我慢(アートマ・マーラ)というのはおそろしいのだ。
「わたしは洋食が食べたかったのに、いつも和食に連れて行かれた!」と女は激怒している/「わたしずっと我慢してたの!!」
憤怒し、怨み、憎んでいるのだ、報復として人を大いなる不幸に陥れたいと思っている。
「わたしは洋食が食べたかったのに!」、この正当を極めた正義の怒りの中で、「そもそも、食事に連れて行ってもらえたんだね」ということは消え去っている、我慢(アートマ・マーラ)というのはそういうものだ。
僕があなたに一万本のバラの花束を差し上げたとする。
その中に、花屋の見落としで、一つだけ棘が残っていたとする、その棘があなたの小指をチクリと刺した。
するとその一万本のバラは、とたんに花束ではなく、テロリストが送りつけた毒針のカタマリに変貌する、「絶対に許さない!」「あなたはわたしをドス黒い気持ちにした!」「小指から血が! わたしはこんなに傷つけられることも我慢しなきゃならないの!?」。
9999の愛は、混入した1の僻(ひが)みに勝てないだろう、そして死ぬ直前(本当の直前)に一人きりで思い出す/「わたしはわずかな僻みを崇(あが)めたてまつり、無数の愛をドブに捨ててきた! もちろんそのすべての行いは、わたしの罪に加算されている!」
彼女は、僻(ひが)むことでしか食事が喉を通らず、僻むことでしか眠れず、僻むことでしか濡れなかった。
「僻む」、つまり「我慢」を肯定することでしか、彼女は生きられなくなった、彼女は健康に、まっとうに生きていくために、日々なんとかして僻みを吸収しているのだ、無限に悪態をつく老婆はこのように形成されていく/僻まなければ食事も睡眠も摂れない。
あなたは夜、眠る前に、どのようなメディアにふれ、どれのような夢想を得てから眠るだろうか/それはあなたがあなた自身に聴かせる「おとぎ話」だ、このおとぎ話なしに人は夜眠ることができない。