☆いい女☆で行こう!

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パーティ報告75(3)
「フィクション・クライシス」と呼ぶべきシンドローム(症候群)がある。
ノンフィクションとフィクションがあるのは、頭ではわかるのに、身をもってフィクションに接続するということができないという現象だ、このことは多くカルマ的なものに関係があり、「人のことを多数バカにしてきた」「ペニスやヴァギナを侮辱してきた・侮辱されてきた」「身分や知性が下位にあるにも関わらず、上位の者に『教えよう』とした」「浅学において無神論が合理的だと主張してきた」といったことなどから、おそらく生じている。
事実、バカにするべき多数が存在して、侮辱するよりないアホ迷惑ペニスがあったとして、また「絶対にこうでしょ」と教えざるをえない状況があって、さらには合理的には無神論がアタリマエで議論を俟たないのだが、どうやらそれでもなお「やってはいけないこと」があるらしい/過去それは、きっと「戒め」と呼ばれてきたもの。
この戒めを破ってガンガンいくと、わけのわからんカルマ的な現象が起こって、自分がフィクションから切り離されるらしい、「それがどうした」ということなのだが、なぜか人は自分がフィクションから切り離されると、絶望してとても苦しいらしいのだ/この世には自分しかいないと主張してきたのに、いざこの世には自分しかいないとなるとそれが絶望らしいのだ、まったく筋違いのことなのだが、事実そういうものらしいのでここに改めて「へえ」と確認しておく。

フィクションに接続するということは、まあ微弱にも霊的なことなので、頭や胴体がカッチカチだと成立しない、高度に柔軟化した知性や身体感覚にステキな霊がするっと入り込み、「やあ」と駆動する、そのことで人はフィクションの世界につながる。
こんな説明でわかるかよ! という話なのだが、まあ本当にそうなのだからしゃあない、このフィクションへの接続機能が死んでいる場合、人は自我をぶっつけあうか、フィクションの代わりに「キャラ」を押し通すしかなくなる、それで現代の「キャラ合戦」「空気の読み合い」が生じている。
それで何が悪いねん、ということもないが、ただ先に述べたように、なぜか当人はそれで絶望するらしいので、何が役に立つのかさっぱり不明のこの「フィクションへの接続」ということを、やれるようになるといい、ノウハウはカンタンで「自我に硬直せず、知性と胴体を高度に柔軟化して、ステキな霊がするっと入り込む」ということを日常的にやれるようになればいい。
まあこんなことをやるのは、完全にアホのやることというか、事実その意味で僕は完全にアホの人間なのだが、逆にアホの人間なればこそこのことについては一日の長があるとしてアドバイスできよう、こんなことはアホがやることなので、根本的にアホから賢者に「教える」なんてことはできない、「教える」というのはあなたから僕への行為であって、僕からあなたへの行為ではないというのが僕のアドバイスだ(なんのこっちゃ)。

イケメン、キモオタ、リア充、ぼっち、インスタジェニック、勝ち組と負け組、ニートと萌えと、社会人とインフルエンサー、クリエイティブと自己実現、これらのすべては非常にリアルであり、フィクションの気配がない。

事実、おそらく僕のような極点にあるがごときアホは、これらの現代用語群の指し示すところに当てはまらない、僕がイケメンというのはウソだし、僕がキモオタというのもウソになる、僕がリア充でもぼっちでも、インスタジェニックでも勝ち組でも、全部「ウソ」になる、それがアホ特有の「フィクションの気配」という性質だ。
フィクションの現れを、ノンフィクションの側から研究考察することはいくらでもできる、でもそれは何の足しにもならないからやめておこう(単なる労力の損だ)、僕は碇シンジくんを見ると後ろから尻を蹴りたくなるが、その監督や作画者を蹴りたくなったことは一度もない。
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