☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 10/24更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第百十二回】10月25日(金)19時〜19:00~世田谷公園、21:00~マイレッスンスタジオ
【第百十三回】10月26日(土)19時〜19:00~世田谷公園、22:00~マイレッスンスタジオ
【第百十四回】11月1日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第百十五回】11月2日(土)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第百十六回】11月8日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第百十七回】11月9日(土)19時〜@公園とスタジオ検討中


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第98回】11月16日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第99回】
12月21日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第100回】
1月18日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


グローバル化ですよグローバル化(今さら)


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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WS報告060(1)/全乗っかりの法則
ーティを挟むと、金曜のワークショップの内容を忘れる、ええと何をやったんだっけ……
ところで、まったく関係ないが、おれがいつも吸っているシャグたばこ「PePe」がこのところ全国的に品薄らしい、理由は知らない/なので各員はもし出来たら代行で購入しておいてくれ、おれは困っているのだ、リッチグリーンを希望だがなければイージーグリーン(色の薄いほう)でもかまわない、そんなわけでしばらくはマニトウで過ごそうか、おれはバージニア葉しか吸えないのだ。
さて、動画を確認して思い出したのだが、金曜日は「I said のコーナー」をやったのだった、これはどういうワークかというと、自分の「意志」を見せるというワークだ、自分の意志を見せるというと「当たり前じゃん」と思えるがなかなかそうはいかない。
正しく自分の「意志」を見せるというと、ルートチャクラから第二のチャクラへ、エネルギーが上昇して解放されなくてはだめだ、へんちくりんな説明だがチャクラ的な説明が胴体については一番わかりやすいので採用している、そしてどうせ出来る奴は「九折さんがそう言っているからマジなんでしょ」と真に受けて取り組み、そのまま出来るようになるだけだからいいのだ、このことを最近は「全乗っかりの法則」と呼んでいる。

全乗っかりの法則、つまり人を信じ、人の話を信じるといって、その人の言うことに「ぜんぶ乗っかる」という方法があるのだ、これはオススメでもなければ強制でもなく、ただ「そういう方法がある」という、改めての提示にすぎない。
全乗っかりといって、何もかも全乗っかりする必要はないし、そんな方法を使わなくてもいいのだが、実際にそういうことにびっくりするぐらい勇敢というか、びっくりするぐらい素直な人がいて、たとえばそういう人に、僕が無意味に「ショートヘアにしたら」と言ったとしたら、その人は何の躊躇もなく(というか何のテンションもなく)、「はい」といってそのままショートヘアにしてしまうだろう、こういう人は怖いのだ、何が怖いといって、僕の言ったことをたちまち身につけてモノにしてしまうから怖いのだ/それは僕が言ったことを身につけるのに当人が抵抗を持たないという、超伝導のような仕組みで伝達が起こってしまうということだ、この方法をバカスカやられると、僕としてはいいかげん教えることがなくなってしまうほど、人の進歩や成長は急速に起こってしまう。
この「全乗っかり」という方法、よくよく考えると、確かに有為な方法で、この方法を持っている人は、おおよそ己の愚かさを知っているのだ、己の愚かさを根本的に知っているので、自分のことを自分で決めるということが、必ずしも正しいわけではないということを、骨の髄から知っているところがある、それで自分のことを決めるのに、「自分で決めることよりもこの人が決めたことのほうが正しい」と判断していて、まるで自分でショートヘアにしようと決めることよりも、躊躇無く僕の言うことを聞いてしまうのだった。
そこで、僕自身も思い出すと、やはり僕自身もすべての進歩の際に、必ず「全乗っかり」をどこかで採用しているということが思い出される/そもそも僕は、愛のある人・光のある人が、愛をもって話してくれていることに、あるいはその話そのものが愛を帯びているときに、それを「疑う」ということのやり方がよくわからないタイプなのだ、疑うという機能がまともにはたらいていないという状態でもある、つまり僕は「全乗っかり」か「全聞き流し」のどちらかしか機能を持っていなくて、現在の僕のすべては何一つ努力ではなく全乗っかりのみで得られてきたということがわかる、それ以外のことはすべて聞き流してきたのだ、我ながらなかなか厚かましい奴で恥じ入るよりない。

僕には「信じる」というプロセスがない。

「疑う」というプロセスがないので、それを書き換える「信じる」というプロセスもない、ブッダが阿弥陀如来を説いたなら「そうなのだろう」という気しかしないし、キリストが死後によみがえったというなら「そうなのだろう」という気しかしない、単にアホなのかもしれないが、僕はそもそも全乗っかりする話しか耳に入らない体質なのだ、その他のことは長距離トラックのエンジン音のような何かの騒音にしか聞こえていない、このふたつを聞き分けるプロセスや、このふたつを審査するプロセスさえ僕は持っておらず、まるですべては勝手に僕の耳から魂にすべりこんでいるように思える。
ワークショップでは、努力や積み重ねで得られるものは何一つ提示していないので、言い換えれば「全乗っかりで得られるものしか提示していない」という状態だ、そりゃ僕自身がすべてそれのみで現象を獲得してきたのだからしょうがないだろう/じゃあ何に時間が掛かるかといえば、全乗っかりしてもしばらくは生身の側が完成に向かってゆくのに時間が掛かるということだ、あまりに高次元な現象あるいは激しい現象は、全乗っかりしても「身体がついてゆかない」ということがある、そこで全身のタフさと全身の体質の盤石を鍛えるのに時間が掛かるということはある、でもそれらはすべて全乗っかりの「後」に進められることだ、全乗っかりする前にゴソゴソトレーニングすることは何の足しにもならない、じゃあそのときは何をしたらいいかというと、「全乗っかりしない自分」を確認するという作業をすればいいのだ、これこそ真に値打ちのある自己追究の時間と言えるだろう。
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WS報告059(2)/オンラインワークショップ感想
ンラインワークショップを、実際にやってみた、初めは「空手の通信教育」みたいにバカにしていたのだが、実際にやってみるとそうでもない、たいへん知的にタフなワークであって、参加者たちからも好評だった。
まあもともと、おれは文学の徒であって、テキストを組むのが本分だから、こちらのほうが圧倒的なものをお見せできたというところはあるのかもしれない。
もちろん僕のことだから、前もって何の準備もせず、つまりこの形式でいうと何の書き溜めもなく、始まったらその場ですべてを提出していくわけだが、こちらが書斎に専用のキーボード(東プレ)を構えているといっても、そもそも単位時間あたりに提出されるテキスト量とその組み立ての速さじたいに、格差を見せることができたと思う、参加者はついてくるだけでも精一杯だったろうし、ましてスマートホン端末からではテキスト入力なんか追いつかなかっただろう/あれでもおれはのんびりやっている感覚で、そのあたりもう一般的なペースというのはおれにはわからないのだ、どうせ同じように生きていくなら誰でも、そうしたケタ違いの部分を持てれば何よりだと思う。
オンラインの、テキストオンリーで、けっきょく20時から朝の5時までやったのだから、そのあいだずっとテキストの生産を続けるだけでも、訓練のない人にとっては至難のはずだ、そして内容的に面白くなければ、そんな長時間絶対にやっていられないので、ある意味「本当に面白いか」ということがダイレクトに試される形式だったと思う/ライブに耐えうる生産量を出力するのはなかなか本当の力が問われるところだ、誰か同じように朝の5時までやってみたら、本当に必要なものは何かというのが直接わかると思う、まあ誰もそんなアホなことにトライするとは思わないが……

金曜日の夜中には、「おすすめを訊かれたとき、おすすめを答えてはならない」というワークをやった、土曜日は20時から、「五行詩から考える言葉の性質」をやり、その後は「ミニミニ物語と理論のコーナー」をやった。
これらが何のワークだったかというと、つまるところ、意識と言葉を切り離したいと思って取り組んだことだ、われわれには「思う」という機能とその習性があって、「思う」と「言葉」はまったく別モノなんだよ、ということを直接知ってほしかった/われわれにとって「思う」ということは弱みであって、能動的な機能ではない、思うことをやめられないのがわれわれだ、これを振り回して創作と言い張るようではとんだ取り違えになる。
一人の青年は、ワークの作用で「自宅がスタジオマイレッスンになった」という恐怖の悲鳴をあげていたが、そのせいか、後半には突如、「なんだこいつ」と周囲の度肝を抜くような高次元のテキストを出力するようになった、いきなりそこまで跳躍されることを予想していなかったので、もう彼に示す次のステップというと、しょうがないのでゴリゴリの文学の手法を提示するしかなかった、そうなるとおれも別のスイッチが入ってしまうので、そこからは全員何か別のムードに吸い込まれていってしまった(しゃーない)。
ミニミニ物語のコーナーといって、「物語はA→A’である」ということ、および「動力たる "→" は思念でなく "出来事" である」ということを示した、まあこれは面白かったのじゃないか、魂と出来事の関係がよくわかるし、出来事を直接ディールするほうが結果的に魂は濃密に得られる/これは何をやらせようとしているのかといって、先に言ったように、「思う」と「言葉」は別モノなので、切り離そうとしているのだ、それを切り離さないでいることは、知られざるにしても実はシッチャカメッチャカな状況なのだ。

「思う」と「言葉」を直結しているのは、「テメーどの線をスピーカーにつないでんだよ、アホか」というような状態だ。

また僕はこうも言った、「自由闊達に話せるとしたら、それだけでひとつの成功者じゃないか」/仮にこのブログ記事を、当該ライングループにそのまま貼り付けたら、こうしたささやかなブログ記事でさえ、どれだけのテキスト量があるかはっきりわかるだろう、われわれはポカーンとしているから色んなことを見落としているのであって、もし物事のすべてが視えるようになれば、この世界は手に入れたいものであふれかえっているのがわかるだろう。
ワークショップではいつも言っていることだ、「誰だって、この全身を、生涯ずっと使うしかないのであって、また自分の言葉を、生涯ずっと使うしかないのだから、今のうちに正しい使い方をまとめて知っておけば、この先ずっと有利じゃないか」、ただそれだけのことであって、何か出来合いのものを足そうとしているのではない、もともと与えられてあるものを正しく使い切るように誘導しているだけだ/身体にせよ言葉にせよ、呪縛されていたら使えないし、わざわざ呪縛されているところから動かそうとしてはだめなのだ、呪縛されていないところから順に動かすということ、このわけのわからない話も、オンラインワークショップ経験者は何を言っているか少しだけわかるだろう。
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WS報告059(1)/シンプル、外側と内側
風の接近もあり、金曜の20−23時だけ平常ワークショップをやった、その後はまさかのオンラインワークショップというナゾの試みをしてみたが、これも案外評判はよかった。
とはいえ、いよいよ風雨が荒れてきて、こんなアホなワークショップうんぬんの話をするのは気が引けるな、とりあえず金曜の20−23時は、身体の外側のことと、内側である内臓のことをやった。
外側は外側で、正しく使えていないともったいないし、身体を使うといって、その内側の内臓パワーが使えていないと、そこに「こころ」はないよということをわかりやすくやった。
時間が短いので、あっというまに終わる反面、濃密で、短いがゆえに内容が捉えやすかったという向きもあった、色鉛筆ちゃんが武術系の事象について「見ていて面白いとわかった、視えるようになった」と、大きな躍進を示した。

身体の外側というか、物理的な機構として、いつも関節の話をする。
「一番大きなパーツは胸郭と骨盤」「それが背骨で接合されている」「それが真ん中のパーツだとしたら、次の関節は肩と股関節」「肩と股関節の構造はよく似ている、どちらとも、自動車に当てはめれば、本体にタイヤが嵌まるところだよな」「で、肩の先といえば肘で、股関節の先といえば膝だろ」「その先は手首と足首で、言ってみればそれで全部じゃん、実はそんなにたくさんないでしょ」「この先、一生この身体を使っていくのだから、今のうち正しい使い方をまとめて知ってしまえばスゲー有利じゃん?」、と僕はよく話す。
身体というのは、末端にいくほどわかりやすく、見えやすく、認識しやすい、だから手指でグーチョキパーを作るのは割と簡単だ、ところがこれが肩や股関節の構造となるとまったくわからなくなって、さらに中心の胸郭やら骨盤やらというと、そもそも「ここって動くの?」というのがスタートラインだ、こんなデタラメな知識と感覚のまま一生を過ごそうということのほうが無理がある。
そうして身体の外側を正しく使うこと、これを正しく使うということは、「パワー!」をやらないということだ、「身体ってもともと "動く" ものなの、それが固まっているから "動かす" のに力が要ると思い込んでいるのね」/そうして、身体の外側は「パワー!」をやらない、いわゆる身体操作というとそれだけだが、当ワークショップでは「こころ」にこだわるので、心臓を中心として内臓パワーを響かせてみろということに取り組む、「これがごまかし利かねえんだよ、ガツガツ飲み食いして腹の底から笑ってオウと明るい声が響くかというと、そういうのってインチキで出来ないでしょ」。

つまり「外側のパワー外してみろよ、内側のパワー明らかにしてみろよ」ということ。

ただそれだけのことだが、ただそれだけのことが、いちばんごまかしが利かず、一番真の弱虫を暴き立てるのだ、人に向き合ってリラックスできるのは本当に強い人だけだし、そこから内臓の輝きを響かせられるのも本当に強い人だけだ、弱い人はどう細工をしてもこの真似事はできない。
このようにして、当ワークショップは、真に必要なことを教え伝える……つもりでいるのだが、その実際はというと、つまり「テメーがどれだけ弱くてごまかしに満ちたインチキ野郎かを、まず暴露しますね〜」という手続きになるので、現場はなかなかの黒歴史会場になるのだった、まあでもしゃーない、外側のパワーに内側の芝居を潜ませて実際にインチキしてきたのだからしゃーない、それを超えられる奴はけっきょくとても例外的な奴だと思うので、その例外的な奴になる手続きを勧めているのだった。
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ワークショップ業務連絡:10/11(金)は中目黒デュアルポップスタジオB12室

掲題の件につき以下ご確認ください。
10/11(金)ワークショップは、台風のため開催を限定し、
20-23時@中目黒デュアルポップスタジオB12室 での開催になります。
翌12日(土)はやむをえず休会と致します。
スタジオへの道順は以下案内および GoogleマップURL をご参照ください。
以上ご確認方宜しくお願い申し上げます。九折


<中目黒デュアルポップスタジオへの到達の仕方>
・あなたは中目黒駅の正面改札を出るべきである
・正面の横断歩道を渡ることで山手通りを渡るべきである
・正面には蔦屋書店があり、あなたは蔦屋書店に併設されているスターバックスの角店の脇を前進してゆくべきである。このとき右手には「中目黒アリーナ」の看板があるべきである。
・前方に目黒川の橋があり、あなたは橋を渡るべきである。
・目黒川を渡るとただちに右折して川沿いをゆくべきである。
・すぐにあなたはオレンジ色の看板「いろは寿司」の前を通過するべきである。
・あなたはすぐ「river side gallery」の黒看板を見上げるべきである。するとその隣はすでに「中目黒マンション」である。
・あなたは「中目黒マンション」という金属切文字の看板を見て、そのエントランスを覗き込むべきである。地下に続く階段があり、あなたはその階段を降るべきである。
・B12室はB06室の奥にあり通路からは視認できない。よってあなたは踏み入って覗き込むべきである。金属のドアは押して開くものである。

▼Googleマップ:中目黒デュアルポップスタジオ
https://goo.gl/maps/SbVtgSqzC4kBBSYU7

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台風による今週末ワークショップ予定変更
題の件、今回はさすがに台風を警戒せざるを得ず、安全保障の成らざる由、11日(金)は19−23時のあいだとし、12日(土)は休会とさせていただきます/さすがに電車が止まってしまうのはいかんともしがたい、金曜の終電までが限界だろう。
しかも、金曜はいつものスタジオが埋まってしまっているため、現在中目黒のデュアルポップスタジオと交渉中、もしそのブッキングも成らないときは、まあ何かテキトーに別枠を考えるしかないな。
なお金曜の夜中〜朝、また土曜の19時〜日曜朝までは、強引にオンラインワークショップを検討中です、オンラインで何ができるか不明だが、とにかく台風だろうが何だろうが、いったんやると決めたものを曲げるのはよくないので、強引に何かやります、誰もついてこなくてもおれが一人で勝手にやります。
何かをやるといって、人は無難にやったことなど、それをやったとは認めないので、初めから無難にやるのは根本的に損です。何かをやるっつーのはどういうことか、それを目撃することじたいが学びの糧になるでしょう、つまりは学習しろというよりは絶望しろということです、ふつう己が自ら何かを「やる」者になんかなれないのだと、絶望することが第一の目覚めになるでしょう。

ワークショップなんてものには、いつまでたっても興味が湧かないが、どうせやるからには、世界に通用するものでなければならない、世界に通用するものを基準として、こなし、かつそれを「しょーもな」と見捨てるようでなければ、万事のスタートラインに立てない。
冷静に考えて、ワークショップなんかしょーもないじゃないか、そのしょーもなさは、世界中の美術館のしょーもなさに似ている、それは宗教のしょーもなさと同じで、仮に大聖堂の天井画を描いた画家と話ができるなら、そりゃ天井画より信仰を持つ人のほうが面白くて値打ちがあると当然言うだろう、逆に正しく信仰を持つ人が――もしそんな人がいればだが――いたならば、大聖堂なんて別にバラックでかまわないだろう、そもそも大聖堂なんてブツが矛盾から生じている、イエスキリストは大聖堂から生まれてきたわけではない。
そして、もし信仰を正しく持つ人がいたならば、その人はやはり同様に、「信仰なんてクソ」と言うだろう、正しい信仰を持つ人は、信仰の対象こそがサイコーなのであって、それを信仰しかできない信仰マンは「我ながらクソ」と笑っているはずだ/信仰を誤った人が信仰マンを上位に置くアホぶりを示せば嘆かわしいように、ワークショップなんてものも、ワークショップを上位に置くワークショップマンの存在を認めてはならない、ワークショップでどんな真理めいた営為が示されようが、そんなことより牛肉のサンドイッチを食っているおれのほうが偉大でうつくしいものだ。
ワークショップの、ゴールであり同時にスタート時点からあるべきものは、いくつかの原理やワザなどは当然のごとく実現させて、かつ「それがなんだってのか」とすべてをゴミ箱に捨てることだ、その点はやはりワークショップは大聖堂に似ているし、美術館に飾られる女神像に似ている、人は聖霊が得られないから泣く泣く大聖堂を建てたのであり、女神が自分の頬を撫でてくれないから泣く泣く女神像を作ったのだ、こんな連中をチヤホヤしてはならない、すべてのジャンル化可能なものは元からゴミ箱行きのものであって、一部の芸術家がもし称賛に足るとすれば、その芸術家が自分のゴミ箱ぶりを自覚している場合のみだ。

おれは偉大なので、その偉大さゆえに、芸術家や宗教家ではありえない。

おれのように偉大なものになると、芸術とか宗教とか要らないんだよね〜 マジそういうレベルにないっていうか〜 かくして、芸術や宗教に無縁ということは、人の一定の健全さを示しているが、それは芸術や宗教を必要としないレベルにあるという場合と、芸術や宗教にさえ届いていないレベルという場合があって、後者と前者を同列に並べることはできない/並べることはできないのだが、表面的には同列に置かれているように見えるのだ、これが万事、魂が落下する元凶になる、まあ別に元凶になってもかまわんけれども。
というわけで、同じワークショップをやるなら、むろん世界のどこでも通用するものを体得しなければ話にならないが、それは前提としてもともとゴミ箱レベルのものなのだ、どこの世界だって王はくるくる回ったりジャンプしたりしないものだが、おれなんか気さくなものなので、レベルを下げて遊んでやっているのだ/ゴミ箱でこそ真の芸術家だし、初めから超越的に偉大であってこそ王だが、最近はこの両者が逆転してしまっている、おれはまったく健全な話をしているのであって、つまり王も芸術もすべてを愛しているからこう話しているのだ。
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WS報告058(3)/魂が閉ざされた人々
曜の夕刻にワークショップが終わり、その後は帰宅すると昏々と眠り続ける、今回は特にひどかった、起きてはメシを食い、いつも頼りにしているマッサージ屋に行って、また帰宅して眠る、すでに火曜日の午前中だが、今になってようやく心身の機能が回復した、正直昨夜ぐらいまで、階段をまともに上り下りする気力さえなかった。
身体操作のワークショップでもあるので、僕はほぼ完全なかたちで、腰から股関節、そして股関節から膝を抜けて足先(第一指の側面)へと、全身が連動しているのがわかる、その完全な連動を使ってなお、体内にすでに支えになるソウル(霊魂)が残されていないのがわかった、本当に使い切ったのだ、身体には何のダメージもないが――ダメージがあるようでは、身体が使えていないということで話にならない――ダメージもなく、疲労もなく、なおまともに階段を上り下りすることができない、そういう身体の状態になる、本当にソウルを使い切ったときそういう状態になる。
「わたしはわたしは、どんなわたし〜」と、ふざけながらやって、習慣的に染みついた自我を使うのではなく、「出来事」にある普遍的な「わたし」、それをウパニシャッドに由来させて "アハム" と呼ぶことにして、アハムこそを真の「わたし」とするアハム劇場を展開したのだが、これが喝采を受けたのはよしとして、これが本当におもちゃにしてよい領域のことなのかどうなのかには疑問が残る、おれは悪趣味だから、こんなことを「どんなわたし〜」とふざけてディールするが、ひょっとするとそこで見ているものは、すでにすさまじいものを見ているのかもしれない、そしてそれが平気なのは、魂が閉ざされているから、響かなくて平気、ということなのかもしれない。
半日のうちに七つも八つも、恣意的にこの「アハム」と接続するというようなことを、これまで僕自身もやったことがなかったが、ただ出来るからといって実験的に今回はやってみたにせよ、これがどういうレベルのことなのかはおれには保証しかねる、毎週発売される少年漫画の雑誌ていどのお楽しみなのかもしれないし、あるいはもっと別の次元の事象――そんなものが、もし本当にあるのならば――かもしれない、少なくともレポートしうることは、その後の僕が、確かに路上に打ち捨てられた雑誌のように、数日はピクリとも動けなくなったということだ、機械的に動くことは表面上できるにせよ、その内部に何のソウルも残されていないことがわかった、とりあえず「アハム」というのはそういうもので、それがただの冗談なのか本当のことなのかはわからない、各人がそれぞれ勝手に判断するしかないことのようだ。

今、多くの人は表面上、さしたる問題はなく、明るく健全に生きているように見える。
が、今日僕は夢うつつの中で、「獣化するということはそういうことなのだ」「餓鬼道・畜生道に落ちるというのはそういうことなのだ」と、はっきりその事象を明視した、これが僕のただの思い込みや妄想であるなら何よりだが、これがただの妄想・空想なのかそうでないのかは、けっきょく僕自身にもわからない。
さしたる問題は何もなく、平和で健全に過ごされている日々が表面を覆いながら、もはや誰も言葉を発することはなくなり、また、いかなる言葉もその内なる魂へ届くことはなくなった、つまりどういうことかというと、「魂が閉ざされて、そこに言葉が届くことはもうなくなってしまった」と言うと、「それってどういうことですか?」と訊かれるのだ、その後に話をどう続けたとしても、必ずすべて「それってどういうことですか?」と訊き返され、最終的には「ふ〜ん……」「わかりました」と不平を持った打ち切りで迎えられる。
近隣を通り過ぎる子供たちの声と表情、またその目は、すでにバケモノとしか思えない汚らしさに満ちている、そうすると一事が万事、すでに多くの人は、なんとか正気を保ちながらも、すでにその魂に何も届かなくなった顔を明らかにしているのがよく視えるようになってくる、もうずっと以前からそのことを僕は明視して首をかしげていたのだが、今になってはっきりわかる、「目ヂカラ」という愚かしい言い方が逆の道標になるように、目というのは本来、何かが「出る」ものではなくて、何かが「入る」ものなのだ、今すべての人々の目を見、すべての子供たちの目を見るがいい、その目からはすでに常時として何かがギトギト出ており、その目に何かが「入る」という余地はない、もういかなる言葉もその魂には入らない、目からギトギト発される "呪い" ばかりが明らかに、止まず、もういかなる言葉も発されることはないし、いかなる言葉もその魂に入ることはない。

見よ、その「何かが飛び出てきている目」を/それは「吸い込まれそうな目」と対極にある。

この十数年、僕が違和感を覚え続け、その違和感が大規模化し膨張していくのを止めようがなかったことの、はっきりとした結論がここにある、「言葉が入らない」のた、すでに何かがギトギト放出され続けているその目を、どのようにして制することができるだろう? 僕は話の流通性のため、言葉が授受されうる魂の目、その吸い込まれそうな目のことを、アハムの目と呼ぶことにする/わかりやすさのためそう呼称するとして、なおも伝えておくべきことは、そのアハムの目というのは、現在の僕でさえ、濫用するとしばらくはその後動けなくなるような次元のことだ。
「出来事」のすべてと直結してのみ成り立っている真の「わたし」たるアハムは、これを欺瞞して先んじようとするすべての事情を焼尽する、このアハムの目こそが何よりも先にあるものであり、呪いの目はこのアハムを引きずり落として己がアハムに先んじようとする/言葉が魂に届くという現象の、極限のためにやむをえずアハムに到達している、そのたびにどれほどの霊魂の作業があるか、今のところ誰も知る由はない、こうまで昏々と倒れるとは今日まで僕も知らなかった。
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WS報告058(2)/わたしはわたしはどんなわたし〜

ても盛り上がって何よりだった。
誰だってステキなことの中を生きていきたいのだが、そのことについてテクニックやごまかしは利かない。
当人がステキな奴になるしかなく、また、テクニックやごまかしでない本当のステキな奴になるしかないのだ、これを加工でなんとかしようと考える奴は六万回輪廻したあとコオロギになってヤギに食われるだろう。
ごまかしでステキな人「ふう」を偽るぐらいなら、何のウソ隠しもない「みすぼらしい奴」のままのほうがマシだ、少なくともそれぐらい自分で宣言できないようでは、何の見込みもない、あるいは見込みがないどころか、性根の薄汚さが世界遺産の城壁ばりに張り出されてしまっている、フツーそんなドギツいウソなんか企まないものだぜ、いいかげん頭を冷やさなくてはならない。

仮に僕自身、ステキ度が100点満点中5点だったとしたら、何のウソ隠しもなく、5点のダメダメおじさんとして扱ってほしい、ほんのわずかでも憐れみをかけて、2点や3点のゲタを履かせて扱ってくれるのはゴメンだ、そんな不正行為に巻き込まれてたまるか。
100点満点中5点というが、別の見方をしたとき、たとえば100人の女性がいたとき、そのうち5人が僕のことを「ステキ」と言ってくれるかといえば、それはとてつもなく困難なことだ、ほとんどの人は生涯のうち一度も誰にも「ステキ」とは言われないまま生涯を過ごす、それは当たり前のことだ、それはわれわれが観光に行かない町のほうが遥かに多いというのと同じだ、この世界に「見るべきもの」を所有している人や場所のほうが遥かに少ない。
「わたしはわたしはどんなわたし〜」と、ふざけながら言って、ふざけているようでも本題はずっとそれなのだ、魂魄のことを深く考えていくと、人の「わたし」というのは必ずしも固定的ではなく、無数・無限に、常に新しくありうるのだが、それらはすべて正当に「わたし」「こんなわたし」を引き受けられて以降にしか、視えようがないことだ/自分をエセ「ステキ」ふうに偽るような性根がわずかでもあるようなら、そんな「わたし」の秘密が視えてくるわけがない。
「われわれは、誰も "自我専門学校" に行ったわけでもないのに、自我だけはきっちり育っているんだ、老若男女、世界中のすべての場所で、また歴史上あらゆるときにおいて、誰も何も習わず、何も学ばず、何の訓練もせず、何もせずに生きていても、この "自我" だけはバッチリ大きく育っているんだ、何もせず寝転んでいるだけのつもりでも、勝手に膨らんでいる、この "自我" って何なんだろうな? 不思議に思ったことはないか?」

「何もしていない」? いいえ、「防衛」しています。

何もしていないつもりでも、何もしていないということはありえないのだ、何もしていないつもりの中で、ずっと「防衛」は続けている、むしろ防衛だけを続けているという、その状態のことを「何もしていない」というだけだ。
「ふと気づくと、自分の行動の動機が、全部 "防衛" なんですよ」と、或る人が話してくれた、その発想は僕にはなかったので驚きだった、われわれは自我専門学校に通ったわけでもないのに、自我だけは勝手に育っている、何もしていないつもりでも、その自我はずっと「防衛」を拡大し続けている/「わたしはわたしはどんなわたし〜」と問えば、そんなわたしだという話があった。

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WS報告058(1)/普遍的な一人称(アハム)
調にやった、色々あった、が、早く寝たいので手短に。
 前半は気魄をやった、気魄っつーかハートの問題、身体の中に流れるハートの問題、その流路の開拓も必要だが、「そもそもハートそのものの源泉が足らんわゴルァ」と、そんなことは握手してみるだけでわかる、敏感な人は「うおっ」とそれだけで気圧される。
 中盤、おれは思うがまま話した、「自分でやっておいて矛盾しているが、なんつーか、 "表現塾" みたいなもののすべては無駄だ」「だって面白いってそういうことじゃねーし」「ただおれはウソをつきたくない、だから、塾みたいなものは意味が無いという前提でやる、こんなデカい矛盾のままやれるのはおれのとこぐらいのもんだろ」。
「面白いっていうのは、個々人のもんだし、それが "個々人のものだから面白い" のであって、画一的じゃ面白いはずがないだろ」「そいつが面白い以外にどうやって救われる方法があるんだよ、そんなもんどーしよーもねえよ」「どんなカミワザがあったってな、カミワザだけで面白いことにはならんよ、仮に人類史上すべての体技が会得できたとして、それでも "で?" てなもんだ、しゃーねえんだよ、面白さには直接つながるしかない、あいだに技術なんか挟まんねーよ」。

