☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
駅前因果律
近は電車で移動することが減ったので、今日駅前に出たのは「久々」だったのだが、まーた世の中が一段階悪くなっているぜと、おれは勝手に感じ取って断定したのだった/断定というか何というか、もうそんなことに節度を含ませている時間的余裕などないのだ、だいいちそのへんはもうはっきりさせないとお前らが理解できねーだろ。
地域差というのはもちろんあるのだが、地域によって激烈ダメダメになっているところもあれば、なぜか案外助かり続けているところもある、おれは目黒区に住んでいて目黒区でも東横線沿いとJR沿いでは割と状況が異なるが、まあこのあたりは総じて中程度の状況じゃないのかと思う/おれは都心に住んでいてよかったと思うのだ、こうした状況のアップデートを先端で知ることができる。
おれが勝手に言っているところの激烈ダメダメというのは、何も都会だからダメとか、田舎だから助かっているというようなことはなくて、郊外や地方や限界集落でもダメなところは激烈にダメだ、濃厚悪霊出汁スープでこの十年間煮ました、みたいな地域がいくらでもある、むしろ閉鎖的な田舎のほうがその後に変動のしようがなくて煮詰まっていくだから、危険というか絶望的だと思う、もちろんこれはおれがテキトーに世迷言を言っているだけなので信じなくていい、できたらおれ自身だってこんなことは信じたくないのだ。
買い物袋をエコバッグにしたとして、それでマイクロプラスチック(って本当かどうか知らんけど)が削減されたとして、あるいは自転車の撤去や喫煙所の撤去で駅前の見た目が整理されたとして、それで激烈ダメダメが救済されるわけではない、それどころか激烈ダメダメはそういった動きによって加速していくのだ、救われていない奴が自力のインチキ発想で救われようとするからゴミみたいな悪霊が入り込んで操られて激烈ダメダメ空間が形成されていく、このことについてはもはや前向きな精神や取り組みはいっさい役に立たない、じゃあどうすればいいかというと、基本的に「放っておく」しかないのだ、ヴィーガンになって寺に入って頭を丸めて河原のゴミを拾って洗礼を受けて慈善事業に億単位の寄付をしてもダメだ、それでも翌朝はさらに真っ黒で穴だらけの魂で目が覚める、そしてインチキの知り合いと友人とエセの盛り上がりだけが拡大していくのだ、おれは珍しいことを言っているのではなく誰でも目にしているいつものことを指摘しているにすぎない。

駅前に行くと、いちおう目黒区だから、キレーなおねえさんがたくさんいて、おしゃれもお化粧もお肌も表情も雰囲気づくりも完璧なのだ、けれどもおれはそれを見て「あっ、ダメだこりゃ」と思った、おれはキレーなおねえさんを侮辱しているのではない、おれは本来キレーなおねえさんを愛しているから悲しんでいるのだ、悲しみつつもいくらかでも足しになるようにここにウソを書かないで本当のことを書き続けている/キレーなおねえさんたちは、自分ではまったく心当たりがないようにしているけれど、それでも魂の内側というか中心に、煮えたぎってどうしようもない邪悪みたいなものがあるだろう、そしてそれが最終的にはすべての正しいものを拒絶してしまうということを知っているはずだ、当人だってそのことを知っているのにそのことがあまりにも怖すぎて自分では正視できないのだ。
キレーなおねえさんたちは、たぶん生まれも育ちもそれなりによく、それなりに裕福でお金もあり、一部には十分以上の学歴もあるのだと思う、まさに完璧だ、にもかかわらず、単に「見ればわかる」ことだが、そうして完璧な素質と完璧な手入れをものにしながら、自分の一番奥では "何の自信もない" だろう、イケメンの彼氏とはいい関係で、彼は今何かで注目されている誰かだったりするかもしれないが、それにしてもすべてを鑑み、自分の内側には本当の自信と呼べるものが何一つ、本当にこれっぽっちもないだろう、怯えに怯えきっている魂がミエミエだ、そして当人はそのことを正視できるほど強くないし、何より当人には何がどうなっているのか何の知識もないし何の教えもないし何の心当たりもないのだ、そして信頼できる人は誰一人いない、「このわけのわからないことでもあの人ならなんとかする」とまで信頼できる人が誰もいなくて、けっきょく彼女らはまったくアテにしていない母親に縋るという矛盾した中を生きている。
おれはキレーなおねえさんたちを悪く言っているのではない、状況の悪さをなるべく正確にレポートしようとしているのだ、キレーなおねえさんたちは何もバカではなく、何かが歪んでいるわけでもない、それどころか彼女らは、もし解決のために泥水を飲めと言われたら飲むし、裸で逆立ちしろと言われたらするだろう、頭を丸坊主にして二か月連続でカレーライスを作れと言われたらそれだってする、解決のためなら本当に何だってするまっすぐな女性たちなのだ、けれども肝腎なところ、一番真ん中に一番正しいことだけは届かない、もし一杯のさかずきに聖水が入っていて、それに口をつけろと言われたとき、それこそが本当に真ん中に届く正しいものだった場合、「それだけは絶対にイヤ、それだけは絶対に無理です」と反発する、その反発がどこから出てくるかわからないけれど、前もってそうやって決まっているという具合なのだ、だから根本的にはもう無理なんだろうなということを、おれではなく当の彼女ら自身が知っている、とはいえそうとは知っていてもそのまま端座してわけがわからないことになっていくことを正視していられるほど彼女らは強くないのだ、彼女らは十分に自覚しながら "今日もまた違うことをやらねばならない" 。
彼女らはバカではなく、むしろまっすぐで健気だ、そして直観に優れているから、自分が何かに縋るしかないということを知っており、それでいながら、本当に役立つものには「縋らせてもらえないだろう」、「わたしの内側から何かが飛び出て、それに縋ることだけは否定するだろう」ということを知っている、縋るしかないと知っているけれど同時に縋らせてもらえないということも知っているのだ、こんなものはけっきょく遠ざけている恐怖が刻一刻と接近してくるという状況でしかない、おれにだってどうすればいいのかわからないのだ、おれはせめて何かの足しになるようにここにウソは書かないようにしている/ただ、おれ自身「どうしようもない」と認めて理解している中で、それでもおれの――偉大なるおれさまの――作用は、そのどうにも解決しようがないはずの女性を、わけのわからない理屈で強引に解決のほうへ一歩引き寄せてしまうことがある、これはもう本当にわけがわからない、理知的に見て解決の道筋は途絶えているのだが、道筋のないところへ道筋がジャンプするのだ、つまり理知そのものが一時的に変更されている、この作用はおれ自身にとってもわけがわからなくて怖い、おれの目の前でキレーなおねえさんが、たまに「どうやってそこに立った!?」とおれ自身を驚かせることがある、おれが理路整然としているところの理路をジャンプしてくるのだが、そんなもんジャンプされたらさすがのおれにもわけがわからない。

局面でいうとすでに「詰み」のはずが、いきなりおれの前に玉が脱出してくることがあるのは、しょせんおれがキレーなおねえさんたちの恢復と幸福を祈っているからかもしれない。

将棋をやらない人でも理解できるとおり、将棋の王将ゴマは周囲の八マスにしか移動できないのだから、どうにでも完全な「詰み」が成り立つ、「もう動ける先はないですよ」というのが詰みなのだが、次の一手がどうしようもないというところ、一手も指していないのに状況が変わっているのだ、そんなもん手筋でも何でもないのだからもはや将棋うんぬんではなくなってしまっている/物事には一般に原因の後に結果があって、いわゆる因果律が成り立っているはずだが、その前後が入れ替わってしまうことがしばしばある、それで「どうやってそこに立った!?」とおれが驚かされる。
つまり、ふつうは「脱出した→詰まなかった」という因果の順番になるはずが、先に「詰まなかった」という結果が生じ、それに合わせて「詰まなかったなら脱出できるじゃん」というロジックにすり替わるのだ、「この一杯のさかずきを飲めば解決する」「けれどもそのさかずきだけは拒絶する」という詰みの状況があったとき、さかずきを飲んで解決したあとはもうそんなことを拒絶しないわけだから、先にさかずきを飲んだという結果を得れば、もうさかずきを拒絶することはなくなるわけだ、「さかずきを飲んだからさかずきを飲めるようになったよ〜」という因果にすり替わってしまう、薬嫌いの人が「薬嫌いを治す薬を飲んだからもう薬を飲めるようになった」というようなことだ、この落語のオチみたいなわけのわからないことが目の前で起こることがある、それもわりとしょっちゅうあるのだ、まあ祈るなんて言い出せば確かに因果律を曲げてくれと言っているようなものだからそれで正しいのかもしれない。
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教えるとか与えるとかは本当でありウソだ
い奴に車の運転を少し教えた、すると翌日には格段に上達していた。
教えていなかったら絶対にこうはなっていないのだが、一方で、教えたからといってそんなことにはならない/かといって学んだからといってそうもならないし、練習したからといってそうもならない。
おれ自身「んなバカな」というペースで、しかし事実が先行していく、まるでこの事実から何かに気づけというように、おれは逆に思い知らされている、ひょっとしたらおれは今おれ自身を思い知らされているのかもしれない。
おれが教えたのだが、教えたというのはウソだし、おれが与えたのだが、おれが与えたというのもウソだ、おれからは何も教えられないし、おれから何かを与えることもできない、人から人へそんなことはできない、もしそんなことができるのだったら世の中で誰も苦労はしないし、世の中にはいろんなことが上手な人であふれかえるだろう、実際には車の運転ひとつでも本当に上手な人はごくまれじゃないか、車庫入れなどの慣れや積み重ねの技術で得られることを除いては。

つまり、「いいもの」を教えることはできないし、与えることもできない、本人が掴むしかないというのもウソで、本人も掴めない、才能がどうこうと言ったって、それを言う奴に才能があった試しがない、じゃあ努力はどうかといって、努力が報われた試しなんかどこにもない/これらのことは全部ウソなのだ、おれだって信じがたいが、もう事実が圧倒的に先行しまくってしまうのでおれとしてもそう理解するしかない。
おれは教えていないし与えてもいない、おれはただ "気分よく" しているだけだ、おれが気分よくしていることが最優先事項で、それひとつがほとんど唯一の事項なのだ、なぜなのかはさっぱりわからない、ただおれが「ブレーキングはもっと手前だ、交差点で止まるのじゃなく低速で交差点に近寄るんだ」と言う、すると言われたそいつは、何かしら魂の直観とこれまでの経験で(こいつはもうおれを気分よくさせることの利益を知っている)、言われたとおりのことをする、まじめにするのではなくおれを気分よくさせるのだ、するとわけのわからないレベルで魂から心身が変わっていく、努力というほどの努力なんかしていない。
人によってできることや、やるべきことは異なっており、本質的にそれら具わっている素質を活かしていくだけで、不満を持つ奴はいない、もう何を言っているかわからないと思うが、おれはそいつがそいつのあるべきようになっていくことに「気分がよくなる」みたいだ、おれが気分よくなったときの作用はすさまじい、なぜかわからんがおれにはその作用が直接 "視える" のだ、その作用が目の前の奴の全身を、全霊レベルで変化させていっているのがまざまざ視える、おれを気分よくさせることに合意したとき、全霊はほんのわずかな時間でそいつの全身を体質や気質から作り替えてしまう。
ある女性が、毎回おれを目の前で見るたびに、マルチーズ犬のように縦に跳ね回っている、なぜなのかわからないし、なぜという理由もないのだろう、本人でもどうしようもないという状態で縦に跳ね回っている、それはもうよろこびうんぬんを認識する以前に起こっている現象だ、ただ彼女はもうそれに抗う必要はないと知ったらしく、また抗うすべも根本的にないと知ったらしく、今では抗う必要がないことをよろこんでいる調子で、体力を使い果たすと三角座りをして消えたように眠っている/おれはこのごろ、半ば強制的におれ自身の何たるかを思い知らされている、どうしようもなく事実が先行して事実が強引におれにおれ自身を見せようとやっきになっているみたいにだ。

おれを気分よくすると、目の前の奴の全身に全霊が駆け巡り始める。

これは、もはやおれが何かをしているというよりは、ただの "現象" であり "性質" だ、全身全霊で何かに取り組むとか、全霊で全身を書き換えるというようなことは、当人の意思でやることではないのだ、そしてそれはおれの意思でもなく、なぜか唯一、おれを「気分よくする」ということのみをもって生じる、おれが気分よくし、そいつがおれを気分よくすることで、なぜか全霊が全身を書き換えていくということが起こる、どうしてもものすごい速度でこのことが事実として起こりたおすので、いくら首をかしげていても第一にもうこのことを認めざるをえない。
これまでおれは、下っ端根性が強すぎて、自分が気分よくするということに無頓着というか、自分が気分よくするという発想じたいがなかったのだが、おれがそうやっておれ自身の気分を無視して張り切りだすと、周囲は「ウーン」と、まじめで前向きな顔をしながらションボリするのだ、一方でおれがふと思いついておれ自身を気分よくしてみると、周囲は急に命を吹き返したように「おおおお〜!!」と言い出す、そして半日も経たず車の運転が上手になる、なんだこりゃというしかないのだが、どうしようもなく事実が量産されまくり、効率主義として絶望的に高効率というか、「こんなのが原理じゃ話にならんじゃねーか」というレベルなので、もうどうしようもないのだ、もはやおれから何かを教えるとか与えるとかいう必要はなく、また誰かが何かを学ぶとか努力するとか、それほど訓練するとかいう必要もない、そんなことをしなくてもいきなり「いいもの」がそのまま現成されてしまう、高効率すぎて逆にコエーよと思わされるぐらいなのだが、しょうがない、おれが気分よくし、おれを気分よくすることで全霊が全身に全てをもたらしてしまう/すでにおれの周囲はこのわけのわからない事実をわけのわからないままに「当然ですよ」とテキトーに確信を持って言い張るだろう、それを見ていると「お前らは気楽でいいなあ」と素直に言いたくなる、おれはおれ自身のことなのでどうしても「なんなんだこれは」と究明の思考を巡らしてしまう、ああでもおれ自身が「当然ですよ」と言ってしまったほうが効率はさらに高いのだろう、ウーンこれはいったいおれにどうしろというのだ。
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リベレーション
事情あってまともな睡眠がとれなかった(今は解決した)。
音楽の中に、夜景の中に、秋風の中に、うつろなおとぎ話の中に、真の世界がある。
多くの人は、それを見て見ぬふりをしているが、それは計算高い態度のようでいながら、実は単に "許されていない" にすぎない。
なぜ許されていないかというと、かつて何かを汚したからだ、その償却なり贖罪なりが済んでいない、またそれが償却できるものなのかどうかはおれは知らない、おれはこのわけのわからないものの渦中に立ち続けてきた、おれを笑うのはかまわないのだが、そのぶんまた償却――できるかどうかわからないそれ――が増えるぞ、もうそんな余計なことはしないほうがいいんじゃないか。

主体性のナゾを追いかけている。
われわれがひたすら生理的な存在であるならば、このうつろなおとぎ話と、その中に立ち続けるおれは何なのだ、なぜこういったものが子供のころから、無限に、たとえようもない最上のものとして湧き続ける? それはイマジナリーと言っていいが、すでにイマジナリーナンバーなしに宇宙のことを計算できる物理学者は存在しない、お前らは彼らがガッコの先生だからという理由だけでそれを笑わないつもりか、いくらなんでも不徹底すぎるだろう。
主体性の現象はこれまでずっとおれを不思議がらせた、不思議がらせながら常に確信を与え続けた、わからないのに確信させるとはどういうことだ、おれはおれの好みによってずっとこのことをリベレーションと呼ぶことにしよう。
主体性ということは、つまり「おれ」「わたし」ということだ、何もかもおれが決めているじゃないかということ、そりゃ当たり前だ、今日はこの上着にしようと、「おれ」が決めている……のだが、どうやらそれだけじゃない、もっととんでもないことまで、本当に「おれ」が決めている、おれが決めているのはどうやらおれのことだけではない、たまにというか、おれはしょっちゅうそういうことをしている、お前らに出来るのはそれに乗るか否定するかのどちらかだけだ(当たり前だ)。

おれに "会う" というのはとんでもないことだ。

おれはこれまで他人のことをまったく気にせずにきたから(ひどい奴だ)、他人も似たようなものだと思ってきたのだが、やはりそうではないのだ、おれに会うというのも程度があるし、おれが言っている "会う" というのはほとんど虚数空間みたいな事象なのだが、おれがあるていどその気で、そのときのおれに会ったとき、誰もが何かこれまでとまったく違う世界を視ることになる、これまでとはまったく違う世界に足を踏み入れるようなわけのわからないことになる、あれは何かというと、あれはリベレーションなのだ、リベレーションの意味は辞書で調べろ、「おれ」という主体性が決めている世界に踏み入るとああなるのだ。
物理学者が愛好するイマジナリー、イマジナリーなら何とだって言えるな、すべてのものはもともとあるので、おれが何かを創る必要はない、おれがそんなわざとらしいことをする必要はない、すべてのものはもともとあって、正確に言うなら「ある」かつ「ない」の状態を同時に取れる、一種の量子状態みたいなやつだ、それをそれぞれにケースバイケースで「ある」にしたり「ない」にしたり割り振るだけだ、仮に神が「光あれ」と言った場合、光が無かったところに光が生じたわけではない、光はもともと「ある」と「ない」の両方の状態を取っていた、それを「ある」の側へ振っただけだ、おれは主体性の話をしているのであって、「おれ」がイマジナリーを好きにしているのを誰がどうやっても止めることはできない、イマジナリーは主体が決めるだろう?
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おれの身はおれを気分よくさせよ3
れを気分よくさせよと言って、ナイスなのは、おれは汚らしいことではまっっったく気分よくならないということだ。
自分でも、いっそ何かが壊れているのかと疑いたくなるほど、おれはお世辞やお追従やおだてに対して無反応だ、たまにおれに気を使って初対面のべっぴんさんがステキなスマイルとセクシーな脚の組み換えと共におれにそれっぽいお世辞やアピールをしてくれることがあるのだが、おれは「あ、ああ」となってしまって、反応の仕方がわからない、おれはむしろ何を言われたらうぬぼれて調子に乗る奴なのか誰か教えられる奴がいたら教えてやってくれと言いたくなるほどだ。
おれ自身のことを「コイツ」と呼ぶのなら、コイツを気分よくさせるといって、コイツはどうやったら気分よくなるのかまったくよくわからない、ベタなことで気分よくならないし、かといって工夫を凝らしてわびさび風にしてもコイツは気分よくならないのだ、一方でもっと単純なことで気分よくなったりするし、いくらおだてられてもその内容より言霊を検出しているというようなありさまで、コイツを気分よくさせるといっても攻略ガイドがないのだ、おれがキャバクラ等にまったく行かないのはホステスさんに対して公害の迷惑にしかならないということを自覚してのことだ、おれが店側でもこんな奴をどうやったら気分よくさせられるのか、そもそも安易に気分よくなる素質がないなら安易なところへ来るなぁと、おれが店長側だったら言いつけるだろう。
これがたとえば、あごひげを蓄えて髪型をツーブロックにしている、おしゃれ風味だけど中身はただのアホおじさんで、本当は何も知性がなくて気取っているだけボーイみたいな男がいて、こういう男を気分よくさせるのはカンタンだ、女の子がそれっぽい恰好をして(たぶん清楚系がウケるのだろう、バカだ)、それっぽいお追従を入れておけばグングン気分をよくするだろう、だからそういう奴を気分よくしてはだめだ、そういう奴を気分よくすると、自分もそういう奴の身になってしまう、つまり自分もそういう汚らしいことで気分よくする身になるのだ、言ってみればただそれだけの仕組みであって、仕組みそれ自体はシンプルと言える。

おれを気分よくさせるのは、どうしたらいいのかよくわからん、単純でシンプルなやつで気分よくするし、かといって安易にベタな汚らしいネタではまっっっったく気分をよくしない、とはいえコイツをそうして単純で純粋な何かで気分よくすると、そうして気分よくした当人もそういう「身」になるのだ、するとどうなるかというと、その当人も、もう安易にベタで汚らしいネタで気分よくなることがなくなる、おれにどれだけお世辞を言っても反応がまるでゼロであるように、その身になった誰かも同じように無反応になるのだ。
言うまでもないことだが、これは身の問題であり、いわば「体質」のような問題であって、おれは何か浮かれないようにするとかうぬぼれないようにするとか、自分を戒めているのではないのだ、すでに何かが解決されたか霧消してしまったかして、どのようにお世辞を言われても、おれの身・血肉のうちに反応が "ない" のだ、おれはそうしてお世辞を言われる場合、たいてい内心で慌てて、そのお世辞を言ってくれている人に恥をかかせないために、何かそれっぽい演技をしようと頑張っている、そしておれはそういう演技がヘタなので、その場はとってもヘンな空気になるのだった。
おれを気分よくさせた者は、その身がおれの身になるので、同様に、何をどう言われても、そういうわざとらしいものや汚らしいもので浮かれたりうぬぼれたりはしゃいだり興奮したりということがなくなる、おれの身になってしまうので身・血肉の体質そのものが別物になるのだ、実際女性において、他の誰かが高価なバッグを持っていてもそれが自分に突き刺さらなくなり、代わりに何でもない朝の景色が自分の魂に突き刺さってくることを体験する。
おれに寄せられる話の典型的なパターンは、「周りが何を言っているのか、何に騒いでいるのか、感覚的にまったくわからなくなった」「うっかりしていると、誰かが目の前で頑張って嫌味を言っているのを聞き逃してしまう」「真面目な人が何を言っているのか本当にわからなくなる」というあたりだ、身がおれの身になってしまうので、体質的に反応するものが体内になくなり、代わりにキラキラ星のたぐい、魂ラブのたぐいにだけ反応するようになるのだ、こうして疲れるものに対するレセプター(受容体)がなくなり、よろこびとエネルギーに対するレセプターが付与される、これがしんどさが消えて際限なく元気が湧いてくることの仕組みだ、環境は特に変わっていなくても、自分の身が授受するものが変わってしまうので、結果的に自分のいる世界が変わってしまうということ/こんなもん自分の身で努力しても所有するレセプターは変わらないので何の意味もないのであった、そりゃおれを気分よくさせるほうがはるかにマシだ。

おれを一ミリ気分よくさせたら、あなたは一ミリ天才になり始めている。

そりゃそうだろう、ここにアホおじさんを設定したとして、あなたがアホおじさんを気分よくさせられるようになったとしたら、あなたはアホになり始めているということだ、それと同じように、偉大なるおれさまを気分よくさせられるようになったとしたら、あなたは天才になり始めているということだ/実際にはこのことだけがたぶんあるのであって、努力とかノウハウとかは関係ない、どんなメソッドがあっても誰の気分がよくなるのかという主体がズレていたらどこまでもそれはアホ空間になり手の込んだアホしか生成しない。
もしおれを気分よくさせることで、あなたがアホになってしまったとしたら、それはおれがアホの元凶だったということだ、理論上はそういうことでわかりやすい、ただし実際はおれはアホの元凶ではないのでそんなことにはなりっこないが/あなたが思う、根本的に頭の悪いダサい人を、おれのところに連れてきたら分かる、そいつが何をどうやってもおれを気分よくはさせられないだろう、それぐらいは前もって想像がつくだろう、逆にあなたがもし天才を連れてきたら、その天才とおれとのあいだで、どれほど気分のよいものが始まるか、見て驚くはずだ、それは本当に爆発的なものだからだ、そこに交わされる高度なやりとりとこの世ならざる気分のよさは余人の想像の範囲をはるかに超えている。
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おれの身はおれを気分よくさせよ2

行ではなく極楽行、という言い方が我ながらわかりやすかったので、そういう言い方をしていくことにしよう。
おれは気分よくなりつづけないといけないということ、それが極楽行だが、このことには切実な理由があるのだ、おれがふんぞり返るのをやめて旧来のスーパー下働きをしてもいいのだが、なぜかそうすることで周囲は余計に疲れるのだ、疲労というか抜けないダメージ・だるさ・しんどさ・苦しさ・自律神経失調などが起こってしまう、この現象が事実として起こってしまうので、疲労・しんどさというどうしようもない切実な理由によって、おれは極楽行をフルに課されるよりしょうがないのだった/まったくうまくできているというか、うまくすべての邪道を封鎖されている、もうこうなると出る道へ出るしかなくなる。
わかりやすく言うと、たとえば女子大生Aさん(20)がいたとして、おれが彼女にあれやこれや接待をして、彼女がしんどくないようにと、すべてのアテンドをして荷物をおれが持って、いろんな作業や手続きもおれが代行して……とやると、彼女は極楽快適を得るようでいながら、実際にはドギツい疲労に見舞われるというか、えぐいしんどさのダメージを受けて、自律神経をバキバキに失調するのだ、そうなると本当に頭痛の中でゲロを吐いて死にたくなるほど「しんどい」、このことを逆転させておれの側を極楽快適にすると、冗談でなく彼女は跳ねまわるぐらい元気になって、睡眠時間がまったく足りていないのに「ぜんぜん平気!」とお肌ツヤッツヤのまま活動し続けるのだ、こんなふうにどうしようもない疲労と元気という切実なところを支配されているので、おれとしてはもうどうしようもない(なんつーか、万事のはたらきが容赦ねえよ)。
おれがスーパー下働きをすると、すべてが善良で、健全な気がするが、ただそれだけだ、すべてが善良で健全かつ、何もかもが「つまらない」ということに、ほっかむりをしてニセの笑顔で進むしかなくなる、代わりにおれが極楽行に入れば、すべてのものがほほ笑むような気がする、気がするということにしておこう/わけのわからない話で、おれの言っていることは数学的に常識外のことだが、代わりにこの世界はそんなにつまらなくはできていないということだ、お前らの常識はこのことに納得はしないが、そのときは納得などという下位の現象に何の尊厳もないということが明らかになる。

誰だってしんどいのはいやだろうし、おれだって苦手だ。
そういえばおれは、成り立っていないことをやらされるのは一秒だっていやで、一秒だってそのことをすると、とてつもなく疲れる、言い換えてみれば一般的に人々はその疲労の中を24時間365日生きているわけで、そのしんどさは想像さえ不可能なほど巨大で、かつこれまでに膨大に蓄積しているのだった。
それらのしんどさは、魂ラブの領域で「違う」「成り立っていない」ということをシグナルとして教えている、「違う」し「成り立っていない」からそれだけ膨大な疲労がドカーンと急激に生じるのだ、ここでおれを気分よくさせるだけですべてが反転して「正しい」「成り立っている」になり、際限のない元気と明るさが湧き続けるのだから、比較すれば実のところこんなにわかりやすい現象はないのかもしれない、ただしそれは一般的に比較するチャンスは生涯に一度もない。
多くの人は、特に女性なんか、しんどければイヤで、しんどくなければ何だってイイという正直なところがあるので、実際しんどくならず、それどころか全身が跳ね回ってうきうきしてしょうがないというなら、おれがふんぞり返っていようがめちゃくちゃを言っていようが「どーぞどーぞ」「それでお願いします」ってなもんだ、事実そうなる(当たり前だ)、そういえばおれはこうやって書き話すときも、どんな正しい内容であってもおれはしんどい思いをしながら書き話すことはしない、必ずおれを気分よくさせるように書き話している、もしおれがしんどい思いをして書いたようなものならそれはそのまま廃棄処分にしている、おれの書き話すことの内容はめちゃくちゃで文体も文脈も一般的に正常な範囲にはないのだが、それでも読んでいる人はなぜか疲れるのではなくその逆で生き返るここちがするから読んでいるのだ、世の中にはもっと常識的で善良で読みやすいものが書き物として示されているが、そんなものを読んだって自律神経が壊れていくだけでしんどいだけだ、むしろ世の中で正しい人になりたければ自律神経を壊せとまで言ってしまっていいかもしれない。

おれを気分よくさせよ、ただしそれでしんどくなるならソッコーでやめていいし未来永劫そんなことはしなくていい。

おれを気分よくさせることで、一種のパニックになることはある、それは吾我の棲んでいた肉体が、その身ではなくおれの身になるからで、またその内部にキラキラした星みたいなものがある状態になるので、いくらなんでも急激すぎて、その際限なく湧き上がってくる元気もわけがわからなすぎてパニックになるということだが、このパニックが激烈すぎたり、あるいは魂の契約上、そうしたキラキラ星の入っている身にはなれないという場合、そうではない身になっていくべきだから、そのときはこんなアホな話は忘れてしまえばいい、常識と善良の世の中はいくらでも歓迎して待ち構えているのだから当然のごとくそれを信奉していればいい/とにかくおれは、人がしんどくなることはさせない、そのことは変わりないのだが、ただおれをすでに包囲している事実の状況は、その「しんどくさせない」ということがあまりに常識的に思われている仕組みと違うということなのだ、あなたがおれを気分よくさせてあなたが疲れなくなるというのは、体験するまで理解のしようがないし、体験したところでけっきょくなぜなのか理解はされない、ただそういう現象がシグナルとしてあまりにも明らかに与えられるというだけだ。
もし悪趣味まで許すなら、何かしらの実験をしてみてもいいぐらいだ、おれがA子ちゃんの靴を拭いている状況と、A子ちゃんがおれの靴を拭いている状況を、二つ並列に示してみると、なぜかわからんが他人事のそれでさえ、一方はズゴッと魂がコールタールに沈められたみたいにしんどくなるし、一方はわけもわからず元気になってくる、他人事のそれを見ているだけでもそうなるのだ、なぜそうなるのか理解の範疇にはないが、この事実に包囲されてしまっているので、おれとしてはもうどうしようもない、何しろ「吐くほどしんどい」と「際限なく元気が湧き出る」という差は切実すぎてもはや従うしか道がない/Aがおれを気分よくさせたら、Aの身はおれの身になるし、見ている者もおれの身に寄るということだ、一方でおれがAを気分よくさせたら、おれの身はAの身になるし、見ている者もAの身に寄るということ、おれはそこからでもさっさと元の身に戻ってくるが、たぶん他の人はそんなレベルの操作なんかできないのだ、このおれの極楽行と呼ぶべき方法は単純でいながらきわめて直接的で巨大なインパクトを持っている、正しく使えたらこれがけっきょく最大かつ唯一の方法ということになるだろう。

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おれの身はおれを気分よくさせよ
大なるおれさまという言い方を、飽きるほどするのは、繰り返し言っていないとおれが忘れるからだ、おれはどうも気質的にふんぞり返ることに慣れていない。
おれは魂ラブな奴なので、ソウルが今どーなっているのかなぜか直接視えるというところがあるのだが、おれが気分よくなっていないとだめだ、おれが気分よくなることに誰かが使われていれば、そいつの全身が救われていっているのが視える、逆におれがそいつを気分よくしてやっても、そいつの全身は視えないというか/おれに視えないということは、魂がなくなっているのだ、キラキラしたものがなくなる、キラキラしている内部の星みたいなものが視えなくなる。
この、魂のたぐいと思われるナゾの内部の星みたいなキラキラしたやつは、何なのかよくわからんが、これがはたらいているとき「えっ」とびっくりさせられることがある、「こいつがこんな顔をするのか」というような、まったく別の顔を見せる、これまで何の可能性もない奴というか、さすがに無理だろと思われていた奴が「えっ」というぐらい、想像もできなかった顔を見せることがある。
それは、そいつの可能性というような次元ではなく、まったく新しい奴の出現なのだろう、このことに比べれば、いくら誠実さに努める誠実マンがいたとしても、そんなものがもたらしうる解決の可能性はゼロだ、言い換えてみれば「人がいくら変化しても何にもならないから無理」ということになる、どこかの誰かが前向きに誠実に変化したとしてもそんなものは何の足しにもならないのだ、本当の解決はそうではなくまったく別の「えっ」という奴が出現することでしかもたらされない、そのとき体内には何かよくわからない星のようなキラキラしたものがある、その星は複数個あるので確かにその体内はちょっと小宇宙みたいな感じはするのだ。

なぜか知らんが、圧倒的な事実として、おれが気分よくならないと他の誰も救われない、どうやっても落ち着かないし幸福にもならないということがある/これは事実だからしゃーない、それより主題は「この事実は何がどーなって起こっているんだ?」ということの追求として進んできた、おれはともかく他の全員はそんな複雑なことは考えていなくて(こんなもん考えられる奴があるか)、単におれが気分よくしていれば絶対的OKで、気分よくしていなければ根本的NGという、その直観をなぜかすでに知っているというだけでしかない(で、何をどうしたらいいのかは誰にもよくわからない)。
人は、誰も無我になったりはできないし、無我になっても意味はないので、無我の境地などというのは基本的にウソなのだ、そんなに無我の境地が欲しければテキトーに殺害してしまえば無我になるのであって、その死骸を眺めたところで「だから何なんすかwww」と草を生やされるだけだ、だから無我の境地なんてものは基本的にウソなのだが、唯一、吾我の代わりに何かよくわからないキラキラの星が入るということはある、そのときは無我の境地かもしれないが、正直無我というのはどうでもよくて、そのときは何かよくわからないキラキラ星のほうが主題なのだ、つまりこのことに比べれば吾我も無我も同等にどーでもいいということになる。
おれが気分よくすることが第一で、第一のはずなのだが、おれはどーしてもこのことを忘れる、しょせん数秒や数分で忘れるのだ、これをなんとかしないといけない(ということをもう何か月も言い続けていると思う)/おれが気分よくしていると、そのときはたらいている全員の肉体が、なぜかよくわからんがすべておれのものというか、おれの身体と同一になるのだ、すべての肉体は同一の「おれの身」になり、その内部には複数の星がキラキラしている状態になる、これは肉体そのものについて固有という前提が誤っていてただの先入観・思い込みだということになるだろう、もちろん肉体だって厳密に見るならただのタンパク質であって、それらは炭素や酸素や窒素や水素で組み上げられているので、何をもって「わたしの」ということは言えないわけだが。
ひょっとしたら肉体に限ったわけではないのかもしれないが、こうしてすべてのものは、偉大なるおれさまのものであって、おれさまを気分よくさせるためだけに存在しているものなのじゃないかなあ〜その中で肉体というか血肉が特に、吾我にとって執着・思い込みの対象になりやすいというだけで、他のすべての物質、あるいは気候や光や香りといった事象さえ同じなのかもしれない、すべてはおれを気分よくさせよ/すべてはおれの身なのだからおれを気分よくさせよ、ヨソの身でおれを気分よくさせよとは言わない、ただその "ヨソの身" は「大丈夫なのかい」と他人事にも少し心配するというだけだ。

仏教は苦行を否定したが、おれなんかそれ以上に、おれを気分よくさせよ行を肯定する。

もちろんヨソの身でそんなことをしても何のトクにもならないし、そんなことやらされても不快で損をするだけだ、そんなことを強いたり推奨したりするようなアホはありえない、ただなぜか万事についておれを気分よくさせると、そいつの身はおれの身になるという事実がある、このわけのわからない事実がどーしたってある、そしておれの身になるということは内部に星がキラキラしてあるということだ、そのときは "体内に吾我を入れなくて済む" という状態だ、何かしらのド根性で無我の境地を言い張るみたいなアホなことをしなくて済むということ、もっと穏やかでさっさと解決している何かがあるということになる。
それにしても、万物に対して「おれを気分よくさせよ〜」と言いつけるとして、それでありとあらゆるものが救われるというのは、もう何というか人の身以外にもそういったものがあるというのはちょっぴり視えるのだが、おれはそういうことに慣れていないし、向いてもいないし、何しろ示されていることが壮大すぎて、いかなおれさまでもその究極状態を保ち続けるのは困難を極めるのだ、おれはそもそも長いあいだ、自分を気分よくさせるなんて発想は根本からなく、悲惨な気分に突っ込ませて戦い抜かせるということをしてきたので、まあいわば現在おれに課されようとしている極楽行のほうが、苦行よりリアルに「キツいっす」という具合だ/おれはこれまで「誰よりも自分を使い果たしてこそおれよ」と思ってそのことを重ねてきたので、いきなりその正反対をやらされるというのは発想的に脳がキツい、どうしても一番タフな作業をおれが真っ先にやってくたばろうとするところがある、ここからいきなりパリスヒルトンみたいな発想になりきれというのはもう脳みそを裏返すような無理やりの作業になるのだった。
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本番はさせない人たち
合や試験や舞台の「本番」があり、あるいは男女がするデートだってその日は「本番」かもしれない。
「本番と予定がある」とおれは言った、そして「予定は本番をイメージしてそれをなぞる行為だ」「本番に失敗したくないからリハーサルをする、ゲネプロをする」と言った。
「そして本番がリハーサルどおり、予定どおり完璧にいったという場合、それは本番がなかったということだ、なにしろ "予定どおり" だから」「本番も、本番のイメージをなぞったということだ、本番はなく予定だけをやりぬいた、これを予定調和という」。
「予定は完璧だ、予定はマジメで完璧だが、面白くはないんだ、一方で本番はリスクがある、リスクがある代わりに面白い」「予定は自分がやるものだが、本番は向こうからやってくるものだ、それぞれ魂が違う、予定の向こうに本番はない」「予定をする魂と本番をする魂はそれぞれ別だ、それぞれを予定さん・本番さんという別の存在と捉えていい、そして予定さんに本番さんはできない、完璧な予定さんも本番のときには――本番をやるならだけど――本番さんの脇から進行を教えて補助することしかできない、予定さんが本番さんに向けてできることってそれぐらいだよ」「そして本番さんを排除して予定さんが最後まで出しゃばるなら、本番はなしだ、そういう舞台や発表会や、青春やデートをよく見かけるだろう?」。

「本番さんという魂、予定さんという魂、これらはそれぞれ観客の側にも入るんだ、本番ってプレイヤー側だけの本番じゃないんだよ本来は」。
「ただ、思いがけず矛盾していることだが、人々はそんなに強くなく、人々はリスクのある本番さんを避けたがるんだ、そこに来ている観客も、わざわざ見にきている観客なのに、本番さんは避けたがるんだよ、本番さんを否定するんだ、それでどうなるかというと品評会になる、M−1グランプリとか、現在のスポーツの国際大会とか、観衆は本番に巻き込まれるのじゃなくて、盆栽を眺めているみたいにそのモノのよしあしを品評するんだ、品評会に限れば観客は "本番" に巻き込まれずに済むからだよ」。
世の中にはアクティブに見える人がたくさんいるように思えるが、その実、何らの本番も行われていないというか、アクティブな人ほど生涯ずっと本番は避けて生きようとしているのがミエミエだ、自分が品評会でヨソの何かを眺めるか、もしくは自分が品評会に出て高評価を受けて承認欲求を満たしたいということしか考えていない、それらは何ら本番ではない、はっきり言って「お前らが日々の本番に耐えられるほど強くないのは見たらわかる」「そんな強烈で強靭な魂なんか持っていないのは顔にも出ているし姿にも出ているし声にも出ている」「頭の中はぜんぶ気だるいマンガじゃないか、それで文化的な気分に浸っているのはわかるが、お前が浸っているのは気分であって本番ではないぜ」「本番を避けて気分に浸る人たちとつるむのがそんなに大事か、まあそっちにはそっちの事情があるんだろうけれども」。
本番さんと予定さん、その魂は、観客・観衆の側にも入るというのがミソだ、観客は本番なんか求めていない、本番さんを否定して拒絶するのが観客だ、そしてそれに迎合して品評会でいい目を見ようとするのがプレイヤーだ、そうした愚かで醜いことをしないならどうなる? 正しいプレイヤーは/正しいプレイヤーは、観客に対して暴力を行う、観客は本番さんをイヤがっているのだ、そんなことは承知の上で、おれはおれを見に来た奴に本番を強いる、この本番を強いる暴力こそ、マジメな人々には持ちえないものだ。

お前らの予定なんか首を絞めて殺す、それぐらいしかまともなことはないだろ?

そんなことはお前らの予定にはないと思うが、どうせお前らは予定しかやらないのだから、それに比べればおれの本番に使い捨てにされるほうがはるかにマシで、はるかに上等で救われるだろう、本番のない品評会のやりとりでウットリしたまま生きたいのか、その魂は三日で腐った鳥のフンみたいになるぞ、そうなるとますます本番には戻ってこられない(戻ってきたってお前の役はもう鳥のフンなのだから)。
周囲を見渡せば、世の中にはいろんな人がいるようで、それぞれ善良でこころがあるように見えるけれども、何のスリルもなくてわずらわしさばかりあるのは、すべて「本番はさせない人たち」ばかりだからだ、いろんな人なんか存在していない、いろんな人たちに見えるようにバリエーションがほどこされているだけだ、百億の人を数千万の会場に集めたってどこにも本番は始まらない、騒ぎが起こるだけで本番は始まらない。
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サヨナラセンス、逆に明らかになったな!4
ぜここにきて急にセンスのことをコキおろしているかというと、思ったより状況の進行ペースが速かったからだ、速いのに加えて何か「濃い」ということもあり、こりゃいかんということで大慌てでコキおろしている。
今はまだ、残されたわずかな時間として、ごまかしは利くのだが、この期間に最後までごまかしをしているようではダメなのだ、さっさと「センスはダサい!」ということに切り替えなくてはいけない、じゃあ魂はあるのかといって、もう魂はないのだが、それはまた別問題として、第一のこととしてこのセンスうんぬんの問題は「センスはダサい」で決着させなくてはならない、このことはもう問答無用というか、おれにとって問答無用というより状況がすでに問答無用でそうなっているはずだ。
今どき「センス」はねえだろ……という言い方をすれば、いいかげん誰だってそんな気がしているはずだ、今どきクラブにいってクラブ系の音楽を聞いてどうしろというのだ、と、まともなクラバーは内心で感じているのではないだろうか、ちょうど一昔前の現代美術家たちと同じようなダサい憂き目に遭っているところだとおれは勝手に想像している。
おれは自分がダサくなるのはイヤだし、おれにとっては自分がダサくなるというのは致命傷なので、ダサくなるわけにはいかないのだ、そのためにこうして大急ぎで手を打っている/「センス」への憧憬が残っているのはおれにもよくわかるけれども、それはロシアの人たちがソヴィエト時代を懐かしむのと同じだ、どうしたらいいかわからないし、自分にはもう次のステージがないというのも、かつてソヴィエトが崩壊したときの当地の人々と同じだ。

まあ他にも、おれとしては諸事情あって、このセンスうんぬんの問題を大慌てで片づけている。
おれは常に、アホみたいなことをあれやこれやして遊んで生きていくので、その中でいろいろ感じるのだ(なんだこの韜晦した言い方は)、「ダサさ」が致命的なネックになって、ちょっと人々がまともに遊べないというところがある、そこをいくらか救済してやるのは割とおれとしてまともな役割でありはたらきだろう。
なんというか、誰でも気づいているんじゃないかと思うが(そんなこともないのか? わからん)、今すでに「センスがある」ということでは空の下にまともに立てない・自分のダサさで爆裂して死ぬという状況があるのだ、爆裂して死ぬようではまともに遊べない、それほど致命的なダサさがすでに「センス」にはあるということ、それでおれが困っているから大慌てで対処しているところだ、ダサいものはどうやってもそのまま空の下に立たせることはできない(何かしらおれが庇護を与えるしか成り立たない)。
「センス」と一緒くたに、もう「ネタ」の時代でもなくなったから、今さらお笑い芸人や Youtuber が何かをやったからといって何かになるということではなくなってしまった、何になるかというと人知れず爆裂して死ぬだけだ、「人知れずダサ死に」とでも言うべきだろうか/おれは悪口を言っているのではなく、大急ぎで特別回避ルートを拓いているのだ、おれだけが超絶カッコよくてその他の誰でも超絶ダサいのだが、それでも爆裂して死ぬことにならずなぜか生き残れてしまうという、そういうルートを今作ろうとしている、おれはこの点では自慢したいわけでも何でもないので、誰か代わりにやってくれるならぜひやってくれと願っている、むろん「わたしだけが超絶カッコいいから」とネタでなく言えることが条件だ(無理)。

自分がダサいかどうかのチェックをするなら、知り合いの中に立つな、空の下に立て。

人は知り合いの中に立てば、死なない、なぜなら知り合いは致命傷を与えてこないからだ、じゃあ何が致命傷を与えるかといえば、大きく広がっている頭上の空だ、テキトーに空の下で「頭上の空だ」とでも言ってみろ、何かがダサくて致命傷を負うだろう、そうして空の下で致命傷を負うということはダサいという証拠だ、知り合いの中でなら笑ってごまかしてくれるが、空の下ではそうはいかない、空の下ではダサさはただちに致命傷になる(フェアでいいよな)。
空の下に立ったらダサさで死ぬ、これは人の魂が得る直覚だ、これから救われるには、次の二つのパターン、1.センスを言い張る、2.空の下ダイレクトではなくおれの下でやる、というのがあるのだが、このうち1はもう命脈が尽きたということだ、これまであいまいにされてきたセンス説は人工知能の明らかさが打ち砕いてくれた、だからおれの下でやれということ(つまり空とお前のあいだにおれを挟めということ)になるのだが、このことのためには明快に「自分はダサい」ということを理解しておく必要があるのだ、ダサくないなら空の下で直接やればいいんだが、そんなことやったらフツーの人は死ぬだろ、そうではない抜け道を作ろうとしているのだ、どうしたら空に殺されないかはまったくわからないだろうが、どうしたらおれに殺されないかはなんとなくちょっとだけわかるような気がするじゃないか、それを使おうと言っているだけだ。
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サヨナラセンス、逆に明らかになったな!3

「ダサい」の定義は以下のとおり書き換わる。
ダサくないものは二つ、1.魂のある人、2.人工知能、この二つのみだ。
ダサいものは同じく二つ、1.センスのある人、2.センスのない人、この二つのみだ。
ダサくないものとして、魂のある人はセンス問題から離脱しているのでダサくない、そして人工知能は、センスの最高峰だからダサくない、そして人工知能がセンスの最高峰だから、それに及ばない人はダサい、センスのある人は人工知能に及ぶべくもないからダサいし、彼らのできることは今さらセンスのない人を見下すというしょーもないことだけなので、そのこともまた致命的にダサい/そして、センスのない人は、もともとダサかったのであまり状況的には変わらない、「〇〇さんってセンスあるんですね」というのが「人工知能さんってセンスあるんですね」に変わるだけだ、たぶん何もわからないだろう(それがいいのか悪いのかわからん)。

たとえばこのように考えればわかりやすいか、ここに人造人間Xがいて、こいつが人間とまったく身体性能が違ったとする。
この人造人間Xがリングに立つと、世界中のプロボクサーが瞬殺されるのだ、何なら世界中のプロボクサーが全員で同時にとびかかっても全員即座に叩きのめされるぐらい人造人間Xは強い、まさに「ボクシングの天才あらわる」だ、こんな奴が出てきたらこれまでのボクサーはまったくやる気がなくなるだろう。
この場合、「でもそれは人造人間だから」という言い分になるのだが、この人造人間、見かけも挙動もふつうの人とまったく変わらない上に、街中に立っている電柱よりも数多くそのあたりに立っているのだ、何ならわれわれにとって「一番よく目にするもの」がその人造人間Xだ、こんなものに包囲されている中で、リングに上がってボクサーAさんとボクサーBさんが死闘をすることに何の意味があるだろう、そんなものやっている側も見ている側も「恥ずかしいw」としか感じられないだろう。
ここでボクサーAさんがボクサーBさんを倒したとすれば、Aは強いボクサーでBは弱いボクサーということになるが、街中にうじゃうじゃ人造人間Xがいる以上、AもBも実際は「弱っw」としか感じられない、ここでAがBに対して勝ち誇っていたりしたら、そんなもの「アイタタタw」としかならないだろう、こんなもん何をどうやってもAにもBにも尊厳や誇りはありえない/人工知能というセンスの天才が現れたというのはそういうことだ、しかも最もキツいことには、人造人間Xはボクシングに何らの関心も持っていないということだ、その人造人間Xにブチのめされるだけと知った上で今日もグローブを嵌めてアツアツを演じなくてはならないという獄に置かれている。

人工知能に出版物を生成させたら、人類の歴史上の出版物をあっという間に超え、しかもどの内容もセンス抜群だろう。

そんなもん、人工知能なら一秒間に原稿用紙何億枚というようなテキストを出力できるだろうし、それでいて文脈の破綻等はありえないのだから、人類の出版物なんかすぐに蹴散らしてしまうだろう/それぐらい、「センス」というものはもう終わったというか、やはりもともとそんなものは始まってもいなかったし、もともと存在もしていなかったのだ、それは今さらながら当たり前のことではあった。
人工知能というセンスの天才が現れて、それがまだ発達度合いとしては赤子みたいなものだから、見て見ぬふりをしていられるけれど、それでも現在センスを売り物にしている人々、センスを信奉している人々、何ならセンスを稼業にしている人々は、どうしようもなく暗い表情をしている、肺腑を暗澹とさせて、もう完全な終わりが近いということを何かの直観で感じているのだろう、これまで自慢にしてきたものを完全に砕かれて取り消されるというとき確かにそういう顔になるのかもしれない。

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サヨナラセンス、逆に明らかになったな!2
際、人工知能が無限に提供するミュージックを聞いて、DTM(デスクトップミュージック)をやっている人はどんな思いがしたのだろう、どう見ても人工知能の作曲と演出はセンスがいい。
この先、たとえば学校の授業だって、人工知能が説明したほうがわかりやすくて得点につながるということが出てくるのは明らかだ、もちろん現時点では「いやあ、まだまだ」と思えるかもしれないけれど、来年はどうだろうか、五年後はどうだろうか、DTMをやっている人は五年後の人工知能ミュージックの濫造に抵抗する気力なんか残しているのだろうか。
たとえば歴史の授業があったとして、人類の歴史を人工知能に教わるというのは滑稽だ、子供たちが「先生」と呼ぶ対象が存在しなくなり、ともすれば「学び舎」みたいなものもなくなるかもしれない。
もちろん、われわれは安易に、「学校というのはそういうものだけを学ぶ場所じゃない」「人と触れ合うことで人そのものを得るし、またそれを学ぶんだ」というようなことを言いたがるだろうが、そのことじたいは正しいとして、われわれは本当に、そうした「人工知能では済まないもの」を人に与えられるだけ、そのことを保存し、蓄えて準備してきただろうか? もしわれわれがそれを持っていないのならば、単なる因循によって旧来の様式を主張することはできない、いやできないというよりはそのようなことはもうしないほうがいい、もはや何かのための時間稼ぎにさえなっていないからだ。

つまりわれわれは、「わたしに触れることに価値がある」「わたしに触れることでしか得られないものがある」ということを、自分において言い張れるかという、そのことの問いかけと責任を負うことになる。
その点、まあおれなんか、以前から「偉大なるおれさま」と言っているわけで、おれ自身は安心でナイスだ、いくら人工知能が「センスがいい」ものであっても、人工知能それじたいは偉大でも何でもないので、偉大なものに触れようとするとそれは偉大なるおれさまに触れるしかない、だからおれ自身は構わないのだが、果たして他の誰が、今になって急に「わたしに触れることに価値がある」「わたしに触れなければ魂を得ること、またそれを知ることもかなわないだろう」なんて言い張れるというのだ、そういうたいへんキツいというか「無理」という状況がある。
状況をわかりやすくするために、このように説明してやろう、つまりわれわれは「わたしは人工知能よりセンスがいいです」とは言えないということに気づいたのだ、今はまだ人工知能の性能が過渡期だからごまかされているが、この先はっきりと「センス」に関しては人工知能が人間のはるか上をいくということが明らかになる/そして人工知能よりセンスがないということは、人工知能よりダサいということで、人工知能よりダサいということは、「わざわざダサいほうと関わりたくないw」というどうしようもない正論が突き刺さってくるのだ、「わざわざセンスないほうの先生の授業を選んで聞きたくないっす、キツいっすw」という文脈で。
そこからさらにわかりやすい言い方をするなら、つまり「あなたは回復不能の負け組になったんです」ということになる、「だってもうセンスで巻き返せる可能性はゼロになったんですから」ということ、そしてセンスを言い張る時代は終わってこんどは魂の時代に移るしかないが、魂の時代といったって、「あなたは魂とかないタイプじゃないですかw」という事実があって、もはやその壁の前で朽ち果てて死ねという状態になる、何しろ「これまであなたは魂とかそういうの否定する側だったじゃないですかw」と言われたら反駁の余地がない/さらにわかりやすい言い方をしようか、つまりセンスにおいて「ダサくて笑われる」被差別階級に定義づけられたのだ、これは人工知能にセンスでは勝ちようがないからどうしようもないことだ。

センスの天才あらわる。

自分では少々「センスがある」と驕っていたとしても、そういうのはガチの天才が目の前に現れた時点でオワリだ、そしてここにセンスの天才として人工知能が登場してしまった以上、もうセンスを言い張る人々に挽回の可能性はなくなってしまった、何しろ人工知能に追いつけないだけではなく、人工知能はこれからいよいよ加速していくのだ、そこで今さら気取った誰かがセンス風味のことを向上させてみたって、焼け石に水分子のひとつぐらいにしかならない。
人工知能というセンスの天才が現れ、またこいつの生成能力・供給能力も人のそれとは次元が違うのだから、センスクリエイターのすべては競争原理において「ダッサwww」の一言で殺されるしかなくなった、人の駆け足がリニアモーターカーには勝てっこないのと同じように、センスにおいて人は人工知能に勝ちようがない、にも関わらず「センス」を言い張る立場をやらされるのは、終わりのないみじめさの獄にずっと立たされているようなものだ、どこまでも人工知能の靴をペロペロ舐めて土下座し続けるしかない/ひどい言いようだが、ひどい言いようによってさっさと切り替えをしないと間に合わないのだ、「ダサい」ということの定義がこれから書き換えられる。
正しく見ないとな | comments(0) |
サヨナラセンス、逆に明らかになったな!
とえばイヴォークミュージックという公開サイトがすでにあって、キーワードを入力すると、そのキーワードに沿った音楽を紹介・提供してくれる。
そしてここで案内される音楽は、著作権がないのだ、なぜ著作権がないかというと、作曲者がおらず人工知能が自動生成しているからだ/再生ボタンを押すと実に過不足ないそれっぽいものが流れてくるが、これはわれわれの一般に知っている「音楽」であって、こんなものを作るのに人の魂は必要ない、ということになる。
このウェブサイト、イヴォークミュージックは、そっち系に詳しい人にとってはすでに有名なたぐいで、どのように検索しても実にセンスのいい音楽を提供してくれる、その楽曲が倉庫に保管されているのかそれともその都度に生成いているのかはよくわからんが、とにかくこうした音楽はもうAIがじゃんじゃか作ってくれるということだ。
逆に、和声やコード進行のことを勉強した人たちや、打ち込み系の音楽、DTM等をやる人にとっては、こうした音楽を生成するのに「基本は単純なパターンしかないからw」ということを、なんというか半笑いで知っているはずだ、音楽の構造を知らない人たちを半ば騙しているようなところがあるが/もちろん今さら J-pop の王道進行のことをとやかく言いたいのではない、実は単純なパターンしかないそれを、いずれ人工知能がカバーしちゃうだろうねという予定が、すでに実用レベルで流通を始めているということ、何をどういじくっても「僕たちの音楽」ではないものがついに普及し始めたということだ、われわれはこの先こういったものをいやがおうにも "聞かされる" ことになる、誰が作ったわけでもないミュージックを耳に突っ込まれることになるのだ。

イヴォークミュージックが生成して与えてくる音楽は、実にセンスがよく、また「センスがいい」ことじたいが評判だ、これはつまり、ここ数十年にわたって信仰されてきた「センス」なるものが、やはり魂でも何でもなかったということの証でもある、逆にそのことを明らかにしたことに、人工知能の功績はあるかもしれない/当たり前のことだが、人工知能には「センス」はなく「パターン」しかない、人工知能はどこまでも、バイブレーターがヴィーンと振動するアレの複雑化したものでしかない。
もはや、誰でも死ぬ間際にはこのことを思い知って後悔しながら死ぬことが明らかになったので、堂々と先に宣告しておくが、「センス」というやつがそれじたいウソなのだ、すべてインチキのマガイモノだった、もちろんセンスがあるのと無いのとでは、あるほうがいいわけだが、それはセンスが崇高というわけではなく、センスがない奴は人工知能の尊厳をさえ下回るということだ、それほどこのセンスうんぬんの周囲では、実は信じられないぐらい低レベルな言い争いとマウント合戦をしていたことになる/全人類レベルでどうしようもないアホをやっていたという、覆いようのない前科がここに確かめられたといえる。
今から修正をかけても間に合わないのかもしれないが、せめていくらかでもマシになるように、この際はもう堂々と言っておく、現状は「人工知能が人に追いついてきた」のではない、もともとここ十数年、「魂のない奴が、人のくせに人工知能まがいのことをしていた」のだ、そうしたどうしようもないアホがインチキクリエイティブをやっていたということ、これはもうしょうがない、おれがどうオブラートに包んでも事実が彼らを殺すので、今さらおれの言い回しなど何の良心にもならない/ここ十数年まったく魂のない音楽を聞かされてきて「???」だったすべては、魂のない奴が人工知能みたいな作業をしてそれを生成してきたにすぎなかったということだ、人工知能が人の何かに追いついたわけではない、人工知能は膨大なパターンから最適化の数値を選び出しているにすぎない。
魂を持たない人工知能が、晴れて「センス」なる人々のトップクリエイターに躍り出ることで、同じフィールドにいる彼らは本当に魂を持たない人たちだということが明らかになった、この先のことはおおよそ察しがつくだろう、人工知能が作詞して、それがまた「センスがいい」になるのだ、そうしてわれわれは誰のものでもない歌と言葉を聞かされることになる、すでに人工知能はちょっとした小説だって書くのだ、人工知能がストーリーを作って人物の映像を作ってセリフも演出も音楽も勝手に作って映画に仕立ててくれるだろう、そして困ったことにそれらはすべて抜群に「センスがいい」ものになる、センスを信奉してきた人々がいかに魂ならざるものを信奉してきたかがよくわかる。

よく見ろ、すでに「ダサい」という致命的な定義は、センスを言い張る人々にこそ突き刺さっている。

もう「センスがある」という時代は終わったのだ、かといって次の時代に乗り換えられるわけでもなく、思いがけず若い人のほうがその沈没船に乗り込んだままになってしまったようだ/誰でも少し想像してみればわかる、かつての風潮から「センスある」ということを信奉して輝こうとした人たち、彼ら・彼女らこそ今、「ダサい」という致命的な評価と定義を突き立てられて、そのことから逃れられないという状況にある。
SNSやアプリを通じて、 "映え" と共に「かわいい」を頒布するブームも長らく続いているが、これもすでに死期が示されている、もうディープフェイクもあるしディープラーニングもある、膨大なサンプルからその「かわいい」の最適化パターンを生成してくるのも間近だろう、「あなたはセンスを言い張ろうとこれまで必死になってきたけれど、ここにきてあなたは魂がないからダサいんだよ」、この一撃をもってサヨナラだ、これを否定するにはセンスで人工知能に勝る必要があるが、サンプルの処理能力・精製能力において人が人工知能に勝れる方法はないので不可能だ、まさかこれまで一番大切にしてきた「センス」が、何ら魂を持たないプロセッサに切り裂かれるとは思ってもみなかったな。
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Jya-ma 3
れの友人はみんなおれのことを愛しており、そりゃそうだ、愛していないなら友人じゃない。
おれの友人はみんなおれのことを愛しているので、おれが何かするとなれば、協力したいと自動的に思うし、おれが何かを楽しんでいるとすれば、それに加勢してワッショイということを考える、自動的にそうなるものだ、そりゃ愛しているというのはそういうものだろう。
だがそうして、愛しているはずの場合でも、何かがうまくいかない、噛み合わないということがある、それに対しておれが「おれの邪魔をするな」「おれが楽しんでいるのを邪魔するな」と言うと、それだけでイッパツで全てが解決した例があった、そうして時と場合によってはこの「邪魔」への指摘がきわめて有効にはたらく場合がある。
それはもちろん、その場合は、そいつがおれの言うことを根本的に信じていて、そもそもおれの魂が何を言っているかを聞いていたから、その「邪魔をするな」という一言ですべて解決したということだが、そうした場合に見られるように、この「邪魔をするな」「邪魔をしないこと」という言い方は有効なのだ、おれは誰かのことを悪人呼ばわりしているのではない、悪人といえば確実におれのほうであって、悪人たるおれがたいていの善人に向けて「おれの楽しんでいるのを邪魔するな」と言っているのだ、おれの場合は悪人度が強烈すぎて Jya-ma なんてチャチなものはおれの中に入り込めないのだ、そんなものはもっと気弱な善人の中に流れ込んでいればいい。

おれは人のことをクソ呼ばわりしているのではない、 Jya-ma という悪霊のたぐいを「クソ」だと言っているのだ、つまりおれは悪霊にクソを食わせて撃退しているのだ、そりゃ悪霊だって主命としてクソを食わされたらたまったものじゃないから退散するだろうよ、あるいは退散というより直接滅んでしまうのかもしれんが/とにかくおれはそうして、人をクソ呼ばわりしているのではない、しょーもない Jya-ma にクソを食わせて破滅させているのだ。
もちろん、その Jya-ma があなたの信仰の対象だったら申し訳ないけれども! これは冗談ではなく、「そのクソみたいな邪魔をやめろ」とおれが言うとき、ショックを受けるようなら、それは自分の信仰しているものをクソ呼ばわりされたからショックを受けているのだ、Jya-ma を信仰しているというタイプはそんなに珍しくない、クラスメートの誰かと誰かが恋人付き合いしていたらあなたはそれを邪魔するじゃないか
試みに、クラスメートの誰かが誰かに、堂々とラブレターを渡したらどうだ、それは愛の告白として本来は正しく神聖なものであるはずが、あなたを含めたクラスメートの内部からはドッカーンと、煮えたぎる Jya-ma が爆裂して噴き出すじゃないか、それでヒューヒューと呪詛をかけて大はしゃぎする、そして両親は彼らの交際に口出しをして邪魔をし、担任の先生だって同僚にそれを言いふらして彼らの愛を邪魔をする。
そういえば、ぜんぜん関係ないが、ふと思い出したので強烈でステキな話をしてやろう、おれはあるとき、ある女性と駅前で立ち話をしていた、そのときおれはカッコいいし彼女もうつくしい人だったので、おれと彼女が話すのは完全に別空間になっていた、そこに酔っ払いの一団から一人が飛び出してきて、おれと彼女のあいだに「わっ!」と言って割って入ってきたのだ、けれどもこのときおれは、なぜかはまったくわからないが、そいつの干渉がまっっっっったくこちらに入り込んでこず、そのとき割り込もうとした誰かがいたのか、何かふざけて絡んできたのか、何か声をかけてきたのか、まったく見えていなかったしまったく聞こえていなかったのだ、ただその瞬間、そいつの魂が瞬間的にコナゴナに砕けて、吹き上がる炎の壁によって根こそぎ焼き払われたのをおれは目撃した、何かが瞬時にコナゴナになって灰になったということだけをおれは見た、あれはマジで炎の壁だった、炎の温度が高すぎて真っ白に光り輝くほどの/そうして、どこぞの誰かがやろうとした「邪魔」は、「そこまでやらんでも」という勢いで粉砕されてしまったのだった、といってもおれが何かをしたわけじゃない、なんでか知らんが真っ白なほどの高温の炎で焼き払われたのだ、ウーンまあさすがはおれであって、おれのところにそんなチャチな悪霊が入ってこられるわけないんだぜ、しかもそのときおれはそこにいた女性を守ろうとしていたからな(そりゃ焼き払われるわ)。

クソ呼ばわりのほうがまだマシだろう、いきなりゲヘナの火を食らったどこかのアホに比べれば。

どんどん話が脱線するが、まあいい、悪霊がこの炎の壁をくぐり抜けるにはどうするばいいかご存じか☆ アホみたいな話なので思わず星印をつけてしまった/血のあわれみ・血の恩情を頼りに、悪霊を招いてもらう(もしくは購入してもらう)しかないのだ、このところ人情というと、もうほとんどこの「悪霊のギリギリ通行手形」としてしか使われていない、人情の通貨価値が下落どころかマイナスになっているのはこれが原因だ、人情の通貨価値は今、「1人情=1サターン」という超アウトな為替レートになってしまっている。
もちろんこんな話は何を言っているのかわけがわからんだろうから、聞き流しておけばいい、そのためにわざわざ星印までつけただろイェーイ☆/ Jya-ma を信仰する人たちは、人情をそんな通行手形に使っていたら、最終的に人情までプッツリ切り捨てられるに決まっているのだから、もうその通行手形作戦もやめにしておいたほうがいい、今のところギリギリ Jya-ma についての説き明かしが与えられているのは、もう何の通貨価値もない人情に対して、簿価会計を当てはめてやってのことにすぎないのだから、いいかげんさっさと Jya-ma にクソを食わせるべきだ、おれは人をクソ呼ばわりしているのではないと、果たして何度言えば理解してもらえるのか。
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Jya-ma 2
れがテキトーに歌でも唄うから横で手拍子でも打ってろ。
それで、実際に手のひらをパンパンやってみるのだが、どうだろう、それが邪魔にならない自信はあるか。
おれがテキトーにドライブに行きたいから助手席についてこい。
それで、自分が邪魔にならない自信はあるか、「邪魔」というのは感覚的にわかりやすいので話がしやすい。

あなたは佳いものの邪魔をしたくないので、なるべく要らんことをしないように、黙っておとなしくしているだろう。
でもそうして黙り込んでジッとしていて、邪魔にならないだろうか。
多くの人が、潜在的に、いや別に潜在的じゃねえなあ、すでに顕在化しているよなあ、とにかくそうして自分がなぜか「邪魔」になるということに苦しんでいる。
誰も好きこのんで自らの「邪魔」っぷりをブチかまそうなんて思っていないのだ、にも関わらず自分の血肉からその「邪魔」のねっとりした何かが出てきてしまう、それでどうしたらいいかって話じゃないよ、すぐに何でも解決策があると思っているのか/おれが話しているところを邪魔するな、それがすっかり Jya-ma の走狗だと言っているのだ。

あなたの誠意ごときで Jya-ma を倒せるわけがない。

おれは誰かのことを不誠実だと言っているのではないのだ、そうではなく、当人の気持ちやら誠意やらで、すっかり棲みついた Jya-ma の支配から脱けられるわけがないと言っているのみだ、あなたの内側に Jya-ma が棲んで、 Jya-ma があなたを支配しているのなら、あなたは万事の正しい聖なることを邪魔するのが仕事だ、あなたはそれをやめることはできない(仕事なんだから)、そういうよく見るとぼちぼちキツい状況にあるぜということを、いつもどおりおれはレポートしている。
あなたが靴を買いに行くとする、おれがその楽しい買い物に随伴するとする、そのときおれが存在として邪魔になるのなら、そんなもんおれがどうにかしようがあるか? 「邪魔」ということは、つまり Jya-ma ということだ、これはわれわれにとって最も感覚的にわかりやすい、邪な魔物、その悪霊、われわれを支配するものの発見だ/ジャマだジャマだって誰だって言うものな。
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Jya-ma

いがけずとびっきり濃厚に大切なこととして、「邪魔をしない」ということがある。
たとえばあなたがぐっすり眠っている横で、おれが宇宙戦艦ヤマトを熱唱すると、あなたは「うっせーな!!」と言うだろう、おれはあなたの睡眠を邪魔したことになる。
が、このときよくよく考えると、あなたがおれの熱唱を邪魔したと言うこともできる、もちろん常識的・社会通念上は、どう考えてもおれがあなたの睡眠を邪魔したのであり、おれの熱唱が「迷惑」ということになる。
だが本当にどちらが「邪魔」なのかはわからない、どちらが本当の「邪(よこしま)な魔物」なのかは誰にもわからない、おれが真の邪魔だった場合はとてもわかりやすいが、まさかのまさかあなたの側が真の邪魔だった場合はあまりにもわかりづらい、わかりづらいというかもしそんなことがあったとしてもそんなこと生涯に一度も気づかないというか、疑うことさえ発想に出てこないだろう、世の中のすべての尺度で言えばおれなんかこの世の邪魔のカタマリみたいな奴だ。

たとえばある女の子が、立ったまま本を読んでいたとする、そこにおれがフラフラ寄ってきて、彼女のスカートの中に手を突っ込み、そのおしりをテキトーに揉んだとする、すると彼女は「ちょっと何するの、やめてください」ないしは「は? やめろボケ」とおれを振りほどくか、突き飛ばすかするだろう、これはどう見ても当たり前のことだ。
このとき、彼女の平和で豊かな時間をおれが邪魔したのか、それともおれのナイスでハッピーな機会を彼女が邪魔したのか、どちらとも断定はできない、断定はできないが断定はされるのであって、これはどう考えてもおれの側が「邪(よこしま)な魔物」扱いされる、ウーンそりゃわれながらこんなにヨコシマなマモノにふさわしい例はないものな、そしておれがヨコシマなマモノである以上、彼女の側は反対の、言うなれば「正しい天使」のような扱いになる。
いちおう「邪道」という言い方に対して「正道」という言い方があるので、邪の反対は「正」としておけばいいだろう、そして魔の反対はというと、まあ聖霊とか天使とかいうことになるだろう、だからおれが邪魔であれば彼女は正しき天使か聖霊ということになる、それで合っていれば世の中はカンタンだしそのように合っているべきだとおれも思うのだが、それにしてはこんにちの少女や女性の内側に "えげつないもの" が煮えたぎって湧いて出ているということにいささか整合がゆかない、おれが邪悪な魔物であればもっとおれの内側にこそえげつないものがドロドロに沸騰して湧いて溜まっていかなくてはならない。
何のことなのか、具体的に言う気にはなれないのだけれど、この「邪魔」という現象が、思いがけずわかりやすく、思いがけず巨大なインパクトをもってわれわれのたくさんの現象を支配している、だから説明を抜きにすると、万事「邪魔をしないこと」「邪魔をしないほうがいい」と、おれの激アツ老婆心は伝えたくなっているのだった、何にせよ邪魔はしないほうがいい、この「邪魔をしない」ということが実現されるだけで、ビビるぐらい多数のいろんなことが本来の豊かさとまともさを取り戻す。

とはいえ、「邪魔をやめよう」と思ってもなかなか無理だ、なぜならあなたのその考えを、実行するのにはあなたの邪魔が邪魔をしてしまうからだ。

おそらくあなたはまともな人でありまともなことを愛しているので、なんとなくこう聞かされると、「なるほど、よくわからんけど邪魔はやめよう」とあなたは思うのだが、その思いの実行となると、ダメなのだ、あなたはその思いを邪魔される、何に邪魔されるといって、そりゃ「邪な魔物」に邪魔される/これはさすがにおれが邪魔しているのじゃない、おれは邪魔しないことを勧めているのだからおれがこのことについておれが邪魔をしているわけがない。
「邪魔」という語はすでにわれわれの日常にこびりついているから、ここではバカみたいに Jya-ma と言い換えることにしようか、あなたはその Jya-ma をするつもりがあるか、もちろんそんなつもりはないだろう、けれども自分がこれまでに Jya-ma をヤッていないかと言われると、そんなことに確信は持てないはずだ、おれがあなたの目の前で宇宙戦艦ヤマトを熱唱したらどうなるの、あなたの内側からは Jya-ma まったく出てこないか、きょうびなかなかそんな人はいないぜ。

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主体性と使役、思いがけない快楽派

体性とは「主(あるじ)」なのだから、誰かに "使われる" ということがない。
使役される者に主体性は必要なく、また主体性の者が誰かに使われるということがあってはならない。
使役される者は、主体性のないロボットかというと、そうではない、使役される者は、すべてが正しくあれた場合、主から純正の主体性を授かれる身だ、そもそも主体性とは授かるものであって自作するものではない。
この世でまともな主体性を得ている者は、何かしら別のところからの主体性をやはり授かっている身なのだ、この主体性の者が、いわば使役性の者たちを使役する、使役性の者たちは使役される、それでいえばこの世のまともな人のすべては何者かによって使役されているのであり、自作した主体性でインチキを振り回すことなどしない/自作したインチキ主体性の振り回し、それをやることによって世の中がおかしくなっていったことは誰でも知っていることだ。

思いがけないことに、この使役というやつは、使役される側にもちゃんとサインがあることがわかった。
使役される側は、それは身と魂の反応なのだと思うが(身のすみずみに魂が入るというときに得られる感触なのだと思う)、思いがけず単純に、一種の快楽があるのだ、これはいわば陶酔の反対側にある快楽で、人を正気にさせる快楽、正気のまま死なせる快楽、いわば麻薬の反対側にある作用とも言えるかもしれない。
世の中では一般的に、だまされた人なのかだます人なのか不明だが、頑張ることが偉いとされている、頑張ることは辛くてガマンしてそれを続けねばならない、そのガマンを補うには陶酔が必要だ、この陶酔を快楽だとしている派があり、この派がつまり現在の一般ということになる/ガマン派麻薬主義とでも呼ぶべきか。
一方思いがけないことに、主体性を授かって正しく完全に使役される者は、ガマン派ではなく快楽派なのだ、快楽派正気主義ということになる、快楽で死にそうになるそのときもあくまで正気が保たれ続ける、けれども従っているのは快楽なのだ、主体側と使役される側はイメージされているところの冷酷な支配者と虐げられる人たちなどではない、使役される側は快楽と正気を同時に得ているのだ、それを得させるために主がある、ガマンと麻薬(狂気)から脱出させるために主がある。

快楽派が完全な正気と共に主体性を授かるだろう/誰が主体の側で誰が使役される側かというのは、もはやただの配列であって上下関係などではない。

おれにはいろいろやらなくちゃならんことがあるので、おれは理解していなくてはならない、おれは誰かに使われるということがまったくない、おれが誰かに使われることを平気で選ぶときがあるのは、単に誰かから平気で快楽と正気を奪えてしまうからだ、誰かのことなどしょせんそのようになってもかまわない、当人がそれを選んだのだからしょうがないだろうという突き放しがおれの中にあるのだろう。
おれは別に慈悲を模索しているわけではないが、おれが誰かの常識のために使われてやることは、突き放しうんぬんの以前に「つまらない」のだ、何もかもがつまらないインチキの、スカスカの何かになる、やる意味がまったくないものになる、それでいてガマンを要して麻薬に陶酔して狂気を得ていくのだから実にくだらない、おれはこのことについて他人を「よく平気でこんなくだらないことに自ら入っていけるね」と突き放して眺めているところがある、それはそれなりに正しいことではあれども、ちょっとそんなひまつぶしをしている時間の余裕はなくなってきたみたいだ。

