☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
解けた血縁の謎2
くの人が、反射的あるいは生理的に、「母の愛は強い」というふうのことを言いたがるが、一方で、一時期流行った「アダルトチルドレン」というような言い方、また臨床心理学がしつこく「両親の愛が足りなかった場合」を言い続けることに対しては、何ら確実な返答がない。
つまり、無条件に親は子を愛すると言いたがるわりには、親が子を愛さなかった場合という、世の中にむしろ過半数にありふれている実際の例については、恣意的に無回答を決め込んでいるのだ、このいびつな実態は、けっきょく「血縁は無縁だ」という事実から目を背けようとする衝動から生じている。
日本の場合、特に長く続いた江戸時代頃、為政者が封建制を継続する都合もあり、儒学・朱子学が国の学門として体制側に贔屓されたということもあり、血縁および特に父母を強く善く言おうとするが、血縁そのものは昆虫に到るまで生きものに具有されており、特段「人」の性質ではない/血縁はただ生きものの性質にすぎず、われわれの魂を定義しうる成分は皆無なのだ、それが実にゼロだということに冷涼な理解を得なくてはならない。
われわれは異様な執拗さで、父母や実子をありがたいもののように言おうとするが、「おめでとう」と反射的に言うわりには、実際に街中を歩いている子連れの女性を見てありありとそれを「幸福そう」とは感じない、歯に衣を着せずにいえば、「すさまじい荷物を複数抱えて歩いている」としか見えない女性も多いのが実際だ、われわれは街中で母なる女性がその実子を「怒鳴りつけている」ところばかり目撃するような気がするが、なぜかそのことには目を伏せてしきりに他人事のそれを「おめでとう」と言おうとする、われわれは恣意的にひどい思考停止を自らに仕掛けていると思える。

血縁は無縁であり、血縁は無関係、および生まれ故郷や、「同業者」のすべても無関係だ/同じ学業をするクラスメートも、クラスメートのうちは同業者(同じ「学業」にある者)として縁がある友人のように錯覚されるが、別業に移ればその友好はまるでなかったことのように消え去っていくだろう、それほどまでに業(カルマ)はわれわれを支配している。
この、「血縁は無縁」「同業者は無関係者」という本来の事実が、あまりにも押し隠されているため、そこから人格のゆがみや精神の未熟、関係の暗鬱、および痴愚の実体が生じてくるのではないだろうか、つまり「メンタル」がおかしくなることの多くが、この血縁・同業に対する依存・思い込みから生じている/母と娘が血縁を誤解しているので精神がおかしくなり、上司と部下が同業を誤解しているからブラック企業が生じるのではないだろうか。
ここに、「血縁は無縁」「同業は無関係」と言うと、一種のおそれと反発を生じる一勢力があることはいかにも予想されるが、その勢力は当人にも自覚しうるところ、血縁・同業以外に「縁のあった誰か」を思い浮かべることができないのではないだろうか、つまり「血縁は無縁」「同業は無関係」を認めると、それはただちに己の絶望的孤独を認めることになり、生きてきた時間のすべて――ないしは、これから生きていく時間のすべても含めて――を無意味でむなしいと認めることになってしまうから、おそろしくて肯定し得ないということではないだろうか。
このようにして、血縁・同業は、人々の本心から尊重されているのではない、ただ己を庇護し、かけがえなく有利にするものとして、つまり利益によって保護されているにすぎない/だからこそ、血縁・同業を己の存在の絆にすり替えると、表面上の安泰と豊かさが得られる代償に、人相が悪くなり、精神の根底はゆがんでくる、わたしはこのことをあしざまに言っているのではなく、このことが万事を読み解くよい視点になるということを申し上げているつもりだ。

血縁・同業は、弱い人がいきいきするための装置だ。

それがよいことなのか悪いことなのか、わたしにはわからない、けれどもわたし自身は、血縁に何かの絆を見いだそうとしたり、同業のわかりやすさを己の絆や居場所にしようとしたことはない、これまでに一度もないし、これからもきっと一度もないだろう、わたしがこの先も孤独でないという保証はどこにもないが、わたしはせめてそのときの孤独を包み隠そうとする弱さに陥らないことを自分自身に期待したい。
血縁は無縁だし、同業は無関係だ、ずっと感じていた謎と違和感があって、それが何だったかというと、ついに「弱い人が急に居丈高になる」ということが、わたしにとって違和感だった、今はその違和感の謎が解けて、爽快な心地でいる、彼らは血縁・同業につながりを持っているという誤解を背後において、かくも居丈高だったのだ、だからこそ彼ら自身、引くに引けないという事情もあった、そこから一歩でも退くことは、自分の数十年がすべて孤独で無意味なむなしいものだったと認めることになってしまうからには。
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解けた血縁の謎
風邪をやらかして、野暮用をこなすのも朦朧としている中、ふと解けない謎が解けた、「血縁は本当に、人を狂わせる」という謎があり、それがなぜなのかはわからないでいた。
その謎は唐突に解けたのだが、これは多くの人に目を背けられ、また当人が必要としないうちは遠い余所の記憶として保持されていればいいにすぎないが、この謎はこのように解きうる、つまり「血縁は縁ではない」ということ/縁がないものを不条理に縛りつけているものが「血」なのだ。
もちろん例外的に、血の縛りの中で、それを超えた縁を結びうる人もいるかもしれないが、それはほとんどの場合において虚構だ、誰しも生きていく中で「誰にも縁がない」「何にも縁がない」という実態を為していく中で、さも自分には何かの縁があると、錯覚させ縋り付くために、血があり、出身の土地がある。
これまでわたしは、血縁者というものが何なのかまったくわからなかったが、不意に謎が解かれたところ、血縁者は逆に「縁のない人々」なのだ、その縁のない者たちを無意味に縛りつけている思い込みの拘束が血縁だ、だからほとんどの親子や家族は、「血縁でなければ何の縁もなかっただろう」というような、相互に人格のちぐはぐとコミュニケーション性のなさで形成されている。

例によって、わたし自身には想像のつかないところだが、多く一般の人は己の孤独に耐えられないため、知らず識らず自分の縁あったもの、人や場所に自分を関係させて生きている/少なくともそのつもりでいるものだ。
だが真相は、生まれ落ちた土地や生まれ育った場所、生まれ落ちた血縁やその後に形成されていく血縁も、「縁」ではまったくない、まったくの無関係のもののようだ、ただ血による業(カルマ)が継承されるというだけであり、魂のレベルでは相互には何のつながりもない。
血は業(カルマ)を継承するので、つまり血縁者というのは「同業者」の捉え方に統括できることになる、同じ電気屋のA店とB店には何の縁もゆかりもないように、血縁というのは実は相互に何の縁もゆかりもない/そして多くの孤独者が、生きていく中で同業者の群れに依存することのように、孤独者はやがて故郷や血縁という同業者に依存して己の存在を肯定しようとするのだ、およそこの世界に何のつながりもないと認めて生きていくことは個人の小さな魂に耐えられることではないので、まやかしでもいいからそれに縋ろうとする。
この世界の、ものや人や場所に、ついにつながりを持てなかった者は、「同業者」として血縁や故郷や同窓生に己の存在を頼るにすぎない、多く子供を持つ人の場合もそうだ、およそこの世界を信じなかった人は自分の親と子供と家族のみを信じようとする、そうして「同業」が際限なく繰り返されていく、そのことを古くは輪廻と捉えた。

「血縁」と「父母」は別の事象だ。

血縁から生物が繁殖するという現象は確かにあるが、この繁殖の系譜そのものが、本質的な「父母」という事象を担いはしない、だからこそ「母なる大地」「父なる天」という言い方をする/繁殖の系譜に重ねて「父母」を実現しうるかという試みが人類の文化の一形態を為しているだけであって、その試みはこのところ「不能」という確実なアンサーを返してきている、立場上の大学生がもはや「学生」にはなれないように、立場上の父母がもはや「父母」にはなれない。
ともあれ、血縁とは何の縁かというと、血の業(カルマ)が継承されるという生理的な仕組みがあるのみで、何の縁もないのだ、何の縁もないヨソモノが相互に血縁という思い込みで縛りつけられている、だから血縁というのは依存と不快の装置でしかない/ではなぜこの依存と不快の装置が取り払われないかというと、この依存を取り払うともはや自己が成り立たないという人があまりに多いからだ。
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わたしはこれの子なのではないかという気がする
の外から水の匂いがする。
空の向こうから水の匂いが運ばれてきている。
わたしが人付き合いのすべてを持たなかったあいだ、わたしはずっとこの風の中にいた。
わたしは人付き合いをしたことがなくて、そのかわりずっと誰かがいた。

この季節はどうしても喉風邪にやられる。
そしてやむをえず休んでいると、わたしはやはり、もといた自分の場所に還っていく。
ふだんから無茶をしすぎなのだろう、そもそもわたし自身は何かを必要とはしていなかった。
わたしがわざわざ焦りの中に踏み出すのは、きっと迷いに違いないだろうが、それはわたしが選んでそうした迷いなのだ、だから誤っているとは思わない、わたしはけっきょくここに戻ってくるのだろう/だからいくら迷いの中に踏み込んだってかまわない、ようこそいつもの風の中へ。

わたしは何かの子なのだろうか?

いつも一般向けに、わかりやすいように、理に整合するように、万事を説明しているけれど、初めから最後まで、何らの説明もつかない現象にわたしは包み込まれている、わたしはなぜか一種の約束の風に包み込まれている。
これがあるせいで、わたしはずっと、生まれてから何一つをも必要とすることがなかった、これが何なのかはわからないが、ふとわたしはこれの子なのではないかという気がする、なぜならわたしはこのときいつもまるきり子供のままだからだ。
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何かにならないように動く
かにならないように動く。
われわれが認識上何かに「なる」というのはことごとく誤りだからだ/認識というのは畢竟そうした誤りのための装置でしかない。
認識上、 "何かでないものが何にもならない" ということ、それがギリギリ、認識としての正しい機能の果たし方だ、これで半分方は正しいというか、49%は正しくなる、ただし49%なので、四捨五入すると0点に戻る。
フィクション世界で大地震があっても、ノンフィクション世界では何も起こっていないのだが、これが逆だ、ノンフィクション世界にわずかも「何か」を出現させないということ/フィクション世界で大地震が起こっても何にもならないのだが、その「何にもならない」ということが本当の世界であり、無限と永遠の命・魂の世界だということになる。

われわれはアホなので、認識・観測できるものだけをアテにして、生きる時間のすべてを無駄にしてしまう。
ノンフィクション上で大地震が起こると、それを真実だと思い込むのだが、それは真実でないからわれわれが認識・観測できるのであって、われわれはこの自前の装置にだまされ続けるのだった。
生身のことはしゃーないとして、己の魂の営みについては、 "何かでないものが何にもならない" ように動くということ、これで49%だが、残りの51%は、 "フィクション世界の足しになるように動く" ということだろうか、そこでフィクション世界の足しになるということが、われわれには認識・観測できないのでどうしようもないところがあるのだが……
われわれは各自において「わたし」「自分」という思い込みにこだわっており、この認識・観測のたえまない装置である自我および、それが受ける実感を「実世界」だと思い込んでいる、だからつまらなくなるのだ、<<ノンフィクション上に直線を描くのは無理なので、フィクション上に直線を描くだけでいい>>し、フィクション上でなきゃ直線は描けないじゃないか、われわれは自我のこだわりを実世界だと思っていて、どこまでも実世界の足しにしようとしているから、つまらなくなり、そのつまらなさに自分で文句を言うのだ。

何かにならないように動く、そして "もつれ" だけを利用する。

何かになろうとして動くとき、われわれの心身は落下し、分離し、離散し、重力の干渉を受け、時間を経過させられる、そもそもが認識と観測という錯覚の装置でしか成り立っていない一般的な "実世界" を、誤ってアテにするから「何かになろう」とする。
こんなもん、認識と観測への "こだわり" でしかないのだから、真相の世界であるはずがない、「何かになろう」とするのではなく、「何にでもなる」というのが真相の世界だ、フィクションとノンフィクションは因果律上は完全に無関係で、無関係の上で「もつれ」がある、このもつれを利用するのが正しいやり方だと思うが、実際には少しでも "フィクション世界の足しになるように動く" ということを、常にして積み重ねていくことで、それなりにましなもつれも得られるのではないだろうか、いちいちのもつれを直覚できるほどわれわれは超人じみていないので実際には地味にやるしかない。
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無関係が関係する
いかわらずナゾの記事ばっかりで申し訳ない。
無関係が関係する/いわゆる量子もつれのように、無関係のものが関係する。
因果律とは関係ない、ハンコを作れば南京錠が開く、というように、無関係が関係する。
あっちの世界はこっちの世界と無関係だ、にもかかわらず、無関係が関係する、だからこそ何のこっちゃわからない、「わかる」という現象の範囲にない。

しかし困ったことに、あちらの世界でハンコを作れば、こちらの世界で南京錠が開くというようなことがあった場合、じゃあとにかくあちらの世界でハンコを作るしかないじゃん、ということになる、因果律と無関係なのだからしゃーない。
あちらの世界で絵札がくるくる回ると、こちらの世界で何かいいことがあったりして……おれは現実的でないことの一切を好まない、スピリチュアル趣味に賢人がいた試しはない、おれは世迷い言を云っているふうだが、実際の可能性のみを追求している/因果律に頼らず、ダイレクトに鍵を開けるためにはこうするしかしゃーないという可能性がどうしてもある。
 "因果律以外のもので結ばれている" という可能性、つまり "もつれ" の可能性を無視できない、少なくとも物理学では量子もつれは諦めて認めろという雰囲気だ、じゃあ因果律でなければ何かというと、それは「主体性」なのではないかという気がしている、つまり「主体性は "非因果性" でしょう」ということ。
なぜこんなわけのわからんことを考えて話しているかというと、おれは主体性のないものがつまらなくて苦手だからだ、ミミズを鉄板の乗せて火であぶったらのうたつのが当たり前だが、そんな当たり前の因果は眺めていて実につまらん/あちらの世界で色のついた板ガラスをあぶるとこちらの世界で泉に湧き水が出るという、 "非因果性" のもつれはないか? そうでも考えないと現在のおれが成り立っている理由がまったく説明できないのだった。

ゴールド・キッス。

さてわけのわからないところ、あちらの世界で黄金の延べ板にキスをしたとして、こちらの世界で何にもならないかというと、それは不明だ、因果律においては何も起こりようがないが、因果律でないもの、非因果性たる主体を認めるなら、それはもうこちらで何になるかはわかったものではない、ただおれは何の感覚もないでたらめを云っているわけでもない、とりあえず病気の治りそうなゴールド・キッスの話をした、おれの話はそうしていつもあちら側だよりだ。
オカルトは常に、ありもしない因果律を妄想することから生じている、もし藁人形にクギを打つだけで人が死ぬならヒトラーは連合国軍の侵略を受ける前にポックリ死んでいただろう、藁人形をいじくって何かになるという因果律はない、この因果律を見失う奴はただのアホでしかない/だがこちら側ではどうにもならない施錠はどうだ、どうにもならないから施錠というのだが、あちら側でポセイドン像をうちわで扇げばこちらの錠が開くというのでは、もうさっさとポセイドン像をうちわで扇ぐしかないのだ、黄金にキスして病気を治そう、そんな因果性のない事象がもつれて起こるならそれはきっと主体性なのだろう。
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完全なる彼方の他者
にこだわらず、自分にこだわらず
奥の中へ(奥の中のほうが広く)
聞いたことをあてにせず
何もない中に無限がぎっしりとある

特殊なものがあるわけではなく
一般と思われているものが悉(ことごと)くない
フィクションの宝がフィクションの界を満たすように
我々が聖と付き合う必要はなく、聖が聖と付き合う必要のみある

わたしが聖であったことはないが、聖が他人であったこともなく

つまりわたしでないわたしがある
完全なる彼方の他者が、完全な他者なるわたしである
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因果律と主体性

果律といい、すべてのものは「原因と結果」によって成り立っていると言われる。
たしかに表面上、ヤカンの水が湯になるのは、下からガスコンロの火で加熱したから、に見えるが、ここで「そんなことおりゃ知らねーボロニア」を爆裂させると、因果律はどこかへいく。
たとえばここでわたしが、「ピッコロ大魔王に牛肉コロッケをかぶせた図」という了解不能のことを突然言うと、わたしがそのように言ったことにさえ、何か原因があるはずだと、因果律論者は言わねばならないが、そんなことキンピラゴボウのマンホールよ、押し出しの強いハンムラビ法典〜カバンの中にガンダム!! とわたしが言えば、因果律論者は自分の仕事にうんざりすること請け合いなのだった。
因果律論者は、すべての結果に原因があると思っているので、すべてのことは「何かのせい」「誰かのせい」だと思っており、何かきっかけになる動機や衝動が常に背後にあるはずだと思っているのだ、つまり因果律論者は "完全な主体性" を否定する立場にある、行き着くところそれは、仮に万物の創造主がいたとしても、その創造主の背後にも、創造主が発生した「原因」がなくてはならないという考え方なので、背後の背後の背後、原因の原因の原因という形で、永遠にどこにもたどり着かないということになる/因果律はいかにも表面上は正しく見えるアホ専用の理論だが、そのアホ専用たるゆえんは、因果の原点をけっきょく説明できないということだ、因果律はそうしてアホ専用の理論なので、これを信じるアホは最終的に「ブチギレ」して話を終わらせるという特徴を持つ。

因果律論者はどうすればいいかというと、単刀直入に、「因果律を抱いて真っ暗闇で死ね」ということになる。
因果律は何も誤っているわけではないので、それを抱いたまま真っ暗闇で死ねとしか言えない、因果律が誤っていればまだ脱出できるのかもしれないが、誤っていないだけにしょうがない、どこまでも正しいそれを「正しいさァ〜」と抱きしめながら死んでいくしかない、そのころおれはスコーンにジャムをつけておいしく食べているだろう。
因果律を採用した奴には、けっきょく主体はありえず原因しかないのだから、話のしようがない、主体のないものに主体的な話をすることは不可能だ、因果律に基づいて人の幸福を考えるなら、その人は世界一の金持ちになって不老不死の施術を受けて大量のヘロインを血中に流し込み続けるしかないだろう、それ以外はすべて絶望の負けフラグでしかない/因果律においては満足にも原因があるはずなので、けっきょく満足薬を飲むしかないじゃないか、その満足薬が途絶えたらその後は激烈不満足のボンバーDaysを生きるしかない、そんなもん主体が存在しないのだから主体的に解決しようがない。
つまり、ある人は "因果律" を選ぶのに対し、おれは "車エビの天ぷら" を選ぶということだ、前者は永遠に因果律でゴーということになるし、おれは永遠にキングサーモンの刺身(醤油は富山産)でゴーということになる、因果律を選ぶ人に対しては「因果律おめでとう!!」としか言うセリフが見つからない、その点おれなんか頭がクルクルパーなので、因果律がよくわからないボンバーにて、ガールフレンドからいい匂いがするということしか見当たらない、これはおれが正しいのではなく、おれが「わけがわからない」のだ。

正しさで認められる人は因果律、根拠なく認められるおれはおれ律。

因果律を選んだ人は、「みなさま、地雷を踏めば爆死します!」という因果律をショーで実演して、きれいさっぱり消え去り、場内の大爆笑を買えばいいと思うのだ、因果律の正しさはドッカーンで、その勇敢な上演はその後二十分間ぐらい語り継がれるだろう、そしてその墓碑銘には「ガガーリンのケツ毛を愛した」というまったく関係ない文言が刻み込まれ、ハシブトガラスにも首をかしげられる。
このように、おれの話がわけがわからないのは、おれがわけがわからない奴だからであって、正しい奴は因果律を選んだ奴だということだ、因果律はそれほどに正しく、正しさの極点、食肉用の巨大ミンサーにダイブしたら「ボクもミンチ肉になったよ!!」と廃棄処分されるほど正しい、脳内の国歌は「♪わたしの〜生涯所得は〜デカめのダイヤ一個に負けぽんち〜」と流れ続ける、それほどまでに因果律は正しいので、まったく正しくないおれの脳みそには因果律が何をやっている暇人なのかぜんぜんわからないのだった。

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難解すぎて理解できない人へ2(より平易に)
り平易に言うと、「よいものが視える」ということだけじゃなく、「悪いものに入り込まれる」ということがあるということ。
「悪いものに入り込まれる」というのは、つまり「誘惑」だ、この誘惑を滅ぼさねばならないが、それは我慢するということじゃない。
我慢するということは、誘惑に魅せられているから我慢しているのであり、誘惑が滅ぼされたらもう我慢する必要はなくなる、我慢というのは「誘惑が滅んでいないので我慢しています」という状態だ、この情けない状態でそうと気づかず威張ることは多くの人にとって人格の致命傷になる。
誘惑を滅ぼしているということは、ドレスを着てライトを浴びて、イケメンと無数の人々にチヤホヤされて、それでも何にも入り込まれないという状態だ、それがいかにむつかしいことかよくわかる、ちょっとでも生きものが興奮するならそれはもう悪いものに入り込まれているのだ。

あなたがどれだけ、自分の信じること、よいと思うこと、あるいは自分を救いさえしたことを、振り回しても、そのことは人をよろこばせないし、むしろあなたが正当に軽蔑されるだろう。
あなたが証さねばならないのは、あなたの信じることの振り回しではなく、あなたが悪いものに振り回されなくなったという姿だからだ、あなたは何も我慢せず快活にリラックスして、むしろ開放的なのに、悪いものに振り回されていないということ、その姿を証さねば人々はあなたをよろこんでくれない。
わたしが書き話すことが、あなたに好んで読まれているのは、わたしの書き話すことがあなたの魂に明るさを与えること、および、その明るさによって誘惑の入り込む隙を一時的につぶしているからだ、入り込もうとする誘惑を一時的にわたしが焼き払っているので、一時的にあなたはすべてのことに何の問題もなくすべてが解決しているように感じる。
だがあなたがあなた自身でそれを思うことに切り替えた瞬間、しょせん隙だらけのあなたの心身には、ドッと一斉に誘惑が入り込んでくる、そのときのあなたは、もう傍目には悪いものが入り込んで振り回されているというのがミエミエだから、そんなあなたが何かを振り回したって説得力がないのだ/わたしの書き話すことを信じてくれるのはうれしいことだが、あなたが本当に信じたと言ってよいのは、あなたが誘惑に入り込まれなくなったぶんだけだ、それ以外は一時的なわたしからの "作用" でしかない。

何もしないでも、いずれ「どうしたらあなたのようになれるの?」と訊かれるようになる。

だから、あなたが何かを振り回す必要はない、何か信じるものを振り回さねばならないほどの立場になれば、そのときはそのときだが、そんな状況はそんなにやってこない/生きものの側面として、お金持ちになれば必ず「どうやったらあなたのようになれますか」と切実に訊かれるようになるのと同じように、命・魂の側面として、永遠のものになれば必ず「どうやったらあなたのようになれますか」と切実に訊かれるようになる、未だそのように訊かれることがないのだとすれば、それは傍目にはあなたが悪いものに入り込まれて振り回されているという姿が視えているからだ。
わたしの書き話すことが難解で、理解できないが、それでも何かを好いて読んでいるという人は、ぜひふだんは自分に好き放題に入り込んでいる悪いもの、「誘惑」と呼ぶべきものに、我慢や抑圧で応じるのではなく、その入り込もうとする瞬間に光を当て、その正体を突き止めるように、そのように討ち取られることが「誘惑」の側にとってもっとも不都合なことなのだから/悪しきものが入り込まなくなり、我慢もなく振り回されることもなくなったあなたの快活な姿を見て、内心にも多くの人が「どうやったらこうなれるのだろう」と思うようになるはずだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
難解すぎて理解できない人へ
たしの話が、難解すぎて理解できず、それでも何かが救われる気がするから読み続けているという人がいたら、そのままでかまわないので、いくらでも読んで、いくらでもあなたのよろこびの足しにするように/たとえ内容があなたの知性の限界を超えていても、無理解だからといって福が断たれるほど、この世界の仕組みはケチではない。
ただし、あなたの魂が明るさを覚えたからといって、その覚えを自分のもののように振り回さないように、あなたが振り回してよいのは、ただ自分が「何かを信じているから」という一点のみだ、あなた自身が証したものではないものを、あなたの身分を表すもののごときに振り回してはいけない、あなたはただ「何かを信じているからハッピーになる」という、世界に必要な実際の者でありつづければいい。
これまで何度も見てきた例として、わたしが話すことをよろこんで聞き、魂に明るさが差すのを覚えた人は、わたし自身よりはるかに、まるで「選ばれた者」「救われた者」のごとくに自分を舞い上がらせ、その結果、急速に呪われていくということがあった、このことについてあえて言うなら、わたしの話すことで魂に明るさを覚えるのは、何も特別なことではない、まともな者なら全員・万人が魂に明るさを覚えるようにわたしは書き話している、わたしの話すことじたいは珍しいにしてもそのことに魂を明るくすることは万人のことであって珍しいことではない。
だいいち、わたしが書き話していることは、内容も精密であるようにとこころがけてはいるが、それよりも本質的には、読むだけで祝福があるようにと、単に書き物として優れた品質――あるいは品質以上のもの――を凝らしているので、たいていの場合、あなたの魂が明るさを覚えるのは、内容そのものによってというより、単にわたしが凝らした秘密の工夫によってだ、だからあなたは自分で理解したつもりのことも、わたしと同じように誰かに(書き)話して聞かせることはできない/つまり、いくらでもあなたの魂が明るくなるように読んで楽しんでもらえばいいが、おそらくあなたが振り回せるようなものはわたしの書き話すことの中にはほとんど含まれていない。

わたしが書き話していることを、あなたが読み楽しむのはいくらでもよいにせよ、あなたが振り回すべきでない理由は、あなたはここに書き話されていることに何かの影響づけを受けるにせよ、あなた自身で考えるぶんには、必ずここに書き話されていることと矛盾を生じるからだ。
その矛盾について、たとえばわかりやすい代表を挙げると、わたしがここに「マウントは生きものの性分」「魂や命とはまったく関係がない」と言い、あなたがそれをまったくそのとおりだと同意したとしても、あなたは自分で納得した「そのとおり」に則して生きられはしないということだ、だから矛盾が生じる。
さらにわかりやすく、具体例にまでして言うと、あなたがあなたの知人に「マウントは生きものの性分でしかない、魂や命とはまったく関係がない」と話したとして、その知人が「は? 何その負け組くさい言い方www」と嘲弄すれば、あなたは自分の意見をもとにやっぱりマウント合戦に参加する性分を、たとえ内心のことであってもあきらかにするだろう、だからあなたが教わったことはあなたの振り回せることではない
わたしはこのように、いつもわけのわからない話ばかりをして、あなたに楽しんでもらい、知らず識らずにもあなたの魂にいくらかの明るさが差すことを目論んでいるのだが、そのことのために、あなたがわたしの書き話すことを精密に理解する必要はない、ただ「何かを信じているからハッピーになる」ということの手かがりを得るか、もしくは、その掴んでいる手がかりを失わないための一助にしてもらえれば十分だ/そしてもしそれ以上に、わたしが振り回しているものを、納得しながらなぜか自分自身では振り回せないとあなた自身で感じ、その謎に取りかかろうということであれば、あなたが何を振り回せばいいかを考えるのではなく、あなたを振り回しているものは何なのかをぜひ考えることだ、「何かを信じているからハッピーになる」ということと、「何かにつけこまれるからアンハッピーになる」ということが相克している。

信じるべき何かを見つけることと、同時に、断ち切るべき誘惑を見つけること。

矛盾が生じるというのはその点だ、たとえ信じるべき何かを見つけていたとしても、断ち切るべき誘惑を未だ見切っていないので、前者と後者が入り乱れて矛盾になる、わたしの話がまったく未知と無理解のままそれでも魂に明るさを与えるように、あなたの自覚しない未知と無理解の誘惑は常時あなたに入り込み続けている、あなたは誘惑につけこまれることで "毎秒自分を面白くないものにしている" のだ。
かといって、わたしは断ち切るべき誘惑についてストイシズムを勧めたことは一度もない、ストイシズムはけっきょく "我慢への誘惑" に他ならないからだ、わたしは解放を求める者として我慢を旨にしたことは一度もない/人々があなたの存在をよろこぶために必要なことは、あなたが何かを振り回すことではなく、目から梁が抜けたあなたの眼差しが開示されることだ、あなたが何かを振り回すのではなく、入り込もうとする誘惑がことごとく水際で討ち滅ぼされることで、振り回されなくなったあなたを見て、人々はあなたをよろこぶ。
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同時性(当たり前 ver.)
とえば「水中で水を得る」のは、当たり前以上に「同時」だ。
水中といえば水の中なのだから、「水中」と「水を得る」はほとんど同義だ、そこにタイムラグはない。
タイムラグはないどころか、感覚的には「前もって水を得ている」というような状態、つまり "先に未来を獲得済み" という状態でさえある。
このところ、「祈り」の話をしているが、 "祈り求めると必ず与えられる" という場合、「祈る」と「与えられる」は同時でなくてはならない、そこにタイムラグがあるのは空想であって祈りではない。

あくまで「祈り」が存在する世界を仮定して話している/こういうときフィクションは便利だ、「フィクションだから」といえばどんな話でも通る。
「祈る」と「与えられる」は同時であり、そこにタイムラグはない、少なくともフィクション上、祈りを考えるときはこのことを知らねばならない、ムンムン念じてからパンパカパーンとプレゼントが与えられるのでは話があまりにアホすぎるだろう。
つまり、フィクション上であれ「祈り」を考える場合、祈りと祝福は "因果関係で生じない" ということだ、コショウを吸引すると直後にくしゃみが出るというような因果関係ではなく、祈りと祝福は「同時」であり、祈った後に祝福が与えられるわけではない。
では、因果関係でないなら何なのかというと、あくまでフィクション上、それは直接「信じる」ことだ、ということになる、たとえば原稿用紙の一マス目に「雨」と書くと、それは雨にならざるを得ない、雨と書いてからタイムラグでフィクション上の雨が降り始めるわけではない、雨と書けば同時に雨にならざるを得ない、それが言葉であり祈りだ。

疑いとは「因果関係」を信仰することであり、信じるとは因果関係のすべてを否定することだ。

よって、祈れば与えられるという説を因果関係で捉えることは、フィクションにおいてさえ誤りとなる、同時性(時間ゼロ)の中に因果は生じ得ない/一般に、「祈れば与えられる」などという話は、「そんな都合のいい話があるか」といって、つまりいわゆる「神の沈黙」ネタとして一蹴されるのだが、それは「祈れば与えられる」ということを因果関係で捉えているので、その場合は一蹴されるほうが正しい、因果関係として考える以上それは "疑っている" ということだからだ、それで「信じて祈れば与えられる」という説とも整合する。
原稿用紙の一マス目に「雨」と書けばただちに――同時性として――雨なのだが、それが祈りだということはどうしても理解されにくい、「それは小説というか、あくまで作り話の中でのことでしょ」ということになる……こうして一般には、 "因果関係がすべてを確実に支配している世" ――つまり神の不在確実の世――が信じられ、すっかり出来上がっているので、祈りうんぬんはもはや考えられることがない/もちろん、因果関係で「祈り」に期待するようなら、そんなもん考えないほうがいいのだ、因果関係で祈りと祝福を考えるなんてただの妄想に決まっている(かといって、ふつう人は、因果関係を超えた事象なんて仮想にも思考できない)。
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世に勝つ2
大なるおれさまは健在だ。
偉大なるおれさまの目的は、美女および美少女とウフンアハンすることだけだが、まあその他にも、何かテキトーに祝福が混ざっていていいだろう。
偉大なるおれさまは、偉大なるおれさまの王国における、唯一の王であり、不変の王だ、実はこのことは誰にでも言いうる。
なぜなら、「おれさまの王国」を設定するなら、その王はおれさまに決まっているからだ、何もおれは世の王だと言い張っているわけではない、世においてはおれはスーパーマーケットで半額シールを狙う者だ、そんなことはどうだっていいのだ、本当にそういうことはどうだっていいということが今になってはっきりとわかる。

時間と重力の関係を見れば、「時間が経過するほど落下していく」ということは明らかだ。
そして「落下」ということは、天から離れていくというのは説明不要だろう、それはただの時間と重力の関係であって、われわれの思念は関係ない。
おれは誰かの不孝を願ったことはないし、これからもないだろう、この世界に重力がなければ、すべてのものは光の速度なので、光の速度においては「時間」は経過しない、これは物理の話だからやはりわれわれの思念は関係ない。
時間が経過するほど落下していくというのが「世」そのものの性質だと思うが、だから何だという興味はなくなってしまった、もっと大切なものがある、その大切なものとは「時間が経過しないもの」だ/もし「世に勝つ」ということがあるのだとしたら、それは時間と重力から縁を切ることだろう。

成功した〜い。

成功した〜いというのは、偉大なるおれさまの、願いではなくて祈りだ、祈りということはつまり、同時に即成立ということだ、祈りと成立にタイムラグはない、タイムラグがあるものは祈りではない。
つまり成功した〜いと、祈るということ、また "そのように祈れる" ということは、もう成功しているからなのだ、そりゃそうだ、成功していない奴が毎朝元気に起床できるわけがない、成功にタイムラグなんか設定していたら永遠に成功なんてやってこないぜ、祈りってそういうものだからさ。
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世に勝つ
校がキリスト教系だったので、校歌に「世に勝て」という歌詞が入っていた。
♪我に従え、世に勝てと……と、ヘンな校歌だなあと思っていたが、校歌はともかくとして、今「世に勝つ」という言い方は好きだ。
必要なことが話されねばならない。
「世の中」といい、「世間」というが、それとはまったく別の現象もある、おれはずっと前からその現象に気づいていて、今はその現象のほうに確信を得ている。

つまらない奴にはなりたくないし、つまらないことになるのもごめんだ。
すかした奴や萎れた奴になりたくはないし、かといって、イキリ立ってバトルしている奴も違う、そういうことじゃない、もっと別の現象がある。
必要なことが話されねばならない/カッコいいというのは、そういうことじゃない、世の中でどうこうということじゃない、おれだってこれまで幾人かの死を見てきたが、生前のどうこうというのは本当に意味がない、立派に生きたらどうこうなると思っているのはただの生きている奴だけの錯覚だ。
祈ることは必要だが、世に勝った奴に祈れ、世に勝った奴から祝福をもらえ、世の中という現象もあるが、それとはまったく異なる現象もあるのだ、それはもうびっくりするぐらい別の現象だ。

世に祈りは必要ない。

もし祈りなんてものを認めるとすれば、それは世と異なる事象平原に起こることであって、そういうことじゃない、世にだまくらかされているから話が行方不明になる、世が世を決定しているわけではない、じゃあ何が決定しているのかというと、物理学者も未だ「ぜんぜんわからない」としか答えられない/世を抱きかかえて死んでも世はあなたを裏切るだろう、世はけっきょくあなたに死だけをプレゼントしてあとは知らんぷりをする。
必要なことが話されねばならない、だからこんなアホみたいなブログ記事を続けている、何ら世のためにはならないだろう、世のためという安直なことに興味はない、ステキなことが世のためであった試しは一度もない。
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これから知っておくべき「想像を絶するキモさ」について4
たしが話すことを、余所事にもアテにして、こころのうちに保管する人は幸いです。
せいぜい、「誰だかは知らないが、これほどまでに言うには、何かしら確信と根拠があるのだろう、ここまであまりにも数多くの記事を書いていることだし」と、常識の許す範囲でこのことを保管する人は、それだけで十分に幸いです。
何が幸いであるかというと、来たるべき危難と災いを避けられるということにおいて幸いであり、またそれ以上に、わたしが話すことをアテにする人は、そのことによって、わたしが今話している災いと、例外的に直面せずに済むからです、それはあたかも、火災を警告された者がアテにして家を建てた場合、難燃性の財が使われたことにより火災そのものが遠のくがごとくです。
わたしが今話すことを、余所事にもアテにして、いざというときには取り出せるかもしれないよう保管する人は、そのことじたいによって守護を受けます、「想像を絶するキモさ」があなたの目の前では鳴りを潜め、出現しないどころか遠のいていくということです、ただし油断は禁物です、わたしが話したことを完全に忘れて自我の振る舞いのみを誇ったとき、あなたはただちに逆襲を受けるでしょう、そうならないためにわたしが話したことを余所事にもアテにする人は幸いです。

すでに繰り返し知られていることがあるので、そのことについても言っておきます。
わたしが連れていくところは、一軒の居酒屋であってもまるで天国のように楽しいですが、しばしばこのことは、人によって自分の徳性だと誤解されます、誤解というよりはそのように信じたがるという傲りがあるのです、けれどもわたしが連れていったところは、あなたが連れていってくれたところではありません、このことを濫すとただちに、「想像を絶するキモさ」たちが四方から侵略してきて、あなたをこれでもかと、わかりやすいぐらいの不運と災いで攻撃するでしょう、このパターンはあまりにも繰り返されてきましたし、ときにはそのダメージで復旧不能になることもあるので、もうこの轍を踏んではなりません。
つまり、わたしの警句をアテにした人は、そんな警句など必要ないような緑野を行けるのです、けれどもなおも、その警句を軽んじてはいけません、警句を軽んじたとたん、その緑野はとつぜん暗鬱の泥濘に変わるでしょう、人々の身の内から「想像を絶するキモさ」が噴き出してきて、その目があなたの魂を射貫いて汚損してしまいます、偉大なるおれさまの庇護から離れたらあなたなんてそんなものです、こんなことのリスクを軽々に負担する必要はありません。
たいていそうした庇護というのは、「庇護なんか要らなくない?」と見えるほどの人に降り注いでいるのです、それは庇護が降り注いでいるから庇護が要らないほどビューティフルに見えるというだけです、豊かな水量の川がうつくしいのは堤防に守られているからであり、川の水が家屋の床下を侵すときにはその水は真っ黒なのです、治安部隊は役にも立たず威張っているだけに見えますが、その部隊が届かない森に行くとゲリラに襲われるのです。

「想像を絶するキモさ」について、わたしの言うことをアテにした人は、このことから遠ざかり、アテにしなかった人は、このことに侵されるでしょう。

ですから、こころの端っこでよいわけですから、わたしの話したことを、余所事でいいので保管し、「まさかな」という予感のもとでアテにしておけばよいのです、いざというときの備えがある者とない者とで、どちらに魂の安らぎがあるかは明らかです。
あなたはこの先、あるいはこれまでも、楽しく充実して過ごしたはずの一日が、あるいは誰かと愛し合ってうっとりしたはずの一日が、なぜか悪寒となって覆い被さって来、まともに夜眠れないということがあるかもしれません、ときには毎夜どのように眠っても体調に吐き気が伴うということさえあるでしょう、そんなときあなた自身が詳細に、何が起こっているのかを知り抜くことはきっと不可能です、ですからそのときわたしが言った、「完全に否定した」ということ、また「全部ウソ」だわたしが言ったということを思い出してみてください―― "わたしが言った" ということを――、それがあなたの心身を恢復させたならそれでよいでしょうし、まるで効き目がないならわたしの言うことはもはやアテにしなくて結構です、このことであなたが何の損をするでしょうか。
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これから知っておくべき「想像を絶するキモさ」について3
たしが "完全に否定" したということに合わせて、なお有為な庇護を求める人に対しては、付け加えて「全部ウソ」とも、わたしは言っておきたい。
いつかのときに、この言葉を必要とすることがやってくるので、そのときまで余所事の封をして、いざ災いのときに備えるのだ。
爽やかなふうで、朗らかなふうで、優秀なふうで、情熱に満ちたふう、あるいはやさしいふうで、良識のあるふうだった、人のすべてがウソだったという瞬間がやってくる/その途端、幻想だった世界は暗転し、四方から「想像を絶するキモさ」が押し寄せてくる。
そのとき、取り込まれずに「それはそれ、これはこれ」と、魂への侵略をはじき返せるように、わたしは前もって「全部ウソ」と言っておきたい、今すでに「全部ウソ」という前提の上で眺めれば、むしろ「なるほど、 "全部ウソ" か」と整合が視認できるたぐいがあふれかえっているのだ。

何の愛もなく、誰も愛したことがなく、誰からも愛されたことがなければ、そのこころは "いかに激しくとも空っぽ" なのだ、それはもともと自明のはず。
 "いかに激しくとも空っぽ" のこころは、さびしさを埋めるために王を求める、自分を支配する主たる王を、そしてこのとき、人がすがる支配者が、生身と実感の支配者たる「業(カルマ)」に他ならない。
彼(彼女)が表面だけでもニコニコ笑っていられるのは、業(カルマ)を王として、その支配に従っているからだ、だから彼(彼女)はどのように庶民ぶっても、また貴族ぶっても、その本心は「マウントを取ることにリビドーが止まらない」「マウントを取られることに厭悪が止まらない」という衝動のみに満たされている、この生身の業(カルマ)が盛(さか)り立つことにより、その身は血にドス黒く爛熟し、穢れていくのだ、それがいつか表面を打ち破って出て来たとき、「想像を絶するキモさ」となる。
災害に備える者が最も災害を遠ざけることと同じように、来たる災いに備えて「完全に否定した」「全部ウソ」の文言を余所事にも保管する者は幸いだ、また、表面を見通してその内部にすでに「想像を絶するキモさ」の事実が蔓延していることを直視する者は増して幸いだ、すでに各所で、ひび割れた表面からマウンティズムの血が奔騰となって現れ、マウンティズムの瀑布を為しているだろう、すでにその業(カルマ)の滝に協賛者さえ現れる状況にある、彼(彼女)らは本当にまったく何も知らないでそんな信仰を続けているのだ。

業(カルマ)を信じるのがウソなのではない、その微笑みと清いふうの言上がウソだ。

今、「想像を絶するキモさ」をその体内に育てきり、すでにひび割れからその爛れを噴き出しつつある者は、決まって表面に偽りの微笑みをあらわし、その舌先に清いふうの言上をのたまう、それほどまでに「マウントを取ることにリビドーが止まらない」のだ、とっくに当人の制御しうる範囲を超えているからには、すでに当人にそれをやめよと差し止めることは無意味だ/今さら当人のうちでそれが止まるわけがない、ものの数秒でさえそれは止まらない。
真に彼(彼女)を支配しているのは何か? 言わずもがな業(カルマ)であり、その支配に抗するどころか、彼(彼女)はそれに帰依したのだ、まるでそれを聖なること・貴いことのように言い張るまでをして、膨大な呪いを受けながら……繰り返し、そのこころは "いかに激しくとも空っぽ" だ、その微笑みと言上、また派手さときらびやかさが実に偽りにすぎないことをよく見なさい。
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これから知っておくべき「想像を絶するキモさ」について2

面上のことにだまされず、彼の血の中に流れているドス黒い不穏と熟爛を見よ、好印象ふうに装った表面に何の意味がある? すでに無数の人が、合理的に見て "取り返しがつかないレベル" に到っている、「想像を絶するキモさ」は、本当にとっくに完成しているのだ、人々の想像できる範囲をはるかに超えたおぞましさで/よって、恐れず次の特徴に視力を得よ。
1.彼(彼女)は、何も愛したことがなく、誰も愛したことがない。
2.彼(彼女)は、マウントを取ることへのリビドーが止まらない。
3.彼(彼女)は、仮にも人気者の立場になりたくてしょうがない。

彼(彼女)は、すべてをひた隠しにしているのだ/そして、ひた隠しにしたその顔面と皮膚の向こうから、ただならぬ熟爛、そのおぞましさが漏れて出ている。
いかなる好感触の表情、振る舞い、よそおい、立場、趣味を具えているように見えたとしても、その血からただよってくる不明の不穏、けっきょくはよくよく見ると「誰も愛したことがない」「マウントを取ることへのリビドーが止まらない」「人気者になりたくてしょうがない」というおぞましさが噴き出ている、これをひた隠しにして自分だけ咎を逃れようとするのが彼(彼女)だ。
それでいて彼(彼女)は、自分がそのような「想像を絶するキモさ」の当事者になりながら、どこか自分だけは悪くないと内面で言い張っており、むしろ自分については美化し、自分は一種の被害者なのだという言い分で、なおも自分をスターダムの端に置こうとする/それほどまで「想像を絶するキモさ」は育ちきっているということだ、何度も言うがそれは本当に "想像を絶して" 熟爛しており、およそ善意や良識が通用する範囲内にない。
この「想像を絶するキモさ」の者が、急増していつのまにか身の周りにあふれかえっていて、彼らと食事を共にするだけで魂はいきなり黒く淀み、彼らと寝ようものならそれだけで残る生涯のすべてをひたすら反吐の出そうな悪寒の中だけで過ごさねばならなくなる、だからどうしても最終的な安全装置としてこの話をしている、いざというときに思い出せるように/わたしは彼(彼女)のことを、わずかの容赦もなく完全否定した、あなたはこのことを忘れずにいればいい。

マウントを取ることへのリビドーが止まらず、マウントを取られることへの厭悪が止まらない。

現代において、よくわからない狂気的な現象を見かけたら、すべてはこのことに帰因させていい、馬鹿げた炎上さわぎもマウンティズムが原因で、マニアックなフェミニズムもマウンティズムが原因で、SNSで「嘘松」をやるのも止まらないマウンティズムが原因だ、何の愛も神も与えられずにただ生きものとして育てられると、人は社会的抑圧の中で、ただ抑え込まれたマウントに唸り続けるだけの獣になるのだ、当人はまったくそのことを知らないまま、「想像を絶するキモさ」だけを内部に育てあげた。
いつかのときのために、わたしがそれを完全否定したことを覚えておくこと、それだってギリギリ効果があるかないかのところで、そのときに躊躇するとけっきょく助からないかもしれない、それでも今せめてこのことを明らかに話しておくしかない/気に入らない場合は、いざそのときが来るまでは、あくまでどこかの誰かが言った「余所事」のままでかまわない、だが余所事のままでもいいから記憶しておいて、もしいざというときが来たら、余所事の封をやぶって服用すること、わたしはそれを "完全否定" したのだ。

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これから知っておくべき「想像を絶するキモさ」について
たしの友人に向けて、わたしの友人が大きな危難から救われるように、このことを包み隠さず書いておく。
一見爽やかに見える者、また人気者とも言えるものが、その皮の一枚下で、「想像を絶するキモさ」を飼い、育てている。
「想像を絶するキモさ」は、すでに育ちきり、完成してしまったものだ、当人もなぜそのようになったのか、まったく知らないまま、自分のうちに育ったものを自分でも直視しないようにしている。
一見爽やかに見える者、また人気者とも見える者に、逆に少なからぬファンもつく、応援のコメントもつく、賛同と賛美のコメントもつく……だがすべてはキモさがキモさを育てるために作用しているにすぎない、「想像を絶するキモさ」については、人それぞれやがて直面のときが来てしまうだろう、そのときになって最悪の侵食を避けられるように、わたしはこのことを書き話すのだ。

「想像を絶するキモさ」が皮の一枚下で育てられ、それはまるで悪霊じみているものだから、前もってそういったものがあるということ、およびそれについては前もって完全に拒絶・否定しておくのだと、わたしが言ったことを、あなたが覚えておくように。
そうすれば、いつかのときに、「あのとき誰かがこのことを指して言い、完全に否定した」と思い出し、そのことで救われるだろう、わたしがその「想像を絶するキモさ」について、一厘の容赦もない斬り捨てをここに示したことを、あなたは覚えておかなくてはならない、わたしが完全な否定を断言したことだけが、土壇場でのあなたを救うだろう。
われわれはふだん、そんな悪霊じみたものをやすやす身元へ入れないものだし、何かしらバリアを張っているものだが、自分で購入してしまったものは別だ/また、購入とまではいかなくても、クリックしてURLを開くだけでも―― "無料で購入" した場合にも、少しばかり自らの手でその悪霊じみたものを招き入れたことになる、十分に警戒していた場合ならまだしも、油断していたときには特に、「購入」したものはゆうゆうとバリアをくぐって入ってきてしまう。
クリック(無料で購入)しただけでも、それは相当ていど気持ちが悪くなるし、誤ってその悪霊じみたものの持ち主とセックスでもした場合には、とてつもない突然さで、世界・未来・魂が暗闇に急転直下するだろう、そのことはふつうの人ではまったく理解も把握もできないものだ、対処なんてまずしようがない、だからいざというときのために覚えておくこと、わたしがそれを完全に否定して容赦がなかったことを覚えておくのだ(別にそのようなたわごとを覚えておいたとして、あなたの損になることは何もないだろう?)。

表面上は、善良でほがらかで、友好的で人気がある/その人とセックスすると、未来も魂も根こそぎ闇に落ちる。

なぜこのような話をしなくてはならないか? それは「想像を絶するキモさ」が、本当に想像を絶しているからだ、人間がここまでキモくなれるというのは過去の推定の範囲になかった、一般的に空想できる「悪霊」の範囲さえ超えているだろう、そのキモさが作用するとき、まるで強烈な毒を飲んだときのようにグラッと、わけのわからない複数の悪寒にもみくちゃにされる、もしそのときが来たら思い出せ、わたしはその悪霊のことを完全に否定した、 “完全に” 否定したのだということを思い出せ。
人のことを悪く言うものじゃない、という善良さが正論たりえた時代は終わったのだ、むろん人のことを悪く言えということではない、ただ「想像を絶するキモさ」という事実がこれからどんどん襲ってくるので、そのことをもたらしている悪霊を完全否定し、わずかもつけいられる隙を持たないことだ/当人たちもなぜそんなことになったのか、まったく心当たりがないのだ、ただすべてのことに気づくよりずっと前に、とっくその「想像を絶するキモさ」は自分の内に育ちきっていた、その苦しみは同情に足りるにせよ、彼の挙動はすでに悪霊が支配している挙動であって人の挙動ではない、だからその挙動に同情する余地は一ミリもない。
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キングダム
ングダムには王がいる。
王に入国を許されたものは、王国の民(臣民)となる。
「客」になんかなりたいか? 寿司屋にいくわけじゃあるまいし。
「主人公」という言い方を当てはめたのは坪内逍遙らしい、もともとは禅の言葉だった。

キングダムは、王ひとりのために存在している。
臣民のために存在しているのではなく、祈る王のために臣民たちが存在している。
また王のために臣民がいるということが、民たちの幸福でなくてはならない/そのために、人々は王国の門を叩いた。
王の姿は、常に祈りの姿だ、それを主人公という/民たちは主人公のもとで祈りの恩恵を受ける、王は祈り、民は祝福を受け、民は王の栄光を喝采する、彼らは王国の民であって客ではない、客というのは実につまらないものだ。

王の前に客なし、王はただ旗を守っている。

王の旗は、王国の旗だ、王は神々の祝福を使役して王国の旗を守り、王国を求める民を呼び集める。
王国において、主人公は王ひとりだ、主人公が二人以上いる例は特殊でしかない、主人公は常に王ならざるをえず、よって主人公の前に客はない
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I am 最上位
し、もっとレベルを上げていこう。
ただでさえメチャクチャだとは思うが、もっとレベルを上げて、もっとメチャクチャにしていこう。
どうせおれの知っていることなんて誰にもわかりっこないし、どうせ誰だって習ったことで勝てはしない。
最終的に勝たねばならないが、勝つというのは長生きではないし、資産家でもない、勝つというのは「何一つせず」かつ「何もかもをする」ということだ、それも「きわめてわがままに」かつ「神の意から離れずに」/最終的に勝つ奴は、最初から勝っていた奴だけだろう、しばらくはその勝ちが見えづらいだけだ。

何もかも最上位レベルに立て、それが叶わないときはレベルのほうを曲げてしまえ。
何しろおれ基準においては、おれ以上におれな奴はいないのだから、おれ基準においておれは常に最上位である、おれじゃない奴がおれ基準で勝てるわけがない、他の奴に他の基準があるのかどうかは知らないし、一般の基準というのは幻想でしかない。
ありとあらゆる景色をもってこい、すべての景色はおれのためのものだ、おれは世界で唯一教訓を持たない存在だし、おれは最上位に決定した存在だから、比較評価という一切をしなくて済む、だからおれは他人を見ずに済むし、自分自身も見なくて済むのだ、おれの視力はおれのやりたい放題と合一している。
これが祈りか、おれの声なきセリフはせいぜい「ようこそ」だが、ようこそも何も、誰もおれからは逃れられないのだ、何しろおれは他人を見ないし、自分自身も見ないのだから。

表現をはっきりさせよう。

表現をはっきりさせるということは、評価の外側に行くということだ、何しろ評価というのは常に比較・相対のもので、つまるところすべての評価はアホということでしかないのだから/最高の評価を得るものはアホだし、最低の評価を得るものもアホだ、評価という錯覚そのものがアホのしろものだ。
もっとレベルを上げてやる、ここまでは付き合いで調整していたにすぎないのであって、本当のレベルと比較すればこれまでのものはすべておままごとみたいなものだ、おれが何もしないということは、いよいよ何もかもをしてしまうということだ、何もしないおれを止めるということは不可能だろう、いないおれを括り付けるということは不可能だろう。
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未来を求める人へ
とえば YouTuber の動画を観ると、すべて「過激なタイトルをつけ」「テロップと効果音を入れ」「随所に飼い猫の映像を入れる」という構成で出来ている。
今、お笑い芸人などでもそうだが、すべてそうしたジェネレーター的発想で作られていて、ジェネレーターがすでにある以上、人が何かを創るという必要はもうないのだ。
「創る」というのはふつうの人にはなかなか出来ないことで、だからこそ、今そうしたメディアコンテンツが濫造されているのは、ジェネレーター的な「やり方」が見つかったからであり、実は誰も何も創っていない、誰も何も創っていないものを、多くの人が漫然と眺めている、そうしてすべての時間が過ぎ去っている。
たいへん心苦しいが、街中で見かける人たちや、すれちがう人たちでさえ、はっきりとそのことが視えてしまう、「主体性」が完全に喪失されて、ジェネレーターで分類された形式の中をずっと生きているだけということがどうしても視えてしまう、僕はそのことに悪口が言いたいのではなくて、まともな未来がありうるように手を打ちたいのだ、少なくとも僕のことを慕って信じてくれる人たちに向けては。

祈りがどうこうという話をしているのも、あくまでそのためであり、何も正しいふうのことを言い張りたいのではない、誰かの未来にしたいのだ、もちろん僕自身も含めて。
ジェネレーター的に組みあがったもので、上手になってもしょうがない、かといってジェネレーター的なものを外して「お前のものを」と言われても、本当に何をどうしたらいいかさっぱりわからないだろう/そのとおり、そのまま、自分の生が「さっぱりわからない」まますべての時間が過ぎていくのだ、このままでは完璧にそうなると僕はもう経験から断言しえる。
今、すべての人々が、ジェネレーター的に生きているゆえ「みんな同じ」で、同時に、誰の何にも触れていないから「みんなバラバラ」だ、どの動画を観ても「誰」も視えないし、人々がどう集っても「誰」でもないものがバラバラに居続けるのだ、きっと若い世代はすでにそうではない状況があるということじたいが記憶にも想像にもないだろうと思う。
どれだけ奇抜なふうにしても、ジェネレーター上でパラメーターを偏らせているだけなので、奇抜なだけで誰とも「同じ」だ、それではその人が存在しているとは言えない、そして存在していない人と一緒に過ごすことはできない、僕は何かを非難しているわけではない、より多くの人に未来がありうるように決定的な話を続けたいだけだ。

おれと同じ奴はどこを探しても見つからないだろう。

おれと接触したことのある奴は、誰だってわかっていると思うが、一度会ったことのあるおれを忘れる奴は一人もいないだろう、おれを誰かと共通項で括ることはできない、それはおれが特別な存在ということではない、ただおれがわずかもジェネレーターを通していないというだけだ、だからおれは個性について工夫したりアピールしたりする必要がない。
誰だって本来、個性やら何やらを、工夫したりアピールしたりする必要はないのだ、誰だって同じように、「他を探しても見当たらない奴」でなくてはならない、どうしてAさんとBさんが「だいたい同じ」になりうるのだ、そういうシャレにならない状況が、すでに完全に成り立ってしまっているが、何も全員がそのことに巻き込まれる必要はない/未来を求める人へ、第一の方法は簡単なことだ、ジェネレーターで排出されたもの、他に同じものが見当たるものについては、一切認めるな、それは「人」の創ったものではないので、否定することに内心の躊躇は要らない、それらは全部ウソなのだと断じることがあなたを救うだろう。
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祈りと祝福の原則/3.祝福と命はワンセット
ーセが祈りで海を割ったとしたら、それは人々を逃がすためだ。
何の理由もなく、「海を割りた〜い」と祈ったとして、そんなことをまともに「祈る」ということじたいが出来ないだろう。
「祈る」といっても、祈りは常に「命(めい)」とワンセットにある、モーセには人々を追っ手から逃がすという命があったから祈りによって海が割れたわけで、モーセが命を果たそうとせず自分だけ逃げようとしたら海は割れなかっただろう。
よって端的に言うと、祈りがバリバリ通じ、祝福がバリバリ注がれるのは、やるべきことをバリバリやり、命をバリバリ果たそうとしている人だけだ、ポカーンとしているお花畑の人に祈りも祝福もない、そんな人は別段祈る用事がないはずだ、そうして祈る用事がないという状態のほうがまずい。

祈りは必ず、生きものとしての限界に直面して現れてくる、生きものとして歩ける限界に直面して、人は電車に乗るように/モーセだって、自分を含めた全員が渡り鳥だったら、海が割れるように祈りはしなかっただろう、「生きもの」の限界に直面したから、もうしょうがない、そうでないものの力を借りるしかない、という形で祈りは生じてくる。
よって、まずは自分のやるべきことを――「命(めい)」というのが、あるのかないのかはわからないが――やるしかなく、けれども小さな一匹の生きものとしては「初めから無理だとわかっています」ということがあり、だからこそ祈るということが出てくる/何の主体性もなく、受け身の発想で「祈り」というのはありえない、<<「祈り」は受け身とは正反対の発想だ>>、受け身とは生きもののことであって、すべての生きものは快適な生存を与えられているかぎりは自らピクリとも動こうとしない。
自分のやるべきことが、生きものとして欲しているという小さなことでなく、カミサマの主体性と合致している主体性のものであったとき、「自力では無理なので」という要請が通り、祈りが通じることになる、自力の大小は問題ではなく、カミサマから見れば人間の自力など大小どちらでも無でしかない、それで「自力では無理なので」という要請が通ると、祝福と共に「これをしなさい」という命が与えられる/つまり所詮はカミサマの主体性を代行すると認められるから祝福の決済がおりるにすぎない、モーセの行為を本社側が代行と認めたから経費で海を割れたというだけだ。
よって、そのように祝福と命はワンセットとして、初めから万事「自力では無理っす」ということを宣明したほうがいい、つまり「やりまっせ〜ただし自力では無理ですわ〜」ということ、この逆が最もよくない、生きものの用事以外はけっきょくやるつもりがない上に、自分の自力がそこそこ強いと思い込んで傲っているのに、厚かましくも「祈り……(遠い目)」みたいな風情をやることだ、このパターンはガッチガチに呪われるので、本当に祈りなんか考えないほうがいい、「自力パワー!!」だけで砕け散ってガタガタになるほうがまだ笑えるだけ呪いから無縁だ。

主体的に生きている奴は、自動的に毎日祈りたおしているはずだ。

主体的というのはつまり、誰からの指示も待たず、誰にも「空気を読ませる」というような卑怯をやらないということだから、そんなもんふつうの人間には「無理に決まっている!!」、にもかかわらず果敢にもその矢面に立ってごまかしのない奴は、そりゃもうどうしようもない、だからそいつは毎日祈りたおしているはずだ、そしていつもギリギリ「なんとかなった」「なぜか知らんがなんとかなった」となっているはずだ、他でもないそれが「祈り」と「祝福」という現象だということ、主体性の煉獄に立つ奴ならこのことを知らない奴はいない。
もし逃避行をしくじった場合の、モーセの寒さと責任のことを考えてみろ、人々を先導した上に追い詰められて「おいおい……」てなもんだ、誰に頼ることもできないし誰になすりつけることもできない、そして失敗したらリトライやらリベンジやらの眠たい話ではない、だからモーセが常時祈りたおしていたのは当たり前だ、そして海に直面してなおも祈りたおしていたら「なぜか知らんがなんとかなった」のだ、われわれは海を割るような大きな「奇蹟」ほどは得られないかもしれないが、ささやかなことならよくよく見ると祝福はちゃんと与えられている、それはわれわれの命と祈りのサイズに相応しているものだ。
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