 後半は「アハム」をやった、なんじゃそのアハムというのは、ということだが、これはウパニシャッド(インド哲学の奥義書)に書かれていることで、まあわれわれが個別に思う「自分」という以前の、根源的な「わたし」という現象のことだ、まあ「世界創生についての思弁」みたいなところに書かれているので、なんのこっちゃとしかフツー思わんが、この場合「個別の自我とは異なる普遍的な一人称」が他に見当たらないので、当ワークショップでは「アハム」とした、まあものっっっっそい遡ればヴェーダ的には誤りではないだろう。
 何もむつかしいことをしているのではない、 "本当に面白いこと" を求めているだけだ、微妙に面白みのあるものとかは要らないし、付録にすぎない、いくら楽しげなものでもそれだけではやはり物事は成り立たず、本当に面白いことが中枢を為していないとどうせ後になって消え去るのだ。
 何がアハムなんだということで、おれはわかりやすく言う、わかりやすく言うからといって、容易にできるわけではまったくないが、「出来事の中に "わたし" (アハム)がある」「出来事の前に持っている "わたし" は、ただのニセモノ、習慣で根づいただけのパターンであり、思い込みとクセでしかない」/もちろんそれで、おれが実演すると、連中は「うおおおお」と言うから成り立つのだ、実演もできない空想をネタにしているわけではない、空想的概念をいじくっていても全力でつまらないだけだ。
「わかりやすい例え話を言うと、たとえば、恋あいというのは出来事のあとに発生するべきだろ? 誰か特別な異性と出会って、 "あっ" という出来事になり、この出来事から、 "恋するわたし" というまったく新しいが出現するんだろ、そしてこのわたしは普遍的にあるわたしだから仮にアハムと呼ぶ」「それに比べて、先に "恋愛したい" "恋愛しよう" と考えて、うおおお〜恋愛カモン〜ってなっている奴は、明らかにおかしいじゃないか、そうして自分が先にあるのはハズレであって、そのわたしはニセモノなんだよ、出来事の中から生じるわたし、出来事とセットに生じている常にセット新品のわたしだけが本当のわたしであってアハムなんだよ」。

おれは常に出来事とつながっている。

 出来事とつながっていないおれというのは、銀行に振り込みにいったり、役所に手続きにいったりするおれだ、そんなおれはニセモノであって、ただの神経と肉の習慣でしかない、出来事の中にしかおれはいないし、常に何かしらの出来事とセットにしかおれは存在していない。
 出来事とセットでない単品の「わたし」なんて存在していないのだ、そいつは火葬場で燃やせば灰になるやつであって、生きるには必要あるクセのあるやつ――それなりにかわいくもあるやつ――だが、それは本質的にわたしではない、当ワークショップではあざけて「ワテ」とか「ワレ」とかいう/アハムは「普遍的なわたし」であって、おれもアハムだがあなたもアハムだ、だからおれの書き話すことはすべて、なぜか知らないがあなたの体験する話のように聞こえるだろう、それはあなたの内部のアハム機能に作用しているということだ、ものすごく粗雑に言えばだけれども。
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WS報告057(1)/カミワザの出し方、使い方
ーた喉をやらかしてしまった、このまま今日はパーティで、その後は一日で小説を書かないといけないのに/もうそのあたりのしっちゃかめっちゃかも、いちいち注目する気がなくなってしまった、別に誰も知らないでいいというか、もうおれも知らないでいい。
今回、カミワザの出し方がわかったので、冗談みたいに面白くレポートするが、カミワザというとき、「カミ」の性質をよく知らねばならない、人がイメージを作って拝み倒しているのはカミではない/人が消えたあとに残っているのが「カミ」だ、だから生身の人は消えなくてはならない。
ここにAさんとBさんがいたとして、そこに何かのカミワザが作用するということは、その作用はAさんではないしBさんでもないということなのだ、AさんもBさんも消えて事象ないし言葉だけが残っている、その「人の消えたあとの作用のみ」をカミといい、その作用の形式によってはそれをカミワザと呼んでも差し支えない。
人が消えるとはどういうことだ、生身の人が消えるとは……!? と、盛り上げる必要はどこにもなくて、たとえば方眼紙にグラフを書く場合、方眼紙の中に生身の人は入れない、だから方眼紙の中はずっとカミワザだ、そのカミワザがわれわれの生身に起こったとき、それが体感上も珍しいのでいちいち「カミワザ!!」と呼ぶだけだ/けっきょくわれわれの存在と事象に「生身」は本質ではないという、ただそれだけのことのようだ。

カミワザは、「人が消えたあとに残っているもの」だ、この基本にさっさと慣れねばならない。
そして、カミワザというが、カミワザであってもそれはただのワザであって、それじたいだけで何かがそこまでよろこばしくなるわけではない、どれだけそのワザがハイレベルでもだ/カミワザとはいっても、しょせん秋雲が天高くに微細な文様を作りだして季節を作っていることに比べれば、なんらの価値もない、どんなカミワザもそれだけでステキにはならない。
突然、奇妙なことを言うようだが、あくまでカミワザに関わる話として、そしてやがてステキなことへ直接重なることのため、こんなことを言わなくてはならない、 "おれのまき散らす唾液の一滴さえ取りこぼすな" 、これはおれに関わることではなくて、カミワザに関わることだ、カミサマを崇めるとか拝むとかいうことは実際われわれには必要ない、むしろ崇めるような隙間や拝むような隙間があればカミワザとつながりようがないのだ。
 "おれのまき散らす唾液の一滴さえ取りこぼすな" 、これはカミワザに関わる話であって、これがあって初めて命、魂、世界、愛との接続になる、この世界のすべての光景に、ただこれひとつでつながれるのだ、つながれるというより重なれると言ったほうがいいが/おれの話を聞き流したり、聞いて理解しようとしたりする人がいるが、そのどちらもちゃんちゃらおかしい、そんな隙間が入り込んでいるようでは何にもつながれないだろう、 "おれのまき散らす唾液の一滴さえ取りこぼすな" という言い方は実に正しい、唯一の正しい方法を示し続けている。

言葉のひとつごと、人を消している、そこに言葉だけ残ってあればいいから。

われわれは、生身の人として、どうしても人と生身カウントに思い入れがあるようで、人が消えた世界というものが視えないようだ、どこまでいっても人視点というところがあって、その「人」が邪魔をしているのでカミワザに入れない、自分が「人の思い」を残していると当然カミワザは出てこない。
「人の思い」といって、カミサマのほうには人のような「思い」はなさそうだが、カミサマには言葉があるし、直線や円がある/どうも人は、この世界が創られた当初から「人」がいると思い込んでいる傲慢があるようだ、カミワザが存在するのは現在の「人」が成り立つはるか以前からであって、むしろ本来はカミワザだけがあって人がいない状態のほうが大半であって自然だ、冷静に考えればこの世界は、「人が消えたあとのカミワザ」と「人の思い」の相克しかない、カミワザじゃなければ人の思いだし、人の思いならカミワザではないのだ、ただそれだけのことが恬淡としてある、そして人はカミが現れることを愛していて、不毛の人がえんえん立ち回りを続けることを愛していない。
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WS報告056(4)/生身をお持ちの方も、そうでない方も2

れはすべてのことを、「フィクションだ」「仮想だ」と言っているし、おれの言っていることを信じろとは一ミリも要求しない、むしろその「信じる」という機能を破壊されているからこそ、向き合うことの困難さが浮き立つ、そういう絶望の面白さがこのワークショップの一面としてある。
今われわれのあいだに、人が人を信じるということは成り立たないから、誰かにおれのことを信じろというつもりはないし、そもそもおれ自身、自分が誰かに信じてもらえるに足るほどの何かを持っているとは思えないし、得ているとも思えない、おれは極端に自己評価の低い奴で、自己評価がそもそも「ない」というような状態でいる、だからこれだけ大仰なことを言い散らかしているのに、おれのことを信じると言い出す奴がいたら、「アホじゃねえの」と冷淡なのだ、これはいささか僕自身が極端で病的なのかもしれない。
まあ、それにしてもとりあえず、現代の状況の中であくまでフェアに公正にやろうとすると、「信じる」とかいう前提はゼロにするしかないのだ、誰もおれのことを信じず、ただおれがおれ自身については「こうやっています」と開示するので、あとはおれのことを忘れて、それぞれが個人として同じレベルに到達するしかない、ただしそれが本当に可能なのかどうかはおれは知らない。
卑怯なことに、おれ自身は、これまで色んな人の色んな偉大さを、「すげーなあ」と無邪気に信じてここまで来てしまったので、おれ自身としては、誰のことも信じずに何かまともな果実に到達するというのは、絶対に不可能だと思えるのだが、それはあくまで僕の観点であって、僕の観点ごときで全体の現代性を転覆はさせられない、「誰のことも信じないし、誰のことも認めない」「誰のことも称えない」という前提の上で、あくまで個人の魂だけをもって、もしこの世界に真理があるならその真理に到達せねばならない/だから本当に、おれは情報の開示と提供しかしない。

一方で、おれが実際にみなさんの目の前に立ったとき、おれ自身には何の絶望感も見当たらないだろう、ワークショップは常時、ただのおもしろワークショップとして続いていく/撮影された動画は常に笑い声でみたされていて、再生していると正直その笑い声がうるさいぐらいだ、それはお前らのほうがマイク位置に近いからしゃーないのだが、冷静に考えるとこんなふざけた動画資料はないかもしれない、まあとにかくそのように実際の現場として絶望的なムードはない(当たり前だ、そんなもん続くわけがあるか)。
そして、根本的な跳躍を得る奴というのは、けっきょくのところ放っておいても、おれのことを信じてやっているので(ゼロ秒Yesという)、何をどう思うかというと、「信じる」という経路が一番速いんだなということがつくつくわかる、それで現代の主義を転覆させることはできないが、それにしても合理的に考えるなら、つまり現代の主義は、人々を最悪に不効率化し、最悪にしんどくさせ、最悪に閉塞させているということになる/誰のことも信じず、誰のことも認めず、誰のことも称えず、あくまで自分個人だけが真理に到達するというのは、いわば食事の一切をとらずに一流料理人になるというのと同じだ、理論上は可能だがその可能性に現実味を見るのはあまりにふざけていると言わざるをえない。
でも本当にそういう主義を履行していかねばならないのだから、本当に先が思いやられるというか、何兆年かかるのかという感じがして気が遠くなる、現代においてはいっそ「信じる」というのは、一番ズルい、一番の不正行為かもしれない、「ちゃんと誰のことも信じずやれよ」というのが現代の正義だろう、まあおれなんかは典型的に、正義を気にしないタイプだったので、この卑怯ぶりがサマになっているわけだが……
「生身をお持ちの方も、そうでない方も」という言い方をしていて、あくまで「仮想」だが、仮想するぶんには信じてもかまわないだろうということで、おれは信じてやっている、空間に直線をグリッドするのは、「生身をお持ちでない方」が、数学は視えるからだ、おれが感覚と挙動を数学に収束させると、生身をお持ちのみなさんの「目」(視力)には、おれの輪郭は次第に捉えられなくなり、光にぼやけていくのだが、そのときのおれは生身をお持ちでない方々にはっきりと視えているのだ/おれは人と人のあいだ、つまり「人間」を移動しているのではなく、数学上の直線を移動している、だからいつもワッと集まってきた、生身をお持ちでない方々に囲まれている、おれの姿のどこにも絶望感がないのはそのためだ。

「偉大なものとのつながり度」は、「生身をお持ちでない方々の集まり度」と比例している。

逆のパターンでは、やはり悪霊が集まってきたりもするのだろうか? つまり「偉大でないものとのつながり度」が高いと、「生身をお持ちでない "厄介な方々" の集まり度」も高いのかもしれない、まあそんなことはおれにとってはどうでもよく、おれはただ「結果的にいい果実が生ればいい」という、そのことしか考えていないが/ちなみに生身、つまり筋肉をムキムキにすれば、さしあたって「集まってくるもの」の干渉を遮断できるが、人はいつまでもムキムキではいられず、最後はその筋肉も埋めたり焼いたりして滅ぶので、ムキムキ筋肉バリアは姑息的には人の魂に安穏を与えるが、それは急場をしのぐだけであって根本的な解決にはなっていない、筋肉バリアのすぐ外側にはやはり「どうも」と、「生身をお持ちでないさまざまな方々」が待ち受けているだろう。
われわれにとって、ソウル(霊魂)を仮想するというとき、われわれ自身のそれを仮想することは、なんとなく身近でわかりやすいものだ、けれどもわれわれだけではない、「生身をお持ちでない方々」を想定することは、途端にダイナミックで、意表を突いている/これは技法の根幹をなすものなので、あらためて確かに考えていきたい、人のあいだの人気者ということではなくて、人にとってもっと近く、無碍にできないものがある、「どうしたらいいかわからないまま、何も知れず、何も遂げられず、土に還るしかなかった」という魂の嘆き悲しみが、あくまで理論上はありうる、さすがにこんなにテキトーなおれでも、そこまで切実でおれしか頼るものがない者を、唾を吐いて足蹴にしようとは思えない、さすがにおれも必死で何かマシなことをしようと考えるし、使えるものがあるならなんだって使う。

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WS報告056(3)/生身をお持ちの方も、そうでない方も
くまで仮想として、「生身をお持ちの方も、そうでない方も」という言い方をする。
あくまで仮想だし、いつも、「結果的に、よい果実が生れば、それでいいんじゃない」という言い方をする/どんな仮想でも、結果的によい果実を生らせるのなら、それはナイスな仮想だろうし、どれだけ生々しく感じられる事実にもとづいてみても、結果的に何らの果実も生らせないなら、そんなものにもとづいてもしょうがないじゃないか。
桑田佳祐が「いとしのエリー」を唄うと、ステキな感じになるが、音大生の全員に唄わせてみても、決して桑田佳祐が唄ったようなステキな感じにはならないだろう、これは理屈に合わない、なぜなら理屈では音楽の要素はリズムと和音とメロディだと言われている、この三要素に則っていれば、シンセサイザーが唄ったって(ボーカロイドが唄ったって)、その歌は同じ芸術的価値を持っているはずだ、まして機械なら一切ミスがありえない/しかし実際にはまるでそうは感じられないので、この理屈に合わない差分は何だということを、当ワークショップでは「ソウル(霊魂)っすわ」と捉えている。
なぜマイケルジャクソンが「ビリー・ジーン」を歌って踊ると、一種の「世界」が現成するのだろう? 他にも歌の「上手」な人、踊りの「上手」な人はいくらでもいるが、なぜかその一種の「世界」が現成するということはいまいち起こらない、「マイケルジャクソンの世界」は視えるのに、ただの上手な人の世界というのは視えたことがない、この差分は何なのか/この差分、つまり「世界」が得られ、またそこに「存在」「体験」を得るという現象の性質は、当ワークショップでは「ソウル(霊魂)」の機能に由来すると捉えている、だから人が唄うのと機会が唄うのは違うし、「上手」かどうかの問題ではなく、「誰(の魂)」が唄ったかということが問題になる、そしてソウル(霊魂)が何かを直接営むということのむつかしさと厳しさを考えて、そのことにトライしていくのだった、おれが今書いているこの文章が、他ならぬおれが書いているということがはっきり視えることのようにだ。

あくまで仮想として、「生身をお持ちの方も、そうでない方も」という言い方をする。
ソウル(霊魂)というものを仮想する以上、生身(気魄)とセットになっている人は分かりやすいが、そうでない方も想定せざるをえない、つまりわれわれは生身にパッケージされた霊魂の所有者だが、すでにパッケージはなくされた方もあるかもしれず、また次のパッケージを未だ獲得していない方だっていると想定せねばならない、もともとソウル(霊魂)という概念はそういうものだろう/ただしこのワークショップは、スピリチュアルや霊能者のたぐいをもてはやすものではない、ソウル(霊魂)を「分かるもの」に捉えようとするのは、単に知性が不足した混乱者の物言いだ、色やかたちをもって視えるものは妄想であってここで仮想されているソウル(霊魂)の性質ではない。
「生身をお持ちでない方」は、すでに目も耳もないので、ものは見えないし音も聞こえない、ただ魂だけが視えるし、魂だけが聞こえよう、その営みだけが彼らには現れよう、たとえば数学で定義される直線は、太さをもたないのでわれわれの「目」には見えないが、フィクションという能力によってその直線の存在を認めることが――あくまでフィクション上に――できる、それと同様の機能を、あくまで仮想された「生身をお持ちでない方」も持っているはずだ、むしろ「その機能しか持っていないし、その機能しかアテにできるものがない」という状態になっているはずだ。
この「生身をお持ちでない方」「ソウル(霊魂)の営みしかアテにするものがない方」を、仮想上に認め、空間に直線群をグリッドすると、身のまわりに「それしかアテにするものがない」という方々が、ワッとアテにして集まってくる、仮想されるその魂たちは、われわれの魂と同じように、なんとかして天の国に行く手がかりを求めていらっしゃるだろう、その憐れな希求をさすがに無碍にすることはできないので……そうすると、よくわからない現象が起こる、そんなわけのわからない魂群を、われわれがどうすることもできないから、「無碍にできない」と真に思うとき、そのわれわれにはどうしようもできないことについて、それをなんとかしてくれる唯一の作用が注がれてくる、そこから吾我でない声や振る舞いが真の主体として生じてくる、吾我でない上位の主体が自分を支配して、自分ではありえない「まともなこと」「まともなやさしさ」をやらせてくれるのだ/そのとき見ていた人は、「あなたの周りに誰かがいた、たくさんの人たちが集まっていた」という。

おれが完全なアホで世迷い言を言っているのだとすると、大野一雄も完全なアホで世迷い言を言っていたということになる。

おれは大野一雄に詳しくないのだが、詳しい人がいて、色々教えてくれる、大野一雄もよく、「控え室から舞台に行くとき、救われなかった幽霊たちがたくさん身の周りに寄ってくる」というようなことを言っていたらしい、大野一雄も「宇宙意識」といって、空間に(無限に続く)直線群をグリッドしていただろう/それが本当なのかどうかはおれは知らない、おれはただ「結果的にいい果実が生ればそれでいいだろ?」という、あくまで仮想で話しているし、結果的にいい果実が生るなら、それは仮想のままでかまわない、おれが欲しいのはいい果実という結果であって、仮想を実相と認めてもらうことに一ミリも願望はない。
おれはスピリチュアルや霊能力のたぐいを、振る舞ったり焦がれたりするほどのヒマ人じゃない、おれが仮想しているのは、霊的なものを実体化するというような、つまりアホの降霊術のようなことではなく、おれが霊的世界に姿を現すということだ、おれがあっちに行くのであって、あっちのものがこっちに来るのではない、そりゃ仮にあっちの霊的世界なんてものがあったとするならば、そこに聖霊を帯びた姿の者が現れたら、思い切りアテにされるだろう、それしかアテにするものがないのだから/そんなことはおれみたいな愚物には不可能なので、肝腎なところはけっきょく何か偉大なやつがやるしかない、偉大なやつの偉大な作用でしか、まともなことは何一つやれない、おれはしばしば自分の身でいくつかのことをやりながら、自分の身を「なんだコイツ」と首をかしげて思っている。
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WS報告056(2)/「すげーなぁ」という圧倒的有利さ
に出して何かを「すげーなあ」と称えること/大きく響くように、無邪気に。
それが「認める」ということであって、すげーものを認めるということは、それが「偉大なる」「偉大さ」を認めるということで、その認めるべき偉大さのことを、聖書的発想で「父」という、偉大なる主、父と呼ぶ/そしてその偉大さを無邪気に称えるということ、大きく響くように "無邪気に" ということ、そのことを聖書的発想で「子」という、ここで父と子の関係が成立する。
もちろん正規の聖書宗教においては、もっと正統な見方・捉え方があるのは当然だが、当ワークショップではあくまで "聖書的発想をお借りして" そのような捉え方をしている、「すげーなあ」と無邪気に称えるとき、称えている当人は「子」、称えている対象が「父」だ/するとそこに、聖霊があるのかどうかは知らないが、命・魂と呼ぶべき現象と性質が注ぎ込まれるのだ、なぜ注ぎ込まれるのかはおれも知らん、ただそういう現象と性質がある。
無邪気に「すげーなぁ!」と、大きく響くように称えるのは、性質として多大に有利であって、事実僕などは、これまでに何も習っていないのに、今教えていることのすべてはいちおう獲得されているのだ、なぜ何も習わずまともに訓練もしていないのに、いきなり獲得されているのかというと、ただスゲーと思ったものにことごとく「すげーなぁ」と声を出して称えてきたからだ、そうしたら何も習わなくても勝手に色んなことが身についたし、今になって考えれば、そうして無邪気に称えることなしに、何かを習って練習したって肝腎のところが獲得されるわけがないのだった/スゲーものを「すげーなあ」と認めることがすべての入口であり、この入口に入った者はすでに肝腎のゴールに先に触れている(このゴールに先に触れていない人はその先どう進んでもゴールの果実は味わえない)。

そうして考えると、「すげーなあ」と声に出して称えたほうが圧倒的にトクなのだが、かといって実際にそうしようとやってみると、「無邪気に」「声に出して」「大きく響くように称える」というのが、実にむつかしいことがわかる/なぜむつかしいかというと、無邪気にはなれないし、大きく響くように言えないからだが、なぜ無邪気になれないかというと、「認める」というのが気持ちの問題ではなく数学的感覚だからだ、だからいくら気持ちで認めようとしても、数学的感覚がない場合、その承認たる「すげーなあ」が無邪気に発されない。
多くの人に、実は「認める」という機能は具わっておらず、現代の多くの人に具わっている機能は、「認める」ではなく「許す」なのだ、特に女性に多いことだが、人は自分でない誰かや何かを、認めるのではなく実は「許して」いる。
多くの母親などと話してみて、じっくり追究してみると明らかになることだが、たとえば「アインシュタインは偉大な学者だ」ということを、多くの人は「認めている」のではないのだ、あくまで「許している」にすぎない/「アインシュタインは偉大な学者だと言われているし、どうやら本当にそうらしい」ということを、一応「許している」にすぎず、当人がアインシュタインを偉大な学者だと認めているわけではない、数学的感覚がないのにアインシュタインとその学説を偉大だと認めることはできない。
子供のように・無邪気に・偉大さを・認め称える、ということは、数学的感覚から生じるので、数学的感覚がない場合、「すげーなぁ」ではなく「すごいですね」となる、それは大きく響くものではないし、無邪気な子供のように称えるものでもない/だから父と子の関係は成り立たず、そこに聖霊の庇護も接続も得られない、だから肝腎なものは何ら獲得されないということになる、これは何も責めて言っているのではなく、物事にはこういう性質がある以上、この性質から逸脱して努力しても無駄だということを合理的に捉えているのだ。

偉大なものを身に顕わしている人は、かならず「無邪気な子供」のような一面がある。

マイケルジャクソンでもそうだし、ガンジーでも、詩聖タゴールでも、塩田剛三でもそうだ、このことにはパターンがあるのではなくれっきとした仕組みがあって、人の身に「偉大なもの」が顕わされるには、その人が偉大な父に対して「子」である必要があるのだ/もちろんそんな現象は科学的には観測不能なので、「聖霊」のはたらきがあるのじゃないかと、非科学的な設定を仮想する必要がある、あくまで「仮想」だと言っているかぎりは、好き放題に言って差し支えないだろう。
「認める」「認め称える」という機能はそのようである一方、「許す・許さない」の機能はジェニック(遺伝子的)だから、何も仮想する必要はなく、誰だって年齢が進むほどに勝手に身に現れてくる、「○○を許さない」という看板を立てて更新している子供らはいない、これが大事な観点だが、あなたが「何も悪いことをしていない人」でも、その性質は勝手に身に現れてくるのだ、それは遺伝子が発現させる形質だから/ほとんどの人は、自覚的には「何も悪いことをしていない人」だろうが、かといって何か「偉大で輝かしいことをしてきた人」でもないので、遺伝子(ジェニックなもの)が発現してきた場合には、それに拮抗する機能がないので、ひたすら発現してきた遺伝子形質に支配されることになる、「許す・許さない」の基準が自動的にあなたを支配するのもその仕組みだ。
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WS報告056(1)/動きを数学に収束させる
る種のワザでもそうだし、芸術方面のパフォーマンスでもそうなのだが、動きを数学に収束させる。
「まっすぐ動く」ということが要なのだが、「まっすぐ動く」という発想だと、どうしても最終的にイイところに届かない、だから初めから数学に収束させる、空間に直線が存在するという数学的フィクションを認め、初めからその直線に収束するように身体を使う、このほうが初めからいいトコにいく。
身体操作系のワークショップでは、ほとんどがまず「身体」を対象とし、身体の "感覚" に重きをおき、それを洗練させて使っていくという発想になると思うが、当方では別の捉え方をする、まず「空間」があって、数学的なフィクションを認め、それに身体の動きを収束させていくということ、そのために身体の感覚と洗練が必要だという、二次的な捉え方をする。
なぜそのような捉え方をするかというと、学門の代表たる数学が、人にとって真に執着を離れうるものだからだ、人は何をどうひねくれても、直線ABに思い入れを持つことはできない、直線ABがCDに変わっても一般性を失わないということは数学の定義であって、われわれの思い入れが入り込む余地がない、だから数学に収束させていくことで、われわれは執着から離れた身の動きへ接近してゆける、そこで数学と比較すると、「まっすぐ」という「つもり」はどうしても思い入れが入り込むのだ。

われわれは寝ているあいだに、「夢」というある種の体験をする。
「夢」はフィクションのはずなのに、われわれはなぜかそのフィクションを「体験」するのだ、身体は布団に寝たままのはずなのに、ある意味では実体験より濃厚に、われわれは夢を「体験」する/そして「夢」には、もうひとつ気づかない秘密があって、それは夢が「とぎれない」ということだ、夢はフィクションのヴィジョンであるはずなのに、それがわれわれの意識のように「ええっと……?」とつまづくことがない、夢のフィルムが途中で止まったりはしない。
そして夢の中の体験というのは、かなりの割合で荒唐無稽だ、内容は荒唐無稽なのに、われわれは夢の中でその荒唐無稽さに違和感を覚えない、このことは数学の性質と関係があって、直線ABには妥当な直線というのはないし、荒唐無稽な直線というのもない、そして直線ABは無限に続くという公理であり、直線は途切れない、途切れていたらそれは直線ではなく線分だ。
何かが「止まる」ということは、力・重さの作用であって、生身・ノンフィクション・気魄の作用によってしか「止まる・途切れる」ということはありえない、仮に人の身に気魄の側面と霊魂の側面があって、いわゆる魂魄の両面があるのだとすると、霊魂の側は力・重さを持たず事象の性質として数学的だ、つまりこの世界に生身を持たない霊魂があると仮定すると、その霊魂は数学だけは視えていることになる、そして筋肉運動は視えていないということになる。

床にまっすぐ白いテープを貼ったとしても、それは「直線」ではない。

「直線」というのは数学上のフィクションであって、どのように実物で模したとしても、それが実物である以上はフィクションであはりあえない、だからレーザー光でさえ直線ではありえない/レーザー光はあくまで、空間を直進するという "性質" によって直線に沿うように進行するだけだ、もしレーザー光が直線そのものだったら、われわれはそれを視認できないはずだ、直線は太さを持たないのだから。
当ワークショップの取り組みに必要なものは、運動神経ではなく数学の感覚だ、身体の動きを数学に収束させていこうとするのだから、どれだけ運動神経がよくても指針の数学が視えないのでは動きを完成させていく先がない。
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WS報告055(2)/数学的フィクション法
「フィクションだから別にいいでしょ」という言い方は、ほとんど無敵なのでいつもありがたい。
フィクション、つまり「仮に」ということ、「この空間に数学的な直線があったとして」「線分ABじゃないよ、 "直線" ね、直線は無限につづく」「実線じゃないので太さの無い、あくまで数学的な直線ね」「仮に、この数学的直線の側に "主体" があって、直線の側が "思って" いるとしたらどうだろうか」「われわれが直線を思うのではなく、直線の側が何かを "思って" いたとしたら?」。
「フィクションだから別にいいでしょ、仮に、直線の側が "思って" いるとしたら」「つまり、たとえばメロディラインというものがあったとして、メロディラインという "ライン" の側に命があるのだとしたら」。
ワークショップ中に一部誤った説明をしたが、セルバンテスではなくローレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」だ、そうした古い小説の中でも示されているのだが、「物語というのは、実は数学的な直線・曲線のことなんだよ」「直線やら曲線やらはもちろん無限に存在しうるが、まずは一番わかりやすいように、直線、自分の身にとって、前後左右と上下をやろう」「見ている人は、演者の思っていることを見るのではなく、舞台上に "何かある" のを見るんだよ」。
このわけのわからない話を、実際にワークとしてやってみることができ、しかもそれぞれが動画でそれを点検できるのだからおもしろい、「このワークは、明らかにレベルオーバーだけど、先にハイレベルなものに触れたほうが、手前にあることを突破できるということもあるからさ、とりあえずやってみよう」。

どうでもいいことだが、「文字」と「記号」には根底に違いがある/そう証明されたわけではないが、僕は勝手にそう思っている。
というのは、「文字」というのは、直線と曲線、つまり「線・ライン」で現されていて、塗りつぶされる「面」をもたないのだ/これは記号の表現方法として有為な方法が文字においては否定されているということになる、単なる有用性の観点からは不自然なことだ。
たとえば記号といえば、「○●」というのがありうるし、「△▲」というのがありうる、にもかかわらずわれわれは、文字を書いたときにどこかを塗りつぶした覚えはない、文字というのはなぜか面を否定して線だけで書かれている。
まあ、だから何だということはないし、だから何ということを今ここでお話しはできないのだが、とりあえず数学的フィクション法と呼んで、前後左右と上下の「直線」をやった、空間に直線があったとして、直線が「思って」いるのではないかということ、空間に何かあるんじゃないかということを、われわれはよろこんで視る、それがなぜか理由はわからずよろこんで見られるなら、それはあいまいだが確かにある魂や命ではないかということなのだった。