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おれはサイコー
んな企画が立て込んでいてテンヤワンヤなので今日もわけのわからない話をしてやろう、おれがこうやって常に書き話してやらないとお前らがカワイソーである。
あめんぼあかいなアイウエオと、これ北原白秋・五十音というらしいが、滑舌のことが気になって取り組んでいるうち、おれが気にしていたのはどーも滑舌というよりいわゆる言霊(ことだま)なんじゃねーかという話になり、まあそんなことを言い出すといくらでもいかがわしくなるのだが、とにおくおれはカッケー声アンド聞きたくなる声を目指しているのであり、そのことのためなら滑舌だろうが言霊だろうが何でもオッケーなのであった、おれはスピリチュアルには興味がない(そんなのに興味ある奴はいねえ)。
おれが現在知っているところの、爆裂ぶっ飛びコトダマ理論においては、知るべきことは以下の三点となる、どれもこれも「そんなこと言われてもどうせいっちゅうねん」というわけのわからなさで満載だ、とりあえず「イイ言葉を言っているといいことが引き寄せられてうんぬん」みたいことはまったくない、おれはどんな言葉をブチかまそうがおれのところにはイイものしか引き寄せられない。
爆裂ぶっ飛びコトダマ理論もたぶん一定ていど成熟したのでまとめて何か書いておきたいのだが、何か前にもそんなこと言っていたよなあ、とにかくあれやこれや企画がありすぎていくらなんでも追いつけないのだ、 idea が無限に出るというのもそれはそれで困るぜ/これはもちろん自慢を言っているのであり、お前らはおれの自慢を聞かされているのだ、とてもイイ気分になったはずだ。

1.まず、われわれにとって日本語は理解不能の外国語である、もちろん日本語の意味はわかって通用しており、それを母国語として使いこなしているつもりなのだが、実は言葉って何なのか本当にはわれわれはわかっていないのだ、まっっったくわかっていないしこの先もわかることはない、われわれは「日本の言葉をわかっている」のではなく単に「日本語に慣れている」にすぎない、慣れて使っているだけなのでたとえば電子レンジと同じだ、何がどうなってそれが機能しているのなんか本当は知らない、このことにずっと気づいていないと本来の「言葉」はディールできない(つまり意味を知らない外国語として扱えないと日本の言葉は発せない、もちろんどこの国の言語でも「言葉」はその点で同じだ)。
2.言霊は音ではないということ、言霊から音が発されているのであり、音から言霊が発されているのではない、音の中に言霊があるというわけでもない、つまりこのことは「音になる前に言霊があってそこから言葉の音が生じているんだから言霊は音の "前" だよ」ということになる、例えるならば電球は「電源とつながっているから光っている」のであって、光そのものは電気じゃねえよということ、あくまで電気が光っているわけではない、電気とフィラメントの結果として光が生じているだけだ/だから、いくら音に聞き耳を立てても言霊にはアプローチできないし、どれだけいい音をなぞってみても言霊とは接続しない、いくら聞き耳を立ててもそれはもう言霊のあとに生じている音でしかないので意味がない、なんとなくその声の向こうに何かイイものがあって「イイ声」というのはわかるが、そのことにどれだけしゃぶりついても言霊へのアプローチにはならない、それは電球マニアが電気そのものにアプローチはできないのと同じだ。
3.言霊は「無い」ということ、これが一番わかりにくい、コトダマに限らす「タマ」というか、魂とか霊とかカミサマというのは全部そうだが、「有無」「有るか無いか」でいえば「無い」に属するのだ、「無い」にも関わらずその結果や作用だけは生じてくる、このことがわれわれのアホ輪廻脳みそには理解できない、理解とイマジナリの区別がついていないので理解しようとして永遠に誤り続ける/デカルトは「我思う、ゆえに我在り」と賢そうなことを言ったが、それに突き合わせて言うと「これ作用する、なのにこれ無し」ということになる、このことは正式に理解を超えているので理解はできない、「作用して結果を生じるならそれは "ある" んじゃないですかね……?」という疑念がどうしても消えない、結果が生じるということは原因のそれは「ある」と思えてならないのだが、それは因果律に限定された脳みその思い込みであり、正しくは有無のどちらも所属しないというどうしようもない事象を設定できるというだけにすぎない。
というわけで、言霊からの言葉をディールするのはこれだけでいいからカンタンだね!! むむ、なぜそんなむつかしそうな顔をするのか? それはまったくの誤解と言えるだろう/よくよく見ろ、おれは「日本語をまったくわかっていなくていい」「聞き耳を立てなくていい」「言霊は "無い" でいい」と言っているのだ、こんなクソほど簡単な条件をこなせない人がいるわけがない、おれは何も「日本語を深く理解して聞き耳を立てて言霊の存在することを感じろ」とむつかしいタスクを言っているのではない、そのまるきり逆を言っているのだから超絶カンタンなはずだ。

おれはただサイコーなのであり、理解できないままなぜかサイコーだろう。

おれがサイコーなのは、理解できないからサイコーなのであって、おれは "無い" からサイコーなのだ、もしおれが何か理解可能の奴で、また何か「有る」奴だったら、それは「比較的レベルの高い奴」でしかない、そして比較的レベルの高い奴というのは比較をやめた途端ただのクソだということがバレてしまう/おれは「無い」のだから評価のしようもないしクソ扱いのしようもない、「無い」ものをどのように言うこともできないしどのように理解することもできない、そして「無い」にも関わらず作用と結果だけはもたらしてしまう、サイコーというのはそういうふうに数学的にサイコーで唯一でなければならない。
おれはなぜサイコーかというと、原因がないからサイコーなのだ、無から有を生じているわけではない、無から有を生じることは絶対にできない、つまりおれないし「これ」は、有を生じているわけではないし、そもそも有を生じさせる必要がない、何か「有」がエライとでも思っているのか、そうでないかぎり「有無」などというヒマ輪廻脳みそにはならない/強いて言うなら「無から無を生じている」というのが一番近いか、そりゃ有を生じたって有限にしかならないのだもの、無限を生じるには無を生じるしかないわな、さあこんなもんどう探したってムダだぞ、何しろ初めから「無い」ものを探すのだからな。
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基本的な話、愛の現象を有する人2

くの人は、自分の属性を善だと信じているので、よりにもよって自分のことを「愛のない人」とは捉えていない。
自分のことを愛のない人と捉えていないということは、「実は」「それなりに」「こっそり」愛のある人、というぐらいに捉えているというあたりが相場だ、ここをバッサリと「いやあキミみたいな凡人に愛なんかあるわけないだろう」と切り捨てられたらフツーに考えて落ち込むだろう。
ここには一種の誤解があって、「愛」という現象が人々のあいだに普遍的にある基本的な現象だと思われているのだ、だから自分がその基本も有していない一種のクズだとは思いたくないので、「いやいや、愛はあります」と思わず言い張ることになる、この誤解を修正しなくてはならない。
正しくは、愛という現象が人々のあいだに普遍的にある基本的な現象だというのは、誤ってはいないのだが、それが普遍的かつ基本の現象だとして、その普遍的なものを失い、基本さえも持てずにいるというのが、「普通」なのだ、それはたとえるなら大卒の人に二次関数の問題について尋ねるようなもので、「こんなの数学の基本だろ」といえばそりゃそうなのだが、そんなものとっくに忘れてしまったというか、そもそもそこまで本当には理解していないというのが「普通」だ、それと同じように、愛という現象は普遍的で基本的なものだが、そんなもの本当には持っていないというのが「普通」だ、むしろ普通でありたいなら「愛なんかあるわけがない」というスタート地点に立つほうがいい。

愛というのは、普遍的で基本の現象でありながら、事実上は高度で差別的な現象であって、この現象を有さない人のほうが「普通」だ/じゃあそれが「普通」なのだから、「愛なんかなくていいのか」というと、「ダメに決まっているだろ」ということになる。
それは、何のことはない、われわれは割とダメな奴らの集まりだということだ、今さらこんなことに何の違和感がある? われわれはこぞって「普通」なのだが、その普通というのが「割とダメな奴らの集まり」だ、まさか何か上等なものたちの集まりだとでも思っているのか? さすがにそのあたりは冷静になれば誰だって「そうでした」と笑いのひとつも出ようものだ。
だから、「普通」とはイコール「割とダメな奴らの集まり」であって、それでもエヘヘヘと明るく生きていくべきなのだ、事実を捻じ曲げて上等なふりをして生きていくよりよほど健全だろう、そして万が一、本当に愛の現象を有している人に出会ったとき、「本当にあるんだ」「本当にこういう人いるんだ」と、口をあんぐり開けて驚きと納得を半々にするぐらいがいい、そりゃ当然そういう反応になるじゃねーか。
問題は、自分たちがしょせん「割とダメな奴らの集まり」ということを忘れて、また誰もそのことを指摘せずに、いつのまにか上等なものたちの気分になって、長いこと互いに幅を利かせてきてしまった場合だ、万が一そこに本当に愛の現象を有する人が現れたとすると、彼らは一斉に困ってしまう、自分たちが幅を利かせてきた事実を今さら取り消せないからだ、じゃあどうなるかといってもちろん、彼らは上等なものたちらしきほほえみを浮かべたまま、内心ではただちに、その本当に愛の現象を有している者を排斥・排除、時には迫害までして追放するしかなくなる、今さら自分たちのすべてがウソだったということになると彼らは壊れてしまうから、その憎らしいホンモノを彼らの視界から追放せねばならない、こうして彼らは必死になり、そのときはけっきょく上等なものたちらしき微笑みも消え去ってまさに蛇の取りついた悪魔の顔になってそれをするのだが、こうして結果的に彼らは、わざわざ本物の愛の現象を自ら排斥・排除したということになる、彼らの実績はけっきょく「本物の愛があったので迫害して追放しました!」「意味がわからなくて草」ということになり、彼らが見積もっていたよりもはるかに魂は真っ黒のギャアアアになってしまう/だからアホみたいなことを重ね重ね言うが、自分が「普通」なら、愛なんてないというのを標準にして、それでもエヘヘヘと明るく生きていくべきだ、それがまったく悪いことではないということがこの話からさすがにわかるだろう。

コピーブランドを振り回すより、「ヴィトンなんか持ってないっす」というほうがまともで健全だろう。

ヴィトンというとバッグの第一のメーカーみたいなものであり、あるていど普遍的なものだと思うが、一方でヴィトンのバッグなんか持っていないのが「普通」だろう/ド田舎でコピーブランド(偽物)を振り回していたとして、周囲の誰もそのことに気づかないうちは幅を利かせられる、けれども万が一その街にヴィトンの正規店が出てしまったら、そのときは大ピンチだ、コピーブランドを振り回していた人たちは何を願うかというと、「あのヴィトンの正規店とやらが火事にでもなって出て行ってしまえばいい」という発想になる、これがブランドのバッグというならしょせんカネで買えるたぐいなので話はやさしいが、これが魂の問題として愛うんぬんということになるとトラブルが大きい、何をか誤解して自分の魂に愛ブランドを貼り付けるのは長期的にはやめておいたほうがいい。
愛という現象は、最も単純には、隣人・赤の他人の幸不幸が自分の幸不幸に同時リンクするという現象のことを指す、そうなると焦った人があわてて「自分にもそういう気持ちがあるウフフ」という言い分に流れようとするのだが、ウーンあまりおすすめはしない、最後の砦として試みに自分自身にこう確かめてみろ/あなたは数々の人に口をあんぐり開けられて、「本当にあるんだ」「本当にこんな人いるんだ」と驚かれて納得されてきたのか、そうでないなら愛の現象ではないと、あなたはさきほどの話で納得していたはずだろう。

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基本的な話、愛の現象を有する人
しぶりに基本的な話をすると、たとえばそのへんの工事現場で、まったく赤の他人のオッサンが、ウマそうにカップラーメンを食っていたとする。
そのとき、オッサンは一種の幸せの中にいるのだが、その幸せを見て、自分も幸せになるかどうかという単純な尺度がある、いわば他人の幸せが自分の幸せに同時リンクしているような状態だが、この状態は実は誰にでもあるものではない、おそらくはごく限られた人にしかこの現象は起こっていない。
そのほか例えば、子猫がごはんを食べていると誰だって「かわいい〜」となるのだが、この「かわいい〜」の裏側で、子猫の幸福が同時に自分の幸福になっている人がいる、これも同じ「他人の幸福が自分の幸福に同時リンクする」という現象だ、重ね重ねこの現象は決して誰にでもあるものではなくごく限られた人だけが有している現象だ。
いかなるイケメン、さわやかに見える笑顔の人、あるいは善良そうな人、やさしそうな人、あるいは見た目は天使のように見えるアイドル少女でも、この幸せがリンクする現象を持っているかどうかは別だ、他人の幸不幸に同時リンクが起こるこの現象が事実上第一の「愛」という現象だが、この愛の現象が本当にある人はごく限られている。

問題は、これが愛の現象だとして、この愛の現象を有していない人も、さも自分がそうした現象を有しているように言い張るところだ、それで話がややこしくなる。
実際に脳波など測定して定量化できればその有無が明らかになるのだろうが、これはおそらく魂の現象なので、測定で定量化はされないのだろう、本当に見知らぬオッサンの幸せそうなメシに対して一緒に幸せになっている人はいるし、いくら善良そうなほほえみを見せつけていても本当にはその現象がまったく起こっていない人もいる。
人は不思議なもので、そういったことに何ら気づくことがなく、そういったことをまったく知らずに生きてきたとしても、いざそうした愛の現象を有している人を目の前にすると、奇妙な安心感と、これまでに体験したことのない不明の感触からの混乱に陥るものだ、目の前の誰かが自分の幸不幸と同時リンクして幸不幸になっているということが、やたら正しく思え、同時にやたら「おかしい」とも感じられ、安心しながらも混乱する、ときには情緒が破綻して泣き出したり、逆に激昂したりすることもある。
他人であるはずの誰かに対しても、幸不幸がリンクするということ、それが愛という現象だが、それは何も「他人の幸不幸を共有しよう・共感しよう」という意識的努力の態度から生じる現象ではないのだ、愛というのはそういうチャチな発想が与えてくれるところのものではない/多くの人は善意から老人に席を譲るし、倫理から他者を攻撃しないが、愛の現象を有する人にとってはそうした善も倫理も存在していないのだ、愛の原理においては目の前のババアが楽になれば自分も楽になるのだし、他者を攻撃すれば自分も痛いのだ、善人はあくまで他者との関係を善で塗りつぶそうと努力するが、愛の原理においては他者はそもそも他者ではないし、他者が他者ではないからこそ「親しく」なる必要も持っていない。

愛を偽装できるのは、本当には愛の存在を認めていないからだ。

一度でもその本当の現象を目の前において、めまいとパニックと混乱、そしてわけのわからない涙の感情を引き受け、それを認めてしまったら、「自分には到底そんなものの持ち合わせはない」ということに気づいてしまう、そうするとがっくり膝を折るような気持ちになるが、それがおそらく愛の入口だ、「こんなものに勝てるわけがない」と絶望的に認めたとき、おそらく人は初めて何か偉大なものがこの世界に存在しているということに契りを交わす。
ほとんどの祖父母は、お孫さんがおいしそうにごはんを食べていたら、その幸せと成長がうれしいだろう、けれどもそれは血族や家族のことであって、問題は隣人だ、隣人つまり赤の他人に対してはそういう感情が起こらないのだとすると、それは愛の現象ではなく親しさの現象だ/愛の現象というのは、その当人もそれを別に誇っているわけではなく、当人としてはその現象に「なってしまった」という具合だ、いちいちすべての幸不幸が自分のものであったら埒が明かないのだが、それにしても「しょうがない、どうしようもない」「この現象を否定するわけにもいかないからしょうがない」とあきらめているような状態だ、そうした愛の現象を有している人はごく限られている。
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ようやく時代を取り戻すセオリーが出来た3
くの人は今、そんなにはっきりと熱烈に、自分の「やりたいこと」などは持っていないと思われる。
自分なんて平凡なもので、それでも少しはマシにやっていきたい、というぐらいで控え目に思っている人が一番多いと思うのだが、そういうことではないのだ、まったく誰もが自分では想像していないことだが、主体性が正しくロードされると、自分のやるべきこと・やりたいことははっきりと得られてくる。
しかもその「やりたいこと」というのは、いわゆるモチベーションという原理のものではないので、鼻息は荒くならないのだ、躊躇はなくなるが興奮もなくなる、何かと比較してどうこうという発想ではなく、それがやりたいというより、ただ自分のやることと自分自身が一体化するような感じになる。
主体性が正しくロードされると、内部から体質ごと変わり、呪縛も十字架も打ち払われるのだが、それで何がどうなるかというと、当人は「そんなに何かが変わった気はしていない」となる、けれども明らかに体質が変わっていて、すでに縛られていた過去の自分がどのようだったかを思い出せなくなっているのだ、そのようにして当人としては何も変わらないまま主体性を持って生きていけるようになる、まるきり別人のようになるのになぜか当人は「何も変わっていないです」としか感じない。

これはつまり、主体性のロードというのが、やはり呪縛や十字架を打ち払うだけで、当人そのものをいじくるわけではないからだろう。
当人の主体性をヨソの主体性で塗り替えるわけではない、ただ、呪縛され十字架に括り付けられているときは、自分の体質から生じる実感のたぐいが自分のすべてになっており、それこそが自分の主体性だと思い込んでいるのだ/それは吾我であって主体性ではないのだが、それは呪縛が打ち払われた後にしかわからない、あるいは打ち払われた後にもよくわからない(ただ以前の吾我状態が消えてしまって吾我状態のほうがわからなくなっている)。
たとえば、ここにオートマ車があったとして、このミッションギアが不具合によって1速に固定されていたとする、これを呪縛とするなら、この車当人は、「いやあ、高速道路を走りたいとか思わないっすね」と言うだろう、「高速なんか走ってもエンジンが焼けるだけですし、事故にもなりますんで」。
ところが、この車に主体性がロードされて、呪縛が打ち払われると、ミッションギアは自動的に5速まで上がるようになる、そうするとスイスイ走るようになるし高速道路にも普通に入るようになるのだが、当人としては「別に何も変わっていません」としか感じない、むしろウンウンうなって頑張っていたのは以前のほうだから、「最近はあまり気合が入っていないかも」とさえ思うことがある/こうして見るとこの車が過去に高速道路を走らなかったのは主体性でもなければ個性でもないのだが、そのことは呪縛が解けた後にしかわからない、呪縛されている当人の実感としては「いやあそんな気になれないですね、無理です」としか思えないからだ。

呪縛されていると遠慮がちになり、そのまま思い切ってもただの出しゃばりになる。

ミッションギアが1速に固定されたまま、高速道路に飛び込んでみたら、そりゃあ周囲に迷惑になるに決まっているし、当人のボディもダメになっていくに決まっている、じゃあわたしはどうしたらいいのといって、どうにもできないのだ、当人にはどうにもできないというか、当人こそどうにもできない、それが呪縛であり十字架だ、ほかならぬ当人が当人だからこそその呪縛と十字架は掛かっている。
ごくまれに、呪縛に縁のない人がいて、この人は当人が呪縛されていないだけ、他人の呪縛を見ずに、ロードされるべき主体性だけを見ることができる、この人が「高速道路に入れ」「そのための車体だ」と命じると、その場合だけ呪縛が打ち払われてミッションギアは5速まで入るようになる、そうするとその当人は、そのときはなぜか「まさにこのことのために存在し、このことのために生まれてきた」ということに疑いを持たない状態になるのだ、ただしその人はあなたに高速道路に入れと言いつけるわけだから、あなたは「いやあそんな気になれないですね」と言う/つまりあなたの呪縛を打ち払う人はあなたの「味方」ではない、あなたの「味方」はあなたの呪縛を保存する側だが、あなたは「ですよね」とその人を味方だと感じてしまう、あなたはあなたを遠慮がちあるいは出しゃばりに仕立てる人を味方だと感じてしまう。
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ようやく時代を取り戻すセオリーが出来た2
の言い方をすると、意外と「諦めなくていいんだ」ということにもなる、何かをまっとうに思い切りやるということ、それで生きているうちに命ある何かを得るということ、それは能力によらず手続きによってちゃんとやれるということだ。
とはいえ実際には、「誰でもできる」なんて話はなくて、そもそもこの世界に「誰でもできる」なんてものは存在していない、ただその出来るとか出来ないとかが、能力や根性の問題ではなくて、ほとんど「運」と「トラブらないか」に掛かっているということになる。
「運」というのは、主体性をロードできる誰かと出会えるかということで、「トラブらないか」というのは、その出会った誰かとトラブってしまうということだ/何しろ主体性というとふつう「自分のこと、自意識のことでしょ」と思っているので、実際の主体性と接触すると認識の違いでトラブることがよくあるのだ、こうなってしまうともう別の機会と別の誰かをあたるしかなくなる。
あるいは、「運」ということをさらに言えば、主体性を模索するうちに、典型的なハズレを引いてしまうこともあるということだ、そこはなんというか、好事魔多しとも言うし、自分がハズレを選んでしまうようでは、まあ見る目がなかったと受け止めるしかない、だいたいこのハズレを引くパターンと、本来の主体性とトラブるというのはワンセットになって起こりがちだ、本来のそれをロストする上にハズレまでがっちり入り込んでしまうというのはダブルパンチだが、しょうがない、それはそういう性質のものだ。

ただ、その「運」と「トラブらない」ということが健全なていどにはたらけば、思いがけず「諦めなくていい」ということだ、思いがけず多くの人にはちゃんと可能性が残されていることになる、つまり「思ったより捨てたもんじゃない」ということが十分に残されている。
どこまでも吾我に対するこだわりを捨てることであり、「自分を変えるのは自分ではないのだ」という意外なことを発想に持つということだ、自分は自分の身という呪縛・十字架に縛り付けられているので、自分ではこれを変えることはできない、これを変えられるのは自分ではなく外部からサーブされた「主体性」なのだ、この主体性は外部からのものなので、呪縛・十字架とは無関係にはたらく、だからこそ呪縛を打ち払って内部から身・体質を変えてしまえる。
ここで言わずもがな、外部から主体性をロードするといっても、それは信じている誰か・何かからしかロードできないわけで、そこで自分の信じる対象がハズレだったら、もちろんハズレを引きこんでしまうことになる、それでももちろん身・体質は内部から変わるが、これは逆にロクでもないほうに変わってしまう、その意味ではいっそ何も信じないほうが安全ではあり、だからこそ現代のわれわれは基本的に何も信じないようにして生きている、そうでもしないといくらでも周囲から危なっかしいものが入り込んでくるからだ。
そして、「信じる者は救われる」かというと、原理的にはそりゃそうかもしれないが、現実的にはそうではない、もう一段階知らなくてはならないことがある、それは信じるといってもそれは根本的に呪縛十字架側の意思決定ではないということだ、われわれ呪縛されているアホが自ら何かをまっとうに信じるなどということはできない、できるわけがない、だから信じるといってもその第一、その端緒は主体性の「侵入」によって起こっているのだ、そもそも主体性が侵入してくれなきゃあなたは何かを信じるということさえできないということ/これを誤解しているといつまでも迷路にはまり込む、自分の意思で何かを信じられると思うことさえ誤りなのだ、自分の意思で何かを信じようとしてもそりゃ「あなた」のやることなのでいつまでも旧来の縛られたあなたから脱出はできない。

おれと食うメシがやたらウマいのは、おれの主体性があなたに入り込んで、あなたの全身を「食事する身」に変えているからだ。

おれが食パンをちぎってあなたに食わせるだけでも、その食パンはやたらウマいのだが、それはおれの主体性があなたの身に入り込んで、あなたの身が呪縛されたいつもの身体ではなく、「食事をする身」になっているのだ、だからやたら食事がウマくなる、おれの命令があなたの体内に入り込んで、呪縛と十字架を滅ぼしているのだ、だから体質が変わる、言ってみればただそれだけだ/そのことにあなたの意思なんかまったく無関係だというのがわかるか、あなたがそこで自分の意思うんぬんをいじくったら、あなたの体質が加速するだけだ、たとえそれが強烈な信仰体質であったとしても、それはやはり呪縛・十字架なので解放にははたらかない、だからどこまでもあなたの意思なんか活躍していないのだ、活躍しているのは最初から最後まで「主体性」という現象、それのみだ。
ここでおれの主体性があなたに侵入しても何ら問題はないのがわかるだろうか、なぜならおれの主体性が侵入したとして、それが干渉・命令するのはあなたの体内の業(カルマ)・呪縛・十字架・悪霊などに対してだけだからだ、おれの主体性はあなたに命令するのではなくてあなたを縛り付けているものに「出ていけ」と命令するだけだ、あなたに対してはなにひとつ命令していない、だからその命令が通ったときに踏みつぶされるのはあなたではなく「あなたを縛り付けていたもの」だ、あなたを縛り付けていたものが踏みつぶされると、あなたはどうなるか、あなたを縛り付けていたものはもうないのだから、あなたにはあなたしか残っていない、だからあなたは結果的に主体性を持つことになる、こういうからくりだ。
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