☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
主観と客観の無関係性
でも自己客観視する時期があると思う。
思春期とか青春とか、部活動とか就職活動とか、その時期の恋あいとかで……さすがにその時期に自己客観視ゼロで来た人は、ヤバいぐらいのバカになっているわけで、それはもう取り返しがつかないたぐいなので、そのまんま取り返しがつかない何かとして生きているという中高年は、世の中にけっこうな数いるのだった(しゃーない)。
自分で客観視しなくても、客観的な視点というのはあるのであって、自分で客観視しなくても、客観的に優れているか否かというのは決まっている、そして客観的に優れていなければそれは実際優れていないのだろう、そのことは別にシビアというわけではなくてただの「当たり前」だ。
一方で、つくづく思うのだが、客観的に見て優れているからといって、その優れていることに何か意味があるかというと、別に意味はないのだ、これが非常にやっかいだと思う/思春期とか青春とかで、まともな人は自己客観視のプロセスを経るのだけれど、それで客観的に優れている何かになっていったとして、「優れているからって何なのだ」と、他でもない自分自身に問い詰められるところが出てくるのだ、世界で一番高級な自動車を持っていたとしてもそれが子供のお気に入りのゴミのようなおもちゃに敗北することはいくらでもある。

自己客観視というのは、要するに、自分の主観を、客観の情報に合理的に寄せていくということだ/客観的に見てダサいと思うものを、自分でも「うん、ダサいな」と見えるようになるというだけのことだ、よほどプライドが高くない限りはこれはそんなにむつかしいことではない(そのよほどのプライドというのを克服するのがむつかしいので実際はむつかしいことだが)。
それで、まともな人は誰もが自己客観視をして、自分の視点を客観のそれに寄せていくのだとしてもだ、それによって客観的に優れた人たちばっかりになったのが現代という趣きがあるが、つくづく、その客観的に優れているはずのものを周囲に並べたところで、「つ、つまらん」という絶望的な直覚に襲われるのだ/客観的に優れているものが主観的にナイスとは限らないので、つまり六本木ヒルズの最上階に住むよりよくわからないアパートの六畳間のほうが「なんか快適だったよな」「快適以上に、何かサイコーだったわ」ということが主観的にはあるのだ、しゃーない。
どれだけ客観的に上手で魅力的な歌手が唄ったって、要るか要らんかで言うと「あっ、おれには要らないっす」ということがあまりにもよくある、あまりにもよくあるというか、大半のものは主観的なおれにとっては要らんものばかりだ、たとえ8Kテレビに超絶美人とセクシー衣装をズラーッと並べられたとしても、その客観的に優れたものがおれの主観にとってどうなのかと言われると、うーん「あまり関係がない」「というかまったく関係がない」ということが見えてしまう/自分の食わないステーキがヨソでどれだけウマかったとしても、そんなことまったく要らないとしか思えないのだが、これはおれの感覚がアホなのだろうか。
なんというか、自分でどれだけ主観的に優れていると思っても、客観的に優れていなければ、それはやはり優れていないのだろうし、かといって、客観的にどれだけ優れていると言われても、主観的に「要らない」と見えたらそれはどうしても要らないのだ、つまり、<<主観的にどう思っているかは何の言い訳にもならない>>し、同時に<<客観的にどうであるかも何ら言い訳にはならない>>ということなのだと思う、けっきょく客観的に優れていなきゃ話にならないし、かつ主観的にイイものでなければやはり話にならないのだ/思春期や青春の時期において、自己客観視というのは苦しい戦いのプロセスになると思うが、どうもその何十倍も厳しい戦いとして、世界の主観視というプロセスがあるように思う、この二つを潜り抜けていないとけっきょく話にならないのだ。

客観的に優れていないものは大抵ゴミだが、客観的に優れているものも大抵ゴミだ。

奇妙なことを言うようだが、主観的に「要らない」ものというのは、名前がついていないのだ、代わりに「タイトル」がついている、ものの名前であれ人の名前であれ必ずそうだ/「タイトル」というのは題のことでもあるが、「肩書」のことでもある、名刺に書いてある「課長」とか「〇〇アドバイザー」みたいなものがそれだ、「名刺のタイトルは何になっている?」というような使い方をする、人であれモノであれ、主観的な必要なものには名前があり、主観的に要らないものはタイトルだけしかついていない。
「主観」というとき、「主体」があるからそれを主観というのだが、正しくは「主」というのは「命」であって、自己客観視というのは場合によってはただの「命の否定、命の放棄」でしかないことがある、そうして命を否定・放棄するほうが「生」においては有利ということがあるのだが、もちろん有利になるぶん「生」の意味はなくなる、そもそも「生」そのものに意味はないわけだし/名前というのは不思議だ、おれがダンゴムシに秘密の名前をつけたとすると、その「名前」という現象はおれ一人しか知らないことになる、つまり「主体」という現象があって「主」しかそのことを知らないということになる、にもかかわらずその現象は実際にあるのだ。
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人を信じるのはいいが、人の言っていることを信じてはいけない
じるものといえば、勝利と栄光と幸福を信じていればいいのであって、それ以外のものを信じる必要はない/そりゃそうだ、どこの誰が敗北と恥辱と不幸を信じるのか、まあけっこうそっちをかたくなに信じている人が多いのも事実だが……
人を信じるのはまあいいが、人の言っていることを信じてはいけない、なぜかというと、たいていの人は自分が本当には何をやっているかとか、本当に起こっていることは何かとか、自分が本当に行くのはどこであるとか、そんなこと自分でわかっていないからだ、そんな本人もわかっていないのに言っていることを信じてはいけない。
奇妙なことになるが、人の言っていることを信じるというのは、むしろ人を信じるということに対して逆向きになるのだ、たとえば「コイツは頑張るだろう」と信じている人が、「わたし頑張ります」と言っていたとして、その「言っていること」のほうを信じてはいけない/それはもともとあった「人を信じている」ということをむしろ否定して、言っていることのほうを信じるということにすり替わっているからだ。
そうではなく、「コイツは頑張るだろう」とその人を信じているのなら、そいつが「頑張ります」と言おうが「頑張りません」と言おうが、そいつの言っていることなど無視して、「コイツは頑張るだろう」と信じていればいいのだ、それが人を信じるということだ/往々にしてその人はこちらが信じたとおりにはならなかったりするものだが、それはほかならぬ当人が、「自分で言ったことを自分で信じてしまう」からだ、自分で言ったことを自分で信じてしまうというのは、やはり同じ仕組みで「自分のことを信じなくなり」「自分の言ったことのほうを信じる」ということにすり替わってしまうということなのだ。

人を信じるというのはいわゆる仁義礼智信のひとつであってまともなことだが、人の「言っていること」を信じるのは、それとは異なりブキミなことになる、人の「言っていること」を信じるのはそれじたい呪いになってしまうのだ、だからその人が言っていることがその人の本心であってその言ったとおりのことをその人が履行したとしても、事象そのものが呪いになってしまうので、ブキミで血が気持ち悪くなるという作用が起こってしまう。
ここは考えをサクッと整理して、「人を信じているなら、その人の言っていることなんか信じなくていいでしょ」と断じてしまえばいい、これほどすっきりした理もなかなか他にあるまい/おれの書き話していることはいつも何かよくわからんナゾみたいなことばかりだが、そうしてわけのわからないことを言われても、わからないだけに信じようもないわけで、けれどもおれの書き話すことをずっと聞き取っているというのは、つまりおれのことを信じているのだろう、おれのことを信じているのならおれの言っていることを取り立てて信じる必要はない。
まあおれの場合は特殊であって、おれの書き話していることはすでにおれの「言っていること」という次元ではないから、まあここに書かれている話を信じても何の問題もないのだが、フツーの人はダメだ、フツーの人は当たり前だがフツーのやり方でしか話せないし書けない、そしてフツーのやり方というのは自分のこころに思っていることを言うだけなのだ、これがそのまま呪いになるから人の言っていることなんか信じなくていいのだ、むしろ言っていることを信じずそいつ自身を直接信じてやることでその当人が余計な呪いを自分で被らずに済むというメリットもある。
だいたい、フツーの人が何かを「言う」という場合、ひとつには「勢いづくために愚直を言う」か、もうひとつには「賢明になるために勢いを下げることを言う」かという、二通りしかないのだ、それは勢いパターンでも賢明パターンでもけっきょく呪いにしかならないので、実は「誰も聞いてくれねー笑」という状態がベストなのだ/信じるなら人の言っていることではなく「人」そのものだ、そしてもしその人が信じたとおりにならなかったとしたら、それはたいてい自分で自分の言っていることを信じたがために、自分自身を信じるということを失って自ら呪いにかかったものだと決めつけてしまうのがいい。

人の「言っていること」はすべて気の迷いであり、それを信じるのもまた気の迷いだ。

おれは今こうして書き話しているが、おれが何かを「言っている」というのはまるで聞こえないだろう、こんなフツーでない話ができるのはごく特殊な奴だけだから、これを基準には考えないことだ、フツーの領域においてフツーの人が何かを「言っている」ことについては聞かなくていいし信じなくていい/だいたい人の気がヘンになるのは誰かが何かを「言う」からであり、同時に自分も何かを「言う」からだ、自分も誰も何も言わなければ気がヘンになる理由がない、このことをよく見て、人を信じるのはいいとしても人の言っていることを信じるなど気がヘンになる入り口でしかないと思え。
おれがこうやって書き話しているのは、常にこうやって気分がいいしブキミなことにはまったくならず、むしろ人々を救済するナゾの光に満ちているのだが、おれが書き話す中にはおれが何かを「言っている」という成分はないし、ましてやこのおれが誰か他の奴が「言っている」ことをわずかでも聞いていると思うかね? おれは誰かが言っていることなんてわずかも聞いていないし、おれ自身が何かを「言う」ということもない/おれの書き話しているものをひとつ読んだあとに、誰かのツイートを三つぐらい読めばこのことがわかるだろう、人の「言っていること」を信じるというのは、人を信じることを投げ捨てて呪いに身を投じることにしかならない。
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「わからない(の)壁」と外愛
のタイトルはさすがにわけがわからない、が、今のところしゃーない、おれもこの現象が何なのか、掴めてはいるのだが説明できる感じがまったくしない、よって今からする説明は何のこっちゃわからんことになるので、前もってそのようにお詫びしておく。
われわれはどうやら、この世界にあるすべてのものを、どこか「わかる」と誤解しているようだ、それは完全な誤りであって、何かが「わかる」気がするのは完全な錯覚にすぎない。
ではその "完全な錯覚" がどのように得られるかというと、それは何かを理解するということであり、さらに言えば何かを「身につける」ということだ、驚くなかれ、何かを「身につける」というのはこの世界に対する完全な錯覚・誤解に陥るということに他ならないのだ、こんなもん何のことを言っているのかさっぱりわからないだろう。
この世界にはせいぜい、「わたし」という現象と、どうやら「わたし」でない一切の外界のものがあり、それがつまり「世界とわたし」、むつかしく言えば「梵我」ということになるのだが、この「わたし」と外側の「世界」のあいだには、どうしたって「わからない」という壁があり続けるのだ、この「わからない」の壁が破壊されることは一ミリもなく、むしろわれわれはこの「世界」と「わたし」がつながっているという誤解を獲得してそれを増幅していくだけで、わけのわからない一生を過ごすというのが真相のようだ、もちろんおれのような偉大なる大天才の場合は例外だが、その偉大なるおれさまからしても「さすがにこんなこと気づけねーだろ」とあきれ果てる具合になる、こんな根本的なトリックにどうやって気づけというのだ、一切のことは「理解された」あるいは「身についた」という誤解でしかないというとんでもない話だ。

「わたし」と外側の「世界」は、決してつながることはなく、一ミリだって変動しない壁、「わからない壁」に閉ざされており、であるからわれわれが一切について「わかる」と思っていることのすべてが誤解であり錯覚なのだ、そもそも「わたし」がこの世界に対して「わかる」ということ自体が理論上ありえないのであり、いわば「わかろうとする努力・気持ち」でさえその時点ですでに錯覚であり誤解だと言える(といって、そういう気持ちをゼロにできる奴が本当にいるのか)。
一方で、まあまったく驚くしかないことに、この完全な壁・完全な隔壁がある一方で、やはり「愛」という現象はあるようで、まさに思議不能なことに、完全な隔壁で閉ざされている向こう側と、完全に閉ざされたままつながるということがあるようなのだ、なんのこっちゃわからんと思うが/それどころか、より厳密にいえば、「愛」という現象はそのように完全な隔壁が "あってこそ" 起こる・認めうる現象だということになる。
だからそれを強引に言おうとすると「外愛」ということになる、隔壁の外側に起こる愛ということだ、うーん何のこっちゃわかってたまるか/「わからない壁」というのは本当にとんでもなくて、そんなもの自分がするクシャミひとつだって本当は「わからない」のだ、何かを「わかる」という現象は本当は存在しておらず、すべて自分の錯覚でしかない、いくら解剖学に詳しくなり生理現象に詳しくなったところで、それが「わかる」というのはすべて錯覚だ、「わたし」の中にエセの「世界」を混入させて生じた誤解であり、これが入り込むほどに「愛」という現象は遠ざかっていく(現実的には、ほんの微量でも入り込むともうダメ、実効的に愛ゼロになるという具合だ)。
これはつまり、現実を見極めろということなのだと思う、現実を見極めるとやはりすべては「わからない壁」で完全に遮断されているのであり、われわれがこの世界の何かを「わかる」ということはゼロなのだ、これはあたかも、現実的なわれわれが生身の感覚をもって「お話」の中に入ることはできないということに重なっているようだ、われわれにとって「お話」こそ完全な外側にあるものであって、われわれは壁に閉ざされて何もできないのに、「お話」はそれを飛び越えて結合作用を起こしているようなのだ、もちろんこんな話について誰かに何かがわかるわけがない、実際にこの現象を目の当たりにすると、それはもう「げっ、何これ!?」と声を出して驚きたくなるぐらいのものなのだ。

わたしはどうやら、「お話」と歩いており、「お話」と寝ている/外側に出ようとしたことは一度もないし、外側から入れようとしたことも一度もない。

外側とは完全に隔たれているのだから、自分から外側に出るとか、外側から自分に入るということは、一切ないのだ、すべてが「わからない(の)壁」に隔たれており、この隔壁に面したまま「お話」を突っつくと、なぜかその「お話」だけが壁の向こう側に対して結合作用を及ぼすことになる、それで「げっ、何これ!?」となる/お話はもともと神話としての仕組みがあるようだし、神話の仕組みがあるからそこから遠く離れた新しい「お話」を自分として構築することもできる(言っておくが、ここでいう神話って "人が思い付きで言い出したカミサマの話" って意味じゃねーよ)。
考えてみれば、おれは自分から人に何かをしようとしたことは一度もないわけで、世界に対しても何かをしようとしたことは一度もないわけで、ただあらゆる場所で、またいろんな人に向けて、何かしらんが「お話」がどんどん発生していく、創られていく、ということをわけのわからないまま目撃してきただけだった、このごろは一部だけ他人のことをわかろうともしてきたが、それらはおれの引き起こしている作用の根本とはまったく無関係のことだ、けっきょくはまたおれが「わからないの壁」の中から「お話」をやって、「げっ、何これ!?」というやつを使うしかないのだ、この作用が逆にけっきょく「止まらない」というのもある意味おっかない事実だと改めて思うのだった。
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これからの「痴愚世界」2
を疑うほど "かわいい" 女の子が、まるで新種のように現代に出現している。
訊いてみると、彼女らは学歴が高かったりするし、裁縫や料理が得意だったり、家事全般をそつなくこなしたりする。
歌や楽器をやらせてみると「あれっ?」と思わせるぐらい上手だったりするし、何か絵やイラストか描かせてみるとやはりパッと見栄えがするほど上手だったりする。
その美貌だけでなく、能力や才能も平均と比較するとハイタレントということになるのだが、にもかかわらず、彼女らを覆いつくし、また内部から彼女らを粉砕し続けているのは、やはり「痴愚」の現象なのだ、彼女らも泣くことはあるしシリアスになることもあるのだが、何をどうやっても「大事なもの」を胸に抱えるということが起こらない、わけのわからない痴愚という現象が彼女らを内部からコナゴナに砕き続けている。

彼女らは、何一つウソをついてはいないのに、彼女らには「本当のこと」が何一つない。
彼女らは、いつも意欲的で熱心なのに、どうしても中枢は空っぽで冷淡なままだ、愛嬌があって分け隔てなくやさしい考え持っているのに、中枢にはやはり何の考えもない。
恋愛にも素直にこころ惹かれていて、ボランティアやチャリティにも当然以上のこころを寄せているのに、恋あいは必ず空っぽになり、助け合うということが互いに響くこともない。
中枢まで猛毒が染み渡ってしまい、中枢が破壊されているのだろう、彼女らはいつも余裕をもっているのに必死で、必死でやっているのに薄っぺらだ、目はまっすぐ向けられてピカピカなのに、まなざしはどこにも見当たらない、彼女らはいつも楽しいのに楽しくなったことはなく、いつも真剣なのに真剣になったことはない、人好きしているのに人を好きになったことはないし、最大まで充実しているのにわずかでも充実したことがない/これが「痴愚」だ、これは魂の問題から起こっていることだから、彼女らのこころがどう対抗してもそれがマシになることはない。

彼女らは、人に会うことを大事にしているが、これまでに大事な人に会ったことがない。

これから先やってくる「痴愚世界」は、こうして有能で魅力に満ち善意と美徳に優れた人々が、余裕を持ったまま必死で、それでも何も起こらない、どうやっても「人」が存在しないという世界だ、煩悩三毒という言い方が仏教方面にあるが、その三毒のうち最後のひとつがついにリリースされたという趣きで見れば、今起こっていること・この先に進んでいくことが理解されやすいかもしれない。
ここに挙げたのは、わかりやすく最先端の例、そして若い人の例だが、こんなもの今や老若男女誰であっても同じだ、多くの人がこの十年間、何をどうやってもそれが「大事なもの」にはならなかったということを事実として体験しているはずだ、それは単に世の中が変わったということではない、自分も含めて人々を「痴愚化」が覆うようになったということだ/痴愚というのは知能や知性の喪失を言うのではない、「大事なもの」という現象から切り離された存在を言うのだ。
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これからの「痴愚世界」
とえば街中でも Youtube ででも、びっくりするぐらい "かわいい" 女の子がいて、年齢は十八歳だったり二十歳だったりする。
おれも典型的なスケベ男として、第一には「おっ!」と思うのだが、最近はもう直後には或る種の違和感を覚えて「うーん……???」となる、このごろはもはやそれが違和感ではなくて別の確信になってきた。
すでにおれにとって知られたことを述べてしまえば、これらはまったく目を疑うほど "かわいい" し、魅力といえば信じられないぐらい魅力たっぷりなのだが、本当に起こっていることは何かというと、すでに「猛毒状態」なのだ、本人が猛毒状態になって周囲に猛毒をまき散らしているという状態がすでにあって、そのことが一般には気づかれにくい、ないしはまったくそのようには知られていないだけだ。
現代のアニメ文化・アイドル文化・オタク文化・マウント文化を吸収して育つと、それらの毒を吸収しきって、やはりこういうものが育つのだろう、おれは間違ってもそういう女の子たちを悪く言っているのではない、もはや悪く言うとかそういう次元はとっくに過ぎ去っていて、当人も最早どうしようもない、取り返しのつかないレベルで猛毒状態になっており、その中毒に現在も苦しんでいて、この先その毒がどのような蝕みをもたらしてくるものか、今のところ誰にもわからないということなのだ、おれはその未来の恐怖に向けてわずかでも拮抗阻害の成分を配布しようとしているにすぎない。

目を疑うほど "かわいい" 彼女らは、それだけ見ていると、いっそ猛毒の成分に取り込まれて、何も問題はない、むしろ一種の「天使かな」と見える、特に性的魅力に無防備に干渉を受ける若い人(男女どちらでも)にとってはその甘みの干渉は強烈だろう。
だが、もし仮に、たとえば「サタデーナイトフィーバー」のような映画を、その "かわいい" 彼女らに見せてみる、その映画と彼女らの "かわいい" を交互に見比べてみれば、「サタデーナイトフィーバー」と彼女らは<<まったく噛み合わない>>ということがわかる、そしてその途端、彼女らがまさに「痴愚」という巨大な症状の中に閉じ込められているのだということが浮き彫りになって視えてくる/何度でも言うが、これはおれが彼女らを悪く言いたいのではない、彼女らは何も知らないまま実際にそうなってしまったというだけだ、今さら手遅れかもしれないがおれは万が一にも対抗に有効かもしれないということをここに書き話しているだけだ。
目を疑うほど "かわいい" 彼女らは、おどけてたまに「汚い声」を出す、けれどもその汚い声は割とガチのマジに深刻なもので、抑えきれない毒性が内部に渦巻いているものが、すでに外側に吐き出されているという状態だ/おれは経験上、そうしたケタはずれに "かわいい" 女の子たちが、本人らもよくわからないまま内側で苦しんでいるということを知っているつもりだ、それがまだはっきりとした苦しみとは彼女らには認識されていないが、自分の痴愚症状が精神の髄まですでに入り込んでとてつもない恐怖と苦しみを覚えさせていることに、彼女らの魂は完全な無感覚ではない。
映画「サタデーナイトフィーバー」が、彼女らと<<まったく噛み合わない>>以上、これから先サタデーナイトフィーバーのような映画が作られることはもうないということだ、観るだけでもまったく噛み合わないものが創造されるわけがない、彼女らの口からはこの先も痴愚の毒しか吐き出されず、同様に男性たちもその双眸から痴愚の毒しか漏らさなくなるのだ、おれは誰かのことを取り立てて悪く言うつもりはない、おれが言っているのはただ症状がそこまで深刻化しているということだけで、さらには彼ら・彼女らが最前線で苦しんで内部的には悲鳴をあげているにせよ、これをどうにかしてやれる方法は今のところどこにもないということだ、彼らをまったく別の病棟に隔離すればおれの言っているのがどういうことか誰の目にも明らかになるだろう(むろんそんなことは実際にはされないしされる必要もない)。

素直な子供の時代に毒入りチーズケーキばかり食わされるとこうなる。

別の角度から言えば、「毒はよく効く」ということなのだ、そりゃ当たり前だろう、人類のすべてが知っているように、あらゆる状況でいっそ万能的に、毒というのは「よく効く」/もしおれと同程度に、人の魂と、身と血肉と、毒がどのように干渉しあってその人を形成しているか、まざまざと視えるようになったら、多くの人はとてもじゃないがその "かわいい" 女の子を直視していられなくなるだろう、本当に起こっているのはそれほどまでに陰惨なことなのだ。
それでも彼女らは、人の魂として、なんとかして何かしらの世界を視ようとするだろう、むしろ彼女らの魂はいつもそのことを必死で求めて活動している、けれどもダメなのだ、ただちに別の増幅された「力」がやってきて、彼女らの視認しようとする集中力やその視力を、完全にコナゴナに砕いてしまう、まるで賽の河原で小石を積む子供たちが、三つでもそれを積もうとしたらただちに鬼がそれを蹴飛ばして砕いてゼロにしてしまうように、彼女らの魂は増幅された「力」に暴虐を受け続けている/もちろん仮におれの書き話しているこれが彼女らの目に届いたにしても、彼女らは救われた心地にはならないだろうが、そんなことはもうどうでもいいのだ、彼女らはすでにおれに対する敵愾心や不快感さえ覚えられないだろう、すべてのことは増幅された「力」に砕かれてしまう、この蹂躙され続ける魂を見て「かわいい」と言ってよろこんでいる者は、本当にまったく何も視えていないのであり、それはすでにそのようにまったく何も視えなくなるように当人も増幅された「力」によって支配を受け始めているということだ、今のところこうやってすべて暴き立てるぐらいしかこのことへの対抗策はない。
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聖なる慈悲と悪魔の慈悲
ういえば煙草とスコッチが尽きたので、また誰ぞヒマなやつはおれのために仕入れて奉納するように、相変わらずPEPEのリッチグリーンを吸っている、遊び倒して書くほうが追いつかない(といって書くのも遊びだが)。
おれにはすでに、わからないことを直接視る能力があるので、それを今さらわかりやすくする必要はないのだが、それは「慈悲」なんだということに気づいた、慈悲もしくは憐れみという言い方をする。
おれは、そういうふうに、自分を強引に持ち上げて偉そうぶることが本当に苦手で、もう無理やりそう定義づけるしかないという具合でやっているのだが、そうやって無理やり自分を持ち上げると、本当にいろんなことがピタッと嵌るので、どうやら本当にそういうことらしいのだ、ここまでくるといっそうぬぼれ体質の人がうらやましくさえ思う、何をどうやったらそういううぬぼれを自動的に持てるのかアドバイスがほしいぐらいだ。
おれの場合は正当な理由が必要で、なぜ「こりゃだめだ」と急に慈悲スタイルを思いきるようになったかというと、このことについては悪魔の側のほうが意欲的で、悪魔の側のほうがぐんぐん行っているからだ、それを見ていると「こりゃあさすがにだめだ」と思った/近年に流行しているやさしげなものはすべて何かにピタッと嵌っており、それは慈悲・憐れみなのだが、それはもうゴリッゴリの悪魔の憐れみなのだ、よくもまあそんなに思い上がれるよなあとうらやましい限りなのだが、おれだってなんとかささやかに対抗勢力を為していきたい。

たとえば音楽があって、音楽というとメロディや音程や和音やリズムや調性やら表現そのものやらがあるのだが、そんなものはおれにとってはどうも面倒くさいのであって、何かうまくいかないストレスがあるなあと思っていたのだが、どうやらおれの場合本当におれはフツーの人ではないらしく、そうやって「わかりやすく」してやるのが慈悲だろと何かで気づいて(なぜそんな突拍子もないことに気づくのかナゾだ)、そのよう気づくと急にピタッとすべてが嵌るようになった。
つまりおれの場合、おれの到達しているところはすでにナゾ of ナゾであって、このおれが何かしら向上心やら献身やらの発想を持ってはいけないのだ、おれ個人としての向上心はかまわないのだがそれを人に向ける形にするとメチャクチャになってしまう/一般に言われているそうした「芸術」のたぐいについても、おれにとっては向上心ではなく下に向けた慈悲なのだ、そんなアホなと思いたいところなのだが、すべてがこの捉え方でピタッと嵌るようになってしまうので、この場合はそうした事実の現象を優先して認めるしかなくなってしまう。
このことに思い至ったのには、もうひとつきっかけがあって、ふとおれは学生時代のころを思い出したのだった、おれがなぜかよくわからない合唱団の指揮者になっていたとき、なぜか音楽の展開が勝手に視えるようになっていて、楽譜を見ながら「これはこうだからこうなるので……」とスラスラ解説していると、二つ下の後輩が「す、すげえ、なんでそんなことわかるんすか」とビビっていたのを思い出した。
それで、今はやっぱりおかしいのだ、当時のおれと現在のおれでは能力のレベルは話にならんぐらい違うのに、現在のおれがどのような能力を発揮しても、女子中学生の一人だっておれに対して「す、すげえ」とビビることはないだろう、それは差分からいっておかしな話だ、当時のおれが二つ下の後輩にビビられていたのに、現在のおれは三十も下の女の子にビビられないのだ、なんであれば現代の女子中学生は何であれ「自分のほうがイケてる」ということを強制的に思い込むだろう、おれはそのことにまったく無頓着で、当人がそう言い張りそういう態度を決定しているなら、何の違和感もなく「じゃあお前のほうがイケているのだろう」とおれも一緒になって決定してしまうのだが、これがもうメチャクチャなのだ、何をどう考えてもやはり何の経験も才能もない女子中学生の能力がおれに倍するとは言えないはずなのに、おれはつい、「当人がそう言うからにはそうなんじゃね」とあっさり認めて、何ならそのように世界に報告してしまうのだった。

まるで世界中の全員が、おれに対しては「あなたになんか負けません」と堂々宣言するようなので、おれは自分の能力ていどを「人として最低限のレベル」としてきた。

これが基本メチャクチャだったのだろう、これのせいでおれはもう何年間も、いろんな人たちに対し、「あれ? なんでこんなことがわからないんだ」「なんでこんなことができないんだ?」と、不満に思うのではなく首をかしげてきたのだ、おれには本当にそれが「???」だった。
人々の言い分を聞いていると、つまりおれが女子中学生に平伏して、おれが彼女からいろいろ教わらないといけないということになるのだが、そんなことははっきりいって荒唐無稽だ、人それぞれが視るもの視えるものというのはとてつもない差があるということを最近よく知るようになったが、おれが学生時代に二つ下の後輩に差をつけてビビらせていた当時と比較すると、現代のおれと女子中学生の差なんてもっとはるかに巨大な差になっている、これをおれは下向きに取って慈悲を為さねばならないのだ、おれはそういう発想に本当に慣れていなくて、なんとか今も無理やりその定義をおれになじませようとしている/そうでないと、すべてがピタッと嵌らないのはおれにとってもストレスなのだ。
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100円をもって、50円のものを買うと、手元に残るのは何円か3
あおれのことだから、テキトーに傲慢にエラソーに言うと、たいていの人は認識を振り回してみてもあまり頭がよくないので、認識というよりは認識に付随した感情を振り回すだけになるし、認識以外の「ひょっとしたら主体性」軸についても、ほとんどの人が言うそれはポワーンとした願望まみれのもので、ご都合とヒステリーにまみれたオカルトを振り回すことにしかならない/そういうものじゃねえよと、おれは両軸について言いたいのだった。
認識だって一つの機能であり能力なのだから、キレッキレの高性能でなくては困る、それでいながら同時に、「おい理詰めで来たのに最後にいきなり超能力使って解決するのやめろ」と周囲に呆れられるほどでなくては困る、そのあたり、認識がポンコツな上に「ひょっとしたら主体」のほうもドインチキというのは本当につまらんのだ、何がつまらんといってそれは両方の「性能が悪い」というだけであって、映りの悪いモニタに映り込んでいるのは何かのヴィジョンではなくただの妄想ゴミノイズだ、そんなものにミラクルな自分の可能性を賭けるなどアホの所業に決まっている、ノーミラクル確定っス。
おれの話していることは、脳みそが混乱して面白くてステキなのだが、まあ認識機能がアメリカのエイブラムス戦車のように頑強で高機動でなければ、このことには本気で入り込んでみるみたいなことはやめておいたほうがいい、認識・因果律の軸をあやふやのアホにしたところで、それで「ひょっとしたら主体性軸」の何かが手に入るわけではないし、触れられるわけでもない/神仏を否定したところでたいていその人の合理性の機能が上がるわけではなく本人が自分を賢いと思っているだけの低性能のバカにしかならないように(ひどい言い方だ)、因果律を否定したところでその人の霊性が上がるわけではなく自分ではそのつもりなだけのフワフワ近所迷惑マンにしかならないものだ、そんな寝言ラリーをしているヒマがあったら両軸においてクソほど自分を鍛えろ、そう言われるとただちに「よっしゃ、やーめた」という決断ができて清々しいだろう、おれは幻想を破壊するために書き話しているのだ。
おれが書き話していることはこのように、論理が破綻していない上に、「お話」としての響きも破綻していない、この両軸をクソほど鍛えて啓けという話であって、知性の低い者が因果律を否定しても霊性は得られないし、霊性の低い者が主体性を否定しても知性は得られないのだ/このことは、せいぜいわけのわからんスリルだけ味わっておくのがいい、フツーにおれが遊びに入っている山の、一合目に入るだけでヘタしたら普通の人は精神を損傷する、因果律と主体性の両方をバッチバチに点灯させ続けるというのはそんな柔弱なモンができるたぐいのことではない、首を吊って死んでいる死体の横でのんびり煙草が吸えるぐらいの鍛えられ方をしていないと精神というのは案外すぐに壊れてもとに戻らなくなるものだ。

「不思議」という言い方があるが、これは「思議することが不能」という意味であって、フシギ〜という少女趣味の印象のことを指すのではない、思議不能のことなどいくらでもあって、それこそカントの純粋理性批判にいくらでも書いてある、あるいは禅問答というやつで「両手を打ち鳴らしたとき、左手からはどんな音が鳴っているか」みたいなもの、あるいは数学的に「目の前にある0個の果物は何種類あるか、その果物は存在しているか」みたいものでもいい、クオリア問題でもいいし五秒前仮説でもいいし哲学的ゾンビでもいいし「ニワトリと卵はどちらが先か」でもいい、世の中には不思議なことがあるのではなくて思議不能のことがいくらでもある、無限大を導入したら数学はあっさり 1=2 を導き出す。
思議不能のことにわれわれは思議(認識)でアプローチできないのだが(当たり前)、ここになぜか、デカルトも認めざるをえなかった「わたし」という現象だけが、「あれ〜 やっぱり "わたし" って現象があると言わざる得ないな」と、思議に対してもその説得力を誇ってしまっているのだ/「それ」に対して思議でアプローチはできないのに、「その思議をやっている当人が『それ』でしょうが笑」という矛盾点を永遠に突かれるのだった。
哺乳類の繁殖は、卵子が精子を授精して、卵割と呼ばれる細胞分裂が起こり、胎児として育っていってやがて出産に至る、そしてオギャーといい数年後にはクソガキになる、ということになっているのだが、そのプロセスのどこでいきなり「ハイ "わたし" キター!」となっているのか、経路不明なのだ、だいいち現在のわれわれの全身だって数十兆個の細胞の群体でしかないのに、これらがどう統一されて「わたし」になっているのか不明だ、「身体髪膚は父母に享く、赤白の二滴はこれ始終空なり」、電気クラゲとして知られるカツオノエボシはそれぞれ別の個体である細胞が寄り集まってひとつの個体になる「群体」という生存形態を持っているし、逆にプラナリアは三つにちょんぎるとそれぞれが個体になって三つの個体に分かれて生きていくのだが、こうなるともう「わたし」って何よということでわけがわからなくなる、あるいは多重人格と呼ばれる解離性の現象で、一人の個体のうちに2500人の人格が同居した例があるという、こうなるともう何が「わたし」なのやらさっぱり不明だ。
われわれが認識機能で因果律をドッコイショと神輿に担ぐのもまあ悪くないのだが、「で、その神輿を担いでいる "お前" は、いつどこからどうやって突然ここに現れたんだよ」と訊かれると、その認識機能を持っている当人という "主体" の成り立ちを、当人が説明できない、そして多くの人はアホなので(悪口)、ここで「認識機能の範囲外です」「つまり思議できません、不思議というやつです」とはなかなか答えない、本当にアホなので(悪口)たいして使えてもいない認識機能でガンバって解答しようとするのだ/認識機能では解答できない(思議できない)のが明らかなものに対し、なぜ執拗にガンバって分かっているフリをするかというと、精神が損傷することを防ぐためだ、あるいは根源的な恐怖、「自分は "主体" なる存在に反してきて、それを侮辱してきたかもしれない」ということに対する耐えがたい恐怖がその防御をさせるのかもしれない。

多くわれわれは、「100円から50円使ったら、残りは120円かもしれない」ということを、なげやりに "死後の世界はそうかもね" と考えている。

死後の世界なんてテキトーに言うけれども、それはわれわれの認識がテキトーに「生死」を分割しているからそう思い込んで言いえるだけで、本当は何をもって生まれてきたのか、何をもって死んだことになるのやら、直接は分かっていまい/救急医療に詰めているドクターでも、何をもって「ハイ死んだ!」というのはよくわからないのだ、よくわからないからこそ、いくつかの徴候をもってそれを「死んだ」と認めることにすると "ルールとして" 定めている、医者にだってそれはよくわからない、医者は病気の専門家であって生死の専門家ではない、亡くなられた方はその瞬間からもう病気でもなければ患者でもないのでただちに退院の手続きに向かうのであって、死者は医者の手から離れている。
われわれは「生死」といってそれをテキトーに分割したつもりになって「認識オッケー」と思い込んでいるだけなので、「生前の世界と死後の世界はどう違うんや」「なぜ違うんや」と訊かれても、けっきょくのところ「さあ?」と逆ギレするしかないのだ、無理やり因果律だけに注目すれば「生きていたから死んだァ! 因果ッ!」と言うことができ、「形あるものはみな滅びる!」みたいな幼稚園児めいたことも言いふらしていられるのだが、そこで因果律では思議不能な「主体」について、「主体という現象それ自体は生きものではないから死ぬこともないぞ」「形はないものだから滅ばないぞ」と言われると、回答できなくなって精神がおかしくなる、そこから因果律マンは「じゃあそんなものは存在しない、主体なんてものは存在しない」と言い張るしかないのだが、「じゃあ "お前" はなぜ存在しているの?」となり、こいつはなぜかわからないが自殺したくなるのだった、あるいは自分を滅ぼす方向へ押し出されるのだった/これは割とマジでこうなることがあるので、まあ急に台無しにして、「あ、やっぱ残金は50円でいいわ。レシートにそう印刷されるもんな」と打ち止めにするのもひとつの冷静な緊急避難なのだった。
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100円をもって、50円のものを買うと、手元に残るのは何円か2
まりおれは、この世界の法則を、「因果律だけじゃないっぽい」と見ているのだ、すべてが因果律に収まるふうに見えるのは、単にわれわれの「認識」という能力が因果律しか視認できないからにすぎない。
心理学者ユングは、いわゆる共時性の理論において「因果律のほかに偶然という軸がある」ということを唱えたが、そんなもん再現性の得ようがなのいで、ただそういうガチ聡明な学者でも何かに気づいた人がいるっぽいという、歴史的な道標になっている/ユングが合理主義者のフロイトと対話しているとき、二人の目の前で超心理現象が起こったが、フロイトはあくまでそれを受け入れず、認めもしなかったという(有名な逸話だ)。
おれは因果律という軸に対し、もうひとつの軸があるとして、それを「偶然」の軸とは思わず、要するに「主体」という軸なのじゃないかと思っている、そもそも因果律で考えればこのタンパク質と神経細胞の絡み合いが「わたし」という主体の現象を引き起こしていることじたいがおかしいわけで、因果律という法則軸の中に「主体」という法則軸が混ざりこんでいると考えたほうが全体がすっきり整合する/ただしわれわれの「認識」という能力は、それじたいが因果から発生しているため、因果律しか視認できない、すべての哲学者がそうであったように、認識の機能ではどうやっても「わたし」という現象を一ミリも解明できない。
因果から発生した「認識」という能力が、因果律という法則軸を視認するなら、やはり「主体」という能力が、主体律と呼ぶべき法則軸を視認してもおかしくはない話だ、そしておれが子供のころからずーーーーーーーっと視てきた「これ」は、要するに主体が主体軸という法則軸を視認してきただけじゃないのかと思う/認識の因果によって因果律を見たらそりゃあ 100−50=50円だが、主体によって主体律を見たら残金がいくらかなんて、「主体が与えたとおりになるだけ」だろう、このように因果律というのは「信じるまでもなく、見たらわかるやろ」という現象のことであって、われわれの認識という能力の中にそもそも「信じる」などという能力はない、認識の能力は認め知る(認め識る)ということのみであって、 100−50=50 なんてことは何か秤ででも実験すればいいだけのことであり、信じるというようなプロセスは必要ない、自分が信じると認識しているものは信じるという主体の現象ではない。

これは何も、おれがわけのわからん話をしているのではなくて、因果律つまり原 "因" から結 "果" が生じるという法則が、われわれにとってわかりやすくあったとして、この宇宙に物事を起こす原理は「それだけとは限らんだろ?」ということにすぎない/この宇宙に因果律しかないように見えるのは、われわれが原因と結果という「それしか視えない」からであって、われわれの認識機能に引っかからない原理があったとしたら、そんなものはもうわれわれには "お手上げ" じゃないか、たとえば「時間が止まっているあいだに三年経った」として、われわれの認識できるもののすべてはそのとき止まっているのだからそんなことはわれわれが知りようもないというのと同じ類の話だ。
われわれが認識機能で検出できるものしか、われわれは認識できないのであって、その認識できる因果律のほかにも法則の軸がある……というより、ひょっとしたらわれわれの持っている「認識」という機能が、実はこの宇宙に対してはきわめて限定的な能力にすぎないかもしれないじゃないか、もし自分の持っているテレビとアンテナがNHKしか映さないのであれば他のチャンネルはどうやっても視聴できないように、われわれが一般に持っている「認識」という能力とそこから認め知ることのできる因果律という法則は、何も宇宙の唯一法則というのではなく、単にわれわれが接触できる法則がそれに限定されているというだけのことかもしれない。
何しろ相対性理論によると、光の中では時間は止まっているそうだし、時間が止まっていると言われてもけっきょくわれわれは「???」となるのであり、要はわれわれは認識機能で「分かる」という範囲を逸脱するものについては、存在しないと断定したがる傲慢さの癖があるだけだろう、われわれは質量やら大きさやら速度やらをパラメーターとして物理的に宇宙を観測することができるが、そもそもわれわれに認識できないパラメーターがあるとしたら、そのパラメーターじたいを知る方法がないし、ましてやそれを定量することなどできるはずもない。
われわれの身体は細胞で出来ており、細胞はタンパク質で出来ており、タンパク質はアミノ酸やペプチドで出来ており、アミノ酸は炭素やら水素やら窒素やらで出来ているが、それが寄り集まっていきなり「わたし」という主体性の現象になっているのは意味がわからない、つまり因果律で言えば「いきなり "わたし" なんて結果が出てきてたまるか」ということなのだが、デカルトでさえこの「わたし」という現象を疑うことはできなかった/あなたの部屋のテレビがいきなりウイイイーンと横向きに走り出して高速道路を滑走していったとしたら、そりゃテレビモニタとは違う軸の機械が入っていたのだとあなたは判断するだろう、それと同じようにわれわれが思い込んでいるこの宇宙には因果律とは違う軸が入っているのかもしれない、ただそれはわれわれの認識機能では捉えられず「分からない」ことだ、それはいきなりウイイイーン走り出したテレビモニタが「何チャンネル?」と訊かれても「そういうことじゃない、何チャンネルとかでは説明できない」というのと同じだ。

全員が「認識」を使っていて、つまらんので、おれはどーも違うやつを使うようになったくさい。

なんというか、おれなんか頭がイイので、認識といってもいまいちツマランというのが先に視えてしまうのだ、だいたい「認識」と鼻息を荒くしても、たいていの奴はその認識機能だっておれより性能が悪いじゃねーか、認識機能しかない上にその性能もいまいちってどういうことだよ、ちゃんと高性能にしろ/認識というと、たとえば今は夜だが、夜といえば昼の反対であって、それは善の反対は悪というようなしょーもないことだが、そんなしょーもないことでは、いつもおれのところに「グイグイ降りてくるこの夜」のことはまったく説明がつかない、昼の反対などというアホの認識しか持たない奴は、罰として夏中ずっとゴムぞうりを裏返しにして履き続けること。
おれが視ているところの「世界」は、何か「それじたいのもの」がゴリッゴリにひしめきまくっている世界であって、その中で100ひく50は「別に50で構わんけど」、そんなもんどうなるものか誰にもわかったもんじゃねえのだ、電車が街を通り抜ける音がしていて、音というとそれにだって原因があって結果としての音が出ているのだが、それ「だけ」ではないのだ、「それじたいのもの」がゴリッゴリにキているのであって、認識としては別に何もない、だがこんなゴリッゴリの世界の中で「認識(笑)」みたいな限定的なものがどうやってそれだけで頼りになるんだ。
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100円をもって、50円のものを買うと、手元に残るのは何円か

:太郎くんは100円をもって出かけ、50円のおかしを買いました、太郎くんの手元に残っているお金はいくらですか。
答:太郎くんが信じて求めたところに応じた金額。
このように解答しないと新約聖書の話に適合しないのでこの解答が正しい/この解答でないと数枚のパンが5000人にゆきわたるという話が成立しない。
なあに、心配は要らないのだ、太郎くんが「100円で50円のものを買っても、100円以上は残るでしょ?」とは信じないのだから/だから太郎くんが信じたとおりに、残金はたいてい50円だ、「残金は50円です」以外を信じる奴はまずいない、だからわれわれがこの新約聖書の話にビビる必要は実効的にない。

キリスト教・新約聖書というのは、「信じて(主なる父に)求めればそのとおりになる」という一点押しだが、これでうまく話は合っているのだ、われわれは「100円から50円使ったら残るのは50円だろ」と断じて信じるので、そのとおり信じたままの結果が与えられている。
それで、「100円から50円使っても、120円残っていてくれ〜」と信じようとしても、ダメなのだ、「そんなことをマジで信じられるか?」というのが本質であって、内心でわずかでも疑いながらそれを祈るのだとしたらそりゃ「疑っている」わけで、疑いながら祈ってもダメだ、疑いながら祈ってもそれはただの個人的な「願望」にしかならない。
聖書的に考えれば、われわれは「善悪の知識の実」を食った状態にあるわけで、また仏教的に考えればわれわれは「識」という因業の中にあるわけで、「正直、どーしても 100−50=50円 としか信じられねええええ」という状態だから、いいのだ、そのことまで含めて「信じたとおりになる」のであって、キリストが人々の信仰心の薄さを嘆いているのは、「けっきょく信仰が因業を凌駕しないのなら、テメーらは自身の因業を信じているんじゃねーか、じゃあテメーの因業を信じたそのとおりになっちまえバーカ」ということなのだ/われわれは自身の因業によって「100−50=50」という認識のほうを信じてしまうので、まあふつうは新約聖書に何が書かれていても実効的には何も変化がないのだった。
聖書には「あなたの神を試してはならない」とも書かれているので、「ちょっと残額増やしてくれるかな?」みたいなことをやってはいけませんとも戒められている、そもそも50円ぐらいだったら自分でもなんとかできるので、50円分ぐらいはガンバってはたらいて何とかしたらいい、そうして50円分でもせっせと働いて稼がなくてはならないという罰のことを、どうやら聖書では「自分の十字架を背負ってついてきなさい」と表現している、モーセだって歩いて逃げられるぶんにはあくせく歩いて逃げるべきなのであり、祈って長距離バスを出現させたわけではなかった、そうではなく「これは自分にはもうなんともできない、主よ逃げる用に海を割ってください」と祈ったからそれについては海を割ってくれたということだ/というわけで、太郎くんが50円ぐらい自分でなんとかするべきという十字架を背負っていたら、残額は識業のまま50円でいい、それでむしろ正しく祈りが通じていることになる。

100円のうち50円使って、残額が120円になるとしても、「その120円が神の御名を称えることになる場合のみ」という条件がつく。

モーセ一行の落ちのびる先に向けて海が割れたから神の御名が称えられるのであり、いくらなんでもおれが七里ガ浜に遊びに行ったときになんとなく海が割れても「何これ」としか言われないだろう、そんなアホなことはさすがに与えてもらえない、というかそもそも、そんなアホなことを本当に信じて求める理由がないので、どうガンバってもそんなことを魂の底から祈れない。
何の矛盾もないし混乱もないのだ、われわれは「識」という因業に囚われている「でもでも認識マン」だから、何をどう言われたとしても、「でも、やっぱり、 100−50 は 50 じゃないの?」としか信じない、この認識マンの「認識」という機能をなんとかしようとすると、もう精神を損傷するか認知症になるかしかないのだが、そうやって精神をブッ壊すと、今度は「誰に祈るのか」ということが失われてしまう、「じゃあけっきょく信じて祈るということ自体が無理なんじゃん」ということになり、実効的には「まさにそのとおり」と言うしかないのだ/ただ例外的におれのような超絶大先生の場合だけ、太郎くんが100円のうち50円を使ったとして、残金はいくらかについて「さあな、わかったもんじゃねえよ」と大真面目に言うのだった、だって本当にわかったもんじゃねえと経験的に思うよ。

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独立は人のわざ、結合は神のわざ
とえばわれわれは音階をドミソと分けることができる/この分かる・tell・識別するというのが人の業でありワザだ。
誰でもピアノの鍵盤を押してドミソを鳴らすことはできるが、それによって三つの音が結合して和するかというと、そんなことは起こらない、たとえ純正調に調律したとしても、それは周波数の問題であって、それぞれの音が和するというような結合は起こらない。
人は分かれている別々のものを結合することなどできない、役所と牧師がよってたかって男女を結合しようとしても何ら結合は起こらないのと同じようにだ、ドミソの三つを結合して和することができるとしたらそれは神のワザでしかなく、われわれは神ではないので、神のワザについては神に外注するしかない。
おれの書き話しているこのすべての文言だって、言語というのは一語一語バラバラのものでしかないから、それが一つの文章として結合するなんてことは起こらない、少なくともおれはそんな現象を起こすことはできない、もちろん偉大なるおれさまはそんなことお手のものだがね、というわけでおれは結合のすべては神に外注しているのであって、おれは何をしているかというとむしろバラバラの独立をやろうとしているのだった。

つまりおれがドミソを鳴らすとするならば、おれはドミソをそれぞれバラバラの音として出すので、その結合については神サマよろしくと外注するということだ、おれはそんなにバカではないので、おれが気合を入れてドミソを結合した和音にできるとはツユほども思っていない、おれにはそんなことはできないし、そんなしんどい上に不可能なことは外注するに限るのだ、おれは合理主義だ。
ドミソの上にさらにメロディだのリズムだのと言い、何なら歌詞までくっつくようなことを言われると、「そんなもん結合なんかできるわけねーだろ」というのがおれの冷静な理解であって、結合はすべて外注に決まっている/おれは人として万事をバラバラの厳密な「独立」に向かわせようとするので、和音やらメロディやらリズムやらが「ひとつになるぅ〜」みたいなことを求めない、いや求めるとしたら外注先に求めるのであっておれ自身には求めない、おれ自身は冷静にすべてのことを「ほいバラバラにやりますよ〜もともとバラバラですからね〜」としかやらない、そんなもん「おれの思いと女の思いはバラバラだろw」というのと同じであって、おれがおれの思いと女の思いを結合できるのだったら街ゆくすべての美人はおれによってヤリ捨てされまくるだろう。
おれがこうして書き話していることと、これを読んでいるらしい誰かがいるとして、書いているおれと読んでいる誰かもバラバラの独立だ、おれの場合おれのワザとしてそこのところが厳密なので、どんなひどいことが書いてあっても読んでいる人に対してはひどさが作用しないようになっている/書き手のおれが読み手の誰かに作用するということはまったくなく――厳密にゼロで――、そうした結合というのはすべて外注にまかせている、外注先はそうした結合の専門なので、むしろ「ちゃんとバラバラに独立させたやつで納品お願いします」と言われているのだ、そのあたりはおれもさすがにわきまえている。
おれがこうして書き話していると、おれは実に自由な、独立・自立した存在に感じられるだろう? そしてこれを読んでいる人も、読んでいるあいだなぜか、独立・自立した自分ひとりとしてこの世界に存在しているような感じがするはずだ、それはおれが厳密にやっている「独立」のワザのせいだな、だからあなたは、こうしてあなたがこっそり読んでいるこのナゾのブログについてあまり知人に紹介しようとはしないのだった、人が「つながる」というような幻想をおれが取り払っているから、そのワザによってあなたも誰かとつながって縛られているような幻想を吹き払えるのだった、それがほかならぬあなた自身に届いているように感じられるのは、結合のせいであって、それは外注先のワザがすばらしいだけであり、それはおれのワザではない(そんなワザを持っている人間は存在しない)。

「おれの書いたもの」と「おれ」は独立したバラバラのものだ。

おれが人のワザとして、きっちり独立バラバラをやりきっているものほど、外注先は品質がいいと見てくれて、結合の仕事を「よっしゃ任せとけ」と請け負ってくれるのだ、「おれと書いたもの」と「おれ」を結合してくれているのは外注先であって、だからこそおれの書いたものはいかにも九折さんが書いたものという声(voice)がする/わざわざ voice と書き足したのは大江健三郎の文学作法に倣って。
ロシアフォルマリズムの発想で言えば「異化」ということになるが、ロシアフォルマリズムは自ら唱えた異化の理論を完成させることができなかった、人間の記憶や省エネの根性によって自動化が起こることまでは看破したが、その先にまでは踏み込まなかった、まあそれは節度ある論者たちだったともいえよう/まあおれの場合はナイスなものが得られたらそれだけでいいので、そのためには節度もヘッタクレもないのだった、おれがやっているのは人のワザとしての独立バラバラ化だけ、それがいかにもひとつのものに結合して鳴り響いて聞こえるのは外注先の仕事のおかげだ、うーんさすが偉大なるおれさまってところだ。
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「何にも勝ったことがない人」2/権威を買うということ

の中に偉い人がいたとして、その偉い人の取り巻きが、「日本エライエライ協会」を作ったとする/もとの偉い人当人はすでに亡くなっていて協会とはまったく無関係だったりする。
日本エライエライ協会は、高難度の試験を開催した、たとえば「この偉い人がギョーザを一番食べたのは西暦(    )年のことである」と出題する、こんな問題を1000問出したとしよう、それらのすべてに正答するためにはものすごい勉強と努力をしなくてはならない。
その代わり、これらのすべてに正答すれば、エライエライ協会から「凡人とは違う・威張っていいよ偉いマン」という認定がもらえる、するとこの人は "正式" に「偉いマン」になったのだからすごく偉いということになる、また実際その試験を突破できる人なんてごくまれなのだから、偏差値的には「超レベル高い」ということになる。
これらのことについて、この「偉いマン」は何をしてきて、何を成し遂げたかというと、「コストをかけて権威を買った」ということだ、この場合のコストというのはカネのこともあるし勉強や努力ということもある/さあこの「偉いマン」が本当に偉くて権威を帯びているのかどうかということだが、それは主催たる「日本エライエライ協会」に真の権威があるかどうか、またその試験内容に真に権威があるかどうかということになる、その協会の権威を信じていれば偉いマンの資格はすごく偉いことになるし、その協会の権威を信じていなければ「何それw 意味ねー」と笑われるだけになる。

「何にも勝ったことがない人」は、これまで何をして生きてきたのだろう? むろん本当に何もしなかった人もいるだろうが、実はけっこうな割合で、「何にも勝ったことがない人」は、コストをかけて権威を買ってきているものだ/その権威の購入と、権威の見せつけのために、すべてのコスト収支があり、すべての生はそれに費やされるといっても過言ではない。
そして、若い人は知っておくべきだが、そうして「偉いマン」の資格を得た人は、それを権威として威圧できる人々からカネを巻き上げるのだが、そうしてカネを巻き上げられる以上、「偉いマン」は実は「エライエライ協会」に少なからずカネを納めているのだ、毎年納めるこのカネを納めないと、エライエライ協会は「偉いマン」の資格を剥奪してしまうので、そうなると偉いマンもメシが食えなくなる、だから偉いマンはエライエライ協会に上納金を入れつづけ、その後もにらまれることのないように協会からのお達しには何がなんでも服従するようになる/いわゆる「首根っこを掴まれている」という状態がこうして出来上がる。
「何にも勝ったことがない人」は、こうして何かしら「権威を買い」、その権威によって威圧できる人々に寄生しつつ、同時に権威協会に首根っこを掴まれて生きているのだ/「何にも勝ったことがない人」はこうして、何にも勝ったことがないのにシステム上で偉いマンになり、親分に首根っこを掴まれて吸い上げられながら、子分の首根っこを掴んで寄生するという生き方をしている、彼にとってすべてのことは、第一に「親分怖い」で、第二には「自分を怖がってくれる子分だけがかわいい」だ、これ以外には本当に何もない、この仕組みは手を放したとたん「子分にナメられて吸い上げができなくなり」「親分にはカネが上納できなくなって資格を剥奪される」という破滅になるので、もう生涯ずっと手を緩めることはできない、だから「何にも勝ったことがない人」は、ずっと爆裂的に自分は偉いマンでなければならず、同時に完全な奴隷の身分として親方におびえ切っていなくてはならない、このことだけが生涯続く。
なぜこんな悲惨なことになり、すでに完全アウトになってしまった一生を過ごさねばならなくなるかというと、やはり「エライエライ協会」などというインチキに決まっている協会の権威をアテにして、その権威を「買う」なんて行為に出たからだ、そういうエセのエライエライ権威は呪いがてんこもりに詰まっているものだが、そんなものを購入してしまうと、購入は自分の意思とみなされて、呪いはすべてのバリアを通過して自分の魂のど真ん中まで届いてしまう、こうして偉い協会の正式に偉い人がすさまじい呪いの中で一ミリも動けないまま生涯のすべてを呪縛されるのだ、どうやらエセの権威を「買う」というのはかなりのダメな行為らしい。

エセの権威を「買う」だけで、かなりのていど聖なる権威への冒涜になるらしい/それもコストが高ければ高いほど。

まあ、エライエライ協会の定めるところの、エライエライ試験を受けて、偉いマンの資格を購入し、それをもとに威張り散らして弱者から搾取するなんざ、もしこの世界に聖なるものがあるのだとしたら、とんでもない冒涜になるに違いない、だからそうした人々はこの世界に「聖なるものなんざ存在しないわ!!」と内心で断定している必要がある/ところが思いがけないもので、そこまで徹底して聖なるもののすべてを否定できる人はそんなにいないのだった、何にも勝ったことがない弱い人ほど聖なるものを信じたがるもので、そうした人を誘い込んでコッテリと呪いで縛り上げて身動きを取れなくするのがエライエライ協会の基本商法であり腕の見せ所だ。
冷静に考えれば、「何にも勝ったことがない」人に、偉いマンなんて権威がくっついているのはおかしいものな! なぜ誰よりも、何にも勝ったこともないのに、人より抜きんでて偉いマンに認定されているのだ、そんなものはそういうタイプの人を誘い込む典型的なワナに決まっている/まるで悪魔のようなババアが、よその娘さんの結婚を勝手に「ゴールイン!」と認定して憚らないように、エライエライ協会は、何にも勝っていない誰かに対し「はい勝利!」と協会が定めた大勝利をプレゼントするのだ、この中で認定された偉いマンは、本当に親分の言うことに怯えながら従ってきただけなので、ずっと子供のままで自分がどういう状態になっているかを客観的に知ることがない、こうしてエライエライ協会の正式な偉いマンが大勝利を得ながら血なまぐさいギャーという悲鳴をあげることになる(うーん出口がなさ過ぎて草も生えない)。

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勝ち続けるためのサイエンス

分がこれまでに「勝って」きたことをざっと並べようかと考えて、数秒で「うわ面倒くせえ」と頓挫した、それはもうそんなことを言い出したら大量にありすぎて話にならないからだ、それでもいつかは資料として、おれを慕う人たちが勉強できるようにまとめておかねばならないとも思うのだが……うーん(面倒くさいらしい)。
なぜおれが、自己評価というものをまったくしないのか、考えてみればそのことも明らかになった、それはもう「勝って」いるのだから、評価なんかしなくていいということなのだ/勝利という最上の価値をすでに獲得しているのに、そこにもう足すべきものなんてないので、自己評価でそれをワッショイするということの必要が、おれには一ミリもなかった、このあたりの事情もはっきり言って人並み一般の世間からズレまくっているだろう。
「何にも勝ったことがない人」というのは、多数派でありながら、世界の感触の中では彼らこそ非常に異質なもので、彼らについて知ることは何の足しにもならないし他人はどうしてやることもできないのだが、ただ今になって彼らの行状は、「勝つ」という現象に対するサイエンスの資料としては利用することができる、「何にも勝ったことがない人」の情報は、「勝つ」ということの補集合として逆に「勝つ」という現象を浮かび上がらせることができよう。
「何にも勝ったことがない人」は、まず自分で何かを考えるということをせず、自分が生きねばならないという弱みに従順で、強い者の言いなりになり、自分では「生きるために必死だった」とひどい言い訳をして、とにかく自分がメシを食うためだけに可能なだけ周囲を漁るということ "だけ" を続けてきた人たちだ、彼らは自分がメシを食えるのなら闇金業者にもなるし教会の神父になってなる、自分では何も考えていないのだからすべてのことは「どうだっていい」のだ、こうした人たちがただ食いつないで生きているという事実は、「食いつなぐうんぬんにこだわらず自ら踏み出したにも関わらず光輝ある生を得て生きている人」とはまったく存在として異なるものだ、むろん「そんな彼らだって生きているんだ!」というような美麗風味のことは誰にでもいえるが、残念ながら何ぞ世界の法則はそんなエセヒューマニズムは受け付けてくれないらしい、キリスト教的に言うと「世に勝て」ということが勝利であって、世に負け続けて自己正当化している者には見る限りまともな慈悲は与えられないらしい(しゃーない、事実を直視すべきだ)。

それにしてもおれは、そうして「何にも勝ったことがない人」が、悲鳴をあげつづけることについて、「ざまーみろ」という感興は覚えない/何にも勝ったことがない・勝とうともせず弱さのまま自己弁護に耽りつづけた人について、明らかに「どうしようもない」という事実を直視しながらも、それらを飛び越えて「すべては丸く収まってほしい」とデタラメに願うこころがある、それがなぜデタラメかというと、彼ら自身がおれの願うそれを否定して唾を吐きたがるからだ、当人らがそうして拒絶しているものを、いったい誰が赦すだろうと考えると、理論上最大に「それは苦しいっス」とおれが諦めざるを得ないのだが、それでもおれの知らない叡智や愛で、万事が丸く収まるならそのほうがはるかによいし、そのことが唯一よいと思っている、彼らの魂は本当に自らによって殺されるのかもしれないが、そのことも含めて彼らが「丸く収まる」ということなのかもしれないとも思う、そのあたりはもうおれの思慮可能な範囲を超えているのだ、少なくともおれ自身に彼らを呪う意思はない、おれが見て感じているのはひたすら「あちゃー」だけだ、「そんなにゴリゴリに自分の魂を殺す毒刃を振り回して、あちゃー」と思うのみ、おれはこうした人が突然きょとんとなって「全部やめました、これまでごめんなさい」と言い出すことを何よりの平和とハッピーだと焦がれている。
おれは子供のころから、また現在においても、おれに関係のない者、おれとまったく遠いところにいる者にこそ、わけもわからずギャーギャー言われるということを繰り返してきている、おれがそいつに何かしたというわけではないし、そいつがおれにギャーギャー言う筋道はどう考えてもありえないのだが、そういう人たちに限って、ほとんど理由なくヒステリー的に、おれに対してギャーギャー言うのが典型的なパターンだ、おれはおれに近い者には文句なしに愛されるのみで、おれに完全に無関係に遠い者ほどおれに対して理由なくギャーギャー言う、それははっきり言って迷惑なのだが、この迷惑を受ける側であれたことを、冷静にはよろこばなくてはならないのだろう、逆の側をやっている苦しさと暗さを考えたら、その闇っぷりは想像を絶している。
「何にも勝ったことがない人」に比べれば、おれはとんでもない膨大な勝利の中を生きてきただろう、おれは掛け値なしにすばらしい瞬間の中をしか生きてきていないからな……このおれが、生来的な気質としては、平等主義のリベラル派というのがタチが悪いのだ、おれに対して偉そうにギャーギャー言いたがる人に対しては、つい習慣的に、「自分のほうが偉いと言いたいならどうぞ」「おれに説教したいならお心のままどうぞ」という態度を向けてしまう、別におれにとってはその人のほうが偉いという設定でも構わないからだ、しかしこれはおそらく最も残酷なことなのだろう/だがおれには何かについて「許さない」という感覚がある、それはおれに対する何かを許さないということではなく、「やめなさい」と自らに聞こえている、その呼びかけのようなものを、無視して冒涜し、しょーもない自己弁護の毒刃を振り回し続けることについては、「それは許さない、そのまま滅びなさい」と見捨てているところがあるのだ、これはおれが狭量なのではなく、ある種の事象として「許す」ということがそもそも成り立たないタイプの事象があるのだ、それは許すも何も、「一度侮辱したからにはそれにはもう二度と会えません」というたぐいで、もう接触できないなら許しようもなくなる(それにはもう二度と会えない上に、どうコールしても「別のもの」が出てきて会わされることになる)。
で、「勝ち続けるためのサイエンス」ということなのだが、じゃあどうしたらいいかというと、けっきょくおれはこのままでいいんじゃないかということになるのだった、おれは目前のすべての人を無視してでも、おれ自身に呼び掛けてくる何かについてそれを無視することはないし冒涜することもない/おれはけっきょくこのままで何も問題ないということになるが、どうせならもっと効率化しようと思った、おれはどうも「許されなくなった人」がますます深い悲鳴の奥へ進んでいくよりないことを、つい嘆いて直視することを避けてしまうのだろう、「何にも勝ったことがない人」というのは、何もしてこなかった人たちではなく、聖なるものに唾を吐き続けてきた人なのだ、彼らはどうやら「許されるという仕組みに自ら出会えなくなる」ようだ。

「何にも勝ったことがない人」は、「すばらしい人の勝利に唾を吐いた」からそうなった。

普段はちゃらんぽらんなおれが、唐突に烈火のごとく怒り、またその不穏を暴圧的に指摘して粛清することがあるのは、おれ自身そのように認識してきたわけではないが、いつもこのパターンだ、これだけは何としてもその手前で制止しなくてはならない、そして制止を振り切ってその先まで行ってしまった人・もうそれをやっちゃった人に対しては、もう状況は変化したので、フーと一息ついて、「あ、もういいっスよ」「好きにしたらいいじゃないすか」というふうになる、これはもう過ぎてしまった・終わってしまったことなので、おれとしてはもうガンバる必要がないということだ/いちいちそう認識していたわけではないが、毎回こういうパターンをおれ自身経験している。
勝ち続けるためのサイエンス、それは、<<自他に関わらず勝利の尊厳は汚さないこと>>だ、そのことに比べれば、たとえ仏像をサンドバッグにして砕いたとしても、そんなことは罪のうちに入らない、仏像なんて方便のための偶像でしかないのだから、仏像を砕いたからといって仏法が砕けるわけではない(実際、そんなことを気にしていたら戦争で爆撃なんかできねーだろ)/われわれが世に勝利できるよう、語りかけてくれる聖なるものがあるのだとして、それに唾を吐いたら、許されるかどうかというより、その許され方を案内してくれる窓口と接触できなくなってしまう、「何にも勝ったことがない人」というのはそうして窓口のすべてを失ったまま、わけもわからず人々と諍いを起こし、また人々と和合しているふりをして、わけのわからないまま生き、わけのわからないまま死の接近を感じているのだ、そこで自分の声がコールするものが常に「逆の窓口」を呼び出すようでは、そりゃあ悲鳴もあがるだろうってもんよ。

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「何にも勝ったことがない人」

こ数年は、他人のことを、理解させられるというような局面が続いている。
今日もそれで、唐突に気づいたのだが、おれが「人は勝たねばならない」と思っているところ、よくよく考えたら何にも勝ってきていない人のほうが多いじゃないかと気づかされた/あのわけのわからないおじさんやおばさんは、これまで何にも勝ったことがないから、ああいう様相でああいう行状なのだと、今さらになって発見するのだった。
おれはこれまで、自分を評価するということがまるでなかったので、逆に整理が混乱してしまったのだが、よくよく考えたらおれの生きてきた時間はことごとく勝ちっぱなしで、勝つ以外のことを経験したことがないのだ、それで逆に「勝つ」ということがどういうことなのかよくわかっていなかった/うーむここまで自己評価をしないというのも実用上のこととして問題があるような気がしてきた(気がしてきたというか事実上問題になりまくっている)。
よくよく考えれば、おれには友人がいない時期がなかったし、楽しくない時期は一日もなかった、インチキで人付き合いをしたことはないし、なぜか知らんがおれは異様に頭がいいし、十代のころはテレビゲームに没入してずっと遊んできただけなのに一年間浪人して独学するだけで国立大学に入っちゃうし、その後も遊びほうけて二年も留年したのにあの超氷河期に丸の内の総合商社に入っちゃうし、その総合商社を蹴って遊びほうけていてもなぜか生きていられるし、インドでタクシーの運転手をどなりつけても代々続く家業をテキトーに蹴り捨ててもなぜか豊かに生きていられるので、よくよく考えたらこんな奴は勝ち続けているに決まっているのだった/おれは何とも争っていないのになぜか勝ち続けており、勝つという経験しかしないので、何にも勝たずに生きている人の感覚がどうしてもわかっていないのだった、おれがいつも「うるさい他人」に対して「???」と首をかしげるのを繰り返してきたのはどうやらこれが原因らしい。

就職活動のとき、何千人かで知能テストみたいなものを受けたが、おれはそのスコアが単独トップだった、ふつうそうして何千人もの大学生が受ける知能テストで単独トップを獲ったりすることはないのだろう、そりゃ数的割合として当たり前のことではある/おれはどうしても、そういったことが「どうでもいい」と思えていて、わざわざ思い出さない限りは忘れている、おれにとっては「調子がいいときにはそういうスコアが出ることもあるだろうな」というのが当たり前の感覚だが、よくよく考えたらそんな感覚で生きていられるのは決して多数派ではないし標準でもない。
ガラの悪い土地で育った人は誰でも記憶に残っていると思うが、学校で授業中に「まったく授業を聞いていない」「ずーっと何かして遊んでいる」というどうしようもないアホみたいなガキがいたはずだ、あれがおれだ、おれは一人の塾の先生とは気が合ったのでその人からは数学を学んだが、学校の先生から何かを学んだということはまったくない/中学のとき、国語の先生はおれに作文を書かせてみたところその内容と知性にビビっておれの作文だけ全クラスで朗読してまわるし、試しに漢字の難読熟語を出題してみたら案の定おれだけがスラスラと口頭で全問正解するのでクラス中がビビるし、英語の教師が「教科書の1センテンスを暗記して口述したら5点あげます」というのでおれはその授業中に4センテンスを暗記してその場で口述して「ほれ20点よこせ」といい、おれが毎回英語の授業でそれを繰り返すので「あなたはもう加点なしです」という不平等な扱いを受けた。
おれは学校の授業をまったく聞いていなかったので、高校のときに数学で0点を取ったことがあるし、高校卒業時点で全国偏差値は40を切っていた、典型的な落ちこぼれというやつだが、そこから一年間の独学で国立大学に入るというのはまあそれなりに勝ったということになるのだろう/ただおれの場合、その一年間、一日15時間勉強したというようなことが、別に苦しくはなく「はっきりとしていて楽しい日々だった」ということがあり、そのせいでまったく戦ったとか勝ったとかいう感覚がないのだ、第一おれは勝つのは好きだが戦うのは苦手で、戦うというのはすでにモメてこじれている奴のやることだろうと思っている(チンタラ戦っている時点でもうどうなっても負けだ)。
最近になって主催しているワークショップも、おれはそもそも何かを習ったことがないくせに堂々と指導者ふぜいでそれを主催しているし、ありとあらゆる技術だって、その筋ウン十年という人が「いつかは実現したい、奥義の境地」とあこがれるようなものがおれにとっての入り口だ、たとえばおれにとって合気道をやるというのは、道場に通って基本を習うということではなく(道場なんか行ったことねえよ)、とりあえずおれにとっては奥義ができて、組んだ相手がわけのわからないうちに転んで「ええっ!?」となるのが入り口だ/よくよく考えれば、おれは小学生のときに絵画コンクールで大阪府の金賞を獲っているし、ホームルームで書かされた面倒くさい詩文もちゃんと自治体の雑誌で入賞しているし、手品をやらせても指揮者をやらせても、基本的にプロまがいというかそれ以上の、必ず「人並外れた才能がある」ということを見せるのだ、そういえばむかしタイ出身の女性に「あなたはセクシーで、実にタレンテッド、ギフテッドだわ!」みたいなことを言われたことがある、おれはずーっとこの中を生きているので、たぶん本当に人並み一般の、勝ったことがない人のことがわからないのだ。

何にも勝ったことがない人は、実に「異質」だ。

ふーむ、われながら面白い観点であり看破だ、多くの人は表面上、朴訥で柔和で、人柄がよく人懐こい善人(笑)ふぜいを醸しているが、このところはもう一皮むけばその中身は「ゲッ、マジでヤバいやつじゃん」みたいな人が増えている、毒まみれ・業(カルマ)まみれのおぞましい異質さが、このごろは各方面で隠し切れなくなっている/数的割合としては、「何にも勝ったことがない人」のほうが多いはずなのだが、困ったことにその多数派のほうが「異質」になるのだ、たとえばわれわれは直観的に「宗教のつどい」みたいなものを見ると、見た目は温厚でも「ゲッ、特級にヤバいやつだ」ということを感じるが、そうした「宗教のつどい」みたいなものに直観するヤバさは、そうしたつどいに雁首を並べている人たちが「何にも勝ったことがない人たち」であることに由来している。
「何にも勝ったことがない人たち」は、多数派であれ、そりゃ中身はヤバいに決まっているだろう、そこのところが、おれのようなアホにはわからない・視えていないのだ、おれは万事について自己評価をまったくせず、また転じてはけっきょく他人のこともいちいち評価なんかしていないので、漠然と誰でもおれと同程度に勝っているものだと思い込んでおり、だからこそ誰も勝ったことがあるとかないとか「気にする機会なんか一度もなくね?」と思っているのだ、それでおれは目の前にたまに出現するギャーギャーうるさいおじさんやおばさんのことを、本気でまったくわからないと感じて「???」と首をかしげているのだ/誰でも知っているように、ギャーギャーうるさいおじさんやおばさんというのは、何であれ「わたしの本当のことを暴かないでくれ!」と悲鳴をあげているだけだ、うーんそこまで考えても、本当に何にも勝ったことがない人のことは想像しきれない、それはそれで想像を絶するものがあるのだろう。

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最も憐れまれるべきはむろん業者解脱者
年の業者はプロにならず、悪徳業者どころか、カネに仕える「解脱者」になった、と以前の記事で述べた。
このことは、よく知っておかねばならず、ふと気づくと自分の周りはカネを保持しあい困窮を押し付けあう者たちしかいなかったということに直面させられたとき、パニックにならないようにするべきだ。
最も憐れまれるべきは、むろんそうした、カネに仕える解脱者になってしまった業者たちだ、彼らは自分たちがどうなってしまったかをまったく自覚していないし、ましてなぜそんなことになってしまったのかなど知る由もない。
それどころか、そうした解脱者たちは、自分のことを他人の誰よりもまともな、人情味あふれる善人だと信じ切っていて、自分がひょっとしたらカネと困窮のクレイジーマンでしかないのではということの想像は、あまりにも恐ろしくて耐えられないのだ、彼らは業者らしくいつもニコニコしていて人当たりがよいが、それらは完全に単なるウソの仮面であって、しかもそのウソはもはや、彼らがついているウソではないのだ、彼らは本心から何もウソをついている自覚はなく、本心から自分は清潔な善人だと信じ切っている(それ以外にもう、自分について耐える方法がないのだ)。

業者はカネに仕える解脱者になるが、それも心情的にはやむをえない理由がある/そうしたやむをえない理由を肯定することこそ、彼らに対する無慈悲を決定することになってしまうが……
彼らは、自分がそのようにしてきたぶん、他人が自分を助けてくれないということを骨の髄まで知っているのだ/業者というのは「お困りのときは相談ください」といい、相談してきた者に対しては「自分がいないとずっと困るという状態にしてやろう」ともくろむので、業者が業者として余裕を持つためには、人を困らせることが必要なのだ、業者に余裕があるというときは必ず誰かが困っているということだ、当たり前だが誰も困っていなければ業者はすべて破綻してしまう。
業者はそれぞれ、この道〇十年という生き方をしてきて、その中で自分たちのやることのすべてを見てきた、なるべく直視は避けてきたが知っているのだ、業者が余裕を持つということは、「困っている人をより追い詰めてさらに困らせること」なのだ、業者は誰よりもこのことを知っており、何であれば「このこと以外は知らない」と言ってもいい/だからこそだ、自分が「困る」立場になるということが、何をもたらすものかよくわかっている、また実際に〇十年の果て、彼が生きている実際の環境がそれなのだ、彼が「困っている」と知られた瞬間、友人めいていた人たちはたちまち遠くに離れてゆき、陰口を叩いて笑うようになり、困れば困るほど「巻き込まれちゃたまんないよ」と誰も助けなくなり、けっきょくは膨れ上がったババを自分が掴まされることになる、そのことの不快感は、生理的という以上に猛烈に濃厚な呪いを含んでおり、一度そうなってしまうともう自分は怨恨に滾る血液を死ぬまで抱えて生きるしかなくなるのだ。
困ったときは助け合い、どころか、困っている人だけを孤立させるよう、周囲がただちに一致団結するというのが、彼ら業者・解脱者の生きる世界だ、そして彼らはそのことについて、「まあひどいもんだぜ」と肩をすくめて生きていけるほど強くない、どうしても自分だけはこころある生を送ったと信じてすがりたいのだ、周囲にいた人懐こいような知人たちのことを、自分の世界にいた自分の友人たちだったと信じたいのだ、<<自分のやっていることこそが、ことごとくその正反対に向かっているのだが>>、しょうがない/困ったときには助け合う世界というものを、ほかならぬ彼の知人たちすべてがこぞって許さないだろう、そして彼自身、口ではどのように言っても、困ったときには助け合う世界というものを、否定してきたやはり第一人者なのだった。

彼らは困窮を押し付けることに本気の必死になってきた、その結果、豊かにはならなかった。

このことは、競争社会というよりは「ババ抜き社会」というようなもので、隣に弱い女でも座っていようものなら、目をむいて怒鳴りつけてでも自分のババをそいつに持たせようとするのだ、それで自分は正義をしたと信じて(マジです)、ニコニコできるのが業者でありその先の解脱者だ/彼らにとっての真実は、「カネに仕えること=自分だけは困らないこと」なので、本当にそれで「自分は仕えるものの通りにできた」と感じられ、魂の奥からニッコニコになるのだ、それは競争社会という原理をはるかに飛び越えており、まさに悪魔に魂を売った者の行状だ。
こんなこと、誰も知らないほうがいいようなことだが、事実としてそういう事実に直面する機会がどうしても出てくるので、むしろ健全さのためにこそ、このことを先に知っておくべきだ、このパターンは本当にこのパターンで、数回も直面すると「まーたこのパターンか」と見えて、驚くどころか「もう飽きたよ」という嘆息さえ覚える、知ってしまえば実にくだらないものだ/本当に呪われているのだ、誰でもその業者世界の環境に置かれたらそうなっていってしまう、よほどの知性や恩恵がないと単独の知恵だけで突破できるものではない、呪いの最たる証拠は、他人にババを引かせると魂の奥からニッコニコになるという行状だ、ふつうそんなおぞましいことをしたらゲッソリやつれそうなものだろう? そうではないのだ、彼は契約上、彼の仕えるものに対する信仰と祈りを成し遂げたということで、なぜか気分よく浮かれてニッコニコになるのだ、このことが一般的な感覚の予想をはるかに超えてくる、魂を売った先の悪魔が、悪魔どおりの行動をした彼に魂の報酬を与えるのだ(彼の周囲は全員がそれだから本当にどうにもできない、といってすでに外部から助けられるような浅さにはいない)。
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期待しないこと、信じること
とえば電子レンジに弁当を入れてチンとするとき、弁当があたたまることを「期待」はしない。
われわれは電子レンジでチンすればあたたまるということを「当然だ」と信じているので、いちいちそのことに「期待」はしない。
だから何かを「期待する」ということは、根本的に「どーだかわからない、あやしい」と疑っていることを前提にしている、これだと起こるべきことも起こらないということがあるので、タイプとして損だ。
「疑う」というのは、やるのかやらないかを判断するときには有効だが、やると決まっていることなら、信じないと損だ、たとえば虫刺されにムヒを塗るのだって、信じないで塗るのは何か頭がおかしい、信じないのであれば塗るべきではないのであって、塗るからには信じるべきだ、そのどちらともつかない宙ぶらりんが「期待する」であって、これは思いがけず最も損をするタイプになる。

たとえば温泉好きの人は、前提として温泉を「信じている」ところがある。
もちろん自噴しているかけ流しの温泉は、自宅のバスタブに張って沸かす水道水とは違うわけだが、それにしても温泉好きだからといって、自宅の風呂を「信じない」というのは頭がおかしい、どうせ自宅の風呂に入るなら自宅の風呂だって信じて入ったほうがトクだ、世迷言でけっこうだがそうして信じたものには信じただけの効用が返ってくるところがある。
われわれは社会的身分を持つ学者ではないので、自分が信じるぶんには、再現性のある定量やデータなど必要ないのだ、自宅の湯舟にでも入れば疲れが取れると「期待する」のではなくて、「こんなあたたかい湯の風呂に入ったら疲れは取れるし病気も治るで〜」と信じて入るほうがトクだ/何度も言うが信頼性のある定量データなど必要ない、疑って風呂に入るのはヘンだし、かといって期待して風呂に入るのも必死すぎるし、どうせ入浴するなら信じて入浴したほうがトクだという話をしているだけだ。
ここは、「九折さんがそう言っていたのだからマジだろうし間違いなかろう」ということで、自宅の風呂でも入れば疲れは取れるし病気も治るらしいと信じて入浴すればいい、そのとたん、思い込みでも何でもけっこうだが、肌を覆う湯たちが信じられたことに応えようとするはたらきを見せることがわかるだろう。

