☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「何を正常とするか」という範囲内で……

ンガ「ジョジョの奇妙な冒険」の第三部で、空条承太郎は高校生なのにタバコを吸っている、こんなマンガは発禁にすべきだろうか。
あるいはアニメ映画「耳をすませば」でも、天沢と雫は公道を自転車で二人乗りしている、やはりこんなアニメ映画も放映禁止にすべきだろうか。
映画「タイタニック」においては、ローズは流浪の青年とイチャついている、これも婚約者あっての不倫だから、こんな映画は焚書でフィルムごと焼き払うべきだろうか。
「けものフレンズ」や「君の名は」などには、そんな不埒なシーンは出てこないのかもしれない/街中で少女は連日の自撮りをアップロードし、北朝鮮は相変わらずミサイルをぶっ放している。

われわれは、或るコントロールを受けることによって、簡単に「気が狂う」ことができるものだ。
われわれは、「異常になって気が狂う」のではない、あくまで「何を正常とするか」という範囲内で、そのことは起こっていく。
われわれは、喫煙と放置車両と不倫とに、やたら否定的にヒートアップするようにコントロールを受けている、それらを「カス」呼ばわりして金銭懲罰にかけることが「正常」だという風潮の中に追い込まれている。
あなたはコントロールを受けていて、そのコントロールの善悪なんて誰にもわからないが、ただそれらはあなたに向けて「大事なことを教えている」とは言えないのじゃないか、その軽薄な感触を見るかぎりは。

恋人を自転車の後ろに乗せて走ることは、「大事なこと」なのか、それとも「不法行為」なのだろうか?

僕は、その不法行為を取り締まるのは、おまわりさんだけでいいと思っている、ただしくれぐれも事故のないように、なぜ事故があってはいけないかというと、不法だからじゃなく/恋人を後ろに乗せているんだろ?
「何を正常とするか」という範囲内で、われわれはすっかり殺されている可能性がある。

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「趣味が合う」の6パターン

「男だから、女の子を笑わせてきたよ」、これ人間が、物語を捉えて行為するということ。
「男だから、女より鍛えるべきだよね」、これ修羅が、有意義を捉えて生きるということ。
「男だから、とは何のことであろうか」、これ天人が、空虚を捉えて老いるということ。
よく見てね、それぞれこういう人って実際にいるよね/これらはどちらかというと善寄りのほう。

「男だから、女に認められたいんだ!」、これ畜生が、渇愛に駆られて獲得に執着するということ。
「男だから、目立つ女は食うでしょ!」、これ餓鬼が、メラメラに駆られて勝ち組に焦がれるということ。
「男だから、女にワーッってなるの!」、これ獄人が、享受に駆られて腐蝕していくということ。
よく見てね、それぞれこういう人って実際にいるよね/これらはどちらかというと悪寄りのほう。

六タイプの趣味。

これら六つを「趣味」と言って、この「趣味が合わない」と、人は基本的にはどうしようもない/ちなみにどの趣味も本当には正しくないが、われわれはなるべく人間であるべき、善の趣味も正しくはなくて、ただせめて悪いほうの三つの悪趣味は避けるべき。
人間だけが「行為」をしている、<<「行為」のあるなしによって人間かどうかが決定される>>、思ったり悩んだり、騒いだり暴れたりするのは「行為」じゃない/われわれはなるべく人間であるべき。

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臨死体験を引き起こす物質

は、臨死体験を引き起こす物質が、すでに特定されているようなのだ。
ジ・メチル・トリプタミン(DMT)という、いかにもありふれた、簡単な構造式のものがそれだ(C12H16N2)、こいつが脳の松果体に作用する。
こいつをキメると、「いきなり」最深部にトリップするということで、世界中のドラッグ中毒者が注目しているらしい、ストラスマン博士はこの物質を「精神の分子」と呼んだ。
これはもちろん、遊びでは済まない、最悪の状況をもたらすだろう、最悪の状況とは死ぬということを指してはいない、こんなもので遊ぼうとする奴の気が知れない。

いろんなことが明らかになってきている、と感じるが、何一つ明言はできないので、やっかいなことだ。
問題は、なぜ薬物で人間が臨死体験(宗教的体験)を得るのかというところだ、もちろん本質はDMTとやらの物質にあるのではない。
DMTうんぬんは、ただの物質であって、それ自体が臨死体験を生じているのではない、臨死体験を生じているのは脳のほうだ、脳の松果体あたりに「何か」をすると脳は隠し持っていた臨死体験(宗教的体験)を解放するということだろう。
僕は精製薬物なんかキメたことないし、ホントかどうか知らないけどね、ただ僕が感じているところ、この世界の宗教的側面は実はすごくシンプルで身近にあり、これで遊んではいけない。

トリップする? それが永遠のトリップでもか。

インドで、麻薬でバッドトリップし、地獄の悲鳴を上げていた女性を見たことがある、数時間後には収まったが、あの悲鳴がやがて彼女のいく世界だったとしたら/わざわざ地獄への行き方を鍛えてどうする。
古く、われわれはいずれ永久(とわ)の旅に出ると言われているけれど、その旅(trip)がバッドトリップだったらいやだな、あの悲鳴の中を幾星霜というのは。

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他者の無事を乞うもの
る女性が、飼っているネコに湿疹ができて「かわいそう」と泣いていた、身を切られるようにつらそうだった。
そのとき、彼女自身がやけに咳き込んでいるので、「病院行ったら」というと、しぶしぶ耳鼻咽喉科に行き、「炎症してた、熱があったみたい」と報告してきた。
自分のことは放ったらかしなのに、飼っているネコちゃんに対しては、もう胸が張り裂けんばかりに心配している、まあたしかに、飼っている動物が少しでも病気をするとすさまじく心配ではある。
張り裂けそうな胸で愛されているネコちゃんは、すでにネコという顔つきを離れて、愛し愛されて存在する何者か、という顔つきをしている、愛し合う者たちはもう哺乳類レベルで顔つきと眼差しが違うものだ。

毛並みがふわっふわなネコは、かわいらしいし、華もあると思うが、「癒やされる〜」とかそういうことではない、そういう癒やしものには切実な眼差しはない。
愛は、当たり前だが、その自己の生命存在を定義している、何のために・何をもって・何によって「存在」しているかということを、説明的にではなく直接的に愛という事象が定義する。
この直接的定義が起こったとき、「華」というのも、わかるし焦がれるし存在するのだが、「別にどうでもいい」ということになるのだ、ダサいのはイヤだが、ダサいうんぬんが中枢的には何の意味も無いということが強制的にわかってしまう。
「あなたがいてくれないとダメなの」と泣くのではなく、「あなたが無事でいてくれないとダメなの」と涙が出てくるもの、それが愛だ、それは自分の無事を乞うものではなく、他者の無事を乞うものだ、この現象は利己的遺伝子においては不明のものであって、存在はするが説明はできない。

やさしい人だ、愛があった。

愛にもいろんな程度とカタチがあると思うが、本質は同じだ、自分ではなく誰かの無事と行く道を祈っている、その人の明日を案じて胸を苦しめている。
現代、愛は笑いものにされていて、なんでもかんでも「すてき!」と、それぞれ当人の華願望に供されなくてはならない悪魔の運びだが、今さらそんなことを咎めていてもキリがないのであって、必要なことは愛の情報を漏出させないことなのだった、僕は必ずその秘密を厳守する。
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華に惹かれるこころ、愛に赴くこころ
人のおしゃれは「華」がある。
愛嬌のある表情やめざましい動きやプロポーションにも「華」があるだろう。
「あの人と、きれいな景色の丘へ、そしてホテルのスイートルームで、夜景の上で抱き合って、そのときはそれぞれの栄光と名誉を持ち寄って」という空想にも「華」がある。
人はこの「華」に強く惹かれ、「華やか」なことに強くあこがれ、駆り立てられては、そこに恋もするのだが、それらはすべて「華」であって「愛」ではない、単純に事象を指す言葉としての充当が間違っている。

「華」に強く惹かれることが愛ではない(んなもん当たり前だ)。
「華」を否定するのはセンス的にバカだが、「華」を「愛」と誤解するのは学門的にバカだ。
「華」に惹かれるこころは誰にだってある、だから誰だって、「同じ値段ならなるべくきれいな服を買おう」とする。
「華」に惹かれるこころは誰にだってあるが、「愛」のこころは誰にでもはない、だから「同じ値段ならなるべくあいつに服を買おう」と考える人はとても少ない。

華のない人はダサい、愛のない人は寒い。

ダサい人は一目瞭然だし、寒い人も一目瞭然だ、それは見えるようになったら、ミエミエに見えてしまうものだ。
人はしばしば、「よし、おいしいものを食べに行こう!」とは思い立つのに、「よし、あいつをうまいもん食わせに行こう!」とは思い立たない/愛のない人はそもそも心中に「あいつ」という単語が存在しないはずだ、心中に「自分」と「惹かれる華」しか存在しないはずだ。
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自分の足しにはならなくていいナゾの行為
「橋本環奈ちゃんとデートできる券」と「志村けんが生涯を健康に生きられる券」があったとしたら、僕は志村けんの生涯健康券を選ぶ。
別にファンというわけではないが、あのおじさんが病気になることなどは考えたくない。
愛の前には好きとか性欲とかが無力だというのがよくわかる。
デート券の橋本環奈ちゃんを、エマワトソンやクロエモレッツや石原さとみに変えたって同じだし、セックス券に変えられたって同じだ、僕は志村けんの生涯健康券を選ぶ。

もし僕の後輩が、同じ選択肢の前に立たされて、橋本環奈ちゃんデート券を選ぶようなら、ブン殴って「お前はアホか」と、強制的に志村けん券を選ばせるだろう、恨まれたってかまやしない。
人として曲げてはいけないことが当然ある、愛なしに生きていくことはおそろしく退屈で、それどころか苦痛きわまるものだ。
愛というのは飢えではないし渇(かつ)えでもない、愛を知らない人は自分の飢えと渇えを自分の愛だと曲解する(恣意的に曲解する)。
橋本環奈ちゃんデート券と、志村けん生涯健康券があったとして、もし橋本環奈ちゃんが「もう、どうしてわたしとのデートを選んでくれないの?」とかわいく頬を膨らませたとしたら、僕は「お前はアホか、地獄におちろ邪悪な獣め」と容赦なく弾劾するだろう/かわいい女の子とデートしてセックスしたいというのは何の愛でもない、単にヒマなだけだ。

愛とは努力を要せず損をすること。

志村けんが健康でテレビに出ていたとして、それで僕がうれしいわけではないが、「別におれがうれしい必要はないだろ」という限りのことであって、これだけで話は済んでいる。
愛は履行されればよいのであって、それについて議論したり感想をもったりするのは「めんどくせえな」ということにしかならない、愛は履行されればいいだけだ、それは自分の足しにはならなくていいナゾの行為だ。
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「職場」の思想4

の内に勤めていたときの経験から、僕は「職場の思想」を、自己のうちに再生することができるし、またそれを停止することもできる。
なぜそれが操作できるかというと、僕は根本的にそこにある「快感」が好きではないからだ、僕は自分の地位が上がるのが好きではない。
「仕事」に人権を献上するほど、その人の地位は上がっていくし、地位の高い人は地位の低い者に<<刑罰を加えることで地位の高さを実感する>>という性質があるが、僕はそもそもその「快感」が好きじゃない。
僕は人の活躍が好きだし、自分も活躍したいが、「仕事」というのは苦手だ、迷いを無くしたいのはわかるが、自分が生きることの迷いは自分で始末するべきじゃないのかと、珍しくまっとうなことを思う。

人は、思いがけないところが繊細で、しんどがりだ、自己肯定感を「確信」したいし、それがないとどうしても「しんどい」ので辛い。
ズル休みひとつでも、途端に自己肯定感がおびやかされ、不安になり、しんどいから、それならいっそのこと、すべての人権を仕事なり何なりに献上したいと望んでしまう。
たとえば、戦争に負けて、職を失って、何をどうしたらいいかわからないという不安としんどさの毎朝を起きるぐらいなら、ヒトラー総統の言うとおりのことに、自分のすべてを献上したい、と当時のドイツ国民は思ってしまっただろう/そこに虐殺と戦争の勝利が重なると、どうしようもない「快感」がきっとあったに違いない。
「快感」が好きで、「不安」がきらいか、それはそうかもしれないが/僕はその仕組みで自分のすべてが手玉に取られることに、最後まで反発してゆきたいと思っている。

「人権」もきらいだが、「仕事」もきらいだ。

ただ人の活躍だけが好きだ。
仕事がきらいということは、活躍しなくていいという理由にはならない。

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「職場」の思想3

かし、日本の共産革命を志向した連合赤軍が、「総括」という名称で、仲間内のリンチ殺人を多数やったことは有名な事実だ。
「総括」によって殺された理由は、たとえば女性メンバーが「革命戦士のくせに化粧した」とかだが、これを馬鹿げたことだと思ってはならない、人間にはそういうことをする「性質」があるのだ。
僕だってそのときの連合赤軍にいたら、大喜びで女性を木刀で殴打し、開放骨折で流血させた上で、麻袋に詰めて氷点下の地下室に放置しただろう、それで死んだら「だらしない奴、総括終わり!」と、僕は正義の執行に喜色満面になったはずだ。
考え方を変えないと、このことはわからない、つまり女性メンバーが化粧をしているのは、「革命をナメてんの?」ということなのだ、その上で初めて「そんなの撲殺されて当然」ということがわかるだろう。

人間にはそういう「性質」がある、つまり「仕事をナメてんの?」という一点において、木刀で殴殺するのが間違いなく正義だと確信できるという性質だ、特に<<同盟集団的に確信犯化する>>という性質があると見ていい。
たとえば「交際相手が事故に遭って」という理由で、19時に退社しようとするような奴は、仕事をナメているとして「総括」していい、じっさい「職場」の思想においては、こんな奴は木刀で殴り殺すことだけが正義だ。
この、極論でも何でもなく「木刀で殴り殺していい」ということが見え始めたら、あなたには「仕事」が見え始めている、これが見え始めたとき、あなたは職場で学生気分を指摘されることがなくなるだろう。
「仕事」が見え始めたとき、血まみれの殴殺で「総括」が為されるのは、大いなる「快感」だ、この強烈な「快感」がわかるか/最低そこまで到達しないと、あなたは何の「仕事」にも追いつけないだろう。

仕事に「やりすぎ」はない。

それが職場のルールだ(もちろん文治社会のルールではない)、「仕事をナメてんの?」と思わせる者は、撲殺して獄門、それでも「やりすぎ」どころか「やり方がぜんぜん甘い」と感じられるのが職場の性質だが、これは強烈な「快感」の原理によって推進されており、あまり誰の意志というものでもない。
ブラック企業に反対する立場が本来の共産主義のはずだが、よりによって共産主義革命の闘士たちが真っ先にこの「総括」を急進的に執行したということは、注目に値する、つまりブラック企業がどうこうではなく、人間にはそういうことをする「性質」がそもそもあるということだろう。

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「職場」の思想2

「職場」の思想は、<<主権を仕事に献上し、人間の主権を否定する>>ということに尽きると思う。
人間が生きるために仕事がある、などというのはまるきりウソで、別に誰が死のうが知ったこっちゃないというのが職場の事実だ、もちろんそうでない職場も存在するとは思うけれど。
僕だってもし、同僚が目の前で車にひき殺されても、何らの痛痒も覚えないだろうし、頭の中は「あっこのバカ、業務が増えるだろうが」と舌打ちしかしないだろう。
人間がそれぞれの人間性を尊んでいるというのも、ひとつの仮想的状況にすぎないのだから、「職場」に入ればそんなものはすぐ消し飛ぶ/正直同僚が病気で倒れるより、プリンターが故障するほうが悲しみだ、同僚が倒れても僕の業務には影響しないが、プリンターが故障すると僕の業務に差し支えが出るから。

「お前はそれでも人間か」と言いたくなるような状態だが、こっちは「仕事を進めるのに、人間がどうとか言われても」としか思えないので、やりとりは不毛だ、これは「職場」では当然のルールになる。
何しろ主権は仕事に献上してあるのだから、自分が何であるとか人が何であるとかについて、すでに自分で決定する主権を所有していない。
それは純粋な状態で、たとえば目の前で十歳の女の子が拷問にかけられて悲鳴を上げていても、「うるさいから向こうのフロアでやってくれる?」と、何の沈滞もないだろう、純粋に自分の仕事だけを進めてゆけるような状態だ。
それが正義か否かという判断についても、すでに主権は仕事に献上されているので、判断は仕事がしてくれるだろう、人はただ業務を進めていくだけという状態/いわゆる大規模な企業犯罪もこういった現場の思想から発生している、よって企業犯罪を悔いている当事者はこの世界に一人もいない。

職場においては、両親の急死さえ「めんどくさ」と感じる。

「仕事中」の人間に、たとえば妻が倒れたとか息子が事故に遭ったとか、そんな急報を告げても、それは邪魔だし何の売り上げにもならないので、「はぁ、めんどくさ」「うっとうしい」としか感じられない、「仕事中」の人間とはそういうもので、この「仕事中」はだいたい五十年ぐらい続く(勤務中だけが「仕事中」ではない、念のため)。
これは何の誇張もしていない話なので、これから職場に赴く人は心するに越したことはない、人間がなぜこんなことをしているのかその理由はよく知らないし、正しいのか邪悪なのかも知らないが、僕は少なくともその純粋さがきらいではなかった。

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「職場」の思想
の内の総合商社に勤めていたときのことを思い出すが、そのとき目の前にあったのは純粋な「仕事」だった。
そこにあるのは純粋な「仕事」なので、これに関しては、そこに「人間関係」等を求める人のほうが、神経がわからん、と感じる。
もちろんそうでない職場もあるのだろうが、僕の知る限り、丸の内とかそういう場所はそうではない、あるのはただ純粋な「仕事」だけだ。
何の売り上げにもつながらない、何の業務にも関係ないただのおしゃべりを、「1秒たりともしないでもらえる?」と全員が真剣に思っているので、それは純粋な場所には違いなかった。

いくつかの企業で、過労死やストレスによる自殺が相次いでいるが、僕の知る限り、その自死等が職場の同僚たちによって悼まれるということはまずない。
誰かが自殺したと聞いたら、瞬間的に脳裏に浮かぶのは、「引き継ぎもせずに死んだの?」でしかなく、感覚的には「人事(考課)的に面倒なことでしょ」「退社してから自殺すればいいのに」だ、どれだけドラマチックに自殺しても、同僚は業務への差し障りについてしか考えない。
そこにあるのは仕事であって、人間ではないのだ、これは邪悪さを指摘しているのではなく、職場に人間を持ち込むほうがおかしいという考え方なのだ、職場なんて究極は優秀な人工知能だけ並んでいればそれで十分なのだから。
実際、僕が勤めていたときも、同僚の女性が致命的な病気に罹ったが、それについて胸を痛めるというような事象はゼロだった、別に女性が病死しても売り上げにはならないのだから/僕はその純粋な空間が、それ自体はきらいではなかった。

純粋な「仕事」は、生きるためでも何でもない。

仕事のしすぎで死んだとしても、そこにあるのは仕事のトラブルであって、人間のトラブルではない、人の自殺なんぞに注目しているようでは「きみ仕事ナメてんの?」という扱いにしかならないだろう。
「何も死ぬまで仕事することはないよ」というアドバイスは世の中に多いけれど、それはリアルな「職場」をナメているように感じる、リアルな職場では「死ぬのはいいけど引き継ぎだけちゃんとしてから死んでよ」というのが本音だ、このことに同意できないでは逆に職場で生きていけないだろう。
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活躍と男女の順と逆
定や否定を考えたことはない。
男はあるていど、かっこよくなければならず、男はかっこよくなるほど、抱ける女のレベルを向上させていくだろう。
世の中がゆがんでいないかぎりは、男はいちいち、女を口説くというようなことをしなくても、女は抱ける形で舞い込んでくるはずだ。
ただしこの時代、女は女であるとは限らないので、かっこいい男の前で、女が恐慌するだけということはよくある、それは時代のせいなのであまりあれこれ考えても無意味だ。

男は女を、生まれつき求めているものなので、あまりいちいち男から女へ「求める」という行為をするものではない。
男が女を「求める」のは、セックスの最中になってからであって、セックスを得るまでにいちいち「求める」ということはしない、「求める」のは女の側からだ。
そういえば最近、エロマンガを見ても「つまんねえな」と疲れるようになった、エロマンガは当然美少女の描写に力を入れるので、美少女が活躍し、男は活躍しないのだ、それならそもそもセックスが発生する力学がない/男はあるていどかっこよくなければならない。
あるていどかっこいい男を、女が「求める」のであって、このことに気づいている女性はトクをするだろう、逆に「わたしが求められる側よね?」と首をかしげている女性は、損をするだろう、そういう女に「求める」を向けてくるのは、どうしてもかっこよくない、活躍していない男だからだ。

男を求めない女は、活躍を求めない男と共鳴する。

物事には「順」と「逆」がある/順流だと、男の眼差しは活躍に向かっており、女の眼差しは活躍する男に向かっている、それで女は自然に男に寄っていくし、男は自然に活躍に寄っていくのだ。
これが「逆流」になると……面倒なので説明はしないが、今女性は男を「求める」ことが不全になっているだろうし、男性も活躍を「求める」ことが不全になっているだろう、今女性は男が寄ってくるのを待ち、男性は活躍が寄ってくるのを待っている状態だ、それはとても不健全な状態だ。順:[女→男→活躍] 逆:[女←男←活躍]
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「にくしみ」の実体
レヴィに出ている或る人をサンプルに指して、「この人、発達障害かな」と友人が言った。
僕は、「たぶんそうじゃなくて、これはにくしみだね、にくしみの蛇で発達障害みたいになっているんだよ」と答えた。
「憎悪だ」と僕は付け足した、「そんなおそろしいことになるの」と友人はおののいた。
僕には医学の知識はないので、ポリコレの精神に基づき、これは与太話だと思ってくれ。

人間の三毒のひとつがにくしみだが、肉に染みたこの憎悪は、本人の制御できないところまで入り込み、すべての生活のシーンで、とんでもないポカを引き起こしていく。
大事なときに笑い出したり、叱られているときに笑い出したりするのだ、それは失笑なんてレベルではなくて、肉に染みた憎悪のケイレンであり、本人もすでに差し止められない/まるで悪魔に憑かれたかのようにだ。
前歯を剥き出しにして、つまり「牙をむく」ということがすでにやめられない、こういう人はものすごく周囲に怒られて生きることになり、それどころか周囲に「憎悪」をまきちらし、植え付けて生きることになる。
会話がちぐはぐに見えて、人の話を聴いていないように見えて、それはいわゆる発達障害のように見えるのだが、そうじゃない、肉に染みた憎悪でケイレンしているのだ、本人がどれだけ改善しようとしても、すでに肉の憎悪痙攣がそれを許さない。

あらゆる瞬間に、「ムカついて悪態をつく」ということが出現し、もう本人の意志では止められない。

人の大事なもの、大切なもの、崇高なものを、「侮辱しよう」とするケイレン発作が止まらないのだ、それが人間の肉に染みた憎悪、「にくしみ」の実体だ。
本人にも、周囲にも、むろん僕にも、どうしようもないのだ/目の焦点が合わず、前歯を剥き出し、肉が憎悪に囚われていく……これは実験で観察できるほど科学的に明らかなことで、それだけにひどく残酷な現象だ(そんなことになったらダメよ)。
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「求める」ということは実現でしかない

はAを求める。
Aが「欲しい」とはまったく思わない。
僕はなんでもかんでも求めてきたが、これまでに一度も、何かを「欲しい」と思ったことはない。
「欲しい」はただの「飢え」だろう、僕はこれまでに「飢え」を覚えたことがないので、「欲しい」という心理現象そのものがよくわからない。

「求める」というのは、意志であり、実現のことだ。
何かを「欲しい」といえば説明を要求されるが、何かを「求める」ことについては説明を要求されない。
なんでもかんでもを「求める」とき、自分がこの世界でただ一人生きているのだな、ということがよくわかる/誰にも説明を請われないから。
もし、「輝くものが欲しい」と思っている人がいたら、その人はほとんど永劫の牢獄にいると言える。

「求める」ということが輝きであって、「輝くものが欲しいんです」は単なる誤解だ。

なんでもかんでもを「求める」とき、僕はこの世界で自分がただ一人生きているのだというのがよくわかる、これを自由と呼ぶのだなと感じて、そのこと自体が輝く。
求めて得られる場合と、求めて得られない場合があるはずだが、じっさいには求めて得られない場合なんてないので(少なくとも僕のこれまでにはなかったしこれからもないので)、その点は考える理由がない/「求める」ということは実現でしかないから。

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六道輪廻と十二因縁(の、粗雑きわまる解説)

廻(りんね)という言葉が好きな人は多いから、「六道輪廻(りくどうりんね)」という仏教の用語にも、興味がある人はいるかもしれない。
六道輪廻というのは、何も「前世がどうこう」「死後がどうこう」ということに限ったことではなく、「人ってけっきょくこの六つのところをぐるぐる循環するよね」「そして十二のパターンを示すよね」ということにすぎない。
「六道」というのは、三善趣と呼ばれる「天道・人間道・修羅道」と、三悪趣と呼ばれる「畜生道・餓鬼道・地獄道」という六つの「道」を指しており、人間は煩悩三毒のせいでこの六つの道というか、六つの世界をぐるぐる回り続けるのだった。
言うなれば、「凡夫大学」に「餓鬼道学部・名色学科」というような学部と学科があり、凡夫大学にはぜんぶで計六つの学部、計十二の学科があります、というようなことだ、これもあまり宗教性を帯びたことではない。

六道輪廻のキモは、この六学部と十二学科が、「突き詰めたら、全部間違ってるんだよね」というところにある。
人間は、遺伝子的に、この六道をぐるぐる回りますというだけで、この六道の中には最終的な正解はひとつもないのだった、ただこの「正解がないじゃん」ということを見極めるために、六道はよく知られる必要があるらしい。
六道輪廻においては、たとえば人間道学部は「認識と行為が真実だよね」と主張するし、地獄道学部は「刺激を受けて燃えるのが真実っしょ」と主張する、それぞれの「○○道」において、何が真実と感じられるかが違うわけだ。
天道は「無明でしょ」と言い、人間道は「認識と行為でしょ」と言い、修羅道は「生きて活躍することでしょ」と言い、餓鬼道は「いわゆる勝ち組でしょ」と言い、畜生道は「ガチ愛でしょ」と言い、地獄道は「つまるところ刺激でしょ」と言うが、それらのすべての主張はけっきょく真実ではなくて、「因縁でそう思わされているだけですやん……」というのが、いわゆる仏サマの教えなのだった。

お前の真実なんかゴミ箱に捨てて学門しろ、何かが聞こえてくるまで。

われわれは、それぞれが独自に「わたしの真実」みたいなものを発見するが、それはわれわれが遺伝子ボンバーの上を生かされているが故に生じている因縁的妄想にすぎず、実は真実でも何でもないよということだ/しかもその真実じゃないパターンは6道かける2で12通りあるよねーということまで解き明かされている、なかなか容赦の無い話だ。
六道輪廻からどうやったら出られるのかなど、僕は知らないが、僕は個人的に勧めたいことがある/世界の声を直接聞けよ、お前がお前の声を聞くからバカなんだ、お前は世界の声を聞け、お前がうるさいから世界の声が聞こえてないんだろ。

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仏教で言うところの煩悩の「三毒」

とえば医療の血液検査でいうと、γ-GTPを測定したり、ha1cやLDLコレストロール値を測ったりする。
γ-GTPは、できたら50ぐらい、100は超えてはいけませんよという基準値だが、状態の悪い人は500を超えたりするし、中には1000を超えたり、ひどい場合は4000を超えたりすることもあるらしい。
仏教でいうところの煩悩の「三毒」も、「むさぼり(ハゲタカ)」「にくしみ(蛇)」「無知(ブタ)」というように例えられるのだが、これらも血液検査で定量化して測れたらいいのにね、と思う。
「にくしみ(蛇)値が、基準値50を超えて、200以上になっていますよ、生活改善しましょう」というふうに示されるならば、僕だってしぶしぶながら努力してみようかという気がするのに。

実際、経験上から思うのだが、煩悩の「三毒」というのは本当に、そういう血液検査に近いようなもので、本当に「毒」として体内を巡るものなのだ、これはまったく宗教性に関係のないことだ。
肝臓障害が本人の意志ではないように、煩悩による障害もまったく当人の意志ではない/人は煩悩によってたとえば「餓鬼道」に陥って十二因縁の一つである「名色」という因果に至ったりするが、これは「肝機能障害に陥り黄疸という症状を示す」ということと何ら変わりはなく、当人の意志でそうなっているわけではないのだ、ただそういう病気と症状になるというだけ。
人間が血液を悪くして三大成人病になることのように、人間が三毒によって六道輪廻病(十二因縁症状)になるというだけのことなので、こんなことは民放の健康番組の裏でNHKが特集したらいいのにと思う。
われわれがもし、仏教式の「血液検査」を受けたとしたら、三毒でガタガタという実情がバレて、「ハゲタカ値も、蛇値も、ブタ値も、ずいぶん上昇していますねえ」と通告されるだけで、それは憂鬱だが改善するしかない、オジサンの医療血液検査とまったく同様のことなのだった。

三大成人病だと、自分の肉体が滅んでいき、三毒煩悩病だと、自分の世界が滅んでいく。

ただそれだけのことなので、こんなものは宗教でも何でもないのだ、成人病には「適度な運動と適切な食事」が必要なように、煩悩病には「適度な学門と適切な修行」が必要というだけだ。
そしてそれらは、どちらにおいても憂鬱でブルーなことなのだった、「メタボ」が目で見て軽蔑的にわかるように、「ハゲタカ蛇ブタ」も、実は他人からは目で見て軽蔑的にわかるのだった。

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愛という不思議な、しかしわかりやすい能力2
から二十年前、黒○○香さんという女性が、駅のホームで、見知らぬ兄ちゃんを叱りつけた。
それは、見知らぬ兄ちゃんが今でいう鉄道オタクで、撮影の邪魔になったらしい酔いどれのオジサンに、「邪魔や、そこどけや!」と怒鳴ったからだ。
僕の隣にいた、当時17歳の黒○○香さんは、「何それ、かわいそうじゃない」と、たちまち白くまばゆい怒りの焔をあげた/彼女には酔いどれのオジサンがホームの端でごきげんに過ごしているのが、かわいらしく見えていた様子。
彼女は鉄道オタクの兄ちゃんに向かって立ち上がり、「ちょっと、何なんですか!? かわいそうじゃない!」と烈火の如く叱りつけた、彼女はもともと眼差しの強い女性だったので、そこには隣にいた僕までタジタジにさせられるほどの、美と気迫が満ちていたのだった。

むろん現代では、人々のこころはもっと荒んでいるので、こういったシーンの現出はすでに現実的ではないだろう、そんなことは考えなくていい。
そのことではなくて、僕はこのとき黒○○香さんが、第一に「何それ、かわいそうじゃない」と白くまばゆい怒りを発したことに注目したい。
彼女の怒りは、不義に対して生じたのではなく、愛によって生じたのだ、彼女はごきげんな時間を過ごしている無垢な酔いどれオジサンに対して「愛」があった/そのことにおいて「格が違う」と、あのときの僕と、今の僕も、感じている。
二十年前のそのとき、僕が酔っ払ってごきげんでいるときや、若い男性としての僕が情欲に悶絶しているときのことなど、黒○○香さんは異様にやさしかった、それは捏造できるやさしさではなくて、ただの純粋な「愛」だった/この単純なことを、僕は生涯誰にも否定させない、させるわけにはいかない。

愛は、縁遠くなっただけで、わかりにくくなったわけではない。

われわれは冷静でなくてはならない/われわれは自分自身が愛に縁遠くなったということを、なかなか認めない、そのせいで愛の所在を欺瞞しはじめるので、元の話が混乱する、その混乱は誰をも益さないだろう。
愛というのは、他人への損傷や侮辱を当人以上に怒り、他人への充足や祝福を当人以上によろこぶという、不思議な能力のことだ、この能力がある「ふう」に欺瞞するのはさすがにやめよう/当人以上に体内に何かが駆け巡るというこの不思議な現象を欺瞞することは許されない。
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愛という不思議な、しかしわかりやすい能力
は不思議な能力だ。
見知らぬおっさんがあなたの小指を傷つけたとする、しかも悪意と不注意をもって/そのときあなたははっきりと怒るだろう。
見知らぬおっさんが僕の小指を傷つけたとする、悪意と不注意をもってだが/そのときあなたは別に怒りはせず、不快を感じるだけかもしれない。
あなたが傷つけられたらあなたは怒るのに、僕が傷つけられてもあなたは怒らないというとき、あなたは僕を愛していないと言える/これはむしろ当たり前のことで、これを逸脱する愛という現象のほうが不思議だ。

どうして僕が傷ついたのにあなたが怒るの?
どうして僕をよろこばせるために、あなたがうれしそうになるの? そうしたことをたびたび体験してきた。
僕は最大限の敬意をもって、彼女らについてのことを、「愛の能力において高かった」とのみ評しておきたい、彼女らは善人なんてものじゃなく、ただ特別な能力において優れていた。
愛という能力を、はっきり持っている人は少なかろうが、少ないからといって事実を曲げるわけにはいかないな、僕の傷を自分の傷以上に怒ってくれた人がいた、僕をよろこばせることに、僕以上によろこんでくれた人が本当にいたのだ。

愛がある人を敬う、そのことのみに踏みとどまろう。

愛がない人というのは実際にいて、しかもじっくりみればわかりやすくて、その存在はよくわかるのだが、よくわかるほどに恐怖を伴う、この恐怖をテーマにしないように、僕は愛のある人を敬うという一点に踏みとどまり、その他について評さない。
愛という能力は、不思議だが、明確でわかりやすく、ごまかしも利かないものだ、Aが傷つけられたとき、なぜかBがA当人より怒るというような状態、そのときBはAに対して愛があるという/この「愛」という能力はとてもわかりやすいのだが、その反面、この能力を持っている人は実際には少ない。
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学生のキャンパス

は学生という身分が好きだ。
学生にはキャンパスが与えられる。
理屈ではないのだ。
カネに血を操られるという最も安易な状況に陥った従業員が「学生気分」を非難することには、思ったほど値打ちはないのだった、なぜならそれは「安易」に尽きるから、自分で何かを得たわけではまったくなかったから。

学生という身分は永遠のものだが、「社会人」なる身分は実は辞書には載っておらず、スラングでしかない、しかも「正社員」なんて身分も存在せずスラングの言い方でしかないし、民法上は「社員」ではなく「従業員」に過ぎない(ふつう「社員」といえばどう考えても株主だろう、結社の自由の行使として)。
学生といえば、ソクラテスやプラトンやアリストテレスが学生だっただろう、だから彼らにはキャンパスか与えられた、そりゃなんとなくわかるでしょう。
キャンパスがあるから、われわれはキャンパス上で出会えるのであって、カネに血を操られると、本当にカネの上でしか人に出会えなくなる、これは本っっっ当にそう。
学生という身分は、人間の生きるさまの一つの形式/formsであって、キャンパスが与えられる、闘士にはコロッセオが与えられるだろうし、血を啜る者には獄が与えられるだろうことのように。

学生と非学生は出会わない。

誰でも理解できるところ、大学生のうちから「社会人」にあこがれて逸脱する人は少なからずいて、そういう人は社会人から絶賛される代わりに、生涯のキャンパスを失う、それがいいとか悪いとかは誰も言えない。
血に囚われるというのは最も安易なことなのに、誰かの垂れ流した作為的バイアスにまんまと引っかかったのだね、社会が学生の身分を定義するのではないよ、ご存じのとおりキャンパスには自治権があるから(キャンパスに自治権があるのは人類の最後の良心だと思える)。

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血を凍らせる防御法
「もし」あなたが、獣かグールか吸血鬼だったとする。
あなたは太陽に属するものを身に受けると、砕け散って灰になってしまう。
そのときあなたは、血を凍らせるという防御法を思いつく、血が凍れば肉も凍り、太陽に属するものに触れてもその身を破壊されずに済む。
それなりのダメージを受けても、夜になって何かの血を吸えば(啜れば)恢復することだ、特に眠る前には血を啜ってから眠るのがよろしい。

と、もしあなたが獣かグールか吸血鬼なら、そういう発想をする。
海や山、川や湖、風や木々を目の前に触れたとき、あなたはとっさに「血を凍らせる」、そして肉に入り込まないように不感症になることを選択する。
そのあと夜になってあなたは、海や山、川や湖、風や木々に、むしろ「おびやかされた」ということから解放され、ホッと一息つく、そして何か血の臭いがするマンガやネットの何かを漁ろうとする/獣にとってはそれが「恢復」だから。
あくまで、もしあなたが獣かグールか吸血鬼だったら、という仮定の話だ、それでも恢復なしに進むことはできないのだからむつかしい、ここで指摘されているのはあくまで、「血を凍らせるという防御法」についてだ、これに「おやっ?」と気づいておくことがずっと先での利益になる。

獣は、光を見ると身を凍結し、闇を見ると身を解凍する。

獣化はこの手続きで進んでいく、つまり光のものは「わかる」し、それを欲するし、それを「素敵」とも思うのだが、なぜかそのとき「血を凍らせる防御法」が発動しているのだ/一方、闇のものは「わからない」し、それを欲してもいない、それを「素敵」とも思わないのだが、なぜかそのとき「血を馴染ませる吸収法」が発動している、なぜか当人の認識とは別に、闇に触れたほうが「息を吹き返す」ということが起こる。
焦ってわめいてもしょうがないが、ずっと先の利益のため、現時点で「気づいておく」ことだ、「なぜ『素敵』と思ったものに触れたときに限って、わたしは身を凍結させるんだろう?」/「その逆がありうるのでは?」と見えてきたとき、その愕然とする衝撃の中に、ようやく本来に帰順する手がかりが生じている。
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「血」の本来を正しく見ること

「血=遺伝子」のことを根こそぎバカにしたので、冷静なことも書いておこう。
われわれは、「血」なしに生きていくことはできない、われわれは出産なしにこの世に誕生できないし、お金なしに生きていくこともできない。
いや正確には、貨幣制度のなかった時代もあるので、お金なしに生きていくことは不可能ではないが、今のところ小さきわれわれには現実的にはむつかしいから、うまくやるしかないということだが……
単に、血は「必要なもの」であって、「本分」ではないということ、ただそれだけのことだ、大きな生命的活動にはたくさんの血が要るというだけで、血そのものが活動の主体ではありえない/そこはうまく最適化された血の量が停滞せず通っていればそれが一番いいよねという、それだけのことだ、血が多すぎればただの高血圧だし、血が足りていなければただの貧血にしかならん。

血は、漏れると騒動になるし、停滞しても害毒になる、つつがなく通っているのが一番だ、血はなるべく無理をせず、印象として「見当たらない」のが一番いい/もちろん血に憑りつかれた人は、血の臭いやカネの臭いに引き込まれるけれども。
古く西洋では、「瀉血」(血を排出すること)の療法が医学の基本的な方法と信じられてきた時代があったし、血を吸うヒルを用いて瀉血するのが最新の方式だった時代もあった、東洋医学の鍼(ハリ)でも血を抜く概念があるし、いわゆる「吸い玉」というのも鬱血を逆用する方法だ、瀉血は確か沖縄の民間医療にもあったはずで、また現代でも競走馬に対しては瀉血療法を採ることがあるとも聞く/効果のほどは医学的に証明されづらかろうが、きっとまったく無意味だったというわけでもないのだろう。
血に憑りつかれると、血を奪うのが勝利で奪われるのが敗北、よって「合意なく血を奪ってはならない」「逆に合意してりゃいくらでも奪っていい」というような、血でハアハアした論理や倫理が横行し始めるのだが、そう単純なものではないということがある/憑りつかれたモンがルールを唱えるとそりゃロクなことにならないに決まっている。
血は万事「つつがなく通って」「見当たらない」というのが一番で、それは言うなれば「豊かな社会とはカネでハアハアしていない社会のことだ」と例えることができるだろう、これはごくまっとうな話じゃないか。

肉がサボっていたら、血はなんのために通うだろう?

本来「血」というのは、肉の活動のためにこっそり流れているもので、肉がサボっていたらどうなる? 血はイライラするに決まっている、血は本来邪悪なものではなく、そのあるべき姿から逸脱してしまったときに初めて邪悪になる。
肉がサボっていたら、血は通うのも馬鹿らしくて、イライラするだろう、この「イライラ」が「血が騒ぐ」ということ/ガソリンが漏れてしまうのだとしたら、あなたが自分のエンジンサイズを過剰に申告したからなのだ、ガソリンは活動に「必要」なものだが、それが漏出するならそれは不穏な爆発の火種にしかならない。

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