☆いい女☆で行こう!

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キチガイジーサンの話
心にいると、三日に一回はキチガイジーサンを見かける気がする。
知り合いの塾講師さんは、「三日に一回どころか、老人の八割から九割はそういうものだと思うので、めっちゃ警戒しているよ」と言っていた、まあそれもリアルなところだと思う。
キチガイジーサンは、自分を正義だと思っており、どうでもいいようなところに正義の使途として現れて、どうでもいいようなクレームを、気の狂った顔と声でぶちまけていく、しかも自信が無いので不快さとあわれみと不潔感がハンパではないのだ/ネット上ではよく「老害」と一括されている。
薬局で順番待ちをしていたキチガイジーサンが、何かどうでもいいようなクレームを受付に言っていた、クレームの内容より声がキチガイだった、そして驚いたことに、このキチガイジーサンはその後、待合にあるテレビに映し出された乃木坂か欅坂かのアイドル映像にグッと食い入っていたのだ、おそらく七十年ぐらい生きて行き着いた先がこの姿だという/このジーサンは自分が「醜態」の寄せ集めであることを自覚できなくなっていた。

家でおとなしくしていればいいものを、社交性が皆無のキチガイジーサンは、街中に出て必ず周囲にキチガイeyeとキチガイvoiceを振りまいてこの世界を暗鬱にするのだが、どう考えてもこういったキチガイジーサンは、現在の暮らしとこれまでの人生が幸福でなかったことから発生している/幸福な人間があんなキチガイvoiceを発するのは不可能だ、不幸が全身に染みていないとあんな声にならない。
そして、当たり前のことだが、ふつう自分が幸福に到れなかった場合、「何が間違っていたのだろう」「どこで道を誤ったのだろう」と、悔い改める方向へ考えるものだ、しかし何がどうなったのか、キチガイジーサンは自覚的には「正義のカタマリ」でいる/この矛盾を根本的な形質にするキチガイジーサンは、三十年前にはこんなに数多くなかった(ごくまれにはいた)。
キチガイジーサンは、もう「止まれない」ので、その点を責める気にはさすがになれない、なぜなら焼け付いた神経が常にオーバーヒートしており、神経のレスポンスがとっくに理性を置き去りにしているのだ/信号を見落として赤信号で飛び出し、クラクションを鳴らされると「ブチギレ」になるのがキチガイジーサンだ、これはもう神経が壊れているので投薬なしには制御不可能だろう、ジーサンにとっては常に自分が正義で、その自分にクラクションを鳴らした者が絶対反射的に「悪」になる。
このキチガイジーサンに、ニセの正義を与えてさらなる不幸に追い込んではならない、たとえば駅前の放置自転車とかポイ捨てとか、捕鯨とか戦争犯罪とか差別とかエコロジーとかポリコレとかハラスメントとか、そういうニセの正義を与えると、キチガイジーサンはますます正義の使途になってしまい、「何が間違っていたのだろう」と自分を振り返る機会を失ってしまう/ひどい話だ、「あなたは正義ですよ」とささやかれたときに、「いや自分は間違ってきたんです」と謝絶できるほど、すべての人は強くないぞ、明らかに日々近づく死におびえている者をもてあそぶな。

たとえ平等院鳳凰堂に住んだとしても、キチガイジーサンは朝から猛烈に不機嫌だろう。

なぜ猛烈に不機嫌かというと、朝起きたときから自分が「幸福を得られなかった老人」だからだ、この事実が常に彼を責めるので、彼は決して安楽になれない、また生のみが人間の存在ではないというような宗教的な救いも、老人は聞く耳を持たないだろう。
キチガイジーサンの問題は、シリアスだが解決は不能だし、そもそもわれわれは文化的に、年長者に対して差出口を禁止されている、解決は不能だしそもそもすべての問題が解決可能というわけでは決してないので/少なくともわれわれ自身は、なんとかキチガイジーサンおよびキチガイオバサンにならないよう、なるべく早い内に自分を悔い改めるこころを持つようでありたい、少なくとも自分が「正義」などというアホにならないかぎりはわれわれはキチガイにはならずに済むだろう。
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