☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ひがみ、うぬぼれ、オピオイド/エネルギーを得るのはそんなに簡単じゃない3
去に比べて、優秀な人はものすごく増えた。
ウーマンリブの思想もあって、特に女性など、男性を寄せ付けず優秀な人がいくらでも出現してきた。
ところが、優秀でかつ、見た目までうつくしいと思える人が増える一方で、同性であれ異性であれ、その人を抱きしめたいだとか、その人と共に生きたいとか、その人といるとこころ安らいで幸せとか、魂の出会いに涙が出るとか、そういったことはなくなってしまった。
優秀な人は、大量に増えたに違いないが、一方で、やさしい人はぐっと少なくなった、どれだけやさしくしようと意識的に考えても、やさしくするということは小芝居になり、こころの底からは不可能になったはずだ、それは挙動の源、生きる力が、呪術によって得られているからに他ならない、今優秀な人のすさまじいエネルギー源は、大地でも何でもなく血のきしみ・呪術であって、エネルギーの仕入れ先として非正規であり、当人はそのことを教えられていない。

非正規品であれ、すさまじいエネルギーが得られるには違いないが、それにしても、非正規のエネルギーでは、営めないいくつかのことがあるし、現せないいくつかの徳性がある。
つまるところ、愛はやれないのだ、魂もやれない、言葉や物語、フィクションはやれない、血はノンフィクションのエネルギーだから、業(カルマ)から離脱する方向のことはやれない。
非正規のエネルギー、血のきしみ・呪術をエネルギー源にしているので、何もかもが次第にドギツく、腥(なまぐさ)いものになっていかざるをえないのだ、だから現代の優秀な人は、表面を頑強に糊塗する必要に駆られている、そして表面を頑強に糊塗するということについて、積極的に「アイドル」という方法が提示されてきたし、意識高い系やオラつき系、また現代の切羽詰まった「老人」が発生してきた。
誰も彼も、内部は非正規のエネルギー、「ひがみとうぬぼれ」という血のきしみをエネルギー源にして動いてきたから、内部の真相は開示できない状態なのだ、きしむ血のノンフィクションでギトギト、壮絶な生々しさが内部を支配している、しかもそれは呪術によって得られたものだから、解呪されないかぎり生涯その術から逃れられない、そして解呪といってもそんな方法が具体的にあるわけではないのだ。

優秀な人、見た目にきれいな人、媚びて惹かれる挙動、興味深げに見えるテーマ、すべて内部は血の呪術で作られたバケモノだ。

たとえば或る女性が、十代のころからファッションモデルで、経歴を見ると海外の優れた大学を出ていて、ツンツンしているかと思えば自撮りした動画では愛玩物のような振る舞いで、芸術に向けた演劇に挑戦中で「みなさん応援してください!」と言っていたとすると、その当人は表面を頑強に糊塗してあるだけで、中身は呪術が作り上げたバケモノだ、すさまじいひがみとすさまじいうぬぼれが循環するだけの激烈な血のきしみ、そのシステムだけで動いている、だからこそ当人は決して本当の声と言葉と表情を、人前に明かそうとはしない。
本人が、それを呪術と知って自分にほどこしたわけではないだろうけれど、誰が悪いかといえば自分が悪い、なんでもかんでも他人のせいに、また環境のせいにするのもいいかげんにしろよ、優秀さのカケラもないやつめ、誰が悪いかといえば自分が悪いのだ、天地のあいだにいて、大地からエネルギーを胴体の底に受けるという正規の手続きなく、つまりは己が傲りたかったから、知らず識らず呪術の誘いに乗ったのだろう、そんな甘っちょろいこと、何歳だろうが当人の責任に決まっている、血の呪術がなければ何のエネルギーもない身体が重いだけのでくの坊じゃないか。
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ひがみ、うぬぼれ、オピオイド/エネルギーを得るのはそんなに簡単じゃない2
れはけっきょく、やりたくないことは一ミリもやらないので、この面倒くささを突破するには、やることを変えるしかない。
やることを変えるとなると、さしあたり、まあおれが威張っていればいいのじゃないかと思う/おれが誰か人のために話すというような、気色悪い世界は一ミリも許してはならない、おれは威張るだけ、てめーらは這いつくばるだけだ、それ以外の世界におれは一ミリも存在を許さないだろう。
エネルギーを得るのはそんなに簡単じゃないというのは、本来エネルギーを得るというのは、天地の中にあり、大地のエネルギーを胴体の底に受けて、それを生きるエネルギーにするということだからだ、このことは正しく生命と歴史を教わっていないと成り立たないし、教わった上で心身をそのように帰順させていないとそんなエネルギーの得られ方はしない。
じゃあどんなエネルギーの得方をしているかというと、呪術なのだ、呪術というとたとえばスズメバチの汁でも飲んでいそうな気がするが、実際に今もスズメバチドリンクは大人気で売っている、長距離ランナーなら知らない人はいないという有名ドリンクだ、何しろドーピングの項目には引っかからない/ドーピングの項目には引っかからないのに、バチンと効くのだから、そりゃ何の術だといって呪術なのだ、古代の人も長距離ランに向くような生きものの術を知っていたということで、呪術というのは何もかもがオカルティックなものではない。

呪術の基本は「閉じ込める・縛りつける」にあり、そこで「競わせる・共食いさせる」ことにある、だから同種・同族の生きものをひとつの箱に閉じ込めて共食い競争させるのが呪術の基本だ、つまり学校の教室などがそれにあたる。
あまり詳しく知るべきではないと思うが(詳しく知りすぎるとそれだけで呪われるので)、生きものを閉じ込めて競わせ、共食い等させると、勝てない側はその血に強烈な「ひがみ」の苦しみを起こすのだ、そしてその苦しみと対照して、勝った側は同じくその血に強烈な「うぬぼれ」の愉悦を起こす/「ひがみ」が何によって起こるかは生きもののタイプ(というよりは所属する六道の因果)によるが、まあ手法はどうでも基本は同じだ、血に強烈な「ひがみ」を起こし、対照に「うぬぼれ」を起こす、ときには「ひがみ」は「うらみ」という形態にもなり、たとえば関ヶ原の合戦以降、毛利家や豊臣家が徳川家を怨み続けるというような現象が起こる、この血のひがみは儀式を経て血族の子孫へと継承される。
何の話かというと、たとえば一昔前は、「ふつうの人」というと、「読み書きなんかできません」というのがふつうの人だったのだ、誰だって勉強すれば読み書きはできたはずだが、ふつうの人はそんなエネルギーを持てなかった、人が読み書きを学んで習得するというのはものすごいエネルギーの要ることなのだ。
現代人は、読み書きは当たり前に出来て、何であれば十八歳の少女の半分ぐらいは大学に行くし、難関トップの国立大学にもガンガン入るような状況だが、どこからそんなエネルギーを得ているかというと、天地にのあいだにいて地の力を……得ているわけではもちろんなく、呪術によって得ているのだ、「ひがみとうぬぼれ」という強烈な血のきしみによって、ふつうでない人のエネルギーを得ている、もちろんそれだけで済めば利益しかないようなことだが、そうはいかないのだ、それは呪術によって得られているのだから、目的を達した後も、当人はその呪術のはたらきから逃れられない、生涯をずっとその「ひがみとうぬぼれ」という血のきしみに駆り立てられながら生きねばならない、そうした人は実はエネルギッシュなのではなく、掛けられた呪術から脱けられないのだ。

