☆いい女☆で行こう!

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LGBTと誇り高い性愛

LGBTが流行っている/流行っているというと怒られるが、少なくともその話題とテーマが流行っている。
僕は当事者ではないのでLGBTのことはわからないが、少なくとも、LGBTを差別する権利は誰にもないことぐらい、別に議論しなくても誰でもわかる/差別するのもわかるが、別にその「権利」があるわけじゃないことぐらい、わからなければ単に頭がアホだ。
ただし、差別しないことと「理解できる」ことは別で、理解しろというのは無茶がすぎる、鉄道オタクのマニアを「理解しろ」といわれても「わかんねーよ」と言わざるを得ないことのように、当事者でなければそれは理解のしようがない。
また、どれだけ差別観念を解消しようとしても、LGBTのトラブル性を完全にゼロにはできないだろう、なぜなら「昔々、あるところに、おじいさんとおじいさんが」と昔話を書き換えるわけにはいかないからだ/このあたり、現在のLGBTテーマの「流行」は、多く「前向きだが浅はか」ということになるだろう、だいたい何千年も人類が手こずってきたテーマをチープな現代のわれわれが解決できるわけがないのだ、「いいね」ボタンの連打で解決できることは何一つない。

だいたい、LGBTうんぬんの前に、「LGBTでない側」の異性愛だって、まともに隆盛しているとは思えない。
生まれついた本分としてLGBTだったという人ばかりでなく、単に異性愛への閉塞と不能から、LGBTに転じることになった、それで「自分でもよくわからなくなっている」という人もいるだろう、むしろそういう人が水面下で増えてきているのじゃないかというのが不安でならない/それはLGBTが不安というのでなく、「自分を見失った人」が大量に発生しているのではないかという不安だ。
異性愛が閉塞して不能化しても、身体および生理・ホルモンによるリビドーはあるわけだから、行き所を失ったリビドーは本意・不本意にかかわらずそのはけ口を見つけるだろう、その結果としてLGBTの側へ転向したに過ぎなかったら、それは極論すると「摂食障害がこじれて、ティッシュペーパーを食べるようになってしまった」ということと似ているわけで(そういう病気は実際にある)、その人を「紙食主義者」と定義するわけにはいかないように、セクシャリティのトラブルを安易にLGBTに定義することは危険をはらんでいるだろう。
僕はジジイなので、年の功からアタリマエのようなことを言うが、基本的にふつうの異性愛者が、異性にモテないというのはヒサンなことだ、そして異性と愛し合う機能が破損に向けてきしみをあげ始めるのはさらにヒサンなことだ、だが人間はそもそも自分が生きるということに、何かしらのヒサンさと向き合ってそれを超克するというプロセスが含まれているので、ヒサンだからといって背を向けていてはもうまともに生きることができない/もし異性にモテない男が、女にバカにされすぎてインポになり、なぜか同性の男にチンコが勃つようになったとしても、それを「LGBTだよ、握手しよう」と祝福してやる気にはなれない、僕はLGBTのことはわからないが、そこに誇り高くないLGBTが混ざっているなら、それが「誇り高くない」ことにまで目をつぶってやる義理は見つけられない。

異性愛であろうがLGBTであろうが、自分が誇り高い性愛に到達できないという恥をごまかすことはできない。

別に性愛に限らず、自分が涙ぐましいとき、それは他人から見ると「みじめ」なのであって、そこで自分の涙ぐましさを押し通そうとせず他人から見たみじめさを引き受けようと立ち直らないかぎり、人は誇りある姿に到達できない/そしてどれほど庇護を受けたとしても、誇り高くあれない自分を自分で知ってしまっている以上、その者はもう幸福を得られないのだ、このとき過剰な庇護はむしろ幸福への立ち直りを阻害するイネイブラーの足かせとしてはたらいている。
「誇り高い性愛」に到達できる人なんて、全体の何パーセントいるものだろうか、それが困難であることは異性愛もLGBTも変わらない、それに到達できないということはみじめなことだが、このことに感情的な混乱を覚える人があったとしたら、その人はいつの間にか、「自分はまったくみじめではない者」というえげつない誤解をどこかで形成したのだ、古今東西自分にみじめさを見つけない人がいたとしたらそれは狂人でしかなかったというのに。

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