☆いい女☆で行こう!

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とりいそぎ実用的な、人間への道[4] 「フィードバック、行為を再認識する」

とえば「彼とパリに行ってステーキ食べてきました〜」という発信があったとして、「それって何の行為やねん」ということになる。
そんな「行動」は、勝手にしたらいいが、何らの「行為」にもなっていない、このことはいくら反論をこねくりまわしても無駄だ。
どれだけ「行動」を派手にしてみても、「行為」の芳醇さには勝ちようがない、「行為」というのは思いがけずギッシリと賑やかなものだ、この<<「行為」とはギッシリ賑やかなもの>>、<<しかも割と忙しいもの>>ということはぜひ覚えておいてほしい。
「認識」は、メラウルワーと無縁の静かなものなので、それだけに無限にギッシリと詰め込めるのだ、その実体化である「行為」が賑やかでないわけがない、静かだがギッシリと賑やかだ、このことは漠然とでもいいから覚えておくほかはない。

認識は「見上げるもの」だが、行為はその実体化であるため、これまでにした「行為」というのは、後になって実に「認識」しやすい(見上げやすい)ものになる。
たとえば「あのときは毎日○○に行ったよね」という「行為」は、いわゆる思い出として「認識」しやすい、あくまでそこに感傷的にならず、「認識」のみを見上げるのがポイントだ、これを行為から再認識を得るフィードバックと呼ぶ。
認識を披露しあうわけだが、<<あなたの内にあるものは人には伝わらない>>、あなたの「内」にあるからだ、だから見上げる「認識」によって話す、あなたが見上げているものは他の誰かも見上げることができる。
「行為」を「再認識」することで、認識の披露の足しにするわけだが、あくまで「行為」を認識するのであるから、行為には失敗もなければ成功もない、行為には「有意義」もないのだ/ゴルフのおじさんが空振りしたとしても、それは失敗ではなく、おじさんの行為はただ「ボールを狙ってクラブを振った」というだけだ、価値観や意見や意義が「認識」に混入してはならない。

「パリに行って、ステーキを注文した」なら「行為」だ。

獣やグールでも、ステーキを食べることはできるが、ステーキを「注文」することはできない/そして後になって、「あのときはステーキを注文したね」と再認識できないなら、そのときは何の行為もしていなかったということだ。
認識を披露しあうことで、互いの「行為」が生命を得てゆく、また後日には「行為」の再認識が披露されあい、また新しい「行為」の生命が付与されていく、われわれの交友関係はこのことで成り立つべきだ、いくつもの認識を互いに見上げあった友人として。

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