☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「何もしちゃダメなんだよ」

「情念主義」と「霊験主義」というアホな二派分類を採用するとすればだ。
それらは、かたや「肉に情念を染ませる主義」と、かたや「肉に光たる霊が宿る主義」だと説明される/肉に情念が染みたら、そのぶん霊が宿る余地は肉から失われていく。
ここにおいて、たとえば密室のトレーニングマシンに人間を乗っけて走らせ、「必ず成功する! 必ず成功する!」という情念を、エモーショナルな音楽と共に繰り返し染み込ませることは、実に危険だ、その人間の肉は情念が染みて真っ黒になっていってしまう。
基本的に、「トレーニング」の発想と「修行」の発想は真逆だ、「トレーニング」は肉に情念を染ませて強化すること、「修行」は肉から情念を抜いて霊を宿らせることだ/アホみたいだが実際「ジム」と「道場」は別の場所なのだからしょうがない、BGMの流れている道場なんてあるかよ。

「何もしちゃダメなんだよ」と僕は言った。
「何かを『する』、何かを『やる』となったらね、それはもうそれ自体が情念だ、情念でトレーニングすると必ず肉に情念が染み込んでしまう」
「だから何もしてはいけない、唄って踊って剣を振る、しかし『何もしてない』という、この『何もしてない』ということが大事だ、肉に何も染ませないこと、そうでないと肉に宿るべき本来のものが宿らない」
「お相撲さんの身体は福々しいだろ? プロレスラーの身体は華やかじゃないか。それは彼らが、格闘者でありながら『肉を守らない』からなんだ、相撲やプロレスに『防御』はないだろ、彼らは肉を『守らないことで鍛えた』、だから肉に霊が宿るんだ」

「情念の酒樽」と「霊験の酒樽」、あなたはどちらの樽から酒を飲むか。

そんな、得体のしれない「情念」なんてものを、グビグビ飲みたいかね……? 体中「情念」まみれになるが、決まってオバケというのは「うらめしや〜」という情念から出現するものだぞ。
茅ヶ崎の霊が肉声に宿った桑田佳祐と、密室で「絶対! 絶対!」とボイストレーニングした誰かとでは、必ず得られる声が異なってくる/誰も自分が情念主義だなんて自覚しているものではないが、「情念主義」というのは確実にあるのだ、それはみんな大好きな方法なのだが、あまりオススメの方法ではないのだった。

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肉を洒脱する

かしら言葉を当てはめておかないと、掴んでいられないので、さしあたり「洒脱(しゃだつ)」するという/「洒」とは洗い流すという意味だ、「洒脱」は本来は形容動詞。
「にくしみ(肉染み)」派と「にくぬき」派があって、要するに染み抜きをしないといけない、つまり肉を洒脱する、情念の染み入った肉なんてイヤだろ、そんな身動きもとれない肉体。
肉を洒脱しないと、中に霊が入らない、霊が入らないなら祭りにもならないし、精神も実現されない、何よりそんな肉にはあまり触れたくならないし、肉声も聞きたいものになってくれない。
肉を洒脱する/まあそんなことしても何にもならないとは思うが(えっ)、少なくともビョーキにはならないで済むだろうし、何より本当のことへの手がかりが得られる可能性もゼロではないので、肉を洒脱するのはまっとうな発想だと思えるのだった。

どうだろうね、たとえばジューダスプリーストの「ヘリオン」でも聴きながら、戦闘機が低空飛行しているところを見たりすれば、肉が洒脱されてこないか、まあ洒脱されてこないのかもしれない。
肉を洒脱するのはエネルギーだね、それにしても、どうして多くの人がそうも「我」が好きなのか、僕には根本的にわからない、ヘリオンと戦闘機がブッ飛んでいるところに「我」なんて関係あるか?
まあそれは、ヘリオンの霊と戦闘機の霊が肉に入るから、「我」なんてものが消し飛ぶわけだが、肉に情念が染みていたら、肉にはもう何も入らないのだろう、なんとかしてそのイタチゴッコの中で、肉が洒脱されることを祈るしかない。
すべての悩み事には意味が無い、時計には「時間がわかるよ」という機能しかないように、悩みには「悩むよ」という機能しかない、悩み事からヘリオンや戦闘機の低空飛行は生まれてこない。

「にくしみ」派は、「にくしみ」に行き着く(当たり前)。

すべての心理学は無駄であり、すべての自己啓発は無駄だ、肉染みに別色の肉染みを足してもなあ、肉が黒くなっていくばかりじゃないか。
芥川龍之介は、知能は高くてもその肉は真っ黒だっただろう(なぜこんなカンタンなことに気づかんかね)、神殿の中ではみんなお肉が透き通って白光だが、あなたは「肉」というとその真っ黒なのが「肉」だと思い込んでやしないかね。

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Living under blue sky, Living after midnight

春は甘い匂いがする、季節の風には空の果実の匂いがする。
思えばあれは神殿だった、僕は神殿の中に住んでいた。
すさまじいエネルギーの中にあった、なあ聞けよ、何一つあなたの納得するところじゃない。
あなたはまったく別のものに納得している、そのずっと先に本当の神殿があったのに、そのずっと手前で。

僕は音楽を愛してなどいなかった、僕はただ神殿が好きだった。
すべての講堂は神殿であり、すべての街は神殿だった、ネオンライトが焚かれ生贄の麗女と酒が飲み下されるのも/神殿の中でのことだった。
どうして手前で納得する……といっても、僕にもよくわからないのだった、僕は何かを信じようとはしなかった、ただ神殿はすでに過去ほどに出現していた(過去ほど否定のしようがないものがあるか?)。
パワーじゃなくてエネルギーだが、エネルギーとして納得されているものは、それじゃない、僕には想像力さえ要らない、すべての事実さえあればよかった、神殿が最大の事実だったのだから。

神殿は陽気だ、ただしあなたの納得する陽気ではなく。

古いアメリカ映画でもごらんよ、神殿の陽気がフィルムに写りまくっているだろ、ああでも……「陽気」を別のことにして納得するのだった、これはもう困ったことだな。
僕はずっと神殿に生きたままなのか、これは話が噛み合わないわけだ、あの「陽気」を知る人こそパーティ来てね(誘いかけになっていないけど)。

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【霊?】至急、大訂正【肉?】

日、「肉に霊が蓄積的に宿る」という話をした。
これは、別に間違っていないのだが、誤解を生みそうなので訂正することにした(しかも訂正案のほうがスッキリしていてわかりやすい)。
人間には、二つの派閥がある、つまり「にくしみ」派と「にくぬき」派だ。
「にくしみ(肉染み)」派は、「肉に情念を染ませてがんばる」という発想をする、「にくぬき(肉抜き)」派は、「肉から情念を抜いて肉に霊を宿らせる」という発想をする。

洋服についた染み(シミ)を抜く、「染み抜き」というのがあるだろう、あれと同じだ。
洋服に染みがつくのは一回で簡単だが、染み抜きをするのは何回もしつこく叩かねばならない、繰り返しの時間が掛かる/人間の肉も同じ性質で出来ている。
肉に情念を染ませる、という方法は、インスタントで簡単、即効性のものだ、けれどもそれによって肉は根本的に動かなくなる、肉は情念によってメラメラと炎上するが、それによって動けるようにはならない、だから情念の肉は動くのに「力」が必要になる。
一方、肉から情念の染みを抜いて、霊が宿るというのは都合のよい話に聞こえる、が、これだって「精神」を得ていないと霊は宿ってくれない、「精力」で生きている人が「脱力」をすると自分の真ん中がボカーンと抜けるということにしかならない、だからそんなに都合のいい話でもない。

前向きな情念も、後ろ向きな情念も、それは肉に染みる「にくしみ」だ。

「にくしみ(肉染み)」というのは、何も憎悪だけに限定されないのである、これがミソだ、前向きな情念だって肉に染みついて取れなくなる、肉染みが起こると肉は動かなくなり、学門・文化・芸術といった「営為」が霊的に得られなくなる。
あなたはあなたの肉を、インクで叩くか、洗剤で叩くか、そう考えるとシンプルな話/おそらく「肉染み」派の人は、タトゥーを入れたい願望があると思う、それが「肉に情念を染ませる」派だ。

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グレートハッピー、「結果」は過去に生じるもの
は、なんというか、自由でなくてはならないね。
自己表現なんてしなくていいが、自己存在はしていないといけない。
言っておくが、あなたの自己存在は、この宇宙より大事なものだ。
今日もどこかで、うつくしい女が、花火を見上げて酔っ払っているのだ。

過去とは何か、現在とは何か。
たった今、結論が出た、それは僕の大切なところに金色の尺玉が届いたから。
われわれの、肉のうちに、霊が蓄積していく、そのことを「現在」という。
われわれは、いかなる記憶を掘り起こしてみたところで、過去の肉を生きることはできない、生きるってことは現在の肉に霊が蓄積していくことなのだから。

よって、現在に疑問はない。

疑問あるいは疑いは必ず過去より生じている。
現在には肉と霊だけがあり、「結果」は未来ではなく過去に生じるのだ、おおなんというグレートハッピー、この話はまたいずれ。
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世俗の信仰と「万物の大勝利者」2

なたに白紙とペンを渡し、学門・文化・芸術を薦めたとする。
すると、まったく思いがけないことに、あなたはそこで「イヤなキモチ」になることが多い(ほとんどそう)、その「イヤなキモチ」は、なぜか唐突に起こってきて、言われてみれば「なぜイヤなキモチになるのか、自分でもわからない」というたぐいだ。
一方あなたは、豆知識を知って「へえー」と言ったり、ちょっとウェイな振る舞いをしてリア充な写真を撮られたり、「男の子の意外なギャップって萌えるよね」「あーわかる」と盛り上がったほうが、「いいキモチ」になる、今多くの人は当たり前にそのようにして暮らしているだろう。
学門とか文化とか芸術とか、そんなもの「堅苦しくてイヤだよ」と言いたくなるのだが、たいていそのとき、性格の事実として「堅苦しい」タイプは僕ではなくてあなたのほうなのだ、だから「堅苦しい」説も破綻する、これは一体何が起こっているのか、この構造はまず尋常の視点では看破されない。

まずあなたが、自分として学門・文化・芸術に向き合わされたときに覚える、ナゾの「イヤなキモチ」、それは「屈辱」なのだ、なぜかわからないが人はそのとき「屈辱」を覚えて不快になる、このことがすべてを解き明かすヒントになる。
なぜ「屈辱」なのか? それは、学門・文化・芸術は、もともと人間がカミサマに近づこうとする霊的な営為であって、それをやらされるのが「屈辱」なのだ、なぜなら自分はカミサマより上位なのだから(万物の大勝利者)。
あなたは、学門・文化・芸術に向き合う懸命な人たちに、「いいね!」と称賛を認めるだろうけれども、自分がそれをやらされることには途端に「屈辱」を覚える、それはなぜかというと、「(下)人間→カミサマ→わたし(上)」という階層構造があるからだ、「人間が上位のカミサマに近づこうとするのはわかるけれど、なぜわたしが下位のカミサマに近づこうとしなきゃいけないの」「侮辱だわ、屈辱だわ」という文脈が背後に隠れている。
そんなバカな、と言いたくなるかもしれないけれど、人間ってそういうものです、またそういう「万物の大勝利者」になるようにと、あなたは教育も受けているしコントロールも受けています。

