☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
グッドデザイン賞
「うんこ漢字ドリル」という商品が、2017年のグッドデザイン賞を受賞している。
表紙絵もカラフルな「うんこ」で、ドリル例文はすべて「うんこ」、「田んぼの どまんなかで うんこを ひろった」「わたしがうんこ担当の うんこだ ともうします」と、とにかく「うんこ」ですべてが埋め尽くされている。
うんこは汚物なので、人間の中の「虫」を刺激する、虫が騒いで子供はうんこに「キャッキャ」とよろこぶ、元気が出たように錯覚する/「虫」は汚物と甘みを栄養として繁殖するので、子供はうんこドリルをやったあとは、声優の甘い声が効いているアニメを観たがるだろう。
「汚言症」という、一見わけのわからない病気も存在している、軽度には「ぶっちゃけさあ」と汚らしく言わないと耐えられないという病気だ、それはやがて公の場で「うんこちんこまんこ」と叫ぶ症状に進んでいく、「糞、糞、畜生」と言わないと生きていけなくなるという病気だ/人間の中には「虫」が棲んでいる。

長距離ランをする人が増えているが、今長距離ランをする人の多くは、[虫]スズメバチのエキスを飲んで走っている。
カフェイン等だとドーピングになるので……スズメバチエキスはドーピング項目に該当しない、今長距離ランをしている人は「例の」スズメバチエキスを知らない人のほうが少ないのではないだろうか、その薬効はよくわからないがすでに何か「効く」としてランナーたちに重宝されている。
「こどく」を漢字変換すると、誰の端末でも変換候補のうち「蠱毒」というのが出てくると思うが、これは中国方面を発祥とする呪術のことだ、なぜこんなマニアックな語が熟語として登録されているのかはまったく不思議だ/この呪術には呪殺以外にも「富貴を得させる」という効果もある、ただしもちろん毒なので中毒は起こす。
蠱毒の術は、虫と獣、そして「ひがみ」「飢え」「共食い」といったキーワードをヒントに成り立っている、いわゆる狐憑きというのもそれだし、犬神というのもそれだ、「蠱毒」は正式な作り方があるらしいが、平安時代にはすでに詔勅によって禁止されている。

「虫」という字は、元は蛇の象形文字だ。

「蛇」は、ありとあらゆる神話に登場し、さまざまな宗教でシンボル化している、アダムとイブは蛇にそそのかされたのだし、仏教においても煩悩三毒のうちのひとつ「瞋恚」は蛇に象徴されている。
もともとは、「人でもない、鳥でもない、動物でもない、魚でもない」という、よくわからないものを「虫」と総称した(だから「蛇」は虫偏がついている)、われわれが慣用句として「虫が騒ぐ」というとき、このよくわからないものにエサをやっているということだ。
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虫の業(わざ)

のところ、「虫」の話をよくしている。
「虫」は、人間の「信じる」という機構に棲みつく。
「虫」は、人間の「信じる」という機構に棲みつき、そこに虫食いの穴を空けてしまう、するとその穴が「感受性」のレセプターになる(虫の巣穴のようだと捉えてよい、その巣穴の中で虫はエサを待ち焦がれている)。
人間の「信じる」という機構に棲みつく/だから人は、「感受性」に刺激を受けたとき、たちまち誤ったものを「信じる」「確信する」という形で、その感受性を体験する、この体験は甘みを伴っていたり、汚物感を伴っていたりする、そして甘みも汚物も「虫」のエサになるので、虫は繁殖し、人間の「信じる」という機構はますます食い荒らされていくのだ。

「信じる」ということが、正しく・清潔に・整えられて与えられてあれば、そこには虫は棲みつきにくい。
「信じる」ということが、湿っぽく・野ざらしに・暗闇に放置されてあれば、そこにはいくらでも虫が棲みついてしまう。
「信じる」という機構に棲みついた虫は、その内部で力を発揮することで、人に誤った「確信」を感得させるはたらきをする、この誤った穴あきの「確信」を修繕するのは学門しかない。
人は、その他の動物よりはるかに大きく「信じる」という機構をもっており、この機構の作用は大きいのだ、だから人は、学門によって正しきを信じるか、虫によって誤ったことを確信するかのどちらかになる、そのどちらともその当人の生きる時間をほとんど支配してしまう。

感受性から生じる「疑似信仰」が、人を無神論者にする。

たとえば、人にバカにされたであるとか、美女の媚びを受けたとか、そういったことで人はメラメラする、するとそのメラメラは急激にその人にとっての「確信」に成り上がる、そのとき当人は「これだけが真実……」と恍惚になるのだ。
そうして「信じる」という機構に棲みつき、感受性からの疑似信仰を生成するのは、いわば「虫の業(わざ)」だが、この虫の業は手強い/仕組み上、必ず「無神論者は感受性を信仰している」と言える、この感受性信仰は虫のために甘みと汚物を流転しており、どことなく地獄の予感を伴っているものだ。

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学門を得られた人は幸いだ
門を得られた人は幸いだ。
学門だけが、人にとって平等であり、学門こそが愛(世界愛)の本質だからだ。
幼いうちから、衝動によって学門をキックした人は、後々とんでもない後悔をしたはずだ。
学門をキックするということは、その後のすべてを投げやりに生き、やるべきことの一切を無くすということだからだ。

人間にとって学門とは、「目が覚めた」ということに他ならない。
学門を、覚えごとだと思っている人はまるで逆で、本当は学門を得ることこそが、覚えごとをしなくてよくなる唯一の道だ。
学門をキックした人は、「砂糖はお湯によく溶けて」「炭酸ガスは冷たい水によく溶ける」ということに、いちいち"激怒"しなくてはならない。
学門をキックするということは、言葉の一切が瓦解するということだ、もはや何を話せばいいのかわからなくなる、そのとき人はあらゆる「症候群」の中を生きるしかなくなる。

ヘレンケラーが「ウォーター」と叫んだのは、彼女がそのとき学門に気づいたからだ。

ヘレンケラーが学門に到達するまで、サリバン先生は暴力的なほどの「教育」を施した、そうでなければヘレンケラーは獣になってしまうから、そしてやがて虫に食われて地獄のものになってしまうから。
ヘレンケラーが獣にならず、ウォーターと叫んだことに、幸いがあることは疑いない、この不可能を可能にしたのはカミサマの力だ。
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「困難に向かう」か「毒づく」か、どちらか
々、「困難」に立ち向かってそれを突破しようとしている人があれば、そういう人は眼差しが違って当然だ。
日々、特に意味もなく微笑んでいたり、やたらとリラックスにこだわっていたり、そういう人が、「困難」に挑み続けている人と同じ眼差しを持つことはできない。
そしてなぜか、日々いろんなことに腹を立てるのは、「困難」に挑んでいない側の人なのだ、「困難」に挑んでいる人は正直それどころではなく、「あ〜くそ〜難しいなあ〜いやしかし待てよ、そうかつまり、あああ」という具合なので、何かに腹を立てるという機会がほとんどない。
「困難」に挑んでいない人は、日々あれこれ考えるのだが、初めから「困難」を避けることは決定済みなので、いくら探してもまともなことは見つかってこない、それでしょうもないことばかりが目について腹を立てるのだ、そういう人はやがて腹を立てることが日課になってしまう、これが冗談ではなく本当にそうなるからおっかないものだ。

「困難」に立ち向かわずに来た人は、後ろめたさがあるので、早晩、「困難アレルギー」というべき状態になる、とにかくリアルな「困難」や「難しいこと」に面すると、急に眠くなったり機嫌が悪くなったりということが、ヒステリー様に現れるようになるのだ。
実につまらない話なのだが、「困難」に立ち向かわずに来た人は、「困難」に立ち向かってきた人のことを認められないのだ、そこを認めてしまうと人間性に上下がついてしまう、人間の対等性を保持するためには、「困難に立ち向かう」ということの迫力自体を消去するしかなくなる。
こうして、人は、自分の知らないレベルで、「腹を立てたがる」という性癖に取り込まれていくことになる、なぜか?/それは、人は腹を立てているあいだ、いろんなことを見失うことができ、「困難」に立ち向かうことをせず生きてきた自分のことを見ずに済むからだ(だから人は人間の対等性を主張するとき、必ず腹を立てている)。
「困難」に立ち向かってきた人と、そうでない人とでは、残念ながらどーしようもない明らかな差、それも「輝き」と呼ぶべきレベルで差がある、その差があった上で「優越しない」ということが<<愛>>ということだが/よって愛のない人は、実は「困難」に立ち向かうことをせず、「競争」に立ち向かっている、愛のない人は「困難」に立ち向かわずおおよそ「共食い競争」に立ち向かうので、その眼差しには輝きではなく蠱毒が宿る。

「毎日一度は、困難に立ち向かう」というタイプと、「毎日一度は、腹を立てる」というタイプに分かれる。

運転中に罵詈を発する人や、会話中に「でもそれってさあ」と声を高める人、急に何かを諦めたように冷たい声を出す人などは、毎日一度はそうして腹を立てるタイプだ、そうやって蠱毒を足さないと日々のエネルギーが充填されないので、知らぬ間に定期的にそうしている。
大雑把に言ってしまえば、人は「困難に向かう」か「毒づく」か、どちらかの人にしかなれないのだ、どう努力しても「毒づく」ということをやめることはできない、また困難に立ち向かっている人には、次第に「毒づく」という能力自体がなくなっていく、それはただの分岐であって努力の結果ではない。
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われわれは11万回以上は食事できない

さらながら、「ビットコイン」って何なの? ということを調べてみた。
えーと、なるほどね/……なんだこの、おっかないモノは!! よくまあこんな、発行権の所在がよくわからない突然の新通貨に、平気で両替できるなと、僕は驚いたのであった。
通貨の発行権が、中央銀行にない(国家にもない)どころか、そもそも管理所が銀行でさえないじゃないか、なぜこんなもんが突然出てきて、なぜまた多くの企業がこんな不明の通貨で決済を許すんだ、ビットコインとやらの急な万能の外貨通用性は一体誰が保証しているのか、こりゃいくらなんでもエエエエと僕は驚いている。
「ポイント」を購入しているわけじゃなくて、通貨を「両替」しているわけだろ、もちろん担保金なんか供託していないのだろうし、この急激な通用性の隆盛は誰がどうやって創造しているのか等、僕はおっかなくて調べる気にもなれないのだった。

しかも、スマートフォンのアプリで所有貨幣を自己管理もできるそうだから、それはつまり、どうやってもクラックできない入念な仕組みがすでに作られているということか。
これはアレかね、要するに、すでにビットコインの発行高と為替を、人工知能が自動的に統合管理しているということかね、それで新時代のハードマネーを作ろうという……そしてスイス銀行よさらばという具合のプロジェクト的な何かなのか。
昔から「マザーコンピューター」というと、人間に謀反して戦争をふっかけてくるのが映画のストーリーだったが、まさか戦争じゃなくて財産を押さえにくるのかよ!! そりゃ地味すぎるというか陰湿すぎるというか、そういうのもうやめにしましょーよホント。
国際決済銀行の会議に、人工知能の「頭取」が一席を並べるという……そんな感じの空想を膨らませつつ、まあでも値上がりの可能性があるとして、単純なファンドとして狙われているというところなのだろうな、そういう話は常におっかなくて僕は好きじゃない。

3×365×100=約11万だから、われわれは11万回の食事分を稼げば生きていける。

逆に考えると、われわれはどう頑張っても、11万回以上の食事は不可能なのだ、あとは寝るところと着るものがあれば……もちろん医療も十分に欲しいところだが、そこから娯楽だの何だのと足していきすぎるとキリがなくなる。
11万回の食事分が、勝手に地面から生えてきたり、海から湧いてきたりしたら、われわれは生きるのがラクでいいのにな、そうしたらもっと愛と学門だけに集中していられるのに。

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重大汁のぶっかけ
ヴィで重大ということは、つまり「重い」ということだから、それが重い以上、動けない、ということになる。
重大ぶる人は、それが「重い」ので、ほんのわずか動いたことを、「すごくがんばった」と感じる、けれども当然、そこに耕された営みは浅い、ほんの少ししか動いていないからごくごく浅い。
この視点で万事を眺めていくと、人間の営為の本性がわかる、たとえば家族が重い人は家族の内に深いきずながない、恋愛が重い人は恋愛の中に深い思い出がない。
勉強が重い人は深い学門にはまるで到達しない、趣味が重い人は浅いウンチクを垂れるだけでしかない、と、誰だって周囲を冷静に見たらそうなっていることがわかるはずだ。

「重大にすると薄まる」のだ、このことはそのまま丸暗記していて損はない。
たとえば今ここで僕が、僕の出身地や出身校、これまでしてきた仕事や恋愛、たしなんできた趣味のすべてについてどっしり重く話してみようか、そうすれば当然、そんな話を聴く前に、僕は「浅い奴」になるだろう。
何なら旅行先でシャッターを切って涙を流し、「そのときの思い出の俳句なんだ」みたいなことを聴かせてやろうか、そうするとますます僕は「浅い奴」になるだろう、あるいは「おれ、あのとき○○さんに殴られてさ……」と気分たっぷりに話してやろうか、そうするとますます「浅い奴」だ。
たとえば、食事に行くというのなら、本当にただそれだけ、「食事に行く」というだけでいいの、それだけで十分確かで滋養になる値打ち、輝くものがあるんだよ、これにわずかでも足し物をすると薄まる、この足し物で薄まることで、人々は一気に行方不明になっていった。

薄めるなって。

調味料をドバドバ足したら、そりゃ味が濃くなるかもしれない、だけどそれは料理の味じゃない、足し物の味で醍醐味のほうは消えてしまっている、どんな料理でも一リットルの醤油をかけたら料理としては「消える」のが道理だ、そうして物事の玩味を薄めるな。
体内で習慣的に分泌される……まあいわば自家製の「重大汁」だな、この重大汁がすべての営為や出来事を薄めて消去してしまう、重大汁のぶっかけは性犯罪なのでやめましょう、性癖のゆがんだエロマンガの読み過ぎです。
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ブチギレガマン3000回をもたらす「魔物」
存じのとおり、人々の獣性・攻撃性が激化している。
国会議員が「このハゲー」と怒鳴って暴力を振るい、横綱がビール瓶で弟子の頭蓋骨をカチ割る時代だ。
いわゆる「キチガイゲージ」がモノをいい始めており、老若男女、誰もが一日に八回ぐらいは「ブチギレ」の手前までいき、それを常に押し隠している。
何度も言うようだが、いくら喫煙場所を縮小して、放置自転車を街から撤去しまくったとしても、そんなことで人間は救済されない、年間3000回も「ブチギレ」をガマンしている実態があるとすれば、ありとあらゆる改善案など笑止な冗談にしかならない。

つい先ほど、僕のところへ、「言われた通りにしてみたら劇的な改善が!! ありがとうございました!!」という連絡が届いた。
いつぞや記事に書いたように、メールの文頭に「謹んで。」と置くと、とてもいいことがありますよ、ということなのだが、そのとおりにしてみると、数回のうちに「まさか」というような現象が、自分の身に起こってきたということ。
そりゃそういうものだし、「よかったよかった」と返信したのだが、このようにして、まともな年長者が年少者をまともに教育することによって、案外コロッと救済されるということがある、決して放置自転車の撤去で人は救われない。
結構足しになるもんだぜ、と思って、大真面目に僕は発信しているところがあるのだが、ご存じのとおりこのご時世、僕が何か足しになることを話そうとすると、返ってくるのは基本的に「ブチギレ」なのだ、なぜという理由はなく「ブチギレ文化」という具合のものなので、これはもうどうしようもない、一度噛み癖のついた犬は根本的にはもう治らないということがよく知られている。

ブチギレた人は常に正義だ。

「このハゲー」にしても、ビール瓶頭蓋骨割りにしても、あるいは喫煙所縮小も放置自転車撤去もそうだが、人は自己の正義を確信した中でブチギレるのだ、だからこそ攻撃は呵責なく、完全な正義がそこにあるゆえに学門も放棄される。
かつて共産主義が完璧な正義において学徒のすべてを殺し、書物のすべてを焼いた、完璧な正義において人はブチギレるのだということを正しく知れば、まだ多くの人が救済されるだろう/それが真の「魔物」なのだと知ることができれば。
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こころが通じ合うということ
ころが通じ合っていないと話にならないのだが、しばしば、「なんでこうもこころが通じないんだ」と思わされる。
こころが通じない場合、どうすればよいかというと、あきらめる、というのが最善で、一番まっとうな判断になる。
こころが通じないものに、何かを伝えるということは不可能なのだから、その先はどうやりくりしても前向きな話はけっきょくない。
こころが通じ合う人と、通じ合わない人がいるのは、両方として当然だが、おそらく通じ合わない人のほうが潜在的にピンチを抱えているらしく、そのピンチは救済されればよいと思うのだが、しかし誰ともこころが通じ合わないのに救済といっても……と、話は初めから閉塞しているのだった、ある意味シンプルな構造ではある。

個人的に最もアホだと思える例は、あくまで個人的にだが、「こころが通い合う」ということを、意識や感情について「ピンとくる」ことだと思っているたぐいだ、そりゃ意識や感情であって「こころ」ではない。
「イライラしている」とか「ストレス溜まっている」とか「チョーシに乗っている」とか「弱み」とか「うれしそう」とか、そりゃそんなことは誰だってわかるだろう、まさかそれを「こころ」と呼んでいるのでは……とブラックジョークみたいなことも内心に浮かんでくるのだった。
本当はもっと厳密に説明でき、ここで「こころ」と呼んでいるのは便宜上のことなのだが、本当に人と通じ合わなくてはならないのは真我であって、まあいわゆる「精神」だ、精神が何を受け取り、何を読み取り、何に向かおうとしているかが通じ合わないようでは、そりゃ人と人は孤立して衝突するしかない。
精神のない喚(わめ)きが、意識や感情をブチまけて、その中に「こころ」なんて探していても、何かがどうにかなるわけがない、「意識や感情にはピンとくるの、わたし鋭いタイプだから」というたぐいは本当にやめよう、アホすぎて親が泣くぞ。

秋のこころ夜のこころ、街のこころ詩歌のこころ。

正しく見れば、そうした「こころ」がこの世界にはひしめいているはずで、それに浸される以外に他に「こころ」などありえないわけで、むしろこのご時世、「よくそんなに『こころ』のないことを厳選して言えるな」と感心さえするところがあるのだが、ひょっとして僕の知らないところで、誰かが「わざと」そうしているのだろうか、何の目的かはさらに知らないが。
こころが通じ合わないなら、秋の夜に街に出て歌が流れていても、まったく何の意味もないというか、「トラブル」になるような気がするが……「こころが通じ合っていない人に限ってうるさい」という法則があるが、あれは何か街に植え込まれた装置なのか? 街から人間を駆除するための/割とそういうことは冗談でなくあったりするからおっかないな。
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叡智がない偽りの聖域
般的に、人は加齢と共に「おびえ」を蓄積していくようになる/ごくまれに「おびえ」を超克していく側の人もあるが、それは<<叡智>>が高く例外的なことだ。
「おびえ」とは何であるか? それは第一に「死」へのおびえ、困窮へのおびえ、さびしさへのおびえ、老いへのおびえ、若さを失ったことへのおびえ、病苦や破滅へのおびえ、内蔵と血肉へのおびえ、暴力や魔物へのおびえ、不浄へのおびえ、セクシャリティへのおびえ、根源的な「過ち」へのおびえ、そして「おびえた人から伝染した共有のおびえ」……といろいろある。
この「おびえ」を、学門のレベルで見極めることができたらよいのだが、普通そういった発想は皆無に等しい、それでほとんどの場合、人は「おびえ」を押し隠してくれる何かに依存し、駆り立てられるようになる。
「おびえ」が真相だったとしても、人はその「おびえ」がおそろしいため、「おびえ」を押し隠してくれる麻薬物こそが、自分の「聖域」になり、自分の「真実」になるのだ、この偽りの聖域は特徴的に、学門とは反対側の「ハマる」というところに生じてくる。

たとえば健康食品や菜食主義、ロハスやヴィーガン等に「ハマる」人があるのは、真相としては健康志向があるのではなく/死や病苦や不浄への「おびえ」があり、健康志向活動がその「おびえ」を押し隠してくれるので、健康志向活動が「聖域化」しているという状態だ、だからこういったことに「ハマっている」人は、他者から見ると「手がつけられない」「口出ししないほうがいい」(聖域化しているからなあ)と感じられる。
婚活や妊活等の「活動」も、周囲から見て「手がつけられない」「口出ししないほうがいい」と感じられる場合、それは「おびえ」から生じている、度の過ぎた「活動」のすべてに制止の口出しをすると、当事者からは「わたしの聖域を破壊し、おびえを再興させる気か」という意味での、ただならぬ反発が起こってくる。
人それぞれの行状が、人間としての「営み」なのか、それとも「おびえ」からの「活動」なのかの区別は、その当事者が学門に近づいていくか・遠ざかっていくかで判断できる/「おびえ」からの「活動」(聖域化した活動)は必ず個人としての「実感」に基づいて生じており、一方人間としての「営み」はその背後に必ず慎重な「学門」への問いかけがある。
「学門」とは何であるか? それは、<<実感はさておき>>という理性的な態度から、「この世界とわたし」は何であるのかを追究しようとする識のはたらきだ/人は「実感」に食い荒らされると「おびえ」を持つようになり、おびえを押し隠す目的から「○活」や「○充」といったものに依存し、それを聖域化していく(ハマる)、そして徒党を形成した上で、<<学門を追放する>>という性質を持っている。

だから偽り聖域には強い「実感」だけがあり、「叡智」の気配がない。

人は「おびえ」に直面して、二者択一を迫られる/ひとつは何かに「ハマる」ことによって「おびえ」を押し隠す道、もうひとつは「おびえ」を超克しうる叡智を授かるために学門に踏み入る道だ、こんなものどちらが正道かは言わずもがな明らかだ。
だから人々の行状のほとんどは、おかしなカルト宗教にハマることと変わらない、人は叡智によって飛翔するべきであり、何かにハマって落ちくぼんでいくべきではないのだ、徒党を為す人々の浅知恵は叡智に届かず、「叡智」とはそもそも天授・神授の知恵のことを指している。
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エセ関係、アドバイス・パーフェクト・ナッシング
のない仕組みに囚われて、何もかもを「許さない」という世の中へ進んだな!
とにもかくにも「許さない」のだ、それは喫煙であろうが不倫であろうが、材料は何でもいいのだ、「許さない」がパキーンと成立したらみんなホレキタ絶頂ムーブメントである、何を「許さない」というのはどうでもいい。
「許さない」という感触が好きなので、「許さない」が炸裂することに、無邪気で(いや邪気に満ちているだろ)全力なだけだ、「許さないオーガズム」というのがあるのである、僕にはないが。
自慢じゃないが、僕は誰とも対話なんかするつもりはないぞ、この世で最も興味がないものは対話である、僕を愛さない女がクルクルパーというだけで、その他のことはこの世界に存在なんかしていないのだ。

そもそも、自分が関わらないものは、まあ存在しているとはいえ、けっきょく白紙のページで終わらせるものだ、たとえば冥王星の地下2000キロメートルには何が埋まっているかまで関わっていたらおちおち緑茶も飲んでいられない。
この世界で最も光を失わせるものは、いわば「エセ関係」でしょうな、何をどう勘違いしたのか知らないが、自分にはありとあらゆる質問をいつでも投げかける権利があって、その答えを聞いたら自分の意志で好き勝手に論評できる権利があると思い込んでいる。
そういった権利があるのかないのかについては、それこそ僕は無関係だと思うので、何もかも「違うように感じますが……」となり、僕としては何というか、「幕の内弁当にボルトとナットを入れるべきか」みたいな議論について意見を請われている感じがしてとにかく憮然とするしかないのだ。
僕から誰かへのアドバイスは、数学的厳密さにおいて「無い」、パーフェクトにナッシングなのだ、なぜならエセ関係を錯覚した時点で死亡だからだ、エセ関係をどう捉えるか、という問題ではなくて、そもそもそこには捉えるべき対象も存在していないというカラクリなのだった。

エセ関係の幻想は、必ずどこかの「許さない」に行き着く。

なぜそうなるのか、という説明さえ、別にする必要はない、行き着きたくなければ行き着かなければいいだけで、そもそも僕の言うことが正しい必要はまったくない、「チョコレートパフェにはチョコレートが掛かっている」というのが正しいと説明してやる義務は誰にもない。
エセ関係、アドバイス・パーフェクト・ナッシングだ、どうして僕を愛さないのかという疑問に、僕が説明をもって答える必然はどこにもなく、そりゃ自分が愛さないって決めているから愛していないわけで、すべてはどこかの「許さない」に行き着くつもりだろう、なぜそんなことをしているのかという疑問は、ポットの中でどう湯が沸いているのかというぐらいどうでもいい疑問だ、わざわざフタを開けて観察しても眼鏡が曇って火傷するだけだ。
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愛のない中を生きてきた人ほど、「言語」がちゃんと伝わっていない

リンク元:教科書の文章、理解できる? 中高生の読解力がピンチ(livedoor news)



ンマかいな、と疑いたくなるようなニュースだが、現代の中高生の「大半」は、この問題文が読めないのだ、大学進学率は六割に近づこうかとしている世の中なのに。
「問題文」といったって、こんなもん、問題でもなければクイズでもない、ただ「フツーに言っている」だけだ、しかしこの「フツーに言っている」が、すでに高校生の72%、中学生の88%には通じていないのだから、これはもう、「フツーの話」は現代において基本的に通じませんという前提に立つしかない/われわれは十八歳の高校生に選挙権を与えているのにだ。
聖書に、「信仰なしにバ○ルの塔をおっ立てると、言語がコナゴナに壊されまっせ」という伝説が書かれてあるが、あれは寓話ではなくマジの話なのだ、そりゃ聖典にインチキの話が書かれているわけはない、聖典に書かれている話はだいたいマジだ。
別に中高生に限らず、大学生でも大人でも、われわれはすでに学門の端緒である「言語」を破壊され始めている、これが破壊されるともう、人間の道に戻ることはほとんど不可能になってしまう。

