☆いい女☆で行こう!

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パーティ報告79(3)

部の女性が気づいて言及したように、女体には、男性に対する「癒し」の特効がある。
「女性のおっぱいなんて、男に押しつけるためにあるんじゃん」と、女性当人が言うのだから、男の僕が反論する筋合いはない。
もちろん、女性におっぱいを押しつけられたとき、男が業を深めるようなら、その男はまだ女体を与えられる身分に至っていないので、女性は女体の提供を拒絶したほうがいい。
女体(にょたい)という言い方は、ちょっと露骨かもしれないが、正しいし、何しろ女性当人がそういう言い方をするので、ここではそのまま女体という言い方を保存する。

いうなれば、男は洗剤で、女は柔軟剤のようなものだ。
あちこちの古いしきたりは、とにかく女を「不浄のもの」と言いたがるが、そう単純なことではなく、正しくは「まともに成熟した男には営みから魔を祓う(清める)力がある」ということなのだ、だから生魚を扱う寿司職人には男性が圧倒的に多い/男女差別といったって、女性の側にだって「女が握った寿司はいまいち食べたくない気がする」という人が多いのだから致し方ない。
男には、営みを清める力がある一方、その洗剤のような力だけでは、すべての営みは洗いざらしのゴワゴワになってしまうだろう、そこで誰もがするように、心地のよさが求められるものには柔軟剤を入れるのだ、女性にしか創り出せない癒しとやわらかさというものがある/と同時に、柔軟剤が洗剤の完全な代用はできないということを、やはりどこかで弁えているのが得策だ。
たとえば賞金を稼ぎまくってすでに十分な富を得ているF1レーサーが、なおも世界一速い男であろうとして、過酷なコクピットに命がけで座り続けるということがある、そのことには不可侵の清潔さがあるが、その清潔さだけではゴワゴワになりすぎるので、その男を励ましたり祝福したりするのに女体をあきらかにした女が寄り添うのだ/かつて、叶うものならば、アイルトン・セナに勝利のシャンパンを注ぐレースクイーンになることを拒絶する女はいなかった。

F1はレースクイーンを「時代にそぐわない」と撤廃することに決めたが、本来は撤廃する必要はなく、レースクイーンとレースボーイを半々にすればよかった。

F1のコクピットに寄り添うのに、水着のビューティフルおねえちゃんと、水着のケツ筋おにいちゃんを立たせれば、それで男女差別は消失するので問題はなかったはずだ、だからレースクイーンを撤廃する必要はなかった/ただどこかの誰かが、「水着のケツ筋おにいちゃんがサーキットをうろうろしている」という光景に馬鹿馬鹿しさを覚えて、それぐらいならもう失くしてしまったほうがいいと考えたのだろう。
「男に押しつけないなら、この膨らんでいるやつ要らないじゃん」というのは、僕の発言ではなく、ある女性の発言だ……正直なところ、彼女が言うところの「女体」が身近にあるという状態は、僕などにとっては「助かる」の一語に尽きる、女体が身近にない場合、男はひたすらバトルシーンの極限に進み続けるしかないからだ/即身仏も辞さないバトルの極限のみを目指すというなら、いくらゴワゴワになっても知ったことかということなるが、僕はとてもじゃないがそんな境地には至れないので、柔軟剤プリーズということになるのだった、「何もしないなら帰れ」という言い方は、あくまで一般論としてなら十分な正しさがある。

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