あなたが伸びないとすれば、あなたには敬うものがないからで、あなたに敬うものがないとすれば、それはあなたより上位の存在がないからだ。

あなたより上位の存在がないのだから(万物の大勝利者)、あなたが「向上心」と言っても、そもそもその「上」自体が存在していないことになる、だから努力は空転する、たいてい「なぜこんなことをさせられなきゃならないの」という屈辱感がメラメラと起こってきて、「あってはならない敗北感」のようなものにたまらない怨嗟の感情を覚えて発狂したくなってくる/それが「万物の大勝利者」という現象。
芥川龍之介が「蜘蛛の糸」でお釈迦様の話を書いたのは、信仰心からではなくて、自分の知能でブッダの精神を十分に分析できると思ったからだ、芥川は自覚なしに「(下)カンダタ→ブッダ→わたし(上)」という構造の中にいた、その構造は当然、芥川の内側に「ぼんやりとした不安」を育てていっただろう。

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世俗の信仰と「万物の大勝利者」
ルストイはその著書の中で「世俗の信仰」を警告、ないしは攻撃している。
つまり、世の中には、信仰を持たない無神論者が多いのではなく、まったく別のものを信仰すること、つまり「人の世」を信仰する人が多いのだ、実際のところは。
もちろん「人の世」がすばらしいのは当たり前であって、「人の世」がまともに機能してくれていないと、暴力が横行しても警察が来てくれないし、誰かが大けがをしても救急車が駆けつけてくれない。
だが、本来の意味での信仰とは、これら「人の世」をカミサマのごとくあがめるということではなくて、すべてのすったもんだを透かして「カミサマの世」が見えるかどうかなのだ、「人の世」か「カミサマの世」か/からっきしの無信仰者というのはごく少なくて、けっきょくは「人の世」を信じる者と「カミサマの世」を信じる者の二派に分かれている。

さてここで、困ったことがあるのだ、それはよく見るとこういうこと/「人の世」を信じる派は、「人の世に善をもたらすものがカミサマである」とあがめているので、よくよく見ると、人の世がカミサマを「創っている」ことになる。
カミサマが人の世を創った、という見方ではなく、人の世がカミサマを創った、それでよしと見ている、それが正しいのかどうかは誰も知らないが、「人の世」視点で善をもたらすものが「カミサマ」だよ、と強く信じ切っている人はいくらでもいよう。
こういう人は、たとえば宗教施設に対し、無関心というよりは攻撃的になる、「だってさ、教会の建物だって労働者が働いて建築しているんだよ?」「その建物の中で偉そうに説教を垂れるだけの人のことを、僕は信じられないなあ」と。
このことから何が発生したか? 「人の世」に尽くして、なお私利私欲のなかった人間には、名誉ある勲章を授与するべきだ……として、つまりかつての「共産主義」に発達していった、共産主義は宗教ではないが、明らかな信仰の対象ではあるのだ。

ふつう、「人の世」を最上位とする信仰からは、生涯脱却できない。

それがつまり「世俗の信仰」なのだが、このことは破壊不可能だし、破壊するべきでさえないにせよ、せめて有利に生きたい人は「知っておく」だけしておけばいい/何であれ世俗の信仰は「人の世」をあがめるのを第一としており、そこで言われる「カミサマ」というのも、「人の世」をあがめるのに仮想で持ち出されているにすぎない。
「人の世」が最上位であり、それに尽くした者や、「人の世」での善のあらわれについては、「カミサマ」を認めてやってもいいと、そこにカミサマの創出と承認を行う、これはカミサマをも吾が創る思想なので、僕はこれを「万物の大勝利者」と呼んでいる、「万物の大勝利者」はまったく誇張でもなければジョークでもない。
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われわれの肉には、霊が蓄積的に宿る3
要なことなので、勝手にまとめていく、むろんこれらは一般的には狂人のタワゴトである、そのように片付けていい。
一番リアルなところは、最優先のこととして、「この人の身体(肉)に触れたい」「抱きつきたい」「この人の聲(こえ)を聞いていたい」と感じられる誰かに出会うことだ、その場合別にそれがセックスである必要はない。
何しろ、肉に霊が蓄積的に宿るのであるから、その肉に触れることは、蓄積されてきた霊にあやかれるということであり、そりゃそんなもん誰だって触れたいだろう。
お相撲さんやプロレスラーが花道を通るとき、観衆が一斉にそれに触れたがるのはそれが理由だ、神聖な場で霊を宿してきた蓄積的肉体に触れたいのだ(ゲンがいい、とも感じる)、それは単に筋肉をモリモリにしたボディビルダーに触ってみたくなる現象とは性質が違う、ボディビルダーのそれは好奇心や異物への「怖い物見たさ」であって、霊的な神聖さに触れたいという衝動ではない。

人は、触れたい人、聲を聞きたい人に出会うのが重要だし、ゆくゆくは自分が、その触れたい人、聲を聞きたい人になっていくことが重要だ。
それはまあ当たり前のことではあるのだが、人はときどき(しょっちゅう)、この本質的なことから目を伏せたがる、そりゃあまりにも本質的すぎて自分が追い詰められるからだ、自分が人から「触れたくない」「聲を聞きたくない」なんて霊的に思われているなんて考えたくもないのだから。
ここでもちろん、若い女性が死体モテを起こして「そそる」と扱われ、それによって男どもがその女に触れたがる……というのは現象が違う、そんなものは単にヤケクソの霊的荒廃の衝動でしかない(そんな暗愚な獣現象をいちいち考慮に入れたくなーい、というのがホンネだ)。
「霊的な未熟者は霊的な成熟者の身体に触れたい」、それが当然と言えるが、このときは必ず但し書きがつく、「ただし人の身体に触れてよいのは、あくまで精神を獲得済みであり、その上で霊的に未熟という者に限られる」、精神そのものを獲得していない者は未熟者ではなく不適格者なので人の身体に触れてはならない/こんな仕組みがわれわれの真相に起こっている、面白いもんだね。

自分の肉に入れたいもの、それと出会うことがあなたの進む先だ。

自分の知識に入れたいものとか、自分の知り合いに入れたいものとか、そんなものは無意味だ、肉が疎になると人は獣になってゆくばかり、ここで重要なことは、頭を下げてでも自分の触れたい肉に触れていくことに躊躇しない勇気を持つことだ。
誰でも、そのとき漠然と好きなものがあり、マイブームがあったり、世の中の流行もあったりする、それらは数ヶ月できれいさっぱり消え去っていく、なぜ消えていくかというと肉の内に霊としては宿らないからだ、その空虚を渡り鳥していくことは、ひどい慰めのうちにいつの間にか取り返しのつかない獣化を引き起こしてしまうだろう。
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われわれの肉には、霊が蓄積的に宿る2

たわけのわからん話ではあるけれどもね。
でも、「テメーは肉が霊的に弱いからダメだ、使えん」と言われれば、何かそっちのほうがホントのことを言い当てているような……という気がしてくる、そういうケースが少なからずあるだろう。
たとえば、どうしようもないポンコツ新入社員が入ってきて、ボーッとしてフニャフニャでアホで使えないという場合、もう「肉そのものが霊的に弱すぎて使えん」と言ってしまうより、表現のしようがない、ということがあるはずだ、その実物を目の前にすると。
われわれは何のために遊び、何のために食い、何のために旅に出、何のために笑い、何のために学ぶか、それらはすべて「肉を霊的に強くするため」だ、そう表現してみれば、インチキリア充ばかりをやっていても「肉が霊的に弱くなるだけでは……」ということが自然に了解されてくるはずだ。

実際、どうだろうね、誰だって頭の中には記憶があり、それなりの価値観や、美学みたいなものも入っている。
けれども現代において、「頭」でなく「肉」に何が入っているか、「肉」にこれまでどれだけのものを蓄積してきたかと言われると、うーん……ということは少なからずあると思う。
ボーカロイドの楽曲でいくらフンフンと乗り気になっても、それが肉に霊を宿すことはありえない、何しろ発信する側が肉を持っていないのだから/肉が霊的に弱い人は、むしろ霊的に虚無のコンテンツを愛好する傾向にある(なぜなら自分がおびやかされないから)。
筋肉モリモリにして、腕力と筋力だけに自信を膨張させてだね、インフルエンサー(っていうの? 知らん)にエーキョーを受けて、ディベートに達者になって、ヴェジタリアン気味を自慢し、衣装と化粧を凝らしてライティングの妙でイイ角度の写真を撮ってもだね、そういうのは肉とか霊とかには支えられていなくて、むしろ肉と霊を否定する側のやり方だろう/自分が半裸でジェームスブラウンのステージに並んだときの絶望感をありありと想像すれば、けっきょくは肉と霊の蓄積しか頼りにならないということがイヤでもわかる。

肉が霊的に弱っていくと、聲(こえ)と握手に自信がなくなる。

だから自分から「おう!」「こんにちは!」とは言えなくなり、自分から握手を差し出せなくなる/自分から握手を差し出すなんて、年単位でやっていない人や、生まれてこの方やったことがない人だっているだろう。
ちなみに現代では、肉から霊を破棄した、「死体モテ」や「死体ウケ」という流行現象があるが、この流行で利益を得てはならない、こんな流行に利益を得ると自分の肉がその後とんでもないことになっていくぞ、おっかねえなあ。

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われわれの肉には、霊が蓄積的に宿る

々、見つかっていることを、正直に報告するしかない、ひどい内容だ、よってこれは狂人のメモ書きとして読み流されてよい。
われわれの「肉」には、<<霊が蓄積的に宿る>>のだ、たとえば加山雄三や桑田佳祐は、ガチにその肉に海の霊が蓄積的に宿っているので、こんなもんに今さら勝ちようがない。
キリスト教の洗礼(聖餐)が、ワインとパンを血と肉に見立てるように、われわれの霊とは血肉なのだ、<<血肉に蓄積的に宿るものが霊>>だ、よって食事に大いに関係がある、そして霊の宿っていない血肉はスカスカのカラッポ、ただの筋力マシンに成り果てるしかない。
プロテインを飲み、スポーツジムで同じ器具の上を走っていれば、筋力やスタミナは強化されるかもしれない、けれどもそこで肉が霊的に育てられることはない/父が焼いたニジマスを食い野山を駆け巡る少年が、天地自然の霊により肉を霊的に育てられていくということなしに、われわれはカロリーと運動ごときで人間になれると勝手に思い込んでいる。

人間の中心軸(精)は、カミサマと出会ってその字義のまま「精神」を獲得するが、この中心軸「精神」を包み込む周辺軸「肉」には、蓄積的に「霊」が宿るのだ、だからこそわれわれは精神に基づいて学門・文化・芸術に身を投げこんでゆかねばならない、<<それらが「肉」霊的に宿らないと意味がない>>。
驚くなかれ、つまり、学門・文化・芸術というのは、人間にとって<<霊的な営み>>なのだ、学門の霊が肉に宿らなければ、勉強はただの「知識」になるし、文化もただの「価値観」「キャラ」になり、芸術もただの「性癖」にゆがめられる。
数式を背後においたアインシュタインが霊的でないとは、まともな感覚の人には言いがたいだろうし、厨房に立った道場六三郎や、画板を前にした岡本太郎も、霊的でないとは言いにくい、このように学門・文化・芸術は、正しく精神を基にすれば霊的な営みとして「肉」そのものに宿っていく。
誰と共に食事をし、誰の手になる料理を食べる? 誰と褥(しとね)を共にして、誰の肉と交歓しあい、またどう蒸留されたスピリッツをどの場所の季節に飲み下す? こういったことは女性のほうが鋭敏なはずだ、霊的に汚濁させられる肉の交わりがいかに自分を荒廃させるか/これはまさにのっぴきならない、冗談では済まない問題だ。

桑田佳祐の歌声から聞こえてきているのは、音声ではまったくなく、肉の聲そのもの、蓄積した霊の聲そのものだ。

われわれの肉は、霊を蓄積する媒質ということなのだろうが、このまったく馬鹿げたオカルトのような話が、われわれの実情を言い当てるのにど真ん中をブチ抜くのだからしょうがない/むしろ肉が霊的に弱い人こそが、オカルトババアの占いやまじないにだまされるだろう。
霊的な資本主義と捉えても差し支えない、肉に膨大な霊を蓄積してきている(大資本の)人間のほうが、そりゃ強力だし有利なのだ、あなたの今年の夏は、あなたの肉に夏の霊をことごとく宿らせるだろうか?

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人付き合いで破綻する人

は人に好かれてはいない。
というのが、僕なりに、人付き合いの前提にある(ここで同情する奴も間違って頭がどうかしているので鼻から酸化したゴマ油を飲むこと)。
だから僕は、「ボクの思っていることを人に話す」ということをまったくしない。
僕の思いと、詩と歌を、キミの耳元で聴かせるよ、というようなたぐいは、きっと生涯しないだろう、そんなこと僕が誰かに爆愛されているというデタラメな前提でしか決行不可能なことだ。

人は、僕が好きなのではなく、単に「面白いこと」が好きだ、だから僕は面白いことばかりを話す。
うーん、別にそれだけでいいと思うし、どうも人付き合いが破綻する人は根本的に、自分の思いが他人にとってビッグ重要だというえげつない勘違いの中を生きているのではなかろうか。
自慢じゃないが、たとえば僕が誰かに、自筆したラブレターと「刑事コロンボ」のDVDセットを贈ったとする、すると彼女にとって重要なのは「刑事コロンボ」のDVDセットであって、僕からのラブレターは「はいはい」で済むものだ。
だから僕はその後も彼女に、「ラブレター読んでくれた?」とは訊かず、「刑事コロンボ面白いだろ?」とだけ熱心に訊くだろう、僕のラブレターに反応しない女はフツーだが、刑事コロンボに反応しない女は頭がどうかしていると思う、そんな女は大説教して教化してやらねばならない。

まさか、「自分の思い」はラブではないですよ。

そんなまさか、まるで自分をこの世界の宝物のようにだな……ありえんだろう、「おれの思いを聞かせてやったらあいつもそれが一番うれしいに決まっている」なんて、それではまるで僕がスーパーイケメン宝石王子だ、こういう人間の人付き合いはどこまでいっても生ゴミみたいに破綻してしまう(生ゴミは言いすぎ)。
何をどういじくったら、「自分の思い」が他人にとっての最重要テーマになると思い込めるんだ、「自分の思い」なんて語りだしたらpepper君でさえ猛烈な前蹴りを入れてくると思うぞ/この世界で一番怖い思い込みがこれだ、自分を超絶宝物だと思っているから、自分の御心の玉音こそがすべての臣民を平伏させると思っているわけで、うーんこれはおっかないなあ。

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膜に包まれたようにボーッとして……
「あなたに会うまで、わたしずっと、膜が張った中に生きていたの、何もかも他人事のように感じていて、自分がこの世に生きているってことがわからなかったの」
僕はそれを、離人症のたぐいだなと理解したが、あえて余計なことは言わなかった、病名はすべてウソで、病名ふうに言うことなど人間の現実逃避にしかならない。
「わたしその膜の中で、ずっと寝てたのよ、ひたすら寝てたわ、この膜がまた、眠るのにはちょうどいいのよ、何にも傷つかずに済むし、自分は夢の国に行けばいいのだからって。ずっとそうしてた」
「うん、本当はそんな奴ばっかりだよ、世の中って」と僕は言った、「ねえどうやったらこの膜はやぶれるの? どうやって人は膜からハッチアウトするの」と訊かれたので、僕は「人とのつながりで」と答えた、「人間は、膜に覆われてしまうのではなくて、もともとが膜の中にいるものなんだよ、その中から出てくる機会があった人は出てくるし、その機会がなかった人は、ずっと膜の中でボーッと麻痺したまま生きるんだ。そんなもんだよ」。

いいかげん経験上、はっきり分かることがある、人がこの世界に「生きている」「存在している」と実感する現象は、単純な「呼応」によって起こっている/その「呼応」が起こるまで、人は膜の中から出てこない、出てくる原理も方法もない。
「呼応」といって、何もむつかしいことではない、単に「オイ!!!」と呼ばれるということだ、「お前だ、お前!!!」と、直接その胴体(こころ)に呼びかけられる、すると生まれて初めて呼びかけられた人は、「え? わたし?」という感触に驚く、そのとき初めてこの世界に「わたし」が存在していることを直覚する。
やがて屠殺してしまう家畜なら、そうしたボーッとした中を生かしてやるべきだが、人間にも同じく、ボーッとした膜の中を生きて、よくわからないが毎日タクシーの運転手をしている、というような人があるのだ、それは悲劇ではなく事実であり、悲劇というよりは「秘密」のことだ。
よくわからないが、教科書に書いてあることを暗記し、受験して合格し、卒業し、よくわからないがスーツを来て就職し、毎日職場に出勤し、よくわからないが女性に言い寄られたのでセックスしてしまった、そしてよくわからないが向こうの両親に紹介され、よくわからないが結婚式になり、よくわからないが子供が生まれたので「家庭」ということらしい……という人が、実はすくなからずいるものだ/「膜から出してもらえたことって、この上ない"僥倖"なのよ、あなたは命の恩人だわ」と彼女は言った。

「膜」or「つながり」(下ネタじゃねえぞ)。

以前、「僕があなたを『オマエ』といい、僕があなたのこめかみをつついたら、あなたはとんでもないことを知る、それは単純で決定的なことだ」という話をしたが、何のことはない、そうして「オマエ」をはっきり呼び出されないと、人は生涯その膜の中から出てこないのだ。
僕はそれを悲劇とは思わなかったが、彼女は首を横に振り、「すっごくしんどいのよ」と言った、「そうなのか」と、僕はけっきょくそのことについてはわかってやれない(膜の中にいた経験が無い)。
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「誰かと共に生きるために、(以下略」←しつこい

日に記事を書きすぎだ、まあいいか……
「誰かと共に生きる」ことが必要だし、なんというか、多くの人々が「ひとつになる」ということが必要なのだけれどね。
と、別におれがエラソーに言うことでもないのだけれども。
おそらくその、「ひとつになる」というのは、一般的に想われているようなことではないのだ、そのことを、この大天才である俺様が教えてやろうかなっていう、まあとにかくヤキモキしているところがあるのだった。

「ひとつになる」というのは、僕の考えとあなたの考えが、説明され整理され、合意されて、揃う、ということではないんだ。
直接、人から人へ、人の真ん中から人の真ん中へ、僕の真ん中からあなたの真ん中へ、「光」が入らなきゃいけない、光が入るというか、光に「なる」というか。
それは、一般的に想われている「コミュニケーション」とはまったく格の違う現象だ、しかし、この「全員が直接、同じ光になる」ということが起こらないかぎり、多くの人が「ひとつになる」なんてことは起こらない。
何言ってんだコイツ、という話なのだが、今ここに話している現象は「本当にある」のだ、「ひとつになる」というのは、説明されて合意されて意見が揃ってひとつになる、なんてことじゃないんだよ。

すべての意見が破壊され、全員がそこにある光のみに従う。

そういうことは、実際あるもんだ、本当にそういうことが起こる「現象」が科学的にあるのだ、それが時代と共に失われていったものの正体だ。
破壊」というところがポイントだね、全員が破壊されるから、全員が光になり、光のみに従う、若い広場で、意見なんか要らなかったんだと全員で気づく瞬間がいつかある、それはそれはおだやかなものだ、破壊はおだやかなものだ。

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願望バッフ〜ンのこと

分はどう生きるべきか?
と、そう考えたときに、どうして願望がバッフ〜ンとなるのだろう。
自分はどう生きるべきか、という、学門について問うているのに。
「○○がしたい」「○○でないとイヤ」「○○でありたい!」と、なぜそういう、願望バッフ〜ンが出てくるのだ、それは脳みその仕組みがおかしいだろ。

ふと冷静になって思うのだが、自分に何か特別な仕事がこなせたり、特別な存在になれたり、特別に誰かに愛されたりというようなことは、基本的に特殊なことであって、そんなことは「普通ない」と認識しておかねばならない。
なぜそんなに「特別」ということがすべてのトリガーになるのかわからないが、特別というのはその字義のまま「特別」のことであって、普通にはありふれていないから特別と言うのだ、ここで「わたしも人並みに特別扱いされたい」というのは論理としておかしい。
このあたりは、言ってみれば、「特別扱いされないと負けです、屈辱です」という思想を持つように、思想をコントロールされているのだ、冗談でなくそういう思想コントロールは世の中に実際ある。
自分はどう生きるべきかと考えたとき、それは学門として考えるべきなのに、そこで自己特別化願望がバッフ〜ンとなるのはまずい、いったい何を根拠にその願望バッフ〜ンは出現しているのだ、学門を爆破して押し通るようなまねはやめよう。

願望バッフ〜ンさんは、自分では「ささやかな」つもりでいる。

「ささやかでいいから、静かで落ち着いた暮らしがあって、自分だけを愛してくれる人がいて……」というのだが、それがささやかではないという話、もし生涯にわたって自分のことを愛してくれる誰かがいたら、それが少しだけのことであっても、「なんて大きなことだろう」と感じないようでは、すでに尺度が狂っている。
生涯の友人とか、生涯の仕事とか、もしそんなものが手に入ったら、それだけで普通はきらめかんばかりの「僥倖」だ、あなたはそれを「普通でささやか」と思っているかもしれないが、それは願望上の「普通」であって、学門が教えるところの「普通」ではない。

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「誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない」4

かと共に生きることは得意だろうか。
苦手な人が多いのかもしれない。
かえりみて、僕はこれまでに、一人で生きたという時間がほぼゼロなのだ、四十日間インドに単独行していたときさえ、現地のインド人とワチャワチャしていたので、「一人で」という時間はけっきょくなかった。
初対面のMくんの家に一ヶ月一緒に暮らしたこともあったし……あまりプライベートのことは言いたくないが、とにかく僕は、これまで傍らに人がいなかった時間がほとんどない、僕はきっと「共に生きる」ということがそれなりに得意なタイプなのだろう。

「共に生きる」ということが苦手な人にとっては、「お高くとまっていられる」という地位が、あこがれというか、垂涎の的だ。
本当に孤独だとさびしくて死んでしまうので、多くの知人に囲まれていたい、しかし「共に生きる」ということは苦手なので、多くの人に囲まれながら「特別に高い地位」を持ち、ツーンと孤高風味&クールワガママを振る舞えるのが「イケてる」とこころの底から思うわけだ。
たとえば、暗く寂しい歌を唄う、芸術的・実力派シンガーのようなものになって、特別なドレスと特別な気配をまとっている、そして「わたし今日はメロンを食べたいの」と言うと誰かがササッと買いに走る、そういうのが「イケてる」とし、そういうのなら「こころの底から目指せる」と感じている。
つまり……誰かと共に生きることが苦手な人に向けて、誤解させ錯覚させ、取り込んで散財させるシステムがきっちりできあがっているのだ/その「苦手」を隠蔽したままあなたは特別な人になれますよという幻想を演出して、あこがれて取り込んだ層から機械的に富を搾り取るのだ、なんともまあおそろしい話じゃないか、残念ながらそちらの行く先にはゴールはなくて、たいてい行き止まりでは「力のあるところに媚びる」がはたらいている。

孤高風味&クールワガママの背後には、「力」。

孤高風味&クールワガママの背後には、実は十中八九「力」があって、本当のところはその「力」に媚びているので、当人はまるで孤高でもなければクールでもなし、ワガママふうも見せかけなのだ、本当は「力」に支配されたカゴの鳥だ、これは本当におっかない話だなあ。
たとえばあなたは、テレビの中に孤高風味&クールワガママの誰かを見てあこがれたかもしれないけれど、じゃあなぜあなたはテレビを通してそれを見ることができたのだろう? そう考えるとちょっとは見え方が変わるかもしれない、うーん僕はおっかない話は苦手だ。

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「誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない」3

「誰かと共に生きるために」ということが、第一の念頭にあるか、実はこれがあるかないかで行き先が大きく変わってくる。
人間の脳みそというのは、その当人の意識よりも正直なものだ、当人の意識がどうごまかしていても、脳みそのほうはその本音を容赦なくブチ抜いてしまうところがある。
つまり、「共に生きるのでないなら」と、脳みそのレヴェルではこうブチ抜かれてしまう――「共に生きるのでないなら、力のあるところに媚びればいいじゃん、それで済むじゃん」。
脳みそは正直なところ、ここだけに全力を尽くす、「力のあるところに媚びる」ということだけに全力を尽くす、えげつない言い方をすれば、「権力者を見ると問答無用で濡れてしまう」という女性は世の中にまったく少なくないのだ/そういった人が意識的に清潔な努力をしても、その努力は必ず空転する、なぜなら脳みそのレヴェルでは「それ要らなくね?」という判断だからだ。

つまるところ、「一人で生きる」というのはけっきょく不可能なので、脳みそのレヴェルではほとんど二者択一しかない、1.誰かと共に生きる2.力のあるところに媚びる、だ。
この二者択一のうち、「力のあるところに媚びる」を選んでいる人は、もう脳みそのレヴェルで「優秀さとか要らなくね?」なので、それ以降は何をどうやっても優秀さが獲得されていくことはなくなる、本当にポッキリ0ポイントになる。
一方では、「力あるところに媚びる」という人が増えてくると、それを絡め取って肥え太っていく人や組織が成り立ってゆき、それは実際おっかないシステムとして実在するのだが、まあそんな怖い話はやめておこう。
覚えておいて損はない話、「誰かと共に生きる」ということができない場合、「力のあるところに媚びる」ということだけを、知らず識らずやり始める、そしてそれはたいていどこかで力のある側のシステムに絡め取られるものだ、インチキの「共に生きる」がカルト宗教に取り込まれるように、「力のあるところに媚びる」も社会のインチキな部分に絡め取られるようにできている。

あなたの「媚び度」に応じて「優秀です」と認めてくれる某システムにご用心。

たとえば学校でも、学門の修了程度と関係なしに、教師や教育システムへの媚び度が高い者に好成績を与えて「優秀」と認める制度がある、これに乗っかっているとたとえば女性はいつの間にか内心で「尽くすタイプ」を自認するようになったりする、「媚び度=優秀」という発想がこびりつくのだ。
なぜか、「誰かと共に生きる」ということは、いつの間にかの禁句になってしまったかのようで、学校の先生でさえきっと「誰かと共に生きるためにです」とは言わないだろう、これはまずい/けっきょくは「共に」生きるか「媚びて」生きるかしかないのに。

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「誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない」2

タイプα={共生第一、優秀必須}:「誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない」
タイプα={優秀第一、共生付属}:「優秀でなくてはならない、そうしたら誰かと共に生きていける」
タイプβ={孤立第一、優秀必須}:「一人で生きていくために、優秀でなくてはならない」
タイプβ={優秀第一、孤立付属}:「優秀でなくてはならない、そうしたら一人で生きていける」

αは「共生主義」、βは「孤立主義」を意味しており、はそれぞれ、共生・優秀と孤立・優秀の、どちらが「第一」かということを区別している。
この4タイプの中で、本当の意味で優秀になりうるのは、タイプα甲、{共生第一、優秀必須}のタイプだけだ。
その他、似て非なる優秀主義者は、優秀さを志向しながらも、けっきょくは真の優秀さに到達することはない(なぜなのかは次の記事で説明する)。
理解がむつかしいといって音を上げるな笑、右側のセリフ群をもとに、自分がどれに当てはまるかを考えてみよう(ただし、そもそも「優秀になろう」と志向しない人は捨象されています)。

自分が生きることの足しに、他人を利用する人がごろごろ。

共に生きる」という、このダサいフレーズは、今や明らかな死語で、しかし「じゃあお前は誰とも共に生きるなよ」とカミサマに言われるとキッツイのであって……とにかくそういうヤバい局面にわれわれは生身で立たされている。
「優秀さを求める人たちのスレッド」を立てて、そこから交流会が発生したとしても、そのことで誰かが「共に生きる」ということにはならない、そんなことを続けている中で本当の意味で優秀な人など一人も発生しない/「共に生きる」のほうが元々まともじゃないか。

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「誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない」

