☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 9/24更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第二百二回】9月25日(金)19時〜 (別企画のためお休み)
【第二百三回】9月26日(土)19時〜(別企画のためお休み)

【第二百二回】10月2日(金)19時〜オンラインにて開催
【第二百三回】10月3日(土)19時〜オンラインにて開催
【第二百四回】10月9日(金)19時〜オンラインにて開催
【第二百五回】10月10日(土)19時〜オンラインにて開催

(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。夏場世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
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酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
 〜コロナのため休止中〜
(【第102回】@原宿DinningBar CLIMB
【第103回】@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

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ワクチン早よ!! コロナ飽きたぞ早く滅べ!!


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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WS報告 of 197th/エネルギーのある奴というのは、「わたし」が肉体の外側に出ている奴だ
肉を10kgつけたって、「わたし」が増えたわけではないし、ぜい肉を10kg落としたって、「わたし」が減ったわけではない。
英単語を1000語覚えたって、「わたし」が増えたわけではない、学歴を得たって「わたし」が増えたわけではない、一万円をうっかり落としたって「わたし」が減ったわけではないし、事故で片足を失った人だって「わたし」を減らしてしまったわけではない。
そもそも「わたし」というのは、具体的でないというか、それ以前に量的でない、つまり完全なわたしが1わたしで、ちょっと減ったわたしが0.7わたしというようなものではない、「わたし」という現象は増えたり減ったりしないものだ。
ということは、われわれは生きるうち、「わたし」に何かを足したりしなくていいし、「わたし」から何かを失うことを気にしなくていいわけだ、何をどうやったって「わたし」は増減しないのだから、何を足しても減らしても同じだ、「わたし」の増減はずっとゼロだ。

「わたし」はいつから「わたし」なのか、われわれがそれを自覚して "記憶" に得るのはいわゆる「物心ついたころ」だ、では二歳以前には「わたし」が存在しないのか/そんなことはない、もしそこに「わたし」がいないのであれば、0歳児は「殺してもかまわん」ということになってしまう。
0歳児だって、デコピンをしていじめたら苦しんで泣くわけで、泣いているのは誰かというと「その子」だ、じゃあその子は「わたし」の一人として存在している、もしそこに「わたし」が存在していないならただの物品でしかない/0歳児はまだ「思う」とか「記憶する」とかの機能を得ていないだけだ、0歳児は「やめろ、迷惑な奴め」とか「ちくしょう、復讐してやる」とかを思わないだけであって、そこに「わたし」が存在していないとは言えない。
この世に生を享ける前に、「わたし」は存在していたのだろうか? もし存在していたとしても、その記憶がないのだから当人も確信なんか持てない、じゃあ生を享ける前に「わたし」は存在していなかったかというと、それも断言できない。
なぜ断言できないかというと、こうだ/仮に、生を享ける前に「わたし」は存在していなかったとして、「じゃあ、ゼロから突然、どこからともなく、 "ワタシデース" とお前は出現したのか」「卵子が精子を受けて、卵割が始まったとして、細胞が何個になった瞬間にお前は "ワタシデース" になったんだ」「お前が出現するコンマ一秒前までお前は存在していなくて、ある瞬間から突然 "ワタシデース" か」、けっきょくこれらのことはいかにも不自然というか脈絡が成り立っていないので、誰でも考えればわかるとおり、われわれの持つ「わたし」という現象は「測定」を担保にした科学の方法では追求できない、そもそも炭素や酸素や窒素や水素の原子を寄せ集めてそれが何かの瞬間に「ワタシデース」になるということは認められない、炭水化物やタンパク質を寄せ集めてもそこから「わたし」は生じない。

生まれる前から、また死んだあとも、「わたし」はいっさい増えもしないし減りもしない。

だからわれわれが「わたし」について、得なくてはならないものはないし、失ってはならないものもない、「わたし」に追加的に何かを足すことはできないし、減らすこともできないだ、「わたし」と「わたしの思い」は別であって、「わたしの思い」というのは肉体の自我機能に結び付いて生じており、つまり「思う」は肉体に生じている、肉体はイコール「わたし」ではないので、一般にわたしの思いと思われているのは正確には「わたしの肉体に生じている思い」だ、これは「記憶」に置き換えてもまったく同じだ。
われわれの肉体には、「思い」や「記憶」や「時間間隔」が生じていて、これらはあくまで肉体の体験であって「わたし」の体験ではない、ただわれわれの「わたし」が、自分にあてがわれた肉体に執着するから、「わたしの肉体」と「わたし」が呪縛レベルで結び付いてしまうだけだ/「だからエネルギーのある奴にならないんだよ」「そして隣人愛も成り立たないんだ」とおれは話した。
 
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WS報告 of 196th/絶対がまともを呼び起こし、相対が〇〇を呼び起こす

回の内容はセンシティブだった。
人は相対によって〇〇になる、と述べた、この伏字の中には「くず」が入る。
伏字といってバラすなら伏字の意味なくねと思われるところだが、そうではない、字面にするとよくないということはあるのだ、人は相対によって〇〇になる。
相変わらずおれの書き話すことは常に爆裂オモシロイのだが、なぜかというと、よりにもよって九折さんが面白くないなんてことは許されないからだ、さらにそれがなぜかということについてはさかのぼれない、これはおれの精神知性が絶対的に捉えているものであって相対化されうるものとは違うからだ。

人は相対によって〇〇になる、そしてこう述べた/〇〇の特徴は「プライドは高いが、誇るものがない」だ。
これは悪口を言っているのではない、ただ「〇〇」と「まとも」、それぞれの現象を捉えたとき、前者は「プライドは高いが誇るものがない」のに対し、後者は「プライドには無縁だが誇るものがある」になる。
「プライドは高いが誇るものがない」というのは、単純には矛盾しており、「誇るものがなければプライドは高くなりようがないだろ」と思えるのだが、実態はそうではない、そうではないということが誰の心当たりにもわかるはずだ、そして〇〇はこの構造の中、「プライドは高いが誇るものがない」ことによって空回りし、常にむなしく、寂しさを抱えてさまよっている。
だから、そこでたとえば女性の場合、「アルバイトしてお金を貯めたから六本木の高級イタリアンをおごるよ、キミをデートに誘う」みたいなことを言われると、まったくアホみたいなのだが「えっ!?↑」となって舞い上がり浮かれるのだ、おれは「冷静に考えろ」といった、「誇るものがない女にスパゲティを入れて何かになるのか?」「なぜ友人が努力したカネで自分の口の中に六本木の高級スパゲティを入れることが『ステキ』になるんだ」「これをはっきりと、〇〇だと見切れ、そりゃどう見ても本質的に〇〇だろ」。

一方でまともな女は、同じ誘いに対し、「そんな大切なお金は、もっと他の大切なことに使ってよ」と彼を叱った。

彼が引き下がらないのでその女性は「わかりました」といい、「じゃあ、サイゼリヤになら行きます。でもあなたが時間を費やして稼いだお金でわたしがいいものを食べる気にはならないわ、わたしにとって食事ってそういうものじゃないの」と言った。
おれは「各員に問う、この女は380円の安物クズ女なのか?」と訊いた、それがどうなのかおれは知らないが、少なくともおれはそういう奴を安物のクズ女とは思わない、おれはおれなりに現代のいろんなことを理解しているつもりだが、六本木高級スパゲティでドリーミーになる女を高貴な誇りを持つ者とは思わない/おれもそれなりに高いメシを食うことはあるが、それはおれの誇りではない、おれの誇りは今ここに叩きつけているものであり、おれのメシがまともなのは吉野家の牛丼でもオステルリーでも同じだ、おれのメシは絶対にウマいのであり相対的にウマいのではない。

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WS報告 of 194th/まだ人じゃない
ークショップはオンラインでしつこく継続しているのだ、コロナごときで頓挫するわけねーぜという反骨の見せ所である。
「君たちはこれまで人に出会ったことがなかった」「また、自分が人であったこともまだないのだ」と話した。
この先の自分に「変化がないような気がする」というのは、予感でも何でもないし大人になったのでもない、単に扉が閉じたままだから閉塞しているだけだ。
自分が変化しないということは、自分が完成しているということだが、何のこっちゃない、まだ扉を開いたことがないから、完成しているのではなく「まだ始まってもいない」というだけだ/まだ始まっていなくて閉鎖されているならまるで完成しているかのように錯覚してしまうだろう。

おれが言うところの「人」とは、人格ではなくて主体性のことだ。
人格で接触すると相手からは人格が返ってくるが、主体性で接触すると主体性が返ってくる、少なくともそういう場合がある。
厳密にいうと、こちらから接触の人格をなしにして主体性だけで接触すると、相手にも主体性の現象しか起こらなくなるのだが、何しろ相手もそうした現象はまったく未体験で、かつ一種の呪縛が掛かっているので、相手は混乱してありもしない人格で返答しようとする、この場合よく知られたケースとして相手は「自分だけ空回りした人格を晒す」ということになる/「よく知られた」といってもこんなことはこのナゾのワークショップ員しか知らないが、まあもう睡眠不足なので表現を整える余裕がないのだ。
人格と人格が接触する場合、それは自分と他人がヤッサモッサすることになり、それを「人付き合い」なんてごまかしていても、早晩「意味ねええええ」ということに気づいてしまう、そしてサルトルのように嘔吐しながら「地獄とは他人のことだ」と言い出すことになる、おれが言っているのはそういう現象のことじゃない、「まったく別の、お前らの知らない現象がある」と言った、「お前らの喫緊の、かつ至上の命題は、この主体性が呼応するという現象を原体験として得ることだ」。

おれがチョコレートムースを食いたいといえば、他の誰だって「買ってこなきゃ」「作らなきゃ」と反応する。

だからおれの場合、おれと誰かという、自分と他人が話しているのではないのだ、おれの主体性が相手の主体性になって流入するので、おれの求めは相手にとって当事者としての求めになり、またおれのよろこびは相手にとって当事者としてのよろこびになる。
おれが「チョコレートムース食べたい」と言って、無条件で「買ってきます」というとき、それを買いに行く奴は、おつかいではなく幸福の中にある、該当者は毎回「なんだこれは」と体験してきただろう、そのとき主体性の中を歩いているのだ、そこにいる自分も自分でなはく、他人も他人ではない、主体性が歩いているという世界を視るのだ、そのことに不満を持った奴はこれまでいない。
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WS報告 of 191st/幼児的万能感と被害者感情
まに心理学関連に、投げやりに出てくる「幼児的万能感」というのが、よくわからなかった/心理学といっても、ふつうの心理学者が人のこころに深入りして付き合ってきたわけではないので、まあアテにならない、本棚に人のこころがあるわけではない(そして本棚より人のこころのほうがエライわけでもない)。
おれなりに、幼児的万能感というやつの正体がわかった、正体というより実情がわかった、幼児的万能感とはどんなものであり、何のために存在しているかというと、要するに現代のわれわれが毎日を明るく過ごすために役立っている/もちろん万能感なんてものは空想でしかないのだが、それを妄想化することで、日々を楽しくしているのだ、いわば幼児的万能感は現代人たちの「こころの拠り所」だと捉えていい。
「万能感」というのはつまり、「万事、自分が思い描いたとおりにやれる(気がする)」と思い込んでいる、その妄想のことだ、心理学的には妄想というよりはただの思い込みかもしれない、が、うるせえ、はっきりいえば妄想だ/何かよくわからないが、カーネギーホールに人を集めて自分が壇上から唄うと、感動の嵐と拍手喝采が起こるものだという妄想・前提があるのだ、「じゃあ実際にやってみろ」ということになるが、もし本当にそんなことを実際にやったら見るも無残な惨劇が起こるのは常識的に当たり前だ。
なんというか、男女とも、クリスマスにデートして宵の街を歩いたら、何かいいこと・いいムード、そしてロマンチックな愛うんたらが体験できるという妄想があるのだろう、それは残念ながら錯覚だ、「じゃあ実際にやってみろ」という、その実際を避けてまわっているから妄想に浸っていられるだけだ、毎日がつまんねー情熱ナシナシマンがカーネギーホールに立とうがクリスマスの宵を歩こうが、実際に得られるのは目も当てられない「つまんねー」なのだ、あなたが大企業のスーパーバイザーになったとしてもあなたは何の役にも立たないし、業績をあげるどころか状況判断の能力さえないだろう、だって日経新聞に何が書いてあるかもわからないじゃないか、それが当たり前のことなのだが、そういう当たり前を押しつぶして自分には秘められたる万能性があるという前提で生きているから、妄想の中では楽しく生きられるのだった、こうして幼児的万能感は人々が日々楽しく生きることに役立っている。

マンガの読みすぎ・アニメの見過ぎをやるとこんな感じになるのだろう、あるいはテレビドラマやスポーツ観戦も含め、世の中にある「コンテンツ」というものの多くはけっきょくそれでしかないのかもしれない、「幼児的万能感のエサ」が人々を明るく生きさせているということなのかもしれない/それが悪いと言っているわけではない、ただおれがそのことを知らなかった・気づかなかったというだけだ。
幼児的万能感の特徴として、「じゃあ実際にやってみろ」「お前の力でやってみろ」と言われると、急激に「被害者」になり、「追い詰められた」という感情を持ち、その状況をもたらした人を憎らしく恨む、ということがある、「実際に」ということを問われない万能感妄想が楽しく生きる拠り所なのだから、この拠り所を奪われると人は途端に楽しく生きられなくなる、だから当人は「被害者」になるのだ、振り返ればおれはかつてこのパターンで急激なパニック症状を起こす人をたくさん見てきた、おれは決してそれをバカにしているのではない、おれはもはや何についても打開と解決のことしか考えていない。
今回のワークショップでは、「おれとまったく同じことをやってみろ」という課題を与えた、それも元となる動画、台本をきっちり与え、尺としてはごく限られた数分のことを、各員に分担させてやらせるという補助つきだ、それでもこうすることで初めて、各員は「自分の思い描いていたようにはできない」ということをはっきり体験できた、おれのバージョンと各員のバージョンを数秒ごとに切り替えて比較する資料映像まで作成したのだ、これはおれがいじわるをしているのではない、おれは誰のことも幼児とは扱いたくないだけだ。
今、多くの人の中には幼児的万能感が残存していて、人によっては残存どころか今もなおフル稼働中ということがよくある、ここでこの万能感妄想に直接否定のメスが入ると、多くの人は「ショック」を受けるようなのだが、冷静に見ればそんな万能感を土台に生きている人がいるということのほうが客観的にはショックだ/おれは現実を突きつけるなんてヒマなことをやっているのではない、失われた現実を取り戻させようとしているだけだ、現実的には何も楽しくないという恐怖がヒシヒシあるのもよくわかるが、それは現実に負けた者の現実でしかない、情熱と踏破を為す者の現実はお前らの知っている現実とは異なる。

できないど真ん中に立った奴だけ、できるど真ん中とつながる。

おれはこのことを、「栄光と恥は一直線上にある」と呼んでいる、恥というのは痛みの一種で、しかも致命的な痛みだからふつう避けるしかないものだが、あえてこのど真ん中に立つことができた奴だけ、栄光のど真ん中とつながり、それを得る可能性を与えられるのだ、栄光と恥は同一の数直線上にある両極であり、恥のど真ん中に立った者だけが栄光のど真ん中を見上げることができるからだ。
おれの言っているところの出来るとか出来ないとかいうのは、けっきょく能力の問題じゃない、誰もおれみたいに恥のど真ん中には立てないだろうということを言っているだけで、またそこに立ち続けることはさらにできないだろうと言っているだけだ/おれの恥について多くの "健全な" 人々は目くじらを立てて攻撃するだろうが、そうして彼らがパニック感情を起こすのはちゃんとそうした仕組みがあるのだ。
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WS報告 of 189th /お前らに魂なんかない
んでこんなにずっとドタバタしているんだろう、しゃーないのでテキトーに書く。
多くの人がいろんなコンテンツを楽しみ、自身としてはいろんな「キャラ」を振る舞って生きているが、これらは総じていえば「ネタ」であり、ネタであることによって「マジ」のしんどさから逃れている。
「マジ」なんてしんどいだけなので、「ネタ」に走っているという状態なのだが、こんどは「ネタ」のほうはも「むなしいだけ」と辟易してくるので、次は「マジ」に走るということも出てくる。
そして「マジ」をやってみたら、しんどいというかそれ以前に「痛い人」になってしまうので、アイタタタということで、「なーんちゃって」と再びネタに走るのだった、これを「ネタマジ往復」という。

本来、テレビを見ることやマンガを読むこと、それらは「ネタ」ではあれ、別に「むなしいもの」ではなかった、それはそれでかけがえのないものだった。
一方、仕事というと「しんどいだけ」ではなく、しんどいけれども何か「かけがえのないもの」だった。
だから、旧来というか本来、仕事とマンガ娯楽を往復していることは、別にむなしいだけではないし、しんどいだけではない、何かかけがえのないものの中を生きていたのだけれど、この外形はまったく変わらないまま、仕事とマンガ娯楽を往復して、一方はしんどいだけ、一方はむなしいだけ、というように本質が変化している。
本来、ネタマジの往復というのは、直線ではなく根底で支える魂があって、魂を含めた三角形だったんだよという話をした、もちろんそういう話をするだけでは足しにはならないので、実際の作業・ワークを加えて、実際の変化をもたらすのだ、その実際の作業やらいうのはもうここで書くのはさすがに面倒くさい、ただまあおれは毎週天才でアタリマエなんじゃないかな〜とテキトーに言っておく。

お前がデートに誘っても「ネタっぽい」、にもかかわらず下心は「マジっぽい」から困る。

今どき女性が「ウフフッ」みたいなことをやっていたらネタでしかないが、そういうネタっぽいことをしきりにやる女性に限って、強烈な結婚願望や栄達欲はマジマジのマジだったりするから怖いものだ、マジというのはしんどいし、ネタというのはむなしい、その欲張りセットなんてごめんこうむるぜ。
「お前らに魂なんかないんだ、だからお前らが魂について考えても無駄だ」「魂のことを考えるのじゃなく、おれのことを考えろ、お前らに魂は視認できないがおれは目の前にいるのだから視認できるだろう」「自分が魂を視認できないから、その代理人を視認するんだ」「別におれじゃなくてもいい、代理人の資格があるなら誰でもいい、ただし言っておく、おれ以前にお前らの中には "誰かいる" ぞ、何の代理人かおれは知らない、ただそういうときに入っているのはたいていサタンの代理人だ」。
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WS報告 of 177th /恥に倣え
代の人々に、「痴愚」の印象が蔓延していることを指摘した(ワークショップで)。
この「痴愚」という印象は、知能や知性とは無関係に、何か「どうしようもない」、ボーッとした噛み合わなさのことで、このことが一種の煩悩中毒から発生していると指摘した。
それらはいわば、現代の「実際の三角形」として、その頂点のひとつを為していると述べた、それぞれの頂点は「現代人のオタク化」「現代人のマウントするマン化」「現代人の痴愚化」であり、この三角形が果てしない拡大を続けている。
多くの人は、これを「悪」だとし、それぞれについて「ちゃんとしよう」と、つまりこころを善に入れ替えようとするのだが、これは実はこころの問題ではなく "魂の恥辱" から起こっているので、空回りするのだと指摘した/じゃあ正しく魂の恥辱に向き合えばいい、ということになるのだが、そうはいかないのだ/人は己の悪には向きえても恥に向き合うことはできない、そんな根性を持っている人はほとんどいない。

オタク趣味あるいはむさぼり中毒の一切を、誰もが「やめよう」と反省するし、内心にも起こるマウント精神を「やめよう」と反省する、そして脳みそがボーッとして汚らしいのを「やめよう」と、誰もがこころの底から反省するのだが、これはこころから起こっている現象ではないので、こころを反省させても何ら拮抗作用はない、一時的に表面上「反省しました」というふうになるだけで、「実際の三角形」は拡大を続けている。
ことは魂の平原に起こっていることであり、それは魂の恥辱から起こっているのだが、「恥辱」というものに人はふつう向き合えないので、これをこころの問題、こころのパワー問題にすりかえようとする、これは一種の逃避だ/パワー問題にすりかえて逃避する、その逃避の先はときに能力で、ときに魅力で、ときに努力だ。
だから初めに指摘した「痴愚」の印象も、それぞれに引き当てて「能力痴愚」「魅力痴愚」「努力痴愚」におおむね分類することができる、こんなものは今探すまでもなくいくらでも周囲に発見できる/能力が高いはずなのに「痴愚」の印象がある、魅力を売り物にしているのに痴愚の印象がある、努力を見せびらかしているのに痴愚の印象がある、この痴愚は本当にゾッとする、どうしようもない噛み合わなさと深い苛立ちを内部に感じさせるものだ(当人が己の痴愚ぶりに発狂しそうになっている感じがある)。
なぜこのようなことが起こるのかというと、本来、人の内部では、その魂が恥辱と栄光でせめぎあっているものだからだ、魂の栄光が得られなければ魂は恥辱に敗北するよりなくなる、だから人は魂の栄光を求め、またその人にあこがれ、その人に倣おうとするのだが、その安易な発想では正しく栄光を倣うことはできない/こうして考えると、一夜でなかなか複雑な、奥行きのあることを追究したものだ。

Aさんがそれをすると恥辱になるが、Bさんがそれをやると栄光が視える。

たとえばAさんが女性を口説くと傍目にも「アイタタタ」となるのに、Bさんがそれをすると、何かロマンスや神話があるような "栄光" がそこに現れる、だからAさんはBさんの真似をしようとするのだが、この倣い方はまずもって成功しない、この背後にはまったく思いがけない学門があるからだ。
AさんであれBさんであれ、ブッダやキリストを除いた「人」は、誰であれ恥をしかやれないのだ、<<人は恥をしかやれない>>、にもかかわらず人によってはごくまれに、確かにそこに「栄光」が現れるのを視るのだが、それでも実は「人」としてやっていることは同じなのだ、このことを「恥辱と栄光の同一性」と呼ぶ/AさんもBさんも同じ「恥」をやっている、人は誰しも同じそのことしかできない、けれども、人が視るものは違う、人がやることは恥だけだが、人が視るものはそれだけではないのだ、人は人がやっていること "以外のもの" を視ることがある――それにしても、人は恥をしかやれないので、われわれが栄光の人の何に倣えばいいかというと、<<栄光の人のやっている恥に倣え>>ということなのだ、このことはあまりにも奇想天外で、真に強い人・真に謙虚な人にしかこの生き残りの道筋は発見されない。
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WS報告 of 175th /Reason, otherwise Poison
が動いているメカニズム、つまり人が動いている「理由」、その理由は Reason か、そうでなければ Poison しかないと話した。
「理由の中に自分がある、自分の中に理由があるのじゃない」「Reasonの中にいる人もあるし、Poisonの中にいる人もいる」「それぞれは、Reason こそ "おれ" だと感じるし、Poison こそ "おれ" だと感じる」。
 Poison 派の特徴は、「みんな同じことを言う」というところだ、たとえば「働かないと食っていけないだろ」「趣味でやっているだけだよ」「パチンコ打ちたいからパチンコ打ってんだよ」、なぜそうして "同じことを言う" かというと、われわれの生身の性質はみな同じだからだ、誰でも突き指をすれば炎症を起こすように、誰の生身でも体内に毒が湧いて焼けるというのは同じ、だから Poison 派は画一的で連帯感が強くなる。
そして、 Poison 派はそうして生身の毒焼けが「わたし」であるので、Poison 派は互いのことをジロジロ見合うと、その人のことがよくわかるという性質がある、生身とその顔面をジロジロ見ると「その人」がわかるのだ、画一的で連帯感の強い地域にヨソ者がいくと「ジロジロ見られる」のはこれが理由だ/一方で Reason 派は、生身の毒焼けが「わたし」ではないので、その人の生身と顔面をジロジロ見ても、「その人」のことはわからない、両者はそれぞれまったく別の存在なのだ、子供のころや若いうちはごまかされるけれども、気が付けばいつのまにか、加齢とともに自分の住んでいる国はどちらかに決定している。

画一的で連帯感が強い地域に行くと、第一に "ジロジロ" 見られ、次に " Poison をぶっかけられる" というという手続きをほどこされる、この「ジロジロ」と「 Poison ぶっかけ」は、驚くべきことに Poison 派の "マナー" なのだ、若いうちは誰でも「んなアホな」と思うものだが、やがてそういうものに出くわして体験することになるし、やがて自分自身もそうなる、その "マナー" を自らぶっかけていく側の人になる。
犬と犬とが、互いに肛門をかぎあって互いを知りあうように、人だって Poison 派は、互いの毒をぶっかけあって互いを知りあうのだ、これは大げさでもなければ極端な例でもなく、それが標準のことなのだ/たとえば芸術家が互いに表現した Reason を見せつけあって互いを知りあうように、 Poison 派は互いに蓄積した Poison をぶっかけあって互いを知りあう、人はどうしてもどちらかの国の果てまでゆかねばならない、そうでないと生きていけないからだ。
人は、誰でも知るように、努力によって能力を解発したりはできない、人は能力を解発できないので、そのままでは生きていけないのだ、だから能力を解発する方法が加齢するほど濃厚に必要になってくる/そして、能力を解発する方法のひとつが呪術、閉じ込める・鎖でつなぐなどして、業(カルマ)の毒(Poison)を溜め込ませて能力を解発させるか、もうひとつが Reason 、理由の中に自分を存在させて能力を解発させるかなのだ、人はこの Poison が Reason のどちらかに住ませるしか能力を解発できず、この解発なしには生きていくことができない。
どんなボンクラ女でも、金融業の窓口に鎖につないで閉じ込めておけば、金融事務作業の鬼になるし、どんなボンクラ男でも、たとえば警察に就職させてその生涯をずっと警察官として過ごさせれば、人をしょっぴくための法律の構造をイヤでも詳しく知る専門業者になるものだ、それが業(カルマ)であり呪術であり業者という現象だ、この能力が解発されると、基本的に元には戻らない/習字が達者になった人がもう二度と字がヘタクソには戻らないように、あるいは音感がよくなった者がもうオンチになることはありえないように、解発された能力は基本的に解発前には戻らない、同じように Reason から解発された能力も、基本的に解発前には戻らない、「あなたと歩く世界はどうしてこんなに急に鮮やかになるの」というような Reason からの能力も、基本的にはもう閉じられることがない。

極限まで短縮して言えば、「生きる仕組みおよび能力が啓かれる方法には、RタイプとPタイプがある」ということに尽きる。

 Reason タイプと Poison タイプは、互いに排他的であり、基本的にはどちらか片方に集約されていかざるをえない、子供のころはともかくとして、加齢とともにRの果てかPの果てのどちらが向かうようになっている/この二つのタイプが厳然と存在していて、そこをだまくらかした<<漠然とした「いい人」などは存在していない>>、そんな存在があるように見えるのは入念に化粧がほどこされたフェイクにすぎない、どのように偽装されていも内部は必ずきっちりRかPのどちらかの果てに向かっている。
「リーズンとポイズン、お前はどっちのズンで動いているんだ」というだけのことで、誰も自分がポイズンで動いているとは思っていないのだが、たとえば「じゃあお前はなぜ音楽を聴くの、その Reason は?」と訊くと、それだけでも「ええっと……」と口ごもるものだ、そうしてなんとか強引に答えてみようとするのだが、それはごまかしだ、答えようとするときに必ず体内に毒が巡るだろう、今回はその Reason という仕組みを、おれの持っているかぎりまとめて開示したのだが、みんなにとってそれらはほとんどすべて未体験の知識だったようだ。
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WS報告 173rd /エネルギーを示した日々にせよ

ークショップ報告が飛び飛びになって申し訳ない、まあ今のところオンラインだからしゃーない、今回は「エネルギーのない奴は話にならんでしょ」ということをやった、正しいタイトルは「愛と命とエネルギーと拒絶」だ。
その前日は「お前ン中の聖書と仏典」と題し、旧約聖書と新約聖書と仏典の話をしたのだが、さすがに二夜連続こんなわけのわからないことを朝までやると、最終的には倒れこんで動けなくなってしまった、エネルギーの枯渇というか、やはり前にも言ったようにわけのわからない魂の使い果たしがある、「ちょっと休憩しまーす」と宣言して休憩したとたん意識を失ってしまった。
エネルギーの話をして、たとえばおれが「一日に三人の美女とデートした〜い」という願望を言ったとする、その場合、「本当にそれを駆け抜けるだけのエネルギーがテメーにはあるんだろうな?」ということが前提になるとおれは言った、一日に五人ぐらいなら余裕でその後も「遊びたりないぞグルオオオアア」というような奴でないと、そもそも願望なんか持つほうがおこがましい。
エネルギーがないくせに願望だけ膨らませている奴というのはけっこう多く、むしろエネルギーのない奴のほうがぬけぬけと内心で願望を膨らませていることが多いものだが、そんなものは傍から見れば「ふざけんなよ」としか思えないのだ、基本エネルギーのある奴の願望が叶うか否かの話であって、エネルギーのない奴の願望が叶うかどうかの話なんか誰もしていない、いったい親御さんがどんな教育をしたら「エネルギーのないボクちんのビッグな願望!」みたいなものをぬけぬけと持ち続けるようになるのか、ありとあらゆるセメントガレキを投げつけろとおれは言った。

近年は、エネルギーに対するむしろ「拒絶」が主流であって、ジェームスブラウンが歌うソウルより、スレた業界乳デカ女が媚びて歌う何かのほうが好まれている、エネルギーのあるものは拒絶して自己愛をカッチリ防衛するのが現代の流儀だ/それはいわばエネルギーコンプレックスであり、「エネルギーのないボクちんのウニュニュニュ逃避」だとおれは言った、ひどい言い方だが実物はもっとひどいのでしょうがないのだ、その逃避行動は近年まるで巣穴に逃げ込むザリガニの逃避行動のようにデフォルトに定義されてされてしまっている(と、マジでワークショップではひどいことをひどい言いようで話している)。
エネルギーというのは神経の昂りのことではないのだ、お笑い芸人が不倫騒動で注目されてそんなものに神経を昂らせているヒマ民衆のカタマリを「エネルギー!」とは言わない、夫婦喧嘩というのは必ずくたびれた夫婦がやるものであって、エネルギーのある夫婦がやるものではない、エネルギーのない人は神経が弱くなり、弱くなった神経が昂るというのが生理的なパターンだ、この弱くなった神経にマンガやアニメを刷り込んだところで毒ヘビをぬか漬けにしてみるようなものだ←この成立していないたとえ話はワークショップでは言っていない、われながら見事に的外れなたとえ話だ。
エネルギーには神のものもあれば悪魔のものもあるだろうが、神なるエネルギーというのはそれじたいが花を咲かせるのだ、これはエネルギーを花にたとえているのではなく「花が咲くことの真相を話しているのだ」とおれは言った、正しいエネルギーは奔流あるいは飛沫となってとにかく四方に花を咲かせる、これは正しいエネルギーに自律的に備わっている性質であり、この現象のことを「愛」と呼ぶのだとおれは言った。
エネルギーとは何なのか、おれはこう言った、「われわれは生死やら善悪やらは取り扱えるけれども、命および命ある営為については取り扱うことができない、だから営為を命あるものにしたいということについては "外注" するしかない」「外注してそれを求めると、いちおう『こうしなさい』というオーダーやディレクションは来るのだ、ただ、そのディレクションを忠実にこなすのかというと、こなさねーじゃんというだけだ」「おれたちは命を取り扱えないから、命を求めて、命のしもべになるしかない、ただそれだけのことだ、そのディレクションに従いきるということがエネルギーだ」「命ある営為にするやり方は、求めりゃ誰にでも視えるんだよ、ただその視せられるディレクションがぬるくねえんだ、そこをナメんなよって話、誰がこのディレクションを本当にやるんだよって話だ」。

命を求めて、そのとおりにする、それがエネルギーで、エネルギーだから花を咲かせる。

ただそれだけのことだ、おれはごく当然の感覚として、「花を咲かせていないエネルギーなんかどうよ、バカにするべきだろ」と言った、命ある営為を求めて身を投げ込んでエネルギーのカタマリになって命ある花を咲かせるということ、その中に愛という現象がもとよりあるのを目撃するということ、このことのどこが不健全なのだ、おれはトンチキを言っているのではない、おれはつまらないほどに当たり前のことを言っているにすぎない。
おれのような初老のジジイに対して、十七歳の少年少女がエネルギーの萌芽で負けることなんてあってよいと思うか? 若いというのはコミックオナニーに耽ることを言うのか、バカを言うな/おれは誰かに何をしろと強制することはまったくない、朝起きたときから発泡酒を飲んでテレビを見てオナラをしてマンガを読んでオナニーして芸能人のスキャンダルに評論を下していてもかまわないのだが、それらのすべてを「エネルギーを示した日々」にしろと言っているだけだ、「エネルギーを示していない日々なんて日々じゃないだろ」とおれは言った。

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WS報告 169th /無関係成功

れやこれやで忙しく、ワークショップ報告とやらをグイグイ忘れていた。
もう回数がわけわからんようになったので、ワークショップの号数と重ねて表記しよう、オンラインでもおれはしつこく続ける、どんなことでも「オメー正気かよ」というところまでやらないと何の足しにもならないからだ。
もう二か月以上、各員はおれの作った動画と問題で座学をしていることになるのだが(当日始まってから強引に動画を作るのだ、それで間に合わせるのだからスゲーだろ)、この二か月で各員はどえらい知性が進歩したと思う、やはりこういうまとまった座学の期間は必要なのだ。
みんなで集まって通常のワークショップができないのは残念だが、みんなで集まるとワチャワチャしてそれだけで楽しくなってしまう向きもあるからな、おれは各員に楽しい奴になれと言っているのではなく、ヤバい奴になれと言っている、なぜならフツーの人が気さくで楽しくても何の意味もない(は言い過ぎだ)からだ/何かがヤバいレベルに到達している人が気さくで楽しいからステキなのであって、何もかもフツーというか停滞しきっている人が気さくで楽しいとかいうのはただの「長所」であって、長所ごときが自分の足しになるわけは一ミリもない。

第169回は、ガラにもなく「成功哲学」をやった。
成功哲学というとナポレオンヒルが有名で、いわゆる「思考は現実化する」というやつだが、その思考が現実化するというのは本当というか当たり前のことだけれども、ほとんどの場合はその前提になるマスターマインドやらエンスージアズムとかいうのがまったく到達できないレベルのものなので、ナポレオンヒルの成功哲学はけっきょく成功できない奴にとっては絵に描いた餅でしかないという笑い話の構造がある。
まあ、冷静に考えて、ああまで丁寧に書かれている成功哲学を、なぞろうとすることもできないようなら「もう成功なんか諦めろや」というのが正常な感覚なのであって、その意味でおれは成功哲学などというのは基本的に苦手だ、成功しない奴が成功哲学で成功できるなどという妄想は衛生面において捨てるべきだ/そういえば、なぜか最近は、諦めない奴を励ますのでなく、諦めがちな奴を励ますムードが盛んだ、そして断言したいが「諦めがちな奴」なんてスタート時点でゾンビなので、それを励まそうと発想する側もたいがい所属としてゾンビだということを自覚するしかない。
おれは偉大なる成功哲学を展開したが、つまりおれは「アキレス腱や心臓や髪の毛の細胞が "成功" するのか?」「 "人" が成功するというのは錯覚だ、生身の水分やホルモンやビタミンがどう変動しても生きものが "成功" にはならん」と唱えた、成功という現象はいわば「成功口座」と呼ぶべき口座に振り込まれるのであって、人の口座に振り込みはされない、このことを誤解しているから逆に成功とまったく無縁になるのだ/「成功という現象(存在)はお月さんの向こう側にあるようなもので、人の手元に下りてくる存在じゃないんだよ、このことを誤解している人は、自分の手元に "成功" をガメようとして、必ず別のマガイモノにしがみつくことになる」「成功が存在していりゃ成功だろ、行方不明になる奴は成功の存在を捉えていないんだよ」「おれが何をしたって、お月さんの向こうに何か関係があるか? おれがガンバろうがハナクソをほじろうが、お月さんの向こうには何の関係もないだろ、そしてその無関係なところにずっと成功が存在している、そして成功が存在しているなら成功だろ、成功というのはもともとそういう性質のものであって、これは "無関係成功" と呼ぶべきだ」「お前と成功は関係ない、お前と関係があるのはお前の "成功願望" であって、成功そのものじゃない、結婚した人に結婚願望はないだろ? それと同じで、成功が存在している人は成功願望がない、そりゃ当たり前のことだ」。

「幸せは雲の上に、幸せは空の上に」(上を向いて歩こう)と坂本九が歌っているのは、幸せがそこに "存在する" という意味であって、手が届かないという意味ではない。

手が届かないという意味ではなく、そういったものはその場所に存在する事象だというだけだ、この事象が捉えられる人には幸せがガチで "存在する" のであり、この事象が捉えられない人には幸せが事実上 "存在しない" という、ただそれだけのことでしかない/そしてなぜ、幸せが存在する人と存在しない人があるのかというと、幸せが事実上存在しない人は、マガイモノを自分の手元にガメようという誤った発想を自分で正しいと信じ切っているからだ、マガイモノを信仰しているので正しいほうの事象を捉えられないで切り離される。
 "成功" という事象も同じようなところにあるものだ、だからおれは今これを書き話しているのだって、何一つ思考を巡らせているわけではない、プロットやら文体やら文脈やら、問題提起やら結論やら5W1Hやらは一ナノ秒も考えたことがない、おれは自分の手元の文章なんか見ていないのだ、おれはお月さんの向こう側にある無関係成功という事象しか見ていない、だから何をどうテキトーのデタラメに書いてもおれの文章は成功する、そりゃ成功は永遠に存在し続けているのだし、成功が存在するのだから成功してしまうというのはもはやおれの意思でさえない(おれの意思に無関係だ)。

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WS報告083/「ふつう」のことと「まとも」なこと
ラにもなく、マジメな内容として、学道用心集の冒頭「菩提心をおこすべきこと」をやった。
ふと気づけば、なぜかおれはそんなものをそれなりに解説できるのであって、何か生まれて初めてまともな「先生」みたいなことをやった気がした、一般教養としてイイことじゃないか。
学道用心集の冒頭に書かれているのは、菩提心獲得に到達するルートのことであって、無常観察→吾我名利の不発→この隙に行を修めると……→菩提心と一念三千のチャンスあり、というだけのことだ、だがこの順序はメチャ丁寧に捉えないと大半が誤解する。
それは何もおれが偉いのではなく、ただ「そう書いてあるだろ」というだけのことだ、でもふつうはそんなこと勉強しない、おれはまともなことだと思っているが、ふつうはそんなこと勉強しない。

金曜日には「果実のライブ」というわけのわからないタイトルのワークをやった。
わけのわからないタイトルだが、おれは「これぞ」という内容だと思っている、まあだからといってカンタンに伝わるわけではないだろうが……いいのだ、おれが正しいと確信しているやつをやるしかない、誰も気づかなかったとしてもそれはおれのせいではない。
聖書の福音書に書かれているように、目の前の樹木が「どんな樹木かな」と思うとき、樹木を見るのではなくその果実を見ればよいという、よい果実をつけるなら良い樹木なのだろうし、悪い果実をつけるなら悪い果実なのだろう、そして果実をつけないイチジクの木については、キリストが「二度と実をつけるな」と呪って枯らしたというエピソードもある。
おれがこの日に伝えたことは、いわば果実主義ということで、「評価のファクターから樹木を外せ」ということだった、つまり「人を見るな」ということ/人は何も偉くないのだ、人は人からすでに分離した果実によって称されるべきで、このことに気づかないうちは、生涯のすべてがニセモノになってしまうのだった、果実主義はそれほどクリティカルな真実だ、ふつうそんなことは考えないだろうし導入なんて考えないだろうが、おれはこれをまともなことだと思っている、本当に役に立つことを教えあうのがまともなことだとおれは思っている。

これまで「ふつう」の人は「まともなこと」を得られたのだろうか?

ふつう誰でも学校に行き、誰でもスマホをいじり、誰でも就労し、多くの人が結婚し、出産する、そして病気をして、老いて死んでいく、いろんな人付き合いの中で……それが「ふつう」ということのすべてだが、その「ふつう」のことはすべての「まとも」なことを十分に与えてくれるのだろうか、もしそうだとしたら、なぜわれわれは今の世の中をどこか「まともじゃない」と感じながら生きなくてはならないのだろうか。
おれはたぶんふつうの人ではないのだろうが、まともなことだけをやりたがっている、今やふつうの人というと青春も友人も恋あいも夢も学門もまともにないままマウントの取り合いで婚活したりするのがふつうという感じさえあるが、おれはそうしたすべてをやはりどこかでまともじゃないと感じている、おれは若い人から順に青春や友人や恋あいや夢や学門があるのがまともだと思っているのだ。
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WS報告082(1)/大不謹慎コロナ川柳大会

毒液なくて思わずウォッカ見る(埼玉県・公務員)
ミッキーも活動自粛ねずみ年(東京都・ダンサー)
親子丼買い占めのせいで玉子丼(埼玉県・OL)
恋するもデートの約束不要不急(東京都・ダンサー)

(以下九折作)/先輩の顔覚えられぬマスク越し
布二枚セーフかwho(誰)も無為無策
アルコール去年は飲んで今日は拭く
この波は小さな池では無理がある

街中は花金どころか鼻の菌

銀メダル来年やるなら金メダル
桜散るこの木と待とう次の年
 

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WS報告081(2)/いいことをじゃんじゃんやれ
「いいことをじゃんじゃんやれ」、それは自分が苦しみから逃れるためだ/いい人になるためではない。
いいことをじゃんじゃんやるのだ、「いいこと」が視えていれば、そこに躊躇を覚える必要はない、そして躊躇がないなら速くかつストレスがないのであって、それは必然的に「じゃんじゃん」やることになる。
だから、「いいこと」とは何か、ということの定義と視力が大事なのだ、「いいこと」がもし視えるなら、誰もそんなことに躊躇しない、だが実際には何が「いいこと」なのかわからないのだ、だから躊躇してモゴモゴするしかなくなる。
道徳では、一般に「いいこと」を弱者救済と相互扶助、ボランティアやチャリティや利他主義に定義するのだが、それはもちろん大昔にニーチェにインチキを指摘されているので破綻している、よりにもよってニーチェごときに指摘されて破綻するということに恥を覚えねばならない、ニーチェって歴史的にあんまり頭のいい人じゃないぜ。

「いいことをじゃんじゃんやれ」「それは自分が苦しみを逃れるためだ」「そしていいこととは苦楽を信信することだ」「クラクをシンシンすることだ」、まったく一方的な言い方だが実際にはこれらの文言だけが役に立つ。
たとえば、女性とデートすると楽しいからデートする、そして、話が合わなくなると楽しくなくなって苦しいから別れる、こんなことを繰り返していたらまさにクソの日本代表みたいになってしまう、だからクラクはシンシンしなくてはならない、楽しくてもシンシンすればいいし、苦しくてもシンシンすればいいのだ/そこに得られるべきは「楽しかった」ではなくて「あの人がいた」「あいつがいた」なのだ、それはつまり信じるところのものが得られたということに他ならない。
どのようにしてクラクをシンシンすればいいのか、ということになるのだが、そのためにはあるていど苦楽の前線に立つ必要があって、前線に立ってまざまざと苦楽の威力を直視する……のだが、直視するとふつうは苦楽に取り込まれて終わるだろう、ふつう勝てない、勝てないからこそ直視しないようにしているのだ。
苦楽を信信するといって、そんなことの具体的な方法はない、手取り足取りなんかやりようがない(当たり前だ)、必要なのは具体的な方法ではなく「自分が苦しみから逃れるため」という真相だ、苦楽じゃなくて信じるところをやれといっているのであり、これに疑義を挟む者は、その疑義という「疑い」を持ち込んでいるので、そもそも「信じるところをやる」ということを破壊することを前提にしているのだ、それは自分が知らないレベルでの魂の汚染であり魔物の悪意だ。

「いいこと」を見失っている奴が、「いいこと」を審査することじたいが馬鹿げている。

トルストイがとっくの昔に言っているようなことだが、定義を見失っている奴が定義を審査できるわけがないのだ、言い方は悪いがたいていの頭の悪い人はこんな単純な循環にさえ気づかないし脱出できない、そして脱出できない自分をなぜか頭がよくて理論的だと思っているのだ/違う、頭がいい奴は初めから脱出している、脱出できていないのはどう弁解しても「アホ」の一点に尽きる。
いいことをじゃんじゃんやれ、「いいこと」とは「クラクをシンシンする」ということだ、それがわからないと感じる人に対しては、「残念ながらあなたをやっつける人はいません」と言っておこう、そうすると期待が外れるだろう? だが残念ながらやっつけてくれる人はいないのだ、あとはただおれがいいことをじゃんじゃんやりつづけるという実績だけが残っていく、おれは苦しみから逃れたいのだ、フルオープンした苦楽を直視してなお絶縁を得るなんてとてもじゃないが現在のおれではまだまだ太刀打ちできない。
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WS報告081(1)/信じるところをやれよ
ークショップ報告、といって、つい数秒前にワークショップを終えたところだ、オンラインでしつこくやっているのだ。
なぜこんなコロナ状況で、オンラインでしつこくワークショップなんかやっているかというと、こんなコロナ状況だからだ、自分の信じるところをやらなくてどうする。
状況が悪くなったから「うーん」と引っ込むというのが、自分の信じるところなのか、あるいはヤケクソになって高濃度汚染地帯に突っ込んでいくのが自分の信じるところなのか、そうじゃないだろう。
今回は「苦楽」という話とワークをしたのだが、何もむつかしいことはない、「自分の信じるところをやれよ」ということに当然なる、「苦楽をいったりきたりするんじゃなくて、自分の信じるところをやれ!!」というだけのこと、そりゃ当たり前のことであって、当たり前だからこそキツいのだった、何しろ自分の信じるところが「ない」ということに直面させられたりするからな。

「仕事ダリー」から「娯楽タノシー」へ、はたまたその逆へと、往復を繰り返していてどうなる。
仕事ダリーなんて自分の信じているところではないのだろうし、娯楽タノシーも自分の信じているところではないのだろう、前者が「苦しい」で後者が「楽しい」というだけだ、しかもそれは等価のものであって、けっきょく「楽」というのはいずれ壊れて苦しみになって襲いかかってきてしまう、じゃあけっきょく自分で苦しさをパワーアップさせているだけにしかならない。
苦楽、苦しみと楽しみは正負が違うだけでけっきょく等価のものだ、だからそうじゃなくて「自分の信じているところをやれよ」ということになる、当たり前すぎるのだがこの当然のことをきっちりやれたら根本的な問題は解決する。
色んな苦しさがあって、また色んな楽しさがあって、そりゃ苦しさを遠ざけて楽と楽しさに近づきたいのは当たり前だろうが、その往復と繰り返しの中で、「お前を通して何を信じろっていうんだよ」と言われたらそれですべてオシマイになる、致命傷だ/だからワークショップを「楽しい」なんて理由でやるつもりはないし、「苦しい」ということを値打ちにするつもりもない、ただおれの信じるところをやるだけだ、おれは苦楽と絶縁するために信じるところをやっている。

「楽しいという発想はだいぶ前に吹っ飛びました」「じゃあ同レベルの苦しさも一緒に吹っ飛んでるよ、もう届いてこない」

人によって、苦しみが「届く」というレベルは実は大きく違う、イージーな楽しみに囚われる人はイージーな苦しみもヘヴィに届いてしまうのだ/絶縁されている人は電気椅子に座っても何も感じないが、食塩水で全身が濡れている人はあっというまに黒焦げになる、そういう差が苦楽にはある。
苦楽を値打ちにしないので、苦しさは信じるものへの土台にしか使わないし、楽しさも信じるものへの土台にしか使わない、だから「苦楽を信信する」という言い方をした、これぐらいアホみたいに縮めないと実用できない、「クラクをシンシンする」だ、唯一「いいこと」というとそれしかなくて、「いいこと」というのは道徳ごときが到達できる範囲にはない、道徳は「クラクをシンシンせよ」とは言わない/弱者を救済することおよび人々が相互扶助するのは慈善であり必須で不可欠のことだが、それが「いいこと」にはならない、飢餓少年を金持ち少女が助けたとして、その二人が付き合ったらただのクソカップルになる、「いいこと」というのはそうではなくクラクをシンシンすることだ、それをじゃんじゃか積み重ねることでしか苦しみから逃れる方法はない。
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月刊ワーQショップ 第九号「時間」

pdf[A4]43頁


→月刊ワーQショップ 第九号「時間」



月刊ワーQショップ 第九号「時間」をアップロードしました。ご笑覧ください。
(ブラウザから閲覧するとまれに文字化けすることがあるので右クリックからダウンロードしての閲覧を推奨申し上げます)

ご寄稿のみなさまありがとうございました!!
九折


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第一号はこちら→「創刊号」
第二号はこちら→「夢中」
第三号はこちら→「軽薄」
第四号はこちら→「Yes」
第五号はこちら→「憎悪」
第六号はこちら→「作品」
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WS報告080(2)/「ふつうの人」になる方法
ロナウィルスのせいで、万事にブレーキが掛かり、おれは逆に数年来まったくブレーキを掛けていないかったことに気づいた。
気まぐれにワインを二杯飲んだだけで泥酔して二日酔いになるとは……精神がコロナ休みに気づいたのだろう、もう何年ぶりか、寝て起きたら「まだ眠い」というのを体験した。
血圧は医者にコントロールされているので、高血圧のせいではない、気づけばここ数年、寝て起きたとき「まだ眠い」ということが一度もなかったのだ、何かずっとやること・やれることに食らいついていたのだろう。
これまでおれが休憩するというと、けっきょく病気でダウンしたときだけだったのだが、社会が病欠になったときにも、自動的に休憩システムがはたらくようだ、ひさしぶりにおれの脳がナゾを追跡しなくなっている、まあこれも数日のことかもしれないが、少なくとも数日は休もうと思った。

ワークショップはオンラインでやったのだが、おれが倒れたあとも各員がおれの指示を守り、むしろおれのダウンをカバーしてくれたおかげで、非常に有意義なものになった/倒れてしまうのもときにはアリだ、怪我の功名というやつだとまったく思った。
おれは何かに努力するということはまるでないのだが、ひとたびこうやって少々の休憩モードになると、おれは単に、努力どころか常に緊急事態のさなかにいたんじゃないかという気がする、どうせ休憩が終わればまたその状態に戻るのだろうが/そういえば昨年、実父が突然死去したときにも、血族に「なんだその落ち着きぶりは」と驚かれたので、おれはずっとそういう危急が当たり前の中にいるのだろう、そりゃたしかに眠たくはならないわけだよ。
このままいくと本当に、突然医者に余命宣告されても「そうですか」と、わずかも動揺しない人間が出来上がるところだったが、それはそれで人としてどうよという気はしないでもない、なんでもかんでも学門の材料に放り込むというのもなあ……まあでもしょうがないのだ、それだけがおれから出来る何かの足しだと気づいたし、それですべての愛人が救われるならそれでいいのだ。
オンラインはつまり、「今日明日で月刊ワーQの原稿を書け」と突然命じただけのことだ、そして一時間ごとに進捗をグループラインに投下しろと……これは思いがけず、各員の眠っていた底力を引き出したようだ、ほぼ全員がなんとかしてゴールにたどり着いたのは見事だった、おれの指示した各員の協力態勢も、おれが途中でダウンしたことが逆に良いほうへ作用した/まあおれ自身は、各員を指導しながら、初日のうちに原稿二つと、ヒマだったので唐突に短編小説まで放り込むありさまだったが、やはりそれが今考えると精神のギリギリを攻めすぎなのだ、おれには何かノウハウがあってその生産量を確保しているのではない、ノウハウを使ったらそれはただのルーチンであって生産ではない、そこで一番ノウハウを使っていないのがおれだ、だから精神のギリギリを攻め……るのはほどほどにしようと、今日だけは珍しく思っているのだった。

異常なレベルのトライアルをクソほど積み重ねてデイリーでボロキレになるぐらいに過ごさないと、みんなが思っている「ふつうの人」にはならない。

このことを、ワークショップの各員はそろそろ知り始めたはずだ、赤の他人が読んでもちょっと面白いものを書くとか、人の書いたものを分析して指導するとかいうのは、ごくごくふつうのことに思えるし、確かにごくごくふつうのことのはずなのだが、その「ふつう」の水準に本当に到達するためには、脳みそが溶岩になるような日々を数百は積み重ねないといけない。
というわけで、まもなく発行される次の月刊ワーQには、唐突におれの短編小説がブッこまれるのでお楽しみに、まあ読んだからといって何でもない「ふつう」の短編小説だ。
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WS報告080(1)/オンラインでもめっちゃやった

ロナウィルスへの懸念から、ワークショップはオンラインでやった。
オンラインで何をどうやるんだよ、という話だが、そんなもんは、偉大なるおれさまの芳醇な idea を持ってもってすればなんとでもなるのだ。
非常にクリエイティブでホットな夜だった。
報告としては、オンラインでもめっちゃやりましたよ、ということになる、何をやったかなんかどうでもいいだろう、めっちゃやったのだ、そう断言できる夜しか過ごしたくない。

どんなことでも、やってみると難しいものだし、そんなに才能なんてないものだし、エネルギーにも限界がある、また何のためにそれをするのかということや、正しい方法はどのようなものか、ということもある。
そしておれは、それらのすべての正当な発想について、沸騰した濃硫酸でもぶっかければいいと思っているのだ、「お前んちのお子さんのお弁当は手榴弾な?」ということを平気でやりたい、お子さん大ピンチ、意味を求めるような弱々スライム陰毛主義になりたくないのだ、次々にマザー牧場の隅に埋めて殺せ。
意味のないこと、理由のないこと、動機のないこと、方法のないこと、名誉のないこと、突破する必要のないことを、突破して進みたい、この世界のすべての人をバカにすることを最優先にしたい、メンヘラ女は博多ラーメンと結婚式を挙げたらいいと思っている、指輪の交換で指輪がとんこつスープにボチャンと沈めば神父も爆笑だ、トンファーを買って帰国しろ。
世界中の小学生は、作文に将来の夢を書かされたら、全員疑いなく「ゴリラ」と書くのだ、本文は全部ウホウホウホウホでいい、もしそれで教師が眉をひそめたらただちに最高裁判所に訴えろ、最高裁判事はただちに被告を三菱重工製のデコピン機の刑に処すだろう、よくわからんがデコピン機は現代の技術をすべて注ぎ込んだレールガンの威力を転用しろ/そうしたらデコピン後には「おでこなくなった」という笑いに包まれるだろう、それが平和であり愛であり芸術でありいきものかがりだ。

人類史上最大の爆笑はスターリングラード戦線にあった。

つまり「弾薬注ぎ込みすぎだろ」という爆笑があった、このことに文句がある偽善者はギリシャ神話の神を呼び出してただちにオットセイとモグラのキメラに改造してやるから楽しみにしていろ、眠りからさめたら部屋の中にアゴのサイズが2メートルある兵隊アリがいるようにしてやる、そして母親の首を七つに増やしておいてやる、宿題はカーマスートラの全文暗記だ。
特に何も悪いことをしていなくても、「ゴボウのキンピラ!」以外は発語できないように改造してやろうか、その後殺人事件の犯人に疑われてアリバイを訊かれて弁明にすさまじく難儀すればいい、ゴボウのキンピラ! ゴボウのキンピラ!/こうしてここに話したことは、ワークショップの内容に何も関係がないが、別にそんなことはどうでもいいのだ、お前の次の交際相手は液体洗剤にしか興味がない人にしてやろうか。

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コロナウィルスによるワークショップ延期のお知らせ

よ!! 掲題のとおり、おれはこうして常識的な判断と決定もするのだった、なんという偉大なことだろう、万民はおれさまを永劫に称え崇めるように。
次々に情報が更新される中、NHKの特設サイトがよく情報をまとめている、ありがたい、行政はこういうのを作れよ、何より累計の感染者数がグラフで表示されているのがありがたい、状況が一目瞭然だ。
グラフを見てわかるとおり、感染者数が増える、のはギリ耐えるし当たり前のことなのだが、感染者数が "加速度的" に増えるのは、もうダメなのだ、感染者数が加速しても治療や治癒が加速できるわけではないので、追いつけず、やがては治療もクソもない「放ったらかし」にならざるを得ない。
たとえるなら、おれのブログを読んでくれる人が増えるのは、ただの増加だが、ソーシャルネットワークは、リツイートの機能でたちまち "バズる" だろう、それと同じ、グラフを見ると今まさにコロナウィルスは "バズるか否か" の瀬戸際を迎えているところだ、こんなもんがバズっても誰もトクしないので、ただちにコロナウィルスは滅びるように。

おれは専門家ではないので、おれがエラソーに言ってもしょうがないが、おれの知る限りの「ウィルスの常識」コーナー!
・ウィルスは投薬で殺せません:細菌は抗生物質であるていど選択的に殺すことができるが、ウィルスは選択的に殺せない。なにしろウィルスというのは生きものなのかどうかもよくわからん連中だ。食餌の機能さえなく「増えるだけ」という連中(マジ)。細菌とはサイズもぜんぜん違うぜ! イメージとしては、ウィルスが消しゴムだとすると、細菌が筆箱、細胞が机ぐらいの大きさだ。ウィルスは電子顕微鏡で見るようなサイズだから、こんな小さいモンを選択的に攻撃する方法なんてないぜ!
・ワクチンリリースは半年以上かかる:選択的に殺せないウィルスに対し、免疫がきっちり抗体を作ってくれるはたらきは、何がどうなって成り立っているのかナゾだぜ! 人類の知識レベルを超えている(ガチの話)。そこで考えられるのがワクチン戦法だ、つまり「無毒コロナを培養して、それを先に体内にブチこんでおけば、勝手に免疫サマが抗体作ってくれんじゃね?」ということ。もちろんすでに各企業が新型コロナのワクチンを開発中だ、でもそういうのって最低数ヶ月はかかるよね。早くしろ! 何ならクラウドファンディングで資金を集めろ(こういうときこそだよ)、そして中国に売って外貨を稼げ。
・ウィルスはたいてい勝手に死滅する:なぜそうなるのかはよくわからんが、ウィルスというのはたいてい勝手に進化し、進化によって死滅してしまう、つまり勝手に感染力を失って終わるのだ、なぜそんな選択をするのかはわからんが事実としてそうなる。ただし、一部には進化せず残存しやがるウィルスもある。その場合、COVID−19は風土病ないしは全国病になって残ってしまう。つまり子供のころ予防接種した「日本脳炎」みたいなジャンルに、「COVID−19」が新しく追加されてしまう。

もしギャンブルをするなら、感染者数のグラフは最終的に、次の四つのうち、【(a)1,000未満、(b)10,000未満、(c)100,000未満、(d)それ以上】、どこに収束するだろうか。

aなら理想的だが、それは実際的にどうなのという趣があり、bならギリ耐えるが、それでもけっこうダメージきついよという趣、cとかは「いやいや」、マジの国難で笑えないという趣、dになったら東日本大震災以来また悪夢の記憶が刻まれるという趣だ/でもこれは仮にの話ではなく、この中のどれかに収まるしかない話だ。
総理大臣とか知事とかには、このギャンブルを課して公表させりゃいいんだよな、自費から百万円ぐらい賭けさせてさ、そうしたらギャンブルとして見物だ/不謹慎だと言われるかもしれないが、実際には百万円どころじゃない、生死が賭けられているのだ、うーんおれとしては3000人で打ち止めとしてbに賭けたい(希望)。

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WS報告079(2)/表現力を減らす、ないしは消す

回は「オラつきましょうのコーナー」をやった、もちろん気分だけでオラついても何もいいことにはならない。
どこかのラッパーのように、人を煽る動作をし、「ヘイ、ヘイ」と言い、「オラつけー」とやはり煽るのだが、このことが各員の「集中」のていどを浮き彫りにする。
集中といって、いわゆる「集中力」という考え方はいまいち適切でないし、また集中力の「つもり」のものは何の役にも立たないものだ/では集中とは何かといって、「ありうる要素の99.99%をカットする」ということになる、つまり表現力を減らすということ。
身体動作なら身体動作、「オラつけ」という声なら声、それ「だけ」にするのだ、そこにどんなキモチを持ち込んだとしても、それはキモチが持ち込まれているぶん集中ではなくなり、拡散になってしまう、それでカッコ悪くなる。

軽く踊りながら、ヘイヘイ言い、「オラつけー」と煽るだけだ、ただし衣裳やライティングやBGMのバックアップはなし、あくまで自分単体だけでだ/そんなことをやらされてみると、実は誰もそんなことはできやしないということがよくわかる、ほぼすべての人は「演出」でそれっぽく見せているだけだ。
演出をゼロにしてしまえば、実は誰もそんなことは「できない」「できていない」のだが、それが恥ずかしいため、その恥ずかしさを隠すのに、それぞれが演出の第一として「キャラ」をやり、周囲も政治的にその「キャラ」に迎合するのだ、現代人がやっているのはそうしたキャラと空気の読み合いであり、つまり「政治」でしかない。
当ワークショップではこの「政治」を徹底的に排除する、すると何一つ本当にはできやしないから、いいのだ、出来ないのはまったくかまわないのだ、ただ自分にこびりついた永遠の政治工作だけは剥ぎ取ろうということ、その政治工作の顔面を持ったまま地獄に落ちるために生きるというのはさすがに不毛で苦労に見合わずまっぴらごめんだろう。
ありうる要素の99.99%をカットする・消すということは、そこに関わる能がきわめて限定されるということだろう、つまり「限定能」だ、いわゆる「万能の神」の方向にはないこと/この限定能の極致には、それぞれ「天使」(仏教では○○天)という存在があって、これを使役できるのが人に与えられた権威、そこにまで集中できるかということをワークで試されることになる。

業務リアリティはクソだが、年寄りのような信仰も同様のクソだ。

だからどうすればいいかというと、限定能の極致にある天使の力を使役できていればいいのだ、それだけで何かしら主体に祈りが通じていて祝福と権威を授かっているということの証になる/感情を激するババアがサタンの証を実に示し、マウントの性分でしか生きられない女がルシファーの証を実に示しているように、逆の証を実に示そうということ、感情を激するババアやマウントしか頭にない女が明らかに「オわっている」ように、逆の明らかに「キている」を示そうというだけ。
実際に各員がやらされて、その録画が全員に共有されるのだが、そこにはもちろん醜態が映っており……ただ注目すべきはなぜそれがただちに「醜態」と視えるかということだ、それは実はソウル的なものをただちに視認できるだけの視力が本当はあるということだ/あとはそれぞれのテメーがその視えているものに向き合うかオリるかの問題、そしてこともあろうか「政治工作をして偽りのまま生き残ろうとする」ということだけは許さないということだ、政治工作に満ちた自分の顔面をHD画質でまざまざ見続けるというのはなかなか精神にクるものがあるぜ、それを全員で笑えるようになったのだから、その進歩はそこそこ偉大だとおれは正当に評価する。

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WS報告079(1)/お前らに一億やる
「そうだな、お前らにカネをやろう」「やったー」「それも、お前ら全員に一億ずつやろう」「やったー」。
「ほれ、じゃあこの小切手、一億松陰、と……」「え? 一億ショウイン?」「おう」「どこのお金で……」「ああ、そうか、お前らは知らなかったな。アンドロメダにある松下村国という国のお金だ、だいたい初任給が20松陰ぐらいだから、一億といえば相当な額だよ」。
「これって銀行に持っていって両替は……」「両替? 両替はできないな、これ外貨じゃないからね」「外貨じゃない」「うん、邦貨(ほうか)だな、松下村国の。外貨じゃないから両替できませんって正式に銀行に言われるよ」。
「さてここでみなさん、とんでもない額のカネを持ったことになるが、これで君たちに資金はあることになるかね」「資金、は持っていない気がします」「百円玉と比べるとどう」「百円玉のほうが資金です」「そうだね、価値も額面も一億松陰のほうがはるかに上なんだけどね、なにぶん外貨じゃないからね」。

「ノンフィクションの本質は "分かる" であり、フィクションの本質は "分からない" だ」「だから、ノンフィクション国というのは、言ってみれば "ワカーリー" という通貨を流通させている国ということになる」「一方、フィクション国というのは、通貨 "ツナガリー" を流通させている、 "分かる" という "分割" が無いのだから "分からない" 、そうして分割がないのだから "ツナガリー" になる」。
「そしてこの通貨ワカーリーとツナガリーは、それぞれの国の邦貨であって、互いに外貨じゃない、だから相互に両替できない」「さきほどの通貨松陰と同じで、一億ワカーリーは1ツナガリーにもならないし、一億ツナガリーは1ワカーリーにもならない」「それぞれの邦貨をどれだけ積んだって、向こうの国の残高の残高としてはゼロってことだ」。
「つまりおれは、お前らのまったく知らない通貨を使って暮らしているということになる」「おれとお前らの目の前に、何かひとつの物語が示されたとする、するとそこからお前らはワカーリー価値を得ようとしていて、そのときおれはツナガリー価値を得ようとしているんだ、だから同じように名画の一歩をよろこんでいても、その内実として通貨が違うということがある」「すべての体験について、100ワカーリーを得ている人と100ツナガリーを得ている人があるんだ」。
「ノンフィクション国においては、 "分かる" ということに価値が置かれている、何しろ通貨がワカーリーなんだからな、そして分からないものはただちに価値ゼロとみなして見下す習慣があって、何であればストレス源と感じて攻撃する習慣もある」「分かることに価値がないと言っているわけじゃない、ただ分からないということにツナガリーという価値があるということをまったく見落としているだけだ、ワカーリーとツナガリーはそれぞれの邦貨であって、為替レートがないというだけで、それぞれに価値があるということだ、ただワカーリーがツナガリーに両替はされないし、ツナガリーがワカーリーに両替されることもないってことなんだよ」。

邦貨ワカーリーを消耗せよ。

通貨ワカーリーの発生は、第一に「自分」という現象だ、第二に「気分」という現象だろう、それぞれにちゃんとワカーリーを示す「分」という語が充てられている/このワカーリーを消費・消耗すること、このことを指して、新約聖書は "自分の" 右の頬を打たれたら左の頬も差し出せと伝えている、それは正当なワカーリー(自分)を無駄に消費・消耗せよというメソッドだ、ワカーリーを消耗していく体験は、その背後でツナガリーを貯蓄している。
ワカーリーだけを貯蓄していると、魂の国籍はもちろんノンフィクション国にあることになるので、分離分割の世界、つまりつながりのない世界に魂は永住することになる/世田谷区と目黒区は隣接しているが、分割されているからそれぞれの区でもあり、同時につながっているから隣接区でもあるのだ、ここで世田谷区が目黒区にゴミを不法投棄した場合、目黒区が逆に世田谷区に捨てられているゴミまで処分するようなら、目黒区は正当なワカーリーを消耗してその背後にツナガリーを貯蓄したことになる(ちなみにニーチェはアホだったのでこのていどの理にも気づけなかった)。
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