☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「カッコイイ」ってわかりまーすか
ログの更新が滞っていて申し訳ない。
何にモタついているかというと、「月刊ワーQ」第三号の、編集に手こずっているのだ。
それで、何に手こずっているかというと、それがわからないから手こずっていたのだが、先ほどナゾは解けたので、もう大丈夫だ。
テーマは「軽薄」だったのだけれど、なんというか、だれかれ構わず、みんな「カッコイイ」ということを、ドエライ誤解しているのではないかという気がしてきた、気がしてきたというか、ほとんど確信を得てきたぞオイ、こんなことになってしまって一体どーするつもりなんだ。

なんというか、アレかね、本当にマンガの読みすぎなのかもしれない。
われわれが「カッコイイ」を目指すとして、やってはならないことが五つある、それは、1.おばちゃん、2.中二病、3.お花畑、4.陶酔、5.身内びいき、この五つだ。
今回、思い至ったのだが、おそらくほとんどの人は、「自分自身」について正当な批評を受けたことがないのだ/自分がフワッフワしていることは、他人からはまったくカッコよくは見えないんだぜ、このあたり本当にいいかげんにしないといけない。
うーむ、その意味で、今回のテーマ「軽薄」は、ど真ん中を射抜いていたということかもしれないが、それにしてもこれはどうしたものか/実際的なこととして、人ってマジで「カッコイイ」と思ってもらえないと、まともなことは何一つできんぜ、それって自分が自分をカッコイイと思うこととは正反対だからね。

ダサさを買いに行くとカッコイイが、カッコよさを買いに行くとダサい。

どーもキミらの頭の中には、おしゃれカフェとトレンディドラマを足したような、とてつもないダサいメルヘンワールドが広がっているのじゃないのかね、そういうアホは本当にダメだぞ/カッコイイということは、農作業をしていてもカッコイイということだからな、どうして脳みそが農作業に向かわない、難しい本にゲロを吐いて笑っている無精ヒゲがカッコイイのであって、おしゃれグッズで整えた空間でシュッとしているのがカッコイイのじゃないぞ。
どうも、多くの人が、自分を隠蔽しているか視えづらいのだが、はっきり出力させてみれば、とんでもないカッコ悪さがにじみ出てくるのではないのか、そんなことではダメだ、酸鼻をきわめるぞ/どうも青春をしくじったという心当たりのある人は、きっとカッコよさを誤解して学習しているので、正規にカッコよさを学びなおすように。
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客はバカスカ喰うのが仕事だ2

近は、出世欲を持たない人が多いらしいが、それは無欲になったということではなく、己の生が「闇」である予感(ないしは確信)に、絶望しているからだ。
客はバカスカ飲む・喰う・買うのが「仕事」ということを知らないので、ただ消費気分なのだ、だからその消費というのも「もういいです」と思っている、もちろんそんな誤認のままではどんな暮らしをしていても光輝はわずかも得られないのだ。
まともな経営者は、自分が喰うために経営しているのではなく、雇っている従業員たちを「喰わせなきゃ」と思って経営をしている、それと同様に、まともな客は、自分が喰うために飲食店に来ているのではなく、その店の連中を「喰わせなきゃ」と思って食事に来ている/若い人々へ、これは何も突飛な発想ではなく、割と当たり前の発想だから、そのように知っておいてくれ、自分が飲食店に食事に行くということは、自分が喰いに行っているのではなく、そこの従業員たちを「喰わせに行っている」のだ、そうでなきゃ街には何の値打ちもない。
出世欲がわからない人へ、もしくは誤解している人へ、わかってもらいたいが、正しい出世欲というのは、自分がいいものを喰うために出世したいということではなく、「自分が出世したら、もっと多くの人たちを喰わせられるのに」ということで、出世欲が湧くのだ、自分が喰うことしか考えていない出世欲はサイテーであって、それは自分が喰うことしか考えていない無欲も同様にサイテーということなのだ。

たとえば、当サイトでは、長いあいだ原宿の某店でパーティ企画を継続しており、さすがに原宿で朝までどんちゃん騒ぎをすると、そこそこの金額にはなってしまうのだが、ここで幸福なことに(パーティの連中はよく知っておいてくれ)、われわれの払ったお金は他でもないコバヤシアニキの元に落ちている、自分の知らない誰かのところへ落ちているのではないのだ、このことはきょうびなかなか得られない幸福なのだ。
少々高くついても、コバヤシアニキのところに落ちているなら、「まあいいか」と思えるじゃないか、コバヤシアニキだってたまには旅行ぐらい行くだろう、そのときのホテルのグレードがちょいと上がるだけだ、「街」というのは本来そういう機能のものであって、われわれにとってそうした「街」との接続はとても重要なものなのだ、われわれは自分たちが気分良く酒を飲んでいるのみならず、コバヤシアニキを喰わせているのでもあるのだ、それだからこそわざわざ街に出て飲む酒は旨いんじゃないか。
現代、われわれは、バカスカ稼ぐことが「仕事」だと思わされているが、そうではない、そのような誤解をするように、われわれは誘導され操作されているだけだ、バカスカ稼ぐことはそのまま「稼ぎ」であって、それ自体は「仕事」ではない、バカスカ稼いだ者の「仕事」は、然るべきところにバカスカ使うのが「仕事」だ、このことがわからない人は、怨恨のせいで学門(経済学)がわからなくなっているといえる、よって不思議に「何もかもから嫌われていく」ということが起こっているだろう。
「稼ぎ」を「仕事」と誤認しているから、客としてカネを使うときに、態度がおかしくなるのだ、カネを使う客は店側の仕事ぶりを審査するのではなく、第一に自分の食いっぷり・飲みっぷりという、自分の仕事を審査するのだ、それでこそ「(あなたという)お客さまはカミサマです」という街の思想が現成する/僕がどこでもバカスカ喰ってバカスカ飲むのは、単なる食い意地からではない、ついどこでも仕事熱心だからだ。

自分を生きさせるのが稼ぎであり、誰かを生きさせるのが仕事だ。

だから経営者は従業員を喰わせるのが仕事だし、客は店主を喰わせるのが仕事だ、教師は生徒を生きられるようにしてやるのが仕事だし、医者は患者を生きられるようにしてやるのが仕事だ、生きるのには力がいるのだから、人に力を突っ込んでやるのが「仕事」だ/誰だって寿司を喰えば生きていられるが、それは寿司そのものが為している仕事であって、寿司職人が為している仕事ではない、寿司職人は寿司そのものに生を与えるのが仕事だ、その仕事に長けた寿司職人がいなければ、もちろん寿司はこの世から死に絶えてしまうだろう。
業突く張りにでもならないかぎり、この世に楽しい稼ぎなんて存在しないが、同時にこの世に虚しい仕事なんてない/どんな大富豪が寿司屋を開業したって、それなりのお代を取るだろうが、それは大富豪が小銭を稼ぎたいからではなく、少しはお代を取らないと客の側が「仕事」できないからだ、「仕事」できずにただメシだけ喰って帰ってしまっては、客の内臓はどんどん真っ黒に澱んでいくだろう、その場で職業をやるのは職業人だけだが、仕事というのはどこでも万人がしているものだ。

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客はバカスカ喰うのが仕事だ
のことを知らないと、本当に追い詰められてしまうので、ぜひどうぞ勉強してくれ。
寿司屋は寿司を握るのが仕事であって、客からカネを取るのが仕事ではない。
客から二倍のカネを取れば、利益は二倍以上になるかもしれないが、それで寿司屋は二倍の仕事をしたことにはなっていない。
繰り返す、客からカネを取るのが寿司屋の仕事ではない、なぜなら、<<カネを払うのは客の仕事>>だからだ、客はバカスカ喰うのが仕事で、それによってバカスカ払うのが仕事だ/この感覚がわかっていない人は、本当に追い詰められてやがて滅んでしまうので、ぜひどうぞこのことを勉強してくれ、少し考えればわかることだ。

トリニティ、三角形の循環で考えろ、まず客はバカスカ喰って、バカスカ払うのが「仕事」だ、そのお代金によって、寿司屋はバカスカ仕入れ、バカスカ寿司を握るのが仕事になる。
そして、握られた寿司そのものは、バカスカ艶めき、バカスカ客の口に飛び込むのが仕事だ、それを客がバカスカ喰う、すると客はバカスカ払い、寿司屋はバカスカ仕入れるようになり、またバカスカ握る、握られた寿司はバカスカ艶めいて、バカスカ客の口に飛び込んでいく/こうして「仕事」というのは、トリニティの三者が「力の無駄遣い」をすることに本質がある。
力の無駄遣いをするので、このトリニティに属する者は、力(重さ)を減らしてゆき、身を軽くしていくという循環を得る、それが本来の「仕事」だ/「仕事」は「稼ぎ」ではないのだ、仕事は力の無駄遣いによって生じ、稼ぎは力の出し惜しみによって生じている、三者が稼ぎに向かって力を出し惜しみすると、客は少なめに食べ、寿司屋は少なめに握り、寿司そのものは少なめに艶めくことになる、稼ぎを仕事と誤認するとこのように闇のトリニティに落ちていってしまう。
バカスカ喰ってくれる客は、寿司屋から見て「なんて愛おしいお客さんだ」と光って見える、バカスカ握ってくれる職人は、寿司そのものから見て「なんて愛おしい職人だ」と光って見える、バカスカ口に飛び込んでくる寿司は、客から見て「なんて愛おしい寿司だ」と光って見える/客は喰って払うことに力を尽くし、寿司屋は仕入れて握ることに力を尽くし、寿司そのものは艶めいて客の口に飛び込むことに力を尽くしている、力(重さ)が尽きてゆくので、そこには悟性と愛と光が宿る、ここに属する三者は光によって励ましを得つづけるし、そうでないものに属する三者は闇によって憎悪を得つづけるだろう。

腹一杯喰うのが客の「仕事」と知っていないと、胃腸はまともにはたらかない。

もちろん健康被害が出るほど喰ってはいけないが、とにかく大満足まで喰うのが客の仕事なのだ、それが「仕事」だというのがわからないと、仕事をして生きることは行方不明になり、とてつもなく苦しい生き方をすることになる/バカスカ喰うのが客の「仕事」だとわかっていないと、自分が寿司屋になったときも、自分が何の「仕事」をするのかがわからないのだ、そうすると何の仕事も為さない寿司を握ってしまうことになる、そうすると仕事は虚しいので、「二倍のカネを取れないかな」ということばかり考えるようになり、そうなるともう胃腸どころじゃない全身と五臓六腑が黒く落ち込み澱んでいく。
食い逃げした客は、稼ぎという面では最大の利益を得るが、「仕事」の面ではドマイナスなので、身はどんどん重たくなっていく、倍のカネを取ろうとした寿司屋も同じだ、仕事でなく「稼ぎ」を主義とするぶんにはそれでかまわないのだが、それを「仕事」と誤認してはならない、誤認すると稼ぎ面の有利さの中で身が重くなっていくことに了解不能になってしまう、仕事を縮小して稼ぎを倍にした人に清澄のまなざしをした人はいない、それは金銭的には(力的には)有利だが決してラクということにはならない。
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強さのフェーズ来たれり

ろいろあって、「強さ」というテーマが必要なフェーズに来たと思う。
もともと僕は、「強さ」ということを推したかったのだが、ここまで「感受性」の理論が突き詰められないと、「強さ」説を推すことができなかったのだ/多くの人が、「強さ」を「感受性」にすり替えて錯覚するので、ここまで長いあいだ、「強さ」説は隠匿してきたことを確認する。
感受性を引き下げて、悟性の照見を得ようとするアプローチを、「リデュース」と呼んでいる/感受性が盛(さか)っていると、物事は「目につく」ばかりで、実は「見えなくなる」からだ、だから感受性を下げるという意味でリデュースと呼んでいる、まあ呼んでいるだけで、誰もまともにできないんだけどね(けれども、できないからこそ、理を先に学ぶ必要があるのだ、できているなら学ぶ必要はねーよ)。
このリデュースが為されるのは、ひとえに「強さ」によってであると断じてよい、もう僕に親しんでくれている人は、誤解しないだろう、「強さ」というのは感受性が盛(さか)って妄信的・やけくそになっている状態を指すのではない、ヤバさや虚しさから目をそらすのは強さではなくて弱さだ、感受性は「見えなくする(目をそらす)」のに機能しているので、感受性のヒートアップは人を弱さに引き込んでいるだけだ。

すべてにおいて、改めて考えろ/ただし、「もし自分が、メチャ強かったらどうか」という視点で考え直せ。
「強い」ということは、デカいことを軽々と為すということだ、すさまじい集中力とエネルギーを、軽々と発揮しつづけるということだ/逆に弱いということは、小さなことに重々しく潰されるということだ、わずかな集中力もエネルギーも、自己陶酔なしには引き出せないということだ。
特にワークショップの連中は、リデュース法を実践してみて、まったくうまくいかないとき、それだけ自分が「弱い」のだと思い知らねばならない、これは公式化してよい、「リデュースができない、わたしはこんなに弱い」ということだ、またいちいち自分の弱さにショゲるぐらい、根こそぎ弱いのを自分に甘やかしてきたということでもある。
今世の中には、ギャーギャーわめく人がいて、「絶対に許さない」とか「絶対にやりたい」とか言っていたりするのだが、これは善悪のどちらということはさしあたり無視して、強いか弱いかでいえば確実に「弱い」ほうだ、強い人というのは鼻歌を唄いながら、けっきょく「なんとかしてしまう」人なのだから/弱い人は必ず、1.ギャーギャーわめくか、2.ギャーギャーわめくのを抑圧して、そのぶん作り物の人格になるかのどちらかだ、何にせよリデュースという実践を前にして、これまで蓄積してきた弱さの決算が明るみに出ようとしているのだった。

強さにシフトしろ。

まったく、どこの誰が何をどうたくらんだのか知らないが、どこかの誰かが、人を弱くする術に長けている、それにしてもその術にあっさりやられてんじゃねーよ、弱いってのは疲れるってことだぜ、疲れやすくなっているのを内心でごまかしている人は、その疲れやすさが弱さから生じていることを己に見切らなくてはならない。
強さは力じゃない、当たり前だ、強さと力を区別しろ、「強いなら力は要らないでしょ」が正だ、「力を手放せるのが強さ」だ、どれだけ大きな力を手放せるかが、その人がどれだけ強いかの実際的な値だ、逆に力の溜め込みが、その人の弱さの実際的な値になっている/闇雲に強くなれと言っているのじゃない、人はそんなに強くなれないだろう、けれども、強さと力を混同してはならない、よりにもよって自分の弱さと強さを逆転したまま生きることになってしまうからだ、たとえ己があまり強くなれなかったとしても、強さと弱さの何たるかを正しく理解だけはしておこう。

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ささやかに見えて決定的な「みんな視点」
生日ということで、メールをもらって、「みんな九折さんのことが大好きです!!」と言われると、とても安心するということに気づいた。
別に僕でなくてもいいのだ、肝心なのは「みんな◯◯のことが大好きです!!」という、「みんな」のことのほうだ、みんな出川哲郎さんが好きで、みんな今上陛下が好きで、みんなこの街が好きというような、「みんな視点」が愛であり平和なのだと気づいた。
いつも思わされることだが、大きな違いは、一見ささやかに思えるところに現れるものだ、「みんな◯◯のことが大好きです!!」という発想は、それ自体に祝福があり、この発想は誰もが持てるものではない。
自分は◯◯が好き、という、自分視点しか持てない人は、数多くいるはずだ、この人は生涯「みんな」という体験を得ないまま生きることになる、そりゃ他人の好きなものに視点がゼロで、自分が好きなものだけに視点100パーセントなのだから、自分以外の誰かと共にあるということは生涯一度も得られないし、そもそもそれはそういうことを得る必要がないタイプの人だろう。

逆に考えると、たとえば「しょせんカネじゃね?」「女なんてヤレたら何でもいいっしょ」と考えるタイプの人は、その人にとっての「みんな」がそういう存在だということなのだと思う。
「みんなカネが欲しいんスよ」と言われると、「なるほどなあ」という気がして、こちらにもやはり一種の安心感がある、僕と向かう先は違うのだろうが、不安定ではなく、本当に純粋にカネだけをすべてにして進んでいくのだなあということがよくわかる/これは単純に、信仰が違うというようなことであって、僕は他人の信仰に口出しする気にはなれない。
本当に、「男なら誰だって(みんな)、おっぱいの大きな女の子が好きでしょ」「むしろ女を選ぶ理由の半分くらいがそれじゃね」と、「みんな」のことを確信している人も世の中にはいて、そういう人を見ると、「この人はそういう人を "みんな" にして生きていくんだな」と、逆に目覚ましい思いがする/それぐらい、「みんな◯◯が好き」という「みんな視点」は人によって違っており、それぞれが住む世界を隔てている。
「みんな視点」が持てない人は、生涯「みんな」という体験は得ないだろうし、「みんな視点」がギトギトしている人は、そういう「みんな」の中を生きていくのだろう/僕は勝手に「みんな愛と学門が好き」と捉えていて、僕が言うときの「みんな」はそれだ、その埒外なある人のことを、僕は「みんな」の中に取り入れられない、僕が娯楽とストレスのパチンコ屋で「みんな」の中には入れてもらえないことのように、「みんな」という現象は仕組みで括られている。

「みんな◯◯が好き」という視点が持てない人は、どこに行っても「みんな」の中には入れない。

「みんな」の中に入れないというより、そういう人はそもそも誰かのところへ行く必要がないのだ、自分の好きなものしか見えないと定義されているなら、誰かのところへ行ったって、けっきょく自分の好きなものしか見えていないのだから同じだ。
「みんな◯◯が好きなんですよ」というのは、よかれあしかれ平和だ、ただし愛があるかどうかは別で、「みんな学門が好きなんですよ」ならば愛の世界に住んでいるだろうが、「みんなカネが好きなんですよ」ならば力の世界に住んでいるだろう、ずっと愛の世界を行く人もあれば、ずっと憎悪の世界を行く人もあるわけだ/あなたの世界は、みんな何が好きだろうか、あるいは「みんな」はなく、あなた一人だけが何かを好きなのだろうか。
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十一月の風

が吹いている。
物理的に十一月の風が吹いている、当たり前だ。
何かに真剣に取り組んでいると、いつもこうして、唐突に「世界」がやってくる。
パニックにもエコーにも興味はない、それはただの原理であって、いちいち考えなくてもエコーは勝手に鳴り響いている。

「わたし」なんてものはこの世界のどこにもない。
世界があった試しはあるが、わたしがあった試しはない。
それが間違いであったとしても、ほうっておいてくれ、僕はこの世界より他のことはわからないのだ、わかる必要もさっぱりわからないし。
悟性って、僕に悟性があるわけじゃないからね、この世界にあるんだろう、暴れている人はいったい何なんだ。

成否はなく、正誤もない。

自分の家で自分がドロボーにはなれないようにだ。
世界があるなら、自分がある必要はないのだろう、十一月の風に「わたし」とか言い出すと、気色悪い、まるでウンコ作家みたいじゃないか。

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感受性とパン祭りと、バラバラと光のなさの仕組みについて2

単にいうと、Aさんがラクになるためには、僕に「力・重さ」をかければいい、「力・重さ」をかけるのは感受性でもいいし呪いでもいいが、とにかく僕の創出する「つながり」「世界」をバラバラに「解体」すること、そのことに力をかければ、Aさんはラクになる、ラクになるということはつまり、パニック障害の予兆がスーッと引いていくということだ。
とはいえ、Aさんは別に、僕のことをバラバラに解体したいわけではないので、その点については、「九折さんは不死身だから」という前提で仕掛ければいい、実際に不死身なのかどうかはよくわからないのだが、今のところ死んでいないので、そう簡単に死ぬ奴ではどうやらないらしい/とにかく不死身の統合者に解体力を仕掛ければ、Aさんはパニック障害の脅迫から逃れることができる。
パニック障害の苦しみというのは、まったくハンパじゃないので、いったんそれが始まってしまえば、もう愛もヘッタクレもないことになる、そんなことになるぐらいなら、正直僕に石を投げているほうがはるかにマシだし合理的だ、そんなところで意地をはって頑張ったって、本当に精神が壊れるだけなのだ、この点はやはり旧来のように僕がゲジゲジ虫として活動していたほうが人心に向けて穏やかだった、ゲジゲジ虫に石を投げるのはむしろ善行だからだ。
今回の発見は、「力・重さ」のトリニティに帰依する者が、パニック障害という切実な脅迫で拘束されているということだ、この作用はまったくナゾで、単に今の僕自身、四方八方から掛かってくるナゾの「力・重さ」について「何だこれ?」と感得することから発見された/僕に向けて、僕を慕う人からの「八つ裂きの力」が掛かるのは、僕が彼らのパニック障害を肩代わりしているからだ、おそらくふつうの人ならこれでブッ壊れてしまうのだと思う。

感受性との契約を深くしてきたわれわれは、今すでに、「つながりを否定しないでは生きられない」という状態なのだ、これはまったく瞠目すべき価値がある発見だと思う。
たとえば、パーティ企画が再開してからもう五年以上が経つが、未だに、自分から「今月参加させてくださ〜い」と連絡してくる人は少ないのだ、「いいかげん自分から連絡しろよ」と言いつけはするのに、その言いつけは必ず消えてしまう/これについて僕は「そんなことありえるのか?」と長いあいだ不思議でしょうがなかったのだが、ようやくそのナゾが解けた、「つながりを否定しないでは生きられない」のだ、もしフッと少しでもつながりのほうへ可能性を覚えれば、そのとたん猛烈な苦しみたるパニック障害の予兆が感じられてきてしまう。
ここ十年ぐらいで、たとえば定期的にメール等をシカトするのは一般的に見て当たり前になったし、いつのまにかウェブサイトからのアンケート等も一切送られてこなくなった、どうしてそんなことが当たり前になりうるのかナゾだったが、すべてはこれだ、「つながりを否定しないでは生きられない」のだ、感受性と深く契約を結んでしまった以上、つながりに身を寄せようとすると激烈なパニック障害が待ち受けている。
感受性と契約するというのは、ずっと先にまで及んで、そういうことなのだ、「つながりを否定しないでは生きられない」、だからヨソのつながりについても力・重さをかけてバラバラにするという積極的な行為を、やめるにやめられないのだ、つながりを否定することでしかホッとできないし、エネルギーも得られないから/自分が誰かのつながりを否定することで(その力・重さ・呪詛をかけることで)、対象の誰かもまたパニック障害への予兆を覚えるから、やはり「バラバラ」ということに帰依するしかなくなる、こうして「つながりを否定しないでは生きられない」はパンデミックを起こしたのだった。

「つながり」を肯定することは、パニック障害を誘発する。

まさにこれだ、これがあるから、すべてのつながりを否定することでしか、われわれは生きられないのだ/逆に「バラバラ」はこころに安寧を与える最良の処方だと言える、もちろんそれで完全に孤独化することにも耐えられないので、ネットやアニメに依存したり、他人に依存したり血族に依存したり、権力や財力や魅力うんぬんの「力」に隷属したりするのだ、それはもはや自分の選択というより、パニック障害の苦しみと恐怖に脅迫されて、言いなりになるのが唯一の選択肢として機能している。
しかし現実的には、パニック障害というのはえげつない苦しみなので、さしあたり言いなりになるしかないのだ、それはほとんど生理機能を支配した者たちによる暴政とみなしてよい、暴政にはさしあたり従うしかない、逆らったって無駄死にして激烈な見せしめにされるだけだ/「自分は必ずつながりを解体します」という文言を、どこかで覚えておいたらよいかもしれない、そうしたらそのときになって「あ、これか」と気づくことがあるかもしれない、僕は不死身だからかまわないが、他の人は不死身ではないので好き放題に解体して自分がホッとする材料にしてはならない。

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感受性とパン祭りと、バラバラと光のなさの仕組みについて

ゾが解けて、仕組みが見えたぞ。
幼いころから、人を感受性漬けにして、感受性をブーストさせておく、するとこの子は、感受性を支配する「力・重さ」に帰依する子になる/ほとんどネイティブで「バラバラ」を嗜む子になるのだ。
この子が、やがて成長し、バラバラということの危機、虚しさとヤバさを知ることがあると、この子は無自覚にも感受性とバラバラの世界を脱出しようとするのだが、脱出しようとしたとき、すでに集合的な環境から、この子はパニック障害ないしはそれに準じる猛烈な苦しさによって引き留められる/自己も周囲も感受性と契約しまくっているので、今さらになって離脱はさせてもらえないのだ、抵抗しえない猛烈な苦しさによって、「もう出られないんだ」ということをいやがおうにも思い知らされることになる。
脱出をあきらめ、改めて元の「バラバラ」に帰参すると、ホッとして、豊かなエネルギーを感受性から分け与えてもらえる、それで「こちらが正しい」というふうに、身をもって学習させられるわけだ/こういう仕組みがあり、おそらくは誰か、この仕組みを知っていて操作している者もいるのかもしれない、まあそんなことを疑っていても何の足しにもならないが、とにかく仕組みはここに明らかになったのだった。

ワークショップ等を通じて、あまりにも多くの人がパニック状態を経験し、それが頻発するゆえ「パン祭り」と笑い飛ばすようになったのだが、これはなおも重大な仕組みだったのだ。
そもそも、なぜ法則じみて「パニック」が出現するかの、明確な理由が示されていなかった、漠然とパニックが出現するのではないのだ、横隔膜を媒介として霊魂がひとつながりの世界へつながろうとするとき、これまでの感受性との契約によって、つながろうとした横隔膜が「八つ裂き」にされる(ギリシャ神話の妖精エコーのエピソードに象徴される)のだ、それだけの力・重さが掛かるだけ、これまでの業(カルマ)が積もっている。
パニックが出現する強度は、これまで感受性と結んできた契約の総量に比例しているのだ、「横隔膜が八つ裂きにされる」という意味のギリシャ語をスキゾフレニア(Schizophrenia)といい、これは現在でも「統合失調症」の正式名称だ、妖精エコーは「力」の神であるパン神(パニックの語源)に嫉妬から八つ裂きにされるのだが、これらのことは「力・重さは物事をバラバラにする」という当方の唱える説に合致している。
どういうことかというと、<<八つ裂きにされないためにはパン神(力・重さのトリニティ)の言いなりになるしかない>>ということなのだ、これに逆らおうとしたとき、契約済みのパン神はその力をもって横隔膜(エコー)を八つ裂きにくる、八つ裂きの実体験は「パニック障害」として現れるのだ、このことは抵抗不能の激烈な苦しさを伴うため、人はパン神の言いなりになり、ふたたびつながりを捨てた自分自身に戻るしかないのだ/むろんこのことに、学門も訓練も得ていないシロウトが抵抗しても無意味だ、本当に回復不能の精神障害になってしまう。

現代人が「バラバラ」なのは、パニック障害から逃れるための "やむなきこと" だ。

僕は現代人のそうした様相を、「孤立した力みマン」と呼んで笑い、「そのとおりですやん」と周りの人も笑っていたが、そうではないのだ、「孤立した力みマン」で居続けないと、抵抗不能の激烈な苦しさ、パニック障害に陥るのだ/ワークショップ等で実演すると、セオリーともども、「孤立した力みマン」には何のメリットもなく不合理な状態に思えるが、そうではないのだ、唯一「パニック障害にならずに済む」という切実なメリットにおいて、その様相は合理なのだ。
よって、僕がつながりを創ろうとし、Aさんがそのつながりを体験しながら、自室に引き取るとそのつながりを無自覚に「解体」してホッとするのは、パニック障害という生理的脅迫から逃れるための、やむなきことなのだ、僕が死んだら終わってしまうが、僕が死なないあいだはAさんはパニック障害なしに希望を見ていられるだろう/これまで僕のことを頼って来、慕ってきて、それでも必ず具体的な攻撃の態度を仕掛けてくる人も、このことに由来している、僕の創り出すつながりを「解体」することで、当人はパニック障害を逃れることができるし、状況の強度によっては僕を攻撃しないとパニック障害の苦しさから逃れられないのだ。

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解体作用について

とつ、ナゾが解けた。
感受性は「力(重さ)」のトリニティだから、特に何もしなくても、物事をバラバラにする「解体作用」が自動的に作用し、蓄積するのだ、「力」は原則、物事をバラバラにする作用のものだから。
この動けなさは何だ、と、しばらくナゾに思っていたのだが、とりあえずそのナゾは解けた、僕が休んでいる間は、「何も進まない」のではなく、「解体作用が掛かる」のだ、僕が寝て起きたら自動的にバラバラになっていると覚悟しておくしかない/バラバラが悪いというわけではないが、とりあえずバラバラだ、バラバラになるのだ、力のトリニティが活動しているから。
旧来、人と人というのは、時間が経つにつれて結束していくという性質があって、心理学的には単純接触の原理などとも呼ばれるが、これが現代では逆転しているのだ/「放っておけば仲良くなるさ」という自然現象ではなく、「放っておけばバラバラになるさ」という自然現象が生じているのだ、バラバラになった力・重さが僕単体にぶら下がってくるから、僕が「なぜか動けない、なんだこりゃ」になっている、仕組みがわかればそんなにむつかしい現象でもなかった。