日話した内容と同じ。
タイトルの文言には実は決定的な内容と威力が秘められている、だから丸暗記しておくと運気が上昇するだろう。
誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない。
今、多くの人は誤解して逆をしている、「一人で生きていくために、優秀にならなきゃいけないでしょ?」と思っている、これがやがて人を台無しのところに行き着かせてしまう。

残酷な話だが、真実はこっちだ、「優秀でない人は、共に生きることができない」のだ、誰でも考えればわかるとおり、破綻する人は必ず一人になって孤独の中で破綻している。
われわれは誤解していて、誤解の文脈の中ではこう思っている、「一人で生きていけるほど優秀じゃないから」「お互いに助け合って生きていこうよ」、この誤解の裏には、自分が気持ちひとつで人と連帯できるという思い上がりがある。
そして気がついたときには、「あなたみたいな人と、誰が共に生きていくわけがあるのよ?」と言われてしまう状況ができあがってしまっている、これはとても残酷な事実だ、だからそうなってしまう前に気づかないといけない。
あなた自身、「誰と共に生きていきたい?」と考えてみるといい、すると残酷なことに、「あの人と、あの人……」と指折り出てくる順番は、優秀な人の順番のはずだ、決して弱い人の順ではない/われわれは「愚鈍だから共に生きよう」とできる生きものではなく、「優秀であれたら共に生きていけるのに」という生きものなのだ。

「誰かと共に生きよう」とする人は優秀になり、「優秀になろう」とする人は優秀にならない。

人にとって優秀さの「証」とは、誰かと共に生きられた時間それ自体が「証」になる、そこでわざわざ「一人で生きられるように」という発想を持ち込むことは、知らず識らず自分を愚鈍さのほうへ成長させていっていることになる。
優秀な人たちなればこそカンパニーを形成できる、愚鈍な人たちだけを集めてカンパニーを形成したらどうなる? 倒産するに決まっている、「わたしアホだから誰かと一緒に」という虫のいい話は残念ながら成立しない、途中で気づいた「優秀でないと共に生きられないじゃん」という慧眼の人だけが本当の意味で「優秀」とはどういうことなのかを知るだろう。

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闇に食われていく人へ、ささやかな救急箱
が闇に食われていくところをまざまざ見るのはイヤなものだ。
それはまるで、人の抗えぬ死病が人を食い尽くしていくのを、無力に眺めているしかない医者の慚愧のごとくだ。
彼はいつものように笑おうとし、しかし目の奥がすでに暗黒に吸い込まれている。
彼は救済を求める、努力もする、そして彼は救済を得て努力をし、目覚めて翌朝の鏡に見つけるのは――より進行して食い尽くされている自分の顔、死病のように進んでいる闇の実相なのだ。

闇からの恢復や、闇の予防は、きっと可能で、しかも実は単純に可能だ。
しかし、その本来は単純に可能なことが、実際にはきわめて困難で不可能じみる、なぜなら闇に食われているところの人は、すでに闇にあやつられるからだ、闇は闇を拡大するほうへ官能を与えて人を引きずりこむ。
この、闇に浸されていく肉体の中で、流されていかないよう唯一抵抗できる「杭」があるとしたら、それはいつもいう「学門・文化・芸術」だ、もしこれが消えなければ人はそこにしがみつき、ついに闇に対抗しきることができる。
だが闇は肉体のうちに闇を流しこみ、人のキモチと心境を暴騰させ渦をつくる、この渦に呑まれることに闇は官能を与える、それでよいのかもしれない、けれども翌朝の鏡は昨夜よりも強烈になったグールをそこに映し出すだろう。

菜の花畠に入り日薄れ/「朧月夜」を唄え。

この場合、メロディは学門であり、唄は文化であり、詩文は芸術だ、これが文部省唱歌であることにあまり意味はなくて、ただ獣でない「人」と「天地自然」の歌というのは一般に思われているより大きな効果がある、こんなもんタダなんだから好きに歌ったらいい、JASRACも文句は言わない。
人間なんてか弱いもので、「朧月夜」が入る前に先に「妖怪ウォッチ(第一体操)」が入ってしまうと、壊れちゃうのだ/闇に食われていく死病に対抗するささやかな方法に古くからの唄がある、夏がくれば思い出す、秋の夕日に照る山紅葉……
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何もかもが許される時空の底に、吾らの肉はこすれあう

思議だ。
どんなものでも、作品は作品だ。
やはりノンフィクションの中には答えはなく、破綻しかないのだ。
きっと作品の中には、本当には「何もない」のだ、あるのは人の想像力だ、しかもそれは読む側の想像力であって、創る側は関係ないのだ、思い切ってそう「創る側は関係ない」のだ。

作品作品というけれど、おそらく僕は「作品」についての感受性がきわめて薄い。
読み手として極めてわがままなのだ、夏目漱石を一ミリも偉いと思っていない。
もし僕が作品について誰かと話すことがあったら、作中世界の誰かと話すだろう、ノンフィクションの誰かと話すことはしない。
きっと作品の中には、本当は「何もない」のだ、すさまじい静寂が僕を待っている/虚実皮膜というけれど、皮膜どころか? フィクションの本質はとてつもなく奥深く、その一番奥深くで確かにこの現実とつながっている。

虚実皮膜は、何もかもが許される時空の底に。

何もかもが許される時空の底に、吾らの肉はこすれあう、吾らはあらゆる嘘を許してほしかったのだ、子供のように無限の夜と無限の青空とを許して与えてほしかったのだ。
無限の清流、無色透明の陽の光、無限の彩度を誇る野山に、無限の夜街が無限の国籍を誇ることを、肉の身に許して与えてほしかった、吾らはそれを探索しつづけるので、作品の中には何もない、何かがある必要がそもそもない。

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