☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 1/20更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第百三十四回】1月24日(金)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百三十五回】1月25日(土)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百三十六回】1月31日(金)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百三十七回】2月1日(土)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百三十八回】2月7日(金)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ
【第百三十九回】2月8日(土)19時〜@19:00~マイレッスン三茶スタジオ



(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。夏場世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第101回】2月15日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第102回】3月21日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第103回】4月18日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

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秘密にやっていることがあなたの主人になるわけですし


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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WS報告073(1)/よみがえる必要なし
んぜん関係ない話だが、昨年末に紅白で出された「AIでよみがえる美空ひばり」という映像を今になって観た。
すると、まあAIとCGなので、美空ひばりによく似た絵が動くだけなのだが、それを通して、美空ひばりみたいな人は「死んでいない」のだということがよくわかった。
わたしは美空ひばりのファンでも何でもないが、それとは関係なく、美空ひばりさんが死んでいないということはよくわかった、死んでいないのだからそもそも「よみがえる」という必要はない、別にAIで擬似ひばりを出さなくても美空ひばりは死んでいなかった。
AIを通して、またその合成音声を通して、美空ひばりが今もなお唄っているのが聞こえる、それはAIの成果ではなく、ただのわたしの想像力の成果だ、わたしが今も美空ひばりさんが唄っているのを聞けるというだけで、AIはあまり関係がない、おれが聞いているのは美空ひばりだったがAIが歌っているのは美空ひばりではない/当人が死んでいないのだから当人が唄っているのを聴けばいいのであって、わざわざ擬似ひばりを聴くことはないな、想像力がそれを捉えうるということは……。

まあそんなことはぜんぜん関係なく、いや関係あるのか、とにかく今日(昨日)もワークショップをやり、今回はシンボリックフィクションが盛り上がった、また新しい扉が開いた感だな。
パーミッション法というのも、とても本質的で的を射たワークだったと思う、またやりましょう、必ずやりましょう/今回は隣人愛をやるヒマがなかったが、その代わり合気や順体法を改めてやった、もう身体操作のほうも直接「主体で」とやりだし、「もうこんなもんワザでも何でもないじゃないか」という感じになった。
で、突然ヘンなことを言うようだが、おれの庇護下にある人、おれの祈りの届く範囲にいる人は、もう今さらその範囲から出ないように、なるべくな/おれの祈りが届く範囲と、届かない範囲としでは世界がまったく違う、おれの祈りの届かない外側の世界はもうめちゃくちゃだぞ、もともとはおれだけに限ったものではなかったのだろうが、有効な祈りの庇護下にない者はもうまともに生きていけないのだ、今はもう有効な祈りが為せる人がほとんどいないので、おれが祈るのをやめたらものすごい数の人がむちゃくちゃになってしまう(もちろんこんなものはおれの狂言と思ってもらってかまわない)。
「感受性がはたらいたら負け」という、具体の現象をしつこいほど実演した、「主体」なんてのはまるで空想か虚構か催眠術のように思うだろう、でも実際に検証していくと、感受性のほうが錯覚であり虚構で思い込みなのだ、美空ひばりが生きているというのは虚構ではなく、現代のわれわれが生きているというほうが虚構なのだ、びっくりだろう、正確には生ではなく命の話だが、美空ひばりの命は今もあって、生存者のわれわれのほうが大半その命を失っているのだ、だから「よみがえる」なんてちゃんちゃらおかしい、よみがえるならテメーら自身がまずよみがえれって話なんだよ(技術者を悪く言っているのではない、技術者はただの技術者だ)。

命を得た人たちの命は今も当然続いていて、皆で今日はパーティ第百回だ。

まあ、聞こえてしまうものはしゃーないし、視えてしまうものはしゃーない、生物的に生存しているというのは「外出している」というようなもので、外出していりゃ靴を履いているものだ、その靴を指して「足」というのは間違いじゃないが、正確にはそれは足の容器であって足の「ガワ」だな、かといって路上で靴を脱ぐわけにもいかない道理と同じで、われわれは生物としてのガワを取り去るわけにはいかない、それでもやはりそれはガワであって本当の「足」は靴のことではない。
形あるものは皆ほろぶとして、靴はそりゃいつか履きつぶすだろう、だがそのたびに足がつぶれていてはかなわない、靴がつぶれてもふつう足は無事だろうよ、靴と足とを縫い付けでもしないかぎりは/だからこそ「靴は足じゃねえよ」と言い続けなくてはない、目の前に人の容れ物を置いて「これは主体じゃねえよ」ということがついにはっきり視えるようになった、主体はそのすぐ頭上に張り付いているわい、何を主とするかによって性質が違い、つまり同じ主の元にいなければいまいち接続に手続きが掛かるが、主体の命なんて滅ばないのだから、誰もよみがえる必要はない、死んでいないものに「よみがえる」などというのは実に寝言だ。
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WS報告072(3)/戦(いくさ)とは隣国の領土を攻め取ること
代人の気質はヒステリックであり、実に競争社会の性根を浮き彫りにしていると思える、そしてスポーツやトレーニングが脚光を浴びるのも、やはり競争という原理を母体にしているジャンルだからに他ならない。
このヒステリックな気質の中、マウントの衝動から「戦争」を空想することは容易に思えるだろうが、そうしてヒステリックに想起される戦争のイメージと、わたしが捉えるところの「戦(いくさ)」は異なる。
現代人にとって、恋あいがピンと来ないように、戦争もピンと来ない、現代の恋愛イメージがヒステリックに変態マンガを空想させるのと同様に、戦争のイメージが空想されるとしても、やはり恋あいからの力が得られないのと同様に戦(いくさ)からの力は得られない。
現代人にとって、恋愛が異性侮蔑になり、宗教が呪詛習慣になったように、戦争が個人マウントになった/何のこっちゃわからないと思うが、わたしは「戦(いくさ)とは隣国の領土を攻め取ること」と話さねばならなかった、そして何のこっちゃわからなくても、わからないまま効用が得られるということはある。

隣国の領土を攻め取って「わたし」の国とし、またそうして新しく得られた「わたし」の民に、等しく分け与えられるものが文学だ、そのことを文学と軍学の両輪とした。
ワークショップでは、合気や武術の叡智を具体に得んとするワーク・稽古にも取り組むが、このときためしに「戦(いくさ)」からの力を得て打ち込んでみると、その打ち込みは稽古用にミエミエのものであっても、やはり具わった力を御し得ず、初学者には捌けない。
つまり、現代人のヒステリーマウントを土台にした打ち込みと、戦(いくさ)およびその軍神を土台にした打ち込みでは、性質がまったく異なるということだ、そして戦(いくさ)およびその軍神を土台とした武の稽古を積まないでは、やはり武術方面の稽古には真の値打ちが得られない。
よく「戦争と平和」という言い方がされるが、戦争は外交の破滅的手段の一つであるのに対し、平和というのはただの状態であるから、戦争と平和を対極のように捉えるのは概念として単純な誤りだ/のみならず、「戦争」という特別な有事の状態があるのではなく、人は常時「戦(いくさ)」という状態の中を生きている、戦(いくさ)は特別の有事ではなく人が生きる上の常時なのだ、表面的事実としての平和の状態が続いていたとしても、それは「平和」という "戦(いくさ)の一局面の状況" が続いているにすぎない、戦(いくさ)がない状態をわれわれが生きた試しはない。

戦(いくさ)を否定したことで、われわれには獣のマウントが残った。

つまり、戦争は消えてなくなってはくれないということだ、戦(いくさ)を否定しても戦争は残るので、軍神だけが消えてしまい、軍神のいない獣や猿のマウント戦争だけが残ってしまった、それは恋あいがなくなってもオスメスの交尾だけが残ってしまうという現代の様相とまったく同じ仕組みによる。
われわれは戦(いくさ)というと、住宅地に焼夷弾をばらまくのが戦(いくさ)だと思っているがそうではない、それは軍神と無関係なテクノロジーの人間が為すただの破壊行為にすぎない、殺されないように生き延びようとする生存本能から起こる闘争と「戦(いくさ)」は作用している原理が異なる。
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WS報告072(2)/130以上の夜を越えて
曜日のワークショップは第132回だったので、これまで132回の徹夜を重ねてきたことになる。
人によっては、ほぼこの全てに出席しているので、130回の徹夜を、ワークショップとして重ねてきたことになる、それは努力とかいう眠たい発想のものではない、こんなものは楽しくなければやれないのだ、そして楽しいだけでなく、己の生と命に直接足しになっていると確信できなければ、こんなアホなことに付き合っていられない。
徹夜の中で何を超えてきたかというと、それはまったく汗と涙ではなく、恐怖とパニックだ、恐怖とパニックを超えてきた132の夜があったと言っていいだろう、そりゃ132回の徹夜でずーっと霊魂の現場に直面させられるというのだから恐怖だ、目からうろこが落ちるといえばよい言い方だが、その実際は青ざめて肺腑が冷え、希望と裏腹に破壊される思い込みが混乱して急速にパニックを起こす。
当ワークショップは、何も厳しいところはなく(ウソ)、あくまでも体調優先で、体調を崩した人は端っこでお休みOKだ、むしろ体調不全のまま無理をする人のほうが叱られる向きにある/ただしどのようにケアしても、通底している学門を曲げることだけはない、各員にどんな心境が生じてもすべて学門の解明だけが優先される、それはときに無慈悲なシーンを創りだしてきたが、けっきょくそのことだけが実りをもたらしてきた、もういつのまにやら、おれが誰かを激烈に叱り飛ばしても、そのことに対する心理的な反応や抵抗はなくなった、いいかげん誰もが、そうした心理的なウンヌンとかについて、いつも「それどころじゃない」ということが肚に決まったようだ。

サンプルとして、先の記事「カンタンに見えること」で、ちょうど文字数としては2000字ぐらいある/そしてちょうど今日が締切りの、月刊ワーQショップの寄稿は、常連メンバーにとって4000字がノルマとしてある、つまりこのブログ記事の二つぶんぐらいを書けばそれでOKなのだが、そんな量にさえ取りかかると四苦八苦するというのが事実だ、そしてそんな量でさえ、書いてみると他人からは「何が書いてあるのかよくわからん」という、迷走・行方不明の文章になるものだ。
そのあたり、改めて言うほどのことでもないが、物事への取り組みというのは、1000回や2000回ぐらいの積み重ねは必要なのだ、完成のために必要な回数ではなく、入口を得るのに必要な回数がそれだ、しかもそれが、筋肉トレーニングのようなルーティンの繰り返しではなく、毎回新しく困惑して取りかかるという回数でなくてはならない/ルーティンの繰り返しは、ルールが制定されているスポーツ的な業界でしか役に立たない、魂というのはそうではないのだ、魂にとって面白いことのためには、まったく新しい困惑に立ち向かうということを1000や2000は積まないといけないのだ、このことはド基本であって今さらおののいているようなヒマはない。
ワークショップで130以上の徹夜を重ねてきたわけだが、もしこんな馬鹿げたことに何か誇るべき成分があるとすれば、それはこの130以上の徹夜が、一回として同じルーティンの繰り返しはなかったということだ、毎回特別な一回を積み重ねてきたはず、そうでなければ回数をカウントすることには何の意味もない、前回をなぞったのなら今回は「何もしなかった」ということだ/同じワークに取り組むにしても、前回の何かをなぞることで得られるものは何もないので、次回が今回をなぞるということも決してない、だから次回がどのような内容になるのかは、わたしも知らない、無為無策のわたしは不安と困惑に駆られるが、この不安と困惑を次回も打破するということ、それではじめて回数をカウントすることにも少しは意味があろう。
今ごろ各員は、課せられた4000字(初学者は1500字)の寄稿について、書いたり消したりを繰り返しているだろうが、そうしたことが1000や2000、毎回新しい困惑として打破されなければ、物事の入口を得ることはできない/わたしが第一にしているのは、経験の量であって反復の量ではない、どれだけ頑張ったかではなくどれだけ生きたかをアテにしているのだ、わたしが与えているのは慣れて安心することではなく加速して焦ることだ、四苦八苦して取り組むことを、まず四〇〇〇苦八〇〇〇苦に増やそうということ、そうしたら四苦八苦のひとつぐらい、「カウントに入らんわ」と鼻息で飛ばせるようになる。

すでに「三日三晩考えたこと」には注目がいかない。

何が三日三晩だ、こちらはもう130を超えているわいということ、そういう物量で押しつぶす作戦だ、慣れるということを決して生じさせず、出来事のスケールを狂わせてしまうということ、常に恐怖とパニックを目前に置きつつ、それが1000でも2000でも積み重なればいいというのは、本来人にとってこの世界と命というのはナゾであって、世界との直面は恐怖とパニックとの直面に等しいからだ、われわれが慣れて安心したときは必ず、われわれは世界ではないただの思い込みの中に蟄居している/われわれが嬰児としてこの世界に眼を開いて以降、この世界が何なのか・どのようなものなのかが分かったということは一ミリもない。
130以上の夜を越えて、もしこれまでのことを思い出そうとすると、膨大なことが思い出され、それはすでに取りまとめることもできない量になっているはずだが、それがまともに生きてきたということだとわたしは思っている、それは自分がどう進んできたかというより、「けっきょく何がどうなって今の自分になったのかもうわからない」と笑える状態だ、今は小劇場やら4000字ごときで四苦八苦している自分が、後には「あのとき何に四苦八苦していたのか今はもうわからない」と笑える状態になるのだ。
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WS報告072(1)/カンタンに見えること

曜日はビギナーが多かったので、改めて「小劇場」をみっちりやった、みっちりやってみると、実はぜんぜん出来てないということがわかる。
別に劇団員でもないので、小劇場なんか出来てもしゃーないのだが、そういうことじゃない、一事が万事、「自分のやっていることが他人にはまったく視えていない・伝わっていない」ということであり、また「カンタンそうに見えていることが自分でやってみると一ミリもできない」ということでもある。
現代、自分のやっていることは他人にぜんぜん見えていない・伝わっていないという状況にあるのだ、それが "伝わっていないと知る" 機会を得ていない、もしくは目を背けているせいだ/数億人がツイッターでぽんぽこ独り言を発せているのは、それが誰にも伝わっていないのに、そもそも伝わるということじたいを見たことがないから、誤解したまま続けていられるという状態だ。
誰にも何にも伝わっていないということに、自覚も知見もないから、現代はあちこちにツイートやコメントがまき散らされているという状況にある、それで何も伝わらないまま相互に気分の阻害だけをもたらして、隙があれば炎上騒ぎになるという、ただそれだけのことを繰り返している、あのとき彼が何を話したかなんて誰も覚えていないし、あなたがそのとき何を話したかなんて、誰も覚えていないし誰にも伝わっていないのだった。

いわゆる「陽キャ」の「コミュ力」みたいなものは、ウェーイを繰り返してバーベキューをして安い女の乳を揉むというようなことで(古い)、これはコミュ力でも何でもなくただ空虚が爆裂しているだけだ、この空虚がフットサルでヘディングシュートを決めることほど人類史上で無意味なことはない。
これではまるで悪口を書いているだけなのだが、なぜ悪口を書いているだけになっているかというと、特に書くことがないのだった、ワークショップはいつもどおりで、いつもどおりということは、もう色々ありすぎていちいち思い出せないということだ、それでしょうがないので漠然と世の中の悪口を書いている(うーむ性質が悪い)。
ワークショップでは、真のコミュニケーション能力(?)を目指して、「ごくカンタンでもいいからひとつのシーンを示して見せろ」という指導と訓練をほどこしているのだが、こうすると次第に「そもそもシーンということがわかっていないかも」ということが見えて来、果ては「生きてくる中で何かのシーンそのものに接触したことがない」ということさえ明らかになってくる/そりゃひでえ話なのだが、それで絶望しろということではない、早くその絶望的な事実に気づかないと取り返しがつかないぞということなのだった。
しょーもないシーンでいいので、たとえば「瞬間接着剤でミスをする」というシーンを小劇場形式でやらせてみる、するとこれは、わたしが実演しているぶんにはとてもカンタンで当たり前のジョークシーンに見えるのだが、自分でやってみるとテンヤワンヤ、誰も彼も人前でナゾのテンションと引きこもりと小芝居をやり始めるのみであり、他人の目には「???」としか見えないのだった、こんなアホチンの状態でとっくに成人を過ぎているというのはとてもヤバいのだ、かつて「甘えの構造」を著した土居健郎が現代の状況を見たら、おそらく「もうあきらめろ」と言うだろう/他人に何も伝わっていないのに承認欲求タピオカボンバーというのはいくらなんでも酸鼻を極めている。

競技ダンスの世界大会経験者が、このワークショップ「小劇場」のレベル1さえクリアできない。

これは例えで言っているのではなく、事実の話だ、学生の部だがいわゆる社交ダンスで日本代表として世界大会まで行った人がいるのだが、その人がこのアホワークショップの「小劇場」の初級ができない、それは今となっては「当たり前」なのだが、それがなぜ「当たり前」なのか、本当の仕組みを知るためにここまでワークショップの訓練と学門を積んできたのだと言える/現象が違うのだ、そしてわたしが実演してカンタンに見えるように見せているその現象が、自分でやってみるといかに不明の雲を掴むような技術によるものかわかる。
もう各員は、いよいよパターンを経験してきたので、もう「この人がカンタンそうにやるやつほどヤバい」ということを知っている、そして各員はいつも自分が取り組むとき、「さて、今から死ぬか」といつもどおり死ぬワークとして取り組むのだった/世界大会に出るようなことは、何だって見るからにむつかしくて無理に見えるものだけれど、じゃあカンタンに見えるものは「できそう」なのかというと、そんなことはまったくないのだった、このことから目を背けているから人は加齢と共に自分のやることがなくなってしまうのでもある。
 

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WS報告071(1)/隣人愛現象
年あけましておめでとうございます、新年初回も盛会でした。
さて今回は新しく「隣人愛」をやった、隣人愛というのは精神ではなく現象だということで、といっても「精神」だって「神」がつくから本当は現象なのだが、それはいいとして、とにかく隣人愛という "現象" をやった、汝のごとく汝の隣人をうんたら、これは実際にやられてみると「あれ? なんだこれは」とニヤつく、事実としてこの現象をディールできるということが主眼だ(いつもの言い方)。
われわれは、自分の肉体とその感覚に依拠して、およそ自分の肉体を「わたし」と思っているが、たとえば「わたし」と思っている自分の両腕だって、切り落とせば「あれ? わたしじゃなくなった」となるのであり、肉体が「受精して卵割していく」という生物プロセスで成り立ったものにすぎない以上、肉体に「わたし」を依拠させることには、実はたいした根拠はないのだ。
ただ習慣的に感覚・体験のインターフェイスがこの肉体だから、インターフェイスのほうをいつのまにか「わたし」だと思い込んでいるにすぎない、たとえば今デスクトップPCでこれを見ている人は幸いだが、あなたの見ているものは本当はモニタであってPCではない、PCはあなたの足許にあるのだが、あなたは習慣的に目前のものを「PC」だと思い込んでいる。

冬場にヤカンで湯を沸かすと、ヤカンの注ぎ口からモウモウと水蒸気が出るのだが、本当はモウモウと出ているのは水蒸気ではない、それは湯気だ、水蒸気は無色透明の気体なので視認は出来ない/モウモウと見えているのは冷やされて液体に戻った水滴の粒であって、水蒸気ではない、空に浮かぶ雲も水蒸気ではなくて水の粒(氷の粒)だ。
だがわれわれは、視認・実感できないものを認識しづらいため、湯気や雲を「水蒸気」だと思い込むようになる、ヤカンの口からモワモワ〜と湯気が出ると、それを実感しやすいので「水蒸気」と思ってしまう、それと同じようにわれわれは、実感のインターフェイスである肉体を「わたし」と思ってしまうのだ、それで目の前の肉体を「他人」と認識し、相互の肉体にある利己的遺伝子が互いに「政治」を始めてしまう。
肉体の個数は数えることができるが、「わたし」という主体の現象は、本当は数えることができない、だから目の前の一般的には他人の肉体に、こちらからわたしの「わたし」が入り込むことがある、そもそも「わたし」という現象はわたしのものではないため……ふつうこのあたりで認識は「???」となるだろうが、このことが学門として把握されていないと隣人愛現象はディールできない。
実際のワークとしては、まずマスター側が「いぇーい」と一人でもりあがり、他人を巻き込まないようにする、他人を巻き込まないのはそれが「隣人」だからだ、それでいてマスターはなぜか、目の前のその隣人に対して、「お前、盛り上がってるぅ」と指さす、これは一般的には主語の錯誤だ、盛り上がっているのはおれであってあなたではない、にもかかわらず目の前の人を主語として「盛り上がってるぅ」と指さす、すると目の前の人は「あれっ?」と、自分の身に言われた「主体」が降臨することを体験する、言われた側が確かに「いぇーい」と盛り上がってしまうという現象が本当にあるのだ。

隣人愛が成立する以上、隣人を身内にする政治工作は不要になる。

たとえば日本はアメリカと同盟を結んでいるが、同盟を結ぶという政治をしなくてはならないのは、相互に隣人愛が成立しないためだ、そりゃ国家法人の隣人愛なんて現在の人類にはまだ無理なのだろう/その点おれは、誰かと同盟を結んだことはないし、誰かと友好を結んだことさえない、おれには隣人しかおらず、しかしその隣人というのはおれ自身みたいなものだからかまわないのだ、おれの隣人はおれ自身なので、おれが蹴っ飛ばしても問題はないし、かといって自分で自分を傷つけるような蹴り方はしない、おれには隣人愛の現象があるので、このとおり他人にたいして善意という政治工作をする必要がない。
隣人愛現象は、「わたし」という現象に対する思いがけないサイエンスなので、昔からわたしの得意分野というか、十八番だ、おれにとっては一番カンタンなこのことが、やはり他の各員にとっては絶望的にむつかしいらしい、新年の初めからこれはよい壁を提出できたと思う、常に真なる「わたし」という主体の現象は出来事(happ)から生じていて各個の肉体に分配される(分配則)ということにまったく整合する話であり現象だ。
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WS報告070(1)/本年ラスト回
年ラストの回であった!! といっても、何をどうしたわけでもない、わたしはむしろ何も特別なことをしないようにした。
とはいえ、この土壇場に、「カッコいいワーク〜」とコールして、なんじゃそのコールはと思いつつ、けれども実際に、ついに「カッコいい」ということに直接アプローチすることができた、これは実は偉大な成果なのだが、そのことは他の各員にはまだわからないだろう。
ずっと魂魄の話をしてきて、魂魄といえば霊魂と気魄で、それは「わからない」と「わかる」であり、集合と離散だ、このことをいつもどおりやり、やればやるほど、「身体操作の精密化ってけっきょく必要っスよね〜」ということにも直面してくる、実にそうした具体的な回だったと思う。
たとえば今回、相手が自分の肩をガッと掴む、それを「ほい」と外すという、シンプルなワークをやった、正しく魂魄を操作すると、ガッと掴んでいるはずのものがスポッと外れるので、「ええええ〜?」となるのだが、アホほど繰り返すと次第にそれは当たり前になり、「難しくて出来ないけど当たり前のこと」になるのだ、出来て当たり前になるのではない、「出来ないけど当たり前」の現象になる/この一年間はそうして、「難しくて出来ないことが大量にありまくるのが当たり前」という日々を各員にコッテリ形成したと思う、その中でさすがに、根本的なうぬぼれやらひがみやらのアホな現象は消え去っていった、そりゃこれだけ「出来ないけど当たり前のこと」に包囲されまくったらうぬぼれることなんで物理的に無理だ。

先日、六ヶ月前に撮影した動画を見直す機会があったのだが、六ヶ月前のわれわれと現在のわれわれを比較すると、もうまったく話にならない、まったくの別次元に到達したのだということがよくわかる。
それは、技術レベルが上がったというのではなく(技術レベルも相当に上がっているが)、単に精神の「まともさ」が別次元に到ったのだ、逆にいえばこのワークショップの試みをする以前は、すっかり精神が「まともじゃない」というヤバい状況にあったと言える。
六ヶ月と言わず、一年前、あるいは始まった当初の一年半前は、何をやるにしても各人がいちいち「パン祭り」、パニックになって感情が荒れてしょうがないという状況だったのだ、各員はそのころのことを思い出すと、すでに「ああ、わかるよ……」と遠い目をするに違いない/けれどもあのときからまだ一年半しか経っていないのだとわたしは見ようと思う、一年半といえばたとえば大学の新入生が二年生の半ばになるのだが、人はふつう一年半ぐらいでこんなに長足の進歩はしない。
「来年は一月四日からスタート、さすがに三が日は各員も集まりきれないので」、今一番大事なのはそのことだと思う、来週もやるのだ、今週やったように来週もやる、「半年前の自分たちと比較にならないなら、半年後の自分たちとも比較にならないのじゃないか、そしてそんな勢いで進んでゆけるものなら、もう思案の必要はない、停滞がやってくるところまで突き進んでから考えよう」、何をやってきたのかを振り返るヒマは未だ与えられていなくて、キョエーと言いながら今日はパーティなのだった、「もうド年末のはずなのに、まだ年末がやってこないんですが(恐怖)」。

「もっとダルそうに立て、ダリーんだよ、いいことないよ」

ついに、この年内のうちに、「カッコいい」ということにアプローチし、その一端を現成することができたのだ、これは偉大な成果でバンザーイ/「カッコいいふうにしてカッコよくなるのは、もとからカッコいい人だけだよ」「自分をカッコいいと思っているのか? その顔は」「カッコよくないやつがどうやったらカッコよくなるかでしょ」。
「この半年間、全体が異常に進んだのは、おれが『偉大なるおれさま』に踏み切ったからだった」「それぞれの努力次第、なんてことはまるでなくてね、ぜんぶおれ次第なんだよ、お前らがどうなれるかなんて」「人それぞれの努力次第とか、そういう水くさいもんじゃないみたいだよ」「全部おれ次第だった、だからこれまで、きわめて容赦ない言い方や態度や言いつけをしてきたけど、けっきょくそういう容赦ないものだけが、成果をもたらしてきただろう? だからしゃーない、お前らの努力じゃないんだよ、おれの到達点と愛だけの問題だ」「何度も言うけれど、おれに感謝するのは、形式的にはかまわないが、どこまでいっても的はずれだ、おれにはお前らを救済する意図はない、その能力もない、その慈悲深い意図と能力をもっているのは、おれがいつも相談している、形も質量も持たないヤツだよ、こいつには何でも出来るんだろうな」「何が正しいのかについて、あえて答えるなら、『お前らが知らないものが正しい』よ」。
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WS報告069(2)/年内はあと一回
「椎名林檎の歌に『歌舞伎町の女王』というのがあるけれど、何も歌舞伎町に限定しなくても、たとえばすめらみこと(天皇)はこの国の王じゃないか、あるいはアメンホテプ王とかラムセス王とか、王はたくさんいる」
「ただ、『歌舞伎町の女王』という歌に対して、すめらみことの歌は『君が代』になるわけだけれど、そこまで話がデカくなると、われわれにはわからなくなるんだ、それはわれわれに "烈しさ" が足りないからだよ」
「われわれは、クフ王の大きさなんかわからないわけだが、そこで歌舞伎町の女王ならわかるといって、小さい自分、烈しさのない自分を正当化してはいけないんだ、霊魂が小さく弱いということは、そのぶん生身の感情を激しやすいということだから、感情を激することをもって霊魂の烈しさに対抗しようとしてはいけない、それだけで自分の契約形態が自動的に決まってしまうからだ」
「前にも言ったけれど、おれはここ数年、烈しさを隠蔽してきたんだ、あまりに多くの人が誤って激しさで対抗しようとしてくるからだよ、でも各員はもうそれが愚かしいことだとすっかりわかったはずだ、だからここにきてようやく烈しさに回帰しようというところだ、ずっと魂魄の話、気魄と霊魂の話をしてきたけれど、ただ気魄とソウルが使えればいいというだけじゃない、空間・ソウルというのはどれだけの烈しさ・鮮やかさを得ているかということが問われるんだ」

ずっと、ノンフィクションからフィクションの訓練、「分かる」から「分からない」の訓練を続けている。
直接の具体としては、つまり対人で組み合って修練するワークとしては、やはり金魚法を代表とした「分かる」から「分からない」の訓練を積むべきだと思う、何度でもやって、いつもあの瞬間に起こる「!?」の、鮮烈さをはるかに上げるべきだ、それじたいがどのような価値を持つかは、それが実現してから後にしかわからない。
あとは「ウソのない世界」とか「祈り」とか、そちらもやはり鮮烈さを上げるように捉えて、程度を上げてゆき、それを転じて小劇場や作品に持ち込むべきだと思う/キングスボディ法もやり、ダンス志向の人は「王」を実現せねばならないが、そのことの背後にもやはり「鮮烈さ」のパラメーター重視が必要になってくるだろう。
そういえば、「次回のワークショップは……」と考えて、よくよく考えたら「年内はあと一回しかないじゃん!!」となって、全員でエーッとびっくりした、今年は令和になってから特に、異常な半年間を過ごしたと思う、たぶん「ふつうの日」と呼べるような日が一日もなかったのだ、おれでさえ呆然とする日々を過ごしてきたのだから、各員においては半ば了解不能のような日々だっただろう、そしてこれらの日々は、誰にも説明できない、ただどうなっても後悔にはなりようがない日々になったはずだ。

事実、烈しい日々が、激しい感情など消し去った。

各員も、そう言われたらアッと気づくところがあるかもしれない、この半年間、過去と比べて己の感情のほどはどうだったか? とてもじゃないが、感情を激するなんてヒマなことは、もうやる余地がないという具合だっただろう、今さら給湯室で誰かが自分の陰口を言っていたとして、もう感情的に反応は不能になっているのじゃないか、なにしろそんなことよりワークショップで課されるアハム激情のほうがはるかに苛烈なのだから(と考えると、まるでワークショップは暴虐のかぎりのようで、宣伝にならなくて困る)。
年内はあと一回しかなくて、その翌日はパーティなのだが、とにかく体調だけなんとかコントロールして、せっかくなので最後まで意気揚々とやり抜きたい、後になって令和元年をどのように迎え、どのように過ごしたかがはっきり思い出せるようになるだろう、人に説明しようがない思い出があるのはそれなりにすばらしいことだ。
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WS報告069(1)/烈

「激烈というけれど、は弱い者・負けた者が陥るもので、は違う、烈は強さ・正しさのもの」
「どちらも "はげしさ" と読む、激しさ、烈しさ」
「古今東西、われわれが尊崇するものに烈しさがなかった試しはない」
「色んなことを考えているふりをする、やれ仕事がどうだ、恋愛がどうだ、遊びがどうだ、充実、自己実現、そんなもん "烈しさ" が足りてりゃそれだけで解決だ、そして烈しさが足りていないモンがどう工夫したって救われる方法はねえよ、烈しさのない奴がなんとかなると思っているのが間違いだ、最も虫の好い発想がそれだ」

「烈しさのある人と、ない人は、見る光景がもともと違う、ぜひみんなには、烈しさのある人が見る光景を見てほしい」
「烈しさは悪霊を灼き払うものだ、一方、激しさは悪霊に取り憑かれた奴の弱みだ」
「もちろんわれわれは楽しくやる、ゲラゲラ笑いながらやる、だけど本当はそれで成り立っているのじゃない、お前らがアテにしているのはただ一点、この人の烈しさだけなんだよ、それがなかったら一ミリも成り立つもんか」
「詳しくはまだ話せないけれど、おれは先日、 "烈しくありなさい" という天啓を受けた、だから烈しさをやっていく、確かにそろそろそのようにしていかないと、万事に "間に合わない" タイミングだとおれも感じている」

烈しさのないものにきれいなものはない。

「諸事情あって、おれはここ数年、烈しさを抑え込んできたんだ、それは烈しさに抵抗しようとして、何も知らない・与えられていない人が、誤って "激しさ" で対抗しようとして、的外れな悪霊に力を借りるところを散々見てきたからだよ、でもみんな、それはスカでありハズレだって、もう確実に学んだだろ、だから今ふたたび烈しさを取り戻すところだ、血の業(カルマ)でメラメラするアホじゃない、空間の魂・ソウル・命がどれだけ烈しくあるかってことなんだ、それがすなわち自分の魂の到達点がどれほどかという証しなんだよ」
「ここ二十年くらい、昔の歌を、茶髪ロングヘアーで "しっとりカバー" するばっかりじゃない? おれは『しっとりしてんじゃねえよボケ』と言っているんだ、ソウルミュージックをしっとりカバーしてどうすんの? もうこのことに理論上の猶予はなくなってしまったんだ、はっきり言っておくよ/本当にナンバーワンホステスが偉くてスゴくてすさまじいのか? 本当にそういうふうにしか思えない人もいるんだよ、でもどう考えたって処刑を目の前にしてもわずかも怯まず平然と高らかに言い続けて後世の人々にまで愛され続けている吉田松陰のほうがすさまじいんだよ、烈しさを持たない人は烈しさが見えないので、吉田松陰より神経をこじらせたナンバーワンホステスのほうがスゴいと思っているんだ、わかりやすいから吉田松陰をキーワードにしておく、烈しさがわからないなんていったって、自分と吉田松陰を並べたらそんなのウソだってただちにわかる、そして烈しさを持つ人の見る光景と、烈しさを持たない人の見る景色は根本的に違う、これだけは自分が烈しさを持ってからしか決してわからないんだ」

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WS報告068(2)/朝食の儀レポート
曜日のワークが明け、翌日曜日の朝になると朝食から、以後の談義が思う存分に長くなるので、いっそのことと思い、参加者に居宅を借り、朝食を自炊の会合にしてみた、そしてわたしが鍋料理に少なからずウデをふるってみた。
これまでに幾度となく見てきたことだが、わたしが手料理を供すると、皆こぞって「生まれて初めて食事をした」かのごときに、一心不乱に口腹のよろこびをむさぼるのだ、わたしはこのときいつも思う、「食べる、というベーシックなことがどれだけなおざりにされてきたのか」、このとき糧食は、それなりにこだわって仕入れて作るけれども、材料は日常のマーケットから仕入れるのだから、特段高級品を用いているわけでもない。
ありていに言えば、わたしの作るメシは極端にうまいのだ、それは美味という以上に、食材の命そのものが、勢いを駆って口腹に飛び込んでくるというようなうまさである、仮にレシピを公開したとしてもそれはありきたりで、そのレシピどおりをなぞっても同じようなよろこびはえられないだろう/人の話を聞くと同じ、また人の唄うを聞くと同じ、また人と踊るも、男女の褥も同じように、その人の魂魄主体が乗っかるのであるから、外形だけ同じようをなぞっても、等しいよろこびはまるで得られないし、それどころか魂魄を滅入らせて心胆を腐敗させることさえありうる。
むすび飯ひとつをもってしても、あるいは茶葉に湯を注ぐだけをもっても、その人の魂魄主体というのは乗っかるもので、その一口で生き返るような心地もあり、命と魂を得るほどの心地もあり、また逆に滅入る心地、すべてが暗く澱む心地さえあるのだ、それらのことが科学の手法として再現検証できないからといって、それらの現象がないと断じるのは科学の徒ではない、実際にあるのだからしょうがないだろう、「未だわからないがある」ということもあるのだ、それはわれわれ自身の「わたし」という現象が、未だわからないままやはりあるということに一直線につながっている。

冗談ではない話、居宅を貸してくれた者をそのまま、朝食の当番とし「朝食大王」と任じ(これは冗談というかネタだ)、実際の調理はわたしが行うのだが、それにしても朝食大王が用意した鶏肉の量を見て、わたしは「アホかお前、これの四倍は要るぞ」とわたしは言った、そして朝食大王はあわてて買い足しに飛び出したのだが、実際にわたしが通告したとおりの量を各員はついに食い切ってしまったのだった、要はそれほどまでに「食べる」という観念が、わたしと一般とでは格差を生じているということだ。
「鶏肉が、口から食道、食道から胃に飛び込んでくる」と評した青年は、勢いのあまり、咀嚼する奥歯がコンコンコンコンとパーカッションを鳴らすありさまだった、その後に茶を飲んで、わたしが気を利かせて持参した蜜柑をつまむ様は、まるで昭和の志士が焦がれていた食事を令和になってようやく与えられたというような恍惚ぶりだった。
そもそも茶を淹れるといっても、多人数にふるまえるよう大型の茶パックをその日に持参したのはわたしだったのだが、そもそもこのごろは、来客があるとただちに第一に湯を沸かすという感覚がないようだ、「夏場でもないかぎり、客人が来たら無条件で反射のように湯を沸かすこと」「客人が来たのに囲炉裏に火を入れないのはおかしいだろう」とわたしは話した。
各人のよろこびよう、盛り上がりよう、けっきょくは盛大な祭りのようになったこの朝食の議を見ていると、あまりに貴重なことであるようだから、今後もこのように、特に冬場は、日曜朝の朝食は、あるていどこなれたメンバーに限られるだろうが、朝食大王宅で手料理をほどこすことにしたい/確か七人か八人で食べたのだが、大量の雑炊を仕込んでみたところ、あっというまに鍋は空っぽになった、それは全員のこれまでの「食べる」という観念からは大きくずれた事実だったろう。

誰でも食べて暮らしているが、その「食べる」がまるで等しくない。

誰かがこのように言った、「鶏肉が喉から胃に飛び込んでくる」というのに合わせて、「ふだんある、喉のいやがりがない」と、そのあたりのことはまたヒヤリングしたいし、各員も相互に知見を交換する必要があると感じられる/どれだけ高級な食材であれ、また高級な内装の店内で食事したとしても、誰が手がけた食事かによって、喉がいやがるということは実際にあるのだ、わたしがふだんワーク中に繰り返し言っているように、内臓が直接よろこぶようでなければ、実際としてよろこばしい魂魄主体は得られていないということ、よって「この人のものは万事よろこんで内臓に飛び込んできてしまう」というほどへ到らなければ、ごたいそうにワークショップとやらを開催している値打ちがない。
「食べれば食べるほど、なぜか腹が減ってくる」「自分でも信じられないぐらい大量に食ってしまう」「胃もたれがまったくない」「食べるのに夢中で、正気を失ってしまうほどで、食べ終わると恍惚となっている」というのが、いつも言われるわたしの料理の定番だ、わたしは料理が趣味というわけではないし、板前のように料理が上手なわけではないが、万事について同じことで、わたしは料理が上手というよりも、「人に食わせるもの」が上手ということだ、もちろん味のほども調わなければ食べてよしにはならないけれども、より本質は「人が食べる」ということにあり、そのことを無視した風潮に対抗して粉砕するためにワークショップなどという催しを続けている。
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WS報告068(1)/わたしに無礼をしないように
曜日は、途中からわたしが体調を崩してしまい、久しぶりの偏頭痛をもよおして、半ばダウンしながら進行してしまった。
体調を崩すといって、何が起こっているかというと、まあ最近になって知った「おれの場合、勉強すると身分が下がってしまう」という問題も含め、それ以上に、もう各員がまったく想像のつかないような、へんちくりんな次元での取引があり、たまにこういう不具合も出るのだ。
なんというか、わたしはつい、合理主義者で、やるからには万事に最大の能率・最大量の成果を得ようとし、そのためにパラメーターを非常識に解放するところがあるのだが、そのせいでクラッシュが起こる……まあいわば、F1レースがエンジンの歴史を作ってきたようなものだと思ってもらいたい、エンジンをどれだけブン回せば壊れるのかというデータは、そういう最新鋭の遊びレースでないと検証できないものだ。
今、各員はメキメキ腕を上げ、レベルを向上させているのだが、それが何によってもたらされているかは、もう常識の範囲を超えている、というかわたしは元より万事が常識内で処理できないたぐいの奴だったらしく、過去のことまでが今になって「そうだったのか」と本当の仕組みを解明されているような状態だ、わたしはどうやら本当にただの奇人変人ではなかったらしい。

わたしはもともと、リベラルな気質であり、万人の平等を求めようとする者だった、それが今にまで続く「オイオイ(汗)」という矛盾を引き起こしている。
わたしは生来の気質としては、目立つことが苦手で、威張ることが苦手なのだ、つまり、わたしの身内や幼いころの友人に訊けば知られることだが、いわゆるわたしはオクテのたぐいだった/にもかかわらず、わたしはこれまで生きてきたすべての環境において、けっきょく権力側と正面から "やりあう" ということを、繰り返してきた、わたしはこれまで常に、「けっきょくそうなるのか」という具合に、ことごとく教師や上司などの権力者を突然裂帛に怒鳴りつけるということを繰り返してきたのだ、これの生来の気質がオクテだというのだから思いやられる。
わたしは合理主義によって、各員の成長を最大化することばかりを考えてしまう、そこで各員にも合理主義に則った上で、<<わたしへの無礼はないように願いたい>>、わたしは威張るのは苦手だし、かしづかれるのも苦手なたちだが、実のところ各員の成長を最大化するために、どうもシャレにならない手続きをしている/わたしは何も偉くないが、わたしが使用している手続きは日ごとシャレにならない、どうやら "尊いもの" になっているようなのだ、だからわたしへの無礼はどうでもよくても、この手続きに対する無礼があると、わたしではないものからの "怒り" が起こるようで……くれぐれも、わたしが何かに怒っているということはまったくない、わたしではないものからの怒りなのだ、それをせき止めていると今回のように体調を崩してダウンしてしまうことがある、それもやはりいわゆる一般的な体調不良というのと異なる。
ある一人が、ワークの後、「先生は "寛容" ですね」としみじみ言った、しみじみ言ったそれは、何のことを指しているのか当人にも不分明であり、けれども不分明なままそれこそが真骨頂だという確信もあるのだった、わたしも不明なまま彼が言ったその一言が何を指しているのかはわかる、より明確にそれが何を指しているのかを捉えているのはわたしのほうだろう/わたしがもっと偉そうにできたなら、今回のような体調の急変はなかっただろうが、わたしにはきっと、わたしではないものに対する無礼について怒り叱責するほどの権威はないのだ、おれだってわけがわからないままやっている、ただ直観的に、「わたしに無礼をしないように」というていどの警告はしておいてよいのだということは察せられる、わたしは確かに寛容かもしれないが、その寛容さだけわたしの得意の合理主義をはみだしてしまっているからには。

わたしに無礼をしないように。

各員が知っているように、いつもワーク中は(いやワーク中でなくても)、「わーい」「いぇーい」と、まるで子供をあやすように遊んでいる向きばかりで、そのことが無礼や失敬にあたるということではない、むしろそこを堅苦しくしても慇懃無礼に当たるのであり/ではわたしが何をもって無礼をせぬようにと言っているかというと、必ず、各員の知らない次元のことがあるのだということ、この前提を念頭に、忘れないことだ、それさえあれば無礼のかどは一度も起こらないだろう、念のため繰り返して申し上げておきたい、<<必ず、各員の知らない次元のことがあるのだということ>>、この前提を念頭に、常に忘れないように。
確かにわたしは寛容かもしれず、わたしの考えていることは常に一点、わたしを慕ってアテにしてくる友人たちに対し、利益を最大化しようとするのみのこと、そしてその最大化のためにはわたしはパラメーターを異様解放するところがあり、わたしがいったいどういう感覚でどういう次元で、どういう手続きをしているのかについて、けっきょくほとんど説明しないのは、説明することが各員の直接利益にはつながってこないからだ、ただそれだけの理由でわたしは本当の仕組みのほとんど・わたしが何をやっているかのほとんどを説明していない、常に忘れないでいてほしい、必ず各員の知らない次元のことがありつづけるのだということ。
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WS報告067(3)/祝福と庇護の実体

祝いのつもりで書き記しておこう、このアホみたいなワークショップの試みは、ひとつ大きな成功へ到り、さらなる行き先を約束されたのであるバンザーイ。
どういうことかというと、先に「とてもいいもの」に覆われているとも書いたのだが、それは別の見方をすれば、誰一人「自己中」「自分本位」には考えなくなったということだ、それは努力による結果ではなく、自己中・自分本位という発想のメカニズムそのものが、ワークショップにおいて討ち滅ぼされたということ/各員はよく知っているとおり、今さら誰があんなところで、自分本位に物事を考えたりできるだろう? 何かそういう愚かしさの出る余地はもう一ミリもないはずだ。
これに関しては、けっきょく、自分本位から脱出しきれない人は、やむをえずご退場いただいてきたということでもある、あんな中で自分本位が残るというのは、とてつもなく不自然なことでしかないので/別に誰も、利他的に考えているわけではない、ワークショップ中はずっと「それどころじゃない」ということが支配している、ただそれだけでしかない。
各員が、ずっと「それどころじゃない」と、つまり "考える余裕がない" 中で、何も考えないままやっているのに、気づけば自己中・自分本位のものなどは、一切出る幕がなくなったということ、これが他ならぬ祝福と庇護の実体だ、もう今さらあの中で、自分本位にやるということは不可能になってしまった、この「自己中が不可能になる」ということがどれほどよろこばしいことか、各員は麻痺してしまっていて気づかないだろうが、本当にそういうことなのだった。

業(カルマ)の門が閉ざされていき、ゲラゲラ笑いながら、常に「出来ねーっす」「やばいやばい」と苦しんで、ついに自己中やら自分本位やらいうアホの門も閉ざされていった/今さら、他の場所で自己中・自分本位の誰かを見かけると、きっと「何だこれ?」と不可解なものに見えるだろう、各員はすでにそういう視力を手に入れたということだ。
ワーク中はむしろ、各員は「マスター状態で」「主体性、主体性」と、 "自分" がそれをやらなくてはならないのだということに向き合わされているはずだ、にもかかわらず、結果的に自己中や自分本位という愚かしさ・汚らしさは消失していった、これはけっきょく、かねてから主張しているように、「吾我」と「主体」は別の現象だということが事実として現れたということだ、まだ各員は「主体」の明らかな獲得に到っていないにせよ、すでに何度も、吾我では話にならない「主体」が命を魂をもたらしてそこに現れるのを見てきた、その目撃者としてそこに集うことで、自己中・自分本位というアホの所業は消えていったわけだ。
ともあれ、われわれは麻痺してしまっているし、おれも麻痺してしまっているのだが、よくよく考えれば、誰一人として自己中・自分本位の汚らしさを持ちようがないというのは、すばらしいことだし、すさまじいことだ、いつのまにこうなったのかはよくわからないが、とりあえず事実としてそうなった、このことは掛け値無しにバンザーイと言いたい、われわれのたどった道とほどこしてきた手続きはそれなりに正しかったのだ。
自己中・自分本位に対する特効薬として、「ほれ、じゃあやってみて」と突きつけ、何であればそれを録画して、資料として共有までされてしまうという、黒歴史大量生産方式が、けっきょく吾我とやらのしょーもない思い込みシステムを粉砕したと言えよう、いかなる自己中も自分本位も、「ほれ、じゃあやってみて」と、何の演出も装飾もなく平場でやらされた日には、砕け散るしかないものな、今ある各員は、すべてこの砕け散るということを経て現在の庇護に到っている/けっきょく何かを信仰したというわけではなく、目の前にある自分と誰かの事実をグリグリ直視するというだけのことだった、それで傷つけ合うような奴にはご退場願うだけだし、これでよかったのだ、とにかく自己中とか自分本位とかは今さら掘りだそうとしても地脈じたいがないぜ。

かつてワークショップに参加する各員の内心は、吾我でムンムンだったが、今は「ひょえ〜」に統一されている。

すべてのことに先立って、このことが必要だったのだ、だから明らかにレベル違いのことでも容赦なくやらせることにした、目の前にどうしようもない事実として「ひょえ〜」の対象がありつづけるということ、これだけが僥倖をもたらした、もう内心の吾我をムンムンさせるというのも、物理的なエネルギー量で「ひょえ〜」に押しつぶされた、何しろ常に「おい早く前に出て、やれよ」であり、出来なくて落ち込もうと思っても「はい次のワークは……」と進行するのだ、それはやがて心身のすべてが「ひょえ〜」にならざるをえない。
各員は、ふだんの生活を続ける中にも、ポケットの中にはすぐ「ひょえ〜」があるので、それはもう朝起きたときから、自分のやることがないというような、むなしさや迷いは無いだろう、次第に各員が、自分が吾我に支配されるということがわからなくなり、それよりも「主体、主体じゃあ!」「主体、来てくれ〜うおお〜」としか考えられなくなる、すでにほとんどそう出来上がっているだろう、そうしてもはや、自己中や自分本位に対する制御や警戒も必要なくなった、もうどのように自分本位になろうとしても、魂が即座に「いやぁ、主体がな……」としか言わなくなった/まだ出来ることには大きな制限があるが、すでに祝福と庇護は与えられて、自己中や自分本位に陥るアホの門は閉ざされたのだ、これだけでもう各員は、自分の生をまっとうするだけの値打ちはあった。

