☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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さびしさはスケールの欺瞞に向かう

えば、今、世界的にLGBTへの差別をなくそうという動きがある。
その動きは世界的なものだが、たとえ僕がその動きに賛同・同調し、「差別はよくない!」と言い出したところで、それで僕自身のスケールが世界的になるわけではない。
あるいは、世界の歴史に関与した「日本」という国の存在と歴史は、十分に有為なものであり、同国民として胸を張って誇るに足ると思うが、そこで僕が胸を張ったところで、やはり僕が世界史において有為なはたらきを為したわけではなく、僕自身のスケールは変わっていない。
僕「自身」で何ができようか? 僕が発起する何かで、世界的な何かができようか、あるいは人類史上に刻まれうる何かができようか、なかなかそんなわけにはいかないだろう、じゃあ僕が「自身」で出来ることというと、せいぜい目についた女の子を笑わせるぐらいだ、そのあわれなほどみみっちいスケールが「僕」だ、そしてそのスケールが「正しい」のだった。

もし、Aさんが、愛する人もなく、愛してくれる人もなく、友人もなく、まともな仕事もなく、思い出もなく技芸もなく、自分の信じられる未来もなく、「いい大人なのに、教養もない上に、まともに人と接することさえできないじゃん」という状態だったら、Aさんは自分のみじめさに潰(つい)えるだろうか。
実はそうはならない、このときAさんは、かなりの高確率で、自己スケールの欺瞞に向かう、つまり「世界には陰謀が渦巻いていて、人々は操られている」「歴史は強者が作ったウソだらけ」「エコロジーと再生可能エネルギーが世界の流れ」「嫌煙は強化され、マリファナは解禁に向かう」「男女差別は撤廃するべきだし、LGBTには新しい婚姻の定義を社会的に与えるべき」と唱えるようになる/脳内を世界的・世界史的スケールのもので埋め尽くして、自分の直接の身そのもののスケールを認識しないようにするのだ。
いい大人になって、自分の直接の「身」に、「この世界に通用する実力がまるでない」「愛する力や、慕われる徳性がまるでない」と実感せざるをえなくなったとき、現在と未来は閉塞しており、猛烈に「さびしい」のだ、それはもう朝起きたときから、際限のないさびしさが身に迫ってくる、しかも解決しようがないのだから、人はこのさびしさをスケール欺瞞で隠そうとする/よって「さびしさはスケールの欺瞞に向かう」と一般化して言い得る。
本来はそこで、「愛する力を、そして友人たりうる徳性を、仕事になりうる実力を、一所懸命生きる性根と、道を拓くだけの蓄積を、そして清潔な魂と、人間関係を作ってゆける当たり前の日々を、手に入れなくては」と考えるべきなのだが、孤立してプライドだけ膨張した現代人にとって、その取り組みはキツすぎる、そのキツさに真正面から向かえる人など極めて例外的な存在だ/ほとんどの人は世界的・世界史的なスケール視点で自分の脳内を汚染し、あたかも「自分はこの世界のほとんどの基本素養をもっている」という錯覚を己にほどこして生きていかざるをえない。

佳い声の人の話は小さく、貧しい声の人の話は大きい。

たとえば声の佳いおっちゃんは、「このごろはもう、仕事でもゴルフでも、ワシなんか若い人の足手まといやで」とご自身のことを笑っていらっしゃる、そしてこういう人はさびしくない、人を愛して人に愛されて、もちろんいきなり世界的にLGBTがどうのこうのという話を世界意志の代弁者のように垂れたりはしない。
ヒントは「さびしい」ということなのだ、自分から佳い声や眼差しや姿が生じないということを、自分も知っているし周りの人も知っている、それがどうしようもないということが「さびしい」/たとえばオリンピックでも「世界的」な活躍を示すスターが誕生するが、そのスターを崇拝するがごとくの勢力が露骨に出現する、そのうち少なからぬ割合は悲鳴の出そうな「さびしさ」から出現しているに違いないのだ、スターの世界的な活躍に同化心酔しているうちは、自分のさびしさに直面しなくてすむという強迫的な動機がはたらいている。

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