愛と学門は、同じ一つのものなので、現代の中高生は、それだけ愛のない中を生かされているということだ、愛が与えられていないと言語や学門は「聞こえてこない」という状態になる(愛と学門と、世界と命と、聲と音楽はひとつのもの)。
愛がなく、世界も命もない中を、虫の騒ぎだけで生かされている、だからもし現代の中高生に愛と学門の話をしたら、多くは「虫の居所が悪くなる」だろう、それはすでに教師の熱意でどうこうできるような段階ではないのじゃないか。
この、愛のない中で生かされている人は、それだけで苦しいのだ、何しろ世界中に何が書いてあるのかわからないで生きているのだから/この苦しみの中にある人に、液晶ピカピカやスロットぐるぐる、見た目やエフェクトの派手なものを見せたらもうだめだ、戻ってこられなくなる。
「言語わからない、けど! ピカピカぐるぐるドカーン、ひらひらふわり、インパクト! ウキャキャ!」という、餓鬼道まっしぐらになる/現在、表面を糊塗しているだけで、内部的にはすでに言語が壊れている人がたくさんいるはずだ、愛のない中を生きるというのはそういうことなのだ、虫の居所が爆発するだけの日々に埋め尽くされてしまう。

中高生の大半が、読解力を破壊されているなら、同数、感受性が激烈化しているはずだ。

単純な仕組みだ、愛がないなら学門がない、学門がないなら読解力などありえないわけで、じゃあ何があるかというと「虫が騒ぐ」だけだ、何につけ「虫が騒ぐ」&「虫の居所が悪くなる」しかない、それが感受性というもので、じゃあすでに高校生の72%と中学生の88%は感受性が激烈化していると前提するしかない。
よくよく冷静に周囲を見てみればわかる/愛のない中を生きてきた人ほど、「言語」がちゃんと伝わっていないはずで、愛のない中を生きてきた人ほど、「虫の居所」が危険水域にあるはずだ、それは若年でもそうだし、晩年でもそう、愛のない中を生きてきた人は、どう糊塗しても中枢が「壊れている」という感触がある、それは愛を否定してバ○ルの塔を信奉してきた安易なアホ人間への、取り返しのつかない報いなのだ、これはちょっとひどいよと言いたくなる。

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学門がわたしを掴んで離さない
んなに人間の仕組みに深入りするとは思わなかったな。
なんとなく、メモのように書き残しておこう、「学門がわたしを掴んで離さない」のだ、あれこれ我流でやってみようとするが、けっきょく学門の手ざわりだけに「これだ」という直覚が走る。
まるで何をしなくちゃならないか、前もって定められてあるかのようにだ、僕のナイスなつもりの発想などまるで受け付けてもらえない。
あまり言いたくはないが、ここ最近は「カルマ(karman)」という語に惹きつけられている、ここに現在の僕が進展する学門があるのはミエミエなので、まあけっきょく見えるもののままに進むしかないのであった。

ごく簡単なこと、「光」が生じるほうへ向かえばいい、それはなんだかんだカルマ的に償却の道に合っているからだ、正しく「光」が生じるとき、愛と学門と命はひとつであり、場合によってはベタに「信仰」もプラスしてひとつになっていていい。
「信仰」とか言い出すと、マジでヤバい何かになるので、もうさすがに言わないが、それにしても信仰と完全に分離して「愛」とか言っているのも逆にヤベー話だと思う/世界そのものを否定しておいて個別に「愛」とかないだろ……まあそれも、好きにせえやと投げやりにしたいところだが。
人は、己の価値観にバッチリ嵌まっていたとしても、それがカルマ償却でなく増大の道であったなら、その目(と心身の具体)に「おびえ」を生じる、そりゃもう何もしていなくても、その「何もしていない」がカルマ増大の道だったら、人は「おびえ」を生じるのだ、なんとまあ困った性質のものよ。
つまり、ノリノリのイケイケで我が世の春の「イェーイ」だったとしても、実際にその目の奥に生じてくるのは「おびえ」ということがあるのだ、カルマの仕組みってえげつなさすぎだろ……しかも「それはカルマです笑」なんてぶっとびの話なんかできるわけないから、ほんともういろんな場面で手詰まりがあるのだった。

カルマ増大:目に「おびえ」、カルマ償却:目に「光」。

カルマを増大させて「おびえ」るぐらいなら、やらなきゃいいじゃんという話なのだが、そうはいかんのだ、「虫」がはたらく、「虫」がざわめいて、人をカルマ増大のほうへ引き込んでいく、それがなぜなのかまではさすがに僕には説明できない。
カルマ償却の大方向はどっちだ? ということになるが、それは「生きとし生けるものすべてがひとつとなって学門を完成させる」という方向だと言うしかない、そんな何十億年かかるか判ったもんじゃないテーマに、われわれごときが数十年生きたってなあ、でもカルマってマジでそういうレベルのもんだ、こんなデカいものがわれわれを掴んでいたらそりゃ離されっこないわな。
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感受性は「虫」のもの
「虫が騒ぐ」「虫が起こる」「虫の居所が悪い」、「疳の虫」「虫が好すぎる」「本の虫」「虫唾が走る」等々、日本語には「虫」の語を用いた慣用句がたくさんある。
以前から言うように、「虫」は「感受性」のものであり、「虫食み(むしばみ)」に関連して、基本的に地獄の道のものだ。
たとえばギャンブル依存症の人は、ギャンブルが自分の身を滅ぼすことがわかっていても、実際には毎日ギャンブルの「虫が騒ぐ」ので、それに抵抗できず破滅的なギャンブルを続けてしまう。
自分の中で血が騒ぐこと、「ざわざわ」すること、スイッチが入ったら止まれなくなること、それらはすべて「虫」の仕業だと捉えていい、本人のするべきこととまったく関係なく、ただただ「虫」の欲するがままに連れて行かれてしまう/それを当人は「無我夢中」「ハマっている」「絶対好き」と勘違いしている、特に虫食みの最中はそうだ。

「虫」が飢えてくると、虫たちはざわめきだす、ざわざわ……あるいは目の前にエサを置かれた場合も、虫たちはざわめきだす。
ざわめきだしたものは、身のうちに噛みつき、食い荒らしてくるので、ひとまずエサをやらないといけない/エサを食えれば、虫たちはいったん落ち着いて鳴りを潜める。
けれどもエサを食ったぶん、虫たちは物陰で繁殖し、いっそう勢力を強めている、「もう落ち着いたから大丈夫」ということはなくて、次回のざわめきはもっと大きくなるのが必定だ。
薬物中毒者は典型的に、禁断症状(離脱症状)の中で、部屋中に虫が湧いている幻覚、および皮膚の下に大量の虫が湧いて這いずりまわっている幻覚を体験する、決まってその幻覚が生じるということは、それが「感受性」の正体だということだ、古代の日本人たちはそのことを看破し、慣用句の中に「虫」の存在を明記した。

学門は人間の栄養、感受性は虫の栄養。

昼の日中に、路上にゴキブリが這っているのを見ることはないだろう、なぜなら光の下を彼らは好まず、光が照っているときは物陰にジッと隠れているからだ、そういった「虫」どもは光の下ではいなくなったように見える/しかし駆除されていないなら虫たちはどこかに生存しており、光が陰るそのときが来るのを待っている。
一般的に、男性より女性のほうが「虫」が苦手だ、それは男性より女性のほうが「感受性」が強いからだ/そしてもし、男性より女性のほうが「学門」を識らないというような事実があるならば、そんな不当な不均衡は是正されるべきだと思うのだ。
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イケイケマウントおじさんの陰陽考察
近は「マウントを取る」なんて言葉があるんだね……いや最近になって、ちょっと僕もわかってきた、今までの僕がアホすぎたのかもしれない。
今まで、たぶん僕は、相手がマウントを取りに来ているのを、何がなんだかわからず「???」と反応してしまっていた、申し訳ないことをしてきたと思う/あれはマウントを取りに来ていたのか、そういうことなら話はわかる。
そうならそうと、言ってくれたらいいのに……というのは話がおかしいか、「マウントを取る」という言葉で、僕にも少しわかることが増えてきた(よろこんでいる)。
チンパンジーみたいな顔をしたおじさん同士が、何かいつでも喧騒をやらかしあうのを見て、これまで「あれは何を必死に頑張っているのだろう?」とわからなかったのだが、あれはマウントの取り合いをしていたのか、そういうことならわかるわと、僕は今ごきげんなのだった、積年の謎がひとつ解けた。

たしかにチンパンジー的なものなら、「敬い」の機能はないので、マウンティングで上下を作るしかないだろう、社会性のある哺乳類は上下関係がないと逆にストレスが増えて付き合っていけなくなるのだ。
記憶をさかのぼってみると、やはり「おびえ」を持った目の人が、そのマウント行為を仕掛けてきたのがわかる、なるほどそのマウント勝利を得るために、おじさんはいつも事の始まる前からイケイケの気分を自分に盛り立てているわけか/おじさんだけでなく若い人もそうか、そういう人は一定数いるのだろう。
やたらにお金を使ってみせることや、着飾って見せたり、知識をひけからしてみせたり、テレビで聞いた正論を自分のもののように語ってみたり、顔の広さを言いふらしてみたり、過去の武勇伝を誇張して怒鳴って聞かせたり、たいした自慢でもない自慢話を繰り返したり、いったん自己アピールが始まると止まらなくなったりするのは、すべて「マウント」のためだったのか、それならすべての切り口の感触が「なるほど」とわかってくる。
マウントを取りに来る人の目の「おびえ」は、「対等ですよね?」と請求してくる人の目の「おびえ」と似ている/よくやるよなあ、僕なんか正直そんなこと考えたこともないぜ、僕はこの宇宙で6000番目ぐらいに偉いので、その地位で満足しているのだ、どうだ謙虚なものだろう。

イケイケマウントおじさんは、本質的には陰キャです。

たぶんマウントの取り合いでイケイケしていると、陽キャっぽく見えると思うが、それは欺瞞だ、陽気な奴はそもそもそんなこと考えもしないものだ、倍満に振り込んで自分のケガに「イッヒッヒ、大ダメージでござる」と涙目で笑っているのが陽キャというものだ、友達というのはそーいうのでなくてはいけない。
女同士でもあるんだろうな、マウントの取り合いや、逆に「対等ですよね?」主義の駆け引きとか/そういったシチ面倒な取っ組み合いが始まるのは、本当にスゴイ人のことを知らないからだ、ホンマモンのすごさから目を背けているから雑魚同士で何かの「大会」をおっぱじめてしまうのである、さっさとラマヌジャンの前にひれ伏せタワケめ。
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「かわいいは正義」の発想によって、かわいい女の子が不幸になってしまう
「かわいいは正義」というコピイがよく知られている。
真面目に言うようなことではないが、これは間違いだ、正しくは、「かわいい」は「正義」のように感じられてしまう、そういう誤った時間が何十年も続いてしまうね、ということだ(真面目に言うとアホみたいだ)。
かといってもちろん、ブスが正義ということではない、ブスはもっと間違っとんねん、そうではなくて「かわいいは正義」という発想は、むしろかわいい女の子を不幸にしてしまう。
「かわいいは正義」という、一種の「アホ確信」の現象によって、かわいい女の子がおもちゃにされてしまう、それで腹が立つので、かわいい女の子はアホどもからカネを取ろうとするのだ、女が自分をおもちゃにされたらカネを要求するのは当然だ。

むちむちぷりんの若い女の子がいたら、男どもはこぞって「オー」「マジイケてる」と、彼女の「正義」を称賛するかもしれない。
カネを出してでもそのむちむちぷりんの正義をむさぼりたく、入札、「うっひょー」とむさぼればそれが勝利のように思えるし、またそれだけ男を必死にさせる女自身もフフンといい気分になるかもしれないが、これは全部誤りなのだ、実は正義でも悪でもなくしょうもない誤解の中にいる/残念ながらそんなことの中に勝利はない、ホントにないのだ残念ながら。
男は、むちむちぷりん女の実物を見て、「目が覚める」のではないのだ、「目が曇る」のである、「正義を見つけた気がする」という最もタチの悪い思い込みモードに入るのだ、この陳腐なウソ正義にムッハムッハすると、付き合った女は思いがけず傷跡がデカくなる、裸の全身で渾身のアホをしたという屈辱が、霊の奥深くまで突き刺さるのだ。
「かわいい」を見ると、体内にアホホルモンが分泌されて、アホは「これ、間違いないよね……」というキメ顔で大間違いの確信を得てしまうのだ、安物マンの「スイッチ」がオンになってしまう、それでかわいい女の子は安物マンに集(たか)られるということなのだ、こんなもの「換金するしかない」と思われてもしょうがない。

「かわいい」には、アホが「正義」で集(たか)ってくる。

「正義で」集ってくるというところが問題だ、本人は正義のつもりで突っ込んでくるのですげえ迷惑なのだ、しかもそれが次から次にひっきりなしにやってくる、頼むから「正義」になるのだけはやめてくれ〜というところなのだが/そんなことをしているうちに、かわいい女の子は賢い誰かと出会う機会を失ってしまう。
ヒマで夢もすることもない男が、「かわいい」女の子に出会って、それだけをスイッチオンにして急遽「生きているふり」にハマりたくなる事情には同情の余地があるが(誰だってそりゃ生きているうち正義の時間がほしいもの)、それにしてもかわいい女の子の側がひどい迷惑なのでやめよう、「かわいい」はただ「かわいい」であって、何もスイッチが入るようなことではないんだ、スイッチの入る奴は真性のバカだ。
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平等性ユートピアの中で「おびえ」はパンデミックした

ール、チャット、SNSあたりの電脳通信は、人々に「おびえ」を伝染させた。
電脳通信が、「おびえ」のパンデミックを引き起こしたと言える、この仕組みはなかなかふつうには気づかれない。
電脳通信では、「おびえ」の側に話を合わせるしかないからだ。
「おびえ」の側は、電脳通信によって市民権を恢復したので、「おびえ」の大きい人ほど電脳通信で発信することに大胆になる、それで全体としての「おびえ」のパンデミックが引き起こされたのだ。

「おびえ」は伝染するのだ、感染といってもいい、まずこのことに注意しないといけない。
電脳通信でなければ、おびえている人とおびえていない人は、目の色でわかるので、「何をおびえているんだコイツは」ということで差別化されるのだが、電脳通信ではその差別が生じないのだ、電脳通信ではおびえている人もおびえていない人も対等性を保証される。
それで、おびえてはいなかった人も、おびえている人に「対等」に付き合わねばならなくなるのだが、それによって「おびえ」は伝染するのだ、それは不思議な仕組みで、とてつもなく深い仕組みだから、説明はできない、ただ電脳通信では「しばく」ということが不可能なのでしょうがないのだ。
ひどいことになったな、電脳通信には額も足もないのだ、何を言っているかわからんと思うが/人と人とは本来、額があったり足があったりするのだ、「おびえ」のあるなしによって人は、額と額でなく額と足で付き合うというような工夫をしてきた、それが使えないとなるともう「おびえ」が蔓延するしかなくなるだろう。

「おびえ」は伝染する、額や足を思い出さないかぎりは。

額や足がないということは、「頭が上がらない」とか「足元にも及ばない」とかの現象が全部消し飛ぶということなのだ、これはチャットシステムを社内ツールに取り込んだ会社が潜在的にブラック企業化していくという仕組みでもある。
インターネットはもともと、器量で差別されない一種の平等性ユートピアだったのだが、それがこの破滅的「おびえ」の蔓延を生んだ/この平等性ユートピアが凄惨な破滅を迎えるのはかつての共産主義の衰亡に似ている、たぶん人類はまた「やらかした」のだ、思いがけない別の形で。

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ミコト

道において「スサノオノミコト」を表記するとき、「スサノオ(ノ)命」「スサノオ(ノ)尊」「スサノオ(ノ)神」と書く、これらはどれも「スサノオ(ノ)ミコト」と読む。
「ミコト」を「命」と書く場合は特に、高天原(たかまがはら)から「命令」を授かっているときだ、高天原というのは天国だな(アマテラスオオオミカミの統べる世界)、天命を授かっているから「ミコト=命」と書く。
だからこそ皇帝や天皇の命令のことを「ミコトノリ(詔)」というのでもあるが……とにかくこのことに、われわれの「命」のルーツがある。
われわれの「命」は、本質的にLifeではなくOrderなのだ、また天国由来の命=尊=神なのだから、命こそ聖なり、命あってこそおびえなし、というのが当たり前だ、単なる「生」だけでは命があることにはならないのだった。

仏教式で葬式をすると、亡くなられた人は戒名や法名がつけられることになるが、神道式で葬式をすると、亡くなられた人は「おくり名」のあとに「命(ミコト)」の名がつけられることになる、死んでから「命」なのだから、もともと生=命というほうが誤解だ。
ちなみにアマテラスオオミカミは太陽神だが、仏教の阿弥陀仏だって語源は「アミダーバ」で、「太陽」の意味を持っているんだぜ……そして神道も「高天原」「中つ国」「根の国」という概念(天国、現世、地獄)というを持っているのだ、こりゃもうアカンやろ、西洋も南アジアも東アジアも、すんげえ古代から同じインスピレーションにたどり着いている、だからこれはたぶんマジだぜ、おっかねえなあ。
聖書世界的には、人は「神のしもべ」であるべきで、仏教的には「仏道に帰依するべき」で、神道的には「命(ミコト)あるべき」となる、どれも基本構造は同じだ、こんな人類史全体で取り組んできているデカいテーマをガン無視して生きるというのはヤバくないですかね……個人的マイライフ爆発ボンバーで戦えますかね……
これを「宗教」と捉えるから話がおかしくなるのであって、こりゃただの「学門」だ、学門って実験再現性の科学だけじゃないだろ、学門であるべきところを「シューキョー」とか「倫理」とか「道徳」とか「善悪」とか「好き嫌い」とか見当はずれで議論するから行方不明になるのだ、それは単にわれわれのアタマが悪いだけじゃないか、とほほ……

「命」と「生」を取り違えている時点で、われわれは日本人失格だ。

われわれはこぞって、「いのちの大切さ」みたいな教育をほどこそうとしているが、なんという荒唐無稽よ、大切さとか言う前に「命」そのものの語意を誤認しているじゃないか、文部省の全員は罰としてカルピスの原液を一気飲みすること。
「命」がないのに「頑張る」って、オメー何を頑張ったらいいのかわかんねーのは当然だぜ、クリックしていないPCが発熱しているようなもんだ、そりゃ確かに頑張っているのかもしれんけれども/「命」がないなら「尊」もないし「神」もねーよ。
 

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本当には好きだったものと、かりそめの城

んというか……はるか昔に、自分のこころの中で、仲違いしたもの/仲違い(なかたがい)ってわかるかな、仲が悪くなっちゃうことだ。
その、はるか昔に仲違いしたものが、実は本当には必要で、本当は一番好きだった、ということがよくある。
それは切ないことなのだ、「実は海が好きだった」とか、「実は明るいリズムが好きだった」とか、「みんなでドライブするのが好きだった」とか……そういうものは、初めからあって、最期まで消えない、仲違いして何十年経っても、ふとそのことには瞳が特別な光を帯びてしまう。
しょうもない意地やプライドで、仲違いなんかせず、素直になっていればよかったのだが、その「素直になる」というのが難行だな、手放しでそれが好きということは、手を放してかりそめの城から飛び降りるということだから。

