☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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よし、やめよう!!
年連続、夏になると郊外の砂浜でナンパ待ちをしているパリピ・立ちバックハメ子(22)はとても美人で細身に笑顔が印象的だが、そうした女の子でもバカではない、女の子だからって直観だけ優れていやがって、大切な話には急に立ち止まり、しっかりと食いついてくるのだ、僕はこの、人の底にある賢さについて、もうイヤというほど驚かされている。
立ちバックハメ子は、まだこの世界に存在を得ていないのだ、だからフラフラしているように一見みえる、しかしまあ、僕はもう目眩(めまい)がしているのだが、こんなデタラメな女の子でさえ、僕が遊ぼうとすると、急に正気に返ったふうになるのはなぜだ!! なぜそんな直観だけのうのうと発達かつ保存されていていきなりあっさりと機能するんだ!!
立ちバックハメ子が、さんざん迷ってきたタトゥーを入れるかどうかについて、「やめとき」「うん」と急にすんなり素直に決着するのはなぜなんだ、そして「髪型はどうしたらいい? 黒く染め直したほうがいい?」とか、「服装はどうしたらいい?」とか、何の条件もなくいきなりおれに積極的従順になるな、まるでお前は誰かを探していたみたいに、こっちがびっくりするだろう。
まあしかし、ここまで来たらもう認めざるをえない、確かにガキのころにも、おれが呼んだときだけ帰ってくるTという犬がいた、あの感触……生命が底でもっている賢さと直観は逆に僕の側が怖くてビビるレベルだ/表面上の「バカ」は、バカに見えればこそ、その底はまったくバカではないケースが多々ある、つまり何の叡智も与えられていなかったから「結果的に」バカだっただけで、吸収可能な叡智に接触すると急にスポンジみたいにすべてを吸収する奴がいるぞ、まるでそこまで生きてきた二十年間のすべてを瞬時に忘れ去ったみたいにだ、本人に屈託がないだけこっちがビビらされる。

このところ、社会情勢に合わせて、やれ男女平等だのミソジニーだのミサンドリーだの、セクシャリティの壊滅した状況に折り合いをつけるための理論を模索していたのだけれど、もうやめだ、「やめよう!!」と宣言したい、つまりぜんぶ間違いというか、間違いどころじゃない、どのような苛烈な論争も、出会うべきものに出会ったら本当に霞(かすみ)のごとく消しとぶ、まったくの空白の積み木でしかないのだ、実際そういうケースがこれまでの経験上多すぎる。
つまり、言い争いの人格とか、ミソジニー・ミサンドリーの人格、うぇーいの人格や、「陽キャ」の人格、それらのすべては、実は体内に分泌されている「物質」「分泌物」から生じているだけで、その分泌物に作用しない人と出会うと、これまでのやかましい人格は一切出てこないのだ、実際立ちバックハメ子(22)は、たとえば「歯ブラシを新品に換えなさい」とかテキトーに言ったとしても、「うん」と素直に従うだろう、こちらが驚くぐらい「信じる」という従順さの性能が残っているのだ。
その点は、いわゆる「意識高い系」の人や、理論武装した人、あるいは努力や正義は人並み以上にしてきたという人のほうが厄介になる、理論武装済みは常に「疑問を第一」にして議論をしたがるからだ/これまで僕は、その種の議論で負けたことはない、なぜなら僕が「じゃあそれでいいよ」と先方を完全肯定すると、先方の顔から血の気が引いていくからだ、つまり議論の前から直観で先方が負けを知っているので、そもそも議論をする必要がない、ただ理論武装の人や努力と正義の人は、自分の震えや凍えを無視して表面を取り繕う習慣がクセになっているので、同じ話を二度塗り・三度塗りとしていかねばならない、それでも剥げ落ちてしまうから理論武装の表面コーティングはとても厄介だ(むろんそんな奴にしつこく話す義理はこちらにはない)。
どうかこの驚天動地の可能性を、いくらか共有してくれ、僕にとっては繰り返される体験の事実なのだ、デタラメなパリピにしか見えない立ちバックハメ子は、たしかにデタラメ女にしては見た目がきれいすぎた、それは太陽と光の側に生まれ落ちた者だからだが、このバカ女は実はまったくバカじゃないぞ、「そこに正座して聞きなさい」と申しつけたら何の屈託もなく正座して聞くぞ、急に……ただ驚かれるべきは1.出会うべきに出会ってこなかったという世間的状況の事実、2.出会うべきに出会ったときはこれまでの人格(のように見えていたもの)が霞のように消し飛び、しかも本人には何の珍しい表情もないということだ、こりゃあかん、マスコミやSNSに端を発している騒動や論争から生じるエセの人格の言い分から人や自分を判断するべきじゃない、出会うべきに出会ったら急に賢い人が出現することが多々あるのだから、それ以前にあったヤッサモッサは本当に全部空白の積み木でしかないのだ。

文明が発生する以前は「人類」ではなかったように、出会うべきに出会うまでは「その人」じゃない。

ヒト属の最古がジャワ原人あたりで200万年前、現在の「人」が誕生したのは25万年前だとか、しかしわれわれが知って共感を持ちうる「人類」はせいぜい1万年前からだ、人は何十万年も何百万年も「人類」ではなかった、大脳の発達した生命ではあったに違いないが、わけもわからず生きている状態で、それは「人類」ではなかったのだ、それと同じようなことが個人にも起こる/個人においても、「これまでの22年間はわけもわからず生きていたの」ということが実際にある。
音楽や映画や、読書やマンガや、ファッションや家族や、恋人やセックスを、ただ漠然と「好き」と思って、わけもわからず生きていただけ、そのすべてが急に「そうじゃなかったんだ」と目が覚める瞬間がやってくる、そのときがくるまでのヤッサモッサはぜんぶ霞だ、空白の積み木だ、その中で人格やら主義やら人やら自分やらを認定して揉めるのは「やめよう!!」、われわれは不毛で誤ったことを「やめる」という強力な理性の選択肢を持っているのだ。
正しく見ないとな | comments(1) |
コメント
九折さん謹んで。こんにちは。突然ですが腑に落ちたので書かせていただきます。
私は美人ではありません。ずっと美人になりたくてできる限りのことはしてきました。
しかし、私が美人ではないのは私が光の側に生まれついていないからだな。それがいいとか悪いとかそういう問題じゃなくて、
ただそういうものなんだなと、そう思うとすごくしっくりきました。
九折さんは誰彼が美人、不美人である、それに対するドロドロした感情などの事情は知ったこっちゃないと思うのでこれは私が勝手に気がついたことです。ありがとうございました。
2018/03/14 7:26 PM by 名無しのあいす
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