「放っておけば仲良くなるさ」という、旧来の前提が、今は「放っておけばバラバラになるさ」という前提に切り替わったことは、大きな変化であって、瞠目すべきことだと思う。
人と人とは、次第に打ち解けて脱力していくのではなく、次第にぶつかって力んでいくのだ、これではまるでクラスメートたちは互いに仲違いするために時間を共にしているということになる/事実そういうことはあるのではなかろうか、たとえばハロウィンのバカ騒ぎを経ることで、「よーし、またバラバラになった感じがするよ」という現象があったりするのではないだろうか、力・重さというのはどこまでも物事をバラバラにする作用を持つものだから。
力・重さのトリニティと、愛・光のトリノティは、相克であって、どちらか片側をエネルギー源にするしかない以上、人はエネルギーを得るために、「解体作用」をこの世界にほどこすしかないはずだ/イルカは空気中で息継ぎをしているだろうが、トビウオは水中で息継ぎをしているだろう、それと同じように、力・重さのトリニティに所属する人は、どうしたってバラバラ・解体作用の中で息継ぎをするしかないはずだ、それで今度は僕が呼吸できなくなる。
ということは、僕が呼吸しなければそれで済む話だ、ナゾが解けてみればそんなにむつかしい話ではなかった、ナゾさえ解けてしまえば、こんなことでくたばるほど僕はヤワな鍛え方をしてきてはいない/なんとなく今想像がついたが、多くの人はこういうときにパニック障害で倒れたのではないだろうか?(おれはそんなチャチな次元にはいない)

なるほど、つまり僕は、みんなのパニック障害を肩代わりしている。

なるほどなあ、そう考えると、すべてのつじつまが合う、こりゃあるていど功徳も身に現れてきて当然ってとこだよ、僕が多くの人に「必要」とされている、生々しい事実はそこなのだ、多くの人はパニック障害という生理的な攻撃によってある種の光をあきらめねばならなかったのだが、その多くの人にとって僕は、「なぜかこいつは、同種の攻撃を食らっても呼吸不能にならない」ということで、頼られているのだ、どおりで妙にお地蔵様みたいな扱いをされるわけだよ/みんなそういうことなら、ちゃんとマジのお地蔵様のほうをちゃんと拝んだほうがいいな(当たり前)。
パニック障害というのは、抵抗不能かつ激烈に苦しい症状なので、シロウトが生身で対抗できるものではない、対抗しようとしてもどうせ返り討ちにあって余計に手間が増えるだけなので、そこで無駄な抵抗というか、悪あがきはしないことだ、よほどの学門を修めていないと抵抗なんかやりようがないよ/これはまた大きなナゾが解けたものだ、ところで明日は僕の誕生日だから、誕生日の前日に大きなナゾが解けたな、明日からはまたはっきりとした一年が始まるわけだ。

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今や船長は船を漕げ
月末に書いた小説を、まだ自分で通読できていない、小説を読むような余力と時間がない。
パーティの告知を作らないといけないが、実はまだワークショップ報告も、本来報告するべきことが残っており、明日は僕の誕生日なので旅行に招待されて行ってくるが、このあたりで感受性と悟性についてもまとまった書き物を残しておきたい。
忙しい、ということはまったくないのだが、いくらなんでも霊力が枯渇するのだ、しんどいとかダルいということはまったくないのに、動こうとするとピタッと、全身が「ガス欠です」と停止してしまう。
そうなると、またわけのわからんところからエネルギーを引っ張ってくるしかないのだが、そんなもの、毎回毎回マグレの何かを掴んでいるようなものだから、「そんなこと本当に可能なのか?」と、毎回自分で思うのだった/今も「無理じゃね」と甚だ疑問なのだが、どうせ今回もなんとかするのだろう。

けっきょく僕は、手抜きができないというか、手抜きしたものは他人に見せないので、結果的に手抜きができない奴になる、毎回マグレで奇跡的にうまくいったということしか認めないタチだからな……
そういえば、月刊ワーQの第三号の原稿も、ちょうど締め切りで集まってくるのだった、それだって面白いものにしないといけないからな/まあこの仕組みは、今のところ良いはたらきをしているので、なんとか継続しなくてはならない。
あと、思い出したが、あらためて恋あいについてのまとまった記事も要求されているのだった、そういった要求は正当なものだし、僕が引き受けないと話にならないから引き受けるのだが、とにかく恢復の時間がない。
とりあえず、自分で書いた小説を、まだ自分で読めていないというのが、異常だと思った、この状況を決定的に打開するには、もう逆にタスクを三倍ぐらいに増やすしかないのだが、その方法は今この状況でも通じるのだろうか、現在の三倍をこなすという発想には希望があるが、もうそこまでやると自分に人間味を感じない予感がする、まあそれはそれでよいのかもしれないけれども。

現代は船長が船を漕ぐ時代だ。

このことは、そう割り切って理解していたほうが、ロスが少なくてすむ、現代では船長が号令を発し、船長が舵を切り、船長が帆を揚げ、船長が櫓櫂にダッシュして船を漕ぐのだ、その他の乗組員は船上でそれぞれに感動したり感想を言ったりするユニットにすぎない、しょうがないのだ、これは悪口を言っているのではなく、本当にもうほとんどの人が「肝心なときには何をしたらいいかわからない」ので、トラブルと手間を避けるためには、何もかもを船長が一人でやったほうがいい、そうでないと余計にロスになる。
コミュニケーションが破壊され、各人が感受性の権化になるということは、そういうことなのだと思う、このことを見誤っていると、余計にロスが生じて動けなくなるのだろう。
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生存本能について

間には生存本能がある/人間でなくとも、獣にも鳥にも蠱にもある、生きもののすべてにある。
生存本能とは、「自己」生存本能であって、自己および自己の遺伝子コピーを継承するものを保存し、繁栄させたいという本能だ、これは遺伝子に由来する現象なので、すべての生きものに具わっている/あくまで「自己」生存本能であって、「四丁目の木村さんを生存させる!」という本能ではない、そんな本能は存在していない。
そして、繰り返しになるが、自己生存本能というのは生きもののすべてにあるのであって、「あなた」にあるわけではない、どんな動物も抑えつければ暴れて逃げようとするが、それは生物の遺伝子由来の現象であって、「あなた」の現象ではない。
だから、自己生存本能から発生するすべてのことは、強く「あなた」に作用し、あたかもそれ自体が「あなた」に思えるが、実は「あなた」ではないのだ、蠱でも同じなのだから/だからそのとき燃えさかったさまざまなことは、後になってきれいさっぱり消えてしまう、この先を五十年生きて、燃えさかったことのすべてはきれいさっぱり消えてしまうのだ、本当にびっくりするぐらい、「自分は何一つ生きてこなかった」ということがわかってしまう、にもかかわらず、そのとき寿命により生存本能が踏み潰されるラストは目前に迫っているのだ、そのときになってあなたは、遺伝子に使い捨てにされたということに気づく。

前、ごくありふれた感じで、「エグザイルと、三代目と、浜崎あゆみと、倖田來未が好き、あとレディーガガも割と好き!」という人に会ったことがある。
そういうものを見て、「キャー」となるのは、単純化して言ってみれば、「カネの匂い」に反応しているだけだ、彼女が好むものは全員運転手つきの高級車の後部座席から出てきそうなイメージがある/だから彼女はボブ・ディランには反応しなかった、ボブ・ディランにはカネの匂いがない、ただし実際には、ボブ・ディランのほうが金持ちだろうが(当たり前)、そういう理性的なことではないのだ、何かの「匂い」に反応している、この反応は一般的に知られている「フェロモン」というような現象だ、体内ではたらくものをホルモンといい、外部にはたらくものをフェロモンという。
そうしたカネの匂いに反応したり、金メダルとか、「エロい」とか、権力とか戦闘力とか、もっと露骨に「セレブ」とかに「キャー」と反応するのは、すべて自己生存本能に由来しているのだ、自己生存に「力学上有利」だから、キャーとなっているだけでしかない、これはあなたの現象ではなく、「生きものならすべて同じ」だ、生きものには死の恐怖があり、己を死から遠ざけること、己を死から遠ざけてくれるものに、キャーと反応してすがりついていく本能がある/自己が死滅する恐怖と不安に駆られた人ほど、このフェロモンと「力学上有利」のキャーにすがりつく本能が爆発的に生じる。
そして、このことを「感受性」というのだ、フェロモン受容体があり、受容体があるから感受性があると説明される/生きものというより「利己的遺伝子」の本質は、自己生存・自己複製のために特定の「匂い」を検知して追跡していくということにある、これはあなた自身にはまったく関係ない、ただの利己的遺伝子の活動だ、利己的遺伝子様という主人があなたを馬車馬のように使役しているだけであって、「あなたが生きている」のではまったくない。

