☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
WS報告041(1)/安全策
ミサマを守るために戦うほうが、自分を守るために戦うより「安全」だ。
相手を解放して「大きくする」こと、竜王の正体を引き出さないと勇者じゃないしドラゴンクエストじゃない。
竜王の正体を引き出してもっと「解放」を与えるというのは、やっぱり背後に「カミサマを守る」ということがないと成り立たない。
カミサマというのは、崇めていたら守ってくれる母親的・親分的なものではなく、常に背後につながっている「ボス」だ、「ボスがいるから退くに退けん」というのがカミサマを守るために戦うということだ、カミサマとのつながりというのはフワーッとしておらずガッチリとしている、その瞬間に「ガッチリ」と来るのがわかる。

多くの人は、「愛」の代替に「カワイイ」をすり替えている/「いわば偽造パスポートだよな」と僕は言った、「同じ国に行けるふりをしようという笑、偽造パスポート」「全員が同じ色の偽造パスボートを持っているので、もうわからなくなったんだよ」。
愛は偉大であり、愛を持つものは偉大で、愛を持たざる者は卑小なのだが、今はみんな愛の代わりに「カワイイ」を持っているので、だれも卑小ではない。
つまり、愛とカワイイをすり替えているということが罪深いのみならず、ありもしない自己の偉大さを、担保なしに前借りしている状態なのだ、「今新たなヤバさが見つかりました」とある人は心当たりを覚えて笑った。
「気魄はこうだよなあ〜 グレーテストショーマンはこうだ〜」とやっているうちに、人前で泣くのは苦手な女性がついに泣き出してしまった、泣き出して彼女は「すげえ」と言った、その直後、彼女は「気魄」「気魄を出させる」が使えるようになっていった。

カミサマからスタートするほうが難度が低い。

そもそも、カミサマというか、人為でない「佳きもの」なしに、人は一体何を始めるんだ、自分の慰めのために自尊心をパワーアップさせてそれを向上心と言い張るつもりか、そんな物事のスタートはイマイチなはずだ。
さて急いでパーティに行って参ります、原宿へゴー。
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ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 5/23更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第七十五回】5月24日(金)19時〜19時〜世田谷公園、23時〜スタジオマイレッスン
【パーティ】
5月25日(土)19時〜@竹下口 Dinning Bar CLIMB

【第七十六回】5月31日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第七十七回】
6月1日(土)19時〜@公園とスタジオ検討中

【第七十八回】6月7日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第七十九回】
6月8日(土)19時〜@公園とスタジオ検討中


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。世田谷公園では青空教室です
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期はスタジオを使用します、随時ブログ記事でご連絡いたします)
(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第92回】5月25日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第93回】
6月15日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第94回】
7月20日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


出来てから考えたらどうよ
出来た人から文句が出た試しはねえな



みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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WS報告040(4)/頭上に自由を置くこと
由法などというワークは存在しないが、僕自身が今そのように思っているところがある/自由はとても大切なもので、それ以上に、自由とはとてもコワイところがあるのだ、なぜならいつの間にかふっと消えてなくなっていることがあるからだ。
自由は大切だが、漠然と大切と知られていること以上に、原理として厳密に「第一だ」と、最優先に定義される必要があることがわかった/いかなる計算よりも「自由」のほうが勝るのだと、根本的に定義しておかないと、物事はどんどんクソみたいなものに成り果てていってしまう(口が悪いが、これは定義上やむをえない表現なのだ)。
自由というのは誤解を生みやすいシロモノで、自由において無視し打ち破るのは、規則であって法則ではないのだ、どうも規則も法則も英語では "law" と言うらしいので説明に困る。
ワークショップではことごとくのワークを「○○法」と呼んでいるので、その法(法則)を無視されたら、ワークショップそのものの意味がないのだ、どうもこのあたりで、根本的に「規則」と「法則」の区別がついていない人が少なからずいる気がする/この「規則」と「法則」の違いは根が深くて同時に闇も深いたぐいなのだが、そこを突っ込んでもしょうがないので、とにかく「自由」を追求することだ、奇妙な表現に聞こえるかもしれないが、最も正しくは「頭上に自由を置くこと」という言い方になる。

どうせ、この結論に行き着くのが先に見えているので、先に結論から言ってしまうが、頭上に「自由」があり、そこから「出て来る事」を、「出来事」という/すべての稽古は「出来事」でないと、稽古そのものができないと以前に述べたが、その「出来事」の頭上に「自由」があるのだ、「自由は出来事の源泉」と捉えて問題ない。
稽古というのはすべて、「出来事に身体を優れさせる」ということなのだ、「何かを身体に覚え込ませること」ではない、おそらくこの差分というか違いについて、ほとんどの人が根本的にわかっていないように思う/職業訓練やジョブトレーニングのことを「稽古」とは言わない、銀行員が札カウントを練習するのを「稽古」とは言わない、銀行員が札をカウントするのは「出来事」ではないからだ。
ワークショップで行われる稽古は、それじたいでも生活に有利で有益なものになるべく仕立て上げてあるが、本質的には生活上の足しにするのを本分にはしていない、無数の「出来事」に触れさせて、「出来事」に優れた全身を得ていく過程で、やがて出来事の「源泉」に気づいてアクセスできるようにするのが目的だ/僕はネタにタイトルをつけているのではなく自由タイトルに詰まっているネタを「出て来させている」にすぎない(ABC法など特に顕著だ)。
そうして考えると、何がわかってくるかというと、課題はまだまだ山積みだということと、いつまでも楽しいだろうということだ、楽しくなくなったとしたらそれはもうワークショップではないのだ、出来事がなくなったところに稽古もハッピーも無いから。

なるほど、僕のしていたことは「運のつかみどり」だったようだ。

まったくワークショップに関係なさそうな話になってしまって申し訳ない、調べて見ると古語において hap が「運」であり、出来事が happen 、幸福が happy ということのようだ/僕はワークショップでさまざまな実演や創作をするが、その実演と創作が、何かよくわからない happy と happen と愛(あるいは美)に満ちているということを、第一に体験してもらっているということになる、つまりすべてについて「ハッピーかつハプンか」ということを問うていることになるし、「ハッピーかつハプンでなければ稽古にもならないし役にも立たない」という定義を潜在化に持っていることになる(このことは今日から顕在化することになるが)。
僕自身の感覚だと、確かに頭上に自由を置いているのだが、そこにアクセスして何をやっていたかというと、「運のつかみどり」だったようだ、ついつい「運」というと、何かを運ぶものだから、足許にでもありそうなものだったが、どうやら「運」というそのものの再定義が必要なものだ、これまでに思われている「運」というもののイメージと本当の「運」はまったく別物のようだ。
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WS報告040(4)/ハイ&ロー

イ&ロー法と名付けて、ハイとローの急な切り替えというのをやらせてみた、これをやらせてみると途端に、エネルギーを使い果たしたらしく朝方にはみんなダウンした。
なぜこんなワークを編みだしたかというと、現代人のオクターブが低すぎるからだ、単純にいって声のオクターブが利いてなさすぎる、本当は声だけでなく全身の問題だが、典型的に声に出てくるのがわかりやすいので声を使う。
神社で聞く祝詞の声というのは割と音域の高いものだし、民謡だって細川たかしだって出口王仁三郎だって詩聖タゴールだって声は高い、まあそれでいえばヒトラーだって声は高かったのでいろいろ問題はあるのだが、とにかく声を中心として人はハイとローを両方使えないと使い物にならないのだ/別に使い物にならなくてもいいが、ワークショップはあくまで自分を使い物にしたい人が来ている前提だ。
声を代表的に、身のハイというのは、基本的に気魄の充実を意味している、ただしこれがパッとローに切り替えられないでは、気魄から霊魂への切り替えができないということだ、かといってロー側(霊魂側)ばっかり使っていたら、現実的には何もできない身になってしまう/魂魄を高度に使えているというのは、ハイ側もロー側も十全に、それぞれまんべんなく使えており、しかもパッと消えるように、あるいはパッと光がつくように、ミリ秒で100パーセント切り替えられるということだ。

この原理は、奥はとてもむつかしくなるので、とにもかくにも、出来てしまうほうが早い、出来てからも原理の奥を知るのはきっとかなり先になるだろう。
奥がむつかしいというのは、つまり肉声そのものは気魄だが、母音や言葉は霊魂だということだ、これがふつう分離できない、われわれは音声で言語を表現しようとするから、例えば母音アはひとつの音の形状なのだが、その形状は霊魂(観測不能)であるのに、その音波は気魄(観測可能)だということだ、だからたとえば「あおぞら」という言葉があったとき、青空という言葉は霊魂側だしAOOAという母音もそれぞれ霊魂側なのだが、その母音や言葉を形成するためのマテリアルである音そのものは観測可能で気魄なのだ/ほとんどの人にとってこれは「なんのこっちゃ???」とよくわからないことに違いない。
ハイというのは単純に「高周波」ということで、周波数が高いほうがエネルギーが高いというのはただの物理的な事実だ、ただ「青空」という言葉は周波数のものではないし、アだのオだのいう母音も周波数のものではないということだ、青空に何Hzという単位はないしアとかオにも何Hzという単位はないだろう、ここで間違ってアだのオだの「青空」だのに気魄を乗せようとすると、血が染みて「呪い」になってしまう/われわれは言葉に意味を貼り付けているから言葉を自分の道具のように感じているが、それはわれわれの幻想でしかないのだ、なぜなら単純に外国人にはその言葉に貼り付けた「意味」は通じないからだ、ただし発声されているのが何かしらの「言葉」なのだということはなぜか直接わかる。
それで、そんなむつかしいことを言っていてもしゃーないし、むつかしい説明を聞いてわかったふりをしてけっきょく何もできていない自分をごまかすのはカスなので(正式にカスと断定する、これは正規の手続きであって悪口ではない)、具体的に実現されやすいよう「元気出サセ〜ル」と表現している、目の前にいる人に元気(気魄)を「出させる」ことができないなら、それは気魄肉声と言霊オを正しく使えていないということだ/とにかくハイオクターブとローオクターブの使い方を両方知るということ、これをやらせてみるとみんな朝方にエネルギー不足でダウンしていったので、それはつまりそれだけみんながふだんからサボりたおしているということだ、みんなに少々ハイオクターブを出させたのでそのぶんおれはこの月曜日いつもよりエネルギーが楽だ!!

(歩いている)「ヒッヒッヒ……」(ここで画鋲を踏んだ)「ノーーーーー!!!!」、これだけで人は笑う。

別に笑ったからといってエライわけではないだろうが、ハイとローの急転が正しい笑いになるのだ、もちろん逆にローからハイに急転しても面白い、「オー! 日本の夜明けオー! オオオオー!!! コンビニいってくる」でも笑ってしまうはずだ。
大雑把にいって、人はハイオクターブで「止まる」(気魄に満ちる)のであり、ローオクターブで「動く」(霊魂に満ちる)のだ、そして気魄と霊魂が急転すると、急転に驚いた横隔膜が弾かれたゴムのように振動して「笑う」ということが起こる/まあむつかしい理論はいい、とにかくハイ&ロー法においては、ハイオクターブの「オ」を出し、その後パッとローに切り替える、その極端な挙動に自分を鍛えるというだけだ、ハイが正しく使えない人は実はローも正しく使えないので、ロー一辺倒の「お説教くさい人」になるし、ローが正しく使えない人はハイ一辺倒の「はしゃいで面倒くさい人」になってしまう。

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WS報告040(3)/阿吽(あうん)とイエス
までのワークショップが終わり、いつもどおりファミレスで朝食を採っていると、みんなして「最近のワークショップはレベルがガン上がりしている」と言った/僕はこのあたりのことがよくわからないのが問題だ、僕にとってはすべてがすでに当たり前のことなので、どの技術がどのレベルに相当しているのかがよくわからないのだ(すまんな)。
だからこそ、僕は単純に覚えておかないといけないのだが、まずずっと前に「集中」が出て来たところでレベルがグッと上がったということだったな、その後「作品」が出て来たところでレベルがまた跳ね上がっている、たぶん表示から「小劇場」が出て来たところでも上がっているのだろう、その他いろいろなところでレベルの跳ね上がりがあるはずなので、これについては参加者からレポートしてもらうしかない(よろしく)。
そして今回は、気魄は相手に「出させる」ものとして、いつもわかりやすく「元気出サセ〜ル」と言っているのだが、この具体的な方法として、少々「言霊」のことを引っ張り出してきた、母音の「オ」を使って元気出サセ〜ルをわかりやすくしたのだが、この言霊のあたりでまた参加者たちはこっそりビビり始めたらしい/「とりあえずオが元気出サセ〜ルで、使える人はアから使ってもいいけれど、アから使うといわば世界ニアラセ〜ルになるな」と、このあたりを実演しはじめると、うーん今考えたら全員がビビり始めていたなあ。
言霊というとわざとらしいが、そんなにむつかしい話ではなくて、「元気を出すときはオーって言うだろ、アーっとは言わないだろ」「そして、何かに気づいたときは『あっ』て言うだろ、だからアは垂直頭上、悟性の言霊なんだよ、マンガで言うと頭上に豆電球がピコーンと表示されるところだ」、「そして『ウン』というのは、なんというか、消失を指している、だからヨガではAUMが聖音とされているし、日本でも『あうんの呼吸』って言うんだよ」「キリスト教の "アーメン" も発音上ほとんど同じだろ」と、聞いていればナルホドで済むが、夜の世田谷公園で自分が取っ組み合っているところ、ア・オ・ウンを掛けられると、取っ組み合っていた衝突の力がどこかへいって「ほんまや……」と溶けて消えていってしまうのだから、まあよくよく考えたらビビるのが当たり前かもしれない/僕にとってはそのAUMやらあうんやらのほうが「当たり前」に感じられてしまうので、すっかり一般の感覚がよくわからなくなっているのだった、そのあたりは誰か本当にサポートするように。

しかし、ビビりながらでも、実際ヴェジ青年は急に踊れる男になっており、ジョルジュYSKというあだ名を今回冠されたし、一方ニンジャ青年はついに(みんな祝福してやるように笑)、実にニンジャ的な技術である「あうん」の端緒を、実技として掴んだのだ、彼が生まれて初めて反射神経や運動神経以外のもので動いたという記念すべき日だ、このようにビビろうがビビるまいが、本当に正しい原理を本当に教わると本当に出来るようになるのだ、僕はワークショップ中に「正しく教わって正しく修練した二時間は、わけのわからないまま暴れ続けた二年に勝ります」と言ったことをここで隠さない。
まあとはいえ、「教わる」といって、今一般に思われているところの「教わる」というのはまるでダメで、教わるというのは「説き明かすから勝手に悟れ」というスタイルにならざるをえないのだが、それでも獲得した人は確かに「教わった」という感触になるものだ/だからそもそも、正しく教わるということがむつかしいのだった、誰にも負けない・誰にも負けたことのない人は何かを学べる由もない、人は負けるのがイヤだからルールに逃避して「ガチ」を信仰するのであり、この人は「人として」生きてはいないので人として何かを教わったり学んだりすることはできない(われながらいいことを言うなあ)。
気魄は「出させる」もの……「気が抜ける」という言い方をよくするけれども、この気とは第一に呼吸(横隔膜)のことだから、気魄を出させるというのは、瞬間的な呼吸の停止・横隔膜の停止を言う、完全停止と完全解放が瞬間で切り替えられてこそ横隔膜を本当に使えているということになる/「気魄」が「No」に当たるというのも、nの子音が舌の位置によって呼吸を瞬間的に止めることに関係している、上昇の言霊オの前に呼吸を瞬間ブロックする子音nがついていることで「ノー」となり、だから「No」の機能は「気魄」になる、だから気魄は同じく一瞬呼吸を舌でプロックする子音として「トー」とか「ドー」も使えるが、これが「ポー」や「ボー」では使いにくく(破裂音に向かう唇は舌よりも柔らかすぎるため)、「ホー」などはたいへん気魄には使いづらいことになる、そりゃ気合い入れるときに「ホー」と発声する人はいない、無理にホーなんか使うぐらいなら素直に下の母音「ウ」からつないで「ウオー」にしたほうが使いやすい。
ヨガの聖音はAUMで、日本語では「あうん」、キリスト教では「アーメン」だが、仏教では生身(気魄)も重視するので、子音nやmやdが先に置かれ、「なーも・あーみ・だーん(ぶ)」となる、子音を取り払えばやはり舌・唇・母音の動きはAUMを追っているのがわかるはずだ/しかし理屈はそうでも、実際に横隔膜の機能としてそれが使えているかというと、「んなわけないでしょ」というのが当たり前だ、だからそんな宗教くさいことに逃避していても意味はない、「あ」と気づいたときに瞬時「うん」に消えられるかという具体的な課題があるだけだ、そのきわめて微小な響きを聞きとるためには、全身がひとつにつながり、かつ全身が静寂に満ちて横隔膜が完全に解放されていなければならない(それを「平常心」とか「自然体」と言うのだが、そんなもんに誰がたどり着けるのだふざけんなと捉えておくのが賢い)。

上から「あうん」が降りてくると同時に、下から「イエス」が上がってくる。

言霊的に言うとそうなる、人が「イエ」から出るのが同時に「アオウ」とすることになるのも同じだが(だから「出会い」というし、「出る」は「出(い)でる」とも使う)、そんなことをマジカルに夢想していてもしゃーないのだ、そもそもこれは原理であってマジカルな何かではない、霊魂が「あうん」に降りてきて身体が「イエス」に挙動するかの問題であって、具体的にそれが出来てないなら思い入れなんかゴミにしかならん/だいいち僕自身がそのように習ったとか吹き込まれたとかいうことではなく、感覚的にそれがわかるというだけであってこのことを信仰しているわけではない、他にもっと具体的に使えるものがあるならそっちにさっさと乗り換えるだろう、僕には「本当に使えるならそれだけでいいだろ」というアイリスオーヤマ的な発想しかない。
何の話をしていたのだっけ? そうそう、ワークショップのレベルがガン上がりして、プレイヤーたちがヘロヘロになるまでやらされているということだった、一方僕はどうしても、「なぜこんな当たり前のことがわからんのだ」という感覚があってしまうので、そのあたりのサポートは誰かよろしく、あうんとイエスと「n」ぐらいで魂魄のだいたいはまかなえるので、僕はさっさと行けるところまで行こうという所存だ。
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WS報告040(2)/兵隊はどのように作られるか
度に訓練された特殊部隊などはこの例に含まれない。
人は銃口という直接の「死」を目の前に見たとき、どうしたらいいかわからなくなる、死という「出来事」を否定して生きてきたからだ/だから兵隊は号令で動く、どうしたらいいかわからないという中、聞き慣れた号令で「突撃!」と言われると、それだけに頼って突撃するようになる、それは単純な条件反射の蓄積だ。
「出来事」を否定している者を、「出来事」に覚醒させようとすると、けっきょく直接の「死」を与えるしかない、それでは覚醒させる意味がないことになるが/かつてサムライの「斬り捨て御免」が認められていたのも、本来はこのことによると僕は勝手に想像している。
たとえば剣道の試合があったとして、コンマ数秒差のスピードバトルが見られるには違いないが、それが真剣を目の前にして、というよりは「死」を目の前にして、同じ踏み込みができるかというとたいへん怪しい、僕の知るかぎり「死」が目の前にあるとき人は「ガチ」の動きはできないものだ、それはジェットコースターの最上部レールの上で「ガチの体操」をするのと同じだからだ。

「ガチ」というのは、実はルールの上で成り立っている/たとえば実践空手の猛者たちがガチでド突き合うのは、相手が拳銃を撃ってこないという前提の上だし、一対一という前提の上だから、「ガチ」ではあるに違いないが、その「ガチ」は本来の自由な「出来事」ではない。
「ガチ」というのは、実感を最大限解放するスタイルというだけで、そこにリアリティはあるものの、実は「現実」を表しているものではない、たとえばガチの格闘家はマフィアたちに囲まれて銃口で脅されたときにその「ガチ」でマフィアに対抗できるわけではない。
わかりやすくビーチフラッグの選手を例に出しているが、ビーチフラッグという競技は「ガチ」でやられるだろうが、透き通った「現実」としては、人が慌ててビーチ上の赤旗を取りにいく理由はない/このように実は「ガチ」というのは知らぬ間にルールの上に成り立っている。
それこそ兵隊さんは、ガチの訓練を受けているだろうが、それが「ガチ」であるからこそ、現実の銃口を――死を――目の前にしたとき、どうしたらいいかわからなくなる、だから「突撃!」という号令に反応する(というルールに)条件反射を刷り込んでおく/むろん僕は兵隊さんをバカにしているのではなく、ただ「兵隊」を有力かつ多数育成するのには、その方法が唯一かつ最大効率だということだ、人々は多く「ガチ」で暮らしており、ときに兵隊のようでさえある人もあるが、それだからといって本当に現実を生きているということにはならない。

「ラウンド1、ファイト!」と号令が掛かっている。

格闘家が自らの意志で戦っているのではない、「ファイト」と号令が掛かっているのだ、このルールに逆らって、リング上の両者がファイトとしなかったらどうなるか? 当然、その試合は没収試合となり、彼らは今後公式試合に出られないようペナルティが課されてしまう。
「ガチ」は「ルール」の上で成り立っている、そしてなぜ「ガチ」を始めるのか、当人たちにはよくわからないので、誰かの号令を受けて「ガチ」を始めるのだ、何が「ガチ」なのかは実はルールが決めている、私的であれ公的であれ「ルール」が「ガチ」を作りだしている……カルタ取りならカルタを取るのがガチだし、将棋なら王将を取るのがガチだ、兵隊はこのように作られている。
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WS報告040(1)/「出来事」に実感はない
とえば過去に「大化の改新」という出来事があったらしいが、それについて「実感」はありえない。
ノルマンディー上陸作戦やベトナム戦争もあったらしいが、それについても「実感」はないだろう。
実感というのは、自分の身に直接起こることだけだからだ/頭が痛いとか吐き気がするとか、負けたのが「悔しい」とか、仕事が「イヤだ」とかだ。
頭が痛いというのは出来事ではないし、吐き気とか悔しさとか「イヤだ」とかいうのは、出来事ではない、このように「実感」と「出来事」は明らかに異なる/そして「実感」は誰にでもわかるが「出来事」は誰にでもはわからない。

「出来事」がわからない人は、ひたすら「実感」を信仰するしかないのだ。
どういうことかというと、たとえばビーチフラッグの選手がいたとすると、その選手はビーチフラッグで走る力感と、勝った快感と、負けたときの悔しさという実感で駆動している。
ここに純粋なビーチフラッグの選手がいたとしたら、彼にとってはビーチに刺さっている赤い旗が「リアル」であり、ベトナム戦争は「リアル」ではないのだ/彼には何の「出来事」も存在しておらず、ただビーチフラッグ競争に負けた「悔しさ」等の実感だけが存在している。
彼には「面白い出来事」もないし、「感動する出来事」もない、だからどんな映画を観ても意味はないし、どんな音楽を聴いても意味はない、「出来事」という事象そのものが存在していないのだからどうしようもない/彼はベトナム戦争の年表を世界史から暗記しているかもしれないが、彼にとってそれは期末試験の記憶であり、歴史上の出来事ではない。

最後に「死」という強制的な出来事だけが来て、すべてが狂う。

おそろしいことを言っているようだが、違う、この話から想像しうる限度よりも、実際は遥かにおそろしいことが起こる/人はけっきょく実感の果てか出来事の果てのどちらかに向かうようだが、実感の果てに向かう人を引き上げる能力は僕にはない、なぜなら当人がそれを信仰しており、本人がそれを選択しているからだ。
やがて誰しも、実感の果てに行き着いた者のおそろしさを知ることになるし、逆側の人はやがて誰しも、カミサマというのは身近でリアルな現象だということを知ることになる、ただそれぞれがそんなことをわざわざ言わないだけだ/わざわざ宗教がかって言う必要はまるでなく、「実感」と「出来事」は違うということだけ明視されていればいい。
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WS報告039(2)/全身が出来事に追いつくように
ークショップ報告をするのを忘れていた、土曜日が明けて日曜日には、複数人でちょっと大きなイベントに遊びに行ったので、さすがに精根使い果たしてしまったのだった。
最近は、表示法からの小劇場法、ABC法が人気だ、次回はまたそれを踏まえて、作品のほうへ移っていかねばなるまい(ああ、ただし、ハイアンドローという新しいワークも思いついたのだった)、こんなもんいくら時間があっても足りるわけがなく、こういう大学があって数年間監禁されたらいいのにとよく言い合うのだった。
ハイアンドローが出来ないと、グレイテストショーマンもできないので、そのことは元気出サセールともつながっており……こう聞くと何もかもがアホみたいだな、まあアホでもいい、当ワークショップは「シリアスになるのは弱い奴」「脳みそが弱いとむつかしく考える」という理念だから、アホなことで光に到達しないとニセモノなのだ。
あと、武術的な身体操作アプローチから、おれが最速で取るというやつをやってみたが、これが思いがけず直接有効なようで、次回から「上下東西南北法」と名付けてやっていこうかと思っている、これはおれ自身のレベルアップにもなるからガンガンやっていこうと思うのだった。

「稽古は "出来事" 」という言い方が、多くの人にヒントを与えた様子だ。
机から消しゴムが落ちることのように、「出来事」の背後には原理がある、消しゴムが落下するなら重力と運動方程式だが、人と人のあいだに起こる出来事にも原理がある/だから原理にエッセンス化した「出来事」を想定して、その「出来事」を何千回と体験しようということ、そりゃ原理の教授と共にそれだけ「出来事」を経験してきたら賢くなるに決まっている。
そうして全身が賢くなれば、いちいちケースごとにノウハウを思い出して当てはめるというような、かったるい上に実際には役に立たないようなことを、しなくて済むようになるのだ、原理と出来事の積み重ねで賢くなった全身は、そもそも愚かな挙動をしなくなっている/力もうとしても力み方がわからなくなっているし、硬直しようとしてもすでに硬直という現象に無縁になっている。
そうして全身が、原理と出来事の積み重ねで賢くなってくると、「出来事」の処理速度がぐいぐい上がっていく、慣れるのではなく賢さが別次元に至るのだ、5秒掛かっていた処理が0.05秒で済むようになり、気づけば速さは100倍になっている、そうなると今度は、「出来事」たる稽古も同じ時間で100倍体験できるので、効率が格段に上昇していくのだ/一分間に三回ぐらい「名勝負」や「名演」ができないと、何かの名人にはなれないだろう。

やがて出来事はフラッシュ化する。

カメラのストロボが「フラッシュ」と呼ばれるように、すべての出来事は、ある瞬間に最大ピークまで発生し、直後にはもう終わっているのが理想だ、その発生と終わりはオン・オフで、そのオン・オフが気魄と霊魂であり、気魄は「出させる」、霊魂は「消える」「響く」「聞く」ということになる、だからまさにフラッシュだ、こうしてことごとくの「出来事」について完成に近い全身を作っていこうということ。
うーん、説明だけではきっとわけがわからないと思うが、まあ体験してもわけがわからないだろう、わけがわからないが、それは単にすべてのことが、一般に思われているようなことではないからしょうがないのだ/僕だってわけがわかってやっているわけではない、僕は「出来事」に支配されているだけであって、「出来事」のほうが明らかに僕より速いのだからしょうがない、僕はますます「出来事」にわくわくしている。
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WS報告039(1)/稽古は「出来事」、気魄は「出させる」もの
究のためにみんなでビデオカメラを買った、パナソニック製品は高性能でナイスだ/録画してそれぞれ確認すると、「お前らの出来てなさがわかったか」「ぎええええ黒歴史」「これを大スクリーンに映されたらもう会社行けませんよ」という結果になった。
僕も僕自身の映像を見て確認したのだが、自分で自分を見て全力で「なんだコイツ」と思った、なんというか、「余計なところが動いてはダメ」とふだんから言っているけれども、自分の映像で自分が動いてなさすぎでびっくりした、「こんなヤツ初めて見たぜ!」と自分で言うというシュールな状況になった。
なんというか、武術ふうの技術にしても、あまりにも「技術」という感触がなさすぎだ、なぜかまったく何もしていないように見える/受講者Aがポンポン投げられて「ぎゃおえ〜」と面白い声をあげているのだが、映像的には投げられているようには見えず、何かデカイ奴が受講者Aを地面においては取り上げ、また地面においては取り上げ、ナゾの作業をしているだけに見える、受講者Aさんはスタジオの床にごろんごろん転がされているのだが、なぜか何のワザに掛かっているようにも見えない、拾われては床に置かれ、拾われては床に置かれ、というふうに見える。
受講者どもがやけにナゾのお供え物をおれにグイグイ持ってくるなあと思ったが、自分で映像を観ても、なんか確かに「この世ならざるもの」感があるなあと認めざるをえない、マジにそう見えるのだからしょうがない/おれは見たものを見たままフェアに判断するタイプだが、自分の映像が自分の脳裏に焼き付いて離れないという冗談みたいなことになってしまった、うーんもうちょっとクールで際やかでカッコいいのがよかったのだが、よくまあこんな奴のワークを毎週二日も徹夜で受けていられるな、こんなの感覚がヘンになるぜ。

まあいいや、とりあえず必要なメモ、「稽古は "出来事" 」、「気魄は "出させる" 」もの。
「気魄は "出させる" 」もの……人は力と力をぶつけあって、マウントの取り合いをしてしまうから、そうではなく相手に力を「出させる」ということ、相手をパワーアップさせるということ、相手を拒絶して遠ざけるのではなく近づけることが必要になる/そして原理が「マウント」から「力、上昇」に転属したら、その上昇した関係を今度は理の階層でさばく、このとき愛がなければ人は理を使用することができない。
「稽古は "出来事" 」……人と人がつかみ合って、ぐいぐいやりあったところで、人の成長なんかあるわけない、つかみ合う技術をこねくりまわすのではなく、人が人をつかんだという「出来事」を何百も繰り返すのだ、人はこの「出来事」の中でだけ全身を見失わないという性質があるので、これを使わないかぎり実は「稽古」そのものができない、この「稽古は "出来事" 」を知っているか否かで稽古の効率は大違いになってしまう、「稽古」ができれば三十分で入口に入れるものが、「稽古」ができないと三〇年やってもムダということがいくらでもある。
あと何か、映像を観ていて思ったことがあったのだが、忘れた(テキトー)、まあ思い出したらそのとき話そう、とにかく今回はみっちりと有意義な回だった、今日も有意義な回になるといいな。

稽古は「出来事」/よって、「シーン1,テイクワン、アクション!」と撮影する映画のほうが「稽古」に近い。

ああ思い出した、映像を観たとき、映像には「こんなのヤラセにしか見えねーだろ」という何かがギッシリ映り込んでおり、それでいて同時に、ヤラセにしてはこのデカイ奴が何か異様にマジっぽく見えるし、それ以上に、「もしヤラセなら、もっと派手にやられたフリをしろよ」「これがヤラセなら、ヤラセのやる気なさすぎだろ、ちゃんとヤラセの仕事をしろよ」と笑ったのだった。
いつかまとまった形で、映像資料として公開できたらいいなとも思うのだが、どうせ僕のことだから、またヘンな作り込みをして、見た目にとてもわかりにくい資料にして「やったぜ」とか言い出すのだろうな、まあそんなことも近々あればいいなと思っている。
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WS報告038(4)/ありふれたボクチンゲール現象
ークショップだけではないが、さまざまな局面で、何度も同じパターンを見る/本当にまったく同じものを、何度も何度もだ。
ワークショップなんてものは、指導者が本当に正しければ(或る知られざるレベルまで到達していれば)、受講者は言われたとおりにしていれば、メキメキ進化していくのだ、その進化は思ったよりも早く、人は一年もあればまったく別人のレベルに到達できる。
だが、いつだってそうだが、問題は成長力ではなく受講力なのだ、たぶん世の中にはびこっている習い事ムードの中で、うろちょろしている習い事ジプシーの人は、そもそも受講力がないのでうろちょろしているのだろうし、受講力がないからどこに行っても何にもならないのだと思う。
仮にこのことを僕は、「ボクチンゲール現象」とでもテキトーに呼ぶとして、この現象が最大の問題なのに、この現象そのものは解決方法がないのだ、ボクチンゲール現象によって人は受講力を完全喪失しており、その結果として、年齢がおじさんおばさんになっても中身はコドモのままという人が出現するわけだ、その印象はとっても「ボクちん」という感じがするので、仮にボクチンゲール現象と名付けておきたい/この現象は今やまったく珍しいものではなく、むしろこちらの現象が過半数をはるかに占めている可能性さえ窺える。

ボクチンゲール現象は、僕の受ける印象だと、おそらく自己防衛機能から発生している一種の疾患のような状態で、それは危機ストレスからの認知症様相を示すものだ/ふだん、日常的・地域的・共同体的な「いつもの」空間に閉じ込められきっているときは、そのことが露見しないものだが、切り取って当人を個人にして外に出してみると、当人はすっかりボクチンゲール現象に罹患しているということがよくある。
ボクチンゲール現象は、一種の認知症なので、たとえばここにAさんとBさんがいて、「Aさんが運転手、Bさんが車掌だったとします」と設定したとする、するとここでBさんは、仮想車掌としての能力を問われる前に、そうしてAさんBさんの関係が設定されたという、その「設定された」ということそのものがわからないのだ/そこでとっさに出現して存在するのは「ボクちん」のみであって、Aさんだの運転手だの、その設定を伝える人だのは存在していないのだ、ただ「ボクちん」とその他のよくわからない何かがうごめいている、というふうにしか脳みそは受け付けない。
これはどうやら、単純な自己防衛反応のようなのだ、仮にここに、ストレスに極端に弱い人格Bがいて、この人格Bは優等・劣等の深いコンプレックスを持っており、欲求・願望・プライドは高圧力で所有していて、また嫉み深く人を怨みやすい気質だが、一方でまともな能力形成を得てきていないとする/それでいて彼の置かれている環境では、彼は上司や顧客等から強い叱責を受けるとした場合どうだろう、彼はすでにこの環境と人格の中で生きていくことができない。
生きていくことができないとなると、人格Bは機能上、自己防衛のためにどのようにはたらくか? それは、環境・状況およびそこに存在する他者への認知機能そのものを混濁・麻痺させ、わずかなストレスに対しても、とっさに「ボクちんしか存在しない」という認知症状態を作り出すようにはたらくのだ、あえて「メンタル」という言い方をするならば、メンタルが何かを乗り越えるほうへはたらくのではなく、メンタルが「乗り越えるべき何かは存在しない」というほうへはたらくということ、メンタルが認知機能の "損壊" を選択するということだ/この認知症状態に入ると、その後はもういかなる指導も教育も訓練も通じなくなる、当たり前だ、認知症の人に「認知症です」と伝えられるなら認知症という病気はなくなる(ボクチンゲールなどと呼んでいるが、今こんな人はウヨウヨいるので、個人的疾患ではなくただの社会問題だ)。

認知症の人に、対人関係はもうない。

困ったことに、これが真相のようなのだ、ボクチンゲール型認知症と捉えるのがたぶんアタリで、これは人格の矯正でどうこうなる問題ではおそらくない、実際に人格が矯正された例を僕はほとんど見たことがないし、おそらく苛烈なヨットスクールにぶちこんでもこの症状自体は消えないのではないかと思う、たとえ水没して水死しても症状は消えないと考える必要がある/当人が自覚できたらまだギリギリ恢復の見込みはあるだろうが、それにしても本質が認知症である以上、特効薬やその処方は未だ存在していないし、それはそもそも「選択」であって、治るとかそういう問題ではないのかもしれない。
認知症の人に、対人関係はもう「ない」のだ、だから対人ストレスはなくなるし、対人トラブルもなくなる、いやもちろん対人トラブルは起こるのだが、当人にとってそれは対人トラブルではない、「何か厭(いや)なことを言われているなあ」という、靄のかかった何かのオーディオ・ヴィジュアルでしかない/人格がそれをどこかで「選択」したことで、対人ストレスやその他のストレスによる人格危機を逃れるようになったのだ、それは人格レベルにおいては「正しい」選択だったので、ある意味それを責めるには当たらないということが事実ある、だから別の見方をすれば、その認知症が「ベスト」ということでもあるのだ、認知症が問題なのではなく、「ベストで来ているじゃん」という見方も用意しなくてはならない、それぐらいのストーリーは余裕でありうる状況だ。
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WS報告038(3)/連想は脳みその機能ではない

「つまり、ドンずべりジャパンってこと」と僕は言った、そして「さすがにここまでは文章にして公示しようと思えないんだよ、いくらなんでも書けない話もあるわな」と言った。
「危機的な状況にあって……お前らは、お前らの知らんうちに、その知りもしない危機的状況から、知らないまま救済されて、さしあたり現在は、なんとか生き残っているという状態なのだけれど、もし一年前のあのときから、現在まで放ったらかしだったとしたら」と僕が言うと、幾人かが「考えたくもありません」と言った。
現在も、危機的状況があり、この危機のレベルを直視すると、精神的に破滅するので直視できないのだが、これを直視しないかぎりは一ミリも改善には進めないという、どうしようもないジレンマに、全体が陥っている/と、僕は個人的に判断しているのだが、先に述べたのように、このことをすべておおっぴらに書き話そうとは思えない(逆に言うとそれぐらいヤバいということ)。
あくまで口頭で、オフレコで、その危機的状況について話したのだが、思いがけず多くの人がすんなり聞き遂げて、むしろ納得するようだったので、僕はとしては意外だった/そしてその危機的状況についての話が、そのように直視してもらえるのなら、それを直視した人から順に救いのある方向へ押し出されていくだろう、「誰かが単独で、平場(ひらば)で、本当に面白かったことがあるか? よくよく見てみろ、常に身内とファンを集めてよろしくやっているだけだという事実が、実は目の前のすべてにあるだろう、それがドンずべりジャパンってことだよ」。

