☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 世俗の信仰と「万物の大勝利者」 | TOP | あなたが普遍性と集団性と個人性を手に入れること >>
世俗の信仰と「万物の大勝利者」2

なたに白紙とペンを渡し、学門・文化・芸術を薦めたとする。
すると、まったく思いがけないことに、あなたはそこで「イヤなキモチ」になることが多い(ほとんどそう)、その「イヤなキモチ」は、なぜか唐突に起こってきて、言われてみれば「なぜイヤなキモチになるのか、自分でもわからない」というたぐいだ。
一方あなたは、豆知識を知って「へえー」と言ったり、ちょっとウェイな振る舞いをしてリア充な写真を撮られたり、「男の子の意外なギャップって萌えるよね」「あーわかる」と盛り上がったほうが、「いいキモチ」になる、今多くの人は当たり前にそのようにして暮らしているだろう。
学門とか文化とか芸術とか、そんなもの「堅苦しくてイヤだよ」と言いたくなるのだが、たいていそのとき、性格の事実として「堅苦しい」タイプは僕ではなくてあなたのほうなのだ、だから「堅苦しい」説も破綻する、これは一体何が起こっているのか、この構造はまず尋常の視点では看破されない。

まずあなたが、自分として学門・文化・芸術に向き合わされたときに覚える、ナゾの「イヤなキモチ」、それは「屈辱」なのだ、なぜかわからないが人はそのとき「屈辱」を覚えて不快になる、このことがすべてを解き明かすヒントになる。
なぜ「屈辱」なのか? それは、学門・文化・芸術は、もともと人間がカミサマに近づこうとする霊的な営為であって、それをやらされるのが「屈辱」なのだ、なぜなら自分はカミサマより上位なのだから(万物の大勝利者)。
あなたは、学門・文化・芸術に向き合う懸命な人たちに、「いいね!」と称賛を認めるだろうけれども、自分がそれをやらされることには途端に「屈辱」を覚える、それはなぜかというと、「(下)人間→カミサマ→わたし(上)」という階層構造があるからだ、「人間が上位のカミサマに近づこうとするのはわかるけれど、なぜわたしが下位のカミサマに近づこうとしなきゃいけないの」「侮辱だわ、屈辱だわ」という文脈が背後に隠れている。
そんなバカな、と言いたくなるかもしれないけれど、人間ってそういうものです、またそういう「万物の大勝利者」になるようにと、あなたは教育も受けているしコントロールも受けています。

あなたが伸びないとすれば、あなたには敬うものがないからで、あなたに敬うものがないとすれば、それはあなたより上位の存在がないからだ。

あなたより上位の存在がないのだから(万物の大勝利者)、あなたが「向上心」と言っても、そもそもその「上」自体が存在していないことになる、だから努力は空転する、たいてい「なぜこんなことをさせられなきゃならないの」という屈辱感がメラメラと起こってきて、「あってはならない敗北感」のようなものにたまらない怨嗟の感情を覚えて発狂したくなってくる/それが「万物の大勝利者」という現象。
芥川龍之介が「蜘蛛の糸」でお釈迦様の話を書いたのは、信仰心からではなくて、自分の知能でブッダの精神を十分に分析できると思ったからだ、芥川は自覚なしに「(下)カンダタ→ブッダ→わたし(上)」という構造の中にいた、その構造は当然、芥川の内側に「ぼんやりとした不安」を育てていっただろう。

正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |