☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 7/7更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第百八十回】   7月10日(金)19時〜オンラインにて開催!
【第百八十一回】7月11日(土)19時〜オンラインにて開催!
【第百八十二回】7月17日(金)19時〜オンラインにて開催!
【第百八十三回】7月18日(土)19時〜オンラインにて開催!
【第百八十四回】7月24日(金)19時〜オンラインにて開催!
【第百八十五回】7月25日(土)19時〜オンラインにて開催!


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。夏場世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
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酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第102回】8月15日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第103回】9月19日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

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基本フツーの風邪でさえ罹りたくないのでみんなおれのために自粛と防疫をしろ


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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WS報告 of 177th /恥に倣え
代の人々に、「痴愚」の印象が蔓延していることを指摘した(ワークショップで)。
この「痴愚」という印象は、知能や知性とは無関係に、何か「どうしようもない」、ボーッとした噛み合わなさのことで、このことが一種の煩悩中毒から発生していると指摘した。
それらはいわば、現代の「実際の三角形」として、その頂点のひとつを為していると述べた、それぞれの頂点は「現代人のオタク化」「現代人のマウントするマン化」「現代人の痴愚化」であり、この三角形が果てしない拡大を続けている。
多くの人は、これを「悪」だとし、それぞれについて「ちゃんとしよう」と、つまりこころを善に入れ替えようとするのだが、これは実はこころの問題ではなく "魂の恥辱" から起こっているので、空回りするのだと指摘した/じゃあ正しく魂の恥辱に向き合えばいい、ということになるのだが、そうはいかないのだ/人は己の悪には向きえても恥に向き合うことはできない、そんな根性を持っている人はほとんどいない。

オタク趣味あるいはむさぼり中毒の一切を、誰もが「やめよう」と反省するし、内心にも起こるマウント精神を「やめよう」と反省する、そして脳みそがボーッとして汚らしいのを「やめよう」と、誰もがこころの底から反省するのだが、これはこころから起こっている現象ではないので、こころを反省させても何ら拮抗作用はない、一時的に表面上「反省しました」というふうになるだけで、「実際の三角形」は拡大を続けている。
ことは魂の平原に起こっていることであり、それは魂の恥辱から起こっているのだが、「恥辱」というものに人はふつう向き合えないので、これをこころの問題、こころのパワー問題にすりかえようとする、これは一種の逃避だ/パワー問題にすりかえて逃避する、その逃避の先はときに能力で、ときに魅力で、ときに努力だ。
だから初めに指摘した「痴愚」の印象も、それぞれに引き当てて「能力痴愚」「魅力痴愚」「努力痴愚」におおむね分類することができる、こんなものは今探すまでもなくいくらでも周囲に発見できる/能力が高いはずなのに「痴愚」の印象がある、魅力を売り物にしているのに痴愚の印象がある、努力を見せびらかしているのに痴愚の印象がある、この痴愚は本当にゾッとする、どうしようもない噛み合わなさと深い苛立ちを内部に感じさせるものだ(当人が己の痴愚ぶりに発狂しそうになっている感じがある)。
なぜこのようなことが起こるのかというと、本来、人の内部では、その魂が恥辱と栄光でせめぎあっているものだからだ、魂の栄光が得られなければ魂は恥辱に敗北するよりなくなる、だから人は魂の栄光を求め、またその人にあこがれ、その人に倣おうとするのだが、その安易な発想では正しく栄光を倣うことはできない/こうして考えると、一夜でなかなか複雑な、奥行きのあることを追究したものだ。

Aさんがそれをすると恥辱になるが、Bさんがそれをやると栄光が視える。

たとえばAさんが女性を口説くと傍目にも「アイタタタ」となるのに、Bさんがそれをすると、何かロマンスや神話があるような "栄光" がそこに現れる、だからAさんはBさんの真似をしようとするのだが、この倣い方はまずもって成功しない、この背後にはまったく思いがけない学門があるからだ。
AさんであれBさんであれ、ブッダやキリストを除いた「人」は、誰であれ恥をしかやれないのだ、<<人は恥をしかやれない>>、にもかかわらず人によってはごくまれに、確かにそこに「栄光」が現れるのを視るのだが、それでも実は「人」としてやっていることは同じなのだ、このことを「恥辱と栄光の同一性」と呼ぶ/AさんもBさんも同じ「恥」をやっている、人は誰しも同じそのことしかできない、けれども、人が視るものは違う、人がやることは恥だけだが、人が視るものはそれだけではないのだ、人は人がやっていること "以外のもの" を視ることがある――それにしても、人は恥をしかやれないので、われわれが栄光の人の何に倣えばいいかというと、<<栄光の人のやっている恥に倣え>>ということなのだ、このことはあまりにも奇想天外で、真に強い人・真に謙虚な人にしかこの生き残りの道筋は発見されない。
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WS報告 of 175th /Reason, otherwise Poison
が動いているメカニズム、つまり人が動いている「理由」、その理由は Reason か、そうでなければ Poison しかないと話した。
「理由の中に自分がある、自分の中に理由があるのじゃない」「Reasonの中にいる人もあるし、Poisonの中にいる人もいる」「それぞれは、Reason こそ "おれ" だと感じるし、Poison こそ "おれ" だと感じる」。
 Poison 派の特徴は、「みんな同じことを言う」というところだ、たとえば「働かないと食っていけないだろ」「趣味でやっているだけだよ」「パチンコ打ちたいからパチンコ打ってんだよ」、なぜそうして "同じことを言う" かというと、われわれの生身の性質はみな同じだからだ、誰でも突き指をすれば炎症を起こすように、誰の生身でも体内に毒が湧いて焼けるというのは同じ、だから Poison 派は画一的で連帯感が強くなる。
そして、 Poison 派はそうして生身の毒焼けが「わたし」であるので、Poison 派は互いのことをジロジロ見合うと、その人のことがよくわかるという性質がある、生身とその顔面をジロジロ見ると「その人」がわかるのだ、画一的で連帯感の強い地域にヨソ者がいくと「ジロジロ見られる」のはこれが理由だ/一方で Reason 派は、生身の毒焼けが「わたし」ではないので、その人の生身と顔面をジロジロ見ても、「その人」のことはわからない、両者はそれぞれまったく別の存在なのだ、子供のころや若いうちはごまかされるけれども、気が付けばいつのまにか、加齢とともに自分の住んでいる国はどちらかに決定している。

画一的で連帯感が強い地域に行くと、第一に "ジロジロ" 見られ、次に " Poison をぶっかけられる" というという手続きをほどこされる、この「ジロジロ」と「 Poison ぶっかけ」は、驚くべきことに Poison 派の "マナー" なのだ、若いうちは誰でも「んなアホな」と思うものだが、やがてそういうものに出くわして体験することになるし、やがて自分自身もそうなる、その "マナー" を自らぶっかけていく側の人になる。
犬と犬とが、互いに肛門をかぎあって互いを知りあうように、人だって Poison 派は、互いの毒をぶっかけあって互いを知りあうのだ、これは大げさでもなければ極端な例でもなく、それが標準のことなのだ/たとえば芸術家が互いに表現した Reason を見せつけあって互いを知りあうように、 Poison 派は互いに蓄積した Poison をぶっかけあって互いを知りあう、人はどうしてもどちらかの国の果てまでゆかねばならない、そうでないと生きていけないからだ。
人は、誰でも知るように、努力によって能力を解発したりはできない、人は能力を解発できないので、そのままでは生きていけないのだ、だから能力を解発する方法が加齢するほど濃厚に必要になってくる/そして、能力を解発する方法のひとつが呪術、閉じ込める・鎖でつなぐなどして、業(カルマ)の毒(Poison)を溜め込ませて能力を解発させるか、もうひとつが Reason 、理由の中に自分を存在させて能力を解発させるかなのだ、人はこの Poison が Reason のどちらかに住ませるしか能力を解発できず、この解発なしには生きていくことができない。
どんなボンクラ女でも、金融業の窓口に鎖につないで閉じ込めておけば、金融事務作業の鬼になるし、どんなボンクラ男でも、たとえば警察に就職させてその生涯をずっと警察官として過ごさせれば、人をしょっぴくための法律の構造をイヤでも詳しく知る専門業者になるものだ、それが業(カルマ)であり呪術であり業者という現象だ、この能力が解発されると、基本的に元には戻らない/習字が達者になった人がもう二度と字がヘタクソには戻らないように、あるいは音感がよくなった者がもうオンチになることはありえないように、解発された能力は基本的に解発前には戻らない、同じように Reason から解発された能力も、基本的に解発前には戻らない、「あなたと歩く世界はどうしてこんなに急に鮮やかになるの」というような Reason からの能力も、基本的にはもう閉じられることがない。

極限まで短縮して言えば、「生きる仕組みおよび能力が啓かれる方法には、RタイプとPタイプがある」ということに尽きる。

 Reason タイプと Poison タイプは、互いに排他的であり、基本的にはどちらか片方に集約されていかざるをえない、子供のころはともかくとして、加齢とともにRの果てかPの果てのどちらが向かうようになっている/この二つのタイプが厳然と存在していて、そこをだまくらかした<<漠然とした「いい人」などは存在していない>>、そんな存在があるように見えるのは入念に化粧がほどこされたフェイクにすぎない、どのように偽装されていも内部は必ずきっちりRかPのどちらかの果てに向かっている。
「リーズンとポイズン、お前はどっちのズンで動いているんだ」というだけのことで、誰も自分がポイズンで動いているとは思っていないのだが、たとえば「じゃあお前はなぜ音楽を聴くの、その Reason は?」と訊くと、それだけでも「ええっと……」と口ごもるものだ、そうしてなんとか強引に答えてみようとするのだが、それはごまかしだ、答えようとするときに必ず体内に毒が巡るだろう、今回はその Reason という仕組みを、おれの持っているかぎりまとめて開示したのだが、みんなにとってそれらはほとんどすべて未体験の知識だったようだ。
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WS報告 173rd /エネルギーを示した日々にせよ

ークショップ報告が飛び飛びになって申し訳ない、まあ今のところオンラインだからしゃーない、今回は「エネルギーのない奴は話にならんでしょ」ということをやった、正しいタイトルは「愛と命とエネルギーと拒絶」だ。
その前日は「お前ン中の聖書と仏典」と題し、旧約聖書と新約聖書と仏典の話をしたのだが、さすがに二夜連続こんなわけのわからないことを朝までやると、最終的には倒れこんで動けなくなってしまった、エネルギーの枯渇というか、やはり前にも言ったようにわけのわからない魂の使い果たしがある、「ちょっと休憩しまーす」と宣言して休憩したとたん意識を失ってしまった。
エネルギーの話をして、たとえばおれが「一日に三人の美女とデートした〜い」という願望を言ったとする、その場合、「本当にそれを駆け抜けるだけのエネルギーがテメーにはあるんだろうな?」ということが前提になるとおれは言った、一日に五人ぐらいなら余裕でその後も「遊びたりないぞグルオオオアア」というような奴でないと、そもそも願望なんか持つほうがおこがましい。
エネルギーがないくせに願望だけ膨らませている奴というのはけっこう多く、むしろエネルギーのない奴のほうがぬけぬけと内心で願望を膨らませていることが多いものだが、そんなものは傍から見れば「ふざけんなよ」としか思えないのだ、基本エネルギーのある奴の願望が叶うか否かの話であって、エネルギーのない奴の願望が叶うかどうかの話なんか誰もしていない、いったい親御さんがどんな教育をしたら「エネルギーのないボクちんのビッグな願望!」みたいなものをぬけぬけと持ち続けるようになるのか、ありとあらゆるセメントガレキを投げつけろとおれは言った。

近年は、エネルギーに対するむしろ「拒絶」が主流であって、ジェームスブラウンが歌うソウルより、スレた業界乳デカ女が媚びて歌う何かのほうが好まれている、エネルギーのあるものは拒絶して自己愛をカッチリ防衛するのが現代の流儀だ/それはいわばエネルギーコンプレックスであり、「エネルギーのないボクちんのウニュニュニュ逃避」だとおれは言った、ひどい言い方だが実物はもっとひどいのでしょうがないのだ、その逃避行動は近年まるで巣穴に逃げ込むザリガニの逃避行動のようにデフォルトに定義されてされてしまっている(と、マジでワークショップではひどいことをひどい言いようで話している)。
エネルギーというのは神経の昂りのことではないのだ、お笑い芸人が不倫騒動で注目されてそんなものに神経を昂らせているヒマ民衆のカタマリを「エネルギー!」とは言わない、夫婦喧嘩というのは必ずくたびれた夫婦がやるものであって、エネルギーのある夫婦がやるものではない、エネルギーのない人は神経が弱くなり、弱くなった神経が昂るというのが生理的なパターンだ、この弱くなった神経にマンガやアニメを刷り込んだところで毒ヘビをぬか漬けにしてみるようなものだ←この成立していないたとえ話はワークショップでは言っていない、われながら見事に的外れなたとえ話だ。
エネルギーには神のものもあれば悪魔のものもあるだろうが、神なるエネルギーというのはそれじたいが花を咲かせるのだ、これはエネルギーを花にたとえているのではなく「花が咲くことの真相を話しているのだ」とおれは言った、正しいエネルギーは奔流あるいは飛沫となってとにかく四方に花を咲かせる、これは正しいエネルギーに自律的に備わっている性質であり、この現象のことを「愛」と呼ぶのだとおれは言った。
エネルギーとは何なのか、おれはこう言った、「われわれは生死やら善悪やらは取り扱えるけれども、命および命ある営為については取り扱うことができない、だから営為を命あるものにしたいということについては "外注" するしかない」「外注してそれを求めると、いちおう『こうしなさい』というオーダーやディレクションは来るのだ、ただ、そのディレクションを忠実にこなすのかというと、こなさねーじゃんというだけだ」「おれたちは命を取り扱えないから、命を求めて、命のしもべになるしかない、ただそれだけのことだ、そのディレクションに従いきるということがエネルギーだ」「命ある営為にするやり方は、求めりゃ誰にでも視えるんだよ、ただその視せられるディレクションがぬるくねえんだ、そこをナメんなよって話、誰がこのディレクションを本当にやるんだよって話だ」。

命を求めて、そのとおりにする、それがエネルギーで、エネルギーだから花を咲かせる。

ただそれだけのことだ、おれはごく当然の感覚として、「花を咲かせていないエネルギーなんかどうよ、バカにするべきだろ」と言った、命ある営為を求めて身を投げ込んでエネルギーのカタマリになって命ある花を咲かせるということ、その中に愛という現象がもとよりあるのを目撃するということ、このことのどこが不健全なのだ、おれはトンチキを言っているのではない、おれはつまらないほどに当たり前のことを言っているにすぎない。
おれのような初老のジジイに対して、十七歳の少年少女がエネルギーの萌芽で負けることなんてあってよいと思うか? 若いというのはコミックオナニーに耽ることを言うのか、バカを言うな/おれは誰かに何をしろと強制することはまったくない、朝起きたときから発泡酒を飲んでテレビを見てオナラをしてマンガを読んでオナニーして芸能人のスキャンダルに評論を下していてもかまわないのだが、それらのすべてを「エネルギーを示した日々」にしろと言っているだけだ、「エネルギーを示していない日々なんて日々じゃないだろ」とおれは言った。

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WS報告 169th /無関係成功

れやこれやで忙しく、ワークショップ報告とやらをグイグイ忘れていた。
もう回数がわけわからんようになったので、ワークショップの号数と重ねて表記しよう、オンラインでもおれはしつこく続ける、どんなことでも「オメー正気かよ」というところまでやらないと何の足しにもならないからだ。
もう二か月以上、各員はおれの作った動画と問題で座学をしていることになるのだが(当日始まってから強引に動画を作るのだ、それで間に合わせるのだからスゲーだろ)、この二か月で各員はどえらい知性が進歩したと思う、やはりこういうまとまった座学の期間は必要なのだ。
みんなで集まって通常のワークショップができないのは残念だが、みんなで集まるとワチャワチャしてそれだけで楽しくなってしまう向きもあるからな、おれは各員に楽しい奴になれと言っているのではなく、ヤバい奴になれと言っている、なぜならフツーの人が気さくで楽しくても何の意味もない(は言い過ぎだ)からだ/何かがヤバいレベルに到達している人が気さくで楽しいからステキなのであって、何もかもフツーというか停滞しきっている人が気さくで楽しいとかいうのはただの「長所」であって、長所ごときが自分の足しになるわけは一ミリもない。

第169回は、ガラにもなく「成功哲学」をやった。
成功哲学というとナポレオンヒルが有名で、いわゆる「思考は現実化する」というやつだが、その思考が現実化するというのは本当というか当たり前のことだけれども、ほとんどの場合はその前提になるマスターマインドやらエンスージアズムとかいうのがまったく到達できないレベルのものなので、ナポレオンヒルの成功哲学はけっきょく成功できない奴にとっては絵に描いた餅でしかないという笑い話の構造がある。
まあ、冷静に考えて、ああまで丁寧に書かれている成功哲学を、なぞろうとすることもできないようなら「もう成功なんか諦めろや」というのが正常な感覚なのであって、その意味でおれは成功哲学などというのは基本的に苦手だ、成功しない奴が成功哲学で成功できるなどという妄想は衛生面において捨てるべきだ/そういえば、なぜか最近は、諦めない奴を励ますのでなく、諦めがちな奴を励ますムードが盛んだ、そして断言したいが「諦めがちな奴」なんてスタート時点でゾンビなので、それを励まそうと発想する側もたいがい所属としてゾンビだということを自覚するしかない。
おれは偉大なる成功哲学を展開したが、つまりおれは「アキレス腱や心臓や髪の毛の細胞が "成功" するのか?」「 "人" が成功するというのは錯覚だ、生身の水分やホルモンやビタミンがどう変動しても生きものが "成功" にはならん」と唱えた、成功という現象はいわば「成功口座」と呼ぶべき口座に振り込まれるのであって、人の口座に振り込みはされない、このことを誤解しているから逆に成功とまったく無縁になるのだ/「成功という現象(存在)はお月さんの向こう側にあるようなもので、人の手元に下りてくる存在じゃないんだよ、このことを誤解している人は、自分の手元に "成功" をガメようとして、必ず別のマガイモノにしがみつくことになる」「成功が存在していりゃ成功だろ、行方不明になる奴は成功の存在を捉えていないんだよ」「おれが何をしたって、お月さんの向こうに何か関係があるか? おれがガンバろうがハナクソをほじろうが、お月さんの向こうには何の関係もないだろ、そしてその無関係なところにずっと成功が存在している、そして成功が存在しているなら成功だろ、成功というのはもともとそういう性質のものであって、これは "無関係成功" と呼ぶべきだ」「お前と成功は関係ない、お前と関係があるのはお前の "成功願望" であって、成功そのものじゃない、結婚した人に結婚願望はないだろ? それと同じで、成功が存在している人は成功願望がない、そりゃ当たり前のことだ」。

「幸せは雲の上に、幸せは空の上に」(上を向いて歩こう)と坂本九が歌っているのは、幸せがそこに "存在する" という意味であって、手が届かないという意味ではない。

手が届かないという意味ではなく、そういったものはその場所に存在する事象だというだけだ、この事象が捉えられる人には幸せがガチで "存在する" のであり、この事象が捉えられない人には幸せが事実上 "存在しない" という、ただそれだけのことでしかない/そしてなぜ、幸せが存在する人と存在しない人があるのかというと、幸せが事実上存在しない人は、マガイモノを自分の手元にガメようという誤った発想を自分で正しいと信じ切っているからだ、マガイモノを信仰しているので正しいほうの事象を捉えられないで切り離される。
 "成功" という事象も同じようなところにあるものだ、だからおれは今これを書き話しているのだって、何一つ思考を巡らせているわけではない、プロットやら文体やら文脈やら、問題提起やら結論やら5W1Hやらは一ナノ秒も考えたことがない、おれは自分の手元の文章なんか見ていないのだ、おれはお月さんの向こう側にある無関係成功という事象しか見ていない、だから何をどうテキトーのデタラメに書いてもおれの文章は成功する、そりゃ成功は永遠に存在し続けているのだし、成功が存在するのだから成功してしまうというのはもはやおれの意思でさえない(おれの意思に無関係だ)。

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WS報告083/「ふつう」のことと「まとも」なこと
ラにもなく、マジメな内容として、学道用心集の冒頭「菩提心をおこすべきこと」をやった。
ふと気づけば、なぜかおれはそんなものをそれなりに解説できるのであって、何か生まれて初めてまともな「先生」みたいなことをやった気がした、一般教養としてイイことじゃないか。
学道用心集の冒頭に書かれているのは、菩提心獲得に到達するルートのことであって、無常観察→吾我名利の不発→この隙に行を修めると……→菩提心と一念三千のチャンスあり、というだけのことだ、だがこの順序はメチャ丁寧に捉えないと大半が誤解する。
それは何もおれが偉いのではなく、ただ「そう書いてあるだろ」というだけのことだ、でもふつうはそんなこと勉強しない、おれはまともなことだと思っているが、ふつうはそんなこと勉強しない。

金曜日には「果実のライブ」というわけのわからないタイトルのワークをやった。
わけのわからないタイトルだが、おれは「これぞ」という内容だと思っている、まあだからといってカンタンに伝わるわけではないだろうが……いいのだ、おれが正しいと確信しているやつをやるしかない、誰も気づかなかったとしてもそれはおれのせいではない。
聖書の福音書に書かれているように、目の前の樹木が「どんな樹木かな」と思うとき、樹木を見るのではなくその果実を見ればよいという、よい果実をつけるなら良い樹木なのだろうし、悪い果実をつけるなら悪い果実なのだろう、そして果実をつけないイチジクの木については、キリストが「二度と実をつけるな」と呪って枯らしたというエピソードもある。
おれがこの日に伝えたことは、いわば果実主義ということで、「評価のファクターから樹木を外せ」ということだった、つまり「人を見るな」ということ/人は何も偉くないのだ、人は人からすでに分離した果実によって称されるべきで、このことに気づかないうちは、生涯のすべてがニセモノになってしまうのだった、果実主義はそれほどクリティカルな真実だ、ふつうそんなことは考えないだろうし導入なんて考えないだろうが、おれはこれをまともなことだと思っている、本当に役に立つことを教えあうのがまともなことだとおれは思っている。

これまで「ふつう」の人は「まともなこと」を得られたのだろうか?

ふつう誰でも学校に行き、誰でもスマホをいじり、誰でも就労し、多くの人が結婚し、出産する、そして病気をして、老いて死んでいく、いろんな人付き合いの中で……それが「ふつう」ということのすべてだが、その「ふつう」のことはすべての「まとも」なことを十分に与えてくれるのだろうか、もしそうだとしたら、なぜわれわれは今の世の中をどこか「まともじゃない」と感じながら生きなくてはならないのだろうか。
おれはたぶんふつうの人ではないのだろうが、まともなことだけをやりたがっている、今やふつうの人というと青春も友人も恋あいも夢も学門もまともにないままマウントの取り合いで婚活したりするのがふつうという感じさえあるが、おれはそうしたすべてをやはりどこかでまともじゃないと感じている、おれは若い人から順に青春や友人や恋あいや夢や学門があるのがまともだと思っているのだ。
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WS報告082(1)/大不謹慎コロナ川柳大会

毒液なくて思わずウォッカ見る(埼玉県・公務員)
ミッキーも活動自粛ねずみ年(東京都・ダンサー)
親子丼買い占めのせいで玉子丼(埼玉県・OL)
恋するもデートの約束不要不急(東京都・ダンサー)

(以下九折作)/先輩の顔覚えられぬマスク越し
布二枚セーフかwho(誰)も無為無策
アルコール去年は飲んで今日は拭く
この波は小さな池では無理がある

街中は花金どころか鼻の菌

銀メダル来年やるなら金メダル
桜散るこの木と待とう次の年
 

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WS報告081(2)/いいことをじゃんじゃんやれ
「いいことをじゃんじゃんやれ」、それは自分が苦しみから逃れるためだ/いい人になるためではない。
いいことをじゃんじゃんやるのだ、「いいこと」が視えていれば、そこに躊躇を覚える必要はない、そして躊躇がないなら速くかつストレスがないのであって、それは必然的に「じゃんじゃん」やることになる。
だから、「いいこと」とは何か、ということの定義と視力が大事なのだ、「いいこと」がもし視えるなら、誰もそんなことに躊躇しない、だが実際には何が「いいこと」なのかわからないのだ、だから躊躇してモゴモゴするしかなくなる。
道徳では、一般に「いいこと」を弱者救済と相互扶助、ボランティアやチャリティや利他主義に定義するのだが、それはもちろん大昔にニーチェにインチキを指摘されているので破綻している、よりにもよってニーチェごときに指摘されて破綻するということに恥を覚えねばならない、ニーチェって歴史的にあんまり頭のいい人じゃないぜ。

「いいことをじゃんじゃんやれ」「それは自分が苦しみを逃れるためだ」「そしていいこととは苦楽を信信することだ」「クラクをシンシンすることだ」、まったく一方的な言い方だが実際にはこれらの文言だけが役に立つ。
たとえば、女性とデートすると楽しいからデートする、そして、話が合わなくなると楽しくなくなって苦しいから別れる、こんなことを繰り返していたらまさにクソの日本代表みたいになってしまう、だからクラクはシンシンしなくてはならない、楽しくてもシンシンすればいいし、苦しくてもシンシンすればいいのだ/そこに得られるべきは「楽しかった」ではなくて「あの人がいた」「あいつがいた」なのだ、それはつまり信じるところのものが得られたということに他ならない。
どのようにしてクラクをシンシンすればいいのか、ということになるのだが、そのためにはあるていど苦楽の前線に立つ必要があって、前線に立ってまざまざと苦楽の威力を直視する……のだが、直視するとふつうは苦楽に取り込まれて終わるだろう、ふつう勝てない、勝てないからこそ直視しないようにしているのだ。
苦楽を信信するといって、そんなことの具体的な方法はない、手取り足取りなんかやりようがない(当たり前だ)、必要なのは具体的な方法ではなく「自分が苦しみから逃れるため」という真相だ、苦楽じゃなくて信じるところをやれといっているのであり、これに疑義を挟む者は、その疑義という「疑い」を持ち込んでいるので、そもそも「信じるところをやる」ということを破壊することを前提にしているのだ、それは自分が知らないレベルでの魂の汚染であり魔物の悪意だ。

「いいこと」を見失っている奴が、「いいこと」を審査することじたいが馬鹿げている。

トルストイがとっくの昔に言っているようなことだが、定義を見失っている奴が定義を審査できるわけがないのだ、言い方は悪いがたいていの頭の悪い人はこんな単純な循環にさえ気づかないし脱出できない、そして脱出できない自分をなぜか頭がよくて理論的だと思っているのだ/違う、頭がいい奴は初めから脱出している、脱出できていないのはどう弁解しても「アホ」の一点に尽きる。
いいことをじゃんじゃんやれ、「いいこと」とは「クラクをシンシンする」ということだ、それがわからないと感じる人に対しては、「残念ながらあなたをやっつける人はいません」と言っておこう、そうすると期待が外れるだろう? だが残念ながらやっつけてくれる人はいないのだ、あとはただおれがいいことをじゃんじゃんやりつづけるという実績だけが残っていく、おれは苦しみから逃れたいのだ、フルオープンした苦楽を直視してなお絶縁を得るなんてとてもじゃないが現在のおれではまだまだ太刀打ちできない。
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WS報告081(1)/信じるところをやれよ
ークショップ報告、といって、つい数秒前にワークショップを終えたところだ、オンラインでしつこくやっているのだ。
なぜこんなコロナ状況で、オンラインでしつこくワークショップなんかやっているかというと、こんなコロナ状況だからだ、自分の信じるところをやらなくてどうする。
状況が悪くなったから「うーん」と引っ込むというのが、自分の信じるところなのか、あるいはヤケクソになって高濃度汚染地帯に突っ込んでいくのが自分の信じるところなのか、そうじゃないだろう。
今回は「苦楽」という話とワークをしたのだが、何もむつかしいことはない、「自分の信じるところをやれよ」ということに当然なる、「苦楽をいったりきたりするんじゃなくて、自分の信じるところをやれ!!」というだけのこと、そりゃ当たり前のことであって、当たり前だからこそキツいのだった、何しろ自分の信じるところが「ない」ということに直面させられたりするからな。

「仕事ダリー」から「娯楽タノシー」へ、はたまたその逆へと、往復を繰り返していてどうなる。
仕事ダリーなんて自分の信じているところではないのだろうし、娯楽タノシーも自分の信じているところではないのだろう、前者が「苦しい」で後者が「楽しい」というだけだ、しかもそれは等価のものであって、けっきょく「楽」というのはいずれ壊れて苦しみになって襲いかかってきてしまう、じゃあけっきょく自分で苦しさをパワーアップさせているだけにしかならない。
苦楽、苦しみと楽しみは正負が違うだけでけっきょく等価のものだ、だからそうじゃなくて「自分の信じているところをやれよ」ということになる、当たり前すぎるのだがこの当然のことをきっちりやれたら根本的な問題は解決する。
色んな苦しさがあって、また色んな楽しさがあって、そりゃ苦しさを遠ざけて楽と楽しさに近づきたいのは当たり前だろうが、その往復と繰り返しの中で、「お前を通して何を信じろっていうんだよ」と言われたらそれですべてオシマイになる、致命傷だ/だからワークショップを「楽しい」なんて理由でやるつもりはないし、「苦しい」ということを値打ちにするつもりもない、ただおれの信じるところをやるだけだ、おれは苦楽と絶縁するために信じるところをやっている。

「楽しいという発想はだいぶ前に吹っ飛びました」「じゃあ同レベルの苦しさも一緒に吹っ飛んでるよ、もう届いてこない」

人によって、苦しみが「届く」というレベルは実は大きく違う、イージーな楽しみに囚われる人はイージーな苦しみもヘヴィに届いてしまうのだ/絶縁されている人は電気椅子に座っても何も感じないが、食塩水で全身が濡れている人はあっというまに黒焦げになる、そういう差が苦楽にはある。
苦楽を値打ちにしないので、苦しさは信じるものへの土台にしか使わないし、楽しさも信じるものへの土台にしか使わない、だから「苦楽を信信する」という言い方をした、これぐらいアホみたいに縮めないと実用できない、「クラクをシンシンする」だ、唯一「いいこと」というとそれしかなくて、「いいこと」というのは道徳ごときが到達できる範囲にはない、道徳は「クラクをシンシンせよ」とは言わない/弱者を救済することおよび人々が相互扶助するのは慈善であり必須で不可欠のことだが、それが「いいこと」にはならない、飢餓少年を金持ち少女が助けたとして、その二人が付き合ったらただのクソカップルになる、「いいこと」というのはそうではなくクラクをシンシンすることだ、それをじゃんじゃか積み重ねることでしか苦しみから逃れる方法はない。
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月刊ワーQショップ 第九号「時間」

pdf[A4]43頁


→月刊ワーQショップ 第九号「時間」



月刊ワーQショップ 第九号「時間」をアップロードしました。ご笑覧ください。
(ブラウザから閲覧するとまれに文字化けすることがあるので右クリックからダウンロードしての閲覧を推奨申し上げます)

ご寄稿のみなさまありがとうございました!!
九折


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第一号はこちら→「創刊号」
第二号はこちら→「夢中」
第三号はこちら→「軽薄」
第四号はこちら→「Yes」
第五号はこちら→「憎悪」
第六号はこちら→「作品」
第七号はこちら→「変化」
第八号はこちら→「主体」

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WS報告080(2)/「ふつうの人」になる方法
ロナウィルスのせいで、万事にブレーキが掛かり、おれは逆に数年来まったくブレーキを掛けていないかったことに気づいた。
気まぐれにワインを二杯飲んだだけで泥酔して二日酔いになるとは……精神がコロナ休みに気づいたのだろう、もう何年ぶりか、寝て起きたら「まだ眠い」というのを体験した。
血圧は医者にコントロールされているので、高血圧のせいではない、気づけばここ数年、寝て起きたとき「まだ眠い」ということが一度もなかったのだ、何かずっとやること・やれることに食らいついていたのだろう。
これまでおれが休憩するというと、けっきょく病気でダウンしたときだけだったのだが、社会が病欠になったときにも、自動的に休憩システムがはたらくようだ、ひさしぶりにおれの脳がナゾを追跡しなくなっている、まあこれも数日のことかもしれないが、少なくとも数日は休もうと思った。

ワークショップはオンラインでやったのだが、おれが倒れたあとも各員がおれの指示を守り、むしろおれのダウンをカバーしてくれたおかげで、非常に有意義なものになった/倒れてしまうのもときにはアリだ、怪我の功名というやつだとまったく思った。
おれは何かに努力するということはまるでないのだが、ひとたびこうやって少々の休憩モードになると、おれは単に、努力どころか常に緊急事態のさなかにいたんじゃないかという気がする、どうせ休憩が終わればまたその状態に戻るのだろうが/そういえば昨年、実父が突然死去したときにも、血族に「なんだその落ち着きぶりは」と驚かれたので、おれはずっとそういう危急が当たり前の中にいるのだろう、そりゃたしかに眠たくはならないわけだよ。
このままいくと本当に、突然医者に余命宣告されても「そうですか」と、わずかも動揺しない人間が出来上がるところだったが、それはそれで人としてどうよという気はしないでもない、なんでもかんでも学門の材料に放り込むというのもなあ……まあでもしょうがないのだ、それだけがおれから出来る何かの足しだと気づいたし、それですべての愛人が救われるならそれでいいのだ。
オンラインはつまり、「今日明日で月刊ワーQの原稿を書け」と突然命じただけのことだ、そして一時間ごとに進捗をグループラインに投下しろと……これは思いがけず、各員の眠っていた底力を引き出したようだ、ほぼ全員がなんとかしてゴールにたどり着いたのは見事だった、おれの指示した各員の協力態勢も、おれが途中でダウンしたことが逆に良いほうへ作用した/まあおれ自身は、各員を指導しながら、初日のうちに原稿二つと、ヒマだったので唐突に短編小説まで放り込むありさまだったが、やはりそれが今考えると精神のギリギリを攻めすぎなのだ、おれには何かノウハウがあってその生産量を確保しているのではない、ノウハウを使ったらそれはただのルーチンであって生産ではない、そこで一番ノウハウを使っていないのがおれだ、だから精神のギリギリを攻め……るのはほどほどにしようと、今日だけは珍しく思っているのだった。

異常なレベルのトライアルをクソほど積み重ねてデイリーでボロキレになるぐらいに過ごさないと、みんなが思っている「ふつうの人」にはならない。

このことを、ワークショップの各員はそろそろ知り始めたはずだ、赤の他人が読んでもちょっと面白いものを書くとか、人の書いたものを分析して指導するとかいうのは、ごくごくふつうのことに思えるし、確かにごくごくふつうのことのはずなのだが、その「ふつう」の水準に本当に到達するためには、脳みそが溶岩になるような日々を数百は積み重ねないといけない。
というわけで、まもなく発行される次の月刊ワーQには、唐突におれの短編小説がブッこまれるのでお楽しみに、まあ読んだからといって何でもない「ふつう」の短編小説だ。
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WS報告080(1)/オンラインでもめっちゃやった

ロナウィルスへの懸念から、ワークショップはオンラインでやった。
オンラインで何をどうやるんだよ、という話だが、そんなもんは、偉大なるおれさまの芳醇な idea を持ってもってすればなんとでもなるのだ。
非常にクリエイティブでホットな夜だった。
報告としては、オンラインでもめっちゃやりましたよ、ということになる、何をやったかなんかどうでもいいだろう、めっちゃやったのだ、そう断言できる夜しか過ごしたくない。

どんなことでも、やってみると難しいものだし、そんなに才能なんてないものだし、エネルギーにも限界がある、また何のためにそれをするのかということや、正しい方法はどのようなものか、ということもある。
そしておれは、それらのすべての正当な発想について、沸騰した濃硫酸でもぶっかければいいと思っているのだ、「お前んちのお子さんのお弁当は手榴弾な?」ということを平気でやりたい、お子さん大ピンチ、意味を求めるような弱々スライム陰毛主義になりたくないのだ、次々にマザー牧場の隅に埋めて殺せ。
意味のないこと、理由のないこと、動機のないこと、方法のないこと、名誉のないこと、突破する必要のないことを、突破して進みたい、この世界のすべての人をバカにすることを最優先にしたい、メンヘラ女は博多ラーメンと結婚式を挙げたらいいと思っている、指輪の交換で指輪がとんこつスープにボチャンと沈めば神父も爆笑だ、トンファーを買って帰国しろ。
世界中の小学生は、作文に将来の夢を書かされたら、全員疑いなく「ゴリラ」と書くのだ、本文は全部ウホウホウホウホでいい、もしそれで教師が眉をひそめたらただちに最高裁判所に訴えろ、最高裁判事はただちに被告を三菱重工製のデコピン機の刑に処すだろう、よくわからんがデコピン機は現代の技術をすべて注ぎ込んだレールガンの威力を転用しろ/そうしたらデコピン後には「おでこなくなった」という笑いに包まれるだろう、それが平和であり愛であり芸術でありいきものかがりだ。

人類史上最大の爆笑はスターリングラード戦線にあった。

つまり「弾薬注ぎ込みすぎだろ」という爆笑があった、このことに文句がある偽善者はギリシャ神話の神を呼び出してただちにオットセイとモグラのキメラに改造してやるから楽しみにしていろ、眠りからさめたら部屋の中にアゴのサイズが2メートルある兵隊アリがいるようにしてやる、そして母親の首を七つに増やしておいてやる、宿題はカーマスートラの全文暗記だ。
特に何も悪いことをしていなくても、「ゴボウのキンピラ!」以外は発語できないように改造してやろうか、その後殺人事件の犯人に疑われてアリバイを訊かれて弁明にすさまじく難儀すればいい、ゴボウのキンピラ! ゴボウのキンピラ!/こうしてここに話したことは、ワークショップの内容に何も関係がないが、別にそんなことはどうでもいいのだ、お前の次の交際相手は液体洗剤にしか興味がない人にしてやろうか。

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コロナウィルスによるワークショップ延期のお知らせ

よ!! 掲題のとおり、おれはこうして常識的な判断と決定もするのだった、なんという偉大なことだろう、万民はおれさまを永劫に称え崇めるように。
次々に情報が更新される中、NHKの特設サイトがよく情報をまとめている、ありがたい、行政はこういうのを作れよ、何より累計の感染者数がグラフで表示されているのがありがたい、状況が一目瞭然だ。
グラフを見てわかるとおり、感染者数が増える、のはギリ耐えるし当たり前のことなのだが、感染者数が "加速度的" に増えるのは、もうダメなのだ、感染者数が加速しても治療や治癒が加速できるわけではないので、追いつけず、やがては治療もクソもない「放ったらかし」にならざるを得ない。
たとえるなら、おれのブログを読んでくれる人が増えるのは、ただの増加だが、ソーシャルネットワークは、リツイートの機能でたちまち "バズる" だろう、それと同じ、グラフを見ると今まさにコロナウィルスは "バズるか否か" の瀬戸際を迎えているところだ、こんなもんがバズっても誰もトクしないので、ただちにコロナウィルスは滅びるように。

おれは専門家ではないので、おれがエラソーに言ってもしょうがないが、おれの知る限りの「ウィルスの常識」コーナー!
・ウィルスは投薬で殺せません:細菌は抗生物質であるていど選択的に殺すことができるが、ウィルスは選択的に殺せない。なにしろウィルスというのは生きものなのかどうかもよくわからん連中だ。食餌の機能さえなく「増えるだけ」という連中(マジ)。細菌とはサイズもぜんぜん違うぜ! イメージとしては、ウィルスが消しゴムだとすると、細菌が筆箱、細胞が机ぐらいの大きさだ。ウィルスは電子顕微鏡で見るようなサイズだから、こんな小さいモンを選択的に攻撃する方法なんてないぜ!
・ワクチンリリースは半年以上かかる:選択的に殺せないウィルスに対し、免疫がきっちり抗体を作ってくれるはたらきは、何がどうなって成り立っているのかナゾだぜ! 人類の知識レベルを超えている(ガチの話)。そこで考えられるのがワクチン戦法だ、つまり「無毒コロナを培養して、それを先に体内にブチこんでおけば、勝手に免疫サマが抗体作ってくれんじゃね?」ということ。もちろんすでに各企業が新型コロナのワクチンを開発中だ、でもそういうのって最低数ヶ月はかかるよね。早くしろ! 何ならクラウドファンディングで資金を集めろ(こういうときこそだよ)、そして中国に売って外貨を稼げ。
・ウィルスはたいてい勝手に死滅する:なぜそうなるのかはよくわからんが、ウィルスというのはたいてい勝手に進化し、進化によって死滅してしまう、つまり勝手に感染力を失って終わるのだ、なぜそんな選択をするのかはわからんが事実としてそうなる。ただし、一部には進化せず残存しやがるウィルスもある。その場合、COVID−19は風土病ないしは全国病になって残ってしまう。つまり子供のころ予防接種した「日本脳炎」みたいなジャンルに、「COVID−19」が新しく追加されてしまう。

もしギャンブルをするなら、感染者数のグラフは最終的に、次の四つのうち、【(a)1,000未満、(b)10,000未満、(c)100,000未満、(d)それ以上】、どこに収束するだろうか。

aなら理想的だが、それは実際的にどうなのという趣があり、bならギリ耐えるが、それでもけっこうダメージきついよという趣、cとかは「いやいや」、マジの国難で笑えないという趣、dになったら東日本大震災以来また悪夢の記憶が刻まれるという趣だ/でもこれは仮にの話ではなく、この中のどれかに収まるしかない話だ。
総理大臣とか知事とかには、このギャンブルを課して公表させりゃいいんだよな、自費から百万円ぐらい賭けさせてさ、そうしたらギャンブルとして見物だ/不謹慎だと言われるかもしれないが、実際には百万円どころじゃない、生死が賭けられているのだ、うーんおれとしては3000人で打ち止めとしてbに賭けたい(希望)。

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WS報告079(2)/表現力を減らす、ないしは消す

回は「オラつきましょうのコーナー」をやった、もちろん気分だけでオラついても何もいいことにはならない。
どこかのラッパーのように、人を煽る動作をし、「ヘイ、ヘイ」と言い、「オラつけー」とやはり煽るのだが、このことが各員の「集中」のていどを浮き彫りにする。
集中といって、いわゆる「集中力」という考え方はいまいち適切でないし、また集中力の「つもり」のものは何の役にも立たないものだ/では集中とは何かといって、「ありうる要素の99.99%をカットする」ということになる、つまり表現力を減らすということ。
身体動作なら身体動作、「オラつけ」という声なら声、それ「だけ」にするのだ、そこにどんなキモチを持ち込んだとしても、それはキモチが持ち込まれているぶん集中ではなくなり、拡散になってしまう、それでカッコ悪くなる。

軽く踊りながら、ヘイヘイ言い、「オラつけー」と煽るだけだ、ただし衣裳やライティングやBGMのバックアップはなし、あくまで自分単体だけでだ/そんなことをやらされてみると、実は誰もそんなことはできやしないということがよくわかる、ほぼすべての人は「演出」でそれっぽく見せているだけだ。
演出をゼロにしてしまえば、実は誰もそんなことは「できない」「できていない」のだが、それが恥ずかしいため、その恥ずかしさを隠すのに、それぞれが演出の第一として「キャラ」をやり、周囲も政治的にその「キャラ」に迎合するのだ、現代人がやっているのはそうしたキャラと空気の読み合いであり、つまり「政治」でしかない。
当ワークショップではこの「政治」を徹底的に排除する、すると何一つ本当にはできやしないから、いいのだ、出来ないのはまったくかまわないのだ、ただ自分にこびりついた永遠の政治工作だけは剥ぎ取ろうということ、その政治工作の顔面を持ったまま地獄に落ちるために生きるというのはさすがに不毛で苦労に見合わずまっぴらごめんだろう。
ありうる要素の99.99%をカットする・消すということは、そこに関わる能がきわめて限定されるということだろう、つまり「限定能」だ、いわゆる「万能の神」の方向にはないこと/この限定能の極致には、それぞれ「天使」(仏教では○○天)という存在があって、これを使役できるのが人に与えられた権威、そこにまで集中できるかということをワークで試されることになる。

