☆いい女☆で行こう!

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アカンアカンそれはマジにあかん2
る男性が、精一杯健全のつもりではあったのだろうが、「まともに女性と接することができるようになりたい、ちゃんと勉強して練習したい」と言った、この男性は僕などよりはるかにイケメンの男性で、あこがれに足りるような自活を獲得している男性でもある。
それでその男性は、がんばりますという調子で、勇気をもって女性の横に座ったのだが、僕はその途端に彼の頬を軽く平手打ちせざるをえなかった/このことは感触的に、全員を驚かせはしたが、全員を何かよろこばせもした(当の男性も何か妙にワーイとなった、なんでだよ笑)。
僕は全員に聞こえるようにきっぱり言うしかなかったわけだが、「いかなる理由があったとしても、男が女を『練習』に使っていい道理はない、ましてカネを払っているわけでもないのにだ、いきなりひっぱたいてすまんかったが、ここでは罪を最小限で断ち切るにはこの方法しかないんだ、わかってくれ、みんなも、今の『罪』は即刻『罰された』ということで、『済んだ』ということにしてやってくれ」。
そのことは、なぜか当人を「ワーイ、叩かれちゃった」とはしゃがせたが(繰り返すがなんでだよ笑)、このとき僕はこの男性とほとんど初対面なんだぞ、なぜ僕だけこうして毎日のように魂をギリッギリにすり減らすようなことをしなくちゃならんのだ、これがさしあたり性暴力男連盟の筆頭者のライフスタイルです(やりたくてやっているわけではない)。

繰り返すが、僕は男性なので、存在しているだけで女性に対する性暴力だ、だからすべての女性は性的な安全保障の危急において、毎晩「すべての男性が即刻死滅しますように」と祈念するのが正しい、冗談ではなく本当に正しい、子孫の繁栄なんてこの先はバイオテクノロジーでどうとでもなるので、本当に男性が死滅するのが女性にとっての安全保障なのだ。
ただし、例外中の例外がひとつだけある、それは女性が男性を愛している場合だ、その場合だけ例外的に「殺さないで!」「彼の存在が、わたしの生の幸福なの!」ということになる/そのことは、何もむつかしいことではなくて、たとえば家の中にネズミが出たら「捕まえて放り出せ、あるいは殺してしまうのもやむをえない」となるが、それが愛して飼っているネズミのジェリー君だったら、「もしこのコが殺されるなら、わたしが死んだ方がマシです」となる、そのことと同じだ。
そして、ケーススタディとして理性的に言われねばならないが、いくつかの女性のグループにおいては、<<男性を愛することは決してない>>ので、男性の存在が性暴力でなくなるという例外が得られる可能性はゼロだと言われねばならない、その場合はあくまで冷静に、「あなたは生まれつき被害者で、最後まで被害者であり続けます、これは不動のことです」ということを受け止め、その中で不幸になりつくさないことを考えてゆくしかない(リアルに本当にそうなのであって感情論ではどうにもならない)。
理想論や希望のことはさておき、冷静なケーススタディが必要だ、幾人かの女性は、男性を愛することがないというより、「誰かの何かを愛する」ということ自体がないことが多い、それは何も珍しいことではなく、<<自己愛以外の愛を持っている人のほうがきわめてレアだ>>という前提に立ちなおして、<<愛していないすべてのものはゴミにしかなりえない>>という当たり前のことに回帰するしかない、そしてゴミに絡まれれば程度の差こそあれすべては「被害」にしかなりえないという自明が、あなたを永く救済するだろう。

他ならぬゴミ筆頭の説得力をもって申し上げる、僕があなたにコーヒー一杯をおごったって、あなたにとっては「被害」になる。

すべての恐れを脇に置き、冷静に偽りなく考えるべきだ、僕があなたにコーヒー一杯をおごったとして、「えーまた明日もコーヒー飲みに連れてってよ〜」「また明日もあなたの話を聴かせてよ〜」「明日はわたしにおごらせてよ〜」とはならない、僕に対してそうならないだけではなく、誰に対してもならないし、これまでにそんなふうになったことはないし、これから先もそんなことになることはないだろう/冷静に考えるべきだ、そういうふうになることが「ある」か「ない」でいえば、現実的には「ない」にBETするしかない。
「また明日も連れてってよ〜」「また明日も、あなたの話を、そして明日はわたしにおごらせてよ〜」とならないのは、当然ながら、あなたが僕のことを愛してはいないからだ、じゃあどうなっているかというと、「今日だけ」「コーヒー一杯の時間だけ」ということならば、「このゴミ被害にも、まあ耐えられる」「ガマンしてやってもいい」というだけだ/僕があなたの肩を抱いたら、あなたは耐えがたき嘆きと憤怒を覚えるだろうし、僕がカンボジアで地雷を踏んで死んだら、あなたは何の痛痒も覚えないどころか、何か痛快さでよろこびを覚えるだろう、それが間違っているのではなく「合っている」のだ、愛というのはそれが逆転する現象にすぎない、僕が地雷を踏んで死んだら「耐えがたい」と泣き、僕があなたの肩を抱いたら「何でもない」「何か痛快でよろこびを覚える」というのが、あなたが僕を愛しているということだ、ただしのこの「愛」というのはきわめてレアで現実的ではないと考えねばならない。
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