☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ママコン(造語)の話

本人男性はマザコン気質で世界的に有名だが、このところはむしろ、母娘のあいだに起こる「ママコンプレックス」(ママコン)がひどいように思う/もちろん「ママコン」などというのは造語だ。
だいたい、どこの血族でも母と娘の関係は強度の依存状態かつ深刻なストレスのおよぶ破綻状態にあり、これについてはコワ〜いのであまり口出しはしない。
ママコンにおいて、娘は母の支配下で、およそ四十年ぐらいを生きる、四十年経つとだいたい母が老化するか、死ぬわけだが、その四十年間、娘は自分の人生をカラッポに生きるので、何かもう目も当てられないことになる/イライラしながら母のすごろくの駒になっていただけだ。
自分の人生を生きるべきなのだが、娘は、自分から「母」の成分をブッコ抜くと、自分がカラッポだということに気づくので、それが恥で厭で、それを隠しきるために母製の駒であることを続ける/男性のマザコン人生は冗談みたいで笑えるが、女性のママコン人生は特に女性の気質において笑えないのだった(あまり深く突っ込んでは話せない)。

母と娘が水面下でつながったままの、つまり自立未達成の女性は、とにかく母がきらいで、その支配から逃れたいのだが、かといって母を取り去ったあとのカラッポの自分を見るのもイヤなのだ、それでどうしたらよいかというと、どうしようもないので、まあ健康に留意しようぜというあたりが、マジで重要なことになるのだった。
まあ、根の深いことなので、慌ててどうこうしようとしないことだ、ヒサンなことだとは思うが、僕のほうが年長者なので、もっとヒサンなことになった例を知っている/「母亡きあとカラッポの中年娘が部屋に座っていた」とか、考えただけでなかなかホラーなものがあるだろう。
いわゆる「毒親」とか「アダルトチルドレン」とかの類型で、専門家の分析と対処は完璧だろう、だから僕がいちいち言う必要はないが、僕がおすすめしたいのはこの視点だ、「カラッポの自分を見るのはすげーイヤなものだ」「そしてカラッポの自分から新しい自分を構築していくというのはさらにイヤなものだ」ということ、つまり「ママコンのほうがマシ」で「ママコンに庇護されている」という側面が実はあるということ。
オバケがどうこうとか、霊がどうこうとか、そんなことより母親が人格のど真ん中に取り憑いていることのほうが一万倍多いので、もうちょっとリアルに努力したら? ということになるのだった、しかし自立した「わたし」が努力するということは、やはりキツいもので、大暴れしてそのことから逃げようとする、そしてその「大暴れ」の声と姿が実に母親ゆずりだということに誰しも気づくだろう。

母親が自分の人生に関係あると思うのは、ただの思い込みの妄想なのだが、この妄想が取り除けない以上、この妄想を「事実」にするしかない。

頭がアレになってしまった人は、「すれちがうナンバープレートが僕を監視して支配してりゅううう」となってしまうのと同じように、ママコンに縛られている人は、自分の着る服、すること、遊ぶ趣味、ジャンケンで出すグーチョキパーまで、母親に支配されているのだ、それはもちろん妄想なのだが、妄想が取り除けない以上、そこをヤッサモッサしていても意味がない/妄想を否定するのは臨床心理学的にも悪手だとされている。
まあ悪手でもかまわんけどな……さしあたり僕は、いつまでも変わらず「親は一ミリも関係なくね?」と言い続けるだろう、なぜなら僕がここに書いている文章は僕の母親に一ミリも関係ないからだ/しかし「親は一ミリも関係ない」「ちゃんとできるようになりましょーよー」と言われることのほうがキツくてキビシイのだった。

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伸びるアホと苦しむマジメ
間はアホなことで伸びる。
マジメなことでは成長しない。
アホなことに労役し、アホなことを研究し、アホなことに覚醒し、アホなことに出資しろ。
マジメな受験勉強と、マジメな部活と、マジメな仕事では人間は伸びない、マジメ世界の中では人はマジメと破滅を往復して悩みと怯えを増幅させるだけだ。

悩んでいる人は必ずマジメだし、苦しんでいる人も必ずマジメだ。
そしてわれわれは、マジメな人が覚醒と解放に至ることはない、ということを経験的に知っている(目撃している)。
マジメな人は常にマジメに自分のデキや将来のデキを考えており、間違っても「あの超絶うまいカードシャッフルはどうやっているんだろう?」みたいなことを全力で考えたりはしない。
アホなことに労役し、アホなことを研究し、アホなことに出資しろ、そうしたら人間は夢の中に入るので、人は夢の中でだけ伸びる可能性を持っているのだ。

アホなことに無尽の集中力を発揮できるということ、それが才能だ。

誰だって、パチンコで負けがこめば必死になるし、キツい危機感や不快感や劣等感などに曝されれば、そのことしか考えなくなる、しかしそれはマジメな話であって、「このドラムスティックはどう動いているんだ?」というようなアホなことへの集中力とは性質を真逆にする。
アホなことに自己を投資できない人は、自分がこの世に生まれ落ちたことがアホなことだとは思っていないのだろう、マジメな人は発表会やコンクールで泣くだろうが、アホな人はリストやサン=サーンスそのものに泣くのだ。
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映画の世界にカメラはない
んな話、誰の役にも立たないが、僕にとって必要なので、メモ書き。
カメラというのはノンフィクションの道具で、映画の中にカメラとかカメラマンとかいう存在はない、映画はフィクションの世界だから。
これが、ドキュメンタリーとかレポート映像なら、カメラおよびカメラマンは存在していい、レポート映像はノンフィクションだからだ。
映画のカメラは、映画の中に入ってはいけない、映画のカメラは映画世界の出現を「目撃」しているだけだ、カメラが映画を撮るということはありえないのだった。

僕は自分でフィルムの一眼レフを持っているくせに、他人にカメラ趣味を勧めることはない、自分の感触として「カメラは良い趣味じゃない」「たいてい品性を下げるぞ」とネガティブに伝えることにしている、実際カメラ趣味の人がブシツケで気分が悪い人というのはとてもよくあるパターンだから。
まあそれはいいとして、カメラで何かフィクションを撮影するという場合、カメラおよびカメラマンは「その世界に入らない」「その場所から消える」という感覚および識別の能力を持たないといけない、だがこの能力は現代において失われて久しく、今さら手に入れるのはむつかしい能力だ。
グラビアアイドルがグラビアを撮影するぶんには、そんなカメラマンの能力は必要ないだろう、グラビアの世界にカメラマンがいるのはおかしいことではないからだ。
しかし「タイタニック」が沈没するとき、カメラを回しているカメラマンがいたらおかしい、やはり映画の世界にカメラは存在していない、カメラは映画世界を目撃しているだけだ、このフィクションとノンフィクションの境目、「パーティション」の感覚がない人は、今重大なトラブルの根源を抱えているのだった(うーむ説明になっていないな、まあいい)。

ノンフィクションを完全把握することが、フィクションを完全把握すること。

いわゆる虚実皮膜と誰もが言いたがり、面倒くさく感じられるところだが、ノンフィクションの把握が鈍い人は、フィクションの把握も鈍いのだ、こういう人は何の悪意もなしに他人の作ったフィクション世界を侵害し、破壊してしまう、「マイケルジャクソンには独特のセンスがある」と発言して何もかもをメチャクチャにしてしまうような人だ、これは思いがけず罪業が残るのでやめておいたほうがいい。
ノンフィクションという、「事象」は存在する、だがノンフィクションという「世界」は存在していない、だから新宿駅の定点カメラには何の「世界」も映り込まない、ノンフィクションの事象はリアリズムを追求できるが、リアリズムはやがて「空虚のおそろしさ」という正体しか現さないだろう。
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人間、ニンゲン、ジンカンを観たいわれわれとして2
「人格」と「人間格」を数学的に分離しよう。
いやまあ、これはまた、僕が新しいことに取り組んでいるので、僕自身として必要な定義だから言っているんだけどね。
単に「わたし」として出現する格と、「この人とわたし」として出現する格は違うということ、また「人々とわたし」として出現する格も違うということ。
格が違うのだ、数学的に別次元の事象だということ、たとえば「あ」には何の意味もないし「い」にも何の意味もないが、「あい」なら一つの意味を持ちうるということ、それは意味を持ちうるという別次元に遷移できるということだ、「あ」には「あい」の性質はひとつもなく、「い」にも「あい」の性質はひとつもない、それぞれの性質の足し算で「あい」という意味が成り立つわけではないのだ、またこれを「いあ」にするとやはり意味次元に遷移できない。

単なる「ひらがな」と、正しく接合した「ひらがな間」とでは、所属する次元が違うというのはわかりやすい、だが人はそれぞれひらがなほど単純ではないからな……
あくまで仮想的にだが、僕が「あ」であなたが「い」だった場合、「あ・い」では何の意味も為さないし、「あ/い」でも何の意味も為さない、「いあ」でもダメだし、それよりはまだ「あーーーーーーーーーい」のほうがマシだ、あるいは「ああああい」「あいいいいい」のほうがまだ少しだけ意味を持ちうる、大変低級な意味ではあるが。
重要なことは、どれだけ「」をデカくしても、そのインパクトは何の意味も為さず、インパクトがデカいだけで、実は「見るに堪えない」ということだ、だから現代のいろんなものは見るに堪えないままインパクトだけで押し通っている(悪口)。
「わたしは『あい』をやりました」「『あ』を担当されていたんですよね」「はい、そりゃそうですが」「『あ』をやるにあたって、苦労はありましたか」「? いや、僕は『あい』をやったので、『あ』については特に……」「はい、その中で『あ』を担当されたんですよね。『い』に向けて『あ』をやるのに、コツといったものはあるのでしょうか」「いや僕は『あい』をやったので、そのとき『あ』は使っていませんよ」「でもあなたは『あ』だったんですよね」と、こういう話の噛み合わなさが起こるわけだが、これは格が異なり、上位格と接触できない人がえんえんと低級事象の理屈で上級事象の説明を請うている状態なのだ、このことは数学的に分離することで混乱を防げる。

「わたし」はどれだけ優秀でも落下だ。

もう何のこっちゃわからんと思うが、これは今の僕に必要な知識なので、放置するように/おそらくこれは「カミサマ」と「わたし」と「わたしたちに通う高次元のもの」という事象で、いわゆる三位一体の「父と子と精霊の御名において……」というのはこれのことを指しているのだと思われる(放置するように)。
別にたいそうなことを申し立てたいわけではないのだが、今新しく取り組んでいることについては、これがわかっていないと(できていないと)遊べないのだ、まったくうかつに新しいことになんか取り組むものじゃねえなあ(困憊)。
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人間、ニンゲン、ジンカンを観たいわれわれとして
「人間」とはニンゲンまたはジンカンと読み、もともとは「人と人とのあいだ」にあるものを指す。
「人間」はよいものだ、われわれはどんなに優れた個人たろうとしても、人と人との「あいだ」にあるものを為さないかぎり、優れた「人間」であることはできない。
「人間」というと、いわゆる人間関係が想起されたり、あの人は善人だとか、あの人は性格がいいだとかいったことを考えるけれども、本当に厳密な意味で「人間」というとそういうことではない。
「人間」の本質がわからないから、われわれはそれを逸脱するたびに、個人主義に陥ったり、反転して全体主義に陥ったりした、「人間」というのはもっと厳密なものだ、つまり「人間」とは逆に「人ならざるもの」「人ならざる格」であり、その「人ならざる格」を人は愛し、またそこへ我が身を投じることができるということなのだ。

たとえばテーブルの脚を四本、テーブルの天板から分離したとする、するとこの四本はそれぞれに無関係な棒きれでしかない、こうして分離されるともう何をどうやっても「すぐれた脚」たりうることは不可能だ、たとえそれが純金で作られていたとしても。
四本の脚が正しく接合されていたとする、そのうち一本が純金で作られていたとしよう、けれども別の一本の脚が欠けたとしたら、テーブルは加重によって転倒してしまうだろう、そのとき純金で作られたテーブル脚は己の身の高級性を何ら誇ることができない、テーブルとしては「ポンコツめ」と言われるしかないのだから。
四本の脚が天板に正しく接合されているところ、五本目の脚を継ぎ足したら? この五本目の脚は機能しない、この五本目は出しゃばりな上に本人としても居心地が悪いだろう。
五本目の棒きれは脚とならず、脚と脚とを横につなぐ貫(ぬき)となってつながればいい、そうすればテーブルの強度は向上し、何十年とガタつかないテーブルになる。

「脚」は、すでに「棒きれ」の格ではない。

「人間」は、すでに「人」の格ではないのだ、われわれはそれを観たがっているし、それを作りたがっている。
脚が己を棒きれとして誇るとき、テーブルは解体されるだろう、そこには棒きれなるものはわずかも残っていてはならない/そこに棒きれが残るとき、ただちにそれは「人間でない」と見えてしまうから。
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フィクションゴーゴーと恐怖のサイコロ

の話をするんだったか、忘れてしまうな……(春のせい)
あ、そうそう、「フィクション」の話をするんだった、「実用的フィクション」に関わって新しいことが発見されたぞ、それは「人によって接触できる自家フィクションは六通りに分かれてしまう」ということだった。
仏教説というか古代インドで唱えられたところの輪廻(六道輪廻)という説は、わかりやすく、いつも「的を射ているなあ」と感心してしまうので、僕は気に入ってよく判断のアテにしている、六道とは「天道→人間道→餓鬼道→地獄道→畜生道→修羅道→天道」のことで、われわれは人間の道に居続けるべきでしょうねということ、ざっくり言って「学門と行い」の道が人間道だ。
さあそれで、人それぞれその「所属」が6パターンに分かれているということなのだが、フィクションの技法によってノンフィクションの束縛を突破し、想像力の世界へ飛び出すことができたとしても、その「想像力の世界」というのが、6パターンに分かれてしまうということなのだ、人は「突破」しても自分の所属している○○道の向こうにしか飛び出せないということが新しくわかった。

あまり細かくは説明できないので、わかりやすいように言うと、「6パターンのフィクション」は、「わたしが死ぬときどうなる?」というヴィジョンとなってもたらされる/なぜなら「死」とは、己のノンフィクションの身が滅ぶ瞬間のことだからだ。
たとえば人間道にいる人は、「自分が死ぬとき、『この世界とわたしはこうなっているのか』という識の極限に至ると思う」という確信的予感をヴィジョンとして得るのだ、しかしたとえば地獄道にいる人は、「自分が死ぬとき、際限なく地の底に落下していく、そしてその極限に永劫のごとき長いあいだ閉じ込められて焼かれ続ける」という確信的予感をヴィジョンとして得る。
天道にいる人は、天道は死と無明の世界なので(十二因縁)、おそらくクトゥルフ神話のような、わけのわからん巨大なものに食い尽くされる、というヴィジョンを得るだろう。
餓鬼道や畜生道や修羅道は、どういうヴィジョンを得るのだろう、それはまだ考えていないのでわからないが、とにかく現時点でわかっているのは、フィクションの機能による「突破」で想像力の世界を見たとしても、その先に「見える」「得られる」ものは、必ずしもよいものとは限らないということだ、「ハッハッハッハ!」と歓喜の高笑いを起こす人もあれば、「ギャアアアアア」とすさまじい悲鳴を上げる人もいる、それぞれ見えたもの・得られたヴィジョンが異なっているのだ。

想像力だ、フィクションだ、ただしそのとき人それぞれに、「何が出るかな」の六面サイコロだ。

僕は、「見える」ということが大事だ、という一点張りを唱えてきたのだが、まさか「見える」というのが人によって何が見えるか異なっていたとは……(すまんな)、そういえばたしか河合隼雄も、「この世界の、たとえば机が机であるということが、はっきり見えてしまった場合、そのことによって精神病のトリガーが引かれてしまう」というようなことを指摘していた、つまりその人にとっては「見えた!」ではなく「見えちゃったああああ」が得られたということだろう。
高度なフィクション作品を好む人は、数として実は少ないし、たとえばマイケルジャクソンのライブDVDを観ていると、「最後まで観ていられなくて途中で消しちゃうんです」という人が実はけっこういる、そういう人はフィクションを観る能力がないのではなくて、「何が出るかな」のサイコロの目がヤバいのだ、サイコロの目がヤバい人にとって「見えてきた」というのはよろこびではなく恐怖となる/それでフィクションとの接触を断って、「パンダの赤ちゃんが……」というニュースでも観ようというほうに切り替え、こころを紛らわそうとする、もちろんそれはそのほうが正しい(トラブることには何の意味もない)。

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春の味しかしない

「おれは天才だぜ〜」という、正義のネタを、僕はこれまで使い回して遊んできたし、まあ天才なので、天才はひゃっほうなのだが、毎年この季節に春の微粒子が来ると……ふとひとつのことがわかった。
「おれは天才だぜ〜」と言っているところに、「天」が直接降り注いでくるので、「あっ」となり、することがなくなるのだ。
天才がひゃっほうと浮かれて活躍できるのは、あくまで天がふだん遠いからであって、天に直接降りてこられると、「天才……」にはすることがない。
なんというかね、いわゆる中抜きされた気分ですよ、これまで天という卸業者と人という消費者のあいだに、天才という仲買人が入っていたのだけれど、その天が直接消費地にまで降りてこられるとですね……ここが天国になってしまうでしょーが、そうすると天才は廃業なのだった、そりゃまあ幸福な廃業ではあるのだけれども。

しかもこの「春」は、これからだいたい五月半ばぐらいまでかけて、何度もこの春を注(そそ)いでくるのだ、しかもそのたびに濃度が違い、たいてい濃度は高くなっていく、桜の木に桜の花が咲くのはわかるが「おれの身にまで咲かせるのはやめーい」ということまで生じる、そのことは、だんだん前もって畏怖を覚えるようにさえなってしまった/春っていいかげんコエーよ。
この春がテキメンに効いてしまっている場合、夕刻に見知らぬ外国の女子高生に手招きしたら、女子高生は僕の膝の上に乗っかるところまで来てしまうぞ、四肢が完全に性的でありながら性行為への切迫や要求はまったく起こらないという、それぐらいヤバイことを四方ほうぼうにもたらすほど「春」というのはヤバく、こんなものが降り注ぐのだ。
天が直接降りてきて、全体を天国にされてしまったら、天才としては本当にやることがないなあ、華麗なるおれの無数の創作物が即日不要品に切り替わるのは、まあしょうがないことではあるが、思わず鼻からムフーと苦笑が噴きだしてしまうものがある。
これは何というか、言うなればハーバード大学とケンブリッジ大学が、急に「すべての受験生を無料で受け入れます、入学を望むもの全員合格です」と言い出したときの、教壇に立ち尽くすハメになった予備校のスーパー講師みたいな状態だと思いなされ、そのときスーパー講師の務めは幸福の中で完全満了したわけだが、幸福の中で急にどうしたらいいのかわからないのだ。

酒にもメシにも桜にも、春の味がして怖い。

むろん女にも大気にも、春の味しかしなくなる、そうなるとちょっと怖い、つまり森羅万象がもともと全部「春」に回帰する同じひとつの性質物にすぎないのでは? という気がしてくる、気がしてくるというよりたぶんそーだよ、「エエエエエ」ってなもんだ、どのラーメンが旨いか議論していたわれわれがアホじゃないか。
「春の味しかしない」というのが正解か、じゃあ僕はワインソムリエになったらすべてのレビューを「春の味がする」として大変な不評を買って遊ぶことにしよう。

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春の書斎
年このことを言っているのはよくわかっている。
しかし毎年、この大気に混じりはじめる、すさまじい春の粒子は何なんだ。
これが大気に混じって、ふいに鼻腔に入ると、「ああああもう、こんなもん入ってきたら終わりだってばよ」と、僕はひとつの時間を生きていることを強制的に思い出さされる。
時間は流れておらず、ずっと「ここ」にあって、僕はずっと「春」の「書斎」にいるのだ、その他の四季や年齢の変動は完全な錯覚(まやかし)にすぎない。

まだ二月九日で、外の気温はクッソ寒いわけだが、誰がどう見ても冬でしょという気候に、「いや、春が来てるわ」と僕は投げやりに言うのだ、気温に関係なく春は「あたたかい」。
ホント毎年毎年、これ何なんだよ、毎年「どこに連れて行く気なんだよ」という気がして、連れて行かれると「またここか」の繰り返し、そりゃ言いようも投げやりになろうってものだ。
「だーかーらー」と、この春の微粒子がくれるものは完璧すぎて、「もうおれがやることとか何もなくなるし、おれの考えることも完全になくなるだろ」と途方にくれる、なぜこの天才であるおれが本気を出す前にこの「完璧」の春が向こうから現れてくるのか、正直なところ何か敗北感さえある。
世界があって、自分があるわけだから、世界愛がないとウンタラカンタラ……と、いつも主張しているに、こんな「ホイ、世界でーす」みたいなものを、急にブッこんでくるなよ、ホントに書くことがなくなるだろ/春の書斎でいつもわたしは筆を執っていない。

僕は「春の書斎」を忘れずにいこう。

むかし、ある女性が何年間も僕を見て、しげしげとついに、「あなたって、きっと青春がとんでもなく長いのね、あなたの言っている話わかるよ、でもきっとそれはふつうの人にとって、ごく短い青春の話なんだと思う」と話してくれたことがある、僕も当時「へええ、なるほど」と思って「そうかおれは青春が長いのか」と思っていたが、どうやらそうじゃない、この「春」はたぶん永遠にやってくるのだ/僕が僕でなくならないかぎりは。
いつもは想像力の果てに触れるものが、季節だからといって急にそちらから降ってくるなよ、想像力の果てに到達する理由がなくなるっての/いやあそれにしても降ってくるなあ、だとしたらこの大気というやつはヤベーやつじゃないか、大気って「降り注ぐ」ものだと「見える」ということが続いているのだが、そりゃ見たとおりこいつはヤベーやつだよ。
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#MeTooから何を読み取ればいいか
リウッド女優からを代表的に人口に膾炙しているハッシュタグ「#MeToo」が告発する外道どもによるセクハラ被害の実態は、その様相が「性的」というより「狂気的」であることをつぶさに報告している/逸脱した性的なプローチの仕方および拒絶されたときの仕返しに対する執拗さと怨念じみた情念の出方が、いやがらせの不快さというよりはこころの闇を見せつけてくる恐怖として、女性を苦しめ抑圧することにはたらいている、むろんこんなものは世界中から即刻なくなるのがよいに決まっているし、なくならないなら再びロボトミー手術の方法が思い出されるのがやむをえないところだ。
「#MeToo」の勇敢な告発の蓄積によって、女性の安全と名誉と権利が回復し、その保障が新たに形成されるかという見込みの反面、われわれは元あった可能性の「光」を、すでに遠きものとして見失っている/つまり「もう、胸が大きいからって、すぐからかってくるんだから、困った人たちね」と気散じな女が肩をすくめているという、そのような状態はもともと明るい光に照らされている中でのことだったろうが、われわれはもうこの明るい光の中でありえた情景のすべてを放棄せねばならない、このような情景は近年以降「ありえない」と軽蔑の対象に認める。
思い返せばこのようなことはかつて「ストーカー」という語が唱えられたときにもあった、当時ある女性が言ったのは「そんな、待ち伏せひとつをストーカーと言われちゃ、もう男の人は何をすることもできないじゃないの」ということだった、その言の是非はどうかと確かめられる時間もないまま、実際に男性たちは「待ち伏せ」などをすでに禁じられた犯罪に近似する行為だと認める向きになっていった、結果待ち伏せは三十年前の定番でありえても現代においては犯罪に近似する恐怖行為でしかありえない。
こうしてわれわれは、目の前にある確実な正義へ傾いていくうちに、単純な結果だけを見ればますます光から遠ざかっていった、ということを繰り返してきた、なぜこのようなことが起こるかといえば/闇を斬り捨てようとして、闇のふところに詰め寄り、確かにその闇を叩っ斬ったからだ、胸の大きさをからかわれながら「もう、困った人たちね」と笑っているところの女は#MeTooのハッシュタグに共鳴するところを持たないはずだが、それら血塗られていない者たちはすべて過去の光あった時代のことに遠ざかっていった。

#MeTooから何を読み取ればいいか/第一にはむろん、下劣な男どもへの憤怒と弾劾、および女性の安全と名誉と権利が回復・保障されるべきだということ、このことは論を俟たない。
けれども第二には、これらのレポートは、本当は性的な問題ではなく狂気的な問題を報告しているということ、本来はセクハラ男性の多さとひどさが暴露され嘆かれるという形式ではなく、「気が狂っている人が多すぎる」ということが暴露され嘆かれる形式があるべきだった/しかし現代人はまだ自分たちが「気が狂っている」と認める勇気を持っていない、そのぶんのしわよせがセクシャリティというピーキーなジャンルに露出しているだけだ状況がある。
こころの「闇」とその恐怖に具わった特徴的な性質として、「闇が見えてしまった以上、それが見えてしまった者も闇の側に寄る」ということがある、つまりより深刻なことに、#MeTooタグに賛同して報告せざるをえない体験を持つ女性は、その体験によって自身も闇に大きく傾いたことを報告しているのでもある、皮肉な意味で「わたしも」と/実際、#MeToo該当者の女性が最も、「もう、困った人たちね」というような明るい情景を「ありえない」と暗く感じるだろう。
より本質的な危機は、今「#MeToo」という旗印の下に、「正義の刃を下すために、あなたも闇の森へ斬り込もう」という誘いがバズっているということだ、よほど強力な光を持つ者でも、ひとたび闇の森へ入ればまず元のところへは戻ってこられないものなのに、つまりこの#MeTooの刃を振り下ろした者は確実な正義であることは疑いないのに、闇の森からは帰ってこられないことになる/もし正義ということを捨象し、単に「闇」ということだけで見るならば、セクハラ被害およびその心当たりを受けたことが第一の不幸であるのに対し、#MeTooの旗に集い再び闇の森に斬り込んだことは第二の不幸になる、暗雲の敵ボスを討ち取ることは大いなる正義だが光の恢復とはならず闇はますます濃くなるだろう(だが正義が軽んじられるわけでは決してないし、この呪わしいことの再発防止にはむろん役立つだろう)。

セクハラは悪夢だが、この悪夢を打ち払う先、はるかに巨大な悪夢が現れてくる。

もともと、そのセクハラ悪夢の出所が、もっと大きな悪夢である「闇」「狂気」なのだからしょうがない、遅かれ早かれやがてわれわれの頭上を覆うはずだ/僕はここで#MeTooの刃の元にセクハラの悪習が討ち取られることは潮時であり正義だと思うが、おそらく劇的なできごとに比して堅牢な知識と構えの準備は十分にされておらず、祝杯は思いがけない毒の味がしてびっくりすることになるだろう。
と、こんなことを、セクハラの日本代表選手である僕が言っても説得力がないのだった、ふふーんおっぱい触らせて〜ん。
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判断は合理的に、決定はカルマ的に2
「自分は何をしなくてはならないのか」ということを、僕は考えたことがない。
そりゃ僕は世界でも屈指の無責任人間だから、義務的なものからはすべて逃亡するぜ……ところで僕が思うに、カルマ償却うんぬんはそういう「何をすべきか」的な発想から為されるものではない。
「判断」とは別に、「決定」がカルマ的に為されるべきということは、逆にいうとカルマ償却というのは、その「決定」が求められる「どうしようかな」の瞬間にチャンスを与えられていると捉えるべきだ。
たとえば「どうしようかな」と思う瞬間、ふと、「あ、わたしがやりまーす」と手を挙げるということ、このときにカルマ償却が起こっている/この「どうしようかな」の機会なしに、「自分は何をするべきか」と考えることは、しょせん自我のはたらきであってカルマ償却には作用してくれない。

カルマ償却というのは、「やるべきこと」というより「進むべき道」なのだ、そして「進むべき道」というのを大仰に捉えないほうがいい、「どうしようかな」と思う瞬間、「やっぱり今のうちに洗濯物を取り込んでたたもう」という「道」を選ぶということ/人はどことなく、そちらの道が正しいというのを、自我ならざるレベルで知っているものだ。
「どうしようかな」と思う瞬間、そんな瞬間はいつだってある、イベントに誘われて「どうしようかな」、書店で本を手に取って「買おうかな、どうしようかな」、メールを送るか送らないか「どうしようかな」、歴史特集の番組を見て「覚えようかな、眺めようかな」、ゲームをしながら「クリアしようかな、投げ出そうかな」。
この、生活の中でいくらでもある「どうしようかな」、これについて決定を下すのに、どこかで自我を切り離すことだ、自我に決定させるのではなくカルマ的に決定させる、少なくとも僕が女性に食事をオゴるときはカルマ的な感覚であって、ひどい言い方をすればブスのほうが「断じてオゴれ」というカルマの命令が聴こえている。
あなたは「ちゃんとお礼を言いなさい」とか「ちゃんと頭を下げなさい」「感謝しなさい」「あいさつをしなさい」とか教育を受けてきているが、教育によってマシーン化することはおろかなことだ、ちゃんと「どうしようかな」と考えることの正面に立ち、自我を切り離してカルマ的に決定しなさい/自我判断ではなくカルマ的に「頭を下げるべきだ」と決定できたとき、あなたは初めて人に低頭するということがまともにできる。

ある男性は、「この人にうなぎをオゴらなくてはならない」と決定し、僕のところにうなぎをオゴりにきた。

実際にそういうことがあったのだ、その方は圧倒的に僕にうなぎをオゴり、そのあと自動車趣味のことをたっぷり話し、スピード違反で走ることに伴う死生観を確認するように話し、その後はなぜか「あのとき以来、持病だった不整脈が治った」と連絡をくれた/今思えばあの人は、カルマ的な「決定」で僕にうなぎをオゴりにきたのだ、それで話すべきことを話した、理性的な人だったが理性的な判断を超えて決定し、僕のところに来てくれて、その結果とにかくきっとよいほうへ向かわれたのだろう。
「何をするべきか」ではなく「道を選ぶ」ということ、そして「道」というのは、われわれが普段歩いているとおり、そんな大仰なものではないのだ、ただしそのささいな「道」を選ぶにしても、理性的な判断の上に飛び越えたカルマ的決定がなければ、われわれはそれを「選んだ」ということにはならない/このことが正しく覚悟されれば、これからあなたに降り注ぐ何億もの「どうしようかな」はすべてあなたの足しになるだろう。
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判断は合理的に、決定はカルマ的に

は先日、重大なことが見つかっている。
僕は、オカルトや霊感や占いを採用するタイプではないし、またそもそも霊感なんか持っていないので、判断は理に徹底する者だが、実はよくよく見ると、判断は理のくせに、決定はカルマ的に選択している、しかもこれは、思い返すかぎりガキのころからそうなのだ。
判断は理なのに、決定はカルマというのはどういうことかというと、たとえば僕が先日バレエの鑑賞に誘われたときに、「今、バレエとか観に行ってもどーなのかね」という合理的な判断があるのだが、それとは別に「はいはい、じゃあ行きましょ」という決定をしている/この「決定」はなぜなのか。
自分の中で点検してみて驚いたのだが、僕は学生のとき、合唱団にいて指揮者を務めていたりしたので、「大ホールに縁がある」のだ、だから「大ホールからお誘いが掛かったときには無碍(むげ)にできない」ということがあって、そんな理由で「行きましょ」と決定している/このことを追求していくと、実は僕自身の中に重大な仕組みがあることがわかった(この報告は何かこっ恥ずかしいのだが、まあ義理の上で報告しないわけにもいかないので報告してしまう)。

僕がこうやってブログ記事を書いているのもそうなのだが、これも、別に僕がやりたくてやっているのではないのだ、合理的な判断としては「誰がこんなもんよろこぶねん」「ニコ動のほうがいくらかマシだろ」と判断しているのだが、それとは別の決定として、僕は「生きているうちに一定量の言葉・文脈・文体を提出し、一定量の伝達をせねばならない」というカルマを負っているのだ、だから判断に反して「はいはい、書きましょ、話しましょ」という決定が為されている。
僕は色んな芝居や文章の一節を丸暗記することをよくするが、そのことについても、実は「一定質量の文言・文脈・文体を暗記せねばならない」というカルマを負っていて、それの履行のために決定しているのだ、そうして僕はほとんどのことを「好きだから」という理由でやっていない。
プレステのゲームをやるのでさえ、僕は「一定量の物語を体験しなくてはならない」というカルマを負っているからやっているのであり、単に「好き」という理由でやってはいない、「好き」という理由でやっているものなんて、正直なところ探しても見つからないぐらいだ。
カルマというのは、森羅万象にかかわって、複雑を極めて成り立っており、とてもじゃないがわれわれ凡人に視認できる類じゃない、なにしろ「11月10日」とか「3月8日」とか「12月29日」とか、日付にさえ「自分はこれをおろそかにできない」というカルマがあるのだ、あるいは「五角形はおろそかにできない」とか、「縦線はいいが横線はおろそかにできない」とか、「一定量、右折しないといけない」とか「苗字の○○は無碍にできない」とか「ボブカットに縁がある」とか、人によってそんなレベルであるんだぜ、カルマなんてきっとそんなわけのわからんレベルのものだが、少なくとも僕がさして興味があるわけでもないバレエなんか観に行ったのは、まさかのまさか「大ホールをおろそかにできない」という理由なのだ/判断は理を究めていなくてはいけないが、決定はカルマ的にいいところを突いていないとおいしくない。

「一定量ハンドルを持つこと」がカルマだった場合、そのことにつながれたら、タクシーの運転手は天職になる。

ごくまれに、たとえば思いがけない遺産がころがりこんできたのに、「まだタクシーの運転手を続けるんですか」「なんや、ハンドルを持ってないと落ち着かへんねん」と笑っているジジイというのがこの世界には出現する、そういう人は実は単に仕事が好きということではなく、何かしらその職業の形態がカルマ償却につながっていたのだ/この人には給金以上に霊的な収入が得られている、だから小さなの不払いがあってもそのことで激昂するということが起こらずに済む、そして余人には到達できない笑い方に到達することができる。
さあしかしこの場合、「自我」というのはとても邪魔だ、自我が盛(さか)っている場合、あらゆる収入は自我に吸い取られて、霊的な収入にはならない、「プロのタクシー運転手として、意識を高く持ち……」というようなことをやりだすと、収入はすべて自我に吸い取られて霊的な収入はなくなるのだ、霊的とかいうのはとてもテキトーな言い方だがまあいいだろう/さああなたは本当には何をすべきで、何をすればいいのか、本当に電子書籍で読んでいいのか、ハードカバーの本を開いたり閉じたりしなくていいのか? そういうレベルでカルマ償却が為されるようなので、これはマジでわからんぜガンバロウわっはっはということなのだった。

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なぜ人は詩文に炎上するか
「あたしおかあさんだから」という歌の歌詞が、「母親」を定義するがごとくに呪わしさがあるといって、いわゆる炎上しているらしい/いわく「あたしおかあさんだから ねむいままあさ5じにおきるの」「あたしおかあさんだから だいすきなおかずあげるの」「あたしおかあさんだから あたしよりあなたのことばかり」 というあたりのことが、現代女性のマザーライフを抑圧的に定義するふうで許しがたいということだ。
もう話を単純化するべきだと思うが、われわれはすでに現代において、「詩文」などという高度な文化とは基本的に縁がないものだと諦めていたほうがよい、当該の詩文は詩文の形式だけを用いて実質は意見の主張および自己主張をしているだけで、これは今や当たり前のことだと看做さねばならない/およそ現代において、インスピレーションから詩文の出現を担うなどという高い徳性に到達している人はほとんどいない、ショーペンハウアーが当該の状況を見たらアサルトライフルを構えて突っ込んでくるんじゃないかと思う。
当該の詩文は、アンデルセン童話と同じように、その作家当人が闇に食われていると拝察せねばならない、闇に食われたものは人格が虚弱になり、「自分を含めた善人だけが神に救済されるはずだ、悪は地獄に行くはずだ」という感情的な「善悪差別」をやめられなくなる、またその感情が強烈であるがゆえに、「自分およびわたしの涙腺に訴えかけるほどわたしが好むものは善に属するはずだ」という「自己審判による善の定義」もやめられなくなる/闇に食われるとだいたいそういう様相になるものだ。
闇に食われると、「自分を救済してくれる善の定義イメージ」がフワフワ湧いてきて、これがあまりに涙腺にウルウルくるものだから、「わたしは善だ」「これがインスピレーションだ」という錯覚をやめられなくなる/ちなみに親鸞上人の唱えた「悪人正機」はアンデルセン童話の逆をいくものと捉えていいだろう、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という有名な文言だが、これはマッチ売りの少女をキックしていく愚かな凡人こそわれわれであり、そのアホのためにこそ「救い」が与えられているのだという考え方だ(アンデルセンはこのような思想をきっと許さなかっただろう)。

この種の炎上、というよりは神経に障るいさかいについて、この先はわずかも巻き込まれたくないと望む人に向けて、年長者である僕からの見方を示しておきたい、つまり詩文といっても「母よ――淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふるなり/はてしなき並樹のかげを/そうそうと風のふくなり/(中略)私の乳母車を押せ」(三好達治)では、現代人には「何を言っているかわからん」のだ、われわれは現代のニューロティックな暮らしと風潮の中で、自分の「キモチ」しかわからなくなっているので、文化といっても自分のキモチを後押しするものを「神」とし、自分のキモチを逆なでするものを「炎上」させるしか能がない。
われわれは、もう長い間ごまかしているが、すでにずっと以前から、「五十年前のものにどうしても勝てない」という敗北者の時間を歩んでいるのだ、どうしても昔の銀幕の女優さんのように綺麗にはなれないし、昔のようなジャズやオーケストラを演奏できない、昔のような活気を創り出せないし、昔のような絵画も詩文も創り出せない、これは「どこかで絶対に道を間違ってますやん」と判断するしかない状況なのだが、われわれはなおも自分が正しくて自分が一番エライという意見に取りすがっている。
五十年前というと、ビートルズが「ヘイ・ジュード」を唄い、サイモン&ガーファンクルが「ミセス・ロビンソン」を唄ったあたりらしいが、それに比べて五十年後のわれわれは「あたしおかあさんだから だいすきなおかずあげるの」と聴かされ、SNSで「この歌の歌詞はサイテーだ」と炎上さわぎをしているのだ、これは例外なく全員で反省するしかもう正しい道はないのである。
この五十年間で何があったかというと、テクノロジーが進化し、テクノロジーが進化したぶんは、人間は弱くなったのだ、そして<<人間が弱くなると強いキモチに支配される>>、「強いキモチ」というのは人間の弱さに生じてくるものなのだ、人間は人間そのものが弱くなるほど、こころは失われ、そのぶんキモチが強くなり、意見が強くなり、弱さゆえに立場が欲しくなり、弱さゆえに筋力が欲しくなる/<<弱くなった人間は、キモチや意見や立場や筋力を振り回していないと、自分が闇に食われているのに気付いてしまう>>のだ、その恐怖には抗しえないので人は暴れるしかなくなるのだが、そうして暴れるたびに闇はさらに深く入り込んでくるのだった。

詩文にキモチを乗せるたび、闇に食われていく。

「こころ」と「キモチ」は違うものだし、「詩文はキモチを乗せるもんじゃねえよ」と僕は執拗に主張する者だが、それは僕が僕の主義を押し通したいのではなく、そのことで人が闇に食われていくということを僕は年長者としてよく知っているからだ、僕はそうして人が闇に食われていくのを恬淡と眺めていられないのだ、人はパチンコ屋でキモチを燃やしているときにはさして闇に食われはしないが、高い身分の形式でキモチを振り回すとより深く闇に食われてしまう(それは簡単に言うと、高い身分の形式のほうが、よりよい闇のエサになるから、という感じだ)/とはいえもちろん、「詩文とはそういうものだ」「そのための詩文だ」と言われたらどうしようもないけれども。
若い兄ちゃんが、おでん屋で酔いつぶれて、「おふくろがさぁ、あたしおかあさんだからっていって、朝起きてくれて、好きなおかずくれてさぁ、うっうっ、あれがおかあさんだよなあ、泣けてくるよぉ」と泣き伏せている場合は、「若いくせに兄さん泣き上戸やなあ」「しゃんとしいや」で済む話であって、闇に食われはしないし炎上もしない。
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犬の眼から、スーッと光が失せていく瞬間

る訓練士のドキュメンタリーを観た、人を噛んでしまう犬、いわゆる「噛み犬」を矯正する訓練士のドキュメンタリーだ。
僕はその映像の中に、勝手ながら、犬が畜生道の極みに落ちてしまうシーンを見た、畜生道の極みに落ちた犬はとにかく死にもの狂いで吠え、何も見えなくなって目の前のものに噛みつく。
「何も見えなくなる」というのがポイントだ/畜生道の極みに落ちる瞬間、犬の眼からスーッと光が失せていって、「何も見えていない眼」になっていく、犬は飼い主を噛んでいるのではなく、飼い主が「見えなくなって」噛みついている。
その訓練士は、すさまじい覚悟と神がかりに近い愛の能力によって、八割の犬を社会復帰させるという奇跡の数字をたたき出しているが、一般的には噛み犬というのは治らないものだ、なぜ治らないかというと、いったん畜生道の極みに陥ってしまうと、もう矯正しようにも人間の指示が「見えなく」なってしまうからだ、ふつう道はそうして閉ざされてしまうものだ。

眼からスーッと、光が失せていく。
眼がスーッと、「何も見えていない眼」に変わっていく。
すると自動的に、牙はむき出され、しゃにむに噛みつくぞ、止まらないぞ、という状態になるのだ、そうなるともう誰にも止められないし、自分にだって止められない。
「何も見えていない眼」、つまり、吸収次元が切り替わった瞬間だ、もう飼い主も何も見えなくなって、ただただヒートが起こる、われわれは社会生活において抑圧されているが、その中に「何も見えていない眼」の人も少なからずいる。

あなたが「噛みつく」ことを覚えるたび、あなたは学門が不能になっていく。

少なからざる人が、生活する中の内心で、何かに「噛みついて」いるのではないだろうか、やがてその人の眼はスーッと光を失っていき、「何も見えていない眼」に切り替わっていく、こうなるとふつう引き返しは利かなくなる、あなたはその先「何も見えないのに、噛みつくべきものばかりが目につく」という畜生道を生かされることになってしまう。
一部にはツイッター等でも、つぶやき装置ではなく「噛みつき装置」に使っている人があるだろう、社会問題や男女差別問題等、噛みつきたくなるネタはいくらでもある、しかしそれによって噛み犬ならぬ「噛み人」になったとき、目の光はスーッと失われてゆき、吸収次元が変わる、そうなると基本的に引き返しは利かなくなるので、このことは単純な知識としてよくよく警戒されていなくてはならない。

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味覚がよい人とグルメの違い

覚がよいとはどういうことか。
味覚がよいとは、ファミレスのステーキを食べて「超うめえ!」とよろこび、神戸牛のシャトーブリアンを食べて「な、なんだこれ!」と驚く、という状態だ。
いわゆるグルメの人は、ファミレスのステーキなんかよろこばないというか、認めないかもしれない。
けれどもそれは、味覚がよいということではない、いわゆるグルメの人は業(カルマ)が深いだけであって、実は味覚において「食べ物にうるさい」わけではない。

どんな食べ物にも、その味を形成する成分に、よい味の成分と悪い味の成分がある。
そして、業の深さに陥っている人は、身分が落ちているので、味の成分のうち悪い味の成分のほうをよくキャッチしてしまう。
だからグルメの人は、「こんなものが食えるか」「こんなのはちょっとねえ」と、悪い味の成分に文句をつける、味覚の身分が低いので悪い成分のほうが味覚において拡大されるのだ/当人はそれを「味覚が優れている」「こだわり」と思っているが、何のことはない、単に舌が蛇になっているだけだ。
一方、本当に味覚のよい人は、味の最上の成分だけが拡大されてキャッチされるので、基本的に何を食べても「超うめえ!」になる、まるで悪口を言ってもまるで通じない人のように、悪い味の成分がその人の舌には「通じない」のだ。

最高峰のバーテンダーOさんは、既製品のグレンリベット12年を飲んで、「やはりいいですね」とほがらかに言った。

舌の身分が低下すると、高級品しか食えなくなるのだ、本人はそれをグルメと思っているが、残念ながら弱い人間の罹るビョーキにすぎないのだった/身分の落ちた女が手の付けられないヒステリー女になることのように、舌が神経質のヒステリーになってしまうということ。
味覚がよいということは、「フツーのものをやたらうまく食える」ということだ、もちろん舌の解像度は高いのだが、悪い成分はスルーされる/まるで一流の劇作家が、中学生の手作りした演劇を鑑賞したときのようにだ。

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あなたの所属する吸収次元
収次元、と呼ぶべきものがある。
たとえば映画「タイタニック」が流行ったとき、「レオ様」が大人気になるブームがあった。
「レオ様」は、映画の本編には何の関係もないのだが、そういう人たちにとっては、映画の本編は吸収対象ではないのだ。
その人の所属する次元、まあ言ってしまえば身分程度によって、その人が何を吸収するかは自動的に決まってしまう、つまり「レオ様かっこいい」という的外れを吸収してしまう人は、そういう吸収次元に所属しているのであって、このことはどう工夫しても変更は利かないのだ。

人それぞれが所属している吸収次元があるので、たとえば同じ街を歩くにしても、人それぞれ吸収しているものは違うのだ。
たとえば豪華なオペラハウスで豪華なオペラをやると、演目に関わらず「豪華だったね!」ということしか吸収しない人はいくらでもいる/この人も「感動」はしているのだが、ただ「豪華だった」ということに感動しているので、オペラの演目は関係ないのだ。
奈良の東大寺に参詣したとしても、「いやぁ〜立派やわぁ〜」と見えている人のほうが多く、よもや「この場所で偉大な教えがひもとかれ、伝えられた」と見えている人はほとんどいない、それをバカだと言っているのではなく、ただ人それぞれの吸収次元があるのだ。
街中をただ歩いているだけでも、人それぞれ、ドレス売り場を吸収している人もあるし、広告から不動産の相場を吸収している人もある、風俗やパチンコ屋を吸収している人もあるし、街の構造そのものや「ここが参道か」ということを吸収している人もある、この吸収次元はそれぞれが自分のレベルにおいて「所属」しているものなので、気分や工夫で変更することはできないのだった。

ロックフェスには、ロック好きとフェス好きが集まり、それぞれの吸収はまったく異なる。

そのどちらが正しいとか偉いとかではなくて、「毎年ロックフェスに行くんだ」という人が「へえ、ロック好きなんだ」ということにはならないということ、吸収次元がそれぞれに違う、音楽じゃなくて「あの衣装がカッコよかった」ということしか吸収していない人はいくらでもいる。
中学生が「化学部に入らない?」と誘われたとき、ただちに白衣を着て試験管やビーカーやフラスコをいじくる光景をイメージするだろう、よもやそこで「この結合はsp3混成軌道であって……」と分子結合の解説を受けるとは想像しないはずだ、人それぞれ「何が見えるか」「何を見てしまうか」「何を受け取ってくるか」というのは吸収次元の所属によって異なるのだった。
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消えていったあなたのボス
ービス残業なんかないほうがいいし、男女差別なんかないほうがいい。
が、おそらく、それは生きることの足しにはまったくならないだろう、平等でホワイトな暮らしの中で何も与えられず朽ちていくだけだ。
白い無限キャンバスの中に一人で閉じ込められて、無駄な笑顔や無駄な踊りをしているようなものだと思いたまえ、いずれ力尽きて、そのうち自分の生まれた世界を深く憎まざるをえなくなる。
サビ残はしません、飲み会は行きません、一発芸はやりません、帰ってアニメ観ますということは、本人にとってはいつわりなく「本意」なのだが、本当の本当には、それが「人としてこの世に生まれ落ちたよろこび」であるはずはない、ホワイト思想の中で当人は白く塗られた坂を転がり落ちているだけだ。

だからといって、サビ残地獄の男尊女卑の、パワハラ世界にしようぜ、と言っているのではない、そんなものは原理的に不要だし、今さらその残滓をかき集めたところで失敗しかしないだろう。
真っ白に塗りこめられた世界で、自分は身命を賭して何をしたか? どのような嵐の苦境に打ち克ち、どのような奇跡にまみえたか? というストーリィを、すべて自分で獲得すればいいだけの話だ/それがないと、「自分はこう生きた」というものが手に入らない。
自分がどう生きたかなんて、要らないです、と言い張りたくなるかもしれないが、そうはいかない、どうせ老化してきて生活が地味になり、死が近づいてくると、自ら「生」のナゾに突き当たってしまい、自分の生の空白に耐えきれなくなって破裂してしまう、「これまで生きてきた過去の、どこをどう探しても、本当にこころから笑える箇所がひとつもない!」ということに、いやがおうでも気づいて苦しんでしまうのだ。
社会的な是非は別として、たしかに「あのときはヒサンでしたよね」「所長がめちゃくちゃだったもんな」という時代を持っている人は、いつまでもそれを笑うことができ、自分がどう生きたかということについて、消えようのない確信を持っている/だからつまり、「あんなの、今どき軍隊でもやらないですよ」と笑えるようなことを、今はあなたがあなた自身で課さねばならないのだ、そこにわずかでも甘さが残るうち、あなたは「この世に生まれた意味がない」という空白感に苦しみ続けるだろう。

ホワイト平等思想は、人々の権利を回復するというよりは、単に「ボスの消去」をもたらした。

あなたには、生涯にわたって一人も、あなたの「ボス」というものが存在しないのだ、すべての決定をあなた一人きりでしなくてはならないし、「チーム」といってもボス不在の、互助会のようなチームしか形成できない。
この時代風潮の中で、あなたの心身からは、ボスに付き従っていくという機能が失われてしまった、もういかなる人に出会っても、あなたはその人をボスに奉ることはできない、「ボスがもたらしてくれたすべてのもの」を、あなたは放棄する書面に捺印させられている/あとはカミサマを自己直接のボスに見出すという荒業しか残っていないが、カミサマに直接出会える人なんか例外中の例外だろうので、現実的には「ボスのいない生涯」を生きるしかなく、やがては生きることに「ホワイト破綻」が待ち受けていそうな運びなのだった。
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「安易なカリスマ」
思議なことに、デトックスや強硬なヴィーガン(菜食主義)などに傾倒する人は、一種の成功者や、意識の高い人に多い。
加えて、家系的にも成功者が多い場合や、「血筋」ということを考えさせられる家系のような場合も、デトックス傾倒者が出現しやすくなる。
不思議なことだが、それはまさにデトックスで、「毒」を排出しようとしているのだ、場合によってはカルマ的に血縁から継承した毒についても、それを償却して消したいという底深い感覚から、デトックス傾倒は生じてくる。
毒というのは、まあ煩悩のアレな感じのことだし、場合によっては蠱毒といって呪術的にも用いられるらしいが、この毒は人に魔性のような力を与える、人は魔性の中で瞳を光らせて実力や成功を掴んだりするが、その毒はやはり心身の深部を破壊していってしまう。

デトックス傾倒者は、しばしばヨガにも興味を持つだろうし、またその興味は信仰的な直感を伴ってもいるだろう。
不思議なもので、人は何も教わらなくても、「心身の奥に『毒』が入っている」「この毒がヤバい」ということだけは、自動的に感じ始めるみたいだ/強力な毒を使った者こそ真っ先にデトックスの発想に縁が近くなる。
毒というのは煩悩のもので、その強烈な作用は、人に魔性的な「きれいさ」「キラキラ」の力を与え、つまりその毒の持ち主を典型的な「カリスマ」にする、だがこれは本当の光ではないので、カリスマに惹かれた者は昂ってキャーと嬌声を上げる、この「キャー」は実は歓喜ではなく悲鳴に属していることを見抜かないといけない。
「ゲス」というのは一つの極端だが、「カリスマ」というのも片側の極端なのだ、この両極端は先にゆける道がなく、必ずどこかで破綻してしまう、われわれはどこかで中庸を信仰していないといけない。

学門が、「安易なカリスマ」に拮抗する。

現代で言われるところの「カリスマ」は、むしろ「安易だからこそカリスマ」なのだとも言える、誰でもキャーと言えてしまうところがある、だからこそわかりやすくカリスマだ、しかし学門の修身なしにも観ることができてしまうその「高み」は、必ず毒が含まれている、人にとって学門なしに「あれが高みよ」と見えてしまうことほど好都合で不穏なことはない。
こうして見ると、学門を修めるべき第一の理由は、「本当の高みを見られるようになるため」か、少なくともなぜ「中庸」が偉大な高みへの道たりうるのかは学門を修めることなしには決して見えてこないのだった、エロ本でも買ってこようかな。
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努力感情
は、高校卒業時点で偏差値が40を切るほどの不勉強だったので、その後の浪人の一年間だけ受験勉強をした、一日15時間の勉強を毎日、ほぼ例外なしに続けた。
そうして努力したのが、こうして話すぶんには、なぜかそれが「努力」という感じはしない、それはこの努力に「努力感情」が伴っていないからだ、多くの人は努力の量ではなく努力感情の量を「努力」と捉えているように思う。
「わたし、勉強が苦手なんです、でも歯を食いしばって、血を流してでも、一日五時間は勉強します、親を見返したいんです」という人がいたら、その人のほうが「努力」という感じがするのだ、それはまさに「努力感情」の量が評価されているからだ。
よって、僕がどれだけ努力をしても、僕はそこに努力感情をまったく持ち込まないので、どれだけやっても「努力したね」とは認めてもらえないのだった、とほほ/しかしもともと、人に努力量を評価してもらうために努力しているわけでもないから、まあいいのかもしれない。

むかし、手品をやっていたときに、気づけば12時間連続で、鏡の前に立って練習していたこともあったし、あるコインの技術にはそれだけで二年を要したということもあった/また今でも人差し指の関節に、カードを擦りすぎたカードダコが残っている(これは持ち方が正しくなかったからなのだが)。
僕だってそうして、いろいろヘトヘトになるまでやり尽くしてきたはずなのだが、「努力感情」がないので、まるで努力しているような感じがしない/実際、僕はその努力の中で苦痛に耐えてズタズタになったというわけではない。
「努力感情」というのは、自分が苦痛によって受けるダメージ量を換算して成り立つものなので、単に努力するだけではダメだ、もっと「すごくイヤな気分」になりながら、こころを荒廃させて取り組まないと「努力感情」は生じない、努力感情はダメージの怨念によって成り立っているので、やがて努力家は立場を上にしたとき、下のものに同量のダメージを受けさせてやろうという正義を思いつくだろう。
努力そのものでなく、努力の背後にあるゆがみから生じる流血、傷、損失、ダメージ、怨恨が、「努力感情」の正体だ、努力感情主義においては「身も心もズタズタになる」というのが努力の正義であり、僕のように努力によってピチピチに仕上がるというような者は認めてもらえないのだった、とほほ(いやどっちがとほほかわかったものではない)。

ただし努力感情は、本当には尊敬されておらず、その筋の人を「満足」させているだけだ。

このあたりがおっかないのだ、自分自身が傷と損失と怨恨で生きてきた人は、他の誰かが同じように傷と損失と怨恨にむしばまれてゆくことに「満足」を覚える、表面上は努力を称賛しているふうに振る舞うが、本当は自分の満足のために他人の流血を賞翫しているにすぎない。
努力感情というのは、まさに感情なので、今さら僕が「僕も割と努力してるんですケド……」と言い出したところで、感情的に認めてもらえないだろう/努力感情というのはどうしようもないものかもしれないが、僕は個人的に、どうせなら本来の努力を勧め、努力感情についてはオススメしない者です。
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努力と修行の違い

力は「予定」によって成り立ち、修行は「未知」によって成り立つ。
たとえば「この夏、みっちりと走りこんで鍛えれば、きっと大会で四時間切れるよ」という予定、これが努力を成り立たせる。
一方、たとえば「指回し体操」みたいなものがあるが、「この指回しというのを、極限まで速くなるよう鍛錬したら、どれぐらい速くなるんだろう」という未知、これが修行を成り立たせる。
努力というのは、地続きで到達しうる、予定可能な「到達点」を目指すのに対し、修行というのは非連続的な「境地」への飛躍到達を目指している/大会で四時間を切れる人と参事官を切れる人は「実力が違う」だけで、それぞれの「境地が違う」ということはない。

努力は「予定」に成り立つ以上、一定の利益が見込めるが、「修行」は利益が見込めない、努力には「利益しかない」と感じられるゆえの加速がつく一方、修行には「不毛じゃね?」と感じられるゆえの障害がつく。
たとえば男性が「女の子を笑わせよう」と思い立つとき、そのことは努力では為し遂げられない、女の子を笑わせることそれ自体には何の利益もないからだ、その先に利益を見込んでいたら必ず「境地」には到達できず失敗する。
「なんでや、女の子が笑ってくれたらヨッシャってよろこびになるだろ!!!」という、本当の「境地」に到達できるかどうかは、努力ではなく修行の程度が問われる、修行とはそうして「境地」を与えてくれるだけで利益を見込ませてくれるものではない。
わかりやすく、たとえば受験勉強があったとして、「この問題がパパパッと解ければ、○○大学に入れる」という発想をする人は努力の人だし、「この問題がパパパッと解けるというのは、どういう境地なんだろう」という発想をする人は修行の人だ/そして努力というのは必ず利益のために対価として苦痛を犠牲に供するという考え方であって、修行というのは未知のよろこびを見出すために一切の想念を捨ててみようとする考え方だ。

努力は生を前提とし、修行は死を前提とする。

われわれは、来週もたぶん自分は生きているだろうと信じているから、努力するのだ、来週も生きているから「予定」が立つわけだ、もし明後日には死にますということになれば、大会に向けての努力は意味がなくなる/そして「死」は常に生きている人間にとっての未知だ、この未知が人を利益の見込みから引き離す。
どれだけ努力による「到達点」を高めたとしても、死ぬときは関係なくなる、金持ちが死ぬのも貧乏人が死ぬのも死そのものは一緒だ、そこで境地の低い人は泣き叫ぶしかなく、高い境地に至った人は、何か別のことになるのだろう、努力は実力の振り回しを尊ぶものだが、修行は境地の現れをよろこんでいる。

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人心の荒廃、その真実
日ヒサンなニュースが報じられるし、ネット上に醸成される輿論(よろん)を見ても、人心はいかにも荒廃しているように見える。
人心の荒廃は、間違いなく片面で真実だ、しかし一方で、直接僕が人と接するぶんには、異様にやさしくされ、改まって澄んであたたかい眼差しを向けられることばかりだ。
これは自慢話をしているのではない、ただこの世間のムードには重大なフェイクが掛かっているということを、僕は唱えておきたい、このフェイクは入念なもので、すさまじい眼力を持っていなければその欺瞞を看破することはできない(若輩にはまずムリだ)。
少なくとも、たとえば僕が「タバコ買ってきて」とお願いしたとき、はっきりとよろこんでお使いに行ってくれる人ばかりだ、これは自慢話をしたいのじゃない、人は「光」を感じているときにはまったく違う様相を見せるということを是が非でも主張しておきたい。

たぶん、冗談でなく、初対面の女性であっても、その手のひらを灰皿代わりに差し出させて、そこにタバコの灰を落としても、そんなことで女性は腹を立てたりはしない、それで僕がムッフッフと幸せそうなら、「あなたが幸せそうでよかった」と、ほっこりその女性もよろこんでくれるものだ、それがマジなのだからそのように報告するしかない。
しつこいようだが、これは僕の自慢話ではない、男であれ女であれ、人はそこに「光」を感じているときは(無自覚であっても)、しょーもないことにムカついたり、しょーもないことに燃えアガったりしないものだ、「光」の中では何をされたって幸福とよろこびにしかならないのだ。
逆にいうと、何をどうしても「光」が感じられないときには、人心は荒むしかないわけで、人心の荒廃といっても、その真実はただ「光がない」ことによって起こっている/さらにいえばそれは本当の意味での「人心」でさえないのだ。
あなたの心だってそういうもので、光があれば幸福を感じるし、光がなければ上下どちらに行っても荒むのだ、覚えておくように、たとえ数億の富と見栄えと誉れをその身にまとったところで、「光」が感じられなければあなたの心は荒むしかない、これはサイエンスなのだからこのことがわからないのじゃただのバカで学門のセンスがないだけだ。

あなたはあなたの思っているほど気難しくはないし、あのコもあなたの思っているほど気難しくはない。

あなたはきっと、差し出した手を灰皿代わりにされて灰を落とされたことなんて一度もないと思うが、「そんなことをされても幸福は変わらないわよ」とよろこびに笑っていられる、そういう時間を一度も体験できないというのはなかなかの不幸なのだ、「光」がないというのはどうリッチさに欺瞞してみても土台が不幸であることは変えられない。
そして、あなたも実は、手のひらに灰ぐらい落とされても「別にそんなことはイヤじゃない」とこっそり思っているところがあるように、あなたの知っているあのコもこのコもみんな、こころのどこかで同じように思っているものだ/あなたが二十年かけて学んだ「人心」とその荒廃についての知識は、たった二日の「光」で破壊されるだろう、あなたは実は愛のある人に粗末に扱われることが幸福で、愛のない人に丁寧にされる二十年が実は苦痛で不幸だったということを知ることになるが、そのときは歓喜と悲嘆が同時に起こってとても苦しい。
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