☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
おのれの身と顔面が「グロ化」する現代
、ガチのセクハラ加害者がいて、ガチのセクハラ被害者がいる、そしてこの両名のあいだで、男女という世界が定義され直そうとしている。
面倒くさいので、「加ハラ」「被ハラ」と省略するが、加ハラにせよ被ハラにせよ、両者はこれまで「カーニバル」という事象に浴したことがない。
実は、こんにちの世相のすべてが、この「カーニバルに浴したことがない者たち」という、わかりやすい一点から生じている/カーニバルに浴したことがない者たちが、われわれの世界のすべてを定義しなおそうとしているのだ。
なお、改めて断言しておくが、僕はガチのセクハラ加害者の男については、一切の抗弁を認めず弾劾する者だ、断罪する資格を僕は有していない断罪はできないけれども/カーニバルの力を帯びていない男のセクハラなんて闇の暗鬱以外の何物でもない、卒業アルバムをダーツボードの代わりにされて「楽しい〜!!」と雄叫びを上げられるぐらいには厭悪感のあるものだ、自分の「笑顔」に"グロテスクさ"がみなぎっていることを自覚するしかない。

われわれの、この「肉の身」は、リスクがあり、衝動があり、負担もある上に、やがて衰えて醜く死ぬらしいという、とにかく「なまなましいもの」だ。
このなまなましさ(グロテスクさ)によって、われわれはすっかり弱気にさせられてしまい……やれ「食べる」ということは制限的になり、「飲む」ということにも怯えるようになり、タバコの煙に健康被害がありうるとか、放置自転車があると気に障るとか、仕事できつく言われると超ぐったりするとか、毎朝もう何か悪寒があるとか、ポリコレに反しているとウッとなるとか、女扱いされたりLGBTがうんぬんとか、とにかくわれわれは、己が具有している肉の身に「おびえる」ということしかできなくなった。
やたら筋トレというか運動というか、「フィジカル」とか「ボディ」とかいって、結局は肉ではなく筋や心肺「能力」ばかりを鍛えたがるのも、われわれの肉の身が「腐敗」し、グロテスク化したその肉の実感に耐えられなくなったからだ、われわれはつまり、己の肉の身のすべてに怯えて、ヒイイイイーと悲鳴を上げているだけなのだ/しかもこれはもう抜け道がない。
もともと、「すばらしい食いっぷり」「見惚れる飲みっぷり」「紫煙にまみれているのがよく似合う」「自転車なんかそのへんにほっとけよ」「つい襟首を掴んでオイ! って」「毎朝起きたら、咥え煙草でションベンしてガッハッハだろ」「ババアかいるんだから席を空けてやれボケ」「ミニスカート穿いてきたらオゴっちゃるわ」というのは、天が肉の身まで下落して祝祭を受ける、カーニバルという力から成り立っていたのだ/もういいかげん断定するべき時期に来ていると思うが、グロ化した肉の身にウフフパウダーをかけてごまかすやり方は、一切救われないだろう、「救われない」という、これが本当のことだと断言する時期だ、そりゃ信奉したものが間違っていた(というか、工作に引っかかった)のだからしょうがないのじゃないか。

おれがエグいのじゃない、お前らがグロいんだ。

もういいかげん、婉曲している時間はなくなってしまった/おれがトランクス一丁で煙草をバカスカ吸っているのと、スーツを着たポリコレおばさんが疲れて膝を緩めたところからパンチラを見せているのを比べたら、グロいのはどっちだ、おれがケンタッキーフライドチキンをガツガツ食いながらエロビデオを次々にクリックして「うーむ」と賞翫しているところと、「女子会」で女が「マジ婚活とかさあ!」「ウケる−」とねじ曲がった声を上げているところを比べたら、グロいのはどっちだ、この「グロい」「グロテスク」というのがカーニバル喪失の証拠として出てくる。
昭和の映像を観ていたら、ふんどし一丁の漁師さんとか、バラエティ番組でおっぱいを出している女性タレントとか、いくらでも出てくるけど、どれも「グロい」とは感じないじゃないか、一方現代では、己の身が己でグロいと感じて(気づいて)行き詰まっている女性は今すでにけっこういるんだろ/別に昭和のものが偉いなんてバカな話は一ミリもない、ただ現代のわれわれが、「カーニバルの祝祭力を失った者たちの姿」だということだ、人間はカーニバルの祝祭力なしではグロテスクさに勝てないので、己の身と顔面がグロ化するというのは、逃れようなく苦しいことだ(解決は、身分を尽くしてカーニバル権利者に帰参するしかない、ただそれなりに時間が掛かるし、カーニバルを具現できる人が次々に殺されていっているという問題もある)。
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男の資格と女の判断2

だこの話は取り上げるつもりではなかったのだが、まあタイミング的にしょうがない。
1.胴体の解放から爆発的な活躍力を具現し、かつ、2.<<真我によって差別感覚から離脱している者>>は、"カーニバル"という特殊な祝祭の力を、その身と声と眼差しに帯びる。
常日頃から、己の身分をよく感得し、恩恵に礼し奉仕を尽くすことを怠らずにきた者は、身分の高低にかかわらず、"カーニバル"の生み出す肥沃にあやかることができる。
常日頃から、己の身分を錯誤し、恩恵を見ず奉仕をないがしろにしてきた者は、身分の高低にかかわらず"カーニバル"の肥沃にあずかれない。

男が女に"普遍的"に手を掛けるという、ロマンチックふうの「危険」な発想とシーンは、もともとカーニバルという祝祭の力に支えられてしか成立しないのだ/カーニバル中のお尻タッチと満員電車中のお尻タッチはまったく同列には扱えない。
こんにち、誰も「日頃から己の身分を尽くせ」とはまったく教わっていないので、多くの人は、生涯に亘って一度もカーニバルの肥沃に浴することがない、ひいては密室で妄想をしてそれを「世界」だと思い込むよりない/「お正月」や「クリスマス」や「旅行」「バカンス」「夏の海」等の特別なムードが消失したのも多くはこのことによる。
仮に、身分の非体得者の目前に、慈悲によってカーニバルの肥沃が分与されると、非体得者は目前の肥沃を「己の徳がもたらした果報」だと誤解する、この誤解は強烈に作用し当人に妄想様の症状までを呈する。
僕の友人たちへ、これわかりますか、つまり日頃から己の身分を感得し、己の身分を尽くしてきた者たちのみ、カーニバルのときに<<晴れ晴れと>>、カーニバル・ハグやカーニバル・キスを交わせるということ、男女の普遍的な愛なんて、カーニバルの力を借りて――またそれに帰依さえして――しか具現できないのだ/またカーニバルは一定の広場で生じるものであり、密室的に生じるものではないことを覚えておくのがいい。

「カーニバルからキックアウトされる」、これほどつらいことはないので、訴訟的正義に縋ろうとする。

本当は、日頃の行いが「身分を尽くしていない」ので、カーニバルに浴せないということなのだが、そんなこと今どき誰が教えるか/われわれが愛や「ごちそう」を享受できるのは「ハレの日」だけであって、このときのために「ケの日」に身分を尽くしていないと、愛や「ごちそう」に手を出すことが、えげつないカルマ増大になるのだ、そしてわけのわからなまま「不穏な中年」になっていってしまう。
ものすごく単純化すると、日頃の行いと修身によって、カーニバル権利者と、カーニバル非権利者がいるのだ、非権利者はわけのわからないまま、肥沃にキックアウトされることを「不平等だ」としか感じない/なぜ甲はセクハラにならないのに乙はセクハラになるかというと、甲はカーニバルの中にあって乙はカーニバルの外にあるからだ、そりゃ日頃の自分の内心を鑑みればカーニバルに浴せないのはさすがに心当たりがあるだろ……いやそうでもないから、今は全力訴訟の世の中に向かっているのだった。

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男の資格と女の判断

が女子高生を自宅に上げたら、キスだけで済ませて帰してやれる自信がない。
学生の頃、なぜか下宿に同級生の女の子が来てくれたので、ふつうにお茶とおしゃべりして送りだそうとしたら、送り出す玄関で「わたしじゃ魅力ないですか」と泣かれたことがある。
昔、「キスしていいですか」と訊いてくる男性を、全力で「サイテー」という女性が多かったので、僕は全力で「サイテーだぞ☆」とこころのメモに書き留めたものだった。
もちろん、すべての男が同じように振る舞っていいわけではない、というか現在は大半の男が、そんな「男」みたいな振る舞いをしていいわけがないでしょ[マジで大厳禁]という状況にある、これは単純に言って身分差であり「差別」なのだが、この差別は観念的なものではなく、感覚的には「まとも」な人なら誰でもわかることだ/僕がでしゃばって説明するようなことではないが、世間一般で説明されている様子がないのでここでうだうだ説明しておきたい。

1.男は、胴体を解放して、心身の底からの爆発的なエネルギーで万事に「活躍」しているなら、「男」として振る舞ってよい。
2.女は、解放と爆発的エネルギーで「活躍」している男に対して、うかつに近接してはならない、あなたの近接した距離そのものが性的な行為への「同意」になってしまう。
3.「リミッターを外すことでしか、到達できないレベルの活躍」というものがある、性分の解放と爆発、この者はリミッターを外して解放されているので、近くに女があれば手にかけてしまう、これはやむをえないことなので、近づいてはいけないと判断すること。
4.「リミッターを外すことでしか、到達できないレベルの活躍」に到達できていない男は、性分を制限した安全の中にいるので、有利な状況と力の弱い女性に対してだけ「性分」と言い張るがごとき振る舞いを持ち出すことは許されない。

「解放と爆発のレベルで活躍している男」に、あなたは縁遠く生きればよい。

「何もかも無条件でやる気、そして何もかもに無制限で活躍してしまう男」が、そばにいる女に対してだけ「条件が整うまでやる気なし・制限付きで活躍する」という選択をするのは不可能だ/そこまで女性を完全庇護するにはもう、ご存じのとおり男がホモになるしかない、ホモが悪いわけではないのかもしれないが、異性愛者にホモの性向を強制するのもひどい人権無視だ。
女は、爆発的に活躍している男に近づくべきではないし、男は、制限的にのみ活動していることを誇示すべきだ、そうすれば揉め事の一切は起こらない/もともと、恋あいや情熱、また文化と国の豊かさは、特権的な者にのみ享受されるものであり、平等に分配されるものではない、こころのままの男女なんて「夢物語」に首を突っ込めるのはそうとう身分が高い者だけだ。

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肉のデーモンと肉さま
ーた奇妙な話をブッ込んでしまうけれども。
人は肉体的でなければならない(運動的・筋力的ということではない)。
こんにちの人々は肉体を澱ませたり、枯らしたりしているように思える。
男の裸身や女の裸身があったとき、現代は奇妙に「グロテスクさ」を感じるのだ/少なくとも三十年前のグラビアより現代のグラビアのほうが、何か目を背けたくなるグロテスクさを感じる、それはまるで「肉体」ではなく全体が性器だというような……現代のグラビアのほうが美化作業は行き届いており、蠱惑的に感じられるにもかかわらずだ。

われわれは、神仏を尊んだほうがよかろうし、若い人間は飲食や交合に健啖であったほうが、単純にいって「良い」だろう。
だがわれわれは人の身であり、「肉」の身分だ、ではわれわれが神仏の恩恵や飲食交合の営為を「ものにする」ということは、それを"肉化"するということに他ならないだろう。
こんにち、人々の肉体が「肉体ではない」かのように見え始めるのは、端的にいって身分の下落を示しており、グロテスクさは「業(カルマ)の奔騰が身に現れている結果だと直観に認められる/グロテスクというのは「うわぁ」ということなのだから。
バフチンの言う「祝祭の力」を今学び直す余裕は僕にはないが、心臓を中心とした胴体が上下とも円満にその徳性を掴んでいくということであれば、それは神韻を肉化して「肉さま」とし、地の底からのものを肉化して「肉のデーモン」とするということ、それが人の身には矛盾せず混在するということではないか? 特に<<神韻を下落させ肉化する>>という力にわれわれは躊躇を覚えて失念しがちだ。

天上のものと地の底のものを、肉声平面に並列する。

それ以外にわれわれは、よく行き届いた肉声など己に持ち得ないのではないか? どこまでいっても「わたし」は心臓に住まう肉の者であるからには。
われわれは常に、上昇志向を持っており、その背後には神仏等への尊崇が作用していることは明らかだ、その中で天のものを肉のものに<<下落>>させるという発想はほとんど禁忌のように扱われている/だがそれが肉にまで下落してこない限りは、どのような上方のこともわれわれにとって"よそ事"でしかありえないのではないか。
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これまで見えていたものが、見えんようになっていく3

こで僕は、「学門」を勧めたい。
いろんな形の学門があるが、職業的学者でないかぎりは、ナマの学門でどうぞ。
ナマの学門とは、「わたし」とは何なのかについてだ/もちろん、アタシを思い耽るのは学門ではないから、裸で土下座して鞭打ちの刑。
「わたしの姿は、なぜこんななのか」「わたしの声は、なぜこんななのか」「わたしの眼差しは、なぜこんななのか」、「これはわたしの本当の姿・声・眼差しなのだろうか?」ということを追求することだ、こんなもん何百年あっても「時間をくれ〜」となるに決まっている。

僕は、ある悩んでいる女性にこう話したことがある/僕がいつも言う、いつものことだ。
「『どちらを選んでも同じ』だ、彼と付き合い続ける、彼と別れる、それはどちらを取っても"変わらない"んだ、お前が面白いヤツなら、付き合い続けたって面白い未来だし、別れたって面白い未来だよ、そしてお前がつまらんヤツなら、付き合っても別れてもどちらもつまらん未来しか待っていない/お前の未来が決まる選択肢はそっちじゃないんだ、"お前自身がどういうヤツか"という選択肢のほうで決まるんだよ、その他はひたすら有利なほうを厚かましく取ればいい」
「『どちらを選んでも同じ』だ、じゃあ、何にも流される必要はないってことだな、世間体とか罪悪感とか、流されやすいものに流されるべきじゃない、流されたということは『自分では選ばなかった』ということだ、それは自分がつまらんヤツですって証明書に自ら捺印したことになるよ、何にも流されず、自分にさえ流されず、<<厚かましく行きな>>、勇気があるってことは厚かましいってことだから/多くの人にエーと言われたら、それは『大勢に流されなかった』ってことだよ」
われわれは、みんなニコニコ暮らしているが(それはとてもいいことだ)、それにしても本当に「この姿・声・眼差しは、本当の『わたし』なのだろうか?」、こんなこと、追求したら本当にキリがない、どれだけ時間があっても足りなくて、加齢がどうこうとかいう寝言をほざいているヒマはなくなるぜ/実際僕などは朝起きたときから瞬間的に「うおおお〜やるべきことがあ〜(山積)」という状態で、最低あと八百年は人生がないと足りないのだった、いや八百年でまとまりを得たらそれはすげえ超スピードだぜ。

われわれが選べるのは、「悲愴感」or「学門」だけだ。

ナマの学門を勧めたい、どーーーしても強く勧めたい、「わたし」の姿・声・眼差しがどのようであるか、常に実物と照らし合わせる学門だ、まさかおれが八百年かかるところを、お前が八日間で何か見つけるなんてことありえないよな? それぐらいはわかってもらわないと、裸で土下座して八時間軽トラの荷台の刑だ(女性はハイエースの荷台にしてやる)。
世界に名乗りをあげなさい、世界に名乗りをあげるということは、「これが最大限本当の『わたし』だと思うが、どうだお前ら?」と実物を示して突きつけることだ、それで「うーん……」と反応されたり「うおっ」と反応されたりする、それはいかにもナマの学門だろ/人生(身の上)なんて厚かましく「有利」ならその他はどーでもいいんだよ、それより「お前」は何なんだってことのほうが、この先何億年も大事なんだ。
 

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これまで見えていたものが、見えんようになっていく2

ルストイは、「光あるうちに」、光の中を歩めと言ったけれども……
徳性が閉じ、「達観()」に至ってしまった人は、通常もうムリだ、光あるうちは自分がどちらに進むべきか見えるけれども、光がなくなったらもうどちらに進めばいいのか自体がわからなくなる。
われわれは水面下で、自分が老いていくこと、そしてやがて死んでいくことに、根こそぎビビっているのだ、これに耐えられないので、どうしても「達観()」してニコッと笑いたくなってしまうのだ、そしたら表面上ラクになるから/これは通常「絶対にしゃなあい」ことで、決して責められるようなことではない。
「達観()」に至った人は、耐えがたい苦悶の末に、やむをえずそこにたどり着いた(あるいは「流れ着いた」)わけだから、もうそれ以上は説諭しても、ふつう意味がない、追求してもやがて「ブチギレ拒絶」されるのが当然だ、これは責められたことではないし、否定するべきことでもない、われわれは大半「そこへ流れ着くよりしょうがない」というのが実情だから。

つまり、「光あるうちに光の中を歩め」という文言は、裏を返せば、「光がなくなったら無明の中で達観()してましょかw」ということになる、なかなか容赦ないが、実際そういうことなのでしゃあない。
何の話をしているのかというと、掲題のとおり、「これまで見えていたものが、見えんようになっていく」ということだ、そして見えんようになっていくと、逆にわれわれは「これか」と"発見"をしてしまう。
「人生ってそういうものなのよ」という、達観()を発見してしまうのだ、これまでどこかで聞かされてきたババアの話に組み入れられる形でな、うーんこれはヒドイ笑/だがこれは前もって警告されておくべきだし、そういう現象に見舞われますよということが、アナウンスされているべきだと思う、中にはなお光の中へ歩みきってやろうとする人もゼロではないのかもしれないのだから。
どうか誰か、聞いておいてほしい、われわれは加齢していく中で、どこがでゴゴン! と、身の業(カルマ)をアップするのだ、そりゃ水面下でビビっているのだがしゃあないのだが、そのゴゴン! のたびに、われわれはまたひとつ「見えなく」なり、ひとつ見えなくなると、ひとつ"加齢発見"するのだ、もちろん僕は今とっっっっても危険なことをお話ししている。

「人生ってそういうものなのよ」「へえ、でも『あなた』はそういうものだったか?」

このやりとりが「見えて」いるのも、あくまで光あるうちだ、光がなくなればもう何も見えなくなっていく、そして人は元来、「正しいほう」を選べる存在ではない、人が選ぶのは「ラクなほう」だ/「正しいほう」は、本当に見えていたらイコール「ラクなほう」なのだが、見えなくなっていたら、ひたすら「しんどいほう」でしかない、人はこれを選べない(選べる能力がないし、ムリしても破綻するだけだ)……ただそれでも、「本当にラクなほう」は、やっぱり「本当に正しいほう」だとは断言せねばならない。
われわれは百年後には全員死んでいる、百年というと36500日しかない、その中でやがて滅ぶ身のほうをMAXまで捉えて「人生ってそういうものなのよ」と達観しても、実はあまり意味がないのだ、36500日後には全員「ん? その話はもう要らんわw」となるからな/それよりも、「あなた」ってどういうものだったか、そちらのほうに意味がある、何しろ超かしこい連中の一説によると、「あなた」は百年どころかほぼ永遠に存在し続けるらしいからな。

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これまで見えていたものが、見えんようになっていく

齢と共に、胴体は固くなっていくやろ?
それは、加齢と共に、業(カルマ)が増し増しになっていきよるということや、業(カルマ)に縛られるから胴体はカチカチになるんや/「年だから」ではなく「カルマだから」なんやな。
業(カルマ)が増すということは、身分が下がるということや、身分が下がったら「徳性」が閉じていくわな。
徳性が閉じていくということは、これまで見えていたものが、見えんようになっていくということやで、ただそれだけのことをわしらは「大人」とかいうてキリリとごまかしとるところがある、それを成長した()と思い込もうとしとるんやで。

青春とか、恋あいとか、情熱とか、夢とか、季節とか景色とか「物語」とか、かつて見えていた徳性モンが、加齢と共に、もう見えんようになるんや。
その代わり、現実()とか、不安()とか、世間()とか、見えたってしゃあないモン、見えたって気が滅入るだけのモンばっかりが見えるようになるんやで。
それは成長したということやないんや、業(カルマ)がアップ↑して徳性がダウン↓して、佳いモンが見えなくなり、悪いモンばっかり見えるようになったということや/そうして徐々に「無明の死」に近づいていくだけなんや。
「無明の死」に近づくということはつまり、「どう取り繕っても自分の生きている意味が根本的にない」という確信のまま、それを隠してごまかして、時間が過ぎていくということや、何十年もそれを「達観()」と言ってみたりするけど、晩年に「ギャー」と発狂して暴れ出す人もおるで、それは「怖すぎる、苦しすぎる、いっそもう何もかも見えないようになりたい」という叫びで、自己破壊に行き着いた姿なんや。

加齢と老化は自動的だ、だから「自動的に成長……」と幻想したがる。

われわれは、自分が老いていくこと、そしてやがて死ぬことが、水面下で怖くてしゃあないんや、それで「加齢していくことは『成長』なんや」と強引に思い込もうとしているんや、せやけどそこはなかなかキビシイんやな、「何十年も経った」ということと「何十年も歩いた」ということは残念ながら同じではないんや。
たとえば宮崎駿が「天空の城ラピュタ」を制作したのは、四十五歳のときなんやで、ふつうの人間は物心ついたときから、その四十五歳まで「歩く」こともできへんのや、先に徳性が閉じていって「達観()」するんやで/「これまで見えていたものが、見えんようになっていく」というのはホンマにおそろしいことや、せやけどこれを拒絶するのはそれぞれの自分しかおらへんのやで。

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ほんの数%あればいい
すこし、自信がない。
それでも、楽しみに読んでくれている人がいるので、なんとか書こうとする。
われわれがキーキー引っかかるもののすべては、きっとハズレだ。
キーキー引っかかっているのも、そのうち、楽しかったことに入るのだろうけれど、その他のことにも、どこかで触れられていたら最高だと思う。

われわれが100%トルストイになるのは、たぶん不可能だ。
でもきっと、数%でもトルストイのような時間を持てたら、その他すべてのことが、「いろいろあったねえ」と笑えるようになると思う。
そう信じて、書くことにする、楽しみに読んでくれている人がいるのだ。
楽しみに読んでくれている人がいるということが、どれだけ偉大なことかわかるか、おれはこの偉大なことにだけ、心中してかまわんと本当に思う。

「いろいろあったねえ」というのは、たぶん最高の人生だ。

なぜ最高と言えるかというと、それより上はないからだ、だから「上」を目指す必要なんかない、とっくに最高峰に手が届いているから。
ほんの数%でも、何かがあればそれでいい、そうしたらいつの間にか、「いろいろあったねえ」が見えるようになっている、そのときはわざわざ感動する必要はない、そんなことしてなくても押し寄せてくるから/そうしたらやっぱり、それより上なんかないね、押し寄せてくるということより上の生き方なんて存在していないから。
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業が取り外されることがしばしばある
間にはやることがある。
いかなる環境においても、またいかなることを通しても、やるべきひとつのことがある。
僕はそれを「学門」と呼んでいる。
「学門」とは何かというと、業の否定を究めることだ、業を「つまらん」と断定することへのアプローチを続けることだ。

業が「ない」と否定する必要はない。
業は「ある」が、つまらん、というのが否定だ。
業はわれわれを強烈に掻き立て、引き返せないところへ突き落とし、そこに悪魔が顔を出して「どうだ、見たか」とスゴむのだが、それがどれだけ強力であっても、われわれは「つまらん」と断じるのだ/「この世界は業の世界ですよ」と、人をウソに転落させたいというのが悪魔のたくらみだから。
われわれの身はしばしば、業から逃れることができない、だからそのときはこころの隅に、「じゃあ、自分の身がつまらんのだ」と見つければいい、「自分のつまらん身が、つまらん業に駆られるのは、当然のことだけど、じゃあそれはつまらないってことだわ」と断じられると、悪魔にはもう打つ手がない/悪魔はけっきょくのところわれわれの「我が身かわいさ」につけこんで、「どうだ、見たか」とスゴんでいるにすぎないのだから、「我が身つまらん」と言われてしまうともういやがらせしかすることがない。

身は業(カルマ)に影響されるが、その中に影響されない一点の「真我」がある。

この世界そのものを古い言葉で「梵」といい、突き詰めるところ「この世界」と「わたし」は同一のもので切り離せないということ、その直覚に至ることを「梵我一如」という、「学門」の目指す先はさしあたりそこだ、いきなりそんな大仰なことを求めるものではないが、今ちょっと時間がないので、もう隠し事や婉曲なしにお話ししている。
われわれの誤解は一点、自分の身が「我」だと思っていること、自分の身が「梵」の側なのだとは気づいていないということだ、それはただの思い込みなのだが、この思い込みでむしろわれわれは己の身に損をさせてしまう/僕はこの期に及んで、抜苦与楽の「利益」だけを勧めている、身が業に掴まれたとして、真我はその握力の中にいないのだ、その真我は永遠に生きるものだとトルストイは看破しているが……そこまで大仰なことはまだ要らない、業の握力の中にいない真我が、業を取り外してしまうことがしばしばあるということを、僕は今切実な学門としてお話ししておきたい。
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「おかげ」と「せい」
にAさんが、通り魔に右肺を刺され、死んでしまったとする。
すると、誰でもわかるとおり、Aさんは刺された「せい」で死んだのだ。
しかしもう一方で、それまでAさんは、肺があった「おかげ」で生きていたのだとも言える。
肺のおかげ、血のおかげ、心臓と脈のおかげ、その他無数の「おかげ」で生きている/○○の「せい」ということの背後には、必ずこの「おかげ」ということが隠れている。

この知識はとても重要なのだ。
なぜなら、○○の「せい」というのは誰にでもわかるのに対し、○○の「おかげ」というのは、教わらないと気づけないからだ。
何も教わらないと、人は自分が自力で生きているような気がして来、無数の妨害の「せい」で苦しめられている、としか世界を見ることができなくなる。
われわれは今、目が見えているけれど(もし音読してもらっている人がいるなら除く)、実はこの眼球や視力のシステムは、われわれが作ったものではないのだ、だからもしフッと視力が途絶えると、われわれにはもう為す術がなくなる/われわれは何かの「おかげ」で目が見えているのであり、それを失念して、「パソコンの『せい』でドライアイだ」「花粉症の『せい』で涙目だ」としか考えられなくなったら、世界をえんえん誤解し続けるパターンに陥る。

酔っ払いのせいでうるさいが、耳のおかげで聞こえている。

「酔っ払いがうるさいなあ、迷惑だなあ」と友人と話しているとき、耳のおかげ、口と喉のおかげ、声帯と言葉のおかげ、友人がいるおかげで、「迷惑だなあ」と話せている/なぜこうして見え方が偏るかというと、われわれの意識は区分したものしか捉えられないからだ、「せい」は○○のせいと区分に限定して捉えられるが、○○の「おかげ」というのは無数に連携しているので区分では捉えられない。
どんな低級な民族でも、犯罪者を罰するという仕組みは持っている、イージーに発生する「断罪すべし」という意識によってだ/一方で、福音者や祝福者に対しては、われわれは「どうしたらいいかわからない」となる――「断罪」は誰でもわかるが「礼拝」は知識を与えられた者しか気づけないのだ。
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うつくしいばかりの人へ

年だったときの僕が、初めて自慰をしたとき、唐突な射精と共にすさまじい快感が起こって、僕はベッドで「なんじゃこりゃ」とおののいた、そこには心底からの恐怖があった。
翌日も翌々日も、これはいけないことだとわかりながら、すり込まれた快感に勝てず、僕はしきりに自慰をしなくてはならなかった、これが「やめられない」というのがまた恐ろしいことだった。
これまでは親しく僕をあやしてくれる存在だった隣家の「おねえちゃん」が、夕刻になると風呂に入っている、その窓は湯気を抜くのに数センチ開いているのだが、その隙間を覗き込みたい衝迫力がすさまじく起こった、よくよく考えれば、当時の僕の身長では、その窓まで背が届かなかったのだが……/それでも僕は湯気の出る窓から懸命に目を背けた。
これは「業」なのだ、空腹になれば腹が減るのと同じ仕組みだ、空腹は幼い頃からあるが、性徴は途中からやってくる/これまでは「おしっこ」と、意味のない勃起をたまにするだけだったチンチンが、ゴゴンと音を立てて業に目覚めた陰茎という本性を現し始める、当時の僕はそのことを、避けることはせず、ただ何も分からないで、ひたすら恐怖と快感が起こる只中に立ち尽くしていた。

今になって、これまで僕がどのようにして生きてきたのかが少しわかる。
信じてもらえるたぐいではないと思うが、僕は業によって女を愛したわけじゃない。
カッコ悪いことはしたくなかったので、さも業まみれというふうを装っていたけれどね、それは単純に、わかりにくくしてしまったかもしれない、もしそんなことがあったなら本当にごめん。
人間にはいろんな業がある、女性なら宝石やドレスやバッグ、男性なら権力や高級車や暴力的優位だろうか、いくらでもあると思うけれど、僕は僕の愛した女が業のかたまりだとは認めなかった、業なんてほんのちょっとの気まぐれだ、すくなくとも僕の前にいるときはあなたの業なんてどこかへ消し飛んでいたから、本当にうつくしいばかりの人だったから。

それであなたは、僕に会いに来た。

きっと、おそらくね、今こんなところまでこないとこんな単純なことがわからないのかと嘆きたくなるのだが、しょうがない、言ってみれば僕は自分の業なんかよりあなたのほうがはるかに大切で、それでいつのまにかこうなってしまっただけだ。
何も変わらないで生きていくと信じる、それが実際のところだから、まだしばらくは初夏があって、夏がきて秋冬がくる、そのことはまだしばらく繰り返されるよ。

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強力な人間になりたかった
ょっと色々あって、寝ていた……つもりはないのだが、気を失っていたのかもしれない、まあ不意の骨休みになったという冗談みたいなこともある。
逆に、手を止めるべきじゃないと信じて、同じように書き続けることにする、たぶんこのほうがマシなのだと信じて。
やっぱり愛がすべてなのだと思うが、本当に愛してしまうと、その人の幸福や健康を願わずにいられないので、冗談ではなくなってしまう。
愛が「ない」のはさすがにダメだと思うが、愛のレベルが低級という状態は、不幸、ではないのだと思う、大切にできるものを大切にしておくべきだ、たくさん遊んだことが思い出になるから。

たぶん、本当に深く愛するということが、可能になったとしても、人はそれを選べないのだ。
愛した人のことを「願ってしまう」という威力に、こころが耐えきれない。
自己愛性の高い人は、なんだかんだ、自己愛はオナニー以上のインパクトをもたらすものではないので、安全で安心だという理由もあって、自己愛を選んでいるのかもしれない。
これだけ勉強していても、これなのか、と厚かましく思うことを正直にお話ししておく、愛つまりその人のことを願ってしまうということに、ズブのしろうとが耐えきれるわけがない。

愛する人が、どうか。

こんなくだらないことを、それでも書き話すほうが、僕のやることとしてマシなのだと思う、僕はもともとずっとそうしてきたのだろうけれど、たとえそれが誰にも伝わってなかったとしても、かまわない、誰かに伝わったとしてもそれはけっきょくズブのしろうとに耐えられるものではないのだ。
われわれは自業自得の世界を生きているけれど、もし僕が強力な人間になれたら、ほんのわずかでも愛する人の業を、肩代わりして償却してやれるのではというような、妄想が僕にはあるのかもしれない、もし僕が本当に強力な人間になれたらだが(ただし僕に自己犠牲の精神はないので安心してくれ)/もし肩代わりして償却なんかできたとして、そんな分量はごく微々たるものなのだろうけれど、本当にそういったことがあるのかどうかは、聖人でない僕にはわからないままだ、聖人になれたらいいのにと、この瞬間だけは不遜なことを真剣に思う。
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われわれの、アホな頭に、粗雑な「罪」

突な話だが、もう忘れちゃいそうなので書いておこう。
われわれは東洋人で、体質的に仏教寄りだが、和洋折衷というより和洋混交の中にいるので、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
そこで、仏教にはあまり「罪」という概念がないのだが、われわれの頭の中には「罪」という発想が色濃くあるという状況がある、これは聖書世界の発想がわれわれの頭の中にブチ込まれているからだ。
そして、聖書世界を持つ西洋の方面では、ちゃんと「罪」の発想の向こうに、告解・懺悔・贖罪・神の許しという概念があるのだが、われわれは「罪」の発想だけをブチこまれて、その先の手続きは与えられていないのだ、これは単に知識と教養の問題としてもダサいので、誰かちゃんとなんとかしろという話なのだった。

「罪」という発想でいうと、人間は確実にオワッテイルのであり、どうしようもない、さっさと地獄に行け、という話になる。
そこで、だからこそ救世主(メシア)が必要になる、われわれだけではオワッテイルからだ、そしてキリスト教徒においては当然ながら救世主はイエス・キリストだということになる、キリストが救世主というよりキリストという語が「救世主」の意味だ、誰が救世主かという問いにはこの場合「ナザレのイエス」と答えるべきだろう。
そして、なぜイエスが救世主であり、人々はイエス・キリストを崇めないといけないかというと、オワッテイルわれわれの罪を、イエスが一身に引き受けて罪をあがなってくれたからだ(贖罪)、そのためにイエス・キリストは凄惨な死に方をせねばならなかった。
われわれが、「罪」という意識を自前で追求したとき、「ああああああもうムリだああああ」となるのは当たり前であって、そんなこと昔の人がとっくに知っとったっちゅうねんということを、単なる常識の発想として持っておくべきだ、今さら何を言っとんねんという話で、われわれが自前で罪をあがなえるならイエス・キリストは必要なかったろうよ/「あなたに贖罪はムリだから救世主が引き受けてくれた」ということだ、別にキリスト教はわからなくても「もしそんな方がいらっしゃったなら、ケタはずれで頭が下がるほかない」とは誰だって思うだろうよ。

「自分の罪深さ」などという、手前味噌にかぶれないように。

そんなことであなたが気分に浸らなくても、もっとマジでシリアスな追求を、過去の偉大な人々がしてきたのだ、かといって居直るのはまた別の話になってしまうと思うが、一人で勝手に「わたしは罪を知りたる者」みたいな増長をするのは凶相だ、どうせわれわれは罪を悔いることにさえ頭が悪いという、あわれんでもらうしかないような身分の低きアホどもなのだから(とほほ……)。
仏教では地獄行きは「自業自得」で、聖書世界でも人間は禁断の果実の盗み食い罪で罰されたのだから「自業自得」だ、そして仏教にせよ聖書世界にせよ、その自業自得からは逃れられんと結論している、そして逃れられない理由はわれわれが「アホ」だからだ/アホが自前でがんばっても無力だから、奇跡的なほど賢い人に縋れということになっている、われわれは頭の中に「罪! 罪!」という概念だけブチ込まれているが、その先のまともな話をまったく聴かせてもらえずにきているのだった。

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失ったものは「識化」する2
やこしい話だが、もし正確に知りたい人があれば。
人間道の因果(因業)は「識」、つまり「分かる」ということだ、われわれは「区分」することで「識別」し、そのことを指して「分かる」という。
ここを逆に捉えると、人間道のカルマが償却されれば、人は「分からない」という徳性を得るということだ、これはかなり上位の徳性なので、ふつうはナンノコッチャになるだろう。
「引き受ける」とは「分からない」ということ、区分を持たないということだ、区分しないかぎりは識化しない、つまり僕が女好きという指摘は当たっていない、僕は「分かっていない」のだ、確かに目の前の誰かを「女だ」と捉えたことなど一度もない。

「消費」はヤバい、ということからこのことにたどり着いた。
なぜ愛や感動が「消費」されてしまうかというと、識化されてしまうからだ、「分かります」のメカニズムに吸収されて裁断機にかけられるのだ、人間にとっては消費=識化だ、人間の業が盛(さか)るほどこの消費=識化が激化する、それは「識」が人間道の因縁(因果)だからだ。
女が「女」である必要はないのだ、なぜなら異性愛の進みゆきに女の識化プロセスは必要ないからだ、結果的に雨が降るなら白雲と黒雲の区別は必要ないように、また結果的に二階に行くなら一階と二階のどちらが「上」と識化する必要がないように、向かうべき先を捉えるときにただ近傍しているふうというだけの要素を識化するプロセスは必要ない。
つまるところ、近年の異性愛の破綻は、異性愛が「別性愛」になっていることに起因している、われわれは風景にチューリップとケヤキを見たとき、チューリップとケヤキは異なるものだが、それぞれを「別のもの」とはわざわざ見ない/男女の異性愛がしばしば性器の交合を経るとして、「異性器」ならば性器は"交合"できようものが、「別性器」だと性器は"交合"とはならないのだ、異性器ならばそれぞれが「性器」を持っているということになるが、別性器ならばそれぞれが「ペニス」「ヴァギナ」を持っていることになる、その場合は性器の交合ではなく「ペニスinヴァギナ」の遊びになる、この遊びは因業であり人を暗さに引きずり込む遊びとなるのだ。

元来、男女の性器は「性器」という同じ感触のものだ。

そして元来、男女の身も、「人」という同じ感触のものだ、元来「異性」というのは分離的な別物感触をもたらすものではない/もしこの別物感触が解決されるならば、現代人は不本意なケースの同性愛偏向を避けられるたろう。
識化によって別物感触の因業へ追いやられるのはまだわかるとして、その別物感触がなぜ「グロテスク」と感じられるのかは今のところナゾだ、ただおそらくサルトルはこの因業の果てを見て「嘔吐」したのではないか/西田幾多郎の得た「見神の事実」がカルマ償却の果ての「別物なし」の世界だったとしたら、サルトルの得た「嘔吐」はカルマを深めた果ての「無限の別物群」の世界だったのかもしれない、そのことはむろんクトゥルフ神話の厭らしさにもつながっている(なぜ「グロテスク」と感じるのだろう?)。
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失ったものは「識化」する

あ、なるほど……われながら頭の良さにびっくりするぜ(称賛せよ)。
人間にとって、何かを失うということは、単に消えるということではないのだ/「識化」するということなのだ。
なぜそう言い得るかというと、仏教説の六道輪廻と十二因縁において、人間の因果は「識」だからだ/うおおおオレはなんて頭がいいんだ(称賛せよ二度目)。
たとえば目の前にまんじゅうがあったとする、これは食べたらなくなるものだが、われわれは人間なので、単にまんじゅうが消えてなくなるのじゃない、「さっきまであったまんじゅうがもうない」として「意識」に残るのだ、失われたまんじゅうは識化まんじゅうになるのである、オウなんつー発見だ、これは頭が良すぎるのでさすがに褒めるように(三度目)。

男女というものが消えてしまったので、男女は識化したのだ、それで「男女を意識する」ということが出てくる/失ったものは「識化」するのだ、なんというクリティカルな発見だろう(あっもう称賛はいいです)。
これなら説明がつくぞ、もし現在のおれが現代の女性を押し倒したら、第一に女性は「意識が混濁(パニック)」を起こすはずだ、もちろんおれは童貞なのでそんなことをしないが/現代の女性にとって、識化したヴァギナやバストを狙われるのはわかるが、「わたし」を狙われるのは感覚的にわからず意識が混濁するはずだということ。
そして、識化したヴァギナに識化したペニスを入れてヤッホッホするのはどうしてもグロテスクなので、人々は同性愛に転向しはじめる、特に女性においてはいわゆる腐女子化が起こるのだろう/女性はそもそもペニスを所有していないので、それが「失われる」ということがない、よって識化していないペニス同士が性交するということに、非グロテスクな性交の憧憬が描けるはずだ。
昭和のグラビア写真などを見るとわかるが、かつての女性の身体においては、そのバストも「おっぱい!!!」というふうに切り離されて識化はしていなかった、だから画像加工はなくてもグロテスクじゃないのだ、そして現代の男性諸君は識化された「おっぱい!!!」や股間が「そそる」「シコい」と感じてグロテスクオナニーをする訓練を積んでいるので、昭和のグラビアなんか見ても「そそらない」とテンションが下がるはずだ。

「識化」が人間道の因果なので、識化したヴァギナのセックスは因業(カルマ)行為になる。

これで完全に説明がつく、ヴァギナが識化したせいで、ヴァギナセックスが愛の行為ではなく因業の行為になってしまうのだ、その気配が根こそぎ不穏だと感じて、今女性たちはヴァギナセックスを自らの禁忌にしようとしている/また、その因業の所有を付け狙われることについては悪魔じみた恐怖と嫌悪を覚えるはずで、そのことがセクハラ男へのマニアックな糾弾につながっているところがきっとあるはずだ。
女性もふつうに自慰ぐらいすると思うが、もし「このところ、急にヴァギナの因業化が進んでいる」「歯止めが利かない向きがある」と言われたとして、「心当たりがある」という人は実はけっこう多いのではなかろうか。

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「男女を意識する」ということ

女を「意識する」、その代表格は、たとえばPTAのおばちゃんだ。
おばちゃんは「んまあああ」と言い、何かえぐい香水と口臭をまき散らすのだが、このおばちゃんが「女」であることはありえない。
このように、男女を意識する者は、この世から男女として消えていく。
二十年前、僕はセックスにおいて「ペニスをヴァギナに入れていた」という記憶がない、なんというか、当時の女性の股間は触れてみてもそんなにヴァギナヴァギナしていなかったからだ、それでいうとPTAのんまあああおばちゃんは、もし下着を脱がせて脚を開かせれば、ものすごく「ヴァギナ」というものがそこに露出するだろう/男女が「意識」されるこの現代でセックスはひどくグロテスクなものであり、その意味では同性愛に転向する者が多くなるのも当然なのかもしれなかった。

たとえば犬を目の前にしたとき、「おれは人間だ」などと意識する奴はいない、たしかに人間には違いなかろうがいちいちそんなこと意識はしない。
女を目の前にしたとき「おれは男だ」と意識する奴は、犬に向けて「おれは人間だ」といちいちふんぞりかえっているような奴だということだ、文脈は正しいが発想の装置が壊れている。
たぶんわれわれが、自分が人間であるということに「しっくりこない」という状態になったとき、犬に向けても、「おれは人間だ」とふんぞり返るようになるのかもしれない。
男女が「男女を意識する」というのはそういうことだ、たぶん食事をするときに「これは食事だ」と意識しているようなバカらしさで、本当にはもう自分が男だとか女だとかいうことが、胴体のシグナルとして消えてしまっているのだ、それでいちいち意識しないといけないという行状になっている。

同性愛へ希望を見いだしている方へ、足しになるかはわからないけれど、旧来の異性愛はきっとあなたが求める同性愛的なものだったよ。

男はチンコチンコしていなかったし、女もヴァギナヴァギナしていなかったのだ、どうやってセックスしていたのか正直なところ記憶がない、セックスの前後の幸福な記憶はあるが、最中にどうしていたのかの記憶があまりなく、特にペニスinヴァギナという記憶がまったくない。
現代のアイドルブーム以降、女性はナチュラルに「媚び」の表情を持つようになったけれど、あれは正直なところ僕からは、「男化した者が『女媚び』を演出している」と見える、それもまた「男女を意識した」結果で生じているのだろう。

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消費とカルマとオーマイグッドネス4

来、何もマジになることはない。
引き受けるということは、マジになるということではない。
普段がクソ化しているから、慌ててマジ化しようとしたりするだけだ。
愛と勇気を真に受けていくんですよね、と、確認しないといけなくなっているのは、完全にクソ化だ。

人の愛を「消費」してしまうのはとてもデカいカルマになる。
突然だが、二十年前の記憶において、女が男と「対等」みたいなことを求めていたという景色はひとつも残っていない。
あのとき、女性は女であって、いつも明るくて華やかで、元気だった、男はいつも手玉に取られていた、そして女性が女でなくなると、男と「対等」を求めるという性質がある。
うーん? 人が人の愛を「消費」してしまうようになったのは、男性が男でなくなり、女性が女でなくなったからではないだろうか? ラメ入りの細眼鏡、ブラウスにおっぱいが大きい女の子が、「あなたに言われて目が覚めたわ」とにこにこして、僕を木陰のほうへ引っ張っていった、あのとき女は女だったし対等という概念はなかったし、愛が「消費」されでナンジャソレカルマになるということもなかった、これは現代の新しい現象なのだろう。

自分のやることがわからないのは、男性が男でなくなり、女性が女でなくなったからだ。

正直なところ、僕は女性の前で、自分が「男だ」と思ったことは一度もない、そして女性もいちいち自分が「女だ」とは思っていなかっただろう、僕は男だから男子便所に入るのではなく、僕にとって女子便所は便所ではないのだ。
男女が消えればこの世に感動はない、感動はすべて消費物に終わるだろう、そしてこの世から男女が消失するということは、男女ということが"意識される"ということだ、男女を意識するような奴は絶対に男ではない。

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消費とカルマとオーマイグッドネス3

代のムードがあるし、人それぞれ個人の事情がある。
にもかかわらず、カルマ的な仕組みは、どうやら情状酌量はしてくれないらしい。
たまにはホントのことをちょろっと話そう。
愛を見、青春を見、情熱を見、勇気を見せられたら、それを我が身に引き受けないといけないんだな、しのごの言い訳は聴いてもらえない、これは厳しい仕組みだ。

たとえば映画を観たとき、映画の中に、本当に愛が描かれ、青春が描かれ、情熱と勇気が描かれている場合がある。
この場合、もうこの映画を観たときから、引き受けて、人格を変えなきゃいけないんだ、われわれはそんなもの「楽しむ」とか馬鹿げたことを言っていられないんだよ。
映画の中から引き継いだぶん、自分も愛を発揮し、青春に立ち上がり、情熱と勇気を当然とする者にならないといけない/その引き継ぎができなければけっきょく「消費」したことになってしまう。
同じ一本の映画を観て、引き受けちゃう奴もいれば、何にもならず消費してしまう奴もいる、「消費」してしまう人は、考えが甘いということが必ずあるよ、「映画を観たからって変わらなきゃいけないの?」「そうだよ、変わらなきゃいけないの」、あなただけ引き受けなくていいなんて個人の事情はいっさい酌量されないんだ。

本当の映画を観たとき、1.真っ向から引き受ける、2.敗北を引き受ける、3.引き受けず消費する、消費はもちろんカルマに残る。

単純に考えてごらんよ、たとえば「交通安全の教習ビデオ」を観せられたときだって、そこに本当に交通安全を願う誰かのこころが現れていたら、われわれはそのこころを引き受けないといけない、運転中のスピードをふと下げるだろ、「ビデオを観たからな」と、そうでなきゃ人間は不誠実じゃないか。
交通安全の教習をビデオを、せっかく観せられた直後なのに、不注意でゴツンと事故を起こした人があったとしたら? それは見ていて、「業の深い奴だなあ」と感じるじゃないか、せっかく観たものはどこへ消費させたんだって、そんなこと個人の事情なんか関係ないだろうって/それと同じで、愛と青春の映画を観た直後に、すぐそれを引き受けずに消費するような人がいたら、それは「業の深い奴だなあ」になるよ。

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消費とカルマとオーマイグッドネス2

あもう、ごまかしなく言うなら、自分でアホなことを言うしかない、これはもう個人的なホラ話として聞き流してくれ。
どう考えても、得られている結果群からは、「九折さんからの愛がヤバい」と推定せざるをえない、しかも自分自身でいうのはアホみたいだが、「目に見えてヤバいだけじゃなく、マジで目に見えないヤバさがある」とも推定しなくてはいけない。
マジでシャレにならん話、目に見えて検出可能な愛の量だけを見積もっても、生じてくる「結果」とどうしても帳尻が合わないのだ、ズレがあるなんてものじゃなく「ケタが違う」というような帳尻の合わなさだ、これを何かしら概算でも見積もる方法がないと本当に不安で危なっかしくてしょうがない。
何かこう、赤外線カメラみたいなもので、僕から相手に届いているものが全量視認化できたらいいんだけどな、そんな機械はないし目安になる文献もないし、かといって僕はこの線で傲慢になれるタイプでもないし、何かもうヒヤヒヤしているのだった。

もし、単純にこれまでの「結果」から事象の出納を推定するなら、「九折さんへの返報が爆発的に足りない」という結論を採るしかない。
それで、これまでの「結果」とはつじつまが合うのだが、もしこの説を採ってしまうと、「もう爆発的に返報してもまったく足りていない」という結論まで肯定しなくてはならないので、この説を採るにはどうしても抵抗がある。
誰もそんな、爆発的に返報しなくてはならない心当たりはないだろうし、僕のほうにも爆発的に返報されるような心当たりはないのだ、お互いに心当たりがないものに「がんばれ」とも言えないし「がんばります」とも言えるわけがない。
ううう、これは一体どういう現象なのだ〜、たとえるならこうだ/家の中の家財を、すべて価値鑑定してもらうとして、「全部でたぶん百万円ぐらいにはなるんじゃない?」と浮き立っているところ、「一億円〜!」と査定が出たような感じだ、「はぁ!? ちょっと待て」「家財の中の、どれが一億円もするんだ?」「どこにそんなものあるんだ、見当もつかねえよ」というような状態だ、そして家中を探し回っても、そんな財物は見当たらない気がする、「ウーンやっぱそんな値打ちもんはどこにもねえよ」と確信されるのに、全体の鑑定をすると「一億円〜!」という結果なのだ、これは本当に「???」で、まったく落ち着かないのだった。

この家には、土足で入ればいいのか、正装して入ればいいのか、わからなくて不安だ。

なんというか、たとえるならば、足元の床に十万人の顔写真が貼られていて、「その中に一枚だけ聖人の像があります」というような状態だ、土足で歩き回っても何もないのだが、踏んではいけない一枚がどこかにあるらしく、それがどれだかはわからない、それであるとき突然「どうしたの?」と、胸を押さえてかがみ込んでしまう人が出てくる、そのとき当人はいつも「わからない……」のだ。
こんなもん、逆にカルマトラップみたいで、根こそぎタチが悪りぃじゃねえかと思うのだが、本当にわからないのだ、誰にも心当たりはないし僕にも心当たりはないのに、なぜか「爆発的な返報」で初めて成り立つ世界があるのもミエミエにわかる/いったいこのゴミ屋敷の中に、何が大切なものとしてあるのだろうか、うーん自分でいうのはアホみたいだという話をしてしまった。

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消費とカルマとオーマイグッドネス

れわれは、教わっていないだけで、実はすさまじい「消費体質」になっている。
ちゃんとカネは払っています……ということではなくて、これまでの文化とか、人の愛とかだ、あなたがこれまで「消費」してきたのは。
これまでにめちゃくちゃ受け取ってきているのに、それを「消費」してしまってフンフーン♪ と鼻歌にしてしまってきたから、多くの人が奥底で後ろめたいのだ、これはシャレにならんタイプのやつだ。
消費って怖いし、消費体質ってさらに怖いよ、自分から供給しようとしたらピタッと全身が止まってしまい、しかも「キゲンが悪くなる」んだから、もうそれが「ダメだ」とわかっていても身動きが取れなくなる。

この世界には色んな仕組みがあり、まあ誰でもうすうす知ってはいる気がするが、これまでに受けた愛や授かった文化や注いでもらったサービスを、フンフーン♪と「消費」したら、必ずそのあとに請求書がくるのだ、この請求書はアメリカドルではなく「カルマ」という通貨ベースで届く。
よくこんな怖いツケを、平気で蓄積していけるなと思うのだが、誰も本当に平気なのではない、怖すぎて逆に直視できなくなったのだ、多重債務者が陥るパターンで、「もうどこにどれだけ溜まっているのかわからないから見たくなくなった」というやつだ。
これまでに、多数の歌が、多数の詩が、多数の声が、多数の映画が、多数の物語が、多数の異性が、あなたに「愛」を教えようと与えてきたのだから、あなたは愛を「実現」できてなきゃダメだったのだ/悪趣味と自己弁護でこれまでごまかしてきた、ように見えたが、やっぱりまったくごまかせてはいなかったんだな、それにはちょっと笑い話の感さえある、こんなに根こそぎ目論見がはずれることってあるのかと笑いたくなる。
やっぱり真心には真心で、熱い声には熱い声で、勇敢な愛には勇敢な愛で、応えなきゃダメだったのだ、そりゃまあ当たり前ではあるな、けっきょく「わたしのペース」みたいなものは、酌量の対象にはなってくれなかったみたいだ。

あきませんわ、世界のルールが、やっぱ思っていたより「熱い」ですわ。

たとえば、若いうち、われわれは疾風怒濤の愛と冒険を生きられるように、若さの身が与えられてある、で、それが与えられてあるということは、やっぱりそれを十全に使いつくすしかなかったみたいだ、こらあかん/しかもこの期におよんで「○○のせい」と他人のせいにしているからな、本当はそういう問答って誰にも聞いてもらえていないみたいだ、この世界はまずいぐらいシンプルなルールで出来ているようだ。
100の愛と100の青春が、本来「できるように」と与えられてあるところ、80の愛と80の青春しかできなかったら。20と20で計40が「カルマ」として未払いになるな、たまにこっそりホントのことを教えておくけれど、アンタこれから過払いせんとあかんのやで、それでも果たして追いつくかどうかという……ブルーになることは何もない、だって必ず、あなたが「消費」したぶんだけがカルマになっているからだ、ただそのマイナス残高を見たら、本当にゾッとして眼がくらむかもしれない。

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