☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 「○○はおれの嫁」「妻じゃないのか」 | TOP | −20歳するとつじつまが合う >>
「指導者はレーニン」というナゾの話の続き3
とえば「あの人は本当にジョークが上手」「あの人は人を褒めるのが本当に上手」「あの人は本当に腰が低くて人が好いわ」「あの人は本当に頭がよくて、鳥肌が立つほどだわ」というようなことは、実際にはほとんど「ない」ものだ、そういったものはいかにも美徳として「ありふれた要素」のように見えて、本当にそこまでの美徳が身に現れている人は世の中にほとんどいない。
多くの人々の、笑顔は楽しく、気質は善良で、人柄は愉快、気が利いていて、やさしくしてくれる、それはそうだし、それで「十分!」と断言して差し支えないが、では「これですべて十分」ということは、「もうその人にはなすべきことがない」ということだろうか、それはそれで「違う」という気がする。
あなたが見て、「十分」と思える人との仲を、あなたは大切にするべきだ/しかし一方で、その「十分」な人を破壊するわけではないが、別次元の徳性を発揮する人は存在するし、われわれは「十分」な人の仲をよろこぶと同時に、別次元の徳性事象を平行する可能性として尊んでいなくてはならない。
われわれが「十分」と仰いで認められる人々との豊かな世界を、われわれは誇らねばならない、その世界はかけがえなく意味があるものだ、しかし同時に、別次元の「意味」がある世界があることも、あなたは本当は知らないわけではない/人はときに、自分が生きているということの意味を、その別次元のほうにしか決着できないことがある、われわれは「十分」な世界を誇る義務と、さらに「それ以上」の世界を誇る義務とを、同時に持っているのだ。

ジョークを言えない人は、一生ジョークを言わないものだし、人を褒めない人は、一生褒めずに生きていくものだ、人に頭を下げられない人は一生下げずにいくものだし、頭のよくない人は一生よくないまま生きていくものだ、<<努力の結果、「変わりませんでした」>>ということの中を生きねばならない、<<無数の「変わらなきゃ」の結果、「変わりませんでした」>>ということの中を生きねばならない。
別にジョークなんか言わなくても、人を褒めるということがなくても、人に頭を下げることがなくても、頭なんかよくなくても、「十分」だ、そのことは疑いないし否定されない、楽しい笑顔と善良な気質、愉快な人柄、その人なりのやさしさや気遣いがありがたいしうれしい、ということは消えてなくならない、それだけでいいといえばそれだけでいいのだ。
ただ、そうしてかけがえなく、「よろこばしかった」ということですべてが満ちるかというと、そうでもない、<<「よろこばしい」と「すさまじい」は違う>>、われわれの生きることはよろこばしくあってほしいが、よろこばしいだけでよいのかというと、そうではないとどこかで知っている。
ジョークが言えない人は、一生ジョークを言わないものだ、もしそれが変化するとしたら、それは「すさまじいこと」になる/この「すさまじいこと」を辞退するのは、人間にとって「当然」であり、同時に「哀しさ」でもあるが、この取捨をいざ自分が決めようとするとき、すでに決められない仕組みが前もって自分の中に巣喰ってあるのは、やはりおぞましいことだと思う。

「十分」は、うつくしく正しい、が、その顔色を一変させるものもやはりある。

実際に、すでに「十分」だった人が、まったくそのことに安住せず、次々に「すさまじいこと」へ進んでゆき、突破しているのを目の前に見ると、「十分」ということのうつくしさと正しさが、相対化されて危うげになる/それでもなお、「十分」ということの意味と誇りは瑕疵さえつけられるものではないのだが。
「十分」は、それとしてよろこび、誇って、一方でサクサクッと、「すさまじいこと」にも突入してイエーイとしていれば、それで単純に解決しそうな気がするが、そうはさせない「レーニン」がそのとき突然出てくる、「すさまじいこと」へ進んで突破していくほうのうつくしさと正しさおよびその意味を、「殺害しろ」という指示が突然湧いてくるのだ、このせいで人は「十分」以上のことはやらせてもらえないようになっている/「十分」まではやたらに礼賛されるのに、「十分」以上からは急に「死ね」と言われる、そういう仕組みが前もって組み込まれている。
正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |