☆いい女☆で行こう!

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あなたのキモチと俳句の違い
句には、日本人としての「こころ」を取り戻すための、たいへん有効な様式が保たれている。
どういうことかというと、俳句というのは「わたしのキモチ」ではないのだ、代表的には「花鳥風月のこころ」なのだ、つまり端的には「『わたし』が主語じゃない」ということになる、このことが極めて大切。
「春夏秋冬のうちで、どれが一番好き?」と訊かれたとき、「(わたしは)春が好きです」と答えないこと、「春が、いいですね。春、いいですもの」と、「わたし」ではなく「春」を主語に答えること。
このことさえわかっていれば、俳句は簡単だ、季語をブッ込んで、「わたし」以外の、世界の事物の「こころ」を詠めばいいだけだ/つまり、○花のこころ、○鳥のこころ、○風のこころ、○月のこころ、×わたしのこころ、というのが俳句のすべてになる。

たとえば「寒林(かんりん)」という季語をブッ込む、寒林とは冬に落葉した木々のことだ。
それで、何かそれっぽい景色はないかね〜と想像して(本当はちゃんと逍遙すること)、たとえば「寒林に振袖華やぐ公民館」といえば「ああ田舎の成人式かな」という感じになるし、あるいは「寒林にざざんざざんと海の音」というと「日本海的な?」という感じになるし、「寒林に精霊駆ける童かな」というとそういうふうに遊んでいる幽し子供に向けて想像力は引き起こされる、だが今はそんなむつかしいことじゃなく、「俳句とはつまり自分を主語にしないこと」だ/「古池やかわず飛び込む水の音」に松尾芭蕉による「オレのキモチ」は入っていない。
一番ダメな例は、「食べたいな、ああ食べたいな、きなこもち」みたいなものだ、これは「わたし」が食べたいのであって、「わたしのキモチ」という、「わたし」主語の主張しかない、これはわざわざ575で自分のキモチを言うゴミだ/この場合、たとえば「孫が搗き曾孫がまぶしたきな粉餅」としないといけない。
われわれは、最も幼稚な性質において、自分を主語にしかできないという自己中心性から、脱け出せず一生を送ることがある、そんなことあってたまるかよという恥だ/俳句というのは何もワタクシ様の超感性をエラソーに言うものではなく、逆だ、自分を主語にせず「もっと大きな世界が気づけばあった」ということを捉えるものだ、じゃあまともな大人になるのに良いメソッドだろう。

月を見上げたとき、あなたがどう思うかはゴミだ、月がどう思っているかはゴミじゃない。

「きれいだな、月がまんまる、きれいだな」ではゴミ丸出しだ、「わたしがこう思うわたしのキモチ」というゴミを即刻捨てよう、「寒林を月が照らさば空の棘」「十六夜と寒夕焼の谷歩む」「月の蒼冬薔薇に染み赤黒く」「年越しに満月たくらむ小望月」、「わたし」ではなく「月」を主語にした世界を考えること、その世界を「視る」こと。
あなたがどう生きているかではなく、月がどう生きているかを考えること、そのことを考えられないなら、あなたは僕がどう生きているかも決して考えることはできない、あなたの発想限界が自己中心性で閉ざされているからだ。
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