☆いい女☆で行こう!

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認める、ということ

間には「認識」という能力がある。
「認める」と「識る」はそれぞれ別個の能力だが、単に識るのみならず、それを「認める」ということが重要になる。
「認める」ということがなされないかぎり、ただちに殺し合いに向かうしかなくなるからだ。
現在、世の中には称賛と批判が跋扈しているが、称賛と批判はどちらとも「認める」ということとは異なるため、たとえばオリンピックの応援ムードもそれ自体が不穏になるのだ/多大な称賛は一方で「認める」ということをないがしろにして起こっている。

「認める」ということは、「これはあなたのもの」「彼のもの」「あの人のこと」であって、「自分のものではない」と認めるということだ、自他の峻別において「この人のもの」と認めるということを「認める」と定義していい。
たとえばフィギュアスケーターが氷の上でジャンプして四回転する、それは「すげえ」と思うが、それが何なのか正直僕には「わからん」し、僕にはできないことだしやる気もないので、四回転ジャンプは徹底して「僕のものではない」、そこで自動的に「認める」ということが起こっている。
僕は四回転ジャンプについて、称賛も批判もしないのだ、なぜならそれが「すげえ」といっても、三回転ジャンプだって僕にとっては「すげえ」からだ、そのそれぞれがどう違ってすごいのかは、僕自身がジャンプして回転するわけでもないのにわかりっこない。
もし僕が、そのジャンプを「この人のもんだろ」と「認める」ことなしに、そのジャンプの出来栄えやすごさをじっくり鑑賞しようとするなら、どうなるか/それは意識や感覚の上で、ものすごい邪魔になり、プレイヤーの「足を引っ張る」ということになるのだ、それでそのときのフィギュア選手は、「他人を感覚的に完全無視する」という、スポーツ選手でも何でもない特殊能力を身につけなくてはならなくなる、これではプレイヤーは全員メンタルの名のもとに「機能マヒ」を目指さなくてはならなくなる。

「認める」という機能がない人は、必ず自分を主語にしか話せない。

「わたし、とっても感動しました」という、わたし主語でしか話せないのだ、これは「認めない病」の典型的症状で、目の前の「この人」に主格があるという感覚がないということを表している/自分が四回転したわけでもあるまいし、「認める」ことの上ではふつう、「この人、すんこい努力したんだろうなあ」と落ち着いたものだ、ジャンプしていない自分が感涙するのは感覚がおかしい。
子供のピアノの発表会で、ママが感涙してしまうのは、まあしょうがないのかもしれない、けれどもその方式の中で子供が音楽を獲得することは決してないだろう、子供はママのプレッシャーから「コンクール」で優勝することしかできなくなる/もう一度申し上げるが、「認める」ということがなされないなら、その関係はただちに殺し合いに向かっている。

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