業務リアリティはクソだが、年寄りのような信仰も同様のクソだ。

だからどうすればいいかというと、限定能の極致にある天使の力を使役できていればいいのだ、それだけで何かしら主体に祈りが通じていて祝福と権威を授かっているということの証になる/感情を激するババアがサタンの証を実に示し、マウントの性分でしか生きられない女がルシファーの証を実に示しているように、逆の証を実に示そうということ、感情を激するババアやマウントしか頭にない女が明らかに「オわっている」ように、逆の明らかに「キている」を示そうというだけ。
実際に各員がやらされて、その録画が全員に共有されるのだが、そこにはもちろん醜態が映っており……ただ注目すべきはなぜそれがただちに「醜態」と視えるかということだ、それは実はソウル的なものをただちに視認できるだけの視力が本当はあるということだ/あとはそれぞれのテメーがその視えているものに向き合うかオリるかの問題、そしてこともあろうか「政治工作をして偽りのまま生き残ろうとする」ということだけは許さないということだ、政治工作に満ちた自分の顔面をHD画質でまざまざ見続けるというのはなかなか精神にクるものがあるぜ、それを全員で笑えるようになったのだから、その進歩はそこそこ偉大だとおれは正当に評価する。

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WS報告079(1)/お前らに一億やる
「そうだな、お前らにカネをやろう」「やったー」「それも、お前ら全員に一億ずつやろう」「やったー」。
「ほれ、じゃあこの小切手、一億松陰、と……」「え? 一億ショウイン?」「おう」「どこのお金で……」「ああ、そうか、お前らは知らなかったな。アンドロメダにある松下村国という国のお金だ、だいたい初任給が20松陰ぐらいだから、一億といえば相当な額だよ」。
「これって銀行に持っていって両替は……」「両替? 両替はできないな、これ外貨じゃないからね」「外貨じゃない」「うん、邦貨(ほうか)だな、松下村国の。外貨じゃないから両替できませんって正式に銀行に言われるよ」。
「さてここでみなさん、とんでもない額のカネを持ったことになるが、これで君たちに資金はあることになるかね」「資金、は持っていない気がします」「百円玉と比べるとどう」「百円玉のほうが資金です」「そうだね、価値も額面も一億松陰のほうがはるかに上なんだけどね、なにぶん外貨じゃないからね」。

「ノンフィクションの本質は "分かる" であり、フィクションの本質は "分からない" だ」「だから、ノンフィクション国というのは、言ってみれば "ワカーリー" という通貨を流通させている国ということになる」「一方、フィクション国というのは、通貨 "ツナガリー" を流通させている、 "分かる" という "分割" が無いのだから "分からない" 、そうして分割がないのだから "ツナガリー" になる」。
「そしてこの通貨ワカーリーとツナガリーは、それぞれの国の邦貨であって、互いに外貨じゃない、だから相互に両替できない」「さきほどの通貨松陰と同じで、一億ワカーリーは1ツナガリーにもならないし、一億ツナガリーは1ワカーリーにもならない」「それぞれの邦貨をどれだけ積んだって、向こうの国の残高の残高としてはゼロってことだ」。
「つまりおれは、お前らのまったく知らない通貨を使って暮らしているということになる」「おれとお前らの目の前に、何かひとつの物語が示されたとする、するとそこからお前らはワカーリー価値を得ようとしていて、そのときおれはツナガリー価値を得ようとしているんだ、だから同じように名画の一歩をよろこんでいても、その内実として通貨が違うということがある」「すべての体験について、100ワカーリーを得ている人と100ツナガリーを得ている人があるんだ」。
「ノンフィクション国においては、 "分かる" ということに価値が置かれている、何しろ通貨がワカーリーなんだからな、そして分からないものはただちに価値ゼロとみなして見下す習慣があって、何であればストレス源と感じて攻撃する習慣もある」「分かることに価値がないと言っているわけじゃない、ただ分からないということにツナガリーという価値があるということをまったく見落としているだけだ、ワカーリーとツナガリーはそれぞれの邦貨であって、為替レートがないというだけで、それぞれに価値があるということだ、ただワカーリーがツナガリーに両替はされないし、ツナガリーがワカーリーに両替されることもないってことなんだよ」。

邦貨ワカーリーを消耗せよ。

通貨ワカーリーの発生は、第一に「自分」という現象だ、第二に「気分」という現象だろう、それぞれにちゃんとワカーリーを示す「分」という語が充てられている/このワカーリーを消費・消耗すること、このことを指して、新約聖書は "自分の" 右の頬を打たれたら左の頬も差し出せと伝えている、それは正当なワカーリー(自分)を無駄に消費・消耗せよというメソッドだ、ワカーリーを消耗していく体験は、その背後でツナガリーを貯蓄している。
ワカーリーだけを貯蓄していると、魂の国籍はもちろんノンフィクション国にあることになるので、分離分割の世界、つまりつながりのない世界に魂は永住することになる/世田谷区と目黒区は隣接しているが、分割されているからそれぞれの区でもあり、同時につながっているから隣接区でもあるのだ、ここで世田谷区が目黒区にゴミを不法投棄した場合、目黒区が逆に世田谷区に捨てられているゴミまで処分するようなら、目黒区は正当なワカーリーを消耗してその背後にツナガリーを貯蓄したことになる(ちなみにニーチェはアホだったのでこのていどの理にも気づけなかった)。
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WS報告078(2)/毎回、具体もやってます
まにはまじめに身体操作の話。
われわれは「脚」と「股」の区別がついていない。
正しくは、「脚を上げる」ときは「股は下がる」のだ、ここで脚も股も一緒くたに呪縛されているから動きが不格好になり関節に疲労とダメージが溜まる。
われわれは、ハリガネのような人間像を描くとき、胴体の下に脚が生えているという図を描く、この図が誤っているから、われわれの脚はまともにはたらかないのだ、われわれの脚は胴体の下にはついていない、脚はなんと「横」についている/脚というのは胴体の "サイドパーツ" なのだ、そして胴体のボトム部を「股」と呼ぶ。

下腹から股間に片手を当てて、もう片方の手を、左でも右でもいいので、脚の付け根に当てる。
脚の付け根といっても、どこだかわからないので、「骨盤の下の、掴めるところ」をガシッと掴むしかない、そしてその掴んだところ(脚の付け根)を上にあげる、そのとき下腹から股間に当てた手は下がらないといけない。
これで正しく股関節がリリースされ(呪縛から解放され)ると、膝から下、脚のすねから下がぶらんぶらんに脱力できる/いくら膝の力を抜こうとしても、構造上、根っこの股関節の側が呪縛されていると脱力するのは不可能なのだ。
といって、こんなことを文章で説明してもまずわからないので、こういったことを「身体操作」といって、割とまじめに実地・具体でやっているのだった/具体はとても大事だ、<<具体だけでは何にもならない>>にしても、具体は大事だ。

立ち姿で、膝が正面を向いているのは不自然だし、かといって外側に向けるのも不自然だ。

股関節やら膝やらの「関節」は、もともとの構造があるのだから、その構造のとおりに解放してやると(呪縛を解除してやると)、しかるべき方へ向くのであって、それを力ずくで「正しい方に向ける」という発想はおかしい、そんなものダメージになるに決まっている/理学療法的にはきっと、起立・歩行を支える脚の「筋力」を重要視するだろうから、力の入りやすい状態を尊ぶだろうが、当ワークショップではそうではない、力を入れなくて済む状態、関節を動かさなくても動く状態を尊んでいる。
われわれは、くるくる回る椅子やスツールに座ったとき、それを「動かす」とはいちいち思わないものだ、いちいち「動かす」と思わなくても椅子はくるくる回ってくれる/関節も本来はそういうもので、もともと「動く」ように作られているのだから、解放されれば「動かす」というパワーの入力は必要ない、このことをきっちりやりこむと巨大なメリットがあるのだが、それにしても地味なので、やる気を出してもらうために女性などには「脚が長く見えるようになりますよ〜」とけしかけている、そうすると「何ッ」と反応してやる気を出すのだから、うーん、股関節も膝も大事だねということなのだった、また来週もやりましょう。
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WS報告078(1)/二月の宿題と困難の発見
「出来事を公的に語れ」という宿題を各員に出している、通称「二月の宿題」でありこのことは以降毎月課される。
ノルマは「20分から45分くらいだなあ」とし、各員はギョエエエと悲鳴を上げたのだが、やり始めると一部には、各50分の前後半・二本立てというようなことをやり始めるありさまだ、何がギョエエエだったのかと聞きたい。
二月の宿題を済ませた者から、「次の宿題テーマは何ですか」とウキウキ聞いてくるぐらいだから、各員が単純に、「勉強を楽しみにしている」、そしてこのことは各員にとって生まれてはじめてのことらしい。
そんなこんなで、今この月曜日の朝も、寝たり起きたりしながらワークショップが実は続いているのだが(ドン引き)、とにかく新型肺炎は防御しようねという、真っ当なことはそれぐらいしか言えないのだった。

ワークショップは、結局万事が、「自分ってこんなのなのか」ということに直面する仕組みで出来ている。
人は、ふつうわざわざ自分で実験して、自分自身のデータを取ったりしないので、自分に直面することはないまま、すべてのことについて漠然と「出来そう」と思っている(ようだ)。
けれども実際に直面してみると、例えば右肘と右膝を一緒に動かすというような単純なことさえ「あれ?」と、まともには出来ないものだ、すべてを出来そうと思っているので、戸惑って「やり方」を訊きにくるのだが、「やり方はさっき説明しただろ」「はよやれや」と言われる。
通称二月の宿題、「出来事を公的に語れ」を自らやってみた人は、先立ってわたしが提出したサンプルにつき、「やっぱすげえっすね!!」「これめちゃくちゃムズイっすよ」と直視出来るようになる、このようにして勉強を楽しみにするどころか困難を楽しみにするようになる、そうなれればもうレベルの問題などもうどうでもよくなるのだが、ふつうそんな状態には生涯に一度もならないのだった。

常に「出来そう」が私的、「出来ない」が公的。

代表的には例えば、「ジョークとユーモアをかましてみよう」として、それが「出来なさそう」と予感する人は一人もいない、ほぼ確実に「それは出来そう」と全員が予感する/が、実際にジョークとユーモアに優れた人にお会いすることは生きているうちにほとんどない。
それは、能力うんぬんの問題ではなく、実はすべてのことにおいて、「出来そう」が「私」であり、「出来ない」が「公」というだけだ、そしてこのとき私より公を愛する人なんてまずいないということ/われわれは能力のせいで公に至れないのではなく、「自己愛によって公に向かわない」のだ、多くの人にとっての「わたしがんばります」は、この改めての自己愛主義の表明にすぎない、だから何でも「出来そう」で「がんばります」と思っている。
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WS報告077(3)/拡大について随想
ークショップは、楽しくやっているし、もっと規模が大きくなれば……とも思うが、わずかでも陳腐化するなら、規模を変える必要はないとも思っている。
何しろ、今あるものをみんなが大切に思っているので、これを壊したくないのだ、これについては各員に安心していてもらいたい/今あるものを壊してまで、無意味な「拡大!」というような夢も野心もわたしは持っていない、みんなが大切にしているこれは、すくなくともわたしが死なないかぎりは保障されるので安心してくれ。
それでいてもちろん、閉塞的な、内輪だけで遊んでよろこぶような集まりでは論外だから、常に拡大の夢はなくてはならない、その夢を失って内輪で遊ぶかぎりになったら、そんなもんすべての加護が消え失せて、まぎれもないクソの集まりになるだろう、そうなったらただちにおれ自身で取り潰すのて、その点も安心していてくれ、おれは全員を処刑してでも現在ある「気分のいいもの」を保つことを優先するだろう。
拡大の夢といったとき、拡大するに越したことはないが、原則、「まるで初めからいたような人」しかけっきょく招き入れることはできない、そりゃ当たり前だし、各員が見てきたとおり、けっきょくそこはすべておれの超能力でなんとかしているばかりだ/けっきょくおれの超能力で、なんとかなる人だけ「まるで初めからいたような人」にするし、おれの超能力ごときじゃなんともできない場合は、申し訳ないがその人には諦めてもらっている、この仕組みはこれからもこのまま続けていくだろう。

この仕組みは、いちおう公式に表示しておくべきだと思った、またいずれワークショップ案内記事にそのように付け足しをしておこうと思う(うーん忘れそうだな)。
このワークショップは、いちおう誰でも参加できるものだが、実際には適合する人としない人がいて、適合しない人はどうしても継続参加は無理だ、基本的におれの書いているものをずっとアホみたいに読んでいる人は大丈夫なはずだが、それでも人それぞれ気質や捉え方の違いというものがあり、どうにもならないことはある/それはもう、ずっと公園だけでやっていたときとはレベルも密度も違うからしょうがないのだ。
いちおう公式に、初参加の方は二時間〜三時間を目安として一区切りにし、そこでいったん体験のまとめと、適合のチェックとさせてもらうことにしよう、実際今までもそんな感じで運営してきているのだし、そのように前もって申し上げておいたほうがこれから初参加する人にとっても気が楽だろう。
何しろ当ワークショップのメソッドは、理論的に正しいのは明らかだが、その実演と実効が、けっきょく「こんなもんおれにしか出来ねーじゃねえかwww」というたぐいのものになっており、そかもその実効を各員にもたらすのだって、根本的にはおれの超能力をブチ込んでいるところがあるので、もうメチャクチャなのだ、まあそれが楽しいから現在の各員は来てくれているわけで、そのことをおれのほうから台無しにすることはありえないから、その点について各員は心配しなくていい、拡大はするべきだが超能力以外で拡大はしません(メチャクチャ)。

九折さんにビビっている人は割とOKです。

ぶっちゃけ、九折さんに対して「意見の交換がしたい」というような感じがあるところの人はダメなのだ、その人がダメというのではなく、ワークショップへの適合として不向きという意味だ、ワークショップは意見交換の場でもないしムードでもない/何しろ、すべてが「んなアホな」という技術と実演の洪水ばかりで進んでいくので、一般に常識的なものは邪魔になるのだ、それより逆のまっとうさ、「常識的に見てこんな人にはビビるでしょ……」とおののいている人のほうが初めから適合しやすい。
遠方からいらっしゃる人で、数回しか参加できていないという人でも、理論と技術と実演に「んなアホな」とビビって呆然とする人は、今でもつながって学び続けているのが実際だ/要は、実はそうした人、素直に驚いたりビビったりする人というのが世の中には意外と少ないということになるだろう、ワークショップに参加してみようかなと迷っている人は、その迷いが「う〜ん、恐怖!w」という具合ならだいたいハズレではないです(たぶん今の参加者で、恐怖なしに初参加した人はいないんじゃないかな)。
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WS報告077(2)/対自存在と秘儀の主人
ーゲルやサルトルが言ったように、といってもわたしはサルトルを目の敵のようにあげつらって言うのだが、人の「存在」と呼ぶべき事象には、「対自存在」と「対他存在」がある、「即自存在」についてはここで考える必要がないとして……「対他存在」というのは「他人から見て成り立っている」という存在のことだ、おまわりさんが交番に立っているのは、社会としても法律としても社会通念としても他人から見るところの「おまわりさん」として成立している、何も本人の気合いで「おまわりさん」になっているのではない。
対他存在というのはそのようにわかりやすいのだが、対自存在とは何かというと、たとえばこのおまわりさんが自分で自分のことを「秘められた存在、紅蓮のジョルジオと眷属の連座」と認識している場合、そのことは他人にはまったく無関係だし、他人にはまったくわかりっこないということだ/このように対自存在というのは、自分というものはどのような存在であるかを、「完全に自分ひとりきりで決定している」という事象そのものを言う。
まったくのアホな話、もしこの「社会的にはおまわりさんの人(対他存在としてはおまわりさんの人)」が、対自存在としては「秘められた存在、紅蓮のジョルジオと眷属の連座」だったとして、その秘儀として毎夜「ウサギの血で書かれた魔方陣を思い描き、無垢への思いを祈る」というようなことを、仮に妄想としてでもやっていた場合、彼の魂の主人は「それ」なのだ、つまり魂の主人は「マンガ」であり「中二病」ということになる。
だからこのおまわりさんが、百年間マジメに勤務して、百人の犯罪者を逮捕し、百人の女性とセックスして、百万通のラブレターを書き、百億円の寄付金(醵金)を赤十字に納め、百万年礼拝堂で神像を拝み倒したとしても、魂には何の足しにもならないのだ、本当に冗談でなく魂に対するプラスはゼロで、実は金持ちがいくらチャリティでお金をまき散らしてもまったく魂が救われないのはこの仕組みのせいなのだ、公(おおやけ)にいくら立派なことや愛や尊厳や信仰をやってみたとしても、自分のみが抱えている「秘儀」がまったく別モノなので、その人の魂は厳密に「秘儀」の主人からのみ支配と庇護を受けるのだ、彼は自作したナゾのウサギの魔方陣と紅蓮のナントカとかいう名前だけで悪魔の軍勢を退けて死後の裁きを突破しなくてはならない(無理すぎて草)。

これは何も特殊な話ではなくて、普遍的かつ、誰にとってもフツーのことなのだ、人それぞれ自分が生きるのにエネルギーを借りている「秘儀」というものがある/人によってはそれはアイドル崇拝であったり、アニメ崇拝であったり、性的変態嗜好の摂取や空想であったり、カワイイ猫動画だったり、おしゃれであったりウィンドウショッピングであったり、マウントや選民意識であったり、ひがみやうぬぼれであったりするし、不安や傲慢であったりする。
誰でも無自覚のうちに、いつのまにかそうして、日々のエネルギーを借りている先というものがあるのだ、そしてそのエネルギーを借りている先が、自動的に自分の所属する国になり主人になる、「そんなことに捺印した覚えはない」と言いたくなるが、社会契約論が言うように、もう長年そこから当然のように力を借り続けているので、「こんなもん実質お前の所属する国だし主人だろ」ということで自動的に契約が成立してしまうのだ/つまり悪魔と契約するのにわざわざ書面とサインを交わす必要はないということで、誰も自分の所属契約した国や主人のことなんて「知らない」ということなのだ。
対自存在と呼ぶべき事象において、人それぞれが、じっさい誰にも知られようのない自分限りの自分において、どのような「儀」をやっているのかはけっきょく誰にもわからない、ただ、自分だけが管理責任と閲覧する権利を持つその「秘儀」によって、自分の魂の主人は自動的に決定しているのだ、だからこの「対自存在かぎりがやっている秘儀」に注目するしか根本的な変化はありえないのだが、サルトルが言うにはこの対自存在というやつは「不安」であるため、人はそれに自己欺瞞を掛けるというのだ、そして自己欺瞞が掛かるから、対自存在としての自分が本当にはどのような奴なのかは自分にも視えなくなるという/それはまあ、他でもないサルトル当人が言うからには本当にそのとおりなのだろう、自己欺瞞が掛かるのでもはや対自存在の自分が何者なのかは自分にさえ閲覧できなくなっている。
というわけで、他人には知られようのない自分が、自分自身にさえ知られようがなくなって、ナゾの暗渠になって放置されたまま、その暗渠がゆく結末だけを自分の魂が引き受けることになるのだ、その間、もう何十年ジタバタしてみたって無意味で、もはや「なるようにしかならない」という状態だけが続く、そしてこの場合の「なるようにしかならない」というのは、当然最悪の結果が待ち受けているに違いないのだ/もはや基本的にはどうしようもないことだが、まだ若く、勇気があり、光あるうちに光の中を歩める人は、自分が無自覚のままこっそりやっている対自存在の自分の「秘儀」を甘く見ないことだ、こっそりやっているそれは永遠に他の誰にもバレることはないが、けっきょくはその儀だけがあなたの魂の行く先を決定している、そこにどのようなキモチを加えてみたり、公儀(おおやけの儀)としてどれだけ立派なことや善を付け足してみたって、そんなものの効果はゼロなのだ、本当に自分かぎりがこっそりやっていた無自覚の秘密の儀だけが己の魂とその行く先を決定する、だから自分の秘密の儀を問い質す勇気だけはなんとかギリギリまで失うな。

公の儀として寄付された十億円は、秘密の儀として寄付された十円にはるかに劣る。

公儀から見た善・対他存在としての善は、十億円という圧倒的な金額と実効に軍配が上がるが、魂においてはそうではないのだ、誰にも知られようがない秘密の儀として収められた十円はまさに収めた財としてのぶん直接自己の魂を救済し庇護するが、公の儀として寄付した十億円は本当に魂の救済としてゼロ評価になる、それがいくら人の世で「善」であってもだ、われわれがわれわれの事情と感情で決定する「善」なんて、この世界の仕組みにおいてはゴミカス程度も評価されないと考えたほうがいい/むしろそれは人からカミサマに対してする越権行為・侮辱行為でさえありうるから、人によっては多額の寄付をしてますます闇を深くするということは往々にしてある。
まあそんな理屈を言っていても、それじたいがワークにはならないのだが、理論を知らずにワークだけやっていても、そんな怠慢は実らないのだ、ワークとしては単純に「小劇場」等々で、本当にその人の魂が、「秘儀」として世界をよろこび、光景をよろこび、愛、春の風、歌、言葉、音楽、夢、その他いろいろをよろこんでいるかどうかが浮き彫りになるように仕組みを作る/今のところ「自分が何から力を借りてきたか」という秘儀の主人の契約が、みなさんの思っているほどにはホワイトにはなっていないということを浮き彫りにしている、自分の「思い」とか「やる気」とかいうふざけたものでわずかでも魂が前進できるなどと虫の好い発想を持ってはいけない。
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WS報告077(1)/「公儀の主人」と「秘儀の主人」

儀(こうぎ)というと、聞き慣れない言葉だが、意味はまさかの「中央政府」のことだ、中世・近世までは「幕府」の意味で使われた/「このようなことがご公儀に知られましたら、我が藩は……」というような使い方がされた。
秘儀というのは、何もオカルティックなものではなくて、「公ではない儀」のことだ、究極のところ自分しか知り得ない儀のこと/言ってみれば、自分の夢というのは自分しか見られないので、夢というのは秘儀ということになる、この世で誰も他人が夢についての証拠は持ち得ない。
そして当ワークショップでは、「主体性」ということを重視するので、「主」「主人」ということに追究のメスが入る、「わたしの "主体性" って何? どこにあるの」ということになるのだが、このことを当ワークショップでは「秘儀が自分の主人(主体性)を決める」と表現する。
われわれのやっていることは中央政府とは何の関係もないので、「公儀」のほうは何も関係がなさそうなのだが、ここでは公儀と秘儀を比較することで話がわかりやすくなるのだ、だからわざわざ「公儀」についての話もする/つまりノンフィクション上の主人が公儀で、フィクション上の主人が秘儀だ、そして各人がどのような秘儀をしてどのような主人(主体性)に属しているのかはけっきょく他人にはわからない、何しろ「秘密の儀」なので他人には知られようがないのだ、いくら公開してもそれが本当の秘儀かどうかは自分しか知らないから。

十八歳になると、買ってもないのに選挙権がどこからともなくやってくるし、二十歳になると、どこからともなく納税の義務がやってくる、どちらも頼んだ覚えがないのに勝手にだ、このことを社会契約論という。
選挙権はどこから来た? そして取り立てられた税金はどこに行く? それは衆知のとおり中央政府だ、われわれの場合日本政府だ、日本政府が勝手に選挙権を持ってきて、勝手に税金を召し上げていく、だからこれがわれわれの「主人」だ、公儀がわれわれのノンフィクション上の主人になる(選挙を介して主権は国民にあるとはいえ、実際の主人格を担うのは公儀・政府だ)。
この「公儀の主人」と同じことが、魂においても起こっているのだ、「秘儀の主人」というものにいつのまにか所属していて、その主人が魂に何かを持ってきたり、魂から何かを持ち去ってしまったりする。
公儀の主人がコントロールされていない「ヤバい主人」だったら、実際にヤバいのは誰だってわかるだろう、「今日からこの国は皇帝ネロが治めます」と言われたら超ヤバいのは誰だってわかる、明日にでも税金が十倍になり明後日には百万人が処刑されるかもしれない/それと同じ、秘儀の主人が「ヤバい主人」だったら、魂にとって超ヤバいのだ、サタンやらルシファーやらが主人になって、魂にいくらでも重税や処罰を科しかねない、だから当ワークショップでは「あなたの秘儀の主人はどんな存在か」ということが明るみに出るようなワークにアプローチする、そうでもしないと自分の秘儀の主人がどんなものかなんてわれわれの誰も知らないからだ。

中央政府(公儀)がヤバくなったら「亡命」しなくてはならないように、秘儀がヤバくなったら現在の「国」から脱出しなくてはならない。

他の野生動物がすべてそうであるように、野生の生きものには本来「主体性」なんてものはないのだ、「人」とその周辺だけにそのナゾの現象がある、つまり生きものとしてのホモサピエンスの全身をどう調べても「主体性」なんて臓器はないのだ、主体性という現象は霊魂とか精神とかの不明な空間的事象の中にある/本人の努力で「主体性」そのものは所有できないし変更もできないのだ、主体性の所有と変更を求めるなら本人の意思で "秘儀の主人" を獲得なり変更なりするしかない。
自分の「秘儀」はどのようなものか? それは、ふだん自分がどういったものに力を借りているかを観察することで浮き上がってくる、われわれが緊急時に110番して公儀の力を借りるように、われわれはエネルギーを必要とするとき秘儀の力を借りている、その力を借りている先が「秘儀の主人」だ、自分の魂はやがてその主人の国へ自動的に帰ることになっており、それがどれだけ暗黒と落下の予感をもたらしても、システム上で所属が変更されないかぎりは絶対に逃れられない。

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