☆いい女☆で行こう!

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「ファンタジー」という誤った認識

崎駿というと、その作品は、特に初期〜中期にかけて、「冒険ファンタジー」がメインだと思われている。
が、あれらの作品が冒険「ファンタジー」に見えているのは、とても損だ、まあ社会的説明としては「冒険ファンタジー」というジャンルが当てはまるのだけれども、本質的にはそういうことではない。
「ファンタジー」という、つまり「幻想」だと見えているなら、もうそんな映画を観てもしゃあない、それは単にファンタジーテイストの娯楽でしかないので/といっても、そういう消費分も興行成績に入るから、それはそれであったほうがいいのではある。
宮崎駿が、いっそ露骨に描いているのは、子供は0歳〜十二歳ぐらいまでは神話世界の生きもので、そこから思春期を迎えて人間世界の生きものに変わっていくものだということ、その人間像を描き出す舞台が必然的に神話寄りになるというだけで、その本質においてはあれは「ファンタジー」という遊びではない。

本当に子供(およびその性質の継続している例外的な大人)には、トトロまがいのものと「接触」があるのだ、神話世界との接続が切れていないから。
「ポニョ」や「メイ(サツキの妹)」を見ているとわかるが、あれぐらい幼い子供なんか、もう神話世界と行ったり来たりで、人間として生きているかどうかまだ怪しいような存在だ/だいたい十歳ぐらいまでは完全に神話世界に属している、そこから第二次成長期が始まって、十二歳を過ぎたころから、人間世界の「男性」「女性」という存在に変わっていく。
だから宮崎駿が十二歳あたりの女の子をまるで恋人のように描くのは、わからない話ではない、その恋人は半分は神話世界につながったもので、同時に半ば人間の女性にもなりつつあるから、かそけし原理的な「恋人」の資格がある/これを成人女性とする色恋沙汰と同じに捉えたら、そりゃキモチワルイに決まっている、そこをまぜこぜに捉えるのは筋が悪い。
インドのガンジス川でも、十二歳までの子供の葬儀は、「まだ身体が穢れていない」ので、火葬せずそのまま川に流していいそうだ、十二歳までは神話世界のものということなのだろう/われわれは自分に見えないものはすぐ否定したがるが、果たして宮崎駿の描いているのは「ファンタジー」だろうか、ガンジス川に保たれている知識も「ファンタジー」だろうか。

だから十二歳までの子供に、化粧や洋服の飾り立てをすると、正体不明の不穏が感じられる。

それは、まだ神話世界に所属しているものに、恣意的に人間世界の事物をなすりつけているからだ、誰だってマリア像に勝手にマニキュアを塗ったらヤバイぐらいは知っているのだが/十二歳までの子供は神話世界のものであって、人間世界のおもちゃではない。
幼いうちから神話世界との接続を断たれて、人間世界の事物を押しつけられることがいかに「ダルい」か、そのことが「千と千尋」の冒頭にある「千尋」の様子で描かれている、彼女は神話世界との接続を恢復することでダルさに食い尽くされることを逃れ、「これが何であるか」のすべてを認めてゆけるようになった/神話世界が「ファンタジー」なわけない。

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