ABC法という、画期的なワークが見つかって、これが大きなはたらきをしてくれたと思う、まだそのワークに確実な実技を示せる人はおらず、一部がカスり始めているというところなのだが/無作為につくられたセンテンスAとセンテンスBに対し、センテンスCを発明して加えることで、作中といいうるような "世界" がそこに現成するというワークだ、これはとてもシンプルでかつ、成功と失敗と面白さをクリアに理解させてくれるので、とても性能のいいワークだ。
それぞれがこのワークに取り組むことで、ある意味ついに、僕と参加者のそれぞれが、イーブンの場に立てたのだと思う、僕がセンテンスCを次々に産み出すのを見て、そうした創作が実にひたすらの知性的なはたらきであるということがわかってもらえた/ありていに言うと、このワークを通してようやく、「九折さんクッソ頭がいい」「脳みそのレベルが違う」「産み出す速さも豊かさもスベらなさもまったく次元が違う」ということが直接わかってもらえた、これは僕が自慢したくてそう求めていたのではなくて、そのことがわかってもらえないとすべてのことで先に進めないのだ。
ABC法をやると、何のことはない、とにかく「お前は本当に頭がいいか? 本当の意味でぶっちぎりに?」ということが直接問われるだけなのだという、火の玉ストレートの状況に出会えるのだった/このワークを通してついに、「わたしの脳みそでは千年かかっても出てこないやつが九折さんからは数秒でポンポン出てくる」ということがわかってもらえて、これで状況がガラリと変わった、シンプルかつ確実な、「本当に面白いこと」に出会うことができたのだ。
そうなると、人の顔は明るくなるもので、その単純な現象を見ていると、僕も確信を得た、「やっぱり本当に面白いものを得ていない人はどうしたってムリだな」と/本当の面白いものに出会えてこそ、脳みそもやる気を出すわけで、顔も明るくなるわけで、そのことなしに表面的にキモチを前向きにしてみたり、自分のやることや有意義を設定してみたって、無駄なあがきなのだ、「一ミリでもいいから九折さんの領域に近づきたい〜」と言い出すようになって、僕はご満悦ではない、これで安定的に脳みその進む先が出来たと安堵しているのだった。

「お前たちの持っている、イメージの機能や、連想の機能、キモチが高ぶることや、いつも身体を動かしていること、表情や感情や芝居や演技力が、すべて脳みその退廃と己の "弱さ" の表れでしかないということが、ついにわかったか?」

「脳みそに、イメージや連想の "機能がある" わけじゃない、逆なんだよ、脳みそがその機能を失うと、横着の結果として、イメージや連想が "湧いてきてしまう" だけなんだ、連想がパッと出てくるのは、脳みそを停止させて横着しているってだけなんだ、だからおじさんは老化するとダジャレばっかり言うようになるんだよ、それは知性どころか知能でさえなく、ただの痴愚の発露でしかないんだ」
「目がクワッとなったり、目が何かを睨んだり、表情が "やんのかコラ" みたいになったり、不穏な気配をまとったり、声が大きく怒鳴ったり、身振り手振りが大きく振り回されていたりするのは、ぜんぶ強さの表れじゃない、逆だ、リアルな "弱さ" の表れなんだよ、人間が使いうるものには『魂・魄・毒』(霊魂・気魄・中毒)があって、霊魂もなければ気魄もないという弱い奴が、毒を使うというだけなんだ、それしかないもんだから/自分の本性が弱さのカタマリだと真実に明かされた気分はどうだい、今ようやく、自分が弱さのカタマリだという事実に向き合って屈託なく笑えるところまで来たんじゃないか」

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WS報告038(2)/おれの作品をつくれ

っているあいだに思いがけないことに気づく。
「そういえば、こうして、新しい技術や原理が見つかると、おれはめちゃくそやりこむけれども、そもそもどうしておれって、そうして見つかったものを、自動的にやりこむようになっているんだろうな、よくよく考えたらそんな奴おれだけじゃない?」
「別にこんなこと、できたって何のトクにもならないはずなんだが、何かそういうことじゃなくて、見つかったらとにかくモノにしてしまうという、何か強制的なはたらきがおれ自身の中にあるが、そもそもみんなに何かをやらせるというのじゃなく、おれがそうして何かをやることを、お前らに見せるほうが第一の気がしてきた、特にそういうときに一番空気がいいんだよ」
ただでさえへんちくりんな、例によってヨソとは比較できないナゾのワークショップなのに、ここにまた新たなひとつの理念が加わる、まさかのまさかワークショップの先生がウオーと何かを獲得しようとするのをみんなでバックアップするという本末転倒の理念だ、だがみんなが本当に純真に最大に協力的なのは実際にはその瞬間なのであった/これ本当にワークショップになっているのかね、先生が学ぶのに参加者が協力するとかもうめちゃくちゃといえばめちゃくちゃだけれども。

僕はひっそり、この時代に階層構造を考えねばならないと思っていたが、その階層構造は、おおむね自身が所属する「原理」で分類できるような気がしてきた。
世の中には、エセ信仰心で何かを拝みつくす人もいるだろうし、あるいは僕のように、まともな理由もなしになぜか目の前の発見物を自動的に追究する奴もいるだろうし、中には昆虫のように、目の前の何かの臭いにしか反応しない人もいるし、あるいはマウントを取る・取られるという反応だけで生きている人もいるのだ、それぞれが所属している「原理」が違う/この所属原理の違いがそれぞれの階層を形成しているように思う。
僕はこの日についに断言することができたが、「けっきょく、本当に面白いことを得ていない奴はどうしたってダメだ」、いくら心理的にどうこうと前向きに加工し、あるいは立場や身内や生業を強化していったところで、何一つ本当には面白くないのだったら、やっぱり超絶退屈で面白くない中を何十年も生きるだけじゃないか、「面白くない」ということが先に決定しているのにそれをどういじくっても何かになるはずがあるか。
だから、僕が目の前の発見をひたすらに追究するというナゾの機能の奴で、それが直接「面白い」のだったら、ワークショップの半分方はもうひたすらおれがレベルアップしていく現場を見続けるというのでいいじゃないか/実際おれを見ていて面白いと思えない奴がおれから何かを学ぶなんてことは一ミリもないだろうし、おれが追究をおっ始める現場がけっきょく一番空気がいいのだから、たぶんそれでいいのだ、今回なんか特に二十四時間ぶっ通しでも異様にみんながすっきりしていた。

習い事で人が解決するわけがない。

そう考えると、確かにおれだけは、おれのワークショップで習い事をしているわけではないのだし、けっきょくはおれがいつも接続している、何かよくわからんが追究してしまうというナゾの現象を、下流に分配して、下流が太く豊かになればそれでいいのだ、僕は自分の流派を立てるつもりはさらさらないが、それでもあえて僕は言った、「おれの下流になって分配を受けたほうが手っ取り早いから、合理的に考えたらそれだろうね、つまりお前らはおれの作品をつくれ」。
けっきょく、これまでのすべての、僕自身の経験を踏まえてもそうだし、そもそも向上心や習い事で人が解決するはずがない、何しろ僕自身これまで何も習ってきていないのだから/「それぞれの個性とかオリジナリティとかは、下流として分配された流れに自身の土壌のミネラルが染み出すというようなことであって、個性というのはありもしない我流にしがみつき続けるってことじゃないんだよ、何にも接続していない奴が我流にしがみついたってそんなもの一滴だって流れはあるものか、そもそも水源がないんだもの」。

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WS報告038(1)/或る青年のレポート

「先ほどの、 "小劇場" の形式の中で……作品時間というようなものを、わたしは体験しました、そこでは信じられないぐらいゆっくりと時間が流れているのです、信じられないほどゆっくりと……そうして今日知った作品時間の体験を基にするなら、わたしがこれまで "作品" と思ってきたものは、多くが似非(えせ)だったのかもしれません」
「最年少者として申し上げますが、おそらくわたしを含め、今ほとんどの人が、 "作品" とは何であるかが根本的にわからず、わからないのを承知の上で、ギャンブルのように賭けているところがあるのです、わたしだけではなく本当に多くの人が今そうなのだと思います」
彼の報告を受けて僕は、「そういうレポートは助かる、おれの側からはわからないことだからな」と応えた。
そういえば、令和初のワークショップだったな、真夜中から朝にかけて、また朝から夕方までやり込み始めてしまい、新元号早々から特殊な、すばらしくすさまじい回になった/なぜこういった特殊の回が出るのかはいつもわからず、また、どの回もいつも特殊で特別だったと感じているような気もする(それにしても今回はすさまじかった)。

「表示」ということを、いっそ振り切るまで実演してみた、それを目撃する中で彼は、彼の呼ぶところの「作品時間」という、時間軸の性質が異なって感じられる何かの体験を得たようだった、彼がその体験を通して、これまでの似非を看破しようとすることについて、僕は「おれの知る限りで最年少だ、その年齢でその看破に到った奴は今のところ他にいない」と率直に述べた。
「 "表示" というのは、 "人" が出てからの表示だと、いつも言っているな、まずは人物が登場してから、そのあとに "表示" なのだと/そのことはすでに実演からよく知られていると思うが、ではその "人" はどうすれば出てくるものなのか、そのことがわからなかった」
「それについて、次の真相を話せるときが来たと思うが、どのようにしたら "人" が出るのか、それは "信じてこそ人" と言えるだろう/あくまで "信じている奴" が "人" なのであって、何も信じていない奴が "人" を出せることは理論上ない、これまで表示法のコアとして話してきたところの "人です" というのはそれだ」
「 "信じる" といって、何を信じるというわけではないし、人を信じるというわけでもないし、安易にカミサマなんか信じないほうがいい、 "信じてこそ人" という現象はもっと具体的なものであって、それは何を信じているかという問題ではなく、ただ "信じている奴" がそこにいるというだけの問題だ、信じているという状態というか現象が必要なのであって、何を信じるというような宗教的なゴマカシじゃないんだ」

「(世間的な)人は信じるな、でも観客は信じろよ」

「観客というのは現象であって、(世間的な)人の集まりじゃねえよ、もし舞台上に観るものがなかったとして、彼らは観客になりえるだろうか? あるいは舞台に火災事故が発生したとき、彼らは観客だろうか、いいやそのとき彼らはただの野次馬だろうな、だから観客というのは人の集まりではなく現象のことを指している/人は信じるな、現象は信じろよ」
「大きな誤解というか、トリックがあってね、人が集まって観客という現象が生じるのではなく、人よりも先に現象が存在しているんだ、人が現象に吸い込まれるのであって、人が現象を作り出しているわけじゃないんだよ」と僕は言った、その後しばらく青年の顔を眺めて、「まだそこまではわからないか」と僕は言った。

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WS報告037(1)/平成最後のワークショップ
んなふざけたものが、本当にまかりとおってしまった。
本当に僕は、このひとつの元号を、最初から最後まで遊びきり、勝ち逃げしてしまった/このワークショップとかいうやつも、たいがいその例の代表だと思う。
こんな馬鹿げたことをしながら元号をまたぐことができるのだ、本当にこんなことがあるのかと、我ながら不思議がって首をかしげている/僕は少なくとも、この30年間は、掛け値なしに100点で生きることができた。
まあ、まだあと16時間残っているから、油断は禁物だが、もう平均的な生きる楽しさの、何百倍も享受してきていると思う、令和になっても心を入れ替えずに笑、これまでの何十倍も楽しく生きようと、僕は覚悟を決めているのだった。

僕は年齢的に、昭和が平成に切り替わったときのことを覚えている、そのときにいた自分のことも覚えている、まだ当然子供だったが、あのときのあいつが、今のこいつになるということには、わけのわからない感慨がある、なるほどねえという気もするし、いやいやよくわからんという気もする。
平成の終わりに何をしていたか? と、未来において振り返るとき、はっきりと何をしていたか思い出せるということは、ひとつの幸福なケースだと思う、「ワークショップでABC法をやっていましたねえ」と/今でさえ笑えるこのことは、未来においてもっと笑えるに違いない。
ワークショップという観点からは、課題が山積みだが、そんなものよくよく考えればあってなきがごとしだから、とりあえず時代の節目に何をしていたかをはっきりさせて生きることができたのだ、そのぶん少しはマシに生きたということ、それに勝るものなんて本当はない。
同じやるなら、ワークショップも役立つほうがいいし、楽しくないと続けられないし、面白くないならやる価値はまるでないが、僕が本当に考えているところは違うのだ、僕が本当に考えているところをみんなが直接視ることがあったら、たぶん心臓が破けてしまうだろう、みんなそんなに頑丈じゃないのだと、最近ようやく僕もわかるようになった。

何をしてきたかというと、けっきょく愛に耐えてきた。

なんのこっちゃ、という話だが、どうせなんのこっちゃでいいのだ、本当のことが直接視えたら心臓が破けてしまう/視えてはいけないほどの夢が青空にある。
けっきょくワークショップは成功して、それどころか僕は平成をまるごと成功したと思う、土壇場でカンパネラの鐘まで聞いた(これは個人的なことなので知らなくていい)、まあまだまだお前らみたいなモンには、知らないことや視えていないものが山ほどあるのだ、ずっと後になって膝から崩れ落ちたらいい、平成最後のワークショップではこれまでのアーカイブもすべて振り返っただろう、これだけでもずいぶんマシに生きたのだと、ずっと後になって少しはわかるようになる/仮にいくつかのことを忘れたとしても、忘れたくない何かがあったということは永遠に忘れないだろう。
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なんとなくワークショップに誘ってみる
べての人に、どうか「命令法」だけでも体験してもらえないかと願っている、命令法をやってみると、どれだけ自分のやっていることが人に "通じていない" かがはっきりわかるからだ。
あとは合気上げでもやられて、「ふぇっ!? なんじゃこれ」とでも体験してくれれば、少なくとも大きな二つのことがわかる、ひとつには「実は思い切りやって大丈夫なんだ」ということ、もうひとつにはさっきの「実は全然通じていないんだ」ということがわかる。
ほとんどすべての人は今、出すべきものを閉じ込めてストレスを内部に蓄積し、一方では、通じないものを放出して外部にストレスを与えている、つまり、両面において不毛かつダメージのあるスタイルで生きている、こんなことが続いて無事に有益に生きてゆけるわけがない。
だからせめて、「そうじゃない」という実物を見て、スタイルを転換する可能性だけでも、自分の中に芽生えさせておかないといけない、自分の中のウソをすべて剥ぎ取るのはなかなかえぐいが、ウソで塗り固めたままこの先を何十年も生きるのだって長期的に見たらえぐいのだから、せめて有益なほうのえぐさを採るべきだ。

誰だって、それなりの優秀さをもって、何十年も生きているのだから、それなりに自負はあるし、特殊なことはできないにしても、誰にでもできるようなことは、それなりに自分もできると思っている。
ところが、厳密に学門として、つまりお約束や空気の読み合いやキモチへの配慮を排除して、自分の人間的能力を精密に点検してみると、実は本当には何も出来ていないのだ、何も人には通じていなくて、単に立場や力関係や習慣やお約束や慣れで、人は自分に付き合ってくれているだけなのだということがわかる/そのリザルトはなかなか衝撃的なものになるが、それについて当ワークショップは「学門だからしゃーない」の一点張りだ、だって本当に学門だからしゃーない。
自信の喪失は起こるかもしれないし、それ以上に、思想や信仰の問題があって、当のリザルトを、いくら合理的な実験結果だとしても、受け容れられない人もいる、そういう人にまで無理をさせる道理はない/ただけっきょく多くの人は、「いや、逆にこれでよかったです」「すっきりしました、このほうがむしろ納得がいきます」と、学門の正しさにこそ目を覚ますようだ、そのことについて「みんな根性あるなあ」と僕はこっそり驚いている。
学門がもたらす点検のリザルトに、ふつういったんはショックを受けるけれども、一旦それを受け止めてしまえば、「つまり、これだけですよね」といえば「うん、それだけ」ということでもあるので、多くの人は逆に落ち着きを得るようだ、そしてその先どうすればよいかという、メソッドもセオリーもすでに学門として提示されているので、「すべてのことはさておき、数ヶ月だけでもこのことに突っ込んだほうがマシでは?」と、誰だって合理的に考える、そして数ヶ月もまともに突っ込めば、何かに到達するということはもちろんないが、多くの人はとりあえず正しい入口には入れる、正しい入口にさえ入ればあとは、各人が勝手になんとかしていくだろう、それに比べて、間違った入口に放り込まれたまま、その先を何十年もジタバタさせられるのは、不毛で怨みが残るじゃないか。

命令法の実演を見ると、100人が「できる」という気がして、自分でやってみると、100人ができない。

命令法というのは、人にごく単純な動作を命令するということ、それも言語で「指示」するのではなく、人に触れての「命令」として発するということ/これは、実演されると「これだ」という気がするし、「こういうのこそ必要でしょ」と見えるのだが、自分でやってみるとまったくできないのだ、これは全員が驚くことなのだが、自分の命令が他人に伝わっていると思い込んでいるのだ、だから初めはかんたんに出来る気がするのだが、やってみると全然通じないので「あれっ?」となる、「こんなのできて当たり前でしょ」と見えるものが、さっぱり自分にはできないので、「あれっ? あれっ? そんなバカな」となる/典型的なパン祭り(パニック)の入口で、これによるパン祭りの発生は、もう全員が「はいはい」と見て見ぬふりをするようになった(あとは誰かが冷えピタを差し出してくれるだろう笑)。
学校の先生だろうが、演劇の演出家だろうが、公務員だろうが、何かのトレーナーだろうが、この「命令法」のごく初級を、初めからできる人をまず見たことがない、とても簡単なことで、人の肩に触れ、その人に「行け」と命令を送って前方を歩かせるだけなのだが、肩をぐいっと押すだけになり、そこに「命令」を乗せられる人はまず見ない、そこで僕が肩にポンと触れると、「うわ」と、笑いが起こるほどはっきり「命令」が乗っかるのだが、このとてもカンタンかつ、自分にはいかにも出来そうな、「割と得意」と思えそうなことが、いざやってみるとさっぱりできないのだ、実際に直面して初めて、「どうやったらいいか見当もつきません」ということがわかる/こんなこと、実際にやってみれぱ数分でわかることなので、なんとか多くの人に知ってもらう方法はないかなと、あれこれ考えているのだった、どこかの権力者がまとめて「行ってこい」と義務化してくれりゃラクなんだけどな。
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WS報告036(2)/アブソルートリィ

「自分のやっていることについて、当然の説明ができなきゃアホだ、単なる社交的アカウンタビリティの問題だと見てもいい、単純にニューヨークで、学歴のクッソ高い黒人に、自分のやっていることが説明できなきゃ、そんなもの "あいつはよくわからないやつだ" "彼女に関わっていても時間の無駄よ" としか扱われないだろう、そりゃ誰が考えたって当たり前だな」
「今やっていることって何だ? それはつまり、ボディワークであり、contains(含む)、フィロソフィ、ライクヨガ、エスペシャリィムービングだ、ムービングウィズアウトパワーだ、パワーは makes アクセラレーション、アクセラレーションは makes スピード、then パワー・スピード・バトル、バトル、バトル……パワーmakes ストレスフルバトル、だからノーだ、...but 、how can we move without power? ところが、"We can move without power." ジャストフィニィッシュ、イン・ミリセカンド、we don't need power, we don't need acceleration、ジャストフィニィッシュ、ミリセカンド、ここは実演すりゃわかるでしょ」
「ワットイズワールド、ハウトゥシーザワールド? power makes us blind, we cannot see the World because of blindness、so then, ウィーシュッドビーサプライズド、at first we need to "Hear", Hear the some "Unobservable" in space, 横隔膜リリース、it means just "soul", we can move without power, we can move by soul, 観測不能のソウルがわれわれの体内にインだ、そのインしたものが動く、それでわれわれは seeing the world だ、そして、however, オールメソッド、オールセオリー、オールテクニック、イズ、ベリーベリープレシジョン(精密)だ」

「こんなもん英語力の問題じゃない、カタコトで十分だ、カタコトで伝わらないなら丁寧に言ったって伝わらねーよ、そしてファイナリー、 we take the way, アブソルートリィ・ディナイイング・カース(呪縛)だ、呪縛の絶対否定、アズユーノウ、バイブルセッズ、words are life, バットオルソー、アズユーノウ、サムタイムズ words make us cursed, ...then, インショート、ウィーユーズオール words without  true knowledge as for "What is the Word?"」
そんなわけで、もうさっさと眠りたいので(今日はこのあとパーティだぞ)、テキトーに報告するが、「つばぜりあい(鍔迫り合い)」の形を採って、「気魄」の正しいぶつかり合いを稽古した、まず気魄のほうもバチッと整えて、何より量的に気魄が実用に堪えるだけ鍛えないといかんからな……その「気魄」のぶつかりあいの中で、つまり鍔迫り合い状態の中で、「言葉」がどう出現してどう作用するかということをやった、これはやりだすとむつかしすぎて草不可避だ。
この、むつかしすぎて草不可避ということに、さっさと気づいてほしい、そしてむつかしい上に、自分の魂魄の素地が、弱すぎて話にならねええええということにも、さっさと気づいてほしい、その両方にまざまざと気づいたとき、「こりゃ無理っすわ」となるのだが、そのとき初めて正しい入口に立てる、その「無理っすわ」感がわかれば、「なるほどこれは市民根性とか混入していたらやれませんわ」ということもいわずもがなわかってくるはずなのだ。
「なんつーか……たとえば、 "当店ではアレルギー性食品を徹底的に排除しています" という店があったとしたら、その店はさしあたり、何のために存在しているのかわかるだろ、一種の "安心感" があるじゃん、それと同じように、きみたちもまず人前に立ったとき、何を絶対否定して、何を徹底的に排除しようとしている者なのか、それが見えないと、きみたちは永遠に "よくわかんない奴" なんだよ、もちろん一般市民としてはそれでいいんだけれど、きみたちが望むように人前に立とうとするなら、何を絶対否定している者かが不明瞭な場合、要するに "ひたすら迷っている奴" としか見えないんだ、その迷っている奴がいくらがんばっても自分の迷いのためにがんばっている奴にしかならないんだよ」

「アブソルートリィ、"絶対否定" だ、絶対否定とはどういう意味か、相対的な否定じゃないってことだよ」

相対的に背の高い奴や、相対的に勉強好きな奴、相対的に几帳面な奴や、相対的にきれい好きな奴は、一般市民としてはそりゃ結構なことだが、一般市民性を離脱したときには、「相対的に」は何の指標にもならない、ただの「よくわからない奴」だ/絶対的というのは「相対的でなく」という意味だが、この絶対性がたぶんないのだと思う、この絶対性がないと、どんな奴だかけっきょくわからないし、何をやっているのか自分でもわからないし、何をやっているのか自分でもわからないので、何かの練習や稽古やトレーニングというのも空転する。
当ワークショップは(あくまでワークショップ内においては)、呪縛を絶対否定しており、呪縛の徹底排除は、特に「言葉」を媒介して、必然的に世界のブラボーと接続するはずだという理論だ、別に理論として複雑なことをしているわけではない、このことに「???」と脳みそが混濁する人は、理論の複雑さに混濁しているのではなく、絶対性の根拠を相対的に捉えようとしているから混濁するのだ、相対的に呪縛がバッドなんてのはただの個人の感情でしかない。

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WS報告036(1)/「物語」がわかるために

の体調が悪かったので、どうなるかと思ったが、まあなんとかなったし、僕が休憩したぶんは、やっぱりみんなが苦労した(苦労というか疲労したはずだ)。
ふだんは僕が、万事を成り立たせているからな……人は成り立っていることには疲れないが、成り立たないことにはたちまち疲れるのだ、空回りや不毛や上っ滑りというのがただちに疲労を山積し、この疲労に耐えられないので、人はやけくその「ウソ」をやり始める。
「お前らが何かへんちくりんな、市民劇団になるとしたら、その理由がわかるか? 市民劇団になってしまうのは、お前らが "市民" だからだよ」「こんな特殊なこと、一般市民はやらないし、やらなくていいの。こんな市民があってたまるかよ」「まともな道筋に入りたけりゃ、まともに区別することだ、こんなところに市民根性を持ち込んでくるぐらいなら、本当に単に失せたほうがいい」「市民劇団が悪いと言っているわけじゃない、ただガチの表現やら芸術やらは、まさか市民のものじゃないよね? と言っているだけだ」
一般市民として生きる部分については、何もおかしくする必要はないし、ただすべての生きる時間がその「一般市民」で満たされるわけでもないだろう、それとは別の時間も持つし、別の道も持つということが、ごく当たり前のことだと僕には思えるが、こんな単純なことにもそれなりの混乱があるようだ、混乱というより何か奥底に「異議」があるのかもしれない(その異議が何かの役に立つわけではまったくない)。

「作品」を進めていくと、明らかになってくるのだが、やはりごく単純な、ド初級のレベルでも、「物語」というものが根本的にわかっていない、もしこの検査を国税調査でやったら、恐るべき事実が浮かび上がってくるだろう/僕はすでに、「きみたちの知性はリアルにヤバい状況にある」と伝えている、そしてプレイヤーたちは大いにそのことに納得している、みんなキモチがフワーッとするだけで、「物語」が何なのか本当にまっっったくわかっていないのだ(うーんリアルにヤバい)。
「物語」を知るためには、学門が必要になるが、学門を得るといっても、思いがけずほとんどの人は、文部科学省のマークが入っていないものを、根本的に信じておらず、文部科学省のマークが付与された、文科省下賜の知識しか納得して吸収しないのだ/これは悪口を言っているのではなく、本当にそういう思想と信仰が成り立っているということが、実験してみるとわかるのだ、僕はいま嘆いているのではなく実験結果をレポートしているにすぎない。
日本国憲法に、学問の自由が保証されており、研究発表の自由や教授の自由も保証されているのだが、これらの基本的人権について、「要らない」「放棄したい」というのが、どうやら多くの人の本音らしい/専制者のもとでロボットになりたいというのが本音なのだ、これは歴史的に見てもそうで、実際に歴史上、民主主義の果てに独裁者が誕生している、市民が専制者を求めるのだ、ヒトラーがその代表例だろう。
つまり、文部科学省のマークだけでは本当は物足りず、ハーケンクロイツが冠された聖典をただ鵜呑みにして行進したいというのが本心なのだろう、それについてのよしあしはあまり考えていないが、僕が困っているのは、僕はそうした権威にすがるという感覚がまったくないので、理解も共感もできなくて対処法がわからないということなのだ/もしそれが「一般市民」という性質なのだとしたら、僕は一般市民のすべてが根本的にわからないということになってしまう。

たとえば「ブラボーコンフィデンス、文科省」なら、即日にも肝に銘じられる。

うーむしかし、僕は文科省の事務次官ではないし、文部科学大臣でもないので、困ったものだ、じっさい文科省が靴を舐めろといったらよろこんで靴を舐めるのだと思う、もちろん正体は何のコンフィデンスでもなくただのガバメントギャランティードだが、日本はいつまでも「この紋所が目に入らぬか」「ははー」を続けるしかないのかもしれない。
単純な話、日本を諦めてはどうですか? とも言いたくなる、日本はいま経済的にも文化的にも劣等化していく大ピンチの状況にあるし、これから移民政策に頼るしかないのであれば、もうこの先はわれわれの知っている日本ではなくなるので、先行して日本を諦めるほうが万事の利益がある気がする/もちろん聖徳太子から続く日本の文化、サムライの技術等は、世界に冠たるすばらしいものだ、だがそれは現代まで続かなかったので、その意味で日本を諦めるというのは割と妥当な案だ、むかしソヴィエトの人もソヴィエトを諦めたのだし……われわれもそういう局面に立たされているのかもしれない、まあ天皇陛下が残るなら日本なんか諦めてもいいんじゃないか、魂を失ってまで「日本人」という一般市民幻想にこだわり続ける必要はないし、そのときようやく「物語」が少しわかるようになるかもしれない。

