☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
市民生活と「しっくりくる」宗教

いてい、宗教に入れ込んでいるのはオバサンないしはババアだから、あなたもオバサンかババアになれば、宗教に入れ込むようになる。
宗教に入れ込むといっても、当然、自分にしっくりこない宗教には入れ込まない、われわれは自分にしっくりこないものはすべて「誤っている」と判断せざるを得ない生きものだから、何かが聞こえるという徳性を得るまではひたすら「しっくりくる」という基準だけですべての正誤を判断せざるをえない。
そして、「何かが聞こえる」といって、そんな徳性はふつう "無い" ので、妄想で「聞こえる……」みたいな感じになり、エセスピリチュアル&特別なワタシを決め込んで、現実逃避するしかなくなるのが定番だ、そのころにはたとえ何歳でもきっちり「イタいおばさんwww」になっているので、もう誰も何も言わなくなるだろう/そういう「イタいおばさん」のパターンにならなかった場合は、何かが聞こえるうんぬんではなく、ただ「しっくりくる」ということで宗教を選択する。
これは何の話をしているかというと、もちろんヤバめの話をしているのだ、ヤバめなので途中からは入り込まない、こんなことはあくまで一般論で留めておくものだ、ただそれでもいつかの未来に何かあなたの役に立つことがあるかもしれない、こんなヤバめのことはまず誰も言わないし、そもそもこんなこと誰も気づきようがない。

多く、日本で誰かが亡くなると仏教様式の葬儀になるが、それは多くの人にとってその様式が「しっくりくる」からだ。
そして「命日」というとしっくりくるし、「一回忌」「喪中」と言われると、そのあたりもしっくりくる、その「しっくりくる」というのは、「お正月だから初詣に行こう」ということの「しっくりくる」とまったく変わらない。
もし、何かの先生が亡くなったら、その弟子はお葬式に参列するものだが、そこでもし「葬式になんか首を突っ込むな」「お前はお前のやるべきことをやれ」と言うと、それは市民生活の感覚としてしっくりこない、「世話になった先生が亡くなったのに葬儀に来ないなんて」という感情に当然なる/けれども、この「葬式になんか首を突っ込むな」の発言は、他ならぬお釈迦様から弟子アナンダへの発言なのだ、当の仏教のボスがそのように教えているのだが、そのことよりむろんわれわれは自分たちの「しっくりこない」を優先する。
あるいは結婚式は、キリスト教式でやる人が多いが、神父さんか牧師さんかが「○○〜、誓いますか」と問うと、新郎新婦が「はい、誓います」と答える、よもやここで「いいえ、誓いません」「誓いませんが、はい、そのようにします」とは言わないだろう、そこで誓わないというのは実にしっくりこない/が、聖書に詳しい人はご存じだと思うが、「誓ってはいけません」「はい、そうします、か、いいえ、そうしません、のどちらかにしなさい」とは、他ならぬ当のイエスキリストが言っているのだ、「誓いを立てることで信用度を増すというインチキをするな」という教えだ、けれどもそんなものはわれわれにとって「しっくりこない」ので、われわれはしっくりくるほうを優先する、このようにしてあなたは、オバサンかババアになったとき、いかに自分に「しっくりくるか」という基準で、神仏のありようを定義する(必ずそうなる、とこのことは断言しておいてよい)。

サービス業は、消費者にとって「しっくりくる」ことが一番大事。

このように、あくまで一般論に留めておくことが肝要だ、何も破壊する必要はないし、何も闘争する必要はない、ただそれでもいつかのために、この一般論を知っておくことだ、誰でも知っているとおり、サービス業は消費者にとっての「しっくりくる」が一番大事だ、一時期流行った言い方でいえばCS(カスタマーサティスファイド、顧客満足)というやつ。
あなたは加齢していくと共に、人の生というものの、 "ガチの恐怖" を知るのだ、知人の不慮の死、内科のほとんどがそれである不治の病、加齢による両親の精神的・人格の変容、何もかもを忘れて失う認知症の双眸、自分の年齢が減ることはないという事実、自分に与えられる「機会」はもうこの先ないという日々の連なり、そのガチの恐怖があなたの魂を脅かしたとき、あなたの魂は知らず識らず宗教に頼る、そのときあなたは「しっくりくる」様式をなぞりだし、その途端、これまで自分を脅かしていた恐怖がスッと消えたように思う、それを「カミサマって本当にいるんだね」と思うのだ、でもそれはあなたが「しっくりくる」という様式をなぞったものにすぎない……ではなぜ恐怖がスッと消えるという現象が起こったのか? それは、それほどまでに、その "ガチの恐怖" はおそろしく、なんとしてでも逃避したかったからだ、いくらでも催眠術に掛かりたいという下地がすでに強烈にあった、だから「しっくりくる」というその様式は、ヒプノティックに作用し、その後単なる強迫神経症としてあなたを支配しつづける、「手を洗わないと落ち着かないの!」と苦しむ強迫神経症と同じ現象として/あなたが見かけたことのある宗教おばさんはこういう仕組みで出来上がったのだ。

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カミサマに見捨てられぽんち
リスマスはただのイベントになったし、「青春」はSNSに写真をあげる演出ごっこになった、セックスはナゾの陰部遊びになったし、「好きな人」はただの自分の「萌え推し」になっただろう。
かつて、クリスマスは前後を含めて特別な日々だったし、元日の昼に届く年賀状には特別な風情があった、青春は確かに胸に刻まれて、照れくさくて誰にも言えず抱え続けるものだった、好きな人は自分の生きた時代を定義するような存在だったし、セックスはときに「これでもういつ死んでもいいや」と痛快に空まで笑えるような何かだった。
すべての歌曲は、ただの気分操作BGMになっただろう? 刺激的なワードセンスや打ち込み系のドラムンベースで「まじキてる」と言いながら二ヶ月後にはまるで飽きたゴミになっただろう、なぜこんなことになったかというと、ずばりカミサマに見捨てられたからだ、「見放された」でも同じ意味だ。
かつて、クリスマスにはクリスマスのとんでもない夜が覆い被さり、元日には元日の強烈な晴れやかさが光り、青春の切なさは永遠であってよい何かをそれぞれに教えていった、が、これらはすべて、人の感情ではなく、人為的なものではなかったということ、「世界」から与えられた何かだったということだ、今はそれがまったく与えられなくなったので、人が人為的にイベントや演出をこしらえまくっているのだが、それらがけっきょく何にもならないということは、実に人為とカミサマのものとの違いをはっきりわれわれに教えている。

あなたの「手料理」は、コンビニのレトルトハンバーグより美味しくないだろうし、あなたの唄う「歌」は、ひどくひねくった自己陶酔の性根を露見させるだけのものだろう、あなたがする勉強はまるでWikipediaの丸暗記合戦でしかなく、あなたにとっての「街」はただウィンドウショッピングであなたのカネを巻き上げる装置でしかない、あなたの街には何の風も吹いていない。
あのときの自分と共にある「この道路」とか「この坂道」というようなものはなく、あるのはただの記憶だ、あのときの「場所」や今の「場所」はない、思いついて手書きで手紙を書いてみようと思うが、手書きのものにもアイコンや絵文字をてんこもりにしないと文章が書けないことに気づく。
その点、おれがクリスマスに街中を歩けば、おれの上には確かに特別な夜が覆い被さっていて、街には街の特別な風が吹き抜け、お酒は商品ではなくなり一種の宝になる、そこにBGMではなく「音楽」が流れているのがわかる。
なぜこんな差が出るかというと、おれはカミサマに見放されていないからだ、はっきり言っておく、おれはカミサマに見放されていないが、今、十四歳の処女中学生はカミサマに見放されている/みんなカミサマに見放されているからこそ、人為的に自分の「イメージ」を演出しているんだろう? そんなことをいくらしたって、神聖な夜や特別な風は戻ってこない、むしろこれまでに一度もそんなものは与えられたことがない人のほうが多いのだろう。

おれは立っているだけですべてのものに出会えるが、あなたはどう演出しても生涯なにひとつにも出会えない。

カミサマに見放されるというのはそういうことなのだ、「ぽんち」は正式な日本語だからこのときは「見放されぽんち」としておこう、このことの解決に焦っているのはあなたではない、解決に焦っているのはおれだ、だからカミサマはおれを見放さない。
解決の糸口、およびその早道は、ここに書かれていることを「そのとおりです」と肯うこと、そのときにザワッと起こるグラつきを体験せよ、それが体内にひしめいている悪霊みたいなやつだ、そこで得られためまいのような特別の感触を、ためしに今度は「わたし(の力)かな」と言って見ろ、そうしたらグラつきは止まり、またいつもどおり何にも出会わない世界に戻る(つまり見捨てられぽんち状態に戻る)/このとき何が起こっているかなど、到底あなたにはわからない、わたしが宗教洗脳をしているのではない、あなたがやがて年を取るとありふれた宗教洗脳に引っかかるよということを警告、ないしは予言しているのだ。
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生きものという機械の、機械的射精について4

性の身体は物体ではない。
これまでに、何のロマンも感じず、何も自ら主体的にならず生きてきた男だって、突然「女の穴に指を入れたい」とは思いやがる。
それで「女の穴に指を入れてみたんです」ということで、フワワワ〜となるのだが、冷静に考えろ、これまで何一つ世界と主体の体験がない者が、穴に指を入れただけで何かの体験ができるわけがないだろ/はっきり言っておく、何一つ世界と主体の体験に向き合わなかった者がゾクッと体験できるのは自身の "病気" だけだ、それ以外に体験があるなんて虫の好い妄想はただちに捨てろ。
何の感動もなしに生きてきた消費者人間が、「穴に指を入れてみました、フワワワ〜」と言いだし、また女の側も、「穴に指を入れられてみました、フワワワ〜」と言いだすのだから、そりゃどんなカミサマだって見放すだろう、冷静に考えろ、君たちは何もしてこなかったじゃないか、消費生活だけをしてきた者がロマンチックな何かに触れられる可能性はゼロだ、どうして自分のことだけは例外に考えるのだ、消費だけしてきた者は納税だけしてやがて病気になって死ぬだけだ、自分の人生に「何か」があるなんてありもしない空想にすがるのはよせ。

女性の身体は物体ではないのだが、本当に何の青春も友人も感動も魂もなく生きてきた男は、堂々とまるで自己の権利のように、女性の身体を物体だと思っている、そして「女性の身体に興味があるんです」という痴愚そのものの発想をホームルームの言い方をするのだ。
そして愚かしいことに、女性の側も痴愚になっているから、女も女の身体に興味を持ってしまって、「(わたしの)女性の身体に興味があるんです」という痴愚の思考になってしまっている、彼らの両親は自分の子に「あなたは致命的なバカだから一般人のふりをしないように」と言いつけねばならなかった、だが両親もすでにそんなことは面倒くさいとしか感じなくなったのだろう、両親はただ自分が観たいテレビ番組といい気分になれる外出先だけを漁っている。
女性の身体は物体ではないし、男の身体だって物体ではないのだが、人生が空っぽの人は見かけの高級品でマウントを取ることと、それぞれの陰部で「ドッキング!!!」をしてみたいということにだけやにわに興味を持つ、全身に何の気魄も霊魂も行き届いておらず、むしろ確信をもって身体を物体と信じているのだろうが、それは自分が最も憐れな者だということを誰にも教わっていないだけだ、「ダンボール箱の穴に指を入れてみたら何かネチョネチョでした、興奮」というような次元で人類がセックスを捉えてきたわけがない。
「空っぽの人生」というのは実在するのだ、そしてそんなことは、誰も憐れんでくれない、なぜ憐れんでくれないかというと、空っぽの奴に対して憐れみを向けるということが不可能だからだ、空っぽの人生を生きている人はどこかで自分の人生に「何か」があると勝手に思っているものだが、まず無いのだ、そのことを知らないからまるで一般人みたいな顔をして「女の穴に指を入れてみたいです」と堂々とまるで権利みたいに主張・請求しはじめる/女の穴に指を入れても、空っぽは埋まらないし、指を入れられる側になっても、空っぽは埋まらない、まるで手持ちの砂で「ヒマラヤ山脈を作りたいんです」と言っているような痴愚ぶりだ、それでも当人は自分の権利があると信じて彼はいつまでも請求を続ける、「わたしを満たしてよ」とむしろ周囲に義務の履行を請求しつづける。

おれにとってさえ、性愛の現成というのは最高難度のものだったが、それを「指を入れてみたいです」という痴愚の思いつきと同列に並べるのか。

現代には、何かとんでもないデカさの、痴愚のデーモンみたいなものが降臨していて、車の運転もできないような奴が「バレエをやりたい」とか言い出すのだ、どうしてそのように、一般のおじさんでもできることができないのに、人類の中でも特級の者しかこなせないものをやりたいとかできるとか思い込むのだ、漬けものの塩梅(塩加減)さえわからない者がパティシエになりたいとか平気で言い出す、二十人の前で話して地声が全員に届かないような奴が二千人の前で唄う歌手になりたいとか言い出す、「桃太郎」のサル役さえ務まらない者が女優・俳優になってセレブ生活がしたいと平気で思っている、複式簿記の理解を二秒で投げ出す奴が「世界を股にかけるビジネスマンになりたい」とマンガのイメージを自分に当てはめて妄想している。
なぜこんな馬鹿げたことが起こるかというと、ウマシカの目には、本当に人のことが「物体」に見えているのだ、だから華やかな物体があると「うらやましい」と感じ、それと同等の権利が、同じ物体である自分にもあるはずだという前提に立つ/おれが女を抱きしめたとき、その女はおれに抱きしめられたことを生涯の宝にすることがあるが、それを脇で見ていたウマシカは、「自分も同じように抱きしめたいな」と平気でエントリーを申し出るのだ、本当にそのように、人のすべてが物体に見えており、自分も同じ物体としてヘコヘコピュッピュがしたい、そしてその権利が自分にもあるはずだと信じているのだ、だから彼(彼女)の内には何の悪意もなく引け目さえない、彼(彼女)の内にあるのは同等の権利が認められるべきというむしろキラキラの「正義」なのだ。

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生きものという機械の、機械的射精について3
こに、陽キャのA君と、アイドル風味のB子さんがいたとする、両者は同じサークルに所属している。
陽キャのA君は、おっちょこちょいなところがあり、それが見ていて「かわいい☆」とB子には思える、そしてB子のアイドル的な振る舞いが、陽キャA君にとっては「正直、そそるわ」という感触だ。
この陽キャのA君とアイドル風味B子さんは、たまたま帰り道が一緒になり、「おれんち寄っていく?」という感じになり、そのままワンルームマンションに入り込み、発泡酒を飲みながらA君はB子のオープンした股間を下着の上から撫でる、ウフフン、という感じになるのだが、このときに注目すべきことがある。
現代における、「セックスならざるウマシカ」の性質として、陽キャAとアイドルB子は、互いに語り合うところを持たないという特徴があるのだ、彼らは身内話をやりあうだけで、未来や世界について語り合うところを一ミリも持たない、だからこそ独特の「ウマシカ」の交尾が成り立つ、お互いのわけのわからない棒と穴を接合してみるというような具合だ、彼らは語り合うということそのものを持たないので、おしゃれと陰部だけがロマンチックだと思っている。

よくよく観察してみよう、観察といってもかねてからわたしが主張しているようなことだが、現代人は「言葉」を失い、未来や世界について語り考えるということを失ったのだ、そしてこの「語り考えることを失った者」から順に、むしろウマシカ行為に有利化しているという特徴がある。
本来、「ふつうの人間」という言い方をするならば、「ふつうの人間」は語り合うこともない人相手に、ウマシカ行為なんかやる気になれないものだし、また「ふつうの人間」は、明らかに演出でしかないアイドルやアニメに対してファナティクに「焦がれる」なんてことはできないのだ、そんなことふつうの人間の感覚としてできるわけがない。
ウマシカは、強者においてはウマシカ交尾をし、弱者においてはウマシカ自慰をすることになるのだが、そのどちらにせよ、未来や世界について「語り考える」ということを失っているというのが特徴だ、語り考えることを失った者から順にウマシカになると捉えてもよいし、ウマシカ行為をやれば途端に「語り考える」という機能を失うと捉えてもいい、どちらも同じように起こっていることだ。
プロが作成したセックスビデオでもいいし、シロウトが流出させたセックスビデオでもいいが、両者がどれだけ見つめ合っても、その両者が互いに未来や世界について「語り考える」というシーンや気配が入り込んだセックスビデオはない、だからわれわれがメディアで目撃できるセックスはセックスではなくウマシカでしかないし、何なら実体験できるのも今はほとんどセックスではなくウマシカでしかないのだ、その「語り考える」ということなしに「ウフフン」だけをやるからウマシカになる、それはもう自動的になるのだ、自動的にそうなるから現代はここまでこのように進んできてしまった、本来セックスというのは互いに語り考えることの果てに交わりきりたくて生じる営為だったのに。

互いに語り合いたいと求める、その衝迫が性欲を凌駕するときのみ「セックス」になる。

だから、具体的な性行為は中心にないのだ、性行為というのは高齢や身体的不具があったら不能になるが、そのことは本質ではない、互いに語り合うところを極限にまで求めるということに、場合によってはセックスが伴うというだけで、それは特に若い人の肉体において、肉体の昂ぶりが「もどかしい」という形で生じるだけだ、肉体に対してあれやこれやしたとか、ピュッピュしたとかいうことは、正しいセックスにおいては記憶に残らない/事実わたしは、たとえば学生のころのセックスについて、その最中の記憶がまったくない。
われわれは本来、獣ではなく人なのだから、正しくは「際限なく語りあった」という記憶だけが残るものだ、そのことは現代の状態しか知らない人にとってはまるで想像も空想もできない状態に違いない/あなたは未来や世界について語り考える小説は書けないだろうが、チンコやマンコをいじくりたおす性描写のシーンを連ねる小説なら書けるのだ、それは品性がオゲレツとかそういうことではない、「語り考える」という能力を失ったウマシカだからだ、まったくその小説の能力のままあなたは機械的射精に向かおうとするだろう。
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生きものという機械の、機械的射精について2/ウマシカ
とはセックスの問題ではない、むしろ "セックスでないもの" の問題だ/セックスでないものをセックスだと捉えていることの問題、ヘコヘコピュッピュで恋愛やらセックスが得られると思っている、愛のカミサマへの冒涜の問題だ。
現代の若い人はアイドルが好きで、清純派アイドルというのもたいてい派手な露出的衣裳を着て、オスの「チンコに来る」ような動きや表情を示しているのだが、若いオスはそれを天使や女神のように奉り称える。
それはつまり、「チンコに来るやつがカミサマ」と思っているのだろう、実際、それしか実感に及ぶものがないのだからしょうがない、たぶんそんなことを若い男たとは分かっていないし、一方の若い女性たちも分かっていないのだ、本当にホルモン分泌に訴えかけて機械的射精を誘引するという一点しか見えなくなっている。
機械的射精というのは、陰部を擦り付けてピュッピュすることであり、これはウマやシカといった哺乳類がいくらでもやることだから、この機械的射精しか視えなくなっている者のことを、便宜上「ウマシカ」と呼ぼう、つまり何が言いたいかというと、「あなたはウマシカピュッピュを "セックス" だと思っていますよね?」という問いかけを定義したいのだ、背後にウマシカピュッピュがはたらいている場合、何をどうしたって主体やら霊魂やらの話はその人に入らないのだ。

見た目にはアイドルのような可憐な少女が、向き合ってみると、その空虚な瞳の背後には、ウマシカピュッピュしか置かれていないというケースが多々あり、わたしはそのことにいい加減うんざりしている。
逆に、頑なに "下ネタ" を排除する自己美化オバサンも、その背後にあるのはウマシカピュッピュだけということがあり、このケースにもいい加減うんざりしている。
主体やら霊魂やらの話をするとき、まず「あなたはウマシカピュッピュをセックスだと思っていますよね?」という問いかけを第一とし、問われた者が「はい、わたしはウマシカピュッピュをセックスだと思っており、ウマシカピュッピュにただならぬ強さの情動を起こします」と答えるのを第一にしてもらわねば、話の土台が成り立たないのだ、なぜウマシカの鼻息荒い話に付き合わねばならないのかという精神的負担がケタ違いに大きすぎる。
男女とも、存分にウマシカピュッピュを得たり、あるいは定期的にウマシカピュッピュを補充したりすると、ウマシカの人々は安定し、満足するのだが、そうして何の出来事もない時間だけが過ぎてゆき、後になって「何の出来事もないんです」と言い始める、そりゃ当たり前だっつーのという話を、もう何度も繰り返したくないのだ/ウマシカピュッピュを肯定したり、それを愛だと言ってウットリした人から順に、魂やら世界やらとはサヨナラなのだ、ウマシカピュッピュ度が1あがるたびに、魂やら世界やらとは100サヨナラが進むと思っていい、こんなレーティングでまともに話ができるか、機械的射精をセックスと思い込んでいるウマシカが、男女そろってウフフしていても魂は致命的に落下するのみだ。

あなたがしたがっているのはセックスではなくてウマシカだ。

だから、そのウマシカを "処理" するのはいいが、セックスだと言い張るのはやめるべきだ、そしてそのような家畜の処理風景を、人文的な場所に持ち込むべきではない/わたしはこれまで、このしょーもないウマシカ炸裂で、貴重なことの端緒がことごとく破壊されていくのを数限りなく見た、当人は自分がウマシカだと思っていなくて、ロマンチックだと思っているのだからタチが悪い。
現代においては、少年マンガもまったく少年マンガではなくなり、ウマシカマンガになり、アニメもウマシカアニメになり、小説も映画もドラマもすべてウマシカコンテンツになったが、そのことに違和感がないのは消費者が他ならぬウマシカだからだ、機械的射精を「セックス!」と思い込む人々が主流になってしまったということ/女性を女体と見てヘコヘコピュッピュしたいとしか考えない男性がいるのが驚きで、しかもそれを「恋愛」「セックス!」と思っているのも驚きだが、輪を掛けて驚くべきは、女性の側もそれを「セックス!」と思って、むしろウェルカムで求めているという面があることだ、よくもまあそんなに明らかに違うものを恋愛だのセックスだの思い込めるな、女性のウマシカ化を引き留める方法はないが、それは思っているていどの百倍ぐらいであなたを戻ってこられない谷に突き落とすということを、せめて情報として提供しておきたい。
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生きものという機械の、機械的射精について
ぜこんな話をしているかというと、どうも耳にする情報から類推するかぎり、現代の男性は機械的に射精しているようなのだ。
もちろん「生きものは機械」だから、霊魂を与えられず生きものとして射精すれば機械的な射精になる、たとえば代表的に知られているように、馬の精子を搾るときは種馬をメス馬に見立てた模型にまたがらせる、そして挿入用の穴が用意されているので、そこに馬のペニスを差し込めば種馬は自動的に腰を振って射精するという仕組みだ、家畜というのはそういうものだし「生きもの」というのはそういうものだ、たとえば小型犬のオスなどでも発情期になるとあちこちにペニスを擦り付けて射精し、当人(当犬?)は何も知らずにごきげんでいる。
どうもこのところ、現代の若い男性は、何ら主体たる霊魂を与えられていないから、自分の機械的射精をセックスの土台にしているようなのだ、そして女性の側も主体やら霊魂やらのことはまったく視えないので、機械的射精を受けたらウッフンなのかなと思っている、それはそれで純粋な生きもの・家畜あるいはただの哺乳類というなら間違ってはいない、でもきっと当人たちは自分たちで家畜プレイをしているという自覚はないのだろうと思う。
そしてわれわれは、自分の身口意によって「行った」ことが、己のカルマとなり因業となるので、裏側でこの家畜的セックス・機械的射精をしていると、その後の主体・霊魂の進みゆきが悪くなるのだ、悪くなるというより契約上、主体と祝福の恩恵は入らなくなってしまう/それは自らの行いによって「自分は家畜であり、獣です」という業(カルマ)を作ってしまったからだ、人は人であるうちは人であることが正しいと感じるが、獣になると獣であることが正しいとなるので、その後はもう主体やら霊魂やら祝福の恩恵やらは入らなくなってしまう、これはある段階から「もう無理だね」と取り返しのつかないことになってしまう。

機械的射精というのは、つまりマウント状態でオスがメスに腰をヘコヘコ・ピュッピュすることを言うのだが、少なくともこれを肯定してはならない、肯定するともう自分が獣として定義され(畜生道に陥り)、ほとんどの場合は戻ってこられなくなる。
生きものは機械であって、機械的射精とはホモサピエンスにおいてどのようであるかというと、オスがメスに褒め言葉と金銀財宝をもって求愛し、それを受け容れたメスにオスがマウントして腰をヘコヘコ・ピュッピュするというものだ、このことを肯定すると人は獣になって戻ってこられなくなるが、おそらく現代の若い人は何もわかっていない、何もわからないまま堂々と、この機械的射精を「セックスだ!」「セックスした!」と捉えているように思う。
多くの人は「愛のないセックス」を否定的に捉えていると思うが、そうではないのだ、「愛」というのは二種類あり、仏教説で言われている貪愛というのは、人間道のものではなく畜生道のものなのだ、だから機械的射精・ヘコヘコピュッピュをすると、畜生道としての貪愛が因果として発生する、それはキリスト教で言われている愛とは別のものだ。
機械的射精・ヘコヘコピュッピュに前後して、生きものの体内には「ホルモン物質」が分泌される、よもやそれがキリスト教で言われているところの愛であるはずがない、おそらく現代の若い人は、1.刺激を受ける 2.ホルモン分泌 3.駆り立てられる 4.求愛する 5.ヘコヘコピュッピュ、という生きものの本能、生理機械的なセックスだけをセックスだと思っている、これをやると相当悔い改めないと戻ってこられないので、少なくとも機械的射精をセックスだと肯定しないことだ/生理機械的なメカニズムによって、ヘコヘコピュッピュとその周辺は「気持ちイイ」のだが、獣はその「気持ちイイ」しかわからないのだ、人が同じように「それしかわからない」となってはいけないのだが、おそらく現代の若い人は本当にそれしかわからなくなっている、だから本当に乳を揺らした若いメスに駆り立てられたオスが求愛するという動物園の繁殖事業のようなことを恋愛だとかセックスだとか思っている。

現代人の主体のなさの背後には、「機械的射精」という実態がひしめいている。

誰も本当のことは話さないだろうが、多くの人が裏側で機械的射精・ヘコヘコピュッピュをしているから、それが業(カルマ)による自己決定になってしまって、主体・ソウルの享受に対する決定的な不能要因になってしまっているのだ/決してオナニーをしてはいけないということではないし、機械的射精が病気だと言っているのでもない、ただそれば恋愛でもなければセックスでもないということ、処理するのはいいが肯定してはいけないということだ。
少年少女は、現代においては発育もよいし、端末から情報が得られるので、中学生ぐらいになればヘコヘコピュッピュに必要な、身体と環境の要件は整うだろう、だが彼らが相互に合意してヘコヘコピュッピュをして「気持ちイイ」となったところで、彼らはそれでセックスをしたと思い込むから、それ以降はもう機械的射精の周辺にたむろする獣にしかなれない/機械的射精をするなら、柔軟な筒を用意して電動器具でブーンとやっても同じなのだ、それでいわゆる「性癖」がこじれて、こじれた性癖に支配される、こじれた性癖を自分の愛のカミサマだと思っているからだ、何度も言うように「生きものは機械」なのだから、電動器具と同じだ、基本的にヘコヘコピュッピュを愛のカミサマ扱いした人は土下座しても戻ってこられない、そりゃ愛のカミサマを電動器具と同列に並べた者がどんな許しを得て戻ってこられるものか、このパターンはたいてい致命的にアウトになる。
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まったくわからない方法、よろこびを下さるもの
分のスコア "だけ" を信じるという方法、およびそれが報われる瞬間が、特殊な意味においてサイコーだということ、つまり「完璧」にサイコーだということを、わたしも少しは知っている。
自分のスコア "だけ" を信じ、最優秀スコアの者として、そこにいる一番いい女をブッコ抜いて、好き放題にヤッてしまうということが、どういう意味で格別にイイのかも、わたしはよく知っている。
わたしがその宗派を辞めてしまったのも、つまるところ、そのサイコーの味が、サイコーなのに「好きじゃなかった」ということに尽きるだろう、これ以上サイコーなものはありえないとわかっているのに、そのサイコーの味が「好きじゃない」のだ、アホみたいなプリミティブな話だが、けっきょくそれが事実だったと思う。
自分のスコア "だけ" を信じるという方法は、実にわかりやすく、いずれ報われたときに得られる歓喜も、その完璧さも、その無敵さも、よくわかるのだ、紛れもなく自分で信じ、自分で獲得したよろこびがそこにある、自分で獲得したものだからこそ、誰にも後ろ指をさされることがない、それはもう自慢する必要もなければマウントを取りに行く必要もない内なる誇りの達成感だ/この、よくわかる、自分で獲得するよろこびを、わたしは否定する側に立った、ただその味が「サイコーに分かる」ということが、味として好きじゃないという一点において。

自分のスコア "だけ" を信じ、自分のスコアを最上位にならしめ、その証をもって自ら獲得したよろこびにまみえるということは、誰にとってもよく分かる話だ。
一方、何のスコアもなく、スコアを並べるということにも参画せず、何か知らんが「うようよ、へぷんつるぎ〜」と言っている、そんなことによろこびがあるわけがない/少なくとも、そのよろこびは「分からない」、そんなことによろこひがある「わけがない」。
にもかかわらず、なぜか世界が、わたしによろこびをくれるということ、下さるということがある、つまり理屈に合わないということ、自ら獲得するよろこびをすべて放棄しているのに、このよろこぴゼロであるべきはずの者が、何かによってこの世界からよろこびを下賜されるということ/普通なら薬物を使わないと、錯覚さえさせてもらえないよろこびの下賜だ、わたしの生はほとんど、本当にそんなことがあるのかないのかを、己が身で試したような生だと言える。
結果的にわたしの知ったことは、「求める」ということについて、A.自分で獲得しにいく、という誤解があって、B.誰かがくれるまでピクリとも動かない、という正しい「求める」を、ほとんど誰も採れないということだ、何かを求めるというとき、自分でそれを獲得しにいくということは、それを自分にくれるようなものは存在しないと判断しているということになる/だからわたしは常々言っているのだ、偉大なるおれさまのところに、さっさと残高600億円と、献身的な美女と美少女会わせて7万2000人が "降ってこい" と、わたしはそのように求めているのであって、それをわたしから獲得しにいこうとは一切しない、それがわたしの知る「求める」ということだ。

わたしが獲得したものはゼロだし、これから獲得しにいくものもゼロだ。

わたしが言うのは常々、ただひとつのこと、「はよ降ってこいや」だけだ、とはいえ望めば何だって降ってくるのだが、実際に降ってきたらそれはそれで「忙しくなるからちょっと……」と怯んでいるところもある、だからその件については未だ降ってこないのだ、おれが自分でせき止めているだけだな、まあ今のペースがちょうどいいので……(怠慢)。
わたしが何かを獲得しにいくということはない、そもそも獲得しにいくという発想はザコのする発想なのだ、わかるだろ? といって、誰もがこの言いぶりに笑ってくれることをわたしは望む、おれには必ず降ってくるのだ、それは獲得しにいくなんてインチキをわたしが一切やらないからに尽きる。
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生きものは機械であり、これから取って代わられる機械だ3
もむつかしい話ではなく、単純な話。
経営者は、人が生きものとして「機械」だということをよく知っているのだ。
経営者が、これまでその「機械」をアナログで操作していたところ、これからはAIでデジタルに操作するというだけ。
より単純化すると、たとえばカブトムシの飼育と繁殖をするのに、気温やら湿度やらエサのタイミングやらは、AIが判断して差し支えないじゃないか、今のところ予算が合わないから人力でやっているだけで/それと同じように、人も扱われるということで、何も珍しいことはない、ただこれまで隠されていたことが堂々と明るみに出るだけだ。

何も新しく危機的なフェーズがやってくるわけではない。
これまで隠されていたことが、堂々と明るみに出るだけだ、つまりこれまでわれわれはまるで社会に「人」として扱ってもらっているように錯覚していたが、実はそうではなかったということが明るみに出るだけだ/カブトムシの飼育と一緒じゃん!! ということが、これから「まあいいでしょ、今さら」と明るみに出るだけだ、確かに今さらそんな尊厳問題に立ち向かうような気力も知力もわれわれには残されていない。
経営者は、「機械的生きもの」としてのあなたをよく見ており、「霊的な命あるもの」としてのあなたは見ていない、見ていないというか、そんなものを否定しているのが経営者だ、もちろんそうではない経営者も一部にはあるだろうけれど、ここでは捨象して分かりやすくする/どういうカタにハメたらどういう挙動をするか、その機械的生きものとしての性質をよく知っているだけで、命がどうこうなんてことは「けっきょく、そんなもの "無い" よね」というのが経営者の持論だ。
経営者が知っているのは、高めのエサ(給与)を置くと、生きものがワラワラ寄ってくるという事実だ、この生きもので再生産を営み、また高めのエサを仕入れるということ、それで「結果的に生きものが繁栄するのだからいいだろ」と考え、それが自分の役目だと経営者は自負している、むろんそのことは間違っていない/ただ実際に、高めのエサを置いたらどれぐらい生きものがワラワラ寄ってくるかということを、肌身で知っている人は少ない、これらの経験的データと肌身の感触は、すべてAIに代入して合理的な演算の代行をさせることができる。

生きものは機械だが、機械として唯一の不明点は、ときどき「悲鳴」を上げるということだ。

生きものは機械であり、本能というメカニズムで駆動している、そして本能要件を満たして駆動していれば何の問題もありえないはずなのだが、にも関わらずときどきエラーのような「悲鳴」をあげる、これが何なのかわからないのだ、経営者は「???」となるし、悲鳴を上げた当人も「???」となっている。
「閉じ込めて」「生殺与奪を握り」「共食い競争させる」ということでプロになる、その中で誰かが頂点を獲ったり土に還ったりするが、そのことに誰も不平不満はないのだ、当たり前のことだから、ところがこのすべて納得ずくのシステムの中で、不明の「悲鳴」がしばしばあがる、「君は機械ではないのか」と恫喝されると一言も返せないのだが、納得ずくのはずが「悲鳴」があがる。
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生きものは機械であり、これから取って代わられる機械だ2
きものは機械なのだ、そのことは各業界の経営者がよく分かっていると思う。
生きものは有機的であり、つまりタンパク質から成って生存本能によって駆動する機械体ということだが、これがいかに機械的なものかは、各業界の経営者がよく分かっている/第一に一定「閉じ込める」こと、第二に一定「生を支配する(生殺与奪を握る)」こと、第三に一定「マウントのルールを与えて競争させる」こと、こうすることで一定の「業界」が出現し、この業界を作った者は業界を支配する ruler になる。
このことが分かっていれば、何も難しい顔をして、厳しい指導をしたり、叱咤激励する必要はないのだ、ニコニコして閉じ込め、ニコニコして生殺与奪を握り、ニコニコしてマウントのルールと競争を与えらればいい、そうしたら本当にガラスケースの中の昆虫たちのように、機械的に生態系を運営しはじめる、誰かがその生態系の頂点に登りつめ、破れた者は土に還るのだ、そのことはガラスケースの外側には漏れない。
そもそも「機械」というものが概ね、金属と歯車でガチャコン動いているというイメージで定義されているのが誤りだ、タンパク質でだって機会は作れる、むしろ生きものの業が作り出す機械のほうが精密で未だ人智の及ぶところにない/たとえば動物細胞は電荷交換を得るのにプロトンポンプのメカを持っているのだ、分子細胞生物学で知られる「生きものの機械性」は驚嘆に値する、未だに生きものの免疫システムがどのように「異物」を検出して選択的に攻撃しているのか、現在の人類の知識では分からないのだ。

何をもって「私」かというと、一般的な意味での「私」は、そうしてガラスケースの中で生態系を運営しはじめること、その性質をもって「私」だ/仏典にはそのように堂々と書いてある、「カルマが私である」と書いてあって実にそっけない。
生まれたての子が母親を愛することや、いじめられた者がときに烈火のごとき反撃に出ることは、機械的なことであって、タンパク質のメカに組み込まれているのだ、だからカルガモの子はひたむきに親についていくし、いじめられた犬はときに無制御に人に噛みつくことがある。
もしここに、カミサマが存在するという仮説を採るならば、カミサマはあくまでそうしたあわれな生きものたちに「慈悲」「愛」「あわれみ」を掛けているという説なのであって、生きものの機械性そのものが神なのではない/よく「本能」というが、ダンゴムシには左折と右折を必ず交互に繰り返すという本能があるし、カワハギはアミノ酸の匂いを嗅ぎつけるという本能がある、漁師はこの本能を利用してカワハギを獲るのだし、似たように経営者は生きものの本能を眺めながらそのガラスケース内の生態系を管理している。
新宿歌舞伎町で若い愚連隊がケンカをしていたとしても、それより山林でイノシシを狩る猟師を武装させて乗り込ませたほうが、よっぽど怖いだろう、猟師たちは生きもののどこを殴れば気絶するかをよく知っており、生きものを手際よく絶命させるにはどこを突けばいいかをよく知っている、「プロ」というのはそういうことなのだ、プロの経営者であれプロの猟師であれ、生きものの機械性をよく知っていて、その操作と停止の仕方をよく分かっている、つまり自他の本能の機械性を操作するのがプロだ、逆にプロになりきった人は、生きものが何ら神ではないということをよく知っているだろう、彼らは神を誤解した生きものたちを操る仕方だけがまざまざと視えてしまっている。

AIが自我を持つことはないが、AIが経営判断だけを下すだろう。

このことを、経営者たちはすでに読み取っているはずだ、経営者は人体の機械性をよく知っているので、いつもその機械の操作方法を演算している、その操作方法はまさに機械的なものだから、わざわざ頭を捻らなくてもAIが妙案を出力してくれるはずだ/つまりAIが「このように閉じ込めなさい」「このように生殺与奪を握りなさい」「このように共食いさせ、競わせなさい」ということを判断し、結果的に人々はAIの案に基づいて「恫喝」されて支配を受けつづけることになる。
よくSF映画のノリで、AIが自我をもって人類を滅ぼしに来るというモチーフがあるが、これは大いなる誤解に基づいている、AIはただの機械なのだから主体を持つことはありえない、そうではないのだ、AIが主体を持つのではなく人が主体を放棄しているのが真相であって、AIが人格化するのではなく人が機械化しているというのが実態だ、AIが何かをやり始めるということではなく、あなたが何もやり始めないということ/他ならぬあなた自身、機械的なこと以外は何もしないという事実があるだろう、あなたはただ機械的な生きものとしてすべての日々を過ごそうとしており、そのあなたがAIに勝りようがないという事実に直面するときが近づいている。
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生きものは機械であり、これから取って代わられる機械だ
とえば「音楽の演奏」を考えたとして、音楽の演奏じたいは誰でも出来るのだ、それじたいは機械的なことだから。
その機械的なことを、どのようにして学ぶかというと、人を機械にしてしまえばいい、つまり閉じ込めて肉体に「この作業をせねば生を奪う」と通告すればいい、そうすると思いがけず、人体は機械化して機械的作業を驚くべき精度で学習する。
要点は「閉じ込める」ということ、そして「生を人質に取ること」だ、この二点に加えて「共食いさせる」「同業者で競争させる」という三点目が加わると、学習は加速して次の段階まで「発達」するということが得られる。
これがいわゆる、業者でありプロフェッションであり、また単純な「職人」だ、肝腎なことは「閉じ込めて外に出さない」ということ、大昔でいえば遊郭と同じ仕組みだ、それで女だって苦界のプロになる(むかし遊郭の女性は遊郭の塀の外に出られなかった)/子供をピアノ部屋に閉じ込めて、決して外に出さないこと、そして「弾かないならそこで飢え死にしなさい」と通告すること、この通告がマジだとわかったとき、生きるというシステムは勝手に学習する、それ以外に熱血やら厳しい指導とやらは無用だ、これらはすべて生きものの持つ「生きる」というシステムを凄絶化して運用しているにすぎないので、精神的なものは関係ない。

だから世の中の「職業」すべてを見ればわかるが、職業のすべては、1.「毎日そこに一定時間閉じ込められている」 2.「その職業を失えば生きていくことが困難になる」 3.「同業他社がおり、競争に負ければマウントされ生きていけなくなる」、という性質で形成されている。
それが「プロ」ということなのだ、プロフェッションというのはこのように機械的に形成されるもので、生身が健常であれば当人の意志や資質に関係なく、何かしらのプロになれる、ただ「閉じ込めて生を人質に取る、および同業と競争させる」という手続きで人体の生を機械化すればいいだけだ。
学業だってそうだし部活動だってそうだ、部活動だって「閉じ込め」「将来の生計や繁殖の有利さに関わる」「共食い、レギュラー争い、ライバルチームと競争させる」ということで成り立っている、こうして生のシステムにあやかれば、精神的なものは必要ないし、当人の意志も必要ないのだ。
問題はその逆、「解放されて」「生には無関係で」「競争相手もマウント対象もない」となると、こちらのほうは精神的なものが要る、本人の意志も資質も要るのだ、師も必要になるし指導も必要になる/閉じ込め教室もなければ試験もコンクールもない、ましてプロでもないのにという状態でピアノを弾こうと思えば、もう音楽の世界そのものが聞こえている必要がある、そうした原理から音楽を演奏している人はごくまれだ、つまり機械的に演奏している人が99.9%以上で、音楽的に演奏している人が0.01%未満というのが事実だ、それはつまり99.9%の人が「精神」などというものとは何の関係もなく、ただ生のシステムによって生きてそのまま死んでいくだけという事実の反映に他ならない。

そして今後、一切の機械的プロは、「AI」というより優れた機械に取って代わられる。

AIで動くセックスアンドロイドが出来れば、遊郭のプロ女性は必要なくなるし、職業的な「妻」も必要なくなるだろう、役所の手続き受付も、兵隊さえも要らなくなる、養殖した魚を捌くのはAIロボットがやってくれるだろう、そうしてやがてはすべての「職業」そのものがなくなるのだ/事実、音楽の演奏を例にしたとき、器楽もヴォーカルも、AIに「調教」を与えれば、機械的な演奏は優れて得られる、あとはその「調教」をAIじたいがやるようになればいいのだ、AIによるAI調教、このことはすでに数年後には一般に具現化しているだろう。
ことの本質は、「AIに取って代わられる」ということではなく、「なぜ人が機械のふりをしてきたの」「機械ではないクセに」ということだ、今後は機械的に優秀な演奏は何の用事もなくなるということ、それより「愉快なお前を聞かせてくれよ」ということになるのだが、そう言われると機械的な99.9%以上の人は沈黙して逃亡するのだった、マウントで育った彼らには何の精神もないからだ。
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私がアガって世界がサガる
でもしんどいときがあり、エネルギーが足りずに苦しむ、そんなときどうしても「私」をアゲないといけない。
「私」をアゲるにはどうするか、たとえば電動マッサージ器を股間に当ててオーガズムを得るときたいてい「私」がアガるのだが、その他にも色々、筋トレとその成果を確認したり、SNSで「いいね」をもらったり、内心でいろんな妄想や空想、何かありもしない差別やマウント意識を奮い立たせると「私」がアガる/今多くの人が、そうして「私」をアゲることで毎日を食いつないでいる。
しかし結果的に、「私」をアゲることで、当人はしんどくなるのだ、この現象を「罪」という、一般に知られている社会的・法的な罪とは別の、魂の罪だ/「私」をアゲることで、一時的にパワーが得られるのだが、そのぶん世界は汚らしく淀み、結果的にしんどくなる、この仕組みはほとんど誰にも知られていない。
しんどいときは「私」をアゲる、無意識に誰もがそうしているのだが、そうして「私」をアゲるときには、「世界」をサゲているのだ、「最近の男ってさあ」と言うとき、「私」はアガるのだが、「世界」はサゲているだろう、そうして彼女は今日からまたワンランク下がった世界を生きねばならないのだ、自分をワンランク下等な世界に生きるものにしている、そのことを無意識に何十万回と繰り返して現在に到っている/だから今朝も明日も明後日もよろこばしくはなく、明日もまた同じように「私」をアゲて「世界」をサゲるのだ。

表面上、「罪」をやれば元気になるのだ、元気になって強くなる、自信も得られる、そして今日を生きていけるようになる。
でもそれは、「罪」というのがつまり、「私」をアゲて「世界」をサゲるということだからだ/主たる「世界」をサゲて、激情のサタンと傲慢のルシファーに供物を捧げることで、褒美として「私」がアガり、力を得て元気になり自信も得られる、当人は何も悪いことはしていないつもりだが、当人がどんな「つもり」でもそれは魂の「罪」を構成する、こんなこと誰も気づくわけがねー。
おれは常々、自分のことを「偉大なるおれさま」と言い、まあ天才だからな〜と嘯いているが、このことでわたしが罪を帯びないのは、わたしが言うところの「おれ」というのは、天のもの・天才であって、一般的な私心を指す「私」ではないからだ/わたしはあなたのことをバカにしているのではなく、「私」をサゲて「世界」をアゲているのだ、そうするとサタンルシファーから褒美はもらえないのだが、そのぶん反対のものから祝福がもらえる。
「私」をアゲるということは、同時に「世界」をサゲるということであり、それは自動的に「罪」になる、この場合の「罪」とはいわゆる「悪いこと」ではないというのがポイントだ、誰も悪いことなんかしていない、ただ「罪」とは「悪いこと」と思い込まされたことによって、だまされ続けてきたにすぎない/「罪」というのは「悪いこと」ではなく「正しくないこと」だ、「正でなく逆のこと」およびそれによってもたらされる現象のことを「罪」と呼ぶのだ、だから何も悪いことをしていないあなたがすさまじい罪にまみれているのは何の不思議もない。

わたしは王の世界におけるゴミだが、誰かはゴミの世界における王だ。

「王の世界におけるゴミ」と、「ゴミの世界における王」は、どちらが勝るのか? という問いだ、まあその問いの答えにわたしは興味がないが、わたしは王の世界におけるゴミという立場であって、他方の事情がどんな具合かは知らないし、わたしが知っても意味が無いことだ。
それにしても、わたしは「偉大なるおれさま」と言うわけだが、それはわたしが王の従僕であって、王の命令から逸脱した「私」なんか持ち合わせていないからだ、わたしを支配している王の命令をもって「偉大なるおれさま」と言っている/つまりおれのようなゴミでも、王の命令があれば偉大になるということだ、「控えおろう」というやつ、ゴミのような町人でも三つ葉葵や「御用」のマークを持っていたら人々が「へへー」とひれ伏すように、王の命令を受けている以上は偉大なるおれさまだ、これがゴミの世界の王とどう対立するのかは知らないが、その二つはどうしたって戦(いくさ)になるしかないのだ。
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末端の人から悪霊に食われていく現代4
たしがこの、わけのわからないブログを書き続けているのも、一種のサービス精神であって、むしろサービス精神以外の何も成分として入っていないと言える。
サービス精神といって、やりたいからやっているわけではないという感じもするし、まあやりたいからやっているのだろうという感じもする、そのあたり説明は不能で、「何か知らんがこのサービス精神をやめることはできんのじゃい」という感じだ、これとまったく同じようなことが逆側でも起こるということ。
わたしが、別に誰を対象にするのでもなく、ただ人に(生きものに)霊的なものを入れたいという衝動に駆られ続けるように、逆の側では、ただ人から(生きものから)出費・出血をさせたいという衝動に駆られ続ける人もあるということだ、人はけっきょくこのどちらかにしか所属できず、あとはそれぞれの抑圧の程度問題でしかない。
おそらく多くの人にとって、わたしの抱えている衝動は意味不明のものだと思うが、その逆側、たとえば「それであいつに、慰謝料だっつって、二万ほど出させたのね」という話は、多くの人にとってよくわかるはずだ、だから今多くの人は「人に出費・出血をさせたい」という衝動の側にエントリーしていることになる、そういう人は今「ふつう」の人とみなされ、わたしのような者はこぞって変人の烙印を押される(まあそりゃ十歳ぐらいのときからそーだが)。

おそらく一番甘い考えは、自分がこのどちらにも所属せずに済むという考えだろう。
決してそんなことはないのだ、人は必ず何かしんどさや寂しさを抱えて生きていて、それがパッと消えてなくなる力強いほうへ、導かれて生きていかざるを得ない/そのことでサービス精神と言い出しても、よほどの機会に恵まれないかぎり「サービス精神、ねえ……」と首をかしげるだけになる、ところが一方、何かの機会に「人に出費・出血させる」ということを得ると、すべてのしんどさと寂しさがパッと消えてなくなり、途端に味を占めて、自覚などありようもないはるかな速度で、そのときは自分の所属を決定してしまっている。
わたしがここで、サービス精神と、その衝動から織られてきた物語うんぬんと言っても、何のことかピンと来ないだろう、それに比べると、人は知らず識らず、たとえば「実録、Xさんはなぜソーシャルゲームに五百万円を課金して人生を失ったか」ということのほうを、自分にとって「わかる話」としている、人は知らず識らずそちらの出費・出血の話のほうを追跡しているものだ、だからその時点でエントリー先は決定している。
あなたはやがて、「サービス精神の止まらない人」か、「人に出費・出血させたいという衝動が止まらない人」のどちらかになるのだ、そのどちらになるといって、もちろん後者になりたい人はいない、けれども自分の好みで選べるものではなく、これは自分の性質によって決まるものだ、そしてその性質はどのようにして決まっているかというと、あなたが何を認めるかによる/あなたが人のサービス精神を偉大だと認められない以上、あなたは自動的に後者に所属することになる。

「サービス残業を撤廃させて、経営者に給金を支払わせた」が正義だ。

このことは、社会的には正義としていいのだが、あなたはだまされてはいけない、ここでだまされないというのはすでに至難のワザというか不可能に近いが……念のために言っておくと、この世の中と世間が、あなたのためを思って何かをはたらきかけるということはまったくないので、基本的に世の中というのはあなたを恣意的に操作・支配しようとしているのだ、サービス残業についてはあなたを支配するために、わざと「ブラック」なサンプルを作り集めてあなたに流し込み、それは悪なのですと教え込んでいるのだ/ブラック企業がブラックなのは当たり前だが、サービス残業がイコール闇という定義はない、ただそれが定義のようにこのところあなたに刷り込んでいるだけだ、そのことはほとんど完了した(と、あなた自身でもわかるだろう)。
サービス(service)とはもともと「礼拝」のことであって、この礼拝を続けられると、悪魔があなたを支配しきれないから、あなたがすべてのサービスから離れるように仕向けているのだ、その効果はバツグンで、今さらあなたが急に「サービス!」と言い出しても、そのサービスが全身にまるでしっくりこないことがわかるだろう、あなたはそうして全身が礼拝不能(サービス不能)になるようにコントロールされたのだ/そしてそのサービス不能になった全身は、人に出費・出血させることで急激に燃えさかるようになっている、そのときのすさまじい勢いはまずあなたの制御できるレベルにないだろう。
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末端の人から悪霊に食われていく現代3
ういう人が、悪魔・悪霊に食われていくか。
1.誰を愛したこともなく、誰からも愛されたことがない人、2.筋肉や衣服や立場や経歴で飾ってごまかしている場合もあるが、真にはその姿がみすぼらしい人、3.誰からもよろこんでもらえない、呪われている人、4.表情・声・挙動が引きつっており、どれもまともでない人、5.知性が破綻しており、何一つ「なるほど」と直覚できない人、6.頭が下がる・尊崇する・恐縮するといった挙動が起こらない人、7.特に、これらのすべての自覚が不能になっている人。
今、表面上は、家族や職場や友人や趣味仲間を得ているように見えながら、その実どこの誰とも許し合った仲が得られない人が無数にいる、すべての順風満帆は偽装にすぎず、実は彼は少年期から思春期、青年期、壮年期と経てきて、やがて老年期になろうとも、何一つ得られず、何一つ与えられず、何一つ愛さず、何一つ愛されたことがない者だ、こんな状況に人は決して耐えられないのだが、それでも彼は表面的には平気で暮らしている、その理由は悪魔によってこれらの自覚と直面しないようブロックが掛かっているからだ、それがどのようなブロックかというと「傲慢」だ、だからよりにもよってこの彼は、何一つ得ていないのに飛び抜けて「傲慢」という性質が内部にある。
傲慢の悪魔はルシファーというのが中世の定説だが、このルシファーが、取り憑いた人に言うのだ、「わたしの庇護を離れたら、お前は傲慢さを失い、これまで避けていたすべてのことに直面することになるぞ、そのときお前の魂は粉々に砕けてしまうだろう」と、だから彼は恐ろしくてルシファーとの契約を解除できない、先にあげたすべての項目がいきなり自分に突き刺さってきて、これまでのすべての時間がただのウソになってしまう、そうなると確かに魂は砕けてしまうだろう、だから彼は悪魔を己のために正しいとせざるを得ず、悪魔が供物を求めるので、人に出費・出血をさせたいという衝動の徒になり、そのことはもうやめられなくなるのだ、このことはいっそ悪魔を主とする者として当然のありようだとも言える。

強く警告しておくべきことがあり、当人はまさか、ルシファーのごとく傲慢なつもりはないし、デキはよくないにせよ自分は「ふつう」のつもりで、悪いところがあれば反省し、たくさん学習してマシな自分になることに力を尽くすつもりでいるだろう、けれどもそんな甘い話はない、そうして当人は善良なつもりのまま、きっちり当該のパターンになるのだ、いつのまにか「人に出費・出血をさせたい」という衝動の者になっていて、それと気づいたときにはもうそのことを解除できなくなっている。
それで、どのような人がそうして悪魔・悪霊に食われていくかだが、そのことは先に述べたとおり、1〜7に該当する人なのだ、にもかかわらず、このことはいくら説明されても、当人には汲み上げられていかない、なぜなら7の項目に「自覚が不能になっている」が入っているからだ/当人に自覚はなくても、絶対的傲慢の装置たる悪魔が、その「傲慢さ」によってフタをしているので、これらのことを自覚することができないのだ、誰がどう見てもすべてに該当している場合でも、当人はどうしてもそのことを認識できない。
それでも差し当たって、「人に出費や出血をさせたいという衝動はない」という状態だとは思うが、それは「まだ味を占めていない」からなのだ、だからまだ前駆体という状態で、いつかのとき、つまり初めてその味を占めた瞬間、もう一生「人に出費・出血をさせたい」という衝動から逃れられなくなっている。
前駆体の状態において、まだ直接の「人に出費・出血をさせたい」という衝動は顕在化してこない、けれどもこの前駆体の状態は、心身が常にパニックというような状態で、ずっと苦しい状態にあるのだ、自分の心身は何一つ思うように動かず、朝も夜もずっと鉛のようにしんどい……この苦しい状態が、ある瞬間にパッと、道を見つけたように解き放たれることになる、そしてもう二度とあのような苦しみに陥らずに済むと救済を感じさせられる、そういう瞬間が来るのだ、その瞬間がつまり、人に出費・出血をさせた瞬間であり、悪魔に供物を捧げた瞬間だ、「この供物を捧げれば自分はもう二度とあのような苦しみを受けずに済む」と、魂の奥から根こそぎ学ぶので、その後は自動的に供物衝動の言いなりになる/これはつまり、自分に棲んでいる主たる悪魔が、あなたをそのように「教育」したことに他ならない。

神を主とする人は「サービス精神」を供物とし、悪魔を主とする人は「出費・出血」を供物とする。

たとえば現代の女性は、デートで男性にオゴられたいのではなく、男性に「出費・出血」させたいのだ、それはもはや自尊心とかのたぐいではなく、れっきとした悪魔への供物衝動であり、だからこそヒートアップは止まらなくなる、「我が主に対する供物を否定した」ということで、煮えたぎる憎悪が起こるのだ、この女性は高価なプレゼントを乞うているのではなく、ただ自分と交際する男性が血も財もスッカラカンになればそれでいいのだ、そんなことに何の得があるのかといって、彼女は「知らない」と言うだろう、それは彼女にとって無私の使命だから、そのとき彼女はむしろ誇らしい面持ちを見せるはずだ。
先の1〜7の項目に、8.サービス精神が見当たらない、また違和感の極致にある、と付け足してもよい/当人はまったくふつうの、どちらかというと善良な自分として生きていくつもりでいるが、それは前駆体の状態に過ぎず、あるとき突然、すべての苦しみを取り去る救済の瞬間がやってくる、それが「人に出費・出血をさせる」という瞬間だ、このとき彼はブラボーと叫びたいほどの内部の歓喜に震えている、彼はその後ほとんど無私の状態で、「人に出費・出血をさせる」ということ、その瞬間だけをエクスタシーとして生きていくのだ、1〜8に該当した人は皆これになる。
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末端の人から悪霊に食われていく現代2
の中の一切は、すでにまったくアテにならないところまで来た、すでに「人々」という集団が自浄作用を持つことはなくなり、「人々」はむしろ悪魔に貢献するはたらきしか持たなくなった。
「人々」は、今あちこちで炎上騒ぎやクレーム騒ぎを起こしており、あなたがだまされやすいことには、彼ら「人々」は正義を標榜しており、確かに彼ら自身の欲や利益で活動しているわけではないという特徴がある。
今、炎上騒ぎやクレーム騒ぎを起こしている人は、自分の得にならないのに騒ぎを起こしているのだ、だからその騒ぎは、彼らの標榜する「正義」を表面上よく偽装する、にもかかわらず真相は、もっと闇の深いところにあるのだ、それは「自分の得にならないのに、悪魔の利益に奉仕する」という衝動が止まらないという状態だ、このことがわれわれの想像の範疇を飛び越えているので、われわれはこのことを見誤りやすい。
今現在で騒がれているテーマ、ポリコレじみた正義や、炎上やクレームの騒ぎになることは、根幹が「誰の得にもならない」で、それでも火がついた熱狂のように騒がれるのは、すでに動力が人の利益ではなく悪魔の利益になっているからだ、彼はいっそ清廉潔白に、自己の利益のためでなく、正義と信じる正義で大騒ぎして活動するのだが、これまでになかったスケールのどんでん返し、彼は自己の利益ではなく悪魔の利益のために活動しているのだ、彼は悪を討ちたいのではなく、己に棲む悪魔のために他人に出費・出血させるという衝動が止まらなくなっただけなのだ、だからその無私がすさまじいドス黒さを帯びている。

これまで、こんなぶっとびのドス黒さは、われわれの知る時代のうちになかったと思う。
私心なく、自己利益のためでなく、激しく敵を攻撃し、敵を討ち滅ぼそうというのに、その真の目的が、「出費・出血をさせたい」なのだ、その流血をもって己が主たる悪魔の供物にしたいという、極限のような衝動に支配されきってしまった人、そんな人が世の中でふつうの人のふりをして生活している。
もちろん、当人にもそんな巨大な邪悪の自覚はなく、そんな意図もなければ心当たりもない、けれども本当に観察してみると、自分のうちにあるのは「人に出費・出血をさせたい」という無条件の衝動なのだ、こんなものの操り人形になっている人が、毎日ウェブ上をクロールしているという状況にある。
重ねて申し上げると、「世の中の一切は、すでにまったくアテにならないところまで来た」、誰もが自分だけは健全で強く正義に属していると思い込みながら、やっていることは「人に出費・出血をさせたい」という衝動だけ、だから現代人は増税されるとよろこぶというわけのわからない精神状態になっているのだ、自分が増税によって生活を不利にすることより、増税によって人の出費が増えるということの黒いよろこびのほうが大きいのだ/自分を取り囲む人々がすべて、あなたの出費・出血だけをよろこぶ者になりつくしたとしたら、あなたはどんな感情でそこから先の数十年の毎日を過ごしていくだろうか、冗談でなく取り残された人から順にこの先はそういう環境の中だけを生きていくことになるのだ。

「人々」が求めているのは、人に出費・出血をさせることだ、それ以外の衝動はない。

めちゃくちゃな話だが、このことをまず認めてかからないと、出遅れてしまうし、すべての物事に辻褄が合わなくなる/すでにわれわれは、人の欲とかスキャンダルとか、スケベ心とか、そんな生ぬるい悪徳を警戒するフェーズではなくなったのだ、出費・出血をさせたいのだ、人が「被害」を受けることが悪魔への供物になるということ、そのことの衝動(供物衝動と呼ぶべきか)が連帯して、ひとつの大きなムーブメントを完成させようとしている。
なぜこんなことになったかというと、それが「正義」だったからだ、今ある炎上騒ぎやクレーム騒ぎで「正義」を帯びていないものはひとつもない/悪魔を主として仕えてきた人は、悪魔にこう言われているのだ、「お前に正義を与えてきただろう?」と、もしこれを否定するようなら、「これまでにお前に与えてきたものをすべて奪うぞ」と脅されている、彼はこれまで生きてきたすべてを否定されて失うわけにいかないから、悪魔を主とした正義をもう死ぬまでやめられないのだった、あるいはそれはもう、死んだ後にもやめられないのかもしれない。
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末端の人から悪霊に食われていく現代
所から、色んなヘイトや、色んなクレームが噴き上がっている。
それらのヘイトやクレームは、表面上、「ごもっとも」な装いをまとっているが、もちろん全部ウソだ、ドギつい悪霊に取り憑かれた、もう戻ってはこられない人々にすぎない。
そういった人々とは、縁が切れるのが一番いい、そういった人々とはどういった人々かというと、「他人に出血・出費をさせることに衝動が止まらない人」だ。
それは一般に思われている「暴力」ではないし、クレームでもないのだ、もちろん価値観なんてものじゃない、他人に出血・出費をさせたいのだ、なぜかそのことが止まらなくなる魂の闇で、これはもう吸血鬼より性質が悪い、そんな人にあなた自身がならないことを願う。

たとえばあなたが庭に出て、木枯らしが吹くのを浴びているとき、二軒隣の家の庭から、落ち葉が飛んでくるのを見る。
そうすると、むらむらっと来て、「落ち葉が飛んでくるのが迷惑ですよ」と怒鳴り込みたくなるのだ、そこに済んでいる老いた男がけっきょく気が弱いことを見越して。
それで何がしたいのかというと、その男の庭の木を、伐採して整理する業者を呼ぶのに、その男は出費をするだろう、そうして他人に出費をさせたいだけなのだ、自分の攻撃によって誰かが出血・出費するということが、生きる唯一のエクスタシーになるのだ、悪霊に棲みつかれた人はやがて強制的にこうなる。
このことは、カネが欲しいという欲よりさらにタチが悪く、当人はそのつもりはなくても、本当に悪魔に蹂躙されて、精神が壊れているのだ、そうした人々が炎上・クレームをやっているのだから、すでに日本中、そうした人々が何十万〜何百万人もいるということになる/決してだまされてはいけない、彼らを人間扱いするとあなたの内にも易々と悪霊が入り込んできてしまう。

悪魔の崇拝儀式は、「出血」をお供えするのがパターンだ。

たとえば老人が集まると、知り合いの病気や入院、あるいは金銭トラブルのことばかりが話題になるが、それは彼らに棲みついている主たる悪魔が、出費・出血を「おそなえ」されることで力を得るからだ、彼らは人々に出費・出血をさせたがるだけの操り人形であり、彼らに何の悪意があるわけでもないのだ、彼らはただ主たる悪魔によって、その「衝動」が止まらず、その言いなりになっているだけだ。
ためしに、何の説明もなしに、「スピード違反で罰金18000円取られた」という話を唐突にしてみたらいい、そうしたら悪魔の棲みついた人は、何の理由もなく突然ニコーッとするだろう、「ストレスで胃から出血した」でもいいし、「台風で屋根が壊れて修理代が五十万かかった」でもいい、彼らは本当に、ただ人の出費・出血でニコーッとするのだ、本当に点検したらそのとおりに反応が出るし、そうなった人はもう戻ってこられないのだ/その人があなたに求めているのは友好でも何でもなく、あなたの出費と出血だから、よもや友人や○○友達というような誤解をすることのないように。
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許しを得た者/パーミッション法
日の情報が多すぎて困る、このことを書くのを忘れていた。
たとえばわたしが、「トランプ大統領の〜 スラックスをこっそり2cm裾上げ〜 ヒューゥ寸詰まり!」と言ったとして、ふつう人はこんなわけのわからない素っ頓狂の発言を許されないものだ。
にもかかわらず、なぜわたしにはこんなデタラメ発言が許されるかというと、わたしはきちんと発言の前に、その許し(パーミッション)を得ているからだ、わたしはそれによって許された者だから好き放題に言えるのであって、このパーミッションを得ていない人がおれのことを真似してはいけない。
おれは万事について、まったくおれの望むままの好き放題をやっているが、おれはきちんとパーミッションを取ってから好き放題をしているのだ、このことを忘れてはいけない/この人はきちんと「許されて」からそのことをしているのだ、他の誰かが同じことをやったとして、そんなもん許されるわけがない、おれだってパーミッションを取っていなきゃ許されるわけがない。

人は、概ねルールを守り、なるべく公共を益し、他者に遠慮して空気を読み合い、なるべく善良な者と評価されるようにして生きている。
そうでないと、人は罪ばっかり重ねるからだ、人には人の罪を許すという能力がないため、なるべく罪を増やさないように生きたいと望んでいる。
それで、一般に「ルール」を守るのだが、この人の世が創ったルールがどこまでアテになるのかは不明にしても、とりあえず実効的に、ボクシングのリング上に立ったら全力で人の顔面を殴るが、リングから降りた路上では人の顔面を殴らないようにしている、そうしたら「無罪だろ」と思っているのだ、それは社会的にはそうだが霊魂的にどうなのかは誰も知る由がない。
おれの場合、たとえば出先で雨が降ってきたところ、「傘を買ってきますよ」と誰かが走ってくれて、その傘を買ってきてくれたところに、なぜか唐突にボディブローを入れたりするが、ふつう善悪の尺度で考えると、どう考えてもこのボディブローは巨悪だ、けれどもそれで周囲はゲラゲラ笑っているし、ボディブローを入れられた側も「やったぜ、ボディブローをもらった〜」と幸せそうだからいいのだ、これはおれがパーミッションをきちんと得てから殴っているから成り立つのであり、そうでない奴はそんなことをしてはいけない、ふつうに考えて恩知らずのパワハラだ、おれの場合だけ許されたパワハラだからいいのだ。

パーミッション、わたしはそれをやらねばならない。

 "Permission" と書いたとき、接頭辞 Per は「徹底的に」という意味だから、「徹底的にミッション」ということだ、わたしは送り出された兵士であって、その任じられた命を果たさねばならない、パーミッションは「徹底的に送り出されている」ということ、なんのこっちゃわからんと思うが、そのことがわからないと「許されている」ということがわからないだろう、まあ別におれ以外の奴はわからんでもかまわんが……
実際、おれがパーミッションを求めると、「じゃあ、ほれ、これをやりなさい」というものが、すでにミッションという形で与えられてしまう、こうなると、こちらからパーミッションを求めた以上、やらんわけにもいかんということになる、「許されている」というのはそういう状態だ、「御用」の旗を立ててりゃそりゃ関所も通れるのがアタリマエということで、ただしその旗を立てているということは何かやらなくてはならないことがあるということだ、もちろん幕府に魂のパーミッションを与える権限はない、わたしはいつも「ルール参照」をせずに「パーミッション申請」をしている。
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秘密と、秘密の主人3
たしにとって天啓なんざいつものことだが、今回の天啓をそのままに言うと、「Xを秘密にしている場合、Xが主人になる」ということだった。
より直接的に言うと、「Xを秘密にしている場合、Xが主人に "なってしまう" 」ということでもある、だから極限までアホみたいに言うと、たとえばクリトリスを秘密にしていると、クリトリスが主人に "なってしまう" のだ/そしてこんなアホみたいなことが、例え話ではなくリアリティの迫力を持っているということ、つまりマジでそういう人が少なくないということがある。
それで、じゃあクリトリスを全開にして公開オナニーでもやればいいのかというと、そういうことではない、そんなことをしてもより強い力を持った新しい「主人」が存在しないため、つまり新しく強い秘密の主人を得ることができないので無意味だ、新たな主人が見つからない以上は旧来の主人が支配しつづけてしまう。
「Xを秘密にしている場合、Xが主人に "なってしまう" 」ということ、つまりXにブッダやキリストを代入すればそれが自分の主人になってしまうということだ、これがあくまで "秘密" でなくてはならないということ、いわば「自分の主人は、自分のイメージや趣味で決定できない」ということになる/自分の主人は「秘密」が決定するということ、これが実にミソだ。

多くの人は、まず「秘密」ということに到達できないし、到達できたとしても、けっきょく邪なものしか「秘密」にできない。
要は、多くの人にとって「秘密」というと、変態的な性的嗜好、こっそり持ち続けている怨み、隠し持って浸っている自己陶酔、妄想している自己神格化、ぐらいしかないのではないかということ。
たとえば、「あのとき先輩に言われたことを、今も裏切りたくねぇんだ」みたいなことを隠し持っているという人は、ごく少ないのじゃないだろうか/そしてその、隠し持っているもののほうが自分の「主人」になってしまうということ、これは盲点ではないか、<<自分を決定するのは自分の選ぶものではなく自分の隠すもの>>なのだ。
もちろん自分の信じるものについて、いくらでも公言してかまわない、けれども公言してもなお、自分の中では自分限りの「秘密」として、それを信じ続けるナゾの特別体験があるはずだ、それが「秘密」という独特の現象だ/仮にここにキリスト教徒がいたとして、見せびらかすロザリオはゴミというかどうでもいいものであって、問題は彼がずっと秘密にしている、見えざるロザリオが彼のうちにあるかどうかだ、そこで彼が一番奥にロザリオを隠すのではなく高級車のキーや陰茎を隠していたら、彼の主人はまったくロザリオの主ではないことになる。

どう振る舞っても、けっきょく自分の魂は、最後自分の「秘密」に帰っていく。

だから、たとえばキリスト教では「告解」というシステムがあり(いわゆる懺悔室のアレ)、人が神の代理に「秘密」を打ち明けることで、その秘密を秘密でなくし、より力の強い主人に帰依することを頼むという発想がある、それはある意味、主人に対する裏切り・謀反・脱藩の行為なのだ、悪魔・悪霊を主人としていた者が、主人の鞍替えをするために「秘密」という契約状態を破棄し、より強い主人に己の所属を頼むというシステムになる(それが本当に機能しているのかどうかの現況は知らない)。
秘密がその人の主人となり、秘密がその人を支配するのだから、人はそれぞれより巨大な、聖なる秘密を持つべきだ/人はそれぞれ平等であって、自我のレベルでは誰が偉いとか誰がクソとかいうことはない、あるいはあったとしてもまさにどんぐりの背比べというようなミリ単位の善し悪ししかないのだが、一方、人それぞれが主人として仕えているものはまったく平等でないのだ、だから「人はみな平等」とかいうのはまったくどうでもいいことの極みだ、問題は「それぞれが仕えている主人の身分差はえぐい」ということ、各人が秘密にしている扉の向こうに、一方は紛れもないエデンが広がっていたり、一方は紛れもないエロマンガが広がっていたりするのだ。
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秘密と、秘密の主人2
まり「秘密の、やめられないこと」がある。
加えて言うと、「秘密の、やめられない、ドキドキのこと」があるということだ。
この「秘密の、やめられないこと」が、その人の唯一主人だと言っていい。
いくら神殿や礼拝所や仏壇で祈っても無駄だ、その人の真の主人、秘密の祈りはその「やめられないこと」にある/人前に見せているもの、人前で見せているパフォーマンスはぜんぶ無意味なのだ。

けっきょくわたしの場合、秘密にしているものは、わたしが一人でこの世界を歩き、車や原付で走り、いつも感じている「なんだこれは」という巨大な空や、輝く街だ、あるいは物語の匂いを運ぶ風だ、世界の焦げる春の匂いだ、わたしはいつも一人で「なんだこれは」と心臓を締め付けられている、わたしの正体はこれであって、この正体を唯一知るのがわたし自身とわたしの主人だけだ。
わたしの「秘密の、やめられないこと」がそれであるからには、わたしがいくらポルノを見てオナニーしようが、あるいは通りすがりの女子中学生をレイプしようが(注・やっていません)、そんなことは秘密でも何でもないことだ、そして秘密でも何でもないということは、わたしにも主人にも関係のないどうでもいいことだということだ。
人は誰しも、「わたし」という自分自身から逃れられず、また「わたし」という自分自身を求め続けることをやめられない、その得られるべき「わたし」を主体性と呼び、この主体性は自我に対する主人として機能している。
だから、ありとあらゆる人は、己の自我に対する主人を持っているのだ、その主人・主体性とは何かというと、それぞれの「秘密の、やめられないこと」だ、悪魔や悪霊を己の「主人」にしている人は、自分の意志でそれをやめられないのだ、なぜならその身を支配しているのは自我の意志ではなく主人の意志だからだ/それぞれが「秘密の、やめられないこと」に思いあたり、そこから「悪魔・悪霊を主人にしてしまった」と考えることで、危機的状況の本質に触れることができる(ただしそれをもって解決には到らない、気づいたとてなおもあなたの主人は悪魔・悪霊だからだ)。

「性癖」じゃない、「あなたの主人への儀礼様式」だ。

あなたの自我はあなたの意志で操作できるけれども、あなたの仕えている主人はあなたの意志で操作できない/あなたをけっきょく支配しているのはあなたの「秘密の主人」なのだ、あなたの秘密の主人は何者かというと、あなたが人に話せない秘密のことがあなたの主人だ。
わたしはよく、このブログでもそうだが、「一億ドルと七百人の美女がおれのためだけに降ってこないかなあ」と言っているが、そうして使い捨てのように言いうるのは、これらがわたしの秘密の主人ではないからだ/わたしが慾望と傲慢の悪魔のようなことを平気で言いふらしているのは、それがわたしの秘密の主人ではないからであって、むしろこれを秘密の主人にしている人ほど、これらのことを平気で言いふらすことはできないはずだ。
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秘密と、秘密の主人

まにこういう、大きな天啓が降ってくるので、たまたまこの記事を開いた人は幸運だ、ハッピーになるように。
たとえば世の中には、こっそり女の子のスカートの中を盗撮するような人がいるだろう、そうした人はその行為をドキドキやりながら、当然「秘密」にしているはずだ、そりゃ出勤して朝礼の場で発表する人はいない、この「秘密にする」というのがポイントだ。
なぜドキドキするかというと、それは秘密の行為だからであり、秘密の行為とは何かというと、秘密の行為によって人は「主」ないしは「主人」を得るのだ、この「主人」というところがポイントで、実は性欲から女の子のスカートの中を盗撮しているのではない。
女の子のスカートの中を盗撮し、それを "秘密にしている" という状態は、その盗撮行為を "主人にだけ報告している" という状態なのだ、なぜなら自分の主体的行為(自分のやったこと)は自分自身の主体には隠せないからだ/つまり盗撮犯は、自分の行為を自分の霊的な主人にだけ報告していて、 "そういう主人に仕えている" ということになるのだ、ありていにいうと低級の悪魔に仕えているということになる、「わたしの主人は低級の悪魔です」ということだ、盗撮のドキドキは実は「彼だけの秘密」ではなく「彼と彼の主人だけの秘密」だ。

夜道を往来していて、この寒空にも酔い潰れて路上に寝ている人を見かける。
わたしは、往路でそれを見かけても目に留めるだけだが、数時間後、復路でもなお酔い潰れたまま彼が路上で寝込んでいるのを見かけると、「あかん、これはホンマに凍死しよるで」という気がして(そもそも自身の経験からわたしは泥酔の程度というのがパッと見でそれなりにわかる)、その場合はやむをえず110番をして保護の手続きをする、といって警官に絡まれるのは面倒なので、通報してから物陰に立って待ち彼の元に警官が到着するのを確認してからこっそり去るようにしている。
そういったことはしょっちゅうあるので、いちいち誰かに報告したりはしないし、一種のわたし自身のクセみたいなものになっているが、そうして他人には随時「秘密」にしていることは、すべてわたしとわたしの主人だけの秘密になっている、わたしはそうした万事を自分の主人にだけ報告しているのだ/そして路上に寝込んだまま死にそうな人を放置することは、おれにとってはどうでもいいことだが、それを「放置しました」と主人に報告するのがイヤで、「しゃーないな」と行動しているところが確かにある。
わたしは大柄で膂力もそれなりにあるので、駐輪場で自転車群がドミノ倒しになっていると、特に理由なくわたしがこっそりその立て直しをして去ったりするのだが、そんなことをいちいち誰かに報告するわけではなし、そうして考えるとわたしはふだんからけっこうな量の「秘密」をこさえているように思う、そしてその「秘密」はすべて、わたしとわたしの主人だけが知る秘密になっているのだ、それで結果的に、わたしは "そういう主人に仕えている" ということになっている/それぞれの持つ「秘密」が、その人の本当の主人を形成するということだ。

わたしは、オナニーのオカズを全公開することはかまわないが、人助けのたぐいは恥ずかしいのでずっと秘密にしている。

たぶんそれで、わたしの印象は他人に向けて、混乱に満ちたものになるのだ、わたしの表面的印象はどうみても善人ではない、野卑で低俗な者だ、それでわたしのことを「サイテー」と罵った人はなぜか病院行きになる/わたしはけっきょく、わたしがどのような者であるかにつき、 "本当のところはわたしの主人だけが知ってくれていればいい" と思っていて、わたしが何をどのようにして生きているかを、他人に開示するつもりが根本的にないのだ、万事「そんなこと他人が知ってもしょーがないだろ」と思っている。
別の言い方をすると、単純に、あなたの秘密にしていることがあなたの主人です、ということになる、だから表面上は善人に見える人でも、その人が秘密にしていることがあるので、当人にとって霊的な主人はそちら秘密にしていることの方面なのだ、善行を秘密にしている人は主人が善いものなのだし、悪行を秘密にしている人は主人が邪なものなのだ、聖職者が祈りや儀式を見せびらかして、裏側で秘密に○○なことをしている場合、その人はそちら秘密にしている○○のほうを主人として仕えており、見せびらかしているものは内心で裏切って侮辱し続けているということになる/誰にも見られていない秘密の楽屋がその人の主人なのだ。

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道具的セックスについて
うも仄聞するところの情報を総合すると、他ならぬ当の女性自身が、自分のセックスを "道具的" に捉えている・使っているという実態があるみたいだ。
おそらく、自分の肉体と「わたし」という感覚がつながっていないのだろう、魂のない「女体」に男性が陰茎を突っ込むものだと思っているらしい、そしてそれをまごうことなき「セックス」だと思い込んでいるようなのだ、もうこのことは今後恢復はしないかもしれない。
人が魂を失うというのはまさにそういうことだと思う、それで本当に、魂のない「女体」のデカ乳をゆさゆさ揺らして、男たちが「エロい」と言っているのだろう、それはセックスでも何でもないただの肉ヨゴレなのだが、実際に魂を失ってしまったらそうなるのはしょうがないところだ。
ただ、本人はそのように納得しているというか、それ以外に直覚などないのだから、とやかく言われても「???」にしかなりっこないだろう、それでも自覚があろうがなかろうが、身の業(カルマ)だけは機械的に溜まっていくので、異様に精神が暗く澱んだり、心身が依存症を起こしたりするのだ/つまり、「セックスってそういう道具的なものじゃないよ」ということなのだが、それは魂がある場合に限られるので、魂がない場合はそうして万事が道具的という実態が正しいと言わざるをえない。

おそらくセックスだけでなく、すべてがそうなのだ、魂を失った人にとって、たとえば勉強も道具的であり、映画や音楽も道具的で、仕事も道具的、何なら青春そのものも道具的で、結婚や出産だってもちろん道具的だろう、本人はふざけているのではなく本当にわからないのだ、そのことを急におぞましいと言われても当人は「???」なのだからただの陰険な意地悪になってしまう。
セックスは表面上、男性と女性が、つまり男性側から見ると女体に向けて「セックス!」しているように見えるが、もちろんそんなわけはないのだ、豚肉をソテーして食べているのとは違うから、セックスの主体は「肉」じゃない、だが魂がなければ確かに「肉」でしかないのだから、このことは誤解とも言い切れないだろう/とにかくそうして、魂の喪失によって、セックスの道具化が進んでいる。
セックスが道具化しているので、その感想が品質的にグッドとかバッドとかいう「評価」になっているのだ、それならまだ子供のころから部屋にあるぬいぐるみのほうが魂の断片があってマシというところだろう、さすがに自分の所有するぬいぐるみをテクスチャの品質で評価している人はいないはずだ、まあでも早晩ぬいぐるみさえ同じような扱いになるのは目に見えているが……
ともかく、むしろ女性のほうが、自分の魂から切り離された「女体」に対して思い入れがなく、それを便利で有利な道具として、場面ごとに男に供与しているという向きがあるみたいだ、これは単なる陰部の「人体摩擦」でしかなくわざわざセックスと呼ぶような行為ではない、明らかにそんなことをしても寂しくて精神を病むだけだと思うのだが、そんなことにでも縋りつかざるをえないぐらい、他のことも深くさびしくなっているのだろう、お互いがお互いを道具的青春の材料にしたり、道具的充実の材料にしたりしているのだ、まったくそうではないものがありうるということが大前提としてわからないのだからこれは現在の当事者を単純に責めるわけにもいかない。

きれいな景色を道具的に見て、おしゃれな場所に道具的に座り、それっぽい流れとセックスを道具的にやってみるほど、アホくさくて損なことはない。

そんなことは、誰だってわかっているはず、なのだが、本当はもう誰もわからなくなっているのだろう、カッコイイ髪型もそれを道具的に捉えており、キメ顔やキメポーズも道具的、YouTuberキャラも道具的で、いわゆるアイドル声優も魂のない肉体から捻って出した声がエロいとみなされて流行している、実際にはキモさの極言なのだが、むしろ彼らから見ればわたしのほうがキモさの極言に見えるのだろう、実際わたしが目の前に立つだけで半ば精神を錯乱させる人をこれまでに何度も見てきた、だからわたしの場合はキモいとかそういうレベルにさえ収まってくれないのかもしれない。
道具的セックスとして、女体を道具的に供されて、自分の陰部をそこで人体摩擦するというのは、おれには耐えられない気がするが、正直ちょっとわからない、もう現代の人々は逆に、ぜひともそういう道具的なことこそをやりたいと思い始めているのかもしれない、己の肉体を道具的に使い、他の道具的人体に摩擦することこそがオーガズムと思っているのかもしれない、それは一種のフェチズムでさえあるだろう、人体という物体に対するフェチだ/このような状況があるから、同じ人体に摩擦するなら、別に異性でも同性でもかまわないということから、ある意味性的というよりはフェチズム的に LGBT になった人は少なからずいると思う、今や男性とか女性とかの問題ではなく、「陰部つきのこの道具をどう扱うか」が常識という局面に来ているのだ、まるで女が自分の女体をどこぞの男に納品するみたいな話をあまりにもよく聞く。
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