☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
うぬぼれを "必要とする" ということについて

て、奇妙なことに気づいてしまった。
よくよく考えたら、誰だって、自分が何かをするというときに、わざわざ「しょーもないこと」と認識して、それができるわけではないのだった、何かしら大きなこと・必要なこと・価値のあること・偉大なことだと信じて、人はその行為をするに違いない。
満員電車の中の痴漢だって、本人としては、しょーもないことをしているつもりではないのだろう、そりゃしょーもないことだと思っていたらわざわざリスクと迷惑と他者の尊厳を犯してそんなバカなことはしない、やっている本人にとっては「偉大なこと」なのだ、むしろそれだけが自分を本当にドキドキさせてくれるのだから、本人にとっては偉大なことなのだろう。
一方、僕がこのしょーもないブログ記事を書くことについて、僕自身のドキドキというか、僕自身の生理的な紅潮や変化はない、「偉大なるおれさま」による偉大なる営みに違いないのだが、同時におれは実にしょーもないことをしているという確信もある、これは一般的な行為のメカニズムから見ると、何かが逆転しているのかもしれない/という、奇妙なことに気づいてしまった。

たとえば、痴漢行為というような極端なことでなくても、たとえば峠を攻めるバイクライダーは、やはり何か「カッコいいことをしているグレートなおれ」というような、自己興奮、自己陶酔のような状態にあるのかもしれない。
あらためて冷静に考えてみたら、何らの自己興奮もなく、わざわざリッターバイクを用意して、生理的変化ゼロで峠を攻めるわけがないのだった/これは悪口を言っているのではなく、いつのまにかおれ自身がおかしいということを、奇妙なこととして発見しているにすぎない。
ある意味、いつのまにか行動原理が、おれの中で行方不明になってしまったのだろうか? おれにとって「偉大なるおれさま」というのはいつもどおりのことであって何らの揺らぎもないのだが、なぜかその「偉大なるおれさま」ということには、何らの自己興奮・何らの生理的紅潮も付随していない、これではある意味おれが人として壊れてしまっているようなものだ/おれはすっかり、了解不能の原理で動くようになってしまっていて、そのことはかまわないにせよ、一般に人が動く原理がまったくわからなくなってしまっている、そちらのほうはなかなかシャレにならない問題だ。
人は誰でも、自分で「しょーもないこと」と認識して、その行為をやれないのだ、何かしら自分にとってグレートでなければその行為はできないので、行為には一定量の「うぬぼれ」を必要とするという原則がある/一方で、うぬぼれを一切必要としない、興奮や紅潮とまったくことなる「偉大な」ことへの行動原理もどうやらあるということを、ここであらためて確認したい、ただこの行動原理がどこから生じてどのように作用しているのかはさっぱりナゾだ。

何かに惚れていないかぎり、行為のすべてはうぬぼれによってしか支えられない。

たとえば風景画家が、風景の光と、それが描き出されるキャンバスについて、何か犯しがたい荘厳、その偉大さを感じて、そのことに惚れ込んでいたら、その風景画家は、筆を振るうのにうぬぼれの一切を必要としない、うぬぼれがなくてもいわば「別ぼれ」があるからだ/ただこの現象に到るケースは、極めてまれな割合だとあらためて思う。
対象と営みに、何か「偉大なもの」が視えていない場合、人は行為に及ぶのに、必ずうぬぼれを必要とする、それは人格の程度問題ではなく、原理であり仕組みなのだ、どれだけ人格が立派に見える人でも、仕組み上、必ず一定量のうぬぼれに支えられてしか行為に及ぶことはできない/つくづく、人としては僕のほうが「まともでない」と思うが、それにしても一方で、うぬぼれに支えられたすべての行為はやがて途絶えて滅ぶということも、前もってわかるのだ、だからまともではないとは思えるにせよ、うぬぼれ以外のものに支えられた行為に到ることを、あくまで可能性として提示しておきたい、うぬぼれを一切必要としないケースは理論上あるのだ。

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「認める」人と、「許す」人2
、世界一きれいなピアニスト、みたいな女性に、「レンタカー借りるからドライブいこうぜ」と誘ったとき、「助手席に乗せてくださるの!?」ときれいな声ではっきり言われて、逆にずっこけそうになったのを覚えている。
そう考えると、逆にふだん、どれだけ「許す・許さない」のスタンダードを生きているか、浮き彫りになって気づかされる/ふつう僕が女性をデートに誘ったとして、たいていは「いいよ」と "お許し" をいただくのが定番のはずだ、「助手席に乗せてくださるの!?」はとんでもないイレギュラーだろう。
たいていの人は、己を「許す・許さない」の主体において、その絶対自己を自分の安穏のキーファクタにしているのだが、これがすべての安穏を担っているため、これを取り外すことは今さらできない。
なぜそれが、安穏のキーファクタになるかというと、「許す・許さない」という絶対自己をもって、無意識に「グレートな自分」を確保しているからだ/たとえば近隣で秋祭りが開催されているのを見て、「こういうのは健全でいいよ」と、「お許し」を自ら下賜する、そのことによって無意識に「グレートな自分」が成り立っており、この満悦が日々の己の安穏を支えているのだ、これを取り外したらまるで自分は小さい何者かになってしまうので、これを取り外すことはとてもじゃないができない。

営業マンの人は知っていたらいいと思うが、特にこのごろ、人は自ら「お許し」を下賜することにご執心だ。
だから、何はともあれ「グレートな存在に "お許し" を乞う」というスタイルで臨めば、自然で無理のない営業スタイルが見えてくると思う/商品の値打ちうんぬんではないのだ、基本は「グレートな存在に "お許し" を乞う」であって、そうすれば顧客はグレートな自己を確保するためにあるていど胸襟を開いてくれるだろう。
端的に、事実だけを申し上げるなら、どうやら多くの人にとって、何かを・誰かを「認める」ということは、それじたいで耐えがたい苦痛らしい、どだいグレートな自分を確保しているから今のところ安穏と生きていられるのであって、そこで自分でない何かをグレートと認めるということは、自分を矮小・卑小と認めるということだ、そのことはとてもじゃないが耐えがたく、プライドや自尊心の問題もそうだが、それ以上に日々の安穏がすべて失われるということが耐えられないのだ、それは心理的な問題というより事実として個人の耐久力を超えてしまうという問題であって、もはやカウンセラーがどうこうできる問題ではない。
僕にとっては、わけのわからなかったおばさんの、唐突な発言「許します!」だったのだが、今になってこれは、姑息的ではあれ救済のワードだということがわかる、それは「認める」という地獄の苦悶の反対側にある、やはり不明の救済の甘露だ、何の脈絡もなくても「許します!」と言ってみるとわかる、なぜか甘く安らいだ気分が体内に立ちこめてくるはずだ、それはどうやら「グレートなわたし」という甘露らしい。

子猫のいたずらを「許し」、政治家の不出来を「許さない」と唱える、すると「グレートなわたし」が得られて元気が出る。

ふーむ、よくよく見ると、現代人はこうやって、ギリギリ生きる気力をつないでいるのかもしれない、自己の生が偉大な何かとつながらなかった場合、正直なにのために生きているのか人はわけがわからないものだから、とりあえず心理的報酬の甘露に準じて、「グレートなわたし」をやっておけば、とりあえず今日と明日のぶんの生きる気力は得られるということのようだ、ほとんどの人はその許す・許さないの「グレートなわたし」を満喫するために、YouTuberやテレビを観ているのかもしれない。
このことの事情の、のっぴきならないことは、ある意味僕にもよくわかるのだ、僕の場合は「偉大なるおれさま」であって、偉大なるおれさまはフィクション上の事実だから何の問題もないのだが、おれだってこの「偉大なるおれさま」がないのであれば、生きている意味なんてただちにゼロになってしまう、だから状況は似たようにお互い様だと思う/ただおれの場合は、何かまったく別の、縁もゆかりもないヨソのものを、許すとか許さないとか、そういうことで「グレートなわたし」を得ているわけではないということだ、正直便利だからiPadを使っているが、そのタッチパネルを操作していたからといって自分がグレートとはツユ思わん……あれ? このことには何か大きなヒントが隠れているみたいだ。
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「認める」人と、「許す」人

、とあるおばさんとのやりとりで、突然「許します!」と言われて、驚いたことがあった/その切羽詰まった調子と共に、突然の「許す」という脈絡がまったく意味不明だったのだ。
今になって、ようやくあのときのナゾが解けるようになった、人には二種類のタイプがあって、言葉尻はどうであっても、本質的に「認める」タイプと「許す」タイプがあるのだ。
たとえば、芸能人が何かスキャンダルをやらかしたり、あるいはアイドルが誰か恋人と付き合っているのがバレたりすると、「許さない」「許せない」という炎上が起こる、僕はこの「許せない」という語が出てくることにずっと首をかしげていたのだが、今はそれが人の本性なのだとわかる、自分とアイドルタレントには何らの権利関係もないと思うが、それでも人は「許す」「許さない」という絶対的な自己を持っているものなのだ、少なくとも「認める」という機能を持たない人においては、その「許す」「許さない」という絶対自己がこの世における自己存在の本性になる。
今、僕が書き話しているこの記事についても、単に「コイツ面白いことを言うなあ」と「認める」タイプと、「この人は面白い話をするわね、だからそのことを許してあげましょう」と「許す」タイプがいるのだ、単純な数的割合でいうと「認める」のタイプのほうがずっと少ない、これは時代の風潮とも関係していて、今は「認める」のタイプはぐっと少なくなった。

たとえば、仮に僕がヒルトンホテルに泊まったとして、その室内の清掃が、思いがけず不十分だったとしよう、僕はそのことに対して腹は立てないが、内部で「社会通念上、ヒルトンホテルという伝統と格式において、この行状は債務履行と認められない」という感覚があり、場合によってはフロントに「清掃が不十分だ、先泊者の使ったカミソリが放置されている」と連絡する/僕はそのとき、ヒルトンホテルの支配人にとっても、そのような行状は自分たちの格式において「認められない」と同意してくれるものだと思っている。
が、一方で、そうして清掃が不十分な状況に面したとき、「許せない」という感情を覚える人のほうが多いのだ、僕にとってはそこに許す・許さないのフェーズがあるようには思えないのだが、「許す・許さない派」の人は、常時そのフェーズの中を生きているので、常に第一の思念(かつ唯一の思念)は「許す・許さない」になる、それでフロントに連絡すると、破裂しそうな怒りに満ちて「前の人の使ったカミソリとか残っていて、ちょっとありえないんですけど」という調子になる。
いくつかの説明を省いて、簡単に申し上げると、たとえば嫉妬という熟語がおんなへんを持っていることのように、「許せない」の現象は基本的にメスジェニックだと思う、今や多くの男性もメス化しているので、今さら男性と女性を区別する必要はないが、現象のオスメスでいうと、この現象はメスジェニックだと僕は捉えている/つまり嫉妬というのも、単なるジェラシーの感情ではなくて、本質的に「許せない」という感情なのだ、クラスメートの誰かが高い靴を履いて海外旅行にいったということが、自分と身分差がありすぎて「許せない」という感情になる、他人の靴と旅行が「許せない」というのは文脈が意味不明だと僕は思うが……この「許せない」の反応はメスジェニックで、つまりジェニックなのでスタディを必要とせず血の性質として現れてくる。
あるいは、たとえば今テレビ番組の様相を見ていると、視聴者とテレビ番組の関係において、視聴者の大半はテレビ番組およびその出演者を、常に「許すか」「許さないか」の視点で監視し続けているように思う、不穏当な発現をする誰かを、「認められない」とは感じず「許せない」と感じ、自分の趣味に合わないお笑い芸人を、やはり「面白くない、とてもじゃないけれど許せないなあ」と感じている/だからYouTuberもその他のメディアも、視聴者の「許せる」「許せない」の感覚を狙ってコンテンツを放出する仕組みになっている、極端に「許せない」ものは炎上して伸びるし、極端に「許せる」ものは、たとえば子猫が甘えてじゃれるような映像として、やはり再生回数を稼いで伸びる。

どこにも誰にも、今や「熱気」が見当たらないのは、「認める」ではなく「許す」に事象が変わったからだ。

たとえば夏フェスのようなイベントがあったとして、壇上で唄っている者たちが、聴衆達に認められているのではなく、「許されて」いるのだ、だから壇上の者たちはずっと萎縮して唄っている、聴衆から許されるために聴衆の機嫌をとり続けているのだ……たとえそのときは許されていても、何かひとつのミステイクをすれば、とたんに「許さない」に切り替わって、今度は炎上の具材に供されるからには/どれだけ許されていても、何一つ認められているわけではないので、すべては監視者の胸先三寸にすぎない、そういう状況がずっと続いていく、その中を人々は顔を伏して生き延びねばならない。
僕の現在の住居は、商店街に近いので、たまに誰かの自転車が軒先に停めてあったりするのだが、それについて「邪魔だな」と感じることはあっても、それについて「許せない」という感情は僕のうちに起こらない、別に認めるというほどのことはないが、誰だって自転車で気楽にうろちょろして、ちょこっとそのへんに停めて用事を済ませたいというのは、わかるというか、誰だってそうだわなと、僕は認めている/僕には第一に「許す・許せない」が出てくる人の感覚はわからないので、おそらく逆側からも、第一に「認める・認めない」が出てくる感覚はわからないのだろう。

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全身と魂が「しっくり」いくということ2
「このことのためなら、なんだってやるわ」という体験・宣言・行為へ到達すること。
ただし、「このことのため」というのは、むろん単なる我欲であってはならないし、偽装された善意であってはならない。
方法のひとつは、自身で「このことのためなら、なんだってやるわ」と到達するか、もしくは、その体験・宣言・行為に到達した人を「認め」、「この人のためなら、なんだってやるわ」と関係するか。
つまり、「特製の魂」が降ってくることについて、自身で到達するという一次的なアプローチと、到達している誰かを認めるという二次的なアプローチがある、たいてい実際的には、その両方があるていどミックスされて成り立つようだ、どちらかだけで構成されているというのはむしろ極端で珍しい例といえる。

そして実際的には、多くの人は、その「特製の魂」の獲得に到達した人のことを、かなり初期のうちから無視・否定・侮辱してきており、そのとき以来、「全身と魂がしっくりいく」ということを、可能性じたいから失っている。
なぜかというと、その「特製の魂」が目前に示されたとき、人は「理由のない憎悪」を覚えるからだ、だからこれを否定し、嘲笑し、謗り、罵ることを、ついやめられないのだ、それはもともと人の身が天国に所属していないことから起こっている/そりゃもともと天の国から追放されてきたというストーリーなのだから当たり前だ、そこは仏教でもキリスト教でも変わらない。
そして構造上、その「特製の魂」を得ている人を謗り・侮辱したときに、こんどは天から降ってくるのではなく、地の底から這い出てきた何かに、体内に入り込まれているはずだ、これは「特製の魂[逆]」と呼んで差し支えなく、この魔物が人に「力」を与えてきた/学級の派閥でも職場の派閥でも、思い出してもらえればわかると思うが、性根のどぎつい奴が覇権を取っていたはず、それは謗りと侮辱のうちに地の底から魔物(特製の魂[逆])を引き入れていたことの力による、それはまた魔物からのご褒美というか報酬ということでもある。
体内に特製の魂[逆]が入り込んでいるので、たとえば残虐なマンガや残虐な映像、あるいは人を苦しめる責めの口論や、社会的「炎上」を見ると、入り込んだ魂[逆]が癒されよろこぶのを感じる、そのときはまた力を得たようにも感じる/が、次第に自分の魂が、当然ながら地の底へ連れてゆかれることが直観され、そのことが恐ろしくなってくる、けれどもそのときにはすでに特製の魂[正]とはとてつもない距離が開かれていて、しかもこの距離を埋めるのは炎の試練となるので、とてもではないが耐えがたい、だから今さら「このことのためなら、なんだってやるわ」と体験・宣言・行為に到達している人のことは、とてもではないが認められないということになる。

特製の魂[逆]が、全身に「しっくり」いこうとすると、全身どぎつい奴になるしかない、そしてその予感はすでにほとんどの人にあるはずだ。

われわれは生身を、抑圧的にコントロールできるので、特に筋肉でムキムキにすれば、そのコントロール力は強くなる、そしてその生身を魂と「しっくり」いかせようとすると、正であれ逆であれ、特製の魂と接続するしかないのだが、[逆]と接続するということは、つまりもう戻ってこられないどぎつさの何かになるということだ、そのどぎつさにはいくつかの種類があるが、事実、われわれはそうした全身のどぎつさに行き着いた人を何種類か見てきている/あれはけっきょく、全身の抑圧を、けっきょくやめざるを得なかったということだ、誰だってやがてはそうして、入り込んだ「特製の魂」に支配されるよりなくなる。
単純に考えると、人の身にはカルマがあって、カルマのままにあれば特製の魂[逆]を地の底から呼び込み、カルマを償却して超えられれば、特製の魂[正]を呼び込めることになる、カルマを償却するのは実に炎の試練であって、だからこそいわゆる「このことのためなら、たとえ火の中水の中」と言うのだが/誰だっていざとなれば本気を出すという、つもりを持って生きているものだが、その本気を出す予定には、自分が青ざめるというプロセスが組み込まれていない、これまでずっとバカにして力を得てきたものを、今さら認めるなんて屈辱に人は耐えられるものではない。
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全身と魂が「しっくり」いくということ
日、ふとしたときに、何かの魂が――仮に「魂」なんてものがあればだが――、バリューセットのように何かの三つの連なりになって、人の身にふっと降りてくるのを見た。
そして直後、その人の全身が、降りてきた魂と「しっくり」ゆき、急に存在がはっきりと、かつ穏やかになり、また存在として急に「近く」なるのを見た、「なんじゃこりゃ」と思ったものの、同時に何か気づかされることがあった。
なぜそのように気づいたのか、脈絡ははっきりしないのだが、全身と魂が「しっくり」いくためには、大前提「このことのためなら、なんだってやるわ」という体験・宣言・行為が必要らしい/そのことなしに、全身と魂が「しっくり」いくということは、どうやら仕組み上決してありえないらしい。
われわれは生きているし、事情があろうがなかろうが、基本的に生きていくのだが、この無条件に「生きていく」というシステムの中で、単に生きるということから離脱した、「このことのためなら、なんだってやるわ」という体験・宣言・行為が一度でもあるか、そのことが全身と魂が「しっくり」いくということのトリガーらしい/つまりこの要件を満たしていないかぎり、全身と魂は永遠に「しっくり」いかず、しっくりいかないまま漠然と生きていくしかなくなるらしい、それでもちろん加齢と共に身体はガタガタにズレてしまう。

「このことのためなら、なんだってやるわ」、あるいは、「この人のためなら、なんだってやるわ」ということ、それが実は、全身と魂が「しっくり」いきはじめるトリガーになっている。
そして、全身と魂が「しっくり」いかないということ、つまり顔つきや目つきや姿、力加減や振る舞いや声や言葉が、何か「違う」という状態で出力されつづけることは、当人にとって多大な苦痛らしい/そりゃ内部の魂とまったくズレた挙動と感触を全身が発揮し続けるのだから、不快でたまらないだろう、しかもその不快さは周囲の人をも魂と全身において不快にさせるのだ。
僕はもともと(あるいはもう長いあいだ)、自分の全身と内部の魂とが、基本的にしっくりいっている奴だったので、多くの人々がどのような不快と苦しみに晒されているのかよくわかっていなかった/わかりやすさのためにアホみたいな説明をするが、魂といっても「特製の魂」が入り込まないと、全身と魂はしっくりいきません、もともと自前の閉じ込められた魂で自分の全身をしっくりいかせるのは不可能です。
また、「特製の魂」が行き渡っていない身体の各所は、管理するOSが入っていないような状態なので、好き放題に悪霊に入り込まれます、もし悪霊なんてものが本当に存在すればという仮定ですが/それでこのところ、筋トレで身体をガチガチに固める人が多くなっています、筋肉でガチガチにしてしまえば、悪霊も聖霊も入らないからです(悪霊を購入しないかぎりは)、ただし明らかに無理をしているので、心身はコスト分だけ損耗していきます。

特製の魂が入らないかぎり、全身と振る舞いはガタガタだ、安心していい。

「安心していい」というのは奇妙な言い方だが、仕組み上それで「合っている」ので、何も慌てなくていいということだ、きっと何をどう努力して、何をどう勉強して、何をどう改善してみても、けっきょく自分の魂と全身がズレており、次第に精神的に破滅の予感がしてくるが、それで「合っている」のだ、ここに説明している仕組みのとおりに進行しているので、その恐怖感だけに煽られる必要はない/精神的なクラッシュが、けっきょく全身と魂の乖離から起こるのじゃないかというようなことは、故・河合隼雄も指摘している。
全身と魂が乖離して、ずっと「違う」と感じられる、しっくりこない自分が続き、その「違う」という感触(違和感)は年々大きくなっていくのだけれども、そのことは仕組み上解決されない、自身で「このことのためなら、なんだってやるわ」という体験を得るか、もしくはその体験を得て生きている人を「認める」かでしか、全身と魂の乖離は解決されない、つまり「特製の魂」が入り込むことでしか全身と魂はつながらないのだ、むしろそのようにして解決と破滅がはっきり示されているということを知るためにわれわれは生きているようなところがある。
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三位一体でなきゃ話にならねえ5
れまでウソつきになるわけにいかないので、本当のことを書いておかねばならない、単純なおれ自身のためのメモとしても/あくまで原理的に、フィクションでお話しするので、外側からあれこれ思っても無駄だ、「フィクションですから」で話は終わる。
生身のある人も、ない人も、あるいはそれはもう「人」ということではないのかもしれないが、地の古(いにしえ)および、周辺的な霊が「求めている」というのを聞く、これに向けて語りかけないのでは、おれのやっていることは週刊誌と同じになってしまう。
で、なんのために語りかけるかというと、おれは風の中や光の中に、あるいは空間のエコーの中、また「世界」や「物語」の中に、ある「偉大さ」の現象を視認していて、われわれの空間がその「偉大さ」に向けて、穴があいているというか、通風口が開いているのが視えるのだ、そこに「よろこび」が流出していくのが視える/われわれの霊魂が天の側へ「抜けられる」(あるいは「脱けられる」)のが視える、魂が「偉大さ」の側へ抜けられるのが視えるのだ、となるとそれについて語らざるをえない。
そして、語るといっても、そんなものを「説明」したところでどうにかなるわけがないのだ、そうではなく、おれ自身がその通風口につながって、語る声を発すること、それによって周辺的な霊も、その脱出口が「視える」のだ、おれ自身が魂のワークとして脱出口の接続そのものを見せる/特に、すでに生身をもたない存在は眼球も鼓膜もすでにないので、魂のワークしか視えない、魂に聞こえるためには魂のワークで伝えるしかないのだ、それしか霊には届かない、それはフィクションしては当たり前の設定だろう。

われわれは何をしたらいいかといって、その場にあるものを聞くしかないのだ、ひとつにはその場にある、行くあてのない霊の声、もうひとつには、やはりその場にある(どこにでもある)「偉大さ」の声だ、それは光であったり響きであったりするが/重要なのは「その場にあるもの」を聞くということなのだ、だから一切の「覚えごと」は通用しないということになる、あくまで本当に「その場にあるもの」とやりとりするしかないから。
「その場にあるもの」については、ある意味、「偉大さ」のほうがカンタンと言える、なぜならそれはいつも変わらず、もとからあって、いつでも同じ、永遠の偉大さとしてあるからだ、これはその場によって変化したりしない、ところが、周辺的な霊とか、地に積み重なっている古(いにしえ)の霊などは、本当にその場によって違うので、これは毎回その場かぎりのものを聞きとらねばならない/「偉大さ」を「父」と呼ぶならそれはいつもの不変の父だが、周辺的な霊は毎回まったく知らない赤の他人みたいなものだ、どこの誰ともまったく知らないただの観客、こちらのほうが「その場にあるもの」としてのライブ性が生々しい。
キリスト教的な考え方でいうと、「父と子」というとき、「子」というのはキリストで、そこにもし周辺的な「行くあてのない霊群」があるとするなら、それが「仔羊たち」ということになるのだろう、キリストは父がばっちり視えているが、仔羊たちは何も視えていないので、キリストが語りかけないとしゃーない、という構図になる。
おれは冷静に考えて、自分が救世主とか預言者とかいうたぐいではまったくないが(そんなにポンポン奇蹟は起こせねー)、やはり冷静に考えて、キリストぐらいになれば死んだあとに復活するぐらいはフツーにあるだろと思うし、キリストをがっつり信じた人にとって、その瞬間からキリストがパンでありワインだというのも「そりゃ当たり前だ」としか思わない、それはただの知性の問題であって信仰の問題ではない/とはいえおれは初めから偉大なものはすべて偉大だと、その偉大さが直接視えているので、信仰を必要としないのはおれの特殊事情なのかもしれなかった、とにかく偉大なる父と、子と、仔羊たちという構図は、正直身に差し迫ってリアルだと思う、宗教というよりただのマジの話としか思えない。

キリストが昇天後、この地上には神も神の子も存在していないはずだが、不在の代わりに「聖霊」というシステムを残していったのではなかろうか。

あくまでキリスト教のストーリーを真に受ければだが、神は原罪の子孫どもに言葉を預けてみたが(預言)、それだけではどうも救われがたいということで、神の子を派遣し、この神の子はすぐにふたたび天に召し上げられるけれども、すべてを為し遂げて、代わりに地上に聖霊というシステムを残していったのではないか/そうでなければ、キリストはけっきょく天に戻ってしまったので、「地上は元通りじゃん」ということになってしまう、システムとして元の木阿弥になったのだとしたら、その後いくらキリストを崇めたって解決するわけがない、そんなことで解決するならそもそもキリストの降臨は必要なかっただろう。
おれのような無教養の者でも、漠然と、イエスキリストが原罪(禁断の知恵の実を食べた罪)をあがない、その贖罪のために磔刑に処されねばならなかったという説は聞いたことがある、それが本当かどうかなんておれにはわからんが/ただ単純なストーリー考察としては、キリストがわざわざ地上に降臨して、「人」の一人として原罪を贖い、その贖罪によって地上に「聖霊」というシステムを残してくださり、人々にはあらたに神・天の国へのアプローチ方法が与えられたということなら、いちおう辻褄は合う、おれは聖職者でも何でもないのでこんなことは専門家に任せていればいいのだが、ここの辻褄が合わないと、おれ自身が体験する現象におれ自身で説明がつかなくて困るのだった。
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三位一体でなきゃ話にならねえ4

べてフィクションで、 "仮に" という前提でお話しする。
 "仮に" 、地には古(いにしえ)が積み重なっており、 "仮に" 、魂や霊には時間の経過が起こっていないのだとすると、すべての霊魂というのは今もこの足許の地に、また身の周りにひしめいていることになる。
その霊魂的なものが、どれだけあるかというと、霊魂というのは「分からない」ものなので(「魂」という字がもともとそういう意味だ)、「分からない」ということは「分離されない」「分割されない」ということだ、だから単純な物体のようにカウントはできないということになる/もやもやとある空の雲がカウントできないようにだ。
そして「父と子と聖霊」といったとき、その霊とか呼んでいるやつはどうするの、という問題になる、「父」は「偉大なもの、偉大さ、主体」であり、「子」は「主に対するしもべ・無邪気で純真に信じる者・主体性を代理するユニット」だという、それはまだしも、「聖霊」とか言っているやつはどうするんだということになる、そこであくまで "仮に" だが、もし霊魂的なものが存在するとしたら、それは古(いにしえ)から地に積み重なっており、今もこの足許に、そして身の周りに、いくらでもそれはひしめいている、ということになる(天の国に行けてないやつは地の国に残っているはずだということになる)。