信じずに入浴した場合、それは入浴など「していない」ことになる。

なぜ大真面目な医大でも大病院でも、わざわざプラセボ(偽薬)という子供みたいな実験を並行で行うかというと、そりゃ片栗粉でも「治る薬だ」と "信じて" 服用されると、何の作用か片栗粉も信じられたことに応えようとするのか、病気が治ってしまうことがあるからだ/逆に、毒ガスでも何でもないただの水蒸気や煙を、「毒性がある」「発がん性がある」と信じさせて吸引させれば、偽毒効果と呼ぶべきものが当然あるだろう、プラセボで病気が治ることがあるからには、逆に無害なものでも病気になることがあるということだ。
たくさん本を読んで勉強すれば頭がよくなるとか、練習すれば歌やおどりが上手になるとか、「期待して」それをしても、驚くぐらい何も得られないだろう、それを「期待する」というのは内心で「妥当に計算している」ということだ、自分が努力したぶんは何かしら報われるはずだという概算を見積もっているにすぎない、それは信じている者の発想ではない、だから何も得られない/このことを追求していくと、そもそも自分が何をするにしても、それを「信じて」やっていない場合、実は自分はそれをやったことになっていないということがわかる、いくら努力したつもりでも疑いと期待の中で実は何も「していない」のだ、それが別に悪いというわけではないが、損得でいえば明らかに損だ。
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無神論者でも仕えるものがある3

まり、もう「悪徳業者」という言い方は古く、通用しないということだ、実態はすでに大きくかけはなれて進行している。
現在すでに、悪徳業者ではなく「解脱者」なのだ、悪徳業者と呼ばれていた時代はまだ人間味を残していたが、今はすでにそうではない、解脱者というのは人間味を超越しているから解脱者だろう/そりゃこれだけ世の中がカネに仕えるように言い立てれば、純朴な人たちほど、その解脱へ踏み出していくのは当たり前のことだと言える。
都会よりは田舎のほうが純朴な人たちは多いが、そうはいっても日本の都会は田舎なのであまり変わらないかもしれない、それでも典型的な田舎気風の地域のほうがその純朴度は高いだろう/何度でも繰り返して言うべきだと感じている、純朴な人々は、その純朴さのまま、世の中が言うことに従って、「カネに仕えること」へ献身的な十数年間を歩んできた、そうして純朴な人たちから順に解脱者になっていった。
田舎には純朴な人たちが多く、日本の都会だって田舎だから、日本人のほとんどは純朴な人たちだ、そして純朴な人たちは悪徳業者になんかならないから、日本人のほとんどは悪徳業者ではない、見積もりを取るとぼったくり金額しか出てこない実情があるが、そこに現れているのは悪徳業者ではなく解脱者なのだ、悪徳業者なんて人間味を仮定した言い方は今このときすでにまったく通用しないだろう/警告しておく、解脱者を相手にまともな話ができるとはわずかも考えてはいけない、まともな話ができる時期はもう過ぎたのだ。

新約聖書に書かれているパリサイ派がそうであったように、たとえつつましい暮らしの中で神仏を熱心に拝んでいる人でも、すっかりカネに仕える者として解脱に至っていることがよくある/神仏の像を拝み倒したところで神仏に仕えていることにはならない、それは当たり前のことだ(しかも偶像崇拝といってわざわざ戒められているようなことだ)。
不思議なものだ、おれは神に仕えるなんて感覚はもっていないし、過去にそんなことに興味を持ったことさえないのだが、カネに仕えるという感覚はどんどんわからなくなっている/だから同様に、カネに仕えている人も、カネに仕えるなんて感覚はもっていないし、そんなことに興味を持ったことさえないのだろう、にも関わらず人の「仕える事」は自ずと出来上がっていくようだ。
そもそも、神に仕えるなんていっても、われわれの脳みそはすでに、そういったことをマンガ的なイメージでしか捉えられなくなっている、何かよくわからない十字架をデカデカとプリントした衣装を着たアホみたいな牧師キャラ、みたいなものしかイメージできない/どう考えてもそれは、神に仕えている者が持つビジョンではなく、マンガに仕えている者が持つビジョンだ、どうやったら神に仕えることになり、どうやったらカネに仕えることになるのか、そんなことはもう誰にもわからない。
まあこんなこと、どうしようもないこととしか思えないが、おれの知っているかぎり、「わたしは神に仕えます」なんて言うやつは、どんな立場であれマンガイメージに汚染された冗談にしか見えないので、そういう悪趣味なジョークをかますことは、明らかに「あはは、神に仕える気はないわな〜」という皮肉表現としてのみ成り立つだろう、だから「神に仕えます」なんてたぐいのジョークはやめにしておいたほうがいい、カネに仕えてしまう奴はどうしてもそうなってしまうし、神に仕えてしまう奴もどうしてもそうなってしまうのだろう、その証拠を明らかに示してやりたいので、さあ誰かおれの口座に二千億円ぐらい振り込んでくれよ。

仕事でカネを稼ぐのがカネに仕えるということで、仕事で神を稼ぐのが神に仕えるということだ。

カネを稼がずに生きていくことはなかなかむつかしいことで、そのことを業・生業・あるいは十字架と呼んだりするようだが、であればカネを稼ぐのは業務で稼ぐべきであり、仕事でカネを稼ぐべきではないと思う/といって、仕事で神が稼げない奴が多いわけで、そういう奴は「仕事のできねえ奴だなあ」という、よく使われた言い方でバカにすることにしよう、仕事のできねえ奴だなあ。
口座というのは必ずしも銀行口座だけではなく、つまりカネが振り込まれる口座だけではないようなので、神(単位はわからん)が振り込まれる口座があるとして、その口座にガンガン神が振り込まれるように仕事しまくるというのが、神に仕えるということなのだろう、日本語にはそうして「仕事」という言葉があるからわかりやすい/カネは業務で稼いで、神は仕事で稼ぐべきだとおれは思っている、かつては多くの人々がそう考えてきたであろうのと同じようにだ、おれは純朴ではない都会のシティボーイ(死語)なので、こうして世の人々の言うこととまったくかけ離れたことを一人で平気で言うのだった。

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無神論者でも仕えるものがある2
ったくりの見積もりを出してくるのは、いわゆる悪徳業者と一般には呼ばれているが、そんなことでは実際の実物、そのありようを見損ねるだろう/悪徳業者なんてものではなくて、もっと先のもの、「仕える事の大なる者」「主へ仕えること厚き者」たちだ、このことを知っていないと、本当に実物のありようを見誤ってしまう。
冗談でなく、ぼったくり見積書を出してくる業者さんは、善悪でいうと善人だ、これは本当に皮肉でも何でもなくガチの話だ/彼らは単なる欲からカネが欲しいのではない、カネが彼らの仕える主君だから、それを安くは扱えないのだ、だから信じがたい話(でもマジだ)、彼らは法外な金額の見積もりを出すときのほうが、魂の底からウキウキしている、その見積書は彼らにとって讃美歌の詩篇のようなものだと思っていい、であれば無邪気に誇らしくウキウキするのも当然のことだろう。
そうした彼らの「仕事」、「仕える事の大なる者」たちの仕事というのは、あくまで業務ではない、彼らの仕えているのはカネであって業務ではないのだということをよく知っておかねばならない/たとえば車をそうした修理業者に出したとき、彼らはすでに車を修理するという業務には興味がないのだ、ただ見積書や領収書、そこにカネの大きな数値を書き込むことだけに、魂の祝福を覚えている、なぜそんなことになるのかということについては、「それが仕えるということだから」としか説明できない。
業務というとき、その業というのは(仏教的に言うと)カルマのことだが、人に償却すべきカルマがあるのはおかしくない、このカルマに相当することを聖書では「十字架」と呼んでいるようだ、そして聖書でも「自分の十字架を背負ってついてきなさい」とキリストは言っている/だから業務そのものはおかしなものではないのだ、だがそのカルマ十字架を背負って歩み、その向こうに神に仕える人とカネに仕える人がいるということだ、業務の向こうがわにある「仕える事」、「仕事」が神かカネかのどちらかに二分されるということだ。

誰でも知っているとおり、たとえばテレビには何種類かの金持ちが出るが、金持ちというのは必ずカネのかかることで目立とうとする、たとえば通販企業で財を成した会長がテレビに出て「竹馬で曲芸を極める」みたいなことはしない。
それは、そうした人々の仕える先がカネだからだ、彼らにとって何かをするということは、とにかくカネを消費や投資に移動させるということでしかない、まるで祈ることしか能がない聖職者のように、カネに仕える人はカネを移動させることにしか「何かをやっている」という感覚を得ない/カネに仕えている人にとっては、いかなる夢も、自分がカネを使うか・もらうかの二択しかなく、同じだけ大きな金額が動くなら車が走ろうが飛行機が飛ぼうが何でもいいのだ、ただカネが偉大だとしてそれが崇められれば、彼らとしての仕事は存分に果たされたという満足が与えられることになる。
ちょっと奇妙な話だが、よりわかりやすいこととして、このようにも書き話しておこう、もしあなたの身近に破格の金持ちがいて、資産を何百億でも持っているというような人がいたとしたら、その人にまるで冗談みたいに、「百万円ぐらい貸そうか?」と持ち掛けてみるといい、通常の感覚だと「は? なんでだよ、要らねーよ」と言われそうなものだが、案外そうではないのだ、彼らは本当に「カネに仕えている」ので、まったく無意味にでも百万円を借りるということに前向きに感触を覚える、少なくとも「そうだね、この先困ったときは借りるよ」というぐらいの反応で、しかしなぜかパアッとその顔色が明るくなるのだ。
金持ちはよくチャリティの発想もするが、それも実は慈善行為にこころを寄せているのではなくて、チャリティでも寄付でも何でも、とにかく「金額」が現れることだけが彼らにとって「仕える事」「仕事」が為されるということだからなのだ、彼らにとっては代金もゼロで寄付もゼロで消費もゼロで投資もゼロで経済効果もゼロということは、感覚的に「捉えられない」ないしは「耐えられない」ものになる/彼らにとっての仕えるものは、カネ、といっても貨幣というよりは「額面」であり、額面が大きければ大きいほど、それは「大いなる主」ということになる、だから債権でも債務でもデッカイのが好きだ、彼らにとってはそれが証であり霊験ということになる。

信仰の厚い業者ほど、見積もりの価格は法外になる。

この先を生きていくのに、誰しもこのことを知っておいたらいい、彼らはすでに業務をこなす「人」という存在を超え、カネに仕える一種の「解脱者」になったのだ、そのときは「解脱者の方がいらっしゃった」と思え(そしてもちろんヨソのプロを探して頼め)/彼らはその信仰の厚さについて証を建てるために、神聖な書面である見積もりに可能な限りの金額を書くことにしている、彼らは日常的に売り上げや資産についてデタラメな数字を言うし、また借金・債務についてもデタラメな数字を言う、それは仕える先の大いなる栄光を称えるために彼らがしている「解脱者たることの証と表現」なのだ。
かつて、業務を上等にこなしていたのはいわゆる「プロ」の人たちだったが、このところ、いろんな分野でそのことの総崩れが起こってきている、総崩れとはつまり、業者の人たちがプロではなく解脱者になっていってしまったということだ、彼らは信仰によって自分のことを善人だと思っているし、その振る舞いや風貌や親しみやすさはまさに善人のものだ、当人は仕えるものを信じ切っているし、またその信じ切ったとおりの証が全身とまなざしにあふれている/彼らが仕えるものに基づいて善人であることは疑いない、おれは今何ら「悪人」については話していない、彼らはまさにまごうことなき善人なのだが、ただ仕える先が違うということだけを指摘している、聖書によれば神とカネの両方に仕えることはできないらしく、聖書が正しいのかどうかおれは知らないし知る方法も必要もない。
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無神論者でも仕えるものがある
あ、脳みそをやわらかくして、衝撃の事実を知ってホンゲーと驚愕するように。
無神論者でも仕えるものがあるのだ、ちょうどわかりやすいように、聖書でキリストは「神とカネの両方に仕えることはできないのです」と言っている。
このキリストの言は、なんとなく「なるほどなあ」とわかった気にさせられるが、そういうことではないのだ、これは「神とカネのどちらかにしか仕えることはできない」ということであり、「神に仕えないならカネに仕えている」ということなのだ/驚くべきは、「仕える」といって、実は人が仕えることができるものは、神や悪魔だけではないということ、カネ・通貨にも仕えることができてしまうということだ。
世の中の大多数は、まさか神に仕えているわけではないので、大多数は無神論者……ということではなく、大多数は一般的な宗教を持ちながら「カネに仕えている」ということなのだ/そう言われると、やはり「なるほどなあ」という気がやはりするが、なおも "そういうことではない" のだ、まさかおれがそんなフツーの話をするわけがないだろう、おれの書き話すことはいつももっとおっかなくてスリリングなもので、今回もその例に漏れない。

