☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
あのとき僕は何から逃げたか
い雷雨の夢を見た/暗雲に濡れそぼつコンクリートの壁/九龍城のような警察署の高い窓から、追い詰められたニシマチくんは身を投げて自殺した。
僕は逃亡した/そのことは僕が二十代の後半に「逃げた」こととつながって感じられるが……
あのとき僕は何から逃げた? そのことがもう何年も気に掛かっていた。
あのとき僕は、「闇」から逃げたのだ、「闇」などというと大げさだが/弱きニシマチくんは身を投げて自死し、なお見捨てられるしかなかった。

闇の中で安定するぐらいなら、光の中で行き倒れるほうがましだ。
あのときの僕は、まだそこまでわかっていなかったな、「闇」なんてものが他者にはあるという感性がなかった。
やっぱりこの世界は、一般に思われているような世界ではないなあ/フィラメントに電気を通すと光るが、それは「もとが光っていないから電気を通すしかない」ということでもある。
人は600カラットのダイヤモンドの輝きを「えげつねえな」と賛嘆するが、なぜか太陽の光りっぷりを「えげつねえな」とは感じない、どう考えても太陽の方がえげつないのだが。

闇から逃げるのは唯一正しい。

万事、逃げるのはよくないことで、立ち向かうことが原則正しいものだが、闇はダメだ、おそろしいことに闇の中で勝ったとしてもそれは「勝利」にはつながらない、闇から逃げることは唯一正しい。
あのとき僕は、「闇」から逃げたのだ、そういうことは割と身近にある、ホワイト企業も創業期のホンダのように輝いているわけではないので、ホワイト企業に依存したって人間はけっきょく闇に落ちる/ブラックの反対は「光」だろ、ホワイトってのも闇だよ。
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ボエーム主義者は永遠性を志向する
れないうちにメモしておきたい、「永遠性を実体で証せよ」。
なんのこっちゃわからないが、説明には時間が掛かるのでいいのだ、僕は昨日、自宅のwi-fi環境の再構築に成功してたいへんゴキゲンでいる。
これで毎月の4G回線通信量制限にビクビクせずに済むぜ! やはりNECのルーターにはNECの中継器がベストマッチだった。
「永遠」の反対は「解決主義」だと思うが、このあたりも説明には時間が掛かるのでまあいいだろう、人間にとって三十年は一万日しかなくて短いが、この一万日を旅する者にとっては意味が違うわけだ、永遠を志向する上では時間が長いとか短いとかいうことは関係なくなる。

いいじゃないか、誰にだって十八歳の時間があり、二十歳の時間があった。
この十八歳の時間を「何に使うか」という考え方は、わかりやすいが、何に使ったって無駄だ、どうせジジイとババアになって棺桶に入れられてガスバーナーで焼かれることに変わりはない。
人間にとってもっとも厭なことは、そもそも間違っていることを議論させられたり、そもそも間違っていることに決定を持たされたりすることだ/そんなことしたって間違っているものは変わりゃせんのだって。
人間にとって、永遠だけが唯一恋しいのは当たり前で、もしカミサマが五年後までに制限時間を設けていたら侘しすぎるだろう、「永遠」と言われると一時的に興奮するが、その一時的というすべてがとても厭なのだ。

今日はまた、永遠へのチャンス。

そりゃそうで、十八歳が十八歳たるチャンスは、翌年にはない、永遠の雨を得られる幸運な日は、翌日の快晴の中にはない。
多くの人には、すべての知識と機会が与えられているように見えるが、唯一、永遠というideaが否定されている、これだけが恋しいものだというのになかなか残酷なことだと思う。
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途方に暮れて in 2017
直、このところ途方に暮れているところがある。
なぜなら、「あなたといるときがわたしのすべてなの」「あなたがいることがわたしのすべてなの」と言ってくれるケースが、あまりにも増大しすぎているからだ。
僕が思い上がれば、いろいろ噛み合うのかもしれないが、正直なところ、僕はもうフルパワーで思い上がっているので、これで精一杯なのだ、これ以上はもう生来的な気質において無理だ。
「あなたごときが、そんなわけないでしょ」と嘲弄してもらえたら、僕も「そりゃな」と笑っていられ……たのだが、このところはもうだめだ、このことはもう真剣に考えなくてはならないテーマになってしまった。

これは何も、僕がモテているとか、僕が魅力に満ちあふれているとか、そういうことではなくて、他の一切の体験が希薄になっているということにすぎない。
誰だって、それぞれに、勉強があり仕事があり、人付き合いがあり恋愛があるのだが、すべてが希薄化しているのだ、すべてのものがストレスだけ残して「実はよくわからない」という状態に成り果てている/どう努力してもいまいち「世界」がないのだ。
人間にとって、「よくわからないこと」をさせられるのは大きな負担と不快なので、それよりは、「おれはプレステをやりたいのでお前モスバーガーでも買ってきてくれ」と言われるほうが「はるかにマシ」と言われる/「何をしているか、何をしたらいいかが、自分でわかるから」とキラキラして言われる。
やる気のない人というのはたぶん誰一人いないのだが、やる気はあっても「やること」が見えないのだろう、こんな中でモテても何の自慢にもならないし、何を思い上がることもできない。

よーく聞いてくれ、おれが楽しいのじゃなくて、世界が楽しいの。

僕を通して、何かの「世界」につながれるから、楽しい、すべてになる、というだけで、そのことは本来僕に依存して得なくてもいいものだ/自慢じゃないが、今僕を通して得られる「世界」なんて、もともとは成人男性なら誰だって持っていて当たり前の基本所有物だった。
さらに言うなら、僕を通してあなたが見る「世界」なんて、ほんの序の口というか……僕は思いっきり手加減しているのだ、あなたがあまりにも不慣れなものだから、僕の見ているものがまるごと見えたらあなたはめちゃくちゃになってしまうじゃないか、これでも手加減しまくっているんだ、あーあ。
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「流れるもの」と「流されるもの」

されるのはつまらないことだ。
「流れをつかむ」ということと、「流される」ということ、これらは何が違う?
単純なことだ、「流れ」は底を流れる。
「流されるもの」は浮いているから流されている。

この、底を流れている、太くたくましい、妖しくさえあるストリームがわからないか?
流れをつかんでいる「つもり」で、実はまったくセンスがないタイプの人は、たいてい浮いている、浮いているから流されている。
音楽を聴いて「アガる」と感じている人は、たいてい誤解をしているが……なぜなら音楽は本質的に人間を沈降させるからだ、音楽は人を沈降させて底の流れに接続させるものだ。
釣りで使う「浮き」は、本当に浮かんでいるだけだ、そうではなく水面下深くに垂らされていった釣り針が、底の流れにヒットしないといけない/それは明らかに「アガる」ではない、どう見ても沈降せよ。

万事、「アガる」は近所迷惑になる。

「アガる」と、本人は一時的にごきげんになるのだが、それは単に傍若無人になっただけで、周囲からすれば迷惑になる/ひとりイヤホンでアガっている満員電車の奴みたいに。
世界中のどこを探しても「アガっている」と見える神像はない、残念ながら集中力のない奴が何かになったためしは古今にひとつもない。

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人は「当然」のことしかしてはならない
とえば、ふつう日本人なら、「いただきます」「ごちそうさま」の動作に"こころ当たり"がある。
この、"こころ当たり"があることで、「いただきます」「ごちそうさま」の動作は"当然"のものになる。
この、"こころ当たり"がないままに、たとえば男性が「レディーファースト」をやってみたところで、その動作はぎこちない、いんちきのものになる。
今、男性が女性を口説くことや、女性が男性に抱かれることは、それぞれにとって実は"こころ当たりがない"のではないだろうか、こころ当たりがないままそれを無理やりにやっているのではないだろうか。

"こころ当たり"がないままに、何かをしようとすると、それは不当な「イメージ」や「パターン」、および「願望」をなぞるものになる。
たぶん大学生が「うぇーい」「それな」「ワンチャン」と言っているのも、あるいはリクルートスーツを来て就職活動しているのも、実は何の"こころ当たり"もないのだ、ただやけくそのようにイメージ情報をなぞっている。
リア充という「イメージ」、うぇーいという「パターン」、勝ち組という「願望」だけがあって、何の"こころ当たり"もないまま、ぎこちないやけくそを力業で押し通している。
今、多くの女性は、自分のヴァギナに"こころ当たり"がなく、男性に口説かれるたびにそれを「イメージ」「パターン」「願望」で処理しているが、その処理に慣れていくだけで、実は自分が抱かれることをいつまでも「女として当然」とは感じられないままだ。

あなたは彼の靴を磨いてあげることはできるが、問題は、それを「当然」とは感じられないことだ。

「女らしくする」「女らしいことをする」という、イメージはあるのだが、こころ当たりはないのだ、だからそのイメージをなぞってもぎこちなくなるし、わざとらしくなるし、しかも自分には"不当さ"のストレスが蓄積していく。
人は、「当然」のことしかしてはならないし、「不当」なことをするべきではないのだが、その当然さと不当さは実は文化に与えられる"こころ当たり"に由来している、だから文化を与えられていない人は何一つ「当然」なことができない/唯一できる「当然」は、今ぶっちゃけ「支払い」だけだ。
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「わからない」ということにパニックにならないこと
ろそろ、家族の絆を深めようとすることを「ファミ活」と呼び出すだろうか。
付き合わされる子供はたまったもんじゃないだろうな、「ファミ活」……
友活して就活して愛活して婚活して家活してファミ活して終活する、というような冗談を、いいかげんやめないといけない。
世の中にはそういう冗談を真に受けるしかやりかたを知らない人もいるんだぞ! そりゃ他人事ならつい笑ってしまうけどもね。

どうしよう? といつも悩まされている。
どうしよう? といって、何も方策はないのだが、さしあたり落ち着くことだ、慌ててカルチャーセンターに行って得られる文化などない/そもそも「カルチャーセンターで何かを得る」なんて文化じたいがない。
ともかく落ち着くことだ、そして、「わからない」ということにパニックにならないことだ、パニックは人を無能化する上に人を追い詰めて疲弊させる。
もし大学生と大学生が、互いに落ち着いて「何を話せばいいかわかんないよね」「いろいろウソをねじこまれているよね」と話し合えたら、それだけでずいぶんまともになれると思う、ただしあくまでも落ち着いていられたらだ。

「文化感覚」が要る(説明はまたいずれ)。

「文化感覚」が要るのだが、それを説明するのは、今なんとなくダルいというか気分じゃないというか……(投げやりですまんな)。
たとえば、誰だって本ぐらい読むのだが、読書という文化は失われている、だから読書会イベントや「読活」みたいなことが生じてくる、ええと何にしても、なんか今ダルーいので説明する気にはならない、すまんがまたいずれ。
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永遠の形式(フォームズ)に力を得る(ホントかよおい)

とえばヴィデオゲームでもいいし、ゼンダ城の虜でもいいが、「姫が敵にさらわれた」としよう。
姫が敵にさらわれたら、救出にいかなくてはならないが、この「救出にいかなくてはならない」という"強い思い"がどこから出てくるのかはわからないし、人によってその思いがどのていど"強い"のかもわからない。
僕が「スーパーマリオ」をクリアしたとき、僕は「ゲームをクリアした」とは感じていない、「ピーチ姫を敵城から救出した、やれやれ」と感じている。
そして、「なぜ」ピーチ姫を救出しにいかなくてはならないか、その理由はよくわからない、理由はわからないが、少なくともそれは価値観の上で生じていることでは"ない"とわかる/しかし僕の場合、姫を救出にいかなくてはならない動力は"強い"、価値観ではない何かの動力が"強い"。

同じく、僕は誰か困っている人がいても、それを助けたいとは思わないし、助けるべきだとも思わない/助けるべきだという価値観や倫理観はわかるが、それはよりによって僕でなくてもいいだろうと感じている、そんなことはもっとまともな人がやればいい。
あるいは、僕は今こうしてブログ記事を書いているのだが、これだって、人に面白いものを届けたいなんてわずかも思っていないし、世の中を面白くしようなんてわずかも思っていない。
じゃあなぜこんなことをしているかというと、「わからない」のだ、わからないが、少なくとも意味があるとは感じていないし、意味がないとも感じていない、つまり意味があるとかないとかいうことが動力の構造になっていない。
「あなたに救われたんです」と礼を言われることはよくあるが、なぜかそのたび、尻を突然蹴って台無しにしたくなる衝動が強くある、感謝が発生すること自体は正しいと思うが、それを僕に向けるのは見当違いに感じる/僕は感謝されるのがきらいだ、ただ美に突入してほしくてやきもきする。

汝の永遠の相貌を探索せよ/(中略)すべてつくりだされうるものは絶滅させられるけれども、形式(フォームズ)はさにあらず/樫は斧によって伐り倒され、仔羊はナイフによって屠られるけれども、/それらの形式(フォームズ)は、永遠に存在する。アーメン。ハレルーヤ! [ウィリアムブレイク]

さしあたりブレイクの詩文から引用しておくしかない/僕が困っている人を助けたりそれによって礼を言われたりすることを好まないのは、きっとそれが永遠の形式(フォームズ)ではないからだ、そして姫を救出に行くことのほうは永遠の形式(フォームズ)なのだろう(ホントかよおい)。
こんな永遠の形式(フォームズ)から動力を得るのだとしたら、どこに「やる気」やら「モチベーション」やらが入り込む余地があるか/きっと正統な文化のすべては、この永遠の形式(フォームズ)をそれぞれが探索してゆけるための蓄積的叡智なのだ――汝の永遠の相貌を探索せよ。

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四月覚醒

けるような寝苦しさがあって、眠ってもいないのに寝汗を掻いた、いくつかの夢のうちに、はらわたから何かが流れ落ちていった、まったく自分の管理外の体験がある。
もし何者かが存在して、察しの悪い僕に直接的な答えを与えてくれたのだとしたら恐縮だ、起床するとなぜか僕は、自分以外の誰かの胴体のことを知っている状態になっていた。
朝起きたときからいつも爆発している僕のほうが特殊なのだ(すまないが、こんなことにも気づかなかったのだ)。
みんな、本音や感情といったものが「ない」、自分の内から本音や感情が「出てこない」から、焦り、困っているのだ、自分の中から強いものが出てこないのだ。

僕はこれまで、人が「願望」に振り回されることを忌み、否定してきた/「願望」はこころのものではないから。
けれども、今朝になって急にわかったことは、みんな願望に振り回されているのではなく、それしか自分を動かすものがないだけなのだ、だから願望に「頼って」いる、あるいは「コンプレックスをバネにする」というような、たいしてアテにならないことを頼っている。
本音や感情が「ない」というのは、けっこうなピンチのはずだが、そのピンチから覚えるはずの「危機感」、これもまた本音では「ない」のだ、だからどうしようもなくて自分の願望を念じようとする。
きっと本心では、何もかも停止してしまいたいという思いがあり、けれども何もかもを停止させると恐怖と不安しかなくなるから、パニックになる、そうならないために、自分の意識を刺激してくれる想念で自分の意識を炙っている、そういったその場しのぎのことをもう何年も続けているのだ。

方法はないが、断言だけできる、人は自分の「やる気」なんかで動くものじゃない。

方法はないが、断言だけできる、少なくとも僕は一ミリたりとも自分の「やる気」なんか使っていない/じゃあ何でやる気になっているのかというと「わからない」、朝起きたら初めから火が点いているのでどういう仕組みなのか僕自身にもわからない。
何かに興味があるとか、前向きとか向上心とか、将来のためとか、そんなものは全部ウソだ、そういう善人のこころがけを使ったことは一度たりともない、何が燃焼しているのかは僕自身にもわからない。

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明るい声を出す方法
るい声が出てなきゃなんない。
そして明るい声のためには胴体が要るのだ。
そして胴体のためには文化が要るのだ。
そして文化のためにはカミサマが要るのだ、思えばそれだけの仕組みでしかない。

カミサマがあるからお参りがあるわけで、お参りがあるから参道がある、参道があるから「表参道」があり、表参道があるから渋谷と原宿の文化がある。
簡単な話で、1.カミサマがあるせいで文化ができ 2.文化の中で人の胴体は育ち 3.人の胴体から声が出るのだ、そうして出てくる人の声を「こころ」という。
いまどき、カミサマがどうこうという暮らしをしている人はなかろうし、日々が文化に接続しているという人もなかろうし、胴体なんて定期的に医者か検診するだけのもののはずだ、そういう暮らしをわれわれはしている。
アタマの中でぐるぐると、思念とディスカッションがあるかもしれないが、そういう頭の中のものはびっくりするぐらい役に立たない、ディベートするためにこの世に生まれてきた赤子なんて一人も存在しないからだ。

あなたが天を否定するせいで、僕はあなたを天使と呼べない。

残念なことだなあ、と思うし、そうして天を否定していると逆に晩年にカルト宗教に取り込まれる予感がとてもする/ちなみにかつての共産主義活動も宗教的な側面をはらんでいたので、あれもカルト宗教に取り込まれたひとつと言いうる。
カミサマのない人は、文化がないので、どこにも連れてゆけないし、胴体がない人とは、そもそも出会うことさえできない、だからデートなんてできない/そして出会うことさえできないということは、現代を生きる上では「好都合」という、困った利益的側面もあるのだった、なんと嘆かわしいことだろう。
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ハイハイ返事すな

校教育の悪いところだ。
ハイハイ返事すりゃ得点がもらえると刷り込まれている。
「返事していますよ」と得点を取りにくるものだから、それは返事どころか自己アピールになっている。
クソ甘えた顔をすりゃ点数がもらえると思っている、学校教育の悪いところだ。

