☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「連動」する「非直接関係」

「自己責任」とか「自己実現」とか、われわれはジコジコ言い過ぎた、結果、われわれはアホのなれの果てだ。
われわれは、「お隣さん」というと、やれ責任や負担をなすりつけあったり、気を遣わされたり、空気を読まされたりして、そのことで疲れ果てたのだが、そんなことはそもそもが間違いだった。
われわれは誰しも、お隣さんとは何の関係もないし、何の連帯もしていないが、われわれは存在として「連動」しているのだ、これは「連動」としか言いようがない。
われわれは、人間というと「無関係」か「直接関係」のどちらかしかないと思っているが、そうではない、「非直接関係」と呼ぶべきものがあるのだ、少なくともまともに機能する人間は必ずこの「非直接関係」の感覚を隠し持っている。

たとえば、あなたが今これを読んでいたとして、僕は今これを書いているわけだが、このときあなたと僕のあいだには何の関係もない、関係のあるフリをされてもお互いに困る。
しかし、それがまるきりの「無関係」だったら、あなたは「することがない」はずだ、こんなことは街中でも同じで、街中の99.9999%の人はあなたと「無関係」に見えるので、あなたは街中で「することがない」。
「非直接関係」の感覚がないと、万事「何をしたらいいのかわからない」のだ、じゃあ一方で、一般的に「家族」や「同僚」「上司」などは直接関係があるのだが、この直接関係のほとんどは気を遣うばかりで負担になりメンドクサイ。
この「直接関係」と「無関係」のあいだを往復しているだけでは、本当に「何をしたらいいかわからない」ままだ、「連動」する「非直接関係」に気づけ、今これを読んでいるあなたと、書いている僕と、読んでいない誰かがあるわけだが、これらがどう「連動」するかが見えたら、あなたは自分が何をしたらいいか本当にわかる。

あなたがピアノを弾く日も、世界中で電車が走っている。

よもや自分がピアノを弾くときに、世界中で電車が走っていることを思い出す人はないはずだ、けれどもそこがミソで、まさかのまさか、ピアノを弾く力は「お隣さん」が運転手として電車を走らせているところから生じてくる、ピアノを弾く力の源は電車が走っていることとの「連動」にある。
あなたがまともにピアノを弾くということは、まともな電車の運転手と握手するということなんだ、信じがたいことだろうが、どうか一度は信じてみろ。

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ヘイ、「お隣さん」には力がある
もや「お隣さん」に力があるとは誰も思うまいて。
みんなして生きているので、僕にとっては銀行員や農業従事者、アイドルグループや暴走族、年を食ったフリーターなどすべてが「お隣さん」だ。
これら「お隣さん」は、自分に関係がないようだが、やはり関係があって、何か関係があるのかと言われたら、やはり関係はない。
関係はないのだが、それは「お隣さん」なのだ、"存在する"のである、このことを見失うとわれわれは力を失う。

なんというか……われわれはすべてのことを、「お隣さん」との兼ね合いや按配(あんばい)の中でやっているのだ。
すべてのことを、「自分だけ」と思ってやっていると、われわれは必ず行方不明になってしまう。
一丁目のギターシンガーは、二丁目の八百屋が営業しているから、そっちはそっち、こっちはこっちで、歌が唄えるのだ、これは馬鹿げているようだが真実の真実である。
感覚的にね、そういう感覚があり、そういう機能もある、われわれは何か大きな分業の中にいるのだ、「お隣さんはああだから、こちらはこうなんだ」ということでがんばろう、それで初めて力が出るよ。

八百屋が野菜をヨイショと売るから、魚屋が魚をセイヤと売る。

八百屋の「ヨイショ」があり、魚屋の「セイヤ」があるから、その中であなたはホイ? となるのだ、この中で按配されていないとあなたは動けない、これなしで動こうとするとあなたはヤケクソの行方不明しかできなくなる。
「お隣さん」がクラシック音楽をやるから、こちらはロック音楽ができるのだ、お隣さんがあって「こちらはこうやる」、それは互いに気を遣う関係ではないが、お隣さんは「あってもらわなくては困る」存在だ、お互い邪魔しないけれど深い関係がある。
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時間は「素材」である

ラダラしないためには「尺」が有効だ。
おそらく人間は、切り取られた「時間」という感覚に直結して引き出されてくる特別な能力を持っている。
もし人間が永遠に生きるのだとしたら人間はひどく無能化するだろう。
むろん、人間の存在(イグジスタンス)は永遠だし、芸術というのはその「永遠」をやるのだが、それはたとえば四分間なら四分間のうちに、その「永遠」をやるということだ、「永遠」の上映時間が四分間ですということになる、永遠の四分間をやるのだ。

「時間」というのは本当に不思議だ、何しろ「四分間」というのは勝手に終わる、僕が何をしなくてもだ。
たとえば「ボレロ」という、ほとんど繰り返しのような音楽があり、十五分ぐらいで演奏されるのだが、「ボレロ」を演奏する指揮者はきっとその「十五分」をやりに行く、という感覚で指揮台に立つはずだ。
「時間」というのは、「素材」なのだと思う、1kgの粘土で作れるものは1000kgの粘土で作れるものと違う、また料理でも一人前の素材と十人前の素材は量が違うし、1mのキャンバスと10mのキャンバスでは描かれるものが違う。
永遠の四分間というとき、第一にその「四分」が素材なのだ、われわれが電子書籍に違和感を覚えるのは、手に取ったときの本の重みという「素材の量」がわからないからだ、実はわれわれは「それが何分であり」「何人前であるか」ということを先に合意して授受のやりとりをしている、時間芸術ではその分量合意が「時間」になるのだ。

分量合意が、授受の絆を作る。

こんな話、まったく僕にしか役に立たんと思うが、まあいいじゃないか、誰だって授業時間には授業を受けるし、勤務時間には仕事をする。
おそらく必要なことは、たとえば仕事をする場合なら、「勤務時間」という時間そのものを実現することなのだ、誰だって何だって「○○時間」という時間を実現することはよいことに決まっている。

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「グレート」の感性と幸運の人
とえばマハトマ・ガンジーやキング牧師などの伝記や映像を見聞きすると、その偉大さに圧倒される。
「偉大さ」を感じるということ、それは「グレート」という感性だが、実はこの感性は誰でもが持っているものではない。
誰でもが持っているものではないし、かつて持っていたとしても、だいたい加齢と共に失う感性でもある。
そして、「偉大だ」「グレート」という感性を失うと、経験上、人はガクッと老け込み、同時に何か持っていた「運」をガクッと失うものだ、そうして生は彩りを一気に失ってしまう、そういうことはよくあるものだ。

誰だって神社や仏閣を巡ることはあるだろうし、美術館に行くこともあるだろうし、モーツァルトやベートーヴェンを聴くこともあるだろう。
けれどもそれらを見聞きするとき、そのそれぞれの見聞を「偉大だ」と感じられるとは限らない、特に「あれ? 昔はもっとわなわなと感動していたのに」と自分の変化に気づくことはよくある。
それは老いたということであり、しかも年齢に由らず文化的に老いたということなのだが、このことを契機に、生きることは急激に「つまらなく」なる、毎日が本当はダルくてしょうがないというふうになる。
自分が生きるのに、何一つ「グレート」と感じられなくなるということ、世界から一切の「グレート」が消え去るということは、実はおそろしいことなのだ、このことに対抗するにはせいぜい「老けてんじゃねえよ」と真っ向から自分を罵倒するしかない。

「カミサマは偉大」なのではなく、人が「偉大さの中にカミサマを見つけてきた」のだ。

「偉大」「グレート」というのは、よくよく見ると、何がグレートなのかはよくわからない、よくわからないがわなわなと「グレート」だった、そのよくわからない「グレート」の向こうに、カミサマと呼ぶべき事象があるということを、古代の賢人たちが見抜いてきたにすぎない。
いくらでも、楽しいことや刺激的なことはあるけれども、「グレート」と感じられるものがないでは、いくら楽しんだり刺激を受けたりしてもはっきり言って無駄だ、あるとき突然やってくる若い生命の終わりに、あっさり引き込まれたりしないように。
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最も多くの人を滅ぼすもの

たしは今、わたしの書斎に一人座して、何者にも答えないようにしよう、ブログなどというのは電子ツールでしかない。
われわれは、紙に書くということを忘れ、それによって人に話すということもどのようであったかを忘れてしまった。
そのことはつまり、いかなる場所においてもわれわれに一人で座すということを忘れさせた、われわれは何もかも「入力」しかできなくなった。
わたしがここに公開しているものは、ふつうの人間が決してやりはせぬ、究極のプライベートの公開だ、それもこの世にありとあらゆる赤の他人に向けて。