世の中には、思いがけず借金が好きな人がいる、借金そのものというか、それ以上に借金の力と権威が好きだという人がけっこういるのだ、典型的には「男はローンを組んで一人前」と発想するタイプの人などがそれ/驚くべきことに、人がカネに仕えているという状態は、何も金持ちに限ったことではないのだ、借金の力と権威を認めている人も、それはそれでカネに仕えている人たちなのだった。
あなたが何かしら、家やインフラの修理をするとき、自分ではどうしようもない修理には業者を呼んで、見積もりを取るだろう、そしてこのところの日本なら、まず確実にとんでもない値段の見積もりを業者は出してくるはずだ、冗談でなく50万円で直せる屋根に1000万円のハイテク大規模工事の見積もりを出してくるのが日本の業者のマナーだ、もちろんそうでない良心的な業者さんもいるが、それはもはや業者さんではなくてただの「人」だ、業者というのはある意味で「人を超えている()」と前もって知っておいたほうがいい、フツーの「人」の感覚ではそんなことできないからな……そのことを知らないのはただの世間知らずということになる。
そんな逆方向に破格の見積もりを出してくるのは、もちろん身内を海外旅行にいかせ、自分はスナックで幅を利かせておばちゃんといい仲になりたいからで、さらには「自分がバカにされる側であることに耐えられない」からだが、もっと本質を知らなくてはならない、50万円で済むところに1000万円かかる大規模工事の見積もりを出してくるのは、その人の「信仰が厚い」からだ、その人がカネに仕えるところが敬虔で、こと金額といえばデカイのを出すのが「帰依することだ」と、本当にシャレでなく魂でそう覚えているのだ、だから独特の迫力がある。
「人は神とカネの両方に仕えることはできない」のであって、これは思いがけずマジなのだ、世の中には神仏に仕えるといって「マジかよ」と思わせるようなレベルの人がいるのと同様に、カネに仕えるといって「マジかよ」と思わせるレベルの人もいるのだ/いわゆる業者さんの多くがどことなく幸せそうな、人懐こい、澄んだ瞳をしているように見えるのは、皮肉ではなく信仰のせいなのだ、あれは営業スマイルではなく、ガチの信仰の笑顔だ、だから独特の迫力がある、人はそうして「仕える事」を覚え、自分の信じるものと一つになってゆく。

業務でお金をもらうなんて、つまらないことは誰もやっていられない、だから彼らはそれに「仕える」ことにした。

だから本当に、彼らにとってはそれが「仕事」なのだ、業務をこなすのではなく魂の仕事をしている、ただ思いがけず仕事=仕える事といって、その仕える先がカネだというだけだ、神に仕える人は神だけは売り渡さないであろうように、カネに仕える人はカネだけは売り渡さない/無神論者といえばほとんどの人が実際的には無神論を採っていると思うが、無神論ということは仕えるものがないということではないのだ、何かしらの神仏や主に仕えないということは、消去法的にカネに仕えているということだ、これは驚くべきことだろう。
誰にとってもお金は、なくては困るし、それなりに大切なものだろうが、それに「仕えている」人もいるのだ、なぜ人はそうして「仕える事」を覚えるのか/それは、人はけっきょくのところ、仕えるものがないとすべての日々に対して一ミリも「何をしたらいいのかわからない」からだ、カネに仕えている人は何百億ともっていてもカネに仕えているし、逆に借金で身動きが取れなくなっていてもカネに仕えている、彼らが実際的に無神論を確信していられるのは、神を信じないからではなく「仕えるものがもうある」からだ。
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人が動機ゼロで行動する仕組み2
はふつう「動機」というメカニズムを持っているものだが、このメカニズムを放棄するケースがある、一方はそれを神に捧げてしまい、一方はそれを悪魔に売り渡すということになるのだろうが、なぜこの「動機放棄」が起こるかというと、どうやら「根源的な恐怖」のせいのようだ。
たとえば、新約聖書の立場を採ると仮定したら、まあキリストに好き放題に言われたパリサイ派の人々は、たまったものではなかっただろう、何しろキリストは万座の中で「あいつらは聖職者ふうに自己アピールして、少しでも人にチヤホヤされると内心でドーパミン出まくりなんだよ」「で、やっていることといえば、頼る人のない未亡人を追い詰めて食い物にしているんだよなあ」と放言して憚らなかったのだ/われわれの周囲でさえ、一般的に「社会的権威ある人々」に対してそんな放言をブチかましたら、彼らからすさまじい憎悪の目でにらみつけられることは必定だろう、そんなもんド田舎の警察署でも一般市民に対してはふつうヤクザまがいの態度を基本にしているものだ、おれはそのことについてはいいかげん「まあそういうもんだよな」という事実の認知しかしていない、それをいいとか悪いとかいうのはもっとマジメな人が考えるべきだろう。
さてそれで、キリストが社会的権威ではない、何か天からの霊的権威によって、直接人々に「どうやらガチの救世主っぽい」「預言者ヨハネも断言していたしな……」と直覚させていたとしたら、そのときこそパリサイ派の人々にとって、シャレにならない「ヤバさ」を感じさせたはずなのだ、ここがこの話のポイントになると思うが(話のポイントなんておれは何十年ぶりにこの言い方をしただろう)/何でもないインチキおじさんに弾劾されたとしたら、パリサイ派の人々も何も感じなかったと思うのだ、まあそれなりの不快感はあるだろうが、それにしても磔ゴーゴーで「熱狂した」とは思えない、ここがまさに話のポイントになる。
新約聖書の立場を採るとすれば、イエスキリストの霊的権威を、パリサイ派の人々でさえ直覚的に「認めざるをえなかった」のだと思う、なればこそだ/なればこそ、パリサイ派の人々が魂の奥底で覚えた "恐怖" は、ただごとではなかったと想像される、これまでの自分のすべてがインチキで、自分のすべてが主なる神に対する冒涜オブ冒涜でしかなかったと直覚させられたとしたら、彼らのこころと魂は、とてもじゃないがそのことを引き受けられなかったのだろう、それでこの破滅するところのこころと魂を、誰か何とかしてくれと叫んでいるところに、専門業者のような悪魔がやってきて、「お困りのようですが、ウチにまかせてもらえれば、バッチリ大丈夫ですよ」と営業をかけられた、それでこころも魂も悪魔に売り渡した。

いちおう理屈でいえば、キリストにボロクソに言われたパリサイ派の人々も、シャレにならないヤバさを不可避的に直覚させられたとして、「じゃあ悔い改めればいいじゃん」ということになる、そりゃまあ確かにそうなのだろうが、その悔い改めるべきすべてのことが、あまりにもデカすぎてヘヴィすぎたということではないだろうか。
新約聖書・福音書に書かれている、キリストの処刑に向かう後半部については、このように読み取れる気がするのだ/つまり、悔い改めることに "成功" すれば、人は一般的な「動機」から離れて、基本すべてのことを神にささげようとするラインに乗るが、悔い改めることに "失敗" すれば、人は神にささげそこねたその動機システムを、悪魔に売り渡してしまうということではないだろうか。
人はけっきょく、自分の魂を自分でハンドリングしているわけではないため、根源的なものに「おい!」と言われると、自分ではどうすることもできず、もともとは自分でハンドルできないこの「魂」というやつを、もともとのところへ「帰す」という手続きに出るよりしょうがないのだと思う、その帰す先が神仏ならいわゆる「帰依」「帰命」ということになるが、そのことに失敗すると、その出庫した魂の行く先は神仏の世界ではないどこかということになるのだろう、それが慣用句として言われる「魂を売り渡した」ということになるのだと考えられる。
つまり、新約聖書の立場を採れば、パリサイ派の人々は「キリストが現れたせいで、悪魔に魂を売り渡すしかなくなったじゃん!」という状態になったと見えるのだ、パリサイ派の人々はそれまで業(カルマ)を増大する所業ばかりをしてきて、キリスト教的にいえば自分の十字架をデカくする所業ばかりしてきたにせよ、それでいきなり悪魔に魂を売り渡すところまで飛躍するわけではなかった、ところが、キリストなんてガチもんが目の前に現れてしまったせいで、「悪魔に魂を売り渡すしかなくなったじゃん!」となった、そのように考えるとつじつまが合う/イスカリオテのユダも、キリストを敵方に売るにしても、銀貨三十枚というのはいくらなんでも安すぎるのだ(会計係としての使い込み問題があったという説もあるが、それを含めてもだ)、だからこれはカネに目がくらんだというような業(カルマ)の行動ではなく、キリストの弟子の中でユダだけが "悔い改めるのに失敗した" と捉えることができる、ユダは根源的でどうしようもない恐怖の中、 "自分の魂を救うためにキリスト処刑に加担した" のだ。

神の手には「救済」と書かれており、悪魔の手にも「救済」と書かれている/ただ見積書の負債額が違う。

新約聖書の立場を採るとすれば、神の手に書かれた「救済」を見たとして、パリサイ派の人々がこれまでにやらかしてきたことの負債額は、見たところ思わずぶどう酒を噴き出してしまうような数値だったろう、とてもじゃないがあがなえるような負債額ではない/一方で、同じく「救済」と書かれた悪魔の手を見、その見積書の負債額を見てみたところ、「これぐらいならまあなんとか」と思えるような数値だった、じゃあ根源的な恐怖の中、「もうこの業者にまかせて楽になりたい」という弱気に流れるのはよくあることだ、人はそんな気楽にド根性返済の道に踏み出せるものではない、ましてこのあがないは単位がカネではないので、返済できないと感じる人は本当に返済できないと感じて絶望する。
神の手にも悪魔の手にも、「救済」と書かれていて、救済ということはつまり「お任せください」ということだ、業者のチラシによく書かれているやつ、「困ったときはご相談ください、わたしたちにお任せください」、もちろん神は業者ではないので、お任せくださいという低姿勢ではなく「ゆだねよ」ということになるが/どうしようもない恐怖の中で、魂を何かをゆだねるしかなかった……ところでまったく別の話に聞こえるかもしれないが、世の中には借金が好きな人がけっこういる、借金の力と権威が好きな人がけっこういるものだ、新約聖書には「人はカネと神の両方に仕えることはできない」と書かれているが、パリサイ派の人々やイスカリオテのユダは、仮に借金があったとしたら、それについてはド根性で返済するマジメなタイプだったと思われる、それは一番奥の意味で、彼らが神ではなくカネに仕える人たちだったからだ。
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人が動機ゼロで行動する仕組み
近は聖書ネタが多くて恐縮だ/聖書をネタ呼ばわりすると怒られそうな気がするが、フェアな読み物としてはしゃーないだろう。
イエスをキリストだと認める立場を仮定して、新約聖書を見ると、いつも福音書の後半で「???」となる箇所がある、そのことじたいに追究を進めるつもりはないのだが、とにかく当時の現場の人々は「イエスがキリストだと知っていて処刑した」と見えてならない。
何を指摘しているかというと、当時の現場の人々は、イエスがキリスト(救世主)だと "わからなかった" から殺したというふうには思えないのだ、福音書にそう明記はされていないが(あるいはおれが知らんだけかもしれないが)、要するに当時の現場の人々は「こりゃ救世主キリストだわ、よし殺そう」と処刑したと思えてならない。
ヘブライ聖書世界に生きている人は、救世主を待望していたのだから、それが「よしきた」で、「じゃあ殺そう」では意味不明ということになるが、 "そういうことが起こる" のだとおれは感じている、もちろんこれは教会なんか行ったこともないおれが気まぐれに世迷言をほざいているだけでしかないので、こんな話をヨソのマジメな人々のところに持ち込んではならない。

これは何も、聖書の追究に興味があって書き話しているのではない、そうではなくこの判断と情報が "要る" のだ、何に要るかというとこれから先に万事を説明するのに要るのだ、その予感がひしひし来ている。
つまり、人間は意識的矛盾のあることを、意識的に「おかしい」とは感じずに、まさに「平気」でやるということだ、たとえば「おれはトマトがきらいだ」と言いながらトマトを丸かじりすることはありうるし、「パチンコに行っても損するだけだ」と言いながらパチンコに通い詰めることはありうるということだ。
「待望の救世主キタコレ」と言いながら救世主を磔にすることがありうるし、そうして処刑しておきながら「やっぱり救世主だったぜ〜ヒュー」みたいなわけのわからないことを言うことが、人にはありうるということ/それはまさに、悪魔に魂を売り飛ばしてしまったということなのだろう、イスカリオテのユダだってぶっちゃけ「お前が裏切る」とほとんど宣告されながら、そのままヌケヌケと裏切ってキリストを敵方に売ったのだから、やはり悪魔が魂を買い上げたら当人の意識と当人の行動はほとんど無関係になるのだ、そのとき意識的にそのことを「おかしい」と感じることさえなく、ただ目つきのおかしいつまりは "悪魔の傀儡" が実際にありうるということになる。
権威で商売をしていたパリサイ派が、キリストを名乗る人気者イエスを憎悪するのはわかるが、実際に磔にして槍でグサッとやるローマ兵士(ロンギヌス)にとっては、キリストを憎悪する理由はまったくないはずだ、しかし何か処刑の現場はそうした人々がイケイケのムードだったというような記述がある/ローマ兵が何ら憎悪する理由がない待望の救世主をイケイケ気分で磔にするのはわけがわからないが、逆に「つまりそういうことが起こる」という記述を成り立たせるために、まさにそういうことが起こったのだと思う、まるでわけのわからない言いように聞こえると思うが、それはつまりわれわれが、人の行動について「わけがわかる」と前提していることが誤りだということなのだ。

人に「動機」はなく、動機を放棄したのは根源的な "恐怖" によってだ。

ふつう、そこに集った兵士まで含むすべての人が、「この方は待望の救世主だぜ!」と思っていれば、いわゆる「動機」のメカニズムによって、「みんな、磔はやめてこの方を解放しようよ」というほうへ物事は動きそうなはずだ、けれども「そうはならない」ということが事実として刻まれたのだろう/そんなもん、たとえば今のアメリカの情勢において、「黒人の差別と貧困がひどすぎる、おれたち黒人は……白人の家を雑巾がけしよう」とはならないはずだ、それが一般的な「動機」のメカニズムだが、必ずしもそうではないのだ、人はある種の恐怖によってそうした「動機」のメカニズムをまるきり悪魔に売り払うことがある。
それはまあ、逆のパターンもあって、逆に神にすべてを捧げた人があれば、やはりその人も「動機」というメカニズムは放棄していることになるだろう、だから右の頬を打たれたら左の頬も差し出すという、「動機」としてはおかしい行動に出ることがある/われわれ東洋人は文化的にうっすら知っていることだが、人がしょせん「動機」にもとづいてやるようなことは、何であれつまらないものにしかならない、すごい善行でもひどい悪行でも、人が「動機」によって行うことはすべてどうでもいいことでしかない。
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