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サービス精神とガマン精神11

書世界では、「主なる神」という考え方をする。
「主」とは何か、それは「主語」であるので、われわれにとっての主語は「わたし」でしかありえないのだが、ここにおいて「主なる神」というのは、この「わたし」とは何なのですか? ということの定義をもたらしている/なぜわたしたちは、この「わたし」という主語を持ちえているのか、そのことがどうしても人間にはわからないのだ。
それについて、創造主を設定したならばこうなる、「わたし」とはつまり、「すべてを創造主に恵まれた者」だということだ/こうして「わたし」の定義を得た者は、何もかもが何かの「おかげ」で得られており、他ならぬこの「わたし」でさえ、何かの「おかげ」で成り立っているのだということを、「わたし」の世界として生きていく。
そして、この「わたし」が、ことごとく何かの「おかげ」で成り立っているのならば、「わたし」も何か「おかげ」を返納しなければならないのだということに気づく、それで、何もかもが「おかげ」で成り立っている天地のあいだに、自分の身も入り込ませていくことになる/つまり、すべてが下賜されたサービスならば、自分もサービスを献上する者となり、この天地にあいだに合一してあらねばならない、そしてそうして天地のあいだに自分が合一できるのであれば、合一の中に私心はありえなくなり(私心の主語が消えることになり)、すべての営みについて、これがまさに「主」だということが感得される、ここにおいて「創造主」の設定は、「設定しなくても元々の事実だった」ということに逆転する。

しかし、この「主なる神」を設定する手続きにおいて、必ずしも創造主(的なもの)が設定されるとは限らない。
「わたし」とは何なのですか? この「わたし」とは何によって創られたのですか? という問いに対して、何を誤ってか、「わたしはわたしによって創られた」という誤謬を定義することができてしまう。
わたしはわたしによって創られた、つまり「わたし」の創造主は「わたし」なのだが、その割には「わたし」というのは不完全で、生きていくのにさまざまなストレスを課されるのでもある。
そうして苦しんで生きる「わたし」は、「どうしたらいいのか」と、創造主の御心を聴き取ろうとする、しかし創造主は「わたし」だ……わたしがわたしの思うとおりに生きているのに、わたしに誤謬がありえるわけがない、わたしがわたし以外のものになりえるはずがないのだからどうしようもないし、わたしが悪いわけは絶対にない/だから、誰かの「せい」だ、となる、こうしてサービス精神の徒と我慢の精神の徒は、対極的に二つに分かれる、前者はすべてを何かの「おかげ」だと捉えており、後者はすべてを何かの「せい」だと捉えている。

サービスには「何かのおかげと、自分のせい」だけがあり、我慢には「自分のおかげと、何かのせい」だけがある。

前者は、「もともとこの世界は完璧なはずで、何かと不具合が起こるのは自分のせいだ」と思っている、後者は、「もともとわたしは完璧なはずで、何かと不具合が起こるのはこの世界のせいだ」と思っている、前者は「自分はどこか間違っているなあ」ということだけに納得がゆき、後者は「世界はどこか間違っているなあ」ということだけに納得がいく/逃れられんぞ
正直に向き合うことが第一だ、ごまかしても時間稼ぎにしかならない……「わたしは、わたしが創ってきた」と思えてしまうのが正直なところではないか? 「何かのおかげでここまできた」とは、心底からは思えないものだろう、あなたは、「誰々のせい」「この世の中のせい」ということは、数分で数十個でも、熱烈に見つけてきそうなのに、「自分のせい」ということになると口が重くなり、どけだけ時間をかけても小さな二、三個ぐらいでごまかして引き上げるのではないか、あなたはサービスの精神が持てないことでさえただちに「親のせい」「あの人のせい」にする発想が熱烈に起こるだろう/「自分のせい」は数学的に発生しない世界に生きており、もし「自分のせい」を謝罪させられることでもあったならば、その内心にすさまじい我慢の鬼の憤怒が起こる、そのときには「絶対的正義」の感情が光り輝いて……ひどい言い方をしているのではないのだ、実情に比較してずいぶん甘めに描写している、悪魔の名を冠されているその力が、どうして人智の範囲で収まってくれようか。

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