本当には一番好きだったもの、本当には一番必要だったもの、これと仲違いすると、そのあとが大変だ。
何が大変かといって、「かりそめの城」を建造し続けなくてはならないのが大変だ、一番好きだったものが光り続ける以上、それに勝る「ふう」に見えるだけの巨大な城を建造しつづけなくてはならない/そんなことやがてやりきれないのはわかっているのに。
本当に一番好きなものが出てきたら、そのときあなたはおびやかされる、なんというか、余裕のあるフリをしなくてはいけなくなる、それで一番好きなものと距離をとって、論評風にするのだ、さも自分のやることのほうが本質的にはすぐれているよと言わんばかりに……そうして人は「かりそめの城」を着工してしまう、なかなか素直にはなれないものだ。
見栄えのする城を建造するには、何年も、何十年もかかるのだが、それが出来上がったときは「フフン」と思えたとしても、再び「光」を見たらダメだ、実はそれが一番好きだった、何も変わっていないで、しかし自分だけ年を取っちゃっているよ。

あなたは「好きなもの」ではなく「味方」になびいた。

「味方」は、あなたをビミョーに褒めてくれて、あなたに余裕を与えてくれて、あなたにポジションを与えてくれた、あなたの得意分野に話を持っていってくれて、あなたを満足させ/あなたに行くべきところがあることを忘れさせた。
見栄えのする城が高くなるたび、また城主ぶりが板につくたび、その天守閣から飛び降りるのは難しくなってくる、かりそめの城主さま、なぜあなたは自分の築いた城より本当に好きなものが、他のところにあるんだろう。

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アゲハ蝶のあなたへ
なたが女性だったとして、僕があなたを「女王蜂」と呼んだとしたら、あなたは悪い気はしないだろう。
あるいは、あなたを「アゲハ蝶のようだ」といい、「翅をひらひら、好き勝手に飛んで、長いストローで甘いジュースを吸うんだろう」などと言ってみせると、あなたは「ふふん、まあね」と応えるかもしれない。
女性が女王蜂のようであったり、アゲハ蝶のようであったりすることは、何も悪くない、うつくしいしカッコいいことだ、それ自体はとてもいいことに違いない、けれどもそれ「だけ」ではまずい。
なぜまずいかというと、それは女王蜂にせよアゲハ蝶にせよ、「虫」だからだ、この虫が学門を得られずに行くとそのままバッドなところへ行ってしまう。

あまりブルーなことは言いたくないが、「虫」は「むしばみ(虫食み)」の元で、つまり地獄道のものなのだ、だから女王蜂さんへ、あなたはそのまま学門なしに先に吸い込まれていってはいけません。
地獄道は感受性の世界だから、誰でもイメージしてみれば心当たりがある、「女王蜂」「アゲハ蝶」と呼びたくなる女性は、「感受性」に偏っているタイプのはずだ、これ、実はイイコトではないのである/うつくしいのは素敵なことだけど、そのままそれ「だけ」で行っちゃダメ。
ちなみに、バーベルでトレーニングして、「ハングリー精神、ストイック、鬼!」 みたいなのが「イケてる〜」「似合う〜」と見える場合、それは餓鬼道のものだ、それもそのままそれ「だけ」で行ってはいけない。
そういえば先日はハロウィンだったはずだが、お目目ウルウルの女の子が猫耳をつけて「かわいい〜」「似合う〜」となっている場合、それは畜生道のものだ、それも同じ、そのまま学門なしに先に行ってしまってはいけない/割とそういうことがマジであるもんだ、どこかこころの隅に覚えておくが吉だ。

「誰かと学門の話をする夜」を夢に持とう。

これが一番ロマンチックじゃない? 学門の話は、人間同士ならどこでもできる、外国でも、田舎でも都会でも、年齢差があっても、夜が更けて星空の下でたき火で暖まりながら「われわれはどこから来たのか?」を、思い込みにせず学門にする。
アゲハ蝶のあなたへ、あなたのうつくしさは僕だって見とれる、けれどもそのままどこかへ飛んでゆかず、学門を具えて、堂々と僕の益虫になってください、それがあなたの命です。
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どうでもいい天啓についてのメモ

の中で天啓を勝手にブチ込まれるので、もはやしゃーないが、ディープキスって緊急的なヨガになるよね、もちろん感受性の奴がやったらただの鼻息ハァハァになるし、心理的に実用性がまったくない方法なので無意味だが、まあディープキスはヨガの一種になるよね〜と、意味のないまま一応メモっておく、たぶんカーマスートラあたりにはそういうことが書かれているかもな。
あと、「テレビって何だろうね」という、どうでもいいような天啓もいただいた、「未成年の女の子に何億円も入れあげて、しかもその女の子は一切、自分の本性を見せはしないんだよ、ヤバいよね」ということ、「これってめっちゃ危ないことしてない?」という、これもまたまったく意味のないごもっともな天啓をメモしておく。
テレビって、むろん映像電波の送受信でしかなく、本来は「もともとあるもの」を撮影して発信していたはずが、いつからか「テレビ」という、ありもしないものの映像を捏造して発信するようになった、これはとても危険なことなのだ。
たとえば、テレビが発明される以前から、「漫才」はあったわけだ、このもともとあった「漫才」をテレビがオンエア発信するのはわかるが、テレビありきで漫才を捏造するようになると、それはやっていることの内容が変わってしまう、「本性を見せないものに何億円も入れあげる」という、単純な意味での「不正」が生じるのだ。

これらの天啓は、何を教えようとしているだろう、イヤだなあ、もうこの勢いで深いレベルのことばっかり知りたくないぜ。
「テレビの習慣」が、「ヨガの習慣」の正反対として作用しているということだろうか? そりゃそうかもしれん、「つながってなくては見えない」というのがヨガだし、「つながってなくても見られます」というのがテレビだからな。
かといって、おめえ、おれは鉄腕DASHは観るしイッテQもガキ使も観るぞ! とはいえまあ、近現代においてテレビが人々に「感受性」の穴を開けたという説は有為にありうるし、現代テレビの習慣がヨガの習慣の正反対に作用するということもいかにもありそうではある。
一方で、ある友人からは、「欧米方面はすでに安物のヨガと瞑想で汚染されつつある模様」との報告も受けているし、今日ってけっきょくあのままソフトバンクが勝ったんだよね?(と、唐突にナゾの話題をブチ込む) まあいろいろ強制的に「見える」ようにさせられているわけだが、なにもかも本当のことを一気に明かす必要はないのだった。

テレビがあるとして、あれは「何」をしているのだろう?

個人的なメモなので、誰にもわからないが勝手にこう書いておく、テレビがあって話題があって、日本シリーズもあるわけだが、その周辺で人々が「何」をしているのか、僕にはまだくっきりと見えていない/単に見たくないだけという説もあるけど。
そこまで見切れってか……? まあその線はあるよね、でも、あとまた天啓の中には引き続きクンダリニ症候群に注意というのもあったから、なにもかも本当のことを一気に明かす必要はないのだった/まあ気を引き締めてかからんとな、リスクなんて世界で一番要らんもんだし、ディープキスに重要性が見当たるわけではまったくない。
 

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