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ワークショップ業務連絡:4/19(金)は19時から21時まで[中目黒デュアルポップスタジオ]です

題のとおり、4月19日(金)のワークショップは
19時から21時まで中目黒デュアルポップスタジオ にて開催されます。

(21時以降は三軒茶屋マイレッスンスタジオにて開催されます。)
ご確認よろしくお願いします。 九折


<中目黒デュアルポップスタジオへの到達の仕方>
・あなたは中目黒駅の正面改札を出るべきである
・正面の横断歩道を渡ることで山手通りを渡るべきである
・正面には蔦屋書店があり、あなたは蔦屋書店に併設されているスターバックスの角店の脇を前進してゆくべきである。このとき右手には「中目黒アリーナ」の看板があるべきである。
・前方に目黒川の橋があり、あなたは橋を渡るべきである。
・目黒川を渡るとただちに右折して川沿いをゆくべきである。
・すぐにあなたはオレンジ色の看板「いろは寿司」の前を通過するべきである。
・あなたはすぐ「river side gallery」の黒看板を見上げるべきである。するとその隣はすでに「中目黒マンション」である。
・あなたは「中目黒マンション」という金属切文字の看板を見て、そのエントランスを覗き込むべきである。地下に続く階段があり、あなたはその階段を降るべきである。
・B12室はB06室の奥にあり通路からは視認できない。よってあなたは踏み入って覗き込むべきである。金属のドアは押して開くものである。

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WS報告035(5)/自己決定と事実決定

回は、無数のことがありすぎて、また夕方まで大量に話しすぎて(二十四時間コース)(が、定番化しているという恐怖)、もう報告は不能なのだ、さすがにシャウト注入ビクンビクン事件まで報告していられない、一番笑ったネタを報告できないのは残念ではあるが……
たとえば僕は、理学療法士が触れても「なんだコイツ」とドン引きされるぐらい、肩こりをしない奴だが、仮に僕が肩こりをしたとしても、「わたしは肩こりをします」というのは誤りだ、なぜなら肩こりというのは「肩が」凝るのであって、オレが凝るわけではない、肩がバキバキになるのはわかるが、「オレがバキバキになる」というような意味不明のことは発生し得ない。
「おい、クイズだ。おれが、完全に肩こりをしないためにはどうしたらいいか、きみにわかるか」「えっと、全身をつなげて、コントロールを……」「そりゃそうだけどね、もっと簡単な方法がある。両肩を切除して焼却炉に放り込んでしまえばいい。そうしたらおれが肩こりをするのは不可能になる、何しろ肩がないんだからな」

「でね、仮にそうして、おれの身体から両肩を切除したとして、『おれ』は何か変わってしまうのか? 両肩を切り取ったらおれはおれでなくなってしまうのか」「そんなことはないですね」「そう、だから、おれが肩こりをするというのは誤りなんだ。理において誤っているんだよ。肩こりというのはあくまで肩がバキバキになるのであって、おれがバキバキになるのではない。肩はおれじゃねえ、肩は肩だ。おれがバキバキになったらそれは肩こりじゃなくて "おれこり" だよ」
「おれはさ、よく、自己決定が大事だと言うんだけれど、それは単純に、フィクションの自分を決定するってことなんだ、どうもこのあたりに誤解があるようなんだけどね/仮に、ノンフィクションの自分というものを認めたとして、そのノンフィクションの自分というのは、つまり "事実の自分" だろう? この事実の自分を、どうやって自分で決定できるはずがあるんだ、事実の自分は事実が決定するだろう、この世の中の "事実" なんてものを、誰がどうやって決定できるわけがあるか、たとえば水 100cc は 100g だろう、そんなものを誰が "よし 120g にしよう" なんて決定できるんだ、そんなわけない、事実を決定するのは事実であっておれじゃない」
「おれが言っている自己決定というのは、フィクションの自分を決定することなんだ、たとえば今日もおれは自分のことを、『おれはノリノリでイケイケの天才ブラボーマンだぜ〜』と言っているが、この言っている調子は、何かノンフィクションの事実について言っているように聞こえるかい、そんなわけないよな、おれの言っている調子は、たとえば『日本の国土の面積は○○平方キロメートルです』という話とはまったく違うものな、日本の国土面積なんていう事実をおれが決定できるわけがない、事実はただ事実が決定する、国土を増やしたければヨソから取ってきたという事実を得るしかない」
「おれが言っているのは、おれがノリノリでイケイケの天才ブラボーマンだぜということであって、それはいちいち事実を検索した結果として話していることじゃない、ただおれが自分について言っているだけだ/そしておれがいちいち事実を検索しないのは、おれにとって事実というのは何の興味の対象でもないからだ、今われわれには事実の身体があって、その事実の身体がフィクションの自分にとって "住み心地が悪い" から、そのリフォームをしているんだろ? そしてそういったリフォームについては、それなりに専門家が必要だろうという、ただそれだけのことでしかないんだ、そして住みよくリフォームするといっても、入居者がいないのじゃ誰にとって住みよいのか意味不明だろ、だから自己決定が必要だと言っているわけだ」

「自分の内側を決定する」のではなくて、「決定したものだけが自分の内側に入る」ということ。

「自己決定しない場合、内なる自分が自分をどうしようか、迷っている……のではなくて、 "空き家" なんだよ、容れ物・建物しかないんだ、そこに身体はあるが、身体があるだけで誰もいない、びっくりするけれど本当に誰もいないんだ、ここのところに根本的な勘違いがある/自己決定というのは、すでに存在している自分を何かの方向や状態に決定するということじゃないんだ、自己決定するまでは、自分なんてものは存在していないということなんだよ、それがさも "自分" がいるように言い張っているから、面倒くさくなるんだ、それでもせめて、この先に入居がありえるように、建物を一般的な意味でマシにリフォームしておくに、越したことはないのだけれど」
「本当はそこには誰もいなくて、空き家しかないということ、そのことに気づけないから、自己決定や自分ということを考えたとき、 "事実の自分" なんてものを、さも自分ですというふうに取り出してくるんだ、それで自己決定といっても、事実の自分は事実が決定するだけなので、色黒の細マッチョになってパーマをあてます、というような決定しかできないんだよ/フィクションの自分を決定するということ、おれなんかノリノリでイケイケの天才ブラボーマンだが、それはおれの話であって、容れ物の話じゃない、容れ物はなるべくおれにとって住みよいように、徹底的にリフォームするだけだ、まさにおれというような容れ物にするのがそのリフォームのゴールじゃないか」

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WS報告035(4)/「悔い改める」というシンプルな方法
っこう大きな声で言った。
「みんながこれまでの、いろんなことを "悔(く)いて" いるのは知っているよ」
「同時に、みんなが何ひとつ、 "改めて" はいないということも知っているよ」
「 "悔い改める" といって、改めたらもう悔いは終わっているはずだからね、でもわかるよ、悔いるのはカンタンだけど、改めるというのはめっちゃむつかしいものな」

「世の中には、たとえばスープを飲むのに、ズズズッと啜って飲むのを、ずっとやめられないおじさんがいる」
「そんなの、生きているうちに、これまで何度も注意されたに決まっているんだ、でも "改まらない" んだよ、スープを飲むのに音を立てるなというような、単純なことであってもだ、それには理由がある」
「音を立てずにスープを飲むというのは、技術的にむつかしいことじゃない、ただズズズッとやるのがおじさんのスタイルなんだ、もっと奥にルーツがあるんだよ、だからおじさんはそれをやめられないんだ、どれだけその下品を悔いたって、それを改めることはできない/過去のどこかでアンチ・ブラボーに与(くみ)したんだ、今さらそれを、本当はブラボーでした、自分が誤っていましたなんて、改められないから、おじさんは生涯下品なスープを飲み続けるしかないんだ」
僕はふと、或る心当たりを指して、一人の女性に、「振り返ってみればさ、単純に、改めたぶんだけ救われて、改めたぶんだけ祝福されてきたでしょ?」と言った、彼女はひとしきりこれまでのことを思い出して、(そうです)、とうなずいていた。

何を悔いているかなんて訊いていない、何が改まったかを訊いている。

僕はなるべく最短の、なるべく有効な方法だけを採りたい、なぜ最短効率を選びたがるかというと、単に面倒くさいからだ、これまでのすべての体験を総合すると、「すべては努力ではなく祝福の有無で決定されている」と認めざるをえない、そして祝福を受けるためには当人がブラボーを言う必要があるが、誰だって過去にアンチ・ブラボーに与してきているので、それを悔いる……ではなく改めないかぎり、ブラボーを言わせてはもらえないのだ/だから「さっさと改める」→「取り戻されたブラボーを言い続ける」→「祝福を受ける」→「要る人になってオメデトウ」という、この最短が一番面倒くさくないし、たぶんこれ以外に方法なんかないのだ、そして僕は他に方法がないとわかっているのに回り道をするふりに付き合う気になれない冷淡な人間なのだった、まあそのへんは性格だからしゃーないだろう。
「自分のことだけじゃなくて、自分の見るすべての人がそうだよ、改めた量が取り戻されるブラボー量に比例し、ブラボーを言う量が受ける祝福量に比例する、そしてその祝福量だけがすべてを支配しまっせという、単純な原理をこれからずっと見続けることになるんだ/その中で、悔いた量なんて何にも反映されないんだよ、悔いる量が増大するのはあくまで改める前でしかないからさ、むしろ "改めないよう粘った量" がイコール悔いた量ってことだろうな、それを自慢されるのにはいささか飽きたんだよ」
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