☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
永遠のピンポイントとただのブレ
ることは一切なくてもいいし、逆に一千万個あってもいい。
だがわれわれの目標は「点」だ、面積も体積も持たない数学上の「点」。
「点」以外の一切はただのブレなのである。
意識することもなければ、意識する必要もない、「点」だけがあって、それはつまりゼロ次元ということなので、その他の次元の事象は何億あってもまったく変わらないのだった。

われわれの目標、また目的は「点」であって、その他のすべては、良くも悪くも評価には値しない、「評価」という一切そのものが逸脱ないし脱落でしかない。
別に女を抱こうが男を殴ろうが、変わらん、ゼロ次元は「点」でしかありえないので、集中力さえ必要ない、ゼロ次元では一点に集中するほかありえないから。
その他の有象無象は、あってもよし、なくてもよし、すべてのものはどれだけデッカく見えても、本当には見えてなんかいないのだ、われわれが真に見えるものはその「点」しかないのだから/視認して意識したものに何か意味があると思ったら大間違い。
逆に、われわれをうっとりさせるすべての事象は、ゼロ次元の「点」に支えられて生じている、何千億でも生じることができる、うっとりする側は知らなくてよいが、うっとりさせる側はやがてこのゼロ次元の「点」にすべてを差し向けるしかないのであった。

台風はデカいが、その存在は点だ。

ご存じのとおり、台風には「目」があって、その目のさらに中心が台風の座標ということになるだろうが、そうであれば台風の中心そのものは、台風がどう起こっているかを知らないわけだ、何十兆の風が吹いても台風のピンポイントはそのことに無頓着なまま。
つまり、われわれの目標、また目的となる「点」は、完全無欠に「つまらない」点だ、数百京の美の中心には、美を支えまるで無頓着なままの、永遠のピンポイントが存在している、それ以外の一切はただのブレなのである。
正しく見ないとな | comments(0) |
世情はアテにならない

情はアテにならない。
なぜなら、このところの世情は、明らかにこの世界を愛してはいないからだ。
世情は、最も頼もしいもののように見える。
けれども、けっきょくこの世界を愛してはいないのだから、最終的には間違っているのだ、現在、世情は「最も頼もしくかつアテにならないもの」という不思議なものに成り下がっている。

この世界は実在しているので、まずこの世界をよろこびましょう。
この世界の中に、「わたし」も存在しているので、「わたし」の存在もよろこびましょう、ちなみに「世界」なしに「わたし」にだけこだわるとそれは「我執」になります。
「世界」があれば、自動的に「わたし」もあるので、「わたし」をわざわざ考えなくていい、ピックアップした「わたし」は必ず「我執」です。
「わたしのするべきこと」なんて考えなくていい、見えてくるべきは「するべきこと」ではなくて「愛すること」、「したいこと」ではなく「し続けたいこと」。

「し続けたい」のじゃなければ、けっきょくは「やめたい」じゃないか。

世情はアテにならない、世情は「ああしろ」「こうしろ」「こうするべきだ」と声高だが、あなたの「し続けたいこと」についてはなぜか「へーそう、じゃあ勝手にすれば?」と異様に冷淡だ、ゆがんでいるのがミエミエじゃないか。
「し続けたい」ことが特にないなら、それは必ず「この世界」を見失っているからです、「この世界とわたし」を常に不可分のワンセットにして考えましょう、いつもあなたの目の前に広がっているそれです。

正しく見ないとな | comments(0) |
(メモ書き)
さまじい開放感、あるいは爽快感があって……
異様な時間を過ごした、放浪(ボエーム)は光かがやいている。
けれども、僕もいいかげん賢くなったので、開放感や爽快感などはどうでもいいということも、すでにわかっている。
何もない世界が一番すてきなのだが、このところはなんでもかんでもが土足でぐちゃぐちゃにされることがあるので、気をつけなくてはならないのだった。

メモ:動静系、流れ系と、もうひとつ「無限系」があることが発見された(たぶん)。
メモ:実用レベルでの原動力の一切を「世界愛(Love)」に収束させて捉えるのが、おそらくもっとも妥当で有用だ。
メモ:「識」は明らかにフィクションに接続する能力だが、この能力は胴体でなく眉間にある。
メモ:どうやら眉間の接続で「識」の直接コミュニケートができるようだ、ある友人は「生まれて初めて『言葉』を獲得した」と言った。

「言葉」を持たない人は、頭を下げることができない。

別にそれは罪悪ではないのだ、犬や猫だって頭は下げないのだから。
頭を下げるのは人間だからだ/そして人間の定義が「識」によって成り立つこと、およびその「識」の能力が額(眉間)にあるからこそ思わず「頭が下がる」のだと捉え直せば、そこから得られる象はわれわれが経験的に見る人間の像に合致している。
正しく見ないとな | comments(0) |
初めからゴールインしていろ、もともといつか死ぬと決まっているテメーは

こしばらくの、僕自身の煩悶が、ようやく解決するように思う、「識」とは何かということ、および、その実質を自分の生きてきたことに直接結びつけること。
「この世界」に「わたし」が生まれ落ちてきたことを、直覚する能力、および「この世界」と「わたし」が直接「見える」という能力が「識」だ、この「識」がない人は、目の前の世界を「色、形、名前」で認知しかしていない。
このことは、理論的に正しいのだが、この理論だけでは息吹がなくて、これを持ち腐れにしないためにはどうすればいいのか悩んでいた、その解決はけっきょく、とてもダサいが「愛」という言い方のアレにあったと認めざるをえない。
僕はつまるところ、愛してやまれない「この世界」のことを、多くの人がほったらかしにして、一人でごたいそうなことを考え込んでいるのが腹立たしいのだ、「いいか」と僕は説教口調になりたい/われわれ現代の日本人がショボいからわれわれは自前で貧しくなっているだけであって、「この世界」は変わらんのだ、自分たちのショボさを「この世界」のせいになすりつけるな。

「識」という言葉にのっとって言うなら、次のように言える。
――「この世界」を識るならば、必ず「この世界」を愛するはずであって、「この世界」を愛するからには、必ず行うべきことが湧いて出てくる。
この当たり前の「識」と、そこから続く「行為」の原理は、ときに見失われることがある、かといって見失っているヤツが正しいということは永遠にありえない、見失ったヤツはただただ根こそぎ反省すればいいだけのことだ。
朝起きた瞬間からの、呼吸の鷹揚、眼差しの清明、四肢の屈託のなさ、眼輪の安穏、胸の躍動、声の無辺、これらのことが少なくとも約束される、そりゃ愛するものの真っ只中に目が覚めるのだから当たり前だ。

初めからゴールインしていろ、この世界を愛するのがゴールだ。

この世界を愛しているヤツには、そのことがわかるはずだ、それは初めからゴールインだろ、そこからどれだけ走り回ったってゴールの外にこぼれおちる心配はない、だってもうゴールインは済んでいるんだから。
ゴールインしていりゃ、もう無敵だよ、だって憎たらしい競争は済んだんだから、あとはもう遊び回るしか残っていなくて、遊び回るのに東奔西走いそがしいんだから。

正しく見ないとな | comments(0) |
「完全迷子」の定義

「この世界」を愛するヤツ、愛さないヤツ、ここでズバッと分かれている。
「この世界」を愛していないなら、友人やら恋人やら、語らいやらは要らないのだ。
にもかかわらず、「この世界」を愛していない人ほど、友達やら○○フレンドやらと、ダベり続けることを欲している、それも悲惨なほど欲している、それは慰めが強烈に欲しいからだ。
逆に、「この世界」を愛しているなら、別に友達やら○○フレンドやらをわざとらしく欲さないのだ、それでいて気づけば友人や恋人がいて、語らいは勝手に発生している。

「この世界」を愛さないヤツ、特に愛さないとどこかで決めたヤツは、永遠に迷子になりつづける、そりゃ当たり前だ、われわれは「この世界」の他には行けないのだから/このことはもはや、「完全迷子の定義」とさえ呼びうる。
完全迷子ということなら、それでけっこうですよと、突っぱねる方法もあるのだが、これもなかなか続かない、なぜなら迷子でのんびり暮らしていけるものではなく、その迷子は水面下でぐいぐい苦しみ続けるからだ。
アホだなあ、と正直なところ言いたくなる、あくまでこの世界に自分が生まれ落ちたのであり、自分がこの世界を産み落としたわけではあるまいに、こんなデカいものと勝負して勝てる気になったのが大いなる誤りだ。
右にいっても左にいっても、「この世界」からは出られないぞ、唯一言えることは、人はあくまで個人的な事情でこの世界を「愛さない」と決めるのであり、その個人的な事情が、「この世界」の本当のサイズを上回ることは決してないということだ。

この世界を愛している人は、わけもなく笑うことができる。

この世界を愛していない人は、笑うのに理由がいる、そしてその理由はたいてい汚らしいものだ、そして何もかもが一時的な慰めにしかならず、癒えない渇きが増大していくのみ、「完全迷子」なんだからそりゃしゃーない。
ひとつだけ真面目な警告、「この世界を愛していない人に籠絡されてはならない」、彼らの主張は表面上、ごくまっとうで、正当で、熱烈で、情にも訴えるように聞こえる、けれどもどこまでいっても変わっていない、彼らはこの世界を愛していない。

正しく見ないとな | comments(0) |
あいさつの中に見えるもの
いさつのときに、もう根っこの決着はついている。
あいさつについては、,舛磴鵑箸任ている △舛磴鵑箸任ず、くぐもっている あいさつでなく自己PRになってしまっている、という三つに分かれる。
の自己PR化を、逆手に取ったのが、現代のアイドルパフォーマンスのやり方だといえる。
あいさつのありようは、この世に生まれ落ちてきたことと関係があるので、単純な訓練では決して改善されない、ヘタに訓練をしてもたとえば駅前で絶叫している共同募金の要求みたいなあいさつしかできなくなってしまう。

人間は、生後六ヶ月まで、「わたし」が「この世界」に生まれ落ちてきたことを識っている、このことを「識」という。
そして、「わたし」と「この世界」があるからこそ、「この世界」に他なる「わたし」が存在していることが見える、つまり目の前の「こいつ」が存在していることが識のレベルで見える。
「識」を失ってしまった人は、「この世界」が消えてしまうので、「わたし」だけの存在になる、そうなると自我だけが膨張し続ける存在になり、目の前の誰かも「こいつ」と見えることがなくなってしまう。
人それぞれが「識」を有しているかどうかは、あいさつの時点ですでに見えている、あいさつがまともにできる人は、「わたし」が「この世界」にいて、目の前の「こいつ」にあいさつをしている、声のデカさなんか関係ない。

映写機だけがあり、スクリーンがない映画館。

「識」を失った人、つまり「わたし」が「この世界」に生きているということを見失った人は、それぐらいわけのわからなくなった日々を生きているのだ、自分が何を映写しているのかわからず、それでもカタカタ、カタカタ、毎日映写機としてだけ機能し続けようとする。
スクリーンがないため、自分のことは他人に伝わらないし、自分の不出来を自分で識ることもできない、いくら映写の電圧を高めても無駄だ、映写機は不毛のまま焼き切れるまで稼働しつづけるしかない/「こんにちは!! ねえこんにちは!!」、みんなスクリーンを見ようとしている中、映写機は「誰もわたしを見てくれない」と真剣に叫んでいる。
正しく見ないとな | comments(0) |
求婚が殺到する方法
動する、胸を打たれる、敬う、感謝する、尊厳を覚える、慚愧する、悔恨する、尊ぶ、身の程をわきまえる……といった、すべてのことを失う。
人は、「識」という能力を失うと、もう人間ではないので、人間としての美性のすべてを自動的に失ってしまう。
公共の場で、思いっきり騒いでいるクソガキを見ると、感動する〜身の程をわきまえるといったことのすべてを失っているのがよくわかるだろう。
「子供ってそういうものじゃない?」という反論は、五十年前の映像と比較すると破綻する、五十年前の子供は、感動する〜身の程をわきまえるというあたりの能力を、子供ながらに持っていた、よってこれはサイエンスの結果であって、思想ではなく事実として捉えるしかない。

ここに、定番の髪型をした、二十歳の大学生の青年をイメージしてみる。
清潔感があって、人当たりがよさそうで、絡みやすい、わりと女の子にモテそう、というタイプだ、今そういうタイプはたくさんいると思う。
が、よくよく見ると彼は、感動する、胸を打たれる、敬う、感謝する、尊厳を覚える、慚愧する、悔恨する、尊ぶ、身の程をわきまえる……といったあたりを何一つもっていない。
清潔感があって、人当たりがよさそうで、絡みやすい、わりと女の子にモテそう、と見えるのだが、すでに人間ではなくて、こころの奥底はメチャクチャなのだ/みんないいかげん気づいているだろ?

人間の美性のすべてを失う。

これは本当のことなので、もう覚悟するしかない、現代では誰の身にも忍び寄ってくる現象だ、明らかに感動しているとか明らかに敬っているとか、明らかに慚愧しているとか明らかに身の程をわきまえているとか、そんなものを目撃するチャンスはほぼない。
だがこれは取り戻せるのだ、もし「すべてを失っている」と覚悟できる者があればという条件付きだが、条件さえ満たせば他人にバレない形で取り戻せる、取り戻した人は周囲からとつぜん求婚が殺到するだろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
もともとある「愛」の仕組み
し、最もアホな言い方が許されるなら、この世界はもともと一つの「愛」という事象で結ばれている。
ここにおいて、「愛」が偉いわけでも何でもないが、それは根源的にあるものなので、わざわざ自前で作らなくていいし、自分で探し回る必要もない。
「愛」という、根源的にある事象を、自前で作りだそうとして「これが愛か」などと言い出すから、それはことごとく間違っており、不要な諍いを生み出すのだ、愛を自前で作り出せる人はいないし、またその必要もない。
「愛」は、識っているかいないかだけの問題で、努力の問題ではない、愛を識っている人は、朝起きた瞬間から夜眠るときまで、またその眠って夢を見る中でも、ずっと愛の中にいる、そりゃ当たり前だ。

平和な言い方をすると、陸上部と管弦楽団は愛し合っているのだ。
それがよくわからなくなるのは、陸上部員は陸上競技を愛し、管弦楽団員は管弦楽を愛している……というような、「こだわり」を愛と言い立てるせいだ。
陸上部員が陸上競技を「愛した」つもりで、その最盛期を過ぎて引退したら、ふと猛烈な孤独感が押し寄せてくるだろう、誤解した脳みそは「次なるこだわりを探せ!」というとんでもない間違った指令を送りつけてくる。
「いろんな奴がおる」のだが、同時に似たような奴しかいない、愛という仕組みに支配された似たような奴しかいないのだ、ここから逸脱した奴はいつのまにか、「わけがわからない」という感覚の中で、強引に笑顔でいつづけるハメになってしまう。

愛の上での大乱闘は愉快なものだし、愛でない出会いと結びつきは恐怖のものだ。

「愛を探している」という時点ですでにおかしい、愛は普遍的にあるもので、そのおかしさはたとえるなら「レールを探している列車」というぐらいおかしい、レールを探している列車はすでに脱線している。
多くの人が、少し以前かずっと昔にか、愛を自分で否定するという苦しい時間を体験したはずだ、そこに引き返して、「やっぱりそもそもあのときがおかしい」「浅はかだった」と捉え直すしかない、「愛」は人間が操作や評定のできる仕組みではないから。
正しく見ないとな | comments(0) |
すさまじい黄金ばかりの事象

まりこういう話はしたくないのだが、話さないわけにもいかない、ウソをついていいたぐいのことではないので……
以前、「カミサマの夢を見た、認めたくないがゴリゴリのホトケサマが空に出てきた、砂糖菓子みたいな」と話したことがあると思うが、今回もまた夢を見た、夢を見たというか、はっきり言ってしまえば枕元に来てしまった。
ものっすごい黄金で、雲にのって、蓮華に座り、枕元に浮いて出てきてしまった……この話はいいかげんアレすぎると思うので、そういう夢を見たということにしておく/じっさい夢かまぼろしかは誰にもわからん。
そのとき起きたことを、正直にレポートするしかない、僕は驚いて身を起こそうと思ったのだが、金縛りにあって動けなかった、そのときとっさに、不遜なことだが、「このおれでも動けないのか、やはり」と思い知らされた、それが正直なところだ、強引な言い方をすれば「神霊力」が強すぎて、僕はほとんど「封じられた」という感触だった、すさまじい黄金の座相がそこにあった。

1.なんとかホトケサマのご尊顔を拝することができたが、ご尊顔を拝するとただちに、目は吸い寄せられて、ホトケサマの背後には黄金のマンダラが爆発しつづけ、広がりつづけていた、それは「すさまじい黄金ばかりの事象」だったが、その中でご尊顔はきわめて静かでおだやかであられた(「こらあかんわ、勝てるわけがない」と当たり前のことも思った)。
2.勉強はしておくもので、驚くべきことだが、そのすさまじい事象のさなかにも、「これは如来様だろうか、菩薩様だろうか、それとも天か」「阿弥陀仏か、毘盧遮那仏か、それとも釈尊か」と考える余地があった、そのすさまじさは如来様であろうと察するよりなかったが、どの如来様かは僕にはわからなかった。
3.何かを告げられたということは特になし、何かを教わったというふうでもなし、むろん迎えに来られたというわけでもなし、ただそのご尊顔を拝するというか、目撃する機会を与えられたという感触のみ(かといって何かこころが改まるというふうでもない)。
4.おそらく重要なこととして、「この宇宙全体がもともとひとつの修行体として完成に向かおうとしており、われわれはもともとつながったそれぞれの部品でしかないのでは(「いろんな奴がおったなあ」)」と気づいて、直後にこれが起こっている、決してその逆ではない、すさまじい黄金の事象を目の当たりにして真実に気づいたというふうではなく、真実に気づいた(かもしれぬ)ということの後に、すさまじい黄金の事象が来訪している(逆は決して期待するべきではない)。

ニコニコ動画を観ながら寝たんだがな……

人間は死んだらカミサマになるとか、神の国に行くとか、ホトケサマになるとか、いろいろ言われるが、いわゆるホトケサマになるのは「誰が」ということではなくて、この宇宙の事象が膨大に集積してひとつの宇宙じたいがホトケサマになるのではないのか、いかにもそういうことだという気が今はしているのだが、もしそうならこんな事象はスケールがデカすぎてもうどうしようもないぞ。
ただ、われわれが身を膿むとその部分を切り捨てざるをえなくなるように、宇宙全体の修行の中からもやむをえず切り捨てなくてはならない部分が生じるのかもしれない、だからせめてその切り捨て部分になってはいけない、おそらく釈尊が「篤く三宝を敬え」と伝えたのはそのことを指している/という気がするが、まあそういう夢を見たということにしておいてくれ。

正しく見ないとな | comments(0) |
身が写る、口が写る、意志が写る

憶するな、「識」を覚えろ。
「識」が直覚されるところまでいけ、それまでは何一つ「わかった」と言うな。
「識」は「行為」と共にある、<<必ずだ>>、行為の積み重ねの中で「識」が宿る、そのときまで思い込みを持つな。
「行為」とは何か? まず先人の行為の実物を観ろ、そして「身が写る、口が写る、意志が写る」だ、先人の行為がこちらの身に写る、それでこちらに「識」が見えてくる、そのときまで勝手に目をそらすな、わかったふうに思い込むな。

記憶するな、身が写れ、口が写れ、意志が写れ、先人の行為を自分の身口意に転写しろ。
先人の「行為」を身口意に転写したら、自分も先人と同じように「行為」しているはずだ、そのことに何の意味があるのかはわからない、わからないからこそ転写したのだ。
先人の「行為」を、身口意に転写し、なるべくその行為を同じくなるように積み重ねていると、あるとき自分の思いではない行為そのものの「識」が見えだしてくる、そのとき初めて「これか?」「わかった気がする」とごくわずかだけ信じていい(それでもごくわずかにしておくべきだ)。
われわれ日本人は誰でも、食事のときに「いただきます」をする、「いただきます」なんて動作は誰でも記憶できるけれども/その「身をもってする」「口をもって言う」「意志をもってする」が、説明と記憶だけで直接見えてくるはずはない、身口意に転写してしつこく積み重ねた先に、われわれは「いただきます」を識ったはずだ。

「あの人」の、身が写って、口が写って、意志が写って……そしたら識った。

「こんにちは」のひとつでもいい、「ありがとう」のひとつでもいい、あなたがガンバってそれを言うのではなくて、「あの人」のそれが身口意に写って為されるということ、そのとき初めて「こんにちは」「ありがとう」の「識」が見えてくる、ただしかなりの量を積み重ねた後だけれども。
「あの人」の言ったことを、記憶するのじゃない、「あの人の言い方」「あの人の言葉」「あの人の声」が、自分の身口意に写るということ、それもしつこくそのことを積み重ねていく……それで初めて「識」を直覚する可能性が出てくる。

正しく見ないとな | comments(0) |
「クソガキ」のサイエンス
「認識」の機能が失われると、人間は、その次点にある機能、「刺激」に依存した存在になる。
「認識」によって生きていた人間が、「刺激」によって生きている何かに転生するのだ。
こうなると、たとえば子供に、「お店の中を走り回っちゃいけません」と教えても無駄だ、「認識」の機能がもうないのだから、子供は何をどう言われても、二秒後にはそこにある刺激を受けて走り出してしまう。
そうなると、「走っちゃだめって言ってるでしょ! もう置いて帰るわよ!」と、子供を「恐怖」させるしかなくなる、これは「鬼」の刺激によって子供を固めているというような状態だ、どんな人間でも「鬼」が出てくると固まるのは当然のことだ。

異様に態度の悪い店員がいたり、成人式で暴れる新成人がいたりするが、彼らは何も悪態をついているのでもなければ、悪ふざけをしているのでもない。
「認識」できないのだ、周囲に人がいることや、その場所が何の場所であって何の営みが執り行われているかということが、本当に「認識」できなくなっている。
自分が男(女)であることや、自分が何の仕事をしているのかということ、目の前の学門が何を解き明かしているのかというようなことが、言われたら「記憶」はできるのだが、「認識」はできないのだ、それで当人も、笑顔の裏側で実はメチャクチャになっている。
笑顔の裏側で、「認識」の機能が壊れているから、実は刺激を受けて暴れまわることと、恐怖を受けて固まることの、往復をしているにすぎない、そこにうまく見せるだけの記憶のツギハギを当てているのだ、本人は実はストレスで疲れ果てている。

「クソガキ」という言い方は、単なる慣用句ではなく、本当に人間が餓鬼に転生したことを指している。

生後六ヶ月までに「クソガキ」は存在しない、まだ刺激を受ける感覚器官や「意味」の機能が盛(さか)っていないからだ、生後六ヶ月までは誰だって「人間」の眼差しを持っている、しかしその後、「識」を失うと認識の機能を持たない糞餓鬼に転生する。
生後六ヶ月まで、人は「識」の存在である「人間」でいられる、だから母国語を急速に習得するなど、「知識」を得ていくことができる、その後はだめだ、その後はもう「識」の存在ではないので、刺激のあるものしか吸収しなくなっていく、刺激で暴れ回り、恐怖で固まるだけで、その中で何も知識は得ない仕組みだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解7

「識」については、コラムにして書きまとめたほうがいいわな、ちょっと待っててね。
「識」というのは、だいたい生後六ヶ月まで誰もが持っていた、「わたしはなんのためにこの世に生まれてきたのか」を、直接持っている現象、およびそれを直覚し続けている能力のこと。
その能力が、今も続いている人は、他ならぬ「わたし」がこの世界にいることを直覚し続けている。
それによって、「わたし」がたとえば「東京にいる」というようなことの認識が、他人事のような淡泊な認識ではなくて、一種の体験と覚悟になるのだ/それはずっと「わたしとこの世界」という事実の中を密接に生きているという状態なのだが、これ、どう説明しても説明でわかるようなことではない。

たとえば、或る自動車の運転手が、不注意で、横断歩道の子供にケガをさせてしまったとする、もしそんなことをしてしまったら、ふつう「なんということをしてしまったんだ」と、深く悔恨し、慚愧する――はずだ。
ところが実際は、そうして深く悔恨し、慚愧するということが、本当にはできない人がワンサカいるのだ、なぜかというと「識」がないからだ、「わたし」がこの世界にいるということがわからないので、「わたし」のしでかしたことのチョンボと罪が本当のところでわかっていない、「認識」が他人事のようで、本当には機能していない。
「申し訳ありませんでした」と、頭を下げるふうなのだが、実は「わかっていない」ので、その頭を下げるふうはフェイクになる、「とんでもないことをしてしまった」とアタマではわかっているのだが、その反省は概念でしかなく、概念をなぞった謝罪「ふう」を演じることしかできない。
ふつう「こころの底から」といって、こころの底から愛したり、詫びたり、頑張ったり、悲しんだりするのだが、その「こころの底」は生後六ヶ月までの「識」なのだから、「識」がないということは、「こころの底がない」ということなのだ、その後は何百年生きても「こころの底から」という行いがひとつも為せないという、これは当人にとっても生き地獄なのだ。

彼は、善良で、意欲的で、さわやかで、努力家で、いつも笑顔だった、ただし何一つこころの底からではなく、しかも何一つウソをついているのでもないが。

「こころの底」が、無いもんはしゃーない、すべての認識が他人事のようで、それでもその他人事の認識を自分の記憶に強引に縫いつけて毎日を振る舞っているのだ、縫いつけたぶん彼の内面は血まみれであって、やがてその痛みに限界がきたときに決壊する。
われわれは冷静でなければならず、素直でかつ、理知的な科学者でなければならない、恐怖で埋め立てをすることの前に、冷静に考えて冷静なままにしておく/「こころの底」が明らかに「ある」人なんてそうゴロゴロ存在してるか? ひとまずそれでいいじゃないか。

正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解6
はいえ、われわれはみんな、しょーもない苦労や悪だくみをする人間であって、何かを知ったり気づいたりしたからといって、偉くなるわけではない、喰われてはいけない。
われわれは人間なので、みな小さく、弱く、運が悪いと生きていけない、運が悪いというか、「運び」が悪いと生きていけない。
運をよくするために、厚かましく、かつどこか、義侠や献供を意として生きていなければならないし、極めて理知的でタフでありながら、平気で霊感を採用するぐらいカンがよくなくてはならない。
理知的に、タフに行こう、「べつに野垂れ死んでもかまわん」という諦観の向こうに、「何がなんでも生き延びるけどな」というタフネスがあってこそ、人は人らしいし、強くて信じられる。

理知的に、タフに、何がなんでも生き延びて、そのためには何だってやってやる、けれどもなお、それを自慢することは自分の生きる理由じゃない――みんなそうやってこの世に生まれてきたのではなかったか。
運をよくするために、理知的でタフで、かつ非合理で、達成しながら悩みつづけるというような、わけがわからないがきっと正しいと「識って」いるそれ、その態度を僕は「求め続ける人」および「求め続けている生き方」と呼びたい。
弱く小さいわれわれは、安全に生きたいのだ、そして最も安全に生きる方法は思いがけず、死にそうになりながら生きることなのだ、「べつに野垂れ死んでもかまわん」「何がなんでも生き延びるけどな」と。
僕は、自分がピンチに陥るのがいやだし、友人がピンチに陥るのもいやなのだ、僕がどうしてもひどいことを言うのは、人がピンチに陥ってほしくないからだ、ピンチというのは本当にゾッとしていやなもので、そこに深入りしても何の利益にもならないものだ。

最も安全なのは、助けを乞うことではなく、助け合うことだ。

われわれは、本当のピンチに陥ると助けを乞うしかないが、助けを乞うところまで行き着いていると、すでに「助け合う」というレベルを失っている、これは危険なのだ、われわれが安全でいられるということは、お互いに助け合う世界の中で、「今のところ助けは要らない」と各人が言える状態だから。
勇気を持って、「助けは要らない」とまず言おう、自分は理知的だしタフだし、「べつに野垂れ死んでもかまわん」し、「何がなんでも生き延びるから」と/そうしたら助け合う世界が待っている、なぜそういう世界が現出するか/われわれは助けを乞うために生まれてきたのではなく、全員で求め続けるために生まれてきたからだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解5
間は、ヤバいピンチにならなければ、まあいいのかもしれない、これは非常に現実的な話。
ピンチには三種類あって、僕はこれをピンチ三種と呼びたいのだが、メラウルワーの三種に合わせて、やはりピンチの三種があるのだ。
メラメラ野心の人は、初めは燃えられるが、その果ては「すさまじい嫉妬の世界」であって、この道筋を「引き返せない」と感じ始めたとき、人はピンチに陥る、これは「嫉妬ヒステリーピンチ」と呼んでいい。
ウルウル寂しがりの人は、初めは「手に入れるんだ」とトキメキを持てるが、その果ては「精神決壊スレスレの世界」であって、この道筋を「引き返せない」と感じ始めたとき、人はピンチに陥る、これは「寂しさパニックピンチ」と呼んでいい。

感受性ワーの人は、初めは「センスがあるから」と優越していられるが、その果ては「アレがないと身が震えて止まらん世界」であって、この道筋を「引き返せない」と感じ始めたとき、人はピンチに陥る、これは「依存症で止まれないピンチ」と呼んでいい。
その他われわれの果てには、ビジネスの果てや老境の果てもあるが、これらは「ピンチ」というのとは具合が違うので、まあここでは省こう、おそらくビジネスの果ては「征服者」に行き着き、老境の果ては「世捨て人」に行き着く、征服者はチンギスハンのようであり、世捨て人は芥川龍之介のようだろう。
生後半年からあったはずの、「識りて行う」ということをスッカラカンにしていると、たいていの場合人は三種のピンチに陥る、メラウルワーの三種をせいぜい「悪趣味」「悪い遊び」「悪いクセ」ぐらいに留めておくのは現実的だが、途中から「引き返せない」ということが本当に起こるので、そこまで進んでしまってはいけない(この「引き返せない」は二十代の前半ぐらいまではまず気づけない現象だ)。
ピンチ三種の実例は、メラ:明らかにヘンになった政治家、ウル:カルト宗教にイッてしまった人、ワー:麻薬依存症でヒサンになったヤク中、等で確認することができる、この<<ピンチ三種を渡り鳥していてもしょうがない>>ので、さすがにこのピンチからは縁遠くあろう、縁遠くあれているうちにそう決めよう。

メラ:オラつき、意識高い系、ウル:ボランティアやクラウド○○、ワー:オタク系、に多い。

そりゃ冷静に見てみれば、「内心メラメラしてんなあ」「内心ウルウルしてんなあ」「内心ワーッてなってんなあ」と、元々わかっているわけで、別に珍しい見方ではない、ただのその先というか、その果てにあるピンチがガチで怖いということと、案外「引き返せない」ということが起こるということを、ここでお話ししている/案外「進む」ものだ、メラウルワーのそれぞれは自動的に。
ピンチ三種に至ると、もちろんそれをなるべく隠して、つまり抑圧して暮らしていくわけだが、隠していたって解決してくれるわけではないので、まあおっかないのだった、「識りて行う」をこっそり進んでほうが、安全でいいよと僕は勧めたい、誰だってピンチなんてまっぴらごめんだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解4
「識りて行え」ということを勧めている。
これは、それがエラいということではなくて、本当に勧めたいのは「意識が消失するところまでやれ」「行為が消えるところまでやれ」ということなのだ、いちおう僕の経験上から。
しかし、このことを勧めようとすると、僕の予期していなかったこととして、「野心的な人はメラメラし」「寂しがり屋の人はウルウルし」「感受性タイプの人はズーンと落ちていって内心でワーッとなる」ということが起こった、それで僕は真相究明を余儀なくされた。
思えば、僕の友人に老境タイプはいなかったし、ゴリゴリのビジネスタイプもいなかったわけだ、それで目下のナゾは「メラウルワー(メラメラ、ウルウル、ワー)」に行き着いた、大前提となる「識りて行う」ということ自体がこんなに遠いものだとは考えもしていなくて、僕は自分の考えが甘かったと思い知らされているのだった。

まあ、ともあれだ、僕はしんどいことが苦手なので、「識りて行う」ということの果て、「意識が消失するところまでやれ」「行為が消えるところまでやれ」ということを、本当は単純に勧めたい、このことはもうずっと変わらないままある。
その、「消えるところまで」というのが、かねてから申し上げているところの「フィクションの早さ」で、時間軸上のズレということになるのだが、このことはあくまで「識りて行う」ということの果てにあるのであり、メラウルワーの果てにはない(ビジネスや老境の果てにもない)。
意識も行為も、消えるところまでやる、その他も同じだ、野心メラメラも見切って消す、感受性ワーも見切って消す、寂しがりウルウルも見切って消す、ビジネスと老境は、別に悪ではないのだろうが、究極消す、何もかも消えるところまでやる、そうしたら人は「永遠」および「永遠の相貌」に到達する、「永遠の相貌」は詩人ウィリアムブレイクの言葉だ。
で、どこまでいっても、「識りて行え」がスタートラインになるのだけれど、このスタートラインになる「識」は、生後半年ぐらいのところにあるのだ、この世に生まれて六ヶ月ぐらいのところまで引き返して、そこに接続しないといけない、「自分は何のためにこの世に生まれてきたか」という、わりとありふれたテーマのところに引き返さないと、そもそもスタートが切れないのだった。

あなたが「願望」を持つ以前にも、あなたは漠然と「夢」を持っていたはずだ。

「識」なんて言うと、あまりにむつかしく聞こえてしまうので、それは「夢」だと言いたい、われわれは誰だって願望を持っているが、その願望の裏側に、願望とは違う何か「夢」そのものの成分を持っていたはずだ、それ自体が無垢で幸福な、何かよくわからない――けれども永遠に確信されつづける――成分のそれを。
そこにつながる、そこにつながってする、そこにつながってデートも仕事も、勉強もセックスも、食事も旅行も、するもんだ、そうすることで初めてすべては人間の足しになる、識りて行うことの果てに「あの夢」の中へ消失するのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解3

の話は、直接役に立つわけではないが、予備知識みたいなもの。
まず、「よくわかっていないわたし」みたいなやつ(カルマ:業)が、この宇宙をフラフラ〜としている(なんだこのインチキスピリチュアルみたいな話は……)。
で、コイツは、「よくわかっていないやつ」なので、何かいらんことをするし、過去にもいらんことをしている、そしていらんことをしているから意識(識)が生じる、そりゃ究極なーんにもしたことのない存在には意識が生じようがないだろう。
この、「いらんことした→だから意識が生じた」ということで、この存在は宇宙から落下し、人間としてこの世に生まれてきている、聖書世界でいうと禁断の果実を食ったところだ、「いらんことをしたから神の国を追放されてこの世に落ちて生まれてきよった」ということになる。

この世に生まれて落ちてくると、この世には色とか形とか名前とかがあるものだから、目とか耳とか鼻とか口とか、身とか(つまり五感)、意味(六感)とかが活躍しよる。
そうなるとこの世で、目とか耳とか(以下略)は、いろんなものに接触し、蝕まれていく、そうするといろんなものをキャッチするというか、いろんなものを感受することになる、感受するとそれを愛してしまい、愛したものが手に入らないと寂しいし飢えるので、それをゲットしようとする。
そうして何かをゲットしたら、何かを「所有」することが発生する、所有があるから未来に向けて生きていけるわけだが、未来に向けて生きていくということは、やがて老いて死ぬことにたどり着く。
そうして老いて死ぬとき、「で、わかった?」ということになるが、やっぱり「よくわからんかった」となるので、その後は「よくわかっていないわたし」としてまた宇宙をフラフラ〜とする、そうしたらまた「過去にいらんことしたから意識が発生して、人間として生まれ落ちて……」ということになる、これが仏教説が唱えているところの輪廻だ。

わからん→(わからんから)いらんことする→(いらんことするから)意識発生[人間誕生]→(誕生したから)物質世界→(物質世界だから)六感活躍→(六感活躍するから)六感接触→(接触したから)感受性→(感受したから)渇愛→(愛したから)ゲットしたくなる→(ゲットしたから)所有→(所有したものには)未来がある→(未来は必ず)老いて死ぬ→(老いて死ぬだけとなったら)わからん→以後繰り返し。

アナログ時計はご存じ十二種類の方向を持っているが、1時がなければ2時がなく、3時がなければ4時がないように、仏教の輪廻および十二因縁も、出口のないままぐるぐる回っているということが指摘されている、ホンマかどうかは僕ではなくブッダに訊いてくれ、僕なんかに訊くよりはるかに確かだ。
物理学上、この宇宙は数式的には存在しなさそうなものが、「自発的対称性の破れ」によって生じているそうだから、われわれ人間も、「自発的いらんことするやつの破れかぶれ」によって生じているのかもしれん、アダムとイブは放っておくと自発的にヘビに誘われて禁断の果実を食うというわけか(ちなみに「自発的対称性の破れ」の発見でノーベル物理学賞を受けたのは日本の南部陽一郎博士だ、僕はオカルトやスピリチュアルの話がしたいのではない)。

正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解2

ず、人間の生まれてくる仕組み、特に「わたし」がどこから生まれてきているのかは、誰にもわからない、誰にもわからないが何か仕組みがあるのだろう(天国的な何か)
で、赤子なんか見ているとわかるが、赤子は無知のはずなのに、見ていとると明らかに「バカ」ではない、何かをすでに識っている眼差しをしている、何もしない赤子なんていないし、何かを識っていて何かをしようと常にしている、一般的な人間の原初がこれだ(識りて行う)
とはいえ次に、自分の識らないことというか、自分にカンケーないもの、つまり液晶画面がビカビカーとか、サウンドがズンドコーとか、ナントカヒルズの建物がババーンとか、そういうものを見て「おおー」「メラメラする」ということを知ってしまう、それで原初の「わたし」がどこかへ消えてしまう(メラメラ野心)
次に、自分にカンケーないものを、摂取して蝕まれていく、「これは……この食感はサイコー!!」とか、「なんかこの曲聴くと、ヘンな気分でハイになっちゃう〜」、そうしたらメラメラを離れられるので、「これか!!」とアホ用の確信をしてしまう(感受性ワー)

とはいえ、食感とオナニーだけで生きているのは、さすがにさびしくなってくるので、「ちゃんと共に生きていける家族がほしいの」「そのために婚活する」「あと子犬も飼いたい」「あとちゃんとした職業と立場がほしい」となる、「全部ゲットする!!」というアホ用の確信が出てきて「これか!!」となる(ウルウルハングリー精神)
しかし、そんなに実際にゲットできるわけでもないので、「いま所有しているものを大事にしよう」「未来に向けて、こういった所有物を増やしていこうよ、それが有意義だよ」となる、それでいったん落ち着きを得ると同時に、実務的に忙しくなる(ビジネス)
そうして忙しくしているうち、あっという間に「すごい、年取ったなー」「老けたなー」という実感のときがやってくる、すると「リアルに長生きしたいわ」という危機感が起こってくる、「ビジネスっつーのもどうなの」「限界あるわぁ」となってくる(死ぬ準備)
このようにして人は、人間の原初、「何をするためにこの世に生まれてきたのだったか」ということから、いつの間にか遠く遠く離れてしまう、そしてやがて死ぬと天国的なところに行くわけだが、「あれ? けっきょくやり残していることない?」となり、ふたたびこの世に生まれてくる、「永遠にこれではキリがないだろ」ということのようだ。

二十五歳のあなたの胴体を、二十四年と半年前に戻してくれ。

生後半年ぐらいまで、あなたには「識」が残っていたのだ、んなアホなという話だがこれはマジだ、あなたの胴体と四肢はアホのクセがムキムキについているから、それを取り除かないといけない。
メラメラ野心もわかるし、感受性ワーもわかるし、ウルウルハングリー精神もわかるし、ビジネスもわかるし老いて死ぬブルーもわかる、そして死んだあとの天国的な何かもわかるのに、どーして「識りて行う」だけがわからんのだ、生後半年のあなたはわかってたでしょーが。

正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解
「識りて行え」「認識して行いを為せ」と、最近よく勧めている。
で、この話は必ず、「識」とはなんぞや? という不可解に突き当たってしまう。
このことの解がようやく出た、「識」とはアレだ、「自分はこの世に何をしに生まれてきたのか」という、プリミティブな既知感覚のことだ。
自分はこの世に、何をしに生まれてきたのかは識らないが、「何かしに生まれてきたんだよ」と、信じるというよりは「識っている」ということ、これが「識」の原初だ、カッコイイ言い方をするなら「識」の究極解がこれに当たる(カッコよく言わないと誰も読んでくれないのでね……)。

つまりだ、「識りて行え」というのは、もちろん「わたし」がそれを「認識」して行為しないと、それは行為にならないよ、ということなのだが……
あなたがたとえば、公園のケヤキの樹を、深夜にノコギリでゴリゴリ伐り倒したとする、「ファォォォー!」、人間にはそうした行動も可能ではあるが、確実にそのときのあなたは、「自分はこんなことをするためにこの世に生まれてきたわけではない」と感じるし、そのむなしさを悔いるだろう、何の行為にもならないその行動と叫びを。
どうやらマジに、人間は、この世に何かするべきことがあって、つまり解消すべきカルマがあって、生まれてきているわけだから、それと接続してこその「わたし」なのだ、この本性と接続した「わたし」が失われると、人間は行方不明の「我」のバケモノにしかならない。
人間に、たくさんの刺激や抑圧やオカズなどを与えると、猛烈にオナニーしたり薬物に耽ったり、しきりに「うぇーい」と叫ぶようになったりするが、そんなことをするためにこの世に生まれてきた者は一人もいない、「識」の究極解はそのようにして、「自分は何をしにこの世に生まれてきたのだったか」だ。

刺激に駆られて暴れ回った人が、後にほとんど不能の「自分探し」をやらされる。

刺激に駆られて「ウオオオー」みたいなことに長期間耽ると、人間の根源的な「識」がどこかへ消し飛んでしまうのだ、そうなるとその後は何らの「行い」も為せなくなる、勉強も仕事も恋愛も子育ても、すべて上っ面になるのだ、これは怖い。
400メートルトラックを一周するつもりだったはずの人が、いつの間にか脱線して隣町まで行ってしまったのだ、「あれ? 何をしていたのだっけ」、こうなると元のコースに戻るのはとても難しいし、ずっと変わらず走り続けているのに、「なぜ走っているのかはもうとっくにわからない」でハアハア走っているのだ、これはキツい上に不毛で恐ろしいじゃないか。
正しく見ないとな | comments(0) |
年長者として話す僕
ぜこんな話をしているのかということを、僕自身の整理のためにも話しておきたい。
不遜さも重々承知の上で、私的なこともぶちまけながら、正直にお話ししておくしかないだろう。
僕自身はすでに、「認識なんかしていてはだめだ」という地点にいるのだ、「認識」なんかより上位のところに接続しないと、僕はもう僕の本分を営めない次元にきている。
だがそれは僕の話であって、未だ僕の友人の話ではない、未だ僕の友人は「認識」の能力を再建すべき状況にある、僕はサーキットを走るので左右なんか「見ていてはダメ」だが、友人は公道をなめらかに運転するために左右をよく見て安全確認するということを訓練しなくてはならない、それは未だ仮免許練習中として正当だ。

要するに、すでに現在の僕の本分と、僕の友人が必要としていることとに、大きな乖離が生じてしまっている。
僕にとってすでに「認識」は足手まといだが、友人にとっては未だ「認識」は宝なのだ、この過程は誰でもが経るものだ。
つまり、僕はすでに自分の友人について、認識や識別を必要とせず、「ひとつ」とみなしてよいが、逆はそうしてはならないのだ、逆側から「自分とあの人はひとつ」とみなすと、認識機能が喪失され妄想(D妄想)や混乱が生じてしまう。
僕が僕の本分から離れ、つまりレベルを落として休んでいるとき、たとえば誰かに「ああ、すんまへんな」と頭を下げているようなときなど、まだ年長者としてよい見本になりうる/誰か人間関係の中から「認識」に秀でたユニットが誕生し、僕とのあいだに適切な中継を挟んでくれることが必要だ。

僕は年長者として話せるが、あなたは年少者として聴けないだろう。

「認識から行いが為される」わけだから、僕は自分を年長者だと「認識」し、年少者に向けて話すという「行為」をする、しかしあなたは漠然と話を聴くだけで、自分が年少者だと認識し、年長者から話を聴くという「行為」はできないだろう、それが「認識能力の喪失」ということだ。
もし冷静な傍観者がいたとしたら、傍観者の目には、僕が年長者として話していることは明らかで確実なことに見えるが、そこに年少者として聴いているという明らかで確実な者は存在しない、然ればそこに人間の道たる営為は成立していないことになる/現在の僕にとって、すでに年長者として話すというようなことはオマケの便利な方法にすぎないが、あなたにとっては未だそれが格闘すべき最大の武器であり本分だ、あなたが必死に集中しているときの認識能力は、僕が酔っ払ってあくびをしているときの認識能力に遠く及ばない。
正しく見ないとな | comments(0) |
認識のないベルトコンベアの日々
とえば、「信じられないぐらい態度の悪いアルバイト店員」みたいなものがいたりするが、あれは何がどうなっているかというと、もはや「店と客」「職場」「仕事中」「店長とバイト」という、識別・認識の機能さえ失われているのだ、こうなってしまったケースはもうほとんどの場合直らない。
たとえばここに、学校の先生がいたとして、彼が「学校」という場所、「教師と生徒」、「大人と子供」、「職務」といったことを、すでに認識できていないケースがいくらでもある、そのときはもう、毎日がベルトコンベアのように彼を職場に運んでいくだけだ。
誰だって、それが「仕事」なんだ、それが「立場」なんだということは、「知って」はいるのだ、だから「わかってますよ」と当人は面倒くさそうに言う、けれども「わかってますよ」というのは必ずしも「認識の中にいる」ということを指してはいない。
現代は、「ゆとり世代」なんてもんじゃない、「認識機能ブッ壊れ世代」と言われるべき状態だ、ベルトコンベアで運ばれながら、スマートホンでゲームをしたり「まとめサイト」を見たりして、そのときはメラウルワーに燃料を足す、それ以外は何もしない、そうして何の「認識」もない日々をただ過ぎていくだけだ。

男性でも女性でも、たとえばデートに行くとなると、メラウルワーが起こる。
おしゃれな夕食になど出かけると、特に女性はメラウルワーが起こるだろう、ただそれだけであって、そこには食事も親交も文化も異性も認識はされていない。
体内の血管を駆け巡るメラウルワーホルモン物質で「なるべくズドーンってなりたい!!」という、機械的な反応しか持っていないのだ、これではまるでメラウルワー専属受容体というバケモンの有様だ。
男と女があった場合、「彼は男で、わたしは女」という「認識」がなければメチャクチャなのだが、「男」メラメラ、「女」ウルウル、「おしゃれ」ワー、という、ホルモンホルモンした現象しかないのだ、これを人間の営みと言い張るのはいくらなんでもメチャクチャだ。

現代の子供は、目の前の大人を「大人」とは認識していない。

「認識」の機能そのものが失われているのだから、当たり前ではある、しかしこんなものがトレーディングカードで遊んでメラウルワーの奇声を発しているのを、さしあたり放置しておくしかないというのは非常に危険な状態だ。
認識機能を再建するしかない、現代人のすべての様相は、本当に麻薬中毒者にそっくりだ、麻薬にはメラウルワーの効用があるのではなく、ただ人間の認識機能を喪失させる作用があるだけだ、人間は認識機能がなければ誰だって人外のメラウルワーのバケモンなのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
| 1/54PAGES | >>