあなたらしく使える言葉というのは、あなたがこれまでに受け継いできたものに限られる、そのことまで含めてそれらは"生涯の言葉"と言いうる。
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胆識
「胆識」というすばらしい言葉がある。
【胆識】[たんしき]:胆力と見識。実行力を伴う見識
つまりこの言葉は、「お前の見識はわかるけど、お前の胆力はどうなんだよ」と問うている。
彼とラブラブになりたい、仕事で活躍したい、そのために勉強したいという、見識はわかるけれど、「胆力」のほうはどうなのよ? ということなのだ、なかなかエゲツナイな。

そして容赦のないことに、日本語の慣用句には「胆(たん)を練る」という言葉もある。
「練ってますか、胆? つよい?」という、逃げ隠れのできない容赦ない言い方が国語上に存在するのだ。
胆大心小(たんだいしんしょう)という言い方もあり、「胆は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲す」、つまり「大胆かつ細心でないとダメ」ということも言われている。
「彼とラブラブで、でも活躍もしたい」というのは、「胆の大ならんこと」ではなく、「心がおおざっぱ」というだけだ、そして胆のほうはどうなのかというと、そんなもの立って声でも出せばどんなものか一目瞭然にわかる。

「あいさつをしましょう」というのが見識、あいさつの実際の「声」は胆力。

大声ならいいわけじゃない、小声はもっといけない、わざとらしいのは論外だ、だから「胆大心小」というわけだ、大胆でかつ細心でないとイケていない、なかなかエゲツナイ。
逆に胆力があるのに、ラブラブ相手がいないとか活躍できないとか、勉強が進まないとか、そんなことありえないよ、胆を練りましょうよという話、「胆を練ることですよね」なんて見事なゴミ見識を振り回すことのないように。
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キーワード「荒廃(こうはい)」
ッキーさんの騒動、SMAPの騒動に続いて、今度は元野球選手の清原さんが覚せい剤所持で逮捕された。
ここまで連続すると、ただ「荒廃」しているとしか言いようがない。
だがしょせん、一人のおばさんの不倫とか、一人のおじさんのおクスリとかの話であって、その荒廃に親身になってやる理由はない。
「荒廃」は客観的な事実だが、「恐怖」や「不安」、あるいは「恐慌」や「興奮」は主観にすぎない、あなたはそれに親身になる必要はないし、かといって冷たくなる必要もない。

今、家族仲、夫婦仲、カップル仲、友人仲は、多く「荒廃」があるのだ、残念なことながら。
各業界も荒廃しているし、多くの人は表面的にはどうでも、個人的内部にはどんどん荒廃が起こり始めている。
「荒廃」だ、「学級崩壊」だろうが「仮面夫婦」だろうが、「ブラック企業」だろうが「悟り世代」だろうが、すべて「荒廃しているなあ」の一言で済む。
「あの人の振る舞いがなんかヘンだ」ということに直面したとき、あなたはウワッと思うだろう、それは当たり前なのだが、でも客観的にはどこまでも「荒廃」で済むからね、そのことを忘れないで、あなたは「荒廃」に巻き込まれないでいて。

「荒廃」に向き合うのは「復興」であって「涙」ではない。

今、「ソシャゲでチャットしたイケメンリア充が成人式とサッカー観戦とハロウィンではっちゃけてたけど絡みづらいしFランの負け組だから既読無視しよう」というとき、行き着いたというほどの「荒廃」がある。
「荒廃」は根が深くて、よくよく近づくと猛烈にゾッとするときがある、「何なのこれ」って、「荒廃」だ、そして「復興」というのは第一にあなた自身の復興でよろしい。
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脳みそとアンチエイジング
化について、経験から断言できることがある。
老化というのは必ず脳みそからくる。
老化していく脳は、まず「不適切な言葉を使う」という症状を見せる。
この症状を見せてから、老化が進む勢いはものすごいものだ、だからどうか言葉は正しく、精度の高い言葉を使おう。

例、「湯呑み」のことを「コップ」と言わないこと。
「ベッド」「バッグ」のことを「ベット」「バック」と言わないこと。
「蛍光灯」のことを「電球」と言わないこと、「ブラシ」のことを「クシ」と言わないこと。
他にも無数にある、これは僕が神経質で言っているのじゃない、老化は本当にこの「不適切な言葉を使う」ことから始まるんだ。

そのうち、アイスクリームとソフトクリームの区別もつかなくなる。

イヤホンのことをヘッドホンと言うようになり、脚立のことをハシゴと言うようになり、レンゲのことをスプーンと言うようになる。
次第に人に意味が伝わらなくなってくる、そうすると次はゴリ押しをし始める、これはお説教で言っているのじゃない、本当にアンチエイジングのことについて話している。
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クローゼット
はどんな服を着てもいいし、どんな言葉を使ってもかまわない。
個人の自由というやつで、高級服を着てもいいし、高級な言葉を使ってもかまわない。
が、ダサい人には、高級な服は余計に恥ずかしいし、高級な言葉も余計に恥ずかしい。
「おしゃれ」というのは、服が「洗練されている」と見えないといけないし、言葉も同じで、「洗練されている」と見えなければ逆に恰好が悪い。

なぜあなたは、ゴミ捨て場から拾ってきた服なんか着ているのだろうか?
いや失礼、間違った、服はちゃんとしていたな、言葉の話だった。
なぜあなたは、ゴミ捨て場から拾ってきた言葉を使いまわして、しかも、だんだんとそれが似合う人になっていくのだろう。
あなたの言うとおり、おしゃれって甘くないよね、無理して着ている服ってすぐわかるし、無理して使っている言葉もすぐわかるからな。

詩集は言葉のコレクション・ショーだ。

だから、「こんな言葉、誰がどこで使うんだよ」みたいな言葉が並んでいる、パリコレと同じだ。
確かにあなたには、高級な言葉は「似あわない」のかもしれない、でも、居直っているふうに見せて、それってあなたのコンプレックスなんじゃないのか。
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「相手」に向ける能力について
要なのは常に、「相手」に向ける能力だ。
握力や背筋力なら、自分ひとりで鍛えられるが、そんな能力はきっとあなたに重要じゃない。
あなたの声が、言葉が、存在が、響くか、伝わるか、必要なのはその能力だ。
自分ひとりのことだけ鍛えて、相手に向けるうんぬんになると、度胸と根性の面から、さっさと逃げてしまう人はすごく多い。

たとえば、母国語で女を口説けない男性が、外国語を習ったって意味が無い。
習わなくたって、アイラブユーぐらいは知っているのだから、それで口説けばいいだけの話だ。
口説く、笑わす、呼びかけ、歌い、交渉する、すべて「相手」に向ける能力だ。
「相手」に向ける能力において、自分は無能でかつ"臆病"だというとき、人は逃げる、そこは逃げない覚悟をしなくちゃいけない。

楽屋で声を嗄(か)らす。

「楽屋で声を嗄らす」という、慣用句がちゃんとあるんだ。
楽屋でどれだけ色っぽく、面白い話ができているつもりでも、それじゃだめなんだ、目の前の笑いにくいヤツをどう笑わせるかというのが人間の能力だからだ。
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針小棒大
族から形成される「人間観」は大きい。
女性が男性不信に陥るとき、たいてい、「父が母に冷たくした、母が傷つけられた」という体験が背後にある。
それを、フロイト的にエディプスコンプレックス説から読み解く方法もあるだろうけれど、フロイト自身も晩年にはそれに飽きてしまった。
そういったことをすべて無視して申し上げるけれど、ただ理知において自明のこと、「おれはあなたのお父さんじゃございません」、別の人間だ。

世の中には、「一事が万事」ということがあるから、「元カレがサイアクだったから、男って基本サイアク」ということは、半分正しい。
でも一方で、小さくささやかな出来事を、さも人類史に普遍の大テーマであるように取り扱う、ただの阿呆らしさもあるんだ。
そのことを、「針小棒大(しんしょうぼうだい)」と言う。
針小棒大、こいつは頭の冷める好い言葉だ、「あなたの悲嘆や障害の根拠は、本当にそんなにバカデカイものか?」。

まるで靖国に行ったら戦争になると騒ぐアホウ新聞みたいにか。

別に、悲嘆に暮れていてもかまわないわけだが、その危難の大報道は、本当に役に立っているのかね。
「針小棒大」、この一言で"解決"までしてしまうことが、現在あまりにも多い、自分自身に騙されちゃいかんよ。
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