☆いい女☆で行こう!

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ふつうでなく正常な友人
んだかんだ、十年以上も、こんなブログやサイトを読んでくれている人が何百人か何千人かいるのだけれども、今さら当たり前のことを言う心地ながら、「ふつうのこと」を「ふつうに」書いていたら、それはつまらなくて読んでいられたものではない。
もちろん、お茶の間向けのコンテンツと同種類のものとして、「○○温泉に行ってきました〜☆」みたいなレポを書いても、それはそれでやわらかい需要があるのかもしれないが、それは当然、消費者にとって「重要な出会い」ということにはならない、そういうことをさせたらそりゃあテレビコンテンツのほうがカネも掛かっているし優れている。
「ふつう」という安全帯を、そもそも切り離すのだ、「ふつう」を取り外したときにその人間の性根が見えるだろう、「ふつう」から離れたとき、その人はやはり陳腐なのか、小物なのか、迷惑なのか、痛いのか、不潔なのか、「つまんない」のか、それとも何か胸を打つところや惚れるところがあるのか、はたまた「逆に同情するわ」というありさまであるのか。
好奇心や、興味を、刺激するのではない、引きちぎるのだ、ヒマつぶしに読み始めたつもりの人が、何かおかしなことになって揺さぶられ始めた、というようなことが一番好きだ、そういえば以前「あなたのところに来て、気づいたんですよ、仕事なんかしてる場合じゃないって!」と笑ってくれた人がいた、僕はそういう話がとても好きだ(僕の周辺に限らず、話の種類として)。

外国から、わざわざ帰省のスケジュールを練って、会いに来てくれた人がいて、彼女と僕はむろん初対面だったが、会うなりもう10分も経たずに、ぽろぽろ泣き始めていた、「どうして涙が出るのかわたしにもわからないの」、こんなのは「ふつう」ではない。
「ふつう」ではないのだが、それは「異常」なことだろうか? 何か胸に届くところ、胸に訴えるところがあり、涙がぽろぽろこぼれてきたということは、初対面だろうが何だろうが、「正常」なことではないのか/逆にそういったことが一度もないまま八十八年も生きるということは「正常」と寿(ことほ)ぐことができるのだろうか。
あなたの全身全霊は、本当にすみずみまで、「正常」に澄み渡っているだろうか、「ふつう」を切り離したとき、あなたの全身全霊からはその「澄み渡っているあなた自身のありさま」が出現しなくてはならないのだが、そのあたりはさあどうだろう、とりあえずすべては「ふつう」という振る舞いの中に隠しておけば表沙汰にならないのだが、表沙汰にならないということは裏沙汰になっているということだろう、本当に無傷で済んでいるわけじゃない。
もちろん第一には、すべてをまず「ふつう」にこなせることが重要だ、そのことは学校と集団生活で教わってきたろう? さてそれを第一の資格として、次に、「ふつう」を切り離したときに出てくるあなたはどんな具合だ、僕は何もおかしなことを言っているのじゃない、あなたが長いことこんなブログを読んでくれている理由は、第一にこのブログに書かれている声が「ふつう」という安全帯に守られていないからだ。

あなたは「ふつう」で、僕は「ふつう」じゃないが、それは必ずしも僕が「不当」ということではない。

僕が何を「不当」と感じるかというと、これは僕自身の話だが、もし僕がこんなわざわざ公開しているブログで自分の「ふつう」のことを書き話し続けたとしたら、そのときは僕は自分の行為を「不当」と感じるだろう、誰も「ふつう」のことなんかわざわざ聞きたくないのに、せっかく読みに来てくれた人に対して不誠実をしたことになる、そういうことは実に不当だと僕は思うのだ。
また明日も新しい記事が読みたいと思ってもらえるかどうか、そのためには、「ふつう」という安全帯を切り離していることが大前提になる、「ふつう」ということには何の罪もないが/また読みたい、あるいはまた会いたいと思ってもらうためには、「ふつう」などというグッタリした安全帯を切り離していることが大前提だ、「ふつう」から離れてなおこの人は「正常だ」と信じられるとき、われわれはその人のことを友人と感じるものだ、「この人のやりたい放題は何ら不当ではないわ」とよろこべる友人を見つける。
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