☆いい女☆で行こう!

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すばらしきはノー・チャンスの世界
まり、やはりこれがマジの話ということか。
妄想とか幻覚とか、視野狭窄とか、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とか、とにもかくにも、われわれは「何が見えるか」「何が見えてしまうか」「どう見えるか」「何が見えないか」ということに支配されている。
毒に中ると、「見えなく」なるのだが、単にそれだけではない、「違うものが見えてしまう」ということがあるのだ、欺瞞や錯覚や妄想がまるで真実に「見えて」しまう。
そりゃまあ、そう「見えて」しまうからには、それが真実に「見える」に違いないわな……そこで「何が真実だろう?」と、首をひねっていてもしょうがない、必ず見誤るし、看破は不可能だということだ、何しろ毒が回っているうちは必ず本当のことは「見えていない」のだから。

つまり、「見える」を背後で支配している「毒」を、制する、これしかやはり方法がないわけだ。
毒を制する、というのは、身を洒脱するということだが、これは身をもって取り組まねばならないので、基本的にキツいというか、基本的にムリといえる(えっ)/まあわれわれのような出来損ないが、そううまくいくはずがないのだ、必ず道を誤ること請け合いに決まっている。
毒が回っているか否かは実は見切りがカンタンで、毒が回っていたら主語は「わたし」になり、毒が償却されていたら主語は「世界」になる/毒は必ず「わたし」が輝くことが真実だという虚妄を見せ、毒が償却されると「世界」が輝いている実態が真実だと見えてくる。
「わたし」というものには実感があり、「世界」というものには実感がない、よって「わたし」はノンフィクションで、「世界」はフィクションだ/体内に毒(物質、または二日酔い的物質)が駆け巡るうち、人は「わたし実感」の存在でしかありえず、実感に囚われるからこそ、フィクションの「世界」は「見えて」こない。

毒は「チャンス」の形で現れ、見える世界をゆがめる。

まったく究極的な言い方になるが、妄想は「チャンス」の感触で現れるのだ、わかりやすくは「魔が差す」とか「出来心」とか、それだけじゃない、もともとは何もないこの世界に「出来事」「機会」がさもあるような錯覚を与えて、人を実感のノンフィクションに引きずり込んでしまう/人は「わたしのチャンス」に最大に弱く、中毒者は常に「チャンス」を探し回る豚になる。
世界を見るならノー・チャンスで/すばらしいことはすべて人が全身全霊で、しかし何のチャンスも期待せずチャンスという概念を忘れていたときに得られてくる、理のまま光のまま四方豊かに物事は進んでいくだろう。
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