☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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大きな愛、そのサイズ差

と恋の違いは何? という、よく知られた問いかけがあるが、これはもともとが間違っていて、愛はそもそも恋と比較考究されるたぐいの事象ではない。
人間にとって、「愛」という事象は、「光」という事象と対のパートナーだ、人は光に引かれ、同時に愛に押し出されもして、進んでゆく、というだけだ。
だからよく知られているように、人間にとってのカミサマは二種に描かれている、ひとつには威光を示す「父」として描かれるカミサマで、もうひとつには慈愛を示す「母」として描かれるカミサマだ。
人間は、愛されなければ踏み出せないし、光がなければ踏み出す理由がない、光がなければ愛されたってしょうがないし、愛されなければ光に向かえるわけもないのだった。

自然愛好家は世の中に多いだろうが、その逆、「天地自然がわたしを愛してくれている」と捉える人は少ない。
加山雄三が唄う「海、その愛」というのがあるが、これは「海よ、おれの海よ/大きな、その愛よ」と唄っている、こうして「わたしが海を愛している」ではなく「海が(わたしを)愛してくれている」と捉える詩文は現代には見当たらない発想だ。
だいたい、家にカルト宗教の勧誘がきた場合など、困るのは勧誘者がいかにも「わたしは誰にも愛されていません」という気配を明らかにしてくるからだ、愛されていないなら泣くべきだが、宗教勧誘者はなぜか強引に笑顔で迫ろうとする(ムリかあるだろそれは)。
この、一般化して「何にも愛されていない者が、何かへの愛をしきりに言う」という悪いパターンが、あまりにもわれわれの世に多すぎる/僕は大きな海が加山雄三を愛したということにムリがあるとは思わない、小さなわれわれが光に踏み出すには、大きな愛に愛されることがそりゃあどうしても必要だ。

愛されていることを見落としている。

いやもちろん、「わたしは天地自然に愛されているの」と言い出すと、それは単なるヤベー奴だが、何しろサイズが違うのだ、僕は加山雄三の歌が正しいと思う、何しろ海と僕とではサイズが違いすぎる、こんなサイズ差に対抗できるやつが人間にいるのだろうか。
もし山が単なる土塁にすぎず、海が単なる食塩水にすぎないのだったら、愛されようがないから、われわれは光に向かって進めないだろう、けれどもそれらを土塁とか食塩水とか呼ぶことこそ、逆にムリがあると僕などは思うのだった。

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