☆いい女☆で行こう!

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年長者として話す僕
ぜこんな話をしているのかということを、僕自身の整理のためにも話しておきたい。
不遜さも重々承知の上で、私的なこともぶちまけながら、正直にお話ししておくしかないだろう。
僕自身はすでに、「認識なんかしていてはだめだ」という地点にいるのだ、「認識」なんかより上位のところに接続しないと、僕はもう僕の本分を営めない次元にきている。
だがそれは僕の話であって、未だ僕の友人の話ではない、未だ僕の友人は「認識」の能力を再建すべき状況にある、僕はサーキットを走るので左右なんか「見ていてはダメ」だが、友人は公道をなめらかに運転するために左右をよく見て安全確認するということを訓練しなくてはならない、それは未だ仮免許練習中として正当だ。

要するに、すでに現在の僕の本分と、僕の友人が必要としていることとに、大きな乖離が生じてしまっている。
僕にとってすでに「認識」は足手まといだが、友人にとっては未だ「認識」は宝なのだ、この過程は誰でもが経るものだ。
つまり、僕はすでに自分の友人について、認識や識別を必要とせず、「ひとつ」とみなしてよいが、逆はそうしてはならないのだ、逆側から「自分とあの人はひとつ」とみなすと、認識機能が喪失され妄想(D妄想)や混乱が生じてしまう。
僕が僕の本分から離れ、つまりレベルを落として休んでいるとき、たとえば誰かに「ああ、すんまへんな」と頭を下げているようなときなど、まだ年長者としてよい見本になりうる/誰か人間関係の中から「認識」に秀でたユニットが誕生し、僕とのあいだに適切な中継を挟んでくれることが必要だ。

僕は年長者として話せるが、あなたは年少者として聴けないだろう。

「認識から行いが為される」わけだから、僕は自分を年長者だと「認識」し、年少者に向けて話すという「行為」をする、しかしあなたは漠然と話を聴くだけで、自分が年少者だと認識し、年長者から話を聴くという「行為」はできないだろう、それが「認識能力の喪失」ということだ。
もし冷静な傍観者がいたとしたら、傍観者の目には、僕が年長者として話していることは明らかで確実なことに見えるが、そこに年少者として聴いているという明らかで確実な者は存在しない、然ればそこに人間の道たる営為は成立していないことになる/現在の僕にとって、すでに年長者として話すというようなことはオマケの便利な方法にすぎないが、あなたにとっては未だそれが格闘すべき最大の武器であり本分だ、あなたが必死に集中しているときの認識能力は、僕が酔っ払ってあくびをしているときの認識能力に遠く及ばない。
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