☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
WS報告067(1)/妥当な流れに乗る奴は全員ミンチにしてタスマニアデビルのエサにしろ
さが堪える、おれも喉をやらかしていたが、各員も方々でダウンしている。
まあこの季節はしょうがないのだが、それにしても、妥当な理由になんか流されてはいけない。
このごろ、あまりに容易に、あまりにルーズに、妥当な理由で流されていき、妥当な理由で物事が消えてゆきすぎだ、そうして流され・諦める・失っていくということがどれくらい恐ろしいことか、きっと多くの人が気づいていない。
このご時世、生きるのに夢がないのがまさしく「妥当」だが、その妥当さに流されたら、もうその時点でゲームオーバーで、ゲームオーバーのまま何十年も生きねばならず、その先にずっと続く悲鳴はもう誰も聞いてくれないのだが、なぜそんなことを平気で受け容れていくのか……そのときごとのムードに流されて生きている人は、よほど楽観的なのだと思う、何かヨソの誰かが庇護者となって、求めてもいないハッピーを大量にズッドーンと投下してくれると思っているようなのだが、なぜそんなことを期待できるのかおれには感覚的にわからないのだった。

勝利しなくては敗北だと思うのだが(当たり前)、勝利するというのは、いわゆる勝ち組としてチヤホヤされたら勝利というわけでもあるまい、おれは競争に勝利したいのではなく、生きることそのものに勝利したい。
そして勝利したあげく、周辺情報を整理して「そりゃあな」と、勝って当たり前だわ、という形で勝利したい/すでにここまで生きてきたぶんでも、十分以上のお釣りが来るのは知っているのだが、そんなケチくさいことは言っていられない、おれは諦めて生きた人と絶望の大差をつけたい、それでしかけっきょく誰も救われないからだ。
厳冬期は、さすがに寒さが身に堪えて、いかんともしがたいところがあるが、だがそういうときこそ、全てを忘れて「ただならぬこと」に身をやつしていたい、だいたい意味のわかるようなことは誰だってやるし、誰だってやることは人を敗北にしか導かないから、そうではない、意味のわからない、だからこそようよう真似はできないようなことを続けていたい/人がおよそ真似できないこととは、つまり懸命さから離れたことだ、懸命なことは誰だってする、たとえば銀行に強盗に入るのは懸命なことだが、博物館に強盗に入ることは懸命なことではない、だから誰も真似できない。
説明不可能なことを、説明不可能な程度にやるのだ、誰だって麻薬をやれば快楽をむさぼれるのは知っている、だから麻薬をやるのは説明可能になってしまう、じゃあ麻薬をやる値打ちはないということだ/余人には説明できない、おれ自身にしか値打ちがわかっていないようなことをやる、それはつまり、この世界におれが存在するということだ、他の誰をあてがってもおれのやることの代替はできない。

誰にも説明できないことをするということは、おれが「素直になっちまう」ということだ。

そんなわけで、金曜日はいつもどおり、身体の使い方と、そこからつながるフィクションのワークをした、具体とフィクションと「言葉」がどうつながるのか? それを実演して、各員にやらせ、「どーだ出来ねーだろう」という体験をたっぷり得させた、いつもこれだし、これで合っているのだ、出来ないことが目の前に実物としてあるということは、目の前で直接「秘密」に触れているということだからだ。
「妥当な流れに乗る」というのは、とてつもなく恐ろしいことだ、あなたが想像しうるかぎりの「こうなりたくない」という人をイメージしてみたらいい、その人もかつて、「妥当な流れに乗る」ということを繰り返して現在の結末に到っている。
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WS報告066(1)/主体性という現象について
曜日は「歩法」をやった、そして余韻法からのシンボリック・フィクション法、そろそろ各員はおれが何をやらせようとしているのか全体像が視えてきていると思う(いや、そうでもないか)。
土曜日は「主体性」をやった、主体性がリレーされるという現象、および主体性がない場合は業(カルマ)の押し付け合いにしかならないという話、そして主体性からの小劇場、それはそのままアハム劇場へとつながる(理論上はそうだが、各員に出来るとは言っていない)。
そのほかにも、ちゃんと背骨を動かせるようになるということ、あるいは胴体の接続、肩や股関節、肘と膝あたりも、きちんと使いこなせるように訓練している/本当に使えるようになってくると、身体というのはびっくりするぐらいよく動くようになる(そして疲れなくなる)。
けっきょく主体性とは何なのかといって、それは「祈り」「求める」ということになる、祈り求めるのが偉いということではなく、主体性というのはついにその形でしか現れようがないということだ、人は業(カルマ)によって吾我に依存するか、主体性に接続して祈り求めるかのどちらかしかないのだ、つまり「自力で絶対に頑張る!!」というのがイコール「カルマ増大!!」「だって因果律だもん!!」という怒号でしかないということだ、もはや因果律という語を聞くだけでなんとなく腹が立つようになってきた、因果といって「因」を身の内に探すのならば、われわれの身の内にはわれわれがアホになる因しかない。

今回は、「ボーナスタイムだ」といって、わたしが各員の祈りを代行するという曲芸をやった。
人と人は、基本的に1.利害で対立する、2.利害で談合する、のどちらかしか選べないので、利害が対立する関係を作ってやると、双方はもうぶつかるしかなくなる、そこでわたしが二人に触れて祈りを代行する、祈りを代行するといって何が祈りなのかは誰にもわからないだろうが、そうしてわたしが「いいですよ」というと、その二人には到底不可能だった次元のワザが現成してしまう、つまり出来るはずのないことが出来てしまう。
なぜそんなレベルのことが出来てしまうのかは、各員にはわからないのだが、わからないまま、なぜかそれが「あっ、出来る」というのは先にわかるのだ、祈りというのはそういうものだ、だからけっきょくワザではなくて現象なのだ、そしてなぜそんな現象が得られるのかは、当のおれにもわからん、おれの知っていることはただひとつ、「主体」という現象が自分だけでなく他者にも分配されるという分配則だけだ。
われわれの吾我は、それぞれに分離・離散して存在するので、双方は利害で対立するか談合するかのどちらかしか選べない、だが吾我と「主体」は異なる、主体はもともとひとつであり、ひとつのまま分配されるだけだ、だからわたしの主体がしゃがむとき、相手の主体も同時にしゃがむというだけ、なぜそんなことが起こるのかは誰にもわからないが、わたしが「はい、いいですよ」と言うと、なぜかそれが「あっ、出来る」ということはその人にもわかる、なぜ出来るのかはわからないが出来るということは先にわかっている、その状態を一般に「信じている」(疑っていない)という。

おれが何かを信じているわけではない。

この場合の「おれ」、つまり吾我は、万事に対して疑うということから発生している、よって吾我が何かを信じようとしても、必ずその出どころは疑いから発している、だから「おれ」は何かを信じているわけではない、「おれ」は常に「よくわからん」と感じていて、投げやりであきらめて放棄しているから、「おれ」とは異なる「主体」に頼んでいるだけだ、いわば主体が主体を信じているのであって、おれが何かを信じているわけではない/おれはおれの買った宝くじが当たることを期待・願望するだけであり、信じているわけではない、主体が宝くじを買えば確実に当たるだろうが、主体は用事もなしに宝くじを買わない。
繰り返されてすでに飽きたパターンでいうと、わたしが主体の分配によっていくつかの景色や現象を与えると、そのうち何割かの人は、その景色や現象を自分の霊性ていどのものだと思いたがるものだ、けれどもそれを自分由来のものと思い込むときっちり呪われるので、そのパターンは絶対にやめたほうがいい、つねづねそれらの現象は「おれのもんじゃない」とおれ自身が言っているのに、それをヨソの若造が自分のものだと思い込みたがる脳みそメルヘンはいいかげんにすることだ、おれはいつも「感謝はしなくていい」「信仰もいりません」と言っている、おれはいつも「出来る」「出来事(HAPP-Y)」への手続きを与えようとしているだけだ、おれが脇に立って祈りを代行するだけで「あっ、出来る」となることを、いよいよ「なぜか」と単純に考えてみたらいい。
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ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 12/2更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第百二十三回】12月6日(金)19時〜19:00~検討中、20:00~マイレッスンスタジオ
【第百二十四回】12月7日(土)19時〜19:00~マイレッスンスタジオ
【第百二十五回】12月13日(金)19時〜@19:00~マイレッスンスタジオ(予定)
【第百二十六回】12月14日(土)19時〜@19:00~マイレッスンスタジオ(予定)


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第99回】12月28日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第100回】
1月18日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

【第101回】2月15日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


クソほど学ぶ日々はどうです


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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WS報告065(4)/次の方程式の解を求めなさい2

っかくなので、多くの人が、少しでも「求める」ということへ傾きますように。
 "誰でも解ける" 、連立の二次方程式を以下に示すので、ぜひその解を「求める」ように、求めるというのは「祝福プリーズ!!」ということであり、何も宗教くさいことではない。
・ x + y = 10
・ xy = 25


方程式の解き方を覚えている人は、そのとおりの手順で求めればいいし、方程式の解き方を忘れた人、またその解き方がけっきょくわからなかった人も、ただ「求める」という魂を忘れてはいけない。
「求める」というのは魂の問題なのだ、たとえ試験解答が0点でもかまわない、正解が得られないとテストは0点だが、それによって「求めなかった」ということにはならない/むしろ、解法を暗記してしまって、求める魂なしに機械的に作業する人のほうが「求める」ということから離れ、祝福から見放されてしまうだろう。
なつかしい解法を思い出せば、要するに「代入」すればいいのだから、 y=25/x であり、x + 25/x = 10 だから、両辺に x を掛けると x^2 +25 = 10x 、これを移項すれば x^2 -10x + 25 = 0 となり、あとはよく知られた形で因数分解すれば解は得られる、もちろん二次方程式の「解の公式」に当てはめてもいい。
これは "誰でも解ける" 方程式だ、学力のない人も己の手をじっと見なさい、左右の手の指、その指の数を足すと10だし、その指の数を掛け合わせると25だ、先に示した方程式は「足すと10になり」「掛けると25になる」としか書かれていない。

数学で得られるのは解であって点数じゃない。

点数は、アホの生きものたちの欲(うぬぼれマウント欲)を煽るために設定されている仮想エサに過ぎず、だから高得点を獲る者にもアホが大量にいるのだ、アホはこの仮想エサに餌付けされて跳ね回るのであり、彼らは真に方程式の解を「求めて」はいない。
事実、今あなたは、先の方程式の解を得たところで誰に何の点数をもらえるわけでもないが、かといって方程式の解を得たことは完全に無意味だったろうか? 少しでも解を「求める」という魂があった人は、その解が己の両手の指と重なったときに、理由のないよろこびを得ているはずだ、この理由のない祝福が何なのかは誰にもわからないので、古くから人は「求めなさい」と言った。

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WS報告065(3)/次の方程式の解を求めなさい

めれば与えられる、という聖書の言い方がある。
求めれば与えられるということ、つまり求めて祈れば祝福が与えられるというのが聖書的な言い方だが、今、祈るという発想を持っている人は、漠然と祈るというイメージしか持っておらず、「求める」というプロセスがないので祈りが発生しない。
何も求めずに祈る、というようなイメージがあり、このタイプは自分で清廉潔白なつもりでいながら、その中身はルシファーのごとく傲慢さに満ちているのだが、当人としてはそのことに気づけない、そうした自分にまるきり都合の悪い情報には人はなかなか気づけないものだ。
人間には「欲求」といい、「欲」と「求」があるのであって、「求める」ということを持たない人は、ただ「欲する」ということに支配されているのだ、求めるということがない人は無欲なのではない、欲に支配されているから求めるという謙虚さと敬虔さを持てないのだ、このことを取り違えてはならない。

ためしに、何も求めずに祈っている「つもり」の人を用意して、その人に向けて、「われわれはこれから楽しい食事とドライブに行くけれど、あなただけナシね」と言ってみたとする、すると何も求めていないはずのこの人は、「えっ」となり、内心で「自分も行きたい」「どうしてわたしは連れていってくれないの」と思う。
内心ではそう思うのだが、当人は「求める」という謙虚さと敬虔さを持っていないので、健気に求めるということができない、これは遠慮がちなのではなく傲慢なのだ、「求める」というような "下位" の立場を採れないのである……まして、求めて与えられなかったとき、その屈辱をこの傲慢さが許しえようか? だからこの人は求めない、求めないからどうするかというと「我慢」する、我慢は字義のごとく吾我の驕慢だから、この人は傲慢さを内部に拡大していく。
「求める」ということをしない人は、無欲なのではまったくない、その正反対だ、傲慢だから「求める」という行為ができないのだ、そして「求」を放棄しているということは、必ず「欲」に支配されている、だから「求める」ということのない人は、もう若年のうちから内部的には欲深く、加齢と共にもはや処理不能の強欲さになっていく/あまりにも多くの人が、「欲」と「求」の区別がついておらず、結果的に欲のバケモノに成り果ててしまう。
中学のとき、誰だって数学の設問に、「次の方程式の解を求めなさい」という文章を見たはずだ、そのとき誰が方程式の解を「欲して」いただろう? 人はそれを "求める" とき欲の軛(くびき)から脱している/だから中学のとき、無心に方程式の解を "求めて" いた人は、そのとき何も欲していなかったし、方程式の解を素直に "求め" られなかった人は、代わりに他の何か、オシャレとか交際相手とか、チヤホヤされることやお金とか、オタクグッズやオナニーのオカズとか、何かを「欲する」ということに支配されていたはずだ、それほど「欲」と「求」は別のものだ。

目の前に方程式を置いたとき、欲に支配された人ほど、その解を求めようとしない。

仮にAさんの自室の机に、何の意味もない方程式を書いた紙を置いておくとする、Aさんはそれを目に留めたら、「なんだこれ」と紙をつまみあげるだろう、そのときまるきり興味のないゴミをつまみあげる人と、わずかにでもその方程式を解こうとする眼差しを向ける人がいる、その方程式が解けるかどうかの、学力の問題ではなく、ただそれを「求めようとする」眼差しがあるかどうか、この有無で人は大きく二分されている。
そこで、もしあなたが、「この人であれば、とっさに解を求めようとする眼差しを向けるかもしれない」という人を知っているのであれば、あなたにとってその人は信頼できる人だし、逆にあなたが、「この人はただゴミの紙をつまみあげるだけだろう」と確信できる人を知っているのであれば、あなたにとってその人は諦められた人だ/人がただ生きるという欲望と願望しか持たない生きもののカタマリに成り果てるとき、人は方程式の解を「求める」という性質の一切を失う、繰り返しこれは学力の問題ではなく、ただ「求める」ということの性質なのだ。

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WS報告065(2)/アハムは時間の神
んまりヤバめのタイトルはつけたくないのだが、役立てるためにはしゃーない。
「アハム劇場のコーナー〜」と言って、このところは毎回アハム劇場をやっている、何をやっているかといって寸劇をやっているだけでしかない、舞台も衣裳も音響もライティングも演出もない平場の板の上での寸劇だ。
ただ、アハム劇場のコーナー〜といって、おれが寸劇を実演すると、毎回その場でテキトーに創ったネタでしかないにせよ、目の前で観た人が呆然とするだけだ、大笑いするときは大笑いするものを、そうでないときはそうでないものを、とにかく毎回魂を打たれているのはおれじゃない、いつも呆然としている各員のほうだ。
「アハムは出来事の中にある」と毎回言う、出来事とは何かといえば「ハッピー」だ、「happ-y」という語の成り立ちがそうなのだからしょうがない、ではアハムとは何かというと「わたし」だ、誰でも知っている「わたし」という現象、誰でも知っている "はず" の「わたし」という現象……それが "分配" されるから、フィクションのはずの寸劇がなぜか自分の「わたし」にも体験される、それでいつもみんな呆然とする、「わたし」が寸劇の作中世界を体験してしまうので、その時間は自分がワークショップにいることを忘れている(だから毎回、おれの実演はラストにしないといけない、でないとみんなワークうんぬんを全部忘れてしまう)。

アハムは「わたし」であり(ウパニシャッドにそう書いてあるのだからしゃーない)、その「わたし」は出来事の中にあるのだが、これは言うなれば、アハムは時間の神と捉えてもいいかもしれない、あくまで便宜上の捉え方だが/つまり、「わたし」という現象を、時間継続的に保持していると思い込んでいるほうが悪い、そっちの思い込み実感のほうが誤りなのだからどうしようもない。
 "時間継続的な保持していると思い込んでいる" ということは、つまり「記憶」ということだが、どうして記憶を根拠に「わたし」を認識しているのか、そのことのほうがどう見ても誤っている、なぜなら記憶をたどるかぎり誰だって「わたし」の出どころはわからないからだ、何年の何月何日の何時に「わたし」が始まりましたなんて記憶を持っている人は世界に一人もいない。
それはつまり、「わたし」という現象が記憶と異なる領分にあるということなのだが、それでも一般には記憶の中に「わたし」を認めようとする、それはなぜかというと、「記憶」というのは生きものの装置だからだ、「先週このキノコを食ったら腹を壊した」ということを記憶しておくと今週生きるのに有利だから、生きものの都合(つまり利己的遺伝子の事情)によって記憶という機能は具えられている/それは生きものの機能であって「わたし」ではない。
だからこそ、そんなもん、「生きる」という機能を一時的にオフにして(別にワークショップ中に死なねーよ)、誰が誰というような記憶もオフにして、つまり時間の経過すべてを無かったことにして、そこに生じる出来事ハッピーをもとに「わたし」が現れればいい、このアハムに拮抗阻害しているのは「記憶」であり「時間」だ、五秒前のことが現在のことに関係していると思っているのだろう、時間軸上で関係があるのはすべて「生きる」という都合においてのみであって、五分前にメシを食ったら現在はまだ空腹でないということにすぎない、そんなもん「わたし」という現象には何の関係もない、「わたし」という現象は時間軸と無関係に存在しており、事象前も事象後も関係なしにずっと不変のまま存在している。

地平線をどけたら太陽が「出現」するように見えるだけだ。

別に太陽がパンパカパーンと出現しているわけではなくて、地平線が太陽を隠しているだけだ、太陽は地球よりずっと前からある、それと同じように、時間と記憶をどけたらアハムが「出現」するように見えるだけだ、当たり前だがアハムは時間をどけた向こう側にいる。
じゃあなぜ時間がどけられないかというと、自己愛があるせいだが、この自己愛がどこから出て来ているかというと、生きものの都合なのだ、生きものは自己遺伝子とその子孫が大事で、それ以外はどうでもいいというのが遺伝子の本音だ、この本音は太陽がブチギレてフレアバーストでも起こせばすべて黒焦げのご破算になるし、そうでなくても百万年もたてば自分の遺伝子やら子孫なんかはもう残っていないのだが、にも関わらずこの自己愛が終わりのときまでずっと自分を支配し続けることになる、なぜそんなことになるかというと、本能うんぬんではなくただ自分が何も「求めない」からだ、「求」めないからずっと「欲」の言いなりになっている。
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WS報告065(1)/王、および貴族について
週は特に「王」をやった。
王の特徴は、第一に「自分が言い張ることでしか成立しない」ということにある。
別に王にかぎらず、政治制度が拘束力を持つのは二代目からであって、初代はどんな政治制度も「言い張る」しかない、なぜなら王であれ議会であれ、それを承認する機関がまだないからだ、よって政治制度の初代はすべて追認に依存する「でっちあげ」にならざるをえない、このことがわかっていない人はすべての社会科・歴史を学ぶ意味がない。
そして王の特徴は、第二に、「出世する先がない」ということだ、王は「言い張る」ことからいきなり王になるのであり、王になったらその先はもう出世がないのだ、王には上位がない、そして王が辞めたら王国が消えてしまうので、王国あるかぎり王は王をやめることもできない/だから王というのは、身分が上がることもないし下がることもないのだ、もはや「何かになることがない」ということ、ずっと王でありつづけ、それ以外のものには理論上なりようがないというのが "王" の性質だ。

第三の特徴は、王国においては、あらゆる人・物・生物・分子・原子・素粒子のひとつにおいてまで、すべてが王のために存在するということだ。
王は王国の唯一主体・主権であるから、王国と王そのものは「合一」である、つまり王国に吹く風は王そのものであり、堅牢な建物、荒れる河、狼の遠吠え、ゆきかう自動車の喧噪であれすべてが「王」だ、王国の隅々に到るまで「わたし」でない箇所はどこにもない。
よって、王国において王は、王であると同時に「王国のすべて」そのものであり、王は王国において何かになることはできない、勝ったり負けたりさえできない、王国において主体・主格・主人公はひとつしか存在していないのだから、わたしとわたしが戦って勝ったり負けたりはできない、王はそのように王国そのものと合一するということだから、そこまで完璧に王は「何かになることがない」ということになる(それが視えていなければ王ではない)。
具体的にワークショップでは、「王」と、そうではない「庶民モード!」を区別して実演するが、庶民は常に何かになろうとする、出世しようとしたり勝利者になろうとしたりする、王にはそうした「何かになろうとする」という現象じたいが成り立たない、すると「王」の世界においては、具体的にまったく一般には未知の現象が起こってくる、「ななな、なんじゃこれ」「え? あ? は? なんで?」と、周囲も笑わせながら、何もされていないのに地面にへたりこんだりする。

劣等な人は庶民であり、優等な人も庶民である。

「王」と「庶民」では、レベルではなく所属する現象そのものが違うので、いかに優等な人でも庶民モードからは逃れられないのだ、だから優等な人もずっと意味のないマウント合戦をしている、そのまま死んでいくだけになってしまう、王に帰属できない人はいかなる優等も劣等も無意味なマウント合戦にのみすべての生を費やすしかできないことを看破せねばならない、その看破は生における最大の恐怖である。
現代、あまりに多くの人が、優等さの蓄積で自分が貴族たりえようと目論見、見当違いの、それだけに憐れさの募る庶民ぶりを白日に晒している、どれだけ意識を高調させて取り繕っても、内実を突き詰めれば自分は「無様」なはずだ、庶民モードの謎も解けていないのに、自分の無様さがなるべく覆い隠されるように必死に取り繕っている/すべては無駄なことだ、王への帰属無しに貴族が成り立つことは言葉の定義からしてありえない(社会科の先生に聞け)、賊なる庶民モードがマウント合戦の不毛と泥濘から逃れるすべを持つことは決してない、「王」という現象の権威に直撃されてゲラゲラ笑ってへたりこんでいるのが唯一貴族の入口だ。
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WS報告064(2)/ハンドサイン法ふたたび
れないように自分でメモしておきたい、ここにきて「ハンドサイン法」がふたたび注目されている。
ハンドサイン法といって、何もむつかしくはない、テキトーにピースサインでも挙げて「いぇーい」とやって呼応させるだけなのだが、実はこれ、厳密に出来るかというと、厳密にやるには相当正しい仕組みを体得している必要がある、インチキのノリでやっている「いぇーい」とは違うからだ。
ハンドサインを使うことで「いぇーい」を呼応させる、つまり人を動かすことになるが、そのことが成り立つためには、「自力で人を動かしたりはできない」ということがわかっておらねばならず、徹底的に「自力では何もできんわw」ということがわかっていないといけない。
ピースサインでも何でも、ハンドサインを挙げて、空間に示したサインによって空間を使うということが、「祈り」の最小単位だと言える、ここに来てこのワークが必要性を増してきたので、忘れないようにここにメモしておこうと思った。

ふつうの感覚だと、まず「ハンドサイン法を使えば当然いけるっしょ」とは考えない。
ふつうの感覚だと、まず「よっしゃ、がんばってやってみよう」と考える。
当人が「よっしゃ、がんばる」のであれば、それは「ワテがんばります法」であってハンドサイン法ではない。
だから、いつもわかりやすく言っているように、さっさと偉大なるおれさまの言うとおりの法に従ってやればいいのだ、個々人のがんばりなんか偉大なるおれさまの説き明かしたる法に一ナノも及ばないとはっきりわかっていればこの種のワークはあっさり成り立つ、だいたいこの世界というクソデカ空間より偉大な個人などいた試しがないのだ、もしそんな奴がいたらそいつはもう個人ではない。

自我を使わない/代わりに、空間も歴史も言葉も音楽も全部使え。

ありとあらゆるものを使え、ありとあらゆるものだけを視よ、人に何かをさせることは出来ないので、人に何かをさせることはない、自分が何もしないようにだ、プレイヤーも何もしない、何もせずに済むということが救いで、ただありとあらゆるものが、ありとあらゆることをするだけ、それが一番助かる、それ以外にまともなことの方法などない。
人と人のつながりなんてウソだ、いや正しく言うと、人と人のつながりなんて必要ない、もともとひとつの主体だけがありつづけ、それだけが残り続けるのだから、分断されたわれわれという錯覚を接着剤でつなぐようなまねはしなくていい、ハンドサインが頭上に示されるということは、 "何も変わっていない" ということだ、だからハンドサイン法の習得は、それを必要としないということにそのままつながる。
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WS報告064(1)/小さなフィクションに大きな秘密

えてイージーに言うと、「フィクション魂」をやっているにすぎない。
フィクションというのは、ご存じのとおりフィクションだから、そのフィクションを「信じる」ということしか方法はない、フィクションはフィクションと宣言されているのだから、それをノンフィクション的に思い込む必要はないはずだ。
にもかかわらず、この単純なことが、やってみるとテンヤワンヤ、脳みそも意識も気持ちも情動も挙動も、てんでバラバラ、自分でわけがわからなくなるということが発見される。
金曜日はひさしぶりに、シンプルな小劇場、「つまづく人」をやった、フィクションとしてそれを上演するという、ただそれだけのことだ、ただそれだけのことなのに、なぜか人はただならぬ心身の混乱を覚える、まずはそのことを発見する、自分で宣言した小劇場の題目さえ「信じる」ということが成り立たないことに気づくのがスタートだ。

直観的に、「キミにはフィクション魂はあるか!」と訊けば、大半の人はなんとなくノリで、「あります!」と答えるだろう/「ありません!」と答える人は直観的に少ない。
フィクション魂はあると答えるので、「よし、じゃあやってみろ!」と、一番カンタンなことをやらせる、「つまづく人」でもいいし、「向かい風が強い」でもいい、それをやらせてみると、実際には自分の意識にも全身にも、すさまじく放置されたままのノンフィクション依存がこびりついていることが発見される/そりゃそうだ、何十年も放置してきたし、それをどう調えるのかなんてこれまでに一度も聞いたことがないのだから。
「向かい風が強い」といっても、それはフィクションのことであって、スタジオ内に向かい風は吹いていない、快適なエアコンの風しか吹いていない、だから必死で「向かい風が強い」という状態を空想して、そう思い込もうとし、全力でその「ふり」をする、つまりノンフィクションの方法でねじ伏せて、信じてもいないフィクションを言い張ろうとする。
その結果、「向かい風が強い」というフィクションをやるだけなのに、やたら必死でマジで「シリアス」な状態が生じてくる、これは馬鹿馬鹿しいことだがそうなるのだ、一歩引き下がれば「こんな小さいフィクションにそんな大マジになる必要はまったくないだろ」ということは明らかなのに、自分がそれをしようとすると大マジの大シリアスの大感情的になる、するとそこには「向かい風が強い」なんて空間は見当たらず、「何か必死でやろうとしていて、独りよがりで目も当てられない人」だけが出現する、「 "向かい風が強い" だけでっせ」と言われたら、そのとおりだとわかるのだが、全身も意識も大暴れして処理の仕方がまったくわからない、そして何か絶望的に「死にたい」という愚痴まで湧いてくるのだった/このアプローチで正しい、それは小さなフィクションの向こうにも大きな秘密が隠されているからだ。

ノンフィクション上、膨大なことを「思わされて」きたので、もう小さなフィクションさえ「信じる」ことができない。

ノンフィクション上、膨大なことを「思わされて」生きるということ、これが生身と時間(および重力)の性質だ、生身には「実感」という機能があり、この実感の蓄積が時間経過と比例して増大していくので、われわれはただ「離れていく」、われわれにとって何もしていない時間というものはありえず、時間が経過する以上は必ず「離れていく」のだ/「離れていく」ほど、ますます手がかりは遠ざかってしまうので、なるべく手がかりに触れられるうちに、このナゾを解きなさいということ、時間と重力落下から脱するためのナゾ解きだ。
人は時間の経過によって老人になるのではない、老化は「離れていく」ことによって起こっている、どんな老人も晩年には「人生とは○○である」という確信を持つようになるが、この確信を得たときがすなわち、すべての手がかりが途絶えて、フィクションには接続不可能になった状態だ、老人はそうして生身から確信にたどり着き、本当に得たのは確信ではなく「結論、もう何も信じるものはない」という状態だということ、そしてすべての実感を無に帰す死がやってくるので、最期に無を確信する、つまり最期にちゃんと神仏のすべてを否定するように生きものは作られている/「向かい風の強い世界さえ無かった」ということだが、これは魂が救われている若い人から見ると「んなアホな」の一撃で粉砕できる、そりゃ冷静に考えりゃ、向かい風の強い世界はいつも春先に現れているっての。

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WS報告063(2)/伸びた奴から順に増長がない
術の説明に、ユウサクの手首を取ってみたところ、その感触におれは思わず「お前身体動くなあ!!」と、驚かされてしまった/触れた瞬間、全身がすでに消えるほうへ動くようにはたらいている、重さがまるでなく、筋金入りの柔術家みたいだ、たった一年半でよくここまで到達したものだ。
ニンジャ青年は、四肢の回旋(ねじり)が異様に上手くなっていた、ケチをつけるところがまったく見当たらないのだからたいしたものだ、あとは速さだろうか/それにしても、いちおうおれの打ち込みが視えているし、ぎりぎりで取れていないわけでもない、これだけでもすでにフツーのレベルではない。
色鉛筆はすでに、余韻法の女王という貫禄で、余韻法を始めると全員で見とれてしまうほどだ、そして SONICMOVE はますます若くなってしまい、とにかく遊ぶこと、初めから全身全霊でぶっ放すことに長け、どうしようもなく明るく、また「均一に触れる」ということにさすがという才能を示した。
合気道Aは、腕の力みが消えないと言いながら、いつのまにか合気上げはスパッと決まるのが当たり前になったし、入り身投げは音も立てずに取れるようになった、これらの偉大な進歩は、何によって得られたかというと、むろん偉大なるおれさまのおかげという一点にあるのだった、これからもひれ伏してテキトーに伸びゆくがいい。

もしおれが、ガラにもなく何かを自慢するとすれば、成長していく彼らを、一ミリも増長させていないということだろうか。
むしろ逆で、成長し始めた奴から順に、「ひええええ」と、増長の余地を失っているのが事実だ/正しい入口に入り、自分がその端緒を掴むと、逆によく視えるようになるのだ、「こんなんヤバすぎますやん」というのがはっきり視えるようになるので、とてもじゃないが「増長」などというアホの所業は、その発想ごと消し飛んでしまう。
伸びた奴から順に、「ひええええ」と、 "面白い" のだ、どういうレベルの現象があって、「こんな現象が本当にあるのか」というのを、目の前で、また直に触れて、恐怖して笑って面白くなっていく、それで毎回ワクワクしているというのが単純な実情かもしれない/おそらく「増長」というやつは、何も視えていない状態の人が、シリアスな気分に浸って、勝手に陥る心理現象なのだろう、少しでもまともに物事が視えている人はそもそも増長が発生する土壌じたいがない。
なぜかわからないが、ホンマモンに触れてホンマモンを獲得する人は、その指導を受けるとき、何か静かに「殺される」という感触を覚えるようだ、その典型例がユウサクと色鉛筆で、この両者は対極で面白い、ユウサクは「あっ、今から殺されるんだな……」と遠い目をして、色鉛筆は逆、ドキドキして目を輝かせ、殺される瞬間に光るような笑い声をあげて崩れる、それはきっと破壊と再生という、不死鳥モチーフに現れるところの象なのだろう/破壊と再生を繰り返してきた者に、そうでない者が及びうるはずがなく、破壊されないように粘ったり逃げたりする者もあるが、それは時間稼ぎでしかないし、強いか弱いかでいえば弱い側だ、けっきょく「オーマイゴッド」の極点を超えなければ人の魂は新しく拓かれない。

伸びた奴から順に増長がなく、代わりに自信を得た。

ここに自信と増長の違いがくっきりあるようだ、「増長」というのは何も視えていない者が勝手に陥る定番の心理状態で、一方「自信」というのは、自分に何ができるかということと、「これは無理っすwww」ということがはっきり視えているという状態だ/何というか、「ハイレベルなことは、ハイレベルな人にやってもらえばいい」というのが「自信」という状態で、増長というのは、どんなハイレベルのことも自分が出来なくてはいけないし、また根拠なく出来る気がすると思い込んでいる状態だ。
伸びた奴から順に増長がなく、代わりに自信を得、その目がやわらかく、吸い込む目になっていく、それは「視えているから目の力が抜ける」という現象のようだ、まだ何も視えていない人は、視えていないからこそ目に力を入れざるをえず、目が押す・睨む・目を剥くという状態になる、そして本人は何も増長したいわけではないのだが、増長しないと一ミリも動けないので、やむをえず増長していくしかないのだ、そしてどうしたら物事が視えるようになるかというと、やはり破壊と再生のプロセスを経て何かが視えるようになるのだろう。
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WS報告063(1)/アハムチェック等
曜日、シンボリック・フィクション法をやった。
われわれは日本国民として、象徴天皇制に社会契約しているわけだし、シンボリックフィクションぐらい具体的に把握できていたらいいなと思うし、また表現を志す人はこの土台があってよいと思った。
二人のプレイヤーをそれぞれ、フィクション側(ソウル側)とテラー側(気魄側)に分離して、いわば分業させるというようなやり方だ、このやり方には学ぶべきところが多く、またその学びやすさも優れている。
いちおう分業とは説明し、そのとおりに取り組ませるが、このことのやりやすさから考えると、もとよりこれは分担されるのが本来のやり方であって、おれがふだんやっていることのほうが「一人二役」という状態だと捉えたほうがよい、ふつう天皇と総理大臣を兼ねるようなことはしないし、皇帝親政がうまくいくケースは特殊な例を除いてほとんどない。

土曜日、ダブルアハム法、およびアハム・チェックをやった。
おれとしては単純に、アハム――自我とは異なる普遍的な「わたし」――の獲得と、その確認、といっても、それが得られていないという確認にしかなりようがないが、そのことのためにやりやすよう、わかりやすいようにやったつもりだが、アハム・チェックは結果的に、各員に「完全に処刑場だったwww」という感想を与えたらしかった、これはいつものパターン、おれから見て「ん? 何がむつかしいの」と、おれの側で各員の感覚が掴めないで現場が混乱するパターンだ、各員は一撃で憔悴してへたりこみ、ひさしぶりにはっきりしたパン祭り(パニック)も出た。
演技や芝居をしなくていい劇場、つまりわざとらしさがなく体験が共有可能な劇場を、その手法ごと「アハム劇場」と呼んでいるが、自身でそのアハムを掴む・その場で得るのはむつかしいので、おれが先に舞台に立ってアハムを入れ、そこに各員が登場人物として現れてくるというやり方、あとはアドリブで適当にやればいいだろうというやり方をした/けれどもおれがアハムを入れた舞台に入り込むのは、すさまじい恐怖と、死ぬ・殺されるという魂の直覚を受けるらしい(これがおれにとってはいつものことだから、そこに恐怖や死があるということがおれにはわからないのだ)。
極めて例外的なことに、おれが説明・試演したあと、ユウサク青年がワークに先立って各員の前に踏み出し、おれには視えていないことを代わりに各員に伝えるように、「これは危険な領域です」「焼き殺されます」と、各員に警告した、これは完全に彼の判断が正しく、またそのように先に警告したのは英断であり勇敢だった、いつのまにか直覚にも意志にもすぐれた青年になったものだ、頼もしいことこの上ない。

アハムがアハムを見る幸福。

理論はカンタンで、「エセわたし」を消して「本わたし」を入れるというだけだ、ただこれだけのことがなぜ困難かというと、われわれが「わたし」という現象を誤解の上で「個数」でカウントしているからに他ならない。
エセわたしというのは、けっきょく具体と空間の分断によって閉じ込められた魂が、ドーパミンをむさぼるしか能が無くなった、という習慣の状態を指しているにすぎない、こいつに大量のドーパミンを与えたとて、そんなことが真の幸福たりえるわけがない/というわけで、金曜日も土曜日も、まるでこの世ならざるような遊びに入り込んで過ごしたのだった、まあそうでなくちゃな。
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WS報告062(5)/いちおう現在の統一理論
のところまだ誰にもわからないと思うが、いちおう統一理論の最新版を示しておく。
血に潜むマウンティズムは、隠すことはできても消えはしないし、消えていないなら隠すだけ無駄だ、じゃあどうやってこれを消すかという問題になる。
この問題の解法はいくつかあるかもしれないが、当ワークショップとしては、基本的に一つの方法に注目する、つまり「わたしがわたしにマウントを取ることはできない」という理だ、彼我があるのでマウントが可能なのであり、彼我がなく「わたし」しかないならマウントは理論上発生できない。
一方で、それぞれに「わたし」があるから、その「わたし」同士がマウントを取り合うのであり、またそれが逆転して、表面上の友好を偽装し合うのでもある、そしてその偽装は、チームを形成してけっきょく他のチームに対してマウント(生存有利と繁栄満悦)を取ろうとする動機に根ざしているに過ぎず、その結束の絆は何ら友情を本質としていない(ずっと先、やがて全員がそれに気づく)。

ではその彼我それぞれの「わたし」をどのように処理するかというと、彼我に習慣的に固着した思い込みの「わたし」(自我)ではなく、この世界にある「元々」のわたしという事象に接続を求める、この「元々のわたし」という現象を、区別のためアハムと呼ぶ、この呼称はウパニシャッドに由来している。
アハムというのは、ウパニシャッドにも書かれているように、この世界の「わたし」と呼ばれる主体性の現象の根源であり、元々はこの一つの「わたし」という現象が、見かけ上それぞれに分散されて「わたし」と思い込まれているにすぎない、元々「わたし」と呼ばれる主体性の現象はアハム由来よってしか生じていないが、この元々のものが生身の「呪縛」によってそれぞれ分断的な個と思い込まれたにすぎない。
よって、生身を縛りつけている呪縛を解除していくほど、生身に由来して思い込まれている「自我わたし」は、元々のアハムわたしと接続を恢復してゆき、やがて生身の呪縛解除が一定の極点を超えると、その瞬間には体感上、生身(本質的にそれは「認識」でしかない)が「消える」ということが起こる、するとこれに接触している人も巻き込まれて瞬間消えるということが起こる、このとき巻き込まれた側も直観的にアハム方向へ「何かある」ということを知り始める。
このようにして、手続きとしては、全身の呪縛を解放 → 生身が「消える」 → 触れていた人の生身(認識・思い込み)も「消える」 → 彼我が消える → 消えたら「無」か → 否、何か彼我を区分しない「わたし」という現象がある(※但し求める必要あり) → 彼我は消えたまま彼我はひとつの「わたし」である → わたしがわたしにマウントを取ることはできない → 血の超克 → 生きものを支配していた「世の中」ではなく、「世界」そのものが視えるようになる → 言葉、フィクションの側が元々の「世界」だと知り、「わたし」の所在が変わる……というふうに進んでいく/ただしこのことを、フワフワ思い込むことはただのアホであり、具体的に全身が、人を瞠目させる「なんじゃこれ!?」という現象を証さないかぎり何一つ認められない。

「すべての彼我は "元々消えているひとつのわたし" 」という、わかりづらさ、わからなさ。

但しこれは、わからないからこそ正しいのだ、「分かる」というのはそれ自体が分断なので、分かるということは彼我が分断されるということで、分断された彼我はマウンティズムの徒・談合の徒にしかならないのだ/「分かる」ということはまるで万能ではなく、「分かる」というのは無限を有限に分割する本質的には愚行を言うのだ、だから分からないものを分からないという性質のまま直接ディールできるようになるしかない。
色々むつかしいように言っているが、何かをごまかすためのむつかしさではない、カッコよくないのは論外だし、直接触れて「すげえ!!」と一目瞭然でなければだめだし、ラブでファンクで、かつ死ぬほど頭がよくないとだめだ、バリバリでかつやさしく、「え〜 帰りたくな〜い」というのでなければだめだ、「いい女で行こう」とブログタイトルに書いてあるだろう、ダセーものが逃げ込んで陶酔できる要素は一ナノもない。
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WS報告062(4)/血に潜むマウンティズム
代人は「マウント」を取るらしい。
おれには正直、生身をもってしても、この「マウント」いうことがわからないのだ、おれは病的にこれがわからないのであって、このことが周囲とのコンセンサス形成に障害をもたらしている。
正直なところ、おれには「悔しい」という感情もよくわからないのだ、たとえば釣り人が超大物のマダイを釣り上げ損ねて釣り糸がバレたら(切れたら)、そりゃあ悔しい……という、話は知っているのだが、おれにはそのとき「悔しい」という感情が起こらないのだ、なぜなのかはわからない、「悔しい」というメカニズムがそもそも体内に挙動していないという言い方しかできない。
おれも最近になって、人が実は割と本気で「マウント」を取りに来ているということを知ったのだが、知識としてそれを知っても、やはり目の前にするとおれとしては、その当人が何をやっているのかがよくわからない、どうしてもその直接の衝動を視認できないのだ、若い頃はおれにもあったのかもしれないと考えるのだが、正直なところおれには若い頃なんてものも存在していない/そもそもおれは幼稚園児だったときから、徒競走の号砲を鳴らされたときにも「???」とスタート位置に立ち尽くすガキだった、先天的にそういう欠損があったのかもしれない。

生きものの血には、生存本能として、勝とうとする衝動、勝って生き残ろうとする衝動、また勝利して繁栄する自分として良い気分に浸らせてくれと絶叫する本能が仕込まれていて、これが「マウント」を取ろうとするはたらきとして生じてくる、これをワークショップでは「血に潜むマウンティズム」と呼んでいる、本当は潜んでいるわけではなく露骨にでしゃばっているのだが、なんとなく語呂がいいし、当人としては隠しているつもりらしいので、いちおう潜むという言い方を充てた。
このマウンティズムを引っかけてやると、いわゆる合気のような現象がやすやすできる、おれは合気道なんか習ったことがないのでそれを合気呼ばわりする資格は無いのだが、その上でどうか便宜のために合気呼ばわりすることを許されたい、いちおう合気道経験者がよろこんでスッテンスッテン掛かっている技ではある、そしてワークショップ中に何度も言っているように、こんなもん技術でも何でもなく、ただの「体質」の問題でしかない、体質にマウンティズムが潜んでいるのでそれを引っかけてやると自身の力でペシャンコにつぶれていくだけだ。
手で押してもいいし、指で押してもいいし、気魄を一ミリかけるだけでもいいし、あるいは「おれのほうが偉くね?」と言語で言うだけでもいいのだが、そのときわずかでも血のマウンティズムがはたらくと、マウンティズムは必ず「勝つ方」「勝とうとする方向」に動くのだ、それはごく微細な、静寂の大ホールで一人が唾を飲むていどの硬直でしかなかったとしても、勝つ方へ挙動が起こってしまう以上、それはあっさり技に取れてしまう。
技術の原理はきわめて簡単で、相手は血に潜むマウンティズムによって勝つ方に「動かざるをえない」のだから、こちらが「負ける方」に挙動してやればいいのだ、すると相手はどうしても、勝つ方へ動くことをやめられなくなる、当人は自身の「勝つ力」「勝とうとする衝動」によって、こちらの足許へペシャンコになるのだ/それで何度も言うように、こんなもの技術でも何でもなく、ただの「体質」だ、おれは体質的に負ける方へ挙動することに何の引っかかりもないので、マウンティズムの側は意気揚々とペシャンコになっていくだけだ、だからこれは技術的に訓練できることではなく、できるのはただ自分の体質に直面することだけだ。

何度やっても自身の血にマウンティズムが潜んでいることが白日に晒されてそのたびに本人が大笑いする。

このワークは、自分の身体が、何の自覚がなくても、強制的に勝とうとする方へ動いてしまうということ、および、どう努力しても、自分の身体を負ける方へは動かせないということに気づくためのワークだ、何の自覚もなくても、生まれつきそういう体質であって、しかも放置してきたその体質はコテコテに濃厚化しているのだ、それがどれだけアホだとわかっていても、体質だから消えてくれない、ごまかすこともできない(「体質」はごまかしようがない)、この白日に晒された己の体質に直面して「どうしますか」と考えるためのワークだ/どれだけ技術的に鍛えたふりをしても無駄だ、「お前ってすごい田舎に住んでいるよな」と言われただけでマウンティズムが一ミリも動くのなら、そんなもんあっさり技に取られてしまう、そんなもん帯の色がどれだけ真っ黒でも役に立たない。
人のほとんどは、A.教育が足りなくて、マウンティズムが露見している、B.教育がほどこされ、マウンティズムが隠蔽されている、という二つに分類されてしまい、どちらにしても内部は血のマウンティズムが支配しているので、歯に衣を着せずに言うと、ものすごく生きる値打ちのない時間を生きることになってしまう、マウンティズムというのは人の文化ではなく獣としての哺乳類のままだからだ/もう一度申し上げると、内部がマウンティズムに支配されているただのエセ人間なので、本当に生きる値打ちのない時間を生きてしまう、これがまったくウソでも誇張でもないので――またずっと先にやがては全員が知ることなので――はっきりと申し上げている、血に潜むマウンティズムが一生の値打ちを完全なゼロにする、しかもそのマウンティズムは血に潜んだまま通常は生涯消えてくれないのだ。
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WS報告062(3)/消えるというが元々消えている
術的な身体の動かし方をすると、身体の一部なり全体なりが「消える」ということが起こる。
消えるというのは、目で追えなくなるということで、それは目がものを捉えて追うという現象を生じなくなるということだが、これは身体が呪縛を離れて最善の挙動に向かうと自動的にそこへ行き着く。
ただここに来て浮き彫りになるのは、けっきょく消えるも何も、正しくはすべてのものが元々消えているということだ、元々消えているものをわざわざ消すというのはちょっとわざとらしいが、まあ段階的な手続きとしてはしょうがない。
おれが消えると、おれを認識で捉えている人も消えてしまうので、まあ言葉だけが残る、言葉が世界になって、それで初めて「言葉」の現成となるが、このことはまだおれにしかわからないだろう、大家と店子が消えたら建物だけ残るということと大差ないのだが、理屈はそうでも全身がそれで当たり前というふうには感じないしそのように挙動もしないだろう。

無我の境地なんてまぎらわしい言い方があって、この言い方が万事の限界を表している。
無我の境地というが、そもそも我なんてものは存在していないのに、それを無にして無我とか言っているのは、土台がハズレなのだ、何億トンの自我があってもそれは「無」なので、それをいちいち無我にする必要はない/まるで「ゴミを無価値にする」というような混乱した言い方で、それはもともと無価値だからゴミなのだ、無我の境地というのはそれぐらい眠たい言い方になる。
元々が消えているものだから、それをいちいち消すということは本当は必要なく、それでも一応わざとらしく「消えて」「消して」すると、おれとの関係性のまま消失して彼我が消えるので彼我はひとつのアハムになる、アハムというのは主体のことだがそれは元々この世界にある主体のことなので、けっきょく元々このひとつの主体を見かけ上だけ分配して認識時空に生きるということを現すしかないのだ。
そんなことをして何か意味があるのかどうかは知らないが、それを言えば刑務所に入っている人だって何か意味があると思って刑務所に入っているわけではない、単に刑期を課せられたから刑務所に入っているだけだ、おれはなぜ自分に自我の要素をあてがわれているのかよくわからないが、あてがわれているものを否定する気にもならないので、せいぜいまともにやる、なぜ否定する気にならないかというと、おれに自我の要素をあてがったのはけっきょく主体性である「わたし」だからだ、わたしが自分に課したものを否定するようなことは起きえない。

元々が消えているのだから、「元々」にすれば消える。

ワークショップの具体的なメソッドだと、「呪縛からの解放」であって、身体的にはメインとして関節の解放、解放、解放……血の解放も不可欠なのだが、こちらはメソッドの問題じゃないので困っている、まあそれはいいとして、「呪縛からの解放」というのが当ワークショップの特徴的な言い方であり、解放の果てに瞬間的な「消える」という現象があるのだが、これも理論上はただの「元々」だと言える、ただ「元々」の中を動く、むしろその動きの中で「元々」を得させようとしているのかもしれない。
すると、その身体に触れていた人も、巻き込まれて消えてしまい、巻き込まれた人も瞬間「元々」の中を動かされる、それで「わあ」と言ってスッ転んだりするのだが、そこに「元々」の体験がある――自分まで消えてスッ転ぶ――ので、その「わあ」がよろこびを帯びるという仕組みだ、われわれは彼我を含めて消え去ろうとしているのではない、彼我が消え去るのは「元々」であって、有るものが消えるのではないのだ、元々消えたものが在ったということだ。
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WS報告062(2)/時間と空間を認識しているので認識時空(当たり前)
を話せばいいのかよくわからん。
ひとまず全てが順調で、順調以上のものだ、バンザーイというよりない。
だがそのバンザーイとかいうのも、まあ別にいいのであって、だから何を話せばいいのかよくわからん。
われわれは認識でこの世の中を錯覚しているが、認識はもともと認識なので、この世の中は世界ではない、認識という特殊な――特別に小さく区切られた――空間であって、とりあえず「認識時空」と呼んでいる/認識時空といって、われわれは時間や空間を認識して捉えているのだから認識時空で当たり前だ。

認識時空で当たり前なのだが、正直、僕は認識時空を捉えていない。
何か、けっきょくよくわからないのだ、僕は認識時空からこの世ならざるものを探し求めるという発想にどうしてもならない。
認識時空を認識しなくても、「世界」はあるので、探し物をする気になれない/説明上、本来的な主体を「アハム」と呼んでいるが、それだって僕にとってはアハム「しかない」のだから、いちいち名前を付けて呼ぶのも正直なところわざとらしさの手間がある。
大地に雨が降り注ぐと、雨は土に染みこむだろうが、別に選択的に染みこんでいるわけではなく、雨は土に染みこむし、染みこまないとしたらそこは土ではないのだ、岩石なのだろう、別に岩石が悪いということではなく、雨は岩石には染みこまない、土には染みこむという、ただそれだけのことだ、土と岩石を並べてする研究はない。

つながっているもののつながりを考究する必要も動機もない。

わたしという現象はわたしなのだから、発見ということは特にない、わざわざ誤解を元にして正しいことを発見するというようなわざとらしい手間を挟む気にはなれない、雨がすべての土に染みこむのはそれが雨だからであってそれをわざわざ分割する話の発端はない。
すべてを楽しくやっているが、仮にそれをすべて哀しくやったとしても、楽しいとか哀しいとかは認識だから、何色の認識でも大差はない、おれは認識時空の外側のことしか考えていない/おれは認識時空以外のことを知っているのではなく、認識時空の外側のことしか知らないだけだ、うまくいってようがうまくいってなかろうが認識は何色でも等価だが、かといって祝福がある以上うまくいかないということはありえないのだ、だからおれはそのことについて考えない。
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WS報告062(1)/「栄光」か「自己満足」のどちらかに尽きる
ベルに意味はない、ハイレベルだから何というわけでもない。
ハイレベルだと、人からの評価がいいだけだ、また価値観の中で上位に置かれるだけだ。
しかし、人からの評価やら価値観やらに「栄光」はない、栄光は栄光という光そのものにしかない。
われわれの営みはすべて、けっきょく「栄光」か「自己満足」のどちらかに尽きる、おれは自己満足には興味がない、なぜなら自己にはもともと満足しているからだ/栄光が栄光を現すこと、証すこと、ただそれだけであって、「人」から評価されることには何の意味もない。

世の中には栄光そのものがない。
そりゃそうだ、物理的に「光」というものを、世間が作りだした試しはない、だから世の中を探し回ることは初めから栄光を諦めているに等しい。
いわゆる承認欲求というものが、世の中では流行っているらしいが、それは世の中だから流行るのであって、栄光には関係がない、おれは栄光が栄光を証す以外のことは、けっきょく何をやっているのかよくわからないのだ。
栄光が栄光を証すこと、それだけがおれの祈りであって、祈りというのはそれ以外には理論的に成り立たない、祈りとは完璧な想像力のことだから、そもそも世の中とは無関係のものだ。

ワークショップの向こう側で遊んでいる。

おれがワークショップの向こう側で遊んでいるのを、みんなうっすら知っているので、それが幸福で、みんな来ているのだ、じゃあみんな何を訓練しているかというと、同じくワークショップの向こう側に行きたいのだ、そのために訓練している/ならば初めからそれを狙っていたほうが最終的に効率がいい。
栄光が栄光を証すためには、栄光という光そのものが降ってくるしかないのだ、そんなものは世の中にないので、世の中以外の世界が降ってくる必要がある、それはワークショップの向こう側だ、そりゃ世の中でワークショップしていて歓喜に到達できるなんて構図はねえよ、レベルアップしても世の中で脚立の上へ上がるだけだ、脚立の上に栄光はねえよ/栄光の国はレベル差があっても降り注ぐ栄光は平等だ。
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WS報告061(4)/生きる力を爆発させる
「生きる力を爆発させる」というと、文言として大変ダサく感じる。
が、実際に目の前にしてみると、生きる力が爆発していない奴のほうが、目も当てられないほどダサいのだ、何より声も表情も挙動もダサい/生きる力が爆発していないということは、エンジンパワーが得られていないということだから、人力車にスポーツカーのカウルを嵌めたニセモノのようにダサいのだ、本人がそれでクールなつもりを気取っているようでは、直視すると痛々しいほどダサい。
生きる力というのは、事実として大地から得られているし、それ以外に得られるルートなんかないのだが、この正規ルートから生きるエネルギーを仕入れられない人は、体内でオナニー呪術をして非正規品のエネルギーを自家捏造するしかないのだ、それがダサいし、しかもこの捏造エネルギーはけっきょく祝福の方向にまったく使えないので、下卑た方向にしか使えない、だから輪を掛けてダサくなる。
一見、きれいなおねーちゃんが、センスバリバリで振る舞っているように見えても、僕と同じ平場で、ノーメイクで、衣裳もなしで、音楽や照明の演出なしに、また映像を下降することなしに、さらに何の道具もなしに、僕と同じだけ二時間、動画のカメラの前に立ってみたら、見た目だけきれいなおねーちゃんが、どれだけ空っぽで、とてつもなくダサい存在かが明らかになる、見た目だけきれいなねーちゃんが、けっきょく乳と尻をチラつかせて歓心に取り入るしかすることがないということや、スカした兄ちゃんともども、けっきょくは自分をなんとかマシに見せたいという小人の衝動だけに駆り立てられて、つまりは黒歴史しか生産できないということが明らかになる、これはどうしようもない事実なのだ、

生きる力は、最下層の力(胴体の底に授受されるエネルギー)だ。
これを、少しでも上位の層に引き上げて、発揮できるか、爆発させられるか、ということが、単純にいって「祝福」になる。
まあだから、実際に各人がダサいかダサくないかは、生きるエネルギーがどの層まで引き上げられて爆発しているかを、衆目に晒せば明らかになる、本当にひどいぐらい明らかになる、プライドの高い人は本当に自殺を考えておかしくないほど……もちろん自殺する前にやめさせるし、自殺するぐらいならちゃんと事実を歪曲してこれまでどおり自尊心の保護とうぬぼれの中を生きていくほうが健全だが、われわれは実はそれぐらい危なっかしい弱々しさで、被覆に守られてごまかされながら生きているのだ、自身の「生きる力の接続と爆発」だけでダサいかダサくないかを衆目に開示されたら大半の人は耐えられる状況にない。
生きる力は大地のものであって、「空から生きものや食い物が降ってきた試しがあるか?」「ぜんぶ地面から "生えて" きているだろ」と僕は言うのだが、この大地と接続して「生きるエネルギー」を得ていない人は、どうしたって呪術でニセエネルギーを生産せざるをえない、そして人がダサくないというのは、この生きるエネルギー(最下層)が、第五位や第六位の、ユーモアや知性にまで引き上げられて爆発している人のことを言うのだ、そんな人はきわめてまれで、ほとんどの人は第二位の「意志」のエネルギーにさえ引き上げられていない、よって最下層のエネルギーは最下層のままで、つまりただの「生きもの」のまま、地面から生えてきて地面にフンを落とし、死んで土に還るということしかできない、それではつまらんしまずいだろうということでこんなワークショップなんてことをやっている。

僕が「どけ」と言うだけで、目の前の人が無条件で飛びのく、という面白いワークがある。

I said 法と呼んでいるのだが、これは実際にやられてみると、確かに言われたとおり、無条件で飛びのくから面白い、なぜ無条件で飛びのくかというと、「どけ」という僕の側も、意識を介在させていないからだ、大地の生きるエネルギーが第二位の層に引き上げられ、そのまま出力されているから、もう上半身さえ関与していない現象で、言われた側も上半身と関係なく、先に下半身がそこを「どく」のだ、それで笑えるぐらい「飛びのく」ということが起こる。
そして、これは呪いを一切使っていないので(呪いは逆方向、上層の成分を下層に落として使うことだから)、「どけ」というひどい言い方だが、誰もそれについて不快には感じない、不快に感じるメカニズムには該当しないからだ、それどころか実際には、「どけ」と言われてどいた側が、「やった」と無条件のよろこびさえ覚える、それは知識はなくても「祝福」に属して自分が挙動したことを魂が直接感じているからだ、大地のエネルギー(最下層)が第二位のエネルギー(意志・怒り)に引き上げられて発揮されたものに、自分が触れて準じたので、実際「祝福」という感触があるのだ/このことを各員は、やってみるし、やらされるのだが、自分が「どけ」「どいて」「どいてください」と言ってみるたび、その声が実にダサいということに打ちのめされる、もうそうして打ちのめされるのが当たり前になって、「そりゃワークショップだから」と引き受けているのだから、各員もいいかげん肚が据わってきたと思う、フツーの人なら直後しばらく動けないぐらいショックを受けるところだ(良くも悪くも、そのあたりは鍛えられたよなあ)。
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WS報告061(3)/理解ではなく了解させる
心誠意法の一種で、相手に声・言葉を届けるというワークがある。
今回は、それを明確にするために、声を向ける方向を数センチ横にずらす、ということをやってみた。
数センチ横にずらすだけで、その声は「自分には向けられていない」とはっきりわかるようでなくてはならない、その後その数センチをスライドさせ、はっきり目の前の人に向けると、ウオッとびっくりするほど、その声は「自分に向けられている」「自分に届いている」ということがわかる。
全身および全霊を、ひとつの方向へビタッと向けること、「数センチ横にずらして、そこに立っているオバケに向けて言うつもりで」、言う内容はこんにちはでもこんばんはでもいい、このことをビタッとやると、目の前の人は自分の数センチ横のうしろの誰かいるのかと感じて思わず振り向いてしまうぐらいになる、その方法をこんどは目の前の人に向けるわけだ、「オバケと言ったけど、人それぞれの中にも、霊魂があるのだとしたら、目の前の人の中にもオバケがいるのだからね、そのオバケに向かって言わなきゃだめだ」。

I said の方法とも関連しているのだが、全身全霊を、「思う」のではなく「向ける」ことで、人に言う・声を届ける。
言う内容はなんでもいいのだが、たとえば「ワークが最優先」というような、当たり前のことを言ってみたりする(ワークショップ中なのだから、ワークが最優先で当たり前だ)。
そしてこの誠心誠意法がまっすぐ相手に届いているとき、「ワークが最優先」という声・言葉は、相手に「理解」されるのではなく「了解」されるようにはたらく、「うん、わかるよ」という理解が得られるのではなく、「はい、わかりました」という了解が応答される。
「誰でも "理解" はするんだよ、でも理解しているだけだから、機能しないの、理解はしていてもそれは機能しないから、だから上司は部下に圧力をかけるんだね、言われた通りにしないとイヤな目に遭うぞという圧力を、そうして無理やり理解を機能しているふうにしているのさ」「だから理解じゃなく了解させないといけない、そのためには直線で声・言葉が届いて、直接 "了解" を生成しなきゃだめだ」。

自分を人に「向ける」ということが、ばっちりだった人は一人もいないし、今でもばっちりな人は一人もいない。

実はこんな単純なことが、やらされてみると出来ないのだ、ほとんどの人は初め、自分のできなさぶりにびっくりする、そして「これはまずい」と感じて本腰を入れるのだが、本腰を入れたぐらいで身につくかというと、それさえ通じないのだ、そこで「本気で取り組めばなんでも出来ると思っていた」という自負や思い込みさえ砕けてしまう、そこで「目が覚めた」と感じる人と、「何も見なかったことにして意識を眠らせよう」と考える人に分かれる/そのどちらがいいとか正しいとかには、僕は口出ししない、それは僕の口出しする領分になく、ただ僕はこういう現象があるというのを実演して示すだけだ。
ワークのレベルとしては基本に属するものだが、それはベーシックというだけでイージーというわけではない、少しでも届くようにと全身で取り組むと、あっというまにエネルギーを使い果たす、そのことを繰り返していくうちに、このことを常時易々とこなしている人を見て「どーなってんだ」とおののくようになる、そうすると自分の生きている中で、はっきりと「やること」が出てくる、それは自分の値打ちを計って時間だけが過ぎていく退屈な生よりはるかに楽しい。
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WS報告061(2)/スペックではなくて性能を上げる
の棒を使って、「触れる」ということの発見と訓練。
そういうマジメなこともやっているのだ、けっきょくそういうゴリゴリの学門の実践しか、人は本当には体得できないから。
「触れる」というのは手の性能で、ふつうの人はそこまで訓練していないので、「触れる」という性能が低い、だから「掴む」「当たる」をやってしまう、そうすると自分の手で人を動かすことはできない。
「触れる」というのは「触れたまま均一に動かせる」ということで、これが不均一になると当たる・ぶつかるになり、加えて動けなくなると「掴む」という状態だ、手の性能じたいは棒きれに対しても習熟するので、おれはよくワークショップ中は棒きれをなで回しているのだった、もちろんそれにもメソッドがあるけれど……

人が両手で水平に持って構えている棒を、こちらが中央から振れ、するりと撫でると、持ち構えている人がストンと落ちてしゃがむ/やられた側は「え? なんで?」となる。
棒を使うことで、現象の視認性があがるし、過度な接触によるストレスも減るのだ、単純にいって良いワーク法だと思う、一人の青年はコツをつかむとただちに「これ、出来るようになるとスゲー面白いっすね」と言ってよろこんだ、「できるまでは何かわからないからシンドいんすけど」とも。
相手をステンとこかすのも、ポーンと投げるふうでも、あるいはダンスのように踊らせるのでも、触れ方は同じだ、「触れたまま均一に動かせる」というのが触れているという状態で、これは段違いの性能で触れられるとしきりに「え?」「んなアホな」という現象ばかりになるので面白くて盛り上がる。
原理はカンタンで、コツというか入口も、言われたとおりのことを信じてしまえばカンタンだ、ただし性能を上げるのには、単純な発達の時間も掛かるし、「均一」ということを本当にやろうとすると、全身の各部が一切サボらないということが必要なので、全身各部の解発に時間も労力も掛かる/基本的にすべてのワークがこんな感じで、いつも原理はカンタン、入口も、言われたことを本当に信じたら割と一発でOKだ、ただしそれをいつでも使える全身モノに獲得するのはそれなりに時間がかかる、だから入口だけ得て、必要と感じたら獲得まで高めればいいし、不必要と感じたらそれはテキトーに流していればいいのだ、そうして合理的にサクサクやっていこうという方針、そういう合理性はこの先も変わらない。

○○の性能を上げる、その○○は自分が一生使うからだ。

○○はワイルドカードで、「手」を入れてもいいし、「股関節」を入れてもいい、自分の全身を自分は一生使っていくのだから、その性能を上げておくのに損はないし、性能が悪いというか、性能がない・機能していない身体のまま一生それを使っていくのはあまりにも損だ、そういう合理性を視ないまま、ただ言いなりに運動するだけではこの種のワークは何一つ身についてくれない。
○○の性能を上げるわけで、じゃあ赤の他人から見て、「あなたの○○は、なんつー性能してんだ」とビビられるぐらいになればいい、それのほうが単純に面白いし、ちょっとは生きる値打ちに間に合う可能性も出てくるだろう/○○の性能ということが、わからないし教えられないので、○○の「パワー」「スタミナ」「テクニック」というスペックを鍛えたがるというのが、現代のブームの方向だ、けれどもパワーやらスタミナやらは、ブランクが生じると三日で衰えるし、テクニックというのも、けっきょく人を不快にするだけだから見栄以外には大して役に立たないものだ、そうではなく性能そのものをこっそり上げて厚かましく生きていきましょうという方針で、この先も続けていくだろう。
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WS報告061(1)/世界は主体(おれ)だということ
天だったので22時まではオンラインワークショップ、22時からはスタジオとした。
オンラインでは、人が「話す」ということは何かについて、「主語は偉大なり」という原理をワークした、といって出来るのはどうせおれだけなんだが/主語が一人称から離れて別の「わたし」になるということが、人の話すということの基本だ、子供が話すのと違う点はそれだ。
スタジオでは「人を動かす触れ方」として、まあ柔術の方法からワーク、あと身体から力が「出る」ということで、発勁の方法もやった、まあそれが正統かどうかは知らんが、実際に使えればそれでいいのである、人をステンと倒すのも、くるくる踊らせるのも、手の「触れ方」としては同じだ。
後半は小劇場の方法で、今注目の「アハム劇場」をやった、おれがやるとみんな「うおおおお」となるが、各員がやるともちろん黒歴史大量生産になる、そんな感じで今回はごくまじめにワークショップをやってしまった。

ワークショップが終わってからの朝食で、「自分のやりたいことは何なのか」という、まっとうな話をした。
リビドーの果てなのかエロスの果てなのか、ソウルの果ては大前提でしょと言い放っておくとして、僕は愉快な青年に話した、「お前が触れた女の子が、次々にかわいく、きれいになってしまうというのはどうよ。お前がきれいにした女を、お前がつまみぐいしても、誰からも文句は出ないからさ」、まあそんな感じで、困難かつ値打ちのあることを考えないといけない、何もなしに生きるのは本当に損だから。
僕は経験上、リビドーの果てなどは、実は底が浅いと思っている、思っているというか、そう確かめてきたのだ、それで僕は言った、「女性の裸身にムチを打って、オーガズムを得させるなんてのは、実は簡単なんだ、そんなことおれがやって出来ないわけがないだろ」「それよりも、女の子の頬を張り飛ばして、目を覚まして勉強する気にさせるほうがどれだけ難しいか。そちらのほうが遥かに奇蹟が問われるよ」、まあそんな感じで、困難かつ値打ちのあることを……というのはさっき言ったか、何もなしに生きるのは本当に損で、しょうもないことに深入りするハズレもこれまた大変な損になる。
「いろんな高みに関心が向くと同時に、いろんな根の深さにも、関心が向くのは当然だ、ただ根の深さというと、実はそのへんの何でもないおばちゃんの、ずっと持っている怨恨とか、風習とか宗教とかのほうが、ずっと根が深いぜ」、そう言われると、実は根の深さなんか見たくないなあと、笑えてくるのだった、ともあれ生きる力は大地から、地に積み重なった歴史から、生きる力の融資を受けて、それを天に返済しようというのだった、おれは正直に、「おれが満足している瞬間って、何か奇蹟か聖霊か、わからんものが降っているわ、今になってようやく気づいたわ」と最近認めたことを話した。

おれが何をしたいのかは、おれにはまったくわからんが、おれはそれを見失ったことがない。

「カッコいい、というのは唯一の救いみたいなもんで、男であれ女であれ、カッコいいものを見れば少なくともその一日は救われるよ」「おれは自分に厳しくした覚えはまったくないが、単純な原理として、おれは自分が自分にとって一目置くだけの存在でありたい、自分で自分のことを完全ショボイと思うのはいやだわ」。
「おれのしたいことや、おれの満足することが、これまで客観的だったことは一度もない、おれが世界だからな、そして何度も話しているように、おれ・わたしという一人称は、習慣的に根づいているものではなく、普遍的に存在する主体が本当のおれでありわたしなんだ、だから世界は主体だということ、おれほど偉大なものになると、おれというのはこの人格に見えるやつの中に閉じ込められておらず、もっと普遍的なおれなんだよ」。
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