☆いい女☆で行こう!

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セックスは性癖の狂乱ではない3

き流すよーに、あくまで仮説だ、そういうことにしておこう。
世の中を疑い、人を疑って生きるしかなくなったとき、人は「疑う胴体」になり、「性癖」は強固に偏向化していく。
その偏向した性癖は、具体的にどういったものになるかというと、多くは「人が苦しんでいる状態でしかセックスできない」となる。
なぜだかわかってもらえるだろうか、「人は苦しんでいるときが最も疑いない」からだ、苦しみは疑いなく発生するので、そのときだけ人を「信じる」ことができ、セックスの機能が解放されるように感じる(事実そのときだけ濡れたり、勃起したり、オーガズムを得たりする)。

つまり、苦しんでいる女に勃起するとか、苦しんでいる男に濡れるとか、多くはそういう性癖になる。
いわゆるロリコンと呼ばれるペドフィリアもそうだ、童女はまだ人をあざむく能力を持っていないので「疑う」という必要がなくなる。
言うなれば、人はそれだけ、「人を信じられない」という状態がつらく、そのことに弱いのだ、このつらさは「自分を信じられない」ということも含む/よって自他共に「苦しめる」ということへ自然に進んでいってしまう。
このところやけに、「人の苦しむところを見たい」「見たがっている」「そういうシーンを漁っている」という自覚はないか? ともすればこの「性癖」のレベルで「ブラック企業」や「芸能人のスキャンダル炎上」も発生しているところがある、ただただ人の苦しむところを見て濡れたい・勃起したいという「性癖」の充足のために。

信じるものを持たず、性癖だけはぎとったら、びっくりするぐらいつまらない人間になる。

あえてそのことも真実だと申し上げておこう、胴体だけ解放されて、その胴体に「信じるもの」が入っていなかったら、それはおそろしくつまらない、かえって不気味なほどの人間になる、「そんなふうになるわけにはいかない」と誰だって思う。
じゃあ何を信じるかということになるが、むろんカミサマがどうこうというエセ宗教じみたことは言いたくない、ただこの薄暗い状況を突破するのは、「性癖からの離脱」および「信じるものの獲得」とだけひとまず言っておきたい。

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