自己アピールはやめられないものなのか。
そりゃ初めからそう教えられてりゃ、もうやめられないものなのかもしれない。
まるで「わたしは純潔ですよ」「清潔で誠実ですよ」と大声で咆えたがっているような自己アピール。
自分の目がキラキラしている「つもり」になるのは、そんなにうれしいことか。

いいかげん、何の点数がほしいんだ。

学校教育の悪いところ、本当に「点数」というわけのわからない概念を人間に埋め込んでしまう、そして点数に向けてしか挙動しない人間を創り出してしまう。
燃えてもいいし、真剣になってもいいし、恋に落ちてもいいけれど、それで何の点数をもらおうとしているんだ、点数がほしけりゃ100億点やるよ、それで本当にハッピーになるのか。

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文化を持たざる民5
代の日本人は、「無宗教」というより「無神論的感覚」で生きている。
そして、無神論的感覚では、どうしても文化の根幹が得られず、「文化」の成り立ちようがないのだ。
初詣も夏祭りも除夜の鐘も結婚式も、すべて何かしらのカミサマを前提にして営まれるものだが、カミサマが否定されているので、すべては「イベント」にならざるをえない。
「イベント」というと、フリーマーケットや○○フェス、あるいは講演会や勉強会などが代表的だが、これらのイベントはカミサマに何の関係もないので、まったく問題なく営まれて栄えている。

どこの国のどの人でも肯定すると思うが、何かしらのカミサマを否定するということは、文化を破却することと同じだ。
たとえば食事のときに「いただきます」と合掌することさえ、カミサマを否定してしまったら無意味な「いただきますキャラ」になってしまう。
カミサマが否定されると、この世には「わたし!」しかいないことになるので、「わたしのキモチが大事なの!」という文脈に必ずなる、それで「いただきます、というわたしのキモチ! これが大事なの」ということになっていってしまう。
文化というのは何かしらの「神聖さ」を前提にしている、カミサマが否定されるとこの「神聖さ」の前提が破却されてしまうので、「わたしのキモチ」の偉大さ、崇高さ、ということだけが残ってしまう。

無神論的感覚で、文化的になろうと努力するのは、完全に不毛だ。

かといって、文化的になりたいという都合から、カミサマを捏造するのはさらにサイアクなことなので、諦めて自分は「わたしのキモチのアニマルなの」ということを引き受けていくしかない/それでもカミサマを冒涜するよりはマシだ。
どう考えても、「わたし」と「カミサマ」のあいだを取り持つものがあり、そしてそれが共有されているということが「文化」なので、カミサマなしで文化的ということは決してありえない、この問題は根が深いので安易に取り扱えるものじゃない。
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文化を持たざる民4

学生が言う「うぇーい」「それな」「ワンチャン」を、僕は「文化」だとは感じない。
サザエさんやドラえもんならともかく、「けものフレンズ」を僕は「文化」だとは感じない。
コスプレを文化だとは感じないし、女子会や鍋パを文化だとは感じないし、婚活や街コンも文化だとは感じない。
初期の「ドラクエ」のようなものならヴィデオゲーム文化たりえるのかもしれないが、「パズドラ」に課金することは文化だとは僕には感じられない。

つまり、ブームは必ずしも文化たりえない。
ブームが悪いということではなく、文化がないということがおそろしいと僕は感じている。
フィギュアスケートの浅田真央選手や、ラグビーの五郎丸選手が、けっきょく文化的な扱いを受けなかったように感じて、僕は一人勝手に嘆いている。
東京オリンピックに伴って「観光立国」の案が閣議決定されたらしいが、観光といっても日本には観るべき「文化」が温泉ぐらいしか残されていないので、この案は失敗するのではないかと僕は思っている。

ブームはあるが文化はない。

一時期、「お・も・て・な・し」というブームがあったが、「おもてなし」という文化はすでにない、ブームが悪いのではなく、文化のなさが無視されていくことにおそろしさを感じている/一軒の居酒屋でさえ、客としてもてなしてもらえることはすでに少ない。
「マイブーム」という言い方も一時期された、マイブームがあるのは悪くないことだが、自分の所属・所有する文化がないというのはおそろしいことだ。

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文化を持たざる民3
とえば「学校」はどんなところか? それは「学校」という文化を知らなければわかりようがない。
「先輩」「後輩」とはどのようなものか? それは「先輩」「後輩」という文化を知らなければわかりようがない。
「男」「女」とはどのようなものか、「社会人」とはどのようなものか、それもそれぞれの文化を知らなければわかりようがない。
人が人にあいさつをしたり、頭を下げたり、親睦を深めたり、それって「どういうもの」なのか、文化なしには何もわからない、わかりようがない。

当たり前だが、文化がなければ人間もただのアニマルでしかない。
情報を記憶した、気分で動く経済的なアニマルだ、記憶した言語をしゃべるが、それはほとんど気分を表す「鳴き声」でしかなくなる。
たとえば「乾杯」という動作があるが、それは覚えさせたらチンパンジーだって覚えるだろう、が、チンパンジーはさすがにそれを「文化」とは捉えられない。
もう何年も、人と人とが「握手」をする光景を見ていない、すでにまったく甘くない状況だということをお伝えせねばならない、文化が失われたということは反省で取り戻せるものではない。

僕が駅前で友人と握手したとき、そこはかとなく「ギャラリー」まで生じた。

すでに「握手」をすることでさえ、見慣れない文化として通りすがりに観客を生じるような状況にある、事実ここ数年に友人と握手をしたことがないという人は多いだろうし、「握手」を差し出す文化の仕方が実際的に「わからない」という人が多数あるはずだ。
「学校」も「先輩」も、「社会人」も「男女」も、果ては「あいさつ」も「乾杯」も「握手」も、「頭を下げる」ということも、「わからない」のだ、情報として記憶されているだけで、そういった文化はすでにわれわれの所有するものではない。
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文化を持たざる民2
「お花見」はすでに文化ではなくてイベントだ。
クリスマスやお正月、初詣やお祭りも、文化ではなくてイベントだろう。
成人式はもちろんイベントだし、ともすれば結婚式でさえ文化ではなくイベントにすぎない。
われわれはハロウィーンの文化を吸収なんかしていない、ただ仮装イベントによい口実を手に入れただけだ。

いつのまにか、「文化」という感覚そのものを与えられなくなったので、文化感覚なしに、すべてがイベント化している。
敬老の日があったとして、老人を敬うという文化は当然ないが、「敬老イベント! みんな集まれ!」ということなら大いにやれる。
ロックフェスに行く人の多くは、「ロックカルチャーに影響を受けた人」ではないだろう、ロックフェスという「イベント」を愉しみに行っているにすぎない。
文化感覚なしに、生け花やお茶や着物の着付けを習っても、それは習い事イベントにすぎず、人を文化的にはしない。

文化はなくなり、イベント化した。

フリーハグのイベントが行われれば、ハグをするのかもしれないが、「人が博愛主義においてハグの行為を能動的にあらわす」というような文化はけっきょく獲得されない。
文化はなくなり、すべてがイベント化したのだが、これはそうとうまずいことのはずだ、われわれは文化を持たない人と人間らしく付き合っていくことはできないのだから。
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文化を持たざる民

当のことについて考えなくてはな……
実は、「文化」が与えられていない。
人が人にあいさつをするとか、ジョークとユーモアを振る舞うとか、人と付き合うということ、自己愛に拘泥せず開けた愛を向けるというようなことは、「大切で当たり前で重要なこと」と思われている。
「大切で当たり前で重要なこと」と、思われているのだが、実はそういう「文化」はすでに失われてしまっている、「文化」の与えられていないところにあいさつやら愛やらを頑張らされても、機能しないのだ、非常な負担と苦痛ばかりが増えてしまう。

もともと、「敬う」という文化があってこそ、敬語が敬語として機能する。
また、「もてなす」という文化があってこそ、「いらっしゃいませ」が「いらっしゃいませ」として機能する。
もともと、「人」の存在を尊ぶという文化があってこそ、「こんにちは」「ありがとう」「またね」が機能する。
敬語と接客とあいさつを暗記したところで、それは暗記であって文化ではない、「文化」を与えられていないものは機能しない、男と女がどう付き合うかなんて文化はもう十数年も与えられていない。

事実、あなたは文化的に振る舞うことができない。

自分でやっていてわかると思うけれど、「こんにちは、○○と申します」と言ってみたところで、似合わないし、何かキャラをやらされているような心地で、それが「文化的な振る舞い、態度」だという感触はしないはずだ。
僕は女性にはお茶の一杯ぐらいをごちそうするのは「文化」だと思っているが、それを「オゴられた」ときのあなたは女性としてどう振る舞っていいのか「わからない」はずだ、それは女性としての文化がないからだ。

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「進撃の巨人」に見る現代人のモチーフ

画「進撃の巨人」の主人公エレンは、自傷行為によって「巨人」になる。
巨人になると、性質は凶暴化し、意識は自失状態に近くなり、その肉体は蒸気と腐臭の伴った姿として見せつけられる。
これは実に現代人の自意識をよく表したモチーフといえる/しかもエレンがそういう巨人化の性質をもったのは、「親に薬物を仕込まれたから」という筋書きだ。
現代においては少なからぬ人が、そうして「自己爆発したい」「自己爆発できる」という幻想を胸のうちに抱えている、しかもそのドロドロした感触の自暴自棄への衝動は、「親に植え付けられた」というつもりがあるのだ、これは旧世代の漫画「ドラゴンボール」などとは大きく異なる点になる。

もともと「新世紀エヴァンゲリオン」の中にも類似のモチーフは見られる、自分を支配するのは「親」であり、親によって「やけくその大爆発」をしたいし、できるぞ、という幻想がモチーフになっている。
だが実際には、手首を噛みちぎって自傷しても、人は巨人にはならないので、どうなるかというと、彼はときどきこの世界に現れてしまう「弱者を殺戮する通り魔」にしかならない/子供たちを殺戮するとき、子供からは比較的に彼は「巨人」たりえたのかもしれない。
「ドラゴンボール」にあったモチーフ、そもそもの「亀仙人のもとで修行してかめはめ波を身につけたい」というモチーフは失われ、現代におけるヒーローはつまり「わめきちらして自己爆発のスイッチを入れたい、親のせいで」というモチーフで作られている。
だから、現代の少年少女は、自分の時間に「何かの修行をする」ということができず、「親を気にしながらスマートフォンから何か薄暗いドロドロしたものを摂取する」ということをしている、それでドカーンと巨人になれたらまだいいのだが、残念ながら物理的にそういったことは起こらない。

修行をして孫悟空に近づく道筋はあるが、セクシーな制服を着てセーラームーンに近づく道筋はない。

人間の自己超克や突破のモチーフは、案外そんな幼少期の漫画体験で定義づけられているところがある、ドラゴンボールとジャッキーチェンで育った人間と、セーラームーンとエヴァンゲリオンで育った人間は、原型としての自己超克のモチーフが異なるのだ。
「ドラゴンボール」は修行しているし、「ジョジョの奇妙な冒険」も第二部まで修行している、「スラムダンク」もほとんど修行のようなことをしている、しかし現代の少年少女はたぶん「修行」がどういうものなのかが感覚的にわからず、自己超克の仕方をエレンの中に探しているだろう/エレンは自傷からの「巨人化」の能力だけで活躍をし、いつぞや訓練した兵士の能力としては活躍をしない。

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選ばれしもの2

ばれる、選ばれない、というのは、うつくしいことで、同時に無慈悲なことでもある。
ただ、当然の正当性もあって、まず選ばれることがない人は、自身も「選ぶ」ということをしていない。
アマゾンでレビュー点数の高い映画を観て、楽しんだり評価したりするというような「つまみぐい」をしているのは、つまり自分が何かを受け取るように選んではいないわけで、こういう人は当人も何かから選ばれることはぜったいにない。
あなたは若い日の自分が観た映画は「これだった」と、選んできただろうか、それを選んできていなかったら、あなた自身も何からも選ばれないだろう。

僕は、この点だけは自負できる、何もかも自分で選んでやってきた、この四月九日だって「どういう日」かは僕が必ず選んでいる。
何しろ、気質的に、自分で選んでいないものはキックしてしまうのだ、僕は自分で選んだことしか何一つやらない。
僕が誰かに「そこに座れよ」と高圧的に言うときは、選んでいるからであって、僕は選ぶということ以外に人や物と付き合う方法を知らない。
そうだな、たぶん、「自分で自分を選んでいる人」に向けては、僕はその人を何かに選びようがないのだろう、「わたしがわたしを選びたい人」なのだから、誰かが彼女を選ぶことは当然不可能になる。

「選んでないからね」の一言で済む。

すべてをつまみぐいしてリーズナブルに「わたし的ベストテン」を決めるようなことは、生きることをふざけているとしか思えない。
顔が広く、色んな人を知っていて、文学や音楽、映画や舞台に、幅広い知識があったとしても、その中でそれぞれを「選んで」いないから、なんのこっちゃわからなくなるのだ/選んでないものは何一つ「あなたのもの」ではないよ。

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選ばれしもの
分の体験する世界は「きずな」でできている。
人と人とのきずな、生きものと生きもののきずな、あるいは、自分と「場所」のきずななど。
この世界に岩石があったり貨幣があったり法律があったりするのは、事実だが、それは実は自分が「体験」する「世界」とはあまり関係がない。
「きずな」を得られずに生きている人だけが、この世界を岩石とか貨幣とか法律のものだと思っている。

これまでのすべてを思い返すと、僕はこれまで、向こうから「選んでもらった」という実感を確かめることができる。
人が、生きものが、あるいは場所が、その他の何かが、僕を「選んでくれた」のだということを、今もはっきり覚えている。
それぞれが、僕を「選んでくれた」ということの、なんとかけがえのないことだろう、これを見落としたときこの世界に生きることはまったくの無意味になってしまう。
僕には何の霊感もないが、霊感があるのは僕の側ではなかったのだ、「街」とか「生命」の側に霊感があった、それを聞き逃さずに来ただけだった、だから僕には霊感なんかないというのがどこまでも正しかったわけだ。

いのちが選ばれた/そのことを「きずな」という。

典型的に、男と女の出会いなんか、そういうものじゃないか、何かしら「いのち」のレベルで「選ばれる」ということがなければきずなになんかなりっこない。
僕は無数に選ばれてきたので、「やーいうらやましいだろー」というのが率直なところなのだった、こりゃひどいか、ひどいけどしょうがないんだよ。
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謝罪王2

とえばこういうふうに書いてみるとわかりやすい/ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。

ごめんなさい。
なぜかこうすると、人はパッと僕に味方してくれる、途端に「違うの、ねえ聞いて」と。
「謝罪」だけが、認められ許されるということなのだろう、態度が軟化するのだが、謝罪がないかぎりは軟化しない。
たぶん、「謝罪」された人は、パッと気分がよくなるのだ、理由は知らない、ただ「よくわからないですけど、謝罪されると気分がいいですよね」とはっきり言った人もあったことを報告しておく、それはたっぷりとした言い方だった。

おそらく「被害者意識」が、無節操に「謝罪」を求めている。

ずっと「被害者意識」があって、誰か大量の人間が大量の謝罪を自分に向けてすることを、こころのどこかで正当なこととして望んでいるのだろう、そういう感触がとてもある/それが正当なのか不当なのかは僕にはよくわからない。
被害者意識から逃れられなくて、「謝罪」でしかこころを許せないのだろう、被害者意識があるものはしょうがない/ただ、僕には被害者意識がないことだけ報告しておく、それぞれ誰が何の被害者なのか正直僕にはよくわかっていない。

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謝罪王

つのまにか、僕は毎日のように、年下の女に謝罪しまくらねばならないようになった、それも四方八方に謝罪しまくっている(これを僕は「謝罪王」と呼んでいる)。
なぜかというと、僕の情緒が安定しているからだ、僕は情緒が安定しているので、日々情緒不安定になる女に頭を下げまくらねばならない。
僕が謝罪しないと、情緒不安定な女は「許さない」ので、僕が謝罪するしかないわけだ/何を謝罪するかといって、彼女らが情緒不安定であることを僕が謝るのだ、彼女らは自分の情緒不安定について僕を「許さない」と感じるのでしょうがない(理由は知らん)。
なんのこっちゃ、という話なのだが、事実なのでしょうがない、情緒不安定な人間は自分が情緒不安定であることを「許さない」ので、僕が謝罪しなくてはならない、溜飲を下げてもらうには唯一それしかないのだ。

明らかに間違っているのだが、もう構造的にネタは割れているので、僕はあまり気にしていない。
僕の情緒が安定し、僕が笑わせ、僕がオゴり、僕がいろいろ教え、僕が健康を恢復させてやるわけだが、その上で最重要なのが「謝罪」なのだ、理由はさておき事実がそれなのでまあそういうものなのだろう。
もちろん、間違っているのだが、その間違っているということがまた「許さない」を生むだけなので、それが間違っているということについても、僕が謝罪しないといけない、「謝罪王」はこのごろひっきりなしの出ずっぱりだ。
事情に関わらず、僕の側が先に謝罪を受けるということはまずない、たとえばこの記事自体、「こんな記事を書いてごめんなさい」と僕が謝ることがどこかしら期待されている、この「謝罪が最重要として期待される」という現象はまったく理由のわからないまま蔓延している。

日本人は、命を捨てて戦ってくれた兵士にも「謝罪」を要求する。

理由はまったくわからないのだが、事実上、「謝罪だけしか認めないし、謝罪だけしか許せない」という、確立された精神状態が蔓延しているのだ、理由は知らん、理由はどこかの偉い人が解明してくれたらいいと思う。
僕は「謝罪王」だが、別に暗くはなっていない、というのもそんなに真剣に生きているわけではないからだ/今、日本人は頭を下げるのが世界一苦手な民族になりつつあるように感じている。

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