☆いい女☆で行こう!

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「導き」の、必須論および不要論

純にいうと、いくら学ぼうが努力しようが、「導き」がなければダメなのだ。
「導き」に「導かれる」ということがないかぎり、人は情報や自意識を増大させるだけで、不毛に負荷を増やすだけだ、ブッ倒れて「もうムリ」と投げ出すときまで。
そんなの、ちょっと考えれば誰にでもわかることだ、「導かれていない人が自前で努力して超ガンバるっていうのはイケるかな」と訊かれたら、誰だって「うーんたぶん、基本ダメっぽい気がする、努力とかってそういうものじゃないよね」と答えるだろう。
誰だって、義務教育は修めているわけだし、習い事をしている人も多いし、勉強している人もいるし、誰だって先輩がいて上司がいて先生もいるのだが、じゃあ「自分を導いてくれた人」の名前を挙げてみろとなると、とたんにその場取り繕いキャラになる、自分が誰にどう導かれたかなんてガンバって主張することではなく、ただの事実なのだが/「あのときはカローラに乗っていた」というのと同じ、「あのときにこうなるようにあの人に導かれた」ということが、本来ないとおかしい。

そしてもちろん、僕は人を「導く」などという、イタさ全開のことはしない、大導師キャラとかネタにしてもキツすぎるだろ、それで僕は「ルンペンでござい〜」みたいにするのだが、もうこのところはそれによる人心のおびえっぷりが異様だ(かといって「導く」とかいう激烈イタいことは僕はしません)。
僕はそういう「導く」などという立場にもなければ、それにふさわしい器量もないので、ただのスケベルンペンなのだが、じゃあ誰がどうあなたを導くのかというと、まあこの世間には「導きたがり」の人がたくさんいるので、そういうところを頼ればいい、ということになる。
ただ、ここで急にリアルになって、そういう「導きたがり」の人の大半というか、ほぼすべては、えぐいぐらいインチキであって、ただカネを巻き上げられるだけ、あとはフツーにカルト宗教とかもまかりとおっているので、まあ洗脳されるべきではないし、カネを落とすべきでもない、せいぜい近所の神社やお寺にいって小銭を喜捨して帰ってくるぐらいが健全だ、そもそも歴史に担保された神社やお寺がどこの近隣にも割とあるということを尊ばねばならない。
本当のことをこっそりいうと、すでに多くの人は、「導き」とかいうイタいものを不要しているというわけではなく、本当は「導かれるにも門前払いを食らうスタイル」を完成させているので、「あとはまあ永遠に一人でやってみろや」と、突き放されているような状態なのだった、代表的には天皇陛下に対してさえ「テンノーですか?」というような口ぶりなのだから/僕はもちろん導く人ではないので「別にそれでいいじゃん」「それでいいですよ」としか言わない、そういうあなたになるよう、ご両親と教師たちが育てたのだから、僕が差出口をする幕じゃない。

あなたは、自分が偉大なものになる妄想をしたことがあるが、自分が偉大なものに出会う妄想はしたことがない。

人間というのは、放置しておけば、勝手に自分を偉大化する妄想を膨らませるものだ、それは単に神経が織りなす「自我」というのがそういう性質のものだということにすぎない、どんなキモオタも妄想においては自分が偉大な叡智であり覇者であり愛の権化だ、人々が自分にひざまずき、自分が人々を統べて導くという空想は誰でもするが、自分が誰かにひざまずき導きを乞うという空想は誰もしない、もともと自我にそんな性質はないからだ、だからこのことは誰かに教えてもらえるまで自家から発想は生じない、「導きが必要です」と言い出す自我は天才を除いては存在していない。
さあそれで、「導き」などというものが、アリなのかナシなのか、必須なのか不要なのか、「本当はどっち?」というのがずっと残っていく面白い疑問なわけだ、すでにほぼすべての人が「ナシ」「不要」にBETしてしまったのだが、その運命のルーレットが最後にどこに止まるかを固唾を呑んで見守っているところだ、もちろん僕だって本当はどっちなのか知らない、ただ僕は貧しいながら経験則に従って一般の逆張りをしているだけだ、だから僕だけが滅びるということも十分にありうる(うーむコワイでござる)。

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