☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 感動を失った人間はどこへ行くか | TOP | 気分よくなるためのひとつのルール >>
感動を失った人間はどこへ行くか2

んな奴の言い分をまともに聞く必要はない、とわれながら思っている/いや冗談でも謙遜でもなく、おれはひたすら横着をして生きているのだ、自分のことはアンドロメダ星雲の棚に上げるのが基本だ。
ただ、「感動」がないのはキツいなと思って……何しろそれは、愛を告白しようがされようが、部活動を最後までやり抜こうが命を賭した仕事を成し遂げようが、あるいは世界中のあらゆる景色と神殿を見たとしても、何も「感動」がないということなのだから、それはキツいに決まっている。
何も「感動」がないのに、生きていくのには超絶努力をしないといけないし、月曜日は容赦なく来る、さらに一所懸命じゃないと人に非難されるし、自分で自分を責めもするのだ、それではまるで罰ゲームのような百年間を生きなくてはならなくなる。
一方、僕のようなテキトー横着人間は、これまで無数のものに感動し、感動しまくって、気づけばワーと進んできて、振り返ればいつの間にかすべてに思い出が山積している/僕は自分の思い出を語りきることはここまでで「絶対に不可能」という確信があるが、この感動と思い出を全部ナシにして七倍努力しろと言われると、さすがにそれは非道がすぎるのだった。

十代の僕は「天空の城ラピュタ」で形成されたし、二十代の僕は映画「タイタニック」で形成された、三十代は「新しい人よ眼ざめよ」で……その他いろいろ形成の要素はあるが、ざっと書き出したとしてもとんでもない量になるので、もうやらない、この試みはこれまで何度も為されてきたが、毎回「無理!!」と頓挫しているのだ、ゴミ屋敷の主がAmazonの倉庫を管理したというようなどうしようもない物量がある。
その中で、無数の女の子への「バンザーイ」があって、なぜホテルにまで連れ込んだ美少女に手を付けず、「おれになんか気を遣うな、愛している男のところへ行っちまえ」と、神風に吹かれたような祝福と送り出しができたのかというと、何かに「感動」していたからだ/僕は「感動」にクソほど励まされてきただけであって、自分の道徳心から私利私欲を捨てられたことは一度もない(私利私欲はサイコーだぜ!!)。
たとえば神戸の街でそういう思い出があったとき、僕は何を頑張ったとも思わないで、ただひたすら神戸という街の「おかげ」だと思っている、僕にとってはそれが感動的なことなので、「これ以上はない」と心底思うのだ、「これ以上はない」なら「サイコー」に決まっている、そしてサイコーの時だけ人は安らぐことができる/僕の無数の感動と無数の思い出はすべて何かの「おかげ」で得られており、僕自身で獲得したものなど何一つない。
今僕が女の子に「愛」なんて向けたら、女の子としては瞬間的にキモチワルイだろうし、場合によってはその時点で嘔吐か訴訟モノだと思う、それが間違っているとはやはり僕は一ミリも思わない、そして僕は自分の受ける軽蔑や嘲笑ごときで、感動のしもべである自分をやめることはないのだと思う、そんなことぐらいでやめるならもうとっくの昔に、八千年ぐらい前にやめていただろう、これは自慢話ではなく自分の近所迷惑ぶりにあらためてドン引きしているのだ、そりゃこんな奴は嫌悪されるのが当然だ(でもなぜか愛してくれる人もいるのだ)。

僕は感動する、あなたは感動しない、それで最後まで走り抜けよう。

生身として、そんなに何十年も生きるわけじゃないし、たぶん行けるでしょ……学生時代の部室にあった共用ノートには、「人は感動するために生きている」という、僕の手書きの一文が残っているはず、ああいうのは歴代保存されるものだから、ひょっとしたら今も部室にあるのかもしれないな。
丸の内で働いていたとき、僕のことが大キライだった同期の女の子が、唯一この点だけ、「感動、か。そういう視点で、これまで考えたことがなかったな」と、僕の話すことに立ち止まってくれたことがある、その後はなお嫌われたけどな/まあどれだけ劣勢になったとしても、僕はヒマなのでこの道を進んでゆく、たぶん一人だけになってもこの道で行くのではなかろうか、狂人および近所迷惑は重々自覚しておりますので、どうかご容赦のほどを……そして深く反省を、まったくしておりませんので、ざまあみろ〜。

視点変えてこ | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |