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認める、ということ2

「認める」ということは、どう見ても当たり前だ。
しかし、ある種の人にとっては、「認める」ということには多大なストレスが伴う。
その人を「認める」ということは、自分も「認める」ということだからだ、「これはこの人のもの」ということを認めてしまう以上、「これはわたしのもの」と認めてしまうことも同時に起こる。
たとえば「すばらしい歌声」があったとき、「このすばらしい歌声はこの人のもの」と認めてしまうと、同時に「この引きつった歌声はわたしのもの」ということも認めてしまうことになる、これがすさまじいストレスなのだ、だから必ずといっていいほど、「自分のものを認めたくない人」ばかりが歪んだ何かのファンになり歪んだ応援に入れ込みはじめる。

<<「認める」ということには多大なストレスが伴う>>、ということを土台にしておけば、このことはある程度正しく取り扱える。
自分自身のこと、「これが自分のもの」と認めるということは、激しくツラいことなのだ、それはいっそ「無理しなさんな」と言いたくなるぐらい、耐えがたいツラさを伴うものだ。
この、「これが自分のもの」と認めるというツラさが主題であって、それ以外のこと、つまり他人を認めるどうこうのことは、正直他人のことだからどうでもいいのだった、申し訳ないがこのレベルにいる人は他人のことがどうこうなんて初めから眼中にないはずだ。
「認める」ということには、多大なストレスが伴うもので、「認める」ということはどうしてもできず、なあなあのなれ合いにするしかない、しかしそれは足を引っ張ることに必ずなるので、どこか肝心なところで人にうとまれているような気がする……という、この筋道にバッチリ適合してしまう人が少なからずあるはずだ/要はどこで「これが自分のもの」と認めるか、その向き合うタイミングと段階の問題になってくる、必要なことだが無理をするものではない。

「認める」ということは、シンプルだが、恐怖すぎる。

たとえば多くのママは、娘について「これがこの子のものなのね」と認めることはほとんどしないものだが、それはなぜかといって、当人が不幸だからだ、娘について「これがこの子のもの」と認めてしまうと、とたんに手触りのある老化と無能と不幸について「これがわたしのもの」と認めねばならなくなる、これがキツすぎるので、一般にママは娘を永遠に認めないのだ。
たとえばあなたが目の前にしているこの文章だって、これは僕のものであって、あなたから見ればこれは「この人のもの」なのだが、あなたが「これはこの人の言葉、文章」と認めようとしたとき、「じゃあわたしの言葉や、文章は……」という問いかけが起こって、そこで心理的にぐちゃぐちゃっと乱れるというナゾの混濁現象があるはずだ、それが大きなストレスが掛かっているということ、まああまり無理をするものでもないので今夜も旨いメシを食うのがいい。

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