大野一雄は「宇宙意識」としつこく言ったが、確かに、必ずしもノンフィクションだけが何かを「思う」とは限らない。

僕はそのへんの路傍の石が何かを思っているというような空想はもたないが、太さを持たない直線や曲線という数学的なフィクション事象が、何かを思っているという可能性を否定できない、「思っている」というのはおおざっぱな言い方だが、つまり数学的な直線・曲線に「命」があるということ、むしろ真に「命」があるのはそっち側じゃないのかと、僕は経験から思っている。
仮に数学的な点Aと点Bがあり、そのABは直線ABを為して、両点は同一直線上にあると言えるのだけれども、数学的な点は大きさを持たないし、数学的な線も太さを持たないので、われわれがそれを実感上で認識することはできないだろう、だから「仮に」という言い方をはじめに置いて、形而上にしか数学は語られない/人類は種族としては三百万年ほど二足歩行のサルとして生きてきたのだが、「文字」を得てからわずか数千年で現代まで発展している、手前の三百万年とはえらい違いだ、数学的な直線・曲線の側が何かを「思って」いるのじゃないかという話で、すべて「フィクションで言っているんだから別にいいでしょ」で済ませているのだった。
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WS報告055(1)/イキの悪い奴は使えない
「生命」という熟語を見て、「生きる」と「命」を別に捉える。
「生きる」というのは他ならぬ自分自身だ、それを「自分」と呼ぶのは、まさに個人として「分かれて」いる存在だからだ。
一方、ワークショップではこれまで「命」について追究してきた、命とは何なのか、魂とは何なのか……それは、空間にあるYesであり、エコーであり、言葉であり、という言い方をしてきた/それは「分からない」もの、分割されない「ひとつ」のものだ。
気魄の「魄」の偏にある「白」は、明白・はっきりとした・分かるものという意味であり、これは「生きる」「自分」を意味している、一方で霊魂の「魂」の偏にある「云」は、雲の意味であり、あいまいな・はっきりとしない・分からないものという意味だ、これは「命」「世界」を意味している/この二つをまとめて言うのに、昔から「魂魄(こんぱく)」という熟語があった。

今回、これまでの「命令法」にプラスして、マスター側でなくプレイヤーの側、命のディールにおいてはサーバー側でなくクライアント側に注目して、「劇場型クライアント法」をやってみた、変な呼称でわかりにくいのだが、具体的にやってみると内容はむしろ一番わかりやすい。
マスターの命令を受けて、プレイヤーが本当に「やれるのかよ」ということをチェックする方法なのだが、これをやってみると、まさに「生命」の仕組みとして、<<生きの悪い奴は使えない>>ということがよくわかる。
相互の関係をマスターとプレイヤーに設定し、マスターが空間の「命」を掴んでいるかということ、プレイヤーがその「命」をマスターから受け取るかということをチェックするのだが、マスターが空間の「命」を掴むことのむつかしさと同等に、実はプレイヤーとしてマスターの「命」「命令」を受け取るのも、そんなに簡単じゃないということがわかる/みんな撮影した自分の動画を確認するのだが、動画を確認すると、そこにはてんでマスターの命令を聞きとっていない、ただ自分が独りよがりでプレイする孤立・ごまかし体質の自分がまざまざと映っている。
プレイヤーとマスター、まともな「生命」が成り立つためには、プレイヤーは生きがよく、かつ命令に対して従順でなくてはならない、「この映像を見て、 "さすがわたし、イキがいいわ" と感じられるか?」、そう言われてみると問題は初めからミエミエなのだった、マスターは天才のごとく空間の「命」を掴んでいなくてはならないし、プレイヤーは燃えさかるがごとく「生きのいい」奴でなくてはならない、そんなことてんで成り立ってやしないということは、本当はワークなんかやらなくても前もって視えているはずだ。

「一番使えないのは、イキが悪いのに態度だけデカい奴だよ」

実演として、まず「イキがよくて、命には従順でよく聞く奴」を見せ、その後やはり実演として、「イキが悪いのに、態度だけデカい奴」を見せてみる、そうすると明らかに、後者は「こんな奴が何かに使えるわけがない」と馬鹿馬鹿しく見える、にもかかわらずこれまで正しい仕組みも訓練も与えられていないので、実際に自分がやってみると、自分はまさに「イキが悪いのに態度がデカい奴」をやってしまうのだ、これを今さら取り戻そうとするのはたいへん困難かつキツいことで、即座に意識を眠らせて何もかもなかったことにしようとする体内の悪魔がはたらき始める。
かつて人々は、仕事の中でこの「生命」のはたらきを実現しようとした、だからイキのいい新入社員が、ボスからの「命令」でシゴかれるというモチーフを履行してきた、今その手法は完全に廃棄され、イキの悪い新入社員にボスがていねいに「お願いする」というスタイルに変わった、旧来のモチーフは「ブラック」と呼ばれるようになり、社会通念上の絶対禁忌となった/実際、イキのいい若者に、世界につながったボスが命令してシゴくという方法は、もう成立しないので、はっきりと「ブラック」と烙印して廃棄したほうがいいと、僕自身も思う、なぜならこのカミサマに見捨てられたような世の中において、もう世界や命や魂につながったボスなんてほぼ存在していないからだ、命がディールできないならボスは命令ではなくお願いしかしてはならない、それが事実なのだからしょうがなくて、仕事や職場に関してはすべて諦めるしかない、今誰も彼もが生命の両方を無しに生きねばならないという激しい苦しみは、まったく別の方向から救済されなくてはならない(ただし今のところ救済される手段や見込みはまったく見当たらない)。
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WS報告054(2)/祝101回
ークショップが、第100回&101回ということで、根こそぎ祝われてしまった。
小劇場と作品としもべ法を駆使して、お祝いの寸劇を見せてもらったが、なぜかあの瞬間の寸劇は完璧だった、何かが取り憑いたように完璧だったので、そのことは正式に報告しておく。
そういえば、「正式」とか「様式」とか「公文式」とか、僕は「式」と呼ばれるものに一切センスがない、それは式そのものが厳密には呪と呪縛の力を持つからだが、それにしてもこれは使いようではないのかという気がしているので、少し自分として「式」に別の眼差しを向けてみようと思う。
式というのはつまり、 1×2×2×2=8 のように、素因数(素となる要素)の掛け算を「並べて」、元の数の代理と為すことをいうが、それが僕には本質のごまかしに見えるし、本質のごまかしには違いない、トルストイも同じことを言っているので(今説明するエネルギーはないが)、きっとそうなのだろうが、「式」が本質の補足ないし補助として機能するなら、使ってよいのではないかという気がしている、「式」というのは「規則的に並べる」ということだ。

ワークショップはけっきょく、身体操作とフィクションをゴリゴリに教えているのだが、どちらについても覚醒するメンバーが出て来た、「作品」はまだ遠いが、それとは別に次のステージに進まねばならない/これ以上の速度で進むつもりかと、各員からは青ざめた半笑いが返ってきそうだが、先のものを見たほうが手前のものが視えるようになるということはあるし、何より僕自身が僕の本分・本意たることに早く実態を近づけてやりたい。
「フィクション」については、本当に一部のメンバーには、はっきりと視えるようになったみたいだ、これ以上よろこばしいことはない/となると、次は「フィクション上の事実」をやらねばならないと思うし、それをやらないと僕自身が燃えてこないので、いよいよ本当のことをやろうぜと言いたいのだが、ここまでのことが「まだ本当じゃなかったのか」とドン引きされそうだ、でもそりゃあ僕の側から見ればまだまだ奥があるのだ、ノンフィクションからフィクションへの穴が開通したなら、フィクションからノンフィクションへの穴も貫通させるべきだ、それで双方は同一で構わないということになるから。
それで、祝100&101回ということで、ちょっとシャレにならないような、祝いの品もいただいてしまったのだった、あまり自慢するたぐいではないので控えるが、ここまで渾身で肯定してもらえるなら、僕の側としてはひたすら僕の知っていることをぶちまけるしかない、おれは祝いに対して感謝ではなく驚愕で返報しようと思っている。
われわれがフィクションに到達したがるように、フィクションもノンフィクションに到達したがっているのだ、到達したけりゃ相互に到達すりゃいいだろというだけのことだが/ワークショップで腐るほど繰り返しているように、おれは演技の一切をしないし、誰にも演技や小芝居をさせるつもりはない、ノンフィクション側から見ればフィクションがフィクションだが、フィクション側から見ればノンフィクションがフィクションということになる、まあこんなナゾの理論と現象も、やっているうちに本当に誰かがモノにしていくのだろう、それはまるで他人事のように「よくやるなあ」と感心する。

おれは100億人いる。

こんなナゾのメッセージを、書き記しておこう、これがなぜナゾのメッセージかというと、これが何のことを言っているのか、おれ自身にもわからないのだ、ただおれがそう言うからにはきっと何かあるのだろうと思う、まあ何かあったとして、そんなものがわかる必要は別にないが/100億といったが、つまりおれは個数的に存在しているのではないので、おれは何人いてもかまわないのだ、求めるかぎりの数だけ、おれは無数にいる。
おれが100億人もいると思うと、これはなかなか頼もしいことだ、あくまでおれにとっては頼もしいというだけだが/このごろになってようやく、あのときおれに吹き付けた風は、風が「おれ」だったのだということがわかったが、そう考えればたしかに他の誰かがおれであってもかまわないし、いわゆる「無」さえも「おれ」であってかまわないのだ、うーんこの世界はおればっかりだし、けっきょくぜんぶおれで出来ているじゃねえか、というわけで第102回もよろしく、摩訶不思議なワークなんぞで済ませられたら気楽なのだが、ご存じのとおりワークそのものはきわめて合理的で具体的だ、リアルに「できねー」という阿鼻叫喚をこれからも続けていこう。
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WS報告054(1)/祝100回
100回、いろんな人が来てくれて、華やかで推進力があった、もちろんいつもの顔ぶれも100回記念に万感(かどうか知らないがたぶんそう)だ。
100回は記念だが、101回目のほうが大切かもしれない、というわけで今日もゴリゴリいきましょう、ゴリゴリいく理由を探すようになった奴は軟骨魚類に食われて死すべし。
意味が無いことを突き詰めると初めから決めているのだし、なぜ突き詰めるかというと、ヘトヘトのボロクズになりたいからだ、とにかく誰にも納得や理解がされないようでありたい。
第100回は、肘やら膝やら、肩やら股関節やら、胴体やら背骨やら、具体のワークを硬派になり、その後ただちに小劇場等のワークに移った、こちらのワークもどうせ硬派だ、ぜんぶワークの形をした実質は学門だからな。

集合と離散、離散というと「分かれる」「分かつ」ということだが、これが気魄の現象で、つまり「分かる」と「分からない」の交錯、という遊びになる、分かる側がはっきりとした気魄で、分からない側がこれも認めざるをえない霊魂だ、その双方を古く「魂魄」と言った。
それは、そのとおりなのだが、まあ100回もやったのだし、今日はまた第101回だし、どうでもいいじゃねえか、という気がする、その何もかもがどうでもよくなるところまで到達しようとして、意味のないことを突き詰める覚悟をしている/おれは自身はもう何十年もそうだ。
神話には「天地創造」「天地開闢」という話があるものだが、天地が開闢されるまでは、天地も「分かたれて」おらず、ひとつながりの「分からない」状態だったのだろう、今もそういった事象はあるのかもしれない、「分からない」というのはそういうことだ、そして分からないことを追究する以上、意味のあること――分かること――を追究するわけにはいかない。
おれ自身、なぜこんな状態になっているのか分からない、そしてなぜこんな状態を最後まで続けていくのか、それも分からない、分からないということは、おれにとっては求めているとおりということだ、おれごときが分かるような状態を愛でていたくない、空間・言葉・作品・物語等々に「命」「魂」があるのは視えるが、なぜそれがあるのかは分からないし、それがあったから何だというのも分からない、ただおれの分からず求めているものに適う、それ以上の話は誰か分かったふりをする奴に聞け。

分からないものを分かろうとするのはただの混乱だ。

右手と左手を打ち鳴らすと、パーンと音が鳴るが、右手からはどのような音が鳴り、左手からはどのような音が鳴ったか、そんなもん「分からん」「離散しない」「集合である」でオワリだ、そんなことで禅問答ごっこをしている場合ではない、なぜもともと性質として「分からない・分かたれない」ものを、分離・分かろうとするのか、それはただのアホの混乱だ、性質的に分かるものだけ分かればよく、分からないものは分からないまま直接扱えばいい、指の爪を剥がしてから――分離してから――爪として使おうとするアホがいてたまるか? 分離したらもう指の爪じゃねーじゃん。
第100回を終えて第101回に向かうわけだが、それについてどう思うかというと、時間が押しているから寝たい、と思うのだった、最近はチェーン店のコーヒーでもすごくウマい、おれに分かるのはそれぐらいのことであって、ワークショップのことはよく分からん、分かるものならおれは第1回から馬糞を投げつけてトンズラしていただろう/分からないものを分かろうとするのは逃避であり、分かるものを分からないふりでいようとするのもやはり逃避だ、もれなくアツアツの馬糞をプレゼントしよう。
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次でワークショップは第百回

在の形でワークショップが始まったのが、去年の六月末で、そこから少なくとも、100回は徹夜で遊んだことになる、そう考えると一年強で100の徹夜というのは、それだけでなかなかの笑えるスコアだと思う。
ワークショップで何をしているかというと、あまりしのごの言ってもわかりようがないので、二つの側面があるとして、ひとつには「速い自分」を作るということ、もうひとつには「視える自分」を作るということだ、そりゃモジャモジャしていて視えない上に遅い自分なんて誰もよろこばないだろう。
こんなことは、さっさと学習されればそれでいいので、学習のカミサマを導入するのがいい、さっさと空間にインストールすればいいのだ、カミサマを導入というのは宗教的なことではなくて、ただ「ここにいたらやる気が出る」というだけのことだ、なぜそういう現象があるのかは知らないが、そういう場所と現象があるというのは誰だって経験から知っているだろう。
「速い自分」にせよ「視える自分」にせよ、両側面は、まず「呪縛から脱する」ことから始まる、呪縛されていればそりゃ遅いに決まっているし、呪縛されていればモジャモジャして視えないに決まっているのだ、「速い自分」というのは極めようすれば際限がなくて、もちろん「視える自分」というのも極めようとすれば際限がない、これらは永遠に突き詰めていくものだ。

「速い自分」というのは、基本的に具体がテーマになる、目の前で見たとき、「人の身体ってそんなに速く動きますかね……」とビビるぐらいでなければダメだ、そういうはっきりと「すげえ」とわかるものでなければ面白くない。
「速い自分」というのは、疲れない自分ということでもあるし、誰かに掴まらない・呪縛されない自分ということでもある、正しく訓練すれば、意思決定も速くなるし、行動の実速も実現も速くなる、何より頭の回転が速くなる/人は「速い」ということについては一切文句を言わないものだ、疲労なしに瞬時に身体と意思が動作して目的を達成することに文句をつける人などあるはずがない、有利で有益なことこの上ないのだから。
「視える自分」というのは、芸術やソウルが素材になるので、体験するまでわかりづらいが、なぜか知らないが「出会った」感じがするということや、その人のことをなぜか忘れないということ、なぜか面白くて、なぜか愛してしまい、なぜか大切に思うというようなことだ、これはこれで、体験するとはっきりと「すげえ」とわかるようになる。
「視える自分」というのは、有利・有益という以前の、何かの「根本」、それこそ自分の生きる値打ちや、自分が何をして生きるかというようなこと、自分の「命」を取り扱うようなことだ、それこそこのブログを読んでいる人だって、場合によっては数年も、ブログ記事というよりは「九折さん」と思って読んでいるのだろう、なぜそれがブログ記事ではなく「九折さん」と感じられているのかには理由がある、そういう現象を直接自分のものにしていこうということだ/どちらの側面もやり出すと面白く、やり出すと「できねーwww」という悲鳴があがるばかりなのだが、何の値打ちもないものなら、こうして第百回を迎えることはなかっただろう。

次で第百回、持参するものは自分の身ひとつだ。

このワークショップは、健全な人なら、基本的に誰でも取り組めるものだけれども、残念ながら、すべての人がこの "陽気な取り組み" に乗っかって遊べるというものでもない、これまでに何度となく、ご辞退いただいた人もいる、それは「身ひとつ」で取り組むこととしてやむをえないところだ/同じ「趣味」を持ち寄って営むタイプのものなら、いくらでもごまかしが利くだろうが、このワークショップはそういうものと最も遠いところにある、もし万人向けの万人が可能なワークショップをデザインするとなると、まったく別のものになってしまう、そしてそうした汎用たりうるものはわざわざ僕のような変人が主催する必要がない。
人はゴルフをしたりジョギングをしたり、マンガで同好の士を集ったり、あるいは発展のため異業種交流会を開いたり、目的に直結して婚活パーティを催したりするが、そういう "持参物" をゼロにして、自分の「身ひとつ」だけで集まったらどうなるだろうか? それが「身内」でないかぎりは、わけのわからない圧迫感と、不毛さ、居心地の悪さだけが起こるに違いない、僕はそれを「そうではない」に変えようと思っている、僕は人が持参物を基準にして集まるやり方はあくまで付録でしかないと思っているのだ。

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WS報告053(2)/ワークショップの半分は「認めショップ」だ

サい言い方だがしゃーない。
他人を絶対に認めない人がいて、他人を認めない人が、他人に何かを教われるわけがない。
自分が誰かを「認める」ということ、何かを「認める」ということ、それが生まれて初めて「自分の頭で考える」ということだが、自分の頭で考える機能を失った人は、もうよくわからない反復運動を繰り返すだけしかできない。
ワークショップの半分、あるいは半分以上は、ワーク以上に「認める」のショップだ、残念ながら他人のことを認められない人はその先に何億年の時間があっても、何かを得たり学んだり拓いたりする可能性はない、どれだけ努力しても成果はゼロだ、それだけ「認める」という機能は唯一で絶対の機能だった。

もうパターンがミエミエなので、さっさと公式化してしまったほうが時間を節約できる。
これまで、もう明らかすぎるほど明らかだ、単に僕が実演するいちいちのことについて、「すげ〜」と驚いている人が、その技術と現象を獲得していく、ただそれだけでしかない、ここで「すげ〜」とならない人は、何をどうやっても無駄だ、別にこのワークショップに限らず、その他のどこへ行ったとしても結果は同じだ。
何かの「ファン」になる人は、何かを見て「すげ〜」とはならず、自分が高揚するのだ、僕は何かの「ファン」になった試しがないので、その情緒現象がよくわからなかった、これはどうやら本当に、ベッタベタの心理学で言う「自己防衛機制」のひとつで、ただの「投影」とか「同一視」とかをブッ放しているだけらしい。
単に、他人を見て何かしら「すげ〜」と言い、自分が高揚するわけではない人は、他人のことを認められる人で、うぬぼれの薄い人だ、一方で他人を見ても「すごいですね!」と自分が高揚してしまう人は、他人のことを認められない人で、すべてのことがうぬぼれに結びついているだけの、とんでもない幼稚な田舎者だ/ワークショップは半分以上「認めショップ」であり、他人のことを「すげ〜」と認められる人は、なんのことはない、フツーにやってりゃフツーに学習して獲得していくだろう、ただそれだけなのでメソッドなんかないのだ。

地方から見れば東京のほうがにぎやかだと "認めざるをえない" はずだし、東京から見れば京都のほうが歴史的建造物が多いと "認めざるをえない" はずだ。

こんなこと、アホみたいというか、レベル1の知性が残っていたら、議論の余地なく承認可能のことのはずだ、にもかかわらず、その「認める」ということにすさまじいストレスを覚え、何であれば「すねる」ということに居座り続け、認めないことで自我の増長を保存するという人が少なくない、そんなのいくらなんでも無理がありすぎるだろう、たとえばおれから見れば女子高生のほうが「若い」のは認めざるをえないのであって、ここでグチグチ粘ろうとする人はどう考えても頭がおかしい、どう考えてもおれよりフレッド・アステアのほうがタップダンスが上手いのであって、そんなことにおれが粘ったりおれが興奮したりする要素は一分子もない。
まったく冗談ではなく、「認める」という機能を失っている人があって、たとえば田舎の市会議員のおじさんに、「おじさんよりバディ・リッチのほうがドラムがうまいですね」と言うと、おじさんはなぜか「そりゃそうだろ」とは言わず、何かしら不機嫌で対抗的になるのだ、他人を認める能力がないのである、自分がカラオケ教室に行っていることはフルパワーで認めるのだが、ビョークが it's oh so quiet を唄うことについては認めないという様相/こんなしっちゃかめっちゃかになる前に、さっさとすげーもんはすげーと認める体質になったほうがいい、認めたものには近づけるが認めていないものには永遠に近づけない、だから何かの「ファン」というのはうつくしさのすべてから遠ざかっていく。

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