いじめや人種差別がなくならないのは、呪術の構成上、「ひがむ」側、「かわいそう」な側がどうしても不可欠だからだ。

ここ最近、学校の教師が、同僚の教師をリンチするという事件が暴露され、そのリンチの具合が低劣で目も当てられないということが明らかになったのだが、そうしたリンチやいじめが何のために為されていたかというと、血の儀式なのだ、強烈に血が「ひがむ」という者を作りだし、それに対照して血が「うぬぼれる」という者を作り出すということ、この手続きなしに当人らはエネルギーを得られないのだ、別にそうした事件に限らず、スキャンダルに向けて必ず大量の「炎上」が起こるのも、この呪術のはたらきであり、呪術に補給をほどこす儀式として生じているものだ。
僕の能力はたかが知れたものだし、尺度によって僕より優秀な人など、この日本に一億人ぐらいいると思えるが、僕のようなていどの能力でさえ、「正規の」エネルギーで得てそれを為せるかというと、それができる人は極端に少ないのだ、ひがみ・うぬぼれの血のきしみから得たエネルギーではなく、天地のあいだにあって地から胴体の底がつながって得られた生きるエネルギーだ、この正規のエネルギーのみでどれだけやれるかというと、多くの人が事実上「ゼロ」だということを、僕はここ数ヶ月ずっと目撃してきた。
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ひがみ、うぬぼれ、オピオイド/エネルギーを得るのはそんなに簡単じゃない
定的な知見が得られたので、それをレポートしなくてはいけないのだが、面倒くさがっている。
なぜ面倒くさいかというと、もう世の中に、読まなくていいもの・見なくていいものがあふれかえっているからだ。
今、おしゃれな感じのものを作るのが、実は一番カンタンで、そのことが一般に知られていないのは、一般の人はジェネレーターなんか考えないからにすぎない。
今はウェブ上に、いくらでも無料のジェネレーターがあるので、それと著作権フリーの素材画像を組みあわせれば、三十分ぐらいで何でもない無意味な「おしゃれ」な感じが作れる、こういった "ジェネレーターもの" ですでに情報網は飽和しているので、もう新しい情報はそもそも読み取られることがないのだった、それであまりにも無意味が予感されるので、少々面倒くさがっているのだった。

ジェネレーターというのは、必ずしも画像に限らず、ありとあらゆる企画が、ジェネレーターを通せば「それっぽいもの」として形になる。
実際、YouTuberのやるべき企画なんて、最もイージーなジェネレーターで作り出せると思う、おそらくわれわれの知らないところで、テレビ番組やら映画やらも、そういう無形のジェネレーターを通して出力されるだけのブツになっているのだ、だからそれらのものは見るに値しない/見なくてもすでにジェネレーターが把握済みのものだからだ、そこに創り出された新しいものは何一つないと言える。
それでいて、ジェネレーターを通せば、すべてのものが一瞬でカンタンに創れるため、ジェネレーターものは大量に世の中にあふれかえることになる、このジェネレーターものがあふれかえることで、新しいものは発見されないという、人々の未来を閉ざすのにこんな方法が成り立つとは思わなかった、まったく人の予想範囲なんてたかが知れているものだ。
というわけで、タイトルとは何の関係もない話になってしまったが、しょうがない、タイトルに関連して決定的な知見をすでに得ている、だが面倒くさいのだった、これはそもそもおれの話すべきことでさえないので、そのことまで含めるとたっぷり面倒くさいのだった。

2016年に、すでに、AIが書いた小説が文学賞の一次選考を通過している。

それはどういうことかというと、すでに小説が読まれるということに、こころも魂も介在していないということだ、これはAIが進化したのではなく人間のアホがバレ始めたにすぎない、「何の値打ちもないものが流行る」ということの向こうに、ジェネレーターに踊らされているアホの姿がいやがおうにも見えてしまうじゃないか。
ジェネレーターで出力したものは、すべて「それっぽい感じ」のもので、見た目にわかりやすいが、値打ちは何もないものだ、この値打ちのないものが世の中を埋め尽くしてゆき、われわれは値打ちのない時間を生き続けるということになるが、そんなこんなで、タイトルとまったく関係ない話になってしまうのだった、それぐらい面倒くさがっているということだ、うーむやりたくねえなあ。
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「うぬぼれ」再考5
に立たない話はしない。
何十年も生きていくのに、すべては「うぬぼれ」に吸い込まれて、すべてが無為になるというパターンを、もう見たくない、単純に飽きたという事情もある。
チヤホヤされただけで、情緒がジワッとゆるむ奴は、どうしようもないアホで、何ひとつ徳性が解放されていないという、シンプルな話をしている。
チヤホヤされない人は問題ないかというと、そうではない、チヤホヤされないのはただの気の毒な話で、チヤホヤされたいうぬぼれ欲求が、常時「不満」の状態を作りだしているだけだ、年寄りが機嫌の悪い顔で歩いている理由はそれだ、チヤホヤされないからブチギレという老人がいくらでも街中を歩いている。

生きるために頑張る人ばかりになり、何かのために生を燃やす人がいなくなってしまった。
別にそれはかまわないのだが、その方向に徳性は皆無だし、何百年生きたとしてもすべてが無駄になる、何かのために生を燃やさないのだとすると、すべての原理は「うぬぼれ」でしかないということで、このことに飽きたと申し上げているところだ/YouTuberを何万人検索したとしても、「何かのために生を燃やしている人」はいない、YouTuberはすべて「うぬぼれ」の原理でしか駆動していないし、だからこそ広告料をアテにして食い扶持にしようと必ず考えているのでもある。
誰も「何かのために生を燃やす」とは考えていなくて、そのことをまさか罪とは考えないし、誰だって「自分なりに頑張っている」と思っていて当然だが、その発想は根底を「うぬぼれ」に支配されているので、後に必ずブチギレ顔の老人になってしまう、自分をチヤホヤしてくれるセールスマンの営業トークにしか乗っからない老人になるのだ。

「チヤホヤされつつ、そのことを食い扶持にする」という願望だけが蔓延している。

YouTuberもそうだし、アイドルもそうだ、若い人の大半がアイドルとYouTuberになる願望を抱えているのは、はっきりいって異常であり、異常であるのみならず猟奇的だ、ケツの穴をいじくりまわすと人はそういう生きものになる、とんでもない話だが本当にそうなので致し方ない。
自身に巣くっている「うぬぼれ」に対抗しなくてはならないのだが、「うぬぼれ」に対抗しようとした途端、いきなり「死にそう」な体感になるだろう、それで合っている、これまで不潔な「うぬぼれ」パワーで生きるエネルギーを得てきたのだから、それをいきなり断てば急に「死にそう」な感じになるのは当たり前だ、その中で自分は何かとつながっているかを考えなくてはならない、まあろくな結果しか出てこないだろうから、理屈はそうでもさしあたり気軽に取り組むしかない。
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「うぬぼれ」再考4/「うぬぼれ」と「天使」
(深い哀しみの中からは常に戦士が立ち上がる)
「うぬぼれ」の感情は、生の情緒であり、生まれ落ちた身の、生来的、生理的なもの、では「そうではないもの」にどうして接続するか。
もし「そうではないもの」に全身を支配されたとき、初めはその未知の歓喜に、あなたの全身はびっくりし、混乱と思わず拒絶反応を示すかもしれない。
われわれは神ではないが、生まれ落ちた身の、生来・生理から切り離されるとき、天使のようになる、それは天使のようというよりは、天から使わされているのだから天使なのだ、天使という事実であってそれは不遜なことではない、天に使わされた者の位はそこまで高くない。

生後六ヶ月までの赤子が、明らかに大人と異なる霊性を具えているのは、まだ頭蓋骨(頭頂)が塞がっていないからで、また身の業(カルマ)が立ち上がっていないからだ/生後六ヶ月までの赤子は、無力だが天使の状態にある、「天使のよう」ではなくて「天使」だ、だから逆に生後六ヶ月までの赤子は大人びている。
生後六ヶ月までの赤子には、「うぬぼれ」は存在しえない、なぜならまだ「生」のメカニズムが立ち上がっていないからだ、だから天使の状態で、大人を使役する資格を持っている、母親をはじめとして大人たちが甲斐甲斐しく世話するのは「かわいいから」ではなくて、直接赤子が「偉い」からだ。
すべての営みを、うぬぼれと無縁のものとすること、レベルの高低は問題ではない、レベルが低くてもうぬぼれから無縁であれば、それは命であり魂そのものだ。
周囲をよく見て、また歴史的な芸術をよく見て、自分が真に愛しうるもの・真に尊崇しうるもの性質をよく見ろ、ただ「うぬぼれ」がないという一点、それだけで営為は命そのものになり、魂そのものになる。

二つのジャンルに区切られる、そのジャンルは「うぬぼれ」と「天使」だ。

慾望を我慢したとして、その者の位が上昇することはない、我慢しているのは「都合によって隠しているだけ」だ、生後六ヶ月までの赤子は何も我慢していない/何らの隠蔽・細工・我慢なしに、すべてを解放した上で「天使」でなくてはならない。
レベルの高低に関係なく、ただ偽りのない解放状態で、エネルギーを下層から上層へ引き上げている者は、「天」に使役されている、そうでない者、上層エネルギーを下層へ引き落として「うぬぼれ」に消費している者は、「生」に使役されている、よってあなたが女なら、あなたは生きもののメスではなく天女にならねばならない、レベルの高低は関係ない。
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「うぬぼれ」再考3
り分かりやすいように、簡単な話をしよう。
胴体の最下部に、ルートチャクラ、「生きる力」というチャクラがあるとし、たとえば心臓付近に第四のチャクラ、友愛や親愛、兄弟愛のチャクラがあったとする。
このとき、「生きる力」から得られたエネルギーが、体内を上昇して、友愛のエネルギーとして解放されるなら、それはエネルギーの方向として「上昇」しているのがわかる、胴体の最下部から心臓まで上ってきているのだから当たり前だ。
逆に、誰かから友愛・親愛・兄弟愛を受けたとしても、そのエネルギーが胴体の最下部にまで落ちて解放されるのなら、それはエネルギーの方向として「下降」「落下」しているのがわかる、今話しているのはただそれだけのことだ、エネルギーがチャクラ間を「上下」どちらに行っているかというだけの話だ。

分かりやすく、アホに感動の名作映画を見せたらどうなるか、と考えよう。
アホに感動の名作を見せると、その作品の示している世界や愛、すべての徳性が、アホの体内を落下してゆき、すべては彼の「うぬぼれ」に消費されることになる。
極端な話、天才バレリーナの踊る姿を、アホのキモオタに見せたらどうなるかというと、アホは「ぶひひ、この僕にそんな身体のラインを見せつけて、けしからんですね、お仕置きものですね、ぶひひぃ」と、すべてを己のうぬぼれにしか転換しない、彼はそうすることで自分の生きる力を補充しないと死んでしまうような行状なのだ/ざっくりした言い方になるが、実際キモオタやそういうたぐいの性癖者は、そのことで「生きる力」を補充しているのだ、それがないと死に向かっていってしまう。
まさか、映画やバレエを観たところで、そんなブヒヒとかならないですよと、大半の人は思うだろうが、そこは甘く考えないほうがいい、あなたが天然で生きる力を大地から直接爆発的に得ているような人でないかぎりは、決して甘く考えないほうがいい/僕がきれいな花園を見つけて、「すごくいい香りがするから」といって花束を作ってあなたに差し上げたとしたら、あなたはそれを受け取って、一ミリも「うぬぼれ」に転換しないかというと大変アヤシイものだ、エネルギーの行き先をどうしたらいいかわからない――まだ高度な精神を解発していない――なら、困ったあげくそのエネルギーは落下して「うぬぼれ」として味わわれるしかない仕組みだ。

「生きる」ということは、すべての命を食い殺し、胴体の最下部から大便として排出するという営為だ。

「生きる」ということは、そういう「落下」の方向だということを見よ、生きるというのはそういうことだとして、では「命」とは? ということになるのだ、命というのは逆、生きるエネルギーを上位の高さに持ち上げて解放することを言う/なんでもかんでも消費するのみの人は、本当にただ「生」のシステムにしか属しておらず、案の定カルマ(業)を溜め込む営為しか重ねていない、生きていて異様な苦しさを感じるのはそれが理由だ、そんなものヴィーガンになったとて解消されない。
生きるエネルギーを、自らの意志および怒りとし、意志はガッツ(はらわた)となり、はらわたは胸(ハート)となり、ハートはジョークとユーモアを創作し、ユーモアは叡智を見いだし、叡智は世界を与える、やがて世界はわたしになる、という仕組みだ、下層エネルギーを上層エネルギーに持ち上げて解放するのがナイスであり、その逆が「うぬぼれ」というだけだ、仕組みとしては簡単だが、受け取った花束を一ミリもうぬぼれにしないというのは実際にはとても困難なことだ。
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「うぬぼれ」再考2

れわれは、地上に「生み落とされた」のであって、「生み上げられた」わけではないので、「生」というのは本質的に「落下」だ、この性質を冷静に見る必要がある。
たとえばここに、二人の料理人がいるとする、この料理人は、表面上は同じような料理人に見えながら、一方は「生きるために料理をやっている」と感じられており、他方は「料理をやるために生まれてきた」と感じられている。
「生」は方向として「落下」だから、「生きるために○○する」というのは、方向として落下にあたる、このことを「業」といい、だから「生業(なりわい)」というし、職業といい営業という/われわれが生まれ落ちたことは業(カルマ)であり、生きねばならないというのもまた業(カルマ)だ、この業(カルマ)が償却されるまで輪廻が続くと仏教説はいう。
「生きるために料理をする」という料理人は、料理という徳を、生きるために落下させているということ、だからこそ彼はいかにも職業人(プロフェッショナル)に見える、他方「料理をやるために生まれてきた」という料理人は、生きるという業を、料理という徳のために昇華させているということ、だからこそ彼はいかにも明るい求道者に見える。

女性は生まれつき、即座に「プロ」になる方法を所有している、つまり売春をすればただちに「プロの女性」になる/プロというのは「食い扶持を稼ぐ」(それによって「生きる」)ということだから、女性は生まれつき、潜在的にプロの売春婦たりえるということ、そのことはすべての女性に一度ならずそう考えたという心当たりがあるはずだ。
そして女性が、売春婦あるいは、そうでなくても「生きるために」セックスをし、ヴァギナの力を使ったとき、自分は何か「転落」したという印象を、自分自身に受けるはずだ、それは「生きる」ということの方向がそもそも落下の方向であることを意味している。
なるべくその「落下」を防ぐために、たとえばお医者さんは、直接お金を受け取らないシステムになっている、誰だって医者に掛かったとき、その治療費は「病院・医院」の「会計受付」に払ったはずだ、医者当人にカネを渡すシステムは基本的にない、それは習い事の「先生」に対してもそうで、なるべく剥き身でカネを渡さないようにして、「プロ」=「生きるための落下」を起こさないように配慮している。
誰だって胴体があって生きており、まず知るべきは一点、落下と昇華という矢印の方向について、「生きるために徳性を落下させている」のか、「徳性のために生きることを燃やしている」のかを知る必要がある、前者はいわゆる「プロ」であり、だからこそ、たとえばオリンピックには原則としてプロは参加できない/それは、プロには「うぬぼれ」が許されるが、オリンピックには「うぬぼれ」が許されないということでもある。

「生の情緒」が、「うぬぼれ」だ。

反証に、幽霊をイメージすると、幽霊というのはさすがに「うぬぼれ」は持っていなさそうだ、仮に幽霊が出現したとして、それをチヤホヤおだてようという発想は誰も持たない/つまり「うぬぼれ」という情緒は「生理的」だということ、生きるということが情緒としてはうぬぼれであって、「生まれ落ちた」ということは「うぬぼれを宿された」ということに等しい。
かといって、じゃあ即死しろというわけでもない、生の情緒がうぬぼれだったとして、即死してそれを解決しようという話ではない、「うぬぼれ」という情緒がそういうものだとネタバレすれば、それに対抗することが十分に可能だというだけのことだ/うぬぼれを元として何かを営むこと(落下の方向)と、己の燃焼を元として何かを営むこと(昇華の方向)は、まったく別のジャンルだということ、さらには正反対のジャンルだということ、プロスポーツとオリンピックは別ジャンルであり正反対のジャンルでもありうるのだが、このところはオリンピックも実質的にプロ化してしまったので、かつてのようなオリンピックの神聖さはありえなくなった(メダリストはそれを食い扶持にするのが通例になった)。

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「うぬぼれ」再考

前にも「うぬぼれ」の話はしたけれど、ここにきて再考、再考しても同じような話だが……
どれだけ金持ちでも、どれだけ有能でも、どれだけ歌と踊りが上手に見えても、どれだけ美貌にすぐれ身体能力に秀でていても、一ミリでも「うぬぼれ」が混入するなら、それは別ジャンルになる。
うぬぼれが混入するものは、すべてうぬぼれから始まっており、どう取り繕ってもうぬぼれに終始することになる/このことを教わっていない女性はとても不利だ、教わっていれば対抗することじたいはさして困難ではないので。
うぬぼれは、利己的遺伝子に由来した、まったく霊的ではない生身のものであって、つまり生きものの「生きる力」を支えている、生きものの性質とは、突き詰めるところ「自己の遺伝子が繁栄したら他のことはどうでもいい」ということだ、まるでかつての徳川家の発想そのもののような具合だ、これは善悪ではなく、ただその「うぬぼれ」が混入するかぎり、それは別ジャンルのものになり、すべてのことはただうぬぼれを満たすためだけに存在することになる、このことを教わっていないのは非常に不利だ。

「生きる力」というのは、チャクラ的にいえば、ルートチャクラ、胴体の底にあるチャクラで、つまり女性でいえば穴が空いている部分だ、よって女性は生来的にこのチャクラの常時開放があり、だからこそ女性は「おだてられる」「ちやほやされる」ということにとても弱い/もちろん男性でも同じところをいじくって活性化すると、穴が空いて制御が利かないぐらいうぬぼれ屋になる。
トレパネーションという発想があって、正気の発想ではないが、チャクラうんぬんというのは物理的に穴を空けることでも効果があるのだ、女性はその点、生来的に穴が空いているので、このルートチャクラの制御に多大な苦労をする/だからこそ、女性は生きものとして「生む」という機能を持っているのでもある、<<われわれのうちでヴァギナを通過せずに生まれてきた者はいない>>ということをお忘れなく、「生」の本質とはそういうものだ、脇の下から生まれてきたブッダ以外はこの例外たりえない。
「うぬぼれ」が一ミリでも混入すると、それは別ジャンルになるということなのだが、それについては次の記事でもうちょっとマジメに書き話したほうがよいだろうか、ともかくこれは面白いもので、人によっては追究するところ、「わたしはけっきょくうぬぼれ派」というような人が少なからずあって、そういう人は「うぬぼれ」を除去すると、実は一ミリも動けないのだ、多く活発で活動的な人はただの偽装されたうぬぼれ派ということが実に多い。
人はどう取り繕っても、けっきょくは自分が心底から信じているほうへ強制的に流れていくしかないのだが、つまり堰を切って――解放されてみて――自分がどちらに流れるかというと、けっきょく「うぬぼれ」のほうじゃんということはすごく多いのだ、それは自分がどちらのジャンルに属している者かということを示している、表面上がどれだけ立派な、立場と権威のあるご老人でも同じだ、本質は生身と霊の胴体だから。

チヤホヤされると、女性はヴァギナがごきげんになる、男性はケツの穴がごきげんになる。

おじさんたちが、キャバクラに行って、セックスもできないのに高いお金を払うのは、若い女の子たちにチヤホヤされて、ケツの穴をごきげんにしているのだ、それでキャバクラでの遊びがしわいと(ケチだと)、「ケツの穴が小さいわね」となる/「うぬぼれ」は生きる力なので、おじさんたちはそれで生きる力をゲットしているのだ、このことが積み重なっていくと、やがて男性も自身のアナルで性交するようになる、一般にオカマさんがふっきれたナルシシズムを持っているのはそのせいだ、だからオカマさんは自分にとんでもない派手な名前をつける(また、キラキラネームが流行るのも、同じ「うぬぼれ」からの現象だ)。
実験してみるとわかるのだが、女性と性交するとき、その女性と性交するのに目の前でお金を段階的に積んでいくと、その積まれたお金に比例して、女性のヴァギナは活性化し、濡れて、ごきげんになっていくのだ、本人の意志とはまったく関係なしにだ、この実験の事実をもし目の当たりにすることがあったとしたら、ほとんどの人は恐怖すると思う、ヴァギナという器官そのものがマネー(血、生きる力)の供与によって変動していくのだ、「生」というシステムはそういうすさまじいシステムであって、このことは隠蔽していても各人の内部ではたらき、当人を支配している、その支配に属するかぎり、いかなる表面の事象もすべて「別ジャンル」になるということだ。

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或る少年の告発

(この声の主はフィクションです)「僕たちの邪魔をしないでほしいな」
「見てごらんよ、このあたりの建物は古いだろう、歴史があるんだ」
「確かに僕たちの暮らしは、スラム同然さ、でも生活が貧しいということは、生きることが貧しいことを意味しない」
「僕たちは、この町から出たことはないけれどね、でも世界中に色んな人たちが色んなように暮らしているのは知っている、見たことはないけれど知っているさ、見ていなくてもつながっているからさ」

「何のために生まれたのかなんて知らないし、何のために生きるかなんて知らないよ」
「でも、同じ場所に生まれて、こうして仲間たちがいる、同じ場所に生まれたってことは、仲間なんだろう」
「そして他の場所でも、同じように、生まれた者同士が仲間になって、僕たちのように暮らしているのを知っているよ」
「それがどういうことなのか、僕たちにはわからない、でも見たこともない彼らがそうやって生きているんだから、僕たちも生きていくんだよ、そうやってロックを感じる、同じ魂が僕たちにもあるんだ、僕たちが子供だとしてもね」

「僕たちは子供だけど、バカじゃないよ、僕たちの使命は、バカな大人たちにならないことさ」

「僕たちの邪魔をしないで欲しいな、もうすぐ日が暮れる、これからがいいところなんだ」
「僕たちは満足している、その満足している僕たちに、満足していないあなたが説教することはないよ、あなたはいつからか、このつながりから切れてしまったんだろう、僕たちはそうならないことに必死なんだ」

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あらゆるものとつながりをもって
白い話は何よりのごちそうだ、ということにしておこうか。
 物事を分割すると、構造は失われてしまうので、およそ「分かりやすいもの」および「分かりやすくしたもの」には何の値打ちもなく、「分析」した者は何も顕わすことができない。
 個々人の思いや思いつきは、何の用も為さず無意味だ、分割は人の力(ないしは罪業)であり、構造は神の力だ。
 神の力を、畏れることはないし、また誇ることもない、なぜならそれは人の力ではないのだから/僕はもう長いこと、分割された人々を内心に見捨て、僕自身のみ今もすべてのつながりの中に佇み続けている、この裏切りは、しかしいつか人々が戻ってくるときの標として僕自身を残らせ続けておきたいということなのだ、僕までが分割に与することはきっと誰のことも益さないだろう。

 神の力は、神によってしか視えないのだから、人がそれを誇ることはない、筋が違う/人は神性によってしか、神の力をまざまざと視ることはない、それは神が神を視ているだけなので、人が威張ることはない。
 構造が神の力であり、神が神の力を視るということを知れば、確かに神という事象は、憐れな人々を愛し、あわれみ慈しんでいることがわかる、神は確かに憐れな人々に胸を痛めている/それは人が人を憐れむこととは現象そのものが異なるので、人が人を憐れんだとしても、その分割的な作用は誰のことも救済しない。
 構造、という神の力の許(もと)にある憐れな人々は、それだけですでに救われていると言える、よって神のあわれみによってのみ無上無類の救済が得られるというのは、現象についての指摘として正しい/それは一般に人がイメージする「神」とはまったく異なっており、なまじ真の神は思いがけずわれわれの身近――というよりは己の身の内、魂の中枢――にあるので、いっそう誤解しやすい、われわれが外部にイメージする「神」は本当にただの空想でしかない。
 僕は一人の「人」であり、この「人」という機能のうちに神なるものはまったくない、ただ神性が降りてきているユニットというのは確かにあるらしく、それは「偉い人」ではなく「現象が降りてきている」だけなのだ、僕という人が偉いということは一ミリもない、きっとこの話がみんなの目撃している実際の現象に最も近い。

「偉い人」は存在しない、「人」は一ミリも偉くなれない。

 分割が人の力であって、構造が神の力だ、そこでどれだけ「偉い人」を設定しようとしても、人は「分割する力」しか持てないのだから、そこには何の構造も生じない、だから人為的に「偉い人」になった人は、孤立して思いつきのわがままをしようとする、それは実に「人」の頂点であって、人の偉さは神と何の関係もない/つまり、きわめて身近な現象でありながら、「人」と「神」は別の現象なので誤解を生じるのだ。
 「構造」という神の力においては、「人」はあまり関係なくて、場所というか地にまずその力がある、天地の関係が「場所」という現象を作り出していて、「人」というのはその「場所」にうごめくあわれなユニットたちにすぎない、そのことを概念にイメージしていてもむろん何の意味もなく、神が神の力を視ていること、その偉大さと慈愛にあずかることをよろこぶしかない/おれという人が実にただの一人の「人」でしかないことがよくわかる、これを「構造」――別名を「物語」――の力に取り込んで救済しているのは人の力でなく神の力だ、それは信仰の問題ではなく現象の区分の問題でしかない。
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センスを誤解した消費者
りから覚めるとき、夢うつつに、ふとすんなりした明視が滑り込んでくる、このことはもう数年も、毎日のように続いている。
 つまるところ、センスと態度が合っていないのだ、当人は自分にセンスがあると思っているのだが、実力としてはセンスがないので、態度と実力がちぐはぐになっている。
 センスがあるかないかは、すぐにわかる、何の味付けもない白紙の状態で、監督・脚本・指揮者・一人舞台等の場所に立たせればいいのだ、何をしたらいいという外圧を加えずに、ただその人だけをその場所に立たせればいいのだ、そうしたら実は「何のセンスもない」ということがわかる。
 センスがないということは、別に悪いことではなくて、ごくふつうの当たり前のことなのだが、これを自分はセンスがあるものだと、もう十数年も誤解して生きてきたのだろう、むしろその自負だけが知らぬうち自分の生きる支えであり励ましだったかもしれない、今さらそれが「まるでありません」とは急に切り替えが利かないに違いない。

 ほとんどの人に、センスなんかないのだ、何度も言うように、そのことはただの平場の、マスターの地位に立たせればわかる、自分では何一つ創出できない、センスなんか空っぽのデク人形だ/当人はいつのまにか、それを当たり前だとは思わず、勝手に「屈辱だ」と感じるようになっている、この仮想の屈辱感がどこから湧いてくるかというと、むろん当人の妄念からでしかありえない。
 現代、多くの人は、ただの労働者かつ消費者であって、消費者が今、大量の商品およびコンテンツをつまみぐいしているから、消費者としての性癖への執着が「センス」だと誤解し始めたのだ。
 繰り返すが、現代人は、本当の本当に、一切の掛け値無しに、ただ消費物を大量につまみぐいして、そこからこじれた性癖を「センス」と思い込んだだけだ、つまり思ったよりもひどいというか、思ったよりも醜い状況にある。
 どうしても納得のいかない人は、僕の隣に並んでみればわかる、別に意地悪で言っているのじゃない、誰にとっても時間の無駄をするべきではないから、あくまで利益追求的に申し上げている、僕の隣に並び立ってみて、ただの小話のひとつでもしてみればわかる、センスなんか何一つないのだということが事実としてわかる/そしてそのことに気づくのは現在、早くても中年以後となっているのだから残酷な話だ。

本当にセンスの断片すらないので、扇情的な映像や振る舞いだけをまき散らしている。

 本当にただそれだけの構図なのだ、いざ平場に一人で立たされると、本当に「センス」と呼ぶべきものの断片すらないので、よくわからないから股を開いて乳を揺らしているのだ、アニメ声を出したり色鮮やかにしてみたり、とにかく媚びに媚びて、扇情してその場をごまかして切り抜けているだけだ/そもそも、なぜ消費者として過ごしてきただけの十数年の中で、自分に「センス」などというものが磨かれたと誤解したのか、それはしょうもない手口の甘い誘いに乗ったからだろう、よくそんな安易な自尊心のくすぐりに乗っかったものだと、自らを恥じねばならない、それはキャバクラでおだてられて未払いが嵩むおじさんよりレベルが低い。
 僕の隣に並び立ってみればわかる、そこには何も消費するものがないから、消費者としての自分の「センス(誤)」は、何一つ役に立たないのだということがわかるだろう、それであなたは自動的に、自分の防御のシステムとして、その場を取り繕ってやりすごそうとする、そのときに自分が「扇情」という方法を選択することにも気づくだろう、よくわからないから股開いておけというのが女の発想だし、よくわからないからカワイコぶっておこうというのが男の発想だ、媚びて扇情するか居直って恫喝するかの二者択一しか持っていない、これは意地悪で言っているのではなく万人の利益のために是正の方針を提案しているのだ。
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世間は残骸である
かなることよりも「わたし」が先んじる。
 よって、最も先端にある「わたし」のことを説明することはできない、説明は「わたし」の後でしかありえないからだ。
 「わたし」はすべてを置き去りにすると言ってもいい、先端たる「わたし」には「わたし」という出来事しかない。
 それでは先端は「わたし」しかないように見えるが、そうではない、「わたし」の他には何もないが、そのとき「わたし」はすべてなのだ。

 すべてのことが「わたし」と未分化であるということ。
 だから何一つ始まることはない、すべてのことはもともと始まってあるのだから。
 時の流れにだまされないことだ、出来事のすべては0秒に無限圧縮されて起こっており、それが時系列に並べられるのは、われわれの錯覚という機能にすぎない。
「わたし」には成功も失敗もなく、つまり失敗は不可能ということだ、「わたし」に可能な手落ちは唯一、「わたし」でないものをわたしだと思い込み、わたしでないものに耽りこむことだけだ/それだとて、「わたし」の失敗にはなりえないけれども。

べ。

 全能の神は――もしそれがあるのなら――「わたしはアルファでありオメガである」と言っているのだから、「わたし」が「ベ」でもかまわないだろう、正確には "「わたし」を「べ」にしてみても何ら差し支えはないだろう" 、すべてに先んじる「わたし」はそのとき先端で「すべて」だと言っているのだから、「すべて」の中には「べ」も含まれていよう、このことは何もむつかしくない。
 認識可能な物質的世界があって、その箱の中に、認識可能な個別の人格が複数個群生しているという、そのことじたいが錯覚でしかない、いわばこの錯覚が繚乱しているから、この錯覚をもとに「わたし」を定義しようとする過ちを犯すのだ/世間知らずが馬鹿にされる向きがあるが、真相はまるで逆、世間というのは使い終わった「わたし」と「世界」とその出来事の残骸でしかない、すでに使い終わったあとのそれをどう舐め取ってみても何の味もしないものだ。
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自分のありようをごまかすクソだけはやめようと思ってきた
べての空想を取っ払うと、「わたし」という現象だけがある。
すべての認識に先んじて、この「わたし」という現象がある/認識に対応して湧いてくるニセのわたしは「吾我」であり、これはすべての横着から発生する怠慢の誤解にすぎない。
この「わたし」がすべてに先んじてあるのだから、いかなる高尚風味の概念も、「わたし」に先んじることはない、つまり「わたし」の後に続く、すべてはどうでもよいものの呼称にすぎない。
この「わたし」を売り渡すことが、横着であり怠慢であり、すべての罪の始まりだ、ルールブックから物事を引きだそうとしたスポーツマンのように、彼は罪に満ちている/「わたし」がすべてに先んじる、その他すべてのことはいくらでも書き換えが利く表面上の便宜にすぎない。

「わたし」こそがすべての出来事の主であり、この主体なしに出来事はありえないのだから、出来事とはすべて「わたし」のことである、よって出来事より上位のものはなく、同時に「わたし」より上位のものもない。
驚いたことに、「わたし」に追随する後のものは、すべて空想にすぎない、すべては実在のものではない、「わたし」はすなわち出来事であり、この出来事だけが真に存在している、このイグジスタンスを放棄したとき、やはりすべてのことはごまかした罪に堕する。
すべてのごまかした罪、すべての横着から生じた、認識に対応して湧いてきたにすぎない「吾我」は、これじたいが罪の産物であり、ここから生じてくる善きものは存在しない、すべてが認識の後から捏造された、存在のないコピー品にすぎない。
それは罪人にとってのみ用事がある、罪をごまかせるがごときに感じられるコピー品だ、いくら精巧に漏れなく仕上げ抜いたコピー品でも、それは「わたし」ではないので、そのコピー品は「わたし」のなんたるかにわずかも寄与しない、ここに「罪を否認した者たちだけが、罪の赦しを得られなかった」ということがありありと視える。

あなたがたは無罪である必要があるが、おれは無罪である必要がない。

おれは主体と罪の在処が別個にあることを、はるか以前に認めたので、無罪である必要がない、おれには罪を消す能力などない、罪を赦すかどうかはおれの裁量範囲にない、おれは罪を消したいなんて思わないし、それよりは自分のありようをごまかすクソだけはやめようと思ってきた、おれは正当化もしないし反省もしない、ただ自分と違うことだけは知らないようにしてきた。
おれは自分の罪状を、大スクリーンに展示されても、何の怯えも持たないだろう、もともと秘匿するつもりもおれにはないのだから、ただ今になってすべての美少女をレイプしたいかというと、おれはもっと美少女に気づいてほしいことがあることがわかった、別にレイプしてもかまわないしおれの罪状が増えることには何の異存もないのだが、もうおれはそんなことでは盛り上がらないだろう、そんなことよりおれはすべての主体について気づいてほしくて、そのことのためには美少女が服を脱いでいようが着ていようがどちらでもいい、すべてに先んじる「わたし」のことに比べれば、美少女の股間を無闇に折檻することなどわずかの愉しみもないことだ。
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人は孤独であってはならない
は孤独であってはならない、が、すでに「孤独でない」という状態が、どのような状態なのかわからない。
すでに孤独を定められてしまったような人が、やかましさを取り集めて孤独でないふりをしているけれども、そのような狂乱の声に血が滲んでいるようでは、孤独に決まっている。
逆にいえば、僕などは、ただ一人孤独ではないというような状況だ、それは僕が孤独を選ばなかったからにすぎない/僕は孤独な人々が巧みにする誘惑を退けてきた、それは僕が孤独になるのを厭がったからだ。
僕には今も聞こえている、何者にも頼らずに聞いてきたこの世界の声を聞き続けている、そのせいでずいぶん愚か者の扱いを受けてきたが、それでけっきょくよかった/どれだけつまみ食いされても、僕の魂はついに目減りしなかった。

今や、孤独にならないということはひどく困難だ。
なぜ困難かというと、人の弱みにつけこんで、つまり人が自ら不利にはなれない・なりにくいという性質につけこんで、有利になる情報を、悪魔がばらまくからだ、人はそれに食いつかざるをえない。
人は「正しいこと」の果てに、孤独になるのだ、然れば僕のように、正しくないことを選び続けられる者はほとんどいない、僕だけが極めて例外になりうる道理だ。
孤独という状況は、男ならまだしも、女性にとってはとても耐えられない痛苦のようだ、かといってどうしてやることもできない、それは当の女性が「有利になる情報」を選んで掴んでしまったから、当人が自らそれを選んでしまったから/不利な選択はしてこなかったはず、つまり、僕のように愚かにはなれなかったはず。

ひざまずかなくていい、ひざまずいても逃れられないから。

祈ったって届かないから、祈らなくていいし、誤りを認めたって、孤独でない状況なんてわからないから、誤りなんか認めなくていい、殆どの人に出来ることは、僕を罵ることだけだ、本当にそれぐらいしか出来ることがない、まるですべての方途は閉ざされているように見える。
唯一、まっとうな方策としては、途方もない大改正だけがあるのであって、この大改正はまるで現実的ではないが、唯一の方策としてはこれしかないのだ、少なくとも僕自身は、この大改正だけをしつこく続けていくだろう、誰から見ても何のことだかわからない、でも誰かにわかってもらう必要なんて、それこそ孤独な人しか必要としない衝迫だ。
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深い夢への追従、「聖書以外は読むな」
たしの眠りはただならず深く、起床後わたしは、己がどこにいるのか判らない。
わたしが夢の中で知ることは、つまり一般に「聖書を読め」ということではなく、「聖書以外は読むな」ということ、なるほどそれは理に適っている、現実問題はさておきながら、原理的には「聖書以外は読むな」ということは本質を捉えていよう。
カーナビゲーションシステムは、とても便利で、まさに文明の利器と言えるが、わたしは知っている、それは導かれていない者が作為的に導きを付与するもので、したがい導きのそのものの味わいはない、何しろ本当には導かれていないのだから。
システムにナビゲートされてきただけの者たちと、そうではないわたしが対峙する、わたしの知っているものと彼らの知っているものは異なる、わたしの知るものは無敵だが、彼らの知るものはそうではない、彼らは機械的に知ったにすぎない、わたしは何も読まずにきて同様にすべてのことを知ったのだ。

わたしは手引きを必要としない、例外として役所の手続きをすること以外は。
一切を手引きによって知ってきたのみの者と、そうではないわたしとの差は、おびただしく途方もない、いざすべてのものを地に捨てたとき、わたしだけがなおもすべてを知っており、他の者は実のところ何も知らないという動揺を白日に晒す。
「聖書以外は読むな」という、鋭い言説は的を射ていて、手引きがなくても同じところへたどり着かねばならないのだ、手引きを用いた者はすべて不正をしてきたのだから、いざ最後の段になって追放される、ではこれまでの躍進はすべて陽炎でしかなかった、手引きに従ってみたものの結果はそれに尽きる。
わたしは不勉強で何よりだった、胡乱で無頼で、不忠で不孝で何よりだった、わたしは何も読んできていないし、何の手引きにも加担していない、誰が最後の段になって崩れる階に人を案内などするものか。

「だけ」を信じるということ。

ここにむろん、わけのわからなくなった痴愚の、宗教かぶれのことは考えなくてよい、そんな初めから誤っていると分かりきっていることは/「だけ」を信じるというのは、単に数学的な区分にすぎない、信じるというのは単に "比較し得ない現象" ということにすぎず、ここに比較の体質を持ち込む者は永劫その呪縛から離れられないということにすぎない。
「だけ」を信じるということであり、言い換えれば、「だけ」が信じるということでもある、正誤は問われず、「だけ」ということの中に正誤はない、比較体質を持ち込まないかぎり正誤は生じ得ない、そもそも確定しない正誤そのものがわれわれの身の識業であり呪縛の現れだ。
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面白いということは、変化しないということ
白さ、について考えているのだが、なにぶん方法はない、「面白くなる方法」というのはひとつもない。
 とはいえ、手がかりがゼロというのは、気の毒な人にとっては気の毒だと思うので、何かしら手がかりを考えているのだ。
 面白さについて、唯一の手がかりは、「出来事」ぐらいかもしれない、少なくともおれにとっては出来事だけが唯一の値打ちを持つ。
 ただ、「出来事」のためには、持っている余分をすべて捨てなくてはだめだ、つまり「出来事がある」のではなく「出来事しかない」ということでないと、それは出来事にはならない/もちろん何のことを言っているのかわからないだろうが、そりゃわかるようなことを言えばインチキに決まっているのだ、まさか自分に「面白さ」の片鱗がわかるかもなんて期待を持っていてはいけない。

 面白さの、唯一の手がかりは「出来事」だと思えるが、「出来事」のためには、 "変化してはいけない" という鉄則がある。
 変化といえば、たとえば五歳の少年が、四十年後には四十五歳のおっさんになっているということだが、そうして変化というのは弱い者から順に発生するので、面白くないのだ、「変化するのはアホ」というヤケクソのような覚え方をしておいてもいいかもしれない。
 すべてのことには、始まりなんてないので、何かが面白いとか、あるいは何か「勝つ」というようなことは、初めから決まっており、何かが始まってうんたらかんたら、ということはない/よく「始まりがあれば終わりがある」というが、それはそのとおりで、つまり始まりがあるようなものは全部ウソだから後で滅びますというだけのことだ、「始まる」ということ自体がアホで、そのアホの精算として「ホラ終わった、アホじゃん」という結果が来るということだ、ここにはただの寒々しさしかない。
 面白さの手がかりは、始まらない・終わらない・変化しない・何もしないということだ、よくつまらないマンガほど主人公を変化……メタモルフォーゼさせたがるが、サナギがチョウになったとして、あなたは本当にサナギがチョウになるところを毎日観察していたいと思うか? 実際そんな観察なんてした試しがないじゃないか、それは「面白くない」からだろう。

わずかな変化も弱さの証。

 初めから面白くないといけないし、初めから勝っていなくてはならない、誰でも生まれた直後はそうだったのじゃないか、そして現在の自分に不満のある人ほど、その現在の自分とやらは「変化」の積み重ねの末に到達しているはずだ/ちなみに言うまでもないことだが、「変化しない、始まらない」ということは、地蔵のように止まっているということではなくて、逆、すさまじい速さで動くのに、変化はしていないということだ、すごい動きなのに変動していないということだ。
 面白いということに対しては、直接チャレンジするしかなく、つまり本人が直接面白いということしか方法はないのだが、そうして面白い奴は初めから面白いのであって、面白くない奴が変化して面白くなるわけではない、変化するとますます面白くなくなる、だから面白くない奴はイメチェンばかりするし、積み重ねた変化のあげくキャラがコチコチに固まって動かなく、重苦しい奴になるのだ/変動のたびに重さが増すので、面白いといえば重さゼロ、変化ゼロ、出来事といえばゼロということになるな、ゼロが出来事だ、面白さへの手がかりというとそれぐらいしか言えない。
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「面白くない」のは、魂の底が "恐怖" に支配されているから
きものは恐怖に支配されている。
 だから、人は、何十年もかけてアホみたいだが、けっきょく人を「怖がらせる」という方法しか獲得しない。
 ヤクザも同じだし、教師も同じだ、親が子に対してもそうだし、男女が互いに対してもそう、けっきょく「怖がらせる」というアホの方法しか獲得しない。
 それがなぜアホの方法かというと、その方法をいくら駆使してみても、本当の果実はまったく生らないからだ、だから初めから方法としてハズレに決まっているのだが、何しろアホなので、長い生涯をかけてけっきょくその方法しか獲得しないのだった/冷静に考えてみて、「怖がらせる」って本当にアホの発想だ。

 便宜上、「面白いこと」を考えているのだが、まさか真正面から、幻想の「面白いこと」を探すようでは、その人はもう死んでしまっている、まさかそんな取ってつけたような「面白いこと」なんて存在しない/また、取ってつけたような「面白い人」も存在しない(存在するように見えたらそれはただのフェイクだ)。
「面白いこと」なんて、わざわざ考えなくても、フツーに生きていたら毎日は脳みそのフタが開くほど面白いのであって、なぜそれをニセモノの「面白いこと」で補わねばならないかというと、魂の根っこを「恐怖」で縛られているからだ/根幹を「恐怖」が支配しているので、表面をどういじっても面白くはならないのだ、どこまでいってもネクラな何かがつきまとってしまう(当たり前)。
「恐怖」および「怖がらせる」ということ、つまり、「ビビっている」ということなのだが、どうも思い返すかぎり、やはり2011年の震災のとき、津波の映像と原発の放射能ニュースで、きっちり「恐怖」に討ち取られたみたいだ/じゃあ後はもう、恐怖に討ち取られた魂の表面で、何かを楽しんでいるフリをして過ごすしかない、それはまるで病人用の流動食を美味しくしようというようなことで、無為とは言わないが本質的に美味しいということには到達しない。
 このところ、何かあれば「炎上」するし、あちこちで、バトル気質の女性や、オラついている男性、キレる老人等を見かけるのだが、誰も彼もが異様に「わたしは強いんだ!」みたいなフリをするのは、魂の底がすっかり怖がっているからなのだ、別にそれが悪いということではないが、そうして怖がっている魂の誰かが真に面白い何かに到達することはない、つまりそういう人はけっきょくまともになれないまま生涯を過ごすだろう。

怖がったままの魂が、たとえ空中でミラクル五回転しても、誰もよろこばないし、何も面白くない。

 仮に、怖がったままの魂の誰かが、 YouTuber になって、身体にガソリンをかけて火を付けて、ダッシュでプールに飛び込んでみたとしても、怖がったままの魂だから、やっぱり何も面白くない、すべての根底を「恐怖」が支配しているので、決して面白くはならないし、よろこんでしまう何かにもならない。
 つまり、恐怖に支配された魂は、その後「要らない」ものにしかなれないのだ、そうして考えると、ここ十数年、われわれの周囲にはあまりにも「要らない」ものが増えて、のさばり続けたのがわかる、要らないものが要らないのはしゃーないのだ、そこをごまかしたくなるのは、やはり同じように魂の底が恐怖に支配されたままだからだ。
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それはまるで病気のようなダルさ

れは無気力になったことがない。
 気合いを入れたこともない。
 どうやったら無気力・ダルさが来るか、考えたのだが、きっと「みんなで力を合わせる」等をやれば、ダルくなると思う。
 つくづく考えたのだが、おれは面白いことがわかるのではなくて、「面白いことしかわからない」のだ、だからおれは無気力になったことがないし、気合いを入れたこともない。

 現代は、面白くない奴が必死コイている、という向きがあると思う。
 便宜上、面白くない奴、という言い方をしているが、別に「面白い奴」なんてものが存在するわけではないし、逆に「面白くない奴」が存在しているわけでもない。
 おれは、面白いことしかわからないのだが、それは考えてみれば当たり前のことであって、人は機能上、面白いことしかわからないはずだ、だから仮に「面白くない奴」がいたとしたら、そいつは何もかもがわかっておらず、生きてきて何一つ学んでいないし得てもいない、ということになる。
 周囲のことをジッと見て、肩入れしてみたりすると、途端にダルさの毒みたいなものを感じるのだが、本当は何一つ面白くなくて、何一つわかっていなくて、猛烈にダルいのに、何か必死コイて、「力を合わせる」みたいな幻想にとりすがっているのだろうか、おれが面白くなくなる唯一の方法があるとしたら、それはおれが誰か他人の話を聞いたときだろうな。

「面白くない」ということは、己の魂から一ミリずれるということだ。

 己の魂から一ミリずれたら、それはもう己の魂には何の関係もないことになるので、やる意味がない。
 そうすると、面白くなくなるので、面白くなる方法を探すのだろうが、探し始めた時点でオワリだ/おれは今も、引き続き、面白いことしかわからないままで、そのぶん引き続き、他人の話なんて聞いていないままだ、おれはダルいことに必死コイてごまかすような善人にはとてもなれない。

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世界を視る手続き

ちらおかげさまで体調は復した、喉から全身が倦怠して、こういうときにしかけっきょくおれは休まないので、 steam版 が出ている「信長の野望[革新] with パワーアップキット」をPCでダウンロードしてやった、今さら何年前のゲームをやっているんだという話だが、信長の野望は「革新」が一番面白いのだ、くぅ〜南蛮技術で弓の距離を+3するとシビれるぜ。
 世間は消費増税と、軽減税率とキャッシュレスうんたらで、ぐちゃぐちゃになっているな、それにしてもどさくさまぎれに、キャッシュレス化すると5%引きとはえげつない話だ/キャッシュレス化すればいきなり5%も免じられるのか、じゃあ初めから増税なんか必要なかったのじゃない? いきなり5%はデカすぎるだろう。
 紙幣の流通がなくなり、やがて電子決済しかできなくなると、電子決済にアカウント登録していない人は「物が売買できない」という世の中になるな、物が売買できないということは生きていけないということになるが、そういう手法で人々の魂を牛耳ろうとするやり方はいかにもセコくて汚い、何かわざわざヨハネの黙示録でも参考にしたのかというような薄気味悪さだ:ヨハネの黙示録第13章17節「この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。」
 国連に乗り込んだ女の子については僕としては「???」であって、そりゃトランプ大統領にとっても「???」だと思うのだが、一方で香港の人々の尊厳が流血に及んでいることにはさすがに胸が痛む、中国が帝制を辞めてなお覇権主義を辞さないことについて、やはり僕は仕組みがよくわからない、僕は「覇権」ということに衝動がないのだ、だからむしろ中国共産党やヒトラーに僕自身の欠落を学ぼうと考えている/そういえば、「どうやって世間の情報を得ているんですか」と先日訊かれたのだが、誰でもそうするように、今やネット上のニューストピックを適当にクリックすれば、それだけで一通りの情報は得られよう、ただ僕はおじさんなので、若い人よりニュース記事の読み取りが速いのだ、どうあがいても新聞を読む速さだけはおじさんには勝てねえよ。

 僕自身、物事を見る目や、記事を読み取る目、また世界を直接視る目については、これまで多くの人から影響づけを受けて、育ってきているのを自覚する。
 たとえば文章を読むというのは、書いてあることを暗記するということではないのだ、最低限は「理解する」ということだが、より上位には「認める」ということであり、さらには「その人を通して世界を視る」ということでもある。
 たとえば僕がピカソの絵を見るとき、僕自身の天稟によって視るところも半分あるが、もう半分は、パリのキャフェで死にそうになっていた岡本太郎の目を通して視るのであり、また大江健三郎の芸術理論を通して視るのでもあり、また「セザンヌはヨーロッパの景色に影響を与えた」という芸術論のジョークを通して視るのでもある。
 もちろん、自分と世界のあいだに誰かが挟まっているようでは面白くないが、そうではなく、先人達からの影響づけによって、僕の目そのものが育てられているのだ/僕は何かを勉強しようとは一ミリも思わないし、知識を蓄えようなんて一ナノも思わない、むしろ知識のすべてを放擲して直接ものごとを視るのだが、そうして知識のすべてを取り去ったときに、自分の目そのものがどれだけ育っているかが明らかになるだろう、だからこのとおり、おれは何もかもについてシロウトで、何もかもについて子供のままだ。

正論も戯論も取っ払ったとき、あなたは The World か。

 たとえば仏典スッタニパータには、信じがたいほど洗練された叡智が詰め込まれており、また、たとえばマタイの福音書には、思いがけず人として純真たるべき idea が詰め込まれている、そして問題は、その聖典の知識を溜め込むということではなく、その聖典の知識をすべて投げ捨てたときも、すでに磨かれて育てられた目が己に具わっているかということだ、「暗記した繰り言を云っていても祈りは通じません」とちゃんとマタイ福音書に書かれているし、例え話で言うならば、「重要なのは温泉地に美人の湯が湧いていることではなく、その湯から出たあなたがすっかり美人になっていることです」ということだ、美人にならなきゃ美人の湯ではまったくない。
 叡智の泉に頭までどっぷり潜ったとして、その泉から出たあなたの目が、洗い流され、すっかりこの世界を直接視られる目になっていることが重要だ、あなたの目だけでなく耳や鼻も、また全身も、この世界を直接視るものに変わり、あなた自身が The world になっているのでなければ、いかなる泉に浴したとして何の意味もない/「証(あかし)」が得られていないということは、ただすべてが空転しているということの反映であって、ごまかしは利かないし、またごまかしの必要もない。

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あなたが間に合わねばならないこと

とんどの人にとって、たとえば大江健三郎がどんな人かは、よくわからないだろうし、詩聖タゴールがどんな人だったとか、マハトマ・ガンジーがどんな人だったかということも、よくわからないだろう/そしてよくわからない以上に、「興味もないし、関心も起こらない」としか感じられないだろう。
そんなことに、興味はなくて無関心なのは、当たり前だし正しいのだが、とりあえず同じ仕組みで、たとえばかつて日本がなぜ米英(中)と戦争したのか、あるいはなぜかつてヨーロッパで第一次世界大戦が起こったのかも、わからないし興味もないだろう、そしてなぜリトマス試験紙がpHによって色が変わるのかとか、なぜウランを圧縮すると爆発するのかとかも、わからないし興味もないだろう。
そのことは、別にかまわないのだ、学校の試験なんか0点でいい、電子レンジなんかボタンを押せば勝手に機能してくれるのでその仕組みなんか知らなくていい、ただ問題は、その行き着く先、あなたが何十年か生きるにして、今度はあなた自身が、「どんな人だったかわからない」ということになるのだ/何十年も生きながら、「自分で自分がどんな人だったかまるでわからない」という結末を迎える、そのときその感触は、あなたにとって大江健三郎がどんな人だったかまるでわからないしまるで興味もない、というのと同じ感触なのだ。
あなたが文学部の生徒でもないかぎり、たとえば「○○△△」がどんな人だったかなんて、研究することもないし、興味もまるで湧かないだろう、そこで、この○○△△に、あなた自身の名前を代入してほしい、このあなた自身の名前について、「どんな人だかわからない」「わからないし興味もない」という状態になるのだ、つまりあなたは何の興味も関心もない自分自身を、ずーっと押しつけられて生涯を過ごすことになる。

もちろん、現代は情報網が発達しているので、 Wikipedia でも調べれば、著名人や歴史上の人物について、ただちに情報を得ることができる/あるいは、なぜ戦争が始まったのかとか、いつからシャネルは有名ブランドなのかとかも、ただちに情報として知ることができる。
ただ、そうして情報を得たとしても、それは己の魂から研究したということではないので、たとえばなぜ戦争が始まったのかということを、「つぶさに」「手に取るように」「まざまざと」、視ることはできない、己の魂をその研究と重ねるまでしないと、積み重ねた情報を元に何かを「まざまざと」視ることはできない、仮に Wikipedia のすべてのページを暗記している人がいたとしても、その人はただの人間化した「ウィキペディアさん」でしかなく、その人が豊かな世界を得ていることにはならない(そして、 Wikipedia はすでにデジタル上にあるのだから、人間がそのコピーをやる必要はまったくない)/トルストイのことはすべて Wikipedia に書いてあるが、それを暗記したところでトルストイがどういう人で何を為して何のために何を語ったのかということは、ちっとも「まざまざと」は視えてこない。
誰にだって、好きなものと嫌いなものがあり、人によっては、週二でエステにいってアイドルの○○クンをテレビで見て、高級なシーツで寝てパンケーキを食べるだけしていれば、理想であって人生最大の満足だと考える人もいるのだが、そうではないのだ、必ずそれでは満足せず、不明の憎悪に魂の底が染められていくことになる、なぜならばそのときのあなたはあなた自身、そのわけのわからない、「好きなものをただつついて暮らしているだけの奴」を、ずーっと研究させられていることになるからだ、おのれの生命を代償にして何十年も、その無意味に思える奴を研究させられ続ける、それが自分だからしょうがないのだが、理非はともかく人はそうして生命を空転させられることに絶対的な憎悪を覚える。
多くの人は、思春期のあたりで学門をキックし――たいてい一次関数やモル数や重力加速度や摂関政治あたりで「なんかややこしくてイミフなんだけどw」と――その後はただ試験に出るからということで穴埋め解答用に暗記する苦役だけをこなすのだが、学校の試験はどうでもよくても、学門をキックした時点から、自分が何者であるか――「わたし」はどのように生きる、どのような存在なのか――も一緒にキックしていることになる、こうして自分のことを「さっぱりわからないし、なんか興味もないw」と生きていくのは、その後シャレにならない憎悪を体内に溜め込むことになり、とてもよくないのだ、だからあなたは間に合わねばならない、自分がどのように生きる、どのような存在なのかを、「まざまざと」視えるようになることになることに、なんとか間に合わねばならない。

あなたが大物である必要はないが、あなたはまざまざと研究されていなくてはならない。

あなたにはあなたの思いがあり、あなたの好きなものがあり、あなたの嫌いなものがある、そのことはわかっているし、どこまでも当然なのだが、それらの情報をもとに、あなたがあなた自身を研究することにはならない、たとえばディープ・パープルが音楽の世界にギター・リフをもたらしたという見方はありうると思うが、比べてあなたが「シイタケが好き」ということは、あなたという存在の研究にはならない/どこまでも必要なのは、あなたによるあなた自身のまざまざとした研究であって、このことを怠り破棄することは、あなたがあなた自身の生と存在を否定するに等しい行為だ。
あなたはあなた自身を研究するのだ、文学部の学生が中野重治を研究するようにだ、あなたは大物である必要はないし、また有名である必要もない、ただどこまでも正当な研究対象でなくてはならない、あなた自身が研究生であり、あなた自身が研究対象だ、そしてまっとうな研究が為されたかどうかも、あなた自身のみが審査することになる、そのことを怠り破棄したとして、あなたの人生が「どうでしたか」なんて、誰一人答えてくれる者はこの世界にいない/たとえば「行き先を無くした帝国主義が、やがて帝国主義同士に矛先を向け合って、第一次世界大戦を引き起こした」ということは、あなたにとってよくわからないし、興味もないし、まして「まざまざと」視えることはありようもないだろうが、そのことじたいは問題でなくても、あなたがあなた自身を「まざまざと」視えなくなることの反映だから、そのことがまずいのだ、そんなデカいことが視えないようでは、小さいあなたのことなんて視えようがない。

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