☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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いつぞや試されたらしい「命の教育」とやらについて
名な話、どこぞの小学校で、豚のPちゃんを900日飼育して、屠殺する、という実験的教育をしたらしい。
僕は当事者でもないし、実態を詳しく知らないので偉そうなことは言えないが、一方的なキメツケとして、試みられた実験については「反対」だ、教育どころか子供たちに「罪」しかもたらさなかっただろうと、何の根拠もなく断言したい。
名前をつけて呼んだものを屠殺してはだめだ、名前をつけて呼んだということは、人から豚へ「わたし(たち)を信じて」と呼びかけたことになる/豚さんはきっとその呼びかけに応えただろう。
命の教育ということでいうなら、名前をつけなくても命の重さは十分にわかるだろう、名前をつけたものを屠殺したとき、そこに残る重さは命の重さではなく罪の重さ、生きものの「こころ」を殺した罪の重さだ、その重さを知ることは人を極道やギャングの方向にしか押し出さない/実態は知らないが、この実験的な試みの実行者たちの多くは、けっきょくのところ重たい後悔だけを残したのではないだろうか。

当たり前のことだが、「○○ちゃん」と名前をつけて呼んだら、その生きものには、その呼びかけに応える「こころ」が育ってしまう。
肥育したあと屠殺するというだけでも、人々は手を合わせなくてはならないほど命は重たいのに、そこにわざわざ「こころ」を育ててから屠殺するというのでは目も当てられない、そのことに専門の識者や業者は入れ知恵をしなかったのだろうか。
こんなこと、僕が世間の端っこから口出ししてもしょうがないし、思い入れのある人にとっては口論の対象にしかならないのかもしれないが、どうかこんな小さい僕のしょうもない発言は捨て置いてくれ、どうせ何にもなりゃしないただの吐露だ、僕が間違っているならそれでもいいので、それにしても僕は屠殺する予定のものに名前をつけて親しく呼んだりはしないことを選ぶだろう(ということを、どうしても述べなくてはならない状況に今ある)。
もしこのようなことで、われわれが口論することがあったとしたら、そのときはわれわれが互いを「○○さん」とは思っていないということだ、僕のことが大キライで論駁したいと感じる人は、僕のことを「九折さん」とは感じていないのだろう、そのことこそ逆に、親しく名前を呼ぶということが生きものにとってどういう意味をもつことなのかを雄弁に物語っている。

人間の堕胎だって、わざわざ名前をつけてから堕胎はしないだろう。

もし僕が、巨大な水槽にマグロの「まーちゃん」を飼っていたとして、適当に肥育したら食べてしまうだろうな、それはマグロという魚類がきっと僕の呼びかけに応えはしないからだ、とはいえそれでも、おいしく刺身をいただいたあとは、なんとなくその骨は埋葬して弔うかもしれない、一度は「まーちゃん」と名前をつけて呼んでしまったからには。
名を与えられ、呼ばれて応える、そのこころが育つ、その自己の存在(existence)と、楽しみにしている「毎日」が与えられてから殺してはいけないのだ、「生きるためには殺さなくてはならない」ということはカルマ(業)の理屈として成立するが、わざわざこころを育ててから殺すのは「生きるために」の理屈から逸脱している/僕は非難しているのではなくただ机を蹴飛ばしているのだ、どうか大目に見てくれ。
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