☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
やる気とやる霊3/ノーブースト主義

般的に、「やる」というのは「やる気」だと思われていて、「やる気」を自分で "ブースト" することは、いいこと、エライこと、だと思われている。
しかし……じゃあもし、何のブーストもかけていない実力状態で、あれこれするとどうなるのだろうか?/誰かと三時間話したり、みんなで五時間飲んだり、あるいは一人で何かひとつの作業を十時間続けたりというと、とてもじゃないが、ノーブーストでは「もたない」のかもしれない。
さあ、ここで問題があって、何のブーストもかけていない状態を仮に「実力状態」と呼ぶとして、その実力状態が、実はスカスカだったりしませんか? ということがあるのだ、そりゃ冷静に考えれば……これまで数十の友人と、数百の徹夜を遊んできたわけではないし、数千の恋と、数万の景色に、惚れぬいてきたわけではない、実際にはそこまでガチリアル・リア充というわけではないはずだ。
そういうふうにして、いつのまにか、ブーストして「アゲて」かかるのが当たり前になっていて、ノーブーストの「実力状態」では、実はスカスカでは? ということがあるのだ/わかりやすく言うなら、あなたが何ら「アゲる」というブーストをせず、僕が作文で勝負したとしたら、あなたの勝てる見込みはゼロだぞということ、そりゃあなたは何のブーストもなしに一日に原稿用紙一〇〇枚を書いたりはできないだろう。

ノーブーストで、何かを濃密に営めてこそ、実力だと思うが、そうした実力に到達するためには、グッドな霊とダイレクトな絆を得ている必要がある、「やる」というのは「やる気」の問題ではないのだ/「やる気」という発想は、根本に、ブースト思想があるのだろう、まあブーストも短期的に、使うときは使うしかしょうがないだろうが……
何かを「やる」というのは、「気」の問題ではなく「霊」の問題なので、これに「まずブーストを……」という発想を持っていると、このときに何かを呼び込んでしまうのだ、「力、貸しまっせ」というたぐいのものを/そして、そうして呼び込むものはたいてい悪霊だ、悪霊といって何もおおげさな、ドロドロのオバケを呼ぶわけではないが、とにかく最終的には悪玉の何かを呼び込むことになる。
この悪玉の流入があると、そのときは力を得るのだが(アガる)、このときに得た力のツケは、やがて魂で精算させられるハメになるのだ、それでやがて精神や安穏や健康やセクシャリティを損壊させられるハメになる、これらの損壊は理不尽ではなく、帳簿上で正規の収支ということだ、しかもえんえん利子が付くひどいリボ払いという具合だ、だからこんな方法をやっていてはアカンのであった。
多くの人は、失礼、実はノーブーストでは実力はスカスカだと思うが、それでも実力で向かわないとダメなのだ、多くの人はあまり認めたくないたぐいだと思うが、ノーブーストで棒立ちしてみたときの、あなたの愛と光と霊力の顕(あらわ)れは、どれぐらいの密度だろうか……だってしゃあないじゃん、僕はずっとノーブーストなのに、あなただけブーストしていたらそりゃズルいだろ、そこは改めてフェアにいこうという話なのだった。

ただし、今さら「ノーブースト」といっても、これまでの "取引先" が、そう許してはくれない。

これまで、「力、貸しまっせ」という業者に、さんざん力を借りて世話になっていたのだから、それを急に「やめました」といっても、「兄さん(姉さん)、そうはいきませんで」とスゴまれてしまう、いくら取引をやめるといっても、これまでのぶんの取り立てがあるので、向こうは急に、あなたに力を貸すどころか、あなたを追い詰める業者に早変わりしてしまう/しかしこれ以上、力の借り入れをするわけにはもういかない……
そうなると、けっきょく大ピンチで、逃げられないので、どうすればいいかというと、やっぱり何かに助けてもらうというか、何かの庇護にすがるしかないわけだ、何かに守ってもらえないかぎりさすがにどうしようもない、もちろんそんな卑怯をしてきた自分が、何かに守ってもらえる道理などどこにもないが、もしそれでも守ってくれる何かがあるというのなら、それはとてつもなく偉大な何かだろう、自分のクソ価値観などではおよびもつかない偉大な何かが存在するとすれば、その存在はあなたを守ってくれるかもしれない。

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やる気とやる霊2

霊だの聖霊だの言い出すと、話はたいへんうさんくさいものだ。
エセスピリチュアルや、アホオカルティズムに陥らないために、まともなことを勧めておきたい。
「悪霊」というと「きゃあああ」と怯え、「聖霊」というと「ああああ」と拝むというような、そんなデタラメ方式はやめることだ、そういうデタラメがアホオカルトになるのだ。
そんなむつかしい話じゃなく、たとえばドクロのアクセサリーとか着けると、「ふふ、悪霊パワーゲットだぜ〜イェ〜」って気分になるだろ? という、ただそれだけの話だ、気分がアゲアゲになるのだが、それってどこから来ているんだろうねという話、これはとっても身近で現実的な話なのだった。

元気が欲しいとき、パワーが欲しいとき、意識を高めたいとき、どうしてる? という話だ、人それぞれ、「何か」やるじゃないか、そういうときって。
そういうときにする、人それぞれの「何か」が、たいてい人それぞれの「儀式」になっていて、本人は自覚がなくても、その儀式がイイやつになっていたり、アカンやつになっていたりすることがあるのだ。
だから、そんなもん毎日、どこにでも誰にでも身近にあることであって、中二病的な話ではない、弁護士だって弁護士バッジを胸元につけるじゃないか、そりゃ弁護士バッジを着けたほうが、なんとなく弁護士パワーも得られるんじゃないか、それが「気」のせいではなく「霊」のせいだという話にすぎない(気魄が満ちていたらそもそもそんな流入は起こってこないが)。
元気が欲しいとき、パワーが欲しいとき、意識を高めたいとき、どうしても「できたら強力なやつを……」と、どこかで思っているじゃないか、そういうのって結果的に、何かを呼び込むことになるよねという話なのだった/そこで一般化して言いうるのは、急激に、また極度に、アゲアゲになるのは不穏だということ、実力以上の力を帯びるのは、借り物の力としてよくないという可能性をどこかで知っておいたらいい、急なアゲアゲは急なサゲサゲを人質に取られるぞ。

実力のままが健全です。

たとえば、本当には人付き合いなんて知らない、また言葉もこころもコミュニケーションも知らない大学生が、超絶「うぇーい!!」のスイッチを入れたりしようとすると、自力では足りないので、何かを呼び込むのだ/たしかに、結果的に「超イケるっしょ!!」みたいには、確かになるのだが、その力ってどこから借りているのか、実力でないものが暴走しているみたいな様相は、冷静にみたらヤバイのだった。
たとえば、モンエターエナジーみたいなエナジードリンクがあったとして、それをコップに移しては飲まないでしょ? コップに移したら何かヘンじゃん、アガんないじゃん/じゃあ「缶のまま」から「コップ」に移したとき、何が起こっているのかという話だ、人間はそういうしょーもないことに影響を受けているのだ、健康面とは違った意味で、何かからアゲアゲ力を借りるのもほどほどに。

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やる気とやる霊(緊急的に知っておこうぜベイビー)

は「やる気」を起こそうとする、「やる気出そうぜ」という言い方をする。
でも本当は、人が何かを「やる」というのは、「気」のものではないのだ、「霊」のものなのだ。
本質的には、「やる気が出る」のではなく、「やる霊が入る」のだ、いいコトであろうが悪いコトであろうがな……ちなみに「気」だけが満ちていると、いいコトにも悪いコトにも「やる霊」は入らない。
魂魄という言い方があって、霊魂と気魄があるわけだが、基本的に霊魂は自分に「IN」するものであり、気魄は自分から「OUT」するものなのだ、「やる気を出したい」という考え方は本質的には誤りで、人が何かを「やる」のは「やる霊が入る」から「やる」ことになる、これはスピリチュアルなやつではなく、もっと現実的なやつのことだ。

まあ、そんなこんなで、人は自分に「やる気」を欲しがるじゃないか、そしてやりとげる力とか、人並み以上の能力とか、「力」のほうも欲しがるわな。
それで、「やる気、欲しいっス」「力、欲しいっス」と求める中で、知らず識らず、 "呼び込んでしまう" わけだ、何かしら霊的なモンをだ、そして現在の自分の身分以上に、やる気やら力やらを求めているわけだから、知らず識らず「力、貸しまっせ」という悪霊のほうを呼び込んでしまう。
なんというか、「アクマに魂を売る」という言い方があって、アクマに魂を売ると、そのぶん、強固な意志や急激な能力とかが得られそうじゃない? 割とそういうことは本当にあって、微弱にもあるものだから、人は知らず識らず、アクマに魂をチョイ売りし、悪霊の力を借りていたりすることがあるのだ/なんとな〜く、「あの人、あのときやけに目立ったけれど、実力としてはどうなの?」と感じられる人はほとんどがこれだ、なんとな〜く、 "身分が低いのに高い地位についたように感じられる人" は、みんなこれだ、そんなえげつないパターンでなくても、微弱にもこの現象は発生している。
数字に頼ったり、血や液体に頼ったり、特に「シンボル」に頼ったりだな、「モチベーション」を得るつもりで、知らず識らずのうちに「儀式」をしていたりして……そして、そこから「力」を借りていた人は、後になってやはり、魂を切り売りしたぶんの、ツケを支払わされるものだ、薬物におぼれたり、犯罪に走ったり巻き込まれたり、健康やセクシャリティがおかしくなったりする/まあそれはしゃーないというか、かまわないのだが、問題は当人がそのことをまったく知らないまま、自覚なしにやっているということだ、知らないまま契約のほうは進んでいっていたりするのだ。

「やる気」の問題じゃない、正しく「やる霊」が入るしかないのだ。

これは本当に考え出すとむつかしい話になるので、とりあえず緊急的に知っておいたらいい、人は「やる気」で動けるものでは本当はない、ここを誤解していると、自分の知らないうちに、自分は何かを呼び込む儀式をいつのまにか、こっそりやっていたりするものだ、それで「モチベーションが出てきた」と言い出したりして、本当には「アカンアカン、何か悪いモンが入りましたがな」というケースがよくある。
例外的に、強力な力を呼び込んでおきながら、その後になお聖霊的なモンに帰依しなおして、巻き返すスゲー人もいるけれど、そうでないかぎりは、まあ後になってツケがくるものだ/よく有名人が後になって「どうしてこうなっちゃったの?」と不思議に思えるケースがあるが、そのケースの構造をよーく見てみればいい、わかってしまえば割とシンプルな構造のものだ。

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カミサマと相と自己決定
「たとえば、テレビに出ている笑福亭鶴瓶さんなんか、典型的なエビス顔というか、大黒様の顔だね」
「ああいうふうに、何か特定のところに到達した人は、特定の人相になり、特定の姿になっていくよなあというパターンを、昔の人は見てきたんだよ、それでこれは、"何かあるな"と、賢い人が見抜いたんだ」
「人が、単純な自分の性格や選択や、個性だけで、そういうところに到達できるものじゃない、そういう特定の"相"に到達するってことは、その背後に"元になる何か"があるってことを看破したんだろうね、それを"カミサマ"と呼んだにすぎない」
「だから、カミサマといって、何かもう、わけもわからずありがたがって、わけもわからず拝むってわけじゃないんだよ、何か武術の人は、行き着けば帝釈天や毘沙門天の相を顕わしてくるかもしれないし、お医者様は、何か地蔵菩薩のような相を顕わしてくるかもしれない、カミサマってそういう、われわれにとって具体的なモンなんだよ」

「だから、これから自分がどうなっていこうかという、"自己決定"を考えるとき、単に自分の願望で決めたり選んだりするのではなく、"どのカミサマと縁があるかな"という視点でも考えたらいい」
「われわれは、単に優秀になるだけではダメで、単に優秀になるだけでは、根本的に面白くないし、そんなことでは満たされないんだよ。そうじゃなく、"えも言えぬ何かの好さ"に到達しないといけない、少なくとも、それを目指すのでなければならない。そして、そういったえも言えぬ何かの好さというのは、けっきょく人為のものじゃないんだ、だからカミサマのことを見る必要がある」
「そういったものを目指さないのでは、そもそも、目指すということに荘厳さがなくて、やる気になれないものだよ。やる気になれないからこそ、願望とか、モチベーションとかが必要になってくる。そしてそうした願望的モチベーションを自分に注入することは、己の身にとって基本的に"毒"なんだ」
「願望から何かを目指そうとすることは、けっきょく、自分で自分のカルマに油を注いでいるだけにすぎない。ヒートアップはするだろうけれどね。そうではなく、自分が"どのカミサマと縁があるかな"と考えること。自己決定は重要だよ。こればっかりは、自分でこれぞと、掴みにいかなくちゃいけない」

「自分から求めてはならないものと、自分からはっきりと求めなくてはならないものがある」

この話を、あるときしたのだが、「それってすごく素敵な考え方ですね」と、マジできらめいて言われてしまったので、そのまま書き記しておく/僕にとっては当たり前のことが、他の人にとっては斬新で真新しいことだったりすることがよくある。
僕の場合、あるいは誰の場合でもそうあるべきだと思うが、"えも言えぬ何かの好さ"が好きだった、それでいつの間にか、そのことへ導かれようとしていた、自分でも気づけないほど、僕ははっきりと自分でそのことを掴みに、飛びかかっていた。
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数年来のナゾ、「本当にダメな人」2
「怒り」がキーワードだ。
よく、街中で、幼児を連れている母御さんが、言うことをきかない子供に猛烈に起こっていることがあるが、「よく見ろよ、あれは怒っているのじゃなく、"憎悪"しているんだろ」「憎悪? 自分の子供なのに?」「そりゃ自分の子供じゃなかったら憎悪しねーだろうよ」「あ、そうか」、という場合がよくある。
そのことを代表的に、「怒り」と「憎悪」の区別がついていない場合は多いし、怒りと呪詛、怒りと罵り、怒りとムカつき、怒りとイラつき、怒りと怨み、怒りと嫉み、怒りと「キレる」、怒りと喧嘩、怒りと敵愾心、怒りと不服、怒りと執着、怒りと陶酔、そのあたりの区別をつけるのは意外に困難なものだ。
そして、「怒り」はただ「怒り」であるという、純正品に触れることは、今やとてもむつかしく、きわめてレアなことだ、「めっちゃムカつく」になっている人はいくらでも街中に見つかるが、怒りの権化となって周囲を震えさせている気魄の主というのは、このごろまったく見かけなくなった。

