☆いい女☆で行こう!

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「激しさ」というパラメーター2
「激しさ」というのは、「ガンバる」ということとは違うのだ、単にビッグウェーブが「激しい」ということなのだから、それは端的には「かめはめ波」だと思えばいい、「かめはめ波」は典型的に激しいし、悟空はイライラした結果かめはめ波を発射するのではない。
そうだな、わかりやすくいえば、「ゆとり教育」という印象の反対に、「激しい学門」が存在すると捉えればいい/過去の科学者たちを見ればわかるが、学門は激しいものだ、われわれは彼らの著書を読むだけで死にそうになるのに、彼らはそれを著した側なので、その「激しさ」の格差たるや、われわれにとって絶望的なものがある。
「激しさ」と「痛々しさ」は何が違うのかというと、「激しさ」の側は、その膨大なエネルギー量に飛び込んで燃えさかりながら、当人は「幸せそう」というところだ、必死で痛々しく「ガンバります!」とやっている人のほうは、その「幸せそう」という感触がまったくない。
必死で痛々しくガンバっている人を見ると、つい同情と励ましと、肯定の気持ちが起こってしまうが、その実は自分も含めた姑息な逃避でしかないことを、どうせうすうすは自覚しているので、そういう都合のいい甘さは、どこかで見切りをつけることだ、必死で痛々しくガンバっている人には何の罪もない/いや、罪があるね、今さら何を言い逃れするか。

一番アカンのはこれだ、マイケルジャクソンが「カッコいい」とか「センスある」とか「知性がある」とか「たぶんすごくいい人」とか、そんなことは誰だってわかっているのだ、そういうところに評価ボンバーをかまして「わたしもがんばろう」とかしているタイプ、これは本当によくない、巨大な罪がアリアリだ。
何の罪があるかというと、本来は「激しさ」の格差に直面しているのに、それに「圧倒される」ということをキャンセルしているからだ、「激しさ」に圧倒されるということは、同時に自分のチンケに直面するということでもあるが、そのことに直面するのがイヤなので、人はこっそり欺瞞して「センスある〜」というような評価ボンバーに逃げる、そしていざとなれば「わたしガンバってるんです!!」という痛々しさボンバーで切り返そうと予定しているのだ。
「激しさ」というパラメーターは、容赦がないのだ、「激しさ」というのはつまりそれ自体が「幸せそう、しかもカッコいい」となり、そのビッグウェーブが人に直撃しなければならないのだが、そういったことは本当にむつかしいので、その本当のむつかしさからはどうしても目をそらしたくなる/が、そこにガンバる自分の自負をこすりつけてエセ自尊心をなんとかしようと作為するのはさすがに罪だ、あきらめよう。
「はい、じゃあ激しくどうぞ」と言われただけで、何かごちゃごちゃっと破綻アンドごまかしモードが立ち上がってくるだろう、こんなもの逃げ隠れできないんだよ、宇治川で茶道に耽るのもいいし僕は宇治川が好きだが、そういった「○道」というものは、あくまで「激しさを内に納める」ための行法であって、その完成から得られる静けさと、単にたたずんでいるだけのインチキ静けさはまったく別物だ、それが「できない」のは何の罪でもないが、それを「曲げる」のは罪になるのでやめておこう。

「激しく」すると、途端に自我エネルギーで動いているのがバレてしまう。

「激しく」することでなお、「幸せそう、しかもカッコいい」ということが出てくる場合、それは当人が自我エネルギーではなく、何か別のエネルギーで動いているということだ、それは愛であったり「世界」であったりする/これを、自我エネルギー隠蔽キャンペーンで生きている人が評価ボンバーでごまかし消費エッヘンするのは、たいへんよくないことだ、いつだって「じゃあ激しくどうぞ」と言われたら木っ端微塵になることを忘れてはいけない。
「激しさ」の反対が、いわゆる現代の「癒やし系」だが、こんなものにいつまでもムフフしていると、再起不能のビョーキになってしまう、ボディは豆腐のように脆弱なのに、自我が要求するムフフリクエストは極大、という十年前のプリン状態になってしまうのだ、そうなったらもう生涯で「激しさ」にトライできる可能性はゼロになってしまうので、そうなる前に「圧倒される」というストレスの中で頓死することを繰り返そう、いつか「敬う」「尊ぶ」ということがわかるときまで。
できるオンナだね | comments(0) |
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