☆いい女☆で行こう!

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自己啓発の手前
「自己啓発」という言われ方が長いこと続いているけれど、そもそも「啓発」とは何か、その語源は「不憤不、不悱不」という孔子の論語にある(らしい)。
その意味は、孔子いわく、「何より本人が悶絶するほど考えて、それでも言いたいことが言えなくてのたうちまわっているという、そういう状態じゃないと、そもそも何も教えられないよ」ということだそうだ。
ん? それが「啓発」だというのなら、現代の自己啓発ブームと何か違うような気が……
ちなみに当の論語はその後、「部屋に四隅があったとして、一隅を教えたら、残りの三隅を自分で見つけるようでなければ、もう二度と教えねーよ」と続いている。

じゃあ、現代の「自己啓発」って、違ってなくなくない? と思える。
別に誰も悶絶していないし、のたうちまわっているわけじゃないし、一隅から四隅まで全部カッキリ教えてもらうつもりじゃね? と、割とこのことはマジメに指摘されなくてはならない。
おそらく本来の「啓発」というのは、もっと悲壮感のあるもので、きっと流行のハードカバーを読んでスターバックスでタブレットをいじり、スタイリッシュにディベートをかますことで成り立つものではないのだろう。
きっと孔子が現代の「自己啓発」を見たら、啓発の本義において、すべてのディベート空間にバンカーバスター爆弾を投下すると思うが、僕は孔子ではないのでそんなことはしない、ただ僕がぼんやり思うのは、「今でも孔子とディベートして勝てる気はしない」ということなのだった。

そういえば、僕は二十年前、確かにのたうちまわっていた。

今でものたうちまわっているところがあるような気がしないでもないが……こんな僕に誰か啓発プリーズ、いちおう「不憤不啓、不悱不発」の要件には適って啓発をいただけるところあるんじゃね? と思うのだが、考えが甘いだろうか。
現代では、あまり学門に「悶絶」「のたうちまわる」という人はいない/これだと二十年前の僕がまるでアホみたいじゃねえか。
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