これはチャクラうんぬんの話だが、「腹が立つ」「ムカつく」「イラッとくる」というのは、それぞれ別の現象だ。
「腹が立つ」だけが正解であって、「ムカつく」というのは基本的に「(胃・胸が)ムカつく」というものだし、「イラッとくる」というのはいわゆる「頭に来た」「頭に血が上る」という状態だ。
本来、純正の「怒り」が生じた場合、いわゆる臍下丹田が活性化してセンターになり、上半身や腕はむしろ脱力するものだが、「ムカついた」「頭にきた」「イラついた」「キレた」「頭に血が上った」という人は、上半身に力が入り、上半身に気の膨張が起こってしまう/これは単純に言えば「怒り」ではなく「感情的不快」にすぎず、まあハズレであり一種の故障だとも言える、この故障はやがて恢復不能な、つまり「故障」ではなく「壊れた」になる。
純正の「怒り」が生じたとき、人はまるで野生の動物のように、対象を「仕留める」ということにのみ強烈に向き合い、むしろ静かになる、野生動物が獲物を仕留めるときは静かににじりよるものだ、「仕留める」だけが目的だから/この機能が故障すると、「仕留める」ではなく「加害する」「敗北させる」「打ちのめしてやる」という衝動が起こってしまう、「やっつける」「やっつけずにいられるものか」「耐えられない」という感情が起こる、この「仕留める」というチャクラのはたらきがまったくわからなくなってしまった人は、「もうムリ」になる、なぜならその人はもう、本当に仕留められる(つまりリアルに「息の根を止められる」)まで自動的に行き着くしかないからだ、そしてそんなしょーもないことで犯罪者になるアホはいないのだった、まあ例外的にヤクザさんが相手ならミンチ機械に放り込んでもらえるかもしれない。

「本当にダメ」というのは、怒りの対象ではなく、むしろ怒りの完全な対象外だ。

われわれの身体は、不遇な事故によってでも、半身不随や回復不能のマヒになったりするのだから、重要なチャクラの機能等も、回復不能のマヒになったりすることがあるのだろう、そしてそうした回復不能は、人智では回復不能なのであって、例外的に回復がありうるとしたらいわゆる「奇蹟」しかない、だがそんなマジモンの「奇蹟」を、誰が起こせるといって、そんなものを起こせると断言できる人は詐欺師しかいない、なぜなら奇蹟はもともと人が起こすものではない。
ここで言う「本当にダメな人」は、つまり腹の底が壊れた人なので、ちょうど「お腹の底から笑えない」という人とも共通している/まあしかし、「本当にダメ」と言っても、別に生きていけないわけではないので、そう慌てることでもないだろう、重要なことは、「本当にダメ」になってしまう前に手を打つことだ、「本当にダメ」になってしまった後は、もう特に慌てる必要がない、こんなものは最大に合理的に考えるしかないのだ。
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数年来のナゾ、「本当にダメな人」

ぜかわからないが、先ほどふと、数年来あったナゾについてのテーマが、「あ、そうか」と氷解した。
僕は、数年前のある日、こころのあるがままに「怒り」を振る舞うということを、やめることにした、それは目黒区で、見知らぬガキを一日に二回怒鳴りつけたときだ、「一日に二回は、さすがにもうムリでーす」と、そのとき以来あきらめてしまった、もともと僕が口出ししてやるような筋合いでもない。
人は、まともな「怒り」に直撃されたときのみ、正気に返ることができる、それ以外の方法では、正気に返ることはできない。
もう、「本当にダメ」になってしまった人がいるのだ、もちろんそれは、僕のレベルにおいてダメというだけであって、もっと偉い人やカミサマが直接手をかければなんとでもなるのかもしれない、たた僕のレベルにおいては「もうムリでーす」だった。

人は、真正の「怒り」に直撃されると、二つの方向に分岐する、ひとつは「正気に返って恐怖に震える」であり、もうひとつは「なおもふてくされる」だ。
ここで、「なおもふてくされる」に転落してしまう人は、もうムリなのだ、ここまで何年間も、すでに経験があってデータが出揃っているのでいいかげんわかる、異常なレベルで「なおもふてくされる」というほうに自己決定が為されてしまった人は、もう人智ではどうすることもできない、少なくとも僕の知る限りの人智ではどうすることもできない。
なんというか、はっきり言ってしまえば、周りの人からは僕のことが「わけのわからん光につながっている、どうしようもない」「こんなもん、もう神霊力ですやん……」と見えることがあるらしいのと同様に、逆のこともあるのだ、「わけのわからん闇につながっている、どうしようもない」「こんなもん、もう悪霊ですやん……」ということが、どうやら事実として成り立ってしまうらしい。
以前は、「そんなクソみたいな話があるか」というかつてのノリで、真正面から突破の試みをしていたのだが(つまり裂帛の気合いでドカーンとな)、そうすると一応の突破は成り立つかわりに、精神が損傷してしまう(リアルな意味で)ということがわかった、これはもう医療マターになってしまうので、さすがにシロウトの扱うことじゃない、そんな協力をしてやる筋合いはさすがにこの銀河系にない/というわけで、数年来のナゾがわかった、真正の「怒り」に直撃されたとき、「なおもふてくされる」というほうに決定されてしまった人は、"もうムリ"です。

十歳ぐらいで"もうムリ"になってしまった子供を、すでに複数回確認している。

本来、僕のようなおっかないオッサンが、高純度で「オイ、いいかげんにせえや」と寄ると、ふつうの子供じみた奴はただちに「ひいっ」となって、「はいスイマセン、まじスイマセン」と、震えて縮こまってそれでオシマイ、となるのだが、もうそういうことにはならない、リアルバケモンが生じてきたのだ、本人がバケモンになろうとしたわけではない、何かの手続きでバケモンになったのだ、どういう手続きかは知らないが、すでにそのことに用事はないし、このことについては一切の相談に乗らないしアドバイスもしない(アドバイスが存在しないのでヨソを当たってもらうしかない)。
キーワードは「怒り」だ、怒りの授受機能が完全に壊れてしまったとき、もう僕の知る限りでは、恢復の手立てはない、もうこの点は冷静になるしかないのだ、慌てたってしょうがないし、冷静に眺めれば、「この世のすべてが救済されるわけではない」というのは前もって当たり前のことだ/本当に僕のレベルでは「もうムリ」なので、その先のことはどこかガチの宗教か何かに助けてもらうしかない、そして僕はこの世界のどこにガチの宗教があるのかをまったく知らない、けっきょく僕のようなチャチな者にはそんな本格的なものは扱えないのだということを、ここに堂々と宣言しておく。

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作るよろこび
るよろこびだ。
用事を済ますことによろこびはない。
作るということは、それが存在を得るということ。
作ったものだけが残るのであり、用事を済ませたことは何も残らない。

目を覚ませ、目を覚まさないとカルマばっかり溜まってしまう。
作るからこそ、「やりましたねえ」ということになるのであって、用事を済ませただけ、あるいは楽しんだだけでは、何をしたことにもならない。
必要なのは、能力じゃない、逆だ、<<作るから能力が萌芽する>>のだ。
作るよろこびの素直さと、そうでない感情の邪魔さよ、あなたの作ったものをその手にぶらさげてみなさい、何も作っていなければその手にぶらさげることはできないから。

いかなる技術も、作るよろこびの家臣でしかない。

「これですね」と、作ったものを手に取ることだ、そのときだけわかることがある/僕がこうして書き話すことに何かの用事があるわけじゃない、まずは作るよろこびを王と認めよ。
作るよろこび……たとえば、ただ住めば家になると思うか、あるいは、ただ生きれば命になると思うか、ただ楽しめば世界になると思うか、そんなことはない、作ると作らざるとでは超えられない身分の差がある。
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(元よりの世界)
いなる大地 遙かなる空 澄み渡る風 穏やかなる魔法の詠唱
元よりの世界が創世され 種々の幻想 元より一つならん
無尽の風 無数の光点 其にわれらの日常が解かれる
森林大湖の香気たゆたう 指先は元より魔法の生ぜむため

