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われわれの肉には、霊が蓄積的に宿る

々、見つかっていることを、正直に報告するしかない、ひどい内容だ、よってこれは狂人のメモ書きとして読み流されてよい。
われわれの「肉」には、<<霊が蓄積的に宿る>>のだ、たとえば加山雄三や桑田佳祐は、ガチにその肉に海の霊が蓄積的に宿っているので、こんなもんに今さら勝ちようがない。
キリスト教の洗礼(聖餐)が、ワインとパンを血と肉に見立てるように、われわれの霊とは血肉なのだ、<<血肉に蓄積的に宿るものが霊>>だ、よって食事に大いに関係がある、そして霊の宿っていない血肉はスカスカのカラッポ、ただの筋力マシンに成り果てるしかない。
プロテインを飲み、スポーツジムで同じ器具の上を走っていれば、筋力やスタミナは強化されるかもしれない、けれどもそこで肉が霊的に育てられることはない/父が焼いたニジマスを食い野山を駆け巡る少年が、天地自然の霊により肉を霊的に育てられていくということなしに、われわれはカロリーと運動ごときで人間になれると勝手に思い込んでいる。

人間の中心軸(精)は、カミサマと出会ってその字義のまま「精神」を獲得するが、この中心軸「精神」を包み込む周辺軸「肉」には、蓄積的に「霊」が宿るのだ、だからこそわれわれは精神に基づいて学門・文化・芸術に身を投げこんでゆかねばならない、<<それらが「肉」霊的に宿らないと意味がない>>。
驚くなかれ、つまり、学門・文化・芸術というのは、人間にとって<<霊的な営み>>なのだ、学門の霊が肉に宿らなければ、勉強はただの「知識」になるし、文化もただの「価値観」「キャラ」になり、芸術もただの「性癖」にゆがめられる。
数式を背後においたアインシュタインが霊的でないとは、まともな感覚の人には言いがたいだろうし、厨房に立った道場六三郎や、画板を前にした岡本太郎も、霊的でないとは言いにくい、このように学門・文化・芸術は、正しく精神を基にすれば霊的な営みとして「肉」そのものに宿っていく。
誰と共に食事をし、誰の手になる料理を食べる? 誰と褥(しとね)を共にして、誰の肉と交歓しあい、またどう蒸留されたスピリッツをどの場所の季節に飲み下す? こういったことは女性のほうが鋭敏なはずだ、霊的に汚濁させられる肉の交わりがいかに自分を荒廃させるか/これはまさにのっぴきならない、冗談では済まない問題だ。

桑田佳祐の歌声から聞こえてきているのは、音声ではまったくなく、肉の聲そのもの、蓄積した霊の聲そのものだ。

われわれの肉は、霊を蓄積する媒質ということなのだろうが、このまったく馬鹿げたオカルトのような話が、われわれの実情を言い当てるのにど真ん中をブチ抜くのだからしょうがない/むしろ肉が霊的に弱い人こそが、オカルトババアの占いやまじないにだまされるだろう。
霊的な資本主義と捉えても差し支えない、肉に膨大な霊を蓄積してきている(大資本の)人間のほうが、そりゃ強力だし有利なのだ、あなたの今年の夏は、あなたの肉に夏の霊をことごとく宿らせるだろうか?

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