☆いい女☆で行こう!

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幸福と感動の違い、視認できない「幸福リスク」
でも「幸福」というのはわかるのだ、その対極にある「不幸」というのがわかりやすいため。
ただ、一般に「幸福」というイメージは、けっきょく「穏健な暮らしと慈しみあえる家族」に行き着くわけで、幸福は何らの「感動」もその成立要件には取り込んでいない、究極的には幸福というのは「不幸から最も縁遠い」ということなのかもしれない。
一方、「感動」のほうはどのようなものかというと、「感動」は不幸のさなかにでも成り立つということだ/たとえば不幸の代名詞というと「戦場」だが、「戦場のピアニスト」「戦場のメリークリスマス」というような映画がある、これが「戦場でないピアニスト」「戦場でないメリークリスマス」だと「それは当たり前だろ」になり感動はなくなる。
ピアニストにせよメリークリスマスにせよ、それは戦場でないほうが幸福に決まっているのだが、それが単純幸福だと「感動」にはなりえないわけだ、つまり「感動」を希求する派においては、実は「幸福はいい、だが幸福より上位たる価値が存在するのではないか?」という前提的疑問が保たれているのだった(岡本太郎は「感動」ではなくこれを「歓喜」と呼んだが、ここではわかりやすいように「感動」と呼んでいる)。

ここで問題になるのは、幸福は「誰でもわかる」のに対し、感動は「誰でもはわからない」ということだ、幸福は誰でも視認できるが、その視認できるものより上位に、価値がある「かも」ということ、これは誰にでもは見えない。
幸福は不幸の対極として、むしろ不幸に対する恐れから視認しやすいものとなるが、「感動」(歓喜)にはその対極がないので、視認できない、視認できないということは、それが「見える」かどうかは、思考と学門による演繹によって「見える」かどうかになる、このことは単純に知性へのスタミナを要求するので、知性のスタミナがない人は途中離脱して「幸福が最上位の価値、もうそれでいいじゃん、それで誰も困らないし」と結論するのが自然だろう。
幸福は誰でもわかるので、自分の幸福に文句を言うアホは一人もいないのだ、だが「幸福なら完全に満たされているということなのか?」という問いかけ、これについて「そりゃそうでしょ」派と「それは違うな」派に分かれる、これが幸福派と感動派の分岐になる。
おそらく、本当に完全に「幸福だけあればすべて満たされる」と信じ切っている人はそんなに多くないのだが、かといって幸福と感動を明確に区別している人もそう多くはなくほとんどいない/よって多くの人は「半信半疑」の中にいて、幸福を当然に保全しながら、感動を眺める、しかし感動に手は出さない、という具合でいるのではないだろうか、慎重に考えているふりをして、その実は単に未知のリスクに怯みながら。

実は、感動が幸福を破壊することは少なく、幸福が感動を破壊している。

目に見えないリスクがあるものだ、つまり、「感動」という上位価値が視認できないものである補いに、「感動」に関わるリスクだけは視認できるようになっているのだ、それは逆に見ると、「幸福」という価値が視認できるものである補いに、「幸福」に関わるリスクは視認できないようになっているということ。
つまり、幸福にもリスクがあるということ、幸福があなたから「感動」という重大なものを奪うことはいくらでもある一方、「感動」というのはいかにも危険な感じがするが、そのリスクは視認できてしまうため、実際には感動が幸福を破壊するということはなかなか起こらないものだ/たとえるなら速度制限のないアウトバーンで、実際には交通事故は少ないというようなことだ、速度制限のない道路のリスクを視認しながら走るのだから、単純に事故が増えるという見通しは成り立たない。
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