☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 他者の視線と地獄について2 | TOP | 「出来る」ようになるには2 >>
「出来る」ようになるには

前、「ちゃんと出来るようになりましょーよー教室」というのをやっていたが……(また再開するかもしれない、お楽しみに)。
何事につけ、本当に「出来る」ようになる人と、いつまでたっても「出来る」ようにはならない人がいる、この差はどこから生まれているのだろうか。
僕の知るかぎり、この差は、そもそも「出来る」ということの定義があるかないか、によって生じている。
「出来る」ようになる人は、「出来る」ということの定義を前提にしてやっているのだ、一方「出来る」ようにならない人は、そもそも「出来る」という定義がなくて、「出来るようになれたらいいなあ」という漠然としたキモチだけで努力している。

「出来る」ということには、無限の段階があるが、基本的に「出来る」というのは、「いつでも」「百発百中」をもって「出来る」という。
こう考えればわかりやすい、たとえば英語の発音で「th」というのは舌を噛んで発音するが、舌を噛んで発音するだけなら誰でも「出来る」。
が、それは舌を噛んで発音するということを意識していればそのときだけ「出来る」ということであって、日常の英会話や英語の歌詞の中では忘れ去られている、それでは「th」の発音が「出来た」とは言わないほうがいい/おじいちゃんが手習いでスマホにフリック入力したからといって、以降「フリック入力が出来ます」ということにはならないように、意識して出来たものを「出来る」とは言わない。
たとえば「膝を抜いて動く」というような技術があったとして、それをエクササイズの中で一応それっぽく出来たとしよう、しかしそれをもって「出来た」ということはないのだ、「出来る」というのは「いつでも」「百発百中」を前提とするので、「いつのまにか、膝を抜いて動くのが当たり前になって、膝を蹴って動くということがなくなったな」というところまで到達してようやく「出来る」だ/それでもなお、技術というのは奥が深いものなので、それが「出来る」の入口でしかないのだ、そこからさらに「本当に厳密に出来ているか」ということを点検すると、いくらでもアラがあるのだった。

「出来る」ようにならない人は、そもそも「出来る」という定義がキライだ。

「出来る」というのはどういうことかを定義すると、その定義は当然ながら厳しいものになるので、一部の人はその定義そのものに向き合うことがキライだ/「出来る」ようにならない人は、実は「出来る」の定義に向き合っているのではなく、内心で自分なりの「努力」という定義に向き合っている、彼らの目的は「出来るようになる」ことではなく「努力している」という自意識を得ることだったりして、この定義違いの混在はしばしばトラブルと不毛をもたらす。
色んな要素があるが、実はスッキリ単純化できて、「出来る」という定義と向き合いたがらない人は、単純に「実はもっと別の優先順位を内心に抱えている」のだ、たとえば「充足したい」とか「仲間という感じを味わいたい」とか「ダサいと思われたくない」とか「他人と一緒でありたい」とかだ、だから表面上はやっていることが同じに見えても、やっている内実はまったく別のことだったりする/ほとんどの人は「出来る」という定義に向き合う前に、何か「感情的」になってその定義を避けようとする、もちろんそんなちゃぶ台返しをしても何の利益もないのだが、実際そんな意味不明を本当にするものだ。

できるオンナだね | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |