☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
話は「実物」
れわれは現代において、「話」の機能を失うということ、話が「壊れている」ということに、深く苦しめられている。
「話」というのは、たとえば童話「桃太郎」がそうであるように、話という事象そのものがフィクションだ、たとえ実体験をもとにしたとしても、たとえば戦争の実体験の「話」そのものから弾丸が飛んでくるわけではないので、「話」という事象はフィクションだと言える、戦争の実体験の「話」を聞くときに防弾チョッキを着る必要はない。
にもかかわらず、わたしは一方的に強く断言したいのだが、話は「実物」なのだ、もちろん実物でない概念や情報・イメージとしての話もできるように思えるのだが、それらはどうしてもじつは「話」ではない、情報で話しているものはどうしても「話」にはならず情報のままになっている。
話は「実物」であって、その実物に触れるということ、実物を取り扱うというところで、われわれの自分の「魂」が直接問われることになってくる……このことは例によって「なんのこっちゃ」としか思われないのだが、本当のことだからしょうがないのだ、わけのわからない内容でも本当に正しいのだからしょうがあるまい、わたしは一方的に強く断言して言う、「話は “実物” だ、その実物に触れるところに自分の魂が問われる」。

たとえば「ウサギはニンジンが好きだ」と言おう、そんな知識は誰だって持っているし、そういうイメージもある、この「ウサギはニンジンが好きだ」という情報には何のめずらしさもない。
だがわたしはこう言おう、「ウサギはニンジンが好きだ」、こう言おうと言ってテメー同じことを二度言っただけじゃねえかということになるのだが、これはこの短い文面では実演しようのないことで、つまりおれは何を示したいかというと、同じ「ウサギはニンジンが好きだ」ということも、情報として授受することもできれば、そういう「話」にすることもできてしまうということだ、これはあなたが目の前にいたらじっさいに区別して体験させることができるのだけれどね。
いちばん簡単な言い方をするならこうだ、「あなた」という存在に前面と裏面があったとして、前面にある箱があなたの情報箱、裏面にある箱があなたの「話箱」だ、そして「ウサギはニンジンが好きだ」という同じ文言も、前面の箱に入れば「そんなの知っているよ」という “情報” になるし、裏面の箱に入れば「ふむふむ」という “話” になる。
どうしたらあなたの前面・情報箱に入り、どうしたらあなたの裏面・話箱に入るか、その分岐は簡単なこと、この場合の仕手側であるおれのほうが、おれの前面・情報箱から取り出して伝えれば、それはあなたの前面・情報箱に入るし、おれがおれの裏面・話箱から取り出して伝えれば、それはあなたの裏面・話箱に入るのだ/春の早い時期から沈丁花の花が咲く、そのことはあなたの情報箱には入っているだろうし、chat gpt だって教えてくれるだろうが、しかしおれが話しているのはそうじゃない、「春の早い時期から沈丁花の花が咲く」、いつも春先に感じるあの香りは沈丁花の花だ、どこから香りがただよっているかあなたの近所を探してみなさい……おれの話はあなたの情報箱にはアクセスしていない、すべてあなたの裏面・話箱に届いている。

現代人は裏面・話箱にアクセスできなくなった、それは話箱が「実物」だからだ。

一般的に「実物」というと、物理的に接触できる・認識できるそれのことを指すので、沈丁花の実物といえば、そんなもの園芸店に行けばいくらでも専門のスタッフが見せてくれるし教えてくれるだろう、だが園芸店のスタッフがあなたに沈丁花の「話」をもたらすわけではない、園芸店のスタッフはふつうあなたに沈丁花の情報を教えてくれるだけだろう、この先すべてのスタッフは人工知能になり、AIスタッフがそれこそ古事記であろうが聖書であろうが仏典であろうがすべての情報を正しくあなたに与えてくれるだろうが、AIは裏面に「話箱」なんて持っていないので、あなたはすべてを前面の情報箱で受け取ることになり、本来あなたの裏面に「話箱」があることなんて誰も教えてくれず、あなた自身も忘れ去っていく。
スタッフが人工知能だろうが天然知能だろうが、同じなのだ、それは知能であって、知能ということがすなわち前面の情報箱だからだ、人工知能の回路に塩水をブッかけたら賢かった知能がすべての情報を忘れてしまうように、人だって頭をどこかに強くぶつければ知能がすべての情報を忘れてしまう、しかし仮にあなたがすべての情報を忘れてしまったとして、「あなた」という存在は消えてなくなってしまったのか? そうではあるまい、ということは、知能のすべての情報は「あなた」という存在ではないということだ、「あなた」という実物と無関係にすべての情報が前面・情報箱に入っているということは、前面のそれは実物ではないということだ、裏面の「話箱」のほうにあなたのすべての実物が収まっている、おれはすべての情報を失ったあなたにでも同じ「話」をするだろう、「春の早い時期から沈丁花の花が咲く」。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない16/命、丁寧、そうでなきゃ死

に、おれの書き話しには命がある、とする。
そうなるとなあ……うらやましく思うかもしれないが、そうじゃねえんだよ、おれの命がそこに棲むということは、ちゃんと書き話せないとおれが死ぬってことなんだよ。
死ぬといって、おれが首をくくるわけじゃないぞ、そうではなくて、ガチで命がなくなるのだ、丁寧というのもな、本当はそんな気軽なもんじゃないんだ、1単位あたりに1書き話しではそんなもんすぐ死んでしまう、だから1単位あたりに1万書き話しぐらい突っ込むのだ、そうでないと死んでしまうんだって。
ヘンな例え方をするとだな、たとえば兵士がナイフ一本で戦場に立っているとするだろ、そしたらその兵士さんはナイフで次々に、敵兵をキルしていかなきゃいけないだろ、それはもう必死だ、ナイフ一本でものすごい勢いで敵兵に詰め寄り、首筋にグサーだ、そして「はい次」でまたグサー、そのことを他人が見たら「なんでそんないっつも全力で必死なのwww」と見えるかもしれないけれど、しゃーないんだよ、本当にそこでキルしそこねたら自分が死んじゃうんだから/そうしてナイフ一本で戦場に命を棲ませたらけっこう大変だろ、何であれどこかに己の命を棲ませるというのはそういうことになるのだ、ナイフが敵兵の首筋まで届かなきゃその兵士は即死亡だし、おれの声が受け手のレセプターにまで届かなきゃおれは即死亡なんだ、こんなもんもはや技術でもないし理屈でもないんだよ、もう直接命で挙動しているとしか言えない。

兵士さんのナイフは敵兵の命に届かないといけない、命に届かなきゃ自分が即死、ちょっとモタついただけで「あっ、コイツ」でやはり即死だ。
で、おれが書き話すにしても、ほかの何をするにしても、受け手の命に届かなきゃ自分が即死なのだ、ちょっとモタついただけで「あっ、コイツ」で即死、いちおうそれは「命のやりとり」をしているということになるが、そんなのんびりしたもんじゃねえんだ、「命のやりとりですね」というのも、先に命をグサーと取ってからあとにしかそんな感想をのたまっていられない、なにはともあれ問答の前にもう命に届いていなきゃいけない、それが第一でかつ最低限なのだからあわただしくてしょうがない。
たとえ話として「ナイフで首筋をグサー」とか言っているけれど、それがつまり、内部情熱で内部レセプターにテレポーテーションしなくてはいけないということ、敵兵は銃を持っているのだからテレポーテーションでないと間に合わないだろ、その中で「外部説明」などというと、それはもう短いナイフで敵兵のアサルトライフルとチャンバラをするようなものだ、チャンバラも何も一秒でハチの巣にされるだろう、だからもう初めからナイフが届いているしかないのだ。
アサルトライフル相手にナイフを振り回してもどうにもなるわけがないだろ、だからテレポーテーションしていなくてはならなくて、テレポーテーションしているということは、こちらのナイフ(内部情熱)が向こうの首筋(内部レセプター)に全刺さりということだから、それはもう密着というか一体化のものであって、情報は一万倍も乗っかっているということなのだ、相手のうなじの毛の本数を瞬時に数え終わるぐらいの情報量を得ながらでないとナイフを首筋にグサーはできない、命のやりとりだ、歴史上のコインマジシャンがコイン一枚を指先につまんだとき、指先に得られている情報も、指先から発されている情報も、ふつうのわれわれがコイン一枚をつまんだときとは比べ物にならないのだ、それは本当に一万倍の差があってもおかしくないだろう、そのコイン一枚をつまむということがどれほど「丁寧」なものかはちょっと凡人のわれわれからは想像がつかない。

おれの書き話しがあるから生きていられる、という人がいるだろう。

自慢や自負を言っているのじゃない、「そうでなきゃそもそも成り立たんでしょ」という理の必然を言っているのだ、「命のやりとり」だと何度も言っている、命のやりとりということは、おれの書き話しが命に届くということで、命に届くということは、「これで死ななくて済む」「これで生きていける」ということだ、大げさに聞こえるかもしれないがそうではない、これは大げさではなく「最低限」のことなのだ、おれの書き話しがあったから生きていけたという人がいないのであれば、おれの書き話しは何ら命に届いていないものになり、要するに根本的にどうでもいいものになってしまう。
人は、なんで生きているのかわからないのだ、なんで死んじゃダメなのかもわからないのだ、どんな理屈をつけても無駄なことだ、なぜなら死んでしまえばその理屈さえ消えてしまうからだ、だからもう直接命に届くしかない、直接命に届けばなぜか「あっこれで生きていける」「これで死ななくて済むようになった」という直覚がある、そしてそれは何が起こってのことなのかは、理屈ではないし内部情熱と内部レセプターのことだから当人でさえ捉えられないのだ、それでもなぜか「こういうのがあった」「これは声だ、これはことばだ」みたいな直接の感覚だけあるのだが/もちろん「なんのこっちゃ」と思う人が大勢いることは知っているが、おれはそれに対して「気楽でうらやましいぞ」と応えよう、これが「なんのこと」なのか外部説明していたらおれは死ぬのだ、テレポートしていなければおれは即死するし、あなただって生きていけなくなってしまう。

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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない15/内部に秘められた、情熱とレセプター
れはあなたがどんな人なのか知らない。
あなたがどんな人なのか知らないし、知る必要もない、おれはあなたの人格に用事があるのではなくて、あなたの内部のレセプターに用事がある、おれはあなたの内部のレセプターにおれの話をテレポーテーションさせている。
おれのいちばん手元の炎、その情熱は、手元すぎて内部の情熱であり、おれ自身さえそれを捉えることはできない。
そして、同じていど「内部」に、レセプターも存在している、あなた自身さえそれを捉えることはできないレセプターだ、おれはおれの内部情熱をあなたの内部レセプターにテレポーテーションさせているだけであって、あなたはそれを捉えることができないし、おれもそれを捉えることはできない。

あなたの口座に、おれの口座から送金しているようなものだ。
ただ、それはあなたがアクセスできないあなたの口座であり、おれのほうも、おれがアクセスできないおれの口座だ、ただ口座なので送金だけはできてしまうという、不思議なことが起こる、そこで送金されているのがどのような通貨なのかさえわれわれにはわからない。
もしおれが、あなたの「外部理解」にだけ説明を供するなら、それはまるで、おれが自分の認識口座から下ろして現金化した日本円を、呼び出したあなたに手渡ししているようなものだ、その現金はあなた自身の手であなたの口座に入金されるけれども、それらはすべてあなたの外部の口座あって、あなたの内部の口座ではないから、外部的には役立つかもしないけれど、内部的にあなたそのものにはならない。
たとえばおれがあなたに、外部説明としてはまったく役に立たない話をしてみよう、「カリマンタン島に生息するノコギリガザミの甲羅に太マジックペンでアルファベットRを書いたら、どこかの海で別に書かれたノコギリガザミeと出くわして、海底でReという接頭辞を為すかもしれない」、この話はまったく何の役にも立たないだろう、でもあなたはおれの書き話しを異存なく聞いている、おれのこのわけのわからない話は、外部説明としてはまるでゴミだが、テレポーテーションしている内部情熱としてはウソではなく本物だからだ、あなたは本当はずっとそれを聞いているのだ、そうでなきゃこんな知らん奴の一方的な話をえんえん何年間も聞いていられるかよ。

おれが信じているのは、おれの内部情熱ではない、あなたの内部レセプターだ。

あなたがどんな人なのかは知らん、どんな人というのと内部レセプターの存在は無関係だ、おれがどんなめちゃくちゃでも書き話せて破綻しないのは、ただ読み手の内部レセプターの存在を信じており、率直なところそれが「ある」のがわかるからだ、そこにテレポーテーションが起こっているのが正直なところわかるからだ。
こちらの内部情熱が、そちらの内部レセプターにテレポーテーションするというとき、じつはそのテレポートする情報量は膨大で、だからこそ思いがけずその作業は雑ではなくむしろ丁寧になるのだが、そのことはまた次の記事で話そう、おれの話は内容としてはめちゃくちゃで素っ頓狂かもしれないが、じつはそのめちゃくちゃをずいぶんな「丁寧さ」でやっているのだ、これは内部情熱の性質であり、必要な人にとって大きな手掛かりになる。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない14/外部説明と内部情熱
ちばん手元の炎、いちばん手元の情熱は、手元すぎて捉えられない、それはもう「内部」の炎だ。
よって、自分で捉えられる情熱というのは、内部の炎ではない、残念ながらハズレのパトスだ。
「おれぜったいに、◯◯になりたいんだよね」「わたしああいう△△のタイプ、ぜったい許せないんだよね」、そうしてメラメラくるものは、いちばん手元の炎ではなく、じつは「外部の炎」だ。
あなたが片づけている部屋を、おれが毎日散らかしてみよう、あなたはやがて激怒するだろう、その激怒の感情はとてつもなく強いものに感じられ、あなたにある種の確信を与えるが、それでもそれはあなたの「外部」の炎だ、そりゃ散らかされた部屋から起こる炎なのだから外部の炎だわな。

おれの目の前で、うら若き乙女が、つつましやかなあいさつをしたとする。
おれは無条件で、「なんか知らんが笑わせてやれ」と思っている。
なんか知らんが、愉快にしてやれ、そうなったらもう乙女がどうとか関係なくなっているけれどな/愉快にしてやる……愉快にしてやるとして、それの何がいいのか、おれは大声で「知らん!」と言って、ゲヒャヒャヒャと笑うだろう。
おれのいちばん手元の炎、その情熱は、手元すぎておれの内部にあり、おれ自身さえアクセスすることができない、おれ自身さえ正体をつかむことはできない、ただの炎だ、おれの人格より前にあり、価値観より前にあり、もちろん性格より前にある、それはもはや「おれ」と同時に存在している、「おれ」という存在そのものの情熱だ。

愉快にすることのメリットを、おれは合理的に説明するだろう、だがおれの情熱はその合理を裏切って存在する。

合理的な説明は、それはそれでいいじゃないか、優れたお医者さんは言うだろう、「人が健康で長生きすることがそのままQOLなのだから」、われわれはその説明に納得するし、「ありがたいです」と素直に感謝もする、そうした外部説明の情熱だってそのお医者さんにとってまったくうそではない。
しかし、彼が病人を治療する情熱は、その説明を裏切って存在する、なぜなら彼は医者だからだ、「人が健康で長生きするのがそのままQOLなのだから」という話は、医者ではないわれわれにもわかる、だが彼が病人を治療する情熱は、医者でないわれわれにはわからない、彼の外部情熱の説明は、彼の内部情熱の存在までは説明していない、だから外部説明の受容だけでわれわれは彼のような人にはなれない、内部情熱のテレポーテーションを受容しないかぎり彼のような人にはなれない。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない13/テレポーテーション
術で何かが「届く」ように感じられるのは、錯覚であって、芸術においては二者のあいだに何かが「届く」という現象はない。
芸術においては、「もともと」ひとつだったものが、仕手側と受け手側になり、二つに分かたれたように見えるだけだ、二つの割符が合わせるとぴったりひとつにつながるように見えるのは「そりゃもともとひとつだったから」に過ぎないというわけ、それが異様に「届いている」と錯覚されるだけだ。
芸術においては、本当には分かれていない二者が、あたかも分かたれて見え、あたかもそのあいだに何かが「届いている」ように見えるため、その現象は見かけ上「テレポーテーション」に見える、配達されていないのに届いていたらそれはテレポーテーションだろう。
おれの書き話しているものは、読み手のあなたに理解されて受け取られているのではなく、テレポーテーションで届いているのだ、だからあなたはよくわからない内容でも読み、理解しなくても「読んだ、受け取った」と体験してくれている/もし理解するとしたら、それは読んで受け取ってからあとという感覚のはずだ、それはすでにあなたのところへテレポートした内容をあなた自身で理解しようしている作業であって、すでに届くとかどうとかのフェーズではなくなっている。

おれは、初めて立川志の輔さんの落語を寄席で聞いたとき、第一声、志の輔さんが「えー……」と話し出したところで、誇張でなく衝撃と共に震え上がった、ウワッと同時にエエエエエという感じ、「こんなに話の上手い奴がこの世に実在するのか!!」、そしてまったく興味も知識もなかった落語のやり方と口上が、一撃でおれの内部に流入してきたのだった、それでおれは現在も、まったく練習していない落語が直接やれてしまう/テレポーテーションだ、あんな精度で「話」のテレポーテーションを起こせる人がいるとは思わなかった、おれはそのあと会場を出て路上に倒れ込み、目の前にあったレストランで五人前ぐらいのメシを食ったのだった(わずかも誇張ではない、マジの話だ)。
とはいえもちろん、会場にいた全員がそのような現象に直撃されたわけではない、むしろおれは会場を見渡して、「よくそんな平然と聞いていられるな、コイツの話の上手さはもはや人間業じゃねえぞ」と内心で不思議に思ったほどだったのだが、このあたりの差分はさしあたり、魂のオープン度合いや、魂の練度、育ててきた魂の器量などという感じで、ざっくり説明しておくしかない、魂が鍛えられてきているかどうかというのは確実にあるし、魂を閉ざしているか開いているかというのも確かにあるのだ、横隔膜が魂のスクリーンだったとしたら、そのスクリーンにシミもシワもないということが受け取りのていどを決定するパラメーターになってくるだろう。
そういえばおれは学生時代、アホ合唱団の指揮者をしていたが、そのときこんなことがあった、ある曲を演奏中に、N君が間違ったタイミングで間違った箇所を唄い出そうとしたとき、なぜかおれはそれを指揮台の上から(違うぞ!)と左手で制止したのだった、なぜあの瞬間にN君が間違って唄い出すというのが読み取れのかはいまもって不明だ、団員は五十名以上いたし、N君のいるパートのほうを見ていたわけでもなかったし、N君がどこに立っているかさえ把握なんかしていなかったのに/おれが(違うぞ!)と制止した瞬間、まさにN君は間違った箇所での盛大なブレスを取っていたところだった、N君は「あっ……」という反応を見せて留まり、そして唄っている全員も、なぜかおれがN君のそれを緊急で制止したということが直接わかったのだ、なんでわかるんだろうな? まあそれぐらいでないとやっていて面白くないというふうにも思うが、何をもってそれを察知したのかは不明だ、とてもじゃないが一般的な「届く」という発想では制止するには間に合わなかった。
こういうことから、本質は「コミュニケーションではなくテレポーテーションだ」ということを言いたく思う、人間関係ならコミュニケーションは必要で、社会的にもコミュニケーションは必要だが、それと魂やら命やら芸術やらいうのはジャンルも現象も異なる、まして「空気を読む」というような、媒質を気にするというサイアクの状態をどう工夫したとしても芳しいものは得られないだろう、そしてテレポーテーションといって、人間には念じてテレパシーを起こすような都合のいい超能力なんかないのだから、これはもう、分かたれているふたつのあいだで何かを届かせるという発想はもはや放棄するよりない、テレポーテーションが起こるとしたらそれは「もともとひとつだから」でしかありえないのだ、違うサイフから違うサイフへお金がテレポートすることなんて小銭でだってありえないのだから。

あなたに書き話しているのじゃない、毎回「あたらしいあなた」を降下させて読ませている。

そりゃそうだろう、だっておれは毎回あたらしく書き下ろすわけだから、読み手のあなたも毎回あたらしく下ろすしかないじゃないか、おれの書き話すという能力は第一に読み手をサボらせないことなのだから、サボらせないためには毎回あたらしいあなたを下ろすしかない、おれは使用済みのあなたに「読む」という努力なんかさせるつもりは一ミリもない、おれはそういう「しんどい」ことを人にさせるという意図はわずかも持っていない、おれ自身しんどいことが大の苦手なのだから。
あたらしい布を下ろしたとして、その布には表地と裏地がついているとする、その布はただの布だが、そのあたらしい布をスカートの形に仕立てたら、表地がスカートの形になったとき、同時に裏地もスカートの形になっているんじゃないのか、表地が形成した「スカートの形」は自動的に裏地にテレポーテーションしているだろう、届くとか伝わるとかいうことは必要ない……そして、そのスカートの形をこんどは努力でズボンの形にしろなんてしんどいことは言わねえよ、ズボンが必要ならまたあたらしい布を下ろすに決まっている/芸術の現象というのは、そのあたらしい布を下ろしてくるという魂の能力がもたらすもので、しかもその布地が表地だけではないということ、「あたらしい受け手」も下ろしてくるということで成り立つ現象なのだ、もしそうでなかったら、あなたはおれの書き話しなんかとっくのむかしに「飽きて」いるよ、こんなずっと同じことを、ずっと同じ奴が、テキストだけで言い続けるなんて刺激のないコンテンツなんか、二週間ぐらい読んだらフツー飽きるだろ。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない12/球を投げる奴はピッチャーになれない

りぎり一般的なイメージで掴めそうなところを話そう。
あなたがピッチャーだったとする、あなたは気持ちを込めた球を投げる、その球を誰も受け取ってはくれないだろう。
なぜなら誰もキャッチャーミットを持っていないからだ、通勤途中のサラリーマンはキャッチャーではないのでキャッチャーミットを装備していない。
あなたは初めからキャッチャーにしか投げてはいけない、初めからあなたのキャッチャーしかあなたの投げた球は受け取ってくれない。

あなたがピッチャーをやりたいとして、誰かにキャッチャーを、人間関係として「お願い」するのは誤りだ、もちろん社会的にお願いするのも誤りだ。
あなたがピッチャーとしてそこに立ったとき、誰かが「あ、ピッチャーだ」と思い、いつのまにかキャッチャーミットを装備し、キャッチャーとして向こうに座っているという状態でなくてはならない。
あなたがピッチャーをやれるというのは、速い球を投げられるとか、球をコントロールする技術がありますとか、そういうことではないのだ、あなたがピッチャーをやれるというのは、あなたが<<キャッチャーをサボらせない>>ということだ。
キャッチャーに全身全霊のキャッチングを「させる」という能力、それがあなたのピッチャーとしての能力だ、そしてキャッチャーのほうも同様、キャッチャーの能力は<<ピッチャーをサボらせない>>という能力だ、ピッチャーの能力は第一にキャッチャーへの能力であり、キャッチャーの能力は第一にピッチャーへの能力だ、「球」はそのあとのことだ。

おれの書き手としての能力は、読み手をサボらせないという能力だ。

その直接の能力がない場合、人は「独りよがり」に他人に球を投げるか、そうでなければ他人にキャッチャーを「お願い」することになる、そうなるとそれは芸術のはたらきではないということ、魂でもなければ命でもないということ。
分離しているピッチャーとキャッチャーのあいだに球が交わされるという捉え方は誤っているのでやめたほうがいい、ピッチングとキャッチングが行われるのはもともと「バッテリー」だからだ(投手と捕手の組み合わせを野球用語でバッテリーという)、分離している二者がバッテリーになることはありえない、もともとひとつのバッテリーが投げ手と受け手になるだけだ、そうでなきゃ球は届かない。

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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない11/苦手
たつのあいだに何かが届くというのが最大の誤り。
だから逆にいちばん届かないものを考える。
原点から距離ゼロの昂り、距離ゼロなのだから外部には届かない。
原点から無限遠点にある叡智、無限の距離なのだから届かない。

いちばん届かない場所で起こる現象。
長さゼロのナイフがあなたに刺さるわけはないし、無限遠点に着弾する砲弾があなたにヒットするわけがない。
おれの昂りはあなたに刺さらないし、おれの叡智はあなたにヒットしない。
もしそれがいちばん届くように体験されるなら、じゃあ「届く」というのとは別の現象が起こっている。

あなたのすべての得意分野に、おれはいない。

あなたがこの宇宙のすべてを得意になったとしても、その得意分野におれはいない。
おれはあなたの永遠の苦手分野にいる、わずかも得意になる必要がないからだ。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない10/昂る原点と叡智の無限遠点
なたとおれ、ではない。
あなたではない何かと、おれではない何かだ。
すべて、「もともと」のところから分かたれて降りてきている。
仕手と受け手に分かたれて/だから結合するのじゃない、「もともと」からひとつだ。

ふたつのあいだに何かが届いているのじゃない。
ふたつを結合する願望への興奮はハズレだ。
もともとひとつに従う昂りがアタリだ。
いちばん手元の昂りは、いちばん遠くとつながって得られている。

いちばん手元は近すぎて認識できず、いちばん遠くは果てすぎて認識できない。

おれはあなたの認識では到達できないほどのバカの原点だ、同時に、おれの叡智はあなたの認識の到達できない無限遠点にある、だから現象の主題はおれではないしあなたでもない、何か別のものだ。
おれの声は、あなたに一番近く聞こえ、同時に一番遠く聞こえる、思い出がいちばん近しく、いちばん遠いようにだ。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない9/手漕ぎではない力
たしはゆける。
わたしを慕う人を連れてゆくこともする。
だからわたしの横に並ばないでくれ。
横に並ぶのだと誰に習った、誰に弁を壊されたか。

あなたが原子炉のフタを開けたら、この船は飛ばない。
そしてあなたがただ焼かれるだけだ、あなたが原子炉の足しにならなくていい。
おれを慕う人へ、おれはおれだけでは飛ばない、おれを慕う人は連れてゆく。
あなたの手漕ぎの動力とは違うのだ、おれを慕うあなたは、この船の旅を楽しめよ。

おれがあなたを焼くのじゃない、あなたが原子炉から退避しないだけだ。

手漕ぎの動力なら覗き込んでも平気だが、原子炉だとそうもいかないだろ。
尊敬もしないでくれ、軽蔑もしないでくれ、われわれは太陽の光がなければ死滅するが、その光を浴びてあるというのは、太陽爆発に首を突っ込むということではないはずだろ。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない8/いちばん手元の炎
題に戻ろう。
ああ……あの感動と興奮を、昂りを。
それは若さの現象だ。
それが人に嫌われるのだ。

嫌われるだけならまだしも、人を恐慌させる。
しかし本当のことは変わらずある、どうしたらいいだろう。
感動と興奮、昂りなのだ。
それのアタリとハズレがあるだけだ、わたしは嫌われてしまう。

震えているのはおれだ、おれは単純でバカなのだ。

なんだこの直情的なものは、これはこころだ。
いちばん手元の小さなこころが、無限遠点のこころとつながっている、おれの炎は消えていないどころか衰えてさえいないのか、自分であきれる。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない7/恐慌と安心について
心、という語を用いて、ふと面白いことに気づいた。
現代人はかつてよりずっと切実に「安心」を求めているだろう。
身に迫る危険があるわけではないが、何らの危険がなくとも「不安」はいくらでも湧きおこる、仮に自分が十万年後に死ぬということになったとしても、そのことに不安が湧きおこる。
不安というのは苦しい状態だから、人は安心を求める、そして得たはずの安心が、手元で唸り始めてじつは黒蛇の子だったというとき、人は頼れるものすべてを失って恐慌に陥る。

わたしがあなたに与える安心の話は、たとえば「春の蒸気が高地の草原を芽吹かせるだろう」ということだ、その中で野菜も育つのだ……このことは一般にイメージされるところの「不安を癒して安心を与えてくれる話」ではまったくない、不安に追い詰められている人はわたしの話では満足しないように感じるかもしれない。
だがこのことの謎は「違和感」というキーワードで解くことができる、われわれの奥深い違和感は、物語の主題を「わたし」にしていることに生じている、主題は「春の蒸気」「高地の草原」なのに、そこで主題を「わたし」にすることで違和感が生じているのだと、先の記事で説明した。
ということはだ、あなたが「わたし」を主題している中、その「わたし」の違和感、「わたし」の不安が高まっていくわけだが、その「わたし」にさらに安心を “与えた” として、それは逆効果ではないか? 一時的には「わたし」が安心を獲得したように思えて癒されるように感じるかもしれないが、それは後になって黒蛇の子に転じるはずだ、「あれほど安心に思えたものに、何か違和感が湧いてきた……」。
じっさい、「春の蒸気が高地の草原を芽吹かせた」として、そのことで「ギャー!」と恐慌に陥る人がどこにいるだろう? どこかの海にどこかの風が吹いているということで発狂する人はいないし、東の空に明けの明星が浮かぶということを問題視する人はいない/「わたし」に与えられるもの・「わたし」が得たものというそのことじたいが違和感であり、不安となるのだから、「わたし」に与えられた安心というのもハズレなのだ、春はあけぼので山際は白くなっていくのだが、それは誰の「わたし」に与えられたものでもない、あなたがそれを写真撮影してあなたのアカウントでアップロードしたとしてもそれはあなたの「わたし」に与えられたものではない。

現代人は、「春の蒸気が高地の草原を芽吹かせるだろう」に「わかりません」で “対抗” する。

なんともアホみたいな話というか、アホそのものの話だと思うのだが、本当に「わかりません」と言い出すのだ、エエッ、わかりませんと言われても、こんなものにわかるもクソもないじゃないか……しかしじっさい、リアルにだ、「春の蒸気が高地の草原を芽吹かせるだろう」と言ったとして、それに「そうですね」とそのまま引き取る人はほとんどいなくなってしまっている。
また五月近くになれば海の向こうからツバメがやってくるだろう、そんなのめちゃくちゃ当たり前の、この世界の物語じゃないか、それについてもなぜか無理やり「むん・むん! そうですねっ、ウフフッ。楽しみ、ですッ☆」みたいな答え方で対抗するのだ、五月近くになったら東南アジアからオマエが飛んでくるのかという、アホみたいな話じゃないか、こんなヤツが自分で「何か違和感あるんです」と言い出したら、世界中の合唱団が「そりゃそうでしょーよー」とハーモニーを奏でるだろう、五月近くになったらわれわれの人里にツバメが飛来するというのはこの世界の物語であって、その中でテメーが「ウフフッ!」とすることは物語にはカウントされてねえよ、コイツの違和感をなくすためには怒れるピーター・アーツがコイツのこめかみに全力のハイキックを叩きこむしかない/ともあれ、「わたし」に与えるから違和感が募って恐慌に陥るのであって、「わたし」に与えるのは不安でも安心でも同じなのだ、五月近くにオマエが海の向こうから飛んでくるというなら空自が全力を挙げて撃墜すると思うぞ。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない6/奥深い違和感について
常において、わたしは自分のことを「わたし」と思っているし、あなたもあなた自身のことを「わたし」と思っている。
そのことじたいが致命傷なのだ、主題も主体もその「わたし」にはない。
わたしの「わたし」が夕暮れを体験しているのではないし、あなたの「わたし」が夕暮れを体験しているのでもない、空が夕暮れを体験している。
われわれが自分のことを「わたし」と思っている感覚じたいが、錯覚の産物で、それじたいが致命傷なのだ、この世界にはもっとそうではない本当の「わたし」が潜んでいる、本当の主題・主体が存在している。

あなたを安心させる話をいくつかしておこう、たとえば男と女がくっつくとして、それはわれわれの「わたし」に獲得されるものではない、だからわれわれはそんなものを獲得しなくていい。
男が女を獲得するとか、女が男を獲得するとかいうのは、「われわれ」の話ではないのだ、東の空が明けの明星を獲得するとして、それは「われわれ」の話ではないだろう? 雨につばきの花が落ちるとして、それは雨とつばきの花の話だ、「われわれ」の話ではない。
われわれの致命的な「わたし」という錯覚は、そもそも自分がこの世界の主題たりうるという錯覚をもたらすらしい、その錯覚に囚われているかぎり、ずっとヘンな違和感があったはずだ、恋人を得たはずなのにどこかに違和感があり、財産を得て居城を構えたはずなのにどこかに違和感がある、その違和感は正しいのだ、主題がわれわれの「わたし」ではないということに気づいていないため、「わたし」の獲得するものについてはずっと違和感が残り続ける/「確かに得たはず、得ているはずなのに」。
次第に本題の、芸術の話に移行していこう、ここで話の仕手側はわたしで、受け手側はあなただ、でも本当はそうではない、話の仕手側は仕手側であって、受け手側は受け手側だ、話す者と聞く者だ、あなたでないものに話は受け取られ、その話を発しているのもわたしではない/夏の花火はイベンテーターと花火師から観衆に届けられるものだろうか? そうではなく、花火が夏の夜空に届けられるだけのものでしかないのではないか。

あなたが優れて発する必要はなし、あなたが秀でて受ける必要もなし、あなたは主題ではないのだから。

「郵便物は郵便受けに届く」のだが、優れた郵便物はわたしではないし、秀でた郵便受けもあなたではない、あなたが玄関先で口を開けて秀でた郵便受けのふりをするというようなこと、その口に請求書のハガキが押し込まれるというようなことには、いかにもわざとらしさと違和感があるじゃないか/郵便物は郵便受けに届くのだし、男と女は愛し合うのだし、夏の夜空を花火が飾るのだし、どこかの海にはどこかの風が吹く、「わたし」がそのすべての真似事をする必要なんてあってたまるか。
あなたはさまざまなことに、本当は奥深い違和感を抱えているはずだ、その違和感は致命的なものとしてあなたを最奥で苦しめてもいる、そこでわたしがあなたに唯一正しいことを教えよう、その違和感は必ず「わたし」が覚えているだろう? ということだ、春のこずえに東風が吹くというとき、春のこずえや東風が違和感を覚えたということはないだろう、違和感の主体は必ず「わたし」だ、違和感の正体は何かの過不足ではなく、物語の主体・主題を「わたし」だと設定していることに生じているのだ、だから何を足しても違和感は消えないし、何を断捨離しても違和感は消えない。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない5/どこかの海にどこかの風が
かし「わたし」とは何であろう。
わたしにはそれは、解決する必要のないものに思える。
何か無数の「物語」があるのだ、主題はそれに与えられ続けている。
そして物語は「わたし」に与えられないものなのだ、それがいいのだ、わたしに与えられないもの、わたしにわからないもの、それがずっと機能し続けている、なぜそれがわたしのよろこびになるのかはさっぱりわからない。

先日わたしは (+)手…Ω…手(−) という図を示した。
これは物語の図であり、主題の図だ、そしてこの図の中に「わたし」にかかわるものはない。
どこかの海には、どこかの風が吹いていよう、(+)海…Ω…風(−) だ、わたしに与えられているものは何もない、それがいいのだ、シビれるぐらいにイイのだ。
「わたし」は解決しなくてよいのではないか? 物語が、主題が、満ちるのであれば、われわれは始終それを祝うぐらいの存在でしかないのではないか、わたしはそれでずっと浮かれているのだと思う。

どこかの海には、どこかの風が吹いている、どうやってこのわたしに勝とうというのか?

あなた「が」わたし「に」勝とうとか、どうこうしようということは、どこまでも主題にはならないことだ、主題にさえならないことでどうやって勝利を得るというのか、そうなるともう主題そのものを曲げるしかないではないか、その意地によって海も風も失ってしまうのだろう、その向こうでよろこびを吹聴するのはすべてうそだ。
赤紫色の西の空には、紺色に磨かれた東の夜空が向き合っている、相互に与えられたもの、わたしには与えられないもの、果てしないよろこび・歓喜、わたし以上のものが満たされて解決している、わたしを解決させる必要はない。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない4/追い求め「ない」もの、与えられ「ない」もの

それぞれ、追い求めるものがある。
わたしは、本当には、追い求めるものがない、すでに与えられてあるからだと説明したいが、本当には、与えられないものがあるからだ、と説明しないといけない。
わたしでないものが存在し、それが「わたし」だ、それが与えられないということが、わたしのよろこびなのだ。
わたしでないものに、何かが与えられている、それがわたしのよろこびだ、わたしはその中にいる、なぜなのかはさっぱりわからない、このわからないものをここでは「それ」とでも呼んでおくしかない。

わたしは、本当には、芸術に興味なんかない、けれども芸術は現れなくてはならないと思っている、わたしがずっと「それ」の中にあるという証のために。
わたしはすべてのものがわからないのだ、わからないということは与えられていないということ、与えられていないということは、わたしでないものにそれが与えられているということ、それがわたしのよろこびだ、なぜなのかはわからない、ただわたしはずっと「それ」の中にいる。
求めれば与えられるというのは事実だろう、しかしその「与えられる」というのは主題ではない、わたしに何かが与えられるということは主題でなく、わたしでないものに何かが与えられるということ、わたしに与えられないものがわたしでないものに与えられるということ、それが主題だ。
芸術なんて何の得にもならないが、得にならないのなら、そのことはわたしから現れなくてはならないだろう、わたしはわたしに与えられないことがよろこびと言うのだから、「得」にならないよろこびのものはわたしから現れていなくてはならない、つまり芸術の主題は何かというと「芸術でないもの」が主題だ、わたしにはその主題があるということ、わたしは「それ」の中にあるということを、それを確かめるためにわたしからは芸術が出現しなくてはならない、芸術それじたいは主題ではない。

夜の山には、夜景がある、わたしに与えられたものではない、わたしは「それ」の中にいる。

夜景は夜の山に与えられたものだ、わたしに与えられたものではない、それが好きだ、すべてわたしにわからないものに与えられているものが好きだ。
テクノロジーの進化と共に、また世の中の進化と共に、たくさんの人がたくさんのことを「わかる」ようになっていった、それはすごく便利なことだった、与えられるもの・得るものはたくさんあった、だがそれはわたしのいう「それ」ではないのだ、わたしでないものにわたしのわからないものが与えられつづけている、わたしはそれをここで「それ」と呼び、果てしないよろこびを今も持っている。

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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない3/独りよがりからの脱出はとても困難だ
かし、どこかの音楽大学の、卒業制作か卒業公演かのオペラを鑑賞した、友人が招待されてそれに同道する形で。
上演されたそのオペラは、演者たちが緊張していたのか、いやたぶんガチガチにアガっていて、正直なところ、最初から最後まで「何をやっているのかさっぱりわからなかった笑」、そうしてわかりやすく語尾に笑の語をつけたくなるほど、それは本当にわけがわからなかったのだ、ガチガチにアガるとそうなるものだろう、現在のわたしなら「むしろ学生さんが全力でやろうとしたらああなるのも自然なんじゃないの」といった生意気な感想を持ちそうだが、当時のわたしはまだそのような偉そうなことを言える年齢でもなかったので、ただただ「うーん何をやっているのか最後までまったくわからなかった」という素直な感想を持つにとどまった。
卒業公演の彼らに「悪意」があったわけではなく……そりゃ当たり前だ、誰が自分たちの卒業公演で「悪意」を発揮しようとするだろう、彼らの卒業公演は結果的に典型的な、初々しさを含んだ「独りよがり」の懸命さになってしまったのだが、それは彼らが若すぎて未熟すぎる者たちだったからか、その向きももちろんあるだろうけれども、彼らがその道をその先ずっと進んだとして、十数年後には独りよがりではなくなっている「だろう」と、わたしは予測するものではない。
一方的にしゃべって独りよがりな老人というのはいくらでもいるだろうし、その道で何十年という教職でも、独りよがりでぜんぜん頭に入ってこない授業をする学校の先生というのはいくらでもいておかしくないだろう、あるいは彼氏のセックスが独りよがりだったとして、彼と結婚してセックスが十数年後は別のものになっているというわけでもないだろう、独りよがりという単純な問題は、単純なままわれわれにしばしば克服不可能な宿痾のように残り続ける、それでわたしはむしろ冒頭の「ガチガチにアガっていた」卒業公演の彼らを思い出すと、むしろ輝かしく思うのだ、そこには独りよがりに「なってしまう」ということの避けられない体験を生身で食らう若さがあった。

あなたが若い女性だったとして、あなたよりさらに若い男性が、あなたをナンパしてきたとする、そのとき若い男性が、包み隠そうともせず緊張でガッチガチだったとして、そのことはあなたを当惑させるけれども、それは比較的あなたに不快感をもよおさせにくいだろう、ナンパなんてもともと一方的なハタ迷惑の行為なのだから、その前提の只中に立って、しゃあしゃあと初対面の女性を笑わせて和ませるなどということのほうがふつうの人間の神経ではできないことだ、ガチガチにアガっているほうがよほど愛嬌がある、彼がそこから甘えに転落しないかぎりは……/じっさいにはどうだろうか? ナンパといっても大半は、女性の側で内心「あー」とお約束のひとつとして受け取られるのみで、よほど退屈していたら受けるかもしれないが、そうでないかぎりそこにまともなコミュニケーションなど受け取らない。
あなたにちょっかいを出してくる若いナンパ男は、残念ながらたいてい若いくせに「スレて」いて、ナンパといってもそれぞれ定番の「パターン」を繰り出してくるだけで、何も魂が震えるような勝負をかけてくるわけではないのだ、それで「どう? おれ面白いでしょ」「いいじゃんいいじゃん」というような空気を読ませようとしてくるのだが、それがつまり独りよがりだということだ、女の子の側は内心「つまんね」と思っているのにナンパ男の側は「イケてる」と思っているあたり、これを独りよがりと呼ばずしてなんと呼ぼう/そこで「つまんね」と思っているなら女の子もついていかなければよさそうなものだが、それはそれ、ナンパ男についていく以上に万事が「つまんね」と思っているから、いちおうついていっちゃえということも起こり得るわけだ、都心まで出て来たのにすることがなくて一時間半かけて地元に帰るというのはあまりにつまらなさすぎるということはあるだろう。
「つまんね」ということに引っ掛けて、あなたが誰かに、「毎日同じ仕事に行って、毎週同じ週末を過ごして、最近つまんないんだよね」と話したとしよう、なんとなく相談の雰囲気を漂わせてだ、それを受けてその誰かがこのように応えた、「あー、それね? はいはい、わかる、でもそれってさあ、自分から楽しいこと見つけにいくしかないと思うんだよね。だってオレの場合とかさあ」、そうするとこの会話はもはや会話ではなく、ただ目の前の “コイツ” が、自分の気分として言いたいことを “くっちゃべっている” だけだ、あなたの側は内心で「はーぁ、ちょっとは人の話を聞けよコイツ」と思っている、しかしそんな思いは伝わらずに彼は引き続きイケているふうのつもりになって、独りでくっちゃべって独りで調子をアゲていく、そうしたらこの彼もやはり「独りよがり」だ。
「わたしすっごい恋愛体質で」という女性が、食事を共にした男性に対して「あたし、一緒に◯◯ランド行きたーい!」と、アピールというよりは要請して、本人はラブロマンス的なムードの中にいるつもりなのに、相手の男性は「げっ、マジでカンベンしてくれよ」とのけ反っているということがある、これも独りよがりだ、それで当人は「わたし、束縛は強いかもだけど、そのぶん控えめで尽くすタイプなの」と自称しており、周囲の全員は(そんなことまったくないと思うけど)と閉口していたりする、そういう「独りよがり」がわれわれにはありふれており……そのどれもこれも、他人事なら笑っていられるが、宿痾のように逃れられないのだと思い知るころには、いいかげん笑ってもいられず、どこまでも本当にしんどいものになってしまうのだった。

自分が独りよがりかどうかは、自分の取り組んだ芸術実作が教えてくれる。

冒頭、卒業公演に臨んだ彼らは、何もわざわざ「独りよがりの集団」だったわけはあるまい、ふつうの健全な、ふつう以上の努力をした、ふつうの輝ける若者たちだったはずだ……そして芸術への取り組みが、彼らを「ふつうの独りよがりの若者たちだ」ということを開示して、自他にそのことを教えてしまう/わたしはわたし自身の経験を通してじつに思う、われわれが独りよがりを脱出するというのは容易なことではなく、脱出できていたとしたらそれはまるで奇蹟のようであり、それだけでひとつの到達点なのだ、それはまるで「ふつう」のことではないとわたしは思う。
さてそれで、われわれは、いまからわたしが述べるところに対し、「なるほど」と斉唱してワッハッハと笑う準備をしようじゃないか、卒業公演の舞台に立った彼らは、きっとふつう以上の努力をしてきた、ふつう以上の真摯さと懸命さを持った人たちだった、われわれの日常において彼らから「独りよがりな人」という印象をまったく受けないだろう、それはまったくそのとおりだとわたしは肯うことにする、だがわたしは知っているのだ、「そりゃ何のプレッシャーもない中ならね」、なるほどワッハッハというところじゃないか/魂の試練、裸で無防備の場所、最も傷つく環境、そこでわれわれがじつのところ「独りよがり」を脱却などできていないということが現れてくる……むしろ一般的な日常環境にあるときなんかどうでもいいんだよ、そうでない環境に立たされたときに独りよがりでないかどうかが問題だ、そのことを芸術があなたに教えてしまうだろう。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない2/芸術の当然の入口について
つう、同人誌として書かれた小説がウェブサイトにアップロードされていたら、次のような説明文が先に付属していそうだ、「小説に初挑戦しました!! 駄文ですがよろしくお願いします!!」。
これは、他人の友好性に頼って、あるいは頼み込んで、自分の小説を読んでもらおうとしているので、「他人をアテにしている」ということになる、もちろんそれがひたすら「悪い」というわけではない、そもそも「同人」というカテゴリでそれをしているということは、その「同人」の範疇にある他人をアテにしているのだから、取り立てて悪く言われるようなものではないだろう。
最近は同人と二次創作が一緒くたになっているが、二次創作の場合、たとえばマンガAを原作にしてそのパロディや官能小説を書くのなら、そもそものマンガAのファンをアテにして書かれていることになる/仮に「ドラゴンボール」のパロディ小説を書くとしたら、いちいち「悟空と呼ばれている男は少年のような相貌に無垢な両眼を持っている……しかしその体躯に現われている形状のとおり瞳の奥には徒手格闘への無条件の渇望を宿しており、彼は単なる意気軒高とは言えない天衣無縫の青年だった」というような描写はされない、ドラゴンボールのファンなら「悟空が」と言えばそれだけで共有しているイメージがあるからだ。
「他人をアテにしている」、たとえばピアノの発表会や、漫才のコンクールがあったとして、それらは前もって「審査員」に権威が与えられている装置となっており、その審査員の装置をアテにしているということはやはり他人をアテにしているということになる、だからたとえば漫才のコンクールが人気コンテンツとしてあったとして、そのコンクールの翌日に「出場者たち全員がライブ会場の壇上に現われて漫才をしますよ」ということを企画したとして、その会場にたちまち無数の人が駆けつけるというのでないなら、その漫才は単体の芸事としては成り立っておらず、じつは彼らの漫才そのものはそこまでの人気がないということになる/あるいは以前から流行している「ゴットタレント」系でもそうで、やはり審査員と審査の装置がゴージャスに盛り立てられているけれども、そこに出て来たパフォーマーじたいが単体で人々を呼び集めて喝采を浴びるかというと、そうでない場合が多く、そうでないならそれは単体の芸事としては成り立ってないということになる、少なくとも人気があって喝采を受けるものではない、これらはすべて「他人をアテにする」ことでのみ成り立っており、善し悪しの以前に、ただわれわれがそのことに欺瞞されやすいという事実がある。

芸術は他人をアテにしないものだ、だから芸術には友好性に頼み込んだ「よろしくお願いします!!」は付属していないし、演出された審査員の「お墨付き」もない、だから小説といえばただ「紙に何かフィクションの物語が書かれている」ということのみで成立していなくてはならない、絵画ならただ「キャンバスに塗料で何かが描かれている」ということのみで成立していなくてはならない。
ではまったくそのように、あなたがただ「紙に何かフィクションの物語を書いた」とする、するとその実物は、周囲の人々の目に触れたとしても、人々からは「なにこれ」とほのかな嫌悪だけを伴って見える、まず無関心の対象であって、そもそもその小説が「誰かに読まれるということじたいがないだろう」ということが、ほぼ 100% の確率で言えてしまう/仮に文面にちらりと目を遣ることがあったとしても、その時点で人々は「きもちわる」と思うだけであって、そこに自分の出会うべき何かを見つけたと感じるというようなことはまずない、それこそ 100% ないと断言して差し支えないことだ。
あるいは、最近はあまり見かけなくなったが、かつてはサブカルチャーに近縁のムードがある街の駅前などにおいては、ギターやキーボードを持ちだしてのいわゆる「弾き語り」というのがどこにでもいたものだった、あなたもその弾き語りが唄っているのを聞いたことがあるだろうし、幾人かがその演奏に足を止めているのを見かけたこともあるだろうが、冷静に見るところ残念ながらそこで足を止めて関心を向けている人はいわゆる暇人か、何かしらでさびしい人、あるいはいささか疲れている人であって、われわれがその弾き語りの前に十五分でも足を止めて、そこで「真の音楽を体験した」ということは、やはり 100% に近い確率で「ない」と言えてしまうものだ。
つまり、「他人をアテにしない」ということは、プレイヤー本人の意思と選択によって可能ではあるのだが、他人をアテにしなければこんどはそのまま「独りよがり」ということが現れるのだ、誰にも読まれない小説が押し出され、誰にも聞かれない歌が努力される、それは数年も続けるとそれなりにつらいことなので、どうしてもそのプレイヤーは工夫を考えてしまう……たとえば弾き語りをしていた女の子はメイクと衣装を整え、肌の露出を計算して、通行人の下心にアプローチして彼らの足を止めようとするだろう、しかしそれで彼女のまわりに人だかりができたとしても、やはり聴衆に見える彼らがそこで「真の音楽を体験した」ということはないわけだ/芸術というのはこのように、単純にいってひどく成り立ちがたく、さらにその挑戦者をズタズタに傷つけるということを当たり前の性質にしている。

「審査装置に頼っているだけで、ひとりでやっても誰も読まねえし聞かねえよ」、この当たり前ことを指摘するだけで、ショックを受ける人がけっこういる。

こんなことは、おれにとっては当たり前のことなのだが、ほかのすべての人にとっても当たり前のことなのかというと、あんがいそうでもないらしい、おれなんか昔もいまも「こんなもん誰も読まんやろ」というつもりで書き続けている、その上でおれはおれの書き話しを聞き逃した人に永劫にわたる大損をさせてやるぜというつもりで書いているのだが、そのフィールドじたいが一部の――多くのか――人にとってはどだい「無理」で狂気のように思えるらしい/しかし芸術というのはそういうものなのだからしょうがない、このフェアな入口から行けばいちおう行先は芸術だが、入口を変えてしまうとその先はもうどう進んでも芸術ではない、行先はすべてなにかしらの「営業」になってしまう。
「よろしくお願いします!!」と人間関係を頼ったら「他人をアテにしている」のだし、審査装置を経由したら社会的関係を頼っているのだからやはり「他人をアテにしている」わけだ、それらを取り外したらどうなるか、じつは「独りよがり」しか持っていないということが明らかになってくる、おれは同じように人にショックを与えるらしい単純な言い方を、ここに限ってじっさいの会社名を使って言ってしまおう、いわく「まさかお前、漫才師が吉本を辞めたら、漫才師じゃなくなると思っているの? もしそうだとしたら、その人はもともと漫才師じゃなかったんだよ」、そりゃそうだろう、おれは手品師だけどどこの事務所にも所属したことないぜ、ビリージョエルが音楽事務所との契約を終えたらミュージシャンでなくなるのか……これに関してはさすがにおれの言っていることのほうがまともなはずだ、一部の――多くのか――人が「他人をアテにする」度合いのほうがすでにまともじゃないってことなんじゃないだろうか。
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芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない
んにち、芸術はまったく無意味なものになり、芸術は死んだと思われているけれども、それは誤りであって、事実は単に彼らの扱っているものが「ニセ芸術」だということにすぎない/芸術には永遠の命があるのだから、芸術が死に至ることはありえない、そんなもん「自分が死んでいるのを芸術のせいにすんな」というだけだ、死んでいるのは気取っているテメーであって芸術の側じゃねえよ、どこまで往生際悪いんだよって話だ。
芸術は、いわずもがな魂の根幹・精髄へのアプローチだ、魂の根幹というのもあいまいな意味で言っているのではなくて、存在そのものの一番根っことしてある事象にアプローチしようという具体的なことだ、たとえば「車」という存在はエンジンやタイヤ、ステアリングやガソリンによって存在しているのではない、究極的にはその form・形式によって「車」が存在しているとしか言えない、タイヤの動かない木彫りの車だって「車」なのだから……しかしそこに命がなければそれは単なる記号・イメージでしかない、形式に永遠の命があるということ、そのことがイグジスタンスそのものだというのが、たとえばウィリアムブレイクの想像力論に語られているわけだ。
こんにちにおいて、芸術が死んだとかそういうことはまったくなくて、われわれのほとんどが死んだ or 死にかけ寸前ということであって、この期に及んでもわれわれが見苦しく自分の弁解を優先しているということにすぎない、さっさと「ニセ芸術のボクちんは死んでいるゥゥゥ〜 あべしっ」と言え、ニセ芸術のボクちんが死んでいるのは芸術のせいではなくそいつ自身のせいであって、そいつは仮に芸術に触れず北海道でジャガイモを生産していたとしてもやはり死んでいるのだ、この「魂の最奥で死んでいますグッバイ」ということが、思ったよりシャレにならんから、われわれの現代はなんか知らんが阿鼻叫喚が満ちているのだ、自分なりのまともな作品がひとつでも提出できたらほとんどのことは「まあいいか」で済むのであって、知り合いでもない芸能人のスキャンダルに絶頂痙攣爆裂ツイートなどするわけがないのだ。
著名人がスキャンダルを起こすと、その「におい」は一般の人よりもずっと遠くまで広がってしまうから、そこにブンブン羽音を立てていろんな人が集まってきてしまうのだが、それはもうハエのような挙動であって、正義の炎上どころか実体の挙動はベルゼバブだと言ってよい、ハエの王に使役されて臭いものにハエたちが寄ってくるのだ/このようなおれのずいぶんひどい言説を、むしろきっと週刊誌の発行者のほうが肯定するだろう、彼らはプロだから、どういうメカニズムで自分が糊口をしのいでいるか、一般の人よりもずっと深くわかっているはずだ、週刊誌のプロの側が週刊誌のファンたちを軽蔑していないわけがない……B’z が唄っている歌詞にこうあるが、「うたぐり深いやつになっちゃったのは 週刊誌のせい じゃないオマエのせいでしょ」、週刊誌のプロの側もそう思っているのだ、こんなハエみたいなものはぜんぶ読者たち「オマエ」のせいでしょと。

おれはここにわかりやすい言説を示しているように見えるが、実はそうではないということが、賢明な読み手には察せられていよう、そのことの証拠を示すならこうなるパイナップル、「お前の来世はパイナップルの芯」「ああ〜 パパイン」、と、おれの言説にはこのようなものが含まれたとしても何の破綻も違和感も生じず、むしろ「うむ」「これですよ」「来た来た」と、その品質と本質がよろこばれるのだ、お前の来世はパイナップルの芯と決めつけて語られるのには、真実が天啓によって示されたかのごとき深いよろこびが伴う。
なぜこのようなことが可能なのか、あるいはなぜこのような事象が現れるのか、それはおれの「書き話す」という行為が、一般的な原理から挙動していないということに依る、じゃあその一般的でない原理とは何かというと、その「根幹」とか「精髄」とか、「イグジスタンス」と呼んでいるところのやつ、そこから挙動しているのだということたになる/そこから挙動していることによって何が起こるか? そして、そこから挙動しないとどうなってしまうか、何が起こってしまい、何が起こらなくなるか。
われわれの「存在」の根幹、われわれの出現する源流、「もともとのところのやつ」においては、われわれは誰かと誰かに分離はしていないようだ、AさんBさん・お前オレというふうに分離しておらず、存在はただ存在のようだ、その分離前の存在の主体性として「書き話す」とどのようなことが起こるか? それは、分離する前にそのような「話」が決定したので、分離後に「書き手」と「読み手」が発生するのだ、それでおれは「もともと」のそれを書き話すのであり、あなたも「もともと」のそれを読み聞くのだ、いまここで思いついたことが語られて、そのことをあなたがお付き合いで聞かさせているのではまったくない。
たとえば山の頂上で一枚の板を割符(わりふ)にし、それぞれが山の東、山の西へと降りていって、すそ野で割符を合わせたら、それがぴったり合うのは当たり前のことだ、すそ野で合流する前からあなたはその割符の片割れを与えられているということ/おれはおれの書き話しをあなたに読ませるより前から、あなたを「読み手」としているのだ、だからここに人間関係はなく、また社会的関係もない、よってそうした「一般的なやりとり」としては破綻する「お前の来世はパイナップルの芯」「ああ〜 パパイン」を挿入しても破綻しないということだ、「関係」じたいがここにないのだから「関係」が破綻することもありえないだろう……賢明な読み手はいまから示されることに「そのとおりだ」と気づいてゾッとしなくてはならない、「お前の来世はパイナップルの芯」というのが破綻しないように、「週刊誌のせいじゃない オマエのせいでしょ」「ああ〜 liar!」というのも破綻していないじゃないか、芸術が死んだなんてウソだ、それはただの「社会人と人間関係」の阿鼻叫喚でしかない。

AさんからBさんに何かを伝えようとするのは「人間関係」であり、Aさんの「立場」からBさんの「立場」に何かを伝えようとするのは「社会的関係」だ、そのどちらも芸術性はない。

たとえば学生のAさんが「紙芝居をやりたい」といって、紙芝居サークルを立ち上げ・主催したとする、そのAさんに対しBさんが人間関係として共鳴・協力し、紙芝居サークルが活動を始める、そして紙芝居サークルの活動という立場から、それに付き合おうと考えたCさんが観衆を集めて、結果的に無事に紙芝居が上演されたとしても、そこに芸術的なはたらきはなく、魂の根幹・命のどうこうに及ぶものは得られてこない、紙芝居サークルという立場と観衆という立場をそれぞれ守るのは社会的にはまともで健全なことだし、BさんがAさんに協力したというのも人間関係として前向きなことだが、そうした営為と芸術の命は根本的に異なる/そうした営為が悪いと言っているわけではなく、そうした営為で魂やら芸術やら命やらにアプローチしようという目論見があるのは無理のある「標榜」にすぎないということ。
おれはもちろん紙芝居に関心はないが、紙芝居なんか用いずとも、仮に小さい子供に「黒い水からみにくいバケモノが出て来て、お前の内臓を食らい尽くしてしまう」とでも話せば、子供はショックを受けて泣き出してしまうだろう、そういうのはシャレにならないので本当にやってはいけないのだ(そこまでひどい話をしたわけではないが、すでにこれまで実例がある)/「芸術は独りよがりでなく、しかし他人をアテにしない」、おれが書き話すというのはおれだけ孤独に何かをつぶやいているわけではないし、かといって「ファン」やら「フォロワー」やらに仲良くしてもらってお付き合いを頼んでいるわけでもない、このことが実現するためには先に示したわけのわからない「もともと」、存在の源流に依って挙動するしかないのだ、もう少しこのシリーズを進めていこう。
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主体はわたしではなかった11/先手…Ω…後手 の否定と破綻
さんは、何かが「ちゃんとしている人」だったとする、何か本当のことができている人だった。
Bさんは本来、Aさんに応えなくてはいけない役割の人だったが、Bさんはそれが「ちゃんと」はできておらず、本質的にはいわば「ポンコツ」と見えたとする、それを見ているとCさんはBさんに対し、「あれはちょっと……」「あれならわたしがやったほうがまし」「よければわたしが代わります」という思いが湧く/この話の主人公はこのCさんだ、Cさんは内心では正直なところBさんのことを見下しているし、場合によっては軽蔑さえしている、それはBさんがAさんにちゃんと応えないことは傍目にも「不快」で、その不快をCさんは強く体験したからだ。
ところが、Bさんの代わりを買って出たCさんはどうなるか、Aさんの「ちゃんとしている」何かに「ちゃんと」応えようとすると、「……あれ?」と半笑いになる、内心ではけっこう焦るが、なぜかよくわからない、CさんはAさんの「ちゃんとしている」何かに思いがけず「ちゃんと」応えることができない、とっさにCさんは茶化して笑い、Aさんのことを小馬鹿にしてしまう。
それでCさんは、Bさんへの見下しのことはいったん忘れて、動揺のさなか「あれ〜?」と笑ってお茶を濁し、とりあえずそこにあったものはすべて “なかったこと” にする、このときはむしろCさんは楽しそうで明るいぐらいだ……ちなみにここでAさんの「ちゃんとした何か」はどこへ行ってしまったのか、もちろんどこかへ雲散霧消した、なかったことにされたのだからしょうがないところだ、Aさんのことは誰も気にかけていない。

「ちゃんとしている何かに、ちゃんと応える」というのは、つまり 手…Ω…手 のことで、それがちゃんと応えられていないというのはつまり、 手…Ω…× ということだ、そしてこれは、傍から見ているとじつに簡単なことに見えるのだ、おそらく傍から見ているとBさんは「Aさんにちゃんと応えればいいだけじゃん」と見えるのだ、しかしじっさいにその役割に立つと、そこで直面するのはAではなくΩなのだ、AさんはA(主)で挙動しているのではなく、Ω(主)によって動いている、だからBさんはそこで、Aさんを通してΩ(主)という視えない何かの挙動に接続しなくてはならない、そのことは怖いことだし、それ以前にそんなこと「できない」……そんなこと傍目からはまったく視えないので、Bさんは傍目には人並み以下のポンコツに映った、特に若い人・経験のない人はこのことをまったく知らないので、やったことのないすべての「ちゃんとしたこと」は、その場に立てばひととおり「できると思う」という目算でいる。
Cさんが「わたしのほうがマシ」と勇んでその役割に立ったとき、そこに出現したのは「ポカーンとした」「的外れな」「厚かましい上に横柄で不誠実な」「棒立ちしているくせに挙動が目障りな」、C(主)だった、Cさんはやはり傍目にはポンコツに見えるし、傍目には「むしろ邪魔だからお前そこにいないほうがいいよ」とさえ見えてしまう、それぐらい傍目にはそれは簡単なことに見えるし、傍目には強く「不快」なことに見えるのだ、傍目にはむしろAさんが余計な労力を割いてCさんをカバーしており、「お前がそこにいるのはAさんにとってただの負担でしかないよ」と見えてしまう。
ここでCさんは、単純な価値観上の混乱に陥る、それは第一に、Aさんの「ちゃんとしている」何かをCさんは敬愛しているが、それに応える役割に立つと自分がすごい恥を掻くので、つらい、みじめだ、きつい、厭(いや)だ、だからAさんの「ちゃんとしている」それじたいが嫌いだ、Aさんが嫌いだ、ということになってくる。
それでいてCさんは、やはりBさんのことを「本質的にポンコツ」と見下して、どこか軽蔑しているのでもあるのだ、それはやはりAさんにかかわってBさんのことを強く「不快な人」と認識したからだ、そしてそれゆえに、Cさんは自分がBさんと「同じようなもの」であるという可能性を考えることはできない、なぜならその可能性を考慮しようとしただけでゾッとする強い不快感が全身に走るからだ、そもそも自分もBさんも似たようなことで苦労していると融和的に考えていけたらいいのだが、まさか自分の「ていど」をそのようなものだと考えることじたいに強い抵抗がある、だからむしろCさんは、Bさんへの見下し・不快を反芻して確かめることが自分の精神安定の儀式になっていく/そのようにしてCさんは、Aさんのことが「好きだけど嫌い」になり、Bさんのことが「嫌う資格はないはずだけれど嫌い」になる、じゃあCさんに、「あなたは誰の何が好きで、誰の何なら認めるの」と問い詰めたら、Cさんは追い詰められて「……さぁ?」とやけくその態様が出てしまう。

Cさんは次に、ちゃんとしている「ふう」のD(主)に応えたくなってくる。

Aさんに応えるというのは 手…Ω…手 だから、怖いしむつかしいし、単純にいってそんなこと「できない」のだ、でもDさんに応えるという場合、D(主)…C(主)でよいのだから簡単だ、いや簡単ではないかもしれないがじゅうぶんに可能なことだ、DさんはむろんAさんの「ちゃんとしている何か」「本当のことができている」に比べると陳腐ということになるが……そのときCさんはすでに、「いや、なんかそういうことじゃなくない?」という感想になっている、少なくともDさんにCさんが応えるということは「破綻」はしていないからだ、そしてCさんはDさんのほうへ傾倒していく。
このことはそもそも、手…Ω…手 にかかわって、「先後」を否定していることから破綻が起こっている、先輩後輩という関係や、先達・後進、あるいは「先手・後手」といったような先後の概念を、われわれの文化は否定している、それでBさんにせよCさんにせよ、そもそもAの「先手」を認めていないので「後手」として応えられないという状態にあるのだ、つまり 先手…Ω…後手 という自然な形を否定しているがために、CさんはBさんを軽蔑し、自己嫌悪を抱え、敬愛はしていないDさんに応えていくというルートを歩むことになってしまう/そのことが不幸だなんて誰も決めつけて言うことなんてできないけれども、それでもなお今ここに示した話の本質は、ここまできてやはり登場人物BCDにばかり思いが湧き、誰もAさんのことは気にかけないというところにある、読んでいて誰もAさんのことは気にかけないだろう? それほどにわれわれは「先手」の存在を認めていないということなのだ。
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主体はわたしではなかった10/手…Ω…手
かい説明は抜きにして、めちゃくちゃに言うのだけれども、わたしは若いころ特に女の子にモテなかったが、それは正確には女の子にとってわたしのことは「好きになることはできなかった」と言うべきだと思われる、「好き」というのも色々あるけれど/それよりなにより「好きになることはできなかった」、それはどういうことか、めちゃくちゃに――しかし本当のことを――言おう、わたしには「会う」ことができるのに「好きになる」ことはできないのだ。
さいきん問題になっているように、女の子はホストクラブの男性を好きになるようだ、それはもう女の子がホスト男性を好きにならなくては何の商売も成り立たないのだが、あえて言うならそれは女の子がホストの男性と会っても「何も起こらない」からだ、男(主)に女(主)が接触するだけなので、いわゆるイケメン等の魅力があればそのまま「好き」なるということ、いわゆる一般的な「好き」というのはこの単純な原理に当てはまっており、何ならこの単純な原理にあてはまっているほど純粋に一般的な「好き」が強く成り立つ。
ところがわたしの場合、そうではなくて、別に女性に限ったことではないが、「何かが起こってしまう」のだ、それで一般的な「好き」ということにはまったくあてはまらなくなってしまう/あなたは自分の右手に「好き」といって、自分の右手に恋をすることはないだろう? それと同じように、何かが起こってしまって「好き」とかそういうことではなくなるのだ、そしてこんなわけのわからない奴を平成の女の子文脈「好き♡」にあてはめようとするのは、いまになって考えれば無謀すぎることだった(しかし当時はそういう時代だったのでいかんともしがたかった、おれも何もわからないまま生きていたのだから同罪だ)。
ではそれで、何が起こっていたのかというと、こういう具合だ、世界に主体がダイブして、世界(主)が生じる、そしてわたしは世界の「手」になるのだ、そしてたいていわたしは仕手側なので手(+)になる、あなたがそのときわたしの前にいたら、あなたはいつのまにか受け手になり、手(−)になるのだ、つまり世界に両手が生えているようなイメージをしてもらったとして、
[(+)手…世界(主体)…手(−)]
というふうになるのだ、そりゃこんなの「好き」とかそういうことじゃねえよな、こんなのわけわかんねえよ。

この関係は何も一対一でのみ起こることではないが、単純化して一対一のペアリングで考えてみると、ふつうペアリングというのはAさんとBさんの間に起こり、つまり A(主)…B(主) となるわけだ、しかしおれの場合、AもBも主体ではなくて世界Ωが主体になる、それで 手…Ω…手 となる、うーん気持ち悪い、こんな気持ち悪いことにいきなり巻き込むなよ女の子がカワイソーだろと改めて反省するのだった。
しかしだ、あなたはじっさいこの世界でいちばんよくわからないブログを執拗に読んでいるわけだ、つまりおれが「書き手」であなたが「読み手」になってしまっている、そしてそのことはあなたにとって「好き」とかそういうことではない現象のはずだ、あなたはいつも「よーし読むぞ」と思ってこのブログを見るのではなく、なんか知らんが記事のタイトルを見て、おっかなびっくりタップして、何かよくわからんあいだに引きずりこまれているうちに、「なんか知らんけどいちおう読んだ」みたいになっているはずだ、つまり読み手という「あなた(手)」も、主体的なのか何なのかよくわからないうちに 手…Ω…手 の片割れとして機能してしまっているということ、これが本当のことなのだからしょうがない、もうこんなもんこれ以上の説明はできねえよ。
そして、もう本当にめちゃくちゃだけどな、あなたとわたし、読み手と書き手が「会って」いるのは、文面よりもだいぶ「前」なのだ、書き手と読み手が会う前にまともな文面なんか生じないからね、まず文面などない状態で、AとBが会い、そこからA(手+)とB(手−)に分かれている、そして分かれてから文面が書かれているのだ、そしてさらにわけのわからないことに、書き手のおれがペンで文章を書くのだとしたら、あなたも「文章を読むペン」を持っているのだ、そして半ばおれはあなたのその「読むペン」を操作していると言える/しょうがないだろ、そうでなければまともに読める文章って本当に書けないんだから。
あなたにとって、この現象、自分が世界の片割れになるという現象は、とても大切なものであって、あなたはなんとなくここに大切なものがあると感じている、のだが、あなたは一般的な感覚を頼りに生きているところがあるので、あなたはここにある大切なものを「好き」ということに転じて捉えようとするところがあるのだ、しかし「好き」という現象はあなた(主)の現象なので、その変転があった瞬間にあなたは「世界の片割れ」ではなくなってしまう、そうするとあなたは大切なものを急に失った感覚を確信し、何か急に谷底に突き落とされた気持ちになって「ガビーン」となるのだ、たとえばおれがあなたにきれいな一輪の花を差し上げたら、あなたはちょっとだけおれのことを好きになってくれるかもしれない、しかしそれによってなぜかあなたは谷底に落とされたような感覚にもなるのだ、世界の片割れという現象から外れてしまうからだ、ンなあああああああんじゃあこの現象は、こんなわけのわからん奴に何の警告シールも貼っていないということじたいがおかしいんだよ。

おれはあなたに書かせているのだ/おれが「あなたの書き手」として、あなたの手が書くというのは「あなたが書く」ということだろ。

わけのわからん話に聞こえていると思うけれど、そうではないのだ、あなたはここに書かれているおれの文章を、ひとりでは読んでいないだろ、「おれと一緒に読んでいる」だろ? 比べてみればわかる、そのへんの風邪薬の能書きを読んだり、そのへんの菓子パンのうたい文句、あるいは新聞記事などを読んだりしてみればいい、そっちのほうはあなたひとりが読んでいるけれど、おれが書いているものはひとりでは読んでいないはずだ、おれと一緒に読んでいるという感覚があるはず。
で、あなたがおれと一緒に読んでいるということは、おれはあなたと一緒に書いているんだよ、わけのわからん話だけれど、そっちのほうが本当なのだからしょうがない、読み手と会っていないのに文章なんか書けるわけねえよ、文面うんぬんよりもずーっと前に「会う」ということが先にあって、これは「未だ誰でもない」から会えるという現象であって、未だ誰でもないから「好き」とかそういうことではないのでもある、めっちゃ会えるけど「好き」にはなりようがないのだ、めっちゃ会える “だけ” 、そしてめっちゃ会えるもの、未だ誰でもないものが、手(+)と手(−)に分かれる、そして分かれてから、文章が書かれるなら書かれる、だから文章の内容は何でもいいのだ、「スフィンクスの顔は半笑いかもしれんね」という話でもいい、ただこの話であなたが世界の片割れになってしまうということ、あなたが世界の片割れになり、あなたの片割れがとんでもない話を書きやがったというだけだ、ついスフィンクスの画像を検索して確かめたくなってしまうじゃないか。
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コミュニケーションがキモくなっている問題5/脳神経が「バズり」に習慣づけられている問題

のような「話」を作文してみる、「情熱がいちばん大切だと思う。朝起きると、きょうも出社にギリギリの時間だ。髭を剃る時間がない。小走りに駅に行く。週末に遊びすぎてもう財布には小銭しか入っていない。満員電車であつかましいおっさんの体当たりが胸骨に刺さる。なんとか遅刻せずに出社することができたが、きょうは課長の機嫌が悪い。課長はいわゆる気分屋というやつで、金曜日に言っていたことと月曜日に言うことが変わってしまう。現在の職場は、スキルの習得は見込めるけれど昇給はあまり見込めない。どうしたらいいだろうか。ただわたしは、情熱がいちばん大切だと思っている」。
これはふつうの話だし、ふつうの話だと聞こえる、が、いま「ふつうの人」はこういうふうに文章を組むことはできない、ふつうの人は冒頭に「情熱がいちばん大切だと思う」と書くと、その次にこう展開してしまう、「なぜなら、情熱がなければ何も始まらないからだ」、そしてそのように展開した時点で話はもう死んでいる/のだが、そのことはまた別の記事で説明しよう。
作例は「ふつうの話」に見えるのだが、ここであえて、ツイッター(X)等のSNSにつぶやき投稿されそうな部分は作例中のどこにあたるだろうか、ということを考えてみよう、まさかツイッターに「小走りに駅に行く」を投稿する人はいないし、「もう財布には小銭しか入っていない」を投稿するという線も薄い。
では、ツイッターに投稿されそうな部分と、されなさそうな部分を、色の濃淡で現すとどうなるか、それはこのようになる、「情熱がいちばん大切だと思う。朝起きると、きょうも出社にギリギリの時間だ。髭を剃る時間がない。小走りに駅に行く。週末に遊びすぎてもう財布には小銭しか入っていない。満員電車であつかましいおっさんの体当たりが胸骨に刺さる。なんとか遅刻せずに出社することができたが、きょうは課長の機嫌が悪い。課長はいわゆる気分屋というやつで、金曜日に言っていたことと月曜日に言うことが変わってしまう。現在の職場は、スキルの習得は見込めるけれど昇給はあまり見込めない。どうしたらいいだろうか。ただわたしは、情熱がいちばん大切だと思っている」。

じゃあ、これがじっさいにツイッターに投稿されるとなるとどうなるか、それは濃淡にしたがいこのようになる、「満員電車でおっさんが体当たりしてきてマジきつい」「まーた課長のヒステリーが始まった」「課長が気分屋すぎて吐きそう。話がコロコロ変わりすぎで、こいつマジで発達障害かも」「情熱がいちばん大事とは思うけどね〜」「さっさとスキルだけ獲得して、次のまともな職場を探そうっと」。
語られている内容は表面的には同じはずだ、しかしもういちど冒頭の「話」を読み直してもらいたい、ざっと目で追うだけでもわかるが、冒頭の作例に示されているのはやはりふつうの「話」、なんでもない「話」だ、しかしそれでも明確に、話の主題は「情熱がいちばん大切だと思っている」ということだと、読み手・聞き手に伝わってくる。
ではツイッターに投稿されるだろうと想定される、濃淡にしたがって書かれた短文の群はどうだろうか、「情熱」うんぬんの主題が聞こえてくるだろうか、いや、そうではない別の声が聞こえてくるはずだ、その声は不平であり不快であり、不満であり憤怒であり、憎悪であり怨嗟だ、内容が表面的に同じに見えたとしてもメカニズムが違う、脳神経のはたらきが違う。
わかりやすさのために脳神経と言っているが、本当には全身の神経の問題だ、体つき、力み具合、炎症、神経の張りつめ、瞳孔の睨み、体勢、態度、そして脳神経のすべてが、じつはいつのまにか「バズり基準」になってしまっている、自分の得る体験や刺激のうち「どこか神経に引っかかるか」、その基準が「バズり」になってしまっており/つまり簡単にいうと、「脳内に自家製のバズりランキングが形成される」と捉えてよい。
ふつうの話といって、「ふつうに話そう」とするのだ、ふつうに話そうとするのだが、自分の発想はランキング順に紡がれてゆくし、自分の口から出る文言はランキング順に発されてしまう、それでふつうに話しているつもりが、「なんか、こないだ、満員電車でガッツリ体当たりされて、ほんと骨に響くぐらいで “痛っ” てなって、そいつ誤りもしないですっごい気分悪くなったんです。それで、そんなときに限って上司の機嫌が悪くて、なんか、その上司って気分屋で、言っていることがコロコロ変わるんですよね。それでもう、なんかほんと仕事辞めたいってなっちゃって。情熱がいちばん大事だと、自分では思っているんですけど」というような話になる、そしてこれは冒頭に示した作例の「話」とは違うわけだ、なぜこうなってしまうのかということにわれわれはこれからいよいよ苦しんでしまうことになる、このことの説明は前もって与えられていてよい、われわれの脳内が「バズり基準」「バズりランキング」で統御されていることで「話」が成り立たなくなっているのだ。

「話」はモチーフ・ランキングで組まれる、バズり・ランキングで「話」は組めない。

「ののへへへもじ」では意味がわからないだろう、「へのへのもへじ」だ、五十音ランキングで並べたら「ののへへへもじ」なのだが、それはランキングの原理が違うので成り立ちようがない、顔のパーツランキングで組むものを五十音で組んだら成り立つわけがないだろう、そのことの破綻と同じように、われわれの神経はいま「話」が成り立たない仕組みのものに変質してしまっている。
たとえばいまここに示された話を、いま「ふつうの人」が自らで話そうとすると、こうなってしまう、「えーっと、神経がもう、ヤバいってことですよね。神経がバズり基準になっている。ツイッターのやりすぎで。なんか、上司がクソだとか、満員電車が地獄とか、仕事辞めたいとか、そういうトピックばっかり口をついて出てくるようになっている。そういうことですよね」、そうなると内容は合っているのだが、この人はこの内容をふつうの「話」として人に話すことはできないのだ、もとの「話」はすでにバズりランキングで再編集されて換骨奪胎されてしまっている。

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