☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 証(あかし) | TOP | 証(あかし)3 >>
証(あかし)2
とえば、しこたま勉強するということ、学門に食らいついていくということで、得られる結果は、「知識が増える」ということじゃない。
フラフラのヨレヨレになるまで、身をもって学門に食らいついていった先、学門に目覚めた者としての相や能力が、身に現れてくるということ、そっちが本当の結果だ。
たとえばあなたが、バーンスタインの代わりに指揮台に立ち、指揮棒を持ったとして、どれだけ顔面に力を入れたとしても、あなたが「ニセモノ」であることはただちにわかってしまう、動かなくてもわかってしまう、それは音楽家としての相が身に現れていないからだ。
本当に肝心なことは、すべてその「身に現れているもの」で営まれるので、表面上の形や技術をマネしても意味が無いのだ、この「身に現れてくる」という原理のことを、少なくとも知っておくほうがいい。

やっかいなことは、一口に「努力」といっても、その努力が実らないことがあるのだ、むしろ努力の大半はうまく実らないと捉えてもいい、なぜなら努力というのは相当正しい知識や指導に支えられていないと、「証(あかし)」が出る方向へはたらかず、単なるトレーニングになってしまうからだ。
だから、大人になった人の99%は、筋トレやランニング等、単純結果を求める趣味に傾倒していく、それはこれまでの経験を通して、複雑な努力がいかに実りにくいものかをよく知っているからだ。
強度のランニングを重ねていけば、心肺能力は確実に強化されていく、そのことは間違いないのだが、それに比べるとたとえば「俳句を詠み重ねるうちに粋と典雅が身に現れてきた」というようなことは、いかにも可能性が薄いのだ、そんな可能性は基本的にゼロだと前提するほうが現実的には正しい。
このことには、一長一短があって、トレーニングで得る強化と形容は、確実に得られるものだが、トレーニングを怠るとすぐに劣化していくという特徴がある、そして一方、修行や稽古でまれに得られる「身に現れてくるもの」は、いったん得られたらそうそう消えるものではないのだが、こちらは努力したからといって得られる保証はまるでないのだ、どちらにせよこの両方は厳密に区別しておく必要がある。

「苦痛」には耐えられても、「難しさ」には耐えられない。

たとえば強度のランニングにおいては、身体に苦痛がみなぎるだろう、それでもそれに耐えて突破していくことで、トレーニングは成り立っている/ただし! このトレーニングには、何が「難しい」ということはない、ただ身体の負担に「耐える」だけだ。
これが、何かの修行とか、稽古とか、学門とかいうことになってくると、身体的な苦痛というのは特にないのだ、ただ次から次に、何もかもが「難しい」というのがやってくる、つまり脳みそに負担が掛かり続ける、このことに耐えるのは根性ではなく「愛」なので、証が身に現れてくるまで努力するということは、なかなか容易には為されないのだった。
できるオンナだね | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |