☆いい女☆で行こう!

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パーティ報告70(2)

ーティでは「天地自然」ということを話した。
「天地自然」というと、これまたやべー奴が話題にしそうではある、が、これはどうしたらいいか……
「天地自然」というのは、われわれが生きている世界のアタリマエのやつのことを指しているのだが、なぜか現代ではこれをバカにしなくてはならないという風潮があり、この風潮にしたがって「天地自然」をバカにしたものは、生き地獄に陥るという性質がある。
「天地自然」というのは、風が吹いたり雨が降ったり、夏が来たり秋が訪れたり、木々が茂って海が凪ぎ、空が晴れわたり雲が光ったりすることのすべてを言うのだが、現代人はこれを嘲笑することによって自ら生き地獄を選ぶのがブームになっているのだ、おっかねえなあ。

われわれは自分にこだわりすぎで、ひいては「人」にこだわりすぎだ。
自己愛や承認欲求、自意識過剰や「怨み」が肥大していて、それらは次第に破裂に向かっているのだが、実はこの「人」についてのこだわりは、「人」についての根性では修正が利かないようにできている。
自己愛や承認欲求、自意識過剰や「怨み」は、「天地自然」によって慰められ、「天地自然」に諫められることでしか、解決しないのだ、この解決をゼロにするというのはもちろんおそろしいことになる。
風が吹いたり雨が降ったり、夏が来たり秋が訪れたり、木々が茂って海が凪ぎ、空が晴れわたり雲が光ったりする、そのことに「こんな大きなものがあったんだ」と包まれることでしか、われわれは「人」についてのこだわりをやめられないのだ/僕はこの天地自然の中、街があり、「人」はちっぽけなものだと思っている。

かつてこういう歌があった、「菜の花畑に入日薄れ見わたす山の端霞ふかし」。

加山雄三が「海よ、おれの海よ」と唄うし、桑田佳祐も「稲村ヶ崎は今日も雨」と唄う、「白樺青空南風」にこぶしが咲いていたり、あるいは「川の流れのように」であったり、はるばる函館に来たり襟裳の春は何もなかったり伊勢崎町がシュビドゥバだったりするが、われわれはこういう歌を聴かなくなり、失っている、これはもったいないことだ。
何もかもが、「キミとボクが会いたくてドカーン」ばかりではないのだ、「天地自然」/うーん申し訳ないが、僕はあなたより天地自然のほうが大きくてうつくしいと思うよ。

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