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WS報告067(2)/「とてもいいもの」に覆われること

回の動画を一通り確認してみた、するとなぜか、全体を「とてもいいもの」が覆っていた、いつのまにこんなものが覆うようになったのかわからないが、今回はそれが特にはっきり出た/はっきり出たとはいっても、これを視認できる人はほとんどいないので、まあなんのこっちゃというような話ではある。
言われてみて動画の件数を確認してみたが、いつからかワークショップの動画を撮りだして(各員が視聴して研鑽・研究の足しにする)、いつのまにか動画の件数は1000件を超えていた、なかなか無意味に動画を撮ったとしても件数はふつう100もいかないので、気づけば相当な量の追究をしてきたのだと思う。
各員のレベルは、まだまだ低い、と言いうる反面、エース連中の現在レベルのことを、実際ヨソの誰かができるかというと、そんなことができる奴がゴロゴロいてたまるかよ、とも言いうる/もう各員は、ヨソで何かをさせられることがあったとき、それをキツイとかプレッシャーとか感じることはなくなっただろう、われわれはゲラゲラ笑いながらやっているが、精神的には一番キツイところというか、一番直接的なところをやっているので、もうヨソの何かで「アガる」とかそういったことはなくなったはずだ。
かといって、それで何か上出来かというと、「まだまだ」というより「何もかも話にならんのじゃい」という状態なので、しょうがない、引き続きゲラゲラ笑いながらやるしかないのだった、何しろ主催者であるおれ自身が、おれ自身のすべてについて何かを「上出来」なんて思ったことはひとつもないので、これから先も、達成感のようなものは一ミリも得られないのだった、各員は早晩、達成感やら充実感やらという発想そのものが消え失せて、二度と戻らなくなってしまうだろう。

このごろは特にゲラゲラ度が上がっている。
各員は、何にゲラゲラ笑っているのか、こころあたりがある一方で、本当のことはまだそこまではっきり視えていないだろう、それはずっと先になって知ればいいようなことだが、ゲラゲラ笑っている本当の理由は、業(カルマ)の門が閉じられていっているからだ、もちろんそんな門は閉じてしまえばいいわけで、それだけわれわれは何かしらの庇護を受けているのだ、そのことは経験を積めば、映像からでも確認できるようになる。
甘いことをやっていては話にならないし、キツく厳しいことをやらねばならないのは確かだが、そこで人々がキツくて厳しい人になってしまってはダメなのだ、何も庇護を受けていない場合、人は甘くてダメな何かになるか、キツくてダメな何かにしかなれない。
今、ある意味では「ようやく」ということになるが、ようやく「とてもいいもの」に覆われて、庇護を受けている状態になった、これは他ならぬ偉大なるおれさまのおかげではあるが、各員がそのアホみたいな話を、思いがけない直截さで読み取ってきた結果でもある、おれは何にも感謝しないし、誰も感謝などしなくていいが、感謝なんかしなくてもどうしても「なんてこった」と思ってしまうものだし、もしそれを感謝だというのなら、隠そうとしても隠せないものだ、だからこそわざとらしい感謝というのはインチキであってハズレでしかない/感謝などという安売り品はどうでもいいのであって、そんなことより、おれがずっと主張してきた現象は、このとおり本当にあるだろということを言いたいのだ、それを大切にしろと言っているわけではない、「大切にする」を含めた一切の、「チャチなことは通じないだろ?」ということをおれはずっと言っている。

ようやく、こうして「どう説明しても絶対に伝わらないもの」に直接到達してもらうことができた。

各員は、これからずっと未来にかけて体験していくことになると思うが、各員がまだ無自覚に体験している今の状態は、この先ずっと、どう説明しても誰にも伝わらないのだ、まるでいい映画のいい映画たる現象、その所以は、誰にも説明できないことのように、今ようやくたどり着いた「とてもいいもの」に覆われている状態は、この先ずっと、誰にどう説明してもまったく伝わらない、ただ自分がそのことを知っている珍しい一人になるだけだ。
各員は、また動画がアップロードされたら、それを見て確認するように、まだはっきり確認できるような視力はないだろうが、いちおうそのつもりで視ておくように、動画はいつのまにか1000件を超えていたわ/何を視ればいいか、それは「私的なものは値打ちがない」し、「公的なものも値打ちがない」ということだ、身内にだけウケる私的なものは公的にはゴミだし、じゃあ公的なものがイイかというと、公的というそれじたいがゴミだ、その向こう側に、この世界そのものが公的なものではないし私的なものでもないという事実が鎮座している、だからいよいよ私的とか公的とかやっている場合ではないのだ。

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WS報告067(1)/妥当な流れに乗る奴は全員ミンチにしてタスマニアデビルのエサにしろ
さが堪える、おれも喉をやらかしていたが、各員も方々でダウンしている。
まあこの季節はしょうがないのだが、それにしても、妥当な理由になんか流されてはいけない。
このごろ、あまりに容易に、あまりにルーズに、妥当な理由で流されていき、妥当な理由で物事が消えてゆきすぎだ、そうして流され・諦める・失っていくということがどれくらい恐ろしいことか、きっと多くの人が気づいていない。
このご時世、生きるのに夢がないのがまさしく「妥当」だが、その妥当さに流されたら、もうその時点でゲームオーバーで、ゲームオーバーのまま何十年も生きねばならず、その先にずっと続く悲鳴はもう誰も聞いてくれないのだが、なぜそんなことを平気で受け容れていくのか……そのときごとのムードに流されて生きている人は、よほど楽観的なのだと思う、何かヨソの誰かが庇護者となって、求めてもいないハッピーを大量にズッドーンと投下してくれると思っているようなのだが、なぜそんなことを期待できるのかおれには感覚的にわからないのだった。

勝利しなくては敗北だと思うのだが(当たり前)、勝利するというのは、いわゆる勝ち組としてチヤホヤされたら勝利というわけでもあるまい、おれは競争に勝利したいのではなく、生きることそのものに勝利したい。
そして勝利したあげく、周辺情報を整理して「そりゃあな」と、勝って当たり前だわ、という形で勝利したい/すでにここまで生きてきたぶんでも、十分以上のお釣りが来るのは知っているのだが、そんなケチくさいことは言っていられない、おれは諦めて生きた人と絶望の大差をつけたい、それでしかけっきょく誰も救われないからだ。
厳冬期は、さすがに寒さが身に堪えて、いかんともしがたいところがあるが、だがそういうときこそ、全てを忘れて「ただならぬこと」に身をやつしていたい、だいたい意味のわかるようなことは誰だってやるし、誰だってやることは人を敗北にしか導かないから、そうではない、意味のわからない、だからこそようよう真似はできないようなことを続けていたい/人がおよそ真似できないこととは、つまり懸命さから離れたことだ、懸命なことは誰だってする、たとえば銀行に強盗に入るのは懸命なことだが、博物館に強盗に入ることは懸命なことではない、だから誰も真似できない。
説明不可能なことを、説明不可能な程度にやるのだ、誰だって麻薬をやれば快楽をむさぼれるのは知っている、だから麻薬をやるのは説明可能になってしまう、じゃあ麻薬をやる値打ちはないということだ/余人には説明できない、おれ自身にしか値打ちがわかっていないようなことをやる、それはつまり、この世界におれが存在するということだ、他の誰をあてがってもおれのやることの代替はできない。

誰にも説明できないことをするということは、おれが「素直になっちまう」ということだ。

そんなわけで、金曜日はいつもどおり、身体の使い方と、そこからつながるフィクションのワークをした、具体とフィクションと「言葉」がどうつながるのか? それを実演して、各員にやらせ、「どーだ出来ねーだろう」という体験をたっぷり得させた、いつもこれだし、これで合っているのだ、出来ないことが目の前に実物としてあるということは、目の前で直接「秘密」に触れているということだからだ。
「妥当な流れに乗る」というのは、とてつもなく恐ろしいことだ、あなたが想像しうるかぎりの「こうなりたくない」という人をイメージしてみたらいい、その人もかつて、「妥当な流れに乗る」ということを繰り返して現在の結末に到っている。
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WS報告066(1)/主体性という現象について
曜日は「歩法」をやった、そして余韻法からのシンボリック・フィクション法、そろそろ各員はおれが何をやらせようとしているのか全体像が視えてきていると思う(いや、そうでもないか)。
土曜日は「主体性」をやった、主体性がリレーされるという現象、および主体性がない場合は業(カルマ)の押し付け合いにしかならないという話、そして主体性からの小劇場、それはそのままアハム劇場へとつながる(理論上はそうだが、各員に出来るとは言っていない)。
そのほかにも、ちゃんと背骨を動かせるようになるということ、あるいは胴体の接続、肩や股関節、肘と膝あたりも、きちんと使いこなせるように訓練している/本当に使えるようになってくると、身体というのはびっくりするぐらいよく動くようになる(そして疲れなくなる)。
けっきょく主体性とは何なのかといって、それは「祈り」「求める」ということになる、祈り求めるのが偉いということではなく、主体性というのはついにその形でしか現れようがないということだ、人は業(カルマ)によって吾我に依存するか、主体性に接続して祈り求めるかのどちらかしかないのだ、つまり「自力で絶対に頑張る!!」というのがイコール「カルマ増大!!」「だって因果律だもん!!」という怒号でしかないということだ、もはや因果律という語を聞くだけでなんとなく腹が立つようになってきた、因果といって「因」を身の内に探すのならば、われわれの身の内にはわれわれがアホになる因しかない。

今回は、「ボーナスタイムだ」といって、わたしが各員の祈りを代行するという曲芸をやった。
人と人は、基本的に1.利害で対立する、2.利害で談合する、のどちらかしか選べないので、利害が対立する関係を作ってやると、双方はもうぶつかるしかなくなる、そこでわたしが二人に触れて祈りを代行する、祈りを代行するといって何が祈りなのかは誰にもわからないだろうが、そうしてわたしが「いいですよ」というと、その二人には到底不可能だった次元のワザが現成してしまう、つまり出来るはずのないことが出来てしまう。
なぜそんなレベルのことが出来てしまうのかは、各員にはわからないのだが、わからないまま、なぜかそれが「あっ、出来る」というのは先にわかるのだ、祈りというのはそういうものだ、だからけっきょくワザではなくて現象なのだ、そしてなぜそんな現象が得られるのかは、当のおれにもわからん、おれの知っていることはただひとつ、「主体」という現象が自分だけでなく他者にも分配されるという分配則だけだ。
われわれの吾我は、それぞれに分離・離散して存在するので、双方は利害で対立するか談合するかのどちらかしか選べない、だが吾我と「主体」は異なる、主体はもともとひとつであり、ひとつのまま分配されるだけだ、だからわたしの主体がしゃがむとき、相手の主体も同時にしゃがむというだけ、なぜそんなことが起こるのかは誰にもわからないが、わたしが「はい、いいですよ」と言うと、なぜかそれが「あっ、出来る」ということはその人にもわかる、なぜ出来るのかはわからないが出来るということは先にわかっている、その状態を一般に「信じている」(疑っていない)という。

おれが何かを信じているわけではない。

この場合の「おれ」、つまり吾我は、万事に対して疑うということから発生している、よって吾我が何かを信じようとしても、必ずその出どころは疑いから発している、だから「おれ」は何かを信じているわけではない、「おれ」は常に「よくわからん」と感じていて、投げやりであきらめて放棄しているから、「おれ」とは異なる「主体」に頼んでいるだけだ、いわば主体が主体を信じているのであって、おれが何かを信じているわけではない/おれはおれの買った宝くじが当たることを期待・願望するだけであり、信じているわけではない、主体が宝くじを買えば確実に当たるだろうが、主体は用事もなしに宝くじを買わない。
繰り返されてすでに飽きたパターンでいうと、わたしが主体の分配によっていくつかの景色や現象を与えると、そのうち何割かの人は、その景色や現象を自分の霊性ていどのものだと思いたがるものだ、けれどもそれを自分由来のものと思い込むときっちり呪われるので、そのパターンは絶対にやめたほうがいい、つねづねそれらの現象は「おれのもんじゃない」とおれ自身が言っているのに、それをヨソの若造が自分のものだと思い込みたがる脳みそメルヘンはいいかげんにすることだ、おれはいつも「感謝はしなくていい」「信仰もいりません」と言っている、おれはいつも「出来る」「出来事(HAPP-Y)」への手続きを与えようとしているだけだ、おれが脇に立って祈りを代行するだけで「あっ、出来る」となることを、いよいよ「なぜか」と単純に考えてみたらいい。
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WS報告065(4)/次の方程式の解を求めなさい2

っかくなので、多くの人が、少しでも「求める」ということへ傾きますように。
 "誰でも解ける" 、連立の二次方程式を以下に示すので、ぜひその解を「求める」ように、求めるというのは「祝福プリーズ!!」ということであり、何も宗教くさいことではない。
・ x + y = 10
・ xy = 25


方程式の解き方を覚えている人は、そのとおりの手順で求めればいいし、方程式の解き方を忘れた人、またその解き方がけっきょくわからなかった人も、ただ「求める」という魂を忘れてはいけない。
「求める」というのは魂の問題なのだ、たとえ試験解答が0点でもかまわない、正解が得られないとテストは0点だが、それによって「求めなかった」ということにはならない/むしろ、解法を暗記してしまって、求める魂なしに機械的に作業する人のほうが「求める」ということから離れ、祝福から見放されてしまうだろう。
なつかしい解法を思い出せば、要するに「代入」すればいいのだから、 y=25/x であり、x + 25/x = 10 だから、両辺に x を掛けると x^2 +25 = 10x 、これを移項すれば x^2 -10x + 25 = 0 となり、あとはよく知られた形で因数分解すれば解は得られる、もちろん二次方程式の「解の公式」に当てはめてもいい。
これは "誰でも解ける" 方程式だ、学力のない人も己の手をじっと見なさい、左右の手の指、その指の数を足すと10だし、その指の数を掛け合わせると25だ、先に示した方程式は「足すと10になり」「掛けると25になる」としか書かれていない。

数学で得られるのは解であって点数じゃない。

点数は、アホの生きものたちの欲(うぬぼれマウント欲)を煽るために設定されている仮想エサに過ぎず、だから高得点を獲る者にもアホが大量にいるのだ、アホはこの仮想エサに餌付けされて跳ね回るのであり、彼らは真に方程式の解を「求めて」はいない。
事実、今あなたは、先の方程式の解を得たところで誰に何の点数をもらえるわけでもないが、かといって方程式の解を得たことは完全に無意味だったろうか? 少しでも解を「求める」という魂があった人は、その解が己の両手の指と重なったときに、理由のないよろこびを得ているはずだ、この理由のない祝福が何なのかは誰にもわからないので、古くから人は「求めなさい」と言った。

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WS報告065(3)/次の方程式の解を求めなさい

めれば与えられる、という聖書の言い方がある。
求めれば与えられるということ、つまり求めて祈れば祝福が与えられるというのが聖書的な言い方だが、今、祈るという発想を持っている人は、漠然と祈るというイメージしか持っておらず、「求める」というプロセスがないので祈りが発生しない。
何も求めずに祈る、というようなイメージがあり、このタイプは自分で清廉潔白なつもりでいながら、その中身はルシファーのごとく傲慢さに満ちているのだが、当人としてはそのことに気づけない、そうした自分にまるきり都合の悪い情報には人はなかなか気づけないものだ。
人間には「欲求」といい、「欲」と「求」があるのであって、「求める」ということを持たない人は、ただ「欲する」ということに支配されているのだ、求めるということがない人は無欲なのではない、欲に支配されているから求めるという謙虚さと敬虔さを持てないのだ、このことを取り違えてはならない。

ためしに、何も求めずに祈っている「つもり」の人を用意して、その人に向けて、「われわれはこれから楽しい食事とドライブに行くけれど、あなただけナシね」と言ってみたとする、すると何も求めていないはずのこの人は、「えっ」となり、内心で「自分も行きたい」「どうしてわたしは連れていってくれないの」と思う。
内心ではそう思うのだが、当人は「求める」という謙虚さと敬虔さを持っていないので、健気に求めるということができない、これは遠慮がちなのではなく傲慢なのだ、「求める」というような "下位" の立場を採れないのである……まして、求めて与えられなかったとき、その屈辱をこの傲慢さが許しえようか? だからこの人は求めない、求めないからどうするかというと「我慢」する、我慢は字義のごとく吾我の驕慢だから、この人は傲慢さを内部に拡大していく。
「求める」ということをしない人は、無欲なのではまったくない、その正反対だ、傲慢だから「求める」という行為ができないのだ、そして「求」を放棄しているということは、必ず「欲」に支配されている、だから「求める」ということのない人は、もう若年のうちから内部的には欲深く、加齢と共にもはや処理不能の強欲さになっていく/あまりにも多くの人が、「欲」と「求」の区別がついておらず、結果的に欲のバケモノに成り果ててしまう。
中学のとき、誰だって数学の設問に、「次の方程式の解を求めなさい」という文章を見たはずだ、そのとき誰が方程式の解を「欲して」いただろう? 人はそれを "求める" とき欲の軛(くびき)から脱している/だから中学のとき、無心に方程式の解を "求めて" いた人は、そのとき何も欲していなかったし、方程式の解を素直に "求め" られなかった人は、代わりに他の何か、オシャレとか交際相手とか、チヤホヤされることやお金とか、オタクグッズやオナニーのオカズとか、何かを「欲する」ということに支配されていたはずだ、それほど「欲」と「求」は別のものだ。

目の前に方程式を置いたとき、欲に支配された人ほど、その解を求めようとしない。

仮にAさんの自室の机に、何の意味もない方程式を書いた紙を置いておくとする、Aさんはそれを目に留めたら、「なんだこれ」と紙をつまみあげるだろう、そのときまるきり興味のないゴミをつまみあげる人と、わずかにでもその方程式を解こうとする眼差しを向ける人がいる、その方程式が解けるかどうかの、学力の問題ではなく、ただそれを「求めようとする」眼差しがあるかどうか、この有無で人は大きく二分されている。
そこで、もしあなたが、「この人であれば、とっさに解を求めようとする眼差しを向けるかもしれない」という人を知っているのであれば、あなたにとってその人は信頼できる人だし、逆にあなたが、「この人はただゴミの紙をつまみあげるだけだろう」と確信できる人を知っているのであれば、あなたにとってその人は諦められた人だ/人がただ生きるという欲望と願望しか持たない生きもののカタマリに成り果てるとき、人は方程式の解を「求める」という性質の一切を失う、繰り返しこれは学力の問題ではなく、ただ「求める」ということの性質なのだ。

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WS報告065(2)/アハムは時間の神
んまりヤバめのタイトルはつけたくないのだが、役立てるためにはしゃーない。
「アハム劇場のコーナー〜」と言って、このところは毎回アハム劇場をやっている、何をやっているかといって寸劇をやっているだけでしかない、舞台も衣裳も音響もライティングも演出もない平場の板の上での寸劇だ。
ただ、アハム劇場のコーナー〜といって、おれが寸劇を実演すると、毎回その場でテキトーに創ったネタでしかないにせよ、目の前で観た人が呆然とするだけだ、大笑いするときは大笑いするものを、そうでないときはそうでないものを、とにかく毎回魂を打たれているのはおれじゃない、いつも呆然としている各員のほうだ。
「アハムは出来事の中にある」と毎回言う、出来事とは何かといえば「ハッピー」だ、「happ-y」という語の成り立ちがそうなのだからしょうがない、ではアハムとは何かというと「わたし」だ、誰でも知っている「わたし」という現象、誰でも知っている "はず" の「わたし」という現象……それが "分配" されるから、フィクションのはずの寸劇がなぜか自分の「わたし」にも体験される、それでいつもみんな呆然とする、「わたし」が寸劇の作中世界を体験してしまうので、その時間は自分がワークショップにいることを忘れている(だから毎回、おれの実演はラストにしないといけない、でないとみんなワークうんぬんを全部忘れてしまう)。

アハムは「わたし」であり(ウパニシャッドにそう書いてあるのだからしゃーない)、その「わたし」は出来事の中にあるのだが、これは言うなれば、アハムは時間の神と捉えてもいいかもしれない、あくまで便宜上の捉え方だが/つまり、「わたし」という現象を、時間継続的に保持していると思い込んでいるほうが悪い、そっちの思い込み実感のほうが誤りなのだからどうしようもない。
 "時間継続的な保持していると思い込んでいる" ということは、つまり「記憶」ということだが、どうして記憶を根拠に「わたし」を認識しているのか、そのことのほうがどう見ても誤っている、なぜなら記憶をたどるかぎり誰だって「わたし」の出どころはわからないからだ、何年の何月何日の何時に「わたし」が始まりましたなんて記憶を持っている人は世界に一人もいない。
それはつまり、「わたし」という現象が記憶と異なる領分にあるということなのだが、それでも一般には記憶の中に「わたし」を認めようとする、それはなぜかというと、「記憶」というのは生きものの装置だからだ、「先週このキノコを食ったら腹を壊した」ということを記憶しておくと今週生きるのに有利だから、生きものの都合(つまり利己的遺伝子の事情)によって記憶という機能は具えられている/それは生きものの機能であって「わたし」ではない。
だからこそ、そんなもん、「生きる」という機能を一時的にオフにして(別にワークショップ中に死なねーよ)、誰が誰というような記憶もオフにして、つまり時間の経過すべてを無かったことにして、そこに生じる出来事ハッピーをもとに「わたし」が現れればいい、このアハムに拮抗阻害しているのは「記憶」であり「時間」だ、五秒前のことが現在のことに関係していると思っているのだろう、時間軸上で関係があるのはすべて「生きる」という都合においてのみであって、五分前にメシを食ったら現在はまだ空腹でないということにすぎない、そんなもん「わたし」という現象には何の関係もない、「わたし」という現象は時間軸と無関係に存在しており、事象前も事象後も関係なしにずっと不変のまま存在している。

地平線をどけたら太陽が「出現」するように見えるだけだ。

別に太陽がパンパカパーンと出現しているわけではなくて、地平線が太陽を隠しているだけだ、太陽は地球よりずっと前からある、それと同じように、時間と記憶をどけたらアハムが「出現」するように見えるだけだ、当たり前だがアハムは時間をどけた向こう側にいる。
じゃあなぜ時間がどけられないかというと、自己愛があるせいだが、この自己愛がどこから出て来ているかというと、生きものの都合なのだ、生きものは自己遺伝子とその子孫が大事で、それ以外はどうでもいいというのが遺伝子の本音だ、この本音は太陽がブチギレてフレアバーストでも起こせばすべて黒焦げのご破算になるし、そうでなくても百万年もたてば自分の遺伝子やら子孫なんかはもう残っていないのだが、にも関わらずこの自己愛が終わりのときまでずっと自分を支配し続けることになる、なぜそんなことになるかというと、本能うんぬんではなくただ自分が何も「求めない」からだ、「求」めないからずっと「欲」の言いなりになっている。
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WS報告065(1)/王、および貴族について
週は特に「王」をやった。
王の特徴は、第一に「自分が言い張ることでしか成立しない」ということにある。
別に王にかぎらず、政治制度が拘束力を持つのは二代目からであって、初代はどんな政治制度も「言い張る」しかない、なぜなら王であれ議会であれ、それを承認する機関がまだないからだ、よって政治制度の初代はすべて追認に依存する「でっちあげ」にならざるをえない、このことがわかっていない人はすべての社会科・歴史を学ぶ意味がない。
そして王の特徴は、第二に、「出世する先がない」ということだ、王は「言い張る」ことからいきなり王になるのであり、王になったらその先はもう出世がないのだ、王には上位がない、そして王が辞めたら王国が消えてしまうので、王国あるかぎり王は王をやめることもできない/だから王というのは、身分が上がることもないし下がることもないのだ、もはや「何かになることがない」ということ、ずっと王でありつづけ、それ以外のものには理論上なりようがないというのが "王" の性質だ。

第三の特徴は、王国においては、あらゆる人・物・生物・分子・原子・素粒子のひとつにおいてまで、すべてが王のために存在するということだ。
王は王国の唯一主体・主権であるから、王国と王そのものは「合一」である、つまり王国に吹く風は王そのものであり、堅牢な建物、荒れる河、狼の遠吠え、ゆきかう自動車の喧噪であれすべてが「王」だ、王国の隅々に到るまで「わたし」でない箇所はどこにもない。
よって、王国において王は、王であると同時に「王国のすべて」そのものであり、王は王国において何かになることはできない、勝ったり負けたりさえできない、王国において主体・主格・主人公はひとつしか存在していないのだから、わたしとわたしが戦って勝ったり負けたりはできない、王はそのように王国そのものと合一するということだから、そこまで完璧に王は「何かになることがない」ということになる(それが視えていなければ王ではない)。
具体的にワークショップでは、「王」と、そうではない「庶民モード!」を区別して実演するが、庶民は常に何かになろうとする、出世しようとしたり勝利者になろうとしたりする、王にはそうした「何かになろうとする」という現象じたいが成り立たない、すると「王」の世界においては、具体的にまったく一般には未知の現象が起こってくる、「ななな、なんじゃこれ」「え? あ? は? なんで?」と、周囲も笑わせながら、何もされていないのに地面にへたりこんだりする。

劣等な人は庶民であり、優等な人も庶民である。

「王」と「庶民」では、レベルではなく所属する現象そのものが違うので、いかに優等な人でも庶民モードからは逃れられないのだ、だから優等な人もずっと意味のないマウント合戦をしている、そのまま死んでいくだけになってしまう、王に帰属できない人はいかなる優等も劣等も無意味なマウント合戦にのみすべての生を費やすしかできないことを看破せねばならない、その看破は生における最大の恐怖である。
現代、あまりに多くの人が、優等さの蓄積で自分が貴族たりえようと目論見、見当違いの、それだけに憐れさの募る庶民ぶりを白日に晒している、どれだけ意識を高調させて取り繕っても、内実を突き詰めれば自分は「無様」なはずだ、庶民モードの謎も解けていないのに、自分の無様さがなるべく覆い隠されるように必死に取り繕っている/すべては無駄なことだ、王への帰属無しに貴族が成り立つことは言葉の定義からしてありえない(社会科の先生に聞け)、賊なる庶民モードがマウント合戦の不毛と泥濘から逃れるすべを持つことは決してない、「王」という現象の権威に直撃されてゲラゲラ笑ってへたりこんでいるのが唯一貴族の入口だ。
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WS報告064(2)/ハンドサイン法ふたたび
れないように自分でメモしておきたい、ここにきて「ハンドサイン法」がふたたび注目されている。
ハンドサイン法といって、何もむつかしくはない、テキトーにピースサインでも挙げて「いぇーい」とやって呼応させるだけなのだが、実はこれ、厳密に出来るかというと、厳密にやるには相当正しい仕組みを体得している必要がある、インチキのノリでやっている「いぇーい」とは違うからだ。
ハンドサインを使うことで「いぇーい」を呼応させる、つまり人を動かすことになるが、そのことが成り立つためには、「自力で人を動かしたりはできない」ということがわかっておらねばならず、徹底的に「自力では何もできんわw」ということがわかっていないといけない。
ピースサインでも何でも、ハンドサインを挙げて、空間に示したサインによって空間を使うということが、「祈り」の最小単位だと言える、ここに来てこのワークが必要性を増してきたので、忘れないようにここにメモしておこうと思った。

ふつうの感覚だと、まず「ハンドサイン法を使えば当然いけるっしょ」とは考えない。
ふつうの感覚だと、まず「よっしゃ、がんばってやってみよう」と考える。
当人が「よっしゃ、がんばる」のであれば、それは「ワテがんばります法」であってハンドサイン法ではない。
だから、いつもわかりやすく言っているように、さっさと偉大なるおれさまの言うとおりの法に従ってやればいいのだ、個々人のがんばりなんか偉大なるおれさまの説き明かしたる法に一ナノも及ばないとはっきりわかっていればこの種のワークはあっさり成り立つ、だいたいこの世界というクソデカ空間より偉大な個人などいた試しがないのだ、もしそんな奴がいたらそいつはもう個人ではない。

自我を使わない/代わりに、空間も歴史も言葉も音楽も全部使え。

ありとあらゆるものを使え、ありとあらゆるものだけを視よ、人に何かをさせることは出来ないので、人に何かをさせることはない、自分が何もしないようにだ、プレイヤーも何もしない、何もせずに済むということが救いで、ただありとあらゆるものが、ありとあらゆることをするだけ、それが一番助かる、それ以外にまともなことの方法などない。
人と人のつながりなんてウソだ、いや正しく言うと、人と人のつながりなんて必要ない、もともとひとつの主体だけがありつづけ、それだけが残り続けるのだから、分断されたわれわれという錯覚を接着剤でつなぐようなまねはしなくていい、ハンドサインが頭上に示されるということは、 "何も変わっていない" ということだ、だからハンドサイン法の習得は、それを必要としないということにそのままつながる。
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