☆いい女☆で行こう!

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身分学、新発見(円満法)4

分の格差は壮大すぎて草不可避なのだが、「わたし」は誰しも同列だ、今はっきりとこのことが確言できる、「わたし」は誰にとっても平等だ、格差なし、これでようやく「人類みな平等」と断言して構わなくなる。
ただすべてのことの前に、約束がある、やはり「わたし」は「ここ」だと、自分の心臓に「わたし」があることを、それぞれが責任を持って言わねばならない。
「わたし」は、「ここ(心臓)」だと/もし身のあちこちがぐちゃぐちゃで毒まみれのコワバリだらけだったとしても、なお「わたし」は「ここ」だと、自分の存在を心臓に定義しないとどうしても話が進まない、顔面やチンコやマンコに「わたし」があるわけではやっぱりないんだよ、特に顔面は誤解しやすいけれども。
なぜこうして、おのおのが儀式のように「わたし」は「ここ(心臓)」と責任を持たねばならないかというと、「負ける」ということができないからだ、どれだけ身がへっぽこでも、心臓に「わたし」がいてくれたら、少なくとも「負ける」ということができるのだ、すべてはそこから始まるので、まずは「ハートで負ける」というクリアなハートの体験が必要なのだ。

どうぞよろしいか、少なくとも、ハートに「わたし」が踏みとどまっていたら、あなたは何であれ、「メイン」としての「わたし」をその場で持つことができるわけだ。
「わたし」がハートから出奔し、どこかよその部位にこわばりついていたら、いろんな形での「サブ」の「わたし」しか、その場で持てないことになる。
こうして、その場にいる「わたし」は、「メインか、サブか」という問題があって、そこに「メイン」のわたしがあれたならば、少なくとも誰かと「出会う」ということはできる、そうしたらその瞬間、出会った人に「あ、負けた」とか、「あ、これは勝てんわ」ということを体験することができる。
そうしてメインのわたしが「あ、負けた」と体験したら、おのずと身分差の中で振る舞って、自然な関係になるようにできているのだ、これがサブの「わたし」を出し合いしているようでは、誰が大きくて誰が負けたものやらよくわからんのだ、それで身分差は不明になって余計にイライラする、それを強引に「対等」と言い張ってもその約束事コレクトネスに互いが疲れるだけなのだ。

「負けたくない」とやっきになるのは、平等がわかっていないからだ。

誰の「わたし」であっても、互いの「わたし」は平等だ、対等で同格だ、それがちゃんとわかっていれば、メインで向きあって「あっ、負けた」というのは、むしろ快感と感激の出会いであって、ムッとするようなことではまったくない、だいたい平等主義&対等主義の人はここのところで病的な"差別フリーク"なのだ。
誰の「わたし」も平等だ、そのことがわかっていない、水面下でバチバチの差別主義(というより優越主義)の人は、単に「マウントの取り合いに敏感」というだけでしかない、そんなアホな駆け引きをやっとらんで/人間の豊かさおよび、積んできた経験の豊かさとはイコール、「あ、負けた」と悟った経験の量のことだよ、その「あ、負けた」の経験がないなら、残念ながら人間としての経験はまったく得てきていないということになる(そっちのほうがよっぽど劣等な感じでピンチじゃないか)。

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