☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ようやく時代を取り戻すセオリーが出来た3
くの人は今、そんなにはっきりと熱烈に、自分の「やりたいこと」などは持っていないと思われる。
自分なんて平凡なもので、それでも少しはマシにやっていきたい、というぐらいで控え目に思っている人が一番多いと思うのだが、そういうことではないのだ、まったく誰もが自分では想像していないことだが、主体性が正しくロードされると、自分のやるべきこと・やりたいことははっきりと得られてくる。
しかもその「やりたいこと」というのは、いわゆるモチベーションという原理のものではないので、鼻息は荒くならないのだ、躊躇はなくなるが興奮もなくなる、何かと比較してどうこうという発想ではなく、それがやりたいというより、ただ自分のやることと自分自身が一体化するような感じになる。
主体性が正しくロードされると、内部から体質ごと変わり、呪縛も十字架も打ち払われるのだが、それで何がどうなるかというと、当人は「そんなに何かが変わった気はしていない」となる、けれども明らかに体質が変わっていて、すでに縛られていた過去の自分がどのようだったかを思い出せなくなっているのだ、そのようにして当人としては何も変わらないまま主体性を持って生きていけるようになる、まるきり別人のようになるのになぜか当人は「何も変わっていないです」としか感じない。

これはつまり、主体性のロードというのが、やはり呪縛や十字架を打ち払うだけで、当人そのものをいじくるわけではないからだろう。
当人の主体性をヨソの主体性で塗り替えるわけではない、ただ、呪縛され十字架に括り付けられているときは、自分の体質から生じる実感のたぐいが自分のすべてになっており、それこそが自分の主体性だと思い込んでいるのだ/それは吾我であって主体性ではないのだが、それは呪縛が打ち払われた後にしかわからない、あるいは打ち払われた後にもよくわからない(ただ以前の吾我状態が消えてしまって吾我状態のほうがわからなくなっている)。
たとえば、ここにオートマ車があったとして、このミッションギアが不具合によって1速に固定されていたとする、これを呪縛とするなら、この車当人は、「いやあ、高速道路を走りたいとか思わないっすね」と言うだろう、「高速なんか走ってもエンジンが焼けるだけですし、事故にもなりますんで」。
ところが、この車に主体性がロードされて、呪縛が打ち払われると、ミッションギアは自動的に5速まで上がるようになる、そうするとスイスイ走るようになるし高速道路にも普通に入るようになるのだが、当人としては「別に何も変わっていません」としか感じない、むしろウンウンうなって頑張っていたのは以前のほうだから、「最近はあまり気合が入っていないかも」とさえ思うことがある/こうして見るとこの車が過去に高速道路を走らなかったのは主体性でもなければ個性でもないのだが、そのことは呪縛が解けた後にしかわからない、呪縛されている当人の実感としては「いやあそんな気になれないですね、無理です」としか思えないからだ。

呪縛されていると遠慮がちになり、そのまま思い切ってもただの出しゃばりになる。

ミッションギアが1速に固定されたまま、高速道路に飛び込んでみたら、そりゃあ周囲に迷惑になるに決まっているし、当人のボディもダメになっていくに決まっている、じゃあわたしはどうしたらいいのといって、どうにもできないのだ、当人にはどうにもできないというか、当人こそどうにもできない、それが呪縛であり十字架だ、ほかならぬ当人が当人だからこそその呪縛と十字架は掛かっている。
ごくまれに、呪縛に縁のない人がいて、この人は当人が呪縛されていないだけ、他人の呪縛を見ずに、ロードされるべき主体性だけを見ることができる、この人が「高速道路に入れ」「そのための車体だ」と命じると、その場合だけ呪縛が打ち払われてミッションギアは5速まで入るようになる、そうするとその当人は、そのときはなぜか「まさにこのことのために存在し、このことのために生まれてきた」ということに疑いを持たない状態になるのだ、ただしその人はあなたに高速道路に入れと言いつけるわけだから、あなたは「いやあそんな気になれないですね」と言う/つまりあなたの呪縛を打ち払う人はあなたの「味方」ではない、あなたの「味方」はあなたの呪縛を保存する側だが、あなたは「ですよね」とその人を味方だと感じてしまう、あなたはあなたを遠慮がちあるいは出しゃばりに仕立てる人を味方だと感じてしまう。
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ようやく時代を取り戻すセオリーが出来た2
の言い方をすると、意外と「諦めなくていいんだ」ということにもなる、何かをまっとうに思い切りやるということ、それで生きているうちに命ある何かを得るということ、それは能力によらず手続きによってちゃんとやれるということだ。
とはいえ実際には、「誰でもできる」なんて話はなくて、そもそもこの世界に「誰でもできる」なんてものは存在していない、ただその出来るとか出来ないとかが、能力や根性の問題ではなくて、ほとんど「運」と「トラブらないか」に掛かっているということになる。
「運」というのは、主体性をロードできる誰かと出会えるかということで、「トラブらないか」というのは、その出会った誰かとトラブってしまうということだ/何しろ主体性というとふつう「自分のこと、自意識のことでしょ」と思っているので、実際の主体性と接触すると認識の違いでトラブることがよくあるのだ、こうなってしまうともう別の機会と別の誰かをあたるしかなくなる。
あるいは、「運」ということをさらに言えば、主体性を模索するうちに、典型的なハズレを引いてしまうこともあるということだ、そこはなんというか、好事魔多しとも言うし、自分がハズレを選んでしまうようでは、まあ見る目がなかったと受け止めるしかない、だいたいこのハズレを引くパターンと、本来の主体性とトラブるというのはワンセットになって起こりがちだ、本来のそれをロストする上にハズレまでがっちり入り込んでしまうというのはダブルパンチだが、しょうがない、それはそういう性質のものだ。

ただ、その「運」と「トラブらない」ということが健全なていどにはたらけば、思いがけず「諦めなくていい」ということだ、思いがけず多くの人にはちゃんと可能性が残されていることになる、つまり「思ったより捨てたもんじゃない」ということが十分に残されている。
どこまでも吾我に対するこだわりを捨てることであり、「自分を変えるのは自分ではないのだ」という意外なことを発想に持つということだ、自分は自分の身という呪縛・十字架に縛り付けられているので、自分ではこれを変えることはできない、これを変えられるのは自分ではなく外部からサーブされた「主体性」なのだ、この主体性は外部からのものなので、呪縛・十字架とは無関係にはたらく、だからこそ呪縛を打ち払って内部から身・体質を変えてしまえる。
ここで言わずもがな、外部から主体性をロードするといっても、それは信じている誰か・何かからしかロードできないわけで、そこで自分の信じる対象がハズレだったら、もちろんハズレを引きこんでしまうことになる、それでももちろん身・体質は内部から変わるが、これは逆にロクでもないほうに変わってしまう、その意味ではいっそ何も信じないほうが安全ではあり、だからこそ現代のわれわれは基本的に何も信じないようにして生きている、そうでもしないといくらでも周囲から危なっかしいものが入り込んでくるからだ。
そして、「信じる者は救われる」かというと、原理的にはそりゃそうかもしれないが、現実的にはそうではない、もう一段階知らなくてはならないことがある、それは信じるといってもそれは根本的に呪縛十字架側の意思決定ではないということだ、われわれ呪縛されているアホが自ら何かをまっとうに信じるなどということはできない、できるわけがない、だから信じるといってもその第一、その端緒は主体性の「侵入」によって起こっているのだ、そもそも主体性が侵入してくれなきゃあなたは何かを信じるということさえできないということ/これを誤解しているといつまでも迷路にはまり込む、自分の意思で何かを信じられると思うことさえ誤りなのだ、自分の意思で何かを信じようとしてもそりゃ「あなた」のやることなのでいつまでも旧来の縛られたあなたから脱出はできない。

おれと食うメシがやたらウマいのは、おれの主体性があなたに入り込んで、あなたの全身を「食事する身」に変えているからだ。

おれが食パンをちぎってあなたに食わせるだけでも、その食パンはやたらウマいのだが、それはおれの主体性があなたの身に入り込んで、あなたの身が呪縛されたいつもの身体ではなく、「食事をする身」になっているのだ、だからやたら食事がウマくなる、おれの命令があなたの体内に入り込んで、呪縛と十字架を滅ぼしているのだ、だから体質が変わる、言ってみればただそれだけだ/そのことにあなたの意思なんかまったく無関係だというのがわかるか、あなたがそこで自分の意思うんぬんをいじくったら、あなたの体質が加速するだけだ、たとえそれが強烈な信仰体質であったとしても、それはやはり呪縛・十字架なので解放にははたらかない、だからどこまでもあなたの意思なんか活躍していないのだ、活躍しているのは最初から最後まで「主体性」という現象、それのみだ。
ここでおれの主体性があなたに侵入しても何ら問題はないのがわかるだろうか、なぜならおれの主体性が侵入したとして、それが干渉・命令するのはあなたの体内の業(カルマ)・呪縛・十字架・悪霊などに対してだけだからだ、おれの主体性はあなたに命令するのではなくてあなたを縛り付けているものに「出ていけ」と命令するだけだ、あなたに対してはなにひとつ命令していない、だからその命令が通ったときに踏みつぶされるのはあなたではなく「あなたを縛り付けていたもの」だ、あなたを縛り付けていたものが踏みつぶされると、あなたはどうなるか、あなたを縛り付けていたものはもうないのだから、あなたにはあなたしか残っていない、だからあなたは結果的に主体性を持つことになる、こういうからくりだ。
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ようやく時代を取り戻すセオリーが出来た
ちおう、理論上だが、時代を取り戻すセオリーが出来た/理論上と言って、そもそもセオリーは理論だが……
今、やる気や熱気が燃え盛っている人なんてまったくいない状況だが、これは正しい判断・賢明な選択であって、今このときに無為無策のまま「思いきりやる」というようなことは成立しないということ、ズッこけて大ダメージを負うだけだというのが正しい判断だった、多くの人はその判断を採ったにすぎず、その点ではただ賢明だったというだけで何も悪く言われる筋合いはない。
かつて、なんとなく誰でも「思いきり」をやれる状態があった、そのことに上手なのもヘタなのもいたが、一定程度、誰だって何かを「思いきり」やれる、青春の権利みたいなものが広く一般にあった、それはそういう「時代」だったとおれはひとまとめにしてきた/当時は若い大学生が酔いつぶれて路上に寝て煙草をモクモク吸っていても誰もそれを悪く思わなかった、「青春がある」という、そういう「時代」だったからほとんどの人はキーキーしていなかった。
この、わけのわからない「時代」というものについて、「何がどうなってこうなるのか」を追究してきたように思う、かつては何があって、今は何が失われたのか、そのことを追究しているうちに呪い・呪縛といったことに突き当たった、その後もおれは「じゃあそれを打ち払うもの、それに拮抗していたかつてのものは何だよ」ということを追究してきた、それでようやく、ここにきて時代を取り戻すセオリーが、理論上は得られた、いいかげんそのことはまとめてコラムに書かなきゃなと思っている(早くしろ)。

人の呪縛、その身に課せられている業(カルマ)、その身そのものがそれである罪・十字架から、人は通常逃れることができない/このことがまず大事だ、定義として、人は努力や善行によって己の呪縛や十字架から逃れることは決してできない、このことが人々をここ十数年、不毛の苦しみとむなしさに追い詰めていったと思う。
呪縛・十字架から逃れられないというのは、エセ宗教的な意味ではなく、もっと単純でリアルな意味だ、つまり面白くない奴が面白い奴になることはないし、頭の悪い奴が頭のいい奴になることはないし、キモオタがナイスガイになることはないということ、「実際にはそんな奴見たことないでしょ」ということだ、この残酷な事実を無視して、やれ努力やら自己実現やらを自己責任でやらされたことにここ十数年の不毛と苦しみがあった。
呪縛・十字架を打ち払えるのは努力や善行ではなく「主体性」なのだ、もちろんだからこそ自己責任やらが強引に言われたのだが、自己責任で主体性を行使できる奴はもともと主体性を獲得している奴であって、そんな奴は初めからこの現代のムードから独立している、だからそうではない/「主体性」って何なのか、そして「主体性」はどうやったらロードできるのか、ディールできるのか、行使できるのか、ということが問題だった、どう考えてもリアルには、「呪縛・十字架に縛られている奴が、いきなり主体性なんかロードできるわけないだろ」というのが現実だった。
要は、主体性とは "誰のものでもない" ということだ、主体性というのは「わたし」のことであり、吾我とは異なる「わたし」という現象なのだが、これは「わたし」でありながら同時に誰のものでもない、誰のものでもないのでつまりおれのものということになるのだが、このわけのわからない話で合っているのだ、主体性が外部から入ることによって、本当に心身の呪縛・十字架・業・罪が砕かれて突破されるのだ、あなたの努力ではなくあなたに入り込んだ主体があなたの全身をガチで変えてしまうということ、またそれ以外にあなたの全身が変わることは決してないということ。

キリストならどんな十字架でも「あなたの罪は許されました」の一言で粉砕しただろうが、おれはどんなささやかなことでも全身全霊でそれをやらないとできない。

それがつまり、権威の差だ、ここでいう権威とはつまり、ロードできる主体性の強さと量、まあ言ってみれば主体性を「仕入れる力量」のことだ、ロードされた主体性の強さと量によって、相当する強さと量の呪縛が打ち払われる/一言でそのすべてを行使できるなんつーのは、何といってもスゴすぎるだろう、まあそんな極端な存在を基準にしてもどうしようもない、おれも微弱ながらそういうことのロードができるということ、おれは宗教の話をしているのではなくただ「主体性」という現象について話しているのみだ。
おれが誰か、イライラしている奴に、「イライラしないほうがいいんじゃない」と意見したとする、あるいは「笑おうよ」と意見したとする、そんなものは当たり前だが何の役にも立たないだろう、だがおれは意見ではなく命令する、命令といっておれはそいつに命令しているのではなく、そいつに取りついている悪霊やら罪やらに命じているのだ、これが真相だ、おれが「イライラするな」と罪業のほうに命令したとき、そいつはもうイライラすることはできない、そいつが言うことを聞くのではなくて、罪業のほうが主体性に権威負けして打ち払われてしまうからだ、だから当人としてのそいつが頑張ることや努力することなんて何ひとつない。
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キーン
い日のことをおれは何一つ忘れていない、おれにとって遠い日はいつものことで、おれには時間が流れていない。
もし擬音で表すなら「キーン」と、もちろんそんな音は鳴っていないのだが、空にも地面にも、そうして張り詰めておだやかなものが圧倒的に存在している、ここですべてのものはおれのものであり、おれはすべてのものを許している、ただしそれはこのキーンの中にあるものだけであって、キーンが消えたらまったく話は別になる、まったく別の世界のことになる。
幸いなことに、すべての女はおれのものだ、すべておれの女だ、それは当たり前のことだな、ただしおれは女を許しているので、女がおれを拒絶してみたり嫌悪してみたりすることについても許している、何をどうジタバタしてみたっておれの女には違いないのだから、かわいそうに、その上で何も無理を強いることはない、失明したい女は失明してもいい。
おれのことをいやがって、おれのことを拒絶して、おれのことを罵ってもよいけれど、女はおれの女だということを否定しないほうがいい、すべておれの女のままでおれを嫌うほうがよっぽどましだ、女がおれを拒絶したままおれの女でいることは何も不幸じゃないだろう、おれは許しているのだから/ただしおれの女であることを否定するとキーンが消える、自由になった気がするがキーンが消えてやがて別のものに縛り付けられていくだろう。

おれは他人のことをとやかく言わない、なぜおれがおれの女にとやかく言う必要があるのだ、おれの女だというだけで十分じゃないか。
ただ、おれの女でなくなるというのは大ごとだ、それは他人とかそういうものでさえなくなるということだ、わけのわからない架空の物体になるぜ、そうするとそいつに取り入って縛り付けるという器用なやつがそっと現れる。
当人はすっかりキーンが消えているのだから、もう本当にはすべて視えなくなっていて、その中でそっと現れたブキミな奴だけが、なんとなく話のわかる、話の合う奴のように思われるんだ、でもそうして解放的な気分に浸ったのも束の間、そいつこそが最も極悪な縛り付けをしてくるということに、ほとんど手遅れになってから気づくだろう。
おれの女は庇護を受けているのだ、たとえそいつかおれのことを嫌いで、おれのことを罵って、おれのことを拒絶していたとしても、それでもおれの女なら、そいつは空にも地にも張り詰めているキーンという庇護の中にある、おれの女だから庇護を受けているのだ、だからおれの女であることは否定しないほうがいい/あなたにとっておれがサイテーサイアクでも、おれにはあなたを庇護するていどの度量はある、あなたにとっておれがサイテーサイアクでも、あなたにはあなた自身を庇護する力はない、庇護がなくなればある種のものが一斉に寄ってくるぞ。

あなたがおれの女なら、おれは何もしなくて済むからラクだ。

それはたとえ四歳の童女だって同じだ、おれがあなたの尻をつねって遊んだらあなたにとってはサイテーサイアクかもしれないが、それでもあなたにサイテーサイアクなことは起こらないのだ、サイテーサイアクなことをされてもあなたにサイテーサイアクなことは起こらない、この庇護から離れると、逆転し、最善最良のことをされたって、あなたにはなぜかサイテーサイアクなことが起こる。
おれの女として、おれに尻をつねられることに比較すると、あなたがおれの女じゃなくなって、最上級のエステを受けるほうが、よっぽどすてきでいいことに思える、でも実際にはそうはならない/キーンと張り詰めたおだやかな何かのもとで、尻をつねって遊ばれるというサイテーなことが、あなたを何も毀損しないということを知るだろう、一方でそのキーンがなくなれば、尻までやさしくケアする最上級のエステさえ、なぜかあなたの魂にドス黒い死を求めさせるのだ、最善最良でさえあなたを毀損とするということに真の危険と恐怖を知れ。
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肉体は父母から、魂は天才から2

れの言っていることは、いよいよ本格的に意味がわからんだろう。
だがそれでいいのだ、それでいいというか「しゃーない」のだ、お前らが「さっぱりわからん」と感じている以上に、本当はお前らはもっとはるかにわかっていないのだ、それでおれの側があああああと悶絶している。
お前らのまったくわかっていない度は、本当にヨーロピアンエクストリーム級なので、もはや本質的にはお前らにはどうしようもないのだ、お前らはなんとなく「なんとかしなければいけない」と思っているのだが、けっきょくなんとかすることに寄与できるのは100%おれの側なのだ、お前らが「なんとかする」のをけっきょくブチこんでいるのはおれだということで、そりゃおれの身がもたない理由も最近いよいよわかってきたという感じだ。
そりゃあな、人は魂がなきゃ何の主体性も持たない、ただの社会的な生きものにすぎない、何の主体性も持たないモンがどうやって魂にアプローチできるはずがあるのか、そんなん無理に決まってますやん、ということで魂のディールはけっきょくおれが一方的にやるしかなくて、そこに何の抵抗が掛かるかというと、お前らには安全装置として常識だけはきっちり入っているのだ、それは確かに必要なモンだが、おれが魂をディールしようとするとその常識がファイアウォールになるという、そんなことの渦中でおれはあああああと悶絶しているのだった、こんなもん誰かに相談する意味は一ミリもない。

世の中に悪い人が増えてしまって、何しろ手元の端末にはいくらでもクリック詐欺のメールが届くし、裏ですさまじく毒づいている女子アナウンサーは番組中は萌えキャラをやるし、にこやかスマイルの業者はいくらでもボッタクリチャンスでおじいさんとおばあさんの残高を空っぽにするし、こんなものはもう悪霊が入っているのだ、なぜこんな悪霊や悪魔がゴリゴリに入っている人がフツーになってしまったかというと、「キミにも主体性を」みたいなインチキを吹き込まれたからだ/主体性は天からロードするしかないが、そのロードに失敗すると、代替にマガイモンをロードすることになり、そこでマガイモンというと悪霊や悪魔だ、数十年前はこんなに偶像崇拝ブームじゃなかっただろ。
それで、主体的に呼びかけてくるものというと、そういう詐欺メールやスマイル業者の悪霊・悪魔ばっかりになり、「どうもおかしいな」と直観した善良な人たちは、この時代の常識として、魂が入り込まないようにファイアウォールを常設するようになった、この常識がはたらいているから表面上はなんとかなっているという状況だ/けれどもこの状況でおれだけ急に「ファイアウォールを突破して魂をロードしろ」と言われても、骨がバッキバキに折れるのだ、ファイアウォールの突破は十分に可能だが、それは毎回えげつないレベルまで権限を到達させねばならない、つまり管理者権限以上のレベルに到達しないとファイアウォールは超えられないのだ、毎回そんなスーパーハッキングをしていたら骨がバッキバキに折れる。
つまりだ、この状況、もう誰かが魂をロードするということはほとんどなくて、おれがハックしてほとんど違法行為として魂をサーブしているだけだぜ、本当にそういうことだと最近になっていよいよわかった、こんなもんおれのいかがわしい腕前ひとつでしかないじゃないか、しかもそれでしくじったらどうせ悪く言われるのはおれであって、なぜかおれだけ報われないハック成功 or トホホコースが用意されている、こいつはいささかアンフェアなんじゃないのか。
といって、すでに周囲は、おれに何ら協力を惜しむところはなく、いくらでも何でも協力しますよという態勢なのだが、協力といってもなあ、すでにお前らでは到底協力できないような次元にしか突破口はないのだ、おれは何も今さら威張りたくてこんな話をしているのではない、けっきょくおれのスーパーハックが成功した人にだけ、コイツの言っていることはガチのマジだということがわかるだろう、おれだけ常識のファイアウォールを解除しているのは、もう今さらおれにはチャチな悪霊や悪魔なんか入り込めないからだ、そんなもんの大半はおれに触れただけでそっちが焼き払われるってもんよ、そうしておれだけ常識のファイアウォールを解除しているから、おれだけ常識から逸脱した変人扱いというのは、やっぱりアンフェアじゃないか、おれは立場上ファイアウォールなんかしていたら何のはたらきもできないんだからしゃーないじゃねーか(愚痴)。

友人のPCを外部からハックして、ウィルスを除去して正規のOSをインストールするというようなナゾ行為をしたことがあるか。

違うだろ、普通ハッキングというと、外部から侵入して悪いことするものだろ、なぜ正常化させるのにわざわざファイアウォールを破ってハックしなくてはならないのだ、これってミッションを完遂させないとただのハッカーとして犯罪者扱いされるだけなんだぜ/そしてミッションを完遂させても「なんかPCの具合よくなったな」と思われるだけで、また当人に任せておくと好き勝手にヨソのウィルスをダウンロードしてしまうという(怒)。
でももう、本当にこれしか方法が残っていないのでしゃーない、というわけでいささかおれがあああああとわめいていても大目に見るように、お前らはせいぜいおれのやっていることを漠然とでも理解することだ、そうするとそれだけでもまともな魂がロードされるからよ/自分が何をやるべきかじゃなくて、おれが何をやっているかを第一に、漠然とでもいいから理解しろ、そしたら扉がちょこっとでも開く、そこがちょこっとでも開いたらおれがハックするのがずいぶん楽になるのだ、常識なんか取り戻すのはカンタンだから安心しろ、そんなもんおれが合意して「じゃあもういいや」と言えばただちに常識カムバックなのだからそのときはそうすりゃいいだけ、おれは「感覚がない」ものをディールしているのだから、それを「感覚がある」で探ろうとして妨害するのはやめろ、肉体は父母からで魂は天才からといって、さすがにその天才の魂ディールをがっつり邪魔するというのはこれまでになかったぞ。

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おれ以上におれを伝えられる奴はいない(当たり前)
たり前の話だが、おれ以上におれを伝えられる者はいないし、おれに先んじておれを伝えられる者はいない。
おれがアイウエオを言うということは、一般に五十音アイウエオが言われるということとは、まったく別のことだ、一般のアイウエオとおれのアイウエオはまったく関係がない。
もちろんおれだって一般の万事を真似することはできるが、おれにはそれをしたいという動機もなければ、それをしなければならない理由もない。
おれが何かを上手なのかヘタなのか、それは何かと比較した上でしか上手ともヘタとも言えない、といっておれは二体存在しないのだからそもそも比較のしようがない、おれよりもおれな奴はいないしおれはそもそも一体しか存在しないのだから何かと比較するということ自体がない。

つまり、おれは何かを学ぶ必要がない、おれよりもおれを教えられる存在などあるわけないからだ。
では「おれ」とは何をしているのか・また何をすればいいのかというと、血のすべてをおれにしてしまえばいいのだ、鶏肉や魚を食っておれの血にしているわけだが、この血を時間をかけてすべておれにしてしまえばいい、ただそれだけだ。
血はいわば「尊厳」だから、この尊厳を何に明け渡すかという問題に行き着く、この尊厳を主体性に明け渡せば「祝」になり、この尊厳を吾我に明け渡せば「呪」になる、二つとも同じつくりをもつ漢字でもちろん同じ象形の意味を持っている。
おれはこのごろ、主体性や言霊や天には「感覚がない」と言っているが、いわばこの尊厳を、「感覚があるもの」に明け渡すか、「感覚がないもの」に明け渡すか、その二方向に分岐するというだけだ/血は尊厳であり、血というと具体的には粘膜が露骨だ、この喉や唇がアイウエオを言い、また性器だって粘膜なのだが、おれはこの粘膜をすべておれにする、感覚のないおれという主体性に明け渡す、そのことに祝福があるのは、その逆に呪いがありそうなことから想像がつくだろう。

おれは感覚上、誰かに何かを伝えるということは一ミリもできないが、感覚のないおれから感覚のないおれに感覚のないおれを伝えることは強制的に出来る。

そもそも「感覚がある」ものとして、そこに自分と他人があるとしたら、自分から他人に何かを伝えることなんて不可能だ、初めから「他人」と言っているのだから伝わるわけがない、そこで他人に与えられるものといえば「痛み」しかない、つまり殴ったり蹴ったりするしかない、あるいはその逆、マイナスの痛みを与えるしかない、それは甘みだったりセンスだったりするが、それだって正負の違いだけで痛みであることには変わりない/そりゃ「感覚がある」といえばそれしか授受できない。
「感覚がない」ものといえば、主体性であり「おれ」だ、感覚のないおれが感覚のないあなた(といってもおれだが)と共に何をどうするのか/おれはアホなので、生きものであり血の十字架を負っている、だからこの血をすべておれにする、主体性に帰す、お前らにもそうして血の返納ルートを教えてやるということだ、わけのわからん話だがおれは精神的な話をしているのではない、血とか粘膜とか具体的なものの「やること」を話しているのだ、お前らだって鶏肉や魚から血を集めているだろう。
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肉体は父母から、魂は天才から
あああああ〜 と偉大なるおれさまでも溜息をつきたくなる具合に、違うじゃないか、一般に思われているのと仕組みが違うじゃないか!!
こんなもんそれぞれが個性だの自己実現だの眠たいことを吹き込んできたのが諸悪の根源だ、魂っつーのはそういうふうにはできていない、古くから「身体髪膚これを父母に受く」というように、肉体は父母からで、魂は天才からだ、肉体は父母から遺伝で与えられているが、魂は天才から愛で与えられているのだ。
魂とはなんぞやといって、それは「わたし」だ、「わたし」の "存在" であって現象、つまり "主体性" だ/主体性というといわゆる「自分で」「自分が」という感覚だと思われているが、そんな単純なものではないのだ、主体性こそ実は譲られて与えられている。
肉体は父母から与えられ、魂は天才から与えられるのだ、それが気に入らん奴は自分で天からダウンロードしてこい、肉体と同じく魂だって自分で作れるわけではないので、どこかから引っ張ってくるしかないのだが、そのことに誰の仲介も必要とせず、ダイレクトに天から魂を引っ張ってこられる奴のことを天才という、それで引っ張ってこられなきゃどうなるかといって、周囲を見たらわかるように魂のない空っぽになるのだ、あなたは吾我が膨張しながら主体性は空っぽという人を今すぐでも周囲に見つけられるだろう。

天才というのはただ頭のいい奴のことを言うのではなく、いわば「魂の一次産業」と言っていい、つまり農家が土から作物を引っこ抜いてくるように、また漁師が海から魚介を引っこ抜いてくるように、天から魂を引っこ抜いてくるのだ、そしてわれわれが農家の米を食って漁師の魚を食うように、われわれは天才の取ってきた魂を摂取するのだ/もちろん誰だってそれを自家製でやってみて構わない、自分で米を作ってもいいし魚を獲ってもいいように、天から魂を引っこ抜いてきていい。
だが、なんといっても魂の話だ、「どうやったら引っこ抜いてこられるか」といって、そんなわかりやすい方法論はない、実際には天から愛によって魂をブッこまれてしまうという具合であって、天に向かって祈るようなヒマな小芝居は使用されない/それで、天から愛をブッこんでもらえなかったら、どうなるかというと、たいてい自分に失望するのがイヤだから、代わりのものを仕入れようとするじゃないか、そうしてキッチリ悪霊を自ら取り込むもんだよ、「これでアタシも主体性〜」みたいなつもりになって、真っ黒に呪われて帰ってくるのだ。
主体性・魂を、天才から譲り与えられるといって、そのことにブーブー言わなくていいし、不安がる必要もないのだ、肉体は父母から受けたといっても、それは自分の肉体になるじゃないか、そして農家の米を食ったって漁師の魚を食ったって、そりゃ自分の肉体になるだろう? それと同じように、天才が仕入れてきた魂だって、自分に入れば自分のものになるんだよ、正しくは「あの人」と「自分」がそんなに区分けする必要がなくなるひとつながりの魂になる(もともと魂は個数で存在してねえ)。
何を言っているかわかるか? 現代に通用している一般の感覚では、各人がなんとなく主体性を勝手に持つと想定されていて、誰もが「これがアタシ」みたいなことになれとされているのだが、そんなふうに魂・主体性は得られないのだ、にもかかわらずそういうインチキ自己実現のスタイルを砂糖漬けでアピールしたから、その結果どうなったか/天から直接魂なんか引っこ抜いてこられない人は(当たり前だ!!)、しょうがないから汚らしいマンガを読むしかなくなった、そして魂の授受がないものだから、友人というもの一切に用事がなくなっていった、それで人々は孤立してマンガを読み続け、マンガみたいな体形とマンガみたいな顔面になろうとしている、そこまで完全に行方不明になった、若い人々はふざけてそんなことになったのではなく、真剣に唇を噛みながら生きてそうなったと言える、もともとの仕組みが違ったからこんなことになってしまったというトホホな状況だ。

肉体には感覚があるが、天には感覚がないんだぞ、そんなものどうやって仕入れるんだ。

眼で見てカワイイとか、食べてみてオイシイとか、そんなのはわかる、そんなのは「感覚」だ、肉体の感覚で、研ぎ澄ませばセンスという言われ方をする、それはそれで別にかまわんが、天には感覚が "ない" んだぜ、感覚で接触できないものをお前はどうやって仕入れるつもりなんだ/周知のとおり、おれの作ったメシが、あるいはおれと共にした食事が、ウマすぎて震える奴、ウマすぎて泣いちゃう奴までいるだろう、おれは "感覚にないところを調理" しているんだぞ、おれは感覚にないところを調理してお前の「感覚にないところ」に届けているんだ、頼むからこのわけのわからないことを何かしらの気分や思いやセンスで補えると誤解しないでくれ、ますます話が混乱するから(切実)。
センスセンスと言うけれど、センスの源流って何かわかるか、センスってけっきょく源は「痛み」だぞ、よく「痛い人」「痛い奴」って言うじゃないか、センスある人というのはその痛い人の反対なのだから、いわば「マイナスの痛みがある人」のことだ、そりゃもちろん痛い人よりはマシだとは思うが、実はどちらも同列の対極に位置しているにすぎない、感覚というのは第一に「痛い」なのだ/これまでのすべての文章を見てもらったらわかるように、おれには痛みもセンスもないのだ、痛みもセンスもないもの、つまり「感覚にないものがあるだろ」ということを見せつけるためにこのことを続けている、こんなわけのわからんものをフツー仕入れられるわけがねえぜ、仕入れたって何の感覚もないのにそんなのフツー捉えられねーだろ。
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おれが自己評価ゼロで来た理由
ったくどうでもいい話だと思うが、おれが長いあいだ、自己評価ゼロで来たことのナゾがついに解けた。
それはなんと、縮尺の問題だった、といっても何のことかわからんと思うが/おれはまったくアホみたいだが、魂のサイズとして、ずっと「天」と勝負していたのだ、そんなもん勝てるわけねー、それでおれは数的に自己評価を「ゼロだな」としてきた。
おれは長いあいだ自分のことをゴミ虫と扱ってきて、なんとなく女を笑わせ続ける愉快な奴としてきたのだが、何度も言うとおり、おれがそれを続けているとギャーと悲鳴をあげて泣き出す女が出てきた、それも一度や二度ではないのだ、似たようなことというか同じことがあちこちで起こるし、中には救急車まで呼ぶハメになったケースもあるわで、「これは事実上ダメだ」と引き取ってきた、いつからかおれの「自己評価ゼロスタイル」は禁忌になってしまった。
その後もおれは、自己評価ゼロスタイルを禁忌として、しょうがないから「偉大なるおれさま」というふうにしてきたのだが、頑張ってそうは言ってみるものの、ふと気を抜くとけっきょく、自己評価がゼロになっているのだ、おれにはずっと自己評価を形成するという方法がわからなかった、そのナゾがついに解けた/そりゃ「天」と直接勝負してりゃ、向こうは魂のサイズが無限大なのだから、どれだけ比較してもおれのサイズは数的にゼロになるわな、おれはその中でぐぬぬぬと言い続け、「どうやっても自己評価が発生しない!! なぜだ!!」と迷い倒してきたのだった、なんというか珍しいアホのケースだ。

信じがたいがマジな話、おれはその「縮尺」を、「天 vs おれ」のパターンでしか持っていなかったのだ、おれは「おれと誰か」の魂を向き合わせる縮尺を持っていなかった。
それでつまりどういうことになるかというと、おれは自分の魂をゼロ評価するのに対し、誰かの魂を勝手にゼロ評価はしないものだから、おれに相対する誰かの魂は、天そのものと同様のスケール、つまり無限大の魂を持っていないと整合しないということになるのだ、無限大を分母とする分数がゼロ以外の値を取るには分子も無限大にするしかないということだが、そんな奴がキリストやブッダ以外にどこにいるんだよ、まったく馬鹿げたアホの話としか言えない。
おれはどうやら本当に、人のあいだで生きておらず、天地のあいだで生きているので、縮尺が「対・天地用」しかなかったのだ、だからおれと相対する誰かの魂は必然的に「天地と同等サイズ」でないといけないということになっていた、おれがそう設定したつもりはまったくないが、何しろ縮尺が「それ」しかなかったので、自動的にそうなっていた。
今や、中にはおれを拝み倒すようなパターンも一部のネタとして定番になったが、このネタが定着したのは、一種の危険回避として具合のいい手段だったと言える、なかなかうまく考えたものだ/おれは一種のド天然で、「天に対する」しかできないから、油断しているとおれに相対する者は、自動的に天の玉座に座らされるのだ、その資格がありゃすっぽりそこに収まるかもしれんが、どこの誰にそんな資格があるというのだ、それで資格のない者がそんなところに座らされたらどうなるかというと、そりゃギャーということにも当然なる。

やっとわかった、みんながおれに「うおお」と圧倒されているのは、おれが天に「うおお」と圧倒されている縮尺と同じだ。

アホみたいな数字に置き換えるとして、「1」の400倍は「400」だし、そのさらに400倍は「160000」だ、おれはいわば「400」の立場から「160000」を見上げるしか縮尺を持っていなかったということになる、そして「160000円に比べると400円なんてゼロも同じだ」と、自己評価をゼロにしてきた。
で、おれは人のあいだにあるべきものとして、「1」と「400」を向き合わせる縮尺を持っていなかった、だからおれに対して「うおお」となっている人のことがよくわからなかった、それで「???」と首をかしげてきた(アホだ)/そして、おれはそっちの縮尺がよくわからないからといって、おれ以外の全員を「160000」の場所に座らせようとしてきたのだ、そりゃパニックにもなるし恐慌状態にもなるわなぁ、とはいえおれにすべての責任があるわけじゃないぞと言い張ってはおく。
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空の威容
じ話をずっとしていりゃような気が、いよいよしてくる。
何度も似たような話をしているが、いよいよはっきりしてきたのだ、おれはよく空を見上げるタイプの奴で、しょっちゅうというか常に、空に「圧倒される」タイプだ。
最近になっていよいよはっきりしてきたのだが、こうして空に(天に)直接「圧倒される」タイプ、こういう奴はやはり一種の天才なのだ、いや天才というよりもっと大事なこと、「天とのつながりがある奴」なのだ、まさかこんな単純な話だとは思わなかった。
いわゆる「人間関係」や「価値観」の中でどれだけまっとうで善良で優秀な奴でも、天とのつながりがどうかというのはまったく別のことだ、世間一般として上質なはずの人が、世間一般としてクズでしかないおれと会って、わけのわからない泣きたくなる気持ちになるのはこれが理由だ、おれは人の間に立っているのではなく天地の間に立っているのだ、おれは自慢をしているのではなくタイプの違いについて話している。

おれと一緒にいると、外をただ歩いているだけのことが、妙に楽しかったり、やたらキラキラしていたりする、ということを体験した人が多くあるはずだ。
それは、おれが「世間」を歩いていない、また「人の間」を歩いていないということによる、つまりおれは「天の下」を歩いていて、また「地の上」を歩いているのだ、だから天の下で光が妙にキラキラしていて、地の上で何かが妙に湧き上がってくる。
もはやこれはおれの自慢話ではないのだ、いいかげん必要でしかないレポートをしているだけだ、おれと歩いたときの記憶を振り返ってみろ、やけに空と地面があるはずで、やけにキラキラと光があってやけに何かが湧き上がってきているはずだ、これは本当にそういう現象なのだ、魂の現象だ、おれがエライという話をしているのではなく、ガチでそういう天地と魂の現象があるとレポートしているにすぎない。
おれはおそらく、三歳ぐらいのときに草原(ただの空き地)で空からジッと睨まれてビビって以来、ずっと天の下・地の上を歩いてきたのだ、だからおれは人間のこと・人の世のこと・世間のことが根本的によくわかっていない、別のところを歩いているのだ、そしてほとんどの人はおれの逆、天地のことが根本的によくわかっていない、別のところを歩いているのだ/おれにとって「帰るところ」はいつだってこの天地のあいだであって、多くの人にとって「帰るところ」は人のあいだなのだ、そのどちらが "実在" だろうかというナゾが続いている、そのナゾは最後まで解かれないがそれでもわれわれは選ばなくてはならない。

空に圧倒される日、あなたはおれの友人だが、空に圧倒されない日、あなたはおれの友人ではない。

奇妙な言いようになるが、おれはもはやあなたという人間を相手にしてはいない、あなたという人間はほとんど無視だが、そのかわりあなたを取り巻くあなたの天地に向けて常に語り続けている、おれはどうやらあなたという人間はあなたではないと見なしているようだ、それはおれ自身が、おれという人間はおれではないと見なしているからだ/だからおれの声と話は、いつも直接聞こえているような、それでいてまったく聞こえてきてはいないような、よくわからない届き方をしているはず。
いつぞやおれはワークショップで言霊うんぬんの話もしたが、もし言霊なんてものがあるとするならば、あなたに聞こえていないものが言霊なのだ、聞こえていたらそりゃただの音波だろうよ、そうではなくあなたに聞こえていないのが言霊、聞こえていなきゃ役に立たなくね? という気がするのだが、そうではない、何かがあなたに届く必要はないのだ、あなたという人間はあなたではないのだから、あなたではないあなたに届くことに真の値打ちがある。
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WS報告 of 198th/お金の使い方
198回は「お金の使い方」が語られた。
ところでよくよく見たらもうじき200回だなあ、ここまで一回たりとも同じ回はなかったということを自慢しておこう、毎回「今回は特に新しくてすごかった」と言わしめてきた、それはおれが「前と同じこと」がやれない体質だからしょうがないのだ、さすが芸術家の天才っぷりがハンパねえな。
お金というのは、守ろうとしても守れないものだ、良いように使うことでしか守れない、なぜ守れないかというと、表面上の倹約・節約をしても、水面下で蓄積していく「さびしさコスト」がやがて地表に噴き出て、そのときにすべてのものをガサッと奪っていってしまうからだ。
人は五万円の靴を買ったからといって破滅しないし、100g 58円 のブラジル産鶏肉だけを食べていたからといって救われはしない、けっきょくは高い靴を買おうが安い肉を使おうが、水面下に溜まっていくさびしさコストを打ち砕けなかったら同じことだからだ、のちに人生規模での出費をドカーンとやらかすので、コツコツやってきた節約など「何の意味もなかった」という具合に一撃で困窮に陥れられてしまう。

たとえばこのワークショップは、アホみたいな内容に対してアホみたいなメンバーが参加しており、ふと気づくと金曜日から日曜日までウヘヘヘとやっているうちに、「そういえばもう数か月、週末というものがないですねウヘヘヘ」という状態になる/加えて最近は「〇月の宿題」というネタに各員が熱心だから、週末どころかウィークデーまでワークショップに呑み込まれる事態だ、特にこの数か月で各員は信じられないくらい知性があがった(つまり以前がどれだけバカだったんだという話だな)。
今、オンラインでやっているのでワークショップは実質無料だが、スタジオを借りてやっているときはスタジオ代が掛かる、とはいえわれわれが真に知らなくてはならないのは、「ワークショップに参加していなかったら、お前らは週末に別のことをしているだろ」ということだ、ワークショップに参加していなかったらスタジオ代は掛からないけれど、そのあいだ何か別のことで遊んでいるのでそちらでお金が掛かるのだ、そのことを冷静に差し引きするなら、週末にこのクソボリュームのワークショップに突っ込むことは決定的な「コスト削減」になる。
まして、われわれの人生を砕くことがあるといえば、デパ地下でケーキ買っちゃったとか短距離でタクシー使っちゃったとか、そういう表面上のコストではないのだ、あるとき突然に水面下から噴き出してくる爆発的さびしさコストなのだ、この点でワークショップでも何でもいいが、「あれは本当に面白かった」「あのときのあの時間は本当に何かの命があった」というものがあれば、このさびしさコストを水面下で打ち砕くことができる、そうして命あるものだけがさびしさコストを破壊することができ、さびしさコストが破壊された者のみ、この世界の99.9%のものに対して「本質的に要らない、別に欲しくはない」とはっきり感じることができる、それは欲をガマンしているのではなく、欲そのものに対して「???」になるのだ/「以前はやっきになっていたものが、今ではなぜそんなものを欲しがっていたのか、本当にわからなくなりました」とよく言われる。
「脱サラして、企業して、開店した店が二か月でつぶれて、借金だけが残るというようなこと、これが特殊な例ではなく "よくある話" なんだ」「彼は車を買うお金があったんじゃない、ダブついたお金が彼を許さなかっただけだ、お金があるから "車を買わされた" んだ」「彼はその後、まったく同じノリで、結婚を買わされたし、マンションを買わされた」「ただしそれは彼のさびしさコストをむしろ増大させることになったので、彼はその後……」「つまり彼は、真には車を買えなかったし、真には結婚も買えなかった、家も家庭も買えなかった、つまり彼はお金を使えていなかった」「生を費やして命に替えられなかったならそれはお金を使えなかったってことなんだよ」とおれは話した。

水面下で減価償却が企業を食いつぶしているように、水面下でさびしさコストが人を食いつぶしている/それがあるときの "決算" でいきなり出てくる。

A君が遊び好きで100万円使ったとする、一方でB君は貧困恐怖があったので一銭も使わなかった……このとき表面上の収支はB君の側にプラス100万円の軍配があがるように見えるが、本当にはそうではない、A君が命を得て水面下のさびしさコスト500をついに打破したのに対し、B君がさびしさコストを募らせて500から1000に増大させたとすると、本当の決算はA君がプラス400でB君がマイナス900だ、その差は1300、B君は恐ろしいマイナスとビハインドを抱え込んだことになるが、表面上B君は自分のほうが賢明で強いと思っている、その思い込みはあるときの "決算" まで続き、その決算のときにはもうまったく耐久性がなくなっている。
「脱サラして、起業して、数か月でつぶれて借金が残るというのは、実によくある話なんだ、その話を持ち掛ける専門の、カゴ抜け詐欺野郎だっているんだよ、飲み屋でひとりでやけ酒を飲んでいるとシレッと言いよってくる、そのことには目の利く専門家がいるんだ」「起業して、客は実質ゼロ、借金だけが残ったという定番のパターン、これは経営したとさえ言えないだろう」/「なぜそんなことになったかというと、彼はこれまでずっと、自分が万事に対して "しぶしぶ" お金を使う人だったのさ、だから彼は、豊かに文化的にお金を使う人や、太っ腹に粋にお金を使う人の感覚なんてわからなかった、彼はそうやってお金を使える人とは話が合わず、彼に話が合う人は全員同じ "しぶしぶマン" だったのさ、だから彼が何を経営しようが、彼のところには極端な "しぶしぶマン" しかやってこない……そんなことで経営が成り立つわけないだろう? 結果、彼が自分では賢明だと思っていたしぶしぶ合理主義が、トータルで見ると何ら有利ではなく、彼の致命傷になっていたってことさ、お金について、自分がまともな使い方をしたことがないから、自分にもまともに使ってもらえないんだよ」。
正しく見ないとな | comments(0) |
空の向こう側の空
こかで若い誰かと若い誰かが恋人でありますようにと祈っている。
たまにおれはそういう埒もない空想を幻に視るような気がするが、そのときのおれはどこにいるのだろうと、昔から奇妙に思っていた/おれは物語やシーンを目撃していて、おれはそこに "いる" のだけれど、そこで何をしているのかよくわからないでいた。
おれは彼らを応援していて(ダサい言い方だ)、彼らに直接の干渉はしないけれど、彼らと話はする友人だ、そのとき彼らはなぜかひとつの空の下にいる。
その空は、夕暮れが一番多いのだが、今さらになって思いがけないことに気づいた、そのときにある空は日常的な空ではなく、空よりももうひとつ高くにある空だ、空の向こうにまた空が広がっているというような、広く遠い空だ。

おれはこれまでに何度か、この「空の向こう側にある空」を目撃してきているように思う。
そしてそれは、目撃のたびに、すべてが決定的で大事なシーン・出来事になったように思う。
これが何なのかは知らないが、それでもこれがある・この現象があることを、おれは知っている、今このときもあるのだ、空の向こう側に空がある、その遠い空の下でこそすべてのことはシーンになり出来事になり物語になる。
おれが当該の空から、見つめられた、あるいは睨まれたのか、または語りかけられたのか、わからないけれど、そのはじめの記憶はおそらく三歳や四歳のころにさかのぼる、おれは近所の空き地の雑草を草原と誤解するほど小さかった、おれは空の雲を見上げていたつもりだったが、ふとした瞬間に空の雲がおれを見ているのだと気づいた、おれは怖くなって走って逃げて帰った、あれは今ならわかる、空の向こう側にある空だ。

空の向こう側にある夕暮れの空が「おれ」なのかという気もする。

ひとつ確実なことは、おれは漠然と存在しているのではなく、厳密に「空の向こう側の空」の下でのみ、おれとして存在しているということだ、そこから切り離した社会的なおれなどは社会的にしか存在していない、そしてもちろん社会的な存在というのはウソだ(不必要だと言っているわけではない)。
あいかわらずおれはヘンな奴で、おれだけずっとヘンな、まったく違うところに立っているのかもしれない、おれは誰とも会っていないような気もするし、誰とでも会っているような気もする、おれがわかるのはひとつだけはっきり、「これがおれだ」ということだけだ。
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言葉は常に "真相" だ
れはまだこの世界を生きているのかと自分で驚く。
おれはまだこの体験の中を生きているのかと自分で驚く。
あるいは正確には、あの体験にはまだまだ続きがあったということなのか、それにしたって驚きだ。
街があり、秋空がある、世界があるのだが、これらはすべて言葉の直接体験から成り立っている/言葉の直接体験は、常に危険であり、だからこそ唯一のものだ。

言葉から意味を抽出して理解・認識することにあまり意味はない。
いや、意味はなくはないが、そうした理解や認識は体験ではないということだ、赤ずきんが狼に食われたことは誰だって理解・認識しているがそれは何の体験でもない。
言葉は常に "真相" なのだ、その真相を無視して意味だけを抽出することは、安全で理解に足りるが物語としては何の意味もない。
 "真相" といって、事件の真相というような安易なものではない、真相は真相なのだ、その人の言葉のありようで、お前は真相に直接接触しているかどうかが明るみに出るだけだ、今やこの現象と感覚は誰にも理解されないだけに、必ず誰にも誤解されるだろう、おれの言っていることが「どうやらわからないらしい」と取り扱うのが一番健全だ。

人は "真相" に平等でない。

われわれが人との関わりで困難を覚えるのはこの点だ、われわれは互いに平等であろうとし、その平等主義は万人が平坦に、「誰も真相に接触はしていない」という状態ならそれなりに成り立つが、ごくまれにこの言葉=真相に到達してしまっている奴がいる、こいつが入ったとたん、人はその点で平等でないということが命題になってしまう/言葉が理解や認識以外のものを決定してしまう、そういう権威を得てしまっている奴がごくまれにいるのだ。
理解や認識以外のもの、それは「問われる必要のないもの」とも言えるし、「疑われる必要のないもの」とも言える、これを否定することですべては安心で平等になり、その代わり世界や街、出来事、物語のすべてを失う/その点で、おれはもうちょっと大切にされればよかったのになと他人事のように思う、おれから離れていった人というのはいない、いるのは真相から離れていった人だけだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
街と言葉
ったく意味不明のことだと思うが、「言葉の通じていた場所が街」で、言葉が通じなくなるとそこは街ではなくなる。
そういう現象が本当にあるということなのだ、これはまったく新しい知見なのでおれ自身「ほえ〜」と驚いているのだった。
言葉が通じるというのは何のことか、もちろん言っている意味がわからないと思うが、かつては言葉が互いに通じ合う世界があったのだ、といってせいぜい二十年ぐらい前まではそれがあったのだが、今は言葉が通じるという現象はほぼゼロになってしまった。
今、一般的なフツーの態度でおれに接触すると、ガチで精神の機構がナゾのクラッシュを起こすというのは、おれが単独で「言葉の通じる世界」を保持したので、それを知らない人にもその作用が及んでしまって「何かわからんけどうわああああ」となるのだ、これは本当になるから危なっかしくてしょうがない、けれども危なっかしいにしてもおれがこれをやめてしまったらもう人類全体でやることがなくなってしまうので、この危なっかしいやつをそれなりにうまいこと使っていくしかないのだった(うむ、気の抜けた文章だな
!)。

ファーストフード店が「マニュアル接客」を始め、街頭では「ティッシュ配り」が始まり、大手企業まで「0円」というようなウソ広告を出すようになり、ウェブ上・SNS上では残虐な罵詈雑言が飛び交うようになった、ウェブ上には神経以上の広告が次々に表示され、手元には毎日たくさんの詐欺メールが届く、それで人々は無自覚のまま「言葉を信じないようにする」という決定をした。
その決定に最大のインパクトをもたらしたのは、日本の場合、どうやら東日本大震災と原発事故だったらしい、つまり「原発は絶対に安全です」という国家規模でのウソが明るみに出て、いよいよ「言葉を信じないようにする」という決定は不可避・不可逆のものになったらしい。
今や子供に対しても、「人の言うことを信じてはいけません」と教育するのが大前提だ、それはしょうがないことであって、そのように教育しておかないと公園で悪い人に連れていかれてしまうからだ、そのぶん当然ながら、子供たちは紙芝居を読み聞かせられても大前提「ウソだ」「信じない」という態度でそれをしょせん娯楽として聞いているから、子供たちは何の世界も得ない、こういう「しょーがないだろ」という切実さで、われわれは言葉を信じないように決定し、そして世界が失われ、「街」というものがなくなっていった。
おれは今、次々に出現してくる新しいアイドルの写真などを見ていると、「これはガチもんやで」と視えてしまい、いよいよ恐ろしくてしょうがないのだった、むろんおれに何の実害があるわけでもないだろうが、そこに映っているのは美麗なお顔の、「言葉の一切が通じない魑魅魍魎」なのだ、魑魅魍魎だから魅力はあるのだが、おれはすでに魅力などというものが根こそぎどうでもいいものだと気づいてしまっている、いや魅力はあってもいいが言葉の一切が通じないというものにチンコを突っ込むというような恐怖の空想に何の夢もよろこびもあろうはずがない。

かつて言葉が世界だったのだが、その「言葉」とはどういう現象かを、すでに現在説明することはできない。

ほとんど生まれつき魑魅魍魎になってしまった十代の女の子に何の罪があるわけでもないのだ、それは「言葉の一切を信じない環境で育てられた魂はこうなる」という事実でしかなく、当人が悪意からそれを自らに選択したわけではないだろう、だが魅力を持ってしまうと自らも魅力に操られて、自動的に悪い活躍をしてしまうのだ、当人はもう何が何だかまったくわからないまま生きていて、かといって今さらおれが言葉で接触したら精神がガチでクラッシュするから彼女はそれを受け取らないよう回避行動をするしかない、それはおれの側からも「そのほうがいい」と思えてしまうぐらい無理があるのだ。
「言葉」に関わって、かつて人々は、危険な状態の中を生きていたのだ、「言葉」がほとんどイコールで魂だからだ、それはとても危険なことであり、だからこそ人はそういう切実なものと互いに「出会う」という中を生きていた/それに比較すると、現在の人々は安全な中を生きている、すでに言葉はほとんど存在せず、言葉が作用しない自己決定の上で生きているので、もはやどのような言葉に接触したからといって何の影響もなく健康なままぐっすりと夜眠ることができる、そのことは、すでにすべてのメディアやウェブやSNSが彼らを残虐な呪詛で包囲している状況では実にやむをえない対処だった、おれはこの現況のすべての呪詛を権威で焼き払えるのでまともに立っていられるのであり、そうでない者がこの呪詛の飽和した中に魂のまま立つことはできない。
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天才の正体3
間と天才は別モノ、別の存在であって、いったい何が別かというと、天才は「先んじるものがない」という一点が決定的に異なる。
人間は世間から情報を得ているのだが、世間から情報を得るということは、すでにその情報が先んじてヨソの誰かのところにあるということだ、あるいはその情報を記憶したとき、その記憶が当人より先んじるということになる。
たとえば世間のどこかに、「進学先はここがオススメ」「おすすめのデートスポットはこちら」という情報があると、その情報は消費者より先んじてあるわけで、消費者がそれを記憶して持ち帰ったとしたら、さらにその記憶が消費者に先んじることになる、つまり情報のルートは[ヨソの誰かのところ→記憶→消費者当人]ということになる。
さらに言えば、たいていそういう情報は、消費者の側にアテンションを呼び掛けて「へえ」と思わせ、インタレスト、デマンド、アクションと続いていくのだから(いわゆるアイドマの法則)、正確には情報のルートは[ヨソの誰かのところ→記憶&思い→消費者当人]ということになる、だから記憶や思いが先んじているのであり、さらにそれに先んじて「ヨソの誰かのところ」というテキトーなところが根源なのだ、これが世間と人間の仕組みだ。

これに対照して、天才というのは当人に先んじるものがない。
ここ最近、このネタで人と話していて、「その感覚がさっぱりわからん」と言われて「そうなのか」と驚いたところなのだが、そこの説明は省くとして、天才というのは記憶や思いさえ先んじずにいきなりどこかから情報をブッコ抜いてくるのだ、つまりおれが今こうして書いているものも、その文脈や文体に及んでまで、実は何ら記憶や思いは介在していないことになる/おれはマジで「いきなり」書いているのだ、何のプランも記憶も思いもない。
天才の情報ルートというのは、[天→おれ]なのだ、なんとシンプルだろう、ここで「じゃあおれよりも天が先んじているのか」ということになるのだが、そういうことでもない、天(聖天)にあるのは "主体性" だからだ、主体性というのはもちろん「わたし」という現象のことだから、情報ルートは要するに[おれ→おれ]ということになる。
このようにして、人間と天才の違いは、この情報ルートの違いにあると言えるし、この差分それじたいが、人間と天才の定義だとも言える、人間はまず世間が先んじてあり、その世間の情報を記憶と思いでひっこ抜いてきて、当人がそれに操られるという具合だ、それに対照して天才の情報ルートは[おれ→おれ]だ、本当に「おれ」しかない、先んじるものが何もなくて、だから「本当にコイツは世界を生きている」というナゾの直観と、衝撃と感動がある。

生や死でさえ、おれに先んじることはありえない。

天才というのはそういうものだ、ふつう人間は、生きるということや死ぬということについて、まず言語それ自体や、現象について知られているところの知識を聞きつけ、それを記憶して、そこに思いがくっついて……というような形で、ようやく当人にその情報が得られている、天才の場合そうではないのだ、生や死がどのようなものであるかについて、「おれ」が先んじてそれを決定するのだ/ただし決定するといっても、それについてわざとらしい決定の儀式なんか必要なくて、天才というのは何もしなくても生や死でさえ初めから臣下なのだ、すべてのものが「おれ」に付き従うのであって、生や死が勝手に「おれ」のことを読み取るのでいちいち決定する必要さえない、すべてのものが「おれ」の意思を汲み取ってついてくるだけだ、「天才」において「当人がすべてに先んじる」というのはそういう意味だ。
おれの言っていることは、少なくとも半分はウソではない、どの部分がウソではないかというと、あなたがこの話を、あなたの知る限り最も「世間っぽい人」「人間主義っぽい人」のところに持ち込んだら、実にイヤな気配でイヤな顔してイヤな否定をしてくれるだろうということだ、想像はつくだろう/さらには試みにその人に、生死について訊いてみたらいいだろう、そうするとその人は必ず世間の情報にアクセスして、その記憶と、そこに「思い」をくっつけて、つまりここに説明したとおりの応答をしてくれるはずだ、そのときあなたは世間から人間への情報ルートを目の前に目撃するだろう。
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天才の正体2
「せいぞく」で変換すると「聖俗」という熟語が出てくる、聖と俗はそれぞれ反対の語だ。
俗は「俗世間」といい、世間が俗の性質で成り立っていることがわかるが、これに対照するなら、聖は「聖天」ということになる、仏教方面ではこれはガネーシャのことでショウデンとかショウテンとか読むが、そんなことはどうでもいい、ここでは「俗世間」と「聖天」が対照される。
俗・世から情報を得る者は「人」であり、聖・から情報を得るものは「才」ということになる、ここでこのように言われるべきだ、<<を否定する者は俗世の恩恵を享けられないし、才を否定する者は聖の恩恵を享けられない>>。
俗世間の恩恵を享けられないというのはとんでもないことだ、稼ぎ口はないしスーパーマーケットで買い物もできないし水道や電気も病院も使えないのだから最早まともに生きていくことは困難だろう、そしてその反対側で、天才の恩恵を享けられないというのもぼちぼちとんでもないことで、稼ぎ口はあってスーパーマーケットで買い物はできるし水道も電気も病院も使えるのだが、生きていて何の世界もないということになる、もはや生きているのか何なのか意味がわからないだろう/おれは俗世間を否定しているわけではない、おれが俗世間で購入したカッコイイ iPhone SE 2nd に比べれば他の誰かが使っているスマホなんか全て二流のポンコツみたいなもんだ、そうして偉大なるおれさまは九月の空の下を歩いているのだ。

スマートフォンだろうがテレビだろうが、それらはただのデバイスやインターフェースに過ぎず、得られる情報の元は何かというと「世間」だ、世間の情報を電脳通信が運んできているだけにすぎない。
そうして、小学生のうちから大量の世間情報を得ると、脳内は世間情報で埋め尽くされ、もう天才情報を入れる余地がなくなる、ただそれだけのシンプルなことがすっかりわれわれから世界を奪ってしまった。
今、特に若年の人々は知識と能力に優れ、多くの女性が化粧を達者にしてうつくしく、万事のハイレベル化が進んでいるのに、なぜ死んだ魚のような目で精神をよどませ、また気性を荒廃させているかというと、天才情報を入れる余地がなくなったからだ、彼らはすでに天才を認める余地を持たなくなり、よって天才に出会う可能性をなくしてしまった、そして天才に出会う可能性をなくしたということは、この先何らの世界に立つこともできないということだ、それで万事がハイレベルと言われても死んだ魚のような目になるのは当然のことだろう。
試みに、たとえば Youtube で「クラシックギター」と検索してみれば、その筋の達者がワッと出てきて、それぞれに優秀な演奏や、興味深く的確なレクチャーを与えてくれるだろう、どれも余人の追随を許さないようなハイレベルだ、けれども一方であなたは、おれがあなたの目の前で、ギターの弦をブッ叩いたときに生じるナゾのショックと感動を知らない/おれは天才なのだ、ただしおれはギターなんか弾いたこともないし、練習しようとしたら二時間で投げ出したぜ、それでもおれがギターの弦をブッ叩くと、あなたの魂は「えっ!?」とわけのわからない出会いをする、自分が何でもないただの「世界」に立っていることに気づく、ただしそれはあなたの精神が世間の情報で埋め尽くされていないときに限る、たまにはおれの話を真に受けてみるのも悪くないだろう。

大量の上位者はけっきょくあなたに小さな場所さえ与えず、ささやかな天才だけがあなたに膨大な世界を与えるだろう。

ただしそれも、あなたのうちに天才を認める余地が残っていればの話だ/おれの言っていることはそんなにむつかしいことじゃない、おれが見せているコンテンツはレベルとしては低いが、じゃあ同じ内容と感触のものを見つけてこいと言われると、一万年ネットサーフィンしたって見つかりはしない、それはおれが独自ということではなく、おれの「参照元」なんか世間のどこにも存在しないということだ、だからそもそも「探す」という行為が的外れだ。
人間と天才は別モノだが、さりとてもともとは人間と天才が対立しているわけではなかった、本来人間は天才を助けねばならないし、天才は人間に与えねばならなかった、人間には人間の領分があり天才には天才の領分がある、もともとはそれを相互に支えあっていたのだが、いつからかそれは対立関係になり、人間は天才を認めず圧殺するのがスタイルになった、そうなると勢力差で人間は勝利するのだが、勝利の結果「世界はどこだ?」とそれが二度と手に入らなくなってしまった。
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天才の正体
大なるおれさまは歴然たる大天才だけれども、この大天才をもって、ようやく天才の正体がわかった。
おれさまが天才なのはわかっていたのだが、おれはその逆がよくわかっていなかったのだ、それでずいぶんこの理解に時間が掛かってしまった。
多くの人は今、インターネットやマスメディアで情報を得ている、ように見えるが、それをIT革命うんぬんというのはごまかしだ、人々が情報を得ているのはインターネットでもなければマスメディアでもない、「世間」から情報を得ている。
今これを読んでいるあなたも、そのようにズバッと目覚めれば今日からの日々が光り輝くであろう、いやそれは言い過ぎか、それなりにほんのり光るであろう、あなたはどこから情報を得ているか、それはインターネットからではないしマスメディアからでもないしSNSからでもない、あなたは「世間」から情報を得ている、インターネットうんぬんはその世間情報に対するデバイスでしかない。

ここではいっそ、「天才と人間は別モノだ」と捉えるとわかりやすい。
人間というのは、「世間から情報を得ている人」のことだ、人間の「間」は世間の「間」だ/人間は世間からしか情報が得られないのだ、それが当たり前なのであって、ここでごく例外的に、世間からではなく「天」から直接情報を取ってこられる特殊な奴がいる、この人のことを天才というのだ。
だから天才というのは、単にクソほど頭のいい人のことを言うのではない、東大理3にいけばクソほど頭のいい人はいくらでもいるが、それでも彼らは世間から情報を得ているのであって、その情報処理や記憶処理が優れているだけだ、それは天とは何の関係もない人間のことなので天才という性質にはあてはまらない。
そこで偉大なるおれさまの場合、たとえば女の子とデートするとか、単独で旅行するとか、こうして文章を書いてみるとかについて、一切「世間の情報」を引っこ抜いてくる必要がないのだ、おれはデートひとつするにしても旅行ひとつするにしても、「どういうふうにしたらいいか」を、なぜか直接「天」から引っこ抜いてこられるのだ、だからおれの書いているこの文章はどこでも見たことがないものなのに、読めば誰でも意味がわかるようになっている、おれは文章の書き方を人間の一切に習ったことがないのだ。

天才と人間は別モノで、どちらがエライとかそういうものではないが、「聖俗」については人間は聖を営めない。

考えてみれば当たり前のことだが、世間から情報を抜いてきて、それをもとに「聖」の何かを営むことはできないのだ、このことはまた後に書き話そうと思っているが、この聖俗において、人間[世間から情報を得てくる者]が、その俗性をもって聖なるの真似事をしようとすると、それが「邪」になるのだ/聖俗といって、聖の反対は俗であり、俗そのものは邪ではない、俗が聖を騙るとき邪悪が発生する。
天才でないかぎり、世間から情報を得てくるしかなく、それが人間として当たり前のことだ、ただし世間から情報を得てくる場合、それはあくまで世間の情報であるから、そこには「九折さんはタバコをポイ捨てしていいが、あなたは携帯灰皿に捨てるべきなのよ」というような最重要の情報は書かれていない/あなたは天才である必要はないが、あなたが天才を「認めるか否か」はあなた自身の問題として大きく関わってくる、あなたが天才を認めない場合、世間はあなたに大きく味方するが、天はあなたに味方しなくなる。
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つまり人は相対であり、人より先にあるものは絶対だ
 "OUTSIDE" 、世界の知識は、むろん人の存在より先にある、人が存在する以前から世界の知識はある。
なんのこっちゃということなのだが、たとえば 440Hz や 442Hz は人が存在する以前から存在しているということだ、こればナゾの数値を出しているのではない、単に日本のオーケストラではAの音が 440Hz でヨーロッパでは 442Hz という割と一般的な知識を例に出しているだけだ。
人が存在する前から、 440Hz や 442Hz は存在している、それが「ラ」の音であろうがなかろうが存在はしているのだ、当たり前だ、そしてそれをドレミのうち「ラ」にあてがったのは人のする「相対」の都合であり、そもそもの周波数は「絶対」として存在している。
あるいは、 440 なら素因数分解して 2 2 2 5 11 の積と言えるかもしれないが、少なくとも素数は相対でなく絶対として存在している、仮に数が人の発明であるなら数の並びは物理にまったく無関係でなければならないが、素数が人知を超えた周期性を見せて物理現象と重なってくるからには(リーマン予想の問題)、数そのものも人より先に存在しているとみなさないといけない/つまり人由来のものはすべて相対・レイシオゥ(比率)であり、人以前からある存在は絶対・ forms だ。

いったん素数の問題は捨象するとして、たとえば 440Hz と 442Hz なら、後者のほうが「高い」のだが、それを「高い」と見るのは相対的なものであって、あくまで「比較的高い」「比較すると高い」にすぎない、比較しなければそれぞれはそれぞれにおいて絶対的に存在しているのみだ、いわば人以前にさかのぼれば「高い音など存在しない」ということになる。
高い音など存在しないし、善い・悪いなども存在していないのだ、だからこのことを指して聖書は「善悪の知識の実を食った」といい、仏教説では「行識の因果によって輪廻をめぐっている」という。
絶対的な周波数のみが本当は存在しており、ドレミファソラシは本来それぞれに眷属ではない、実際に和音が生じることに人類は目をつけて、そこに相対的比率関係を見出したのだが、その結果、「シンセサイザーが合成する純正調はクソで何も意味もない」という奇妙な事実をわれわれに与えた。
存在に依拠した絶対同士の和音と、比率に依拠した相対の恣意的な和音では、なぜか響いてくるものが違うのだ、もちろんオシロスコープで測れば同じにしか見えないが、われわれが体験するものは違う/何が違うって、そりゃ前者は絶対的なものが響いてくるのであり、後者は相対的なものしか響いてこないのだ、これほど当たり前の話もあるまい。

 "それ" が響くように、おれは相対的に間違ったことばかり言い続けている。

たとえばおれは、「ツタンカーメンはこんにゃくパンチだ」と言うことにしよう、相対的にはこれは間違い倒している、だがもしおれが相対的に正しくなったらどうなる、それはおれがあなたのおっぱいを揉んだときにあなたにクソ体験が起こるということだ、相対的に正しい奴に乳を揉まれるなど、重機関銃でハチの巣にしてやりたいだろう、人類の機関銃は性能がいいので相手はハチの巣どころか肉片になって荒地に砕け散っていくはずだ。
 "それ" が響くように、おれはずっと相対的に間違ったことばかりを言い続けている、そしておれの言うことを相対的に解釈しようとした者から順に、やはり肉片になって砕け散っていくだろう、おれの世界ではあなたは砕け散らないのに、おれをあなたの世間に持って帰ろうとするからあなたが砕け散るのだ、残酷なことをしているのはおれではなくあなただ。
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おれだけが異様に気楽な理由4

る容器のうち、水と油が反対ならば、水が尽きれば油に満ちるはずだ、ただしそれは油が得られた場合であって、油が得られなければ容器は次第に、水が尽きるほどに「空っぽ」になっていく。
生の反対は命であって、同じ容器において、生が尽きれば命に満ちるはずだ、ただしそれは命が得られた場合であって、命が得られなければ容器は次第に、生が尽きるほどに「空っぽ」になっていく、これが「死」だ。
人はみな、生を尽きさせていくのは同じだが、人それぞれに、命が満ちていくタイプ(永遠の命・魂)と、空っぽが満ちていくタイプ(死・無)がある。
われわれは魂において、それが命に満ちるという国のよろこびは否定のしようがなく、またそれだけに、反対側においてはそれが無に満ちて空っぽに死の国へいざなわれるという恐怖もまた、耐えがたく直視できない/こう考えるとわかりやすい、われわれは生きものとして、「耐えがたい空っぽの死にどう対抗するか」という問題に向き合わされ続けている。

耐えがたい、また耐えようもない空っぽの死にどう対抗するか、この対抗策として、われわれはけっきょく生と命のどちらかに頼る、所属する、あるいは帰依しようとする。
たまたま永遠の命や魂なんてものが得られた場合は、それは万々歳ということで話は済むが、そうでない場合はけっきょく、命ではなくて生のほうに所属・帰依し、「死」に対抗することになる、<<生に帰依する>>、それがつまり、生きものとして遺伝子を残そうとすること、子孫を残して繁栄させようとすることだ、連綿と続く生によって永遠に死を超克しようということ、そうすればたとえ自分の肉体は死んでも「遺伝子は残ったもんね〜」ということになる。
古典的なキリスト教の場合、「神父は結婚しなくていいだろ」「神父は子孫残さなくていいもんな」と考えられているのは、もう神父は永遠の命の側へ帰依したので、生へ帰依する要素は持たなくていいじゃんという発想なのだ、もちろんその発想が制度になったとして本当に機能しているのかどうかおれは実態を知らないしこの先も知ろうとは思わない。
このことのちょうど反対側で、人は自分が永遠の若さなど持っていないということを認めたとき、生に帰依して死に対抗するということで、遺伝子を残して子孫を繁栄させることを発想するのだ、それは非宗教的な宗教ともいうべきで、人は本能的に子孫を残そうとするのではなく、繁殖の本能にすがって死に対抗しようとする宗教行為を選ぶのだ/死に対抗するということ、いつまでも滅ばずにいることの願い、つまり「万歳」をどう為すかにおいて、永遠の「命」を得ようとする者と、リレーされる「生」を徹底的に有利にしようとする者に分かれる。

死に対抗する三択/ひとつは永遠の命、ひとつは際限のない生、ひとつはすべての視認をやめる。

もちろんこれが、ウソだったら困るのだ、永遠の命というのがウソだったら困るし、際限のない生というのもウソだったら困る、たとえ宇宙が滅んでも永遠の命は残ってもらわないと困るし、たとえ宇宙が滅んでもウチの子たち・子孫は繁栄していてもらわないと困る/そして「死とか考えても意味ないから考えなくていいじゃん」というのがウソでも困る。
表面上に限れば、異様に気楽なのはおれだけではない、盤石の「生」を確保して、子孫の繁栄もばっちり間違いなしという状態に至った人は、同様にまったく気楽になるだろう、若いあなたならこの先にそれを知ることになるし、十分な大人ならすでにこれまでに知っているだろう、盤石の生と子孫の繁栄を確保した人がまるであなたに勧めるように「腰を落ち着けた」と力強く言うこと、確かにそう述べる当人からは目の奥に決定的な「気楽さ」が感じられて、あなたは一種の迫力に戦慄さえ覚える/おれはどちらが正しいのかは知らない、いや正確には、おれが正しいほうを知っていたとしてそのことは他の誰かには何の意味もないということだ、ただおれが気づいて報告できることは、この一点、死に対抗するのに命をもってするか生をもってするかという二者択一が必然的に起こるということだけだ、あとはその二者択一ごと土に埋めて知らんぷりを続けるぐらいしかない。

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OUTSIDE3
れは若いころ、あるいはガキのころ、まったく女にモテない気がしていた、気がしていたのみならずそれは事実だった。
一方で、それは事実でありながら、まったく違う真相を含んでいる、モテるとかモテないとかいうより、おれの世界には「女」というものが存在していなかった。
形容しがたいが、これまでに女に「引き留められた」ことは何度もある、あれはなんだったのか、今になって少しその意味がわかる。
おれは本質的なおれ・主体を、外側の世界に持っていたのだ、まったく知らないところに行こうとしている、そのことを女が引き留めたことはこれまでに何度もあった。

わけのわからない知識が、外側の世界にはある。
そこでは何も教わる必要がない、逆に何もかもを常に教わっているからだ/外側の知識によって直接。
いかなる思念も問答も、「外側の知識には何の関係もないからね」とおれは言いたくなる、おれは今このときだって内側の人の子に歩み寄って調子を合わせているが、これは一種のウソでもある。
おれは外側の知識をおれ自身にしていて、おれの世界に女はいなかったのだ、モテなかったというより女と "関わりようがなかった" というのが正しいだろう、世界に女は存在していなかったのだから。

おれは世界に「女」の違和感を覚える、そして女自身もその違和感に苦しんでいる。

人の子としては、男も女も同じ「人」だ、男女は平等で仲良しだ、だがそうして外側の知識とますます切り離されていく、脱出できない内側の思念と問答に取り込まれ、外側の知識というものがますます縁遠くなっていく。
仮に「男の世界」という言い方をするならば、男の世界において女は差別されているのではない、女は存在していないのだ、存在していないものを差別することはできない、男だけずるいという話ではなくて、外側の世界に人の子は存在していないということ/おれは今、人の子には理解できない話をしていて、人の子がおれを引き留めるときの話をしている。
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OUTSIDE2
側に引き戻そうとするな。
それはけっきょくわたしには作用しないのだから。
内側のそれで外側の知識を真似られると思ったのだな。
人の子が世界の子をカバーできると思ったのだな、まったく愚かで見苦しいことだ。

外側の知識と内側の思念はまったく性質の違うものだ。
性質が違うのでカバーはできない、人の子のそれを世界の子のそれに代用することは決してできない。
おれは人の子を悪いと言っているのではない、ただあるべきものが「無い」と言っているのだ。
あるべきものが無いのに、それがあるふりをしようとする、代用品でまかなえるものだと思っている、それを大人数で押し切れば真実を曲げられると思っている。

おれは、よく知られているものの外側の子なのだ。

だから、内側の子はどうやっても本来のおれに接触はできない、おれが調子を合わせて、そのときに内側の子のふりをしているだけだ。
つまり、人の子に見せているおれは取り繕った内側のおれで、面白いだろう、おれに限っては内側を取り繕うもので、本当のおれは内側でなく外側にいるのだ、人の子が知ることの範囲の外側に。
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