わたしは、一定の習慣によって形成された架空のような話しやすさの空間に与しない。
Aさん、Bさん、Cさん、……と笑顔で連なる座席の並びに、わたしは列しない、この世界に漠然とした「他人」が存在する――それに気を遣うのが「やり方」――というやり方を採らない。
わたしは、女性に花を贈るとしたら、わたしの世界に咲く花をしか贈らない、わたしは夜のうちすべての新聞紙を焼き捨てて、わたしの世界の酸素を吸うものだけをわたしの友人とする。
誰にでも本来、そのようにする権利があるのだ、その中でこそ人と人は出会えた、わたしのカレンダーは市販のそれとは存在が異なり、わたしのカレンダーは生命を持つのだ。

「一般的な世界」は世界ではない、「一般的なあなた」があなたではないように。

人はいつのまにか、常識を教え込まれ、常識の中を長く生かされ、やがて「常識がある」という実用から逸脱して「常識の共有が世界である」というとんでもない誤解に何十年も陥る/これが最も多くの人を滅ぼす。
どこまでいっても「世界」というのは、すべての「あなた」に対して謎のまま差し合いで存在する一対一の対象なのだが、それをみんなで常識的に共有できるものとすり替えてしまう、もちろんそのすり替えは可能だがそのときはあなたもあなたの世界も存在しない。
 

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破裂寸前の男性と、パニック寸前の女性
ーティで女性陣から、「多くの男性が、少し踏み込んだだけで、"破裂"しそうなんです」「おっかないんです」という話を聴いた。
詳しい説明をここに書く気にはなれないが、とにかく「いわゆる"地雷"がたくさんあって」「いつ不機嫌になるかわからないんです」ということらしい。
僕はここ数年来、不機嫌になった記憶がないので、女性たちがいう「破裂寸前」の感覚はよくわからなかった、「そりゃあなたはそうでしょうよ」と言われる。
近頃は多くの男性が、コンプレックスか、それ以上の何かによって、皮のすぐ一枚下には「破裂寸前」を抱えているらしい、女性たちにとっては「とにかく危険すぎて」「距離を取るしかないの」ということだった。

一方、僕自身の感覚としては、近頃の女性は、皮のすぐ一枚下には「パニック寸前」を抱えているような気がする。
「このごろどうなの」と訊くだけで、何か情動が恐慌に向かう気配が起こったりする、同じことが男性においては「破裂寸前」の様子で起こるのかもしれない。
この状態で男女が、服をひんむいてイチャイチャしようというのは、むつかしいというよりはもう「重大なリスク」がある、と予感される。
かといって、若い男女が服をひんむいてイチャイチャしないわけにもいかないし……つまり皮の一枚下までグール化がせりあがっているのだが、それにしても誰だってまともに生きるしかないのだ。

「まあしゃあない、まともに生きよう」

われわれにとって最も重要な約束、「まあしゃあない」「まともに生きよう」、この約束が守られないかぎり、われわれには一ミリたりとも自己の問題に向き合う資格を許されない、それは破裂もパニックも節度において許されるわけがないからだ。
われわれは、失うべきでないものを失ったせいで、このグール化寸前の状態を引き受けるハメになっているわけだが、何が失われたのかなんて安易に追求しないほうがいい、「まともに生きよう」のほうがはるかに優先だ。
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NHKが報せる「非常事態」について
逃してしまったのだが、NHKスペシャルで二夜連続、「ニッポンの家族が非常事態!?」という特集を放映したそうだ。
二夜連続の、第1集が「わが子がキレる本当のワケ」で、第2集が「妻が夫にキレる本当のワケ」だそう、じゃあ何にせよ「キレまくりでヤバい」ということなのだろう。
NHKは以前にも、「ママたちが非常事態」という、キレる子供をどう子育てするかの特集を組んでいたので、つまりNHKは、日本の家庭と家族が「精神的に発狂スレスレだ」ということをしきりに報せていると言える。
予告編を見るかぎり、たぶん「人はキレるとき、脳波はこうなっています」というようなことをレポートするのだと思われるが、もちろんそんなことを知っても、常人は自分の脳波なんかコントロールできないから意味がない/まあ何にしても、後日オンデマンドで観てみようかと思っている。

僕は先日から友人に、こういう話をしている、「家族連れをよく見るだろ」「うん」「母親が子供にキツく言うところをよく見るだろ」「うん」「でも、父親が子供を叱っているところなんてほぼ見ないだろ」「あっ、そういえば」。
指摘されて友人は驚いていたのだが、まったくそのとおり、いつの間にかわれわれの風景には、「母親が子供にキツく言う」ことばかりがあって、「父が子を叱る」ということは消え失せたのだ、「このお飾りのような"お父さん"は何のためにいるの?」と言われても「稼ぎのためよ」としか答えられない状況がある。
妻が夫を頼りにして歩いているなんてシーンも見ないし、夫は子供を叱って教育するわけでもないので、平たくいえばもう日本の男性は金銭面以外には「要らない」といえる、この日本の男性の「要らない」感が今すさまじい濃度で蔓延している。
今日本の男性は、四方八方から「要らない」と言われているのだが、一方で課せられる労役量は増大する一途なのだ、このキツすぎて気の毒な「要らない」ものにどう同情したらいいのか、さすがに女性も操をささげて同情してやるわけにもいかないので、みんな困り果てたまま、状況の苛烈化だけが進んでいるのだった。

男性は道を探しているが、基本的に道はもうない。

冷静にならねばならないのだが、もう自慰とインポと、あとはホモになるか暴力団員になるかぐらいしか残されていない、たぶん今父親が子供を叱ろうとすれば子供は明確に「失笑」するだろう、そこで家族に失笑までされたらあとは本当に殺し合いになってしまう。
僕個人はまだ、幾人かの女性に「必要」と言ってもらえているが、これはきわめて例外的なことなのでサンプルにならない、ただ言いうるのは、或る特別な「愉快さ」についてはやはり男性しか作りえないということだ、それは例外的に男性の道になりうるかもしれない。
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オバケや幽霊を見る人のパターン
「オバケや幽霊を見る」という人は、案外少なくなく、特に女性には思いのほか多い。
そして、この「オバケや幽霊を見る」という状態は、あまりよくない状態だ、この状態になるのはパターンがある。
「オバケや幽霊を見る」という人は、決まって、「あの世は信じているが、カミサマのことはよくわからない」という人だ、これはいわば「潜在的無神論者」の状態にあると言える。
なぜそんなことになるかというと、テレビで「カミサマ特集」はやらないのに、「心霊特集」はやるからだ、それで単純なわれわれは「あの世」だけを信じるようになり、カミサマのことは教わらずに育っていく(人間の信仰なんてそういう単純なものだ)。

これまで見てきた限り、「人間は死んだら終わり、無になる」という人は、「闇」を抱えるようにはなるけれど、オバケや幽霊は見ない、これは単純な無神論者だ。
そして、「あの世はあるし、カミサマもいる」という人、この人もオバケや幽霊は見ない、この人は「あの世」を人間のものではなくカミサマのものだと思っているからだ。
残る、オバケや幽霊を見る人は決まって、「あの世は信じているが、カミサマのことはよくわからない」という人だ、この人は潜在的には無神論者で、「あの世」を「死んだ人たちのもの」だと思っている。
ここで、これは宗教や宗派に関係のない話、どう考えても人間が「あの世」を創ったという話は虫が好すぎる、われわれはあの世の製作者たる人間を知らない、もし「あの世」があるならその製作者はカミサマと呼ぶしかないはずだろう。

カミサマの話を抜きにあの世の話だけ知るのは、柱なしに壁だけ建てるようなものだ。

真面目な話、これは順序が悪い、どう考えても柱を建ててから壁を建てるべきだ、しかし実際のところ、われわれは正統な宗教からカミサマの話をじっくり聞く機会などないのだから困ったものだ。
もし、「叡智に光るオバケ」が出てきたら、われわれはそれをオバケ呼ばわりはしないだろう、このことはつまり「オバケは叡智の反対」ということを示している、叡智に満ちたオバケなんかあってたまるか/だからトルストイやゲーテ、西田幾多郎、タゴール、ブレイク、イェーツ等、叡智の人たちはカミサマを否定しなかった、それはカミサマが「心霊」ではなく「叡智」に属する事象だからだ。
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なんという日の哲学
を食う、酒を飲む。
映画を観る、ゲームをする。
若い男女ならセックスもする、学問もして詩も読む。
それらすべて、根暗ではいけない。

根暗に思い詰めることを哲学というのじゃない。
なんという日、繰り返しのような日々と暮らしのすべてに、なんという日と呼ぶべきものが見つかる。
そのうつくしいものが人の生を支配している。
飯を食う、酒を飲む、映画を観る、ゲームをする。

哲学とは、「大歓迎!」の事実をいう。

飯を食う、酒を飲む、映画を観る、ゲームをする、それのすべてに、あなたは「大歓迎!」と言われたい。
なんという日だ! 飯と酒と映画とゲームが待っている、哲学とはその事実に対する知性のはたらきのことをいう。
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これから先の貧困に向けて
本は貧困に向かっているだろうが、個人的には貧困には向かいたくないな。
このまま貧困が行き渡った場合、まともな暮らしができるのはごく一部分の人のみ、という状況になる。
途上国には貧困環境のまま暮らしている人たちがいくらでもいるだろうが、彼らの貧困と日本人の貧困は異なる様相を持つだろう。
なぜなら、途上国の貧困層は、生命力を失っているわけではないからだ、現代の日本人は、生命力のないまま貧困に突入することになる。

おおまじめな話、これから先の貧困に向けて、愛し合う能力がないというタイプが、最大の地獄を見ることになると思う。
地獄を見るのは決して悪いことではないが……途上国の貧困層は貧しい暮らしをしているが、家族や友人同士、愛し合っていないわけではない。
タワーマンションの4LDKに暮らすなら、愛し合っていなくても快適さは得られるのだが、愛し合っていないのにバラック小屋に同居させられるのはヒサンなのだ、たぶん殺し合いになってしまう。
日本は貧困に向かいつつ、日本人は愛し合わないことに向かっているだろうが、その両方ともに、僕は個人的には向かいたくないのであった。

愛と生命力にあふれていれば、真のヒサンさには至らない。

日本が貧困と無愛に向かうほど、僕は友人に防犯の重要性を主張するようになっている、貧困と無愛の先にはどうしても、自殺するか強盗するかしかないという人がたくさんあふれてくるからだ。
まあどんな時代にもきっと、まともな暮らしとヒサンな暮らしはあったのだ、貧困と無愛の時代がくるといっても、その割合が一方に偏るというだけで、例外が存在しないわけではない。
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が綺麗すぎる。
どうしよう。
これは気候のせいなのか。
それとも僕が恢復してきたということなのだろうか。

こんな綺麗な夜は、二十年前、神戸にいたときよりなかったように思う。
中目黒の商店街は、いつもどおりの現代喧騒なのだが、なぜか僕には突き刺さってこない。
なんだこれは?
部屋の中にいても夜の綺麗さがわかる、これはひょっとするととんでもないことが起こっているのかもしれない。

また僕は、あのときの僕まで還れるのだろうか?

今、そういう状態なので、あまり多数の人と関われない状態でいる(もともとここ数年は、いかにも無理をして人と付き合ってきたのでもある)。
急激な変化のせいで、いつもの書く手段が混乱してしまうのだけれど、明らかにこの現象は、今僕が書いていることとつながって起こっている、今「怒りの日」の七日目を書いている。

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性格とキャラを帯びた空き家

が知ってしまったことは、実は多くの人が内心で、自分の「個性」のなさに深く苦しんでいるということだ。
それで、お化粧をしてかわいくしてみたり、オラついてみたり自分をキャラづけてみたりするのだが、それでもどうしても自分が「誰」にもなれず、そのことに苦しんでいるところがある。
この話がおかしいのはもちろん、ここで本当に求められるのは「個性」などではないからだ、サンプルをつぎはぎして作った「個性」を貼り付けても当人が求めている何かには決してならない、そもそも根本的な性質が違う。
残酷な話、今子供であれ大人であれ、集団で大声を出して話しているのを聴いていても、「誰」が「誰の声」なのかがまったくわからないのだ、それは個性サンプルをなぞっているだけの不明な声だからだ。

このブログを長いあいだ読んでくれている人は漠然と、「九折さん」の話を聴いている、という感じでいてくれているのだと思う。
ただそれだけの簡単なことだが、どうやらこの簡単なことが現代の多くの人にとってはむつかしいようなのだ、どうも現在この世界には「○○ちゃんの話」や「○○くんの話」というのが無い様子で、そのことで苦しんでいる人が数多くいる。
当然、あなたが自身として「○○ちゃんの話」を発するようになるために必要なものは、化粧や服装や髪の毛の色による「個性」などではない/僕は自分が書き話すことに個性的であろうとしたことは一度もない。
自分のキャラやモットーなんか持ってもムダだし、自分の役職や立場や仕事だって関係ない、あなたは「あなた」なのだが/あなたはひょっとすると「あなた」という自身をこれまでに一度も所有したことがない可能性がある、そういうことは現代にとても多い。

どんな性格でも、空き家は空き家だ。

どうも冗談ではない話、現代の人は「性格」や「キャラ」を"人間"だと思っているふしがあるが、そんなわけはないのだ、どれだけキョーレツな性格とキャラをしていても、そこに「あなた」がないならそれは空き家だ、どんなハデな家でも、それが空き家なら尊厳を覚えるには能(あた)わない。
僕は○○ちゃんに会って、「○○ちゃんの話」を聴きたいが、老婆心から申し上げると/○○ちゃんが「○○ちゃん」になるのはそんなに簡単なことではない、それは壮絶な戦いを要することで、そこをナメていたらすべては不毛に終わってしまうだろう。

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人間の直接的な動機

間の直接的な動機は……
かっこよさがある、かっこよくないのはクソだ、という直接的な動機がある。
このかっこよさを、イメージに頼ると、人はもう死ぬ。
人間には慾望があって、慾望がかっこよさとつながっていないといけない/かっこよさのイメージを探して、それで願望を叶えようとするのは最悪のケースになるだろうが、そんな奴はこの宇宙に一人もいない。

やりたいこと、とか、興味のあること、などを探すのは一番よくない。
あなたの最も興味のあることは、最もゲスなウェブサイトに記載されているので、それはあなたがゲスになるということにしかならない。
○○をやればかっこいい、ということはありえず、テンションとかやる気とかモチベーションとかいうのも関係ない、それらはすべて親しみやすさとかっこわるさにしかならない。
人間の直接的な動機は、"課題に向かわない"ことだ、課題に向かうことは人にとってわかりやすく、親しみやすく、そしてかっこわるい/慾望を課題化しないことだ、それが人間の直接的な動機につながる。

"課題"のすべてに愛想を尽かせ。

人は愚かなことに、"課題"を突破して人に承認されたいというしょうもない願望を持っている、このことが慾望の直接化を阻害する、あなたがかっこわるいということは、すべてが課題化しているということだ、だからあなたは何もやる気が起きず、他人のやることを見物して評定ばかりしている。
不等号、「慾望」<「認められたい」が成り立つとき、人ははっきり言って壊れている、慾望以上に自分を満たしてくれるものなどありえないのに/満たしてくれるものをヨソに求めるという病気に罹り、このことは一般的にマザコンと言われる。

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六月の薄藍色
んな季節のこんな夜は、世界中の世界が綺麗すぎて、何も手につかんな。
直線で正確に半分に割られた、新品の月が、LEDでも仕込まれたように、薄藍色の空に光っている。
天空に古代の風が吹き、地上に時代まぎれの風が吹く、現代なぞはどこにもない。
本当に何も手につかないので、このまま外に遊びに出るのはヤバい、いつまでも帰ってこられなくなる。

今になって言えることは、人と人とは、思ったような関係で成り立っていないということだ。
それはブキミですらある、みんな正しい知識を得たのだが、言うなればその正しい知識が「要らない」ということだ、人と人とは絶対に思ったような関係で成り立ってはいない。
みんな能力を上げたので、現在のような状況があり、まさかのまさか、好転させるためには能力を"下げ"ないといけない、これがいかにも無理難題だ。
人と人とは、本来おそろしいものだった、おそろしいからこそ面倒くさくはなかった、もうそろそろ空も藍から黒へと変わってきたことだろう。

僕たちのウソ話の中、ホントのことが混じり込む荘厳。

正しい詩人の知識は、詩人として存在していなかったらどーする、そもそも「人」というおそろしい存在は、思われているようなパッキリとした存在ではない、何が何なのか本当はわかったものではないのだ。
トランスとか変性意識とかサイコパスとか、漫画的に言っているのが一番気楽だろうね、もっともおそろしいことはこの世界と人とが正しい知識では成り立っていないということだ。
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グール化とゆがめられたエクスタシー4
事につけ、必死になれない、全身全霊で取り組めない、という人が多くあるものだ。
全身全霊で取り組めないということは、自分の中枢から取り組めないということだが、それは中枢がグール化しているからによる。
全身全霊で取り組むということは、自分のエクスタシーを明らかにして取り組むということだから、グール化している人はそれができないのだ/グール化した人の全身全霊行為は「うわぁ……」にしかならない。
全身全霊で取り組めないのは、やる気や根性の問題ではなく、グール化のせいだ、エクスタシーが「お見せできないもの」に成り果てているので、それが永久に封印されているだけだ。

われわれは音楽を聴いているのではないし、絵を見ているでもないし、小説を読んでいるのでもない。
人間のエクスタシーを見、人間のエクスタシーを体験しているのだ、それは恋あいだってセックスだってそうだし、学問や仕事だってそうだ。
あなたの人間的エクスタシーを見ない限り、誰かがあなたのことを「見た」とか「会った」とか「知った」とかいうことにはならない、このことの見物人気取りは必ず最悪の報いを受けるだろう。
マイケルジャクソンを見ろ、ジェームスブラウンを見ろ、バーンスタインを見ろ、ボブマーリィを見ろ、すべてエクスタシーを明らかにして人前に立っている/このことを「見物評価」して増長する連中は必ず最悪の報いを受けるだろう。

自分が人間的だと言い張るなら、エクスタシーを見せてみろ。

エクスタシーという容赦のない壁を前にして、退散するのはある意味正しい、だがそこで評価ぶって増長しているのはだめだ、見物評価の風情は最悪の罪を背負うだろう。
すっきりするじゃないか、エクスタシーを除外しているから、何にもならないし、何も始まらないんだ、エクスタシーなしに充実ぶったって形骸無実にしかならなくて当たり前だ。
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グール化とゆがめられたエクスタシー3
う考えればいい、まずあなたが思いつくXさんやYさんをイメージする。
そのXさんが「解放」されて、エクスタシーに到達するとしたら、そのときXさんのエクスタシー像はどのような感触に想像されるだろうか。
「うわぁ……」と気持ち悪く感じるか、あるいは「ゾクゾクする」と半笑いで感じるか、「そそる」という言い方もする、けれどもそれはグール向けの安っぽい淫靡さでしかない。
XさんやYさんの、エクスタシーに、美と荘厳を覚えるか、静まりかえり、このことに「自分の命を使っていい」と思えるか。

もし、そこに「自分の命を使っていい」と思える美と荘厳を覚えるなら、XさんやYさんはあなたの人生の登場人物だ。
それは大げさなことではなくて、なにげないことだ、どこにでもあるありふれたこと、それがわれわれの生でありエクスタシーだ。
「自分の命を使っていい」と思えるものが何一つ見つからずに生きている人は、あまりにさびしいので、「ゾクゾクする」「そそる」というしょうもないことへグールの慰みを得ようとする。
あなたは誰のエクスタシーを見たいか、受け止めたいか、またあなた自身のエクスタシーは、人に見せられるものか、人に与えるにたえるものか。

名刺交換が社会的、エクスタシー交換が人間的。

エクスタシーというのは、何もセックスのことだけを言うのじゃない、万事にどう高まり、どう結実するかだ、これを投げ出した卑怯者はグール化する。
人間が人間的に堂々としてあれるということは、自分のエクスタシー・ボディを堂々と見せつけていられるってことだ、このことに何のごまかしも利かない。
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グール化とゆがめられたエクスタシー2

ール化したガキを作るのはカンタンだ、まず苦痛を是として、エクスタシーを否で禁忌だと教え込む。
とにかくつらいガマンをさせて、そのガマンだけがエラいと教え込むんだ/メシを食うとか笑うとか、そういうエクスタシーは汚いものだと抑圧する。
一方で、つらいガマンの中、うまく偽装された性的アニメ等、猥褻で淫靡で貪婪な刺激を与え続ける、そうしたら子供は当然依存する。
ガマンさせられてつらいところに、チンコ・マンコがうずく刺激を送り込まれるからだ、偽装されてわけのわからない甘みを覚える、子供は早々にそうして自分に局所的な慰めを与えることを覚える、このことは加速していく(ついでに頭の中とチンコ・マンコが分離するので人間が断片化する)。

親や教師や世間に、つらいガマンばかりをさせられた人間は、親や教師や世間を怨んでいる。
怨みは反逆や報復を生む、その報復としてのあてつけに、「えげつないものをブチかましてやりたい」という衝動が養われていく。
彼らにとってエクスタシーとはそういうものなんだ、"えげつないものをギャーッとやる"、つまり自分がグール(食屍鬼)なんだと見せつけて、悲願だった「解放」を得たいと欲する。
エクスタシーを否定された怨みが、人を復讐のグールにする、むろん誰だってそんなものになりたいわけじゃなかった。

子供のころ、エクスタシーを肯定してくれるうつくしい人はいたか?

人間の中枢にはエクスタシーがある、これを否定されると、人間は表面上ロボット化し、しかし中枢は消えてなくなるわけではないので、中枢は閉じ込められたまま腐敗し、グール化する。
エクスタシーがうつくしいと知らない奴の言うことをアテにするな、そしてまた、自分がそれを知らないというなら、自分の思うこともアテにするな。

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グール化とゆがめられたエクスタシー

間の全身はエクスタシーに向かう。
このエクスタシーがゆがめられるとき、人はグール化する。
自分がグール化していることを認めるのはイヤなものだし勇気が要る。
友人がグール化していることを認めるのはイヤなものだし勇気が要る。

われわれは麻薬をイヤがっているわけじゃない。
麻薬によってグール化した人間を見たくないだけだ。
誰だってセックスをしたいのは当たり前で、さびしい暮らしはさびしいのが当たり前、野心や願望だってそれなりにあるのが当たり前だ。
それはもともと、人をグール化させるものではなかったのに、いつのまにかそうなっちまった、われわれはセックスやさびしさについてとても話しづらくなった。

エクスタシーは本来、うつくしかった。

見ろよ、本来のエクスタシーを知らない者たちが、グール・エクスタシーを真実だと思って、知恵のない奮闘をしている。
いったんグール化してしまうと、もはや自分の中枢に触れないようにするか、もしくはグール化に開き直るかだ、そのどちらとも救いのある方法じゃない。

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この世界は思うがままだ

「怒りの日」のシリーズ、その最終話を書いている。
追究するところ、人間のど真ん中にはやはりカミサマとつながった魂が入るように出来ている/ど真ん中にカミサマが降りていなければ、それは「空き家」だ(そういう人も実際にいる)。
カミサマは永遠のものであり、一時的なものではないが、永遠というのはつまり「存在」であり、「存在」とはけっきょく"ただひとつの統一的存在が時間と無関係にある"ということになる(西田幾多郎の言い分と同義)。
この「存在」は、われわれがどう思おうと関係なく存在している、つまり「思ってもみないもの」として存在しているので、この「思ってもみない」ということが本当に知られれば、この統一的「存在」という永遠性は実際に目の前に体験として得られる(西田幾多郎の言う「見神の事実」)。

この世界の「存在」という事象は、われわれが「思う」なんてことをしなくても存在しているので、われわれがどう「思って」も無意味だ、このことを僕は体験上「手の出しようがない」と表現する。
手の出しようがないということはつまり、この世界へのイメージや先入観は実は何の意味も持たないということだ、いうなれば「現実的」という先入観さえこの世界に手を出していることにはなりえないと言える。
では、そうなるとこの「わたし」は? ここまできてようやく、真に「思う」ということの機能が活躍してくる、このことは心臓に宿り「真我」と呼ぶのにふさわしい/「手の出しようがなく、思う」という真我においてこの世界は「思うがまま」のものとして実在する。
これらのことはつまり、古代インドにあったウパニシャッド哲学の言い分に符合する/そのことが想起されたのは、わたしが十五年前にインド当地のガンジス川のほとりで、インド人のおっさんにブラフマーの話を聴いたからだった、今になってそのことがバックアップになってくるとはな(あのおっさんは元気にしているだろうか)。

特別な本なんか読まなくても、誰の目の前にも世界はある。

ショーペンハウアーが「読書について」の中で述べているように、まともな哲学者は、哲学書を読むのではなく、世界そのものを直接読んでいる、そしてその世界そのものは誰の目の前にも平等にあるだろう。
ウパニシャッドの言い分は、梵我一如、すべてが「思ってもみないもの」であり、それらすべては「思うがまま」だということだが、こんなことは知識としてはまるでゴミだとして、それが「体験される」なら話は別だ。

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断片(他人でさえない)2
「他人でさえない」という言い方は、ヒドイが、重要でかつ有効だ。
われわれは、汝の隣人を汝のごとく愛するべきだが、このとき隣人という他人が、あまりに断片すぎて困ることがよくあるからだ。
なぜ断片になるかというと、定番としては、幼児的自己中心性の中にある人ほどその当人が「断片」になる、これが付き合いきれない。
あるていど、年長者は年少者に対し、その断片をひとつの人格に組み立てるのを援けるべきではあるが、いくらなんでも付き合いきれないということがよくある、今「断片」という捉え方は残酷だがどうしても必要だ。

いわゆる、昔から言われるところの「自我の確立」だが、その「自我の確立」はどのように為されるだろう。
「自我の確立」というのは、いわゆる甘えの脱却、自己中心性を解決して、自分と他人との関わりという「他者性」に目覚めることで得られる。
残酷だがやむをえない話として、幼児的自己中心性の中にある人は、まだれっきとした「人」ではないのだ、だから他人を愛するにしても、彼はまだ「他人」でさえないので、こちらからはアプローチのしようがない。
本来、その自己中心的断片をひとりの「人」にしてやるのは、母親と父親がコンビプレーでする仕事なのだろうが、今ほとんどの家庭で父親は機能していないだろう、昔から言われる「父親不在」の状況は、この世界に「断片」の人間を生産している。

隣人を愛して、断片災難は忘れろ。

隣人とどう愛し合ってゆけるかということは、尊いテーマだが、断片に脅かされる災難というのは、単に「たまったものではない」だけだ、これはもう防犯だけして忘れるしかない。
「他人でさえない」、それはなぜかというと、向こうから見てこちらは「人」に見えていないからだ、これでは他人と他人が出会うということがなく、向こうが一方的に何かをぶちまけてくるだけにしかならない。
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