☆いい女☆で行こう!

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国/クニ

本神話(古事記、日本書紀)では、この世とあの世のはざまには「葦原中国(あしはらのなかつくに)」があるとされる。
一方、古代エジプトでは、正しい行いと手続きで生きて死んだ者は、「葦の原野」を歩くことができると信じられたという。
古事記日本と古代エジプトではめっっっっちゃ離れているが、「あの世とこの世の中間は葦の原野だな!」という、これは本当にグーゼンの一致なのかね?
われわれのよく言うところの、「国/クニ」とは何なのか、その重要性がわかってきた、「国/クニ」という感覚事象は、社会的なものじゃなくて、どうやらアプリオリなもんだね、国境線なんてものは社会的なものだが、「国/クニ」という感覚事象はもっと根源的なものだ。

日本神話においては、天国をおおむね「高天原(たかまがはら)」といい、そこに住むカミサマを「天津神(あまつかみ)」という。
一方、われわれの地上があり、この地上から出現したカミサマを「国津神(くにつかみ)」という、そのボスはおおむね「大国主(おおくにぬし)」だ……これらの知識は、戦後GHQに統治されるまでは、尋常小学校で教えていたはずだ(国史)。
僕は神話に詳しくなりたいわけではなくて、ただ「人」のそれぞれの行き先が、なぜこうも違ってしまうのか、というナゾを解決したがっている、誰でも楽しいところに連れて行ってやりたいのだが、なぜか「連れて行ってほしい」と望んだ当人が途中から暴れるのだ、別に暴れてどこかへ行ってしまうのはかまわんが、僕はこの現象のナゾを解きたい。
仏教説においても、解脱した如来は仏国土(ぶっこくど)を持つとされている、いわゆる「極楽浄土」というのも、阿弥陀如来の仏国土ということだ、そこに往生したいという祈念がいわゆるナム・アミダ・ブツという念仏になる/僕はこれまで「世界だ」「世界愛だ」と唱えてきたが、愛せる対象として世界があるとき、それは無味乾燥な世界ではなく「国/クニ」だということなのかもしれない。

「何かの世界」にいろ、それが「国」だ。

この、「何かの世界」=「国」の中にいないと、われわれの身は、本当にカルマ肉の言いなりなのだ、「国」があるから「人」になるのだ、「国」がなければわれわれはカルマ肉でしかありえない、「国」というのは必ずしも社会的な国土を指すのじゃないよ。
どこの「国」にも入れないのなら、この世界はどこもすべてすっからかんで、「意味が無い」ということだ、サルトルか嘔吐した風景のようにだ/あなたはあなたの入国した「国」によって、それなりに「人」になるのであって、「国」の外側から情報をつまみぐいしても決して「人」にはなれないぜ、何かしらの国津神のもとになければわれわれは繰り返されるカルマ肉でしかない。

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