☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
春、僕たちは死を忘れたわけではなかった3

 
全身から汗を噴く
ポルチオの女
季節の問題ではなかったのだ

求めて乞い
唇と舌を恭順させ
腰を震わせる
「正しい知識を得られるか否か」

(誤った知識を入れられている)

春に知らねばならないのは死のこと
死の中に死なないものを探り当てること

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春、僕たちは死を忘れたわけではなかった2
から逃れているのみ
だからいつのまにか疲れている
生きることが苦しみであった
その苦しみから逃れたくて女のポルチオは思い出したように慟哭する

まるで健全なふりをしている
まるで生きる命を得た後のような演技を偽装している
春は罰を明らかにする
われわれは罰の只中にある そのことを暴き立てる 春の力

死後に罰されるのではなく死そのものが罰

死の罰を思い出し恐れて生殖が慟哭する 春 逃れんとして
純潔を問い ほんのわずかな偽装さえ死に転落する春
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春、僕たちは死を忘れたわけではなかった

年に亘り僕を不思議がらせていた春の力
その謎が唐突に解かれた
それは死と性の力であった
救済があるかないか 身をもった問いかけであった

女は欲する 男を ペニスを Samenを アクメを
われわれは能動的に生きることはできず
ただ死の掌から逃れ続けるのみ 死の悪と恐怖から
春 わたしは死の恐怖に抗することができませんという それは荘厳な告白であった

何をして生きるのか 春の出会い 問いかけ

死なない誰かと出会うため
あるいは また一歩 死に近づいてしまう

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説得は終わりぬ2

たしの教えることは、「わからない」、決してわからないことを教える。
なぜわからないことを教えるか、それは、理解ではなく導きをもたらすためだ、それぐらい直観的に感じないか? 「理解」したことは、自分のパワーで獲得してゆけるだろう、だがその獲得に進む道は、道じたいが空虚だ、ではそれを歩まされることは愚かではないか。
わからないことを教えている、それが「わからない」ので、あなたは焦るだろう、不満を覚える心地もするだろう、にもかかわらず、わたしの「わからない」話を聞こうと、ただちに駆け寄ってくる、目を輝かせた人たちが後を絶たないのはなぜだ? 自分自身でもそれを体験するだろう/なぜあなたがわかるように書いたメモよりも、わたしのわからない話のほうがずっと豊かに「聞きたい」と惹きつけられるのか。
わからないものを、丸呑みするしかないのだ、外道者よ、それを分割・分解して「わかる(分かる)」ようにするということが、きわめて甘ったれた邪道で空虚だということに気づかないか、わかるように分割はしてもらえないのだ、なぜなら分割した時点でそのものの命は奪われてしまうから/まさかのまさか、目の前に示されているすべてのものを、その命のまま丸呑みするしかないのだ、そのことにどれだけの器量と覚悟がいるか、ゾッとしないほうがおかしいだろう。

いわずもがな、本当はおかしいと感じているほうが、やはり最後までおかしいのだ、女が偉大な男に出会ったときに特別の態度を開かないことや、底の抜けた愛を告白しないこと、気づけばまともな青春がなかったかもしれないということや、ここ十年で思い出といえる思い出も得ずに生きていること、酒宴といえば奇声や怒号が飛び交って会話をなしていないこと、あるいは自らの仕事に唾を吐いて働き続けることは、前もって「おかしい」と知られているので、そのとおりおかしいのだ/そしてやがては、自分の積み重ねてきたおかしなことについて、すべてのツケを精算させられることになる。
まともなことをするべきだったのだ、まともなことというのは、わからないことをわからないまま、丸呑みするように生きるということだった、まさにそれが生きるということだったのだから/なぜ偉大な者、やさしい者、あなたを導き助けようとこころを砕かんばかりの者に、雑巾がけをやらせ続けたのだ、なぜ最低限のYesを示して与えられたものを丸呑みしようとしてこなかった。
なぜすべての偉大なものを、「あなた好み」に分割することを要請し、自分の有利さを蓄えることにばかりに、悦に入ってきた、なぜあなた以上に大きな命のある者を一度たりとも認めずに生きてきたのだ、なぜ生まれ持って王冠を具えてきた神獣から王冠を取り去って肉牛として解体して食してきた、ずっとそのようなことをしてきたのだ。
海水を持ち帰ることは、表面上可能だが、それによって海を持ち帰ることはできない、海とは何か、海の偉大さを丸呑みできる者は聖者を除いてはほとんど存在しない、海に散骨する者は海水に散骨しているのか? 海のそばを平然と歩くな、太陽の下を平然と歩くな。

解と説は逆なり。

「解説」という熟語があるが、解と説は逆なり、説かれたものを解せばそれは解であり、説かれたものを丸呑みにできねば説を得ることは叶わず/解されたものはすでに説ではない、よって人々がついに解を求むるならば、説を得さすは諦めらるなり。
解を求めるは、分解、力、有利さ、生存本能の為せる業、実はありふれてまともでないこと/百万の解は一説を得させず、解は説の解体に見つかる断片にすぎない、だがこの解体の力と流血を生存本能はよろこぶのだ、それだけ時代が進んできたということだ、誰か自分を引き留めた者以外は。

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説得は終わりぬ

得する気をなくしたということではなく、時代状況として、限界を迎えようとしているということ。
このことは、説明がむつかしい。
アツい世界へ、豊かな世界へ、接続する方法は「ある」のだが、それを否定的な者に、説得して差し上げるということは、もう状況的に不可能になる。
おれの状況じゃねえよ、全体の状況がだ、臨界点を迎えようとしているのだ、状況はまずくなる一方で、いよいよ終電が発車してしまうというタイミングに来ている。

けっきょく、わかるものを大切にするか、わからないものを大切にするか、二通りしかなかったわけだ。
わかるものを大切にするという人に向けて、説得を試みると、豊かな世界を「分割」して、「わかる(分かる)」ように伝えるしかない、でもそのことは限界を迎えようとしている/もうこれ以上、バラバラに分割することはできないのだ、「あなたに必要だったものは、本当に "断片" だったのか?」、わからないものを大切にするということに、鞍替えするタイミングはこれまで無数にあったのに。
しょうもない、できそこないの「自然体」など、選ぶべきでなかったのにと、僕は思う、それは自然体ではなくただの「なしくずし」でしかなかったのに/まだわずかなチャンスは残されている、「わからないもの」に帰順するという、ただそれだけのことに、何のむつかしさがあるだろう?
なぜ僕が、銅鑼を打ち鳴らし、大騒ぎして、注目を集めようとしてきたか/あなたに「わかる」ように、物事を分割する、けれども八つに裁断された切符では、もう切符として使えなくなるのだ、こんな当たり前のことを、十年前のあなたはわからないような莫迦ではなかった。

わからないものが目の前にあるのに、どうしてそれが「わかる」と思ったのだ?

わからないものが目の前にあり、もしそれが「わかる」ものになったとしたら、それはもう変質・変形されて、別のものになっているのだ、そりゃあ当たり前じゃないか? どうしてそんなことを繰り返したのだ、解体したカエルをつなぎ合わせてあなたは再びそれを生きて跳ねるカエルにすることができるのか、なぜそんなことを繰り返してきた。
<<目の前のものが「わかる」となったとき、あなたは「有利」になるだろう>>、それが「力」の作用であり、生存本能はこの有利さのみを追求する、あなたの理解力が血なまぐささの故だと一度も気づかなかったか? あなたは「理解」のために毎回、不穏な血を体内に駆け巡らせていたのに、そのことに本当に一度も気づかなかったのか、あなたが穏便な「理解」などしたことがこれまでに一度でもあったか。

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何がナイスなのか? 最も大きな法則

の半年間で発見したことは、実に膨大で、実に精髄に及んでいると思う。
これらの発見について、すでに理論は統合済みで、それを報告できる準備は整っているのだが、なにぶん情報量が大きすぎ、やっかいな仕事になる。
われわれは、矛盾を抱えているのだ、それはわれわれが生物でありながら、本質的には生物ではないということ、この単純な矛盾に苦しめられている。
当たり前だが、生物のうち、言葉や音楽や物語を、理解するというか、それらを悟性に「視る」のはわれわれ人間だけだ、こんな不自然なことがあってたまるか/言葉や音楽や物語を「視て」いるのは、やはり生物としてのわれわれではなく、存在としてのわれわれなのだ、この「存在としてのわれわれ」が、生物の「生存本能」と相克関係にあるので、われわれはいつまでたっても自分および自分たちのことを知ることができない、言葉も音楽も物語も生存本能には何ら関係がない。

最も大きな法則は、光と重さだ、重さは「力」と同じで、光には重さがない(よって力もない)、そしてわれわれは「存在」としては光を希求するのに、生物としての「生存本能」は、力と重さを希求するのだ。
なぜ生存本能が力を希求するかというと、生物(利己的遺伝子)のルールは単純に「弱肉強食」だからだ、力の強い者の遺伝子が保存・繁栄されてゆくのがルールだ/これは業(カルマ)なので、このルール界を「業界」と呼ぶ、「業界」における上位者は権力・武力・財力・魅力に富み、これを「重鎮」「重役」「重要人物」と捉える、このように「業界」では力と重さが上位に格付けられる。
生存本能に光はないというか、生存本能はそもそも光など必要としていない、遺伝子はひたすら自分の生存本能にとって有利になることだけを望み、自己遺伝子の保存と繁栄だけをきらめかしく感じる、そのために力、力、力……/遺伝子がこの本能でわれわれの血肉を支配する、その具体的なインターフェイスを「感受性」という、「感受性」は永遠に「自分だけがかわいい」のであって、力と重さにグッとくる、これは感受性として正規のはたらきをしているにすぎない。
生存本能は、力の果て・重さの果てを希求している、そして重さの果てはブラックホールだ、光さえ吸い込まれ、そのブラックホールが終わる(ブラックホール蒸発)ためには劫というべき時間が掛かる(計算上、10000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000年掛かる、このことはホーキング輻射の式から計算される)、なおこの蒸発は三次元的でなく、超弦理論の示す異次元(11次元空間)で起こっていると見られる/異次元での "蒸発" だって? このわけのわからない話は、まるで仏教説の無間地獄の描写を思わせる[一辺15kmの巨大な岩に、百年に一度天女が降りてきて、その羽衣が岩をふわりと撫でる、それによって岩がやがて擦り切れてなくなる(蒸発する)までの時間が過ぎないと、無間地獄は終わらない]。

力は「分割」する/善と悪およびすべてのものを[分割]する。

正確にいうと、「分割」の性質それ自体が、力を欲しているのだということになる、われわれは「分割ドーピング」を受けているので……われわれは「命」が取り扱えないのに、生と死だけは「分割」するようになったのだ/われわれにとって生と死は性質が異なり、生は善であり、死は悪だ、そして悪たる死から逃れて善なる生を確保し続けるのに必要なものは「力」だということだ、それがわれわれにとって最も「分かる(わかる)」ことの源泉で、この「分かる」ということが「分割ドーピング」の結果として生じている。
「分かる」ということは、やがて力の果て・重さの果てを希求するのみ、ではその逆を希求するということは? そちらは光の希求だ、果てではなく本(もと)の希求、ブラックホールではなく宇宙開闢前の希求、最新の物理学はすでに宇宙開闢前にあったものが「イマジナリー」だと考え始めている/「分かる」ということの反対、「分からない」「観測不能」「未観測」ということ、これが最も大きな法則だが、われわれはしょうもないドーピングの罪業によって、こんな目の前の――ナイスな――ことにも踏み出せないのだ。

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ギリシャ肉、エジプト世界、キリスト映画、仏教育

んなチャンネルで、色んな番組がやっている/たとえばあるチャンネルではバレエをやっていて、あるチャンネルでは「世界の車窓から」が放映されている、あるチャンネルでは映画が放映されていて、あるチャンネルではずっと教育番組が続いている。
どのチャンネルも、ウソというわけではない、ただ別チャンネルということで、まぜこぜにするものではないというだけだ、ディスカバリーチャンネルとアニマルプラネットとナショナルジオグラフィックとヒストリーチャンネルとWOWOWを混ぜるわけにはいかない、内容がメチャクチャになってしまう。
それと同じように、それぞれの古代からある神話は、それぞれ別のチャンネルであって、それぞれ別の視点から番組を構築している/それで、僕の経験上、ギリシャ神話はまるで「身体の神秘」という番組のようであり、エジプト神話はまるで「世界の車窓から」という番組のようであり、キリスト教(聖書神話)はまるで各種の映画のようであり、仏教神話はまるで教育番組のようなのだ。
とにかくもう、そのように認めて取り扱っていかないと、実際的な問題として、間に合わないのだ、いろいろ忙しくて/もうどのチャンネルがどの要素なのだと割り切って認めていかないと、自分のやることと自分のつなぐチャンネルがズレるというようなタイムロスをしていられないのだった。

何しろ僕は、超絶面白い小説を書かねばならないし、超絶イケているワークショップをやらねばならないし、超絶スゴいワザを見せないといけないし、トークは超絶達者でなければならないし、歌は超絶上手くなければいけないし、判断力は超絶冴えていなきゃいけないしで、もうメチャクチャなのだ/七つか八つぐらいのチャンネルを複数モニターで同時に接続していないと、間に合いっこないという状況だ、本来は分業するところをぜんぶ自分でやろうとするから、完全にセルフブラック企業というような状態になってしまった。
ギリシャ神話は、「肉の身」について教えていて……そりゃ、ギリシャ彫刻を見ればわかるじゃないか、ギリシャ彫刻はたいへん肉体的だ、エジプトのものとはまったく違う、エジプトはどちらかというと壁画やシンボル建築であって、神々と共にある「世界」を教えようとしているのは明らかだろう/だから特段、穿った見方をしているというわけではない。
同じ神話といっても、新約聖書ほど人々の出会いと争いと愛の「物語」を描いている神話は他にない、たとえば仏教の神話は「法蔵菩薩が世自在王仏のもとで修行して五劫思惟して阿弥陀如来になった」というような話で、話がデカすぎてもはや感動する余地がない、これらのどれが正しいかを議論できるような立派な人は僕の周辺ごときにあるわけはなく、とにかく別チャンネルであるのは当たり前のことなのだ、どのチャンネルも別にウソを言っているわけではないのだろう。
僕は、ワークショップを進めるのにギリシャ神話を必要としていて、小説を書くのにエジプト神話を必要としていて、人と話して遊ぶのにキリスト教を必要としていて、歌って言葉を用いるのに仏教を必要としている/実際に必要としているのだからしゃーないだろ!! もうそういうものを使っていくしか、方法がないというか、間に合わねーんだよ、僕は芸術にインド神話を使うしかないし、さらに最近になって、日本神話を何に使っているのかが「わからない」のだった、こんなメチャクチャな悩み相談があってたまるか!!

各チャンネル、神話はつながれば実用的だ。

いちいちの神話について、僕は詳しい知識を持っていない、そんなもんいちいち勉強しているヒマがあるかよ、ただ詳しくなくても縁があればつながることはできる/そして、つながることができたら、神話というのは実用的で、いわばこの世で唯一実用的なものかもしれない、そりゃもう実用的でない知識なんか溜め込んでいたって何をどうすることもできないからな。
寓話というのは、教訓的なもので、演出によっては心理的にもなる、という程度のものでしかないが、神話はもっと具体的なものだ、「肉の身」とは具体的にどうなのか、「世界」とは具体的にどうなのか、「争いと愛」とは具体的にどうなのか、「言葉」とは具体的にどうなのか、それらのチャンネルにつながると具体的にどうなのよということが、古代からの神話に語り継がれている/だから神話というのは、寓話とは違い、知っていても意味がないのだ、つながらないと意味がなく、つながったときにはとても実用的だ。

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主←私→我

ばらしいことが発見されている。
「わたし」という言い方をするし、「自我」という言い方もする、「主語」「主格」「主体」という言い方もするので、「主」というのも似たような意味だ、「わたし」「我」「主」、少なくとも、似たような意味のものに見える。
この、「わたし」に関連するさまざまな表現は、何がどういうことなのかというと、「『わたし』は、『主』になることもできるし、『我』になることもできる」ということだと捉えればよい、この場合「主」とは、シュとも読むしスとも読む(辞書に「ス」と読み方が書かれている)。
そういえば、もう十二月でクリスマスムードだし、そろそろ「主は来ませり〜♪」が聞こえてくるな/♪joy to the world the "lord" is come...ところで、日本にある「言霊(ことだま)」という学門によると、すべての大モト、すべての始まりの言霊は「ス」なのらしい、「ス」から始まって「ウ」に進んだとか、もちろんそんなこと凡人のわれわれにはナンノコッチャとしか思えないが、合気道の開祖、植芝盛平がそう言い伝えている。

いわゆる、「無我の境地」ということのイメージが、われわれ東洋人の脳裏にはある/が、無我の境地って何なんだ、寝ているときは意識がないのだから、寝ているときは「無我の境地」か、んなワケないわな、弓道などでも「無我」は憧れの到達点とされるらしいけれど、具体的にどういう状態なのかは、わかるようでよくわかっていない。
無我の境地というのは、「わたし」の中に、「我」が無いということだ、だから無我の境地なのだが、それで単にわたしがカラッポでよいかというと、そういうことではない、「わたし」の中から「我」が失せたとき、「わたし」の中に「主」が満ちなくてはならない、「無我の境地」とは同時に「主に満たされた状態」を指す/だから鉄パイプで頭をどついて気絶させたとしてもその失神状態を無我とは言わない。
さてそれでは、「主」とは何なのだろうか/「我」のほうは、なんとなく経験的にわかる、一般に言う「我が強い」「吾我」「エゴ」と言われているときのそれが「我」だ、では「主」とは何かというと、これは「言葉」の世界であり、「物語世界」であり、フィクションであり、古くから愛や光と呼ばれてきた、天上につながる何かだということになる。
このことは、まず「人より以前に言葉があった」という前提に立たねば、構造的に理解不能だ、人が言葉を発明したという前提では、「我」に先んじる「主」の存在を認めることはできないだろう/もちろん常識的には、言葉は人・ホモサピエンスが発明したものと思われているし、その常識を覆す方法はないから、僕が今話していることのほうが間違っているのかもしれない、だがそれが間違っていたとしても、その間違っているものを僕が採用することには何の問題もない。

我が「わたし」だったり、主が「わたし」だったりする。

「わたし」でない「主」を、崇め奉っていても、何の意味もないというか……そりゃ崇め奉っているときの「わたし」の中身は「我」でギチギチということだろう、そういうことじゃない、「わたし」の中身を「我」ではない「主」にすることができる/「我」がわたしでなく「主」がわたしであるという状態が、実際に成り立ち得るということだ。
誰にでも「我」「吾我」「エゴ」はあるので、「我」はあるか(存在するか)と言われると、「あります」と答えることができる、そりゃ「我が無い人」なんてまず生涯お目に掛からないだろう、だがそれは同時に、少なくとも理論上は、「主」はあるか(存在するか)という問いに対して、「あります」と答えることができるということだ/腹の底や血の奥に、我が「あるなあ」と確かめられるように、天上というか頭上に、主が「あるなあ」と確かめることができる、「我」も「主」も、どちらも珍しいものではなく、どちらも当たり前に作用し、われわれを支配するものだ。

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罰する者
語に謎はない。
物語を解体する者に謎がある。
ピラニアの食いつきがよいのは、ピラニアが食事を知らないからだ。
正解の中に正解はない、なぜなら求められているのは「解」ではないからだ。

必要なのは教える者ではなく罰する者だ。
罰だけが人を導くだろう、だがここでいう罰とは「刑」ではない/罰は導きを教えるが、刑はただ力しか教えないだろう。
罰の中にヒントがある、<<罰の中にのみヒントがある>>、わからないまま与えられる罰、これを唯一の恵みと知ってよろこべ。
神仏はときに、人を罰するかもしれない、神仏が人を "処刑" するということはないだろう/処刑は力と格のありようでしかなく、比して「罰」は霊魂の営みだ、「罰」には実はかけがえのないものが含まれていた。

誰かに罰されてのみあなたは進める。

法と刑については、弁護をつけ、控訴すればよい、だが罰に不服を持つな、罰の理由がわからないとして、目を覚ませ、理由があっての罰ではないのだ、罰はただよろこんで服せ。
どうしても進めないとき、どうしても救われないとき、罰する人のことを思い出せ、あなたが唯一解放されうる具体的な手段は理由のわからない「罰」なのだ。
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病床模索5/恋あいと人々

しぶりに、根こそぎ休んでいたので、恬淡と物事を眺めることをした、いくつかの聞いた話を思い出しながら……
恋愛について、多くの人はけっきょくのところ、世間的なやり方を信じているのだと思う、何よりその他には情報がないことによって。
つまり、適宜「付き合う」ということをしたり、「結婚」をしたり、付き合っているから・夫婦だから「セックス」をしたり、パートナーだから「大事」にしたり、「好き」と認識したり、「情」をかけたり、しているのだと思う。
別にそれが間違っているというわけではなくて、単純に、そうやって取り組む以外に、ほとんど情報がないのだと思う、多くの人はマジメなものだし、まして今日では、性的な清潔さが世間で口うるさく言われるようになった、なぜかオナニーに耽る男性が女性をビッチ呼ばわりするというような奇怪な事態が続いているから、ますます正統とされるメソッドに頼るしか方法がないのだった。

きっと多くの人にとって、よくわからないのだ、単純に、ヴァギナに棒を入れるとアヘアヘするということや、男性から「かわいい」と言われるとウフッとなるということが、総じて「何が何やらわからない」まま、漠然と知ったかぶりをしているに違いない。
もし僕が、本当のことを真正面から言おうとするなら、セックスはアヘアヘするためにするものではないし、誰かと付き合っているとか結婚しているとかいうことで、生理的な現象が変化するわけではまったくない、と言うしかない/極端な言い方をすれば、別メーカーの棒を入れたってアヘアヘするのは変わらないだろう(だから別メーカーの棒を入れろと言っているわけではない)。
そもそも、恋あいもセックスも、そういうものではない、別の言い方でいえば、いっそ「付き合う」とか「付き合っているからセックスする」とかは、恋あいとセックスが「わからない人」向けのメソッドにすぎない/このメソッドが壊れているわけではないし、このメソッドしか実際に「情報がない」というのがリアルな事情なのだと思う。
セックスを「アヘアヘ」やっている人は、セックスがわからないからそのようになっているのであって、一方「付き合ってセックスする」というのも、実はセックスがわからないからそのようにやっているだけだ/若いうちはいざ知らず、やがてセックスは最重要のものではなくなる、重要なのはそこではなく、「アヘアヘではない光」「アヘアヘではない営み」「アヘアヘではない源泉」を得られるかどうかだ、「付き合っていないのにアヘアヘ vs 付き合っているからアヘアヘ」の戦いでは永遠にまともな恋あいは来ない。

恋あいに疎いのじゃなく、ナゾのよろこびとナゾの感動に疎いだけだ。

デートもセックスも、別によろこびじゃない、いくら大好きな彼氏クンでも、なぜか手をつないでいると「それだけでしんどい」ということはよくある、それは「大好き」さえ恋あいと異なる場合がよくあるからだ、うれしさとよろこびは異なる/こんなもん、「本当には何が起こっているか」に対するセンスでしかない、まさか恋あいというのかウレシイタノシイアヘアヘで得られると思い込むべきではない。
1.触られたとき、感触的に「イヤ」という場合は、わかりやすいので悩まなくていい、2.付き合っている人なのに「あんまりうれしくない」「気持ちよくない」「正直イヤ」というのも、当たり前のことなので悩まなくていい、3.誰にでも触られるとアヘアヘしてしまうというのも、基本的に当たり前なので悩まなくていい、4.問題は、付き合ってもいないのに、イヤでもない、しかもアヘアヘでもない、うれしいわけでもないのに、涙が出そうになる、「この人」を見つめてしまう、「何これ」となったときだ、このときだけ悩む必要がある、「本当には何が起こっているか」、こんなことが本当にわかるようになるのはずっとずっと先のことだ。

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病床模索4/或る当然さの剥落
調が、恢復してきているとはいえ、まだまだ、目眩がするな、ほどほどにしておこう。
今回の病床の中で知ったのは、或る「当然さ」、或る「当たり前」について、実はそれはまったく当たり前ではないということだった/それは重大な発見というわけではなく、視えてしまえば「そりゃあな」と、むしろそちらこそが理に自明となった。
或る「当然さ」とは、簡単に言うと、人は自分が就労して労働すると、自分の口座に給金が払い込まれるものだと思っている、それが「当たり前でしょ……」と思っているということだ、これが実は、何ら当たり前ではないということ/われわれは多く自己利益のために活動するように作られているが、それは遺伝子(利己的遺伝子)のはたらきであって、本来の意味での「わたし」の当然ではない。
はっきり視えてしまうと、逆にこれほど不自然なことはないのだが、われわれは自分と誰かを半々に利するために生きるのではないのだ、100%自分を利するため「だけ」に生きるのだ、生まれてから死ぬまで徹頭徹尾、なぜ?/逆にこんな不自然なことがあるだろうか?

このことに、血縁者を入れるとややこしくなる、遺伝子は血縁者を、遺伝子の継承者として認めているからだ、遺伝子としては関連遺伝子が繁栄すりゃその持ち主は誰でもいい/われわれは本当に、100%、利己的遺伝子の言いなりになって、百年弱で使い捨てられる存在なのだ、これは本当に視えてしまうと「何コレ」と逆にすべてが不可解に映る。
遺伝子に逆らおうとする愛の人が不思議なのではなく、そもそも、アミノ酸の配列でしかない遺伝子に強固な「利己的意志」が具わっていることのほうが、不思議で不気味なのだ、こんなものがコピーされて繁栄したとして、アミノ酸に何の利益があるのだろう? アミノ酸がイイ気分にでもなるのだろうか。
誰でもチャリティー程度の発想は持っているのだが、「金曜日はカンボジアの子供たちのために働くのが通例」とか、「このバイトは○○ちゃんのためだからバイト代は○○ちゃんの口座に振り込んでくれよ」とか、そんな発想はまず持たない。
われわれの心臓は、ポンプとして、自分の身体に血液を送ることにはエッサホイサなのだが、他人の身体に血液を送ることには、一ミリだって働かないのだ、全力で拒絶なのだ、別にそう利己的たろうと決心しているわけではなく、なぜか初めからそのようにズドーンと決定されているのだ、これでは学校の先生が言うことなんて全部ウソだと言われてもしょうがないのだった。

自分の給金が、自分の口座に振り込まれる、その「当たり前」が、実はフェイクだ。

むろん、自分の給金が、ヨソに振り込まれると、自分が死んでしまうわけだが、それがマズいというのは理解できても、よくよく考えるとやはりおかしいのだ、なぜなら自分の口座に振り込まれつづけても、やっぱり自分は死んでしまうからだ、死ぬまでの期間が延びるだけでしかない、「なんだこれ」と言われたらまったくそうで、われわれの生にはまったく気づきづらい、気づいてしまえばとんでもないドデカいフェイクがど真ん中に置かれている。
なぜかわからないが、われわれは、<<自分と自分のファミリーのためにしか、働いてはいけない>>ということになっているのだ、「なぜ?」と言われてもけっきょく「さあ」としか答えられない/自分が働いたとして、「その給金は誰の口座に振り込まれるのですか?」とは、子供だって訊ねないだろう、労働力を売却するシステムなのだが、これが人心を根源的に破壊するのに最も効率がよいのかもしれない、自分の口座なしに労働をよろこんでいる先生はいない、では労働によろこびはないのかもしれない。
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病床模索3/対等性は多大な損失を前提にしている
二日間休んで、こうして再び書き物へ向き合ってみると、この現代の四方八方から、「ガツンガツン」ぶつかってくるものがある、というのがわかる。
このぶつかってくるものに対しては、技術的には、「勢いを聞く」というやり方で向き合い、その上でコミュニケートすることができるのだが、いちいちこの「勢いを聞く」をしているせいで、実は本当のことをまったく話せない、という状況になっている。
たとえば今、世の中には強烈なフェミニズムやミサンドリー、あるいは逆向きのミソジニーなどが吹き荒れていて、僕が強烈なフェミニストにしてやれることというと、そのフェミニズムを加速してやることなのだ、僕が彼女にとって「プラス」になるというのは、唯一それだけでしかなく、このことに一切のごまかしは利かない。
僕は男性なので、それだけで不快で死刑で大キライという人はいくらでもいるのだが、そうした人に向けて「プラス」になろうとすると、技術的にはそれを「加速」させて送り出すしかないのだ、この技術はシビアなものなのでどうしようもない、その加速を受けた人は加速のついたまま本人の「本望」に突撃することになるのだが、正直なことをいえば、そうした人はとんでもない不幸に行き着くと、僕は勝手に思っている/このように、本当のことはろくすっぽ話せていなくて、ただ技術的に「ガツンガツン」くるものを加速して送り出すしかすることがないのだ。

「対等」というと、本当にこれしかないのだと、最近は技術的に痛感している/誰だって平場で正面から向き合えば、対等でしかないのだが、この対等という関係の中で、何かを諫めたり諭したり、与えたりすることはできない。
正しく合気道をやっている人などには、前もって知られていることだろうが、「対等」に向き合う以上、甲は乙に「加勢」するだけしかできないのだ、甲乙が「ぶつかり合うか」「協力し合うか」の二者択一しかなく、ぶつかり合ってもただのケンカになるので、甲は乙に加勢するしかない、本人が突っ込んでくるならそれに「加勢」して、その加勢のせいで制御が利かなくなって相手がすっ転ぶのが合気道だ/ただしこの場合、本人が本人の勢いで転倒して死んだとしても、それを当人の「本望」と認めねばならない。
「魂の大きさ」なんて話をしたが、そんな話を信用するアホはこんにちいないので、魂の大きさうんぬんを「信用しないwww」なら、「そりゃそうだよwww」のほうへ、僕はビタッと加勢するしかないのだ、この加勢を技術的に、精密に一直線にするのは、訓練しているのであるていど自信があるのだが……
「対等」というのは、他ならぬ真剣勝負の母体だと思うが、真剣勝負と言われると、僕が誰かを庇護したり祝福したり導いたりする余裕は一ミリもないのであって、ただその人の行く先へまっすぐ「加勢」するだけになる/こんなことでいいのかねと疑問に思うのだが、技術的にはこれ以外にやりようがないのだ、つまり「対等」という関係性が実は極めて限定的な環境を作り出しているということだ、つまり<<対等性は多大な損失を前提にしている>>ということ、一滴でも何かが「降り注ぐ」ようでは対等ではありえない。

斬り合いの練習はさせてもらえても、打ち首にされる練習なんてさせてもらえない。

現代の男女などは特に、この「斬り合い」の真っ只中にあると見ていい、それで、僕などは多くの女性の瞳から、「たすけて」という切実な声を聞きとるのだが、土台が対等性に括り付けられてあるものだから、僕としては斬りかかってくるものを、そのまま真っ直ぐ送り出してやるしかないのだ、「対等」というのはそういうことだからしょうがない/「対等」という中では、「たすけて、と瞳が言っていた人でしたね」のまま、その直線に真っ直ぐ送り出してやるしかないのだ。
「対等」という関係の中でも、当然の「助け合い」はあるのだが、その助け合いは、「たすけて」という声に応じる助け方とはまったく異なる/このようにして僕は、ひたすら対等性という土台のせいで、人が必要としている本当のことを一ミリも伝えず、一ミリも与えず、「本当に対等にやるなオマエwww」と笑えるぐらいの精度で、まっすぐ送り出すしかすることがないのだ、別にそのことに不満はないのだが、いいかげんこれは退屈だと飽き飽きしてきている。
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病床模索2/得ることがなかった魂の整合

千の物語とつながって生きている人と、「物語とかぶっちゃけ無いわぁ」と生きている人とでは、魂の大きさが違う。
魂の大きさが違うが、そんなものは観測不能なので、平等っちゃあ平等、というふうに扱うしかない。
大きさが違うので、結果的に、ダンプカーと同じ車道をてくてくと歩行者が歩くことになるのだが、歩行者はそれで「どこか落ち着かない」「しっくりこない」「おびやかされている気がする」と感じている、そりゃ当たり前だ、「すぐペシャンコになる」というのも当たり前だ。
歩行者とダンプカーのように、観測可能に大きさが違うのなら、話は簡単なのだが、魂うんぬんなんて言い出したら、話はいくらでもこじれるのだった。

本来、先輩と後輩、教師と生徒、師匠と弟子、年長者と年少者、男と女は、原則として、魂の大きさが違ったのだと思う。
それで、上下関係というか、本質的には上下ではない、魂の大小を根拠にした、人間の関係があったのだと思う、それがことごとくうまくいくというわけではなく、うまくいくかどうかはケースバイケースだったとして、そういう魂の関係はありえたのだろう。
僕はこれまでに何度も、若い女の子をちやほやして、当の女の子が上機嫌なまま、結果的にメチャクチャになっていくところを目撃してきた/僕がこれまでつながってきた物語の総量と、未だ物語とのつながりが希薄な二十歳前後の女の子は、魂の大きさが違うはずだが、しかし若い女の子はちやほやされて上に立てられないと価値観と思想の上でガマンならないので、僕はそのように取り扱ってきた、でもおそらくその性分を根ざされた現代の女の子は、何ら幸福な要素を与えられたのではないと今になって思う。
魂の大きさに感応して、もっと違う関係、もっと違う付き合い方がありえた、でもそれは、すでに得られることがない概念上のものだと覚悟せねばならない、今さら魂の大きさなどに帰順することはできないのだ/それでも、ただ知っておくべきだとは思う、本来は魂の大きさによって、もっと違う、整合して穏やかな、大切な実りの関係がありえた。

かつてゾウの背にリスが乗って、ゾウの雄大が尊ばれ、リスの敏捷がよろこばれた。

本来、男から女へ、女から男へ、先輩から後輩へ、後輩から先輩へ、向けられる態度、語られる言葉が、無数に、無尽に、絶え間なくありえた、だがこんにちでは全員が己の魂のサイズを「最大級」と前提して振る舞わねばならないので、すさまじい無理が出てくる/リスはゾウと魂をつなげば、己がゾウのふりをする必要はなくなるのに、そうしたつながりや営みはすでに失われたやり方のものだ。
何につけ、「本来は違う」と、ただ知っておくべきだ、われわれは魂の大きさという基準を奪われたので、もう海を見てさえそれを「大きい」とは体験できなくなっている/「海は広いな大きいな」はむろん、物理的な大きさを指して歌われるのではなかった。

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病床模索1/魂の大きさ

し、魂なんてものがあるとしたら、どうやらそれには「大きさ」というパラメーターがあるようだ。
どれぐらい大きさの差があるかというと、われわれの各人が保有する、資産の差ぐらいの差異がある/そりゃ資産だって、人によってびっくり仰天の差があるのだから、魂の大きさにだってびっくり仰天の差があっておかしくないだろう。
僕の残高には、今のところ、残念ながら3000億とか、10兆なんて数字はない、もしあってもやることは変わらないだろうけども/だがそういう資産を持っている人も実際にいるのだから、そういうケタはずれの魂を持っている人もいるのかもしれない、もしいたとしたらそれは「偉大な魂(マハトマ)」ということになるのだろうか。
われわれにとって、トランプタワーのような資産は、「観測可能」なので、簡単に信じることができるというか、信じるまでもなく納得することができる、一方で魂うんぬんなどというのは、「観測不能」なので、簡単には信じようがないというか、それが「視える」でもなければ信じるにも信じようがない。

まあでも、仮説にすれば何でもありだし、仮説にしたら、わかりやすくて面白いじゃないか、偉大な魂と凡人の魂は、大きさが違う、どれぐらい違うかといって、われわれの資産とビルゲイツの資産ぐらい違う、だとしたらドえらい差じゃないか。
誰だって、1000億の資産家にひれ伏すのには、0.2秒も掛からないのだから、それと同じように、魂の大きさにも、感応したりひれ伏したりすることが、あったらいいな、面白いな、と僕は感じている/「莫大な資産」と「偉大な魂」は、この世界に実際にある。
「観測不能」というのは、便利な言葉で、観測不能なら何だって言いたい放題だ、ただし「観測不能」は、「作用なし」ということではない/ワーグナーの音楽は、とても雄大な感じがするが、なぜ音のカタマリを「雄大」と感じるのかは、誰にも説明できない、しかもその雄大さは人にしか視えない、イルカのほうが聴力はよいがイルカは魔笛を聞いて踊り出すわけではない。
「観測不能」で、「しかし作用はある」なんてことは、いくらでもある、そもそも「人間が小さい」「こころが広い」などというのも、何かのモノサシで測れるスケールではない/観測不能だが作用があるものを、総じて古人は霊魂と呼んだようで、どうやらその魂というものには大きさがある、フリーターとロックフェラーの資産差ぐらいの、魂のスケール差がある。

GNPによって「経済大国」がありうるように、魂のつながりによって「偉大な人」がありえたら面白い。

経済大国というのは、莫大な生産と、莫大な営みと、諸国との莫大な通商があるから、経済大国という/それと同じように、さまざまな場所、歴史、物語、人、世界、こころ、愛、天、といったものと、莫大なつながりを持つ人がもしいたら、その人は「偉大な人」なのかもしれない、もしそうだったら面白い。
資産というのも、「原資と生産」という意味だから、魂も同じように、「元の魂と産霊」というように機能していたら、面白いな/各種メディアを通して知られるように、人は、単に資産を増やしただけでは幸福になれない、魂の大きさを超えた資産を手にしたって、目の色と挙動が不審になるだけだ、その様相は「魂の大赤字」と見れば当たり前に見える。

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ずっと抱きかかえている世界がある
かげさまで、未だ恢復とはいかないが、しんどさのピークは越した、ご心配をおかけして申し訳ない。
たかが風邪、と言われるかもしれないが、風邪だってしんどいもので、特に僕のような者が風邪を引くのは悲しい、同じ風邪といっても呂布が風邪をひくのとヘルマンヘッセが風邪をひくのでは意味が違うだろう。
二日間、もう何年ぶりになるだろうか、本当に何もせずに眠った、眠りながら、ずっと僕が抱きかかえているものがあるということがわかる、それは以前よりはっきりとわかるようになった/「何これ」というような、ずっと昔からある世界を抱きかかえて眠っている。
風邪でくたばっていると、無力なもので、ますますその抱きかかえているものに、入り込んでいくようになるのだが、僕は死ぬ間際にも、この抱きかかえているものに入り込んでいくのだろうか、きっとそうなんだろうなという気がしている、生きるより大事な世界が胸の内にある。

ずっと長いこと、大きなバクチを打って生きているような気がする。
僕は僕の大好きなものに賭けて、生きてきたのだが、これに賭けている無謀なバカは、ひょっとしたら僕しかいないのじゃないかと思えるぐらい少ない/僕を否定する方法が百万通りあり、僕を肯定する方法なんか、かろうじて一通りしかない。
まだ噎せこんでいて、まだ休むしかない具合だが、さしあたり僕の中の、夢は消えない、出力する余裕がなくなるだけで、夢はますますはっきりと、僕を吸い込んでいくようだった。
僕の言っていることと、やっていることは、外形上、百万分の一の確率で、ひょっとしたら正しい可能性がある、そして百万分の一とはいえ、もしこれが正しかったらと思うと、やめるにやめられないし、おざなりにできないと思うのだった/百万分の一なんて、宝くじに比べたらだいぶ高確率だものな。

百万分の一ていどの確率だが、やはり、われわれの思っているような「世界」ではないのかもしれない。

どんな低確率であれ、アタリとハズレは常に五分五分だ、宝くじはおおむねハズれるが、それはハズレが正しいという意味ではなかろう/病床の中で抱きかかえて、ますますそう思った。
何はともあれ、恢復はしてきております、ご心配をおかけして申し訳ない、そしていたわりを向けてくださった方へ、どうもありがとう、あなたに特等の宝くじが当たりますように。
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意義と存在2
かりやすさのために、ダサい言い方をするけれども、みんな自分の「意義」を手探りしながら生きていて、自分の「存在」を視る能力や発想はカラッケツだ。
「存在意義」と「存在」は違うし、意義視力で存在視力をまかなうことはできないのだが、とにかくわかりやすく言うと、多くの人が、自分の「存在」の空白を「意義」で埋めようと、探求しているように見える、見えるというか絶対にそーだよ、その根本の取り違えが、根本の「困っている」何かを創り出している。
とはいえ、もちろん、こんなこと僕が説教できる筋合いではないので、僕としては「……」と傍観しているしかない、なぜなら<<無意義に生きてきた僕はこの世でまったく偉くない>>からだ、偉くないので何の話も聞いてもらえないのだ、そりゃ僕だって逆の立場ならそうなるだろうからしょうがない/またたしかに、僕の話なんか聞いてもやっぱり無意義ではあるわけだ、初めから無意義とわかっているんだから話なんか聞く気になれねーわな。
これをどうしたらいいのだろう、といって、たぶんどうすることもないし、どうするためのものでもないのだろうが、ただまったく異なるそうした視力、「存在視力」という直接のモンがあるということだけ、ご報告しておきたい/ただし似たようなことを言う奴の大半はウソのオカルトスピリチュアルだから気をつけろよ、「それってわかります」と同調してくる奴もたいていハズレだ。

なんというか……僕としてはただ、おもろい兄ちゃんや、健気な若い女の子が、自分の「存在」を探していて、それでも「意義」のマーケットへたらい回しにされるので、困っている、という状況を見るのがつらいのだ/まして完全な通りすがりの女の子が、ハッと縋るような目で僕とすれ違いざまに出会うことがあり、それでもそのまますれ違っていくしかないというのは、見ていてあまりに胸が苦しい。
ハトでさえ、パン屑を投げたらひょこひょこやってくるのに、若い女の子は、ハッとしたときにひょこひょこやってくることも許されていないのだ、それが教育と常識の結果だというのだから皮肉だ/「意義」で押しつぶされて、「存在」はまったく教わらないでいる、そして「存在」について教えたがる人は、こぞって「意義」を声高に唱え、彼女へ「意義」の重量と加圧をアップするのだ、そんなものでも信じるしかない若年の人はかわいそうだ。
「意義」が悪いと言っているのではなく、意義で存在は埋まらないということだ、だって性質が違うのだもの、蒸留水でPCのメモリが「一杯」になるか? というぐらい、性質が違うのだから埋まらない/「意義」はわれわれの身の内にあるが、「存在」はわれわれの身の内にない、それぞれへの視力はまったく異なる性質への視力だ。
有意義というのは、「有」の字が冠されているように、有限世界への感覚から成り立っている、有限の時間内に何ができるかということが「有意義」だ、比べて無意義から得られる存在視力は、時間軸の干渉がない、数学上に2の平方根を見ることのように、そこに時間は流れていない/多くの、おもろい兄ちゃんや健気な女の子は、「有意義に生きる前にそのことを知りたかった」「有意義に生きる前に、わたしの存在について知りたかった」「有意義に生きるのがイヤというわけじゃないんです、ただ先にそれが知りたかった」と望んでいる。

せめて、誰と生きたということを、「意義」にはしたくないと、抱えて守っている。

僕には何の意義もないからな/ただ僕があるとき、ある人の二の腕にぽんぽんと触れたとき、その人の「存在」がたちまち全身に恢復されていくのを見て、僕は少し自分が怖くなった、こうした「存在」の恢復は、本来僕が与えるようなものではない、とはいえ今や無意義に生きているようなアホは僕しかいないのだからしょうがない、ちなみに「無意義」というのは「有意義を目指して失敗したヤツ」じゃねえーぞ、そんなのは消費者金融にいけばいくらでもいるだろう。
自ら「意義」を唱えた人、「意義こそが存在である」と、誰かに教えてまわった人は、もう引き下がれないので、僕からその人に「触れる」ということはもうできない/僕が触れたのは二の腕ではなくて、その人が抱えて守ってきたそれ自体だ。
 
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意義と存在
日以来、何かもうはっきり見えるようになってしまったが、僕が誤解していたのだ/僕が「存在」を得ているふうには、他の人は「存在」を得てはいないのだ。
いわゆる「存在感」と捉えても、間違いではないだろうが、存在感という捉え方では、またごまかされて混乱してゆくだろう、「存在」という現象は物理的な「感覚」で捉えられるものではないからだ。
当たり前のことだが、多くの人は何十年も、有意義なことを追求して生きているだろう、そして有意義な自分と、有意義な自分の生を誇りにしているはずだ/多くの人にとって、自分が「存在」するというのはそういう感覚・尺度のことだと思う。
だがそれは、厳密に見ると「存在意義」であって、「存在」そのものではないのだ、自分の存在意義の大きさに胸を張る人も、自分の存在意義のなさに肩身を狭くする人も、どちらも主題は「存在意義」であって、「存在」そのものではない。

僕はもう長いこと、一般の逆、「意義のない自分」「無意義」に生きてきたから……
逆に、それだからこそ視えることがある、単刀直入に言えば、有意義な人にとって自分の「存在」は要らないのだ、なぜならもう「意義」があるから/「こんなに意義があるのに、『存在』なんて必要かい?」、と普通はなる。
僕のように、自分の意義をカス化して、それでも自分が存在しているらしい、この無為の「存在」とは何なのか? という、それこそ何の意義もない追求をしないかぎり、こんな視力は得られてこない/わかりやすく言うと、僕は意義視力ではなく存在視力で物事を視ており、物事の見え方がまるきり違うのだ、このことがついにはっきりとわかってしまった。
多くの人は、有意義に生きるということ、そのために本気で生きれば、「生きている実感が得られる」のだと、志して生きているのだと思う、それは間違いではなかろうが、僕のような変人は、逆のことにたどり着いた、僕が知っているのは「生きている実感」ではなく「生きている不思議」だ、なぜか知らないが自分が「存在」して生きている(「生存」している)/このことは無限に「不思議」で、僕の視力はどうやらずっとその「不思議」を見続けるものになってしまったらしい、朝起きたときからずーっと「うーん、不思議だ」とこの世界のすべてが見えてならない。

あなたはわたしであり、すべてのものがひとつに生きていると視えるが、そうして視えるものに何の意義もない。

「意義」なんて言われたら、僕は無一文なのであって、そんなことにお答えできる能力も視力も僕にはない、ただすべてのものはひとつだというのは判るというか、僕の視力は人が「何に困っているか」が視えるようになってしまった、もちろんそれを何かに使うつもりなどまったくないけれども。
これについてどう思うかというと、どう思うということもなくて、どう思うということも不可能だが、なぜか先ほどから大きな海と潮騒と、空ともども広がる青さと水しぶきが聞こえる、そこには一人の女性が立っていて、何かが無性にうつくしくある、これが何なのかはさっぱりわからない。
正しく見ないとな | comments(0) |
マジのエコーがマジで届いてしまう
んでもないことに気づいてしまった。
ワークショップで、余韻法とか命令法とか、エコーだの呼応だのと、色々やっているのだが、ちょっと僕にしかやりようのないレベルのこととして、厳密なエコーを発信してみると、驚いたことに、通りすがる赤の他人さえこっちをハッと見るじゃねえか……なんだこの現象。
コツは(←注:できねーよ)、「あなたはわたしである」ということ、あるいは「コイツはおれである」ということ、あとは厳密なアクションとエコーをミリ秒でかけること、するとやはり、通りすがりの人がハッとこっちを見やがる、しかもそのときに、ぶっちゃけ間違いなく「出会って」いる。
長いこと、本サイトのほうなど特に、「出会いと恋あいの」「恋あいエンターテインメント」と号してやってきて、僕自身、人と人とが何で「出会って」いるのかを、積年のナゾとして追求してきたのだが、それってつまりコレだわ、厳密にやると「これ」で人と人は出会っているわ(←注:できねーよ)。

問題は、そうした機能は、何割かが明らかに現在も所有しているのに、その機能で反応している当人が、その機能のもたらしてくる情報とまったく異なる「認知」「認識」を、前もってブッこまれているというところだ。
いわば、どれだけ正統な、精密な、上質な、ともすれば歓喜や瑞宝かもしれない「それ」を受け取ったとしても、当人はそれをまったく認識せず、まったく異なる認識や判断や行動を取ってしまうということだ/この現象を、目の前で精緻に読み取れてしまうというところが、いいかげん自分でドン引きしてしまう、何が起こっているのか手に取るように視えるようになってしまった。
これはもう、正直なところ、ひとつの能力の歴然たる覚醒なのだろうが、かといってバンザーイという気にはなれない、なぜなら目の前で精緻に読み取られる「ちぐはぐ」は、もう「どうしたらええねん」というぐらいズレまくりだからだ。
たとえて言うなら、ハチミツの香りがしたらバットを素振りする、というぐらい、わけのわからない認識・判断・行動を取ってしまう、そしてそのときに、人の内部でガガガガガと、挙動のエラーとひずみに異音が鳴っているのが聞こえるのだ/もとからある機能に対してインストールされている応答プログラムがメチャクチャなのだ、それがハッキリ見えれば見えるほど、「これはもうちょっと、にわかにはムリでっせ」と感じられて、ちょっと途方に暮れる思いがする。