利己的遺伝子によって、あなたが生きているのではない、利己的遺伝子によって、あなたが殺されているのだ。

このことは、わからなければ単純に頭が悪いのでよくない、利己的遺伝子が生存・保存・繁栄させようとしているのは、利己的遺伝子自身であって「あなた」ではない、遺伝子は多数のコピーさえ得られればあなたのことなんかどうでもいいのだ、だから盤石の保全と多数のコピーを生じさせるためにあなたをムチ打って働かせるばかりになる/その「ムチ」が、受容体にホルモンやフェロモンをブッ込むという、えげつない「感受性」の支配という実体で現れてくる。
かといって、今すぐ死ねとか即座に死ねとかいうことではない、同じ死ぬなら百年後に死ねばいいのであって、今すぐあわてて死ぬことには何の意味もない/人は抑えつけられれば暴れるし、カネや力を見るとキャーとなってすがりたくなるのだが、それは遺伝子の性質であって誰でも同じだ、そのためにフェロモンやらアドレナリンやらドーパミン等が使われるのだが、この自己生存本能というのが、実は思ったほど性能がよくないのだ、過去の偉大な武術家などは、生存本能から離脱したほうが相手を制せるということに気づいた、そうして本当の性能のすべてに気づこうとする営為のすべてを過去の人は「道」と呼び、この道がもたらしてくれるよろこびのことを「愛」と呼んだ。

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ワークショップは超大事
阪出張中こそ、逆に、今やっているワークショップのすべてが、超大事だということがわかった。
「誠心誠意」「腹式呼吸」「リデュース」「手渡し法」「集中法」「余韻法」「露骨法」、どれも大事で、むしろ逆にいうと、これら数個に過ぎないことが、人の命ある生を決定してしまう。
そして、今になって断言できることだが、こんなこと、教わらずに見つけられる者はまずいない、ほんの一つでも、ほんの十五分でも、僕が胴体をいじくり回すことが、その人の五十年に命を吹き込んでしまうことになる、そういうものなのだ/おおげさに言っているのではなく、単にわれわれが思っていたより、「教わる」ということのインパクトが事実上大きいというだけだ、われわれがこれまでそれを軽視していたにすぎない。
若い人は、人生の後半あるいは終盤が、どういうものになるものなのか、当然経験がなくてわからないだろう、本当に何もかも消えてなくなっていくのだ、これまで思い出だと思っていたもの、自信だと思っていたもの、人生だと思っていたもの、活力だと思っていたもの、友人だと思っていたもの、家族だと思っていたもの、生命だと思っていたもの、すべてが消えて、つぶれていってしまう、そんな阿鼻叫喚が想像できないのは、老人が情報を秘匿しているからだ、老人が自分の内面が阿鼻叫喚であることを告白しないので、何かおだやかな「老後」や「晩年」があるのだと錯覚させられているだけだ。

なぜ田舎から渋谷に出かけてきた人が、ハロウィンで大暴れしなくてはならないのか、わかるだろうか、答えは「田舎から出てきているから」であり、「田舎に帰らねばならないから」だ、田舎とはGDPのことを指しているのではなく、正しい先生が枯渇した地域を田舎と呼ぶ、正しい先生がいない地域は全員そろって「やることがない」のだ、ハロウィンの騒ぎはある意味、地方から都心の断末魔だと捉えていい。
なぜ多くの新入社員が、意地でも定時に帰ろうとし、残業代が出ないとただちに明瞭な殺意を覚えるのかわかるだろうか、それは性風俗業のキャストと同じだからだ、つまり単なる労働をしているのではなく、精神的苦痛を換金しているところがあるので、金銭に代償されなければ殺意を抱くのだ、新入社員たちにとってサービス残業をさせられるのは、女の子が「タダマン」をさせられているのと同様の痛苦だと捉えていい。
ハロウィンで暴れていた人たちは、一般には「陽キャ」と呼ばれる人たちだろうが、彼ら「陽キャ」は正しい陰陽理論においては、極端な「陰」の者たちだ、肉体・気魄は陰のものだから、悪魔の格好をして徘徊する陰のハロウィンに性分がどハマリするという仕組みだ、いずれは全員が流血のコスプレをするゾンビ・パーティが流行り出すかもしれない/「流血」の衣裳をほどこすことで、それが自分の内面に適合して安息するという快感があるのだ、彼らはふだんから人格が流血する中を生きているので、普段着やスーツ姿のほうが「落ち着かない」「偽りの衣裳」と感じているのだ、陰陽のバランスが崩壊して陰の気魄が破裂しているので、その実態がハロウィンにかこつけて開示されるにすぎない。
僕がほんの少しでも、今ワークショップでやっているところの知識、技術、ノウハウを開示し、実演してみせると、それだけでどれだけ救われたような希望の表情を見せる人が多いものか/今、ワークショップにきて学んでくれている人たちも、今はまだその重要性をそこまで明視してはいないと思う、だがこれはとんでもないことなのだ、現代のとんでもない状況から救済されうる、とんでもない活路に巡り会っているわけだ、今のところそんなおおげさなものには見えないが、これから先にその分岐がどれだけ巨大なものであったかがわかってくるだろう。

帰りの新幹線の中、両隣の人が、イヤホンを耳に突っ込んだまま、二時間ずっと貧乏ゆすりをしていた。

貧乏ゆすりぐらい、誰でもすると思うが、隣の座席に人がいるときに、それを二時間も続けるものだろうか、もう感覚的にブッ壊れているのだ、本人は自分をまともだと思っているだろうし、社会生活は破綻しないのでこの先も気づかれないだろうが、内部に掛かっているストレスはすさまじいものだ/楽しい動画を観ているから、ノッているのではなく、時間を無駄にしているという無自覚の自覚が、彼らを無意識に暴れさせているのだ、ハロウィンで角でも生やせば解き放たれて彼らは大暴れするだろう。
誰でもうすうす知っていることだが、ハロウィンの大暴れは、楽しくて大暴れしているのではないのだ、もともと内部に大暴れが始まっていて、それをふだんは抑圧しているから、解放日にそれが放出されるだけだ、人々の抑圧と苦しみの具現化でしかないので、ハロウィンの映像はそのまま暴動の映像に見える/ほんのわずかの「方法」さえ与えられず、教えられずにきた人々が、膨大な苦しみを抑圧して生きているのだ、もう取り返しのつかない人も多いが、まだ教われば助かる人は、どこかに教わりにいけばいい、できれば僕のようなしょーもない奴のところにではなく、もっと立派な先生のところへゆけたらいいな。
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身につける方法は二つに限られる
京に戻ってきた、東京は平和だ。
今回、大阪出張を経て、つくづくわかったことがあるけれど、今やっている「ワークショップ」のすべては、本当に大事なことだ。
一生を左右してしまうというか、多くの人は、まともに一生なんか与えられないのだ。
与えられたと思った、自分の人生は、後半になってすべて消えていくのだ、それが本当のことだから/人は教わらねば、命を得られないのだ、もう年を取ってしまった人はしょうがないが、若い人は、光あるうちに光の中を歩め。

「誠心誠意」はとても大事なことで、手渡し、集中、YesとNo(露骨法)、どれもきわめて大切なことだ。
すべてを、学ぶ人について、老婆心から申し上げておきたい、何かを学んで身につけようとするとき、二つの方法があり、ひとつは天才になることだ、もうひとつは、何かを「守る(守護する)」ことだ。
自分が努力し、己の身に蓄積しようという発想では、根本的なものはやはり得られない、身につける方法は二つだけだ、天才の悟性によって獲得するか、そうでなければ「守る(守護する)」ということで獲得するかだ、どちらも容易なことではない。
容易なことではないからこそ、何かを身につけた人は、尊ばれるし、そのことによって生きていけるのでもある、古来日本には師匠と弟子という間柄があったが、師匠を守った弟子はその道を得るだろう、師匠に守られた弟子は何も得ず、ありもしない家族性を唱えてまわるだけだ。

パチンコ産業に課金した消費者は、パチンコの毒から逃れられないように、道の人を守った人だけ、「わたしはこの道の人です」という悟性を授かる。

僕は今のところ、すべてのことを無償でやっていて、だからこそ、「超能力ぐらいないと話にならない」「さっさと天才になる覚悟をしたほうがいい」と言い伝えてある、天才でなけれぱ身につかないからだ、だがあくまで道に通じた「先生」という立場上、正しい知識を与えておかねばならない/天才じゃなくとも身につけるという方法はあって、自分が守った人のことだけ身につくのだ、悪魔を守れば悪霊が宿るし、聖人を守れば聖霊が宿る、その原理から外れて何かを身につけようとすることは、単純に言って「非効率をきわめる」と言っておかねばならない、その非効率は最終的に最大の損をもたらすだろう。
誰にでも、この世界につながる方法があるのだ、それはとてもささやかなことだった、「天才」かもしくは「守る(守護する)」ということ/逆の側も同様で、生まれつき悪性がヤバイというレベルの人もおり、後天的にヤバくなってしまう人もいる、後天的にそうなる場合については、必ず悪いもののほうを守ったのだ、今そういう悪霊に帰依させようと多くの産業がはたらきかけている。
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ホーリーマンという生き方
ンドの聖地バラナシにいくと、毎朝、婆さんが野良牛に花輪をかけていた。
その婆さんは昼間、バージャール(バザール)で野菜を売っていた、むろんそういう暮らしなのだと思う。
牛に花輪をかけたって、コストが掛かるだけだし、毎日座って野菜を売っているだけでは、未来がないよと、現代のわれわれは考えるかもしれない(実際、当時の光景が今も続いているのかどうかは知らない)。
だがもし、婆さんが、毎朝牛に花輪をかける「ため」に生きていたとしたら、どうだろう、毎朝牛に花輪をかけるためにバージャールで野菜を売っている/もしそうだとしたら、婆さんの人生は割と大成功といえるのではないだろうか、インドでは牛は神聖なものとされているから、ありえない話ではない。