酒樽の幻想 幻想の酒気 酒場の熱気 今生の酒を解かむ
古の冷気 今生の秋を解かむ 秘境の晶水 今生の水を解かむ
今生の淀み 泥み 躊躇と迷いと血走りと 全て由あらず
迷いの書 迷徒より生ぜむ 彼のインキ 読まれたるも解かれざるなり

聖なるは彼の眼をつぶさむがためなり

其のインキ 迷いの眼をつぶしたもう 光にて 聖邪分断する
慈悲は無慈悲なり 彼の者の眼 光の命残すため 光にて砕かれり
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すべてが始まる前の場所
こに立つしかない。
すべてが始まる前の場所。
まだ何もない場所、信じる者だけが立てる場所。
まだ誰も偉くない場所。

いつか話すときがくるだろう、「すべてのことは準備でしかなかった」。
「失敗なんてないんだよ、成功なんてないんだよ」。
じっくり見るべきものなんてない。
すべては確かなものであって、それが何であるのかを知る由は永遠にこない。

この場所に立つためにずっと来た。

ヘタもウマイも関係あるか、そりゃウマイに越したことはないけれど。
まだ何も否定できない場所だ、だから否定的なことが歌われる由はないじゃないか?
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何がどう"かわいい"のか

中に、いくらでも「かわいい」女の子がいるし、テレビや雑誌に出ている女の子なら言うに及ばず、そして男でも今は無数に「イケメン」と呼びうる人たちがいる。
が、ごくごく冷静に眺めてみれば、その「かわいい」女の子たちは、何かを愛しているわけではないし、何かに感動しているということでもないのだろう。
つまり、そこに「こころ」はまったくなくて、そのときごとの不安や感情に、ただ振り回されて生きている様子がある、何かを楽しいとかムカつくとか感じたりするが、何かを愛したり感動したりということはまったくないように見える。
コンテンツ的な「かわいい」女の子は、実にかわいらしい仕草をするが、けっきょくあれは、全部ただの「演出」だ、物憂げな表情で豊満なバストを持ち上げたりしているが、こころの中はマジで空っぽなのかもしれない、それは一般に「エロい」と言われたりもするが、僕はそうした蠱惑的な"肉塊"を抱くとどんな心地がするものか、すでに知っていて昂ぶりは起こらない。

ツイッター等を見ていると、たとえ有名人でも、またチヤホヤされる美人でも、「病む」ということがあって、死にたくなるようなことがあるのだというのがよくわかる、そういう報告をいくらでも見かける。
そして、「マジで死にたい」という感情が、いくらでも世間に見当たるのに対し、愛や光や、勇気や誠実さに向けて、「胸が張り裂けそうだ」「うずくまって、立ち上がることもできなかった」「震えて、震えて……」という歓喜と慚愧の入り交じった感情が起こってやまなかったという報告や現物は、まったく見当たらない/じゃあ、われわれが見ている「かわいい」って何だ?
そのときごと、パンケーキが流行ったり、キラキラのアニメが流行ったり、映画のテーマソングが流行ったり、イベントやインスタ映えが流行ったりしているが、その中で何かを愛して震えたのだろうか、いろんなジャンルにいろんなオタクがいるが、それらはけっきょくオタクであって、何かのテーマ世界が「自分をかけがえなく強くしてくれた」「自分に愛を教えてくれた」ということはあるのだろうか。
僕が何かを責めているわけじゃない、おそらく、もともと「責められている気がする」という、奥深くからの現象があるだけだ/僕はコンテンツ的な美女や美少女の画像を見ているといつも思う、「このコは何かを愛したことがあるのだろうか?」「このコは何かの光に歓喜して震えたことがあるのだろうか?」「もしそれがないのだとしたら、何がどう"かわいい"のか?」。

夕焼けはきれいだ、あなたのこころは震えないのか。

何かを責めているわけじゃない、むしろ逆だ、そこにこころが震えて歓喜するということが起こらないなら、無理に夕焼けを「きれい」なんて思わなくていい、こころが歓喜に震えないということは、つまり「しょうもない」ということだろう、そうしてすべては「しょうもない」としか感じられていないのに、無理に感動したふりなんかしなくていい。
インスタ映えの写真はカラフルできれいだ、そしてコンテンツ的な美女は蠱惑的かもしれない、だがそこにこころが震える歓喜を得ることはできない、何しろ当人がそこに震えるこころを持っていないのだから/今、人々は何を見て「かわいい」と言っているのか? 誰もが一種、すでにヤケクソで生きているようなところがある。

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生きものが持つ、「殺し合いを為す」という仕組み
ポーツ格闘技を見ていて、いつも思うことがある。
いつも、見ているとなぜか、勝ったとか負けたとかではなく、「きっちり殺すところまでやらなきゃだめだ」と思う。
殺すというのは、比喩ではなくて、実際的な殺害だ、殺害するしか戦いを終わらせる方法がないので、殺すしかない。
きっちり殺しておかないと、また力を蓄えて報復にやってくるので、殺すしかないのだ、スポーツのルールがどうこうというのは、あくまでかりそめのことでしかない。

生きものが生きものを殺すのは、ご存じのとおり、そんなに悪いことではない。
生きものは、食べるためには殺さねばならないし、戦争になれば、相手を殺すことはまったく悪いことではなくなる。
生きものの仕組みとして、だめなのだ、生きものの仕組みとして、自分を殺しにきたものは、逆に殺し返すしかないので――つまり「殺し合いを為す」という生きものの仕組みがあるので――格闘技なんかするなら、そのたび相手をきっちり殺害しなくてはならない/そうして、前もって互いが殺害しあうことに合意するなら、そのことに問題はないと思う。
むろん、殺すとか殺されるとかいうのは、生きものとして最もイヤなことなので、最もイヤなことだけを己の生にすることになるが、なぜか一部の人は、この「最もイヤなこと」にしか納得しないという性向を持っている、そのリアリティにしか感受性がないという人がいるのだ。

われら人類は、そんなに賢くない。

「殺し合いを為す」という仕組みが、生きものにはあって、ふと気がつくと、立派なことをしているようでいながら、けっきょくはその「殺し合いを為す」という仕組みに恭順して、支配されて生きているだけ、ということがよくある/それならいっそ、初めからその人たちだけで、堂々と殺し合いに同意するほうがいい、今日殺して明日殺される、そうすれば少なくともごたいそうな欺瞞はなくなる(ただし、ヨソでやってくれ)。
「殺し合いを為す」という仕組みが、"生きもの"にはあって、われわれが光や愛の命を失えば、われわれは"生きもの"の仕組みしか持たなくなるのだ/われわれはそんなに賢くなく、目の前に示されているものが何であるのかをよくわかっていない、目の前にただの「殺し合い」を見せられても、よくわからずにそれを見せられたまま眺めている。
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面白いこと
がびゅうびゅう鳴って落ち着かない、ひどいオクターブで窓が鳴っている。
木曜日に、世田谷公園で、入り身投げ(笑)の特別指導をすることになった、例によってキョーミある人は見学にカモン、まあこの日は合気道姉さんにその指導をするだけなので、他の人はほとんどそれを見ているだけになるが……
人間には「注目する」というしょーもない悪癖がある。
注目するということは、何かを見るために注目するのではなく、何かを見えなくするため、目を伏せるため、注目するのだ、面白くない奴は注目しがちとテキトーに言いつけておいてもかまわないだろう。

「面白いこと」ね……
必要な手続きは、注目しがちな人たちの、すべての期待を無視することだ。
人は、よほど頭がよくないと、自分がなぜ生きているのかわけがわからないので、「注目」することによって、さも自分は何かをわかっているのだというような錯覚に耽りたがる。
「打ち込んできた奴を、どうさばくか」とかね、それに注目していると、さも何かをしているふうだ、だが冷静に考えれば、打ち込んできた奴をさばいたところで人が幸福になったりするわけがない、そんな注目はアホの所業だ。

「面白いこと」は、せいぜい、「何もかもが、何もかもだった」ぐらいにしか言い換えられない。

打ち込んできた奴に、注目するなんてアホの極みだ、打ち込んできた奴を、食らっても幸福にはならないし、さばいても幸福にはならない、僕は打ち込んでくる奴を目前にしたとき、それとはまったく別のガールフレンドのことを考えている、それぐらいしか考えることがない。
ガールフレンドが、ガールフレンドのままいてくれるということは、かなりすてきなことであって、ガールフレンドでなくなるということは、たいていロクでもないことだ、この世界のすべてはすべて最愛のもののままあってほしい、面白いことといって何かに注目したことは僕はない。
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下の方へ行く奴

う、下の方へいく奴を、言うとったら仕方ないんデ。
ようやっとわかることだが、下の方へいく奴というのは、けっきょくカルマのほうを、偉いと思うておる、カルマこそこの世の真実と思うておるんで、りっぱなカルマの信徒である。
カルマの反対は何であるかというと、まあ光である、愛である、真の世界でもあるし、真の面白さでもある、カルマの信徒はけっきょくこの光に縁が無いんで、光を否定せねゃしょうがなくなる、光に縁が無いもんだから、別のもんで動かにゃならん、それで自分の信じるところで動くしかないものだから、カルマのほうをどうも信仰しよる/カルマのないもんなんかおらんが、それを信仰しよるかどうかは別ジャ。
まあこっそり、趣味もやっとるじゃろうな、あんがい真相いうたらそんなもんかもしれん、隠れキリシタンならぬ隠れカルマタンという具合ジャ、本人は洞窟の奥でこっそり熱心に拝んでおる、それしか自分を救うてくれんのじゃというて拝んでおる。

秘密、秘密、秘密ばっかりジャ、安っぽいエロマンガのような秘密を囲うておる、そりゃ誰でもやっとるような悪趣味を、本人はたいそうな秘密だとて隠しよるから、正体が不明になる、淫靡なワタシがステキと内心でこっそり思うておる、そんなんで光といいよっても公明正大なもんにはなりやせん。
けっきょくなんだかんだ下の方へ行きよる奴というのは、たいそうにかっこうつけて、けっきょくは洞窟の奥で悪趣味を拝んでおるだけであるから、このような奴のことを問答しとっても、いよいよしょうがない、秘密いうて一つや二つならかまわんだろうが、多層に組み立った秘密をヨッコラセと抱えて歩いておるようなものだから、他人とはふれあいようもない、本人はばっちり成り立っているように思うておるが、そのようなばっちりの組み立てをせにゃならんということ自体、己が朝一番から破綻しておるということだ、このあつかましい秘密洞窟の者を都合にあわせて構ってやれる人など存在せん、人を迷い惑わしてからでしか己の話が通じんというのに、気づかぬふりを押し通してもらえると思うのはいくらなんでも根性がドきたない。
秘密、秘密、秘密ばかりをこしらえて積み重ね、その上でやれお礼を言うてみたり神秘をありがたがってみたり、前向きになってみたり感涙してみたりするが、そんなもん秘密を抱えるのが精一杯で、己の身は本当にはピクリとも動いとりゃせん、カルマの信徒が光を見たら、根本はまず逃げ出さにゃならんのだ、自分がやっとることとはずいぶんと違うからである、手放しでよろこべんのは両手に何かを抱えておるからであって、何を抱えているともわからないのは、それを隠しておるからであって、隠しておるのは、自分を上等に見せたいからであって、つまり身のほどより良い思いをしようとしておるので、もうテンヤワンヤになるのだ、秘密が一つや二つじゃのうて十も二十もあるというのにどうして公明正大な何かができようか、自分の信じておる洞窟の億にクリッククリックを重ねていくと一番奥のフォルダにしょうもない信仰が入っておるだろう、淫靡なワタシへの陶酔がけっきょく最奥の信仰にならざるを得んのは、単に世界がド狭いからだ、本人は必死なのだろうが他人から見れば滑稽なだけであって、それでもなお下の方へ行きよる信仰を手放さんのは、もうすでにまともな知能が毒に侵されておるのジャロウ、まず毒を一口啜らんと物も言えんという奴が思いがけずたくさんおる。
色んな人に紆余曲折があるかに思えるが、ほんまは東奔西走をしているふりをして、ただ下へ下へと順調に下っておるのであって、それはただ己が最奥で信仰しておるもののところへ自然とゆくというだけである、むっつりはむっつりを信仰しとるし、淫靡は淫靡を信仰しとるし、陶酔は陶酔を信仰しとるし、シリアスはシリアス、わめく奴はわめくことを信仰しておる、そうは思えんのはもう本人もわからんようになるほど秘密に秘密を積み重ねて隠しておるからにすぎん、図書館でもこっそりスケベを考えておるという奴が大半で、光というのは逆にセクキャバでもこっそり愛や学門を考えておるということなのだが、同じ隠しておる秘密事といっても性質が反対すぎる、よってけっきょく下の方へ行く奴というのは、光のほうへ行く奴のことが「どうもウソだと思えてならん」ので、表面的にそれをなぞったり敬ったり、逆にケンカをふっかけてみたり、あるいは光の言いよったらしいことを暗記してみたりしよる、それでけっきょく時間をかけて、最後はちょっとした淫靡なワタシへころっと転落して、そのときに信仰を果たすのだ、そう前フリを長くしたところで結果はかわらん。

もう秘密を自分でも整理できんようになっておる。

秘密、秘密といって、もう本人も何をどう組み立てて表面を隠したか、構造がわからんようになったので、いずれ死ぬときにならんと自分がなにをやっとったかもわからんのだろう、それはもちろん、当人から見てもけっきょくアホのカタマリのようなことをしてきたわけで、そのときになったら自分でさえなにを必死にこんな秘密やら淫靡やらわざわざカルマを信仰してすべての時間をすりつぶしてきたのか、誰をうらむこともできんで、呆れるしかなくなるのだ、そうなると最後の最後に自分を呪うことになるが、まあそうした果て方は実に不気味な予感がするものである。
物事はシンプルに捉えたほうがよい、それで己が何をしているかというと、けっきょくのところ淫靡なワタシや陶酔のワタシ、あるいはヒステリーやむっつりや、わけのわからんものを信仰しておるわけで、それはけっきょく光がないからカルマを信仰しておるわけだが、何はともあれ己の秘密にしていることなど、本当の本当には見透かされているものだし、隠していたって仕組みの中で作用してしまうものだから、隠しとってもしょうがない、自分が洞窟の最奥で拝み倒しておるもんの結果はきっちり公明正大の場所で明るみに出てくるもんジャ、それを当人は器用に隠しておるつもりでおるが、それはすでにふらふらの酔っ払いが自分の酒気を隠しておるようなもので、隠したところでそう通用しとると信じられるのは自分だけだ、下に行きよるもんというのはずっとそうした一人芝居をえんえんと繰り返しておるものだ。

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地の者は天の子を奉じたるあり

の子あり、地の者あり、天の子は祝福を享けたり、天の子は地の者を知らざるが幸いなり。
天の子は、地の者を導きたり、然れども、地の者が導かれたるを知らざるときは、天の子を地に引き落とすなり、然れば天の子はすでに導きの光輝を有せず、人の世はこれを平等と申したり。
元より地の者は、人にあらず、獣の眷属なり、是導きに蹲い奉じたるとき人道の光を得たるなり、天の子を奉じたるとき獣はすでに獣にあらず、頭上に天の子を奉じたるは屈したるにあらず、頭髪に金色の薔薇を被り得たるがごときにて、是ただちに祝福の具体を授かるなり。
導かれしは平穏なり、光輝なり、けれども安逸にはあらず、献身なり、戸惑いしは天の子にあり、地の者にあらず、地の者は確信を得たり、天の子は天の従僕なり、地の者が頭を垂れるは従僕にあらず、ただ天雨を頭上に享くに問答を持たざるの具体なり。

天上天下は元よりつながりあれば、天上より天の子おわし、地の者は天の子を奉れば天地のあいだのものなりけり、然れど天の子を奉ぜざれば、天上より切り落とされたり、かの者はただ地上の者ならん、天下のものにあらず、やがては地に引きずり込まれたる者なりけり。
天の子は地の者を知らざるが幸いなり、翻っては、地の者が天の子を知るは幸いなり、また天の子が天上を知るが幸いなり、かねてより天より光あり地から光あらざれば、揃って見上ぐるが光の道なり、これを上下転じては暗愚の道なり、然れば天の子が地の者を知らざるは道標の死守なり、この道標の転じたるとき、地にすさまじき血の染み渡らん、もって人類の暗愚の歴史を生ず。
地の者は天の子を奉り、仰ぎ見て能く知りたり、其は天の子が天を奉り仰ぎ見ては能く知るに通ず、天の子が天に交わり得ずをよろこび得たると同様、地の者は天の子に交わり得ずをよろこび得たるを正覚とす、通ずれども交わらず、是両の足が両の手に交わり得ずども通じたるに似たり、合掌礼拝は足の交わるところにあらざるも足の能く支えたるところなり。
軽佻浮薄に人の世の平等と申したるところ、恰も両足で合掌礼拝し、食卓に両足投げ出したるが如きなり、足の居場所を得ず、手に草履の居場所与えたるは、天地の逆なり、足は醜態の陳列さるに苛まれ、手は見えず汚辱にくたびれるのみにては、如何様にも光の道あらず、足が地の居場所を得たらんときは、手に天の居場所を与えたりと、是我らの総体が道歩む姿なり。

天上より言葉あり、天の子の言葉の光享けたらん、この光奉ぜざるは、呪われし獣の道なり。

地の者に、言語あれども、言葉あらざるなり、光あらざるは言葉あらざるなり、光あらざるは血まみれの言語、これ呪いの主なり、言葉の主を知るは大いなる幸いにて、呪いの主を知るは大いなる禍いなり。
天の子が天の言葉を知るに、不可思議の光輝あり、即ち祝福を得ん、然れば地の者も同様、天の子の言葉授くるを知らぱ、不可思議の光輝あり、即ち祝福を得ん、地の者が天の子を奉るは、ただ己が祝福を証したるの誉れのみにて、軽薄の平等申すところの屈するがごときにあらず。

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例えば二十年前のマジックと比較して3

いうわけで、もし「僕の」ということに限定し、また手品ということに限定してお話しすると、「認知」ということがむつかしい。
手品的なトリックによって、観客の認知を錯誤させることは、まあカンタンなのだ、そういう「トリック」があるのだから。
だが、その手品を演じている当人の「認知」、これを操作することがむつかしい、通常で考えれば、手品師はトリックの当人なのだから、認知としては「トリックをしている」という認知になるはずだ、だがこれではいつまで経っても僕の愛好した「手品」にはならない/トリックをしているのならそこには何の魔法もない。
そして、このこと自体は、何も手品に限ったことではないのだ、<<本人の認知がどのようであるか>>、少なくとも今ここで、僕には「文章を書いている」という認知はない、僕の信じているものはまったくそんなところにはないからだ。

あなたが見て信じていることと、まったく同じことを僕は信じている。
あなたが何かを「思って」、それを独自に信じていらっしゃる場合は、そのことについては(つまりあなたの恣意的なものについては)知ったこっちゃねーけれども、そうではなくあなたが「見て」信じていること……それと僕の信じることがズレているのなら、僕は何もあなたのこころに寄り添っていないことになるだろう、それならこんなところにあれこれ書き話す値打ちはまったくない、読ませただけ時間の浪費をさせて迷惑だ。
じゃあ、あなたが何を「見て」、どのように「信じて」いるかということだが、それだって、そんなこといちいちあなたは考えていやしないだろう、あなたが何を「見て」どのように「信じて」いるかということは、勝手に起こることであって、あなたの恣意的なものではない、あなたの恣意的なものについては僕は知らない、そんな知りようがないものを知れるわけがない。
何を「見て」どのように「信じる」ということは、恣意的なものではないのだから、それらはひっくるめて、「われわれの」と言いうる、われわれの「見て」いるもの、その結果「信じて」いるもの、それがどのようであるかは、実はわれわれが決めてはいない、どんな手品を見ても恣意的に「驚く」ことはできないじゃないか?/われわれが「ほえ〜」と感じたとき、あなたも「ほえ〜」と感じているし、僕も「ほえ〜」と感じているのだ、何かを恣意的に思い詰めている行方不明の人を除いては。

僕は文章なんか書いたことはないし、歌ったり踊ったりしたこともない、手品なんかしたこともない、誰とも一緒に「ほえ〜」としているだけだ。

なるべく、ナイスな「ほえ〜っ!!??」がいい、そりゃわれわれの「ほえ〜」なのだから、誰だってナイスなそれがいいに決まっている、われわれはそうしたカタマリなのだから、それ以外のことは必要ない、ステキな男がステキな女をステキに愛したら「ほえ〜」となる、それ以上のことは特にない。
われわれの「ほえ〜」が上昇し、そこに大いなる感動が生じるのなら、まさに「ほえ〜」であってサイコーのことだが、それ以外のことは特にないし、それ以外のことは必要もない、だからそれ以外のことをしている人のことは僕にはよくわからない、僕は実態としては年がら年中、ずっと歌って踊っているようなものだが、僕はいつも歌うたび「ほえ〜、不思議だなあ」と感じているのであって、これがマジなのだからしょうがない/そういうジャンルを僕はやっているというだけで、別ジャンルのほうは、どのように何がやられているのか、僕にはよくわからないのだった。

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例えば二十年前のマジックと比較して2

し悪しの問題ではなく、二十年前のマジックと、現代のマジックは、完全に別ジャンルだ。
実際、僕の経験でいうと、目の前で実演すると、「怖っ!!!」という反応をされることが多かった、中には、文化祭などでは、現象を目の当たりにした女の子が、半泣きになって怖がって逃げていってしまったこともあった。
本当に別ジャンルなのだ、二十年前に僕がやっていたのは、むしろ「手品をやっているようにはまるで見えない」というものだった、にもかかわらず現象だけ手品として出現してくるので、「怖っ!!!」となる/僕は前もって、手品をやりますと宣言してはいるのだが、実演はまったくそのようには見えないので、観客は一瞬「コイツは得体の知れない"能力"を持っている!!」と錯覚する、それで恐怖が走る。
観客が少人数の場合、神経の弱い女の子などが、夢と現実の区別がつかなくなり、催眠状態になることがよくあった、「この人は本当にわたしの引いたカードがわかるんだ……」と信じ切ってしまって、ポーッと脳みそが浮いてしまう状態になる、そうして観客は「不思議なこともあるもんだ」と夢見心地で帰路につくことになる、観客は「すごいマジック」を見てテンションが上がったのではなく、「不思議なこと」を見て日常を忘れたのだ。

手品師はだいたい、トランプ(とは本当は言わない、カードという)やコインを使う。
なぜトランプやコインを使うかというと、それ自体が「妖しい」からだ、日常に見慣れたものでありながら、何か妖しい気配がある、そういったものを手品師は日常と夢の狭間をゆくための道具にする、妖しくないものは使わない、たとえば大根や自転車のハンドルや跳び箱は使わない/トランプやコインに刻まれている歴史や図柄そのものが元々「妖しい」ので、それを夢への入口に使っているのだ、そんなことを現代のマジシャンは考えないだろうが、二十年前の僕にとってはそれがむしろ手品の骨子だった。
現代の手品と、二十年前の(僕の)手品が、根本としてどう違っていたかというと、当時の手品は「魔法への憧れ」を土台にしていたということだ、手品への憧れではなく魔法への憧れがあった、それを擬似的に創り出すものとして手品があったのみで、その意味で手品は愛されていたし、僕もその意味で手品を愛していた/ほんの数分間でも、つい人が「魔法」の存在を信じてしまうということを愛していた。
実演上で、決定的に何が違うか? それは、手品の現象が出現したとき、<<演者である僕のほうも、「不思議だなあ」と感じていた>>ということだ、手品師である僕はその不思議を見慣れているというだけで、「不思議だなあ」と思わないことは一度もなかった、何しろ僕は、トリックをやっている意識などまったくのゼロだったから/つまりそれは、信じているものが違ったということ。

観客も僕も、無邪気に信じ、一緒に無邪気に驚いていた。

そこが現代と根本的に違う、現代のマジシャンは、技術においてはすさまじいレベルの人がたくさんいるけれども、無邪気というものではない、少なくとも現代のマジシャンは、やっている自分が驚くというようなことはまったくないはずだ。
だからけっきょく、マジシャンと観客のこころが寄り添ってはいないことになる、そうして別ジャンルになっていった、どれだけ高い技術とパフォーマンスを誇っていても、一緒に不思議に驚いた友人、というような感触は残していない、それは善し悪しではなく「別ジャンル」なのだ。

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例えば二十年前のマジックと比較して
は二十年前、ちょっと手品師だった、いちおうそういうアルバイトも少ししていた。
あれから二十年経って、手品業界の技術は、大きく進歩した、今や若い人でも超絶技巧を持っている人がたくさんいる。
が、実はちょっと事情があって、二十年前と今とでは、使われている技術体系が違うのだ、このことは今の若い手品師の人は知らないと思う(そりゃそーだ)。
たとえば、現在のカードマジックの基本技術というと代表的にC・Pだと思うが(普通の人は知らなくていいのでイニシャルにした)、二十年前、当該の技術は一切使わないのが当たり前だったのだ、僕自身もその技術は使わなかった、使えなくはなかったのだが、ある理由によって使わなかったのだ。

どういう理由かというと、単純に「芸風」ということにもなるが、当時のマジックは、現代のマジックほど、たとえば「カードさばき」をすばやく見せつけるものではなかったのだ、もっと全体がゆったりしていた。
そして、演目の全体がゆったりしているので、そのペースの中でC・P等は、どうしても使えなかったのだ/一部の技術は、あるていどのリズムとすばやさを前提にしており、そのリズムの中に溶け込むことで成立するようになっている、つまりそれらは現代のウォークアラウンドのスタイルにはピタッと嵌まる技術なのだが、二十年前のクロースアップマジックというと、まるで占い師のようにどっしり客の前に居座ってやるものだったので、リズミカル、というものではなかった。
だから、仮に僕が現代の若い人に、マジックを教えたとしても、僕の教えるやり方は、現代でスタンダードに教えられるテクニック群とは融合しない、それは日舞とジャズダンスを同じ「踊り」と言っているようなもので、それらの技術を同一の舞台で同時に混在させることはできないのだ。
それで、何が言いたいかというと、技術が進化したという見えやすいことの裏側で、実は内容そのものの「変質」があるということ、僕は二十年前の手品を愛好していたが、現代の手品を愛好はしない、現代の技術は「スゲー」と思うが、そこにある手品の体験は僕にとって「感動的」ではない。

技術が進化し、内容が変質して、いつのまにか別ジャンルになる。

現代のポップス音楽のシーンは、二十年前のそれと同じだろうか? あるいは二十年前のオリンピックと現代のオリンピック、二十年前の恋あいと現代の恋愛、二十年前の大学生と現代の大学生、二十年前の「みんなで写真撮ろうよ」と現代のそれ、どれもこれも技術的には向上しているがいつのまにか内容が変質し、過去のものとは別ジャンルになっていった。
あなたは学ばねばならないし、掴める糸口がないときは、教わらねばならない、「何が違うのか」を、「違うもの」に基づいて教わらねばならない/あなたが「あれ」を求めていたのに、努力した「それ」は別ジャンルということが往々にしてある、「それ」は何が「違う」のかを、教わらねばならないのだ。
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「何もできない人々」(何も創り出せない人々)
ろいろあっておれはゴキゲンだ。
ふとわかったのだが、現代、この世の中には、「何もできない人々」「何も創り出せない人々」がいて、この人々が現代に特有の物騒さと喧噪をもたらしている。
「そういう人たち」は、いわゆる批判的な人たちで、攻撃的な人たち、否定的な人たち、また炎上仕手的な人たちだが、それは表面的な行状に過ぎず、本質的には「何もできない人々」「何も創り出せない人々」だ。
「何もできない」「何も創り出せない」から、結果的に「そういう人たち」になっていく(定義)/本人の選択としてそういう人たちになったのではなく、「何もできない」「何も創り出せない」という不能のまま、ウェブ通信端末とトピック群だけ与えられると、自動的に「そういう人たち」になっていくのだ、当人らはその気質と人格を選択したのではなく、その「陥穽」を選択したということになる。

われわれは一般に、すぐれて魅力的なideaをひねり出そうとし、そのideaは共有され、そこにコストが注がれることで、何かが創出される、という生き方をしている。
けれども、「何もできない人々」「何も創り出せない人々」においては、まずideaを持つ機能が不能化しており、当然その共有も不能になっており、何事も注入される「コスト」だけが目につくようになっている、それで「何もかもがダルい」「自分の払うコストにはすべて腹が立つ」「対価なく消費するときだけやや満足する」という気質になる、あるいはそれを己の「信仰」にしてしまう。
現代で目立って流行するものは、たとえば「イベント」に対して便乗的であったり消費的であったり、他人の造作や営為を写真でアップロードしたり、ニュースや新作のアニメを材料に口論したり、あるいは「コスプレ」のように、二次創作的(というよりは、オリジナルに寄生的)であったりする/これらは単に流行しているのではなく、自身が「何もできない」「何も創り出せない」ということから必然的に生じるまとまりとして流行している。
すべてのことは、「お前が創り出せ」と言いつければ明らかになる、「お前のideaを表示しろ」「お前のideaが共有されるようはたらきかけろ」「なるべく最小のコストでそのideaを実物にあらわせ」……/「何もできない人々」という本質は、こうして<<ideaの壇上で頓死する>>ということで明らかになる、「そういう人たち」は、一義選択的に批判と攻撃の物陰に棲みついたわけではなく、<<ideaの壇上に載せられることから逃げるため>>に、そこに棲みついているにすぎない。

常に「告発」で頭の中をいっぱいにしておきたい、という病状に陥る。

常に「告発」で頭の中をいっぱいにしているあいだ、己が「何もできない」「何も創り出せない」というクリティカルなテーマからは目を背けていられるからだ、よってこの当事者は、常時己の保存と防衛のために、「告発」のユニットとして機能していなくてはならない、だからこの当事者は、朝起きた瞬間からすでに、脳が「告発」を探すように機能している/この暮らしは実に暗鬱なようでいて、実はその当事者をディフェンスしている。
賢明な人たちは、あるいは賢明になろうと望む人たちは、このような土壌から生じてくる際限のない「告発」の喧噪を、真に受ける必要はない、それは彼らの呼吸のようなものであって、彼らが「何もできない人々」「何も創り出せない人々」である以上、彼らの溜飲が下がって穏やかな日が訪れるということは決してない。
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真相はとんでもないところ

インシュタインが、「運動っつーのは、空間じゃなくて時空のもんでしょ」「運動って、時間軸方向にも割かれてんじゃん」と言い出したあたりで、われわれの常識はブッ壊れてしまう、「運動場を走るのはわかるが、時間軸方向に走るってなんだよ……おっかねえ」と。
そこからさらに、量子もつれ(エンタングルメント)の話が入ってくると、われわれの常識なんか消え去ってしまう、「だから電子Aのスピンと電子Bのスピンは距離とか関係なく相関してるんだって」「じゃあ何か、情報が一万km先にでもテレポーテーションするとでも言うのか」「そうだよ」「えっ?」と。
これはオカルトではなくて、ごくフツーに大学の教養で習う範囲のことだし、実際にそのように「観測」されてしまっている以上、四の五の言っていてもしょうがない、常識的には二重スリット実験の時点で「ウソつけ」と言いたくなるのだけれども、今実際に量子テレポーテーションも繰り返し実験・観測されているし、量子コンピューターも実現に向けて研究されているのだから、もう不思議がっていてもしょうがないのだ。
そろそろ二十四時間テレビの季節だと思うが、いっそのこと二十四時間、われわれの常識とは違う学門のレポートばかりを、えんえんオンエアしてもらえないものだろうか、もしそんなことしたら、視聴率はサイテーのサイテーを極めるだろうけれども……

あなたはどうしたらいいか、われわれはどうしたらいいか/より実際的には、あなたは僕の前で「どうしたら」いいのだろう?
どうしたらいいなど、誰にもわかることではないが、学門としての大前提は、「真相はとんでもないところ」だ、そのとんでもないところを否定する常識の思考がすべてを支配するなら、もう一切の学門なんか個人として焚書してしまえばいい。
学門を焚書するというと、おっかない感じがするが、むしろ多くの人はごく早いうちにその焚書を決定するものだ、各人の部屋の本棚を見たらわかるだろう/そしてなぜかはわからないが、学門を焚書した人には特定の顔つきや性向が付与されるようだ、なぜそんなことになるのか、その真相もやはり「とんでもないところ」にあるのだろう。
なぜだかわからないが、学門を焚書した常識の人は、<<常に強い確信を持っていながら、常に強い不安の顔をしている>>、そして必ず、<<「こうなりたかった」という望みを断たれた姿で老人になる>>、なぜそうなるのかはわからないし、そうなってはいけないというわけでもない。

老人は、量子論がわからないのだが、その「わからない」というとき、自分を「正しい」と感じている。

老人に限ったことではなく、老いることが決定された者は、若いうちにもそうなるのだ、美術、芸術、技術、学門、愛、世界、永遠、それらが「わからない」というとき、なぜか「わからない自分こそが正しい」と感じる――むしろ確信する――ように出来ている。
あなたはどうしたらいいか? あなたは僕の前で、僕はあなたの前で、「どうしたら」いいか? あなたが常識の人なら、どうしたらいいかについては、即座に確信を見つけるだろう、僕にはわからない、僕はいつも「真相はとんでもないところにある」という気ばかりがヒシヒシしている。

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光っぷりと毒っぷり

正面から向き合って、生きてみたい人はこのことをどうぞ。
「♪咲いた〜咲いた〜 チューリップの花が〜」と、歌ってみればいい、人の真相はそんなところにも現れる。
体内に毒を生産している人は、そんな歌声にも毒が乗っかる、そして光につながっている人は、そんな歌声にも光が乗っかる。
歌がうまいとかヘタとかではなく、<<毒か光か>>が出るのだ、声に乗っかるのだ、これに直面して生きるのは本当の生き方だが、なかなか堪えがたく正視しがたいことへの生き方でもある/自分が体内に「毒」を生産し、それをぶちまける者だというようなことは、なかなかわれわれの希望とは異なり、向き合いがたいものだ。

やさしい気持ちと、うつくしい思いと、ついうれしくなるような笑顔で、「♪咲いた〜咲いた〜」と。
そんなことをしても、出てくる歌声は「毒」だ、ごまかしは利かない、ごまかしが利くのは同様にごまかしを求めている人だけだ/人は誰しもごまかしに転落しそうな中を生きており、これを迷い惑わすことがあるので、そのことを「迷惑」という。
冷静に考えることだ、チューリップの花が咲くのは「当たり前」のことではないか? それなのにやたら力んだり笑ったり、「笑顔」みたいなものが出現しているのは、人の事情なのだ、体内にヘンな毒が駆け巡っているから、それをごまかすのに笑うだけだ/近年はそうした「笑顔」を救済と誤解する勢力が大きくあるが、その種の「笑顔」は救済でも何でもなく「迷い惑わしてくれる力が強力でごまかしに浸りやすい」というだけだ。
真正面から向き合って生きるということは、いかに自分の全身が、また現状の「わたし」が、毒ばかり生産する者であって、それをまき散らすことしかできない者であるかということを、引き受けて生きていくということだ、それもやけくそにならず、引き受けた理知の学門として/そして同時に、これまでは見ていなかった他人のこと、特に「この人は光ばかりまき散らしているではないか」という希少な人のことを、改めて認め、何なら心中に少し奉じて生きていくということだ。

あなたの体内に、毒の止め方を教え、光の触れ方を教えた人がもしいたら、その人はあなたの生涯の先生だ。

「♪咲いた〜咲いた〜」と歌ったとして、そのときにでも後日にでも、人々が「もう一回歌ってほしい」と望むようなら、つまりアンコールが求められるなら、それは光だ、演出に迷い惑わされたものではなく、演出なしに「もういっぺん!」とお願いしたくなるようなとき、そこには光がある/歌に限ったことではなく、これは光の性質だ。
真正面から向き合って生きてみたい人は、このことをどうぞ、われわれがそのような「光」に及ぶ者になるには、膨大な学門と、連日のような捨て身と、相反して怜悧に徹した理知の継続が必要になる、「♪咲いた〜咲いた〜」と、光が生じるということは、まったく身近でありながら、まったくとてつもないことなのだ。

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