☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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「わたしもそれ、わたしも同じ」とは言わないこと
「なんとなく、天国にいける気がまるでしない」という陰性インスピレーションを、生まれつき宿されている人がある(割合としてはそちらのほうが多数派かもしれない)。
この陰性インスピレーション者を「谷底」と表現すると、光性のインスピレーション者は対比的に「山上」となる。
ここで重要なことは、若年の人には大変キビシイが、谷底から山上を見上げたとき、それがいかにまぶしく信じられようとも、「わたしもそれ、わたしも同じ」とは言わないことだ、谷底者は山上者と同じことは決してできないから。
ここにおいて、ヘヴィな問題が降りかかってくる、それは、確かに谷底者(陰性インスピレーション者)が見上げて頼るべきは山上者(光性インスピレーション者)なのだが、それは見上げれば見上げるほど、格差を直視することになり、むしろ慰めからは遠ざかるということだ/状況を厳しくブルーに感じているところ、さらにブルーな要素を足すことになってしまう、それは相当耐えがたいことで、つい見上げた山上に「わたしもそれ、わたしも同じ」と言いたくなってくる、しかしここの厳しさを甘やかすことはますます本質的解決を遠ざけ、思いもしなかった入念な報いを受けることになってしまうだろう。

勝手なおせっかいだが、考え方を変えることだ、第一の問題は山上か谷底かじゃない、第一は「谷底にも光は届く、光は差す」ということだ。
もちろん、光を受けるなら山上のほうが有利で、谷底なら冷えた地の底を探るほうが有利だ、だがこの有利に惑わされず、谷底にまで差す光をよろこぶこと、たしかに光の届く割合は山上に比べれば限定的かもしれないけれども、「上等だ、十分以上だ」と。
何をもって、人が谷底やら山上やらに分かたれているのかは、われわれのような凡人にはわからないけれども……しかし確実に言えることは、山上にある人も実はただならぬ戦いをしているということだ、山上にある人は<<滑り落ちないよう踏みとどまり続けている>>という形で戦っている、これは谷底の側からは見えない戦いなのだ、ただそれが尋常ならざる戦いで多くは想像を絶しているものだとだけ僕は申し上げておきたい。
谷底にある人は、見上げた先に向けて「そこまで上れる気がまるでしない」ということばかり感じてため息をつくのだが、谷底にある人がそこに留まっているのはそうしてため息の停滞で済む一方、山上にある人がその山上に留まっているのはまったく停滞では成り立っていないのだ、ため息の許されない場所に彼は立っていることを忘れてはならない/谷底に留まることと山上に留まることはまったく負担が違うのだと知っておけば、山上への見方がフェアになり、そのことこそがあなたを正しく励ますだろう。

われわれが、ガンジーと同じ負担を課されたら、血を吐いて頓死するだろう。

ああいう偉大な人は、すさまじい負担に耐えながら、なお感官を完全に制しきり、叡智を手放さず、善悪の識別や執着さえ超えた先にある、愛と光の声を発し続けたのだ、それは常人には耐えられない負荷の量だ、感情的にブーイングしたりムカついたり「ガマン」したりが内心にさえ一ミリ秒も許されない中を生きられたわけだが、ああして他人から見ても「天国に行くだろうな」というインスピレーションの人は、常人には想像のつかないレベルの戦いを勝ち抜くことで成り立っている、谷底者はその光だけに憧れてその戦いの壮絶さを見落としがちだ、そこを見落とすとフェアでなくなり結果的に自分こそが損傷する。
谷底から山上を見上げると、山上者は光の中で「余裕」でたたずんでいるように見える、確かに余裕でたたずんでいるのだが、それは見方が違う、壮絶な戦いにさえ「余裕」で勝つほどに鍛えられていなければその山上にはいられないということなのだ、「壮絶な戦いなどなくて余裕」ということではない、最前線にいる歴戦の勇者のほうが後方にいる新参兵より「余裕」というだけのことだ、そのことを知らずに光にだけ焦がれていると「わたしもそれ、わたしも同じ」と言い出してしまう、そうした不相応の妄言は後にそれなりの報いを受けてしまうだろう。
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