「牛に花輪をかけるために生きている」というと、アホみたいだが、かといって「マイホームを買って家族を養うために生きている」というのが、ただちに誇りになるかというと、そちらもあやしいものだ、もともとわれわれは何のために生きているのかわからないのだから。
人によっては、たとえば毎朝神社に行って「今日も健やかに過ごせますように」と祈念して暮らしているかもしれないが、実は健やかに過ごすために参拝しているのではなく、 "参拝するために健やかに過ごしている" のかもしれない、自分の気づかないところで。
健やかに過ごすためには参拝しなきゃ、という発想は、単に信心深い人だが、参拝するためには健やかに過ごさなきゃ、という発想のほうは、一種のホーリーマンだと思う/だいたいわれわれは、自分のためにカミサマを使おうとするもので、カミサマのために自分を使おうとはしない、その例外にあたるのはホーリーマンだけだ。
われわれは、「生きていくために暮らしている」のだが、その中に神聖なものはあるのだろうか、ないのだろうか/「神聖なもの」などというと、笑い種にしかならないが、僕も同様に笑いながら、実はこっそり、僕は婆さんが牛に掛けた花輪をハサミでちょん切る気にはなれないのだった、われながらひどい裏切りだ。

生きるのに理由はない以上、牛に花輪をかけるのにも理由はない。

理由は結局、「生きるため」か「神聖なこと」の、どちらかに行き着くのだろう、「神聖なことがなきゃ生きていけない」のか、「生きてなきゃ神聖なことができない」のか。
前者のほうは、生きることのために神聖さが供されているので、あまりオススメできない、生きるために神仏に祈るのではなく、神仏に祈るために生きているという人がこっそりいると思うが、そういう人は種類はどうあれホーリーマンなのだと思う。
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合理的に見て有利な「愛」

事情あって、フラッフラだが、なんとか二分前に終わらせた、二分前ってギリギリにもほどがあるだろ……カップラーメン作っているわけじゃねーんだから。
さて、大阪出張中だが、どうにもこうにも、悪霊とのバトルが多すぎる、いいかげんみんな悪霊の怖さを知れよと思うのだが、まあこんなテキトーな話をしていてもしょうがないのだった/さしあたり、悪霊はホントに怖いよ、ということだけ申し上げておきたい、人の一生なんかあっという間に食い尽くしてしまうんだろうな。
重要なことは、「自分だけは助かろう」という発想、この発想がまずいということだ、この発想は典型的な「悪魔の思うツボ」なのだ、理屈ではなく暗記として知っておいたらいい、どうしてもアカン人を除いては、全員が助かるという発想を基本にすること(今、細かく説明できる余力がおれにない)。
「自分だけは助かろう」という発想は、一見有利に見える、だがそれは悪霊がそう見せているのであって、よくよく見ればアホだ、「自分だけは助かろう」という発想は、他人との連帯・紐帯を放棄しているのだから、有利・不利で見たら、不利に決まっている、自分だけは助かろうとしている兵隊たちの軍なんてあっさり踏みつぶせてしまうだろうな。

「愛」は、実は「有利」なのだが、そうはいっても、実物を見るまでそんなことは想像できない。
極端な話、人は生涯で十万食をたべ、それ以上は食えないのだから、一食ごと十万人に「食え食え」と愛されたら、その人は生涯死なないのだ、愛の有無が有利不利でどちらかというと、愛があるほうが有利に決まっている。
にもかかわらず、まあ、言ってもしゃーないのだが、憎んでいる上司の代理で残業するのと、愛すべき上司の代理で残業するのとでは、なぜか同じ残業なのに、前者はブラックになり、後者はロマンになるじゃないか、だから前者はその後ストレス発散にコストが掛かることになり、後者は残業そのものが「やりとげたぞ」という発散になる、同じ残業といっても、そりゃイライラ残業とニコニコ残業があるに決まっている/愛の有無が、きっと軽視されすぎなのだ、ちょっとマジメに考えようと僕は思った(今は考える余力が残っていない)。
「自分だけ助かろうとする」というのが、悪霊の思うツボであるのに対し、「基本、全員で助からんとあかんやろ!」と言い放つ者には、やはり逆の、ナゾのバックアップも掛かるのだ、そのことまで含めて体験して、本当に有利なのはどっちよということを、合理的に判断しないといけない/自分だけ助かろうとしている奴が、料理人だったとして、そいつの作るメシをずーっと食べに行こうと思うか? あなたを助けるつもりはまったく含まれていない彼のメシを?

あなたは、愛を守るか、愛を殺すか、どちらかを自動的に選んでいる。

そういうシステムなのだ、しょうがない、愛の実物に触れたとき、人はそれを守るか、殺すか、どちらかを自動的に選んでしまうのだ、そして自動的に、選んだほうの行為をしてしまっているのだ、気づかないだけで/そしてその行為のたびに、悪霊にグッと接近したり、聖霊にグッと庇護されたり、しているのだ、別に神秘的なものではなく、そのたびごとに身の機能が変わってしまうということなのだ、いい声になったりイヤな声になったり、楽しくなったりカッとなったりする、そして最終的にたどりつく本気悪霊バトルというのは、すさまじく、目を覆いたくなるほど酸鼻を極める、実物を見たらさすがにコワイよ、最後は自分の生きてきたことのすべてを否定しながら死ななくてはならなくなる。
愛を守るか殺すか、どちらかを自動的に選ぶのだとしたら、せっかくなら有利なほうを選ぶべきだ/パチンコや競馬やキャバクラ遊びが、悪いとは僕は思わない、だがイライラして疲れて帰ってくる人も多いのだ、にもかかわらずそれをやめることはできない、じゃあそれって「有利」なのか、悪霊に取り憑かれるということは、一日と一万円を、守るべきものに使えなくなるということなのだ、軽蔑しているものに使わねばならなくなるということなのだ。

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愛は基本的に「ない」のが当たり前3

は「ない」のが一般的に当たり前なので、愛のない人を攻撃していてもしょうがない/ただ、愛が「ない」ということを、ごまかされて、だまされてはいけない、そこはだまされることなく、一ミリの油断もなく、愛は「ない」ということを警戒しておくべきだ、そうでないと最後に裏切られたときにびっくりしてしまうから。
愛がある人と、善良な人の、明確な区別を知っておこう、この方法はぼんやりとせず、はっきりと持っておくことが必要だ、「善良な人」のことを正しく理解しておこう、このことは必ず明確に/善良な人というのは、「慾望を抑圧している」のだ、だから「善良」という成分が浮いて見える、そしてその抑圧は深いものだから、当人も慾望を抑圧していることを知らないのだ、だがそれは自覚がなく当人も知らないだけで、肝心なときには必ずそれが噴き出してくる。
世の中の、善良そうに見える人のすべては、慾望を抑圧しているから善良そうに見えるのだ、ただそれだけなのだ、そして抑圧が利かない状況が出てくると、コロッと態度も行動も豹変する、だから油断してはならない/油断してはならないというのは、「善良」な人々はみな、実はそのことを知っていて、互いに入念に「警戒」しているからだ、あなただけが無警戒だと、あなた一人がバカを見ることになってしまう。
善良な人はすべて、正しい手順を踏めば、詐欺にかけることができるのだが、それは善良な人が慾望を抑圧しているからで、その抑圧を「抑圧しなくていいんですよ」と誘導してやれば、コロッと慾望に支配され、まったく別の行動へ踏み出すのだ/善良な人が詐欺にかかるということの大半は、善良な人が慾望を抑圧しており、その抑圧を取り去ってやるのはかわいそうだという意味で、同情するに足りる、ということだ。

老人に接触するようになると、この「善良さと抑圧」および、「100%ピュアカルマ」ということが、わかるようになってくる/というのは、人は老化するにつれ、死が接近して来、次第に抑圧の意味が感じられなくなり、また機能的にも抑圧をキープできなくなってくるからだ、これまで善良さを浮き立たせるために慾望を抑圧していたところ、もうそれが保てなくなって、あちこちに噴出し始めるのだ、そのとき本当に、「カルマだけで生きているんだ」ということがはっきりわかるようになる。
善良さの浮き立たせも剥げ、カルマ100%の人格と世界が露出してくると、大変オゾマシイのだが、これはカルマそのものがオゾマシイのであって、そのことでショックを受ける必要はないし、そのことで破滅的な気分になる必要もない/愛を学んでいなければ、誰だって確実にそうなるのだ、これはただの「仕組み」であって、感情に及ぶようなことは何ら含まれていない。
ショックを受ける必要はなく、逆にむしろ、平穏を得ていいのだ、つまりカルマ100%の人と自分は、実は「何の関係もなかった」ということだからだ/人はもともと相互に無関係なのだ、カルマの都合上、相互に支えあったり、奪い合ったりしているだけで、それがなければわれわれは一人一人まったく無関係の存在だ。
愛の関係だけが、真に関係が「ある」のであって、その他のすべては、何かしらのしがらみであり、本質的には「無関係」だ、電卓Aと電卓Bは、両方とも電池で動いているが、それぞれの電卓は無関係に存在しているように、人と人も無関係に存在している、たとえ「大家族」のような暮らしがあったとしても、大家族の十人は十人ともが無関係だ、無関係が同居しているだけだ/「愛の関係」が見えるようになるということは、反対側の、「カルマの無関係」も見えるようになるということだ、そして愛の関係というのはとても少ないので、われわれが本当に生きる世界は実はかなりシンプルなのだ、愛の関係以外のノイズが分離されるとそのことがよくわかるようになる。

人には一切近づかないほうがいい(※)。

※ただし、愛のある人同士は除く/愛のない人はけっきょく、慾望を抑圧してあるだけの100%ピュアカルマなのであって、人付き合いうんぬんがあるにせよ、一切近づかないほうがいい、どうせどこかの段階で裏切られるというか、カルマをべっとりなすりつけあうことになるだけだからだ、そのことはいつも、驚くぐらいのエグさを急速に見せつけて来、われわれに精神的なダメージを与える(手間も増える)。
このままでは何の解決策にもならないので、至急、「愛」をちゃんと学ぶことだ、このことをあいまいにするのは何のトクもないし、今やそれをあいまいにしているようなヒマもすでにないのだ/ちなみに、余談になるが、本当の意味で「愛の人」になろうとすると、理論上は「慾望の抑圧を一切なしにして、なお悪性が生じないか?」というトライアルが必要ということになる、そしてこのことは、結果的にクンダリーニ・ヨーガになってしまうのだ、このヨーガはわれわれのようなシロウトがこなせるシロモノではなく、シロウトがこれをやろうとするとリアルな意味で精神が損傷してしまう、だから何にせよ、これはイージーなことではない、われわれは極めて高い確率でただの100%ビュアカルマとして生き、老後にはその抑圧も決壊させるしかしょうがないのだ。

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愛は基本的に「ない」のが当たり前2

は「ない」のが当たり前というのは、「鏡にテレビ番組は映らないのが当たり前」というのと同じだ、鏡は液晶ではないし電源もアンテナもつないでいないので、鏡にテレビ番組が映ると考えることのほうがおかしい、機能がなくて当たり前だ/それと同様に、愛を学ばずに生きてきた人が、愛の機能を持っていないのは当たり前だ、たた常識に反するから受け入れにくいだけで、でもこれは単純に常識が間違っているというか、常識があまりにデタラメすぎるのだ。
あまりにもはっきりした、愛のなさを目撃するので、逆にわかるのだが、愛のない人は、すべて「自分が楽しいから」という理由しか持っていない、その他のすべては芝居であってフェイクだ、人にやさしいとか愛があるとか「思われたい」からそういう芝居をするだけだ、人は他人の死に対してさえ、そういう演技をして自分の点数を稼ごうとする/それは業が深いということではなく、それが「当たり前」なのだ、そんなまさかと思うのは若い人としか付き合いがないからであって、この先老人と接触するようになるといずれわかるようになる。
だから、愛がない人はないのであって、それを当たり前とし、あくまで<<だまされてはいけない>>、愛をいいかげんに捉えていると、自分がだまされて大きな損をするだろう、だから「愛」を捉えることには一ミリもごまかしがあってはならない/いいのだ、愛がないと感じられる人は、愛が「ない」とみなしていいのだ、カラカラのカラッケツだと断定していい、どれだけ柔和そうで善良そうでも、愛のあるなしには関係がない、このことについてだけは一ミリもだまされてはいけない。
愛がないのは恥ではなく、むしろ「愛」なんてものを持っている人が、奇妙で不思議でヘンな奴なのだ/なんのことはない、愛というのはたとえば、野良猫に鳴きつかれて「つい」エサをやってしまうような人が、愛の持ち主だ、ただそれだけのことだが、果たして野良猫に「つい」エサをやってしまったことがある人は実際にはどれだけいるのだろうか、言い逃れができないように言うと、野良猫に「つい」エサをやってしまったことがある人は、具体的にコンビニにどのような種類の猫のエサが売られているか知っているはずだ、それを知らないということは、野良猫にエサなんかやったことがないのだろう。

突然だが、愛というのは、何も誇るようなものではない、誇ってはいけない/確かそういうことが、アタリマエに聖書に書かれていなかっただろうか、別にクリスチャンでなくても一般的な教養の中に、「愛は誇らず」というような知識があるはずだ、愛は誇るものではないし、誇ってはいけない。
どうも、僕の経験上、愛の「ない」人のほうが、こぞって愛を誇ろうとする傾向があるような気がする/本来、愛というのは、愛する対象に向けて成り立っていればそれでいいのであって、それを他人に誇ったり、あるいは当事者に対して誇ったりは、する必要がないというか、する動機がない。
愛を「誇る」人は、けっきょくそれをすると「自分が楽しい」から、愛を誇っているのだろう、じゃあやっぱりそれは愛じゃないな/僕は新小岩に住んでいたころなど、ほとんど毎日のように野良猫に鳴きつかれ、そのたびにコンビニにエサを買いに戻っていた記憶があるが、そんなことをいちいち人に「誇る」とかいう、アホなことはさすがにしない、そして野良猫にエサをやるのは近所迷惑だが、僕はもともと近所迷惑な奴なので、僕を近所迷惑性で避難することは的外れだ(新小岩の住民はみな、それを近所迷惑だなどとはまったく捉えていない感じではあったが)。
男は、女とヤレるとなったら何時間か電車で移動するし、女も、ハイブランドのバッグが安く買えるとなったら何時間でも移動するだろう、それなのに猫ちゃんが腹を空かせて「ニャー」と鳴きついてきたときには、数分の道を行くのが惜しいかね、自分が楽しければ何時間でも走るランナーがいるのに、猫に鳴きつかれた場合は「面倒くさい」か、まあ面倒くさいのはわかるけれども、それはやはり愛が「ない」のだ、このように愛が「ない」というのはごく当たり前で、大多数の主流を占めている事実なのだった。

野良猫が「かわいい」からエサをやる人に、愛があるのではなく、野良猫に鳴きつかれて「しゃーない」から、エサをやる人に愛がある。

本来、こんなアホなことは、わざわざ説明する必要もないことだ、ケースAとケースBを考えた場合、A.石原さとみが「体調悪い」と言う、B.僕が「体調悪い」と言う、として、ケースBのほうに「えっ、それはいけないね」と心配してくれるというのは、愛がなければ不可能だ、比べて前者Aのほうは、スケベごころがあれば誰でも心配する、つまりホモでない男性の全員が心配するだろう、そんなことで愛が成立すればこんなに簡単な話はないのだが、そういうことではないのだ/石原さとみさんとチョメチョメする空想をしたら、「自分が楽しい」から、心配したような気分になるだけだ、自分が楽しいという理由しかないのだ。
より正確に言うと、誰かが「体調悪い」と言ったとき、心配する人に愛があるのではなく、「焦る」人に愛がある、やはり急変がポイントということになる/愛のある人は、他人の失調を知ると、「えっ」と血の気が引くのだ、意識的に反応するのではなく、生理的に反応するのだ、だから愛の「ない」人がふつうであって、愛の「ある」人など異常で不思議なものだ、あなたが「体調悪い」と言ったとき、「えっ」と血の気の引く人が愛の人だから、それが具体的に誰かを考えたらいい、ただし念のため、血縁はカルマの影響があるので、愛の関係ではない、自分の娘だけでなく隣の家の娘さんに対しても、「インフルエンザで」「えっ」と血の気が引くなら、あなたの母親は愛の人だ(ただしそんな人は本当にものすごく少ない)。

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愛は基本的に「ない」のが当たり前

ちら大阪出張中、憮然とする日々が続いている。
びっくりするほど明確な、「愛のなさ」を目撃するのだが、逆に冷静になってきた/そもそも「愛」というのは、一般的には「ない」ものなのだ、これについてはやはり仏教が正鵠を射ている、多くの人は本当にカルマでしか生きていない、「100%ピュアカルマ」というのが、思いがけず正しい。
仏教では「愛」も一見、悪くいうのだが、おおむね仏教説・畜生道で言われている「愛」というのは、キリスト教で説かれている「愛」とは意味が違う。
「愛」といって、たとえば徘徊する老人が通りすがりの女子中学生をこころの底から「欲しい」と思ったとして、それがどれだけ熱烈であっても、そんなものを愛と呼べるだろうか、呼べるわけがない/愛というのはそういうオゾマシイ因業(カルマ)のことを言っているのではない、たいてい本人は大マジで愛のつもりだけれども(だからこそ一層オゾマシイわけだ)。

冷静に考えて、「愛」というのは、基本的には「ない」ものだと思う、ここを曲げるから話がおかしくなるのであって/なぜなら、愛がもう「ある」のなら、イエスキリストはわざわざそれを説かなくていいじゃないか、イエスキリストは自転車にブレーキを与えなさいとは説かない、なぜなら自転車にブレーキはもう「ある」からだ。
「愛」は、基本的に「ない」のだ、<<だからこそ、倫理と道徳が重要になる>>、基本的に「愛」はないからこそ、人は善人であることが尊ばれるのだ/ただし、<<善人は最後の最後で裏切る>>ということをお忘れなく、善人も正義も最後には裏切るのだ、おそろしい話だが、誰だってやがて知ることだからしょうがない、先に仄聞しておくほうがいい。
「愛」は、基本的には「ない」もので、それを得ようとすると、特別に学び、特別に触れ、特別に会得する必要があるのだ、血縁なんか関係ない/血縁は、カルマの継承が影響しているというだけで、それは愛の現象とは異なる、親は子を愛するわけではまったくないし、子が親を愛するわけでもまったくない、親子の絆は血縁(カルマの継承)であって愛ではない/ジタバタしてもしゃーないのだ、しのごの言うのをやめれば「愛」という現象が何なのかはそんなにむつかしくない、シンプルでわかりやすいものだ。
愛を理解するということは、同時にカルマを理解するということでもある、集合的に「カルマでないもの」が愛なのだから/愛がわかりにくいということはないのだ、愛がわかりづらいように錯覚するのは、単にカルマを愛と言い張ろうとすることに未練が残っているだけだ(カルマは消えないにせよそれを愛と言い張るのはさっさとあきらめたほうがいい)。

彼の目の前で、何でもないぬいぐるみを「えーい」と蹴ってみたとき、彼が急変して「殺すぞ」と詰め寄ってきたら、彼は愛の人だ。

倫理・道徳の人、あるいは正義と善意の人は、「やめなさい、かわいそうでしょ」と、 "勧善" によって諫めようとするだろう、勧善というのはいい言葉だから覚えておいたらいい/倫理道徳、正義と善意の人は、いきなり「殺すぞ」にはならない、彼らは「悪に眉を顰める」というだけで、愛を守ることに命を帯びるわけではない。
仮に、尾崎豊の前で、あるいは甲本ヒロトの前で、さらにはマイケルジャクソンの前で、ぬいぐるみを「えーい」と蹴ったらどうなるだろうか、尾崎と甲本は急変して詰め寄ってくるだろうし、マイケルはステップインしてきて「NO!」と怒るだろう、 "急変" というところがポイントだ/このように、愛のあるなしは簡単に判別がつく、愛が「ない」という当たり前のことを歪曲しなければ、愛そのものはわかりやすいのだ。

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競争原理に仕込まれた「横一列」という罠3

れてはならないことがある。
たとえば、僕が続けている例会のパーティ企画だが、あれはもう長いあいだ、僕自身が最も多く散財する、という形で続けてきたのだ/もともと、僕が利益を得るためにやっていることではない、ただの楽しいパーティだ。
厄介なことに、僕自身がもともと性向が保守ではなく、リベラルなのだ、だから初めは僕自身が、単純な意味で平等、横一列で「当たり前でしょ」という形をとってきた、そして僕は男性だし、たいてい年長者なのだから、おれがパーッと使ってやるぜということで、長いあいだ僕が最も散財する、オゴる、というふうにしてきた、僕はそれでまったく問題ないと思っていたし、何ならこれからも元の形に戻したとしても、僕にはまったく異存はない。
が、僕はそれでよくても、多くの人が、なぜかナゾの不穏と、悲鳴を上げ始めたのだ、説明なしに「バカ女どもをつけあがらせないで!」と、当の女性本人から怒鳴られることもあった、僕には何のことだか初めはまったくわからなかった/僕には直観がなく、学門しかないので、追及していないことは本当に知らないのだ、だが多くの女性は直観に何かを感じ取れるものらしい、それで今となっては、もう基金を設立してくれる人もあり、僕がまったく散財しなくなったことで、逆にパーティは常に愉快で、堅牢に楽しめるものになった。

この、パーティのくだりをリマインドするのは、「横一列」がいかに危険かということを確認しうる材料にしたいからだ、僕は「横一列」といいながら、もう長いあいだ女性たちに対しては、ゲジゲジ虫の身分で奉仕するということを続けてきたので、僕自身はその「横一列」に属していなかったのだと思う、だから僕の身には何の悲鳴も生じなかったが/「上下供与」が為されるところに、「横一線」のバトルをもって応じると、とんでもないことが起こるのだ、何が起こるとは言えないが、本人が本当に落下していくのだ、僕はそのすさまじい悲鳴の主を抱きかかえ、救急車まで呼んだことがある。
突然だが、誰しも料理屋で食事をしたとき、支払いを済ませたら、「ごちそうさまでした」と言うべきだ、「お客様はカミサマです」というのは商売人からの見方であって、客からの見方ではない、そして誰に向けて「ごちそうさまでした」かというと、店の「大将」に向けてだ/どうして店の主人を「大将」といい、バーの主人を「マスター」というのか、この国には王がいるので、王とは呼ばない、王の下で天下を預かるのが将軍であり大将だ。
「大将、ごっそさんでした! これお代」というのが正しかったのだ、行使された力(金力)はどこへ行くと思う? メカニズムを考えろ、<<もしその代金のほうが偉いのであれば、あなたは代金を料理に変換すべきではなかった>>、カネを下に投げるということは、下方に力を奉納するということだが、そのトリニティが何をもらたすか、構造において考えろ。
財布から「偉いもの」が出ていき、口の中に「卑しいもの」が入るのであれば、そのメシは必ずマズく、そのメシは必ず己の心身を損なっていくだろう/「ごちそうさまでした」と言わずに偉そうなお金を払っていく人は、食事を「買い物」しているのだ、さすがにバッグを買った人が「ありがとうございました」と店員に頭を下げることは少ない、「買い物」とそうでないことへのカネの使い方の差はつまりこのトリニティの違いにある。

カネを下に投げるということは、感受性からのリターンがあるということだ。

単純に簿記で考えても、たとえば百万円で自動車を買うことは、百万円=自動車であって、帳簿上もイーブンなのだが、「百万円に車を受け渡す」側より、「車に百万円を受け渡す」側のほうが、偉いと感じる仕組みがある、商売というか生業の原点がこれだ、これはこれで、この感覚がわかっていない人は、まともに商売ができないわけでもあるが、この感覚しかもっていないという人も、ついに生業に殺されるということが起こってくる/もしあなたが、車のディーラーに頭を下げられることがあったとしたら、「いえいえ、こんな立派な車を!」と突っぱねる精神を持て。
商売人は、生業として、カネに頭を下げなくてはならない業にある、それは当然のことだ、だがそこで「客」が、ふんぞりかえっているならば、これはカミサマではないだろう、カミサマではないので正規の客ではない/商売人がカネに頭を下げざるをえないところを、「いえいえ、こんな立派なものを!」と言ってくれる客があれば、そのとき商売人は、「業者」ではなくなり、生業に殺されるトリニティから脱することができる、そのとき確かに「お客様はカミサマです」という文脈が成り立つだろう、商売人を業のくびきから脱させてくれたのだから。

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競争原理に仕込まれた「横一列」という罠2

持ちおじさんは、同期がやっているお笑い研究会に、バックアップの送金をすべきだ/そのほうが女に尊敬される、女から尊敬され、また女を実際に救済するためには、男が(オトナが)「買い物」という発想のくびきから脱出してカネを使わねばならない。
新しい価値観を見つけ、新しいライフスタイルを肯定せねばならないのだ、そしてこのライフスタイルはきっと、いつかの時代には当たり前にあったスタイルなのだ、それが完全に忘れられてゼロになったにすぎないだろう/むしろ現代のほうが、感受性で「買い物」だけに支配されている、このことのほうが歴史上に異常な光景のはずだ。
感受性は、力への反応で、男は多く金力を権力に(支配力に)変換し、女は金力を魅力に変換する、だから金持ちおじさんはキャバクラでホステスたちにお小遣いを与え、女たちはそれでエステに行き高級バッグを買うのだが、この関係は互いを感受性において「好き!」と受けさせる(受ける=グッとくる)ものだけれども、それでいながら相互に尊敬はまったくせず、相互に軽蔑しあうことになる、それは人間の悟性が「感受性」の貧しさと、不穏と滅びを見抜いているからだ、特に女は、感受性に支配されながら、自分も含めたその感受性の徒を軽蔑しきっているところがある(男はだまされてはいけない、感受性で「好き!」と言われることは、おうおうにして気楽さと軽蔑を含んでいる)。
つまり現代のわれわれは、感受性において、力で力を購入すること、自分が「グッとくる」ということにカネを使わされることに、慣らされて、それ以外のことにカネを使わないように訓練されているのだが、これは危険な状態だ、危険という以前に不当な状態でもある/なぜ「グッとくる」、感受性のエサにしかカネを出さなくなったかというと、寂しくて、ストレスがあるからだ、パチンコで毎月数万円を使う人はいくらでもいて、彼らは必ず「人の趣味で、娯楽なんだから、放っておいてくれよ」と言う、ただしその発言の当事者が不穏でなかったためしはないし、そのことをこころの底から愉快な生きがいと当人もまったく信じてはいない。

横一列に並べることで、供与の関係を絶ったのだ、だから近所の兄ちゃんが勉強を教えてくれるということもなくなったし、近所のおばちゃんが夕食のおすそわけをしてくれるということもなくなった/近所の兄ちゃんが勉強を教えるためには、近所の兄ちゃんが「上」でなければならないし、また近所のおばちゃんが近所の兄ちゃんに差し入れするにも、近所の兄ちゃんが「上」でなければならない。
横一列に並べることで、上下関係は、優劣の関係、優等と劣等の関係にすり替えられたのだ、だから近所の兄ちゃんが東京大学に合格したら、近所のおばちゃんは劣等感を刺激されることになった/もし夕食の差し入れをする関係であったら、「あの兄ちゃんはやっぱり東大に合格したよ」「やっぱり、あの人は子供のころから、みんなの先生だったものねえ!」と、本来はお祝いの宴会ができる出来事であったはずなのに。
横一列に並べるということは、「隣の家ともバトル」ということなのだ、庭の手入れひとつ、となりの家に負けてはならず、だからこそ、隣のばあさんに庭の手入れを習うこともできない、習おうとしたら金力でそのノウハウを購入するしかなくなる、たとえそれで手入れの方法を購入したとして、何に使うかといえば隣の家とのバトルに使うだけだ。
新しいライフスタイルを見つけ、肯定しなくてはならない、買い物をやめて上下供与の道を探るのだ、そして上下のどちらとも、「課金に二万円使うより確実に楽しかった」「ストレス解消に二日間を使うより確実に楽しかった」と言わしめる責務を負う、現代のわれわれが異常なのだ、すべての余剰エネルギーを感受性に奉納しているという、すでに悪魔の道を歩かされている。

「横一列バトル」を否定する、最大の直撃方法は、「上下供与」をすることだ。

横一列で譲り合ってはいけない、それはヒューマニズムに過ぎず、横一列バトルの休憩タイムにしかならない/むろんこのことに、感受性が抵抗するのは知っている、だが同時に、悟性が首肯するのも知っている、これは価値観が何を肯定するかが定まれば、あっさり逆転し、もう元の道がとんでもないバカだということがはっきりわかるようになるだろう。
このことは、まだ「納得」が得られる段階には状況が至っていないが、それに先立って「保証」を僕から表明しておきたい、女性がきれいになるために必要なものは、グッとくる高級な化粧品の購入ではない、バトルにすさんでいる人間がうつくしくなれるはずはないのだ、唯一の道は相互の供与、しかも決して横一列にしない意地になったような上下の供与だ、上は息切れするまで供与し、下も息切れするまで供与する、そのことで必ず「つながり」が生じ、誰とのつながりを生きたかということの中で、作り物でない「生きた」ということから生じるうつくしさを手に入れることができるだろう。

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