☆いい女☆で行こう!

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文化を持たざる民5
代の日本人は、「無宗教」というより「無神論的感覚」で生きている。
そして、無神論的感覚では、どうしても文化の根幹が得られず、「文化」の成り立ちようがないのだ。
初詣も夏祭りも除夜の鐘も結婚式も、すべて何かしらのカミサマを前提にして営まれるものだが、カミサマが否定されているので、すべては「イベント」にならざるをえない。
「イベント」というと、フリーマーケットや○○フェス、あるいは講演会や勉強会などが代表的だが、これらのイベントはカミサマに何の関係もないので、まったく問題なく営まれて栄えている。

どこの国のどの人でも肯定すると思うが、何かしらのカミサマを否定するということは、文化を破却することと同じだ。
たとえば食事のときに「いただきます」と合掌することさえ、カミサマを否定してしまったら無意味な「いただきますキャラ」になってしまう。
カミサマが否定されると、この世には「わたし!」しかいないことになるので、「わたしのキモチが大事なの!」という文脈に必ずなる、それで「いただきます、というわたしのキモチ! これが大事なの」ということになっていってしまう。
文化というのは何かしらの「神聖さ」を前提にしている、カミサマが否定されるとこの「神聖さ」の前提が破却されてしまうので、「わたしのキモチ」の偉大さ、崇高さ、ということだけが残ってしまう。

無神論的感覚で、文化的になろうと努力するのは、完全に不毛だ。

かといって、文化的になりたいという都合から、カミサマを捏造するのはさらにサイアクなことなので、諦めて自分は「わたしのキモチのアニマルなの」ということを引き受けていくしかない/それでもカミサマを冒涜するよりはマシだ。
どう考えても、「わたし」と「カミサマ」のあいだを取り持つものがあり、そしてそれが共有されているということが「文化」なので、カミサマなしで文化的ということは決してありえない、この問題は根が深いので安易に取り扱えるものじゃない。
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