愛の中、エコーはミリ秒で生じ、余韻となって届き、本質的な情報が一気に得られる。

もうこんな話、とても信じてもらえる気はしないし、流布する気さえ失せそうなところだが、もしウソをつくなと言われたら、僕は逆にこのことをマジだと言い続けねばならない/何なら、隣人愛のエコーでさえそうやって届いてしまうのだから、世界愛のエコーはもっと大きなインパクトで届いてしまうとも、予言せねばならない。
うーんこんなことを、マジのこととして話さねばならないときが来るとはな、予想もしていなかった/こんな話、もうめんどくせえので、誰かうまいこと一冊の本にまとめてくれないかな、人に知られるべきだが僕自身で知らしめてまわろうとするのは趣味に合わなさすぎる。
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"麻薬的にはたらく" という仕組み
力やセックス、カネや名誉や、カルト宗教、苛烈な筋肉負荷、あるいは自慰的・変態的な趣味への没頭は、麻薬的にはたらく。
「麻薬的にはたらく」といって、その背後には必ず「さびしさ」がある、「さびしさ」という "強力な感情" がある。
「さびしさ」は、空腹と同じで、生存本能に由来して発生する感情で、人の感受性をブーストし、「とても耐えられない」という状態を作り出す。
さまざまなものが、麻薬的にはたらくのだが、その背後には必ず「さびしさ」がある、多くの人は「そんなことにならないよ」と思っているのだが、すべてのことは、「さびしさ」という強力な感情の中で、まったく異なる鮮やかなはたらきを見せる/それが「さびしさ」ということのおそろしい仕掛けだ。

「さびしさ」を、どう悟性によって超克するか、どう知性がさびしさを看破するかが問題だ/人が感受性に支配されるか、あるいは悟性の中を生きられるか、その境目はこの「さびしさとの戦い」にある。
正しい知識が必要だ、「さびしさ」はひとつのテーマであって、「さびしさ」から安易に救済してくれる魔物は、あなたにとって光ではない。
「さびしさ」は、「不安」と似たようなもので、その実体は、あってなきがごとしのものだ、「さびしがる」ということは無限にできるし、「不安がる」ということも無限にできる、一度さびしさの中で麻薬的な救済を覚えると、麻薬が切れたあとのさびしさに対して、「さびしがる」ということの強度は拡大されてしまう/薬物としての麻薬だけの問題ではないのだ、あまりにも多くのものが麻薬的にはたらくのだから同質だ。
正しい知識が必要なのだが、この知識は前もってよもや信じやすいものではない、正しい知識においてさびしさは、消えるものではなくて無力化するものだからだ、無力化したさびしさはもはやさびしさではない/夜、オバケを怖がる人は、昼、オバケが「消えた」と思っているわけではない、たたオバケの「怖い」が無力化するだけだ。

急に冷静になって、「さびしさ」という装置を見抜け。

生存本能と感受性の支配は、急にそうやって冷静になられることが、大の苦手だ、さびしさであれ救済であれ、感受性は盛り上がってこそナンボなのに、急に冷静になられると、どうしても悟性の前に化けの皮が剥がれるのだ/すべてを見抜かれてしまったら、感受性はもう主体を支配できなくなる。
「さびしさ」に、ワーッとなってもらってこそ支配できるのに、急にそこで冷静になって、「さびしいというのは、一種当たり前のことであって、過去の賢人たちも、このさびしさという現象に注目したはずよね?」と言い出されるのが、感受性支配側にとっては大ピンチなのだ、最後の最後までこのことを覚えておくこと、<<急に冷静になって、「さびしさ」という装置を見抜け>>。
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恋あい論への期待とセクシャリティの崩壊2

くづく、正直なところを言えば、僕は今四方に向けて、「えっ、恋あいを探したりしていたの?」と、意表を突かれているところだ、まったくそんな素振りは見えなかったし、そういう気配も態度もエネルギーも感じ取られなかったからだ。
別にバカにしているのではなく、必要な情報だから開示しているだけだ、外見上はまったくロマンスの希求者には見えないということ、このことだって情報として与えられなければ今後の作戦が立てられないだろう。
単純に、「異性を愛してやまない人」には、誰もまったく見えなかったということだ、そりゃ誰だってこんにちの情勢下、プライベートを暴けばヘンチクリンな性器慰撫をしていたりはするのだろうが、それはただの肉欲であって、「異性を愛してやまないうんぬん」ではない、性欲が昂ぶる人というのはたいてい自分の快感と充足感が好きなだけで、それは「異性を愛してやまない」ということではない。
まあそれはいいとして、春夏秋冬がそうであるように、男女というのは本来、霊的なものであってリビドー的なものではなかったということだ、そりゃ春夏秋冬にリビドーの向けようはない/男は男の霊によって成り立っており、女は女の霊によって成り立っていた、それが交合することに不思議があった、というのが旧来の「男女」だった、そりゃわれわれは霊長目なのだから当たり前だ。

われわれは哺乳類(哺乳綱)だが、同じ哺乳類のイヌやネコについて、男らしさや女らしさを見つけはしない、オス・メスというのは単にコンセントとプラグの関係であって、その具体形状を根拠に男らしさや女らしさは成り立っていない。
男女というのは霊的なもので、男は男の命を帯びているから男であり、女は女の命を帯びているから女だったのだが、現代は自我と性欲の嗜好方向で男女が決定するものだと定義されている、これはLGBTに対する単純な非難ではなく、むしろ男の身体にも女の命を帯びたならば、それは女なのだと思う、伝統芸能には昔からそうした女形(オヤマ)の芸がある。
男の霊性に呼応する、何かしらの霊性があるから「女」なのだろう、そして女というのがどういう霊性なのかについては、僕は男だから知らないのだ、そんなもん知れるわけないじゃないか、女として我が身を営んできてはいない僕の肉に女の霊性が発現することはありえない、だからただただ「知らん」というのが正しい。
男が女の霊性を「知らん」のは当たり前のことであって、このごろは女性も女の霊性を「知らん」となった、そうしたら男の側も呼応する霊性が見当たらないので、今度は男の側も男の霊性を「知らん」となった、それでセクシャリティがnothingに向かっていったという、そういう状況だ/責任をなすりつけあってもしょうがない、ただ事実上、男は男の声と言葉が出なくなり、女は女の声と言葉が出なくなった、このことはヘンな中二病やファッションやアニメチック偽装で補うことはできない。

アポロン像は、チンコがあるから男というわけではない。

アポロン像は、ただの男の像だが、その像の立つ向かいには、なんとなく女の像がありうるのだろうなということが、誰の目にもわかる、そのように男女の本質は、具体的なズッコンバッコン(古い言い方)で定義されているのではなく、それぞれに宿っている霊性によって定義されている/当然だが、僕の肉のうちに女の像は見当たらない。
たまに、僕のことを本当に好きになってくれる女性もいるのだが、それにしたって、その女性が何をどうやって僕を「好き」になるのかは、正直さっぱりわからない、僕にとってホモセクシャルの気がまったくわからないというのと同じぐらい、さっぱりわからない、そりゃ僕は男なのだから女の霊がどうはたらくものなのかは知りようがない/そういえば僕がここに書き話す文章も、純粋に男の霊が宿っているだろう、ずっと以前から感じていることだが、僕が「男」でなくなったら、僕にはすることが何一つなくなるのだ。

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