☆いい女☆で行こう!

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カミサマに自信を送れ
ーたわけのわからん話だよ。
しかし、なあ、それっぽい訳知り顔を雰囲気で醸し出していたとしても、そんなのでは実際には何もやれないからね。
圧倒的なものが要るのだ/「お客様はカミサマです」と古くからいい、また舞台の上にも神業は出現する、つまりフィクションとノンフィクションの境目は互いにカミサマにゴニョゴニョ(説明放棄)。
フィクションとノンフィクションの境目、その皮膜に流通する仕組みを実践レベルで知りたいのだ、知りたいというか、知らないと話にならえねって具合なのだった、コンチクショウめ。

一方で、僕は出力を押さえないといかんというところもある。
所詮、人間のコミュニケーションは、相手の受容能力を引き出すことで成立しているので、それを利用する以上、表現には「弱い」ことも必要なのだった/うーんこの説明は誰にも意味不明だし、それどころか誰にも説明の必要さえないぜ。
僕は大柄なのだが、単なる体躯のデカさだけでなく、デカいというのは舞台にあまり有利ではないな、人間は基本的に等身大を超える人形で劇をしないものだ/等身大を超えてしまうとあまり「人形」とは扱われず、あまりおいしくない「像」になってしまう。
精密に小さくなれるか? ということなのだが、うーん、そういう訓練はまったくしたことがなかったし、発想もなかったな、そういえば「三人の小びと」という題名のとき、小びとがたぶん主人公だが、「三人の巨人」というとき、たぶん巨人は主人公ではないのだ、デカイというのはそれだけでけっこうやっかいな要素なのだった。

小説は小説を信じる者の、映画は映画を信じる者の、剣は剣を信じる者の、通過するもの。

男を信じない女が男と寝るのは無意味だし、女を信じない男が女と寝るのも無意味だ、フィクションとノンフィクションの皮膜通過点はそこにある、なんのこっちゃという話だが今僕にとっては「なるほど、そうか」の話なのだ(すいません)。
そこで「信じる」ということは、祈りをこめてウッフーンすることではなく、自信を皮膜の向こうへ送るということだ、向こうにはそれを受容する機能があるのだから(カミサマと接続する能力)、そこを利用しないでは何も為せない上に疲れてしまうだろう。
できるオンナだね | comments(0) |
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