☆いい女☆で行こう!

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人のつらさがわからない人

れだけ戦争の映像を見せて、「戦争は悲惨です」と刷り込もうとしても、そもそもの「つらさ」がわからなければ、人は観念しか習得しない/自分の住んでいる町と、作ってきた町と、家族と友人と、愛した人が、爆弾で焼かれていく、そしてそれが「負け」と言われるという、その「つらさ」がわからないのでは、戦争の悲惨さなどわかりようがない。
人の「つらさ」がわからない人に、そうした「戦争は悲惨ですビデオ」を見せると、人は一足飛びに「戦争は許せないことです!」と、いきなりの正義にまでジャンプしてしまう/本来、懸命に生きてきた人たちの藁葺きの村が焼かれ、ベトコンの罠を踏んだ青年が身体を切り裂かれて死んでいくつらさとむごさを直視することは、「キラキラの正義」の出番などなくしてしまうぐらいえげつないことだ。
よくアニメ映画「火垂るの墓」が、戦争悲劇のイメージとして捉えられるが、あれは登場人物らの「閉じた人間性」が苦しいという精神的な悲劇であって、戦争の悲劇ではない、戦争の悲劇そのものを上映はしづらいだろう/戦争の悲劇というのは、娘のちょっとした火傷にもあわてて軟膏を塗って治そうとしてきた母親の目の前で、その娘に焼夷弾の油をかけてギャーと焼き殺すということだ、ちいさな火傷を治そうとしてきたことには多大なこころがあったのに、焼夷弾の油を掛けて焼き殺す側には何のこころもなかったということ、「じゃあ何のために生まれてきて、何のために尽くそうとしてきたの?」という問いかけに完全なゼロ回答しか返ってこないというのが戦争の悲劇だ(こんなもの上映できねー)。
せっかく作ろうとしてきて、せっかく守ろうとしてきて、せっかく慈しもうとしてきて、せっかく尽くそうとしてきて、そのことをすべてにしてこようとしてきたのに、それを壊す側は一瞬のことで、そしてそれを壊す側は、<<別に何もしていないつもり>>ということ、それが悲劇だということだ、しかもその<<別に何もしていないつもり>>の人こそが、一足飛びに思いつき、「キラキラの正義」を振りかざし始める……/さてこの繰り返される悲劇の向こうに、われわれの行く先はどのように用意されているのだろうか。

有益な話にするために、ちょっと差し込んで言えばこうなる、何の話をしているかというと、<<別に何もしていないつもり>>の、あなたのことですよ、ということになる。
あなたは今、<<別に何もしていないつもり>>だろうし、これまでも、<<別に何もしていないつもり>>で来たのではないだろうか。
せっかく作ろうとし、守ろうとし、慈しもうとし、尽くそうとし、それをすべてにしようとしてきて、しかしそれを<<別に何もしていないつもり>>の者たちから爆撃されて破壊されるということの「つらさ」に、目撃者としてでも凍りついてきたことがあるだろうか/もしそれがなかったとしたら、あなたはこれまで何を見て生きてきたのだろう、そして「つらさ」を見てきていないのに、なぜ「正義」だけ持っているのだろう。
<<別に何もしていないつもり>>だったとして、じゃあなぜ、あなたの身はどこか重く、のびのびとは動けず、こころの底から笑うことができず、眼の奥はどこか罪におびえていて、その声はたましいから切り離されているのだろう? <<別に何もしていないつもり>>だったとして、あなたは本当に、誰かが大切に作ろう・守ろう・慈しもうとしてきたものに対し、「壊す側」の自分を蓄積してこなかっただろうか/人の「つらさ」を見てこなかったあなたは、本当に、人の「つらさ」に対して加害者たることがゼロで来たのだろうか。

「別に何もしていないつもり」なのに、常にどこか、自分が「責められている」という感触がないだろうか?

なぜか、どこともなく自分が「責められている」という感触があって、その感触が強い人は、自分が生きるのがつらくて苦しくてしんどいから、「わたしがつらい」と感じ、何なら内心で不平不満を溜め込んでいるものだ、しかしたいていの場合、その自分が「責められている」という感触があるのは、自分は知らなくても、自分の身は知っているからだ、人の大切にしようとしてきたものを壊し、人につらい思いをさせたということを、自分は知らなくても、自分の身は知って覚えている/自分が人に与えたつらさは、上映できないレベルのものだから、それは上映されず抑圧され、引き続き自分は<<別に何もしていないつもり>>で生き続ける……だが、自分が「責められている」という感触は増大し続けていく。
本当に「別に何もしていない」のかな? もしそうだとすると、身が業(カルマ)で重くなっていくのは理論上おかしい、業は行いに応じて生じていくものだから、業が重くなるということは、必ず何か行いがあるはずだ/あえてもう一度申し上げる、せっかく作ろうとし、守ろうとし、慈しもうとし、尽くそうとし、それをすべてにしようとしてきた側には、多大なこころがある一方、それを「壊す側」には、何のこころもない、だから壊す側は<<別に何もしていない>>と感じている、壊す側は壊される側のつらさを見ていないので、<<わたしは別に何もしていない>>と確信するのだ、あとは身の重さと責められている感触だけが無制限に増大していく。

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