「霊魂」に対極して「気魄」といい、この相克を「魂魄(こんぱく)」と古い熟語で言うのだが、気魄の「魄」の字は「はっきり分かる」の意味なので、われわれはけっきょく、この自分と他人の「生身」をカウントして考えたがる、何よりそれが「分かる」「分かりやすい」からだ。
が、三位一体と言っているとき、それが分割されていたら「一体」ではないので、三位一体の話をするならどだい「分からない・分割されない」ほうの霊魂を考えるよりない、つまり三位一体の話は、「カウントしやすい生身をアテにして考えるのやめーや」という発想を背後に置いている/そもそも人と人を生身カウントで考えるならわざわざ三位一体なんて特殊な考え方を導入する必要がない、常識的な感覚でいつもどおり暮らしていけばつつがないことだ。
そこで、あくまで "仮に" ということになるが、結論を言ってしまえば、子は父の忠実なしもべだから、何をしたらいいかというと、周囲のすべての霊を偉大なる父の国に送り込め、その手助けをしろ、ということになる/ありとあらゆる霊は、時間軸と関係なく今もずっと、どこにでもひしめいていて、これらの霊の多くは、聞くべき話を聞けなかったため、行く先を見つけられないでいるから……この周辺的な霊が「求めている」という、霊の声を聞け、この求める声に応じて、魂の往く偉大な先はこうだ、ということを教えてやれ、と、あくまで "仮に" 、フィクションとして霊魂のことを認めるならそういう話になる。
偉大なる主体と、その無邪気なしもべがいるとして、無邪気なしもべとしては、偉大なる主体につながってその声を聞くと共に、周辺的な霊が「求めている」という、その声も聞かねばならない、もちろん生身カウントできない霊を対象に捉えるのはアレな話だと思うが、その点は心配無用、なにしろフィクションだと言っているし、百年後にはこれを読んでいる全員も生身カウントはできなくなっている、お前らもそのわけわかんねー霊群にジョインするのだから笑い話じゃねーか。

しゃーない、百年前に死んだ霊群がもしあったとしても、そいつらにもおれは「お前らみたいなモンは」と言うしかない。

あくまでフィクションだが、 "仮に" そんなことが本当にあった場合は、もう忙しくて、しょーもないタテマエなんかやっていられないのだ、それこそ全身がすでにないので全霊のみということになるが、そんないたいけなモンが行くあてなく縋ってくるのなら、まあ最大限のことをしてやるしかない、おれのできる最大限なんてたかが知れているけれども/おれは神の国やら極楽浄土やらを語って聞かせられるような高みにはない、おれはおれの視えているレベルのものしか分け与えてやれないので、おれはただおれに視えている「世界」だけを物語にして聞かせる、生身のない人はこちらの魂が営んでいるものしか視えないので、おれも魂で何かを営むしかない、魂で営むものは生身のない人にも視える、だから魂の視る「世界」や「物語」や「言葉」や「偉大さ」としてしか伝えられない。
まあ実際におれの隣にくればわかるけれどもね、それはたまにスナックの酔いどれおじさんでさえ言うのだ、「あんたの声はどこから出ていて、どこへ届いとるんや、なんや不思議やなあ」と/生身に届くのは気魄であり、生身に届く声はただ「音波」が届いている、それは理科の授業で習ったとおり、空気を媒質とした粗密波だ、音波以外に届くものは、もしあったとしても観測不能なので、物理的には「観測されない」と否認するよりなく、そこのサイエンス事情をごまかすためには「フィクションで」と前提するしかない、虚数iをイマジナリーに捉える手法と同じだ、そもそもサイエンス事情としては「わたし」という現象さえまったく説明できないのだけどね。

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三位一体でなきゃ話にならねえ3
ンプルな話なので、何もむつかしそうな顔をする必要はない、むしろむつかしそうな顔をして、ミエミエのことから逃避しないことだ。
たとえば故マイケルジャクソンがいたとして、彼は音楽とダンスの中に、何か「偉大なもの」を視ていただろう、そしてどこか子供のように無邪気で無心であり、人々を聖なるほうへ惹きつけ、あれだけのパフォーマンスを自ら産み出すだけの主体性があった。
あるいはマハトマ・ガンジーを見てみよう、彼はインドという国の恢復と、それが非暴力でなされてこそインドなのだということに、偉大な何かを見いだしていただろう、そしてガンジーは見た目にも何か子供みたいで無邪気だ、そして人々を聖なるほうへ惹きつけたから「塩の行進」が成り立ったのであり、誰に指示されてのことでもないのですべては完全なガンジーの主体性だった。
たいへんシンプルに、「偉大+子供みたい」が「惹きつける」という、ただそれだけのことだ、合気道の開祖と後続の天才、植芝盛平と塩田剛三もそうだし、詩聖タゴールもそうだ、アリーナ・コジョカルも舞台の上では子供みたいだし、ビョークだって唄うパフォーマンスとはうってかわって平時はいつも少女みたいだ。

聖書においても、イエスキリストは、邪心のない子供を指して、「神の国はこういう者のためにある」と言っていたはずだ、そりゃ当人が神の子なのだから、「子」というのがどういう状態かはよくよく知っているだろう。
三位一体の話をしている以上、「父と子と聖霊」と言わざるをえないのだが、この場合の「父」というのはむろん、遺伝子的な父親のことを言っているのではない、遺伝子的なほうは「ジェニック」という。
悪口で言っているのではない、正式に語彙として「ジェニック」というのは「genic/遺伝子の」という意味だ、フォトジェニックというのは「被写体専用遺伝子かよ」みたいな意味だ、だからどれだけうつくしいバレエダンサーもフォトジェニックとは言わない、せいぜいバレエジェニックではありえてもフォトジェニックでは意味がずれる。
まあそんなことはいいとして、三位一体とはシンプルに、「偉大かな?」「子供みたいに無邪気かな?」「聖なる何かで惹きつけているかな?」というだけのことだ、それが三位一体で、それ以外はブーです残念、というだけ/だいたい優秀な奴というのは、偉大なくせに子供みたいなところがあってカワイイのだ、優秀な兄ちゃんもそうだし、優秀なおっちゃんもそう、優秀なじいちゃんもそうだ、「偉大なくせに子供みたいなところがあってカワイイ」というのが三位一体だ、話は簡単で、その三つともがリアルにキツいという事情が厳しいだけだ。

芥川龍之介はノベルジェニックだったが、だからこそ「ぼんやりした不安」で自殺した。

誰でも加齢していくと、気づくこと、あるいは少なくとも発症することだが、「三位一体」が成り立たなかった場合、強制的に遺伝子だけが自分の支配者になるのだ、親のどちらかと同じ挙動・クセが発現するのはそのせいで、このことを仏教ではカルマという(カルマは血族の子に継承される)/つまり三位一体が成り立たなかった場合、あなたは何かしらのジェニックに行き着く、必ずそうなるように出来ていて、それが始まることは止められないし、始まってしまった場合はさらに止められなくなる。
それを差し止める唯一の力・唯一の方法が、何であれ「三位一体」だ、何しろ「偉大さ」そのものを父とするのだから、遺伝子の発現に支配されずに済むことになる/「ジェニックの反対は主体性」と捉えてもいい、ごく一部の人だけが三位一体から「主」たる自己を得ることができ、それが得られなかった人は主体性を持てないまま、やがて発現する遺伝子に支配されることになる、それが何ら偉大でなく当人の希望しないものであったとしても、強制的にカルマの支配に服従するしかなくなる、そのときはもう支配に抗する手段がないのだ。
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三位一体でなきゃ話にならねえ2

ビアで生々しい、三位一体チェック。
1.「偉大さ」が直接視えていますか/「自分の興奮」ではないですか。
2.子供のように無邪気で、無心で、途切れない集中力を湛えていますか/一時的な三日坊主ではありませんか。
3.聖なる力で人を惹きつけていますか、その実態がありますか/あなたが吸い寄せておらず、あなたが「主張」していませんか。

4.打算や欲とは異なる「主体性」がありますか/外的な力やルール、しきたり等に、「やらされている」のではありませんか。
5.あなたのよろこびは「偉大さ」に吹き抜けていますか/あなた自身のうれしさだけに留まっていませんか。
6.あなたに触れた人は別の世界があることに目覚めますか/それぞれが個人的な思いで「つるんでいる」だけではありませんか。
7.あなたは人から見て「世界にいいことをしている」でしょうか/「善人」だけれども実は「世界にいいこと」は何もしていないのではないでしょうか。

8.「平場に立って」尊崇を受けていますか/「立場に立っている」から気を遣われているのではありませんか。

三位一体というのはそういうことだ、シャレで言っているのではない、マジで言っている、おれがマジなのではなく、三位一体という現象がシンプルにマジということだ、そんなもん平場に立たせて「ほれ、見せてみ」と言いつけてみたら一発で明らかになる、それだけこれはシンプルでかつマジなので、本当にシャレにならんのだった/いったいどこの誰が、平場に立たされて、「ほれ、見せてみ」という言いつけに応じられるだろう、そんな要請の中で「三位一体」がガチで見せられる奴は特殊も特殊だ。
ほとんどの場合、「偉大さ」なんて視えていないし、子供のように無邪気で無心ではないし、「この人といると聖なる力で連れて往かれてしまう」なんて具合ではない、じっくり調べられると本当の「主体性」なんか得ていないし、よろこびが偉大さに吹き抜けるなんて「正直よくわかりません」だし、そもそも当人が何かの世界に目覚めていないし、「世界にいいこと」といってもけっきょく「何が最終的にいいことなのかわかりません」だ、それでも加齢と共に、社会的にも気位としても、何かしらの立場についてしまう、そしてその先はもう何もかもよくわからない状態になってしまうのだった、どこが三位一体だ。

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三位一体でなきゃ話にならねえ
「三位一体」は聖書世界の概念で、最もよく知られた象徴的には「父と子と聖霊の御名によって」が言われる。
そして、そうした概念はむつかしいので、誰も何もよくわからないまま言われている、そりゃそういうものだろう、おれはヨソの宗教的なものに口を出すつもりは一切ない。
ただ、あくまでおれが何かをまともにやろうとするとき、また、あくまでおれが何か人にまともなことを教えようとするとき、「三位一体でなきゃ話にならねえ」と思う、これはあくまでおれの個人的なメソッドの話であって聖書宗教を騙るものではないが、「父と子と聖霊も出来ていないのか」「そんな基本が出来ていないようじゃ話にならん」と個人的に思っている。
それでは「三位一体」とは何であるのか、ここではあくまで "個人的" に、つまり既存の宗教とは関係なしに、おれが三位一体のタネあかしをする、タネあかしといってただフツーの、見たまんまのことをわざわざ説き明かすだけだが、こんなことだっていちいち説き明かされないと案外自分では気づかないのだ。

「父」というのは、「偉大さ」「偉大なもの」「偉大なこと」「偉大な現象」であって、「偉大なる父」というのは、父が偉大だということではなく、「偉大さ」そのものが父だということだ、偉大だからそれを父と呼んでいる/おれは面倒なのでいちいち「父」とは呼ばない、ただ「偉大」とだけ呼ぶ。
その「偉大なもの」が直接視えてしまった場合、「うおおお」となり、無邪気にその偉大さのしもべになる、その姿は無邪気なよろこびと集中力と威厳に満ちているので、これを「子」と呼ぶ、 "無邪気なよろこびと集中力" がミソだ、それはいかにも父の下にある「子」という感じがする。
こうして「偉大さ」が直接視えて、その偉大さにつながって「うおおお」と無邪気によろこびに満ち、ひたすらその偉大さの意志を履行しようとすること、これが仏教方面では「帰依」と呼ばれる、本人は「うおおお」となっているので、いわゆる自我や吾我から離れ、視えるままの「偉大さ」の意志を履行しようとする、そして偉大さは父であり「主」だから、そのとき始めて人は「主体性」を得ることになる。
そして、そうして偉大さに「うおおお」となり、吾我や欲ではなく、偉大さの意志を履行する主体性を得ている者に対しては、周囲の人々――人だけではないけれども――が、何か霊的に聖なる力で惹きつけられる感じがする、その霊的に聖なる力で惹きつけられる作用があることを「聖霊」と呼ぶ/ただそれだけのことであって、何も神秘的なことではない、神秘的どころかいつの時代だってわれわれの身近に顕かなことだ。

「偉大さ」が直接視える奴が、無邪気な子供みたいになって偉大さを実現しようとし、それに人が惹きつけられて共働する、というだけ。

三位一体というのはただそれだけのことなのだが、なぜただそれだけのことがこんなに大仰に言われるかというと、この「ただそれだけのこと」が、実際にはほとんど見当たらないからだ、われわれの実際というと、実は偉大さなんて何一つ視えていない連中が、打算を隠し持ってさまざまなキャラをかぶせて立ち回り、人がダマされたり依存したりして共働する、というようなことばかりだ/三位一体とは何のことか、そんなもん、おれがあなたに「今すぐ思いついた小説を書くから原稿用紙買ってこい」と言いつけたらただちにわかる、あなたは四の五の考える余地もなく、その重大な仕事を果たすために聖なる意志をもって文房具屋に駆けていくだろう、それはおれが偉大さを直接視る無邪気な子だからであって、たまたまそこにいたあなたも聖霊の呼びかけが作用して巻き込まれるという、ただそれだけのことだ。
あくまでこれは、おれの個人的な話をしているだけだが、よく知られた聖句として「父と子と聖霊の "御名(みな)" によって、アーメン」と言われている、御名は名前であって Name だが、サンスクリット語ではこれをローマ字のように呼んで「ナーム」という、いまでもインド(ヒンディー語)では名前は「ナーム」だ、当地でアプカー "ナーム" キャ ヘイ? と訊くと「what's your name?」になる/だから、「御名、アーメン」は「Name, Amen」であって、「ナム、アミ」と同じ音の連なりを示している、ヨガではAUMが聖音といわれ、日本語でも「あうんの呼吸」といわれる、この音の連なりには何かあるのだろう/だがそんなことに感心していてもしゃーない、ただ「お前には偉大さが視えているのか」「偉大さのもとで子のように無邪気で熱心か」「だとしたら聖なる力で庇護されて人を惹きつけているはずだ」というリアルなところをおれは唱えて、かつ問い詰めているだけだ。
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美3
ういえば、おれはもともと、色んな人に相談されることが多いのだった、そりゃこんなブログやサイトを運営していたらそうなる。
そして、おれの持つ相談役の定番スタイルというと、悩んでいる奴・相談してくる奴を、肴にして大いにバカにするというものだった、最近はシャレがわからない人・とてつもなく余裕がない人も増えたので、あまり露骨にはやらなくなったが。
だいたい、相談とか悩みとかいうのは、当人にとって「越えられない壁」から発生しており、当人は壁を越えるつもりがないので、つまり "あきらめている" のだが、諦めているくせに不満だけ持っているので、悩んで苦しい状態になる。
そして、悩んで苦しい状態、のみならず、当人が醜い・うつくしくない状態になるのだ、そりゃ「あきらめているくせに不満だけ増大していく」のだから、醜くなるに決まっている。

その点おれなどは、基本的に何一つあきらめないようにしている。
それは、別に「あきらめるな!」と情熱的になっているのではなく、ただの選択だ、選択としては「あきらめる」「あきらめない」しかないのだから、おれは「あきらめない」を採るようにしているだけだ、そんなことに情熱は要らない。
よっておれは、完全に満足しているくせに、何一つあきらめないというのを基本のスタイルにしている、どうせスタイルは自分で選ぶしかないのだから、おれはおれの選びたいほうを選ぶだろう/そしてこのスタイルをもって、逆のスタイル、「あきらめているくせに不満が増大する」という人を、徹底的にバカにするようにしている、このスタイルはいつもスカッとして気分のいいものだ。
なぜそのように、相手を徹底的にバカにするスタイルを採っているかというと、そうしてはっきり示さないと、スタイルの差分が視えないからだ、この差分が視えないかぎり、先方に脱出口はない/おれは完全な満足にありながら、何一つあきらめないのに、あなたは何もかもあきらめていて、そのくせ不満が増大するんですね〜と、根こそぎバカにしてやらないと、この構造の差分と脱出口に気づかない。

多くの人は、美をあきらめ、不満を増大させている。

何度も言うように、おれはまったくあきらめておらず、常に完全な満足の中にいる、なぜおれが美をあきらめねばならないのか意味がわからないし、同時に何を不満に思うのかもまったく意味がわからない。
おれの生きるすべての時間はうつくしくて、おれは常に完全な満足の中にいる、「あなたはちょうどその逆ですね」と言えば、感情はどうあれ事実だと認めるしかない/それで、「わたし損じゃないですか」と言われることもあるが、「ええ、損ですよ」といつもおれは答えている、それについてどう思うかというと、「おれは損なほうじゃなくてよかったなぁと思いますよ」としか答えない、自分で呪って選んだことがどのような結果をもたらしているか、最短で視認するにはそう言うしかない。
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美2
価と満足がごっちゃになっているらしい。
満足といっても、もちろん顧客満足とか、消費者としての満足ではない。
すべてのことに対する満足だ。
評価が満点になることはないし、評価が満点でも存在が0点なのだし、そもそも評価と満足には何の関連性もない/おれが生きてきたすべての時間は、「生きログ」みたいな評価においては星1.5ぐらいかもしれないが、その評価がどうであれ、おれの完全な満足は消せない、自己評価を含む評価と満足は何の関連性もない。

ブスに生まれついた人もいるだろうし、身体に不具合をもって生まれた人もいるだろう。
その個々人が、すべてのことに完全な満足をしているのかどうかは知らない、ところで念のため「満足」というと、その字義上、完全な満足でないと「満足」ではありえない。
たとえばおれだって、別にイケメンに生まれついてはいない、外見上の品質は下の中ぐらいが妥当な評価だろう、だがおれは自分の生きているすべてに完全な満足を得ている/見た目でおれに惚れる女はいないが、それがおれの話であって、ここでヨソの誰かの話はまったく関係ない、ヨソの何かのせいでおれの満足が脅かされる可能性はない。
おれにもそれなりに向上心はあるが、向上心といっても、不満からやや満足に到達しようとするような、こすい向上心は持ち合わせていない、そんなものは向上心でも何でもなく、悪あがきするババ色根性だろう、おれの完全な満足は永遠不変であって、おれは評価で満足を得ようとしているアホを見ると液体窒素でもぶっかけてやりたくなるのだった、液体窒素ってそんなにダメージにならんけどね。

けっきょく、自分に満足していない他人は知らない。

おれはこれまで、人と社会的に関わることをほとんどなしに生きてきたのだが、なぜ人と関わらずにきたかというと、不満を持っているアホに話を合わせるのがイヤだったからだ、完全な満足を得ている人だけが「人」であり、不満を持っている奴は永遠に不満マンなのだ、この永遠の不満マンに基準を合わせたら世界がどんどん曲がっていってしまう。
断言していいが、誰かXさんがおれより頭がよくなり、おれより才能にあふれ、おれより多数の人に囲まれて、おれより大きな活躍をしたとしても、そのXさんの満足が、おれの満足に到達することはありえない、不満マンは永遠に不満マンだからだ、不満マンの不満は一次的に鎮静するという性質しかなく、しばらくするとまた不満は増大して新しいかたちでやってくる、だから不満マンは能力や評価や実績によらず、何をどうやっても「美」には到達しない。
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所懸命やりたくても、「美」が視えないからやりようがない。
全身全霊でやりたくても、「美」が視えないからやりようがない。
感動したことがない人が、いくらバレリーナになってくるくる回っても、何かになるわけがない。
バレリーナで、すごく美人で、身体の動作も完璧で、でも何にもならないということはよくある、これは悪口を言っているのではない、ただ「当人が何にも感動したことがない」という事実を指摘しているにすぎない、そういう人はすごく多い。

おそらく単純な話、自己感情の興奮と、「美」という体験の、区別がつかない人がいるのだ。
さらに言えば、美とか感動とかの体験が得られない人は、けっきょくどこまでいっても、自己感情に追随するしかない、それで全身全霊といっても、土台が自己感情なのだからどうしようもない。
美とは「不安のなさ」で、つまるところ「これをもって、死んで滅んでもかまわん」という完全な満足のことを言う、これを目撃すると「感動」という体験が得られる。
だから問いかけは、初めからずっとシンプルであって、1.「感動したか?」 2.「美をやってみたら?」 の二つに尽きる/どれだけ多くの人が、「美をやってみたら?」と言われたら情緒を崩壊させ、「感動したか?」と言われたら猛烈な言い訳を始めるだろう、そうして対外的にごまかせても自分の事実はごまかせないのだから意味がない。

救いが必要なくなれば美だが、救いを求めているようじゃエセ宗教でしかない。

救いを必要としている奴が、救われていた試しはないな、美というのは何かを塗ったり飾ったり気取ったりすることで得られるものではもちろんないし、やけくそで死にたがるのも美ではない、「完全な満足」が得られていないと美ではないのだから条件が厳しい。
人間に完全なことはできないので、結果に応じて「完全な満足」を得ることはできない、人間は百点満点を設定できるが、無限大満点は人智で設定不可能だ、人智では設定できないからそれを無限大というのだが/そして無限大満点で割り算すれば、50点だろうが100点だろうが、除算の結果は0点になってしまう、だから人間が「完全な満足」を得ようとしたら、ただただ「完全な満足」を得ると決めるだけだ、5点でも10点でも完全な満足をすると決めている奴はどうしたって完全な満足をしてしまうだろう。

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音と光、音のうたと光のうた
れわれは、特別にうつくしい景色を見たり、特別にいい歌を聞いたりする。
当たり前だが、鳥は「うつくしい景色」を見たりはしない、鳥の視力は人の視力をはるかに上回っているが、それはあくまで「視力」であって、鳥はその視力で「うつくしい景色」を見てはいない、夕日に見とれているカラスというのは、少なくとも野良のカラスにおいては見つからない。
猫がネズミの足音を聞きつける能力などを見ていると、猫の聴力は人をはるかに上回っているのがわかるが、猫がカラヤンやバーンスタインを聞いたりはしない、またどれだけ鼻のいいイヌやイノシシだって、ドットールブラニエスのフレグランスコーナーに集まってきたりはしない/特別にいい景色、特別にいい歌、特別にいい匂い、そういうものを感得するのはあくまで人だけだ。
そして、ノンフィクション的には動物たちのほうが正しく、ノンフィクション的には動物たちのほうが能力が高い、ノンフィクション的に考えれば「いい景色」などというのは錯覚であり存在していない、あくまでノンフィクション的に考えればだが、特別にいい○○などというのは存在していない錯覚のゴミなのだ、あくまでノンフィクション的に考えれば。

ノンフィクション的に考えれば、そうして錯覚にすぎず存在していないものを、あたかも存在しているふうに感得することはできない、だからここではノンフィクションではない存在について考えねばならない、その「ノンフィクションではない存在」を考えると、単純にカミサマになる。
いいかげん、僕は単純なことがわかったのだが、われわれは光と音をメインにして生きているとして、光には光のカミサマがあり、音には音のカミサマがある/匂いや味にも、あるいは感触にも、カミサマがあるはずだが、そっちまでは僕はあまり詳しくないので、僕にはとりあえず光のカミサマと音のカミサマがあることがわかっている。
ルイ・アームストロングの「What a wonderful world」という歌があるが、あれは光の歌だ、そしてコールド・プレイの「Viva la vida」は音の歌だ/なぜそう言いうるかというと、堂々とそのまま歌詞の中でそう唄われているからだ、前者は「I see trees of green」と "光景" 唄っているし、後者は「I hear jerusalem bells are ringing」と "音" を唄っている、それぞれ "see" と "hear" をはっきり言っている、これらはなんとなくで言われているのではないのだ、本当にそのままだからそのまま唄っているのだ。
僕はもともと、光のカミサマとは接続があって、最近になってあらためて音のカミサマと接続したように感じている、まあ感じているというか、はっきりと確信が正直なところあるのだが/もともとこの世界について、すべてをたとえようがなくうつくしく感じてはいたが、これまでそのうつくしさを自分がどう使役すればいいのかわからなかった、光については使役できていたのだが、音についてはごく最近に使役できるようになった。

本当のことはけっきょく、カミサマを使役することだ。

カミサマを使役するなんて、不遜でバチあたりめ、ということになりそうだが、そういうことではない、この場合のカミサマというのは日本的な考え方であって、日本のカミサマは八百万といって無数にあり、唯一神を使役するということではない、カミサマにもさまざまなランクがあって、それでいえばたぶん光のカミサマのほうが音のカミサマよりややランクが高い(ような気がする)。
カミサマを使役するというのは、何もおれがカミサマより偉いということではなくて、「どちらが偉いとかそんなことはもうどうでもいいっす」ということにすぎず、ただ何かまともなことをやろうとすると、「おれがおれを使っても無理、何にもならねー」「だからカミサマを使うしかねー、カミサマを使役するしかねー」ということなのだった/おれがおれ自身から何かうつくしいものを出力することは不可能だが、カミサマを使役すればおれにだって何かうつくしいことができる、おれにとって唯一の謙遜といえば、こうして「おれには無理だからカミサマがやれ」とカミサマを使役することなのだった。
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魂を眠らせないこと2
「魂を眠らせないこと」、そのように言うだけでも、少しご利益のような効果がある、これはよい言葉だ/ただし自分の体内に言うのではなく、目の前の空間に声明すること、ただ思うだけでも体内に向けて思わないこと、魂というのは外側にあるものだから。
人の魂を眠らせる――自分で考える力を奪う――のには、リズムを使うことだ、実際にどのようなリズムがあるかというと、YouTuberの動画を観てみればいい、じっくり見ないとふつうの人は気づかないと思うが/つまり、映像の「カット」、および「テロップの出現」、そこにSE(効果音)が乗っかっている、これを適宜挟むことで人の魂は眠ってゆき、自分で考える能力を失っていく。
今、ふと気になったので、代表的なYouTuberの動画を観てカウントしてみた、すると3分弱の動画に、SE(効果音)は29回入っていた、つまり6秒に一回は編集で効果音が挿入されていることになる/BGMの差し入れ・差し替えは11回、つまり15秒に一回、テロップの出現は49個、つまり4秒に一個、カットは28回、つまり6秒に一回、15秒を超えるカットには映像にも音声にもエフェクトが足してある。
そしてこの三分弱の動画に、これという面白い内容はないのだ、当たり前だ、三分弱の単独動画に面白い内容を入れられるのはチャップリンぐらいのものだ/いいかげん知っておいたらいいと思うが、これらのコンテンツに「内容」があるわけではない、あるのはただ巧みに分散されてリズム化された情報だけだ、その情報に内容はなくて、ただリズム化されているから催眠にかかるという、本当にただそれだけの仕組みなのだ。

3分弱の動画に、カットが28回も入っているなんて、映像関係の業者しか気づかないだろう。
あなたは一連の動画を観ているのではなくて、6秒のカットをつないだ28個の動画を観ているのだ、そりゃ映像技術とはそういうものだが/なぜそのように編集されているかというと、人は「内容がなくてつまらないものでも数秒は見られる」からだ、断言していいが内容のないものを人は60秒も見ていられない、6秒ぐらいならまだ判断が起こらないので、その判断が起こる前に次のカットに移るのだ、そしてまた判断までの時間差を利用してそこに居座りつづける。
4秒ごとにテロップが入るので「いちおう」見るし、6秒ごとにカットが変わるので「いちおう」見るし、15秒経てばBGMが変わるので「いちおう」見るし、そこに随時エフェクターが掛かったりするので、そのたびに「何かあるのかな」と、人は注目する機能(アテンション)を向けてしまう、ただそれの繰り返しなのだ、その繰り返しの中でけっきょく何の内容もないので、人の魂は眠ってしまう。
ツイッターの文字数制限は、日本語だと140文字だが、ふつうの人の読書速度はだいたい一秒あたり10文字なので、1ツイートあたり最大14秒で読むことになる、つまりテレビCMと同じで、15秒以上は関心がもたないのだ、だから15秒後にはパッと別の関心が表示される必要がある/より正確に言うなら、魂を眠らせた人は、15秒ごとに次のものに釣られるだけ、ということだ、魂を眠らせた人は、何しろ魂が寝ているのだから、何かに関心があったりはもうしない、ただ15秒ごとに自分を釣ってくれるものにハマり、それを習慣化させていくだけの生きものになる。

あなたはわけのわからない15秒だけを繰り返して、わけのわからないまま死ぬ。

本当に、何らの悪意でもなく冗談でもなく、また大げさでもなく、そういう状況になっている、魂が眠るというのはそういうことなのだ、生きものとしては生きていても霊的には死んでいるということ、生きてはいるが命はないという状態だ/今実際に、僕が誰かに何かを話すとして、30秒でも聞いていてくれたら、優れて献身的だと思う、30秒も途切れずに話を聞くというのは、現代のわれわれにとっては難事業で、頑張れば実験的にはできるだろうけれど、もはやそれを巡航のペースにはできないだろう。
魂が眠るというのは、「ハイル・ヒットラー!」という状態と同じだ、人は月曜日に起きて出社することのように、一定のパターンを何度も繰り返されると、何も考えなくてもそのパターンをなぞるようになり、何も考えなくていいからこそ、魂は眠っていく/一定のリズムで魂を眠らせていく手法とコンテンツについて、それは「センスがある」のではなくて、「センスを失わせている」ということなのだ、何の輝きもない人だって、音楽と照明が明滅するリズムの場に立たせれば、人々のセンスはリズムによって消されるので、何かカッコいいのかな、と誤認されうるということだ、まっとうなセンスが失われると自我が欲求どおり膨張するのでそのことを「アガる」という。
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魂を眠らせないこと

画やツイッターやSNSが、次々に更新されていく。
ひととおりチェックし終わったところで、麦茶を飲むと、またツイッターが更新されているので、チェックして「いいね」をつける。
そうしたらまたインスタグラムが更新され、フェイスブックの記事がシェアされ、それを見ているうちに、動画サイトが新しいサジェストを提供してくる。
オンラインコンテンツと、ブラウジングシステムが、一定のリズムを作りだし、軽快なクリック・タッチと共に、人の魂を催眠術にかける、そして魂は眠ってゆき、眠り続けることに慣れ、やがて叩き起こしても機能しない魂になっている、すでに催眠に慣れた魂は、いざフルパワーのつもりにしても、45秒ぐらいでフッと眠りに落ちるのだ、自己啓発書で有名なナポレオン・ヒル博士によると、これは「ヒプノティックリズム」という現象らしい、悪魔の手口とみなすべき現象で、ヒプノティックというのは催眠という意味だ、すでにすぐ眠るように魂に催眠のリズムが刻み込まれている/ナポレオン・ヒル著「悪魔を出し抜け!」をご参照あれ。

未だに僕は、やれ芸術だの文学だの、世界だの愛だの、おれに抱かれたくない女は頭がおかしいだの、時代錯誤なことを言っている。
未だに僕は、夕焼けの向こうに別の国があるということを信じているのだ、「くっさ」の一言で済まされることだが、まさにそのとおりだとして、これは僕の頭がおかしいのではない、ただみんなの魂が眠ってしまっただけだ。
誰がどう見たって、五十年前の映画に、現代の映画は勝てないし、三十年前のライブシーンに、現代のライブシーンは勝てない、現代は「半笑い」と「きつめの願望」で、居眠りとヒステリーを繰り返しているだけというような状況だ/ただ僕は眠らなかった、僕はすべての友人を裏切ってでも、夕焼けの向こうに別の国があることを信じるほうを選ぶだろう。
ナポレオン・ヒル博士によると、眠った魂は自分で考える能力を失い、そのままゆらゆらと、死後の門をくぐったところで、その魂は悪魔にバックリ餌として食われるらしい、それが本当かどうかは知らないが、ナポレオン・ヒル博士が自己啓発における世界的な第一人者であることは周知の事実だ/おれはおれがこの世界を歩くのだし、おれはおれがこの世界のすべてに触れよう、僕の魂を眠らせようとする嫌味が降り注ぐ手法にも、僕はもう慣れてしまったのだ、「それ多分もう引っかからないと思うよ」と僕は堂々と言うようになった。

「あなたはどうするの」× 31,536,000 。

魂を眠らせず、自分で考えるというのは、ただ「自分はどうするのか」「自分は何をするのか」というだけのことだ、ただの自己決定と自己の行動だ、そう言われると「確かにそうだ」と、目覚めた心地がして、十秒ほどで解決したように思えるが、それは違う、その解決には十秒でなく十年かかる、だからあなたが予想しているより3153万6千倍のエネルギーを要する/十秒でなく十年だ、それよりはポックリと催眠で眠りたいか。
「自分はどうするのか」「自分は何をするのか」と、十秒考えろと言っているのじゃない、十年考えろと言っている、考え続けて行動し続ける十年を過ごせと言っている、そうしたらひとまず、自分で考えるというのが自分のスタイルになるだろう、今日から一秒も休まず十年だ、一秒も休むなよ/十秒で解決するように思って、十秒で解決した心地がしているのは、理性のはたらきじゃない、十秒であなたの魂に催眠がぶり返してフッと眠りに落ちているだけだ、 "眠りに落ちているだけだ、ごきげんな消費者さん" 、あなたは毎日ウェブトピックスをクリックするだけで自分の内にあるトピックはまったくクリックしないじゃないか。

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ratio(比) と forms(かたち) /あなたの根本的な装置について4
いうわけで、この話は難しすぎるので、エリマキトカゲから始めろ。
お前から始めるな。
エリマキトカゲからこの世界を始めろ、お前からこの世界を始めるな。
なぜなら、エリマキトカゲはお前のものじゃないだろう? エリマキトカゲはこの世界のものだ、世界のものなのにお前から始めてどうする、世界のものなのだから世界から始めないといけない、ただのそれだけの当たり前のことだ。

世界にはエリマキトカゲがいる。
ただそれだけのことだ、それだけでパッと、フィクションの速さで、勝速日、 forms が生じる、もともとある forms がわれわれに届く、世界にはエリマキトカゲがいるというただそれだけでだ。
お前が知らなくていい、お前が知らなくても、この世界にはエリマキトカゲがいるのだ、たとえ人知れず絶滅したって、「エリマキトカゲ」という forms は初めから永遠にあるのだ、世界にエリマキトカゲという forms があるというのはそういうことだろう。
世界にはエリマキトカゲがいる、それだけでいい、お前から始めるな、世界にはエリマキトカゲがいるというのが聖霊であり、お前が ratio(比) をおっ始めようとするのが邪悪の始まりだ、お前がぐりぐりエリマキトカゲにこだわる理由はさっぱりわからない、そこまでして自分しか存在を認めないのはいくらなんでもビョーキだ。

冗談でなく、多くの人は、エリマキトカゲさえ、自分の比率においてしか存在を認めない。

多くの人にとってエリマキトカゲは、「自分に何の関係もない」と感じられるのだが、そこから関係を捏造することは元より、「自分に関係あるものしか認めない」「自分との関係においてしか認めない」という構造じたいが、ぶっ壊れているのだ、造物主でもあるまいに、「自分と関係していないものは存在していると認めない」というのはムチャクチャだ/エリマキトカゲは確かにあなたと無関係で、ただし世界の forms として存在している、あなたとの関係ではなく世界との関係があって存在しているのだが、そんなにどうしても「世界じゃなくわたし」と言い張りたいか、自分が造物主でもないのに。
ところで造物主ではないといえば、おれだって造物主ではないのだが、そこはおれの場合は工夫してあって、造物主のことをおれは勝手に「おれ」と一人称で呼んでいるので、偉大なるおれさまにおいてはこの世界イコールおれでいいのだ、この世界から forms がビンビンに飛んでくるのだが、このビンビンに飛んできているものがつまり「おれ」だったとは……というわけで、おれはエリマキトカゲではないが、エリマキトカゲが地を健脚で駆けている世界が「おれ」だ、それを「おれ」とは認めなくてけっこうだが、「世界」だとは認める必要がある/世界とエリマキトカゲの側からスタートしろ、自分の側からは決してスタートするな。
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ratio(比) と forms(かたち) /あなたの根本的な装置について3

「12とはどのような数か」と訊かれたとき、「12を言い表すのに、12より優れた言い方はねえよ」と答えねばならない。
「12とはどのような数か」と訊かれたとき、「ああ、12ですわ、12、ドッカーン!!」というのが正しい言い方だ、数学者はこれぐらいわかっていなければ、数を愛していないから、数学に見放されるだろう。
明らかに、一般には誤ったことを述べるが、言うなれば「12は素数のひとつ!」とまで言ってしまっていいだろう、もちろん素因数分解すると 12 = 2 × 2 × 3 となるのだが、そんなケチなことを言わず、12だってこれまでガンバってきたのだから、そろそろ素数だと認めてやってもいいじゃないか、素因数分解が計算式として合っているからといって、そのことで12をバラバラにする必要はない。
「12とはどのような数か」と訊かれたとき、2 の 2倍の 3倍です、と比率で答えてはならない、「12を言い表すのに12より優れた言い方はねえよ」と答えろ、この答えは数学の教師にペケをつけられるだろうが、その代わりトルストイにはよろこんで頭を撫でてもらえるだろう。

身長が 170cm の人に、5cm を足しても、身長 175cm にはならない。
年収が 500万円の人に、300万 を足しても、年収 800万円 にはならない。
んなアホな、と言われたらそのとおりで、これは明らかに僕が誤っていて、一般が正しいのだが、そんなこと知るか、身長 170cm の人はそういう「かたち」なのだし、年収 500万円 の人は、そういう「かたち」なのだ、そういう「かたち」のものに何かを足したり引いたりはできない/すべての「かたち」を無視して、独自の「ものさし」をあてがわないかぎり、何かを足したり引いたり、比率を計算したりはできない。
それぞれのパラメーターに、「cm」「万円」というような、「単位」がくっついている、素因数分解においては、無限に出現する素数そのものが単位群ということになるのだが、比率というのは「ものさし」であると、ちゃんとこの「単位」の表記が宣言している/たとえば 身長170cm と 年収500万円 を掛け算すると、積は 85000cm万円/年 だ、これはデタラメではない、この「cm万円/年」という単位がわからない人は物理数学の初等を理解していない、「85000cm万円/年」が意味不明に思えるのは、実は「比べる対象がないから」にすぎない、だからそもそもの 170cm も 500万円 も、比べる対象がなければ意味不明なのだ、それがわかりやすい意味に見えているのはわれわれの習慣からの錯覚にすぎない。

令和元年9月11日は、令和元年9月10日の翌日ではない。

それが「翌日」に思えるのは、単に便宜上、カレンダーにそう並べたからであって、そのカレンダー表示の習慣に、われわれが染まりきっているだけだ、もちろんその習慣に迎合しないと社会生活がメチャクチャになるので、便宜上はしょうがないが、それでもどこかで真相を知っているべきだ/10日の翌日を11日とする、偉大な遊びの中でわれわれは遊んでいるにすぎない、遊びだとわかっていれば悪くないものだ、31日の翌日は1日だが、それはルールではなくてそういう「遊び」だ、だからそれぞれに晦日(みそか)・朔日(ついたち)という(つごもり、三十日[みそか]、朔日[さくじつ]とも言ったりする)。
12 には 12 の forms(かたち)があるのに、それをどうやって 2 や 3 と比べるのか、9月10日 の「かたち」と 9月11日 の「かたち」があるのに、それぞれをどうやって比べうるのか? こうして、われわれの「比べる」という機能は、われわれの恣意から、限定的・偽装的にしか成り立っていないことがよくわかる、「比べる」というアホな機能から離れれば、9月11日 は完璧な 9月11日 であり、その永遠の相貌は滅びようがないということがわかるだろう。

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ratio(比) と forms(かたち) /あなたの根本的な装置について2
確に、かつ、最も有益に話そうと思う。
正確に言うならば、あなたの根本的な装置として、あなたがどう世界を捉えるかには二種類あり、ひとつは「わたしが "比(べる)" において対象を捉える」という仕方であり、もうひとつは「世界が "かたち" において対象を視せてくれる」という仕方になる。
たとえば、エリマキトカゲという生きものがいたとする、このエリマキトカゲを対象に捉えるとき、1.「わたし」が認識をぐいぐい近寄らせてその対象を捉えるのか、それとも、2.「世界」がそのかたちをパッとわたしに視せてくれているのか、という違いになる。
だから、「あなたの根本的な装置」とは言ったものの、正確にいえば、われわれが所有する自分の装置としては、 ratio(比) という機能しかないのだ、そしてもうひとつには、自分の装置ではなく「世界」の側の装置に、 forms(かたち) という機能があるのではないかという話だ、仮定にしていたら話が進まないので断定して話を進めるけれども。

「世界」に、エリマキトカゲという「かたち」があって、それがわれわれに届くということ……「世界」がわれわれにそれを "視せて" くれているということ、これが forms のはたらきだ。
一方、「自分」に ratio(比) という機能があって、自分のものさしと ratio をぐんぐん対象に近づけていくということ、それでエリマキトカゲを ratio(比) において測るということ、これが ratio のはたらきだ。
夏目漱石が I love you を訳すのに、「月がきれいですね」とでも訳しておけと言ったという、逸話が有名だが、きっとこれはガセだと思う、僕は夏目漱石を愛好してはいないが、さすがに夏目漱石がそんなつまらないことは言わないだろう、だいたい一般にとってわかりやすいものというのはすべてガセのつまらないものだ/自分の ratio の機能をぐりぐり寄せていって、「月」を捉えるから、「月がきれいですね」という発想になる、まともな文学者なら月が照っている夜空を見上げると「ほえ〜」としか思わない、その forms に「ほえ〜」としか感嘆できない。
だから、文学的な表現としては、「夜空に月が照っている」だけでいいし、「I love you」の翻訳なら、「わたしはあなたを愛しています」だけでいいのだ、そこにゴテゴテと修飾を貼り付けるのは、文学ではなくて自分の ratio の機能によって、ものさしをぐりぐり近寄らせてこの世界を捉えているから、その ratio ぶりが言語となって噴き出してきているだけだ、エリマキトカゲは健脚で地を駆けているだろう、「世界」がそういう forms を視せてくれている。

自分からスタートすると ratio、対象からスタートするのが forms。

何度も同じことを言うしかないが、自分の「ものさし」「尺度」をぐりぐり押しつけていくことで、対象を捉えること、これを ratio というのだ、この機能は人の身に具わっており、能力というよりは業(カルマ)として、弱い者の身から噴出して現れてしまう、だからレビューサイトには多数の「ものさし」が噴き出してコメントがあふれている。
自分からぐりぐりぐり、にらにらにらと、発生して近寄っていってはいけない、そうではなくてまず対象の存在そのものからスタートする、向こうからこちらへパッと届いているものが forms だ、海洋を往くクジラを「自分から」ぐりぐりぐりと近寄って認識すると、数日後には捕鯨反対活動に参加するナゾの市民になってしまうだろう、自分からぐりぐり近寄らなくても、先に「世界」に海洋とクジラは存在している、それが向こうからパッと届く、このことを forms といい、自分からにらにら発生させる ratio は何の関係もない。
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ratio(比) と forms(かたち) /あなたの根本的な装置について
ィリアムブレイクが、ratio と forms の違いについて言及している。
どうせわけがわからないので、読んでもしょうがないと思うが、逆にいうと、わけのわからないものだけが読む価値があるともいえるので、ここに引用しておく(大江健三郎訳)、

そこで汝自身の自己(セルフ)を判断せよ、汝の永遠の相貌を探索せよ、/なにが永遠であり、なにが変わりうるものであり、なにが絶滅しうるものであるか。/想像力は状態(ステイト)ではなくて人間の生存(イグジスタンス)そのものである。/愛情あるいは恋は、想像力から切り離されては状態(ステイト)となる。/記憶はつねに状態(ステイト)であり、理性も状態(ステイト)であって/絶滅させられるためにつくりだされ、そしてまた新しい比(レイシオウ)がつくられる。/すべてつくりだされうるものは絶滅させられるけれども、形式(フォームズ)はさにあらず、/樫は斧によって伐り倒され、仔羊はナイフによって屠られるけれども、/それらの形式(フォームズ)は、永遠に存在する。アーメン。ハレルーヤ!

いきなりこれでは何のことかわからないし、これをもって自分が何をどうしたらいいのかさっぱり不明なので、いったん忘れて、このように考える、僕は今あなたの内部にある根本的な装置について言及しようとしている。
人は確かに、「比」「比率」「ratio」を捉える機能を持っているのだ/東京タワーは高い建物だが、富士山に比べれば低く、その富士山だって、火星のオリンポス山に比べれば低い、だがそれはあくまで「比べれば」であって、「比べる」という能力がなければ、あなたはあなたのかたちであり、東京タワーは東京タワーのかたちにすぎない、何が高いとか低いとかいうことは言えない、すべてはあくまで「比べる」という機能のもとに発生しているので、それらの比較結果は実は真相ではないということなのだ。

大江健三郎は、forms を「形式」と訳しているが、そこに「式」が入るのが妥当かどうかについて、僕にはやや躊躇がある、そこで僕は今のところ forms をただ「かたち」としている、あてがう漢字としては「象(かたち)」のほうがよいかもしれない。
それで、ごたごた言った上で何の話かということなのだが、話は簡単で、人は ratio(比) という機能を持っている以上、自動的に「ものさし」の機能を持っているということだ/自分の中に「標準」という、実はわけのわからない「ものさし」をわれわれは抱え込んでいる。
人の機能には、「ものさし」たる ratio の機能と、「かたち」たる forms の機能があるのだが、世界のすべてをどちらの機能において捉えているかは、人によって異なっており、実は forms の機能でこの世界を捉えている人はとても少ない。
たとえば、「エリマキトカゲ」という生きものがいたとする、そうすると、 forms の人にとっては、ただちにエリマキトカゲの象(かたち)が直接捉えられるのだが、 ratio の人にとっては、まず自分の「ものさし」があって、そのものさしがぐんぐんエリマキトカゲに接近していく、という仕方で捉えられるのだ/これだけでは何のことかわからないだろうから、さすがに次の記事で説明する。

六畳と十二畳では、広さが倍だと思われるが、それはあくまで「比べれば」であって、比べなければそれぞれは六畳と十二畳だ。

われわれには「比べる」という能力があって、それは能力というよりは、背負った業(カルマ)の機能として、自動的に発現しているというたぐいだ、われわれは自分が六歳のときと十二歳のときを比べて、「十二歳のときのほうが倍の時間を生きている」という捉え方はしない、それは「単位時間」というものさしにおいてしか「比べる」ということが成り立たないからだ/自分が六歳のときには、六歳のわたしというわたしの「かたち」があり、十二歳のときにはやはり十二歳のわたしの「かたち」がある、それをわざわざ「時間」というものさしで比較するのはあまりにも恣意的で不自然だ。
ところがわれわれは、たとえば自分が二十歳だったときに、十歳の少年を見ると、「わたしの半分しか生きていないのだ」という見方をする、それは、自分以外に主体が存在することを認めていないからだが(だから十歳の自分を二十歳の自分の「半分」とは感じない)、つまりわれわれはまともな導きか発見を経ないかぎり、自分だけがこの世界に存在していて、その他のすべては自分のものさしからの「比較」でしか捉えられないのだ、その比較は数値・比率として間違っているわけではないが、やがて具体の死と共に滅びる、だからブレイクは ratio を「絶滅させられるためにつくりだされ」と表現した。
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