☆いい女☆で行こう!

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「悔しい」という原動力2

が100メートルを18秒で走ったとする/まともな人は16秒ぐらいで走り、早い人は14秒、さらに優れた人は12秒、あるいはもっと不得手な人は20秒以上かかってしまうだろう。
僕は16秒の選手には負けるわけだが、その「負けた」というとき、どのように感じているかというと、「脚の遅い奴が、脚の速い奴に、かけっこで勝てるわけないだろ」と感じている、そりゃ当たり前だ、人間がかけっこでチーターに勝てるわけがない。
僕はそこから、「よーし、14秒で走れるようになってやる」、という発想は起こさない、どうしてそういう発想が起こりうるのか、そちらのほうが僕には不思議だ、「なぜ僕が、脚の速い奴にならなきゃならんのだ」と、そのことの動機と理由がまったく見当たらない。
僕が、18秒で走れるものを、14秒に縮めるというのは、まるで一重まぶたを二重まぶたに整形する手術のように感じる、そりゃ比較すればそちらのほうが「優れている」と言われるのかもしれないが、僕にはそもそもなぜ自分が「比較的」に優れなくてはならないのか、その動機と理由がよくわからない。

幼稚園のころ、かつてのホームビデオにも残っていたはずだが、運動会の徒競走があって、ヨーイドン、その火薬銃がパーンと撃ちならされたとき、僕はスタートラインで「?」と突っ立っていた/なぜ大急ぎで向こうまで「走る」ということをせねばならないか、僕にはよくわからなかったのだ。
実はこのことは、その後小学校、中学校、高校、大学……と、今でも続いていて、僕はいつでも競技者のスタートラインに立たされたとき、そこから何が為されるか「よくわかっていない」のだ/昔、社会科のテストのときも、なんとなく高得点を獲るのがいやで、解答できるところを半分ほど空欄で提出したこともある、しかしそれは僕の「権利」ではないのか。
ハイスコアとロースコアの識別ぐらいは、僕にだってできるが、僕がハイスコアを獲らねばならない義務はないだろう、たとえ最上位のハイスコアを獲る能力があったとしても、テキトーなロースコアに収めてしまうという「権利」が僕にはあるはずだ、つまり僕が18秒で走るか20秒で走るかそれ以降で走るかは、僕自身が決める権利があるはず。
僕にとって、僕が生きていることは重要だが、僕が周囲と「比較的」に優秀であることは、僕にとって何も重要ではない、何しろその比較対象者は、僕と共に死んでいくわけではないからだ、僕が生きて僕が死んでいくのに誰と何を比べようというのか、僕には始終「意味がわからん」と感じられているのだった。

隣のメシが豪勢でも、そのメシがおれの胃袋に入るわけではない。

僕にとっては、僕の胃袋に入るメシが重要なのであって、厳密にいえば、この世界における「メシ」というのは、僕の胃袋に入るメシのみを「メシ」というのだ、コアラはユーカリの葉ばかり食べるそうだが、それは僕の「メシ」ではない、僕が何を食うかをコアラが知ったことではないように、コアラが何を食うかは僕の知ったことではない/それぞれの「メシ」は別世界だ。
もし検出装置があるなら、ぜひテストしてみたいが、たとえば僕の運転するレンタカーの横に、若者が乗るフェラーリが横付けされても、僕には「悔しい」という感情を覚えるメカニズムがないのだ、まず「比較」および「比較的」という機能が作動していないから、横でエンジンをブオンブオンされても「えっっ?」と戸惑ってしまう/僕は頭がクルクルパーなので、「オリンピックで優勝したら、金銀銅のうち好きなメダルを一つを選ばせてくれるんじゃないの? どうして優勝したのに選ぶ権利もないんだよ」と、わけのわからないことを本気で疑問に思っている。

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